K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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高階杞一詩集『夜とぼくとベンジャミン』・・・・・木村草弥
高階_NEW

──高階杞一の詩──(10)

     高階杞一詩集『夜とぼくとベンジャミン』・・・・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・澪標2017/07/20刊・・・・・・・

高階さんの最新詩集である。 
初出は2012年から2017年にかけて、先生の主宰誌「ガーネット」をはじめ「交野が原」などに発表されたもの40篇ほどである。
この本への収録作品数は30篇で、40篇ほどの候補作の中から最終的に30篇に絞り込んだという。

題名になった詩「夜とぼくとベンジャミン」は2016年8月に「つばさ」14号に発表されたものらしい。
ここで雑学を披露しておくと、「ベンジャミン」という人名は英語の男子名。 ユダヤ人名(ヘブライ語)の「ベンヤミン」に由来する。
旧約聖書に登場する「ヤコブ」の末息子。「右手(ヤミン)の息子(ベン)」の意味。「右手」には力・栄光・権力・正義・勝利、といったプラスの概念があるようである。
イギリスの国会議事堂の時計塔を作ったビッグベンの本名がベンジャミン・ホール。
「ビッグ・ベン」(Big Ben) という名称は、工事責任者で国会議員のベンジャミン・ホール卿(Sir Benjamin Hall, 1802年 - 1867年)の名にちなんで命名されたという説である。
ドイツ語、オランダ語では「ベンヤミン」。 イスラエル首相ネタニヤフ(私は嫌いだが)もベンヤミンである。  (閑話休題)

高階さんの詩にはメルヘンがあった。 
だが、この本に載る詩は難しい。語彙は易しいが、描いてあることが不気味である。 怖い。 
私は詩を読み解く評論家ではない。 無力な鑑賞者に過ぎないから「感覚」で物を言っている。

Ⅰ 土下座の後で   に載る一連は「武士」で貫かれているようだ。
「野にも山にも若葉がしげり」とか「実のひとつだになきぞかなしき」とか「爺、急ぐぞ」とか、歌曲や和歌やテレビ・ドラマの台詞の一節とかが巧みにコラージュされている。
この辺のところが現代詩の自由なところで、現代短歌の世界では、こういう自由は許されない。「剽窃」などとうるさい。
こういうコラージュを見て「にやり」とするところなどは私の好きな分野だが、現代短歌の世界は何とも窮屈なことであるのだ。
昔の俳諧、連歌、連句、和歌の世界では、そうではなかった。 いろんな「由来」「来歴」に、いかに通じているかが教養だったのだが・・・・。

この本の「あとがき」の中で、こう書かれている。  ↓

<今回ほどバラツキの多い詩集はない。
 それは見方を変えれば、前詩集以降、さまざまな表現法を模索してきた結果であるとも言えるのだが。
 詩の内容と形式は連動している。
 ラーメンにはどんぶり鉢が適しているが、京風の会席料理にどんぶりは似合わない。
 料理にはそれぞれ適した器がある。
 それを無視したら、せっかくの料理も台無しになる。
 それと同様、詩にも内容に合わせた器が必要になる。
 本書が多様な形式の混在となったのは、それだけたくさんの器を必要とする料理(思い)がこの五、六年、自分の中に少しずつ堆積してきていたからだろう。>

と書かれている。
私が、この本を読んで、今までの高階さんの「メルヘン」とは違った印象を持ったのは、そういうことなのだろう。

        浴室の歌

   ゴミ箱に牛が捨てられていた
   あふれそうなティッシュの上で
   牛は
   ぽつんと
   横を向いて立っていた

   夏の終わり
   高原でたくさんの牛を見た
   どこまでも続く牧場で 牛は
   草を食んでいた
   いつか不意打ちのように訪れる死のことなんか
   (たぶん)
   考えもせず
   牛は無心に草を食んでいた
   その横で
   ぼくはソフトクリームを食べていた
   おいしかった

   そんなことを 思い出しながら
   歯を磨いていたら
   浴室から歌が聞こえてきた
   さっきまでぼくの隣ですやすや寝ていた女の子
   (湯船の中だろうか)
   気持よさそうに歌っている

     《 花の香り おちちの泡だち
      牛乳石鹸 よい石鹸*

   ぼくが教えた歌だった

       *三木鶏郎作詞「牛乳石鹸のうた」より
---------------------------------------------------------------------
この詩などは、今までのメルヘンぽい高階さんの作品の流れと言えるだろうか。
今でもあると思うが「牛乳石鹸」の赤い箱を思い出してみてもらいたい。
この詩は、その外箱を見ながら作られたものである。 上手いものである。

Ⅳ 歌のアルバムは9月に始まって8月に終わる一年間の12の作品がある。
月の行事などに関連する作品が作られている。 
よく知られた流行歌の歌詞の一部が埋め込まれている。 章末には、原曲名と歌手名が列挙されているが、これは著作権をおもんばかってのことであろう。

Ⅴ 雨、みっつよつは、新しい表現を採っている。
高階さんにしては、かなり長い一連で、「〇」を付けて連詩のように詩を連ねてゆく形式である。

例えば、高階さんは犬が好きなので「犬と歩けば」という作品がある。

        犬と歩けば

   目の前を歩いている犬を見ていると
   まるで死などないように思える
   ただ歩いて
   しっぽをふって
   ときには走って
   全身まるごと 生きていることだけで
   できている

   そこが
   ニンゲンと ちょっと
   ちがうところかな

       〇

   犬の生涯
   人の生涯
   ノミの生涯
   どれも遠い所から見たら
   きっと同じに見える
   一瞬のうちに
   始まって 終わる
   悩んだり苦しんだりしていたことも
   一瞬のわたしとともに
   消えていく

   口笛を吹くように
   犬と歩けば

       〇

   棒に当たる
   この棒はどこから落ちてきたんだろう
   見上げれば
   ふかく青い空
   あの向こうから
   あやまって落としたひとのことを
   考える

       この棒 何に使っていたのかなあ

          (中略)

        〇

   犬は草むらが好き
   そこにはいっぱいステキなものがあるようだ

        〇

   春が来て
   木々の芽もふくらんできた
    
   まだ風は冷たいけれど
   犬は
   先へ先へと進む
---------------------------------------------------------------------------------
こうして書き抜いてみると、最初に書いた「不気味」とか「怖い」という感じは、しなくなった。
いつものメルヘンチックな「高階ぶし」のような気がしてきたから不思議である。

久しぶりに高階さんの詩に浸って「連想ゲーム」のように、「連詩」のように思考の繋がりを体感させてもらった。
長い詩が多いので多くは引けなかったのを、お詫びする。
有難うございました。




高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
高階_NEW

──高階杞一の詩──(9)

       高階杞一『詩歌の植物 アカシアはアカシアか』・・・・・木村草弥
                      ・・・・・澪標2017/05/20刊・・・・・・・

この本は詩誌「びーぐる」に連載されたものを纏めて上梓された、詩歌に出てくる植物について書かれたエッセイである。
「あとがき」に書いておられるが、高階先生は大学の農学部を出て、造園技師として勤めておられたことがあり、植物の専門家である。
そんな立場から、蘊蓄を傾けて、こんな本が誕生したということである。 少し「あとがき」を引いてみる。

