K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
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東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
sizen266カタツムリ

六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。


 燕飛ぶ夕まぐれこの幸福は誰かを犠牲にしてゐるならむ・・・・・・・・・・・・・・・・大崎瀬都
 店先のあをき
榠樝の量感をながめをりけふの想ひのごとく・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 虹をくぐるための切符 にぎりしめた掌すこし汗ばんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡亜紀
 生誕をことほぐべしとクリムトは初めて全裸の妊婦を描ける・・・・・・・・・・・・・・・・・ 篠 弘
 をりをりに風の集へる欅の木ざわと出て行く先は知らない・・・・・・・・・・・・・・・・・香川ヒサ
 「鳥の歌」パブロ・カザルス 若き耳には届くなかりしこの弦の音や・・・・・・・・・・三枝浩樹
 曇天をひるがへり飛ぶつばくらの狂ふとも見え喜ぶとも見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・ 松阪弘
 いつかこの古代湖は海につながるらしい水底に秘す一切とともに・・・・・・・・・・・・・林和清
 遠目には桐かあふちかふぢの花いづれかいづれかすむむらさき・・・・・・・・・・・ 沢田英史
 食べるまへも食べても独り わたくしに聞かせるために咳ひとつする ・・・・・・・・永田和宏
 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 むせかえる青葉の樹下を行くならば一気に過ぎよ老いてしまうから・・・・・・・・・・佐伯裕子
 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下泉
 かき上げるしなやかな指はつか見ゆ風が大樹の緑の髪を・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 ペン胼胝の消えたる指がうれしげに操るならねノート型バイオ・・・・・・・・・・・・・久我田鶴子
 土に手をよごして夏の草を引く短歌をつくるよりかひがひし・・・・・・・・・・・・・・・・・阪森郁代

 赤富士に鳥語一時にやむことあり・・・・・・・・・・ 富安風生
 航跡に碧湧き出す朝曇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 表情で伝へ合ふなり夏野菜・・・・・・・・・・・・・・・・加藤御影
 身一つの勝負に出たラムネ玉・・・・・・・・・・・・・・栗山麻衣
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 走り梅雨コンビニの傘よく売れる・・・・・・・・・・・・工藤定治
 星条旗の下に広がる麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・杉原祐之
 うららかに蟻を潰してゐるあなた・・・・・・・・・・さわだかずや
 溢れゆく梅雨の匂いや犬が死ぬ・・・・・・・・・・・・・大中博篤
 ゆふぞらの糸をのぼりて蜘蛛の肢・・・・・・・・・・・・上田信治
 夏雨のあかるさが木々に行き渡る・・・・・・・・・・・・生駒大祐
 文学に夏が来れりガルシア=マルケス・・・・・・・・・赤野四羽
 声帯のゆつくり延びる苗木市・・・・・・・・・・・・・・五十嵐秀彦
 あやめ咲く箱階段を突き上げて・・・・・・・・・・・・・・八田木枯
 蝸牛二段梯子の先頭に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森島裕雄
 青梅雨や部屋がまるごと正露丸・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
 初燕来てをり君も来ればよし・・・・・・・・・・・・・・・・相子智恵
 新緑や愛されたくて手を洗う・・・・・・・・・・・・・・・・ 対馬康子
 Tシャツで十七歳で彼が好き・・・・・・・・・・・・・・・降矢とも子
 青梅雨や電車の隅に目をつむり・・・・・・・・・・・・・冨田拓也
 万緑やどの木ともなく揺れはじむ・・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 初蚊帳のしみじみ青き逢瀬かな・・・・・・・・・・・・・日野草城
 麦の秋ゴホは日本が好きであった・・・・・・・・・・・京極杞陽
 影が私を見守るふるさと・・・・・・・・・・・・・・・・・大久保さく子
 夢の中まで遠い国のテロル・・・・・・・・・・・・・・・・・平山礼子
 のれん押し上げて客は初夏の風・・・・・・・・・・・・・富永順子
 あれこれ忘れて生きたふりする・・・・・・・・・・・・阿部美恵子
 私の墓場に蝶が来ている・・・・・・・・・・・・・・・・・・野村信広
 もう母でない母と座っている・・・・・・・・・・・・・・・・・島田茶々
 拭いても磨いても老いていく鏡・・・・・・・・・・・・・・・富永鳩山
 夕暮れがもっと一人にする・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中亜美
 順風も逆風も鳴り分けている風鈴・・・・・・・・・・・平田キヨエ
 初蝶やくの字くの字で飛ぶ一歩・・・・・・・・・・・・・・・ 盛蓉子
 筍梅雨空のこころになりがたし・・・・・・・・・・・・・・・・ 乾志摩
 円空は作仏聖よ風薫る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山田郁子
 ここもまた空き家となりし花十薬・・・・・・・・・・・・・ 桑田佳穂
 紫陽花はロココ調です六分咲き・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子 
 奇数日をわすれてしまう麦の秋・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿 


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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

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 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
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ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)─再掲載・初出2011/06/26(再掲載にあたり構成し直しました)

      ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。

「黄金のエルサレム」 (英語字幕つき) ← クリックして聴いてください。

↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十九年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

  1番
  山々の風はワインのように冷ややかで、松のにおいが
  夕方の風に乗って太鼓の音と共に漂っていく。
  そして木も石もまどろんで夢の中に休むとき、
  ただ一人立つこの町は城壁の中にある。
  (繰り返し)黄金のエルサレムよ、そして銅と光の町よ、
  貴方にとって私は竪琴でありたい。

   2番
  水ためはどこへ行ったのか、市場は廃墟のようだ。
  そして誰も古代の都市エルサレムにある神殿を散策しようとしない(できない)
  岩山の洞窟では風がうなりを揚げ(るだけ)、
  そしてジェリコを通って死海に下る者は誰も居ない。

   3番
  ああ、あなた(エルサレム)の歌を歌う日が来たときに、そしてあなたに王冠をかぶせるときに、
  私はあなたの子供の中でもっとも若い者よりも小さくなり、あなたの歌い手たちの最後尾につきたい。
  さもなくば、あなたの名前が、天使の口付けで私の唇を焼き尽くしてしまう
  もし私が、全てが金のあなた、エルサレムを忘れることがあるとしたら。

   4番
  我々は水ためへ、そして市場に、野原に帰ってきた
  つのぶえは神殿の丘に、古代の町(エルサレム)に、響き渡る。
  そして岩山の洞窟には、何千もの太陽が昇り輝き、
  私たちはジェリコの道を通って、死海へと戻り下っていく。

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この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
「アラブの春」ともてはやされた各国の革命も、その後の推移を見ると、期待外れの観が多い。
政権を取った為政者が強権的な支配を進めることが多く、化石燃料から来る収入も一般庶民には「富」として配分されず、一部の人が恣意的に独占している。
一般庶民は貧しいままで、物価だけが値上がりしているらしい。

イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を亡くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。




枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・秋篠光広
biwa004びわの実②

    枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・・・・・・・秋篠光広

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。
高級品は薄い紙に包まれていたりする。

枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。
寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。
肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、
と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・石塚友二

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



藤目俊郎撮影「モジズリ」の画像・・・・木村草弥
モジズリ400本

──藤目俊郎画像集──(7)

      藤目俊郎撮影「モジズリ」の画像・・・・・・・・・・・・・木村草弥

藤目氏のメール文。  ↓
<20日夜から翌朝にかけての大雨で、ネジバナ(モジズリ)は一気に増えました。
  22日見に行くと、390本ありました。数えるのに夢中で写真を撮り忘れました。
  今日23日写真を撮りに出かけました。さらに増えている様子でしたが、もう数えませんでした。>



完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・菅八万雄
aomuhan青大将

    完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・・・・・・菅八万雄

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。
語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
e0113053_2119718シマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは「まむし」(蝮)、「やまかがし」である。 沖縄には「はぶ」が居る。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。
この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。
雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。
だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・高浜虚子

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三

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f-yamakagasi04ヤマカガシ
 ↑ ヤマカガシ

「Wikipediaヤマカガシ」に詳しい。  写真で見る「赤い斑点」が不気味である。「まむし」と並んで毒蛇だと言われている。




ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・木村草弥
img_1602294_50211404_0ポンタヴァン トレマロ礼拝堂
 ↑ トレマロ礼拝堂
E38388E383ACE3839EE383ADE7A4BCE68B9DE5A082トレマロ礼拝堂
 ↑ 礼拝堂 背面から
lrg_10163633黄色いキリスト磔刑像
 ↑ 黄色いキリスト磔刑像

──巡礼の旅──(11)─再掲載・初出2013/06/27

     ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス北西部、ブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァン。
村はずれの山道を上りつめると、この地方独特のどっしりとした石造りの礼拝堂が見えてくる。
森の中でひっそりと佇む礼拝堂の中に、その「黄色いキリスト磔刑」像がある。

ポール・ゴーギャンが、辺境の地ブルターニュを初めて訪れたのは1886年。
産業革命で近代化著しい大都会パリに疲れた多くの芸術家たちは、対極的なものを求めてブルターニュにやってきた。
そこには昔ながらの田舎の風景があり、フランス人の起源─ケルトの文化が息づいていたのである。
女性は黒いスカートに「コワフ」という髪飾りをつけており、その姿は、いくつかゴーギャンの作品の中で見ることが出来る。
もともと株の仲買人をしていた彼は、印象派の影響を受けて画家への道に踏み出したのだが、彼の作品が三度にわたるブルターニュ滞在で徐々に印象派から脱してゆく。
そして太い輪郭線で区切った中に平坦な色合いで構成する独特の様式を確立してゆくことになる。
カトリック信仰が色濃く残るブルターニュで、ゴーギャンがキリストの受難や聖書の物語、そして「黄色いキリスト」を題材に描いたのも自然な選択だった。
gauguinゴーギャン 黄色のキリスト像といる自画像
 ↑ 「黄色いキリストと居る自画像」
lrg_10271563黄色いキリスト 拡大
 ↑ 別の「キリスト磔刑像」の絵

