K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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 ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳その安寧が私にはない・・・・・・・・・川本千栄
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 ↑ 第三歌集『樹雨降る』
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 ↑ ゴーギャン 「タヒチの女」シリーズ

       ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳
          その安寧が私にはない・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

                ・・・・・ながらみ書房2015/07/27刊『樹雨降る』所載・・・・・・

つい、この間出た本である。 掲出歌に因んで、ゴーギャン「タヒチの女」シリーズの絵を出しておく。
この歌集は、第一章から第六章に構成されており、2008年4月〜2014年3月までの6年間の作品、484首を収めている。
年齢でいえば46歳から51歳まで。
少し歌を引いてみる。

       ・泣き寝入りした子とただに疲れたるわれを隔てて襖戸はある

       ・性愛の薬缶は沸いて忙しなし男はわれの肌越えてゆく

       ・枯れかけたホテイアオイの陰にいる赤い金魚よ寂しいですか

       ・巻き緊むるもの持たざれば枯れてゆく 朝顔の蔓のごとき思いは

       ・冷えたがる頬へと指を突き立てて 思い出などは決して語るな

       ・重ねても重ねてもこの色ではない詠っても詠ってもこの言葉ではなし

       ・ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳その安寧が私にはない

       ・木の雫す静かな時間 あなたとは出会わなかった生を思えば

       ・歌に詠む他には何ができるのか肉を持たざる歌というもの

       ・君はわれを軽く片手で制したり煮立てるような受話器取る前

これまで上梓された二冊の歌と同じように、事実を淡々と詠む歌風である。

二年前に、私は作者の歌を引いて、こんな記事を載せた。   ↓
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    絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌は、ここに載るものである。

この人は昭和37年生まれというから50歳を少し過ぎたところであろうか。
私の娘たちと同年輩である。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集長ということだが、略歴を見るとフリーターだったらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
この二人には「鮫と猫の部屋」という共同のホームページがある。参照されたい。
なお夫君の松村正直は2013年に「塔」の創立者『高安国世の手紙』(六花書林)という本を出され、あちこちに批評文がでるなど好評を得ている。
これは2009年から2011年にかけて「塔」に連載されたものである。
Wikipedia─「松村正直」に詳しい。

「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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他人の評論の引用ばかりが長くなった。
今回の第三歌集『樹雨降る』についても、そろそろ評論が出回ってくる頃かと思うが、長くなるので、今回は、この辺で終わりたい。


鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・小池光
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      鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ
           冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・・・・・・小池光


卵は昔は貴重品だった。
割れないようにもみ殻に入れて保存され、精がつくからという理由で、病人への見舞いによく使われた。
やや縦長の丸い形状、割れやすい殻、とりわけ内部に命を宿しているということが、豊かな象徴性を帯びる理由なのだろう。
キリスト教では復活祭に彩色した卵を飾るが、これも生命の復活・再生を表わしていることは言うまでもない。
またお隣の韓国には卵生神話というのがあり、伝説上の英雄は卵から生まれたとされているという。
卵の持つ不思議な性質が、いかに昔の人々の想像力をかき立てたかをよく示している。

はじめに、なぜ、今日「生卵」のことを書く気になったか、を言っておく。
角川書店「短歌」10月号の「シリーズ連載・歌人の朝餉」というページに花山多佳子が、こんな記事を書いているからである。
  
    <・・・・・卵は生卵も半熟卵も食べられないので、フライパンでしっかり押しつけて焼く。
      ふんわりしたオムレツを子どもたちにも食べさせたことがない。・・・・・>

この記事から思い出すのが、同じ短歌結社の重鎮だった河野裕子が、関西人特有の「おせっかい」で、おまけに「熱々メシに生卵」をかけて食べるという人で、
結社の人々に生卵を送りつけたというエピソードを思い出したからである。
贈られた花山多佳子は、前記のような育ちの違う、食習慣の違いから多量の卵を贈られて面食らった、というエピソードである。
ご存じのように、花山は東京育ちで、高名な歌人・玉城徹の娘であり、祖父も玉城肇という学者だから、この家では「卵かけ飯」というような習慣がなかったのだろう。
はじめに書いたように昔は生卵は貴重品であり、近年まで病気見舞いには生卵を二、三十個贈る習慣があった。
「地卵」と言って、知り合いの養鶏場から生みたての、新鮮な卵を、わざわざ取り寄せたりしたものである。
こういう食習慣というのは仲々抜けないもので、肉の焼き方などでもレアかミディアムか、など難しいものである。
:掲出した小池光の歌は、「生卵メシ」どころか、生卵をそのまま「呑み干す」というのである。

以下、「卵」を詠んだ歌を引いておく。  

   突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼・・・・・・・・・塚本邦雄

   取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり・・・・・・・・道浦母都子

   殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何・・・・・・・・松田さえ子

   冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし・・・・・・・・岡井隆

   冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり・・・・・・・・大滝和子

   ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は・・・・・・・・穂村弘

    卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ・・・・・・・・高野公彦

    うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵・・・・・・・・高橋睦郎

   卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む・・・・・・・・塚本邦雄

   生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも・・・・・・・・馬場あき子

   永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり・・・・・・・・錦見映理子

   鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ・・・・・・・・小池光

   女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ・・・・・・・・黒瀬珂瀾

黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。
ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。
ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない、と言われるが私はまだ確かめては居ない。

    卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに・・・・・・・・前田夕暮

   てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力・・・・・・・・佐藤弓生




Post Coitus 不思議な店のマスターは至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏
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 ↑ 精子の電子顕微鏡画像

        ■Post Coitus 不思議な店のマスターは
                   至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏


この歌に引き続いて

     受精後と読むは科学者 性交ののちと言ふとももとより可なり

     よろこびか哀しみか然(さ)あれ受精とは精子を迎へ容れること


と続いている。 これらの一連は角川書店「短歌」誌2015年一月号に載るものである。
ご存じのように永田は細胞生物学者で、京都大学を経て、目下、京都産業大学教授である。
有名な歌人・亡河野裕子の夫である。 Wikipedia─永田和宏

この歌の出だしのラテン語「Post Coitus」というのも、いかにも学者らしい、ディレッタントなもので、私などは、こういう知的な「言葉遊び」に微笑む。
実際に、こんな名前のバーがあるのかどうか、も私には判りかねるし、フィクションとして捉えるのが、むしろ面白い、と言える。

つづいて、こんな歌が見つかったので引いてみる。

f0071480_17544581亀のピカソ

       ■はなたれてちぢむペニスよこのあした
                <東大教授>もパンツを脱いで・・・・・・・・・・・坂井修一


この歌の作者はコンピュータ学を専攻する東大教授であり、かつ歌人である。
この歌には詞書「朝風呂」と振られており、かつ「11/9」という日付がついている。
この歌は歌集『亀のピカソ─短歌日記2013』に収録されているものだが、初出は、ふらんす堂のホームページに「短歌日記」という一年間の連作のシリーズとして掲載されたものである。
これらは、もちろん「歌」作品であるから、フィクションとして捉えるべきであろう。
朝風呂でなく夜の風呂だったかも知れないが、詩的真実=リアリティ、として呈示されていると理解すべきである。
しかし「東大教授」という地位に居る人物の歌だからこそ、そして坂井修一という知の巨人の背景がわかるからこそ面白いのである。

彼の経歴について、Wikipdiaを引いておく。   ↓

坂井 修一(さかい しゅういち、1958年11月1日)は日本の歌人、情報工学者、東京大学教授。愛媛県出身。
短歌結社「かりん」に所属し馬場あき子に師事。科学者としての視点を生かしながら人間的な振幅を示す表現が特徴。現在、現代歌人協会理事。また、工学の分野でも活躍し、電子技術総合研究所(現:産業技術総合研究所)に勤務していたときに、汎用性があるという意味で世界初といわれている高並列データ駆動計算機「EM-4」の開発に参加する。その後マサチューセッツ工科大学に学び、筑波大学助教授、東京大学工学部助教授、情報理工学系研究科教授。情報処理学会フェロー、電子情報通信学会フェロー、日本学術会議連携会員でもある。
妻は同じく歌人の米川千嘉子。

こんな歌は、どうだろうか。

海図

      ■断食(ラマダン)を正しく守る前相撲
                 大砂嵐はエジプト人なり・・・・・・・・・・・三井修


この歌は歌集『海図』に載るものである。 三井修氏は、私がいろいろお世話になっている人である。
角川「短歌」誌2015年一月号に載る巻頭・特集の文章によると、

<大砂嵐の本名は アブダラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハマッド・シャラーン。
 四股名・大砂嵐は、本名に因んで、砂=シャ、嵐=ラン、から付けたというのは本当か。>

と書かれている。 私も真偽のほどは判らないが、相撲部屋の親方が、上のようなことで付けたとすれば、極めて愉快である。
その彼も今や幕内力士の中堅として活躍している。
私も注目する一人である。
本名を見ると、イスラム教でも、キリスト教と同様に、ミドルネームに聖人などの名前を連ねるらしい。
三井修氏は東京外国語大学でアラビア語を専攻され、商社で何度も中東の地に駐在員として活躍された人であり、中東研究の第一人者である。  Wikipedia─三井修
歌集『海図』については、このブログで昨年一月に紹介した。

今日は、現在、トップを走る歌人たち三人の「言葉遊び」と私が呼ぶ歌を引いて、書いてみた。 いかがだろうか。


怖いもんって/そら嫁はんにきまってますがな/なにがしとやかな京おんなですか/芯はきついですわ・・・・・・・・根来真知子
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     怖い・・・・・・・・・・・・・・・根来真知子

     怖いもんって
     そら嫁はんにきまってますがな
     なにがやさしいですか
     なにがしとやかな京おんなですか
     芯はきついですわ
     こないだもな・・・・・・・
     <Nさんの眼がここでマジになった>

     ついこのあいだも
     捨てたつもりの電話番号のメモ
     見つけられましたんや
     へぇ ちょっとかわいらしい子ぉどしたんや
     嫁はん そのメモをつきつけてひと言
     「家(うち)にあるもんは買わんかてよろしい」

     それだけで終わりますかいな
     翌月 えらい金額の請求書がきましたわ
     へぇ わしあてに
     恐る恐る聞いたら
      なんたらちゅう名ぁのハンドバッグらしいですわ

     そんなん家(うち)にたんとあるのに・・・・・・

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この愉快な詩も『滋賀・京都 詩歌紀行』に載るものである。
京都人の見かけでは判らない、芯は冷徹な人柄の一端を、巧みに捉えている。
掲出した写真は、私が勝手に載せたものであるが、このバッグも十数万円余りの値段がついている。
初めてパリに行ったとき、娘に頼まれてポシェットを買いにルイ・ヴィトンの本店に行ったことがある。
今まではシャンゼリゼを入った横丁にあったが、2005年にシャンゼリゼの大通りに面したところに「新」本店が出来たらしい。
もう、ん十年前の話である。


言語とふ異形の遺伝子持ちしよりひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史
ひも

    ■言語とふ異形の遺伝子持ちしより
        ひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史


聖書に「はじめに言葉ありき」という教えがある。
これはイエス・キリストの言葉を信じよ、ということであろうが、「はじめに言葉ありき」という言葉は、さまざまにバリエーションをつけて語られてきた。
人間が他の生物と異なるのは「言語」を持っているからだと言われる。
それは正しいだろう。
だが、掲出した沢田英史の歌のように、この「言葉」というものを持っているが故に、人間は言語に縛られ、動きがとれなくなった、とも言える。
私にも、こんな旧作がある。

   ■「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統(す)べられつ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の「エッサイの樹」という連作に載る11首の中のものである。
この項目名からも分かるようにキリスト教──旧約聖書、新約聖書に因むものであるが、西欧世界に遊ぶと、キリスト教が、かの地に深く深く根を張り、
がんじがらめに支配していることを知らされる。
私の歌は、そんなヨーロッパの地を覆う、いわゆる「言葉」なるものの存在を意識したものである。

沢田英史の歌は、「異形(いぎょう)の遺伝子」という側面から「言語」「言葉」というものを捉えた秀歌である。

この歌の前に、「対」になるように、こんな歌がある。

   ■遺伝子を残さむがため生くるなり
        生物のいのちは単純明快・・・・・・・・・・沢田英史


この二つの「対」になった歌で、ひとつの主張がなされていると言うべきだろう。
秀歌という所以である。

ヨーロッパの「精神史」に触れると、この「大枠」の中で、中世以後、デカルトをはじめとして多くの知識人が苦悩してきた事実が判って来る。
そして多くの人がカトリックに回帰してゆく。唯一、回帰しなかったのはサルトルとボーボワールの夫婦だけだったのでないか、という気がする。
「中世」が今に生きている、と言えば、そんな大げさな、と言われるかも知れないが、アメリカのブッシュ大統領が、現代の「十字軍」を標榜していた事実を見られるが、よい。
そして、結果として、イスラームを敵に廻してしまい、にっちもさっちも行かなくなった、というのがイラク戦争の報いであろう。
ひと頃、前ローマ法王が、中世の十字軍は間違いだった、とイスラームに謝った、というのに、ブッシュは時計のネジを逆に廻してしまったのだった。

その後の世界の推移は、ますます混迷を深めている。
「アラブの春」と称せられる運動も、果たしてどういう方向に向かうのか行方定まらない。
独裁者も無くならない。
日本の近海も騒々しい。 中華の「覇権主義」も相当なものである。日本人はますます「内向き」になろうとしているし、気がかりである。



われわれはどこからきたか われわれは どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好
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    われわれはどこからきたか われわれは
       どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好


『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
原題は '''D'où venons nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?  である。
この絵と言葉を日本に最初に紹介したのは大正年間の「白樺派」の雑誌であった。
ゴーギャンの絵の題名としても有名であり、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている。

以下、ゴーギャンなどについてネット上から引いておく。
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ポール・ゴーギャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 ~ 1903年5月9日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館) (掲出の図版①の絵)
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。
死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
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図版②にゴーギャンの自画像を載せておく。
484px-Paul_Gauguin_111ゴーギャン自画像

掲出した歌の作者・栗城永好は昭和6年生まれの「沃野」という結社に所属する人であり、
この歌は、はじめに紹介した有名なゴーギャンの言葉を歌の中に取り込みながら、趣ふかい歌に仕立てあげた。
この歌につづいて、こんな連作になっている。

   ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・栗城永好

  希望とは待つことである ひつそりと診察を待つ二時間余り

  点滴は天のしたたり 外は雨 誰もおのれの余命は知らぬ

  サヨナラをいくたび言へどどこらまで己れさらしてゐるのだらうか

  虫けらも人間もいのち奪ひあふ地球は青き星といひつつ

何とも命を深く見つめた佳作であることか。最近こういう、しっとりとした佳い歌に出会うことが少ない。
角川書店「平成19年版・短歌年鑑」に載るものから引用した。



日動画廊扉の把手は青銅の女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英
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↑ 「クリスティン・ピエール展」から──パリ日動画廊ホームページより

──東京風景いくつか──

   ■日動画廊扉の把手は青銅の
      女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英


日動画廊(にちどうがろう)は1928年創業の洋画商。日本国内の洋画商としては、最も歴史があるとされる。
店の名前の由来は、最初の画廊は日本橋の高島屋の近くだったが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。
日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。
HPを見ると、系列に名古屋、福岡、フランスのパリ、軽井沢、茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、今の所在地は銀座5-3-16。
毎年作家の個展を開催している。現在まで多数の作家たちを輩出してきた伝統ある画廊とされる。
取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
関連するネット上を閲覧すると、こんな記事があった。

<日動画廊の長谷川智恵子副社長が2009年11月19日、フランス大使公邸で行われた叙勲式で、レジオン・ドヌール勲章オフィシエに叙されました。
長谷川智恵子氏は夫の長谷川徳七氏(日動画廊社長、1998年芸術文化勲章コマンドゥール受章)とともに、フランス美術を印象派から近代、現代美術に至るまで日本に広く紹介し、国内多数の美術館のコレクション形成に貢献したほか、笠間日動美術館(茨城県笠間市)の創立にも尽力しました。>

今の社長は長谷川徳七というらしい。

私の記事をご覧になった光本恵子さんから、次のようなメールをもらったので感謝して、披露しておく。 ↓

< 日動画廊の長谷川氏の先祖が鳥取県の赤碕の出身で、その関係で赤碕の港に三度笠の石彫ができました。
それは神戸の港のメリケン波止場にも同じ人の作品で「海援隊」の石彫があります。
作品紹介には、
「著名な彫刻家・流政之氏が「波しぐれ三度笠」というタイトルで制作した彫刻で、日本海に映えるすばらしい景色をつくり出している。」
と書かれています。 
赤碕の菊港(明治の半ばまで千石船が通っていた港――私は幼い頃この港で泳いでいました)の丸石で組んだ防波堤の先端にこの彫刻があります。
この地は日本海でも最もたくさんの墓地が日本海に沿って「花見潟墓地」があります。それは見事な墓地です。司馬遼太郎の書いたものの中にもあります。 >

光本恵子さんも、ここ赤碕のご出身である。

掲出の阿木津英の歌は、店のドアの把手が青銅製の「女体」だとして、その腰のくびれをつかむことになるのを、巧みにエロチックに表現して秀逸である。

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   ■電脳に追いたてられてふらふらの
        僕は歩くよ夜の地下鉄・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗明純生


この人は確か「銀座短歌会」というところに所属する若手の都会派歌人である。
写真は「地下鉄博物館」に展示される丸の内線301号車と奥は銀座線1001号車である。以下は、その説明。

