K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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タラの丘に還る・・・アイルランド紀行・・・・・・・・・・木村草弥
2006/07/26のBlog

アイルランド地図

  「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (1)・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

図版①に出したのはアイルランドの地図。

今回の旅は、もともと北スペインの巡礼路サンチアゴ・デ・コンポステーラに行く予定でツアーも催行確定であったのに、間際になってキャンセルが出て、旅行社が罰金を払って振込金を返してきたので、急遽、たまたま欠員の出た、このツアーに参加することになったものである。
アイルランドというと、先ず第一に思い浮かべるのが「ケルト文化」のことである。写真②に出したのが「ケルト十字」という中世の独特の十字架である。これについては折に触れて、その都度書きたい。

ケルト十字

今回の紀行文全体のタイトルを「タラの丘に還る」とした。
タラの丘は首都ダブリン近郊にある丘で何の変哲もない丘だが、ケルト人の重要な聖地とされ、飢饉を逃れて100万人単位で北アメリカなどに移住した人々の源郷とされるところ。「風と共に去りぬ」などの文芸作品にも、必ず、この丘が出てくるのも、その所以である。だから、私の紀行文のタイトルも、これにすることにした。
写真③④にタラの丘を出しておく。

タラの丘
タラの丘②

アイルランドは、イギリスの「ブリテン島」の真西側に横たわる島で、大きさは北海道をひとまわり大きくしたようなところ、人口も現在は
540万人が住んでいる。(アイルランド共和国400万人、北アイルランド150万人)
追々詳しく書くことになるが、100万人単位で18世紀以来、多くの人が移住して行ったが、1961年には人口の最低を記録し、この年には270万人まで減った。
これに危機感を抱いた政府が、外資導入策などに優遇措置を採って産業振興を図った結果、産業が興り、若者が流出することもなくなり、現在の人口まで回復したのである。
行ってみると、島の各地を結ぶ「高速道路」が整備されつつあり、沿道から見る住宅は、日本の「ウサギ小屋」などと違って立派なものである。今でも人口の8割の人が農業に従事するというが、一戸あたりの農地も広いらしい。沿道から見えるのは大半が牧草地であり、耕作地では麦がちょうど「麦秋」の時期であった。他にはトウモロコシが見えるが、実を採るものではなく、そのまま刈り込んで「飼料」にする種類、と私は見た。野菜を作るビニールハウスのようなものは余り目につかなかったが、ホテルの朝食に出る野菜は新鮮で、どこか目につかなかったところだが栽培しているのだろう。食料の輸入も多いと聞いた。
島は岩の岩盤で覆われていて、掘るとすぐ岩が出てくるので荒蕪地と言えるが、今では外国から「土」を輸入したりして建設工事地や農地に使っているらしい。
行ってみると判るが、島の東部は岩の露出も少なく広い耕地が見られるが、島の西側は岩だらけで、写真などで見る、掘り出した石を並べて畑や放牧地を囲ってあるアイルランド独特の風景を見ることが出来る。

人種的にはローマ以前にヨーロッパ全域に勢力を広げていたというケルト人の血が濃いと言われ、文化的にも他のヨーロッパ諸国とはずいぶん違ったものを持っているらしい。
ケルトの渡来 アイルランドに最初のケルト人がやってきたのは紀元前数百年頃。数度の移入で先住民族を制圧、アイルランド全島はケルト化されたという。
現在のアイルランドの「地名」には、後に侵入してきたヴァイキングやノルマン人がつけたものが多いが、地方都市や山や川の多くはケルト人の言語・ゲール語を受け継いだものが多いという。
写真④に出したタラの丘の石造物に関して言うと、こういう「ストーンサークル」環状列石はイングランド南部の「ストーンヘンジ」と同じ系列のものと言え、昔はもっともっと多くのものがあっただろう。写真④のものは、インドのリンガ(リンガム)(陽物)の形にそっくりで豊穣、多産のシンボルと同じ考えの築造物であると思われる。立っているリンガに対して、下の平らな部分はヨニ(女陰)そっくりで、これらを一体としてリンガとヨニとで繁栄のシンボルとしたと考えられる。というのはケルトの宗教観がインドの宗教観とよく似ているからである。太陽神信仰に関しては南米のマヤ文明にも酷似する。いずれも古代の原始宗教である。強引な結びつけは避けたいが、似通った認識であることを言っておきたい。
もっともらしく言われていることも、どこからがケルト人渡来のものか、あるいは土着民族のものかは見極めにくい。現地ガイドの説明を聞いても、後から文章化してみると時期的に前後して矛盾が多いので断定は避けたい。
写真③④に関する現地ガイドの説明では、これらの古墳は4500年~5000年前のものと言い、こういう古墳は、この辺りを流れるボイン川流域に40ほどあるという。
写真④の立石(メンヒル)は「ファロの石」と呼ばれ、上王を決定する儀式のときに、真の上王となる者が触れると、石が雄叫びをあげると言い伝えられている。
4500年~5000年も前のものとなると、ケルトとは関係のない遥か以前の原住民のものと考えるのが正当だろう。
写真⑤にケルト由来の「渦巻文様」の彫られた岩を出しておく。
詳しい説明はも後にすることにする。