ブルターニュ滞在を含む四年間で、ゴーギャンはさまざまな画家と交流し、パナマへも旅をし、やがて未開の地への憧れを抱くようになる。
ここに引いた「黄色いキリストと居る自画像」はオルセー美術館所蔵のもので、1891年、終焉の地となるタヒチに旅立つ数か月前の作品である。

ここは今でも画家の村として有名なところ。
なお本によると「ポン・タヴエン」と書かれていることがあるが、ポン・タヴァン(Pont-Aven)がフランス語としては正確であることを指摘しておきたい。
この地の写真を載せておく。
061101_copyポンタバン①
061102_copyポンタバン②
061104_copyポンタバン③
紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・川崎展宏
ajisai40アジサイ

    紫陽花に置いたる五指の沈みけり・・・・・・・・・・・・・・川崎展宏

「紫陽花」の時期としては6月中旬が最盛期で、今日では少し時期を失しているかも知れない。
何といってもアジサイは梅雨の花である。
あじさいの「あず」は集まる、「さい」は真藍の語からきたもので、古語ではアズサイと呼んだ。
落葉低木で、もともとは日本の山野に自生していたガクアジサイから改良されたものという。
ajisai30アジサイ

ajisai7紫陽花③

庭園や寺院などの鑑賞植物として梅雨期の花として、おおらかに、みづみづしく咲くものとして目立つ存在である。
わりに花期が長くて、小さくて多い四弁の花を、毬状に群がって咲かす。花弁に見えているのは「萼(がく)」で、花はその中で細かな粒になっている。
白、淡緑、紫そして淡紅色と花の色が変化するので「七変化」と称される。
花の色が変わるのはフラポン系の物質が変化するためと言われている。
また植えられている土が酸性かアルカリ性かによって花の色が左右されるという。
日本の山野に自生していたガクアジサイを西洋に持って行ったのはシーボルトだと言われるが、
これが西洋で品種改良されて、こんにち我々が目にするさまざまの園芸種の西洋アジサイになったという。
今ではヨーロッパでもアジサイはすっかり定着してしまったらしい。
「万葉集」には、左大臣橘卿の

  あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ

という歌の他に1首が載っている。

私の住む近くでは西国三十三ケ所霊場巡りの札所でもある宇治市の三室戸寺が広い庭園の木の下に何千本ものアジサイを植えて有名である。

俳句にもたくさん詠まれているので、少し引いて終わりたい。
写真④はガクアジサイである。
ajisai27ガクアジサイ
 
 紫陽花や帷子(かたびら)時の薄浅黄・・・・・・・・松尾芭蕉

 紫陽花に雨きらきらと蝿とべり・・・・・・・・飯田蛇笏

 ゆあみして来てあぢさゐの前を過ぐ・・・・・・・・山口誓子

 紫陽花やはかなしごとも言へば言ふ・・・・・・・・加藤楸邨

 あぢさゐの花より懈(たゆ)くみごもりぬ・・・・・・・・篠原鳳作

 あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦・・・・・・・・石川桂郎

 あぢさゐは初花のうすいろにこそ・・・・・・・・松村蒼石

 大仏の供華鎌倉の濃紫陽花・・・・・・・・百合山羽公

 紫陽花の真夜の変化はわれ知らず・・・・・・・・鈴木真砂女

 紫陽花の醸せる暗さよりの雨・・・・・・・・桂信子

 紫陽花や家居の腕に腕時計・・・・・・・・波多野爽波

 あぢさゐや逢はばすずしくもの言はむ・・・・・・・・細見綾子

 紫陽花を買ふ夕暮の河の色・・・・・・・・有馬朗人

 紫陽花や恋知らぬ間のうすみどり・・・・・・・・林翔

 紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る・・・・・・・・津田清子

 絹の服着なじむ午後を日の四葩(ひら)・・・・・・・・鍵和田釉子

 父の日の紫陽花ふかく切られけり・・・・・・・・日下部宵三

 考へのまとまりかかり濃紫陽花・・・・・・・・成瀬正俊



どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・角川源義
img70合歓の花本命

     どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が三本ある。
ネムの花は、これからが丁度、花どきである。
この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。
落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。
そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川源義も俳人だったが、「角川書店」の創業者として著名な人である。

芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
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 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・・・・・角川春樹

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
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私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。
もう十数年以上も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。


村島典子の歌「渡嘉敷行」40首・・・・・木村草弥
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──村島典子の歌──(30)

      村島典子の歌「渡嘉敷行」40首・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・「晶」98号2017/6所載・・・・・・・

         渡嘉敷行・・・・・・・・村島典子

  ふはふはとましろき真綿敷きのべて春の星あり藍色の星
  眼下には雪かづきゐる山のみゆ四国山脈よぎりたるらし
  関空の春のあをぞら翔びたちて冷たき雨の那覇に降りたつ
       平成29年3月11日、渡嘉敷小中学校卒業式
  戻り寒さ(ビーサー)の風雨のつよし体育館に父母在校生祖父母ゐそろふ
  小中のたつた八人の卒業生おごそかに前にすすみ出でたり
  干潮の昼とはいへど聞こえくる渡嘉敷港に波の打つ音
  四月には島を出る子ら中学生ら十五年前この島に来り
  島々に星のごとしも星砂の浜に遊びきわが少年も
  島の子として育ちたりし七百人の村びとなべてに愛されながら
  エイサーに太鼓、三線、チョンダラー名手といはむ主役をつとむ
  一分間サイレン鳴りて東北に六年前の午後の至りぬ
             *
  三月の霧ふかぶかと閉ざしたり渡嘉敷島の自決の谷間
  ヒカンサクラまだ咲き残る西山は神の降ります御嶽(うたき)なりにき
  霧こむる自決の山に登りきつ冷たき春の雨ふる谷間
  鉄扉ひらき入りゆくわれに結界のうちそと何処霧たち籠むる
  濡れそぼつ細木の幹にすがりつつ下るその地へ恩納河原に
  このやうな狭き谷間に数百の村びと寄りて死をたまひしか
    第二次大戦末期、昭和二十年三月二十六日、米兵渡嘉敷島に上陸。
     二十七日夜、豪雨のなか、島民は西山A高地に集結さる。翌二十八日、恩納河原にて集団自決に至る。

  混乱の地に降る雨の無慈悲なり二三四・二高地の山
  大雨の一夜のあけて家族(うから)らはおのが家族を死なしめたりき
  手榴弾不発の家族、老人は斧もて孫を妻を殺めき
  弱きものより殺したりきと伝はりき阿鼻叫喚の朝来りけり
  誰何(すいか) され逃げし少年投降の勧告をもて処刑されにき
    八月十六日終戦を知らざりし日本軍に、米兵の舟より伝はる日本語
     「兵隊さん長い間ご苦労様でした」。

  「生きて虜囚の辱めを受けず」洗脳のはてなる虚しき日を潜みたり
  何といふかなしき時代「死にます」と応へざらめや少年のこゑ
  狂ひびと防衛召集兵は身重なる妻を案ずるのみに殺されき
  壕を掘り身をひそめたる日本軍戦争終結は信じがたかり
  白旗をかかげ下れば集落に米軍中佐待ちてありにき
  命令を待たねばならぬ、武装解除できぬと若き隊長応へぬ
  集団自決を語る老婦のかたりぐち「したら」「してから」子孫(こまご) に伝ふ
                   *そうしたら、そうだから
             *
  風雨つよき一夜があけて林道を上がり下りせり少女につきて
  琉球松ひくく斜面に生ひ茂る林道半ばに弁当つかふ
  轍あとが砂岩となりて凹凸の林道クロスカントリーのさま
  てんてんとモウセンゴケの岩肌に生ひて小さき虫を待ちをり
  繊毛の赤きちひさき葉にのばす花首ながし虫を呼ぶらし
  岩とびて遊べる少女に水溜りの黒きイモリも赤き腹見す
  雨ののち若夏(うりずん)の風ふきはじむ岬にきたり紺碧の海
  干潮の浜辺のふしぎ地球儀の古地図の黄色き文様あらはる
  疾風の崖より見ゆる瑠璃色の渡嘉敷の海、地球のなだり
  海溝のふかき紺青に誘はる、鳥にあらずも、魚にあらずも
  竜宮より帰りきたりし思ひなり楽浪(さざなみ)の辺に打ち上げられし
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いつもながらの村島さんの、のびやかな詠いぶりである。
ここにも紹介したが、子供さんが嫁いだ渡嘉敷島の戦争末期の悲惨な経験を詠い残しておられる。 稀有なことである。
この歌にも書かれているが「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは、東条英機が昭和になってから著した『戦陣訓』に拠るものである。
第一次世界大戦の頃までは日本でも「捕虜」になるのは不名誉なことではなかった。だから戦いでは双方とも多くの捕虜が居たのである。
国際的にも条約で捕虜を保護することが義務であった。
それを、東条らは、無残にも「不可」として、「自死」を強いたのである。
現在の世の中の動きも、看過できない「悪しき」風潮が見られる。 わが国にあっても、アベの振舞いぶりは、とても危険である。 この機会に、敢えて書いておく。
村島さま。 いろいろ教えていただき有難うございました。




黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・西東三鬼
kurohae練り切り黒南風

   ◆黒南風(くろはえ)の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・・・・西東三鬼

    ◆白南風(しろはえ)にかざしてまろし少女の掌・・・・・・・・・楠本憲吉


「黒南風」とは、梅雨に入り、空が暗く長雨がつづく陰鬱な頃に吹く南風で、柔らかい風だが、低気圧や梅雨前線が通り、荒い風が吹くときは「荒南風」となる。
「白南風」とは梅雨が明けて明るい空になり、晴れて吹く南風が、これである。
また梅雨の間でも、晴れようとする様子のときの南風も白南風という。
空や雲の様子から、白、黒を南風(はえ)にかぶせたもの。
ここでは「黒南風」と「白南風」の句を並列に並べて掲出してみた。

