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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
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東日本大震災から八年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢
 ↑ 小渕沢しだれ桜

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

 アレツポの石鹸切れば暗緑色の出できて遠き地の香たちきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田恵子
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼さ冥さよ、海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森山良太
 空色の階段われと降りて来し黄蝶は水を渡りてゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森みずえ
 電球を買いにきたのに二段熟成さしみ醤油も買って帰った・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸山三枝子
 野仏はめはなうすれてゑむごとく小さくおはす御代田の里に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村順子
 ひたひたひた水は滲み出る凍らない塞いで塞いで世界が濡れる・・・・・・・・・・・・・・・・三枝昂之
 今年また雑草ははやく茂り来て癒えやらぬ土の傷みを覆ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 生、老、病、生きて残れる死までしばし 今朝は郭公のこゑを聞きたり・・・・・・・・・・・・志野暁子
 花の枝のどこまで撓む愛されてゐるとふ自負の肢体のごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 太田宣子
 どうしても生きてたいです オモイノママという名前の花があります・・・・・・・・・・・・・ かなだみな
 いかめしく巨岩突き出すこの辺り淡海の水もっとも青し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 耳奥のリンパのゆらぎ朝床に人となるべくかたちひき寄す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 こころにも雲は流れてひさびさに麒麟になつたつもりで歩く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 春の灯や女は持たぬのどぼとけ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日野草城
 春の月情事の後も春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
 花冷や日誌に潰す虫その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 春闇に溶けてゆきたるハイソックス・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 定まりし言葉動かず桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 霞みつつ岬はのびてあかるさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 泣く子ゐてあやす子がゐてあたたかし・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 だきしめたしまはまるごとみなみかぜ・・・・・・・・・・・・・・ 豊里友行
 陽炎へ駆け出す兜太の字なりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・市堀玉宗
 ふらここや空をくすぐるほどの雲・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 黄砂降るカメラの紐を首に掛け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 猫呼びに出てみづいろに春の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 心臓は小さな臓器豆の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・クズウジュンイチ
 老々介護垣に青木の花いくつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 繰り返すいないいないばあの春の昼・・・・・・・・・・・・・・ 萱嶋晶子
 足裏に心臓のつぼ春愁ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行 
  故人みな大脳にをり黄沙ふる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 走っても走っても街 春終わる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大中博篤
 桜貝砂に包んで持ち帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 クリームのやうな寝癖や花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 逢ひたくてミモザばかりを眺めたる・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 家ぢゆうの家電が喋る四月馬鹿・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉原祐之 
 春昼の雨落ち石と飾り石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 春泥や楽器はどれも大荷物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 名古屋まで北海道展は春下る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 読みすすむ史書の厚みや花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 足指から弛緩していく木の芽時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 菜の花や氏名手書きのバス定期・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 目醒めよと呼ぶ声ありし蝶の昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村清潔
 幸福の咲くとはこんな桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中塚健太
 花弁一枚から静脈血の匂ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ちとせ
 失投をぢつと見てゐる躑躅かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 ふらここを下りぬ死者への鎮魂歌・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 太白を従へ春の月のぼる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 あれこれ忘れて生きたふりする・・・・・・・・・・・・・・・・ 阿部美恵子
 焼鳥か卵焼きかの死生観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月波与生
 わたくしの春は鼻からやってくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎雪洲
 ライバルに見せてしまって足の裏・・・・・・・・・・・・・・・・・滝尻善英
 平成のさくら吹雪を見に行こう・・・・・・・・・・・・・・・・・・村田けん一
 平成が終るざらつく喉仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今泉敏雄
 さてここで・・・(おっと台詞を忘れたよ)・・・・・・・・・・・・・・木村美映
 さくらしべふる i Phoneをよけながら・・・・・・・・・・・・・・・・泉かなえ
 朝東風や青きリボンを結びたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下楠絵里
 春の仕掛けのピアノを壊してみた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・普川洋
 雨女しづかに死せり竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 金魚らに国の名つけて遊びけり・・・・・・・・・・・・・・・・兼信沙也加
 春光を浴びれば乳房生えそうな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 カキフライが無いなら来なかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉直樹
 花子さん桜子さんと野遊へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 黒岩徳将
 にじみながら海は七つと決められる・・・・・・・・・・・・・・・ 兵頭全郎
 春深く剖かるるさえアラベスク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九堂夜想
 昭和平成やがて引戸の黒ずみへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・曽根毅
 腹筋がやっと割れたわ白木蓮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 杭打つて山の眠りを覚ましけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木牛後


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 歌集 『茶の四季』(角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
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 歌集 『嬬恋』(角川書店刊)
 歌集 『昭和』(角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・高島茂
高島茂「ぼるが」

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/21

     急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■つつぢ燃ゆいつ狂ふても不思議なし・・・・・・・・・・・高島茂

   ■青蛙吸盤白く泳ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

2008年四月下旬、私の詩集『免疫系』の出版の打ち合わせのために上京した際に新宿西口の居酒屋「ボルガ」で、此処ゆかりの俳人の高島征夫氏と初めてお会いした。
語り口も爽やかな俳句結社「獐のろ」の主宰にふさわしい人だった。うち揃ったDoblogの友や装丁家・岸顕樹郎氏などとの話も面白かった。
その際、私は『嬬恋』を持参して一冊、名刺代わりに進呈したが、高島氏からはお父上・高島茂の遺句集『ぼるが』(平成12年・卯辰山文庫刊)をいただいた。
なお「高島茂」については何度も書いたが、リンクに貼ったところなどを読んでもらいたい。

いただいた句集『ぼるが』は平成11年8月3日に死去されるまで、平成元年からの俳句総合誌、結社誌、主宰誌などに発表されたすべての作品を高島征夫氏がまとめられたものである。

高島茂筆跡0001

掲出した句集の「ぼるが」の文字は茂の筆跡から起こしたものである。
なお原文は漢字は「正」字体を採用されているのだが、私の勝手で新字体にさせてもらったので、ご了承いただきたい。

掲出句「急傾斜地崩壊危険蒲公英黄」は漢字ばかりを並べたものだが、これも「俳句」である。
下句は「たんぽぽ・き」と訓(よ)む。
ときたま、こういう句作りをなされているのを見かけるので、注意して観察されるといい。
例えば、こんな句がある。

    <花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村>

以下、ただいまの季節にまつわる句をいくつか引く。

 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄

 青猫といふ紙あらば詩を書かむ

 佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ

 植田の水たつぷり畦にあやめ咲く

 謎めきて新緑の山深まれる

 をとこをんな宴のごとし田を植ゑる

 かつと晴れ植ゑしばかりの稲の縞

 新緑の鉄柵朱し雪崩止

 お鷹ぽつぽすつくと五月の風を呼ぶ

 星またたき蛾の吹入りし野天風呂

 杉山の幽し萌えたつ羊歯を見よ

 戦争の終らぬままに葱坊主

 分校の生徒は五人金魚飼ふ

 葱坊主木曾の石仏小さくて
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高島茂
この句集に載る高島茂の写真である。

この句集に載るものは季節は一年にわたっているので、あとのものは、また季節の都度載せたい。
抽出した句については、特別に批評のコメントは書かないが、抽出すること自体が私の批評であることをお察しいただきたい。特に、冒頭に引いた三句は、趣き深い。
ご恵贈に厚く感謝申し上げる。
これを贈呈して下さった高島征夫氏も2009年に死去されて今は、もう亡い。嗚呼!


芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・安住敦
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     芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

ayumi-4安住敦
安住敦は明治40年東京芝生まれ。逓信省に勤め、富安風生が局長の縁で俳句を始めた。新興俳句に関心を深め「旗艦」に参加。
弾圧の時代、「多麻」を創刊、応召する。
昭和20年末、久保田万太郎を擁して「春燈」創刊、支え続けた。
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昭和38年、二代目の主宰となる。
句集に『貧しき饗宴』『木馬集』『古暦』『市井暦日』『暦日抄』『午前午後』『柿の木坂雑唱』など。
俳人協会会長。蛇笏賞受賞。エッセイにも勝れる。昭和63年没。 私の好きな句を上げてみる。
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 くちすへばほほづきありぬあはれあはれ

 帯のあひだにはさんでありし辻うらよ

 相倚るやしんしんとして霧の底

 霧に擦りしマッチを白き手が囲む

 ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく

 てんと虫一兵われの死なざりし──8月15日終戦──

 しぐるるや駅に西口東口

 春の蚊や職うしなひしことは言はず

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 涅槃図に束の間ありし夕日かな

 かいつむり何忘ぜむとして潜るや

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

 蛇穴を出て日蝕に遭ひにけり

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 散るさくら骨壷は子が持つものか──神保愷作縊死す──

 夜の書庫にユトリロ返す雪明り

 花明しわが死の際も誰がゐむ

 独活食つて得し独活の句は忘じたり

 枯菊焚いてゐるこの今が晩年か

 眼薬のおほかた頬に花の昼

 花菜漬愛に馴るるを怖るべし

 秋忽と癒えたるわれがそこに居ずや

 雪の降る町としふ唄ありし忘れたり
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安住敦の句は好きで、何度も引いてきたが、ここに転載するのに適当な記事が余りないが、
大西巨人の鑑賞文を引いておく。  ↓

< てんと蟲一兵われの死なざりし・・・・・・・・・・・安住敦

*しぐるるや駅に西口東口

 句集『古暦』〔一九五四〕所収。「八月十五日終戦」という前書きが付けられている。

それは、たとえば、中村草田男の

切株に踞(きょ)し蘖(ひこばえ)に涙濺(そそ)ぐ〔『来し方行方』、一九四七〕、

金子兜太の

スコールの雲かの星を隠せしまま〔『少年』、一九五五〕

が作られて、

また腰折れながら私自身の

秋四年いくさに死なず還りきて再びはする生活(いき)の嘆きを〔『昭和萬葉集』巻七、一九七九〕

が作られたころである。

そののち、たとえば、斎藤史の

夏の焦土の焼けてただれし臭さへ知りたる人も過ぎてゆきつつ〔『ひたくれなゐ』、一九七六〕

が作られて、いま敗戦五十年目の夏が来た。私は、万感胸に迫る。  >




 かつては/陸にいた頃の/ことを知ってる/月ゆえに/鯨も/ほろりと涙する・・・坂村真民
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2007/03/02のBlog─(再掲載)

──坂村真民の詩──(2)

       月と鯨・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

     妻呼ぶ鯨の
     声聞けば
     月も冴え冴え
     冴えわたる
     かつては
     陸にいた頃の
     ことを知ってる
     月ゆえに
     鯨も
     ほろりと涙する
     海よ
     輝け
     鯨よ
     跳べよ
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この詩は坂村真民の詩集『宇宙のまなざし』に載るものである。
話は替わるが、「月と鯨」というと、私は

 島が月の鯨となつて青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水

という自由律の句を思い出す。この句は、私の少年期とともにあったもので、懐かしい。



日向輝子歌集『朱花片』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     日向輝子歌集『朱花片』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・角川書店2019/03/25刊・・・・・・・

この本は日向輝子さんの第三歌集になる。
日向輝子さんの第二歌集『夕ぐれの記憶を探しに』については、← このブログに書いたことがある。
いま読み返してみると、歌集の本質に迫り得ていない不十分な文章であることが判る。
この第三歌集については柳川創造氏の19ページに及ぶ長文の「跋に代えて」という周到な解説がついている。
柳川氏は結社誌「綱手」主宰者・田井安曇亡きあと「綱手」の編集人をされている人である。(発行人は井上美地)
この文章は第二歌集『夕ぐれの記憶を探しに』を踏まえて、著者の父上の籔島五郎や母上の徳子の生い立ちなどに詳しく触れながら書かれている。
けだし、この文章を読むことによって、日向さんの歌を十全に読み解くことが出来るようである。
私は、この文章を読む前は、この第三歌集の歌を採り上げて書かれているのかと思ったが、そうではなくて、第二歌集などを巡って日向輝子という人間を際立たせるものである。
私が第二歌集『夕ぐれの記憶を探しに』の文章に書いた不的確さを修正し、正してくれるものである。

この本は2010年7月から2017年9月までの歌から334首が選ばれている。
題名の「朱花片」というのは、「アララギ」の吉田正俊の歌集『朱花片』に因むものだという。
吉田正俊は「アララギ」の幹部だったが、「綱手」の主宰者・田井安曇の師系・近藤芳美にも繋がる人であり、いわば象徴的な命名である。
この命名についても柳川創造の「声がかり」があるようである。
この色「朱花」というのは「はなだ色」のことであり、それに因んで「萬葉集」から四首引かれている。
そのうちの一首
  <はねず色の移ろひやすき情なれば年をそ来経る言は絶えずて>
                          (巻十二・3074 作者不詳)
が引かれている。
ここで私の極私的懐旧にひたることを許されたい。
私の第二歌集『嘉木』
  <はねず色のうつろひやすき花にして点鬼簿に降る真昼なりけり>
は、万葉集の上記の歌を踏まえて作られている。
この歌は塚本邦雄が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて書いてくれたものである。
「はなだ色」とか「はねず色」とかも同じ表現のものである。 (閑話休題)

以下、この本に沿って少し書いてみたい。

  *感情より人は老ゆると風ぬるきビルの谷間にひらく木槿(ムグンファ)
  *ハングルは話せず読めずおずおずと地図をひろげる乙支路入口(ウルチロイツク)
  *安寧はアンニョンハセヨの안녕と幼き男の子教えくれたり
       昭和十四年、松阪商業学校を終えた父は、海を渡り朝鮮銀行に就職した
  *此処に四年勤めしならん 旧朝鮮銀行京城本店朝九時の大扉
  *鵲と木槿の国より帰り来て庭の目白にこぼすパン屑

木槿(むくげ)は韓国の「国花」である。ムグンファと発音するが原語は漢字で「無窮花」と表記する。この漢字の韓国語読みがムグンファなのである。
韓国では李朝がハングルを創始したように中国離れを意識した運動がめだつが、このように言葉というものは、そんなに一朝一夕には切り離せないものである。
木槿は、ご承知のように夏の間、次々と花が咲き次いで咲くので無窮花と呼ばれ、韓国の国花となったものである。

作者は日々起こることにも鋭敏に反応して作歌する。

  *唐突に止まりし時間 日常の曇りに紛るる山桑の花
  *朱鳥元年春睦月 地震振るとあれば栞して閉ず  (『日本書紀』天武天皇 下)
  *フクシマの安達原の鬼たちよ息災なりや また春が来る

これらは東日本大震災に因む歌である。

*唐突に母の始めし昔語り父と出逢えばそこで終わりぬ
*さくらさくら桜に紛う四辻に子の名を母は置き忘れたり
*亡き父の地図に広がるバイカル湖 立ち待ちの月が昇り始むる
*二つ目のプッチンプリン平らげて「哀しいねえ」と母は呟く
*八十歳越えたる母と五十代終わる私に五月は曇る
*わが母は乙女のごとく微笑めり その一切の終わりたる今
*罷りゆく母に持たさむ赤き薔薇、加賀の友禅、ミルクキャラメル
   二人暮らしとなった両親が飼い始めたのは、ジュリーという名の雄犬だった
*見るたびにかたちを変える秋雲が犬のジュリーに見ゆる夕暮れ
*秋空の青深ければわが母のみ骨を抱きて伊勢へと下る
*東京に生まれし母の定めたる奥つ城所 父のふるさと
*逝きてのち出でて来たりし一通の「延命治療希望しません」
*飲めぬ酒に酔いては帰り「月の砂漠」歌いおりしは壮年の父
*わが嫁ぎ行きたる夜も「月の砂漠」調子外れに唄いおりしと
*ある時はミルクチョコレートが出でて来ぬ父の昭和の通勤鞄
*手の甲に載せて味見る林檎ジャム母の流儀の朽葉色して

父と母に因む歌をまとめてみた。
父は前の歌集の時に亡くなっているが、母の死は、この歌集のさなかだったが、坦々と詠われている。
これが日向さんの詠いぶりの特徴である。父の故郷は三重県であり、母は東北生まれだが、墓は夫と一緒にしてくれ、希望したという。
第二歌集と、この第三歌集とで、肉親の詠み方が違ってきた。

この歌集には外国旅行詠が見られるのが特徴である。少し引いてみる。

*耳切りしゴッホを容れし病院の廻廊に咲く花のくれない       アルル
*うなだるるガリア虜囚は刻まれて凱旋門は街道に建つ       オランジュ
*極東の夏の記憶を持たざれば夾竹桃の花やさしかり        エクサンプロバンス
*會安は海のシルクロードの果ての町 黄の家壁に茉莉花は揺る ベトナム  2016年秋
*日本橋に金星紅旗翻る 町の朝を水満たす音
*菩提樹は散りやすき花 散らせつつ夏の朝を蜜蜂は飛ぶ      中欧    2017年六月
*プラハ城黄金小路二十二番地カフカ三十七歳の仕事場なりき
*時差ぼけの身体引き摺るブルクリンク絵葉書描きのアドルフが行く   ウイーン