渦巻文様

ケルト人は、もともと中央ヨーロッパ辺りの民族ではないかと考えられている。
ケルト人は他の民族と比べて、王を選んだり、権力者に服従する気風に乏しい、と言われ、家族単位を重視し、いつも小さいグループ単位で行動し、緩やかな連合体を作ったようだ。
「タラの丘」はケルト人の重要な聖地だが、絶対権力の王の地ではなく、宗教上の意味が大きいという。もちろんキリスト教流布以前の原始宗教である。この丘は紀元前600年頃に築かれたという。
ケルトの宗教観──ケルトの宗教についてはまだよく分からないといい、彼らの残した民話から、生命はあらゆるものに宿り、転生すると信じられていたようだ。死後の世界との行き来もしばしば語られている。特に太陽は重要な意味を持っていたらしい。自然現象と超自然現象との境も曖昧で、神秘性を重視する点では、他の文明とは異質と言われている。
キリスト教─カトリックの伝来 ケルトの世界に新しい意識を定着させたのは、キリスト教をもたらした聖パトリックである。彼は432年アイルランドに渡り、キリスト教の布教に尽力した。彼はアイルランドという国の聖人として、彼の3月17日の命日は「セント・パトリックデー」として休日になっている。
しかし、十字架にケルトの太陽神のリングが組み合わされているように、改宗というよりも、もともとの宗教観にキリスト教を取り込んだものと考えられる。
ケルトの「口承伝説」には、かなりの頻度で聖書の物語が混入している。
これらのことは『ケルトの神話──女神と英雄と妖精と』(井村君江、ちくま文庫)などの日本語訳の本に詳しい。
ゲール語 ゲール語はアイルランドの第一公用語で、交通標識にも英語と並んで表記される。実生活でも西海岸、南部の山岳地帯では日常語として使われているという。
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今日を第一回として、順次アイルランド紀行の記事を載せることにする。
このツアーの正式名称は「北アイルランド・南アイルランド周遊 13日間」という。
記述はアトランダムで、今回は一眼レフカメラが故障して、予備のカメラだけで撮ったので、碌な写真がないので絵葉書などで補いたい。
今回の旅の同行者は23人で、添乗員・帯津和美さんを入れて総勢24名だった。参加者名簿はあるが「氏名」のみで、私が住所、勤務先を確認したのは一人だけであり、他の人のことは先方が名乗らないので、一切わからない。
その唯一の身元のわかる人は
 阿部行子さん
㈱集英社・翻訳書編集部 所属の現役の編集者だった。世田谷区成城にお住まいである。私は角川書店などには編集者の知り合いが多いので、旅中いろいろ話をした。
一行のなかに「南雲道彦」という人が居られ、旅中で交わした会話によると「物理」の研究者ということだった。帰ってからインターネットで検索してみたら、そのページに顔写真が出ていて、本人であることが判って、早稲田大学理工学部の名誉教授である。金属が専門らしい。昭和7年のお生まれ。
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2006/07/27のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (2)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

アイルランド人とは?
写真①が今回、ずっと利用するバスと、運転手のマイケルである。
「アイルランド人」の特徴をひと言でいうと、背が高くて、髪は赤毛、顔は日に焼けると(サン・バーン)赤くなる、ちょうど、我々のマイケルが典型のようであるらしいので、ここに紹介しておく。

バスと運転手

アイルランド系でアメリカ合衆国の大統領になった人が、何と14人も居るというが、そのうちカトリックはケネディとレーガンの二人だけで、あとはプロテスタントであるが、クリントンもその一人であるが、クリントンの顔はアイルランド人の典型と言える。今回、そんな説明を聞いて、なるほどと納得した。
因みに、アイルランド移民のことに触れておくと、せいぜい400万人という元の移民がいまではUSAに4000万人、全世界では8000万人に増えているという。

エンヤのCD
今回、アイルランドに行くことになって、ぜひ私の好きなエンヤの親父さんがやっているというパプに行きたかった。しかし、聞いてみると、親父さんのパブは、スライゴーの町外れの田舎で、車で一時間半もかかると聞いて断念した。

エンヤのCD

写真②は、今年になってから日本でも発売されたエンヤの最新アルバムである。妻の病気にかまけて、まだ買っていなかったので、アイルランドみやげに買った。値段も21.99ユーロであり、しかも説明書も英語なので、日本で買ったほうが安くて、しかも日本語の解説なのでよかったのだが、みやげとして買った。
エンヤの曲は、原稿を書いたりするときにBGMとしてかけると、ちょうどいいのである。
私の第三歌集『樹々の記憶』はエンヤのアルバムMemory of trees から拝借している。作品中に、それをテーマにした歌群があるからである。

ニューグレンジ・・・羨道墳・・・ケルティック・スパイラル
そんなことで、私たちのツアーはマイケルの運転するバスで一泊目のダブリンを出発して、先ず「タラの丘」に向った。
タラの丘については昨日に書いたので省略する。
タラの丘を出たら、バスは一路、「北アイルランド」に向う。その途中で「ニューグレンジ」の古墳に立ち寄る。写真③が、それである。

ニューグレンジ

ビジターセンーというものが、主な遺跡には設けられており、ここで巨石を運んだ様子などを見学したあと、ミニバスに乗って古墳へ。
ここは約4500年前(紀元前2500年)頃に作られた巨大古墳で、直径85m、高さ11m、中は19mの通路があり、奥は墓となっている(羨道墳という)。17世紀に偶然発見された。奥からは遺灰や骨が見つかったが誰のものかはわからない。狭い通路、入り口より2メートル上の小さな窓から冬至の前後5日間10数分のみ太陽の光が奥の墓まで入る設計になっている。天井は石版を積み上げ、巨大な石で蓋をしてあり、建設以来、雨水が一滴も入っていないという。
写真③の白い部分は「石英」の石が積んである。
写真④が「羨道」への入り口。

ニューグレンジ②

昨日紹介した「渦巻文様」(ケルティック・スパイラル)を刻んだ石は、この入り口前に配置されている。
この文様の意味はさまざまに解釈されているが、仏教の「卍」の模様と同様に「永遠性」を表すものではないか、というのが一番有力な説である。この神秘性の故に、現代人の占いや装身具などに生かされている。
ここで、エンヤとケルト研究者の鶴岡真弓さんとの対談を「地球交響曲第一番」の栞から引用しておく。

ケルトの渦巻模様は、
生命の永遠性を表している
歌手 エンヤ
ケルト美術研究家 鶴岡真弓
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(エンヤ)
 私にとって、それはあまりにも自然なことで、若いころにはまったく意識しません でした。故郷グイドーを出て、ダブリンに住み作曲を始めるようになって、初めて自 分の音楽の中にケルトの魂が深く宿っていることに気づいたのです。私の音楽の中に は、この土地の風土から受けた影響が強くあると思います。でもそれは、あらかじめ 意識しているのではなく、自分の心に自然に生まれた音楽を聴いて、初めて自分でも 気づくようなものなのです。

