K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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俳人・飯島晴子のこと・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
葛の花

2004/02/02のBlog

俳人・飯島晴子のこと(1) 鶏ガラしゃぶり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

俳人・飯島晴子というと俳壇のみならず文学、短詩形文芸の世界では有名な人である。
2000年6月6日に亡くなった。自殺である。この言葉が不当ならば「自裁」と言い換えても、よい。
私は、もちろん俳句については門外漢であり、素人であるが、彼女の作品は好きである。
彼女は私と同じ京都府城陽市に生れた。大正10年生れであるから私とは10歳の年長である。面識はない。
旧姓は山本で、父は山本清太郎と言い、当時の富野荘村の父の生家で生れる。父は商社員として長年ニューヨークなどに駐在。
大正14年(晴子4歳)に京都市上京区に転居しているから、城陽市での生活は、ほんの少しだったと言える。
しかし両親の墓は城陽市にあるし、彼女の中では大きな地歩を占めていたことが、彼女のエッセイなどを読むと、よく判る。
彼女のエッセイに「夫婦」という1981年に書かれた作品がある。少し引用してみよう。
 <私の父の郷里は南山城の木津川のほとりで、私もそこで生れたし両親の墓もある。
この間「鷹」の同人総会の翌日、奈良へまわったのでついでに墓参りをした。
親類ではないのだが、昔から代々親類よりも親しくしている家があって、墓の面倒もみてくれている。大きい茶問屋である。--->
この茶問屋というのが、私も同業として親しく付き合っている芳香園という。現会長の北村昭二氏から、いつも飯島晴子のことを聞かされていたのである。
このエッセイには北村家の血縁のことも赤裸々に書かれているが、この文章のことを昭二氏が知っているかどうかは判らない。
このエッセイの中で、昔のご馳走と言えば、かしわのすきやきであったと書いた後に、こんな文章がある。
<子供の頃の私は、鶏の肉よりもガラをしゃぶるのが好きであった。
私たちの顔を見てからおじさんは鶏の羽根をむしって、どんどん湧いている噴井のそばでつぶす。
---だしがらの骨は全部どんぶりに入れてもらって、私がしゃぶることにきまっていた。--->
「噴井」と書かれているが、富野荘は水が豊富に自噴する土地で、今でも城陽市水道は、ここで打抜き井戸を掘って水源とする。旨い水である。
ここに書かれる「おじさん」というのは先代の亡・太一郎氏のことである。
このエッセイを読むと、彼女の心の中に「原風景」として城陽市(富野荘村)が生きづいていたことが、よく判るのである。

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飯島晴子

俳人・飯島晴子のこと(2) 葛の花・滅亡の予見・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子は、今でもよく読まれている俳人で、『飯島晴子全句集』というのが没後の平成14年に出ているが、目下品切れ中である。
『飯島晴子読本』というのが同じ富士見書房から出ていて、これには彼女の全句集が収録されている他、随筆や自句自解、俳論などが納められ、
これ一冊で飯島晴子のほぼ全体が俯瞰できる。
これと別に『葛の花』というエッセイ集が、同じく富士見書房から娘さんの後藤素子さんの編集で平成15年に出ている。
彼女の俳句に

 葛の花来るなと言つたではないか

というのがある。この作品を見ると判るように、五七五全体に、ずらずらと何が何して何とやら、というような句作りを彼女は、しない。
「葛の花」と「来るなと言つたではないか」とには直接の関連はない。
というより普通の俳句をやる人は、驚くか、とまどう筈である。
俳句の決まりとして季語が必要であり、「葛の花」は、あくまで季語として、この作品に持って来られた。
「来るなと言つたではないか」というフレーズは日常会話で、ふっと出て来そうな言葉で、その二つを一句の俳句に仕立てた腕は見事である。
彼女の「自句自解」には、この作品の説明はない。
このエッセイ集『葛の花』の帯に富士見書房のつけた文章には<晩夏初秋の濃艶な葛の花に滅亡を予見する著者>と書かれている。
この句は没後、後藤素子さんがまとめて刊行された句集『平日』の終りの方の平成11年に収録されているもので、
没年が翌年6月6日であるから、このキャッチコピー的な帯文は、彼女の心象を的確に捉えていると言えるかも知れない。
彼女のエッセイに「葛の花」という1975年に書かれたのがある。そこで、こう書かれている。

<葛の花は、私の好きな花である。木々を覆って、一谷を埋めて葉のはびこる有様は、荒々しく粗野なエネルギーにあふれている。
葛の葉裏の風にひるがえる白い風景は、古人のさまざまの思いを誘ったことも頷ける。
赤っぽい紫色の花は艶に濃い情感を漂わして、粗い葉の茂りと妙に調和がとれている。
---季節の傾きのなかに、万物の衰えが急にどっと見えてくるような瞬間を持つことがある。
私の葛の花は、いつもそういう気分のなかに咲いている。>

