K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201607<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201609
POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から五年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
011紅蜀葵
 ↑ 紅蜀葵(こうしょっき)

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

 天保の時代に顕微鏡をうたいたる短歌が話題 話しつつ行く・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 戦ひを中に措きたる九十年辛くも生き得し吾ここに在り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水房雄
 思ふべしネルソン・マンデラ九十五歳の顔を作りし人間の世を・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
 くすり服むたびにおもへり一兵の柊二が師より賜びし「薬」を・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武田弘之
 むき出しの額に銃弾撃たれしをだれか写しぬだれかを憎む・・・・・・・・・・・・・・・・ 中川佐和子
 野鳥らは地球の地震察知するや ふと思ひつつこゑを仰げり・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 釘ぬきに抜かるる釘の鈍き音に浮かび来父の太き親指・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 わりなけれわりなけれどもわが目交をひるがへり過ぐるを蝶も時も・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 ファシズムの影濃くなりてすでにわが帰る国にはあらず日本は・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺幸一
 炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春日真木子
 手花火の賑はひ聞けば遠き日のわが子のすがた目にうかびくる・・・・・・・・・・・・・・小野雅子
 人は人を亡くせしのちも生きてゆく死とはさういふものにしあれば・・・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 ニューハーフは兵役免除といふ規定あるやも昭和100年の日本・・・・・・・・・・・・・・栗木京子
 見せられたままを信じる素朴さを昭和のどこかに置き忘れけり・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 滝壺をやがて去る水青き真昼・・・・・・・・・・・・・・・・・山本勲
 ナガサキ全滅の報耳にあり夏野 ・・・・・・・・・・・・・舛田瑤子
 バラジャムを食みて着陸準備かな・・・・・・・・・マブソン青眼
 夏うぐいす自己陶酔のありにけり・・・・・・・・・・・・・平山圭子
 猫が触れゆくしずかな柱夏の家・・・・・・・・・・・・・森央ミモザ
 あんたがたどこさ翡翠がうしろにも・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫 ・・・・・・・・・・・・有村王志
 古本に昭和を嗅ぎぬ蝉時雨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 黄身潰す朝の儀式やかなかなかな・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 むつごとは遠きしろはなさるすべり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 しばらく遠出鳥の手紙をふところに・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 空蝉や脳に沁みたる未完の詩・・・・・・・・・・・・・・吉田透思朗
 夏山に雨の襞なす無辺なり・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤紀生子
 鬼百合やひとり欠伸はを手添えず・・・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 竜神の潟辺に住んで盆踊り・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 舘岡誠二
 金曜日炎帝の吹くトランペット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佃悦夫
 遠ざかる漢(おとこ)のごとく八月も・・・・・・・・・・・・・ 柚木紀子
 抑止力てふ恐ろしき大夕焼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木幸江
熱帯夜言葉出て行く歯の透き間 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 水上啓治
 体臭や向日葵の海ぎらぎらす・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木義雄
 星の寿命の最後は爆発合歓の花・・・・・・・・・・・・・・・高橋明江
 辞儀交す乳房の気配百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今野修三
 かたつむりあしたは海へゆくつもり・・・・・・・・・・・・ 北村美都子
 スーパームーン蛍袋は墓標です・・・・・・・・・・・・・・・・河原珠美
 秋さがす拾った言葉はポケットに・・・・・・・・・・・・・・・・石山一子
 熱帯夜おのれ自身がお荷物で・・・・・・・・・・・・・・・・・・市原正直
 なみなみと水を花瓶(けびょう)に原爆忌・・・・・・・・・・北畠千嗣
 日盛りのマネキンの指空つかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 糠床に一本の釘秋に入る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 口中のガレの葡萄が熟れてくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 痩蛙拒食日記は終わらない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





はまゆふのそよがぬ闇に汝を抱き盗人のごと汗ばみにけり・・・・・・・・・高野公彦
e0016267_815090浜木綿

    はまゆふのそよがぬ闇に汝(なれ)を抱き
        盗人のごと汗ばみにけり・・・・・・・・・・・・・・高野公彦


この歌は、浜木綿(はまゆふ)を詠んでいるというよりも、不気味なエロスを詠んでいると言えよう。
高野公彦については ← ここに詳しい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、浜木綿を詠んだ歌がある。

   海へ出る砂ふかき道浜木綿に屈めばただに逢ひたかりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「浜木綿」については前に2010/07/07付けで詳しく書いたので、それを参照してもらいたい。

今ごろでは、もうハマユウも実が太っているのではないか。写真②に、実を出しておく。
hamayuu3はまゆう実

四国遍路をしたときに室戸岬のみやげもの屋で実を捜していたら店主が遍路供養だと言って、呉れた。代金は取らなかった。
その実を大火鉢に蒔いたものが庭先に大きく葉を広げている。


俳句の世界でも古来たくさんの句が詠まれて来たので、それを少し引いて終りたい。

 浜木綿や落ちて飼はるる鳶の雛・・・・・・・・水原秋桜子

 浜おもと島人はただおもととも・・・・・・・・高野素十

 わだつみの神のかざしの浜おもと・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 浜木綿の白きかんざし月に濡れ・・・・・・・・滝春一

 浜木綿や青水脈とほく沖へ伸ぶ・・・・・・・・山口草堂

 浜木綿に子を抱きかへて帰り海女・・・・・・・・白川朝帆

 はまゆふの澎湃として庭のうち・・・・・・・・山口青邨

 浜木綿の花と暴風圏に入る・・・・・・・・後藤比奈夫

 浜木綿に流人の墓の小ささよ・・・・・・・・篠原鳳作

 浜木綿の花にみちびき観世音・・・・・・・・角川照子

 浜木綿咲く朝の岬を呼びよせて・・・・・・・・千代田葛彦

 浜木綿や素足正座の隠れ耶蘇・・・・・・・・綾部仁喜

 浜木綿や伊良湖水道どどと明く・・・・・・・・稲垣法城子

 浜木綿やとつぷり暮るる種子ケ島・・・・・・・・・成瀬正俊

 浜木綿の白し遍路と別るるとき・・・・・・・・山崎みのる


激雷に剃りて女の頚つめたし・・・・・・・・・・・・石川桂郎
inazuma_006.jpg

  激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・・・・・石川桂郎

石川桂郎については前に少し書いたことがある。

俳人風狂列伝

『俳人・風狂列伝』(昭和48年角川書店刊)という11人の「風狂」の俳人を書いたものだが、先にも書いたように本人自身が、かなり、だらしなかったらしい。
私の付き合っていた高島征夫氏の父君・高島茂氏が新宿西口で「ぼるが」という居酒屋を営んでおられたのだが、彼・石川桂郎の酒の上の失敗や金銭的な「尻拭い」を、かなりされた、と聞いた。
かなり名の知られた俳人だが、女にだらしなく、金銭的にも俳句の友人たちに迷惑をかけたらしい。 「無頼」の徒と呼ばれる。
本職は「床屋」だった。だから掲出のような句があるのである。

Wikipediaに載る記事によると下記のように載っている。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
石川桂郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 ~ 1975年11月6日)は東京出身の俳人、随筆家、小説家、編集者。本名は一雄。

経歴
東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒。家業の理髪店の仕事をしながら、俳句を作りはじめ、1934年杉田久女に入門。1938年ごろ、石田波郷の『鶴』の同人となる。また、横光利一にも師事する。

父の死後に店主となっていた理髪店を、文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。また、1942年には、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。

戦後は水原秋桜子主催の『馬酔木(あしび)』に参加。また、いくつかの出版社に勤務した後、1953年から1958年まで雑誌『俳句研究』(俳句研究社)の編集に携わる。1960年には自らの俳誌『風土』を創刊して主宰。

また、1946年から鶴川村能ヶ谷(現・町田市能ヶ谷町)に居住し、以降、その地で過ごした。

様々な俳人たちの風狂ぶりを描いた読売文学賞受賞作『俳人風狂列伝』でも知られるが、桂郎自身も酒食と放言を好む、風狂の人であった。

1975年11月6日、食道癌のため死去。

受賞等
1951年 第1回俳人協会賞 『含羞』
1955年 第32回直木賞候補 『妻の温泉』
1973年 第25回読売文学賞・随筆紀行賞 『俳人風狂列伝』
1975年 第9回蛇笏賞 『高蘆』以後の作品
著作
句集
含羞 琅玕洞, 1956
石川桂郎集 八幡船社, 1968
竹取 牧羊社, 1969
高蘆 牧羊社, 1973
四温 角川書店, 1976
石川桂郎集 手塚美佐編 俳人協会, 1994
随筆・小説
剃刀日記 協栄出版社, 1942(のち、創元文庫・角川文庫)
妻の温泉 俳句研究社, 1954
俳人風狂列伝 角川書店, 1973(のち、角川選書)
残照 角川書店, 1976
面会洒舌 東門書屋, 1978
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「増殖する俳句歳時記・石川桂郎の句」というサイトが彼の句を引いて面白い。アクセスされたし。
-----------------------------------------------------------------------------
「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。
だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。
雷は「はたた神」とも言う。

 はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎

 夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎

 はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨

 赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨

 遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女

 遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子

 遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾

 真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨

 鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし

 睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太

 大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨



突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・・・・片桐てい女
020925ookamakiri3.jpg

      突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・・・・・・・・・・片桐てい女

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。
前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。
動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。
「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の片桐てい女の句は、そういうカマキリの生態の特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。
菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。
写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。
もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。
交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。
雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。
そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。
いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。
幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・石塚友二

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天



指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。/高原を走る夏季電車の窓で、/貴女は小さな扇をひらいた。・・・・・・津村信夫
s_comm_a1711b扇子朝顔図

       小 扇・・・・・・・・・・・・・・・・津村信夫
          ・・・・・・嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に・・・・・

     指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。

     高原を走る夏季電車の窓で、

     貴女は小さな扇をひらいた。

この詩は『さらば夏の光りよ』という津村信夫の詩集の巻頭に載るものである。

この本は奥付をみると昭和23年10月20日再版発行、京都の八代書店刊のものである。
戦争直後のことで紙質は悪く、表紙もぼろぼろになってしまった。
こんな名前の出版社は今は無い。
その頃は紙が不足していて、紙の在庫を持っている会社を探して、とにかく出版にこぎつける、というのが多かったらしい。
私は、この年には旧制中学校を卒業してフランス語を学びはじめた頃である。18歳になったばかりの少年だった。
この短い詩は暗誦して愛読した。

03170022草軽鉄道

写真②は、復元された「草軽鉄道」の車両の内部である。
詩の中で「夏季電車」と書かれているのは、恐らく、この鉄道であろうと思われる。草軽とは草津と軽井沢の地名であろう。

この本の「年譜」の中で、彼の兄・津村秀夫は、こう書いている。

・・・・・時に、良家の一少女を恋し、これを自ら「ミルキイ・ウエイ」と呼ぶ。詩作「小扇」及び「四人」に掲載せる散文詩風の手記「火山灰」はすなはちその記念なり。総じて『愛する神の歌』の中の信濃詩篇を除く他の作品は、おほむねこの少女への思慕と、若くして逝ける姉道子への愛情をもとにして歌へるものといふべし。・・・・・

室生犀星に師事したことがあるが、彼を識るようになったのも、夏の軽井沢であると書かれている。

この詩の「国境」というのは「くにざかい」と読むのであろう。
この詩は、極めてロマンチックな雰囲気に満ちたもので、この本を読んだ頃、私は、こういうロマンチックな詩が好きだった。
津村信夫は昭和19年6月27日に36歳で病死する。
若くして肋膜炎を患うなど療養に努めてきたが、晩年には「アディスン氏病」と宣告されたというが、私には、この病名は判らない。

この詩の二つあとに、こんな短い詩が載っているので、それを引く。

        ローマン派の手帳・・・・・・・・・・津村信夫

     その頃私は青い地平線を信じた。

     私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト
     復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温りにはグレ
     ーチェン挿話がひそんでゐた。不眠の夜の暗い木立に、
     そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。
-----------------------------------------------------------------------
この詩も題名からしてロマンチックである。
津村信夫は、私の十代の青春とともにあった記念碑的な名前である。

(追記)
「現代詩手帖」2012年9月号は「杉山平一」特集をしているが、その中に

   国中治「杉山平一という複合体」─<近代>を体現する方法

という5ページにわたる文章が載っている。
その文章の末尾に、杉山最後の詩集『希望』から

     花火が

     パラソルをひらいた

     その下に きみ

という短詩を引き、

<この詩の隣にはぜひ津村信夫「小扇──嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に」(『愛する神の歌』所収)を置いてみたい。
 映画のモンタージュ技法を詩に適用した成功例として、杉山が青年時代から繰り返し言及・称揚してきた作品である。
<小扇>が花火の<パラソル>となって清楚に花開くまでの長い長い年月を、やはり想わずにはいられない。>

として、私が掲出した、津村の、この詩を置いて締め括りにしていることを書いておきたい。



木村草弥第二詩集『愛の寓意』・・・・・「Ⅱうましゑ抄」(削除)以外の全文
(告 知)
2016/08/01付けで、FC2.us から次のようなメールが到着した。
<以下のURLに対してJASRAC様よりDMCAによる著作権違反の連絡が届いておりますので該当記事を凍結いたしました。>
これは私の第二詩集『愛の寓意』の「Ⅱうましゑ抄」に収録した7篇の作品の「引用」の仕方が著作権違反ということだろう。
私としては謝罪と誠意の意思を示すために「Ⅱうましゑ抄」全文を削除した。
なお本著は出版元に於いて、既に絶版となっており再刊されることはない。
以上、当方の謝罪と誠意の意思を表明し、今回の紛争に終止符を打っていただくようお願いする。
凍結は『愛の寓意』全体に対して行われたのだが、「Ⅱうましゑ抄」以外の作品については問題はないと考え、ここに再構成するものである。      
         2016/08/25                       木村草弥

愛の寓意_NEW

   木 村 草 弥  詩 集 『愛 の 寓 意』 Allegory of Love
                          角川書店 2010/11/30 刊
---------------------------------------------------------------------------
愛の寓意        目次

