K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201705<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201707
チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・木村草弥
160426garden_tulip.jpg
mukannouma (2)

      チューリップはらりと散りし一片に
          ゴッホの削ぎし耳を想ひつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌はの私第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA 2015/04/25刊)に載るものである。
原文は角川書店「短歌」誌平成24年6月号に発表したものが初出となっている。
雑誌に発表したものは12首だが、歌集に載せる際に2首を習作帖から抜いて付け加えている。
その部分を、ここに引いておく。 ↓

        ゴッホの耳    
         
  白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに咲(わら)ふ

  一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

  三椏(みつまた)の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

  沈丁の香の強ければ雨ならむ過去は過去なり今を生きなむ

  誰に逢はむ思ひにあらず近寄ればミモザの花の黄が初々し

  生憎の雨といふまじ山吹の花の散り敷く狭庭また佳し

  白もくれん手燭のごとく延べし枝(え)の空に鼓動のあるがに揺るる

  松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ──さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

  ひと冬の眠りから覚めたか剪定した葡萄の樹液したたり止まぬ

  天上天下唯我独尊お釈迦様に甘茶をかける花祭 ひとすぢに生きたい
    
  チューリップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ

  <チューリップの花には侏儒が棲む> といふ人あり花にうかぶ宙(そら)あり

  ブルーベリージャムを塗りゆく朝の卓ワン・バイ・ワンとエンヤの楽響(な)る

  千年(ミレニアム)きざみに数ふる西洋か 日本は百年に戦さ五度(いつつたび)





蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・・・・・・・・木村草弥
DSC06176たこめし
8100107_01L乾電池

      蛸飯とコロッケで済ます昼ごはん
           乾電池が梅雨の湿気を帯びる・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の最新刊の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載せたものである。
梅雨入りした今の時期の歌として出しておく。
この一連は「湿気」という項目名で載せたもので、この歌の前に、こんな歌がある。

  軽薄な明るさをいつか蔑んだ張りついた汗が乾かない午後

  些細な嘘が限りなく増殖する午後ぶあつい湿気にどつぷり巻かれ
・・・・・・・木村草弥

今となっては、いつの制作かは、はっきりしないが、さぞ湿気が多い憂鬱な梅雨どきだったのだろう。
「蛸飯」は、自分で作ったものではなく、誰かの瀬戸内の旅のみやげにもらったものだろう。
瀬戸内では明石のタコが有名で、それを干して作った蛸飯が美味で、よく売られている。

    章魚食つて路通はその忌知れずなり・・・・・・・・安住敦

という句が歳時記に載っている。

今回、この歌集を進呈した人の引用歌に、これらの作品が引かれていることがあった。
<軽薄な明るさをいつか蔑んだ>という個所を指摘する人もあったし、<些細な嘘が限りなく増殖する>というところを批評してもらったのもあった。
歌集を出して、こういう風に、よく読みこんで手紙をもらう、のが一番うれしいし、参考になる。
それらについては批評欄に引いておいた。

今度の歌集では、考えるところがあって「あとがき」を書かなかった。
歌集は通常「あとがき」が付いていることが多いが、詩集などでは「あさがき」が無い場合がある。
私は、いつも「あとがき」で喋り過ぎる、きらいがあるので、今回は敢えて、書かなかった。
来信には、そのことに触れて、訝る人もあったが、私が意図的にしたことである。

以下、「梅雨」または「梅雨湿り」に因む句を引いて終わりたい。

  大梅雨の茫茫と沼らしきもの・・・・・・・・高野素十

  家一つ沈むばかりや梅雨の沼・・・・・・・・田村木国

  梅雨ふかし戦没の子や恋もせで・・・・・・・・及川貞

  梅雨の崖富者は高きに住めりけり・・・・・・・・西島麦南

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき・・・・・・・・桂信子

  梅雨霧を見てゐていつか包まるる・・・・・・・稲畑汀子

  梅雨の星齢といふも茫々と・・・・・・・・広瀬直人

  かく降りて男梅雨とはいさぎよし・・・・・・・・沢村芳翆

  梅雨の底打ちのめされてより力・・・・・・・・毛塚静枝


老いづけるこころの修羅か春泥の池の濁りにひるがへる紅絹・・・・・・・・・・・・木村草弥
p10802065b35d.jpg

    老いづけるこころの修羅か春泥の
        池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
200.jpg

      唐国の壺を愛して梅を挿す
           妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、妻の体調が悪くなりかけた頃のものである。
それは「妻の愁眉」という個所に表現してある。
自分の体調に愁眉の愁いを表わしながら、妻が唐国の壺に梅を活けている、という歌である。
この歌は自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

梅の開花は、その年によって遅速があるが今年は寒さが厳しく遅れていたが、ようやく満開になった。
何度も書いたことだが、私の住む「青谷村」は鎌倉時代以来、梅の名所として規模は大きくはないが、伝えられてきた。
「万葉集」では、「花」というと「梅」のことだった。今では俳句の世界では「花」と言えば「桜」を指すことになっている。
「和歌」「短歌」でも同じである。気候的にも桜の咲くころは春まっさかりという好時期であり、日本人は一斉に花見に繰り出すのである。
しかし、「梅」には、馥郁たる香りがあり、しかも花期が極めて長くて、長く楽しめる。
梅の産地生まれだからというわけではなく、どちらかというと、私は「梅」の方が好きである。

hana565_1_ume紅梅

梅の花については、先に姉・登志子のところでも挙げたが、私は梅の歌をいくつも詠んでいる。
掲出した歌の次に

     壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく

という歌がある。実は、私の次女は外国語学部でスペイン語が専攻だった。

歳時記にも「梅」の句は多い。それらを引いて終りたい。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・与謝蕪村

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・星野立子

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
--------------------------------------------------------------------
普通、紅梅は白梅よりも時期があとになることが多い。

妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
72279灯り
 
     妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
        いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。
近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、
そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、
先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の吉川美恵子 教授の書をお手配くださった。
吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

    かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがあると思う。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

    丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに、とは行かずに最近は厳しい寒さのぶり返しであるが、そのうちに暖かい日も来るようである。
今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきてほしいものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。


芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
wasai-kobo_1829_817712野点セット

      芝点(しばたて)の茶事の華やぎ思ひをり
            梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

掲出の写真は野外で茶をたてる時に使う「野点(のだて)セット」というもので、この携帯用のものの中に茶をたてる最低必要なものが入っている。
「芝点」と称して芝に毛氈を敷いて茶会をやる時には、もう少し道具類を用意するのが普通である。
寒い風の吹く季節をやり過ごして、うららかな春になると、家の中ではなく、野外に出て「野点(のだて)」をやりたくなる。芝生の上でやるのが「芝点(しばたて)」である。
「芝点」では「旅箪笥」などを使って茶を点てるのが普通である。
その由来についてWEB上では、次のような記事が出ているので貼り付けておく。

honjien_001-16a-12-5.jpg

<旅箪笥(写真②)は桐木地・ケンドン扉・鉄金具の鍵付きの小棚で、小田原出陣の折、陣中にて茶を点てる為に、利休居士により創案されたものだそうです。
道具を中にしまって背中にしょって出掛けたのでしょうか。

旅箪笥を使って「芝点て」の稽古です。
準備は地板に水差しを、2枚ある棚板の下方に棗と茶碗を飾り、上方の棚の左端の切り込みに柄杓を掛け、柄杓の柄の元に蓋置を飾り、ケンドン扉を閉めます。
建水だけを持ち手前座に入り、扉を開け(この開け方もなめらかに静かに行います)道具を取り出しお茶を点てるのですが、棚板の1枚を抜き出し、
その上に棗・茶筅を置く「芝点て」は、花見時の野点の光景が目に浮かぶ様な気がします。その雰囲気を楽しむ為か旅箪笥はよく釣り釜とあわせられるそうです。
特に季節を選ぶ棚ではないと言われますが、その風情から早春~春に用いられることが多いそうです。風炉との取り合わせはないそうです。>
-----------------------------------------------------------------
上の記事にあるように、本来は野外で点てるのを、後世になると、「芝点」と称して家の中でお点前をするようになったものであり、
ここまで来ると、「先ず茶道の作法ありき」という気がして嫌である。
私が「芝点」というのは文字通りの芝生の上での野点である。
私の歌は、梅が咲き初めた如月の丘に居て、もうしばらくすると芝点の時期がやって来る、楽しみだなあ、という感慨である。

以下、掲出の歌につづく一連の歌を下に引いて、ご覧に入れる。

      野 点

   芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・木村草弥

   毛氈に揃ふ双膝肉づきて目に眩しかり春の野点は

   野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明(むみやう)のうつつ

   香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ




冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・・・・・木村草弥
0000005-syoumenn1.jpg

    冷えまさる如月の今宵
       「夜咄(よばなし)の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「夜咄の茶事」という11首からなる一連のはじめの歌である。
WebのHPでも自選に採っているので、ご覧いただける。

「夜咄の茶事」というのは伝統的な茶道の行事で、作法としても結構むつかしいものだが、私たちは、歌にも「寛ぐ」と書いたように略式にして楽しんだものである。
千利休などが茶道の基礎を固めはじめた頃は、茶道は、もっと融通無碍の自由なものであった。
それが代々宗匠の手を経るに従って、それらの形式が「教条主義」に陥ってしまった。
そういう茶道界の内実を知る私たちとしては、そういう縛りから自らを解放して、もっと自由な茶道をめざしたいと考えた。
だから先人にならって「番茶道」を提唱したりした。
利休語録として有名な言葉だが、

  「茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる」

というのが、ある。これは、まさに先に私が書いた利休の茶道の原点なのである。

この「夜咄の茶事」の一連は、私にとっても自信と愛着のあるものなので、ここに引用しておく。

     夜咄の茶事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ

   風化せる恭仁(くに)の古材は杉の戸に波をゑがけり旧(ふる)き泉川

   年ごとに替る干支の香合の数多くなり歳月つもる

   雑念を払ふしじまの風のむた雪虫ひとつ宙にかがやく
   
   釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ

   緑青のふきたる銅(あか)の水指にたたへる水はきさらぎの彩(いろ)

   恭仁京の宮の辺りに敷かれゐし塼(せん)もて風炉の敷瓦とす

   アユタヤのチアン王女を思はしむ鈍き光の南鐐(シヤム)の建水

   呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩餅(はなびらもち)はくれなゐの色

   釉薬の白くかかりて一碗はたつぷりと掌(て)に余りてをりぬ

   手捻りの稚拙のかたちほほ笑まし茶盌の銘は「亞土」とありて


赭土の坂をのぼれば梅の香はすがすがしかり肺を満たして・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
逋ス譴・convert_20091018124607

