K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201709<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201711
POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
c0085874_23145441ホトトギス
 ↑ ホトトギス草

十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。

 そよや風われはその声知らねども百舌鳴くやうな夕暮れ来たる・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
 ひと隅を占めて咲きいる慎ましさつゆの乾ぬまのむらさきしきぶ・・・・・・・・・・・・・三枝浩樹
 うから集ふ法要のなか父の子のわれはもつとも濃き血の嚢(ふくろ)・・・・・・・・小島ゆかり
 ほしいままに生きてきたとわれのことを言ふか さう見えるのか・・・・・・・・・・・・・・真中朋久
 歳月をひとめぐりして立ち寄ればぬすびと萩に種の実れり・・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 かへらざる人を思へばこの幾日記憶の断片をてのひらに置く・・・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 たくさんの失意の果てにひろがれる老年といふ荒野に立つか・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
 帰巣本能われにあるなら老耄のはてにいづくに戻りゆくならむ・・・・・・・・・・・・杜沢光一郎
 声の限り心の限り大泣きの児はあかあかと紅葉に並ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 晩秋の沼の面の水馬は微かな光の輪を踏みて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三井修
 耳も目も衰ふる老いのただなかに春に十七になる犬がゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・中野昭子
 年増とかいかず後家とか出戻りとか地下鉄後尾の揺れにまかせて・・・・・・・・・・・松平盟子
 こころざし忘じ果てたるしずけさか岬の端に陽のあたる見ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・奥田亡羊
 天心のあれは失くしたおっぱい、と虚にささめく声ある月夜・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佐藤弓生
 追憶の彼方の恋や夕暮の空へ振るため人は手を持つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋眞理子
 萩もみぢとらへがたなきあかるさの 窓辺に充ちて、仮の世この世・・・・・・・・・・・ 中西洋子
 霧立ちてふいに涼しくなりにけり牛の体も濡れてゆくべし・・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 甘栗を好み剥きゐし母の爪くらくらと今焼かれゐるなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伝田幸子
 声が来て神経叢をさやがせり無限自在のわれゐるどこか・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 はしがきもあとがきも無き一冊を統べて表紙の文字の銀箔・・・・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 十月や
顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 十月や見上げて駅の時刻表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬場公江
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・・・・ 富沢赤黄男
 山畑に
蒟蒻育て霧に寝る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 独語して夜にぶつかる羊歯胞子・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 空ばかり見ている地べた もう昏い・・・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 あかあかと在りたき晩年烏瓜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池弘子
 紙魚走るカミュを跨ぎサルトルへ・・・・・・・・・・・・・・・・・塩野谷仁
 街灯の暗さにありて秋の月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉浦圭祐
 ハツカネズミを窺う風神雷神図・・・・・・・・・・・・・・・・・・武田伸一
 衰えてたまるか刻の尾を摑め・・・・・・・・・・・・・・・・・野間口千賀
 カーンと晴れ風の出て来し銀杏黄葉・・・・・・・・・・・・・・森田緑郎
 はたた神ひとりぼっちを見つけたぞ・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 大ぶりの蜘蛛の巣いい仕事してるなあ・・・・・・・・・佐々木香代子
 ぼーっと灯り一重瞼を閉じにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・三井絹枝
 印度カレーとナン完食の清涼感・・・・・・・・・・・・・・・・・・相馬澄枝
 路地裏におぼろの墓ある那覇の街・・・・・・・・・・・・・・岸本マチ子
 母死後の記憶のなかに蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・鈴木八駛郎
 毛虫焼く空気一切朝なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢野千代子
 晩節や恋など知らで胡麻叩く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中伸
 直進の鬼やんまの瞳の少年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤和
 齢とは今まといつく蚋払う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲葉千尋
 顛末は消えてしまった蟻の列・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本愛子
 殿様の馬暴れた原にソーラー発電・・・・・・・・・・・・釈迦郡ひろみ
 爽やかや語らずとも母の鼻歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わだようこ
 出棺の警笛野分おしあげよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・則包秀子
 水害地虫は語れど皆無言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米岡清四郎
 身にしむや胸に罅持つ微笑仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑野恵
 口笛の忘れし顔や赤とんぼ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佳夕能
 一枚の天の深さやつくつくし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 秋祭男の
艶めいて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川澄枝
 曼珠沙華咲いたわループタイを出す・・・・・・・・・・・・・・ 岩根彰子
 つつつうと涙はほほに秋日和・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





萩岡良博歌集『周老王』・・・・・木村草弥
周老王_NEW

──新・読書ノート──

      萩岡良博歌集『周老王』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・ながらみ書房2017/10/10刊・・・・・・

萩岡氏は前登志夫創刊の「ヤママユ」の編集長をなさっている。
この本は『空の系譜』 『木強』 『禁野』につづく第四歌集になる。
私の歌集刊行とともに、やり取りをしていて、その彼の歌の鑑賞を私のブログに載せてきた。
ご参考までに前歌集『禁野』 ← についての私の鑑賞は、ここで読めるのでアクセスされたい。

題名とカバー画については少し説明が必要だろう。
「あとがき」に、こう書いてある。

<歌集のタイトルとした「周老王」も、今はもう失われてしまった うぶすな宇陀の地名のひとつである。> 
それは次の歌から採られた。
    <うぶすなに周老王とふ字(あざ)があるその謂れもはや審らかならず>
    <匿はれ老いたりければ修羅王は周老王と言はれたりしか>

古代の事象と地名である。 それを<この歌集の中だけででも、非在のひかりを放っていることを願っている。>として拾い上げたのである。
蛇足的に書いておくと「非在」という言葉は先師・前登志夫の好きな言葉であった。

装画は宇陀市役所のホールに掲げてある吉田初三郎の「大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵」の一部を市の了解を得て使っているという。
萩岡氏は長く郷土で学校長などを勤められた人であり、教育関係に詳しい名士であるから当然の許可であろうと推察する。
萩岡氏は以前から、郷土─産土(うぶすな)に強いこだわりを持って歌にして来られた。
この本も、それの延長上にあるものである。
その上に今回の歌集は、かけがえのない存在としての「老いる父母」を多く詠っているのが特徴である。
以下、巻を追って歌を挙げてみる。

   *雪の森に雪けむり立つきらきらと時間はときに見ゆることあり
   *蕗の薹天麩羅にして食べをり身過ぎのにがさも春の香に立つ
   *蕗のたう食べつつ思ふいつまでも恋のにがみはさみどりのまま
   *枯れ野焼く野火が走れり短歌とは永遠とぢこめるしなやかな檻
   *驟雨来ぬぴたりと蝉のこゑやみて樹樹の時間があをくざわめく

「うぶすな」を詠んだ歌を引いてみた。
都会暮らしの人には見えない時空である。 「しなやかな檻」 「樹樹の時間があをくざわめく」などの、さりげない比喩が的確である。

   *胸鰭の痛む夜なりさういへばながく泳がぬ岩間にありて
   *ほんたうの青は汚れぬかぶらさがるあけびをあふぐ空のしづもり
   *崖つたふ真水の夢を濡れ地蔵ほろろみどりの泪に見する
   *蜘蛛の網に塩辛とんぼかかりゐて晩夏の夕映えなかなか果てぬ
   *陽が昇り醒めゆく邑をにじ色の霧がつつめりしばし繭色

田舎人なればこそ見える世界がある。 田舎暮らしというものは、そういうものである。
私も田舎人であるから、こういう叙景と、そこから深まる「心象」には心から敬意を表したい。 お見事である。
いま少し歌を抽いてみよう。

   *ひるがへる若葉に迷ふわが額を踏みて行くなり孕みし鹿は
   *奥宇陀のみどりに迷ひ行きゆけば胎中といふ村に出でたり
   *ふつか家を空けしあひだに青虫は柚子の若葉を食みつくしたり
   *若夏の金魚売り来てぽんぽんはぜ屋、かうもり傘の修繕屋も来つ
   *つぶやきは雨をよび本降りとなりぬ「さよなら三角また来て四角」

「胎中」というような地名も激しい「喚起力」をもって我々に迫ってくる。 つねづね私の言っていることである。
今はもう消え去って無くなった風習や伝承、行事なども同じことである。
「金魚売り」「ぽんぽんはぜ屋」「かうもり傘の修繕屋」なども消えた風景となった。
「ぽんぽんはぜ屋」は、当地では「ポン菓子屋」という。
「ふつか家を空けた間に若葉を食みつくした青虫」との確執なども田舎ならではの光景である。その虫の除去なども一つの「仕事」となるのである。

   *行水も猫のゆまりも覗き見し昭和の塀に節穴ありき
   *田の畦に裾をからげてゆまりする老婆がをりぬまなうらの夏

「ゆまり」とは排尿のことである。 「裾をからげてゆまりする老婆」とは、どういうことか、理解できないと思うので解説してみよう。
昔は今のようにパンティやズロースを履いていなかった。「腰巻」という下着だった。だから、それを捲り上げて腰をかがめて排尿できるのだった。
だから男用の小便器にも後ろ向きに屈んで尻を突き出して、シャーと排尿できたのである。

   *共稼ぎの妻を職場の論理で言ひ負かす梅雨寒の夜を酔ふままに
   *ベルボトムのジーンズに下駄かつかつとさみしき硬派気取りてゐたり
   *めざむれば雪の朝なり夢に見しひとの乳房の感触のこる
   *見つからぬ まだ あはゆきの汝が胸のしろき曠野をさまよつてゐる
   *CカップD・Eカップ闊歩するさくら咲く街あふぎつつゆく

父母の老いの看取りが著者ひとりでは出来なくなり奥さんも早期退職された。
著者の若かりし頃の回想の歌、そして「情念」に満ちた歌などを引いた。 こういう若さこさ歌の根源である。 せいぜい詠まれたい。
そして、著者も「あとがき」に書く通り、全巻を占める父母の老いをめぐる歌を引く。

   *杖にすがり父は記憶に生きてゐる兵士となりて真夜を歩めり
   *夢を病む父睡らせてしののめのクレマチス咲く庭に降り立つ
   *「このひとらぼけてはんねん」ケアハウスのある日の母の内緒の話
   *あけびの実割れゆくまでをちちははの衰へゆくを目守りつつ 秋
   *広告の裏に書かれし母のメモ走り書きなれど正字体なり

   *あの夏の忍びがたきを忍び来つ父は鎖骨に星を刻みて
   *口あけてかすかにほうけたる老い父が見上げる空に朴の花咲く
   *父危篤ただに急げる病院へ赤信号にことごとく遭ふ
   *あつ気なく父逝きたまふあつ気なく逝かしめしこと孝養として
   *掌をにぎりつつ思ひをり三日前に手指の爪を剪りやりしこと

父を詠った歌を引いた。
父は朝鮮済州島で、陸軍上等兵として終戦を迎えた。
著者は、この歌集は「グリーフワーク」だという。グリーフとは死別などによる深い悲しみ、の由である。

   *物置にほうけたる母の仕舞ひおきし蒔かるるを待つ種子のしづけさ
   *足をもてばもつたいないと言ふ母の歩けぬ足の爪を剪りたり
   *ほうけゆく母はかなしも風呂に入れてやさしく洗ふ血縁の尾を
   *襁褓とれぬをさなと介護パンツ穿く母が炬燵に蜜柑食みをり
   *生くるとはまづは喰ふこともみないと言ひつつ母は粥を喰ひをり

介護─看取りは理屈ではない。肉親の場合「情」がからむから余計に難しい。 そういう情景をさらりと歌にされた。
いよいよ鑑賞を終わりたい。
巻末には、こんな歌が置かれているる

   *母は沼おぼろおぼろと深みゆきてぬきさしならぬまでにいとほし
   *雪の上にけもののあしあとてんてんとつづきてをりぬ母のなづきへ

「ぬきさしならぬまで」という字句に、言外にさまざまの事象を想像させて秀逸である。
すべてを語りきらずに「言いさし」の形にとどめた技法に感心する。
末尾の歌は三字だけを漢字にして、あとは「かな」にしたところが味わい深い。
「雪の上にけもののあしあとてんてんと」という個所には大和宇陀の地の佇まいを見る心地がして成功している。

佳い歌集を贈呈いただいた。 深い余韻のうちに鑑賞を終わることをお伝えしたい。
有難うございました。 母上をお大事に。      (完)






娼婦たりしマグダラのマリア金色の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・木村草弥
lrg_11707601マグラダのマリア教会

──イスラエル紀行(4)──

       娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の
         教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「マグダラのマリア」については、ここに改めて書くまでもないが、リンクできるようにしてあるので、ご覧いただきたい。

「マグダラのマリア教会」は同じ名の教会が世界各地にいくつかあるが、もともとの物語の発祥の地であるイスラエルのエルサレムにある教会は、
1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世が、マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てたものである。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)には、掲出した歌につづいて

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

という歌が載っている。
キリスト磔刑の死後3日目、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった、と言われている。
キリストを深く、心から敬愛した彼女なればこそ、復活したイエスが誰よりも最初に「姿」を見せたのが彼女なのであった。
マグダラのマリアは「聖女」に列せられている。
キリストの聖母もマリアという名である。
そんなこともあって、キリスト教世界では女の子に「マリア」という名をつけるのが大変多いのである。
英語名では「メアリー」と発音される。
絵画の世界でもマグダラのマリアは、さまざまに描かれてきた。
一例として、ティツィアーノの描いた絵を挙げておく。
magdelene3ティツィアーノマグラダのマリア像

この絵については、こんなエピソードがある。

いろんな画家の伝記を書いたことで有名なヴァザーリ(いちおう本業は画家だが)
いわく
「髪が乱れほつれたマグダラのマリアの半身像で、
その髪は瀧のように肩、喉、胸にかかっている。
彼女は頭を上げ、その目はしっかりと天を見据えている。
その赤く泣きはらした目は悔悛の表れであり、
涙は犯した罪に対する悲しみの表れである。
このような絵であったから、それを見る者ははげしく心を動かされた。
さらに彼女の姿は非常に美しかったが、
その美は情欲をそそるものではなく、
むしろ深い哀れみの情を誘うものであった」
・・・と。
ここまで言われたら、画家冥利というものである。
あ、ここにもマグダラのマリアの象徴である香油の入った小瓶が描かれている。(左下)
膝の上の骸骨は「限りある命」の象徴なんだそうである。
「香油」というのは、死んだ人の体を香油で拭い、清めて「葬り」の儀式に備える聖なる儀式の一環なのである。
参考までに図版③に、カラヴァッジヨの同名の絵を載せておく。
carav028カラヴァッジョマグダラのマリア

