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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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夏の月裸婦像は唇閉ぢきらず・・・横井来季
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 ↑ ルーヴル美術館蔵 ギリシア彫刻 イメージ

──「俳句甲子園」2019から──

      夏の月裸婦像は唇(くち)閉ぢきらず・・・・・・・・・・・・・横井来季

テレビで、たまたま見た番組の中に、この句があった。
入選句でもない句だが、印象に残ったのでメモしておいた。
作者は名古屋高校Bチームに所属する生徒だということである。
「横井」という姓は名古屋地域に多い、特有の姓である。
この回の兼題は七つほどあったが、その中の「夏の月」の題によるものである。
この作者には「金魚」という題で

     恋人も金魚も新しい夜だ・・・・・・・横井来季

という句も発表され、選者の殆どが褒めていた。
はじめにお断りしておく。私は俳句の実作者でもない一介の愛好者に過ぎないから、私の好みに任せた極めて恣意的なものである。
私は、こういう「俳句甲子園」のような、ディベート形式の会は余り好きではない。デイベートに終始する雰囲気が嫌なのである。

今回の最優秀賞は

    中腰の世界に玉葱の匂ふ・・・・・・・・・重田渉(開成高校)

ということだが、同じ兼題で、こういう句がある。

    生くること難し玉葱吊るしたる・・・・・・・・・・徳丸琴乃(星野高校)

私は、この句の方が好きである。「二物衝撃」の句だが、まあ好き好きだろうが。

以下、ネットで調べた作品から私の好きな句を引く。

     *毛虫より毛虫の出づるごとく糞・・・・・・・(作者名を記録忘れ)
     *サルビアやハグする前に目を合はす・・・・・・・中野葵
     *瀑布より戻りて新しき鼓膜・・・・・・・垂水文弥
     *虫籠の置き捨てられて城の森・・・・・・・成山京哉
     *虫籠を睨めば睨み返される・・・・・・・横谷真未
     *土だけの虫籠一つある日陰・・・・・・・奥山凛
     *霧深しブラキヨザウルスの骨格・・・・・・・斎藤仕人
     *山霧や羊に鈴のひとつずつ・・・・・・・・・難波朔美
     *サルビアや気球のそれぞれに焔・・・・・・  〃
     *電柱に砂の手触り霧深し・・・・・・・横井来季
     *校章の十字架眩し緋衣草・・・・・・・  〃
     *サルビアや二度目の生理報告す・・・・・・・野城知里
     *サルビアや叱られている目のやり場・・・・・・・西野結子
     *サルビアや鍵なき島の診療所・・・・・・・山内那南

こうしてネットを検索していると歴代の「最優秀賞」受賞者の中に、神野紗希佐藤文香、青本柚紀、山口優夢など、今も俳壇で活躍する人の名が見られる。
神野紗希fは高柳克弘の夫人としても知られている。 ← 赤字のところは「リンク」になっていることを示す。アクセスされたし。
どうも俳句甲子園の出場校は、進学校が多いので、途中で俳句を作るのを辞めてしまう人が多いらしい中で、こういう人たちは貴重であろう。



国家より犬猫供出命令来北海道割当十万七千匹・・・長谷川知哲
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──<非>季節の歌──

     国家より犬猫供出命令来
            北海道割当十万七千匹・・・・・・・・・・・・・長谷川知哲


短歌結社「短歌人」で、こんな歌とコメントを見つけた。
コメントには、こう書かれている。
<軍馬の碑はあるが、殺された犬猫の碑はない。寒さの中で戦う兵隊さんの外套や軍靴を作るため、国中の無数の犬猫が供出命令を受ける。>

続いて、こんな歌が引かれている。

     仏壇の抽斗に戦死せし叔父の
            ブリキの型押し勲章ひとつ・・・・・・・・・・・・・・長谷川知哲


コメントには、こう、ある。
<兵卒を、英語ではexpendables、消耗品と呼ぶ。冗談のような、薄っぺらなブリキの勲章が帝国より下賜される。グリコのおまけに似ている。 >
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久しぶりに、短歌の中に「知性」を見た、という気がする。
先の戦争の、「狂気」のような時代を、何も知らない世代には、こういうことも、きちんと言っておかなければならないだろう。
人間だけでなく、今はペットととして愛玩されている彼らにも、こういう受難の時代があったのだよ、ということである。
私も初めて知る事実である。
また、日本軍は兵卒を「消耗品」と呼んだのは知られていることだが、「英語」でも、そう呼ぶ、と、このコメントには書かれていて、悲痛な思いになった。

「短歌人」の作者の、誠実な知性を見せていただいたので、敢えて転載させてもらった。 
有難うございました。





詩「丘に立ち風を見る」・・・折口立仁
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──<非>季節の詩歌句──

      詩「丘に立ち風を見る」・・・・・・・・・・・・・折口立仁
              ・・・・・「詩と思想」2019年四月号掲載・・・・・・・

     丘に立ち風を見る      折口立仁

  丘に立ち町をはるかに眺めていた少年は
  木々を揺らし瞬く間に消え去る風のはじまりは
  いったいどこなのかと訝った

  芝生に寝ころび空を見ていた高校生は
  全くの青をそのままに映す網膜も
  やがては汚れ 空を曇らせることを怖れた

  砂浜に座って暗い海を見ていた二十二歳は
  欲望と不安に満ち満ちている自分を
  不機嫌な恋人のように持て余していた

  今 丘に立って風を見る

  行方を問うわたしに
  風は音を立てて吹いている
  きっとわたしも
  はじまりも終わりもないのだろう

  かわいた空の果てにも
  冷たい海の底にも
  わたしは行かないのだろう

  時を超えてきた少年に風が吹く

  丘を越え
  さまざまに色を変えて
  風は吹いて行く

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この詩は、「詩と思想」誌2019年四月号に「現代詩の新鋭」として掲載されているものである。
この作者の紹介記事には、こう書かれている。

<折口は堺市生まれ。大阪の大学を出て、役所で定年近くまで勤めあげた。
 演劇部出身であり、小説もこつこつ書き続けていたが、定年後、京都のNHK文化センターを受講。
 リアルなダンディズムの詩を作るようになる。
 彼は言う。 「どんな形をとるにせよ、作品は、自分が語るべきひとつの物語になるだろう。 物語を、ひとつ。」 >


恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか・・・壬生忠見
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 ↑ 「歌合わせ」の書付(参照)
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 ↑ 「百人一首」の札─この歌が書かれている

──非季節の一首鑑賞──

     恋すてふわが名はまだき立ちにけり
              人しれずこそ思ひそめしか・・・・・・・・・・・・・壬生忠見


この歌は平安時代、宮中の清涼殿で「恋」を主題にした「歌合わせ」の際に、壬生忠見が「秘めたる恋心」を詠んだものである。
実は、この歌は、バレンタイン・デーのプレゼントとして或る人から贈られたチョコレート菓子に添えられたものである。
この菓子は「小倉山荘リ・オ・ショコラ」の製造で、ぴりっとした「柿の種」を色とりどりのチョコートでコーティングしたものである。
もともと、この会社は「あられ」菓子が専門で、その特色を生かして製作されたものである。
テトラ袋に7.8個づつ個包装されて、食べるのにも簡便にできるようになっている。

壬生 忠見(みぶ の ただみ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。右衛門府生・壬生忠岑の子。父・忠岑とともに三十六歌仙の一人に数えられる。

天暦8年(954年)に御厨子所定外膳部、天徳2年(958年)に摂津大目に叙任されたことが知られるほか、正六位上・伊予掾に叙任されたとする系図もあるが、詳細な経歴は未詳。

歌人としては天暦7年(953年)10月の内裏菊合、天徳4年(960年)の内裏歌合に出詠するなど、屏風歌で活躍した。
勅撰歌人として『後撰和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に36首入集。家集に『忠見集』がある。

逸話として
「天徳内裏歌合」で
     恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか(『拾遺和歌集』恋一621・『小倉百人一首』41番)
と詠み、
     忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
と詠んだ平兼盛に敗れたために悶死したという(『沙石集』)。
なお、『袋草紙』では悶死まではしておらず、家集には年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあり、この逸話の信憑性には疑問が呈されている。



詩「野のほとり」・・・野本 昭
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      野のほとり・・・・・・・・・・野本 昭

   △ 闘鶏
 
   闘鶏は
   夕日を
   厚く着込んで
   鎮まっている

    △ 昼寝

   うたたねの
   終始
   怒号の鳥と
   諍っている

    △ 羽抜鶏 
  
   羽抜鶏は
   見かけほどには堪えていない
   陽を直に浴びられるだけ
   血潮に赫いて
   場末の道を力強く歩み行く

    △ ハンカチーフ

   白いハンカチーフに
   赤い唇を押しつけて
   女は去っていった
   男はそのハンカチーフを
   壁に貼って三年になるけれど
   一度も
   女の消息を聴いていない

    △ 蛙

   緑葉に縋りついて
   あの蛙は
   緑の色素を吸い取ったよう
   その分だけ
   周りの葉が白つぽい
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これは月刊詩誌「詩と思想」2018年12月号に載るものである。

野本昭
1938年2月8日生まれ。北海道教育大学卒。稚内高校定時制教諭を経て、現在フリーライター。千葉県柏市在住。
詩集『幼らは夕日を浴びて眠る』 (2007年 鳥影社刊) というのがあるらしい。

これ以外の情報はない。

近代詩の有名なものとして、フランスのジュール・ルナールの「短詩」がある。
また、三好達治の詩に

   蟻が蝶を引いてゆく
   ああ
   ヨットのようだ

というものである。
私は野本氏の短詩を読んで、一瞬、ルナールや三好達治を連想した。

ここに引いたのは、雑誌に載るものを忠実に再現したもので、△なども元のままである。
闘鶏の画像は私が勝手に載せたものである。


詩「ひとでよ ひとで」・・・ほしの まろん
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 ↑ ジュズベリヒトデ
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        ひとでよ ひとで・・・・・・・・・・ほしの まろん

    ひとでよ ひとで
    ひとのかなしみ 海に落ち
    ひとでのかたちになりました
    水底ふかく 輝いて
    星のかたちになりました

    ほんとの気持ちに 気づいたら
    こころは ほんのり光ります
    本当は愛していたと 気がついて
    水底ふかく落ちて行き
    星のかたちになりました

    かなしみのまま いやしましょう
    淋しさのまま ねむりましょう
    広くてふかい海のなか
    時間をおともに ねむりましょう

    かなしみのまま ねむりましょ
    ひとでのかたちで ねむりましょう
    いつ世界があける日に
    ひとでは お空にのぼります
    ほんとのお星になりましょう

    かなしみに 今は翼を生やせない
    水底ふかく 身をおいて
    かなしみのまま ねむりなさい
    海は お前をうけいれて
    まどろみながら いやします
    ひとでよ ひとで 水底で
    ほんとの気持ち見つけよう

    こぼれる涙 とめないで
    かなしみの底にしずむもの
    まことの愛に気づいたら
    あなたはお星になりました
    お空のお星になりました

    ひとでよ ひとで
    愛のかたち
    お空に今日も光ります
--------------------------------------------------------------
この詩は「詩と思想」誌2018年十二月号に載るものである。作者の了解を得て、ここに転載しておく。
星乃真呂夢さんは、以前、この雑誌に私の第六歌集『無冠の馬』の書評を書いてくださった。
また、「千年の哀歌」という詩で、第30回国民文化祭・現代詩部門で文部科学大臣賞を受賞された。
いずれも「赤字」になっている部分はリンクになっているので、読んでみてください。
この号では、お名前が「ほしの まろん」と平仮名表記になっている。
何らかの意図をもって、こうされたと思われるが、一読して分かるように、この詩は童話ふうの形を採っているので、名前も、それに合わされたかと推察する。
一読して、日本の伝統的な五音、七音の音数律のリズムを採用されている。
このリズムは、日本人の頭には快く感じるもので「流れる」ような、そして「転がる」ようである。
最近の星乃さんは、現代詩の難しいものよりも、平易な、日本の伝統に寄り添うような姿勢を採っておられるようである。

以下は余談である。
星乃さんは、ヒトデを、このようにロマンチックに詠んでいるが、海に居る実物のヒトデは不気味な生きものである。
生きものだから、カモメなどは捕まえて食べるらしい。そんな映像がある。
それに、オニヒトデという種類は、辺りの貝やサンゴ礁なども食べ尽くしてしまう厄介なものらしく、漁民は捕まえて陸に上げて焼却処分したりするらしい。
そんなことで私はヒトデが好きになれない。
ああ、これが余計なことなのだ。だから私は嫌われるのである。
しかし、書いてしまったものは、仕方ない。 無視されたい。



埴輪の目ほんのり笑ふ土こねし古墳時代の庶民が笑ふ・・・群馬県・熊沢峻
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      埴輪の目ほんのり笑ふ
           土こねし古墳時代の庶民が笑ふ・・・・・・・・・・・・群馬県・熊沢峻


この歌は、角川書店「短歌」十月号の題詠「土」に載るものである。
この歌に照応するものとして、当該画像を引いてみたが、いかがだろうか。
どこの場所からの出土品か知らない。
かなり壊れた状態で出土したらしく、欠けた部分を復元した跡が、なまなましい。