   赭(あか)土の坂をのぼれば梅の香は
         すがすがしかり肺を満たして・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
私の住む「青谷」という所は鎌倉時代からの梅の名所である。
今では「城州白」という品種の梅が「梅酒」の原料としてピカ一であるとかで珍重されているらしい。
「梅」の歌は、私はいくつも作ったし、BLOGにも再三載せてきた。
特に2月19日は私たちの長姉・登志子の死んだ日であり、このこともBLOGに書いたことがある。

梅の花は、その香気と花の姿が万葉集の頃から愛でられた。その頃は「花」と言えば梅のことであった。
桜が花の代表のようになるのは「古今和歌集」になってからである。
それに、梅の花は花期が長く、桜のように、わっと咲いて、わっと散ることはないから趣がある。
私は梅の名所に住んでいるから言うのではなく、梅の方が好きである。

hana565_1_ume紅梅

紅梅は白梅よりも花の開花がやや遅いのが普通である。
濃艶な感じがする。
尾形光琳の「紅白梅図」の絵の紅梅、白梅の対照の美しさが思い出される。

梅の花は古典俳句にもたくさん作られてきた。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・与謝蕪村

などの句が、それである。
その香気、春を告げる開花の時期に、句眼がおかれている。
以下、梅を詠んだ句を引いて終わる。

 山川のとどろく梅を手折るかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 てのひらを添え白梅の蕾検る・・・・・・・・大野林火

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅に雪かむさりて晴れにけり・・・・・・・・松本長

 伊豆の海や紅梅の上に波ながれ・・・・・・・・水原秋桜子

 一本の紅梅を愛で年を経たり・・・・・・・・・山口青邨

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・中村汀女

 梅紅し雪後の落暉きえてなほ・・・・・・・・西島麦南

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・永田耕衣

 紅梅や一人娘にして凛と・・・・・・・・上野泰

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の紅のただよふ中に入る・・・・・・・・吉野義子

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
----------------------------------------------------------
今日19日は「雨水」である。
立春から15日経ち、これからは、この二十四節気の字の通り、一雨こどに暖かくなって、春に刻々と季節が移ってゆくことになる。
おまけに今日は旧暦の一月一日である。
中国、韓国など旧暦で新年を迎えるところでは「春節」として祝われる。
春節の休みなので、中国などから観光客が、どっと押し寄せて、「札ビラ」を切って日本製の家電や宝飾品を大量に買いあさっているらしい。
これも「円安」による現下の社会風俗である。






立春の風は茶原を吹きわたり影絵となりて鶸たつ真昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
7d3f2449カワラヒワ

      立春の風は茶原を吹きわたり
            影絵となりて鶸(ひは)たつ真昼・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌の前に

      立春の茶畑の土にくつきりと生命線のごと日脚のびたり

という歌が載っている。これらは私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
普通、「ヒワ」と呼んでいるが正しくは「カワラヒワ」というらしい。写真がそれである。
漢字で書くと「鶸」という字で、スズメくらいの大きさで、羽を広げたときの鮮やかな黄色がめだつ鳥である。
この鳥は「留鳥」ということであり、繁殖期以外は集団で行動する。
私の方の茶園は木津川の河川敷にあり、今ころになると茶畑でよく見られる。

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中にも

   野分のなか拝むかたちに鍬振りて冬木となれる茶畝たがやす

   固き芽の茶の畝耕し寒肥(かんごえ)を施(や)れば二月の風光るなり

という歌が載っている。これらも掲出歌と同じ時期を詠んだものである。

昨日は「立春」だった。昔の人が「春立つ」と季節分けした日が来たのである。
今年は一月は、ずっと寒かった。
二月の声を聞くと、そんな寒さが嘘のように日中は最高気温も10度を越えて12、3度を示すようになった。
さすがに朝晩は寒く、田園地帯では、まだ結氷も見られる昨今である。
「大寒」が1月20日ころで、節分、立春というと名前とは裏腹に一年でも、最も寒い頃であるが、さすがに季節は争えないもので、
「光」が全くちがって来て、光量が豊かになってきたという実感がするのである。
これらは野良で、実際に日光を浴びたものでないと実感は出来ないかも知れない。
この頃になると「日の出」の時刻は冬至の頃に比べても十数分早くなった程度だが、
「日の入り」は、ずっと遅くなって、冬至の頃に比べると一時間半ほどは太陽が長く照っている。
「春の日は暮れそうで暮れない」という言葉が昔からある。
私の歌群は、そういう季節感を実生活に則して詠んだものである。

20090215085526ヒワ群舞
↑ 掲出した私の歌の場面を写真にすると、こういう写真になる(撮影はM.N氏)。

以下、ヒワを詠んだ句を引いて終わる。 なおヒワは秋の季語である。

 鶸鳴くや杉の梢に日の残り・・・・・・・・柏後

 砂丘よりかぶさつて来ぬ鶸のむれ・・・・・・・・鈴木花蓑

 鶸渡り群山こぞり山を出づ・・・・・・・・相馬遷子

 北の空暗し暗しと鶸が鳴く・・・・・・・・飯田龍太

 鶸渡る建てしばかりの墓の辺を・・・・・・・・飯田龍太

 大たわみ大たわみして鶸わたる・・・・・・・・上村占魚

 鶸渡る比叡へ流るる霧に乗り・・・・・・・・鈴間斗史

 つと飛びし真鶸高らに天がける・・・・・・・・今牧茘枝

 鶸渡る雨の峠の草伝ひ・・・・・・・・堀口星眠

 さざめきのありて真鶸の枝うつり・・・・・・・・斎藤夏風

 群れし鶸田の土を舐め木に散りぬ・・・・・・・・城取信平

 風と来てオロフレ山に鶸の声・・・・・・・・長谷川草洲

 

ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷たれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
eldradエルドラドの金の筏

     ともしびが音(ね)もなく凍る冬の夜は
        書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌集については春日真木子さんが角川書店「短歌」誌上で批評文を書いていただいたが、その中で、この歌を抽出して下さった。この批評文もWebのHPでご覧いただける。
黄金郷エルドラドなどと大きく出たものであるが、これも読書人としての私の自恃を示すものとして大目に見てもらいたい。

黄金郷エルドラドというのはスペインのアメリカ新大陸発見にともなう時から使われるようになった言葉である。
そのいきさつは、こうである。
「なんでも、アンデスの奥地のインディオの部族は、不思議な儀式をやっていたそうだ。そのインディオの首長は裸の全身に金粉を塗りつけて<黄金の男>に変身すると、金細工できらびやかに装った従者たちを連れて筏で湖へ漕ぎ出す。筏には黄金やエメラルドが山積みにされていて、湖水の真ん中に捧げ物の財宝が投げ込まれ<黄金の男>はやおら水に体を浸すと、金粉をゆっくり洗い落す。金粉はキラキラと輝きながら湖底へ沈んでゆく・・・」。
これこそ15世紀に新大陸を征服したスペインのコンキスタドール(征服者)が耳にした噂だった。そして、遂に、この湖を見つけた。黄金郷エルドラドは本当にあったのだ。
この湖グァタビタ湖に近い盆地に都市を築いた。それが今日のコロンビアの首都ボゴタである。
写真①は、そんな「筏」を黄金で作った現地の金細工である。
黄金郷エルドラドの説明に長くかかってしまったが、私の書架を書くのが本当なのだ。
私は少年の頃は腺病質な子供で、ひ弱な体で、季節の変わり目には腹をこわすような子だったので、戸外を活発に駆け回るというのではなく、
家に居て本を読むなどの内向的な性質だった。
祖父・庄之助から毎月「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」という雑誌が送り届けられ、兄たちと夢中に貪り読んだものである。
そのうちに長兄・庄助が集めた小説などを読むようになった。こんな環境が私を文学、文芸の道に親しむ素地を作ったと言えるだろう。
今では庄助の蔵書などは兄・重信の方に行っているから、私の書斎の書架にあるものは、私が今までに読んだもの、私が買ったものであり、その数は万の桁になるだろう。
特に、私は現代詩から入ったので、「詩」関係の本が多くを占める。
私が死んだら、それらは埋もれてしまうので、出来れば「詩」関係の本だけでも「日本詩歌文学館」にでも寄贈したいと思っている。
出来れば「木村草弥文庫」というコーナーでも作ってもらえば有難いと思うが、もっと有名人もおられるので、果たしてどうなるやら。

bookseiton-img425x319-1228028742vuhngp57299.jpg

写真②は日夏耿之介『明治大正新詩選』という本である。
また講談社から発行されていて今でもある雑誌「群像」の創刊号から10年間くらいのものが欠本なく揃っている。
これらは資料的な価値もあると思われるので、図書館、記念館などに保存してもらうのには最適であろうと考えるのである。


茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは三寒四温北風さむし・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
茶園

    茶圃の施肥はじめむとする頃ほひは
       三寒四温北風さむし・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集「嬬恋」(角川書店)に載るものである。
「寒」に入った寒さも、一本調子ではなく、強弱のリズムを刻んで進んでゆくものである。こういうのを中国の古人は「三寒四温」と呼んだ。
今しも暦の上でも「大寒」に入って、一年の中でも一番寒い時期になっているが、「三寒四温」のリズムを刻むのが普通である。

木津川堤 003

写真②が私たちの「木津川」沿いの「冬」の茶園の集団である。朝なので霜が降りている。
この茶園は玉露、抹茶原料の碾茶用の高級茶の茶園で「手摘み」である。

茶の芽が動き出す前の冬季に「寒肥」という油粕などの有機質の肥料を与える。
大半の肥料は晩秋から初冬にかけての「秋肥」の時期に与えてしまうが、その補助的な施肥である。茶の樹の場合には化学肥料は殆ど与えない。
特に最近は「有機栽培」ということが、やかましく言われるが、茶に関しては昔から魚粕や油粕などを与えてきた。これらの肥料は茶の樹を養うためのものである。
お茶は他の農作物と違って、茶の葉を摘み取るものであるから、茶の樹をしっかり生育させなければならない。