この絵も、有名な画家であるから、よく採り上げられる絵ではあるが、題名がマグダラのマリアでなければ、どこかの庶民の女の午睡なんかと解されるのではないか。
だから宗教画としては二流だと言えるだろう。
この絵にはマグダラのマリアという歴史上の人物──それもキリスト教における重要人物を描くという必要条件を欠いている。
強いて言えば、椅子の下にこぼれている「小物」──切れたロザリオと香油瓶──がマグダラのマリアを描いた宗教画であることを、僅かに示唆するに過ぎない。
図版④はカルロ・クリヴェッリの描くマグダラのマリアである。
1354976クリヴェッリマグダラのマリア

こうなると、典型的な、というか、類型的なというか伝統的な宗教画を一歩もでていない。
こうして比較してみると、テイツィアーノの絵が、いかに優れているかが判る。
とは言っても、美術というものは各人さまざまに鑑賞されるものであるから、好き好きであっていいのである。

とにかく、オリーヴ山 というのは聖書あるいはキリスト教の世界では重要な歴史的場所なのである。
私が行ったときは、実は「マグダラのマリア教会」には立ち寄らなかった。
ネット上のイスラエル旅行記を見ても、ツアーでは、ここに立ち寄らなかったという記載が多い。マグダラのマリアに対する「偏見」が、あるいは関係しているのかも知れない。
したがって、この教会の写真が遠景からのもので小さいことをお詫びしたい。

オリーブ山麓には、
lrg_11707600万国民の教会

万国民の教会(写真⑤)─別名苦悶の教会と呼ばれ、最後の夜イエスが苦悶しながら過ごしたと言われている─がある。
この教会は新しいもので、聖書のエピソードに因んで、最近に建てられたものである。
この教会に隣接して ゲッセマネの園というのがある。
イエスが頻繁に訪れた場所で「最後の晩餐」のあとイエスは弟子とともに訪れ、受難を予言した場所。名前の通り、オリーヴの木が茂るところである。

ここから少し離れたところに金ピカの「マグダラのマリア教会」はある。
この教会は、見れば判るように典型的な「ロシア正教」の様式である。
玉ネギ坊主の屋根といい、ダブル十字架の下の段の横棒が「キ」の字にならずに、「斜め下」に傾いでいるのもロシア正教特有のものである。
--------------------------------------------------------------------
小説『ダ・ヴィンチ・コード』及び、これを原作にした映画は先年に大きな話題を呼んだ。
この本については明日10/18付けで記事を載せるので、よろしく。
キーパーソンとして「マグダラのマリア」が存在する。キリストが死んだとき、マリアは腹にキリストの子を宿していた、というフィクションが「キー」になっているのだ。
昔から聖書や福音書などには「外典」というものが存在し、小説は、それらを好んで題材にしてきた。
ローマ法王庁は、この本および映画を読んだり、見たりしないように信者に呼びかけた。

2010/09/06に、私の歌

   紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり

を引いて、マグダラのマリアのことについて少し書いている。ご参考までに。
そこに載せたJan van SCORELのマグダラのマリアの絵の方が趣きがある。



終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・木村草弥
anemone2.jpg

──イスラエル紀行(3)──

       終末に向き合ふものの愛(かな)しさか
        ハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめに「ハル・メギド」の野ということについて少し説明しておく。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」に「ハルマゲドン」の最終戦争、というようなくだりがあり、一般人にも、このハルマゲドンという言葉が知られるようになったのは、
サリン撒布事件などを起した麻原一派の恣意的な解釈、からである。
聖書の中の、この記述は邪悪な悪魔と、正しい信仰ないしは正しい人生との戦いを言ったものであり、本来的に「ハルマゲドン」とはイスラエルにある地名である。
紀元前何世紀かの戦場跡と言われている。現地の発音に忠実にいうと「ハル・メギド」と言うのが正しい。
「ハル」とは「丘」の意味である。今は草花の咲く草原である。


イスラエルで売られる本には、そのハル・メギドの草原の写真が載っている。
掲出の写真①はアネモネ属の花で、イスラエルでは、アネモネは「国花」になっている。
春になると野原一面に咲くアネモネ。
赤・白・黄色・紫・ピンク・青と、さまざまな美しい色で、気持ちを明るくさせてくれる。
イスラエルに行く機会のある人は、是非この季節のアネモネの一群を見てもらいたいものだ。

麻原一派の事件が起こった時、私は、すでにこういういきさつは知っていたので、こんな歌を作った。
第二歌集『嘉木』(角川書店)に載.る。

FI2618518_1E.jpg

   ハルマゲドンそは丘の名と知らざるや世紀末なる憂愁深く

   くるふ世とみな言ふべけれ僧兵が毒液ふりまく擾乱(ぜうらん)なれば

   ハルマゲドンかの丘原に展(ひら)けしは「たましひ救へ」の啓示ならずや


はじめに 掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
top野の花④

イスラエルという土地は旧約聖書などを読んでも、昔から、川の流れる流域以外は砂漠の不毛の地だったらしい。
今でも農耕が行なわれ豊穣の土地と言われるのは「約束の地」と呼ばれる限られた地域だけである。
その風土的な極端な特徴がユダヤ教などの宗教が発生する精神的なものの基礎を形成したことは確かである。
だから、当然、その肥沃な土地をめぐる争奪戦が繰り返されたのも理解出来よう。
百聞は一見に如かず、であり、本で読んで知っていても、実際に現地を見てみると、十全に理解できる。
私は2000年5月に訪問して、このことをはっきりと知ったのである。
かの地ハル・メギドの野に咲く花のいくつかを写真にして掲出するが、詳しくは私は知らない。

irishanita3.jpg
ハニタのアイリスという草花

私は、掲出した、この歌で「終末に向き合ふものの愛(かな)しさかーー」と呼びかけたが、
これには聖書の「ハルマゲドン」の記述や西洋のキリスト教会で見られるタペストリーの絵解き物語を踏まえている。
「哀しさ」「悲しさ」とは、私は言っていない。「愛(かな)しさ」と言っている。この言葉は「いとしさ」と言い換えてもよい。
その表現の中に、私は未来に対する希望を盛ったのである。
あと二、三イスラエルの野の花を載せておく。

karumerit1.jpg
カルメラ

marganit1.jpg
ルリハコベ属の花

現地イスラエルに行くと、この歌の背景の豊穣の土地を外れると、砂ばかりの不毛の地が続く。
同じ歌集に載る私の歌の

   断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)

ガリラヤ湖周辺の肥沃な地を離れて、ヨルダン川沿いに南下してゆくと、上の歌のような風景が現出する。
ユダ沙漠は広大なもので、この沙漠を越えて西に行ったところにエルサレムの街がある。エルサレムの街は、東から入るにしても西から入るにしても、うねうねとした道を延々と登り下りした高い丘の上にある。
旧市街は高い城壁に囲まれている。新市街は、その城壁の外に広がっている。

   あたらしき千年紀(ミレニアム)に継ぐ風景は?パソコンカフェのメールひそかに

同じ歌集に載る私の歌のひとつである。ここにも私の問いかけと願いをこめてあるのは、勿論である。
イスラエル紀行の歌は、歌集に載せたものだけでも80首を越えるが、いずれも愛着のあるものだが、今日は、この辺でくぎりにする。




君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・木村草弥
susukiススキ
e0118641_1659595c曾爾高原

       君とゆく曽爾(そに)高原の萱原の
         銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥


曽爾高原は奈良県宇陀郡曽爾村にあり、曽爾高原と言えばススキとハギが秋の草として有名である。春、すっかり焼き払われたあと、地中から芽を出す。
若い葉は、さほど剛くはなくチマキを包むのに適している。お月見の頃、平地より10日ほど早く紫の穂を出す。
すっかり出揃った穂は草原一面を紫に染め、風が起こると繊毛運動を見るように一斉に波打つ。
野分の吹く頃、実が出来て銀色の毛が逆光に美しい。実がとび去ると穂はほうけて、わびしくなる。
この頃から屋根葺き用に注文があれば地元の人によって刈り取られる。
ススキ──イネ科の多年草。カヤ(萱)、オバナ(尾花)とも呼ばれる秋の七草のひとつ。薄、芒など、さまざまの字が使われる。
写真③④に曽爾(そに)高原の遊歩道と地図を載せた。
b曽爾遊歩道

FI2618515_3E.gif

ススキと共に高原の秋を代表する植物と言えば、ハギを挙げなければならない。
紫の小さな蝶形花が集って短い総状花序をなしている。花はやがて青紫色になってこぼれ落ちる。
茎は70~150cm、お箸か鉛筆ほどの太さだから、花時には花の重みで湾曲する。葉は互生し3枚の小葉に分かれている。
「萩」と書くように秋の花、秋の七草のひとつ。晩秋に刈って筆軸や柴垣に作られる。
写真⑤はハギである。
hagi_L4萩②

この高原には多くの植物と動物が生息しているが、例えば、キイチゴは5月~8月に遊歩道や草原周辺の道端に白い5弁の梅花形の花をつける。
茎や枝は細い蔓ののようで、鋭いトゲがある。花が終ると粒々した桑の実のような実が出来る。
実は小さい核果が集合したもので、赤く熟したものは甘い液を含み、おいしく食べられる。いわゆるベリーである。
木苺の仲間は落葉低木で茨(イバラ)とも言う。

掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
この歌の一連のはじめの部分を少し引いておく。

    土 偶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ

  この夏の終りに蜩(ひぐらし)鳴きいでてそぞろ歩きのうつせみの妻

  わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける

  流砂のごと流るる銀河この夏の逝かむとしつつ霧たちのぼる

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐてしらしらと夏の夜を泳げり

  呼ばれしと思ひ振りむくたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ

  萱原に立てば顕ちくる物影のなべては人に似るはかなしも

----------------------------------------------------------------------
なお、万葉集には、ススキを詠んだものとして17首、をばなを詠んだものとして19首、萱を詠んだものとして10首、出てくるという。もっとも、私は全部をあたってみた訳ではない。


北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・木村草弥
447px-Monument_to_Aterui_and_More2.jpg
 ↑ 京都・東山 清水寺境内、音羽の滝近くに建つ顕彰碑
455px-Monument_to_Aterui_and_More1.jpg
 ↑ 同顕彰碑の裏面の銘文

       北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

アテルイ(生年不詳 ~ 延暦21年8月13日(802年9月17日)歿)は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
いま表題に「伝説」と書いたが、没年も史実に残るレッキとした実在の人物である。詳しい資料もないので伝説としたものである。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
アテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても史書に記載する。
以下、Wikipediaに載る記事の当該部分のみを引用しておく。  ↓
----------------------------------------------------------------------------------
史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。
もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。
802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。
「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。
確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。
しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。
この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。
2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。
しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。
「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。
しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。

現代のアテルイ像
評価 坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。
明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。
学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。
アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。

これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

731px-Monument_of_Aterui_in_Hirakata.jpg
↑ 「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市・片埜神社)

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、
1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。
但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。
また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、
一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。
2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。
後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。
他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。
2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
--------------------------------------------------------------------------
今までは一部の識者だけに知られていた蝦夷地──東北の地だが、今回の大震災・大津波などによって脚光を浴びることになり、
この地と人物についても見直されるようになってきた。
『続日本紀』と同様の古代の史書である『日本三代実録』に載る「貞観大津波」については先に触れた。
なぜ大和朝廷政権は、多大な人的損害を蒙りながら辺境の地である蝦夷地を攻めたのか。それには、かの地で「砂金」が採取されたからと言われている。
後の藤原氏三代の栄華も、この砂金の掌握によっていると、今では言われている。これについてはネット上にも記事があろうかと思うので検索されたい。

蝦夷地は「大和朝廷」政権に長らく反抗し、平定された後も、例えば明治維新の「戊辰戦争」の際には会津は抗戦し多大の損害を蒙った。
その記憶は「恨」となって、今も「東京」への反感となっているようである。特に福島では原発の爆発事故による放射能撒き散らしなど被害意識は物凄いものがある。
角川書店月刊誌「短歌」2011年十月号に載る、吉川宏志「何も見えない」30首の歌によると、こんな歌がある。

    とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら

    こだなことになったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ


当然のことだろう。管轄する電力会社も違う土地にまで「越境」してきて「原発安全神話」を、さんざ撒き散らした挙句の、この大事故である。
因みに、この歌の作者・吉川宏志は京都在住の壮年の歌人で、今をときめく短歌結社「塔」の代表を務める人である。

今日は、吉川の歌から「北天の雄・アテルイ、モレ」のことを書いてみた。


浜田昭則・遺歌集『暗黒物質』・・・・・木村草弥
暗黒物質_NEW
↑ 浜田昭則第三歌集『暗黒物質』
非線形_NEW
↑ 第二歌集『非線形』 2002/07田中美術印刷刊
免疫系_NEW
 ↑ 木村草弥 第一詩集『免疫系』角川書店2008/10/25刊

──新・読書ノート──

      浜田昭則・遺歌集『暗黒物質』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・青磁社2017/07/16刊・・・・・・


この本には巻末に浜田氏の顔写真入りの「略歴」と、牧雄彦氏の「あとがき 1」と娘さん浜田恭江さんの「あとがき 2」とが載せられている。
浜田氏は昭和16年満州生れ。 鳥取県の倉吉東高校から大阪大学理学部物理学科卒業。
各地の高校の理科教師を勤め、定年後も非常勤講師を経て、平成26年からは大阪教育大学の非常勤講師を歴任された。
そして昨年2016/07/16 に大動脈解離で死去された、いう。
私とは11歳も若い、惜しまれる死である。
私が短歌結社「地中海」に居たときに親しく付き合っていただいた。 大阪歌会などで一緒に過ごしたものである。
亡妻の死後は会うこともなくなり疎遠になっていたが私の歌集を出したときは欠かさず贈呈したし、年賀状だけはやり取りしていたが3年ほど前から音信が途絶えた。

今回、娘さんから本をいただいて書架から旧著などを引き出して読み返してみた。
第二歌集『非線形』の頃は、私はまだブログはやっていなくて、40首抄を書き出したものが、この本に挟み込んであった。
その中に、こんな歌がある。

  <法螺貝のあをき音ながる法善寺横丁みだりがはしき席を>

ここ法善寺横丁には「正弁丹吾亭」(注・字は間違っているかも知れないのでお許しを)という居酒屋があって前登志夫や米満英男などの酒好きの歌人が屯していたらしい。
その米満氏と私の歌集の批評をしてもらった縁で知り合いになって、短歌関係の会のあとで梅田の阪急百貨店横で酒食を共にしたことがあり、酒の好きな浜田氏を誘ったことがある。
この歌のように浜田氏も誰かと、ここに行かれたことがあるのである。
その米満氏も先年亡くなられており、親しい人を、また喪った。
画像の3番目に出した私の第一詩集『免疫系』に、こんな歌がある。

