K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201703<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201705
POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢
 ↑ 小渕沢しだれ桜

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

 アレツポの石鹸切れば暗緑色の出できて遠き地の香たちきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田恵子
 沖縄のかがやく碧よ、北国の蒼さ冥さよ、海めぐる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 森山良太
 空色の階段われと降りて来し黄蝶は水を渡りてゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森みずえ
 電球を買いにきたのに二段熟成さしみ醤油も買って帰った・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸山三枝子
 野仏はめはなうすれてゑむごとく小さくおはす御代田の里に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村順子
 ひたひたひた水は滲み出る凍らない塞いで塞いで世界が濡れる・・・・・・・・・・・・・・・・三枝昂之
 今年また雑草ははやく茂り来て癒えやらぬ土の傷みを覆ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 生、老、病、生きて残れる死までしばし 今朝は郭公のこゑを聞きたり・・・・・・・・・・・・志野暁子
 花の枝のどこまで撓む愛されてゐるとふ自負の肢体のごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 太田宣子
 どうしても生きてたいです オモイノママという名前の花があります・・・・・・・・・・・・・ かなだみな
 いかめしく巨岩突き出すこの辺り淡海の水もっとも青し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 耳奥のリンパのゆらぎ朝床に人となるべくかたちひき寄す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 それぞれの朝をうべなふ
にはレモンの呪文 ほんの数滴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 花冷や日誌に潰す虫その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・さわだかずや
 春闇に溶けてゆきたるハイソックス・・・・・・・・・・・・・・・・赤野四羽
 ぬかるみに足を取られて犬ふぐり・・・・・・・・・・・・・・・・前北かおる
 定まりし言葉動かず桜貝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 霞みつつ岬はのびてあかるさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田信治
 泣く子ゐてあやす子がゐてあたたかし・・・・・・・・・・・ハードエッジ
 老々介護垣に青木の花いくつ・・・・・・・・・・・・・・・・・すずきみのる
 平坦な道などなくて芝桜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津野利行
 走っても走っても街 春終わる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大中博篤
 桜貝砂に包んで持ち帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 クリームのやうな寝癖や花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 逢ひたくてミモザばかりを眺めたる・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 春昼の船のをらざる船溜り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之 
 春昼の雨落ち石と飾り石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田有希
 春泥や楽器はどれも大荷物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きしゆみこ
 名古屋まで北海道展は春下る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工藤定治
 読みすすむ史書の厚みや花の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片岡義順
 足指から弛緩していく木の芽時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口鳥子
 菜の花や氏名手書きのバス定期・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滝川直広
 春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)・・・・・・・・・・・・・・ 高梨章
 目醒めよと呼ぶ声ありし蝶の昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村清潔
 幸福の咲くとはこんな桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中塚健太
 花弁一枚から静脈血の匂ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ちとせ
 失投をぢつと見てゐる躑躅かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岬光世
 ふらここを下りぬ死者への鎮魂歌・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉川千早
 太白を従へ春の月のぼる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 利普苑るな
 あれこれ忘れて生きたふりする・・・・・・・・・・・・・・・・ 阿部美恵子
 さくらしべふる i Phoneをよけながら・・・・・・・・・・・・・・・・泉かなえ
 朝東風や青きリボンを結びたる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下楠絵里
 春の仕掛けのピアノを壊してみた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・普川洋
 雨女しづかに死せり竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・葛城蓮士
 金魚らに国の名つけて遊びけり・・・・・・・・・・・・・・・・兼信沙也加
 春光を浴びれば乳房生えそうな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 独りとて一人静の華ありて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤林昭子
 梅探る独りになればひとりの歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 唇を一文字にして白木蓮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子  
 見るもののみな既視感と云ふ朧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





沈丁の香の強ければ雨やらん・・・・・松本たかし
aaoojincyo1沈丁花

   沈丁の香の強ければ雨やらん・・・・・・・・・・・・・松本たかし

ジンチョウゲは寒さに強い木で寒中から花芽をつけている。
花が写真のように咲き開くのは三月になってからだが、極めて強い香りが特徴である。だから屋内に置くのは無理である。
私の方の庭にもジンチョウゲがあったが木の芯のところに芯虫が入りやすく、その株は枯れてしまったので、引き抜き、
土を木酢液で充分に消毒してから、鉢植にしてあったジンチョウゲを跡の土に下ろした。
数年順調に大きくなって花をつけていたが、結局また枯れてしまった。だから今は無い。

jinchoge沈丁花
写真②は垣根状になった大きな株である。
図鑑によると、花びらのように見えるものは萼片(がくへん)で、ジンチョウゲには花びらはない、という。
ジンチョウゲは中国原産の常緑低木で、高さは1メートルくらい。枝が多く、卵形の厚い葉が密生して、全体として丸く玉のように茂る。
沈香と丁子の香りを合わせ持ったような香気があるという意味で沈丁花の名がある。
わが国へは江戸時代に中国から渡来し、生垣や庭先に植えられることが多い。

jinchouge0974沈丁花

私の歌にもジンチョウゲを詠ったものがあったと思って、さんざん探してみたが、見つからないので、俳句を掲出することにする。
この花の咲く頃には冴え返るような「寒の戻り」の寒い日がある。
白い花のジンチョウゲがあると聞いてネット上から探し出したので、
写真④に載せる。

jincyo9白ジンチョウゲ

以下、歳時記に載る句を引いて終りたい。

 沈丁の香の石階に佇みぬ・・・・・・・・高浜虚子

 隣から吾子呼んでをり沈丁花・・・・・・・・臼田亞浪

 冴返る二三日あり沈丁花(ぢんちやうげ)・・・・・・・・高野素十

 ぬかあめにぬるる丁字の香なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 靴脱に女草履や沈丁花・・・・・・・・水原秋桜子

 沈丁の四五花はじけてひらきけり・・・・・・・・中村草田男

沈丁に雨は音なし加賀言葉・・・・・・・・細見綾子

 沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・・・・・・上村占魚

 沈丁に水そそぎをり憂鬱日・・・・・・・・三橋鷹女

 沈丁も乱るる花のたぐひかな・・・・・・・・永田耕衣

 沈丁花多産を恥じる犬の瞳よ・・・・・・・・永野孫柳

 沈丁の花をじろりと見て過ぐる・・・・・・・・波多野爽波

 授乳の目とぢて日向の沈丁花・・・・・・・・福田甲子雄

沈丁の恣(ほしいまま)なる透し垣・・・・・・・・石塚友二

 沈丁の香のくらがりに呪詛一語・・・・・・・・細川加賀

 鎌倉の月まんまるし沈丁花・・・・・・・・高野素十

c0128628_1181097ジンチョウゲ実
写真⑤はジンチョウゲの実。
雌雄異株で、実は雌株にしかできない。
日本には雌株は非常に少ないとのことで、実を見かけることは少ない。



いかるがの暮色連翹のみ昏れず・・・・・和田悟朗
aaoorengyo2連翹①


   いかるがの暮色連翹のみ昏れず・・・・・・・・・・・・・・・和田悟朗

連翹はモクセイ科の落葉低木で中国原産。古くから日本に渡来(『古今集』成立の延喜時代)したが、当時は薬用であった。
庭園木としては江戸初期からで、叢生して高さ2メートル前後にも達する。
垂れた枝は地面についた節から発根する。早春、葉に先立って葉腋に黄色の四弁花を無数につける。
公園などならよいが、個人の庭には植えるものではない。

   連翹の猖獗ぶりや黄みどろに・・・・・・・・百合山羽公

という句にもある通り、はびこって、はびこって仕方がない木である。私の方では、一度植えたが、はびこりぶりに懲りて引っこ抜いた。
連翹は早春の花の時期だけの木で、一年の後の大半は枝を伸ばしては、地面に触れると、そこから根を下ろして、はびこるばかりである。
派手に咲きさかる花なので目につきやすく、古来、多くの俳句に詠まれて来た。
後でそれらの句を紹介するが、私の個人的な感情を言うようで申訳ないが、私は好きになれない花である。

鹿児島寿蔵の歌に

   はじめより咲きさかる日をおもはする連翹千の枝かぜになびけり

と詠まれるように、わっと咲きさかる木である。
連翹には支那レンギョウ、朝鮮レンギョウなどの種類があるらしいが、ちょっと見には我々素人には区別がつかない。
連翹は学名をForsythia suspensa というが、これは18世紀のイギリスの園芸家Forsyth氏に因むが、朝鮮レンギョウは末尾がkoreana となる。

以下、レンギョウを詠んだ句を引いて終りたい。

 連翹の一枝円を描きたり・・・・・・・・高浜虚子

 連翹や真間の里ひど垣を結はず・・・・・・・・水原あき桜子

 連翹の垂れたるところ下萌ゆる・・・・・・・・山口青邨

 行き過ぎて尚連翹の花明り・・・・・・・・中村汀女

 連翹や歳月我にうつつなし・・・・・・・・角川源義

 連翹の鞭しなやかにわが夜明け・・・・・・・・成田千空

 連翹に月のほのめく籬(まがき)かな・・・・・・・・日野草城

 連翹のまぶしき春のうれひかな・・・・・・・久保田万太郎

 連翹の黄のはじきゐるもの見えず・・・・・・・・後藤夜半

 燦と日が連翹の黄はなんと派手・・・・・・・・池内友次郎

 連翹に頭痛のひと日ありにけり・・・・・・・・鈴木真砂女

 目に立ちて連翹ばかり遠敷(をにふ)郡・・・・・・・・森澄雄

 連翹の邪魔な一枝を括りたる・・・・・・・・北沢瑞史

 子を叱るこゑつつ抜けやいたちぐさ・・・・・・・・小山陽子

 連翹の黄に触れ胎の子が動く・・・・・・・・樟 豊



冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・高島茂
高島茂句集冬日

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/23

  冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂

ネット上の古書店に注文中の、高島茂第二句集『冬日』(昭和50年大雅洞刊)が到着した。
森慶文のエッチングの版画の挿画のある箱入りのもの。
昭和37年秋から46年末まで約10年間の作品488句を収録している。
私の買った値段は高くて5000円だった。
掲出した句の一連は昭和45年の収録句で「赤んぼ」の句ばかり27句が一連として連なっている。
対象となる人が誰なのか私には判らないが、いつも身近に起居していた「赤んぼ」に相違ない。
一連はほのぼのとした雰囲気が漂っている。
句集名を「冬日」としたことからも、私はこれらの一連が作者の想いの凝縮したものだと思い掲出句を選んだ。
はじめにお断りしておく。
今は季節としては初夏であり、掲出句は「冬日」とあって冬の季語だが、この本一冊全体として鑑賞するので、この句の掲出となった。ご了承を得たい。


その一連を引いてみよう。

 鳥多き青空あかんぼいつも睡る

 桃の木の白い鳥から睡りもらふ

 あかんぼの皮むけてはまゆふの花の盛り

 やはらかに産着をたたむ酷暑かな

 生れて何か見えしは風の向日葵か

 手が温くなりてねむたく乳吸へる

 全身もて糞る小さき汗を噴き

 真昼かりかりと蟹ゐてあかんぼが見る

 あかんぼがよろこぶ炎昼の水の穂を

 乳の出る指吸ひすひて睡るなる

 白凉はねむり笑ひのあかんぼに

 あかんぼの視線よろこび四十雀

 あかんぼのねむりくすぐる小鳥きて

 むづかゆき歯が生え蜜柑ほしがりぬ

 空泳ぐ魚にあかんぼ羽をふる

 乳の匂ひ満ちて冬日のオルゴール

 あかんぼう孤独なるとき鯨煮られ

 家の中にむつき乾かす嚏する

 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる

 雀ゐてあかんぼのながい食事みる

 家のどこか叩くあかんぼに粥が煮ゆ

 あかんぼに冬芽きらりと声を出す

 真冬このほのぬくきものあかんぼ抱く

 雪の日のラッパに聦く瞳がとべる

長すぎる引用になったかも知れないが、この一連を見ていただけば判るように「慈愛」に満ちた詠みっぷりである。
作者の「想い」が籠っているという所以である。

その後、高島征夫氏から、この「あかんぼ」について下記のようなご教示があったので、コメントをそのまま「貼り付け」ておく。

<「あかんぼう」についても記事があるのですが、とりあえず、作品作成時(昭和45〈1970〉年)、兄に長男が産まれています。
作句のモチーフになっただろうことは間違いないと思います。
ただ、本人は生前人に聞かれても「モデルはいないよ」と答えていました。
この一言がいまでも鮮明に思い出されます。
 付け加えると、後年(昭和61〈1986〉年『鯨座』上梓)、兄の長男は癌のため短い生涯を終えました。
第4句集『鯨座』にはその初孫である高島林(たかしまはやし)への献辞が掲げられています。>

「あかんぼ」の一連の句27句以外に、私の選んだ34句を下記に列挙する。合計61句となる。

この句集の巻頭句は

 炎天の鉄路を擦つて蝶迅し

で昭和37年の作である。この句の少し後に

 虻が熱い山菜採りの紺づくめ

 職なきは老ゆるにまかす時雨また

などの句が続いている。
昭和38年の句には、以下のようなものがある。

 緩みなき電線はるかに雪道直ぐ

 雪にながきバス待つ人生の荷物負ひ

 白繭のつめたさをいま掌にしたし

 鮮明な蛍火ひとつ多佳子の死

 一途なる秋蚕の食慾ひびきけり

昭和39年の作品から抜粋する。

 すでに夏日わがため白道まつすぐに

 青柿落つ歳月いたく無駄にせり

 肩に触れる冬日の鎖戦後ながし

昭和40年の句から

 両目もつはかなしと雪の捨達磨

 雪にかうかう一軒灯り馬肉売る

 連翹に腑抜けのまなこ射られけり

 轢死の犬みてゆく犬の時雨れけり

 生きて遇ふ句碑や泉に冬日さし──行道山滝春一先生句碑除幕式

昨日付けの記事の高島茂の略歴を見てもらえば判るように、茂は俳句結社「暖流」に参加している。
以下に、その主宰者・滝春一の経歴を貼り付けておく。
-------------------------------------------------------------------
滝春一
明治34年10月15日、神奈川県横浜市生まれ。本名粂太郎。
高等小学校卒業後、三越本店に入社。三越に27年間勤めた後、根岸演劇衣装株式会社に転職。
大正10年頃より短歌を作り始め、後職場の俳句会に誘われ俳句に興味を持つ。
大正15年には水原秋桜子の門を叩き、昭和6年、秋桜子が「ホトトギス」を離れる時春一も従い「馬酔木」の中心的作家となる。
昭和7年、初心者対象の雑詠欄「新葉集」の選者となり、8年には馬酔木第一期の同人に推される。
10年に「菱の花」の選者となり、14年に「菱の花」を発展させ俳誌「暖流」を創刊、主宰となる。
しかし、その後「無季容認・十七音基準律」を唱えるようになり、師秋桜子と意見が対立。その結果「馬酔木」を離れる事となった。
しかし昭和41年、楠本憲吉などの仲介により「馬酔木」に復帰している。
82年、「花石榴」で第16回蛇笏賞受賞。
1996年3月28日没。
句集に「萱」(昭和10)「菜園」(昭和15)「深林」(昭和32)など。

 風立ちて薄氷波となりにけり
 かなかなや師弟の道も恋に似る
 あの世へも顔出しにゆく大昼寝

参考松井利彦編「俳句辞典・近代」桜楓社
稲畑汀子他著「現代俳句大辞典」三省堂
-------------------------------------------------------------------
この記事を読んで興味深いことがいくつかある。
これは以前の記事にも書いたことだが、戦前には昭和一桁頃から俳句の世界にも「自由律」「無季俳句」などの運動の盛んな時期があって、多くの俳人たちが影響を受けた。
昭和二桁の戦時中は、そんな「自由」を標榜する運動は秩序を乱すとして特高警察によって弾圧され投獄されたりした。
戦後になってからは「前衛俳句」運動が起こり激震を起こしたので、これも多くの俳人が影響を受けた。
その結果、その道を邁進した人も居るし、多くは伝統的な句作りに復帰したりした。
誤解のないように申し添えるが「自由律」俳句は大正の頃からあった。
たとえば「荻原井泉水」などは、その先駆者であり終生その道を進まれた。山頭火や放哉の先輩である。もっとも井泉水は「自然主義」の作風である。
私は少年の頃に兄・庄助の蔵書にあった井泉水の句集の自由律俳句に接して、いわゆる「詩」の世界を知った。
たとえば 

<島が月の鯨となつて青い夜の水平> 

というような句である。
この句などは「俳句」というよりも「短詩」としても鑑賞できるだろう。
茂の句を見てみても、多少は影響された形跡が見える。師匠である滝春一の経歴からの連想である。
一言書いておく。

昭和41年の句に

 傷みなくともる灯はなし斑雪の村

 流さるる生きものかなしおたまじやくし

昭和42年の句に

 家継がぬ子に縋りをり寒の虻

 マッチの火ほどに芽ひらき紅柏

 盆休みの職人とゐてぼてぼて茶

 傷つきてマルメロつよき香を放つ

昭和43年の句に

 日を吸つて寒の沢蟹動きそむ

 ただの棒ならず榛の木春待つ田

 あかんぼを見せあふ桜遠景に

 耳ともしねむるあかんぼリラの花

昭和44年の句に

 中年に日は流れだす桐の花

 炎暑の人詰めてがくんと市電止る

 炎天に遠流の渇き火口壁

昭和45年の句に

 干魚・蕗縄でくくつて黙りこくる

 霧に日させばまぼろしか鶴遠き潟に

昭和46年の項、この句集の巻末句に

 南天の実や明暗を若く知りぬ

 飯どきは飯くひにくる冬仏

この句集は昭和37年というから作者42歳からの十年の句ということになる。
作者の生涯の中でも一番充実していた時期ではなかろうか。
恣意的な引用だが私の鑑賞が籠っているので、後は読者の感想に任せたい。
--------------------------------------------------------------------
なお高島茂も所属し、第34回現代俳句協会賞も得た「現代俳句協会」のデータベースを検索すると50句が出てくるので参照されたい。
誰の選になるかは判らないが、この協会のオフィシャルなデータベースとされている。
なお征夫氏からのご教示によるのだが、茂の一周忌にあたっての山崎聰の「冬日」の批評の記事を紹介しておくので興味のある方は当たってみてもらいたい。

平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・高島茂
高島茂句集しょういき

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/22

  平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂第五句集『麞域』(しょう・いき)(平成5年7月14日 卯辰山文庫刊)に載るものである。
この本はネット上の「古書店」で1500円で買った。
箱入りで本も箱も「硫酸紙」で巻いたもの。昔は、このように「硫酸紙」で巻いた本が多かったが、今では珍しい。
「謹呈」札が挟み込まれていて、作者がどなたかに進呈されたもののようで、読んだ形跡のないような新品同様の本である。
こういうことは私にも経験がある。
歌でも俳句でも、その筋のトップの人々には大量の歌集や句集が毎日贈られて来るから、彼らは「読むこともなく」定期的に古書業者を呼んで引き取らせるのである。
因みに、私の歌集も古本としてネット上に売りに出ている。
むしろ、こうして古書として出回ることを私は喜んでいる。
読んでくれない人のところにあるよりも、ネット上で探して買ってくれる人があるというのが幸せである。

征夫氏からご提供いただいた高島茂の略歴を引いておく。
--------------------------------------------------------------
高島茂の略歴

大正9(1920)年1月15日、東京・芝神明町に生まれる
昭和16(1941)年1月6日 麻布歩兵第一連隊に入営。1月16日、満州へ送られる
昭和17(1942)年 肺結核を発病。療養中「ホトトギス」投稿、翌年初入選
昭和18(1943)年 内地に送還。終戦まで福島の療養所生活。満州の戦友の部隊は南太平洋ロタ島に送られほぼ全滅す
昭和20(1945)年 終戦。秋に実家の高円寺に帰り、魚屋を手伝う
昭和21(1946)年 新宿西口に「ぼるが」の前身の酒場を開く
昭和22(1947)年 俳句結社「暖流」に入会

昭和24(1949)年 「ぼるが」創業

昭和30(1955)年 第三回暖流賞受賞

昭和34(1959)年 「ぼるが」を現在地に移転

昭和61(1986)年 第34回現代俳句協会賞受賞 この間、初句集『軍鶏』(昭和39年)、『冬日』(昭和50年)『草の花』(昭和59年)を刊行し、この年『鯨座』を上梓

平成2(1990)年 「獐(のろ)の会」発足 代表となる

平成5(1993)年 『麞(しょう)域』刊

平成11(1999)年8月3日心不全により死去。享年79歳 この年2月まで大腸癌の療養中にもかかわらず、「ボルガ」に出て陣頭指揮。生涯現役を貫く。

平成12(2000)年 遺句集『ぼるが』刊

平成13(2001)年 遺句帖『武川抄』刊
---------------------------------------------------------------------
先ず、この難しい字は「鹿かんむり」の下に「章」という「旁」が一字になったものである。(図版参照のこと)
これは、この結社「獐」(犭偏に章)と同じ意味の字であり、東アジアに生息する「のろ鹿」のことである。
判りにくいので、今は結社としても「noRo」と表記されている。
なぜ、こんな「のろ」という名前を結社の名にされたのかを考えると、おそらく兵士として満州の地に居たときに野生の「のろ鹿」をよく見られたのではないか。
戦地で結核を発病したことと言い、この地の風物が作者の句作の原点になっているからであろうか。

句を見てゆくと、作者は戦地に行ったことの体験から、この句があるのである。
そんな体験からすると、今の世相は「平和ボケ」のように見えたのではないか、それが「そら怖ろしく」のフレーズになっている。
「啖う」は「食う」にも「食らう」にも訓(よ)めるが、ルビがないので、どちらにも訓んでもらっても結構だ。
はじめにお断りしておくが、「いちじく」は今の時期の季語ではないが、この句集全体の中から選んだ句なので了承を得たい。
アダムとイブの西洋の「肉欲の原罪」の神話に「禁断の木の実」として出てくるイチジクの「喩」も、この句の鑑賞の場合には重要だろう。
あれこれ考えて、この句の「訓みかた」としては「無花果」は「いちじく」とは訓まずに漢字のまま「ム・カ・クワ」と発音し、「啖ふ」は無難に「くう」として5音に収めたい。

以下、私の選んだ句を列挙したい。合計46句になるが約一割弱ということだ。

■眼には見えぬトリハロメタン水温(正字)む

■狙撃(正字)の日連翹遠く眩しめり

■いくたびも少年と遇ふ日永かな

■羅や虚(正字)子に會ひたる日に似たる

■しいんと灼け鏡太郎忌の氣球浮く

■妄執に似たり青(正字)梅手の中に

■のつそり出る霧の太陽蟹臭し──網走

■富士見えず二十三夜の湖に彳つ──山中湖

■登校拒否身近に雨の冬至なり

高柳重信逝きて
■あざやかな沒後を雨のゆすらうめ

中村草田男死す
■汗で濡れる體つめたく汗流る

「鏡太郎」とは高橋鏡太郎のことで、先に書いた『俳人・風狂列伝』にも名が挙がる人であり、また高浜虚子、高柳重信、中村草田男など著名な俳人との交友が偲ばれる。
俳句では「弔」句というのが重要視される。その意味でも、これらの句は大切にしたい。
「登校拒否」の句は、恐らくご子息あるいは孫のことだろうが、他人事のように聞いてきたことが身近に起こったのを句にされた。
こういう「時局性」も俳人には必要である。
「トリハロメタン」の句も同様であり、時事性を捉えて秀逸である。
「狙撃の日」の句から、先に述べたような印象を私は抱いたのである。