I 序詩 あしひきの州見の山ゆ

長歌と反歌 あしひきの州見の山ゆ
ヤコブの梯子
風力分岐
桜吹雪
老後
ひとり連詩・残照
五十音図
贋作
州見山

Ⅱ うましゑ抄(削除)

Ⅲ 落花譜

落花譜
イェイツの墓碑銘
樹液と甲虫たち
アダージェット

Ⅳ 畢詩 京終と称ふる地なる

畢詩 京終と称ふる地なる


初出一覧
著者 略歴
あとがき

装丁  岸顯樹郎

----------------------------------------- ---------------------------------

I 序詩 あしひきの州見の山ゆ


 長歌と反歌 あしひきの州見の山ゆ

   長歌  あららぎの丹の実光れる州見山
三香原(みかのはら) 布當(ふたぎ)の野辺を さを鹿は嬬(つま)呼び響(とよ)む。山みれば山裳(やまも)
みがほし 里みれば里裳(さと)住みよし。櫟坂(いちさか)を登りいゆけば山城(やましろ)
と寧楽(なら)の境に あららぎの丹の実光れる州見山(くにみやま)。天地(あめつち)の依り
合ふ限(きは)み 春草を馬食ひをらむ州見山。
あしひきの州見の山ゆ 見かへれば 朝霧のおぼに流るる
泉河(いづみがは)。青丹よし寧楽の都に木材(きだち)運ぶと 木の津なる浜辺に
見ゆる大船の ゆくらゆくらと。
陽炎のあるかなきかの 春霞たつ つぎねふ山城。
夏草の繁き勢(きほ)ひの 幣(みてぐら)を寧楽に。
秋草に結ぶさ露のしろしろと 天つ水仰ぎて待たむ。
石(いは)走る垂水も凍(い)てて 羽交ひの鴨に雪は零(ふ)りつつ。
古への賢(さか)しき人の天雲(あまぐもの)たどきも知らず ししくしろ熟睡(うまい)
に落つるぬばたまの妹(いも)。
狩衣(かりぎぬ)の乱るるなへに狛錦(こまにしき)紐解きまけて はねず色の移ろひ
やすき若草の嬬。
      反歌
拓かれし州見台てふ仮り庵(いほ)に愛(め)ぐはし女男(めを)の熟睡(うまい)なるべし

----------------------------------------- --------------------------------------

  ヤコブの梯子(はしご)

 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベータを載せて
天上の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。

──────────────────────────────
 彼ヤコブは夢を見た。
 見よ。
 一つの梯子(はしご)が地に向けて立てられている。
 その頂(いただき)は天に届き、見よ、
 神の使いたちが、その梯子を
 上り下りしている。

           (旧約聖書・創世記28章12節)
───────────────────────────────

 或る朝。
お釈迦さまが極楽を歩いていた時に、
蓮池から遥か下の地獄を ふと覗くと
罪人の犍陀多(カンダタ)が居た。
カンダタは生前さまざまの悪事の報いで地獄に
落されていたのだが、小さな蜘蛛を助けたことがあった。
そこで お釈迦さまは地獄の底のカンダタを極楽への
道へ案内するために、一本の蜘蛛の糸を
カンダタに下ろす。
カンダタは極楽から伸びる蜘蛛の糸を見て喜び、
これで地獄から脱出できると思った。
そして 細い蜘蛛の糸を伝って何万里もある距離を
上り始めた。
ところが糸を伝って上る途中で、ふと下を見ると
数限りない地獄の罪人たちが自分の下から続いて来る。
このままでは細い蜘蛛の糸は重みで切れて落ちてしまう。
カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちは
一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚く。
自分だけ地獄から抜け出そうとするカンダタの
無慈悲な心がお釈迦さまには浅ましく思えたのか、
次の瞬間、蜘蛛の糸はカンダタのぶらさがっている所から
ぷつりと切れて愚かなカンダタは再び地獄に落ちてしまった。
 芥川龍之介の見た夢の出来事である。

軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道上の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルを伸ばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。

 或る日。
大きな宇宙ごみ(スペースデブリ)が
軌道エレベータに衝突して
ケーブルが切断され
何百人もの人が死んだ。
切断されたケーブルは、まだ修復が済んでいない。
----------------------------------------- --------------------------------------

  風 力 分 級
     ──おのづから陥穽ふかく来しならむ蟻地獄なる翳ふかき砂 ──

少年は虚弱児だったので
独りで お寺の縁側の下で繰り広げられるアリジゴクの
「狩」の様子をじっと見つめるばかりだった
アリジゴクのすり鉢の穴を
昆虫少年というのでもなく
飽かず眺めていた。

アリジゴクの陣地構築はどうするのか。
彼アリジゴクは先ず大きな輪を描きながら後ずさりしてゆく。
その輪の直径は次第に小さくなり、
最後に中心に潜り込んで完成する。
陣地の砂の斜面の角度は、いわゆる「安息角」。
もし虫などの獲物が斜面に足を突っ込むと、安定が崩れて地獄の穴
の底へ転落する。
湿度の変化によって「安息角」が変化するので、ときどき修正する
ことも忘れない。
頭にあるハサミは、よく見るとすり鉢の底にぐっと広げ、斜面の下
端を器用に支えている。だから、このハサミのセンサーで斜面に起
る微妙な変化を感知できるのである。
粒ぞろいの砂がある場所ならともかく、一見、とても陣地が作れそ
うにもない荒地でも、整地作業する。
つまり、粒ぞろいに整地するのだ。

一九八二年、アメリカの動物学の雑誌に、この陣地構築に関する論
文が出た。題して「アントライオンAnt-lion幼虫の陣地構築に関する
バイオフィジックス」。
この整地作業の際に彼アリジゴクは、砂の粒を揃えるのに
「風力分級」という作業をする。
「風力分級」というがニュートン域と層流域の中間域が丁度よいの
である。

<風力分級の極意をアリジゴクに学ぶ>など考えてもみなかった。
つまりアリジゴクは整地作業の際に砂を顎の力で刎ね飛ばすのだが
その際に「風力分級」という「物理学」を応用するのである。

いつだったか
むしあつい盛夏の夜
宇治川の堤の上の道を車で走っていた。
水生のウスバカゲロウかトビケラか、彼らの大群が水辺から羽化し
雄と雌がお互いに交尾を求めて「婚姻飛翔」nuptial flightに群飛する。
その群にまき込まれると虫の死骸の油で道路はつるつるになり交通
事故が多発する。

蟻地獄アリジゴクもウスバカゲロウの一種だが水生の種のような
群飛はしないし、とにかく彼らは孤独なのだ。
だが、彼らは昆虫でありながら二、三年は生きる長命だし「餓え」
には強いのだった。
とにかく彼らは辛抱強い。
獲物がかかるのを、ひたすら待つ。

二、三年は生きながら砂のすり鉢の底に居るから排泄すると巣が汚
れるので彼らは排泄しない。だから肛門がない。
成虫に羽化してから二、三年分の糞を一度に放出するらしい。
巣を汚さない、のついでに書けば、捕えた餌の昆虫などは蜘蛛のよ
うに、口から消化液を注入して半消化にしてから吸い取って吸収す
る。
吸い尽して空になった虫の体は強い顎で、穴の外へポーンと放り投
げて捨てる。
水生のウスバカゲロウのように群飛して、交尾して、産卵して、二、
三時間で死ぬこともない。二、三週間は生きるらしい。

何も知らなかった少年は
年月を重ねて
女を知り
<修羅>というほどのものではないが
幾星霜かがあって
かの無頼の
石川桂郎の句《蟻地獄女の髪の掌に剰り》
の世界を多少は判る齢になって
老年を迎えた。
----------------------------------------- ----------------------------------

  桜吹雪
     ──パイロットインクをずっと使ってた
          あなたに遭えたころのブルーよ
                    上野久雄 ──

地下深くエスカレータに下る
トーキョー駅の奈落の底へ
トーキョー・ベイの波しぶきも
ここまでは届かない
今しがたトーキョー・ベイの
遊歩道に散る桜吹雪を
浴びて来たのだった

球根は地中に育っていた
庭石の先にクロッカスが咲いた
花の散る気配ひそけき夜の底ひに
命あるものの温みに安らいで眠ろう
老らくは老ゆらくにして老楽ならず
 
よい事ばかりではなかった
私の中を通り過ぎて行った一人の女(ひと)
梅はもとより辛夷、沈丁花、花馬酔木
花の名は一人の女(ひと)に習って覚えた
めらめらと嫉妬の炎を燃やす女ひとではなかった
そっと坐っているような穏かさがいとほしかった

連翹の花の黄が目に痛い
それは
かりそめのまた必然のことであったか
-----------------------------------------------------------------------------

  老後
       ──老後とは死ぬまでの日々花木槿  草間時彦 ──

嫌な右目だ 左目はゆっくり空へ向けよう
揺れるブランコ
雌猫の目が右目で睨んでいる
黒い箱の中が暗いとは限らない
なめらかな時間の薄皮をそっと剥ぐ
いちにちをむすんでひらいて酔いながら
風流だなあ 時間の秘処を洗いつつ
赤ちゃんが赤い ぬくとい朝である。

ひょうたんがふらりと訪ねてきた喪の日
ガラス器に音楽満ちて昼の葬
読経する不確かに声寄せ合って
木の葉一枚もらって帰る葬式
朝の歯ブラシがやわらかい
てのひらは明るく開かれ朝のトースト
昼餉のあとのまどろみの夢見に春画がどぎつい
性犯罪のようにぬいぐるみが温かい
楕円形の眠い意識のまま白い陶器
夕暮にさわってすこし大人 花いちもんめ
ことりことり足音も忍ばせて幽霊もさみしい
思考の隣の有象無象がくたびれる
暮れてゆく窓の不思議を呑みこもう
馬鹿馬鹿しい長い電話があった
抜いて差す釘一本。

老後ってこんなものか二杯目のカプチーノ
呆ける楽しさ 帽子が水に浮いている
飽きの来ぬ背中を眺め日が暮れる
木の股の先に木の股 苦笑する
未来から過去へ点いたり消えたりしている電灯
存在の赤さに秋の灯が沁みる
手を振りつづける 平凡な日常が消えないように。
----------------------------------------- -------------------------------------

  ひとり連詩 残 照
       ──春潮の快楽けらくか老いのうす明かり──

<川は枕の下を流れ>
と詠んだのは吉井勇
川は きのうへ流れ
ひとりぼっちの川は流れる 無信心
性書ひらく一瞬 さくらが咲いた
本なんか読むなよ 満開の桜だ
母の展(ひろ)げる地図に さくらさくら
襞(ひだ)をひろげると地図が消えている
妻の手の鳴る方へ 魚形の眼(まなこ)だ
春の夜の不思議な夢に家族の目だ
私の咎(とが)で傷つくお月さまだ
春の雨 やがて弔い唄になる。

花は雫(しずく)して木偶(でく)の唇はひらき
弱肉強食の歯にしらしらと桜満ち
木偶に木偶来て きのうのさくらだね
死者の目に残るさくらの幾ひらぞ
生は死の一部分であり
生きる証(あかし)の腐臭を放つのだ 贄(にえ)
じっとしていると集(つど)う孤と孤と孤
あこがれのあれは けだものの火のかたち
青嵐 火の手が及ぶかもしれぬ
待つ身ゆえに 郵便受に日が落ちる。

野菜サラダの上を菜種前線通過中
存在証明 大きな音で茶碗が割れる
こっそりと研ぐ快感のナイフ
ナイフ研ぐ かすかに青を零(こぼ)す指
フラスコの中の白濁した未来
黄泉比良坂(よもつひらさか) 缶を蹴ったり石を蹴ったり
ガードレールをざくっと越えてゆく記号
「柿の種」をポリポリ 遺産相続人になる
木のぬくもり 男と女の過失率
毀れゆく確かなものなど有りはしない
屈託もなく春風が春画をめくる
吉野は天川村洞川(どろがわ)から陀羅尼助丸が届く
いいえ、言葉の置き薬です。

体内と体外の毛の出来ごころ
通せんぼは止(よ)して あなたの夢の中
春の体内の橋はぐらぐらと危険だ
木の腋をくすぐり女は雨を待つ
気持よさそうに紐がのびている
そう、蛇になったら行くところがある
しばらくは木の股に生きているよと揺れている
そう、ふんころがしの一生に似て来たな。

    ひとつぶの朱(あけ)の残照 生きている。
----------------------------------------- ----------------------------------

  五十音図

     あいうえお
     か くけこ
     さしすせそ
     たちつてと
     なにぬねの
     はひふへほ
     まみ めも
     やいゆえよ
      りるれろ
     わゐうゑを
     ん

     あいうえお
     かき けこ
      しすせそ
     たちつてと
     なにぬねの
     はひふへほ
     まみむめも
      いゆえよ
     らりるれろ
     わゐうゑを
     ん

原っぱに散らばる二枚の五十音図表には
虫に食われた穴が空いていた
弥いちゃんが その穴を仔細に見たら
虫に食われた穴の文字は

    き む ら く さ や

だと判った
そこで 弥いちゃんは
その字たちを拾い集めて
五十音図表の虫食いの穴に嵌め込んだ
  むかし
  弥いちゃんは
  くさやの奥さんだった
-----------------------------------------------------------------------------

  贋作
     ──にせものときまりし壺の夜長かな   木下夕爾──

本手瀬戸唐津茶碗直斎宗守(武者小路七代)箱書
<時代金直しがされてます
高台までニューがのびてますが使用には問題ありません
仕服は淡々斎雪月花裂です
後から付加えられたものと思われます
箱底が虫食いとなっています
桃山から江戸初期の伝世茶碗です
寸法・巾一四○ 高七四
価格・お問合せください>

