K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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わたしはななしのことばです/よしなしはなしにみをうかべ/ひとからひとへとながれゆく・・・・・・・・・四元康祐
四元

──四元康祐の詩──(3)

     四元康祐詩集『日本語の虜囚』・・・・・・・・・・・木村草弥   
             ・・・・・・・・思潮社2012/08/31刊・・・・・・・・・・・

ドイツはミュンヘンに在住しながら、日本語にこだわり現代詩作家として活躍、その存在感を誇示する四元康祐の新詩集である。
長い詩が多いので、短い詩を選んで引いてみる。

          ことばうた

     わたしはななしのことばです
     よしなしはなしにみをうかべ
     うれしかなしのなみにゆられ
     ひとからひとへとながれゆく

     わたしははだしのことばです
     したにおわれみみへにげこみ
     こころのふかみにうずくまる
     やみがわたしのふるさとです

     わたしはだましのひかりです
     かたりあざむきめくらまして
     こくうにおりなすしんきろう
     まいちるなまえのはなふぶき

     あかんぼうのよだれにまみれ
     こいびとたちのむねにやかれ
     としおいたといきにたえいり
     けれどもなおしぬにしなれず

     わたしはあさましことばです
     とうすみとんぼのゆうぐれこ
     じょうどのしじまおもいつつ
     あなたとともにいきています

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          こえのぬけがら

     もじにかかれたことばはさみしい
     のどもさけよとさけんでも
     とじたベえじのうえにはさざなみひとつたちはしない
     しらじらとはくしのひかりをあびるだけ

     こえをなくしたことばはかなしい
     にくのぬくもりわすれられず
     ひとめすがってやせたあばらをあらわにさらし
     きこえないこえのこだまにむねをこがす

     いみよりもふかいためいき
     りづめをときほぐすふくみわらい
     おぎゃあからなんまいだまでのしどろもどろ
     そのあとさきをみたすやみりのしずけさ

     もじはただもどかしげにゆびさすばかり
     ゆびをくわえてみつめるばかり
     つないだてのぬくもりの そのくちびるのやさしさの
     いろはにおえどちりぬるを

     ひととわかれたことばはうつろ
     ひとなつにふりそそぐこえのせみしぐれ
     そのいさぎよいしにざまにうっとりとあこがれながら
     もじはちじょうにしがみつく

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彼については「四元康祐の詩」に収録した旧作のところを参照してほしい。

