K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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浮世絵春画コレクション(2)・・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
浮世絵春画コレクション(2)

「浮世絵・春画」は日本の江戸時代の誇る独自の芸術作品である。
 したがって、これを単なるエロとして見られる人には鑑賞をお断りする。


      この18回にわたるシリーズでは毎回5葉づつ絵を挿入してある。
      
  こちら側が最終である。  (1)が始まりで、(18)が後なので、(1)から見られよ。

2005/11/20のBlog

──浮世絵春画コレクション──(18)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(6)
    喜多川月麿、歌川国芳・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ、このシリーズも今回で終わりになった。
時代は幕末である。

図版①②は喜多川月麿である。
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月麿については生没年不詳ということで判らない。ここに挙げた図版①②については「東男に京女郎」という題がついている。
彼の作品としては「中村歌右衛門十二変化」「萩見る二美人」(扇面)などの作品が知られているが、歌麿の門人の中で最も優れた画才を持ち、美人風俗画、花鳥図、書の挿絵などの数多くの作品を残している。
画号からして歌麿のもじりというべく、所詮、歌麿の亜流のそしりは免れないだろう。
井野酔雲『草津温泉膝栗毛』という時代小説があり、その中で、売出し中の浮世絵師・月麿が元芸者夢吉に首ったけで、夢吉を追って草津へ『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九を誘って草津温泉に行く・・・というのがあり、彼らが同時代人であることが判る。

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図版③④⑤は歌川国芳(1797-1861)である。年号でいうと寛政9年から文久元年である。私の子供の頃には文久生まれという老人が居られたから、もうすぐ明治という、幕末の頃である。
国芳の作画期は文化後期~万延元年(1814~60)。画系は歌川豊国門下。
役者絵、挿絵などを描きはじめるが人気が出ず長く不遇であったが、文政末期より描きはじめた「水滸伝豪傑錦絵」シリーズで人気が急騰し、以後「武者絵の国芳」として評判を得る。
天保期になると洋風風景画にも手を染め、近代的な写実眼によって描いた作品は、今日でも評価が高い、という。これを見ると、開国を迫られている幕末という時代の波が、絵画の世界でもヨーロッパからの潮流が、ひたひたと押し寄せて来ているのを実感するのである。
初めの姓は不明だが、のちに井草孫三郎と名のる。
一勇斎、採方舎、朝桜楼、雪谷、仙真などの号を用いた。
一時は不遇であったから、何とか号を替えることによって人気を得られるか、と苦労したことが、このことからも察せられるのである。
今日も知られる作品としては「木曾街道六十九次」「唐土二十四孝」「相馬の古内裏」「土蜘蛛とろくろ首」「源頼光公館土蜘蛛妖怪図」(大判三枚続)などが有名であり各地の美術館に展示されている。

こうして見てくると、歌川国芳の没した1861年という年は、明治元年が1868年であるから、まさに明治維新直前といえ、時代は大きく変るという大変革のうねりの年代であった。恐らく世上も騒然としていたであろう。
そういう時代を彼らが、どんな想いで生きていたのだろうか、という気が私にはするのである。
長らく、お目を汚したか、それとも蒙を啓いていただけたか、ご協力に感謝する。
折に触れて、ゆるりと鑑賞されたい。
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2005/11/19のBlog

──浮世絵春画コレクション──(17)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(5)
    渓斎英泉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回は渓斎英泉(1790-1848)を採り上げる。
彼の生きたのは、まさに幕末、明治維新前夜ということになる。
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図版①②③④⑤とも渓斎英泉である。
安政3年=嘉永元年(1790-1848)江戸の星ケ岡に生まれる。
士分の子。姓は池田、名は義信。父は池田茂春。能書家で俳諧、茶道も心得た才人であった。
一時、水野隠岐守に仕官するが、後に浪人する。根津で遊女屋を経営したり、また白粉を販売したこともある。菊川英山宅に寄寓して浮世絵を描きはじめ、やがて美人画に本領を発揮する。幼年期には狩野白桂斎に学び、狩野派の画法を修得している。
風景画にも技量を有し、洋風風景画に特色を示す。
彼の作品として有名なものに1835年頃の「木曾街道」の絵があり「塩尻峠諏訪ノ湖水眺望」の大判錦絵がある。
木曾街道シリーズは歌川広重の東海道五十三次シリーズの成功の後、同じ版元の竹内孫八が企画したもの。当初、絵師は英泉だったが、途中、英泉が手を引き、広重が引継ぎ完成させる。英泉の作品数は全体の三分の一ほどである。
この絵は、31番目の宿駅の塩尻を描いたもので、出版が宿駅の順番ではなかったことが判る。

晩年には「一筆庵可候」という名で執筆もしている。
先に書いた北斎、歌麿の生涯の記事にも紹介したが、浮世絵の歴史に関する著作があるところなど、武士出身のインテリらしいところが特長である。
英泉の作画期は、文化末期~弘化末期頃といえる。
文政中期以降の大首絵に独自の凄絶な頽廃美を表現した。
文政末期に「藍摺絵」をはじめ、北斎の「富岳三十六景」に先駆けて「ベロ藍」を用いた。
長々と英泉の経歴を書いたが、彼の著作に見るように、彼は武士出身らしいインテリだった。
彼の春画は、局部を露出する春画ではありながら、女の着ている衣装が豪華絢爛で、大首絵の大判錦絵を得意とする彼らしく、他の作者とは異質である。性交シーンは、お添え物という感じで、絢爛たる衣装に目を奪われるというところである。
書き遅れたが、図版①②③には「春の楽しみ」という題がついているシリーズもの。
図版④⑤は「逸題組物」ということになっている。
いずれも1818年~29年の間に刊行されたものとされている。
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2005/11/18のBlog

──浮世絵春画コレクション──(16)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(4)
    葛飾北斎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回は葛飾北斎(1760-1850)を採り上げる。
図版①②③④⑤とも北斎である。

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葛飾北斎については11/14付けで、彼の生涯について詳しく書いたので参照してもらいたい。
彼の画業は多岐にわたっており、一面だけを採り上げて言うことはできない。