<淡々斎>というと裏千家十四世のことだが。。。

「贋作」とは
或る名高い物があって
誰かが
それに似せようとして
それに阿(おもね)ろうとして
あわよくば 真品だとして
誰かを騙そうとして製作するものを指す

だが
この茶盌はいいものだな
誰かが 後から
淡々斎の裂(きれ)なんかを
付加えたのが間違いだった

誰かさんの詩のように
稚拙でもいいから
他人の真似でない
自立した作品を作ろうよ
利休も言っているではないか
<茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる>

或る未見の人からEメールで
<言葉を操る業師>と言われた
わざし、寝わざ師。
いっそ「仕事人(しごとにん)」と呼ばれたい。
----------------------------------------- ----------------------------------

  州見山

三香原布當(みかのはらふたぎ)の野辺をさを鹿は嬬(つま)呼び響(とよ)む朝が来にけり
山の端の羅(うすもの)引きて朝日いづ茶畑の丘の緋の朝ぼらけ
あしひきの州見(くにみ)の山ゆ見かへれば朝霧のおぼに流るる泉川
あららぎの丹の実光れる櫟坂(いちさか)は寧楽(なら)と山城へだつる境
猫と老人めだつ島なるイドラ島エーゲ海の光燦と注ぎぬ
エーゲ海の島の日向に老人が屯しゐたり そんな日が来る
ニッポンの老いびとたちも日がな日がなG(グラウンド)ゴルフの球(たま)と遊べり
いそいそと誰に見しよとの耳飾り身をやつし行く老いの華やぎ
百歳を超すひと三六二七六人祝ふべきかな老人国ニッポン
<死にし人は死もて齢を堰きたる>と言ふを諾(うべな)ふ 青葡萄生なる
狩衣(かりぎぬ)の乱るるなへに狛錦(こまにしき)紐解き待てる若草の嬬
拓かれし州見台てふ仮り庵(いほ)に愛(め)ぐはし女男(めを)の熟睡(うまい)なるべし


  *この作品は、「序詩」に載せた「長歌・あしひきの州見の山ゆ」を角川書店
    「短歌」編集部からの注文により短歌作品として再構成したものである。


----------------------------------------- ----------------------------------

III 落花譜

   愛咬やはるかはるかにさくら散る    時実新子


  落花譜

     みやこの花のちりかゝるは
     光信か胡粉の剥落した
     さまなれ

       又平に逢ふや御室の花さかり    蕪村


《「又平に」自画賛》 紙本着色 103×26 逸翁美術館蔵
「又平に逢ふや御室の花さかり」の句とともに描かれた俳画
又平は近松門左衛門の「傾城反魂香」に登場する画家

     花とりのために
     身をはふらかし
     よろつのこと
     おこたりかち
     なる人のありさま
     ほとあはれにゆかしき
     ものはあらし

       花を踏し
       草履も見えて
       朝寝かな        夜半翁


《美人図自画賛》 紙本墨書 扇面 19×50
「あはれにゆかしき」女の姿を蕪村は、こう描いた

蕪村の墓は、京都市左京区一乗寺の金福寺にある。
元禄の頃、この寺の鉄舟和尚が芭蕉に心酔して自らの庵を芭蕉庵と
名づけたのだが、蕪村の時代にはすっかり荒廃していたので、蕪村
の友人だった樋口道立という儒者が発起人となり再興した。
蕪村はそれを機に写経社というグループを結成し、毎年二回、金福
寺で句会を開くとともに「洛東芭蕉庵再興記」なる一文を書く。
安永六年には、やはり道立の発起により、庵の横に芭蕉を讃える石
碑が建立された。

蕪村の句<我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花>に詠まれた「碑」とは、
この芭蕉碑のこと。
「枯尾花」は芭蕉の追善集の書名にかけたもの。
芭蕉を尊敬していた蕪村。俳諧の歴史の流れの中で、自らも芭蕉の
ような高みを目指したいという志が読み取れる。
天明六年十月に持病の胸痛を訴えた蕪村は十二月二十五日未明、
六十八歳で亡くなる。

辞世の句は<しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり>
そして、「我も死して」の句の通り、金福寺の芭蕉碑の近くに葬られ
ることになった。
蕪村の墓の隣には俳句の高弟・江森月居の墓、蕪村の絵の一番弟子
で四条派の祖となった呉春も師の間近に眠る。

     身にしむや
       なき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)    蕪村


     *       *       *


  愛咬やはるかはるかにさくら散る    時実新子

「愛咬」とは成熟した男女の情事での秘戯である。
情事の床で、いろいろのテクニックを駆使しての成熟したカップル
のもつれ合う姿が脳裏に浮かんでくる。
時しも、桜の季節しかも「はるかはるかにさくら散る」という
お膳立ても出来上がっている。
愛は「はかないもの」で、はるかはるかに散る桜のように、愛の熱
情も、いつか色あせ、移ろってゆく。
そういう愛の「哀しみ」を、状況設定も見事に芸術作品に仕立てた。

時実新子は一九二九年岡山市生れの人気川柳作家でエッセイストで
もあった。
二〇〇七年三月十日肺がんのために七十八歳で亡くなった。
句集に『時実新子一萬句集』『有夫恋』などがある。
この人の師匠は川上三太郎で、処女句集『新子』の序文の中で、

<新子は女性であるから何よりも先ず女性の手に成った句を書くように仕向けた>

という。
川柳人口のほとんどが男性であった昭和三十年頃、他の男性作家と
同じような句を書いていた新子に、三太郎が与えた啓示であった。

     一月に生きて金魚の可能性      時実新子
     二ン月の裏に来ていた影法師
     三月の風石に舞うめくるめき
     四月散り敷いて企み夜になる
     美しい五月正当化す別離
     六月の雨まっさきに犬に降る
     七月に透ける血脈陽を怖れ
     八月の蝉からからと完(おわ)りける
     脈うつは九月の肌にして多恨
     十月の藍の晴着に享く光
     あくまでも白し十一月の喉(のんど)かな
     極月のてのひらなれば萼(うてな)です
----------------------------------------- ------------------------------------

  イェイツの墓碑銘


Cast a cold eye
On Life, on Death
Horseman, pass by !
  ……William Butler Yeats

氷河によって削られ特異な形をしたベンブルベン山(五二五m)の見えるドラムクリフの
聖コロンバ教会。
ここはノーベル賞詩人のW.B.イェイツの祖父が牧師を務めていた教会で、イェイツも
よくここを訪ねており、ここの墓地にイェイツの墓がある。

この教会の敷地の一角には立派な「ハイクロス」があり、写真も撮った。
この特異な形のベンブルベン山の見える土地にはイェイツは幼い頃から家族で夏を過ごし、
この自然がイェイツの詩作にも大きな影響を与えたと言われている。
ここスライゴー郊外のドラムクリフで、イェイツは村の人々から聞いた口伝の伝説を集め
『アイルランド農民の妖精物語と民話』(一八八八年)、『ケルトの薄明』(一八九〇年)に
収めたりした。
そして民話に触発された独自の詩の世界を完成させた。
また『秘密の薔薇』(一八九六年)では、妖精や神々、英雄を登場させたりもした。

ウィリアム・バトラー・イェイツ(一八六五年六月十三日~一九三九年一月二八日)は、
アイルランドの詩人、劇作家。
イギリスの神秘主義秘密結社黄金の暁教団のメンバーでもある。
ダブリン郊外、サンディマウント出身。
神秘主義的思想をテーマにした作品を描き、アイルランド文芸復興を促した。
日本の能の影響を受けたことでも知られる。

イェイツの属した、黄金の暁教団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)とは、
十九世紀末にイギリスで創設された近代西洋儀式魔術の秘密結社である。
黄金の暁教団、ゴールデンドーンなどとも訳され、GD団と略される。
この結社は一八八八年三月一日、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メ
イザース、ウィリアム・ロバート・ウッドマンの三人によって発足。
最盛期には百名以上の団員を擁したが、内紛により一九〇三年頃までに三結社に分裂する。
その教義はカバラを中心に、当時ヨーロッパでブームを起こしていた神智学の東洋哲学や
薔薇十字団伝説、錬金術、エジプト神話、占い、グリモワールなどを習合させたもの。
教義の習得ごとに、生命の樹(カバラの創世論の図)になぞらえた位階を設定。昇格試験
を経て上位の位階に進むというシステムを採用し、一種の「魔法学校」の様相を呈してい
た。
後の多くの西洋神秘主義団体も、このシステムを受け継いでいる。
人間の階級は当初最低が「ニオファイト」で最高が「アデプタス・マイナー」であるとさ
れていたが、後期には指導者が勝手にそれらより上の階級である「アデプタス・メジャー」
等を名乗り始める。
長らくその内容は謎に包まれていたが、イスラエル・リガルディによって出版されて公に
知れることになった。
なおリガルディーはのちに自宅を魔術マニアに荒らされ、コレクションを盗まれる。
これを天罰だという向きもあった。

イェイツは、
一八六五年 画家J・イェイツのもとに生まれる。十五歳まではロンドンで過ごす。
一八八八年 ダブリンに帰郷。父の影響で絵の勉強をしたが、むしろ文学の方面で実力を
      発揮した。
一八八九年 「アシーンの放浪」出版。ケルトの古伝説に興味を持ち始める。
一八九二年 アイルランド文芸協会設立。
一八九九年 アイルランド国民劇場協会設立。
一九二三年 ノーベル文学賞受賞。

イェイツは一九三九年南イタリアで亡くなったが、遺言により第二次大戦後、ここに改葬
されて、懐かしい教会の墓地に眠っている。
墓石には、亡くなる数日前に書かれたという「ベンブルベンの麓にて」と題する詩の一部
が彫られている。

私は、まだ詩の全文にも当たっていないが、私のやっている短歌の音数律に則って訳して
みた。

Cast a cold eye
On Life, on Death
Horseman, pass by !

冷徹な 視線を
生に、死に 投げて
馬の乗り手は、 時の過ぎつつ
       (木村草弥 訳)

墓碑には、この詩とともに、生死の年月日が刻まれている。
黒い石の墓石に白い字が印象的な、簡素な墓である。
------------------------------------------------------------------------------

  樹液と甲虫たち
      ──少年は樹液饐すえたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を──

学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
家の中に閉じこもらずに野山に出かけよう。
雑木林に行くとナラ、クヌギなどの広葉樹の太い木には樹液の沁み
出る傷がある。
そんなところには木の樹液に集る虫が寄ってきて樹液を舐めている。
カブトムシ、クワガタムシ、カナブンなどの甲虫やムカデなどであ
る。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のも
のが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが
沁みつくもので、
題名に添えた歌は、そんな少年の情景を詠んでいる。

樹液の沁み出す木の傷には、いろいろの虫が集ってくる。
虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどは
ズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちに
オズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。

少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近く
には雑木林があるような環境だったから
上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。
水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必
死で泳ぎを覚えたものである。

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙
の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。
いま、昆虫の雄が大きい、と書いたが、それは正確ではない。
昆虫と言っても多くの種類があり、甲虫目(鞘翅目)は雄が大きい
ことが多い。
バッタ、イナゴ、カマキリなどバッタ目(直翅目)は雄が小さく、
雌が大きい。
もっとも、これらは樹液にたかる虫ではなく、草を食べたり、草の
汁を吸ったりする昆虫である。

とにかく、樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、先に書い
たように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集っ
てくるものである。その辺は少年なりの知恵と言えようか。

蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あま
り蝉採りなどはしなかった。
蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかっ
た。
夏の終りに近づくとカナカナと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋
口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポ
プラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が
出てきた穴が、いくつもあった。
日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつか
ない。

ノコギリクワガタという立派なクワガタが居て、体の色が赤銅色に
光っているのが特徴。
この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新
期を経て伐採された。
そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。
クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、伐られ
なくなっては雑木林は衰退するばかりである。

そんな虫たちを詠んだ草弥の歌がある。

   沙羅の寺(抄)
  楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る
  かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす
  蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我

新潮社の読書誌『波』二○○四年八月号の連載コラム「猫の目草」
一○三回で、故・日高敏隆先生が「カブトムシたちの苦労」という
のを書いていらっしゃる。
それを読むと、交尾の済んだカブトムシの雌は卵を生みつける手ご
ろな「腐葉土」を見つけて産卵すると、雌の一生は終る。カブトム
シの幼虫は腐葉土を食べて育つ。
カブトムシと並んで子供たちの関心の的であるクワガタムシは、親
はカブトムシと同じく樹液を唯一の食物としているのに、どういう
わけか「朽木」に産卵し、幼虫は朽木を食べて育つ。
朽木により腐り方がいろいろあり、クワガタムシの種類によって好
みも違うが、総じて朽木は腐葉土に比べて栄養価がずっと低い。
だからクワガタムシの幼虫が親になるには、少なくとも二、三年は
かかる。けれど、その代わり、親は、カブトムシと違って二年以上
生きられる。同じ樹液に集る虫なのに、カブトムシとクワガタムシ
は、まるで違った一生を過ごしているのである。

こんなことは、今はじめて知ったことである。 自然は一面、
公平なところがあるのだ。
-----------------------------------------------------------------------

  アダージェット
        ──吾が爪の変形しゆく夕まぐれ
            『マーラー五番アダージョ』黄の部屋に盈つ──山口紀子

ルキーノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』というのが
あった。
その主題曲として
マーラーのシンフォニー五番、第四楽章アダージェットが挿入され、
多くの人の耳に馴染み深い、忘れられない音楽となった。
ヴェニスを舞台に展開する屈折した同性愛のエロスとは
無縁であることは言うまでもないが、
この曲はマーラーがアルマ・シントラーに贈った愛の曲である。

マーラーは一九〇一年十一月に知り合い、一ヵ月後に婚約し、
四ヵ月後に結婚した。

マーラーと親しかったオランダの指揮者メンゲルベルクは
自分のスコアの第四楽章のアダージェット部分に、
こんなメモを書き残している。

──────────────────────────────
このアダージェットはグスタフ・マーラーが
アルマに宛てた愛の告白である!
彼は手紙の代りにこの自筆譜を彼女に贈り、言葉
を一切添えなかった。
だが彼女はそれを理解し、「来てください!!!」
と返事を書いた。
これは二人が私に話してくれたことである! W.M
───────────────────────────────

また、スコアの左端には、冒頭のヴァイオリンに
よる旋律にぴったり当てはまる七行の詩が書き込
まれている。

  どれほど君を愛しているか
  私の太陽よ
  言葉では言い尽くせない
  ただ君に憧れ
  君を愛しているとだけ
  訴えることしかできない
  君は我が至福の喜び!

