K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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山田兼士『詩の翼』・・・・・木村草弥
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──山田兼士の詩と詩論──(13)

      山田兼士『詩の翼』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・響文社2017/01/13刊・・・・・・

山田先生の詩集を除く十一番目の本である。
これまでの二十数年間に書かれたものをまとめられたもので、「あとがき」によると、全36篇は内容的に三つに分けられる。
第一章「現代詩の百年」には、荻原朔太郎から現代までの日本現代詩を。
第二章「フランス詩の百年」には、ボードレールから二十世紀半ばまでのフランス詩について。
第三章「詩の翼」には比較文学的な、あるいは自儘な文章といくつかの追悼エッセイを収められている。

「帯」の裏には

<「詩の翼」は、島田陽子追悼文中に引用した、小野十三郎のフレーズ「軽く翼を泳がせて/重い荷物を運べ」から着想を得たものです。
 「詩」という重い荷物をどこまでこのささやかな「翼」で運べるのか分かりませんが、
 もともと「詩」そのものが「翼」なのではないかとの思いもあります。>

と書かれている。 これこそ本書の意図を簡潔に要約したものと言えるだろう。

なにぶん大部の本なので、ここで簡単には説明できないので、上記の要約で察していただきたい。
詳しくは本文を読んでもらいたい。  以上、不十分ながら紹介する次第です。


山田兼士詩集『月光の背中』・・・・・・・・・・木村草弥
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──山田兼士の詩と詩論──(12)

     山田兼士詩集『月光の背中』・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・洪水企画2016/10/10刊・・・・・・・

山田先生が第四詩集『月光の背中』を上梓された。
ここに収録される作品群は、2013年9月に「交野が原」75号に発表された「1974年のムスタキ」から、2016年9月に、これも「交野が原」81号に発表された「南の電柱」を経て、巻末の未発表「ボストンテリア」に至る21篇である。
掲出した図版の文で読み取れると思うが、この詩集は、さまざまの試行によって成り立っている。
先ず、この本の装丁は巖谷純介の手になるものだが、あっさりしているようで面白い。
「あとがき」で山田氏は、こう書く。

<第一詩集『微光と煙』で試みた「詩論詩」も、かたちを変えて書き続けています。「Ⅲ」章の作品はその発展形のつもり。
 「Ⅳ」章には、追悼詩とその他の作品を集めました。
 全体を通して折句詩(アクロスティック)が多いのは、元テキストとの対話の意思によるものと考えています。
 一種の「本歌取り」のようなもので、モノローグよりむしろディアローグによる詩の可能性の探求、といえば少々おおげさに聞こえるかもしれませんが、
 いずれにせよ詩は他者との内なる対話の中から生まれるもの、という近年の思いの反映と心得ています。>

けだし、この文章は、この本の性格を簡潔に要約し得ていると言える。

この本の中でも、いくつかの「試行」がなされている。 ひとつ引いてみよう。

    詩はいつ来るのか

       夜明け前に
         詩が
         来た ─谷川俊太郎
              「襤褸」より


  あけまええにしがき
  の三行は実にすて
  はいだけはあった
  だぼくにはこない
  いえんにとどくの
  んげんはそのてま
  の少し前でつかの
  まんをしてまつだ
  もちをしずめてあ
  いせつなしがくる

「沓冠」とは、歌の頭と終わりに、任意のフレーズを配置して一連の歌を作る、という趣向である。
この詩では、谷川俊太郎の詩「夜明け前に詩が来た」という詩句が歌の頭①~⑩と、末尾⑩から①に配されている。
西欧詩で言えば「頭韻」と「脚韻」である。
こういうのを日本文芸では「沓冠」くつかぶり、と称して遊ばれてきた。

各行の「頭」に置く「頭韻」という形式には、こんなものがある。
こういうのを古来「冠付け」(かんむりづけ)と称して遊ばれてきた。

例えば、有名な在原業平の歌

   きつばた つなれにし ましあれば るばるきつる びをしぞおもふ

     (かきつばた 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来つる 旅をしぞ思ふ)

の歌は、五七五七七の各々の頭に「かきつばた」の「音おん」を配置したものである。

日本語の特性として、西欧詩のような「脚韻」は、いろいろ試みられたけれど、それだけでは効果が薄いので、古来から今に伝わるのは「頭韻」なのである。
私が短歌結社「未来」に居たとき、編集長の岡井隆の弟子たちも「遊び心」旺盛な連中だから、私も編集部から誘われて「沓冠」(くつかぶり)などに参加した。
1996年9月号「未来」異風への挑戦③課題「沓冠」というものであった。
私の当該作品については「げんげ田にまろべば」 ← ここを参照されたい。
「沓冠」とは、歌の頭と終わりに、任意のフレーズを配置して一連の歌を作る、という趣向である。
頭と終わりが拘束されるので、結構むつかしいが、やってみると面白いものである。

話を山田作品に戻す。
このような試みは、先生は以前からやって来られた。セザンヌの絵にヒントを得た「岩山望景詩」という詩については、←に書いたことがある。

もっと作品を引いて論じなければならないのだが、五月、六月に体調不良になり、ようやく原因が判って治療し、軽快したばかりであり、体力が持たないので、お許しいただきたい。
今回は、この辺で終わりたい。益々の、ご健筆をお祈りいたします。 ご恵贈に感謝いたします。

先生についてはWikipedia─山田兼士に詳しい。




詩誌「QUARTETTE」カルテット創刊号・・・・・・・・・・木村草弥
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──山田兼士の詩と詩論──(11)

      詩誌「QUARTETTE」カルテット創刊号・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・2016/03/10刊・・・・・・・

かねて山田先生が構想を練って来られた同人誌が発行された。
同人は、萩原朔太郎記念とをるもう賞受賞者・江夏名枝。中国人詩人・田原。歌人で山田兼士夫人・山下泉。そして山田兼士先生の計四人である。
雑誌名の通り、この四人で、これからも運営して行かれるものと思われる。

目次を引いておく。


蛇いちご               江夏名枝
無題 Ⅴ                田 原
月光の背中             山田兼士
光の顎                江夏名枝

短歌
微かな時               山下 泉

翻訳
小散文詩 パリの憂愁( 46~50 )  シャルル・ボードレール
                       訳・解説 山田兼士

評論
歌のなかの時間──高安国世歌集『新樹』まで そのⅰ   山下泉

後記
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       蛇いちご          江夏名枝

  人形箪笥の奥が怖くて
  からっぽに木目がだまりこくる、
  ひたいを寄せて匂いを嗅いだ
  天神さまの細道もここで終わっていた

  探せば狐に憑かれてしまう
  いつもひとに馴染まない道があり
  はばかることなく
  空はかならず焼けていた

  人形は横に寝かせると目をつむった
  おもうだけのつぼみを川に放ち
  一日を供養しても
  影が消えると先回りされる

  朱色の糸を繰るうちに
  漏れるように通じてくる細道
  夕暮れの煙へと溶かれる狐らしきもの、
  剥ぐように鼻のあたりを掻いている
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この詩は、かつて昭和の時代まであった「天神さまの細道」の光景を詠んだものである。
私の住む辺りも田園であるが、江夏さんの育ったところも都会ではなく、狐の出てきそうな田舎だったようである。
「蛇いちご」という題も的確である。

田原の詩は八ページに及ぶ長いもので、ここに引くことはしない。 作品の終りには「二〇一五年十一月二十六日 稲毛海岸にて」という日付が入れられている。
山田兼士の「月光の背中」の詩は「─月の光を 背にうけて(川内康範作詞「月光仮面の歌」より)」という添え書きがついている。
或る寺院の「月光菩薩」の姿と月光仮面の歌とをコラージュして三ページの詩に仕立てあげた。

江夏の「光の顎」という詩は散文詩になっている。 三ページに及ぶ長い作品である。
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     微かな時       山下 泉

  めざましき松の美貌を巡りゆき視線の秋のただなかにいる

  秋の雨からだの外に出て降れり白鳳展にまなこ閉ずれば

  「思われる。」ではなく「思う。」と文末は一重瞼の弥勒のように

  夕列車むかう西方薔薇星雲のこるくまなく小籠に摘んで

  エピファニー、言葉の鏡を割ろうとも鏡の言葉は光らぬままに

  雨明かり木蔭にひらくハンティング・ナイフどこまでふかくふるさと

  うそ寝する背中に睫毛あたるとき闇が喀きだす火のごときもの

  遠くから見えているのは飾り窓つはくらめの巣や涙骨のせて

  虹に会うかすかな時も運ばれて海辺の墓地のような駅まで

  にんげんのすべては記憶と青年は草原の扉うしろ手に閉ず
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山下泉は、自分でも詩人というだけあって、歌の構成の仕方が「詩」的である。
ついでに書いておく。 「歌のなかの時間」という高安国世・詩論のことだが、私は京都大学で高安からドイツ語の授業を受けたことがある。
リルケの信奉者かつ研究者として知られる高安だが、母親がアララギの熱心な歌人だった関係で幼い時から短歌に親しんでいた。
実家は医者の家系で両親は医師にしたかったらしいが、彼はドイツ文学者になる道を選んだ。
この小論にも引かれているが、第一歌集の巻頭の歌
  ・かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
は、そういう両親の希望に反してドイツ文学者の道を選択するという高安国世の「決意表明」みたいなものである、と私は読み取った。このことは、かって、このブログの前身で書いたことがある。
この歌は、歌のリズムとしても「かきくらし」「ふりしきり」「降りしづみ」という、畳みかけるようなルフランの効果が効いていて秀逸な、私の好きな歌である。
高安さんは子供に夭折されるなど、他にも子供のことで悩むことが多かったらしい。私の次兄・重信に絵の巧い子供の進路のことで相談に来られた、というようなことを私的にも知っているので、なおさらである。
ここでは私的なことには触れない。
アララギのリアリズムを止揚して、高安さんは「主知的リアリズム」を主張された。これは現在の永田和宏の「塔」にも受け継がれていると言えよう。
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いずれにしても、この同人誌の発刊を悦びたい。半年刊をめざしておられるようである。
ご恵送に感謝して、ここに披露する次第である。 有難うございました。





山田兼士『萩原朔太郎《宿命》論』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(10)

     山田兼士『萩原朔太郎《宿命》論』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・・澪標2014/07/04刊・・・・・・・・・・・

私の敬愛する山田兼士先生が、標記の本を出版された。
この本は長野隆編『萩原朔太郎の世界』(砂子屋書房1987年刊)に収録されたのを初めとして、あちこちに発表されたものを、まとめられたものである。
だから、ほぼ三十年近く書いて来られたものである。
先ず、この本の「目次」を出しておく。

目次

序章 大阪八尾と萩原朔太郎
第1章 散文詩集の生成
第2章 抒情の終焉
第3章 詩の逆説あるいは小説の夢
第4章 「蟲」を読む
第5章 「鏡」のうしろにあるもの
第6章 『宿命』再考
第7章 『宿命』の六色—散文詩六篇における色彩について
終章 萩原朔太郎と『四季』
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「序章」のはじめの部分をスキャナで引いておく。 (文字化けは子細に修正したが、まだあれば指摘されたい。すぐに直します)

