K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
011紅蜀葵
 ↑ 紅蜀葵(こうしょっき)

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

 天保の時代に顕微鏡をうたいたる短歌が話題 話しつつ行く・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 戦ひを中に措きたる九十年辛くも生き得し吾ここに在り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水房雄
 思ふべしネルソン・マンデラ九十五歳の顔を作りし人間の世を・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
 くすり服むたびにおもへり一兵の柊二が師より賜びし「薬」を・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武田弘之
 むき出しの額に銃弾撃たれしをだれか写しぬだれかを憎む・・・・・・・・・・・・・・・・ 中川佐和子
 野鳥らは地球の地震察知するや ふと思ひつつこゑを仰げり・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 釘ぬきに抜かるる釘の鈍き音に浮かび来父の太き親指・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 わりなけれわりなけれどもわが目交をひるがへり過ぐるを蝶も時も・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 ファシズムの影濃くなりてすでにわが帰る国にはあらず日本は・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺幸一
 炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春日真木子
 手花火の賑はひ聞けば遠き日のわが子のすがた目にうかびくる・・・・・・・・・・・・・・小野雅子
 人は人を亡くせしのちも生きてゆく死とはさういふものにしあれば・・・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
 ニューハーフは兵役免除といふ規定あるやも昭和100年の日本・・・・・・・・・・・・・・栗木京子
 見せられたままを信じる素朴さを昭和のどこかに置き忘れけり・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 歳月の気化を思へり午睡より覚めて肌には藺草がにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代
 耳奥のリンパのゆらぎ朝床に人となるべくかたちひき寄す・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 滝壺をやがて去る水青き真昼・・・・・・・・・・・・・・・・・山本勲
 ナガサキ全滅の報耳にあり夏野 ・・・・・・・・・・・・・舛田瑤子
 バラジャムを食みて着陸準備かな・・・・・・・・・マブソン青眼
 夏うぐいす自己陶酔のありにけり・・・・・・・・・・・・・平山圭子
 猫が触れゆくしずかな柱夏の家・・・・・・・・・・・・・森央ミモザ
 あんたがたどこさ翡翠がうしろにも・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 逃げ水のどこにも逃げ場なき瓦礫 ・・・・・・・・・・・・有村王志
 古本に昭和を嗅ぎぬ蝉時雨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 黄身潰す朝の儀式やかなかなかな・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 むつごとは遠きしろはなさるすべり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 しばらく遠出鳥の手紙をふところに・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 空蝉や脳に沁みたる未完の詩・・・・・・・・・・・・・・吉田透思朗
 夏山に雨の襞なす無辺なり・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤紀生子
 鬼百合やひとり欠伸はを手添えず・・・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 竜神の潟辺に住んで盆踊り・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 舘岡誠二
 金曜日炎帝の吹くトランペット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佃悦夫
 遠ざかる漢(おとこ)のごとく八月も・・・・・・・・・・・・・ 柚木紀子
 抑止力てふ恐ろしき大夕焼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木幸江
熱帯夜言葉出て行く歯の透き間 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 水上啓治
 体臭や向日葵の海ぎらぎらす・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木義雄
 星の寿命の最後は爆発合歓の花・・・・・・・・・・・・・・・高橋明江
 辞儀交す乳房の気配百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今野修三
 かたつむりあしたは海へゆくつもり・・・・・・・・・・・・ 北村美都子
 スーパームーン蛍袋は墓標です・・・・・・・・・・・・・・・・河原珠美
 秋さがす拾った言葉はポケットに・・・・・・・・・・・・・・・・石山一子
 熱帯夜おのれ自身がお荷物で・・・・・・・・・・・・・・・・・・市原正直
 なみなみと水を花瓶(けびょう)に原爆忌・・・・・・・・・・北畠千嗣
 日盛りのマネキンの指空つかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 糠床に一本の釘秋に入る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 口中のガレの葡萄が熟れてくる・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 痩蛙拒食日記は終わらない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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☆─Doblogの過去記事について─☆
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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

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 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
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◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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永久にこれを放棄する。
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つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・中川宋淵
ae11c4755ef65aa6ed6dc47516e76755ツクツクボウシ

     つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・・・・・・・・・中川宋淵

私の歌にも、こんなのがある。
  
   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途(いちづ)なれ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。

法師蝉というのはつくつくぼうしのことである。
こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。
つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。
先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には
「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」という。
鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

 高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

 法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

 また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

 法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

 飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

 繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

 つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

 我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

 山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

 法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

 島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

 法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

 法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

 くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

 黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんでも弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・木村草弥
img0406-02北斎お岩

     「人魂で行く気散じや夏の原」わしも老いこんで
        妻も弟子も去りよった、わしゃ人魂で飛ぶぞ・・・・・・・・・・木村草弥


葛飾北斎は晩年には妻も弟子も去ってしまい、悲惨な最期を遂げた、と言われている。
掲出した歌の「」内は、北斎の辞世の句と言われているもの。
その句を取りこんで私は第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で「辞世②」でコラージュの作品として発表した。

掲出の写真は北斎の怪奇画「百物語 お岩さん」という作品。
夏の風物詩、お化け屋敷ではないが、「怪談もどき」でいいではないか。
v221神奈川沖波裏

v233凱風快晴

葛飾北斎の作品としては二番目の写真の富嶽三十六景図のなかの「神奈川沖波裏」や三番目の写真「凱風快晴」などが、一般によく知られる傑作とされる。
これらの作品は誰の目にも違和感なく受け入れられるものである。
しかし、北斎の活躍は多岐にわたっており、四番目に掲げる「大首絵」のように芸者や吉原の遊女を描いたものも多く、
北斎の真骨頂は美人画にあり、と断言する人もいる。
megane大首絵

これらの他に北斎には、いわゆる「春画」の傑作も数多い。
私のコレクションにも春画の傑作の複製画や、「万福和合神」という春画の絵読本なども先にアップしたので、ご覧いただいた人もあろうか。
よく知られているように喜多川歌麿の美人画や大首絵、春画などは輪郭の線の美しさが特徴である。
これに比較して、北斎の春画の特徴は輪郭の線も太く、繊細さには欠けるが、代りに一種のおどろおどろしさ、が漂っている。
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)から嘉永2年(1849年)を生きた人だが、いわゆる幕末で、もうすぐ明治という直前の時代である。
明治元年は1868年である。
一番はじめに書いたように北斎の晩年は妻にも弟子にも去られて悲惨なものであったらしい。
そういう事実を知ればこそ、この北斎の辞世の句と言われるものも、一層真に迫ってくるし、さればこそ私は、その北斎の境遇に思い至って、
こんなコラージュの作品に仕立てたのである。一番はじめの写真の絵も辞世の句にふさわしい、と思うものである。

四番目の写真の大首絵には「風流無くてななくせ遠眼鏡」という詞書がついており、
何を覗いているのか美人芸者が遠眼鏡(望遠鏡)を覗いている図が描かれている。
あるいは他所の部屋で繰り広げられている痴態を覗き見しているのかも知れない。
v212両国橋夕陽見

五番目の写真は「両国橋夕陽見」という風景図である。
広重や北斎の絵は西洋画に大きな影響を与えた、とされる。
いずれにしても北斎89年の生涯は、まさに波乱万丈の一生だったようだ。その頃の年齢としては89歳という歳は長寿の部類に入るだろう。
彼については2009/01/23付けで「画狂人─葛飾北斎の生涯」という記事を載せたので、ご覧いただきたい。

北斎のことは、このくらいにして、私のコラージュの作品を読み返してみて、我ながら面白いと思うので、後日あらためて披露してみたい。

藤原光顕の歌「なんとなく」15首・・・・木村草弥
芸自_NEW

──藤原光顕の歌──(34)

     藤原光顕の歌「なんとなく」15首・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・「芸術と自由」No.309/2019/09所載・・・・・・

         なんとなく        藤原光顕

  まちがいを笑ってくれる人がいない梅田地下街 ひとりで迷う
 
  黒服の人らあふれる手前で曲がりなんにもなかった町から帰る

  気紛れに曲がれば何かありそうな横丁ばかりだった 昔は

  不調箇所はその日その日の気紛れで エンジンと思うブレーキと思う

  たいへんですねと遠い目をするこの人はたぶん自分に引き付けている

  考えて棚へ戻す 冷蔵庫にはたぶん期限切れの何かがあるはず

  三十個入りが割安だったので毎晩ひとつぶつぶれ梅食う

  鍋一つ焦がしただけの夕飯終わる 焼酎一杯でこと足りるほどの

  なんとなく食べております いざという時のカップ麺いつまでもある

  宙吊りの思い日増しに強くなる まだ晩酌が飲める宙吊り

  ビニールの袋や輪ゴム ビニール袋に入れてゴミの日に出す

  押し殺した科白が続く暗い画面 リモコン持ったままで観ている

  公園の坂で自転車止めて休む ペタンクはみんなうまく外れる

  花水木 なんとか無事にいるうちに葉水木になり雨後の陽に耀る

  なんとなくどこかに何かがあるような風がまだ吹く 八十二歳
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いつもながらの光顕ぶし、である。
独り暮らしの老いの哀歓が濃く出ている。
「なんとなく」という題名が秀逸である。
偉そうなことを言っても、われわれのやっている「日常」などというものは、「なんとなく」過ぎゆくものなのである。
終連の末尾の言葉「八十二歳」に哀愁が漂う。
有難うございました。



 
天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・加藤楸邨
natuama天の川②

     天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「天の川」は一年中みえるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。
夏から秋にかけて、写真のように起き上がり、仲秋には北から南に伸び、夜が更けると西の方へ向かう。
「銀漢」という表現もあるが「天の川」のことである。

天の川の句としては芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」などの秀句がある。
天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。
『万葉集』に山上憶良の歌

  天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

の歌が、古くからあり、美しさと星合の七夕伝説とが結びついてイメージされている。
以下、歳時記に載る天の川の句を引いておく。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・・・・・正岡子規

 虚子一人銀河と共に西へ行く・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・夏目漱石

 天の川人の世も灯に美しき・・・・・・・・・・・・沼波瓊音

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・・・・・臼田亞浪

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・秋元不死男

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・・・・・石田波郷

 妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・鷹羽狩行

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・・・・・石塚悦郎

Per_20080813_0414sペルセウス2008

この句とは直接の関係はないが、私はこんな歌を創ったことがある。
(第四歌集『嬬恋』所載)

わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける・・・・・・・・・・・木村草弥

銀河からの連想であるが、今しもペルセウス流星群の活動の激しい時期である。






月見草ぽあんと開き何か失す・・・・文挟夫佐恵
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

    月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。

「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。
南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合う>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車


大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

        大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。
長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。
弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。
それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。
「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。
薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。
こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。
この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。
大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。





燃えさかり筆太となる大文字・・・・山口誓子
dai2002大文字

     燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

8月16日には各家庭に還っていた御魂が送り火に送られて、あの世にお帰りになる。
京都では、各家庭で送り火を焚くことはなく、東山の如意ケ岳で行なわれる「大文字」(だいもんじ)の巨大な送り火に代表させて焚くことになる。
この山は通称・大文字山と言われ、多くの奉仕する人々の力によって毎年おこなわれる。
この日は山腹に薪を焚く石の台座が据えられ、薪を井桁に組んで積み上げ午後8時を期して点火する。
この「大」の字は第一画73メートル、第二画146メートル、第三画124メートル。
字画に沿って4メートル間隔に75個の穴を掘り、松の薪を使用する。松は火付きがよいからである。
この行事は慶長年間からはじまったという。
この後に8:10分に松ケ崎の「妙法」、8:15に西賀茂正伝寺の「船形」と金閣寺のうしろ山の「左大文字」、
8:20に洛西曼陀羅山で「鳥居形」の順に間隔を空けて、火をつけてゆく。
京都の街は東山、北山、西山と三方を山に囲まれ、南は加茂川が流れる地形のように開けている。
火は東山から北山、西山と順に移ってゆくのである。掲出した写真のうちに「左大文字」はない。
「左大文字」は「大文字」の真向かいにあたり、字体も「大文字」の反対の書き方と考えてもらえば判りやすい。

myo2002妙

hou2002法

「妙」「法」は横に並んで一体となっている。
これらの山それぞれには別々の「火の講」があり、真剣な宗教的行事のようなものと考えれば理解しやすい。
知らない人は「大文字焼」などということがあるが、これは、あくまでも盆の送り火という宗教的行事であるから、間違った呼び方はしてほしくない。

写真④は「船形」である。
fune2002船形

点火される薪の湿り具合とか、いろんな要素のために火床にも場所によって火の勢いに違いがあり、それがまた趣きのあるところである。
先に言ったように10分から15分づつずらして点火されるから、当然、最初に点火された「大文字」と、後から点火されたものとは火勢に違いが出てくる。
そういう火色の違いを眺めるのも面白いものだ。昔は今のような高層建築がなかったから、市内のどこからでも見られたが、今では高層ビルの屋上でなければ見られない。

torii2002鳥居形

「鳥居形」は愛宕山と言えば分りやすいだろう。曼陀羅山というのは愛宕山の支峰である。
愛宕山は火伏せの神として「火の用心」の神様で、古来、京都市民は交代で月参りをして火災からの鎮撫を祈ってきた山である。
愛宕山の上り口には鳥居が建っており、鳥居形は、それに因んだものかも知れない。
鳥居形が点火されるまでに、この間30分。京の三山は火の色に彩られる。

京都の夏は初夏の葵祭に始まり、七月の祇園祭を経て、このお盆の大文字の送り火で、ひと夏を送ることになる。
千年余の都として、これらの行事は、いずれも大がかりなもので、さすがに王朝の首都としての貫禄に満ちている。
さればこそ、古来、先人たちは詩歌に詠んできたのである。

以下、大文字を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 いざ急げ火も妙法を拵(こしら)へる・・・・・・・・小林一茶

 大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・与謝蕪村

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ・・・・・・・・森澄雄

 筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・・岡本眸

 大文字消えなんとしてときめける・・・・・・・・佐野青陽人

 大文字畦の合掌に映えゐたり・・・・・・・・米沢吾亦紅

 はじめなかをはり一切大文字・・・・・・・・岩城久治

 一画もおろそかならず大文字・・・・・・・・田中千鶴子

 さびしさのことにも左大文字・・・・・・・・藤崎さだゑ
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2007年はNHKが全国に「京都の五山の送り火」を75分にわたって中継の放映をした。
この送り火が宗教行事であること。また、これを維持管理するのに、各送り火ごとに特色のあること、などを採り上げた。おおむね妥当な、いい放映だった。
また地元の京都新聞夕刊は、同年の8/6~11まで「五山の送り火」と題する特集記事を6回にわたって掲載した。
内容はNHKが解説で採り上げたのと同様だったが、「火」を支える「人」の面から詳しく取材されて、時宜を得たいい記事だった。

先年起こった東日本大震災で二万人にのぼる人が命を落したので、その鎮魂の意味をこめて大文字の送り火を拝したことである。


無音の谷ひとすじ 川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・藤原光顕
db21a112cc944aff6e3b61e7c5540d90敗戦日
 ↑ 敗戦後の「焼け跡」

       無音の谷ひとすじ 
          川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・・・・・・藤原光顕


今日は、昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏して、第二次世界大戦が終結した日である。
今しも、A級戦犯・岸信介を祖父に持つ安倍晋三が「ポツダム宣言」「戦勝国・連合国」「敗戦国条項」などに異論を唱えて、素直に戦争責任を認めず、特にアジアの近隣諸国から非難を浴びている。
マスコミの名前を出して失礼するが、
七月下旬の「京都新聞」は、約六十年前の「安保」成立の頃の総理大臣・岸信介の名前を挙げて、「安倍晋三は自身を岸信介になぞらえて自己陶酔している」と評した。
まさに的確な言質というべく、敢えて、ここに引いておくものである。


戦後70余年経ったからと言って、日本が近隣諸国を侵略し、何百万人の命と財産を奪い、大きな損害を与えたことは消し難い、厳然たる事実である。
「絶対的平和主義」なんていう意味不明の言辞を弄して、責任の所在について、素直に謝ろうとしないのは、愚の骨頂である。
歴代首相たちが表明してきたことを、そのままの言葉で踏襲したらいいのである。
何らかの「目新しい言辞」を作り出すことなど不必要なのである。
70年という年月は長いようであっても、侵略された国にとっては一瞬のことなのであり、忘れ難い年月なのである。
八十七年生きた私からすると、艦載機の機銃掃射に逃げまどった戦争末期の出来事は、つい昨日のような思い出なのである。
当時、私は中学三年生だったが、授業は一切なく、学徒動員で軍需工場で旋盤工としてロケット弾を削ったりしていた。
もはや日本軍には制空権はなく、日本近海には多数のアメリカの航空母艦が居て、そこから発進する艦載機が飛びまわって爆弾を落とし、機銃掃射を浴びせてきた。

戦中、敗戦後の苦労も知らない戦後生まれの「お坊ちゃん」に、とやかく言われて近隣諸国と無用の摩擦など、やってほしくないのである。
今しも中国の「覇権主義」が尖閣諸島や南国で事件を引き起こしている事実はある。 摩擦も起こっている。
さればこそ、無用の摩擦を事前に防ぐためにも「仲良く」して関係を良くしておく必要がある。それが「外交」というものではないのか。
祖父の岸信介が今の日米安保体制を作った。だから孫である私・安倍晋三が、祖父に並び称される「新」安保を成立させて歴史に名をとどめたい、というのが彼の心中だろう。
先に引用した旧記事だが京都新聞の「自己陶酔」云々という意味は、そういうことであろう。

森友学園や加計学園への依怙贔屓など、安倍の評判は悪く、支持率も急速に下がっているので、最近は極めて慎重な言動に終始している。
言いたいことはたくさんあるが、最低限にとどめて、敗戦あるいは終戦について詠まれた句を引いて、戦没者のご冥福を祈り、近隣諸国にはお詫びの一日としたい。

掲出した歌は「芸術と自由」誌No:301─2015/7月号に載るものである。
私が敬愛する藤原氏は1935年生まれ、本年で満82歳になられる。
日本が戦争に負けたときは「少年」であった。本作は、そのときの「敗戦」記である。「自由律短歌」である。
旧記事だが、敗戦記念日である今日に、敢えて掲載する意味を汲んでもらいたい。


  堪ふる事いまは暑のみや終戦日・・・・・・・・及川貞

  朝の髪一つに束ね終戦日・・・・・・・・菖蒲あや

  木々のこゑ石ころのこゑ終戦日・・・・・・・・鷹羽守行

  いつまでもいつも八月十五日・・・・・・・・綾部仁喜

  高館は雨のくさむら終戦日・・・・・・・・石崎素秋

  敗戦記念日の手花火の垂れ玉よ・・・・・・・・三橋敏雄

  敗戦日少年に川いまも流れ・・・・・・・・矢島渚男

  敗戦忌燃えてしまった青年ら・・・・・・・・北さとり

  この空を奈落より見き敗戦日・・・・・・・・岡田貞峰

  初心ありとせば八月十五日・・・・・・・・小桧山繁子

  敗戦忌海恋ふ貝を身につけて・・・・・・・・山本つぼみ

  終戦忌声なき声の遺書無数・・・・・・・・以東肇

  海原は父の墓標や敗戦忌・・・・・・・・中村啓輔

  終戦忌何も持たずに生きてきて・・・・・・・池田琴線女

  荼毘のごと燃やす破船や終戦日・・・・・・・・野村久子

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掲出した藤原作品に照応するものとして、矢島渚男の句が、きらりと屹立している。
当該句はゴチック体にしておいた。



雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・桂信子
72737_20050930213531いちじく

       雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・・・・・・・桂信子

無花果(いちじく)はアラビア原産で、江戸時代に日本に入ってきたという。
私の住む辺りでも、田圃に畔(くろ)を作って土を盛り上げ、無花果を作っている。無花果と書くが、花がないわけではなく、これは中国名のインジェクフォが訛って、こうなったという。
イチジクの木は放置すると3メートルから6メートルにも達する落葉喬木であるが、
日本では栽培する木は収穫し易いように1メートルくらいの高さで枝を横に整枝する。
実は新しい枝に生るので、冬には徹底して旧徒長枝を切り詰める。

fig11いちじく木②

写真②のように多くの実が生るが、生育のよいものを残して摘果する。八月頃から実が熟しはじめ10月頃まで生る。軟弱果実であり、痛み易い。
アラビア原産ということだが、アダムとイブが蛇にそそのかされて「禁断の木の実」を食べたというのが、このイチジクである。
事実、中東ではイチジクが多い。向うも暑い土地なので、生食というよりも「乾燥いちじく」として多くが売られている。

itijikuzaruドライいちじく

写真③が乾燥させたイチジクである。ギリシア、トルコ、イスラエルなどに行くと、いたるところで売られている。
フニャフニャに柔かくはなく、噛み応えのあるドライフルーツである。日本にもドライいちじくの形で輸入されている。
品質にはピンからキリまであり、一流の取り扱い店のものは、おいしい。私も向うへ行ったときは何度も買って帰った。
なお、中東産のドライいちじくは皮の色が白い品種で、日本でみられる皮の黒いものとは品種が違うので念のため。

私の歌にも、こんなのがある。  ↓

   星に死のあると知る時、まして人に快楽(けらく)ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。

d020701aいちじく

写真④が箱詰めされて商品として出荷される生イチジクである。生食としては1、2日しか日持ちしない。
熟しすぎたものはいちじくジャムとして食べても、おいしいものである。

以下、歳時記から無花果の句を引いて終りにする。

 無花果の古江を舟のすべり来し・・・・・・・・高浜虚子

 乳牛に無花果熟るる日南かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 いちじくのけふの実二つたべにけり・・・・・・・・日野草城

 無花果のゆたかに実る水の上・・・・・・・・山口誓子

 天地(あめつち)に無花果ほどの賑はひあり・・・・・・・・永田耕衣

 雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・桂信子

 蜂が吸ふいちじく人は瞬時も老ゆ・・・・・・・・細見綾子

 無花果や目の端に母老いたまふ・・・・・・・・加藤楸邨

 無花果や永久に貧しき使徒の裔・・・・・・・・景山旬吉

 無花果にパンツ一つの明るさ立つ・・・・・・・・平畑静塔

 無花果食べ妻は母親ざかりなり・・・・・・・・堀内薫

 日本海黒無花果に無言なり・・・・・・・・黒田桜の園


挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・石塚友二
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        挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。
前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。
動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。
「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の石塚友二の句は、そういうカマキリの生態の特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。
菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。
写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。
もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。
交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。
雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。
そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。
いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。
幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かほ)を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・片桐てい女

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天



フォントネーのシトー会修道院・・・・木村草弥
800px-Abbaye_de_Fontenay-EgliseBatimentsフォントネー修道院
 ↑ フォントネー修道院
Fontenay20フォントネー中庭の回廊
 ↑ フォントネー修道院 中庭の回廊

──巡礼の旅──(17)再掲載・初出2013/08/17

     フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

フォントネー修道院はブルゴーニュ地方コート=ドール県モンバール市内にある修道院。
サン=ベルナール渓谷とフォントネー川の合流点にあたる森の中で静かにたたずむ最古のシトー会修道院で、外観・内装とも華美な装飾性を一切排している。

フォントネー修道院は1118年にクレルヴォーのベルナルドゥスによって設立され、1147年にローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別された。
教皇アレクサンデル3世は、1170年の勅書において修道院の財産を確認し、修道士たちが選挙によって修道院長を選出することも許可した。
この頃に修道院では、近隣で採れる鉱物を用いた製鉄業や冶金業が発達した。

1259年にはフランス王ルイ9世があらゆる収税権を免除した。
1269年には修道院は王国修道院 (l'abbaye royale) となり、ジャン2世、シャルル8世、ルイ12世らも寄進を継続した。
こうした王家の保護にもかかわらず、ブルゴーニュ地方を荒らした数度の戦乱の折には略奪の憂き目にも遭った。
それでも16世紀までは伸長する諸勢力から恩恵を受けつつ発展した。
しかし、王家の利益となるように修道院長選挙の廃止が強制されたことで、修道院の凋落が始まった。
18世紀には、修道士たちは資金的な遣り繰りに窮し、食堂を取り壊さざるを得なかった。
そしてフランス革命中の1791年には、修道院は敷地ごとクロード・ユゴーに78000フランで売却され、以降100年ほどの間、製紙工場に転用されていた。
なお、1820年に所有権はモンゴルフィエ兄弟の一族であるエリー・ド・モンゴルフィエに移った。

1906年にはリヨンの銀行家で芸術愛好者だったエドゥアール・エイナールの手に渡った。
彼は1911年までかつての修道院の姿を取り戻させるべく修復工事を行い、製紙工場も解体した。
フォントネー修道院は現在でもエイナール家の私有物ではあるのだが、主要部分は観光客にも公開されている。

観光客に公開されている部分

Fontenay30フォントネー付属教会
 ↑ 修道院付属教会
これは1127年から1150年に十字形の設計に基づいて建築されたものである。
長さ66メートル、幅8メートルで、翼廊は19メートル。幅8メートルの身廊は両側に側廊を持っている。
拱廊(アーケード)はシトー会則をうっすらと刻んだレリーフの付いたランセオレ様式の柱頭を持つ柱に支えられている。
内陣は正方形で身廊よりも低い。中世には、正面入口はポーチに先行されていた。

800px-Fontenay_church_maryフォントネー聖母子像
 ↑ 内部では12世紀の聖母子像が目を惹く。
これはもともと隣接するトゥイヨン村の墓地で長く野ざらしになっていたものである。
聖母は左手で幼子イエスを抱え、イエスは右手を母の首に回し、左手で翼を拡げた鳩を胸に押し抱いている。

その他内部にはこのほかに特筆すべきものはない。
オリジナルのスタール(背の高い椅子)は湿気で劣化してしまったため、それへの対策として18世紀末には床から1メートル近く持ち上げなければならなかった。

Fontenay25フォントネー参事会内部
 ↑ 教会参事会室
付属教会を別とすれば、修道院生活の中で最も重要なものである。ここではベネディクトゥスの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた。
この部屋は中庭回廊の東の通路に面している。もともとはオジーヴ穹窿をもつ3つの大きな梁間から形成されていたのだが、3つ目の梁間は1450年頃の火災で焼失した。
なお、20世紀初頭には参事会室と面会室 (parloir) を仕切っていた隔壁が取り壊された。

修道士部屋
回廊東側通路の参事会室からさらに南(付属教会から見て遠い方)に足をのばすと、修道士部屋 (Salle des moines) がある。
ここでは写本の作成などが行われていたと推測されている。この部屋の長さは30メートルで、6つの梁間を形成する12のオジーヴ穹窿で覆われている。

Fontenay34フォントネー寝室
 ↑ 修道士寝室
寝室は参事会室の2階にある。そこへ行くには20段ほどの階段を使う。ここは15世紀に火災に遭った後、現在の船体をひっくり返したような骨組みの部屋になった。
ベルナルドゥスの戒律は、個室を認めておらず、また、床に直にわら布団を敷いて寝る事を課した。

Fontenay11フォントネー鍛冶場
 ↑ 鍛冶場
敷地の南端に、オジーヴ穹窿に覆われた縦53メートル、横30.5メートルの建物がある。
これは12世紀に修道院が保有する丘陵から採取される鉱石を利用するために建てられた。
フォントネー川の流れを変えて、槌を動かすための水車を回すようになっていた。
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ここは深い森の泉のほとりにあるが、今も泉は絶えることなく溢れている。
森の中の清明な空気と、湧き出る新鮮な泉は彼ら修道士の生活と精神を養い、活力を維持するのに必要だった。
水の便は常に重要視されるが、水は飲み水と同時に、水流によって鍛冶工場の作業の動力として必要だった。

しかも「泉」は、その本義上、絶えず新たにされる信仰の比喩である。
「フォントネー」とは「泉」フォンテーヌに語源を持ち、「泉に泳ぐ人」という意味である。身体論的にも清らかさを感じさせる。

ただ単に見物するだけでなく、こういうことにも意を尽くして見学したいものである。


陽が射せばトップレスもゐる素裸がティアガルテンの草生を埋む・・・・木村草弥
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    陽が射せばトップレスもゐる素裸が
          ティアガルテンの草生(くさふ)を埋む・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
「ティアガルテン」とは、ドイツの首都・ベルリンの中心部に広がる広大な公園で、掲出写真二枚のようなものである。
プロイセンの頃は、王族の狩猟地だった。
写真①のロータリーの真ん中に立つのが「ジーゲスゾイレ」というプロイセンの勝利の塔であり、ここに上るとベルリンが一望できる。
Wikipediaには、次のような記載がある。

<大ティーアガルテン (Großer Tiergarten) はベルリン中心部、ミッテ区のティーアガルテン地区に位置する広大な公園。

単に「ティーアガルテン」といった場合には、この大ティーアガルテンのことを指す場合が多いが、同じくミッテ区のモアビート地区にもティーアガルテンという名の公園があるため、ティーアガルテン地区のものには「大」を、モアビート地区のものには「小」を冠して区別している。

総面積は210ヘクタールで、これはロンドンのハイド・パーク(125ヘクタール)やニューヨークのセントラルパーク(335ヘクタール)と並ぶ規模である。

かつては王家の狩猟場だった。1818年からと1832年-1840年の2回、造園家ペーター・ヨセフ・レンネによって現在の形に整備される。中心部に戦勝記念塔が建ち、公園内を6月17日通りが通る。西にエルンスト・ロイター広場、南西にベルリン動物園、東にブランデンブルク門がある。>

同じ歌集には、掲出の歌につづいて

  半年の長き冬なれば夏の間は陽に当らむと肌さらしゐつ

  湖と森の都のベルリンは<ゲルマニアの森>の逸話おもはす
・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるので一体として鑑賞してもらいたい。

広大な森だが、ところどころに広い草生があり、夏の間は市民たちが、こぞって真裸になって「日光浴」をする。そんな写真をいくつか出しておく。 ↓

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ベルリンは東西ドイツに分かれていたときは「東ドイツ」に属していたので、長らく開発から置き去りにされてきたが、東西が一体化されて、ドイツの首都となったので、
以後の変貌は著しいものがある。
今回の拙歌集『昭和』に載せたのは「ベルリンの壁崩ゆ」──1990年夏── というものであり、ベルリンの壁が崩された1989年の翌年の夏の紀行が基になっている。