シンフォニックなラヴレターと呼べるアダージェッ
トは「言葉なき歌曲」だが、言葉がついているに等
しいと言える。

前登志夫の弟子に石坂幸子という歌人が居て、山口紀子と二人で
「たらえふ通信」というハガキによる歌語りを交換していた。
石坂幸子がC型肝炎で逝って「たらえふ通信」と歌友・山口紀子が
残された。


残されて生きる心にほんのりと
 芙蓉のような明るさありて    山口紀子

その残された山口紀子と木村草弥は、一年弱「えふえむ通信」なる
ハガキ通信をしていた。
山口紀子は第三子出産後、厳しい腎臓障害に陥り、週三回の透析を
必要とするような生活に苦しんでいた。


吾が爪の変形しゆく夕まぐれ
 『マーラー五番アダージョ』黄の部屋に盈つ

という冒頭の歌は、「爪の変形しゆく」と詠って悲痛である。
「えふえむ通信」は、そんな紀子の体調を慮って、つい遠慮する私に
紀子が苛立ち、いつしか通信に齟齬を来たすようになって解消した。
あれから、もう十数年が経つが紀子はどうしているだろうか。


マーラー死後その妻アルマ波乱なす
 華やかな恋あまたしたりき    木村草弥


---------------------------------------------------------------------------

IV 畢詩 京終と称ふる地なる

   草深き夏野わけ行くさを鹿の音をこそたてね露ぞこぼるる (新古今集・恋2・一一〇一 藤原良経)


  畢詩 京終と称ふる地なる(抄)
  ──石川郎女と大伴宿祢田主との贈答歌──
遊士(みやびを)とわれは聞けるを屋戸借さずわれを還せりおその風流士(みやびを)
遊士にわれは有りけり屋戸借さず還ししわれぞ風流士にはある


山背(やましろ)の 杣のわが屋戸(やど) 西つかた 神奈備山に
五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の樹の
弥(いや)つぎつぎに 絶ゆることなく ありつつも 止(や)まず通はむ。
青丹によし 寧楽(なら)の京師(みやこ)に 春の日は 山し見がほし
秋の夜は 河し清(さや)けし 旦(あさ)雲に 鶴(たづ)は乱れつ
夕霧に かはづは騒ぐ。
京終(きょうばて)と称(とな)ふる地なる 仮庵(いほ)の 高楼の屋戸ゆ
玻璃戸より ふりさけ見れば 春日なる 若草山に 雪は著(しる)しも
一人して 巻きたる帯を 二人して 帯解(おびとけ)て寝(ぬ)る 若草の嬬(つま)。

  わが命 ま幸(さき)くあらば また寝(い)ねむ
  ひたぶるに 貪(むさぼ)らむかな この熟睡(うましね)を





この惑星の地軸が/少しばかり傾いているお蔭で/どんなに猛暑が続いても/こうして/この列島にも 秋がくる・・・・・・坪井勝男
アンソロジー
↑ アンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社刊)← 538名の現代詩作家を集めたもの。
higurasi04ヒグラシ雄

      口 伝・・・・・・・・・・・・・・・・・坪井勝男

     この惑星の地軸が
     少しばかり傾いているお蔭で
     どんなに猛暑が続いても
     こうして
     この列島にも 秋がくる

     寒蝉(ひぐらし)が遠い記憶の谷間で鳴き始めると
     ぼくは背筋を伸ばして杜にゆく
     ヒトであることに疲れたら
     幹に凭れて
     樹に流れる いのちの水音でも聴いていよう

     この巨樹をめぐる陽光と風
     枝々のざわめきは
     屈折し重なり合ううちに
     言語を超えたコトバを投げかけてくる

     それは
     たぶん
     見知らぬ 親しい者たちからの口伝(くでん)なのだろう
     聞き取ろうと
     手を擦りながら
     風に耐えている

     千枚あまりの年輪を包む ひび割れた樹皮
     梢の方を見やる
     あ
     いま
     文脈を捉えたような気がする

---------------------------------------------------------------------------
この詩はアンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社2012/08/31刊)から引いた。

今年の猛暑は異常だし、今日も残暑というのも憚られるほど暑いが、季節というものは正直なもので、いつしか秋風が吹くようになる。
そういう推移を、この詩は、うまく詩にしている。
「早く涼しくなってくれ」という願いもこめて、この詩を出しておく。
この作者のことを検索してみると
1929年生まれ。詩集として『樹のことば』『見えない潮』などがあるらしい。アマゾンで買えるようである。



つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・・清崎敏郎
hamahiru021浜昼がお

     つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この清崎敏郎の句は、浜昼顔の生態をよく観察したもので、海辺に咲く浜昼顔を過不足なく描写して秀逸である。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・飯島晴子

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・高橋沐石

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子
------------------------------------------------------------------------------
今日は暦の上では「処暑」である。暑さが止む頃ということだが、今年の暑さは、何だろうか。
<言うまいと思えど今日の暑さかな>という句の通りの心境である。
京都では「地蔵盆」の季節でもある。





そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・・・山口青邨
sobaソバの花

    そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦(そば)の花咲く

  窯元へぬかるむ道のつづきけり蕎麦の畑は白とうす紅

  風かるき一と日のをはり陶土練る周囲ぐるりと蕎麦の畑ぞ
・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌群が載っている。
私の住む辺りは大都会の近郊農村で、平地で、蕎麦は昔から栽培されるのを見たことがない。
ということは都会にも近く、かつ温暖で水の便もよく救荒作物である「ソバ」のようなものの世話になる必要のない土地だったということになろうか。

写真①は蕎麦の草を接写したものだが、蕎麦畑の全体像は写真②のようなものである。
buckwheat-6ソバ畑

ソバは夏蒔きと秋蒔きと2回時期があるらしいが、いずれにしても稔るのが早く、2~3カ月で収穫できるらしい。
荒地を厭わないので救荒作物として高冷地では広く栽培されたという。
写真③で「ソバの実」をお見せする。
buckwheat-5ソバの実

この写真は、まだ脱穀したばかりで色が白いが時間が経つと皮が黒っぽくなる。
この実を臼で挽いて出来るのが「ソバ粉」で、粉に少し黒っぽい色がついているのは、皮が混ざっているためである。

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 山畑や煙りのうへのそばの花・・・・・・・・与謝蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・与謝蕪村

 山畑やそばの白さもぞつとする・・・・・・・・小林一茶

というような昔の句にも詠まれているように、そのさりげない蕎麦の花の風景が愛(め)でられていたのである。
写真④はソバの花を接写したものである。
buckwheat-7ソバの花

今では「そば」と言えば食べるソバがもてはやされて、どこそこの蕎麦が旨いとか、かまびすしいことである。
しかし文芸の世界では「蕎麦の花」がもてはやされる。
食べる「そば」では実態を描きようがないからである。食べる「そば」は味覚の問題であって、文学、文芸上で描写する対象にはなり得ない。
仮に描写することが出来ても、そこから広がる世界、連想、想像を推し量ることには限界がある。

img_22ソバの草

以下、俳句に詠まれた作品を引用しておく。

浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・杉田久女

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 蕎麦の花下北半島なほ北あり・・・・・・・・加藤楸邨

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山脈の濃くさだまりてそばの花・・・・・・・・長谷川双魚

 蕎麦咲きて牛のふぐりの小暗しや・・・・・・・・中条明

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 月光の満ちゆくかぎり蕎麦の花・・・・・・・・古賀まり子

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


みづがめ座われのうちらに魚がゐてしらしらと夏の夜を泳げり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
yun_1311エイ

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐて
   しらしらと夏の夜を泳げり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
西洋占星術でいう星座の分け方によると、私は2月7日生まれなので、「水瓶座」ということになる。
占星術については、2004年の夏にFrank Lloyd Wright 氏の発案で「インド占星術」を中心に10回ほど日本、中国、インドなどの暦などについて書いたことがある。
この頃では、週刊誌などにも「占い」「運勢」のページがあって、それらはいずれも西洋占星術の星座表に基づいている。書いてあることは、当り障りのないことで、さして「占い」とも言えないようなものだ。
しかし、一応は自分の星座表くらいは知っていても邪魔にはならない、という程度の代物かなと思う。
星座表は古代ギリシアで、ほぼ出来上がった。
ギリシア神話の「みずがめ座」Aquariusの由来というのは、こんなものだ。
・・・・・トロイの国にガニメデという羊飼いの美少年がいた。
天上から見た大神ゼウスは一目でガニメデを好きになってしまい、ゼウスは鷲に姿を変えてガニメデをさらってしまった。
みずがめ座は、この美少年ガニメデを表している、と言われる。・・・・・

「水瓶」についていうと「甕」という字も使うが、昔は今のように水道があるわけでもなく、水汲みも大変だったので、「水瓶」が使われた。
写真②のような大きなものなど、いろいろあったようだ。
yun_2245水瓶

私の歌だが、着想というか連想というのは単純なもので「みづがめ座」→「水」→「魚」ということから、このような歌が生れた。
魚の読み方「いを」は古語の読みである。
水瓶座とかいう季語はないので、もう少し先になるが「星月夜」の季語による句を引く。

 われの星燃えてをるなり星月夜・・・・・・・・高浜虚子

 子のこのみ今シューベルト星月夜・・・・・・・・京極杞陽

 星月夜生駒を越えて肩冷ゆる・・・・・・・・沢木欣一

 星月夜白き市門のあらびあ海・・・・・・・・角川源義

 寝に戻るのみの鎌倉星月夜・・・・・・・・志摩芳次郎

 星月夜小銭遣ひて妻充てり・・・・・・・・細川加賀

 中尊寺一山くらき星月夜・・・・・・・・佐藤棘矢

 鯉はねて足もとゆらぐ星月夜・・・・・・・・相馬遷子

 星涼し樅のふれあふ音かさね・・・・・・・・星野麦丘人

 星月夜ひとりの刻は沖を見る・・・・・・・・高橋淑子



咲き急ぐことなどはなし睡蓮の葉あひにひとつ莟のまろき・・・・・・・・・・女屋かづ子
a0019858_2277睡蓮②

  咲き急ぐことなどはなし睡蓮の
      葉あひにひとつ莟(つぼみ)のまろき・・・・・・・・・・・・・・・女屋かづ子


この歌は睡蓮を詠っている。今さかりの時期を迎えている花である。
この作者については何も判らない。『角川現代短歌集成』③巻 から引いた。

掲出した写真の一番目、二番目のものは、いずれも「睡蓮」であり、素朴な可憐な蓮である。フランス人画家・モネの絵も、この蓮である。

a0019858_22541睡蓮

蓮には多くの種類があり、花を観賞するだけでなく、食用の「蓮根」として地下茎の部分を極端に太らせる品種改良したものなど、さまざまである。
鑑賞用の蓮にも古代の蓮「大賀蓮」のように古代の古墳から出た蓮の種から発芽させたものなど色々ある。
私の住む辺りは昔から地下水が豊富に「自噴」する地域として、その水を利用した「花卉」(かき)栽培が盛んで、海芋(かいう)──カラーや、花菖蒲などが栽培されるが、これからのお盆のシーズンの花として「花蓮」が水田で栽培され、夏の強い日差しの中にピンクの鮮やかな花を咲かせる。

a0019858_194529花蓮②

a0019858_191621花蓮

もちろん商品として出荷するものは「つぼみ」のうちに切り取り、葉っぱも添えて花市場に出荷される。摘採は太陽のあがる前の早朝の作業である。
月遅れ盆の8月上旬が出荷のピークであり、この時期には臨時に多くの人を雇って、早朝から作業する。

私の歌にも睡蓮、蓮を詠んだものがあるので下記に引いておく。
作歌の場面は、奈良の唐招提寺である。説明する必要もなく一連の歌の中に詠み込んであるので、歌を見てもらえば判ることである。
唐招提寺の一連の歌は「夢寐むび」と題して詠んでいる。
「夢寐」は、漢和辞典にも載るれっきとした熟語で「寐」=「寝」の字に同じである。
その後に引続いて「西湖」と題する一連から蓮に関するものを引用しておく。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

  夢寐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ

くれなゐの蓮は鑑真のために咲き朝日さしたり安心(あんじん)の池

結跏趺坐和上のおはす堂の辺の蓮に朝(あした)の日照雨(そばへ)ふるなり

<蓮叢を出て亀のゆく苦界あり>さわさわと開花の呼吸整ふ
           *丸山海道

くれなゐの蓮群れ戯(そば)ふ真昼間の風はそよろと池を包みぬ

睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたび過(よ)ぎる

   西湖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

<睡蓮の中に西施が舫(もや)ひ舟>西湖の蓮にわれ逢ひ得たり
               *堀古蝶

睡蓮の花閉ぢむとして水曇る金色の夕べ波立ちゆらぐ

睡蓮にぴりぴり雷の駆けゆけり花弁をゆらし騒だつ水面

声明(しやうみやう)に湖の明けゆく水面には岸にむかひて日照雨ふるなり

てのひらに蓮の紅玉包みたし他郷の湖を風わたりゆく

湖に真昼の風の匂ふなり約せしごとく蓮と向きあふ

手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭(よ)りゐつ

戻り来しいのち虔(つつ)しみ菖蒲田を妻と歩めば潦(にはたづみ)照る
-----------------------------------------------------------------------
「日照雨」(そばえ)とは、陽が差しているのに小雨がはらはらと降ること。別名「きつねの嫁入り」などという。
「潦」(にわたずみ)とは俄か雨などで一時的に出来た水溜りのこと。


老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥
20110221_896756パンとシュリンクス ルーベンス
 ↑ ルーベンス筆「パンとシュリンクス」─カッセル州立美術館所蔵