雑駁な鑑賞を、そろそろ終わりにしたい。ここらで私の好きな歌を引いて終わる。

*端渓の硯の海の生ぬるき薄ずみに書く海のひと文字
*長谷寺に花香「もみぢ」買いたるにわが住む町の夜には明し
*こぼたるる生家より夫は貰い受く東の棟の鬼瓦一枚
*逆光を浴びて夫の影ふかし長の子なれど家承けざれば
*手擦れせる譜面に弾きいる「紡ぎ歌」子は上り阪のぼりいるのか
*来(こ)、来(き)、来(く)、来るはずのなき人を待つ夏鳥の飛ぶ馬場下町に

数少ない「夫」と「子」を詠んだ歌も、ついでに引いておいた。

装丁の熊谷博人氏、角川書店編集部・打田翼氏には私も最新歌集でお世話になった。
柳川創造氏の「跋」文は、この本の鑑賞の上で大変に役立ったことを敢えて書いておきたい。
ご恵贈有難うございました。 雑駁な鑑賞をお詫びする。       (完)




わたしが一番好きなのは/朴とタンポポだ/一つは天上高く/枝を伸ばしてゆく/一つは地中深く/根をおろしてゆく・・・坂村真民
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↑ ホウの葉と花
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 ↑ ホウのまな板
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2007/03/01のBlog─(再掲載)

──坂村真民の詩──(1)

     朴とタンポポ・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民
  
    わたしが一番好きなのは
    朴(ほお)とタンポポだ

    一つは天上高く
    枝を伸ばしてゆく
    野の木であり
    一つは地中深く
    根をおろしてゆく
    野の草だからである
    この天上的なものと
    この地上的なものを
    こよなく愛するがゆえに
    願えることなら
    この二つを
    わたしの眠るかたわらに
    植えてもらいたい
    風ふけば
    朴の花は
    ほのかに匂い

    タンポポの種は
    訪れた人の胸にとまって
    わたしの心を
    伝えるであろう
--------------------------------------------------------------------
この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
ご承知のように、真民の詩は、難しい語句もなく、きわめて判り易いが、多くの読者を引きつけ版を重ねている。
2006.12.11に亡くなられたが、彼の願い通りに、彼の墓の傍らに「朴の木」と「タンポホ」が植えられているのだろうか。
以下、Web上からプロフィールを引いておく。

坂村真民プロフィール

癒(いや)しの詩人、坂村真民(さかむら しんみん)先生
”人はどう生きるべきか”を一生の命題とする祈りの詩人。
分かりやすくて、深く掘り下げられた詩は、幼稚園児から財界人まで、年令、職業を間わず幅広く愛唱され、その生き方とあわせて、「人生の師」と仰ぐ人が多い。

1909年(明治42年)1月6日熊本県荒尾市に生まれ、玉名市で育つ。本名昂(たかし)。
2006年(平成18年)12月11日永眠される。享年97才。

8歳の時、小学校の校長をしていた父親の急逝によりどん底の生活に落ちる。5人兄弟の長男として母親を助け、幾多の困難と立ち向かい、甘えを許さぬ一徹さを身につける。
昭和6年、神宮皇学館(現皇学館大学)を卒業。25歳の時、朝鮮にて教職につき、36歳、全州師範学校勤務中に終戦を迎える。
昭和21年から愛媛県で高校の国語教師を勤め、65歳で退職、以後詩作に専念する。

最初は短歌を志し、昭和12年に「与謝野寛評伝」を著している。四国移住後、一遍上人の信仰に随順して仏教精神を基本とした詩の創作に転じる。
昭和37年、月刊詩誌「詩国」を創刊、以後1回も休むことなく毎月発刊、1200部を無償で配布していた。また詩の愛好者によって建てられる真民詩碑は、日本全国43都道府県に分布、その数は海外と合わせれば、現在730余基を数える。

真民詩の愛読者の中には、各界の有名人も多いが、船井幸雄氏は、坂村真民さんを日本を代表する「徳の人」25人の一人として取上げ、次のように評価している。
「彼の作品の最大のポイントは、命あるものへの惜しみない愛と感謝、そして優しい激励であると言えよう。だから現代の社会に疲れた人たちは、救いとともに希望を見出し、愛唱するのである」と。(『清富の思想』)
また斎藤茂太氏は、『プラス思考がその人を強くする』という本の中で、このように言っている。「真民さんの詩や文章には、人を包み込むようなあたたかさがある。それは真民さん自身が本物だからなのだ。」「どん底を見てきた人は、人間に対する眼差しに慈愛が満ちるのだろう。」さらに斎藤氏は、真民さんが挫析と劣等感をバネに詩をつくって来たことに共感し、心から敬意を表している。

真民先生は、〒791-2101愛媛県伊予郡砥部町高尾田167(松山市より車で約20分)にお住まいになられ、大宇宙の大和楽を念願して、老年になってからも毎日午前0時に起床、未明混沌の霊気の中で打坐し、念仏し、称名し、詩作された。午前3時30分には、月の光、星星の光を吸飲し、重信橋を渡って大地に額をつけ、地球の平安と人類の幸福を祈願しておられた。

1974年愛媛新聞賞(文化部門)、1980年正力松太郎賞、1989年愛媛県教育文化賞、1991年仏教伝道文化賞の各賞を受賞。

主な著書は、詩集『自選坂村真民詩集」『坂村真民全詩集』(全6巻)、『朴』『詩国第一集』『詩国第二集』、随筆集『念ずれば花ひらく』『生きてゆく力がなくなる時』『愛の道しるベ』、詩画集『自分の花を咲かせよう』『花一輪の宇宙』『あうんの花』、韓国語対訳詩集『二度とない人生だから』、英文対訳詩集『鳥は飛ばねばならぬ』、独文対訳詩集『タンポポ』など多数です。

全国各地に先生の詩の好きな方々の親睦クラブ『朴の会』があります。朴(ほう)は、先生の好きな木でした。



 
摩天楼より新緑がパセリほど・・・鷹羽狩行
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 ↑ エンパイアステートビルからの俯瞰。小さな緑が見える。

       摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

鷹羽狩行は昭和5年生まれ。中央大学法学部卒。山口誓子、秋元不死男に師事。
本名は「高橋行男」(たかはしゆきお)であり、これをアナグラムで並べ替えて「鷹羽狩行」とした。
本名では、いかにも俳人らしくないので、山口誓子が、アナグラムした、と言われている。
これは私の勝手な想像ではなく、本人のエッセイか何かで読んだ記憶がある。

この句も着想が面白い。摩天楼というからには、本場ニューヨークのことだろう。
はじめてニューヨークに行くと、必ずと言っていいほど、摩天楼のエンパイアステートビルに連れて行かれる。
車も人も芥子粒ほどに小さく、新緑の木立も、かなり大きくても、パセリほどという発想は新鮮である。
今の季節では、ニューヨークでは、まだ寒くて新緑は、まだかも知れない。
先日のNHKのラジオでは首都ワシントンのポトマック河畔の桜が満開、と言っていた。ニューヨークは数百キロ北で、気温はまだ低い。

彼の結社は「狩」というが、全国に子結社、孫結社を持っており、俳人協会会長として権勢を振るっていたが昨年十二月号をもって「狩」は解散した。
後継は片山由美子さん「香雨」ということである。

以下、彼の句を引いて終わりにしたい。
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 落椿われならば急流へ落つ

 天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 蓮根掘モーゼの杖を摑み出す

 母の日のてのひらの味塩むすび

 一湾の縁(ふち)のかなしみ夜光虫

 紅い父青い母走馬灯かこむ

 大言海割つて字を出す稿始め

 一対(いつつい)か一対一か枯野人

 鶯のこゑ前方に後円に

 黴の世の黴も生きとし生けるもの

 ひとすぢの流るる汗も言葉なり

 蛇よりも殺めし棒の迅(と)き流れ

 湖(うみ)といふ大きな耳に閑古鳥

 昼は日を夜は月をあげ大花野

 しがらみを抜けてふたたび春の水

 息づきにおくれ息づく薄ごろも

 秋風や魚(うを)のかたちに骨のこり

 人の世に灯のあることも春愁ひ

 しみじみと端居の端といふところ

 太陽をOH!と迎へて老氷河

 落鮎や流るる雲に堰はなく

 麦踏みのまたはるかなるものめざす

 春光や砂の皺より蜆貝

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↑ 富士を望む句碑「伊豆は日のしたたるところ花蜜柑」



夕光にあからさまなる木蓮の花びら厚し風たえしかば・・・佐藤佐太郎
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      夕光(ゆふかげ)にあからさまなる木蓮の
          花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は明治42年宮城県生まれ。斎藤茂吉に師事。
岩波書店に勤務する。
都市生活に根ざした独自の簡勁な写実主義短歌を展開。
昭和20年「歩道」を創刊、主宰する。
昭和27年『帰潮』により読売文学賞、55年日本芸術院賞を受賞する。
昭和62年没。

この歌は風の止んだ夕方、ぼったりとした厚い木蓮の花が夕日に「あからさまに」に染まっている、という精細な写実の秀歌である。
佐太郎のファンは今でも多く、歌集もよく売れている。
以下、佐太郎の歌を引いておく。
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をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて来りけらずや

店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光がさせばみな美しく

地下道を人群れてゆくおのおのは夕の雪にぬれし人の香

めざめしはなま暖き冬夜にてとめどなく海の湧く音ぞする

なでしこの透きとほりたる紅(くれなゐ)が日の照る庭にみえて悲しも

つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼

黄牛(あめうし)は体の皮たえず動かして蝿おひゐたり近づきみれば

桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蝿が群れゐる

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく

貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲

灯を消して吾は思ひきつづまりは人のこころは臥床に憩ふ

あたたかに冬日さすとき老いづきし項(うなじ)の汗をわびしむわれは

ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革の座席ある舟に乗る

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ

すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす

梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり

遠くより柿の実みゆるころとなりいまだ濁らぬ視野をよろこぶ

日々あゆむ道に明治の赤き花豆菊咲きて父おもはしむ
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終りから5首目の歌は、いろいろ論議された歌で、結句の「みゆ」は、それまでの文脈からすると「--を見る」という他動詞でなければならないが、この歌には上句と下句には「ねじれ」があって、佐太郎としては途中を省略して、「庭に出てみたら」那智の滝が「見える」という表現になったのだろう、ということになっている。
初心者ならば、当然、先に書いたように自動詞、他動詞の関係から、不適切として直されるところである。
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img_501423_59804757_10佐藤佐太郎歌碑
 ↑ 佐藤佐太郎歌碑 関門海峡に臨む「関見台公園」


藤原光顕の歌「なにやってんの」15首・・・木村草弥
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──藤原光顕の歌──(40)

      藤原光顕の歌「なにやってんの」15首・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・「芸術と自由」No.315/2019掲載・・・・・・・・・・

       なにやってんの     藤原光顕 

   暗算の間違い一つ指摘される 認知症という単語もまじえ (リハビリ三首) 
            
   おひなさん うまく塗れたネ ありがとう持って帰って貼ッとくネ

   誰も見ない連絡ノート持たされてデイケアのバスでおうちへ帰る

   脳も大丈夫みたいですネ 眼科で保証されても ウレシイ

   一部屋に5つの時計が置いてあり私のほかはみんな合ってる

   いつから? と拾ってどこにしまったか今朝のベッドの下の百円

   米とキムチがあれば最終なんとかなるつきつめてみてそれだけのこと

   零時には眠くなくても眠らせる そんな薬をまたもらってくる

   ぐいっといけばまだ飲み込める 食いものだろうが言葉だろうが

   わからなくなる始まりで 蒟蒻はいつまで噛んでいればいいのか

   ホーキングあっさり逝ってしまいあほらしい宇宙の味噌汁がうまい

   墓石はそれでいいと言った 黒い丸い石 まだ見つからぬ

   心底感謝しておりますが 病院から月一〇〇万の明細が来る

   薮を抜けて安い焼酎提げて帰るこわれた足がよく我慢する

   干上がった神社の裏の古池のなんてことない底を見ている

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藤原さんの「芸術と自由」誌に発表された歌が届いた。
先日「たかまる」誌に載った歌よりも、私は、こちらの方の作品が好きである。
「デイサービス」とか「リハビリ室」の勉強とかテストとかは、健常者にはバカみたいなものが多い。
それを「バカみたい」と感じる間は、まだまだ大丈夫ということである。
光顕さん、頑張ってください。 では、また。



 

「花吹雪空に鯨を泳がせん」剛毅まぶしもよ遠き談林・・・岡部桂一郎
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      「花吹雪空に鯨を泳がせん」
          剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎


この歌は、一種の「コラージュ」の歌である。
「花吹雪空に鯨を泳がせん」という句が誰の作品か調べかけたが、未だ判らない。
「談林」派の誰かの句だと思うが、岡部が言うように、大きな景の句である。
その句をコラージュとして取り込んで、彼は、それを「剛毅」なと褒める。
たしかに花吹雪の空に「鯨」を泳がせようというのは、彼の言うように剛毅であるが、私から見ると、この表現は談林派特有の「奇抜な着想」と言えるだろう。
いかにも飄逸な歌作りを身上とする岡部らしい「引用」であると言える。

岡部桂一郎は大正4年神戸市生まれ。戦前は短歌結社「一路」に拠ったが、戦後は所属結社などは無い一匹狼として歌を発表してきた。
1994年(平成6年) 作品「冬」にて第30回短歌研究賞
2003年(平成15年) 歌集『一点鐘』にて第37回迢空賞および第18回詩歌文学館賞
2008年(平成20年) 歌集『竹叢』にて第59回読売文学賞

2012年(平成24年)11月28日、死去。97歳。
以下、彼の歌を引いてみよう。
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まさびしきヨルダン河の遠方(をち)にして光のぼれとささやきの声

空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う

遠くよりさやぎて来たる悲しみといえども時に匕首(ひしゅ)の如しも

間道にこぼれし米の白ぞ沁むすでに東北に冬が来た

みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ

砂の上に濡れしひとでが乾きゆく仏陀もいまだ生れざりし世よ

天を指す樹々垂直に垂直にして遠く小さき日は純粋なり

うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼空にあがる遮断機

手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う

ひと息に行人坂を吹き抜けて途方にくれる昼の木枯

ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事

天の川空にかかりて丈高き夾竹桃の花を暗くす

葡萄酒にパン浸すとき黒々とドイツの樅は直立をせり

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり

のんき屋という看板をあげている君の店舗の夕蝉しぐれ

まっすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書雨にぬれたり

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ

命終に近づく友を思えども油蝉なく樹の下ゆけり

夕づく日差すや木立の家の中一脚の椅子かがやきにけり

のびやかに物干竿を売る声の煙のような伊勢物語
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上に引用した歌の中に

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

というのがあるが、岡部の歌には、こういう意表を突く「瓢逸」というか「洒脱」というか、の歌がある。一筋縄でなく、一ひねりした作品である。
また、こんな歌がある。

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

この歌は、どこでも目にする日常での出来事を、精細に観察して、うまく歌に仕立てあげた。しかも、どこかひょうきんで、おかしみがある。こういう歌の作り方が岡部の特徴と言える。
春は季節の変わり目で、突風が吹いたりする。道端に捨てられていた紙袋が、通り風にあふられて裏返る。それも「おもむろに立ち」と表現したところが秀逸である。
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掲出句に書かれている「談林」とか、「談林派」というものについて少し書いておく。

俳句という文芸は芭蕉から始まった。
もっとも「俳句」という言葉を考えだしたのは、明治の正岡子規であるが、今ここでは、それには触れない。
芭蕉の前には連歌(レンガ)──連句ともいう──という文芸があり、これは和歌の方から発している。これらは座の文学で、集まった同人のうち、誰かが五七五を皮切りに立句(タテク)を出し、それに次の人が七七をつける。その次の人が五七五をつけて続ける。七七が続く。

 そうやって、三十六句を作る。これを歌仙という。この場合、続ける句はすべて、前の句に繋がりのある内容でなければならない。立句に続く句の内容には順番があって、最初は立句に応じたもの、次は恋、それから花、月などと順序が決まっている。

 それを座の同人が勝手にやっていたのでは収拾がつかなくなるので、捌き人が句を整理する。それが、むかし宗匠といわれた人である。連歌の内容の順番が狂ったり、句が出ない人がいたりすると、適当に他に廻したりしながら、いい連歌を作るための指揮をするのである。

