K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201702<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201703
サンティアゴ巡礼紀行・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
サンチアゴ標識

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(1)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・・・・・・・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

 サンティアゴに掛ける私の想いについて
この旅は私にとっては、さまざまの想いが籠っている。
先ず、今年の三月なかばに亡くなったフランス文学者の畏友・田辺保が、1992年に翻訳したアルフォンス・デュプロン『サンティヤゴ巡礼の世界』(原書房)を呉れたこと。
その「偲ぶ会」が4月27日に京都で行われ、多くの同僚や弟子たちが彼の偉業を語った。同級生の国語学者の玉村文郎が旧制中学校の頃から知りあっていたことなど家族ぐるみでの親密な交友ぶりを語ったが、心のこもった佳い話だった。
そして私が何度も、このルートを旅行社に申し込んだが催行されなかったこと。
妻が死んで、その鎮魂のために、ぜひ行きたいと念願していたこと、などである。
今回の旅はスペイン、ポルトガルを周遊するもので、巡礼の道は駆け足の旅だったが、こういう機会に便乗しておかないと、このルートだけの旅は仲々行けないのだった。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ─日本語に訳せば「星の野原の聖ヤコブ」─
イベリア半島の西のはずれに位置する、この都市は、キリスト教の三大巡礼地の一つである。
キリストの直弟子・十二使徒のひとり「聖ヤコブ」──スペイン語では「サンティアゴ」と呼ぶ──の遺骸が眠る地である。最盛期には年間50万人もの人々が、ヨーロッパ中から、この地をめざした。
標題の「El Camino」とは「道」の意味である。「El」はスペイン語の「定冠詞」。
伝説によれば、スペインで布教した聖ヤコブはBC44年頃、エルサレムに戻って殉死した。が、その遺骸は舟に乗せられ、風まかせの漂流の末、スペインのガリシア地方に流れ着いたという。そして長い年月を経た9世紀のはじめになって、なんと、この地で聖ヤコブの墓が「発見」されたのだ。
当時イベリア半島の大半はムーア人──イスラム勢力に占拠されていたが、キリスト教世界は、この墓の発見によって俄然色めきたち、イスラム勢への「橋頭堡」を確保する「反攻」レコンキスタに立ち上がる契機となった。
以来、巡礼路はめざましい発展を遂げることとなった。

掲げた図版の説明を先にしておきたい。
図版①は、この巡礼道の要所要所に掲げられている標識である。
私が買ってきたものはマグネット付きになっているもの。

図版②が田辺たちが共同で翻訳し、田辺が監修したデュプロンの本である。
デュプロン本0001

今後、折に触れて、この本を引用することになる。
デュプロンはソルボンヌ大学名誉学長、高等研究学院長という経歴を持つ人であり、
この本も学術的な内容の本で万人向きのやさしい本ではない。

このルートについては日本でも本が出ていて読むことが出来る。

小谷明 粟津則雄『スペイン巡礼の道』(1985年新潮社とんぼの本)
檀ふみ他『サンティアゴ巡礼の道』(2002年新潮社とんぼの本)

などは写真が一杯で読みやすいものである。
数年前に全世界で1000万部も売れ、読書界で話題になったベストセラー小説『アルケミスト』の著者であるブラジル人作家パウロ・コエーリョと檀ふみとの道中記は面白い。
図版③は、この巡礼の道中に巡礼者がリュックなどにぶら下げる「目印」の「帆立貝」である。
サンチアゴほたて貝0001

これらの謂れについても聖地に辿りつく頃に詳しく書きたい。

こちらについては海外旅行に初めて行った時に、ヨーロッパ主要都市をハイライト的に廻るツアーでマドリッドとトレドに来たことがある。
第二回目は1990年一月はじめ、ポルトガルのリスボンに着き、シントラ、ロカ岬などを見物、リスボンに二泊した。後、バス移動でスペインのセビリヤに一泊、コルドバ一泊、グラナダ一泊のあと、ラ・マンチャを北上し、アランフェスの離宮を見たあとマドリッドに二泊し、トレドも見た後、空路バルセロナに至り二泊した。
このときはブッシュ父が起こした「湾岸戦争」前夜で、欧米の旅行者も少なく、普通なら食事のときのワイン、水など有料のものが、毎回無料でサービスされた。
経由地のイギリスのロンドンのヒースロー空港の手荷物検査などは厳重をきわめ、空港内移動でも100メートルごとに再検査されるような始末だった。
このときはサンティアゴなど北スペインはコースに無かったので、今回が初めてということになる。
スペイン、ポルトガルとも、その時とは道路が格段に整備されて時間的には半分で着ける状態であるが、その分、旅はあわただしく、せちがらく、余裕がない印象である。
書き遅れたが、私たちの旅の同行者は総勢29名で、利用する飛行機は関西空港発のKLMオランダ航空868便で飛行時間11時間で速い。アムステルダム・スキポール空港乗り継ぎでKL1705便でマドリッドに向かう。
ここアムスでEUに入国することになる。手荷物、身体検査は厳重で、私は肌着一枚まで脱がされる。
現地時間20:30マドリッド着。
明日以降、旅の行程ごとに書いてゆきたい。

------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道─(2)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ホテルコンベンション

旅はマドリッドから始まった(1)・・・プラド美術館
前回のときはマドリッドには丸一日いたが、今回は昼食後までの半日である。なんともあわただしい旅である。
この記事は日程を忠実に辿るとは限らないので念のため。
ホテル・コンベンシオンを出て、先ず最初に「プラド美術館」(写真①)に入る。
プラド

私たちの宿泊したホテルは、広大なレティーロ公園の東にあるが、この美術館も公園の西側に隣接して建っているのだった。
ここには前に二回来ているが、そのたびに整備されている。
入場は、写真の入口ではなく、昨年夏に拡張工事が完成した新館の入口から入る。
写真の「黒い掲示板」の矢印の方角に新館の入口がある。
プラド②

写真②が、その入口。ここには広いミュージアム・ショップもあり美術館関連のものが買える。私はカレンダーなどを買った。
目下、ゴヤ展の開催中のようであった。
ここの目玉は「エル・グレコ」「ゴヤ」「ベラスケス」の三人の画家の作品が見ものである。
グレコでは「胸に手を置く騎士」「受胎告知」「羊飼いの礼拝」などが有名。
ゴヤでは「裸のマハ」のシリーズ。「着衣のマハ」は外国へ貸し出し中で無かった。

ここで「裸のマハ」についての薀蓄を少し。
ゴヤは50歳にして「スペインの新しいヴィーナス」と謳われたアルバ公爵夫人との恋に落ちた。公爵夫人は惜しげもなくゴヤに裸身をさらして「裸のマハ」を描かせたが、スキャンダルを恐れたゴヤは、裸の夫人に服をまとわせた同構図で同寸法の作品を描いて、客が来るとこの「着衣のマハ」で「裸」を覆い隠したと伝えられる。
しかし、今日では、モデルは宰相マヌエル・ゴドイの愛人ペピータ・トゥドーであるとする説が有力で、このアルバ公爵夫人説を主張する人はほとんど居ない。
それは、これらの二点の「マハ」が1808年にゴドイのコレクションの中から発見され、しかも1800年にゴドイの邸で「裸のマハ」を見たという記録まで現れたからである。アルバ夫人は1802年に謎の急死を遂げているが、天衣無縫な性格の持ち主だったらしい。
一般にゴヤの肖像画は、モデルに対する画家の関心の強弱によって質を大きく異にする。「裸のマハ」のコケティッシュで挑発的な肢体と表情を見れば、ゴヤとこのモデルが特殊な関係にあったことは十分に察せられる。技法からみて「裸」は1795年頃に描かれたものと推定されるが、まさにその頃にゴヤと公爵夫人との愛は頂点に達していたのである。「マハ」をめぐる問題は、いまだすべてが解明された訳ではないのである。

「1808/5/3プリンシペ・ビオの丘での暗殺」の絵も有名で、ナポレオン軍に対する前日の蜂起と、翌日の市民殺害の絵は迫真的である。銃殺される恐怖におののく「手を上げた」犠牲になる市民兵の表情が印象的。
ベラスケスでは「ラス・メニーニャス」「マルガリータ皇女」などの作品が有名。
今回も現地ガイドが詳しい説明をしてくれた。
これらについては、一般的な美術書にも詳しく書いてある。
なお、中丸明『絵画で読む グレコのスペイン』(1999年新潮社刊)という本が独自の視点で、面白く書いている。一度トライしてみられよ。

なお今回は立ち寄らなかったが、プラド美術館から歩いても数分のところにある「国立ソフィア王妃芸術センター」には、ピカソの有名な「ゲルニカ」の絵が常設展示されている。現代アートの展示に特化している。ピカソ、ダリ、ミロなど。
ここは1992年に開設されたもので、私が前回来たときは他の場所で「ゲルニカ」を見た。

MUSEO del JAMON
昼前に美術館を出て、王宮近くの「MUSEO del JAMON」(写真③)(ムゼオ・デル・ハモンと発音する)というハム・ソーセージの専門店付属のレストランで昼食。
ハム屋①

メイン料理は「コシード」という豆と肉の煮込料理である。
イベリア半島では、日常の食事に「豆」をよく使う。
京都ならば「おばんざい」というところであろうか。
この店の内部には多くのハム、ソーセージの製品が天井に至るまで、ぎっしりと飾られて市民たちで満員であった。
ハム屋②

店内の写真を写真④に出しておく。
「イベリコ豚」という黒褐色の小型の豚がスペインの名産で、秋になって牧草が無くなると「ドングリ」の実を食べさせるという。
このイベリコ豚の「生ハム」というのは高価で、少し塩味が利いているが、おいしいものである。
ポルトガル国境の辺りが産地と聞いて、バスの車窓から、あれがイベリコ豚と添乗員が説明してくれた。
ハム屋③

写真⑤も同じ店内である。
何という名前の品物か私には判らない。
イベリコ豚についてネット上から引いておく。

イベリコ豚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イベリコ豚(イベリコぶた)とは、豚の一品種。スペイン西部地方のみで飼育されるイベリア種というスペイン原産の黒豚。黒い脚と爪をもつ傾向があり、スペイン語では「黒足の豚」(pata negra)と表現される。

以前はスペインでの豚コレラ流行の影響から日本への輸入が禁止されていたが2004年より輸入解禁となっている。

特色
肉質が良く脂身はさらりとして甘味があるのが特色。脂身には餌であるドングリ由来のオレイン酸を多く含む。この特色は餌や飼育法に拠るところが大きく品種的な特徴ではない。

脂肪分はいわゆる霜降り状に付いているがこの特色は飼育法と品種的な特徴の両方から成る。

飼育法
イベリコ豚は品種名であるだけではなく特別な飼育法で育てられる。最大の特徴は放牧を行うことである。

哺乳期間
誕生から2ヶ月までは母豚からの哺乳により飼育される。
予備飼育
離乳から体重が100kg前後になるまでの期間。樫やコルク樫の森で天然穀物飼料、牧草、種子、草の根を自由に食べさせる。
肥育期間
モンタネーラ(montanera)と呼ばれる放牧期間。
一般的には10月から翌年2月、3月まで続く。この間、イベリコ豚は自分でドングリ、牧草、球根植物、植物の根を食べる。放牧中に運動することによって脂肪分がいわゆる霜降り状に付く。
この時期ドングリの木の根を掘り起こさないように鼻輪をつける。こうすることで土を掘ろうとすると鼻輪がずれて痛くなるため豚は土を掘らなくなる。

ランキング
モンタネーラ後の肉質や増加体重によってイベリコ豚はランク付けされる。

ベジョータ(BELLOTA)
放牧期間前と比較して、50%以上の体重増があり、肉質がベジョータの基準をクリアしたもの。
レセボ(RECEBO)
肉質がベジョータの基準をクリアできなかったものや、体重増が50%未満であり、モンタネーラ後も引き続き自然餌を加えた人工飼料を与え、体重を増加させたもの。
セボ(CEBO)
穀物飼料だけで肥育されたもの。
ピエンソ(PIENCO)とも呼ばれる。
----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(3)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

マドリッド(2)・・・王宮とスペイン広場
昼食後の自由時間を利用して「王宮」の写真などを撮りにゆく。
写真①が王宮である。
王宮

国王は、ここには住んでいない。
今の国王はフランコ独裁政権が無くなってから王制に復帰して「国家元首」になられたのだが、平素は質素な生活をされており、別の場所で静かに暮しておられるという。
前回来たときは王宮の中にも入り自由に見学したが、大広間なども何もなくがらんとした単純な広い空間だった。今は内部に入れるのか、調度品や装飾なども追加されたか、など判らない。
王宮前の広場にはたくさんの椅子が用意され、軍隊か何かの軍楽隊が演奏の用意をしていた。
撮ってきた写真もあるが省略する。
王宮の前庭に隣接するのが「スペイン広場」である。
スペイン広場の名前のつくものは各地にあるが、ここマドリッドにあるのが、その本家である。
ここにはスペインの誇る物語作家・セルバンテスの大きな坐像と、その物語・ドンキホーテと従者・サンチョ・パンサの像がある。写真②がそれ。
セルバンテスほか

像の背後に大きなビルが写るが「スペインビル」と称されるもの。最近のものではなく、いつのものかは知らぬが、20年まえからあった。
この広場の別の一角には、これもスペインの誇りとする「ゴヤ」の銅像が建っている。
ゴヤ像

写真③がそれ。

今回のマドリッド観光は、これでおしまいである。

マドリッド観光としては、マドリッドを東西に貫く大通り「グラン・ヴイア」を欠くことは出来ないだろう。
また「マヨール広場」という市民生活の舞台となったところなども見ておく必要がある。ここは1619年に5階建ての集合住宅に囲まれた広場として建設。南北94m、東西122mの広場では、かつて王室の儀式や祭り、闘牛などのイベントなどだけではなく、異端者の焚刑なども行われたという。今の建物は三度の火災を経て、1853年に四階建てとして建てられたもの。回廊ふうの建物の一回にはみやげ物屋や飲食店などがあり、ここの散策も趣きがある。
前回にはゆっくりと堪能した。
添乗員大橋と某

写真④に掲げるのが、添乗員・大橋さんと、現地ガイドの男性・某である。弁舌さわやかで、プラド美術館の解説も懇切丁寧を極めていた。
写真を掲げて、感謝の意を表するものである。
大橋さんは英語とスペイン語に堪能で、添乗員としての世話もこまめな人で、旅行者には大変評判いいらしく、海外添乗は年間280日
くらいはあると言い、一年の大半は海外に居ることになる。