「風」というのは、視覚化できないので、ネット上から某菓子舗の「練り切り」の菓子を写真にする。
以下は、その「説明書」である。

<風は季節によって、ほぼ方向が定まっています。
春は東風、秋は西風、冬は北風で、
夏季の「南風」は、「みなみ」とか「はえ」とも読みます。
この「はえ」、中国・四国・九州地方など主に西日本の言葉で、
特に、梅雨時のどんよりと曇った日に吹く南風を、黒南風と呼ぶそうです。
梅雨入りの頃はこの風が吹いて空が暗くなる、というのがこの名の由来。
ちなみに梅雨明け頃の南風は、吹くと空が明るくなるので、「白南風(しらはえ)」と呼ばれています。
どんよりとした梅雨空を黒ゴマ入りの煉切で表し、一陣の風を、力強い一筆書きのように水色で描きました。
ジメジメと鬱陶しい季節ですが、まぁ、お茶とお菓子でも…。 >

掲出の西東三鬼の句は、私には亡妻に対する「レクイエム」のように受容できるもので 、「呼ぶ名なし」などと言われると、私のことのようで身に沁みるのである。

以下、「黒南風」「白南風」を詠んだ句を引いて終わる。

 黒南風や島山かけてうち暗み・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 黒南風に水汲み入るる戸口かな・・・・・・・・・・・・原石鼎

 黒南風は伏屋のものを染めつくす・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 黒南風や潮さゐに似て樹林鳴る・・・・・・・・・・・・占 魚

 沖通る帆に黒南風の鴎群る・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 和歌の浦あら南風鳶を雲にせり・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 あらはえや雲のちぎれに月さやか・・・・・・・・・・・・桂 居

 黒南風や屠所への羊紙食べつつ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 黒南風に嫌人癖の亢ずる日・・・・・・・・・・・・相馬遷子

 白南風の夕浪高うなりにけり・・・・・・・・・・・・芥川龍之介

 白南風やきりきり鴎落ちゆけり・・・・・・・・・・・・角川源義

 白南風や永病めば土摑みたし・・・・・・・・・・・・香取哲郎

 いや白きは南風つよき帆ならむ・・・・・・・・・・・・大野林火

 海南風死に到るまで茶色の瞳・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 クラリネット光のごとく南風(はえ)にきこゆ・・・・・・・・・・・・川島彷徨子

 汐満てりはえとなりゆく朝の岬・・・・・・・・・・・・及川貞

 のけぞれば吾が見えたる吾子に南風(みなみ)・・・・・・・・・・・・中村草田男



朝日新聞「折々のことば」おい、ヒマやろ・・・ヒマなはずや。  木村重信
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       朝日新聞「折々のことば」おい、ヒマやろ・・・ヒマなはずや。  木村重信

藤原光顕さんが、朝日新聞朝刊に連載中の鷲田清一「折々のことば」784 『おい、ヒマやろ・・・・ヒマなはずや』・・・・木村重信の記事2017/06/15付を届けてくださった。
私宅は朝日新聞は取っていないし、「木村重信を偲ぶ会」からの連絡もなかったので、この件については知らなかった。
「偲ぶ会」は弟子たちが開いたものと思うが、会があれば連絡してくれるように頼んでおけばよかった、と後悔しきりのことである。

鷲田清一氏は兄とはずっと若く、戦後生まれであるが、同じ文学部で、しかも「哲学」であったから親しく付き合っていたかと思う。
鷲田氏は大阪大学学長を務められたあと、現在は京都市立芸術大学学長兼理事長の重責に居られる。
ここに書かれる柳原睦夫氏は現代陶芸家として大成され、大阪芸術大学教授なども務められた。
ネット上で経歴や作品の画像なども見られるので参照されたい。

ここに書かれているように、兄は面倒見のよいところがあって、これを読んで微笑ましい気がしたことをお伝えしたい。
藤原さん、お知らせ有難うございました。
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この「木村重信を偲ぶ会」の毎日新聞記事の記事が2017/06/08付け大阪夕刊に掲載されたので、ここに引いておく。
会費は一万円で、招待者のみで開会され三百人がおいで下さったという。
リンクになっているのでクリックして、ご覧ください。
なお私のFacebookのページでも読めるようにしてあるので、よろしく。


コンク「サント・フォア教会」・・・・・木村草弥
cq34コンク サント・フォア修道院
 ↑ フランス中部オーヴェルニュの南限にある「サント・フォア教会」
800px-Conques_doorway_carving_2003_IMG_6330サント・フォア修道院
 ↑ 「サント・フォア教会」半円形壁面

──巡礼の旅──(10)─再掲載・初出2013/06/21

     コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス中部オーヴェルニュの南限にあるコンクの「サント・フォア教会」は、もともとは修道院として発足したもので、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたる。

799px-Conques_JPG01コンク

コンク (Conques、オック語:Concas)は、フランス、ミディ=ピレネー地域圏、アヴェロン県のコミューン。
中世、コンクは聖アジャンのフォワの聖遺物を祀る地として巡礼地であった。

フランスのミディ・ピレネ地方のコンクはル・ピュイを出発地とするスペインのサンチアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の経由地として、
ここコンクは、サント=フォワ修道院教会とドゥルドゥ川に架かる橋がユネスコの世界遺産に登録されている。
また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。

Conques_pont_romainコンク ローマ橋
 ↑ 14世紀に架けられたローマ橋

コミューンはドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点にある。
この地形がホタテガイに似ていたため、コンク(ラテン語ではconcha、オック語ではconcas)という名称を与えられたとされる。
県都ロデーズの北にあり、サント=フォワ修道院周囲に密集する中世以来の町並みが、陽光差す山の中腹に現れる。
生け垣に囲まれた住宅は、正午頃にそのファサードに日が当たる。ホタテガイの意匠が目立つ。通りの舗装、屋根に至るまで石が使われている。
扉や窓の縁飾りのために切石が使われ、灰色やピンク色の砂岩、さらに花崗岩が使われることは非常にまれである。
cq14コンク
cq50コンク

歴史
一説によると、5世紀から、この地に聖ソヴールを祀った小修道院とそれを囲む定住地があったとされる。
この小修道院は、イスラム教徒の北進で壊され、730年以降にカール・マルテルの子ピピン3世の支援で再建された。
同時期、修道士ダドンが修道院を建て、819年にはベネディクト会の規則を採用した。
社会組織が非常によくできていたこの修道院は、重要な領地を次第に統合し、9世紀の経済減退期に繁栄する小島のような状態となった。

864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。
聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教した少女である。 この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。

同時期、聖ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとヨーロッパ各地に伝わった。
955年から960年の間、ルアルグ伯は使徒を敬い、ガリシアで報いの御礼を述べるべく最初の巡礼の一人となった。
30年あまり後、彼の息子レーモンはバルセロナにてイスラム教徒を撃退した。謝意の証として、彼は大規模な戦闘を物語る贈り物をコンクへ贈った。
銀に鞍の彫り物がされた祭壇飾りである。それを用いて修道士たちは大きな十字架をつくった。

11世紀の間、聖フォワは、スペインでのレコンキスタに赴く十字軍騎士たちの守護聖人であった。2人のコンクの聖職者が、ナバーラとアラゴンで司教となった。
1077年以降にパンプローナ司教となったピエール・ダンドック、1100年にバルバストロ司教となったポンスである。
アラゴン王ペドロ1世は、その後に聖フォワへ献堂した修道院を建てている。

コンクを出発後、クエルシーへ向かうものと、モワサックの修道院へ向かうそれぞれの道程をつなぐ巡礼路がある。
最短のものはオーバンへ向かう、ドゥルドゥ川に架かる古い橋である。しかし、グラン=ヴァブル村の小集落ヴァンズルと北西のフィジャックを通過する道程が主流であった。
13世紀、コンクのサント=フォワ修道院は強力になり、その経済力は頂点に達した。しかし14世紀から15世紀に衰え、1424年12月22日、ついに世俗化された。

フランス革命後に廃れていたコンクは、1837年、当時歴史文化財の検査官でもあったプロスペル・メリメによって再発見された。
宝物や教会の正門は住民の手で完全な状態で保存されていたが、教会には幾らかの補強が必要だった。

1873年、ロデーズ司教ブールは、プレモントレ修道会の再建者エドモン・ブルボンによって、聖フォワ信仰と巡礼地コンクの復活を依頼された。
1873年6月21日から、白い修道服をまとった6人の修道士たちが、ロデーズ司教の命令により厳かにかつての修道院に居住するようになった。
フランス第三共和政初期、コンクの住民たちは、既に失われた信仰の記憶が甦るのを目撃したのだった。

1911年、中世以来の宝物を保管する博物館が建設された。聖フォワの聖遺物は1875年に取り戻され、1878年から巡礼が敬意を表しに現れた。

サント=フォワ修道院と教会
この壮大なロマネスク様式の建物は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。ファサード両側の2本の塔は、19世紀のものである。
ティンパヌムは特筆されるものである。修道院と教会には、カロリング朝美術の独特の美が保存されている。
内部はピエール・スーラージュによるステンドグラスで飾られている。

サント・フォアの名前を頂いた教会は巡礼路のあちこちに建てられている。
というのは、彼女こそそれらの巡礼路の「守護聖人」だからである。
この地についてはこのサイトに詳しい。アクセスされたい。