■眼を病みてしみじみ雪の角館

■金蘭を生けてはるかな土偶の目

この句は、征夫氏が私の歌

    呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ・・・・・・・木村草弥

と「唱和」して彼のBLOGに掲載していただいた思い出の句である。

■認識票肌になかりし今朝の秋

「認識票」とは、軍隊で兵士の体に付けさせるもので、このことからも作者が戦争体験があるという私の認識の根拠となるのである。
兵士たりし日々には肌身離さず身につけていた「認識票」が今はもう身にはまとっていない、ああ平和なんだなぁ、という感慨である。
その「平和」というのも、掲出句のように「そら怖ろしい」ものなのである。この辺の屈折した作者の「想い」を汲み取りたい。

■けもの臭き忘れ襟巻茂吉の忌

■笹のひと葉身に食ひ入りて蟇交る

■平等村手押ポンプも春なれや

■しばらくは鶴の見えゐし陶枕

■鮟鱇などわが風狂の友にして

■梧桐の寒の芽むつくり脂ぎる

■冬日のぬくさ背にありエル・グレコの繪

■空即(正字)是色はるかなる白さるすべり

■凡兆のその後知らず牽牛花

■手のさきの闇ふかぶかと鉦叩

■秋暑し死魚をむさぼる龜のをり

■疵ひとつなくて大きな朴落葉

■しぐれゐてやがて本降り桂郎忌

■おのづから瞠るくらさの寒卵

■軍靴に似しゴッホの短靴かなしかり

■へくそかづらなんじやもんじやも梅雨しとど

■うらごゑのどこかしてをり夾竹桃

七月十三日
■あと幾日生きては梅雨の五日月

■鳥となり還りきませり梅雨ふかし

この「七月十三日」という日付がどういう意味か、また、この句につづく「鳥となり」の句は、今の私には判りかねるが、重い句である。

■うすうすと山茶花の襞わがエロス

■それとなくいのちのことを息白し

■佐伯祐(正字)三のたましひの繪と五月は會ふ

■聲あげて花火の傘下誰か老ゆ

■點鬼簿に入りしその名を蟲のこゑ

■ふたり子の描きし凧を枯田に置く

■哲學をまなびし道の雪蟲よ

■銀河鐵道の夜の劇に出て卒業す

この三句を詠んだ対象の人が、どなたか私には判らないが昭和終末の頃の作品ということから、「孫」のことであろうか。

■荒梅雨やこんなところにへのへのもへじ

■東京を追はれし守宮の塀もなし

■ガラス繪の裸婦うしろむき無月なり

■戰爭の火の消えざるに昭和終る

■ながかりし昭和を悼み白鳥みる

この句集は昭和63年─つまり昭和の終焉を以って終っている。大正生まれとは言え、生涯の殆どを「昭和」とともに生きた作者として格別の感慨があったであろう。
引用した終わりの二句に、それがよく出ている。
この句集は編年で作られており、昭和57年─77句、58年─58句、59年─59句、60年─58句、61年─60句、62年─92句、63年─96句、合計500句が含まれている。この中から私の恣意で、上のような句を選んだもので、選びきれていないものも多いと思うが、今回は、この位にして終る。気がつけば加筆、訂正したい。
---------------------------------------------------------------------
TB9ボルガ
 ↑ ただし壁面を這っていた「蔦」は、今は無いようである。

先にも引用したが
高島茂氏創業の「ぼるが」の紹介記事を引いておく。


新宿西口・老舗の居酒屋『ぼるが』

高島東さんにお話を伺いました。

 新宿駅西口から徒歩3分、小田急ハルクの裏手にある居酒屋『ぼるが』。煉瓦造りの建物にはツタがからまり、なんとも風格のあるたたずまい。店先からは焼き鳥のいい匂いがたちこめ、その煙につられて毎晩多くの人々が集います。150席ある店内は、20時を過ぎるとほぼ満席に。

 「当店は昭和24年に思い出横丁に開店し、昭和33年に現在の場所に移転しました。山小屋をイメージして造られた店内では、テーブルや椅子、ランプなどの照明器具も当時からのものを使っています。看板メニューの『ばん焼き』は、豚のモツ焼きと焼き鳥の盛り合わせ。開店当初は“ばん”という鳥の焼き鳥をお出ししていたことから、この名前で呼ばれています。また、今ではすっかり居酒屋の定番となった『酎ハイ』も、当店ではかなり昔からのメニュー。『焼酎を他の飲み物で割ってみたら美味しいんじゃない?』というお客さまからのリクエストから生まれたそうです。他にも、“山のキャビア”と呼ばれる『とんぶり』や、季節のメニューなどもおすすめですよ。」

 『ぼるが』という店名は、俳人でもあった先代オーナー(高島茂氏)がロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなんでつけたもの。お店にはこの先代オーナーを慕い、多くの映画人や文学者、画家などが集まり、文化人のたまり場としても有名です。

 「映画監督の山本薩夫さんや、熊井啓さん、直木賞作家のねじめ正一さんなど、多くの方と家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。みなさん、我が家のようにくつろいでくださってますよ(笑)。また、先代から受け継いだ俳句の会『(のろ)の会』(現在は先代オーナーの息子さん・高島征夫氏が主宰)も当店を拠点に活動していますので、文芸に興味のある方はぜひ一度いらしてみてください。」

 幼い頃から新宿に縁の深い高島さん。ご自身は映画の大ファンで、週末などはお店が終わってからオールナイト上映を見に行くこともあるそうです。そんな高島さんが語る、新宿の魅力とは?

 「新宿は言わずと知れた大都会。新しいお店や流行りのスポットなどが次々とできる一方で、人の暖かみを感じさせてくれる昔からのお店も残っている。人々が求めるその両方を兼ね備えているところが1番の魅力ですね。『ボルガ』も、これからもずっと変わらずに、ここで皆さんのお越しをお待ちしています。初めての方、お久しぶりの方、もちろん常連さんも大歓迎です!」
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
住所: 東京都新宿区西新宿1-4-18
TEL: 03-3342-4996
営業時間: 17:00~23:00(ラストオーダー 22:00)
日曜・祝日休み
アクセス: 「新宿」駅西口より徒歩3分

一見居酒屋には見えない個性的な店構え。バックには高層ビル群がそびえます。

木の温もりあふれる店内。カウンターには民芸品なども飾られています。

テーブル席やお座敷など、さまざまなスタイルで楽しめる2階フロア。

やさしいランプの明かりが、和みの空間を演出。


詩誌「カルテット」第3号から・・・・・・・木村草弥
カルテット_NEW

     詩誌「カルテット」第3号から・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

編集発行人・山田兼士の詩誌「カルテット」第3号が恵贈されてきた。
その中から独断的に引いて、ご紹介する。
今号から同人以外の詩人が招待されることになった。 画像にも出ている人たち他である。 少し引く。

     ちょうちょ         高階杞一

  ちょうちょを見ていると
  次はちょうちょになれたらな
  なんて思えてきます
  誰にいやがられることもなく
  誰のじゃまもせず
  ひとり
  草木のあいだを舞っている
  そんな
  ちょうちょにも
  たぶん
  生きる苦労はあるんだろうけど
  それでも 次に生まれてくるときは
  ちょうちょがいいな
  と
  思えてきます

  春の終わり
  余白のような午後

  縁側にひとりでいると
  目の前の
  小さな庭が
  どこか遠い草むらと  
  つながっているように思えてきます
-----------------------------------------------------------------------------
いつもながらの高階さんのメルヘンっぽい詩である。
終連三行の詩句
<小さな庭が
  どこか遠い草むらと  
  つながっているように思えてきます>
が秀逸である。

       あわいつみ       江夏名枝

  夢の中では母音が書けない。

  鏡はいつも孤独で、夢のひわいろを絵画のように吸う。
  いくつかの数式が溶けている壁の彩度、夢にはわたしを感じる暗闇がない。

  繋留する、紙の舟。夢の水より軽い舟。

      (中略)

  重ねあわせても混じりあわない破片。

  昨晩はとても疑り深いひとに、ひとかけらを渡した。
  どうしたら、あなたの誇りを守れるだろう。
---------------------------------------------------------------------------------
萩原朔太郎記念とおるもう賞に輝いた江夏さんの近作である。
「あわいつみ」とは「淡い罪」のことであろうか。 それを、ひらがな表記にするところに彼女の意図がある。

      アベローネとともに       山下泉

  罌粟つぶのかわいた味に耳すますどこか下草を踏みしめたとき

  いつか作った日課表に会う 偶然を宿命にする遠きソノリテ

  ブリオシュを指に割くとき青みたる麦そよぎいる箸墓おもう

  おりにふれ空に正坐をする雲はアクロポリスの列柱のいろ

  アベローネと二度呼びかける声があり声のかたちにふりむく虚空

  まんじりと古壁画ぬけて古街道あかるい闇のなか泛かびゆく

  ふたかみやま雌峯を根から見あげいる古き眼差しに手繰られながら

  石窟に冬のみどりの影ひらき仏陀の頬のふくらみ削る

  冬の枝灰のねむりを覚ましゆく桜色の灰受けとめるため

  われはわれのききみみずきん手を垂れて夜の大樟の真下に立てば
-------------------------------------------------------------------------------
いつもながらの山下さんの短歌ぶりである。
ここに言う「アベローネ」とは、
<アベローネ、僕はあなたについて語りたくない。僕たちが互いに欺いていたからではない。
あなたが忘れたことがない一人の男をあなたがあの頃も愛していたからでもない、愛の女性よ、そして、僕がすべての女を愛してきたからでもない。
言うことには不当しか生じないからなのだ。 (マルテの手記)>
というリルケの詩句の女性、を指すものだと思う。.山下さんはリルケに私淑した高安国世に学んだのである。

他にも引くべきものがあるが、今回は、この辺で紹介を終わりたい。 有難うございました。



山なみ遠に春はきて/こぶしの花は天上に/雲はかなたにかへれども/かへるべしらに越ゆる路・・・・三好達治
kobushi1504こぶし②

        こぶしの花は天上に・・・・・・・・・・・・・・三好達治

      山なみ遠(とほ)に春はきて

      こぶしの花は天上に

      雲はかなたにかへれども

      かへるべしらに越ゆる路


辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
kobushi3036こぶし③

「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。
掲出の三好達治の詩は詩集『花筐』(はながたみ)から。
この詩は孤高隠栖の心境を詠った四行詩だが、こぶしの純白な花が青空を背景に山路にみごとに咲き誇っているさまが彷彿する。

kobusi1四手こぶし④

写真③は「幣(しで)辛夷」という種類の辛夷。
この「幣こぶし」だが、絶滅危惧種と言われている。
湿地性の植物で、各地で開発などで姿を消しているらしい。
四月三日のNHKの朝のラジオで、大きな生息地だった岐阜県の各務原の群落が産業廃棄物処分地の影響で消滅してしまったという。
目下、その土地で採取した種から発芽させて苗木にしたものを安全な地に植えつけて復活させる努力がなされているという。
苗木屋などには結構出回っているらしいが。。。
写真④は、こぶしの実である。
kobusi_3こぶしの実

私の歌にも辛夷を詠ったものがいくつかあるが、ここでは俳句に詠まれたものを採り上げて終りたい。

 一弁のはらりと解けし辛夷かな・・・・・・・・富安風生

 花辛夷月また花のごとくあり・・・・・・・・飯田龍太

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く・・・・・・・・能村登四郎

 清滝の奥の四五戸の花辛夷・・・・・・・・河野南畦

 辛夷咲く空へ嬰児の掌を開く・・・・・・・・有馬朗人

 花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村

 式内社田打ざくらの花かざす・・・・・・・・森田峠

 辛夷咲く一樹のもとの苗代田・・・・・・・・滝沢伊代次

 辛夷咲き会津に白き山いくつ・・・・・・・・岡田日郎

 水源の水もりあがる花辛夷・・・・・・・・矢島渚男

 辛夷咲き畳のうへに死者生者・・・・・・・・岡井省二

 目をあぐるたびに石見の花辛夷・・・・・・・・飴山實

 みな指になり風つかむ花辛夷・・・・・・・・林翔

 逢ひたくて辛夷の花の傷みゆく・・・・・・・・宮坂静生

 辛夷咲く飛騨朝市の黄粉菓子・・・・・・・・勝田享子



藤目俊郎撮影「フサザクラ」画像・・・・・木村草弥
フサザクラ縮小

     藤目俊郎撮影「フサザクラ」画像・・・・・・・・・・・木村草弥

──藤目俊郎画像集──(2)

藤目俊郎氏が「フサザクラ」という写真を送信していただいた。
初めて聞く名前の桜である。
色々な種類の桜があるものだと感心する。
感謝してアップする次第である。
今まで「美しい画像集」というところにまとめて来たが、今回から新しく「藤目俊郎画像集」というカテゴリを設けることにした。
なお元の画像は大きいのだが、ブログに合うように縮小したので、ご了承を。



下山弘『川柳のエロティジズム』・・・・・木村草弥
下山弘

──新・読書ノート──

     下山弘『川柳のエロティジズム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・新潮選書1995初版 2006/05/20十三刷・・・・・・・・

少し前にこの著者の本を採り上げた際に、この本のことについて書く約束をしておいた。
この本は新潮選書ということなので、硬く硬く書いてあって面白くないので、別のところでの座談形式のものを引いておく。
------------------------------------------------------------------------
江戸文化と川柳
江戸時代は世界でも珍しい長期泰平の社会、しかも江戸の識字率は世界一、世界一の大都市、庶民の好奇心が旺盛などの社会環境の中から川柳が生まれました。
特に俳句だとか川柳とかいうのは17文字で表現するわけですから、相当の文化程度と知恵がないといけない。

現代社会でも欧米の人間でポエムをつくれるのは特殊な階級の文化人だそうですから、江戸時代に世界一短い詩を庶民が作り楽しむ社会が出来ていたのはすごいことなんですね。
江戸川柳は20万句ほどあるそうですが、その中でお色気川柳というのは1万句近くあるそうです。

専門的にはお色気川柳とは言わないで、破礼句(バレ句)または艶句、艶笑句と言うようです。
今回はいろいろな書籍を読み返し、笑いのネタとして皆さんに笑って頂くためのものを選び、幾つかの項目にまとめました。
私が面白いと思う句には3つの条件があります。

1つは生活風俗を面白く紹介しているもの。「子が出来て川の字なりに寝る夫婦」のような句でほのぼのとした句です。

それからなるほどと感心するような句、「頬白に塗った夜鷹の四十雀」みたいな句です。
この17文字の中に鳥の名前が3つ入っているのにすべて鳥ではない。

それからたくましい想像力でつくられた句、お色気ごとは秘め事ですから本当はこんなところで話すよりこっそり一人で想像しながら味わうといい。
するとなるほどと感心できるという句。例えば「一生奉公 かかとにタコができ」というような句ですね。(笑い)今笑った人はよほど想像力のたくましい人です。
後でこの句は解説します。

江戸艶句拾い集め
●銭と金を詠んだもの
「ほれ薬 〇〇から出るのが いっち効き」
この〇〇になにを当てはめるのが良いか10年ばかり前に老人会でクイズをしたことがあります。
私は旦那の口先で丸め込まれたから「舌または口」ではないかというお婆さんがいました。
別のお婆さんがそれは舌じゃない、マタだよ。股からちらっと出せば男なんていちころだと言い、爆笑になりました。
実際の句はそれほど色っぽいものではなく「佐渡」です。

「ほれ薬 佐渡から出るが いっち効き」
佐渡金山から出た小判こそ一番のほれ薬だという句です。

「江戸者の 生まれそこない 金を貯め」
江戸っ子が宵越の金を持たない事を粋がっている句ですね。

「町人も金のかわりに二本差し」
大名に金を貸していたら取れなくなってしまった。それで名字帯刀を許すということで借金を棒引きされたことですね。

「質屋では 利がくい内で 蚊に食われ」
外で利息に食われ、内で蚊に食われる、冬の間にいらない蚊帳を質に入れた。夏になっても請け出す金が無いという句です。

「間男を とらまえた明日 質をうけ」
江戸時代は姦通は重罪でありまして、女房が間男と一緒になっているところを見つけたら二つに重ねて四つにしてかまわない重罪でした。
ところが切り捨ててしまうと江戸は女不足ですから嫁さんもらえる当てがない。それで妥協で7両2分というお金の解決をしたそうです。
その後相場は下がって5両になったようです。間男から慰謝料をとって、質草を受け出したという句ですね。

「金よりも 水がほしいと 隠居言い」
水というのは男性の精力のことを言いました。水が枯れるというのは女性に全部吸い取られてしまって腎虚になるというわけです。金よりも精力がほしいということですね。

●武士を詠んだもの
「浪人は 長いものから 食い始め」
浪人は生活が苦しいですから、なにかを質に入れなくてはならない。まず槍や薙刀、次いで大刀を質入れるというわけです。

「町人で 質屋をでるは ひどいこと」
両刀をたばさんで質屋に行ったけれど、両方とも質草に取られてお金に買えて、丸腰で町人と同じになってくるという句ですね。

「大名に 生まれぬ徳で 夫婦旅」
大名になりますと参勤交代で2年間は奥さんを江戸において帰らなくてはならない。
旅行なんて出来ない、大名でなくて良かったという句ですがひがみも少しありそうですね。

「人は武士 なぜ町人に なってくる」
「花は桜木、人は武士」といって武士は一番偉いとされていたんですが、吉原では武士だというととたんに毛嫌いされる。
それで町人のなりをして吉原に行くけれどすぐ見破られてやっぱりもてなかったそうです。

「役人の 骨っぽいのは ちょきに乗せ」 ちょき舟というのは吉原に行くときに乗る細くてスピードの出る舟です。
役人の言うことをきかんやつは吉原で接待してやれ、今に変わらぬ役人接待の句ですね。

「奥方ははめる 妾は にぎるなり」
これはエッチな句みたいに聞こえますがまじめな句なんです。教養として音曲をたしなむ場合に大名の奥方は琴を演奏するので手には琴の爪をはめるわけです。
お妾さんとなるとせいぜい三味線で、こうなると棹をにぎるか撥をにぎる、ですから奥方は琴を演奏し、お妾さんは三味線を演奏しますよという意味です。

●大家さんを詠んだもの
「店中の 尻で大家は 餅をつき」
長屋は共同トイレになっています。惣後架といいました。江戸の下肥はいいもの食べているので非常に効き目があり、近在の百姓間で奪い合いになった。
幕府は下肥の値段を釣り上げてはいかんという通達を何回も出しているそうです。
大人の尻一人前で幾ら子供の尻一人前で幾らということで、年の暮れには前金を納めて農家が契約していったのです。
その相場が大人の尻ひとつで米一斗、餅にしたら10臼分になります。大家はその肥やし代で年の暮れの餅を店子に配ったという句です。

「家主に土産 帰って くそをたれ」
家主はくみ取り料がいい稼ぎになるわけですから。家主に「うちの長屋で糞してやらねーぞ」なんて嫌みの冗談も言ったようです。

●鶺鴒(せきれい)を詠んだ句
「かようあそばせと せきれい びくつかせ」
「ああなるほどと イザナギのみことのり」
「せきれいは いちど教えて あきれ果て」
鶺鴒というのはぴょんぴょんお尻をはねるようなしぐさをします。
イザナギの命とイザナミの命が子供を作るために合体したがその後どうしてよいか分からなかった。
そうしたらそこに鶺鴒がやってきてじっとしてちゃ駄目ですよ。こうしなさいと言ってお尻をびくつかせた。
そうしたらいざなぎの命がああそうかとおっしゃって、それで子供を作ることが出来たという神話に基づいた句ですね。
ところが鶺鴒が教えた以上に人間は色々な形を工夫し更にあきれる程に励んだという意味ですね。せきれいは合体方法の師匠なのです。

「知っているに せきれい 馬鹿なやつ」
という、神様はそんなこと知っていたんだという句もあります。

●独り者を詠んだ句
「ひとり者 おおきなじゃまを 一本持ち」
「暴れるせがれ ひきかかえ 内へいれ」
どのくらい邪魔になるかは女性の方にはなかなか分からないだろうと思いますけれど、男性には邪魔でしょうがない時代がありました。

「涙ぐむ せがれ故郷を 思い出し」
「おのが手を 女房にする ひとり者」
「帆柱を 寝かすに五人 頼むなり」
他人を頼むのでなく、自分の5本指に頼んで温和しくさせるという意味です。

●仲人・見合い
「十分一とるに おろかな 舌はなし」
「仲人は 小姑ひとり 殺すなり」 仲人は持参金の一割を貰ったそうです。ですから仲人は口上手に話をまとめました。
娘も全部片付いてなどとうまい事言うが、実はひねた煩いのがいるのに。

「瓜実を 見せて南瓜と とりかえる」
見合いではうりざね顔の美人の妹を見せておいて結婚してみたらかぼちゃのような姉だったという句ですね。

「こわいこと 美女で一箱 持参なり」 縁遠い娘には持参金をつけてもというのはいつの時代にもある。
しかし美人なら持参金なんてなくても引く手あまたのはずなのに持参金つきとはこれはなにか怖いことが陰にあるんではないかという意味ですね。

「百両は なくなり顔は 残ってる」
持参金や持参の嫁入り道具は離婚に際しては、返さなければいけなかったのです。持参金が目当てで不美人と結婚、金は使ってしまったから別れられない。

●新 婚
「槍ででも 突かれるように 嫁案じ」
「いまするか いまするかと怖くて恥ずかしい」
新婦の気持ちですね。

「嫁の屁は 五臓六腑を かけめぐり」
結婚式ではおならなんかするわけにいかないから、苦しんでおさえている姿です。

「宵よりも 今朝かぶりたき 綿帽子」 
明くる朝の恥ずかしさ。

●お客、お馬
このお客とは女性に一ヶ月に一回くるお客様のことです。馬も同じ意味です。

「婚礼の 明日から客に 婿困り」
結婚して暴れん坊を嫁さんがなだめてくれると思ったら、早速婚礼の翌日からお客様がきてしまった。困った困ったというところでしょうか。

「突き出した 槍先 馬にへきへきし」
「お馬だと 乗った亭主を はねつける」
この辺は槍と馬で武将のイメージで女性にやってきたお客を詠んでいます。

「門口で医者と親子が待っている」
かなり露骨なので言い難いのですが、医者というのは薬指、親というのは親指、子供は小指。
それらは門口で待っていて中指と人さし指が女性のいいところへ入れてもらえますという意味です。