(鶴岡真弓)
 ケルト的な思考というのは、一見、渦巻のように遠回りで、まったく瞬間に湾曲す るわけですから前が見えないんですね。そしてその見えない先にまた一歩踏み出して、 さらにまた見えない壁とか闇とか森とかが前にくる。その見えないこと見えない世界 をひじょうに感じて、いろんなイメージを描く。エンヤさんの音のように、どこで切 れるともない、ピリオドのない、スパイラルのような繰り返しですよね。しかし、そ の繰り返しというのは、二度と同じ円周の上を辿らなくて、いま私たちがいる世界で はなくて異界から響いてきて、それに誘われて別の世界に連れていかれるような・・・。
 言ってしまえば、ケルトの渦巻的な、あるものの見方、宇宙観、自然との付き合い 方。それはスパイラルなんじゃないかということですね。

(エンヤ)
 私の祖父は素晴らしい語り部でした。小さいころ、学校から帰ると、いつも祖父の 帰宅を待ちわび、彼のそばに座ってたくさんのケルト神話を聞きました。祖父が語る 妖精物語に夢をふくませながら、いつのまにか眠ってしまうことがよくありました。
 私は、自分は現代に「ケルトの魂」を送る作曲家だと思っています。

(鶴岡真弓)
 カトリックがきてから以降のケルト人というか、その末裔であるアイルランド人は、 新しい宗教、キリスト教を受け入れました。でも、おそらく日本人もそうですけど、 彼らは、神道という自然の山とか水とか太陽とか、その中にある神秘的なものへの信 仰心は失わずに、むしろそれはもっと強まって残っていったと思うんです。
 なぜエンヤさんの音楽の中に漂っている渦巻が魅力的かというと、自然が向こう側 だけに漂っているものじゃなくて、そこに私たちの身体が入っているからなんですね。 天の、あるいは自然の、水の流れの、光の、空気の、その渦巻に、私たちの身体にう ごめいている「気」のようなものがついているわけです。
 だからケルティック・スパイラルというのはとても身体的だし、そして宇宙的なも のと一緒に絡まり合いながら、私たち自身が向こう側から見えるスパイラルなんです。

(エンヤ)
 私の曲の中には、ゲール語で歌ったものがたくさんあります。それを聴いた世界中 の人々が、意味はわからないのに、これはきっと私の魂の遠い遠い記憶を歌っている のだろう、と手紙を書いてくれます。言葉の意味を越えた何かが、人々の心に伝わっ ているのです。これは本当に素晴らしいことだと私は思います。

(鶴岡真弓)
 ケルトの渦巻は、永遠性や輪廻転生のシンボルだという説もありますが、どう思い ますか?

(エンヤ)
 そのとうりだと思います。渦巻を見ていると、いつのまにか引き込まれて、永遠の 中に連れていかれるような気がします。
 私は、どこまで行ってしまうのかしら・・・。
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ついでにエンヤと鶴岡真弓さんのプロフィールを紹介しておこう。

★エンヤ(アイルランド) 
 1963年アイルランド生まれ。18歳のとき兄姉のバンド「クラナド」に参加。82年脱 退、作曲家として活躍するようになる。86年にアルバム『ザ・ケルツ』でデビュー。 89年『ウォーターマーク』が世界的な大ヒットとなる。ファンを魅了したその神秘的 な歌声には、古代ケルト民族の宇宙観が宿っている。91年『シェパードムーン』96年『エニウェア イズ』97年ベストアルバム発表。

☆鶴岡真弓(日本)
 1952年茨城県生まれ。早稲田大学美術史科卒業。同大学大学院文化研究科修士課程 終了。ダブリン大学トリニティカレッジ留学。89年第一回倫雅美術奨励賞授賞。現在 立命館大学文学部教授。専攻は西洋美術史、ケルト学。
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モナスターボイス

 「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (3)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

モナスターボイス教会・修道院跡
ニューグレンジを出て、この辺りを流れるボイン川は「ボイン川の古戦場」と言って1690年、イギリスの王位争いにからんで、アイルランド、フランス連合軍約25000人がイギリスを追われたジエイムス2世に加担して、イギリス軍と激突した。これはカトリックとプロテスタントとの宗教戦争で、これに敗れたアイルランドのカトリック教徒はプロテスタントの支配を受けることになり、さまざまの差別を受けることになる。これが(目下は沈静中ではあるが)カトリック教徒側からのイギリス支配に対する「抵抗」運動として表れているのである。
やがて「モナスターボイス」教会、修道院跡を見学する。
ここは聖パトリックの弟子・聖ボイスが5世紀に建てたもの。その中に高い「ハイ・クロス」がある。これは10世紀のものでアイルランドで最も有名なケルト十字架である。
昔は文盲の人が多かったから、ハイクロスの石碑の面には全面にレリーフが刻まれ、日輪を配した十字架の中央には最期の審判を下す聖人を配し、柱の部分にはキリスト降臨のときの東方の三博士、民を率いるモーゼ、禁断の果実を手にしたアダムとイブなど聖書の物語が刻まれている。写真①が、それである。

モナスターボイス②

これには922年まで修道院長をしていた人の名前をとって「モルイダのクロス」と呼んでいる。
写真②は境内に建つラウンドタワー。

写真③は、先に説明した柱に彫られたアダムとイブの物語のレリーフの部分。

モナスターボイス④

この石碑の下部が欠けているのは、19~20世紀に移民を決意した人が「お守り」に削って持って行ったものであるという。
境内には、もう一本「西のクロス」という6.5mの高さのハイクロスもある。
写真④にハイクロスの部分を出しておく。

モナスターボイス③

この後は一路、高速道路を経て、北アイルランドの首都ベルファストに向う。
ここは今でもプロテスタントが多数を占める故をもって、イギリスが直轄支配する地域で、人口60万人を超える、元は造船業で栄えた都市である。ヴィクトリア女王の頃に大きく発展した。
ここはアイルランド原理主義者のIRAが爆弾騒ぎを起したところとして恐れられていたが、目下はIRAが武装闘争を放棄すると宣言して収まっている。
ただイギリス支配地だから、通貨はポンドで、二日間だけの滞在なので両替に困った。
結局、2227円=10ポンドだけ成田で両替した。10ポンド紙幣1枚だけ。
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2006/07/29のBlog

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (4)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

