K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
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東日本大震災から五年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 われもまたおちてゆくもの透明ならせんをかすかにためらいながら・・・・・・・・・・・沙羅みなみ
 橋脚ははかなき寄る辺ひたひたと河口をのぼるゆふべの水の・・・・・・・・・・・・・・・・大辻隆弘
 安倍晋三と金正恩の会談を思ひみるなり孫と孫との・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 半身は秋涛深く裁ちてゆく吃水のごと薄野を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三宅勇介
 ポテトチップのコンソメ味がぽっかりと頭に浮かんでいる夜歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井祐
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・ 土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 なだれ咲く秋桜の野にふたり来つ、過去と未来の接ぎ目なす野に・・・・・・・・・・・・・・・ 高島裕
 既視感(デジャビュ)は夢にもありて前にみし夢と知りつつ夢を見てゐる・・・・・・・・・・小野雅子
 ゆつくりと夕暮の来る気配して影をうしなふ舗道(いしみち)のうへ・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 老いたりといえど凶暴なおんどりが犬に挑んで小屋を占拠す・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 ひと鳴きに序章終章法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 切れ切れの眠りつないで明易し・・・・・・・・・・・・・・山浦純
 蟻一匹影より大き蝶担ぎ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水上啓治
 名月を戴きこの家肉食す・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 昭和史の影の張りつく八月よ・・・・・・・・・・・・・・ 中島伊都
 蒼ぎんなん枝にびっしりお母さん・・・・・・・・・・・・高木一恵
 青春の「十五年戦争」釣瓶落し・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 秋曇りうつぶせで書くものがたり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 雑木林もう足音になった秋・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池弘子
 頬杖ながき無為の怖さの晩夏かな・・・・・・・・・・・伊東友子
 鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 三人四人五人六人風邪心地・・・・・・・・・・・・・・・・華呼々女
 烏瓜の花さみしさは少し塩っぽい・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 散らかしたままの女よ百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・菊川貞夫
 新涼の道はローマへ晩節へ・・・・・・・・・・・・・・・北村美都子
 秋の蝉和む暗さの茶会かな・・・・・・・・・・・・・・・・ わだようこ
 トウキビの熟毛ほどよき男髭・・・・・・・・・・・・・ 鈴木八駛郎
 野の水に映りて毛虫焼く父よ・・・・・・・・・・・・・・・・関田誓炎
 志功天女乳房奏でる良夜かな・・・・・・・・・・・・・・・武藤鉦二
 覇気のないバーゲン中の扇風機・・・・・・・・・・・・・石川青狼
 隊員募集そんな貼り紙毛虫這う・・・・・・・・・・・・・ 大西健司
 独り赴任無人駅出て会ふとかげ・・・・・・・・・・・・・ 川口裕敏
 遠帆よ吾に東シナ海漂流記・・・・・・・・・・・・・・・・・草野明子
 禁猟区人は眉書き爪を染め・・・・・・・・・・・・・・・・・児玉悦子
 田の神にまず一礼し稲咲かせ・・・・・・・・・・・・・・・ 後藤岑生
 言の葉の戦ぎに任す晩夏かな・・・・・・・・・・・・・ 近藤亜沙美
 生きていることをおどけて法師蝉・・・・・・・・・・・・・ 大池美木
 活断層割りそこねたる大南瓜・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤暁美
 夕焼けに一歩近づく別れかな・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤一湖
 銀やんま飛ぶ寸前の発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 屈託の元はくねくね夏の果て・・・・・・・・・・・・・・・下山田禮子
 白雲の駄々と過ぎゆく晩夏かな・・・・・・・・・・・・・田口満代子
 自転車に秋刀魚と空を振り分けて・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 影少し背中を離れ今朝の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

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 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
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書評「自己存在の起源を求めて」・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
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──書評・評論──再掲載・初出(角川書店「短歌」平成11年9月号所載)

        「自己存在の起源を求めて」・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
              ・・・・・・木村草弥歌集『嘉木』書評・・・・・・・・・・

『嘉木』は、木村草弥氏の第二歌集。
集名は、陸羽の『茶経』の「茶は南方の嘉木なり」によるもの。
表紙の「製茶の図」が格調を示すのも「生業である<茶>に対するこだわり」のあらわれであろう。

    ・汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり
    ・<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ
    ・立春の茶畑の土にくつきりと生命線のごと日脚のびたり
宇治茶問屋の経営主の木村氏が、自ら茶摘みに励まれる歌。
一、二首目のヨーロッパ的教養が、茶摘みにあらたな匂いを添え、
三首目、立春の日脚の伸びる茶畑は、次の芽生えを育む光を浴び明るく健やかである。

    ・山城の荘園領主に楯つけば「東大寺文書」に悪党と呼ぶ
    ・年貢帳にいみじくも記す八十六人、三石以下にて貧しさにじむ
    ・女の名は書かず女房、母とのみ宗旨人別帳は嘉永四年
氏の住む周辺は、玉つ岡、青谷の里、つぎねふ山城、と地名うつくしく、また豊かな歴史がある。
古典、古文書を身近に引き寄せ、その上に数十首の歴史詠があるが、
抄出のように弱い立場の階級に視点をとどめる歌に注目した。
古文書の謎めいた一行が明快に甦るのも韻律の働きであろうか。
実証的な内容に雰囲気が加わり、つぎねふ山城は生命ゆたかに、木村氏の精神風土となっている。
「自らのアイデンティティを求めたのか」と川口美根子氏の帯文にある。
まことに自己存在の源を求めて郷土への執着が窺われ、この上に茶園があり、氏の四季詠がしずかに光を放っている。

<ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ>の一首もあるが、
旺盛な知識欲と博識は、自から一集に滲む。

    ・葡萄摘むアダムの裔(すゑ)の青くさき腋窩あらはに濃むらさきなす
    ・押し合ひて群集はときに暗愚なり群を離れて「岩うつモーゼ」
    ・ヘブライの筆記のごとく右から左へ「創造」の絵はブルーに染まる
海外詠も、キリスト教的起源に触れ、英知を求めての旅であったろうか。
旧約を力づよい詩魂で描いたシャガールの図像に、知識人らしい見方がもりこまれている。

    ・黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む
    ・サドを隠れ読みし罌粟畑均されて秋陽かがやく墓地となりたり
「死の書」もサドも、日常現実のなかでうまく溶けあい、言葉の繋りにより気配が生れ、雰囲気のひろがる歌。
「詩はダンスである」、氏の心得とされるヴァレリーの言葉を重ねて味わっている。

犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹
img548赤まんま本命

  犬蓼にある明るさよ野草園・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものに、こんなのがある。

   赤まんま幼のあそぶままごとの赤飯なれどだあれも来ない

   老いぬれば無性に親しき赤まんま路傍にひそと咲いてゐるゆゑ
・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。この歌も愛着のある歌で、放しがたい。

「赤まんま」または「赤のまま」などと呼ばれるが、それは赤い実の形からきている。
植物名としては「イヌタデ」という蓼の仲間である。タデ科の一年草。いたるところに自生する。
花は夏から秋にかけて咲くが、どちらかというと秋の花と言った方がよい。紅紫色の穂になって咲くが、花びらが無く、萼だけである。
役にたたない蓼ということでイヌタデと名づけられたというが、赤飯のような花なので赤まんまという。
子供のままごとに使われるというので、それが俗称の名前になった。ややメルヘンチックな印象の花である。
子供のままごとと言っても、おおよそは女の子のすることで、お招待でままごとに呼ばれることはあっても、
お義理であって男の子は、もっと乱暴な、活発な遊びがあった。しかし、赤まんまが赤飯の代りであることは知っていた。
先に書いたように、この草は、どこにでもある、ありふれた草だった。

『万葉集』に

  我が宿の穂蓼古韓(ふるから)摘みはやし実になるまでに君をし待たむ

という歌があるが、実になるまで待つと言って少女への恋の実りを待つに重ねて詠っている。
以下、赤まんまを詠んだ句を引いておく。

 日ねもすの埃のままの赤のまま・・・・・・・・高浜虚子

 手にしたる赤のまんまを手向草・・・・・・・・富安風生

 勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま・・・・・・・・中村草田男

 赤のまま妻逝きて今日は何日目・・・・・・・・小川千賀

 山羊の貌朝日うけをり赤のまま・・・・・・・・坪野文子

 赤のまま此処を墳墓の地とせむか・・・・・・・・吉田週歩

 ここになほ昔のこれり赤のまま・・・・・・・・桜木俊晃

 出土土器散らばり乾き赤のまま・・・・・・・・水田三嬢

 縄汽車のぶつかり歩く赤のまま・・・・・・・・奥田可児

 


葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・・・・・・・・・中村草田男
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      葡萄食ふ一語一語の如くにて・・・・・・・・・・・・中村草田男

秋は果物のおいしい季節である。ブドウもそのうちに数えられる。
品種改良されて、さまざまの種類がある。梅雨の終る頃には、もう早生種のデラウエアが出回ってくる。
岡山のマスカットのように芸術作品のような高級品ではなく、気軽に食べられるものがよい。
掲出の草田男の句は葡萄のひと粒ひと粒を口に入れながら、それを文士らしく「一語一語」と表現したのが面白い。

   葡萄一粒一粒の 弾力と雲・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

という、いかにも前衛俳句らしい──短詩のような句も面白いと思ったが、無難な草田男の句にした。

写真②は、ブドウの若い実である。
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種無しブドウは、一種のホルモン剤のジベレリンという液にひと房づつ浸してゆく処理をするのである。
噴霧器で撒布してもよいが大半の液が無駄になるので高くつき過ぎるのでやらない。
とにかく日本の農作業は労働集約的な手間をかけるもので、世界一高い労賃が、さらにコストを押し上げて果物も一個一個が高くつく。
この段階を過ぎて実がある程度に大きくなると「摘果」といって、そのまま放置すると粒が多いままだと粒が大きくならないので、鋏で実を間引く。
これも根気の要る作業だ。さらにひと房づつ紙袋をかぶせる作業をする。もちろん殺虫剤の撒布も必要である。
商品として店頭に並ぶブドウには、こんなにもさまざまな手間がかかっている。

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写真③はブドウ畑である。レクリエーションでブドウ狩に行ったことのある人もあるだろう。
白い紙袋がかかっているのが見える。最初は完全に隠れるように袋に入っているが、完熟するにつれて紙袋の底をあけてゆく。
もちろん最初から「無袋」(むたい)といって袋かけしないものもある。
岡山のマスカットなどは「温室」栽培のもので、ものすごくコストがかかっているから、とびきり高価である。
このマスカット系の品種は皮と実が剥しにくく食べ難いので私は好みではない。