●味わう
「みなひとの 愛ずるは 五味の他の味」
五味というのは、甘い、しょっぱい、辛い、すっぱい、苦いですが、人がみんな愛するのはその五味じゃないもうちょっと他の味だという意味ですね。

「めしよりは すきなものだが 腹がへり」
「松たけは酒、蛤は湯で 風味」
「女房は 湯にゆき 亭主は酒をのむ」
露骨に云いますと「湯ぼぼ、酒まら」と言いまして、お風呂上りの女性と少々お酒を飲んだ男性が一番具合がいいということになっていたようです。しかし

「酒まらも ほどがあるよと 女房じれ」
へべれけに酔ってしまってはどうしようもないですね。そして
「そのあとは 夫婦湯もさめ 酒もさめ」

●新 年
「二日の夜 夢ばかりでは ござるまい」
正月二日の夜は初夢の日ですが、姫はじめの日でもあります。

「曲乗りは まず遠慮する 姫はじめ」
新年ですからあまり神様の罰が当たるような体位はやめておきましょうということでしょうか。

「元日にするは よほどの 好きなやつ」
「女房と 乗り合いにする 宝船」
「宝船 皺になるほど 女房こぎ」
枕の下に宝船の絵を入れて眠ると良い初夢が見られるのですが、眠る前にその枕で上では姫始めをするわけです。

●練る
練ると言う言葉がありまして、これは女性が遠くに出歩くとあそこの具合が良くなるということを意味しております。

「近道を 嫁は帰って 叱られる」
遠くまで嫁さん出かけさぞかし練れるはずと旦那が期待していたら、近道を帰ってきたというのでがっかりという話です。もっと困るのは

「女房は 籠で帰って 叱られる」
「粟餅ほどに ねれたが みやげなり」
目黒不動尊の名物は粟餅だったのです。そこに出かけ粟餅を土産に買ってくる。旦那には粟餅ほどに練れたのを土産にし、今夜のお楽しみという訳です。

「機織は 遠道よりも よくねれる」
機を織るときは足を一回ごとに踏むわけですから良く練れるのですね。

●お伊勢まいり
お伊勢参りは江戸時代大変盛んでした。庶民が長い距離を安心して旅行を楽しめる国は世界でもあまりなかったそうです。
本当に安心して女性だけででも旅行が出来たのです。幕府が手形を発行する許可制でしたが、信仰で御参りするといえば大抵許可されたそうです。

お伊勢参りのほかにも大山詣で、富士山詣でが関東では盛んでした。お参りも大事ですが、男どもは途中の遊びが半分目的だったのです。
大勢の講で積み立てて、毎年代表が数名で行くということをやっていたようです。
お伊勢さんに行くとだいたい京都も回って40日から50日くらい費やしたそうです。

「抜けぬぞと 女房をおどし 伊勢に立ち」
お伊勢参りの留守に女房が浮気をすると神様の罰が当たって抜けなくなると言われていました。それでもなおかつ悪いやつがいます。

「伊勢の留守 初手一番の おっかなさ」
本当に抜けなくなったらどうしようかとビクビクものです。

「品川に いるに陰膳 三日据え」
江戸時代の旅行は命がけですから家にいる奥さんは気が気じゃない。陰膳を据えて無事を祈っています。
ところが旦那のほうはまず日本橋を発ったら品川で一泊、神奈川で二泊目、三泊目あたりは藤沢と、本当は藤沢あたりに行っていなければいけないのに品川でまだ遊んでる。
奥さんは知らないで陰膳すえているのにということです。

「陰膳を 飼い犬が喰う ふとどきさ」
飼い犬と言うのは、番頭さんでしょう。これは陰膳を食べただけでなくて奥さんも頂戴しているに違いないと言う句ですね。

「名物はつけ 飯盛りは 喰い隠し」
名物の安倍川餅や桑名の焼き蛤を食べた時は手帳に書いておくが、飯盛り女、宿場宿場の女郎さんをいただいたことは隠してありますということです。

●おめでた
「落ちそうな 腹は搦め手から 攻める」
妊娠したときは違った方法を選ぶという意味と城攻めをかけたものでしょうね。

「産むときは もうこれきりと 思えども」
これは男には分からない女性の産みの苦しみでしょうが、また妊娠するのは何故でしょう。

「恥ずかしさ 尻っぺた中 あざだらけ」
尻のアザとは蒙古斑のことですがいわくがあるのです。昔は一年に6回眠っちゃいけないという日がありました。
庚申の日は体内にいる三尸(さんし)の虫が天に告げ口をする日であり、告げ口されると早死にすると言われていました。

これを防ぐため皆が集まり、徹夜で庚申講が行われました。その時に寝てはいけない。ましていいことをしては尚いけない。
その日に妊娠すると生まれる子供は盗人になる。尻にあざが出来ると言われていました。
生まれた子を見たら尻にあざがあり、あの日を恥ずかしがるということですね。

●夜遊びと夫婦喧嘩
「月落ち 烏啼いて 女房はらをたて」
これは中国の有名な矯風夜泊の詩「月落ち 烏啼いて霜天に満つ」を取り入れたものです。
真夜中になっても旦那が帰ってこないから女房が腹を立てているということです。

「うちにない ものでもなしと 女房いい」 なんで夜遊びなんて行くの。うちにあるじゃないの。ということです。

「亭主から ものを言い出す 朝帰り」
奥さんはそっぽ向いてる。なんとかご機嫌を取りたい亭主の気持ちですね。

「喧嘩には 勝ったが 亭主 飯を炊き」
「手がさわり 足がさわって 仲なおり」

●夫婦の仲
「寝られない 晩だと女房 謎をかけ」 「あっためて くんなと足を ぶっからみ」「あっためて くんなは しろと 言うのなり」
「卵酒 ならばと女房 火を起し」
昔は夜中に火を起すのは結構大変です。でも卵酒を効かそうと思って奥さんは作ってくれたということです。「卵酒 女房の思うほど きかず」

●街 娼
「君は京 嫁は大阪に 江戸は鷹」
このままでは分からない句です。京都では街娼を辻君と言った。大阪では惣嫁(そうか)といいました。
惣というのはみんなで共同のと言う意味です。江戸は夜鷹と言ったのです。

「頬白に 塗った夜鷹の 四十雀(しじゅうから)」
さっき言いましたがこの17文字のなかに3つ鳥が出てきます。四十雀は40過ぎてから客取りするなんてというニュアンスが入っています。
江戸時代は20歳すぎたら年増、30すぎると大年増といった時代です。将軍の夜伽なんかも30過ぎたら下がったそうですね。

「材木に 巣をかけて待つ 女郎ぐも」
「古着屋と 二十四文と 入れかわり」
この夜鷹の料金は二十四文だったようです。ソバが十六文だったのですから安いですね。
吉原の手前に日本堤という場所があってそこに昼間はずっと古着屋が並んだそうです。
夜になると古着屋はいっせいに居なくなって夜鷹が網をはる場所になったのです。

「舟饅頭 ちょちょっと細い 波が打ち」
舟を根城にするやや値段が高い舟饅頭と呼ばれた女たちもいたのです。だいたいは旦那が客を引いてきて、女房に舟で客をとらせたのです。

「提重(さげじゅう)は 重たくなると 又おろし」> 重箱を提げて物を売り歩く、中にお餅とか饅頭とか入っていて売り歩いている女たちです。
それで声をかけられて家へ上がり、自分のお饅頭で相手をする。
重たくなるのは重箱が重いのではなくておなかが重くなるということで、妊娠したら子供を堕しましたという意味ですね。
春を売る女には色々な種類の名前があったようです。
遊女、飯盛り女、宿場女郎、湯女(ゆな)、けころ、歌比丘尼、舟饅頭、提重、家鴨、夜鷹、こういう呼び名で江戸には何千人もこういう女たちがいたそうです。

●芳町・お釜
「女でも 男でもよし 町といい」
芳町といえば江戸時代は男色、お釜のメッカでした。

「故郷を 弘法大師 けちをつけ」 故郷は自分の生まれたところ、女体です。仏教は女人禁制、妻帯禁止です。それを弘法大師の責任にした句です。
それで坊さんはどうしたかというと吉原に行くときは袈裟、衣を脱いでお医者さんに変装して行く。ところが芳町に行くのは男相手なので平気です。

「芳町は 和尚をおぶい 後家を抱き」 男色は戦国時代は多かったのです。信長と森蘭丸がそうです。
男娼は和尚さんには後ろを提供し、後家さんには前のものでお相手をしました。

「用だたぬ釜 御殿から 買いに来る」 年取ったお釜は男から相手にされなくなる。
年取ったお釜になると、今度は後家さんを相手にするとか奥女中を相手にするということだったようです。

「芳町の あす張り型の 大味さ」 御殿から来て芳町で本物を堪能し、翌日張り型を使ったら、やはり味が落ちたということです。

●水牛・張り型
「熱燗で 局酔えるが ごとくなり」
「ひだるさを 湯漬けでしのぐ 奥勤め」

これはお酒の話やお茶漬けの話ではありません。水牛で出来た張り型、これは中が空洞でお湯を入れて温めて使うのだそうですが、それを意味しているものです。

「華奢な手で 握っては見る 湯の加減」
「待ちきれず 冷で水牛 使ってる」
「むつまじく 角つきあいの 奥女中」
「一生奉公 かかとに胼胝(たこ)ができ」
奥女中の奉公、足に張り型を結わえ付けて長らく励んでいると胼胝ができたということ。まあよくぞここまで想像したと驚きです。
男ですよね。男の想像力のたくましさ。ありえないようなことを想像して遊んでいますね。

「鼈甲(べっこう)は いずれ毛のある 所へさし」
鼈甲で作った張り型もあったのでしょう。かんざしや櫛に多く使われています。

●提 灯
提灯と言うのは暴れん坊ではなくなった男の一物を指しました。力が無くなった老人の持ち物です。
「提灯を さげて宝の 山を下り」
せっかくの宝の山だけれど提灯じゃ役に立たず、すごすご下りるところです。

「尼寺の大工 提灯 唐辛子」
尼寺には尼さんしかいないのであまり元気な若い大工が行っては困るわけです。それで年取ってお役に立たない提灯大工が行くのです。唐辛子はまだ細い子供のそれですね。

「三つのうち 目も歯もよくて 哀れなり」
男の老化はどこから来るか。歯・目・マラと言いますね。その3つのうち歯も目もいいんだけれどもうひとつが駄目で哀れなもんだということです。

「目はめがね 歯は入れ歯にて 間に合えど」
下の句があったような気がしますね。

「世にかえマラのなきぞ 悲しき」 でしたかね。
「とぼされもせぬ 提灯を隠居下げ」
とぼすというのは、火を点すということと、セックスをするという意味とあります。

「美しい 手で提灯の 皺をのばし」
力のない提灯も美しい手にかかるとしゃんとするという訳です。

「提灯の 骨接ぎをする 生たまご」
期待するほどに効かないと言う川柳も先ほどありましたけれどね。

●この世・あの世
「出たあなと 入るあなとは 大違い」
入るあなとは墓ですね。出たあなは生まれ出たところですね。

「借金の 穴を娘の 穴で埋め」

露骨すぎてムードも何も無いですね。あまりにも露骨すぎるのは味がないですね。

「出た穴は好きだが 入る穴は いや」
「穴を出て 穴に入るまで 穴の世話」
「人間の 穴から穴が 五十年」
「馬鹿なこと わずかな穴に 首ったけ」
穴だけでよくぞまあと感じますが、これらは前の句を参考に作ったのもあるのでしょう。
「死に水を とるは減らした 女房なり」
先ほど出ました精力の水、それを減らしてしまった女房が死に水をとっているということです。
早死にした男性の死因を川柳作者は腎虚(精力消耗病)にしたがります。
「金持ちの 人魂行きつ もどりつし」
これはこの世に残した財産が気になって往生できない金持ちのはなしです。

「日本から 極楽わずか 五十間」
ここの極楽とはあの世の極楽ではなくて現世の男の極楽、吉原のことです。日本堤から五十間あるくと吉原がまっていますという意味です。

「この仏様も お好きと 土手で言い」
昔、精進落としと言ってお葬式の後に吉原へ出かけたそうです。悪所通いを精進落しから覚えることもあったそうです。
あの仏様も好きだったからこれで成仏できるよなんて言いながら遊びに出かけるところの情景ですね。

「幽霊になると 平家も 源氏なり」
あの世では源氏、平家共にみんな白装束になるということです。
あの世の句が出たところで私の話も幕です。

少しはお色気川柳を楽しんで頂けたでしょうか。
私は川柳を知って頂く目的ではなく、皆さんに笑いのネタを提供し、笑って頂くのが目的でお話をしたつもりです。
私は近年出版された本から面白そうな句を選別してお話をしました。広く川柳を知りたい方にはご不満だったことでしょう。

 ↓ この本は更に資料的な体裁なので、本文には触れずにおく。 了承されたい。
下山弘

急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・高島茂
高島茂「ぼるが」

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/21

     急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■つつぢ燃ゆいつ狂ふても不思議なし・・・・・・・・・・・高島茂

   ■青蛙吸盤白く泳ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

2008年四月下旬、私の詩集『免疫系』の出版の打ち合わせのために上京した際に新宿西口の居酒屋「ボルガ」で、此処ゆかりの俳人の高島征夫氏と初めてお会いした。
語り口も爽やかな俳句結社「獐のろ」の主宰にふさわしい人だった。うち揃ったDoblogの友や装丁家・岸顕樹郎氏などとの話も面白かった。
その際、私は『嬬恋』を持参して一冊、名刺代わりに進呈したが、高島氏からはお父上・高島茂の遺句集『ぼるが』(平成12年・卯辰山文庫刊)をいただいた。
なお「高島茂」については何度も書いたが、リンクに貼ったところなどを読んでもらいたい。

いただいた句集『ぼるが』は平成11年8月3日に死去されるまで、平成元年からの俳句総合誌、結社誌、主宰誌などに発表されたすべての作品を高島征夫氏がまとめられたものである。

高島茂筆跡0001

掲出した句集の「ぼるが」の文字は茂の筆跡から起こしたものである。
なお原文は漢字は「正」字体を採用されているのだが、私の勝手で新字体にさせてもらったので、ご了承いただきたい。

掲出句「急傾斜地崩壊危険蒲公英黄」は漢字ばかりを並べたものだが、これも「俳句」である。
下句は「たんぽぽ・き」と訓(よ)む。
ときたま、こういう句作りをなされているのを見かけるので、注意して観察されるといい。
例えば、こんな句がある。

    <花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村>

以下、ただいまの季節にまつわる句をいくつか引く。

 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄

 青猫といふ紙あらば詩を書かむ

 佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ

 植田の水たつぷり畦にあやめ咲く

 謎めきて新緑の山深まれる

 をとこをんな宴のごとし田を植ゑる

 かつと晴れ植ゑしばかりの稲の縞

 新緑の鉄柵朱し雪崩止

 お鷹ぽつぽすつくと五月の風を呼ぶ

 星またたき蛾の吹入りし野天風呂

 杉山の幽し萌えたつ羊歯を見よ

 戦争の終らぬままに葱坊主

 分校の生徒は五人金魚飼ふ

 葱坊主木曾の石仏小さくて
----------------------------------------------------------------------
高島茂
この句集に載る高島茂の写真である。

この句集に載るものは季節は一年にわたっているので、あとのものは、また季節の都度載せたい。
抽出した句については、特別に批評のコメントは書かないが、抽出すること自体が私の批評であることをお察しいただきたい。特に、冒頭に引いた三句は、趣き深い。
ご恵贈に厚く感謝申し上げる。
これを贈呈して下さった高島征夫氏も2009年に死去されて今は、もう亡い。嗚呼!


芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・安住敦
511_l芹

     芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

ayumi-4安住敦
安住敦は明治40年東京芝生まれ。逓信省に勤め、富安風生が局長の縁で俳句を始めた。新興俳句に関心を深め「旗艦」に参加。
弾圧の時代、「多麻」を創刊、応召する。
昭和20年末、久保田万太郎を擁して「春燈」創刊、支え続けた。
51_5.jpg
昭和38年、二代目の主宰となる。
句集に『貧しき饗宴』『木馬集』『古暦』『市井暦日』『暦日抄』『午前午後』『柿の木坂雑唱』など。
俳人協会会長。蛇笏賞受賞。エッセイにも勝れる。昭和63年没。 私の好きな句を上げてみる。
------------------------------------------------------------------------
gp8825.jpg

 くちすへばほほづきありぬあはれあはれ

 帯のあひだにはさんでありし辻うらよ

 相倚るやしんしんとして霧の底

 霧に擦りしマッチを白き手が囲む

 ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく

 てんと虫一兵われの死なざりし──8月15日終戦──

 しぐるるや駅に西口東口

 春の蚊や職うしなひしことは言はず

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 涅槃図に束の間ありし夕日かな

 かいつむり何忘ぜむとして潜るや

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

 蛇穴を出て日蝕に遭ひにけり

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 散るさくら骨壷は子が持つものか──神保愷作縊死す──

 夜の書庫にユトリロ返す雪明り

 花明しわが死の際も誰がゐむ

 独活食つて得し独活の句は忘じたり

 枯菊焚いてゐるこの今が晩年か

 眼薬のおほかた頬に花の昼

 花菜漬愛に馴るるを怖るべし

 秋忽と癒えたるわれがそこに居ずや

 雪の降る町としふ唄ありし忘れたり
-----------------------------------------------------------------------
gp5419.jpg

ネット上に載る安住敦の「言行録」の一部を紹介しておく。

安住敦の言葉(1)

「花鳥とともに人間が居、風景のうしろに人間がいなければつまらない。花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない。」
安住敦は、戦後久保田万太郎を擁して俳誌「春燈」を興す。
師と仰いだ久保田万太郎は、市井の人情を描いた劇作家、小説家としても大家であった。
安住敦の俳句は紆余曲折(これは別ネタで)を経た後、戦後は庶民感覚的な抒情的な句風となっていく。
これはやはり師事した万太郎の影響が大きかったのであろう。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社

安住敦の言葉(2)

「旅を詠むのでなく、旅で詠むものです」
これは説明の必要はないであろう。
しかし、単純にして奥行きの深い言葉である。
安住敦が主宰していた「春燈」の勉強会でよく言っていた言葉だという。
また、常に「ありのままを詠むしかない」と繰り返していたという。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社
---------------------------------------------------------------------
20090401115209.jpg

安住敦の句は好きで、何度も引いてきたが、ここに転載するのに適当な記事が余りないが、
大西巨人の鑑賞文を引いておく。

てんと蟲一兵われの死なざりし・・・・・・・・・・・安住敦

*しぐるるや駅に西口東口

 句集『古暦』〔一九五四〕所収。「八月十五日終戦」という前書きが付けられている。

それは、たとえば、中村草田男の

切株に踞(きょ)し蘖(ひこばえ)に涙濺(そそ)ぐ〔『来し方行方』、一九四七〕、

金子兜太の

スコールの雲かの星を隠せしまま〔『少年』、一九五五〕

が作られて、

また腰折れながら私自身の

秋四年いくさに死なず還りきて再びはする生活(いき)の嘆きを〔『昭和萬葉集』巻七、一九七九〕

が作られたころである。

そののち、たとえば、斎藤史の

夏の焦土の焼けてただれし臭さへ知りたる人も過ぎてゆきつつ〔『ひたくれなゐ』、一九七六〕

が作られて、いま敗戦五十年目の夏が来た。私は、万感胸に迫る。

おとこたちはみなぺにすをもっていた /いっしょうわすれられないとおもうできごとを/あくるひにはわすれた ・・・・谷川俊太郎
張り型~1
 ↑ 鼈甲製の張形  江戸時代に大奥で使われていたとされる。湯で柔らかくして、綿を詰めて利用した。

      おとこたち・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  おとこたちはみなぺにすをもっていた
  いっしょうわすれられないとおもうできごとを
  あくるひにはわすれた
  すいっちひとつでうつくしいおんがくが
  死のむこうからながれでて
  そのほうがくへとおとこたちは
  じぶんをいくえにもおりたたむ

  <のぞみをたたれても のぞまぬことにはけっしてなれることはない>
  ゆかのうえのひとつぶのこめが
  とおいぬかるみでめをふくことをおそれて
  くるしみのときをすごすために
  さらにひどいくるしみのものがたりをよむ
  おとこたちはみなぺにすをもっていた
--------------------------------------------------------------------------
詩人谷~1
 ↑ 谷川俊太郎

更に、もう一つ関連する詩として下記のものを引いておく。

      からだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  男が男のからだのかたちしてしか
  生きることのできないのはくやしい
  かたちのないこころだけであったなら
  もっと自在にあなたと交われるものを

  だがことばよりくちづけで伝えたいと
  そう思うときのこころのときめきは
  からだなしでは得ることができない
  いつか滅ぶこのからだなしでは

  こころがどこをさまよっていようと
  こころがいくつに裂けていようと
  女がただひとつのからだのかたちして
  いま私のかたわらにいるのはかなしい

------------------------------------------------------------------------
これらの詩は、詩集『日々の地図』1982年集英社刊に載るもの。
この詩の末尾の「かなしい」がカナ書きになっているところが曲者である。ここは「悲しい」とも「愛しい」とも読み解けるところで、この辺が詩の面白さである。
読後の、あなたの感想は、いかがだろうか。
谷川
 ↑ 新潮社1994/11刊

谷川俊太郎には、ここに出したような本があり、母の私的な、性的な手紙を、あからさまに披露されている。
こういう態度こそ文学者のものである。
だから、私が彼の性的な詩を引用した意図も理解されたい。


原義春『猫と小石とディアギレフ』・・・・・木村草弥
福原

──新・読書ノート──(再掲載)

     福原義春『猫と小石とディアギレフ』・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・集英社2004/11/30刊・・・・・・・・

たまたま福原義春のことが目に止まって、アマゾンの古本で買ってみた。
私は、彼を資生堂創業者の孫で、慶応大学を出た「お坊ちゃん」だとばかり思っていたが、会社に入って、かなり
苦労を経験して、今の資生堂を作り上げたらしい。
それに読書家で、精緻な文章を書く優れたエッセイストでもある。 また蘭の育種家としても有名らしい。
先ず、はじめに、私の下手な読み解きではなく、下記の紹介記事を採り上げる。
TKY201304060564福原義春
↑ 福原義春

「松岡正剛の千夜千冊」の1114夜に、この本を採り上げたページがある。
長いので、その一部を引いておく。

今夜はその福原さんについて少々語っておきたい。いや、経営者の福原さんについては、たとえば『福原義春語録』や『多元価値経営の時代』や『文化資本の経営』などを読んでいただきたい。
 もっとも、その経営者としての発言や思想にも、そこにつねにユマニテとリアリテが、また小学校時代の吉田小五郎先生とマックス・デプリーが必ず登場してくることに、気がつかれるとよい。すなわち福原さんは、自分の信条を変えないことと、影響をうけた人物を忘れないということにおいて、まさに自身のなかの光陰を磨き抜いているのである。経営書にもそれがあらわれている。きっと百代の過客とともに福原さんの資生堂は生きているのであろう。