 連歌が仕上がると、書き手がそれを紙に書いたものを見て、皆で鑑賞したり、批評したりして楽しむ。終わって、酒などを飲みながら歓談するという優雅な集まりであった。参加する人たちは、おもに豪商のあるじや、豪農など金持ちが多かった。

 こういう人たちは、元々集まり多い社会の人たちで、商談成立のあと宴会をしたり、能見物したり、遊女遊びに繰り出したりする機会も多いのだが、折角主立った連中が集まるのに、飲み食いだけでは芸がない。皆でもっと高尚な趣味を持とうと、連歌を作る会を山崎宗鑑(そうかん)が作ったのが始まりである。

時代は、信長が世に出るか出ないかの頃、応仁の乱が終わった辺りである。旦那衆の遊びでやっている時代は、まだ良かった。連歌がだんだん盛んになってくると、勝れた作品に賞品を出すようになった。それが次第に参加者の会費から、賞金を出すように変わっていった。

 旦那衆には、お付きの人たちがいる。その人たちも連歌に加わるようになって、連歌の集まりが増え、賞金の額も大きくなり、最後にはバクチのごとき様相を呈した。すると、賞金稼ぎのような人物も現れ、江戸時代には幕府が取り締り令を出したこともあったが、隠れてする集まりでは、効果がなかったという。

 松永貞徳(1570年)が、発句(ホック=立句)の五七五を分離して、独立句として、「俳諧」とすることを始めた。この一派を貞門と称する。
この頃になると、武士などの参加も次第に増えてくる。連歌を作るためには、万葉集や和漢朗詠集や漢詩の教養も、土台として必要となる。しかし、参加者が増えて底辺が広がると、質の低下は避けられない。

俳諧の世界は、教養人だけでなく、市井の一般人も含めて参加する人の数が増えたが、句としては言葉をもて遊ぶがごとき、例えば貞門派のように川柳まがいの句が流行した。それを憂えた西山宗因は談林派をつくって修正を図った。

いわば 俳諧の一派だが、西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673-1681)に隆盛した。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色とするが、蕉風(しょうふう) ──芭蕉一派の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流などとも呼ばれる。

貞門派も談林派も江戸と大阪が中心であったが、次第に全国に拡まった。 

芭蕉が奥の細道で全国行脚ができたのは、このような経緯で各地方に弟子がおり、師の芭蕉の来駕を待ち望んでいたからである。地方の旦那衆が商売で江戸に出てきて、俳諧なる洒落た遊びのあることを知り、勉強して、その地に帰ってから旦那衆が先生になって俳諧の会を開いた。

芭蕉の、江戸の弟子の旦那衆には、商売の相手が各地にいる。芭蕉が江戸を発つに当たっては、地方の商売相手への旦那衆の添え状があったらしい。そこで数日俳諧を教えて、次の土地にはここの旦那の添え状が・・・という風に、芭蕉は路銀も持たずに、俳諧の旅を続けることができたのである。



高階杞一+松下育男『共詩・空から帽子が降ってくる』・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(11)

      高階杞一+松下育男『共詩・空から帽子が降ってくる』・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・澪標2019/05/01刊・・・・・・・・

掲出した図版で見られるように、爽やかなイラストだが、これは上野かおる氏の装丁によるものである。
高階さんの詩集の装丁を度々なさっている。
さて「共詩」ということである。
「連詩」というのがある。他人が書いた短い一連の詩に何人かが一連の詩を付け加えて一篇の作品に仕上げるというもの。
この本の「あとがき」に二人が書いている。
高階は書く。
< 共詩とはなんぞや? これは僕の造語です。二人で詩を作る、共同で作るという意から「共詩」と名付けました。
 ・・・・・共詩では二人で一つの詩を作ろうという意識を強く働かせています。言わば合作と言えます。・・・・・
一作目「空から帽子が降ってくる」では、一人二行から三行ほどでした。メールの往復で16 回。
五行で一連となっていますが、それぞれが一連ずつ作ったわけではありません。
作るにあたってひとつだけ取り決めていたことがあります。書き出しを高階がしたら、最後は松下が締める。さらに書き出しは交互に行う。
どちらがどの部分を作ったか分かるでしょうか。・・・・・
今回、全体を読み返してみて、よくこれだけ変化に富んだ詩が書けたなあと、我ながら感心しました。
シュールで奇妙なものもあれば恋愛小説ふうのものもある。「風の引き出し」の戯曲形式の箇所など、どうしてあんな展開になったのか。・・・・・
八作目の「川沿いの道」を作っている途中で東日本大震災が起きました。・・・・・作品そのものに震災のことは出てきませんが、詩に何らかの影を落としているようにも思えます。・・・・・ >

松下郁男は書く。
< 1970年代からいろんな雑誌で一緒に載っていたのに、なんで会う機会がなかったのだろう。
それが2009年の二月に、新宿の居酒屋で初めて会うことになった。「知っているけど知らない人」に挨拶するのは妙に恥ずかしい。
同席していたのは岩佐さんと廿楽さん。でも挨拶が終ればどんどんお酒がすすんで、店を変えてまでも延々と四人で飲んでいた。
その場でだれかが「二人で詩を書いてみたらどうだろう」と言い出して・・・・・一作目の「空から帽子が降ってくる。」 ・・・・・
これら九つの詩は二年ほどの間に一気に作られた。
いつもなんの前触れもなく高階さんからメールで詩がやってくる。仕事中にも、家でビールを飲んでいるときにも、歩道橋の上を急いでいるときにも、
高階さんからの数行の詩はいきなり私の時間に割り込んでくる。電車の中で読んで、思わぬ展開に声をあげて笑ってしまったこともあった。 >

ながながと引きすぎたかも知れないが、この「共詩」の成り立ちを言っておきたかったからである。
この辺で一作目の「空から帽子が降ってくる」を引いておく。

      空から帽子が降ってくる      高階杞一+松下育男 

   空から帽子が降ってくる
   でかける用事があったのに
   もう降り出してきたのかと
   にわかに暗くなってきた空を
   頬杖ついて見上げてた

   空から帽子が降ってくる
   やまたか帽やベレー帽
   どこに工場があるだろう
   母も姉も恋人もそこの女工だったけど
   ぼくはまだ一度も行ったことがない

   空から帽子が降ってくる
   だれの仕業か知らないけれど
   小さな値札がついたまま
   それはまるで切符のように
   ひとつひとつに行き先が書かれてあって

   空から帽子が降ってくる
   どんな治世の王様だったか
   水の言葉は禁じられ
   ロバは困る
   ご主人が狂ったように笑うので

   空から帽子が降ってくる
   帽子と国との戦争は
   いつの季節に始まって
   もう炭屋の息子まで野球帽をかぶってる
   彼はセネタースのファンです

   空から帽子が降ってくる
   ちょこんとかぶったエッフェル塔
   見ながら掃除機かけたくなって
   何もかも
   みんな吸い込みたくなって

   帽子の山のまん中で
   数限りある日々だもの
   今夜のオカズは何にしよう
   そうだ 思い出したよ でかける用事
   夜が落ちてくる前に

   帽子の山をかき分けて
   町のはずれの郵便局へ
   手紙を出しに行くんだった
   はるか遠い宛先にも
   帽子はそろそろ降るだろう

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はっきり申し上げて、私は高階さんの詩には何度も触れているので、彼の息遣いも何となく判るが、松下育男の詩には、余り馴染がない。
松下育男は1950年 福岡県生まれ。 第29回 H 氏賞受賞。
高階杞一は1951年 大阪市生まれ。 第40回 H 氏賞受賞。 
年代も受賞歴も共通している。 それに二人とも酒好きらしい。
(草弥・注 「H 氏賞」は詩界における「芥川賞」と言われる新人賞である。)

これらの作品の初出は、高階が編集同人の詩誌「びーぐる」に7 回、松下が編集同人の「生き事」に2 回載せられたものである。
「生き事」の同人には、前に書いた岩佐なを、廿楽順治 が居る。その廿楽順治は高階の主宰する詩誌「ガーネット」の同人でもある。
だから廿楽順治が二人を取り持って、この「共詩」が成立したともいえるのでないか。

全部は引ききれないので、最終話の「トマトの女」を引いておく。

      トマトの女    高階杞一+松下育男 

   床屋「ミラクル」の隣のビルに
   スナック「極楽」があって
   勤め帰りに夕陽に押されて
   外階段をのぼりつめ
   ゴージャスな扉の前に立った
   ところで
   今日の夢は覚めた

   つづきものの夢なんて
   これまで見たことないよな   
   と
   思いながらベッドからぬけでる

           ・・・・・・
   夏はもうすぐだというのに
   ずいぶん寒いな
   どこがよくってあの女のことが
   気にかかるんだろう
   奇妙に丸くて
   トマトに似ていると思ったが
   夜にしか見ことがないので
   夜にだけ生えてくる顔なのかもしれない

         ・・・・・・
   トマトの女が
   夜の樹に
   いっぱいぶらさがっているのが見える

        ・・・・・・
   
   三半規管の奥の
   むかしの人ばかり住んでいる通りを過ぎたら
   どの夢も 結局は
   スナック「極楽」のゴージャスな扉のむこうへ
   続いてゆく

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抄出してみた。

「あとがき」の中で松下が  
< 実は十篇目も初めのところは出来ていた。だけど、なんだか急に書けなくなってしまった。・・・・・  >
と書いている。
ここに引いた九番目の詩の中に、なんだか終わりそうな気配が感じられるのである。それは東日本大震災のこともあるだろう。
私にも「共同制作」の経験があるが、妙に、急に、そういう「終わり」の気配というのが立ち込めるものである。

だけど、この「共詩」という作品を改めて眺めて、面白い経験をされたことだと、つくづく思った。
ご恵贈有難うございました。 こういう「言葉遊び」は私は大好きである。      (完)



    
ちる花はかずかぎりなしことごとく 光をひきて谷にゆくかも・・・上田三四二
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      ちる花はかずかぎりなしことごとく
         光をひきて谷にゆくかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田三四二


桜の落花が盛んになる頃である。そこで、この歌を採りあげておく。
この歌は三四二の代表的な名歌として、よく引用される。
短歌では「花」というと「桜」のことを指す約束事が出来てしまった。
万葉集の頃は、花と言えば「梅」の花であったらしい。
だから、この歌で詠まれる「花」は桜のことである。桜は散りはじめると、はらはらと、づつけて散る。
梅の花は、そんな散り方はしない。
そういう落花の様子が、よく観察されて詠まれている。
落花を詠みながら叙景だけでなく、その裏に「ものの哀れ」という心象を漂わせるのが、この歌の名歌たる所以である。

上田三四二については、短い文章ではあるが、まとめて書いたことがある。
三四二は私の居住地・青谷の国立療養所(今の南京都病院)の医師として病院付設の官舎に住いしていたことがある。当地を詠んだ歌もある。
昭和64年1月8日、昭和天皇と同じ日に亡くなった。
小説、評論の分野でも旺盛な執筆をつづけたが、癌に侵され闘病も凄まじかった。
以下、代表的な歌を抽出したい。

 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

 地のうへの光にてをとこをみなあり親和のちから清くあひ呼ぶ

 をりをりに出でて電車にわが越ゆる今日木津川の水濁りをり

 湧く霧は木のかをりして月の夜の製材所の道をわが通りをり

 たすからぬ病と知りしひと夜経てわれより妻の十年(ととせ)老いたり

 死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ

 おぼろ夜とわれはおもひきあたたかきうつしみ抱けばうつしみの香や

 かなしみの何のはづみにか二十三歳の妻の肉(しし)置きをこよひおもひ出づ

 遠野ゆく雨夜の電車あらはなる灯の全長のながきかがやき

 土器(かはらけ)を投ぐるは厄をはらふため沖かけてとべ今日あるわれに

 金泥の西方の空にうかみいで黒富士は肩の焼けつつ立てり

 内視鏡にあかあかとただれたる襞照りてみづからが五十年の闇ひらかれき

 交合は知りゐたれどもかくばかり恋しきはしらずと魚玄機言へり

 湯気にたつ汁(つゆ)盛る妻よ妻が手に養(か)はれてながき二十九年へつ

 蜂などのゐる寂(しづ)けさやまのあたり藤は垂直にひかりを吊す

 歌ありてわれの一生(ひとよ)はたのしきを生のなかばは医にすぎたりき

 乳房はふたつ尖りてたらちねの性(さが)のつね哺(ふく)まれんことをうながす

 かきあげてあまれる髪をまく腕(かひな)腋窩の闇をけぶらせながら

 夕粧(ゆふけはひ)ほのめきみれば華燭より十(とを)の千夜ののちのけふの妻

 身命のきはまるときしあたたかき胸乳を恋ふと誰かいひけん

 をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 谷ふかく入りきておもふ癒ゆるなき身は在りてひと生(よ)の妻をともなふ

 朝戸繰りて金木犀の香を告ぐる妻よ今年のこの秋の香よ

 一杯の茶にはじまりて一日の幾百の用妻が手を経(ふ)る
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上に引いた歌の三、四首目の歌は、当地のことを詠んでいる。製材所は今も同じところで営業している。
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23007008333上田三四二
↑ 上田三四二

上田三四二に因んで書いた私の文を引いておく。

*エッセイ*
 京を詠った私の一首 木村 草弥
 (角川書店「短歌」2001年3月号・大特集
 <旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)

   一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の
一つである。 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は
年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられた
ことで有名な「断碑」を安置してある。 昨年11月に私が訪れたら台座を
修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。
ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名
で「賀祢吉」と書かれている。
京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、
「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院など
の史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、
川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、特に秋のシーズンには
観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの
司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して
盛況であった。


春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・坪内稔典
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      春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・・・・・・坪内稔典

坪内稔典は昭和19年、愛媛県生まれ。立命館大学卒で、高校時代から「青玄」に投句。
昭和63年から「船団」を発行、現在に至る。京都教育大学教授を定年退官して現在は京都市内の仏教大学教授。

掲出の句のように、言わば、ナンセンス句のような、人を食ったような句を得意とする。
公園などに行くと、水呑み場には「上向き蛇口」があって水が呑めるようになっている。この句は、恐らく、そんな場面を見て考え付いたものであろう。
蛇口は下向きばかりには飽きたから、だから、こうして「上向き」の蛇口になっているのです、ということである。
俳句は575と短い17字しかないから、いま説明したようなことは省略して仕舞ってある訳である。
こうして見てみると、一見、何の工夫もない、さりげない句のように見えるが、周到に計算し尽くされた作句であることに気付くだろう。
どちらかと言うと、「現代川柳」が、こういう形の川柳が多い、と言えば判りやすいか。
ただ教育者だったので、論は達者で、いくつかの評論集『俳句──口語と片言』 『正岡子規──創造の共同性』などがある。その他『辞世のことば』など。
最近は佐佐木幸綱の「心の花」の同人になり、歌人としても存在を主張している。問題児である。
京都新聞の文芸欄の俳句の選者三人の中の一人として活躍されている。
以下、坪内の句を引くが、それを見ていただけば、どんなものか、よくお判り頂ける。
「甘納豆」シリーズの句の連作なども有名である。
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 桜咲く桜へ運ぶ甘納豆

 花冷えのイカリソースに恋慕せよ

 春の坂丸大ハムが泣いている

 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月どうするどうする甘納豆

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 水中の河馬が燃えます牡丹雪

 魚くさい路地の日だまり母縮む

 父と子と西宇和郡のなまこ噛む

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

 十月の木に猫がいる大阪は

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

 N夫人ふわりと夏の脚を組む

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 ↑ 坪内稔典氏




花の下黙し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る・・・米満英男
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 ↑ 矢羽根
米満歌集

      花の下黙(もだ)し仰げばこの世とは
         この束の間のかがよひに足る・・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男


私の私淑していた米満英男氏の『游以遊心』(短歌研究社2007年刊)という歌集に載る歌である。
これまでに『父の荒地・母の沿岸』 『花体論』 『遊神帖』 『遊歌之巻』とほぼ10年ごとに出されて、第五歌集となる。

はじめに、この「游」という日本では余り使わない字の解説をしておく。
「游」という字は①およぐ②あそぶ、と辞書には書かれている。
現代中国では、この字は「旅游公社」のように「遊ぶ」の意味の熟語として日常的に使用される。
日本で日常的に書くシンニュウの「遊」を使う代りである。「游」の字は、本来は「泳ぐ」意の原字である。
「游子」と言うと、李陵の詩にあるように「旅人」「旅客」を表す。また、たとえば北川省一『良寛游戯』という本の題名になったりしている。
この歌集の「あとがき」で作者は、次のように書く。