     老後つてこんなものかよ二杯目の
             コーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。

ご存じのように、この話「牧神の午後」のエピソードはギリシャ神話に発するが、有名になったのはフランスの作家・マラルメの詩による。
それに刺激されてドビュッシーの作曲があり、よく知られている。
私の歌は、それらを下敷きにしているのである。 以下、それらについて少しWikipediaの記事を引いておく。

00000464336.jpg
 ↑ ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」CDの一例
----------------------------------------------------------------------------
『「牧神の午後」への前奏曲』 (ぼくしんのごごへのぜんそうきょく、仏:Prélude à "L'après-midi d'un faune")ホ長調 は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1892年から1894年にかけて作曲した管弦楽作品であり、彼の出世作である。

概要
この曲はドビュッシーが敬慕していた詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。" 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る"という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている。牧神を示す主題はフルートソロの嬰ハ(Cis,C#)音から開始されるが、これは楽器の構造上、非常に響きが悪いとされる音である。しかし、ドビュッシーはこの欠点を逆手にとり、けだるい、ぼんやりとした独特な曲想を作り出すことに成功している。フランスの作曲家・指揮者ブーレーズは「『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとは違ったやり方で息づく 」と述べており、近代の作品で非常に重要な位置を占めるとされる。曲の終盤ではアンティークシンバルが効果的に使用されている。

この後、ドビュッシーは、歌曲集『ビリティスの3つの歌』(1898年)、無伴奏フルートのための『シランクス』(1913年)、ピアノ連弾曲『6つの古代碑銘』(1914年)などの作品で牧神をテーマにしている。また、ラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』(1912年初演)にも牧神(パンの神)が登場する。
----------------------------------------------------------------------------
削除されるかも知れないが、この曲の演奏のyoutubeを出しておく。 ↓


私の午後のコーヒー・タイムを「牧神の午後」になぞらえるような不遜な気は、私にはさらさら無い。
コーヒーを呑みながらドビュッシーの、この曲を聴いている、と受け取ってもらえば有り難い。
因みに、2012年はドビュッシー生誕150年の記念すべき年であったことを書き添えておく。
では、また。


その背中ふたつに割りて緑金ののなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫
010704aokanabun1アオカナブン

  その背中ふたつに割りて緑金の
      山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫


この歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いた。初出は『鳥総立』(03年刊)。前登志夫については ← に詳しい。

学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。コガネムシとも言う。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくものである。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・木村草弥

という歌があるが、先に書いたような情景を描いているのである。

樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

040629miyamaミヤマめす

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。 (昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、いくつもあった。
日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
nokogirikun.jpg

五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
------------------------------------------------------------------------
虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

     沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

   かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

   蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我




薮入や彩あでやかにアロハシャツ・・・・・・・・・・・・吉田北舟子
2_薮入り

  薮入や彩あでやかにアロハシャツ・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田北舟子

「やぶいり」というのは、旧暦の7月16日に奉公人が休暇をもらって家に帰り親に会うことが出来る日である。
正月16日にも薮入りがあるので、この日を「後の薮入り」というのが正式である。
掲出の絵は大阪の記念館で展示する薮入りのひとコマで、お内儀に頭を下げて丁稚が帰ってゆくところである。
昔は奉公人の休みは1カ月に一日、十五日の二日だけであり、年端の行かない幼い丁稚たちにとって、親に会えるのは、一年に「薮入り」の日二回だけだった。
と言っても遠方から勤めに来ている者にとっては、それもままならぬことだったろう。
karamo薮入り

二番目の写真も展示の商家の風景である。

関西では、今でも8月16日は「薮入り」の日と呼ぶ。丁稚たちの実家帰りの風習は薄れたので、他所に暮らしている子供たちが家に帰ってくる日とされる。
もっとも、今では、こんな風に日を決めて帰ってくるというのではなく、勤務先の休暇の都合や土曜、日曜に引っ掛けて帰ってくるのが普通である。
それでも「今日は薮入りやなぁ」と言ったりする。
先に書いたように8月15日のお盆前後は、日本の特異日であって、民族の大移動の時期で、その中に「薮入り」の日も含まれる。

kamado薮入り

三番目には、これも直接に関係はないが、昔の台所には、こういう「かまど」があったということで出してみた。
京都では「へっつい」さん、などと呼ぶ。
日本は八百万の神さんの居る国だから、「かまど神」も当然いるわけで、朝晩には灯明をあげ、ご飯を供えるのである。

──中元ということについて──

もともとは、中国の「三元」という考え方があり、上元が1月15日。中元が7月15日。下元が10月15日と称した。
元というのは「はじめ」のことで、一年を三分して考えたのである。
本来は天の神を祀る中国の風習が、かの地でも、中元は節供にあたるものとなり、それが日本に入って贈答習俗と変わったのである。
「中元」という言葉自体が変化してしまい、「お中元」という贈答の中元になってしまった。
8月は、本当に行事が多くて、書くことはいろいろあるので、今回は「薮入り」と「中元」の二つを同時に書くことになった。
以下に「薮入り」と「中元」の句を引いて終りにしたい。

 薮入や皆見覚えの木槿(むくげ)垣・・・・・・・・正岡子規 

 薮入して秋の夕を眺めけり・・・・・・・・松瀬青々

 薮入り子の窺ふや萩薄・・・・・・・・松瀬青々

 薮入の姉の下駄履き野菊摘む・・・・・・・・南南浪

 薮入に実生の桐の育ちかな・・・・・・・・菊地赤水

 盆礼に忍び来しにも似たるかな・・・・・・・・高浜虚子

 盆礼やひろびろとして稲の花・・・・・・・・高野素十

 中元や老受付へこころざし・・・・・・・・富安風生

 中元の使患者にまじり来る・・・・・・・・五十嵐播水

 母居ぬ町に手受けて中元広告紙・・・・・・・・中村草田男

 中元の新聞広告赤刷に・・・・・・・・上野泰

 中元や萩の寺より萩の筆・・・・・・・・井上洛山人


けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・・秋元不死男
natuama天の川②

  けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

「天の川」は一年中みえるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。
夏から秋にかけて、写真のように起き上がり、仲秋には北から南に伸び、夜が更けると西の方へ向かう。
「銀漢」という表現もあるが「天の川」のことである。

天の川の句としては芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」などの秀句がある。
不死男の句は或る「愛」を想像させて秀逸である。折りしも、月遅れのお盆であり、いろいろと偲ぶにはよい句である。

天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。
『万葉集』に山上憶良の歌

  天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

の歌が、古くからあり、美しさと星合の七夕伝説とが結びついてイメージされている。
以下、歳時記に載る天の川の句を引いておく。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・・・・・正岡子規

 虚子一人銀河と共に西へ行く・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・夏目漱石

 天の川人の世も灯に美しき・・・・・・・・・・・・沼波瓊音

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・・・・・臼田亞浪

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・・・・・石田波郷

 妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・鷹羽狩行

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・・・・・石塚悦郎

Per_20080813_0414sペルセウス2008

この句とは直接の関係はないが、私はこんな歌を創ったことがある。
(第四歌集『嬬恋』所載)

わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける・・・・・・・・・・・木村草弥

銀河からの連想であるが、今しもペルセウス流星群の活動の激しい時期である。






迎火は草の外れのはづれ哉・・・・・・・・・・・・・小林一茶
bondana_350_2盆供

  迎火は草の外れのはづれ哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

盂蘭盆会(うらぼんえ)は旧暦7月13日から16日まで行われる祖先の魂祀りの行事である。東京などでは新暦の7月にするところがあるが、全国的には旧暦に近い月遅れの8月15日に行われ、この前後を休暇とする企業が多い。
しかも、この前の世界大戦の終戦日が8月15日となったので、すべてのものが一時に集中する特異日となった。

仏壇前に先祖迎えのための霊棚を作り、野菜などを供え、ナスの牛、キュウリの馬を割り箸などで作って供える。
先祖の御霊はキュウリの馬に乗って還り、16日にはナスの牛に乗って、ゆっくりと、あの世にお帰りになる。
ナス、キュウリの由来については、このように説かれている。

13日の夕方、門口で迎え火を焚く。掲出の一茶の句は、その情景を詠んだものである。
もちろん各地で風習が異なるから、いくらかの違いはあるだろう。
私たちの地方では、門先での「迎え火」を焚く習慣はない。その代りに、住まいのある「在所」の入口の道の最寄りの場所に出向いて線香を焚く。
その煙に乗って祖霊が家にお帰りになるという。
もっとも現在では、車の往来も激しいし、そんな風習も廃れて、菩提寺に参詣して、盂蘭盆会供養のご祈祷をした「塔婆」などをいただいて家に持ち帰る。

写真①は霊棚の一例。写真②は盆提灯の一例である。その年に新仏が出た家では親戚が提灯をお供えする。
bon-choutin-150-2盆提灯

8月6日のBLOGで「睡蓮」や花蓮のことを書いた中で、私のところでの花栽培農家の「お盆用の花ハス」の出荷のことに触れたが、
8月上旬から出荷がはじまり、ハスの花のつぼみと、花の咲いたあとの「萼」(がく)、それにハスの葉、の三点セットを花屋やスーパーなどで買い求めて仏壇に飾る。
ハスはお釈迦様がお座りになる花の「うてな」という意味であり、また仏教とハスの花は信仰を彩るものとして切り離せないものである。

bon盆踊り
8月に入ると各地で「盆おどり」が行われる。
開かれる日は村によって決っており、遅くは9月1日に「八朔」の行事の一環として催される。
京都には京都おどりというようなものはなく、「江州音頭」による踊りが一般的である。むろん都会では、いろいろの踊りがごちゃ混ぜに踊られる。

ここで盂蘭盆会の由来について、少し書いておきたい。
この行事は、安居(あんご)の最後の日で、7月15日を盂蘭盆(サンスクリット語でullambana)と呼んで、父母や祖霊を供養し、倒懸の苦を救うという行事。
近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だという説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば可能性が高いという。

中国での盆会
盂蘭盆の中国での起源は古く『仏祖統紀』という本では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝みずから同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日を中元と言って、先祖に供え物をし、灯籠に点火し祖先を祀る風習によってであろう、と言われる。

日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、4月8日と7月15日に斎を設ける、とあり、また斉明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西に作って盂蘭盆会を設けたとされ、聖武天皇の天平5年7月(733年)には大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行われ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」をあわせて行なった。
-----------------------------------------------------------------------
ここで盂蘭盆あるいは迎え火、門火などのお盆にまつわる句をあげたい。

 盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙・・・・・・・・・・・・・正岡子規

 あをあをと盆会の虫のうす翅かな・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 くちなはのしづかに失せし魂祭・・・・・・・・・・・・・山口誓子

 もの食(た)ぶも食ぶるを見るも盆あはれ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 としよりのひとりせはしきお盆かな・・・・・・・・・・・・・森川暁水

 盆過ぎの墓地の寧けき暗さかな・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

 かの世より父来る盆の帽子掛・・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 迎へ火やをりから絶えし人通り・・・・・・・・久保田万太郎

 迎火やほそき芋殻を折るひびき・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

 門火焚き終へたる闇にまだ立てる・・・・・・・・・・・・・星野立子

 迎火を女ばかりに焚きにけり・・・・・・・・・・・・・高野素十

 迎火や母つつみ去る風少し・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 おほわだの父呼ぶ芋殻焚きにけり・・・・・・・・・・・・・板東紀魚
------------------------------------------------------------------------
nasuナスの馬

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中に、こんな歌を載せた。

    紺しるき茄子に黍がらの脚さして死者の乗る馬つくる盂蘭盆・・・・・・木村草弥

この歌を作った後に、先に書いたような「祖霊迎え」の際の「キュウリの馬」、お帰りの際の「ナスの牛」という謂れを知ったので、
正しくは「死者の乗る牛」でなければならないことが判ったが、そのままにしておく。





うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂
aaookyouch1夾竹桃赤

    うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂

夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。
aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、
それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。
明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。
句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・千代田葛彦

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏
-----------------------------------------------------------------
今日挙げた高島茂の句だが、高島茂のご子息の高島征夫氏が急死された今となっては、感慨新たなるものがある。
征夫氏のブログのサイト<風胡山房>も、主なきままに今だに存在しているが、虚しい限りである。
私のリンクに貼ってあるのも、思い直して消去した。後ろ髪引かれるような想いである。
改めて氏のご冥福を心からお祈りしたい。


雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
011紅蜀葵

    雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)
      まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌のすぐ後に

   このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がつづく。病身の亡妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

紅蜀葵は和名を「もみじあおい」という。アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。
日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。
花は朝ひらいて夕方には、しおれる。次に咲く花は、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いて、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

俳句にも、よく詠まれているので、以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・瀧春一

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・岡本差知子

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子



心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
hyakun3百日草②

  心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦


「百日草」は名前の通り夏の間、百日間も秋まで咲きつづける草花である。病気などにも罹らず極めて強い花である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも

   百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は「花言葉」をネタに歌の連作を作っていた時のものであり、百日草の花言葉は「不在の友を想う」である。
花言葉のことだが、私の歌の「離れゆきたる友」というのは正確ではなく、私の方から何となく離れていった、というべきだろうか。
私の性癖として、友人、知人の何らかが鼻につくと身を引くところがあるのである。一種の潔癖主義というか、包容力のなさ、ということであろうか。

hyakun2百日草③

百日草に戻ると、この草は私の子供の頃からある草で日本の草のように思っていたが、外来種らしい。外国では「薬用」として栽培されていたという。
地味な花で、今では余り盛んに植えられては居ないようだ。

nichin6日日草

今では、これも秋まで百日以上も咲きつづける写真③の「日日草」が、これに取って代わるだろう。
極めて安価な草で、病気にも強く、広く植えられている。私の方でも植えている。
いま調べたところ「百日草」はメキシコ原産でキク科の一年草で、「日日草」は西インド原産でキョウチクトウ科の一年草という。
歳時記にも、両方とも載っているので、それらを引いて終わりたい。