私たちは、マドリッドを出て、一路、郊外の「セゴビア」に向かう。
------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(4)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セゴビア・・・ディズニー「白雪姫」の構想のモデル
マドリッドから峠を越えると一時間ほどで郊外の「セゴビア」に着く。
ここは海抜1000メートルあるというが、マドリッドがすでに海抜数百メートルの高地にあるから、峠をひとつ越えたところである。現在は高速道路で楽々と到着するが、前は、くねった道がひとつで、前回行ったときは冬で雪が積もっていて交通停滞で難儀したことを憶えている。

セゴビア・サン・エステバン教会

写真①は「サン・エステバン教会」で、この近くにバスを停めて、あとは徒歩である。この教会は外観のみだが、13世紀に建てられた後期ロマネスク様式。高さ63メートル、六層に積み上げられた鐘楼が有名で「ビザンチン様式の塔の女王」と称されるという。回廊との調和も美しい。
写真②はセゴビアの「カテドラル」。
セゴビア・カテドラル

二つの川──エレスマ川とクラモレス川に挟まれた高台のセゴビアの町は、一見して「トレド」とそっくりの形をなしていて、三方を川が防御する天然の要害となっているところ。現地ガイドも、そのような説明をした。
その町の中に、このカテドラルはある。
ゴシック様式のカテドラルとしては最も新しく、18世紀後半に完成した。
内部に入って、たくさん写真を撮ったが、高いところにあるステンドグラスなどは鮮明に撮れなかった。
ここで「カテドラル」という呼び方について、一言ご注意を申し上げておく。
「カテドラル」というのは、単に大きな立派な寺院を言うのではなく、カトリック寺院の中でも「主教座」として、管区を統べる「主教」さんが駐在した寺院に限って称することが出来るのである。
それ以外の寺院は、たとえ大きくも「バジリカ」のように呼ぶのが正式であるから、念のため。
これはカトリックのみの呼称であって、新教(プロテスタント)には、こういう呼び方はない。ガイドなんかでも出鱈目な説明をする人が居る。

ウオルト・ディズニーの映画「白雪姫」モデルのアルカサール
写真③がそれである。
セゴビア・アルカサール

前回はここにも立ち寄ったが、今回は、ここをよく見はらせる丘から「遠望」するだけであった。
何とも、つまらない、あわだたしさである。
この城はディズニーの構想のモデルになったというだけで、このお城の話ではないから念のため。
なお「アルカサール」とは「城砦」の意味であり、英語のキャッスルと語源を同じくするもの。
ここセゴビアのアルカサールは、切り立った崖の上に建つ優雅な古城。
12世紀にアルフォンソ8世が築城して以来、増改築を繰り返し、1940年に現在の姿に。
展望台からは市街を一望できる。

セゴビアのローマ水道橋
あちこちに水道橋はあるけれど、ここほど完全に大きく残っているのは数少ない。
世界遺産に指定されている。1世紀後半に建てられたもので、全長728m、最も高い部分はアソゲホ広場横で約29mある。
セゴビア水道橋

私の撮った写真の左端に少し写っているが、メリーゴーラウンドなども設置されていて遊園地気分になる。
接合剤を一切使わず、花崗岩のブロックを積み上げるだけで造られた、二段式の巨大な遺跡だ。
以前は他の地点にバスを停めて見物したが、車の振動などで橋が傷むというので、今は近くには車で行くことを禁止している。

セゴビアを出て、一路、今夜宿泊のホテル、「コルテス・デ・レオン」に向かう。写真⑤がそのホテル。
ホテル・コルテス・で・レオン

市街地ではなく、郊外の国道沿いにある。市街地にないので夜の外出も出来ないので、気を利かしたのかワインや水などが無料でテーブルに置かれる。みんなご機嫌で酔っ払う。
大きいのでホテルの名前の前の部分が、ちょん切れてしまった。
なかなかいいホテル。

このレオンの町の辺りから、いよいよ「サンティアゴ」への巡礼路が始まる。
この途上の路傍の原っぱには、ところどころ「ヒナゲシ」が群落を作って咲いていた。
日本では栽培種の色とりどりのポピーがあるが、ヨーロッパの原野に咲くのは、もっぱら濃い朱色の花である。
よく知られているが、与謝野晶子の歌

ああ皐月仏蘭西(フランス)の野は火の色す君は雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)

のようにフランス語では、この花を「コクリコ」と呼ぶ。スベイン語では「アマポーラ」と呼ぶ。
アマポーラという題名の歌がいくつかあり、よく知られている。

セゴビア→レオン間約400㎞。
近道をしようとバスの運転手が脇道に入るが、高速道路に入る入口を見失い、また道を戻り時間を空費する。この辺のところが、いかにもスペイン人らしい。
こういう経験は、前に私が来たときにもあって、ポルトガルからスペインに入る道を見失い、運転手が路傍の人に道を聞く、ということがあった。
スペイン人に限らず、こちらの運転手は事前に地図で確認するということをしない。
昔、イギリスのスコットランドのエジンバラ郊外でも、運転手が道に迷って土地の人に聞くというハプニングがあった。いずれも日本とは、国民性の違いである。
------------------------------------------------------------------------------

遍路道標識


サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(5)・・・木村草弥
 El Camino de Santiago de Compostela・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)

レコンキスタ発祥の地・・・・・オビエド
このレオンの街について書く前に写真①の道路標識を見てもらいたい。
オビエドの標識

オビエドは、今の巡礼路の主流からは逸れるけれども、かつては重要な役割を果たして来た。
このレオンから北へ逸れる。
北はカンタブリア海、南はタブリカ山脈に面したアストゥリアス地方の中心都市。8~10世紀には、レオンに遷都されるまでアストゥリアス王国の首都としての役割を果たした。この地方はレコンキスタ発祥の地としても有名で、中でもオビエドは、その中心であったから、サンタ・マリア・デル・ナランコ教会など、その時代に建てられた特有の建築様式をもつ周辺の建物とともに、街自体も世界遺産に登録されている。

かつてのレオン王国の首都・・・レオンはサンティアゴ巡礼路の半ば・・・レオン(1)
レオンはローマ遺跡の上に築かれた。かつてのレオン王国の首都。
ここレオンからサンティアゴまで残り336㎞と巡礼の本には書いてある。行程の半ば過ぎというところであろうか。
この街の見学は中心部のサント・ドミンゴ広場から始まった。
この広場に面して、アントニオ・ガウディが1892~93年に建てたカサ・デ・ボティネスという建物がある。現在は銀行として使われているが尖塔などにガウディらしい特徴が表われている。
写真②がそれ。
ガウディの建てた建物0001

建物の前にはガウディがベンチに座っているオブジェがある(写真③)。
ガウディの像

レグラ広場に面して建つカテドラルは13~14世紀に建てられたものである。
巡礼たちは、正面扉口中央に立つ白いサンタ・マリアの像に癒される。
カトリック圏では、いたるところに聖母マリアが居るが、特に、ここスペインは「マリア信仰」が盛んであることで有名。
この像は「白いヴアージン」と呼ばれている。
写真④にレオンのカテドラルを掲げておく。
レオン・カテドラル

街の中心部にあるカテドラル──大聖堂は、スペイン国内でも最も純粋なゴシック建築のひとつ。堂内のステンドグラスは圧巻である。私も何枚も写真に撮ったが、窓は高く、堂内は薄暗いので鮮明なものは撮れなかったので省略する。
一番はじめの回に書いた、檀ふみ他の『サンティアゴ巡礼の道』には野中昭夫撮影による鮮明な写真がある。
写真⑤に先に書いた「白いヴァージン」──正面ファッサードに立つサンタ・マリアの写真を掲げておく。
FI2618780_5E.jpg

この円柱には巡礼者たちがキスをしたり、帆立貝をこすりつけたり・・・・というわけで、無数の傷跡が残っている。道中の安全を願い、マリア像に祈りを捧げていくのだった。
ここを出て数キロ先の丘の上から振り返ると、眼下に大都市レオンの町並みが望めるという。

その前われわれはカテドラルから程近い同じく旧市街にある「聖イシドロ」教会を見学。

われわれは行かなかったが、巡礼者たちは病に冒されたりしてベルネスガ川沿いにあるサン・マルコス救護院に向かっただろう。川沿いに教会、女子修道院を連ねた、その建物は壮大なルネッサンス様式のファサードを持つもので、救護を乞う巡礼者たちには、さぞ頼もしい存在だったろう。
現在は、世界に誇る、教会、博物館つきの豪華なパラドールとなっているのは何とも皮肉なことである。
川に架かるベルネスガ橋を渡って巡礼者たちが向かうのは次のアストルガである。
レオンの街は現在、人口13万人余の中核都市としてある。

私の記事は、レオン(2)につづく。
----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(6)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

レオン(2)・・・・・サン・イシドロ教会の穹窿天井画
写真①にサン・イシドロ教会の見事な前室を荘厳するロマネスクの穹窿天井画を見つけたので掲出しておく。ただし私の撮ったものではない。
レオン・サンイシドロ教会梁

このところは王や王妃の墓室だが、そこに描かれている彩色画は「サン・イシドロの魂が燃えている」と評した人があるらしい。12世紀頃の中世人の理解したキリスト信仰の物語である。

レオン・・・・遍路宿
写真②はレオンに辿りついた巡礼者たちが、格安の実費で泊れる、いわゆる「遍路宿」と呼べるものである。
レオン・巡礼者宿

この建物には「SANTA MARIA DE CARBAJAL」と書かれている。
CARBAJALの意味が判らないが、さすがにSANTA MARIA と謳ってあるところが巡礼者にとっての「避難所」という感じがする。
ここを曲がって中庭のようになったところの二階の通ずる階段に人々が列を作って並んでいた。この中庭の周囲に遍路の泊まる部屋があるようであった。
その写真③を出す。
レオン・巡礼者宿予約の順を待つ人

巡礼の旅で疲れた身体を、こうした立派な施設で一夜か二夜か知らないが、休めるというのは幸運だろう。だから午前中から、こうして順番を待つのである。
この列の中ほどに居る人が東京から遍路に来ているという「萩原さん」とか聞いた。
みんな口々に声をかけて話しを聞いていたようである。
遍路をする人には、そんなに高齢の人は居なくて、せいぜい60代前半のようであった。誰かが外人の年齢を聞いて、たしか60歳とかいう返事が聞こえたので、私が進み出て、自分の鼻を指さしながら「I am 78years old」と言うと、おう、というような返事が返ってきて、私は、その外人と握手した。それは階段の人につづいて、下に列を作っていた人たちである。
レオン・巡礼者スタンプ

その際にガイドが、巡礼の「スタンプ帖」を見せてくれと頼んで、巡礼者の誰かが開いて見せてくれたのが写真④である。
四国遍路の集印帖とは、また違って、これはこれで色とりどりの美しい集印帖であった。
因みに、遍路の資料によると、これらの集印は「歩き遍路」で100㎞、「自転車を使った遍路」で200㎞の距離があれば、終着点のサンティアゴで証明書を呉れる、ということである。
見せてもらったスタンプ帖には、ほぼ30を越す印が押されているようであった。

なお、巡礼路にはイタリアから来るルート。
フランスからビレネーを越えて来るルートがある。いずれも千数百キロメートルあろうか。
全部を歩き通す人も多いらしい。

帆立貝の案内標識
レオンの街の舗道や石畳には、写真⑤のような「帆立貝」の標識が埋められていて、これを辿るとサン・イシドロ教会やカテドラルに行けるようになっている。
レオン・巡礼路の舗道の標識

写真の標識は「真鍮製」のようで、人の靴で踏まれて、ピカピカに光っていた。
街中は、人に聞けるからよいが、田舎に出ると、在来の「遍路道」が高速道路で分断されたりして判りにくいので、さまざまの標識が立てられている。
それらは後日お見せしたい。

レオンの観光を終って、カテドラル近くの、その名も「バール・レストラン・カテドラル」というところで「ガリシア風たこ料理」なるものを昼食に食べる。




-----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(7)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ルーゴ・・・・・ローマ時代の城壁の旧市街
レオンからサンティアゴに行く前に「ルーゴ」Lugo の街に寄る。
ルーゴ城壁

ルーゴ城壁0001

地図を見ると、レオンから300㎞くらいありそうで、もう「ガリシア地方」に入っている。
持参したガイドブックによると、ここは2000年に世界遺産に登録されたという記事はあるが、肝心の街の項目は全く載せていない。写真①が、その城壁で、街をぐるりと囲んでいる。この城壁の中が旧市街で、城壁に隣接する商店などは、この城壁をうまく壁に取り込んで建てている。ここでは教会にも入ったので、その写真もあり、またバスの乗り降りをした広い「バスターミナル」があり、この地方の田舎へ行く発着点らしかった。ここでトイレなどを借りたが省略する。
ここを出たあとは一路、サンティアゴへ向かう。

遍路道標識

サンティアゴ巡礼路の標識
サンティアゴに近づくにつれて、通過する道路ぎわに、写真②のような標識──特に、放射状の図案の「帆立貝」を模した標識が巡礼路を示して立っている。
私が、この紀行文の一番はじめのところに載せた標識である。
先にも書いた通り、巡礼路は、高速道路などの建設により分断されており、それらとの分岐点に立てられるのが多いようだ。
これらの様子は、日本の四国遍路と似ていると言える。
この辺りは山越えの地域に入ったようで、険しくはないが、山地で、平野の景色とは一変する。

なぜ人々は歩くのか?
それは、ここサンティアゴ・デ・コンポステーラにおいては敬虔なキリスト者としての祈りが基底としてあろうが、洋の東西を問わず、現代人にとっては、そういう信仰心、宗教心ばかりとは言えないだろう。
檀ふみの『サンティアゴ巡礼の道』の中で、彼女と同行したブラジル人作家パウロ・コエーリョは

<巡礼とは、生まれ変わること。今までの自分を捨てることなんだ。
 この道を歩いて、あなたもまた、新しい自分を見つけてほしい>

と言う。コエーリョには『星の巡礼』という本もある。この本こそ、彼の作家デビューを果たしたものである。

同じような「問いかけ」を日本でもするのである。
私の尊敬する短歌の先生である玉井清弘氏が昨年ご自身の「四国歩き遍路」のことを書いた『時計回りの遊行─歌人のゆく四国遍路』(本阿弥書店刊)(原文は「四国新聞」に週一回、平成17年1月~18年12月に連載されたもの)を上梓されたが、その中でも同様のことを書いておられる。