──しっかり詠み込もうとする限り、たとえばその<游(およ)ぎ>と<遊(あそ)び>との様子を、いかなる視軸からにせよ、確りと捉えて見詰め直し、その多様な<遊び様>を組み上げるしか、方途はなかなか見付けられないと感じました。──

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   矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり・・・・・・・・・・・・米満英男

この歌集の中ほど103ページに、この歌をはじめとして「晩年の住処(すみか)」という8首の歌からなる一連がある。
煩をいとわず書き出してみる。

    晩年の住処

  矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり

  家族(うから)の匂ひ残る湯槽に浸りつつ何(いづ)れ何時しか皆(みんな)と別る

  日日(にちにち)の縞目のらくら掻い潜り生き来しからに心身斑(まだら)

  貌洗ひ洗ひ重ねし数忘れいつしか晩年の住処に至りぬ

  体内に在る水つねに出入りして時に冷たく時には温(ぬく)し

  眼鏡拭ふ合間にテレビの画面かはり些かは世間進みをりたり

  口中に温もる舌の嵩(かさ)張るを気にしつつ誦(とな)ふ般若心経

  地に敷ける花踏み散らし仄白(ほのじろ)く伸びゐる道を尽きるまでゆく

この「矢羽根」の歌を、簡単に素通りして貰いたくないのである。
この歌は「暗喩」メタファーになっている。読み解いてみよう。
「矢羽根」とはpenisの謂いである。その矢羽根の「本=もと」は「黒」ぐろとしている。つまり男の陰毛の喩である。
そして、つがえた矢の、かなたの標的には「白桃」ひとつふくらんでいる、という。
「白桃」とは「シンボル・イメージ辞典」にも明記されているように、女のふくよかな「臀部」=秘処を表す「約束事」になっているのである。


さりげない表現の体(てい)を採っていながら、作者の心の裡は、瑞々しい精気に満ちて心気隆々である。
今日のBLOG全体の掲出歌を「矢羽根本黒」にしたかったのだが、さすがに控えて「花の下」の無難な歌を選んだのだったが、この歌を含む一連も、この歌集の「巻頭」に載るものである。
書き出してみよう。折しも「落花しきり」の候である。

    桜花面妖

  花の下黙(もだ)し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る

  風のはこぶ淡くあやしき囁きを手繰り寄すれば花と逢ひたり

  孤立無援といふ語宜しも一本の桜が雨中にざぶざぶ禊ぐ

  むかし眺めしさくらけふ見るさくらばなそのあはひを繋ぎ来し花遍路

  やまとに生まれさくらに憑(つ)かれ過ぎて来し身を終へるなら桜樹(あうじゆ)の柩

  乳のしたたる如くに花の散り初めしその辺りいちめん胸処(むなど)匂へり

  姦淫の目もてさくらを見詰めゐし祟りか夜中にまなうら痒し

  いづこより生まれ来りてさて何処へ去るや今生の花を誘(いざな)ひ

  花の下より立ち去る際(きは)にうかつにもわが影を連れ出すを忘れぬ

  さくらさくら人に見らるる栄、辱を振り払ふごとただ散り急ぐ

  西行の背を見失ひはてと佇つ行方うすうす桜花(あうくわ)面妖

この一連も、さまざまの「喩」に満ちて楽しめるのであるが、6首目の歌の「喩」なども読み解いてほしい。
歌詠みの先達として「西行」が居るが、この一連の終わりには、しっかりと彼が詠み込まれている。

米満英男氏については前にも記事にしたことがあるので参照されたい。
以下、この歌集に載る私の好きな歌を引いて終わる。

  追ひ追ひて捕り得ざりしもの文芸と女心のその深き絖(ぬめ)

  しどろもどろと言ふ語を<源氏>に見出しぬ唯それのみにて本日愉(たの)し

  喜寿すでに過ぎしうつつに仰ぎ見る天空ならぬ地空の冥(くら)さ

  真夜の湯槽に沈めし肉の彩づけば過ぎ来し方は残夢ざぶざぶ

  湯を沸かす只それのみの間を見つめ現世(うつしよ)と呼ぶ卓に坐しをり

  不時の災ひ待ち侘ぶるごと曇天の下にて約束の女待つ間(ひま)

  何なすといふ訳もなくさし伸ぶる手の先にひとつ檸檬(れもん)の楕円

  共に棲むつれあいとはいへ飲食(おんじき)の好みの違へけふ芋と豚

  沐浴する女人の油絵ほのかなる脂(あぶら)のにほひを放つ 禍津日(まがつび)

  わが晩年もおほよそ挵(せせ)り了(を)へたりき去る卓上に魚骨残して

  妻とわれの覗けぬ狭間ひと瓶のワイン血溜りのさまに鎮もる

  箸洗ひまた汚しゆく反復の果つるときわが肉身は果つ

  歌侮りし頃もありたり紅葉の散り敷く前途遠く間近く

  氷見に喰らひし青鯖旨しせめて生き腐(ぐさ)れとならず遂げむ一生(ひとよ)を

  がばと飛びたる家鴨(あひる)それそれ彼奴(きやつ)でも飛びたいときはありませうな

  忘れ切つたる尾骶骨何となく痒き夜更けほろりと歌一首生む

  不意に鳴るこころの音叉一行の詩に封じ込めその音隠す

  雅兄(がけい)宛と記されし書簡受け我は何方(どなた)の雅(みやび)の兄たるか知らぬ

  一気呵成 すなはちこころ狩るに似て心神仄かに血の匂ひ充つ

そして、巻末の歌は

   一言一行 師匠無くはた弟子もなく歌を詠み来て半世紀過ぐ
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米満氏は多芸の人で、この歌集のカバーの装丁も、ご自分でなさった。
その米満氏も2012年2月20日に亡くなられた。
彼の亡くなったときの記事も見てもらいたい。
ご冥福をお祈りする。

藤原光顕の歌「ごちゃまぜ」20首・・・木村草弥
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──藤原光顕の歌──(39)

     藤原光顕の歌「ごちゃまぜ」20首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・「たかまる」No.113/2019.4掲載・・・・・・・・

           ごちゃまぜ       藤原光顕

   あの人はもういないときめるそんな別れがまたふえて 春
   とりあえず安泰と受けとっておく「春になるまでじっとしています」
   それだけのことで人生を終わらせた少女の顔をテレビは映す
   「これええわ」一目で決めた枯野の絵 たしかソウルの土産物屋で
   つらい日ばかりじゃなかったわよ 宥めるような写真出てくる
   動き出す前の呼吸を調える背へくる間合い「どうしましたか?」
   その方が気が楽だろうさりげなくちょっとだけ不利な立ち位置にいる
   あれからもう三年というせつなさでよみがえる 雨のJR京都駅
   わが庭の老木の幹撫でながら柿は若葉が好きというひと
   四光年のかなたあの人はとんでいる あの日の私ととんでいるはず
   整形の予約を覚えていたから〇 兜太がすぐに出てこない朝
   コントのような一冊だけで筆を断った東福さんも逝ってしまった
   淀川県知事なんておかしな人にも会った そんな詩人もいたんだホント
   鯛遊子も死んで八年 缶ビール一本足して 暮れるにまかす
   誕生日の花9月2日はミョウガとある花言葉は忍耐 ふかく諾う
   去年今年採ってやらねば雑草に譲ったらしい蕗の領域
   洗濯機に三日溜まっていた嵩が今日はストーブの前に積まれて
   白菜にツナ缶、ウインナ、味噌、出汁の素、卵でとじて一丁あがり
   説明を読んでまた見て15分 ふわ玉きのこ炒めらしきものできる
   なんにも言わず見ていてくれるだけでいいひとりの酒は不味いさびしい
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届くのが遅れていたので、どうされたのかと思っていた「たかまる」誌が届いた。
相変わらずの光顕ぶしである。
一先ず、安心である。
この一連を見ていると、僅かだが、光顕さんの日常のヒトコマを見るようである。
無理せずに事故からの復帰に努めていただきたい。

この本に載る「阪神心景」という本で「伊丹三樹彦」が書いていて、うかつにも、もう死んだと思い込んでいたマチガイに気づいた。
彼は白寿、つまり99歳で生きていることを知る。
十年ほど前に脳出血で倒れたが生きているのである。 失礼いたしました。
このブログでも何度か「伊丹三樹彦」を採り上げたことがある。
そんな「旧人」たちの消息を知るのも、この「たかまる」誌ならでは、である。
この号には、岡山の「小見山輝」の遺作集の紹介や「福田廣宣」の本のことなども書いてある。

私にも関わりのある「故人」たちの消息である。それらの人たちの冥福を祈りたい。
ご恵贈有難うございました。


          

長年のうちに短くなりし分われらは食みしやこの擂粉木を ・・・安立スハル
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 ↑ すり鉢と「すりこぎ」

      長年のうちに短くなりし分われらは
           食みしやこの擂粉木(すりこぎ)を ・・・・・・・・・・安立スハル


昨日、宮柊二を採り上げたついでに、私の先師・安立スハルを選んだ。
先生の名前は、スハルという特異なものだが、本名である。
お父上が日本画家であられたので、こういう命名になったらしい。
京都のお生まれだが、中年以降は岡山市に住いされた。
若い頃から結核で、結婚はされず独身。2006年に亡くなられた。
私は若い時から短詩形に親しんで、現代詩の方にいたのだが、たまたま新聞歌壇に投稿したものが、採用され、短歌の道に入るようになった。
読売新聞(大阪)の夕刊の歌壇の選者を安立さんがしておられ、親しく選評に接するようになった。その縁で「コスモス」にも入会したものである。

昨日の宮の歌と、今日の安立さんの歌を比べてみると、「生れたければ生れてみよ」と「われらは食みしやこの擂粉木を」という発想に、私は師弟としての似通ったものを認めざるを得ない。一般の歌詠いの発想とは、一肌違った自在な詠いぶり、とも言えようか。
安立さんは、私に「歌というのは、こういう風に詠まなければならない、というようなことは、何もないのです」と、よく仰言った。私も勝手な人間なので、その言葉は身に沁みた。

そんな安立さんと、「コスモス」からの出発であったが、何しろ自作の歌が1首か2首しか載らない。
コスモスは大きな結社で掲載するスペースが限られているのだ。そんなことで、もっと歌を多く載せてくれる結社を求めて私は「未来」誌に移ることになる。
安立さんとは、師として以後も礼を尽して来たが、晩年はひどいヘルペスを病まれて結社とも音信を絶たれて私の方へも音沙汰もなかったが、先に書いたようにお亡くなりになった。
以下、少し歌を引いて終わりにしたい。
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   一つ鉢に培へば咲く朝顔のはつきり白しわが座右の夏

   金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ

   自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ

   家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす

   瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし

   青梅に蜜をそそぎて封じおく一事をもつてわが夏はじまる

   くちなはにくちなはいちご村の子に苗代苺赤らむ夏ぞ

   若さとは飢か四時間面(おもて)あげず列車に読みて降りゆきし人

   見たかりし山葵の花に見入りけりわが波羅葦僧(はらいそ)もここらあたりか

   島に生き島に死にたる人の墓遠目に花圃のごとく明るむ

   もの書くと重荷を提ぐと未だ吾にくひしばる歯のありてくひしばる

   今しがた小鳥の巣より拾ひ上げし卵のやうな一語なりしよ

   一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く

   本といふ「期待」を買ひて歩みゆく街上はけふ涼しき風吹く

   有様(ありやう)は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むる

   悲しみのかたわれとしもよろこびのひそかにありぬ朝の鵙鳴く

   大切なことと大切でないことをよりわけて生きん残年短し

   踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることをやつてゐるではないか



群れる蝌蚪の卵に春日さす生れたければ生れてみよ・・・宮柊二
img1035ヒキ卵

      群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす
           生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


宮柊二(みや・しゅうじ)は北原白秋の弟子であり、若い一時期、邸に住み込んで書生の仕事をしていた。
晩年のその頃、北原は短歌雑誌「多磨」を発行していて、その弟子には、その後独立した多くの有力な歌人がいる。
宮も昭和28年に短歌結社「コスモス」を創刊し、有力な結社の主宰者として短歌界に君臨した。

この句は昭和28年刊の歌集『日本挽歌』に載るもの。
季節的には、もうそろそろ蛙の卵も孵化する頃だと思うが、私のところのような田舎でも、なかなか蛙の卵を見つけるのは困難である。
それには理由がある。この辺の農家は兼業農家が多く、米を穫った後の裏作をしないので、田圃は水を張らないままで冬を過ごすので、蛙が卵を産む水がない。
蝌蚪とは「おたまじゃくし」のこと。
この歌の下の句の「生れたければ生れてみよ」という表現が独特である。
こういう発想をする人は多くはない。宮の主宰者としての気概が表れているとも言える。

私が短歌をやるようになるきっかけは、コスモス同人の安立スハルさんの縁であるが、入ってすぐ、
宮が「コスモス」創刊の時に高らかに謳いあげた「歌で生の証明をしたいと思います」という宣言文に感激したことを思い出す。
私が入会したのは平成になってからで、もう主宰者・宮氏は亡くなっておられた。

宮は戦争中は召集されて中国の山西省の前線に下士官として配属されていて、戦後『山西省』という歌集を出して、戦時を詠った歌を「現在形」で作って注目された。昭和61年没。
以下に歌を引用するが、その中には戦時の歌も含まれる。
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01Kaosyasinn,0宮柊二
 ↑ 宮柊二

   美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか

   接吻(くちづけ)をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり

   つき放れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり

   たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し

   おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ

   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   鞍傷に朝の青蝿(さばへ)を集(たか)らせて砲架の馬の口の青液(しる)

   ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ

   軍衣袴も銃(つつ)も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

   耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

   一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる

   疲れたるわれに囁く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

   英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ

   藤棚の茂りの下の小室にわれの孤りを許す世界あり

   音またく無くなりし夜を山鳩は何故寂しげに啼き出すのか

   老びとの増ゆといふなる人口におのれ混りて罪の如しも

   人生は十のうちなる九つが嘆きと言ひつ老いし陸游

   頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり

   中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ
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以下は、ネット上に載る「ヨッサン」こと吉田道昌の「宮柊二、一兵卒の歌──戦争を歌いつづけた歌人──その短歌集「山西省」という記事」である。

宮柊二(みやしゅうじ)の短歌集を本格的に読んだのは、中国に来てからだった。きっかけは彼の歌集「山西省」にある。
「山西省」はすぐれた戦争文学として評価されている。彼はどのように戦争を体験したのか、侵略をどのようにとらえていたのかを知りたいと思った。
大学図書館から歌集を借りてきて、読み通し、中国出発の日が近づいた今、これを書いている。

戦後の代表的歌人の一人であった宮柊二は、1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。戦場は中国山西省。
上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

 おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。召集令状がきたとき、師白秋は言った。

 白だすき一首したため戦ひに死ぬなと宣(の)らしき昭和十四年

白秋先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
軍隊という非情な目的集団に身をおいた柊二は、戦争のリアリズムを歌にしていく。柊二は、どのような兵士であったのか。

 しばし程汾河のほとりに下りゆく綿羊の群を目追い優しむ

 省境を幾たび越ゆる綿の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

 大陸を進軍する兵士たちの前に、羊を飼い、綿を作る中国の農民たちの暮らしがある。ツクツクボウシ蝉がここでも鳴いている。
平和な農村風景に心なごみ、優しくなる。

 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息つきて腹に笑いこみあぐ

安らぎと喜びをもたらす麦熟れる田園風景は、農民出身の兵士にとっては、ことに日本のふるさとを思い起こさずはいられない。
狂気の戦争心理のなかにあっても、たまさかに正常な感覚をよみがえらせることもあったのだろう。

 稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾に伝ふ

「水田がみえるぞ」というささやきが、隊列の前方から潮が押し寄せるように聞こえてきた。稲田を見たときの反射的な喜び。
それこそ人間の感情なのだが、戦争は非情に押しつぶしていく。
侵略軍の置かれている立場は、そこに生きてきた土地の民からの反撃に常にさらされねばならない。
生命みつる田園ではあるけれど、それをも戦場にしてしまう軍隊は、つねに死に直面している。

 五度六度つづけざま敵弾が岩うちしときわれが軽機関銃鳴りひそむ

 ひまもなく過ぎゆく弾丸のその或は身の廻にて草をつらぬく

 麻の葉に夜の雨降る山西の山ふかき村君が死にし村

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 あかつきの風白みくる丘陰に命絶えゆく友を囲みたり

 うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇(あ)ふ最後の雨か

戦友の死。自分もやがて死ぬことになるだろう。柊二が、戦場から師の白秋に出した手紙には次のような文がある。

「『面輪が変わる』といふ言葉がありますが、さうした戦闘の後ではお互いの顔を合わせてゐて、これは誰だったらうと思ひます程に――言い過ぎではありません――変わってしまひます。」