 それで、そういう福原さんの70冊を超える著書や対談集から、では今夜は何をとりあげるかというに、『猫と小石とディアギレフ』にした。
 この本は集英社のPR誌に連載しているものの第2弾で、第1弾の『蘭学事始』の続篇にあたる。続篇とはいっても毎回のエッセイはすべて独立しているので、いつも瀟洒なオードブルを盛り付けてもらっているようなものなのだが、その1本ずつの原稿の量がとてもよく、ぼくには福原さんの発想回路が一番よくあらわれるリテラル・パフォーマンスになっているように感じられたからだ。
 御本人は「こんな散らかった話題を読んでいただける読者はどんな方なのか」と訝っている。けれども、その件についてはすでにわれわれが調査済みのこと、福原さんの御長女が、次のように「散らかった父の本質」をばらしてくれているのだ。「家の中は本に埋もれて生活しているよう」「服だって春夏秋冬すべての服がぶら下がって」「母がいなければ父は出張にも行けない」「庭は植物だらけでジャングルみたい」なのである。
 会長時代の秘書室長もすっかりばらしている。朝の会長室はそこらじゅうに新聞が散らかっていた。
 しかしぼくは、この「散らかった」こそ福原さんの真骨頂だと思っている。多元価値型編集術なのだと思っている。散らかっているということは、そこから何かを選抜するということで、いわば多様性を拡張し、その関係の複雑性にネットワークを発見し、それを数点の結節点から同時に、かつ動的に語りたいということである。
 それが福原さんの、つまりは猫と小石とディアギレフの、資生堂パーラーふう三色アイスクリームなのである。散らかったものがいつしか連動していくということなのだ。

 もうひとつ、この本を選んだ理由がある。ここには福原さんが七転八倒して選び抜いた100冊の本が記録されている。これがすばらい。
 エッセイとしては雑誌「オブラ」でその100冊を選書したときの時ならぬ苦労を綴っていて、たとえば吉田満『戦艦大和ノ最期』、吉村昭の『天狗争乱』、阿刀田高の『ユーモア革命』、猪熊弦一郎の『画家のおもちゃ箱』などを入れられなかったのは痛恨の極みだと反省しているのだが、それはそれ、100冊を選んでみて、「これは自分が編集した人生そのものだ」と書き、「本によって自分の人生が編集されていた」と綴っているところが、片時も「学びあい」を反故にしない福原さんならではの配慮なのだ。つまりは「侘び」なのだ。
 その100冊をここでお目にかけたいけれど、それはぜひとも本書を手にとって見られることを勧めるにとどめよう。ぼくとしては、荘子・マキアヴェリ・モンテーニュの古典、ブラッドベリ・エーコ・シビオクの類推学の傑作3冊、寺田寅彦・西堀栄三郎・今西錦司の御三家、ベンヤミン・山本七平・清水博の独自性、白秋・朔太郎・西脇順三郎の浪漫ぶり、それにカエサルの『ガリア戦記』やガモフ全集や徳川夢声の『話術』を入れたことだけでも胸いっぱいなのだが、加えてぼくの『情報の歴史』とぼくが編集したスマリアンの『タオが笑っている』が100冊入選を果たしたというのだから、これはもう立つ瀬がないほどなのである。
 こんな100冊を選べる企業人は、いや文化人は、いま日本に福原さんたった一人ではあるまいか。第1110夜に、鈴木治雄を継ぐのは福原義春だろうと書いたけれど、その幅やその深さでは福原さんのほうがずっと強靭な文化アスリートだろう。

 さて、一見、散らかっているかのような猫と小石とディアギレフの関係である。
 福原さんはかつては犬派で、いまは猫派になっている。犬派のときの最後は前の犬が死んで、スーパーマーケットで「犬あげます」の告知を見て葉山まで貰いにいった犬のココとの関係だった(福原さんは鎌倉在住中)。ココは14歳で大往生し、それに代わるように黒の野良猫が3匹の子猫を運んできた。これで福原さんは犬派から猫派によんどころなく転向した。
 転向して、どうして犬や猫に人間は心をくだくのかと考えた。とくに犬や猫を通して「慰藉」とは何かを考えた。しかし、福原さんは実は犬派でも猫派でもあってそのどちらに加担するでなく、また人も知る植物派のなかの、とりわけての蘭派であって(だから『蘭学事始』だった)、さらに申せば人派のなかの人派なのである。福原さん自身はエッセイのなかでそのことに合点する。

 福原さんが人派であることはわれわれから見ても、よく納得できる。たとえば求龍堂の「サクセスフルエイジング対談」シリーズだ。
 これは石津謙介・淀川長治・下河辺淳から渡辺貞夫・朝倉摂・フローレンス西村におよぶ、いまのところ20人以上の人士と"聞き手対談"しているものなのだが、毎度、唸るほどの含味があって、人が人に話してかかわるユマニテとリアリテの度合い、すなわちメトリック(測度)というものが柔らかい複合レンズを通した光のごとく伝わるようになっている。
 こういうことは犬猫相手にはできない。しかも「慰藉」もある。いや「慰藉」を引き出せる話にしていくところが、福原さんの人派ぶりなのだ。
 もうひとつの人派たるゆえんは、その推理小説好きによくあらわれている。だいたい小栗虫太郎もカルル・チャペックも『三毛猫ホームズ』も好きなのに、一人だけ作中探偵を選べといわれるとロバート・ファン・フーリックのディー判事を選びたいというのが、とてもあやしい。"歴史変人"好みの人派なのである。シノワズリーというならさすがの中野美代子さんも敵わないだろうフーリックに、ぴたりと照準をあてる福原さんは、ぼくから見ると、福原さんこそが見えない人脈を探求しつづけている名うての探偵でしたね、と言いたくなるところなのだ。

 本書のエッセイで、最も意外な展開を綴っているのが「マルタ島訪問記」である。ちょっとした会合のためにマルタ島に行くことになったのだが、その話をしたところマガジンハウスの手塚宏一さんから「石ころ」を拾ってきてほしいと頼まれた。
 福原さんはパンフレットを見てマルタ島がとても美しいところらしいと知って行ったのだが、いざ着いてみるとどこが美しいのか、史跡が何を語りかけてくるのか、どうもいまひとつピンとこない。「石ころ」もこれといったものに出会えない。が、そのうちそうした殺風景にもなんとなく好感をもてるようになってきたところで帰国した。
 ある日、福沢諭吉の『西洋事情』を見ていたら、福沢が西欧使節団でヨーロッパをまわったときにマルタ島に寄っていたことを知った。福原さんは慶応幼稚舎からの根っからの慶応派で、福沢となると放ってはおけない人なのである。それで福沢も降り立ったマルタ島が気になってさらに調べていると、カラヴァッジョがローマで殺人事件をおこしてマルタに逃亡していた。そこでデズモンド・スアードの『カラヴァッジョ』を読んだ。そうしたらカラヴァッジョがマルタ騎士団になるつもりもあったということがわかった。そこからマルタ騎士団の歴史に深入りした。
 そんな話になっているのだが、小石とは、こういうふうに福原さんがイメージの歴史をちょっとした小石を片手に時空の光陰を旅することなのである。その小石がさらにあるときぴょんと跳ねて、しばらくするとセルゲイ・ディアギレフにも及んだと思われたい。
----------------------------------------------------------------------
私が何かを書き加える必要など何もない。もともと松岡正剛の文章は長いので、すべて入っているのである。

同時に、こんな本も一緒に買った。

福原_0001
 ↑ 『福縁伝授』──集英社2011/02/28刊

この本は先に挙げた本の続編のエッセイ集である。 今は㈱資生堂の名誉会長として全般に目を光らせるとともに、文化メセナや財界活動をなさっている。

Wikipediaの記事を引いておく。 ↓

福原 義春(ふくはら よしはる、1931年3月14日 - )は日本の実業家。資生堂名誉会長。

人物
資生堂創業者・福原有信の孫。有信の五男・信義の長男として東京に生まれる。1953年、慶應義塾大学経済学部卒業後、資生堂入社。1978年取締役外国部長、1987年社長、1997年会長を経て、2001年より現職。

東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会会長(前理事長)、日仏経済人クラブ日本側議長、日伊ビジネスグループ日本側議長、世界らん展日本大賞組織委員会会長など公職多数。銀座通連合会前会長、日本広告主協会前会長なども務めた。近々では、公益法人制度改革に関する有識者会議座長をつとめる。慶應義塾評議員。

趣味は洋ランの栽培、写真など。主な受章は、旭日重光章、フランス共和国レジオンドヌール勲章グラン・トフィシエ章など。レジオンドヌール帯勲者会日本支部会長も務める。角川財団学芸賞選考委員。

著書
企業は文化のパトロンとなり得るか 求龍堂 1990.12
100の蘭 文化出版局 1991.12
多元価値経営の時代 東洋経済新報社 1992.6 (トップが語る21世紀)
文化は熱狂 対談集 潮出版社 1995.3
生きることは学ぶこと 風に聞き時に学ぶ ごま書房 1997.4 のちパンドラ新書
「無用」の人材、「有用」な人材 “老荘"に学ぶ転換期を生きぬく知恵 祥伝社 1997.10
部下がついてくる人 体験で語るリーダーシップ 日本経済新聞社 1998.10 のち文庫 
蘭学事始 集英社 1998.12
金の舌銀の味 この人この味このお店 マガジンハウス 1999.2
日々是「好食」 マガジンハウス c2000
メセナの動きメセナの心 求龍堂 2000.8
会社人間、社会に生きる 中公新書 2001.2
福原義春の講演 変化の時代と人間の力 慶應義塾大学出版会 2001.11 のちウェッジ文庫(副題を正題に)
101の蘭 文化出版局 2004.2
猫と小石とディアギレフ 集英社 2004.11
「自分らしい仕事」があなたを変える! 仕事にちょっと悩んだとき読むヒント 青春出版社 2005.12
ぼくの複線人生 岩波書店 2007.3
だから人は本を読む 東洋経済新報社 2009.9
私は変わった変わるように努力したのだ 求龍堂 2010.6
季節を生きる 毎日新聞社 2010.11
ステイヤンゴロジーで人生は輝く! マガジンハウス 2010.12
100人で語る美術館の未来 慶應義塾大学出版会 2011.2
「福縁伝授」聞いてもらいたい独り言 集英社 2011.2
本よむ幸せ 求龍堂 2013.2

共編著
森毅・福原義春らくらく対談 ええ加減が仕事の極意 明日香出版社 1993.12
森毅・福原義春いきいき対談 柔らかい生き方をしよう 明日香出版社 1994.2
〈福原義春サクセスフルエイジング対談シリーズ〉求龍堂
自然と生きる、自然に生きる フローレンス西村 1996.11
10歳の輝き、100歳の青春 加藤タキ 1996.11
美しい暮らし、変わりゆく私 真行寺君枝 1996.11
時代の風を吹かせ、自らが楽しむ 石津謙介 1997.1
旅に生きる、時間の職人 永六輔 1997.3
100着の衣装に、100通りの人生を ワダエミ 1997.3
出会いに生きる、八十七歳の青春 森岡まさ子 1997.7
僕は映画の伝道師 淀川長治 1997.7
壊すこと、創ること 山本耀司 1997.11
動物が好き、人間が好き 増井光子 1997.11
「美しい暮らし」を探す旅人 浜美枝 1998.12
「不良少女」からコスモポリタンに 金美齢 1998.12
舞台美術は一瞬の輝き 朝倉摂 1998.3
アマゾンに学ぶ、「我ら地球家族」 山口吉彦 1998.3
至福の時は「オペラ人」 佐藤しのぶ 1998.5
ともに学ぶ、ともに遊ぶ 小池千枝 1998.8
花と語り、虫と遊ぶ 熊田千佳慕 1998.8
静かな男の大きな仕事 下河辺淳 1999.4
グッドスマイルグッドライフ 渡辺貞夫 1999.4
私は、高齢時代のプロデューサー 佐橋慶女 1999.4
書字が教えてくれる 石川九楊 2000.4
触れることが脳を育む、人を育む 大島清 2000.3
老いとは何か 多田富雄 2001.2
「超」思考法 自分の頭で考えろ 加藤諦三,濤川栄太共著 扶桑社 1997.7
文化経済学 池上惇,植木浩共編 有斐閣ブックス 1998.11
文化資本の経営 これからの時代、企業と経営者が考えなければならないこと 文化資本研究会共著 ダイヤモンド社 1999.10
対話 私たちが大切にしてきたこと ルチアーノ・ベネトン ダイヤモンド社 2002.2
解はひとつではない グローバリゼーションを超えて 樺山紘一共編 慶應義塾大学出版会 2004
市民活動論 持続可能で創造的な社会に向けて 後藤和子共編 有斐閣 2005.4
企業経営 ロングインタビュー 稲盛和夫 読売ぶっくれっと 2005.6


摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・鷹羽狩行
25066005604.jpg
 ↑ エンパイアステートビルからの俯瞰。小さな緑が見える。

       摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

鷹羽狩行は昭和5年生まれ。中央大学法学部卒。山口誓子、秋元不死男に師事。
本名は「高橋行男」(たかはしゆきお)であり、これをアナグラムで並べ替えて「鷹羽狩行」とした。
本名では、いかにも俳人らしくないので、山口誓子あたりが、アナグラムしたのかも知れない。
これは私の勝手な想像ではなく、本人のエッセイか何かで読んだ記憶がある。

この句も着想が面白い。摩天楼というからには、本場ニューヨークのことだろう。
はじめてニューヨークに行くと、必ずと言っていいほど、摩天楼のエンパイアステートビルに連れて行かれる。
車も人も芥子粒ほどに小さく、新緑の木立も、かなり大きくても、パセリほどという発想は新鮮である。
今の季節では、ニューヨークでは、まだ寒くて新緑は、まだかも知れない。
先日のNHKのラジオでは首都ワシントンのポトマック河畔の桜が満開、と言っていた。ニューヨークは数百キロ北で、気温はまだ低い。

彼の結社は「狩」というが、全国に子結社、孫結社を持っており、この頃は結社を大きくするのに懸命で、それらの若手で、有望な作家は「狩」同人に引っ張り込んでいるらしい。
これは私の地元の「天塚」という結社が「狩」系で、そこに属する熟年の俳人が自嘲的に洩らしていたことである。
いずれにせよ、俳人協会会長として権勢を振るっているらしい。
ゴルフ狂で全国各地をゴルフ三昧しているという。
以下、彼の句を引いて終わりにしたい。
--------------------------------------------------------------------------
20100708img02.jpg

 落椿われならば急流へ落つ

 天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 蓮根掘モーゼの杖を摑み出す

 母の日のてのひらの味塩むすび

 一湾の縁(ふち)のかなしみ夜光虫

 紅い父青い母走馬灯かこむ

 大言海割つて字を出す稿始め

 一対(いつつい)か一対一か枯野人

 鶯のこゑ前方に後円に

 黴の世の黴も生きとし生けるもの

 ひとすぢの流るる汗も言葉なり

 蛇よりも殺めし棒の迅(と)き流れ

 湖(うみ)といふ大きな耳に閑古鳥

 昼は日を夜は月をあげ大花野

 しがらみを抜けてふたたび春の水

 息づきにおくれ息づく薄ごろも

 秋風や魚(うを)のかたちに骨のこり

 人の世に灯のあることも春愁ひ

 しみじみと端居の端といふところ

 太陽をOH!と迎へて老氷河

 落鮎や流るる雲に堰はなく

 麦踏みのまたはるかなるものめざす

 春光や砂の皺より蜆貝

---------------------------------------------------------------------------
fuji.jpg
↑ 富士を望む句碑「伊豆は日のしたたるところ花蜜柑」

ネット上に載る経歴を載せておく。

鷹羽 狩行 (たかは・しゅぎょう)

プロフィール
 1930年山形県新庄市生まれ。中央大学法学部卒業。1946年尾道商業時代に俳句を始め、山口誓子・秋元不死男に師事。1965年、第1句集『誕生』で俳人協会賞、1975年、句集『平遠』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。1976年「毎日俳壇」選者。1978年「狩」創刊、主宰。1984年、NHK教育テレビ「俳句入門」講師(3年間)。1987年、NHK国際放送の俳句番組担当(15年)。1993年、俳人協会理事長、「東京新聞」俳句欄選者(9年間)。1994年、国際俳句交流協会常務理事、現在顧問。NHK教育テレビ「NHK俳壇」講師(3年間)。1999年、文部大臣表彰。NHKラジオ深夜便「ラジオ歳時記」(出演中)。2000年、日本文藝家協会理事、日本現代詩歌文学館振興会理事。2001年、NHK教育テレビ「趣味悠々・はじめての俳句」講師。2002年、俳人協会会長、句集『翼灯集』と『十三星』で毎日芸術賞を受賞、受勲。
句集
『誕生』『遠岸』『平遠』『月歩抄』『五行』『六花』『七草』『八景』『第九』『十友』『十一面』『十二紅』『十三星』『十四事』『十五峯』、訪中吟『長城長江抄』、海外吟『翼灯集』、挨拶句集『啓上』『俳日記』。評論・エッセイ集『古典と現代』『俳句の魔力』『胡桃の部屋』『季節の心』『名所で名句』『名句を作った人々』『俳句一念』。入門書『俳句のたのしさ』『俳句を味わう』『俳句上達法』『俳句の楽しみ』『俳句入学』『狩行俳句入門』など。



夕光にあからさまなる木蓮の花びら厚し風たえしかば・・・・・佐藤佐太郎
photo149832モクレン

      夕光(ゆふかげ)にあからさまなる木蓮の
          花びら厚し風たえしかば・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は明治42年宮城県生まれ。斎藤茂吉に師事。
岩波書店に勤務する。
都市生活に根ざした独自の簡勁な写実主義短歌を展開。
昭和20年「歩道」を創刊、主宰する。
昭和27年『帰潮』により読売文学賞、55年日本芸術院賞を受賞する。
昭和62年没。

この歌は風の止んだ夕方、ぼったりとした厚い木蓮の花が夕日に「あからさまに」に染まっている、という精細な写実の秀歌である。
佐太郎のファンは今でも多く、歌集もよく売れている。
以下、佐太郎の歌を引いておく。
----------------------------------------------------------------------------

をりをりの吾が幸(さいはひ)よかなしみをともに交へて来りけらずや

店頭に小豆(あづき)大角豆(ささげ)など並べあり光がさせばみな美しく

地下道を人群れてゆくおのおのは夕の雪にぬれし人の香

めざめしはなま暖き冬夜にてとめどなく海の湧く音ぞする

なでしこの透きとほりたる紅(くれなゐ)が日の照る庭にみえて悲しも

つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし

連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼

黄牛(あめうし)は体の皮たえず動かして蝿おひゐたり近づきみれば

桃の木はいのりの如く葉を垂れて輝く庭にみゆる折ふし

キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蝿が群れゐる

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく

貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲

灯を消して吾は思ひきつづまりは人のこころは臥床に憩ふ

あたたかに冬日さすとき老いづきし項(うなじ)の汗をわびしむわれは

ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革の座席ある舟に乗る

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ

すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす

梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり

遠くより柿の実みゆるころとなりいまだ濁らぬ視野をよろこぶ

日々あゆむ道に明治の赤き花豆菊咲きて父おもはしむ
-------------------------------------------------------------------------
終りから5首目の歌は、いろいろ論議された歌で、結句の「みゆ」は、それまでの文脈からすると「--を見る」という他動詞でなければならないが、この歌には上句と下句には「ねじれ」があって、佐太郎としては途中を省略して、「庭に出てみたら」那智の滝が「見える」という表現になったのだろう、ということになっている。
初心者ならば、当然、先に書いたように自動詞、他動詞の関係から、不適切として直されるところである。
-------------------------------------------------------------------
img_501423_59804757_10佐藤佐太郎歌碑
 ↑ 佐藤佐太郎歌碑 関門海峡に臨む「関見台公園」

Web上に載る或る鑑賞文を引いておく。

佐藤佐太郎の平泉の歌鑑賞

-瞬間に見える真実-

佐藤佐太郎という歌人がいる。宮城県柴田郡大河原に生まれ、茨城県の多賀郡平潟町(現北茨城市)で少年時代を送った。17才で「アララギ」に入会して、斎藤茂吉の一番弟子と呼ばれた歌人であった。昭和27年(1952)佐太郎は、43才にして、歌集「帰潮」で第三回読売文学賞を受賞し、歌人として地位を不動のものとした。その翌年の昭和28年2月26日、恩師の斎藤茂吉(1882-1953)が急逝した。その時、佐太郎はこのような歌を詠んだ。

 みいのちは今日過ぎたまひ現身(うつしみ)の口いづるこゑを聴くこともなし
 しづかにてありのままなる晩年の時すぎしかばみ命終る

佐太郎が、使ったこの「み命」という言葉は、佐太郎らしい重々しく真心のこもった言葉の選び方だ。誰が亡くなっても、簡単に使用するような便利な言葉ではない。自分がこの世の中で、最高に敬愛する恩師「斉藤茂吉」という人物の大切な大切な命が消えて、ふと歌人佐太郎の中で「み命」という言葉が、彼の心の奥から湧いてきたのである。

そんな年ではあったが佐太郎は、秋になり、忙しい合間をぬって平泉を訪れて、まずは毛越寺に参詣して次のような歌を詠んだのであった。

毛越寺
 うら枯るるものの明るさや毛越寺の池のみぎはに荻(おぎ)もみぢせり
 毛越寺にわれの来しとき松風は音をつたへて池の明るさ
 古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ
 みちのくの遠きいにしへ毛越寺の礎石のひまに松古りて立つ
 虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る

第二歌「・・・池の明るさ」は、佐太郎が、毛越寺の池のほとりに立った瞬間、ふっと風が吹いてきて、池にさざ波が立って、光りが揺らめいた瞬間の歌であろう。その光りの中に得体の知れないなにか、たとえば、奥州の過去の栄華のようなものの幻影でも見たのであろうか。

私は特に第三歌の「古き代のこころしのばん石いくつ池中に立つ石もわが見つ」が好きである。佐太郎は、きっと秋の大泉が池のほとりに佇みながら、池のまん中に立っている僧形石の異名を持つ石をじっと見ていて、向こうもこちらを見ているような錯覚にとらわれたのであろう。もちろん石はものを言うわけではないけれども、その石の姿や、他の石との間の中に、この浄土を偲ばせる池をこしらえた二代基衡という人物の心の有り様というものが、佐太郎の心にひしひしと伝わってきたのであろう。

昭和28年当時の、毛越寺は、今と比べてもきっとずっと寂しかったに違いない。本堂もなかったし、池の周辺だって現在のように綺麗になっていたわけではない。でも、あの池の前に佇んでじっと待っていると、何かふっと感じられるものがある。それはやはりこの毛越寺建立に込めた基衡の強烈に熱い思いなのであろう。ざわざわとする心を抑えながら、しばしの時を置いて、佐太郎は大泉が池を背にした。しかしどうしても立ち去りがたき思いがわき上がって来て、「虚しきにたちて心のしづまりを惜しみしかども吾はたち去る」と詠んで、毛越寺を後にしたのである。

