K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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弥生「葬儀」「偲ぶ会」など・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──初出・Doblog2006/04/24──
  
  超越の旅路にはるか壮絶の
    たたかひを経てゆきしたましひ・・・・・・・・・・・・島本融


  春昼誄譜・・・・・・・・・・・・・・・島本 融

■グレゴリアンチャント声明コーランも清明のころをひびかひ続く

■春昼の山城にして超越の旅をはるかに出でたたれしか

■超越の旅路にはるか壮絶のたたかひを経てゆきしたましひ

■さはあれどひかり愛(かな)しき春の日に柩さやけくいでたまひけむ


これらの歌は、私の妻の死に際して、メール友でもある島本融先生から「春昼誄譜」(るいふ)と題してお送りいただいたものである。
感謝とともに、ここにご披露申し上げる。
掲出した図版はロシア正教の「イコン」(聖画)である。適当な絵が見つからないので、異教徒ながら雰囲気を出すために掲げてみた。
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島本融先生については、私のホームページの中の先生の「句集」および「詩」のところでも詳しく書いてあるので、ご参照願いたい。

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2006/04/25のBlog
  弥生の葬儀のこと・四月十八日/写真と短歌・・・・・・木村草弥

4月15日に妻・弥生が死んで、4月17日に「通夜」を、4月18日に「葬儀」を、私の住むところの傍を流れる木津川を渡ってすぐの「遥セレモニーホール京田辺」で催行した。

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写真①は、その斎場の祭壇である。
掲げてある遺影は、妻が一人でツアーに入って出かけたヨーロッパのどこかでのスナップを切り取ったもの。私には判らない。
部分を拡大したので、ピントが合わずぼやけているのが残念である。
香典はもらわないことにしたので親族からは「生花」を供えてもらうことになった。
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「兵庫県立美術館館長 木村重信」は私の実兄であり、「サンタモニカ大学准教授 木村文」は兄の長女であり、「ファインアーツ」を専攻する。ドイツ系の白人と結婚して二児がある。したがって姓は木村ではないが、別姓として、この名を名乗っているらしい。
「大阪大学大学院教授 藤田治彦」は兄の次女の夫である。
「木村しげ子」は私たちの妹である。
「つくし会」は妻の入っていた「お花」のサークルである。
「同志社大学 女子学生の会OG会」は妻の母校の関係者からいただいた生花である。

その他の名前についてはプライバシーの関係もあり、ここに紹介するのは控えたい。
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終りに目下、製作中の私の歌の一端を載せておく。まだ「習作」であることをお断りしたい。

