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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
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東日本大震災から十二年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
FI249257_2E未央柳
 ↑ 未央柳(びようやなぎ)

六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。


 燕飛ぶ夕まぐれこの幸福は誰かを犠牲にしてゐるならむ・・・・・・・・・・・・・・・・大崎瀬都
 店先のあをき
榠樝の量感をながめをりけふの想ひのごとく・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 虹をくぐるための切符 にぎりしめた掌すこし汗ばんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡亜紀
 をりをりに風の集へる欅の木ざわと出て行く先は知らない・・・・・・・・・・・・・・・・・香川ヒサ
 「鳥の歌」パブロ・カザルス 若き耳には届くなかりしこの弦の音や・・・・・・・・・・三枝浩樹
 曇天をひるがへり飛ぶつばくらの狂ふとも見え喜ぶとも見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 いつかこの古代湖は海につながるらしい水底に秘す一切とともに・・・・・・・・・・・・・林和清
 遠目には桐かあふちかふぢの花いづれかいづれかすむむらさき・・・・・・・・・・・ 沢田英史
 食べるまへも食べても独り わたくしに聞かせるために咳ひとつする ・・・・・・・・永田和宏
 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 むせかえる青葉の樹下を行くならば一気に過ぎよ老いてしまうから・・・・・・・・・・佐伯裕子
 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 しづくして虹消えはてし宇陀の野の伝承ひとつ緑青を噴く・・・・・・・・・・・・・・・・・ 萩岡良博
 この都市の地下にひそめるなまぐさき青大将の日々太りゆけ・・・・・・・・・・・・・・喜多弘樹
 大いなるにごりの中に棲まひするなまずのひげの濃き夕まぐれ・・・・・・・・・・・・・・ 櫟原聰
 たからかに贅(ふすべ)ゆすりて笑ひたる翁のやうだ夏のくすのき・・・・・・・・・・・・小谷陽子
 壁に並べ貼られたるマッチのラベルなど見あげなにとなく夏の日過ぎし・・・・・・・真中朋久
 かき上げるしなやかな指はつか見ゆ風が大樹の緑の髪を・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ペン胼胝の消えたる指がうれしげに操るならねノート型バイオ・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 目裏は蛍の季節 ひんやりとピアスのかけら口にふふめば・・・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 赤富士に鳥語一時にやむことあり・・・・・・・・・・富安風生
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・ 水原秋桜子
 万緑やどの木ともなく揺れはじむ・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 初蚊帳のしみじみ青き逢瀬かな・・・・・・・・・・・・日野草城
 蛞蝓といふ字どこやら動き出す・・・・・・・・・・・後藤比奈夫
 揚羽より速し吉野の女学生・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
 麦の秋ゴホは日本が好きであった・・・・・・・・・・京極杞陽
 航跡に碧湧き出す朝曇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 生卵小鉢に一つづつ涼し・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小川軽舟
 アスパラガス茹でるやさしさにも限界・・・・・・・・ 加藤静夫
 相対死とは故郷の青葉闇・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 身一つの勝負に出たラムネ玉・・・・・・・・・・・・・ 栗山麻衣
 雨だれに遊ぶゐもりや安居寺・・・・・・・・・・・・五十崎古郷
 珊瑚礁の骨たちをざくっざくっと踏みつけて行く・・・・・・・豊里友行
 でで虫はしろがねいろの全音符・・・・・・・・・・・・・・ 金子敦
 けふはよく道を聞かれる若葉風・・・・・・・・・・・・・津野利行
 サニーレタス錆びたり会いたくなったり・・・・・・・ 河西志帆
 朝粥に沈ますれんげ五月雨・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 仏弟子の妙に生々しき素足・・・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 ひとりだが孤独ではない喉仏・・・・・・・・・・・・・・・ 月波与生
 走り梅雨コンビニの傘よく売れる・・・・・・・・・・・・ 工藤定治
 さつきから葉騒のままで猫がゐる・・・・・・・・・・・ 青本柚紀
 相槌を打つ翻訳家ところてん・・・・・・・・・・・・・・・ 丸田洋渡
 溢れゆく梅雨の匂いや犬が死ぬ・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 ゆふぞらの糸をのぼりて蜘蛛の肢・・・・・・・・・・・・上田信治
 夏雨のあかるさが木々に行き渡る・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり・・・・・・ クズウジュンイチ
 あやめ咲く箱階段を突き上げて・・・・・・・・・・・・・・八田木枯
 蝸牛二段梯子の先頭に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森島裕雄
 青梅雨や部屋がまるごと正露丸・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
 背をむけて語る母と子杜若・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 新緑や愛されたくて手を洗う・・・・・・・・・・・・・・・・ 対馬康子
 Tシャツで十七歳で彼が好き・・・・・・・・・・・・・・・降矢とも子
 銅は屋根にコインに夏の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・寺沢一雄
 塩辛に烏賊や鰹や夏始・・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 巌流島どの紫陽花も赤ばかり・・・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 黒南風に売り子の盆の差し出され・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 海賊が祖の王族の薔薇の庭・・・・・・・・・・・・・・・ 杉原祐之
 拭いても磨いても老いていく鏡・・・・・・・・・・・・・・富永鳩山
 葉桜やさやと鳴り今日ざわと鳴り・・・・・・・・・・・・江口明暗
 順風も逆風も鳴り分けている風鈴・・・・・・・・・・平田キヨエ
 筍梅雨空のこころになりがたし・・・・・・・・・・・・・・・・乾志摩
 円空は作仏聖よ風薫る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山田郁子
 ここもまた空き家となりし花十薬・・・・・・・・・・・・・ 桑田佳穂
 紫陽花はロココ調です六分咲き・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子 
 草青むはやさに歩む牧支度・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後 


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★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 (角川書店刊)
 歌集 『嘉木』 (角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』 (短歌新聞社刊)
 歌集 『嬬恋』 (角川書店刊)
 歌集 『昭和』 (角川書店刊) 
 歌集 『無冠の馬』 (KADOKAWA刊)
 歌集 『信天翁』 (澪標刊) 
 詩集 『免疫系』 (角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』 (角川書店刊)
 詩集 『修学院幻視』 (澪標刊)
 詩集 『修学院夜話』 (澪標刊)
 エッセイ集 『四季の〈うた〉─草弥のブログ抄』 (澪標刊)
 エッセイ集 『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<続>』 (澪標刊)
 エッセイ集 『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<三>』 (澪標刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
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ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・桂信子
s-109蛍

    ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。
幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は画像②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・八幡城太郎
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余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。
なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。
茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。
後の一年は、もっぱら根を管理するだけである。





はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる・・・塚本邦雄
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     はつなつのゆふべひたひを光らせて
          保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄


今日六月九日は、塚本邦雄の忌日である。 それに因んで作品を引いた。
塚本邦雄は、言うまでもなく前衛短歌運動の旗手の一人として、もう一人の岡井隆とともに昭和20年代の後半から30年代にかけて疾風のように短歌界を駆け抜けた。
2005年に亡くなるまで、多大の影響を短歌界に及ぼしてきた。今もなお、その影響力が及んでいると言えるだろう。
すでに多くの人が、塚本その人と作品について論及している。
私などが、それらに触れることは、おこがましいことであるので、ここでは作品を挙げて引くことに徹する。

掲出歌は、塚本の歌の中では割合に判りやすい歌である。
塚本の歌は「比喩」と、本歌取りをはじめとする「引用」に満ちているので、読者自身も広い読書の蓄積を要求される。
「保険」というものは「死」を前提にした商品であって、この歌は、そういう保険の持つ性格をうまく比喩的に作品化した。
この歌から広がるイメージこそ、前衛短歌の基本である。
本来「短歌」というのは、「作者」=歌の中の「我」、という構図で古来作られて来た。
前衛短歌は、そういう構図を、先ずぶち壊し、歌の中の「私性」を引き剥がした。
明治以後、前衛短歌までの歌を「近代」短歌と規定するなら、前衛短歌以後の歌が「現代」短歌だと、規定することが出来よう。
「近代短歌」に聳える巨人の一人として斎藤茂吉を挙げることが出来る。
「現代短歌」の巨人としては、この塚本邦雄と岡井隆の二人を挙げなければならないだろう。
塚本の歌を少し引いて責めを果たしたい。
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春きざすとて戦ひと戦ひの谷間に覚むる幼な雲雀か

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯(とし)

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La Fontaine

ロミオ洋服店春服の青年像下半身なし * * * さらば青春

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

ペンシル・スラックスの若者立ちすくむその伐採期寸前の脚

壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

馬を洗はば馬のたましひ沍ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

レオナルド・ダ・ヴィンチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る匂ひ

壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

父となり父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水

ノアのごと祖父ぞありける秋風にくれなゐの粥たてまつるべし

紅鶴(フラミンゴ)ながむるわれや晩年にちかづくならずすでに晩年

文学の塵掃きすててなほわれの部屋の一隅なるゴビ砂漠

死のかたちさまざまなればわれならば桜桃を衣嚢に満たしめて

またや見む大葬の日の雨みぞれ萬年青(おもと)の珠実紅ふかかりき

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
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塚本邦雄というと、天皇制や戦争ということに拘って作歌して来たと言われている。後の二首は昭和天皇崩御に際しての歌である。
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塚本邦雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日~ 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。

寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。別名に菱川紳、鴻池黙示などがあるが、著書目録にある単行本や文庫本には、これらの著者名で出版されたものはない。 長男は作家の塚本靑史。

人物
滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)に生まれる。母方(外村家)の祖父は、近江一円に弟子を持つ俳諧の宗匠だったという。1922年生まれという説もあるが、これは中井英夫が邦雄のデビュー当時、2歳若くすることで20歳代歌人としてやや強引に紹介したことから生まれた俗説である。1938年、神崎商業学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。彦根高商(現・滋賀大学)卒という説もあるが、本人が書いた履歴書にそのような記載は一切ない。卒業後、又一株式会社(現三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・春雄の影響で作歌を始める。1941年、呉海軍工廠に徴用され、1943年に地元の短歌結社「木槿」に入会。終戦の年、投下された原爆の茸雲を仰ぎ見た記憶がいつまでも残ったと言う。

戦後は大阪に転じ、1947年に奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する。1948年5月10日、「青樫」の竹島慶子と結婚。山陽地方に転勤。翌年の4月9日、倉敷で長男・靑史誕生。その後、松江に転勤するが、鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。だが杉原は1950年に他界してしまった。

1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』を刊行。同歌集は中井英夫や三島由紀夫に絶賛される。

翌年大阪へ転勤となり、中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ転居。当地を終の棲家とした。1954年、結核に感染したことが判明し、大東勝之助医師の指示に従い、2年間自宅療養に専念して克服する。回復後も商社勤務を続け、1956年に第二歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』、1958年に第三歌集『日本人靈歌』を上梓。

以下24冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。歌集の全冊数は80冊を越える。だが、邦雄の業績で特筆に値するのは、岡井隆や寺山修司とともに1960年代の前衛短歌運動を成功させたことである。またその中にあって「日本歌人」から離れ、永らく無所属を貫いていたが、1985年に短歌結社『玲瓏』を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、以後(没後も)一貫して同社主宰の座にある。さらに近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

晩年にも旺盛な活動を続けていたが、1998年9月8日に妻・慶子が他界、2000年7月には自らの健康を損ねた。そのため、晩年を慮った息子の靑史が帰省し、同居して最期を看取った。2005年6月9日没。尚、玲瓏の会員らを中心に、以後、忌日は『神變忌(しんぺんき)』と称するようになっている。 以降に靑史の手で資料の整理がなされ、2009年1月末、自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。牧師で倉敷民藝館館長であった叔父・外村吉之介の影響で、聖書を文学として愛読したが、終生無神論者であった。 現在「塚本雄」は商標登録されており、商標権者は著作権継承者と同じく塚本靑史になっている。

作風
反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられたその作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。その衝撃は坂井修一、藤原龍一郎、中川佐和子、松平盟子や加藤治郎、穂村弘、東直子らのいわゆるニューウェーブ短歌にも及んでいる。作品では一貫して正字歴史的仮名遣い(旧字旧仮名)を貫いた。

よく知られた歌には次のものがある。
「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)
「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)
「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)

補遺
塚本邦雄の研究者として、島内景二による文学史的な研究のほか、安永蕗子、岩田正、坂井修一らによる短歌解説などには定評がある。またインターネット上では松岡正剛の解説が比較的よく知られている。

弟子には、研究者でもある島内景二の他、塘健、山城一成、江畑實、阪森郁代、和田大象、林和清、尾崎まゆみ、小黒世茂、大塚ミユキ、松田一美、佐藤仁、魚村晋太郎、小林幹也、森井マスミなどがおり、また北嶋廣敏、笠原芳充、酒井佐忠、橋本治、北村薫、中条省平、茅野裕城子、山口哲人ら多くの信奉者を得た。

邦雄についての資料には、齋藤愼爾篇『塚本雄の宇宙』(2005年・思潮社)や、弟子の楠見朋彦著『塚本雄の青春』(2009年・ウェッジ文庫、2010年ながらみ書房主催の前川佐美雄賞受賞)、塚本靑史が『短歌研究』へ奇数月に連載中の『徒然懐旧譚』などがある。

受賞歴
1959年 『日本人靈歌』で第3回 現代歌人協会賞 受賞
1987年 『詩歌變』で第2回 詩歌文学館賞 受賞
1989年 『不變律』で第23回 迢空賞 受賞
1990年  紫綬褒章 受章
1992年 『黄金律』で第3回 斎藤茂吉短歌文学賞受賞
1993年 『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞
1997年  勲四等旭日小綬章 受章

作品
以下は一部のみ。著書の一覧表や在庫の有無については、玲瓏誌や玲瓏の会HPを参照。
ゆまに書房で『塚本邦雄全集』(全15巻別巻1、1998-2001年)が刊行。

短歌
水葬物語(1951年)
日本人霊歌
装飾樂句
水銀伝説
綠色研究
感幻樂
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星 
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変(1997年)
約翰傳僞書
初學歴然、透明文法 等、間奏歌集や肉筆歌集を入れた歌集の総数は全80余冊。選歌集も多数あり。 『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』

(撰著 「冨山房」で愛蔵版と新書版:冨山房百科文庫、各1983年)

樹映交感
ウルムスのかどで―横浜市立釜利谷南小学校校歌歌詞(木下大輔作曲)

俳句
断弦のための七十句、花鳥星月、青菫帖、燦爛、裂帛、甘露、流露帖

小説
藤原定家―火宅玲瓏
紺青のわかれ
連彈
菊帝非歌―小説後鳥羽院
獅子流離譚―わが心のレオナルド(集英社、1975年)
荊冠伝説―小説イエス・キリスト

評論
定型幻視論
序破急急
花隠論―現代の花伝書
麒麟騎手―寺山修司論
詩歌宇宙論
言葉遊び悦覧記
国語精粋記―大和言葉の再発見と漢語の復権のために
世紀末花伝書
百珠百華―葛原妙子の宇宙
新古今集新論
ほか多数

文庫
定家百首 良夜爛漫  河出文庫 1984年
十二神将変 同上 1997年
けさひらく言葉 文春文庫 1986年
源氏五十四帖題詠 ちくま学芸文庫 2002年
定家百首・雪月花〈抄〉 講談社文芸文庫 2006年
百句燦燦 現代俳諧頌 同上 2008年
王朝百首 同上 2009年7月
西行百首 同上 2011年3月
花月五百年 ゝ 2012年11月
茂吉秀歌 『赤光』百首 講談社学術文庫 1993年
茂吉秀歌 『あらたま』百首 同上 1993年  以下同
茂吉秀歌 『つゆじも』から『石泉』まで百首 1994年 
茂吉秀歌 『白桃』から『のぼり路』まで百首 1994年
茂吉秀歌 『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首  1995年
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塚本