図版②に掲げた「半円形壁面」について少し触れておきたい。
「半円」という意味は神の「宇宙」であるから、いわば「円蓋」(ドーム)に対応するイメージであろう。
東方ビザンチンに多い「集中方式」(上から見て円が大きな円蓋を柱にして集まること)を水平軸から眺める場合、半円は砂漠をベースとした天空で、星をちりばめた形となる。
したがってそれは宇宙の像であり、神の支配する空間と見るのも不思議ではない。
そこに多様な主題が刻まれたり、描かれたりするのである。
ここコンクのサント・フォアの場合は「最後の審判」を主題とする。言うまでもなく「ロマネスク」期にはもっとも多いものである。
「世の終わり」が近づきつつあるという人々の心性の表現である。
中心に神が位置し、上部には天使が舞う。挙げた右手の側には「善き人々」が聖母マリアの先導にしたがって神を目指している。
その中にこの教会の設立に力があったというシャルルマーニュ大帝の姿も見える。
その反対側は地獄であり、いましめを受け、拷問にあっている罪人たちの中心には悪魔(サタン)が居る。
その左前には「淫乱」の罪を犯した男女が立っている。
一説によればオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにあるノートル・ダム・デュ・ポール教会の柱頭の一つに刻まれた人名、ロベールなる職人の組合が、
この壁面を刻んだという。
ピレネー山脈に近いラングドック地方の流麗な様式と異なり、ずんぐりとして、しかもどこか童画的な印象である。
先に書いた「このサイト」には詳しい説明が載っているので参照されたい。
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蛇足① 聖人・聖女たちは、名前の頭に「聖」をつけて呼ばれるが、男性の場合はフランス語などのラテン語系の場合には「Saint」であり、語尾の「t」は発音されないので「サン」だが、
女性名詞の場合には「Sainte」となり「サント」と発音される。今回の、この教会は聖女なので「Sainte-Foy」サント・フォアと発音される。
ただ、上にも書かれている「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」Santiago de Compostela の場合は「男性」だが、名前の頭に母音があり、
本来なら無音の「Saint」の語尾の「t」と頭の母音とが「リエゾン」となってサンティアゴと発音されていいるのである。
ヤコブの名前はスペイン語では「iago」というので、聖ヤコブ=Santiago となる次第である。
蛇足② 上の記事の中で、聖フォアの表記が、「サント・フォア」や「サント=フォア」となっているのは、表記の仕方の違いで、間違いではないので念のため。
これらの単語は、本来一まとめのもので、それを日本語表記にする場合に「・」「=」を使ったりするからである。
多くの場合には「・」で済まされることが多いが、厳密に区別する人は「=」を使用するので、こんなことになる。
余計なことを書いてしまったが、ご了解をお願いしたい。


光本恵子・第七歌集『紅いしずく』・・・・木村草弥
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↑ 第六歌集『蝶になった母』 角川書店2011/07/29刊

──新・読書ノート──

       光本恵子・第七歌集『紅いしずく』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・本阿弥書店2017/06/04刊・・・・・・

敬愛する光本恵子さんの最新歌集である。
この第七歌集の前に、二番目に掲出した第六歌集『蝶になった母』 角川書店2011/07/29刊 がある。
この二冊は、掲出した画像でも読み取れるように、義母、実母そして師・宮崎信義の死などに次々と直面する時期に重なるので切り離せないものである。
光本さんの本の編集は直近の数年の作品を除くもので、この歌集では2007年から2011年までの作品をまとめてある。
この編集の仕方は、古い編集のやり方と言えるもので、最近では直近の作品から編集するのが一般的である。
というのは、こういう直近の作品を保留するやり方では、現在の著者の「在り様」と乖離するからである。
一頃は、こういう直近の数年分の作品を、言わば「温める」という手法が採られた。
しかし、、今どきの、せちがらい時代に、現時点での著者の姿をぼやけさせるような「数年の保留を置く」手法は、ふさわしくない、と私は考える。今年は、はや2017年なのである。
しかし、これは私の主義であって、光本さんには独自の考えがあっていいのである。  閑話休題。

私は一読して題名にもなっている「紅いしずく」という言葉に立ち止まってしまった。
この歌は巻頭に近い2008年の作品で、「帯」裏にある五首の中にも採られていて、作者にも愛着のある歌だと思うのである。
  <厳寒の季節を耐えて身をよじらせ紅いしずくは花を咲かせる>
同じ項目の歌に
   <こぶしの大樹は待っていた 厳しい寒さを凌いで花を振舞う>
   <山と山の間から覗くあかねの光線は湖をつきぬけこの身に絡まる>
   <ほどけてゆく感覚の白い季節に湖は淡い水彩画を描きはじめた>
が続いている。 細かく引きすぎたかも知れないが、これらは一体として鑑賞しなければ「紅いしずく」という表現を読み解けないと思うからである。
「紅いしずく」とは「あかね色の朝日」の光に辛夷の花の雫が赤く光る、ということだろう。 この一連の、この比喩表現は、鮮烈である。
光本さんは、直接的な表現が多く、余り比喩を使わないが、この一連は生き生きと輝いて秀逸である。
信州の冬は厳しい。 作者の住む諏訪湖も凍結するなど寒さの厳しいことでは有名である。
これらの歌で、厳しい信州の寒さに「仮託」しながら、自由律の口語短歌の道に邁進する「覚悟」を表明された、と私は受け取った。

この歌集の、もう一つのハイライトは「死刑囚・岡下香」との歌のやり取り、歌集『終わりの始まり』の出版、死刑執行と献体、ということであろう。
この本にも「付録 死刑囚岡下香のこと」17ページが添えられている。
岡下の歌を少し引いておく。
   <壁の汚れはペンキでも塗り消せるけど罪の跡だけまた浮かんでくる>
   <獄舎にもあるささやかな幸せ 米粒ほどの蜘蛛が顔を見せたとき>
   <古里の三次 山河の恵みと人情を忘れはしないがもう戻れない>
   <夢を見て今日という日に行き止まり開ける怖さよ未来山脈の扉>
   <ようやく気づいた反省と償いの違い 償いは命を差し出したときに叶う>
いろんな誹謗中傷に耐えながら、歌集出版、面会、献体、と光本さんはキリスト者として、よく面倒を見られた。並の者には出来ないことである。
   <独房から小さな字でびっしり手紙をくれた もう届かぬ 八・四・十>
   <歌集『終わりの始まり』を遺し諦めと感謝の白い顔 忘れない>
「岡下香死刑執行」という項目の歌である。 この歌にある通り、死刑執行は2008/04/10であった、という。
そして「岡下香献体・火葬」の歌は
   <すべての罪は赦され 献体の肉塊は人の役に立ったと告げている>

   <平成二十一年一月二日食道癌 眠るように逝った宮崎信義九十六歳十ケ月>
   <光本たのむよ そのことばに支えられ今朝も編集に取り掛かる>
   <西村陽吉も土岐善麿も渡辺順三も啄木の血におどる口語歌のいま>
京都女子大学に在学中の頃から師事した宮崎は口語短歌運動の大きな指導者だった。
その「死」の瞬間が、ここに切り取られている。 切々たる募師の気持ちが表白されている。

続いて、光本さんが執着して取り組んでいる口語表現者「金子きみ」の存在がある。 それらを詠った歌。
   <「金子きみ偲ぶ会」終え飛び乗るあずさ号 心地よい疲れ>
   <恨みを残すな 開拓農民の意地を著した金子きみ『薮踏み鳴らし』>
小説家としても著作が受賞したという金子きみ。 光本さんが愛して執着する所以である。

前の第六歌集には、義母、実母などとの別れを詠った作品があった。 それらを受けた歌が、この本にある。
   <あの雲はかあさん そちらは義母さん あちらはじっと見詰める仔犬>
そして2008年には、実父の死があった。
   <脳梗塞で倒れ母亡き後は嫁のみゑちゃんに看取られて逝った父>
こうして身近な人々や歌の師や先輩の死を見送った後には、次女・玲奈さんの結婚があった。
   <娘よ何が起ころうともおまえの人生 暴風雨も明日は晴れる>
沖縄での結婚式の当日は嵐だったという。そこで、この歌の表白となった。
光本さんは長女出産の後「子宮ガン」に侵され必死の闘病の末、これを克服できた。 そして授かった次女の命だった。
それらの経緯は歌集『薄氷』 『素足』 『おんなを染めていく』エッセイ『夾竹桃』などに詳しい。

著者は、よく転ぶらしい。 私も何度か真剣に「転ばないように」と忠告したことがある。 そういう怪我を詠んだ歌。
   <額から雷にたたきつけられたような光 砕けた顔 私はどこにいるか>
   <ここはどこですか築地の聖路加です 日野原先生の病院だ>
他にも諏訪湖畔を散歩中にも転んだりしたことがある。 度々申し上げて失礼だが、齢を重ねると転ぶことが致命傷になることもあるので、ご注意を。

光本さんは京都に在学中に知り合った「彼」と、一旦は郷里の鳥取で教師になったのを振り捨てて、はるばる信州の彼の元へと嫁いできた。
前歌集では香港赴任中の彼の元へ出向いて東南アジアを旅したこと。ドイツ人のホームステイ人を頼って二人でドイツ、スイスを旅した一連が詠われたが、この本では、その後が続く。
   <やはり手が触れたり脚をぶつけたりくっついているほうがいい>
   <夫の造るイングリッシュガーデン 五トンの土入れ替えて薔薇が咲く>
   <牡蠣フライが食べたいと夫 幼い日の厨房よみがえる>
   <花いっぱいの庭 野菜よりバラと夫 物のない時代は野菜を作った>
   <チェロを弾き絵を描いて花をそだて古い家をまもるあなた>
「彼」は地元のオーケストラに所属して、チェロを弾く人である。 そんな「彼」との生活が、さりげなく、心温まる情景で詠まれている。