  幽 明・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

テレビ見ず新聞よまぬ四十余日桜(はな)ちる季(とき)となりて来にけり

 <母の死は十三年前の四月十二日、妻の死は四月十五日>
桜ちる頃に死にたる母と妻、お供にと母が連れたまひけむ

「一切の治療は止めて、死んでもいい」と娘(こ)に訴へしは死の三日前

好みたる「渡る世間は鬼ばかり」観てゐたりしは半月前か

吾(あ)と娘の看取りに違ひあると言ひ「娘は本を読み聞かせてくれる」

 <園芸先進国オランダの東インド会社にインターネットで発注した>
誕生日三月五日にと空輸されし薔薇シャンペン・ゴールド見分け得ぬ 哀(かな)し

夢うつつに希(ねが)ふ心理のもたらすか幻の孫の血液型を言ふ

 <若い頃には聖歌隊に居て、コーラスや音楽をこよなく愛した妻だが>
夏川りみの「心つたえ」の唄ながすCDかけたれど「雑音」だといふ

「前世のどんな悪業のせゐなのか」友に電話で語りゐしとぞ

たやすくは人は死ねざり赤だしのごときを妻は吐きつづけ 果つ

 <オキシコンチン、モルヒネ鎮痛薬なれど所詮は麻薬>
訴ふる痛みに処方されし麻薬 末期(まつご)の妻には効き過ぎたらむ

とことはに幽明を分くる現(うつ)し身と思へば悲し ま寂(さび)しく悲し

助からぬ病と知りてゐたれども死なれてみればわれは孤(ひと)りよ 

<昨年春の私の前立腺ガン放射線治療は成功したやうだ>
私の三カ月ごとの診察日「京大」と日記にメモせり 妻は

<朝立ち>を告ぐれば「それはおめでたう」何がおめでたいだ 今は虚しく

<男性性>復活したる我ながら掻き抱くべき妻亡く あはれ

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2006/04/26のBlog

  弥生の思い出(1)写真など・・・・・・・・・・木村草弥

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葬儀の時に、椅子席の広い待合ホールにスライドで、弥生の思い出の写真を投影するサービスがあった。
これらの写真の選定には私は全く感知しなかった。すべて子供たちがアルバムをひっくり返して選んだ。
葬儀の参列者にとっては、このサービスは、とてもよかったと感謝している。
そのうちのいくつかを、今日は取り上げる。
写真①は、妻が入っていた「女声コーラスさざ波」の発表会風景である。
写真の欄外に、平成3年度の文字が見える。顔の映っている左から三番目が弥生である。
もう15年も前のものだ。この頃は健康そのものだった。
妻は同志社大学出身だが、ミッション・スクールとしてチャペルがあったので、「聖歌隊」に入っていたと、後年になって聞いた。
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遺影は、この写真②の顔の部分を引き伸ばしたものである。
この写真は、弥生が一人でツアーに入って行ったヨーロッパの旅のもので、場所がどこか私には分からない。
写真の日付を見ると1990年6月のものだということが分かる。ドイツ辺りの古城でのスナップであろうか。
遺影としては、もっと適当なものがあったかと思うが、私は選定に参加していないし、余り不適切だと強調すると、差しさわりが出そうなので、この辺にしておこう。
私の母が健在だった頃は、もちろん私もまだ現役で仕事をしていたが、二人揃って海外旅行に出かけると、親類の誰かが死んだりして、母が対応に困るというので、私か妻か、どちらかが家に残ることにしていたものだ。したがって妻のツアーへの一人参加ということになる。
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写真③はフランスのモンサンミッシェルを背景にしてのスナップである。
日付を見ると1997年5月の旅だと分かる。
この旅はルックJTBで行ったのだが、「二人から催行」というツアーで、行ってみたら参加者は私たち二人だけであった。日本からは添乗員は付かず、パリのシャルル・ド・ゴール空港に現地社員が出迎えるというものである。大きなバスにフランス人の運転手と日本人の現地ガイドの4人でモン・サンミッシェルやブルターニュ、ノルマンジー、ロワール川のお城などを10日間廻った。大きなバスの前の方の席に私たちがかたまって座るというもので、夕食はフリーで、平生フランス語のメニューを見つけていないので、献立を選ぶのに苦労した。
このツアーはJTBにとっては大赤字も当然で、この企画はすぐになくなった。
ロワールのお城めぐりのときは季節はずれの雪だった。一面真っ白の中を寒くて震えながら見て廻ったが、湿気を含んだ春の雪だった。
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写真④は2000年のミレニアムの年に行った「イスラエル」の旅でのエルサレムのダン・ホテルの前でのものである。
イスラエルの子供たちが、ちょうど居たので、呼び寄せて妻と一緒に撮影したもの。ちょうどホテルで結婚式があるらしかった。
この旅は阪神航空の主催で、トルコ航空利用なので、中央アジアの上を行く最短ルートだった。同行者は全部で5人で添乗員つき。私たちだけビジネスクラスにしたが、ファーストクラス並みのひろびろとした座席配置で、最高だった。
現地では小型バスにイスラム教徒の運転手とユダヤ人のガイドと10日間イスラエルを一周した。ガイドは大阪外語に留学したこともある人で日本語、英語、ヘブライ語のライセンスを持っている。
このツアーについては私のホームページ「ダビデの星」に詳しいので参照されたい。
この旅では「死海」のホテルに2泊したが、妻は金槌で泳げないのだが、死海は塩分濃度が濃くて絶対沈まないので、仰向けにぽかんと水に浮かんでいた。そのことが楽しかったのか、たくさんの人に喋りまくっていたらしかった。
因みに、塩分濃度が濃いと言っても、実際に手にとってみなければ分からないが、現物は「オイル」のようにどろりとしたものが死海の塩水なのであった。
ユダヤ教徒の中にも差別があり、白人が威張っており、有色の人種は「差別」されているのだった。そんなことも現地に行かなければ分からないことである。
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写真⑤は、もう随分前のもので、私の長女の子供たち─つまり私たちの孫である。
左端の孫・可奈は昨年大学を出て就職して、今年は2年目である。
この子は大学でフランス語を専攻し、フランス人の家庭にホームステイしたりした。
妻が膝の上に乗せているのが弟の幸右で、今年、高校を卒業して、日本の大学には行かずにアメリカの大学をめざすとか言っている。
妻の後ろの方に見えているのは、この辺りで盛んな「海芋」カラーのビニールハウスである。
この頃の妻は、何とふっくらした顔をしいてることか。
晩年のやせ衰えた姿からは、想像も出来ない。
まだまだ写真はあるので、折を見て載せてみたい。
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2006/04/27のBlog

   弥生の思い出(2)写真など・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

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昨日に引きつづき弥生ゆかりの写真を載せる。
写真①は昭和34年生まれの長女あかねを抱いた弥生である。今の立て替えた家の前の旧宅の縁側である。
キューピーさんのような大きな目を見開いた弥生の若いときの顔である。
何と若かったのだろう。このとき弥生は27歳かと思われる。

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写真②は私たちの初孫─つまり長女あかねの娘・可奈の「産湯」の光景であり、左側で産湯を使わせているのは、私の母である。
母は6人の子供を育てたこともあり、産湯を使わせるのは、とても上手い人だった。
「硼酸水」を含ませたガーゼで赤ん坊の口の中も手早く漱ぐなどの手順も鮮やかだった。
弥生も産湯だけでなく、子育ては上手かった、と思う。
赤ん坊をギャーギャー泣かせることも少なく、叱り方も上手かった。
ついでに言うと、弥生のお産は楽で、妊娠時期にも「つわり」なども無いに等しい軽さだったように思う。
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写真③は、私の母・トヨの顔も見える新年の光景である。
今は、もう無い旧宅の隠居所の座敷でのもの。
弥生の抱いている子供が一人だけだから、この子は長女あかねの娘・可奈ちゃんであろう。
長女あかねの隣に三女・みづほの顔も見える。
とにかく20年以上前の写真である。男の子・幸右の顔は、まだ生まれていないから、見えない。
この座敷の縁側からは、私の方の1000坪の敷地の南端にあった「梅林」の花見が出来るのだった。
写真④は、誰かの結婚式のもの。弥生も裾模様の正装をしている。
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参列者の誰かに撮ってもらったものだろうが、私の頭がちょん切れている。
しかし、弥生の顔の何と福福しい丸顔なことか。
写真の日付を見ると86年と読み取れる。兄・重信の次女の結婚式かも知れない。
間違っていたら訂正する。

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写真⑤は、今年2006年1月3日の子供たち一家がやってきた新年宴会でのスナップ。
弥生も痩せ衰えてはいるが、まだ元気のあった「最期の遺影」である。座椅子に寄りかかりながら、何か私に笑って語りかけている様子。この写真は、見るのも、つらい。
この前の年は、名古屋のがんセンターから、こちらの病院に戻ってきたばかりで、入院中であり、この写真は久しぶりに自宅で正月を迎えられて喜んでいたのだった。
それが、わずか4カ月で幽明を異にするとは、何たる悲痛さであろうか。
この写真も私にとっては忘れられない一枚となろう。
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2006/04/28のBlog
  弥生の思い出(3)写真など・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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写真①は、北インド旅行のときのもの。
ニューデリーのインペリアル・ホテルの宿泊だったが、食事を屋外のガーデンテラスで摂っているもの。写真の日付をみると99年1月と読み取れる。
インドは暑いので、一月に行くのがベストシーズンである。
日本のゴールデンウイークの時期などは酷暑で気温は40度を越す。
ホテルの塀の中は、木々が茂り、広い庭園は静かであったが、ホテルの塀の外は喧騒うずまく世界であった。

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写真②も、①と同じツアーのときのものか。
日付がはいっていないので、よく分からない。
ワインのグラスを掲げている。
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写真③は、友人とともに行った「長浜盆梅展」のものだろう。
写真に写っているバックは盆梅と屏風であるから間違いない。
後年に私も別に友人たちと行ったので、よく分かる。
関西では「長浜盆梅」展というのは有名である。
それにしても、弥生の顔のふっくらした様子は、どうだろう。
フラッシュで顔が、すごく白く写っている。

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写真④は、親友の島本順子さんと一緒に行った琵琶湖北西の「海津大崎」のときのものである。
このときの旅は印象に残っているのか、島本さんも再三手紙などに書いて来られたものである。
ここは陸から桜を見るよりも、船に乗って湖から眺めるのが最高だという。
2月末に救急車で病院にかつぎこまれた後、島本さんから弥生あてに「また海津大崎の桜を見にゆきましょうね」というハガキをもらったのが思い出される。