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ただ、ここでは「春画」だけに限定して書くことにする。
歌麿の春画が、どこか王朝風であったのに対し、北斎の春画は、一見、荒く、粗野のようにも見える。
それは、北斎の絵の線がかなり太く、繊細ではないことにも起因しよう。
それに、絵の周囲の「せりふ」の書き込みも、ものすごく多くて、ごちゃごちゃした印象を与える嫌いがあるからである。
また北斎としても、歌麿などの絵とは違った特長を出したかったとも言えよう。
それは、また、「幕末」という時代のうねりの波にも左右されていよう。
これらの錦絵は7、8色はおろか、12色、15色を重ね、さらに補色をも加えた完璧な絵画的表現である。
また、金銀の摺箔、空摺(レリーフ効果)も考案されている高度なものである。
木版画の彫刻技術は、初期の墨絵版画以来、漸次、技術的進歩、発達を遂げてきたが、粗野な描線から精緻を極めた精妙な描線へと洗練されてきたが、ある時期を過ぎて、或る程度の退歩を示すということはある。
北斎は極めて多作であったから、最高度の繊細さを求めることは酷かも知れない。
北斎の描く女の顔の特長として、歌麿の「瓜ざね顔」に対比して「細長」顔が指摘される。
それに「せりふ」の書き込みに「ずるずる」とか「くちゃくちゃ」とかの擬態音の表現が多い。
これらも歌麿の洗練された表現とは、かなり異質のものと言えるだろう。
春画も初期は(たとえば慶長期─16世紀末頃)墨摺版画であった。
それが明和2年(1765)を迎えて多彩色摺りの木版画が誕生して、これらの作品群に発達してきたものである。
「錦絵」と称される所以は、中国の金襴織物の蜀江錦のように華麗であるところから呼称されるようになったのである。
北斎はおびただしい写生図を保存していたが、先に書いたように火事で燃え尽きてしまった。
多作であった北斎だが、それらの裏づけに、このような今で言うスケッチ類の蓄積があったのであり、その蓄積のあったがゆえに、急な注文にも、速やかに応じられたのではないか。
それに幾多の苦難はあったとは言え、北斎は極めて長命であった。当時としては異例の90歳という長生きをしたおかげで、また極めて旺盛な好奇心のゆえに、今のに残る傑作をものにし得たと言えるだろう。
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2005/11/17のBlog

──浮世絵春画コレクション──(15)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(3)
    喜多川歌麿・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


図版①②③④⑤とも喜多川歌麿(1753-1806)の作品である。
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清長、春章、歌麿らを輩出した18世紀末期は浮世絵版画の黄金時代といえる時期である。
それらの中でも歌麿は、画面構成も、一層ドラマティックになり、画面内容は一層「耽美的」になり、「退廃的」な様相を深めることになる。
そこには想像のつく限りの愛欲の肖像を描き、性器はもろに、大きく描かれ、かつまた、衣装美の華麗を尽して、春画美術を極限まで描きあげた。
木版技術史上でも、摺り版を十数度も重ねるなど最高の発達を遂げた時代であった。
歌麿は、北斎のように長命であったわけではないが、50余歳の人生を精魂こめて絵と共に生きた、といえよう。

それらの中で、女の顔の「瓜さね顔」という歌麿特有の特長と、「線」の美しさ、という独自の浮世絵美を創造した。
歌麿の男女のからみの肢体には、さまざまのものがある。
それは、どうすれば、ペニスとヴァギナとが食い込む「痴態」を描き切れるかという執念のようなものであろうか。
そのためには、吉原などにおいて、実際の「からみ」を仔細に観察し、それをスケッチしたに違いなかろう。
彼の春画は、引く手あまたであったろうから、有力な版元である「蔦屋重三郎」からの、より露骨な肢体の注文もあろうし、その前に春画の購入者の強い要望があったと思われる。

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図版③の肢体など、中世キリスト教などが見たら「破門」ものの構図である。
そのゆえに、耽美的、享楽的という所以である。
今日の裏ビデオ、DVDの悦楽をしのぐものと言えるだろう。
それに、先から何度も言うように男女の性行為中における会話「せりふ」の書き込みが「真」に迫っているのが特長である。

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図版④の書き込みでは「・・・今夜は久しぶりのせいか・・・」の文字が読み取れ、クライマックスの直後の景というべく、玉門から淫水が垂れているという凝り方である。
これらの工夫こそ、原画家である歌麿と購読者である客との間に、濃密なコミュニケーション、共感、支持があればこそという気がするのである。
現在、このような大判錦絵の遺品は極めて僅少らしい。

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先に書いた11/13付けの記事の中で、研究者の間では歌麿の作品と限定できるのは27~28点と思われる、という一節があるが、それほど貴重なものである。
これらの絵が春画でなければ、国宝、重要美術品の指定を与えられるべき作品群だと言われる所以である。
春画美術としても、これらの作品は、まさしく国宝的なものであると、評価し賞賛されるべきものであろう。
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2005/11/16のBlog

──浮世絵春画コレクション──(14)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(2)
    鳥居清長、鳥文斎栄之、喜多川歌麿・・・・・・・・・・木村草弥


図版①②は鳥居清長(1752-1815)である。

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時代は寛政期を含む18世紀末から19世紀初頭ということになる。
鳥居清長は、江戸の本材木町の本屋白木屋市兵衛の子。鳥居家三代目の清満の門人となり、師の没後名跡を継ぐ人がいなかったため望まれて天明7年(1787)頃、四代目当主となった。
彼は80年代を全盛期として、江戸の町を背景に健康的な女性群像を大判二枚続きに制作したりした。
鳥居派は役者絵をお家芸とし、特に芝居の絵看板は鳥居派の独占で、これは現在も続いて、東京の歌舞伎座の絵看板は鳥居派九代清光師が描いている。
清長の有名な絵としては「大川端夕涼」という天明5年(1785)作の二枚続きのもので、夏の大川端を夕涼みがてらそぞろ歩く美女たちを描いている。ながく伸びたすらりとした肢体とふっくらした顔、それに八頭身が清長美人の特長。
この春画には「色道十二番」という題がついたシリーズになっている。
図版③④は鳥文斎栄之(1756-1829)のものである。
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彼は姓は細田、名は時富、鳥文斎は号。はじめ狩野栄川門に学び、将軍徳川家治より栄之の画号を与えられた。
のち浮世絵で名を成し、多くの門人を輩出する。肉筆画にも優れた。文政12年没。74歳。
有名な絵としては「隅田河畔雪中名妓」図があり、文化期(1810年頃)の美人画の三大巨匠(清長、歌麿、栄之)の一人と在世中から言われてきたが、当時は、その中でも最も盛名高く、絵も高価格で評価されていた。武家の出身のせいか大変上品で、キリッとした美人画が特長。
そんなに有名な画家が、なぜ春画を描くのかという疑問を持たれるだろうが、そういう有名な画家なるが故に、彼の春画を、という大名や町人のお金持ちの要望が強いのであった。世は太平であり、人々の間には「性行為」にまつわる享楽的な空気が満ち溢れていたのであった。また、名の高い彼らの間での腕くらべという要素もあろうか。
絵の周りの「睦言」のセリフも、時代とともに、書き込みが益々多くなってきたのが、見てとれるだろう。春画の閲覧者は、それらの書き込みを読んで、男女お互いの春情を刺激されて、現実のセックスに一層燃え上がる、という算段である。
栄之の春画の描き方の特長として、交合した性器をもろに描かないで、半ば衣類で隠したようなところである。この辺のところに武家出身という彼の美意識の一端がかいま見える。

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さて図版⑤から、いよいよ喜多川歌麿(1753-1806)を採り上げる。
彼については11/14付けで、人となりについては詳しく書いたので、改めて繰り返すことはしないが、ただ一つ、歌麿が鳥居派などと違って役者絵をいっさい描かなかったということだけ繰り返し書いておく。
ここらに歌麿の強烈な自信と自負をかいま見ることができると言えよう。
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2005/11/15のBlog