<なぜ遍路に出ようとしたのか、・・・・・歩くことによって自分の中にどのような想念が去来するのか見つめたい思いが強まっていた。・・・・・老いの入り口を迎えて、じっくりと自己と向き合ってみたかったのである。>

巡礼姿の聖ヤコブ

写真③は、アストルガの南、サンタ・マルタ・デ・テーラ聖堂南入口に立つ「巡礼姿の聖ヤコブ」(1129年頃)の像である。「帆立貝」の模様も見られる。

なぜ「帆立貝」なのか?
ものの本によると、ヤコブの遺体とともにスペインのガリシア海岸に漂着した弟子たちが「男の幻影を見た。男は波間から馬に乗って現れ、全身はびっしりとホタテ貝に覆われていた」からという。
しかし、巡礼のシンボルとして、帆立貝は美しいし、よく目立つ。
昔は、つば広の帽子に、長いマント、そして水筒がわりのヒョウタンが結ばれた杖。マントの肩口に、白い帆立貝が揺れていれば、それはサンティアゴへ向かう巡礼を現し、いわば制服であった。
今も巡礼たちは帆立貝を身につけている。リュックにくくりつけたり、首からぶら下げたりしている。
フランスでは帆立貝料理のことを「コキーユ・ド・サン・ジャック」と呼ぶのも、これに因んでいるのである。
聖ヤコブは、また、「サンティアゴ・マタモロス(ムーア人殺しの聖ヤコブ)」という物騒な異名を持つが、これは844年、クラビーホでのイスラム教徒との死闘を繰り広げていたとき、白馬に乗ったサンティアゴが忽然と現れキリスト教軍を勝利に導いたという伝説があるからである。

歓喜の丘・・・・・ゴゾの丘から夕陽のサンティアゴを望む
長いバスの旅の後、ようやくサンティアゴの街と聖堂の三本の尖塔を望む「ゴゾの丘」に立つ。ここは長旅をしてきた巡礼者たちが、ようやく辿り着いたかと、「歓喜の涙」にくれたということから「歓喜の丘」と呼ばれている。
ゴゾの丘

ゴゾの丘0001

私たちの着いたときもサマータイムを採用しているとは言え、スペインの西の端とは言え、さすがに西日も傾いて夕陽になっていた。
遠望するサンティアゴの街も、夕陽の中にあった。
丘の上に建つ銅像には、二人の巡礼者が、先に書いたような伝統的な遍路衣装に身
を包み、右手をあげて、サンティアゴの聖堂に向かって、まさに「ついに着いた」という
歓喜の姿が刻まれている。
写真④に掲げた標識には「MONTE DO GOZO」と書かれている。
私の想像では、この丘に立つと、直下にサンティアゴの街が見えるのかと思っていたが、実際には、街はまだ遥か彼方である。
しかし、長旅をしてきた巡礼者にとっては、そんなことは、とりたてて遠くはなく、まぢかの風景なのであったろう。

今夜はサンティアゴのホテル・コングレソ泊りで、いよいよ明日はサンティアゴ大聖堂を見学することになる。
-------------------------------------------------------------------------------


サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(8)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(1)
私たちの着いた日は5月13日であり、この日は「ファティマの聖母」の日として、ポルトガルから参詣団が来ているとかで大変混んでいた。
サンチァゴ正面

ファティマの聖母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファティマの聖母(Fátima)は、カトリック教会が公認している、ポルトガルの小さな町ファティマでの聖母の出現譚の一つ。

概要
1916年春頃、「平和の天使」と名乗る少年がファティマに住む3人の子供(ルシア、ジャシンタ、フランシスコ)の前に現れ、祈りのことばと額が地につくように身をかがめる祈り方を教えた。その後も天使の訪問は続いた。

1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に謎の婦人が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。子供たちは様々な妨害にあいながらも聖母マリアと名乗る婦人に会い続け、婦人から様々なメッセージを託された。

婦人からのメッセージは大きく3つあった。

①悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。ここには、悪魔の所作が働いている。対処は悪魔払い参照。
②人類の危機:全人類の大半を数分のうちに滅ぼす武器が戦争で使用されることによって、人類が瞬時に滅ぼされる可能性の伝達
③教皇暗殺の危機:1981年5月13日の事件をヨハネ・パウロ2世は、東欧の政権による暗殺未遂と発表している
-----------------------------------------
写真②が、ポルトガルのファティマから来た少年少女を主体とする参詣団である。みな赤い上っぱりやネッカチーフをしている。
サンチァゴ信者

礼拝が始まると、彼らは内陣で祝福を受けていた。
私たちも聖堂の中に入り、ごったがえす人並みにもまれながら、内陣奥に鎮座する本尊の「サンティアゴ」像の裏側に廻り、像に触れて祝福と加護を願ったものである。
本尊の写真などは、後で掲出する。
サンチァゴ・ヤコブの柱

栄光の門──サンティアゴが座る大理石の円柱
写真③がそれである。
ここについた巡礼者は、はるばると旅してきた苦労を思い出し、万感の想いをこめて、この柱の下部の聖ヤコブの「顔」に右手をつき、下の怪物の開く口(写真④)に左手を差し入れて感慨にひたる、というのが解説書の常識だったが、つい先月から、その基礎部分は太い鉄柵で厳重にガードされ、触れないようになっていた。
傷みがひどいのであろう。
聖堂と言えども、押し寄せる人並みには勝てないのである。
この写真は、私が鉄柵の隙間からカメラを差し込んで撮ったもので、写真の脇に太い鉄柵が見えるだろう。
サンチァゴ・ヤコブの柱0001

7月25日がサンティアゴの祭日である。
大聖堂は信徒で埋まることであろう。カトリックの儀式は長年の伝統によって、華麗に、厳粛に、敬虔に演出されるから、さぞや見事なものであろう。
私たちも「ファティマの聖母」の日に遭遇して、それと同じような経験をさせてもらうことが出来たのであった。
その後、私たちは現地ガイドに導かれるままに、堂内を辿り、内陣奥に鎮座する本尊のサンティアゴ像(写真⑤)の裏側に廻り込み、
サンチアゴ本像0001

一人づつ狭いところを通ってサンティアゴ像の背中に触れ、キスをして、祝福と加護を願ったのであった。

一旦、集団行動としては解散したあと、ミサの時間に合わせて各自で、その様子を拝観することになる。
その様子などは、サンティアゴ・デ・コンポステーラ聖堂─(2)で詳しく書くことにする。
-------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(9)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

サンティアゴ大聖堂(2)ファティマのミサ
自由行動から堂内に戻ってみると内陣の周りには十重二十重に人波が取り囲んでいた。
先に書いたようにポルトガルのファティマから来た少年少女の巡拝団の一行が内陣の柵内に案内されて、ミサの開始を待っていた。
FI2618785_1E.jpg

振られる香炉「ボタフメイロ」・・・迫力ある動画
内陣では僧侶が出てきて、祈りの言葉が朗々と唱えられる。
荘厳なミサのはじまりである。
式は進んで、巡拝の少年少女たちに「聖パン」が与えられる。
そして一般参拝者の中からも信徒たちが内陣に導かれ、同じく「聖パン」の授与を受けている。口を開いて、じかに舌の上に置いてもらう人、手に受けてから口に運ぶ人など、さまざまである。
私たちの同行者の中にもカトリック教徒の婦人が二人おられて内陣で祝福を受けておられた。

私が、ここで待ち構えているのは、振られる香炉「ボタフメイロ」Botafumeiroを見るためであった。
出来ればカメラに収めたいと思ったが、動きが速すぎて撮れなかった。

私が今回の旅で唯一、お名前、住所などを交わした高槻市のT・Fさんから香炉の静止画をメール送信していただいたのだが、ここに掲出するには不適当でやむなく見送った。T・Fさん、ごめんなさい。
代わりに現地で買ってきた写真集の中に載る香炉の写真を転載しておく。
煙も出ている写真である。
T・Fさんは、ここでの香炉の「動画」を見事に撮られたとのことであり、ぜひネット上の動画サイト「You Tube」などににアップしてほしい。そしたら、私は「リンク」で紹介させてもらうのだが。。。。

サンチアゴ香炉0001

(追記)この記事をご覧になったbittercup氏からコメントがあって、すでにYouTube ♪ボタフメイロの動画♪ が出ているというので、さっそく見てみた。



すごい迫力である。ぜひ皆さん、ご覧ください。
----------------------------------------
今回の旅の食卓を共にした人のうち、インターネットなどの話から、私がBLOGをやっているという話の延長で、私の名刺を上げた人は何人か居るが、先方からは何のお知らせもないから、私には何も判らないのである。
サンティアゴへの観光客の写真を出しておく。
サンチァゴ観光客

彼らは私たちと同じように少し離れた駐車場から、ぞろぞろ歩いて道一杯になってやってくる。
私は敢えて「信徒」とは呼ばない。彼らがキリスト教徒ではあっても、われわれと同じような観光客のレベルだと思うからである。
日本人のわれわれが、仏教徒ではあるが、お寺にぞろぞろ団体で押し寄せるのと大差ないと思うからである。
この日がファティマの日であるためかどうか知らないが、この人出は大変なものであった。
サンチァゴ帆立貝の巡礼者

「帆立貝」のリュックの巡礼者
先にも巡礼者が着ける「帆立貝」のことについて書いたが、サンティアゴの門前の路地で見かけた「遍路」たちの後姿である。白人の初老の夫婦のようであった。
ようやく念願の聖地に到達できて、ほっと肩の荷を下ろしたところだろうか。
労わり合うように寄り添って歩く仲むつまじい姿に接して、私の胸中に亡妻を思い出して、去来するものがあった。
一番はじめにも書いたが、ここサンティアゴに来たいと思ったのは、昨今のことではない。
妻と一緒にイスラエルの「エルサレム」を訪問したのはミレニアムの年2000年5月のことであった。亡妻も、このイスラエルの旅が一番印象に残っているようであった。さればこそ、私の胸に迫ってくるものがあるのであった。
巡礼者や観光客の姿が絶えない、大聖堂前の「オブラドイロ広場」。
その北面を占めるのが、かつて無数の巡礼者に宿泊と食事を提供し、病気になった者の治療を行っていた旧王立救護院の壮大な建物である。写真⑤。
サンチァゴ・パラドール

コロンブスを新世界への旅に送り出したイザベル、フェルナンド両王の命により16世紀はじめに完成したもので、とりわけ金銀細工のような緻密な装飾を見せるプラテレスコ様式の正面入口は見事である。
今ここは近代的設備とサービスを備えた国営ホテル「パラドール」に生まれ変わっている。
今日の昼食はここで摂ることになるが、今までの昼食とは一味違ったものになったかどうか。

Compostela・・・・「星の野原」の意味について
このことについては、この紀行文の一番はじめの日6/2の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ──日本語に訳せば「星の野原の聖ヤコブ」──」に書いておいたが、田辺たちの翻訳した本『サンティヤゴ巡礼の世界』には、
こう書かれている。

<原初の伝説が伝えるコンポステーラは星の野原であり、それゆえ天上の性格を有した場所であると同時に、そこにやってくる巡礼者にとっては超越性の場所でもある。それは西欧の果てにある、ベツレヘムの星の記憶である。それはまた、compostumすなわち墓地と呼ばれていたが、そのことがコンポステーラの歴史的真実と復活の約束を示している。・・・・・フルカネッリは「あるものを受け取ったことを意味するラテン語のコンポスcomposは、ステルラstellaすなわち星を所有している。」いくつかの伝説はまた、コンポスcomposというラテン語を異なったふうに強調して、この語に「なにものかの主人である」という意味、すなわち力の源泉の意味を与えている。>(訳書365ページ)

この文章を読むと、あらゆる説明は結局、生と死の神秘に、そして実存の能力と存在への勇気における人間の営みの神秘に収斂される、ことを実感するのである。

キリスト教世界三大聖地の固有の記号
三大聖地ということも同じ日の記事に書いたが、それについて少し説明したい。
西ヨーロッパのキリスト教の三大聖地にはそれぞれ固有の記号がある。
エルサレムの巡礼者にとっては棕櫚、「ローマ詣でをする人」にとっては交差した鍵、そしてサンティアゴ巡礼者にとっては少なくとも12世紀からはホタテ貝であった。
これらの習慣の意味する象徴的性格は、棕櫚は凱旋を、貝殻は善行を表す。なぜか。ホタテ貝殻は、その形によって、善行の道具である人間の手を想起させるからだ、と書かれている。
しかし、近代に入ってからは、どこの巡礼者にも、コンポステーラの印(ホタテ貝)がつけられるようになる。
北フランスのモン・サン・ミッシェルでも、巡礼はホタテ貝をつける。
聖ロックのような「バチカン」派の高位聖職者の上着にもホタテ貝がついているのが見られる。
こういう「符号化」を見ると、サンティアゴ巡礼が近代西欧の精神世界に深くかかわっていることが理解できるだろう。
この本を読むと、ホタテ貝についても墓の発掘による考古学的発見のことなども書かれているが詳細は省略する。関心のある方は、本書を参照されたい。
-----------------------------------------
一路、ポルトへ
これでサンティアゴでの見学は終わり、あとは一路、国境を越えて、今夜宿泊のポルトガルの「ポルト」まで走ることになる。
地図を見ると、サンティアゴ・デ・コンポステーラの街はイベリア半島の西北端というところであり、ポルトガル国境まで、つい目の前という感じがするが、結構な道のりがあり、海岸線(大西洋)に出ると、入り江が入り組んだリアス式海岸で、それらを迂回するように道路が走っていて時間がかかる。
国境のところにトゥイTuiという町があり、そこに流れる川の真ん中が国境であった。
右手はすぐに海岸、左手には山が迫るが高さはいずれも1000メートル台の山脈である。
海が見えたり、見えなかったりして海岸線を一路、約300~400km走ったろうか、夕闇の迫る中、ポルトの街に着く。
ポルトは狭い坂の街。トラムが縦横に走っている。バスはホテルを探して、迷って、今夜宿泊のBatalha広場に面したホテルQuality Innに入る。
-----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(10)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ポルト・・・坂の町・・・街全体が世界遺産
写真①は私たちの宿泊したホテル・クオリティ・インの自室の窓からの眺めである。
トラムの軌道が見えているが、トラムを撮ろうと、ずっとカメラを構えて待っていたのに、早朝のせいか全然来なくて結局一枚も撮れなかった。
この広場はバターリャBATALHA広場という。他のコーナーにはオペラハウスがあるということだった。
ポルトは「坂の町」で、狭い道にトラムが、ごとごと走っている。
ポルト・バタルハ広場