今度の詩集の終わりに、こう書いてある。

  日本語の虜囚    あとがきに代えて

つい最近まで、私は日本語から自由になったつもりでいた。今年で二十五年目を迎える外地暮らしの、日常
の意思疎通やら商売上の甘言詭弁は云うに及ばず、詩においてもそうなのだと髙を括っていた。個々の言語を
超えた「大文字の詩」の存在を疑わず、それこそが我が母語であり祖国であると嘯いていた。
実際、表面的なレベルでならその言葉に嘘偽りはないのである。ここ数年の私は世界各地の詩祭に足繁く通
い、英語を仲立ちにグルジア語からへブライ語まで、何十力国もの言語で詩をやりとりしてきた。文化や人種
の壁を越えた詩人という種族の存在を肌身で感じ、その共通語としての詩を、ときに辞書を引きつつ、ときに
身振り手振りを交えて味わった。そこに束の間出現する詩の共和国に、私が地上のどこよりも郷愁を感じたと
いってもあながち誇張ではなかつただろう。
だが事態はそれほど単純ではなかった。『言語ジャック』という作品集を書いたあたりから、私は日本語に
囚われてしまったらしい。自分の書きたいと思う作品が、どういうわけか翻訳することの極めて困難なものば
かりになってきたのである。ましてそういう作品を、母語以外の外国語で書くことなど到底不可能なのだった。
たとえば表題作の「言語ジャック」は、新幹線の車内案内や芭蕉の『奥の細道』の序文に、それとほぼ同じ
音数のテキストを重ねたものであるし、「魚の変奏」という作品は、即興的に書いた詩の子音(または母音)
だけを残し、母音(または子音)の部分だけを置換することによって音韻的な変奏を奏でるという趣向である。
どう逆立ちしても、こんなものが翻訳できるわけがないのである。
さては困った。これではせつかくの最新作を地球上津々浦々の詩友に伝えることができないではないか。詩
祭に行っても読むものがなく、アンソロジ—に誘われても載せるものがない。いやそれだけならまだよい。今
後の国際化を断念するだけの話だ。だが私の場合は国内路線に特化しようにも、生活の場は引き続きミュンへ
ンなのである。ここで余生を過ごすのだ。日本語の殻に籠っていては、やがて友を失い陰気で孤独な老人とな
るだろう。その日本語自体が劣化して、遂には自分にしか通じないビジン・ジャパ二ーズと成り果てよう。国
を棄て親を棄てた忘恩の徒を待ち受ける、母語の復替や恐るべし。
どうしてこんな羽目に陥ったのか。この機会に『言語ジャック』以前と以後の作品を比較検討してみよう。
以前の私の作品には、物語詩にせよ抒情詩にせよ、ナラティヴというものがあり、その語り手がいた。彼また
は彼女は平明で論理的な言辞を用いて、日常の背後にある「詩」の存在を指差していた。生活者の現実感覚と
そこへ侵人してくる超越的世界としての「詩」の対比が、私の詩の中核だった。つまりその言説はつねに詩の
外側にあったのである。
これに対して最近の作品は、日常的な現実をすっ飛ばしていきなり「詩」の内部へ入りこもうとする傾向が
ある。それは語り手を持たない。ナラテイヴというほどのものすらなくて、あるのは言語だけだ。言語による
言語のための言語についての汎言語的空間。そしてどういう因果か、私の場合、その言語は母語である日本語
でなくてはならなかったのだ。
詩の外側にあつて詩を指し示す言葉と、詩の内側から溢れ出しそれを遡行することによって詩へと到りうる
言葉。この二種類の言葉と「詩」との関係を、井筒俊彦氏の理論における分節Ⅰと分節Ⅱ、そして根源的絶対
無分節という概念によって説明することが出来そうだ。分節Ⅰとはいわゆる表層言語または論理言語。ここで
は山は山、川は川と、世界は事物の本質によって厳しく規定されている。次に根源的絶対無分節とはそこから
あらゆる意識が滑り出すその元の元、意識の最初にして最後の一点、心が全く動いていない未発の状態をいう。
仏教における無の境地である。そして分節Ⅱは、一見分節Ⅰと同じに見えて実は根源的絶対無分節を潜り抜け
てきた深層的な言説。平たく言えば「夢の言葉」だ。そこでは事物の本質結晶体が溶け出して、山は山であつ
て山でなくひょっとしたら川かもしれない。具体的には禅の公案や「一輪の花はすべての花」「二粒の砂に世
界を視る」といった詩句がこれに近い(井筒俊彦『意識と本質』参照)。
従来私の書いていた詩は、主題の如何に拘らず言説のレベルにおいては分節Ⅰとして機能していたといえる
だろう。それは事物の本質に裏打ちされ日常の論理に従っているがゆえに、外国語への翻訳も比較的容易で
あった。これに対して『言語ジャック』以降の詩は分節Ⅱの方へ引き寄せられている。分節Ⅱとは意識の始原
汰態としての絶対無分節を潜り抜けてきた言説であるが、私にとつて意識の始原は赤ん坊の喃語のごとき、あ
るいはイザナギの剣が掻き回した海のごときどろどろの日本語素(日本語の未発状態)として存在しているら
しい。つまり意識と日本語が渾然一体となって意味論理の岸辺の彼方で波に揺られている混沌状態。そういう
ところに翻訳という概念自体が成り立たない。なるほど最近の私が日本語でしか書けなくなったのは、こう
いう事情であったのか。 ・・・・・・・・

この文章はまだまだ長く続くのだが、彼の日本語への「こだわり」が、今回の『日本語の虜囚』という詩集を産んだのである。
長い詩は載せるのを止めたので、こんな作品があるというのを示すために「目次」を出しておく。

日本語の虜囚
洗面鏡の前のコギト
多言語話者のカント
歌物語 他人の言葉
旅物語 日本語の娘
島への道順
マダガスカル紀行
新伊呂波歌
ことばうた
こえのぬけがら
うたのなか
われはあわ
うみへのららばい
みずのれくいえむ
虚無の歌(からっぼソング)


至るところ蒸せ返る小便と汗の匂いに/否応なく鼻孔と肺と脳とを犯されながら・・・・・・・・・・・・四元康祐
四元康祐

──四元康祐の詩──(2)