──浮世絵春画コレクション──(13)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(1)
    鈴木春信、磯田湖龍斎、勝川春章・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から先月に採り上げた「肉筆」春画シリーズにつづいて、同じく福田和彦氏の撰集になる「版画」名品50選の中から30を選んで6回にわけて紹介する。解説にわたる部分は福田氏による。

図版①②は鈴木春信(1725-1770)で浮世絵「版画」の嚆矢とされる人である。制作年代は1767-72とされている。
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鈴木春信の絵は何となく童画っぽい雰囲気があり、絵もきれいである。春画の特長であるが、セツクスしている場面を、脇から覗き見るというのが図版②にも見られる。
ご承知のように名前の残るのは原画師のみで、版画の場合分業であるから「彫師」「摺り師」が必要であるが、通常、彼らの名前は残らない。彼らの腕の力量も作品の出来映えを左右するのは言うまでもない。

図版③④は磯田湖龍斎(1722-1789?)であるが、この人の名も春画界では有名である。
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この作品は「色道取組十二番」というシリーズもので、過去の木版画と隔絶した技術をもたらした。特に、その性器描写におけるリアリズム表現は木版画史上における革命的な表現描写であると評価される。これ以後の春画の性器のリアリズム表現と誇張表現に多大な影響を与えた。
それと肉筆春画にはない特長として、絵の周りに登場人物たちの「よがり声」などの「せりふ」が書き込まれはじめることになる。図版③の女の顔の周りにある「書き込み」や図版④の尻の辺りの書き込みが、それである。
先にも書いた通り、このシリーズの性器表現は明和期(1764-1771)以降の春画作品の師表となった。
かくして、木版画技術は江戸初期(17世紀初頭)から百年の盛衰を重ねて、ようやく、きらびやかな色彩と性器描写の最盛期に入ってゆくことになる。
後につづくのは、18世紀末期の鳥居清長であり、喜多川歌麿であり、さらに後年には19世紀初期~中期になって、葛飾北斎、渓斎英泉、歌川国芳などがある。そして時代は、もうすぐ明治という幕末にさしかかる。

図版⑤は勝川春章(1726-1792)である。この絵には「喜師の姫松」の題がついている錦絵である。
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時代は寛政期(1789-1800)を迎えた18世紀末期ということになる。
11/14付けの葛飾北斎の「生涯」の記事に書いた通り、長生きした北斎が習作時代に入門し「春朗」の名をもらったのが、この春章門下であった。
この絵になると人物の「せりふ」が一層たくさん書き込まれるようになり、人物の周り一杯に書き込まれているのが、判るだろう。
これは、見る人が、それらの「せりふ」を読むことによって、一層、春情を刺激されて、自分たちのセックスに没入してゆくという算段になっているのである。
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2005/11/12のBlog

──浮世絵春画コレクション──(12)

   葛飾北斎・絵本『万福和合神』・・・・・・・・・・木村草弥

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今日は葛飾北斎の絵本である。これも原本は上、中、下の3巻に分かれていたらしい。全27図である。刊行年についての記述はない。
ここには出さないが第2図には「張りがた」「ずいき」などの「性具」が11点描かれている。江戸時代には、戦争もない平和な時期が続いたので、享楽的な風潮が蔓延していて、性生活を満喫するような「道具」が発達したらしい。
絵本の用紙の関係で図版が見にくいが、ご勘弁願いたい。

この絵本は「おさね」「おつび」という13歳の娘たちと、その両親たちとの物語になっている。

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図版②は「おつび」の両親の絡みである。「食わぬ屋の貧兵衛」という大貧乏なる男、と書かれている。「一生の得はまらの大きいのと、女房おさせが味が良いのと、その他は朝夕の煙も絶え絶えで、寒いとてはしがみつき、ひもじいとては口を吸い、冬も裸の汗仕事、無ければ食わぬ上の口、食わねばならぬ下の口、口と口とは合わせても、合わぬは所帯の繰り回し。晩の夜食にゃぼぼしょじゃないか、ぼぼの他に楽しみなく・・・」と紹介されている。

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図版③は成人した「おさね」が婿を取って「新枕の楽しみ」。来る晩も来る晩も、天下晴れての高よがり。・・・しすぎで婿は養生のために里に戻され、髪結いの才三とて、小粋で如才ない男、いつしか間男のたのしみ。
人目を忍ぶ隠し食いの心地よくて婿には勝るまらの最上。負けじとおさねが、ぼぼの口元、食いしめ食いしめて、むっくむっくとあしらへども、このまら奇妙の一物にて、突く度々にうねりを生じ、ぼぼ一杯にはびこり、小壷の口をしっぱしっぱと吸い付き、高く抜き上ぐれば、中の小ざねへ雁首を引っ掛けて、いらりいらりと小突き、深く突けば吸い付きて、その離れ際の心地良さ。

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図版④は成人した「おつび」。内々は陰間買い。若衆を二人づつあげて互い違いの千本突き、むしかへしむしかへし取り乱したるよがり声。
隣座敷の坊主客、玉門寺の頓穴といふ色法師。このよがり泣きを聞きつけ、そっと覗けば、おつびのぼぼは左右の肉ふっくりと、さね高からず低からず、毛は程よく柔らかに生え・・・・・かくとも知らず、おつびはまたまた若衆の上に乗っかかり、茶臼になって、ずっぼずっぼとやりかけられ、頓穴は立ちすくみ。どうもどうもならぬところへ・・・・・。

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図版⑤は、「おつび」は玉門寺の頓穴和尚に口説かれ、殊には男振りの良いのと、万事が野暮ではない取り回しに心移りて、今は人目もはばからず上野池の端の出合い茶屋。口と口チウチウつっぱつっぱツウツウ。男は指に何やらつけたと見えて、えぐる度におつびは尻をもじもじと鼻息荒く目を細め、男の舌をちぎれる程に吸いながら、淫水がぴょこぴょことはじき出して、まらを握るに、このまら世にいふ釣鐘まらといふものにて、まらの頭に百八のいぼいぼ高く、胴中には三つ四つの括り目ありて、さながら尊きまら也。・・・・・

この草紙は睦言の書き込みが、擬態語を交えて微に入り細にわたって描写されているが、ここでは省略したい。このような草紙は、絵もさることながら、書き込みのセリフを男女がお互いに読むことによって、情欲を一層たかめて行ったものと思われる。
この本下巻に「福徳和合神」跋として

蝶、花に遊むて、蝶、花の
甘きに酔い、しかして花の香に
さめて、またよく露の情
を得る。嗚呼、花に匂ひ
有て、花に蜜のうまきを
たもつ。よく花に露の深くも、
ぬれ色を看る。げに蝶々の二つ
枕は、花に和合神の心を和らげ
蝶々、静にさし込み、また花の
甘きを知る。夫々、静にさしこめと云ふ。
 