<こうした植物にまつわる文章を書く最初のきっかけとなったのは、四十年近くも前、ニセネムノキなる樹木が出てくる詩を読んだことだった。
 何だこりゃ? こんな名前の木があるのかと疑問に思い、その正体を解き明かす文章を当時発行していた同人誌に書いた。それが本書第一章の「アカシアはアカシアか?」の元になっている。・・・・・ >

紹介したからには、もっと詳しく引く必要があるが長い文章なので、お許しいただきたい。
代わりに「目次」を引いて、お茶を濁したい。

「目次」
⒈ アカシアはアカシアか?
⒉ あれは菜の花?
⒊ 春にはなぜ白と黄色の花が多いのか?
⒋ 白いコウホネ?─『海潮音』の植物
⒌ バラもあれこれ─夢見る薔薇やもののけの薔薇
⒍ 小出新道の謎
⒎ 種はなくてもタネはある
⒏ 中也の植物 道造の植物
⒐ なぜ葉は散っていくのだろう?
⒑ ツバキは唾の木?─ツバキとサザンカ
⒒ ネズミもいればブタもいる─植物名の中の動物
⒓ はっかけはばあにくっつき虫─植物の異称あれこれ
⒔ 王と宰相─ボタンとシャクヤク
⒕ 屋根の上のアイリス─アヤメ科の植物あれこれ
⒖ 蓮喰いびとの<蓮>とは何か
⒗ アジアの足跡─踏まれても忍ぶ草
⒘ 植物もヘンシーン!

詩歌と植物とに「執拗に」拘って、ものされた珠玉のエッセイである。 ぜひ、ご一読を。

Wikipedia─高階杞一

まことに不十分で申し訳ない。 ご恵贈に感謝して終わる。有難うございました。


『高階杞一詩集』・・・・・・・・・・・・木村草弥
高階①

──高階杞一の詩──(8)
      
        『高階杞一詩集』・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・ハルキ文庫2015/08/18刊・・・・・・・・・・

この詩集が著者から恵贈されてきた。 既刊の詩集のアンソロジーである。
一冊の詩集から四、五篇くらいの作品が抄出されている。
高階杞一の詩については ← に書いたので参照されたい。

まず、はじめに巻末に載る谷川俊太郎の「エッセイ」という解説を引く予定だったが、高階さんから著作権の問題もあるから縮めよ、との指摘があり、削ると意味不明になるので、
全文を別の場所に置き、ここには「リンク」として読めるようにした。 → 『高階杞一詩集』付属「谷川俊太郎・エッセイ」
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 ↑ 第五詩集『早く家へ帰りたい』

私がブログに書いた文章の中にも、この第五詩集『早く家へ帰りたい』(偕成社)に触れたものはない。
谷川俊太郎が「エッセイ」の中でも触れているが、この本は他の詩集と違って「リアリズム」風の作品になっている。
おそらく、それだけ死の衝撃が強かったせいかと思われる。
谷川の文章で、ほぼ尽きているいるかと思うが、詩を引いてみる。

    催促
      雄介九ケ月、四度目の手術の前に

  春の土から
  草が萌え出すように
  小さな歯茎から
  小さな歯が二本
  生えてきた

  何か
  噛むものをちょうだい
  まるで催促でもするように

  それにまだ
  応えられないのが
  つらい

   
     

  こどもがはじめて笑った日
  ぼくの暗がりに
  ひとすじの強いひかりがさしこんだ
  生まれてはじめて見るような
  澄んだあかるいひかり
  その時
  ぼくの手の中で
  愛
  という形のないものが
  はじめて〈愛〉という形になった

  そして
  ぼくの〈愛〉はまだ病んでいる
  病院の小さなベッドで
  「苦しい」とか「痛い」とか
  そんな簡単な言葉さえ
  いまだ知らずに


    早く家へ帰りたい (部分)

  旅から帰ってきたら
  こどもが死んでいた
  パパー と迎えてくれるはずのこどもに代わって
  たくさんの知った顔や知らない顔が
  ぼくを
  迎えてくれた
  ゆうちゃんが死んだ
  妻が言う
  ぼくは靴をぬぎ
  荷物を置いて   (後略)
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高階氏については → Wikipedia─高階杞一 を見られたい。
残余の詩集については、先にあげた私のブログの「カテゴリ」を見てもらいたい。
この詩集には自筆による詳しい「年譜」が載っており、私生活にも及ぶ高階さんの半生が読み取れる。
高階さんは酒が大好きであられるようで、食道ガンなどの手術を再三なさっている。
これからも頑張っていただかないといけない人だから、節制に努められるようお願いして拙文を終わりたい。
有難うございました。


高階杞一詩集『水の町』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
高階

──高階杞一の詩──(7)

       高階杞一詩集『水の町』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・澪標2015/05/01刊・・・・・・・

この本が著者から贈呈されて来た。
私が敬慕する高階さんの第14詩集になる。
この詩集には全部で 24編の作品が収録されているが、「初出」は、主宰される詩誌「ガーネット」や「交野が原」が大半を占め、ほかに「読売新聞や」「朝日新聞」などに寄稿したものなどによる。
中には「赤旗」というのも見られ、これは日本共産党機関紙のことと思われ、高階さんの交友の広さを物語るようである。(引用した「道」という作品)
作品制作年:2011年~2014年 とある。
掲出したカバー装は、 装幀:倉本 修 によるものである。
そして、「あとがき」には、こう書き出している。

  < 今回、本書のまとめをしていて、「水」に関連した作品が多いことに気がつい
     た。数えてみると、24篇中13篇に「水」が出てくる。雪や雲など、「水」に関わる
     ものを加えるとさらに多くなる。これはどういうことだろう。  >

さらに、この詩集の「帯」裏に

  <  雨は山に降りそそぎ、その水は川となり、川は海へと流れ、
     海の水は蒸発して雲となり、その雲が雨となりまた山に降り
     そそぐ。この循環は還暦の一巡と似ている。もし自分が山に
     降りそぞいだ一滴の水であるならば、今、一巡してまた山の
     上流に戻ったことになる。再び海へ戻っていくことはな
     いけれど、二度目の旅をどの辺りで終えるのか、その「水の
     町」のことをときおり思ってみたりする。 >

という「あとがき」からの抜粋が載っている。
作者が、この詩集を「水の町」と題したエッセンスが、ここに要約されていると言えるだろう。
以下、掲載順にいくつか引いておく。

     金魚の夢

   夜店の
   金魚すくいのあとで
   金魚になった
   なってみれば
   それほどたのしいこともない
   みずのなかで
   おちてくるえさをまつ
   たべたらねむる
   おきたら
   すこしだけおよぎ
   またえさをまつ
   そうして
   じぶんがなんなのか
   すこしずつわからなくなっていく

   それなのに
   おなかだけはすく

   がらすのむこうのよる
   でんちゅうがいっせいにあるきだし
   はんらんをおこす
   ゆめをみる
   すこしおもしろい


     春の分かれ

   それから
   誰にも聞こえないように
   さようなら と言って
   出ていきました
   肩にはまだ昨日の鳥がいて
   きれいな声で歌っていましたが
   戻りたくなったら困るので
   道端の男の子にあげました
   缶をけって
   ポストに手紙をいれて
   橋をわたり
   そして
   約束の場所に着くと
   次の人がいて
   あとはもう吸われて消えていくだけになりました
   たのしかったこと
   つらかったこと
   思い出は足が長いので
   きちんと折りたたまれて
   吸われていきます
   下では
   次の人がもう歩きはじめています
   新しい服を着て
   新しい鳥を
   肩にちょこんと乗せて


     

     矢印が
     あっち
     というふうに
     立っている

     あっち はどんなところだろう
     と考えながら
     通りすぎる

   というような詩を
   昔 書いたことがある
   まだ道に迷って
   ふらふらと歩いていた頃のこと

   それから
   何度もその矢印の前を通ったが
   あっちへは
   ついに行かないまま
   時は過ぎ去った

   今、窓辺に坐り
   沈んでいく夕日を見ながら
   あのときの詩を思い出している

     こっちにもきっと
     いいことがある

   と書いたところで行き詰まり
   投げ出してしまったが
   ときおり
   ふっと思い出す

   (もしもあっちへ行っていたら
   今頃どんなところにいるだろ......)