序章    大阪八尾と萩原朔太郎
●はじめに  二人の隆
萩原朔太郎最後の詩集『宿命』について考えるに際して、まず前提としたいのは、詩人の生涯に関
する重要な、そのわりにあまり知られていない、群馬県前橋と大阪府八尾の両萩原家の確執と交流の
歴史である。特に、大阪八尾と朔太郎の関係について、従来あまり重要視されてこなかった事実を確
認することから、本論を始めることにする。
「大阪八尾と萩原朔太郎」というテーマに即してはじめに紹介したいのは、次のようなエピソード
である。三好達治が「詩人は西からしか出ない」とある人に言ったところ、「三好先生の先生である
萩原朔太郎は群馬県の前橋じゃないですか」と反論され、三好は「いや,あの人はお乂さんが大阪の
人だから」と答えた、という。朔太郎の父密蔵の出身は大阪河内の八尾である。これは有名なエピソ
—ドだが、従来たいして重要視されてこなかった。ところが、一九七九年に萩原朔太郎の親戚にあた
る萩原隆が『若き日の萩原朔太郎』 (筑摩害房)という本を出し、その中で、隆の父萩原栄次宛てに
朔太郎が書いた書簡全八十四通のうち未発表のもの七十三通が初めて公開された。萩原栄次は朔太郎
の従兄である。
『若き日の萩原朔太郎』が出た時点で、私の友人で若き萩原朔太郎研究者であった長野隆(1951~2000
にその本のことを教えられ読んだのだが、なるほどと思いながらも、それ以上あまり
考えることもなく何年かが過ぎた。その間に、筑摩書房の『萩原朔太郎全集』が完結し、若き日の歌
集『ソライロノハナ』も収録された。さらに、「浄罪詩篇ノ—ト」と呼ばれる未発表ノ—トが刊行され、
朔太郎青年期の試行錯誤がかなり明確に知られるようになった。そうした流れと、朔太郎の未発表書
簡七十三通の刊行というのが、いわば朔太郎研究におけるルネッサンスを形成したわけだ。その後、
特に若い研究者たちによって詩集『月に吠える』の生成研究が盛んになった。長野隆はその最先端を
走った研究者である。その後、朔太郎生誕百年にあたる一九八六年に、長野と私がー緒に刊行してい
た『詩論』という研究同人誌で、三回にわたって朔太郎特集を耝み、ここに、私は初めて萩原朔太郎
論を書いた。 一方、長野は「『月に吠える』の思想と方法」という実に厳密な論文を書いて『月に吠
える』成立までの生成過程をみごとに論じた。これに対して、私は最晚年の──そのころから晩年の
詩人というものに興味があったので──昭和十四年に刊行された詩集『宿命』を主題に論文を三本書
いた。それらが翌一九八七年に共著本『萩原朔太郎の世界』 (長野隆編)として砂子屋書房から出た。
その後二〇〇〇年に長野隆が亡くなり、その二年後に『長野隆著作集』全三巻が和泉書院から出てい
る。この責任編集は私が担当した。
それと同じ二〇〇二年に、萩原隆の二冊目の本が出た。『朔太郎の背中』(深夜叢書)。この本が出
たときに、三井葉子さんが主宰する詩誌『楽市』に私は書評を書いた。萩原隆も『楽市』の同人で、
三井さんからの依頼だった。その後、二〇〇九年に萩原隆の三冊目の本『ザシキワラシ』(編集工
房ノア)が出た際に出版記念会で初対面がかなった。朔太郎があと二十年も生きていればこうなって
いたかと思わせる、白皙の老人である。
萩原隆は朔太郎のまたいとこにあたる縁で、八尾と萩原朔太郎の関係についての調査と思考をこれ
らの本にまとめた。その萩原隆が萩原朔太郎を記念した文学賞を創設したいということで三井葉子さ
んに相談していたのだが、その企面が具体化しつつあった矢先、二〇一〇年に萩原隆は亡くなった。
その後、私が手伝うことで、八尾市の「NPO法人やお文化協会」主催による「萩原朔太郎記念とを
るもう賞」という詩集賞が二〇一一年に始まった。新人新鋭に与えるこの賞のキャッチフレ—ズは「求
む!二十一世紀の朔太郎」(三井葉子さんは二〇一四年に亡くなったが、この賞は継続している)。
二〇一一年は朔太郎のの生誕百二十五年ということで、東京世田谷文学館が大きな展示会を行った。
そこには前橋文学館の所蔵する、朔太郎から栄次宛の書簡が多く展示されていた。萩原隆が寄贈した
ものだ。同年、『現代詩手帖』が五月号で萩原朔太郎特集を組んだ際に、私は「萩原朔太『宿命』再考」
という文章を書いたが、その後、他にも朔太郎について二つ書く機会があり、朔太郎についての比較
的長い文章を久しぶりに計三つ書いたことになる。私個人にとっての朔太郎ルネッサンスのようなと
ころに差しかかっていたとも言えるわけだ。以上が、朔太郎をめぐる「二人の隆」と筆者との関係の
あらましである。
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私も三井葉子さんの「楽市」には、誘われて同人の末席を少し汚したので、萩原隆にも二、三度会って会食したこともある。
彼は大阪府立高校の「学校医」を務めていたことがあり、私の中学校同級生が高校校長をしていたときに懇意にしていたというF君と『ザシキワラシ考』出帆記念会で同席したことがある。

論文の詳しい中身を書きたいが、今は、そのゆとりがないので、ご勘弁願いたい。

なお、山田兼司士の著作物については ← ここから「この著者の本一覧へ」に詳しい。

Wikipedia─山田兼士





山田兼士詩集『羽曳野』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(9)

     山田兼士詩集『羽曳野』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・澪標2013/07/04刊・・・・・・・・

この本は、山田兼士先生の第三詩集にあたる。
『微光と煙』(思潮社2009年刊)、『家族の昭和』(澪標2012年刊) につづくものである。
先に『高階杞一論─詩の未来へ』を、ここで採り上げたことがある他、個々の詩を扱ったことがあり、第一詩集から鑑賞している。
詳しくは「山田兼士の詩と詩論」にまとめてあるので見てもらいたい。

先ずこの表紙写真について、先生のブログに記事を書かれたので引いておく。

<まず撮影場所は我が家の近所、峰塚公園の一画です。かなり前に考古学的発見があって話題になった峰が塚古墳が敷地内にあります。
右遠方に見えるの が二上山、左前方が白鳥陵。撮影したのは、一昨年、転居間もない頃でした。
あまりに見晴らしがいいので思わず写メールしようとしたら、突然幼稚園ぐらいの女の子が走って来て、偶然写り込んだのでした。
まったくの偶然。この光景から「古代以来居た子」という回文を作ったのでした。
セピア色の写真なのでかなり古いものと思われる方もあるようで、この女の子は娘さん?という質問lもありました。
娘はとうの昔に(?)成人してい ます。ちなみにまだ孫はいません。
写真のセピアについてはぼく自身のアイディアですが、素人がするといったんモノクロにしてからセピア色をつけるのですが、そこはプロの装幀家、
うまく一部の色を残しながらセピア化してくれました。自然退色に近いかたちですね。特に、女の子の帽子のピンクが自分では気に 入っています。
この写真を元に詩「白鳥陵」を書いたのでした。>

改めて、掲出した詩集の画像を見てみれば、この先生のコメントが納得できる。

さて、一読した私の感想を一言で言えば、これは山田兼士の「自伝的詩集」ということになる。
この傾向は、第一詩集以来、一貫しているとも言える。
予め言っておくが、ここに書くことは批評ではなく、「鑑賞」と本の「紹介」ということである。
以下、二、三詩を引きながら書いてみよう。
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    羽曳野・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士
                 そのままよ月もたのまじ伊吹山(芭蕉)

  のかみヤマトタケルが白鳥になって飛来したとされる

  はらを見下ろす高台 畿内西方の町 遠望する二上山

  るで神話時代そのままの眺望タケルの故郷は山の向う

  るで風景の裏側のように左雄峰に右雌峰その彼方から

  うやく越えてきたのだ傷ついた翼で だが飛び過ぎた


  いに故郷に還ること能わずさらに羽を曵き野の上空に

  えた魂の残像よ 恨んではいけない伊吹山の神の力を

  うすぐ還暦を迎える僕が故郷から遠望した岩山は今も

  まに木枯をもたらし時には雪も運んでくるがそれでも

  はらに涼風を運ぶ夏もあり折々に冬籠りを勧める事も

  つお芭蕉を魅了した山容は八幡神宮鳥居前からの姿と

  つは最近知った故郷の芭蕉記念館を訪れてその場所は


  まは観光用に整備された廃港 昭和の初め頃は小舟が

  つかり合うほどにぎっしり並んでその舟伝いに大川を

  しからきしへ渡って学校に通ったものだと亡父の昔話

  んだ右半身をかばいながら左手で一升瓶から酒を注ぐ

  もなく還暦その残像が羽を曵く野は伊吹にも二上にも
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      伊吹・・・・・・・・・・山田兼士

                   折々に伊吹を見てや冬籠 (芭蕉)

   れまがった坂道を画家のアトリエから十分ほど登ると
   っぱな岩山が遠望できたエクス一九八四年八月十九日
   おしい姿を背景に子供たちが遊んでいる そのなかの
   はつそうな女の子に山を指差して名前をたずねてみた
   こり笑って「サントヴィクトワール」セザンヌの山だ

   ぶきおろしにハンドルを取られながら自転車を必死に
   っとばしていた高校への道 一九六九年十二月十九日
   になるのは朝整えてきた天パの長髮 左前方からの風
   うけ髮はぐしャぐしゃ 田圃の中の一本道をひた走る
   ぎから分けたことを後悔しながら走るも突風に煽られ
   一旦停車 北西の方角に遠望したのは雪を頂いた岩山
   まとたけるをも打ち負かした神の山だ はるか遠方に

   ゆこもりでもしたいと願いながら岩山を遠望した一瞬
   ったり風に吹かれながら遠く岩山を見ていた夏の一瞬
   の二つの稜線が一つになるのにながい時間がかかった
   う見ることのないだろう異郷の山とこれからも折り折
   見るだろう故郷の山に見守られ僕は還暦にダイブする。

これら二つの詩は、先に記事にしたときに書いたように、日本の古来からの「頭韻」の形式─「冠かむり」という手法を踏襲しているのである。
詳しくは、当該記事に書いてあるので参照されたい。
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      白鳥陵・・・・・・・・・・・山田兼士

     住宅街の路地を抜け
    土の道に入る
    「マムシ注意」の立札を横目に
    五十歩ほど歩くと視界が開け
    小山の上であることに気づく
    ここも古墳だ

     展望台から眺める
     近つ飛鳥は
     右遠景に二上山
    左近景に白鳥陵
    ああ 
    古代の風景だ

    ビルや家々を
    脳内のCGから消すと
     見えるのは田 畑 森 野
    少女が走り去る
    むかしの子だ
    (こだいいらいいたこ)

     あの巨大古墳を造るのに
     何人が 何時間 何日間 
     何年間 働いたのか 
    その生活に思いを馳せる
    役人に強いられた
    苦役の日々だったのか