 百日草ごうごう海は鳴るばかり・・・・・・・・三橋鷹女

 蝶歩く百日草の花の上・・・・・・・・高野素十

 これよりの百日草の花一つ・・・・・・・・松本たかし

 一つ咲き百日草のはじめかな・・・・・・・・瀬野直堂

 病みて日々百日草の盛りかな・・・・・・・・村山古郷

 朝の職人きびきびうごき百日草・・・・・・・・上村通草

 毎日の百日草と揚羽かな・・・・・・・・三輪一壺

 母子年金受く日日草の中を来て・・・・・・・・紀芳子

 働かねば喰えぬ日々草咲けり・・・・・・・・佐伯月女

 日日草なほざりにせし病日記・・・・・・・・角川源義

 紅さしてはぢらふ花の日日草・・・・・・・・渡辺桂子

 日日草バタ屋はバタ屋どち睦び・・・・・・・・小池一寛

 嫁せば嫁して仕ふ母あり日日草・・・・・・・・白川京子

 些事多し日日草の咲けるさへ・・・・・・・・・増島野花

 出勤の靴結ふ日ざし日日草・・・・・・・・鶴間まさし



花火果て闇の豪奢や人の上・・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋睦郎
hanabi_002.jpg

     花火果て闇の豪奢や人の上・・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋睦郎

夏の風物詩と言えば、何といっても「花火」だろう。花火は何となく「はかない」。それは華やかにパッと咲いては消えてゆくからである。

この句は、挙がる花火そのものを詠むのではなく、花火の終った後を詠んで「闇の豪奢」と言っている。味わい深い。
高橋睦郎については、リンクにしたWikipediaの記事に詳しい。
花火という季語は元来は秋のものであったというが、やはり夏がふさわしく、今では夏の季語として定着している。
花火大会というと昔から東京の隅田川の両国の花火大会が有名でカギヤ、タマヤという花火師がいたらしく、花火が揚がるたびにタマヤ、カギヤの掛け声がかかったという。

tamura花火①

関西では、PL花火大会、琵琶湖花火大会、7月25日の天神祭の後、8月はじめに大川で挙行される花火大会などが有名である。
花火は火薬を使用するので花火師に危険は、つきものである。
今ではテレビなどの映像で知るだけでも、みんな会社組織になっている。国際的に活躍している人たちも多い。
日本の花火は一つ一つが芸術的に出来ているが、外国のものは数にまかせて一度にたくさん打上るものが多い。
日本の二尺玉、三尺玉などの単発の芸術作品もいいが、外国の数で押す手法と混合するのも、よいのではないか。

bg01花火③

ここに掲げた写真は、いずれもWeb上から拝借したものだが、これだけ鮮明に花火を撮るのは難しい。これらの写真は、よく撮れている。

ootutu②尺玉打上筒

四番目の写真には「尺玉打上筒」の説明がある。私は初めてお目にかかるもので、その大きさに改めてびっくりする。
今では打上げはコンピュータ制御で操作するらしいが、その制御に至る準備が大変だろう。
昔は打上げの際の爆発事故で目や手足を損傷した花火師もいた。今でも花火工場の爆発事故などもある。
打上げの際の華やかさに比べて、花火の製造や準備は地味なもので、ご苦労が偲ばれる。
であるから、花火を見る際には、それらのご苦労に対して、一瞬でも心を致したい。
--------------------------------------------------------------------------
以下、花火を詠んだ句を古今を通じて引いてみたい。

 小屋涼し花火の筒の割るる音・・・・・・・・・・・・宝井其角

 物焚いて花火に遠きかかり舟・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 宵々の花火になれて音をのみ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 空に月のこして花火了りけり・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 子がねむる重さ花火の夜がつづく・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 ねむりても旅の花火の胸にひらく・・・・・・・・・・・・大野林火

 花火あがるどこか何かに応へゐて・・・・・・・・・・・・細見綾子

 半生のわがこと了へぬ遠花火・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

 童話読むことも看とりや遠花火・・・・・・・・・・・・及川貞

 黒き蔵王全し花火一瞬に・・・・・・・・・・・・杉本寛

 犬の舌したたかに濡れ揚花火・・・・・・・・・・・・荒谷利夫

 死にし人別れし人や遠花火・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 陣痛の牛ゐて花火音ばかり・・・・・・・・・・・・今井聖

 花火の夜兄へもすこし粧へり・・・・・・・・・・・・正木ゆう子

 大空のうつろに割れし花火かな・・・・・・・・・・・・前田野生子

 大花火沖の暗さを見せにけり・・・・・・・・・・・・平松荻雨

 海峡に色をこぼして揚花火・・・・・・・・・・・・岩崎慶子

 とめどなく空剥がれ落つ大花火・・・・・・・・・・・・田山康子

 亡き妻に花火を見せる窓あけて・・・・・・・・・・・・野本思愁
---------------------------------------------------------------------------
六番目の大野林火の句だが、私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で、「辞世」①というコラージュ風の作品として

  「ねむりても旅の花火の胸にひらく」冬の花火ってさみしくていいもんだよ・・・・・・・・木村草弥
                 *大野林火

という歌を作ったことがある。こういうコラージュの手法は絵画の世界では市民権を得ているが、歌の世界では、なかなか理解を得られず苦労した。



てのひらに蝉のぬけがら ぬけがらを残して人はただ一度死ぬ・・・・・・・・・・・・・永田和宏
d524a756943bdc36ceaa-L.jpg

  てのひらに蝉のぬけがら ぬけがらを
      残して人はただ一度死ぬ・・・・・・・・・・・・・永田和宏


この永田和宏の歌は「蝉のぬけがら」を見た目から「人間の生死」にまつわる死生観に話を振って秀逸である。
この歌は『角川現代短歌集成』③巻 から引いた。初出は『風位』(03年刊) 永田和宏については ← に詳しい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、次のような蝉の抜け殻を詠んだ歌がある。

  空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・木村草弥

写真の蝉はアブラゼミかと思う。
二番目の写真から三枚つづけてアブラゼミの羽化の様子を載せる。
ll0021.kuma羽化①

二番目の写真は地中から這い出てきて、羽化するために足場をがっしりと固めた様子。
地中から這い出て来るのは目撃者によると夜8時頃からという。
羽化の途中は蝉の肌も弱く、敵に襲われたら一発でアウトなので慎重らしい。
羽化に失敗するのが、いくつもあるらしい。
一番目の写真のように葉っぱにすがって羽化するのもあり、地中から出て来た環境なりに羽化する足場を探すらしい。
いよいよ羽化がはじまり、幼虫の背中が割れて蝉が外に半身を乗り出した様子。
ll0031.kuma羽化②

この姿勢から下の方にのけぞり、全身が外に出た後、足で殻に捕まって、のけぞり姿勢を正し、ゆっくりと時間をかけて羽や全身を伸ばす。
羽にも血液が流れ、蝉の成虫の羽の大きさと色になってゆく。
この姿勢の時間は一晩をかけて、ゆっくりと行われる。こうしてアブラゼミならアブラゼミなりの大きさと色に変わってゆくのである。
昆虫の場合には「変態」という用語を使うこともあるが、蝶や蝉など羽が生えて空を飛ぶものには「羽化」という言葉がふさわしい。
ll0011.kuma羽化③

四番目の写真では、羽化が終った蝉が抜け殻から離れたところに静止しており、右側に抜け殻が見えている。写真で見るかぎり、まだ体の色はアブラゼミにはなり切ってはいない。
朝になれば羽化した蝉は餌(樹液など)や配偶者を求めて飛び立たなければならないから、それまでに全身を成虫の体にしておかなければならない。
蝉の成虫の命はせいぜい10日か2週間と言われている。地中で木の根から樹液を吸って生きる数年の期間のことを考えると、誠にはかない命と言うべきだろう。
その故に日本人は古来から多くの詩歌に詠んできたのである。
-------------------------------------------------------------------------
以下、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る一連の歌を引用する。
これらはWeb上のHPでもご覧いただける。

     青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   別離とは白き紙かも夏逝くといのちの影をうつしてゐたり

   かるかやにすがりて羽化を遂げし蝶あしたの露にいのち萌え初む

   空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ

   青蝉は野仏の耳をピアスとし脱皮の殻を残しゆきけり

   野仏の遠まなざしのはたてなる笠置山系に雲の峰たつ

   <汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ

   ひたすらに地に生くるもの陽炎(かぎろ)ひて蟻の行列どこまでつづく

   罪いくつ作り来しとは思はねど差しいだす掌(て)に蟻這はせをり

   蟻の列孜々(しし)と励みし一日は日の昏れたれば巣穴に戻る

   呵責とも慰藉(いしゃ)ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は

   翔べるものわが身になくて哀しめば蜻蛉(あきつ)は岸の水草を発つ

   身も影もみどりとなりて畦(あぜ)渉る草陽炎の青田つづける

   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ





かん声をあげて/海へ走り/しぶきのなかに消える/子どもたち・・・・・・・・川崎洋
59303_1.jpg

          海 ・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     かん声をあげて
     海へ走り
     しぶきのなかに消える
     子どもたち
      わたしは
     砂に寝て
     海を想っている

     ひとつづきの塩水よ
     われらが夏の始まりは
     いずれの国の
     冬のまつさかりか

     そして
     わたしの喜びは
     誰の悲しみ?

---------------------------------------------------------------------------
夏休みになって、毎日あついから、「海」は、子供たちにとっては楽しい遊び場である。

川崎 洋(かわさき ひろし、1930年1月26日 ~ 2004年10月21日)は、日本の詩人・放送作家。東京都出身。
彼は私と同年輩の詩人である。
海に近い東京は大森海岸に生れた。
1944年福岡に疎開。八女高校卒、父が急死した1951年に西南学院専門学校英文科(現:西南学院大学)中退。
上京後、横須賀の米軍キャンプなどに勤務。1948年頃より詩作を始め、1953年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。
谷川俊太郎らを同人に加え、活発な詩作を展開した。
その傍ら1971年にはラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受けた。
1987年、詩集「ビスケットの空カン」で第17回高見順賞。1998年、第36回藤村記念歴程賞を受賞した。
1955年詩集『はくちよう』を刊行。1957年から文筆生活に入る。
日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。
また1982年からは読売新聞紙上で「こどもの詩」の選者を務め、寄せられた詩にユーモラスであたたかな選評を加え人気を博した。
主なラジオ脚本に「魚と走る時」「ジャンボアフリカ」「人力飛行機から蚊帳の中まで」などがある。
作曲された詩は数多い。
歌の作詞経験も豊富で、NHK全国学校音楽コンクールでは4回作詞を担当した(「きみは鳥・きみは花」「家族」「海の不思議」「風になりたい」)。

「海」に因んだ、次のような彼の文章がある。
大森海岸近くで生まれ、太平洋戦争中、中学2年の時、父の故郷である福岡県の有明海に臨む地に疎開し、敗戦後をはさむ7年間を過ごした後、現住地の横須賀市に居を移す。
つまり彼は、ずーっと海の近くに住み続けてきたことになる、と書いている。

<家で仕事をしていて、不意に海岸へ行きたくなり、飛び出すことがある。 海は不思議な生き物で、あの東京湾の海水の寄せる三浦海岸の磯でさえ、潮の具合によっては、まるでコマーシャル・フィルムに出てくるような、透明で美しい海の表情を見せてくれることがある。夏、ああ海は光の祭りだなと思う。波は二度と同じ形を示さない。美しいものの何と気短かなことだ。「人間は海のようなものだ。それぞれ違った名前を持っていても、結局はひと続きの塩水だ」というゲーテの言葉を思い出したりする。>

<以前、小笠原が返還された年の夏、放送取材の仕事で、巡視船に同乗させてもらい、嵐の海で、マストより高い波を見たことがある。とうとう引き返さねばならぬ激しい荒れようだったが、私は舷側の柱にしがみつき、船酔いのため吐きながら、そんな海を見とどけた。その時、身をのり出して下をのぞくと、海の暴れ方からは思いもつかない、青白くやさしい泡が、船体にくっついて揺れをともにしていたのが忘れられない。>
--------------------------------------------------------------------------
今日は8月9日。長崎にプルトニューム原爆が落とされた。
太平洋戦争の末期だが、8月6日には広島に原子爆弾が落とされ、市街が灰燼に帰した上に、数万人の人が放射線により死んだ。
今や戦後生まれの人が日本人の大半を占めて、戦争を知らない人々が殆どであるが、戦中派の一人として、この日は語り継がれるべきだと思う。
さすがの日本軍閥も敗戦を受け入れるきっかけになった両日である。
私は、その頃、軍需工場に動員され、旋盤工としてロケット砲弾の部品を削っていた。
あれから、もう71年が経つ。



陽が射せばトップレスもゐる素裸がティアガルテンの草生を埋む・・・・・・・・・・・・木村草弥
BERLIN~1
800px-Berlijn_tiergarten_park.jpg

    陽が射せばトップレスもゐる素裸が
          ティアガルテンの草生(くさふ)を埋む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
「ティアガルテン」とは、ドイツの首都・ベルリンの中心部に広がる広大な公園で、掲出写真二枚のようなものである。
プロイセンの頃は、王族の狩猟地だった。
写真①のロータリーの真ん中に立つのが「ジーゲスゾイレ」というプロイセンの勝利の塔であり、ここに上るとベルリンが一望できる。
Wikipediaには、次のような記載がある。

<大ティーアガルテン (Großer Tiergarten) はベルリン中心部、ミッテ区のティーアガルテン地区に位置する広大な公園。

単に「ティーアガルテン」といった場合には、この大ティーアガルテンのことを指す場合が多いが、同じくミッテ区のモアビート地区にもティーアガルテンという名の公園があるため、ティーアガルテン地区のものには「大」を、モアビート地区のものには「小」を冠して区別している。