ポルトの歴史
ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

ポルトを含む一帯は、イスラーム勢力に占領されたこともあったが、12世紀フランス王族ブルゴーニュのアンリがレコンキスタでこの地を奪回した。

1387年、ジョアン1世とイングランド王エドワード3世の第4子であるジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパ・デ・ランカストルとの結婚式がポルトで行われた。イギリスとポルトガルの同盟関係は、この時代から始まっており、現代のNATOにまでつながる盟約関係である。

14世紀から15世紀にかけての大航海時代、ポルトで生産された船団は、ポルトガルの海軍の発展に大いなる貢献をした。1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子は、ポルトを出発し、モロッコの地中海に面する港町セウタを攻撃した。エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外への雄飛への出発点であった。
18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。

「歴史地区」は、全体が世界遺産になっている。

ポルト・ドウロ川

ドウロ川に架かる橋
両岸がきつい傾斜になっているので、鉄製の高い橋が両岸を繋いでいる。
聖フランシスコ教会、ポルサ宮、リベルダーデ広場などを徒歩で廻るが、記憶が曖昧で省略する。
ポルト・リベルダーデ広場

今日は雨になってきて一日小雨あるいは本降りの雨に濡れた。
アズレージョの陶板の美しいというサン・ベント駅なども車窓から眺めるだけである。
写真③にドウロ川をクルーズする船などを出しておく。
ポルト・ドウロ川0001

エンリケ航海王子も探検に出掛けたのも、ここの川岸からだという。
それを記念して、カテドラルやポルサ宮の上手に「エンリケ航海王子広場」というのがある。

写真に写る対岸ヴィア・ノーヴァ・デ・ガイア地区には60ヶ所ほどのポルトワインセラーが並び、そのうちの「サンドマン社」に入って、見学と試飲をする。
名前の通り、ここはイギリスの会社である。ポルトワインは、赤ワインにブランデーを添加して熟成して製造する。独特の製法である。
写真④⑤が「サンドマン社」。
対岸の川沿いは「カイス・ダ・リベイラ地区」といって、臓物料理からシーフードの店など多彩な店があるというが、説明を受けるだけで、午前中は店も開いてはいない。
ポルト・サンドマン社

ポルト・サンドマン社0001

工場の案内は、商標になっている黒いマントを着た日本人の女の人が案内人になる。
その写真も撮ったがピンボケで掲出はあきらめる。
仕込みの樽にも、商標になっている「黒いマント」のマークが刷り込まれている。
試飲と即売のコーナーでは、すぐに飲む若いワインと何年も熟成されたワインとの「飲み比べ」をする。
アルコール度数が19度くらいあるから、グラスのものを全部あけると酔っ払うので、私は少し口をつけた程度にする。
口当たりは極めて甘く、日本でサントリーが「赤玉ポートワイン」の手本にしたというのも頷ける。私は熟成ものの二本セットを買った。36ユーロというから、結構たかいものである。

ここを出て、後は一路「ナザレ」へ向かう。

(サンティアゴ・デ・コンポステーラを過ぎたので、今回から見出しに──スペイン・ポルトガル周遊──を付加することにする)
--------------------------------------------------------------------------

ナザレいわし塩焼き

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(11)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ナザレ・・・古代フェニキア人が開いたリゾート地
美しい砂浜の海岸線を持つ──ナザレ。
砂浜すぐ近くの海鮮レストランで「イワシの塩焼き」を昼食に食べる。
日本の塩焼きそっくりで、肉料理ばかりのお腹に心地よく入る。
写真②が、そのレストラン。
ナザレいわし塩焼きレストラン

白人たちもたくさん食べている。
白く長いビーチもあるので、バカンス客も訪れるリゾートという。
ナザレ海岸

古代フェニキア人によって拓かれた歴史のある漁村だという。
レストランの他には、みやげ物屋が一杯。
レストランの二階から上はホテルになっている様子。

ケーブルカーで崖の上へ
食後は、写真③のように急な崖になっている丘があり、ここへは「ケ-ブルカー」ascensorが通じているので、出掛ける。
町並みとビーチが一望のうちに眺められ、天気も良くて爽快。太陽の直射が久しぶりにきつかった。
ナザレケーブルカー

ナザレケーブルカー俯瞰

④⑤にケーブルカーと丘の上からの俯瞰を出しておく。
ケーブルカーの線路を下から写したもの。
ケーブルの線路脇には見事な野生のアロエが茂っていた。
写真⑤に写るように、町並みも美しいが、この地を何年かぶりで訪れた添乗員の話によると、町並みもすっかり変わり、住宅もリゾート目当ての人も増えて、金額も大幅に高くなっているという。
どこにでも、住宅バブルみたいなものはあるのである。
写真はクリックすると大きくなる。その大きくなった写真の右下に拡大マークが出るので、それをクリックすると更におおきく鮮明に見られる。
俯瞰した町並みと右側には白いビーチ。
リゾートの用件を、すべて満たした条件である。
この街へ出入りするのに林の中を横切ったが、松の木が多い。
「松」の木にも「地中海」性の松というのがあるらしく、一概には言えないらしい。
そう言えば「まつぼっくり」なども形のすごく大きいものから、日本の松のように小さいものまで、いろいろあるのが、その証拠だろう。
イベリア半島には「松」の木が本当に多い。
後は、一路、「オビドス」へ向かう。
-----------------------------------------------------------------------------

オビドス0002

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(12)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

オビドス王妃に愛された「谷間の真珠」
周囲をブドウ畑に囲まれ、ブーゲンビリアの赤が白壁に映える美しい、中世の町。
王妃の直轄地として代々受け継がれてきた。
オビドス

オビドス0003
ポルタ・ダ・ヴィラ内部の見事なアズレージョ
オビドス・アズレージョ

ここオビドスは、ポルトから、ナザレを経て、リスボンに至る途上の景勝地である。
ここオビドスは石畳の小道に白壁とオレンジ色の屋根の家々が連なる可愛らしい町。
添乗員の話によると、ここは旅の後のアンケートでも、一番に上げられる人気のある場所だという。
この町が「谷間の真珠」と言われる、と聞くと、むべなるかなと肯定できる。
城壁内は一周ぐるりと廻っても20分ほど。
しかし城壁に上下する階段の石は結構きつい。
城壁への道の両側は、ショップやカフェがぎっしり。
街への入口、ポルタ・ダ・ヴィラの内部にある17世紀の「アズレージョ」は美しい。
城壁に囲まれた町の南側にある二重構造の城門の内部である。

サンタ・マリア教会内部にも17世紀の素晴らしいアズレージョがあるという。
町を囲む城壁が、ぐるりと見渡せる。
城壁の外にはブドウ畑が見えている。
リスボンから、バスで、1時間10分。日帰りも可能なので人気の町である。
オビドスはは城壁に囲まれた人口800人ほどの小さな町。
「谷間の真珠」と呼ぶにふさわしい絵のような町で夏は色とりどりの花が彩る。
1282年にすっかり魅了された王妃イザベルにディニス王が村をプレゼントした。
以後1834年まで代々の王妃の直轄地となり今もなお中世のままの姿をとどめている。
おとぎの国のようにかわいい町で、観光地として人気の町であるらしい。

リスボンに着いて、夜は「ファド」ショーを見物する。
民族舞踊なども入っていて、純粋なファドとは違う。はじから終わりまでなじめなかった。
席の位置の関係もあって(隅に押し込められたので)写真も一切撮れなかった。
前回1990年1月に来たときに、ファドを聴いて作った私の歌

哀愁を帯びたるファドの熱唱に不意に涙すエトランゼわれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

眼つむりて聴きたりアマリア・ロドリゲスむせびて唄ふ「暗いはしけ」(バルコ・ネグロ)を
-------------------------------------------------------------------------------

リスボン・トラム

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(13)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

リスボア・・・曽遊の地、車が多く道路が良くなる
かつてポルトガルというと、ヨーロッパの中では最も貧しい国と言われてきた。
パリなどの「子守り」や「メイド」さんはポルトガル人だというのが常識だった時代があった。
サラザール独裁政権が長く支配していたのが倒されて、選挙によって、ようやく自由主義国の仲間入りをした。前回来たときには選挙期間であって、華やかに選挙運動が繰り広げられていた。社会民主主義政党も躍進したりした。
この前に来たのが1990年だから、久しぶりに来たリスボアの町は郊外に街が広がって、どこがどこやら判らないような浦島太郎の気分。
しかし、アルファマ地区などの面影は残っていて、トラムも健在であった。
そのときに、ここで私の詠んだ歌

坂多きアルファマの小路すぎゆけば洗濯場あり女群れゐて・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

ベレンの塔・・・16世紀、大航海時代の栄華の象徴
リスボアの旧市街と言えるアルファマ地区の海沿いにあるベレンの塔。
リスボン・ベレンの塔

司馬遼太郎は「テージョ川の公女」と評したが。。。
本体は変わらないが、周辺に何だか構築物が増えた感じ。
塔に装飾物が架かっているのも説明があったが忘れた。
前はベレンの塔を見たあとは次のエンリケ王子のところまで歩いたものだが、今回はバス移動だが、却って大廻りして時間がかかる。

発見の モニュメント──エンリケ航海王子500年記念
これはエンリケ航海王子の死後500年を記念して建てられたもの。高さ52mの帆船ヲイメージした船の先端にはエンリケ王子が立ち、ヴァスコ・ダ・ガマや宣教師、学者などが並ぶ。
リスボン・エンリケ王子碑

ガイドブックを読めば判ることは省略することにしよう。
エレベータで上に登れるようになっているらしい。そこに登ると、ジェロニモス修道院やインペリオ広場などが一望できるという。ここの広場が、そういう名前というのは初めて聞いた。
リスボン・床の地図

リスボン・床の地図0001

モニュメント前の広場の床には大航海時代を切り拓いた地図などが大理石で、きれいに作られている。これも以前には無かったものだ。
これらのものの前に広がるのはテージョ川であって、まだ大西洋ではない。
テージョ川はスペインに源を発して大河となり、ここに注いでいるのである。流れる国によって呼び名も変わる。
タホ川(スペイン語: El Tajo)・テージョ川(ポルトガル語: Rio Tejo)はイベリア半島で最も長い川。全長1008km、そのうち上流側の910kmがスペインにあり、河口側の98kmがポルトガルにある。アラゴン州のテルエル県付近から流れ出し、アランフェス、トレド、タラベラ・デ・ラ・レイナを通り、ポルトガルのコンスタンシア、サンタレン、リスボアで大西洋に注ぐ。

リスボアのテージョ川河口部には4月25日橋(かつてはサラザール橋と呼ばれた)とヴァスコ・ダ・ガマ橋が架かる。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は全長が17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。

ジェロニモス修道院
ここはエンリケ航海王子が船乗りたちのために建設した礼拝堂を元にして、大航海時代全盛期の1502年、マヌエル1世の命により造られた修道院。
リスボン・ジェロニモス修道院0001

リスボン・ジェロニモス修道院

19世紀の完成までに長い年月と、東方交易で得た巨万の富がつぎ込まれた。付属のサンタ・マリア聖堂から成る建物である。
内部は、とても込んでいたが、現地ガイドの堀さんの案内で廻ったが碌な写真は撮れなかった。
建物の柱や入口などの装飾に航海に必須の「ロープ」が文様として彫られているなど専門的な話を聞いた。
堀さんは「世界ふしぎ発見」などのルボ番組や映画撮影の現地での設営などのプロダクションを本業としてされているという。

この後、堀さんの案内でアルファマ地区のリベルダーデ大通から、坂の町リスボアの高地を結ぶケーブルカー・グロリア線の乗り場近くの金細工店などに入るが私はバルでコーヒーを飲んでいた。雨が小降りから本降りになり、ズボンの裾がすっかり濡れた。
昼食をアルファマ地区のレストランで「バカリャウ」(たら料理)を食べて、あとは一路、シントラ、ロカ岬へ。

これで「リスボア」の観光は終わりである。前回はタクシーで「サン・ジョルジェ城」にも登ったし、フルファマ地区を散歩して、洗濯場を覗いたりしたが、そんなものは今回はいっさい無し。
-------------------------------------------------------------------------

300px-Nt-sintra-palacionacional2シントラ宮

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(14)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

シントラ宮──王たちの避暑地
午後はリスボア郊外の山地にある王の避暑地・シントラ宮へ。
ここも曽遊の地である。1990年1月にここに来たとき私の詠んだ歌

バイロンがエデンの園と讃へたるシントラの街は濃き緑なす・・・・・・・・・・・木村草弥

合戦に勇める馬を描きたりシントラ宮のアズレージョの藍・・・・・・・・・・・・・木村草弥

いずれも第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。

ネット上の記事を引いておく。
-----------------------------------------
シントラ宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シントラ宮のメイン・ファサード・シントラ国立宮殿 (Palácio Nacional de Sintra)は、ポルトガル・シントラにある宮殿。少なくとも15世紀初頭から19世紀後半にかけポルトガル王家が住み続けており、ポルトガル国内で最も保存状態の良い中世の王宮である。シントラの文化的景観の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

歴史
中世
シントラ宮殿の歴史は、イスラム教徒がイベリア半島を支配していた時代から始まる。その頃シントラには2つの城があった。一つはシントラをのぞむ丘の上に立つ城で、カステロ・ドス・モウロス(Castelo dos Mouros,ムーア人の城、という意味)と呼ばれていた。この城は現在廃墟となっている。もう一つは、下り坂に位置し、シントラ地方を治めるムーア人支配者の住居となっていた。12世紀、シントラの村はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちのポルトガル王アフォンソ1世)によって征服され、彼はムーア人の住居を我が物とした。ゴシック様式、マヌエル様式、イスラム風建築が現在の城で混在しているが、これは15世紀から16世紀初頭にかけての建築の結果である。