    それとも 
     楽しく 和やかで
     豊かな 労働だったのか
    そうあってほしい
    古墳の町で 
    そう願う

    濠に浮かぶ 喜びの島
     白鳥陵
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ここに引いた三篇は巻頭の  Ⅰ 羽曳野  に載るものであり、作者の住む羽曳野や出身地・大垣などに通うものである。
すぐ後につづく詩「阿倍野橋」には、
   歌人である令夫人が六年間通った四十年前の女子高時代、
   三十五年前には二人で歩いた、
   二十五年前には幼子二人の手を引いて、
   十五年前には手術後の検診に、
この界隈を歩いた、という。 その手術というのも胃癌で三分の二を切除というものだったこと、などが詠われる。
この界隈について、ついでに書いておけば、JR関西線(いまは愛称として大和路線と呼ぶ)で奈良から大阪に向かうとき、天王寺駅のすぐ手前、
左側に「大阪女子高校」という建物が見えるが、これが詩に詠まれる女子高なのであろうか。
また、天王寺駅、近鉄・阿倍野橋駅の近くには大阪市立大学医学部付属病院、大阪鉄道病院などが集中しているが、それらのどこかで胃の手術を受けられたものと推測される。
近鉄阿倍野橋駅と言えば、最近大きな話題になっているビルとしては日本一の三百メートルの高さを誇る「アベノハルカス」が辺りに威容を誇っているところである。
天王寺駅からは「架空」の通路が出来て、下の道路を横切る必要もなく、この「ハルカス」に入ることが出来るようになった。

そして、この項目の末尾には、この家族が持つ山荘のことが「志摩」という詩になって締め括られる。
また  Ⅱ 安乗の遅刻 の章にある「キリン」という詩には手術したときには作者が四十四歳だったことも描かれる。
これらを見る限り、この詩集は極めて「私的な」自伝的詩集という所以である。

そして、  Ⅲ 萩原朔太郎の詩碑 の章では、朔太郎とフランス詩との関連、朔太郎の甥っこ・萩原隆氏の思い出などが綴られる。
これは先生が現在、実行委員をしておられ、三井葉子さん肝煎りの八尾市主催「萩原朔太郎記念とをるもう賞」へと繋がるのであった。

現代詩も現代短歌も、「前衛」と呼ばれる時代を経て、「私性」を「消す」ことに終始してきたが、それらは「消し」尽せるものではなく、しぶとく今も生きている。

この詩集を読みながら、そんな事どもが頭の片隅を、しきりによぎるのであった。

極めて不完全ながら、この辺で鑑賞を終わりたい。
いただいたのは、もう少し前だが、今日が刊行日なので日付に合わせてアップする次第である。


 
山田兼士『高階杞一論 詩の未来へ』・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(8)

     山田兼士『高階杞一論 詩の未来へ』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・澪標2013/06/01刊・・・・・・・

山田兼士先生が詩誌「びーぐる」に連載されてきた文章に加筆して、この本にまとめられた。
先ず、この本の「あとがき」を引いておく。
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        あとがき

 本書は「びーぐる 詩の海へ」第三、五、六、七、八、九、十、十三、十五、十七、十九号と、十一回に渡って掲載した論考を十二章に再構成し加筆修正を施したものです。執筆にあたって、詩集『ティッシュの鉄人』については「別冊・詩の発見」創刊号(二〇〇五年四月)に書いた論考を、『桃の花』については詩誌「交野が原」六〇号(二〇〇六年五月)に書いた書評を、また『雲の映る道』については神戸新聞(二〇〇八年五月十六日)に書いた書評を、それぞれ前提にしています。また、全体のバランスを考えて、第四章には大幅な加筆を施しました。「付録1」に収めた対談は「活字倶楽部」二九号(雑草社、二〇〇三年春号)に掲載されたもの、「付録2」の論考は当初「河南文學」一〇号(大阪芸術大学文芸学科研究室、二〇〇一年三月)掲載のものを改稿の上「詩学」六三一号(二〇〇三年三月)に掲載、さらに改稿して『現代詩人文庫・高階杞一詩集』(砂子屋書房、二〇〇四年)に収録したものです。

『キリンの洗濯』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。一九九〇年、友人に勧められて一読、たちまち高階ワールドに引き込まれました。同じ大阪府在住ということもあって、いつか作者に会うことができればと、漠然と考えていましたが、なかなかその機会には恵まれませんでした。
 生身の高階杞一との出会いは今から十五年ほど前、故寺西幹仁さんが主宰していた「詩マーケット」の会場だったと記憶しています。敬愛してきた詩人に会うことができて、大変うれしかったことを覚えています。その後、縁あって私が勤務する大学に出講していただくことになり、現在も毎週一度、研究室で顔を会わせる習慣が続いています。季刊詩誌「びーぐる 詩の海へ」の編集同人としての付き合いもすでに五年近くなりました。
 そうした身近にいる人の作品を客観的に論じることができるのか、という危惧を私自身抱かなかったわけではありません。しかし、考えてみると、高階杞一は当初から私の自然発生的な知己であったわけでなく、作品を通しての敬愛と親近感が先にあったわけで、いつか論じてみたいと念じていたところに、それこそ縁があって出会うことができたのでした。身近な人だから論じないというのも、身近な人だから論じるというのと同じ程度にアンフェアな態度だと、私は考えています。あえて断言するなら、客観的かつ普遍的に考えて、今後の日本詩を牽引していく使命を担った詩人の一人が高階杞一だと、私は信じています。その期待を前提にする本書が、少しでも多くの人の共鳴に恵まれることを願っていますが、結果は読者の判断に委ねるしかありません。

 本書の刊行によって、ボードレールからシュルレアリスムまでのフランス詩サイクルと、萩原朔太郎から宮澤賢治、中原中也、小野十三郎を経て谷川俊太郎に到る日本詩サイクルからなるボードレール・プログラムが、さらに同世代詩人にまで延びたことになります。自分と同年代の詩人(正確には私が二歳年少)を一冊の書物として全面的に論じることによって、いよいよ現代詩への自己投入が切実になってきた、というのが偽らざる本音といったところです。自らの詩論のさらなる広がりと深まりを期して、本書を世に送り出す次第です。
 今回も、澪標の松村信人さんには大変お世話になりました。大学時代からの先輩の期待に僅かでも応えることができているようにと、願わずにいられません。

 二〇一三年四月二十二日     山田兼士
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   第五章 『早く家(うち)へ帰りたい』──亡き子をしのぶ詩

 高階杞一の五冊目の詩集『早く家へ帰りたい』(一九九五年)は、これまで出ている十一冊の中で最も特別な一冊である。高階自身、これに続く『春’ing』(一九九七年)のあとがきに書いているように、特別なテーマで書かれた詩集だからだ。帯を見てすぐ分かるように、全篇が「レクイエム」なのである。高階が詩を書き始めてから最も重大なできごとであり、その後の詩作に大きな意味を持たせることになった「こどもの死」について今回は考えたい。

 高階杞一の長男雄介は一九九〇年九月に生まれた。生まれつき腸に障害があって何度も手術を受け、なんとか育ちそうな気配を見せてはいたが、一九九四年九月四日に世を去った。その後、多くの作品のモチーフとなり(最近では『雲の映る道』収録の「春の港」は秀作)「雄介詩篇」と呼ぶべき作品群を形成する契機になったこのできごとの意味を、作品から検討してみたいと思う。

 詩集『早く家へ帰りたい』の巻末に付された「創作日」一覧によれば、冒頭から八作目まではこどもの生前の作、九作目からが追悼詩で、最後の「永遠」まで、ほぼ制作順に並べられていることが分かる。それら十一篇の追悼詩の中で、最も制作時期の早い(つまりこどもの死からまだ日が経っていない)作品を引用する。

  ゆうぴー おうち

      平成六年九月四日、雄介昇天、享年三。

せまい所にはいるのが好きだった

テレビの裏側
机の下
本棚とワープロ台とのすきま
そんな所にはいってはよく
ゆーぴー おうち
と言っていた
まだ助詞が使えなくて
言葉は名詞の羅列でしかなかったけれど
意味は十分に伝わった
最近は
ピンポーン どうぞー というのを覚え
「ゆうぴー おうち」の後に
ピンポーン と言ってやると
どうぞー
とすきまから顔を出し
満面笑みであふれんばかりにしていたが……

今おまえは
どんなおうちにいるんだろう
ぼくは窓から顔を出し
空の呼鈴を鳴らす

  ピンポーン

どこからか
どうぞー というおまえの声が
今にも聞こえてきそうな
今日の空の青

「創作日」一覧によればこどもの死から十日ほどしか経っていない「1995.9.15」に書かれたということだが、そしてその分、未だ生々しい悲しみが直截な痛々しさを伴って書かれているが、後半、一行空きに続く部分は高階杞一ならではの透明感あふれる抒情に満ちている。「空の呼鈴を鳴らす」とは、簡単なようでいて、実は誰にでも書ける一行ではない。最後の五行には「昇天」(サブタイトルに注意)したこどもの天使的な姿さえ――はやくも――にじみでてはいないだろうか。

 亡き子をしのぶ最初の作品から二ヶ月後、高階は全四章一〇六行から成る詩「早く家へ帰りたい」を書く。この詩は、愛児追悼作品として中原中也「春日狂想」に比肩する名作である。高階作品になじみの薄い読者にも読んでもらいたいので、全文を引きながら鑑賞していきたい。まず、その冒頭――

   1

旅から帰ってきたら 
こどもが死んでいた
パパー と迎えてくれるはずのこどもに代わって
たくさんの知った顔や知らない顔が 
ぼくを 
迎えてくれた
ゆうちゃんが死んだ 
と妻が言う
ぼくは靴をぬぎ 
荷物を置いて
隣の部屋のふすまをあけて
小さなフトンに横たわったこどもを見
何を言ってるんだろう 
と思う
ちゃんとここに寝ているじゃないかと思う

 詩集刊行時、「旅から帰ってきたら/こどもが死んでいた」などと突き放したような書き出しに驚いた記憶があるが(当時私自身が子育て真っ最中だった)、重大かつ悲惨な事実を事実としてすぐには認識できない心情を、この上なく正確に写し出した表現であることに気づくのに、それほど時間は要しなかった。悲劇を目前にして、人がまず最初に覚えるのは違和感なのだ。そして――

枕元に坐り 
顔をみる
頬がほんのりと赤い
触れるとやわらかい
少し汗をかいている
指でその汗をぬぐってやる
ぼくの額からも汗がぽたぽた落ちてくる
駅からここまで自転車で坂道を上がってきたから
ぬぐってもぬぐっても落ちる
こどもの汗よりも 
ぼくは自分の汗の方が気になった
立ち上がり 
黙って風呂場に向かう
シャワーで水を全身に浴びる
シャツもパンツも替えてやっとすっきりとする
出たら 
きっと悪い夢も終わってる
死んだはずがない

 いつもと変わらない行動によって「悪い夢」から覚めようとするのだが、ここには一種の詩的虚構がふくまれているのではないか。実際にはその場で泣き崩れたのかもしれないし、ただ狼狽してうろうろしていたのかもしれない。だが、詩人の筆はそんな気配を微塵も感じさせずに、淡々と進むことで次の展開を用意している。

  2

こどもの枕元にはロウソクが灯され 
花が飾られている
好きだったおもちゃや人形も置かれている
それを見て 
買ってきたおみやげのことを思い出す
小さなプラスチック製のヘリコプター
袋から出して 
こどもの顔の横に置く
(すごいやろ うごくんやでこれ)
ゼンマイを巻くと 
プロペラを回しながらくるくると走る
くるくるとおかしげに走る
くるくるとおかしげに走る
その滑稽な動きを見ていたら
急に涙がこみあげてきた
涙と汗がいっしょになって
膝の上に
ぽたぽた落ちてきた