このエッセイの後半では、有名な釈迢空の歌<葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり>にも触れて、この歌には釈自身の自歌自註があり、
その解の特異さにも触れて

<俳句や短歌のような短い詩形では、作品をかりて読み手の内部を読むより読み様がないとも言えるが、
---精神の質感の違いを、葛の花の具体的な質感の違いにみるのは、興味深いことであった>

と書かれている。

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俳人・飯島晴子のこと(3) 第一句集『蕨手』から・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の『蕨手』は昭和47年に出ている。
この句集の開巻第一句に

 泉の底に一本の匙夏了る 

がある。
この句については「鷹」主宰の藤田湘子が「序」の中で、こう書いている。

<泉の句は、「鷹」がまだ創刊当初の混沌としたなかで、私に飯島晴子の名を印象づけた一句であった。
ここから飯島さんの新しい出発が見られるのではないか、そう漠然と思った。
しかし今日のようなきびしい作家に成長することは、実は予測もしていなかった。
----俳句を告白の詩から認識の詩として自覚しはじめる過程に、当時の飯島さんはさしかかっていたのだと思う。
一月の畳ひかりて鯉衰ふ  その後の飯島さんは、急激に変貌の歩みをつづけた。作品が情緒と妥協することを、極力拒んだ。
----ひたすら情緒という皮下脂肪を削ぎ落していった。
見えるものと対峙して眼をこらしていた飯島さんは、次第に、見えるものをとおして見えない世界へはいりこんでいった。
やがて、俳句を認識の詩として確信したにちがいない、そう思える一句に出あった。45年作の である。
この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。>

この文章は飯島晴子の俳句の特性を、かいつまんで鋭く把握していると言えよう。
<認識の詩>として俳句を作るという、ものの存在をとらえる、という作句の基底の思想ということであろうか。
泉の句については「自句自解」の中に、義兄が蓼科に建てた山荘のサクラ草の咲く湿地の泉の景があるが、そこに一本の匙をみたのではない、と書き、
当時住んでいた豊島園の近くの豆腐屋の前の道路と、蓼科の高原の夏終る気分とを思っていると、この句になったのである、と書いている。
また藤田湘子の引用した、後の句について、これも自句自解の中で 

<具体的にどこの景でもない。いつどうしてつくったのかも思い出せない。
京都に生まれ育った私の原風景というよりない。----京都に生まれ育てば、何となく自然にこういう世界が身につくのではなかろうか。
美意識といえば聞こえがよいが、たえず一方向への規制を働きかけてくる厄介な荷物である。
嫌だと思いながら、いつの間にかその価値観でものを見ている自分に気がつく。
----とすれば、これがなるべく固定硬化しないように、出来る限り弾性をもって、生産的に働くように心掛け工夫するよりない。>

と書いている。作者本人の言と、藤田湘子の解説とを、まとめてみると、飯島晴子の姿が見えてくるのではないか。

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俳人・飯島晴子のこと(4) 現代俳句と写生・俳論抄・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の「俳論抄」の中から、標題に即したものを少し書き抜いてみる。すこしは飯島晴子に迫れるかと思うからである。

<俳諧の滑稽も風狂も、目に見えないものの一つであるが、その他あらゆる目に見えないものがある。
一句を成すということは、最後の結果として、この目に見えないものを顕ち現れさすことである。
目に見えないものをそっくりそのまま捕獲したかのように見える方法で書くか、それとも、目に見えるものの向うに目に見えないものを見るような方法で書くかの違いがあるだけで、どちらにしても最終的には目に見えないものが現れていなければ、作品になっていないわけである。
そして、目に見えるものの向うに目に見えないものを見ようとする──見ようとするというより、見えてくるといった方がよいのかもしれない──のが、写生といわれる方法の本来の在り方なのではあるまいかと思う。>
 (現代俳句と写生・昭和51・8)

<言葉として書きとめられれば、その時以後は言葉があるだけであり、言葉は証人も弁護士もいない法廷で、自力で「詩」を出現させねばならない。そして、言葉自体が綺羅をまとっていようと、ボロをひきずっていようと、嘘であろうとほんとうであろうと、どちらでもよい、ただ、言葉の向うに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である。>
 (水原秋桜子の意義・昭和54・5)

<「物」は、人間の創造物であろうと自然物であろうと、見られ、聞かれ、触れられ、読まれ、その他すべて「られる」ことによって在るより在りようがないという面がある。
言葉も、また当然、一つの「物」となり得る資格をそなえた素材である。言葉の絡み合いが一つの物体となっているのが詩であり、----「物」であらねばならない。
俳句が「物」であるからには、読み手によって存在したりしなかったりするし、その存在を決めるのも読み手である。---->
(俳句を読むということ・昭和55・5)