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写真⑤は、写真の裏に書いてある説明によると、2002年の「同志社カミングデー」の際の親しい学友たちとの写真である。
弥生は同志社大学法学部の出身だが、「仲良し三人組」というのが居て、そのうちの2人は妻も含めて死んでしまった。
残されたFさんが、もちろん葬儀に来てくれたが、友人によると、その際、Fさんが、激しく泣き伏された、ということである。
妻の友人たちも、みな歳を重ねて老婆になってしまった。
歳月というものは非情なものである。
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2006/04/29のBlog
  弥生の思い出(4)写真など・・・・・・・・・・・木村草弥

引き続いて、弥生ゆかりの写真を載せる。
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写真下を見ると「平成11年7月18日 第2回城陽合唱フエスティバル」と読み取れる。
指揮は中川先生である。
弥生は後列の右から二人目に顔が見える。
発表会ごとに着るものを揃えていたが、このときは夏なので半そでのスタイルである。
妻のパートは、もともとはソプラノだったが、だんだん声が出なくなり、メゾ・ソプラノになり、最近ではアルトで歌っていたという。
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写真②は、同窓の同志社大学の友達に映画監督の「黒木和雄」という人がいて、彼ゆかりの展示会があったようで、その会場での友人とのスナップである。
日付を見ると、01年9月29日であることが分かる。
彼女の年代には、いろいろの分野で活躍する人たちが居て、普通の人には経験できない世界をも、かいま見られたのであり、その意味でも幸せだったと言えるだろう。
2001年というと、この年の暮れには腹部の腫瘍を摘出した年であり、このような健康な顔を見るのは、つらい。前列右から二人目が弥生。
(注・黒木和雄氏は、妻の死に先立って、4月12日に脳梗塞のために急死された。享年75歳。新作「紙屋悦子の青春」が完成したばかりだったという。この映画は8月に上映開始の予定という。ご冥福を祈りたい。)
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写真③は、弥生の母むらの亡くなったときの法事の後での、函館の港が見える保田家の墓地の前での弟妹たちの勢ぞろいしたものである。
弥生の祖父・弥十は昆布・海藻の事業を手広くやって成功した人で、函館競馬に競走馬を持っていたというから、その成功の様子が想像できるというものである。
写真の日付から99年5月23日であることが分かる。
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写真④は、日付がないので分からないが、今の自宅の前で撮ったものだから10年くらい前のものではないか。
この家を建ててから12年経つからである。
この家に立て替える前の旧宅で私は生まれた。
だから、この場所に、私は長い年月を過ごしていることになる。
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写真⑤は、函館の末の弟一家4人が、弟・弥寿弘の教師生活の退職を記念して関西旅行に来たとき、弥生や娘・ゆりがあちこち案内したうちの奈良の法隆寺でのスナップであり、弥生と娘・ゆりである。
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   「弥生を偲ぶ会」>(1)・・・・・・・・木村草弥
     ・・・・・・2006/06/25・・・・・・京都市岡崎 レストラン<ラ・シゴーニュ>

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かねて企画していただいていた亡き弥生を「偲ぶ会」が開かれた。
会場は京都市左京区の平安神宮近くの疎水べりにあるフランス料理店<ラ・シゴーニュ>である。この店名は「コウノトリ」のフランス語だという。その日は「貸切」となった。
この建物の二階はキリスト教「洛東教会」になっている。
この会場は幹事をやっていただいた木原康男氏の確保によるもので感謝したい。

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写真②はお花の会・つくし会の浦島節子先生による生け花が飾られている「遺影台」である。
「つくし会」からは四人の方が参加いただいた。幹事として尽力してもらった豊成洋子さんは急用のため欠席だった。
参加者は34名にのぼり、欠席者38名の方々からも「コメント」が寄せられ、全員の方々のコメントをまとめた「文集」が木原、浅井、横関初恵さんなどの尽力で全員に配られた。
なお、写真は私の長女・あかねの婿・小林重幸がデジカメで撮ってくれたものである。
写真③は会場風景である。
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会は浅井美代子さんの司会で始まった。浅井さんの写真は後日に別途に載せたい。
はじめに亡き弥生のために黙祷を捧げ、賛美歌312番「祈祷」を合唱した。
後で「さとうきび畑」を合唱した。
これは音楽が好きで、 「女声コーラスさざ波」に入って歌っていた弥生を偲ぶものとして、よかった。「さざ波」からはコーラスの幹事をしておられる太田馨子さんが代表で出席いただいた。太田さんも同志社大学のご出身であられる。
「開会の言葉」を藤野トミ子さんが話された。藤野さんは弥生と同期の法学部出身で亡・野阪妙子さんとともに「仲良し三人組」と呼ばれていたらしい。
藤野さんも入学当初、弥生とともにチャペルの「聖歌隊」に入っておられたという。
その生き残りとして藤野さんは悲しみをこめて声を詰まらせながら話された。
写真④に藤野さんのあいさつ姿を出しておく。
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弥生たちが同志社大学に入学した昭和25年頃は、共学の大学に女子学生の姿は、まだ多くはなく、入学して「一粒寮」で一緒に生活をはじめたことなどを話された。
この頃の同級生たちは、それぞれ社会的に地位を占める伴侶にめぐり合って、堅実な家庭を築かれた。藤野さんなども、そんな一人である。
写真⑤は、木原康男氏の主導による白ワインによる「献杯」の様子である。
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この後、食事に移り、はじめに弥生の闘病の様子などについて私に喋るようにとのことで、私の作った「短歌」などを引いて話したが、弥生の闘病の姿が思い出されて、声にならない失態を生じてしまった。お許し願いたい。
食事をしながら、皆さんがこもごも立ってお話しいただいた。
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   「弥生を偲ぶ会」(2)
     ・・・・・2006/06/25・・・・・・・京都市岡崎 レストラン<ラ・シゴーニュ>

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写真①は、司会の浅井美代子さんである。
浅井さんは文学部31年卒業。
夫君である浅井慶和氏とともに出席していただいた。慶和氏は文学部30年卒業。
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写真②は「よびかけ人」として、また文集の編集など裏方の仕事をこなしていただいて、すっかりお世話になった木原康男氏の白ワインによる「献杯」の主導である。
木原氏は経済学部32年卒業である。「同志社平和の会」の幹事をなさっているらしい。
会場の確保など、大変ご苦労をかけたことを記して感謝したい。