 この急展開は衝撃的だ。「くるくると…」を三度繰り返すことで平常心が一挙に崩れる一瞬を描いているのだが、この繰り返しによる一瞬の展開が高階マジックの一つであることはすでに前回まで見た通りだ。こどもの死を事実として受け止めた詩人は次に――

  3

こどもの体は氷で冷やされ 
冷たく棒のようになっていた
その手や足や
胸やおなかを 
こっそりフトンの中でさする
何度も何度もさする
ぼくがそうすれば 
息を吹き返すかもしれないと
ぱっちりと目をあけ 
もう一度
パパー と
言ってくれるかもしれない、と

 九月初旬、残暑の厳しい季節なので遺体の腐敗を防ぐために「氷で冷や」す、というのはリアリズムそのものだ。だが、遺体を手でさすって生き返らせようとする親の未練は切実なセンチメンタリズムと呼ぶべきだろう。あわせて、ここにはこの上なく直截な魂のリアリズムが描かれている。

 ところで、本作の初出(「ガーネット」十四号、一九九四年十二月)では、引用最終行「かもしれない、と」のところに読点は付いていなかった。初出と詩集掲載形の間には、漢字表記をひらがなに変えたり助詞を少し変えたりといった変更は多少あるものの、全体としてそれほど大きな違いはない。そんな中にあって、この読点は非常に気になるところだ。読点による一瞬の間(ま)が、死んだこどもへの未練を断ち切っているように読まれるからである。初出時から詩集刊行時までの一年ほどのあいだに、死者への哀悼がそれだけ深まった、ということだろう。未練から哀悼への転換を示す読点なのだ。

  4

みんな帰った
やっとひとりになれて 
自分の部屋に入っていくと
床にCDのケースが落ちていた
中身がない
デッキをあけると 
出かける前とは違うCDが入っていた
出かける前にぼくの入れていたのは大滝詠一の「ビー チ・タイム・ロング」
出てきたのは通信販売で買った「オールディーズ・ベスト・セレクション」の⑩
デッキのボタンを押すたびに受け皿の飛び出してくるのがおかしくて
こどもはよくいじって遊んでいたが
CDの盤を入れ替えていたのはこれが初めてだった
まだ字も読めなかったし
偶然手に取ったのを入れただけだったのだろうが
ぼくにはそれが 
ぼくへの最後のメッセージのように思われて
(あの子は何を聴こうとしてたんだろう)

こどもが死ぬ前にいじっていた(らしい)CDデッキのエピソードは、死の当日かどうかはともかく、おそらく事実に基づいたものだろう。いくつかの事実の断片を集めて詩人は一つのモチーフに結晶させた。そして次――

一曲目に目をやると
サイモン&ガーファンクル「早く家へ帰りたい」
となっていた
スイッチを入れる 
と 静かに曲が流れ出す
サイモンの切々とした声が
「早く家へ帰りたい」とくり返す
それを聴きながら 
ぼくは
それがこどもにとってのことなのか
ぼくにとってのことなのか
考える
死の淵からこの家へ早く帰りたいという意味なのか
天国の安らげる場所へ早く帰りたいという意味なのか
それともぼくに  
早く帰ってきてという意味だったのか
分からないままに 
日々は 
いつもと同じように過ぎていく


S&Gの「早く家へ帰りたい」。いかにもよくできた偶然のようにも見えるが、このあたりになると、詩がどの程度事実に基づいているのかなどという疑問はどうでもよくなってしまう。詩人にとって、亡き子が最後に残したメッセージは「早く家に帰りたい」でなければならなかったのだ。なぜなら、このメッセージこそが、いくつもの答えを導くことで詩の多義性と多様性を醸し出す、魔法の呪文=詩集の主旋律であるからだ。言い換えるなら、このフレーズの発見が詩集の輪郭を決定づけた。

 詩人は答えが見つからないままに、いや、幾通りもの答えを発見しながら「日々は/いつもと同じように過ぎていく」と、平常心を取り戻しつつある自己を凝視する。そして最後――

ぼくは
早く家へ帰りたい
時間の川をさかのぼって
あの日よりもっと前までさかのぼって
もう一度
扉をあけるところから
やりなおしたい

 この「家」はもはや現実に存在する家ではなく、過去の時間の中にしかあり得ない失われた家である。では、「あの日」より過去にしかない家の「扉」とは何か。時間の扉? それとも心の? 単純なようで実はそうとうに複雑な構造が、ここには潜んでいる。その複雑さこそが、この作品が読者に繰り返しせまってくる〈詩の問いかけ〉の正体だ。答えは読者が繰り返しそれぞれに発すればいい。その問いの深さ切なさこそが〈詩〉なのだ、と。
「早く家へ帰りたい」を掲載した「ガーネット」誌第十四号(前出)には、高階杞一による連載「詩誌・詩集から」の第十二回が掲載されていて、その題名は「失っていく練習――〈悲しみ〉をめぐって」。小長谷清実や阿部恭久らの作品を引用しながら〈悲しみ〉の諸相を考察し、最後は韓国の詩人オ・セヨンの詩の一節を引用し、次のようにしめくくっている。

私たちは
一つの美しいわかれを持つために
今日も
失っていく練習をしている
(「十月」部分、なべくらますみ訳)

ぼくも失っていく練習をしなければ――。


『早く家へ帰りたい』から七ヶ月後(一九九七年六月)高階は第六詩集『春’ing』を刊行する。だが、この詩集は一九九四年までの作品を収録したもので、「雄介詩篇」は一篇も含んでいない。「失っていく練習」の成果を見るためには、さらに二年ほど後(一九九九年)に刊行される『夜にいっぱいやってくる』を待たなければならなかった。
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長い引用になったが、途中で打ち切るのが躊躇されたからである。
短い、凝縮した作品が多い高階さんにしては、愛息の死に際して、心が動顚して、削った詩には出来なかったのだろうか。

よく読みこんだ精細な評論である。
私の書いたものとしては拙いものだが → 「高階杞一の詩」があるので参照されたい。


『羽曳野』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士
山田

──山田兼士の詩と詩論──(7)

    羽曳野・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士
                 そのままよ月もたのまじ伊吹山(芭蕉)

  のかみヤマトタケルが白鳥になって飛来したとされる

  はらを見下ろす高台 畿内西方の町 遠望する二上山

  るで神話時代そのままの眺望タケルの故郷は山の向う

  るで風景の裏側のように左雄峰に右雌峰その彼方から

  うやく越えてきたのだ傷ついた翼で だが飛び過ぎた

  いに故郷に還ること能わずさらに羽を曵き野の上空に

  えた魂の残像よ 恨んではいけない伊吹山の神の力を

  うすぐ還暦を迎える僕が故郷から遠望した岩山は今も

  まに木枯をもたらし時には雪も運んでくるがそれでも

  はらに涼風を運ぶ夏もあり折々に冬籠りを勧める事も

  つお芭蕉を魅了した山容は八幡神宮鳥居前からの姿と

  つは最近知った故郷の芭蕉記念館を訪れてその場所は

  まは観光用に整備された廃港 昭和の初め頃は小舟が

  つかり合うほどにぎっしり並んでその舟伝いに大川を

  しからきしへ渡って学校に通ったものだと亡父の昔話

  んだ右半身をかばいながら左手で一升瓶から酒を注ぐ

  もなく還暦その残像が羽を曵く野は伊吹にも二上にも

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「びーぐる」19号に掲載された詩「羽曳野」である。
これは先に載せた「岩山望景詩」の姉妹篇である。

見たら判るように、先の詩と同じように「そのままよ月もたのまじ伊吹山(芭蕉)」の句を、詩の各行の頭に配置する「冠づけ」という日本の伝統的な歌つくりである。
リンクにしてある「岩山望景詩」と一体として鑑賞されたい。 もちろん原文はタテ書きである。
行頭が「太い字」になっているのも作者の原文通りである。
その仕組み、遊び方については「岩山望景詩」のところで詳しく書いた。

『岩山望景詩』・・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士
発見

──山田兼士の詩と詩論──(6)

      『岩山望景詩』・・・・・・・・・・・・・・・・山田兼士

山田兼士さんが一年に一回発行されている「別冊・詩の発見」第12号2013/03/22をお送りいただいた。
この定期刊行物は、先生がお勤めの「大阪芸術大学文芸学部現代詩研究室」の編集になっている。学生たちの作品や評論なども掲載されている。
当初は半年刊で発足しているが、2008年からは年刊になっているようである。
プロ詩人による詩作品27篇と、山田兼士による「詩集カタログ2012」という初出は「ツイッター」による短評に加筆したもの。大阪芸大生にる新刊詩集レビュー。
大学生による「詩作品」9篇など、から成っている。
では、ここで、本題の山田作品を紹介する。

     岩山望景詩・・・・・・・・・・山田兼士

                   折々に伊吹を見てや冬籠 (芭蕉)

   れまがった坂道を画家のアトリエから十分ほど登ると
   っぱな岩山が遠望できたエクス一九八四年八月十九日
   おしい姿を背景に子供たちが遊んでいる そのなかの
   はつそうな女の子に山を指差して名前をたずねてみた
   こり笑って「サントヴィクトワール」セザンヌの山だ

   ぶきおろしにハンドルを取られながら自転車を必死に
   っとばしていた高校への道 一九六九年十二月十九日
   になるのは朝整えてきた天パの長髮 左前方からの風
   うけ髮はぐしャぐしゃ 田圃の中の一本道をひた走る
   ぎから分けたことを後悔しながら走るも突風に煽られ
   一旦停車 北西の方角に遠望したのは雪を頂いた岩山
   まとたけるをも打ち負かした神の山だ はるか遠方に

   ゆこもりでもしたいと願いながら岩山を遠望した一瞬
   ったり風に吹かれながら遠く岩山を見ていた夏の一瞬
   の二つの稜線が一つになるのにながい時間がかかった
   う見ることのないだろう異郷の山とこれからも折り折
   見るだろう故郷の山に見守られ僕は還暦にダイブする。

ご覧になって判るように、この詩は、題名の次に小さく載っている芭蕉の俳句の五七五の「頭」の「音おん」を、
各行の「頭」に置く「頭韻」という形式が採られている。
こういうのを古来「冠付け」(かんむりづけ)と称して遊ばれてきた。

例えば、有名な在原業平の歌

   きつばた つつなれにし ましあれば るばるきつる びをしぞおもふ

     (かきつばた 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来つる 旅をしぞ思ふ)

の歌は、五七五七七の各々の頭に「かきつばた」の「音おん」を配置したものである。

日本語の特性として、西欧詩のような「脚韻」は、いろいろ試みられたけれど、効果が薄いので、古来から今に伝わるのは「頭韻」なのである。
私が短歌結社「未来」に居たとき、編集長の岡井隆の弟子たちも「遊び心」旺盛な連中だから、私も編集部から誘われて「沓冠」(くつかぶり)などに参加した。
私の当該作品については ← ここを参照されたい。
「沓冠」とは、歌の頭と終わりに、任意のフレーズを配置して一連の歌を作る、という趣向である。
頭と終わりが拘束されるので、結構むつかしいが、やってみると面白いものである。

