K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
25121028287シーギリヤ
 ↑ シーギリヤ・ロック──スリランカ
main_PCMB02シーギリヤ・ロック
↑ シーギリヤ・ロックの俯瞰
lrg_10375026ロック頂上への登り口
 ↑ ロック頂上への登り口
c0156438_08666シーギリヤ
 ↑ 岸壁画の一部
mukannouma (2)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる
         岩現れぬ密林の上に・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 
             ・・・・・・・第六歌集『無冠の馬』所載・・・・・・・・・・

  忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる岩現れぬ密林の上に

  いづこにも巨岩を畏れ崇(あが)むるかシーギリヤ・ロック地上百八十メートル

  父殺しのカーシャパ王とて哀れなる物語ありシーギリヤ・ロック

  汗あえて息せき昇る螺旋階ふいに現はるシーギリヤ美女十八

  草木染に描ける美女(アプサラ)は花もちて豊けき乳房みせてみづみづし

  ターマイトン土で塗りたる岩面に顔料彩(あや)なり千五百年経てなほ

  貴(あて)なる女は裸体、侍女は衣(きぬ)被(き)て岩の肌(はだへ)に凛と描ける

  昔日は五百を越ゆるフレスコ画の美女ありしといふ殆ど剥落

  獅子(シンハ)の喉(ギリヤ)をのぼりて巨いなる岩の頂に玉座ありしか

  聞こゆるは風の音のみこの山に潰えしカーシャパ王の野望は

  熱帯にも季節あるらし花の季は十二月から四月と言ひぬ

   ──つい数年前までタミール人「解放の虎」テロとの血みどろの抗争があり、大統領が訴へた──
  「憎しみは憎しみにより止むことなく、愛により止む」ブッダの言葉

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嬬恋

掲出したのは私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)だが、この歌集の表紙の写真を撮るために2003年の春にスリランカへ行った。
それにまつわる紀行文「光り輝くインド洋のひとつぶの涙の雫-スリランカ」があるが、この歌集には、その時に作った歌は収録できなかった。

この巨大な石塊の岩棚に美女アプサラの絵が描かれている。
スリランカはイギリスの植民地の頃には「セイロン」と呼ばれていたが、「シーギリヤ・レディー」と俗称されている。
これらの歌は、この歌集以後のものとして結社誌にも発表したし、習作帳にも保存してあったが、第五歌集『昭和』(角川書店)編集の際には収録を忘れて、これにも洩れている。
そんなことで久しぶりに『無冠の馬』に収録した次第である。


賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     賞味期限切れた顔ねと言ひながら
            鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!
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この記事は2006/02/19に初出のもので、当時これをご覧になったChibisaruさまが、こんなコメントをお寄せになった。

   <私はコンタクトを入れるときは「ウロコをいれる」といい
    お化粧するときは「化ける」もしくは「変装する」といい
    着替えるときは「武装する」といいます
    家から一歩でると私にとっては戦場なのかな?(笑)>

とても面白くて、的確な表現なので、ここにご紹介しておく。
その人もDoblogの廃止騒動前後の頃から音信不通である。




ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ■ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる
          終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
同じ一連につづく歌を、引いておく。

    ■あの空の向うは楕円の空洞か
      ずるい蝙蝠(かうもり)が俺を追ひつめる・・・・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は、いずれも「比喩」になっているもので、私の人生を「此の物語」と表現してみた。
無慈悲な歳月の推移を「ずるい蝙蝠」と描いてみたが、いかがだろうか。
掲出した図版は「源氏物語絵巻・朝顔」の段のもので、私の歌とは直接の関係は全く無い。「物語」からの連想である。

現代短歌の世界では、現代詩と同様に、こういう「比喩」表現が盛んに使われる。
もちろん、そういう「比喩」を一切しない人もあるが、リアリズム・オンリーでは歌に深みが出ない。
「比喩」には「直喩」「隠喩」など多くのやりかたがあるが、一般的に一番多いのが「ごとく」というような、単純な直喩を使ったものである。
この場合には、よほどしゃれたものでないと、読者を揺さぶるような感動を与えない。
私は短歌の世界に入る前には現代詩をやっていたので、短歌の世界に入っても、そういう「比喩」表現を採用するのに、何の抵抗もなかった。
この歌も、もう二十年も前の作品だが、先に引いた歌と同様に、すでに老境を意識したものになっている。
「ずるい蝙蝠」と言ってみたが、果たして、現実の蝙蝠が「ずるい」かどうかは判らない。
蝙蝠には悪いが、私の直感が、そう書かせたということである。
ヨーロッパの文学の世界でも、蝙蝠は良い印象を与える描き方はされていないので、そういう潜在意識を私も受け継いだと言えるだろう。

次に引用するのはネット上で見つけたものだが、東京大学の入試問題らしい。
「比喩」「蝙蝠」などに関係するので、よければ読んでみてほしい。 作曲家の三善晃の文章らしい。
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東大1996年
《第五問 現代文/芸術論(個と普遍)問題文(約1600字)
【出典】「指に宿る人間の記憶」三善晃

五 次の文章を読んで,後の設問に答えよ。
 谷川俊太郎さんの詩《ポール。クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編<死と泉>は,「かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならない」と始まる。それで,「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は,この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれぬだろうか わたしのほねのみみに」。
 この十年ほど,ときどき右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか,頸椎が変形か摩耗かして,痺れと痛みが何カ月か続く。その間,右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触るだけだ。
 しかし,そうすると,ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん,物理的な音が出るわけでない。だが,それはまぎれもなくピアノの音,というよりもピアノの声であり,私の百兆の細胞は,指先を通してピアノの歌に共振する。こうして,例えばバッハを”弾く”。すると,子どものとき習い覚えたバッハの曲は,誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律のように”聴こえて”くる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って,むしろア私とはかかわりなく自律的に作動するイメージである。多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。だが,そうして私に響いてくる韻律は,私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく,また,かつて聴いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが,そのバッハも韻律のなかに溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら,私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は,丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば,最終的にはいつも「身分け」る自分だった。
 私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように,私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても,その「言分け」は,「身分け」られる生き方を超えることはできない。例えば,どんなに死を「言分け」ても,それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は,その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は,イ自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた。しかし,「わたしのほね」になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに,「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それはウ私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは,その人間の記憶のためであり,また,その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば,いつか私が「わたしのほね」になるときに,私は「自分という他者」として自分と出会い,人間の記憶に還ることができもしようか。

[注]丸山圭三郎---一九三三~一九九三。哲学者。

(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。


《第五問》現代文解説・解答

●(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」という傍線部の主語は「それ」で,「それ」は前文によれば「骨の記憶のようなもの」になる。また「骨の記憶のようなもの」は前の段落末尾から,「誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律」→「何か普遍的な韻律」ぐらいになろうか。そこで傍線部の「イメージ」は「何か普遍的な韻律」と置き換えられる。
 「私とはかかわりなく」は,傍線部を含む一文の直前に「それは日常の意識や欲求とは違って,むしろ」とあるわけだから,「日常の意識や欲求」と関わりなくという意味であろう。
 また,「自律的に作動する」の同意部は,直後の,事実上,「つまり」でつながれた「多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。」になる。「腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される」ということである。
 合成してみると,「私の日常の意識や欲求と関わりなく,腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,空間に遍在する韻律のこと。」
【解答例】
私の日常の意識を超え,身体に蓄積された運動イメージが鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,何か普遍的な韻律のこと。

●設問(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
【解説】まず主語は「私」である。次に傍線部を含む一文の直前に,「だから」とあるから,傍線部の理由が直前の形式段落にあることは明白である。単純に言えば「そのような生き方をどのように『言分け』ても,その『言分け』は,『身分け』られる生き方を超えることはできない。(例えば,…。)それでもなお私は,その『身分け』を『言分け』し続けなければならない」から,が答になる。しかし,これでは筆者独特の術語(いわば論理的比喩)が混ざっていてよくわからない。もう1つ前の形式段落まで行くと,「言分け」は「言葉で理解する」,「身分け」は「身体で理解する」と説明されている。つまり,「私は,そのような生き方をどう言葉で理解しても,身体での理解を超えられないのに,それでも言葉で理解し続けなければならないから」ということになる。また,「そのような生き方」の指示内容はその前にあり,それは「私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを『身分け』ている。(蝙蝠が…は比喩)。私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は『身分け』ている。」を指す。「他者を通して自分を見続ける生き方」ぐらいにまとめられる。合成する。

【解答例】
他者を通して自分を見続ける生き方は,身体で理解するしかないのに,なお言葉で理解しようとし続けなければならないから。

●設問(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】傍線部の主語は「それ」であり,指示内容は直前の「『分け』ようとする私と絶縁した私」である。そこで,「身体による理解と言葉による理解,つまり,理解することと縁を切った自分」ということになる。
 さらに「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」の同意部分を探してみよう。まず設問(一)では「骨の記憶のようなもの」があった。「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」ということであった。
 さらに「『わたしのほね』になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める『自分という他者』の声なのだ。」が見つかる。「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」ぐらいにまとまる。『自分という他者』は「個の中の普遍的なもの」ぐらいの意味だろう。
 「理解することと縁を切った自分」「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」「個の中の普遍的なもの」を合成する。
【解答例】
たとえば韻律のように,他者を通した自分への理解とは無縁の,人間の個の身体の内部に蓄積されている普遍的なもののこと。

以上。

★文章寸評(読解とは関係ありません。)
 もう少しわかりやすく書いてもらえないかなあ,三善先生!


私の心もとない半生のミスプリントに朱線を引かう・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   私の心もとない半生の
      ミスプリントに朱線を引かう・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌は、私の経てきた人生を「喩」的に表現したものである。
長い生の中では、いくつかの失敗や間違いを重ねたので、それを「ミスプリント」と表現してみた。
掲出した画像は、原稿の「校正」の見本である。 編集・校正には一定の約束ごとがあり、出鱈目にやるものではない。

私は第一歌集を出したときに角川書店の担当が呉れた編集手帳に載る「校正記号」で勉強した。
詳しくは、「校正記号表」 ← というサイトを参照されよ。PDFだが、荒瀬光治著より引用されたもの。

いろいろやってみると面白いものである。
私も第五歌集『昭和』(角川書店)まで上梓したが、そのときには「筆者校正」を「三校」にわたってやった。
この歌集は私のパソコンに保存してある原稿をCD-Rで出版社に届けたもので、この原稿に私のミスのないかぎり、出版社や印刷所による「入力ミス」というのは起こらないので、
以前のような「活版」印刷と違って、校正個所は大幅に少ない。

「朱線」というのは、赤い線を引いて「抹消」または「訂正」するときに使うもので、例えば、次に引用するような場面にも使われる。

以下は、Yahoo! JAPAN - My Yahoo! 「智恵袋」という質問サイトに載るものである。
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質問

「離婚歴があると,戸籍に☓がつけられる。それが,バツイチの語源だ」という話を母が言っていました。本当の話でしょうか。

ベストアンサー に選ばれた回答

本当です。

戸籍謄本の配偶者を書きこむ欄に、離婚すると朱線のバツ(☓)が記されるところから、そういわれます。

余談ですが。。。

本籍地を移すと、「☓」が消えます。
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このサイトの記事の必要な部分のみに要約したことを了承されたい。

妻が亡くなって、いろいろの法的処置が必要になって、私の戸籍謄本を取り寄せたが、その謄本には妻の記載欄に大きく☓印が入れられて「抹消」されている。
私の手元にあるのは謄本であるから黒線に見えるが、原本は「朱線」で抹消されているのであろう。
同じく、私の娘たちも結婚して出て行ったものは、私の戸籍から☓印をつけられて「抹消」されている。
謄本が手元にあるので、それを掲出できたらいいのだが、プライバシーにわたるので、それは見せられない。



季節はああ次々とやつて来る私はもう急ぐこともない・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    季節(シーズン)はああ次々とやつて来る
        私はもう急ぐこともない・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「生き急ぎ」という言葉があるが、これは反面では「死に急ぎ」にも通じることである。
今しも、年末にさしかかってきて、友人、知人、親戚などから「喪中はがき」が連日のように舞い込む始末である。
私のような歳になってくると、友人の死の知らせに接することが多い。
そんなハガキに添え書きしてあるペン字には、自分自身の体のことで「胃がんで全摘出した」とか「パーキンソン病になってしまった」とか書いてある。