次に佐太郎は、中尊寺に足を伸ばして、このような歌を詠んだ。

中尊寺
 金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る
 金色の弥陀来迎の仏たちさむき御堂のうちに輝く
 ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む
 遠き世のかなしみ残る清衡の金の棺をまのあたり見つ
 ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇

第一歌の「金堂のうちのつめたき塗床(ぬりゆか)にたまたまにして金の箔散る」は、佐太郎の中でも名歌として知られている。まだ昭和28年、金色堂は旧鞘堂の中に収まっていた。その金色堂の床に、キラキラとして金箔が落ちているというのは、少し考えにくい感じがするのだが、とにかく光りの具合か何かで、剥がれた金箔があるように佐太郎には、見えたのであろう。この一瞬の真実を捉えて歌にするのが、「純粋短歌」というものを標榜した佐太郎の歌の真骨頂なのだ。佐太郎の「純粋短歌」の考え方は、少し小難しいが、簡単に言えば、厳選された重厚な言葉を用いて一瞬を歌に詠み込むことと解釈してよさそうだ。その意味でも、第一歌の「…金の箔散る」の歌は、佐太郎の「純粋短歌」の性格付けを見事に表している歌と言える。

金色堂を後にすると、佐太郎は大日堂の前庭を歩いて「ささやけき大日道の前庭に柿の落葉を音たてて踏む」という歌を詠んだ。そんなに柿の落ち葉があったとすれば、きっと木枯らしの後が、台風の後だったのかもしれない。ともかく冬に向かう奥州の古寺の風情が、彷彿と浮かんでくるような歌である。

そして佐太郎は、一山の宝物を納めた讃衡蔵に入る。昔の讃衡蔵は、今とまったく違っていて、木造で階段があって、迷路のように入り組んでいた。ギシギシと音を立てながら、大きな丈六仏を見上げながら歩くのは、実に風情があった。そこに佐太郎は、スリッパを履いて辺りを見渡したに違いない。そこで初代清衡の棺を見たのであろう。確か昭和25年、中尊寺金色堂では、「遺体学術調査」と称して、三代のミイラが取り出されて、様々な研究と修復がなされた年である。その成果として、新しい事実なども発表された。例えば、秀衡の棺の傍らにあった首桶もそれまでは、泰衡の弟の忠衡と思われていたが、眉間にあった梟首(きゅしゅ)の痕などの調査によって、それが実は最後の奥州藤原氏最後の御館(みたち)泰衡の首であることが判明したりした。またミイラから生前の秀衡の顔なども、復元されるなどして、歴史ファンならずとも、興味をそそられることも多かった。佐太郎が訪れたのはそれから僅か三年後であった。

ところでこれは私の最初の疑問であるが、「讃衡蔵」の中で、佐太郎は、まず最初に仏像や他の宝物ではなく、何故に清衡の棺に興味をそそられたのであろう。もしかしたら、それは恩師である斎藤茂吉の死が関係していたのかもしれない。この中に、初代の清衡が眠っていたのか、という感慨を込めながら、人として避けがたい「死」というものと、この歌人は向かいあっていたのだろうか。

次に佐太郎は、おそらく秘仏と言われている「一字金輪佛頂尊坐像」を目の当たりにして、「生」というものの不思議を見ていたはずだ。それが第五歌の「ことごとく匂ふが如き御仏と後もしのばん朱の唇」である。昨年(2000年)に讃衡蔵の中でご開帳されていたので、この仏像を見た人も多いであろう。とにかくこの仏像は、「人肌の大日」(人肌をした大日如来という意味)と言われるように妙に艶めかしく、まるで生きているような感じのする仏像である。寄せ木造りで、後半身がない仏像で、壁に掛けられていたと考えられている。三代秀衡公の持仏と伝えられており、ある説では初代清衡公の妻をモデルにして作られた像ではないかという説もある。実に精気に溢れていて、しかも女性的な仏像である。そこで佐太郎は、不遜ながらその朱(あか)い唇を見て、恋をしたのかもしれない。先の清衡の棺とそしてこの清衡の妻という説もある「一字金輪佛頂尊坐像」を対比させて、「死」と「生」のコントラストを見事に引き出した歌人佐藤佐太郎の充実振りが偲ばれる見事な歌と言えるのではあるまいか。

こうして佐太郎の歌を改めて鑑賞してみると、歌人というものが、いかにして歌を創作するのか、という過程が実によく分かる。まず歌人は、その地に足を踏み入れた瞬間、ある種の「気」のようなものを感じ取ろうとする。次にその「気」の実体がいったいどんなもので、それがどこから来るものなのか、じっと五感をすべて解き放って、その中に浸ってみるのである・・・。すると遠くから一筋の光りが現れるてきて、ゆっくりと、しかし確実に、歌人に向かって近づいてくる。光りの実体が朧気な姿を現した所で、歌人はそれを言葉に変換する。そこで大切なのは、選び抜かれた重厚なる言葉を選択することである。そしていよいよ創作の最後の段階がやってくる。歌人は選んだ言葉が醸し出す雰囲気を大切にし、あらゆる余分な観念を排除して、光りの姿にもっとも相応しい三十一文字の配列を決める。こうして歌という永遠の華が開花するのである。これは歌に限らず、どんなものにも通じる本物に近づき、感じるための良き方法である。


「花吹雪空に鯨を泳がせん」剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・岡部桂一郎
76703684.jpg

      「花吹雪空に鯨を泳がせん」
          剛毅まぶしもよ遠き談林・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎


この歌は、一種の「コラージュ」の歌である。
「花吹雪空に鯨を泳がせん」という句が誰の作品か調べかけたが、未だ判らない。
「談林」派の誰かの句だと思うが、岡部が言うように、大きな景の句である。
その句をコラージュとして取り込んで、彼は、それを「剛毅」なと褒める。
たしかに花吹雪の空に「鯨」を泳がせようというのは、彼の言うように剛毅であるが、私から見ると、この表現は談林派特有の「奇抜な着想」と言えるだろう。
いかにも飄逸な歌作りを身上とする岡部らしい「引用」であると言える。

岡部桂一郎は大正4年神戸市生まれ。戦前は短歌結社「一路」に拠ったが、戦後は所属結社などは無い一匹狼として歌を発表してきた。
1994年(平成6年) 作品「冬」にて第30回短歌研究賞
2003年(平成15年) 歌集『一点鐘』にて第37回迢空賞および第18回詩歌文学館賞
2008年(平成20年) 歌集『竹叢』にて第59回読売文学賞

2012年(平成24年)11月28日、死去。97歳。
以下、彼の歌を引いてみよう。
-------------------------------------------------------------------------

まさびしきヨルダン河の遠方(をち)にして光のぼれとささやきの声

空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う

遠くよりさやぎて来たる悲しみといえども時に匕首(ひしゅ)の如しも

間道にこぼれし米の白ぞ沁むすでに東北に冬が来た

みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黒猫ひとつ

砂の上に濡れしひとでが乾きゆく仏陀もいまだ生れざりし世よ

天を指す樹々垂直に垂直にして遠く小さき日は純粋なり

うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼空にあがる遮断機

手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う

ひと息に行人坂を吹き抜けて途方にくれる昼の木枯

ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事

天の川空にかかりて丈高き夾竹桃の花を暗くす

葡萄酒にパン浸すとき黒々とドイツの樅は直立をせり

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり

のんき屋という看板をあげている君の店舗の夕蝉しぐれ

まっすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書雨にぬれたり

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ

命終に近づく友を思えども油蝉なく樹の下ゆけり

夕づく日差すや木立の家の中一脚の椅子かがやきにけり

のびやかに物干竿を売る声の煙のような伊勢物語
------------------------------------------------------------------------
上に引用した歌の中に

陰(ほと)の毛のあわく繁るは飾りかとおみなに問えば否と答えつ・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

というのがあるが、岡部の歌には、こういう意表を突く「瓢逸」というか「洒脱」というか、の歌がある。一筋縄でなく、一ひねりした作品である。
また、こんな歌がある。

春の風通りてゆけば紙袋おもむろに立ち裏返りけり・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎

この歌は、どこでも目にする日常での出来事を、精細に観察して、うまく歌に仕立てあげた。しかも、どこかひょうきんで、おかしみがある。こういう歌の作り方が岡部の特徴と言える。
春は季節の変わり目で、突風が吹いたりする。道端に捨てられていた紙袋が、通り風にあふられて裏返る。それも「おもむろに立ち」と表現したところが秀逸である。
------------------------------------------------------------------------
掲出句に書かれている「談林」とか、「談林派」というものについて少し書いておく。

俳句という文芸は芭蕉から始まった。
もっとも「俳句」という言葉を考えだしたのは、明治の正岡子規であるが、今ここでは、それには触れない。
芭蕉の前には連歌(レンガ)──連句ともいう──という文芸があり、これは和歌の方から発している。これらは座の文学で、集まった同人のうち、誰かが五七五を皮切りに立句(タテク)を出し、それに次の人が七七をつける。その次の人が五七五をつけて続ける。七七が続く。

 そうやって、三十六句を作る。これを歌仙という。この場合、続ける句はすべて、前の句に繋がりのある内容でなければならない。立句に続く句の内容には順番があって、最初は立句に応じたもの、次は恋、それから花、月などと順序が決まっている。

 それを座の同人が勝手にやっていたのでは収拾がつかなくなるので、捌き人が句を整理する。それが、むかし宗匠といわれた人である。連歌の内容の順番が狂ったり、句が出ない人がいたりすると、適当に他に廻したりしながら、いい連歌を作るための指揮をするのである。

 連歌が仕上がると、書き手がそれを紙に書いたものを見て、皆で鑑賞したり、批評したりして楽しむ。終わって、酒などを飲みながら歓談するという優雅な集まりであった。参加する人たちは、おもに豪商のあるじや、豪農など金持ちが多かった。

 こういう人たちは、元々集まり多い社会の人たちで、商談成立のあと宴会をしたり、能見物したり、遊女遊びに繰り出したりする機会も多いのだが、折角主立った連中が集まるのに、飲み食いだけでは芸がない。皆でもっと高尚な趣味を持とうと、連歌を作る会を山崎宗鑑(そうかん)が作ったのが始まりである。

時代は、信長が世に出るか出ないかの頃、応仁の乱が終わった辺りである。旦那衆の遊びでやっている時代は、まだ良かった。連歌がだんだん盛んになってくると、勝れた作品に賞品を出すようになった。それが次第に参加者の会費から、賞金を出すように変わっていった。

 旦那衆には、お付きの人たちがいる。その人たちも連歌に加わるようになって、連歌の集まりが増え、賞金の額も大きくなり、最後にはバクチのごとき様相を呈した。すると、賞金稼ぎのような人物も現れ、江戸時代には幕府が取り締り令を出したこともあったが、隠れてする集まりでは、効果がなかったという。

 松永貞徳(1570年)が、発句(ホック=立句)の五七五を分離して、独立句として、「俳諧」とすることを始めた。この一派を貞門と称する。
この頃になると、武士などの参加も次第に増えてくる。連歌を作るためには、万葉集や和漢朗詠集や漢詩の教養も、土台として必要となる。しかし、参加者が増えて底辺が広がると、質の低下は避けられない。

俳諧の世界は、教養人だけでなく、市井の一般人も含めて参加する人の数が増えたが、句としては言葉をもて遊ぶがごとき、例えば貞門派のように川柳まがいの句が流行した。それを憂えた西山宗因は談林派をつくって修正を図った。

いわば 俳諧の一派だが、西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中らが集まり、延宝年間(1673-1681)に隆盛した。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色とするが、蕉風(しょうふう) ──芭蕉一派の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流などとも呼ばれる。

貞門派も談林派も江戸と大阪が中心であったが、次第に全国に拡まった。 

芭蕉が奥の細道で全国行脚ができたのは、このような経緯で各地方に弟子がおり、師の芭蕉の来駕を待ち望んでいたからである。地方の旦那衆が商売で江戸に出てきて、俳諧なる洒落た遊びのあることを知り、勉強して、その地に帰ってから旦那衆が先生になって俳諧の会を開いた。

芭蕉の、江戸の弟子の旦那衆には、商売の相手が各地にいる。芭蕉が江戸を発つに当たっては、地方の商売相手への旦那衆の添え状があったらしい。そこで数日俳諧を教えて、次の土地にはここの旦那の添え状が・・・という風に、芭蕉は路銀も持たずに、俳諧の旅を続けることができたのである。



ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも・・・・・上田三四二
lrg_21848588.jpg

      ちる花はかずかぎりなしことごとく
         光をひきて谷にゆくかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上田三四二


桜の落花が盛んになる頃である。そこで、この歌を採りあげておく。
この歌は三四二の代表的な名歌として、よく引用される。
短歌では「花」というと「桜」のことを指す約束事が出来てしまった。
万葉集の頃は、花と言えば「梅」の花であったらしい。
だから、この歌で詠まれる「花」は桜のことである。桜は散りはじめると、はらはらと、づつけて散る。
梅の花は、そんな散り方はしない。
そういう落花の様子が、よく観察されて詠まれている。
落花を詠みながら叙景だけでなく、その裏に「ものの哀れ」という心象を漂わせるのが、この歌の名歌たる所以である。

上田三四二については、短い文章ではあるが、まとめて書いたことがある。
三四二は私の居住地・青谷の国立療養所(今の南京都病院)の医師として病院付設の官舎に住いしていたことがある。当地を詠んだ歌もある。
昭和64年1月8日、昭和天皇と同じ日に亡くなった。
小説、評論の分野でも旺盛な執筆をつづけたが、癌に侵され闘病も凄まじかった。
以下、代表的な歌を抽出したい。

 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

 地のうへの光にてをとこをみなあり親和のちから清くあひ呼ぶ

 をりをりに出でて電車にわが越ゆる今日木津川の水濁りをり

 湧く霧は木のかをりして月の夜の製材所の道をわが通りをり

 たすからぬ病と知りしひと夜経てわれより妻の十年(ととせ)老いたり

 死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ

 おぼろ夜とわれはおもひきあたたかきうつしみ抱けばうつしみの香や

 かなしみの何のはづみにか二十三歳の妻の肉(しし)置きをこよひおもひ出づ

 遠野ゆく雨夜の電車あらはなる灯の全長のながきかがやき

 土器(かはらけ)を投ぐるは厄をはらふため沖かけてとべ今日あるわれに

 金泥の西方の空にうかみいで黒富士は肩の焼けつつ立てり

 内視鏡にあかあかとただれたる襞照りてみづからが五十年の闇ひらかれき

 交合は知りゐたれどもかくばかり恋しきはしらずと魚玄機言へり

 湯気にたつ汁(つゆ)盛る妻よ妻が手に養(か)はれてながき二十九年へつ

 蜂などのゐる寂(しづ)けさやまのあたり藤は垂直にひかりを吊す

 歌ありてわれの一生(ひとよ)はたのしきを生のなかばは医にすぎたりき

 乳房はふたつ尖りてたらちねの性(さが)のつね哺(ふく)まれんことをうながす

 かきあげてあまれる髪をまく腕(かひな)腋窩の闇をけぶらせながら

 夕粧(ゆふけはひ)ほのめきみれば華燭より十(とを)の千夜ののちのけふの妻

 身命のきはまるときしあたたかき胸乳を恋ふと誰かいひけん

 をんなの香こき看護婦とおもふとき病む身いだかれ移されてをり

 谷ふかく入りきておもふ癒ゆるなき身は在りてひと生(よ)の妻をともなふ

 朝戸繰りて金木犀の香を告ぐる妻よ今年のこの秋の香よ

 一杯の茶にはじまりて一日の幾百の用妻が手を経(ふ)る
-------------------------------------------------------------------------
上に引いた歌の三、四首目の歌は、当地のことを詠んでいる。製材所は今も同じところで営業している。
-------------------------------------------------------------------------
上田三四二に因んで書いた私の文を引いておく。

*エッセイ*
 京を詠った私の一首 木村 草弥
 (角川書店「短歌」2001年3月号・大特集
 <旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)

   一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の
一つである。 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は
年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられた
ことで有名な「断碑」を安置してある。 昨年11月に私が訪れたら台座を
修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。
ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名
で「賀祢吉」と書かれている。
京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、
「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院など
の史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、
川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、特に秋のシーズンには
観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの
司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して
盛況であった。


春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・坪内稔典
DSCF40441_640.jpg

      春の蛇口は「下向きばかりにあきました」・・・・・・・・・・坪内稔典

坪内稔典は昭和19年、愛媛県生まれ。立命館大学卒で、高校時代から「青玄」に投句。
昭和63年から「船団」を発行、現在に至る。京都教育大学教授を定年退官して現在は京都市内の仏教大学教授。

掲出の句のように、言わば、ナンセンス句のような、人を食ったような句を得意とする。
公園などに行くと、水呑み場には「上向き蛇口」があって水が呑めるようになっている。この句は、恐らく、そんな場面を見て考え付いたものであろう。
蛇口は下向きばかりには飽きたから、だから、こうして「上向き」の蛇口になっているのです、ということである。
俳句は575と短い17字しかないから、いま説明したようなことは省略して仕舞ってある訳である。
こうして見てみると、一見、何の工夫もない、さりげない句のように見えるが、周到に計算し尽くされた作句であることに気付くだろう。
どちらかと言うと、「現代川柳」が、こういう形の川柳が多い、と言えば判りやすいか。
ただ教育者だったので、論は達者で、いくつかの評論集『俳句──口語と片言』 『正岡子規──創造の共同性』などがある。その他『辞世のことば』など。
最近は佐佐木幸綱の「心の花」の同人になり、歌人としても存在を主張している。問題児である。
以下、坪内の句を引くが、それを見ていただけば、どんなものか、よくお判り頂ける。
「甘納豆」シリーズの句の連作なども有名である。
---------------------------------------------------------------------------

 桜咲く桜へ運ぶ甘納豆

 花冷えのイカリソースに恋慕せよ

 春の坂丸大ハムが泣いている

 春の風ルンルンけんけんあんぽんたん

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月どうするどうする甘納豆

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 水中の河馬が燃えます牡丹雪

 魚くさい路地の日だまり母縮む

 父と子と西宇和郡のなまこ噛む

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

 十月の木に猫がいる大阪は

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

 N夫人ふわりと夏の脚を組む
-------------------------------------------------------------------------
2009518174421坪内稔典
 ↑ 坪内稔典氏

ネット上に載る「至遊」氏のサイトを転載しておく。   ↓

坪内稔典を読む (一)・・・・・・・・・ 至遊(しゆう)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 まぁ我々凡人からみると分らない人である。堂々たる俳論を読むと、もうこの世界の大家の風格だが、何と私より六つも若い。稔典は(としのり)と読むが、ネンテンさんでも十分通用する。その桁外れの俳句をいくつか先ず紹介すると、有名な句に

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

がある。「ぽぽのあたり」がどの辺かは想像するしかない。「たん」と来て「ぽぽ」だから下の方なのか、蒲公英の「花」の下の方、すなわち首のあたりなのか、それは議論しても始まらない。一生懸命考えて詠んだ句か、ぱっとできた句なのかも知らないが、できたら遊びで詠んだ句であって欲しい。

 「ぽぽ」は勿論火の燃える音の擬音でもある。そうなると「たんぽぽ」そのものが実物というより、言葉だけのものになってしまう。この「たんぽぽ」を「蒲公英」と漢字で書いたら、何の面白みもなくなってしまうのである。結構この句は有名で知っている人が多いが

 たんぽぽのぽぽのその後は知りません

という句を(多分後で)詠むところまでくると、遊び心の典型だろう。俳句は元々は遊び心が旺盛だった。だから今でもこんな句に出会うとほっとすることがある。多分色んな人から最初の句で質問が行ったことであろう。それへの返歌みたいなものである。

 坪内稔典には他にもシリーズで遊んでいる句がある。甘納豆である。

 一月の甘納豆はやせてます

 二月には甘納豆と坂下る

 三月の甘納豆のうふふふふ

 四月には死んだまねする甘納豆

 五月来て困ってしまう甘納豆

 甘納豆六月ごろにはごろついて

 腰を病む甘納豆も七月も

 八月の嘘と親しむ甘納豆

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 十月の男女はみんな甘納豆

 河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

 十二月をどうするどうする甘納豆

 ここまで来ると無理矢理に詠んだとしか思えない。もっとも私なども期限に追われて大てい無理矢理詠んではいるが、ここまで遊んではいない、というか遊べない。一月から十二月まで追ってくると、時には人生を感じさせるような感覚もある。でも十二月を「どうするどうする」と言われると江戸時代の年末の掛取りのようで、年が越せるの越せないのという落語めいた世界に引きずられ、そうするとやっぱり一生ではなく一年かなと思う。

 その中で圧倒的に有名なのが三月である。暖かくなってきて思わず頬が緩んできたという感じか。思わず「うふふふふ」と含み笑いが出てしまうような気候である。これだけが有名なので、こうして通しで見ることは仲々ない。でもこれは同時に発表されたものの筈で、句集でもきちんと並んでいる。甘納豆を女の一生と読めば、十月・十一月以外は何となく分りそうな句になっている。

 何故十一月に河馬が出てくるのかと思っていたら、どうもこの人は河馬が好きらしい。句集の中に河馬がやたらと出てくる。

 正面に河馬の尻あり冬日和

 ぶつかって離れて河馬の十二月

 秋の夜の鞄は河馬になったまま

など数えればキリがない。「かばん」が「かば」になったまま、というのは「ん」が足りない、すなわち未完成なのか、それとも膨らんだまま置かれているのか、この辺にくると河馬には飽きてくる。

 ではこんな句ばかり詠んでいる人かというとそうではない。

 N夫人ふわりと夏の脚を組む

などは「ふわりと」なんてオノマトペを使ってあるから、どちらかというと気の利いた軽さを出していて、中間に位置しているかも知れないが、

 法隆寺までの緑雨を大股に

 夢殿を出てから一人青嵐

なんていう句もちゃんと詠んでいる。どんな順序で紹介しようか。「どうするどうする」というところで、一拍置いて次回とする。
-----------------------------------------------------------------------------
今日、四月十五日は妻・弥生の祥月命日である。
先年に七回忌を営んだのだが、ことしで丸11年が経過したことになる。
死なれたときには、どうなるかと思ったが、ようやく私も一人暮らしが板についてきたようである。
今日は私一人で妻を偲ぶことにする。
札幌に住む妹の克子さんから「生花」のお供えを贈っていただいた。仏前に供えて御礼申し上げる。

 海溝に盲(めし)ひたるごと喪の四月・・・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房


花の下黙し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る・・・・・米満英男
edo7-9_la矢羽根
 ↑ 矢羽根
米満歌集

      花の下黙(もだ)し仰げばこの世とは
         この束の間のかがよひに足る・・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男


私の私淑していた米満英男氏の『游以遊心』(短歌研究社2007年刊)という歌集に載る歌である。
これまでに『父の荒地・母の沿岸』 『花体論』 『遊神帖』 『遊歌之巻』とほぼ10年ごとに出されて、第五歌集となる。