「三寒四温」を詠んだ句は多くはないが、それらを引いて終る。

 凍てつぎて四温たまたま石蕗の濡れ・・・・・・・・飯田蛇笏

 軒しづく頻りに落つる四温かな・・・・・・・・・・白 樹

 三寒の心小さく炭をつぐ・・・・・・・・・・洲 風

 藁かごに乳のみ児あそぶ四温かな・・・・・・・・・・青水草

 三寒の日は蒼かりし山おもて・・・・・・・・・・三宅一鳴

 白珠の四温の星のうるむなり・・・・・・・・・・白葉女

 胎中の胎児三寒四温越ゆ・・・・・・・・清水基吉

 三寒四温ゆゑ人の世の面白し・・・・・・・・大橋越央子

 三寒の四温を待てる机かな・・・・・・・・石川桂郎

 雪原の三寒四温浅間噴く・・・・・・・・相馬遷子

 四温の日低き歓語の碁石たち・・・・・・・・吉田銀葉

 三寒のくらがりを負ふ臼一つ・・・・・・・・八重津苳二

 父の日の花買ひに出し四温かな・・・・・・・・細田寿郎



鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ母はこくりと日向ぼこする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
bde6043338658086a8b9e786e6dea216ひなたぼこ

     鼻眼鏡ずり落ちさうにかけゐつつ
         母はこくりと日向ぼこする・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「人」のひなたぼっこの写真がないので、猫のもので代用した。
冬の日、風の当たらない南側の日向で「ひなたぼっこ」をするのは気分のいいものである。
掲出した私の歌は、93歳で亡くなった母の往時の姿を偲んで歌にしたものである。

aegean_l戸口老夫婦

写真②はギリシアの「エーゲ海」クルーズを旅したときのもので、戸口に座る老夫婦で、これも基本的には「ひなたぼっこ」と言ってもよいだろう。
この写真には

  歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は・・・・・・・・・木村草弥

  戸口の椅子二つに坐る老夫婦その顔の皺が語る年輪

  愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に坐る二人


の歌が、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載っている。
なお私のWebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文にも収録してあるので、ご覧いただきたい。

以下、「ひなたぼっこ」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ・・・・・・・・高浜虚子

 うとうとと生死の外や日向ぼこ・・・・・・・・村上鬼城

 冬日掬ふ如き両掌や日向ぼこ・・・・・・・・池内友次郎

 日向ぼこ笑ひくづれて散りにけり・・・・・・・・富安風生

 つかのまのきづなをたちてひなたぼこ・・・・・・・・飯田蛇笏

 日向ぼつこ日向がいやになりにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 日向ぼこ神の集ひも日向ならむ・・・・・・・・大野林火

 ふるさとにたよりおこたり日向ぼこ・・・・・・・・中村汀女

 日向ぼこ父の血母の血ここに睦め・・・・・・・・中村草田男

 かへる山ありて猿たち日向ぼこ・・・・・・・・山口波津女

 けふの日の燃え極まりし日向ぼこ・・・・・・・・松本たかし

 胸もとを鏡のごとく日向ぼこ・・・・・・・・大野林火

 手に足に青空染むとは日向ぼこ・・・・・・・・篠原鳳作

 犬がものを言つてきさうな日向ぼこ・・・・・・・・京極杞陽

 デスマスクある壁を背に日向ぼこ・・・・・・・・石原八束

 太陽の手をいただいて日向ぼこ・・・・・・・・堀内薫

 太陽に吾も埃や日向ぼこ・・・・・・・・平赤絵

 日向ぼこ身のうちそとに母のゐて・・・・・・・・長谷川せつ子




「交配中」のビラを掲げてマルハナバチがトマトの黄花の花粉にもぐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
DSC00193.jpg

07セイヨウオオマルハナバチ
  
      「交配中」のビラを掲げてマルハナバチが
            トマトの黄花の花粉にもぐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選60首にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いたたげる。

「マルハナバチ」は温室やビニールハウスでの野菜、果実などの交配に導入されたもので、園芸先進国オランダで実用化され、
今も写真①のような段ボール箱に入って空輸されて来る。段ボールには「精密機械」「チェック貨物」などのステッカーが貼られている。
箱の中には女王蜂1匹を筆頭に、オス蜂、働き蜂の計50匹くらいの一家族が入っている。ただし巨大なコロニーは作らず家族に近い。
値段は何と1箱19635円(税、送料込み)もする。
写真②に、その「セイヨウオオマルハナバチ」学名・Bombus terrestris の写真を出しておく。
日本産の「クロマルハナバチ」もオランダで飼育され輸入されるが、これになると21945円もする。

日本では平成2年に国内に導入されたばかりだが、ヨーロッパではすでに早くから実用化され、一般的な技術として普及しているという。
彼らを有効にトマトの花を訪れさせる最大のコツは「学習飛行」だという。マルハナバチは、ある一定種の花をつづけて訪花する習性があるのである。
このため、はるばるオランダからやって来たマルハナバチは最初、ネットで囲った1棟のハウス内で学習飛行した後、開け放たれたハウスの中をトマトの花を求めて移動するという。
通常、1棟のハウスの中に1匹のマルハナバチが活動していれば充分という。
とは言っても、先年、NHKの「クローズアップ現代」で取り上げられたように、ヨーロッパから移入した「セイヨウオオマルハナバチ」が生命力旺盛であるため、日本の野外に出てしまったら、在来の「ニホンマルハナバチ」を駆逐してしまう恐れがある、という。
移入したトマト農家などの厳重な管理が必要になってきた。

写真③は「ミディトマト」である。ここで「トマト」について書いて置こう。
12003-01ミディトマト①

トマトは17世紀にポルトガル人によって伝えられ、最初は鑑賞用に栽培されていたという。「蕃茄」と呼ばれた。
今日では、最もポピュラーな果実として広く食べられている。
露地ものもあるにはあるが、通年作物として「ハウス栽培」されるのが普通である。
元来トマトは夏の果物だが、今ではハウス栽培のおかげで一年中食べられるようになった。
後でも書くが、マルハナバチに花粉の媒介をしてもらうということは、「農薬」を使えないということでもあり、食べる上でもトマトは安全な果物と言えよう。

photo-02トマトの種床

写真④がハウスに植えつけるトマトの苗床である。スポンジ様のものに一粒づつ種を蒔いて発芽させる。
これをハウスに定植し液肥を入れた水を循環させる「水耕栽培」が普通である。
その間、余計な葉や枝を取り去ったり、枝を吊り上げるなど人手のいる作業が要る。
日本の夏は暑いので、この期間中はハウスの中が高温になり過ぎるので栽培は休んで、ハウスの消毒や秋からの定植に備えて苗などの準備をする。
私の知人も大規模なトマト栽培家がいるので、よく見せてもらった。

掲出の歌を含む一連8首を読んでもらえば、よく判っていただけると思うので、それを引いておきたい。

  マルハナバチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 外は寒い北風が吹く温室の中はぽかぽか春の暖かさ

 「交配中」のビラを掲げてマルハナバチがトマトの黄花の花粉にもぐる

 温室は液肥の流れる礫耕栽培トマトには農薬は使はぬ

 虫を殺す農薬が人間に良い筈がない「自然の知恵」に戻れよ

 葡萄のやうな房生(な)りでミディトマトが鈴なりに垂れる壮観

 園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた

 この列はイタリア品種の料理用「サンマルツァーノ」トマトが真つ赤だ

 次々と温室トマトの直売所に車が来て採りたての果実が買はれてゆく

240px-Fleurtomateトマト花

「トマトの黄花」といっても判らないので写真⑤に出しておく。

トマトの効用を、このように言っても「露地」栽培で「旬」のトマトなら、昔の風味も味わえるだろうが、今は消費者が一年中トマトが食べられるという生活に狎れてしまい、このような旬の味を求めるというのは「ないものねだり」の感がある。
それともうひとつ、大量生産、大量消費の時代になると、生産者から末端の消費者の手に渡るまでの日数を考えると「品傷み」のしない品種がタキイ種苗などの大手の育種メーカーで開発され、今の主流をなす「桃太郎」などの品種が市場を占める事態となるのである。したがって味も画一的になってしまう。
今の主流の「桃太郎」というトマトも完熟したものを、その場で食べれば、とてもおいしい品種なのだが、今では流通過程で日数がかかってしまい、かつ家庭でも野菜室に入れておいて、すぐに食べるというものでもないから「味」が劣化する。
昔のトマトには適当な「酸味」があったが、今のトマトには、それがない。
これは消費者が「甘い」トマトを求めるからだという。確かに「桃太郎」などは酸味は殆ど感じられない。
このようなことを知ると、今のトマトの風味については、消費者にも、その責任の一端がありそうであるが、いかがだろうか。
昔わたしたちの子供の頃は(農村だったから)学校から帰ると、冷たい水にトマトが冷してあり、それを皮もむかずに、そのままかじりついたものである。
適当な酸味もあり自然の風味というものがあった。
しかし、いまでは、そんなことを言ってみても「詮ない」ことである。

P1030584ミニトマト

写真⑥に「ミニトマト」を出しておく。
最近の学者の研究で、トマトに癌予防の著効があるということが判ったという。そんなことで亡妻にはせっせとトマトを食べさせていた。
少なくとも「免疫力」を高める作用はあるのではないかと思う。
病院では皮をむくのが面倒なので、専ら「ミニトマト」を愛用していた。皮ごと食べるので、しっかりした歯ごたえもあり、おいしいものである。
なお夏季には私の家では菜園にトマト、ミニトマトを栽培しているがミニトマトは実が鈴なりにわんさとついて、おびただしく生るものである。


新年の色あざやけき青竹を結界として茶の湯点てけり・・・・・・・・・・木村草弥
0000005-syoumenn1.jpg
  
       新年(にひどし)の色あざやけき青竹を
               結界として茶の湯点(た)てけり・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌は自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌のつづきに

 をろがみて三啜り半に服したる新年の茶のこのほろにがさ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。この一連は「結界」という小項目の13首からなるが、この項目の一番終わりの歌は

 黒光る帳場格子の結界に大福帖吊りき創業の祖(おや)・・・・・・・・・・木村草弥

このように「結界」という言葉は、さまざまに使われているので、少し説明したい。

k-13kihon結界

写真②は茶道で使う「結界」である。形は色々あるが、私のはじめの歌の場合は、これを「青竹」で作ってあるということである。
この写真のものは茶道具屋が売っているものだが、茶道の原初的な意味から言うと、どんなものでもよいのである。
そもそも「結界」とは、Simabandhaという言葉の訳語とされ、仏教教団に属する僧尼の秩序を保つため一定地域を区画すること、に発する。いわば聖と俗との境界である。
それが茶道その他にも取り入れられたもの。「女人結界」というのも宗教界にはある。また神社などの「注連縄」(しめなわ)も結界の一つである。
先に書いた聖と俗との境界を示すものである。
私の三番目の歌に則して言うと、昔の商家の、いわゆる「帳場」の一角を区切る「格子」(こうし)も一つの結界なのであった。店頭とは違った空間を作るものだからである。
こういう風に「結界」という言葉は便利なもので、さまざまに変形して使われている。

kazuho茶筅

写真③には茶道で使う「茶筅」を掲げてみたが、新年に使うものは「青竹」で作られ、緑色あざやかなものである。
もっとも茶道具というのは三千家でも少しづつ変化しているので、ここではあくまでも一般論として読んでもらいたい。茶筅の穂先の形からして変わる。