という文章が載せられている。
巻末には、和合神・詠歌として

 何事も気のいくよふに守るべし多里(足り)不足ある 肉のあまりに
 
という歌が付け加えられている。
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2005/11/11のBlog

──浮世絵春画コレクション──(11)

   喜多川歌麿『絵本笑上戸』・・・・・・・・木村草弥

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お約束通り、肉筆につづいて浮世絵「版画」の春画を今日から8回にわたって紹介する。浮世絵には、一枚物のものと、「絵草紙」と称されるブック形式の絵本読み物とがある。
草紙は「台詞せりふ」入りで、登場する男女の睦言やクライマックスでの叫びが絵の周辺に書き込まれていて、読む人の色欲を刺激するという算段になっているのである。
今回とりあげるのは、浮世絵の第一人者である歌麿の絵本27図からなる本である。

この草紙は享和期の1806年の再販彩色本の復刻本である。原本は上、中、下3巻に分かれているらしい。この本の巻末に載る解説については、稿を改めて「エッセイ」の形でまとめて書いてみることにする。
この「笑上戸」は歌麿晩年の作品であり、市井の庶民を主題にして、その性生活を描いたものとされている。

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図版(2)は「男の一物自慢」の図である。
絵の周りに書き込まれているセリフには
「誰が大きの、なんのと云っても、俺ほど色男で、しかも、こんなみごとな物をもっている者は他にいねえだろ。どうだ、よく見てみろ」
遊女の一人は
「この年まで、お勤めしてきたが、こんなみごとなものを持っているお客さんは見たことがないわ。馬鹿らしい。いっそ、恐いような気持だわ」
スキャナで図版を取り込んだが200KBを超えるという警告が出て図版を小さくしたので、見にくいが勘弁願いたい。

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図版③は娼婦と客の戯れである。娼婦は「金猫」「銀猫」などと呼ばれていたらしいので、絵の中の書き入れセリフにも
「てめぇも猫だから、尻からするのは、あたりめぇだ。おれも此頃すこし・・・さかりがついて、どうもここえ、来たくて仕方がねぇ」
などと女を腹の上に乗せての「櫓掛け」の体位での契り。
娼婦は、そんな男の戯言など上の空。「早く本気になっておくれ」とせきたてる。

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図版④は、産後間もない夫婦の睦言。昼日中なのか、男はタバコ盆を枕にしての、あわただしい愛欲の情景である。女房は産後の休息もなんのその、待ちきれなくなっての欲求である。
「お産をして、まだ七夜もたたないうちから、交わると毒だと云うけれど、毒ほど欲しいものはない」などと、女房は亭主に持ちかける。亭主も
「なに、好きなものが、毒になるものか。世間の女は、子を産むと、下が広くなると云うが、お前のは、ちっとも、かわらないねぇ」などと褒めちぎっているという図。

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図版⑤は、色好みの医者と浮気な人妻との密通を描く。画中の書き入れ言葉を読むと、どうやら、この浮気っぽい人妻は、癪が起きたと仮病を使って、通じ合った医者を呼び、命の洗濯をするという女。坊主頭で無精ひげの医者も心得たもので
「また例のお癪が起こったと思いまして、ほかの病人をほったらかして、はせ参じました。ほんとうに、私は親切な医者でござろうよ。・・・・このように急な時には、下の穴からいたすのが、よく効くのじゃ。さ、それそれ、どうじゃな」
女房も
「お前さまの針が、私にはよく効きます。・・・・ああ、よい気持になって参りました・・・」
官能の媚感に震える女人の顔の表情が恍惚として美しい。いかにも歌麿の美人画から抜け出してきたような女人である。

ここに書いたことは、私の所感ではない。この本の解説にあるものである。
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2005/10/04のBlog

──浮世絵春画コレクション──(10)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(8)
    英一笑、河鍋暁斎ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ「肉筆」浮世絵のシリーズも終わりに近づいてきた。
時代は19世紀末頃から20世紀初頭の作品を採り上げて終わりにする。
これまで紹介してきたのは美術史家・福田和彦氏の撰集によるものである。

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図版①は「後家と若衆」と題する絵師不詳の「歌川派」の作品である。
これも綺麗な絵で、後家のエクスタシーの描き方が秀逸である。

図版②③は英一笑(はなぶさ・いっしょう)という作家の絵で「画帳から」という。

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時代は19世紀初頭ということになる。
彼については、江戸後期の画家。高嵩谷の孫、嵩渓の次男。英派を再興した一珪の養子となる。安政5年(1858年)没。享年55歳。ということくらいしか判らない。
「英」(はなぶさ)派について書いておく。
この流派は英一蝶を始祖とする狩野派の一派である。
一蝶は承応元年(1652年)京の医師多賀白庵の子として生れた。
8歳のとき江戸に移住して狩野安信に絵を学んだ。俳諧を好み、俳号を暁雲と称して、松尾芭蕉や弟子などと交友があったという。狩野信香と名乗ったが、のち師の氏を返して多賀長湖と改め、のち英一蝶を名乗る。
島流しに遭ったなどと言われ、さまざまの説がある。
江戸の都市風俗を描き、大名や武士、町人にまで幅広く人気があった。
代表作としては紙本着色「源氏物語明石・澪標図六曲一双屏風」がある。右に源氏物語の第13帖の「明石」の段を、左に第14帖「澪標」の段の情景を描いたもの。

英一笑の絵は、ご覧のように艶麗な筆致で、特色のあるものであり、きわめてエロティックである。。
図版③の坊主頭の人物は「按摩」であろうか。その頃は職業によって髪型が指定された。
按摩を頼まれてきたのが、依頼主の局部を、恐らくは依頼主の希望で弄っているという図である。

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図版④は「逸題絵巻より」という河鍋暁斎(1831年~1889年)の作品である。彼は天保2年、古河生まれであり19世紀後半の幕末、明治の激動期を生きた画家。
世相を鋭く批判した戯画や狂画、妖怪画で有名だが、伝統絵画のみならず、あらゆる絵画を描きこなす卓抜した技量と、独特で力強い作風は海外でも高く評価されている。終生、葛飾北斎を師と仰ぎ、反骨の絵師と言われる。
岩波文庫に『河鍋暁斎戯画集』(1988年刊)というのがある。この本に彼の略年譜が載っているという。

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図版⑤は絵師不詳ながら「画帖断簡より」という20世紀初頭頃の作品である。
ということは明治30年代以後の絵ということになる。
女を上に乗せた伝統的な春画の描き方である。こういう描き方は正常位よりも男の一物がヴァギナに食い込む様子が、もろに描けるからであり、だから春画の世界では、この体位が好んで描かれた。
この絵も新しい絵でありながら、女の恍惚とした表情などに非凡なところを見せる秀作である。クライマックスの情交の様を描いてあり「淫水」が垂れているのが精細に描かれている。秀逸と言うべきだろう。

これで「肉筆」浮世絵の秀作撰を終わる。
次回からは「版画」の逸物を、適当な機会を見て発表することになる。
喜多川歌麿など名品が目白押しであることを予告しておこう。乞う、ご期待である。
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2005/10/03のBlog