ここには、中西洋子氏選による作品が載っているので、そのうちの、いくつかを引いておく。

 手を合はせ祈りしままによみがへる土偶が月の光を宿す・・・・・青森県・木立徹
 凍てし土に転びて泣きしわが顔の涙も洟も凍りし大陸・・・・・埼玉県・中門和子
 黒土の下層に眠る関東ローム天地返しにさむる万年・・・・・神奈川県・滝沢章
 ふるさとの共同墓地の墓じまい土葬の祖母の土を拾いき・・・・・神奈川県・大和嘉章
 土の匂ひやがて濃くなる気配あり東南東から雨雲ちかづく・・・・・千葉県・渡辺真佐子
 病院のベッドで雨をながめてる氷雨村雨時雨土砂降り・・・・・茨城県・小野瀬寿
 緑陰の土のしめりにふり返る夏の夕ぐれ 訪問者はだれ・・・・・茨城県・吉川英治
 ひんやりと湿った土に胸をあて蜥蜴のように眠りたき昼・・・・・京都府・山口直美
 耕せば畝に蜥蜴のはね上がる目鼻をもたぬ土神様よ・・・・・大阪府・北井美月
 南天は小さな白き花散らす泥土に未知の星図ひろげて・・・・・秋田県・長尾洋子
 白土の茶碗の欠片累々と久々利荒川豊蔵の庭・・・・・岐阜県・三田村広隆
 田には田の一枚一枚名がありき亡母は土の違ひを知りき・・・・・和歌山県・植村美穂子
 知らぬ間に更地になった一画の土は初めて夏の風知る・・・・・福岡県・原口萬幸
 白蓮の散りたるのちも香りつつ腐れつつ土に還らんとする・・・・・北海道・土肥原悦子



高野岬歌集『海に鳴る骨』・・・・木村草弥
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       高野岬歌集『海に鳴る骨』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・角川書店2018/05/25刊・・・・・・

角川書店から標記の歌集が送られてきた。私には未知の人である。
角川書店編集部の打田翼氏か、三井修氏の指示によるものだろう。
高野氏は短歌結社「塔」の会員だという。
私には「塔」には知人が何人か居る。
三井修氏には私の第五歌集『昭和』(角川書店)の「読む会」を東京で開いてもらったときに万般の設営のお世話になった。
三井氏との縁は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)出版記念会のときに出席して批評いただいた時以来、さまざまな世話になっている。
私の第二詩集『愛の寓意』(角川書店)には詳細な「栞文」を頂戴した。
「塔」選者の真中朋久氏には私の第六歌集『無冠の馬』(角川書店)の紹介を京都新聞「詩歌の本棚」の新刊のページで詳しくしていただいた。

前書きが長くなった。本論の、この本の批評に入りたい。
高野氏のことは何も分からない。「あとがき」や「著者略歴」にも何も書かれていない。生年月日も分からない。
この本には「栞」が挿入されていて、加藤治郎「未来の喪失」、川野里子「海が見つめる命」、三井修「立ち上がる景」が書かれている。
それぞれ二ページ半の文章である。掲出した図版のカバー部分にも、その要約が見られる。
三井氏の「栞」文にも「若い女性」とあるだけで何のヒントもないが、その栞文の冒頭の部分を引いてみよう。

<高野岬さんが横浜桜木町にあるNHK文化センターの私の教室に入ってこられたのはもう十年程前であった。・・・・・
葉山のマンションで絵をご趣味とするご主人と二人暮らしであること、お子さんはいないが犬を飼っていること、そしてその犬が死んでしまったこと、また、最近、頭部の手術をされたことなどが作品から窺われる。更に、クッキーなどお菓子作りの腕前もプロ級らしい。・・・・・>

高野氏は「息を掬ふ」三十首の作品で平成29年の「塔新人賞」を受賞されたという。
そのときの作品29首を含む「息を掬ふ」項目の歌が見られる。

*ワンピース風に飛ばされないための棒として駅のホームに立てり
*矢印して「海」と一文字書かれゐる東口から出づ 我が家へ
*定住組少なきリゾートマンションが暮るるにつれて黒くなりゆく
*潮見つつ聴くシンフォニー何処にゐてもブラームスなら信用できる
*海に眼を据ゑつつ夫は衿立てて手品のやうにネクタイをする
*綱つけて散歩するもの失ひて浜へ出ること少なくなりぬ
*都心から従ひて来て朝羽振る波を怖れし海(カイ)といふ犬
*スロープの切れる辺りで四階の吾を振り仰ぐ 君は必ず

この項目に載る歌から引いてみた。
冒頭の「風に飛ばされないための棒」と自分の体を捉えた比喩は目を引くだろう。
「犬」にまつわる歌は多い。巻頭から犬のまつわる歌が出てくる。
いちいち引くことはしないが、子供さんが居ないというので関心が犬にあったのだろう。 その犬が死んだのである。

*栗鼠が鳴くことなども知る社を退きし君と住みゐるこの半島で
*「裏駅」と呼ばるる鎌倉西口で夫待つ我は故郷もなく
*八重洲口出でて日傘を押しひろげ灼くる通りを眩みつつ行く
*踝のかたちが我と同じなり病室に父の足を見てゐる
*よその家の味噌汁飲めぬことなども我が眷属のくらさと思ふ
*海見つつ我等は日々に物を食む木の椅子ふたつ横に並べて

「族」うから─の歌を並べてみた。

その他、二人暮らしなので「旅」の歌も多い。いちいち引くことはしないが
<よもぎ麩の最後のふた切れ椀に入れ京都旅行のおしまひとする>
<珈琲を持つ手の揺れぬ米原でのぞみに越さるるひかり車内に>
<春の野に四つ葉さがせり香具山を描ける君を定点として>   などの歌が見られる。

この本に描かれる景は、ゆるやかに、さりげなく流露する。
<珈琲にさらさら砂糖を入れながら幾つの季節が過ぎただらうか>
<リビングの窓から見つつ住みをれば富士は我が家の重心となる>
<君の亡きあとも浜辺を歩くだらうその日も鷗が飛び立つだらう>
<吹き終へしハモニカ暗き客席にふはりと抛れり井上陽水>
<烏賊の内臓ごふつと流しに引き出しぬ墨の袋はみづかねの色>

小さな幸せの日々と言えるだろう。

*遺言を書く夫を避け春のうた口ずさみつつ掃除す我は
*ドヴォルザークで朝始むれば暮るるまで聴きてしまひぬドヴォルザークを
*夜の浜にフィフィと鳴くもの知りたしと言へど夫にはそれが聞こえず
*幸福であるんだらうなと思ふとき水平に飛ぶ朝のかもめ
*「明るい絵」描くと言はるる夫が今朝パレットに溶くコバルトブルー
*「配偶者」の項目のなし問診票[あなたの家族の病歴」欄に

「夫」にまつわる歌を集めてみた。

いよいよ巻末の「海に鳴る骨」の項目の歌に移りたい。

*ホトトギスの啼かない夏と思ひつつ書き込みのない暦を捲る
*ファイル手にFとふカウンター目指し病院内の往来をゆく
*「九割の完治」を聞けば忽ちに眼は一割を凝視してゆく
*三月後の病院の我思ひつつ祝はれる夜のビールほろ苦

詳しくは分からないが頭部の手術は悪性のものではなかったようだ。
「海に鳴る骨」とは、具体的に何を指すのだろうか。 
多くは語られないままに、海に「散骨」された犬の骨か、いつかは散骨されるかも知れない自分たちの「骨」の鳴る音なのか、さまざまに受け取られよう。

若い、才能ゆたかな作者の登場を祝いたい。
平穏に過ぎゆく世界を詠った歌集として仕方のないこととは思うが、いま一歩「起承転結」があれば、と思ったりする。
今後の推移を見守りたい。
ご恵贈ありがとうございました。               (完)


寒い夜にちっぽけな寓話を書いて、/重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす・・・・柴田三吉
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     寒い夜にちっぽけな寓話を書いて、
     淋しさの底に落ちる。・・・・・・・・・
     重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす・・・・・・・・・柴田三吉


この詩は「詩と思想」2017年11月号巻頭特集に載るものである。

        寓話      柴田三吉

        (前略)

   寒い夜にちっぽけな寓話を書いて、淋しさの
   底に落ちる。いまでは天も地も淋しいものた
   ちの寄せ集めだ。重い砲声がまた駱駝の喉を
   揺らす。
        (中略)

   存在と非在のあいだに愛と無縁の夜があり、
   肋がうずく夜があったとしても、この世に生
   じたものは耐えなければならない。

   なにかを失ったわたしたちは、深い亀裂を満
   たすなにかを思い出すほかないのだ。かつて
   抱擁と契りを重ねた天地。そのはじまりの歓
   びを、ひどく寒いこの夜のうちに。

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この詩は、いま中東で起こっている事象の暗喩であることは確かだろう。
<重い砲声がまた駱駝の喉を揺らす>という詩句など、秀逸である。
そして終連の四行が、この作品を締めくくる。

この柴田三吉という人のことは、私は何も知らないが、今年を締めくくる作品として、敢えて引いておく。
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柴田 三吉 (しばた さんきち)

略暦
1952年 東京生まれ。
季刊詩誌「Junction」を草野信子と発行。
詩集『さかさの木』 『わたしを調律する』 『遅刻する時間』 『非、あるいは』ほか。
日本詩人クラブ新人賞、壺井繁治賞を受賞。
『角度』(2014年)で第48回日本詩人クラブ賞を受賞。






      
詩「邂逅」<通し給え蚊蝿の如き僧一人>1792年一茶三十歳・・・・宮沢肇
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↑ 小林一茶像

     詩「邂逅」<通し給え蚊蝿の如き僧一人>1792年一茶三十歳・・・・・・・・・宮沢肇

この詩は「詩と思想」2017年11月号に載るものである。
見事なメルヘンの一篇となっているので、ご紹介しよう。

      「邂逅」       宮沢肇

     <通し給え蚊蝿の如き僧一人>
     1792年一茶三十歳
     関西から九州・四国を巡る西国への旅立ちの
     通行手形の一句であった
            ・・・・・・・・・・
    
     2000年のとある日の早朝
     ウィーンのミッテを出発した国境越えのバスは
     検問のため国境の町Bhonhofで停まった
            ・・・・・・・・・・・

     ひとりの僧服の男が
     検問所に隣接した木戸を開けて
     出てきた

     なんと 日本を出るとき眺めた
     ひとりの肖像画の田舎業俳ではないか

           ・・・・・・・・・・

     ぼくは車窓から思わず声をあげた
     あの一句はこんな処にまで神通力を発揮していたのだ
              
           ・・・・・・・・・

     車窓のぼくと眼を合わせたかれはいきなり
     何か弾けるような言葉を発した
     「ヤポンスキー・ヤタロウ」と
     ぼくの耳には
     たしかにそう聞こえた
         *「寛政句帳」より。
          「ヤタロウ」(弥太郎)は一茶の幼名

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宮沢肇氏のことは何も知らなかったが、多くの詩集をお出しになっておられる。

『雄鶏』(1959年) 『青春寓話』(1964年) 『仮定法の鳥』(1982年) 『鳥の半分』(1991年) 『帽子の中』(1996年) 『宮沢肇詩集』(1997年) 『朝の鳥』(2000年) 『分け入っても』(2003年) 『舟の行方』(2009年) 『海と散髪』(2015年) など。
ここに記して敬意を表しておく。






 ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳その安寧が私にはない・・・・・・・・・川本千栄
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 ↑ 第三歌集『樹雨降る』
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 ↑ ゴーギャン 「タヒチの女」シリーズ

       ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳
          その安寧が私にはない・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

                ・・・・・ながらみ書房2015/07/27刊『樹雨降る』所載・・・・・・

つい、この間出た本である。 掲出歌に因んで、ゴーギャン「タヒチの女」シリーズの絵を出しておく。
この歌集は、第一章から第六章に構成されており、2008年4月〜2014年3月までの6年間の作品、484首を収めている。
年齢でいえば46歳から51歳まで。
少し歌を引いてみる。

       ・泣き寝入りした子とただに疲れたるわれを隔てて襖戸はある

       ・性愛の薬缶は沸いて忙しなし男はわれの肌越えてゆく

       ・枯れかけたホテイアオイの陰にいる赤い金魚よ寂しいですか

       ・巻き緊むるもの持たざれば枯れてゆく 朝顔の蔓のごとき思いは

       ・冷えたがる頬へと指を突き立てて 思い出などは決して語るな

       ・重ねても重ねてもこの色ではない詠っても詠ってもこの言葉ではなし

       ・ゴーギャンのタヒチの女の丸い乳その安寧が私にはない

       ・木の雫す静かな時間 あなたとは出会わなかった生を思えば

       ・歌に詠む他には何ができるのか肉を持たざる歌というもの

       ・君はわれを軽く片手で制したり煮立てるような受話器取る前

これまで上梓された二冊の歌と同じように、事実を淡々と詠む歌風である。

二年前に、私は作者の歌を引いて、こんな記事を載せた。   ↓
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    絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌は、ここに載るものである。