ここらで本題の文学作品の中の葡萄のことに戻る。

 のちの月葡萄に核(さね)のくもりかな・・・・・・・・夏目成美

 食むべかる葡萄を前にたまゆらのいのち惜しみて長し戦後は・・・・・島田修二

ここに引いた島田修二は、2004年9月半ばに睡眠中に死去された。もと読売新聞記者で「コスモス」の宮柊二の高弟で朝日新聞歌壇の選者だった。
島田は海軍兵学校在学中に敗戦を迎えたあと東京大学を出た。そういう人だから、「たまゆらのいのち惜しみて長し戦後は」という述志の歌になるわけである。

歳時記にも葡萄の秀句も多いが、少し引いて終る。

 天辺や腋毛ゆたかの葡萄摘み・・・・・・・・・・・・平畑静塔

 原爆も種無し葡萄も人の智慧・・・・・・・・・・・・石塚友二

 黒葡萄ささげて骨のふんわりと・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 色惜しみつつ夜明けつつ黒葡萄・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 レマン湖のひかりに熟れて葡萄畑・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 老いてゆく恋人よ葡萄棚の下・・・・・・・・・・・・今井杏太郎

 少年がつまむ少女の掌の葡萄・・・・・・・・・・・・藤岡筑邨

 葡萄垂れ献身といふ言葉かな・・・・・・・・・・・・永島靖子

 黒葡萄聖書いつよりなほざりに・・・・・・・・・・・・山岸治子

 葡萄ひと粒を余して本題に・・・・・・・・・・・・松下美奈子

 青葡萄ひとつぶごとの反抗期・・・・・・・・・・・・宮里晄

 手秤の葡萄ひと房聖書ほど・・・・・・・・・・・・小倉通子


エッセイ「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──再掲載・初出「未来」誌2001年8月号所載ほか

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・・・・・・・・・・草間時彦
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  鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・・・・・・・・・・草間時彦

スズムシは8月中旬から10月末まで鳴く。もともとは野原の草むらで鳴く虫だが、今では籠に入れて飼ったり、甕にいれて繁殖させて越冬させたりする。
日本では本州にいるが北にゆくほど居なくなるという。コオロギに近い種類で、黒く西瓜の種に似ている。リーンリーンと鈴を振るように鳴く声が美しい。
ただ平安時代にはマツムシと言われ、逆に松虫はスズムシと呼ばれたというから、ややこしい。
『和漢三才図会』には「夜鳴く声、鈴を振るがごとく、里里林里里林といふ。その優美(やさしさ)、松虫に劣らず」とある。清亮さが尊重されてきた虫である。

写真②はスズムシが羽を擦りあわせて鳴いているところ。
suzu0137鈴虫鳴き

スズムシの飼育の難しさは餌が切れたりすると「共食い」することである。
平生はキュウリやナスなどの野菜の切り身を食べるが、繁殖期には「カツオブシ」の削ったものなどを与えて栄養をつけさせる。
こういうスズムシの繁殖などに文字通り命をかけている人たちがいるらしい。

suzu0147鈴虫交尾

写真③はスズムシの「交尾」の様子である。こういうのを写真に撮るのもたいへん難しいものである。
交尾のエクスタシーに片方が羽を震わせている貴重な写真。
野生の状態では、カマキリと同じように、交尾が済むと雌が雄を食べて栄養分を補給したのではないか、と思われる。
飼育に際しては、それでは困るので、カツオブシの削ったものなどを与えるのである。

suzu0150鈴虫産卵

写真④は交尾が済んで受精した雌が輸卵管を土の中に差し込んで産卵しているところ。じめじめと湿気の多い、暗い環境が必要である。
飼育中は「霧吹き」で湿気を与える細心の注意が必要である。
普通は産卵の済んだ雌は死ぬが、飼育環境が良い場合は、雄も雌も生きたまま越冬することもあるという。
飼育も、その辺の域に達すると「スズムシ博士」と言われるのである。
何事も、その筋の最高権威と言われるには、口には言えない苦労と独自のノウハウが必要である。

suzu0160鈴虫卵

写真⑤は産みつけられたスズムシの卵である。
晩秋に産みつけられるので、この卵の状態で越冬し、次の年の春に、可愛いスズムシの幼虫が孵化してくるのである。
ここでも適度の湿気が冬の間も必要で、乾燥させてはならない。孵化した幼虫は何度も脱皮して少しづつ大きくなって成虫になる。
スズムシ ← このサイトでは、スズムシの脱皮なども観察でき、きれいな声も聞けるので、お試しあれ。

古来、スズムシの声を愛でて俳句などに詠まれてきた。
それを少し引いて終る。
掲出の草間時彦の句は鈴虫を直接に詠むのではなく「塞ぎの虫」と共に飼う、というところが面白い。

 飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し・・・・・・・・正岡子規

 寝(い)も寝(いね)ず甕の鈴虫長鳴くに・・・・・・・・富安風生

 鈴虫や早寝の老に飼はれつつ・・・・・・・・後藤夜半

 鈴虫は鳴きやすむなり虫時雨・・・・・・・・松本たかし

 鈴虫や甕の谺に鳴き溺れ・・・・・・・・林原耒井

 鈴虫を死なして療者嘆くなり・・・・・・・・秋元不死男

 戸を細目に野の鈴虫の声入るる・・・・・・・・篠田悌二郎

 鈴虫の生くるも死ぬも甕の中・・・・・・・・安住敦

 膝がさみしと鈴虫育てゐるか母・・・・・・・・鈴木栄子

 鈴虫のひるも鈴振る地下茶房・・・・・・・・福島富美子

 鈴虫のりんりんと夜をゆたかにす・・・・・・・・永井博文


紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・・水原秋桜子
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  紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
この句もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。

掲出したは波郷の句は、「男も汚れてはならず」と詠んでいて、老いの境地にある私への「警句」のように座右に置いているものである。

写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものに、こんな、母への思いを詠んでいるものがある。

    桔梗(きちかう)の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕(た)ちくる

    乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき
・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線





梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
housui015豊水梨

  梨食ふと目鼻片づけこの少女・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

梨に無心にかぶりつく少女──この情景は、梨を四分割ほどにカットして食べ易い形にしたものを想像すると面白くない。
この句の情景は、梨を丸ごと、かぶりつく、ということであろう。
「目鼻片づけ」という表現は、目も鼻もどこかへ片づけて、食べることにひたすら没頭している少女、なのである。
余談だが、俳句の「俳」の字は、もと一般人と変ったことをして人を興じさせる芸人の意味だという。俳優の語は、そこから来た、と言われている。
明治以降の「俳句」も、和歌に対抗して滑稽な詩情を開拓した俳諧から出ているが、現代の俳句はもちろん、滑稽みや軽みだけですべてが表現されるものではない。
新しい短詩形文学の一形態として多種多様な心情を盛る。
この楸邨の句は、抜群の俳味をたたえてふくよかである。昭和51年刊『吹越』所収。

「梨」については、すでに9/7付けのBLOGで、私の歌を掲出して書いた。
俳句についても、いくつか引用したので、改めて付け加えることもないが、「梨」=無し、に通じるとして昔の人は言葉忌みをして「ありのみ」などという命名をしたものである。

先日は引かなかった句を少し引いて終る。

 仏へと梨十ばかりもらひけり・・・・・・・・・・・・正岡子規

 梨売りの頬照らし過ぐ市電の灯・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 孔子一行衣服で赭い梨を拭き・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 有の実やわれの故山を何処とも・・・・・・・・・・・・上田五千石

 勉強部屋覗くつもりの梨を剥く・・・・・・・・・・・・山田弘子

 さみしさを八つに割りし梨一個・・・・・・・・・・・・鳴戸奈菜

 一目瞭然の室内ラ・フランス・・・・・・・・・・・・有沢榠櫨

 老成も若さも遠し梨をむく・・・・・・・・・・・・深谷義紀

 梨甘き夜を欠くるなく集ひけり・・・・・・・・・・・・塙告冬

 夕刊に音たてて落つ梨の汁・・・・・・・・・・・・脇屋善之

 ラ・フランス花のごとくに香りけり・・・・・・・・・・・・佐々木まき

 梨半分ラップに包み逝きにけり・・・・・・・・・・・・近藤紀子

 袋よりはち切れさうな梨の尻・・・・・・・・・・・・間部美智子





自が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・・・・木村草弥
2002gekkabijin0716b月下美人

  自(し)が開く力に揺れて月下美人
        ひそけき宵に絶頂ありにけり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「月下美人」は長らく名前は聞いていたが二十数年前に知人から一鉢もらって今も栽培していた。
珍しい神秘的な花として当初は、わくわくだったが、栽培してみると毎年いくつも花が簡単に咲くので拍子抜けするようである。

040626蕾はじめ①

写真②が「つぼみ」の段階である。最初は垂れているが成熟するにつれて「勃起」するように花が上を向いてくる。
写真は、最初の下向きに垂れている段階。写真に写っている右の二本の蕾は、これ以上発育せずに、落ちてしまった。

月下美人は、もちろん外来の植物で「サボテン」の類である。
栽培本によると直射日光を避けるように書いてあるものもあるが、それはおかしく、本来、熱帯地方の植物であるから、寒さには弱いが暑さには強い。
私の家では半日以上直射日光の当るところに置いてある。
写真③が、その段階を過ぎて、蕾が上向きになりかけたところ。
040629蕾起き上がり

私は知人が栽培していた月下美人の鉢を、ここ一両日で咲くという段階のものを頂いた。十数年前のことである。
月下美人の名の通り、夕方から、晩になって、とっぷりと夜のとばりが下りた夏ならば午後9時ころから開花しはじめる。
大振りの花で直径は10センチ以上ある。もちろん手入れの仕方によって花にも大小はある。
花芽は写真③に見られるように葉の切れ込みの辺りから出てくる。葉の出てくる場所も同じような処からである。
先にサボテン類と言ったが、シャコバサボテンの花芽の出方と同じである。
写真④は勃起しかけた蕾が複数ついているところ。
626_5月下美人蕾

とにかく月下美人の蕾の発育の仕方を見ていると、男性性器が平常時のしぼんだ状態から「勃起」し、かつ大きさも何倍にもなるのと同じような動きを示すので、ある意味でエロチックである。
花はとっぷり夜になってから一時間余りかけて完全に開く。
そして翌朝には完全に「しおれて」勃起していた花も下を向いて、だらんと垂れている。
この様子も、事が終ったあとの男性性器の状態を思わせて、むしろ嫌らしい感じさえする。
しおれた花は葉の付け根から、すぐに切り取る。そうしないと次の開花に影響があるようだ。
写真⑤が、そのしおれた花の様子である。
bijin-11萎んだ花