──浮世絵春画コレクション──(9)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(7)
   月岡雪鼎、宮川長亀、渡辺崋山・・・・・・・・・・木村草弥
 

続々と、よく知られる名前の作者が登場する。
時代は18世紀後半から19世紀に入る。
今回の作品群も美術史家・福田和彦氏の撰集によるもの。

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①②③は月岡雪鼎の絵であり、この人も浮世絵史上では有名な人である。
月岡雪鼎は江戸中・後期の画家で京生まれだが、大坂で活躍した。名は昌信、別号に信天翁、月岡山人など。1710年生まれ。
高田敬甫の門下で狩野派を学んだが、西川祐信の影響で風俗画家となり、美人画で一家を成したと言われる。天明6年(1786年)没、77歳であった。
彼は18世紀後半に活躍して大坂で肉筆画の美人図で独自の画風を築き、上方の風俗画家として人気を博したという。
その美人図は独特の顔だち、装飾性の高い衣装、華やかな彩色などが特徴だという。多くの門弟を抱え「月岡派」と呼ばれている。
画業としては「しだれ桜三美人図」「柳下美人図」「月下舞妓図」などが伝えられる。
ここに掲げた春画にも、上に書いたように顔立ちの描き方や衣装などには、他の画家にはない特徴が見えるようだ。
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図版③の「からみ」の絵では男性性器の大きさが特徴であるとともに、もう一方の女に対しては「張り型」を使ってヴァギナを弄っているのが目新しい。

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図版④は宮川長亀の「逸題・絵巻」のうちの一枚ということだが、彼のことについては生年、没年などは判らなかった。
代表作として「吉原遊楽図」というのが知られている。
江戸で活躍した画家らしい。
掲出した絵は線描も綺麗なもので、人物の顔だちなどもふくよかで、さすが美人画家として活躍したと言われるだけあって、秀逸作と言えるだろう。

図版⑤は「タコと海女」と題する渡辺崋山の春画である。
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海女(あま)にタコがからんで犯しているという独特の構図である。この絵は崋山の絵として、よく引かれる作品であるが、他に彼の春画があるかどうか判らないが、崋山は写生派画家であり男女のからみという春画に、もうひとつのめりこめなかったのかも知れない。
渡辺崋山(1793年(寛政5年)~1841年(天保12年))は三河国田原藩士の渡辺定通の長男。
時代は19世紀の初頭から中期に入る。
江戸半蔵門外の藩邸で生れる。通称・登(のぼり)。幼少の頃から赤貧の家計のために画業に励み、後、谷文晁に師事し、写生派画家となる。
高野長英らと共に幕府の外国船に対する強硬論に反対して慎重論をとり、蘭学者らと交友したため、崋山の影響力を警戒され、長英とともに処罰された。いわゆる「蛮社の獄」というが、自刃した。
享年49歳。


浮世絵春画コレクション(1)・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
浮世絵春画コレクション(1)

浮世絵・春画というのは日本の江戸時代の芸術作品であり
したがって単なるエロとして見る人には鑑賞をお断りする。


こちらが最終である。 始まりである(1)から順に見られよ。
     

2005/10/02のBlog

──浮世絵春画コレクション──(8)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(6)
    17世紀末頃 尾形光琳ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から有名な芸術家の作品が更に登場する。
図版①②③④は尾形光琳の絵である。
解説にあたる部分は美術史家・福田和彦氏の文章による。

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ここに紹介するのは尾形光琳作の「絵巻・花のにしき」と題するシリーズの一部である。
鑑賞に先立ち尾形光琳のことを概略で解説しておきたい。
尾形光琳は近世以前の日本絵画史の中で、もっとも知名度と人気の高い画家のひとりに数えられよう。
彼は1658年(万治元年)京都の裕福な呉服商雁金屋の息子として生れる。幼名・市之丞。名は惟富、才祝、伊亮など。尾形乾山の実兄。
30歳の時、父の死去により家督を継ぐが、生来の遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たした。
江戸期の絵師、工芸家として元禄文化を代表する芸術家のひとり。
初め山本素軒に狩野派を学んだが、のち俵屋宗達に深く傾倒し、宗達の自由、奔放さの上に、独特の華麗で濃厚な絵画表現と、より技巧的な装飾理念を加味して、光琳派(略して琳派)と呼ばれる独自な作風を確立した。
彼は茶道、歌道にも通じ、蒔絵師としても卓抜な意匠(光琳派・光琳模様)を生み、水墨画は軽妙で風刺性に富み、弟の乾山の陶器の絵つけもしている。
姫路藩主・酒井氏、江戸の豪商・冬木氏の庇護のもとに製作をつづけ、1701年(元禄14年)法橋の位に叙せられた。
主な作品に「紅白梅図屏風」「燕子花屏風」「伊勢物語図」「八ッ橋蒔絵螺鈿」など国宝に指定されているものなど数多い。
一時江戸にも住んだことがあるが、1716年(享保元年)に京で亡くなった。

紹介が長くなったが、尾形光琳の特徴が春画にも明らかに出ているので、存分に賞味してもらいたい。彼の特徴として絵のバックを「金泥」で塗りつぶしているのも、その一つであろう。絵の構図、描線などは伝統的な描き方である。
「性器」の色を黒っぽく描くなど工芸家らしく、一物を際だたせて描いている上に、一物の形も綺麗に描いてあり、彼の特質をよく表現していて、秀逸である。

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図版⑤は「菱川派」の氏名不詳のものであるから、お間違えのないようにお願いしたい。
これも「逸題・絵巻」のシリーズのうちの一枚である。
先に四点掲げてきた尾形光琳の絵と比較すると、その絵の違いははっきりする。
光琳は登場人物の着けている着衣などの他には、バックはすべて書き込まないで「金泥」一色に塗りこめて単純化しているが、この菱川派の絵では周辺に「小道具」が描きこまれている。
光琳は、そういう物を排除して、絵の単純化を図ったものと言えよう。
しかし、この図版⑤の絵も、とても綺麗な絵で、秀作と言えるだろう。
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2005/10/01のBlog

──浮世絵春画コレクション──(7)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(5) 
   17世紀初頭─狩野探幽ほか・・・・・・・・・・・木村草弥