掲出した私の歌は、もう二十年以上も前の旧作だが、この頃に、私はもう、こんな「死生観」を濃密に抱いていたということである。
私は十代の思春期の頃に、長兄や姉や祖父や妹やら、叔父の死などが連続して異様な感覚に打ちのめされた。
「死」ということに、否応なく直面させられたのである。
この頃から、私の身近に「死」が存在した、と言えるだろう。
だから、私自身にとっては、掲出歌のような心境は不思議でも何でもないのである。

私の掲出歌とは直接の関係はないが、必要があってネット上をサーフィンしていたら、下記のような記事に出会ったので載せておく。
いつごろの記事なのかも不明。
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「死急(しにいそぎ)温泉」 (宮城県)

 温泉には、様々な成分が溶けこんでいて、それが健康にもよいのだが、中には成分があまりにも強烈で、注意しないと体に悪いような温泉もある。この死急温泉はその代表的なものである。

 岩風呂にたたえられたお湯は、ちょっと見ただけでは何の変哲もないきれいな湯である。ただ、よく見れば湯面に、羽虫や小動物の死骸が浮かんでいることに気がつくだろう。そして、鼻をつく強烈な臭い。

 ここの温泉は、硫酸をかなりの濃度で含んでいるので、長時間入っていると体が溶けてしまう。慣れた人で一分。初心者は十秒くらいつかるだけにするのが安全であろう。

 東北本線黒勝田からバスと、電車で乗りついでくるこの死急温泉は、その名の通り地獄の一丁目のような恐ろしいムードのところである。馬車を降りると、そこにはポツンと、一軒の古びた宿があるだけ。宿のすぐ横は墓場で、時々火の玉がふわふわ漂っている。

 そんなところまで来たのは、あなた以外にひとりもいない。そこで宿の扉を開け、ごめん下さい、と言う。三度ほど叫んだところでやっと奥から、
「ふはーい」
 と言って前歯が一本もない皺だらけの老婆が腰を曲げて出てくる。
「今晩泊めてもらえませんか」
「えっ。そしだらもしかすっど、おめえは、お、お、お、お客さんだばや」
「そうです」
「そうか」
 
 なぜか急に老婆は無口になる。ジロリ、とあなたを見つめて、小さな声でこう言ったりするのだ。
「死んでも、知らんぜよ」
 背中に冷たい水をあびせかけられたように、ゾーッとするであろう。

 しかし、私はこの死急温泉へ何度も行き、その卒塔婆館を経営する老夫婦をよく知っているのだが、そのお婆さんは小比類巻ミチといって、本当はとても親切な人である。

(中略)

 宿の裏手に、露天風呂がある。前述したように、初心者は十秒くらいしか入ってはいけない湯なので、岩などにつかまってすぐにあがれるように身構え、ちゃっと入って、十数えたらすぐ出るようにしよう。その時体のバランスを崩して湯に頭から落ち、強い酸を飲んでしまい、げぼっ、とむせたりし、我を忘れて暴れまわり、足をすべらせて掴みどころを見失ったりしていると、足元のほうから、ジューッと体が溶けていくので大変な悲劇となる。そういう意味では、恐ろしい温泉である。

交通 東北本線黒勝田駅からバス25分で死出路へ。死出路から乗合馬車で1時間。車で行ける道はない。
泉質 硫酸。55度。
効能 機敏性を養う。度胸試し。
宿 1軒。
◆卒塔婆館 Cランク。収容10人。経営者が不気味。
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何とも異様な温泉があるものである。「死に急ぎ」という言葉を使ったので、その関連で「検索」に引っかかった言葉端であると、お許しいただきたい。

いずれにしても、「生き急ぎ」「死に急ぎ」はするものではない。物事や歳月の推移も、あるがまま受け入れたいものである。



雑器の美はどこにでも転がつてゐる、もと溲瓶とは見えませんなあ・・・・・・・・・・木村草弥
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     雑器の美はどこにでも転がつてゐる、
            もと溲瓶(しびん)とは見えませんなあ・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
掲出の写真①は韓国の昔の「溲瓶」と言われるものである。私の歌に詠っている物も、まさに朝鮮の「尿瓶」からの歌である。

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写真②は「染付け古便器」(陶磁器製)である。写真に写っているものは男性の立ち小便用の便器で、古いものだが、収集されて展示されているもの。これらの展示の中に、問題の「シビン」があるのである。今では常用漢字に、この字がないので、先に書いたように「尿瓶」と書いて「シビン」と訓(よ)ませている。
写真③に、現在の「尿瓶」なるものを掲げておく。

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私が歌に詠んだ時の現物は写真に撮っていないので、代りに掲出した写真を掲げたものであることを、お断りしておきたい。
この写真は民間テレビの人気番組「お宝なんでも鑑定団」HPから見つけたものである。
このHPに載る記事をそのまま紹介する。

神奈川県の菊地広十志氏(35歳)の鑑定依頼である。
5、6年前に父が韓国に行った時、ホテルの骨董店で焼き物を物色中、あまり見たこともない焼き物に引かれ、店員に尋ねると「水などを入れて使っていたものです」とのこと。花瓶か水差しだと思い4万円で購入。帰国の際、空港の手荷物検査で一もんちゃく。係官がわんさか集り、サイズは測るは、焼き物の絵を描くは、何故か笑い出す人まで・・・・・。不安になった父が尋ねると「おそらく600年ほど前の文化遺産かも知れない」とのこと。驚く父に係官は「これは尿瓶です」。
現在、床の間にお気に入りの一品として飾っている父。なんとかやめさせたいのだが・・・・・、と息子が鑑定を依頼。本人鑑定額1000円。
鑑定結果は、1000年から900年前のもの。酒や液体を入れて使われていた。依頼品は日本人が好む形。鑑賞陶器としては評価されるもの。鑑定額は6万円。

この鑑定のように、この陶器は「酒」などを入れていたものだが、私も見た「シビン」は、実に、これに似た形をしているから、紛らわしいのである。
事実、中世の茶人たちは、これを「花器」として珍重し、花を生けて茶室に置いたりしたのである。私の歌は、そういうのを詠んでいるのである。お騒がせしました。
因みに、私の歌は「結界」という項目名のところに収録してあるが、長くなるので引用は控えておく。


熱き血のなほ潜みゐむ現身のうすぎぬ剥ぎて垂乳さぐりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   熱き血のなほ潜みゐむ現身(うつしみ)の
     うすぎぬ剥ぎて垂乳さぐりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』((角川書店)に載るものである。
この歌は、亡妻がまだ元気であったときの思い出の作品であり、今となっては記念碑的なものであり愛着がある。

日本文学では、古来、乳房のことを、私の歌のように「垂乳」(たりち)と表現する。
散文的には「胸乳」(むなち)と言うこともあるが、私は「垂乳」の方が好きである。これは加齢によって「垂れてきた」乳房の意味ではないので、ご留意を。
「たらちねの母」という表現がある。これは母という言葉にかかる「たらちねの」という「枕詞」(まくらことば)であり、これは漢字で書くと「垂乳根」となり、乳房のことから転化して、母または親を修飾する「枕詞」になったものである。
近代短歌の頃には、枕詞なんて古臭いなどと言われたときもあったが、現代短歌では歌に深みを増すために最近は枕詞の使用が見直されてきているのである。
以下、百科事典に載る記事を転載して、お茶を濁したい。
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 乳房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

人間の乳房(にゅうぼう、ちぶさ)は、多くの哺乳類のメスに存在する、皮膚の一部がなだらかに隆起しているようにみえる器官で、その内部には、乳汁(母乳、乳)を分泌する機能を持つ外分泌腺の乳腺(にゅうせん)が存在する。幼児語ではおっぱいとも呼ばれる。

乳房の表面には、乳汁が外部に分泌される開口部を含む乳頭(にゅうとう)が存在する。哺乳類では、産まれてから一定期間の間の乳児は乳汁を主たる栄養源として与えられ、生育する。哺乳類の名前は、ここから来ている。オスの乳房、乳腺はその生産機能と分泌の機能を持たないため通常、痕跡的である。

哺乳類でもあるヒトの乳房は、通常は胸部前面に左右1対にて存在する。地球上に人類が誕生して以来、ヒトの乳房の存在意義は、出産後母乳を分泌し、乳児を育てることであるが、文明が発達した現代においては、母乳を代替品の粉ミルクにより置き換えることも可能ではあるが、医学的に考察すれば その与えられた免疫機能の重要性は極めて高く、代替品では近似してはいても、その本来の成分には遠く及ばない。免疫の極めて低い状態で出生する新生児に確実に免疫を獲得させる目的からも、母乳が勧められる。 また、ヒトの乳房は、乳首をはじめ刺激を受けると性的興奮を得やすい。

乳房の構造
乳房の構造乳房の表面は皮膚で覆われる。ヒトの女性では、通常は胸部の大胸筋の表面の胸筋筋膜上に左右1対が存在し、およその位置は、上下が第3肋間~第7肋間、左右は胸骨と腋窩の間である。乳房は第一次性徴期は性差がなく男児と同じ(第1段階)であるが、第二次性徴期に脂肪組織が蓄積する(特に脂肪組織が蓄積するのは第2段階第3段階の間)。乳房の脂肪組織の形は人種差や個人差が非常に大きい。高齢者になると乳房の中身が徐々に衰退するため乳房が徐々に下垂する。

乳房の内容は、その容積の9割は脂肪で、1割が乳腺である。乳腺は、乳房一つあたり15~25個の塊として存在し、乳頭の周囲に放射状に並ぶ。それぞれの塊を葉(よう)と呼ぶ。それぞれの乳腺の葉からは乳管が乳頭まで続き、乳腺より機能し分泌された乳は、乳管、乳頭を通して体外へ出る。乳房組織の脂肪組織は乳の生産には全く関係しない。

乳房の成長
Tannerの分類によれば、両性において共通するのが第1段階である。その後、女性は第2・3・4段階の課程を経、第5段階において女性成人型に変化する。また、男性は第1段階を維持し、男性成人型になる。

女性
第1段階 第一次性徴期(第一次性徴は性別差なし)
第2段階 乳輪下に脂肪組織が蓄積し始める。乳頭、乳輪(乳暈)が広くなり、乳首・乳輪の色が変化。(定義上では、ここから思春期)
第3段階 脂肪組織が蓄積し外見差が出てくる
第4段階 乳輪が隆起し、ほぼ成人型になる
第5段階 女性成人型となる
男性
第1段階 第一次性徴期(第一次性徴は性別差なし)
第1段階 乳頭、乳輪(乳暈)が広くなり、乳首・乳輪の色が変化し、男性成人型となる。

乳汁の分泌とその調節
乳児に母乳を与える様子血液を原料に乳を作る。乳房組織の脂肪は乳の生産自体には関係がないため、その大きさと母乳の量・質には因果関係はない。乳(ちち)は、乳汁(にゅうじゅう)ともいい、ヒトや動物のうち哺乳類が幼児に栄養を与えて育てるために母体が作りだす分泌液で、乳房組織で作られ乳首から体外に出てくる。乳房組織は血液の赤みをフィルターして乳にする。出産直後に母体から出る乳は初乳と呼ばれ、幼児の免疫上重要な核酸などの成分が含まれている。

どんな哺乳類も本来子供を出産した後、数ヵ月から数年の哺乳期間だけ母体は乳を作り出す。タバコの喫煙習慣のある女性は脂肪組織に蓄えられたダイオキシンなどの極めて毒性の高い物質が母乳に混じり、排出される。

平時は母乳は決して出ないが、妊娠・分娩後には脳下垂体から泌乳刺激ホルモン(プロラクチン)、オキシトシンが分泌され、このときだけは母乳が生産されるようになる。まれにホルモン異常などの疾患により、妊娠しなくとも母乳が出る場合がある。稀に、男性から出ることもある。


他の哺乳類の乳房
仔豚に母乳を与える豚哺乳類の乳腺の発達する部位は、左右対称に前足の腋の下から後ろ足の間、恥骨に続く乳腺堤と呼ばれる弓状の線上にある。この上の発達部位の中で、それぞれ哺乳類の種によって、特定のいくつかが発達する。前の方が発達する場合、子供は前足の腋の下に口を突っ込むことになるし、後ろが発達すれば、腹部下面に乳房が並ぶことになる。