さて、話を山田作品に戻す。行頭の「太字」は、山田作品のものである。

初めの五行は、有名なセザンヌの絵・サント・ヴィクトワール山にまつわる話である。
私にも曾遊の地である。
次の七行は、山田先生の故郷・岐阜県大垣での高校生のときの思い出が詩句になっている。
そして最後の五行は、それらを統合しながら、先生が「還暦」の齢となられたことを詩句として、「今」と繋がるのである。

現代詩作家というのは、さまざまであって、こういう「伝統」と一切「切れる」ことを目指す人が多い。
山田先生は、そうではなく、伝統の形式も活用される姿勢であり、「短歌」をやっている私などは、好ましいと歓迎である。
原文は、もちろん「タテ書き」であるから行末がキチンと字数が揃うのだが、ヨコ書きにすると、どうも不揃いになるがお許しいただきたい。
なお詩の本文はスキャナで取り込んだが、どうしても「文字化け」が生じる。子細に修正したが、まだあれば指摘いただきたい。すぐに直します。


山田兼士訳『ドビュッシー・ソング・ブック』対訳歌曲詩集・・・・・・・・・・・・木村草弥
ソングブック

──山田兼士の詩と詩論──(5)

   山田兼士訳『ドビュッシー・ソング・ブック』対訳歌曲詩集・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・・澪標2013/03/03刊・・・・・・・・・

この本は出来上がってすぐに著者から恵贈されてきたのだが、発行日が今日になっているので、今日付けで載せる。
はじめに、この本に載るプロローグにあたる文章を、長いが引いておく。
 

    はじめに    ドビュッシーと詩人たち
                              山田兼士


 フランス印象派を代表する作曲家クロード・ドビュッシー(1862-1918)が文学的能力においても秀でていたことはよく知られている。
その 証明として一般に挙げられるのは、歌曲制作にあたって選んだ詩作品がいずれも今日高い評価を得ている名作であること、
『前奏曲集』等器楽作品のタイトルが 詩的表現力を示していること、音楽評論家としても幅広い活動をしたこと、
歌曲集『叙情的散文』など自ら作詩した作品があること、などである。
ここではま ず、ドビュッシーが作曲した詩人たちを紹介しておきたい。
 ドビュッシーが生涯に制作した63曲ほど(習作や未発表作品の扱い方によって多少の増減がある)の歌曲は、いずれも繊細な文学センスによって選 ばれた詩によるもので、
それ自体ひとつの優れたフランス詩選集(アンソロジー)と呼ぶべき作品群である。
これらは、音楽的価値はもちろんのこと、おもに 19世紀後半というフランス詩黄金期の作品群を一望できる、きわめて貴重な文学的価値をもつものだ。
つまり、一冊の詩集としても読まれるべき歌曲集なのである。
 まず、初期作品に見られるテオドール・バンヴィル(1823-1891)とルコント・ド・リール(1818-1894)について。
この二人は当 時勢力を誇っていた「高踏派」の中心人物で、古典的彫刻美を特徴とする芸術至上主義の代表詩人だ。優れたテクニックを身上とする。
いずれもドビュッシー青 年期における人気詩人で、年代的にはドビュッシーより40歳ほど年長。青年音楽家がベテラン詩人に憧れる心情がうかがわれる。
バンヴィル「ピエロ」はシャ ンソン風の軽い歌。ド・リール「ジャヌ」もリフレインを多用するなどシャンソン風で、未だ習作と見ていい。
この二人より更に前時代のロマン派詩人アルフ レッド・ド.ミュッセ(1810-1857)の作品に作曲した「ロンドー」もまた、シャンソンもしくはロマンスと呼ぶべき作品である。
 次に、ステファヌ・マラルメ(1842-1898)とポール・ブールジェ(1852-1935)について。
当時まだ高名ではなかったマラルメはドビュッシーより20歳年長だが、ドビュッシーはこの詩人の作品を雑誌で知って詩「あらわれ」に作曲した。
青年期を代表する作品で、このあたりまでが「習作期」といえるだろう。一方、ブールジェは世代的によりドビュッシーに近い当時気鋭の作家。
マラルメやボードレールほどの深みはないが、清新な抒情が特徴 で、青年ドビュッシーの抒情と響き合った。
 シャルル・ボードレール(1821-1867)はドビュッシーより一世代前の詩人だが、没後絶大な評価を得るようになった。
歌曲集『ボードレー ルの五つの詩』はいずれも、詩としても歌曲としても傑作の評価が高い。
曲集の冒頭に選ばれた詩「バルコニー」などは、エリオットとヴァレリーがそろって、 ボードレールの最も美しい作品、と呼んだほどの名作だ。
これら5篇の選択自体がすでに、 ドビュッシーの文学志向が決して生半可なものでなかったことの証拠といえよう。
中には、生前の『悪の華』に収められなかった作品も混じっているが(「噴水」と「瞑想」)、これは単に、1861年の第2版までに制作が間に合わなかったためであり、作品としての出来栄えは、決して他の『悪の華』詩篇に比して 劣るものではなく、それどころか、『悪の華』第2版以後の成熟を示す名篇である。
これら5篇との格闘によってドビュッシーは脱ヴァーグナー的音楽の自立を実現した、というのが音楽史的な定説。
 続いてグレゴワール・ル・ロワ(1862-1941)とポール・クラヴォレ(1863-1936)について。
ル・ロワはドビュッシーと同い年 で、メーテルランク、ヴェラーレン、ローデンバックと並ぶベルギー象徴派の詩人。時に神秘的体験を歌った。
確立期を経たドビュッシーがいわば「自力で」発 見した詩人である。 また、クラヴォレは、近現代詩史にはあまり登場しないが、演劇関係では重要視されている。
これまでで唯一、ドビュッシーより若い(といっても1歳だけ)作家である。多くの作曲家に自作の詩を提供、というより作曲を依頼したらしい。
民衆的な軽みの中にユーモアが漂う作品で、ドビュッシーの作風の多様化を示す歌曲だ。
 続いてポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)。
ドビュッシーによるヴェルレーヌ歌曲では『言葉なき恋歌』が最も有名だが、他にも多くの名作がある。
『三つの歌』などはそれぞれが独自のニュアンスに溢れ、わずか3曲で巨大な音楽空間を創り出している。
習作期から円熟期まで、ドビュッシーが最 も好んで作曲した詩人である。
 次は、ドビュッシーの「盟友」と呼ぶべきピエール・ルイスについて。
ともに「マラルメの火曜会」の常連で、深い交流があった。
年齢でいうとドビュッシーが8歳上。ドビュッシーの音楽はいよいよ定型から離れ、より自由な音楽世界を切り開いていく。
『ビリティスの歌』は自由律、というよりむしろ散文詩で書かれており、「脚韻もリズムもない」ボードレール的散文詩の実現である。
後に、ドビュッシーは朗読と室内楽のための『ビリティスの歌』を作曲しており、ここでは歌は完全にディクションのみとなる。
後期ドビュッシーの方向性を示す作品でもある。
 最後に、ドビュッシー自身の詩による『叙情的散文』。
1892年から93年にかけて発表されたこの歌曲集全4曲は、詩人ドビュッシーを位置づけ る意味で重要な作品。
そもそもこれら4作品は、最初、音楽を伴わない作品、つまり詩作品として発表されたもので、その自作の詩に自ら作曲したのがこの歌曲 集である。
比較的最近になって発見された生前未発表作品『眠れぬ夜』とともに、世紀末詩人全般に通じる象徴的イメージに富んだこれらの作品群は、文字通り「散文」であることに大きな意味があるだろう。
すでに1885年の書簡の中でドビュッシーは自らの抱負として「魂の抒情的運動、夢想の気まぐれに適応するほど、十分に柔軟で十分に対照の激しさをもった、そんなものをつくりたいのです」(1885年10月15日付アンリ・ヴァニエ宛)と、ボードレール『パリ の憂愁』序文の言葉を借りて、散文詩への志向を述べていた。
ボードレールの散文詩の流儀で歌曲を制作することの可能性を探っていたわけだ。
「韻律も律動も なく音楽的」(ボードレール「アルセーヌ・ウセイへの序文」)な散文を文字通り「音楽」と化す試みである。
音楽における決定的自由の実現であり、この達成 は続くオペラ『ペレアスとメリザンド』(メーテルランク原作、1902年完成)へと結びついて行く。
 晩年のドビュッシーは、シャルル・ドルレアン、ヴィヨン、レルミットといった昔の詩人たちの作品を取り上げているが、そんな中にあって『マラルメの三つの詩』(1913年)と自作の詩による「もう家のない子のクリスマス」(1914年)には特に留意する必要があるだろう。前者は亡き詩人への変わ らぬ敬愛と理解を示す名作であり、後者は第一次世界大戦の惨禍への静かな怒りと憤りをこめた問題作だ。

 翻訳について簡潔に述べておきたい。
 本書はドビュッシーのほぼ全歌曲の仏和対訳詩集として、演奏家の方たちにも鑑賞者の方たちにも広く活用していただくために、いくつかの工夫を凝 らしている。
一つは、原詩と訳詩の語順ができるだけ近くなるように、特に行単位のずれは極力なくすように訳していること。
もちろん文法構造が異なる二つの 言語をまったく同じ語順に並べることはできない。だが、倒置、省略、反復など様々な方法を駆使することによって語順の相違を最低限におさえることはできる。
もう一つは、訳詩そのものが日本語の現代詩として鑑賞され得ること。
原詩のリズムや脚韻をそのまま日本語に移すことは不可能だが、それなりのリズムや 脚韻(的音響効果)を再現することはできる。
現代日本語詩として読むに耐えるしらべが宿っていることを祈りつつ、フランス歌曲を愛する方たちと詩を愛する 方たちに、これら63の詩華集を捧げたいと思う。
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では、ここで、この本の中からヴェルレーヌの「三つの歌曲」の中から二番目の「角笛の音は」という部分を原文と山田訳の対訳で出しておく。
この本では左ページに原文を、右ページに翻訳文が載っているが、ここでは出来ないので上下の掲載となるが、ご了承願いたい。

Le son du cor s'afflige     Paul Verlaine

 Le son du cor s'afflige vers les bois
 D'une douleur on veut croire orpheline
 Qui vient mourir au bas de la colline
 Parmi la bise errant en courts abois.

 L'âme du loup pleure dans cette voix
 Qui monte avec le soleil qui décline
 D'une agonie on veut croire câline
 Et qui ravit et qui navre à la fois.

 Pour faire mieux cette plaine assoupie
 La neige tombe à longs traits de charpie
 A travers le couchant sanguinolent,

 Et l'air a l'air d'être un soupir d'automne,
 Tant il fait doux par ce soir monotone
 Où se dorlote un paysage lent.