先に予告した通り、今回から日本画壇でも著名な画家の描いた春画を紹介する。
これらは、いずれも美術史家・福田和彦氏の撰集になるものである。

作品は、いずれも17世紀初頭頃の製作と伝えられるもの。
図版①②③は、「絵巻・梅に鶯」と題する狩野探幽の描いたものである。
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作者名を聞くと、やはり今まで見てきた作品とは描線に特徴があるのが、素人目にも、はっきりと区別できる。
構図は、こういうものだから、ありきたりの形ではあるが、描き方は明らかに違う。さすがに大家だけあって類似の絵とは大違いである。
図版①の絵のペニスの亀頭の描き方もリアリスティックである。
図版②は女を組み伏せた姿なども類型的では、ない。
デッサンというか写生がしっかりとなされており、男女とも体つきが自然に近く描写されている。
ここで「狩野探幽」について少し書いておく。
狩野探幽は慶長7年~延宝2年(1602年~74年)に生をうけた江戸前期の画家。名は守信。狩野孝信(永徳の次男)の長男。幼少から天才的画才を発揮し1612年(慶長17年)駿府で徳川家康に謁見されて江戸に上り、1617年(元和3年)16歳で幕府御用絵師となり、鍛冶橋門外に屋敷を拝領した(鍛冶橋狩野の称)。
これ以後、1619年には京都御所、1623年には改築の大阪城、1636年に完成した日光東照宮、江戸城の障壁画の製作など多数。
1638年には法眼に、1662年(寛文2年)には宮内卿法印に叙せられた。
狩野派は、こうして幕府および諸藩の御用絵師としての地位を確立した。彼の遺作は大徳寺本坊方丈の障壁画など多く伝存している。

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図版④⑤は「菱川派」の描いたものだが、絵師の名前など不詳。
「逸題絵巻」と解説される17世紀初頭の作品である。
先の狩野探幽の描き方と比べていただくと、その違いが一目でお分かりいただけよう。
これらの絵の違いは、先にも書いたが、やはりデッサン力というか写生力の圧倒的な違いであろう。
しかし、この二点とも、線描などもしっかりした傑作であることには違いないが、所詮、狩野探幽と比べると見劣りする、というに過ぎない。

ここで「菱川派」について少し書いておく。
菱川派は菱川師宣、師房、師平など寛文、延宝年間の画派であって、「吉原遊里図」などの美人画、風俗画に特異な作品を残している有力な流派である。
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2005/09/29のBlog

──浮世絵春画コレクション──(6)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(4) 
    17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


前三回に引きつづき「肉筆」春画を紹介する。
解説にあたる部分は福田和彦氏の文章による。

今回の五点は、いずれも17世紀初頭の作者不詳の土佐派絵師によるものである。
図版①②は「絵巻・花山堂述懐」と紹介されている。その詳しいことは判らない。
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図版①は、いわゆる「シックス・ナイン」という体位である。ご存じない方のために説明すると、数字の6と9は、反転すると同じ形になる。セツクスの愛戯では、体を反転してお互いの性器を舐めあう体位をいう。男女がどちらが上になっても、よい。
これは男女の間の体位でなくても、同性の間での愛戯としても成立する。
この頃では、同性愛者が増えているらしいが、彼らの常套的な体位と言えるだろうか。
図版②は男1女2のからみである。
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図版③④⑤からは、前のものとは版が変わる。
「逸題・絵巻」と解説されているから、組み物を切り取ったものであろう。
作者は不詳ながら、いずれも土佐派絵師によるものである。
そういうと絵に共通点があるので、同じ絵巻から拾い上げられたものであろう。
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図版③も男1女2のからみである。こういう構図は現代の裏ビデオ、DVDの構図と何ら変わりがない、共通したものであり、古今東西を問わず、人の考えることは同じだなと納得する。
これらが絵巻である証拠に図版の右端に他の絵の端が覗いている。
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日本の古い絵には「絵巻」になつたものが多いが、それは保管するのに場所を取らずに便利だからであろう。シート状だと保管に際して場所を取るだけでなく、出し入れの際に作品を傷つける恐れもあるだろう。
その意味で巻物、掛け軸式にしておくと、これらの難点を避けることも出来る。
日本人の生活の知恵であろう。
図版⑤の絵も前の二枚と同じ描き方の特徴が見られる。
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この絵の特徴は、事が終わった後の情景らしく、ペニスが萎れていて、しかも日本人には珍しく「包茎」である。あるいは房事にとりかかる前かも知れない。
房事の後の高ぶりが残っているのか、女がペニスを弄っている図である。
こういう場合にも、春画の常套手段として、女の性器もうち開いて描いてあり、男が足の親指で女のヴァギナを弄っている。

さて次回からは皆さんも名前をよく知っている有名画家の描いた春画を採り上げるので、ご期待いただきたい。
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2005/09/28のBlog

──浮世絵春画コレクション──(5)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(3)
   17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


前回、前々回に引きつづき「肉筆」春画の世界に、ご案内する。
解説にあたる部分は福田和彦氏の文章によることを予め申し上げておきたい。

図版五点は全部17世紀初頭頃の作品と言われている。
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絵の筆遣いの「線」の使い方が繊細で女体のふくよかな線を、芸術性豊かに表現し得ている。
これらの浮世絵を、単なる春画として見るか、芸術作品として認めるかによって、人の評価は分かれるだろう。
単なる性欲をくすぐる春画としか見ない人は、これからの展開を見てもらわなくてもよいので予め通告しておく。
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このシリーズは『浮世絵:日本のエロス・シリーズ』として企画され、編者・福田和彦、訳者・カルロ・キエザ、発行人・津布久洋治で日本芸術出版社から刊行された。
発行年月日は明記されていないので記憶をたどるしかないが、もう20数年前であると思う。
この解説書の隅に「注意:この浮世絵コレクションの日本国内への持込はできません」とある。
これは当時はまだ検閲当局の理解が得られず、摘発される恐れがあったために、敢えて明記されているもので、今日とは違って、芸術作品とはいえ、まだまだ未理解の時期だったことが判るのである。
春画をふくむ浮世絵は、むしろ西欧から高く評価され、その評価の逆輸入のような形で日本国内でも再評価されてきたという経緯があるのである。
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絵に描かれる人物の髪形や着衣を見ていると、この時代の風俗が少しは判るのである。
前回につづいて描いた絵師の名前は不詳だが、「土佐派」の絵師であることは、同じである。
嬉々としてセックスにふける男女の姿態を描いて過不足がない。
何度も言うが「線」描きの美しさを堪能してもらいたい。
これが春画だけでなく、日本画全体の特色と言えるだろう。
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図版⑤は「絵巻・花山堂述懐」という名がついている。その詳細は判らない。
絵のサイズは45×33センチと書かれているから、さほど大きいものではない。A3版くらいのものであろうか。
図版⑤に描かれる人物のうち、女の被っている頭巾は「尼」ないしは「後家」の印であろうか。男は被り物から公卿あたりかと思われ、こういうところに「ストーリー」性を持たせてあると理解できる。
ヨーロッパなら、さしずめ修道女をめぐる「からみ」の絵図というところであろうか。
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2005/09/27のBlog

──浮世絵春画コレクション──(4)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(2)
   16世紀末~17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


そんな時代精神を反映して、好色美術としての春画は未曾有の発達を遂げ、当代一流の、現代では国宝級の画家と言われる画家たちが競って春画に染筆した。イタリアン・ルネッサンスで言えば、ボッチチェリやラファエロのごとき画家たちであった。