はじめに、この「游」という日本では余り使わない字の解説をしておく。
「游」という字は①およぐ②あそぶ、と辞書には書かれている。
現代中国では、この字は「旅游公社」のように「遊ぶ」の意味の熟語として日常的に使用される。
日本で日常的に書くシンニュウの「遊」を使う代りである。「游」の字は、本来は「泳ぐ」意の原字である。
「游子」と言うと、李陵の詩にあるように「旅人」「旅客」を表す。また、たとえば北川省一『良寛游戯』という本の題名になったりしている。
この歌集の「あとがき」で作者は、次のように書く。

──しっかり詠み込もうとする限り、たとえばその<游(およ)ぎ>と<遊(あそ)び>との様子を、いかなる視軸からにせよ、確りと捉えて見詰め直し、その多様な<遊び様>を組み上げるしか、方途はなかなか見付けられないと感じました。──

arrow23a.jpg

   矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり・・・・・・・・・・・・米満英男

この歌集の中ほど103ページに、この歌をはじめとして「晩年の住処(すみか)」という8首の歌からなる一連がある。
煩をいとわず書き出してみる。

    晩年の住処

  矢羽根本黒(もとぐろ)つがへたるその標的に白桃ひとつふくらみてをり

  家族(うから)の匂ひ残る湯槽に浸りつつ何(いづ)れ何時しか皆(みんな)と別る

  日日(にちにち)の縞目のらくら掻い潜り生き来しからに心身斑(まだら)

  貌洗ひ洗ひ重ねし数忘れいつしか晩年の住処に至りぬ

  体内に在る水つねに出入りして時に冷たく時には温(ぬく)し

  眼鏡拭ふ合間にテレビの画面かはり些かは世間進みをりたり

  口中に温もる舌の嵩(かさ)張るを気にしつつ誦(とな)ふ般若心経

  地に敷ける花踏み散らし仄白(ほのじろ)く伸びゐる道を尽きるまでゆく

この「矢羽根」の歌を、簡単に素通りして貰いたくないのである。
この歌は「暗喩」メタファーになっている。読み解いてみよう。
「矢羽根」とはpenisの謂いである。その矢羽根の「本=もと」は「黒」ぐろとしている。つまり男の陰毛の喩である。
そして、つがえた矢の、かなたの標的には「白桃」ひとつふくらんでいる、という。
「白桃」とは「シンボル・イメージ辞典」にも明記されているように、女のふくよかな「臀部」=秘処を表す「約束事」になっているのである。


さりげない表現の体(てい)を採っていながら、作者の心の裡は、瑞々しい精気に満ちて心気隆々である。
今日のBLOG全体の掲出歌を「矢羽根本黒」にしたかったのだが、さすがに控えて「花の下」の無難な歌を選んだのだったが、この歌を含む一連も、この歌集の「巻頭」に載るものである。
書き出してみよう。折しも「落花しきり」の候である。

    桜花面妖

  花の下黙(もだ)し仰げばこの世とはこの束の間のかがよひに足る

  風のはこぶ淡くあやしき囁きを手繰り寄すれば花と逢ひたり

  孤立無援といふ語宜しも一本の桜が雨中にざぶざぶ禊ぐ

  むかし眺めしさくらけふ見るさくらばなそのあはひを繋ぎ来し花遍路

  やまとに生まれさくらに憑(つ)かれ過ぎて来し身を終へるなら桜樹(あうじゆ)の柩

  乳のしたたる如くに花の散り初めしその辺りいちめん胸処(むなど)匂へり

  姦淫の目もてさくらを見詰めゐし祟りか夜中にまなうら痒し

  いづこより生まれ来りてさて何処へ去るや今生の花を誘(いざな)ひ

  花の下より立ち去る際(きは)にうかつにもわが影を連れ出すを忘れぬ

  さくらさくら人に見らるる栄、辱を振り払ふごとただ散り急ぐ

  西行の背を見失ひはてと佇つ行方うすうす桜花(あうくわ)面妖

この一連も、さまざまの「喩」に満ちて楽しめるのであるが、6首目の歌の「喩」なども読み解いてほしい。
歌詠みの先達として「西行」が居るが、この一連の終わりには、しっかりと彼が詠み込まれている。

米満英男氏については前にも記事にしたことがあるので参照されたい。
以下、この歌集に載る私の好きな歌を引いて終わる。

  追ひ追ひて捕り得ざりしもの文芸と女心のその深き絖(ぬめ)

  しどろもどろと言ふ語を<源氏>に見出しぬ唯それのみにて本日愉(たの)し

  喜寿すでに過ぎしうつつに仰ぎ見る天空ならぬ地空の冥(くら)さ

  真夜の湯槽に沈めし肉の彩づけば過ぎ来し方は残夢ざぶざぶ

  湯を沸かす只それのみの間を見つめ現世(うつしよ)と呼ぶ卓に坐しをり

  不時の災ひ待ち侘ぶるごと曇天の下にて約束の女待つ間(ひま)

  何なすといふ訳もなくさし伸ぶる手の先にひとつ檸檬(れもん)の楕円

  共に棲むつれあいとはいへ飲食(おんじき)の好みの違へけふ芋と豚

  沐浴する女人の油絵ほのかなる脂(あぶら)のにほひを放つ 禍津日(まがつび)

  わが晩年もおほよそ挵(せせ)り了(を)へたりき去る卓上に魚骨残して

  妻とわれの覗けぬ狭間ひと瓶のワイン血溜りのさまに鎮もる

  箸洗ひまた汚しゆく反復の果つるときわが肉身は果つ

  歌侮りし頃もありたり紅葉の散り敷く前途遠く間近く

  氷見に喰らひし青鯖旨しせめて生き腐(ぐさ)れとならず遂げむ一生(ひとよ)を

  がばと飛びたる家鴨(あひる)それそれ彼奴(きやつ)でも飛びたいときはありませうな

  忘れ切つたる尾骶骨何となく痒き夜更けほろりと歌一首生む

  不意に鳴るこころの音叉一行の詩に封じ込めその音隠す

  雅兄(がけい)宛と記されし書簡受け我は何方(どなた)の雅(みやび)の兄たるか知らぬ

  一気呵成 すなはちこころ狩るに似て心神仄かに血の匂ひ充つ

そして、巻末の歌は

   一言一行 師匠無くはた弟子もなく歌を詠み来て半世紀過ぐ
-------------------------------------------------------------------------
米満氏は多芸の人で、この歌集のカバーの装丁も、ご自分でなさった。
その米満氏も2012年2月20日に亡くなられた。
彼の亡くなったときの記事も見てもらいたい。
ご冥福をお祈りする。

長年のうちに短くなりし分われらは食みしやこの擂粉木を ・・・・安立スハル
Suribachi_MortarPestle.jpg
 ↑ すり鉢と「すりこぎ」

      長年のうちに短くなりし分われらは
           食みしやこの擂粉木(すりこぎ)を ・・・・・・・・・・安立スハル


昨日、宮柊二を採り上げたついでに、私の先師・安立スハルを選んだ。
先生の名前は、スハルという特異なものだが、本名である。
お父上が日本画家であられたので、こういう命名になったらしい。
京都のお生まれだが、中年以降は岡山市に住いされた。
若い頃から結核で、結婚はされず独身。2006年に亡くなられた。
私は若い時から短詩形に親しんで来たが、現代詩の方にいたのだが、たまたま新聞歌壇に投稿したものが、採用され、短歌の道に入るようになった。
読売新聞(大阪)の夕刊の歌壇の選者を安立さんがしておられ、親しく選評に接するようになった。その縁で「コスモス」にも入会したものである。

昨日の宮の歌と、今日の安立さんの歌を比べてみると、「生れたければ生れてみよ」と「われらは食みしやこの擂粉木を」という発想に、私は師弟としての似通ったものを認めざるを得ない。一般の歌詠いの発想とは、一肌違った自在な詠いぶり、とも言えようか。
安立さんは、私に「歌というのは、こういう風に詠まなければならない、というようなことは、何もないのです」と、よく仰言った。私も勝手な人間なので、その言葉は身に沁みた。

そんな安立さんと、「コスモス」からの出発であったが、何しろ自作の歌が1首か2首しか載らない。
コスモスは大きな結社で掲載するスペースが限られているのだ。そんなことで、もっと歌を多く載せてくれる結社を求めて私は「未来」誌に移ることになる。
安立さんとは、師として以後も礼を尽して来たが、晩年はひどいヘルペスを病まれて結社とも音信を絶たれて私の方へも音沙汰もなかったが、先に書いたようにお亡くなりになった。
以下、少し歌を引いて終わりにしたい。
--------------------------------------------------------------------------

   一つ鉢に培へば咲く朝顔のはつきり白しわが座右の夏

   金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ

   自動扉と思ひてしづかに待つ我を押しのけし人が手もて開きつ

   家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす

   瓶にして今朝咲きいづる白梅の一りんの花一語のごとし

   青梅に蜜をそそぎて封じおく一事をもつてわが夏はじまる

   くちなはにくちなはいちご村の子に苗代苺赤らむ夏ぞ

   若さとは飢か四時間面(おもて)あげず列車に読みて降りゆきし人

   見たかりし山葵の花に見入りけりわが波羅葦僧(はらいそ)もここらあたりか

   島に生き島に死にたる人の墓遠目に花圃のごとく明るむ

   もの書くと重荷を提ぐと未だ吾にくひしばる歯のありてくひしばる

   今しがた小鳥の巣より拾ひ上げし卵のやうな一語なりしよ

   一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲みものを置く

   本といふ「期待」を買ひて歩みゆく街上はけふ涼しき風吹く

   有様(ありやう)は単純がよしきつぱりと九時に眠りて四時に目覚むる

   悲しみのかたわれとしもよろこびのひそかにありぬ朝の鵙鳴く

   大切なことと大切でないことをよりわけて生きん残年短し

   踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることをやつてゐるではないか



群れる蝌蚪の卵に春日さす生れたければ生れてみよ・・・・・宮柊二
img1035ヒキ卵

      群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす
           生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


宮柊二(みや・しゅうじ)は北原白秋の弟子であり、若い一時期、邸に住み込んで書生の仕事をしていた。
晩年のその頃、北原は短歌雑誌「多摩」を発行していて、その弟子には、その後独立した多くの有力な歌人がいる。
宮も昭和28年に短歌結社「コスモス」を創刊し、有力な結社の主宰者として短歌界に君臨した。

この句は昭和28年刊の歌集『日本挽歌』に載るもの。
季節的には、もうそろそろ蛙の卵も孵化する頃だと思うが、私のところのような田舎でも、なかなか蛙の卵を見つけるのは困難である。
それには理由がある。この辺の農家は兼業農家が多く、米を穫った後の裏作をしないので、田圃は水を張らないままで冬を過ごすので、蛙が卵を産む水がない。
蝌蚪とは「おたまじゃくし」のこと。
この歌の下の句の「生れたければ生れてみよ」という表現が独特である。
こういう発想をする人は多くはない。宮の主宰者としての気概が表れているとも言える。

私が短歌をやるようになるきっかけは、コスモス同人の安立スハルさんの縁であるが、入ってすぐ、
宮が「コスモス」創刊の時に高らかに謳いあげた「歌で生の証明をしたいと思います」という宣言文に感激したことを思い出す。
私が入会したのは平成になってからで、もう主宰者・宮氏は亡くなっておられた。

宮は戦争中は召集されて中国の山西省の前線に下士官として配属されていて、戦後『山西省』という歌集を出して、戦時を詠った歌を「現在形」で作って注目された。昭和61年没。
以下に歌を引用するが、その中には戦時の歌も含まれる。
------------------------------------------------------------------------
01Kaosyasinn,0宮柊二
 ↑ 宮柊二

   美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか

   接吻(くちづけ)をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり

   つき放れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり

   たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し

   おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ

   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   鞍傷に朝の青蝿(さばへ)を集(たか)らせて砲架の馬の口の青液(しる)

   ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ

   軍衣袴も銃(つつ)も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

   耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

   一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる

   疲れたるわれに囁く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

   英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ

   藤棚の茂りの下の小室にわれの孤りを許す世界あり

   音またく無くなりし夜を山鳩は何故寂しげに啼き出すのか

   老びとの増ゆといふなる人口におのれ混りて罪の如しも

   人生は十のうちなる九つが嘆きと言ひつ老いし陸游

   頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり

   中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ
------------------------------------------------------------------------
以下は、ネット上に載る「ヨッサン」こと吉田道昌の「宮柊二、一兵卒の歌──戦争を歌いつづけた歌人──その短歌集「山西省」という記事」である。

宮柊二(みやしゅうじ)の短歌集を本格的に読んだのは、中国に来てからだった。きっかけは彼の歌集「山西省」にある。
「山西省」はすぐれた戦争文学として評価されている。彼はどのように戦争を体験したのか、侵略をどのようにとらえていたのかを知りたいと思った。
大学図書館から歌集を借りてきて、読み通し、中国出発の日が近づいた今、これを書いている。

戦後の代表的歌人の一人であった宮柊二は、1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。戦場は中国山西省。
上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

 おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。召集令状がきたとき、師白秋は言った。

 白だすき一首したため戦ひに死ぬなと宣(の)らしき昭和十四年

白秋先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
軍隊という非情な目的集団に身をおいた柊二は、戦争のリアリズムを歌にしていく。柊二は、どのような兵士であったのか。

 しばし程汾河のほとりに下りゆく綿羊の群を目追い優しむ

 省境を幾たび越ゆる綿の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

 大陸を進軍する兵士たちの前に、羊を飼い、綿を作る中国の農民たちの暮らしがある。ツクツクボウシ蝉がここでも鳴いている。
平和な農村風景に心なごみ、優しくなる。

 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息つきて腹に笑いこみあぐ

安らぎと喜びをもたらす麦熟れる田園風景は、農民出身の兵士にとっては、ことに日本のふるさとを思い起こさずはいられない。
狂気の戦争心理のなかにあっても、たまさかに正常な感覚をよみがえらせることもあったのだろう。

 稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾に伝ふ

「水田がみえるぞ」というささやきが、隊列の前方から潮が押し寄せるように聞こえてきた。稲田を見たときの反射的な喜び。
それこそ人間の感情なのだが、戦争は非情に押しつぶしていく。
侵略軍の置かれている立場は、そこに生きてきた土地の民からの反撃に常にさらされねばならない。
生命みつる田園ではあるけれど、それをも戦場にしてしまう軍隊は、つねに死に直面している。

 五度六度つづけざま敵弾が岩うちしときわれが軽機関銃鳴りひそむ

 ひまもなく過ぎゆく弾丸のその或は身の廻にて草をつらぬく

 麻の葉に夜の雨降る山西の山ふかき村君が死にし村

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 あかつきの風白みくる丘陰に命絶えゆく友を囲みたり

 うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇(あ)ふ最後の雨か

戦友の死。自分もやがて死ぬことになるだろう。柊二が、戦場から師の白秋に出した手紙には次のような文がある。

「『面輪が変わる』といふ言葉がありますが、さうした戦闘の後ではお互いの顔を合わせてゐて、これは誰だったらうと思ひます程に――言い過ぎではありません――変わってしまひます。」

顔が別人になってしまう。それほどの精神的な重圧を兵士たちは受けている。
しかし、逃げるに逃げられない中国の農民たちは、泥靴で踏み込んできた征服者・日本軍の重圧を、日本兵以上に感じながら戦っていただろう。

柊二もまた、中国の兵士と遭遇し、ついに殺してしまう。事実のみを表現している次の歌に、柊二はどのような思いを秘めているのだろうか。
ここには武勲の意識を読み取ることはできない。戦いを余儀なくさせられたものの哀しみ、殺さざるをえなかった相手への哀惜を感じる。

 磧(かわら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す

何故に戦わねばならないのか。兵は、自分の意思も疑問も一切を押し殺して、戦闘マシーンになる。
自分の行為をリアルに描いているだけに、戦争の非人間性、むごたらしさ、無意味さが冷酷に表われてくる。

 俯伏して塹に果てしは衣に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵

 装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり

「西安洛陽の兵だ」と、塹壕に倒れている兵士の衣服から確認する。
装甲車に肉薄してくる兵の声のなかに中国の少年兵の声も聞き取った。
征服しようとするものを排除し祖国を守ろうとするものたち、柊二は、眼前に迫り来る人間をつぶさに感じ取る。

「戦争の悲惨は胸をついたが、また戦ふ兵隊に現れてくる人間といふものの深さ、立派さにも目を瞠った。それは敵味方に対して同じだった。わたしは心を引きしめて立派な兵隊でありたいと願ったり、事実戦ひのなかで、死ぬだろうと思ったりしてゐた。わたしを取り囲んだのは運命だったが、しかし、運命に易々と従ったといふだけの感じではない。」と、戦後柊二は書き、「戦争の本質を疑ひつつも、祖国を愛さねばならなかった混沌」のなか、「掬ひ取られる近さに死を置く兵隊」を、柊二は歌った。

戦争というものは敵をつくり、敵と戦う。だが、「敵」とはいったい何なのか。
「敵」の本質は何なのか。

 死にすれば安き生命と友は言ふわれもしか思ふ兵は安しも

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 ここで死んだらあまりに安い命ではないか。兵の命はあまりに安すぎる。そういう会話もなされていたのだ。
既に生きものの感じがしない小休止する兵たち。「聖戦」、「大東亜共栄圏」という欺瞞を、兵士たちは「皇軍」の実態のなかに見ている。
明治43年、潜航訓練中に遭難死した潜航艇員を悲しみ、与謝野寛はこう歌った、「老いたるは皆かしこかりこの国に身を殺す者すべて若人」。
兵として死んでいくものは、みんな若者たちだ。戦争を遂行し、命令するものたちは死ぬことはなかった。

 信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵

 一昨年戦ひ死にし白倉があはれ生きをりき夢なりしかば

 耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思い戦争と個人を思ひて眠らず

 汾河の源をさらに十里溯り蕭々たる林に戦ひ死ねり

 日本軍は山深く、大陸深く、戦線を広げ、被害はいっそうひどくなった。
勝ち目のない戦、死を覚悟する兵士たち。敵味方の区別もない悲惨よ。柊二は、中国兵の人間をもとらえる。
次から後の歌は、戦後1946年より1948年までに作られた。(歌集「小紺珠」)

 猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく

 日本軍は、食糧などを現地調達させた。猫も鼠も食べなければならない戦、それがいっそう現地農民からの奪略を生んだ。

 耒耜(らいし)をかつて創りしものの裔(すえ)便衣藍にして歯の清き兵 

耒耜は、鋤のこと。この人たちは、かつて鋤を創りだした農民の末裔なのだ。日常着の青い服を着て、白い歯が美しい中国兵だ。
この人たちの先祖の鋤が日本に伝わった。大地を耕し、土に生きてきた人たち、そういう人たちを支配することなどできるはずもない。狂気か。

 中国と日本をわれは知れるのみ苦しみて生きむ両民族か 

ほとんどの日本兵は日本から出たことはなく、中国は初めて見る外国であったが、両民族は遠い昔から近い存在であった。
侵略がなければ、このような苦しみもなかったはず。何故自分たちはここにいるのか?

 省境を秋越ゆるとき岩に読みき民族的生命在我們手中 

行軍中、岩に書かれていた文字を見る。「民族の生命は、我らの手中にあり。」 抗日軍には大義があった。侵略軍になんの大義があったか。
柊二は、そのことを感じていたのだろう。歌集「両民族」の歌は、1946年から1948年までに作られた。
戦後、柊二は日中戦争を思い出しては歌にしている。忘れようにも忘れることのできない戦争の悲惨。

 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側 

 新しい憲法が制定された。その第九条、戦争を放棄する、軍隊を保持せず。
それを何度も読む柊二の心に何があったろう。恐れとは何だろう。あの日中戦争を思うにつけ、ふるえる心。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたい射抜かれて死にたる彼 

 戦友の死が、つねに脳裏に浮かんで消えることがない。そして相手の中国人の死も消えることがない。

 銃殺台に上る半ばゆ降りて言ひし陳公博の言葉も悲しも

 日本軍によって銃殺される陳公博が、何を言ったのか。記憶から消すことのできない光景、そして罪。
1948年11月12日、極東軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下った。戦争を推進したもの、戦争責任者は絞首刑。天皇は免罪された。
その日、柊二のつくった歌。

 廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居たりし

 柊二は自己へ問いかける。原罪という罪はどんな罪だろう。(以下歌集「挽歌」)

 原罪といふはいかなる罪ならむまぼろしに鳴る鞭の音する

 柊二の聞くこの鞭の音は、戦争行為を犯してきた罪を問う鞭の音なのか、鞭うってきた戦争行為なのか。記憶ははっきりと罪をとらえているものだ。
「原罪」という言葉を見ると、ぼくは一人の教師を思い出す。高知の教師、竹本源治。彼の作った有名な詩は「戦死せる教え児よ」だった。
それはこのように始まる。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言訳が なんでできよう‥‥」。この詩が作られた1951年、日本教職員組合ははじめて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげた。学者、文化人は、平和の擁護は、五十万教師の良心と知性にかかっていると訴えた。

 「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。 柊二は声を上げて泣いたという。

戦争が終わり、復員した柊二の心のなかにも、未来へのかぐわしい希望がわき、そしてまた平和に対する認識が生まれてくる。

 たたかひを知りたるゆゑに待つ未来たとへば若草の香のごとく来よ

しかし、あれだけの惨禍をもたらした戦争であったのに、数年して世界の冷戦構造の中に組み込まれていく日本、またもや再軍備が頭をもたげる。

 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在なる平和はあらず

 日本の戦争責任を問い、戦争放棄の憲法をうみだしながら、アメリカは戦争への準備を進めていく。やがて朝鮮戦争の勃発。

 戦ひを経来しゆゑ知る悔しみ誰に告ぐべき暑き濁り河

 柊二は、この歌の詞書にこう書いている。「戦争を起こしてはならないといふ希ひをよそに、六月二十五日新しい動きが朝鮮に起こった。」

 公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうったふ

 柊二は、戦に死んでいったものを歌わねばならない。無為に人生をすてさせられたものの挽歌を。日本の挽歌を。

 若きらは国に殉(したが)ひつねにつねに痛ましかりき顧みざりき

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し

 まどろみの中に傷みて見てをり磧(かわら)に死骸の焼かれゆくさま

 過ぎこし四十年に何を得しやさまざまに動揺して生ききたるのみ

 弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しゃべ)らむ
--------------------------------------------------------------------------
↑ この記事は昭和25年に朝鮮戦争が勃発する直前に出された歌集『山西省』に寄せて、世界平和の立場から書かれている。
今しも、戦後生まれの世代の手によって憲法改正その他の企てが進められている機会に、先人たちの、こういう記事を載せるのも時宜を得ているかと思って転載してみた。
いかがだろうか。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
吉田

上に引用した「ヨッサンこと吉田道昌」氏の『架け橋をつくる日本語』─中国・武漢大学の学生たち─という本をネット上で取り寄せて読んだ。
吉田氏は1937年生まれの大阪の人で中学校教員をされていた。
のち日本語教師として武漢大学に赴任され、そのいきさつが、この本になっている。(2005年文芸社刊)
引用した宮柊二に関する記事は、この本の228ページから<宮柊二 一兵卒の歌集「山西省」>という項目で11ページにわたって要約されて載っている。