私の二番目の歌の「をろがみて」というのは「おしいただいて」ということで、茶道で茶を呑む時に茶碗を両手で持って顔のあたりにもってきて「おしいただく」動作のこと。
「拝む」というのが「をろがむ」である。
「三啜り半」というのが、茶碗に入った抹茶の湯を呑む時の作法とされる。一番最後の茶は音をたてて「啜る」のである。
このことを誤解して、音をたてずに服する人があるが、それは「勘違い」というものである。ズルズルと音をたてて啜るのが正解である。
なお、この「啜る」という口の動きが、外国人には出来ない。西洋人には、先ず無理である。
英語の「drink」(飲む)という言葉は、たとえばスープを飲む時にスプーンの先を唇にあてて、舐めるように、あるいは、注ぎ込むように飲むのが「ドリンク」なのである。
日本人は「啜る」ことが出来るので、スプーンの横から「啜り」がちである。
文化あるいは風習というものは、このように変わっていて、一つの言葉の「翻訳」されたものの中だけでは、表現し切れないものが含まれているのである。
-----------------------------------------------------------------------
今日、1月15日は古来「小正月」と言って、正月の行事があった。一般的には、この日には「小豆かゆ」を食べる風習があった。今でも我が家などでも、この行事を守っている。
この日をもって一応、正月行事は終ることになる。
祝日の「成人の日」は、今は移動休日になってしまったが、前は先に述べたような理由から「小正月」に因んで1月15日に決めて制定されたのであった。
そんな日にちなんで、今日は「新年」「茶道」ないしは「結界」のことを書いてみた。



蜜蜂のうなりのやうにまとひつく耳鳴りあはれ蠟梅かをる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
sosin-roubai蝋梅本命

    蜜蜂のうなりのやうにまとひつく
      耳鳴りあはれ蠟梅かをる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
私の家の庭にある「蠟梅」は近年12月末から新年にかけて咲いている。

『滑稽雑談』という本に「蠟梅、一名黄梅花。この物、もと、梅の類にあらず。臘月に小黄花を開く。蘭の香に似たり。葉は柿葉に似て、小にして長し。大坂にて<唐梅>といふ。この名、臘月の義にあらず。その花、黄蠟色に似たり。ゆゑにこれを名とするなり」とある。
簡にして要を得た文章である。梅に似て、梅でない、黄蠟色の、極めて香りのよい花である。

sosin-roubai3蝋梅

sosin-roubai2蝋梅の実

写真③は蠟梅の実である。
夏のはじめに実り、地面に落ちると発芽して新しい木になるが、条件さえ良ければ、やたらに増えるので始末が悪いので、見つけたらこまめに引っこ抜く。
枝も徒長枝が伸び放題に伸びるので、取り除かないと、庭の他の木を日陰にするので始末が悪い。
樹木には新しい徒長枝に花芽がつくものと、古い枝に花芽がつくのと二種類あるが、蠟梅は梅と一緒で徒長枝には花芽はつかないので、どしどし切ってよいのである。

以下、蠟梅を詠んだ句を引いて終る。

 蠟梅や雪うち透かす枝のたけ・・・・・・・・芥川龍之介

 蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら・・・・・・・・芥川龍之介

 蠟梅のかをりやひとの家につかれ・・・・・・・・橋本多佳子

 蠟梅の咲いてゐるなり煤の宿・・・・・・・・百合山羽公

 蠟梅の花にある日のありとのみ・・・・・・・・長谷川素逝

 蠟梅の咲きうつむくを勢ひとす・・・・・・・・皆吉爽雨

 蠟梅のこぼれ日障子透きとほす・・・・・・・・菅裸馬

 蠟梅に日の美しき初箒・・・・・・・・遠藤梧逸

 蠟梅や時計にとほき炬燵の間・・・・・・・・室生とみ子

 蠟梅のこぼれやすきを享けにけり・・・・・・・・林登志子
----------------------------------------------------------------------
「臘」という字と「蠟」という字は区別される。
偏が「虫」と「月」と違っているように、ロウソクの字の場合は虫偏の「蠟」であり、
暦の十二月の異称の「臘月」の場合は月偏の「臘」である。
これらは、いずれも常用漢字の表外漢字であるが、画数の多い字で略字で表記される場合が多いが、ここでは「正字」で出しておいた。

なお蛇足だが、私の歌にあるように、「香る」という言葉の歴史的かなづかいは「かをる」が正しい。
「香り」ならば「かをり」である。
布施明が歌って大ヒットした歌「シクラメンのかほり」というのがあるが、なまじ大ヒットしたが故に、この仮名づかいが正しいように誤解されているが、
これは作者の小椋佳の勘違いによる間違いであり、いつまでも恥を曝しているようなものである。
知ったかぶりをして、歴史的かなづかい(旧かな)にしたために間違ったのである。
ここは素直に「新」かなづかいにしておいたら、恥をかかずに済んだのである。
今や「新かなづかい」が制定されてから60年以上が経ち、「旧かなづかい」なんて全く縁のない人々が殆どであるから、
「旧かなづかい」で詩歌を作ったり、書いたりするには、それ相応の「覚悟」と「勉強」が要る。
安易な気持でやられては困るのである。「国語辞典」「古語辞典」には載っているので参照する癖をつけたい。
このブログ上でも、これにつられて「かほり」と書いてあるのを時々見かける。念のために申し上げておく。




寒菊も黄を寄せ合へばさみしからずさ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
845ad7ae3498127dd8371ef0d2c0115d.jpg

    寒菊も黄を寄せ合へばさみしからず
       さ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「寒菊」というのには、特別に品種があるわけではなく、初冬に咲く晩生の菊をまとめて言っているようである。ここに掲げたものは黄色であるが、白色もあれば淡藍色のものもある。

d0124169_7124515.jpg

写真②のものは白い色をしている。これも寒菊の一種とされている。
私の歌は寒さの中に、けなげに咲く寒菊に寄せて、私の心象を盛ったもので、単なる写生と受け取ってもらっては、困る。

古い俳句を見てみると

   寒菊や粉糠のかかる臼の端・・・・・・・芭蕉

   泣く中に寒菊ひとり耐(こた)へたり・・・・・・・・嵐雪

   寒菊や日の照る村の片ほとり・・・・・・・・蕪村

   寒菊や臼の目切りがぼんのくぼ・・・・・・・・一茶

などの作品がある。
冬の景物には「ものがなしさ」の心象が盛られることが多い。寒菊も、同様である。
以下、寒菊を詠った句を引いておきたい。

 寒菊を憐みよりて剪りにけり・・・・・・・・高浜虚子

 寒菊の雪をはらふも別れかな・・・・・・・・室生犀星

 寒菊や世にうときゆゑ仕合せに・・・・・・・・岩木躑躅

 弱りつつ当りゐる日や冬の菊・・・・・・・・日野草城

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 寒菊の霜を払つて剪りにけり・・・・・・・・富安風生

 寒菊や母のやうなる見舞妻・・・・・・・・石田波郷

 わが手向(たむけ)冬菊の朱を地に点ず・・・・・・・・橋本多佳子

 冬菊の乱るる色を濃くしたる・・・・・・・・鹿野佳子

 寒菊の空の蒼さを身にまとひ・・・・・・・・渡辺向日葵

 寒菊や耳をゆたかに老い給へ・・・・・・・・越高飛騨男

 冬菊の括られてまたひと盛り・・・・・・・・横沢放川



振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618985_1E.jpg

  振り返ることのむなしさ腰下ろす
       石の冷えより冬に入りゆく・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
写真①は、私の歌とは何の関係もないが、「腰下ろす石」ということで、ネット上で検索して発見した「義経の腰掛石」というものである。
頼朝に追われて逃げる義経が、休息のために腰かけたとされる石。京都の郊外の山科の京都薬科大学の校内にある。

 ■躓きし石にものいふ寒さかな・・・・・・・・野村喜舟

という句を先に紹介したが、「つまづく」石か、「腰かける」石かの違いはあるが、こういうように、無機物で、しかも自分とは何ら縁故のない、
いわば「路傍の石」というものをも、詩歌の世界では、おのが対象物として作品化することが出来るのである。
私の歌しかり、この野村氏の句しかりである。
「冷たい」とか「冷える」という冬の寒さをいう言葉だが、これらは肌の感覚で捉えた「即物的」な表現である。
「京の底冷え」というが、これは底の方から、しんしんと冷えてくる感じである。
「石」や「水」という無機物は、冷え切ると、物凄く冷たいものである。

 ■なつかしき京の底冷え覚えつつ・・・・・・・・高浜虚子

という句があるが、虚子は南国の四国・松山の人であるから、何かの機会に訪れた京都の底冷えはひどく身に堪えて「記憶」にとどめられたのであろう。
その意識が、この句の表現になっている。

  ■底冷の洛中にわが生家残る・・・・・・・・村山古郷

  ■底冷えの底に母病むかなしさよ・・・・・・・・井戸昌子

これらの人々は京都生まれだということが判る。
寒さが厳しくなると、水や土、室内のものまで凍ることがある。
若い頃に京都の北の「鞍馬」寺の門前の友人の家に泊めてもらったことがあるが、そこは寒くて、朝起きたら、寝ている肩口に粉雪がかすかに積もっていたことがある。
障子の隙間から入ったものである。
家のすぐ裏に谷川が流れていたが、この辺りでは、撃ち取った猪の体は、そのまま谷川にロープでつないで水に漬けて置いておくのだそうである。
いわば天然の冷蔵庫ということだが、そうすることによって猪についているダニなどの虫が死んで、ちょうど都合がよいのだ、ということだった。
今は暖冬化したので、一概には言えないが、京都市内でも、同志社大学のある「今出川」通より北では、比叡おろしの風に乗って粉雪がちらちら降るのが厳寒の常だった。
京都大学のある辺りも今出川通に面しているので、比叡おろしがまともに吹くので寒い。