北アイルランド・・・・ベルファスト
アイルランドの北東部アルスター地方6州は、1920年にアイルランドが自治権を獲得したときに、分離して英国領になった。人口は約160万人。プロテスタントは約60%、近年カトリックが増えてきているという。
先に書いたように造船業で栄えた街であり、イギリスに所属させるようになった一因に、この造船業の繁栄があったからとも言われている。
ベルファストは北アイルランドの首都で人口60万人と言い、アイルランドで唯一、産業革命を経験した土地である。その頃はリネン(麻)や造船業が盛んになる。
写真は省略するが、リネン業で成功した大邸宅も見学した。現在は麻、タバコ、造船は閉鎖され、外国企業を誘致し航空機、コンピュータ、プラスチック製造、電子機器が主な産業という。
16世紀からイギリス、スコットランドからの移民が入ってきて、もともと住んでいたカトリックの人々の土地を取り上げたりしたプロテスタント優位の確執がIRAの爆弾騒ぎなどの底辺に横たわっているのである。

ガイドのバーバラと

写真①は、ベルファスト現地ガイドのバーバラさん。私よりは若いが、いいおばあちゃん。クイーンズ大学に隣接の植物園にて。

写真②は市庁舎の前に建つヴィクトリア女王像。この頃一番栄えた都市である。
写真はないが、有名な汽船タイタニック号は、ここで建造された。ハーランド&ウルフ社の造船所で1911年に完成、1912年サザンプトンからニューヨークに向けて出航した。タイタニック号で死んだ人の慰霊塔もあり。
バスはユニオニスト(プロテスタント系で北アイルランドの英国統治継続を主張する一派)の多く住む地区を通ってゆく。
ここを過ぎてナショナリスト(カトリック系でアイルランドとの統合を望む一派)の多く住む地区を通る。明らかに街の雰囲気が変わるのがわかる。
ユニオニストの連中は、いわばプア・ホワイトであって、差別主義者の常道として、自分たちよりも下に隷属させる「層」を持ちたい、のだった。写真があったのだが、今みつからないが、見つかったら載せる。
この地区では夜になると出入り口が閉鎖されるという。
アメリカでは富裕層が「gated sociaty(area)」を作って、ゲートで出入りの人をチエックする現象が出てきているが、ここは、その逆でユダヤ人の「ゲットー」のような感じの雰囲気である。

クイーズ大学

クイーズ大学②

写真③はヴィクトリア女王によって1849年創立の名門校のクイーンズ大学。
バーバラも、ここの卒業生だと言い、ちょうど卒業式の日だった。写真④に記念写真を撮る親子を載せる。
かぶっているマントの柄は学部によって違うらしい。
学生数は25000人だという。
あと隣接の植物園へ。大学と同じ建築家ラニオンの設計で、ロンドンのキューガーデンを模したと言われている。
昼食の後は、一路、ジャイアンツ・コーズウエーの奇岩を見に行く。

ここで記事の「埋め草」としてゲール語の会話例を少し。

こんにちは Dia duit. デイア グット

ありがとう Go raigh maith agat. グ レフ マハ グット

はい Ta. トー (aの上にアクサン・テギュがつく)

いいえ Nil. ニール

字の表記と発音が乖離しているものがある。

ジャイアント・コーズウエーは、アイルランド島の北端にある。
巨人の石道の意味である。この辺りの海岸6kmにわたって六角形の石柱が続く。
今から6000万年前に火山の爆発で噴出したマグマの溶岩が急速に冷却して凝固したもの。 「柱状節理」という。日本では福井県の東尋坊や宮崎の青島海岸などに少し見られる。
アイルランドでは自然遺産の見物には「ビジターセンター」が設置され、そこから先はミニバスに乗って移動するという形を取っているところが多い。ビジターセンターを手前に作り、それから先は車の立ち入りを規制し、当然、距離が遠くなるので、その間をミニバスに乗らせてつなぐ、という賢明なやり方だと思った。
写真はコーズウエイの標識とミニバス。
コーズウエイ

コーズウエイ②

岩そのものは、日本の海岸にも見られるもので、特別面白いというものでもない。
写真をまとめて載せておく。
コーズウエイ③

コーズウエイ④

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2006/07/30のBlog
デリー・タワーホテル

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (5)・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

デリー/ロンドンデリー ボグサイト地区 血の日曜日
ツアー第四日はデリーのタワーホテルに隣接する城壁の散歩から始まった。
写真①が城壁とタワーホテルである。ぐるっと旧市街を1.5kmにわたって囲んでいる。1613年からのものである。1689年に英国王を追放されて、この地を攻めてきたジェームス2世((カトリック)から身を守ろうと城壁内に3万人が篭城した。
オレンジ公・ウイリアム3世軍(プロテスタント)が駆けつけ105日後にやっと解放された。
城壁からはボグサイト地区が見える。
地区入り口の(写真の枚数制限の都合で省略するが)
 YOU ARE NOW ENTERING FREE DERRY
の大きな標識が印象的である。

デリー・ボグサイト地区①

ボグサイト地区
アイルランドのプロテスタント優位が決定づけられる中、18世紀末、仕事を求めて貧しいカトリック教徒たちが低地のじめじめした土地に移り住むようになった。それが「ボグサイト」地区である。
写真②③に、1970年代を中心に起こったカトリック教徒たちの差別反対のデモやテロの様子を描いた壁の絵を載せる。

デリー・ボグサイト地区②

デリー・ボグサイト地区③

銃を構えて制圧する英国軍の様子。③には、その中から議員となって先頭に立って戦い、マイクを持って演説する女性議員(名前失念)の絵。
写真③の絵の奥にも、先に書いた地区の標識の文字が描かれている。この文字が、この地区の抵抗の「合言葉」として象徴のようになっているらしい。
そして1972年1月31日、公民権運動の平和なデモ隊に英国軍が発砲し、無抵抗の罪もない婦女子など14名が亡くなった。これにより反英感情が一気に高まった。
これを「血の日曜日事件」という。
写真④に、その日を記念した碑を載せる。

デリー・ボグサイト地区④

デリー・ボグサイト地区⑤

1998年の和平合意以降、カトリック教徒の生活改善もなされ、現在は平穏に推移しているが、カトリック教徒側は、こんな記念碑を建てたりして、今さらながら昔に逆戻りしないように求めているものである。