とにかく月下美人は強い植物で、冬の間は屋内の南側のガラス越しの場所に置いてやれば栽培には問題はない。
私の家では、夏場はほったらかしである。水やりは、たっぷりと毎日夕方にやる。

掲出の歌は歌集には未収録のものである。第四歌集『嬬恋』(角川書店)には収録歌数が多くなりすぎて削ったので

月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花

という歌だけ載せた。しかし、この歌よりも、掲出した歌の方が佳いと思って、これにした。初出は「地中海」誌に載せた7首であり、以下に、それを引用する。

  月下美人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  かのひとに賜ひし一鉢ふくらめる月下美人の咲くを待つ宵

  この宵は月も出でざれば月下美人一花乱るる刻きたりけり

  蛇皮線を弾いて月下美人の花待つと琉球の友の言ひしも愛(かな)し

  白き焔(ほ)を吐きて月下美人のひらき初む一分(いちぶ)の隙もなきしじまにて

  友の喪より帰り来たれば月下美人咲き初めむとす 梅雨ふりしきる

  自(し)が開く力に揺れて月下美人ひそけき宵に絶頂ありにけり

  月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花
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月下美人に驚きを感じなくなった今なら、こんな感動に満ちた歌は作れない。
詩歌は「刻の産物」と言われるが、まさに、そのことを、この一連は証明している。



八十の少年にして曼珠沙華・・・・・・・・・・・・高島茂
aaoohiganb3ヒガンバナ大判
高島茂

   八十の少年にして曼珠沙華・・・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂の遺句集である『ぼるが』(卯辰山文庫刊)の巻末に「原風景」(遺句11句)として載るものである。
今の晩夏から初秋の句として惹き出せる句が意外と少なく、この一連を引くことにする。
高島茂は平成11年8月3日に亡くなった。行年79歳であった。

彼については何度も書いたので繰り返さないが、当該記事のリンクを見てもらいたい。
掲出の写真は句集『ぼるが』の巻頭に載るものをスキャナで取り込んだが私の腕が未熟なので鮮明でないが、ご了承ねがいたい。
高島茂筆跡0001

写真②は、同じく句集『ぼるが』の表紙裏から「見開き」にかけて載る彼の「筆跡」である。
几帳面な、かっちりとした字が彼の性格を表すように原稿用紙の升目に並んでいる。

以下、掲出句を含む一連を引いておきたい。
なお、原文の漢字は「正字体」で書かれているが、私の独断で「新」字体に変えさせてもらったので、ご了承願いたい。

 原風景(遺句11句)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

雷鳴が腹中に棲み駆け狂ふ

つつがなく腹中を涼風ふきぬけよ

手を籠にして蕾の翁草ながめけり

黄華に咲きゐしきすげ寒風たつ

はまなすの紅実のこりて海猫遠し

崖に一羽の海鵜声なきは淋しかりし

八十年顧みしことありおぼろなり

八十の少年にして曼珠沙華

踏まれ鬼に青い蜘蛛来て糸を巻く・・・・・(七月二十一日)

 □

黒牛の地を蹴る時は戦詩興る

白牛の地にまろびしは平和なりし・・・・・(七月二十三日)
------------------------------------------------------------------------
これらの作品は高島茂の死後、ご子息で結社を引き継がれた高島征夫氏が句帖から引かれたものだが、
死の床にあって、彼の脳裏にさまざまのことが去来したのが、よく判るのである。
はじめの二句などは、体の中に取りついた死霊が惹き起こす「騒擾」との戦いを句に表現したようにも受け取れる。
「戦い」という表現は不適切かも知れない。もはや一種の「諦観」みたいなものが漂っているから、
「せめて苦しまずに死なせてくれよ、病よ」ということかも知れない。
「八十年顧みしことありおぼろなり」「八十の少年にして曼珠沙華」の句からは、幼い頃の回想が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っている様子がみてとれる。
掲出句のように、八十になっても心は依然として「少年」なのである。
私自身が、いまや八十を超えた年齢に達しているので、彼の心中が手にとるように判る気がするのである。
終りの二句は一種の「対」句のようになっていて「戦争と平和」ということを「黒牛」と「白牛」という対比によって表現されたのであろう。
書かれるように戦争中には「戦詩」が「興っていた」ことがある。今となっては、その善悪を云々するのは止めたほうが良さそうである。
「いまわの際」になっても高島茂という優れた俳人は、詩人としての「性」(さが)を示されたと思う。
敬服に価いする立派な最期だった。
その後を継承された、ご子息の征夫氏も亡くなられた今となっては、うたた感慨新たなるものがある。


巡礼の旅・ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。


昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら/水と空とに映えながら 愛は死の/死は愛の旗をうち振っている/ぼくらの中でそれにひそかに応えるものに応えながら・・・・・・大岡信
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     痛み・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   秋 ぼくは時の階段をおりてゆく

   永遠の岸に腰をおろして

   空をわたる人の微(かす)かな足音にききいるために

   そこを一つの肉体が 時間が通る



   風がしげみを吹きわけるように

   永遠がぼくらのあいだを横切っている

   ぼくらが時おり不安にみちて

   恋人の眼をのぞきこむのはそのためなのだ



   遠い地平を魚がゆきかう暗い夜明け

   夢がふいに過去を抜けでて

   ひらきかけた唇のうえにやってくる

   誰にも知られずそこで乾いて死ぬために



   生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら

   水と空とに映えながら 愛は死の

   死は愛の旗をうち振っている

   ぼくらの中でそれにひそかに応えるものに応えながら

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この詩は学習研究社『大岡信・うたの歳時記』──秋のうた(1985年9月刊) に載るもので、書き下ろしの詩だという。
現代詩読者向けではなく、一般読者向けの平易な、分り易い詩である。
冒頭の「秋 ぼくは時の階段をおりてゆく」という出だしから、4連冒頭の「生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら」という個所など秀逸である。
題を「痛み」としたところに作者の内面を知ることが出来よう。


朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・・・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    朱(あけ)しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく
         「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
歌の意味は、夕日を眺めていて「ゆゑ」=理由もなく「叱られて」の唄が浮かんできたというものである。
そんな経験は誰にでもあるのではないか。

kokoronouta-sikararetehirota2弘田龍太郎

「叱られて」の唄は、清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲になるものである。写真②は弘田。
この唄は大正9年(1920年)に、清水かつらの歌詞とともに雑誌『少女号』に発表された。
現代の子供たちには、はるか昔の大正時代の村はずれの寂しさなど想像も出来ないだろう。
夕暮れともなれば灯ひとつない小径は薄気味悪いくらいに、ひっそりと静まりかえっている。ひとり家路を急ぐ自分の足音だけが、なぜかやたらに大きく聞こえる。

弘田龍太郎の曲は、詩のもつ情感をそのまま表現することに成功した。
弘田は、明治25年(1892年)高知県安芸市生まれ。
写真③は郷里に建つ「叱られて」の歌碑。

shika叱られて歌碑

ここで、この唄の歌詞を書き抜いておく。

katura2清水かつら
 ↑ 清水かつら

 「叱られて」─────清水かつら

   ①叱られて
    叱られて
    あの子は町まで
    おつかいに
    この子は坊やを
    ねんねしな
    夕べさみしい
    村はずれ
    コンときつねが
    なきゃせぬか

   ②叱られて
    叱られて
    口には出さねど
    目になみだ
    二人のお里は
    あの山を
    越えてあなたの
    花の村
    ほんに花見は
    いつのこと

この歌詞から判ることは、この子たちは、年端もゆかないのに、「山のあなたの、花の村の里」から奉公に出されて来ている少女だということである。子守りや雑用に少女たちが携わっていたのである。

清水かつら、のことは、先に彼の写真だけ出しておいたが、ネット上には次のように載っている。
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 清水かつら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日~ 1951年(昭和26年)7月4日)は男性詩人。
本名は、清水桂。特に童謡詩人として知られる。

生涯
本名は清水桂。東京深川生まれ。4歳で生母と父は離縁し、12歳で継母を迎え、本郷区本郷元町に住み、父と継母に育てられた。

京華商業学校(現在の京華商業高等学校)予科修了後、青年会館英語学校に進学し、1916年(大正5年)合資会社中西屋書店(書籍・文具店、東京市神田区表神田2番、後に丸善が吸収)出版部へ入社した。 中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行するため「小学新報社」を創設し、かつらは、少女雑誌「少女号」(1916年(大正5年)創刊)や「幼女号」「小学画報」を編集した。編集者には、鹿島鳴秋(「浜千鳥」「金魚のひるね」作詞者)や山手樹一郎がいた。

編集の傍ら童謡の作詞を始め、関東大震災で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送った。

1927年(昭和2年)小学新報社を退社。

1933年(昭和8年)-1943年(昭和18年)の間、花岡学院の講師となる。

1951年(昭和26年)7月4日に、「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて、享年53で永眠。同年7月11日に、文京区本駒込の吉祥寺で音楽葬が行われ、弘田龍太郎や中山晋平の弔辞の後、ビクター児童合唱団と音羽ゆりかご会が「靴が鳴る」を斉唱、最後に四家文子が「叱られて」を歌った。

墓所は、文京区本駒込の吉祥寺。

主な作品
戦前
靴が鳴る(1919年(大正8年)9月11日作曲、「少女号」同年11月号に発表、弘田龍太郎作曲)
叱られて(「少女号」1920年(大正9年)4月号に発表、弘田龍太郎作曲)
あした(「少女号」1920年(大正9年)6月号に発表、弘田龍太郎作曲)
雀の学校(1921年(大正10年)12月7日作曲、「少女号」1922年(大正11年)2月号に発表、弘田龍太郎作曲)

戦後
みどりのそよ風(1946年(昭和21年)、草川信作曲) - 新時代を象徴するような明るい曲で、現在も人気が高い。

作品集
『清水かつら童謡集』 上笙一郎、別府昭雄 編、海沼実 解説(ネット武蔵野、2008年3月) ISBN 4944237464
存命中も含めて、かつら唯一の作品集。
歌碑など [編集]
東武東上線和光市駅前に、「みどりのそよ風」、「靴が鳴る」、「叱られて」の歌詞が刻まれた歌碑がある。