終わりに、光本さんの「覚悟」をさりげなく詠んだ歌を引いて終わりたい。
   <躓いても転んでもまた立ち上がればいい体験がわたしを創る>
   <迷い道こそ未知への遭遇 分水嶺の湖で背を伸ばす>
   <尻おおきく胸ぼいん 君の造った土偶のように胸を張る>

不十分ながら、この歌集の鑑賞を終わりたい。 ご恵贈有難うございました。   (完)



ねそびれてよき月夜なり青葉木莵森かへてまた声をほそめぬ・・・・・穂積忠
oaobazukuあおばずく

    ねそびれてよき月夜なり青葉木莵(あをばづく)
       森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・穂積忠


アオバズクは梟の一種で、鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声づつ含みのある調子で鳴く。
オーストラリア辺りから渡ってくる夏の渡り鳥だという。

夏の、よい月の夜、寝そびれて、ふと聞きとめた青葉木莵の声。
途絶えたと思うと、思いがけない方角の森で、また鳴きはじめた。
声を細めて鳴きはじめるのが何とも言えず、ゆかしい感じがする。
引き込まれてアオバズクの声を追っている気持が「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表れている。
鳥声に心もいつか澄んでゆく。

穂積忠は明治34年静岡県の伊豆に生まれ、昭和29年に没した。教育者だった。
中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折口信夫(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。
昭和14年刊『雪祭』所載。

アオバズクは四月下旬頃に南方から飛来し、都市近郊の社寺などの森に棲んで5、6月頃に産卵、十月頃南方に帰る、という。
そして夜間に活動して、虫や小鳥、蛙などを食うらしい。名前の由来は、青葉の森の茂みの暗がりと声の感じがよく合って、この命名となったものか。
俳句にも、よく詠まれる題材で、少し句を引いてみる。

 こくげんをたがへず夜々の青葉木莵・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 青葉木莵月ありといへる声の後・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 青葉木莵さめて片寝の腕しびれ・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 眠れざる者は聞けよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 青葉木莵おのれ恃めと夜の高処・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 五七五七と長歌は長し青葉木莵・・・・・・・・・・・・高柳重信

 青葉木莵産着のかたち縫ひ急ぐ・・・・・・・・・・・・杉山岳陽

 青葉木莵次の一語を待たれをり・・・・・・・・・・・・丸山哲郎

 考えを打ち切る青葉木莵が鳴く・・・・・・・・・・・・宇多喜代子

 眼を閉ぢてさらに濃き闇青葉木莵・・・・・・・・・・・・山口速

 うつぶせに寝る癖いまも青葉木莵・・・・・・・・・・・・石川美佐子

 青葉木莵遠流百首を諳じる・・・・・・・・・・・・野沢晴子

 青葉木莵夜もポンプをこき使ふ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 青葉木莵木椅子を森の中ほどに・・・・・・・・・・・・井上雪


藤目俊郎撮影「今年のネジバナ」の画像・・・・木村草弥
今年のネジバナ

──藤目俊郎画像集──(6)

       藤目俊郎撮影「今年のネジバナ」の画像・・・・・・・・・・木村草弥

藤目俊郎氏から画像が送られてきた。 藤目氏のメール文 ↓

   <今年もだいすきなネジバナの季節が来ました。
   11日に発見したのですが、私の散歩コースでは今も1本だけです。
   場所は芥川右岸、後ろに新幹線の鉄橋越しに鷺打橋のアーチが見えています。
   今日漸く写真を撮りました。>


白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・三井秋風
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    白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・三井秋風

三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。
いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。
芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、
上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、
当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。

この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。

hiro-atake-b広重

これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。

 ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十

 祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷

 夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉

 蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶

 木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子

 大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子

 夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火

 蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女

 蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明

 蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉


沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・石田波郷
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       沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・・・・・・石田波郷

私の歌にも「沙羅」を読んだ作品がある。 こんなものである。

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期(いちご)の夢に昏(く)るる寺庭・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

沙羅の花を詠んだ私の歌としては

   沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

   畳まで緑に染まる沙羅の寺黙読の経本を蟻がよぎりぬ

   地獄図に見し死にざまをさまよへば寺庭に咲く夏椿落つ


『嬬恋』『茶の四季』(いずれも角川書店)に載っている。これらも一体として鑑賞してもらえば有難い。

「沙羅」の花あるいは「沙羅双樹」というのは6月中旬になると咲きはじめるが、
これは平家物語の

  <祇園精舎の鐘の声、
   諸行無常の響きあり、
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必滅の理をあらはす>

に登場する有名な花であるが、実はインドの沙羅双樹とは無縁の木であり、「夏椿」を日本では、こう呼んでいるのである。 ↓  
aaoonatutu夏椿大判

こういうことは、よくあることで、たとえば「菩提樹」と言う木は沙羅の木と同様にインドの木で仏教でお釈迦さまの木として有名だが、
ヨーロッパにもベルリンのウンター・デン・リンデン大通などにある木も菩提樹と呼ばれているし、歌曲にも菩提樹というのがあるが、これも全く別の木である。

「夏椿」は一日花で次々と咲いては、散るを繰り返す。
その儚(はかな)さが人々に愛された所以であると言われている。
沙羅の木=夏椿は、その性質上、寺院に植えられていることが多い。
京都のお寺では有名なところと言えば、
妙心寺の塔頭(たっちゅう)の東林院
                城南宮
                真如堂
                法金剛院
                宝泉院

などがある。その中でも東林院は、自ら「沙羅双樹の寺、京都の宿坊」とキャッチコピーを冠している程で「沙羅の花を愛でる会」というのが、この時期に開催されている。
この寺をネット上で検索すると、今年の会は6/15~30ということである。

6_sara30616to11夏椿落花
写真③に見られるように、この時期には散った花が夏椿の木の下に一面に散り敷くようになり、風情ある景色が現出するのである。
いわば沙羅の花は「散った」花を見るのが主眼であるのだ。
だから私は歌で、わっと派手に散った花よりも咲く花が「ひそか」である、と表現したのである。
なお沙羅の字の読み方は「さら」「しゃら」両方あるが私としては「しゃら」の方を採りたい。

俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。「沙羅の花」が夏の季語。

 踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ・・・・・・・・日野草城

 沙羅散華神の決めたる高さより・・・・・・・・鷹羽狩行

 沙羅は散るゆくりなかりし月の出を・・・・・・・・阿波野青畝

 沙羅の花もうおしまひや屋根に散り・・・・・・・・山口青邨

 天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・・中村芳子

 秘仏の扉閉ざして暗し沙羅の花・・・・・・・・八幡城太郎

 沙羅の花見んと一途に来たりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 齢一つ享けて眼つむる沙羅の花・・・・・・・・手塚美佐

 沙羅咲いて花のまわりの夕かげり・・・・・・・・林翔

 沙羅の花夫を忘るるひと日あり・・・・・・・・石田あき子

 沙羅落花白の矜持を失はず・・・・・・・・大高霧海

うっかりして忘れていたが、My Documentsの中に「夏椿の実」というのがあったことを今思い出したので、写真④に出しておく。
夏椿見

東林院でも、そうだが、この頃はインターネット時代で、神社仏閣も、競ってHPを作って参拝者を募っている。
私の友人で歌人仲間で奈良の藤原鎌足ゆかりの談山神社の神官二人がいるが、そのうちの一人はHPを担当して神社のHP製作にあたっている。
HPを開いてから参拝者が3倍になったという。そんな世の中になったのである。
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参考までに、インドに生えている「正当」な沙羅双樹の樹の写真を下記に載せておく。
写真の中に、この樹の「花」が咲いているのが見えるので、ご留意を。
この写真は「yun」の無料提供のものを拝借した。原寸は大きいが縮小した。

yun_3615x.jpg

この写真に添えた「yun」氏のコメントに、こう書いてある。

タイのバンコクにあるワット・ポー内に生えていたサラソウジュ(沙羅双樹)の木(フタバガキ科、学名:Shorea robusta、原産地:インド)です。釈迦(しゃか)が亡くなったときに近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必滅の理をあらはす」でも有名。ただし、日本では育たないので夏椿を代用しています。写真内には花が咲いているのが確認できます。

引用に感謝して、ここに御礼申し上げる。

蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・山口誓子
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     蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

ウォーキングしていて、道端の石の上を蜥蜴(とかげ)が横切ったので、急にトカゲのことを書く気になった。
トカゲは色々の種類が居るが、写真のような「青とかげ」が美しい。
掲出の句は、トカゲの呼吸で喉がひこひこと動いている、と観察眼するどく描いている。

私も蜥蜴を詠んだ歌があるが、多くはないので、いま見つけられないので、この句を掲出する。
変温動物なので冬は冬眠する。
春とともに活動をはじめ、7、8月に土を掘って十個ほど産卵するというが、田舎暮らしながら、私は、まだ見たことがない。
爬虫類はどことなく不気味だが、蜥蜴は可愛い感じの小動物である。
その怜悧そうな目や、喉の動きなどは、動きのすばやさとともに印象的である。

蜥蜴を詠んだ句を引いて終わる。

 三角の蜥蜴の顔の少し延ぶか・・・・・・・・高浜虚子

 歯朶にゐて太古顔なる蜥蜴かな・・・・・・・・野村喜舟

 石階の二つの蜥蜴相識らず・・・・・・・・富安風生

 さんらんと蜥蜴一匹走るなり・・・・・・・・小島政二郎

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る・・・・・・・中村草田男

 薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ・・・・・・・・西東三鬼

 直はしる蜥蜴わが追ふ二三足・・・・・・・・石田波郷

 いくすぢも雨が降りをり蜥蜴の尾・・・・・・・・橋本鶏二

 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし・・・・・・・・加藤楸邨

 蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・中島斌雄

 高熱の青き蜥蜴は沙(すな)に消え・・・・・・・・角川源義

 青蜥蜴おのれ照りゐて冷え易し・・・・・・・・野沢節子

 青蜥蜴オランダ坂に隠れ終ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 蜥蜴楽し青き牛蒡の葉に乗つて・・・・・・・・沢木欣一

