K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
Strasbourg_Cathedralストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂

──巡礼の旅──(21)

     ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂・・・・・・・・・・・木村草弥

アルザス地方というのは、ドイツ領とフランス領に何度も支配の変更を繰り返してきた土地である。
その中心地がストラスブールである。 この教会は、その街の象徴的な建物である。     
「ノートルダム」とは「聖母マリア」のことであり、聖母マリア信仰の強いカトリック圏では、いたるところに同名の教会がある。

ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスのストラスブールにあるカトリックの大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベックがいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。

高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルクの聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。

ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。
アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。

ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
7世紀にストラスブール教区の司教である聖アルボガストが、聖母マリアに捧げられた教会を元にして大聖堂を建設したことが知られているが、全く現存していない。
古い大聖堂の遺物は1948年と1956年の発掘で出土しており、4世紀末期から5世紀初頭のものとされている。これは現在の聖エティエンヌ教会の位置から出土した。
8世紀、最初の大聖堂はカール大帝の時代に完成したと推測されているより重要な建築物に置き換えられた。
司教レミギウス(レミ)は778年の遺言でその建物の地下霊廟に埋葬されることを望んでいる。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実である。最近行われた発掘調査により、このカロリング朝の大聖堂には3つの身廊と3つのアプスがあったことが明らかになった。司教 Ratho(Ratald または Rathold とも)の詩によると、この大聖堂は金や宝石が装飾されていた。このバシリカは873年、1002年、1007年とたびたび火事にみまわれた。

1015年、司教 Werner von Habsburg がカロリング朝のバシリカの廃墟に新たな大聖堂の基礎となる最初の石を置いた。彼はロマネスク様式の大聖堂を建設した。この大聖堂は1176年、身廊の屋根が木製だったため火災で焼け落ちた。

この惨事の後、司教 Heinrich von Hasenburg はそのころちょうど完成したバーゼルの大聖堂よりも美しい大聖堂を建設することを決めた。
建設は既存の構造の基礎を利用して始まり、完成に百年ほどかかった。司教 Werner の建てた大聖堂の地下聖堂は焼け残っていたため、そのまま残し西側に拡張した。

800px-Choeur_-_Cathedrale_de_Strasbourgクワイヤ
 ↑ クワイヤ
France_Strasbourg_Magi三博士
↑ サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像

建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。

ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。

とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。

1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。

1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるサンローラン玄関 (Portail Saint-Laurent) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はルーヴル・ノートルダム美術館に移されている。

中世後期、ストラスブール市は大司教の支配を脱して自由化することに成功し、帝国自由都市となった。15世紀は Johann Geiler Kaysersberg の説教と宗教改革の萌芽で彩られ、16世紀にはジャン・カルヴァン、マルチン・ブーサー、ヤコブ・シュトゥルム・フォン・シュトゥルメックといった人物が活躍した。1524年、市議会はこの大聖堂をプロテスタントの手に委ねることを決定した。そのため聖像破壊運動の影響を受けて建物に損傷が生じた。1539年、文献上最古のクリスマスツリーがこの大聖堂に設置された。

1681年9月30日、ストラスブール市はルイ14世の支配下に入り、同年10月23日、王と領主司教 Franz Egon of Fürstenberg が出席して大聖堂でミサが行われた。これにより大聖堂はカトリックに戻され、対抗宗教改革で改訂された典礼に従って内装の再設計が行われた。1682年、1252年に設置された内陣障壁を取り払ってクワイヤを身廊に向かって拡張した。この内陣障壁の一部はルーヴル・ノートルダム美術館とクロイスターズ(メトロポリタン美術館の別館)に展示されている。主祭壇はルネサンス初期の彫刻だったが、同年取り壊された。その一部はルーヴル・ノートルダム美術館に展示されている。

1744年、Robert de Cotte の設計した丸いバロック様式の聖具保管室が北側の翼廊の北西に追加された。1772年から1778年にかけて、大聖堂の周囲に出店していた商店群を整理するため、大聖堂の周囲に初期ゴシック・リヴァイヴァル様式の回廊を建設した(1843年まで)。