塚本青史『わが父─塚本邦雄』という一文を書いたことがある。 ← アクセスして読んでみてもらいたい。


あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ・・・小野茂樹
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    あの夏の数かぎりなきそしてまた
       たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。
変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。
青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。

この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。
河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、
昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲である。
茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、
たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。
それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

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ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

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2015-01-31小野茂樹
↑ (合成写真) 小野茂樹と、この歌の原稿用紙。最近の小野雅子夫人。 抱いているのは一人娘の綾子さんか。

愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。
これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
ここにリンクにしたのは「原文」であり、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。
なお、彼の歌に詠まれる夫人は小野雅子さんというが、先年夏に、東京で開いてもらった私の第五歌集『昭和』を読む会には、ご出席いただいた。




散るあとのさみしさあれば誇らかに咲き盛んなるアマリリスかな・・・鳥海昭子
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   散るあとのさみしさあれば誇らかに
     咲き盛んなるアマリリスかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


この歌はNHKの「ラジオ深夜便の誕生日の花と短歌365日」という本に載るものである。この本では5/28の花としてある。
この歌のあとの作者のコメントには

   <鮮やかに大輪の花を咲かせるアマリリス。
    散ったあとの寂しさがあるからこそ、アマリリスは華やかに咲き誇っているのです。>

と書かれている。けだし、適切な表現と言うべきだろう。
アマリリスの花言葉は「誇り」 「おしゃべり」である。

大柄な華やかな花で、花壇が一気に賑やかになる。
アマリリスは中米、南米原産のヒガンバナ科の球根植物だという。
わが国へは嘉永年間に渡来し、その頃はジャガタラズイセンと呼ばれたという。
花の時期は短くて、一年の後の季節は葉を茂らせ、球根を太らせるためにある。
強いもので球根はどんどん子球根が増えて始末に終えないほどである。
うちの球根も、あちこちに貰われて行ったり、菜園の隅に定植されたりして繁茂している。

以下、アマリリスの句を少し抜き出してみる。

 燭さはに聖母の花のアマリリス・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 病室の隅の未明やアマリリス・・・・・・・・・・・・石田波郷

 ウエートレス昼間はねむしアマリリス・・・・・・・・・・・・日野草城

 温室ぬくし女王の如きアマリリス・・・・・・・・・・・・杉田久女

 アマリリス跣の童女はだしの音・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 太陽に烏が棲めりアマリリス・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 アマリリス過去が静かにつみかさなる・・・・・・・・・・・・横山白虹

 原爆の地に直立のアマリリス・・・・・・・・・・・・横山白虹

 アマリリス泣き出す声の節つけて・・・・・・・・・・・・山本詩翠

 アマリリス貧しい話もう止そう・・・・・・・・・・・・川島南穂

 アマリリス眠りを知らずただ真紅・・・・・・・・・・・・堀口星眼

 アマリリス心の窓を一つ開け・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 あまりりす妬みごころは男にも・・・・・・・・・・・・樋笠 文

 アマリリス描く老画家の師はマチス・・・・・・・・・・・・皆吉司

 アマリリス耶蘇名マリアの墓多き・・・・・・・・・・・・古賀まり子



竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・石田あき子
DSCN2743竹林本命

     竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・・・・・・・・・・・石田あき子

この句の作者は、石田波郷の夫人である。
私の歌にも次のようなものがある。

  風吹けばかさこそ竹の落葉して私語めくごとしあかとき夢に・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

この歌のつづきに

   竹と竹うち鳴らしつつ疾風は季(とき)の別れをしたたかに強ふ

というのが載っている。ちょうど季節の変わり目で疾風が吹きぬけることがある。
若葉の頃で俳句では「青嵐」という季語がある。
そして、また「竹の秋」「竹落葉」という季語もあるように、竹も新旧交代の時期で、ぐんぐん伸びる筍、若竹の裏に、新葉が出てくると古い葉が落ちるのである。
竹林には、そういう古い葉が降り積もって層になるのである。

私たちの住む辺りにも竹林が多い。聞くところによると関東には竹やぶが少ないそうであるが、私は確かめてみた訳ではない。
竹林というと京都・嵯峨野の竹林が有名である。ここは観光地であり、遊歩道としても整備されている。
写真②は、その嵯峨野の一風景。
thumbnenbutsuji4化野念仏寺竹林

こういう手入れされた竹林はいいが、「竹材」としての利用がなくなって、特に「真竹」の利用価値がなくなって、竹林が放置され、問題を起しているのだ。
竹は放置すると、周辺部へ地下茎を延ばして「侵蝕」してゆく。周辺の雑木林などは、いとも簡単に侵されて、枯れてゆくことになる。
私の住む辺りの低い山には、見渡す限り、放置竹林の侵蝕が見られる。深刻な事態である。

私の歌について言えば「竹の落葉」が「私語めくごとし」というのがミソである。「あかとき」とは「あかつき」の古語である。
俳句にも先に季語を示したが、たくさん詠まれているので、それを引いて終わる。

 竹落葉時のひとひらづつ散れり・・・・・・・・細見綾子

 思ひ出すやうに散るなり竹落ち葉・・・・・・・・久永雁水荘

 竹散るやひとさし天を舞うてより・・・・・・・・辺見京子

 夏に病みて竹枯れやまぬ音に臥す・・・・・・・・斎藤空華

 竹の皮日蔭日向と落ちにけり・・・・・・・・高浜虚子

 ひと来りひと去り竹の皮落つる・・・・・・・・長谷川素逝

 皮を脱ぎ竹壮齢となりにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 若竹や鞭の如くに五六本・・・・・・・・・川端茅舎

 竹の奥なほ青竹の朝焼けて・・・・・・・・加藤楸邨

 若竹や傾きわれもかたむけり・・・・・・・・八木林之助



おはなしはあしたのばんげのこととして二人静の今夜を閉じる・・・鳥海昭子
futarisizukaフタリシズカ

      おはなしはあしたのばんげのこととして
          二人静(ふたりしずか)の今夜を閉じる・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


この歌につけられた作者のコメントには

  <東北のことばで「ばんげ」とは夜のことです。
   話の続きはまたあした、と仲良く布団に入る情景が、花の名前と花ことばからイメージされます。>

と書かれている。まさに適切なイメージぶりと言えるだろう。

ネット上に載るフタリシズカの記事を、下記に引用しておく。
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木々が葉を繁らせ緑に染まり一段落ついた頃、光が射し込まない林下で、フタリシズカは小さな白い米粒のような花を咲かせます。
この花は少し変わっていて、白く見えるのが雄しべで、写真では判りませんが内側に1本の雌しべを包み込むように咲いています。
つまり、花びらも萼もない花ということです。
 また、この花が実を結ぶのと並行して、閉鎖花と呼ばれるつぼみのようなものをつけます。
 この閉鎖花は、開花せず、アリに運ばれるまで待つか、落下するまで植物自体についているそうです。
 ところで、フタリシズカ(漢字では「二人静」と書きます)の名は、花をつけた2本の軸を静御前(しずかごぜん)とその亡霊の舞姿にたとえてつけられたそうですが、
実際には軸が1本だったり、3~5本あったりとまちまちです。
私も1本や3本のものには時々であう機会がありますが、4~5本も軸がついたフタリシズカにもいつかお目にかかってみたいものです。
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この花は上に引用したように、5月から6月にかけて林の中の薄暗い、ひっそりした木蔭に生えるもので、私の歌には、ない。
因みに、フタリシズカの花言葉は「いつまでも一緒に」ということである。
この花言葉から、作者の歌がイメージして作られた。
私には「いつまでも一緒に」なんて言葉を聞くのは、つらい。

「ふたりしずか」の花は、歳時記では「春」の花に収録されている。数は多くはないが引いておく。

 群れ咲いて二人静といふは嘘・・・・・・・・・・高木晴子

 二人静ひとり静よりさびし・・・・・・・・・・角川照子

 二人静をんなの髪膚ゆるみくる・・・・・・・・・・河野多希女

 二人静娶らず逝きし墓の辺に・・・・・・・・・・吉野義子

 生き残ること考へず二人静・・・・・・・・・・丸山佳子

 前の世の罪許されて二人静・・・・・・・・・・檜紀代

 村滅び二人静もほろぶらし・・・・・・・・・・河北斜陽

 高野泊りは二人静を活けし部屋・・・・・・・・・・清川とみ子

 二人静木洩れ日と囁きあふは・・・・・・・・・・渡辺千枝子

 帳りして二人静の咲きはみだす・・・・・・・・・・折笠美秋

 身の丈を揃へて二人静かな・・・・・・・・・・倉田紘文

 



花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・高野素十
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     花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・・・・・・・・・・・・高野素十

「花菖蒲」はアヤメ科の多年草。「ノハナショウブ」の栽培変種で、観賞用に水辺・湿地に栽培され、品種が多い。
先日、カキツバタについて書いたところで、それらの違いについて触れておいた。
江戸時代から多数の品種が作られ、広く栽培されて、菖蒲園には愛好家がつめかけたという。
hanasyobu1429ss菖蒲田本命③

hanasyobu1418ss菖蒲田本命④

先日、カキツバタのことを載せたBLOGで、関連として菖蒲あやめのことを書いたところで、菖蒲は6月にならないと咲かないと言ったが、これは間違いで、
5月中旬からそろそろ咲き始めるということである。
菖蒲田が満開になり田一面が花で埋まるのが5月下旬から6月上旬にかけてのことである。
私の住む辺りでは豊富な地下水を利用して各種の花卉栽培が盛んだが、5月中旬には「菖蒲まつり」が開催され、来会者に花菖蒲3本づつがプレゼントとして配られるという。
掲出する写真はいずれも菖蒲あやめである。色や柄もいろいろのものがある。私などは、やはり紫色が好きだが、これは各人の好みだろう。
hanasyobu1468ss菖蒲田本命②

私より二つほど年長の花卉栽培専業農家の人が居て、先日の端午の節句には菖蒲をたくさん戴いた。
これは露地のものではなく、ビニールハウスによる促成栽培のものである。
栽培農家としては蕾のうちに出荷し、花屋ないしは消費者の手元についてから花が開くようにするのが普通であるので、
私の方に戴いたのも、もちろん蕾のものであった。花が開いてからは開花期は短く二日ほどで萎れてしまう。
こういう端午の節句の菖蒲とか、お盆の蓮の花とかいう、期日の決まったものは期日に合せて出荷しなくてはならず、それまで花を保存するために
「冷蔵庫」を設置するなど多くの投資が必要である。
一時的に花を切る必要があるので、その時は臨時に人を増やして雇うこともあり、なかなか端(はた)から見て羨むほど楽な仕事ではないらしい。
こういう一時的な需要の集中する花は、その日が過ぎると、とたんに花の相場は大きく下がるのである。
この辺に農家としても経営的な手腕が求められるのである。
hanash花菖蒲

俳句にもたくさん詠まれているが少し引いておきたい。

 夜蛙の声となりゆく菖蒲かな・・・・・・・・水原秋桜子

 花菖蒲ただしく水にうつりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 花菖蒲紫紺まひるは音もなし・・・・・・・・中島斌雄

 雨どどと白し菖蒲の花びらに・・・・・・・・山口青邨

 菖蒲剪つて盗みめくなり夕日射・・・・・・・・石田波郷

 菖蒲見に淋しき夫婦行きにけり・・・・・・・・野村喜舟

 黄菖蒲の黄の映る水平らかに・・・・・・・・池内たけし

 白菖蒲過去なくて人生きられず・・・・・・・・稲垣きくの

 菖蒲髪して一人なる身の軽さ・・・・・・・・田畑美穂女

 京へつくまでに暮れけりあやめぐさ・・・・・・・・田中裕明

 花菖蒲水のおもてにこころ置く・・・・・・・・加納染人

 白菖蒲空よりも地の明るき日・・・・・・・・中村路子

 ほぐれそめ翳知りそめし白菖蒲・・・・・・・・林翔

 咲きそめて白は神慮の花菖蒲・・・・・・・・藤岡筑邨

 てぬぐひの如く大きく花菖蒲・・・・・・・・岸本尚毅

 花菖蒲どんどん剪つてくれにけり・・・・・・・・石田郷子

 菖蒲田のもの憂き花の高さかな・・・・・・・・糸屋和恵
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「菖蒲しょうぶ」と「あやめ」は厳密には区別されているらしい。
アヤメは野生のものを指し、菖蒲は栽培種を指すらしい。「属」が同じものか違うのか、などは判らない。一応お断りしておく。



強引と思うばかりに蜂もぐる筒花ゆらぐタニウツギかな・・・鳥海昭子
124221664248416413745_taniutugipuro1003タニウツギ

      強引と思うばかりに蜂もぐる
        筒花ゆらぐタニウツギかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


この歌の作者のコメントには

  <ハチが筒状に咲くタニウツギの花にもぐりこむと、紅色の花が大きく揺れます。
   美しい花ですが、養蚕の家では、まぎれ込むハチを恐れてタニウツギを嫌うのでした。>

と書かれている。ハチは「蚕」の虫に「悪さ」をするのであろう。その養蚕も、安い外国からの絹製品に押されて、今では日本では廃れてしまった。
作者は鳥海山ふもとの山形県生まれの人。

ネット上に載る記事を、下記に引用しておく。
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タニウツギは日本海側の多雪地帯に多い落葉低木で、葉は対生し、裏側は全体に白い毛が密生していて白っぽいですが、中央脈の上にほとんど毛がなく、これが他の種との区別点になります。花は桃色~紅色で5~7月に咲きます。がく片、雄しべはともに5個、花柱は糸状で長く突き出ています。

 地方によって多くの異なった呼び名があります。新潟、富山、長野、石川、鳥取、岡山の諸県ではタウエバナと呼ぶそうです。田植えのころにきれいな花を咲かせるからです。同じ理由で島根県ではサオトメウツギ(早乙女空木)というそうです。確かに先日訪れたとき、岩美町や温泉町の水田は、田植え終わった直後のようで、小さな苗がきれいに並んでいました。

 私が住んでいる相生市周辺の田植えは6月に入ってからです。寒い雪国の方が田植えが早いということは、何か不自然で、人為的な理由あるような気がします。雪解け水を灌漑に利用するためでしょうか、あるいは一昔前の早場米奨励金の影響でしょうか? タウエバナという呼び名が戦前からあったとすれば、雪解け水灌漑説が当たっているような気がします。

 2004年6月17日の「春秋」(日本経済新聞のコラム)に、タニウツギとニシキウツギの「すみ分け」に関して興味ある記述がありました。下に全文をご紹介します。

 長いトンネルを抜けると、雪国が現れるのは冬の話で、初夏の旅では、上越の山塊を貫くトンネルを抜けても、車窓に映る緑は変わらない。が、山すそには、波打つように広がるタニウツギの濃いピンクの花群が現れ、日本海側の景色へと、鮮やかに転換する。

▼タニウツギは北海道の西部から東北、北陸、山陰と、日本海側のいわゆる豪雪地帯に分布する。命の勢いをそのまま映したような濃い花色は、初夏の里山によく似合う。太平洋側には白花と紅花が混じって咲く近縁のニシキウツギが自生する。脊梁(せきりょう)山脈を境に、両者のすみ分けは厳密だ。