<未だファンの多い丸ノ内線の真っ赤な車両。いくつかは払い下げになり個人で所有している方もいらっしゃるとか。
そんな人気の真っ赤な300型車両は、どんな活躍をしてきたのでしょうか。
博物館では、車内に入ると窓に映写機で映し出された開通当時から博物館に納められるまでの映像を見ることが出来ます。>

   ■地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり・・・・・・・・・・・・・・前登志夫

この歌も青春の日々に過ごした東京を偲んで作られている。奈良・吉野山住みだったが先年亡くなった。

   ■大江戸線地下ふかぶかと降りゆくに青きあやかしかケータイ光る・・・・・・・・・・・・小島熱子

大江戸線が開通して、もう数年になるが、それまで不便だったところが大変便利になった。
後発の路線ということで、走る深度はとても深いから、駅について地上にでるのに急角度のエスカレータに延々と乗ることになる。
そのエスカレータの速度が遅いのでイライラする。こんなときに思い出されるのがロシア・モスクワの地下鉄のエスカレータの速さである。
ここも地下深いので、必然的にエスカレータが速くなったものだろう。各駅もそれぞれ装飾的で、個性があって面白い。
東京で一番新しい地下路線は「りんかい線」だろうか。ここも便利になって埼京線川越まで直通で行ける。
私は京都人なので、東京には時たま行くだけで詳しくないので、間違いがあったら訂正してほしい。

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    ■鶯も通ったろうかうぐいすだに 
      かつて東京は川と谷と武蔵野の森だった・・・・・・・・・・・・光本恵子


鶯谷駅は大ターミナルである上野駅の隣に隠れて影が薄く、都区内のJR駅の中でもとりわけ地味で小規模である。
それを裏付けるかのように、山手線の駅ではいちばん乗降客数が少ない。
駅の西側は上野の山で、寛永寺の墓地になっている。
東側は市街地だが、なぜかラブホテルが密集している。駅ホームから眺めても、ラブホテルばかりが目につく。
こんなにも駅からラブホテルが見える駅も珍しい。

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   ■「笹の雪」の暖簾(のれん)のかたる昔もあって
            根岸の里の入り陽の朱・・・・・・・・・・・・・・・・・梓志乃


「根岸」というと正岡子規が住んでいたところで、今は台東区になっているが、ここには私は、まだ行ったことがない。
古い家並などが残っているのだろうか。この歌からは、そんな気配も感じられるのだが。。。。
ネット上に載る記事によると、この「子規庵」のあるのは「笹の雪」の看板のある辺りらしい。そこで聞けば判ると書いてある。
Wikipediaに載る記事を引いて終りたい。
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俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においては、所謂月並俳諧の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。
またヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においてはいくつかの問題を指摘することもできる。
俳諧におけるゆたかな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉の所謂「挨拶」の心を失ったこと。
連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと、
などは近代俳句に大きな弊害を与えているといってよい。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。
これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。
当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。
彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。

『歌よみに与ふる書』における歌論は、俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。

特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子として、その主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。
いまでも否定できない俳句観である。

日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶる大きいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。


踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ/磨りきれた傷を残して/切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた・・・・・・・・中原道夫
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    東京メトロ霞ケ関駅で・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫

     踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
     磨りきれた傷を残して
     通勤ラッシュのメトロのホームに
     切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

     跳び乗った電車の中で
     踵の無くなった靴の持ち主は
     やがて自分の足が
     ちぐはぐで不揃いになっていることに気がつくことだろう
     そして、だれも恨むことのできないこの不幸なできごとを
     仕方なしに笑いに替えてごまかすことだろう
     (ああ、参ったな、困ったな、どうしよう)

     泣きだしたくなるようなこの笑い
     困惑を吃逆のように呑み込んでしまうこの笑い
     ぼくらの日常に纏わり付いているこの笑い
     ぼくは無性に切なくなって
     磨りきれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
     哀しいぼく自身を拾うように

     まもなくホームに電車が入ってくる
     通勤客が降りてくる
     いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
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念のために書いておくと「霞ヶ関」駅の名前の表記は「ケ」を全角で書くのが正式であるらしい。小文字にしない。
この中原の詩の場合、きちんと「霞ケ関」と書いてある。さすがである。

この詩は<日本詩歌紀行3 『東京 詩歌紀行』>(2006年北溟社刊)に載るものである。
現代の都市交通のありようやサラリーマンの哀歓の様子が、かいま見られるだろう。
因みに、付け加えておくと、私の旧作の歌3首も収録されている。

   うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

   振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

   ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・木村草弥

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参考までに霞ヶ関駅を発車する「小田急電鉄メトロはこね23号東京メトロ千代田線」の動画を載せておく。






あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部
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──<恋>の歌鑑賞──

   あらざらむこの世のほかの思ひ出に
        いまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部


『後拾遺集』巻13・恋に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」として見える歌で、病のため不安を感じ、ある男性に送った歌なのだが、
何よりも『百人一首』中の名歌として、あまねく知られている。

歌の意味は「自分は病気が重くなって、命は長くないかも知れない。「この世のほか」である「あの世」に移ってからの思い出のために、せめてもう一度あなたにお会いしたい、会ってください、ぜひとも」との思いをこめて男に贈った歌である。贈られた相手が誰であるかは判らない。
図版は狩野探幽が描いた百人一首のための和泉式部像である。
izumi和泉式部画探幽

和泉式部は23歳で和泉守(いずみのかみ)橘道貞と結婚し、翌年には娘・小式部をもうけたが、道貞が仕える太皇太后宮(冷泉帝皇后)が病気療養の「方たがえ」のため、太皇太后宮の権大進でもあった道貞の家に移り、そのままそこで崩御されたことから式部の運命は狂った。太皇太后宮のもとへ、異母子の為尊親王(冷泉帝第三皇子)が見舞いに訪れるうち道貞の妻・式部と知るところとなったためだ。親王22歳、式部は27歳くらいだったらしい。この情事はたちまち評判になった。道貞は妻を離別し、式部の父も怒り悲しんで娘を勘当する。ところが、為尊親王は24歳で夭折される。式部は悲嘆にくれるが、運命は彼女のために更に数奇な筋書きを用意していた。亡き親王の弟・帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王が新たに式部に言い寄り、彼女もまもなくその恋を受け入れたからである。当時、敦道親王は23歳、式部は30歳くらいだったらしい。親王はすでに結婚していたが、年上の恋多き女・和泉式部にうつつをぬかし、彼女を自邸の一角に移り住まわせる。親王の妃は屈辱に耐えず邸を去った。年若い男の恋の激しさは異常なもので、式部の方も、この眉目秀麗な皇子を深く愛した。
しかし式部はこれほどの仲だった敦道親王にも、4年あまり後に先立たれる。式部は悲しみの底から恋の尽きせぬ思い出によって染めあげられた悲歌を124首にものぼる多くの歌を詠んだ。

     捨て果てむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにしわが身と思へば

     鳴けや鳴けわが諸(もろ)声に呼子鳥呼ばば答へて帰り来(く)ばかり

     たぐひなく悲しきものは今はとて待たぬ夕のながめなりけり

だが、このような深い嘆きを詠いながらも、彼女は男に寄り添わねば居られなかったし、男たちもまた言い寄ったらしい。女として、よほど魅力があったのだろう。
一条天皇の中宮・彰子に仕えたのはその後のことだった。紫式部、赤染衛門らも同僚であった。
ある日、中宮の父・藤原道長が、彼女の扇に戯れに「うかれ女(め)の扇」と書いたことがあった。
平安朝の、一種、自由恋愛過剰とも言うべき時代ではあっても、時めく権力者から「うかれ女」の異名を奉られるのはよほどのことで、彼女の生き方が周囲からどれほどかけ離れていたかを鮮明に示すエピソードだろう。

     枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢

この歌は、彼女が予想もしない時に言い寄られ、枕さえない場所で「春の夜の夢」のように短い、しかし激しい逢引をした後、男に贈った歌だ、と窪田空穂は解釈している。
醜聞を嫌って「君語るなよ」と言わずにおられなかったほどの情事であり、また思いがけない相手であったと思われる。
しかし、そのように男から男へ遍歴を重ねても、彼女の生の渇きそのものだったと言えるほどの十全な恋への夢は、満たされることがなかったようだ。
恋によって傷つき、その傷を癒そうとして新たな恋に走る。得体の知れない苛立ちのような不安が、和泉式部の歌の中で、暗い命のほむらとなって燃えているように見える。
そういう意味で、次の有名な歌は和泉式部の心の本質的な暗さを象徴しているような歌である。男に忘れられて、鞍馬の貴船神社に詣でたときに作ったものという。

     もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る

古代以来のものの考え方からすると、魂が肉体を遊離することは「死」を意味する。
和泉式部は恋を失うことが、そのまま自らの死を意味するほどの激しさで、恋に生の完全な充足を求めた女性だったらしい。しかし、現実には、そのような要求に応え得る男は居なかった。
恋に身を焼かれながら、ついに魂の満たされることのなかった彼女の叫び──それが彼女の歌である。

     如何にせむ如何にかすべき世の中を背けば悲し住めば住み憂し

     とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は

この引き裂かれた心の嘆きは、遠い平安朝の女の歌とは思えない現実感をもって私たちに迫ってくるものがある。


地球儀を廻せば果てなし世界地図母国がいつも中心にあり・・・・・・・・・・・・浅井のりこ
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      地球儀を廻せば果てなし世界地図
               母国がいつも中心にあり・・・・・・・・・愛知県 浅井のりこ


この歌は角川書店「短歌」誌の2013年1月号の題詠「球」の応募作として入選したものである。 選者は楠田立身氏である。
この歌は「地球儀」を詠ったものとしては、正確ではない。
「平面地図」であれば、ここに詠われるように、どこの国の地図も、いつも「自国」を真ん中に描いているだろう。
しかし「地球儀」は丸い地球を模ったものであり、ほぼ地球の現実の配置図になっているもので、例えば、日本は必ずしも地球儀の真ん中にはないからである。
地球儀というのは、「地軸」の傾きに沿って軸が貫いており、それをくるくる廻して各国を見るようになっている。
作者は、平面地図と地球儀とを「錯覚」して、歌に作られたようである。 歌の意味として違和感がある。
異議を申し立てるようで恐縮だが、選者の楠田氏の間違いだろう。 私なら、正確を期して、この歌を選ばないだろう。


今しも、韓国が「日本海」を「東海」と呼称するよう求める動きが、アメリカ在住の韓国系住民から出てきたりしている。
これなども地図の「平面図」的な発想に発している。韓半島から見れば、確かに「東の海」であるからだ。
他方、日本なども「日本海」の表記にこだわる必要もないのである。
とにかく日本の苛酷な植民地支配に対する反感、反動が、いま民族感情のうねりとして噴き出ているのだ。
ついでに書いておくと、韓国に行ってみると判ることだが、「朝鮮」という言葉を使うことにも反発があり、「朝鮮半島」ではなく「韓半島」と呼ぶ、などである。

この歌を見たとき、私も一瞬、「平面地図」を思い出して、肯定しそうになったが、すぐに間違いに気づいた。
私宅にも子供たちの学習用に買ったものだろうか、いまも地球儀が一個ある。
この「題詠」の欄には全部で50余りの入選歌が載っているが、

   角のある小家具ばかりのわが部屋にけふは学習用地球儀を置く・・・・・・岩手県 加藤英治

という歌が選ばれている。
詠み方は違うが、この歌には何ら違和感はない。
こんな歌も採用されている。

   婆生まれし台湾さがすおさならは芋型よねと地球儀を見る・・・・・・兵庫県 清水勝子

この歌も面白い。台湾=フォルモサの形を「芋型」とは子供らしい表現である。
「球」という題詠の課題に対して地球儀を詠ったのは、この三つだけである。
他は野球の球やサッカーボールを詠ったものなどが多い。 では、他の歌を引いておく。

   卓球野球蹴球排球籠球と漢字は固くよく動けない・・・・・・神奈川県 越田勇俊

   青年の指黙黙と球根を育てるために花を摘みおり・・・・・・茨城県 杉山由枝

   天災に目覚めし国の団結の「絆」の文字が球に書かるる・・・・・・三重県 福沢義男

   溶ける球ぐるり回して吹きやれば丸き形の風鈴が出づ・・・・・・東京都 松永弘之

   隠し球持たぬ手の内吾が持つは少しの希望と多くの祈り・・・・・・東京都 芹沢弘子

   吹きつのる春の疾風にタンポポの綿毛は球のスクラム解かず・・・・・・和歌山県 久保みどり

   「別に」とか返す日続く反抗期言葉のボール帰らぬ九月・・・・・・神奈川県 高司陽子

   明日逝く夫の命を知らずして孫と遊びし球磨川下り・・・・・・千葉県 田中房枝

   夕暮れにボール片手に帰りゆく子等と蜻蛉に開かれしドア・・・・・・青森県 桜庭喜久枝

   何となく覚えづらくて苦手なりし球の体積・表面積を・・・・・・大阪府 遠藤八重子

   たつぷりともろてに抱き描きたるまるみなるべし球子の富士は・・・・・・千葉県 渡辺真佐子

   見逃せばホームランとなるフェンスぎは超美技となる刹那のジャンプ……静岡県 鈴木昭紀

   変化球少しは混ぜてみようかと職退きし後の生活プラン・・・・・・愛知県 藤田浩之

   石や川花に蝶々犬や猫そして私も地球のかけら・・・・・・神奈川県 ひかり

   



暗闇を泳ぐ生きものだったからまなこをなくしたのねペニスは・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
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    暗闇を泳ぐ生きものだったから
        まなこをなくしたのねペニスは・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生


佐藤 弓生(さとう ゆみお、女性、1964年2月15日 生れ )は、詩人、歌人、翻訳家。石川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。
夫は作家・評論家の高原英理。 井辻朱美の影響により作歌を始め、1998年より歌誌「かばん」所属。
2001年、「眼鏡屋は夕ぐれのため」で第47回角川短歌賞受賞。幻想的な作風。

著書
詩集『新集・月的現象 』沖積舎 1991
第1歌集『世界が海におおわれるまで』 沖積舎 2001
詩集『アクリリックサマー 』沖積舎 2001
第2歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため 』角川書店 2006(21世紀歌人シリーズ)
第3歌集『薄い街』 沖積舎 2010

翻訳
英国風の殺人 シリル・ヘアー 世界探偵小説全集 国書刊行会 1995
地下室の殺人 アントニイ・バークリー 国書刊行会 1998(世界探偵小説全集)

佐藤弓生の作品を私は余り知らない。 アンソロジー『角川現代短歌集成 』から少し引く。

  生まれる子生れない子とひしめいて保温ポットの中のきらきら

  わたしかなしかったらしい冷蔵庫の棚に眼鏡を冷やしおくとは

  かんたんなものでありたい 朽ちるとき首がかたんとはずれるような

  まっくらな野をゆくママでありました首に稲妻ひとすじつけて

  みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ

  往診の鞄おおきくひらかれて見れば宇宙のすはだは青い

  うさぎ入りガラスケースに手をかざし生がまだよく混ざっていない

  胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を

  人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった地球は

  ほろほろと燃える船から人が落ち人が落ちああこれは映画だ

  百の部屋百の机のひきだしに息ひそめおり聖書の言葉

  コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

不完全な引用で申訳けないが、この人は基本的に「詩人」だなと思う。
既成の「歌人」という分類では分けられないと思う。
掲出した歌も、恐らくは連作だろうと思うのだが、この歌の前後に並ぶ歌が判れば、もう少し判るだろう。
後から引いた12首の歌は作者の自選だから自分でも好きな作品なのだろう。
掲出歌と、この12首の歌とで連作として読んでも面白い。
「ペニス」に因んで、画像には「スペルマ」の顕微鏡写真を出してみた。



かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄
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   かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

このところ前衛俳句を採り上げている気がするが、今日も、そういう系統の作者にする。
三橋敏雄である。
昭和10年当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より「無季俳句」を推進する。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。昭和42年現代俳句協会賞。平成元年第23回蛇笏賞受賞。

先日採りあげた富沢赤黄男と同じような俳句革新派であるが、赤黄男とは20年以上の年代差がある。
私は文芸への接近を、現代詩からはじめたので、おとなしい句もいいが、時には、こういう革新派というか、前衛的というか、の俳句も面白いと思うのである。

PICT0913-thumb飛ぶカモメ

この句は昭和16年刊の第1句集『太古』に載るもので、彼自身の自選句でもある。
俳句詩の制作を意識した句であることは、間違いない。
「天金の書」を開くたびに「かもめよ来い」という句づくりは現代詩のものである。この句につづいて

  少年ありピカソの青のなかに病む

という句が並んでいる。この句もピカソの「青の時代」と称される絵を見ての作品であるが、とても面白い。
これも句集『太古』に載るもの。

以下、少し句を引いて終りにする。

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

  海山に線香そびえ夏の盛り

  共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに

  昭和衰へ馬の音する夕かな

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

  日にいちど入る日は沈み信天翁

  母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

  夕景や降ろす気球のあたま一つ

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  天地や揚羽に乗つていま荒男

  晩春の肉は舌よりはじまるか

  くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ

  緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋

  夏百夜はだけて白き母の恩

  裏富士は鴎を知らず魂まつり

  ぢかに触る髪膚儚し天の川

  汽車よりも汽船長生き春の沖

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

  沈みたる艦船の数海燕

  いづこへも行かぬ竹の子藪の中
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Web上に載る下記の記事を引用しておく。