東武東上線成増駅の南口に「うたの時計塔」(主な作品に掲げている5作品に、「浜千鳥」を加えた楽曲が流れる。1976年(昭和51年)8月8日設置。)、北口に「みどりのそよ風」碑、アクトホール外壁に「雀の学校」の楽譜と歌詞を刻んだプレートがある。
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蛇足的に書いておくと、私の子供の頃は、私の育った農村の村の中の道を、明け方にキツネが「ギァー」と鳴いて通ったりしたものである。
この詩で「コンときつねが」と書いてあるし、キツネが「コン」と鳴くというのは、よく見る表現だが、キツネは「コン」とは鳴かない。
キツネは犬科の動物なので、どちらかというと犬に近い鳴声といえよう。ただし「ワンワン」とは鳴かない。
私が子供の頃に戸外で鳴く声を聞いたのは、先に書いたが「ギャー」というものであった。
農村でも「子守り」を雇えるのは地主などの富裕層だけであった。多くの農民は地主さんの土地を耕す「小作農」であった。
戦後、マッカーサーの指令で「農地解放」の政策が執られたので、その後、もう60年の年月が経つから、地主と小作人との関係などについても、
日本人の大半は、何らの知識も体験もない始末である。
第一、都市生活者が多くて、彼らは農村については、何も知らないのが実情であるから、何をや言わん、である。
こんなことを書くつもりはなかったのだが、「この子」「あの子」は、「哀しい」子たちであり、ほだされて、つい筆がすべってしまった。
この辺で終わりにしよう。





クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」といふいみじくも言ふ・・・・・・・木村草弥
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    クールベのゑがくヴァギナの題名は
      「源」(スールス)といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだクールベの絵は、もう十数年も前になるが、ツアーの自由時間の一日を亡妻と「オルセー美術館」に遊んだ時に「クールベ」の室で見たものである。
この絵を、ここに出すのは躊躇されるので、→ 「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)を呼び出して見てください。
この絵のモデルなど詳しく書いてある。

サイズは46×55センチの大きさである。この作品は館の図録(当時の定価で50フランだった)にも出ていないので、今でも常設展示されているかどうか判らない。
この絵は仰臥して股をやや開いて横たわる裸婦を足先の方から描いたもので、画面の中央に裸婦の「ヴァギナ」が大写しになっている大胆な構図である。性器が、もろに描かれているのである。
クールベは、ご存じのように「リアリズム」絵画の巨匠として、フランス画壇にリアリズム絵画の潮流を巻き起こし、一世を風靡して美術史に一つのエポックを画した人である。
前衛芸術運動華やかなりし頃には、ボロクソに言われたこともあるが、美術史の上での運動として欠かすことの出来ない存在である。
絵に戻ると、その絵の題名が「源」source スールス、だと私は記憶していて歌集にも、そのように書いたのだが、上のリンクに出したように原題は「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)というのが正式らしいので、ここに訂正しておく。
もっとも「絵画の題名」というのは後年になって付けられることが多いので、私の記憶のように、私が見たときは「source」となっていたかも知れない。
「source」も「Origine」も同じような意味である。
それにしても「世界の起源」という題名には違和感がある。仰々しすぎるのではないか。

この歌については米満英男氏が、先に書いたリンクの批評欄で「木村草弥歌集『嬬恋』──感応」という文章で

・・・・・読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。・・・・・

と批評していただいた。 その米満氏も先年春に亡くなられた。 ご冥福を祈りたい。

 ↓ セルビアのパフォーマンスアーティスト、Tanja Ostojićは、2005年、この絵をパロディにして"EUパンティ"というポスターを制作した。
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↑ 写真③はオルセー美術館の内部の一部

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 ↑ 写真④は、その外観の一部で入り口の辺りを望むもの

よく知られるように、ここはヴィクトール・ラルーが20世紀はじめに設計した鉄道の終着駅・オルセー駅舎であり、鉄道廃止後、放置されていたのを1986年に美術館として改装したもので、写真②に見るように駅の大きなドームの構造を利用したユニークな造りになっている。
ドームの突き当たりにかかる大時計は、当時の駅にあった金ピカの豪華な大時計そのままのものである。

この美術館には多くの入場者があり、1988年には216万人を記録したという。パリの新名所として人気が高い。ここには1848年から1914年までの絵画、彫刻が集められ、それまでルーブルに展示してあったものも、ここに移された。1914年以降の作品はポンピドゥセンターに展示するという、年代別に館を分けるという、いかにもフランス人らしい合理主義の棲み分けがなされている。
このオルセーに展示される年代というと、日本人に人気の高い「印象派」の作品は、すべて此処にある。
即ち、ミレー、マネ、ルノワール、ドガ、ロートレック、ロダン、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどなどである。
この場所はセーヌ川の川岸で、オルセー河岸(Quai d'Orsay ケ・ドルセーという)という船着場のあったところ。
ここはセーヌ川を挟んで、ちょうどチュイルリー公園とルーブル美術館の向い側にあたる。
はじめに掲出した写真がセーヌ川越しにオルセーを見たもの。

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P9240985オルセー・レストラン

この館の玄関ホールの上の中二階には駅舎であった当時の極彩色で金ピカの内装を生かした「レストラン・オルセー」があり、食事をしながら下の回廊の様子を見下ろすことが出来る。
天井画も、ステキ ! 写真⑤⑥が、その内部である。
私たち夫婦も、ここで昼食を摂ったのは、言うまでもない。ぜひトライしてみられよ。
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お断り
先年、オルセーは大幅に改装された。
照明なんかも大変よくなっているらしい。
レストランも変わっているかも知れない。 念のために書いておく。


おはじきもビー玉遊びも知らぬ児の指がすばやくスマホを撫でる・・・・・・・茨城県・杉山由枝
120717gian_yamane002_480xスマホ

      おはじきもビー玉遊びも知らぬ児の
          指がすばやくスマホを撫でる・・・・・・・・・・・茨城県・杉山由枝


この歌は角川書店月刊誌「短歌」平成二十五年十月号に題詠「硝子」志垣澄幸氏の選で載るものである。
今どきの話題の「スマホ」をさりげなく取り込んだ佳作である。
今どきの子供は殆どがスマホを持っており、大人よりも、すばやく見事に操るらしい。私の身近には子供が居ないので、わからないが。

以下、題詠「硝子」の作品をいくつか引いておく。

  梅雨の朝結露に曇る硝子戸に子の落書きか「へのへのもへの」・・・・・・・鹿児島県・小村英弘

  ひんやりと冷たきガラスの台の上寝かされて撮るわれの背の骨・・・・・・・神奈川県・若月圭子

  パソコンの待ち受け画面の青空は三百六十五日真夏日・・・・・・・滋賀県・松山武

  常備薬持つ身となりて早二年眺めるだけの冷酒用酒器・・・・・・・千葉県・猪狩郁子

  窓硝子に顔を押しつけ母われを待つ幼子の鼻ぺちゃの顔・・・・・・・東京都・中村京子

  一枚の硝子へだててアカリウムにヒトという生き物見ている魚・・・・・・・青森県・中里茉莉子

  ささいなる諍ひのはて毀ちたる対のグラスの欠片をひろふ・・・・・・・青森県・平井軍治

  おそろいのブランディーグラスの一つ欠け無傷のグラスも共に廃棄す・・・・・・・宮城県・和田瑞之

  大蜘蛛がフロントガラスにはりついて十キロ先まで共に旅せり・・・・・・・熊本県・吉田尚子

  ガラス瓶梅雨の晴れ間の陽に晒し手順通りに梅干し漬けぬ・・・・・・・宮崎県・小泉千鶴子

  二重ガラス「しかも真空」とて誇るペンションなれや聴けぬ夜蛙・・・・・・・東京都・板坂寿一

  映画なる一コマ今に忘れざり硝子ごしなるリズの接吻・・・・・・・新潟県・神田弘子




古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・木村草弥
03-4絵唐津筒茶碗

    古唐津で茶を飲むときにうら悲し
      妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

写真①は「絵唐津橋農夫文筒茶碗」というもので、出光美術館蔵の桃山時代の逸品。
私の歌に詠んでいる古唐津は、もちろん無名の並物であることは言うもでもない。

先に私の歌の説明を済ませておく。
「うら悲し妻が横向き涙を拭きぬ」というのは、妻に病気が見つかって、自分の病状について妻がナイーブになっていた時期の作品である。
私としては、そういう妻を「いとしい」と思い、このような歌を残せたことを嬉しく思うものである。

さて、美術史からみた古唐津のことである。
唐津焼は肥前一帯で広範に焼かれ、生産時期も長期にわたっているため、多くの種類がある。
これを区別するため、美術史上では、主として釉薬や装飾技法の違いから、おおよそ次のように分類する。
奥高麗、斑唐津、彫唐津、無地唐津、絵唐津、青唐津、黄唐津、黒唐津、朝鮮唐津、三島唐津、瀬戸唐津、献上唐津、美濃風織部唐津など。

602113-7_1絵唐津
↑ 写真②は絵唐津と言えば松文だが、「絵唐津松文大皿」桃山時代、出光美術館蔵。

↓ 写真③は江戸後期の松江の名君で大茶人の松平不昧公が所持していた「奥高麗茶碗」銘<秋夜>、桃山時代、出光美術館蔵。
602113-7_3奥高麗茶碗

唐津焼に限らず、伊万里、有田、薩摩などの陶器産地は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島から多くの陶工を日本に連れてきて、陶土の探索や製陶に従事させたものから発展してきたと言える。
当時、朝鮮半島は製陶の先進地だったのである。

05large沈寿官
↑ 沈寿官作の薩摩焼の壺

薩摩焼の「沈寿官」家などは日本名を名乗らされてきたのを、最近になって先祖の朝鮮名を名乗るようになったものである。
これらの朝鮮半島ゆかりの陶工たちは、謂れのない民族差別に苦しんできたと思われるが、そんな中にあって、その唯一の救いは、我々は製陶の先進地から来たのだというプライドだったと思われる。
その生産品は献上品として各地の大名から喜ばれ、その故に或る程度の保護を受けられたのである。

このページは「唐津焼」について書いているので、つけたしになるが「沈寿官」家の名品を一点、写真⑤に紹介しておいた。


村島典子の歌「星の林」30首・・・・・・・・・木村草弥
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──村島典子の歌──(27)

     村島典子の歌「星の林」30首・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・「晶」95号2016/09所載・・・・・・・