   やっぱりあっちでも
   こっちのことを思っているような......
   こんなふうに窓辺に坐り
   ひとり
   沈んでいく夕日を見ながら


     水の町

   立派な人になりなさい
   と言われても
   川の曲がりくねって流れる町は
   年中水びたしだったし
   駅前の広場では
   毎日
   イルカのショーをやっていた
   台の上には
   いつもきれいなお姉さんが立っていて
   片手をあげて
   ぴぃ—っと笛を吹く
   すると
   イルカがいっせいに飛びあがり
   空から
   またいっせいに落ちてくる
   そのたびに水が飛びちり
   人も車も止まる
   お姉さんはきっと婦人警官になりたかったんだと思う
   ぼくは婦人警官にはなれないけれど
   お姉さんの
   あの口にくわえた笛ぐらいにはなれると思った
   お姉さんの吐く息がぼくの中を通って
   ぴぃ—っと  いい音で鳴る
   そんな笛に
   努力をすればなれると思った
   立派な人がどんな人だかわかんなかったけど
   学校帰りに
   いつも見ていた

      ぴぃーっと 笛を吹くお姉さんと
      空から落ちてくるイルカを

   曲がりくねった川の
   流れる町で

-------------------------------------------------------------------------
高階さん特有の「メルヘンチック」な調べであるが、判りやすいようではあるが、全体が「暗喩」になっているので、易しくはない。 それが「詩」というものである。
引用した「道」という作品などは、その典型だと私は見たが、どうだろうか。
読者は、各人なりに読み解いていただきたい。

ご恵贈ありがとうございました。
詩作品はスキャナで取り込んだが、多くの文字化けが生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘してください。即刻、直します。

高階杞一詩集『千鶴さんの脚』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
高階

──高階杞一の詩──(6)

      高階杞一詩集『千鶴さんの脚』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・澪標2014/03/31刊・・・・・・・・

この詩集は、季刊詩誌「びーぐる」創刊号(2008年10月)~21号(2013年10月)に、四元康祐さんの写真に「詩」を付けるという趣向で始まった。
因みに、この「びーぐる」誌は四人の同人・山田兼士細見和之四元康祐高階杞一を編集同人として発足したものであり、今日では全国的な詩誌として不動の地位を固めるに至ったのである。
前にも採り上げたことがあるが、四元康祐さんはドイツに在住であり、余り頻繁には日本に来られない中でのコラボであった。
私は「びーぐる」誌は定期購読しているので、毎号読んでいるが、その苦労について、高階さんが後記で、こう書いている。

< 毎回、氏から写真が提示されることになりました。これによって適度の緊張関係が生まれたように思えます。
  ・・・・・こちらに送られてくる写真がいつも一枚の挑戦状のように思えました。
  こんな写真で詩が書けるかい? とそれは挑発しているようでした。・・・・・
  このような共同作業であったからこそ、普段とは違う作品が生み出されたように思えます。・・・・・
  自分では自分の詩の世界を少し広げることができたのではないかと思っています。 >

四元さんの写真は、極めて「構成的」で「前衛的」だから、それを元に詩を付けるのは大変だったろうと思われる。
しかし、高階さんは見事に、毎回、「フォト・ポエム」に仕上げられた。
その中から、この詩集の題名になった詩を先ず引いてみる。

        千鶴さんの脚      高階杞一

   千鶴さんと歩いてゐます
   砂漠の中を
   二人並んで歩いてゐます
   千鶴さんは和服です
   涼しげな藤色の小紋がよく似合つてゐます
   きれいな人だからなほさら
   と思ひながら
   僕は歩いてゐます
   あれからどうなさつてゐらしたの
   とふいに
   千鶴さんが尋ねてきます
   あわてゝ目を逸らし
   はあ まあ なんとか
   と答へます
   さう
   と千鶴さんはわらひます
   僕は千鶴さんのことはよく知りません
   あれからとは
   どれからのことなんだらう
   脚が
   ぼんやり浮かんできます
   千鶴さんの脚が
   目の前にあつたやうな気がします
   暑い
   とそのとき確か
   消えさうな声で千鶴さんは言つたやうな・・・・・・
   無花果の実のことも覚えてゐます
   ふたつに裂かれ
   テーブルの白いお皿の上にのつてゐました
   僕はあれを食べたのでせうか

--------------------------------------------------------------------------------
お見事なものである。
和服からの連想ということだろうか。かなづかいが旧カナで書かれていて一種の古めかしい雰囲気を出している。
おしまいのところで「無花果の実」が出てくるが、これは西洋の神話でアダムとイヴが蛇にそそのかされて、禁断の実を食べる故事に拠っているが面白い。
<千鶴さんの脚が/目の前にあつたやうな気がします>とあって、淡くエロティックである。
詩は「比喩」がすべてだから <僕はあれを食べたのでせうか> というところなど、さりげなく、後につづく情事を連想させて秀逸である。
もう、一つ二つ引いてみよう。

        果実       高階杞一

   女ばかりの星に着く

   一年の半分が雨で
   もう半分が夜

   喰っても喰っても
   なくならない果実
   女たちはみな
   いい香りがして

   ことがすむと
   大きな果樹の根もとへ行って
   産卵する
   そしてまた
   女がふえる

   わたしは永遠に死なないという
   次の男がまた
   あやまって
   ここへ
   不時着するまでは

--------------------------------------------------------------------------------

        朝の食事      高階杞一

   生まれたときから死への旅が始まる
   それは如何なる刑罰だろう
     ──ペーター・ベルンハルト 詩人
       1865年2月4日没
   黄色い蝶が
   石から離れ
   木洩れ日の中を飛んでいく
   ロベルト・ボルフ 貿易商 1902年5月16日没
   ヨハン・クリスチャン・ヘルダー 司祭 1732年7月20日没
   フランツ・アルトナー 陸軍中尉 1943年1月23日没
   ひとつひとつの石に
   挨拶しながら蝶は
   また供えられたばかりの花に止まる
   すぐ前の乳母車では
   赤児がミルクを飲んでいる

   蝶は蜜を吸い
   羽を広げ
   また飛び立っていく
   いくつもの石の間を縫って
   やがて
   大きな石の影へと消える
   ジークムント・ヨーゼフ・フリードリッヒ・フォン・シュタイン 男爵
   1652年10月 落馬により没
   碑文には水垢がこびりつき
   ところどころ消えかかっている

     オイシイ?