顔が別人になってしまう。それほどの精神的な重圧を兵士たちは受けている。
しかし、逃げるに逃げられない中国の農民たちは、泥靴で踏み込んできた征服者・日本軍の重圧を、日本兵以上に感じながら戦っていただろう。

柊二もまた、中国の兵士と遭遇し、ついに殺してしまう。事実のみを表現している次の歌に、柊二はどのような思いを秘めているのだろうか。
ここには武勲の意識を読み取ることはできない。戦いを余儀なくさせられたものの哀しみ、殺さざるをえなかった相手への哀惜を感じる。

 磧(かわら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す

何故に戦わねばならないのか。兵は、自分の意思も疑問も一切を押し殺して、戦闘マシーンになる。
自分の行為をリアルに描いているだけに、戦争の非人間性、むごたらしさ、無意味さが冷酷に表われてくる。

 俯伏して塹に果てしは衣に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵

 装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり

「西安洛陽の兵だ」と、塹壕に倒れている兵士の衣服から確認する。
装甲車に肉薄してくる兵の声のなかに中国の少年兵の声も聞き取った。
征服しようとするものを排除し祖国を守ろうとするものたち、柊二は、眼前に迫り来る人間をつぶさに感じ取る。

「戦争の悲惨は胸をついたが、また戦ふ兵隊に現れてくる人間といふものの深さ、立派さにも目を瞠った。それは敵味方に対して同じだった。わたしは心を引きしめて立派な兵隊でありたいと願ったり、事実戦ひのなかで、死ぬだろうと思ったりしてゐた。わたしを取り囲んだのは運命だったが、しかし、運命に易々と従ったといふだけの感じではない。」と、戦後柊二は書き、「戦争の本質を疑ひつつも、祖国を愛さねばならなかった混沌」のなか、「掬ひ取られる近さに死を置く兵隊」を、柊二は歌った。

戦争というものは敵をつくり、敵と戦う。だが、「敵」とはいったい何なのか。
「敵」の本質は何なのか。

 死にすれば安き生命と友は言ふわれもしか思ふ兵は安しも

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 ここで死んだらあまりに安い命ではないか。兵の命はあまりに安すぎる。そういう会話もなされていたのだ。
既に生きものの感じがしない小休止する兵たち。「聖戦」、「大東亜共栄圏」という欺瞞を、兵士たちは「皇軍」の実態のなかに見ている。
明治43年、潜航訓練中に遭難死した潜航艇員を悲しみ、与謝野寛はこう歌った、「老いたるは皆かしこかりこの国に身を殺す者すべて若人」。
兵として死んでいくものは、みんな若者たちだ。戦争を遂行し、命令するものたちは死ぬことはなかった。

 信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵

 一昨年戦ひ死にし白倉があはれ生きをりき夢なりしかば

 耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思い戦争と個人を思ひて眠らず

 汾河の源をさらに十里溯り蕭々たる林に戦ひ死ねり

 日本軍は山深く、大陸深く、戦線を広げ、被害はいっそうひどくなった。
勝ち目のない戦、死を覚悟する兵士たち。敵味方の区別もない悲惨よ。柊二は、中国兵の人間をもとらえる。
次から後の歌は、戦後1946年より1948年までに作られた。(歌集「小紺珠」)

 猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく

 日本軍は、食糧などを現地調達させた。猫も鼠も食べなければならない戦、それがいっそう現地農民からの奪略を生んだ。

 耒耜(らいし)をかつて創りしものの裔(すえ)便衣藍にして歯の清き兵 

耒耜は、鋤のこと。この人たちは、かつて鋤を創りだした農民の末裔なのだ。日常着の青い服を着て、白い歯が美しい中国兵だ。
この人たちの先祖の鋤が日本に伝わった。大地を耕し、土に生きてきた人たち、そういう人たちを支配することなどできるはずもない。狂気か。

 中国と日本をわれは知れるのみ苦しみて生きむ両民族か 

ほとんどの日本兵は日本から出たことはなく、中国は初めて見る外国であったが、両民族は遠い昔から近い存在であった。
侵略がなければ、このような苦しみもなかったはず。何故自分たちはここにいるのか?

 省境を秋越ゆるとき岩に読みき民族的生命在我們手中 

行軍中、岩に書かれていた文字を見る。「民族の生命は、我らの手中にあり。」 抗日軍には大義があった。侵略軍になんの大義があったか。
柊二は、そのことを感じていたのだろう。歌集「両民族」の歌は、1946年から1948年までに作られた。
戦後、柊二は日中戦争を思い出しては歌にしている。忘れようにも忘れることのできない戦争の悲惨。

 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側 

 新しい憲法が制定された。その第九条、戦争を放棄する、軍隊を保持せず。
それを何度も読む柊二の心に何があったろう。恐れとは何だろう。あの日中戦争を思うにつけ、ふるえる心。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたい射抜かれて死にたる彼 

 戦友の死が、つねに脳裏に浮かんで消えることがない。そして相手の中国人の死も消えることがない。

 銃殺台に上る半ばゆ降りて言ひし陳公博の言葉も悲しも

 日本軍によって銃殺される陳公博が、何を言ったのか。記憶から消すことのできない光景、そして罪。
1948年11月12日、極東軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下った。戦争を推進したもの、戦争責任者は絞首刑。天皇は免罪された。
その日、柊二のつくった歌。

 廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居たりし

 柊二は自己へ問いかける。原罪という罪はどんな罪だろう。(以下歌集「挽歌」)

 原罪といふはいかなる罪ならむまぼろしに鳴る鞭の音する

 柊二の聞くこの鞭の音は、戦争行為を犯してきた罪を問う鞭の音なのか、鞭うってきた戦争行為なのか。記憶ははっきりと罪をとらえているものだ。
「原罪」という言葉を見ると、ぼくは一人の教師を思い出す。高知の教師、竹本源治。彼の作った有名な詩は「戦死せる教え児よ」だった。
それはこのように始まる。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言訳が なんでできよう‥‥」。この詩が作られた1951年、日本教職員組合ははじめて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげた。学者、文化人は、平和の擁護は、五十万教師の良心と知性にかかっていると訴えた。

 「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。 柊二は声を上げて泣いたという。

戦争が終わり、復員した柊二の心のなかにも、未来へのかぐわしい希望がわき、そしてまた平和に対する認識が生まれてくる。

 たたかひを知りたるゆゑに待つ未来たとへば若草の香のごとく来よ

しかし、あれだけの惨禍をもたらした戦争であったのに、数年して世界の冷戦構造の中に組み込まれていく日本、またもや再軍備が頭をもたげる。

 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在なる平和はあらず

 日本の戦争責任を問い、戦争放棄の憲法をうみだしながら、アメリカは戦争への準備を進めていく。やがて朝鮮戦争の勃発。

 戦ひを経来しゆゑ知る悔しみ誰に告ぐべき暑き濁り河

 柊二は、この歌の詞書にこう書いている。「戦争を起こしてはならないといふ希ひをよそに、六月二十五日新しい動きが朝鮮に起こった。」

 公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうったふ

 柊二は、戦に死んでいったものを歌わねばならない。無為に人生をすてさせられたものの挽歌を。日本の挽歌を。

 若きらは国に殉(したが)ひつねにつねに痛ましかりき顧みざりき

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し

 まどろみの中に傷みて見てをり磧(かわら)に死骸の焼かれゆくさま

 過ぎこし四十年に何を得しやさまざまに動揺して生ききたるのみ

 弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しゃべ)らむ
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↑ この記事は昭和25年に朝鮮戦争が勃発する直前に出された歌集『山西省』に寄せて、世界平和の立場から書かれている。
今しも、戦後生まれの世代の手によって憲法改正その他の企てが進められている機会に、先人たちの、こういう記事を載せるのも時宜を得ているかと思って転載してみた。
いかがだろうか。
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吉田

上に引用した「ヨッサンこと吉田道昌」氏の『架け橋をつくる日本語』─中国・武漢大学の学生たち─という本をネット上で取り寄せて読んだ。
吉田氏は1937年生まれの大阪の人で中学校教員をされていた。
のち日本語教師として武漢大学に赴任され、そのいきさつが、この本になっている。(2005年文芸社刊)
引用した宮柊二に関する記事は、この本の228ページから<宮柊二 一兵卒の歌集「山西省」>という項目で11ページにわたって要約されて載っている。

心あたたまる、いい本である。


春暁や人こそ知らね木々の雨・・・日野草城
1349日野草城句碑 服部緑地
soujou1句碑接写

      春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

春の夜明け──人々の深い眠りにしみ入るように春の雨が木々に柔かく降り注ぐ。
音もなく降る雨、黙然と立つ木々。人々の眠りは大気の気配に包まれながら、しかも、それを知らない。
早熟の才を謳われた草城だが、この句も第三高等学校時代の青年期の作。若い瑞々しさがあふれている。
当時から熱心に学んでいたという古典和歌への好みは「人こそ知らね」という古雅な表現にも見られるが、それよりも、こういう古典的な味わいをさらっと利用して、
若々しい心象を一層鮮明に見せているところが才能である。
「木々」は最初は「樹々」だったが、のちに改めた。字の重々しさを避けたのだろう。昭和2年刊『花氷』所載。

以下、草城の句を少し引いておく。

 春の夜のわれをよろこび歩きけり

 研ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり

 丸善を出て暮れにけり春の泥

 春の夜や都踊はよういやさ

 庖丁の含む殺気や桜鯛

 朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着

 翩翻と羅(うすもの)を解く月の前

 くちびるに触れてつぶらやさくらんぼ

 秋の蚊のほのかに見えてなきにけり

 足のうら二つそろへて昼寝かな

 しづけさのきはまれば鳴く法師蝉

 二上山(ふたかみ)は天(そら)の眉かもしぐれけり

 白魚のかぼそきいのちをはりぬる

 山茶花やいくさに破れたる国の

 きさらぎの溲瓶つめたく病みにけり

 かたはらに鹿の来てゐるわらび餅

 片恋やひとこゑもらす夜の蝉

 切干やいのちの限り妻の恩

 われ咳す故に我あり夜半の雪

 生きるとは死なぬことにてつゆけしや

 右眼には見えざる妻を左眼にて

 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 こほろぎや右の肺葉穴だらけ

三句目の「丸善」は今では無くなったが、京都では昔から洋書の原書を注文しにゆく本屋だった。全国にある。
「われ咳すーーー」の句はデカルトの有名な台詞「コギト・エルゴ・スム」(われ考える故に我あり)のもじりである。
私も、第二歌集『嘉木』でこれを頂いて一首ものにしたことがある。それは

<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ・・・・・・・木村草弥

という歌である。

終わりの方の三句は、右目が見えなかったこと、肺が侵されていたこと、が判る。最晩年の句である。
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彼については何度も書いたがネット上に載る記事を引いておく。

日野草城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日野草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日~ 1956年(昭和31年)1月29日)は日本の俳人。本名は日野克修(よしのぶ)。

略歴
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。

京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。

1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。

1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。

戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。

1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

評価
モダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」(復本一郎)と高く評価される。

晩年は病床にあって「深沈とした秀句」を残した。「前半(のモダニズム)とは別種の静謐(せいひつ)な句境を開拓するにいたった」(復本一郎『現代俳句大事典』)。

作品
 春暁やひとこそ知らね木々の雨
 松風に誘はれて鳴く一つ
 秋の道日かげに入りて日に出でて
 荒草の今は枯れつつ安らかに
 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

句集
草城句集「花氷」(1927年)
青芝(1932年)
昨日の花(1935年)
轉轍手(1938年)
旦暮(1949年)
即離集
人生の午後(1953年)
銀(1956年)
など

著書
新航路
展望車
微風の旗
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掲出写真は大阪の服部緑地に建つ彼の句碑である。二番目は接写したもの。
ネット上からの転載である。

場所:大阪府豊中市服部緑地の
 広大な公園の円形花壇の北側にある、
 エスメラルダというレストランの裏手
情報提供者:伸さん

春暁やひとこそしらね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蝉一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

画像のように、春夏秋冬と無季の作品が五句ならんでいます。日野草城は当初は「ホトトギス」の同人で、俳誌「青玄」の主宰者でした。
昭和の初期に自己の初夜を詠った「ミヤコホテル」で、当時の俳壇にセンセーションをおこしました。

句碑の左側の赤い石の文字は「俳句は東洋の真珠である」という草城作の造語です。
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句碑の石の色が三色になっているのはフランス国旗に因むのか。

上のWikipediaの記事の中に書かれている「ミヤコホテル」の一連を引いておく。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり

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「桜」の本いくつか・・・木村草弥
佐野

──新・読書ノート──再掲載・初出2013/04/10

      「桜」の本いくつか・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「桜」の花が咲きみちる爛漫の春となった。 というより、もう散ってしまったか。
今年の冬は、とても寒かったが、桜の開花には、この厳しい寒さが必要なのだという。

今日は「桜」に関する本を採り上げる。
今回、買い求めたのは
  ■山田孝雄『櫻史』(講談社学術文庫1990/04/16第二刷)
  ■佐野藤右衛門・小田豊二聞き書き『桜よ』─「花見の作法」から「木のこころ」まで(集英社文庫2004/02/25)
  ■佐野藤右衛門『桜のいのち 庭のこころ』(草思社1998/04/24四刷)
  ■安藤潔『桜と日本人ノート』(文芸社2003/03/20第二刷)

桜史

国語学者である山田孝雄の本は昭和十六年に出たものの文庫化したものであり、文語調の難しい本である。読み方も「おうし」と訓む。
ご存じない人のために少し書いておくと、山田孝雄は明治六年(1873年)富山県生まれの人で東北大学教授などを歴任。専門は国語国文学。
いわゆる「山田文法」を体系化した人。 1957年文化勲章を受章。 1958年歿。
この本のカバー裏に編集者のつけた文章を画像にして出しておくので見てもらいたい。 ↓

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ここに書かれているように上古から現代に至るまでの桜に関するもろもろを、厚みにして二センチはあろうかという労作である。
この本が出たのは昭和十六年であるから「ヤマトゴコロ」が最高に強調されたころである。
日本文化は世界の他のところとは違う独特なものである、とされた。
だが、実際には日本文化は中国の老荘思想などから多くのものを受け継いでいるし、日本宮廷の行事、作法なども中国歴代の宮廷のものを踏襲したものが多い。
例えば、芭蕉の思想なども老荘思想に多大の影響をうけている、との芭蕉研究者の比較研究の論考があるのである。
江戸時代は「近世」という時代分けをするが、私は必要があって近世初期の天皇のことを調べてみたので、よく判るが、その頃の宮廷行事は中国の行事そっくりである。
そういう比較研究は戦前には弾圧され、例えば福永光司先生の著述なども陽の目を見たのは敗戦後のことであった。
そんな天皇が尊敬する天子の理想像は、その頃の中国皇帝であったり、文物であったりするのであった。
日本文化の特異性をことさら強調するようになるのは明治維新以後のことであり、それは近代日本を作り上げるために東洋とは「隔て」を置くために「牽強付会」したものと見える。
国粋主義、廃仏毀釈、「神ながらの道」など明治以後の「国家神道」は排外主義となって国を敗戦に導いた。このことに留意したい。
山田孝雄が、そういう思想だという意味ではない。 誤解のないように。
とにかく難しい本である。学者の書く本である。学術的。 詳しくは書かないが、興味のある方はトライされたい。 けだし、そういうことである。

桜よ

佐野藤右衛門の本を二冊あげたが、いずれも彼が話したものを「聞き書き」したもので、「会話体」である。判りやすい。
典型的な京都弁であり、私などには地元の語り口だから読みやすいが、他の土地の人には果たして、どうか。
『桜のいのち 庭のこころ』から一部をスキャナで取り込んでみた。 こんな具合である。 ↓