          星の林        村島典子

  一首づつ数珠繰るごとく読みつげり森岡貞香のことば木々の香
  星の林といふはいづらぞ夜の闇にぼうと灯れる山のあるべし
  星の林といふはいづらの山中の昼すらぼうと光ると言はめ
  「わが父 塚本邦雄」をたどりつつ二十歳の頃のわたしに会へり
  前衛短歌をいかに思ふかと問ひたまふ吉野のお山に考へし日よ
  あばら骨二十四本われにありその一本がけさは疼きぬ
  こゑは人間 診察室より呼びくるる加藤先生のおほらかな声
  われはまた流しに凭れゐしならむエプロンの前ぐつしより濡らし
  裏隣の夫婦あひつぎ亡くなりしを知らずに過ぎき三月が過ぎき
  孤独死と言はむ言はざる犬連れて門通るとき声かけくれし
  ホスピスに入りし一人をおもふ夕、柿のま白き花に気づきぬ
  ああ神は残酷ならむそれぞれに死をたまひたる星の林に
  裏庭の青きゆふぐれ柿の木に柿の花咲く五月の地上
  実生なる柿の一木も壮年となれば苔など幹に生やしぬ
  ひいふうみいと数ふる朝のあいさつに柿は笑へり小花のぞかせ
  雨降れば雨におほつち潤ひぬあかなすきうり獅子とんがらし
                *
  立つといふことに拘るわが犬は頽(くづほ)れるたび呻き声あぐ
  前足も身を運べざり後足まして立たざりいざり移動す
  跛行なる犬とわたしに春すぎて夏きたるらし地にぞ雨降る
  われはもやお母さんとぞ呼ばれたる獣医師は鎮静剤をくれたり
  良性か悪性なるか如何せん大き腫瘍は鮮血を噴く
  凍結の処置ほどこされ横たはる親指ほどの大きさに瘤
  伸縮性包帯を巻き老犬は傷病兵のごとく横臥す
  転移より老衰のはうが早からむ医師とわたしは共謀者なり
  鎮静剤のませしのちは頑なに歯をくひしばり水も拒絶す
  むつき外しお尻をぬぐひ包帯を替へしところで夜が明けにけり
  とろとろと薬の効果あらはれて眠れる犬よまだ生きたいか
  人ならば眠つてよいかと問ふならむ抱きおこして背を摩りをり
  もうまもなくお暇しますと言ひ出さめ六月青い紫陽花の朝
  犬と生きしことなき人よわたくしを愚かと言ふか愚かなるべし
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いつもながらの村島さんの佳い歌群である。「星の林」という題名が的確である。
死にかけている老犬に注ぐ視線が温かい。
この号の前の94号を三か月前にいただいたのだが、丁度、私は体調を崩していて、ここに紹介できなかった。
手、指がむくみ、全身脱力で、力も入らず、文字を書くことも、キーボードを操ることにも難儀した。
お詫びするとともに、今は軽快したので、ご放念いただきたい。
有難うございました。
  



今日も小雨が降りつづけます人はこれを秋霖と言っています・・・・・・・木村草弥
0120081022010120081022130a750秋雨

      今日も小雨が降りつづけます 
             人はこれを秋霖と言っています・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載るものである。
今しも秋霖─秋雨前線、秋雨─が降りつづいて嫌な天気が続いている。
所によっては集中豪雨になって被害の出ているところもある。

秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて降る長雨のこと。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨ともいう。

夏から秋に季節が移り変わる際、真夏の間本州一帯に猛暑をもたらした太平洋高気圧が南へ退き、大陸の冷たい高気圧が日本海や北日本方面に張り出す。
この性質の違う2つの空気がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、秋雨前線が発生する。
梅雨前線と同じく、前線を挟んで夏の空気と秋の空気とが押し合いをしているため、前線は日本上空を南下したり北上したりする、こうして長雨が続く。

オホーツク海気団と小笠原気団のせめぎ合う中で北上する梅雨前線は、平年で8月前半頃には中国の華北地方~朝鮮半島北部~北海道付近にまで達し、勢力が弱まって次第に消滅する。
そして日本付近は小笠原気団からなる太平洋高気圧、中国大陸は揚子江気団からなる停滞性の高気圧に覆われ、東アジアのほぼ全域で本格的な夏が続く。
一方8月前半頃には、偏西風の強い部分(ジェット気流)が中国北部付近からオホーツク海付近にかけての地域に北上し、流れも弱くなる。
しかし、8月後半頃になると、次第に偏西風が南下を始め、秋の空気もそれに伴って南下してくるようになる。
8月後半頃になると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。
また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。
太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。
このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から東日本・西日本の順に寒冷前線が南下・東進するようになる。
このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

それにしても、今年の気象は異常だった。世界的に「偏西風」が蛇行して、冬には本来あたたかいところに大雪が降ったり、春以後には集中豪雨に見舞われたりしている。

今日は、そんなことに因んで、この歌を掲出し「秋霖」のことについて少し書いてみた。
掲出した歌は「手紙」という一連10首からなっている。
全部引いてみよう。

        手紙・・・・・・・・・・・・木村草弥

  今日も小雨が降りつづけます 人はこれを秋霖と言っています

  どこか遠くの方に台風もいるそうですが こおろぎの合奏です

  ブロック塀にまいまいつぶろが抽象画を描きづつけています
  
  みんな生きていることを証しするのに夢中です 小雨にもめげずに

  生きることの試み 生きることの絶望 その絶望に狎(な)れぬこと

  生きると言えば私のように終点に近づくともう惰性のようなものです

  時には自分が人生の一番まずい道を選んだのかと考えます

  どのみち私の人生はこんなものだったのかと思いますが もがくこともありません

  遠く過ぎ去ってみれば結局は他人とたいした違いはないのです

  こんな思想が黴(かび)のように生えるのはしとしとと小雨が降りつづくからでした


この歌集を出したのは1999年のことだから、もう十七年も前のことになる。
年齢的に言うと、私は70歳になったばかりであるが、「終点」意識が濃厚に漂っているのに驚く。
「手紙」という題になっているが、今なら「秋霖」とするだろう、と思ったりする。
手紙文の形になっているが、それは別として、こういう文体を文学概念的には「アフォリズム」という。
この歌集には、こういう表現体が多いが、この頃、私は「アフォリズム」に関心があったことを示している。
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秋霖については  Wikipedia─秋雨 に詳しい。


白桃の箱の隙間の先週の山梨新聞広げてみたり・・・・・・東京都・飯坂友紀子
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 白桃の箱の隙間の先週の
           山梨新聞広げてみたり・・・・・・・・・・東京都・飯坂友紀子


この歌は、角川書店月刊誌「短歌」平成二十五年十二月号の題詠「隙間」に小畑庸子さんの選で載るものである。
箱詰めの「隙間」の詰め物として入っている「山梨新聞」を広げて読んでいるというもの。
何となく情景が目に浮かぶようではないか。 さりげないが、佳い歌である。

いま検索してみたが「山梨新聞」というのは存在しないようである。「山梨日日新聞」「山梨新報社」というのはあるが、ほかは全国紙の山梨版である。
だから、この歌に詠まれるのは固有名詞ではなく、「山梨の新聞」ということであろう。

この題詠で載る他の歌を引いておく。

  ルルルルル夢の隙間を潜り抜け私に還るおはよう私・・・・・・・三重県・伊藤里奈

  ガラス戸とアミ戸のはざまで思案する蛾はモンシロの仲間らしいよ・・・・・・・兵庫県・北野中

  正直に生きるかときにもどかしいヘアーウィッグと頭皮の隙間・・・・・・・神奈川県・安由衣子

  本を抜く棚の隙間に文士見え昭和の幻影鎌倉古書店・・・・・・・石川県・三宅立美

  手で顔を覆ったくせにすぐ指を開いてつくる隙間がいいね・・・・・・・岡山県・小橋辰矢

  障子戸の格子の隙間を動かずにわたしに手を擦る冬蠅がいる・・・・・・・北海道・葛西全

  君はずるいいつだって風をしたがえて私のすきまにするりと入る・・・・・・・大阪府・蒼井杏

  コンビニの冷蔵棚のペットボトル富士山の水隙間なく並ぶ・・・・・・・愛知県・湯朝俊道

  午後五時の微妙に混んだ地下鉄で見つけた隙間〇・八人分・・・・・・・神奈川県・浜本准

  歴史書の隙間に夏の風はさみ三二一頁めくる・・・・・・・神奈川県・永沢優岸

  算盤の余分な珠を弾いてしまう狭すぎるんだよ珠の隙間が・・・・・・・徳島県・戸山二三男


新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・・・・・大野林火
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  新じやがをほかほかと食ひ今日を謝す・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火

芋が、馬につける鈴に似ているので、馬鈴薯(ばれいしょ)の名があるという。オランダの船がジャワから持ってきたので、ジャガタラ芋と呼ばれていた。
早春に種芋を植えると、初夏から地中にたくさんの塊茎を作る。これが芋である。
貯蔵が効くので保存され、食用、澱粉原料、アルコール製造などに用いられる。
出来立ての「新」ジャガイモは特にホカホカしておいしいものである。ふかしたての芋にバターをつけて食べるのが美味の極みである。

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写真②は、畑に植えた種芋から新芽が出て、少し大きくなった頃の写真。
ジャガイモの大産地は、今や北海道であり、種芋の植え付けから、秋の新ジャガイモの収穫まで、すべて機械でやる。

写真③はジャガイモ畑の様子である。
imo4.7.16馬鈴薯畑

ジャガイモも日本にはジャワから伝来したというが、もともとはアメリカ大陸の原産であり、アンデスの何千メートルという高地でも主食として栽培されている。
コロンブスたちとともにヨーロッパへ齎され、冷害に苦しんでいた北ヨーロッパでは救荒作物として貴重だったことは、よく知られていることである。
日本では「男爵」「メークイン」などが主として栽培されている。
ジャガイモ栽培には種芋が必要だが、品種ものの種芋の供給地としても北海道は有名である。

imo4.6.29.04馬鈴薯花

殆どの人がジャガイモの畑も、馬鈴薯の花も見たことがないだろうと思うので、写真④にジャガイモの花を載せる。
薄紫色の可愛らしい花である。品種によって色や形などが微妙に異なる。
新ジャガイモは、もう殆どのところで収穫は済んでいる。一番遅いのは「種芋」の収穫で、これで北海道のジャガイモのシーズンは終る。