▼同じ初夏の花、アジサイも野生種では太平洋側と日本海側では厳密なすみ分けがあるという。北海道から山陰までの山地にはエゾアジサイが分布する。花びらのように見えるがく片は、したたるような濃青色。太平洋側にはヤマアジサイ。花色は白、水色、ピンク、薄緑など多彩だ。伊豆諸島には栽培品種の西洋アジサイの元になったガクアジサイが自生する。

▼雪国の花は、タニウツギの桃色もエゾアジサイの青も、濃く深く一途(いちず)で純である。太平洋側のニシキウツギやヤマアジサイの花は、自在で軽やかでこだわりがない。気候変動の中でも、花はまだ風土に根差した個性を保っている。この多様性こそ後世に残す資産だ。
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私の住む京都盆地には、この花は、ないのではないか。
私は植物分布には弱いので、関心のある方は、お教え願いたい。タニウツギの花言葉は「豊麗」。

「タニウツギ」を詠んだ句は少ないが引いて終る。

 備前大甕谷の卯木を投げ入れよ・・・・・・・・・・野沢節子

 走ること何時忘れしや谷空木・・・・・・・・・・猿橋統流子

 渓うつぎ濃きときめきの一途なり・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 渡れねば渡りたき瀬や谷空木・・・・・・・・・・神尾季羊

 織り初めの藍の筬音谷空木・・・・・・・・・・椿文恵

 満身に瀬音聴きをり渓うつぎ・・・・・・・・・・千布昌子

 ふるさとの山くれなゐに谷空木・・・・・・・・・・高橋梓

 水筒に激水満たす渓空木・・・・・・・・・・川上悦子



虚国の尻無川や夏霞・・・芝不器男
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      虚国(むなくに)の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男

芝不器男は、大学生時代の望郷の句・・・・・  

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな

が虚子に激賞されたが、昭和5年、26歳で病没。
俳壇を彗星のごとく横切った俳人と惜しまれた。
作品わずか200句ほど、中に珠玉作を数多く持つ。

この句は日光中禅寺湖北方の乾燥湿原である「戦場ケ原」を尋ねたときのものである。
「虚国」(むなぐに)はまた「空国」、痩せた不毛の地をいう。
そのような原野を流れる川は、いつのまにか先が消えてしまう尻無川。あたり一面夏霞が茫々とかかっている。
句全体に一種の虚無感がただよい、時空を越えて古代世界に誘われるような情緒の感じられる句である。

不器男は明治36年愛媛県生まれ。東京大学林学科、東北大学機械工学科を出た。
独特の語感を持ち、古語を交えて、幽艶な調べをかもし出す。時間空間の捉え方も個性的だった。
昭和9年刊『芝不器男句集』所載。
以下、不器男の句を少し引く。

 汽車見えてやがて失せたる田打かな

 人入つて門のこりたる暮春かな

 向ふ家にかがやき入りぬ石鹸玉

 国原の水満ちたらふ蛙かな

 麦車馬におくれて動き出づ

 南風の蟻吹きこぼす畳かな

 井にとどく釣瓶の音や夏木立

 川蟹のしろきむくろや秋磧(かはら)

 浸りゐて水馴れぬ葛やけさの秋

 みじろぎにきしむ木椅子や秋日和

 野分してしづかにも熱いでにけり

 草市や夜雨となりし地の匂ひ

 大年やおのづからなる梁響

 寒鴉己(し)が影の上におりたちぬ

掲出の写真①は、新緑が芽生えはじめたばかりの頃の日光戦場ケ原のものである。
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芝不器男 写真②は旧制松山高等学校時代のもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芝不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 ~ 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。本名は太宰不器男(結婚後)。

 生涯
1903年(明治36年)愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの4男。
不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。

1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かなかった。
姉の誘いで長谷川零余子が主宰する『枯野』句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。
1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。
兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する『天の川』に投句。禅寺洞に勧められ、本名の不器男に改号。
『天の川』で頭角を現し俳誌の巻頭を占めるようになる。

1926年(大正15年)『ホトトギス』にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びる。
冬季休暇で帰省して以後は仙台に行かなかった。1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。

1928年(昭和3年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し太宰家の養嗣子となる。
1929年(昭和4年)睾丸炎を発病し福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。
12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。主治医・横山白虹の治療を受ける。
1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

生涯に残した俳句は僅か175句である。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせた。
主治医で俳人の横山白虹は「彗星の如く俳壇の空を通過した」と評した。

郷里の松野町では毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。
1988年(昭和63年)松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。
また、2002年(平成14年)生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。

作品集
不器男全句集(1934年)
定本芝不器男句集(1970年)



谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・金子兜太
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      谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

昭和30年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席捲したが、作者はその旗手だった。
この句は、その後の時期の作品。
「無季」の定型句だが、夜、狭い谷あいで鯉がもみ合っている情景を詠んでいるが、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。
無季句ではあっても、この句が喚起する生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものに違いない。
「鯉」というのが季語にないので<非>季節の作品として分類したが、鯉が盛んに群れて、もみ合うというのは繁殖行動以外にはないのではないか。
ネット上で見てみると、鯉の繁殖期は地域によって異なるが4~6月に水深の浅い川岸に群れて産卵、放精するという。
それこそ、兜太の言う「歓喜」でなくて何であろうか。
昭和48年刊『暗緑地誌』に載るもの。

無季俳句の関連で一句挙げると

 しんしんと肺蒼きまで海の旅・・・・・・・・・・・・・篠原鳳作

という句は、戦前の新興俳句時代の秀作で、南国の青海原を彷彿と思い出させるもので秀逸である。

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ここらで兜太の句を少し。下記のものはアンソロジーに載る彼の自選である。

 木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ──トラック島にて3句

 海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 水脈の果炎天の墓標を置きて去る

作者は戦争中はトラック島に海軍主計将校として駐在していて敗戦に遭う。

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

 銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊のごとく

作者は東京大学出。日本銀行行員であった。いわゆる「出世」はしなかった。

 どれも口美し晩夏のジャズ一団

 鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり

 犬一猫二われら三人被爆せず

 馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 遊牧のごとし十二輌編成列車

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか

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 ↑ 「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句碑。



POSTE aux MEMORANDUM(5月)月次掲示板
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東日本大震災から十二年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
rgn1908260007-p1AI無人機で茶摘み実証実験
↑ AI 無人機で茶摘み実証実験 鹿児島

新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

 手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 あけぼののいろにもみづる楓の時間しづかに熟れてゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 亡きひとが作りし薔薇の乾燥花崩るるときのおとのかそけさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 にんげんに尾があったなら性愛はもっとさびしい 風を梳く草・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大森静佳
 きみからの手紙はいつも遠浅の海が展けてゆくようだ 夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小島なお
 行く春のひかりとなりて 柿稚葉。標なき終焉へ 皆、ひた向かふ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 成瀬有
 黒糖のようなる鬱がひろがりてからまる髪をほどいておりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野口あや子
 なまぐさく馬酔木花の匂ふころだらう生きてゐた犬は公園を駆く・・・・・・・・・・・・・・ 河野美砂子
 みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・光森裕樹
 うぶすなは選べざりけり水漬きつつ新芽を噴ける河川敷の木木・・・・・・・・・・・・・・・・・萩岡良博
 稲妻の夜に撃たれしわが腕は若木となりてみどりしたたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 喜多弘樹
 生者死者いづれとも遠くへだたりてひとりの酒に動悸してをり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 テレビ局の最底辺の最前線視聴者センター勤務愉しき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原龍一郎
 詩の世界音としなりて鳴り出づる 言葉の沖に耳を澄ませば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原 聰
 神猿に護摩餅いくつ炙らせてそのひび割れをいかに占う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ひとが死にあきたる穴に嵌めらるるひとつのピース くちをつぐみな・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 薄暮薄命このうつろさは一箱に封じて異国へペリカン便・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
 掌中に乳房あるごと春雷す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
 すでに女は裸になつてゐた「つづく」・・・・・・・・・・・・・・・加藤静夫
 入れているふしぎの海のナディア像・・・・・・・・・・・・・・・川合大祐
 行春や涙をつまむ指のうら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八田木枯
 中指を般若の口に入れてみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森山文切
 あをあをと山きらきらと鮎の川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高田正子
 壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴・・・・・・・・・・・・・・・・・・芳賀博子
 雉の鳴く頃にはいくさ頭抱く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 頑なに木瘤は朽ちず昭和の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安西 篤
 誰か来て鏡割りゆく八十八夜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塩野谷仁
 万緑のいつも二階に谷がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 青梅の地に転りて青淋し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折勝家鴨
 ゴールデンウィークといふ浮かれ方・・・・・・・・・・・・・・・ 津野利行
 ハーモニカにあまたの窓や若葉風・・・・・・・・・・・・・・・・・金子 敦
 名刺とは縁なき暮らし蕗を刈る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 市堀玉宗
 過失美し神父の独逸訛さへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原月彦
 人に友猫に猫友ところてん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉山久子
 泣かぬ石泣いてる石と積み上げる・・・・・・・・・・・・・・・・・月波与生
 初夏の口笛で呼ぶ言葉たち・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・生駒大祐
 かしはもち天気予報は雷雨とも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上田信治
 黄昏の夢
コカコーラ飲みほしぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 眠りへの入口しれず春逝きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 晩春や猫のかたちに猫の影・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 細胞の隅々にまで新茶汲む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 脈打つ度にゆれる♂♀(野花)よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大迫香雪
 麦の秋海の向かうも麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青島玄武
 陸の鳥海の鳥遭うころもがへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薮内小鈴
 テニス部はいつも朗らか風五月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 朝寝して躯に裏と表あり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高勢祥子
 墜落の蝶に真白き昼ありぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安田中彦
 存分に肥えて機を待つ牡丹かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江口明暗
 にもつは靴だんまりのなか虻になる・・・・・・・・・・・・・・・・・青本柚紀
 牡丹やどかと置かれしランドセル・・・・・・・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 より苦きクレソン添へる銀の皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三嶋ちとせ
 夏みかん小さな切手に小さい人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸田洋渡
 粉を吹いて祖父は微睡む花林檎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川千早
 雨は何色海の鳥居赤を濃くし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渥美ふみ
 いただいたさやえんどうとりあえず塩茹で・・・・・・・・・・・・伊藤角子
 イタリアンパセリが胸毛見せている・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 それぞれの青を雲雀と風と牛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木牛後


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「詩はどこにあるか」『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<続>』評・・・谷内修三
続_NEW

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is the question. me free !
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──草弥の詩作品<草の領域>──再掲載・初出2021/05/31

     「詩はどこにあるか」『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<続>』評・・・・・・・・谷内修三
            ・・・・・谷内修三ブログ「詩はどこにあるか」2021/05/26付、05/27付・・・・・・

木村草弥『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<続>』(澪標、2021年05月25日発行)

 木村草弥のブログに書かれたものの第二弾。『愛の寓意』という詩集から「ピカソ「泣く女」」という散文詩がそのまま転載されている。「泣く女」は、私は美術の教科書で見たのが最初である。中学生のときだったと思う。とても有名な絵である。モデルは、ドラ・マール。当時、ピカソの愛人だった、と木村は書いている。つづけて。

ピカソと知り合ったのは、この絵の描かれる前年、二十九歳のときで、ピカソは五十五歳だった。
ピカソの女性関係は伝説的である。
何しろ女性は彼にとってインスピレーションの源なので、必要なとき相手が有頂天になるほど崇め、不要になればボロ雑巾のごとく捨てるだけ。みごとに誰ひとり幸せにしてやらなかった。

 うーん。
 私はピカソに夢中の人間なので、ちょっとうなった。
 まず、木村がピカソの生涯に詳しいこと。私は簡単な伝記を読むには読んだが、内容はぜんぜん覚えていない。誰が最初の愛人で、そのとき何歳だったか、というようなことは完全に意識から消えている。だから、

みごとに誰ひとり幸せにしてやらなかった。

 に、いっそう驚いたのである。
 えっ、相手を幸せにしてやることが、愛人を持ったり結婚したりすることの条件なのか、と。
 ピカソは絵が描きたかった。ピカソは、自分が幸せになりたかった。それだけだと思う。他人の幸せは、ピカソの意識になかったと思う。
 それは、あの「泣く女」一枚を見てもわかる。ぜんぜん同情していない。「泣く」というのは、ある意味で、ありふれた感情の評言、爆発であり、とくに新しい行為ではない。男から見ると、(女は怒るだろうけれど)、泣かれたら、ちょっと面倒くさい。そういう気持ちも起きる。
 この絵には、泣く女は面倒くさい、というようなピカソの、男の気持ちはぜんぜんあらわれていない。なんておもしろいんだろう。これを絵にすれば、ぜったいおもしろい。傑作になる、と確信している。そういう発見の喜びに満ちている。
 私は、あえて印象(記憶)だけで書くので間違っているかもしれないが、この絵にはいくつものおもしろい点がある。
 女はハンカチをまるで噛み千切るようにして噛んでいる。その手と歯とハンカチの顔を多いながらも歯が見える(噛んでいる様子)パートと、顔を覆いながらも目が見える(目が覆われていない)パート、そして派手な帽子や髪といった感情とは別なパート。大きく言って、三つのパートで出来ている。三つのパートなのだけれど、ひとつに見える。そういう絵だと思う。
 歯も印象的だけれど、目もとても興味深い。日本の漫画(?)では、目の輝きを白い星であらわす。でもピカソは、たしか泣いている目を黒っぽい星で描いていた。それが、私にはうるんでいる、濡れているように見えた。泣いているというよりも、泣きそう、という感じである。一方、目からこぼれて尾を引いていく涙もある。だから、うるんでいるを通り越して、涙が止まらないのだ。そして、もうひとつ。顔を覆う手の指、その爪が、また涙のようにも見える。爪か涙かわからない。好意的(?)に考えれば、涙が手(指)をも濡らしている、ハンカチなんかでは間に合わない、ということかなあ。その一方、派手な帽子は、女の感情なんか、無視している。非情である。だから、絶対的な美しさを獲得している。
 この描き方を、木村は、美術用語をつかって最初に説明していた。

「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法である。

 教科書みたいな説明である。たぶん、そうなのだと思うが、私には「立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築」したとは思えないのである。
 再構築というよりも、見えたものを、見えたままに描いた。
 ハンカチを噛んでいるのが見えた。だから、それを描いた。そして、目が涙で濡れているのが見えた。だからそれを描いた。そして、涙が頬をつたって落ちていくのが見えた。だから、それを描いた。そして、帽子は美しいままである。だから、それをそのまま描いた。「そして」がつづいて一枚の絵になっている。どこから描き始めたのかしらないが、それは「再構築」ではなく、見えたままなのだと思う。見えたところを描いて、それが終われば次の部分を描き、さらに見えたものを追加して描く。それだけなのだと思う。
 ピカソは描くのに時間をかけない。迷わない。どの線も、どの色もスピードに満ちている。ピカソは描きなおさない。修正しない。別なことばでいえば、「有頂天」になって、突っ走って描いている。描くこと以外、何も考えていない。
 だから、

何しろ女性は彼にとってインスピレーションの源なので、必要なとき相手が有頂天になるほど崇め、

 というよりも、ピカソは女性のなかに見つけた美に「有頂天」になって、ただそれを追いかけている。女を有頂天にさせているのではなく、ピカソが有頂天になっている。それがたとえ泣きわめいている女であっても、その泣いている姿に有頂天になる。「困った、面倒くさい」なんて思わないのだ。ピカソをつらぬいているのは「有頂天」のスピード、いま見ているものしか見えないという絶対的な「有頂天」の視力だ。