              比喩として二連──物理学徒A ・Hに──   
   <競馬場の帰りにつつく関東煮 非ユークリッドと君は言へども>
   <「幾何学に王道はなし」弟子たりしプトレマイオスの治世はいかに>

ここにいう「物理学徒A ・H」というのが浜田氏のことなのである。
このくだりはもちろん浜田氏にもお伝えしたことである。
浜田氏は「競馬」も好きであった。お住まいの枚方市のすぐ先には淀の京都競馬場もあったし、よく出かけておられたらしい。
歌の中にある「関東煮(かんとだき)」とは「おでん」のことで、今はそんな言い方はしないが昔は関西では、そう呼んだのである。

前置きは、このぐらいにして本論の歌集に入りたい。
画像でも読み取れるが、「地中海」大阪支社長・牧雄彦氏による「帯」文と「あとがき」は懇切丁寧なもので、この本の要約は尽きていると思われるが私も少し書きたい。
さすがに「物理学徒」として浜田氏の歌は難解である。
私などは数学、物理が大の苦手で、小学生レベルの「ツル・カメ算」さえ覚束ない始末であるから歯が立たない。
したがって採り上げるのもエピソード的になるのをお許しいただきたい。
歌を引いてみる。

   *言の葉を出ださぬ国になりゆくか液晶パネルに見入る猿たち  → 「猿たち」とは痛烈な皮肉である。
   *うばたまの暗黒物質のふところに育まれたりわれらの地球は
   *この国に『塵劫記』あり寝る前にかたはらに置き開かず眠る
      
『塵劫記』は江戸時代の算術書。 1627年吉田光由執筆。
顕彰碑が常寂光寺にある。関孝和や貝原益軒などに影響を与えたという。
浄土経の「塵点劫」に由来するという。

   *ヒトとしてよきことならむ休肝日人間として腑抜けのやうに  → 「休肝日」にも手厳しい。
   *このところウィキペディアには多からむ対称性の破れの検索  → ノーベル賞受賞の頃の光景である。
   *取るにたらぬ会話とがまん重ねつつわが家の対称性を保てり
   *ケータイは絆か時を食ひちらす蝗かひとこと仕舞ひなさいと  → 浜田氏はケータイが嫌いである。
   *つき合ひのほぼ半世紀短歌でなく民謡ほめくるる酒友の席に
   *ほどほどに酔へばのみどもかろやかに貝殻節を唄ふひととき  → 酒の歌は分かりやすい。
   *ほろほろとゆく石だたみのれそれをあてに上燗酌みたる宵を
   *炊きたてのぎんなん御飯ほこほこと冬立てる日のわが休肝日
   *ふぐ料理つつきつつ酌む湯田の夜を獺祭といふ酒愛でながら
   *待ちかねしをのこ来たりてはづみたり超対称性粒子さかなに
   *先生の逝かれて二十六年目 オンザロックに浮かれてゐます  →  内山龍雄教授。

酒に因む歌を並べてみた。 とにかく数が多いのは浜田氏が酒をこよなく愛したからである。

   *かうやつて戦への道あゆみしか茂吉のわだち踏みたくはなし  →  戦時中の歌人たちの聖戦賛美を批判。
   *フクシマは安全ですよ あしたから秘密保護法にて守るゆゑ  →  フクシマ対応への批判。
   *核物理を学びておよそ半世紀事故は「犯罪」と語りつづけて
   *田村麻呂の嘆願空しく阿弖流為の果てし丘視る風邪癒ゆる朝  →  歴史的「弱者」への視線の温かさ。

原子力発電反対も浜田氏の持論であった。 アベの強行政治が露出している今、浜田氏はどう言うだろうか。

浜田氏が亡くなったのは、まさに末娘さんの十年目の命日だったという。 何という悲しい符合だろうか。

   *ベガデネブ指になぞりてアルタイルひときは著く子の七回忌
   *逝きし娘の魂はいづべに北の窓あけて呼びこむさくら吹雪を  →  子を詠んだ絶唱である。

   *すこしづつ吹雪にかすみゆく家並みこの地を離れ五十と二年
   *あらたしき年の電話の母のこゑ二尺ばかりのゆきのつもるを
   *ややはやき夕べの酒に酔ひをれば母危ふしと告ぐるいもうと
   *小夜更けし仏間に眠る母のかほわが生きざまに思ひめぐらす
   *まなぶたを拭ふいくたり託されし辞世の歌を詠み上ぐるとき

ご母堂さまに因む歌である。 悲しみの中で、よくぞ詠まれた。

牧氏の「あとがき」によると、浜田氏の歌は、全部27文字に統一されているという。 そんな営為も止めるという歌が巻末にある。

   *二十七文字短歌よさらばいふほどの由もあらざる試みなれば

字面が綺麗に揃って見やすいが、そろえるのに苦労されただろう。 物理学徒らしい几帳面さである。
そろそろ拙い鑑賞を終わりたい。

   *赤人のうた思ひつつときを待つ富士の高嶺のダイヤモンドを
   *願はくは形而上から形而下に生きて知りたしダークマターを
   *わかるほど解らない謎あらはれてわれから遠くなりゆく宇宙

専門家である浜田氏にしてもなお「解らない謎」があるという巻末の歌に、門外漢である私は少し救われた気分になった。

浜田さん、しばらくのお付き合い有難うございました。
まもなく私も、そちらに参ります。        (完)







トロピカルストーム「ハロラ」は/ハリケーンの卵の時にもらった名前のまま/台風十二号となった・・・・・江口 節
f0031417_1141455台風の目

      大海原・・・・・・・・・・・・・江口 節

     赤道より北側で発生した
     太平洋の熱帯低気圧は
     日付変更線の
     東側で成長すれば  ハリケ—ン
     西側で成長すれば 台風
     生まれたあたりは
     いつも東風が吹いている
     西へ西へと流され

     今日日付変更線を東から西へ越えた
     トロピカルストーム「ハロラ」は
     ハリケーンの卵の時にもらった名前のまま
     台風十二号となった

     昨日の真昼と
     今日の真昼が隣り合う
     大海原
     あてどない生のような
     果てしない水平線を
     今日から昨日に行かず
     昨日から今日に移動する
     熱と風と水の力学

     そう
     いつも今日だ
     地球の上では

     わたしがわたしの死を
     知ることはないだろう
     死とは何か 生とは何か
     知るのは ただ
     生きることであって
     生きるのは
     今曰なのであって
------------------------------------------------------------------------------
この詩は「詩と思想」2015/09月号に載るものである。
「ハリケーン」が「台風」に替わる、のを詩に詠んでいる。
今年は日本に襲来する台風が多かったし、しかも悲惨な災害をもたらした。
そんなことで、たまたま目にした、この詩を出しておく。
掲出した画像は「台風の目」である。

著者プロフィール 1950年広島県生まれ。「叢生」「多島海」同人。日本現代詩人会、日本詩人クラブ、兵庫県現代詩協会各会員。神戸市在住。
著書に詩集『溜めていく』 『草蔭』 『オルガン』 『果樹園まで』などがある。
『果樹園まで』について「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」に下記のような記事が出ているので紹介する。   ↓
--------------------------------------------------------------------------------
江口節『果樹園まで』(コールサック社、2015年04月21日発行)

 江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
 「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。

硬い柿は籠に入れて
しばらく 眼に食べさせる
弾力が出るまで

舌はわがままで 偏狭で
十分に達した味わいしか
認めない

柿、と言うて
詩、と言うて

 この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
 ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
 その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
 詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
 詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。

 そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。

口の開き方
というものが あるらしい
どんなにか しゃべりたくても
いさんでも もの申したくとも

じゅんじゅんと
土の下から
樹液はのぼってくる

 「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
 江口自身、次のように書き換えている。

内側で
熟れていくおもみに耐えかねて
口は
おのずから開きはじめる

 感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。

おずおずと
ついに 十字のかたちで
完熟の
みずみずしく あまく

 「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。

ひりひりと血の色の
あふれでる一語一語を
ゆびさきにはりつく薄皮で
ようやく つないで

そのとき
もう ことばではないのかもしれない
とろとろ
口の中で 果肉がくずれて

 ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。

 「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。

そっと
指の腹でふれると、わかるだろうか
かすかなうぶ毛だ
尖端にさわった
と、みるみる傷つき
しなびる、こころがあって

むぞうさに
枝からもぎとれば
軸につながる皮がやぶれ
果肉は
しだいに、くろずんでいく

いずれ
皮の剥かれる時は来る
ひりひり
あ、と声も出るだろう
ぽたぽた
てのひらも果汁で濡れるだろう
             (谷内注・「もぎとる」の「もぐ」は原文では漢字。)

 「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。

 「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
 どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
 あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。

あらかじめ剥いておくのは
むずかしい
みるみる褐色にやつれてくる
クリーム色の実
剥いて 切り分け すみやかに
食べる

したたり
などと生やさしいものではない
日がな ぬれそぼつ
雨の果実
水、多き心臓のかたち
押せば
たちどころに指の痕

すいみつとう
ひとつ
あばらやの奥に隠し持つ
やっかいな種族

気まぐれに
ミューズに呼び出され
うつそみの
言の葉繁く陽の下に
みるみる褐色にやつれていく
--------------------------------------------------------------------------------
私は江口さんのことを何も知らないので、長くなったが紹介したみた。






「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高くイエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・木村草弥
FI2618512_1E.jpg

──イスラエル紀行(2)──

       --------「わが神、わが神、いかで余を見捨てしや」
       ------------------------(マルコ伝15章33-39)
        「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高く
          イエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


かぎ括弧内の言葉はイエスが息絶える最後の言葉として有名だ。
前書きの形で引用した部分が日本語にしたものである。
一般的には「エリ、エリーー」のように翻訳されているものが多いが、私がイスラエルから持ち帰った資料には「エロイ」の言葉が使われていたので、私はそれに従った。
この言葉はイエスの「人間的」な生の声として私たちの心を打つものがある。

写真①はゴルゴダの丘の「聖墳墓教会」の内部である。
写真②は聖墳墓教会内の、十字架から降ろされたイエスに葬りのための香油を塗ったとされる塗油台である。
FI2618512_2E.jpg

この歌の前に

  ゴルゴダは「されかうべ」の意なりイエスは衣を剥がれ真裸とされし

という歌を載せている。ゴルゴダの丘というのは、そういう意味を含んでいるのである。
10/10付けで載せたものに続くものとして私の第四歌集『嬬恋』からのものであるが、紀行文としての「ダビデの星」もお読みいただきたい。
----------------------------------------------------------------------
FI2618512_3E.jpg

写真③はエルサレム近郊にある町・ベツレヘムの「聖生誕教会」の中のイエスが生まれた場所とされている所。今は銀の星型が地面にはめこまれている。
このベツレヘムの町はパレスチナ自治区の管轄下にありパレスチナ警察が厳重に固めている。
聖地巡礼のキリスト教徒の、凄い行列が出来ている。ガイドが警備員に便宜を図ってもらって、行列に並ばずに横から入れてもらった。
この教会も丘の上に位置している。

  主イエス、をとめマリアから生れしと生誕の地に銀の星形を嵌む

  一人では生きてゆけざる荒野なり飼葉桶には幼子入れて


私のベツレヘムでの歌である。
言いおくれたが、ゴルゴダの丘の聖墳墓教会は、キリスト教各派がそれぞれの管理権を主張する世俗的空間である。
ローマカトリックやギリシア正教、コプト派などが内部を分割管理している。詳しくは「ダビデの星」の解説文を読んでほしい。
-------------------------------------------------------------------
写真④はイスラエル北部にあるガリラヤ湖畔のナザレにある「受胎告知教会」の外観である。
FI2618512_4E.jpg

イエスの母マリアは、このナザレでイエスを身籠った啓示を受けたとされる。
なお「ナザレ」とは「守る」「信仰を守る」の意味である。
この教会は世界各地からの信徒の寄進で建てられた新しいモダンな教会で、内部には世界各地の信徒の画家が描いたいくつものイエス像のモザイクや絵が壁面を埋めている。
詳しくはリンクに貼った ↑ ところをクリックしてご覧ください。

  主イエスを日本の姿(なり)に描きたる長谷川ルカの真珠のモザイク

という私の歌にある通りである。つまりイエスを日本の着物姿で長谷川ルカは描いたのであった。
詳しくは、リンク設定したページにアクセスしてもらえば見られる。
イエスは伝承によれば、
ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村


この地での私の歌である。

イエスはもともとユダヤ教徒である。しかしユダヤ教の律法学者はイエスの説く教義が律法をないがしろにするものだと考えた。
それはイエスが自分を「神の子」と称したからである。そして、人々の心を捉えたイエスの力を脅威と感じ、結果的に十字架磔刑へと導いて行ったのである。
ローマ提督ピラトから死刑の宣告を受けてから、
十字架を背負って歩くゴルゴダへの道はヴィア・ドロローサ Via Dolorosa 悲しみの道(正しくは痛みの道)と称する約1キロメートルである。
新約聖書の記述にしたがって道すじには、歴史的場所として「ポイント」(英語ではステーション)が置かれている。
毎週金曜日にはフランシスコ会の修道士が十字架を担ぎながらイエスの行進を再現する。詳しくは私の「ダビデの星」の叙事文を見られたい。

  異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る

の私の歌の通りである。
今まではローマ提督ピラトはイエスを捕らえて磔刑に処した極悪人とされてきたが、
今日では、先に書いたようにユダヤ教の律法学者たちが、イエスを捕らえ、処刑するように仕向けた、というのがキリスト教内部での通説となっている。

  「視よ、この人なり」(エッケ・ホモ)ビラト言ひきユダヤの律法に盲(めし)ひし民に

だから私は、このように歌に詠んでみたのである。
今日はエルサレム及び近郊のキリスト教に因む聖地を辿りながら、少しキリストについて書いてみた。
エルサレムの地は一昨日にも書いた通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地である。
したがって、ユダヤ教の聖地も多いというより、ユダヤ教の聖地は最近のユダヤ迫害による歴史的事物の展示が主となっている。
ユダヤ教とキリスト教は切り離せない。新約聖書はキリスト教の聖典であるが、旧約聖書はユダヤ、キリスト教共通の聖典である。
更に言うと、イスラム教も、この旧約聖書は教典として認めているのである。こういうところから、これらの3つの宗教は「同根に発する」と言われる所以である。