   赤児は飲むのをやめて
   目の前の
   石を見つめる

------------------------------------------------------------------------------
初めは詩人の箴言を冒頭に据えながら、あとは、どこからか見つけてきた西洋の死人の名前と忌日を、うまく散りばめて一篇の詩に仕立てた。
題名を「朝の食事」と付けたところが、なんとも憎い。
ヨーロッパへ行くと、墓地に立ち寄ると面白い。ラテン圏の──つまりカトリックの墓地は派手で、墓碑銘などを見て歩くのも趣がある。
墓地で、と顰蹙を買うかもしれないが、高階さんだったら、そんな散歩をするのではないか、などと空想する。

このフォト・ポエムの写真が、モノクロ一色なのも、いい。   

フォト・ポエムなので「詩」に対応する「写真」を取り込みたいと思ったが、写真は、みな見開き2ページにまたがっていて取り込みにくいので省略するがお許しを。
佳いフォト・ポエムを見せていただいて有難く、ここに紹介して、御礼申し上げる次第である。 

写真を撮った四元康祐については ← ここを参照されたい。



    

   
高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(5)

     高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・澪標2012/05/30刊・・・・・・・・・

久しぶりに高階杞一さんの詩集を採り上げる。今までに書いた私の記事は ← ここを見てもらいたい。
この詩集は高階さんの第12詩集で、24篇の詩を収録してある。
制作期間は、2008年から2011年にわたる作品群である。装幀:倉本修。

優れた現代詩に贈られる第8回「三好達治賞」(大阪市主催)に、この「いつか別れの日のために」が選ばれ大阪市が3月1日発表した。高階さんは大阪市生まれ。
2000年に「空への質問」(大日本図書)で第4回三越左千夫少年詩賞を受賞されたが、
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞を受賞されて以後ひさびさの大きい詩賞の受賞と言える。
だから高階さんは「この賞は欲しかった賞なので、とても嬉しい」と仰言っている。心から、おめでとう、と申し上げる。
4月5日に大阪城北詰の大阪市公館で第8回「三好達治賞」贈呈式などの行事が行われる。

この本の「あとがき」に

 <自分が死んだ後の世界のことを考えては、とても不思議な気がしてきます。
   自分がいないのに、世界は何ひとつ変わらずに、朝になればいつもと同じよう
   に陽が昇り、街にはたくさんの人が歩き、信号は点滅をくりかえす。それは何だ
   か、今ある世界とは別な世界のように思えてきます…… >

と書かれている。
丁度この頃、高階さんは食道に異常を感じられ、精密検診をお受けになった。
私は、そのとき、お見舞いのメールを差し上げ、お酒はほどほどにと忠告申し上げた。
幸い、初期のもので治療されて大事には至らなかったが、そのときの体験が、これらの詩群の背後にあると知ってもらいたい。
高階さんの「犬好き」は有名で作品の中にも、いつも登場するが、今回の詩でも「犬」と一緒である。
この首尾一貫した姿勢が好ましい。
私との縁は、私の第一詩集『免疫系』を謹呈した際にお手紙をいただいた時に遡る。

先ず「びーぐる」16号の詩集時評に山田兼士氏が書いた短文を引いておく。 ↓
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高階杞一『いつか別れの日のために』(澪標)著者第十二詩集。死を意識して書かれた二四篇。
だが、高階詩では死でさえ軽快で透明感にあふれている。軽薄ではなく軽快なのだ。その要因は浮遊感と揺動感に満ちた言語感覚。
どれほど深刻なテーマを扱っても必要以上に重くならないのは言葉の浮標(ブイ) のためだ。

もし僕が
明日とつぜん死んだとしても
ペロペロなんかせず
(一度ぐらいはしてもいいけれど)
誰かのやがてあけるだろう扉から
そっと外へ出て
ひとりで好きな方へ歩きはじめてください
ふりむいて
さよなら
なんて言わずにね     (「いつか別れの日のために」末尾部分)
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「loggia52」というサイトに下記のような批評が出ているので紹介する。(どなたのサイトか知らないので失礼します)

 細見和之『家族の午後』、山田兼士『家族の昭和』、それにこの高階杞一『いつか別れの日のために』と、並べてみると、ある共通する特徴が確かにある。
ひとつは、どの詩集も平易なことばが選ばれ、日常のひとこまが詩の展開のベースになっている。また、《家族》というのもキーワードだろう。
 この3人の詩人は、詩誌『びーぐる』の編集同人だから、いわば《びーぐる派》の詩人と呼んでもいいような気がするほど、共鳴しあう部分を持っている。
まあ、それはともかくとして、今日は、『いつか別れの日のために』(澪標)について、メモを取ったのを記す。

   春と習字

 春という字を見ていて
 これは
 三と人と日からできているんだと気がついた
 三人の下に日があって
 春になる

 君と僕のほかにはここに人がいないので
 ここは
 いつまでも春にならない
 のだろうか

 春にならない家で
 君はメールを見たり
 本を読んだり
 僕はメールを見たり
 お酒を飲んだり
 たまには詩を書いたりもして

 ときおり
 ここへ来るはずだった
 もう一人のことを思い出したり
 しながら
 僕は
 書き損じた春を
 何枚も何枚も
 まるめてはゴミ箱へ捨てた

 どのことばも易しい。
描かれている詩の世界も詩人の日常の何でもないひとこまをベースにしている。
にもかかわらず、この詩の場合は、最終連に、心の埋められない隙間がのぞくことによって、一気に詩はもう一段、深い層へと静かに読む人を導いていく。
だれもが思い当たる情感である。どんな人でも、自分の体験や経験を手がかりに、詩の世界へと入っていくことができる。それが高階の詩の強みである。
とはいうものの、それは詩が想像力の強度を持っていないと人の心を動かすことはなかなかむずかしい。
彼は、そのむずかしさを感じさせないで、その困難なことをやりおおせている。
詩の技術的な巧さもそれを可能にしている大きな要因として挙げられることも指摘しておきたい。
 この詩集は、『早く家へ帰りたい』(1995年刊)という詩集、さらに『夜にいっぱいやってくる』(1999年刊)に引き継がれたモチーフ、
すなわち、それらの詩集から伏流していた、子供を失ったかなしみが、かたちを変えて詩人の心の岸に流れ寄っている。
しきりに登場する飼い犬は失った子供の影を帯びているのは言うまでもないだろう。あらたに以前の詩集から加わったのは、自らの死についての思いである。
 こうした、深い喪失感と、それと交差する自らの死に対する感慨が、静かなノスタルジアの情感を掻きたてる。
さらには、どう言えばいいのだろう、自分が生きていることに対する潜在的な含羞とでもいうのだろうか。うしろめたさというのだろうか。
それが詩を書かせるのだと思う。書かないでは、生きてはゆけないような自分にひそむ含羞が彼のことばを生かしめている。
そして、この詩集ばかりでなく、彼の詩の特徴である、誰かに静かに話しかけるようなスタイルが、そうした含羞を包み込むのにうまく作用している。
 もう一つ、これはさらにいい作品。