 人に馴ることなく蜥蜴いつも走す・・・・・・・・山口波津女


草づたふ朝のほたるよみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ・・・・・斎藤茂吉
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   草づたふ朝のほたるよみじかかる
      われのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


蛍は農薬の使用などで一時ものすごく数が減ったことがある。
この頃は蛍復活作戦とか言って、蛍の餌となる巻貝「カワニナ」の養殖や放流、農薬使用の自粛などで、あちこちで復活しつつある。
六月中旬になると、そろそろホタルが出はじめる。あいにく梅雨に遭うと蛍狩は中止である。
私の子供の頃は──と言っても、もちろん戦前のことである、蛍狩りには菜種の実を振い落した「菜種がら」を棒の先にくくりつけて、
暗くなると家族や友人たちと川べりに繰り出したものである。川べりと言っても、大河ではない。
せいぜい幅1、2メートルの田圃の中の水路などに蛍は居る。
川べりに着くと、中には悪童がいて、ゴムパチンコに花火弾をつけて人に向かって発射する悪戯をする連中がいた。
運悪く私の腹にあたり火傷をさされて、泣いて家に帰ったことがある。私が小学生の下級生の頃のことだ。
その頃、蛍は文字通り、うじゃうじゃといた。蛍籠に入れて持ち帰り、蚊帳の中に放して明りを消して楽しんだものである。
掲出したのは「ホタルブクロ」という草花である。白花と紅花とがある。
私の家にも一鉢があり、しばらく前からぼつぼつと咲きはじめた。

この茂吉の歌は蛍に感情移入して、蛍の短い命に心をよせて詠んでいる秀歌である。
今日は趣向を変えて俳句、短歌ごちゃまぜに蛍に関するものを採り上げたい。
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 うつす手に光る蛍や指のまた・・・・・・・・・・・・炭太祇

「うつす」は直接には「移す」で、捕まえた蛍を相手の掌中に移しているところだろう。
その蛍が指の股を透かして光っている。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。
いずれにせよ「うつす」が「映す」の語感を伴っている句作りが、全体にふっくらした味をかもしだしている。
炭太祇は江戸中期の俳人。江戸に生れて、京都を永住の地とした。蕪村より7歳年長だったが親しく交わり、影響を与えあった。
人情の機微をとらえた人事句に優れ、特色ある句が多い。

 <初恋や灯籠によする顔と顔>

 <寝よといふ寝ざめの夫や小夜砧>

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

 蛍這へる葉裏に水の速さかな・・・・・・・・長谷川零余子

 夏草のしげみが下の埋れ水ありとしらせて行くほたるかな・・・・・・・後村上院

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす・・・・・・・・山家鳥虫歌

一番終わりのものは和歌ではなく、7、7、7、5という音数律の「都都逸」と称するものである。
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歳時記から「蛍籠」「蛍狩り」の句を少し引いて終わりにする。

 蛍籠ともり初むれば見ゆるなり・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 蛍籠極星北に懸りたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 あけがたやうすきひかりの蛍籠・・・・・・・・・・・・大野林火

 蛍籠霧吹くことを愛として・・・・・・・・・・・・山口波津子

 吾子の死へ朝が来てゐる蛍・・・・・・・・・・・・時田光子
 
 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである。

 蛍待つ幽に山のたたずまひ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 夕焼の橋に遊んで蛍待つ・・・・・・・・・・・・鈴木花蓑

 磧(かはら)石蹠にあらく蛍狩・・・・・・・・・・・・高浜年尾

 闇にふむ地のたしかさよ蛍狩・・・・・・・・・・・・赤松恵子

 ひとすぢのこの川あふれ蛍狩・・・・・・・・・・・・前田野生子

池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも・・・・・木村草弥
庄助日誌

    池水は濁り太宰の忌の来れば
       私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日6月13日は小説家・太宰治の忌日である。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。

この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌

  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる

に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

7c3d1b83太宰治
 ↑ 太宰治
太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、
全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。
これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。
「木村庄助」については ← のWikipediaの記事に詳しい。写真も見られる。
兄は昭和十八年に亡くなっているので、太宰治の晩年の「無頼」な生活は知らないのは良かったと思う。
兄・庄助は、そんな無頼に憧れていたのではないからである。

太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。

   宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

   私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

   座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ

   立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)

   我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり


「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。

 太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎

 太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父

 太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治

 太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子

 眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子

 太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江

 濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己
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画像にして掲出した本『木村庄助日誌─太宰治「パント゛ラの匣」の底本』を編集・出版した兄・木村重信も今年の1月30日に死んでしまった。
うたた感慨ふかいものがある。
かねて私は重信の「影」を自認してきたので、未だに、その死のショックから立ち直れずに居る。 そんな昨今である。





あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・岡崎伸
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 ↑ 「水馬」あめんぼう

      あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸

「あめんぼう」は漢字で書くと「水馬」となる。

私の歌にも、こんな作品がある。

   水馬(あめんぼう)がふんばつてゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「あめんぼう」は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
私は幼い頃から、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、じっと眺めているのが好きだった。と言って「昆虫少年」になることもなかった。

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 ↑ 「ミズスマシ」

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、1センチほどの紡錘形の黒い虫である。↑ 上に出した写真の水棲昆虫が、それ。

「まいまい」という名前がある通り、水面をくるくると輪をかいて廻っている。水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には <常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。正黒色、蛍に似たり> と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については <長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。
よりて水馬と名づく> 
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。
以下、「あめんぼう」についての俳句を少し引くが、その中で「水すまし」とあるのは間違いということになる。
読み替えていただきたい。 念のために本当の「水すまし」の写真を出しておいた。
以下に引く句の一番最後に掲出した西嶋あさ子の句の「水すまし」も間違った使用法であるから、念のため。

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 水馬水に跳ねて水鉄の如し・・・・・・・・・・・・村上鬼城

 水隈にみづすましはや暮るるべし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 夕焼の金板の上水馬ゆく・・・・・・・・・・・・山口青邨

 水馬交み河骨知らん顔・・・・・・・・・・・・松本たかし

 打ちあけしあとの淋しき水馬・・・・・・・・・・・・阿部みどり女

 八方に敵あるごとく水すまし・・・・・・・・・・・・北山河

 水馬はじきとばして水堅し・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 水玉の光の強き水馬・・・・・・・・・・・・八木林之助

 水路にも横丁あつて水馬・・・・・・・・・・・・滝春一

 あめんぼと雨とあめんぼと雨と・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 恋に跳ね戦ひに跳ねあめんぼう・・・・・・・・・・・・村松紅花

 あめんぼうつるびて水輪ひろがらず・・・・・・・・・・・・長谷川久々子

 風来の風風来の水馬・・・・・・・・・・・・・・・・・的野雄

 ナルシスの鏡を磨く水馬・・・・・・・・・・・・宮下恵美子

 水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・西嶋あさ子


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」というそうな・・・・川崎洋
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        乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
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「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・桂信子
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    ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。
幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は画像②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・八幡城太郎
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余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。
なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。
茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。
後の一年は、もっぱら根を管理するだけである。

はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・塚本邦雄
226051970_2ad524a66a保険会社

     はつなつのゆふべひたひを光らせて
          保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄


今日六月九日は、塚本邦雄の忌日である。 それに因んで作品を引いた。
塚本邦雄は、言うまでもなく前衛短歌運動の旗手の一人として、もう一人の岡井隆とともに昭和20年代の後半から30年代にかけて疾風のように短歌界を駆け抜けた。
2005年に亡くなるまで、多大の影響を短歌界に及ぼしてきた。今もなお、その影響力が及んでいると言えるだろう。
すでに多くの人が、塚本その人と作品について論及している。
私などが、それらに触れることは、おこがましいことであるので、ここでは作品を挙げて引くことに徹する。

掲出歌は、塚本の歌の中では割合に判りやすい歌である。
塚本の歌は「比喩」と、本歌取りをはじめとする「引用」に満ちているので、読者自身も広い読書の蓄積を要求される。
「保険」というものは「死」を前提にした商品であって、この歌は、そういう保険の持つ性格をうまく比喩的に作品化した。
この歌から広がるイメージこそ、前衛短歌の基本である。
本来「短歌」というのは、「作者」=歌の中の「我」、という構図で古来作られて来た。
前衛短歌は、そういう構図を、先ずぶち壊し、歌の中の「私性」を引き剥がした。
明治以後、前衛短歌までの歌を「近代」短歌と規定するなら、前衛短歌以後の歌が「現代」短歌だと、規定することが出来よう。
「近代短歌」に聳える巨人の一人として斎藤茂吉を挙げることが出来る。
「現代短歌」の巨人としては、この塚本邦雄と岡井隆の二人を挙げなければならないだろう。
塚本の歌を少し引いて責めを果たしたい。
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春きざすとて戦ひと戦ひの谷間に覚むる幼な雲雀か

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯(とし)

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La Fontaine

ロミオ洋服店春服の青年像下半身なし * * * さらば青春

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

ペンシル・スラックスの若者立ちすくむその伐採期寸前の脚

壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

馬を洗はば馬のたましひ沍ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

レオナルド・ダ・ヴィンチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る匂ひ

壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

父となり父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水

ノアのごと祖父ぞありける秋風にくれなゐの粥たてまつるべし

紅鶴(フラミンゴ)ながむるわれや晩年にちかづくならずすでに晩年

文学の塵掃きすててなほわれの部屋の一隅なるゴビ砂漠

死のかたちさまざまなればわれならば桜桃を衣嚢に満たしめて

またや見む大葬の日の雨みぞれ萬年青(おもと)の珠実紅ふかかりき

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
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塚本邦雄というと、天皇制や戦争ということに拘って作歌して来たと言われている。後の二首は昭和天皇崩御に際しての歌である。
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塚本邦雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日~ 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。

寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。別名に菱川紳、鴻池黙示などがあるが、著書目録にある単行本や文庫本には、これらの著者名で出版されたものはない。 長男は作家の塚本靑史。

人物
滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)に生まれる。母方(外村家)の祖父は、近江一円に弟子を持つ俳諧の宗匠だったという。1922年生まれという説もあるが、これは中井英夫が邦雄のデビュー当時、2歳若くすることで20歳代歌人としてやや強引に紹介したことから生まれた俗説である。1938年、神崎商業学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。彦根高商(現・滋賀大学)卒という説もあるが、本人が書いた履歴書にそのような記載は一切ない。卒業後、又一株式会社(現三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・春雄の影響で作歌を始める。1941年、呉海軍工廠に徴用され、1943年に地元の短歌結社「木槿」に入会。終戦の年、投下された原爆の茸雲を仰ぎ見た記憶がいつまでも残ったと言う。

戦後は大阪に転じ、1947年に奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する。1948年5月10日、「青樫」の竹島慶子と結婚。山陽地方に転勤。翌年の4月9日、倉敷で長男・靑史誕生。その後、松江に転勤するが、鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。だが杉原は1950年に他界してしまった。

1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』を刊行。同歌集は中井英夫や三島由紀夫に絶賛される。

翌年大阪へ転勤となり、中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ転居。当地を終の棲家とした。1954年、結核に感染したことが判明し、大東勝之助医師の指示に従い、2年間自宅療養に専念して克服する。回復後も商社勤務を続け、1956年に第二歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』、1958年に第三歌集『日本人靈歌』を上梓。

以下24冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。歌集の全冊数は80冊を越える。だが、邦雄の業績で特筆に値するのは、岡井隆や寺山修司とともに1960年代の前衛短歌運動を成功させたことである。またその中にあって「日本歌人」から離れ、永らく無所属を貫いていたが、1985年に短歌結社『玲瓏』を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、以後(没後も)一貫して同社主宰の座にある。さらに近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

晩年にも旺盛な活動を続けていたが、1998年9月8日に妻・慶子が他界、2000年7月には自らの健康を損ねた。そのため、晩年を慮った息子の靑史が帰省し、同居して最期を看取った。2005年6月9日没。尚、玲瓏の会員らを中心に、以後、忌日は『神變忌(しんぺんき)』と称するようになっている。 以降に靑史の手で資料の整理がなされ、2009年1月末、自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。牧師で倉敷民藝館館長であった叔父・外村吉之介の影響で、聖書を文学として愛読したが、終生無神論者であった。 現在「塚本雄」は商標登録されており、商標権者は著作権継承者と同じく塚本靑史になっている。

作風
反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられたその作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。その衝撃は坂井修一、藤原龍一郎、中川佐和子、松平盟子や加藤治郎、穂村弘、東直子らのいわゆるニューウェーブ短歌にも及んでいる。作品では一貫して正字歴史的仮名遣い(旧字旧仮名)を貫いた。

よく知られた歌には次のものがある。
「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)
「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)
「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)

補遺
塚本邦雄の研究者として、島内景二による文学史的な研究のほか、安永蕗子、岩田正、坂井修一らによる短歌解説などには定評がある。またインターネット上では松岡正剛の解説が比較的よく知られている。

弟子には、研究者でもある島内景二の他、塘健、山城一成、江畑實、阪森郁代、和田大象、林和清、尾崎まゆみ、小黒世茂、大塚ミユキ、松田一美、佐藤仁、魚村晋太郎、小林幹也、森井マスミなどがおり、また北嶋廣敏、笠原芳充、酒井佐忠、橋本治、北村薫、中条省平、茅野裕城子、山口哲人ら多くの信奉者を得た。

邦雄についての資料には、齋藤愼爾篇『塚本雄の宇宙』(2005年・思潮社)や、弟子の楠見朋彦著『塚本雄の青春』(2009年・ウェッジ文庫、2010年ながらみ書房主催の前川佐美雄賞受賞)、塚本靑史が『短歌研究』へ奇数月に連載中の『徒然懐旧譚』などがある。

受賞歴
1959年 『日本人靈歌』で第3回 現代歌人協会賞 受賞
1987年 『詩歌變』で第2回 詩歌文学館賞 受賞
1989年 『不變律』で第23回 迢空賞 受賞
1990年  紫綬褒章 受章
1992年 『黄金律』で第3回 斎藤茂吉短歌文学賞受賞
1993年 『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞
1997年  勲四等旭日小綬章 受章

作品
以下は一部のみ。著書の一覧表や在庫の有無については、玲瓏誌や玲瓏の会HPを参照。
ゆまに書房で『塚本邦雄全集』(全15巻別巻1、1998-2001年)が刊行。

短歌
水葬物語(1951年)
日本人霊歌
装飾樂句
水銀伝説
綠色研究
感幻樂
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星 
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変(1997年)
約翰傳僞書
初學歴然、透明文法 等、間奏歌集や肉筆歌集を入れた歌集の総数は全80余冊。選歌集も多数あり。 『清唱千首―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』

(撰著 「冨山房」で愛蔵版と新書版:冨山房百科文庫、各1983年)

樹映交感
ウルムスのかどで―横浜市立釜利谷南小学校校歌歌詞(木下大輔作曲)

俳句
断弦のための七十句、花鳥星月、青菫帖、燦爛、裂帛、甘露、流露帖

小説
藤原定家―火宅玲瓏
紺青のわかれ
連彈
菊帝非歌―小説後鳥羽院
獅子流離譚―わが心のレオナルド(集英社、1975年)
荊冠伝説―小説イエス・キリスト

評論
定型幻視論
序破急急
花隠論―現代の花伝書
麒麟騎手―寺山修司論
詩歌宇宙論
言葉遊び悦覧記
国語精粋記―大和言葉の再発見と漢語の復権のために
世紀末花伝書
百珠百華―葛原妙子の宇宙
新古今集新論
ほか多数

文庫
定家百首 良夜爛漫  河出文庫 1984年
十二神将変 同上 1997年
けさひらく言葉 文春文庫 1986年
源氏五十四帖題詠 ちくま学芸文庫 2002年
定家百首・雪月花〈抄〉 講談社文芸文庫 2006年
百句燦燦 現代俳諧頌 同上 2008年
王朝百首 同上 2009年7月
西行百首 同上 2011年3月
花月五百年 ゝ 2012年11月
茂吉秀歌 『赤光』百首 講談社学術文庫 1993年
茂吉秀歌 『あらたま』百首 同上 1993年  以下同
茂吉秀歌 『つゆじも』から『石泉』まで百首 1994年 
茂吉秀歌 『白桃』から『のぼり路』まで百首 1994年
茂吉秀歌 『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首  1995年



あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ・・・・小野茂樹
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    あの夏の数かぎりなきそしてまた
       たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。
変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。
青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。

この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。
河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、
昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲である。
茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、
たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。
それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

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ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

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愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。
これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
ここにリンクにしたのは「原文」であり、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。
なお、彼の歌に詠まれる夫人は小野雅子さんというが、先年夏に、東京で開いてもらった私の第五歌集『昭和』を読む会には、ご出席いただいた。

先年、第四歌集『白梅』を出版されたが、その記事は6/8付けに載せた。ここに載せた文章では誤植は極力なおしたので書き添えておく。
感謝して、ここに書いておく。


藤目俊郎撮影「ウメエダシャクガ」の画像・・・・木村草弥
ウメエダシャクガ

──藤目俊郎画像集──(5)

     藤目俊郎撮影「ウメエダシャクガ」の画像・・・・・・・・・・木村草弥

藤目さんの自宅の梅の木の実の収穫に忙しい、と画像を送って来られた。
梅の木につく害虫の「蛾」ウメエダシャクガというらしい。 漢字で書くと「梅枝尺蛾」となるだろうか。
前に住んでいた私宅の梅林一反ほどの面積の畑もあったが、親しい農家に管理してもらっていたので害虫防止の薬剤噴霧などもなされていたので、こんな虫は見たことがない。
写真の蛾は「交尾中」である。 こういう黄色のケバケバしい色をしている蝶や蛾はタチが悪いものである。
蛾の傍には左側に「繭」も見える。
何枚か写真を送ってもらったが一番鮮明で、わかりやすい一枚だけ紹介させてもらったので、ご了承いただきたい。
有難うございました。
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調べてみたら「北摂の生き物」というサイトに、この虫のことが詳しく載っていたので、その画像を載せておく。 ↓

130417-01P1010139umeedasyakuウメエダシャク
 ↑ 名前の通り、この虫は「尺取り虫」の一種で、このように体を屈伸させて進む。名前の由来である。
140511-01-DSC_2099ウメエダシャク
 ↑ 成虫の腹の部分と同じような色どりをしている。 毒々しい色である。

ご参考までに引いておいたので、ご了承ねがいます。
幼虫のときは「ウメエダシャク」と呼ばれているらしい。 もっとも梅だけではなく、他の木にもつくらしい。





散るあとのさみしさあれば誇らかに咲き盛んなるアマリリスかな・・・・鳥海昭子
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   散るあとのさみしさあれば誇らかに
     咲き盛んなるアマリリスかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


先日にも採り上げたが、アマリリスは球根の花で今が盛りである。五月下旬から咲きはじめる。
せいぜい一週間の花期である。私の家のアマリリスは五月中に花は終わった。
あとの一年は、専ら球根を養う。植えっぱなしでも、律儀に翌年も花はつけるが、2、3年に一回は掘りあげて植えなおすのが望ましい。