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写真③は会場風景の残り半分。こちらには男性軍が座っている。
みな、すっかり、私と同様に老人ぶりが板についている。
正木通夫、鈴木重治、太田雅夫、土肥肇、原田亨、田中貞夫、山田順三、北川善一、などの諸氏である。他に文中でお名前を挙げた人は除いてある。
ついでに女の人の名前も挙げておく。
大沢ミヨ、池田泰子、小林行子、高村さくら、森繁枝、上田まど子、植村圭子、寺岡信子、山根良美、増岡美也子、天草寛子、川端季子、宮岡宏子、西村陽子の皆さんである。女の人も文中で名前を挙げた人は除いてある。
改めて、ご出席に感謝したい。
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写真④は賛美歌312「祈祷」と「さとうきび畑」の歌を合唱するシーン。
最近は沖縄、琉球の独特の音階が好まれて、夏川りみの唄などもそうだが、この「さとうきび畑」も、よく歌われるようになった。
この歌は寺島尚彦の作詞・作曲だが、昭和40年5月26日、四国労音の新居浜の舞台で田代美代子が初演。その後森山良子、上条恒彦らがレコーディングした。
表向き反戦を標榜せず、静かに反戦を訴えている。
10コーラス半、9分かかる中に72回も<ざわわ>が繰り返されている。沖縄のサトウキビ畑には、まだ激戦で散った多くの人の骨が埋まったままで、その人々の魂の叫びが、身の丈よりもはるかに高いさとうきびの葉ずれの音になって<ざわわ>という響きになっている。転調もせず、反復が効を奏した不朽の名曲である。
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写真⑤はレストランの入り口である。
この辺りには京都市美術館、京都国立近代美術館(目下、藤田嗣治展を開催中)みやこメッセ展示会場、動物園、平安神宮など見るところがたくさんある。

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 「弥生を偲ぶ会」(3)
    ・・・2006/06/25・・・・・・・於・レストラン<ラ・シゴーニュ>

会の当日、長女の連れ合いがデジカメで撮ってくれた写真のCDが、ようやく届いたので追加でお世話になった人たちの写真を載せる。

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写真①は幹事として多大のお世話をいただいた横関初恵さんである。ご夫君は京都生協理事長を長らく勤められた横関武氏である。ご夫君の横関武氏(文学部32年卒業)も一緒にご出席いただいた。

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写真②は西村陽子さんである。ご夫君は西村豁通教授で、この人は東大経済学部の出身で、私が旧制桃山中学校のときに一般教養として非常勤で「経済」を教えておられ、その影響で友人の多くが「社研」に入ったりしたことがある。
これらのことは陽子さんはご存じのないことで、当日、私からそんなエピソードもお伝えした。
写真③の右端の和服の人が森繁枝さんである。
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この人は、弥生が函館に引き上げるときに、結核で入院中の私のことを、よろしく頼む、とお願いしていったのが森さんで病院まで会いにきていただいたことがある。文学部29年卒で長らく中学校の教師をしておられたが、久しぶりにお会いしたが、すっかりイメージがお変わりになった。
当日は、島根県から出てきた森さんの生活上でも弥生がいろいろ相談に乗ったそうで、感謝のスピーチをされたりした。
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写真④が長崎の山根良美さんである。この人は法学部30年卒で弥生の後輩にあたる。まだご夫君(医師だった)がご存命中に九州観光の旅の途中で立ち寄ったことがあり、お二人であちこち案内していただいた思い出がある。今はご子息が亡き夫君の跡を継いで医師をなさっている。この人の口癖は「木村先輩」というのだった。遠路、九州からおいでいただいた。
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写真⑤の赤いブラウスの人が、弥生の入っていた「女声コーラス・さざ波」を代表して出席していただいた太田馨子さんである。
この人も同志社大学出身ということである。
ほかにコーラスからは8人の方が欠席ながらコメントをお寄せいただいた。

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   「弥生を偲ぶ会」(4)
    ・・・・・・2006/06/25・・・・・・・・・・於・レストラン<ラ・シゴーニュ>

はじめに申上げておくが、今日7月22日は亡くなった弥生の100ケ日である。

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これも横顔で申し訳ないが、右端が、お花の会「つくし会」の浦島節子先生である。
その左が、同じく宮岡宏子さん、三番目が川端季子さんである。
この会は、最初は華道流派・池坊の浦島美代子先生が指導しておられ、先生は家元の代稽古を勤められる地位の大幹部でおられる。今の節子先生からは叔母様にあたられる。
美代子先生は古くから俳句をやっておられ、もう随分まえに「句集」をいただいたことがあり私も読ませてもらった。
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写真②の左端が「つくし会」の天草寛子さんである。
弥生は会では親しくしていただき、いつもお電話がかかってきたのを知っている。
写真③の私と握手している人が高村さくらさんである。
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ご主人は尼崎の労災病院の医師をなさっており、ご本人は夙川かどこかのキリスト教会のお世話をなさっている。クリスチャンであられる。よく海外旅行をなさり、旅のスナップの写真の年賀状をいつもいただいた。文学部29年卒である。
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写真④は上田まど子さんである。生態学で有名な、また登山家でもあった、文化功労者の今西錦司先生の娘であり、建築家の上田篤夫人である。私の兄・重信と親交があり、当日はそんな話もした。文学部31年卒。
この辺で男性も入れておかなければならないだろう。
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写真⑤は田中貞夫氏である。この人は若い頃は「軽量」で「十一貫」というアダ名だった。今ではすっかり太って好々爺ぶりである。
京都造形芸術大学理事長の徳山の妹さんを奥さんにしていたが、先年、病気で夫人に先立たれた。経済学部29年卒である。

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  「弥生を偲ぶ会」(5)
     ・・・・・・・・2006/06/25 ・・・・・・・於レストラン<ラ・シゴーニュ>

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写真①のマイクを握っている人が池田泰子さんである。
この人は、確か私と同期だった日本史の池田敬正夫人になったのだと思う。
文学部29年卒である。

写真②は正木通夫氏である。

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この人はビラ撒きをしていて、その記事の内容が反軍的とかの理由で、アメリカ軍の軍事裁判で有罪となり刑務所に入っていたという武勇伝の持ち主である。昭和20年代の当時は、進駐軍と言っていたが、アメリカ軍の占領下に日本はあったのである。
英語でいうと「Occupied Japan」ということになる。
新聞など出版物は「検閲」の対象になっていて、最初は「事前」検閲で、その後も「事後」検閲は続いた。短歌などの文芸も例外ではなかったのである。

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写真③が浅井慶和氏で、司会をはじめ多くのお世話になった浅井美代子さんの夫君である。次々に出てくるガンと闘い、何度も手術して闘病しておられると聞いた。
どうぞ、お元気に過していただきたい。
文学部30年卒である。

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写真④の右端が山田順三氏であり、先年奥さん奈々子さんを亡くされた。奈々子さんの相談相手に弥生がいろいろ相手になったとかで感謝された。

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写真⑤は、左端が鈴木重治氏で文学部32年卒だが、京田辺市にお住まいで、奈良の平城京保存会の会長などをなさっているようだ。