  ガリガリ

 庭で遊ぶのにあきると
 犬は
 おうちにいれて
 と縁側の戸をガリガリします

 もっと外で遊んでいなさい
 と言ってもききません
 いれてもらえるまで
 ガリガリします

 障子や網戸は破れ
 犬はうれしそうですが
 人間は何だか落ち着かなくて困ります

 静かなお昼

 障子や網戸の破れた家で
 ひとりでご飯を食べたりしていると
 どこからか
 ガリガリと戸をひっかく音が聞こえてきます
 縁側からではありません

 犬と私はふり返り じっと耳を澄ませます
 それはどこか遠くから
 おうちにいれて
 と
 聞こえてきます
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「洪水~漂流記録~」というサイトに載る批評を引く。

2012年08月29日

高階杞一詩集『いつか別れの日のために』

透明感にしびれる。「透明感にあふれた」というよくある表現ではあきたらず、「透明感をきわめた」と言いたくなるような作品たち。人間が透明人間になることはまだできていないようだが、詩が透明になることは実現されたのか。詩のスケルトンが洗われる霊的なまでのすがすがしさがある。「答は空」という詩を紹介する:

こどもと散歩をしながら
聞いてみる
ねえ
この世で一番のお金持ちは誰だか知ってる?
こどもは首をかしげてぼくを見る
ぼくは得意げに言う
答は空
見てごらん
あんなに立派な太陽や
白いきれいな雲を持っている
夜には月や星まで出してくる
どんなお金持ちもあれは買えない
どう、すごいだろ?

五月のよく晴れた朝
もしもぼくにこどもがいたら
こんな話をするのになあ
と思いながら
犬といっしょに
若葉の美しい道を歩いていました
犬はぼくを引っぱり
先へ先へと急ぎますが
人間のぼくはそんなに速くは進めません
歩くことに
疲れて 立ち止まったり
時に振り返ったり
そんなぼくに
さっき
立ち止まったところから
今も動かずにいるこどもの声が
明るく
ひびいてきます

  空ってすごいね

  空ってすごいね お父さん

この透明感はもちろん高階氏のいまの生の光景のありようと密接なつながりがあるのだろう。澪標刊。
(池田康)
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Wikipediaに載る記事を引いておく。

高階杞一(たかしな きいち、1951年 - )は日本の詩人。

大阪市生まれ、神戸市在住。大阪府立大学農学部園芸農学科卒業。神尾和寿とともに詩誌「ガーネット」を創刊(1990年)。
山田兼士、四元康祐、細見和之らとともに詩誌「びーぐる」編集同人。大阪芸術大学非常勤講師。大阪文学学校講師(1994年~1998年)。
大阪シナリオ学校講師(1993年~2005年)。柳波賞審査委員(群馬県沼田市主催)1999年~。

略歴
1983年、戯曲「ムジナ」にて第1回キャビン戯曲賞入賞。
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞受賞。
2000年、詩集『空への質問』にて第4回三越左千夫少年詩賞受賞。
2004年、高階の詩に曲を付けた混声合唱組曲「キリンの洗濯」(作曲:堀内貴晃)が第15回朝日作曲賞受賞。
2013年、詩集『いつか別れの日のために』にて第8回三好達治賞受賞。

著書

詩集
漠 青髭社 1980.11
さよなら 鳥影社 1983.8
キリンの洗濯 あざみ書房 1989.3
星に唄おう 思潮社 1993.10
早く家(うち)へ帰りたい 偕成社 1995.11
春'ing(はりんぐ) 思潮社 1997.6
夜にいっぱいやってくる 思潮社 1999.4
空への質問 大日本図書 1999.11
ティッシュの鉄人 詩学社 2003.8
高階杞一詩集 砂子屋書房・現代詩人文庫 2004.9
桃の花 砂子屋書房  2005.9
雲の映る道 澪標 2008.9
いつか別れの日のために 澪標 2012.5

編著
スポーツ詩集 花神社 1997.10 川崎洋、藤富保男共編



高階杞一詩集『雲の映る道』より・・・・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(4)

高階杞一詩集『雲の映る道』より

         いっしょだよ・・・・・・・・・・高階杞一

               かわいがっていたのに
               ぼくが先に
               死んでしまう
               犬はぼくをさがして さがして
               でも
               いくらさがしても
               ぼくが見つからないので
               昼の光の中で
               キュイーンと悲しげな鳴き声をあげる
               その声が
               死んだぼくにも届く
               
               ぼくは犬を呼ぶ
               こっちだよ こっちへおいで 
               犬はその声に気づく
               ぴたっと動きを止めて
               耳を立て
               しっぽをちぎれんばかりに振って
               一目散にぼくのところへやってくる
               ずいぶん痩せたね
               何も食べてなかったの?
               キュイーンとうなずく
               ぼくは骨をあげる
               犬はぼくの骨をたべる

               おいしかった?
               クー
               これからずっといっしょだよ

         ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
ネット上では水野るり子氏の下記のような評が載っている。

<哀しい詩で、とくに犬の好きな私なので身に染みました。骨に関しては、もうひとつ、とても忘れられないような「春と骨」という詩があるのですが、あえてここには入れませんでした。いつか読んでください。子どもさんをなくされた詩人の経験の深さが、短い詩の中から切なく伝わってきて、前の詩集『早く家へ帰りたい』をもう一度読み直したりしました。>

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続きに、もう一編引いておく。評は同じく水野るり子のものである。
          
           新世界・・・・・・・・・・高階杞一 

               リンゴの皮をむくように
               地球をてのひらに乗せ
               神さまは
               くるくるっとむいていく
               垂れ下がった皮には
               ビルや橋や木々があり
               そこに無数の人がぶらさがっている
               犬も羊も牛も
               みんな
               もうとっくに落ちていったのに
               人だけがまだ
               必死にしがみついている
               たった何万年かの薄っぺらな皮
               それをゴミ箱に捨て
               神さまは待つ
               むかれた後の大地から
               また新しいいのちが芽生え
               みどりの中から鳥が空へ飛び立つときを
               そこに僕はいないけど
               人は誰もいないけど

                
            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””
<新世界っていうのは、人間のいない世界なんだと気がつきました。
まだ神さまのゴミ箱の底にうごめいている一人として。>
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この詩集は

発行日:2008年9月30日。 第11詩集。
発行所:澪標
収録編数:32編
作品制作年:2004年~2008年
表紙及び扉(銅版画):倉部今日子
定価:1500円(税別)

「作者あとがき」には、次のように書かれている。

 「子供の頃に歩いた雲の映る道からずいぶんと遠くまで来ました。
 振り返っては、悔いと羞恥ばかりがあふれてきます。もう一度あの時に戻って
  やり直せたら、と思うことが次々とよみがえってきます。
 本書に収めた作品は、どれもそんなどうしようもない悔いが源泉となっている
  ように思えます……」(あとがきより)

「びーぐる掲載」の「山田兼士の評」 ← があるので参照されたい。

高階杞一詩集『桃の花』から・・・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(3)

高階杞一詩集『桃の花』から

   戦争・・・・・・・・・高階杞一

     黒板に

     私は愛と書く

     先生が教えてくださったとおりに


     黒板に

     私は夢と書く

     先生が教えてくださったとおりに


     黒板に

     私は友達と書く

     先生が教えてくださったとおりに


     黒板消しはいらない


     爆弾が落ちてきて

     それらを一瞬のうちに

     消す

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高階氏は、この詩を「反戦詩」だと仰言る。
それは、この詩が下記のような企画に乗って書かれたものだからである。