以下、ジャガイモ=馬鈴薯を詠んだ句をひいて終りにしたい。

 新馬鈴薯や農夫の掌(てのひら)よく乾き・・・・・・・・中村草田男

 新じやがのえくぼ噴井に来て磨く・・・・・・・・西東三鬼

 土間夕焼じやが藷(いも)の山夕刊のせ・・・・・・・・椎木嶋舎

 新じやが匂ふ塩焼小屋の厚き煤・・・・・・・・沢木欣一

 馬鈴薯を夕蝉とほく掘りいそぐ・・・・・・・・水原秋桜子

 幸福の靴首にかけ馬鈴薯を掘る・・・・・・・・山口青邨

 塩が力の新じやがを煮て母子生き・・・・・・・・沖田佐久子

 幸を掘るごとし馬鈴薯さぐり掘る・・・・・・・・瀬沼はと江

 じやがいもの北海道の土落す・・・・・・・・中田品女

 馬鈴薯掘る土の匂ひの日の出前・・・・・・・・山崎明子


無防備にまどろむ君よスカラベがをみなの肌にとどまる真昼・・・・・・・・木村草弥
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mus150スカラベ護符レプリカ

     無防備にまどろむ君よスカラベが
        をみなの肌にとどまる真昼・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

この歌では私はスカラベのペンダントをつけた「君」が夏の真昼を、まどろんでいるのを描いたのだが、本来の「スカラベ」というのは、甲虫の「フンコロガシ」のことである。
写真①は古代エジプトで崇拝された「スカラベの護符」のレプリカであり、いま土産物として手に入るもの。

volt01切手オートヴォルタ
 ↑ 写真②はオートヴォルタという国で1981年に発行された「フンコロガシ」の切手である。
この虫は日本には居ないが、世界各地には棲息していて、有名なファーブルの「昆虫記」に出てくるもので、正式には「タマオシコガネ」という名前である。
古代エジプトでは、この虫を「スカラベ」と呼んだ。

写真③は「昆虫記」の著者ジャン・アンリ・ファーブルである。
fabreファーブル

古代エジプトでは、糞玉をころがすスカラベを見て、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。世界的にも神格を与えられた昆虫は珍しいが、スカラベは、その最初の昆虫ということになる。
かくして、古代エジプトでは、スカラベを創造、復活、不死のシンボルとして崇め、四千年も前からスカラベの護符や装飾品で飾ったのである。
有名なツタンカーメンの墓からも、このスカラベの護符が「カルトゥーシュ」という「囲み枠」の中に絵文字の名前入りで造られている。他の王や女王、王妃などすべて、そうである。古代エジプトの絵文字は解読されていて、発掘された墳墓や彫刻などが、誰であるかが同定されているが、それは、この「カルトゥーシュ」という囲み枠に刻まれている名を解読すれば、すべて判るからである。

↓ 写真④はフランスで1956年に発行された切手で、ファーブルが糞ころがしタマオシコガネを虫めがねで観察している姿を描いてある。
fr11切手フランス

ネット上では糞ころがしを絵柄にした切手が世界各地で発行されているのを見ることが出来る。
オーストラリアでは「スカラベ」というと、この糞ころがしのことを指すらしい。
先に日本には糞ころがしは居ないと書いたが、それは日本には丸い糞玉にするような適当な固さの糞をする獣が居なかったことに原因があるだろう。牛の糞や人糞などはベタベタしているから、玉になりにくいだろう。

7321センチコガネ

 ↑ 写真⑤に日本にいる同種の甲虫の写真を出すが、この虫は「センチコガネ」という名のつくもので、大きさ2センチくらいのもので、センチという便所を意味する名の通り糞便を分解する虫だが、糞玉は作らない。「センチ」とは漢語で「賤地」のことである。
汚らしい話題になって申し訳ない。説明しかけると、こうなってしまうのである。

夏の季語である「こがねむし」黄金虫を詠んだ句を引いて終わりたい。金亀子とも書く。

 モナリザに仮死いつまでもこがね虫・・・・・・・・西東三鬼

 金亀子擲つ闇の深さかな・・・・・・・・高浜虚子

 恋捨つるごと金亀子窓より捨つ・・・・・・・・安住敦

 病めるわが胸より金亀子はがす・・・・・・・・加倉井秋を

 黄金虫雲光りては暮れゆけり・・・・・・・・角川源義

 死にて生きてかなぶんぶんが高く去る・・・・・・・・平畑静塔

 ぶんぶんに玻璃くろがねの関なすや・・・・・・・・・石塚友二

 金亀虫琵琶のおもてを打撙す・・・・・・・・佐野まもる
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少し余談を書いておく。
糞ころがしのことだが、この虫の作る糞玉は固くても、柔らかすぎても玉にならないらしい。
だから、この虫は山羊などの小さくて、固くて、コロコロしている糞は、苦手だと、ものの本に書いてある。
この虫が、なぜ糞玉を作って巣へ運ぶかというと、巣に帰ったら、この糞玉の中に卵を産むのである。
孵った幼虫は、この糞玉を食べて成長するという段取りである。
適当な固さで、というところに、虫と言えども「こだわり」があるのである。
何事も「こだわり」が大切らしい。では、また。




紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・木村草弥
mary_magdaleneマグダラのマリア

     紺ふかき耳付の壺マグダラの
        マリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「マグダラのマリア」は、磔刑で死んだキリストが復活して初めて会いに行った人である。
元は娼婦であることから、さまざまの物議をかもしてきた人物である。

はじめに写真①の説明を済ませておく。画像は16世紀のドイツの画家Jan van SCORELの描いたもの。
手にしているのがマグダラのマリアのシンボルである聖油の洗礼用容器である。

掲出した歌の関連で書いておくと、同じ歌集のイスラエル紀行の中で、次のような歌を私は作っている。
先に二つの歌の背景説明をしておくと、
「マグダラのマリア教会」は1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世建立。
マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てた。聖地エルサレムの旧市街を見下ろすオリーヴ山の麓にある。
磔刑の死後3日後、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった。

lrg_11707601マグラダのマリア教会

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

「福音書」は神殿娼婦マグダラのマリアから、イエスが七つの悪霊を追い出し、復活後、まずこの女のところに姿を現したと述べている(『マルコによる福音書第16章9節』)。
のちキリスト教徒が非難したため教令集から除かれた書物には、二人の関係についてさらに奇妙なことが詳しく述べられている。
すなわち、イエスは他の使徒たちすべてを合わせたよりもマグダラのマリアを愛し、「使徒たちの使徒」「すべてを知った女」と呼んで、しばしば接吻した、など。
グノーシス派の福音書が教令集から切り取られる前には、共観福音書やその他の新約聖書と同じくらい、「神の言葉」として受け入れられていた。
だからマグダラのマリアに関する中世の伝統は、この女性を初期の神秘的な最高位に戻している。
マリアは「マリア・ルシフェル(光を与えるマリア)」と呼ばれた。
「イエスがマリアに対して拒んだ恩寵は何ひとつなかった。イエスがマリアに与えない愛のしるしもなかった」と書かれている。

v-356耳つき壺

掲出した私の歌は「耳付の壺」を手に取って、連想としてマグダラのマリアを思い出したということである。
文学作品というのは、このように飛躍することがある。<非日常>と言われる所以である。
なぜ、そんな連想に至るのか、というような質問は野暮の骨頂である。



おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・木村草弥
aaooosiroi大判

  おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ
   妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「オシロイバナ」は熱帯アメリカ原産で、元禄の頃日本に入ってきたという。
この花は英語では four-o'clock と呼ばれるようで、これは夕方の午後4時ころに咲き出し、朝まで咲くからだという。
色は赤、白、黄、斑とさまざまなものがあるようだ。
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種の中に、白粉質の胚乳があるので「オシロイバナ」というらしい。
この草は今では野生化して、路傍のあちこちに群れ咲いている、ありふれた花である。
後で、いろいろの色をお見せする。

この歌は、まだ妻が元気であった頃の歌である。
私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、妻も念入りにお化粧をする気分的なゆとりがあったのである。

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私の歌集には「妻」を詠ったものが多い、と、よく言われる。そう言われて子細に見てみると、なるほどたくさんある。
妻のことは一切詠わないという男性歌人も多いから(逆に夫のことを、滅多に詠わない女性歌人も)私はむしろ妻を詠むことが多いのかも知れない。
私は恐妻家でもないし、特別に愛妻家でもないと思うが、他人から見ると愛妻家に見えるのだろうか。
私の作歌信条は、先に書いたと思うが宮柊二が「コスモス」創刊の際に高らかに謳いあげた「歌によって生の証明をしたい」というのであり、
従って私のことであれ、妻のことであれ、その時々の出来事を歌にして残したい、ということに尽きる。
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だから、今の時点を大切にしたいと考えている。
私も他人様から歌集の贈呈を受けることが多いが、もう何冊も歌集を出している人で、出版時点での掲載される歌が10年とか15年とか前の時点で締め切られているのがある。
なるほど、それは一つの考え方であって、年数を経ても歌が生きている、というか、年月を越えての普遍性を持っている場合、を執着したものらしい。
しかし今どき変化の激しい時代に、そんな時代性を超越したような歌など、存在し得るのであろうか。
つい最近も或る中堅級の才能ある歌人から歌集をもらって、この人も某有名企業を退職してもう10年になるが、
今回の歌集の収録年は、まだ在職中、が最終ということで私は苦言を呈しておいた。
今の某氏を知る人は、もう10数年も前のことを詠んだ歌群を前に、どのような反応を示せばよいというのか。
昔のトップ歌人と言われる人には、たしかに、そういう歌集編集の好みがあったが、現代の歌人はトップと言えども、
現時点を詠って、すぐに出版にこぎつけている。それが本当ではないのか。

以下、オシロイバナを詠んだ句を少し引いて終りにする。

 おしろいの花の紅白はねちがひ・・・・・・・・富安風生

 おしろいが咲いて子供が育つ露路・・・・・・・・菖蒲あや

 おしろいは父帰る刻咲き揃ふ・・・・・・・・菅野春虹

 白粉花吾子は淋しい子かも知れず・・・・・・・・波多野爽波

 白粉草の花の夕闇躓けり・・・・・・・・渡辺桂子

 わが法衣おしろい花に触れにけり・・・・・・・・武田無涯子

 白粉花やあづかりし子に夜が来る・・・・・・・・堀内春子


一茎のサルビアの朱もえてをり老後の計画など無きものを・・・・・・・木村草弥
aaoosarubiサルビア大判

   一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり
     老後の計画など無きものを・・・・・・・・・・・・・木村草弥


サルビアは南ヨーロッパ原産の華やかな夏の花である。シソ科の多年草。葉が薬用、香料になるという。寄せ植えが普通で、群れとしての印象の強い花である。
写真のように群生して咲かせるのが豪華である。
掲出の歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、私がまだ現役で仕事をしていた時の作品である。
だから後段で「老後の計画など無きものを」と詠んでいる。
この真紅の花を前にしていると何だか勇気づけられるような気がするではないか。
だから、この歌を作ったときは、老後、引退など、まだまだ先のことと、他人ごとのように思っていたのかも知れない。