   ニューヨーク サブウェイライド・・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

   至るところ蒸せ返る小便と汗の匂いに
   否応なく鼻孔と肺と脳とを犯されながら
   時間を訊かれるたびに脅え頸筋を強張らせ
   眼の前で若い娘がホームから突き落とされるのを見て
   その視線をゆっくりとタブロイドの活字に戻す
   いけにえを捧げるべきどんな神が
   いると云うのかこの地底の祭壇に
   史上最高の富と文明が
   密林に勝る混沌と恐怖の上に成り立っていて
   白い人は白い膚を呪い
   老人は衰えた脚力を呪い
   女たちは突き出た乳房と尻に恥じ入って
   垂れかかる葉と蔓のように車両を充たす
   その呪いと恥の間を黒い若者がしなやかに歩いてゆく
   禁欲と勤勉で地上を律する膨大な法の体系も
   悪意がないと云うただそれだけのことを
   乗客たちに示す手立てを若者には与え得ないから
   彼もまた黒い膚を呪い盛り上がった筋肉に恥じ入って
   列車は耳を弄するきしみをあげてカーブを曲がり
   その一瞬人々は遥か頭上に広がる筈の夜空を
   かけがえのない恩寵のように思い浮かべる

四元康祐・詩集『世界中年会議』2002/09/30思潮社刊より
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四元康祐は、いま注目されている詩人である。
この本が出たとき彼はドイツのミュンヘンに住んでいたが、掲出の詩を書いたときはアメリカに居た。
この詩はニューヨークの地下鉄の様子を描写している。時は1980年代から1900年代にかけての頃のことである。
ニューヨークの街は荒れ果て、物騒で、特に地下鉄は怖かった。みんな見て見ぬ振りをして暴力がのさばっていた。
地下鉄だけでなく、地上でもメインストリートの脇道は立ち小便をやたらにするので「小便臭かった」。
それを改革したのが何とかいう市長だった。
その頃、私もアメリカに行ったことがあるが、他の都市も同様で、例えばロサンゼルスの有名な「サンタモニカ」の海岸なんかも、汚くて、まさに小便臭かった。

つづいて他の詩集から詩を引いておく。
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四元康祐②

     Beatrice,who?・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

   第六の地獄から第七の地獄にいたる断崖を
   そろりそろりと
   ダンテが這い降りてゆく
   とうに死んでいるヴェリギリウス先生は気楽なものだが
   生身のダンテは細心の注意を払わねばならない
   自らが生み出した夢の中とて
   落ちれば死ぬのだ

   ダンテが必死で握り締めているもの
   なんとそれは
   言葉で編んだロープであった
   三行ごとに束ねられた透明な縄梯子
   喉の奥から吐き出された逆さまの「蜘蛛の糸」 
   足元から立ち昇る糞尿の匂いは
   筆舌に尽しがたいのに

   そんなにまでして会いたいのか
   愛しのベアトリーチェに
   地面に腹ばいになって裂目から呼びかけると
   こっちを見上げてダンテは答える
   ベアトリーチェって誰だい?
   俺はただ拾いにゆくだけだよ
   完璧な比喩を

   浮かばれないのはベアトリーチェの魂である
   ヴェルギリウス先生も
   浮遊したまま心を悩ませていらつしゃるが
   ダンテは構わずずんずんと降りて行く
   毒食らわば皿まで、と云ったかどうかは定かでないが
   この年ダンテ前厄
   「神曲」約三千六百行目に差し掛かった秋であった


・詩集『噤みの午後』2003/07/25思潮社刊より
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この詩集の題字は谷川俊太郎の筆による。

ダンテの「神曲」は、以前に鈴木漠の連句の紹介のときに触れたが「テルツァ・リーマ」という三韻詩の形式で書かれている。
この四元康祐の詩の「三行ごとに束ねられた透明な縄梯子」の部分は、それを踏まえている。
さりげなく書かれていても、「古典」を深く踏まえていることを知ってほしい。
彼の詩は、とても長いものが多いので、なるべく短めのものを選んで掲出した。

先に紹介したアンソロジー『四元康祐詩集』の解説に載る文章を引いておく。

   噤みの午後にダンテと出会う──四元康祐読解ノート    栩木伸明 (抄)