一般的に多産の動物ほど乳房の数は多く、牛は4つ、犬は8つ、豚は14個存在する。乳頭と子が産直後に固定されるものもある。

なお、ヒトにおいても極く稀に本来の発達部位より前(主に脇の下の部分に生じるが、同様に乳腺堤上にあたる腹部の左右から股関節にかけての部位に生じる場合もある)に1対(複数発生例もあり、最大で9対生じる事もあるという)の乳頭を持つ例があり、「副乳」と称される。稀に膨らむ場合もあるが、ほとんどの場合が発達せずホクロのように見える。これは現在、哺乳類でもある人類の、地球上での出現・進化と深く関連していると推測されている。

社会的存在 
一方、女性特有の器官である乳房の大小は、1970年代以降より女性の身体的魅力の一要因とされており、現代においては関心も高い(#関連を参照)。
また、大小にかかわらず、均整の取れた美しい乳房を美乳と呼ぶ。



吾が贈りし口紅それは夢の色ほの明りつつ唇に映ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   吾が贈りし口紅それは夢の色
      ほの明りつつ唇に映ゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「化粧」の一連の歌を採り上げたので載せておく。

亡妻は国産のものでは資生堂の化粧品を使っていたようだが、私が海外旅行の土産として買って帰った「シャネル」の製品も、よく常用していた。
香水やオーデコロンなどは「シャネル」の5番を愛用していた。マリリン・モンローがネグリジェ代わりに身につけて寝たというものである。
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以下に百科事典に載る記事を転載しておく。

 口紅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

口紅(くちべに、lipstick)とは、人が顔に着彩する目的で唇に塗るために使われる化粧品の一種である。

一般的に、ベニバナを原料とし、ワックスや顔料を溶かして型に入れ固めて作られるが、製品としての口紅にはこれらのほかにも色素、界面活性剤、酸化防止剤、香料など多数の成分が含まれる。

なお、口紅の訳語としてしばしば使われる「ルージュ(rouge)」とは、フランス語で赤という意味である。しかし、昨今では赤色でない口紅も存在するようになり、オレンジ系・ピンク系・ベージュ系など様々な色味に大別される。 唇に質感だけを加える半透明なグロスと呼ばれる物もある。

形状はスティック状の物が一般的で、フタをとり直接あるいは一旦口紅用の筆(リップブラシともいう)に取って唇に塗布する。スティック状でないものは直接唇には塗りにくいので、筆に取って塗布する。

なお、英語では「リップスティック(lipstick)」といい、略して「リップ」と呼ぶことがある。しかし、日本ではそのように略すと口紅より、主に唇の乾燥を防ぐために用いられる薬用リップクリームを連想させる。業界では、両方扱っているメーカーが多いために、この2つは使い分ける傾向にある。

歴史
約、7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが、始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、約、紀元前3000年の頃のエジプト人が使用されたと思われる口紅が発見され、約紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。

効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。
保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境に使用できる製品も開発されている。
夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。

口紅にまつわるエピソード
男性が女性に口紅を贈る場合に、「少しづつ取り戻したい」などという気障な言葉が添えられることがある。
本来の意図と反して、ワイシャツなどに付着した口紅は、浮気の証左としての痕跡とされるが、満員電車などで意図せずにつく場合もある。
食器などに付着すると、成分の関係で落ちにくい汚れとなる。最近では付着しにくいものも多い。
口紅を塗る動作そのものを「紅を引く(べにをひく)」と表現することがある。
かつて春先の化粧品のキャンペーンやプロモーションの中心商品といえば、口紅であった。
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掲出の私の歌だが「口紅それは夢の色」なんて、甘ったるい表現で、今となっては冷や汗ものだが、これも亡妻の元気なときの仲のいい夫婦の一点景として大目に見てもらいたい。


べに刷きてブラシにはつか残れるを目元にも刷く汝の朝化粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   べに刷きてブラシにはつか残れるを
     目元にも刷く汝(な)の朝化粧(けはひ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
私は男で化粧には弱いし、また、お化粧の仕方も時代とともに変遷するので、詳しいことは判らない。

以下に事典に載る記事を転載しておく。
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写真は化粧品会社のコマーシャルのサイトから

 化粧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

化粧(けしょう)とは、主に顔や体に白粉や口紅などの化粧品をつけて、人間が美しく粧うこと。祭礼など儀式の化粧や舞台用の化粧もある。メイクアップ、メイキャップ、メイクともいう。

古代
口や耳などの穴から悪魔などが進入するのを防ぐために、赤色の物体を顔面に塗りつけるという、約7万年前に行われていた習慣が始まりだと推測されている。このことは、出土した当時の人骨の口に付着していた赤色の顔料の痕跡から判明した。また、紀元前1200年代頃のエジプトでは、人々が目や唇に化粧を施している絵画も見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインを施していることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。

中世ヨーロッパでは、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われた。また、貴族達もそれに倣うようになった。
この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。
当時の白粉は白鉛などが含まれていたために皮膚にシミができやすかったとされる(鉛中毒)。これを誤魔化すために、付けボクロが一時期貴族の間で流行した。

日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていた。
口紅は紅花を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った口紅「笹色紅」が江戸や京都などの都会の女性に流行した。
日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に鉛を含んでいた。長期的な使用者には「鉛中毒」による死亡が多くみられ、戦後に規制されてからも、このような死者は後を絶たなかったといわれている。

舞台用
舞台で演技を行なう者は、通常より濃い化粧を行なう。目・眉・口などの顔のパーツや、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいよう、工夫がされている。また歌舞伎や京劇などでは「隈取」と呼ばれる独特の化粧を施す。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たしている。
テレビ用
テレビ、特にCMやドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧がなされる。

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↑ 写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。野草のように、どこにでも生えている花である。

私は先に2009/08/11に「化粧」について下記のような記事を載せたので、再掲しておく。

   私は化粧する女が好きだ
     虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。

    化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

   女の体はお城である、中に一人の甘えん坊の少女がかくれている

   女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

   旅をする 風変りなドレスを着てみる 寝てみる 腋の下を匂わせる女

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「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。

この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。
この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。
その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。
一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。


 

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


    牧神の午後ならねわがうたた寝は
        白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

秋の季節は生き物の世界でも越冬に備えて、卵の状態で冬を越すものが多いから交尾をして卵を産むのに忙しい繁殖期だと言えるだろう。
「白蛾の情事」というのも実景としても見られるものである。
しかし、この歌ではそれは添え物であって、私の詠いたかったのは「牧神の午後」というところにある。
はじめに、ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲(ピアノ独奏) 演奏:土佐礼佳(全音版)のさわりの部分を出しておく。
この動画は「全音」企画のYouTube版らしいので、削除されることはないと思われる。

 シュテファヌ・マラルメについては ← が詳しい。
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 ↑ポール・パレェ指揮による「ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲」CDのジャケット。
 
『牧神の午後』 L'Après-Midi d'un Faune はフランスの詩人シュテファヌ・マラルメの「長詩」である。
着想そのものはギリシァ神話に基づいている。
物語自体は非常に単純なものである。水辺でニンフたちが水浴びをしている。
そこへ彼女たちの美しさに目を奪われた牧神パンが仲間になりたいとやって来るが、ニンフたちはパンが半獣半人の姿なので驚いて逃げてしまう。
追っかける、逃げる、の繰り返しの中で、一人のニンフだけがパンに興味を示し、パンも求愛の踊りをする。
愛は受け入れられたかに見えたが、パンが彼女を抱きしめようとするとニンフは逃げてしまう。
パンは取り残されて悲しみにくれたが、彼女が落としていったスカーフを見つけ、それを岩の上に敷いて座り「自慰」(オナニー)する。
マラルメは、これを劇として上演したかったが無理と言われ、マネの挿絵付の本として自費出版した。
これに感動したドビュッシーが、マラルメへのオマージュとして『牧神の午後への前奏曲』を作曲する。
マラルメの夢のバレエ化が、20年後にニジンスキーによって実現されることになったのである。
初演は1912年5月29日、ディアギレフ・ロシア・バレエ団で、パリのシャトレ劇場において、ワスラフ・ニジンスキーの主演で催行された。
当時、このラストシーンで、ニジンスキーは舞台の上で恍惚の表情を見せ、しかも最後には「ハー」と力を抜く仕草までして見せたと言い、
彼の狙い通り「スキャンダル」の話題を引き起こしたという。
クラシック・バレーに仕組まれた歌劇については ← に詳しい。

 ↓ 写真は牧神パンとニンフのイメージである。
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↓ 写真に「蚕蛾」を出しておく。
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この蛾は、人間が改良したもので、飛ぶ力は、全く、ない。羽根は退化して体重に比べて極めて小さい。
蚕蛾の場合は、ここまで蛹から成虫になること自体が人工的であって、普通は繭から糸を取り出す段階で熱湯で茹でられてしまって死んでしまうのである。
蛾は雌雄が引き合うのに雌が出す「フェロモン」を雄が感知して、羽根を震わせながら狂ったように寄ってくる。
今では、こういう蛾の習性を利用して、「生物農薬」として、特有のフェロモンを合成して、特定の蛾の害虫の誘引に使っている。
蛾にとっては交尾は「本能」であって「情事」との認識はないのだが、この歌の中では「擬人化」して、情事と詠ってみた。擬人化は文芸の常套手段である。

クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    クールベのゑがくヴァギナの題名は
      「源」(スールス)といふいみじくも言ふ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだクールベの絵は、もう十数年も前になるが、ツアーの自由時間の一日を亡妻と「オルセー美術館」に遊んだ時に「クールベ」の室で見たものである。
この絵を、ここに出すのは躊躇されるので、→ 「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)を呼び出して見てください。
この絵のモデルなど詳しく書いてある。

サイズは46×55センチの大きさである。この作品は館の図録(当時の定価で50フランだった)にも出ていないので、今でも常設展示されているかどうか判らない。
この絵は仰臥して股をやや開いて横たわる裸婦を足先の方から描いたもので、画面の中央に裸婦の「ヴァギナ」が大写しになっている大胆な構図である。性器が、もろに描かれているのである。
クールベは、ご存じのように「リアリズム」絵画の巨匠として、フランス画壇にリアリズム絵画の潮流を巻き起こし、一世を風靡して美術史に一つのエポックを画した人である。
前衛芸術運動華やかなりし頃には、ボロクソに言われたこともあるが、美術史の上での運動として欠かすことの出来ない存在である。
絵に戻ると、その絵の題名が「源」source スールス、だと私は記憶していて歌集にも、そのように書いたのだが、上のリンクに出したように原題は「世界の起源」(仏: L’Origine du monde)というのが正式らしいので、ここに訂正しておく。
もっとも「絵画の題名」というのは後年になって付けられることが多いので、私の記憶のように、私が見たときは「source」となっていたかも知れない。
「source」も「Origine」も同じような意味である。
それにしても「世界の起源」という題名には違和感がある。仰々しすぎるのではないか。

この歌については米満英男氏が、先に書いたリンクの批評欄で「木村草弥歌集『嬬恋』──感応」という文章で

・・・・・読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。・・・・・

と批評していただいた。 その米満氏も先年春に亡くなられた。 ご冥福を祈りたい。

 ↓ セルビアのパフォーマンスアーティスト、Tanja Ostojićは、2005年、この絵をパロディにして"EUパンティ"というポスターを制作した。
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↑ 写真③はオルセー美術館の内部の一部

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 ↑ 写真④は、その外観の一部で入り口の辺りを望むもの

よく知られるように、ここはヴィクトール・ラルーが20世紀はじめに設計した鉄道の終着駅・オルセー駅舎であり、鉄道廃止後、放置されていたのを1986年に美術館として改装したもので、写真②に見るように駅の大きなドームの構造を利用したユニークな造りになっている。
ドームの突き当たりにかかる大時計は、当時の駅にあった金ピカの豪華な大時計そのままのものである。