 永遠なる戦争俳句――★三橋敏雄句集『弾道』に学ぶ 宮二健

 平成13年12月1日、俳人・三橋敏雄が他界した。大正9年11月8日生まれの82歳だった。敏雄がハイティーンの頃に、関わった「戦火想望俳句」の周辺に注目してみたい。戦争は、理由いかんと規模を問わず、世界のどこかで繰り返され続けており人類永遠の蛮行と言わざるをえない。比喩的な戦争を含めれば、世は正に戦時下にある。時代遅れな戦争俳句を持ち出したのは、常に時期なのが戦争だからだ。敏雄の訃報以前の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。それに端を発した対テロ戦争、以前からのソマリアの内乱やイスラエル対パレスチナの戦争などと、私達は背中合わせに生存している。戦争との共存は時空の遠近関係では計れないほど深刻で身近な問題だ。
 しかるに昭和10年頃台頭した超結社的新興俳句運動に、17歳で新興俳句無季派として頭角を表した敏雄の存在が気になる。14歳で「句と評論」所属の渡辺保夫に俳句の洗礼を受け兄事し、次に師としての渡辺白泉と西東三鬼に恵まれた。戦時下という社会背景の許に最前線の俳句環境と敏雄自身の才と志の三拍子が揃っていた。初期作品篇句集『青の中』(コーベブックス・昭和52年3月刊)は、昭和10年の15歳から20歳迄の作品集であり、同時期の戦火想望俳句集『弾道』(深夜叢書社・昭和52年7月刊)は、昭和13年に「風」と「広場」に発表した93句からなる。また、15歳から44歳迄の作品集の第一句集『まぼろしの鱶』(俳句評論社・昭和41年4月刊)と『弾道』は13句が重複する。当時新進の俳句表現で満17歳の若者が持てる知識と想像を巡らして戦争の有様が詠まれた。まず『弾道』の後記を参照して概要をつかみたい。
 昭和11年に二・二六事件が起き、12年7月7日に日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。その頃、新興(革新)俳句運動は停滞の兆しが見えていた。おりしも、その前期の新表現様式の張本人で有季固守の山口誓子が「俳句研究」12年10月号の誌上で、銃後よりも前線で「本来の面目を発揮するがよかろう。刮目してそれを待とう。もし新興無季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかったら、それはついに神から見放されるときだ」と挑発し、西東三鬼は「京大俳句」12月号の誌上で「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面白を輝かせるに絶好の機会だ」と檄を飛ばしけしかけた。敏雄はそれらの揚言に「鼓舞扇動された」と自ら記している。そして、戦争に向き合う新興無季俳句表現への志向は三鬼に、表現の外形は誓子の構成手法に拠った。
 『弾道』の20章中1章~12章の全57句は、渡辺白泉と小沢青柚子共同編集の「風」昭和13年4月第7号に「戦争」と題して発表した連作だ。後に戦火想望俳句と呼ばれた。その内の数句について「サンデー毎日」6月26日号で、誓子が「私は主義として無季俳句を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればこういう方向のものを作るのではないかという気がする」と、自己矛盾めく弱腰な評言を放った。そのことは激賞したと言われている。若い敏雄に与えた誓子の高評は終生の勉励意欲に多大な影響を与えたことだろう。敏雄の逸材を見抜いた誓子が賛意を表した句を、「俳句研究」昭和35年12月号より引用しておこう。

 射ち来たる弾道見えずとも低し
 嶽々(やまやま)の立ち向ふ嶽(やま)を射ちまくる
 嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
 砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
 そらを撃ち野砲砲身あとずさる
 戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
 あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
 夜目に燃え商館の内撃たれたり

 三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫 平成8年刊)の解説で澤好摩が「射ち来たる」「そらを撃ち」「あを海へ」「夜目に燃え」の句を抄出して、次のように評している。
 「全て無季であるという事実によって、〈戦争〉が異化した現実として存在するという側面を、よりいっそう鮮明に提示している」「『季』という日常性を切り離すことで、〈戦争〉は俳句にとってリアルな対象となりうることを、いち早く少年・三橋敏雄は察したのである」「少年の曇りなき眼がとらえた〈戦闘〉場面であるというにとどまらず、新興俳句運動のなかから導き出された無季俳句提唱に対する、見事な実践であり、大きな成果をもたらした」「少年らしい清潔な抒情の表出と、無季俳句の実践によって新たな表現領域を見出した」
 俳句で当然とされている有季に拠らないで、無季という異様さを呈し、その疎々しさをもって戦争俳句の真実味を獲得したという事だろう。異化とは鋭い指摘だ。俳句表現でも異化効果の斬新さなくして革新性は望めない。銃後でありながら、純真な眼差しが捉えた戦場の景は、天下泰平の証しでもあるような季語信奉に与しないで描かれた。当時のモダンでクールな誓子俳句に傾倒した事とあいまって独創的な連作となった。若輩の敏雄が無季俳句の実践によって成した新たな表現領域は、平成に至っての澤好摩の別角度からの適評によって再度決定付けられた。この成果は今後の俳句表現活動へも引き継がれなくてはならない。その新領域を生かし押し進める実践者の一人として私も名乗りを上げよう。

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む 誓子 (昭和7) 32歳
 夏草に機関車の車輪来て止まる (昭和8)
 夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸(ひた)る (昭和12)
 水枕ガバリと寒い海がある 三鬼 (昭和11) 36歳
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り (昭和12)
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク (昭和14)

 当時の誓子と三鬼の名句である。これらの俳句は、物と動きが冷静に捉えられており、虚子の花鳥諷詠下の客観写生、つまり制縛的抒情とは一線を異にしている。句に投影されたドラマの一齣は、あたかも現実から切り取られた物証の提示のようだ。敏雄の「戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ」の、まるで巨大な昆虫のような戦車の句は、誓子の第一句「かりかりと…」での擬音語の生々しい迫力に感化されたのではあるまいか。また「…掻きすすむ」の動詞の連続は、誓子の第二句「夏草に…」の動きを畳み掛けるようにして、ドラマの終結に持っていく切れの鋭さと通底する。無粋だが「がりがりと戦車が蜂に来て止まる」と想望し、切り貼りすると3句が混在した景の作品となり面白い。それだけ句柄が異質ではなかった。もう一例、敏雄の「あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ」は、三鬼の第二句「兵隊が…」と同様、無季の戦争俳句だが、ドラマの進行に終止符を打たない不安感のよそよそしさが、何ともやりきれない戦時下の実感がある。澤好摩言うところの「〈戦争〉が異化した現実として存在する」そのものだ。
 最後に敏雄のもう一人の師・渡辺白泉は、どんな句を作っていたであろうか。

 三宅坂黄套わが背より降車 白泉 (昭和11) 34歳
 遠き遠き近き近き遠き遠き車輪 (昭和13)
 銃後と言ふ不思議な町を丘で見た (昭和13)
 憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14)
 戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14)
 玉音を理解せし者前に出よ (昭和20)
 新しき猿股ほしや百日紅 (昭和20)

 一句目の「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套のことだそうだ。軍服が「背より」現れ、身近に戦争という異なものを感じる。重厚に不安なリズムを刻む車輪の動き。通常の町を不思議と惚ける諧謔。悪ふざけな口調で深刻と滑稽を同居させる。社会事象を冷徹に擬人化し、遠近法と過去形の空間に立たせる。終戦を兵隊口調で皮肉り、卑近な日常を切実に訴える。それらの事の可笑しい痛痒さを、白泉は誰よりも心得ていて俳人その人だった。

 敏雄の戦火想望俳句は、白泉のような俳味は希薄だ。実直さは誓子に、ニヒリズムは三鬼に似たのだろう。俳句はとりあえず景を捉え、あまねく表現をものにしたい文芸なのだろうが、いかんせん生真面目に深刻になり過ぎて、川柳の専有理念ではない風刺や滑稽・諧謔という俳句本来の要因を忘れがちである。そこのところを直截でなくも警鐘を鳴らし、自覚させてくれたのが、若かりし頃、革新の道を選択した一途な三橋敏雄とその作品であった。

※文字遣は、漢字は常用漢字、俳句以外の仮名は現代仮名遣とした。

【参考文献】『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57)、『西東三鬼集』(朝日文庫・昭和59)、『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邉白泉集』(朝日文庫・昭和60)、「アサヒグラフ-増刊7・20俳句入門」(朝日新聞社・昭和63)、三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫・平成8)、「追想-師弟対談/西東三鬼・三橋敏雄―俳句よもやま」(三橋敏雄を偲ぶ会・沖積舎・平成14)他。

※当稿は、豈・記念冊子「黄金海岸」篇(35号)(2002.10.1発行)の物故作家・三橋敏雄小論(38~40頁)として掲載されたものである。
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前衛俳句と一口に言っても、ずいぶん幅があり、また、その後の俳人の伝統回帰などもあるので、一概には言えない。三橋はリズムに関しては575の音数律をほぼ守った人である。
上に引用した宮崎の評論は、アンソロジーでは判らない、特に戦争中の彼の在り方を知らせてくれる。



指先をいつもより濃きくれなゐに染めてひとりの午後を楽しむ・・・・・・・・・・・・鈴木むつみ
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     指先をいつもより濃きくれなゐに
            染めてひとりの午後を楽しむ・・・・・・・・・・・・鈴木むつみ


この歌は角川書店・月刊誌「短歌」2013年2月号に載る「指」という題詠に採用されたものの一つである。

一人暮らしの女の人の心情を、よく表現している。
今しも春めいてきて、心も浮き立つ季節の到来と言える。
掲出歌とは違う趣の歌群だが、いくつか引いて終わりたい。

   節高き指は女の勲章と自ら思ひ主婦の座守る・・・・・・・・西村麗子

   幼子の指絵のために取り置かむ冬の朝の硝子の曇り・・・・・・・梶田有紀子

   さ、よ、う、な、ら、指の先から逃がしつつひとは手を振るまた会うために・・・・・・木原ねこ

   指先を想像させる優美さよ腕を失くしたミロのビーナス・・・・・・波多野浩子

   常務派と専務派とあり遊戯にはあらぬこの指とまれの誘ひ・・・・・・山崎公俊

   指貫をゆつくり外し夕食のメニュー考へてゐるらし妻は・・・・・・・・加藤英治

   うろこ雲遠く遠くへ押しやりて秋風のなか指笛を吹く・・・・・・・・・・木立徹

   絵本読む幼の指のつと止まるつかえし文字は一つとばせよ・・・・・・・・中村佐世子




   
賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   賞味期限切れた顔ねと言ひながら
     鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
亡妻は、この歌の頃、体調を崩して体重も激減してやつれが目立つようになっていた。
「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!



水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信
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   水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信

住宅顕信(すみたくけんしん)という自由律俳人の句である。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。
写真①がその句碑。
この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。

写真②は『ずぶぬれて犬ころ』俳句=住宅顕信、版画=松林誠(2002年中央公論新社刊)。

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以下にネット上に載る記事を引いておく。

住宅顕信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)は、日本の俳人。
本名・春美(はるみ)。

経歴
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。

昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名告る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」に因み無量寿庵と名付ける。

昭和59年(1984年)2月急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月長男誕生。不治の病の夫に対し妻の実家が希望し離婚する。長男は顕信が引き取り病室にて育てる。10月自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事する。この頃より自由律俳句に傾倒し句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。

昭和60年(1985年)には句集『試作帳』を自費出版。層雲に権威主義的な疑念を感じ、層雲の元編集者藤本一幸がこの年より主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌昭和61年(1986年)「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。

昭和62年2月7日23時23分、永眠。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

昭和63年(1988年)句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により弥生書房より句集『未完成』出版。
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別に「顕信─魂の俳人─」というサイトもあり、彼の写真なども見られるので覗いてみられるとよい。

写真③は、彼の死後、句友であった岡山大学教授・池畑秀一の監修で発行された『住宅顕信』全俳句集全実像(2003年小学館刊)である。

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冒頭に書いた「句碑」の序幕の際に挨拶した遺児・住宅春樹が、この本に次のように書いている。

 おわりに──父のように熱く生きたい・・・・・・・・・・・・住宅春樹

父、住宅春美が亡くなったのは私が三歳になる前でした。
「お父さんのことは覚えていますか?」と、新聞記者の方などから尋ねられますが、父と過ごしたころのことは、ほとんど憶えていません。
父との思い出は、1993年に父の句碑が建てられてからできてきたように思います。小学二年生のときでしたが、除幕式では祖父母ではなく私が挨拶をしました。
2002年には、中央公論新社から句集も二冊刊行され、さらに精神科医の香山リカ先生も本を書いてくださいました。そのほか、岡山市内にある吉備路文学館で「住宅顕信展」が七月から三か月間開催され、七月七日には「住宅顕信フォーラム」も行われました。
フォーラムには池畑秀一先生、香山先生、父のファンだとおっしゃってくださるプロレスラーの新崎人生さんらが参加してくださいました。テレビでしか見たことのない有名な方々が、父の生き方、作品について熱心に語ってくださる。改めて父の凄さを実感しました。
父は私にいくつかの句を遺してくれました。
その中で特に、《バイバイは幼いボクの掌の裏表》が好きです。私は病室から帰るとき、いつも父に「バイバイ」と手を振りました。それだけははっきり憶えていて、この句を読むと、とても懐かしい気持ちになります。
《夜が淋しくて誰かが笑いはじめた》。本書のサブタイトルに入れられたこの句も好きです。
父がどんな思いで私を病室で育て、句を詠み、治療を受けたのだろうか。父はなぜ得度して、俳句の道を選んだのだろうか。言葉ではうまく表現できませんが、父が発病した年齢に自分が近づいてきて、最近、父の気持ちがなんとなくわかってきました。
自分がこれだと信じたことに一生懸命打ち込んだ父。私はこの春から情報系の大学に進む予定ですが、父のように熱く生きたいと思っています。いつか父にあったとき、「ぼくはこんな生き方をしたんだよ」と胸を張れるように。
最後になりましたが、父を支え、応援してくださった池畑先生をはじめ、多くの皆様に御礼申し上げます。
 2003年1月15日
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このように書いた息子の住宅春樹だが、今は「川崎医療福祉大学」を出て、「ニチイ学館」に所属するようである。
Facebookを利用しているようで、そこには、経歴について、こう書かれている。 ↓
<現在、岡山で診療情報管理士の仕事をしております。>
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以下、これらの本から私の目に留まった句を引く。

 降りはじめた雨が夜の心音

 雨に仕事をとられて街が朝寝している

 朝はブラインドの影にしばられていた

 月明り、青い咳する

 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ

 またオリオンにのぞかれている冬夜

 点滴と白い月とがぶらさがっている夜

 水たまりの我顔またいで歩く

 カガミの中のむくんだ顔をなでてみる

 何もないポケットに手がある

 だんだん寒くなる夜の黒い電話機

 看護婦らの声光りあう朝の回診

 頭剃ってもらうあたたかな陽がある

 水音、冬が来ている

 冬の定石窓にオリオンが置かれた

 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる

 両手に星をつかみたい子のバンザイ

 バイバイは幼いボクの掌の裏表

 かあちゃんが言えて母のない子よ

 抱きあげてやれない子の高さに坐る

 夢にさえ付添いの妹のエプロン

 初夏を大きくバツタがとんだ

 合掌するその手が蚊をうつ

 薬を生涯の友として今朝の薬

 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

 気の抜けたサイダーが僕の人生

 ずふぬれて犬ころ

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 報恩の風の中に念仏

 夕陽の影が背を丸めたランドセル

 真夏の山がけずりとられた

 一つの墓を光らせ墓山夕やけ

 朝露をふんで秋風の墓がならぶ


人生はすなわち遍路 しみじみと杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
時計回りの遊行

  人生はすなわち遍路 しみじみと
    杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘


玉井さんは著名な歌人で昭和15年生まれ。国学院大学文学部卒。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の書評を角川「短歌」誌上でいただいたのが、お付き合いのはじまりである。
その「書評」は上記のリンク先で読める。

掲出歌は、2009年上梓された『時計回りの遊行』─歌人のゆく四国遍路(本阿弥書店刊)に載るものである。
この本は、平成17年1月から18年12月にかけて「四国新聞」に週一回連載されたものである。
先生は正式の「歩き遍路」を始められ、二度目の遍路も終えられたようである。

tabibito巡礼者

この本の「帯」にも書かれているが、そもそも四国遍路というものは「何のために歩くのか?」という疑問を投げかけられる人も多いだろう。
この本が、それに応えるものであるとは言えないが、全88項目に及ぶエッセイの中には、さまざまな動機を抱いて四国遍路にやってきた人々の哀歓が描かれる。

この中の(38)に「なにのために歩くのか」という項目がある。少し引いておく。

< 室戸岬を回りこんだ時、苦しい道中に去来したのが芭蕉の『奥の細道』。
芭蕉は何のために、何を考えながら歩いたのだろうか。芭蕉の時代の東北の地は、宿などが整備されていたわけではなく、宿を探す苦労も書き止めている。多くはその土地の俳諧の仲間を頼っての旅だったようだが、・・・・・門人曾良を連れての旅、文学の深化のためとはいえ、病弱の身には命懸けのものだった。ずぶ濡れで歩きながら芭蕉が私の頭を去来していた。
途中から引き返そうという思いはもう湧かなかったが、しかし幾度も「なにのために歩くのか」という問いは自分の脳裏から離れなかった。一週間か、十日ほどの区切り。切り上げて戻って来ると翌日には次回の計画を練り始めていた。土佐の道場は寺と寺との間隔が開いていて、自己との対話の時間がたっぷりと確保できる。

  なにのために歩くのかと問いて答えなし 笑うのみにてまた歩き出す

各自さまざまな悩みを抱えて四国を巡拝している遍路が多いだろうが、出会うどの顔もどこかきりっとしていた。どの顔もどの顔も悩みから解放されたすがすがしい日焼けした顔で挨拶を交わしてくれた。