かつてのムーア人支配者の宮殿と、初期のポルトガル王が住んだ宮殿はどちらも遺っていない。14世紀初頭のディニス1世治下で建てられた王室礼拝堂が遺るのみである。城の大部分は、1415年頃から始まったジョアン1世が後援した建設計画で建てられた。

1509年頃、画家ドゥアルテ・ダルマスの描いたシントラ宮殿。マヌエル様式翼がまだ建っていない。中央中庭のほとんどの建物(アラ・ジョアニーナ、ジョアン翼)はこの計画で建てられた。ファサードの建物、マヌエル様式の中方立て窓、アジメゼスというイスラム建築、厨房の円錐形煙突、そして多くの部屋も計画に含まれた。

白鳥の間 - Sala dos Cisnes マヌエル様式。天井に描かれた白鳥の絵にちなむ。
鵲の間 - Sala das Pegas 天井に描かれた鵲の絵にちなむ。鵲のくちばしにはpot bem(善意で、という意味)と書かれた紅バラがくわえられている。これには逸話があり、ある時、ジョアン1世は女官にキスしているところを王妃フィリパ・デ・ランカストルに見つけられた。王は『善意でキスしたのだ。』と弁解し、フィリパは何も言わなかったが、噂が女官たちの間で広まってしまった。王は、「おしゃべり」という意味のある鳥である鵲を部屋の装飾に用い、かつまたフィリパの実家ランカスター家の紋章である紅バラを描かせた。
アラビアの間 - Sala dos Árabes
ジョアン1世の長子ドゥアルテ1世は、この宮殿を非常に好み、長く滞在した。彼は、建物の使い方や、進化を了解するのに非常に価値のある記述を残している。この宮殿を好んだ証拠として他に、ドゥアルテ1世の嫡子アフォンソ5世はシントラで1432年に生まれ1481年にシントラで死んでいる。アフォンソ5世の子ジョアン2世 は、シントラ宮殿でポルトガル王即位を宣言した。

16世紀
マヌエル1世の代に、彼の後援の元で建物増設や装飾が加えられた。1497年から1530年にかけての建築では、大航海時代の発見による富が惜しげもなく注ぎ込まれた。マヌエル1世の治下でゴシック様式、ルネサンス様式は移り変わってマヌエル様式の発展を見た。同様に、イスラム建築の復古がされ(ムデハル様式)、アズレージョという色彩タイルの装飾が好まれた。

マヌエル1世は、メイン・ファサードの右に『アラ・マヌエリーナ』(Ala Manuelina、マヌエル翼)の建設を命じ、典型的なマヌエル様式の窓で飾らせた。彼は紋章の間(Sala dos Brasões, 1515年-1518年)を、主要なポルトガル貴族の紋章と自身の紋章の計72個描いた壮麗な木製の天井で飾り立てた。そのうちコエーリョ家の紋章は、ジョアン2世に対する陰謀が発覚した後取り除かれた。

ムデハル様式の歩廊マヌエル1世は、宮殿ほとんどの部屋を彼がセビーリャに特注させたタイルで再度装飾した。多色使いのタイルのパネルは、イスラムのモチーフを生み、アラビア風の雰囲気を漂わせている。

近代・現代
宮殿は、代が変わっても王たちの住まいとなり、そのたびに新しい画法の装飾やタイル装飾、家具などが付け加えられた。身体・精神ともに障害があったというアフォンソ6世は、実の弟ペドロ王子(のちのペドロ2世)により実権を奪われ、シントラ宮殿に1676年から幽閉されていた。彼の住んでいた部屋がそのまま保存してあり、彼が動き回っていた場所だけ、絨毯がすり切れているのが確認できる。アフォンソ6世は宮殿から出ることのないまま、1683年に死んだ。

1755年のリスボン地震で宮殿全体が傷んだが、現代的な理由から『古風に』修復された。アラビアの間の塔が大地震で大きく損傷し、崩壊してしまった。18世紀後半、マリア1世がアラ・マヌエリーナを装飾し直して再度部屋を分割した。

19世紀の間、シントラ宮殿は再び王家のお気に入りの場所となり、一家がしばしば滞在した。特にカルルシュ1世妃アメリアはシントラを愛し、いくつもの絵画を描いた。1910年の共和国樹立と同時に、宮殿は国の文化財となった。1940年代、建築家ラウル・リノは宮殿に元の輝きを取り戻そうと、他の宮殿から古い家具を持ち込ませたり、タイル・パネルを修繕した。以来、この宮殿は重要な歴史的文化財となっている。
----------------------------------------
今回は、このシントラ宮しか見学しないが、前回来たときは自由時間がたっぷりあり、昔の城跡まで登ってたっぷりと見た。

ロカ岬・・・地果て、海はじまるところ
次いで、イベリア半島というより、ヨーロッパ最西端のロカ岬へ。
ロカ岬(Cabo da Roca)は、ポルトガル共和国リスボア都市圏にあるユーラシア大陸最西端の岬である。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島が点在する。シントラやカスカイスから、バスが出ており、リスボアからの日帰り観光も可能である。

またここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」の
第3詩20節の一節
「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」
を刻んだ石碑が立っている。 また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。証明書には名前・日付等が入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩(日本語もある)が書かれている。

写真②に岬の突端に立つ石碑。
ロカ岬

写真③に、上に書いた有名な「詩」の一節が書かれたプレート。
ロカ岬0001

写真④に「到達証明書」 を載せておく。
ロカ岬証明書


1990年1月ここに来たときに私の詠んだ歌

遠く来て海を見てをりロカ岬海風つよく吹きすさぶなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。
「到達証明書」には、私の名前をアルファベットの「飾り文字」体で書いてある。
前回来たときにも貰ったが、今回は紙の様式が少しちがうようである。

写真⑤が、ロカ岬の「灯台」である。
ロカ岬灯台

大西洋を進んできた船にとっては、この辺りは、結構、霧がかかることが多いので、航行の安全のための、貴重な目印、導きであるらしい。

ヨーロッパの夏時間も、すっかり夕暮れになり、辺りは薄暮の気配になってきた。
さすがに、もう、この時間からロカ岬に来る車もほとんど無い。
夕方の気配の中を一路、リスボアへ戻る。
-----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(15)・・・・・・・木村草弥
  El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)

エヴォラ──スペイン途上の世界遺産の街
写真①はエヴォラ大聖堂のファサード。
200px-SC3A9_C389voraエヴォラ大聖堂ファサード

以下にネット上から記事を引いておく。
---------------------------------
エヴォラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エヴォラ (Évora) はポルトガル南東部アレンテージョ地方にある町である。人口は、55,619人。面積は、1307.0平方キロメートルであり、スペイン国境に近い。

旧市街は1986年に、ユネスコの世界遺産に「エヴォラ歴史地区」の名で登録された歴史ある街である。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街である。

ローマ時代
アレンテージョ地方は、タホ川(ポルトガル語では、テージョ川)の南に広がる平野地帯であり、エヴォラは、河口に位置するポルトガルの首都リスボンより東に約130㎞の所に位置している。旧市街の史跡の保存状態も良く、UNESCOの世界文化遺産に登録された。
エヴォラの歴史は、ドウロ川以南のポルトガル及びスペインのエストレマドゥーラ州に居住していたイベリア半島の先住民族であるルシタニア人(en:Lusitanians)が建設したことに始まる。彼らによって、アレンテージョ地方の首都として機能をエヴォラは持つこととなった。
紀元前57年、エヴォラは、共和制ローマの支配下に入った。これ以降、エヴォラは2重の城壁を持った町へ発展を遂げた。ガイウス・ユリウス・カエサルは、エヴォラの町を「Liberalitas Julia(肥沃なるジュリア)」と呼んだ。町の成長は、エヴォラが交易路の交差点であったことからも続き、ガリア、ルシタニアを旅行した博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)も、エヴォラを訪問し、著書『博物誌』に「Ebora Cerealis」として、記述した。その記述によると、当時のエヴォラは、周囲を小麦畑で囲まれていたことが分かる。また、エヴォラの繁栄は、この当時に多く発行されたコインでも明らかである。町の中心部には、コリント様式の神殿が建立され、ローマ初代皇帝アウグストゥスが祀られた。

ローマからイスラームへ
4世紀になると、エヴォラにもキリスト教が浸透し、司教座を持つようになった。その名前は、クインティアヌス(Quintianus)と呼ばれた。

民族移動時代の間、エヴォラは、西ゴート族の領土となった。エヴォラの地位は、聖堂を持つ都市へと昇格していた。とはいえ、この時代の建造物は多く残されていない。

715年、ターリク・イブン・ズィヤード率いるムーア人が、エヴォラを征服した。イスラームの統治は、1165年にまで及んだが、エヴォラはゆっくりとではあるが、繁栄を取り戻していった。エヴォラは要塞とモスクを持つ町となり、この地方の農業の中心地となった。エヴォラの町の特徴は、ムーア人の影響を受けている。

レコンキスタ以降
1165年9月、ジェラルド豪胆王(pt:Geraldo Sem Pavor)の攻撃を受けた。翌年、エヴォラは、アフォンソ1世の統治下に入った。その後、15世紀にかけて、ポルトガルは経済的繁栄を築くが、ブルゴーニュ王朝・アヴィシュ王朝の時代を通して、ポルトガル国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。エヴォラでは、王族の結婚式が行われ、また、重要な決定もしばしば行われた。
特に、アヴィシュ王朝時代、とりわけマヌエル1世やジョアン3世が統治した15世紀後半から16世紀の前半にかけて、エヴォラはルネサンスの中心となり、フランス人彫刻家のニコラ・シャントレーヌ(en:Nicolau Chanterene)やポルトガルの戯曲の父であるジル・ヴィセンテ(en:Gil Vicente)といった芸術家が集まった。
エヴォラは、1540年に大司教座に昇格した。1559年には、イエズス会によってエヴォラ大学が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗改革の中心となり、スペインのクエンカで生まれたルイス・モリーナ(en:Luis Molina)などが、ここで宗教教育を受けた。
1759年、ポンバル侯爵がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されると、エヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。)
多くの芸術家によって、たくさんの建物がエヴォラの地に建設された。現存する建築物の様式は多様性に富んでおり、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築、バロック建築と様々である。
現在、歴史地区の範囲は1.05平方㎞であり、約4000の建物がある。
世界遺産
UNESCOのリストによると32の物件によってエヴォラ歴史地区が構成されている。以下にその一部を記す。

主な世界遺産物件
アグア・デ・ラプラタ送水路(Água de Prata Aqueduct)--1531年から1537年にかけて、ジョアン3世の手によって建設された送水路。ベレンの塔を設計したフランシスコ・デ・アルーダが9㎞に及ぶ送水路を設計した。この送水路は、ジラルド広場が終点である。
エヴォラ大聖堂(Cathedral of Évora)--1280年から1340年の間に主に建設されたエヴォラの誇る大聖堂。1335年頃に作られた使徒の像を伴った入り口と美しい教会堂の身廊(en:Nave)と回廊を持つ。(十字形教会堂の左右の)翼廊のチャペルの1つは、マヌエル様式であり、メイン・チャペルは、バロック様式である。また、パイプオルガンと聖歌隊用の部屋はルネサンス様式である。
エス・ブラス・チャペル(S. Brás Chapel)--1480年に建設されたムデハル建築とゴシック建築が融合した一例である。
サンフランシスコ教会(Saint Francis Church)--15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設されたゴシック様式とマヌエル様式が混合した建築物である。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作である。多くのチャペルがバロック様式で装飾されている。
ヴァスコ・ダ・ガマ邸宅(Palace of Vasco da Gama)--1519年から1524年の5年間、ヴァスコ・ダ・ガマは、エヴォラに滞在していた。マヌエル様式の回廊とルネサンス様式の絵画が現存してる。
カダヴァル公爵邸(Palace of the Dukes of Cadaval)--14世紀に出来た建築物で、17世紀にファサードは改装されている。
ロイオス教会(Lóios Convent and Church)--ディアナ神殿の隣にある15世紀に建築された教会。教会と回廊はゴシック様式を採用し、内壁はアズレージョ(en:Azulejo)と呼ばれるタイルワークで飾られている。
Ladies' Gallery of Manuel I's Palace--マヌエル1世によって建てられた邸宅。ゴシック様式とルネサンス様式が融合した建物であり、ヴァスコ・ダ・ガマがここで、インドへの航海を任命されたと伝えられている。
ディアナ神殿(Roman Temple)--前述の通り、1世紀に皇帝アウグストゥスを祀るために作られた神殿である。
エヴォラ大学(University of Évora)--前述の通り、1559年に建設されたイエズス会の神学校を起源とする。16世紀のマニエリスムの教会と17世紀から18世紀にかけて建設された巨大な回廊がある。
ルネサンス時代の泉(Renaissance fountain at Largo das Portas de Moura)--1556年に作られたルネサンス様式の泉。
ジラルド広場(Giraldo Square)--街の中心部であり、ドゥアルテ1世が建設したゴシック建築の建築物が現存している。
アルメンドレス環状列石遺跡(en:Cromeleque dos Almendres)--エヴォラから15キロメートルのところにある巨石記念物
ザンブジェイロ巨石遺跡(en:Anta Grande do Zambujeiro)--エヴォラから10㎞のところにある支石墓。
----------------------------------------
ここでの昼食は「豚肉とあさり貝の炒め物」であった。

写真②は「サンフランシスコ教会」
エヴォラ・サンフランシスコ教会

写真③④は人間の骨で壁などを装飾した「骸骨寺」
エヴォラ・骸骨寺

エヴォラ・骸骨寺0002

写真⑤は「ディアナ神殿跡」
エヴォラ・ディアナ神殿跡

-----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(16)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セビリアでの「フラメンコ」ディナーショー
ポルトガルとスペイン国境近くのエヴォラから、延々とバスを走らせて、夕刻にセビリアに入る。ホテルに荷物を置いて午後9時過ぎからフラメンコショーに出かける。