この人は昭和37年生まれというから50歳を少し過ぎたところであろうか。
私の娘たちと同年輩である。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集長ということだが、略歴を見るとフリーターだったらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
この二人には「鮫と猫の部屋」という共同のホームページがある。参照されたい。
なお夫君の松村正直は2013年に「塔」の創立者『高安国世の手紙』(六花書林)という本を出され、あちこちに批評文がでるなど好評を得ている。
これは2009年から2011年にかけて「塔」に連載されたものである。
Wikipedia─「松村正直」に詳しい。

「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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他人の評論の引用ばかりが長くなった。
今回の第三歌集『樹雨降る』についても、そろそろ評論が出回ってくる頃かと思うが、長くなるので、今回は、この辺で終わりたい。


鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・小池光
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      鳥の卵ひとつのみほすあけぼのへ
           冷え冷えと立つをとこののみど・・・・・・・・・・・・・・・小池光


卵は昔は貴重品だった。
割れないようにもみ殻に入れて保存され、精がつくからという理由で、病人への見舞いによく使われた。
やや縦長の丸い形状、割れやすい殻、とりわけ内部に命を宿しているということが、豊かな象徴性を帯びる理由なのだろう。
キリスト教では復活祭に彩色した卵を飾るが、これも生命の復活・再生を表わしていることは言うまでもない。
またお隣の韓国には卵生神話というのがあり、伝説上の英雄は卵から生まれたとされているという。
卵の持つ不思議な性質が、いかに昔の人々の想像力をかき立てたかをよく示している。

はじめに、なぜ、今日「生卵」のことを書く気になったか、を言っておく。
角川書店「短歌」10月号の「シリーズ連載・歌人の朝餉」というページに花山多佳子が、こんな記事を書いているからである。
  
    <・・・・・卵は生卵も半熟卵も食べられないので、フライパンでしっかり押しつけて焼く。
      ふんわりしたオムレツを子どもたちにも食べさせたことがない。・・・・・>

この記事から思い出すのが、同じ短歌結社の重鎮だった河野裕子が、関西人特有の「おせっかい」で、おまけに「熱々メシに生卵」をかけて食べるという人で、
結社の人々に生卵を送りつけたというエピソードを思い出したからである。
贈られた花山多佳子は、前記のような育ちの違う、食習慣の違いから多量の卵を贈られて面食らった、というエピソードである。
ご存じのように、花山は東京育ちで、高名な歌人・玉城徹の娘であり、祖父も玉城肇という学者だから、この家では「卵かけ飯」というような習慣がなかったのだろう。
はじめに書いたように昔は生卵は貴重品であり、近年まで病気見舞いには生卵を二、三十個贈る習慣があった。
「地卵」と言って、知り合いの養鶏場から生みたての、新鮮な卵を、わざわざ取り寄せたりしたものである。
こういう食習慣というのは仲々抜けないもので、肉の焼き方などでもレアかミディアムか、など難しいものである。
:掲出した小池光の歌は、「生卵メシ」どころか、生卵をそのまま「呑み干す」というのである。

以下、「卵」を詠んだ歌を引いておく。  

   突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼・・・・・・・・・塚本邦雄

   取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり・・・・・・・・道浦母都子

   殻うすき鶏卵を陽に透かし内より吾を責むるもの何・・・・・・・・松田さえ子

   冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし・・・・・・・・岡井隆

   冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり・・・・・・・・大滝和子

   ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は・・・・・・・・穂村弘

    卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ・・・・・・・・高野公彦

    うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春たつ卵・・・・・・・・高橋睦郎

   卵黄吸ひし孔ほの白し死はかかるやさしきひとみもてわれを視む・・・・・・・・塚本邦雄

   生(あ)るることなくて腐(く)えなん鴨卵(かりのこ)の無言の白のほの明りかも・・・・・・・・馬場あき子

   永遠にきしみつづける蝶番 無精卵抱く鳥は眠れり・・・・・・・・錦見映理子

   鮮麗なわが朝のため甃(いしみち)にながれてゐたる卵黄ひとつ・・・・・・・・小池光

   女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ・・・・・・・・黒瀬珂瀾

黒瀬の歌では「うすくれなゐ」となっているから、卵の色は白ではなく赤玉だと思われる。
ふつう卵は白として形象されることが多い中では珍しい。
ちなみにフランスでは卵はすべて赤玉で、白いものは売っていない、と言われるが私はまだ確かめては居ない。

    卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに・・・・・・・・前田夕暮

   てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力・・・・・・・・佐藤弓生




Post Coitus 不思議な店のマスターは至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏
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 ↑ 精子の電子顕微鏡画像

        ■Post Coitus 不思議な店のマスターは
                   至つて無口シェイカーを振る・・・・・・・・・・・・永田和宏


この歌に引き続いて

     受精後と読むは科学者 性交ののちと言ふとももとより可なり

     よろこびか哀しみか然(さ)あれ受精とは精子を迎へ容れること


と続いている。 これらの一連は角川書店「短歌」誌2015年一月号に載るものである。
ご存じのように永田は細胞生物学者で、京都大学を経て、目下、京都産業大学教授である。
有名な歌人・亡河野裕子の夫である。 Wikipedia─永田和宏

この歌の出だしのラテン語「Post Coitus」というのも、いかにも学者らしい、ディレッタントなもので、私などは、こういう知的な「言葉遊び」に微笑む。
実際に、こんな名前のバーがあるのかどうか、も私には判りかねるし、フィクションとして捉えるのが、むしろ面白い、と言える。

つづいて、こんな歌が見つかったので引いてみる。

f0071480_17544581亀のピカソ

       ■はなたれてちぢむペニスよこのあした
                <東大教授>もパンツを脱いで・・・・・・・・・・・坂井修一


この歌の作者はコンピュータ学を専攻する東大教授であり、かつ歌人である。
この歌には詞書「朝風呂」と振られており、かつ「11/9」という日付がついている。
この歌は歌集『亀のピカソ─短歌日記2013』に収録されているものだが、初出は、ふらんす堂のホームページに「短歌日記」という一年間の連作のシリーズとして掲載されたものである。
これらは、もちろん「歌」作品であるから、フィクションとして捉えるべきであろう。
朝風呂でなく夜の風呂だったかも知れないが、詩的真実=リアリティ、として呈示されていると理解すべきである。
しかし「東大教授」という地位に居る人物の歌だからこそ、そして坂井修一という知の巨人の背景がわかるからこそ面白いのである。

彼の経歴について、Wikipdiaを引いておく。   ↓

坂井 修一(さかい しゅういち、1958年11月1日)は日本の歌人、情報工学者、東京大学教授。愛媛県出身。
短歌結社「かりん」に所属し馬場あき子に師事。科学者としての視点を生かしながら人間的な振幅を示す表現が特徴。現在、現代歌人協会理事。また、工学の分野でも活躍し、電子技術総合研究所(現:産業技術総合研究所)に勤務していたときに、汎用性があるという意味で世界初といわれている高並列データ駆動計算機「EM-4」の開発に参加する。その後マサチューセッツ工科大学に学び、筑波大学助教授、東京大学工学部助教授、情報理工学系研究科教授。情報処理学会フェロー、電子情報通信学会フェロー、日本学術会議連携会員でもある。
妻は同じく歌人の米川千嘉子。

こんな歌は、どうだろうか。

海図

      ■断食(ラマダン)を正しく守る前相撲
                 大砂嵐はエジプト人なり・・・・・・・・・・・三井修


この歌は歌集『海図』に載るものである。 三井修氏は、私がいろいろお世話になっている人である。
角川「短歌」誌2015年一月号に載る巻頭・特集の文章によると、

<大砂嵐の本名は アブダラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハマッド・シャラーン。
 四股名・大砂嵐は、本名に因んで、砂=シャ、嵐=ラン、から付けたというのは本当か。>

と書かれている。 私も真偽のほどは判らないが、相撲部屋の親方が、上のようなことで付けたとすれば、極めて愉快である。
その彼も今や幕内力士の中堅として活躍している。
私も注目する一人である。
本名を見ると、イスラム教でも、キリスト教と同様に、ミドルネームに聖人などの名前を連ねるらしい。
三井修氏は東京外国語大学でアラビア語を専攻され、商社で何度も中東の地に駐在員として活躍された人であり、中東研究の第一人者である。  Wikipedia─三井修
歌集『海図』については、このブログで昨年一月に紹介した。

今日は、現在、トップを走る歌人たち三人の「言葉遊び」と私が呼ぶ歌を引いて、書いてみた。 いかがだろうか。


怖いもんって/そら嫁はんにきまってますがな/なにがしとやかな京おんなですか/芯はきついですわ・・・・・・・・根来真知子
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     怖い・・・・・・・・・・・・・・・根来真知子

     怖いもんって
     そら嫁はんにきまってますがな
     なにがやさしいですか
     なにがしとやかな京おんなですか
     芯はきついですわ
     こないだもな・・・・・・・
     <Nさんの眼がここでマジになった>

     ついこのあいだも
     捨てたつもりの電話番号のメモ
     見つけられましたんや
     へぇ ちょっとかわいらしい子ぉどしたんや
     嫁はん そのメモをつきつけてひと言
     「家(うち)にあるもんは買わんかてよろしい」

     それだけで終わりますかいな
     翌月 えらい金額の請求書がきましたわ
     へぇ わしあてに
     恐る恐る聞いたら
      なんたらちゅう名ぁのハンドバッグらしいですわ

     そんなん家(うち)にたんとあるのに・・・・・・

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この愉快な詩も『滋賀・京都 詩歌紀行』に載るものである。
京都人の見かけでは判らない、芯は冷徹な人柄の一端を、巧みに捉えている。
掲出した写真は、私が勝手に載せたものであるが、このバッグも十数万円余りの値段がついている。
初めてパリに行ったとき、娘に頼まれてポシェットを買いにルイ・ヴィトンの本店に行ったことがある。
今まではシャンゼリゼを入った横丁にあったが、2005年にシャンゼリゼの大通りに面したところに「新」本店が出来たらしい。
もう、ん十年前の話である。


言語とふ異形の遺伝子持ちしよりひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史
ひも

    ■言語とふ異形の遺伝子持ちしより
        ひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史


聖書に「はじめに言葉ありき」という教えがある。
これはイエス・キリストの言葉を信じよ、ということであろうが、「はじめに言葉ありき」という言葉は、さまざまにバリエーションをつけて語られてきた。
人間が他の生物と異なるのは「言語」を持っているからだと言われる。
それは正しいだろう。
だが、掲出した沢田英史の歌のように、この「言葉」というものを持っているが故に、人間は言語に縛られ、動きがとれなくなった、とも言える。
私にも、こんな旧作がある。

   ■「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統(す)べられつ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の「エッサイの樹」という連作に載る11首の中のものである。
この項目名からも分かるようにキリスト教──旧約聖書、新約聖書に因むものであるが、西欧世界に遊ぶと、キリスト教が、かの地に深く深く根を張り、
がんじがらめに支配していることを知らされる。
私の歌は、そんなヨーロッパの地を覆う、いわゆる「言葉」なるものの存在を意識したものである。

沢田英史の歌は、「異形(いぎょう)の遺伝子」という側面から「言語」「言葉」というものを捉えた秀歌である。

この歌の前に、「対」になるように、こんな歌がある。

   ■遺伝子を残さむがため生くるなり
        生物のいのちは単純明快・・・・・・・・・・沢田英史


この二つの「対」になった歌で、ひとつの主張がなされていると言うべきだろう。
秀歌という所以である。

ヨーロッパの「精神史」に触れると、この「大枠」の中で、中世以後、デカルトをはじめとして多くの知識人が苦悩してきた事実が判って来る。
そして多くの人がカトリックに回帰してゆく。唯一、回帰しなかったのはサルトルとボーボワールの夫婦だけだったのでないか、という気がする。
「中世」が今に生きている、と言えば、そんな大げさな、と言われるかも知れないが、アメリカのブッシュ大統領が、現代の「十字軍」を標榜していた事実を見られるが、よい。
そして、結果として、イスラームを敵に廻してしまい、にっちもさっちも行かなくなった、というのがイラク戦争の報いであろう。
ひと頃、前ローマ法王が、中世の十字軍は間違いだった、とイスラームに謝った、というのに、ブッシュは時計のネジを逆に廻してしまったのだった。

その後の世界の推移は、ますます混迷を深めている。
「アラブの春」と称せられる運動も、果たしてどういう方向に向かうのか行方定まらない。
独裁者も無くならない。
日本の近海も騒々しい。 中華の「覇権主義」も相当なものである。日本人はますます「内向き」になろうとしているし、気がかりである。



われわれはどこからきたか われわれは どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好
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    われわれはどこからきたか われわれは
       どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好


『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
原題は '''D'où venons nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?  である。
この絵と言葉を日本に最初に紹介したのは大正年間の「白樺派」の雑誌であった。
ゴーギャンの絵の題名としても有名であり、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている。

以下、ゴーギャンなどについてネット上から引いておく。
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ポール・ゴーギャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 ~ 1903年5月9日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館) (掲出の図版①の絵)
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。
死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
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図版②にゴーギャンの自画像を載せておく。
484px-Paul_Gauguin_111ゴーギャン自画像