「ロンドンデリー」という呼び方について
ここデリーDERRYの街の呼称には、しばしばDERRY/LONDON DERRYと並べて書かれることが多い。
城壁の見物のあと街を巡ったが、その中にひときわ大きい建物があり、それはロンドンの商工業組合(ギルド)の建物ということで、(現在は市庁舎になっているが)、この街の城壁の建設などに当たって、ロンドンの商工業組合が多大の財政的援助をしたというので敬意を表して「ロンドンデリー」と表記することになったらしい。
「ロンドンデリーの歌」というのは、もちろん、ここのことを歌ったものであることは言うまでもない。

デリー・ロイヤリスト地区

その後、歩いて街を一周する中で、旧市街の一角で、写真⑤のような「ロイヤリスト」と呼ばれるプロテスタントの人たちの住む地区に出た。
この金網に囲まれた一角の看板には「NO SURRENDER」(引き渡されない)と書かれており、今もなおプロテスタントの──特に「プア・ホワイト」たち下層民には同化しようとしない機運がみなぎっていると言えよう。不気味である。
この街は小さなものだが、これらの見物は、まるで重い鉛の塊を抱えさせられたようで、印象的な忘れられない半日だった。
城壁内の一角には英国軍の基地もあったが、5月で全て撤退したという。基地跡の横を過ぎて外へ出た。
聖コロンバ大聖堂などのことは省略する。

ここでデリーの語源について少し。
中世に聖コロンバが546年にこの丘に修道院を建てたのがデリーの町のはじまりだが、その頃、ワルト語で「デリー」とは「樫の木」の意味で多くの樫の木があったので、そう呼ばれることになったが、先に書いたように城壁を築いたりするときにロンドンの商工業組合(ギルド)に資金的援助を受けたので、それ以後「ロンドンデリー」という呼称を名乗ることになった。
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2006/08/01のBlog

「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (6)・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行
ドラムクリフ教会(イエイツ)

ドラムクリフ教会(イエイツ)②

ドラムクリフ W.B.YEATS
行程途中の「フランシスカン修道院跡」については省略する。
午後三時前、氷河によって削られ特異な形をしたベンブルベン山(525m)の見えるドラムクリフの聖コロンバ教会に到着。ここは後のノーベル賞詩人のW.B.イエイツの祖父が牧師を務めていた教会で、イエイツもよくここを訪ねており、ここの墓地にイエイツの墓がある。

ドラムクリフ教会(イエイツ墓)

この教会の敷地の一角には立派な「ハイクロス」があり、写真も撮ったが省略する。
この特異な形のベンブルベン山の見える土地にはイエイツは幼い頃から家族で夏を過し、この自然がイエイツの詩作にも大きな影響を与えたと言われている。
ここスライゴー郊外のドラムクリフで、イエイツは村の人々から聞いた口伝えの伝説を集め『アイルランド農民の妖精物語と民話』(1888年)、『ケルトの薄明』(1890年)に収めたりした。そして民話に触発された独自の詩の世界を完成させた。
また『秘密の薔薇』(1896年)では、妖精や神々、英雄を登場させたりもした。
写真③がイエイツの墓である。
イエイツは1939年南イタリアで亡くなったが、遺言により第二次大戦後、ここに改葬されて、懐かしい教会の墓地に眠っている。
墓石には、亡くなる数日前に書かれたという「ベンブルベンの麓にて」と題する詩の一部が彫られている。
 
 Cast a cold Eye
 On Life,on Death
 Horseman,pass by!

私は、まだ詩の全文にも当たっていないし、不正確は承知の上で下記のように訳してみた。私のやっている短歌の音数律に則っている。

 冷徹な 視線を 生に、死に 投げて 馬の乗り手は、 時の過ぎつつ

イエイツパンフレット

写真④が、当地の教会でくれたイエイツに関するブックレットである。
ここにはDerick Binghamが記事を書き、Ross Wilsonがポートレートを、ほかの数人が写真を撮ったとある。

イエイツは1865年6月13日に生まれ、1939年1月28日に亡くなった。
墓碑には、上の詩とともに、上の年月日が刻まれている。
黒い石の墓石に白い字が印象的な、簡素な墓である。


あと、スライゴーの街中に進んで、イエイツ博物館などを見たあと、街中を散歩する。
写真⑤は、イエイツの現代的な像が街角に建っている。

街中のイエイツ像

ここでは現地ガイドのマリさんが付いたが、この夜宿泊のスライゴー・パークホテルのロビーで、息子の高校生ショーン君のイエイツの詩の朗読があった。
彼はダブリンの国立図書館で行われたイエイツ朗読会の4位に入賞したという経歴を持っているということだった。

アイルランド文学について
こんな小さな国でありながら、アイルランドは4人のノーベル文学賞作家を出している。
イエイツ、バーナード・ショウ、サミュエル・ベケット、シェイマス・ヒーニーである。
イエイツは先にも書いたが、アイルランド文学協会、アイルランド国民文学協会を組織したりした。
バーナード・ショウは主にイギリスで活躍した作家。独特の皮肉、風刺、諧謔で知られている。
サミュエル・ベケットは作品の難解さで知られ、ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』の仏語訳を手伝ったりした。日本でも知られる『ゴドーを待ちながら』という戯曲は、割合知られているのではないか。
ヒーニーのことは、私は、よく知らない。
他に、オスカーワイルド、ジェイムス・ジョイスなどがいる。
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先に書いたイエイツの詩のことだが、「詩」の翻訳は、難しい。
というのは、詩は非日常のものであり、センテンスも飛躍があって文脈が辿れるとは限らないからである。
この墓碑の詩も、どのフレーズを主語とするかを見極める必要がある。
私は horseman は、はじめの cast にかかるとみた。文末の pass by!は単独のフレーズで「時は過ぎる」という慣用句として独立していると思う。だから私は「時の過ぎつつ」としてみた。これなら、独立する。
horsemanは訳語としては「騎手」としてもよいが、この場合もルビは「乗り手」としたい。
乗り手「は」と一応はしておくが、ここは乗り手「よ」とする手もある。
短歌の翻訳を多く手がけている結城文さんに聞いてみるのもよいと思っている。
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2006/08/02のBlog