日本がバブル景気に沸いていた当時、日本企業のひとりの駐在員が、アメリカ東海岸の大学院で経営学修士号を取得した。
やがて月面(のようなところだったらしい、本当に)へ赴任して子育てをしたのちの転勤先は、旧大陸の、午後と週末に口を噤むことが定められた国だった。
周辺には独自の文化と歴史を誇る国が綺羅星のごとくに点在し、各国間の出入りは前世紀末からフリーパスになったので、
仕事の合間に美術館を訪れることが趣味になった。中年の呼び声を聞いたのちの人間にはふさわしいたしなみといえるだろう。
一番の愛読書はダンテの『神曲』だという。・・・・・・・
1991年、帯に谷川の推薦文をつけ、大岡の肝いりで第一詩集『笑うバグ』が発表された直後、高橋源一郎は朝日新聞の文芸批評にこう書いた──

「この詩にはぼくたちも登場している。だが、ぼくたちは自分がこの詩に登場していることを知らない。
なぜなら、ぼくたちは複雑なシステムの一部として登場していて、それがどういうシステムなのかぼくたちとにもわからないからだ。
かれはそれをはじめて言葉に変えた。・・・・・
流動する世界の中で自分の位置を確かめるために、かれは高い場所から俯瞰するように詩を書く。」

これは四元の詩にたいする最も初期のコメントのひとつだが、彼の詩が世界規模の後期資本主義経済のシステムという巨大な相手を前にして、
その全貌を視野におさめようとして十分引いた立ち位置から書かれていることを、的確に言い当てている。・・・・・


   
直感を信じちゃいけない/分析するんだありとあらゆる手管を尽くして/ばらはらにしてさらけだすんだ・・・・・・・・・・・・・四元康祐
四元康祐①

──四元康祐の詩──(1)

        意思決定・・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

     直感を信じちゃいけない
     分析するんだありとあらゆる手管を尽くして
     ばらばらにしてさらけだすんだ眩しい陽の下に
     それから数量化するそれが出来たら
     あとは一気に公式まで持ってゆく
     相関関数の多少のずれは気にするな
     直感のいい加減さに較べればよっぽどマシさ
     君の幸福はどんな曲線だい
     波打際のおんなの背中
     ダウジョーンズの震える罫線
     それとも黄金のコンソメの上のさざ波
     最後に微分して最大値を求める
     さよなら、ロレンス

        秘書・・・・・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

     「社内秘回覧を読むあなたの横顔がわたしは好き
     眉間にしわを寄せ小首をかしげて
     風に吹かれ星々を読む船乗りみたい
     読み終わったら律儀な仕草で印鑑を取り出して
     ゆっくりと力をこめて捺印する
     そのときの一文字につぐんだ唇も素敵
     秘密を許されてあなたは嬉しい?
     それとも脅えているの少しだけ?
     いつかもっと偉くなってあなたは
     秘密の中心まで辿り着く そしたら
     真昼の砂丘でよろめくあなたに
     わたしが何もかも教えてあげる」

四元康祐・第一詩集『笑うバグ』1991年花神社刊(引用は現代詩文庫『四元康祐詩集』2005年思潮社刊より)
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このアンソロジー詩集の裏表紙に、大岡信が、こう書いている。

<四元康祐をアメリカ文学者金関寿夫の紹介で知った。『笑うバグ』より三年ほど前、「会社めぐり」の時期だった。
 「コンピュータ時代のアンニュイとウィットと感性で日本で初めて出た詩人です」と金関さんへの礼状に書いた。
 四元君はそれ以後ずっと大詩人への道を歩んできた。
 『世界中年会議』の“思いつき”の面白さは抜群。
 彼の作品やエッセーは、どれをとっても人類の未来への不安を隠し持った、微苦笑や皮肉のきいたユーモアを持ち、
 <現代の怪談>めいたスリルに富む。
 個別の詩の背景に常に「大文字の詩」への熱い思いがあって、一見クールな外見をしっかり支えている。
 純正な日本語の詩が、多年日本を離れている純然たる勤め人によって書かれたみごとさ。>

四元 康祐
出典─Wikipedia

四元 康祐(よつもと やすひろ、1959年 - )は、日本の詩人。

大阪府寝屋川市生まれ。中学・高校を広島学院の寮で過ごす。1982年上智大学文学部英文学科卒業。
1983年結婚。1986年、製薬会社の駐在員としてアメリカに移住。1990年ペンシルベニア大学経営学修士号取得。
1991年第1詩集『笑うバグ』を刊行。1994年ドイツ移住。
2002年の『世界中年会議』で第3回山本健吉文学賞、第5回駿河梅花文学賞、2004年詩集『噤みの午後』で第11回萩原朔太郎賞受賞。ミュンヘン郊外在住。