これらを読んでくると、前回のところで藤田湘子が書いた、飯島晴子に於ける「認識の詩」としての俳句、という定義づけを理解することが出来ようか。

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2004/02/03のBlog
俳人・飯島晴子のこと(5) 37句抄・恣意的抄出・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の七冊の句集から、俳句には、ど素人の私の文字通り恣意的な抽出を、下記にしてみる。

*泉の底に一本の匙夏了る

*鍋の耳ゆるみしのみが女の冬

*ベトナム動乱きやべつ一望着々捲く

*旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

*火葬夫に脱帽されて秋の骨

*これ着ると梟が啼くめくら縞

*ねんねこから片手出てゐる冬霞

*跫音が跫音を聞く寺の水仙

*一月の畳ひかりて鯉衰ふ

*蜥蜴ほそくめしをくふのに向ひあふ

*寒卵寝るのもいやになりにけり

*わが末子立つ冬麗のギリシヤの市場

*かげろふのちる茶問屋をきりまはす

*やつと大きい茶籠といつしよに眠らされ

*鴨屋一軒美事な風の吹いてゐる

*いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは

*牧谿の虎濠々と去年今年

*たはやすき泪もありぬ諸葛菜

*カステラの底の砂糖や山眠る

*とりかへしつかずかがやく夏大根

*大仏の肉叢(ししむら)てふも夏の果

*茶の花のこんなに咲いてゐる寒さ

*寒晴やあはれ舞妓の背の高き

*男らの汚れるまへの祭足袋

*油断すなおたまじやくしの腹光る

*縁(えにし)ともごまだら天牛(かみきり)髭まはす

*冬の虹ぬきさしならぬかのやうに

*青柚子の疵強運といふことを

*正月や鱪(しいら)の男方女方置く

*大男桜落葉を焚くに侍す

*父母祖父母はや赤蛙浮かぶ沼

*薄氷をつつと一禽つつつつと

*怒るにも足らぬ短きブランコよ

*新聞は東奥日報海猫鳴いて

*葛の花来るなと言つたではないか

*てんと虫発つああだかうだといふうちに

*丹田に力を入れて浮いて来い


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俳人・飯島晴子のこと(6) 切字「かな」の多用・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の句を読んでいて、先ず感じることは切字「かな」で終わる句が、大変多いことである。
少なくとも10句に1句、多いときは三、四句に1句が「かな」である。
彼女の場合には、意識して使われているのだが、近頃の俳句では、こういう「切字」は、なるべく使わない、というのが時流らしい。
この切字を使ってあったために、俳壇賞の選考から外された、というようなこともあるらしい。
たしかに、「かな」で止めるというのは、一見して安易な気がするからである。
この傾向は第一句集の時から見られるが、さすがに第一句集辺りでは、少ない。
第一句集『蕨手』では「かな」留めは9句だけである。それ以後は殖えはじめ、遺句集『平日』に至っても、同じことである。
私は門外漢なので判らないが、このことが俳壇で取り上げられることは、なかったのだろうか。
底辺の俳人ならば、安易であると言われかねない。
また「けり」も多い。

 吊柿鳥に顎なき夕べかな

 夕蜘蛛のはしる白紙も遊山かな

 わが土鳩鳴く七月の火星かな

 栗咲くと面のすさぶ翁かな

 筍をゆがく焔の快楽(けらく)かな

 鯉の淵百日眠らさるるかな

 ぎりぎりまで青蝉さがす男女かな

 わが影の先走りたる踏絵かな

 黒揚羽に当られいゐる軀かな

 友多き鱸の海の朝日かな

 墓霧に懶かりける手足かな

 少々の土龍の土も恵方かな

 日に勢ふ白髪太郎の白毛かな

 わが墓標夏手袋の叩くかな

 男山さすがに春の寒さかな

 容赦なき夏鶯の近さかな

 吾ながら卑しき日焼手首かな

 流灯会果てたる山の容(かたち)かな

 土筆折る音たまりける体かな

 夕立の地雨となりし名張かな

 茶畠の二月の色を往来かな

 褌の尻浅黒き祭かな

 凍蝶を現(うつつ)に見たる伊良古かな

 なぜかしら好きになれない金魚かな

アトランダムに抽出してみたが、この「かな」が生きている句は、どれだろうか。
安易に流れている句がありはしまいか。
私の意見では、句集の中で、ああ、「かな」が多いな、と感じた割には、こうして抽出してみると、一句として「かな」の使用が、句にぴったり収まる句が多い、
ということである。この辺のところが、俳人として第一人者であったことの証であろうか。
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2004/02/04のBlog