はじめに書いておく。
図版①②は16世紀末期頃の「土佐派」絵師による作品であるが、絵師の名前は不詳である。
図版③④⑤は17世紀初頭の作品で、これも「土佐派」の絵師の名前は不詳のものである。
解説にわたる部分は、前回に引き続いて美術史家・福田和彦氏の文章である。
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図版①は坊主とおぼしき男が女二人を相手にしている図で、一物を挿入している女の他の女のヴァギナを口で舐めているという、現代の裏ビデオの構図と同じようなことが、数世紀前にも東洋の日本で行われていたのであった。
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図版②にみられるように、男の髪型や女の着衣など、その時代の様子を、今となれば、よく表現していると言えるだろう。
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写真③は男女が首に紐をかけて、後ろにのけぞらないようにして行為に及んでいる、というところなど、構図上も一定の工夫を凝らしてあると言えるだろう。
江戸の時代の人たちが、結構、エピキュリアンであったことが察せられるのである。
女のエクスタシーに満ちた顔つきなど、先に見たインドの春画などには見られなかったリアリティが、よく描かれていると思うのである。
先の解説で福田氏が、日本の春画の特質を誇っていたのも、むべなるかな、と肯定させられるのである。
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図版④は、俗に「立ちぼぼ」と言われる性交体位が描かれている。
この図版は「巻物」の一部らしく右側につづきの絵が顔を出している。
「版画」の浮世絵でもストーリーとして「続き物」の作品が多い。
こういう「性交体位」というのは俗に「四十八手」と言われているが、アクロバチックな体位も多く、実際上は交接不可能なものもあったのである。
これらの体位は、すでにインドなどでも早くから発達しており、もっと多くの体位が説明されていたりするが、日本と同じで不可能な無理な姿勢も多いのは当然であろう。
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図版⑤も複数の男女の「からみ」の絵であって、これは男2に女1という構図である。
挿入していない男の一物も大きく勃起した状態で描かれている上に、女の口を吸っているのもリアリティがあると言える。
それに、どの絵にも言えることだが、男は浅黒い肌に描かれ、女は色白に描かれているのも、男女の機微に触れるものとして、当然であろうか。
女の顔つきが、とろりと上気した恍惚の状態にあるのを描写しているのも、好ましい。
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2005/09/26のBlog

──浮世絵春画コレクション──(3)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(1) 
   13~16世紀・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から「肉筆」春画の名品を8回にわたり掲載する。
このコレクションは美術史家・福田和彦氏の監修になる全75葉のうちから鮮明なもの40点を5点づつ紹介する。
浮世絵には「肉筆」のものと「版画」のものの二種類がある。はじめの8回は「肉筆」を採り上げることにする。
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図版①は「大和絵」古画と分類される、絵師の名は不詳だが「土佐派」画家の手になるもの。13世紀頃のものと言われている。
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図版②は16世紀末期頃の作品と言われ、同じく絵師不詳の土佐派によるものである。これは絵に少しストーリーがあり、浮気中に女房に見つかり後ろから女から引き剥がされようとしている面白い構図。絵巻物の一部を切り離したものという。

(以下の解説にあたる部分は、すべて福田和彦氏による)
日本の春画美術の伝統は約1000年の歴史を持つ。
山岡明阿が編集した「逸著聞集」(1800年代に成立、12、13世紀にかけて散逸した好色説話を収集して編述した文集)によれば、日本画の始祖と言われる巨勢金岡(9世紀初頭の宮廷画家)が春画を描き、それを妻女に披見したときの逸話が記述されている。この記述が事実だとすれば、日本の春画美術は、すでに9世紀初頭には成立していたことになる。
巨勢金岡は妻女の批判に耳を傾け、女人が愛欲に惑溺するときの表情を巧みに表現したという。すなわち、女人はその時<足の指が屈み、目を半ば開いて、眸が真ん中にある>表情を描いた。言うなれば、すでに、春画はその創始期からエクスタシーの好色情緒を表現していたのである。
「性器描写」においても、橘成季編集の「古今著聞集」(1252年に成立)の第11巻にも<その物(性器)の寸法は分に過ぎて大に描いて候>とあるように、すでに13世紀には春画は戯画的な手法をもって描かれていた。したがって、日本の春画美術は成立期に芸術的表現をもち、一つの好色美術としてのジャンルを確立していた。

図版③④⑤も16世紀末期頃の土佐派によるもの。
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日本の春画美術は、中国の春宮画と呼ばれる秘戯画の影響によって触発されたものであるが、中国においては、こういう芸術化はなされていない。むろん、モンゴル、朝鮮、トルコ、ラジャスタン(インド絵画)においても、好色情緒、戯画化の表現は見られず、日本の春画だけが唯一の美的昇華を成し遂げているのである。
日本の春画は大和絵のジャンルとして成立しており、画家の技術と情念を注いで創造された美の栄為であり、美の遺産であって、決して画家の余暇的な、遊びの仕事でも、画業でもない。
春画を描いた画家は、いずれも16世紀頃までは宮廷画家であった土佐派の画家によって描かれ、貴紳、高家の閨房美術として賞された。
日本の「肉筆」浮世絵(春画)が最も興隆をみたのは16世紀中葉から末期にかけての桃山時代から江戸初期にかけての美術の黄金時代であった。
この時期は貴族文化が崩壊し、新しい武家文化、大名文化が台頭した時期でもあり、長い戦国動乱時代が終息した平和な時世でもあった。そして人々は奢侈に流れ、好色に溺れた時代でもあった。
筆を執った画家の中には今でも有名な人の名があるが、それは追々、その作品を採り上げる時に書くことにする。

今回は「肉筆」浮世絵の皮切りであり、解説は、このくらいにして、作品をゆっくりと鑑賞してもらいたい。
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2005/09/24のBlog

──浮世絵春画コレクション──(2)

  インド秘戯細密画ミニアチュール・・・・・・・・・・木村草弥

今回は日本を離れて「インド秘戯細密画ミニアチュール」の世界にご案内したい。
ご承知のように、インドには「カーマ・スートラ」というセックスのバイブルとも言うべき古典がある。
そういう伝統を踏まえて、インドの春画とも言える細密画があるのである。
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今回ご紹介するのは、美術史家・福田和彦氏のセレクトによる「インドミニアチュール(1)」という12枚の細密画コレクションである。
今回は図版4枚を紹介するが、説明は順次することにする。
その前に、
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写真②は1999年正月に北インド旅行をした時に、ニューデリーのホテルのブックショップで買い求めた本である。130ページの極彩色のA5版の立派なもの。この中にもカラー図版のきれいな細密画がたくさん載っている。しかし、挿入図版は判が大きくないので、ここからの引用はやめて、掲出は福田セレクトのものだけにする。
福田和彦氏の解説を簡単に要約して、はじめに載せる。