この美術館には多くの入場者があり、1988年には216万人を記録したという。パリの新名所として人気が高い。ここには1848年から1914年までの絵画、彫刻が集められ、それまでルーブルに展示してあったものも、ここに移された。1914年以降の作品はポンピドゥセンターに展示するという、年代別に館を分けるという、いかにもフランス人らしい合理主義の棲み分けがなされている。
このオルセーに展示される年代というと、日本人に人気の高い「印象派」の作品は、すべて此処にある。
即ち、ミレー、マネ、ルノワール、ドガ、ロートレック、ロダン、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどなどである。
この場所はセーヌ川の川岸で、オルセー河岸(Quai d'Orsay ケ・ドルセーという)という船着場のあったところ。
ここはセーヌ川を挟んで、ちょうどチュイルリー公園とルーブル美術館の向い側にあたる。
はじめに掲出した写真がセーヌ川越しにオルセーを見たもの。

P9240981オルセー・レストラン
P9240985オルセー・レストラン

この館の玄関ホールの上の中二階には駅舎であった当時の極彩色で金ピカの内装を生かした「レストラン・オルセー」があり、食事をしながら下の回廊の様子を見下ろすことが出来る。
天井画も、ステキ ! 写真⑤⑥が、その内部である。
私たち夫婦も、ここで昼食を摂ったのは、言うまでもない。ぜひトライしてみられよ。
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お断り
先年、オルセーは大幅に改装された。
照明なんかも大変よくなっているらしい。
レストランも変わっているかも知れない。 念のために書いておく。


古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
03-4絵唐津筒茶碗

    古唐津で茶を飲むときにうら悲し
      妻が横向き涙を拭きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

写真①は「絵唐津橋農夫文筒茶碗」というもので、出光美術館蔵の桃山時代の逸品。
私の歌に詠んでいる古唐津は、もちろん無名の並物であることは言うもでもない。

先に私の歌の説明を済ませておく。
「うら悲し妻が横向き涙を拭きぬ」というのは、妻に病気が見つかって、自分の病状について妻がナイーブになっていた時期の作品である。
私としては、そういう妻を「いとしい」と思い、このような歌を残せたことを嬉しく思うものである。

さて、美術史からみた古唐津のことである。
唐津焼は肥前一帯で広範に焼かれ、生産時期も長期にわたっているため、多くの種類がある。
これを区別するため、美術史上では、主として釉薬や装飾技法の違いから、おおよそ次のように分類する。
奥高麗、斑唐津、彫唐津、無地唐津、絵唐津、青唐津、黄唐津、黒唐津、朝鮮唐津、三島唐津、瀬戸唐津、献上唐津、美濃風織部唐津など。

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↑ 写真②は絵唐津と言えば松文だが、「絵唐津松文大皿」桃山時代、出光美術館蔵。

↓ 写真③は江戸後期の松江の名君で大茶人の松平不昧公が所持していた「奥高麗茶碗」銘<秋夜>、桃山時代、出光美術館蔵。
602113-7_3奥高麗茶碗

唐津焼に限らず、伊万里、有田、薩摩などの陶器産地は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島から多くの陶工を日本に連れてきて、陶土の探索や製陶に従事させたものから発展してきたと言える。
当時、朝鮮半島は製陶の先進地だったのである。

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↑ 沈寿官作の薩摩焼の壺

薩摩焼の「沈寿官」家などは日本名を名乗らされてきたのを、最近になって先祖の朝鮮名を名乗るようになったものである。
これらの朝鮮半島ゆかりの陶工たちは、謂れのない民族差別に苦しんできたと思われるが、そんな中にあって、その唯一の救いは、我々は製陶の先進地から来たのだというプライドだったと思われる。
その生産品は献上品として各地の大名から喜ばれ、その故に或る程度の保護を受けられたのである。

このページは「唐津焼」について書いているので、つけたしになるが「沈寿官」家の名品を一点、写真⑤に紹介しておいた。


紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
mary_magdaleneマグダラのマリア

     紺ふかき耳付の壺マグダラの
        マリアのやうに口づけにけり・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「マグダラのマリア」は、磔刑で死んだキリストが復活して初めて会いに行った人である。
元は娼婦であることから、さまざまの物議をかもしてきた人物である。

はじめに写真①の説明を済ませておく。画像は16世紀のドイツの画家Jan van SCORELの描いたもの。
手にしているのがマグダラのマリアのシンボルである聖油の洗礼用容器である。

掲出した歌の関連で書いておくと、同じ歌集のイスラエル紀行の中で、次のような歌を私は作っている。
先に二つの歌の背景説明をしておくと、
「マグダラのマリア教会」は1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世建立。
マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てた。聖地エルサレムの旧市街を見下ろすオリーヴ山の麓にある。
磔刑の死後3日後、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった。

lrg_11707601マグラダのマリア教会

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

「福音書」は神殿娼婦マグダラのマリアから、イエスが七つの悪霊を追い出し、復活後、まずこの女のところに姿を現したと述べている(『マルコによる福音書第16章9節』)。
のちキリスト教徒が非難したため教令集から除かれた書物には、二人の関係についてさらに奇妙なことが詳しく述べられている。
すなわち、イエスは他の使徒たちすべてを合わせたよりもマグダラのマリアを愛し、「使徒たちの使徒」「すべてを知った女」と呼んで、しばしば接吻した、など。
グノーシス派の福音書が教令集から切り取られる前には、共観福音書やその他の新約聖書と同じくらい、「神の言葉」として受け入れられていた。
だからマグダラのマリアに関する中世の伝統は、この女性を初期の神秘的な最高位に戻している。
マリアは「マリア・ルシフェル(光を与えるマリア)」と呼ばれた。
「イエスがマリアに対して拒んだ恩寵は何ひとつなかった。イエスがマリアに与えない愛のしるしもなかった」と書かれている。

v-356耳つき壺

掲出した私の歌は「耳付の壺」を手に取って、連想としてマグダラのマリアを思い出したということである。
文学作品というのは、このように飛躍することがある。<非日常>と言われる所以である。
なぜ、そんな連想に至るのか、というような質問は野暮の骨頂である。



老後つてこんなものかよ二杯目のコーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ルーベンス筆「パンとシュリンクス」─カッセル州立美術館所蔵

     老後つてこんなものかよ二杯目の
             コーヒー淹れる牧神の午後・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。

ご存じのように、この話「牧神の午後」のエピソードはギリシャ神話に発するが、有名になったのはフランスの作家・マラルメの詩による。
それに刺激されてドビュッシーの作曲があり、よく知られている。
私の歌は、それらを下敷きにしているのである。 以下、それらについて少しWikipediaの記事を引いておく。

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 ↑ ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」CDの一例
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『「牧神の午後」への前奏曲』 (ぼくしんのごごへのぜんそうきょく、仏:Prélude à "L'après-midi d'un faune")ホ長調 は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1892年から1894年にかけて作曲した管弦楽作品であり、彼の出世作である。

概要
この曲はドビュッシーが敬慕していた詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。" 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る"という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている。牧神を示す主題はフルートソロの嬰ハ(Cis,C#)音から開始されるが、これは楽器の構造上、非常に響きが悪いとされる音である。しかし、ドビュッシーはこの欠点を逆手にとり、けだるい、ぼんやりとした独特な曲想を作り出すことに成功している。フランスの作曲家・指揮者ブーレーズは「『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとは違ったやり方で息づく 」と述べており、近代の作品で非常に重要な位置を占めるとされる。曲の終盤ではアンティークシンバルが効果的に使用されている。

この後、ドビュッシーは、歌曲集『ビリティスの3つの歌』(1898年)、無伴奏フルートのための『シランクス』(1913年)、ピアノ連弾曲『6つの古代碑銘』(1914年)などの作品で牧神をテーマにしている。また、ラヴェルのバレエ音楽『ダフニスとクロエ』(1912年初演)にも牧神(パンの神)が登場する。
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削除されるかも知れないが、この曲の演奏のyoutubeを出しておく。 ↓


私の午後のコーヒー・タイムを「牧神の午後」になぞらえるような不遜な気は、私にはさらさら無い。
コーヒーを呑みながらドビュッシーの、この曲を聴いている、と受け取ってもらえば有り難い。
因みに、一昨年はドビュッシー生誕150年の記念すべき年であったことを書き添えておく。
では、また。


上目つかひ下目つかふも面倒なり遠近両用眼鏡ままならず・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     上目つかひ下目つかふも面倒なり
            遠近両用眼鏡ままならず・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。

私は小学校の最終年度から眼鏡をかけている。
近眼は五十歳頃までは、どんどん「近眼」は進行するもので、しかも四十代半ばからは「老眼」も加わってくるから厄介である。
私は左目が特に視力がなく、0.05ぐらいしかない。右目は0.1ぐらいであろうか。
ところが近眼は老化につれて、どんどん緩くなり、その逆に老眼はどんどん進む、というのが曲者である。
「遠近両用眼鏡」を使っていると、物を読む場面によってメガネを使い分けなければならない。
新聞やパソコン画面を見たりするときには、画像②に出したような「老眼用のタマ」の入ったメガネは不自由である。
こういうときには「老眼が全面に入った」メガネが楽である。首を振らなくても目玉を動かすだけで端の方も読める。
だから私は眼鏡を四つ持っている。外出用のチタンフレームの軽いもの。普通の「老眼用のタマ」の入ったフレームの丈夫なもの。陽ざしのきついときの屋外用の度つきのサングラス。
それと先に挙げた「老眼が全面に入った」メガネ、の四つである。
近眼の度数と左右のアンバランスと、いちいちレンズ調節が必要だから、レンズだけで五万円はかかる。物入りである。
度数をきっちり合わせ過ぎると肩が凝ったりするから度数は緩めの方が、いい。
ものすごく細かい字をみるときには「近眼」者は、メガネを外して目を近づければいいから簡単である。

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この一連には、こんな歌がつづいている。

   先の世も来る世も儚(はか)な躓きて現(うつつ)に返る老眼鏡は

   もはや視力矯正かなはぬ目借り刻(どき)ねむりの刻と思ふたまゆら
・・・・・・・・木村草弥

いかがであろうか。


順礼は心がすべて 歩きつつ自が何者か見出さむため・・・・・・・・・・・・木村草弥
サンチアゴ標識
 ↑ サンチアゴ遍路の標識

     順礼は心がすべて 歩きつつ
          自(し)が何者か見出さむため・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。

遍路道標識
 ↑ 遍路道標識

この歌の一連は、以下のようなものである。

       順 礼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ──PILGRIM TEMPUS VERNUM──

  春くれば辿り来し道 順礼の朝(あした)の色に明けてゆく道

  銀色の柳の角芽さしぐみて語りはじむる順礼の道程

  順礼は心がすべて 歩きつつ自が何者か見出さむため

  目を閉ぢて耳を傾け感じ取る生きてゐることに理由は要らぬ

  丈高き草むらの道 その愛がまことのものと順礼は知る

  わが巡りに降るに任せて降る雨よそのまま過(よぎ)るに任せゐる雨

  雨のなき一日(ひとひ)を恋ふる心根に春は音なく来る気配する

  日と月と星と大地と火と水と時だげが知る「道」はいづこへ

  サンチアゴ・デ・コンポステーラ春ゆゑに風の真なかに大地は美(は)しく

  北、南、東に西に順礼が帰りゆく道 交はる道と道

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サンチァゴ帆立貝の巡礼者
 ↑ サンチァゴ帆立貝の巡礼者 

この歌をつくるきっかけの旅は2008/05/10~05/22に行ったものだが、詳しくは こちらの紀行文を読んでもらいたい。
この旅ならびに、この歌に込めた私の「想い」なども、この紀行文には詳しく書いてあるので、ぜひご覧いただきたい。

私は妻が死んだ後に「四国八十八か所」遍路も経験したが、「なぜ人は洋の東西を問わず遍路の旅を歩くのだろうか」という問いがなされる。
それは前にも書いたことがあるが、要は、掲出した私の歌のように「自分が何者かを一度みつめるための旅」と言っていいかと思う。
その「きっかけ」は何でもいいのである。 私の場合は直接的には、妻の死であったが、同行した後の二人の人の思いが、どうであったか、は詳しくは聞いていない。
私の場合は、この紀行文のはじめのところにも書いておいたが、亡・親友のフランス文学者・田辺保から「遍路道」の本を貰ったりして予備知識があった。
なお、私の歌の一連の「副題」として掲げた<PILGRIM TEMPUS VERNUM>というラテン語の意味だが、「春の季節の巡礼」とでも訳せるところである。