この歌はNHKの「ラジオ深夜便の誕生日の花と短歌365日」という本に載るものである。この本では5/28の花としてある。
この歌のあとの作者のコメントには

   <鮮やかに大輪の花を咲かせるアマリリス。
    散ったあとの寂しさがあるからこそ、アマリリスは華やかに咲き誇っているのです。>

と書かれている。けだし、適切な表現と言うべきだろう。
アマリリスの花言葉は「誇り」 「おしゃべり」である。

アマリリスを詠んだ俳句についても先日上げたので今回は省略する。


竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・石田あき子
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     竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・・・・・・・・・・・石田あき子

この句の作者は、石田波郷の夫人である。
私の歌にも次のようなものがある。

  風吹けばかさこそ竹の落葉して私語めくごとしあかとき夢に・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

この歌のつづきに

   竹と竹うち鳴らしつつ疾風は季(とき)の別れをしたたかに強ふ

というのが載っている。ちょうど季節の変わり目で疾風が吹きぬけることがある。
若葉の頃で俳句では「青嵐」という季語がある。
そして、また「竹の秋」「竹落葉」という季語もあるように、竹も新旧交代の時期で、ぐんぐん伸びる筍、若竹の裏に、新葉が出てくると古い葉が落ちるのである。
竹林には、そういう古い葉が降り積もって層になるのである。

私たちの住む辺りにも竹林が多い。聞くところによると関東には竹やぶが少ないそうであるが、私は確かめてみた訳ではない。
竹林というと京都・嵯峨野の竹林が有名である。ここは観光地であり、遊歩道としても整備されている。
写真②は、その嵯峨野の一風景。
thumbnenbutsuji4化野念仏寺竹林

こういう手入れされた竹林はいいが、「竹材」としての利用がなくなって、特に「真竹」の利用価値がなくなって、竹林が放置され、問題を起しているのだ。
竹は放置すると、周辺部へ地下茎を延ばして「侵蝕」してゆく。周辺の雑木林などは、いとも簡単に侵されて、枯れてゆくことになる。
私の住む辺りの低い山には、見渡す限り、放置竹林の侵蝕が見られる。深刻な事態である。

私の歌について言えば「竹の落葉」が「私語めくごとし」というのがミソである。「あかとき」とは「あかつき」の古語である。
俳句にも先に季語を示したが、たくさん詠まれているので、それを引いて終わる。

 竹落葉時のひとひらづつ散れり・・・・・・・・細見綾子

 思ひ出すやうに散るなり竹落ち葉・・・・・・・・久永雁水荘

 竹散るやひとさし天を舞うてより・・・・・・・・辺見京子

 夏に病みて竹枯れやまぬ音に臥す・・・・・・・・斎藤空華

 竹の皮日蔭日向と落ちにけり・・・・・・・・高浜虚子

 ひと来りひと去り竹の皮落つる・・・・・・・・長谷川素逝

 皮を脱ぎ竹壮齢となりにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 若竹や鞭の如くに五六本・・・・・・・・・川端茅舎

 竹の奥なほ青竹の朝焼けて・・・・・・・・加藤楸邨

 若竹や傾きわれもかたむけり・・・・・・・・八木林之助



おはなしはあしたのばんげのこととして二人静の今夜を閉じる・・・・鳥海昭子
futarisizukaフタリシズカ

      おはなしはあしたのばんげのこととして
          二人静(ふたりしずか)の今夜を閉じる・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


ネット上に載るフタリシズカの記事を、下記に引用しておく。
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木々が葉を繁らせ緑に染まり一段落ついた頃、光が射し込まない林下で、フタリシズカは小さな白い米粒のような花を咲かせます。
この花は少し変わっていて、白く見えるのが雄しべで、写真では判りませんが内側に1本の雌しべを包み込むように咲いています。
つまり、花びらも萼もない花ということです。
 また、この花が実を結ぶのと並行して、閉鎖花と呼ばれるつぼみのようなものをつけます。
 この閉鎖花は、開花せず、アリに運ばれるまで待つか、落下するまで植物自体についているそうです。
 ところで、フタリシズカ(漢字では「二人静」と書きます)の名は、花をつけた2本の軸を静御前(しずかごぜん)とその亡霊の舞姿にたとえてつけられたそうですが、
実際には軸が1本だったり、3~5本あったりとまちまちです。
私も1本や3本のものには時々であう機会がありますが、4~5本も軸がついたフタリシズカにもいつかお目にかかってみたいものです。
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この歌につけられた作者のコメントには

  <東北のことばで「ばんげ」とは夜のことです。
   話の続きはまたあした、と仲良く布団に入る情景が、花の名前と花ことばからイメージされます。>

と書かれている。まさに適切なイメージぶりと言えるだろう。
この花は上に引用したように、5月から6月にかけて林の中の薄暗い、ひっそりした木蔭に生えるもので、私の歌には、ない。
因みに、フタリシズカの花言葉は「いつまでも一緒に」ということである。
この花言葉から、作者の歌がイメージして作られた。
私には「いつまでも一緒に」なんて言葉を聞くのは、つらい。

「ふたりしずか」の花は、歳時記では「春」の花に収録されている。数は多くはないが引いておく。

 群れ咲いて二人静といふは嘘・・・・・・・・・・高木晴子

 二人静ひとり静よりさびし・・・・・・・・・・角川照子

 二人静をんなの髪膚ゆるみくる・・・・・・・・・・河野多希女

 二人静娶らず逝きし墓の辺に・・・・・・・・・・吉野義子

 生き残ること考へず二人静・・・・・・・・・・丸山佳子

 前の世の罪許されて二人静・・・・・・・・・・檜紀代

 村滅び二人静もほろぶらし・・・・・・・・・・河北斜陽

 高野泊りは二人静を活けし部屋・・・・・・・・・・清川とみ子

 二人静木洩れ日と囁きあふは・・・・・・・・・・渡辺千枝子

 帳りして二人静の咲きはみだす・・・・・・・・・・折笠美秋

 身の丈を揃へて二人静かな・・・・・・・・・・倉田紘文

 



花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・・高野素十
img_203065_50018109_9白菖蒲

     花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・・・・・・・・・・・・高野素十

「花菖蒲」はアヤメ科の多年草。「ノハナショウブ」の栽培変種で、観賞用に水辺・湿地に栽培され、品種が多い。
先日、カキツバタについて書いたところで、それらの違いについて触れておいた。
江戸時代から多数の品種が作られ、広く栽培されて、菖蒲園には愛好家がつめかけたという。
hanasyobu1429ss菖蒲田本命③

hanasyobu1418ss菖蒲田本命④

先日、カキツバタのことを載せたBLOGで、関連として菖蒲あやめのことを書いたところで、菖蒲は6月にならないと咲かないと言ったが、これは間違いで、
5月中旬からそろそろ咲き始めるということである。
菖蒲田が満開になり田一面が花で埋まるのが5月下旬から6月上旬にかけてのことである。
私の住む辺りでは豊富な地下水を利用して各種の花卉栽培が盛んだが、5月中旬には「菖蒲まつり」が開催され、来会者に花菖蒲3本づつがプレゼントとして配られるという。
掲出する写真はいずれも菖蒲あやめである。色や柄もいろいろのものがある。私などは、やはり紫色が好きだが、これは各人の好みだろう。
hanasyobu1468ss菖蒲田本命②

私より二つほど年長の花卉栽培専業農家の人が居て、先日の端午の節句には菖蒲をたくさん戴いた。
これは露地のものではなく、ビニールハウスによる促成栽培のものである。
栽培農家としては蕾のうちに出荷し、花屋ないしは消費者の手元についてから花が開くようにするのが普通であるので、
私の方に戴いたのも、もちろん蕾のものであった。花が開いてからは開花期は短く二日ほどで萎れてしまう。
こういう端午の節句の菖蒲とか、お盆の蓮の花とかいう、期日の決まったものは期日に合せて出荷しなくてはならず、それまで花を保存するために
「冷蔵庫」を設置するなど多くの投資が必要である。
一時的に花を切る必要があるので、その時は臨時に人を増やして雇うこともあり、なかなか端(はた)から見て羨むほど楽な仕事ではないらしい。
こういう一時的な需要の集中する花は、その日が過ぎると、とたんに花の相場は大きく下がるのである。
この辺に農家としても経営的な手腕が求められるのである。
hanash花菖蒲

俳句にもたくさん詠まれているが少し引いておきたい。

 夜蛙の声となりゆく菖蒲かな・・・・・・・・水原秋桜子

 花菖蒲ただしく水にうつりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 花菖蒲紫紺まひるは音もなし・・・・・・・・中島斌雄

 雨どどと白し菖蒲の花びらに・・・・・・・・山口青邨

 菖蒲剪つて盗みめくなり夕日射・・・・・・・・石田波郷

 菖蒲見に淋しき夫婦行きにけり・・・・・・・・野村喜舟

 黄菖蒲の黄の映る水平らかに・・・・・・・・池内たけし

 白菖蒲過去なくて人生きられず・・・・・・・・稲垣きくの

 菖蒲髪して一人なる身の軽さ・・・・・・・・田畑美穂女

 京へつくまでに暮れけりあやめぐさ・・・・・・・・田中裕明

 花菖蒲水のおもてにこころ置く・・・・・・・・加納染人

 白菖蒲空よりも地の明るき日・・・・・・・・中村路子

 ほぐれそめ翳知りそめし白菖蒲・・・・・・・・林翔

 咲きそめて白は神慮の花菖蒲・・・・・・・・藤岡筑邨

 てぬぐひの如く大きく花菖蒲・・・・・・・・岸本尚毅

 花菖蒲どんどん剪つてくれにけり・・・・・・・・石田郷子

 菖蒲田のもの憂き花の高さかな・・・・・・・・糸屋和恵
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「菖蒲しょうぶ」と「あやめ」は厳密には区別されているらしい。
アヤメは野生のものを指し、菖蒲は栽培種を指すらしい。「属」が同じものか違うのか、などは判らない。一応お断りしておく。



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