ところで、この頃では品種改良の結果、これが「サルビア属」と目を疑うようなさまざまな色と形のサルビアがあるらしい。
uliginosa1_1ウリギノーサ

写真②は「ウリギノーサ」という属の一つである。花のつき方が、そういうとサルビアの花と一緒である。
詳しくはネット上で検索してもらいたい。

以下、サルビアを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 屋上にサルビア炎えて新聞社・・・・・・・・広瀬一朗

 サルビアに染まりし霧の湖へ出づ・・・・・・・・武井耕天

 石垣にサルビアの燃え移りたり・・・・・・・・吉田貞造

 学校花壇サルビアつねに軽騎兵・・・・・・・・鈴木蚊都夫

 サルビアの地をたしかなる猫の歩み・・・・・・・・原子順

 鈴の音は驢馬の曳く馬車サルビア緋・・・・・・・・竹尾夜畔

 別れゆくときもサルビア赤かりき・・・・・・・・木村浅香女

 サルビアの真つくれなゐに自負一つ・・・・・・・・松本千恵女

 サルビアのなだるるごとく月日かな・・・・・・・・黒川路子


戻りたる太陽の彩まぶしかり「トラキア人の墓」も明るむ・・・・・・・木村草弥
800px-Reproduction_of_Thracian_tomb_1トラキア壁画

     ■戻りたる太陽の彩(いろ)まぶしかり
       「トラキア人の墓」も明るむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

      ■シプカ村に鄙びし聖歌ひびくとき
         バルカン山脈晴れて果てなし・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので「皆既日蝕」──ブルガリア1999年8月11日──という一連11首のところに収録したものであり、
丁度、二十世紀最後という皆既日蝕に同地で遭遇した記念すべき作品群である。
掲出歌だけでなく現地の背景説明のためにつづく歌も出しておく。

私は当時まだ現役で仕事をしていたので、1999年のお盆休みを利用してJTBのツアーに乗っかって、ルーマニア・ブルガリアの旅に参加した。
丁度、その期間中に20世紀最後と言われる皆既日蝕に遭遇することになった。
もちろん私の旅は皆既日蝕を見るのが目的ではなかったのだが、現地の新聞などは、その報道一色だったことを思いだす。

ブルガリアでは「バラの谷」と呼ばれる地方に行った。
ここは広大なバラ畑がひろがり、バラ油が生産されているところ。
歌集の注書にも書いたが、ここで産するバラ油は世界シェア80%を占めるものである。
その辺りはシプカ村と称するが、その一角に「トラキア人の墓」の遺跡が存在する。
オリジナルの墓は現在、保存のため封印され、一般には非公開であり、その代わりに隣に忠実に再現したコピーを建ててあり、見学できる。
写真①は、そのコピーの古墳の内部に残る壁画の様子。

 ↓ 写真②はコピーの外部の建物。
bg-trakia-tombトラキア人墓

 ↓ 写真③は、その墓の内部の入り口付近である。
bg-trakia-in1トラキア墓コピー入り口

「トラキア人」と言われても、世界史の本にも余り出てこないことだが、トラキア人の名が歴史に登場するのは、ギリシアのヘロドトスの本によるという、もともとはユーラシア大陸の騎馬民族である。
ネット上ではGoogleで検索するとブルガリア科学アカデミー考古学研究所の記事の中で「トラキア人と魂の不滅」というディアーナ・ゲルコーヴァの論文などが見られるので参照されたい。
Googleでは「トラキア人」と検索すると多くの情報が載っている。

このコピーだが、忠実に再現された墓はBC4世紀ごろに造られた古墳で、中は大人4人しか入れない狭い空間。
しかし、そこには洗練された壁画の世界が広がっていた。
古墳は丘の上にあり、付近は公園になっている。1944年、軍が防空壕を掘っていて偶然に発見された。
その壁画はトラキア人が残した最大の遺産として、ブルガリアの誇りになっている。
壁画のなかで重要なのは、写真①に見るように、主室の葬送の様子を描いたものである。
丸天井に円環状に描かれ、中央に3台の戦車、その外側に多くの男女や馬車がある。
あの世に先だつ夫と、これを見送る夫人との決別の場と解釈されている。
トラキア人は、みな自らの意志によって死ぬことに敬意を払い、中には死者の魂が滅することなく、生存中よりも一層祝福されると信じたという。
この場所は、ブルガリア北部のカザンラク近くのシプカ=シェヨノボ地区である。
ルーマニアから国境を越えて、すぐの所。

ここの壁画の保存とコピー展示の様子を見ると、いま奈良県の高松塚古墳で問題になっている保存と公開のことが思い浮かぶが、
ここでも、このような方法を採用したらよいのである。
日本人はオリジナルを現地で保存し、かつ公開するのにこだわるが、オリジナルを破損してしまっては元も子もなくなるではないか。
トラキア人の墓だけでなく、アルタミラの洞窟などでも、オリジナルは非公開にして厳重に保存し、一般にはコピーを公開している。
世界的には、そういう趨勢なのである。



好きよと書いて/封をして/てがみにするとてがみはわたしの身替りになり/いまごろは/静岡かしら・・・・・・三井葉子
草のような文字゛

akatoアカトンボ②

         とんぼ・・・・・・・・・・三井葉子

     好きよと書いて

     封をして

     てがみにするとてがみはわたしの身替りになり

     いまごろは

     静岡かしら

     はるばると

     もみじの山を越えて行く


     夜になると霜がふる

     いちばん逢いたくなるそのときは

     七色の魔除けの紐でからだじゅう ぐるぐる巻いて寝ていましょう

     そらがあかねに染まるころ

     わたしのてがみが発って行く


     おお とんぼ

     あきつあかねというような

     よい名貰って

     まちがえないで行けるかしら


     わたしのひたいに当るほど

     低くとんぼが飛んでいる

     ねえ あなた

     そのうちに届きます

     いまごろは箱根の山をこえている。
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この詩は、三井葉子さんの詩集『草のような文字』(深夜叢書社1998年5月刊)に載るものである。
この詩集には全部で32篇の詩が載っているが、女が男に語りかけるような体裁になっている。
この本の装丁が、昔の源氏物語絵巻のような図版になっていて、まるで「王朝物語」に出てきそうな雰囲気を漂わせている。
三井さんが「王朝風」詩人、と呼ばれる所以である。
その三井葉子さんも、一昨年一月はじめに亡くなられた。 寂しいことである。




をみなへしそよろと咲きて賞でらるるをとこへしの茎逞しかりき・・・・・・木村草弥
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  をみなへしそよろと咲きて賞(め)でらるる
     をとこへしの茎逞しかりき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「おみなえし」は古来、秋の七草の一つで、詩歌にもよく詠まれて来た。
『万葉集』に

   手に取れば袖さへ匂ふをみなへしこの白露に散らまく惜しも

という歌があり、その風情が詩歌のテーマになって来た。女性のやさしさ、なまめかしさを思わせる花である。
写真①は接写したもので、生えているオミナエシの全体像は写真②の方が自然に近い。
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小野頼風を愛した女が、頼風の心がわりを恨み、八幡川に身を投げて死ぬが、その衣が朽ちて、オミナエシになったという伝説があり、謡曲「女郎花」にもなっている。
女性の恨み、嘆きを表す花とも言える。
私の方の庭にも二株いまオミナエシが咲き誇っている。私の歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
歌の中に「オトコエシ」が対象として出てくるが、この草も同じオミナエシ科の多年草である。
『万葉集』に

  秋の野に今こそ行かめもののふのをとこをみなの花匂ひ見に・・・・・・・・大伴家持

というのがある。男郎花と書くがオミナエシと対比させて詠まれている。
以下、オミナエシ、オトコエシの花を詠んだ句を引いておく。

 ひよろひよろと尚露けしやをみなへし・・・・・・・・松尾芭蕉

 霧深き野のをみなへしここに挿す・・・・・・・・山口青邨

 をみなへし又きちかうと折りすすむ・・・・・・・・山口青邨

 夕冷えの切石に置くをみなへし・・・・・・・・日野草城

 壺の花をみなへしよりほかは知らず・・・・・・・・安住敦

 をみなへしといへばこころやさしくなる・・・・・・・・川崎展宏

 女郎花月夜のねむり黄にまみれ・・・・・・・・六角文夫

 女郎花揺れ合ふ霧の船つき場・・・・・・・・岩城のり子

 相逢うて相別るるも男郎花・・・・・・・・高浜虚子

 藁屋一つ祈るかたちの男郎花・・・・・・・・丸山海道

 これやこの富士の裾野のをとこへし・・・・・・・・村松ひろし

 不退転とは崖に咲くをとこへし・・・・・・・・鷹羽狩行

IMGP0548オトコエシ
参考までに「オトコエシ」の花を出しておく。
そして「葉」は、こんな感じ。 ↓ オミナエシに比べると、葉がとても大きい。下の方の葉は、もっと大きく、そして深く裂ける。
IMGP0549オトコエシ葉

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「をみなへし」の歌としては、下記のようなのがある。ネット上の「古今和歌集の部屋」から引いておく。


朱雀院の女郎花あはせの時に、女郎花といふ五文字を句のかしらにおきてよめる

439 をぐら山 峰たちならし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき ・・・・・紀貫之

たちならし ・・・ 足で土地を平らに均す(ならす)ほど頻繁に行き来して (立ち均す)
410番の業平の 「かきつばた」の歌と同じく、各句の先頭の文字をつなげると「をみなへし」になるという折句(おりく)の歌であるが、この歌が何故、物名の部に入れられているのかは不審である。
確かに折句は一字づつ散らした隠し題であるとも言えるが、それにしては物名に含まれる折句の歌はこの貫之の歌一つだけである( 468番に僧正聖宝の 「は」ではじまる 「る」で終わる歌というのが採られているが、それは同時に 「ながめ」の隠し題も含んでいる)。

先行する友則の二つの女郎花の歌( 437番と 438番)からのつながりとも言えるが、その二つ自体があまり出来がよいものとは思われないので、まるでこの歌の前振りのようにしか思えない。
秋歌下に紛れ込ませてもよさそうなものだが、撰者たちの感覚では、これは物名の部類であるということだったのだろう。
422番の藤原敏行の 「うぐひす」、453番の真静法師の 「わらび」の二つの歌とはまた違った意味で、この歌は物名の部の中の例外と考えられる。