  ------------母ラケルが難産の末いまはの際に、その子をベン・オニと名づけたが
  ------------------------父ヤコブは彼をベン・ヤミンと呼んだ(創世記35-18)
   行く末を誰にか問はむ生れきたる苦しみの子(ベン・オニ)はた幸ひの子(ベン・ヤミン)

私は、この歌で旧約聖書の創世記に載る、このエピソードを元に、現下のイスラエルの置かれている厳しい現実を、この歌の中に盛り込んだ。
それは「行く末を誰にか問はむ」という呼びかけの形である。こういうのを「比喩」表現と言える。

  「永遠に続く思ひ出」(ヤド・ヴェシェム)と名づけたるホロコースト記念館に「子の名」呼ばるる

現下のホロコーストの哀しい思い出の、「ホロコースト記念館」での歌である。スピーカーから幼くして虐殺された子供たちの名前が読み上げられて流される。

写真⑤は、ユダヤ教会──シナゴーグに掲げられる幕である。
FI2618512_5E.jpg

---------------------------------------------------------------------
聖墳墓教会や聖生誕教会、聖受胎告知教会など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。


「北斎─富士を超えて」を観る・・・・・木村草弥
b02316_ph08北斎辞世
↑ 英泉 画  北斎像 川柳は辞世の句という
hokusai123_main_01北斎
 ↑ 細密な肉筆画 「朝顔に雨蛙」 署名「為一」は北斎の別の雅号
チケット_NEW
 ↑ 展覧会 チケット
0514hokusai1-600北斎浪裏
Hokusai-fuji7北斎赤富士

kanmachi_yatai11小布施
 ↑ 信州小布施「北斎館」天井画「浪図」
hokusai_25-1024x751鳳凰図88歳
↑ 「鳳凰図」下絵 北斎88歳の作という。 完成して田布施に飾られた画はもっと赤色が強く、「赤」は娘の「おえい」応為の筆という。
北斎入門_NEW
応為_NEW
北斎_NEW

カレンダー
 ↑ 北斎カレンダー

──映画・絵画・展覧会 鑑賞──

     「北斎─富士を超えて」を観る・・・・・・・・・・木村草弥
         ・・・大英博物館 国際共同プロジェクト・・・・・阿倍野ハルカス美術館・・・

NHKが物凄く宣伝するので10月11日午前に出かけたが、入口から凄い人出。チケットを買うのも十重二十重の行列で小一時間もかかった。
展示の絵は概して小さい。 唯一大きな画は図版に出した信州小布施の「北斎館」天井画の「浪図」である。
これは天井画であるから、もともとが大きい。

掲出画像の入門書『北斎への招待』と、カナダ人作家キャサリン・ゴヴィエの小説『北斎 応為』はミュージアム・ショップで買い求めたもの。
画像の下でも少し触れたが晩年の画には娘の「おえい」雅号「応為」の筆が多分にはいっているという。
取敢えず、現状でアップしておくが、後日に書き加えることがあるので、念のため。
なお、このブログの過去記事として北斎に触れたものがあるので参照されたい。 → 葛飾北斎


木犀の香や年々のきのふけふ・・・・西島麦南
FI2618511_1E.jpg

     木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

金木犀の爽やかな香りが漂う季節になった。例年、東京オリンピックを記念した「体育の日」前後というところである。日本は広いから地域によって異なるだろう。
関西では今頃である。私の父は10月14日に亡くなったが、金木犀の強く薫る頃であった。
写真は花を接写で撮ったもので、花は十字の形をしている。地面に散り敷いた時は一面金色で見事なものである。
掲出の句は、「年々のきのふけふ」と詠んで、歳月の無慈悲な推移を、情緒ふかく句にまとめた。

FI2618511_2E.jpg

キンモクセイは雌雄異株だが、日本には雄株しか入って来なかったと言われている。
キンモクセイは中国南部の桂林地方が原産地。中国語では「桂」は木犀のことを指し、「桂林」という地名も、木犀の木がたくさんあることに由来する。
有名な観光地である漓江下りの基地であり、現地に行ってみると、そのことがよく判る。
中国には「月には木犀の大木が茂っている」という伝説があるそうである。
夢見心地にさせてくれる花の香りが、地上のものとも思えなかったのであろう。
花言葉は「謙遜」。中国の酒に「桂花陳酒」というのがあり、木犀の香りのついた名物の酒である。

FI2618511_3E.jpg

写真③は和知小学校にあるキンモクセイの巨木である。キンモクセイの巨木では三嶋大社のものが有名で樹齢1200年と言い、天然記念物に指定されている。
キンモクセイは学名を Osmanthus fragrans var. aurantiacus というが、一番はじめのOsmanthus というのはモクセイ属というものだが、
このオスマンサスはギリシア語の「osme(香り)プラス anthos(花)」というのが語源。
因みに学名には末尾にMAKINO とついているものもあるが、それは牧野富太郎博士の命名か整理による故だろう。
ついでに言えば fragrans=芳香のある、 aurantiacus=橙黄色の、の意味である。
木犀には銀木犀というのもある。私の家の旧宅の庭にあったが、今の家に引っ越す時に庭に入り切らずに植木屋にもらわれていった。
木犀を詠んだ句を引いて終りにする。

 木犀や月明かに匂ひけり・・・・・・・・山口青邨

 浴後また木犀の香を浴びにけり・・・・・・・・相生垣瓜人

 沈黙は金なり金木犀の金・・・・・・・・有馬朗人

 夜露とも木犀の香の行方とも・・・・・・・・中村汀女

 木犀の香がしてひとの死ぬる際・・・・・・・・小寺正三

 金木犀手鞠全円子へ弾む・・・・・・・・野沢節子

 木犀が髪にこぼれてゐて知らず・・・・・・・・神戸はぎ

 富士に雪来にけり銀木犀匂ふ・・・・・・・・伊東余志子

 身の饐えるまで木犀の香に遊ぶ・・・・・・・・鷹羽狩行

 金木犀の香の中の一昇天者・・・・・・・・平井照敏

 妻あらずとおもふ木犀にほひけり・・・・・・・・森澄雄

 犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀・・・・・・・・金子兜太

 木犀や同棲二年目の畳・・・・・・・・高柳克弘


<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球はアポリア・・・・木村草弥
FI2618510_1E.jpg

──イスラエル紀行(1)──

      <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ
        殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


2000年5月にミレニアム記念の年にエルサレムを訪問できたのは幸運だった。
その年の秋にはシャロン首相の「黄金のドーム」強行視察に反発してパレスチナ人との間に果てしない流血の衝突が起り、今日に至る泥沼化した紛争の起因となってしまった。

掲出した写真はオリーヴ山からの「黄金のドーム」の遠景である。
掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』((角川書店)に載せたもので、歌以外の叙事文はイスラエル紀行「ダビデの星」をWeb上で見ることが出来るのでアクセスしてもらいたい。
歌集には、この叙事文も全文収録してあるが、Webでは収録していないので、紀行文「ダビデの星」をみてもらいたい、という意味である。
短詩形としての短歌は事実を叙事するには適していないので、私は慣例を破って、この歌集の中で歌と叙事文を併用するという手段を採ったものである。
写真②はエルサレム旧市街を囲む城壁である。
028エルサレム旧市街城壁

写真③は、エルサレム旧市街の壁の中にある「嘆きの壁」と称されるところで、黒づくめの服と帽子に身を包んだユダヤ人がブツブツと経文を唱えながら壁に向かってお祈りする場所である。
この壁の上段にイスラム教の「黄金のドーム」がある。
FI2618510_3E.jpg

なぜエルサレムが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地として古来、たびたび争奪戦の対象になってきたのか、
などについて私の紀行文「ダビデの星」に詳しく書いてあるので、お読みいただきたい。

FI2618510_4E.jpg
写真④が「嘆きの壁」に向かうユダヤ人。立っている人もたくさん居る。ここには厳重なイスラエル警察の護衛と監視つきで短時間立ち入ることができる。
イスラエル国民にはユダヤ教徒だけではなく、イスラム教徒も、他の信徒も居るが圧倒的多数はユダヤ教徒であるが、
ユダヤ人が寛容の精神でエルサレム市を運営するかぎり、みな共存共栄の関係なのである。
パレスチナ人(イスラム教徒)も肉体労働や車の運転手などの仕事をユダヤ人からもらって生活しているのである。
暗殺されたラビン首相は穏健派だったので両者の関係は蜜月時代だった。
今では強硬派のシャロン首相が、そういう危うい両者の関係を破壊してしまい、果てしない殺戮と報復の泥沼に入ってしまった。
余談だが、そのアリエル・シャロンが2006年に病気で倒れ人事不省になり、今はどうしているのか、死んだという報道もないが、人騒がせな政治家であった。
今のネタニアフ首相も強硬派であり、事態は一向に進展しない。

FI2618510_5E.jpg

写真⑤は記念館に展示される「2000年前のエルサレムの街の模型」である。
エルサレムは東西の交易路の交わるところとして、古来、重要な位置を占めてきた。
そういう場所であるだけに、事がこじれてしまうと、血を血で洗う紛争の地と化してしまうのである。
私は歌集の中で

   山 翻 江 倒 海 巨 瀾 捲 奔 騰 急 萬 馬 戦 猶 酣─────毛沢東

という毛沢東の詩を「引用」の形で挿入した。これは私の友人・西辻明 が自作の詩の中に使ったのを了解を得て使わせてもらった。
全部は理解できなくても、漢字ひとつひとつの意味するところから何となく、現代を表現し得ていると思えるではないか。
毛沢東は晩年には文化大革命などの間違いを犯したが、間違いなく20世紀を代表する偉大な政治家・哲学者であった。

イスラエルやエルサレムについては、旅の途中にガイドのニムロード・ベソール君から色々話を聞いて、まだ書いていないこともあり、
いつか機会をみて書いてみたいと思うが、ユダヤ人の中でも人種の違いによって明らかな「差別」が存在するのである。
白人のユダヤ人が優位で、有色人のユダヤ人は差別されている。
また我々には理解しにくいことだが、ユダヤ教典の中では「働くな」と書かれているらしい。
だから現在のイスラエル国民のうちで、保守派の連中は、教典に集中するという名目で働かず、国家の助成で暮らしている、という。
これはガイドのベソール君から聞いた。
大体、保守派はヒゲを生やし、黒づくめの服装をしているから一見して判るが、湖水地方などの保養地でモーターホード遊びなどをして、はしゃいでいるのは、
そういう保守派の連中の子弟である。だから、ベソール君は「間違っていますね」と言うわけである。
ベソール君については私の紀行文を読んでもらいたいが、イスラエル国民は、決して強硬派一色ではない。
暗殺されたラビン首相のように平和裡にユダヤもパレスチナも共存する方策を模索した勢力が、今でも多数いるのである。
民族、国家の古さから言えば「ユダヤ人」「イスラエル」「ユダヤ教」は一番古いのである。

私の歌集では、この歌の後に

  夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで

  目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす

  何と明るい祈りのあとの雨の彩(いろ)、千年後ま昼の樹下に目覚めむ


と続けて、この歌集の「ダビデの星」の章を終っている。もちろん私の願望を込めてあるのは当然である。
-----------------------------------------------------------------------
「エルサレム」や「嘆きの壁」「ダビデの星」など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。



書評・評論─木村草弥歌集『嬬恋』─感応・・・・米満英男
嬬恋

──書評・評論──初出・『霹靂』16号2004/05/01所載

     木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・米満英男(黒曜座)
                 ──その多様な発想と表現に向けての恣意的鑑賞──

 今、眼前に、四八二首を収載した歌集『嬬恋』がある。まずその歌の抱える幅の広さと奥行の深さに圧倒された。
東はユカタン半島から、西はエーゲ海に到る<規模雄大> なる覊旅の歌にも目を瞠ったが、その現地体験もなく、宗教や風習にも全く疎いと気付き直し、
敢えてそれらの歌からは、紙数の関係もあって降りることにした。
 私が平素上げている専用のアンテナに、強く優しく伝わってくる歌からの電波をとらえて、私なりの気ままな読み取りを行い、それを返信の言葉に代えて述べてみることにする。

①目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
②父を詠みし歌が少なし秋われは案山子(かかし)やうに立ちてゐたりき
③うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
④夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず
⑤石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
⑥うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ

 いずれの作品も、まさに現代短歌の本筋とも言うべき、肉眼と心眼、写実と抽象、正視と幻視が一元化した上で、さらに濃密性と透明感を秘めた歌に仕上がっている。
 一首ずつ、恣意的に味わってみる。
 ①の歌、目つむれば常に花の向うから現れる母の姿。おそらくは母が纏う甘い匂いも嗅ぎ分けていよう。
②の作品、父と同様、作者自身も、父となった以後は、子から見れば孤独な存在に過ぎない。
③真昼間の春爛漫のさくらではない。若気の至りを越えた後をふり返りつつ、その回想を子に聞かせている。
④上句にこめられている妖気が、下句の願望を妨げ作者の口を閉ざさしめる。
⑤花にかこまれて坐っている自分の姿を、奈落の中と観じた刹那、投げた石の谺のひびきがわが身を禊ぐ。
⑥の歌、白い月光の下、藍色の影を曳きゆくほどに、うつしみの欠落部分が、いよいよつよく感じられると詠じている。
 次に、上掲の歌とがらりとかわって、何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出してみよう。

⑦重たげなピアスの光る老の耳<人を食った話> を聴きゐる
⑧手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す
⑨クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ
⑩春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじやくし)の語尾活用を君は見るだらう
⑪園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた
 ⑦の作品、車内で見た<老婦人>であろう。隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話をじっと聴いている。
そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう。
⑧は、これまた、何とも鮮やかな応答である。結句の<呵々大笑>の締めがよく効いている。
⑨読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。
⑩さてさて、こういう発見もあったのかと頷き返す。<君> が何者かと思案する楽しさも残されている。
⑪<レンブラント>という重々しい命名のトマト─是非食べてみたい。
こういう、絶妙な軽みを持つ歌を随所に据え置いているのも、作者のすぐれた<芸> の内であろう。

 さて、ここら辺りで、題名の『嬬恋』にぴたりと即した作品をとり上げてみよう。
⑫雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり
⑬億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
⑭生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
⑮ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
⑯水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
ありきたりの感想など入れる隙間などない、まさに絶唱としか言いようのない作品である。が、それではいささかこちらが無様すぎるので、敢えてひとこと述べてみる。