  一歩ずつ何に近づく 無にちかくなりゆく心に草木の触れて >

玉井さんは、このように書いているが、しいて結論めいたことは言っていない。
それが本当のところであろう。
「自分を見つめ直す」というのが、四国遍路の一つの到達点ではないかと私は思う。
私も略式だが遍路の真似ごとをしたが、私の場合は、長年、妻の病気と伴走してきて、特に妻の死期を看取ったものとして「鎮魂」ということが、主たる目的と言えるだろうか。
また玉井さんは、この本の中で

< 遍路の旅では、相手に遍路に出た動機を聞くのはマナー違反だとされている。
人生途上抱えきれない悩みに人は遭遇する。そのような時、思いつく一つが四国遍路なのではないだろうか。これを思いつき実行できる人は幸福かも知れない。時間と金と体力を必要とする。歩いてとなればなおさらである。 >

と書いている。

私の最近作「明星の」にも遍路の歌があるので、それらについては次回に書いてみたい。

天ライ

玉井さんには2010年12月に出た第七歌集『天籟』(短歌研究社刊)があるが、
ここにも多くの遍路を詠った歌がある。
「天籟」という難しい題名は、作者の「あとがき」によると

< 空海の『遍照発揮性霊集』を開いていた時出会った「地籟天籟如筑如箏」の一句による >

とある。この「籟」という字は辞書を引くと、竹かんむりに「賴」と書くが、意味は「笛」ということである。
(注・この「賴」という字は「たのむ」という常用する字だったが、当用漢字策定の際に「頼」にされてしまったので、変換で消えてしまうことが多い、のでご了承を)
ここにも書かれているが、「遊行」の本と時期的に重なるものであり、遍路の歌も多い。
いくつか引いて終りにしたい。

  菅笠のしたかげくらしからだより抜けたるこころ草木に遊ぶ

  おかげさまの祖霊地霊に声かわし露しとどなる蓬野をゆく

  家にあれば笥に盛る酒をカップにて飲めば眠たし紫雲英野に寝る

  ふんどしはくらしっくぱんつと名をかえて遍路の使う我も使いぬ

  さすらいて岬の果てまでたどり着き最御崎寺の古き道ゆく

  食うと寝る排泄をする明快な遍路の旅の七日を経たり

  ポケットに賽銭三つ坂ゆくにちりちりちりと魂の泣く

  四万十のさだちを浴びぬしろがねの五寸釘降るまことますぐに

三首目の歌の「家にあれば笥に盛る・・・」の部分は「万葉集」に、このフレーズの歌があり、玉井さんの歌は、その「本歌取り」ということであり、元歌を知っている者にとっては思わずニヤリとするところであり、こういうさりげないところに玉井さんの教養が滲みでていると言える。

歌人の「詠い方」にも、いろいろあって私などは妻とか家族とかのことを割合たくさん詠む方であるが、玉井さんの歌を見ていても、奥さんとか家族のことは全くと言っていいほど詠まれない。
『時計回りの遊行』には二箇所ほど奥さんのことが出てくる。短歌作品とエッセイの違いからであろうか。
気がついたことを少し書き添えてみた。

なお玉井さんの最新作として歌集『屋嶋』があるが、これについては私のブログ2013/10/13付で書いたので参照されたい。 ↓
玉井
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「般若心経」を横書きにしたものを、下記に貼り付けておく。読み方については、「ふりがな」をつけてあるサイトもあるので、関心のある方は探してみられるとよい。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

ここで、♪「般若心経を聴く」♪というサイトを紹介しておく。このお経を「音声」で聴くことが出来る。
ネット上を探すと、この他にも、いくつかあるが、このサイトの読経の声が一番美しい。


過呼吸の不安きはまるわが胸郭にアマデウスの鳴りやまざり、未明・・・・・・・・・・吉田隼人
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 ↑ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

       過呼吸の不安きはまるわが胸郭(むね)に
            アマデウスの鳴りやまざり、未明・・・・・・・・・・・・・・・吉田隼人


この人は昨年度の第59回角川短歌賞に輝いた二人のうちのお一人である。
掲出の歌は短歌誌「率」3号に載るものである。

この人の経歴を書いておこう。
1989年、福島県伊達市生まれ。(つまり平成生まれ、ということ)
早稲田大学文化構想学部(表象・メデイア論系)卒業。現在は大学院文学研究科(フランス語フランス文学コース)修士課程に在学中。
「早稲田短歌」「率」に短歌や評論を発表。

この近年、高学歴の学者の卵のような才能豊かな人が受賞者になっているが、この人の作品「忘却のための試論」も知的な遊戯のような作品群である。

掲出歌に戻ろう。
「アマデウス」とは、基本的に、アマデウス(「神に愛される」の意味)だが、ここは単純に作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのミドルネームのことだろう。

ついでに書いておくと、『アマデウス』(Amadeus)は、イギリスの劇作家ピーター・シェーファーによって著された戯曲。
宮廷楽師として社会的な地位がある音楽家サリエリが、台頭してきた理解されぬ若き音楽家モーツァルトの天才を理解「できてしまった」ことによる確執と苦悩を描く。
初演は1979年のロンドンのオリヴィエ劇場(ナショナル・シアター)。演出はピーター・ホール。
翌年にはアメリカ合衆国に渡り、ニューヨーク・ブロードウェイのブロードハースト劇場で上演された。1981年には戯曲部門でトニー賞を受賞した。
映画化もされた。

作者の歌作りの底には、このような知識が底通していると知るべきだろう。
そのようなことを思い出すと、この歌の理解が一層深まるというものである。
こういう知的遊戯のような歌作りが、私は好きである。
何だか日常の些末を歌にする、なげやりな、訳の判らないような若者の歌もあるが、こういう知的遊戯の出来る才能のある新人の出現が待たれていたのである。
この人は、まだ学生であり、これからどういう方向に伸びてゆくのかは未知数だが、着実に成長してほしい。
こんな歌もある。

  あさきゆめ そのなかで聞く詩に生ふる撞着語法(オクシモオル)といふ薔薇のとげ

撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。
「賢明な愚者」「黒い光」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。
形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。
集合論・論理学的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。
狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。

撞着語法の例
一目瞭然の撞着語法
急がば回れ
負けるが勝ち
黒い白熊
良い悪人
優しい悪魔
小さな巨人
無知の知
見えざるピンクのユニコーン

こういうことを学べるのは文学科ならではのことで、他の学部では、おそらく教えないだろう。
これらは大きくいうと「修辞法」ということになるが、ここで学んだことは後々、彼の人生に生きてくると思うので、深く学んでほしい。

角川短歌賞受賞作から少し引いておく。
この一連は、物語性のある作品で、恋人、相手は女性、その人の自死を扱ったものだろう。それで題名も「忘却のための試論」となっている。

  曼珠沙華咲く日のことを曼珠沙華咲かぬ真夏に言ひて 死にき

  わが脳に傘を忘るるためだけの回路ありなむ蝸牛のごとき

  あるひは夢とみまがふばかり闇に浮く大水青蛾も誰かの記憶

  恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月

  いくたびか摑みし乳房うづもるるほど投げいれよしらぎくのはな

  供花といふ言葉を供花として去ねば寺院のうへにくらむ蒼空

  すいみんと死とのあはひに羽化の蝉。翅のみどりに透いてあるはも

  あをじろくあなたは透けて尖塔の先に季節もまたひとつ死ぬ

  忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり

  思ひだすがいい、いつの日か それまでの忘却のわれに秋風立ちぬ
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私的なことだが、今日二月七日は私の八十四歳の誕生日である。
歳をとるというのは、努力してなる、というものではなく、歳月が腰のうしろをぐいぐいと押して、強制的に齢を重ねるもので、有難いものでも、何でもない。
思えば、すごい歳になったものである。 年齢の数字を聞くと、そら恐ろしくなる。
今年の冬は寒くて、ずっと風邪気味で、深刻な症状ではないが、調子が悪い。
朝のウォーキングも休みがちだし、恐る恐る生きているようなものである。
風邪気味、というのが良くない、と思って慎重になっている。
ともかく春になって暖かくなるまで辛抱である。







瀬田川の霧も立木の観世音峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌
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   瀬田川の霧も立木の観世音
     峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌


立木観音は京都府と滋賀県の府県境─厳密に言うと大津市域にある。
瀬田川洗堰(南郷洗堰)から瀬田川沿いに南に2キロほど下がると、右手に立木観音(正式名は安養寺=浄土宗)の登り口が見えてくる。

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鹿跳(ししとび)渓谷に向かって聳える立木山、その斜面の急な石段を約700段ほど登りつめると、小さいながら落ち着いた雰囲気の立木観音の境内が広がる。
700段の階段というと、四国の金毘羅さんの石段の数より多いと、同行のS君は言う。私は金毘羅さんは知らないが、彼は行ったことがあるので間違いなかろう。
ここで立木観音の由来について。
石段途中に説明文が立っており、そこに詳しく書いてある。
弘仁6年(815年)、諸国を修行中の弘法大師が、瀬田川のほとりに立ち寄ったところ、対岸の立木山に光を放つ「霊木」があるのが目にとまった。
しかし急な流れの瀬田川を渡りあぐねていると、突然白鹿が現われ、その背に弘法大師を乗せて、霊木の前まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、虚空の中に消え去った。

s_saigoku20_05鹿に空海本命
 ↑境内にある「白鹿に乗る弘法大師」の像。

この奇蹟に感じ入った弘法大師が、霊木に観世音菩薩像を刻んだのが、立木観音の始まりという。
弘法大師が観音さまを刻んだのが、ちょうど42歳の厄年ということで、古くから厄除け観音として親しまれているという。
これらの伝承は、現在も「地名」などに残っており、少し下流に架かる橋は「鹿跳橋」(ししとびばし)と呼ばれる。この橋の辺りから下流は「宇治川」と名前が変わる。
新年に厄除けの初詣に参詣する人が多く、松の内は登りも下りも混雑する。
先年は同じくS君の案内で1月3日に詣でたが、人が多くてトコロテンのように後から押されるので、息が切れても、足が痛くても、ろくに休息できないので、
今年は1月中旬の平日の一日を選んで参詣した。人が少なくて、途中で休むのも自由で、体が楽だった。
私は石段の下りに弱く、先年は膝がガクガクして、俗にいう「膝が笑う」症状で数日泣いたのである。

前年にいただいた「お札」を返納し、ご祈祷をしてもらい、新しいお札をいただいて帰る。
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 ↑ 本堂の裏側

ここから急な狭い石段を二百メートルほど行くと「奥の院」がある。

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↑ 奥の院

掲出した和歌だが、ここは新西国三十三ケ所霊場の第20番にあたり、このお寺を詠んだものである。
「霧も立木の」という言葉は「懸けことば」になっており、「霧も立ち」の意味を懸けてあるのである。
西国ご詠歌にも同様の趣向の歌が多い。
ついでに言うと、「西国三十三ケ所霊場」の寺は天台宗、真言宗が殆どである。
それらに含まれない他宗派の寺を集めて「新西国三十三ケ所霊場」が発願されたものと思われる。


絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄
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    絵葉書のような恋とは思えども
        しまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄


この人は昭和37年生まれというから50歳を少し過ぎたところであろうか。
私の娘たちと同年輩である。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集長ということだが、略歴を見るとフリーターだったらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
この二人には「鮫と猫の部屋」という共同のホームページがある。参照されたい。
なお夫君の松村正直は2013年に「塔」の創立者『高安国世の手紙』(六花書林)という本を出され、あちこちに批評文がでるなど好評を得ている。
これは2009年から2011年にかけて「塔」に連載されたものである。
Wikipedia─「松村正直」に詳しい。

「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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余計なお喋りは慎みたいが、そろそろ中年にさしかかってきた作者が、年下の夫君に、まだまだ「恋」を求めているように私は受け取ったが、いかがだろうか。
因みに作者は、夫君らと一緒に「Darts」という評論主体の同人誌を出しておられたが、最近は更新がないようである。
なお、2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌群は、ここに載るものである。





生殖を目指さぬ愛とたれか言ふいいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
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 ↑ 2010/07/25 思潮社刊─「注解詩」という新たな領域を切り拓いたとされる

     生殖を目指さぬ愛とたれか言ふ
        いいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌は岡井隆の第16歌集『神の仕事場』に載るものである。
まずネット上に載る記事を転載しておく。
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岡井隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - )は、日本の歌人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。

略歴 愛知県名古屋市出身。父は日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の技術者で、後に専務取締役も務めた。旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。

若くから作歌を始め、1946年「アララギ」に参加、土屋文明の選歌を受ける。1951年、近藤芳美を中心として「未来」創刊。浪漫的な生活歌から出発したが、1955年、塚本邦雄との交流が始まり、寺山修司とも知り、青年歌人会議、東京歌人会などの活動に参加、前衛短歌運動を推し進めた。大学卒業後は北里研究所付属病院の医師として勤務していたが辞職して九州に隠遁、5年後に復帰。1989年より1998年まで深作光貞の誘いにより京都精華大学人文学部教授。1983年、『禁忌と好色』で迢空賞、1990年、『親和力』で斎藤茂吉短歌文学賞、1995年、『岡井隆コレクション』で現代短歌大賞、1999年、『ウランと白鳥』で詩歌文学館賞受賞。

1993年から歌会始選者、1996年紫綬褒章、2004年旭日小綬章受章、2005年、第56回読売文学賞詩歌俳句賞を『馴鹿時代今か来向かふ』で受賞、2007年、『岡井隆全歌集』で藤村記念歴程賞受賞。2009年、『ネフスキイ』で小野市詩歌文学賞受賞。2007年から宮内庁御用掛。2009年芸術院会員に選出。2010年、『注解する者』で第40回高見順賞受賞。2011年、『X-述懐スル私』で第18回短歌新聞社賞受賞。

評論では、斎藤茂吉論が多い。

門下に小嵐九八郎、池田はるみ、山田富士郎、加藤治郎、大辻隆弘、田中槐、紀野恵、大滝和子、東直子、高島裕、嵯峨直樹、笹公人、岡崎裕美子、中沢直人らがいる。

著作
単著
斉唱 白玉書房 1956
土地よ、痛みを負え 白玉書房 1961
海への手紙 歌論集 白玉書房 1962
朝狩 白玉書房 1964
眼底紀行 思潮社 1967
現代短歌入門 危機歌学の試み 大和書房 1969 のち講談社学術文庫
戦後アララギ 短歌新聞社 1970
岡井隆歌集 思潮社 1972
茂吉の歌 夢あるいはつゆじも抄 創樹社 1973
辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート 人文書院 1973
鵞卵亭 六法出版社 1975
慰藉論 吉本隆明から斎藤茂吉 思潮社 1975
韻律とモチーフ 大和書房 1977
岡井隆歌集 国文社(現代歌人文庫 2) 1977 
歳月の贈物 国文社 1978
天河庭園集 国文社 1978
遥かなる斎藤茂吉 私流「茂吉の読み方」思潮社 1979
時の峡間に 現代短歌の現在 岡井隆評論集 雁書館 1979
ロマネスクの詩人たち 萩原朔太郎から村上一郎まで 国文社 1980
前衛短歌の問題 現代職人歌から古代歌謡まで 短歌研究社 1980
メトロポオルの燈が見える 砂子屋書房 1981
近藤芳美と戦後世界 蒼土舎 1981
人生の視える場所 思潮社 1982
歌のかけ橋 六法出版社 1983
花を視る人 砂子屋書房 1983
古代詩遠望 続・前衛短歌の問題 短歌研究社 1983
斎藤茂吉 人と作品 砂子屋書房 1984
岡井隆の短歌塾 入門編 六法出版社 1984
茂吉の万葉 現代詩歌への架橋 短歌研究社 1985
αの星 短歌新聞社 1985
岡井隆の短歌塾 鑑賞編 六法出版社 1986
岡井隆全歌集 1-2 思潮社 1987
犀の独言 砂子屋書房 1987
今はじめる人のための短歌入門 角川選書 1988
人麿からの手紙 茂吉の読み方 短歌研究社 1988
けさのことば 2 砂子屋書房 1988
鵞卵亭談論 六法出版社 1989
岡井隆の短歌塾 鑑賞編・古代歌謡 六法出版社 1989-90
親和力 砂子屋書房 1989
文語詩人宮沢賢治 筑摩書房 1990
宮殿 沖積舎 1991
太郎の庭 砂子屋書房 1991
愛の茂吉 リビドウの連鎖 評論集 短歌研究社 1993
斎藤茂吉と中野重治 砂子屋書房 1993
岡井隆コレクション 1-8 思潮社 1994-96
禁忌と好色 短歌新聞社 1994
茂吉の短歌を読む 岩波セミナーブックス 1995
短歌の世界 岩波新書 1995
茂吉と現代 リアリズムの超克 短歌研究社 1996
前衛歌人と呼ばれるまで 一歌人の回想 ながらみ書房 1996
夢と同じもの 短歌研究社 1996
歌を創るこころ 日本放送出版協会(NHK短歌入門) 1996 
けさのことば 3 砂子屋書房 1996
月の光 詩集 砂子屋書房 1997
大洪水の前の晴天 砂子屋書房 1998
ウランと白鳥 短歌研究社 1998
前衛短歌運動の渦中で 一歌人の回想 ながらみ書房 1998
ヴォツェック/海と陸 声と記憶のためのエスキス ながらみ書房 1999
詩歌の近代 岩波書店 1999 (日本の50年日本の200年)
ことばの朝風 中日新聞社 2000
挫折と再生の季節 一歌人の回想 ながらみ書房 2000
臓器 砂子屋書房 2000
E/T 書肆山田 2001
短歌-この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論 短歌研究社 2002
吉本隆明をよむ日 思潮社 2002
〈テロリズム〉以後の感想/草の雨 砂子屋書房 2002
旅のあとさき、詩歌のあれこれ 朝日新聞社 2003
伊太利亜 書肆山田 2004
馴鹿時代今か来向かふ 砂子屋書房 2004
『赤光』の生誕 書肆山田 2005
岡井隆全歌集 全4巻 思潮社 2005-06
ぼくの交遊録 ながらみ書房 2005
わかりやすい現代短歌読解法 ながらみ書房 2006
二〇〇六年水無月のころ 角川書店 2006
岡井隆の現代詩入門 短歌の読み方、詩の読み方 思潮社 2007
家常茶飯 砂子屋書房 2007
初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後 歌集 短歌新聞社 2007
鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え 書肆山田 2008
ネフスキイ 書肆山田 2008
瞬間を永遠とするこころざし 日本経済新聞出版社 2009 日本経済新聞「私の履歴書」をまとめたもの
私の戦後短歌史 小高賢聞き手 角川書店 2009
注解する者 詩集 思潮社 2009
X-述懐スル私 歌集 短歌新聞社 2010
静かな生活-短歌日記2010 歌集 ふらんす堂 2011
共著・編著
短詩型文学論 金子兜太 紀伊国屋新書 1963
『天使の羅衣(ネグリジェ)』思潮社・組詩(佐々木幹郎と共著) 1988
あなたと短歌を 角川書店 1995
集成・昭和の短歌 小学館 1995
現代百人一首 朝日新聞社 1996 のち文庫
俳句・深層のコスモロジー 雄山閣出版 1997 (Series俳句世界 5)
斎藤茂吉-その迷宮に遊ぶ 小池光,永田和宏 砂子屋書房 1998
『短歌と日本人 第7巻 短歌の創造性と象徴性』岩波書店、1999
『けさのことば』中日新聞・東京新聞に長年にわたって連載中。
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転載の記事が多くて申し訳ないが、2005年に『馴鹿時代今か来向かふ』で「読売文学賞」を受賞したときの記事を引いておく。↓
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 戦後の短歌史と重なるといってもいい歌歴は、華々しくも起伏に富む。