芸術家は怖い。
蜘蛛が餌食の体液を全て吸い尽くすように、他人の喜怒哀楽、全ての感情を吸い取って自分の糧にしようとする。
(略)
蜘蛛が干からびた獲物の残骸を網からぽいと捨てるように、ピカソはドラを捨てた。
ピカソの残酷さが遺憾なく発揮された『泣く女』は傑作となり、ドラの名前も美術史に永遠に残ることになった。

 名前が美術史に残ることが「幸せ」かどうかわからないが、多くの人はドラのことを思い出すかもしれない。木村が「残酷」と書いていることを、しかし、私は「有頂天」と読み替えた、ということだけは書いておきたい。
 どの傑作(というか、私の好きな作品)でも、私はそこにピカソの「有頂天」の超スピードを見る。
 あ、こんなことは、木村の詩とは関係がないか。
 こんなことを書いても、木村の本を読んだ感想にはならないかもしれないが、しかし、これがきょう動いた私のことばである。木村のことばを読まなかったら、こんなことは書かなかった。そういう意味では「感想」のひとつなのである。
 で、こんなことを書きながら思うのは。

「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法である。

 の「キュビズム」の「キュビズム」に該当するわけではないのだが、木村の書いている「泣く女」に対する詩は、「泣く女」をさまざまな角度から再構築しているといえる。モデルが誰であったか、ピカソとどういう関係にあったか。さらにふたりの関係はどうなっていったか。あるいは、ピカソの女性関係はどう展開したか。ほかの作品との関係はどうか。引用しなかったが、そういうことがとても丁寧に書かれている。最後には、ピカソの長い長い本名まで紹介している。ある対象の「背景」には何があるか。知りうる限りを木村は丁寧に書く。そうすることで対象を「立体的」につかむ。つまり構築する。「一旦分解する」のではなく、細部をひとつずつ丁寧に積み上げる。そういう「手法」を、他の作品分析でも展開している。
 この一冊は、木村がブログで書き綴ってきたものをまとめた第二弾だが、木村がやってきたことは、そういう丁寧な時間の積み重ねであり、それが自然に一冊になった。いや、二冊になった、ということだ。
 付け足しのようになってしまったが、これは大事なことだ。
 本の帯に「十数年執筆の苦労は嘘をつかない」と書いてある。その通りだと思う。木村の書いていることに、嘘はない。だからこそ、私は平気で、瞬間的に思ったことを書くことができる。私が何を思おうが、何を書こうが、それは木村の書いたことを傷つけない。木村の文体は、私の感想をはね返して、この本の中でしっかりと生きている。読めば、そのことがわかる。

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木村草弥『四季の〈うた〉草弥のブログ抄<続>』(澪標、2021年05月25日発行) ②

 昨日の感想は、木村草弥が書いていることへの感想か、ピカソの「泣く女」についての感想か、よくわからないものになってしまった。「対象」への感想か、「ことば」への感想か。これはいつでも起きることであるが。
 たとえば、これから書くことも。

 「エピステーメ」という作品群がある。木村の第五歌集『昭和』の抜粋である。

  千年で五センチつもる腐葉土よ楮の花に陽があたたかだ
  手漉紙のやうにつつましく輝る乳房それが疼くから赤い実を撒かう
  紅い実をひとつ蒔いたら乳房からしつとりと白い樹液が垂れた

 おんなの体を描いている。しかも、それは男の立場から書いているというよりも、木村がおんなになって書いている。たとえていえば、森進一が、「惚れて振られた女のつらさ……」と女の心情を歌うようなものである。歌っているのは男、しかし、「内容」は女の気持ち。こういうとき、どういう感想が「正しい」のか。たぶん、「正しい」かどうかは考えず、ただ、思いついたまま書くしかないのである。
 この三首では、「千年で」は男の歌か、おんなの歌かわからない。「手漉紙」は「乳房それが疼く」ということばから「男の乳房ではない」と感じるが、なかには乳房が疼く男がいるかもしれないが、私は古くさい概念にとらわれている人間なので、これはおんなだな、と思う。「紅い実」は乳房から「白い樹液が垂れた」を乳房から「乳」が垂れたと読み、やはりおんなだと判断する。「白い樹液」という比喩は、私から見ると、ちょっと客観的すぎる。肉体の内部から生まれてきたことばというよりも、肉体を外から見ている感じがするので、おんなの歌であるけれど、男の視線が動いていると感じる。
 で。
 こういうことを書くと、いまの時代は、時代後れというか、フェミニスト(あるいはジェンダーフリーの立場の人)から批判を受けそうだが、その「白い樹液」と同じように、「陽があたたかだ」の「だ」という音の響き、「白い樹液が垂れた」の「垂れた」という断定の響きにも、男の語調を感じる。「撒かう」のきっぱりした意志の表明にも、男を感じる。リズムが男っぽい。
 そして、このおんなの歌なのに、男の感覚がつらぬかれているところに、森進一のうたではないが、何かさっぱりした「客観性」(どろどろした情念を洗い流したような、さびしさ)を感じる。

  呵責とも慰藉ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は
  フーコーは「思考の台座」と名づけたがエピステーメ、白い裸身だ

 「呵責」「慰藉」「思考の台座」というような、漢語のつらなりも、おんなのことばというよりも男の概念、一種の非情さを含んだ響き。

  振り向いてたぐる時間は紙子のやうにしなしなと汚れているな
  われわれはひととき生きてやがて死ぬ白い紙子の装束をまとひ

 「たぐる」や「やうにしなしな」はおんなの肉体から発せられる響きにも感じられるが、「時間」ということば、「汚れているな」の「な」の響き。ここに、わたしは、やはり男を感じる。
 「われわれ」は、やはり男だ。この「われわれ」とは基本的には男とおんな、二人のことだが、ふたりをはみだして「人間(人類)」を視野に含んでいる。それは、前の歌の「時間」ということばにつうじる。「ひととき生きて」というが、この「ひととき」は「わたしだけの時間」ではなく「われわれの時間のなかの一瞬」という、奇妙な「哲学」を含んでいる。「短歌」を超えて「概念」がひろがる。

  惜しみなく春をひらけるこぶし花、月出でぬ夜は男に倚りぬ

 この歌で、はじめて(?)おんながおんならしく振る舞っている(男に倚りぬ)が、そう感じるのは、男の視点というものだろう。

  くるめきの季にあらずや〈花熟るる幽愁の春〉と男の一語

 これもおんな。「男」を出すことで、「わたしはおんな」と主張している。「惜しみなく」と同じ構造である。
 そうやって、種明かし(?)をした上で、歌はつづいていく。

  花に寄する想ひの重さ計りかね桜咲く日もこころ放たず

 これは作者が伏せられていたら、おんなが詠んだ歌と思うかもしれない。「こころ放たず」の「こころ」が「肉体」という感じで響いてくる。
 ほーっ、と思わず声が漏れてしまう。私は。

  異臭ある山羊フロマージュ食みをりぬ異臭の奥に快楽あるかと
  私が掴まうとするのは何だろう地球は青くて壊れやすい

 「快楽はあるかと」の「と」の使い方、「青くて壊れやすい」の断定。ここで、木村はふたたび男にもどっておんなを呼んでいる。
 木村にとって、おんなが認識の出発点、ということを書いているのかもしれないが、おんなに溺れていない、淫していないことろが、ちょっと森進一の歌い方に似ている、と私は感じる。
 ついでに書いておくと、私は森進一の歌い方はとても好きなのである。美空ひばり、森進一、都はるみが、私は好きである。もちろん、山口百恵、ピンクレディーも大好きなんだけれどね。ピンクレディーのあとの、サザンオールスターズまでは知っているが、その後の歌手はまったく知らないから、私の感想は、まあ、古くさいかもしれない。
------------------------------------------------------------------
敬愛する谷内修三氏が、こんな「評」を、ブログ「詩はどこにあるか」2021/05/26付と05/27付で書いていただいた。
谷内氏の「読み」は独特なので、とても面白く、毎回、感謝とともに拝見している。ここに全文を貼り付けておく次第である。
有難うございました。


長嶺幸子詩集『Aサインバー』・・・木村草弥
長嶺_NEW

img55c4e6e9100d3長嶺幸子
↑ 第27回琉球新報児童文学賞の贈呈式

──新・読書ノート──再掲載・初出2021/05/29

      長嶺幸子詩集『Aサインバー』・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・詩遊社2021/04/30刊・・・・・・・・

この本が恵贈されてきた。
長嶺幸子さんの初詩集ということである。
いつものことだが、上田寛子さんの装丁が素晴らしい。
なおネットを検索していると、2015年8月8日 の記事に

< 琉球新報社主催の第38回山之口貘賞と第27回琉球新報児童文学賞の贈呈式が7日、那覇市泉崎の琉球新報ホールで行われた。
 山之口貘賞は、波平幸有さん(76)=東京都=の詩集「小(ぐゎあ)の情景」に贈られた。
児童文学賞は、短編児童小説部門で長山しおり(本名・長嶺幸子)さん(64)=糸満市、主婦=の「美乃利(みのり)の季節」が選ばれ、>

と書いてある。年齢からも、この詩集の作者・長嶺幸子さんのことだと思われる。おめでとうございます。

この本の「帯」ウラに載る「詩遊社」の冨上芳秀の書く文章を引いておこう。

<米兵相手のAサインバーの立ち並ぶコザの町を、友の母をふたりで探し歩いて、叱られた長嶺幸子。
Aサインバーは戦後、軍政下での沖縄の象徴のひとつである。12歳で、父を亡くした長嶺幸子は、6人きょうだいの長女として、母を助け、幼い妹や弟の面倒を見る。
母は、昼は畑仕事、夜はAサインバーに行って、米兵に虎柄の革ジャンや絹のネッカチーフ、チューインガムなどを売る。
ヤッタァガ ウクトゥドゥ/頑張ラリンドー/幸(しあわ)シドォ(お前たちがいるから頑張れるよ、幸せだよ)というのが母の口癖であった。
愛情に満ちた家族のきずな。旧正月の若水(わかみじ)の儀式。父との思い出。美しい沖縄の言葉が、時々、産土のためいきのように立ち上る。長嶺幸子を育てたのは温かい人情味あふれる人々が助け合う、共同井戸(ムラガー)を中心に広がる豊かな沖縄の風土である。>

掲出した画像の「帯」文には「カマルーあんまぁ」という詩の一部が引いてあるが、配置された沖縄の方言が、よく効いている。
これらの詩の一部と、冨上氏の紹介文で、この本の要約は尽きているのだが、作品を引いて鑑賞してみる。

         魚売り        長嶺幸子

   ──魚(イユ)グワァ、買(カ)ウンチョウラニー
          (魚はいりませんかぁ)

          ・・・・・・・・
   糸満の港に水揚げされたばかりの
   色鮮やかな魚と
   氷とを盥に詰め込んで
   やってきた

          ・・・・・・・・
   ──魚売り(イユ ウィ)アンマーが来んどぉ
         (魚売りのおばさんが来たよぉ)
   子どもたちも大声でふれまわる

         ・・・・・・・・
   母は貧しい家計に中から
   必ず一斤を買い求めていた
   ──ウネ、 シーブンドォ (はい、おまけだよ)
   きさくな魚売りと母の談笑
   裸電球の下の
   夕餉のささやかな贅沢が
   遠い記憶の底で輝いている
---------------------------------------------------------------
沖縄に限らないが、詩歌で「方言」を作品の中に取り込むのは極めて有効である。
この詩も方言を的確に使ってあり秀逸である。

「カマルーあんまぁ」は「夕日影」という詩の初めの部分の詩だが、全部で五篇の作品がまとめられている。
この一連の詩の終りは

        戦後生まれ       長嶺幸子

   私たちが戦後生まれだということを私は知らなかった。大人たちは
   戦争の話をしないし、学校でも先生は、戦争があったことを教えて
   くれなかった。貧しいのがあたりまえで、みんなが、ただその日を
   一生懸命に助け合って生きていたような気がする。そんな時代だっ
   た。ずいぶん後になって、この地で戦争があったのだと知った。大
   人たちがようやく口を開くようになり、学校で先生方が教えてくれ
   るようになったのだった。それまで私はなんにも知らずにいた。
---------------------------------------------------------------
米軍の軍政下にあったから、教育の場でも意識して語ることが禁止されていたのだろうか。
この一連の詩の創り方は、冨上氏が始めた散文詩の方法で、作者も、それを採りいれたものかと思うが成功している。

久しぶりの「生活実感」に裏打ちされた詩集を読ませてもらった。
まだまだ引きたいが、この辺にしたい。 有難うございました。     (完)



万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・橋本多佳子
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    万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・橋本多佳子

       ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

       ■女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは


今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷。杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

掲出した句は奈良の鹿に因むものを三つ並べてみた。
上に書いたように「命に触れた」みづみづしい、生命に関する「いじらしい一途さ」に満ちている。
私は彼女の句が好きで、今までに何句引いただろうか。
以下、ネット上の正津勉「恋唄 恋句」から当該記事を引いておく。  ↓
(草弥・注 この記事は、その後削除されて今は見られない。念のため)
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2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

    雪はげし抱かれて息のつまりしこと

橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。
大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。
ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。
九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。
山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。
それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。
これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。
私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

    月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。
その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。
「忌籠り」と題する一句にある。

    曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。
この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。
夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

    息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。
「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。
降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

    雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。

だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。
「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。
それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。
なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。
それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。
/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。
……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。
とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

    夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。
美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

    深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

    雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。
指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。




楢の木の樹液もとめて這ふ百足足一本も遊ばさず来る・・・木村草弥
ムカデ-殺し方

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)
        足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

百足(むかで)というのは噛まれるとひどく痛い害虫で、気持の悪い虫だが、樹木の茂る辺りから梅雨から夏にかけて住宅の中にまで侵入してくるから始末が悪い。
朝起きると枕元に大きなムカデが居て、ギョッとして大騒ぎになることがある。噛まれなかってよかった、ということになる。
以前住んでいた家は雑木林がすぐ近くにあったので夏にはムカデがよく家の中に入って来たものだ。
ムカデは節足動物だが、ムカデ綱に属する種類のうち、ゲジ目を除いた種類の総称で、日本には1300種類も居るという。
写真は何という名前の百足だろうか。写真を見て「おぞましい」と思う人は見ないでもらいたい。卒倒されたら困る。

このように気持の悪い虫だが、私の歌にある通り、ナラやクヌギなどの里山には、カブトムシなどと争って木の樹液を求めて出てきたりするのである。
ムカデにも肉食と、樹液などを吸いに来るものと二種類いるそうである。
私の歌は、そういう樹液に群がるムカデを詠んでいる。
物の本によると、
<ムカデは主に小さな昆虫を獲物にするほか樹液も餌にするため、カブトムシやクワガタと一緒に樹液場に現れことがあります。
樹液自体を餌にするのはもちろん、樹液に寄ってくる小型の昆虫を待ち伏せするためだと考えられます。>
と書いてあるから、私の記事は的外れでもなさそうである。
ムカデの動きを観察していると、私の歌の通り、あの多くの足をからませることもなく、すすすすと進んで来るのである。だから私は「足一本も遊ばさず来る」と表現してみた。

先に「害虫」だと書いたが、昔から、ものの本によるとムカデは「益虫」だと書いてあるという。
ムカデは百足虫とも、また難しい字で「蜈蚣」とも書いて、いずれもムカデと訓(よ)ませる。