 「タラの丘に還る」─アイルランド紀行 (7)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

第五日は小雨や驟雨にたたられる
この辺りは「コマネラ」地方という。約15000年以上前に氷河によって大地が削られて山や谷、沼やフィヨルドが出来た。泥炭層が多く見られるところ。
ところどころで泥炭を採取している風景が見られ、乾燥させて燃料として使われているが、自然保護のために2025年には泥炭の使用はやめる政策とか。

カイルモア修道院

写真①はカイルモア修道院である。
この城館は1871年に完成した下院議員でマンチェスターの富豪マイケル・ヘンリーと妻のマーガレツトのためのものだが、何代かの手を経てベネディクト派の修道院となった。現在はベルギーの女子修道院の経営で、付属の良家の子女のための全寮制の女子学校がある。前のカイルモア湖に館が映ってきれいである。
ビジターセンターで選択制の昼食のあと、コマネラ国立公園の散歩。
だらだら上がりの道である。3kmの道を約1時間かけて廻る。
写真②は路傍の斜面のヒースの花の群落である。

コマネラ国立公園の散歩ヒース

ヒースという呼び名は、ヘザーが群生している様子を指すそうである。
この辺りは緯度的にはちょうどスコットランドと同じようなところにある。もっと大きな群落地があったのだが、写真がなくてゴメンなさい。
写真③のように泥炭の露出したところもある。

コマネラ国立公園の散歩泥炭露出

私は、とろとろ歩くのが嫌いで、みんなより早く丘を下りたのが悪くて、バスの停まるところの手前で激しい驟雨に遭い、濡れてしまう。

ここを出て、コングの村を散歩するが小雨で気が乗らない。
ここはジョン・フォードの故郷で1952年公開の「静かなる男」のロケ地となった。
俳優たちもアイルランド系を多く使ったという。だからアメリカ人の観光客が多いという。

この夜は西海岸最大の都市ゴールウェイ泊り。
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2006/08/03のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (8)・・・・・・・木村草弥
         
         ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

ゴールウェイ イニシュモア島 ドゥーン・エンガス
ゴールウェイは西海岸で一番大きい都市で人口約9万人。1845年創立のゴールウェイ大学(学生数15000人)もあり若者が多く活気がある。コマネラ地方の自然やビーチ、アラン諸島などとの基地となっていて、西の経済、文化の中心になっている。
郊外のロサヴィル港からイニシュモア島へ写真①のフェリーで渡る。300人乗り。

イニユシュモア島フェリー

本土から島へは約12km、約45分。

イニユシュモア島フェリー②

同行の大きな体のガイドと添乗員・帯津さん。
私の隣にドイツ人の女の人が座る。
帰途、同じ人が夫婦で座り、まあ、と声を上げる。ドイツのツアー客で隣に座った老婆と話す。71歳だという。ドイツの飴をくれたので、たまたま添乗員の帯津さんのくれた日本のパインキャンデーをお返しにあげる。ドイツ人も団体旅行好きである。波に乗り上げて船がかしぐと怖がって声をあげるので、手を握ってあげる。

イニユシュモア島ドゥーンエンガス

イニシュモア島のキルローナン港に到着
この島はイニシュモア諸島のうちのひとつ。人口は約900人という。
紀元前5世紀にケルト人が渡ってきたが、すでに先住民の遺跡ドゥーンエンガス(写真③)があったという。発掘調査によりBC1500年頃には人々がこの島に住んでいた形跡があるという。この砦はBC1100年頃には建造が始まったと考えられ、BC800年頃まで増築され、崖から三重になっており、その壁の間に人々が住んでいたと考えられるが詳しいことはわからないという。崖の先端から、這いつくばって海を覗く人もいる。
写真④が、その断崖。

ここもビジターセンターから先はミニバスで行くが、ドゥーンエンガスに行く前に聖キーラン修道院跡を見る。写真は省略。
アラン諸島には490年に聖エンダによりキリスト教が伝えられ、その弟子キーランによって6世紀に建てられたのが、ここである。
12世紀には他へ移ったため廃墟となった。
この島でも小雨にたたられる。
因みにイニシュモア島とは「大きな島」の意味。他に、イニシュマン島は「まん中の島」の意味。イニーシア島は「東の島」の意味という。

イニユシュモア島断崖

イニユシュモア島石囲いの牧草地

写真⑤が西海岸特有の拾い集めた岩を積み上げて放牧地の周囲を囲った風景。
昔は海藻などを敷いて土壌の基礎を作り、ジャガイモなどを採っていたという。
下は石灰岩の岩盤である。

ゴールウェイ・夕食シーフード

ゴールウェイに帰ってから夕食はフリーなので、添乗員おすすめのシーフード・レストランに行く。予約してあったが、とても混んでいて、テーブルが空く都度、4人づつ席につく。
何が出たか、忘れてしまったが、おいしかった。
写真の右側の人が唯一名前を紹介した「阿部行子」さん。風貌が一見外人っぽい。

ここのホテル──インペリアル・ホテルというが、街の中心にはあるが、その名に値しない古くて、がさつなホテル。環境も悪くて、ホテルの前で若者がおそくまで、騒いでいたという。
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2006/08/04のBlog

  「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (9)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

バレンBurren高原 巨人のテーブル 
第七日はゴールウエイを出てリムリックに至る間に横たわる、どこまでもつづく石灰岩の丘陵である。
かつてクロムウエルが侵攻してきたとき「人を吊るす木もなく、溺れさせる水もなく、生き埋めにする土もない」と拷問に方法を考えるのに途方に暮れたという土地である。
このエピソードは残忍なクロムウエルならではの言葉だと思うが、現実の土地は、まさにそのような土地であった。バレンという言葉の語源となったバレンBhoireannとはゲール語で「石の多い場所」を意味する。石は水による侵食を受けやすい石灰岩で、洪積世に氷板で凝固や溶解作用を起した。さらに2億6000万年前に起こった地殻変動で海底から押し上げられて、現在のように石灰岩がひろがる光景となつたという。