・・・・・・・・・インドのミニアチュール(細密画)の濫觴は16世紀の初頭に起こったムガール絵画からであった。
北部インド大陸にムガール帝国を建設したバーブルの子で二代目帝王のフマーユーンが、ペルシアの宮廷画家を招いて細密画をインドに招来されたのが始まりであった。以来、ムガール帝国の宮廷文化に深く根をおろし、インド各地に広がり発展した。また、その画派も多岐にわたった。
本画集の細密画は、いずれも17世紀末から18世紀初頭にかけて台頭した宮廷画派による秘戯画作品である。
これらの秘戯画は一枚絵、好色文学の挿絵などのジャンルに分かれるが、圧倒的に多いのは好色文学の小説、詩歌の「挿絵」である。いずれも往時の貴族たちの閨房生活を活写したもので、インド的な快楽主義を謳歌し、婚遊の奢美を描いたものである。
この細密画に見る繊細な線刻描写は、いずれも鉄筆を用い、わずかに地塗り用として毛筆が使われる細密画特有の技術を駆使している。
顔料は岩絵の具であって、日本画の顔料と共通している。
この技術の精巧さは驚異的な精緻さに満ちており、細密画として卓越した画質を見せている。・・・・・・・・
以上で、福田氏の解説の概略を終る。

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ここに挙げた4枚の絵を拡大して、よく見てもらいたい。
写真③の絵は一人の男性が、二人の女性を相手にしているハレム的な構図。
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写真④の絵などは「馬」との交接を描いているが、これなどは実際には交尾不可能なもので、全般的に見て、絵の表情なども「類型的」で、性行為に際してのエクスタシーなどの「情感」が乏しいように、私には見える。
いかに王様ないしは貴族というお偉がたとの交情とはいえ、女性にも性の喜びはあった筈であり、それらの点で、日本の浮世絵春画における男女のとろけるような表情と引き比べて、私には、物足りなさが残るのである。
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しかし、同人誌「霹靂」(かむとき)のページに載せた「インド文学散歩」(一番後半のところ)を読んでもらえば判るように、多神教であるヒンズー教の性に対する大らかさもあって、「禁忌」のない開けっぴろげな明るさに満ちている。これらの点はキリスト教や東アジアの儒教の道徳という規範に毒されていない開放的な一面を見せる。
よく鑑賞してもらいたい。
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2005/08/27のBlog

──浮世絵春画コレクション──(1)

  上村松園の浮世絵春画と
    宮尾登美子『序の舞』・・・・・・・・・・木村草弥


今回から新しいシリーズとして私の所蔵する浮世絵春画を紹介する。
一番はじめは「上村松園」である。

京都の山や川に育まれた自然の中に、千年の歴史を持つ伝統ある文化、華やかにそして人間性豊かな美術・工芸が息づいてきた。
その中に美人風俗画において精彩を放つ女流日本画家・上村松園がいた。
松園春画

明治8年生れ、昭和24年、74歳没(1875~1946)、本名は津弥。京都四条御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生れる。幼くして絵に親しみ、12歳にして京都画学校に入学、鈴木松年に学ぶが、翌年には「松年塾」に通う。
入門3年目の15歳の時、内国勧業博覧会で「四季美人図」が一等の褒状を得、この作品はイギリスの殿下に買い上げられた。18歳の年、松年の許可のもと幸野楳嶺に入門、彼の死後、竹内栖鳳に師事した。楳嶺の柔らかな画風、栖鳳の近代的写実の極意を修得し、20歳にして絵を天職として身をたてる決心を固めたのであった。
以後かずかずの授賞を受け、作風においても独自の変化を見せながら、60年間にわたる日本画の閨秀作家として、美人画に終始し「近代日本画」の巨匠として不動の地位を得たのである。
66歳(昭和16年)で芸術院会員となり、次いで帝室技芸員になり、昭和23年73歳で女性として初めての「文化勲章」受章者になり画家としての最高の栄誉に輝いたのである。

長々と略歴を紹介したのには訳があるのである。
古来、画家の職は男の独占であって、その中に伍して女として身を立てるのに言うに言われぬ苦労をした。その一生を描いたのが宮尾登美子の小説『序の舞』(1985年中公文庫刊)である。
序の舞

この小説は私の入っていた或る読書会のテキストにも採用したこともあるが、もちろん小説であるから彼女の名前や師匠の名などは仮名になっているが、私が上に紹介した略歴の各人の本当の名と照合してもらうとよく判ると思う。

そういう生きてゆくにも苦労する日々の中で、彼女は薬を買うための金策として、勧められて「春画」を描いた。もちろん「芸の肥し」になるという美名のもとに、ではあるが。
そのうちの一枚が掲出した浮世絵春画「尻やぐら曲取り」と題する絵である。(全12図画帖)のうち。
私の所蔵するものは、もちろん復刻版であるが、或る浮世絵研究会が登録会員のみに配布した300部限定の出版である。これらが出た時は取り締まりも厳しかったが、今では、外国で評価されるように、日本でも美術として認められて来たのかどうか判らないが、こういうものの配布も認められるようになった。大量出版物としても、たとえば林美一氏の著作なども市販されるようになってきた。

宮尾登美子の小説では、その部分を、こう描写している。画商が言うのである。
・・・・・「ひとつ枕絵描いてみいひんか。あんたまさか生娘やおへんやろ。この絵の裸の娘さん、清らかな色気があってなかなかよろし。このいきで男女のナニ描いたらきっと喜んで買うてくれはるひともおっせ。」
枕絵とはまた何といやらしいことを、津也は顔から色の引く思いだったが、しかし見知らぬ男に体を売ることから考えると、こちらはまだしも、という気はする。もしこれが、平安なときの津也だったら、「筆が汚れます」とにべもなかったろうが、いまは追い詰められた果て、頼るは我が絵筆より他にないのであった。・・・・・

もっと前のページにも師匠の松渓から枕絵の修得を勧められる部分もある。
実際に、師匠に言い寄られて体の関係を強要され、彼女は「私生児」を生んでいる。彼女の息子の松篁が、それである。彼も日本画家として大成し、彼もたしか文化勲章の受章者ではなかったか。

彼女が文化勲章を受章するくだりを宮尾登美子の筆は、つぎのように描いている。
・・・・・「お母さあん」と大息をつきつき、「とうとう来ましたえ。文化勲章」といったきり絶句した孝太郎の手から電報を取上げ、電文を読んだあと、津也は腹の底から嗚咽がこみあげてくるのを抑えきれなかった。
電話という迅速な方法もあるものを、電報用紙をじかに手渡したさに京都から息せき切って駈けつけて来た孝太郎の気持も、津也はいま手に取るように判る。・・・・・
・・・・・世間から好奇の目でみられ続けて来た孝太郎と、一生を娘の画業に賭けた勢以、そして津也は、ただ意地ばかりで今日までを漕ぎ渡って来た感がある。・・・・・

長々と引用してきたが、この一枚の春画の背景に上村松園の並々ならぬ苦労の裏打ちがあるのである。
彼女の春画は「祐信」の構図を借りて女性の艶姿を描き、その気品の高さは清長や歌麿のごとくである。
いまは、ただ松園の春画を、存分に堪能してもらいたい。
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原画はもう少し大きいが、私のスキャナはA4版までしか出来ないので、上下左右が寸づまりになっていることをお断りしておく。
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