その他、写真も名簿もあるが、私は同志社出身ではないし、同志社平和の会にも門外漢なので、名前と顔が一致しないので、失礼する。
だから、この辺で、この会の紹介は一応終りにしたい。

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2004/03/22のBlog
  弥生の癌闘病日記(1)・・・・・木村草弥

私の妻・弥生は2001年12月に腹部の腫瘍摘出の手術を受けた。切り取った組織の病理検査の結果がなかなか出なくて、結果が判ったのは1月17日だった。判定は、とても珍しい癌で「中皮腫」 mesothelioma という悪性腫瘍だった。原発細胞は、どこか、と聞いたら腹膜の脂肪細胞あたりではないか、ということだった。
摘出した癌組織はかなり大きなもので、周辺の臓器に癒着というか、浸潤しているので、それを全部取りきると、腎臓とか、膀胱とか腸とかの臓器を痛め、場合によってはストーマなどの人工尿器などをつけなければならず、そうするとQOL(quority of life)の観点から実生活が物凄く制約されるということで、95%までは取ったが、後の5%は臓器に付着するものなどは取りきれなかった。
この十年ほど前に卵巣の片方(もう1個は弥生がまだ30代半ばの頃に子宮肉腫の疑いで子宮全摘出の際に一緒に摘出)が腫れあがり摘出手術したときに膣壁に癒着していたものが、今回癌化したものかとも考えたが、そのとき摘出した卵巣には、悪性の判定はなかった。大体、癌組織というのは、触ると硬い感じのものという。そのときの卵巣は大きく腫れていたが(もともと卵巣の大きさというのは大人の親指くらいの大きさ)触ると柔かかった。
上に書いたように、弥生は三番目の子を出産した一年くらい後に子宮肉腫の疑いで全摘出したくらいだから、癌になりやすい体質であると、言えるかも知れない。
ここで、やや専門的になるかも知れないが、癌と肉腫の違いというのを皆さん、ご存知だろうか。医師など専門家は癌と肉腫などは厳密に区別する。私も妻の病気の説明を受けるなどの経験から知ったのだが、臓器の上皮などから発生するのを「ガン」と分類する。上皮は粘膜層などが、そうである。もっと深い層から(筋肉層とか)発生するものを「肉腫」と呼ぶらしい。
医師で専門の人が、これを読まれて、おかしいところがあったら指摘して訂正願いたい。あくまでも、非医師の素人の私の書くことである。

妻の「中皮腫」というのは、その中間層から発生するもの、というような分類であろうか。いずれにしても、珍しい癌で、例えばインターネット上で検索していても、名前や簡単な解説は出て来ても、詳しい治療法などは、全く出てこない。出てきても「胸部」の中皮腫で、これはアスベストなどの発ガン物質由来の病気は、ややありがちなのか、少し出てくるだけである。腹部の「中皮腫」などというものは、めずらしい上に、専門に研究する人もいないらしく、第一「中皮腫」という概念というか分類自体が新しいものだという。
この腫瘍は摘出しても次々と、また大きくなる。唯一の救いは、「転移し難い」癌であるらしい。

そんなことで、医師もいろいろ試行錯誤して、2002年春頃から点滴で抗がん剤(パラプラチン)をほぼ月に1回程度の周期でやる。ただし、この抗がん剤は、特に造血機能がやられ、血小板の数値などが、極端に下がる。1回目には基準量を入れたら、極端に下がり、急遽輸血をして数値を回復するなどしたため、担当医師は、以後、半分の量を点滴するようになる。女性だから、副作用で髪の毛が抜けるのを気にするので、頭にシャワーキャップのようなものをかぶり、その中を冷たい水が循環するようになっていて、頭皮の部分を冷やすことによって、新陳代謝を抑え、抗がん剤のその部分への流入を少なくして、結果的に抜け毛を抑える、という理屈らしい。これは、よく考えられたものと感心した。
この点滴をはじめると、副作用で、下がった血液の数値の回復が遅くなり、間隔があくようになってくる。この点滴を1クール─10回くらいやった。2003年2月のことである。以後、点滴を止めて様子をみることになる。

ちょうど私が6月に北ドイツの「メルヘン街道の旅10日間」から帰って成田から妻に電話したら、元気に電話に出ていたのに、夕方、家に帰ってみたら、「入院した」という。驚いて、どうなってるの、と病院にかけつけたら、血液検査の数値が極端に悪いと、そのまま入院させられている、という。
いろいろ調べてもらったら、下肢からの血が戻る「下大静脈」という太い血管が片方詰まっている、という。一体どうなってるの、と言いたいところだが、循環器の先生に言わせると、抗がん剤点滴を一年ほどやって、数ヶ月やめている間に、体全体のバランスが崩れて、こんなことになったという。この時は、血栓がはがれて、心臓や脳に詰まっては大変と、詰まっている上の部分にフィルターを入れて処置されて現在に至っている。
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このBLOGをアップしたら、すぐ「天命を知る」医師からコメントを頂いた。それは直前の「血栓」についてのもので、誠に的確な文章なので、以下に引用させてもらう。
<血栓が生じたのは、細胞性免疫が亢進したためでしょう。癌・悪性腫瘍を攻撃するのは液性免疫ですが、力が出ないと代りに、細胞免疫が高まり、白血球がたくさん作られます。たくさんの白血球は必要がなくなると、空中分解しますが、その時に白血球の中身の毒素が血管壁を傷つけ、血栓や血管閉塞の原因になります。>

担当医師の言った「バランスが崩れてーーー」というような判ったような、判らないような説明よりも、数段上の説得力のあるコメントである。深く感謝し、ここに記す次第である。「液性免疫」とは「リンパ液系統の免疫」のことであろうか。
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ここで、説明しておかなければならないのは、癌手術の前年2000年8月に、妻は心筋梗塞で「心臓冠動脈4本のバイパス」手術という9時間にわたる大手術を受けて、幸いにも快癒した経過があるのである。
これら二度にわたる妻の手術を巡って、私の思いをまとめたものが、私の第四歌集『嬬恋』である。
このような経過から、妻は心臓外科と、腹部腫瘍を手当てしてもらう婦人科と、その腫瘍のせいで腎臓からの「尿管」に狭窄が起きるので、シリコンの管を入れているので泌尿器科と、合計3個所の科にかかっているのである。すっかり病院と親戚つきあいをしている次第である。

その後、私がインターネットで調べて、「温熱療法」というのを見つけ、もと京都府立医大病院の院長だった人が、定年でやめて民間病院の院長をしているところで、その研究成果を実践しているというので大阪の茨木市の某病院に訪ね、約3カ月ほど温熱療法(ハイパーサーミアという)と抗癌剤の併用の治療をする。元の病院の了解を得て、併行しての治療である。