巨人のテーブル

写真①は、そんな光景が創り出した「巨人のテーブル」という造形である。
紀元前3800年~3200年頃に作られたといわれている。1989年の発掘調査で25人分の人骨、壷の破片、宝石類が出てきたという。元々は、このテーブルの上にはニューグレンジのように墳墓として土が覆っていたと考えられる。

モハーの断崖
モハーとは廃墟になった崖の意味。
海面からの高さが約200メートル、約8kmにわたってつづく断崖である。
岩には海鳥の巣がたくさんあるという。最近は年間70万人もの観光客が来るという。

モハーの断崖

強い風と雨の中、カッパを着て歩いた。
岩肌には黒い泥板岩と砂岩の層が交互に美しいラインを描いている。

アデア村
16時頃、リムリツク近郊のアデア村に到着。
数軒の藁屋根の昔の建物があるだけだが、保存されて観光客を引きつけている。
これらの家は観光客向けのみやげもの店などになっている。
かわいい村コンテストで優勝したことがあるという。
藁屋根の家はイギリスのストラドフォード・アポン・エイボンのシェクスピアの母親の家なんかもそうだし、デンマークの漁師の家なんかも保存されているのと同様である。

藁葺屋根のアデア村

藁葺屋根のアデア村②

いずれにしろ雨と風にたたられた一日だつた。
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2006/08/05のBlog

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (10)・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

キラーニー国立公園 マクロス邸
第八日は朝、小雨。キラーニー国立公園の湖の傍にあるマクロス邸へ馬車4台で。
「マクロス」とは人の名前ではなく、ゲール語で「マク=豚、ロス=所」の意味。
この邸は1843年ウエールズの富豪H.A.アーサーにより建てられた邸宅。
1861年にヴィクトリア女王訪問のために八年も前から改装したりした。
その後、いろいろの手を経て、19?0年にサンフランシスコでゴールドラッシュで財を成したW.B.ボウルが購入。

マクロス邸へ馬車で

娘モードとビンセント氏の結婚祝いに買って、二人の子供も生まれ暮していたが、妻モードが死んで引越し、1932年アイルランド政府に寄贈され11000ヘクタールの土地とともに国立公園となった。
邸内を詳しく案内してもらうが、省略。
ヨーロッパのお城や宮殿を数多く見てきた目には規模が小さい。

マクロス邸

外へ出て、湖を望む景色などを自由時間で見物する。
マクロス邸へ馬車で行ったので馬車を降りてからの写真を出しておく。雨に備えて青いカッパを着ているのがわかる。

マクロス邸へ馬車で②

あと、14世紀に建てられたが、クロムウエル軍の攻撃で破壊され廃墟となったロス城などを見て、一旦昼食のためにキラーニーの街中に戻る。
ちょうど、この日はアイルランドラグビー(普通のラグビーとどうちがうのかわからない)の決勝戦が行われるというので、赤と緑のチームカラーを着分けた人々がおびただしく往来しており、笛を吹いたりして大騒ぎ。夕方、ラジオで聞いていたドライバーの話では同点で引き分け、後日、決定戦を行うらしい。

イベラ半島170kmのリングオブケリーのドライブ
午後は大西洋に突き出たイベラ半島のドライブ。山を越え、谷に降り、海岸に出て、また山中に入るというドライブ。気が乗らず写真なし。

妖精標識

途中に、写真④のような「妖精に注意」という横断歩道の看板が出ていたりして、ここが妖精伝説の国であることを示す面白い場面にも出くわすことになる。
イエイツなどの著作に妖精の話があることはも先に書いた通り。
もう一つ。海岸を走っていたら、チャーリー・チャップリンが妻や子供たち家族とよく夏を過したというButler Anns Hotelのあるウォータービル村で写真ストップ。
写真⑤がその銅像。

ウォータービル村チヤップリン像

夕方18時といってもサマータイムのため、太陽はまだまだ真上だが、キラーニーのエビストンハウスホテルに帰着。
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2006/08/06のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (11)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

写真①はキラーニー宿泊のエビストンハウスホテルである。

キラーニー・ホテル

街中にあり、古いが、まあまあ設備も整ったホテル。グラウンドフロアの一角には広いパブがあり、宿泊客でない一般の人も利用している。
宿泊客のためには二階(ここでは一階)のレストランを利用することになる。
朝スーツケースを運ぶポーターが少ないので、私は自分で玄関まで階段を使って運んだ。

ブラーニー城 ロックオブキャシェル
第9日は、先ずブラーニー城へ。

ブラーニー城

10世紀頃にあった木造の城跡に1446年マンスター地方の王マッカーシーが今に残る城を作った。彼は雄弁家で、エリザベス女王の命令もうまく丸め込み自治権を獲得するまでになった。ここからコーク出身の詩人マホーイが城の或る石にキスをすると「誰もが雄弁になり、恋人に愛をささやくもよし、国会議員になるもよし」と詠ったことから有名になった「ブラーニーストーン」というのがある。

ブラーニー城②

ブラーニー城③

写真③は、イナバウアー状になって石にキスしようとする同行者。
長い行列が出来ている。みんな物好きである。
石は屋上にある。途中の階はがらんどう。
広い庭の散歩をする。
「エレファントイヤー」という大きな葉の南米原産の植物があったりする。
近くのブラーニー・キャツスルホテルという立派なホテルのレストランで昼食。念のためにメニューを紹介しておく。
ゆで玉子とサラダの前菜。スモークハドック(鱈の一種)のグリル。デザートはパブロヴアというメレンゲを焼いたものとクリーム。

ロックオブキャシェル

ロックオブキャシェル 聖パトリックの十字架
約2時間かけて到着。
この教会跡は5世紀マンスター地方の王族オブライエンが居住のための城を建てた。448年に聖パトリックが来て王を改宗させ、9世紀からは王が司教を兼ねる司教座となった。1141年頃には大司教座に昇格し、アイルランドの4大司教区の一つとなったが、宗教改革や戦争や大虐殺のために教会群も破壊され、1749年からは近くの聖ジョン教会が代わりの役目を果たしている。1847年からは国の管理下に。

ロックオブ・聖パトリック十字架

聖パトリックの十字架
聖パトリックがこちらで布教したのにちなんで作られた。左半分は壊れている。
キリストが十字架にかけられている彫刻が彫られている。
コーマック礼拝堂。カテドラル(大聖堂)など。
とにかくアイルランドでは聖パトリックがキリスト教を布教した人なので、どこへ行っても「聖パトリック」一色である。