掲出した歌の作者・栗城永好は昭和6年生まれの「沃野」という結社に所属する人であり、
この歌は、はじめに紹介した有名なゴーギャンの言葉を歌の中に取り込みながら、趣ふかい歌に仕立てあげた。
この歌につづいて、こんな連作になっている。

   ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・栗城永好

  希望とは待つことである ひつそりと診察を待つ二時間余り

  点滴は天のしたたり 外は雨 誰もおのれの余命は知らぬ

  サヨナラをいくたび言へどどこらまで己れさらしてゐるのだらうか

  虫けらも人間もいのち奪ひあふ地球は青き星といひつつ

何とも命を深く見つめた佳作であることか。最近こういう、しっとりとした佳い歌に出会うことが少ない。
角川書店「平成19年版・短歌年鑑」に載るものから引用した。



日動画廊扉の把手は青銅の女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英
CHR_6029ピエール
↑ 「クリスティン・ピエール展」から──パリ日動画廊ホームページより

──東京風景いくつか──

   ■日動画廊扉の把手は青銅の
      女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英


日動画廊(にちどうがろう)は1928年創業の洋画商。日本国内の洋画商としては、最も歴史があるとされる。
店の名前の由来は、最初の画廊は日本橋の高島屋の近くだったが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。
日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。
HPを見ると、系列に名古屋、福岡、フランスのパリ、軽井沢、茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、今の所在地は銀座5-3-16。
毎年作家の個展を開催している。現在まで多数の作家たちを輩出してきた伝統ある画廊とされる。
取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
関連するネット上を閲覧すると、こんな記事があった。

<日動画廊の長谷川智恵子副社長が2009年11月19日、フランス大使公邸で行われた叙勲式で、レジオン・ドヌール勲章オフィシエに叙されました。
長谷川智恵子氏は夫の長谷川徳七氏(日動画廊社長、1998年芸術文化勲章コマンドゥール受章)とともに、フランス美術を印象派から近代、現代美術に至るまで日本に広く紹介し、国内多数の美術館のコレクション形成に貢献したほか、笠間日動美術館(茨城県笠間市)の創立にも尽力しました。>

今の社長は長谷川徳七というらしい。

私の記事をご覧になった光本恵子さんから、次のようなメールをもらったので感謝して、披露しておく。 ↓

< 日動画廊の長谷川氏の先祖が鳥取県の赤碕の出身で、その関係で赤碕の港に三度笠の石彫ができました。
それは神戸の港のメリケン波止場にも同じ人の作品で「海援隊」の石彫があります。
作品紹介には、
「著名な彫刻家・流政之氏が「波しぐれ三度笠」というタイトルで制作した彫刻で、日本海に映えるすばらしい景色をつくり出している。」
と書かれています。 
赤碕の菊港(明治の半ばまで千石船が通っていた港――私は幼い頃この港で泳いでいました)の丸石で組んだ防波堤の先端にこの彫刻があります。
この地は日本海でも最もたくさんの墓地が日本海に沿って「花見潟墓地」があります。それは見事な墓地です。司馬遼太郎の書いたものの中にもあります。 >

光本恵子さんも、ここ赤碕のご出身である。

掲出の阿木津英の歌は、店のドアの把手が青銅製の「女体」だとして、その腰のくびれをつかむことになるのを、巧みにエロチックに表現して秀逸である。

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   ■電脳に追いたてられてふらふらの
        僕は歩くよ夜の地下鉄・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗明純生


この人は確か「銀座短歌会」というところに所属する若手の都会派歌人である。
写真は「地下鉄博物館」に展示される丸の内線301号車と奥は銀座線1001号車である。以下は、その説明。

<未だファンの多い丸ノ内線の真っ赤な車両。いくつかは払い下げになり個人で所有している方もいらっしゃるとか。
そんな人気の真っ赤な300型車両は、どんな活躍をしてきたのでしょうか。
博物館では、車内に入ると窓に映写機で映し出された開通当時から博物館に納められるまでの映像を見ることが出来ます。>

   ■地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり・・・・・・・・・・・・・・前登志夫

この歌も青春の日々に過ごした東京を偲んで作られている。奈良・吉野山住みだったが先年亡くなった。

   ■大江戸線地下ふかぶかと降りゆくに青きあやかしかケータイ光る・・・・・・・・・・・・小島熱子

大江戸線が開通して、もう数年になるが、それまで不便だったところが大変便利になった。
後発の路線ということで、走る深度はとても深いから、駅について地上にでるのに急角度のエスカレータに延々と乗ることになる。
そのエスカレータの速度が遅いのでイライラする。こんなときに思い出されるのがロシア・モスクワの地下鉄のエスカレータの速さである。
ここも地下深いので、必然的にエスカレータが速くなったものだろう。各駅もそれぞれ装飾的で、個性があって面白い。
東京で一番新しい地下路線は「りんかい線」だろうか。ここも便利になって埼京線川越まで直通で行ける。
私は京都人なので、東京には時たま行くだけで詳しくないので、間違いがあったら訂正してほしい。

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    ■鶯も通ったろうかうぐいすだに 
      かつて東京は川と谷と武蔵野の森だった・・・・・・・・・・・・光本恵子


鶯谷駅は大ターミナルである上野駅の隣に隠れて影が薄く、都区内のJR駅の中でもとりわけ地味で小規模である。
それを裏付けるかのように、山手線の駅ではいちばん乗降客数が少ない。
駅の西側は上野の山で、寛永寺の墓地になっている。
東側は市街地だが、なぜかラブホテルが密集している。駅ホームから眺めても、ラブホテルばかりが目につく。
こんなにも駅からラブホテルが見える駅も珍しい。

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   ■「笹の雪」の暖簾(のれん)のかたる昔もあって
            根岸の里の入り陽の朱・・・・・・・・・・・・・・・・・梓志乃


「根岸」というと正岡子規が住んでいたところで、今は台東区になっているが、ここには私は、まだ行ったことがない。
古い家並などが残っているのだろうか。この歌からは、そんな気配も感じられるのだが。。。。
ネット上に載る記事によると、この「子規庵」のあるのは「笹の雪」の看板のある辺りらしい。そこで聞けば判ると書いてある。
Wikipediaに載る記事を引いて終りたい。
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俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においては、所謂月並俳諧の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。
またヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においてはいくつかの問題を指摘することもできる。
俳諧におけるゆたかな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉の所謂「挨拶」の心を失ったこと。
連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと、
などは近代俳句に大きな弊害を与えているといってよい。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。
これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。
当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。
彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。

『歌よみに与ふる書』における歌論は、俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。

特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子として、その主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。
いまでも否定できない俳句観である。

日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶる大きいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。


踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ/磨りきれた傷を残して/切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた・・・・・・・・中原道夫
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    東京メトロ霞ケ関駅で・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫

     踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
     磨りきれた傷を残して
     通勤ラッシュのメトロのホームに
     切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

     跳び乗った電車の中で
     踵の無くなった靴の持ち主は
     やがて自分の足が
     ちぐはぐで不揃いになっていることに気がつくことだろう
     そして、だれも恨むことのできないこの不幸なできごとを
     仕方なしに笑いに替えてごまかすことだろう
     (ああ、参ったな、困ったな、どうしよう)

     泣きだしたくなるようなこの笑い
     困惑を吃逆のように呑み込んでしまうこの笑い
     ぼくらの日常に纏わり付いているこの笑い
     ぼくは無性に切なくなって
     磨りきれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
     哀しいぼく自身を拾うように

     まもなくホームに電車が入ってくる
     通勤客が降りてくる
     いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
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念のために書いておくと「霞ヶ関」駅の名前の表記は「ケ」を全角で書くのが正式であるらしい。小文字にしない。
この中原の詩の場合、きちんと「霞ケ関」と書いてある。さすがである。

この詩は<日本詩歌紀行3 『東京 詩歌紀行』>(2006年北溟社刊)に載るものである。
現代の都市交通のありようやサラリーマンの哀歓の様子が、かいま見られるだろう。
因みに、付け加えておくと、私の旧作の歌3首も収録されている。

   うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

   振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

   ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・木村草弥

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参考までに霞ヶ関駅を発車する「小田急電鉄メトロはこね23号東京メトロ千代田線」の動画を載せておく。






あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部
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──<恋>の歌鑑賞──

   あらざらむこの世のほかの思ひ出に
        いまひとたびのあふこともがな・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部


『後拾遺集』巻13・恋に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」として見える歌で、病のため不安を感じ、ある男性に送った歌なのだが、
何よりも『百人一首』中の名歌として、あまねく知られている。

歌の意味は「自分は病気が重くなって、命は長くないかも知れない。「この世のほか」である「あの世」に移ってからの思い出のために、せめてもう一度あなたにお会いしたい、会ってください、ぜひとも」との思いをこめて男に贈った歌である。贈られた相手が誰であるかは判らない。
図版は狩野探幽が描いた百人一首のための和泉式部像である。
izumi和泉式部画探幽

和泉式部は23歳で和泉守(いずみのかみ)橘道貞と結婚し、翌年には娘・小式部をもうけたが、道貞が仕える太皇太后宮(冷泉帝皇后)が病気療養の「方たがえ」のため、太皇太后宮の権大進でもあった道貞の家に移り、そのままそこで崩御されたことから式部の運命は狂った。太皇太后宮のもとへ、異母子の為尊親王(冷泉帝第三皇子)が見舞いに訪れるうち道貞の妻・式部と知るところとなったためだ。親王22歳、式部は27歳くらいだったらしい。この情事はたちまち評判になった。道貞は妻を離別し、式部の父も怒り悲しんで娘を勘当する。ところが、為尊親王は24歳で夭折される。式部は悲嘆にくれるが、運命は彼女のために更に数奇な筋書きを用意していた。亡き親王の弟・帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王が新たに式部に言い寄り、彼女もまもなくその恋を受け入れたからである。当時、敦道親王は23歳、式部は30歳くらいだったらしい。親王はすでに結婚していたが、年上の恋多き女・和泉式部にうつつをぬかし、彼女を自邸の一角に移り住まわせる。親王の妃は屈辱に耐えず邸を去った。年若い男の恋の激しさは異常なもので、式部の方も、この眉目秀麗な皇子を深く愛した。
しかし式部はこれほどの仲だった敦道親王にも、4年あまり後に先立たれる。式部は悲しみの底から恋の尽きせぬ思い出によって染めあげられた悲歌を124首にものぼる多くの歌を詠んだ。

     捨て果てむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにしわが身と思へば

     鳴けや鳴けわが諸(もろ)声に呼子鳥呼ばば答へて帰り来(く)ばかり

     たぐひなく悲しきものは今はとて待たぬ夕のながめなりけり

だが、このような深い嘆きを詠いながらも、彼女は男に寄り添わねば居られなかったし、男たちもまた言い寄ったらしい。女として、よほど魅力があったのだろう。
一条天皇の中宮・彰子に仕えたのはその後のことだった。紫式部、赤染衛門らも同僚であった。
ある日、中宮の父・藤原道長が、彼女の扇に戯れに「うかれ女(め)の扇」と書いたことがあった。
平安朝の、一種、自由恋愛過剰とも言うべき時代ではあっても、時めく権力者から「うかれ女」の異名を奉られるのはよほどのことで、彼女の生き方が周囲からどれほどかけ離れていたかを鮮明に示すエピソードだろう。

     枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢

この歌は、彼女が予想もしない時に言い寄られ、枕さえない場所で「春の夜の夢」のように短い、しかし激しい逢引をした後、男に贈った歌だ、と窪田空穂は解釈している。
醜聞を嫌って「君語るなよ」と言わずにおられなかったほどの情事であり、また思いがけない相手であったと思われる。
しかし、そのように男から男へ遍歴を重ねても、彼女の生の渇きそのものだったと言えるほどの十全な恋への夢は、満たされることがなかったようだ。
恋によって傷つき、その傷を癒そうとして新たな恋に走る。得体の知れない苛立ちのような不安が、和泉式部の歌の中で、暗い命のほむらとなって燃えているように見える。
そういう意味で、次の有名な歌は和泉式部の心の本質的な暗さを象徴しているような歌である。男に忘れられて、鞍馬の貴船神社に詣でたときに作ったものという。

     もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る

古代以来のものの考え方からすると、魂が肉体を遊離することは「死」を意味する。
和泉式部は恋を失うことが、そのまま自らの死を意味するほどの激しさで、恋に生の完全な充足を求めた女性だったらしい。しかし、現実には、そのような要求に応え得る男は居なかった。
恋に身を焼かれながら、ついに魂の満たされることのなかった彼女の叫び──それが彼女の歌である。

     如何にせむ如何にかすべき世の中を背けば悲し住めば住み憂し

     とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は

この引き裂かれた心の嘆きは、遠い平安朝の女の歌とは思えない現実感をもって私たちに迫ってくるものがある。


地球儀を廻せば果てなし世界地図母国がいつも中心にあり・・・・・・・・・・・・浅井のりこ
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      地球儀を廻せば果てなし世界地図
               母国がいつも中心にあり・・・・・・・・・愛知県 浅井のりこ