心あたたまる、いい本である。


「桜」の本いくつか・・・・・・・木村草弥
佐野

──新・読書ノート──

      「桜」の本いくつか・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「桜」の花が咲きみちる爛漫の春となった。 というより、もう散ってしまったか。
今年の冬は、とても寒かったが、桜の開花には、この厳しい寒さが必要なのだという。

今日は「桜」に関する本を採り上げる。
これは私の畏敬する「硯水亭歳時記」さんが、先日「桜」に関する本をたくさんブログにご紹介いただいた中から四冊買ってみたからである。
みなアマゾン扱いの中古品である。この頃のアマゾンの中古本も豊富になって、届けてあるクレジットカードで決済できるから便利である。
今回、買い求めたのは
  ■山田孝雄『櫻史』(講談社学術文庫1990/04/16第二刷)
  ■佐野藤右衛門・小田豊二聞き書き『桜よ』─「花見の作法」から「木のこころ」まで(集英社文庫2004/02/25)
  ■佐野藤右衛門『桜のいのち 庭のこころ』(草思社1998/04/24四刷)
  ■安藤潔『桜と日本人ノート』(文芸社2003/03/20第二刷)

桜史

国語学者である山田孝雄の本は昭和十六年に出たものの文庫化したものであり、文語調の難しい本である。読み方も「おうし」と訓む。
ご存じない人のために少し書いておくと、山田孝雄は明治六年(1873年)富山県生まれの人で東北大学教授などを歴任。専門は国語国文学。
いわゆる「山田文法」を体系化した人。 1957年文化勲章を受章。 1958年歿。
この本のカバー裏に編集者のつけた文章を画像にして出しておくので見てもらいたい。 ↓

うら_0001

ここに書かれているように上古から現代に至るまでの桜に関するもろもろを、厚みにして二センチはあろうかという労作である。
この本が出たのは昭和十六年であるから「ヤマトゴコロ」が最高に強調されたころである。
日本文化は世界の他のところとは違う独特なものである、とされた。
だが、実際には日本文化は中国の老荘思想などから多くのものを受け継いでいるし、日本宮廷の行事、作法なども中国歴代の宮廷のものを踏襲したものが多い。
例えば、芭蕉の思想なども老荘思想に多大の影響をうけている、との芭蕉研究者の比較研究の論考があるのである。
江戸時代は「近世」という時代分けをするが、私は必要があって近世初期の天皇のことを調べてみたので、よく判るが、その頃の宮廷行事は中国の行事そっくりである。
そういう比較研究は戦前には弾圧され、例えば福永光司先生の著述なども陽の目を見たのは敗戦後のことであった。
そんな天皇が尊敬する天子の理想像は、その頃の中国皇帝であったり、文物であったりするのであった。
日本文化の特異性をことさら強調するようになるのは明治維新以後のことであり、それは近代日本を作り上げるために東洋とは「隔て」を置くために「牽強付会」したものと見える。
国粋主義、廃仏毀釈、「神ながらの道」など明治以後の「国家神道」は排外主義となって国を敗戦に導いた。このことに留意したい。
山田孝雄が、そういう思想だという意味ではない。 誤解のないように。
とにかく難しい本である。学者の書く本である。学術的。 詳しくは書かないが、興味のある方はトライされたい。 けだし、そういうことである。

桜よ

佐野藤右衛門の本を二冊あげたが、いずれも彼が話したものを「聞き書き」したもので、「会話体」である。判りやすい。
典型的な京都弁であり、私などには地元の語り口だから読みやすいが、他の土地の人には果たして、どうか。
『桜のいのち 庭のこころ』から一部をスキャナで取り込んでみた。 こんな具合である。 ↓

接ぎ木は夫婦で
接ぎ木は嫁さんと一緒にするんです。おじいさんもおばあさんとやりましたし、親
父もおふくろとやりました。わしもかかとやっています。これもまたその家のという
か、植木屋へ嫁にきたもののひとつの教育みたいなものなんですな。
細こう切ってある枝を台木に接ぐんですが、台木の皮を削いで、接ぎ木の皮も削い
で、形成層の合うところをうまく入れていくんです。その後で、嫁さんが打ち藁で縛
っていくんですわ。
いかに女が上手に締めるか、きつくもなく緩くもなく、 それが実にむずかしいんで
す。共同で、息を合わせなならんのですが、そういう夫婦間の一体的な行動というの
か、そういうものの教えにもなるわけなんですわ。
おじい、おばあが接ぎ木の作業をやっていますわな。私は子供でしたから、接ぎ木
をしとるところにゴザを敷いてもろうて一日遊んでおりますやろ。
でも嫁というか、私の母親はこんなのを見るのは初めてです。まだ若妻ですわな。
それが弁当を持って来たときに、草を引いたりしながら、ついでにおじいやおばあの
やることを見るとはなしに見てますわな。そうして、自分が直接やらんでも、見てい
るうちに仕事に慣れていきますわ。
そして、こんどは接ぎ穂を縛る蓁を打っておいてくれよといわれたら、家でやりま
すわな。そのときでも、打ちすぎてもあかんし、打ってなかったら藁はボリッと折れ
ますやろ。打ち方にもはじめは緩く、だんだんきつくとか、リズムがありますわな。
ただ打ったんではあかんのやから。それで口に水を含んで藁をまわしながら霧を吹き
かけますわな。それらはすべて機械とちごうて、手加減でやっていく仕事です。こう
いう作業を手伝いながら、こつを覚えていくんです。
嫁に来て、すぐに一緒に働きに出るわけではないんですわ。徐々に徐々に、もうほ
んまにちょっと手伝うとか、弁当を運んでいるときにするとか、切った木を持つて帰
つて夜の間に選り分けるとか、何かに少しずつかかわるんですな。それを自然に身体
で覚えていくんです。頭で覚えたことはみな忘れますからね。
初めは外から見るだけですわな。それで、どういうことから始めるのかということ
がわかりますやろ。今のように、あれはああです、これはこうです、こうしなさいで
はあきませんわ。手とり足とり教えてもほんまには覚えませんわ。そういうふうに見
たあとで、こんどは実際にやりながら覚えていくんです。おじいとおばあがやってい
たことを、親父とおふくろがやっていくようになるんです。接ぎ木は、やっぱり夫婦
でするのが楽ですわな。何もいわんでも、「こうせい」というたら、「へい」というよ
りしゃあない。
今はわしが十二センチぐらいの間隔で順番に接いでいくと、かかが後ろから、クリ
クリクリッと巻いてはビューッと藁を伸ばして、切らずにつぎの木をくくつていくん
です。ですから藁はつながっていくんですわ。そうやってつぎつぎとくくって結ばん
でもええのやけど、最後だけはギュッと締めますわな。
この作業をするのは、雨の心配のないときですわ。雨が降ってきたら、すぐに傘を
さしたりしますわな。水が入ってしまうと、形成層がひつつくまでにパッと口があき
よるから。水が入らないように傘がいるんですわ。それからあまりきつく締めてしま
うと、これまたひっつきませんのやわ。両方が脹れようとする力によってひっつきよ
るのやからね。学問的には形成層さえあればひっつきよるというけど、実際には接ぎ
穂と台木の締めぐあいですわ。
だいたい一日仕事でやりますのや。それで、乾きそうになったら、そこに土をすぐ
にかけていくんです。本数はそのときによって、みな違いますけど、千本まではいき
ませんな。
今はビニールでやるものやからみんなだめになるんですわ。ビニールでくくったら、
ひっつくのはよろしいわ。けどそれが腐りませんのや。それで木が脹れたときに木に
食い込んでしもうて、しまいにはポキッと折れよる。
藁だとちょうどついたときに、その藁が腐っとる。だから藁とか荒縄というのは、
うまいことできているんですわ。それなのに街路樹の支柱を見たってややこしいもん
でくくってありますやろ。そやから肥ったときにみんな傷んでますわな。昔の材料は
みな、木が必要でなくなるときには、そのものが腐るようになっておったんです。

桜切るバ力、梅切らぬアホ
大きな桜を新しく植えるときには、まず土を見ますわな。土を見んことには植えら
れへんから。育ってきたところと、違うかどうか、その土が合うか合わんかを見極め
て、悪かったら土を入れ替えてもらう。そして、植えて、立てますわね。立てて土を
かけたときに、なんやおかしいなと思うときがあるんです。どうかなあと思うときも
あるし、もう大丈夫というときもある。大丈夫やというときにはじめて、地の神と天
の神とに感謝して、酒をかけて、幹の高いところにスルメを結わいつけておくんです
わ。スルメは神事や祝い事で必ず使いますやろ。昔からそういうもんですわな。祭り
はみなスルメですわ。そのとき「ごくろうさん」と一升瓶の酒をかけてやりますな。
それで、わしらは.自然界のもろもろの神に感謝して、最後に「たのんます」というて
帰りますのや。
-----------------------------------------------------------------------
佐野藤右衛門には一度講演会で話を聞いたことがある。
この本には彼の写真が載っているが、「植木屋」と言ってはばからない。「野人」そのままのような人である。
十六代佐野藤右衛門を襲名しているが昭和三年(1928年)生まれ。京都農林学校卒。祖父の代からの「桜守」を継ぐ。
京都市右京区山越というところで、土地は昔から仁和寺の寺領だったところで、数代まえから仁和寺出入りの百姓で次第に植木の世話をする植木屋となり、庭師となって行ったという。
屋敷には庭木を囲っておく広い養生用の畑があり、そこにたくさんの桜などの苗木を囲ってある。
彼の朝一番の日課は、起きたら畑に出て庭木の機嫌を伺い、弱っている木には小便をかけておくのだという。
一種のショック療法というか、栄養補給だと彼は言う。
豪放磊落に見えて「下戸」であり、甘いものに目がないという。
この本にも書かれているが、イサム・ノグチと一緒に海外で日本庭園を作ったりした。
本願寺の庭園を引き受けたりしているが、これらも仁和寺とのゆかりからの延長だという。
商売がら庭木を囲っておく広い畑が必要だが、都市化の波で自分が死んだら相続税でガッポリ取られ、商売が続けられるかどうか心もとないと書かれている。
京都御苑内に海外の賓客などを迎える迎賓館が建てられ、その庭園も彼が引き受けたが、宮内庁の役人の素人のくせに干渉がひどいと、
「さぁ、休みや休みや」と職人を引き揚げさせたなどのエピソードも彼の口から聴いたことがある。

佐野藤右衛門の本は、読みかけると面白くて、止められない。 ぜひ読んでみてほしい。

安藤

安藤潔は1937年会津若松市生まれ。新潟大学教育学部卒。公立中学、高校の教諭を二十八年。日本随筆家協会会員。
エッセイ、地元の方言にまつわる本など数冊。
この本には
一、「サクラ」とは何か・・・・・・・「サクラ」の語源、漢字「櫻」、「サクラ」の植物学、「サクラ」の品種一覧
二、古代の「桜」・・・・・・・・・・古代の桜と梅と桃と。「左近の桜」
三、「桜」に魅せられて・・・・・・・西行法師と桜、醍醐の花見
四、「桜」の民俗・・・・・・・・鎮花祭。天然記念物になった桜。
五、お江戸の「桜」
六、「さくら」とことば
七、「桜」を象る
八、「サクラ」の名を借りて・・・・・・・・サクランボ。
九、暮らしの中の「さくら」
全国桜名所

漢字「櫻」はいわゆるサクラではなく「ユスラウメ」のことだという。白川静『字統』には「含桃也」として中国の詩文に見える「櫻花」「櫻樹」は全てユスラウメを指す、という。
このように資料を漁って、よく書かれているが総花的な印象を拭えない。
-------------------------------------------------------------------------
佐野藤右衛門の本によると、サクラの先祖はヒマラヤサクラ辺りに辿りつくらしい。
それが中国には根付かず、種が鳥に食べられて日本に運ばれて「糞」と一緒に排出され、日本の地に根付いたものかという。

「桜」の木についても、今はソメイヨシノ一色であるのに批判的である。
ソメイヨシノは東京近郊の染井村で生まれた、オオシマザクラとエドヒガンザクラとの自然交配による雑種であり、しかも種の成らない「一代雑種」である。
だから苗は「接ぎ木」で育てられるのみである。今風に言えば「クローン」である。
あらゆる生き物には「寿命」があるから、クローンは「親」の残した寿命の「残り」しか生きられない。
ソメイヨシノは育種されてから、まだ150年しか経っていないが、寿命は短く、弱ってきている。
ただ、この桜は「活着率」が良いので重宝されてソメイヨシノ一色になってしまった、と嘆いている。
古いソメイヨシノの木で残っているのは、日露戦争の戦勝記念というのが一番多い。明治39年(1906年)頃である。
関西で多いのは昭和11年。というのは昭和9年に室戸台風と大水害があって、その復旧の後に植えた。
それから昭和15年(1940年)は紀元二千六百年記念に植えたのが、いま残っている古いソメイヨシノという。
それにサクラは日本軍隊とともに歩んできたので殆どの聯隊のあとにはサクラがある、という。
それでも名を残してゆくのは、やはりヒガンザクラかヤマザクラだという。
ヒガンザクラは枝垂れるから、どちらかというと女性的。ヤマザクラは幹もしっかりしているから男性的。

もっともっと佐野藤右衛門の本などに深入りしたいが、この辺で終わりにしたい。


チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・木村草弥
160426garden_tulip.jpg
mukannouma (2)

      チューリップはらりと散りし一片に
          ゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌はの私第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA 2015/04/25刊)に載るものである。
原文は角川書店「短歌」誌平成24年6月号に発表したものが初出となっている。
雑誌に発表したものは12首だが、歌集に載せる際に2首を習作帖から抜いて付け加えている。
その部分を、ここに引いておく。 ↓

        ゴッホの耳    
         
  白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに咲(わら)ふ

  一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

  三椏(みつまた)の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

  沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

  誰に逢はむ思ひにあらず近寄ればミモザの花の黄が初々し

  生憎の雨といふまじ山吹の花の散り敷く狭庭また佳し

  白もくれん手燭のごとく延べし枝(え)の空に鼓動のあるがに揺るる

  松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ──さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

  ひと冬の眠りから覚めたか剪定した葡萄の樹液したたり止まぬ

  天上天下唯我独尊お釈迦様に甘茶をかける花祭 ひとすぢに生きたい
    
  チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ

  <チューリップの花には侏儒が棲む> といふ人あり花にうかぶ宙(そら)あり

  ブルーベリージャムを塗りゆく朝の卓ワン・バイ・ワンとエンヤの楽響(な)る

  千年(ミレニアム)きざみに数ふる西洋か 日本は百年に戦さ五度(いつつたび)





春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・日野草城
1349日野草城句碑 服部緑地
soujou1句碑接写

      春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

春の夜明け──人々の深い眠りにしみ入るように春の雨が木々に柔かく降り注ぐ。
音もなく降る雨、黙然と立つ木々。人々の眠りは大気の気配に包まれながら、しかも、それを知らない。
早熟の才を謳われた草城だが、この句も第三高等学校時代の青年期の作。若い瑞々しさがあふれている。
当時から熱心に学んでいたという古典和歌への好みは「人こそ知らね」という古雅な表現にも見られるが、それよりも、こういう古典的な味わいをさらっと利用して、
若々しい心象を一層鮮明に見せているところが才能である。
「木々」は最初は「樹々」だったが、のちに改めた。字の重々しさを避けたのだろう。昭和2年刊『花氷』所載。

以下、草城の句を少し引いておく。

 春の夜のわれをよろこび歩きけり

 研ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり

 丸善を出て暮れにけり春の泥

 春の夜や都踊はよういやさ

 庖丁の含む殺気や桜鯛

 朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着

 翩翻と羅(うすもの)を解く月の前

 くちびるに触れてつぶらやさくらんぼ

 秋の蚊のほのかに見えてなきにけり

 足のうら二つそろへて昼寝かな

 しづけさのきはまれば鳴く法師蝉

 二上山(ふたかみ)は天(そら)の眉かもしぐれけり

 白魚のかぼそきいのちをはりぬる

 山茶花やいくさに破れたる国の

 きさらぎの溲瓶つめたく病みにけり

 かたはらに鹿の来てゐるわらび餅

 片恋やひとこゑもらす夜の蝉

 切干やいのちの限り妻の恩

 われ咳す故に我あり夜半の雪

 生きるとは死なぬことにてつゆけしや

 右眼には見えざる妻を左眼にて

 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 こほろぎや右の肺葉穴だらけ

三句目の「丸善」は今では無くなったが、京都では昔から洋書の原書を注文しにゆく本屋だった。全国にある。
「われ咳すーーー」の句はデカルトの有名な台詞「コギト・エルゴ・スム」(われ考える故に我あり)のもじりである。
私も、第二歌集『嘉木』でこれを頂いて一首ものにしたことがある。それは

<汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ・・・・・・・木村草弥

という歌である。

終わりの方の三句は、右目が見えなかったこと、肺が侵されていたこと、が判る。最晩年の句である。
------------------------------------------------------------------------
彼については何度も書いたがネット上に載る記事を引いておく。

日野草城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日野草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日~ 1956年(昭和31年)1月29日)は日本の俳人。本名は日野克修(よしのぶ)。

略歴
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。

京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。

1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。

1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。

戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。

1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

評価
モダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」(復本一郎)と高く評価される。

晩年は病床にあって「深沈とした秀句」を残した。「前半(のモダニズム)とは別種の静謐(せいひつ)な句境を開拓するにいたった」(復本一郎『現代俳句大事典』)。

作品
 春暁やひとこそ知らね木々の雨
 松風に誘はれて鳴く一つ
 秋の道日かげに入りて日に出でて
 荒草の今は枯れつつ安らかに
 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

句集
草城句集「花氷」(1927年)
青芝(1932年)
昨日の花(1935年)
轉轍手(1938年)
旦暮(1949年)
即離集
人生の午後(1953年)
銀(1956年)
など

著書
新航路
展望車
微風の旗
------------------------------------------------------------------------
掲出写真は大阪の服部緑地に建つ彼の句碑である。二番目は接写したもの。
ネット上からの転載である。

場所:大阪府豊中市服部緑地の
 広大な公園の円形花壇の北側にある、
 エスメラルダというレストランの裏手
情報提供者:伸さん

春暁やひとこそしらね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蝉一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

画像のように、春夏秋冬と無季の作品が五句ならんでいます。日野草城は当初は「ホトトギス」の同人で、俳誌「青玄」の主宰者でした。
昭和の初期に自己の初夜を詠った「ミヤコホテル」で、当時の俳壇にセンセーションをおこしました。

句碑の左側の赤い石の文字は「俳句は東洋の真珠である」という草城作の造語です。
------------------------------------------------------------------------
句碑の石の色が三色になっているのはフランス国旗に因むのか。

上のWikipediaの記事の中に書かれている「ミヤコホテル」の一連を引いておく。

「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり




浅井和代「まだみつからない」12首・・・・・木村草弥
たかまる_NEW

──新・読書ノート──

     浅井和代「まだみつからない」12首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・藤原光顕・編集「たかまる通信」106号2017.4.1.所載・・・・・・

        まだみつからない      浅井和代

  私に逢うと哀しくなる そう言ってあなたはまた逢いに来る
  ふたりでいると子供みたいな人ポケットのゴミまでサラケ出してしまう
  やさしすぎるといわれた日は遠く掌にかくれる傷あと
  恋愛と結婚のちがい漸くわかりじゃがいもの皮いつもより厚くむく
  窓から青いセーターの腕を伸ばし風を掴まえそうな三月
  アネマネの花びら風に揺れて女である喜びふくらんでくる
  オレンジの種ナイフに突き刺さりまたひとり友が母となる夏
  秋の陽射しの電車に揺られて美しい嘘をさがしに出かける
  あわてる兎をみつけられない八月喫茶「アリス」の前にマンホール
  誰かがきっと嘘をつく金曜日都会(まち)で透明な地球儀が売れる
  恍惚とひげを剃る男が戦争という厄介を思いつく
  いつかふたりになるためのひとりやがてひとりになるためのふたり     (「新短歌選集」「年刊新短歌」より)
------------------------------------------------------------------------------
敬愛する藤原光顕氏から「たかまる通信」106号が送られてきた。
藤原氏の新作は、ご自身の闘病のことが綴られているが、生々しいので詩作品としては、いかが、と思い、この作品群を載せる。
この作品の右上には<SHINTANKA 1988~ CHRONICLE >の表記があり、「過去記事」の再録と知れるが、佳い歌だと思って頂いた。 ご了承を得たい。
この一連は、今よく見られる事実をズラズラと連ねただけの歌ではなく、一時期の「新短歌」のようにエスプリが効いて素敵だ。
戦前の一時期の宮崎信義のモダニズムの作品のように心地よい。これぞ詩だと思う。 「寓意的」でもあり秀逸。
「アネモネ」のことを「アネマネ」と表記するなども時代を感じさせる。

ご恵贈ありがとうございました。 
(お断わり) いつもは「藤原光顕の歌」というジャンル分けで載せているが、今回は藤原作品ではないので「新・読書ノート」のジャンルにした。ご了承を。


  
海女とても陸こそよけれ桃の花・・・・・高浜虚子
ama_p_1.jpg
110731_01.jpg

       海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

この句には <4月8日。志摩外海に海女の作業を見る> の前書きがある。
だから本日4月8日の日付にこだわってアップした。昭和23年の作品である。

海女の素もぐりの作業というのは過酷なもので、体は冷えるし、海女小屋で焚き火をして暖めるなどの休息が必要である。
虚子は、そういう労働を目の前に見て、「海女にもやはり陸がいいのだろうな」という感慨を抱いたのであろう。
この句は昭和23年の作品というと、その頃は、まだ海女の衣装は伝統的な白い木綿の磯着だったろう。
今では画像②のように海女もウエットスーツ着用である。
後日この旅の先導役を務めた橋本鶏二の話によると、「ホトトギス」では多作で鳴る鶏二が舌をまくほど、虚子は句帖を開きづめであり、
さすがの鶏二も、その気迫に圧倒される思いだったという。この年、虚子は75歳であった。

「ホトトギス」というと、短歌における「アララギ」と同様に、俳句界を一世を風靡して、いわば肩で風を切るような威張り方であったようである。
短歌界では先年、「アララギ」が解散して、昔の威勢もどこへやら、という昨今であるが、俳句界でも新興の前衛俳句などが出現して、今や様変わりの様相であるように見える。
一方で、老年者の増加で「俳句でも」という「でも俳人」が増え、それらの人々は概して「ホトトギス」的な写生句を作りがちであるから、「ホトトギス」も暫くは安泰であろうか。
私は、どちらかというと、「ホトトギス」的な写生句は好きではない。
私は現代詩から短詩形に接近したので、「詩」のない作品は評価しない。それは写生、非写生の如何を問わず、である。
以下、虚子の作品を少し引いて終わりにしたい。