角笛の音は     (山田兼士・訳)

角笛の音は森に向かって嘆き、
その苦しみはさながら孤児のよう、
丘のふもとに来て息絶える、
短く吠えながらさまよう北風の中に。

狼の魂がこの声に混じって泣いている、
その声が高まる、太陽が傾くとともに
甘え声とも聞こえる苦悶の響きとなり
心を奪うとともに引き裂きもする。

その嘆きをいくらかなりと鎮めようとして、
雪が落ちてくる、長い糸屑の緒を引いて、   
血の色をした落陽の中を落ちてくる。

そして大気は秋の吐息のようだ、
この単調な夕暮れに、大気はかくも穏やか、
風景もゆっくりその身をいたわる。
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曲を聴けるようにと、ネット上をいろいろ調べてみたが、まだ見つからない。見つけたら追加で載せる。

ご承知のように、この詩は「ソネット」という形式で作られている。「脚韻」を踏んだ詩である。
ソネットには、4433、4442とか、国によって形式が異なる。
日本語は言語の特性上から「脚韻」は発音した場合に目立たないので、いろいろ試みられたが成功していない。
日本詩では和歌、短歌の時代から「頭韻」が成功している。
中国由来のものだが「漢詩」は脚韻で効果的である。
西洋でも、これ以外に他の「韻」が試みられた。
例えば、イタリアのダンテ「神曲」などは、俗に「三韻詩」と呼ばれる「テルツァ・リーマ」という韻踏みの形式で全篇が詠まれている。
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CLAUDE~1
 ↑ ド・ビュッシー

 ↑ ド・ビュッシーについては『「牧神の午後」への前奏曲』を採り上げた際に詳しく書いた。

22177001781ヴェルレーヌ
 ↑ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 ~ 1896年1月8日)は、フランスの詩人。

この本の巻末に、こんな文章が乗っているので、それを引く。

おわりに

 本書はおもに京都フランス歌曲協会(通称「クレール」)の活動の中から生まれました。
当協会は、1991年に創設され、以後、2012年までに 98回のコンサートを行ってきました。主宰は大阪芸術大学教授の美山節子さん。現在会員は約120名を数えます。
2012年はドビュッシーの生誕150年 であり、また、前年が当協会の創設20年という節目の年でもあり、これを記念して2年間で計8回のドビュッシー・コンサートを開催しました。
 創設間もない頃、私は美山さんに誘われて入会、以後、コンサートごとのプログラム用歌詩対訳やレクチャーコンサートなどの担当を続けてきまし た。これまで訳してきた歌曲作品は全部で300ほどに上ります。ドビュッシーのアニヴァーサリーを機に数えてみたところ、そのうち50曲ほどがドビュッ シー作品でした。そこで、残り13曲を新たに訳し下ろし、既訳のものに推敲を加えることによって、全歌曲集の翻訳が完成しました。遅ればせながら、上記二 つの記念としてここに上梓する次第です。
 以上のいきさつでお分かりのように、本書は京都フランス歌曲協会のみなさんとの共同作業によって生まれたものであり、とりわけ美山節子さんのお誘いと変わらぬ励ましがなければ到底あり得なかったものです。そもそも怠惰な私にはこのような仕事の端緒につくことさえできなかったと思っています。この春、美山さんは大阪芸術大学を定年退職され、今後は京都フランス歌曲協会を中心により自由な活動を展開されることと思います。本書を、当協会のみなさんに、特に美山節子さんに献呈する次第です。『百年のフランス詩―ボードレールからシュルレアリスムまで』に続く「対訳」本の刊行をあたたかくサポートしてくださった澪標社主の松村信人さんにも謝意を表します。
     2013年2月4日       山田兼士

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「関西日仏学館」というと、京都大学本部から東大路通を隔てたすぐのところにあり、フランス語を専攻する者には懐かしいところ。
中級クラスの頃になると、よく、ここには立ち入ったものである。
ここでリンクをクリックしていたたけば、この学館の歴史などが詳しく知れる。
なお、今では正式には「アンスティチュ・フランセ関西」と呼ぶそうであるから念のため。




ドビュッシー/ヴェルレーヌ「角笛の音は」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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─山田兼士の詩と詩論─(4)

     ドビュッシー/ヴェルレーヌ「角笛の音は」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ドビュッシーの作曲になる「歌曲集『3つの歌曲』(1891年、3曲)──「海はさらに美しく」「角笛の音は悲しく」「垣根のつらなり」」というのがある。
これはヴェルレーヌの詩に曲を付けたものである。
山田兼士先生が訳をつけられたものがあるので、原文と対応して出しておく。

Le son du cor s'afflige vers les bois

 Le son du cor s'afflige vers les bois
 D'une douleur on veut croire orpheline
 Qui vient mourir au bas de la colline
 Parmi la bise errant en courts abois.

 L'âme du loup pleure dans cette voix
 Qui monte avec le soleil qui décline
 D'une agonie on veut croire câline
 Et qui ravit et qui navre à la fois.

 Pour faire mieux cette plaine assoupie
 La neige tombe à longs traits de charpie
 A travers le couchant sanguinolent,

 Et l'air a l'air d'être un soupir d'automne,
 Tant il fait doux par ce soir monotone
 Où se dorlote un paysage lent.

角笛の音は    ヴェルレーヌ (山田兼士・訳)

角笛の音は森に向かって嘆いて、
その苦しみはさながら孤児のよう、
丘のふもとに来て息絶える、
短く吠えながらさまよう北風の中で。

狼の魂がこの声に混じって泣いている、
その声が高まる、太陽が傾くとともに、
甘え声とも聞こえる苦悶の響きとなり、
心を奪うとともに引き裂きもする。

その嘆きをいくらかなりと鎮めようとして、
雪が落ちてくる、長い糸屑の緒を引いて、   
血の色をした落陽の中を落ちてくる。

そして大気は秋の吐息のようだ、
この単調な夕暮れに、大気はかくも穏やか、
風景もゆっくりその身をいたわる。
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曲を聴けるようにと、ネット上をいろいろ調べてみたが、まだ見つからない。見つけたら追加で載せる。

ご承知のように、この詩は「ソネット」という形式で作られている。「脚韻」を踏んだ詩である。
ソネットには、4433、4442とか、国によって形式が異なる。
日本語は言語の特性上から「脚韻」は発音した場合に目立たないので、いろいろ試みられたが成功していない。
日本詩では和歌、短歌の時代から「頭韻」が成功している。
中国由来のものだが「漢詩」は脚韻で効果的である。
西洋でも、これ以外に他の「韻」が試みられた。
例えば、イタリアのダンテ「新曲」などは、俗に「三韻詩」と呼ばれる「テルツァリーマ」という韻踏みの形式で全篇が詠まれている。

CLAUDE~1
 ↑ ド・ビュッシー

 ↑ ド・ビュッシーについては『「牧神の午後」への前奏曲』を採り上げた際に詳しく書いた。

22177001781ヴェルレーヌ
 ↑ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 ~ 1896年1月8日)は、フランスの詩人。
ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。
多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。

日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」(落葉=秋の歌)、堀口大學による「秋風のヴィオロンの附節ながき啜泣……」(秋の歌)、「巷に雨の降るごとく……」などの訳詩で知られる。

生涯と作品
彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在した。
晩年には文名を高めデカダンスの教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価されている。

生い立ち
1844年-1864年
ドイツに接するモゼル県のメスに生まれた。父は、ベルギー生まれのフランス軍人。母は、パ=ド=カレー県アラス近郊の生まれ。経済的な環境は恵まれていた。父の退役後一家はパリに出(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでボナパルト中学(Lycée Bonaparto)(現在のコンドルセ中学(Lycée Condorcet )に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験に合格し(18歳)、パリ市役所書記になる(20歳)。
1858年(14歳):習作をヴィクトル・ユーゴーに送る。このころ、ボードレールの『悪の華』などの詩集を乱読する。
1863年(19歳):雑誌に匿名の投稿をする。パリの文人らを知る。

青年期
1865年-1871年
父を喪う(21歳)。マチルド・モーテ(Matild Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争(1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集された。1871年のパリ・コミューン鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。
1866年(22歳):詩人らが稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に、7篇を寄稿。
1867年(23歳):サテュルニアン詩集(Poèmes saturniens)を従姉の費用で処女出版。ブリュッセルで「女の友達」(Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。
1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で、軽罪裁判所に処罰される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。
1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。艶なる宴(Fêtes galantes)刊行。
1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に、5篇を投稿。

結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上、彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北仏を転々した。母と妻が説得に来ても、置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書いた。ユーゴーに妻との交渉を懇願した。ロンドンで病臥し、母を呼んだ(28歳)。転々するブリュッセルで、ランボーをピストルで撃ち、収監された(29歳)。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知り、落胆し、カトリックに帰依した(30歳)。一年半後出獄し、元妻との和解をはかる一方、旅先でランボーと格闘した(31歳)。
1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った優しき歌(La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。
1874年(30歳):言葉なき恋歌(Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。
1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を忌避される(このとき、マラルメも同様)。

1875年-1885年
イギリスの中学に教職を得た(31歳)。アルデンヌ県の学校に転じ、生徒中の美少年リュシアン・レチノアに惚れ(33歳)、授業をおろされ、リュシアンと英国へ渡り、教職を得た。元妻との和解をまたはかり、黙殺された(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、その郷里に滞留(36-37歳)。母と暫くパリに住み、市役所への復職をはかり果せず、西郊の学校に就職した(38歳)。リュシアンが死に(39歳)、その故郷で堕落放浪の日を送った(-40歳)。泥酔して母の頸を絞め、入牢。出獄後またリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。
1881年(37歳):叡智(Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。
1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の詩法(Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。
1884年(40歳):評論、呪われた詩人たち(Les Poètes maudits)刊行。

栄誉と窮乏
1885年-1896年
パリへ戻り、無一文。ホテル住まいした。左膝を患い、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をした母死亡、葬儀には病気で不参。ホテルを追い出され(42歳)、以降慈善病院を転々(42歳-)。慈善病院から娼婦ユージェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)。ユージェニーに駆け落ちされ、慈善病院入院。娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をした(49歳)。ユージェニーと和解しまた同棲した。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去。遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀。マラルメ、フランソワ・コペー(fr:François Coppée)ほか参列者多数。ただし、入営し病中の息子ジョルジュは不参。パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬(51歳)。



山田兼士詩集『家族の昭和』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(3)

      山田兼士詩集『家族の昭和』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・澪標2012/07/04刊・・・・・・・・・

私の畏敬する山田兼士先生が、詩集を上梓された。
家族の昭和という時代にまつわる詩20篇が収録されている。
その中から、令夫人にまつわると思われる作品を引いておく。

   生も死も人は誰でも一度だけ・・・・・・・・・・・山田兼士

     長い四畳半生活
     しかも使用電気上限三百ヮット
     古いアパートを脱出して
     念願の2 L D Kをゲット
     兄の車で引つ越しも終わり
     親しい友人に
     オ—ディオラックも作つてもらい
     快適空間
     その矢先

     本日よりお世話になります

     君が住み着いて
     突然の共同生活
     独身貴族は一週間で消えて
     困惑する君の家族と葛藤
     母のえびすスマイルの出番
     なんとか結婚までの道のりが決まった
     夏
     昭和五二年

     その秋
     腫瘍が癌化して
     母は死んだ
     喪中の悲しみを紛らすように
     兄弟それぞれの婚約者と
     大垣のカラオケ喫茶で歌うキャンディ—ズ

     ──人は誰でも一度だけすベてを燃やす時が来る(「アン・ドウ・トロワ」)

     本当に燃えてしまった……
     呟きながら、
     次の家族への長い道のりの始まり。
     母の命日は君の誕生日と同じ、
     一生忘れられない、
     忘れない。
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詩は、スキャナで取り込んだので、どうしても「文字化け」が起こる。 修正したが、もし見つかれば、ご指摘いただきたい。修正します。
Wikipediaから略歴を引いておく。
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山田 兼士(やまだ けんじ、1953年7月4日 -)は日本のフランス文学者、評論家、詩人。