この歌は角川書店「短歌」誌の2013年1月号の題詠「球」の応募作として入選したものである。 選者は楠田立身氏である。
この歌は「地球儀」を詠ったものとしては、正確ではない。
「平面地図」であれば、ここに詠われるように、どこの国の地図も、いつも「自国」を真ん中に描いているだろう。
しかし「地球儀」は丸い地球を模ったものであり、ほぼ地球の現実の配置図になっているもので、例えば、日本は必ずしも地球儀の真ん中にはないからである。
地球儀というのは、「地軸」の傾きに沿って軸が貫いており、それをくるくる廻して各国を見るようになっている。
作者は、平面地図と地球儀とを「錯覚」して、歌に作られたようである。 歌の意味として違和感がある。
異議を申し立てるようで恐縮だが、選者の楠田氏の間違いだろう。 私なら、正確を期して、この歌を選ばないだろう。


今しも、韓国が「日本海」を「東海」と呼称するよう求める動きが、アメリカ在住の韓国系住民から出てきたりしている。
これなども地図の「平面図」的な発想に発している。韓半島から見れば、確かに「東の海」であるからだ。
他方、日本なども「日本海」の表記にこだわる必要もないのである。
とにかく日本の苛酷な植民地支配に対する反感、反動が、いま民族感情のうねりとして噴き出ているのだ。
ついでに書いておくと、韓国に行ってみると判ることだが、「朝鮮」という言葉を使うことにも反発があり、「朝鮮半島」ではなく「韓半島」と呼ぶ、などである。

この歌を見たとき、私も一瞬、「平面地図」を思い出して、肯定しそうになったが、すぐに間違いに気づいた。
私宅にも子供たちの学習用に買ったものだろうか、いまも地球儀が一個ある。
この「題詠」の欄には全部で50余りの入選歌が載っているが、

   角のある小家具ばかりのわが部屋にけふは学習用地球儀を置く・・・・・・岩手県 加藤英治

という歌が選ばれている。
詠み方は違うが、この歌には何ら違和感はない。
こんな歌も採用されている。

   婆生まれし台湾さがすおさならは芋型よねと地球儀を見る・・・・・・兵庫県 清水勝子

この歌も面白い。台湾=フォルモサの形を「芋型」とは子供らしい表現である。
「球」という題詠の課題に対して地球儀を詠ったのは、この三つだけである。
他は野球の球やサッカーボールを詠ったものなどが多い。 では、他の歌を引いておく。

   卓球野球蹴球排球籠球と漢字は固くよく動けない・・・・・・神奈川県 越田勇俊

   青年の指黙黙と球根を育てるために花を摘みおり・・・・・・茨城県 杉山由枝

   天災に目覚めし国の団結の「絆」の文字が球に書かるる・・・・・・三重県 福沢義男

   溶ける球ぐるり回して吹きやれば丸き形の風鈴が出づ・・・・・・東京都 松永弘之

   隠し球持たぬ手の内吾が持つは少しの希望と多くの祈り・・・・・・東京都 芹沢弘子

   吹きつのる春の疾風にタンポポの綿毛は球のスクラム解かず・・・・・・和歌山県 久保みどり

   「別に」とか返す日続く反抗期言葉のボール帰らぬ九月・・・・・・神奈川県 高司陽子

   明日逝く夫の命を知らずして孫と遊びし球磨川下り・・・・・・千葉県 田中房枝

   夕暮れにボール片手に帰りゆく子等と蜻蛉に開かれしドア・・・・・・青森県 桜庭喜久枝

   何となく覚えづらくて苦手なりし球の体積・表面積を・・・・・・大阪府 遠藤八重子

   たつぷりともろてに抱き描きたるまるみなるべし球子の富士は・・・・・・千葉県 渡辺真佐子

   見逃せばホームランとなるフェンスぎは超美技となる刹那のジャンプ……静岡県 鈴木昭紀

   変化球少しは混ぜてみようかと職退きし後の生活プラン・・・・・・愛知県 藤田浩之

   石や川花に蝶々犬や猫そして私も地球のかけら・・・・・・神奈川県 ひかり

   



暗闇を泳ぐ生きものだったからまなこをなくしたのねペニスは・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
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    暗闇を泳ぐ生きものだったから
        まなこをなくしたのねペニスは・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生


佐藤 弓生(さとう ゆみお、女性、1964年2月15日 生れ )は、詩人、歌人、翻訳家。石川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。
夫は作家・評論家の高原英理。 井辻朱美の影響により作歌を始め、1998年より歌誌「かばん」所属。
2001年、「眼鏡屋は夕ぐれのため」で第47回角川短歌賞受賞。幻想的な作風。

著書
詩集『新集・月的現象 』沖積舎 1991
第1歌集『世界が海におおわれるまで』 沖積舎 2001
詩集『アクリリックサマー 』沖積舎 2001
第2歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため 』角川書店 2006(21世紀歌人シリーズ)
第3歌集『薄い街』 沖積舎 2010

翻訳
英国風の殺人 シリル・ヘアー 世界探偵小説全集 国書刊行会 1995
地下室の殺人 アントニイ・バークリー 国書刊行会 1998(世界探偵小説全集)

佐藤弓生の作品を私は余り知らない。 アンソロジー『角川現代短歌集成 』から少し引く。

  生まれる子生れない子とひしめいて保温ポットの中のきらきら

  わたしかなしかったらしい冷蔵庫の棚に眼鏡を冷やしおくとは

  かんたんなものでありたい 朽ちるとき首がかたんとはずれるような

  まっくらな野をゆくママでありました首に稲妻ひとすじつけて

  みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ

  往診の鞄おおきくひらかれて見れば宇宙のすはだは青い

  うさぎ入りガラスケースに手をかざし生がまだよく混ざっていない

  胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を

  人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった地球は

  ほろほろと燃える船から人が落ち人が落ちああこれは映画だ

  百の部屋百の机のひきだしに息ひそめおり聖書の言葉

  コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

不完全な引用で申訳けないが、この人は基本的に「詩人」だなと思う。
既成の「歌人」という分類では分けられないと思う。
掲出した歌も、恐らくは連作だろうと思うのだが、この歌の前後に並ぶ歌が判れば、もう少し判るだろう。
後から引いた12首の歌は作者の自選だから自分でも好きな作品なのだろう。
掲出歌と、この12首の歌とで連作として読んでも面白い。
「ペニス」に因んで、画像には「スペルマ」の顕微鏡写真を出してみた。



かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄
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   かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

このところ前衛俳句を採り上げている気がするが、今日も、そういう系統の作者にする。
三橋敏雄である。
昭和10年当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より「無季俳句」を推進する。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。昭和42年現代俳句協会賞。平成元年第23回蛇笏賞受賞。

先日採りあげた富沢赤黄男と同じような俳句革新派であるが、赤黄男とは20年以上の年代差がある。
私は文芸への接近を、現代詩からはじめたので、おとなしい句もいいが、時には、こういう革新派というか、前衛的というか、の俳句も面白いと思うのである。

PICT0913-thumb飛ぶカモメ

この句は昭和16年刊の第1句集『太古』に載るもので、彼自身の自選句でもある。
俳句詩の制作を意識した句であることは、間違いない。
「天金の書」を開くたびに「かもめよ来い」という句づくりは現代詩のものである。この句につづいて

  少年ありピカソの青のなかに病む

という句が並んでいる。この句もピカソの「青の時代」と称される絵を見ての作品であるが、とても面白い。
これも句集『太古』に載るもの。

以下、少し句を引いて終りにする。

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

  海山に線香そびえ夏の盛り

  共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに

  昭和衰へ馬の音する夕かな

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

  日にいちど入る日は沈み信天翁

  母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

  夕景や降ろす気球のあたま一つ

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  天地や揚羽に乗つていま荒男

  晩春の肉は舌よりはじまるか

  くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ

  緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋

  夏百夜はだけて白き母の恩

  裏富士は鴎を知らず魂まつり

  ぢかに触る髪膚儚し天の川

  汽車よりも汽船長生き春の沖

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

  沈みたる艦船の数海燕

  いづこへも行かぬ竹の子藪の中
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Web上に載る下記の記事を引用しておく。

 永遠なる戦争俳句――★三橋敏雄句集『弾道』に学ぶ 宮二健

 平成13年12月1日、俳人・三橋敏雄が他界した。大正9年11月8日生まれの82歳だった。敏雄がハイティーンの頃に、関わった「戦火想望俳句」の周辺に注目してみたい。戦争は、理由いかんと規模を問わず、世界のどこかで繰り返され続けており人類永遠の蛮行と言わざるをえない。比喩的な戦争を含めれば、世は正に戦時下にある。時代遅れな戦争俳句を持ち出したのは、常に時期なのが戦争だからだ。敏雄の訃報以前の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。それに端を発した対テロ戦争、以前からのソマリアの内乱やイスラエル対パレスチナの戦争などと、私達は背中合わせに生存している。戦争との共存は時空の遠近関係では計れないほど深刻で身近な問題だ。
 しかるに昭和10年頃台頭した超結社的新興俳句運動に、17歳で新興俳句無季派として頭角を表した敏雄の存在が気になる。14歳で「句と評論」所属の渡辺保夫に俳句の洗礼を受け兄事し、次に師としての渡辺白泉と西東三鬼に恵まれた。戦時下という社会背景の許に最前線の俳句環境と敏雄自身の才と志の三拍子が揃っていた。初期作品篇句集『青の中』(コーベブックス・昭和52年3月刊)は、昭和10年の15歳から20歳迄の作品集であり、同時期の戦火想望俳句集『弾道』(深夜叢書社・昭和52年7月刊)は、昭和13年に「風」と「広場」に発表した93句からなる。また、15歳から44歳迄の作品集の第一句集『まぼろしの鱶』(俳句評論社・昭和41年4月刊)と『弾道』は13句が重複する。当時新進の俳句表現で満17歳の若者が持てる知識と想像を巡らして戦争の有様が詠まれた。まず『弾道』の後記を参照して概要をつかみたい。
 昭和11年に二・二六事件が起き、12年7月7日に日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。その頃、新興(革新)俳句運動は停滞の兆しが見えていた。おりしも、その前期の新表現様式の張本人で有季固守の山口誓子が「俳句研究」12年10月号の誌上で、銃後よりも前線で「本来の面目を発揮するがよかろう。刮目してそれを待とう。もし新興無季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかったら、それはついに神から見放されるときだ」と挑発し、西東三鬼は「京大俳句」12月号の誌上で「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面白を輝かせるに絶好の機会だ」と檄を飛ばしけしかけた。敏雄はそれらの揚言に「鼓舞扇動された」と自ら記している。そして、戦争に向き合う新興無季俳句表現への志向は三鬼に、表現の外形は誓子の構成手法に拠った。
 『弾道』の20章中1章~12章の全57句は、渡辺白泉と小沢青柚子共同編集の「風」昭和13年4月第7号に「戦争」と題して発表した連作だ。後に戦火想望俳句と呼ばれた。その内の数句について「サンデー毎日」6月26日号で、誓子が「私は主義として無季俳句を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればこういう方向のものを作るのではないかという気がする」と、自己矛盾めく弱腰な評言を放った。そのことは激賞したと言われている。若い敏雄に与えた誓子の高評は終生の勉励意欲に多大な影響を与えたことだろう。敏雄の逸材を見抜いた誓子が賛意を表した句を、「俳句研究」昭和35年12月号より引用しておこう。

 射ち来たる弾道見えずとも低し
 嶽々(やまやま)の立ち向ふ嶽(やま)を射ちまくる
 嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
 砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
 そらを撃ち野砲砲身あとずさる
 戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
 あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
 夜目に燃え商館の内撃たれたり

 三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫 平成8年刊)の解説で澤好摩が「射ち来たる」「そらを撃ち」「あを海へ」「夜目に燃え」の句を抄出して、次のように評している。
 「全て無季であるという事実によって、〈戦争〉が異化した現実として存在するという側面を、よりいっそう鮮明に提示している」「『季』という日常性を切り離すことで、〈戦争〉は俳句にとってリアルな対象となりうることを、いち早く少年・三橋敏雄は察したのである」「少年の曇りなき眼がとらえた〈戦闘〉場面であるというにとどまらず、新興俳句運動のなかから導き出された無季俳句提唱に対する、見事な実践であり、大きな成果をもたらした」「少年らしい清潔な抒情の表出と、無季俳句の実践によって新たな表現領域を見出した」
 俳句で当然とされている有季に拠らないで、無季という異様さを呈し、その疎々しさをもって戦争俳句の真実味を獲得したという事だろう。異化とは鋭い指摘だ。俳句表現でも異化効果の斬新さなくして革新性は望めない。銃後でありながら、純真な眼差しが捉えた戦場の景は、天下泰平の証しでもあるような季語信奉に与しないで描かれた。当時のモダンでクールな誓子俳句に傾倒した事とあいまって独創的な連作となった。若輩の敏雄が無季俳句の実践によって成した新たな表現領域は、平成に至っての澤好摩の別角度からの適評によって再度決定付けられた。この成果は今後の俳句表現活動へも引き継がれなくてはならない。その新領域を生かし押し進める実践者の一人として私も名乗りを上げよう。

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む 誓子 (昭和7) 32歳
 夏草に機関車の車輪来て止まる (昭和8)
 夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸(ひた)る (昭和12)
 水枕ガバリと寒い海がある 三鬼 (昭和11) 36歳
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り (昭和12)
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク (昭和14)