しかし、この治療は失敗だった。というのは、腫瘍は膣のすぐ脇にあるのだが、温熱療法と抗がん剤の攻撃に堪らず、隣接する「膣」に血管を伸ばして、そこから新しい栄養を得ようとして、膣壁の血管が大増殖し、そこから大出血を起こすようになった。その病院は大きいところだが、婦人科がない。仕方なく、元からかかっている病院の婦人科のK医師に尻拭いの処置をしてもらうハメになる。そんなことで、妻の病状には、ハイパーサーミアは、合わないということで、このA病院は撤収することにした。2003年11月のことである。

以後、元のO病院のお世話になっているが、膣からの出血がつづき、また腫瘍が圧迫して、尿が出にくくなり、導尿の管を膀胱に挿入したりで、実生活にも、かなり不自由している。実は、つい数日前から、腫瘍が膣壁を破って膣の中に入り込み、その先端が膣口から露出するに至り、急に入院して今日に至っている。今週3/23に炭酸ガスレーザーで露出している部分を焼き切るなどの処置をすることになっている。
このO病院というのは、京都府南部では中核拠点的な病院で、心臓疾患、循環器などの患者が各病院から送られて来る。私たちは、この病院には、地元の、掛かりつけの家庭医からの紹介で縁が出来たのだが、系統的には京都府立医大であり、多くの医師が府立医大から来たり、戻ったりする。もともと京都は京都大学医学部と府立医大の二系列に分けられるようである。もっとも、この頃は、あちこちに医大が出来て、いろいろの医大出身の医師が見られる。特に開業医は、そうである。

今まで書いて来た件についても、専門家の医師の人が、もしご覧になったら、「それはおかしい」とか「こうしたらよい」とかお教え頂きたい、と思う。よろしくお願いしたい。
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(3/23追記)
今日の午前中に婦人科のK医師によって膣口に露出して来た腫瘍を炭酸ガスレーザーによって焼き切る処置が行われた。2、3センチ角のものが切り取られた、という。ここ一昨日来、出血がひどく下着やシーツなどを自宅に持ち帰って、私が洗濯した。
炭酸ガスレーザーは出血を抑える作用もあると言い、良い結果がもたらされたら、と望むばかりである。
K医師によると、先日のエコー診断によると、腫瘍はほぼ膣内にあるようで、元の場所(膣の外、隣接個所)には見当たらない、という。
先日の「天命を知る」医師の方のコメントに
<中皮腫は、発育の仕方は「良性腫瘍」だが、その根性は「悪性」と考えれば理解しやすいでしょう。>
と書かれていたのが、何となく符合する。妻とK医師の会話だが、腫瘍が膣内だけにあって、その残りの部分も炭酸ガスレーザーで、うまく焼き切れたら、万々歳なのだが。とにかく、この腫瘍の正体がつかみにくく、しかも動きも変幻自在で、振り回される。
抗がん剤や温熱療法(ハイパーサーミア)などが腫瘍に与えた打撃も、それなりにあったのか、腫瘍も大きくなっておらず、しかも膣内だけに限定されている、とは!!!。
いずれにしても、ひどい出血にならず、一応落ち着いているので、ほっと一安心である。
「天命」医師に感謝申し上げる。
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(3/26追記)
弥生は3/26午後、一応の退院許可をもらって帰宅した。炭酸ガスレーザーによる止血作用で、殆ど出血もなく、後は週に一度の外来で、様子を見ながら、また炭酸ガスレーザーで焼き切る処置を当面続けてみる、との由。
まだ膀胱に導尿の管が入っているので、立ち居振る舞いには不便だが、仕方ない。
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2005/04/13のBlog

  「弥生の癌闘病日記」(2)

    ──弥生の5ケ月ぶりの帰宅──

今日2005/04/13に、弥生が2004/11/13に名古屋の愛知県がんセンターに入院して以来、5ケ月ぶりに退院して帰宅した。名古屋では弥生に効く「抗癌剤」がないか尋ねる目的だったが、二度ばかり大出血してベッド拘束になってしまい、結局、有効な抗癌剤もない、という判定を受けて、2004/12/16に、京都の元の病院に戻ってきたのだった。
その間のいきさつについては、私のBLOGに2004/03/22(追記03/26)付けで「弥生の癌闘病日記」をはじめとして、草弥の詩作品『草の領域』に「弥生のリハビリ」(1)(2)「あなごの握り鮨」「弥生の不在」(1)(2)「妻の手」など、リアリズムの手法で「詩」の形で書いてきたので参照してもらえば有難いが、とにかく長い、長い闘病の数ヶ月だった。
つい先日の4月5日に、のびのびになっていた炭酸ガスレーザーのメスによって膣口に押し出していた腫れ物を切除してもらい、ようやく退院の運びに漕ぎつけたのである。
一気に退院というのではない。ステップを踏んでもらいたい、というK医師の意向もあり、先日来、日帰りの「外出」2回、一泊の「外泊」1回という順序を経てきた結果が、今日の退院となった。

名古屋の愛知県がんセンターという専門病院で「有効な抗癌剤はない」という判定が下ったように、弥生の病気にゴールというのは、ない。
今回の退院も「小康」の一時的なもので、遠からず膣口の腫れ物の押し出しも再開されるだろうし、出血も起きてくるだろう。しかし、それでも妻の帰宅は嬉しいものである。
長い入院生活で、すっかり体も鈍ってしまい、車の運転も数ヶ月ぶりで、運転の勘も取り戻さなければならない。
リハビリなどのおかげで、体力も多少は戻り、37㎏まで落ちていた体重も40㎏まで回復した。
とにかく大変である。気を取り直して、改めて弥生の癌との「共生」に向き合わなければならない。
とりあえずの中間報告である。

今日は退院を祝って、二人だけでイタリア料理のささやかな宴を張って帰ってきた。
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2006/05/03のBlog
  弥生の癌闘病日記(3)・・・「死」に至るまで・・・・・・・・・・木村草弥

これまでの記事として2004/03/22の「弥生の癌闘病日記」(1)と、2004/12/20の愛知県がんセンターに関連する「ウイークリー・マンションの話」、2005/04/13の「(2)」を書いて載せたが、その後は病状がだんだん深刻になってきて、いかに妻のこととは言え、本人のプライバシーの面からも、また読んでくださる人たちにも、いかにも深刻な内容なので書くのを控えてきた。
4/15に妻が亡くなって半月余の日々が経過して、いま書いておかないと記憶や記録が散逸するので、思い切って、悲しみを振り切って、書くことにする。