 「アララギ」の歌人である両親のもとで10代から作歌し、1951年の「未来」創刊に参加。やがて始まった塚本邦雄氏とこの人との交流が前衛短歌運動を推し進め、吉本隆明氏との「定型論争」など、活発な評論活動を繰り広げた。

 だが、70年に突然、家庭も医師としての職場も捨てて九州に出奔し、5年間短歌から遠ざかった。92年には宮中歌会始選者への就任が論議も呼んだ。

 長い歌歴の中で、作風も変化を重ねた。受賞作にはそれが反映して、幅の広い多彩な作品が並ぶ。選考委員は「成熟した歌集。熟練と危うさが拮抗(きっこう)している」「自らのキャリアや立場に対する意識が薄まり、自由さを得た」と評した。

 「去年あたりから背負っているものが軽くなった気はしています。若い人に仕事がまかせられるようになったし、私生活では子供たちが自立してきた」

 <ゆつたりと廂に到(いた)る大いなる反(そ)りこそ見ゆれ雨絶えまなく>
といった韻律の美しい格調高い作の一方に、実験的な時事詠や口語体の作品がある。朗読のための連作、ことば書きや注の多用も特徴的だ。

 若い歌人とも積極的にかかわってきた。ライトバースの文体をいち早く評価したり、10年ほど前から、東京を始め関西や名古屋で若手中心の研究歌会を指導したり。だが、与えるばかりではない。若者の言葉遣いや発想の新しさを吸収して、より高度な形で自作に取り入れてしまう。
<窓際まで行かない、枯れ木の撓むのを見ない今日こそ〈始まる〉のかも>
実にやさしい笑顔を見せるのに、「岡井さんはこわい」とささやかれてしまうゆえんだ。

 数年前、30歳以上年の離れた妻と結婚した。
<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>。
2人の関係を詠んだ歌は多い。「短歌は作者の背景を下敷きにして読まれるということも大切ですから」。あとがきに自らの履歴を織り込んでみたのも一つの試みである。

 一風変わった標題は
<かつてまだ定義されたることのない馴鹿時代今か来向(きむ)かふ>の一首による。

 「馴鹿はシカでもカモシカでもなく、家畜かと思えば野性味もあるとらえどころのない動物。現代という“世代”が失われ、家族が揺らぎ、個人と個人が裸で対しているような、定義しがたい奇妙な時代に、その名を付けてみたんです」

 時代を、社会を、自分自身を、鋭敏に感じ取り、先端を走り続けてきた歌人は、自在さを増してさらに旺盛に詠み続けるのだろう。(小屋敷 晶子記者)

『馴鹿時代今か来向かふ』
岡井隆
出版社:砂子屋書房
発行:2004年10月
ISBN:4790408167
価格:¥5250 (本体¥5000+税)
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『神の仕事場』は平成6年に刊行されたもので岡井の六十代後半のものである。今年で85歳になる。
先に引用した記事にもある通り、作風も変幻自在、また生き方の変遷にも何度もの離婚、再婚など彼の身めぐりには「女」の影がつきまとう。
「変身」のたびに配偶者を替えてきたと言える。
また「神の仕事場」という歌集の題名からして、言わば「人を食った」ようなところがあり、出版の際にも、さまざまの話題を呼んだものである。
同じ歌集から少し歌を引く。

 ミサイルが蛍のやうにとび交ふを愛咬の図とくらべて果敢無(はかな)

 ひさかたの倦怠(けたい)の雲のたなびきにエスプレッソの苦きなごりの

 長鼻の「ひかり」が着きてゆつたりと五月雨の下に眼(まなこ)を閉ぢぬ

 自転車をナジャと名づけてあしたまで駅の早霜にうたせて置かむ

 つきづきし家居(いへゐ)といへばひつそりと干すブリーフも神の仕事場

 くだりゆくエスカレーター羅(うすもの)の多くなりたる売場に映えて

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし

 耐へがたいほどの快楽(けらく)が四肢に来て或る契約に署名せりけり

 卓上にめがねを置きぬなに故に置きしや盲(めし)ひつつ抱かむがため

 食道をくだるチーズを一盃(ひとつき)の酒に追はせてゐたりけるかも

 砂庭にはなびら散らふ寂けさや午後の講義の想(さう)ひとつ浮く

この頃、彼は東京から京都の精華大学への出講のために往復していて、京都にしばらく滞在するなどの生活をしていた。また前夫人との離婚の話が進行中で、ここに引いた歌の中の「或る契約」うんぬんというのは、それに由来する。前夫人との間には子供があり、その成人までの養育費などの仕送りが必要で執筆などにも追われていたという。
しかし、ともあれ言葉の取捨選択は的確で、「比喩」にも秀でて第一人者の面影躍如たるものがある。
島田修三は<生殖を目指さぬ愛><耐へがたい>などの歌を引いて「おのれのリビドーへの深い傾斜」を指摘する。「韻律への楽しげな試みがうかがえるが、断固<意味>を去らぬ理由の一つが、おそらくこの辺にある」として、ことば遊びにとどまらない若々しい生命力に裏打ちされることに着目する。

長い紹介文と島田の解説などでもわかるが、ここで私なりの「解題」を書いてみる。

次々と女を替え、最近では30歳以上も年下の若い妻を娶るなど、彼は相手の女から若さと生命力を得てきたと言える。世間では、こんなに年の離れた妻だから、「生殖を目指さない愛欲だろう」などと噂するが、どうしてどうして俺は配偶者が望むなら子を生(な)してもいいんだよ、という言挙げの歌なのである。
彼の歌は先にも書いたように「比喩」のオブラートでくるんであるから、つい騙されるが、年月が経って当該の歌を読み返してみると、彼の実生活がこまめに詠まれているのである。
私がここに引いた十数首の歌は私が「恣意的」に引いたものではない。
実は、これらの歌は、篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂2003年刊)に載るもので、生存中の作家については作家によって「自選」されたものだからである。
つまり、この引用の一連には岡井隆の自分の歌に対する深い思いがこめられていると言えるのである。

先のネットからの引用文にある

<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>

をみると今の若い妻は「えり子」というらしい。あるいはこれも「仮名」かも知れないが、いずれにしても若い妻「えり子」が可愛いくて仕方がない、という愛欲べたべたの歌である。彼女は「画家」だと言う。
私の引いた歌とは別の歌集の歌ではあるが、関連があるというか、一貫しているのであるから、この一連はそれを、さらりと表現してあるので嫌らしい感じはしないが、まあ、そういうことである。
「愛咬の図」とか「干すブリーフ」とかの生々しさもあるのに、目立たない。
そういう「生活臭」を比喩などの表現で巧みにくるんで「文芸」の域に高めてある技巧は素晴らしい。
「干すブリーフ」と「神の仕事場」との取り合わせなど、絶妙の限りで、意表をつく見事さである。
ワープロ入力しているときに「変換」で神 → 紙などと出てくるが、これを捉えて「紙の仕事場」のもじりだとすると、面白いと思うのだが、いかがだろうか。
玩味するほど味の出てくる作品群である。賞味されたい。



第三語根弱動詞なるアラビア語文法用語も遥けくなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修
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↑ 三井修 第七歌集『薔薇図譜』
三井修

   第三語根弱動詞なるアラビア語
      文法用語も遥けくなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井修


三井修氏には、2012年に出した第五歌集『昭和』の帯文を書いてもらった他、同年夏に東京で開いてもらった「読む会」開催のお世話をしていただいた。
また2010年に上梓した私の第二詩集『愛の寓意』(角川書店)の「栞」文を書いていただいた。← このリンクで読める。
三井修氏は昭和23年石川県能登生まれというから、まさに団塊世代のど真ん中の人だ。
三井氏の略歴はWeb上で見ると、下記の通りである。

略歴
1972年 東京外国語大学アラビア語学科卒業
 同年 三井物産株式会社入社
2000年 三井物産株式会社退社
2004年 財団法人中東経済研究所上級研究員
2005年 (財)日本エネルギー経済研究所 中東研究センター 研究主幹

主な論文・著書
「イラクの現状と経済復興の動向」『中東動向分析』Vol.3,No.8(中東経済研究所、2004)
『中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査(イラク)』(同上、2004)
『発展途上国国別援助調査(エジプト)』(国際協力推進協会、2001)

講演歴
「戦後イラク市場と日本企業の対応」(中東経済研究所・創立30周年記念シンポジウム、2004.10.13)

三井物産ではアラビア語の専門家として中東駐在の事務所長などを長く勤められた。

mitsui三井修
また、今をときめく短歌結社「塔」に所属する歌人でもあり、現在「選者」を勤められている。
歌集としては『砂の詩学』『洪水伝説』『アステカの王』『風紋の島』に続いて、2006年3月に第五歌集『軌跡』を上梓された。掲出歌は、その中に載るものである。
その後、平成20年『砂幸彦』平成22年『薔薇図譜』を刊行されている。
私との縁については、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の出版記念会で批評していただいた。その件の詳しい内容はWebのHPでご覧いただける。

ここで「アラビア語」に関する記事を引用しておく。
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4560000999.09アラビア語辞典
アラビア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

話される国 アルジェリア、バーレーン、エジプト、ガザ地区、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、モーリタニア、モロッコ、オマーン、カタール、サウジアラビア、スーダン、シリア、チュニジア、アラブ首長国連邦、ヨルダン川西岸地区、イエメン
地域 中東
話者数 2億2500万

言語系統 アフロ・アジア語族

セム語派
中央セム語
アラビア語

公的地位
公用語 アルジェリア、バーレーン、コモロ、チャド、ジブチ、エジプト、エリトリア、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、モーリタニア、モロッコ、オマーン、パレスチナ自治政府、カタール、サウジアラビア、シリア、チュニジア、アラブ首長国連邦、イエメン
国際機関: 国際連合、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構、アフリカ連合
統制機関 エジプト:Academy of the Arabic Language

アラビア語版のウィキペディアがあります。アラビア語( ;Al-lughat ul-Arabīya,アッ=ルガトゥ=ル=アラビーヤ)とは、おもに西アジア(中東)・北アフリカのアラブ諸国で用いられ、世界の言語の中でも大変広い地域で話されている言語の一つ。また、国連の公用語においては現在、後から追加された唯一の言語である。アフロ・アジア語族セム語派の一種である。ISO 639による言語コードは、2字がar, 3字がaraで表される。

もともとはアラビア半島で話されていたいくつかの言語(例えば南アラビア語)を意味するが、現代では次の二つをさす。

文語:フスハー (fus|ha) (正則アラビア語、古典北アラビア語ともいう)
口語:アーンミーヤ

フスハーはアラブ諸国の共通語で、アラビア文字で書かれる。起源は西暦4世紀ごろのアラビア半島にさかのぼるといわれ、イスラーム文明の出現と拡大にともなって北アフリカにまで使用地域が広がり、現在まで言語として大きく変わらずに使われている。

イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)はアラビア語で下されたが、クライシュ族のアラビア語に近かったため、当時のアラビア半島に見られた諸方言のうち、クライシュ族方言が標準語フスハーとしての地位を獲得するに至った。イスラームを伝えるために神が選んだのがアラビア語だったことから、ムスリム(イスラム教徒)はこれを聖なる「神の言葉」としてとらえている。

『マカーマート』のような古典に見られるフスハーは一時期衰退し、アーンミーヤが専ら用いられるようになったが、フスハーは近代になってより簡単なものとして練り直され、書籍・雑誌・新聞などの文章はもちろん、公的な場での会話やテレビニュースなどでも使われるようになった。

一方、アーンミーヤは国・地域によって大きく異なる方言で、これには正字法が無い。アラブ人どうしの日常会話はアーンミーヤで話されることが多いが、私信などではこれを文字化して表現する。

アラビア半島方言、イラク方言、シリア・レバノン方言、エジプト方言、スーダン方言、マグリブ方言などに大別され、それぞれの地域のなかでも違いがある。地域によっては、宗派ごとに話されるアラビア語に差異があるなどする。

アラビア語の特徴
多くの語の語根は三つの子音からなり、母音を変化させ、語彙を派生する。言語学的には、形態論の考えから屈折語に属する。

文字
文字一覧はアラビア文字の項を参照。それぞれの独立形が左右の文字と繋がっていく(ただし例外が6文字ある)ため、蛇のように見える。
文語(フスハー)はもっぱらアラビア文字で表される。アラビア文字のアルファベットは29文字(学説によっては28文字、27文字とすることもある)からなり、大文字・小文字やブロック体・筆記体の区別はない。
口語(アーンミーヤ)には正書法がない。外国人向けの教科書などではラテン文字で表記されることが多い。

発音
子音には喉の奥のほうでhやgなどを発音するような独特の発音があるが、母音は a, i, u の3つと長母音、2重母音 (/ai/,/au/) しか弁別しない。
つづり字法は一部を除き子音字のみを用いるため、意味に応じて母音をつけて発音しなければならない。クルアーンや子供向けの読み物には、短母音記号などの発音記号が付記されているが、大人向けの詩や小説であっても、自分の作品に母音記号を付記する作家もいる。

文法
詳細はアラビア語の文法を参照。

定冠詞、前置詞が存在し、名詞と形容詞(アラビア語では名詞に分類される)は格(主格・属格・対格)・性(男性・女性)・数(単数・双数・複数)によって変化する。
女性形、男性・女性複数形には基本となる規則形があるもののそれ以外にもとりうる形が無数に存在するため、個別に記憶しなければならないものが多い。例: (mudarris、先生)の複数形は規則形であり、語尾に -ūna を付けて、 (mudarrisūna) になるが、(sadīq、友人)の複数は不規則形であるため、 (sadīqūna) とはならず、 ('asdiqā'u) になる。
動詞は3人称男性単数完了形を原形とし、語根順配列の辞典では、その形で引くことになる。原形を基本形、第一形ともいう。これに加えて、第二形から第十五形までの派生形が存在するが、第十一形以降は色の変化などといった限られた場合にしか用いられない。多くの辞書は語根順に語が配列されているため、派生形の動詞を辞書で参照するには、動詞からその語根すなわち原形を抽出しなければならず、これが、初学者にとっての辞書引きを困難にしている。

アラビア語を起源とする語彙
トタン、如雨露(じょうろ)、コーヒー、ラケット、シロップ、アルコール、アルカリ、ソーダ、シャーベット、ソファ、モンスーン、アベレージ(平均値)、ジャケット、 ゼロ(零)、タリフ(関税率) アルゴリズムなど。
星の名前
アルタイル(「飛ぶ鷲」という熟語の「飛ぶ」という部分)
アルデバラン(従うもの、後に続くもの。プレアデス星団に続いて地平線より昇ることから)
アルゴル(人を食べるという魔物の一種)
アルビレオ(「雌鳥のくちばし」の意味の語が西洋人の誤訳と誤解を経て)
ヴェガ(「降り立つ鷲」という熟語の「降り立つ」という部分)
デネブ(「鶏の尾」という熟語の「尾」という部分)
フォーマルハウト(大魚の口)
ベテルギウス(巨人の腋の下)
リゲル(脚)
「アル」で始まる言葉が多いのは、al- がアラビア語の定冠詞だからである。

アラビア語を公用語とする国
アラブ首長国連邦 - アルジェリア民主人民共和国 - イエメン共和国 - イスラエル国 - イラク共和国 - エジプト・アラブ共和国 - エリトリア国 - オマーン国 - カタール国 - クウェート国 - サウジアラビア王国 - ジブチ共和国 - シリア・アラブ共和国 - スーダン共和国 - ソマリア - チャド共和国 - チュニジア共和国 - バーレーン王国 - パレスチナ自治区 - モーリタニア・イスラム共和国 - モロッコ王国 - ヨルダン・ハシミテ王国 - 社会主義人民リビア・アラブ国 - レバノン共和国