総面積は210ヘクタールで、これはロンドンのハイド・パーク(125ヘクタール)やニューヨークのセントラルパーク(335ヘクタール)と並ぶ規模である。

かつては王家の狩猟場だった。1818年からと1832年-1840年の2回、造園家ペーター・ヨセフ・レンネによって現在の形に整備される。中心部に戦勝記念塔が建ち、公園内を6月17日通りが通る。西にエルンスト・ロイター広場、南西にベルリン動物園、東にブランデンブルク門がある。>

同じ歌集には、掲出の歌につづいて

  半年の長き冬なれば夏の間は陽に当らむと肌さらしゐつ

  湖と森の都のベルリンは<ゲルマニアの森>の逸話おもはす
・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるので一体として鑑賞してもらいたい。

広大な森だが、ところどころに広い草生があり、夏の間は市民たちが、こぞって真裸になって「日光浴」をする。そんな写真をいくつか出しておく。 ↓

mm20120524101230_145044581日光浴
38f951d3-s.jpg
20071203_Kate_Moss_Bikini_Mexico_Tits5s.jpg

ベルリンは東西ドイツに分かれていたときは「東ドイツ」に属していたので、長らく開発から置き去りにされてきたが、東西が一体化されて、ドイツの首都となったので、
以後の変貌は著しいものがある。
今回の拙歌集『昭和』に載せたのは「ベルリンの壁崩ゆ」──1990年夏── というものであり、ベルリンの壁が崩された1989年の翌年の夏の紀行が基になっている。

この項目のはじめに

  金髪のビルギュップ女史きらきらと腋毛光らせ「壁」さし示す

  金色の腋毛光れりベルリンの壁跡指して苦難は言はず
・・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるが、今どきならば、こんな光景はあり得ないが、当時は特に共産圏では「腋毛」を剃るという習慣はなかったのである。
西欧においても、パリなどでは「男の腋毛は良くて、女の腋毛は剃れ、なんておかしい」という運動さえあったのである。
この歌に登場するビルギュップ女史は、私たちのツアーのガイドなどなさっていただいたが、東欧華やかなりし頃は、政治家や学会などの重要な会議の通訳などをされたらしい。
世が世ならば、われわれ下々のツアーのガイドでお茶を濁すような人ではなかったのだが、東欧が崩壊して、仕事が無くなったので、働いておられるのだった。
私はベルリンには、数年後にもう一度行ったが、そのときはベルリンは大改造中で、歌集の中にも歌を載せた「パラストホテル」という東ベルリン有数の名ホテルも解体中だった。
「パラスト」というのは英語でいうと「パレス」宮殿の意味で、旧プロイセンの王宮の跡に建っていた。
つまりパレスホテルということなのであった。当然このホテルは東欧、東独のトップクラスの要人たちが屯するホテルだったようで、その「悪しき」権力のイメージが付き纏い、
なんども経営母体を替えたようだが、解体のやむなきに至ったらしい。
その、まさに解体最中のときに私の二回目のツアーが遭遇して、大きなショックを受けたことを、今も覚えている。
同じ一連に載る

  ヒロシマの原爆ドームのごとくしてウィルヘルム教会廃墟を残す・・・・・・・・・木村草弥

という教会も、歌集を読まれた三浦好博氏の手紙によると、「廃墟」ではなくて、最低限の補修をして「記念堂」として機能しているという。
今の写真を、下記に。 ↓ 右側のノッポの塔のようなのが「新」教会。

379PX-~1

事ほど左様に、ベルリンの変貌は著しい。

  「ベルリンの壁」とり去りて道となす傍に煤けし帝国議事堂・・・・・・・・・・木村草弥

と詠んだ議事堂も、二回目に行ったときは改修されて「新」ドイツ議会として、新たにドームも付加されたりして観光客を迎えていた。
どれもこれも、浦島太郎のような心境に陥る変貌ぶりであった。 ↓ 今の写真を出しておく。
1280px-Reichstag_panoドイツ国会議事堂

ここは1930年代に、ヒトラーが共産党に罪をなすりつけようと「放火事件」をデッチあげたことで有名だったが、敗戦、東西ドイツ分断などで放置されていた。
それらの経緯が、私の歌からも読み取れよう。

そういう意味でも、 この一連は私にとって「記念碑的な」ものと言えよう。歌集に敢えて収録した所以である。


暦には立秋とある今日の午後黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一
FI2618441_5E.jpg

  暦には立秋とある今日の午後
     黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一


今日は「立秋」である。
しかし、今年の暑さはどうだろう。朝の最低気温が28度を示していたりして、いいかげんにせぇ、という気分だ。
今朝も熱帯夜は免れがたく、南をゆく台風の余波で湿気の多い蒸し暑さである。
これからも暑さは続くだろう。今日以後は暑くても「残暑」と言わなければならないが、まだまだ酷暑真っ盛りという昨今である。嗚呼!

立秋の歌としては、次の歌が古来、人口に膾炙してきた。

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行

この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。
この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

FI2618441_4E.jpg

『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。
次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。

筏井嘉一の歌のことに触れるのが後になった。この歌は歌集『籬雨荘雑歌』(65年刊)に載るもの。

立秋に関する歌として

  十張のねぶた太鼓のつらね打ち夏跳ねつくせ明日は立秋・・・・・・・・・・・・布施隆三郎(『北斗のα』97年刊)

というものもある。青森在住の歌人なのであろうか。



蓮の葉は静かになりぬ戦いにさやぎて死にし兵のごとくに・・・・・・・・・・・・・・・香川進
a0019858_2277睡蓮②

     蓮の葉は静かになりぬ戦いに
         さやぎて死にし兵のごとくに・・・・・・・・・・・・・・・香川進


今日八月六日は広島に原子爆弾が投下された日である。 その鎮魂の日に因んで、この歌を載せる。
掲出の歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いたが、初出は歌集『湖の歌』(84年刊)。
香川進については ← リンクに張ったところなどを参照されたい。
私も一時、彼の主宰する短歌結社「地中海」に席を置いていたことがあり、その「地中海」誌に一年弱ほど彼の自由律の第一歌集『太陽のある風景』について記事を載せたことがあるが、今は纏まっては引き出せないので失礼する。
香川の活躍したのは塚本邦雄や岡井隆らの活動した「前衛短歌」運動に対して、いわば「前衛狩り」を強行したことで知られている。
これは彼一存ということではなく、そういう前衛の運動に対する「短歌界」の保守派の委任を得たような形ではなかったか。
当時、私はまだ歌壇には関係しておらず、事情には詳しくはないが、むしろ関係が無かったからこそ、今となっては客観的に見られると思うのである。
「前衛狩り」は、角川書店発行の月刊誌「短歌」の編集長に山本友一や片山貞美などを送り込むなどの画策の前面に出たのが香川進であったらしい。
今となっては、いろいろの事実が明らかにされているので調べられたい。
毎年一月半ばに皇居で催される「歌会始」の行事の選者や召人として一時香川進が参列していたが、その頃は一種の批判勢力だった岡井隆が、今や、その中心メンバーとして人選などを牛耳っているようであり、世はまさに隔世の感がある。今や会に招かれる人の顔ぶれを見ると専ら岡井隆の息の掛かっている人ばかりと言える様相である。

a0019858_22541睡蓮

『角川現代短歌集成』③巻には「蓮」「睡蓮」の項にいくつか歌が出ているので、それを引いておく。(出典は省略)

   冲(むな)しきが若(ごと)くしあれと念じけむ墨もて描く蓮(はちす)白花・・・・・・・片山貞美

   睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗ふなり・・・・・・・・・・・・・・・石川不二子

   水上の雅歌の如しも睡蓮の花ことごとく発光すれば・・・・・・・・・・・・・・山下雅人

   大賀ハス水のうえしげく咲きほこるその下いかに根っこの修羅場・・・・・・・・・・加藤隆枝

   長江のほとりゆ来たる乾草の中より拾ふ蓮実四つ・・・・・・・・・・・・・石川不二子

   睡蓮の葉はなまけもの水面にひつたりと青き己れを伸べて・・・・・・・・・・・・・奥村晃作

   花びらを散らすことなく身を閉じて睡蓮水に帰りゆきたり・・・・・・・・・・・・・陣内容子

   陶酔はきみだけでない睡蓮がぎつしりと池に酔ひしれてゐる・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎

   睡蓮の閉ぢて色濃き花びらに明日も開かむ明るさのあり・・・・・・・・・・・・・・林三重子

   交配をみづから拒む蓮の話今朝の思ひのすがすがしけれ・・・・・・・・・・・・・・大河原惇行

a0019858_194529花蓮②

今日、八月六日は、広島に原爆が落とされた日である。
今日は朝から慰霊の行事が例年通り行われる。
今日一日、犠牲者を偲ぶとともに、過去に人間が犯してきた「間違い」を思い起し、平和の意味を問い直したいものである。
掲出した香川進の歌も、それを思い出す「よすが」にしたいからである。
私の「意」のあるところを汲んでもらいたい。



デュフィの海のやうなる空にさやぎ欅若葉は一会のさみどり・・・・・・・・・・・・・・島田修三
bin070326191301009デュフィ「波止場」

      デュフィの海のやうなる空にさやぎ
         欅若葉は一会(いちゑ)のさみどり・・・・・・・・・・・・・・島田修三


梅雨が上って、いよいよ照りつける太陽の季節が巡ってきた。
青葉、若葉が萌える時期である。
この島田修三の歌は、そんな季節の一風景をトリミングして見事である。『シジフォスの朝』(砂子屋書房01年刊)
掲出した画像は、デュフィ「波止場」である。

ラウル・デュフィについてWeb上から記事を引いておく。

ラウル・デュフィ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 ~ 1953年3月23日)は、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。

画風
アンリ・マティスに感銘を受け彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。 また本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、VOGUE表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。

生涯
1877年 北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港街に 貧しいが音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家。教会の指揮者兼オルガン奏者。母はヴァイオリン奏者。兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍。家計を助けるため14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で使い走りとして働くためにサン・ジョセフ中学校を離れる。後にル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船、ラ・サヴォアで秘書をする。
1895年 18歳のときに美術学校ル・アーヴル市立美術学校の夜間講座へ通い始めた。生涯愛したモチーフとなるル・アーヴルの港をスケッチ。右利きのデュフィは技巧に走り過ぎることを懸念し、左手で描いた。学校の友人フリエスらと共にアトリエを借り彼らとアーブル美術館でウジェーヌ・ブーダンを模写。ルーアン美術館でニコラ・プッサン、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ジェリコー、ウジェーヌ・ドラクロワを学ぶ。
1898年~99年 兵役 戦争から戻り病身でヴォージュ地方のヴァル・ダジョルに滞在
1900年 兵役の1年の後にル・アーブル市から1200フランの奨学金を得て23歳のときに一人故郷を離れパリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学。モンマルトルのコルトー街で暮らす。レオン・ボナのアトリエで学ぶ。ジョルジュ・ブラックと学友だった。印象主義の画家クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、カミーユ・ピサロなどに影響を受ける。
1902年 ベルト・ヴェイルを紹介されて、彼女のギャラリーにパステル作品を納入。
1903年 アンデパンダン展に出品。
1905年 アンリ・マティス、マルケと知り合い、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク、パブロ・ピカソなどの若いアーティストの作品をサロン・デ・ザンデパンダンを見てフォービズムに関心を向けリアリズムに興味を失う。
1906年 ベルト・ヴェイル画廊で個展を開く。
1907年 34歳の時に結婚。生活の為、木版画の制作を始める。
1908年 ブラックとレスタックで制作。セザンヌ風様式を採用。フォービズムから離れていく
1909年 フリエスとミュンヘンに旅行。
1910年 ギヨーム・アポリネール と親交を結ぶ
1911年 当時豪華王と呼ばれたファッション・デザイナーのポール・ポワレと知り合う。彼との仕事で木版刷りで布地のテキスタイルデザインをプティット・ユジーヌ工場で創る。アポリネールの動物誌の木版挿絵を制作。
1912年 フランスのシルク製造業を率いたリヨンのビアンキーニ・フェリエ商会とデザイナー契約を結ぶ。
1913年 南仏イエールに滞在。
1914年 第一次世界大戦が起こり陸軍郵便事業に従事。
1917年 翌年まで、戦争博物館の図書室員となる。
1918年 ジャン・コクトーの舞台デザインを手がける。
1919年 ヴァンスに滞在。
1920年 パリに戻りモンマルトルのジョルジュ・ブラックの近所に居を構える。
1922年 フィレンツェ、ローマ、シチリアに旅行。
1925年 「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが国際装飾美術展で金賞
1936年 ロンドンに旅行。
1938年 パリ電気供給会社)の社長の依頼でパリ万国博覧会電気館の装飾に人気の叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」を描く。イラストレーターと兼アーティストとしての評判を得る。多発性関節炎発症。ポール・ヴィヤール博士は、デュフィの主治医
1943年~44年第二次大戦中はスペイン国境に近い村に逃れて友人と共に暮らす
1945年 ヴァンスに滞在。
1950年~52年 リューマチのコーチゾン療法を受けるために米国のボストンへ。
1952年 ヴェネツィア・ビエンナーレの国際大賞を受賞。
1953年3月23日にフランス、心臓発作のためフォルカルキエにて死去。75歳没。ニース市の郊外にあるシミエ修道院墓地に埋葬される。

代表作
サンタドレスの浜辺(1906 年)(愛知県美術館)
海の女神(1936年)(伊丹市立美術館)
電気の精(1937年)(パリ市立近代美術館)長さ60メートル、高さ10メートルの大作
三十年、或いは薔薇色の人生(パリ市立近代美術館)

画集
小学館ウィークリーブック 週間美術館 ルソー/デュフィ 小学館
ユーリディス・トリション=ミルサーニ著 太田泰人訳 デュフィ 岩波世界の巨匠 岩波書店
島田紀夫 千足伸行編 世界美術大全集 第25集 フォービズムとエコールド・パリ 小学館
ドラ・ベレス=ティピ著 小倉正史訳 デュフィ作品集 リブロポート