 ⑫雷鳴が葵というはかない存在を経て、病む人につながるその緊迫感。
⑬永遠の時間に比べれば、人のみならずすべての生き物は瞬間の命しか持ち得ないという詠嘆。
⑭四句から結句に至るその間に付けられた<、>の重さによって、<凭れてよいぞ>という作者の肉声が何とも切なく伝わって来る。
⑮若かりしころの艶なる妻の姿態がふと浮かぶ。歳月の流れ。
⑯一歩踏み出せば一種の惚気とも取られかねない際どい線の手前に踏みとどまって、己れの身をその<女>(ひと)に委ねている。

 好き勝手な、自己流の鑑賞──というよりも、一方的な受容と合点を行って来た。そこであらためて気付いたのは、この歌集のもつ多様性であった。
しかもそれは、歌の表層部分の言葉の置き換えから来るものではなく、作者自身のその場その時における情念と直感が導き出す重厚にして膨みのある、ユニークな詠嘆であった。 
 その詩的詠嘆の、さらなる充溢と進展に向けて、惜しみなき拍手を送りたい。 (完)


鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど・・・・小池光
t_karaage06.jpg

      鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ
           冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・・・・・・小池光


卵は昔は貴重品だった。
割れないようにもみ殻に入れて保存され、精がつくからという理由で、病人への見舞いによく使われた。
やや縦長の丸い形状、割れやすい殻、とりわけ内部に命を宿しているということが、豊かな象徴性を帯びる理由なのだろう。
キリスト教では復活祭に彩色した卵を飾るが、これも生命の復活・再生を表わしていることは言うまでもない。
またお隣の韓国には卵生神話というのがあり、伝説上の英雄は卵から生まれたとされているという。
卵の持つ不思議な性質が、いかに昔の人々の想像力をかき立てたかをよく示している。

はじめに、なぜ、今日「生卵」のことを書く気になったか、を言っておく。
角川書店「短歌」10月号(2015年)の「シリーズ連載・歌人の朝餉」というページに花山多佳子が、こんな記事を書いているからである。
  
    <・・・・・卵は生卵も半熟卵も食べられないので、フライパンでしっかり押しつけて焼く。
      ふんわりしたオムレツを子どもたちにも食べさせたことがない。・・・・・>

この記事から思い出すのが、同じ短歌結社の重鎮だった河野裕子が、関西人特有の「おせっかい」で、おまけに「熱々メシに生卵」をかけて食べるという人で、
結社の人々に生卵を送りつけたというエピソードを思い出したからである。
贈られた花山多佳子は、前記のような育ちの違う、食習慣の違いから多量の卵を贈られて面食らった、というエピソードである。
ご存じのように、花山は東京育ちで、高名な歌人・玉城徹の娘であり、祖父も玉城肇という学者だから、この家では「卵かけ飯」というような習慣がなかったのだろう。
はじめに書いたように昔は生卵は貴重品であり、近年まで病気見舞いには生卵を二、三十個贈る習慣があった。
「地卵」と言って、知り合いの養鶏場から生みたての、新鮮な卵を、わざわざ取り寄せたりしたものである。
こういう食習慣というのは仲々抜けないもので、肉の焼き方などでもレアかミディアムか、など難しいものである。
掲出した小池光の歌は、「生卵メシ」どころか、生卵をそのまま「呑み干す」というのである。

以下、「卵」を詠んだ歌を引いておく。  

   突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼・・・・・・・・・塚本邦雄

   取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり・・・・・・・・道浦母都子

   殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何・・・・・・・・松田さえ子

   冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし・・・・・・・・岡井隆

   冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり・・・・・・・・大滝和子

   ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は・・・・・・・・穂村弘

    卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ・・・・・・・・高野公彦

    うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵・・・・・・・・高橋睦郎

   卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む・・・・・・・・塚本邦雄

   生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも・・・・・・・・馬場あき子

   永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり・・・・・・・・錦見映理子

   鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ・・・・・・・・小池光

   女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ・・・・・・・・黒瀬珂瀾

黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。
ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。
ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない、と言われるが私はまだ確かめては居ない。

    卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに・・・・・・・・前田夕暮

   てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力・・・・・・・・佐藤弓生




書評─木村草弥歌集『嬬恋』 地球はアポリア・・・・・秋山律子
嬬恋

──書評──木村草弥歌集『嬬恋』(角川書店)「未来」誌2004年1月号 所載


       地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・・秋山律子

『嬬恋』は木村草弥氏の第四歌集にあたる。
その歌集名と響きあうようなスリランカの岩壁画という「シーギリア・レディ」のフレスコ画のカバーが印象的である。
十数年来の念願が叶って実際に見に行かれたそうだが、かすかに剥落しながら浮かび上がっている豊潤な像に女性への、妻への思いが象徴されているのだろう。
『嬬恋』は群馬県北西端の村の名に因んでいるが、それは二度の大患を乗りこえて戻ってきた吾が妻へのそのままの気持ちであると記す。

  ・妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ
  ・羽化したやうにフレアースカートに着替へる妻 春風が柔い
  ・壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく
  ・嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
  ・睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

という風に、妻や娘を詠むときに匂うような視線がある。
そういった家族への濃い思いもこの歌集の特徴だが、一方でもう一つ大きなテーマとして、アジアや中東を旅し、
その土地から発信する幾つかの連作に、旅行詠を越えた力作が並ぶ。
その中の一つ「ダビデの星」というイスラエル、エルサレムを旅した時の散文を含んだ一連は、この歌集のもう一つの要であろう。

  ・今朝ふいに空の青さに気づきたりルストゥスの枝を頭(づ)に冠るとき

に始まる八十余首の連作は、イエスが十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサの歴史的場所の十四のポイント(ステーション)を辿るのも含めて、そのほとんどを叙事に徹しながら、自らの足を運び、自らの目で視ることの迫力で一首一首を刻んでゆく。

  ・主イエス、をとめマリアから生まれしと生誕の地に銀の星形を嵌む
  ・ほの赭きエルサレム・ストーン幾千年の喪ひし時が凝(こご)りてゐたる
  ・異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る
  ・日本のシンドラー杉原千畝顕彰の記念樹いまだ若くて哀し
  ・「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ
  ・<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア

宗教、民族の紛争地のただ中を歩みながら事実のあるがままの呈示の中に、自分の思念を映し出す。
そして連作の最後に置く一首

  ・何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ

その他風景を詠ったものなど詩情豊かだ。
  ・月光は清音(きよね) 輪唱とぎるれば沈黙の谷に罌粟(けし)がほころぶ
  ・睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたびよぎる

そして、本歌集の最後に置かれた一首

  ・水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら

-------------------------------------------------------------------------
秋山律子 ← Wikipediaにリンクあり。




「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
        「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
          混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、
西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。
掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。
キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。
ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。

「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、
それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。
こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。
とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。
以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
-----------------------------------------------------------------------
ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。
だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。
中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。
はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。
頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、
この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。
イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。
誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。


磬三たび打てど不在か師の寺を訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝る・・・・木村草弥
FI2618504_1E.jpg

      磬(けい)三たび打てど不在か師の寺を
         訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝(て)る・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


磬(けい)というのは、もともと中国の石製楽器で、それが青銅製のものに作られ、仏教の儀式などに使用されたものである。
上部の紐穴に紐を通し、木製の磬架につるして鳴らす。

掲出の私の歌は第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものだが、この歌の場合は、この「ケイ」は宗教儀式用のものではなく、師が中国から新作ものだが、古代の石製楽器に模したものを買って帰り、
門に呼鈴かわりに吊るしてあるものである。石製なので、カンカンという甲高い澄んだ音がするものである。庫裏の入口に掲げてあった。

中国の石製「ケイ」の写真をbittercup氏から教えていただいたので、中国のオリジナルの虎纹石磬の写真を出しておく。↓
出所は中国の「国家博物馆馆藏精品特展」という簡略体のサイトである。(草弥注・今はこのサイトは削除された) 
御礼申し上げて、ここに追記しておく。
0006991718.gif

この歌のつづきに

  紫を禁色(きんじき)と誰(た)がさだめけむ紫式部のむらさきの実よ

という歌が載っている。もちろん日本朝廷が権威の象徴として高貴な僧などに限って着用を許したことは知っている。しかし、それを「誰かさだめけむ」と、ぼかすところが詩なのである。

ムラサキシキブについては先に採り上げたので、それを参照されたい。
私としては「ケイ」を詠った歌を採り上げたかったので重複する部分があるが敢えてアップした。
収録してある歌集も違うからである。
------------------------------------------------------------------------
FI2618504_2E.jpg

この楽器についての解説をネット上から引いておく。

磬(けい)は古代の打楽器であり、中国で最も古い民族楽器の一つでもあります。素朴で古風な感じのする楽器で、とても精巧に作られています。磬の歴史はとても古く、遠い昔の《母系社会》で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれていました。当時、人々が漁や狩猟で生計を立てていた頃、一日の仕事が終わった後にこの石を叩きながら様々な獣を真似た踊りを踊ったということです。このとき叩かれていた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となりました。
磬は当初人々の踊りや歌の中で演奏されていましたが、その後は編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が戦や祭りなどの場面で使うようになりました。

磬は使われる場所や演奏法によって特磬と編磬の二種類に分けられます。特磬は皇帝が天地と祖先を祭祀する時に演奏され、編磬は主に宮廷音楽に使われるもので、幾つかの磬からなる楽器で木製の棚に並べて演奏します。2000年ほど前の戦国時代、楚の編磬製造技術は既に比較的高いレベルに達していました。

1978年8月、中国の考古学者が湖北省随県の擂鼓墩で2400年ほど前の古墳(曽侯乙墓)を発掘したとき、その古墳の中から古代・楚文化の特徴を表す編鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など120点余りの古代楽器や多くの文化財が出土しました。そのなかに32枚の曽侯乙編磬があり、上下に配置された青銅製の磬が棚の上に並んでいます。これらの編磬は石灰石や玉などから作られていて、通常は澄んだ明るい音色を出しますが、残念なことに出土した大多数がボロボロでヒビが入っており、音が出ない状態でした。1980年に湖北省博物館と武漢物理研究所が協力して作成した曽侯乙編磬の複製品は、本来の編磬とほぼ同じ美しい音色を再現しました。

1983年、湖北省音楽団が十二平均律に従い32枚の石製編磬を作ったほか、1984年9月には蘇州の民族楽器工場と玉彫刻工場が碧玉で18枚の編磬を作りました。

鑑賞曲:『竹枝詞』(曽侯乙編磬の複製品での演奏) ←この部分はリンクになっていない(草弥・注)



藤原光顕の歌「まだ終わらない」10首・・・・木村草弥
たかまる_NEW

──藤原光顕の歌──(35)

       藤原光顕の歌「まだ終わらない」10首・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・「たかまる」No.108/2017.10所載・・・・・・・・

           まだ終わらない        藤原光顕

   焼酎と方代歌集と雑炊と ひとりの夕餉まだ終わらない

   笑っている顔が前にあるそれだけでひとりの酒が旨かったなァ

   嫌いではないんですけど蒟蒻はいつまで噛んでいればいいのか

   洗っているのは皿かこころかていねいに洗って拭いてていねいに積む

   あの日から崩れはじめた崖と思うひとりで歩くばかりの径の

   玄関横の壁にくっつく三匹半の蝉の抜け殻 置いといてやる

   日に五度の目薬をまた忘れるそんなバランスでまだ視えている

   閑という理由があってとりあえずきょうは歯の定期健診に往く

   電話切ったあの人はきっと見ている まもなく降りだすはずの街並み

   眠くても眠くなくても目を瞑る 朝には覚める堅さにつむる
-----------------------------------------------------------------------------
おなじみの光顕ぷし、である。
今号から冊子の題名を「たかまる」に変更された。 「高まる」→「高める」 進化だと仰言る。
八月末から孫たちと合流しての沖縄旅行に行って来られた、という。
いい気分転換になったのだろう。 そんな旅行記など、お待ちしています。
では、また。


「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・木村草弥
371px-Ujibashi_Danpi.jpg
↑ 宇治橋「断碑」古代の碑文
11708.jpg
↑ いまは「覆い屋」で保護される。境内から発見された古い碑の断片(上部)と江戸時代に復元・継足した部分(下部)が明白に判別できる。

──エッセイ──

   「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・・・(角川書店「短歌」2001年3月号・大特集<旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)・・・・・・・・


      ■一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村 草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の一つである。
 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられたことで有名な「断碑」を安置してある。
 昨年11月に私が訪れたら台座を修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。

ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

     <橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名で「賀祢吉」と書かれている。
この歌碑の写真は、このホームページ などで見られる。

京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院などの史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、
特に秋のシーズンには観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して盛況であった。

(お断り)
この文章は2001年に発表したものであるから、記事中の「昨年」などの記載は、現時点のものではないから、予め読み替えていただきたい。

玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづるいで湯の朝をたれにみせばや・・・・木村草弥
FI2618503_1E.jpg

       玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづる
           いで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌のつづきに

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり大きい月ののぼるゆふぐれ

という歌が載っている。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に収録したものである。
「みせばや」=玉の緒は、原産地は「紫式部」と同様に、日本、朝鮮半島、など東アジアとモンゴルなどに産する。
FI2618503_2E.jpg

写真②は開花前の「みせばや」である。多肉植物である。ムラサキベンケイ草属の耐寒性の多年草。
学名は、学者によって分類が異なるが、今はHylotelephium sieboldii ということになっている。
日本では、小豆島の寒霞渓にしか自生しないと言われているが、栽培種としては一般家庭でも広く栽培されている。
写真③は紅葉したミセバヤである。
FI2618503_3E.jpg

ところで「玉の緒」という名前はともかく、「みせばや」という名前は何に由来するのだろうか。
これは言葉の「綾」からきたものである。
「みせばや」という古い表現は「誰かに見せたいな」という意味であり、私の歌も、その隠された意味を踏まえて作ってある。
掲出した私の歌に立ち戻ってもらえれば、よく判っていただけるものと思う。
私の歌は一時、花の歌を作るのに、まとめて凝っていた頃があり、その頃の歌の一連である。
温泉の朝湯に豊かな肢体をさらす女体に成り代わって詠んでいる。
女性のナルシスムである。
俳句にも詠われており、それらのいくつかを引いておきたい。