写真の説明をしておくと、三番目のリュックにつけられた「ホタテ貝」は、サンチアゴ巡礼者が身につける「標識」なのである。
かの地では、これを付けている人は巡礼者として敬意を持って遇されるということである。
四国遍路が「杖」と「白衣」を纏うのと同じ扱いである。




鶴首の瓶のやうなる女うたふ<インパラディスム>清しき声音・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    鶴首の瓶のやうなる女うたふ  *
           <インパラディスム>清(すが)しき声音(こはね)・・・・・・・・・木村草弥

                       *「楽園にて」の意。フォーレ「レクイエム」より 

この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
この歌を作った直接の場面は京都市コンサートホールでのフォーレの「レクイエム」を聴いたときである。
この場面では、私の三女が臨時に編成された合唱団に入って、この「レクイエム」を歌った。
三女は器楽の演奏家だが、気晴らしのために誘われて合唱団に参加したのであった。
もう十数年も前のことで、私たち夫婦と子供たち一族で行ったが、本格的なコンサートで、幕合間にはホワイエでワインを呑んだりした。

フォーレの「レクイエム」は全部で七曲あり、「イン・パラディスム」は第七曲である。
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第7曲:In Paradisum(楽園へ)


In paradisum deducant angeli:1

楽園へと、導きますように、天使たちが:

in tuo adventu suscipiant te martyres,2

あなたの到着のときに迎え入れますように、あなたを殉教者たちが、

et perducant te in civitatem sanctam Jerusalem.3

そしてあなたを案内しますように、聖なる街エルサレムへと。

Chorus angelorum te suscipiat,4

輪になって歌う天使たちがあなたを迎え入れますように、

et cum Lazaro quondam paupere5

そしてラザロとともに、かつて貧しかった(彼とともに)

aeternam habeas requiem.6

永遠に、保ちますように、安息を。

最後の曲は、棺が運び出されるときに歌われる交唱です。第6曲では一人称の祈りになりましたが、こんどは二人称で「あなた」と死者に語りかけます(ここまで、二人称の対象は神でした)。
魂が楽園へと向かう音楽は、木洩れ日がきらめくようなオルガンのアルペジオで始まります。天を目指すごとく跳躍するソプラノの旋律は、導音が徹底して避けられているのが特徴です(譜例15)。伴奏の和音も、トニカとサブドミナントの揺れ動きで、ドミナントは出てきません。
op48-7-3フォーレ・レクイエム
その分、「そしてあなたを案内しますように」で初めて出る変化音(D♯)は印象的です。伴奏も導音を半音下げて借用和音上の属七で戯れるため、ふわふわと漂う感じ。そして「エルサレム」を何度も繰り返しながらト長調、ホ長調と転調を重ねて、イ長調をドミナントにニ長調に戻ってきます。和音の陰影が変わるたびに、光が異なる方向から差すかのようです。
ハープが加わって最初の形を模倣した後、「そしてラザロとともに」からは頻繁な転調で嬰ハ短調までたどり着きますが、頂点の「永遠の」で大きく舵を切って元の調に戻ります。最後は安定したニ長調のハーモニーで「永遠に保ちますように」が歌われ、作品の冒頭と同じrequiemの言葉で静かに幕を閉じます(この言葉で始まるから「レクイエム」と呼ばれるわけですが、最後も同じrequiemで終えるのは、おそらくフォーレが初めてです)。
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lrg_11064000モリジアニ
掲出した画像は、モリジアニの絵で、彼の描く女は、いずれも「鶴首」のように長いので、感覚的なものとして出してみた。
 
蛇足だか、普通に「鶴首」瓶と言えば、こんなものがある。 

img_192800_24262734_0高麗青磁
 ↑ 高麗青磁鶴首瓶
0924景徳鎮鶴首瓶
↑ 景徳鎮鶴首瓶  


                
イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ベルリン・シュプレー川の中洲の「博物館島」のペルガモン博物館入口──奥に見えるのが大聖堂
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 ↑ イシユタル門──ペルガモン博物館
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 ↑ イシュタル門・獅子のモザイクの煉瓦壁装飾

   イシュタルの門の獅子たち何おもふ
            異国の地にぞその藍の濃き・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は最新刊の私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
ご存じの方は目を瞑ってもらって、ここで「ペルガモン」「イシュタル門」のことでWikipediaの記事を引いておく。
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ペルガモン博物館 (Pergamonmuseum) は、ドイツのベルリンにある博物館の1つである。
博物館島にあり、館名の由来にもなっている「ペルガモンの大祭壇」を始めとするギリシャ、ローマ、中近東のヘレニズム美術品、イスラム美術品などを展示する。

博物館島は、ベルリン市内を流れるシュプレー川の中洲であり、かつての東ベルリンに位置する。
中洲の北半分にペルガモン博物館のほか、ボーデ博物館 (Bodemuseum)、旧国立美術館 (Alte Nationalgalerie)、旧博物館 (Alte Museum)、新博物館 (Neue Museum) の計5館の国立博物館が集中している。この地は19世紀半ば、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって「芸術と科学のための地域」に定められたものである。

ペルガモン博物館の建設計画は、20世紀初頭の1907年頃から計画されていた。「博物館島」には、1904年、カイザー・ヴィルヘルム博物館(ボーデ博物館の前身)が既に開館していたが、「ペルガモンの大祭壇」を始めとする巨大な展示品を収納するため、新しい博物館の建設が計画された。建築設計は当初アルフレート・メッセルが担当したが、1909年のメッセルの没後はルートヴィヒ・ホフマンが引き継いだ。建築工事は1910年に始まり、第一次世界大戦を挟んで1930年にようやく完成した。

その後、第二次世界大戦の度重なるベルリン空襲でペルガモン博物館を始めとする博物館群は甚大な被害を受けた上、ベルリン動物園近くのツォー高射砲塔に疎開されていたペルガモンの大祭壇は赤軍が戦利品としてレーニングラードに運び去った。美術品が東ドイツに返還され、博物館が再開するのはようやく1959年のことであった。

ギリシャ神殿のような外観をもった本館は「コ」の字形の平面をもち、内部は古代(ギリシャ・ローマ)博物館、中近東博物館、イスラム博物館に分かれている。

東西ベルリンの統一に伴い、ベルリン市内の博物館・美術館の収蔵品は大規模な移動・再編が行われている。1998年にはティーアガルテン公園近くの文化センターに「絵画館」 (Gemäldegalerie) が開館、それまでボーデ博物館とダーレム美術館にあった18世紀までの絵画がここに集められた。博物館島も2004年現在、大規模なリニューアル工事中で、一部の博物館は長期休館しており、完成は2010年の予定である。

主な収蔵品

ヘレニズム期の「ゼウスの大祭壇」、エーゲ海の古代都市ミレトゥスにあった「ミレトゥスの市場門」、バビロニアの「イシュタール門」などが代表的収蔵品である。
ペルガモンの「ゼウスの大祭壇」(紀元前180年-160年頃)-紀元前2世紀、小アジアのペルガモン(現・トルコのベルガマ)で建造された大祭壇が博物館内に再構築されている。全長100メートル以上に及ぶ浮き彫りはギリシャ神話の神々と巨人族との戦い(ギガントマキア)を表したもので、ヘレニズム期の彫刻の代表的なものである。1864年、カール・フーマンらが発見し、ドイツに持ち帰ったものである。
バビロニアの「イシュタール門」(紀元前560年頃)バビロニアの古都バビロンの中央北入口の門を飾っていた装飾が博物館内に再構築されている。青い地の彩釉煉瓦でおおわれた壁面には牡牛やシリシュ(獣の体に鳥のような足、蛇のような首をもった、創造上の動物)を表している。


文献
コンスタンチン・アキンシャ/グリゴリイ・コズロフ『消えた略奪美術品』木原武一訳、新潮社、1997年、ISBN 4-10-535201-6
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ここに引いたように、今のイラクの地にあったイシュタル門その他を、同地を調査したドイツのチームが持ち帰ったものである。

歌集に載る私の歌の一連は、ベルリンの壁崩壊の翌年1990年にベルリンを訪ねたときに作ったものである。

  ペルガモン華麗なる門そのままに掠め来たりてベルリンに据う

         博物館島・ムゼウムスィンゼル
  シュプレー川の青みどろ浮く川の面に緑青の屋根うつす聖堂

  シュロス・ブリュッケゆかしき名残す此の辺り旧王宮の在りしと言へり


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 ↑ ペルガモン博物館正面
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 ↑ ペルガモンの大祭壇
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 ↑ イシュタル門の牡牛のタイルモザイク・部分──モザイクは補修されている

ドイツに持ち去られた現地イラクでは、これだけの建物の返還を求めるのも不可能なので、元の地に「レプリカ」を建ててあるそうである。
念のために、その写真を ↓ 以下、二件とも「レプリカ」
800px-Ihstar_Gate_RBレプリカ
479px-Babylon_detail1_RBレプリカ

こうして見てみると、レプリカは、いかにも稚拙で痛々しいが、今なら、こういう略奪は許されないが、帝国主義はなやかなりし頃は現地の権利など無視された。
だから私の歌では、そういうことへの批判の意味も込めて詠んでおいた。
しかし、ベルリンの博物館の展示は立派で、尊厳を傷つけるところは何もない、と言っておく。
ベルリンに行ったら必見のところである。

遅くなったが「イシュタル」とは、いかなるものなのか、Wikipediaの記事を引いておく。
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450px-Queen_of_the_Night_(Babylon)イシュタル像
 ↑ イシュタル神のレリーフ

イシュタル (Ishtar) は、古代メソポタミアにおいて広く尊崇された性愛、戦、金星の女神。
イシュタルはアッカド語名であり、シュメール語におけるイナンナに相当する。

概要
その親族関係に関しては、異なる伝統が並存する。主なものには、月神ナンナ/シンの娘、太陽神ウトゥ/シャマシュの妹という位置づけがある。他、例えばウルクにおいては天神アヌの娘とされる。

様々な女神と神学的に同定された。主なものはアッカド市の女神アヌニートゥ、バビロン市の女神ベーレト・バビリ(「バビロンの女主」の意)など。ただし、いわゆる母神と同定されることはなかった(よってイシュタルは創造者としての地母神的性格は弱い)。

主な崇拝地はウルク、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラ。

イシュタルは出産や豊穣に繋がる、性愛の女神。性愛の根源として崇拝されていた一方、勃起不全など性愛に不具合をもたらす女神としても恐れられていた。性同一性障害とも関係付けられ、その祭司には実際に性同一性障害者が連なっていた可能性も指摘されている。また、娼婦の守護者でもあり、その神殿では神聖娼婦が勤めを果たしていた。

イシュタルの正式な配偶神は存在しないが、多くの愛人(神)が知られている。これは王者たる男性が、恋人としての女神から大いなる神の力を分け与えてもらうという当時の思想によっている。最も著名な愛人は、男神ドゥムジ(タンムズ)。イシュタルとドゥムジにまつわる、数多くの神話が知られている。『イナンナの冥界下り』(シュメール語)/『イシュタルの冥界下り』(アッカド語)を初めとするそれらの神話において、ドゥムジはイシュタル(イナンナ)の身代わりとして殺され、冥界に送られる。『サルゴン伝説』においてはサルゴンを見初め、彼を全世界の王に任命する。

しかし、『ギルガメシュ叙事詩』ではギルガメシュを誘惑しようとするものの、イシュタルの愛人に選ばれた男達が不遇の死を遂げていることを知っていたギルガメシュに侮辱され、拒まれた。屈辱を覚えたイシュタルは父であるアヌに泣きつき、アヌは制裁として自分のペットである天の雄牛をギルガメシュに差し向ける。そこでギルガメシュが大人しく詫びれば八方丸く収まったはずだが、ギルガメシュは相棒のエンキドゥと共に天の雄牛を殺してしまった。娘を侮辱された挙句、ペットを返り討ちにされたことで二重に面子を潰されたアヌは大いに怒る。