 蜈蚣をも書は益虫となしをれり・・・・・・・・相生垣瓜人

という句にもある通りである。
以下、歳時記に載るムカデの句を引いて終わりたい。

 小百足を打つたる朱(あけ)の枕かな・・・・・・・・日野草城

 硬き声聞ゆ蜈蚣を殺すなり・・・・・・・・相生垣瓜人

 夕刊におさへて殺す百足虫の子・・・・・・・・富安風生

 百足虫出づ海荒るる夜に堪へがたく・・・・・・・・山口誓子

 ひげを剃り百足虫を殺し外出す・・・・・・・・西東三鬼

 殺さんとすれば百足も動顚す・・・・・・・・百合山羽公

 壁走る百足虫殺さむ蝋燭火・・・・・・・・石塚友二

 なにもせぬ百足虫の赤き頭をつぶす・・・・・・・・古屋秀雄

 三四日ぐづつく雨に百足虫出づ・・・・・・・・上村占魚

 殺したる百足虫を更に寸断す・・・・・・・・山口波津女

 百足虫出て父荒縄のごと老いし・・・・・・・・大隈チサ子


閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・松尾芭蕉
蝉

   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』の旅は元禄2年5月27日に山形の立石寺に到達する。
この句は、そこで詠まれたものである。
もちろんこの日付は旧暦であるから今の暦では7月となるが敢えて今日の日付で載せることにする。
地元では「りっしゃくじ」と発音するとのことで、それに倣いたい。

今の所在地は山形市大字山寺という。
山寺駅の鄙びた駅舎を出ると、目の前にいきなり突兀たる山寺の山容が迫ってくる。別名・雨呼山、標高906メートル。長い石段をあえぎながら登る。
岩峰の一つ一つに堂塔が配され、壮観とも絶景とも言えよう。立谷川を渡るとまもなく根本中堂がある。
本尊は薬師如来で、貞観2年(860年)慈覚大師円仁の開山と伝えられる。
現在の根本中堂は天文12年(1543年)の再建とあるから、芭蕉が山寺を訪れた元禄2年(1689年)には、この建物は建っていたわけである。
『おくのほそ道』は、

<岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。/閑さや岩にしみ入蝉の声>

と描きしるしている。

芭蕉の頃は、今のように「送り仮名」が統一されておらず、読みにくいが、おおよその意味は通じるだろう。
この「蝉の声」の句碑は、境内慈覚大師お手植えの公孫樹の木陰をくぐると、芭蕉の銅像と並んで立っている。
この山寺は恐山、早池峰山、蔵王山、月山、羽黒山などと共に東北における山岳信仰の代表的な山とされ、何よりも、この山の特徴は、
死後魂の帰る霊山と考えられていることである。
「開北霊窟」の扁額を掲げる山門をくぐると、奥の院までの石段は実に千数百段、中腹に芭蕉の短冊を埋めたという「蝉塚」がある。
もちろん書かれた句は「閑さや」であろう。
「奥の院」まで登る人は多くない。一般的には「山門」までで、私も、そうした。

ところで、芭蕉が訪れた時に、果たして「蝉」が鳴いていたか、という論議が古くから盛んである。
曾良『随行日記』には長梅雨の最中だったが、山寺の一日だけ晴れた、と書かれているが、晴れたからといって、その日だけ蝉が鳴いたというのも不自然である。

では、なぜ芭蕉は、此処で蝉の句を詠んだのか。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えた。
元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る

「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、
自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある

私は、この説に納得するものである。

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↑芭蕉と曽良の銅像(曽良は芭蕉の弟子で「奥の細道」の旅の同行者で日記を残している)
画面奥の銅像が芭蕉の像。両者の間に、芭蕉の句碑が立っている ↓
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「山寺・立石寺」については、このサイトが写真で詳しい。
このサイトに芭蕉句碑の鮮明な写真があるので拝借したいと思ったが有料とのことで断念し、リンクをするにとどめた。ぜひアクセスしてみられよ。


みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・山中智恵子
403otomおとめまいまい

     みづからを思ひいださむ朝涼し
         かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
「みずからを思い出す」という表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

先に、永田耕衣の「かたつむり」の句を挙げたので、それに対応してこの歌を掲出した。 掲出の画像は「ヒメマイマイ」というかたつむり。
以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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   道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

   わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

   ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

   さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

   淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆふべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

   この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

   未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

   秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

   こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

   ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

   ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

   意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

   きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

   その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

   くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

   ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



井上荒野『あちらにいる鬼』・・・木村草弥
荒野_NEW

──新・読書ノート──再掲載初出2019/05/25

     井上荒野『あちらにいる鬼』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・朝日新聞出版刊。初版2019/02/28 第五刷2019/05/30・・・・・・・・

掲出した図版でも読み取れるように、よく売れている本である。
「作者の父・井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」と瀬戸内寂聴が書くように、「スキャンダル」でなくて、何だろうか。
ところが、この本では、作者の母との「三角関係」が、普通ならば、ドロドロした愛憎劇になるところが、そうならず、譬えは悪いかもしれないが、「戦友愛」みたいなもので繋がっているように感じるのである。

カバー装の絵は、恩地孝四郎の「ポーズの内 憩」(『恩地孝四郎版画集』形象社刊)というものらしい。
大正末期より昭和初期にかけて起こった大衆文学ブームにより、本は庶民にとって身近な存在になり、出版社は次々と個性的かつ内容にふさわしいデザインの書籍を作った。
恩地孝四郎は明治24年に東京に生まれ、その生涯を通し、版画、詩、書籍の装幀、写真などの分野ですぐれた作品を遺した。

この本の「初出」は、「小説トリッパー」2016年冬季号から2018年秋季号に発表されたもの。
この本は、独特の編集がなされている。
「chapter 1 1966 春」  「みはる」 ~ 「chapter 5 1973、11、14」   「みはる」 「笙子」
「chapter 6 1978~1988」  「寂光」 ~ 「chapter 7 1989~1992」  「寂光」 「笙子」
「chapter 8 2014」   「寂光」 「笙子」

という風に章立てが進行してゆく。
「みはる」のちの出家後「寂光」は瀬戸内晴美のことであり、 「笙子」は井上光春の妻のことである。
小説とは言っても、限りなくルポルタージュに近い。もちろん、小説であるから作者の創作になる部分も多いだろう。
別段に引いた「対談」にもあるように、瀬戸内晴美の証言から多くの部分が引かれているだろう。
だから、小説としてのプロットは秀でたものがあるが、細かい点では私小説と言っていいだろう。
この本で、作者の井上荒野は「海里」という名前で登場する。

小説の最後は、こう描写されている。

<目が覚めると篤郎はもういなかった。きっと私が眠ってしまったから、自転車で散歩にでも行ったのだろう。
 私も行こう、今出れば追いつくだろう。・・・・・
    さようなら。
 私は呟く。そうしなければならないことが不意にわかったのだ。だがそのとき、私は自分の娘たちのことも、長内さんのことも考えていなかった。
 ただ篤郎のことだけを考えている。>
  

私が下手な紹介をするより、下記の記事を読んでみてもらいたい。 ↓

※AERA 2019年2月18日号より抜粋
不思議な三角関係について、瀬戸内寂聴と語り合った。
*  *  *
瀬戸内寂聴(以下寂聴):この作品を書く前、もっと質問してくれて良かったのよ。

井上荒野(以下荒野):『あちらにいる鬼』はフィクションとして書こうと思ったので、全部伺ってしまうよりは想像する場面があったほうが書きやすかったんです。

寂聴:そうでしょうね。荒野ちゃんはもう私と仲良くなっていたから。そもそも私は井上さんとの関係を不倫なんて思ってないの。井上さんだって思ってなかった。今でも悪いとは思ってない。たまたま奥さんがいたというだけ。好きになったらそんなこと関係ない。雷が落ちてくるようなものだからね。逃げるわけにはいきませんよ。

荒野:本当にそうだと思います。不倫がダメだからとか奥さんがいるからやめておこうというのは愛に条件をつけることだから、そっちのほうが不純な気がする。もちろん大変だからやらないほうがいいんだけど、好きになっちゃったら仕方がないし、文学としては書き甲斐があります。大変なことをわざわざやってしまう心の動きがおもしろいから書くわけで。

寂聴:世界文学の名作はすべて不倫ですよ。だけど、「早く奥さんと別れて一緒になって」なんていうのはみっともないわね。世間的な幸福なんてものは初めから捨てないとね。

荒野:最近は芸能人の不倫などがすぐネットで叩かれますが、怒ったり裁いたりしていい人がいるとしたら当事者だけだと思うんですよね。世間が怒る権利はない。母は当事者だったけれど怒らなかった。怒ったら終わりになる。母は結局、父と一緒にいることを選んだんだと思います。どうしようもない男だったけど、それ以上に好きな部分があったんじゃないかって書きながら思ったんです。

寂聴:それはそうね。

荒野:母は父と一緒のお墓に一緒に入りたかった。お墓のことはどうでもいい感じの人だったのに。そもそも寂聴さんが住職を務めていらした天台寺(岩手県二戸市)に墓地を買い、父のお骨を納めたのも世間的に見れば変わっていますよね。自分にもう先がないとわかったとき、そこに自分の骨も入れることを娘たちに約束させました。

寂聴:私が自分のために買っておいた墓地のそばにお二人で眠っていらっしゃるのよね。

荒野:私には、母が父を愛するあまり何もかも我慢していたというより、「自分が選んだことだから、夫をずっと好きでいよう」と決めたような気がするんです。だから『あちらにいる鬼』は、自分で決めた人たちの話なんです。

寂聴:そうね。

荒野:そもそも母は、寂聴さんのことはもちろん、ほかの女の人がいるってことを私たちの前で愚痴を言ったり怒ったりしたことは一度もない。父が何かでいい気になっていたりすると怒りましたけどね。

寂聴:思い返すと私はとても文学的に得をしたと思いますよ。以前は井上さんが書くような小説を読まなかったの。読んでみたらおもしろかったし、彼の文学に対する真摯さは一度も疑ったことがない。だから、井上さんは力量があるのにこの程度しか認められないということが不満でしたね。井上さんは文壇で非常に寂しかったの。文壇の中では早稲田派とか三田派とかいろいろあって、彼らはバーに飲みに行っても集まる。学校に行ってない井上さんにはそれがなかった。みんなに仲良くしてもらいたかったんじゃなかったのかしら。孤独だったのね。だから私なんかに寄ってきた。

荒野:父はいつもワーワー言ってるから場の中心にいたのだと思っていましたが、違ったんですね。確かに父にはものすごく学歴コンプレックスがありました。アンチ学歴派で偏差値教育を嫌っていたのに、私のテストの点数や偏差値を気にしていましたね。相反するものがあった。自分のコンプレックスが全部裏返って現れている。女の人のことだってそうかも。

寂聴:「俺が女を落とそうと思ったら全部引っかかる」って。

荒野:女遊びにも承認欲求があったのかもしれない。寂聴さんから文壇では孤立していたと伺ってわかる気がしました。そういえば以前、「寂聴さんがつきあった男たちの中で、父はどんな男でした?」とお尋ねしたら、「つまんない男だったわよッ」とおっしゃいましたよね(笑)。

寂聴:私、そんなこと言った? ははは。いや、つまんなくなかったわよ。少なくとも小説を書く上では先生の一人だった。

荒野:『比叡』など父とのことをお書きになった作品でも設定は変えていらっしゃいますね。父の死後はお書きにならなかったですが。

寂聴:もうお母さんと仲良くなっていたからね。井上さんは「俺とあんたがこういう関係じゃなければ、うちの嫁さんと一番いい親友になれたのになあ」と何度も言っていた。実際にお会いしたら、確かに井上さんよりずっと良かった。わかり合える人だったし。

荒野:最終的には仲良くしていただきましたよね。いちばんびっくりしたのは死ぬ前に母がハガキを寂聴さんに書いたということ。私にも黙っていたから。

寂聴:ハガキは時々いただきましたよ。私が書いた小説を読んでくれて、「今度のあの小説はとても良かった」って。自分ではよく書けたと思っていたのに誰も褒めてくれなかったから、すごく嬉しかった。本質的に文学的な才能があったんですよ。だから井上さんの書いたものも全面的に信用してなかったと思う。

荒野:小説についてはフェアな人でした。私の小説もおもしろいときはほめてくれるけど、ダメだと「さらっと読んじゃったわ」ってむかつくことをいう。父は絶対けなさなかったのに。

寂聴:井上さんはあなたが小さい頃から作家になると決めていたの。そうじゃなかったら「荒野」なんて名前を誰がつける?

荒野:ある種の妄信ですよね。

寂聴:今回の作品もよく書いたと思いますよ。売れるといいね。テレビから話が来たら面倒でも出なさいよ。テレビに出たら売れる。新聞や雑誌なんかに出たって誰も読まないからね。

荒野:はい(笑)。

(構成/ライター・千葉望)
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何とも凄い「作家根性」ではないか。

瀬戸内寂聴が頼まれて住職を務めている岩手県の僻地の、つぶれかかった「天台寺」のために、自分の稼いだ原稿料や印税をつぎ込んで再興し、千人を超す人々に「法話」の会を催し、墓地を分譲して浄財を募る、などしてきた。
その墓地の一画に瀬戸内さんの予定区画もあるらしいが、その傍に井上光晴と妻が眠るのを希望した、という。
この三角関係の何とも麗しいことではないか。

瀬戸内晴美の出家の「師僧」は「今東光」であり、1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。

終わりに、言っておきたいことがある。
それは、リンクに引いた対談の中で井上荒野が言っていることだが、

<これが小説だからですよね。ルポルタージュではなく、基本的には私の創作です。
父であり母である人のことを書いているけれど、私にとっては彼らは小説の登場人物なんです。
だから、この三人の事実を書いたわけではなくて、私にとっての、この三人の真実を書いたんだなって思います。>

アンダーラインを引いたのは私だが、「事実」と「真実」とは違うということを彼女が指摘していることは、的確で、凄いことだと思う。
このことを強調しておきたい。

井上荒野
1961年生まれ。1989年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞。2008年『切羽へ』で直木賞。
2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞。2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞。2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞受賞。など。

「井上光春」などはWikipedia などを参照されたい。
リンクになっています。 ↓ 読んでみてください。
「井上荒野」対談
「作家の読書道・井上荒野」


みほとけの千手犇く五月闇・・・能村登四郎
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 ↑ 京都・三十三間堂の千手観音の一部

    みほとけの千手犇く五月(さつき)闇・・・・・・・・・・能村登四郎

今日5月24日は能村登四郎の忌日である。
それに因んで記事を載せる。

昼なお暗い五月雨(さみだれ)どき。大寺の御堂の中にたたずんでいると、不意に眼前に立つ千手観音の手がひしめくような気配を感じたのである。
この観音は多分大きな仏像であろう。
五月闇と言われるほど陰鬱な梅雨時の薄暗がりの中で、長い歳月を経た仏像に秘められている魔性が、ふとざわめいたような思いのする肌寒さ。
「千手犇く」が次の「五月闇」と重なって、仏像のある意味では不思議に官能的な側面を引き出している。
千手観音像は普通40本の手で表わされる。
掌中にはそれぞれ一眼を備え、一本の手毎に二十五有(う)を救うとされているところから、25×40=1000で「千手」と言われる。