接ぎ木は夫婦で
接ぎ木は嫁さんと一緒にするんです。おじいさんもおばあさんとやりましたし、親
父もおふくろとやりました。わしもかかとやっています。これもまたその家のという
か、植木屋へ嫁にきたもののひとつの教育みたいなものなんですな。
細こう切ってある枝を台木に接ぐんですが、台木の皮を削いで、接ぎ木の皮も削い
で、形成層の合うところをうまく入れていくんです。その後で、嫁さんが打ち藁で縛
っていくんですわ。
いかに女が上手に締めるか、きつくもなく緩くもなく、 それが実にむずかしいんで
す。共同で、息を合わせなならんのですが、そういう夫婦間の一体的な行動というの
か、そういうものの教えにもなるわけなんですわ。
おじい、おばあが接ぎ木の作業をやっていますわな。私は子供でしたから、接ぎ木
をしとるところにゴザを敷いてもろうて一日遊んでおりますやろ。
でも嫁というか、私の母親はこんなのを見るのは初めてです。まだ若妻ですわな。
それが弁当を持って来たときに、草を引いたりしながら、ついでにおじいやおばあの
やることを見るとはなしに見てますわな。そうして、自分が直接やらんでも、見てい
るうちに仕事に慣れていきますわ。
そして、こんどは接ぎ穂を縛る蓁を打っておいてくれよといわれたら、家でやりま
すわな。そのときでも、打ちすぎてもあかんし、打ってなかったら藁はボリッと折れ
ますやろ。打ち方にもはじめは緩く、だんだんきつくとか、リズムがありますわな。
ただ打ったんではあかんのやから。それで口に水を含んで藁をまわしながら霧を吹き
かけますわな。それらはすべて機械とちごうて、手加減でやっていく仕事です。こう
いう作業を手伝いながら、こつを覚えていくんです。
嫁に来て、すぐに一緒に働きに出るわけではないんですわ。徐々に徐々に、もうほ
んまにちょっと手伝うとか、弁当を運んでいるときにするとか、切った木を持つて帰
つて夜の間に選り分けるとか、何かに少しずつかかわるんですな。それを自然に身体
で覚えていくんです。頭で覚えたことはみな忘れますからね。
初めは外から見るだけですわな。それで、どういうことから始めるのかということ
がわかりますやろ。今のように、あれはああです、これはこうです、こうしなさいで
はあきませんわ。手とり足とり教えてもほんまには覚えませんわ。そういうふうに見
たあとで、こんどは実際にやりながら覚えていくんです。おじいとおばあがやってい
たことを、親父とおふくろがやっていくようになるんです。接ぎ木は、やっぱり夫婦
でするのが楽ですわな。何もいわんでも、「こうせい」というたら、「へい」というよ
りしゃあない。
今はわしが十二センチぐらいの間隔で順番に接いでいくと、かかが後ろから、クリ
クリクリッと巻いてはビューッと藁を伸ばして、切らずにつぎの木をくくつていくん
です。ですから藁はつながっていくんですわ。そうやってつぎつぎとくくって結ばん
でもええのやけど、最後だけはギュッと締めますわな。
この作業をするのは、雨の心配のないときですわ。雨が降ってきたら、すぐに傘を
さしたりしますわな。水が入ってしまうと、形成層がひつつくまでにパッと口があき
よるから。水が入らないように傘がいるんですわ。それからあまりきつく締めてしま
うと、これまたひっつきませんのやわ。両方が脹れようとする力によってひっつきよ
るのやからね。学問的には形成層さえあればひっつきよるというけど、実際には接ぎ
穂と台木の締めぐあいですわ。
だいたい一日仕事でやりますのや。それで、乾きそうになったら、そこに土をすぐ
にかけていくんです。本数はそのときによって、みな違いますけど、千本まではいき
ませんな。
今はビニールでやるものやからみんなだめになるんですわ。ビニールでくくったら、
ひっつくのはよろしいわ。けどそれが腐りませんのや。それで木が脹れたときに木に
食い込んでしもうて、しまいにはポキッと折れよる。
藁だとちょうどついたときに、その藁が腐っとる。だから藁とか荒縄というのは、
うまいことできているんですわ。それなのに街路樹の支柱を見たってややこしいもん
でくくってありますやろ。そやから肥ったときにみんな傷んでますわな。昔の材料は
みな、木が必要でなくなるときには、そのものが腐るようになっておったんです。

桜切るバ力、梅切らぬアホ
大きな桜を新しく植えるときには、まず土を見ますわな。土を見んことには植えら
れへんから。育ってきたところと、違うかどうか、その土が合うか合わんかを見極め
て、悪かったら土を入れ替えてもらう。そして、植えて、立てますわね。立てて土を
かけたときに、なんやおかしいなと思うときがあるんです。どうかなあと思うときも
あるし、もう大丈夫というときもある。大丈夫やというときにはじめて、地の神と天
の神とに感謝して、酒をかけて、幹の高いところにスルメを結わいつけておくんです
わ。スルメは神事や祝い事で必ず使いますやろ。昔からそういうもんですわな。祭り
はみなスルメですわ。そのとき「ごくろうさん」と一升瓶の酒をかけてやりますな。
それで、わしらは.自然界のもろもろの神に感謝して、最後に「たのんます」というて
帰りますのや。
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佐野藤右衛門には一度講演会で話を聞いたことがある。
この本には彼の写真が載っているが、「植木屋」と言ってはばからない。「野人」そのままのような人である。
十六代佐野藤右衛門を襲名しているが昭和三年(1928年)生まれ。京都農林学校卒。祖父の代からの「桜守」を継ぐ。
京都市右京区山越というところで、土地は昔から仁和寺の寺領だったところで、数代まえから仁和寺出入りの百姓で次第に植木の世話をする植木屋となり、庭師となって行ったという。
屋敷には庭木を囲っておく広い養生用の畑があり、そこにたくさんの桜などの苗木を囲ってある。
彼の朝一番の日課は、起きたら畑に出て庭木の機嫌を伺い、弱っている木には小便をかけておくのだという。
一種のショック療法というか、栄養補給だと彼は言う。
豪放磊落に見えて「下戸」であり、甘いものに目がないという。
この本にも書かれているが、イサム・ノグチと一緒に海外で日本庭園を作ったりした。
本願寺の庭園を引き受けたりしているが、これらも仁和寺とのゆかりからの延長だという。
商売がら庭木を囲っておく広い畑が必要だが、都市化の波で自分が死んだら相続税でガッポリ取られ、商売が続けられるかどうか心もとないと書かれている。
京都御苑内に海外の賓客などを迎える迎賓館が建てられ、その庭園も彼が引き受けたが、宮内庁の役人の素人のくせに干渉がひどいと、
「さぁ、休みや休みや」と職人を引き揚げさせたなどのエピソードも彼の口から聴いたことがある。

佐野藤右衛門の本は、読みかけると面白くて、止められない。 ぜひ読んでみてほしい。

安藤

安藤潔は1937年会津若松市生まれ。新潟大学教育学部卒。公立中学、高校の教諭を二十八年。日本随筆家協会会員。
エッセイ、地元の方言にまつわる本など数冊。
この本には
一、「サクラ」とは何か・・・・・・・「サクラ」の語源、漢字「櫻」、「サクラ」の植物学、「サクラ」の品種一覧
二、古代の「桜」・・・・・・・・・・古代の桜と梅と桃と。「左近の桜」
三、「桜」に魅せられて・・・・・・・西行法師と桜、醍醐の花見
四、「桜」の民俗・・・・・・・・鎮花祭。天然記念物になった桜。
五、お江戸の「桜」
六、「さくら」とことば
七、「桜」を象る
八、「サクラ」の名を借りて・・・・・・・・サクランボ。
九、暮らしの中の「さくら」
全国桜名所

漢字「櫻」はいわゆるサクラではなく「ユスラウメ」のことだという。白川静『字統』には「含桃也」として中国の詩文に見える「櫻花」「櫻樹」は全てユスラウメを指す、という。
このように資料を漁って、よく書かれているが総花的な印象を拭えない。
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佐野藤右衛門の本によると、サクラの先祖はヒマラヤサクラ辺りに辿りつくらしい。
それが中国には根付かず、種が鳥に食べられて日本に運ばれて「糞」と一緒に排出され、日本の地に根付いたものかという。

「桜」の木についても、今はソメイヨシノ一色であるのに批判的である。
ソメイヨシノは東京近郊の染井村で生まれた、オオシマザクラとエドヒガンザクラとの自然交配による雑種であり、しかも種の成らない「一代雑種」である。
だから苗は「接ぎ木」で育てられるのみである。今風に言えば「クローン」である。
あらゆる生き物には「寿命」があるから、クローンは「親」の残した寿命の「残り」しか生きられない。
ソメイヨシノは育種されてから、まだ150年しか経っていないが、寿命は短く、弱ってきている。
ただ、この桜は「活着率」が良いので重宝されてソメイヨシノ一色になってしまった、と嘆いている。
古いソメイヨシノの木で残っているのは、日露戦争の戦勝記念というのが一番多い。明治39年(1906年)頃である。
関西で多いのは昭和11年。というのは昭和9年に室戸台風と大水害があって、その復旧の後に植えた。
それから昭和15年(1940年)は紀元二千六百年記念に植えたのが、いま残っている古いソメイヨシノという。
それにサクラは日本軍隊とともに歩んできたので殆どの聯隊のあとにはサクラがある、という。
それでも名を残してゆくのは、やはりヒガンザクラかヤマザクラだという。
ヒガンザクラは枝垂れるから、どちらかというと女性的。ヤマザクラは幹もしっかりしているから男性的。

もっともっと佐野藤右衛門の本などに深入りしたいが、この辺で終わりにしたい。


チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・木村草弥
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mukannouma (2)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      チューリップはらりと散りし一片に
          ゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌はの私第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA 2015/04/25刊)に載るものである。
原文は角川書店「短歌」誌平成24年6月号に発表したものが初出となっている。
雑誌に発表したものは12首だが、歌集に載せる際に2首を習作帖から抜いて付け加えている。
その部分を、ここに引いておく。 ↓

        ゴッホの耳    
         
  白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに咲(わら)ふ

  一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

  三椏(みつまた)の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

  沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

  誰に逢はむ思ひにあらず近寄ればミモザの花の黄が初々し

  生憎の雨といふまじ山吹の花の散り敷く狭庭また佳し

  白もくれん手燭のごとく延べし枝(え)の空に鼓動のあるがに揺るる

  松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ──さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

  ひと冬の眠りから覚めたか剪定した葡萄の樹液したたり止まぬ

  天上天下唯我独尊お釈迦様に甘茶をかける花祭 ひとすぢに生きたい
    
  チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ

  <チューリップの花には侏儒が棲む> といふ人あり花にうかぶ宙(そら)あり

  ブルーベリージャムを塗りゆく朝の卓ワン・バイ・ワンとエンヤの楽響(な)る

  千年(ミレニアム)きざみに数ふる西洋か 日本は百年に戦さ五度(いつつたび)





山田兼士詩集『羽の音が告げたこと』・・・木村草弥
山田_NEW

──山田兼士の詩と詩論──(17)

     山田兼士詩集『羽の音が告げたこと』・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・砂子屋書房2019/04/03刊・・・・・・・・

この本は山田先生の第五詩集ということになる。
「あとがき」で、こう書かれている。

< 前詩集『月光の背中』以降、三年ほどの間に書いた作品をまとめて第五詩集としました。
「夢幻境」は二十歳の頃の作品を大幅に改稿したもので、いわば二十歳の自分とのコラボレーションです。
「Ⅰ」の作品も含めて、今回はかなり懐旧的な作品が多くなりました。
「Ⅱ」には文学作品との対話(詩論詩)を、「Ⅲ」には音楽や美術との対話(芸術論詩)を集めました。
その文脈でいうなら、「Ⅰ」と「Ⅳ」は自身(や家族)との対話詩と呼べるかもしれません。
詩はモノローグではなくディアローグなのだ、との思いが近年ますます強くなっています。  >

先ず、この本の題名になっている巻頭の詩を引いておく。

      羽の音が告げたこと

   母の死から五年後
   父も死んで
   消えていく家族の儚さゆえ
   軽い虚脱感を覚え始めた二十代の終わり頃

   そんか時 そこに
   生まれてきた きみは
   透明な羽を背にのせていた
   ぼくを父にするために

   病院へと続く並木は
   木枯らしに枝を揺らし
   新生を祝うかのように
   枯れ葉を静かに降り注いでいた

   初対面の二九八〇グラムのきみは
   この世界への長旅に疲れたかのように
   静かな笑みを浮かべて眠っていた

   出産を終えたひとは
   きみが生まれたとき
   かすかにはばたく羽音に
   思わず耳をすませたといった

  だれの目にも見えないが
  だれの耳にも聞こえないが
  透明な羽は祝福のあかしだ
  そのはばたきは鐘の音だ

   きみの羽の音が告げたこと それは
   生まれたのはきみだけじゃないこと
   ぼくたち自身てもあること
   それが新生ということだった

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「あとがき」で書かれている「自身や家族との対話詩」の典型だろうか。 
「Ⅰ」には、そういう懐旧的な詩が連なっている。
それらの作品は「四行のフレーズ」が連なる整然とした作り方になっている。
「家は正方形」 「すみよっさん」 「似非大阪人的告白」など、みな、このスタイルである。

「Ⅱ」は「詩論詩」だと言われているが、「頭韻」 「脚韻」などの試みが、いくつかある。

    くのこころに 涙降

    ↓  ・・・・・・      ↑

    すばん犬がとおせん

つまり冒頭の「ぼくのこころに涙降る」が、「頭韻」「脚韻」になっているということである。
こういう「言葉遊び」は、私が「未来」短歌会に居るときには、編集部の企画で何度かやったものである。
ただし、日本語の特性として、こういう「頭韻」「脚韻」は余り有効ではなく、日本では「音数律」が今もなお有効なリズムとして生き永らえているのである。

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       「ラ・ボエーム」変奏曲

    一九世紀パリのボエミアンは清くまずしい野心家で
    友達に恋人を紹介する場で
    ──ぼくは詩人です
       そして彼女は詩なのです──

    二〇世紀モリオカのボエミアンは悲しいアナキスト
    家族に恋人の紹介をすると
    ──ぼくは歌人です
       そして彼女は歌なんです──

    二一世紀トーキョーのボエミアンは寂しい道化もの
    仲間に恋人を紹介するのも
    ──ぼくは漫画家です
       そして彼女は漫画です──

    文学者も美術家も音楽家もこういう場合
    彼女は詩です と、 紹介するのが真の愛

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作者は、こういう形の整った形式の詩が好きらしい。
作品を書き写すのも、結構疲れるもので、引用は、このくらいで終わりたい。

「帯」文に書かれていることだが、「詩は、すべてはディアローグのために」ということは大事なことで、このことは強調しておきたい。
ディアローグ──英語で言えば「ダイアローグ」であるが、対する「モノローグ」は弱い。

この言葉を終わりとして、ささやかな鑑賞を終わりたい。
不十分な、散漫な物言いに終始したことをお詫びしたい。
ご恵贈有難うございました。 益々のご健筆をお祈りして筆を置く。       (完)



作・東義久 画・こばやしなおこ『東北、風の六人衆』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     作・東義久 画・こばやしなおこ『東北、風の六人衆』・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・澪標2019/03/11刊・・・・・・・

この本は「東日本大震災」を忘れないために企画されたものである。
掲出した画像でも読み取れると思うが「チャリティコンサート響きプロジェクト代表」の本田馨氏が企画されたものである。
それに賛同して、文・東義久 画・こばやしなおこ の二氏が執筆された、綺麗な「童話」「童画」集である。

「序章」は「ぼくは風のミュージシャン」と題されている。

     ①
    黒髪を 風にさらして 踊るきみ
    きみが踊れば ぼくが歌おう
    野の花に 負けない ほどの 美しさ
    きみは きれいだ もっときれいにおなり

    哀しみに 打ちのめされて 沈んでしまうきみ
    きみが泣いたら 風さえ消えるさ
    愛してもなぜか 哀しく切なくて
    愛を忘れた
    もっと 愛してごらん

    ※風 風のような 出会いを 信じていたい
     空飛ぶ鳥は ぼくの友だち
     自由に 憧れ 風を連れ 旅をする
     ぼくは ぼくは ぼくは 風のミュージシャン

     ②
     いつの日か 別れ そしてまた 出会うだろう
     繰り返しつつ 人生の旅 どこへ行く
     どこへでも行く
     唇に 歌を忘れずに
     もっと 遠いところへ

     ※風 風のような 出会いを 信じていたい
     空飛ぶ鳥は ぼくの友だち
     自由に 憧れ 風を連れ 旅をする
     ぼくは ぼくは ぼくは 風のミュージシャン


「風の六人衆」とは、「陸前次郎」 「陸奥太郎」 「陸中花子」 「羽前長介」 「雨後の弥七」 「磐城五郎」 のことである。

     ぼくらは風だよ。
     自由をいちばんの友にして飛び回る。 そうさぼくらは東北風の六人衆。
     ぼくらはいつも大きな笑い声を風のなかに聴いていた。
     山のてっぺんからぼくらは台地に向かう。小さなちいさな人間たちがぼくらを見上げている。
     帽子が風に撥ねた。
         ・・・・・・
     海の底ふかく、風たちは何を求めようというのか。
     ぼくらは風。