Poets Against the War   2003.4.22

 アメリカの雑誌編集者で詩人のサム・ハミル氏が、イラク戦争反対のため反戦詩のアンソロジーを企画し、世界中の詩人にその企画への参加を呼びかけたもの。集まった詩は各国政府に提出し、戦争反対の意志を訴える。日本では、石川逸子、木島始、甲田四郎、佐川亜紀の4氏がこの企画への呼びかけ人となって、4月15日、参加に応じて集まった287編の詩を政府に提出した。

 僕もこの呼びかけに応じて下に記した詩を書きました(2003.4.10)。政府に提出したところで情況が変わるとはとうてい思えませんが、こうした詩の一部でも各国語に翻訳され、少しでも多くの人の目に触れることにより、次に起こるかもしれない無益な戦争を止める、わずかながらも力になりうるかもしれないと思ったからでした。何よりも アメリカの次の時代を担う子供たちに読んでもらいたいのですが、届くかどうか…。

 この企画の詳細は佐川亜紀さんのホームページに載っていますので、関心のある方はこちらをご覧ください。>

この詩集の概要は以下の通りである。

発行日:2005年9月30日。 第10詩集。
発行所:砂子屋書房
収録編数:32編
作品制作年:2000年~2004年
表紙及び扉の装画:宇田川新聞
定価:2500円(税別)

「ただドンブラコ、ドンブラコ、と日々の川を流れつつ、その時々の思いを書きと
めてきた。川面には、この五年間の世相や私事のあれこれが少なからず反映
している。それがいい眺めかどうかは別にして」(あとがきより)

  
高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』から・・・・・・・・・木村草弥
img033.gif

──高階杞一の詩──(2)

高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』

  ティッシュの鉄人(部分)・・・・・・・高階杞一

    7 錆

    死が
    やっと間近に見えてきた

    まだ に
    もう が おいついた

    新しい季節に花はまたいっぱい咲くだろう
    草もいっぱい生えるだろう
    その時
    僕はもうここにはいない

    恋人よ
    循環するね

    見えないものが
    壊れていくね

        見えますかあ
        見えますよおおおおおおおおおおおおおお

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「ティッシュの鉄人」という題名の付け方が秀逸である。
この詩集の概要は以下の通り。

発行日:2003年8月31日。 第9詩集。
発行所:詩学社
収録編数:18編
作品制作年:1997年~2000年
表紙及び扉の装画:長谷川義史
定価:1900円(税別)

「スペインの建築家アントニオ・ガウディのことが気になっている。あのまるで
異星人が生み出したかのような奇妙な曲線を言葉に移しかえるにはどうした
らいいんだろうと」(あとがきより)
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●詩批評●高階杞一詩集『ティッシュの鉄人』を読む まぼろしの聖家族を求めて──山田兼士(「別冊・詩の発見」創刊号、2005,04,25 より)

 宮澤賢治の童話「よだかの星」の末尾近くの描写は、方向感覚喪失の詩的形象としてきわめてすぐれたものだ。絶望のあまり無謀な上昇を続けた「よだか」が最後に力尽きて落下(?)する場面である。

もうよだかは落ちてゐるのか、のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上を向いてゐるのかも、わかりませんでした。

 上昇と下降の区別を意図的に混乱させたこの一節がなければ、よだかが「青い美しい光になって」「カシオピア座」のとなりで「いつまでもいつまでも燃えつゞけ」るという清澄なエンディングはリアリティを持ち得ないだろうし、そもそもそのエンディングが書かれたかどうかも疑わしいだろう。この、垂直軸における方向感覚の意図的混乱もしくは喪失、という方法がこの作品の要である。ここには、絶望が瞬時に希望になり悲しみが喜びに転化するという、詩的想像のマジックがごく端的に示されている。
 高階杞一の詩集『ティッシュの鉄人』の巻頭作もまた、これと同様の詩的マジックを効果的に用いた作品だ。

噛んじゃダメ
このビルはまだそれほどおいしくないし
窓だってまだいっぱいある
上から下へのぼっていくと
どんどん世界が老けていく
高いね
こんな所から落ちたら死ぬね (「聖夜/天使が/空で」冒頭)

 まずタイトルが、「聖夜」という時と「天使」という主語と「空」という場所を示すことで、空から地への天使の下降を描いていることがわかる。だが、開始早々に描かれる天使はビルを噛み窓をいやがるという理不尽さで早くも読者を当惑させ、さらに四行目で「上から下へのぼっていく」と、上下関係の意図的混乱を描くことで、読者の理性的読解に激しく揺さぶりをかける。この困惑と動揺が詩を詩として読むための第一条件であるかのように、続く作品群では、新たな非常識や不条理が、高階作品独特の軽やかなユーモアを伴いながら、次々と読者を方向感覚喪失へと導いていく。例えば、

在って無いもの
スリッパの片方だけのようなもの
どこからか
突然
崩れ落ちてくる

のようなもの    (「タマだか/壁/のようなもの」末尾)

というように、ごく身近なモノが「在って無いもの」という存在論的不条理を代表し、続いて畳みかけるように突然の垂直的崩壊が描かれる時、読者の日常感覚は日常性を失わないまま一挙に非日常的な世界観へと引っ張り込まれることになる。単に「壁」と呼ばずに「壁のようなもの」と輪郭を故意に曖昧にするのは高階作品の常套手段だ。同様に、

手を放したら落ちていった
声より先に
ちょっと涙も落ちた
でも(天気予報は何て言ってた?)
今日は誰も来ないでしょう
ひとりでいると
ストローが
勝手に空へ向かってのびていく
こんな
吸われる今日は何だかコップのようだった
(「コップ/の/日」冒頭)

というような始まり方をする作品では、「僕」や「私」といった主語をあえて用いないことで「コップ」の擬人化をいとも簡単に実現している。ここで要になるのが「勝手に空へ向かってのびていく」「ストロー」の奇妙にリアルな存在だ。不条理のリアリティを細部で支える存在である。
 このような方向感覚の喪失は、もちろん、垂直軸だけに限られるのではない。水平軸での方向感覚喪失もまた、高階作品に頻繁に描かれるモチーフである。

それはまるで昨日の道のようでした
左へ曲がり
さらに左へ曲がり
まっすぐどこまでも折れ続け
あけるといちめんの空でした
            (「晴天/朝/そして」部分)

「まっすぐどこまでも折れ続け」とは、この上なく簡潔な異次元空間の描写ではないだろうか。垂直軸においても水平軸においても日常の感覚をあっさりと乗り越える高階マジックは、さらに、様々な線を交錯させることでいっそう異世界のリアリティを強くする。

牛と
河馬と
どちらが世界か
みんなして対面していた
時折どこからか縦や斜めが降ってきて
壊れたものもいくつかあったが
もうわたしたちは帰ります
(中略)
後に残った
牛と
河馬と
わたしが並んで
上を見ていた
上の
すこしずつ消えていくものを考えていた  (「天/高く」)