昭和59年刊『天上華』に載る。

能村登四郎は明治44年東京生まれ。国学院大学卒。水原秋桜子に師事。「沖」主宰。
第8句集『天上華』で1984年「蛇笏賞」受賞。第11句集『長嘯』で1993年第8回「詩歌文学館賞」受賞。
平成13年没。

↓ 写真②は、石川県七尾市和倉温泉に建つ能村の句碑である。 <春潮の遠鳴る能登を母郷とす  登四郎>
略歴には、みな「東京生まれ」と書かれているが、この句のように、彼は石川県の「能登」を母郷としている、と言う。
この句碑の説明文によると、祖父が、ここの出身だという。

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すこし能村の句を引く。

 くちびるを出て朝寒のこゑとなる

 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

 寡作なる人の二月の畑仕事

 妻のほかの黒髪知らず夜の梅

 白鳥の翅もぐごとくキャベツもぐ

 梅漬けてあかき妻の手夜は愛す

 白川村夕霧すでに湖底めく

 優曇華や寂と組まれし父祖の梁

 秋蚊帳に寝返りて血を傾かす

 花冷えや老いても着たき紺絣

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く

 男梅雨かな三日目は蘆伏して

 朴散りしのち妻が咲く天上華

 墓洗ふみとりの頃のしぐさにて

 秋蒔きの種子とてかくもこまかなる

 ほうたるの火と離れたき夜もあらむ

 今思へば遠火事のごとくなり

 ゆつくりと来て老鶴の凍て支度
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あたらしき声出すための酢牡蠣かな
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
きのふてふ遥かな昔種子を蒔く
すぐ帰る若き賀客を惜しみけり
たわいなき春夢なれども汗すこし
てのひらの艶をたのめる初湯かな
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
べつたりと掌につく春の樹液かな
むばたまの黒飴さはに良寛忌
ゆつくりと光が通る牡丹の芽
よき教師たりや星透く鰯雲
ガニ股に歩いて今日は父の日か
一雁の列をそれたる羽音かな
一撃の皺が皺よぶ夏氷
一度だけの妻の世終る露の中
羽蟻ふり峽のラジオは悲歌に似て
煙管たたきて水洟漁夫の不漁(しけ)ばなし
遠い木が見えてくる夕十二月
夏つばめ同齡者みな一家なす
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
火取虫男の夢は瞑るまで
花冷えや老いても着たき紺絣
潟人の大長靴が枯るゝ戸に
葛の花遠つ江(あふみ)へ怨み文
気に入りの春服を出す心当て
去年よりも自愛濃くなる懐手
教師に一夜東をどりの椅子紅し
教師やめしその後知らず芙蓉の實
隙間入る雪四十なる平教師
月明に我立つ他は箒草
己が糞踏み馬たちに冬長からむ
吾子すがる手力つよし露無量
今思へば皆遠火事のごとくなり
今日の授業誤ちありし青葉木萸
紺の厚司で魚賣る水産高校生
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
削るほど紅さす板や十二月
鮭の切身の鮮紅に足止むる旅
子とみれば雪ゆたかなり童話劇
子にみやげなき秋の夜の肩車
子等に試驗なき菊月のわれ愉し
紙魚ならば棲みてもみたき一書あり
秋づきし母の嶺負ひし檜挽き
秋燕をくらきが吸ふ遠山家
秋風に突き当りけり首だせば
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初あかりそのまま命あかりかな
身にしみて一つぐらいは傷もよし
甚平を着て今にして見ゆるもの
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明治44年に東京に生まれる。
国学院大卒。市川高校に40年勤務し、俳人として活躍する。戦前から水原秋桜子の「馬酔木」に投句し昭和24年に同人となる。
昭和45年俳誌「沖」を創刊し平成13年春まで主宰。
昭和31年句集『咀嚼音』で現代俳句協会賞、昭和60年句集『天上華』で蛇笏賞、平成4年『長嚼』で詩歌文学館賞を受賞し、俳壇の賞を総なめにした。
身辺の日常の中に幻想や心象を見るイメージ俳句を追求し評論もおこなっていた。
代表句に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」がある。
平成13年5月24日八幡にて逝去。

かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・永田耕衣
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     かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・・・・・・・永田耕衣

永田耕衣は明治33年兵庫県生まれの現代俳壇の長老の一人だった。
戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目を浴びたが、仏教とくに禅への関心が深く、現代俳句における俳味と禅味の合体、
その探求者と言えば、先ずこの作者をあげる必要があるという。
この「かたつむり」の句は、そのような俳人の面目躍如とした作で、清澄な心境と混沌たる性的世界への凝視とが一体化したような力強さと、一面、面妖な迫力がある。
「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに、何とも粘着力のある、一読忘れ難い印象を与える。
性を詠んで性を突き抜けているのだ。昭和27年刊『驢鳴集』所載。

永田耕衣は「阪神大震災」に遭遇し、これを題材にした秀句があるが、いま手元にないので引くことが出来ない。それまでの時期の句を引きたい。
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 夢の世に葱を作りて寂しさよ

 夏蜜柑いづこも遠く思はるる

 野遊びの児等の一人が飛翔せり

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな

 近海に鯛睦み居る涅槃像

 蛍火を愛して口を開く人

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 夢みて老いて色塗れば野菊である

 淫乱や僧形となる魚のむれ

 生き身こそ蹤跡無かれ桃の花

 我が頭穴にあらずや落椿

 男老いて男を愛す葛の花

 薄氷や我を出で入る美少年

 いづこにも我居てや春むづかしき

 桃の花道在ることに飽きてけり

 空蝉に肉残り居る山河かな

 強秋や我に残んの一死在り

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ネット上から「もう一つの仏教学・禅学 」という記事を転載しておく。
永田耕衣のことが詳しく書いてある。写真②は「耕衣自伝」(1992年沖積舎刊)
024kouijiden耕衣自伝

根源俳句、永田耕衣
根源俳句 人間を探求した俳人
永 田 耕 衣 の 生 涯


参考文献
(A)『永田耕衣』    俳句文庫 春陽堂
(B)『生死』 「永田耕衣句集]  ふらんす堂
(C)『部長の大晩年』 城山三郎  朝日新聞社
(D)雑誌『俳句』平成10年2月(永田耕衣特集) 角川書店

「 」は、参考文献からの引用。例えば(C28)は上の参考文献Cの28頁を表す。

幸福とは言えない幼少時代
明治三十三年(1900) 1月21日、兵庫県加古郡尾上村(現在、加古川市尾上町)に生まれる。本名軍二。父岩崎林蔵は村役場収入役。
明治三十九年(1906)[6歳]父母と同居のまま母系永田家を継ぐ。 父母の仲は悪かった。母親が家を出て長く帰らぬこともあった。母が家出するころには、兄や姉も家を離れており、家には耕衣ひとり残された。
大正三年(1814)[14]兵庫県立工業学校入学。文学誌を発行。 俳句に関心を持つほか映画・演劇にも興味を持つ。
大正八年(1919)[19]勤務の三菱製紙高砂工場にて抄紙機で右指組織潰滅の負傷。

禅との出会い
このころ、禅哲学に興味を抱く。
「最初は禅そのものを求めてというより、縁を生かし、好奇心につられてのこと。この大怪我のため静養中、実家が檀家でもある祥福寺で、新住職を迎えての晋山式(しんざんしき)があり、そこで法戦が行われると聞いて出かけて行った。」(C37)
「禅に親しみ始めたのは二十歳位の頃でしたな。生まれ故郷のお寺で禅問答が公開されたのを見聞に言ったときからです。その師家に雲水が、「青島」(チンタオ)へ行ってこられたそうですが、何か珍しいことがありましたか」と問う。師僧がその雲水を説き伏せる意味で「雀はチュウチュウ、カラスはカアカア」と答えるが早いか、その雲水の肩をシッペイでパ-ンと打ったんです。そういうことが実に印象的でしたね。何となく禅というものは面白いと思いました。」(A20)
「このことがおもしろくて、耕衣は高僧の法話や座禅の催しがあると知ると出かけ、ときには、これはと思う禅寺を一人で訪問した。 秋の夕暮れ、訪ねて行った臨済宗の寺の老師は、闇の迫る中で、灯火もつけず、「禅というのは、厄介なものや」
禅修行で悟りを開いたはずなのに、一歩退いたところから、そんな風に眺める「ユトリ」といったものがあり、耕衣はさらに興味をかきたてられたりし、以後、生涯にわたって禅への関心は消えなかった。 もっとも、それはあくまで気ままに、高僧を訪ねたり、道元や西田幾多郎の著作を通じて学ぶということであって、荒行や修行の類とは無縁。その時間がないというより、それらが一つの型式、一つの型に人間をはめこみ、その中での自己陶酔になりかねぬ、と感じたからである。」(C37)

文芸活動
大正九年(1920)[20]右腕負傷のため兵役免除。結婚。毎日新聞兵庫県版付録俳句欄に初投句。 このころ大阪の俳誌『山茶花』に投句。
昭和三年(1928)[28]武者小路実篤の文学に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。 村の機関紙「新しき村」昭和3年6月号に短編小説『秋風』が掲載される。
昭和四年(1929)[29]このころ俳誌『山茶花』から『鹿火屋』(原石鼎主催)にのりかえる。 「鶏頭陣」(小野撫子主催)にも投句。古陶趣味の影響を撫子より受ける。このころ原石鼎敬慕。
昭和十年(1935)[35]主宰俳誌「蓑虫」を創刊。(十六号で休刊)

地元の俳誌加入を拒否される
「地元で新たな俳誌ができ、加入を申し込んだところ、耕衣が「ホトトギス」系でない「鹿火屋」誌などに関係していたという理由で拒絶された。」(中略) (原石鼎の句「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守」はーー) 「孤独の深さをうたう美しい句だが、写生中心のホトトギス系の世界からは遠いとされ、ついでに耕衣も敬遠された。

自ら、句誌「蓑虫」を創刊
俳句の世界にも、派閥や縄張り意識があるのかと、耕衣は興ざめしたが、そこでくさることなく、それならそれでと、工場内で関心のありそうな仲間に声をかけ、四十人を集めて、句誌「蓑虫」を創刊、その中の何人かを撫子の「鶏頭陣」誌にも紹介した。」(C55)
昭和十二年(1937)[37]文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功・河井寛次郎らに接し、民芸の精神を養う。白泥会は、高砂の工楽(くらく)長三郎(造船、海運で財をなした)邸で行われた。

<棟方志功とのつきあい>
「長三郎は芸術や文化への関心が強く、若手の芸術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集いを持つようになった。会の名は「白泥会」。」(C22)
「耕衣は、この白泥会で志功の話を聞くだけでなく、会が無い日でも志功が工楽邸に泊まるときには、欠かさず訪ねて話こんだ。(中略) 二人には、禅や謡曲といった共通の話題もあったが、何より「もう一つの仏教学・禅学 」も創作への姿勢という面で共鳴し合った。「根源」とか「第一義」とかを問題にし、写生よりも、自己主張や観念を打ち出す。泥くさく見られたりすることなど、念頭にない。」(C22)
昭和十五年(1940)[40]「鶴」に投句、のち同人。思想弾圧下の時勢下で小野撫子より警告を受ける。

写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。
人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。
しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」(C63)

新興の俳人の思想弾圧
昭和15年2月「京大俳句」の平畑静塔ら8人が、治安維持法違反で検挙される。
 5月、東京の同人四人も逮捕。
 8月、西東三鬼が逮捕される。
昭和16年2月、秋元不死男が逮捕される。
 逮捕者15名中3名起訴され、残りの人は数カ月から一年拘置され、釈放されたが、「執筆禁止」を言い渡された。 こういう状況にあって、小野撫子が体制側にあって俳句を検閲していたらしく、小野から耕衣に警告の知らせが届いた。耕衣は上京し、小野にあい、しばらく句作を中断する旨、伝えた。だが、しばらくして小野に無断で、名前を変えて石田波郷の俳誌「鶴」に投句。

戦争中参禅
「早く禅の道へ踏みこんでいた彼は、俳句に注いでいた時間の一部を禅にふり向け、時間をつくっては、神戸祥福寺の臥牛軒老師を訪ね、年末の臘八接心(ろうはつせっしん)に参禅したりした。
動き出してしまうと止まらなくなるのが、耕衣の常である。祥福寺だけでなく、近くの明石や加古川の禅寺へも出かけた。また、禅に明るい哲学者西田幾多郎の著作を人にすすめられ、読みはじめると、これまた夢中になり、次々に読みふけった。 こうして禅への親しみが深まると、彼は自分一人がその法悦に浸っていては申し訳ない、という気がしてきた。
このため、会社でのクラブ活動の一つとして座禅会をつくり、加古川の寺の和尚を招いて提唱を聞くことにしたところ、工場長はじめ三十人ほどが参加するようになった。」(C77)

戦後、独自の道へ
昭和二十二年(1947)[47]石田波郷・西東三鬼が来て一泊。三鬼が耕衣の句を激賞。「現代俳句協会」会員に推される。
昭和二十三年(1948)[48]西東が中心の「天狼」同人となる。「根源探求論」を展開する。
「天狼」が「他の結社との重籍を認めず」という規約があったため、「鶴」「風」同人を辞退。

自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。

「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」(C100)
昭和二十四年(1949)[49]「琴座」(リラザ)創刊、主宰となる。 (「琴」のギリシャ語から、リラ座と呼ぶ。)
昭和二十七年(1952)[52]三菱製紙高砂工場製造部長となる。
昭和二十八年(1953)[53]「天狼」を脱会。「鶴」同人に復帰。

孤高の道
禅僧との交わり

「耕衣は志功を訪ねたが、当時、逆に耕衣との議論を好み、須磨の家まで訪ねてきた別世界の人が居る。
神戸祥福寺の師家、山田無文。
たまたま耕衣とは同年だが、その説法は評判が高く、後に臨済宗妙心寺派管長となる。花園大学学長もつとめ、国際的にも知られた高僧だが、生活は質朴。文化勲章も拒否する気骨の人であった。」(C25) 《(注)昭和28年から祥福寺の師家。》
「手の障害のせいもあって、耕衣は旅を苦手としたが、東京出張の機会を活かし、社用が終わると、朝比奈宗源などの禅僧や、俳人たちを訪ねたが、それは耕衣がそのときどきに興味や関心を持った相手ということであって、このため、「天狼」以外の俳人とばかり接触していると、うわさする声もあった。
このため、耕衣は「天狼」を去った。
戦前、大結社の「ホトトギス系」に拒まれたため、結果的に新興俳句の流れとして扱われた耕衣だが、その流れの延長上に在る「天狼」からも離れることで、耕衣はいわゆる結社らしい結社とは無縁の生き方をすることになった。」(C116)
昭和三十年(1955)[55]定年退職。赤尾兜子・橋門石らと研鑽のため「半箇の会」を結成。 毎日新聞神戸版俳句欄選者となる。

退職後、読書に時間をさく。詩人の西脇順三郎、歌人、斎藤茂吉に傾倒。 禅に造詣の深い詩人、高橋信吉にも。
昭和三十一年(1956)[56]神戸在住の金子兜子を知る。
昭和三十三年(1958)[58]「俳句評論」創刊とともに同人となる。
昭和三十七年(1962)[62]「現代俳句協会賞」審査員。
昭和三十八年(1963)[63]初の書作展を神戸新聞会館で開く。
昭和四十四年(1969)[69]東京三越本店で「書と絵による永田耕衣展」を開催。
敬慕の西脇順三郎と初対面のほか多くの出会いを得る。津高和一展(西宮)で須田剋太と初対面。