 当時の誓子と三鬼の名句である。これらの俳句は、物と動きが冷静に捉えられており、虚子の花鳥諷詠下の客観写生、つまり制縛的抒情とは一線を異にしている。句に投影されたドラマの一齣は、あたかも現実から切り取られた物証の提示のようだ。敏雄の「戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ」の、まるで巨大な昆虫のような戦車の句は、誓子の第一句「かりかりと…」での擬音語の生々しい迫力に感化されたのではあるまいか。また「…掻きすすむ」の動詞の連続は、誓子の第二句「夏草に…」の動きを畳み掛けるようにして、ドラマの終結に持っていく切れの鋭さと通底する。無粋だが「がりがりと戦車が蜂に来て止まる」と想望し、切り貼りすると3句が混在した景の作品となり面白い。それだけ句柄が異質ではなかった。もう一例、敏雄の「あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ」は、三鬼の第二句「兵隊が…」と同様、無季の戦争俳句だが、ドラマの進行に終止符を打たない不安感のよそよそしさが、何ともやりきれない戦時下の実感がある。澤好摩言うところの「〈戦争〉が異化した現実として存在する」そのものだ。
 最後に敏雄のもう一人の師・渡辺白泉は、どんな句を作っていたであろうか。

 三宅坂黄套わが背より降車 白泉 (昭和11) 34歳
 遠き遠き近き近き遠き遠き車輪 (昭和13)
 銃後と言ふ不思議な町を丘で見た (昭和13)
 憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14)
 戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14)
 玉音を理解せし者前に出よ (昭和20)
 新しき猿股ほしや百日紅 (昭和20)

 一句目の「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套のことだそうだ。軍服が「背より」現れ、身近に戦争という異なものを感じる。重厚に不安なリズムを刻む車輪の動き。通常の町を不思議と惚ける諧謔。悪ふざけな口調で深刻と滑稽を同居させる。社会事象を冷徹に擬人化し、遠近法と過去形の空間に立たせる。終戦を兵隊口調で皮肉り、卑近な日常を切実に訴える。それらの事の可笑しい痛痒さを、白泉は誰よりも心得ていて俳人その人だった。

 敏雄の戦火想望俳句は、白泉のような俳味は希薄だ。実直さは誓子に、ニヒリズムは三鬼に似たのだろう。俳句はとりあえず景を捉え、あまねく表現をものにしたい文芸なのだろうが、いかんせん生真面目に深刻になり過ぎて、川柳の専有理念ではない風刺や滑稽・諧謔という俳句本来の要因を忘れがちである。そこのところを直截でなくも警鐘を鳴らし、自覚させてくれたのが、若かりし頃、革新の道を選択した一途な三橋敏雄とその作品であった。

※文字遣は、漢字は常用漢字、俳句以外の仮名は現代仮名遣とした。

【参考文献】『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57)、『西東三鬼集』(朝日文庫・昭和59)、『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邉白泉集』(朝日文庫・昭和60)、「アサヒグラフ-増刊7・20俳句入門」(朝日新聞社・昭和63)、三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫・平成8)、「追想-師弟対談/西東三鬼・三橋敏雄―俳句よもやま」(三橋敏雄を偲ぶ会・沖積舎・平成14)他。

※当稿は、豈・記念冊子「黄金海岸」篇(35号)(2002.10.1発行)の物故作家・三橋敏雄小論(38~40頁)として掲載されたものである。
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前衛俳句と一口に言っても、ずいぶん幅があり、また、その後の俳人の伝統回帰などもあるので、一概には言えない。三橋はリズムに関しては575の音数律をほぼ守った人である。
上に引用した宮崎の評論は、アンソロジーでは判らない、特に戦争中の彼の在り方を知らせてくれる。



指先をいつもより濃きくれなゐに染めてひとりの午後を楽しむ・・・・・・・・・・・・鈴木むつみ
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     指先をいつもより濃きくれなゐに
            染めてひとりの午後を楽しむ・・・・・・・・・・・・鈴木むつみ


この歌は角川書店・月刊誌「短歌」2013年2月号に載る「指」という題詠に採用されたものの一つである。

一人暮らしの女の人の心情を、よく表現している。
今しも春めいてきて、心も浮き立つ季節の到来と言える。
掲出歌とは違う趣の歌群だが、いくつか引いて終わりたい。

   節高き指は女の勲章と自ら思ひ主婦の座守る・・・・・・・・西村麗子

   幼子の指絵のために取り置かむ冬の朝の硝子の曇り・・・・・・・梶田有紀子

   さ、よ、う、な、ら、指の先から逃がしつつひとは手を振るまた会うために・・・・・・木原ねこ

   指先を想像させる優美さよ腕を失くしたミロのビーナス・・・・・・波多野浩子

   常務派と専務派とあり遊戯にはあらぬこの指とまれの誘ひ・・・・・・山崎公俊

   指貫をゆつくり外し夕食のメニュー考へてゐるらし妻は・・・・・・・・加藤英治

   うろこ雲遠く遠くへ押しやりて秋風のなか指笛を吹く・・・・・・・・・・木立徹

   絵本読む幼の指のつと止まるつかえし文字は一つとばせよ・・・・・・・・中村佐世子




   
賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   賞味期限切れた顔ねと言ひながら
     鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
亡妻は、この歌の頃、体調を崩して体重も激減してやつれが目立つようになっていた。
「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!



水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信
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   水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信

住宅顕信(すみたくけんしん)という自由律俳人の句である。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。
写真①がその句碑。
この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。

写真②は『ずぶぬれて犬ころ』俳句=住宅顕信、版画=松林誠(2002年中央公論新社刊)。

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以下にネット上に載る記事を引いておく。

住宅顕信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)は、日本の俳人。
本名・春美(はるみ)。

経歴
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。

昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名告る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」に因み無量寿庵と名付ける。

昭和59年(1984年)2月急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月長男誕生。不治の病の夫に対し妻の実家が希望し離婚する。長男は顕信が引き取り病室にて育てる。10月自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事する。この頃より自由律俳句に傾倒し句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。

昭和60年(1985年)には句集『試作帳』を自費出版。層雲に権威主義的な疑念を感じ、層雲の元編集者藤本一幸がこの年より主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌昭和61年(1986年)「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。

昭和62年2月7日23時23分、永眠。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

昭和63年(1988年)句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により弥生書房より句集『未完成』出版。
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別に「顕信─魂の俳人─」というサイトもあり、彼の写真なども見られるので覗いてみられるとよい。

写真③は、彼の死後、句友であった岡山大学教授・池畑秀一の監修で発行された『住宅顕信』全俳句集全実像(2003年小学館刊)である。

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冒頭に書いた「句碑」の序幕の際に挨拶した遺児・住宅春樹が、この本に次のように書いている。

 おわりに──父のように熱く生きたい・・・・・・・・・・・・住宅春樹

父、住宅春美が亡くなったのは私が三歳になる前でした。
「お父さんのことは覚えていますか?」と、新聞記者の方などから尋ねられますが、父と過ごしたころのことは、ほとんど憶えていません。
父との思い出は、1993年に父の句碑が建てられてからできてきたように思います。小学二年生のときでしたが、除幕式では祖父母ではなく私が挨拶をしました。
2002年には、中央公論新社から句集も二冊刊行され、さらに精神科医の香山リカ先生も本を書いてくださいました。そのほか、岡山市内にある吉備路文学館で「住宅顕信展」が七月から三か月間開催され、七月七日には「住宅顕信フォーラム」も行われました。
フォーラムには池畑秀一先生、香山先生、父のファンだとおっしゃってくださるプロレスラーの新崎人生さんらが参加してくださいました。テレビでしか見たことのない有名な方々が、父の生き方、作品について熱心に語ってくださる。改めて父の凄さを実感しました。
父は私にいくつかの句を遺してくれました。
その中で特に、《バイバイは幼いボクの掌の裏表》が好きです。私は病室から帰るとき、いつも父に「バイバイ」と手を振りました。それだけははっきり憶えていて、この句を読むと、とても懐かしい気持ちになります。
《夜が淋しくて誰かが笑いはじめた》。本書のサブタイトルに入れられたこの句も好きです。
父がどんな思いで私を病室で育て、句を詠み、治療を受けたのだろうか。父はなぜ得度して、俳句の道を選んだのだろうか。言葉ではうまく表現できませんが、父が発病した年齢に自分が近づいてきて、最近、父の気持ちがなんとなくわかってきました。
自分がこれだと信じたことに一生懸命打ち込んだ父。私はこの春から情報系の大学に進む予定ですが、父のように熱く生きたいと思っています。いつか父にあったとき、「ぼくはこんな生き方をしたんだよ」と胸を張れるように。
最後になりましたが、父を支え、応援してくださった池畑先生をはじめ、多くの皆様に御礼申し上げます。
 2003年1月15日
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このように書いた息子の住宅春樹だが、今は「川崎医療福祉大学」を出て、「ニチイ学館」に所属するようである。
Facebookを利用しているようで、そこには、経歴について、こう書かれている。 ↓
<現在、岡山で診療情報管理士の仕事をしております。>
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以下、これらの本から私の目に留まった句を引く。

 降りはじめた雨が夜の心音

 雨に仕事をとられて街が朝寝している

 朝はブラインドの影にしばられていた

 月明り、青い咳する

 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ

 またオリオンにのぞかれている冬夜

 点滴と白い月とがぶらさがっている夜

 水たまりの我顔またいで歩く

 カガミの中のむくんだ顔をなでてみる

 何もないポケットに手がある

 だんだん寒くなる夜の黒い電話機

 看護婦らの声光りあう朝の回診

 頭剃ってもらうあたたかな陽がある

 水音、冬が来ている

 冬の定石窓にオリオンが置かれた

 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる

 両手に星をつかみたい子のバンザイ

 バイバイは幼いボクの掌の裏表

 かあちゃんが言えて母のない子よ

 抱きあげてやれない子の高さに坐る

 夢にさえ付添いの妹のエプロン

 初夏を大きくバツタがとんだ

 合掌するその手が蚊をうつ

 薬を生涯の友として今朝の薬

 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

 気の抜けたサイダーが僕の人生

 ずふぬれて犬ころ

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 報恩の風の中に念仏

 夕陽の影が背を丸めたランドセル

 真夏の山がけずりとられた

 一つの墓を光らせ墓山夕やけ

 朝露をふんで秋風の墓がならぶ


人生はすなわち遍路 しみじみと杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
時計回りの遊行

  人生はすなわち遍路 しみじみと
    杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘


玉井さんは著名な歌人で昭和15年生まれ。国学院大学文学部卒。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の書評を角川「短歌」誌上でいただいたのが、お付き合いのはじまりである。
その「書評」は上記のリンク先で読める。

掲出歌は、2009年上梓された『時計回りの遊行』─歌人のゆく四国遍路(本阿弥書店刊)に載るものである。
この本は、平成17年1月から18年12月にかけて「四国新聞」に週一回連載されたものである。
先生は正式の「歩き遍路」を始められ、二度目の遍路も終えられたようである。

tabibito巡礼者

この本の「帯」にも書かれているが、そもそも四国遍路というものは「何のために歩くのか?」という疑問を投げかけられる人も多いだろう。
この本が、それに応えるものであるとは言えないが、全88項目に及ぶエッセイの中には、さまざまな動機を抱いて四国遍路にやってきた人々の哀歓が描かれる。

この中の(38)に「なにのために歩くのか」という項目がある。少し引いておく。

< 室戸岬を回りこんだ時、苦しい道中に去来したのが芭蕉の『奥の細道』。
芭蕉は何のために、何を考えながら歩いたのだろうか。芭蕉の時代の東北の地は、宿などが整備されていたわけではなく、宿を探す苦労も書き止めている。多くはその土地の俳諧の仲間を頼っての旅だったようだが、・・・・・門人曾良を連れての旅、文学の深化のためとはいえ、病弱の身には命懸けのものだった。ずぶ濡れで歩きながら芭蕉が私の頭を去来していた。
途中から引き返そうという思いはもう湧かなかったが、しかし幾度も「なにのために歩くのか」という問いは自分の脳裏から離れなかった。一週間か、十日ほどの区切り。切り上げて戻って来ると翌日には次回の計画を練り始めていた。土佐の道場は寺と寺との間隔が開いていて、自己との対話の時間がたっぷりと確保できる。

  なにのために歩くのかと問いて答えなし 笑うのみにてまた歩き出す

各自さまざまな悩みを抱えて四国を巡拝している遍路が多いだろうが、出会うどの顔もどこかきりっとしていた。どの顔もどの顔も悩みから解放されたすがすがしい日焼けした顔で挨拶を交わしてくれた。

  一歩ずつ何に近づく 無にちかくなりゆく心に草木の触れて >

玉井さんは、このように書いているが、しいて結論めいたことは言っていない。
それが本当のところであろう。
「自分を見つめ直す」というのが、四国遍路の一つの到達点ではないかと私は思う。
私も略式だが遍路の真似ごとをしたが、私の場合は、長年、妻の病気と伴走してきて、特に妻の死期を看取ったものとして「鎮魂」ということが、主たる目的と言えるだろうか。
また玉井さんは、この本の中で