劇場式の大きな場所である。二階から観覧席。
ワイン、水など飲み物は料金に付いている。食事が大かた済んだ頃から踊りが始まる。
フラメンコ・ディナーショー館

私たちのの席は正面ではなく、舞台の袖に近いところで角度が余り良くない。
出番は、若い人から先に出てきて、真打は後の方から出てくるというのが普通である。
この写真②の人は中ごろに出てきたから、さほど若いということはないが、20代後半というところか。プロポーションはすばらしく、踊りで鍛え上げた体の線のメリハリは見事である。腰の辺りの線は何とも言えない。
同じ人が男のダンサーと掛け合いで踊るシーン。
私の一眼レフに使っているフィルムはASA400で、私の未熟な腕でも「動態モード」にしておくと、結構、撮れているものである。
この人の胸の線なんかもいいではないか。
フラメンコ0001

フラメンコ0002

フラメンコ

前回1990年1月に来たときにフラメンコを見て詠んだ歌

フラメンコ踊る娘は十七、八
 若き肢体に青春(はる)は息づく・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
集団の群舞を出しておく。
余りうまく撮れていないが、お許しを。
劇場の天井や壁なども、このように華やかな絵が描かれている。

夜中の12時近くになって打ち止めとなる。
この後、明け方までショーの三幕、四幕がつづくという。
セビリアでの泊りはSAN PABLOという周辺部の新しいホテル。
ホテル・サンパブロ

写真⑤が、それだが、コンドミニアム式にキッチンも備えた2室に分かれた広い室内。
今までのホテルの部屋を見慣れた目には、かえってガランとした印象を受ける。

スペインも住宅、不動産のバブルで、中心部は価格が高騰しているらしい。
アメリカのサブプライムをきっかけとするバブルの崩壊の余波がスペインにも及び、銀行が住宅不動産融資を引き締めているので、バブルがはじける様相とか、日経新聞などは伝えている。

かくして、セビリアの夜は更けるのであった。


-------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(17)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セビリア・・・・・アンダルシア自治州の州都(1)
今日は午前中、セビリア観光である。

800px-Sevila10セビリア大聖堂

廻った順序は無視して載せる。写真①はセビリア大聖堂カテドラルである。
ここには新大陸発見者コロンブスの墓がある。

450px-Sevila12セビリア大聖堂コロンブス墓

写真②が、それ。と言っても、これは「棺」のモニュメントであり、聖堂の床の大理石の下に正式の墓はある。写真のピントがぼけているのはお許しいただきたい。
この聖堂の中を見学する前に、付属する写真③の「ヒラルダの塔」に登った。
ヒラルダとは風見鶏の意味。
ここは一番上まで長いスロープだが上ることが出来る。これは、元イスラム教のミナレットで坊さんが一日5回上り下りが楽なようにロバに乗って登れるようにしたから。
セビリアも曽遊の地である。
詳しい説明は、以下↓の文章を読んでほしい。
セビリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セビリア(Sevilla)はスペイン南部の都市。アンダルシア州の州都で、セビリア県の県都。人口は70万人でスペイン第4位。セビリア都市圏の人口は130万人に上る。スペイン南部の政治、経済、文化の中心地であり、観光都市である。

発音・表記
日本では、ラテン語風にセビリア(またはセビリヤ)とする表記が一般に定着している(「セビリアの理髪師」など)。また、スペイン各地のスペイン語の発音の差異から、セビージャ(マドリード首都圏)、セビーヤ(アンダルシア州)、セビリャ、セビーリャとも表記される(ジェイスモを参照されたい)。

英語ではSeville (「セヴィル」 太字はアクセント)、フランス語ではSéville(セヴィル)と発音する。
スペイン語では b と v を区別せず語・文中では[β] で発音し、カタカナで表すときはバ行を使うことが普通である。しかし、英語などの発音を混在させてセヴィージャ、セヴィリアなどと表記する者もいる。

地勢
グアダルキビール川沿いに位置しており、大西洋からセビリアまで船舶が遡航できる。そのために港湾都市としての役割を果たし、農作物や工業製品が盛んに輸出される。近隣の都市としては、約100キロ南西のカディス、120キロ北東のコルドバが挙げられる。

歴史
古代ローマ時代には「ヒスパリス」と呼ばれた。紀元前8世紀か9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。カルタゴ人は紀元前216年に都市を破壊したが、紀元前206年にスキピオが近郊にイタリカを建設し、ヒスパリスの再建を始めた。

8世紀よりイスラム勢力の支配下に入り、「イスビリヤー」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期には、セビリア王国が栄えた。レコンキスタの進展により、1248年にカスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展した。

イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはこの都市でポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及をみせ、多くのユダヤ人が迫害を受けた。

15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタを完了させるとともに新大陸へ航海を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、アメリカとの貿易の独占港となって繁栄を誇った。16世紀から17世紀には、セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。

19世紀のスペイン立憲革命では、セビリアは自由主義者の拠点となった。20世紀のスペイン内戦では、アフリカに近い位置にあることから、早期にフランコ軍に占領された。

1992年にはセビリア万博が開催された。万博に合わせて、グアダルキビール川にはアラミロ橋が建設された。2002年には欧州理事会の会場となった。

現在、セビリアは社会労働党の強固な地盤となっており、2004年の総選挙では他党を30%以上も引き離した(スペインの県都の中でもっとも高い)。

観光
闘牛やフラメンコの本場で、スペインを代表する観光都市。セビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館は世界遺産に登録されている。

セビリア大聖堂 - 1402年に建設が始まり、16世紀に完成した。カトリックの大聖堂としては世界一大きい(サン・ピエトロ大聖堂を除く)。内部にはクリストファー・コロンブスの墓がある。
ヒラルダの塔 - もとはモスクのミナレットだった。
アルカサル - スペイン王室の宮殿。イスラム時代の建築物の跡地に14世紀に建設された。ムデハル様式の代表例の一つ。


スペイン広場
スペイン広場(スペインひろば、Plaza de España)は、セビリア市中心部南寄りにある広場の名称。元来は1929年にセビリアで開催された万国博覧会「イベロ・アメリカ博覧会」の会場施設として造られたもの。パビリオンとして建てられた広場内の建物は、セビリアをはじめアンダルシア地方の典型的な建築様式であるムデハル様式を取り入れたもので、両翼に半円形に延びる回廊と、スペイン各県の歴史的出来事を描写した壁面タイル絵が特徴的である。

映画スター・ウォーズ エピソード2でアナキン達が惑星ナブーに着いた直後のシーンの撮影はこのスペイン広場で行われた。
------------------------
写真⑤に、スペイン広場の装飾タイル絵の一つを出しておく。
スペイン広場

グラナダ開場の場面である。
説明しているのが添乗員だが、今回の旅では「イヤホンガイド」を各自装着したので、少しぐらい離れていても、よく聞こえるので楽だった。彼女が「親機」を持って話しているのが写真でも、よく判るだろう。
この頃ではJTB旅物語では、いつも使用することになっている。

セビリア(2)につづく。
--------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(18)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

800px-Sevila10セビリア大聖堂

セビリア(2)
写真①は、ヒラルダの塔の上からの眺め。

セビリアヒラルダの塔から

塔上りは、階段と違って、スロープだから息も切れずに楽である。
集団行動のため、時間の制限があるので、上って写真を撮ったら、すぐに下りる。
前回1990年1月に来たときに、ここで私の作った歌

セビリアの大聖堂の風見鶏(ヒラルダ)の高き尖塔に鐘うち鳴れり・・・・・・・・・木村草弥

たわわなる中庭(パティオ)の紅きオレンジにはらりはらりと時雨さしぐむ・・・・・・木村草弥

いずれも私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
写真②はアルカサールの入口。

セビリアアルカサール

アルサカールというのは普通名詞で、スペインのあちこちに一杯ある。先にも書いたが「城砦」とか「城」と言う意味だが、一般的に王の城である場合が多い。
ここは「セビリア王宮」と呼ばれている。
ここはイスラム宮殿跡であるから内部の天井、壁などには細かい幾何学的な文様がびっしりと刻まれている。その写真は無い。

セビリア中庭

広い中庭があり緑が濃い。
このような「中庭」パティオというのもイスラム教徒の残した文化である。
乾燥地帯に住んでいた彼らは、水とか緑とかいうものに憧れていたから、それが庭園などに色濃く残っているのである。

ここでアルカサールの語源の薀蓄を少し。
アラビア語アル・カスール(al-quasr)は、ラテン語のカストゥルム(castrum)から転じたものである。英語のcastleも同じ語源から。
このように言語というのは、お互いに強い影響を受けて、現在のような形になったのである。

セビリアオレンジ

アンダルシアをはじめとして、スペイン各地では街路樹などとして、写真④のように「オレンジ」の木がよく見られる。
旧市街の「ユダヤ人」街などと説明されるところには必ずある。
これらのオレンジの多くは実が酸っぱくて、そのままでは食用にならず、ママレードにしか出来ないという。だから木の下に実が落ちているのが多い。
イギリスではママレードが愛用されるので、その原料として輸出されるとか。
私もママレードが好きで、亡妻は夏みかんの皮などで、よく手作りしてもらったものだ。

セビリア新型トラム

写真⑤は街角で見つけた新型トラム。
つい最近はじまったものらしい。
低床式の美しい車体で、数分おきに電車が来るのが見えた。
こういうトラムの導入は世界的な傾向で、車社会で、電車がほとんど見られないアメリカでも、たとえばダラスなんかでも、一部の地区にトラムが走っている。

昼食はガスパッチョ(冷たいトマトスープ)ということだったが、写真には撮らなかったので、どんなものだったか忘れた。
後は、一路、コルドバへ。
-----------------------------------------------------------------------------

コルドバメスキータ

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(19)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

コルドバ・・・・・壮麗なイスラム文様のメスキータ
ここも曽遊の地であるが、ここでの見ものは何と言ってもメスキータであろう。
写真①は、その一部である。

800px-Mosque_Cordobaメスキータ

なお補足しておくと、大理石の柱はローマ、ギリシアなどの「遺跡」から持ってきたもので一本一本長さなどが違うので継ぎ足したり鉛のプレートを挟んだりしてある。
こういう「使い回し」は、いつの時代にもやられてきたことである。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。
写真②はメスキータの城壁の塔である。イスラム教の時代には、ここから一日5回
アザーンを唱えた。
以下、ネット上から記事を引いておく。
-----------------------------------
メスキータ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メスキータ(mezquita)とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語 ("Masjid")に由来する。しかし、一般的には固有名詞として、スペインアンダルシア州コルドバの聖堂を指す場合が多い。本項でも、コルドバ聖堂について著述する。

現在のコルドバ聖堂の建物は、当初はイスラム教のモスクとして建てられた。13世紀にレコンキスタによりコルドバがキリスト教徒の支配下におかれたため、カトリック教会の聖堂に転用された。後にドームを加えるなどの改築も行われている。聖堂の建設地自体は、ローマ時代、西ゴート王国時代にも、キリスト教の教会がおかれていた場所である。 世界遺産に登録されている。
歴史
67世紀 西ゴート王国の聖ビセンテ教会の地であった。
西暦711年 ウマイヤ朝の西ゴート王国征服成る。教会の半分をモスクとする。
西暦784年 コルドバの初代アミールアブド・アッラフマーン1世の命により、コルドバ教会の所有部分を買い取り、王宮に隣接するモスクとして建設工事がスタート。 妃の名をとってAljama Mosqueと名付けた。(第1次建設部分)
アブド・アッラフマーン3世(889-961)がミナレット(塔)の建設を命ずる。
西暦961年 ハカム2世の命により、拡張工事が実施され、ミフラーブも拡張される。
西暦987年 アル・マンスール・イブン・アビ・アーミルにより拡張工事、現在のメスキータの形となる。
西暦1236年 カスティリャ王フェルナンド3世の軍によりコルドバ征服。モスクは教会として再び聖化される。
カール5世(1500-1588)により、メスキータ中心部に身廊が増築される。

特徴
もともとキリスト教の教会の土台の上に立てているため、ミフラーブは正確にメッカを向いていない。
----------------------------
コルドバ歴史地区(コルドバれきしちく)は後ウマイヤ朝の都であったコルドバにある世界遺産(文化遺産)地域。メスキータやローマ橋などの建造物とユダヤ人街が登録されている。

コルドバ黄金の小道

写真③は、元ユダヤ人街だったところの「花の小径」として有名。
みやげ物屋や飲食店として賑わっている。

800px-Guadalquivir_Mezquitaローマ橋

写真④は、ローマ人が建設し、今も現役の橋として使われている「ローマ橋」。
この川はグアダルキビール川でセビリアへ流れてゆく。
写真⑤は、コルドバでの現地ガイド。日本語を見事にあやつる。ジョークも交えて達者である。

コルドバのガイド

後は一路、今夜宿泊のグラナダへ。
---------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道 (20)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

グラナダ(1)・・・・・ムーア人最後の拠点
写真①は、今日のハイライト・アルハンブラ宮殿の入口である。
昔と違って、遺跡を傷つけないために観光客の車は山を反対側に廻って入るようになっている。
アルハンブラ入口

ネット上から引いておく。
--------------------------
グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシンはスペインにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたグラナダの世界遺産としての名称である。

概要
グラナダはナスル朝の首都であった。ナスル朝はイベリア半島で最後まで残存したイスラーム勢力である。レコンキスタでイスラーム勢力が衰えていく中でマリーン朝がイベリア半島から撤退した、これによりイスラーム教徒がグラナダに流れ込んだ。この中には高度なイスラーム技術を持った職人が居た。さらに、当時のナスルの王、ムハンマド5世(在位・1354年 - 1359年、1362年 - 1391年)がこれらの技術者を保護したことによりグラナダに世界を代表する高度なイスラーム文化が花開くことになった。

19世紀には外交官、ワシントン・アーヴィングの紀行文によって世界に広く紹介された。
ナスル朝
グラナダの開城(1492年)1232年、アンダルスの支配者の一人、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(アル・アフマル)は王を名乗り、1238年にグラナダに王国(ナスル朝)を建国した(ムハンマド1世:en)。1246年、ムハンマドはフェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。
ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価される。しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服が始まり、1492年1月2日にグラナダが降伏してナスル朝は滅亡した。

レコンキスタ後
他宗教にも寛大であったナスル朝のグラナダには、当時キリスト教世界で弾圧されていたユダヤ人も多く存在していた。しかし、レコンキスタ完了後は、キリスト教徒によるユダヤ人の虐殺が行われ(スペイン異端審問)、多くのユダヤ人がイベリア半島から去った。そうしたユダヤ人は、オスマン帝国などで保護され、経済発展を支える一勢力になる。
アルハンブラ宮殿 Palacio de la Alhambra
アルハンブラ宮殿はグラナダのイスラーム建築の最高傑作とされる。その美しさから「イスラーム建築の華」とよばれることもある。特に「二姉妹の間」の天井の鍾乳石はその緻密さから、「蜂の巣」と呼ばれ世界最高の建築とたたえられることもある。