 たまのをの花を消したる湖のいろ・・・・・・・・森澄雄

 みせばやのありえぬ色を日にもらふ・・・・・・・・花谷和子

 みせばやの花を点在イスラム寺・・・・・・・・伊藤敬子

 みせばやの花のをさなき与謝郡・・・・・・・・鈴木太郎

 みせばやの洗ひ場に干す五升釜・・・・・・・・福沢登美子

 みせばやが大きな月を呼び出しぬ・・・・・・・・鈴木昌平

 老母のたまのをの花さかりなる・・・・・・・・西尾一

 みせばやの半ばこぼれて垣の裾・・・・・・・・沢村昭代

 みせばやに凝る千万の霧雫・・・・・・・・富安風生

 みせばやの珠なす花を机上にす・・・・・・・・和知清

 みせばやを愛でつつ貧の日々なりき・・・・・・・斎木百合子

 みせばやを咲かせて村の床屋かな・・・・・・・・古川芋蔓
--------------------------------------------------------------------
いま「みせばや」の学名を見ていて思いついたのだが、学名の中の sieboldii というのは、かのシーボルトが命名したか、あるいは標本を持ち帰ったかの、いずれかではないか、ということである。
語尾の ii を除いた名前はシーボルトの綴りではないのか。植物の学名に詳しい方のコメントを待ちたい。


宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・・木村草弥
宮_NEW

──新・読書ノート──

      宮柊二『砲火と山鳩』─宮柊二・愛の手紙・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・河出書房新社・昭和63/07/30刊・・・・・・・

2015年の春、宮柊二夫人の宮英子さんが98歳で亡くなられた。
角川「短歌」10月号は「追悼・宮英子」として特集記事を載せている。その中で、この本に収録されている書簡についても触れられている。
そんなことで古書で買い求めてみた。箱入りの豪華な装丁の本である。
発行当時の値段で2600円と書いてあるが、私が買い求めたのは1000円プラス送料という安価なものであった。
外装の箱は経年で多少汚れてはいるものの、中は新本と思えるほど綺麗なものである。

この本は柊二が昭和61年12月に死んで、夫人が戸棚にしまいこんであったものを出して、出版されたものである。
当然、夫人から柊二あてに出された「往」の手紙があるのだが、それは柊二は戦場に居たから帰ってくる時に持って帰れる訳もなく、現存しない。

先ず「目次」を引いておく。

目次
第1章   出会いから出征まで(昭和14年)
第2章a   戦中書簡(昭和15年)
第2章b   戦中書簡(昭和16年)
第2章c   戦中書簡(昭和17年)
第2章d   戦中書簡(昭和18年)
第3章   帰還から結婚まで(昭和18年、19年)
第4章   旅中書信ほか(昭和19年)
第5章   再応召、終戦、疎開先へ(昭和20年)
 補 注    中山礼治
 あとがき   宮英子

掲出した画像の「帯」文でも読み取れるが、この帯の裏側に、英子夫人の「あとがき」の一部が載っている。

   軍事郵便・・・・・・宮英子
・・・・・柊二を裏切るような、後めたさで私は揺れている。
ただ、一方では私を急たてる或る焦りに似た気持が突き上げてくる。
それは、日本各地にはまだ軍事郵便がたくさん残っているはずである。
しかしその所有者はもう年老いた。このままにしておいては埋没してしまうのではないかという危惧が湧く。
(略)この『砲火と山鳩』が皮切りとなって、誰方か集めて下さる奇特な方があらわれらいものだろうか。
今さら軍事郵便などねという声もあろうが、切に願わずにいられない。  (「あとがき」より)

ここで、「あとがき」の出だしの部分を引いておく。

   あとがき          宮英子

この戦中書簡は、昭和14年2月から昭和20年10月に至る期間に、柊二から英子にあてた私信である。格二の二
十七歳から三十三歳、英子二十ニ歲から二十八歲。出会いから結婚後の疎開先までの二百通あまりだが、出征し
た中国山西省からの軍事郵便が大半を占めている。「軍事郵便」という言葉は、今は耳慣れない死語であるが、
戦時中は戦地からの書簡はすべて検閱印と「軍事郵便」の判が赤く押されて届いた。
これらの手紙は、結婚してからはお互いにかえりみようともしなかったが、それでも年度毎に束ねて手文庫に
入れ、押入れの上の戸棚に蔵いこんで、いつしか忘れられていた。三十年、四十年と歳月を重ねるにつれ、いっ
たい何が書力かれていたのか、ところどころの文言隻句もうろ覚えで、また思い出したりしては今更めいて困る昜
合もあり、互いに見ない振りをしていた節もある。
昭和61年12月に柊二は死去し、亡くなってみると、生前書き散らした一片の紙片や日記の断片も大切で、反古
同様にしまい込んでいたこの戦中書簡をなつかしく取り出した。つづまるところ私に宛てた唯一の語りかけであ
る。読みかえすうちに、古びた便箋や葉書のこれ以上の手擦れが忍びがたく、 一信二信を害きうつした。そのう
ちにやむにやまれぬ気持に駆りたてられ、写経でもするように手紙の書き写しにのめり込んでいった。そして、
あたかもはじめて読んだ手紙のように、涙を流したりした。・・・・・・

柊二は戦地に居たときは「山西省」の最前線であったが、昭和18年に一旦、召集が解除されて帰国する。
書簡として、先ず引くのは、その前のものである。    ↓
--------------------------------------------------------------------------
昭和18年4月23日 同前/東京市淀橋区戸塚町一 ノ三九二 滝口英子 (葉書)
四月九日附の御手紙拝受いたしました。ある命令で太原を通過するをり、時松さん夫妻にお会ひして、
時松さんがあなたにいろいろ御手紙を差上げてゐる様子を聞きました。御好意はありがたいのですが、
あまり当にしないやうに。
戦友一人内地に帰還するといふ。或る命令のもとにありて会ひがたければ。

   すがやかに帰りゆけこそ四とせほど離りをりたる日本の国へ
   敵中へ揉みこみし錐の尖ぞとも君と別れの会もせなくに
   トウチカに月照るときにあらあらしくわれはゐるとも汝を偲ばむ

といつた具合に自分達の殆どは延びて(注・1)、何時になるか判りません。只今をりますところは山の山の
中の山の上。粛然たるあけくれの中に敵を警戒してをります。若い戦友達を教へる一方、自分の勉強
もしてゐます。暁早く敵を求めてゆくときなど、林中の斑雪に月が青く照り、猪が伏し、ノロの群集
が目ざとく跳躍して逃げ、雉鳩がこもり音に鳴いたりします。文才あればバイコフの虎でなくて、柊
二の猪をものするのだが、正直申せばそんなこととは遠い切迫した状況の中にゐます。
注1 ─内地帰還を指す。
----------------------------------------------------------------------------
戦中にあっても、このハガキに見られるように「歌」を作って書いてある。 立派なものである。
次に引くのは召集解除で帰国した時期のもの。  結婚式の段取りとおぼしきやりとりなどが見える。 ↓
----------------------------------------------------------------------------
昭和18年10月8日/横浜市鶴見区鶴見六〇二 宮肇/東京都淀橋区戸塚町一 ノ三九二 淹ロ英子(葉書)
拝呈 只今郷里から立ち帰り御芳翰拝見いたしました。御文面の趣、父母姉らが戻りましたら申述べ
て相談いたし度い心組でゐます。
会社(注─1)には十三日頃から出社するつもり。個人的挨拶廻りは一切許して頂くつもり。一日も早く働か
ないと、戦歿した戦友や、今なほ御奉公してゐる戦友に申訳ありません。気がせかれて困ります。
先日は夜分御伺ひして大変失礼いたしました。御病気と伺つたので、何の心構へも心配りもなく伺つ
てしまひました。戦地帰りのあさはかと御許し頂きます。御従兄御夫妻にもよろしく御取りなし願ひ
たく存じます。当分は御面接申上げることも遠慮した方がよろしいでありませうか。片附けられるこ
とから早く片附けて、一月後になりますか、二月後になりますか、再度のお召しをこころから待ち度
くおもひます。
(注─1) 富±製鉄所に復職。

「再召集」され軍隊に復帰したが、戦争末期で渡航するのにも船は沈められて、無く、内地で、しかも故郷の新潟県に布陣していたようである。
先の帰国で二人は結婚して、さっそく妊娠した様子が手紙に窺える。  子供が男か女かと思案して、女の子なら「草生」という言葉が見られる。これは長女の名前となった。  ↓
-------------------------------------------------------------------------------
昭和20年6月20日/新潟県小千谷町東部第三六三九四部隊三宅隊 宮肇 (葉書)
〇赤ちやんは男だらうか女だらうか。よだれ掛けと夏帽子を買っておいた。いづれ外泊でも許された
ら、又はお前が面会に来られたりした時にあげる。女だつたら「草生」より「衛子」の方がよいやう
に思ふが、どちらに命名した。 (後略)
--------------------------------------------------------------------------------
宮柊二と歌集『山西省』 ← などについて拙ブログに載せたので参照されたい。
これを読んでいただけば、よく判ると思うが、宮柊二は戦争についても誠実な態度に終始した。
今日的な意義もあると思うので、あえて出しておく。



白丁が「三の間」に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭・・・・・木村草弥
FI2618520_1E.jpg
 
       白丁が「三の間」に身を乗りいだし
          秋の水汲むけふは茶祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日10月1日、京都府宇治市で茶業の基礎を築いた3人の祖──栄西、明恵、利休に感謝し、宇治茶の発展を願う「宇治茶まつり」が開かれる。
法要式典会場の興聖寺や塔の島周辺で開かれ、野点の席や、茶の飲み比べコンクールなどが催される。

写真①は宇治橋の「三の間」から白丁に扮した人が宇治川から水を汲む様子である。
この「三の間」という欄干の出っ張りは他の橋には見られないもので宇治橋独特と言われている。
むかし太閤秀吉が手ずから、ここから水を汲んだという故事が伝えられる。

FI2618520_2E.jpg

写真②は茶祭の法要の会場の興聖寺である。
この催しは今年で66回を迎える行事で、午前9時から「名水くみ上げの儀」を行なった後、茶業者らが平等院前を通り、興聖寺まで行列する。

FI2618520_3E.jpg

写真③は宇治平等院の鳳凰堂である。10円玉でおなじみだ。
興聖寺では午前10時から「茶壺口切り」や裏千家による供茶、使い切った茶筅(せん)に感謝する茶筅塚供養が営まれる。

ここで茶業の基礎を築いた3人を紹介しておこう。
すなわち、日本に初めて茶の実を持ち込んだ栄西禅師、宇治に茶園を拓いた明恵上人、茶道の祖である千利休、の三人である。
「宇治茶まつり」は例年10月の第1日曜日に催される。
この頃は、まだ結構暑くて、そのことは私の歌の中にも描いてある。
「祝竹」というのは三の間の写真にも出ているが正式には「忌竹」というが一般的には祝い事なのにと違和感があるので「祝竹」と改めた。
ほぼ、こんな行事進行だということが私の歌を見てもらえば理解していただけよう。もっとも私がこの一連を作ったのは20年も前のことである。
私の掲出の歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた11首の一連である。
ただし自選50首には採っていないのでWeb上ではご覧いただけない。

  茶 祭・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

白丁が三の間に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭

三の間に結ふ祝竹この年の秋の茶事とて日射しに輝(て)らふ

青竹の水壺五つささげゆく琴坂あたりうすもみぢして

水壺の渡御のお供はみな若し即ち宇治茶業青年団

汲みあげて散華の雫となすべけれ茶祖まつる碑に秋日が暑く

一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ

口切は白磁の壺の緋房解く美青年汝(な)れは青年団長

口切の茶は蒼々と光(て)りいでて御上水もて今し点つるも

茶の香りほのかににほふ内陣に茶祖の語録の軸かかげらる

秋空へ茶筅供養の炎(ひ)はのぼり茶の花は未だ蕾固しも

たそがれて皆ゐなくなる茶の花の夕べを妻はひとりごつなり
------------------------------------------------------------------
宇治橋の「三の間」に因んでだが、私の家の座敷に、三の間から翁が水を汲む絵と「若鮎や雨にもあらぬ峡の雲──俊宣」という俳句を書いた額が架かっている。
描いた人が誰かわからないが、絵の中の水を汲む人物は太閤さんだと仄聞するが、本当かどうかは判らない。ご愛嬌までに。




POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災から六年。 被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 われもまたおちてゆくもの透明ならせんをかすかにためらいながら・・・・・・・・・・・沙羅みなみ
 橋脚ははかなき寄る辺ひたひたと河口をのぼるゆふべの水の・・・・・・・・・・・・・・・・大辻隆弘
 安倍晋三と金正恩の会談を思ひみるなり孫と孫との・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 濡れやすき花と思へり秋海棠のこされて見しかの日よりずつと・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 半身は秋涛深く裁ちてゆく吃水のごと薄野を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三宅勇介
 ポテトチップのコンソメ味がぽっかりと頭に浮かんでいる夜歩き・・・・・・・・・・・・・・・・・・永井祐
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・ 土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 なだれ咲く秋桜の野にふたり来つ、過去と未来の接ぎ目なす野に・・・・・・・・・・・・・・・ 高島裕
 既視感(デジャビュ)は夢にもありて前にみし夢と知りつつ夢を見てゐる・・・・・・・・・・小野雅子
 ゆつくりと夕暮の来る気配して影をうしなふ舗道(いしみち)のうへ・・・・・・・・・・・・ 照屋眞理子
 老いたりといえど凶暴なおんどりが犬に挑んで小屋を占拠す・・・・・・・・・・・・・・・・・武藤ゆかり
 口開くとけぽつと魚を吐き出せり宇治平等院屋根にかはせみ・・・・・・・・・・・・・・・・ 久我田鶴子
 文学の果実刹那のあまやかさナタリー・バーネイといふは源氏名・・・・・・・・・・・・・・ 阪森郁代
 ひと鳴きに序章終章法師蝉・・・・・・・・・・・・・・・桑田佳穂
 切れ切れの眠りつないで明易し・・・・・・・・・・・・・・山浦純
 蟻一匹影より大き蝶担ぎ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水上啓治
 名月を戴きこの家肉食す・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本祐子
 昭和史の影の張りつく八月よ・・・・・・・・・・・・・・ 中島伊都
 蒼ぎんなん枝にびっしりお母さん・・・・・・・・・・・・高木一恵
 青春の「十五年戦争」釣瓶落し・・・・・・・・・・・・・・金子兜太
 秋曇りうつぶせで書くものがたり・・・・・・・・・・・・・河西志帆
 雑木林もう足音になった秋・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池弘子
 頬杖ながき無為の怖さの晩夏かな・・・・・・・・・・・伊東友子
 鬼百合やひとり欠伸は手を添えず・・・・・・・・・ 川崎千鶴子
 三人四人五人六人風邪心地・・・・・・・・・・・・・・・・華呼々女
 烏瓜の花さみしさは少し塩っぽい・・・・・・・・・・・・ 伊藤淳子
 散らかしたままの女よ百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・菊川貞夫
 新涼の道はローマへ晩節へ・・・・・・・・・・・・・・・北村美都子
 秋の蝉和む暗さの茶会かな・・・・・・・・・・・・・・・・ わだようこ
 トウキビの熟毛ほどよき男髭・・・・・・・・・・・・・ 鈴木八駛郎
 野の水に映りて毛虫焼く父よ・・・・・・・・・・・・・・・・関田誓炎
 志功天女乳房奏でる良夜かな・・・・・・・・・・・・・・・武藤鉦二
 覇気のないバーゲン中の扇風機・・・・・・・・・・・・・石川青狼
 隊員募集そんな貼り紙毛虫這う・・・・・・・・・・・・・ 大西健司
 独り赴任無人駅出て会ふとかげ・・・・・・・・・・・・・ 川口裕敏
 遠帆よ吾に東シナ海漂流記・・・・・・・・・・・・・・・・・草野明子
 禁猟区人は眉書き爪を染め・・・・・・・・・・・・・・・・・児玉悦子
 田の神にまず一礼し稲咲かせ・・・・・・・・・・・・・・・ 後藤岑生
 言の葉の戦ぎに任す晩夏かな・・・・・・・・・・・・・ 近藤亜沙美
 生きていることをおどけて法師蝉・・・・・・・・・・・・・ 大池美木
 活断層割りそこねたる大南瓜・・・・・・・・・・・・・・・・ 武藤暁美
 夕焼けに一歩近づく別れかな・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤一湖
 銀やんま飛ぶ寸前の発電所・・・・・・・・・・・・・・・・・山中葛子
 屈託の元はくねくね夏の果て・・・・・・・・・・・・・・・下山田禮子
 白雲の駄々と過ぎゆく晩夏かな・・・・・・・・・・・・・田口満代子
 自転車に秋刀魚と空を振り分けて・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 影少し背中を離れ今朝の秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。 ただし不穏当なものは勝手ながら削除いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の記事は、引用、リンク、転載フリーです。事後でもお知らせ下さると嬉しいです。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください。