 その中にちいさき神や壺すみれ

 永き日を君あくびでもしてゐるか──古白1周忌──

 子規逝くや十七日の月明に

 三つ食へば葉三片や桜餅

 村の名も法隆寺なり麦を蒔く

 秋空を二つに断てり椎大樹

 大寺を包みてわめく木の芽かな

 葡萄の種吐き出して事を決しけり

 木曽川の今こそ光れ渡り鳥

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る

 手をこぼれて土に達するまでの種

 目さむれば貴船の芒生けてありぬ

 たとふれば独楽のはじける如くなり

 水打てば夏蝶そこに生れけり

 虹消えて忽ち君の無き如し──三国の愛子に──

 蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな

 独り句の推敲をして遅き日を


妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・中村草田男
130460716419116430335_kusatao1.jpg
 ↑ 句集「長子」と「萬緑」
007_20111024.jpg
↑ 愛知県碧南市にある佐藤忠良の作品

      妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は第二句集『火の鳥』(昭和14年刊)に載るもので、まだ作者が若い頃の作品だが、一種の「鬼気迫る」雰囲気の句であり、
私は、この句に出会ってから忘れ得ない作品である。
出張か何かで、しばらく家を空けていたのであろうか、初句に「妻抱かな」という強烈な欲情の表出があって、中7が「春昼」である。
春の昼日中に妻を抱きたい、という直情的な表現には驚かされる。
「砂利踏みて」という表現が、また秀逸である。砂利というのは、ご存じの通り、ざくざくという音を発する。
妻抱かな、という欲情が、砂利のざくざくという音によって一種の「後ろめたさ」みたいなものを感じさせて文字通り「鬼気迫る」感じを読者に与えるのである。

この句には、後日談がある。
この句に触発された加藤楸邨が、私なら、こう作ると改作したのが、<妻抱かな春昼の闇飛びて帰る>という句である。
この句は、さすがに楸邨も気がとがめたのか、自選句などの中には入っていない。
私は、この改作を「寒雷」の誌上で20歳になるかならない頃に読んで記憶しているのである。
その頃、私は楸邨が好きだったので、楸邨の改作句の方が、より鬼気迫るものがある、と思い込んでいたが、今では草田男の原句の方も悪くない、と思うようになった。
楸邨は、欲情を抱いて「妻抱かな」と帰ってゆくのだから、その「春昼」を「闇」として把握して改作した訳であり、それはそれで見事な「鬼気」の表現だと思う。

ここらで中村草田男の句を抜き出してみたい。

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかに女知らず

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 父母未生以前とは祖国寒満月

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」

 生れて十日生命が赤し風がまぶし

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 菜の花個日和母居しことが母の恩

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別──

 勿忘草日本の恋は黙つて死ぬ

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

「万緑」という季語は草田男が中国の古詩からヒントを得て創作したものとして有名だが、虚子は、それを死ぬまで認めなかった、と言われているのも、両者の確執として有名な話である。
------------------------------------------------------------------------
2010-01-23b.jpg
 ↑ 有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」句碑

彼については何度も書いたが、簡単な略歴を引いておく。

中村草田男年譜

明治34(1901)年7月24日
 父の任地清国(現中国)福建省厦門の日本領事館で生まれる。 本籍は松山市二番町。本名は清一郎。
明治37(1904)年 母と帰国し、伊予郡松前町に住む。
明治39(1906)年 松山市に転居。
大正3(1914)年 松山中学校(現松山東高等学校)に入学し、伊丹万作らの同人誌に加わる。
大正10(1921)年 松山中学校卒業。松山高等学校(現愛媛大学)入試に失敗。
 西欧文学を読みふける。
大正14(1925)年 東京帝国大学文学部独逸文学科(現東京大学)に入学し、後に国文科に移る。
昭和4(1929)年 高浜虚子を訪ね師事し、『ホトトギス』と『東大俳句』に入会。
昭和8(1933)年 東京帝国大学国文科を卒業し、成蹊学園に就職。
昭和10(1936)年 第一句集『長子』、沙羅書店。
昭和14(1939)年 句集『火の鳥』、龍星閤、553句収録。石田波郷・篠原梵・加藤楸邨らと座談会に参加し、一時人間探求派とよばれるようになる。
昭和21(1946)年 句集『萬緑』1941年、甲鳥書林。
昭和21(1946)年 月刊俳誌『萬緑』創刊。
昭和22(1947)年 『来し方行方』、自文堂。
昭和28(1953)年 句集『銀河依然』、みすず書房。8月、亡母の納骨のため帰郷。
昭和31(1959)年 『母郷行』、みすず書房。
昭和34(1959)年 石田波郷・星野立子とともに「朝日俳壇」選者となる。
昭和35(1960)年 現代俳句協会幹事長となる。
昭和36(1961)年 現代俳句協会幹事長をやめ、俳人協会を創立、会長となる。
昭和42(1967)年 『美田』、みすず書房。
昭和45(1970)年 万国博覧会のタイムカプセル収納品に句集『長子』が選ばれる。
昭和55(1980)年 『時機』1980年、みすず書房。
昭和58(1983)年 8月5日 82歳で永眠。
-----------------------------------------------------------------------
掲出した佐藤忠良の像は、この句とは関係がないが、「抱く」ということからの連想で出しておく。




白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ・・・・・・若山牧水
DPP_0016.jpg
300a.jpg

      白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青
         海のあをにも染まずただよふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


明治41年、早稲田大学英文科卒業の年に自費出版した第一歌集『海の声』に入っている有名な歌である。
「白鳥」はここではカモメのこと。空や海の青に鳥の白を対比させて、広大な自然の中に生きる海鳥の、また作者自身の孤愁を詠っている。
「空の青海のあを」という繰り返しが、表現の流れの中で、見事に生かされて感情を流露させている。
この歌は明治40年雑誌『新声』12月号に発表されたもので、牧水21歳の作。
しかし、残念ながら、詠まれた場所は、どこか判らない。
593b7a36a3ebd64f022b2bb327c64da1長岡半太郎・牧水記念館
 ↑ 長岡半太郎・若山牧水記念館

大正4年3月から翌年12月まで貴志子夫人の病気療養を兼ねて若山牧水も居住したことを記念し、房総半島を望む神奈川県横須賀市長沢の海岸に昭和28年に、
「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」が建てられた。
ここはわが国の物理学の草分け・長岡半太郎博士が長年学問研究や憩いの場としていた別邸を復元した建物で博士の遺品・資料と共に、
近くに住み博士とも親交のあった詩人 若山牧水氏の関連資料などを展示している。

65cddca9c2a8cd0fff0462f24848cf6e牧水・貴志子歌碑
 ↑ 牧水・貴志子歌碑
記念館の近くにある歌碑は、表は牧水、裏は貴志子夫人の歌が長男旅人氏の筆で刻まれている。

   表<海越えて 鋸山は かすめども 此処の長浜 浪立ちやまず>
   裏<うちけぶり 鋸山も 浮び来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する>
       (「鋸山」=対岸にある房総の山の名)

この歌碑のすぐ傍に、こちらは有志者の寄付により建立された
   <しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ>の歌碑が立っている。
----------------------------------------------------------------------------
若山牧水は短歌結社「創作」を主宰するが、「旅の人、酒好きの人」として有名である。
各地を旅行し、酒のもてなしに預かると、酒の勢いもあって、書画を多く残している。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

という歌は人口に膾炙した有名な歌である。
以下、少し牧水の歌を抜粋して終わることにする。

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま

 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな

 とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶(へい)あふれ出る

 朝地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山白きやまさくらばな

 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

 この手紙赤き切手をはるさへにこころときめく哀しきゆふべ

 たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る

 摘草のにほひ残れるゆびさきをあらひて居れば野に月の出づ

 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺(あたり)は洞(ほらあな)のやうに暗い

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

 ウヰスキイに煮湯そぞげば匂ひ立つ白けて寒き朝の灯かげに

 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

-------------------------------------------------------------------------
ところどころに、医師から酒を慎むように言われる歌や、酒飲みのいじましい心境の歌なども出てくる。結局は酒で命を縮めたのであろうか。昭和3年没。44歳であった。
----------------------------------------------------------------------------
imagesCAGYKR87.jpg

ネット上に載る記事を転載しておく。

若山牧水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若山 牧水(わかやま ぼくすい、 明治18年(1885年)8月24日~ 昭和3年(1928年)9月17日)は、日本の歌人。本名・繁(しげる)。

略歴
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。

明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させる。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。

旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死因の大きな要因となったのは肝硬変である。自然を愛し特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

また、情熱的な恋をしたことでも知られており喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、平成8年(1996年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した功績を挙げた者に対し「若山牧水賞」を授与している。

牧水は埼玉県秩父地方を数度訪れて歌と紀行文を残している。秩父市の羊山公園には「牧水の滝」と名づけられた滝があり、そこには

「秩父町出はづれ来れば機をりのうたごゑつゞく古りし家竝に」

という秩父の春を歌った碑がある。

歌集
海の声
独り歌へる
別離
路上
死か芸術か
みなかみ
山桜の歌
など



清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき・・・・・与謝野晶子
entry_24しだれ桜円山公園

      清水へ祇園をよぎる桜月夜
          こよひ逢ふ人みなうつくしき・・・・・・・・・・・・・・・・・与謝野晶子


この歌は晶子の歌の中でも人口に膾炙した有名な歌である。
京都の地を知っている人ならば、清水、祇園という地名が持つ「喚起力」というものを高く評価する筈である。
そこへ「桜月夜」である。舞台設定は益々的確である。
その上に「こよひ逢ふ人みなうつくしき」と追い討ちをかける。
何とも見事な歌作りであろうか。
晶子の歌の中から「春」を詠んだ歌を少し引いておく。

 経はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ

 絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき

 春三月柱(ぢ)おかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪

 ひとつ篋にひひなをさめて蓋とぢて何となき息桃にはばかる

 わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲のちぎれ

 夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘

 下京や紅屋が門をくぐりたる男かはゆし春の夜の月

 春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ

 春ゆふべそぼふる雨の大原や花に狐の睡(ぬ)る寂光院

 川ひとすぢ菜たね十里の宵月夜母がうまれし国美くしむ

 春の雨高野の山におん児(ちご)の得度の日かや鐘おほく鳴る

 わが肩に春の世界のもの一つくづれ来しやと御手を思ひし

 羽じろの桜の童子ねぶりたり春の御国のあけぼののさま

 住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路

 ゆく春や高燈台のむらさきの灯(ほ)かげの海に細き雨ふる

 木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな

-------------------------------------------------------------------------
201102_28_38_a0029238_3414922晶子歌碑 八坂神社
 ↑ 八坂神社境内にある掲出歌の歌碑

目につくままに、春にまつわる晶子の歌をアトランダムに抽出してみた。まだまだ、いくらでも出てくる。
やはり与謝野晶子と言えば、歌の天才である。余計な経歴など不要である。
ゆっくりと、鑑賞してもらいたい。
--------------------------------------------------------------------------
imagesCA9ESQT1.jpg

以下、ネット上に載る記事を転載しておく。

与謝野晶子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝野 晶子(よさの あきこ、與謝野晶子、1878年12月7日 ~ 1942年5月29日)は明治時代から昭和時代にかけて活躍した大阪・堺市堺区出身の歌人、作家、思想家。旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は志よう。ペンネームの「晶」は「志よう(しょう)」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。なお、戦後の漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により、「与謝野晶子」と表記される。

経歴
大阪府堺市(現在の堺市堺区)甲斐町の生まれ。堺の老舗(しにせ)和菓子(羊羹)屋「駿河屋」の父・鳳宗七、母・津祢の3女である。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また、当時は兄の影響で尾崎紅葉、幸田露伴や樋口一葉の小説も読むようになった。

20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年に歌人・与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに与謝野鉄幹と結婚。

1904年9月、『君死にたまふ(う)ことなかれ』を『明星』に発表。1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。

子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。墓は多磨霊園にある(外部へのリンク参照)。

与謝野という姓は、京都府北部の与謝郡与謝野町に由来がある。

通産大臣や国務大臣(金融・経済財政担当)、自民党政調会長を務めた自民党衆議院議員の与謝野馨は、孫にあたる(東京1区)。

作家・歌人
「情熱的な作品が多い」と評される歌集『みだれ髪』(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。

歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。

1904年9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまうことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。日露戦争当時は「満州事変」後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らの戦争を嘆く詩を垣間見ることができ、晶子の詩がそれほど特異だったわけでもない。

大町桂月は「太陽」誌上で論文「詩歌の骨髄」を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、大正14年6月11日、桂月は57歳で病没するが「横浜貿易新報(現・神奈川新聞)」に晶子は追憶をよせた。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」というイメージが強いが、第一次大戦の折は「戦争」という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて好戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、昭和17年に発表した「白櫻集」で、以前の歌「君死にたまうなかれ」とは正反対に、戦争を美化・賛美し、鼓舞する歌を作った(例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」)。このようなことから、反戦家としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向者であると言える。

日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言した。ただし、大逆事件(幸徳事件)では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年3月7日に「東京日日新聞」に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった菅野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している。

1911年に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女」の一人として名を馳せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関「文芸委員会」作ったことに対し、晶子は「英太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。

1915年に読売新聞に「駄獣の群」という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人選挙権を唱え、「婦選の歌」を作っている。この歌は山田耕筰作曲で「第一回全日本婦選大会」にて披露された。

晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鴎外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、元治五十四帖のうち最後の「宇治十帖」を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。又も一からやり直し、さらに十七年かけて六巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年年10月より刊行し、翌年9月に完結した。

評論家
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。

女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。

反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した(現代でも問題になっているアグネス論争も類似した論争である)。

政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出して一概に反戦・反天皇の人物であったわけではない。また、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義を批判していたことは注目に値する。

シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、米騒動に関して「太陽」誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内正毅内閣の退陣を要求している。

晶子は1919年5月号の『中央公論』に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時「教育の民主主義化を要求す」と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。

羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力、文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。のち文化学院女学部長。

著作・文献

自著
『定本 与謝野晶子全集』全20巻(講談社、1979年 - 1981年刊)
『みだれ髪』(新潮文庫)
『みだれ髪 附=みだれ髪拾遺』(角川文庫クラシックス)
『全訳源氏物語』上・中・下(角川文庫クラシックス)
『梗概源氏物語』(武蔵野書院)鶴見大学文学部、池田利夫 編
『蜻蛉日記』(平凡社ライブラリー)与謝野晶子 訳
『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)
『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)
『愛、理性及び勇気』(講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ)
『女人創造 叢書 女性論』(大空社)
『与謝野寛晶子書簡集成』(八木書店)
『私の生ひ立ち』(女性文庫/学陽書房)竹久夢二 挿絵/(刊行社)
『童話 環の一年間』(和泉書院)

関連文献
1954年 『晶子曼陀羅』佐藤春夫著、大日本雄弁会講談社。角川文庫、講談社文芸文庫ほか
1957年 『与謝野晶子書誌』入江春行著、創元社
1967年 『うたの心に生きた人々』茨木のり子著、さ・え・ら書房。ちくま文庫にも
1967年03 『どっきり花嫁の記 ――はは与謝野晶子』与謝野道子著、主婦の友社。角川書店
1968年03 『与謝野晶子』福田清人、浜名弘子編、(清水書院『センチュリーブックス 人と作品』21)、清水書院
1972年 『千すじの黒髪 わが愛の与謝野晶子』田辺聖子著、(『文春文庫』)、文藝春秋
1981年01 『与謝野晶子の秀歌』馬場あき子著、(『現代短歌鑑賞シリーズ』)、短歌新聞社。三一書房の馬場あき子全集にも
1981年03 『晶子の周辺』入江春行著、洋々社
1981年07 『みだれ髪の系譜』芳賀徹著、(『講談社学術文庫』)、講談社、初出は美術公論社
1983年05 『与謝野晶子の文学』入江春行著、(『近代の文学』13)、桜楓社
1984年03 『与謝野晶子 : 昭和五十九年春季特別展』堺市博物館編、堺市博物館
1985年09 『華の乱』永畑道子著、新評論
1985年09 『夢のかけ橋 晶子と武郎有情』永畑道子著、新評論。文春文庫も
1986年09 『山の動く日きたる 評伝与謝野晶子』山本千恵著、大月書店
1988年10 『姑の心、嫁の思い 義母・与謝野晶子との会話』与謝野道子著、PHP研究所
1989年02 『憂国の詩 : 鉄幹と晶子・その時代』永畑道子著、新評論。ちくま文庫にも
1989年05 『アメリカで与謝野晶子をうたえば』吉岡しげ美著、朝日新聞社
1990年08 『与謝野晶子研究 : 明治の青春』赤塚行雄著、學藝書林
1990年10 『与謝野晶子の教育思想研究』平子恭子著、桜楓社
1991年04 『与謝野晶子歌碑めぐり : 全国版』堺市博物館編、二瓶社
1991年03 『与謝野晶子 : その生涯と作品 没50年記念特別展』堺市博物館編、堺市博物館
1991年06 『与謝野晶子』河出書房新社編?、(『新文芸読本』)、河出書房新社
1991年09 『晶子と寛の思い出』与謝野光著、思文閣出版
1992年03 『与謝野晶子』尾崎左永子他著、大岡信編(『群像 日本の作家』6)小学館
1992年07 『恋むらさき : 小説・与謝野晶子』倉橋燿子著、(『mimiヤングガールズ・ブック』)、講談社
1992年08 『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』金窪キミ著、卯辰山文庫
1993年03 『愛のうた : 晶子・啄木・茂吉』尾崎左永子著、創樹社
1993年09 『初恋に恋した女 : 与謝野晶子』南条範夫著、講談社。講談社文庫も
1993年10 『与謝野晶子 : 昭和期を中心に』香内信子著、ドメス出版
1993年11 『わが晶子わが啄木 : 近代短歌史上に輝く恒星と遊星』川内通生著、有朋堂
1994年02 『君死にたまふこと勿れ』中村文雄著、和泉書院
1994年10 『与謝野晶子研究 : 明治、大正そして昭和へ 決定版』赤塚行雄著、學藝書林
1994年10 『晶子讃歌』中山凡流著、沖積舎
1995年04 『与謝野晶子 年表作家読本』平子恭子著、河出書房新社
1995年05 『与謝野晶子を学ぶ人のために』上田博、富村俊造編、世界思想社
1996年01 『鉄幹と晶子詩の革命』永畑道子著、(『ちくま文庫』)筑摩書房
1996年01 『君も雛罌粟われも雛罌粟 : 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』上・下、渡辺淳一著、文藝春秋。文春文庫も
1996年07 『資料与謝野晶子と旅』沖良機著、武蔵野書房
1996年09 『山川登美子と与謝野晶子』直木孝次郎著、塙書房
1996年11 『女をかし与謝野晶子 : 横浜貿易新報の時代』赤塚行雄著、神奈川新聞社
1997年01 『絵画と色彩と晶子の歌 : 私の与謝野晶子』持谷靖子著、(『にっけんの文学・文芸シリーズ』)、にっけん教育出版社
1997年09 『火の色す : 富村俊造・与謝野晶子アカデミーの軌跡』与謝野晶子アカデミー百回記念誌編集委員会編、『山の動く日』の会
1998年03 『尾崎行雄 : 「議会の父」と与謝野晶子』上田博著、三一書房
1998年07 『チョコレート語訳 みだれ髪』俵万智訳、(『河出文庫』)、河出書房新社
1998年07 『與謝野晶子と周辺の人びと : ジャーナリズムとのかかわりを中心に』香内信子著、創樹社
1998年07 『与謝野晶子と源氏物語』市川千尋著、国研出版
1998年10 『與謝野晶子』渡邊澄子著、新典社
1999年02 『風呂で読む与謝野晶子』松平盟子著、世界思想社
1999年07 『おんな愛いのち : 与謝野晶子/森崎和江/ヘーゲル』園田久子著、創言社
1999年08 『与謝野晶子』渡辺澄子著、(『女性作家評伝シリーズ』)新典社
2000年 『与謝野晶子』新間進一著、(『短歌シリーズ・人と作品』4)おうふう
2000年04 『文に生きる絵に生きる : 与謝野晶子、ビアトリクス・ポター、リリアン・ヘルマン、いわさきちひろ』越水利江子、落合恵子、今関信子、松本由理子著、岩崎書店
2000年10 『与謝野寛・晶子 : 心の遠景』上田博著、嵯峨野書院
2002年06 『九州における与謝野寛と晶子』近藤晋平著(『和泉選書』)和泉書院
2003年04 『与謝野晶子 : 童話の世界』古沢夕起子著、嵯峨野書院
2003年04 『与謝野晶子とその時代 女性解放と歌人の人生』入江春行著、新日本出版社
2003年06 『与謝野晶子の歌鑑賞』平子恭子著、短歌新聞社
2005年03 『與謝野晶子に学ぶ―幸福になる女性とジェンダーの拒絶』 中川八洋著、グラフ社

児童・子ども向け
『きんぎょのおつかい』(架空社)高部晴市、与謝野晶子 著
『与謝野晶子 女性の自由を歌った情熱の歌人』(学習まんが人物館/小学館)入江春行、あべさより 著



千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり /たゞひとり岩をめぐりて/この岸に愁を繋ぐ・・・・島崎藤村
410px-Shimazaki_Toson2.jpg

       千曲川旅情の歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・島崎藤村

    千曲川柳霞みて

    春浅く水流れたり

    たゞひとり岩をめぐりて

    この岸に愁(うれひ)を繋ぐ

詩集『落梅集』に納められる有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。
千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄枯のあとを回想し、「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と歎じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小諸なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一、二番とした。
これは、そのうちの二番にあたる詩の最終連という訳である。
藤村の歌いぶりは、漢詩的な対句表現を多用したり、和歌的語法を用いたりして、伝統的な詩の美感や技法を巧みに近代的表現の中に移し得ている。
この一連では、5音7音という日本の伝統的な音数律をうまく使ってフレーズを構築し得ている。
-------------------------------------------------------------------------------
51SGQ3G6E6L.jpg

藤村は木曾の馬籠宿の庄屋に生まれる。
馬籠は中仙道の街道筋にあたり木曾十一宿という古い宿駅のひとつで父は明治維新まで馬籠の庄屋、本陣、問屋を兼ねていた。
滅び行く旧家の血統は、故郷の風土とともに、一人の近代日本の巨大な作家を形成するのに重大な役割を果たした。
若くして東京に遊学したが、1899年、小諸義塾の教師となる。そこで秦慶治の三女・冬子と結婚し、結婚を期に詩から散文への転換をめざす。
1912年にまとめられた『千曲川のスケッチ』や第一短編集『緑葉集』などは散文家としての最初の結実である。
『破戒』は、前年に小諸の学校を辞して帰京し、背水の陣をもって執筆にあたったという。その後『春』『家』『新生』『夜明け前』など、小説家として、その当時の文学界をリードした。
-----------------------------------------------------------------------
p10503331.jpg
↑ 詩碑「過ぎし世をしづかにおもへ/百年もきのふの如し」

参考のために下記を転載しておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は島崎藤村の詩であり、この詩に作曲した歌曲も有名である。

明治38年に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。

幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。


「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
 島崎藤村

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
 島崎藤村

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る

鳴呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
 (百年もきのふのごとし)

千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
 (この岸に愁を繋ぐ)


copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.