略歴

1953年、岐阜県大垣市生まれ。関西学院大学文学部仏文科卒。同大学院文学研究科博士課程満期退学。1986年大阪芸術大学に着任し、2004年より教授。大阪文学学校講師。大阪文学協会理事。日本フランス語フランス文学会、日本近代文学会、京都フランス歌曲協会、中原中也の会、ボードレール研究会の会員。詩誌「別冊・詩の発見」主宰。高階杞一、四元康祐、細見和之らとともに季刊詩誌「びーぐる-詩の海へ」編集同人。

フランス近代詩を専門とするが、中原中也、福永武彦、小野十三郎、谷川俊太郎など日本の近現代詩人も研究対象とする。

著作及び参考文献

単著
ボードレール《パリの憂愁》論 砂子屋書房、1991.11
小野十三郎論―詩と詩論の対話砂子屋書房、2004.6
ボードレールの詩学砂子屋書房、 2005.9
抒情の宿命・詩の行方―朔太郎・賢治・中也思潮社、2006.8
百年のフランス詩―ボードレールからシュルレアリスムまで澪標、2009.5
微光と煙(詩集)思潮社、2009.10
谷川俊太郎の詩学 思潮社、2010.7
詩の現在を読む2007-2009 澪標、2010.7
家族の昭和(詩集)澪標、2012.7

共著
萩原朔太郎の世界(長野隆編・共著) 砂子屋書房、1987.6
歌う!ボードレール―ドビュッシー/フォーレ/デュパルク(CDブック・編著)同朋舎出版,1996.3
対訳フランス歌曲詩集(編訳著)彼方社、2002.4
谷川俊太郎《詩》を語る(共著)澪標、2003.6
谷川俊太郎《詩》を読む(共著)澪標、2004.10
谷川俊太郎《詩の半世紀》を読む(共著)澪標 、2005.8
小野十三郎を読む(共編著)思潮社、2008.9
対論 この詩集を読め 2008-2011 (細見和之共著)澪標、2012.4

訳書
ボードレールと『パリの憂愁』(J.A.ヒドルストン著)沖積舎、1989.7
オレゴンの旅  セーラー出版社   1995.11
エヴァー花の国ー セーラー出版社  2000.5
Le Pont jete Poesie japonaise d'aujourd'hui 詩学社、 2003.6(谷川俊太郎はじめ15人の日本詩人のフランス語訳アンソロジー、Olivier Birmannとの共訳)
フランス歌曲の珠玉―深い理解と演奏のために(フランソワ・ル・ルー/ロマン・レイナルディ著、美山節子と共訳)春秋社、2009.4

外部リンク
山田兼士の研究室

山田兼士『百年のフランス詩』─ボードレールからシュルレアリスムまで・・・・・・・・・木村草弥
山田憲士②

──山田兼士の詩と詩論──(2)

     山田兼士『百年のフランス詩』─ボードレールからシュルレアリスムまで・・・・・・・・・木村草弥
                   ・・・・・・・澪標2009/05/20刊・・・・・・・・・
この本は、今はもう無くなったが月刊「詩学」2003/01~2006/04号まで全36回にわたって連載された「フランス詩を読む─ボードレールからシュルレアリスムまで」に加筆修正を施したものだ、という。

先ずはじめにネット上で見られる細見和之の、この本の紹介を引いておく。
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        山田兼士『百年のフランス詩――ボードレールからシュルレアリスムまで』

         七つの引き出しをもつ書物(「樹林」2009年秋号より)  細見和之

 本書はタイトルにあるように、ボードレールからヴェルレーヌやランボーを経てブルトン、エリュアールのシュルレアリスムまで、じつに百年におよぶフランスの近現代詩の流れを、対訳形式で追ったものである。その百年の歴史を彩る、二六人の詩人、三六篇の詩の原文と著者自身による翻訳を見開きの形で掲載した部分、それが本書の骨格を形づくっている。読者にとっては懐かしい詩人もあれば、未知の詩人もあるだろう。ランボーやヴェルレーヌあたりからぱらぱらめくってもいいし、最初からきちんと通読してもよい。各作品に添えられた、詩人紹介と作品解説は、文字どおり読者にとってフランス詩への手ほどきとなるはずだ。

 同時に本書は、いろんな仕掛け、引き出しをそなえている。私がざっと数えただけでも七つぐらいはありそうだ。

(1)ボードレール、とりわけその後期の「散文詩」を軸に、「ボードレールから始まる現代詩」という詩観・詩論をもつ著者によって、フランス詩百年の歴史に明確な輪郭が与えられていること。それぞれの詩人と作品はたんに年代順に網羅されているのではないのだ。これによって、ロートレアモン『マルドロールの歌』のような出所不明の作品も、収まるところに収まるという印象になる。

(2)とはいえ、本書はいかめしい「フランス文学史」の本ではない。とくにアポリネール、プレヴェールあたりはシャンソンとして歌われる作品が採られている。現代詩を同時に「歌」と地続きのものとして捉えること、そこにも著者の詩観・詩論が生きているのだが、ここではそれが、フランス詩を親しみのある日常的なものとして受けとめようという姿勢と結びついている。プレヴェールの「バルバラ」なんかやっぱり泣ける。これとマラルメの「海の微風」を等距離で感覚すること。この視点はとてもだいじだ。謎めいたロートレアモンも難解な印象のマラルメも、著者の翻訳と解説で読むと、なにかとても軽やかだ。

(3)その「歌」の訳でもそうなのだが、それぞれの翻訳にずいぶん工夫が凝らされている。シャンソンになっている作品では実際に唄える形での新たな「訳詞」が心がけられているし、しばしば脚韻の再現もなされている。もちろん、日本語での脚韻による再現には無理があるのだが、著者の翻訳は、苦心惨憺というよりも一種の遊び心を伝えてくれるようだ。いっちょおれもやってみようか、という気にさせてくれるのである。

(4)たとえば、ゴダールの映画でロートレアモン『マルドロールの歌』の一節が朗読されていたシーンの紹介など、サブカルチャーとフランス詩のゆたかな結びつきを想起させること。日本でも寺山修司全盛のころにはいくらもありえたことだろうが、いまでは現代詩が映画やテレビで朗読されるシーンはちょっと考えにくいだろう。これは(2)と関わって、現代詩を日常的なものにしたいという著者の願望をも伝えているに違いない。

(5)作品解説において、随所で日本の詩人、作家が引き合いに出されている。いちばん多いのは谷川俊太郎だが、萩原朔太郎、中原中也、宮沢賢治、さらには小野十三郎、村上春樹が、たんにフランス詩からの影響ではなく、詩人として、作家としての体質という観点でも論じられている。その意味でこの本は、同時に「百年の日本詩」という性格をひそかにそなえている。とくに谷川俊太郎と小野十三郎の絡みは、大阪文学学校の関係者には意外であるとともに、とても親しみやすい切り口だろう。

(6)最後の九篇として収められているのはいずれも「散文詩」であって、ボードレールの『パリの憂愁』に始まる表現形態を現代詩の本質として理解する、という姿勢があらためて打ち出されている。個人的にはマラルメの『ディヴァガシオン』が好きな私は「パイプ」の孤独な痛みに打たれたが、「詩論詩」という著者自身が実作で提示してきた作品形態へとそれは収斂するのである(これについては、著者の試みが間もなく詩集として結実するはずだ)。

(7)ロートレアモン『マルドロールの歌』に始まってボードレール『パリの憂愁』において本格化した著者自身のフランス詩体験、ひいては現代詩体験を伝える、一種の自伝的な本でもあること。これはこの一冊からは見えにくいことかもしれないが、他の著者の本と照らせば明らかだ。ゆたかな学識を背景にしながらも本書の記述がけっして重くないのは、著者自身がいわば好奇心に駆られるままに接してきた作品体験が根底にあるからだと思う。

 ざっと七つの仕掛けないしは引き出しをあげてみた(開けてみた)。全体で一五〇頁足らずの本に、最低限これだけの襞が抱え込まれている。いや、ほんとうはもうひとつある。

本書の原型はいまでは廃刊になってしまった月刊の詩誌『詩学』に二〇〇三年から二〇〇六年にかけて連載されたものだ。当時、『詩学』の編集も、その発行元である詩学社自体も、大阪文学学校に在籍していたことのある詩人寺西幹仁が懸命に支えていた。詩学社最後の社主として『詩学』を廃刊することにもなった寺西は、その後不意に病死してしまった。『副題 太陽の花』という詩集を刊行した寺西は、私の同世代で、なにより詩が好きな男だった。私は本書を読みながら、これを編むことは寺西への著者なりの追悼であるという印象を拭えないのだ。

最後に、その寺西幹仁への追悼の意味もこめて、本書からプレヴェール「バルバラ」の一節を引用しておきたい。

思い出せバルバラ

あの日

雨が降った

幸せそうな

きみの顔に

町に海に

船にも

やさしい雨が

おおバルバラ

バカな戦争が

ふたりを分けた

鉄の雨

火の雨が降った

きみをいとしく抱いた

あの人は

生きているのか死んでしまったのか
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細見和之
ほそみ・かずゆき
1962年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了、現在 大阪府立大学人間社会学部教授。博士(人間科学、大阪大学)。ドイツ思想専攻、詩人。主な著書に『アドルノ』(講談社)『アドルノの場所』『ポップミュージックで社会科』(以上、みすず書房)『アイデンティティ/他者性』『言葉と記憶』『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』(以上、岩波書店)。主な訳者にべンヤミン『パサージュ論』(共訳、岩波現代文庫)、アドルノ『否定弁証法講義』(共訳、作品社)、ヨーナス『生命の哲学』(共訳、法政大学出版局)。主な詩集に『言葉の岸』(思潮社)、『ホッチキス』(書肆山田)などがある。

山田憲士③
高階杞一、細見和之、山田兼士、四元康祐の四人を編集同人として『びーぐる─詩の海へ』(季刊・澪標刊)という詩と詩論の雑誌を出している。
↑ 最新号(2010/10)は「詩人の遺言/死と詩人」という特集だった。
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もうひとつ下記の書評を引いておく。
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  山田兼士『百年のフランス詩』書評 フランス詩の窓から 文月悠光(「現代詩手帖」2009年9月号より)         

フランス詩を代表する二十六の詩人の紹介と、詩三十六篇の対訳、日本現代詩との接点に触れた解説文から成る一冊である。フランス詩入門書としての性格を持ち合わせながら、解説の言葉はそれ自体に深入りしない。むしろ、フランス詩の百年間を通して、今日に受け継がれる日本現代詩の精神を解き明かしている。また特筆すべきは、翻訳に対する著者の細やかな心遣いだ。原語特有である韻文詩のリズムを再現すべく、日本語と果敢に戦う。対訳という、逃げ場のない形式を自らに課して、訳詩のはかり知れない奥深さを読者に示している。

各詩人の肖像画や自画像なども、対訳と同様にこの本を際立たせている。時代によるものなのか、写真など、詩人の顔そのものをはっきり観察できるものはあまり用いられていない。しかし、ときに緻密で、ときに大胆な肖像画たちは、その詩人独特の雰囲気を強く醸し出している。ヴェルレーヌが描いたランボーを見れば、「そんなにパイプを吹かしたいか」という突っ込みは必至であろうし、コクトーの自画像(こけた頬、二つの目から放たれる激しい光線)に関しては「怪人」としか言いようがない。ダリやマネ、ピカソによる肖像も多く、詩人と画家の間に築かれていた交友関係も窺うことができる。