私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』 『昭和』(以上4冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 歌集 『無冠の馬』(KADOKAWA刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
◆第六歌集『無冠の馬』は、下記のところで買えます。   
お求めはamazonをはじめオンライン書店や、一般書店からの取次ぎでお願いしたい。
アマゾンには在庫してもらってあるので、即刻の配達が可能の筈です。
◆私の「旧作」は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。amazon「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

Wikipedia─木村草弥

Facebook─木村草弥

Twitter─木村草弥

ランキングを確認する ★ ──登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
 これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓ します。アクセス数によるのでしょう。 ご覧ください。


banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Banner_125x125_0003_D.jpg

   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
土曜美術社出版販売「詩と思想」
文芸春秋社・書籍ショールーム





みどり児と同じ高さで笑みかわすきみ乳母車われ車椅子・・・・・西村美智子
babycar2.jpg

──新・読書ノート──

      みどり児と同じ高さで笑みかわす
            きみ乳母車われ車椅子・・・・・・・・・・・西村美智子


友人の西村美智子さんが、NHK横浜の短歌大会で、掲出の歌が小池光 選で優秀賞を得た、と言って来られた。
メール文の中で「孫でもなく曾孫でもなくゆきづりの赤ん坊との束の間の交流です。」と書いておられる。
おめでとうございます。
西村さんとは長らく会っていない。
西村さんは、先年、難病指定の何とか病に罹られ闘病中で、2012年に私の第五歌集『昭和』の批評会を三井修氏のお世話で東京で開いてもらった翌日に、横浜に出向いて会ったきりである。
掲出の歌は乳母車に乗る幼児と、車椅子に乗る西村さんの目線の高さが同じである、という哀歓に満ちた佳い歌である。
「きみ乳母車われ車椅子」という「対句」表現が秀逸である。
この歌から西村さんは外出には車椅子を使っておられることが分かり、私は悲痛な感覚に襲われた。お大事になさってください。
西村さんは今は短歌結社「塔」に所属して歌を作っておられる。
西村さんは京都の同人誌に拠って小説などを書いておられた。↓ 私のブログでも紹介したので下記の記事をクリックして見てください。 
『無告のいしぶみ』

西村さんには『イル・フォルモサ』という本もあるので、アクセスしてみてください。

なお掲出画像は、私が勝手に見つけて載せたものであるから、お許しを。




「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・南日耿平
かむとき
 ↑ ──『霹靂』13号2001/09、題字は山中智恵子・筆

──書評・評論──再掲載・初出・『霹靂』13号2001/09掲載

      「短歌以前─木村草弥の歌集のトポス(共通場)」・・・・・・・・・・南日耿平

プロローグ
『霹靂』(かむとき)はもとの『鬼市』という名を変えて、その通巻として出発したが、
のちに短詩型文学全般にも通じる新しい視座へと拡大され、俳句の堀本吟さん、川柳Z
賞受賞の樋口由紀子さん、碧梧桐賞受賞の異色作家・森山光章さん、そして僅か十年の間
に三冊も歌集を出された木村草弥さんなど多彩な作家たちによって、新しくスタートが切
られたのです。
新世紀をむかえ、『霹靂』の天空での大音響の現出に、佐美雄、冬彦、赤黄男、重信など
の先駆者の方々の拍手喝采が聞こえそうであり、短歌一首も作っていない私にとっても新
しい<共時的詩的世界>への開眼の機をいただく思い。
何故私がこうした文芸の世界に興味をもったかは、五十年前、体育、スポーツの研究者と
して<愛と美と力>のデルタ構造で未来像をかかげ、<スポーツ美学論>を初めて講義題目と
して講じてきたこと。昨年、「新世紀スポーツ文化論」(タイムス社)で、<スポーツ曼荼
羅>の胎蔵部として、宗教・哲学・芸術。金剛界として体育学、スポーツ人約150名の方
々を五芒星形図として、図像学的(イコノグラフィー)手法で示し学会発表の機を得た。
本文の「短歌以前」の表題も、短歌音痴の私が、短歌の技法でなく、その深層部に秘めら
れた歌人・木村草弥さんの独自の境位を、私なりに楽曲分解(アナリーゼ)させていただい
たものとしてご笑覧いただければ幸いです。

(一) 木村さんの短歌作品の胎蔵部
木村さんとの出会いで驚いたのが、お住まいが山城の青谷村。私が三十代、三年も結核で
お世話になった国立の療養所のある茶処の問屋さんのお生まれで、また府立桃山中学校の
第23回卒。私が6回卒ということで二度びっくり。さらには長兄が、<兄の書きし日記を
もとに書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>の作品にみられるよう夭折されたのも同じ
療養所だったと思われること。
早世の兄・木村庄助さんも弟の草弥さんが文学の血を引き継いでいることを喜んでおられ
るだろうと、「未来」の川口美根子さんが第一歌集の序で述べられるよう感性ゆたかな芸
術一家。兄上が京都大学に学ばれ、美術評論家・阪大教授でもあった木村重信先生(現在
兵庫県立近代美術館館長)がご生存とわかれば、世阿弥の<稽古の位>をこえた<生得の位>
にめぐまれた方、非凡な才能ゆたかな詩人・歌人・評論家。
先日、十年前『日本歌人』同人の横田利平さんの歌集『宇宙浪漫主義へ』での利平美学の
極みとしての<いまいまやいまいまいまやいまいまやいまいまいまやいまいまや我>をお送
りした所、これはセックスに於けるエクスタシーの瞬間(道元では<有事>(うじ)空海の<理
趣経>の十七清浄句の<妙適>の世界)と断じられ驚いた所。
一休の『狂雲集』におけるかずかずの作品は、第二歌集にはこれに関連十一首もあり、仏
典に関する御研鑽の広さと深さに驚くのみ。なるほどフランスの仏は仏教にも通じるかと
ほほえまれるしだい。
さらに、この「理趣経・十七清浄句」についての金岡秀友師とその弟子の論争の事も示さ
れた学識の深さに、長年空海の世界にあこがれ文献を集めていた老生とも照合するものと
先の七月の草田男をテーマとした短詩型文学を語る会に、横田さんの歌集への私の『日本
歌人』へ発表した感想文をお配りしたのです。その木村さんの冴えわたった感性・直感力
の非凡さには驚くのみです。
医学の近藤俊文博士の『天才の誕生-南方熊楠の人間学』にかかれた「ゲシュビント症候
群」とも照応、俳句の岡井省二先生と同じ天来の霊的人間(ホモ・スピリチュアーリス)の
天性。
第四にかかげたいのが木村さんが現代詩から短歌に転向されたこと。歌人・前登志夫さん
も私と共に敗戦後、奈良より詩誌《斜線》を出していましたが、詩集『宇宙駅』を残して
短歌に転じ、あっというまに歌壇に新風をおこされた吉野山住みの快男子。迢空賞受賞の
とき恩師代表で祝辞を求められたことが忘れられません。木村さんが文語定型、口語律、
定型、非定型にこだわらぬ自由多彩な韻律世界に遊んでおられるのもこの故と思います。
五番目にあげたいのは、木村さんが外語、京大の仏文科に学ばれたこと。九鬼周造の『い
きの構造』にも似てヨーロッパで一番あかぬけしているフランス語を学ばれ、更には全世
界を旅されたコスモポリタン。スケールの大きさは格別。やっておられないのは宇宙遊泳
のみ。この世界を埋めようと遊んでおられるのが木村さんの新しい短歌的世界。
先の短詩型の会に御来会の津田清子さんの句集『無方』で詠まれた<はじめに神砂漠を創
り私す><自らを墓標となせり砂漠の木><女には乳房が重し夜の砂漠>とも共鳴するコスモ
ロジーの世界が感じられてなりません。
木村さんは、一口で申せば静かな熱血漢。情感ゆたかなロマンと強力な実践力。只今は同
じ山城地区の法蓮寺にお住まいの山本空外先生の書法芸術に心酔。ハイデッガー、ベルグ
ソン、フッサールと共に学ばれた哲学者であり、その書は書家の書とは異なる<書法>とし
て出雲に<空外記念館>もある方。
幸い、黒谷住の戸川霊俊博士とは二十年前より御指導いただいているので空外先生につい
て御教示いただくよう予定している所。御年九十九歳。私も空外ファンの一人であり、偶
然の一致に驚いている所です。

(二) 木村さんの歌集について
第一歌集『茶の四季』(1995年)は、茶問屋の社長ながら、土耕、茶摘み、製茶などの実
務にたずさわり、茶道をたしなみながらの体験の中から生まれたもの。五章からなるが、
家族や山城の風光の他、海外旅行詠と多彩。<茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙
の一声鋭し>の見事な序歌から始まる。好きな歌は、<茶に馴染む八十八夜のあとやさき緑
の闇に抱かれて寝る>、<茶の花を眩しと思ふ疲れあり冬木となりて黙す茶畑>
川口美根子さんの「俳諧的な魅力さえ感じさせる」の言葉に同感。
<兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>、<葬り終へ寝ねたる妻が
寝言にて姑との別れを嘆きて叫ぶ>、<汝が額の汗をガーゼでぬぐひつつ不意にいとしく掻
き抱きたし>、<原始の美を尋ね求めて駆けきたる兄は「大地の人(ホモ・フムス)たれ」と
唱ふ>の家族の歌につづいて、外国旅行の歌がうたわれている。中国での<ふたたびは訪ふ
こと無けむ竜門の石の洞をぞ振り返りみつ>は戦争で雲岡の石仏群近くまで行った私とし
てはなつかしい限り。<ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし「別れの曲(し
らべ)」<さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜辺に惑ふ「沈思のアテナ」>なども四十年
前ヨーロツパで学んだことのある私としては感激ひとしお。<六人の乙女支ふる露台には
裳すそ引きたる腿のまぶしさ>。スペインで詠まれたフラメンコの踊り、ガウディの作っ
た教会の尖塔の歌など、さすが美の世界を一瞬につかまれる見事な「視覚構造」と嘆ずる
のみ。
第二歌集『嘉木』は、中国の古書の茶の木を詠まれたもの。『茶経』の出だしに「茶は南
方の嘉木なり」と記されているよう、日本の茶道の源流としての利休につらなる家元体制
であるとも記されているが、<明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り>
にはじまり<汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり>とし、<茶の湯と
はただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなり>と詠じて、自らは「番茶道」を
提唱されているのも独自の木村さんの、形式化した家元を頂点とするヒエラルキー体制批
判として注目されます。
興味あるのは、一休(宗純)を詠んだ<夢に見て森女の陰に迷ひ入り水仙の香に花信を覚ゆ>
<風狂と女犯にふける宗純は妙適清浄これ菩薩なれ>と空海の理趣経につながっていると見
立てた眼力。
秘めごとめく吾-沓冠十五首-からは、現代短歌に未来はあるか、として展開。
<いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音>、<フランスのをみなが髪
をかきあぐる腋あらはにてむらさき匂ふ>、<場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる
悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり>、<白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざ
しゐる宵>、<汗匂ふゆゑにわれ在り夏草を刈りゐたるとき不意に思ひぬ>、<季節くれば
花を求めて飛んでゆく美しき翅よ うす青き蝶>、<失せもののいまだ出でざる夜のくだち
和紙の吸ひゆくあはき墨の色>、<牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさ
に見つ>、<病む妻のため娘らはひたすらに石切神社にお百度を踏む>、<人知りて四十年経
ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ>、<引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房
に行きて逢はなむ>など、心にしみこむ秀歌が、それぞれの韻律と木村さんのいう<幻の領
域(トポロジー)>として<ゆほびかに>展開されている。
第三歌集『樹々の記憶』は、序で宮崎信義さんが述べられているよう<定型の魔力>からの
脱皮・転進・挑戦。デリダ流に言えば「短歌の脱構築」新短歌への序曲と申せよう。
巻頭<茶どころに生まれ茶を離れられない 茶の樹の霜が朝日に白い>、<季節(シーズン)
は春から夏へ蒼ぐろい樹の場面転換(ディゾルブ)にいそしんでいる>、ルビが外国語にな
っている。
<わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的(プロヴォカティヴ)ね>、<美しく老
いる そんな言葉は糞くらえだ 美しい老年などどこにある>
一字あけの三段構成に注目されたい。
<瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処? 地平線まで歩いてゆこう>と<?>が入る。
<にじむ脂汗の不眠の夜 墓標の在処(ありか)は教えるな>の歌には高柳重信の俳句が思い
出される。俳諧の二段構成。<沈黙の中で長く枝分かれしてゆく夜の闇-それが時間>-----
断章(パガテル)への郷愁。<私は一つの場所を探している 墓をつくるばかりの広さの>、
<死は甘美か 生者と死者の間に月がのぼる 死は甘美だ>-------くりかえしの美学。
<そり うねり 巻き込み 波うち ちぢれ 花の肢体>六つのシラバス構成。<秋だ 鉄
道の白い柵に電車の音にみじろぎもせず野菊は咲いていた>自由律。メルヘン的な詩秋の
詩。
木村さんが、あとがきで申されるよう、この第三歌集は、自由律短歌へのかずかずの挑戦
の詩。現代語なりの韻律に<現代の非定型・自由律運動の目標>とされる<短歌的自由詩>と
しての新しいポエジーの波動を目指す絵画的な「コラージュ」あるいは「パロディ」と記
しておられるのも、あるいは兄上・木村重信先生の影法師かも知れない。
問屋を娘さん夫婦にまかされ、これからが自由の身で、「方円宙遊」の新しい詩(ポエジ
ー)の歌、つくって下さい。