この項目のはじめに

  金髪のビルギュップ女史きらきらと腋毛光らせ「壁」さし示す

  金色の腋毛光れりベルリンの壁跡指して苦難は言はず
・・・・・・・・・・・・木村草弥

の歌があるが、今どきならば、こんな光景はあり得ないが、当時は特に共産圏では「腋毛」を剃るという習慣はなかったのである。
西欧においても、パリなどでは「男の腋毛は良くて、女の腋毛は剃れ、なんておかしい」という運動さえあったのである。
この歌に登場するビルギュップ女史は、私たちのツアーのガイドなどなさっていただいたが、東欧華やかなりし頃は、政治家や学会などの重要な会議の通訳などをされたらしい。
世が世ならば、われわれ下々のツアーのガイドでお茶を濁すような人ではなかったのだが、東欧が崩壊して、仕事が無くなったので、働いておられるのだった。
私はベルリンには、数年後にもう一度行ったが、そのときはベルリンは大改造中で、歌集の中にも歌を載せた「パラストホテル」という東ベルリン有数の名ホテルも解体中だった。
「パラスト」というのは英語でいうと「パレス」宮殿の意味で、旧プロイセンの王宮の跡に建っていた。
つまりパレスホテルということなのであった。当然このホテルは東欧、東独のトップクラスの要人たちが屯するホテルだったようで、その「悪しき」権力のイメージが付き纏い、
なんども経営母体を替えたようだが、解体のやむなきに至ったらしい。
その、まさに解体最中のときに私の二回目のツアーが遭遇して、大きなショックを受けたことを、今も覚えている。
同じ一連に載る

  ヒロシマの原爆ドームのごとくしてウィルヘルム教会廃墟を残す・・・・・・・・・木村草弥

という教会も、歌集を読まれた三浦好博氏の手紙によると、「廃墟」ではなくて、最低限の補修をして「記念堂」として機能しているという。
今の写真を、下記に。 ↓ 右側のノッポの塔のようなのが「新」教会。

379PX-~1

事ほど左様に、ベルリンの変貌は著しい。

  「ベルリンの壁」とり去りて道となす傍に煤けし帝国議事堂・・・・・・・・・・木村草弥

と詠んだ議事堂も、二回目に行ったときは改修されて「新」ドイツ議会として、新たにドームも付加されたりして観光客を迎えていた。
どれもこれも、浦島太郎のような心境に陥る変貌ぶりであった。 ↓ 今の写真を出しておく。
1280px-Reichstag_panoドイツ国会議事堂

ここは1930年代に、ヒトラーが共産党に罪をなすりつけようと「放火事件」をデッチあげたことで有名だったが、敗戦、東西ドイツ分断などで放置されていた。
それらの経緯が、私の歌からも読み取れよう。

そういう意味でも、 この一連は私にとって「記念碑的な」ものと言えよう。歌集に敢えて収録した所以である。


サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・木村草弥
450px-Saint_Martin_du_Canigou_04カニグー修道院
 ↑ カニグー修道院 俯瞰
DSC_0136カニグー回廊中庭③
 ↑ 回廊中庭─花が咲いている
DSC_0143カニグー修道院回廊①
 ↑ 回廊
DSC_0142カニグー回廊②
 回廊の柱頭彫刻
DSC_0131-08154カニグー回廊④
 ↑ 柱頭彫刻の「サロメの舞い」とは、修道院生活とどう関連するのか

──巡礼の旅──(16)再掲載・初出2013/08/15

     サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・木村草弥

山頂あるいは山上ちかくに建てられる修道院もある。
ニーチェが信仰は別として <私はそこに座ってもっともよい空気を吸った。ほんとうに天国の空気を。>と言ったような僻地のことである。

サン=マルタン・デュ・カニグー修道院 (フランス語:Abbaye Saint-Martin du Canigou、)は、フランス、ピレネー山脈にあるカトリック教会の修道院。
短縮してカニグー修道院とも呼ばれる。ピレネー=オリアンタル県の小さなコミューン、カストイユに属する。
修道院はカニグー山の岩がちな尖峰の奥に佇んでいる。1889年、フランス歴史記念物に指定された。

この修道院はサルダーニャ伯ギフレ2世の発案によって設置された。初めて文献に登場するのは997年であり、このころには建設工事が始められていたと考えられる。
これ以降に夥しい数の寄進が行なわれており、建設が間断なく着実に行われていたことを示している。

教会は1009年11月10日、エルヌ司教オリバによって聖別され、聖母マリア、聖マルタン、聖ミシェルへ献堂された。
そのしばらく後に聖ゴデリックの聖遺物を授かっている。これに際して修道院と教会堂が拡張され、再び聖別された(正確な年代は未詳であり1014年か1026年とされる)。サルダーニャ伯ギフレ2世はこの修道院で余生をおくり、1049年に没した。

しかしながらこの修道院の衰えは早く、早くも12世紀にはサント=マリー・ド・ラグラス修道院(オード県ラグラス)に併合された。
この併合は摩擦の原因となったが、これは最終的にローマ教皇の仲裁により解消されている。しかし修道院は回復の困難なほどの衰退に陥ることとなった。

またカタルーニャ地方に多くの爪痕を残した1428年2月のカタルーニャ大地震により深刻な被害を受け、教会はどうにか破壊を逃れたものの多くの建物が破壊され、鐘楼は先端が損なわれた。修復にはアルヌ司教座が動員されたものの財力が不足しており、再建工事は非常に長引くこととなった。

1506年に修道院はフランス王家の管理下に置かれ、1782年、ルイ16世によって教会財産は国有化された。

フランス革命後の恐怖政治時代、最後の修道士らが追放された後で修道院は閉鎖され、修道院内の財物は四散した。その後、建物の石材は周辺住民によって建設資材として転用され、回廊の柱頭や彫刻・家具などは持ち去られた。

修道院の再興は20世紀初頭を待たねばならなかった。
1902年にカタルーニャ人であるペルピニャン司教ジュール=ルイ=マリー・ド・カルサラード・デュ・ポン(Jules-Louis-Marie de Carsalade du Pont)が再建に着手したが、この時点では鐘楼、一部崩壊した教会堂、および下層部回廊の3歩廊しか満足に残されていなかった。この再建作業は1932年までかかることとなる。
1952年から1983年にかけて司祭ベルナール・ド・シャバンヌが修道院の修復工事を行い、宗教生活を復興した。

いずれにしても、ここはベネディクト会系の修道院であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途中にあるのである。
交通の不便な山奥で、バスなどの便もないのだが、熱心なツアー客が、遠く日本からもやってくるのである。


樹々の記憶を求めて ここは何処? 自由というのは怖い・・・・木村草弥
樹々の記憶0001

      樹々の記憶を求めて ここは何処?
        自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた一連の一行である。
以前から何度も『樹々の記憶』から引用してきたので、この本について書かなければならないと思って、今回は、この本を採り上げる。
掲出した写真がカバー装丁である。写真は娘・ゆりから提供してもらった。
では、この一連を引用する。

  樹々の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処?地平線まで歩いてゆこう

月は動き続け波はうねり続け わたしは歩き続けよう

柔らかな言葉が織り成ししなやかな波が引いてゆく 夢ではない

時を紡ぐ糸から手を放し 道は一つ曲がり角ではよく考えて

新月に導かれるまま夢の森へと それが私の生き方になるかも

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い

私はどこから来たか 今ここにいる私という希望と自由

夢を約束できる人などいない 「時」は絶望を与えることもある

思い出されるのは楽しいことばかりではない 樹々の記憶は遠く

<日々これが己に輝く最後と信ぜよ>聖なる警句に従って生きよう


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エンヤ

この「樹々の記憶」という題名は、丁度その頃聴いていたアイルランドの歌姫・エンヤのCDのアルバムが 「The memory of trees」 というのであり、
そこから借用したものである。このアルバムの歌詞からも多くの示唆をえている。
厳密に言うと、エンヤのアルバムの場合、このアルバムに限らず、歌詞はニッキー・ライアンとその妻・ローマの力によるものが多いようである。
ケルトの旋律を世界中に知らしめたのは何と言ってもエンヤの力である。
エンヤの音楽は聴き手である我々に、深いイマジネーションを喚起する。
解説者によると、これは「ケルト的叡智」に発するものだと言ったりする。
アルバムに添えられた歌詞の原文を見ると、ケルト語(ゲール語)らしきものが書かれており、それらの響きが我々をケルト的な雰囲気にひたらせるのであろうか。
因みに、エンヤのことについて少し触れておく。

1962年にドニゴール州グウィードアに生れたエンヤは芸名を<enya>と表記するが、本名はEithne Ni Bhraonain と綴ってエンヤ・ニ・ブレナンと発音する。
Ni は~家の娘という意味を持ち、つまり「ブレナン家の娘エンヤ」というわけである。
エンヤの父親がパブをやっているとかで、先年アイルランドに行く機会があったので聞いてみたが、私たちのツアーのルートからは相当離れていて、無理だった。
このことは紀行文「タラの丘に還る─アイルランド紀行」にも書いた。

私の詩の、この一連は、およそ楽しい雰囲気のないものに終始しているが、この本を出した頃も妻の体調がよくなく、そういう私の憂愁が全体に流れている。
それに「自由というのは怖い」というようなフレーズは、その頃、自由律歌人と言われる人たちと付き合いはじめた私だが、
彼らの作品が詩としての「韻律」から遠いことに幻滅し、「自由律というのは詩としての韻律を離れれば、ただの散文になってしまうぞ」
という私からの強烈なメッセージをも秘めているのである。
だからこそ「自由というのは怖い」という表現になっているのである。
こういう私の発するメッセージに気づいてくれる人がいなくて、歯がゆい思いをしていた頃である。

エンヤの曲は書き物をしたりしている時にも、BGMのように流しながら物を書いても差し支えがなく、私の友人のフランス文学者のT君なども推奨していた歌姫である。
このエンヤのCDと私のこの本は、私の中で一時代を形作るものとして、私の中に深く根ざしている。





三井修『うたの揚力』・・・・木村草弥
三井_NEW

       三井修『うたの揚力』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・砂子屋書房2017/07/21刊・・・・・・・