歌の意味は、小倉山の峰を均すほど行き来して鳴く鹿が過ごしてきただろう秋を知る人はいない、ということ。 「そうして秋を過ごしてきた鹿の気持ちを知る人はいない」という意味である。

歌の中では 「たちならし」という言葉が気になる。この歌では 「鳴く」とあるので 「たち鳴らし」のように見えるがそうではなく、一般的には上記のように 「たち均し」と解釈されている。
1094番の 「さがみうた」にも 「こよろぎの 磯たちならし」とあり、「峰」も 「磯」も足で平らに均すには固すぎるような気もするが、一種の慣用句としておくのが妥当か。
「たち習し」であるという説もあるが、それだとじっと立っているようなイメージがあるので、「頻繁に行き来する」という意味が欲しいために 「たち均し」の方の説が優勢になったものであろう。

貫之には 「をぐら山-鹿-声-秋」と似た言葉を使った次の歌があり、この歌は、それを元にしているように見えるが作成時期の前後はわからない。
「鹿」を詠った歌の一覧は 214番の歌のページを参照。

312 夕月夜 小倉の山 に 鳴く鹿の 声 の内にや 秋 は暮るらむ

さて、詞書にある 「朱雀院の女郎花あはせ」とは宇多上皇が朱雀院で催した歌合であり、その時の女郎花の歌が古今和歌集の秋歌上に七つ集められている。
そのうち五つが古今和歌集の撰者三人のものである。貫之の歌は次の一つ。

232 たが秋に あらぬものゆゑ 女郎花 なぞ色にいでて まだきうつろふ

躬恒の歌は次の二つ。

233 つま恋ふる 鹿ぞ鳴くなる 女郎花 おのがすむ野の 花と知らずや

234 女郎花 吹きすぎてくる 秋風は 目には見えねど 香こそしるけれ

忠岑の歌は次の二つ。

235 人の見る ことやくるしき 女郎花 秋霧にのみ 立ち隠るらむ

236 ひとりのみ ながむるよりは 女郎花 我が住む宿に 植ゑて見ましを

ただし、古今和歌集で 「朱雀院の女郎花あはせ」の時の歌とされているもののうち、現存する「亭子院女郎花合」に載っているものは三首のみ(上記の躬恒の 234番、忠岑の 235番、そして藤原時平の 230番)である。
この八首中三首という数は微妙であるが、一応 「朱雀院の女郎花あはせ」=「亭子院女郎花合」と見てよさそうである。
そして 「亭子院女郎花合」が昌泰元年(=898年)という記を持つので、「朱雀院の女郎花あはせ」は898年の秋に催されたものとされる(宇多上皇=朱雀院=亭子院)。

この貫之の 「をぐら山 」も「亭子院女郎花合」に載っていない歌だが、「亭子院女郎花合」には「これはあはせぬうたども」という前書きがあって、二種類の言葉遊びの歌が記録されている。
一つは 「をみなへしといふことを句のかみしもにてよめる」歌で、

折る花を むなしくなさむ 名を惜しな てふにもなして しひやとめまし
折る人を みなうらめしみ なげくかな 照る日にあてて しもにおかせじ

というようなものである。 「をみなてし」となっているのは 「へ」ではじまり 「へ」で終わるものは難しかったからか、発音が似ていたからか。
もう一つは 「これはかみのかぎりにすゑたる」というタイプのもので、この貫之の歌と同じ趣向である。

尾の上は みな朽ちにけり なにもせで へしほどをだに 知らずぞありける
をぜき山 みちふみまがひ なか空に へむやその秋の 知らぬ山辺に
折り持ちて 見し花ゆゑに なごりなく てまさへまがひ しみつきにけり

これも三つ目が 「をみなてし」となっている。これらと比較すると貫之の 「をぐら山」の歌がだいぶ引き立って見える。
恐らく古今和歌集で選ばれた他の物名の歌のうしろにも、こうした感じの歌が大量にあったのだろう。

秋歌上には十三、そして雑体には四つの女郎花の歌があるが、それらはすべて初句か三句目で 「女郎花」という名詞単体で使われている(「亭子院女郎花合」の中でも五十一首中、例外は一つしかない)。
好まれた花とはいえ、古今和歌集の中に限っても、すでにマンネリ化していると言えるだろう。折句や物名(隠し題)は、その流れから外れてみたいという試みとも感じられる。

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧の岬に君と佇ちゐき・・・・・・・木村草弥
020509ハマナス

  はまなすの丘にピンクの香は満ちて
   海霧(じり)の岬に君と佇(た)ちゐき・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「はまなす」は北海道から本州の海岸の砂地に生える植物で、その実が茄子の形をしいてることから、この名前がついたと言われている。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、亡妻との思い出を歌にしている。
海霧を「じり」と呼ぶことは、歳時記から見つけて、ここに使ってみた。
北の海は夏でも霧が出やすく、一般には「ガス」と呼んだりするが、私は余りなじみのない「じり」という言葉を使いたかった。

hamana7ハマナスの実

写真②が、ハマナスの実である。茄子というよりも、トマトに似ているが、トマトと茄子は近縁の植物である。丁度いまころは実が赤く色づいている頃であろうか。
ハマナスは漢字で書くと「玫瑰」となるが、花は6月頃から五弁の花を咲かせる。香りが良い。
初秋に赤い実が生り、熟して甘いという。しかし、今どき食べる人はいないであろう。私も食べたことがない。
いま歳時記を当ってみたら、生息域は北海道から茨城、島根あたりまでだという。九州や四国などの暖地には生息しないらしい。

hiP622立待岬

写真③は函館の立待岬である。ここもハマナスの群生地として有名で、歌謡曲にも歌われている。
写真にもハマナスの花が一面に咲いている。
私の歌を、ここと結びつけて想像してもらっても、別に構わない。
文芸作品は、一旦、発表されて作者の手を離れると、どう想像、連想されようと、作者には無関係であり、それは、読者の自由だから。
実際、この立待岬は、いつもカップルたちで混んでいる。
以下、ハマナスを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 玫瑰の丘を後にし旅つづく・・・・・・・・高浜虚子

 玫瑰に幾度行を共にせし・・・・・・・・高野素十

 玫瑰や仔馬は親を離れ跳び・・・・・・・高浜年尾

 玫瑰や今も沖には未来あり・・・・・・・・中村草田男

 玫瑰を噛めば酸かりし何を恋ふ・・・・・・・・加藤楸邨

 玫瑰に紅あり潮騒沖に鳴る・・・・・・・・橋本多佳子
 
 玫瑰や波のうへより涛襲ひ・・・・・・・・岸風三楼

 玫瑰に海は沖のみ見るものか・・・・・・・・井沢正江

 はまなすや親潮と知る海の色・・・・・・・・及川貞

 はまなすや湖に影ゆく親仔馬・・・・・・・・沢田しげ子
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引用した句の終りから二番目の及川貞さんの句のように、ハマナスは「親潮」のかかる流域に限定されるらしいことが、よく判った。


妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき・・・・・・木村草弥
housui015豊水梨

  妻の剥く梨の丸さを眩しめば
        けふの夕べの素肌ゆゆしき・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、まだ亡妻が元気で「素肌」にも張りがあって魅力的だった頃に詠ったものである。
そういう気持ちが「ゆゆしき」という表現になっている。
今では、もう懐かしい追憶の歌になってしまった。
この歌は私には思い入れのある歌で、自選50首にも入っているのでWeb上でもご覧いただける。

掲出の写真①は「豊水」という早生種の梨で「幸水」なども、この系統である。
私の子供の頃は、近くでも水田に畦(くろ)を作って土を盛り、長十郎という褐色で、やや小ぶりの梨の畑があったが、
ざらざらした食感が二十世紀梨などに比べて嫌われて、いつしか姿を消した。
豊水、幸水は、この長十郎を最近になって品種改良したもので、今ではよく食べられるようになった。
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写真②は二十世紀梨畑のものだが、普通は紙袋をかぶっているが、これは撮影のために紙を剥がしてある。
写真③は二十世紀梨の花である。
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梨栽培というのも手間の要るもので、筆に花粉をつけて一つ一つ受粉させる。その写真もあるが省略する。
二十世紀梨というと鳥取県などが生産地として有名だが、この梨の発祥の地は千葉県東葛飾郡八柱村大字大橋(現・松戸市)で、明治に松戸覚之助翁が発見、育成し全国で栽培されるようになった。現地には発祥の地の記念碑が建っている。
ただ、この品種は黒斑病に罹りやすいという弱点があり、鳥取県などは、この障碍を克服して今日の地位をえたものだという。しかし、今や二十一世紀となり、先に書いたように早生種の食感のよいものが出て来たりして、その印象は過去のものとなりつつあるようだ。
この頃では梨の世界にも西洋梨のラ・フランスなども栽培されるようになり、梨の食感も大きく広がるようになった。
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写真④が「ラ・ルクチェ」という更に高価な洋ナシ。汁が多く、なめらかで香りがいい。
この種類の収穫は遅く、出回りは正月贈答用として出荷される。
西洋梨は、まだ珍しいので、結構値段が高く、栽培農家にすると、この高価格というのが、人件費の高い日本では魅力で、手掛ける農家が増えてきたらしい。
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写真⑤は二十世紀梨の箱詰だが、平成14年には鳥取県が、発祥の地の松戸市に感謝して、発祥の地の記念碑の隣に感謝の碑を建てた、という。
『和漢三才図会』には、いろいろの梨の種類を挙げ、紅瓶子梨は「肉白きこと雪のごとし」、江州の観音寺梨は「汁多く、甘美なること、口中に消ゆるごとし」、山城の松尾梨は「甘やわらかなること雪のごとし」などと褒めているが、これらの品種の名前は、今や聞くこともなく淘汰されてしまったと言える。果物の世界も生き残るのは過酷である。
梨を詠んだ句も多いが、少し引いて終わりにする。

 梨をむく音のさびしく霧降れり・・・・・・・・日野草城

 これやこの梨金のごとし君にすすむ・・・・・・・・山口青邨

 梨出荷大き麦藁帽に青空・・・・・・・・大野林火

 梨を分け病人のことたづねけり・・・・・・・・大野林火

 真夜覚めて梨をむきゐたりひとりごち・・・・・・・・加藤楸邨

 落梨を農婦の給ふ無造作よ・・・・・・・・殿村莵糸子

 梨と刃物しづけきものは憤り・・・・・・・・長谷川朝風

 梨採りしあと梨の木のしづかさよ・・・・・・・・辻岡紀川

 梨食うて口さむざむと日本海・・・・・・・・森澄雄

 梨狩や遠くに坐りゐるが母・・・・・・・・細川加賀


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