ここで、宮沢賢治の小説『風の又三郎』のことが、話の中に取り込まれてくる。

     どっどど どどうど
     どどうど どどう
     どっどど どどうど
     どどうど どどう
         ・・・・・
     「風の又三郎が来ている。ぼくらといっしょに飛んでいる。
     ぼくらのところへ来てくれたんだ !」

     どっどど どどうど
     どどうど どどう
     どっどど どどうど
     どどうど どどう

     みんなは風の又三郎の風の歌声を口々に唱えた。
     祈りにも似た合唱が起こった。
     力が体の底から湧き上がってくるような、
     独りではないぞという優しい感じ。
     ぼくらはあの日を忘れない。二〇一一年三月十一日午後二時四十六分。


     (終章)
     祈り~明日のために~


     ①
     小さな花 風にそよぐ あの花のように生きたい
     自然のままに 咲いている あの花のように生きたい
     生きるために 生まれてきて 生きる意味さえ判らずに
     死ぬ日のことを思う なにゆえひとは 祈る
     明日のために
     ②
     行く度か 別離を知り あなたの痛みを思う
     今は恨みなど 微塵もなく ただ遭いたいともう一度
     生きるために 生まれてきて 生きる意味さえ判らずに
     死ぬ日のことを思う なにゆえひとは 祈る
     明日のために
     ③
     夢を追う こころも萎え 日々に流され 生きていく
     それでも 命の 焔消せず 掌合わせ祈るだけ
     生きるために 生まれてきて 生きる意味さえ判らずに
     死ぬ日のことを思う なにゆえひとは 祈る
     明日のために

-------------------------------------------------------------------------
何度かフレーズをルフランするところなど、お見事である。 私は「詩の技法」を知り尽くした方だと感動した。

途中をパスしたことをお許しいただきたい。
      
東義久氏の「文」もさることながら、こばやしなおこ氏の「画」が、童話にマッチして何とも秀逸である。
最後に裏表紙の画を、お見せして終わりたい。
ご恵贈有難うございました。 深い感動のうちに読了したことをお伝えしたい。     (完)        

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海女とても陸こそよけれ桃の花・・・高浜虚子
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       海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

この句には <4月8日。志摩外海に海女の作業を見る> の前書きがある。
だから本日4月8日の日付にこだわってアップした。昭和23年の作品である。

海女の素もぐりの作業というのは過酷なもので、体は冷えるし、海女小屋で焚き火をして暖めるなどの休息が必要である。
虚子は、そういう労働を目の前に見て、「海女にもやはり陸がいいのだろうな」という感慨を抱いたのであろう。
この句は昭和23年の作品というと、その頃は、まだ海女の衣装は伝統的な白い木綿の磯着だったろう。
今では画像②のように海女もウエットスーツ着用である。
後日この旅の先導役を務めた橋本鶏二の話によると、「ホトトギス」では多作で鳴る鶏二が舌をまくほど、虚子は句帖を開きづめであり、
さすがの鶏二も、その気迫に圧倒される思いだったという。この年、虚子は75歳であった。

「ホトトギス」というと、短歌における「アララギ」と同様に、俳句界を一世を風靡して、いわば肩で風を切るような威張り方であったようである。
短歌界では先年、「アララギ」が解散して、昔の威勢もどこへやら、という昨今であるが、俳句界でも新興の前衛俳句などが出現して、今や様変わりの様相であるように見える。
一方で、老年者の増加で「俳句でも」という「でも俳人」が増え、それらの人々は概して「ホトトギス」的な写生句を作りがちであるから、「ホトトギス」も暫くは安泰であろうか。
私は、どちらかというと、「ホトトギス」的な写生句は好きではない。
私は現代詩から短詩形に接近したので、「詩」のない作品は評価しない。それは写生、非写生の如何を問わず、である。
以下、虚子の作品を少し引いて終わりにしたい。

 その中にちいさき神や壺すみれ

 永き日を君あくびでもしてゐるか──古白1周忌──

 子規逝くや十七日の月明に

 三つ食へば葉三片や桜餅

 村の名も法隆寺なり麦を蒔く

 秋空を二つに断てり椎大樹

 大寺を包みてわめく木の芽かな

 葡萄の種吐き出して事を決しけり

 木曽川の今こそ光れ渡り鳥

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る

 手をこぼれて土に達するまでの種

 目さむれば貴船の芒生けてありぬ

 たとふれば独楽のはじける如くなり

 水打てば夏蝶そこに生れけり

 虹消えて忽ち君の無き如し──三国の愛子に──

 蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな

 独り句の推敲をして遅き日を


妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・中村草田男
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 ↑ 句集「長子」と「萬緑」
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↑ 愛知県碧南市にある佐藤忠良の作品

      妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は第二句集『火の鳥』(昭和14年刊)に載るもので、まだ作者が若い頃の作品だが、一種の「鬼気迫る」雰囲気の句であり、
私は、この句に出会ってから忘れ得ない作品である。
出張か何かで、しばらく家を空けていたのであろうか、初句に「妻抱かな」という強烈な欲情の表出があって、中7が「春昼」である。
春の昼日中に妻を抱きたい、という直情的な表現には驚かされる。
「砂利踏みて」という表現が、また秀逸である。砂利というのは、ご存じの通り、ざくざくという音を発する。
妻抱かな、という欲情が、砂利のざくざくという音によって一種の「後ろめたさ」みたいなものを感じさせて文字通り「鬼気迫る」感じを読者に与えるのである。

この句には、後日談がある。
この句に触発された加藤楸邨が、私なら、こう作ると改作したのが、<妻抱かな春昼の闇飛びて帰る>という句である。
この句は、さすがに楸邨も気がとがめたのか、自選句などの中には入っていない。
私は、この改作を「寒雷」の誌上で20歳になるかならない頃に読んで記憶しているのである。
その頃、私は楸邨が好きだったので、楸邨の改作句の方が、より鬼気迫るものがある、と思い込んでいたが、今では草田男の原句の方も悪くない、と思うようになった。
楸邨は、欲情を抱いて「妻抱かな」と帰ってゆくのだから、その「春昼」を「闇」として把握して改作した訳であり、それはそれで見事な「鬼気」の表現だと思う。

ここらで中村草田男の句を抜き出してみたい。

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかに女知らず

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 父母未生以前とは祖国寒満月

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」

 生れて十日生命が赤し風がまぶし

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 菜の花個日和母居しことが母の恩

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別──

 勿忘草日本の恋は黙つて死ぬ

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

「万緑」という季語は草田男が中国の古詩からヒントを得て創作したものとして有名だが、虚子は、それを死ぬまで認めなかった、と言われているのも、両者の確執として有名な話である。
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 ↑ 有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」句碑

彼については何度も書いたが、簡単な略歴を引いておく。

中村草田男年譜

明治34(1901)年7月24日
 父の任地清国(現中国)福建省厦門の日本領事館で生まれる。 本籍は松山市二番町。本名は清一郎。
明治37(1904)年 母と帰国し、伊予郡松前町に住む。
明治39(1906)年 松山市に転居。
大正3(1914)年 松山中学校(現松山東高等学校)に入学し、伊丹万作らの同人誌に加わる。
大正10(1921)年 松山中学校卒業。松山高等学校(現愛媛大学)入試に失敗。
 西欧文学を読みふける。
大正14(1925)年 東京帝国大学文学部独逸文学科(現東京大学)に入学し、後に国文科に移る。
昭和4(1929)年 高浜虚子を訪ね師事し、『ホトトギス』と『東大俳句』に入会。
昭和8(1933)年 東京帝国大学国文科を卒業し、成蹊学園に就職。
昭和10(1936)年 第一句集『長子』、沙羅書店。
昭和14(1939)年 句集『火の鳥』、龍星閤、553句収録。石田波郷・篠原梵・加藤楸邨らと座談会に参加し、一時人間探求派とよばれるようになる。
昭和21(1946)年 句集『萬緑』1941年、甲鳥書林。
昭和21(1946)年 月刊俳誌『萬緑』創刊。
昭和22(1947)年 『来し方行方』、自文堂。
昭和28(1953)年 句集『銀河依然』、みすず書房。8月、亡母の納骨のため帰郷。
昭和31(1959)年 『母郷行』、みすず書房。
昭和34(1959)年 石田波郷・星野立子とともに「朝日俳壇」選者となる。
昭和35(1960)年 現代俳句協会幹事長となる。
昭和36(1961)年 現代俳句協会幹事長をやめ、俳人協会を創立、会長となる。
昭和42(1967)年 『美田』、みすず書房。
昭和45(1970)年 万国博覧会のタイムカプセル収納品に句集『長子』が選ばれる。
昭和55(1980)年 『時機』1980年、みすず書房。
昭和58(1983)年 8月5日 82歳で永眠。
about_img02_2中村草田男

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掲出した佐藤忠良の像は、この句とは関係がないが、「抱く」ということからの連想で出しておく。




白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ・・・若山牧水
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      白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青
         海のあをにも染まずただよふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


明治41年、早稲田大学英文科卒業の年に自費出版した第一歌集『海の声』に入っている有名な歌である。
「白鳥」はここではカモメのこと。空や海の青に鳥の白を対比させて、広大な自然の中に生きる海鳥の、また作者自身の孤愁を詠っている。
「空の青海のあを」という繰り返しが、表現の流れの中で、見事に生かされて感情を流露させている。
この歌は明治40年雑誌『新声』12月号に発表されたもので、牧水21歳の作。
しかし、残念ながら、詠まれた場所は、どこか判らない。
593b7a36a3ebd64f022b2bb327c64da1長岡半太郎・牧水記念館
 ↑ 長岡半太郎・若山牧水記念館

大正4年3月から翌年12月まで貴志子夫人の病気療養を兼ねて若山牧水も居住したことを記念し、房総半島を望む神奈川県横須賀市長沢の海岸に昭和28年に、
「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」が建てられた。
ここはわが国の物理学の草分け・長岡半太郎博士が長年学問研究や憩いの場としていた別邸を復元した建物で博士の遺品・資料と共に、
近くに住み博士とも親交のあった詩人 若山牧水氏の関連資料などを展示している。

65cddca9c2a8cd0fff0462f24848cf6e牧水・貴志子歌碑
 ↑ 牧水・貴志子歌碑
記念館の近くにある歌碑は、表は牧水、裏は貴志子夫人の歌が長男旅人氏の筆で刻まれている。

   表<海越えて 鋸山は かすめども 此処の長浜 浪立ちやまず>
   裏<うちけぶり 鋸山も 浮び来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する>
       (「鋸山」=対岸にある房総の山の名)

この歌碑のすぐ傍に、こちらは有志者の寄付により建立された
   <しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ>の歌碑が立っている。
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若山牧水は短歌結社「創作」を主宰するが、「旅の人、酒好きの人」として有名である。
各地を旅行し、酒のもてなしに預かると、酒の勢いもあって、書画を多く残している。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

という歌は人口に膾炙した有名な歌である。
以下、少し牧水の歌を抜粋して終わることにする。

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま

 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな

 とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶(へい)あふれ出る

 朝地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山白きやまさくらばな

 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

 この手紙赤き切手をはるさへにこころときめく哀しきゆふべ

 たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 摘草のにほひ残れるゆびさきをあらひて居れば野に月の出づ

 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺(あたり)は洞(ほらあな)のやうに暗い

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

 ウヰスキイに煮湯そぞげば匂ひ立つ白けて寒き朝の灯かげに

 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

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ところどころに、医師から酒を慎むように言われる歌や、酒飲みのいじましい心境の歌なども出てくる。結局は酒で命を縮めたのであろうか。昭和3年没。44歳であった。
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ネット上に載る記事を転載しておく。

若山牧水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若山 牧水(わかやま ぼくすい、 明治18年(1885年)8月24日~ 昭和3年(1928年)9月17日)は、日本の歌人。本名・繁(しげる)。

略歴
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。

明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させる。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。

旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死因の大きな要因となったのは肝硬変である。自然を愛し特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

また、情熱的な恋をしたことでも知られており喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、平成8年(1996年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した功績を挙げた者に対し「若山牧水賞」を授与している。

牧水は埼玉県秩父地方を数度訪れて歌と紀行文を残している。秩父市の羊山公園には「牧水の滝」と名づけられた滝があり、そこには

「秩父町出はづれ来れば機をりのうたごゑつゞく古りし家竝に」

という秩父の春を歌った碑がある。

歌集
海の声
独り歌へる
別離
路上
死か芸術か
みなかみ
山桜の歌
など



光本恵子『口語自由律短歌の人々』・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     光本恵子『口語自由律短歌の人々』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・鶫書房2019/03.29刊・・・・・・・

先ず、版元の「鶫書房」というのは、「ながらみ書房」の編集者だった爲永憲司氏が昨年、独立して設立されたところである。
この本は、光本恵子氏が「長野日報」紙に二十年にわたって書き続けて来られたものを一冊にまとめられたものである。
その息の長い営為に敬意を表したい。
「口語自由律」の歴史は長い。
この本の「裏・帯」に「本書の主な登場人物」として、ずらっと名前が出ている。
煩を厭わず、書き抜いてみる。

青山霞村/浅野英治/足立公平/井伊文子/石川啄木/石原純/石本隆一/伊東音次郎/伊藤文市/稲村謙一/太田静子/太田治子/大槻三好/香川進/笠木次郎/川窪艸太/川崎むつを/草飼稔/児山敬一/佐藤日出夫/清水信/抄滋郎/逗子八郎/炭光任/高草木暮風/田中収/近山伸/津軽照子/津島喜一/土岐善麿/中野嘉一/鳴海要吉/西出朝風/西村陽吉/長谷川央/花岡謙二/原三千代/平井乙麿/藤井千鶴子/藤本哲郎/古川眞/前田夕暮/松本昌夫/松本みね子/宮崎信義/森谷定吉/柳原一郎/山田盈一郎/六條篤/渡辺順三

なぜ煩を厭わず書き抜いたかというと、私には未知の人が多く、採り上げるのが困難だからであり、せめて「名前」を挙げて敬意を表したい、と思ったからである。

新聞連載という字数の規制があるので、一篇は短い。だから「触れられる」ことにも限界がある。
私が知る何人かについて、極めて「私的」な、かつ、「恣意的」な記述に終始するが、ご理解を得たい。

香川進のこと。
私は短歌を始めて、地元で「梅渓短歌会」というのを作って知人、友人たちに声をかけて二十数名で月一回「歌会」をやり始めた。
その際に、私は国文学徒でもないので、誰か指導者に来てもらいたいというので「地中海」の幹部だった船田敦弘氏を招いたのである。
彼は高校の国語の教師だった。
その縁から「地中海」短歌会に数年所属したことがある。
その時に船田氏宅で『香川進全歌集』に接した。
私は若い頃から「自由詩」に接していたので、香川の「自由律」の処女歌集『太陽のある風景』に注目した。
そこから勧められるままに「香川進の自由律短歌についての私的考察」 (「地中海」誌1994年~1995年)という毎号連載の文章を書かせてもらった。
いま私の手元には、それらの掲載誌が無いので、詳しく検証することが出来ないのを許してもらいたい。
私の論の趣旨は、この歌集の根底には、徳永直の小説『太陽のない街』が、色濃く反映されているという論で、それらを立証しようとしたものである。
この徳永直の小説は、当時のプロレタリア文学の一つの到達点として、高い評価を得ていたらしい。
題名の付け方が、明らかに徳永の本を意識したものになっている。そこに私は着目したのであるが。
それらは勿論ことば足らずで、「地中海」内でも話題にはならなかった。
話は替わるが、香川進というと、前衛短歌華やかなりし運動にブレーキをかけるべく、保守派からの働きかけの先鋒として活動し、角川「短歌」編集部に山本友一を編集長として送り込むなどの策動をしたと言われている。
一年近く、この記事を載せてもらったが、香川進は何の発言も、反論もなかった。読んでいなかったのではないか。
ただ、今でも「香川進・検証」ということが「地中海」内でやられていて、その分厚い本が私あてに送られてくるということは、私の文章が意識されているということだろうか。

前置きが長くなった。
光本氏の本では「口語自由律歌人 香川進」 「歌集『湾』と香川進の逡巡」 という二つの項目の文章がある。
前者は『太陽のある風景』を、後者は『氷原』 『湾』について触れている。
そして、昭和56年の或る会で「宮崎信義の弟子」だと告げると、大きな体と手で私と握手したのであった、と書かれている。

1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
また「宮中歌会始」の選者をするなど、歌壇では栄達した地位を占めていた、と言えるだろう。
だから香川進は「地中海」内では「カリスマ」的な扱いになっていて、自由な発言が出来ないような雰囲気にあることを、敢えて書いておく。

石本隆一も香川の弟子で、独立してからの彼の結社名も「氷原」であるのも、香川の第二歌集『氷原』の名前をもらったものである。
彼についても「石本隆一のこと」という文章が4ページにわたって書かれている。
角川「短歌」編集長を務めているが、これも香川進の推挙によるものだろう。