ビジネスマンとして長く欧米暮らしを経験し、日本語を話す機会の限られた生活を送った。経済・会計用語を駆使する斬新な作風であるが、ユーモアも発揮されている点が特徴。

著書
笑うバグ 詩集 花神社 1991.11
世界中年会議 思潮社 2002.9
噤みの午後 思潮社 2003.7
ゴールデンアワー 新潮社 2004.2
四元康祐詩集 思潮社 2005.7 (現代詩文庫)解説:穂村弘
妻の右舷 集英社 2006.3
言語ジャック 思潮社 2010.3
共編著
四元康祐 詩のなかの自画像 前橋文学館特別企画展 第11回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館 2004.9
詩と生活 対詩 小池昌代 思潮社 2005.10
泥の暦 対詩 田口犬男 思潮社 2008.5
翻訳
動物たちの謝肉祭 サン=サーンスの音楽に誘われて エイドリアン・ミッチェルほか詩 BL出版 2007.7
キッド サイモン・アーミテージ 栩木伸明共訳 思潮社 2008.10
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四元康祐③

         ゴッホ道・・・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

     あたり一面どろどろの泥濘である
     但しその泥は
     光沢のある明るい絵の具
     田舎道と波打つ麦畑その向こうの地平線と青空には
     境い目がない ただ虹のようにおぼろげな
     意味の霞がたなびいているだけ
     逆巻く雲や跳び交う鴉までがひと塊にこねくりまわされて
     俺はブルーの一筆書きだ

     地面からはにょろりにょろりと
     先端が髭と化した円錐形が生え出してきて
     捩じれる樹木に絡みつく
     大気中に吹きすさぶ色彩の暴風雨
     そこへケシの花びら達が傘もささずに駆け出してゆく

     描写は退屈だな
     言語の本質は命令形にあり
     「光よ。あれ」
     爾後はみなオノマトペ
     うおーひぇってるぅひとあでんげ?
     おお数式よ 高分子化合物よ
     析出する立方体へと滑り出してゆくものよ!
     舌先で飴が溶けるよ

     波打つ古都の甍のように
     少しずつ角度を変えて合わさった平面の向こうから
     奥行の亡霊達が(土煙あげて)凱旋してくる
     風なきところに風が発ち
     道は、滔々と、道の真ん中を流れてゆく
     泥濘は色鮮やかなまま透き通り
     事物の輪郭だけが骸骨の楽隊さながら踊りだす

     ああ、では俺も
     一本の線にほどけて
     コバルト色の空に舞おう
     色即是空 牛はオランダ語でKoe(ku:)

四元康祐、詩集『言語ジャック』思潮社2010/03/01刊より
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この詩集は題名の通り、ダンテや宮沢賢治や新幹線の車内放送や「奥の細道」や「名詞」や、ありとあらゆるものから、言語や絵画が「ジャック」されているのである。
この詩集から、もう一つの詩を引いておく。

        言葉苛め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四元康祐

     言葉で苛めるのではなく
     言葉が苛められているのである
      
     車座に胡坐をかいた男たちの真ん中に
     縛られて、芋虫のように転がされた哀れな言葉

     句読点ひとつ欠けたところのない玉のような肌である
     厳格な文法の父と優しい音声の母のもとで大切に育てられてきた

     男たちは揃ってみな三つ口である 僅かばかりの
     常套句を使い回して暮らしているのだ

     「へっへっへ、口じゃ嫌がったってカラダは正直だぜ」
     「もっとええ声あげて鳴いてみんかい」

     言葉は歯を食いしばって堪えている
     自分の中から淫らな間投詞が漏れてしまうのを

     そして必死で願っている
     聖なる剣が男たちを微塵に分節してくれることを

     だが、いま彼女の構文は恥ずかしい姿勢を取らされて
     ツンと尖った単語の先を執拗に撫でられ──

     男たちは注視している
     彼女の中心から透明なしずくが垂れ落ちるのを

     獣の股ぐらのような暗い眼差し
     無言のままひくひく震える割れた吻(くちびる)

     決壊の予感に打ち震えながら、言葉は今
     眩しい海を見ている

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比喩メタファーでくるまれているので、難しいかも知れないが、さまざまに想像してみると面白い。






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