「凍る」「氷る」「凍(こご)ゆる」「凍(い)てる」などの言葉を使った句もたくさんある。

 ■月光は凍りて宙に停れる・・・・・・・・山口誓子

 ■晒桶古鏡のごとく氷つたり・・・・・・・・阿波野青畝

 ■凍らんとするしづけさを星流れ・・・・・・・・野見山朱鳥

 ■折鶴のごとくに葱の凍てたるよ・・・・・・・・加倉井秋を

 ■馬の瞳も零下に碧む峠口・・・・・・・・飯田龍太

このように「自然現象」をも「人事」つまり人間にかかわるものとして作品化出来るのである。
今日は私の歌をきっかけにして、冬の寒さの表現の言葉を、さまざまに「敷衍」してみた。
いかがだろうか。




しばらくはその香に酔ひてをりにけり晩白柚風呂に浸るひととき・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618582_1E.jpg

    しばらくはその香に酔ひてをりにけり
       晩白柚風呂に浸るひととき・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前に

  賜ひたる晩白柚まろく大きかり男手借りてむき分かちたり・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、晩白柚を下さったのは「コスモス」の古参の安立スハル氏である。

写真①は贈答用箱に鎮座した晩白柚(ばんぺいゆ) 。
この果物は、一般に知られる赤い実のザボン(白柚)の一種で、その実は淡い黄緑色である。
柑橘類の中では最大級で直径は20~25センチ、重さは1.5~2.5㎏にもなる。
原産地はマレー半島。白柚より完熟期が遅いことから晩生白柚→晩白柚と命名された。
発見者は、当時の台湾の農業技師で植物研究家の島田弥市氏である。
晩白柚の父として知られる同氏は熊本県八代郡東陽村の出身で、同村を全国有数のショウガ産地に育てて「ショウガの父」としても知られる他「ポンカン博士」としても有名で、
その生涯を植物研究に燃焼し尽くした人である。

FI2618582_2E.jpg

写真②には、晩白柚の大きさを示すために手に持った人物の顔と対比してもらいたい。
晩白柚の産地の八代地方は、かなり以前からザボンが栽培されていたが、晩白柚は熊本県果樹試験場を経て、一般農家にも広まるようになり、独特の香りと柔らかな食味を持つことから、昭和40年代に入ると急速に栽培量が多くなった。
現在では、昭和52年にハウス栽培に成功して以来、露地よりも1カ月以上早く収穫できるようになり、正月前に出荷できるので、お歳暮やお年始に引っ張りだこ、という。

FI2618582_3E.jpg

写真③はハウスの中に整然と並ぶ収穫された晩白柚の壮観さである。

掲出した私の歌のように、香りが爽やかなので、皮を風呂に入れると絶妙の晩白柚風呂になる。
柑橘類特有の果油によって肌がツルツルになる。柚子湯のデラックス版と考えてもらえばお判りいただけよう。
私の歌のように皮を剥くのも一苦労で、力の強い男手が必要である。
身の味は、やはり酸味が強いので、実のまま玄関などに飾って鑑賞してから熟するのを待って食味すると、おだやかな酸味となる。
晩白柚のもてはやされ方をみると、食料の不自由な時期には見向きもされなかったかも知れないと思われる。
世の中に物が満ちあふれ、少しでも変わった贈答品を、という時代になって、もの珍しさも手伝って今日に至っているように見える。
安立氏が、これを下さったのは、もう数年も前で、以後、安立氏は帯状疱疹でお苦しみで、歌壇との交際も断っておられ私にも音信がなかったが、
音信不通のまま2006年春にお亡くなりになってしまった。
安立氏は、私を歌の道に導いて下さった恩師であった。


妥協とは黙すことなり冬ざれのピラカンサなる朱痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaoopirakaピラカンサ本命

     妥協とは黙(もだ)すことなり冬ざれの
          ピラカンサなる朱(あけ)痛々し・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

ピラカンサはPyracantha と言うが、誤ってピラカンサスと書かれているものもあり、私も原作はピラカンサスと間違って歌集にも載せたが、
塚本邦雄氏の文章を読んで、間違いに気付き、改作した。
ピラカンサは写真②のように5月はじめ頃、このように白い花をたくさんつける。

FI2618558_2E.jpg

ピラカンサは樹高せいぜい2メートルまでの低木で、枝にはバラのように鋭いトゲがたくさんついている。
写真のように晩秋になると真っ赤な実がびっしりと生るが、野鳥たちの冬の絶好の餌となり、冬中には、すっかり食べ尽くされてしまう。
補足して書いておくと、ピラカンサ=「火+トゲ」を意味するギリシア語からの造語、と言われている。
ピラカンサはバラ科の常緑低木。中国が原産地だが、日本へは明治中期に、フランスから輸入されたという。
高さ1、2メートルで刺のある枝を密生し、葉は革質で厚い。庭木としてよく見られるが、生垣になっている場合が多い。
晩秋に球状の実が黄橙色に色づいて枝上に固まって着く。だんだん赤橙色になり、冬になっても、その色を失わない。
南天なども、そうだが、冬ざれの中の「赤」は冬の一点景とは言え、却って「痛々しい」感じが、私には、するのである。
この歌の一つ前には

  沈黙は諾(うべな)ひしにはあらざるを言ひつのる男の唇(くち)の赤さよ・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているので、これと一体のものとして鑑賞してもらえば、ビジネスマンの人などにも、共感してもらえるのではないか。
そういう、生々しい「人事」の歌である。

いま歳時記を開いてみたが、ピラカンサの句は殆ど載っていない。
僅かに、次の一句だけが見つかったが、これも「ピラカンサス」と誤って使われている。

 界隈に言葉多さよピラカンサス・・・・・・・・・・・・森澄雄




草むらにみせばやふかく生ひにけり 大きな月ののぼるゆふぐれ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
misebaya4ミセバヤ紅葉

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり
     大きな月ののぼるゆふぐれ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

今日は「紅葉」を採り上げることにする。
写真①は「みせばや」の紅葉である。ミセバヤは別名を「玉の緒」とも言う。この細かい、丸い葉が薄紅色に紅葉する様子は、あでやかなものである。
「ミセバヤ」については2009/10/06に載せたので参照されたい。

いよいよ11月も終わりになって、いろんな木や草が紅葉の季節を迎える。
写真②は「夏椿」の紅葉である。
natutubaki6夏椿紅葉

ナツツバキというのは「沙羅の木」として梅雨の頃に禅寺などの庭で「落花」を観賞する会が行われる木であるが、もみじの季節には、また美しい紅葉が見られるのである。
緑の季節には落花に儚さを感じ、紅葉の季節には、くれないの葉の散るのを見て、人の世の無常に涙する、という寸法である。
「夏椿」については2009/06/20に載せたので参照されたい。

①と②に、平常は余り見ることの少ない草と木の紅葉を出してみた。
いかがだろうか。
写真③は普通の「カエデモミジ」の紅葉である。
aaookaede01カエデモミジ

「紅葉」は、また「黄葉」「黄落」とも書く。
京都は紅葉の季節は一年中で一番入洛客の多い時期だが、今年は秋が急速らやってきて、冷たい日々があり、紅葉も順調なようである。

以下、紅葉を詠んだ句を引いて終りたい。

 山門に赫つと日浮ぶ紅葉かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 障子しめて四方の紅葉を感じをり・・・・・・・・星野立子

 夜の紅葉沼に燃ゆると湯を落す・・・・・・・・角川源義

 紅葉に来文士は文を以て讃へ・・・・・・・・阿波野青畝

 近づけば紅葉の艶の身に移る・・・・・・・・沢木欣一

 紅葉敷く岩道火伏神のみち・・・・・・・・平畑静塔

 すさまじき真闇となりぬ紅葉山・・・・・・・・鷲谷七菜子

 やや傾ぐイエスの冠も紅葉す・・・・・・・・有馬朗人

 恋ともちがふ紅葉の岸をともにして・・・・・・・・飯島晴子

 城あれば戦がありぬ蔦紅葉・・・・・・・・有馬朗人

 天辺に蔦行きつけず紅葉せり・・・・・・・・福田甲子雄

 黄葉はげし乏しき銭を費ひをり・・・・・・・・石田波郷

 黄葉樹林に仲間葬りて鴉鳴く・・・・・・・・・金子兜太

 へくそかづらと言はず廃園みな黄葉・・・・・・・・福田蓼汀

 黄落や或る悲しみの受話器置く・・・・・・・・平畑静塔

 黄落の真只中に逢ひえたり・・・・・・・・・小林康治

 黄落や臍美しき観世音・・・・・・・・堀古蝶

 ゆりの木は地を頌め讃へ黄落す・・・・・・・・山田みづえ

 黄落やいつも短きドイツの雨・・・・・・・・大峯あきら



茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618973_1E.jpg

──初出・Doblog2008/11/24を再編集──

  茶畑はしづかに白花昏れゆきて
        いづくゆ鵙の一声鋭し・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


一昨日、十一月七日は二十四節季では「立冬」であった。
暦の上では、この日から「冬」ということになる。

今が茶の花の咲き始めるシーズンである。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の巻頭を飾る歌である。
WebのHPでも載せているのでご覧いただける。

私は半生を「茶」と共に過ごしてきたので、これに対する思いいれは尋常なものではない。
だから、第一歌集の名を「茶の四季」とした所以である。
茶の樹はツバキ科としてサザンカなどと同じ種類の木である。晩秋から初冬にかけて花をつける。
お茶の花は主に茶樹の下の方に咲く。茶の株の上部に花が咲くようだと、その茶園はあまり管理が良いとは言えない。
植物の花や実がつく状態とは葉や茎があまり育たない状態である。
お茶は「葉」を収穫する作物だから、花や実は、むしろ好ましくない。一般に「剪定」をすると花つきは良くない。

写真②の茶樹は、まだ幼木で仕立て中なので花が多くついている。
FI2618973_2E.jpg

茶の木はツバキ科の常緑低木で、原産地は中国南部の雲南省辺りと言われている。
今でも雲南省の奥地の西双版納(シーサンパンナ)に母木という巨木の茶の木があるという。
私は雲南省の昆明までは行ったことがあるが、奥地には行かなかったので、まだ見ていない。

茶の花は秋から初冬にかけて新梢の葉腋につく。白く五弁の香りの高い花で、花の中心に黄色の雄蕊がある。
受粉した雌蕊は果となり、一年がかりで翌年の秋に丸い種を包んだ実になるのである。
茶の木は古来、関東から九州にいたる山地に自生する山茶の木があったらしいが、葉を採って「茶」にして飲用することを知らなかったらしい。
中国の宋から茶の種と製法を持ち帰ったのは「栄西禅師」であると言われている。