俳人・飯島晴子のこと(7) 「おかしみ」と「抒情」・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の「私の俳句作法」という文章の中に、小エッセイとして<言葉とこころ>というのがある。引用する。

<俳句ではおかしみが大切にされる。滑稽という言葉にすると少し変質してしまいそうな微妙な境地である。
おかしみは、やさしさであり、ゆとりであり、批評であり、人間の精神にとって酸素のようなものであるから私も大切に思っている。
だがおかしみは形にすると無くなってしまう場合が多く、難しい領域である。
いくらかおかしみになっているかと思われる拙句を次に拾ってみる。

 凍蝶を過(あやまち)のごと瓶に飼ふ
 さるすべりしろばなちらす夢違ひ
 春の航わが紅唇を怖ぢにけり
 孔子一行衣服で赭い梨を拭き
こういうロマンティックな作品が天から授かったように出来るととてもうれしい。私は志してもできない境地だからである。
これも私には、作法の外の賜りものということであろう。 「馬酔木」から出発したのに、私に一番遠いのは甘美な抒情句である。
でもそれが皆無というわけでもなくて、次のような作品もある。
 鯛焼の頭は君にわれは尾を
おかしみは対象を「視る」ことをつめていくと自然ににじみ出てくることもあり、作法というような技の外に在るものかもしれない。>

彼女自身も、よく判っているのである。肩ひじ張らない、こんな本音を読むのも、楽しいことである。
第一句集『蕨手』の序文で藤田湘子が、彼女を評して「抒情の詩から、認識の詩」への指向を指摘しているのだから、抒情句が少ないのも、仕方ないことである。
この後の文章に彼女は次のように書く。

<結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の言葉としていかに機能よく働かせるかという興味である。
俳句の場で言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。
だが作品をなすにはまず何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。>

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2004/02/05のBlog  

俳人・飯島晴子のこと(8) 生地・富野荘村長池・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子のエッセイ集『葛の花』を読み出すと、面白くて途中で止められない。その中に「私の住んだ家」という文章がある。
少し引用してみよう。

<私の生れた家は、京都と奈良を結ぶ街道の中間、京都府富野荘村長池という農村の、藁葺屋根の百姓家であった。
私の生れる大分前に亡くなった祖父は上昇志向の強い人であったらしく、中年からは百姓仕事は人にまかせて金貸しなどしていたらしい。
---祖父は財を殖やすだけでなく、子女の教育にも熱心であった。
しかし結果からすれば、私の父も学校など行かず生れた家で農業を継いで役場にでも勤めた方が安穏な人生ではあった。
どちらにしても今は、生れた土地の土に眠っている。
田舎に住むつもりのない父母は、私の物心つく頃は京都市内に住んで、父は貿易商を始めていた。
---戦時体制に入った日本で、贅沢な雑貨の輸入などできるわけがなく、父は失意のうちに商売を止め、金閣寺に近い寓居で亡くなった。
それからの母と私は西宮市で罹災し、墓だけの残っている生地、富野荘村へ疎開し終戦を迎えた。
一年後、左右違う履物を履いて戦地から夫が帰って来た。更に一年後、赤ん坊の長女を抱いて鵠沼へ引越した。
海のすぐそばの松林の中の県営住宅であった。鵠沼時代に藤沢馬酔木句会で俳句とめぐり会った。--->

先の私の文章にも書いたが、これを読むと、子供の頃だけでなく、終戦前後にも彼女一家は富野荘村長池に生活していたわけで、
そんな生活の中で、先の「夫婦」というエッセイに描写されるような、「芳香園」の北村氏一家との濃い交流があつたのである。
ここに引用した部分の他に京都市内の住いのことなども、まざまざと当時の状態が目に浮かぶように書かれている。
エッセイの妙手と評されるだけの見事な文章である。
富野荘村長池(城陽市長池)は古くは、奈良朝時代から、山城盆地を貫く街道が通じ、ちょうど京都と奈良を結ぶ中間の宿場町として「五里五里の里」と呼ばれ、
商人の町としても発達していた土地である。
昔は、特に江戸時代は町人や百姓が徒党を組むのを防ぐために連帯責任の五人組に組織され、それ以外に許されるのは、神仏の講(伊勢講など)だけであった。
だから、物見遊山も兼ねて、伊勢参りが盛んで、そんな伊勢参りの連中の宿として「松屋」があった。
宿札などの資料も残るが、明治以後、松屋は和菓子屋に転業し、今日に至っている。
因みに、茶問屋「芳香園」は松屋の隣で、旧奈良街道に面している。

  
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