私がいつもお世話になっている三井修氏の本である。
この本は、巻頭の「はじめに」という個所に書かれているように、砂子屋書房のホームページで「日々のクオリア」という一首評のページに2016年の一年間連載されたものである。
隔日執筆というハードな作業の成果である。
今は、こういうのが流行っていて、例えば「ふらんす堂」のものなどがある。ここは毎日執筆である。ここからもう何冊もの名著が誕生している。
採り上げられた作品は現代歌人の出来るだけ最近の歌集から引かれた。

2016/01/04の巻頭の歌は昭和20年3月の東京大空襲の歌

     逆立った髪の先から燃えてゆく裸になった白いろうそく     福島泰樹

2016/12/30の巻末の歌は

     時刻表は褪せて西日に読めざりき岬の鼻に待つ風のバス     永田和宏

記事の終わりには三首の歌を載せるという体裁である。

     無人駅となりて久しきホームには破れ目破れ目にをみなへし咲く

     日のあるうちに帰りきたればどうかしたのかと問ふ さうなのか

     いつの間に携帯の電池が切れてゐたそんな感じだ私が死ぬのは 


三井氏は今は短歌結社「塔」の選者をされている。そんな関係から前主宰の永田和宏の歌で、この本を閉められたのも、けだし的確なことだと思う。

もっと多くの紹介をしなければならないのだが、ほんのさわりだけ引いたことをお詫びしたい。
有難うございました。


私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・木村草弥
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      私は化粧する女が好きだ
         虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。
掲出の写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。
野草のように、どこにでも生えている花である。

  化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

女の体はお城である、中に一人の少女がかくれている

女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

旅をする風変りなドレスを着てみる寝てみる 腋の下を匂わせる女


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「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。
この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。 この人は先年亡くなった。




秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・藤原敏行
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     秋来ぬと目にはさやかに見えねども
        風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行


今日は「立秋」である。
この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。

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この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、
古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。

次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、
その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、
風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。
今日8月7日は立秋である。その日に因んで、この歌を掲げた次第である。




献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日・・・・木村草弥
2k_19mうなぎ丼

    献立(こんだて)は有季定型と鰻丼(うなどん)を
        妻は供しぬ土用丑の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は土用に入って二度目の「丑の日」である。この日には「うなぎ」を食べることになっている。
年によっては土用に二回「丑の日」があり、今年がそれで8月6日─今日なのである。
実は、7月25日が「初」丑の日だったのだが、他の記事を優先したので、今になった。

この歌はもう三十年以上も前の歌で私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
亡妻・弥生は俳句をやっていたので「有季定型」というのは、そこから来ている。定型という言葉には、季節の食事の「定番」という意味もこめてある。
この歌は私のWeb上のHPでもご覧いただける。
いつまでも亡妻でもあるまい、と思われるかも知れないし、また近年「中国産」のものに発ガン物質などの混入事件、産地偽装などがあって、
とかく「うなぎ」の評判が悪いが、今日の「丑の日」の記事として適当なものがないので、お許しを。
また稚魚の「しらす」の不漁などがあり値段も高くなったが、「うなぎ」好きの私なればこそである。

「土用」あるいは「丑の日」などの言葉は、「暦」に関係するもので、土用は二十四節気のもの。丑の日は十二支のものである。
深遠な暦法の話が、こうして、すっかり日本人の庶民の生活に溶け込んでいるのも微笑ましいことである。
mainひつまぶし

それよりも先ず、二番目の写真は名古屋地方で食べられる「ひつまぶし」という鰻丼の一種である。
セットになっていると結構高くて2000円くらいはする。中京圏ということで三重県でも出てくる。
名古屋は独特の生活慣習を持っているところで、うどんも「きしめん」という幅広のものが愛用される。
p000437うな重

三番目の写真は普通の「うな重」だが、このくらいの膳になると3000円~4000円は、する。肝吸いが付いていれば当然である。

ここで土用の丑の日に鰻が日を決めて食べられるようになったイキサツの薀蓄を少し。

江戸時代、何か鰻の食用増進に良い知恵はないかと、さる鰻屋が平賀源内に相談したところ、源内が「本日、丑の日」と紙に書いて店頭に張り出した、のがはじまりとされている。
土用の丑の日に消費される鰻の数は、物凄いもので、鰻屋としては平賀源内は神様みたいなものである。
この話には前段がある。「万葉集」に大伴家持の歌として

  石麻呂にわれ物申す夏痩せに吉(よし)といふものぞ鰻とり食(め)せ

という有名な歌がある。夏痩せに鰻が有効という、最古のキャッチコピーとも言えるが、平賀源内は、この歌を知っていたものと思われる。

私はウナギが好きで夏でも冬でも一年中食べるが、娘なんかは食べない。
20040701lうなぎ丼ピリ辛風

この頃では、いろんなウナギの食べ方があり、四番目の写真は「ピリ辛風鰻丼」というもので、実は某スーパーの広告に載っているもの。
ピーマンや赤ピーマンなども乗っている。ピリ辛というのだから唐辛子なども利いているのだろうか。

掲出した私の歌の一連5首を引用しておく。

       朱夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

    三代に憂きこともあれ古時計いま時の日に平成刻む

    缶を蹴る音からころと転がりて一学期終へて子ら帰りくる

    夏風邪に声出ぬといふ電話口この夏も娘(こ)は里訪はぬらし

    三伏の暑気あたりとて香水を一滴ふりて妻は臥しをり

    献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日
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土用の鰻を詠んだ句を引いて終りにする。

 土用鰻店ぢゆう水を流しをり・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 鰻食ふカラーの固さもてあます・・・・・・・・・・・・皆川盤水

 うなぎ食ふことを思へり雲白く・・・・・・・・・・・・稲垣晩童

 荒涼と荒川鰻裂いて貰ふ・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 まないたの疵曼陀羅や鰻割く・・・・・・・・・・・・百合山羽公

 うなぎ焼くにほひの風の長廊下・・・・・・・・・・・・きくちつねこ

 いのち今日うなぎ肝食べ虔めり・・・・・・・・・・・・簱こと

 うなぎひしめく水音朝のラジオより・・・・・・・・・・・・豊田晃

 一気に書く土用うなぎの墨太く・・・・・・・・・・・・吉田北舟子
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名古屋の友人の話によると、名古屋市内の某有名うなぎやさんは、土用の丑の日には、うなぎに感謝して、休業する、という。
私は初めて聞く話だが、そのうなぎやさんの心意気をよし、としたい。
あたら超繁忙期の日を棒に振って、うなぎに感謝するという何という心の優しい主人の哲学だろう。


ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/にんげんをかえせ・・・峠三吉
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 ↑ 峠三吉の遺稿「生」の自筆原稿
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   原爆詩集・序・・・・・・・・・・・・・・・・峠三吉

     ちちをかえせ ははをかえせ
 
     としよりをかえせ 

     こどもをかえせ

     わたしをかえせ わたしにつながる 

     にんげんをかえせ

     にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 
     くずれぬへいわを
 
     へいわをかえせ 

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ネット上に載る彼の経歴などを引いておく。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

峠 三吉(とうげ さんきち。1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、詩人。本名は、三吉(みつよし)。日本共産党党員であった。

生涯 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。

さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠町)で被爆。

敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務や雑誌『ひろしま』編集のかたわら、1951年(昭和26年)には「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を自費出版、原爆被害を告発しその体験を広めた。

1952年(昭和27年)、新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し入院することになり、持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意して、被爆から8年後の翌1953年(昭和28年)、手術を受けたがその際中に病状が悪化、14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。36歳没 。

峠の詩は、死後50年が経過し、著作権の有効期限が失効している。そのため様々な平和教材に引用されたり、ネット上で閲覧する事ができる。

峠三吉については ← この記事など、いろいろネット上に出ているので参照されたい。
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       心願の国・・・・・・・・・・・・・・・・・・原民喜

   濠端の柳にはや緑さしぐみ 雨靄につつまれて頬笑む空の下

   水ははっきりと たたずまい 私のなかに悲歌をもとめる

   すべての別離がさりげなく とりかわされ すべての苦痛がさりげなく ぬぐわれ祝福がまだほのぼのと
   向こうに見えているように

   私は歩み去ろう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに

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  ↑『原民喜詩碑』(平和記念公園 原爆ドームそば) 花の幻の詩碑  詩部分

「 碑銘 原民喜 
 遠き日の石に刻み 砂に影おち
 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 」

この碑銘は、遺書にも書かれていた詩で、最終行から、民喜の命日は花幻忌と呼ばれる。当初、広島城内にあったものが、現地に移設された。
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峠三吉と並んで、挙げておかなければならないのが原民喜である。
彼ら二人は「被爆詩人」として、短いながら、作品を通じて原爆の悲惨さと平和を今も世界に訴えている。
遺稿「心願の国」には佐々木基一への手紙と並び、U・・におくる悲歌として、このような詩を残している。

tamiki2原民喜
 ↑ 原民喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 民喜(はら たみき、男性、1905年11月15日 - 1951年3月13日)は、日本の小説家、詩人。

生涯 1905年11月15日、広島県広島市幟町に生まれる。陸海軍・官庁用達の縫製業を営む父原信吉の五男。11歳で父を亡くしたショックから極端な無口となり、兄・守夫と家庭内同人誌「ポギー」を発刊して詩作を始めた。またその頃死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、生まれ変わるような衝撃を受けた。
1923年広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属高等学校)四年を修了し、大学予科の受験資格が与えられた為に一年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同人雑誌『少年詩人』に参加する。
1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。1925年、辻潤、スティルネルに惹かれ、ダダイズムを経て、一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。1933年に慶應義塾大学英文科を卒業。卒論は「Wordsworth論」。相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られカルモチン自殺を図るが失敗する。

1933年、評論家佐々木基一の姉、永井貞恵と結婚。1935年、小品集『焔』を自費出版。1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の妻の発病により次第に作品発表数は減少した。1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」(1946年)などの作品を生んだ。

1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿する。それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調がおもわしくない状態が続く。原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞する。

1946年に上京。慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師をしながら、『三田文学』の編集に携わり、その間、遠藤周作をはじめ多くの後進を育てた。1947年12月、英語講師を辞す。1948年1月、『三田文学』の編集室のあった能楽書林に転居し、雑誌編集と執筆活動に専念。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた「鎮魂歌」(1949年)など一連の作品を残した。1948年6月、『近代文学』の同人となる。1950年、朝鮮戦争の勃発を見て詩「家なき子のクリスマス」を発表した。

1951年3月13日午後11時31分、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」。親しかった丸岡明は、原の自殺前後のことを小説「贋きりすと」に描いた。遺稿は「心願の国」。

原民喜は草野心平主催の『歴程』に参加し、多くの詩を創作、また童話も多数残した。
原は対人関係や日常生活において臆する幼児であったと形容されるが、「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)にみられるように、内部において強靭な意志を持った作家だという事が垣間見られる。

原民喜についても、このリンクを見てもらいたい。
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明日8月6日は1945年に広島に原子爆弾が投下された日である。
多くの人が倒壊した建物とともに即死し、生き残った人も被爆した「放射能」の後遺症で死んだり、ガンの発症などの苦しみに遭い、今も、それは続いている。
長崎とともに、このことは永遠に記憶されなければならないことである。
私が、敗戦記念の8月15日とともに「鎮魂」と「非戦の誓い」の八月と呼ぶ所以である。
また2011年には、三月十一日に地震・大津波と福島原発爆発事故が襲来し、大惨事となった。死者に対して哀悼の意を表するとともに、
原発廃止、エネルギー政策の方向転換を目指すべきだろう。 苦難の道は容易ではないが、前に進むしかない。


言葉には重さはないけれど愛には「肉体」という重さが必要です・・・・木村草弥
28キス?