私の歌集の巻頭の歌につづいて

  たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

というのがあるが、この金色の蘂が、とても印象的な花である。

  茶の花のわづかに黄なる夕べかな・・・・・・・・与謝蕪村

の句の描くところも、同じ風雅を伝えるものである。

FI2618973_3E.jpg

写真③は茶の実である。これは昨年の初冬に花が咲いて、一年かけて実になったもので植物の中でも息の長いものである。
この実を来春に蒔けば発芽して茶の木になる。
こういうのを「実生」(みしょう)というが、他の茶樹の花粉と交雑して雑種になるので、栽培的には「挿し木」で幼木を育てるのが一般的である。
今はやりの言葉で言えば「クローン」である。
写真の実の形からすると、実は4個入っている。この実の形が三角形なら実は3個ということになる。
初冬になると、外皮が割れて、中の実が地面に落ちる。
物を作るというのは生産的で、収穫の時期など心が浮き立つものである。
掲出した歌のつづきに以下のような歌がつづいているので引いてみる。

    茶の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  茶畑はしづかに白花昏(く)れゆきていづくゆ鵙の一声鋭し

  酷暑とて茶園に灌(そそ)ぎやる水を飲み干すごとく土は吸ひゆく

  たはやすく茶の花咲くにあらざらめ酷暑凌ぎて金色の蘂(しべ)

  ひととせの寒暖雨晴の巡り経て茶の実(さね)熟す白露の季に

  白露してみどりの萼(がく)に包まるる茶の樹の蕾いまだ固しも

  川霧の盛りあがり来てしとどにぞ茶の樹の葉末濡れそぼちゆく

  初霜を置きたる茶の樹に朝日さす葉蔭に白き花ひかりつつ


先にも書いたように私の半生をかけた「茶」のことでもあり、また第一歌集でもあるので「茶」についての歌は非常に多い。
また季節に合わせて私の「茶」にまつわる歌を採り上げたい。
---------------------------------------------------------------------------
この記事をご覧になったbittercup氏から、地図の「植生記号」の「茶畑」の記号は、茶の実を横切りにしたものから採られた、とご教示いただいた。
詳しくは、「植生記号」を参照されたい。
この記号は、茶の実3個が入っているものから採られたらしいが、茶の実は一個だけのもの、二個、三個など、何でもありだが、五個というのは余り見かけないが、あるかも知れない。
記号に採られるということから3個の実が多いと言えるかも知れない。
こういう地図記号は、私も何度か目にしていると思うが、茶畑のものとして、しげしげと眺めたことがないので、忘れていたものである。ご教示に感謝したい。

茶の花を詠んだ句も古来多いが、明治以後の句を少し引いておく。

 茶の花に温かき日のしまひかな・・・・・・・・高浜虚子

 茶の花におのれ生れし日なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 こもり居や茶がひらきける金の蘂・・・・・・・・水原秋桜子

 茶の花のとぼしきままに愛でにけり・・・・・・・・松本たかし

 はるかなこゑ「茶の花がもう咲いてます」・・・・・・・・加藤楸邨

 茶の花やアトリエ占むる一家族・・・・・・・・石田波郷

 茶の花のほとりのいつも師の一語・・・・・・・・石田波郷

 お茶の花類句の如く咲きにけり・・・・・・・・佐野青陽人

 茶の花やさみしくなれば出てありく・・・・・・・・鈴木守箭

 茶の花をときに伏眼の香と思ふ・・・・・・・・飯田龍太

 茶が咲いて肩のほとりの日暮かな・・・・・・・・草間時彦

 茶の花を心に灯し帰郷せり・・・・・・・・村越化石

 お茶の花しあわせすぎてさみしくて・・・・・・・・北さとり

 茶の花や母の形見を着ず捨てず・・・・・・・・大石悦子

 茶が咲いて三年味噌の目覚めけり・・・・・・・・立川華子

 蕊含み切れず茶の花開きけり・・・・・・・・榑沼清子



嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏れ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
sagagiku00嵯峨菊①

   嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に
     老年といふ早き日の昏(く)れ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日は「嵯峨菊」について書く。
写真は、いずれも嵯峨菊の色違いである。
sagagiku02嵯峨菊②
sagagiku08嵯峨菊④
sagagiku03嵯峨菊③

嵯峨菊は、嵯峨天皇の御代、嵯峨御所の大沢池の菊ケ島に自生していた野菊を、永年にわたって、王朝の気品ある感覚を持ったものに洗練し、
「天、地、人」の微妙な配置が仕立てあげた,格調高い菊である。
嵯峨菊は一鉢に三本仕立て、草丈は殿上から鑑賞するのに丁度よい高さの約2メートルに仕立てられる。
花は「弥彦作り」というが、先端が3輪、中程に5輪、下手に7輪と、七五三に。
葉は下部を黄色、中程は緑、上りの方は淡緑というようにして、春夏秋冬を表すことになっている。
花弁は平弁で54弁。長さは約10センチが理想とされ、色は嵯峨の雪(白)、右近橘(黄)、小倉錦(朱)、藤娘(桃)などの淡色が多く、あまり混植をしない。
大覚寺では、毎年11月に一般公開し、多くの参観者の目を楽しませている。
先に書いた「弥彦作り」などの菊作りの作法は、他の菊でも採用されているそうであり、嵯峨菊独特の作り方と、汎用の作り方と、併用されているようである。
もちろん私は菊作りにも素人であるから、間違いがあれば指摘してもらいたい。

掲出した私の歌も、嵯峨菊に仮託して「老年」というものの悲哀を詠ったもので、嵯峨菊そのものを詠んだものではないことを言っておきたい。

このように写真を見てくると、菊作りにかけた異常とも思える情熱を知るのである。
世上の現象に囚われず、些末的とも見えることに情熱を傾けた人々があったからこそ、嵯峨菊の今日があると知るべきなのだろう。

京都は、紅葉の美しい所も多く、それらもひっくるめた歴史的遺産のおかげで、11月になると入洛客で、一年中で、最も混むシーズンとなる。
ホテル、旅館は、この期間は予約で満室である。
以下、菊を詠んだ句を少し引いて終る。

 虫柱立ちゐて幽か菊の上・・・・・・・・高浜虚子 

 腹当の紺のゆゆしき菊師かな・・・・・・・・野見山朱鳥

 菊咲けり陶淵明の菊咲けり・・・・・・・・山口青邨

 乱菊を垣に代へゐて御師の宿・・・・・・・・森田峠

 菊提げて行きいつまでも遠ざかる・・・・・・・・山口誓子

 大雅堂墓畔の黄なる菊畑・・・・・・・・石原八束

 最後まで厚物咲の弁減らず・・・・・・・・三橋敏雄



菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaoosyumei秋明菊大判

   菊の香はたまゆら乳の香に似ると
     言ひし人はも母ぞ恋しき・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

菊の香りにも、さまざまの香りが複合しているようである。
母の背に負われて嗅いだ乳くさい匂いは、子供にとっては懐かしい母の匂いである。
「菊の香は乳の匂いがする」と言った人は、おそらく母が恋しかったのだろう、というのが私の歌の意味であるが、私も同感して、この歌になっている。
「たまゆら」とは「一瞬」ということである。

写真①は「秋明菊」であるが、この草は別名「貴船菊」とも言い、京都の北の貴船に多く見られるという。
菊という名前がついているが、中国原産のキンポウゲ科の植物で、花が菊に似ているので、この名がついているがキク科のものではない。

20071106_438758肥後菊

↑ 写真②は「肥後菊」である。
肥後─熊本には「肥後六花」と言って、藩主細川氏が命じて薬草園で改良させた植物があるが、これについては後日、
稿を改めて書く予定だが、そのうちの一つに「肥後菊」があるのである。花弁の形が独特である。色はいろいろある。
因みに「肥後六花」とは、季節の順に「肥後椿」「肥後芍薬」「肥後花菖蒲」「肥後朝顔」「肥後菊」「肥後山茶花」のことを指す。
詳しいことは、いずれ稿を起こすときに譲りたい。

IMG_5636江戸菊

↑ 写真③は「江戸菊」である。
名前の通り、江戸で改良された品種であるが、私は美的なものとは思わない。
毎年、11月になると皇居外苑で菊花展が開かれるそうで、これらの花も展覧されるという。
江戸城ゆかりの皇居のことであるから由緒もあって、ふさわしいだろう。

4100948077_574c824c0b一文字菊

↑ 写真④は「一文字菊」という品種であり、それは花弁が16枚前後の一重の菊で大輪である。これは別名を御紋章菊ともいうという。
この菊は、江戸菊のような変な形のものではなく、シンプルなものである。

ki018奥州菊男咲き

↑ 写真⑤は「奥州菊」男咲き、というものである。
男咲き、というからには「女咲き」という花もあるのだろうが、花の写真が手に入らないが、二つに盛り上がるのを言うらしい。
女性特有の胸乳の形からの連想だろう。
「男咲き」は盛り上がりが一つで垂れた花弁が八の字になるという。大輪の菊で、一本仕立ての菊の花弁のうち、十数弁が下に長く垂れている。
こういう菊の形を総称して「大摑み」という。
奥州と言っても広いが、これは青森で開発されたものらしい。
日本人は、こういう品種改良に情熱を傾けたらしい。これは日本人のみならず、中国人にも、そういう性癖はあったらしい。
一年の半分を雪に埋もれて暮らす人々にとって、何か情熱を燃やす対象があって幸福だったというべきだろう。

ki011伊勢菊

↑ 写真⑥は「伊勢菊」である。
花弁が糸くずのように垂れているのが特長である。

他に京都の「嵯峨菊」という菊があるが、これについても、稿を改めて一日分を載せるので、ここでは触れない。
以下、菊の句を少し引いて終る。

 たましひのしづかにうつる菊見かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 わがいのち菊にむかひてしづかなる・・・・・・・・水原秋桜子

 伊豆の海星の消えゆく菊の雨・・・・・・・・角川源義

 菊日和暮れてすなはち菊月夜・・・・・・・・福田蓼汀

 きのふより後日の菊の晴れ渡り・・・・・・・・森澄雄

 我生きて在るは人死ぬ菊花哉・・・・・・・・永田耕衣

 菊匂ふ命を惜しと思ふとき・・・・・・・・小林康治


白菊に対ひてをればわが心しづかなりけり夕茜して・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
1101_94928Be3白菊

   白菊に対(むか)ひてをればわが心
         しづかなりけり夕茜して・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

天武天皇14年(685年)に、初めて菊花の宴が催された。
平安時代には、天皇の前で菊を飾った花瓶を置き、群臣に菊酒を賜る儀式が行われた。
古来、「白菊」が正式の菊とされていると言われる。
菊が皇室の紋章として固定するようになったのは、鎌倉時代に後鳥羽上皇が、この紋様を愛好されたのに始まる。
菊花紋を皇室以外で使用するのを禁じたのは、明治2年のことである。