なお、マルタ共和国のマルタ語もアラビア語の方言であるが、地理的にヨーロッパのためラテン文字で綴られる。

他にもペルシア語、トルコ語、スペイン語、ヒンドゥスターニー語などの言語にはアラビア語からの借用語が多い。これらの言語は皆現在アラビア文字で書かれているか、過去の一時期にアラビア文字で書かれていた歴史を持つ。
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もとより私はアラビア語には全く無知の人間であるが、大阪外語の大先輩の田中四郎氏の著書『やわらかなアラブ学』『駱駝のちどりあし』(いずれも新潮社刊)などを読んだことがある。
曲りなりにも若い日々に「西欧語」を学んだことのある私としては、分からぬままに「右横書き」という、ミミズの這ったような「アラビア語」なるものに関心はあるのである。
その上、この人の歌には知識人としての教養を刺激される何物かが多分にある。

掲出した歌について触れると、アラビア語には「第三語根」とか「弱動詞」とか、めったに聞き慣れない文法があるようである。

以下、三井修氏の歌集から歌を引いて終わりたい。

にこやかにわれを手招く男あり金属探知ゲートの向こうに

通り過ぐる戸の内赤し羊脳の煮らるる炉の火の揺らぎなるべし

この砂の彼方男等が弾倉にルージュのごとき銃弾填める

ポスト・フセイン その一点に集中し錐揉むごとし我等の議論

異邦人われを怪しみ去りゆかぬアラブの男の子羊を従え

取り返しつかざることなど幾つでもしてきたぞなあ 軒の燕よ

断念を幾つ重ねて来し生か 桜吹雪に身を撲たせおり

銀粉をまなぶたに塗る少女等が午後の街ゆく 遠きチグリス

 しかし、中東とはいまだに縁がきれない
文献をあまた調べて作りゆく朽ち葉のごときフセインの家系図

すべて妄想、多分そう、さりながら昨日の戦況を分析しており

上代特殊仮名遣いなる「毛」と「母」の違いほどなり我等の齟齬は

滅びゆくもの野の風に響きあう 遺棄自転車、蝶の骸、死者の魂

謀らるることの愉悦よこの坂を寒夕焼けに灼かれつつゆく

家族をば歌わぬ奴と蔑まれ木枯し二号の街を帰り来

母音調和崩れゆくにも似たるかな かの日より君と我の心は

人生の起承転結 転の部を生きているらし白髪増しぬ

エルサレム石畳の路に出会いたるもみ上げ長きユダヤ教ラビ

ヒッタイト遺跡残滓の鉄成分調べて一代を男老いゆく

自らの軌跡を見つつ航くことの淋しもよ夏のボートの青年

歌はもっと自由でいいんだ秋空を雲がほどけて流れるように

エクリチュール、痕跡、差延、テクストを我に教えてデリダ逝きたり

飛行機の時間迫れどパスポート忘れて泣きたり 泣いて目覚めぬ

第三語根弱動詞なるアラビア語文法用語も遥けくなりぬ


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」というそうな・・・・・・・川崎洋
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index酒器

        乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
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「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ・・・・・・・・・・・・寺山修司
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    消しゴムの孤島に犀を飼わんとす
        言語漂流記をなつかしめ・・・・・・・・・・・・寺山修司


今日5月4日は「寺山修司」の忌日である。
2008年、彼の秘書として身辺にあった田中未知が彼の遺稿を整理して歌集『月蝕書簡』として岩波書店から刊行された。 
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1973年から10年かけて作られた短歌は,いろいろな紙片にメモされ,私の手元に残された.
 そのうちでも,短冊形に切られた紙に1首ずつ,4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは,一応完成作品と判断した.これが60首ほどを占める.
 『月蝕書簡』に収録されたいくつかは,見慣れないまったく新たなイメージ,日常を一つのダイナミズムとしてとらえていくバネをも感じさせる.
それは確実に20年前の青春時代の作品とは異なり,シュールなコンセプチュアルを内包した詩的世界,21世紀の現在に至ってなお,「前衛短歌」と呼べる新鮮さにあふれている.
(田中未知「『月蝕書簡』をめぐる経緯」より)

田中未知(たなか みち)
1945年生まれ 作曲家 「演劇実験室・天井桟敷」の旗揚げからのメンバーとして制作,照明を担当.自らの創作活動のかたわら,秘書として寺山修司の死までの16年間,寺山の仕事を支えつづけた.主な著書に『質問』(アスペクト),『空の歩き方』『寺山修司と生きて』(新書館)ほか.
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この歌は、その中に載るものである。メタファーが歌の全体を覆っている寺山らしい作品である。
前書きに「消しゴムの孤島」と題される一連である。

霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり・・・・・・・・・・寺山修司

地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや

剥製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため
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寺山修司については、上記のものだけでは舌足らずなので、以下に詳しい記事を載せる。

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   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
      身捨つるほどの祖国はありや・・・・・・・・・・・寺山修司


この歌は寺山修司の名歌として、よく引用されるものである。
この歌の言わんとするところは、現下の状況下で、逆説的な意味をたくさん含んでいると思うが、いかがであろうか。
寺山修司は昭和10年青森県三沢市生まれ。
高校生の頃は俳句に没頭する。
早稲田大学に入学、同年、第二回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。昭和58年没。
近年、彼の名を冠した「寺山修司短歌賞」なるものが開設された。以下、彼の歌をみてみよう。
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    海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

    ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

    雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌

    ドンコサックの合唱も花ふるごとし鍬はしずかに大きく振らむ

    人間嫌いの春のめだかをすいすいと統べいるものに吾もまかれむ

    一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

    茛火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優

    アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

    夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

    小市民のしあわせなどに遠くわれが見ており菜屑うかべし河口

    うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき

    ある日わが貶めたりし夫人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ

    地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり

    地下鉄の汚れし壁に書かれ古り傷のごとくに忘られ、自由

    木曜日海に背かれきて眠るテーブルをわが地平線とし

    大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ

    売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

    生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘

    亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

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1311寺山修司

寺山修司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日~ 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の劇作家、詩人、作家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した。

1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
母ハツによれば、青森県弘前市紺屋町生まれ。
寺山によれば、「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など、出身地に関して異なった記述が見られる。寺山のこうした記述には多分に創作が混じっていると言われる。
戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、母ハツは産後保養していたため」という。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。
父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。
1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
父八郎出征のため、母と青森市へ転居。青森市マリア幼稚園入園。
1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現浦町小学校)入学。
1945年(昭和20年)青森空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす、B29による集中砲弾攻撃だった。母ハツとともに命からがら逃げ惑い、焼け出される。家も焼けて一面焼け野原。
ハツの兄を頼って、六戸村古間木(現三沢市)の古間木駅前(現三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは米軍キャンプで働く。
米軍差し押さえの民家に移る。
1948年(昭和23年)古間木中学校入学。
秋、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校
1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。高校文学部会議結成。同期生に沢田教一。
1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。在学中から歌人として活動。18歳で第2回「短歌研究」新人賞受賞。
在学1年足らずで中途退学。
1967年(昭和42年)演劇実験室・天井桟敷を結成。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
1970年3月24日、人気漫画「あしたのジョー」の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。
1971年、『書を捨てて町へ出よう』で劇映画に進出した。
1983年、東京都杉並区河北総合病院にて、肝硬変で死去。享年47。
その後、天井桟敷の劇団員を中心に演劇実験室「万有引力」結成。現在に至る。青森県三沢市に寺山修司記念館あり。

歌集
句集

寺山修司青春歌集


長編叙事詩・李庚順
未刊詩集ロング・グッドバイ
寺山修司少女詩集

評論など
幅広く評論をしており、ジャンルは漫画、歴史人物、小説、映画などジャンルは広い。 竹宮恵子の「風と木の詩」1巻に寺山修司の解説有り、また「サザエさんの性生活」について書いた事がある。

脚本
ラジオ
テレビ


映画
(監督作品を除く)

みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)
乾いた湖(1960年)
わが恋の旅路(1961年)
夕陽に赤い俺の顔(1961年)
涙を、獅子のたて髪に(1962年)
初恋・地獄篇(1968年)
無頼漢(1970年)
サード(1978年)
怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)

長編

演劇
「演劇の文学ばなれ(戯曲ばなれ)」を主張し続けた。戯曲に書かれて完結した世界を、舞台でそのまま再現することが演劇なのか。「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」。演劇は、演劇という独自の表現なのであり、創造のきっかけとなるキーワードとしての「台本」(「戯曲」とは異なる)のみ許される、とした。
演劇の重要な構成要素であるはずの観客に焦点を当てる作品も上演した(「観客席」)。「俳優座や文学座があって、どうして観客座という名の劇団がないのか」。
彼の考え方は生前の演劇界においては異端視され、主に海外で評価されることになった。没後20年以上経った現在では、数多くの劇団が寺山作品を上演し、新たなる観客との出会いを試み続けている。

主な作品
毛皮のマリー
犬神
盲人書簡
邪宗門
阿片戦争
中国の不思議な役人
青ひげ公の城
身毒丸
奴婢訓
レミング

映画

長編
書を捨てよ町へ出よう(1971年)
田園に死す(1974年)
ボクサー(1977年)
草迷宮(1979年、1983年)
さらば箱舟(1984年)

短編
猫学(キャットロジー)
檻囚
トマトケチャップ皇帝
ジャンケン戦争
ローラ
蝶服記
青少年のための映画入門
迷宮譚
疱瘡譚
審判

消しゴム
マルドロールの歌
一寸法師を記述する試み
二頭女―影の映画
書見機

作詞
涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)
新 初恋(1968年、江夏圭介)
時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)
涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)
さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭)
首つりの木(1970年、J.A.シーザー)
酔いどれ船(1970年、緑魔子)
あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)
戦争は知らない(1971年、本田路津子)
孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)
勇士のふるさと(1972年、ヤング101)
人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)
君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)
海猫(1973年、北原ミレイ)
新宿港(1974年、桜井京)
浜昼顔(1974年、五木ひろし)
元気ですか(1976年、JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)
ぼくの消息(1976年、豊川誕)
与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)
もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)
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terayama寺山修司記念館

寺山修司記念館

 当館は遺族の寺山修司の母:はつ氏より三沢市に寄贈された遺品を、保存公開するために約3年の歳月をかけ建設されました。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに、九條今日子氏をはじめとする元天井棧敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て平成9年7月に開館を迎えました。延床面積約833m2の展示棟とホワイエ棟が渡り廊下でつながり、上空から見るとその様はテラヤマ演劇・映画の小道具として登場した「柱時計」を彷彿とさせます。ホワイエ棟外壁には149枚の陶板が貼り込まれ、寺山修司と交流のあった約30人のメッセージ陶板がテラヤマ作品を題材にしたものとともに、にぎやかに彩っています。テラヤマ芸術はもとより、当市の総合芸術発信基地としての一翼も担っています。
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職業は、寺山修司です

 寺山修司は、昭和10年12月10日に寺山八郎、はつの長男として出生しました。9歳の時、青森空襲で焼け出され、父親の実家がある三沢市で小学校4年生から中学校1年生まで過ごしました。父親が戦死、母親は九州へ働きに出るようになり、そのため、青森市の母親の親戚宅である映画館歌舞伎座で生活し、青森高校へ進学します。
 学生時代は短歌や俳句などに没頭しました。早稲田大学教育学部国文学科へ入学し、18歳の時、『チェホフ祭』を発表し、第2回「短歌研究」新人賞を受賞しました。腎臓の難病ネフローゼとの3年半にわたる闘病生活を経て、ラジオドラマ『中村一郎』を発表し、民放祭会長賞を受賞した後、シナリオライターとして歩み始めました。ラジオドラマから、演劇、映画、テレビドラマへと活動範囲を広げていき、31歳の時に、横尾忠則、九條映子らと演劇実験室「天井棧敷」を設立しました。専用の劇場を備えた「天井棧敷館」を所有し、47歳で亡くなるまでの17年間、2千人近い団員が入れ替わり立ち代わり参加しました。国内だけでなく海外での公演活動も多く、特にヨーロッパでは前衛芸術への評価が高く、毎年のように招待されて公演を行いました。
 寺山修司は、いつも斬新な企画にあふれ、病身にもかかわらず演劇や映画の現場に参加し、死の直前まで執筆活動を続けました。詩や短歌、俳句、映画、演劇、ラジオドラマ、文学から競馬やボクシングにいたるまでの幅広い評論、小説、作詞、エッセイなど多領域にわたる前線で活躍していたため、「職業は、寺山修司です」と名乗っていました。
 時代の先駆者として疾走し続けた寺山修司が、故郷として振り返るのはいつも三沢でした。自叙伝的作品にはいつも、多感な少年時代を過ごした三沢市近郊の風景や同窓生の名前が登場します。

記念館の散策道に立てられた「文学碑」に彫られた彼の文章

― 百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる ―

 世代を超え、時代を超えて、人々の心に強烈に作用しながらテラヤマワールドは生き続けます。
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寺山修司については、高校生の頃には俳句に没頭していたが、のち短歌を手がけるようになって賞を得たが、他人の俳句作品からの「剽窃」であるとの指摘を受けた。
しかし、彼は一切頓着しなかったらしい。
今なら、それは通らないと思われるが、とにかく彼は強烈な個性の持ち主であったようだ。
また自分の経歴なども「でたらめ」な記述をしたし、彼の死後も母上はご存命であったが、創作(歌など)の中では(私の引いた歌の一番最後の歌のように)「死なせて」しまっている。
だから彼の言うこと、書くことは、すべて「創作」「虚構」と受け取ったほうが無難である。
俳句や短歌という古い世界に固執する性分ではなかったから、奔放な、太く短くという一生を遂げたと言えよう。


冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集冬日

──高島茂の句──再掲載・初出2009/04/23

  冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂

ネット上の古書店に注文中の、高島茂第二句集『冬日』(昭和50年大雅洞刊)が到着した。
森慶文のエッチングの版画の挿画のある箱入りのもの。
昭和37年秋から46年末まで約10年間の作品488句を収録している。
私の買った値段は高くて5000円だった。
掲出した句の一連は昭和45年の収録句で「赤んぼ」の句ばかり27句が一連として連なっている。
対象となる人が誰なのか私には判らないが、いつも身近に起居していた「赤んぼ」に相違ない。
一連はほのぼのとした雰囲気が漂っている。
句集名を「冬日」としたことからも、私はこれらの一連が作者の想いの凝縮したものだと思い掲出句を選んだ。
はじめにお断りしておく。
今は季節としては初夏であり、掲出句は「冬日」とあって冬の季語だが、この本一冊全体として鑑賞するので、この句の掲出となった。ご了承を得たい。


その一連を引いてみよう。

 鳥多き青空あかんぼいつも睡る

 桃の木の白い鳥から睡りもらふ

 あかんぼの皮むけてはまゆふの花の盛り

 やはらかに産着をたたむ酷暑かな

 生れて何か見えしは風の向日葵か

 手が温くなりてねむたく乳吸へる

 全身もて糞る小さき汗を噴き

 真昼かりかりと蟹ゐてあかんぼが見る

 あかんぼがよろこぶ炎昼の水の穂を

 乳の出る指吸ひすひて睡るなる

 白凉はねむり笑ひのあかんぼに

 あかんぼの視線よろこび四十雀

 あかんぼのねむりくすぐる小鳥きて

 むづかゆき歯が生え蜜柑ほしがりぬ

 空泳ぐ魚にあかんぼ羽をふる

 乳の匂ひ満ちて冬日のオルゴール

 あかんぼう孤独なるとき鯨煮られ

 家の中にむつき乾かす嚏する

 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる

 雀ゐてあかんぼのながい食事みる

 家のどこか叩くあかんぼに粥が煮ゆ

 あかんぼに冬芽きらりと声を出す

 真冬このほのぬくきものあかんぼ抱く

 雪の日のラッパに聦く瞳がとべる

長すぎる引用になったかも知れないが、この一連を見ていただけば判るように「慈愛」に満ちた詠みっぷりである。
作者の「想い」が籠っているという所以である。

その後、高島征夫氏から、この「あかんぼ」について下記のようなご教示があったので、コメントをそのまま「貼り付け」ておく。

<「あかんぼう」についても記事があるのですが、とりあえず、作品作成時(昭和45〈1970〉年)、兄に長男が産まれています。
作句のモチーフになっただろうことは間違いないと思います。
ただ、本人は生前人に聞かれても「モデルはいないよ」と答えていました。
この一言がいまでも鮮明に思い出されます。
 付け加えると、後年(昭和61〈1986〉年『鯨座』上梓)、兄の長男は癌のため短い生涯を終えました。
第4句集『鯨座』にはその初孫である高島林(たかしまはやし)への献辞が掲げられています。>