ギルガメシュは、これ以前にも森の神フンババを自分の力試しのために殺しており、神々の世界では評判が悪かったため、天の雄牛事件を受けてアヌを初めとする神々は遂に彼に死の呪いをかけることを決めた。この呪いはエンキドゥが身を挺して防いだが、ギルガメシュはこれ以降、生者の身にいずれ訪れる死に怯えることとなる。このように、イシュタルはトラブルメーカーとして描かれることもあった。

イシュタルは戦の女神でもあった。戦争に際しては、別の戦神ニヌルタと共に勝利が祈願され、勝利した後にはイシュタルのために盛大な祭儀が執り行われた。その図像は武者姿をしている。

イシュタルは金星を象徴とする女神であり、金星を模した図形がそのシンボルとして用いられることも多々あった。





重たげなピアスの光る老いの耳<人を食った話>を聴きゐる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   重たげなピアスの光る老いの耳
     <人を食った話>を聴きゐる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前には

   一つ得て二つ失ふわが脳(なづき)聞き耳たてても零すばかりぞ・・・・・・・・・・・木村草弥

というのが載っているので、一体として鑑賞してもらいたい。
この歌については私が兄事する米満英男氏が同人誌「かむとき」誌上に批評文を書いていただいた中で触れて下さった。
リンクにしたWebのHPでもご覧いただけるので読んでもらえば有難い。
敢えて、ここに書き抜いてみよう。

 <何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出して みよう。・・・・・車内で見た<老婦人>であろう。
隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話を  じっと聴いている。そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう>

というのである。場面設定については読者によって違っていて、よいのである。
米満氏の批評は、私がユーモアないしは皮肉を込めて描きたかったことを、ほぼ書いていただいたと思う。
この歌で私が表現したかったのは<人を食った話>というのが眼目である。
その米満氏も亡くなって寂しくなった。 ご冥福をお祈りしたい。

ピアスその他の装飾品を身にまとうのは古代の風習であった。
今でも未開な種族では、こういう装飾品をどっさりと身につける習俗が残っているが、文明世界でも、この頃は装飾品が大はやりである。
耳ピアスどころか、ボディピアスとか称して臍のところにピアスはするわ、鼻にするわ、脚にはアンクレットというペンダント様のものを付けるなど、ジャラジャラと身にまとっている。
中には、ヴァギナのクリトリスの突起にピアスをするようなのも見られる。
こんなものをしてセックスのクライマックスの時に支障がないのかと、余計な気をもんだりする始末である。

私の歌にも描写している通り、この頃では老人も耳ピアスなどは普通になってきた。
最初には違和感のあったものが、このように一般的になると、そういう気がしないのも「慣れ」であろうか。




フェロモンを振りまきながら華やぎて粧ひし君が我が前をゆく・・・・・・・・・・・・・木村草弥
androstanアルファ・アンドロスタンディオール

   フェロモンを振りまきながら華やぎて
     粧(よそほ)ひし君が我が前をゆく・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌にいう「君」とは誰でもよいが、残念ながら私の妻のことではない。

フェロモンというのは、ファーブルの「昆虫記」にも登場する古くから知られる物質であって、昆虫などが雄とか雌を誘引するのに分泌するホルモンである。
今では害虫を駆除する農薬の代わりに、このホルモンが実用化されている。
茶の葉を害するチャカクモンホソガというのが居るが、この駆除にホルモンが開発され実用化されている。
農薬は人間にも害を及ぼすが、こういう生物農薬と言われるものは何らの害もないので有益である。
従来の学説では、人間には器官の退化によりフェロモン効果はないとされてきたが、最近の研究により、
人間にも、その器官の存在が認められため、ここ2、3年の間にフェロモンが急速に脚光を浴びてきた。
フェロモンは鼻の中にある「ジョビ器」という器官で感知するため、本来は匂いとは無関係の物質である。
写真①はヒトフェロモンと称される物質アルファ・アンドロスタンジオール誘導体の模式図である。

この頃では「フェロモン系女優」というような形容詞を使われるようになって来たが、実験の結果では、確かにヒトフェロモンは有効らしいが、人間は、もっと他の、たとえば映像とか視覚とかいうものに左右されることが多いので一筋縄ではゆかないものであろう。

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写真②は、そういうフェロモン香料化粧品の宣伝に使われているものである。
これも、いわゆる「イメージ広告」である。実際の効果とは関係がない。
最近の研究成果を見ると、いろいろ興味ふかいことが載っている。

ナシヒメシンクイという害虫の小さな蛾の雄が出すフェロモンにエピジャスモン酸メチルMethyl epijasmonateというのがあるが、
これは面白いことに、香水の女王と呼ばれるジャスミン香の主要な香り成分でもある。
写真③は、そのフェロモンの模式図。
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人間と蛾が同じ匂いに引きつけられるというのも興味ふかい話ではないか。

私の歌の関連で言うと、女の人に、いわゆる「フェロモン系」と言い得る人は確かに居る。
それがヒトフェロモンのせいばかりとは私は言わないが、そういう魅力たっぷりの人には男性を惹きつけるフェロモンのもろもろが濃厚に発散されているのだろう。
そんな意味で私がメロメロになった女性が(もちろん美貌である)我が前をゆくのであった。


享けつぎて濃く蘇るモンゴル系ゐさらひの辺に青くとどめて・・・・・・・・・・・・・木村草弥
dcde8f85-s蒙古斑

   享けつぎて濃く蘇るモンゴル系
     ゐさらひの辺に青くとどめて・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

よく知られていることだが、いわゆる「モンゴリアン」という人種のお尻には尾骶骨の上の方に、特有の「蒙古斑」という青い「あざ」の模様が幼少期には見られる。
大きくなると、それは薄れて見えなくなる。
ハンガリー人なども源流はモンゴリアンと言われているが、その後白人との混血も進んでいるのだが、今でも「蒙古斑」は見られるのだろうか。
現在の南北アメリカ大陸に渡ったネイティヴ・アメリカンは、ずっと昔にベーリング海峡を渡って辿り着いたモンゴリアンだと言われているが、そう言われているからには、
この「蒙古斑」が彼らにも認められるということなのだろうか。

念のために申し添えると「ゐさらひ」というのは「尻」のことを指す「やまとことば」古語である。
お尻というところを「いさらい」と言えば、何となく非日常化して来るではないか。
これは「おむつ」というところを「むつき」と言い換えるのと同様のことである。いわば「雅語」化するのである。
これらは詩歌の世界においては常套的な手段である。

ずっと昔に、うちの事務所にいた子育て中の事務員さんと雑談していて、話がたまたま「蒙古斑」のことになったところ、
その人は真顔になって「うちの子には、そんなアザはない」と反論して来たことがある。
われわれ日本人はモンゴリアンといって必ず「蒙古斑」があるのだと説明したことである。もちろん人によってアザの濃淡はあるから気づかなくても不思議ではない。

この辺で、終わりにする。



なで肩のたをやかならむ真をとめがパットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    なで肩のたをやかならむ真をとめが
         パットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』((角川書店)に載るものである。
この歌を作ったのは、もう十数年前になるので、いま女の人の服の肩がパットを入れた「いかり肩」の流行になっているのか、どうか知らない。
当時は「いかり肩」が全盛期だったので、「私は、なで肩の女らしい方が好きなのになぁ」という気持で作ったものである。
掲出写真は「アカプルコの海」という昔のエルヴィス・プレスリーの1963年の映画のマギー役のエルサ・カルデナスのものである。
彼女は典型的な「なで肩」の美人と言える。
対照するために、同じ映画の、マルガリータ役のウルスラ・アンドレスの典型的な「いかり肩」の写真を出しておく。
因みに、外国人に圧倒的に人気があったのは、後者のアンドレスだという。 ↓

e0123392_2355559いかり肩

日本の女の人には「なで肩」の人が多いと言われている。
外国人の場合は、どうなのだろうか。
私は、そういう日本人の女の人の「なで肩」が好きである。
なで肩の線が、何ともなく、艶めかしくて、見ていても、いい気分になる。
それを、わざわざパットを入れて「いかり肩」にどうしてするの、というのが、この歌の趣旨である。

この頃では余り「ウーマンリブ」というような言葉を聞かないが、ひところは盛んに主張されたことがある。
そのことの良し悪しを、私は言っているのではない。
なで肩が好きという、あくまでも私の個人的な感想に過ぎない。
女性の社会進出は年々ますます盛んで、女性がそれぞれの分野で重要なポストを占めるようになってきた。
そんな時代になっても、女の人には「ユニセックス」のような状態にはなってほしくない、と私は思うのである。
社会の重要なポストを占めながら、なお「女性」としての魅力を失ってほしくはない、のである。
女としての魅力を「売り物」にする人もあるだろうが、それでも、いいのではないか。

なで肩の歌というのではないが、女の後姿その他の歌を引いて終わる。

   後肩いまだ睡れり暁はまさにかなしく吾が妻なりけり・・・・・・・・千代国一

   泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ・・・・・・・佐佐木幸綱

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・近藤芳美

   とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は・・・・・・・・和泉式部
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この記事の初出は2006/02/21のもので、当時、この記事をご覧になったFRANK LLOYD WRIGHTさんが、下記のコメントを寄せられた。

<なで肩は、
中国で言えば、華南とか上海とか海沿いの地域はなで肩ですね。
つまり、海から離れた北京とかはいかり肩が多い。満州も内陸部はそうですね。
日本・韓国は、島国・半島国家ですから言わずとしたなで肩。海沿いです。
東南アジアはおしなべてなで肩。海に関係するからですかね?
インドなんて、北インドはいかり肩で、南インドはなで肩。ドラビタ系はなで肩が多い。
スリランカは、同じ家族でいかり肩、なで肩がとびとびに。
インドからの移住と現住のドラビタとの血の現れでしょうか?>

私には新しい知識だが、面白いので、ご紹介しておく。

この記事は上にも書いた通りの初出のものがベースになっているが、写真なども替えたし、旧記事通りではないので念のため。



<明星の出でぬる方の東寺>などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
24最御崎寺
 ↑ 四国霊場第24番札所「最御崎寺」

  ■<明星(あかぼし)の出でぬる方の東(ひがし)寺>
     などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで玉井さんの本を採り上げた関連で私の「四国遍路」の歌を出しておく。
角川書店「短歌」2007年2月号に「艸木茂生」のペンネームで「明星の」14首の歌を編集部寄稿依頼として発表した。
全文は、詩集『免疫系』(角川書店)で読んでほしいが、「四国遍路」に関する部分を、今日は書いてみる。 
自歌解題の形になる。

先ず、掲出歌のことから。
高知県室戸岬の突端に、四国霊場第24番札所「最御崎寺」(ほつみさきじ)というのがある。
下記に、そのお寺の簡単な説明文を貼り付けておく。

本尊: 虚空蔵菩薩
真言: 「のぅぼう、 あきゃしゃ、 きゃらばや、 おん あり、きゃまり、 ぼり 、そわか」
詠歌: 「明星の 出でぬる方の 東寺 暗き迷いは などかあらまじ」
縁起: 正しくは最御崎寺と言うのですが、普通、東寺と呼ばれており、室戸岬の突端の山の上にあります。
弘法大師が19才の時、仏法の迷いを払わんとして、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登り、命がけの難行苦行をされましたが、悟りを開くことができませんでした。そして次に来られたのが、この室戸だったのです。果てしなく広がる太平洋の自然を前にして、雨の日も風の日も勤行を続け、ついに悟りを開かれたのでした。「法性の 室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠まれたように、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。そこで山の上にお寺を建てられましたのが、この24番東寺で、本尊の虚空蔵菩薩はお寺の創建と共に大師が刻まれたものです。

この歌の前に

■最御崎(ほつみさき)いづれば虚空に風立ちて御厨人窟(みくろど)といふ洞の見えつつ・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は、上記の説明文にあるように、ご本尊の虚空蔵菩薩の名前をいただいて「虚空に風立ちて」と表現している。
<>の中には、ご詠歌にある「明星の出でぬる方の東寺」をコラージュとして引用させてもらい、かつ、「迷いはなどかあらまじ」を私なりに砕いて歌の中に取り込んだものである。
この辺りのくだりは千数百年の謂れのあるものであり、その謂れに素直に私の歌を添わせた方がいいと思って作ったのが私の表現になっている、と理解してほしい。