「白菊」は清楚な感じがして、すがすがしいものである。
以下、白菊を詠んだ句を引く。

 白菊のあしたゆふべに古色あり・・・・・・・・飯田蛇笏

 大輪の白菊の辺がまづ暮れぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 菊白く死の髪豊かなるかなし・・・・・・・・橋本多佳子

 白菊のまさしくかをる月夜かな・・・・・・・・高橋淡路女

 菊白し死にゆく人に血を送る・・・・・・・・相馬遷子

 白菊とわれ月光の底に冴ゆ・・・・・・・・桂信子

 白菊や暗闇にても帯むすぶ・・・・・・・・加藤知世子

 白菊に恍惚と藁かかりけり・・・・・・・・金尾梅の門

 白菊や未生以前の渚見ゆ・・・・・・・・佐藤鬼房

 一輪の白菊に夜の張りつめし・・・・・・・・大嶽青児

 白菊を鏡中にして外出がち・・・・・・・・神尾季羊

 白菊や中年の膝崩すまじ・・・・・・・・中村苑子

 大名のごとき白菊家にあり・・・・・・・・阿部完市

 白菊や波郷一葉忌を隣り・・・・・・・・川畑火川



秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
03-kumo-02蜘蛛①

   秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は
     空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

掲出写真は、俗に「黄金蜘蛛」と呼ばれる大型の蜘蛛の雌である。正式には「ナガコガネグモ」というらしい。

写真②は「草蜘蛛」である。
kusagumo178草蜘蛛

写真③に、その草蜘蛛の巣をお見せするが、名前の通り、草などに巣を張るクモである。
83N83T83O8382草蜘蛛の巣

クモというと身近にいる虫だが、嫌がる人が多い。しかし飛ぶ虫などを食べてくれる「益虫」といえる。
農作物などでも害虫を食べてくれる貴重な存在であるが、農薬を使うと、クモなども一緒に駆除されてしまうので、天敵が居なくなり、悪循環に陥りがちである。
この頃では「生物農薬」というような名前で、こういう益虫を利用するのが出はじめてきた。

秋は、そういうクモの子の「旅立ち」のシーズンである。
どんな種類の蜘蛛も、こういう巣立ち方をする訳ではないが、掲出した草蜘蛛などは晩秋の雨あがりの、カラッと晴れた風の強くない日で、
肌をかすめる大気の流れの感じられる日に、クモの子の旅立ちが始まる。
草蜘蛛の子は高い草の先端に登り、まず、尻から糸を出し、風に流し、次に自分も風に乗る。
空に糸がキラキラ光って飛んでゆく。文字通り、どこに着くか風まかせである。
冒頭に挙げたナガコガネグモの子も、風まかせの飛翔をするらしい。

e0032399_185844蜘蛛の子
写真④は孵化したばかりのクモの子である。左側の丸い塊が「巣」で、その中から巣立ってきたのである。
この後、クモの子はちりぢりになって、先に書いたような方法で風に乗ってゆくのである。
こんなクモの子の巣立ちは、田舎でないと見られない。
蜘蛛にも多くの種類がおり、このような巣立ち方をしないクモもたくさん居る。
そんな蜘蛛は、孵化した近くに新しい縄張りを張り、一本立ちしてゆくのであるが、私はクモに関しても詳しくないので、それ以上のことは書けない。
なお、基本的なこととして「蜘蛛」は「昆虫」ではないことを確認しておいてほしい。
昆虫は「脚が6本」だが、蜘蛛は「脚が8本」で、別の分類をする。
普通のクモは、ネットを毎日張り直すが、コガネグモ、ジョロウグモの仲間の網の張り方は大雑把で、蜘蛛の巣の形は汚らしい。
ジョロウグモ、コガネグモは大きく、強いので獲物が引っかかったら、すぐにとんで行って獲物を捕らえられるからであろうか。
網の糸も、とても強くて、釣り糸ほどの太さもある。こんなものに人間が引っかかると、体に糸がからみついて取れない。
クモが夕方に網を張るのを見ていると、まさに芸術的とも言える作業である。
クモの脚は、張った糸のネバネバにもくっ付かない構造になっているらしい。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な少年で、そんなクモの作業を、じっと見つめているのが好きだった。

haya109_asinagakumoアシナガグモ
写真⑤はアシナガグモである。
蜘蛛の種類によっては全然巣を張る習性のないものもあり、そこらじゅうを歩きまわって獲物を探すものもある。
家の中に入ってきて、みんなを驚かすのも、こういう種類のクモであり、びっくりするような大きさになるものもある。
蜘蛛類は、捕らえた虫は糸でがんじがらめにした後、口から「消化液」を獲物の体内に注入して、液体状に半消化したものを吸い込んで取り入れる。
だから、掛かった獲物の体の形は残っているが、カラカラに乾いて中身はカラツポである。
蜘蛛の巣のあちこちに、体液を吸われた虫の残骸が引っかかっているのが見られる。

↓ 写真⑥は巣を作らず、屋内などを歩きまわって獲物を探す「ハエトリグモ」と呼ばれる蜘蛛の種類。
onigumoD337蜘蛛④

女郎蜘蛛の生態については ← オス、メスの区別のことなど、ここが詳しい。
昆虫写真家の海野和男さんのサイトによると、スズメバチがナガコガネグモを襲ってくるらしい。

掲出した私の歌は、私の少年の頃の幼い観察の記憶を濃厚に止めている記念碑的な作品と言える。


こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
     かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
「うた作り」というのは、連作として、はじめから作るものもあるが、ある程度ばらばらに作った歌を、後から一定の小章名のもとにまとめる、ということもする。
この歌を含む一連を後で引用するが、その中では、掲出の歌は、どちらかと言うと異質かも知れない。
しかし、この歌の持っている雰囲気は、季節で言うと、やはり「秋」のもので、決して気分の浮き立つ春のものではないし、まして夏のものでもない。
私の、この歌は歌会で、私の他の歌のことで「的を射ていない」ような批評を小半日聴かされて、うんざりした気分の時の作品である。咄嗟に出来た歌かと思う。
以下、この歌を含む一連を引く。

     雌雄異株・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

  須勢理比売(すせりひめ)恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかりきぬ

  いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

  こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

     ・・・・・・・・・・・聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
   わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大伴家持・万葉集第三・476)
   秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積(あさか)親王葬られし地(つち)

   このあたり黄泉比良坂(よもつひらさか)といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く

     ・・・・・・・・白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため・・・・
   役小角(えんのをづぬ)の開きし鷲峰山金胎寺平城(なら)の都の鬼門を鎮めし

   無住寺に人来るけはひ紅葉に視界がよくなつたといふ声聞こゆ

   日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光(ゆふかげ)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正安2年(1300年)建立の文字・・
   宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖(うみ)の見ゆる蒼さや

   つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

   いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

   古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

   厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

   億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
-------------------------------------------------------------------
この一連の舞台回しになっている金胎寺は京都府南部の山間部にあり、聖武天皇が一時造営された恭仁京のすぐ近くであり、平城京の鬼門にあたる北東に位置している。
だから、ここに役行者(えんのぎょうじゃ)が、この寺を建てたことになっている。
鷲峰山は高山というのではないが、この辺りでは最高峰ということになっている。
もっとも当地では「じゅうざん」と発音する。「じゅうぶざん」では言いにくいからである。
ここは昔、「行者」が修行したところで、今でも「行者道」と称するところがあり、このサイトでは写真入りで詳しく書いてあるから参考になる。「東海自然歩道」の一部になっているらしい。
ついでに言うと有名な「関が原」も地元では「せがら」と呼んでいるのと同様の扱いである。

この一連は、舞台回しにかかわらず、小章名の通り、私としては妻との間の心の揺れを描いたものが中心になっている。
歌というのは一連として鑑賞してもよいし、一首づつ単独で鑑賞してもらっても、よい。
この一連などは一首づつ、あるいは「一塊」の歌群を別々に鑑賞してもらっても、よい。



父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
kakashi_060903_013.jpg

   父を詠みし歌が少なし秋われは
      案山子(かかし)のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

この頃では、農民が鳥よけのために実用に立てるものは殆ど見かけなくなった。
昔は、写真のような素朴な案山子が立っていたのだが、今ではネットを張ったり、「爆音器」でプロパンガスを爆発させたりして鳥を威すようになり、メルヘンはなくなってしまった。
この頃では廃棄された古いマネキン人形を田んぼに立ててあるのを見ることがある。
変になまめかしいもので、スズメなどの鳥が、どう感じるかは判らない。

私の歌は、もちろん案山子を詠んだものではなく、「父を詠んだ歌」が少ないというのが主眼であるから、ここで案山子のことを、あれこれ書くのも語弊があるかも知れない。
私の父は厳しい人で、反抗しては、よく、こっぴどく叱られたものである。
そんなときは、歌のように私は「案山子」のように突っ立っていたものである。
そんな回想が、この歌には込められているのである。
「案山子」かかしというのは、田畑の収穫を鳥獣から守る仕掛けだが、「嗅がし」から出た言葉だという。
古名は「曾富騰」(そぼと)で、『古事記』に「少毘古那神を顕はし白(まを)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田の曾富騰といふぞ。この神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と書かれている。
この「そぼと」は「そぼつ」に変り、案山子と添水の二つに分かれて用いられてゆく。そめ、しめ、とぼし、がんおどし、鳥かがしなどと各地で使われている。

以下、案山子、鳥威しを詠った句を引いて終る。

 水落ちて細脛高きかがしかな・・・・・・・・与謝蕪村

 案山子たつれば群雀空にしづまらず・・・・・・・・飯田蛇笏

 倒れたる案山子の顔の上に空・・・・・・・・西東三鬼

 案山子運べば人を抱ける心あり・・・・・・・・篠原温亭

 案山子翁やあち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 夕空のなごみわたれる案山子かな・・・・・・・・富安風生