<棟方志功が祝辞>
「昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」を。このときには、そのカタログに西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せた。
<禅機ということを聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも「機す」とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。ヨロコンダリ。ワラッタリ。ベソカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。ダダヲコネタリ。お終いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨ましい。>」(C139)
昭和四十六年(1971)[71]「銀花」第7号で耕衣の書画が特集される。須永朝彦・高橋睦郎来訪。
昭和四十七年(1972)[72]ラジオ関西で「山頭火について」4回放送。
昭和四十九年(1974)[74]舞子ビラにて全句集「非佛」出版記念会が開かれる。神戸市文化賞受賞。
昭和五十年(1975)[75]「琴座」300号で俳句的信条<陸沈の掟>十一ケ条を提示。
昭和五十一年(1976)[76]吉岡実編「耕衣百句」に対する丸谷才一の評文が朝日新聞に掲載される。
昭和五十六年(1981)[81]神戸新聞社「平和賞」受賞。
昭和五十九年(1984)[84]兵庫県文化賞受賞。
昭和六十一年(1986)[86]妻ユキエ死去。
平成二年(1990)[90]第2回「現代俳句協会大賞」受賞。
平成三年(1991)[91]第6回「詩歌文学館賞」受賞。

遅すぎる受賞
「長い長い積み上げがあって、耕衣句はようやく世間の目に触れるようになった。
昭和六十年には、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズで、『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』が刊行され、平成三年には薄く小型の選句集『生死』(ふらんす堂)、その翌年には『永田耕衣』が春陽堂俳句文庫の一冊として出た。」(C199)
「俳句関係には早くから大小さまざまな賞があったが、耕衣に対する全国版の賞は、はじめてのことであった。
句歴が長いだけでなく、耕衣はたしかにここ数年も力作、異色作を発表し続けてきた。(中略)
あまりにもおそい受賞ともいえた。
俳壇から孤立というか、異端視されてきた耕衣としては、手放しでよろこぶという具合には行かない。
そこで、次の一句。
「褒貶(ほうへん)をひねり上げたり鏡餅」」(C193)
平成七年 [95歳] 一月、阪神大震災によって自宅全壊。2階のトイレに閉じ込められたが救出され、天理教の講堂に避難。
2日後、市内の同人の家に避難
半月後、寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。車椅子が必要になる。
同人が、自宅から書籍を発掘して姫路文学館に収める。
六月、大阪で「耕衣大晩年の会」を開催、150人集まる。
平成八年 [96歳] 五月、神戸で「大晩年耕衣書画展」
朝食に向かう途中、ころんで、左上腕骨を折り、書けなくなる。
平成九年 [97歳] 『琴座一・二月合併号』で廃刊。
八月25日、死亡。泉福寺に墓地がある。(ここには埋葬されていないという


ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・島本融
a0136223_17372262ネウマ譜
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──再掲載──初出2004/04/29 Doblog──「島本融の詩と句」(再掲載にあたり編集し直しました)

     ネウマ譜の起伏のごとき午睡かな・・・・・・・・・・・・・島本融

「午睡」というのは夏の季語だが、もう夏日の気温の日がつづく昨今であるので、もう夏「仕様」で行きたいと思う。
ところで「ネウマ譜」については ← Wikipediaに詳しい。
ネウマ譜というのは一般的にはグレグリオ聖歌の表示法として知られるが、「ネウマ」とは中世の単旋律歌曲の記譜で使われた記号。
旋律の動きや演奏上のニュアンスを視覚的に示そうとしたものが基本。
ネウマ譜とは、上に述べたネウマを使った記譜法。
9世紀頃現われ、高音を明示しないネウマ、高音ネウマ(ダイアステマ記譜法)を経て、やがて11世紀から「譜線ネウマ」へ移行する。
ネウマ譜は先に述べたようにグレゴリオ聖歌の表示法として知られるが、中世の世俗的歌曲も、貴族の館を中心に「吟遊詩人」の歌として流行した。
単声で、譜線ネウマ譜で表わしていた。
最初は、歌詞の上に記号をつけただけだったが、10世紀頃イタリアやイギリスで譜線が登場する。
譜線の数は1本から4本まで増え、線と線の間隔は3度間隔を示すようになり、「譜線ネウマ」と呼ばれるようになる。
後には近代5線譜で古い楽譜が写本されることもあるらしい。期間的には9世紀から14世紀にかけて、ということになる。

実は私はネウマ譜の実物か写本というものを見たことがない。
本で、その存在を知っていたに過ぎないが、2004/04/20付けの新聞で大阪の女性がネウマ譜の装飾的な美しさに引かれて写本を手掛けている、
という記事に触発されて、島本氏の、この句を採り上げる気になった。
昔のヨーロッパの本は、小説でも神学の本でもページの文頭の字は、大きく、しかも色彩的にも極彩色に装飾した「飾り文字」になっているが、
このネウマ譜も、そういう装飾文字で始まるらしい。
装飾的ということからは、この大阪の女性の写本のモデルになっているのは14世紀イタリア式譜面の装飾かも知れない。
ネウマ譜の画像をいくつか出しておいた。
GregorienA4グレゴリオ聖歌17世紀楽譜
 ↑ グレゴリオ聖歌17世紀楽譜

島本融氏については、私のWeb上のHPで一章を設けて句集『午後のメニスカス』の抄出をしてある。
島本融氏は河井酔茗、島本久恵氏のご次男で群馬県立女子大教授などを勤められた美学者である。
美学者としての教養から横文字が多いが、知的な雰囲気に満ちている。以下、句を抄出する。
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 母は闇に坐して涼しき銀河系

 吾亦紅野辺のアウラというべきか

 くすぐられてしなやかな子の夏合宿

 すこやかになまあしやはりさむいという

 てふてふの旧かなめきし羽根づかひ

 秋灯に偽書ほどほどの読みごたえ

 様式とはめだかみごとに散るごとく

 二河白道一輻だけの花の寺

 ミネルヴァの梟を言い冬学期

 十代連はチアののりにて阿波踊り

 謝恩会のゼミ学生の抜き衣紋

 青嵐におののきやめずメニスカス

 酔漢がハモってゆくや歳の暮

 波奈理児のすはだに生絹(すずし)添えまほし

 ビリティスの偽書も編みたし蔦の花


泰山木の巨き白花さく下にマタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・木村草弥
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     泰山木の巨き白花さく下に
        マタイ受難曲ひびく夕ぐれ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の一つ前には

  おほどかに泰山木の咲きいでていきなり管楽器鳴りいづるなり

という歌が載っているので、これと一体として鑑賞してもらいたい。

泰山木の木は葉も花も大きいもので、葉は肉厚で落葉は昔の大判の貨幣のようである。
この頃には「青嵐」という季語もあるように季節の変わり目で突風が吹くことが多いが、そんな風に吹かれて泰山木の大きな落葉が新芽にとって代られて、
からからと転がってゆく様子は季節ならではのものである。
モクレン科の常緑高木であって、高いものは17、8メートルにもなる。
北アメリカの原産で明治のはじめに日本に渡来し公園などに植えられた。葉はシャクナゲに似、花はモクレンに似ている。
花は葉の上に出て、大きさは15センチもある。木が大きく、葉も花も大きいので「泰山木」という命名がいかにも相応しい感じがする。
花の雄大さと白い色、高い香りが焦点である。

私の歌は、そういう、いかにも西洋風な花と木に触発されて、「管弦楽」ないしは「マタイ受難曲」という洋楽を配してみたが、いかがであろうか。

YouTube 「マタイ受難曲」 ← いい演奏なので聴いてみてください。

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↑ 自筆総譜より # 61 レチタティーヴォ開始部分

「マタイ受難曲」 出典:Wikipedia
「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、
多くの場合独唱・合唱・オーケストラを伴う大規模な音楽作品である。
このうち最も有名なものはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品である。
ここではこのバッハの作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲(Matthäus-Passion)は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、
聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。
BWV244。
台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。
正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハのライプツィヒ時代(1723年-1750年)を代表する作品であるとともに、その全作品中の最高峰に位置づけられる。
宗教作品であるが、様々な人間的に普遍的なドラマが描かれており、その音楽の壮大さ、精緻さ、大胆さ、精神性は、しばしばクラシック音楽、西洋音楽作品中の最高傑作とさえ評されるほどである。 バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、音楽的にはマタイほどの完成度ではないもののより劇的とされるヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。これらのなかで、マタイ受難曲は内容的にも規模的にも最も重要かつ画期的である。

初演および復活上演
初演 1727年4月11日、ライプツィヒの聖トーマス教会において初演。その後改訂が加えられ、1736年に最終的な自筆稿が浄書されている。かつては1729年4月11日の初演と伝えられ、未だに古典派・ロマン派の愛聴者の中に支持する者もいるが、完全に否定されている。この勘違いは、メンデルスゾーンの初演に用いた楽譜が1729年稿であったこと、蘇演の広告が「100年ぶりの復活演奏」と銘打ったこと、1728年に没したケーテン侯レオポルトに捧げた追悼カンタータがマタイ受難曲のパロディだったこと(教会音楽を世俗音楽に書き換えることはありえないと信じられていた)など、非科学的な思い込みによって誘発されたものである。

復活上演 バッハの死後、長く忘れられていたが、1829年3月11日、フェリックス・メンデルスゾーンによって歴史的な復活上演がなされ、バッハの再評価につながった。

この復活上演はいくつかのカットが伴われ、また古楽管楽器オーボエ・ダ・カッチャを、同じ音域のオーボエ属楽器であるイングリッシュホルンではなくバスクラリネットで代用するなど、メンデルスゾーンの時代により一般的であった、より現代に近いオーケストラの編成によって演奏された。この編成の演奏を再現した録音CDも存在する。当時の新聞評は芳しいものではなく、無理解な批評家によって「遁走曲(フーガ)とはひとつの声部が他の声部から逃げていくものであるが、この場合第一に逃げ出すのは聴衆である」と批判された。しかしこれを期に、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れ去られていたバッハの中・大規模作品をはじめとする音楽が再評価されることになったのである。
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「泰山木」は俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 壺に咲いて奉書の白さ泰山木・・・・・・・・渡辺水巴

 磔像や泰山木は花終んぬ・・・・・・・・山口誓子

 太陽と泰山木と讃へたり・・・・・・・・阿波野青畝

 泰山木天にひらきて雨を受く・・・・・・・・山口青邨

 泰山木巨らかに息安らかに・・・・・・・・石田波郷

 泰山木樹頭の花を日に捧ぐ・・・・・・・・福田寥汀

 ロダンの首泰山木は花得たり・・・・・・・・角川源義

 泰山木開くに見入る仏像ほし・・・・・・・・加藤知世子

 泰山木君臨し咲く波郷居は・・・・・・・・及川貞

 初咲きの泰山木に晴れつづく・・・・・・・・武内夏子


さゐさゐと鳥遊ばせて一山は楢の若葉に夏きざし初む・・・木村草弥
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     さゐさゐと鳥遊ばせて一山は
         楢の若葉に夏きざし初む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌の次に

     初夏の明けの小鳥の囀りにぼそと人語をさしはさむ野暮

という歌が載っているが、これも一体として鑑賞してもらいたい。

歌について少し説明しておくと「さゐさゐ」というのは漢字で書けば「騒騒」である。
先に書いたかと思うが、楢の木というのは「里山」の木であって、結構いろいろな昆虫なども豊富で、
それらの虫は小鳥たちの絶好の餌になるのであった。
だから小鳥たちが寄ってきて「騒騒」と賑やかなのであった。
こういう鳥たちとの交歓というのは杉、桧のような針葉樹の林では見られない。
針葉樹は人間にとって有用な木材としては最適であるかも知れないが、広くいろんな生物との共生という意味では、貧弱な生態系にしか過ぎないと思われる。
虫や昆虫、小鳥の多いのは広葉樹の林である。
上に挙げた歌につづいて

     みづうみを茜に染めて日の射せばひしめき芽ぶく楢の林は

というのが載っている。
これらの歌の三部作を含む項目の題は「鳥語」と私はつけた。
やはり楢などの雑木林には小鳥が豊富であり、したがって鳥の声に満ちている──つまり「鳥語」が特徴であろう。

虫が居れば成虫である蝶も居るということである。「蝶」の句を引いて終わる。
なお、ただ単に「蝶」と言えば春の季語であるが、揚羽蝶など盛夏に居る夏の蝶は、もちろん夏の季語の題材になる。「夏の蝶」「斑蝶」「セセリ蝶」など。

 ほろほろと蝶こぼれ来る木下闇・・・・・・・・富安風生

 木の暗を音なくて出づ揚羽蝶・・・・・・・・山口誓子

 夏蝶や歯朶揺りてまた雨来る・・・・・・・・飯田蛇笏

 弱弱しみかど揚羽といふ蝶は・・・・・・・・高野素十

 夏蝶の放ちしごとく高くとぶ・・・・・・・・阿部みどり女

 下闇に遊べる蝶の久しさよ・・・・・・・・松本たかし

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

 一途なる蝶に身かはす木下闇・・・・・・・・佐野まもる

 下闇や揚羽の蝶の二つの眼・・・・・・・・松尾静子

 奥の院八丁とあり黒揚羽・・・・・・・・近藤笑香

 首塚の湿りを出でて揚羽蝶・・・・・・・・長田群青


今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・飯島晴子
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     今度こそ筒鳥を聞きとめし貌・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ツツドリ」は、人間の住むような里山には近づかず、林間に居て、鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
この句は、そういう筒鳥の生態を、よく捉えている。
私の歌にも、こんなものがある。

  筒鳥の遠音きこゆる木の下に九十の母はのど飴舐むる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

筒鳥は郭公やほととぎすと同じ仲間で姿、形が似ている。これらの鳥は鳴声は田舎なら、よく聞くことがあるが、姿を見ることはめったにない。
この種類の鳥は子育ての際に、独特の「托卵」という習性があることが共通している。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   み熊野の出で湯に宿るあかときにぽぽろぽぽろと筒鳥の声

という歌を載せている。
掲出の歌のことだが、私の母は93歳で亡くなったが、この歌は90歳の頃のことを詠んでいる。母には曾孫も出来ていたから文字通り悠々自適の晩年だった。
初夏のむせかえるような陽気の日には大きな木の蔭でのんびりと過ごしていた。
「のど飴」を舐める母、というところに私の歌作りの工夫を込めたつもりである。

以下、歳時記に載る句を少し引いて終わりたい。

 つつ鳥や木曽の裏山木曽に似て・・・・・・・・加舎白雄

 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ・・・・・・・水原秋桜子

 筒鳥なく泣かんばかりの裾野の火・・・・・・・・加藤楸邨

 筒鳥や楢の下草片敷けば・・・・・・・・石田波郷

 筒鳥鳴けり腕を撫でつつ歩むとき・・・・・・・・大野林火

 旅にして聴く筒鳥も辰雄の忌・・・・・・・安住敦

 筒鳥やひとの名彫られ一樹立つ・・・・・・・・中島斌雄

 筒鳥や涙あふれて失語症・・・・・・・・相馬遷子

 筒鳥や分れて道は火山灰ふかく・・・・・・・・皆吉爽雨

 筒鳥や思はぬ尾根に牛群れて・・・・・・・・堀口星眠

 筒鳥や山に居て身を山に向け・・・・・・・・村越化石

 筒鳥の遠音近づくことのなし・・・・・・・・森田峠

 筒鳥の風の遠音となりにけり・・・・・・・・三村純也

 筒鳥やこんにやく村はすぐ陰る・・・・・・・・茂木連葉子

 筒鳥や豆が双葉となりし朝・・・・・・・・矢上万理江



目には青葉/山時鳥/初鰹・・・山口素堂
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     目には青葉/山時鳥(ほととぎす)/初鰹・・・・・・・・・・・・・山口素堂