「みんなして対面」というのがそもそも単純なようで複雑な空間構造だが、そこに「縦や斜めが降ってきて」世界が次第に消滅する。とんでもない大破局がいともあっさりと表現されるのも、方向感覚喪失を引き起こす高階マジックによるものだろう。最後に「上を」見ることで天空の消滅まで描かれて作品は終る。
 上下左右前後、さらには(ここでは言及しないが)内外と自他までが自在に交換し合い交錯し混合することで独自の異世界を柔軟に創出するのが高階杞一の空間マジックだ。このような異世界の輪郭を、高階自身が詩集「あとがき」でアントニオ・ガウディの建築になぞらえている。「あのまるで異星人が生み出したかのような奇妙な曲線を言葉に移しかえるのはどうしたらいいんだろう」と。

 高階杞一の『ティッシュの鉄人』(二〇〇三年、詩学社)は全十八篇から成る詩集。うち七篇が六か七あるいは十の短詩(中には相当長いものもあるが)による組詩になっており、その構造はかなり複雑だが、概略を記すことにする。まず「I」の八篇はいずれも見開き二ページに収まるオーソドックスなスタイルの行分け詩。「II」の四篇のうち三篇は「I」と同様だが「窓辺のあぶく」一篇のみが「1」から「10」まで番号を付された組詩(初出は最も古く一九八七年)である。そして「III」の六篇はいずれも組詩で、巻末作品を除く五篇は散文のスタイルを取っている。連想が連想を呼ぶ悪夢世界だ。
 以上のような概要から、この詩集は主に三種類の構造体から成ると見てよさそうだ。第一は言うまでもなく目次に記された「I」II」「III」の三章構成が示す三層構造。第二に、組詩と単独詩の対立構造、そして第三は行分け詩と散文詩の対立構造。以上三種類の構造が、ガウディの「サグラダ・ファミリア聖堂」の構造原理ときわめて近い類縁関係にあるのではないか、というのが私見による仮説である(その構造を支える最大の要因が、意図的な方向喪失による立体迷路の創出にほかならない)。
 まず、三章構成については、「I」を建築の上層部分にあたる構造に見立てることができる。垂直軸を中心とする立体迷路の空間である。これに対してすべて組詩から成る「III」は、地上を彷徨する男が夢の中の日常のように次々と奇妙な体験を経た後に使い古しの「鉄人」になって「死」を間近に控えつつ「循環する」(「ティッシュの鉄人」)世界を歩き続ける(現代人そのものの喩でもあるかのような)姿を描いて終わっている。「III」の章は概ね水平軸を中心とした地上の迷路と見ていいだろう。「II」の章は上層階と下層階の中間に置かれた中二階のような空間、と言えばいいだろうか(サグラダ・ファミリア聖堂のこの部分にはたしか礼拝室があったと記憶している)。散文詩と行分け詩が混在する「窓辺のあぶく」は過去の時間の導入による境界領域の出現である。
 単独詩と組詩の対立は、そのまま「I」章と「III」章の対立に呼応するかのように、天上的静謐と地上的混沌を暗示している。複雑な線を捨象して単純な線のみの静止画像で日常の中の非日常を描き出した作品群と、夢の中でいっそう複雑化した日常を力動的な動画作品として描き出した作品群、と言えばいいだろうか。これもまた、サグラダ・ファミリア聖堂のスタティックな装飾美とダイナミックな空間構造との対立に呼応する。
 最後に、散文詩と行分け詩の対立もまた、細部の描写を追究する写実的な執拗さと、能う限り抽象化した線で普遍を目指す暗示的な簡潔さ、といった対立に還元することができる。この対立が同一空間に共存することで醸し出される具象と抽象の双曲線こそがこの構造体の秘密である。
 サグラダ・ファミリア聖堂は二十年ほど前に一度訪れたことがある。工事用エレベーターで塔の天辺あたりまで昇ったのは、高所恐怖症の私としては稀少な体験だ。上昇しているかと思えば下降し、下降しているかと思えば上昇し、隣の塔に行こうと思えばとてつもなく遠回りを強いられ、といった立体迷路の中では、次の瞬間に何が現れても不思議はない奇妙な感覚に襲われる。着工後百二十年以上経った現在もなお、いつ完成するのかだれにもわからないとのことだが、そもそもこの建築に「完成」ということはあるのだろうか。「永久の未完成これ完成である」と言った宮澤賢治の「四次元芸術」のように、この建造物こそ目の前に具現する永遠の未完ではないか、と考えたくなる。高階杞一のことばが構築する異世界もまた、これと同様の未完世界にして四次元芸術なのではないか。
 では、このような立体迷路の中で詩人はいったい何を求めて書き続けているのか。夢と現実が同じ資格で共存するしかなく、天上と地上がかろうじて化合し得るような、また、過去と現在が交じり合うことで彼岸と此岸が交感可能になるような、空間の創出である。異空間そのものであるようなそんな詩空間でこそ、生者は死者と共に生きることができる。別れた愛しい人ともまた。まぼろしの聖家族(サグラダ・ファミリア)を求めて、詩人は異形の建築を創り続けるのだ。
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 ↑ 山田兼士の書評を引いておいた。


高階杞一詩集『キリンの洗濯』から・・・・・・・・木村草弥
img258.jpg

──高階杞一の詩──(1)

高階杞一詩集『キリンの洗濯』から

   キリンの洗濯・・・・・・・・・・・・高階杞一

      二日に一度
      この部屋で キリンの洗濯をする
      キリンは首が長いので
      隠しても
      ついつい窓からはみでてしまう

      折りたためたらいいんだけれど
      傘や
      月日のように
      そうすれば

      大家さん
      に責められることもない
      生き物は飼わないようにって言ったでしょ って
      言われ その度に
      同じ言い訳ばかりしなくたってすむ
      飼ってるじゃなくて、つまり
      やってくるんです
           いつも 信じてはくれないけれど

      ほんとに やってくるんだ
      夜に
      どこからか
      洗ってくれろ洗ってくれろ
      と
      眠りかけたぼくに
      言う

      だから
      二日に一度はキリンを干して
      家を出る
      天気のいい日は
      遠く離れた職場からでもそのキリンが見える
      窓から
      洗いたての首を突き出して
      じっと
      遠い所を見ているキリンが見える
-------------------------------------------------------------------
この詩集は

発行日:1989年3月1日。第3詩集。
発行所:あざみ書房(自費出版)
収録編数:38編
作品制作年:1983年~1988年
表紙及び扉絵:原 律子
初版400部。現在9刷
定価:1500円(税別)

というものである。

この詩集の「帯文」には

H氏賞(第40回)受賞詩集
高階杞一にはなぜがない。一直線に矛盾を突っ走る。
ホッチキスが人間をとめたり、部屋が口をあけて泣いたり、
二日に一度キリンの洗濯をしたりする未知の爽快さに出会う
高階杞一はこの“ずれ”と“ゆがみ”を真面目な顔で詩にまとめた。
彼流に言うと、顔がうまくほどけないから、らしい。
読者は知らないうちに、彼の座敷に座らされて、
甘い笑いと苦いペーソスを飲まされるのだ。

という藤富保男の文章がある。
書評については、この藤富の評に尽きる。
藤富 保男(ふじとみ やすお、1928年 - )は、東京都生まれの詩人。東京外国語大学卒。視覚と音律から日常の言語を再構築する独特の詩法をもち、ユーモラスな作風を得意とする。代表的な詩集に『コルクの皿』『正確な曖昧』『新聞紙とトマト』など。詩集は三十冊を超えるほか、翻訳書、編著書も多数。
フジトミ詩とヤスオ絵の怪しい関係──関富士子というサイトも、とても面白いので見てほしい。
「next」を辿ってゆくと、1~8まで愉しく読める。