高草木暮風断片(一) (二)
もちろん私は彼の歌については何も知らないが、大学に居た頃、人形劇マリオネットをやっていた友人に誘われて、その練習に立ち会ったことがあるが、その会場が高草木暮風の家だった記憶がある。
昭和二十年代のことである。すでに結構な老人であった記憶である。確か「右京区」だっと思う。
「高草木」という名前が特異なので記憶に残っているのである。
彼の歌に関することではなく恐縮するが、いま思い出したことなので書いておく。
この本によると、昭和34年に67歳のときに脳出血で倒れ、左半身不随になり、昭和40年73歳で亡くなった、書かれている。
私が姿を見かけたのは、まだ元気だった晩年ということになろうか。

浅野英治の歌。
彼についても4ページの文章がある。4ページというのが、新聞連載の一回のスペースだったらしい。
彼も独特のキャラクターだった。
私は会ったことはないが、手紙などで何度も文通した。
彼は東京で、喫茶店かスナックをやっていて、そこが文人、歌人の溜まり場になっていたらしい。
光本氏の本によると吉祥寺の「スナック・パピヨン」だという。
彼が自由律の結社として会誌「倚子イシ」を出していたが、この独特の名前を付けたのが玉城徹だと聞いた。
私は、これを「椅子」と書いて、こっぴどく叱られたことがある。
彼は、そういう点で歌人には顔が広く、新年の角川名刺交換会ではあちこち挨拶に回っていたらしい。
宮崎信義は短歌研究社とは懇意であったが、角川編集部には余り縁がなく、浅野英治を頼って、この会にも出たらしい。
その頃の宮崎信義の口ぶりでは「浅野さんは東京では有名人でっせ」ということだった。
とにかく病身の人で、地元の四日市辺りの出版社から次々と歌集を出すのが印象に残っている。
我の強い人で、少しでも彼の言い分に反論すると、とたんに交友を絶ってくるという人だった。

余り長すぎると迷惑なので、そろそろ終わりに入りたい。

「作歌工房─日本の詩歌の韻律に関して」 (「新短歌」誌1996年~1997年)という枠を貰って、この表題で見開き2ページの記事を毎号連載で一年余り書かせてもらった。
いま手元に原本が無いので、間違いがあればお許しを得たい。
この記事を書いているときには、「新短歌」のナンバーツーを自称する川口克己から陰に陽に「嫌がらせ」を受けた。
彼も亡くなった今だから、遠慮なく書くことが出来る。
私が宮崎信義のもとを離れる決心をしたのも、それが原因である。
このような「嫌がらせ」は他にもあったようで、奈良の「潮」の藤本哲郎が「新短歌」をやめたのも、私と同じだったかと思う。
今でも思い出すが、細かい几帳面な字で、びっしりと書いてきたものである。
そんな時も、宮崎信義は、しれっーとして知らん顔をしていて、そんな一面が宮崎にはあったことを書いておきたい。

極めて「私的」な、かつ、「恣意的」な記述に終始したことをお許しいただきたい。
私も卒寿という齢になったので、遠慮なく書かせてもらったことを告白しておきます。 どうか、お許しを。
書き足りなかったことは、後日、補筆することがあるかも知れないので、予めお含みを。
ご恵贈有難うございました。          (完)





千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり /たゞひとり岩をめぐりて/ この岸に愁を繋ぐ・・・島崎藤村
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       千曲川旅情の歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・島崎藤村

    千曲川柳霞みて

    春浅く水流れたり

    たゞひとり岩をめぐりて

    この岸に愁(うれひ)を繋ぐ

詩集『落梅集』に納められる有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。
千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄枯のあとを回想し、「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と歎じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小諸なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一、二番とした。
これは、そのうちの二番にあたる詩の最終連という訳である。
藤村の歌いぶりは、漢詩的な対句表現を多用したり、和歌的語法を用いたりして、伝統的な詩の美感や技法を巧みに近代的表現の中に移し得ている。
この一連では、5音7音という日本の伝統的な音数律をうまく使ってフレーズを構築し得ている。
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藤村は木曾の馬籠宿の庄屋に生まれる。
馬籠は中仙道の街道筋にあたり木曾十一宿という古い宿駅のひとつで父は明治維新まで馬籠の庄屋、本陣、問屋を兼ねていた。
滅び行く旧家の血統は、故郷の風土とともに、一人の近代日本の巨大な作家を形成するのに重大な役割を果たした。
若くして東京に遊学したが、1899年、小諸義塾の教師となる。そこで秦慶治の三女・冬子と結婚し、結婚を期に詩から散文への転換をめざす。
1912年にまとめられた『千曲川のスケッチ』や第一短編集『緑葉集』などは散文家としての最初の結実である。
『破戒』は、前年に小諸の学校を辞して帰京し、背水の陣をもって執筆にあたったという。その後『春』『家』『新生』『夜明け前』など、小説家として、その当時の文学界をリードした。
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↑ 詩碑「過ぎし世をしづかにおもへ/百年もきのふの如し」

参考のために下記を転載しておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は島崎藤村の詩であり、この詩に作曲した歌曲も有名である。

明治38年に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。

幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。


「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
 島崎藤村

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
 島崎藤村

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る

鳴呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
 (百年もきのふのごとし)

千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
 (この岸に愁を繋ぐ)


村島典子の歌「さかなには魚の歓び」31首・・・木村草弥
晶_NEW

──村島典子の歌──(37)

      「さかなには魚の歓び」31首・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・「晶」105号/2019.3掲載・・・・・・・・

       さかなには魚の歓び     村島典子

   さかなには魚の歓びわたしには人のよろこび川のぞくとき
   三日三晩雨に打たれし草木たち白きムグンファ紅きムグンファ
   ウランバーナ花の響きす朝空に盂蘭盆の大き虹がかかれり
   大気の川とどまりしといふ日本の上空の大河思ひみるべし
   スズムシの鳴き音とぎれつ階上に耳をそばだつ夏も去ぬめり
   六匹の家族いとなむスズムシの強き弱きのあるを見守る
   雌に一刻おくれて雄の死ににたり二匹はつひに同じきに逝く
   唐辛子赤くかはりて秋の日の用なきもののごとくしありぬ
   ででつぽうと野鳩なきたり秋天のかの世この世のわかちもあらず
   立ち話しつつしあれど足もとのカニ草のみどりへ心はゆきぬ
   はや死魚にありとは言へど切り落すまなこ見ひらく秋刀魚のあたま
   どんぐり山のクヌギ、さくらの倒木の伐らるるときにわが行き遇へり
   トラックに積まれしクヌギの太き幹撫でさせてもらふ傍に寄りて
   無知蒙昧に生きて来たりき糯米の一・四キロさげて帰りく
   胃の痛む夕べなりけり子の帰省待ちて相談したきことあり
              *
        ささなみの志賀のみやこは荒れにしを昔ながらの山桜花   平忠度
   長等山もみづるころと訪ひきたり忠度ながめし桜の山の
   近松寺のまへなる古き菩提樹の莢果描きにし三橋節子
   栂の木のおほき一樹が立ちゐたり三橋節子美術館前
   イノシシの踏み荒したる雨あとの石段のぼる忠度の碑へ
   泥濘の山みち途絶え倒木の塞ありここより禁忌なるべし
   このたびも忠度の碑に近づけず四十年余湖岸に住みて
   石段をのぼりて下りて道ながら行き迷ひたり昔のごとし
              *
   よろこびが右手を掴みかなしみが左肩押す空を見上げよ
   読みつぎて九月は過ぎぬ須賀敦子、打田洋子とイタリアの村
   当然のこととし思へど信号を待つ間にわれの時間失せたり
   いしたたき鶺鴒一羽とともにゆく魚隠れゐし冬の川端
   石叩く鳥と知れれどぴよんぴよんと尾を振り走るわれは従ふ 
   冬の雷鳴りやまずなりたまたまにわれ入浴す雷頻る間を
   糸ほどくごとく時間がするすると解かれてゆきぬ一本の川
   ゆるやかな時間なるべし晦日の山へ入るひとヒサギを採りに
----------------------------------------------------------------------------
いつもながらの沈潜した村島さんの詠みぶりである。
「胃の痛む夕べなりけり子の帰省待ちて相談したきことあり」という歌の先は何も詠まれていない。
何とも気になるが、他人の立ち入るべきことではなかろう。
ご恵贈有難うございました。 
ようやく春めいて来たが、どうぞ、ご自愛ください。


ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ・・・西行法師
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    ねがはくは花のもとにて春死なむ
          その如月の望月のころ・・・・・・・・・・・・・・・西行法師


もし願いが叶うならば、爛漫たる桜の花のもとで死にたいものだ、まさにその二月十五日の満月のころに。
 古来、日本の歌や句では「花」というと「桜」の花を指す決まりになっている。
「如月の望月のころ」は旧暦で二月十五日、望月─満月のことであるが、今の太陽暦では三月末にあたる。
西行の熱愛した桜の花盛りの時期だが、その日は、また釈迦入滅の日でもある。仏道に入った者として、最も望ましい死の日だった訳である。
この歌は、自分の歌の中から秀歌72首を自選して三十六番の歌合(うたあわせ)の形に組み、藤原俊成に判を求めた「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)に含まれている。
時に、西行70歳。
3年後の建久元年2月16日、彼は驚くべきことに、願った通りの時に死んだ。73歳だった。

西行が入滅したのは、河内の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町弘川)である。
先に書いたように釈迦涅槃の日に、しかも熱愛していた桜の満開の望月の時、という頃に命を終えたということが、世人の深い感動を誘ったのである。
 写真①②は弘川寺。
因みに、芭蕉をはじめ、西行の足跡を慕って諸国を行脚した歌人や俳人はかなりの数にのぼるが、西行終焉の地・弘川寺を突き止めたのは、
享保17年(1732年)、藤原俊成の『長秋詠草』の記事によって発見した歌僧・似雲であると言われている。
img003弘川寺

いま弘川寺を訪ねると、似雲が再興したと伝える「西行堂」が本堂背後の丘にあり、その脇に川田順の筆になる

<年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山>・・・・・・・・・西行(山家集)

の歌の石碑が立つ。
そして木下闇の広場には佐佐木信綱の書で

<仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば>・・・・・・・・・・西行(山家集)

の大きな歌碑が立っている。
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写真③は、本堂を見下ろす場所にある西行堂。
img004西行堂

以下、Web上に載る記事を転載しておく。
(草弥・註。↓ この記事はその後抹消されたらしい)

弘川寺・西行終焉の地を訪ねる(大阪府南河内郡)

 春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり   西行

西行に興味を持ったのは、
十数年前、藤田美術館で西行伝筆の一幅に出会ってから…。

 にわかにも 風の涼しくなりぬるか 秋たつ日とは むべもいいける

 よみ人知らず・西行・伝・筆とされる。ようするに詠んだ人は不詳だが西行が書いた「書」であると伝えられる高野切れの一幅。記憶のままなので正確であるかどうかの保証はない。この時代にはときの階位が低いと「よみ人知らず」とされるようだが、仮に西行が詠んだ歌ではないにしても何らかの意図を持って西行が書いたことはほぼ間違いがないし、何より覚え易い。
三度ほど暗誦して諳んじることができる。
西行の歌ほどすんなり心の内部に入ってくる歌はない。あまり歌に詳しくはないが、その頃の貴族の生活や社会環境まで併せて考慮しなければならなかったり、ときの職業歌人が技巧を弄したような歌もあまり好きではない。前段階での勉強が必要な歌に、私自身はなかなか共感できる深みにまで達することができない。もしくは私にそこまでの余裕がないか…。
西行の歌に、ある意味、辞世のような迫真性を持つ歌が多いと思うのは私だけか。
とにかく、以来…私はどんな炎暑の夏も、ある時期がくれば毎年のように前述の、よみ人知らず・西行・伝・筆の句を思い出し、その度に西行のことを思い出す。その季節ともなれば、夏の南風とは違う微かな涼風に、たしかに秋の訪れを感じるし、それは900年の時間を飛び越えて感じる同じ風のように思えるからだ。

弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られる。
西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立された。
晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのだろうか。
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私事で恐縮だが、私の姉・登志子は昭和19年2月に結核で死んだが、死期を悟ってからは、しきりに花の下で死にたい、と言った。
その花とは、私たちの村は梅の花の名所であったから、「梅」の花を指しているのだが、彼女の意識の中には、
花の種類こそ違え、西行の、この歌があったのは確かなことであった。
そして姉は、その願いの通り、梅の花咲く季節に死んだ。




Post Coitus 不思議な店のマスターは至つて無口シェイカーを振る・・・永田和宏
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 ↑ 精子の電子顕微鏡画像

        ■Post Coitus 不思議な店のマスターは
                   至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏


この歌に引き続いて

     受精後と読むは科学者 性交ののちと言ふとももとより可なり

     よろこびか哀しみか然(さ)あれ受精とは精子を迎へ容れること


と続いている。 これらの一連は角川書店「短歌」誌2015年一月号に載るものである。
ご存じのように永田は細胞生物学者で、京都大学を経て、目下、京都産業大学教授である。
有名な歌人・亡河野裕子の夫である。 Wikipedia─永田和宏

この歌の出だしのラテン語「Post Coitus」というのも、いかにも学者らしい、ディレッタントなもので、私などは、こういう知的な「言葉遊び」に微笑む。
実際に、こんな名前のバーがあるのかどうか、も私には判りかねるし、フィクションとして捉えるのが、むしろ面白い、と言える。

つづいて、こんな歌が見つかったので引いてみる。

f0071480_17544581亀のピカソ

       ■はなたれてちぢむペニスよこのあした
                <東大教授>もパンツを脱いで・・・・・・・・・・・坂井修一


この歌の作者はコンピュータ学を専攻する東大教授であり、かつ歌人である。
この歌には詞書「朝風呂」と振られており、かつ「11/9」という日付がついている。
この歌は歌集『亀のピカソ─短歌日記2013』に収録されているものだが、初出は、ふらんす堂のホームページに「短歌日記」という一年間の連作のシリーズとして掲載されたものである。
これらは、もちろん「歌」作品であるから、フィクションとして捉えるべきであろう。
朝風呂でなく夜の風呂だったかも知れないが、詩的真実=リアリティ、として呈示されていると理解すべきである。
しかし「東大教授」という地位に居る人物の歌だからこそ、そして坂井修一という知の巨人の背景がわかるからこそ面白いのである。

彼の経歴について、Wikipdiaを引いておく。   ↓

坂井 修一(さかい しゅういち、1958年11月1日)は日本の歌人、情報工学者、東京大学教授。愛媛県出身。
短歌結社「かりん」に所属し馬場あき子に師事。科学者としての視点を生かしながら人間的な振幅を示す表現が特徴。現在、現代歌人協会理事。また、工学の分野でも活躍し、電子技術総合研究所(現:産業技術総合研究所)に勤務していたときに、汎用性があるという意味で世界初といわれている高並列データ駆動計算機「EM-4」の開発に参加する。その後マサチューセッツ工科大学に学び、筑波大学助教授、東京大学工学部助教授、情報理工学系研究科教授。情報処理学会フェロー、電子情報通信学会フェロー、日本学術会議連携会員でもある。
妻は同じく歌人の米川千嘉子。

こんな歌は、どうだろうか。

海図

      ■断食(ラマダン)を正しく守る前相撲
                 大砂嵐はエジプト人なり・・・・・・・・・・・三井修


この歌は歌集『海図』に載るものである。 三井修氏は、私がいろいろお世話になっている人である。
角川「短歌」誌2015年一月号に載る巻頭・特集の文章によると、

<大砂嵐の本名は アブダラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハマッド・シャラーン。
 四股名・大砂嵐は、本名に因んで、砂=シャ、嵐=ラン、から付けたというのは本当か。>

と書かれている。 私も真偽のほどは判らないが、相撲部屋の親方が、上のようなことで付けたとすれば、極めて愉快である。
その彼も今や幕内力士の中堅として活躍していたが、交通違反を犯して検挙され、先年、廃業した。
私も注目していたが、残念なことである。
本名を見ると、イスラム教でも、キリスト教と同様に、ミドルネームに聖人などの名前を連ねるらしい。
三井修氏は東京外国語大学でアラビア語を専攻され、商社で何度も中東の地に駐在員として活躍された人であり、中東研究の第一人者である。  Wikipedia─三井修
歌集『海図』については、このブログで先年に紹介した。

今日は、現在、トップを走る歌人たち三人の「言葉遊び」と私が呼ぶ歌を引いて、書いてみた。 いかがだろうか。


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