コーダ
短歌の木村草弥さんとの奇しき邂逅は、俳句の岡井先生と共に、私にとってはまこと有難
い御縁と感謝しています。お二人とも、デリダの「脱構築」--------奇しくも道元の<身心
脱落>にも共響する自在自由な新天地めざされ、新風を目覚めさして下さいました。
益々の御活躍をお祈りしています。

(奈良教育大学名誉教授・近藤英男) ──「南日耿平」は詩歌に遊ぶときの近藤先生のペーンネーム。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
近藤英男氏死去 奈良教育大名誉教授

 近藤 英男氏(こんどう・ひでお=奈良教育大名誉教授、体育理論)
3月15日午後7時2分、肺炎のため京都府木津川市の病院で死去、94歳。京都府出身。自宅は木津川市木津大谷31。葬儀・告別式は既に営まれた。喪主は長女の東典子(あずま・のりこ)さん。
近藤氏は1990年勲三等旭日中綬章・受賞。「身体文化論」など専攻。1984/12:座長・「祭儀と芸能──身体文化の原点」(近藤英男),奈良体育学会定例会,於佐保女子短期大学 など。      2008/04/01 13:01 【共同通信】

「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日
小野
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子第四歌集『白梅』ながらみ書房2013/06/27刊

──エッセイ──再掲載・初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。
-----------------------------------------------------------
小野雅子第四歌集『白梅』が2013年出版され、← その本の紹介を拙ブログに載せた。アクセスされたい。
先年、第五歌集『昭和』を出版したが、東京で「読む会」を開いていただき二十数人の方がおいで下さった。
その中に、小野雅子さんもおいでいただいて批評を賜った。久しぶりにお会いして挨拶したが、お元気そうで何よりだった。
ここに記して、改めて御礼申し上げる。





 忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に・・・・木村草弥
25121028287シーギリヤ
 ↑ シーギリヤ・ロック──スリランカ
main_PCMB02シーギリヤ・ロック
↑ シーギリヤ・ロックの俯瞰
lrg_10375026ロック頂上への登り口
 ↑ ロック頂上への登り口
c0156438_08666シーギリヤ
 ↑ 岸壁画の一部
mukannouma (2)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


      忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる
         岩現れぬ密林の上に・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 
             ・・・・・・・第六歌集『無冠の馬』所載・・・・・・・・・・

  忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に

  いづこにも巨岩を畏れ崇(あが)むるかシーギリヤ・ロック地上百八十メートル

  父殺しのカーシャパ王とて哀れなる物語ありシーギリヤ・ロック

  汗あえて息せき昇る螺旋階ふいに現はるシーギリヤ美女十八

  草木染に描ける美女(アプサラ)は花もちて豊けき乳房みせてみづみづし

  ターマイトン土で塗りたる岩面に顔料彩(あや)なり千五百年経てなほ

  貴(あて)なる女は裸体、侍女は衣(きぬ)被(き)て岩の肌(はだへ)に凛と描ける

  昔日は五百を越ゆるフレスコ画の美女ありしといふ殆ど剥落

  獅子(シンハ)の喉(ギリヤ)をのぼりて巨いなる岩の頂に玉座ありしか

  聞こゆるは風の音のみこの山に潰えしカーシャパ王の野望は

  熱帯にも季節あるらし花の季は十二月から四月と言ひぬ

   ──つい数年前までタミール人「解放の虎」テロとの血みどろの抗争があり、大統領が訴へた──
  「憎しみは憎しみにより止むことなく、愛により止む」ブッダの言葉

------------------------------------------------------------------------------
嬬恋

掲出したのは私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)だが、この歌集の表紙の写真を撮るために2003年の春にスリランカへ行った。
それにまつわる紀行文「光り輝くインド洋のひとつぶの涙の雫-スリランカ」があるが、この歌集には、その時に作った歌は収録できなかった。

この巨大な石塊の岩棚に美女アプサラの絵が描かれている。
スリランカはイギリスの植民地の頃には「セイロン」と呼ばれていたが、「シーギリヤ・レディー」と俗称されている。
これらの歌は、この歌集以後のものとして結社誌にも発表したし、習作帳にも保存してあったが、第五歌集『昭和』(角川書店)編集の際には収録を忘れて、これにも洩れている。
そんなことで久しぶりに『無冠の馬』に収録した次第である。


ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・木村草弥
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
Strasbourg_Cathedralストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂

──巡礼の旅──(21)再掲載・初出2013/09/26

     ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥

アルザス地方というのは、ドイツ領とフランス領に何度も支配の変更を繰り返してきた土地である。
その中心地がストラスブールである。 この教会は、その街の象徴的な建物である。     
「ノートルダム」とは「聖母マリア」のことであり、聖母マリア信仰の強いカトリック圏では、いたるところに同名の教会がある。

ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスのストラスブールにあるカトリックの大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベックがいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。

高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルクの聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。

ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。
アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。

ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
7世紀にストラスブール教区の司教である聖アルボガストが、聖母マリアに捧げられた教会を元にして大聖堂を建設したことが知られているが、全く現存していない。
古い大聖堂の遺物は1948年と1956年の発掘で出土しており、4世紀末期から5世紀初頭のものとされている。これは現在の聖エティエンヌ教会の位置から出土した。
8世紀、最初の大聖堂はカール大帝の時代に完成したと推測されているより重要な建築物に置き換えられた。
司教レミギウス(レミ)は778年の遺言でその建物の地下霊廟に埋葬されることを望んでいる。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実である。最近行われた発掘調査により、このカロリング朝の大聖堂には3つの身廊と3つのアプスがあったことが明らかになった。司教 Ratho(Ratald または Rathold とも)の詩によると、この大聖堂は金や宝石が装飾されていた。このバシリカは873年、1002年、1007年とたびたび火事にみまわれた。

1015年、司教 Werner von Habsburg がカロリング朝のバシリカの廃墟に新たな大聖堂の基礎となる最初の石を置いた。彼はロマネスク様式の大聖堂を建設した。この大聖堂は1176年、身廊の屋根が木製だったため火災で焼け落ちた。

この惨事の後、司教 Heinrich von Hasenburg はそのころちょうど完成したバーゼルの大聖堂よりも美しい大聖堂を建設することを決めた。
建設は既存の構造の基礎を利用して始まり、完成に百年ほどかかった。司教 Werner の建てた大聖堂の地下聖堂は焼け残っていたため、そのまま残し西側に拡張した。

800px-Choeur_-_Cathedrale_de_Strasbourgクワイヤ
 ↑ クワイヤ
France_Strasbourg_Magi三博士
↑ サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像

建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。

ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。

とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。

1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。

1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるサンローラン玄関 (Portail Saint-Laurent) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はルーヴル・ノートルダム美術館に移されている。

中世後期、ストラスブール市は大司教の支配を脱して自由化することに成功し、帝国自由都市となった。15世紀は Johann Geiler Kaysersberg の説教と宗教改革の萌芽で彩られ、16世紀にはジャン・カルヴァン、マルチン・ブーサー、ヤコブ・シュトゥルム・フォン・シュトゥルメックといった人物が活躍した。1524年、市議会はこの大聖堂をプロテスタントの手に委ねることを決定した。そのため聖像破壊運動の影響を受けて建物に損傷が生じた。1539年、文献上最古のクリスマスツリーがこの大聖堂に設置された。

1681年9月30日、ストラスブール市はルイ14世の支配下に入り、同年10月23日、王と領主司教 Franz Egon of Fürstenberg が出席して大聖堂でミサが行われた。これにより大聖堂はカトリックに戻され、対抗宗教改革で改訂された典礼に従って内装の再設計が行われた。1682年、1252年に設置された内陣障壁を取り払ってクワイヤを身廊に向かって拡張した。この内陣障壁の一部はルーヴル・ノートルダム美術館とクロイスターズ(メトロポリタン美術館の別館)に展示されている。主祭壇はルネサンス初期の彫刻だったが、同年取り壊された。その一部はルーヴル・ノートルダム美術館に展示されている。

1744年、Robert de Cotte の設計した丸いバロック様式の聖具保管室が北側の翼廊の北西に追加された。1772年から1778年にかけて、大聖堂の周囲に出店していた商店群を整理するため、大聖堂の周囲に初期ゴシック・リヴァイヴァル様式の回廊を建設した(1843年まで)。

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。この人工物は歴史的コレクションとして保存されていたが、1870年に完全に破壊された。ストラスブール包囲戦の際、プロイセン軍の放った砲弾が大聖堂に当たり尖塔の金属製十字が曲がった。また、クロッシングのドームにも穴が開いたが、後により雄大なロマネスク・リヴァイヴァル様式で再建された。

Virgen_estrasburgo_UEステンドグラス
↑ 「ストラスブールの聖母」はクワイヤの窓になっている
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 柱頭彫刻の一部

第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。

大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会は Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。

800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 巨大な建物を支える外側の「フライング・バットレス」

ここでストラスブールの街の写真をいくつか出しておく。

800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブール俯瞰
800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 「木組みの家」
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 ↑ ストラスブール運河沿いの木組みの家




シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・木村草弥
IMG_0488サン・レミ聖堂内部
 ↑ サン・レミ聖堂内部
image_1-9cf18サン・レミ聖堂後陣
 ↑ サン・レミ聖堂後陣
img_861149_60878088_23サン・レミ聖堂
 サン・レミ聖堂礼拝堂
E58699E79C9F-28a6a右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墳墓
 ↑ 右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墓
img_861149_60878088_18サン・レミの墳墓
↑ サン・レミの墓

──巡礼の旅──(20)再掲載・初出2013/09/24

     シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖レミとは、496年、ランス大聖堂でフランク王国の建国者クロヴィスに洗礼を授けたランス司教レミギウスのことである。
伝説では、このとき天から鳩が現れ、王の頭に注ぐ聖なる膏を入れた瓶をもたらした。
聖レミギウスの遺骨とともに、この瓶はサン・レミ聖堂に保管され、フランス歴代の王の戴冠式では修道士たちが、これを運んだという。
そんな歴史的にも有名な寺院なのだが、ランス大聖堂の蔭に隠れて、尋ねる観光客も少ない。
ここに入ると、一見して、いろいろな時代のスタイルが入り混じっていることに気づく。
これは中世では当たり前のことだが、長い年月をかけて少しづつ建築し、必要に応じて改築してきたのである。

この教会はランスの歴史においてとても重要なはずなのだが、やはりランス大聖堂の方が「微笑みの天使」と「シャガールのステンドグラス」で観光客の人気をひきつけていて、この教会を訪れる人は少ない。

場所としては、シャンパーニュ・カーブのポマリ、ヴァランケン、ヴーヴ・クリコと3つのカーブに囲まれるように広がる公園、Square Saint Nicaseのすぐ後ろにある。
ここは後ろなのか手前なのかはどこからそれを位置づけるかによるから、近くと言った方が良いかもしれないが、公園から見える。

ここはパイプオルガンが立派で目立つ。よくコンサートに使われるらしい。
フランスにはたくさんの教会があってツアーで来る観光客に言わせるとどれを見ても同じのようだが、ひとつひとつの教会が独自のスタイルと歴史を持っている。

私は教会が大好きで、それはもちろんステンドグラスを始めとする建築に興味がある、パイプオルガンの音色が好きというのはもちろんだが、旅行者のための格好の休憩所だからだ。
聖書の一句に「疲れている人は誰でも私のところに来て休みなさい」というものがある。
これは精神的に疲れている人を指しているのみでなく、身体的にもそうである人を対象にした癒しの言葉だと私は理解している。
旅行で歩きつかれた、日差しが強すぎて疲れた、雨に打たれて疲れた、外気が寒すぎて疲れた、何でも良いんだと思う。
教会は安息のための場所である。人種も宗教も問わない場所である。
私は静かに本を読みたいとき、ちょっとナポレオン式居眠りをしたい時、教会のお世話になる。
美しいステンドグラスと麗しいパイプオルガンの音色に癒されて、ロマネスクやゴシック建築に心を鷲づかみにされて感動することで自分が生きているんだ、何かを感じることが出来るんだ、健全であるんだと確認するのである。
この教会のステンドグラスは、いずれも美しい。 写真に出せないのが残念だが、ネット上にいくつも出ているので、ご覧ください。

ここランスには、先に2013/07/21付で載せた「フジタ礼拝堂」も存在する。
「シャンペン」生産の中心地なのである。
ここランスは、この礼拝堂の誕生によって、特に日本人観光客の足を延ばさせる土地となった。


グラウンドゴルフ大会で準優勝を獲得しました・・・・・木村草弥
ゴルフ

──雑文──

      グラウンドゴルフ大会で準優勝を獲得しました・・・・・・・・・・木村草弥

思いがけない椿事が出来(しゅったい)しました。
本日、青谷小学校校庭で催行された体育振興会青谷支部主催のグラウンドゴルフ大会で私が個人の部で準優勝となりました。
8ホール2ラウンド。ホールインワン2回。トータルスコア42 でした。
スコアとしては、とてもトップスコアとは言えないのですが、上手い人の欠場でスコアが伸びなかったのが幸運でした。
私は虚弱体質で、運動神経もなく、昔やっていたゴルフも、十年前から始めたグラウンドゴルフも「下手だ」「センスがない」「バカだ、チョンだ」とさんざん蔑まれてきたものでした。
今回はからずも、初めて表彰という栄に浴しましたので嬉しくて、ご報告まで。
昨年の春に倒れて、何とか回復して、医者からは体を動かすように言われて、努めているものです。

掲出した賞状の画像はA4までしか出ないので寸づまりになっいますが、お許しを。 嬉しい、バンザイ!


copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.