< 遍路の旅では、相手に遍路に出た動機を聞くのはマナー違反だとされている。
人生途上抱えきれない悩みに人は遭遇する。そのような時、思いつく一つが四国遍路なのではないだろうか。これを思いつき実行できる人は幸福かも知れない。時間と金と体力を必要とする。歩いてとなればなおさらである。 >

と書いている。

私の最近作「明星の」にも遍路の歌があるので、それらについては次回に書いてみたい。

天ライ

玉井さんには2010年12月に出た第七歌集『天籟』(短歌研究社刊)があるが、
ここにも多くの遍路を詠った歌がある。
「天籟」という難しい題名は、作者の「あとがき」によると

< 空海の『遍照発揮性霊集』を開いていた時出会った「地籟天籟如筑如箏」の一句による >

とある。この「籟」という字は辞書を引くと、竹かんむりに「賴」と書くが、意味は「笛」ということである。
(注・この「賴」という字は「たのむ」という常用する字だったが、当用漢字策定の際に「頼」にされてしまったので、変換で消えてしまうことが多い、のでご了承を)
ここにも書かれているが、「遊行」の本と時期的に重なるものであり、遍路の歌も多い。
いくつか引いて終りにしたい。

  菅笠のしたかげくらしからだより抜けたるこころ草木に遊ぶ

  おかげさまの祖霊地霊に声かわし露しとどなる蓬野をゆく

  家にあれば笥に盛る酒をカップにて飲めば眠たし紫雲英野に寝る

  ふんどしはくらしっくぱんつと名をかえて遍路の使う我も使いぬ

  さすらいて岬の果てまでたどり着き最御崎寺の古き道ゆく

  食うと寝る排泄をする明快な遍路の旅の七日を経たり

  ポケットに賽銭三つ坂ゆくにちりちりちりと魂の泣く

  四万十のさだちを浴びぬしろがねの五寸釘降るまことますぐに

三首目の歌の「家にあれば笥に盛る・・・」の部分は「万葉集」に、このフレーズの歌があり、玉井さんの歌は、その「本歌取り」ということであり、元歌を知っている者にとっては思わずニヤリとするところであり、こういうさりげないところに玉井さんの教養が滲みでていると言える。

歌人の「詠い方」にも、いろいろあって私などは妻とか家族とかのことを割合たくさん詠む方であるが、玉井さんの歌を見ていても、奥さんとか家族のことは全くと言っていいほど詠まれない。
『時計回りの遊行』には二箇所ほど奥さんのことが出てくる。短歌作品とエッセイの違いからであろうか。
気がついたことを少し書き添えてみた。

なお玉井さんの最新作として歌集『屋嶋』があるが、これについては私のブログ2013/10/13付で書いたので参照されたい。 ↓
玉井
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「般若心経」を横書きにしたものを、下記に貼り付けておく。読み方については、「ふりがな」をつけてあるサイトもあるので、関心のある方は探してみられるとよい。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

ここで、♪「般若心経を聴く」♪というサイトを紹介しておく。このお経を「音声」で聴くことが出来る。
ネット上を探すと、この他にも、いくつかあるが、このサイトの読経の声が一番美しい。


過呼吸の不安きはまるわが胸郭にアマデウスの鳴りやまざり、未明・・・・・・・・・・吉田隼人
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 ↑ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

       過呼吸の不安きはまるわが胸郭(むね)に
            アマデウスの鳴りやまざり、未明・・・・・・・・・・・・・・・吉田隼人


この人は昨年度の第59回角川短歌賞に輝いた二人のうちのお一人である。
掲出の歌は短歌誌「率」3号に載るものである。

この人の経歴を書いておこう。
1989年、福島県伊達市生まれ。(つまり平成生まれ、ということ)
早稲田大学文化構想学部(表象・メデイア論系)卒業。現在は大学院文学研究科(フランス語フランス文学コース)修士課程に在学中。
「早稲田短歌」「率」に短歌や評論を発表。

この近年、高学歴の学者の卵のような才能豊かな人が受賞者になっているが、この人の作品「忘却のための試論」も知的な遊戯のような作品群である。

掲出歌に戻ろう。
「アマデウス」とは、基本的に、アマデウス(「神に愛される」の意味)だが、ここは単純に作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのミドルネームのことだろう。

ついでに書いておくと、『アマデウス』(Amadeus)は、イギリスの劇作家ピーター・シェーファーによって著された戯曲。
宮廷楽師として社会的な地位がある音楽家サリエリが、台頭してきた理解されぬ若き音楽家モーツァルトの天才を理解「できてしまった」ことによる確執と苦悩を描く。
初演は1979年のロンドンのオリヴィエ劇場(ナショナル・シアター)。演出はピーター・ホール。
翌年にはアメリカ合衆国に渡り、ニューヨーク・ブロードウェイのブロードハースト劇場で上演された。1981年には戯曲部門でトニー賞を受賞した。
映画化もされた。

作者の歌作りの底には、このような知識が底通していると知るべきだろう。
そのようなことを思い出すと、この歌の理解が一層深まるというものである。
こういう知的遊戯のような歌作りが、私は好きである。
何だか日常の些末を歌にする、なげやりな、訳の判らないような若者の歌もあるが、こういう知的遊戯の出来る才能のある新人の出現が待たれていたのである。
この人は、まだ学生であり、これからどういう方向に伸びてゆくのかは未知数だが、着実に成長してほしい。
こんな歌もある。

  あさきゆめ そのなかで聞く詩に生ふる撞着語法(オクシモオル)といふ薔薇のとげ

撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。
「賢明な愚者」「黒い光」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。
形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。
集合論・論理学的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。
狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。

撞着語法の例
一目瞭然の撞着語法
急がば回れ
負けるが勝ち
黒い白熊
良い悪人
優しい悪魔
小さな巨人
無知の知
見えざるピンクのユニコーン

こういうことを学べるのは文学科ならではのことで、他の学部では、おそらく教えないだろう。
これらは大きくいうと「修辞法」ということになるが、ここで学んだことは後々、彼の人生に生きてくると思うので、深く学んでほしい。

角川短歌賞受賞作から少し引いておく。
この一連は、物語性のある作品で、恋人、相手は女性、その人の自死を扱ったものだろう。それで題名も「忘却のための試論」となっている。

  曼珠沙華咲く日のことを曼珠沙華咲かぬ真夏に言ひて 死にき

  わが脳に傘を忘るるためだけの回路ありなむ蝸牛のごとき

  あるひは夢とみまがふばかり闇に浮く大水青蛾も誰かの記憶

  恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月

  いくたびか摑みし乳房うづもるるほど投げいれよしらぎくのはな

  供花といふ言葉を供花として去ねば寺院のうへにくらむ蒼空

  すいみんと死とのあはひに羽化の蝉。翅のみどりに透いてあるはも

  あをじろくあなたは透けて尖塔の先に季節もまたひとつ死ぬ

  忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり

  思ひだすがいい、いつの日か それまでの忘却のわれに秋風立ちぬ
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私的なことだが、今日二月七日は私の八十四歳の誕生日である。
歳をとるというのは、努力してなる、というものではなく、歳月が腰のうしろをぐいぐいと押して、強制的に齢を重ねるもので、有難いものでも、何でもない。
思えば、すごい歳になったものである。 年齢の数字を聞くと、そら恐ろしくなる。
今年の冬は寒くて、ずっと風邪気味で、深刻な症状ではないが、調子が悪い。
朝のウォーキングも休みがちだし、恐る恐る生きているようなものである。
風邪気味、というのが良くない、と思って慎重になっている。
ともかく春になって暖かくなるまで辛抱である。







瀬田川の霧も立木の観世音峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌
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   瀬田川の霧も立木の観世音
     峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌


立木観音は京都府と滋賀県の府県境─厳密に言うと大津市域にある。
瀬田川洗堰(南郷洗堰)から瀬田川沿いに南に2キロほど下がると、右手に立木観音(正式名は安養寺=浄土宗)の登り口が見えてくる。

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鹿跳(ししとび)渓谷に向かって聳える立木山、その斜面の急な石段を約700段ほど登りつめると、小さいながら落ち着いた雰囲気の立木観音の境内が広がる。
700段の階段というと、四国の金毘羅さんの石段の数より多いと、同行のS君は言う。私は金毘羅さんは知らないが、彼は行ったことがあるので間違いなかろう。
ここで立木観音の由来について。
石段途中に説明文が立っており、そこに詳しく書いてある。
弘仁6年(815年)、諸国を修行中の弘法大師が、瀬田川のほとりに立ち寄ったところ、対岸の立木山に光を放つ「霊木」があるのが目にとまった。
しかし急な流れの瀬田川を渡りあぐねていると、突然白鹿が現われ、その背に弘法大師を乗せて、霊木の前まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、虚空の中に消え去った。

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 ↑境内にある「白鹿に乗る弘法大師」の像。

この奇蹟に感じ入った弘法大師が、霊木に観世音菩薩像を刻んだのが、立木観音の始まりという。
弘法大師が観音さまを刻んだのが、ちょうど42歳の厄年ということで、古くから厄除け観音として親しまれているという。
これらの伝承は、現在も「地名」などに残っており、少し下流に架かる橋は「鹿跳橋」(ししとびばし)と呼ばれる。この橋の辺りから下流は「宇治川」と名前が変わる。
新年に厄除けの初詣に参詣する人が多く、松の内は登りも下りも混雑する。
先年は同じくS君の案内で1月3日に詣でたが、人が多くてトコロテンのように後から押されるので、息が切れても、足が痛くても、ろくに休息できないので、
今年は1月中旬の平日の一日を選んで参詣した。人が少なくて、途中で休むのも自由で、体が楽だった。
私は石段の下りに弱く、先年は膝がガクガクして、俗にいう「膝が笑う」症状で数日泣いたのである。

前年にいただいた「お札」を返納し、ご祈祷をしてもらい、新しいお札をいただいて帰る。
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 ↑ 本堂の裏側

ここから急な狭い石段を二百メートルほど行くと「奥の院」がある。

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↑ 奥の院

掲出した和歌だが、ここは新西国三十三ケ所霊場の第20番にあたり、このお寺を詠んだものである。
「霧も立木の」という言葉は「懸けことば」になっており、「霧も立ち」の意味を懸けてあるのである。
西国ご詠歌にも同様の趣向の歌が多い。
ついでに言うと、「西国三十三ケ所霊場」の寺は天台宗、真言宗が殆どである。
それらに含まれない他宗派の寺を集めて「新西国三十三ケ所霊場」が発願されたものと思われる。


絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄
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    絵葉書のような恋とは思えども
        しまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄


この人は昭和37年生まれというから50歳を少し過ぎたところであろうか。
私の娘たちと同年輩である。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集長ということだが、略歴を見るとフリーターだったらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
この二人には「鮫と猫の部屋」という共同のホームページがある。参照されたい。
なお夫君の松村正直は2013年に「塔」の創立者『高安国世の手紙』(六花書林)という本を出され、あちこちに批評文がでるなど好評を得ている。
これは2009年から2011年にかけて「塔」に連載されたものである。
Wikipedia─「松村正直」に詳しい。

「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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余計なお喋りは慎みたいが、そろそろ中年にさしかかってきた作者が、年下の夫君に、まだまだ「恋」を求めているように私は受け取ったが、いかがだろうか。
因みに作者は、夫君らと一緒に「Darts」という評論主体の同人誌を出しておられたが、最近は更新がないようである。
なお、2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌群は、ここに載るものである。





生殖を目指さぬ愛とたれか言ふいいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
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注解する者0001
 ↑ 2010/07/25 思潮社刊─「注解詩」という新たな領域を切り拓いたとされる

     生殖を目指さぬ愛とたれか言ふ
        いいや分けられぬ一つの行為・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌は岡井隆の第16歌集『神の仕事場』に載るものである。
まずネット上に載る記事を転載しておく。
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岡井隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - )は、日本の歌人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。

略歴 愛知県名古屋市出身。父は日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の技術者で、後に専務取締役も務めた。旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。

若くから作歌を始め、1946年「アララギ」に参加、土屋文明の選歌を受ける。1951年、近藤芳美を中心として「未来」創刊。浪漫的な生活歌から出発したが、1955年、塚本邦雄との交流が始まり、寺山修司とも知り、青年歌人会議、東京歌人会などの活動に参加、前衛短歌運動を推し進めた。大学卒業後は北里研究所付属病院の医師として勤務していたが辞職して九州に隠遁、5年後に復帰。1989年より1998年まで深作光貞の誘いにより京都精華大学人文学部教授。1983年、『禁忌と好色』で迢空賞、1990年、『親和力』で斎藤茂吉短歌文学賞、1995年、『岡井隆コレクション』で現代短歌大賞、1999年、『ウランと白鳥』で詩歌文学館賞受賞。

1993年から歌会始選者、1996年紫綬褒章、2004年旭日小綬章受章、2005年、第56回読売文学賞詩歌俳句賞を『馴鹿時代今か来向かふ』で受賞、2007年、『岡井隆全歌集』で藤村記念歴程賞受賞。2009年、『ネフスキイ』で小野市詩歌文学賞受賞。2007年から宮内庁御用掛。2009年芸術院会員に選出。2010年、『注解する者』で第40回高見順賞受賞。2011年、『X-述懐スル私』で第18回短歌新聞社賞受賞。