 対訳の中から、ユゴーの「開いた窓」、ボードレールの「窓」を紹介したい。前者は朝方ベッドの中でまどろみながら、窓から入り込む外界の音を追いかけた、聴覚のみから成る作品である。「フランス語の声。メルシー。/ボンジュール。アデュー」とは素直で面白い。一方、散文詩である後者は「開いた窓を通して外から見る人には、閉じた窓を見る人ほどに多くのものが見えることは決してない」という逆説的な一文から始まる。引き籠もりがちなある女性の人生を、彼女の家の窓から僅かに観察できる容貌や所作を頼りに作り上げた・僕・は、その仮想の物語を自分自身に同化させる。それを可能にしたのは、窓の切り取る不鮮明な像に、彼が想像を掻き立てられたからに他ならない。その点に留意してこの詩を読み解いていけば、一つの感覚を失うことは、想像力や他の感覚を逆に研ぎ澄ませることが発見できる。それは、音だけで率直に世界を捉えたユゴーの作品にもいえる。確たる感覚を持つことが、描写への近道ではない。くっきりと結ばれた像が、忘れ難い印象を残すとは限らない。強い言葉の集合体が、読者の心を打ち抜く一篇になりえないように。

あらゆる物を克明に写しすぎた、暴きすぎた現代社会は、何か大事な事柄を見落としているように思える。如何にもそれらしく見える虚像に騙されてはならない。今こそ窓ガラスを一枚差し入れるときだ。目の前にある事物を絶えず疑い、真実を手繰り寄せていく詩人の姿勢が必要なのだ。彼らの曖昧な肖像は、そのことを一種の希望と共に呈している。

僕の外にある現実なんかどうでもいいだろう?それが僕が生きることを助け、僕があることを、また僕が何であるかを、感じる助けになったのなら。

  (シャルル・ボードレール「窓」結び)


 フランス詩の窓から、日本の現代詩が見えてくる。

文月悠光については← Wikipediaに詳しい。
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他人の文章の引用ばかりで申し訳ないが、これらの文章に見事に要約されているのでお許しを。
この本にはイラストや写真、詩の原文などが配置され、さぞや編集者は苦労しただろうと思われる凝った本である。一度試されよ。
かつて大昔に、フランス文学の一端を齧ったものとして、座右に置いて、ぼつぼつと読み進めている。

なお「山田兼士の研究室」というサイトをお持ちである。アクセスされたい。

山田兼士・詩集『微光と煙』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田憲士

──山田兼士の詩と詩論──(1)

      山田兼士・詩集『微光と煙』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                     ・・・・・・・・思潮社2009/09刊・・・・・・・・・

先ず初めに、この本から「微光と煙、また」という詩を引いておく。
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               微光と煙、また

 二〇〇五年秋。大阪天王寺にモンペリエ・ファーブル美術館展がやって来た。半年前に東京新宿ビル四十二階の美術館で見た詩人の肖像画をもう一度見ようと、ぼくは駅を出たところだ。美術館に行くには阿倍野橋を渡らなければならない。橋、といっても川があるわけではない。何条もの線路が走る谷間にかかる橋だ。詩人が歩いたセーヌの橋とはまるでちがう。湯沸かし器が転がっていたりして。西に傾いた太陽の方に走り去る列車を横目で見ながら、橋を渡って天王寺公園の入り口に着く。

 チケットを示して有料ゲートを抜けると「フェルメールの小径」がある。フェルメール展の時に造られた通路だが、要するに偏狭な近道にすぎない(迷路みたいな)。本当は噴水のある公園内を抜けて行くのが好きなのだが、時間を気にしてつい近道を選んでしまう。日本庭園の片隅を過って美術館の表にまわると、石造りの玄関が目に入る。東京の美術館とは対照的に、かなり古い建物だ。十九世紀半ばあたりまでの絵画には、こちらの方がふさわしい。どことなくモンペリエの美術館と似ている。

 目当ての肖像画は、会場の中ほど、陽の射さない一画にあった。照明もかなり暗い。明るすぎた東京の美術館で居心地悪そうにしていた詩人が、ここではゆったり寛いでいるように見える。ガウン姿でネッカチーフを巻きパイプをくわえて(館内禁煙)読書するおなじみのポーズで。ソファに置かれた左手にだけは力がこめられているが、これは詩人の意志を暗示しているのだろうか。

 美術批評家でもある詩人は、これより十年ほど後に、天才的な肖像画家にのみ許される「ロマネスクな要素」について「軽やかで空気のような背景、詩的な家具、ぐったりした姿勢、大胆な態度、等々」と書いている。パイプ、本、ソファ、机、ペン立て……いずれも詩人の内面を暗示するロマネスクな要素といえるだろう。もっとも、ここに描かれた机とソファが「詩的な家具」かどうかは疑問だ。これより更に数年後、詩人は理想の家具を、

《家具はみな、長々と伸びて、ぐったりと横たわり、物憂げな様子をしている。家具たちは夢を見ているようだ。植物や鉱物のように、夢遊病的な生命を与えられている、とでもいえばいいだろうか。織物たちは沈黙の言語を話している、まるで花のように、天空のように、落日のように。》

と、書くことになる。理想的な部屋の理想的な家具たちだ。クールベにここまで期待するのは無理だった。たとえばコローなら……詩的風景画の数々が脳裏に浮かぶ……あの手法で肖像画を描いてくれるなら……《夢想にも似た部屋、本当に霊的な部屋》にくつろぐ姿を思い描いてみる。

《そこでは澱んだ空気が淡く薔薇色と青色に染まっている。/魂はそこで、悔恨と欲望に風味付けられた怠惰に湯浴みする。――それは何か黄昏めいて、青みがかり薔薇色がかったもの、日蝕の間の悦楽の夢ともいうべきものだ。》

 このような部屋には煙がふさわしい。パイプの口から立ち昇るごく微かな芳香を伴った煙が。自分自身が気化して宙を漂うような感覚をもたらしてくれる、阿片とハシシュの代替物であるあの煙。

《この上なく繊細に選定されたごく微量の芳香が、ほんの僅かな湿り気に混じってこの大気の中を漂い、そこでまどろむ精神は、温室さながらの感覚にうっとり揺られている。》

 目の前の絵にもう一つの絵を重ねて、二重の肖像画を思い描いてみる。例えばコローの「青衣の婦人」の背景にクールベの「ボードレールの肖像」を重ねて。

 外に出ると陽はすっかり傾いて、通天閣の後ろに今にも消え入りそう。薔薇色と青色のネオンサインを一瞥してから、前を歩く男の背中をぼんやり見ていると、白い煙がゆるやかに流れてくる(構内禁煙)。湿った芳香がかすかに漂ってくる。いくぶん脚を引き摺ってフェルメールの小径に向かうその人物は、見慣れた例のガウンを纏ってネッカチーフを巻いている。ぼくは足を速めて後を追う。庭園の片隅を抜けて。偏狭な迷路を抜けて川に出て、橋を渡ってパリの路地へと。


*《 》内はボードレールの散文詩「二重の部屋」からの引用。「微光と煙」は後に『パリの憂愁』と呼ばれる散文詩集表題原案の一つ。
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以下の文章はネット上に載る 瀬崎 祐さんのこの本についてのコメントの引用である。
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詩集「微光と煙」
 帯には第1詩集と書かれているのだが、中を開いてまずは戸惑う。これが詩論集ではなく、詩集? 27タイトルの作品が収められているのだが、その大部分はボードレールやコクトー、中原中也、小野十三郎などについての文章である。そして書の後半になり、幾つかの詩の形をとったものが収められている。散文は「八島賢太」名で発表されており、「あとがき」によれば「近現代の詩人達との対話を<詩論詩>として成立させ」ようとしたとのこと。

 「石蹴りの少女と葦の地方」は神戸から京都に向かう車中のジャン・コクトーと、河原にいる小野十三郎の視線が交叉するという一編。

   葦原を背に工場群を見詰める男がいる。汽車が通過しようとするその瞬間、
   男がふと振り返る。一瞬、二人の視線が交叉する。人を見るまなざしと物を
   見るまなざしが、窓ガラスを隔てて雷鳴を轟かせる。無数の葦が揺れ動き
   「ガラス管(チューブ)」のように光りだす。ガラスが静かに砕け散る。
                  (「石蹴りの少女と葦の地方」最終部分)

 <詩論詩>とは興味深い試みである。そこにあるのは、詩論を誰のために何を求めて書いているのかという、非常に原初的とも言える命題である。著者は詩論を書くために「自らは詩を書かないという姿勢を貫いてきた」とのことだが、この1冊を詩集として提示するという気持ちには、詩論を書くという行為が詩を書くという行為と同じ意味あいであっったことを認めたからであろう。ここにあるのはもう散文詩と言ってもよいのかもしれない。
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私の感想を言う前に、瀬崎 祐さんの文章を引いた無礼をお許しいただきたい。
私の言うべきことが、ここには要約されているからである。
ここに書かれているように、この本は特異なもので、著者も<詩論詩>という新しい地平を切り開く気なのではないか。
このような試みは、岡井隆『注解する者』(思潮社刊2009/07/25)にも見られた。
岡井の本の初出は「現代詩手帖」2008/01~2009/02に連載したものであるから、ほぼ同じような時期に書かれたものと言え、興味ふかいものがある。
岡井のこの本は後に「高見順」賞を得ている。これによって「注解詩」というべき新しい境地が開かれたなどと言われた。

「大阪文学学校」というサイトでは山田兼士の顔写真も見られる。そこに載る記事で彼の著作とコメントが読める。
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山田 兼士(やまだけんじ)
1953年生

☆詩集『微光と煙』(思潮社)。著書『小野十三郎論』『ボードレールの詩学』『ボードレール《パリの憂愁》論』(いずれも砂子屋書房)『抒情の宿命・詩の行方――朔太郎・賢治・中也』(思潮社)『百年のフランス詩』(澪標)『谷川俊太郎の詩学』(思潮社)『詩の現在を読む』(澪標)。編著『小野十三郎を読む』(共編、思潮社)『歌う!ボードレール』(同朋舎)『対訳フランス歌曲詩集』(彼方社)。共著『萩原朔太郎の世界』(砂子屋書房)等。翻訳『ボードレールと「パリの憂愁」』(ヒドルストン著、沖積舎)『フランス歌曲の珠玉』(ル・ルー著、共訳、春秋社)『オレゴンの旅』『エヴァ』(文ラスカル、絵ジョスの絵本、セーラー出版社)。大阪文学協会理事。関西学院大学卒。大阪芸術大学教授。

★詩論家に必要な唯一の使命は「詩人の鏡であること」だと考えています。その鏡を磨きながら、あらゆる表現領域に通底する(はずの)ポエジーを発見する旅こそ己の天職(?)と認識しつつ、散文詩、ライトヴァース、歌詞といった(比較的)周縁に位置すると考えられているポエジーと、いわゆる純粋詩との間を、なんとか往復し続けていたいと思っています。多様性と一貫性の間を揺れ動きながら、ですが。

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