高階氏の別の詩集に子供のための童話の詩集があるそうだが、メルヘンに満ちた作品だろうと思う。
この詩も、現代詩に付きものの難解なフレーズはないが、さりとて「平易」というのではない。
言うならば「メルヘン」なのである。メルヘンというのは常識的ではないし、突拍子も無いものである。高階氏の頭の中は子供のようにメルヘンに満ち満ちた思考構造になっているらしい。

高階杞一氏のホームページは←ここである。氏の「日常」などの書き込みもあるので、ご覧いただける。
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今日から四日間にわたって載せる高階杞一氏についての記事は、実は昨年12月に載せたのだが、Doblogがハードディスクの記憶装置の部分に障害を起こし、今だに当該記事を読み出せないので「再掲載」という形で一から打ち直したものである。
高階氏の詩には「曲」が付けられていて、氏のHPの「自作への付曲一覧」というところで見られるが、一覧のみで曲を聞いたり、楽譜を見ることができない。別のページに「日々のあれこれ」という「氏の近況」を知らせるところがあり、昨年NHK全国学校音楽コンクールで課題曲として詩集『キリンの洗濯』の「贈り物」という詩につけられた曲が選ばれ、それが東京都のコンクールで金賞を得たというのでNHKのサイトで聴けたのだが、今回アクセスしてみたら、もう消されていて聴けなかった。
昨年のこのコンクールにはアンジェラ・アキの作詩・作曲による「手紙」という曲も課題曲となり、これをきっかけに彼女の曲が津波のように中学生、高校生たちの間で広がり、折しも卒業式シーズンとあって各地で歌われた、という。三月下旬にはNHKの特集が放映された。
このように高階氏の活動は社会的にも大きな幅を持っていることをお伝えしておきたい。

ここで上記のアンジェラ・アキの♪「曲の動画」♪の「試聴版」を引いておくので聴いてみてください。
この版は「歌詞」もテロップで表示されるので便利である。
他にもYouTubeのものなどがあるが著作権云々に引っかかって削除されることが多いので、この版を選択した。 なお削除された場合の予備を引いておく。
なお彼女のことはWikipediaに詳しい。
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高階氏が受賞されたH氏賞について下記に転載しておく。

H氏賞
出典: フリー百科事典Wikipedia

H氏賞(エイチししょう)は日本現代詩人会が主催する、新人のすぐれた現代詩の詩人の詩集を広く社会に推奨することを目的とした文学賞。詩壇の芥川賞とも呼ばれる。

富岡多恵子、吉岡実、黒田喜夫、入沢康夫、白石かずこなど多くの逸材を輩出。協栄産業の創業者・平澤貞二郎(1904年1月5日 ~ 1991年8月20日)の基金により1950年(昭和25年)に創設。当初の呼称は「H賞」。プロレタリア詩人でもあった平澤が匿名を強く希望したため、賞の名はHirasawaの頭文字だけを冠する。

選考は毎春、前年1月1日から12月31日の間に発行された新人(会員であるか否かを問わない)の全詩集を対象に行なわれ、会員投票と選考委員の推薦により決定。受賞者には記念品と賞金50万円が贈られる。同様の性質と価値をもった賞に、日本詩人クラブ主催の「日本詩人クラブ新人賞」がある。2007年、「詩集発行3冊目まで」という条件が明示された。

授賞記録
授賞回次 授賞年度 受賞者名 受賞作品名または業蹟
第1回 昭和26年 殿内芳樹 断層
第2回 昭和27年 長島三芳 黒い果実
第3回 昭和28年 上林猷夫 都市幻想
第4回 昭和29年 桜井勝美 ボタンについて
第5回 昭和30年 黒田三郎 ひとりの女に
第6回 昭和31年 鳥見迅彦 けものみち
第7回 昭和32年 井上俊夫 野にかかる虹
第7回 昭和32年 金井直 飢渇
第8回 昭和33年 富岡多恵子 返礼
第9回 昭和34年 吉岡実 僧侶
第10回 昭和35年 黒田喜夫 不安と遊撃
第11回 昭和36年 石川逸子 狼・私たち
第12回 昭和37年 風山瑕生 大地の一隅
第13回 昭和38年 高良留美子 場所
第14回 昭和39年 石原吉郎 サンチョ・パンサの帰郷
第15回 昭和40年 沢村光博 火の分析
第16回 昭和41年 入沢康夫 季節についての試論
第17回 昭和42年 三木卓 東京午前三時
第18回 昭和43年 鈴木志郎康 罐製同棲又は陥穽への逃亡
第18回 昭和43年 村上昭夫 動物哀歌
第19回 昭和44年 石垣りん 表札など
第19回 昭和44年 犬塚堯 南極
第20回 昭和45年 知念栄喜 みやらび
第21回 昭和46年 白石かずこ 聖なる淫者の季節
第22回 昭和47年 粒来哲蔵 孤島記
第23回 昭和48年 一丸章 天鼓
第24回 昭和49年 郷原宏 カナンまで
第25回 昭和50年 清水哲男 水甕座の水
第26回 昭和51年 荒川洋治 水駅
第27回 昭和52年 小長谷清実 小航海26
第28回 昭和53年 大野新 家
第29回 昭和54年 松下育男 肴
第30回 昭和55年 一色真理 純粋病
第31回 昭和56年 小松弘愛 狂泉物語
第31回 昭和56年 ねじめ正一 ふ
第32回 昭和57年 青木はるみ 鯨のアタマが立っていた
第33回 昭和58年 井坂洋子 GIGI
第33回 昭和58年 高柳誠 卵宇宙水晶宮博物誌
第34回 昭和59年 水野るり子 ヘンゼルとグレーテルの島
第35回 昭和60年 崔華国 猫談義
第36回 昭和61年 鈴木ユリイカ Mobile・愛
第37回 昭和62年 佐々木安美 さるやんまだ
第37回 昭和62年 永塚幸司 梁塵
第38回 昭和63年 真下章 神サマの夜
第39回 平成元年 藤本直規 別れの準備
第40回 平成2年 高階杞一 キリンの洗濯
第41回 平成3年 杉谷昭人 人間の生活
第42回 平成4年 本多寿 果樹園
第43回 平成5年 以倉紘平 地球の水辺
第44回 平成6年 高塚かず子 生きる水
第45回 平成7年 岩佐なを 霊岸
第46回 平成8年 片岡直子 産後思春期症候群
第47回 平成9年 山田隆昭 うしろめた屋
第48回 平成10年 貞久秀紀 空気集め
第49回 平成11年 鍋島幹夫 七月の鏡
第50回 平成12年 龍秀美 TAIWAN
第51回 平成13年 森哲弥 幻想思考理科室
第52回 平成14年 松尾真由美 密約-オブリガート
第53回 平成15年 河津聖恵 アリア、この夜の裸体のために
第54回 平成16年 松岡政則 金田君の宝物
第55回 平成17年 山本純子 あまのがわ
第56回 平成18年 相沢正一郎 パルナッソスへの旅
第57回 平成19年 野木京子 ヒムル、割れた野原
第58回 平成20年 杉本真維子 袖口の動物
第59回 平成21年 中島悦子 マッチ売りの偽書

 

  
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