 胸うすき案山子舁がれゆきにけり・・・・・・・・只野柯舟

 案山子相知らず新顔ばかりにて・・・・・・・・天野莫秋子

 抱へゆく不出来の案山子見られけり・・・・・・・・・松藤夏山

 かの案山子もつとも睨みきかせをり・・・・・・・・・河野白村

 鳥おどしこれより秋のまことかな・・・・・・・・小杉余子

 鳥威し簡単にして旅に立つ・・・・・・・・高野素十

 鳥おどし動いてをるや谷戸淋し・・・・・・・・松本たかし

 母恋し赤き小切の鳥威・・・・・・・・秋元不死男

 山風にもまるる影や鳥おどし・・・・・・・・西島麦南

 結び目だらけにて鳥威しの糸・・・・・・・・加倉井秋を

 金銀紙炎のごとし鳥威し・・・・・・・・加納流笳

 威し銃たあんたあんと露の空・・・・・・・・田村木国

 強引に没日とどめて威し銃・・・・・・・・百合山羽公

 怺へゐしごとくに威し銃鳴れり・・・・・・・・古内一吐
--------------------------------------------------------------------------
十月十四日は亡父の五十回忌だった。
菩提寺から連絡があって、法要をすべく前から用意していた。
五十回忌ともなると、親族でも父を知っている人も殆ど居らず、それに拙宅は、目下、敷地の一部を工事中で、参列者も私と子供たちに限定して催した。
十月十二日、日曜日のことである。






黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
51jmQ40JdyL__SS500_.jpg

    黒猫が狭庭をよぎる夕べにて
      チベットの「死の書」を読み始む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌自体は季節に関係はないが、「死の書」というので、ちょうど秋の彼岸も過ぎたことなので季節の歌と受け取ってもらっても構わない。

430976018X.09.LZZZZZZZエジプト死者の書

関連はないが、同じ「死者の書」(ウォリス・バッジ著)というのが古代エジプトにも存在した。
写真②が、それであるが、チベットにおける「死者の書」の扱いと同じようなことをしたらしい。

チベットの「死者の書」はいくつかのヴァージョンがあるらしいが、説くところは同じである。
チベットでは宗派を問わず、一般に「死者の書」という経典を臨終を迎えた人の枕元でラマ僧が読む習慣がある。
死者がこの世に執着しないように肉親、親類は遠ざけられる。
その経典には、死者が死後に出会う光景と、その対処法が書かれている。
この本の「曼荼羅」に現れる神々は男女交合の姿で描かれるという。(写真③)

yabマンダラ交合図

青い仏に抱きつくようにして交合している髪の長い、白い体の女の姿が見えるだろう。女は「口づけ」しているようだ。
これは歓喜仏(ヤブユム)と呼ばれているが、これは神々の合体の姿の中に、究極的な境地の至福の状態である「大楽」が保持されているからだという。
日本に伝えられた仏教の「理趣経」がそれに当るが、これこそ密教の最も密教的な部分である。
日本では「聖天」さんとして祀られているところで見られる。

死者は49日間バルドゥと呼ばれる生の中間的な状態に留まるが、その間に死者は、死の瞬間に眩しく輝く光を体験する。
最初の一週間で死者は平和の様相の神々の、次の一週間で怒り狂った神々の来迎や襲撃を受け、遂には閻魔大王の前に引き出され、人によっては灼熱地獄に投げ込まれたりする。
そして死者は、それぞれのカルマに従い、六つの世界のいずれかに再誕生してゆく。

今日、仏教(場合によっては「神道」も、これらの影響を受けているという)の色々の行事──たとえば、四十九日の忌明、満中陰の決まりなどは上に書いたバルドゥの考えそのものである。「生れ変り」「輪廻転生」などの考え方も、上に書いたことの表れである。また「地獄、極楽」あるいは「エンマ様」のことなど、われわれ仏教徒が子供の頃から親に言われてきたことを思い出せば、よくお判りいただけよう。
こういう俗事はわかり易いが、哲学的にいうと、深い思想を含んでいると言われている。
哲学者の浅田彰氏の本など、結構むつかしいものである。
写真④の歓喜仏は1900年頃チベットで作られたと思われる金銅製のもので高さ15センチくらいの小さいもの。
00892side1歓喜仏1900頃

このような「歓喜仏」はチベット特有のものではなく、ヒンドゥー教には古くからあるものである。
北インドのカジュラホに行くと、寺院の外壁一杯にレリーフが大小さまざまの交合スタイルで彫刻されている。ズームカメラがあれば鮮明な写真を撮ることが出来る。

kan9ガネーシャ歓喜仏宮城県

写真⑤はガネーシャという象の頭の格好をした神の歓喜仏である。
このようなスタイルは珍しいが、インドはヒンドゥー教が主流を占める国である。
ヒンドゥー教は多神教で、一神教のような「禁忌」は殆ど、ない。
ガネーシャというのは主神シヴァ神の子供だが、父親の言いつけに背いて罰をうけ、このような象の頭に首をすげ替えられた。
ガネーシャに組み敷かれた女の表情も、むしろ嬉しそうで、エクスタシーの境地にあり、ガネーシャの首に手を廻しているほどである。 
書き遅れたが、この像は宮城県のお寺にあるという。
こういう性に関する大らかさが特徴であると言えるだろう。
余談になるが、インドに行くと、このガネーシャ神を祀った寺院がある。
どうも、このガネーシャは金儲けの神様でもあるらしく、お金持ちの事業家が金ピカの大きな寺院を喜捨して建てているのである。


竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

  竹杭が十二、三本見えてをり
   その数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ赤蜻蛉の飛び交う季節になった。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。とりたてて巧い歌でもないが、叙景を正確に表現し得たと思っている。
赤トンボというのは竿などの先端に止まる習性をもっており、また、群れる癖もある。
よく観察してみればお判りいただけると思うが、私の歌のように立っている杭の先端すべてに赤トンボが止まって群れているという情景は、よく見られるところである。
この歌は「嵯峨野」と題する一連5首のものである。下に引いておく。

    嵯峨野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   北嵯峨の遊女の墓といふ塚に誰が供へしか蓼の花みゆ

   竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる

   虫しぐれ著(しる)く響かふ嵯峨の夜は指揮棒をふる野の仏はや

   輪廻説く寂聴は黒衣の手を挙げていとほしきもの命とぞ言ふ

   さわさわと風の愛撫に任せつつうつつの愉悦に揺るる紅萩

7304ac612d179084fbf25257b8de9711.jpg

赤トンボの「赤」色は繁殖期の「婚姻」色らしく、赤色をしているのは「雄」だという。雌は「黄褐色」をしているらしい。
赤トンボというと、三木露風の歌が有名で、判り易く、今でも愛唱されている。
赤トンボの句を少し引いて終りにする。

 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり・・・・・・・・正岡子規

 から松は淋しき木なり赤蜻蛉・・・・・・・・河東碧梧桐

 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 洞然と大戦了り赤蜻蛉・・・・・・・・滝井孝作

 赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか・・・・・・・・青陽人

 旅いゆくしほからとんぼ赤とんぼ・・・・・・・・星野立子

 美しく暮るる空あり赤とんぼ・・・・・・・・遠藤湘海



うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
十七夜 立待月
↑ 十七夜 立待月

   うつしみは欠けゆくばかり月光の
     藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「月」は天象としては、いつも我々の身近にあるものだが、太陽のように自ら光を発するものではなく、
太陽の光を反映するものとして、昔から「寂しい」存在として詩歌に詠まれてきた。
掲出した私の歌も老境に入って「欠けて」ゆくだけの「我が身」を「月光」の影になぞらえて詠んだものである。
「月」は「花」と並んで、古来、日本美の中心に置かれるものである。
「花」とは花一般ではなく「桜」のことを指す決まりになっている。
「花」=桜は春を代表するもの。「月」は秋を代表するもの。
月は一年中みられるものではあるが、秋の月が清明であるために、秋を月の季節とするのである。

陰暦朔日は黒い月だが、二日月、三日月、弓張月と光を得て大きくなって満月になり、また欠けて有明月になり、黒い月になる。
朔日の月を新月と言い、新月から弦月(五日目)頃までの宵月の夜を夕月夜という。
夕方出た月は夜のうちには沈んでしまうので夕月という。月白は月の出る前の空のほの白い明るさをいう。

因みに、今日は暦を見ると「十七日月」である。この頃の月を「立待月」という。
満月から二日経って、少し欠けはじめたところである。
これから月は欠けが進み新月(朔日)は十月二十四日となっている。

「万葉集」には

     わが背子が挿頭(かざし)の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし

と詠まれ、
「古今集」には

     月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

     木の間より漏り来る月の影見れば心づくしの秋は来にけり

と詠まれる。
このように、日本の古典には、月は秋の美しいものの頂点に置かれ、「さびしさ」「物思い」「ものがなしさ」などの気持のこもるものとされてきた。
俳句でも、松尾芭蕉の句に

    月はやし梢は雨を持ちながら

    義仲の寝覚の山か月悲し

    月清し遊行の持てる砂の上

    其のままよ月もたのまじ伊吹山

    秋もはやばらつく雨に月の形

などがあり、月を詠んだ秀句と言われている。

与謝蕪村にも

    月天心貧しき町を通りけり

の秀句がある。
このように「月」は歴史の厚みのある代表季題中の代表と言われている。

以下、明治以後の私の好きな句を引いて終わる。

 月明や山彦湖(うみ)をかへし来る・・・・・・・・水原秋桜子

 月光のおもたからずや長き髪・・・・・・・・・篠原鳳作

 東京駅大時計に似た月が出た・・・・・・・・池内友次郎

 徐々に徐々に月下の俘虜として進む・・・・・・・・平畑静塔

 少年が犬に笛聴かせをる月夜・・・・・・・・・富田木歩

 月の中透きとほる身をもたずして・・・・・・・・桂信子

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな・・・・・・・・稲垣きくの

 なにもかも月もひん曲つてけつかる・・・・・・・・栗林一石路

 月明のいづこか悪事なしをらむ・・・・・・・・岸風三楼

 農夫われ来世は月をたがやさむ・・・・・・・・蛭田大艸

 三日月や子にのこすべきなにもなし・・・・・・・・白井郷峰
-------------------------------------------------------------------------
bluebelt.jpg
 ↑ 新井優氏撮影─皆既前の月
この画像に添えたコメントで、新井さんは、こう書かれている。 ↓

<月食時に地球に届く微少の青色の光、今回ばかりは青色LEDの開発によりノーベル賞を受賞された三氏(赤崎勇さん、天野浩さん、中村修二さん)を祝福しているように感じているのは、私だけでしょうか。
BlueBeltの参照URL: http://www.astroarts.co.jp/photo-gallery/photo/6733.html > ──借用に感謝する。
 
一昨夜は久しぶりの「皆既月食」だった。
宵のうちだったので、よく見えた。
皆既になったときは赤黒い月が、むしろ不気味な、という形容がぴったりの様子だった。
こういう月を見ると、昔の人は、気持ちが悪い感情になったというのも、肯ける。



copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.