     言葉には重さはないけれど 
       愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「愛」という一連のうちの一行である。
これはWeb上でもご覧いただける。
この一連を引いてみる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

自分たちにしか通じない言葉を持つのが恋人同士というものです

相合傘は世界で一番小さな、二人のための屋根であります

ビバ!恋のアンブレラ!この傘の下にいると二人は「はだかの王様」です

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です

愛は虚構です それはつかまえどころのないものだからです

愛は数えることも測ることも出来ません愛のお相手はみな様々です

「愛」を多く持つことの出来る人は心の財産目録の豊かな人です

今しみじみと不足するのは 愛ではなく愛にかかわる思想です

貞淑を失った関係はわびしいが貞淑をいつも必要とする関係はもっとわびしい

不条理とは人と神との葛藤 愛怨とは等身大の人間同士の葛藤です


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この一連も見方によっては「アフォリズム」と受け取られるかも知れない。
これを書いた頃、私の関心が、アフォリズム的な方向に傾いていたのかも知れない。
ここに掲出した写真は、いろいろ探した末に「間接表現」ながら、このキスの写真に落ち着いた。少しインパクトには欠けるが。





印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・木村草弥
namarikuzu04_b活字

     印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬ
        ハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に「言葉②」に載せたもの。

私は家業の商売のカタログの印刷などで印刷屋の仕事場に幼い頃から出入りしていた。
活字拾い(植字チョクジという)なども面白く観察していたりしたものである。
bunsen文選①

日本語の活字の場合には活字を拾う「文選」という工程が必要で、原稿に合わせて活字を木枠に拾ってゆく。
「植字」(ちょくじ)と独特な発音で、この工程を呼ぶ。これが済めば「組版」ということになる。

kessoku-han文選③

活版印刷の場合は、組み付けは平面であるから原稿の大きさに合わせて、どんどん組んでゆく。
試し刷りを経て本印刷にかかるわけだが、インクの載せ具合とか、いろいろ難しいものである。
印刷活字と紙の隙間の関係も微妙で、どこかの活字が飛び出ていると、その字だけ太く濃くなる。

sudare.case植字

漢字の活字は「部首」毎にまとめて分類して棚のケースに入っているのを拾い出すわけである。
私は6冊の歌集を出したが活版印刷は第二歌集『嘉木』までで、第三歌集からは、活版をやるところが無くなってコンピュータ写植になってしまった。
活版には独特の刷り上りの趣があって文人と呼ばれる人は、その手づくりの味を尊んだが、今では、もう仕方がない。

──アジアと活字の長い関係──
実はグーテンベルクよりも早く世界で最初の活字は中国や朝鮮で生れている。
しかし、アジアに広く広まることはなく、活字文化がアジアで花ひらくのは500年後、ヨーロッパから最新の活版印刷技術が渡来してからのことである。


活字は中国ではじまった
作られた年代がハッキリしている世界最古の印刷物は、法隆寺に伝わる『百万塔陀羅尼』(760年代後半)と言われる。
この技術は中国からの輸入であろう。東アジア文化圏の中で、中国は最も早くから印刷が発達していたからである。
それは中国には拓本や押印の習慣があったからである。これは技術的には木版印刷と共通のものと言える。
その後、唐代(618~907年)にはお経や暦、占いの本などが木版で刊行された。
宋代(960~1279年)には科挙の制度のために受験参考書なども多数出版される。
活字の発明は11世紀半ば、畢昇が膠泥を用いて陶製活字を作ったのが最初とされる。
13世紀末には王禎が木活字を作成し、1313年に刊行した『農書』で、その様子と考案した活字を納める回転式の台について触れている。
明代(1368~1644年)には畢昇の方法を受け継いで銅活字が生まれ、清朝の康煕(こうき)帝の治世(1661~1722年)以降、
これを用いて中国最大の百科全書『古今図書集成』が印刷された。

朝鮮で金属活字が花ひらく
中国の活字文化は隣国の朝鮮に伝わり花ひらく。
14世紀末以降には木、銅、鉄、鉛など、さまざまの素材の活字鋳造が太宗、成宗の時代には合計300万本以上が鋳造された。
科挙制度を推進し、抑仏崇儒の政策を採った太宗には、儒教教典などを整備する必要があったのである。
写真④が朝鮮の金属活字である。
3-04朝鮮王朝の活字

しかし1592年以降、2度にわたる豊臣秀吉の侵攻により、大量の活字と技術者を奪われて衰退する。
荒廃の中から立ち上がった朝鮮印刷の伝統は17世紀後半の顕宗時代に金属活字が復活する。
1680年~1800年頃にかけて、明朝体の美しい印刷本が多数上梓され、近世の朝鮮印刷文化の精華とされている。

西洋印刷がやってきた
16世紀の中国の銅活字は朝鮮の影響が強いが、その頃、イエズス会によって西洋印刷術が伝来するが、
宣教師たちの布教活動には中国伝統の木版印刷が適していると判断され、西洋の金属活版術は広まらなかった。
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以上、東アジアの印刷術について書いたが、ここで私の第三歌集『樹々の記憶』の中の「言葉①」の一連の歌を引いておく。
これらはWeb上でもご覧いただける。
これは一行づつの歌としてではなく、一連の詩として鑑賞してほしい。

   言葉 ①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

言葉を友にしたいと思った あれは一人旅でのことだ

確かに言葉の肩をたたくこと、言葉と握手すること、は出来ない

だが言葉には言いようもない旧友のようななつかしさがある

「はじめに言葉ありき」人間は言葉と出会ったときから思想的である

人間は 一つの言葉、一つの名のためにさすらう動物だ

だから、ドラマで最も美しいのは、人が自分を名乗るときだ

人は言語によってしか自由になれない──言葉を言語へと高めよ

どんな桎梏からの解放も言語化されねば、ただの「解放感」に過ぎない

いまや標準語は政治を語る言葉に堕した、人生を語る言葉は方言しかない

例えば、平和という言葉を蒐集している人達は大量殺戮だってやってのける

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる



紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・岡本差知子
011紅蜀葵

      紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・・・・・・・岡本差知子

紅蜀葵(こうしょっき)は和名を「もみじあおい」という。
アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から咲きはじめ、9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。花は朝ひらいて夕方には、しおれる。
花の蕾だが、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いているものは、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。
この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

この花は私にも、ひとしお愛着のあるもので、下記のようないきさつがある。

   雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり・・・・木村草弥

   このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

これらの歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、病身の妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・・瀧春一

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子

 紅蜀葵常住はだかなる昼を・・・・・・・・臼田亜浪

 草にねて山羊紙喰(は)めり紅蜀葵・・・・・・・・飯田蛇笏

 紅蜀葵真向き横向ききはやかに・・・・・・・・花蓑

 沖の帆にいつも日の照り紅蜀葵・・・・・・・・中村汀女

 つま立てて跼む女や紅蜀葵・・・・・・・・星野立子

 紅蜀葵日に向く花の揺れて居り・・・・・・・・土方花酔

 紅蜀葵砂浴び鶏の寄りどころ・・・・・・・・田島秩父

 紅蜀葵子の見上ぐるに撓ひ咲く・・・・・・・・西森請子


山裾に蕎麦の畑の棄てられて開墾前の荒れ地に復る・・・・勝又祐三
thumb5蕎麦の花

     山裾に蕎麦の畑の棄てられて
           開墾前の荒れ地に復る・・・・・・・・・・・愛知県・勝又祐三


この歌は角川書店「短歌」誌2017年四月号の「題詠・蕎麦」に載るものである。
蕎麦には、秋蕎麦と夏蕎麦があり、秋蕎麦は夏に蒔いて10月頃に収穫、夏蕎麦は春に蒔いて夏に収穫するもの。
生育期間が短く、痩せた土地にも育つので、山間部や高原地帯などで栽培された。
季語の「新蕎麦」は、10月頃に収穫されたものを言う。
「蕎麦の花」は初秋の季語である。 八月七日は「立秋」なので、少し早いが、これを採り上げておく。

ソバというと詠われるのは専ら「食べるソバ」のことだが、植物としての蕎麦も顧みてもらいたい。 掲出画像には蕎麦の花を出してみた。
掲出の歌は、そんな蕎麦畑が耕作放棄されて元の荒れ野に戻ってゆく様を詠っていて哀歓に満ちている。
この欄に載る一連から少し引いておく。