この句は作者名を知らなくても、多くの人に愛誦されている代表格のものだろう。
元の句には区切りなど無いが、意味をはっきりさせるために敢えて区切りを入れてみた。了承されたい。
なぜ「山時鳥」というのかについては ← のところで書いたので参照されたい。
「目に青葉」と読む人があるが、正しくは、字余りになっても「目に青葉」と読んでもらいたい。

山口素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。句は「鎌倉にて」という前書きがある。
目のためには一帯の山の青葉。耳のためにはほととぎす。鎌倉の初夏はすばらしい。
その上に、相模の海の名物の初鰹とは、何とよい土地柄だろう、というのである。初物好きの江戸っ子の美意識が強く感じられる。

大島蓼太の句にも

    鎌倉は波風もなし鰹つり

というのがあるが、相模湾は、その昔、マグロやカツオの漁でも有名だった。
同じ江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵には

    大魚(おほな)釣る相模の海の夕なぎに乱れて出づる海士(あま)小舟かも

という爽快な漁場風景を詠んだ歌がある。
なお、念のために申し添えておくが、「青葉」「ほととぎす」「初鰹」ともに俳句の世界では「夏」の季語である。つまり一句の中に季語が三つあることになる。
今は一句の中に複数の季語を入れることを喧しく指摘する宗匠もあるらしいが、そんなことに拘らない「大らかさ」が、この句にはあり微笑ましい。
旧暦の四月(卯月)、新暦の五月からは「夏」になる。
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d0080223_19245841ホトトギス

ここでは、「ほととぎす」にまつわる句歌を少し引いておく。

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま・・・・・・・・・・杉田久女

結句の「ほしいまま」というのが鳥の自由奔放な命の発露を言いとめている。
この句の前書きには「英彦山」とある。福岡、大分両県にまたがる修験道の霊山である。
久女は昭和5年高浜虚子選で行われた全国新名勝俳句に応募のため、英彦山に登ってこの句を得、金賞を獲得した。
しかし同じ句を「ホトトギス」に投句した時には没だったという話もある。
久女の浪漫的で大胆な句風は女流俳人中で異彩を放ったが、なぜか昭和11年理由不明のままホトトギスから除名された。悲運の閨秀作家である。

    ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ・・・・・・・・式子内親王

詞書には「いつきの昔を思ひ出でて」とある。
「いつき(斎)の昔」というのは、式子内親王が賀茂神社の斎院として青春の十年間を神に奉仕する身であった時代を回想してという意味である。
「そのかみ」と「かみ山」とは掛け詞で、後者は賀茂神社のある森のことを神山(こうやま)と今でも言う。
「旅枕」は賀茂の祭礼のとき、社殿の脇の神館に斎院が一夜泊るしきたりを、旅になぞらえたのである。
ほととぎすよ、その昔、賀茂の神館に旅寝した夜明け、お前がほのかに鳴いて過ぎた、あの時のことが忘れられない、という意味である。
口ずさめば歌は縹渺たる時間と空間を呼び起し、恋歌のような情緒さえ刺激する。
現在では「上賀茂神社」と一般的に呼称する。
「神山」の辺りには今は京都産業大学のキャンパスが広がっている。
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山口素堂についてネット上から転載しておく。

山口素堂(やまぐち そどう)

(寛永19年(1642)5月5日~享保元年(1716)8月15日、享年75歳)

 甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町。現在では、近くにサントリー白州ディストラリーがある)の人と言われている。
父山口市右衛門の長男として誕生し、甲府魚町で家業の酒造業を営んでいたが、向学心に燃えて家督を弟にゆずり江戸に出て、漢学を林春斎に学ぶ。
芭蕉とは2歳ほど年上だが、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをした。儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時稀有な教養人であった。(以上『甲斐国史』による)
 名は信章<しんしょう>、字は子晋<ししん>、通称は勘兵衛。
俳号素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁など多数。子晋・公商は字。趣味も多彩で、蓮を好んだことから「蓮池翁」などと呼ばれた。
延宝4年には『江戸両吟集』を、延宝6年には『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表。75歳で死去。
「四山の瓢」参照。

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素堂の代表作

目には青葉山ほとゝぎす初がつを (『あら野』)

池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (『あら野』)

綿の花たまたま蘭に似たるかな (『あら野』)

名もしらぬ小草花咲野菊哉 (『あら野』)

唐土に富士あらばけふの月もみよ (『あら野』)

麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (『あら野』)

髭宗祇池に蓮ある心かな (『炭俵』)

三か月の隠にてすヾむ哀かな (『炭俵』)

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 (『續炭俵』)


うめのしとみ詩集『どきん どきん』・・・木村草弥
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 ↑「帯」ウラ 冨上芳秀の解説

     うめのしとみ詩集『どきん どきん』・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・詩遊社2023/04/30刊・・・・・・・・・

この本が送られてきた。
冨上氏の「詩遊叢書」37というものである。
作者については私は何も知らない。山口県在住らしい。
いつもながらの上田寛子氏の装丁が素晴らしい。.

この詩集には表題の「どきん どきん」という作品はない。
彼女の詩の特徴について主宰者の冨上芳秀の「要約」を帯文ウラから画像で引いておいた。

巻頭に載る短い詩を引いてみよう。

     ノラネコ      うめのしとみ

   昨日そこに
   肌色の腸が長々とのびていた
   頭蓋骨は二つに割れていて
   眼は
   赤い血の絨毯の中で開いていた
   足には
   自慢の爪がないと思ったら
   今日冬の空に三日月形に浮いていた
   背中におぶった次郎が
   「月だ」と言ったけれど
   あれは爪だ

   ふたたび降り出した雪が
   それを隠してはいるけれど
   あれはするどく光ったネコの爪だ
   昨日そこでひかれて死んだ野良猫の爪だ
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    野口五郎で待ち合わせ(七十四歳)     うめのしとみ

   野口五郎の「私鉄沿線」という歌をご存知ですか?
   “改札口で君のこと いつも待ったものでした” 野口五郎は歌います。
   男性が女性を待つのです。恋人を待つのです。私はこの歌詞のよう
   に男性に待たれたことはありません。一度くらいは、そういう待ち
   合わせをしたかったです。もう叶わぬことです。
   先日、侑子さんとバス停で待ち合わせをしました。私も彼女も高齢
   者。・・・・・・・
   バス停で、と漠然とした指定では危ない。私はこう言います。
   「明日、野口五郎で。」
   侑子さんも野口五郎のファンなので、すぐにわかります。
   私はいつも彼女を数分待たせます。だって、改札口で待たれてみたいのです。
   ・・・・・・ただ、待たれたいのです。
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      山里の家      うめのしとみ 

   夕食に目刺しを焼きました
   義母と二人だからと四匹と思ったけれど
   四という数は縁起が悪い
   義母が言うものだから五匹焼きました
   一匹を二人で譲り合って
   結局義母が長く噛んでいました

   真夜中
      ・・・・・・・・・
   五匹の目刺しの十の目が点っているのです
   小さな目です
     ・・・・・・・ 
   帰りの廊下には
   目刺しの目はなく
     ・・・・・・・
   まだ夫の目はありません
   ここに並ぶには年季がいるようです
   夫はどこでなにをしているのでしょうか

   私は独りになったら
   裏山の蔦で戸口を縛って
   家を出て行こうと思っています
   蔦は春には緑に 夏には一層艶やかに強く絡まり
   秋には赤や黄に燃え 冬はただつつましく
   家は留守に華やぐのです 

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画像に掲出した「帯」文は、巻末の「有性生殖に向けて」の一節が引用されたものである。
長い作品なので引くのは遠慮するが、冨上氏の言う通り「なかなかに手ごわい」。
読者の皆さんなりに読み解いていただきたい。
不十分だが紹介と抄出を終わる。 ご恵贈有難うございました。      (完)


  
まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・寺田寅彦
konara小楢本命

     まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・・・・・・・寺田寅彦

今や見渡すかぎり、みどり一色の若葉である。 この句は、そんな季節感を巧く作品化している。
作者の寺田寅彦 ← というのは、こんな人である。物理学者だが夏目漱石に師事し俳句やエッセイなどをよくした。

私の歌にも、若葉を詠んだ、こんなものがある。

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・五百木瓢亭

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


金雀枝や基督に抱かると思へ・・・石田波郷
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       金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

エニシダの咲き誇る季節になった。
もともとエニシダはヨーロッパ原産の植物である。
私にはキリスト教と深く結びついている木のように思える。
私の歌に次のような作品がある。

    金雀枝(えにしだ)は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・・・木村草弥

エニシダは地中海原産で、ヨーロッパに広く野生化している。日本には中国を経て、延宝年間に入ってきたと言われる。
オランダ語ではゲニスタやヘニスタと呼ばれていたが、日本ではエニスタと言われるようになり、今のエニシダになったという。マメ科の落葉低木。

この歌は1998年5月に南フランスに旅した時にボルドーの内陸部のアルビに立ち寄った時の歌である。
アルビというと、画家ロートレック(日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である)の故郷で、
その美術館も見たが、ガイドがさりげなく説明した「異端審問」で、この地でカタリ派が受けた暴虐を思い出して歌にしたものである。
アルビの野は、それらのカタリ派の無惨な血の記憶が染み付いているのである。


エニシダは初夏の花である。この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載っている。
この歌のすぐ後には

   まつすぐにふらんすの野を割ける道金雀枝の黄が南(ミディ)へつづく

が載っている。高速道路の路傍には、文字通り「エニシダ」の黄色が果てしなく続くのであった。

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「異端審問」あるいは「魔女狩り」というのは、キリスト教の歴史の中でも「負」の遺産として語り継がれているが、旅の中でも、こうした心にひびく体験をしたいものである。
そして、深く「人間とは」「神の名のもとに」という愚かな蛮行を思い出したい。

そんな意味からも、掲出した石田波郷の句は、私には関連づけて読みたい作品だったので、引いてみた。

「カタリ派」については、← ここにリンクした「世界宗教大辞典」の記事に詳しい。長いものだが参照されたい。


以下、エニシダを詠んだ句を少し引く。

 えにしだの黄色は雨もさまし得ず・・・・・・・・高浜虚子

 えにしだの夕べは白き別れかな・・・・・・・・臼田亜浪

 エニシダの花にも空の青さかな・・・・・・・・京極杞陽

 金雀枝(えにしだ)や基督に抱かると思へ・・・・・・・石田波郷

 金雀枝やわが貧の詩こそばゆし・・・・・・・・森澄雄

 金雀枝の咲きそめて地に翳りあり・・・・・・・・鈴木東州

 金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る・・・・・・・松本たかし



茶師なれば見る機もなき鴨祭むらさき匂ふ牛車ゆくさま・・・木村草弥
g08葵祭

   茶師なれば見る機(をり)もなき鴨祭
     むらさき匂ふ牛車(ぎつしや)ゆくさま・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は塚本邦雄氏が読売新聞の「短歌時評」で採り上げて下さった2首のうちの一つである。
葵祭5月15日(雨天順延)に行われるが、この歌の主旨は、私が「茶」を生業としていたので、丁度その頃には新茶の製造時期であり、
それどころではない忙しい日々を過ごしていたので、じっくりと祭を見物する機会もなかった、ということである。
この祭は古来、俳句などでは五音に収まるというので「鴨祭」と通称されてきたのである。
京都には三大祭といって、葵祭、祇園祭、時代祭のことだが、一番古いのが、この葵祭である。もともと京の先住民とも言える賀茂氏の祭だった。
現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭が、平安遷都を境に国家的な祭になって行った。
さわやかな新緑匂う皐月の頃、藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ)や輿に乗った「斎王代」を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する祭の光景は、
平安の昔をそのままに、都の雅(みやび)そのものを展開すると言える。

写真の説明をしておくと写真①が御所をでる行列、写っているのは牛車。写真②は、牛車の側面──藤の花の房で飾られている。写真③は輿に乗る斎王代。
hyosi牛車

saio-03輿に乗る斎王代

現在の祭の主役は「斎王代」だが、この斎王代が主役となっての祭の歴史は新しい。
斎王代とは、その名の示すように、斎王に代わるもの、代理である。
斎王は伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことである。
平安の昔、この祭が国の祭であった頃、賀茂の宮には斎王が居られ葵祭に奉仕しておられた。
お住いを斎院と言い、祭のときに出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。
写真④は下鴨神社のみたらし川での斎王代の禊の様子。祭の数日前に行われる。
saio-01斎王代みそぎ

葵祭の始まりは平安時代初期、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇が伊勢神宮にならって、賀茂社にも斎宮を置いた。
この初代斎王─有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶する。
以後、葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
saio-02女人行列

それを昭和28年に葵祭復活後、行列を華やかに盛り上げるために、葵祭行列協賛会などの努力で「斎王代」を中心にした女人行列(写真⑤)などを加えて、今日に至るのである。
斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
これに選ばれることは名誉なことであるが、選ばれることによる持ち出しも大変なもので一千万円にも及ぶ出費を覚悟しなければならず、
高額所得のある社長令嬢しか、なれない役目である。

参考までに申し上げると、三大祭の他の二つは、
「祇園祭」は中世に京の都が荒れ果て、病気が蔓延していた頃、「町衆」が立ち上がり世の平穏と病魔退散を願って立ち上げたのが祇園祭であり、別名を町衆の祭と言われている。
だから、この祭には勅使なども一切参ることはない。昨年にも書いたが「大文字の送り火」も町衆の発起したものである。
もう一つの「時代祭」は、明治になって平安神宮が郊外の岡崎の地に造営されたのを機会にはじめられた時代行列である。まったく新しい祭である。
都が東京に遷都して京都の町が疲弊していたのを立て直すイベントとして考案されたもの。

以下、葵祭を詠んだ句を引いて終わりたい。

 草の雨祭の車過ぎてのち・・・・・・・・与謝蕪村

 賀茂衆の御所に紛るる祭かな・・・・・・・・召波

 地に落ちし葵踏みゆく祭かな・・・・・・・・正岡子規

 しづしづと馬の足掻きや加茂祭・・・・・・・高浜虚子

 懸葵しなびて戻る舎人かな・・・・・・・・野村泊月

 うちゑみて葵祭の老勅使・・・・・・・・阿波野青畝

 牛の眼のかくるるばかり懸葵・・・・・・・・粟津松彩子

 賀茂祭り駄馬も神馬の貌をして・・・・・・・・伊藤昌子
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FI2618837_2E.jpg

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「葵祭」の名前の由来は、この儀式全体を通じて「葵」─フタバアオイの葉っぱを延一万本も飾ったり掲げたりすることによる。これを「挿頭」(かざし)という。
写真⑥がフタバアオイの葉っぱである。
今までは、この葵は神社の境内に自生しているものから摘み取って使ってきたが、枯渇してきたので神社奉賛会などの努力で、苗を各地で栽培してもらって提供していただいているという。
牛車の脇に垂らされるのが「葵」の花なのか「藤」の花なのか。フタバアオイの花は写真に写るようなものとは全然別のものであるからフタバアオイの花である筈がないのである。
だから今の季節の華やかな花である「藤」の花が垂らされているようである。
フタバアオイの花の咲くのは一ヶ月も後であり、そのフタバアオイの花の写真⑦もつづいてお目にかける。
なお掲出した写真は、いずれも過年度のものである。


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