評論では、斎藤茂吉論が多い。

門下に小嵐九八郎、池田はるみ、山田富士郎、加藤治郎、大辻隆弘、田中槐、紀野恵、大滝和子、東直子、高島裕、嵯峨直樹、笹公人、岡崎裕美子、中沢直人らがいる。

著作
単著
斉唱 白玉書房 1956
土地よ、痛みを負え 白玉書房 1961
海への手紙 歌論集 白玉書房 1962
朝狩 白玉書房 1964
眼底紀行 思潮社 1967
現代短歌入門 危機歌学の試み 大和書房 1969 のち講談社学術文庫
戦後アララギ 短歌新聞社 1970
岡井隆歌集 思潮社 1972
茂吉の歌 夢あるいはつゆじも抄 創樹社 1973
辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート 人文書院 1973
鵞卵亭 六法出版社 1975
慰藉論 吉本隆明から斎藤茂吉 思潮社 1975
韻律とモチーフ 大和書房 1977
岡井隆歌集 国文社(現代歌人文庫 2) 1977 
歳月の贈物 国文社 1978
天河庭園集 国文社 1978
遥かなる斎藤茂吉 私流「茂吉の読み方」思潮社 1979
時の峡間に 現代短歌の現在 岡井隆評論集 雁書館 1979
ロマネスクの詩人たち 萩原朔太郎から村上一郎まで 国文社 1980
前衛短歌の問題 現代職人歌から古代歌謡まで 短歌研究社 1980
メトロポオルの燈が見える 砂子屋書房 1981
近藤芳美と戦後世界 蒼土舎 1981
人生の視える場所 思潮社 1982
歌のかけ橋 六法出版社 1983
花を視る人 砂子屋書房 1983
古代詩遠望 続・前衛短歌の問題 短歌研究社 1983
斎藤茂吉 人と作品 砂子屋書房 1984
岡井隆の短歌塾 入門編 六法出版社 1984
茂吉の万葉 現代詩歌への架橋 短歌研究社 1985
αの星 短歌新聞社 1985
岡井隆の短歌塾 鑑賞編 六法出版社 1986
岡井隆全歌集 1-2 思潮社 1987
犀の独言 砂子屋書房 1987
今はじめる人のための短歌入門 角川選書 1988
人麿からの手紙 茂吉の読み方 短歌研究社 1988
けさのことば 2 砂子屋書房 1988
鵞卵亭談論 六法出版社 1989
岡井隆の短歌塾 鑑賞編・古代歌謡 六法出版社 1989-90
親和力 砂子屋書房 1989
文語詩人宮沢賢治 筑摩書房 1990
宮殿 沖積舎 1991
太郎の庭 砂子屋書房 1991
愛の茂吉 リビドウの連鎖 評論集 短歌研究社 1993
斎藤茂吉と中野重治 砂子屋書房 1993
岡井隆コレクション 1-8 思潮社 1994-96
禁忌と好色 短歌新聞社 1994
茂吉の短歌を読む 岩波セミナーブックス 1995
短歌の世界 岩波新書 1995
茂吉と現代 リアリズムの超克 短歌研究社 1996
前衛歌人と呼ばれるまで 一歌人の回想 ながらみ書房 1996
夢と同じもの 短歌研究社 1996
歌を創るこころ 日本放送出版協会(NHK短歌入門) 1996 
けさのことば 3 砂子屋書房 1996
月の光 詩集 砂子屋書房 1997
大洪水の前の晴天 砂子屋書房 1998
ウランと白鳥 短歌研究社 1998
前衛短歌運動の渦中で 一歌人の回想 ながらみ書房 1998
ヴォツェック/海と陸 声と記憶のためのエスキス ながらみ書房 1999
詩歌の近代 岩波書店 1999 (日本の50年日本の200年)
ことばの朝風 中日新聞社 2000
挫折と再生の季節 一歌人の回想 ながらみ書房 2000
臓器 砂子屋書房 2000
E/T 書肆山田 2001
短歌-この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論 短歌研究社 2002
吉本隆明をよむ日 思潮社 2002
〈テロリズム〉以後の感想/草の雨 砂子屋書房 2002
旅のあとさき、詩歌のあれこれ 朝日新聞社 2003
伊太利亜 書肆山田 2004
馴鹿時代今か来向かふ 砂子屋書房 2004
『赤光』の生誕 書肆山田 2005
岡井隆全歌集 全4巻 思潮社 2005-06
ぼくの交遊録 ながらみ書房 2005
わかりやすい現代短歌読解法 ながらみ書房 2006
二〇〇六年水無月のころ 角川書店 2006
岡井隆の現代詩入門 短歌の読み方、詩の読み方 思潮社 2007
家常茶飯 砂子屋書房 2007
初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」前後 歌集 短歌新聞社 2007
鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え 書肆山田 2008
ネフスキイ 書肆山田 2008
瞬間を永遠とするこころざし 日本経済新聞出版社 2009 日本経済新聞「私の履歴書」をまとめたもの
私の戦後短歌史 小高賢聞き手 角川書店 2009
注解する者 詩集 思潮社 2009
X-述懐スル私 歌集 短歌新聞社 2010
静かな生活-短歌日記2010 歌集 ふらんす堂 2011
共著・編著
短詩型文学論 金子兜太 紀伊国屋新書 1963
『天使の羅衣(ネグリジェ)』思潮社・組詩(佐々木幹郎と共著) 1988
あなたと短歌を 角川書店 1995
集成・昭和の短歌 小学館 1995
現代百人一首 朝日新聞社 1996 のち文庫
俳句・深層のコスモロジー 雄山閣出版 1997 (Series俳句世界 5)
斎藤茂吉-その迷宮に遊ぶ 小池光,永田和宏 砂子屋書房 1998
『短歌と日本人 第7巻 短歌の創造性と象徴性』岩波書店、1999
『けさのことば』中日新聞・東京新聞に長年にわたって連載中。
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転載の記事が多くて申し訳ないが、2005年に『馴鹿時代今か来向かふ』で「読売文学賞」を受賞したときの記事を引いておく。↓
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 戦後の短歌史と重なるといってもいい歌歴は、華々しくも起伏に富む。

 「アララギ」の歌人である両親のもとで10代から作歌し、1951年の「未来」創刊に参加。やがて始まった塚本邦雄氏とこの人との交流が前衛短歌運動を推し進め、吉本隆明氏との「定型論争」など、活発な評論活動を繰り広げた。

 だが、70年に突然、家庭も医師としての職場も捨てて九州に出奔し、5年間短歌から遠ざかった。92年には宮中歌会始選者への就任が論議も呼んだ。

 長い歌歴の中で、作風も変化を重ねた。受賞作にはそれが反映して、幅の広い多彩な作品が並ぶ。選考委員は「成熟した歌集。熟練と危うさが拮抗(きっこう)している」「自らのキャリアや立場に対する意識が薄まり、自由さを得た」と評した。

 「去年あたりから背負っているものが軽くなった気はしています。若い人に仕事がまかせられるようになったし、私生活では子供たちが自立してきた」

 <ゆつたりと廂に到(いた)る大いなる反(そ)りこそ見ゆれ雨絶えまなく>
といった韻律の美しい格調高い作の一方に、実験的な時事詠や口語体の作品がある。朗読のための連作、ことば書きや注の多用も特徴的だ。

 若い歌人とも積極的にかかわってきた。ライトバースの文体をいち早く評価したり、10年ほど前から、東京を始め関西や名古屋で若手中心の研究歌会を指導したり。だが、与えるばかりではない。若者の言葉遣いや発想の新しさを吸収して、より高度な形で自作に取り入れてしまう。
<窓際まで行かない、枯れ木の撓むのを見ない今日こそ〈始まる〉のかも>
実にやさしい笑顔を見せるのに、「岡井さんはこわい」とささやかれてしまうゆえんだ。

 数年前、30歳以上年の離れた妻と結婚した。
<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>。
2人の関係を詠んだ歌は多い。「短歌は作者の背景を下敷きにして読まれるということも大切ですから」。あとがきに自らの履歴を織り込んでみたのも一つの試みである。

 一風変わった標題は
<かつてまだ定義されたることのない馴鹿時代今か来向(きむ)かふ>の一首による。

 「馴鹿はシカでもカモシカでもなく、家畜かと思えば野性味もあるとらえどころのない動物。現代という“世代”が失われ、家族が揺らぎ、個人と個人が裸で対しているような、定義しがたい奇妙な時代に、その名を付けてみたんです」

 時代を、社会を、自分自身を、鋭敏に感じ取り、先端を走り続けてきた歌人は、自在さを増してさらに旺盛に詠み続けるのだろう。(小屋敷 晶子記者)

『馴鹿時代今か来向かふ』
岡井隆
出版社:砂子屋書房
発行:2004年10月
ISBN:4790408167
価格:¥5250 (本体¥5000+税)
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『神の仕事場』は平成6年に刊行されたもので岡井の六十代後半のものである。今年で85歳になる。
先に引用した記事にもある通り、作風も変幻自在、また生き方の変遷にも何度もの離婚、再婚など彼の身めぐりには「女」の影がつきまとう。
「変身」のたびに配偶者を替えてきたと言える。
また「神の仕事場」という歌集の題名からして、言わば「人を食った」ようなところがあり、出版の際にも、さまざまの話題を呼んだものである。
同じ歌集から少し歌を引く。

 ミサイルが蛍のやうにとび交ふを愛咬の図とくらべて果敢無(はかな)

 ひさかたの倦怠(けたい)の雲のたなびきにエスプレッソの苦きなごりの

 長鼻の「ひかり」が着きてゆつたりと五月雨の下に眼(まなこ)を閉ぢぬ

 自転車をナジャと名づけてあしたまで駅の早霜にうたせて置かむ

 つきづきし家居(いへゐ)といへばひつそりと干すブリーフも神の仕事場

 くだりゆくエスカレーター羅(うすもの)の多くなりたる売場に映えて

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし

 耐へがたいほどの快楽(けらく)が四肢に来て或る契約に署名せりけり

 卓上にめがねを置きぬなに故に置きしや盲(めし)ひつつ抱かむがため

 食道をくだるチーズを一盃(ひとつき)の酒に追はせてゐたりけるかも

 砂庭にはなびら散らふ寂けさや午後の講義の想(さう)ひとつ浮く

この頃、彼は東京から京都の精華大学への出講のために往復していて、京都にしばらく滞在するなどの生活をしていた。また前夫人との離婚の話が進行中で、ここに引いた歌の中の「或る契約」うんぬんというのは、それに由来する。前夫人との間には子供があり、その成人までの養育費などの仕送りが必要で執筆などにも追われていたという。
しかし、ともあれ言葉の取捨選択は的確で、「比喩」にも秀でて第一人者の面影躍如たるものがある。
島田修三は<生殖を目指さぬ愛><耐へがたい>などの歌を引いて「おのれのリビドーへの深い傾斜」を指摘する。「韻律への楽しげな試みがうかがえるが、断固<意味>を去らぬ理由の一つが、おそらくこの辺にある」として、ことば遊びにとどまらない若々しい生命力に裏打ちされることに着目する。

長い紹介文と島田の解説などでもわかるが、ここで私なりの「解題」を書いてみる。

次々と女を替え、最近では30歳以上も年下の若い妻を娶るなど、彼は相手の女から若さと生命力を得てきたと言える。世間では、こんなに年の離れた妻だから、「生殖を目指さない愛欲だろう」などと噂するが、どうしてどうして俺は配偶者が望むなら子を生(な)してもいいんだよ、という言挙げの歌なのである。
彼の歌は先にも書いたように「比喩」のオブラートでくるんであるから、つい騙されるが、年月が経って当該の歌を読み返してみると、彼の実生活がこまめに詠まれているのである。
私がここに引いた十数首の歌は私が「恣意的」に引いたものではない。
実は、これらの歌は、篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂2003年刊)に載るもので、生存中の作家については作家によって「自選」されたものだからである。
つまり、この引用の一連には岡井隆の自分の歌に対する深い思いがこめられていると言えるのである。

先のネットからの引用文にある

<よこになつて休めといふから寝てゐると側(そば)に来て傘(かさ)見せ寝かさないえり子>

をみると今の若い妻は「えり子」というらしい。あるいはこれも「仮名」かも知れないが、いずれにしても若い妻「えり子」が可愛いくて仕方がない、という愛欲べたべたの歌である。彼女は「画家」だと言う。
私の引いた歌とは別の歌集の歌ではあるが、関連があるというか、一貫しているのであるから、この一連はそれを、さらりと表現してあるので嫌らしい感じはしないが、まあ、そういうことである。
「愛咬の図」とか「干すブリーフ」とかの生々しさもあるのに、目立たない。
そういう「生活臭」を比喩などの表現で巧みにくるんで「文芸」の域に高めてある技巧は素晴らしい。
「干すブリーフ」と「神の仕事場」との取り合わせなど、絶妙の限りで、意表をつく見事さである。
ワープロ入力しているときに「変換」で神 → 紙などと出てくるが、これを捉えて「紙の仕事場」のもじりだとすると、面白いと思うのだが、いかがだろうか。
玩味するほど味の出てくる作品群である。賞味されたい。



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