添乗員の帯津さんが詳しく説明してくれたが、省略。
あとは一路、ウォーターフォードのタワーホテルめざして出発。
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2006/08/07のBlog

「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (12)・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

グレンダロッホ
第10日はウォーターフォード・クリスタル工場の見学から始まったが、写真は省略。
チェコのボヘミヤンガラス、イタリアのベネチアンガラスを見てきた人間には、芸術的に、もう一つ物足りない。ここの説明にもあったが、スポーツ競技のトロフィーなどに特色があるということか。またケネディ大統領以来、就任の記念クリスタルが贈られているという。
ここを出たあとは山のなかに入り、アボカ村にあるギリシア料理のみすぼらしいレストランで昼食。
アボカ渓谷のドライブというが、渓谷というような趣のものではなく、まして道の両側の木が邪魔をして渓谷が見えない。
15時すぎグレンダロッホに到着。ここもビジターセンターを経て、歩いて中に入る。
写真①のゲートウエイという石積みの門をくぐって入る。

グレンダーロッホ

①の石積みの門は11~12世紀に作られたもので現在唯一残っているもの。
ここは6世紀に聖ケビンが修行を始めた頃すでに小さな教会があったという。、その後修道院を作り人々が集まり村となった。聖ケビンは初代司教。
写真②は大聖堂(カテドラル)の跡。

グレンダーロッホ②

10~12世紀のアイリッシュ・ロマネスクのがアーチに残っているという。
写真③は10~12世紀に建てられた円塔。高さ約30m保存状態が大変よい。

グレンダーロッホ③

この塔は「物見」の役目も果たしており、入り口は地上から3mほど上に開いており、まさかのときには梯子を取り外して、中に篭城することも考えられていたという。
写真④は聖ケビン教会と言い、ロマネスクよりも前、11世紀に建てられた急勾配の屋根と突き出た円塔が特徴的。
現在の形になる前、ケビンが来る前にすでに木造の教会があり、ケビンはここに住んだという。

グレンダーロッホ④

グレンダーロッホ⑤

写真⑤は、ビジターセンターの中の展示にあったもの(メモがなく不詳)。

ここに入る前に渓谷の途中にトーマス・ムーアの詩を刻んだ石碑があった。
それはThe meeting of the waters というものであり1807年にこちらを訪れたときに書いたという。
詩は<アボカの美しい谷よ!最愛の友と緑陰に抱かれて、この上なく静かな憩う、ここでは冷たい世の嵐が吹きすさぶこともない、せせらぎのようにわが心は平安にひたる>
というものである。

グレンダロッホとは湖に囲まれた谷、の意味。ここはウイークロー国立公園の中にあり、ハイキングを楽しむ人が多い。ローワーレイクまでミニ散歩を楽しんだ。
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 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (13)・・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

2006/08/08のBlog

首都・ダブリン
ここでの2連泊はバーリントンホテルと言う大きな近代的なホテル。
第11日は午前中団体行動で、午後からフリーとなる。

オスカーワイルド像

写真①はメリオンスクエアという公園の一角にあるオスカーワイルド像。
ダブリンの街はリフィ川の南北に開けた街。中心部の1720年代から約100年の間に建てられたジョージアン様式の建物の写真を撮ったりする。カラフルなドアや、その上の半円形の窓が特徴。
写真②は聖パトリック大聖堂。

聖パトリック大聖堂

ここはアイルランド国教会のため、信者は250人くらいだという。だから維持のために入場料などで収入を得ている。中は人で一杯。
現在の建物は1191年当時の大司教によって建てられた。
床には、この教会で大司祭長として務めたジョナサン・スイフトとその恋人ステラの墓があり、カラフルなプレートが埋め込まれている。写真③にそれを載せる。
スイフトは『ガリバー旅行記』の作者として有名。

司祭長ジョナサンの墓

先に書いたように写真③がジョナサン・スイフトと恋人ステラの墓。

ここの大聖堂の修復には、ビールで有名なギネスが多額の寄付をしている。窓にはギネス家が作らせたすばらしいステンドグラスが見られる。
バスはリフィ川南北を案内してくれ、旧国会議事堂(現アイルランド銀行)、トーマス・ムーア像、ダニエル・オコンネル像、中央郵便局(1916年イースター蜂起のとき独立軍が占拠)などが見える。
11時頃、トリニティ・カレッジに入る。

トリニティ

トリニティ②

トリニティ・カレッジの中にあるオールドライブラリーの『ケルズの書』を見学する。内部は撮影禁止である。
ここトリニティ・カレッジはエリザベス1世により1592年にプロテスタントの神学校として創立された。現在の学生数は11500人という。そのうちの75%はカトリックという。
ケルズとは、アイルランド中部の町の名で、そこで書かれ、発見されたので「ケルズの書」という。仔牛の皮をなめして、その上に福音書を修道士たちが書き写した。120頭分という。4冊のうち2冊がこちらで保管され、公開されている。装飾文字なので美術品としても価値が高い。
「ロングルーム」という図書館を見学。
ここのシヨツプで鶴岡真弓さんの翻訳の「ケルズの書」(創元社刊)を買う。日本で買ったら定価で買えるので安いのだが、記念に買った。写真⑤が、それである。

ケルズの書

後、団体行動としては「国立博物館」で紀元前1200年~1000年という金の装飾品や、最近、泥炭層の中から発見され、つい先日から展示コーナーが出来たというミイラ。国宝・タラ・ブローチ8世紀のもの(ただし、タラの丘でみつかったものではなく、アイルランド人の心の故郷としてタラと名づけたという)。アーダの聖杯(8世紀)。コングの十字架などを見学。
国立美術館のカフェで各自に昼食を摂って解散。
私はホテルへ戻り休息する。
長かったツアーが終了した。
翌日、ダブリン空港を経て、ロンドン・ヒースロー国際空港から成田へ帰る。私だけビジネスクラスである。

大急ぎで、とにかく全部まとめてみた。資料などで追加するものがあれば、後日、記事にしたい。


     
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