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。この人工物は歴史的コレクションとして保存されていたが、1870年に完全に破壊された。ストラスブール包囲戦の際、プロイセン軍の放った砲弾が大聖堂に当たり尖塔の金属製十字が曲がった。また、クロッシングのドームにも穴が開いたが、後により雄大なロマネスク・リヴァイヴァル様式で再建された。

Virgen_estrasburgo_UEステンドグラス
↑ 「ストラスブールの聖母」はクワイヤの窓になっている
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 柱頭彫刻の一部

第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。

大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会は Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。

800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 巨大な建物を支える外側の「フライング・バットレス」

ここでストラスブールの街の写真をいくつか出しておく。

800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブール俯瞰
800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 「木組みの家」
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 ↑ ストラスブール運河沿いの木組みの家




シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
IMG_0488サン・レミ聖堂内部
 ↑ サン・レミ聖堂内部
image_1-9cf18サン・レミ聖堂後陣
 ↑ サン・レミ聖堂後陣
img_861149_60878088_23サン・レミ聖堂
 サン・レミ聖堂礼拝堂
E58699E79C9F-28a6a右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墳墓
 ↑ 右手前の彫像の並んでいる部分がサン・レミの墓
img_861149_60878088_18サン・レミの墳墓
↑ サン・レミの墓

──巡礼の旅──(20)

     シャンパーニュ・ランス「サン・レミ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖レミとは、496年、ランス大聖堂でフランク王国の建国者クロヴィスに洗礼を授けたランス司教レミギウスのことである。
伝説では、このとき天から鳩が現れ、王の頭に注ぐ聖なる膏を入れた瓶をもたらした。
聖レミギウスの遺骨とともに、この瓶はサン・レミ聖堂に保管され、フランス歴代の王の戴冠式では修道士たちが、これを運んだという。
そんな歴史的にも有名な寺院なのだが、ランス大聖堂の蔭に隠れて、尋ねる観光客も少ない。
ここに入ると、一見して、いろいろな時代のスタイルが入り混じっていることに気づく。
これは中世では当たり前のことだが、長い年月をかけて少しづつ建築し、必要に応じて改築してきたのである。

この教会はランスの歴史においてとても重要なはずなのだが、やはりランス大聖堂の方が「微笑みの天使」と「シャガールのステンドグラス」で観光客の人気をひきつけていて、この教会を訪れる人は少ない。

場所としては、シャンパーニュ・カーブのポマリ、ヴァランケン、ヴーヴ・クリコと3つのカーブに囲まれるように広がる公園、Square Saint Nicaseのすぐ後ろにある。
ここは後ろなのか手前なのかはどこからそれを位置づけるかによるから、近くと言った方が良いかもしれないが、公園から見える。

ここはパイプオルガンが立派で目立つ。よくコンサートに使われるらしい。
フランスにはたくさんの教会があってツアーで来る観光客に言わせるとどれを見ても同じのようだが、ひとつひとつの教会が独自のスタイルと歴史を持っている。

私は教会が大好きで、それはもちろんステンドグラスを始めとする建築に興味がある、パイプオルガンの音色が好きというのはもちろんだが、旅行者のための格好の休憩所だからだ。
聖書の一句に「疲れている人は誰でも私のところに来て休みなさい」というものがある。
これは精神的に疲れている人を指しているのみでなく、身体的にもそうである人を対象にした癒しの言葉だと私は理解している。
旅行で歩きつかれた、日差しが強すぎて疲れた、雨に打たれて疲れた、外気が寒すぎて疲れた、何でも良いんだと思う。
教会は安息のための場所である。人種も宗教も問わない場所である。
私は静かに本を読みたいとき、ちょっとナポレオン式居眠りをしたい時、教会のお世話になる。
美しいステンドグラスと麗しいパイプオルガンの音色に癒されて、ロマネスクやゴシック建築に心を鷲づかみにされて感動することで自分が生きているんだ、何かを感じることが出来るんだ、健全であるんだと確認するのである。
この教会のステンドグラスは、いずれも美しい。 写真に出せないのが残念だが、ネット上にいくつも出ているので、ご覧ください。