「あかんぼ」の一連の句27句以外に、私の選んだ34句を下記に列挙する。合計61句となる。

この句集の巻頭句は

 炎天の鉄路を擦つて蝶迅し

で昭和37年の作である。この句の少し後に

 虻が熱い山菜採りの紺づくめ

 職なきは老ゆるにまかす時雨また

などの句が続いている。
昭和38年の句には、以下のようなものがある。

 緩みなき電線はるかに雪道直ぐ

 雪にながきバス待つ人生の荷物負ひ

 白繭のつめたさをいま掌にしたし

 鮮明な蛍火ひとつ多佳子の死

 一途なる秋蚕の食慾ひびきけり

昭和39年の作品から抜粋する。

 すでに夏日わがため白道まつすぐに

 青柿落つ歳月いたく無駄にせり

 肩に触れる冬日の鎖戦後ながし

昭和40年の句から

 両目もつはかなしと雪の捨達磨

 雪にかうかう一軒灯り馬肉売る

 連翹に腑抜けのまなこ射られけり

 轢死の犬みてゆく犬の時雨れけり

 生きて遇ふ句碑や泉に冬日さし──行道山滝春一先生句碑除幕式

昨日付けの記事の高島茂の略歴を見てもらえば判るように、茂は俳句結社「暖流」に参加している。
以下に、その主宰者・滝春一の経歴を貼り付けておく。
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滝春一
明治34年10月15日、神奈川県横浜市生まれ。本名粂太郎。
高等小学校卒業後、三越本店に入社。三越に27年間勤めた後、根岸演劇衣装株式会社に転職。
大正10年頃より短歌を作り始め、後職場の俳句会に誘われ俳句に興味を持つ。
大正15年には水原秋桜子の門を叩き、昭和6年、秋桜子が「ホトトギス」を離れる時春一も従い「馬酔木」の中心的作家となる。
昭和7年、初心者対象の雑詠欄「新葉集」の選者となり、8年には馬酔木第一期の同人に推される。
10年に「菱の花」の選者となり、14年に「菱の花」を発展させ俳誌「暖流」を創刊、主宰となる。
しかし、その後「無季容認・十七音基準律」を唱えるようになり、師秋桜子と意見が対立。その結果「馬酔木」を離れる事となった。
しかし昭和41年、楠本憲吉などの仲介により「馬酔木」に復帰している。
82年、「花石榴」で第16回蛇笏賞受賞。
1996年3月28日没。
句集に「萱」(昭和10)「菜園」(昭和15)「深林」(昭和32)など。

 風立ちて薄氷波となりにけり
 かなかなや師弟の道も恋に似る
 あの世へも顔出しにゆく大昼寝

参考松井利彦編「俳句辞典・近代」桜楓社
稲畑汀子他著「現代俳句大辞典」三省堂
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この記事を読んで興味深いことがいくつかある。
これは以前の記事にも書いたことだが、戦前には昭和一桁頃から俳句の世界にも「自由律」「無季俳句」などの運動の盛んな時期があって、多くの俳人たちが影響を受けた。
昭和二桁の戦時中は、そんな「自由」を標榜する運動は秩序を乱すとして特高警察によって弾圧され投獄されたりした。
戦後になってからは「前衛俳句」運動が起こり激震を起こしたので、これも多くの俳人が影響を受けた。
その結果、その道を邁進した人も居るし、多くは伝統的な句作りに復帰したりした。
誤解のないように申し添えるが「自由律」俳句は大正の頃からあった。
たとえば「荻原井泉水」などは、その先駆者であり終生その道を進まれた。山頭火や放哉の先輩である。もっとも井泉水は「自然主義」の作風である。
私は少年の頃に兄・庄助の蔵書にあった井泉水の句集の自由律俳句に接して、いわゆる「詩」の世界を知った。
たとえば 

<島が月の鯨となつて青い夜の水平> 

というような句である。
この句などは「俳句」というよりも「短詩」としても鑑賞できるだろう。
茂の句を見てみても、多少は影響された形跡が見える。師匠である滝春一の経歴からの連想である。
一言書いておく。

昭和41年の句に

 傷みなくともる灯はなし斑雪の村

 流さるる生きものかなしおたまじやくし

昭和42年の句に

 家継がぬ子に縋りをり寒の虻

 マッチの火ほどに芽ひらき紅柏

 盆休みの職人とゐてぼてぼて茶

 傷つきてマルメロつよき香を放つ

昭和43年の句に

 日を吸つて寒の沢蟹動きそむ

 ただの棒ならず榛の木春待つ田

 あかんぼを見せあふ桜遠景に

 耳ともしねむるあかんぼリラの花

昭和44年の句に

 中年に日は流れだす桐の花

 炎暑の人詰めてがくんと市電止る

 炎天に遠流の渇き火口壁

昭和45年の句に

 干魚・蕗縄でくくつて黙りこくる

 霧に日させばまぼろしか鶴遠き潟に

昭和46年の項、この句集の巻末句に

 南天の実や明暗を若く知りぬ

 飯どきは飯くひにくる冬仏

この句集は昭和37年というから作者42歳からの十年の句ということになる。
作者の生涯の中でも一番充実していた時期ではなかろうか。
恣意的な引用だが私の鑑賞が籠っているので、後は読者の感想に任せたい。
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なお高島茂も所属し、第34回現代俳句協会賞も得た「現代俳句協会」のデータベースを検索すると50句が出てくるので参照されたい。
誰の選になるかは判らないが、この協会のオフィシャルなデータベースとされている。
なお征夫氏からのご教示によるのだが、茂の一周忌にあたっての山崎聰の「冬日」の批評の記事を紹介しておくので興味のある方は当たってみてもらいたい。

平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集しょういき

──高島茂の句──再掲載・初出209/04/22

  平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂第五句集『麞域』(しょういき)(平成5年7月14日 卯辰山文庫刊)に載るものである。
この本はネット上の「古書店」で1500円で買った。
箱入りで本も箱も「硫酸紙」で巻いたもの。昔は、このように「硫酸紙」で巻いた本が多かったが、今では珍しい。
「謹呈」札が挟み込まれていて、作者がどなたかに進呈されたもののようで、読んだ形跡のないような新品同様の本である。
こういうことは私にも経験がある。
歌でも俳句でも、その筋のトップの人々には大量の歌集や句集が毎日贈られて来るから、彼らは「読むこともなく」定期的に古書業者を呼んで引き取らせるのである。
因みに、私の歌集も古本としてネット上に売りに出ている。
むしろ、こうして古書として出回ることを私は喜んでいる。
読んでくれない人のところにあるよりも、ネット上で探して買ってくれる人があるというのが幸せである。

征夫氏からご提供いただいた高島茂の略歴を引いておく。
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高島茂の略歴

大正9(1920)年1月15日、東京・芝神明町に生まれる
昭和16(1941)年1月6日 麻布歩兵第一連隊に入営。1月16日、満州へ送られる
昭和17(1942)年 肺結核を発病。療養中「ホトトギス」投稿、翌年初入選
昭和18(1943)年 内地に送還。終戦まで福島の療養所生活。満州の戦友の部隊は南太平洋ロタ島に送られほぼ全滅す
昭和20(1945)年 終戦。秋に実家の高円寺に帰り、魚屋を手伝う
昭和21(1946)年 新宿西口に「ぼるが」の前身の酒場を開く
昭和22(1947)年 俳句結社「暖流」に入会

昭和24(1949)年 「ぼるが」創業

昭和30(1955)年 第三回暖流賞受賞

昭和34(1959)年 「ぼるが」を現在地に移転

昭和61(1986)年 第34回現代俳句協会賞受賞 この間、初句集『軍鶏』(昭和39年)、『冬日』(昭和50年)『草の花』(昭和59年)を刊行し、この年『鯨座』を上梓

平成2(1990)年 「獐(のろ)の会」発足 代表となる

平成5(1993)年 『麞(しょう)域』刊

平成11(1999)年8月3日心不全により死去。享年79歳 この年2月まで大腸癌の療養中にもかかわらず、「ボルガ」に出て陣頭指揮。生涯現役を貫く。

平成12(2000)年 遺句集『ぼるが』刊

平成13(2001)年 遺句帖『武川抄』刊
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先ず、この難しい字は「鹿かんむり」の下に「章」という「旁」が一字になったものである。(図版参照のこと)
これは、この結社「獐」(犭偏に章)と同じ意味の字であり、東アジアに生息する「のろ鹿」のことである。
判りにくいので、今は結社としても「noRo」と表記されている。
なぜ、こんな「のろ」という名前を結社の名にされたのかを考えると、おそらく兵士として満州の地に居たときに野生の「のろ鹿」をよく見られたのではないか。
戦地で結核を発病したことと言い、この地の風物が作者の句作の原点になっているからであろうか。

句を見てゆくと、作者は戦地に行ったことの体験から、この句があるのである。
そんな体験からすると、今の世相は「平和ボケ」のように見えたのではないか、それが「そら怖ろしく」のフレーズになっている。
「啖う」は「食う」にも「食らう」にも訓(よ)めるが、ルビがないので、どちらにも訓んでもらっても結構だ。
はじめにお断りしておくが、「いちじく」は今の時期の季語ではないが、この句集全体の中から選んだ句なので了承を得たい。
アダムとイブの西洋の「肉欲の原罪」の神話に「禁断の木の実」として出てくるイチジクの「喩」も、この句の鑑賞の場合には重要だろう。
あれこれ考えて、この句の「訓みかた」としては「無花果」は「いちじく」とは訓まずに漢字のまま「ム・カ・クワ」と発音し、「啖ふ」は無難に「くう」として5音に収めたい。

以下、私の選んだ句を列挙したい。合計46句になるが約一割弱ということだ。

■眼には見えぬトリハロメタン水温(正字)む

■狙撃(正字)の日連翹遠く眩しめり

■いくたびも少年と遇ふ日永かな

■羅や虚(正字)子に會ひたる日に似たる

■しいんと灼け鏡太郎忌の氣球浮く

■妄執に似たり青(正字)梅手の中に

■のつそり出る霧の太陽蟹臭し──網走

■富士見えず二十三夜の湖に彳つ──山中湖

■登校拒否身近に雨の冬至なり

高柳重信逝きて
■あざやかな沒後を雨のゆすらうめ

中村草田男死す
■汗で濡れる體つめたく汗流る

「鏡太郎」とは高橋鏡太郎のことで、先に書いた『俳人・風狂列伝』にも名が挙がる人であり、また高浜虚子、高柳重信、中村草田男など著名な俳人との交友が偲ばれる。
俳句では「弔」句というのが重要視される。その意味でも、これらの句は大切にしたい。
「登校拒否」の句は、恐らくご子息あるいは孫のことだろうが、他人事のように聞いてきたことが身近に起こったのを句にされた。
こういう「時局性」も俳人には必要である。
「トリハロメタン」の句も同様であり、時事性を捉えて秀逸である。
「狙撃の日」の句から、先に述べたような印象を私は抱いたのである。

■眼を病みてしみじみ雪の角館

■金蘭を生けてはるかな土偶の目

この句は、征夫氏が私の歌

    呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ・・・・・・・木村草弥

と「唱和」して彼のBLOGに掲載していただいた思い出の句である。

■認識票肌になかりし今朝の秋

「認識票」とは、軍隊で兵士の体に付けさせるもので、このことからも作者が戦争体験があるという私の認識の根拠となるのである。
兵士たりし日々には肌身離さず身につけていた「認識票」が今はもう身にはまとっていない、ああ平和なんだなぁ、という感慨である。
その「平和」というのも、掲出句のように「そら怖ろしい」ものなのである。この辺の屈折した作者の「想い」を汲み取りたい。

■けもの臭き忘れ襟巻茂吉の忌

■笹のひと葉身に食ひ入りて蟇交る

■平等村手押ポンプも春なれや

■しばらくは鶴の見えゐし陶枕

■鮟鱇などわが風狂の友にして

■梧桐の寒の芽むつくり脂ぎる

■冬日のぬくさ背にありエル・グレコの繪

■空即(正字)是色はるかなる白さるすべり

■凡兆のその後知らず牽牛花

■手のさきの闇ふかぶかと鉦叩

■秋暑し死魚をむさぼる龜のをり

■疵ひとつなくて大きな朴落葉

■しぐれゐてやがて本降り桂郎忌

■おのづから瞠るくらさの寒卵

■軍靴に似しゴッホの短靴かなしかり

■へくそかづらなんじやもんじやも梅雨しとど

■うらごゑのどこかしてをり夾竹桃

七月十三日
■あと幾日生きては梅雨の五日月

■鳥となり還りきませり梅雨ふかし

この「七月十三日」という日付がどういう意味か、また、この句につづく「鳥となり」の句は、今の私には判りかねるが、重い句である。

■うすうすと山茶花の襞わがエロス

■それとなくいのちのことを息白し

■佐伯祐(正字)三のたましひの繪と五月は會ふ

■聲あげて花火の傘下誰か老ゆ

■點鬼簿に入りしその名を蟲のこゑ

■ふたり子の描きし凧を枯田に置く

■哲學をまなびし道の雪蟲よ

■銀河鐵道の夜の劇に出て卒業す

この三句を詠んだ対象の人が、どなたか私には判らないが昭和終末の頃の作品ということから、「孫」のことであろうか。

■荒梅雨やこんなところにへのへのもへじ

■東京を追はれし守宮の塀もなし

■ガラス繪の裸婦うしろむき無月なり

■戰爭の火の消えざるに昭和終る

■ながかりし昭和を悼み白鳥みる

この句集は昭和63年─つまり昭和の終焉を以って終っている。大正生まれとは言え、生涯の殆どを「昭和」とともに生きた作者として格別の感慨があったであろう。
引用した終わりの二句に、それがよく出ている。
この句集は編年で作られており、昭和57年─77句、58年─58句、59年─59句、60年─58句、61年─60句、62年─92句、63年─96句、合計500句が含まれている。この中から私の恣意で、上のような句を選んだもので、選びきれていないものも多いと思うが、今回は、この位にして終る。気がつけば加筆、訂正したい。
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TB9ボルガ
 ↑ ただし壁面を這っていた「蔦」は、今は無いようである。

先にも引用したが
高島茂氏創業の「ぼるが」の紹介記事を引いておく。


新宿西口・老舗の居酒屋『ぼるが』

高島東さんにお話を伺いました。

 新宿駅西口から徒歩3分、小田急ハルクの裏手にある居酒屋『ぼるが』。煉瓦造りの建物にはツタがからまり、なんとも風格のあるたたずまい。店先からは焼き鳥のいい匂いがたちこめ、その煙につられて毎晩多くの人々が集います。150席ある店内は、20時を過ぎるとほぼ満席に。

 「当店は昭和24年に思い出横丁に開店し、昭和33年に現在の場所に移転しました。山小屋をイメージして造られた店内では、テーブルや椅子、ランプなどの照明器具も当時からのものを使っています。看板メニューの『ばん焼き』は、豚のモツ焼きと焼き鳥の盛り合わせ。開店当初は“ばん”という鳥の焼き鳥をお出ししていたことから、この名前で呼ばれています。また、今ではすっかり居酒屋の定番となった『酎ハイ』も、当店ではかなり昔からのメニュー。『焼酎を他の飲み物で割ってみたら美味しいんじゃない?』というお客さまからのリクエストから生まれたそうです。他にも、“山のキャビア”と呼ばれる『とんぶり』や、季節のメニューなどもおすすめですよ。」

 『ぼるが』という店名は、俳人でもあった先代オーナー(高島茂氏)がロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなんでつけたもの。お店にはこの先代オーナーを慕い、多くの映画人や文学者、画家などが集まり、文化人のたまり場としても有名です。

 「映画監督の山本薩夫さんや、熊井啓さん、直木賞作家のねじめ正一さんなど、多くの方と家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。みなさん、我が家のようにくつろいでくださってますよ(笑)。また、先代から受け継いだ俳句の会『(のろ)の会』(現在は先代オーナーの息子さん・高島征夫氏が主宰)も当店を拠点に活動していますので、文芸に興味のある方はぜひ一度いらしてみてください。」

 幼い頃から新宿に縁の深い高島さん。ご自身は映画の大ファンで、週末などはお店が終わってからオールナイト上映を見に行くこともあるそうです。そんな高島さんが語る、新宿の魅力とは?