(2)に書いたところでは、一応の退院を迎えることが出来た、となっている。
退院後も、膣に押し出してきた腫瘍の先端部のメスによる切り取りなどで入院、退院を2度ばかり繰り返しているメモが残っている。局部の痛みがひどく、痛み止めの座薬を入れる、などの日記の記述あり。
2005/05/18に入院して腫瘍の先端部を切り取った後も入院を継続し、直腸にも穴が開いて、そこから鼻汁のような(膿というべきか)ものが出てくるので、若し、大便が腹腔に流れたりしたら菌に汚染されて大変なことになるし、腫瘍が下腹部から押してきて消化器を侵してきた場合に備えて「便ストーマ」(人工肛門)を左わき腹──S字結腸の辺りに設置することになり、子供たちも含めて説明を聞く。
2005/05/30に「便ストーマ」の設置の手術を消化器外科のS医師の執刀でやり、ICU、HCUを経て四人部屋に移る。
この手術自体は、まだ腫瘍がS字結腸の辺りには及んでいないので順調だったが、腹部前面の臍下に穴(瘻孔ろうこう)が開いて、それが膀胱につながったらしく、その穴から尿がでてくるようになり、一時は導尿管に流れずに、この穴から大部分の尿が流れる始末になり「尿パウチ」をつけて、集尿袋を2個ぶらさげることとなった。これには弥生も精神的に、かなり参った様子だった。
その後は一時的な外泊などを重ねて、お盆の頃は家に居て、棚経や兄や子供たちの来客の相手をしたりする。
便ストーマの便の始末やストーマの取替え、尿パウチの取替えなど一切は私の役目となる。
2005/09/02に一応の退院となる。その間、膣からの出血などたびたび。その間、病院へは外来で、婦人科、泌尿器科など朝早くから半日がかりで弥生を連れてゆくのが日課である。
2005/10/25に入院、膣の押し出し部分を切除し、11/01退院。
この間、10月中旬には尿パウチに尿が流れなくなり、膿だけになったので、パウチは外し、穴にガーゼをあてて日に1、2度取り替えることにする。
後に、この穴は肉が盛り上がって完全にふさがったが、死の前日には、また直径10ミリくらいの穴が復活して、怖いものだなと実感した。
外来の泌尿器科では週1回膀胱洗浄を受け、2週間に1回導尿管(ドレーン)を取り替えてもらう。
妻の11/25の日記には「カットに行く、今日は調子よい」という書き込みあり。パーマ屋に連れてゆくのも、もちろん私の役目である。
この間、次女が卵巣嚢腫という診断で11/28に入院、翌日、手術する。12/4次女無事退院して帰宅。良性の腫瘍である。
2005/12/27入院し、膣の腫瘍押し出し部を切除、血液のヘモグロビンの数値が低いので輸血800ccする。
12/30退院。今年は何とか自宅で正月を迎えられる。
この12/30にかねてインターネット注文中のオランダ東インド会社から正月用の季節の花が届く。

2006/01/03子供たちがやって来て新年宴会になるが、子供たちが帰宅後、トイレで大量の出血あり。01/05に外来で「フェジン」(鉄)の注射をするが、翌日にも夜通し出血したため、01/07入院しアドナの点滴をし、01/08輸血800ccを受ける。1/13午後退院。
01/18には「おふろに入る」のメモあり。私も裸になって弥生を洗う。便ストーマや導尿管に「栓」をするなどの準備が必要で、大ごとである。
1/24入院して膣のもの切除、2/03退院。2/04パーマ屋にカットに行く。
この後は弥生の気力がなくなったのか日記にメモの記述がない。