ここは、文字通り「室戸岬」の突端の岩の上にある寺で、いつ行っても風が強い。
ここには野生の椿の林があり、そのトンネルの中をくぐって室戸岬灯台に行けるようになっている。椿のトンネルが防風林となって、椿の林の中は風もなく穏やかである。
この寺を出て少し行くと、空海も籠ったという洞窟がある。
私の歌では「御厨人窟」としてあるが、これは現地での説明文によるものだが、こう書いてある。

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↑ 御厨人窟 (みくろど) 

  < 岬から1キロほど離れた海岸に、「御厨人窟 (みくろど) 」という海食洞穴があります。
  この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚の口に、ある日突然“光り”が
  飛び込みました。

  その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしいのです。
  洞穴から見える外の風景は、「空」と「海」だけでしたが、その二つが、今までと全く違って、
  光り輝いて見えました。そのときから、真魚は「空海」を名乗るようになりました。

  「光り」が入ったときに、空海は“悟った”のでした。求聞持法を会得し、無限の智恵を手に
  入れたのです。 求聞持法会得に至るまで、空海は四国のけわしい山々で修行をするのですが、
  このとき修行したといわれるところが、「四国八十八ヶ所」のお寺になりました。 >

玉井清弘さんの『時計回りの遊行』では「御蔵洞」(みくろど)と表記してあるが、玉井さんの本の記述の方が訓み方が自然であると思う。

26金剛頂寺
 ↑ 第26番札所「金剛頂寺」

  ■薬師(くすし)なる本尊いまし往生は
      <月の傾く西(にし)寺の空>・・・・・・・・・・木村草弥


掲出歌につづいて、この歌が載っている。室戸岬から少し戻ったところにあるのが第26番札所「金剛頂寺」である。

本尊: 薬師如来
真言: 「おん ころころ せんだり まとぅぎ そわか」
詠歌: 「往生に 望みをかくる 極楽は 月の傾く 西寺の空」
縁起: 大同二年(807年)、勅願により弘法大師が開基した寺です。本尊の薬師如来は弘法大師が刻まれたもので、現在まで一度も人の目に触れたことのない秘仏です。
海抜160mの山の上にありますが、室戸岬の最御崎寺と相対しているところから、最御崎寺を東寺、こちらを西寺と呼んでいます。昔は沢山の僧侶や修験者などがいた大きいお寺でした。
今から500年前の文明年間、火災のため焼け、再建されましたが、明治時代に再び火災に遭い、全焼しました。しかしすぐ又再建され、現在も諸堂備わる立派なお寺です。宝物館や鯨館も新しく建てられています。これらは西寺の檀家で、太洋漁業の南氷洋の捕鯨船の砲手となり、やがて会社の重役さんにまで出世した人が、鯨1万頭を捕った記念にこちらに寄贈したものです。
明治時代までは室戸沖でも沢山の鯨が捕れたそうです。よく、「鯨一頭、七浦栄える」と言われていますが、大漁の時には浜は大変な景気で、道行くお遍路さんにも鯨の肉を接待したそうです。ところがお遍路さんには肉類は禁物で、折角もらってもお大師様の手前食べるわけにいかず、民家に持って行ってお米と替えてもらったそうです。

上記の説明文にもある通り、ご本尊は薬師如来であり、私の歌は、ご詠歌の「往生」と「月の傾く西寺の空」のフレーズを借用している。
因みに、四国88ケ寺のうち、ご本尊が一番多いのが薬師さんであり、全部で23ケ所ある。これを見ても、昔は如何にも病気などが多かったので、その平癒のために「お薬師さま」を祀って祈願したかが判るのである。

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これらの歌の前には

 ■渦潮を見つつ辿れる海道は落花しきりの鳴戸の春ぞ ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 ■さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

 ■鎮魂の念(おも)ひやまずも南(みんなみ)の里べの土を踏みて歩めば

などの歌が連なっているが、四国霊場巡りは阿波・徳島から始まるのだが、折しも桜の季節の終りで、菜の花の咲く頃だったということである。
先年にも書いたが、この千二百キロとも千四百キロとも言われる「四国遍路」は、阿波の「発心の道場」、土佐の「修業の道場」、伊予の「菩提の道場」、讃岐の「涅槃の道場」と繋がっている。
ここで「四国八十八箇所」のリンクを貼っておくので参照されたい。

私の行程は、2008年一月で伊予(愛媛県)を打ち終えて、二月からは最後の讃岐(香川県)を二回に分けて辿ることになった。
巡拝することを「打つ」というが、これは昔は「納め札」に「片木」を使っていたことに由来するという。
俳句の季語では遍路は「春」の季語だが、前にも書いたように、夏は梅雨の季節をはじめとして「降雨」に遭うのが巡礼には辛く、また夏の「酷暑」も苦しい。また冬も外歩きは寒くて辛いものである。私たちのようなバスによる略式の巡拝でも、一日中寒気の中を歩くのは身にしみるものがある。
今まで書いてきた中に「空海」「虚空蔵菩薩」などが出てきたが、仏教ないしは「密教」というのは深い智慧を有したものであり、軽々しく語ることは出来ないが、ネット上で見られる教義のさわりを、以下に貼り付けておく。

 虚空の音を聞く、虚空を見る

虚空蔵求聞持法

----「虚空蔵」とは

弘法大師空海は、若い時に「虚空蔵求聞持法」というマントラ・ヨーガの瞑想修行を
海辺の洞窟の中で体験しました。この修行により、彼は抜群の記憶力が得られ、
その後の成功につながったと信じられています。

この「虚空蔵」とは、サンスクリット語のアーカーシャガルバのことで、
神智学のブラバッキー女史や人智学のシュタイナーが「アーカーシャに参入する」
と語っているところでもあるのです。

「虚空」とはなんでしょうか? 一般的には空間には何もないと信じられています。
しかし、真言密教ではその
「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空蔵、虚空蔵菩薩がいる
と述べているのです。
 
----「求聞持(ぐもんじ)法」とは

ビックバンという宇宙創造の時は、何もない虚空から物質が産み出されたのです。
密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質性を考え、
そこに重々無尽(融通無碍)に浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えました。

弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると
「五大に響きあり、十界に言語を具す」
(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意している。声字実相義)と述べています。

求聞持法とはアーカーシャの音を聞くという体験なのでしょう。
同じ体験をした行者(ヨギ)がインドにいます。
パラマハンサ・ヨガナンダは自署「あるヨギの自叙伝」の中で 
「創造の波動オームとして、宇宙に鳴り響いている宇宙原音に意識を合わせたヨギ(ヨガ行者)は、
 その音を直ちに自分の理解できる言葉として聞くことが出来るのである」と述べています。

虚空の音を聞く

あなたも雑踏の中でさまざまな音を聞いているうちに、自分の携帯電話の音が聞こえてきた経験はありませんか?
ケイタイを取り出すと鳴っていないのに、音が聞こえた経験です。
私たちの脳内には今までに記憶していた音が残っているのです。

この記憶が感覚器官に伝わることにより、音を聞いたという意識になるのです。
つまり耳の記憶を引き出して来ることができれば、音がなくても音を聞いたという体験が得られるのです。

臨済宗を復興した白隠禅師は、隻手(せきしゅ)の声という公案を考えました。
隻手とは片手のことです。この隻手の声がわずかでも耳に入る時には、超能力(六神通)を得るというのです。

心理学者カール・ユングの言うように、心の奥に人類の叡智が集まった集合無意識があれば、
そこに入って音を聞くことができるのではないでしょうか?
ちなみに空海は、「乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)」と言っています。
あなたも虚空の音を聞いて見ませんか?

虚空を見つめる
---青空を見つめる修行法

チベット仏教の修行法には、岩山の洞窟に登り、青空を見つめる修行法があります。
オーストラリアの原住民アボリジニにも同じような修行法があります。
アボリジニは岩山の上で青空を見つめると、過去の先祖の記憶がよみがえってくるといいます。

私も何度かこの瞑想法に挑戦しました。
最初は遠方の山や町を眺めていました。視線を前方に向けると静かに雲が流れています。
雲に焦点を会わせ前方を見つめたままでいると、視界から雲が消えてしまいます。
雲のあった位置に視線を固定しようとしているうちに、自分の目の機能、
焦点を合わせようとする機能があることを発見しました。

眼球を支える筋が顔の横にあり眼の焦点を動かしているのです。
この筋に意識を置くと、目が開いているのに外部の状況を見ないことができるのです。
その状態を保つと視野は180度に広がりますが、意識は外には行かず内部を見つめるようになります。
コツは、意識が外の動きに引っ張られないように、意識を呼吸に置くことです。

この瞑想法はネパールのミルクババジをインタビューしている時学びました。
小さな祠に突然入ってきた一人の若者が、ババジの顔の前でカメラのフラッシュを焚きました。
ババジは瞬き一つせずにフリーズしたようになっていました。気配を察し心を内側に向けたのです。
残念ながらそのときの若者は、日本人でした。

意識によって欲望をコントロールする

感覚対象(色・声・香・味・触・法)は感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が感じるから存在するだけではなく、
感覚の記憶を思い出すだけでも感覚対象があるように思えるのです。

高野山の修行中、仏さまの観想が難しかったので、観想の対象を食べ物に切り替えました。
禁酒禁煙・肉類なしの食生活でしたので真っ先にビールを観想しました。
コップに滴る水滴やビールの泡など微細に観想できるのです。
のど越しのよいイメージも観想でき、ついでにすし屋に入りトロなどを・・・・・!

私達は日々の生活の中でこのように観想しているのでしょう。その欲求がつのると欲望になります。
意識によってこれをコントロールすることが出来れば、一段上の意識になれるのです。

真言密教の月輪観・瞑想法は、このイメージ瞑想の基本です。
心に真実の象徴である月・光明・蓮・阿字のイメージを刷りこむことにより、
心身を変容させようとするテクニックなのです。
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四国遍路でお寺を巡拝するときに 「般若心経」 を唱えるが、この般若心経というのは、「観自在菩薩」=観世音菩薩=お釈迦様が、「舎利子」=舎利弗という弟子に語るという体裁を採ったものであり、仏教教義のエッセンスであると言われている。
以下は、その解説文のはじめの部分である。

■「磨訶般若波羅密多心経、これをつづめて、般若心経という経文は、わずか266字から成り立っています。これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人舎利弗に対して、観世音菩薩が深い最高の統一に入って、正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いたものです。」とありますように、「般若心経」は、お釈迦さんが舎利弗に対して説かれたもので、一般の初心者を相手にした教えではありません。十大弟子である舎利弗は、もともとすごく頭のいい人で、霊能力もあり霊性高く悟りが非常に高い、そういう心境のお弟子さんに対して説いた教えですから、理解するのは容易ではありません。・・・・・・・・

■この般若心経の中で、一番の極意は、「色即是空 空即是色」という言葉で表現されています。「色即是空 空即是色」というのは、いろんなお坊さんや宗教学者が解釈していますが、「空」については虚無的な解釈が多くて、わかっているようでわかっていない、と五井先生はおっしゃっています。

■「色」とはどういう意味かというと、物には色がついていますから、あらゆるものを総称して「色」と言います。目に見える物質だけでなく、目に見えない想念も、すべての現象も「色」に含まれます。「色は空に異ならず、空は色に異ならず」ということは、この世のすべての物質や想念や現象は空なんだ、という意味です。言い方を変えれば、この世の不完全な現象は実在するものではない、という意味です。・・・・・・・


哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     哀しみとポテトチップスと比べつつ
         しあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は、角川書店「短歌」誌2008年二月号に「艸木茂生」のペンネームで載った「明星の」14首の一連の中のものである。
亡妻の介護の日々と死にまつわる一連の歌は、プライバシーに配慮して、少しは知られている木村草弥の名ではなく、一般には知られていない「艸木茂生」のペンネームを使用した。
詩集『免疫系』(角川書店)の末尾に収録してある。

「鳴る赤ケトル」とは、お湯が沸けば鳴る「笛吹きケトル」のことである。
「哀しみ」と「ポテトチップス」を比べる、などというのは、現実には考えられないことであって、「詩」という<非日常>の世界だからこそ言えることなのである。