収蔵
オルセー美術館
ポンピドーセンター
パリ市立美術館等の有名美術館
大谷美術館
国立西洋美術館
石橋財団ブリヂストン美術館
愛知県美術館
メナード美術館
三重県立美術館
島根県立美術館
大原美術館
ひろしま美術館
鎌倉大谷記念美術館
青山ユニマット美術館
ブリヂストン美術館
--------------------------------------------------------------------------
島田修三は、こういう人である。

島田 修三(しまだ しゅうぞう、1950年8月18日 - )は、歌人、日本古典研究者、愛知淑徳大学学長。

神奈川県生まれ。歌誌「まひる野」所属。1975年横浜市立大学文理学部日本文学専攻卒業、1982年早稲田大学大学院博士課程中退。専攻は万葉集。
愛知淑徳大学文化創造学部教授、副学長を経て、2011年学長。短歌は窪田章一郎に師事。
現・角川短歌賞選考委員。

受賞歴
2002年、『シジフオスの朝』で第7回寺山修司短歌賞受賞。
2008年、『東洋の秋』で第6回前川佐美雄賞受賞。
2009年、『東洋の秋』で第9回山本健吉文学賞短歌部門受賞。
2010年、『蓬歳断想録』で第15回若山牧水賞受賞。
2011年、『蓬歳断想録』で第45回迢空賞受賞。

著書
晴朗悲歌集 砂子屋書房 1991
離騒放吟集 砂子屋書房 1993
東海憑曲集 ながらみ書房 1995
風呂で読む近代の名歌 世界思想社 1995
古代和歌生成史論 砂子屋書房 1997
短歌入門 基礎から歌集出版までの五つのステージ 池田書店 1998
島田修三歌集 砂子屋書房 2000(現代短歌文庫)
シジフオスの朝 歌集 砂子屋書房 2001
「おんな歌」論序説 ながらみ書房 2006
東洋の秋 歌集 ながらみ書房 2007
蓬歳断想録 短歌研究社 2010

夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・・・・・・・千代田葛彦
aaookyouch1夾竹桃赤

  夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・・・・・・・千代田葛彦


夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。

aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。
明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。
句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・高島茂

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏



朝顔を培ふは多けれど夕顔は珍しと言ひて人は褒めをり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
128736572280316108502夕顔
 ↑ 俗称・夕顔─正しくは「ヨルガオ」の花

     朝顔を培(か)ふは多けれど夕顔は
         珍しと言ひて人は褒めをり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
「夕顔」と「ヨルガオ」とは混同されて言われるので、注意したい。
私の歌に詠ったのは「ヨルガオ」である。干瓢の原料になる「ユウガオ」のことではない。
私も俗称の「夕顔」としての使用法で詠っていることになる。 混乱させて、ゴメンなさい。
Wikipediaには下記のように載っている。
---------------------------------------------------------------------------
ヨルガオ

ヨルガオ(夜顔)とはヒルガオ科の植物の一種。学名Ipomoea alba(シノニムI. aculeata 、I. bona-nox、Calonyction aculeatum)。

 特徴
白花で、熱帯アメリカ原産のつる性植物。原産地においては多年草であるが、日本では春まきの一年草として扱う。4~5月頃に種をまく(発芽には約20度程度必要なので、一般にはゴールデンウィークを目安に蒔くのが望ましい)と、7~10月頃(暖地では11月頃まで)に開花する。花はロート形で夕方から咲き始め翌朝にしぼむ。 日本には明治の始め頃に渡来し、観賞用として栽培された。

ヨルガオのことを「ユウガオ」という人も多いが、標準和名のユウガオ(学名Lagenaria siceraria var. hispida)はウリ科の野菜(かんぴょうの原料となる)で全く別種である。

花言葉は「夜」。

その他
園芸種としては「白花夕顔」や「赤花夕顔」などがあり白花夕顔は直径15cm程の大輪咲きである。上手に開花させるためには水切れしないように朝晩に水を与えて、しおれないように注意しなければならない。 赤花夕顔は和名「ハリアサガオ」といい、茎に多くの突起があることにちなむ。直径5cmほどで極小輪で花の中心が淡い紅紫色に染まる。 どちらも芳香があるので人気が高い。
-------------------------------------------------------------------------------
また「夕顔」とは「源氏物語」の中の登場人物としても有名である。ただし、植物としては今でいう「ヨルガオ」の花を指さない。
干瓢の原料になる「ユウガオ」の植物のことである。その理由は、この頃には「ヨルガオ」はまだ日本に伝来していないからである。
 これもWikipediaの記事を抄出しておく。

SEIK022aa夕顔の心あてに
 ↑ 「夕顔の心あてに」の物語に因む絵

夕顔 (源氏物語)

夕顔(ゆうがお)とは、
1.『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第4帖。帚木三帖の第3帖。
2.『源氏物語』に登場する作中人物の女性の通称。「常夏(ナデシコの古名)の女」とも呼ばれる。

巻名及び人物名の由来はいずれも同人が本帖の中で詠んだ和歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」による。

夕顔の人物像
三位中将の娘で、頭中将の側室と言う立場にあったが、その後市井にまぎれて暮らしている。
若い光源氏の愛人となるも、互いに素性を明かさぬまま、幼い娘を残して若死にする。

父の死後、頭中将(当時は少将)と結ばれて一女(後の玉鬘)をもうけるが、本妻の嫉妬を恐れて姿を消した。「帚木」巻で語られた「雨夜の品定め」で、「常夏の女」として名前が出てくるがその時は聞き流される。

登場する回数こそ少ないものの、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る女性。
儚げながら可憐で朗らかな性格で、源氏は短い間であったが彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。

後には彼女の娘の玉鬘が登場し、物語に色を添える。

あらすじ
源氏17歳夏から10月。
従者藤原惟光の母親でもある乳母の見舞いの折、隣の垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏が取りにやらせたところ、邸の住人が和歌で返答する。
市井の女とも思えない教養に興味を持った源氏は、身分を隠して彼女のもとに通うようになった。
可憐なその女は自分の素性は明かさないものの、逢瀬の度に頼りきって身を預ける風情が心をそそり、源氏は彼女にのめりこんでいく。

あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん、源融の旧邸六条河原院がモデルとされる)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、深夜に女性の霊(六条御息所とも言われるが不明)が現れて恨み言を言う怪異にあう。夕顔はそのまま人事不省に陥り、明け方に息を引き取った。
------------------------------------------------------------------------------
yorugaoBヨルガオつぼみ
 ↑ ヨルガオつぼみ

歌集に載る私の歌の一連を引いておく。

       夕 顔・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  かの人に賜(た)びし夕顔ほのかにも門(かど)べに宵を白く灯りぬ

  三本の高き茎立(くくた)ち夕顔は百余の蕾つけゐて嬉し

  昨夜(よべ)咲きて萎れし花はひと日経てはたりと花殻落つるも哀れ

  朝夕に注ぎやる水吸ひあげて競ひて咲ける夕顔いとほし

  鉢に培(か)ふ茎立ち高く二メートル賜びたる人の手数偲ばる

  門に置く夕顔の花みごとにて道ゆく人は歩みとどむる

  朝顔を培ふは多けれど夕顔は珍しと言ひて人は褒めをり

  朝けには早や萎れゐる夕顔に昔語りの姫おもひいづ  

一番後の歌は「源氏物語」の姫「夕顔」のことを指しているのは、言うまでもない。

---------------------------------------------------------------------------
珍しい「ヨルガオの開花」の動画 ↓




桃の実のほのぼのと子を生まざりし・・・・・・・・・・・・・きくちつねこ
hakutou019.jpg
 
        桃の実のほのぼのと子を生まざりし・・・・・・・・・・・・・きくちつねこ


白桃と言っても早生から晩生までいろいろ種類があるので一概には言えないが、そろそろ桃が出回る季節になってきた。
「白桃」というのは文学的なイメージの世界では「女性の臀部」を象徴するものとして知られている。
桃のもつ特有のなだらかな丸い形。それに胴に入るくびれの線から、そのように概念づけされて来た。
「シンボル・イメージ小事典」などにも、そう書かれている。

掲出した、きくちつねこ氏の句は、そういう「桃」のイメージでありながら、自身としては「子を産まなかった」と言っている。
女としては「子」を産む、というのが、ひとつの大事業であろう、と私なんかは思ってしまう。
男には子を産むということが出来ないから、羨ましいという気分もあって、そう思ってしまうのである。
  
私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、こんな歌がある。自選にも採っているものでWebのHPでもご覧いただける。

   かがなべて生あるものに死は一度白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・・・・・・・・・木村草弥

いま私の座っている座敷机の前の床の間に、この歌を吉川美恵子さんが書いていただいた軸が掛かっている。
吉川美恵子さんについては、ここで詳しく書いたので参照されたい。
この歌は、私の最近の「死生観」を濃密に反映したものと言えるだろう。
人間だれでも一度は死ぬものである。一世を風靡する権力者も市井の凡人も、すべて等しく「死」は免れない。
われわれは、そのことを忘れて過ごしがちである。
特に、若い時や健康に恵まれて順調な時には「死」は意識の中にないのが普通であろう。
だが、古来、賢人たちは、このことに何度もメッセージを発してきた。ヨーロッパにおけるキリスト教にいう「メメント・モリ」然りである。
私の歌は、先に書いた「白桃」というイメージを踏まえて「メタファー」を含んでいると理解いただきたい。
白桃という「生」に対応する「死」ということである。
字句の解説をしておくと「かがなべて」というのは、「かが」=日々である。
この言葉には歴史があって「古事記」の倭建命と御火焼の老人との会話

    新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる・・・・・
    日日なべて夜には九夜 日には十日を

というくだりに出てくるフレーズを踏まえている。「なべて」=並べて、であり、「かがなべて」=日々をかさねて、という意味になろうか。
意識して古代の文学的な伝統に連なりたい、というところから、こういう古語を使うことになる。

以下に歌集に載る当該の私の歌8首を引用する。

      かがなべて ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  臥す妻に紅ほのかにも合歓の花のこよひ咲き初む つぎねふ山城

  白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざしゐる宵

  唇(くち)を吸ふかたちにも似て水蜜桃(すいみつ)をすする夕べはほのあかりせり

  かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

  わが味蕾すこやかなるか茱茰(ぐみ)ひとつ舌に載すれば身に夏の満つ

  執着を離れ得ざればかたつむり寝ても覚めても殻の中なる

  この夏の去りゆくものを追ひたてて炎となりて夾竹桃もゆ

  夕つかた虹の脆さを哀しめばわが痩身をよぎるものあり

一番はじめの歌の終りの部分「つぎねふ」というのは「山城」にかかる「枕詞」である。
ここに引用した歌の小見出しの全体の章名を「つぎねふ山城」としてある。

私のことを喋るのに多言を費やした。お許しあれ。

歳時記から「桃」の句を引いて終わる。
なお俳句では「桃」は秋の季語である。今日では季節感とズレがある。

 さえざえと水蜜桃の夜明けかな・・・・・・・・加藤楸邨

 白桃を洗ふ誕生の子のごとく・・・・・・・・大野林火

 中年や遠くみのれる夜の桃・・・・・・・・西東三鬼

 朝市の雨沛然と桃洗ふ・・・・・・・・中島斌雄

 白桃に触れたる指を愛しみをり・・・・・・・・斎藤空華

 白桃に入れし刃先の種を割る・・・・・・・・橋本多佳子

 水蜜や足を清しく婚を待て・・・・・・・・秋元不死男

 白桃をすするや時も豊満に・・・・・・・・能村登四郎

 白桃や満月はやや曇りをり・・・・・・・・森澄雄

 白桃の浮きしが一つづつ沈む・・・・・・・・小松一人静

 桃冷す水しろがねにうごきけり・・・・・・・・百合山羽公

 乳房ある故のさびしさ桃すすり・・・・・・・・菖蒲あや

 と見かう見白桃薄紙出てあそぶ・・・・・・・・赤尾兜子

 白桃に触れてはがねの薄曇る・・・・・・・・松本秀子

 

アンソロジー『詩と思想詩人集2016』所載「たんぽぽ」・・・・・・・・・・・・木村 草弥
詩_NEW
img927ff717zikezjニホンタンポポ
 ↑ ニホンタンポポ
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

──草弥の詩作品──(86)

      たんぽぽ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・アンソロジー『詩と思想詩人集2016』所載・土曜美術社出版販売刊・・・・


       た ん ぽ ぽ 
        ──たんぽぽの絮とぶ誰も彼も大事   岡本眸
        
   蒲公英─たんぽぽ の咲く季節は長くて
   晩冬から春の盛りまで見られる   

   思えば 私も
   タンポポの歌をいくつも詠んだものだ

      やくざなる言葉あそびに過ごす身にひとひら落つる蒲公英(たんぽぽ)の絮

      終(つひ)の日はたんぽぽの絮とぶやうにふるさとの野の雲をゆきたし

      黒南風(くろはえ)に捲かるるやうにたんぽぽの絮ながれゆく涅槃あるべし

   ところで、最近よく見かけるタンポポは「西洋タンポポ」だ
   日本タンポポは花の萼(がく)片が反り返っていないので区別は容易だ
   今やわれわれの目にするほとんどは西洋タンポポに侵食されてしまった。
   この頃では牧草の輸入が盛んで
   それらの中に紛れて日本にはない植物の種が
   すごい勢いでなだれ込んでいる。
   西洋タンポポの渡来は、もっと早いが
   「帰化植物」であることには違いない
   この頃では日本タンポポと西洋タンポポが交配して
   「雑種」が出来ていると言われている

   タンポポの綿の飛散は、もう始まっている
   先日、京都大学薬学部の構内を散歩していたら
   タンポポの綿柄には、もう綿が飛んだ後で何もなかった。

       ひと粒の種に還るべし たんぽぽの
             白き絮(わた)とぶ空はろばろと    木村草弥
---------------------------------------------------------------------------------
かねてから「詩と思想」編集部から投稿依頼があって、提出済みの作品が本日発売の「詩と詩人集2016」となって発表されたので、ここに出しておく。




copyright © 2016 Powered By FC2ブログ allrights reserved.