ヘネラリーフェ宮殿 Palacio de el Albaycín
ヘネラリーフェ宮殿は王族のための夏用の離宮である。イスラームの天国をイメージしたとされる庭園があり、詩人に好んで歌い上げられた。

アルバイシン地区 El Albayzín
アルバイシン地区はグラナダ市内でもっとも古い地区とされる。元々はイスラーム教徒のための居住区である。白壁を特徴とし、その景観を壊す開発が禁じられている。
-------------------------
アルハンブラ0003

アルハンブラ0001

アルハンブラ

アルハンブラ0002

補足的に書いておくと、アーヴィングが来たときには、ここは完全に廃墟となり、忘れられていた。宮殿の内壁には金箔が張られていたのだが、住み着いたジプシーたちが剥がして売って金に換えていたのである。
このアーヴィングの本がきっかけで地元でも何とかせねばという機運になり、復旧に取り掛かったというのが実情なのである。
なお、アーヴィングの、ここアルハンブラについて書いた「本」は日本でも出ている。岩波文庫などいろいろある。私はまだ学生の頃に紙質の悪い本で読んだことがある。アルハンブラに関心を抱く、ずっと以前のことである。

宮殿の内部の天井や壁は、イスラムの伝統的な文様である草花やコーランの文字の一節を装飾にしたもの。鍾乳洞を思わせる飾り(写真②④など)で細かく、華麗に装飾されている。写真③のように外に面する部分にも精細な文様が彫られている。
写真⑤のライオンの噴水の、周りを取り巻いていたライオンは修理のため外され、元に戻るのには二年ほどかかるという。そのうちの一頭が資料館で展示されていて、間近に見ることが出来る。
---------------------------------------------------------------------------

アルハンブラ入口

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(21)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

アルハンブラ・ヘネラリーフェ

アルハンブラ0005

グラナダ(2)・・・・・ヘネラリーフェ庭園
アルハンブラ宮殿から、しばらく歩いて、この庭園に入る。
ネットを検索しても、スペイン随一の名所でありながら、ここグラナダに関する記述は貧弱で引用できるものが少ない。
前回きたときの現地ガイドは日本語をあやつる現地人だったが、冗談を言って笑わせるばかりで、肝心のことは余り話さず、私には不満が残った。
ガイドブックにも簡単な記述しかない。
この辺りは太陽の丘と呼ばれているが、唯一現存しているのがヘネラリーフェ庭園だという。そのうちでも、素人の私でも全部がその当時のものとは思えず、現地ガイドの女の人に聞いてみたら「アセキアの中庭」と呼ばれる、写真①の一角だけが13世紀から14世紀初頭に建ててられた王家の夏の離宮のオリジナルということであった。ただし隣接する庭の噴水などは18世紀のものであり、周辺部の植栽などは現代になって手が入ったものである。
アルハンブラ宮殿も含めて、ここに引かれる水はシエラ・ネバダの山脈の雪解け水だという。
なお「ヘネラリーフェ」とはアラビア語で「天国の庭」の意味だという。
アルハンブラ0004

アルバイシンの町並みと、サクロモンテの丘
写真に出すのが「アルバイシン」の町並みと、向うに見える小高い丘が「サクロモンテの丘」と言い今もジプシーが穴を掘って生活しており、観光客にフラメンコを踊ってみせたりする。
前回私は疲れていて行かなかったが、同行者で行った人が居て、結構たのしかったという。アルバイシン地区も世界遺産であり、勝手にいじることが出来ないことは、先に引用した個所にも書いてあると思う。
なお、「グラナダ」=「ざくろ」の意味である。
写真④に現地ガイドを出しておく。
彼女は目下妊娠中で七月半ばが出産予定日という。

グラナダ・ガイド

前回来たときに私がここで詠んだ歌

ムーアの血遺れる街に購(もと)めたる柘榴は朱しグラナダ地霊・・・・・・・木村草弥


ライオンは水時計なりぬそれぞれにシエラネバダの水を垂らして

 いずれも私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
これでグラナダの観光は終わり、写真⑤の店ALBANTAで昼食を摂る。
メインは「タパス」(おつまみ料理)ということだった。詳しいことは忘れたが、結構おいしくいただいた。
アルハンブラ・昼食のレストラン

アルハンブラ・昼食のレストラン0001

後は、一路、バレンシアまで、延々と540キロ走る。途中で二回トイレ休憩する。
運転手は走行距離の関係で、労働基準法に決められているとかで一回30分以上の時間を取る。
さすがにスペインは社会民主党が政権を取る国であり、きちんとしている。
もちろん日本にも、そういう規定はあるので、ご心配なく。試みに、長距離のバス旅行をされてみたら、よく判る。

イベリア半島のガソリン・車のこと
国道の沿線にあるガソリンスタンドの値段のことだが、トイレ休憩で立ち寄るところで表示される価格を見ると、日本以上に高いようである。ディーゼルとガソリンでは、もちろん値は違うが、どちらも高いようだ。イベリア半島では原油は採れないから日本と同じく専ら輸入オンリーである。標準のガソリンで150~160ユーロとか書いてあるから、今の為替レートで換算してみても、とても高い。
それに走っている車は、総じて、日本とは、一回り小さい車が大半。
一昨年のアイルランド旅行で見たのと同様で、1リッターカーというところ。ここでは乗用車の生産はしていないから、(一時、組み立てなどやっていて日産でスペイン製というのがあったが)走っているのは外国車ばかり。近くのフランス、イタリアの車が多い。もちろんドイツのベンツやアウディ、BMWというようなものもあるが数は少ない。フランスの車も日本では見かけないような小さいものが多い。これらを見ていると、日本の車は一回り大きいということになる。その代わり日本では「軽」というジャンルがあり、これが全体としては数が多いから、オアイコということになるか。

道沿いに「城砦」の廃墟
延々と走るバスの車窓からは、沿道に点々と小高い丘の上に古い「城砦」の廃墟が見える。中にはクレーンが立って修復途上のものもある。古来、幾度も戦乱に巻き込まれてきたので、自衛のために、こうした城砦を中心にして彼らは過ごしてきたのだった。
それらは「石造り」だからこそ、今まで、その形を保ってきたのである。
そういう「名も無い」城砦を見ていると、(六月の月次掲示板にも引いたが)、折りしも、かの地も「麦秋」の季節まぢかであって、こんな句が浮かんだ。

 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
--------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(22)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

バレンシア・・・・・火祭とオレンジで有名
写真①は、パレンシア宿泊のホテル・HUSA ALAQUASでの夕食の「パエリヤ」である。それは、ここが「パエリヤ」の発祥の土地に因んだものである。

パエリヤ

パエリヤ0001

ただし、これは日本人向けに改良されたもので、柔らかくて水分も多い。
「シーフード・パエリヤ」になっている。
スペインでは本来は「海」のものは余り使わないという。地域によって違う。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。
写真②が一人前づつ取り分けられたもの。
本場スペイン人の食べるものは、米も、もっと「芯」のあるものではないか。
これは日本人ふうにやわらかく炊いてある。

バレンシアというと何と言っても火祭であろう。
もちろん今は、そのシーズンからは外れている。
以下に「火祭」の記事をネット上から引いておく。
-----------------------------------------
スペイン バレンシア サン・ホセの火祭リ
・期日:3月12日~19日 (実際に街中に人形が設置されるのは15日深夜) 
・場所:バレンシア市内 

スペイン三大祭りの一つ、サン・ホセの火祭りが地中海に臨む都バレンシアで華々しく催されます。
これは街々の広場や通りを張子人形で飾り付け、3月19日のサン・ホセの夜に全て焼き払ってし
まう祭りです。 「ファヤ」と呼ばれるこの人形は大小とりまぜて計600にのぼり、バレンシアの街々
を埋め尽くします。

 連夜深夜には大規模な仕掛け花火が打ち上げられ、人々は夜が白々と明ける頃まで飲み歩きます。
最終日19日のサン・ホセの夜には小さなファヤから一斉に火がつけられ、20日午前1時にバレンシア
広場の巨大なファヤが炎に包まれると火祭りは閉幕、これをもって本格的な春の訪れとなります。

■祭りの起源は?
 サン・ホセとはスペイン語で聖ヨセフ、つまりイエス・キリストの父親のこと。職業が大工だったことから
大工職人達の守護聖人として崇められています。昔からサン・ホセの日に古い材木や木屑などを集めて
大きな焚き火をする習慣が大工達の間で受け継がれていましたが、ある日 張子の人形を火の中に投げ
入れたのが周囲の人々に面白がられ、それがきっかけとなり色々な人形が作られるようになりました。
現在では1年も前から競って構想を練り、飾り付けも凝った風刺のきいたテーマが取り上げられるように
なりました。

■ファヤとは?
 「ファヤ」とは街中を飾る張子人形のことで、その人形の大きさは大小さまざま。「ファヤ」が単数形で、祭りの名前でもある「ファヤス」が複数形。通常、「二ノット」(ninot)と呼ばれる張子人形の単体を複数組み合わせて一つの「ファヤ」が造られています。一般的に、地区ごとに1つの「ファヤ」を造ります。

ファヤはその大きさによって、大型な「ファヤス・アドゥルトス」(“大人のファヤス”の意)と、小ぶりな「ファヤス・インファンティレス」(“子供のファヤス”の意)に分類され、大きなものは高さ30mにも及びます。人気投票でも部門が分けられ、点火も小型と大型は別々に行われます。
■祭りの見どころは?
 -祭りがクライマックスを迎える19日深夜-

 祭り最大の見どころは、19日深夜に行われるファヤスへの点火。最も人気があるのが、市役所広場に設置されている大小2つのファヤスで、バレンシアの火祭りのシンボルとなっています。

 市庁舎広場で見学する方の多くは、小型のファヤの点火を見て、そのままその場に残り、大型ファヤへの点火を待ちます。大勢の人が集まりますので、早めに場所取りをしたほうがよいでしょう。

 また、あまり近づきすぎると、火の粉が飛んでくることがありますのでご注意を!ファヤスは市庁舎広場以外にも、町のいたるところに設置されているので、市庁舎広場にこだわる必要はありません。
 
■連日14:00の爆竹ショー “マスクレター”
 連日14時に行われる市庁舎広場での爆竹ショーは迫力満点。3月初旬から行われていますが、祭り本番の16日頃からは爆竹量が増える傾向にあります。すさまじい爆音とともに、あっという間に広場は真っ白な煙に包まれます。数分間続く爆竹の轟音は、決して忘れられない体験となるでしょう。
■華やかな献花パレード
 民族衣装を身にまとい、カーネーションの花束を手にした大勢の老若男女が列を成し、大聖堂裏手のビルヘン広場を目指します。広場には巨大な聖母像をかたどった木製の骨組みが作られており、献花者一人一人が捧げる花を使って聖母のマントが描き出されていきます。献花パレードが全て終了すると、目にも鮮やかな花のマントを覆った聖母像が完成します。またパレードには、音楽隊も参加します。
■“ニット・デ・フォック” (花火大会)
 「ニット・デ・フォック」とはバレンシアの言葉で「火の夜」の意味。場所はバレンシア旧市街地を取り巻く緑地帯(旧トゥリア川)であるアラメダ通り(パセオ・デ・ラ・アラメダ)です。ちょうど近代的な“エクスポシシオン橋”(Puente de Exposicioin)と古い“花の橋”(Puente de las Flores)の間辺りで開催されます。
■“カバルガタ・デル・フエゴ” (炎のパレード)
 悪魔をイメージした黒や赤の衣装の人々がたいまつを手に行うパレード。コロン通りを通り、プエルタ・デル・マル広場で終了。プエルタ・デル・マル広場には特別席が設けられ、「火祭りの女王」
たちもパレードを観覧。

人形

■燃やされない人形がある?
 2月中旬から3月14日まで人気投票用の「二ノット」(ファヤスを構成する張子人形の単体)が展示され、そのなかで最も投票数の多かった作品1点(ファヤス・アドゥルトスとインファンティル各部門1点)だけが火の手を免れ、「火祭り博物館」に永久保存されます。「火祭り博物館」は年間を通して開いているので、火祭り以外の時期にバレンシアを訪れても見学可能。

■ファヤを造るための主な資金は?
 各地区で「ファヤ」の組合を作り、メンバーから会員費を徴収
各地区で宝くじを作り、それを販売して得る収益金
地元政府の経済援助(各ファヤの制作予算の25%)
スポンサー契約
----------------------------------------
バレンシア観光ではカテドラルなども案内されたが、現地ガイドは都市ごとに変わるから、自分のところのが最高などと言うが、スペインはカテドラルだらけで見分けもつかない。他に「メルカード」という大きな、清潔な中央市場にも行ったが省略する。
写真③は、火祭りに使う人形のいいものを保存してある「フアーリヤ製作者博物館」。(ファヤが正式)
写真④⑤は、そこに陳列してあるもの。滑稽み、皮肉に満ちたものが多い。

昼食に「トルティーヤ」というスペイン風オムレツを食べて、一路このツアー最後の訪問地「バルセロナ」へ。
-----------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(23)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

バルセロナ(1)・・・・今回の最終地・・・・ガウディ・・・・グエル公園
バルセロナも1990年1月に来たときの曽遊の地だが、オリンピックなども開催して、ここも特に周辺部が広がって大きく変貌した。
ここも市内の観光は午前中だけである。
ここバルセロナでの目玉は何と言ってもガウディに関係するものだろう。
写真①には「サクラダ・ファミリア」教会を出しておく。
写真②以下はすべてグエル公園。
グエル公園0001

私たちの泊ったホテル・カタロニア・ルーベンスはグエル公園に近い高台の斜面にあった。

ガウディのことをネット上から引いておく。
----------------------------
アントニ・ガウディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アントニ・ガウディ(カタルーニャ語:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet, 1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリアをはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)。

誕生
アントニ・ガウディは、1852年6月25日午前9時半、カタルーニャ州タラゴナ県に、フランセスク・ガウディ・イ・セラとその妻アントニア・クルネット・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。

ガウディの出生地とされる場所には、レウス(Reus)とその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(Mas de la Calderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている。
ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。