この一連を発表したら、私の親しい友人であり、「自由律」短歌の先生でもある光本恵子さんから、特にこの歌を引いて、メールで褒めていただいた。
そのメールの一部を貼り付けて置こう。

<艸木茂生様の短歌を読ませて頂きました。「明星の」3首目

・哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル

この歌はいいですね。なにか木村様のことを思うと泣けてきました。
木村様の静謐な想い、心境がじわっと伝わって参ります。
奥様を亡くされ、さらにご自身が病を抱えながらも意思的に生きようとする姿を思い浮かべ、
「鳴る赤ケトル」にほっとして味わいました。>

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ポテトチップスにも、いろいろあるが、私はジャガイモを単純にフライしただけのものが、いい。新じゃがが収穫されると期間限定で売り出されるものもある。
外国系のものでは、じゃがいもを一旦粉にして、それを成形して、どの片も全く同じ大きさ、反り具合も同じというのがあるが、私は好まない。
如何にも「加工品」として手を加えすぎてあると思うのである。
英国では、ポテトチップスばかり食べて、結局死んだという記事が、どこかに載っていたが、口当たりがいいので、食べだすと途中で止められなくなって、
結局一袋を平らげてしまうことになる。植物油を使ってあるので、カロリーは結構あるだろう。
よく悲しいとヤケ食いするとか言われるが、私はそんなこともないが、老来カロリーの摂り過ぎは碌なことがないので注意しなければならない。

歌に戻ると、普通、短歌の世界では、この歌のような「詠み方」は、しない。
これは短歌というよりも「詩」として鑑賞した方がいいかも知れない。
私は自由詩から出発しているので短歌と言えども「詩」の一環として把握しているので、このようになる。




明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 先ずは朝を祝福して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 
   先ずは朝を祝福して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せたもので自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
掲出した写真①は神戸港の朝日である。
この歌のつづきに

 生きているものは 先ずは朝を祝福して 一日の暮らしがはじまる

という歌が載っている。
これらの歌は「自由律」の歌と言って、57577という「定型」の枠に収まってはいない。しかし、それなりに一定のリズムを計算して作ってある。

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写真②も神戸港の朝日である。この写真には港湾荷役のクレーンがアクセントになっている。
私は定型の短歌作りに入る前には、現代詩をやっていたので<非>定型の歌づくりにも、何らの抵抗もなかった。
今では、しばらく定型を離れて、現代詩を書きはじめている。『草の領域』の一連の詩などが、それである。
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写真③は写真家の緑川洋一氏の「瀬戸の曙」という、彼の故郷・岡山県の虫明海岸からの作品である。

私の歌のことに戻ると、この歌は、人の一生の中で、さまざまな「朝」があることを詠いたかった。ここで、この一連の歌を引いてみる。

    朝のうた・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 きらきらと陽が昇る 裸木の高みに鵯が朝のうたを歌っている

 鵯は気持よさそうに歌う 早朝のしじまの中を澄んだ声が透る

 明るい日暗い日嬉しい日悲しい日 先ずは朝を祝福して

 もう春だから鵯は帰ってゆく よいペアはみつかったか

 雨が雪になりそうな早春しんみりとした曇り日 梅はもう散ったか

 真昼間なのに静かだ 「晩年」というのはこんな日を言うのか

 妻が心臓カテーテル検査で入院する 冠動脈の狭窄はどうなったか

 昨年の暮れの忙しい時 風船で75%の狭窄を押し拡げたのだ

 この一羽の鵯は 私に語りかけ励ましてくれるのだ ありがとう

 生きているものは 先ずは朝を祝福して 一日の暮らしがはじまる

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こうして読み返してみると、この頃は妻の心臓冠動脈の「狭窄」くらいで、二度の大手術を経て死んでしまった今から考えると夢をみているような気分になるものである。
掲出した歌ではないが、「明るい日暗い日嬉しい日悲しい日」であることか。


ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     ペン胼胝(たこ)の指を擦(さす)ればそのさきに
           言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

今どきの若い人のペンの持ち方は変な指使いになっているので、ペン胼胝が、指のどの辺に出来るのか、あるいは出来ないのか、私には判らない。
いちばん自然なペンの持ち方をすれば、親指と人差し指でペンをつまんで、中指に添えて握るので、ペン胼胝は中指の第一関節の前あたりに出来るのが普通である。
「事務屋」として人生の大半を過ごした人には、この「ペン胼胝」があるのが普通だろう。
もっとも、この頃では事務処理もコンピュータになったから入力も「キーボード」で、したがって指先を使うことが多い。
以前は手書き伝票などは何枚複写かになっていて、力を入れて書く必要があったから、職業病として「ペン胼胝」は、その人の証明書のようなものであった。
「ペン胼胝」のことを長々と書いたが、私の歌の本題は「言葉乞食」ということにあるのだった。

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文芸表現者の端くれとして長年やってきたが、文芸表現というものは、つまるところ斬新な「言葉」探しに尽きると言えるだろう。
それを、私は「言葉乞食」と言ってみた。言葉探しにうろうろと歩き回る乞食のような存在だということである。
聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」というのがある。
これは、キリストの言葉(教え)が、すべてに優先する、というのが厳密な意味ではあるが、この言葉をもじって言えば、文芸表現者にとっては、何よりも「言葉」が大切であって、
いかに表現する言葉を選ぶかに腐心するかに執着するからである。
「言葉」探しは、散文よりも「詩」においては、特に大切である。
なぜなら、詩は短いから、言葉を、より的確に選ばなければならない。

何度も書くので恐縮だが、ポール・ヴァレリーの言葉に

  <散文は歩行であるが、詩はダンスである>

というのがある。この言葉に初めて遇ったのは、まだ20歳くらいの頃、三好達治の文芸講演会があって、彼の口から聞いて、他のことは忘れたが、この言葉だけは、
今も鮮明に記憶の中にあるのだった。
これこそ、散文と詩との違いを過不足なく、的確に言い表したものであろう。
「詩」の用語というのは、それだけ吟味して選び抜く必要があるということである。
私の詩や歌が、果たして、それを勝ち得ているかどうかは心許ないが、その方向に努めているということだけは言えるだろう。
どうしても「日常」に堕してしまいがちなので、日常の「陳腐」な言葉に埋没してしまっては、いけない。
もっとも、日常の陳腐な言葉でも、使い方によっては「詩語」に転化できるということは、ある。
要は、それらの言葉の使い方が「斬新」であるか、どうかが問題になって来るのである。

へそまがり曲りくねつてどこへゆく抜き差しならぬ杭の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    へそまがり曲りくねつてどこへゆく
        抜き差しならぬ杭(くひ)の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌も具体的な「杭」というのではなく、「抜き差しならぬ杭」という表現で、人生における「ままならぬ」ことどもを「心象」として表現したものとして受け取ってもらえば有難い。
この歌も私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
自選50首にも採っているので、WebのHPでも、ご覧いただける。
私の歌では単なる「杭」だが、そんな写真はないので南紀・串本の「立杭岩」を掲出しておく。

Web上で「杭」と検索すると、圧倒的に多いのが建設業界のサイトであり、その中でも「中国語」のサイトが多いのが目につく。
こういう「杭」のような単純な加工品では労賃の安い中国の優位が目立ち、売り込みのサイトなのであろうか。

「杭」というものは、例えば牧場などの境界を区切るものとして、また農作業では支柱を立てたりするときの「杭」として必要なものである。
そのような「杭」の置かれた立場として、時として「抜き差しならぬ」という場面が出てくるもので、昔の人も、そのような立場を「抜き差しならぬ」という慣用句として確立したのである。
それは、単なる「杭」の位置を離れて、人生一般についての「譬え」として広く用いられるに到るのである。
私の歌も、そういう類の「隠喩」として捉えていただくと有難い。


死後は火をくぐるべき我が躯にあれば副葬の鏡に映れ冥府の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    死後は火をくぐるべき我が躯(み)にあれば
          副葬の鏡に映れ冥府(よみ)の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥


余り明るい、楽しい歌でなくて申訳ないが、この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので自選歌のなかにも収録しているのでWebのHPでもご覧いただける。
一般受けする歌ではないが、心ある人たちからは好評であった。私自身も好きな歌である。

写真①には私の住む近くの木津川市の椿井大塚山古墳出土の「三角縁神獣鏡」を掲げてみた。
我々が死ぬと日本では通常「火葬」いわゆる「荼毘」(だび)に付される。
これはインド伝来の死体の処理方法であるが、ここで「火」というものの「神聖さ」が表れているように思う。

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写真②は「那智の火祭り」であるが、これは神事に関係する「火」の浄らかさの表現である。
これに対する火葬の「火」もまた、人間の肉体処理についての「浄化」の思想の表現である、と言われている。
インドへ行ったことのある人なら、ガンジス川の畔での火葬の光景を目にしたことがあろう。
ここでは「火葬」を巡っても身分差別、貧富による死体の扱い、火の入れ方の違いに直面することになるが、今は、それは置いておこう。
シンボル、イメージの世界では、「骨」は死後も滅びないので復活の象徴とされている。
ローマ・カトリック教会(バチカン)が今なお火葬に反対しているのは、一つにはこのためであり、また原始的な社会の殆どでは、骨に同様な象徴的な意味を認めている。

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写真③はインドのクシーナガルの釈迦の入滅の地の「荼毘塚」と呼ばれるラマバル塔である。
写真④の説明を先にしておくと、ここでは線香、花など参拝のあとがうかがえる。

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お釈迦さまの最期だが、クシーナガルに着いた釈迦は、アーナンダに、こう言う。

さあ、アーナンダよ。私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

いわゆる「北枕」で横たわるのだが、中村元先生が、インドの或る知識人から聞いたところ、頭を北にして寝るというのは、インドでは今日でも教養ある人の間では行なわれているという。
北枕で右脇を下にして西に向かって臥すというのは、インドでも最上の寝方とされるようである。
釈迦の最期の言葉は

<さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」

この言葉には「万物流転」という真理が簡潔に表現されている。仏教のあまたの教義は、この単純な言葉に集約されている、と言っても過言ではないと思う。

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「荼毘」に関連するものとして写真⑤に大阪市浪速区元町1丁目にある「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑を掲げておく。
鉄眼は寛永7年(1630年)肥後の生まれ。13歳で出家。明の僧「隠元」の来日に遇い、明暦元年(1655年)その門に入り黄檗宗の熱心な布教者となった。
また「一切経」の完全な開版を志し、喜捨を求めて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、延宝6年(1678年)に版木6万枚の完成をみるが、その間、延宝2年の大坂の洪水、天和2年の全国的な飢饉の時など、折角の喜捨を全て、その救済にあてた。天和2年過労のために53歳で没した。
なお「一切経」の版木は本山の宇治の万福寺に収蔵されている。偉い人がいるものだ。

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
   「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
     混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、
西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。
掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。
キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。
ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。

「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、
それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。
こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。
とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。
以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
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ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。
だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。
中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。
はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。
頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、
この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。
イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。
誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。


比喩のやうに宙のかなたから飛んで来る君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaookanokoカノコユリ

     比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る
       君のEメール詩句の破片が・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。この歌だけ単独で取り出すと何のことやら判らないが、「ドメイン」というインターネットを詠んだ一連8首の中のものである。

この一連の最初の歌は

  野兎の耳がひらひらしてゐるね<草原の風に吹かれてるんだ>・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というものである。
これは「詩」である。
この詩句のあとを受けて、掲出した歌がある、のである。
「君のEメール」というところに、インターネットで発信された詩句であることの存在証明をしていると言えるだろう。
「Eメール」という言葉を修飾するものとして「比喩のやうに宙(そら)のかなたから飛んで来る」というフレーズを、私は選択した。
「比喩」という語句を辞書で引くと①「たとえること」②「類似したものを使って印象深く説明する表現法」というようなことが書いてある。これは辞書によって文句に違いはあるが、ほぼ大同小異といえよう。
「詩」というものは、極論すると「比喩」表現に尽きる、と言える。
その「詩」が成功するかどうかは、その「比喩」がぴったりと収まって、読者に十全に受け入れられるかどうか、によって決まる。

ここに挙げた歌が成功しているかどうか、私には何とも言いようがない。いかがだろうか。


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