以下は私の日記からの転載である。

2/09に何とか良い手だてがないものかと、かねて手配中の、紹介された京都の「ルイ・パストゥール研究所」の免疫療法のための「リンパ球」採取のために京都の百万遍へ。車に一時間ほど乗って弥生には苦痛だったらしい。リンパ球を数百cc採取してもらって帰る。これを培養して数値を増やして後日、体にもどす。自由診療であり20万円を渡す。
2/13は私の京大で昨年春にやって成功裡に終わった前立腺放射線治療の、放射線科の溝脇先生の診察日で朝早く出たが、その留守中に弥生はトイレで倒れ、2時間ほどトイレの床タイルの上で倒れていたという。
2/14弥生を病院に連れてゆく。血液の数値ヘモグロビンが4.4しかなく、即日、入院を認められる。2/15、16に分けて輸血800ccを半分づつやる。食欲も出て、よく食べる。
2/20昼食は好物のハヤシビーフでおいしいと全部平らげる。
2/22かねて手配中の「リンパ球」治療は、弥生の血液の細胞がひどく痛んでおり、培養しても増えないので、無理との連絡あり。後はインターフェロンのゆるい単位の注射をするしかないという。(結果は弥生の緊急入院のために出来なくなった)
2/25弥生は痛みがとれないまま、不承不承のまま午後退院。
この時、私は気づかなかったのだが、すでに「痛み止めの麻薬・オキシコンチン5mg」 が処方されていたのだった。
2/27弥生は頭がぼけたような状態で、水分も飲まないし、トイレに行ってもお尻を洗おうともしない。食事もほとんど食べない。
夜、弥生の様子が無反応なので、娘がパニックになり、病院に電話して救急車で緊急に搬入する。当直の医師の話で、麻薬・オキシコンチンが処方されているのを、はじめて知る。もちろんオキシコンチンの投与は中止。
私はK医師に「麻薬の効きすぎか」と質問する。
3/01かねて申し込んであった個室535室に移る。これから私が泊り込んで看護することになる。
3/04看護師の南部さんが背中と足3ヶ所に褥創(床ずれ)があるのを発見し、以後、体の向きを何度も替えることになる。
3/05ストーマに便が一杯出て、よい兆候だと喜ぶ。呼びかけに対する弥生の反応も少しづつ出てきて、時には笑い声をたてたりする。弥生の入っていた女声コーラス・さざ波の発表会のCDを聞かせたりする。
今日は弥生の誕生日で、かねてインターネットで注文しておいたオランダ東インド会社から薔薇シャンペン・ゴールド10本が届くが、果たして分かってくれたかどうか。
3/10末の妹の克子さんが札幌からトワイライトで駆けつけてくれる。御対面にもやや反応がありよかった。今夜は克子さんが添い寝してくれる。
ただ、夜の早いうちにかなりの鮮血の出血があり、彼女も驚いただろう。連絡でK医師が駆けつけ、ガーゼで止血してくれた。
3/12克子さんは昨夜は宇治駅前のホテルで泊り、今日の夜の寝台特急「日本海」で帰る。
3/17夜10時に精神安定剤デパスと睡眠剤がでて、弥生はぐっすりといびきをかきながらよく寝た。食欲もでて、トーストにしたパンにバターを塗って、耳の部分を残しただけで、よく食べる。三女の子供が出来たと、「幻の孫の血液型」のことを、夢うつつに言う。
3/20点滴と鼻からの酸素をやめる。弥生が嫌がっていじったりするため。経口の食事だけになる。
3/23今朝は朝食は飯だが、かなり食べたらしい。便ストーマに固い、良い状態のウンコが朝と午後の二回でる。3/24も弥生は朝食をガツガツ食べる。3/25今朝の朝食はクロワッサンで、弥生はジャムをつけ、大方食べる。コーヒー牛乳を温め、冷たい牛乳で割って全部飲む。3/26の朝食のパン、コーヒー牛乳、サラダなどをよく食べる。
3/29主治医のK医師が三月一杯で退職するため女医のF医師と引継ぎのために来る。このことも弥生には精神的な負担になっているらしい。
3/30今朝はパンでほとんどを食べる。コーヒー牛乳全部とバナナを三分の二くらい食べる。午後外科のS医師が主治医として引継ぎのために来る。名古屋の愛知県がんセンターで、中心静脈の点滴の器具が装着してあることを言うと、さつそく高濃度の点滴液ネオパレン一号─1000cc、560kcalを点滴してくれることになった。
3/31朝四時頃、咳き込む音で目覚めたら多量の食べたものを吐いた。K医師が胃の内圧を下げるとして鼻から管を通して袋に溜める処置をする。その際にも、かなりの量を吐く。午後S医師が来て、軽い腸閉塞が原因という。中心静脈の点滴が出来る状態になっていて、幸運だったという。
4/01夜、弥生が点滴の管をいじったりするので、ペッドの配置を替えたりする。
4/02弥生は睡眠剤コントミンの点滴などで一晩ぐっすり寝た様子。
4/03点滴が基本だが、小さな氷片なら口にいれてもいいというのだが、午前中に胆汁様の緑色っぽいものを吐く。口が渇くのか氷を看護師にせがんだらしい。
4/06睡眠剤の効き目がなくなり、弥生は夜ほとんど寝ていない。布団や毛布をはいだりして、じっとしていない。
4/07昨夜は橋田寿賀子のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」が再開されるので、スペシャルで21時から23時まで、弥生は、これが大好きなので、ベッドの向きを替えてもらって、かぶりつくようにして観ていた。眠剤の投与も、それが済んでから。すごいわがままぶりである。
4/11痛みを訴えるので、夕方、モルヒネの貼り薬2.5mgを胸に貼る。効きはじめるのは12時間くらい後になるという。F医師の指示。
4/12モルヒネの貼り薬の効果で、弥生はよく眠るというか、眠らされているという状態で、会話やコミュニケーションは全く取れない。
午後三時前に急に「震え」がきて看護師、F医師が来て、モルヒネの貼り薬をはがし、酸素吸入をする。
4/13痛み止めに「ロピオン」が点滴される。今夜は娘と交代するが、夜中にロピオンを追加してもらったらしい。
4/14朝、病院に来てみたら、娘に昨晩、弥生が痛みの激しいときに「もう死んでもいいから、治療を止めて」と訴えたという。娘はF医師にも、そのことは伝えたという。
看護師の南部さんが発見したのだが、腹部の臍下の塞がっていた穴が、また開いて、そこからじくじくと汁がでているという。瘻孔が復活した。直径10ミリくらいの大きな穴が開いて、この病気の恐ろしさを見せつけられる。ガーゼを二重にあてて、汁を吸い取るようにする。そのうちに、その穴から「尿」がでるようになり、シーツやパジャマが尿臭くなる。S医師に来てもらって「尿パウチ」をつけてもらう。
4/15朝九時半頃、のどがゴロゴロいうので痰の吸引をしてもらったところ、胃から「赤だし」様の液が吐き出される。S医師が来て、臍下の穴も見て、内臓で腫瘍が大きく動いている状況に、モルヒネ等の麻薬は絶命する恐れがあるので使用しないほうがよいという。娘の意見は、痛みを取る処置を優先するというF医師の意見を採用してママを楽にしてあげたら、ということだったらしいが、今日の事態で対応は変わらざるを得ない、と長女と話すが、午後からは口から、のべつまくなしに赤だし様の液を弥生は吐きつづけ、対応に看護師とともに苦慮する。午後4時52分弥生は、あっけなく絶命する。
苦しげな顔が絶命して、安らかな顔になる。
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なるべく叙事風に書いてみた。
ここで「点滴」と悪性腫瘍との関係について書いておく。
悪性腫瘍─つまり「癌」は、ものすごい勢いで増殖するが、その癌は血管から「栄養」を得ている。前にも書いたことがあるが、激しく増殖する癌も栄養が追いつかないと、古い中心部の癌組織は「壊死」する。CT画面などでは黒く写って素人でも、よく分かる。
癌組織は外側、外側にと「血管」を張り巡らせ、血液から「栄養」を、人体の他の細胞よりも先に取り込むのである。
だから「点滴」は、癌組織に、わざわざ「栄養」を供給しているようなもので、生命維持のためには「点滴」の栄養補給は欠かせない、と同時に、癌組織に栄養補給をして癌組織を助けるという相反する処置をしなければならないのである。
このことについては私たち夫婦の間で話し合ったこともあり、弥生はこの「矛盾」を承知しているのである。
ホスピスなどでは、「点滴」を施術しない選択を取るところが多いと聞く。
最終の末期症状を呈してきて、この「点滴」についての医師の判断も、当然、意見が分かれた。K医師とF医師は、点滴に批判的であり、特に高濃度の点滴液の採用には批判的だった。しかしS医師は積極的に高濃度点滴液を採用され、それが弥生の元気を取り戻すきっかけになったので、私たちも喜んだのであった。
この「二律背反」めいた処置は患者の家族、あるいは医師にとって辛い選択なのであった。
オキシコンチンあるいはモルヒネという「麻薬」の使用についても、この両者の医師の考えは違っていた。上に書いた通りである。
これらの考えが統一されていたら、弥生の寿命は、あといくらか延ばせたかも知れないが、今となっては結果論になってしまうだろう。
それに弥生の死ぬ日と前日の担当看護師に新米が多く、ベテランの人も親身がなく、私の心証はからい、と申しあげておく。得てして、世の中のことは、決定的なときに、こんな風になるものなのである。今となっては愚痴である。
三女・みづほの連れ合いが4/1づけで富山大学医学部ウイルス学助教授として赴任して、その就任挨拶状のハガキが4/10付けの消印で到着したので、弥生に見せたのは4/12頃ではなかったか。私の説明にも明確な反応がなかったのが、何とも残念である。ひと言付け加えておく。

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