幼少時代
一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った。バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。
ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる。[6]後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物」であると語った。
1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会(Piarists)の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「アルレッキーノ」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家マリア・フォルトゥニ(Marià Fortuny)の影響が指摘されている。
ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近いタラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院への小旅行もしている。特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている。

学生時代
1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの建築事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。

1878年に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。
----------------------------------------
グエル公園0002

グエル公園

グエル公園くねる椅子

グエル公園管理事務所

グエル公園(カタルーニャ語:Parc Güell, 英語:Park Guell)は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。
なお、現地のカタラン語では、グエルではなく「グエイ」と発音されるから、念のため。
もともとはアントニ・ガウディの設計した分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人と発注者のエウセビオ・グエル伯爵だけであったという。
グエル伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家がガウディ記念館として公開されている。中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。
写真②は回廊。
写真③は「トカゲの噴水」。
写真④は「うねるベンチ」。
写真⑤は、元は「守衛室」として建てられたもの。
-----------------------------------------
ガウディについては下記の本を参照されよ。
丹下敏明『ガウディの生涯』彰国社、1978年
中山公男・磯崎新・粟津潔編『ガウディ全作品1 芸術と建築』六耀社、1984年
中山公男・磯崎新・粟津潔編『ガウディ全作品2 解説と資料』六耀社、1984年
鳥居徳敏『アントニオ・ガウディ』SD選書197、鹿島出版会、1985年 ISBN 4306051978
サビエル・グエル(入江正之訳)『ガウディの世界』彰国社、1988年 ISBN 4395050808
鳥居徳敏『ガウディの建築』鹿島出版会、1987年 ISBN 4306042146
入江正之『ガウディの言葉』彰国社、1991年 ISBN 439500315X
赤地経夫・田澤耕『ガウディ建築入門』とんぼの本、新潮社、1992年 ISBN 4106020017
ファン・バセゴダ・ノネル(岡村多佳夫訳)『ガウディ』美術公論社、1992年 ISBN 4893301195
ロベール・デシャルヌ、クロヴィス・プレヴォー(池原義郎・菅谷孝子・上松佑二ほか訳)『ガウディ――芸術的・宗教的ヴィジョン』鹿島出版会、1993年 ISBN 4306043029
ヘイス・ファン・ヘンスベルヘン(野中邦子訳)『伝記ガウディ』文藝春秋、2003年 ISBN 4163594906
外尾悦郎『ガウディの伝言』光文社新書、2006年 ISBN 4334033644

------------------------------------------------------------------------------

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(24)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

サグラダファミリア0002

バルセロナ(2)・・・・・サグラダ・ファミリア教会
ガウディの傑作──サグラダ・ファミリアを見学する。
ここも曽遊の地だが、前回1990年に来たときには周辺の建物は取り壊し中で景観を良くするためにしているということだったが、今回来てみると前にも増して周辺には、ぎっしりと建物が建っている。施主にも、それらを買収するお金がないのだと思った。
前回1990年1月に、ここに来たときに私の詠んだ歌

ガウディの聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の尖塔は長き影ひき夕陽に輝(き)らふ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。

ネット上から記事を引いておく。
-----------------------------------------
サグラダ・ファミリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語:Sagrada Familia)はスペイン、バルセロナに建設中の教会。サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味する。正式名称はEl Temple xpiatori de la Sagrada Família(聖家族贖罪教会)。日本語では聖家族教会または神聖家族聖堂などと呼ばれる。ガウディの代表作の1つ。
概要
民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画したものである。

初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、1882年に着工したが意見の対立から翌年に辞任。その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディである。以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。

ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっている(模型も破片になってしまった)。この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定であり、またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成である。
東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはりんごをくわえた蛇が彫刻されている。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。
西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ポンティウス・ピラトゥスと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。
もっとも最近の予測では、完成は2256年前後と言われている。建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して修復も行われている。

2005年、建設途中ながら、外尾悦郎の手がけた生誕のファサードの部分がアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録。
2006年、直下に高速鉄道AVEのトンネルを建設する計画が持ち上がり、教会側は地元自治体などにトンネル建設中止の働き掛けを要請している。この騒ぎで教会が市に建築許可を受けていないことが判明し、違法建築であることがわかった。
-----------------------------------------
サグラダファミリア0001

工事は、最近は急ピッチで進んでおり、上の記事とは、ずっと早く完成するかも知れないという。
今の建築責任者はスビラックスと言い、彼はガウディとの差別化をはっきりさせるために直線的なフォルムを採用しているから、彼の担当個所からは全体とマッチしないような印象を受ける。写真②の左側の白い部分。
サグラダファミリア0003

写真③の「生誕の門」の彫刻は外尾悦郎の手になるもの。
余り言われないことだが、フランコ総統の頃の「内戦」で、この部分は損傷を受け、それを元に戻す作業を外尾氏がなさっていたということである。
写真④は「受難の門」。上の解説記事など参照のこと。
写真⑤の「受難の門」の像の左側の数字パズルは縦からも横からも数字を足すと「33」になるのはキリストが磔刑に付されたときの「年齢」が33歳であったことを暗示するという。

その他、ガウディの作品になる「カサ・ミラ」「カサ・バトリョ」などを外から解説を受けながら眺めるが、写真はない。前回は建物の中にも入って見学した。
これで、団体行動としての観光を終わり、午後からはOPの「モンセラート」観光に出る。
-----------------------------------------------------------------------------
 サグラダファミリア


サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(25)・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
        ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

バルセロナ(3)・・・・・モンセラ 見学
ピカソ美術館も見学したが、厳しい撮影禁止のため写真は一切ない。
前回来たときに、ここで私の詠んだ歌

ファシストを告発したるゲルニカの絵を見る人はみな立ちつくす・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。

一言書いておくと、この絵は現在はマドリッドの「国立ソフィア王妃芸術センター」にある。
そのことはマドリッドのところで書いておいたが、1990年時点では、ここに展示されていたのである。
モンセラ0002

モンセラについて、ネット上からChika Nakanishi氏の記事を引いておく。
-----------------------------------------
モンセラバルセロナから内陸側に向かってカタルーニャ公営鉄道またはバスで1時間ほどのところにある奇怪な形状の山,それがモンセラです.モンセラ (Montserrat) とはカタラン語で「ぎざぎざ山」というような意味で,その名の通り,見るからにぎざぎざ,不自然な形であり,その不思議な迫力は見る者誰もを圧倒させます.バルセロナから日帰りで観光できるスポットとして外人観光客にも人気のようです.
 
1.カタルーニャの象徴
一般観光客からすると,この形状のあまりの奇怪さのため,他の見所を忘れそうになりますが,実はこの山の中腹には,カタルーニャ最大の聖地といわれるベネディクト派の修道院があります.
ベネディクト派というのはベネディクトゥスが529年頃モンテカシノに創立したカトリック教会の修道会の一つで,服従・清貧・貞節の三原則に基づく戒律により労働と勉学を重んずる宗派です.

労働と勉学を重んじる,というのはいかにも,几帳面で勉学に仕事に熱心なカタラン人にしっくりくる価値観なのでしょう.実際,モンセラを訪れる人の半分近くはカタラン人,半分近くが外国人,そして残りがその他スペイン人なのですが,一般に外人訪問客は少年聖歌隊の歌を聴く以外は特に宗教的行事に参加しないのに対し,カタラン人訪問客は信心深い人が多く,訪問客の過半数が毎年訪れ(毎年ではないけれども何度か来ている人も合わせると9割),宗教的行事に参加しているそうです.
モンセラ0003

フランコの独裁時代,カタラン語の使用が禁じられていたときも頑としてカタラン語でミサを行い続けたこともあり,この修道院を含めてモンセラはカタラン人の心のより所,シンボルとなっています.そういえば私がたまたま訪れた日には,カタルーニャの大統領,プジョール君が来ていました.スペインでも一応,憲法で,政治と宗教は分離が定められているのですが(でも祝日にはキリスト教の影響が色濃いですけれど),日本での靖国神社参拝問題に近いような気がしました.

またカタルーニャにはモンセという名の女性が多いのですが,これもモンセラから来ているそうです.
2.カタルーニャの英知
この修道院の特筆すべきは,カタルーニャの英知の中心と言われるほど,博学の僧侶達が住むところとして知られているということです.大学で神学を修めるだけでなく,その後バルセロナのビジネススクール (ESADE:私の通っている学校です) で企業経営,管理手法などを学んでいる人もいます.
 まあビジネススクールに行く人が皆博学というわけでは無いんですけど... 中にはそーゆー人もいるという...(苦笑)

特に1980年代前半からは,宗教的な勤めとともに,山,礼拝堂 (Santuario),修道院 (Monasterio) の3つを1つの複合施設とみなし,この複合施設においてより望ましい経営活動を実現させるための都市計画に関して,並みならぬ努力をしています.
例えば,87年夏には建築家グループを参加させた都市計画コンクールを開催したり,90年にはマーケティング会社にはじめての本格的調査を依頼しているのがその例です.
また,93年には複合施設の財産を管理する組織(設立は1913年:ホテルやレストラン,バー,ロープウェー,本屋,レコード屋,医療施設から郵便,両替などまで提供,監督している)に,やはりESADEのMBA出身で監査法人アーサー・アンダーセン勤務の監査人の1人を顧問兼ジェネラルマネージャーとして迎えいれ,さらにアンダーセンには,前述のマーケティング会社に外部状況分析を依頼したのに並行し,組織の内部状況の分析を依頼し,現状認識,改善の方向を探り,それに向けて絶えず努力しているようです.一般企業であれば特に珍しいことでもありませんが,修道院がここまでしているというのは世界でも珍しいと思います.
モンセラ0005

あまりコマーシャリズムを意識させないように,というところまで考慮に入れ,かつ,宗教と経済活動の両立を目指しているその姿勢は,私の想像をはるかに超えるものです.
ただし経済活動といっても営利主義ではなく,目的は地域の繁栄のようで,必要とする人に必要とするモノ,サービスを提供したい,なるべく多くの人に訪れてほしいから,彼らが必要とするものを用意しよう,という姿勢が基本になっているようです.
3.修道院,少年聖歌隊
モンセラの見所といえば,まずは,その眼下に広がる見事な絶景だと思うのですが,その他にも,修道院の中にいくつか見所があります.
モンセラ黒い聖母

1つには,黒いマリア,ラ・モネレータとして有名な木彫りのマリア像があります.黒いマリア像というのは珍しいそうなのですが,理由は何らかの化学変化だろうとか,ろうそくのススだろうとか,いろいろ言われています.礼拝堂の2階にあり,上がって触ることができます.私が行ったときは,お昼前の時間帯は非常に混んでいて行列ができていましたが,お昼を食べて2時過ぎくらいに行ったら,全く行列はなくなっていて,ゆっくり見ることができました.修道院の中のステンドグラスも外から光りが差し込み,とても美しかったです.

もう1つの見所(聴き所))と言えば,エスコラニア (Escolania) と呼ばれる少年聖歌隊です.非常に美しい歌声なのですが,私が行った日は,プジョール君が来てたこともあってか,冬の割には異様に訪問客も多かったようで(普通は春から秋にかけての方が多い),合唱が始まってからも妙にざわざわして,少し聴きづらかったです.時間は,ガイドブックによって情報が若干異なるので何なんですが,少なくとも昼の13時からというのは7月以外は毎日あるようです(私はこれを聴きました;ちなみに7月は彼らのお休みです).彼らの歌のCDやテープはお土産屋さんで購入することができます.ビデオもありますが,スペインはPAL式なので,日本で見るにはNTSC方式に変換できる特別なビデオが必要になるでしょう.

なお,冒頭に日帰りできる,と書きましたが,中にはホテルやオスタル(安ホテル)などの宿泊施設もありますし,レストラン,スナックなどもありますので,一泊して早朝のモンセラからの壮大な眺めを堪能するというのも素敵かな,なんて思います.なお予約は要らないと思われます.

4.モンセラのチーズ・マト 
モンセラの修道院ではマト (mato) と言われるフレッシュチーズを作っていて,これはカフェで食べることも,お土産屋さんで買い求めることもできます.カテージチーズのような,軽めの,ほろほろした感じのチーズです.カフェではハチミツと一緒に出されますが,これがマトの食べ方なのです.
----------------------------------
添乗員の大橋さんは、ここモンセラを、ギリシアの「メテオラ」の奇岩の上の修道院と同じような話をしたが、全然、別個のものであることを申しておきたい。
私のWEBのHPに「エーゲ海の午睡」というページがあり、そこに「メテオラ」のことも写真と記事で書いてあるし、また、このBLOG2007/11/10付けにも写真や地図を入れて載せているので、参照されたい。
ここモンセラには確かに「奇岩」はあり、ずっと大昔には、そういう奇岩に潜んで修行していた僧たちがいたのだが、近世になってから下界からの道もつき、ご覧のような超立派な教会(バジリカ)も建って、今ではすっかり観光名所となっている。
だから、これを嫌って、修行僧たちは、文字通り、奇岩に庵をたてて修行しているという。
ギリシアの「メテオラ」は、今は観光客を受け入れているとは言え、道路は狭く、文字通り奇岩の上にひっそりと建っているのである。
この辺のところが、ローマ・カトリック配下にある世俗化し、権力化した「モンセラ」の現実の姿であり、私は人には言わなかったが、はっきり言って「幻滅」した。
モンセラの「奇岩」の景観については何も言うことはない。

モンセラの発音について
上の記事にも書かれている通り Montserrat と表記する。ガイドブックなどでは「モンセラ」と書かれているが、現地ガイドの人が「モンセラット」と聞こえる発音をしたので、私は質問してみた。語尾の「T」は子音のみで発音しないと同様、というような微妙な返事だった。
カタラン語というのは、フランス語とイタリア語をミックスしたような言語であり、アルファベットの表記を見るかぎり、フランス語式に、二つの「T」は発音しないのであろう。

公衆トイレ

写真⑤は、ここに行く前に、どこかのショッピングを逃れて外を散歩していて見つけた「公衆トイレ」である。
有料で料金は30セントだった。私が物好きで利用して出てきたところをT・F氏が撮ってメール送信してくださったものである。御礼申し上げ、ここにアップしておく。

これで、今回の旅は、すべて終った。何かいい資料が手に入れば、手直し、肉付けすることはあり得ると申し添えておく。

 
copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.