   減反の政策の果て選ばれし蕎麦の白花田んぼを満たす・・・・・・青森県・赤坂千賀子

   蒔いて挽き打ちて食みたる蕎麦の味物なき時代は贅沢だった・・・・・・東京都・斎藤洋子

   出石の蕎麦は愉しや一人前五皿の蕎麦に薬味五種類・・・・・・東京都・大村森美

   年越しは利尻の昆布土佐節と湯浅の醤油戸隠の蕎麦・・・・・・大阪府・梶田有紀子

   十割の蕎麦粉で作りし短めの卓袱蕎麦はわが里のあじ・・・・・・香川県・玉井幸子

   松江にて八雲をたどりひと休み蕎麦湯の湯気にもヘルンの浮かぶ・・・・・・福岡県・松本千恵乃

   蕎麦といえば信濃追分分去れの蕎麦を食べたい妻と二人で・・・・・・茨城県・志賀和彦

   新蕎麦の辛味だいこん脳攻めぴりりとしまる午後の会議は・・・・・・神奈川県・大和嘉章

   蕎麦ずきの夫との暮し五十年されど今でもうどん派のわれ・・・・・・青森県・佐々木冴美

   厄年といへば厄年だつたなと年越しそばを食べつつ思ふ・・・・・・広島県・熊谷純

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POSTE aux MEMORANDUM(7月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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 ↑ 未央柳(びようやなぎ)

七月になりました。
梅雨が明けたら、輝く夏が始まります。


 月ほそくうすく見ゆるを子は言ひて獣あまた載る絵本をひらく・・・・・・・・・・・・・・・・・大口玲子
 三振りを五振りに七味で気合ひ入れ狐も狸もわれも目覚めよ・・・・・・・・・・・・・・・・・川野里子
 熊鷹の一羽を鴉の群れが追ふ集団的自衛権の行使かあれは・・・・・・・・・・・・・・・・真鍋正男
 耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉川宏志
 逝く秋に読み返したる一冊の『白痴』は遠き回転木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎
 さはあれど比喩は間接の域を出ずまして暗喩は奢りが臭ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・来嶋靖生
 風渡る聖河のほとり人と人睦みて大悲分けあえるとぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷岡亜紀
 「安寧」の意味など今日は訊いてくる佐藤かおりに何がありしか・・・・・・・・・・・・・・・・森山良太
 糸吐きて繭を裡よりつくり出す蚕の声きこゆ夏白き昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜野ムツ
 立ちて百日紅坐りては見る千年紅われ息長にその紅を吸ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 エゾイチゲの花が咲いたと妻が言ひさうかと花を覗きにゆきぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄
 つと視野を過ぎし蛍のかの夜よりこの世を夢と思ひ初めにき・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 その身美しきこと知りゐるや知らざるや黒揚羽無心に舞ふ夏の朝・・・・・・・・・・・・・・ 石川恭子
 まさかそんなとだれもが思ふそんな日がたしかにあつた戦争の前・・・・・・・・・・・・・・永田和宏
 始めしは縄文人か奥久慈の炭火であぶる鮎の塩焼き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤ゆかり
 ごろすけほう あ、いや、ごろごろわあおおわ 俺が何者かなんてどうでも・・・・・・ 久我田鶴子
 小余綾(こゆるぎ)の急ぎ足にてにはたづみ軽くまたぎぬビルの片蔭・・・・・・・・・・・  阪森郁代
 かなしからずや殻の中まで蝸牛・・・・・・・・・・・・・・ 山田露結
 囀りやサラダの御代わりは自由・・・・・・・・・・・・・・・越智友亮
 緑蔭や脇にはさみて本かたき・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田哲史
 サングラスあたまひと振りして外す・・・・・・・・・・・・・山口優夢
 ががんぼは腕立て伏せして老いてゆく・・・・・・・・・・・・永井幸
 枇杷甘く合はせ鏡に溺れけり・・・・・・・・・・・・・・・・・外山一機
 急用のわたしが走る雉走る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 まなうらに新樹流れてひっそり寝息・・・・・・・・・・・・わだ ようこ
 平和な夢だ平和は夢だ鳴かぬ蝉・・・・・・・・・・・・・・・瀬川泰之
 つまみたる夏蝶トランプの厚さかな・・・・・・・・・・・・・・高柳克弘 
 水の面に蜂の垂り足触れにけり・・・・・・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 黒揚羽旅は罅より始まりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨田拓也
 全身を触覚にしてシャワー浴ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・ 北大路翼
 夏橙その手ざわりの過去を言う・・・・・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 屋根裏に蛇這う音の昭和かな・・・・・・・・・・・・・・・・奥山津々子
 蕗十杷漬け置く桶の水の色・・・・・・・・・・・・・・・・・・五十嵐義知
 モナリザの微笑の先の水羊羹・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢野玲奈
 夏木立つばさもちちふさも楽器・・・・・・・・・・・・・・・・・中村安伸
 避暑家族鳥とも違ふ会話して・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中亜美
 大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・佐々木香代子
 耳朶染まる多肉植物むんむんと・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 こゑふたつ同じこゑなる竹の秋・・・・・・・・・・・・・・・・ 鴇田智哉
 撫でるごとトマト湯むきす子は遠し・・・・・・・・・・・・・・森岡佳子
 さざなみ今もすこしずつ砂になる・・・・・・・・・・・・・・・・・高梨章
 恋愛が模型の丘に置いてある・・・・・・・・・・・・・・・・・福田若之
 岩礁の苔のぬめりの深き夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石井薔子
 山の蛾のひとり網戸に体当たり・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山田仁
 あられもなき五体ありけり大夕焼・・・・・・・・・・・・・・・・ 秦夕美
 軍艦島かごめかごめでいなくなり・・・・・・・・・・・・・・ 河西志帆
 白極む父のようなるアマリリス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乾志摩
 スカートの影も軽やか更衣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・盛蓉子
 淋しさの色もいろいろ濃紫陽花・・・・・・・・・・・・・・ 藤原千賀子
 独りもいい紫陽花に降る雨の音・・・・・・・・・・・・・・・ 桑田佳穂
 古書店で紙魚になってるお父さま・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 明易や絶滅危惧種南無阿弥陀・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿 


ご来訪くださいまして有難うございます。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
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 日本国憲法九条
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童話読むことも看とりや遠花火・・・・及川貞
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    童話読むことも看とりや遠花火・・・・・・・・・・・・・・・・・及川貞

夏の風物詩と言えば、何といっても「花火」だろう。花火は何となく「はかない」。
それは華やかにパッと咲いては消えてゆくからである。

この句を見て思い出すことがある。
亡妻はガンとの闘病で末期には、うつらうつらと夢幻のうちに寝ていることが多かったが、私は傍で本などを読んでいたが、一週間に一晩だけ次女が付き添いを替ってくれた。
次女は妻に本の「読み聞かせ」をしたらしい。 
だから妻は「あなたは自分だけ本を読んでいるが、次女は本の読み聞かせをしてくれる」と苦情を言った。
掲出の及川貞の句は、恐らく病気の子供に童話の読み聞かせをしている景だろうが、その連想から、こんなことを思い出した次第である。

花火という季語は元来は秋のものであったというが、やはり夏がふさわしく、今では夏の季語として定着している。
花火大会というと昔から東京の隅田川の両国の花火大会が有名でカギヤ、タマヤという花火師がいたらしく、花火が揚がるたびにタマヤ、カギヤの掛け声がかかったという。
tamura花火①

関西では、PL花火大会、琵琶湖花火大会、7月25日の天神祭の後、8月はじめに大川で挙行される花火大会などが有名である。
花火は火薬を使用するので花火師に危険は、つきものである。
今ではテレビなどの映像で知るだけでも、みんな会社組織になっている。国際的に活躍している人たちも多い。
日本の花火は一つ一つが芸術的に出来ているが、外国のものは数にまかせて一度にたくさん打上るものが多い。
日本の二尺玉、三尺玉などの単発の芸術作品もいいが、外国の数で押す手法と混合するのも、よいのではないか。
20000914_099_99n花火

ここに掲げた写真は、いずれもWeb上から拝借したものだが、これだけ鮮明に花火を撮るのは難しい。これらの写真は、よく撮れている。
ootutu②尺玉打上筒

四番目の写真には「尺玉打上筒」の説明がある。私は初めてお目にかかるもので、その大きさに改めてびっくりする。
今では打上げはコンピュータ制御で操作するらしいが、その制御に至る準備が大変だろう。
昔は打上げの際の爆発事故で目や手足を損傷した花火師もいた。今でも花火工場の爆発事故などもある。
打上げの際の華やかさに比べて、花火の製造や準備は地味なもので、ご苦労が偲ばれる。
であるから、花火を見る際には、それらのご苦労に対して、一瞬でも心を致したい。
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以下、花火を詠んだ句を古今を通じて引いてみたい。

 小屋涼し花火の筒の割るる音・・・・・・・・・・・・宝井其角

 物焚いて花火に遠きかかり舟・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 宵々の花火になれて音をのみ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 空に月のこして花火了りけり・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 子がねむる重さ花火の夜がつづく・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 ねむりても旅の花火の胸にひらく・・・・・・・・・・・・大野林火

 花火あがるどこか何かに応へゐて・・・・・・・・・・・・細見綾子

 半生のわがこと了へぬ遠花火・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

 黒き蔵王全し花火一瞬に・・・・・・・・・・・・杉本寛

 犬の舌したたかに濡れ揚花火・・・・・・・・・・・・荒谷利夫
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五番目の大野林火の句だが、私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)の中で、「辞世」①というコラージュ風の作品として

「ねむりても旅の花火の胸にひらく」冬の花火ってさみしくていいもんだよ・・・・・・・・木村草弥
                 *大野林火

という歌を作ったことがある。こういうコラージュの手法は絵画の世界では市民権を得ているが、歌の世界では、なかなか理解を得られず苦労した。

少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・・木村草弥
010704aokanabun1アオカナブン

    少年は樹液饐(す)えたる甘き香を
        にほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくもので、私の歌は、そんな少年の情景を詠んでいる。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。
虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。
水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

040629miyamaミヤマめす

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。
(昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。
その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。
蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、
いくつもあった。日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
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五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。
そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。
クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
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虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

   沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我
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新潮社の読書誌『波』2004年8月号の連載コラム「猫の目草」103回で、日高敏隆氏が「カブトムシたちの苦労」というのを書いてらっしゃる。
それを読むと、交尾の済んだカブトムシの雌は卵を生みつける手ごろな「腐葉土」を見つけて産卵すると、雌の一生は終る。カブトムシの幼虫は腐葉土を食べて育つ。
カブトムシと並んで子供たちの関心の的であるクワガタムシは、親はカブトムシと同じく樹液を唯一の食物としているのに、どういうわけか朽木に産卵し、幼虫は朽木を食べて育つ。朽木により腐り方がいろいろあり、クワガタムシの種類によって好みも違うが、総じて朽木は腐葉土に比べて栄養価がずっと低い。だからクワガタムシの幼虫が親になるには、少なくとも2、3年はかかる。けれど、その代わり、親は、カブトムシと違って2年以上生きられる。同じ樹液に集る虫なのに、カブトムシとクワガタムシは、まるで違った一生を過ごしているのである。
──こんなことは、今はじめて知ったことである。自然は一面、公平なところがあるのだ。
感心して追記しておく。

この記事を元にして『愛の寓意』(角川書店)に「樹液と甲虫たち」の題名で載せた。

アンソロジー『詩と思想詩人集2017』所載「あなたの名前どう訓むの」・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(88)
    
       あなたの名前どう訓(よ)むの? ・・・・・・・・・・・・木村草弥
        ・・・・アンソロジー「詩と思想詩人集・2017」所載2017/08/31土曜美術社出版販売刊・・・・・・

            あなたの名前どう訓(よ)むの?    木村草弥

       (先生) ご入学おめでとう!
    皆さんの名前を読み上げるのに必要だから
   「読み方」を教えてください
    山川心桜さん
      (生徒) 「やまかわ こころ」です
      (先生)  ハイわかりました。
    (ひとり言つぶやく) 「桜」の字は読まないわけね。
   読まないのなら余計な桜の字をつけるな。
      (先生②) この字は二〇一六年の女の子の名前
        トップです。「ここあ」と読ませる例もあります。
      (先生)  ほう。 では次。
    佐藤奏人くん
       (生徒)  「さとう たくと」です
      (先生)  ハイわかりました。
    (ひとり言つぶやく) 奏(かなで)るから「タクト」ですか。
     連想ゲームですな。
    では次。
    鈴木大和くん
      (生徒)  「すずき ひろと」です
      (先生)  ハイわかりました。
        (ひとり言つぶやく) 昔は大和(やまと)だったのにな。
      (先生②) 「やまと」と読ませるのも多いですよ。
        この名前は二〇一六年ベストテンに入ってます。
      (先生)   では 横山杏さん
      (生徒)  「よこやま いちご」です
    (先生) (ひとり言つぶやく) エッ。(絶句)
    杏(あんず)を苺と訓(よ)むのか。似て非なる植物なのに。
            これもベストテン入りなのか。
    では次。
   片山柊希くん
      (生徒)  「かたやま しゅうき」です
       (先生)  ハイわかりました。
        (ひとり言つぶやく) これは、まっとうだな。
    これもベストテン入りの名前だというのか。
    もっとも柊(ひいらぎ)なんて地味な植物を知ってるのか。
    棘のある葉っぱの植物だが、
    節分には鰯の頭を刺して戸口にかざす風習がある。
    有名な歌人に宮柊二(みやしゆうじ)という人が居た。
    北原白秋邸に住み込み門下生となったが復員して戦後、
    短歌結社「コスモス」を主宰し大結社に育てた。
    目覚むれば露光るなりわが庭の
         露団々の中に死にたし     宮柊二

    あと先生はクラス全員の名前の訓(よ)みを覚えた。
    そして珍妙な「宛て字」の名前の連続に疲れ果てた。
    やれやれ。

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「詩と思想」編集部から、かねて出稿要請のあった原稿を、既に提出済みだが、本日付けで刊行されたので出しておく。
今どきの子供の名前の付け方には多大の疑問が提出されている。 この機会を捉えて一石を投じる意味で詩にしてみた。いかがだろうか。



空蝉は靡ける萱にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・木村草弥
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    空(うつ)蝉は靡ける萱(かや)にがつしりと
        すがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


先日のBLOGの中で、蝉の抜け殻(うつせみ)について少し触れたので、今日は空蝉を詠った私の歌を載せる。
写真の蝉はアブラゼミかと思う。
二番目の写真から三枚つづけてアブラゼミの羽化の様子を載せる。
ll0021.kuma羽化①

二番目の写真は地中から這い出てきて、羽化するために足場をがっしりと固めた様子。
地中から這い出て来るのは目撃者によると夜8時頃からという。
羽化の途中は蝉の肌も弱く、敵に襲われたら一発でアウトなので慎重らしい。
羽化に失敗するのが、いくつもあるらしい。
一番目の写真のように葉っぱにすがって羽化するのもあり、地中から出て来た環境なりに羽化する足場を探すらしい。
いよいよ羽化がはじまり、幼虫の背中が割れて蝉が外に半身を乗り出した様子。
ll0031.kuma羽化②

この姿勢から下の方にのけぞり、全身が外に出た後、足で殻に捕まって、のけぞり姿勢を正し、ゆっくりと時間をかけて羽や全身を伸ばす。
羽にも血液が流れ、蝉の成虫の羽の大きさと色になってゆく。
この姿勢の時間は一晩をかけて、ゆっくりと行われる。
こうしてアブラゼミならアブラゼミなりの大きさと色に変わってゆくのである。
昆虫の場合には「変態」という用語を使うこともあるが、蝶や蝉など羽が生えて空を飛ぶものには「羽化」という言葉がふさわしい。
ll0011.kuma羽化③

四番目の写真では、羽化が終った蝉が抜け殻から離れたところに静止しており、右側に抜け殻が見えている。
写真で見るかぎり、まだ体の色はアブラゼミにはなり切ってはいない。
朝になれば羽化した蝉は餌(樹液など)や配偶者を求めて飛び立たなければならないから、それまでに全身を成虫の体にしておかなければならない。
蝉の成虫の命はせいぜい10日か2週間と言われている。
地中で木の根から樹液を吸って生きる数年の期間のことを考えると、誠にはかない命と言うべきだろう。
その故に日本人は古来から多くの詩歌に詠んできたのである。
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以下、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る一連の歌を引用する。
これらはWeb上のHPでもご覧いただける。

    青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   別離とは白き紙かも夏逝くといのちの影をうつしてゐたり

   かるかやにすがりて羽化を遂げし蝶あしたの露にいのち萌え初む

   空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ

   青蝉は野仏の耳をピアスとし脱皮の殻を残しゆきけり

   野仏の遠まなざしのはたてなる笠置山系に雲の峰たつ

   <汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ

   ひたすらに地に生くるもの陽炎(かぎろ)ひて蟻の行列どこまでつづく

   罪いくつ作り来しとは思はねど差しいだす掌(て)に蟻這はせをり

   蟻の列孜々(しし)と励みし一日は日の昏れたれば巣穴に戻る

   呵責とも慰藉(いしゃ)ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は

   翔べるものわが身になくて哀しめば蜻蛉(あきつ)は岸の水草を発つ

   身も影もみどりとなりて畦(あぜ)渉る草陽炎の青田つづける

   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ


睡蓮の咲くも閉づるも夢寐のうち和上の言ひし朱き蓮よ・・・・木村草弥
a0019858_2277睡蓮②

    睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち
       和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。しかし自選の中には収録していないのでWeb上ではご覧いただけない。
掲出した写真の一番目、二番目のものは、いずれも「睡蓮」であり、素朴な可憐な蓮である。フランス人画家・モネの絵も、この蓮である。
a0019858_22541睡蓮

蓮には多くの種類があり、花を観賞するだけでなく、食用の「蓮根」として地下茎の部分を極端に太らせる品種改良したものなど、さまざまである。
鑑賞用の蓮にも古代の蓮「大賀蓮」のように古代の古墳から出た蓮の種から発芽させたものなど色々ある。
私の住む辺りは昔から地下水が豊富に「自噴」する地域として、その水を利用した「花卉」(かき)栽培が盛んで、
海芋(かいう)──カラーや、花菖蒲などが栽培されるが、これからのお盆のシーズンの花として「花蓮」が水田で栽培され、
夏の強い日差しの中にピンクの鮮やかな花を咲かせる。
a0019858_194529花蓮②

a0019858_191621花蓮

もちろん商品として出荷するものは「つぼみ」のうちに切り取り、葉っぱも添えて花市場に出荷される。
摘採は太陽のあがる前の早朝の作業である。月遅れ盆の8月上旬が出荷のピークであり、この時期には臨時に多くの人を雇って、早朝から作業する。

私の歌に戻る。
作歌の場面は、奈良の唐招提寺である。説明する必要もなく一連の歌の中に詠み込んであるので、歌を見てもらえば判ることである。
唐招提寺の一連の歌は「夢寐」と題して詠んでいる。
「夢寐」は、漢和辞典にも載るれっきとした熟語で「寐」=「寝」の字に同じである。
その後に引続いて「西湖」と題する一連から蓮に関するものを引用しておく。
いずれも『嬬恋』(角川書店)に載るもの。

    夢寐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

   睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ

   くれなゐの蓮は鑑真のために咲き朝日さしたり安心(あんじん)の池

   結跏趺坐和上のおはす堂の辺の蓮に朝(あした)の日照雨(そばへ)ふるなり

   <蓮叢を出て亀のゆく苦界あり>さわさわと開花の呼吸整ふ
           *丸山海道

   くれなゐの蓮群れ戯(そば)ふ真昼間の風はそよろと池を包みぬ

   睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたび過(よ)ぎる

      西湖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   <睡蓮の中に西施が舫(もや)ひ舟>西湖の蓮にわれ逢ひ得たり
               *堀古蝶

   睡蓮の花閉ぢむとして水曇る金色の夕べ波立ちゆらぐ

   睡蓮にぴりぴり雷の駆けゆけり花弁をゆらし騒だつ水面

   声明(しやうみやう)に湖の明けゆく水面には岸にむかひて日照雨ふるなり

   てのひらに蓮の紅玉包みたし他郷の湖を風わたりゆく

   湖に真昼の風の匂ふなり約せしごとく蓮と向きあふ

   手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭(よ)りゐつ

   戻り来しいのち虔(つつ)しみ菖蒲田を妻と歩めば潦(にはたづみ)照る
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「日照雨」(そばえ)とは、陽が差しているのに小雨がはらはらと降ること。別名「きつねの嫁入り」などという。
「潦」(にわたずみ)とは俄か雨などで一時的に出来た水溜りのこと。




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