 「新宿は言わずと知れた大都会。新しいお店や流行りのスポットなどが次々とできる一方で、人の暖かみを感じさせてくれる昔からのお店も残っている。人々が求めるその両方を兼ね備えているところが1番の魅力ですね。『ボルガ』も、これからもずっと変わらずに、ここで皆さんのお越しをお待ちしています。初めての方、お久しぶりの方、もちろん常連さんも大歓迎です!」
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住所: 東京都新宿区西新宿1-4-18
TEL: 03-3342-4996
営業時間: 17:00~23:00(ラストオーダー 22:00)
日曜・祝日休み
アクセス: 「新宿」駅西口より徒歩3分

一見居酒屋には見えない個性的な店構え。バックには高層ビル群がそびえます。

木の温もりあふれる店内。カウンターには民芸品なども飾られています。

テーブル席やお座敷など、さまざまなスタイルで楽しめる2階フロア。

やさしいランプの明かりが、和みの空間を演出。


おとこたちはみなぺにすをもっていた/すいっちひとつでうつくしいおんがくが/死のむこうからながれでて・・・・・・・・・・谷川俊太郎
張り型~1
 ↑ 鼈甲製の張形  江戸時代に大奥で使われていたとされる。湯で柔らかくして、綿を詰めて利用した。

      おとこたち・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  おとこたちはみなぺにすをもっていた
  いっしょうわすれられないとおもうできごとを
  あくるひにはわすれた
  すいっちひとつでうつくしいおんがくが
  死のむこうからながれでて
  そのほうがくへとおとこたちは
  じぶんをいくえにもおりたたむ

  <のぞみをたたれても のぞまぬことにはけっしてなれることはない>
  ゆかのうえのひとつぶのこめが
  とおいぬかるみでめをふくことをおそれて
  くるしみのときをすごすために
  さらにひどいくるしみのものがたりをよむ
  おとこたちはみなぺにすをもっていた
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詩人谷~1
 ↑ 谷川俊太郎

更に、もう一つ関連する詩として下記のものを引いておく。

      からだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

  男が男のからだのかたちしてしか
  生きることのできないのはくやしい
  かたちのないこころだけであったなら
  もっと自在にあなたと交われるものを

  だがことばよりくちづけで伝えたいと
  そう思うときのこころのときめきは
  からだなしでは得ることができない
  いつか滅ぶこのからだなしでは

  こころがどこをさまよっていようと
  こころがいくつに裂けていようと
  女がただひとつのからだのかたちして
  いま私のかたわらにいるのはかなしい

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これらの詩は、詩集『日々の地図』1982年集英社刊に載るもの。
この詩の末尾の「かなしい」がカナ書きになっているところが曲者である。ここは「悲しい」とも「愛しい」とも読み解けるところで、この辺が詩の面白さである。
読後の、あなたの感想は、いかがだろうか。
谷川
 ↑ 新潮社1994/11刊

谷川俊太郎には、ここに出したような本があり、母の私的な、性的な手紙を、あからさまに披露されている。
こういう態度こそ文学者のものである。
だから、私が彼の性的な詩を引用した意図も理解されたい。


野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも・・・・・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     野ゆき山ゆき海辺ゆき

     真ひるの丘べ花を藉(し)き

     つぶら瞳の君ゆゑに

     うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

      1.
     野ゆき山ゆき海辺ゆき
     真ひるの丘べ花を藉(し)き
     つぶら瞳の君ゆゑに
     うれひは青し空よりも。

      2.
     影おほき林をたどり
     夢ふかき瞳を恋ひ
     なやましき真昼の丘べ
     花を藉(し)き、あはれ若き日。

      3.
     君が瞳はつぶらにて
     君が心は知りがたし。
     君をはなれて唯ひとり
     月夜の海に石を投ぐ。

      4.
     君は夜な夜な毛糸編む
     銀の編み棒に編む糸は
     かぐろなる糸あかき糸
     そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。

掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。
今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。



倭は 国のまほろば たたなづく 青垣/山隠れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記
hondenn大神神社

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
    山隠(ごも)れる 倭しうるはし・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記


『古事記』に上のように詠われる大和盆地。その東の山裾に沿って、日本最古の道といわれる「山の辺の道」がある。
その道に沿って南の端に「大神神社」(おおみわじんじゃ)がある。
大和の国には古い社が多いが、日本最古の社としては、この神社をおいて他には、ない。
「三輪山」の麓にある大神神社は、三輪明神と呼ばれる。
大神と書いて「おおみわ」と読むのは、昔は神様と言えば、三輪さんのことだったのである。

記紀神話では、悠久の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国家の政治に行き詰まり、祈念したところ、海を照らして神がやってきた。
「我は汝の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。我を祀れば平らかになるだろう。我を倭の青垣、東の山の上に斎(いつ)きまつれ」という託宣を受けた。
そこで、大和の東の青垣に、その神「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)を祀ったのである。その地が現在の三輪山だという。
この神社には本殿、すなわちご神体を鎮座させる建物がない。
古代の信仰そのままに、三輪山そのものをご神体とし、参拝者は「拝殿」から山を直接拝む。
熊野那智大社が「那智の滝」をご神体にするのと同じ扱いである。
写真①は拝殿である。拝殿の奥、神体山の「禁足地」の間に「三ッ鳥居」がある。
文字通り三つの鳥居が合体したもので、平安時代以前の創建とされるが、禁足地のため一般には見られないので、「摂社」の桧原神社の三ッ鳥居を写真②に掲げておく。

hibara1桧原神社三つ鳥居本命

なお桧原神社には拝殿も本殿もない。この三ッ鳥居があるのみである。
この三ッ鳥居を拝んで、その背後の三輪山を拝する、というものである。

miwa1三輪山

「三輪山」は、三輪の神奈備と呼ばれる円錐形の秀麗な山。
写真③は穴師というところから撮影。
山中には大岩が露出して、頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、麓の辺津磐座があり、それぞれ大物主大神、大巳貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるという。
磐座(いわくら)は、神が降臨する神聖なところとされる古代祭事遺跡。
三輪山そのものを御神体として古くから信仰されている。
先に書いた「桧原神社」は、北へ1.5キロほど上がったところにある「摂社」だが、この桧原の地こそ、天照大神が祀られていた大和の笠縫邑(かさぬいのむら)だという。
ここから倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢への旅が始まったという。
ちなみに、三輪から、ほぼ真東、つまり日の出の方角に「伊勢神宮」があるのである。だから、「元伊勢」と別称されるのである。

ここで「三輪」の由来について書いておく。それは三輪の「環緒」(おだまき)塚の伝承である。
イクタマヨリ姫は、大変美しい乙女だった。
ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ立派な男が現われ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。
不思議に思った両親が「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ、男の着物の裾にさしておくように」と言いつけ、姫が言いつけ通りにして、翌朝になってみると、糸は入口の戸のカギ穴から外に出ており、辿ってゆくと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。
麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。
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「まほろば」については辞典にあたってみてもらいたい。
参考までにWeb上のフリー百科事典Wikipediaに載る英文の記事を引いてみる。

Mahoroba
From Wikipedia, the free encyclopedia

Mahoroba is an ancient japanese word describing a far-off land full of bliss and peace. It is roughly comparable to the western concepts of arcadia, a place surrounded by mountains full of harmony and quiet.

Mahoroba is now written only in hiragana as まほろば. The origins of the word are not clear; it is described in a poem in the ancient Kojiki (古事記) as being the perfect place in the mythical country of Yamato:

Poem from the Kojiki
Japanese Romanized version
大和 は
国のまほろば
たたなずく
あおかき山ごもれる
やまとしうるわし。

Yamato ha

Kuni no mahoroba

Tatanatsuku

Awo-kaki yama-gomoreru

Yamato shi uruhashi

(Note that the Kojiki itself did not use hiragana; the above is a modernized version)
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この英文の解説は「まほろば」を西欧でいう「アルカディア」と同じようなものと書いているのは、けだし名解説であろう。
なお、古事記についても、その頃にはまだ「ひらがな」は無かったことも明記されていて正確である。
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この記事をご覧になった「硯水亭歳時記」氏から、下記のようなコメントが届いた。
私が簡略に書いたものを補強していただいた。ここに全文を転載して、感謝申し上げ披露しておく。
同氏は私よりはずっと若いが、学識ふかく、私がいつも畏敬して付き合っている方である。

古事記のエピローグとして浪漫溢れて!

Sohyaさま

 クマソ征伐の西伐のあと、すぐさま父・天皇からヤマトタケルへ東伐を命じられ、あらゆるところで大苦戦します。そうしてタケルは漸く帰途につきます。
父君とは確執があったのでしょう。ところがもう少しでヤマトだという時に思わぬ事態になってしまい、タケルは死んでしまいます。
能煩野(のぼの=鈴鹿辺り)に着いたばかりでした。
ただ直接倭には帰らず、伊勢の叔母君へ行こうとした矢先のことです。その死の直前に詠った望郷の歌として、「倭は国のまほろば」と詠みあげるのでした。
倭から駆け付けた妻や子は悲しんで、古事記のエピローグとして、或いはヤマトタケルの「斂葬の歌」として、四つの歌を残されました。
「なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら」、するとタケルの墓から大きな白鳥が飛んでゆきます。
その白鳥を追ってゆき、「浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな」と歌を詠み、私は白鳥と違って、歩きづらくとも磯部を伝ってゆくしかないと言います。
そして「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」と嘆き悲しみ、
更に「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」と、タケルのお墓の廻りで、亡き人への追慕の念を詠われます。
この四首は、この故事にちなみ、今でも天皇の斂葬の儀には必ず詠われる歌なのです。
壮大な古事記の話の最後を飾るのに相応しいように思われます。

 大神神社は古来天皇家の神社でしたが、アマテラスがサルタヒコの先導で伊勢に向かわれてしまった後、大物主へ下賜されたものでした。
鳥居は注連縄だけという、如何にも古い形式にヤマト朝廷以前の縄文文化までも連想させ、浪漫溢れるものです。
山岳信仰は一億年に及ぶ日本古来の縄文文化の名残ではなかろうかと想像を膨らませるのに充分なのですから。
 尚纏向古墳こそ最古の古墳であり、ヤマト朝廷があった証で、纏向こそヤマトの古語であったようですから興味がつきません。




さりながら独りは一人の行く道あり食う寝る自由死ぬるも勝手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖ななも
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   さりながら独りは一人の行く道あり
     食う寝る自由死ぬるも勝手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖ななも


沖ななもは加藤克巳の弟子だけあって、歌作りも自由闊達なところのある、面白い作品を作る人である。
この歌などは、まるで老人の私が言いそうな口ぶりである。
彼女も独り暮しなのであろうか。
掲出画像は彼女の著書の一冊である。そのほかに下記のような著書などがある。
歌集・詩集
詩集『花の影絵』 若い人社、1971年
歌集『衣裳哲学』 不識書院、1982年
歌集『機知の足首』 短歌新聞社、1986年
歌集『木鼠浄土』 沖積舎、1991年
歌集『ふたりごころ』 河出書房新社、1992年
歌集『天の穴』 短歌新聞社、1995年
歌集『一粒』 砂子屋書房、2003年
歌集『三つ栗』 角川書店、2007年
歌集『木』 短歌新聞社、2009年
選集
『現代短歌文庫 沖ななも歌集』 砂子屋書房、2001年
評論・エッセイ・入門書
『森岡貞香の歌』 雁書館、1992年
『樹木巡礼』 北冬舎、1997年
『優雅に楽しむ短歌』 日東書院、1999年
『神の木 民の木』 日本放送出版協会、2008年
『今からはじめる短歌入門』 飯塚書店、2011年
『季節の楽章─短歌を楽しむ24節気』 本阿弥書店、2012年

彼女の経歴の紹介代りに、下記の「茨城・古河」市のHPから引いておく。
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現代短歌では、「サラダ記念日」の俵万智が有名ですが、古河出身の素敵な歌人がいることをご存知ですか。
今回ご紹介する沖ななも先生がその人です。
沖先生は、昭和20年古河生まれ。昭和30年に浦和市に転居するまでの幼少期を古河で過ごしました。中学生のころから、現代詩をつくり始め、昭和43年若い人社文学会に参加、昭和46年には同会より詩集「花の影絵」を刊行しています。
昭和49年には個性の会に入会。短歌を中心とした文学活動を開始。3年後には、「個性」新人賞を受賞されました。
その後の3年は、「式子内親王論」「和泉式部論」等の古典研究、「大西民子論」「葛原妙子論」「五島美代子論」「齋藤史論」等、現代女流歌人論を次々と「個性」に執筆連載。 昭和57年には、第一歌集「衣裳哲学」を刊行します。

 歌集の序文で歌人の加藤克巳は、先生の歌を、「現代短歌に特に女性の歌に、かなりときやかに新しい局面を拓くものと私は思う。もうすこしひろげていえば、いままでになかった明日の短歌をになう、有力な一人にかならずなるにちがいないと私は信ずる」と高く評価しております。同歌集は、現代歌人協会賞と埼玉文芸賞を受賞されました。 昭和61年には、個性賞を受賞、その後は、「機知の足首」「木鼠浄土」「ふたりごころ」と次々に歌集を刊行、平成4年には評論「森岡貞香の歌」、平成6年には、佐藤信弘と「詞法」を創刊。平成9年には、埼玉県を中心とした樹々をめぐっての珠玉のエッセイ集「樹木巡礼」等も出版しています。
最近は、NHK歌壇にゲスト出演されるなど、活動の幅を広げています。
(草弥・注)平成16年より「熾」月刊を創刊し主宰している。

この椅子をわたしが立つとそのあとへゆっくり空がかぶさってくる-----歌集「衣裳哲学」より

やぶこうじ、からたちばなの赤い実が鳥に食われてみたいと言えり---歌集「天の穴」より
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ネット上には高橋みずほの評論[沖ななも論] 撓う強さ というのがあるので覗いてみられるとよい。
手元には余り資料がないが、少しだけ彼女の歌を引いておく。

   ふかくものを思うというにあらねども冬くれば冬の身仕度をする 『機知の足首』

   駐車場と化したる原っぱいっぱいに冬の陽そそぐわれ横切るときも

   そばがらの枕にこめかみ押しあてて寝るときわれのこの夜の脈

   目に追う鳥の空の奥の雲の奥の夏のうしろを見極めむとす 『衣裳哲学』

   パラソルのちいさき影のあやうさやうつろう時をひとり歩めり

   壺を持つ反り身の女のあし首のめぐりの影はやわくあたらし

   上の葉が下の丸葉にかげをおとしともにゆれいるところを過ぎき 『木鼠浄土』

   ところどころ黄の花が咲き大粒の雨うけるとき首ふりている

   下から上、上から下へと楓(ふう)の木の幹にそいつつ視線をずらす

   吊革を握らんとせし右の腕ふいにむげんをさまようあわれ 『春の魚』

   藍深き空あり空に風のありここにこうしていること不思議

   雷と雨と風とが連れ立ちて駆け足に関東平野をめざす

   すきまからそよと夜風のおとずれて過去ばかりなる一生というは

   春の魚一気に裂けば緊密な生一式の臓器詰まれり

   正月はいずこに行かん何せんと先ある者の声ははれやか 「医家の『英雄待望論』」

   くされ声あまやかな声もつれつつ夜のとぱりに消えてゆきたり

   あきびんもそれはそれとて日を返す一言申したきとう風情

   袖振りあう他生の縁のありし人地方新聞の隅にほほえむ

   単語登録しておきしかば迢空も鬱金も言語の地位獲得す

   用もなく歩くを誰もあやしむな<散歩>は文化の証にあれば

   犬が行き猫が渡りてそのあとを枯葉と風が追えり舗道を

   図書館に八冊の本返したるのちのわが手は浮力をもてり

   左手に風あり右手に空(くう)があり何もあらずと言うにはあらず

   二十三センチ二枚の足裏に刻印すうちたたなわる風紋の上

   一所懸命も一生懸命もいのちがけ一所を守るが一生(ひとよ)の仕事

   脇町の医家の書棚にひっそりとくすみていたる『英雄待望論』



はんなりと京都ことばは耳に沁む奈良びととして街を歩めば・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰
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──京都に因んで──

    ■はんなりと京都ことばは耳に沁む
      奈良びととして街を歩めば・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰


先ののBLOGで「京言葉」の句を採り上げたので、その関連というのもおかしいが、「京都に因んだ」歌を挙げてみることにする。
掲出画像は『折々の京ことば』(堀井令以知・著)という本。

また、こんな本もある。
↓ 先に紹介した入江敦彦の本。 『KYOのお言葉』である。
入江

この本は京都人が使う言葉を短い項目にして、たくさん載せてある。
この本の中身については、後日、稿を改めて書きたい。
 
掲出した歌の作者・櫟原聰 は奈良在住の日本文学専攻の人である。
この歌は「奈良びと」として京の街を歩きながら「はんなりとした京都ことば」を聴いている、という面白い歌である。
「奈良」「平城」は京都に都が設営される前の宮都であった。一昨年は「平城京遷都1300年」ということで盛大な通年のイベントが催された。
だが、その都のあった期間は京都に比べると長くはない。それは地理的なものも大いに関係しているようだ。
藤原京、平城京とも、大きな川に恵まれなかった。今でも現地に行ってみられたらよい。
やはり日本の宮都として大きく発展するためには、相当の「川」が──つまり「水」が必要なのである。
奈良朝の末期に聖武天皇が、九州で叛乱があったためとは言え、「恭仁京」を木津川沿いに造営されようとしたが、
平城京に家、屋敷があって狎れてしまった宮人に背かれて、それは叶わなかったが残念なことであった。

daisinin大洗院庭

    ■炎ゆるもの心に持たぬ身はひとり
      白砂の庭にながく遊びぬ・・・・・・・・・・・・・・・・永井聿枝


俳句と短歌の違いは、575と57577というフレーズの長短ばかりではない。
俳句でも「心象」を盛ることは出来るが、短歌はフレーズの多さの分だけ「心象」としての抒情を深めることが出来るということである。
この歌などは、読者にさまざまの感懐を心のうちに引き起こす。

    ■秘めし思ひ熱きわが頬濡れながら
        歩む河原町雪降りしきる・・・・・・・・・・・・・中埜由季子


この歌も、上の歌と同様である。
「秘めし思ひ」とは、どんなことなのだろうか、「わが頬濡れながら」というのだから、心の痛む悲恋か何かだろうか、などと言外に読者の想念を誘うのである。
まして「河原町」という京都のショッピング街としての地の道具立ても出ている。そこに「雪降りしきる」である。
余りにもお膳立てが出来すぎているとも言えるが、こういう芸当は俳句には出来ないことである。
反面、短歌は冗長に堕してしまいがちで、だから心ある歌人は、俳句の持つ「衝撃性」に学ぼうとしたりするのである。

img2d38fb3bzikezj白土塀

   ■今しばし夕やけてゐよ比良・比叡 
      寒の入陽はひとを優しくす・・・・・・・・・・・・・・・・広瀬範子


    ■噛みつかれし如くにわが額痛むまで
      北山おろし吹く京の町角・・・・・・・・・・・・・・・・山野井珠几


    ■町寺の白壁冬の日を浴ぶる
      ところ通りて素直になりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・山野井珠几


これらの歌も「比良・比叡」とか「北山」とかの地名のもたらす効果が一首の歌の中に生きている。これこそ「地名」の持つ「喚起力」というものである。
短歌の発する「抒情性」というものが余すところなく、発揮された歌群と言えるだろうか。

ここで「京ことばカルタ」という動画を出しておく。カルタの読み手は「市田ひろみ」さんである。No.2、No.3があるようだ。
「京ことば」の発音とイントネーションの一端が聴ける。 ↓




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