ここランスには、先に2013/07/21付で載せた「フジタ礼拝堂」も存在する。
「シャンペン」生産の中心地なのである。
ここランスは、この礼拝堂の誕生によって、特に日本人観光客の足を延ばさせる土地となった。


ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

800px-Vezelay_Tympan12サント・マドレーヌ教会ティンバヌム
↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。


昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。




オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Autun_Panoramic_Photoオータン・パノラマ
↑ オータンの街の俯瞰
img_1245225_39606459_1オータン サンラザール大聖堂
 ↑ オータン サンラザール大聖堂
103597188_624サンラザール大聖堂タンパン
 ↑ 西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃
m_bIMG_2724E79CA0E3828BE3839EE382AEE381B8E381AEE3818AE5918AE38192サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
 ↑ サンラザール大聖堂・展示室にある「眠るマギヘのお告げ」
10064864806今はロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃
 ↑ ロラン美術館にある「エヴァ」1120~1135年頃

──巡礼の旅──(18)

     オータン「サン・ラザール大聖堂」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

オータン(仏: Autun)はブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県にある都市。オータンの住民はオーチュノワ(仏: Autunois)と呼ばれる。

オータンは歴史ある都市で、紀元前1世紀ごろにローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスの勅許によって建設された。
当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である(そのリセは現存する)。
1788年-1790年にかけては、シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがこの都市の司教であった。
2002年の2月にはユルスリーヌ国際文化センターが開設されている。

サン・ラザールとは、「マグダラのマリア」の兄弟で、キリストが蘇生させたラザロのことである。
ここは、そのラザロの遺骨を祀っている。
この遺骨はアヴァロンにある同名の聖堂から盗まれたもので、当時はよくあったことだと言われている。
オータンにはかつて古代ローマの都市があり、遺跡も多い。
大聖堂の建築も古代ローマの遺跡を参考にしたと言われている。
ここでは建物よりも「彫刻」に注目したい。 
主なものは冒頭に、続けて画像を出しておいた。

二番目に出した、西正面扉口のタンパン「最後の審判」1135年頃の彫刻だが、その中央に置かれる大きなキリストの足元に「ジルベルトゥスがこれを作った」という言葉が彫られている。
これは建築家であり彫刻家でもあった人物の署名と考えられている。
この世界の終わりにキリストが再び天から降臨し、すべての死者が蘇って裁きを受ける場面で、向かって左に天国、右に地獄が配される。
キリストのすぐ右では大きな天秤で死者の魂が計量され、天使と悪魔が「魂」を鑑定する。
賢明な読者であれば勘付かれると思うが、この「秤」というのは古代エジプト起源であり、それは十字架のイメージとともにキリスト教の中に入り込んできたものである。
また、それらの計量をめぐって聖ミカエルが悪魔と対峙しているが、後者の足首には蛇がまきついているのは「堕落の誘惑」を象徴する。

三番目に出した「眠るマギへのお告げ」では、クレープのような布団に包まれ一緒に裸で眠る東方からやってきた博士たちの一人の手に、天使が指先でそっと触れて、ヘロデ王のもとに帰らず別の道で帰るようにお告げをする。一人目覚めたマギの目は何を見ているのだろうか。

四番目の「エヴァ」の像は、かつて大聖堂の北扉口にあった浮彫の断片である。
左手で智恵の木の実をつかみ、右手を口に当て、今は失われたアダムに囁きかけている。智恵の木の枝には、これも失われた悪魔の爪が残る。
よく知られた『原罪』の場面である。エヴァの泳ぐような体勢は、横長の枠に彫られたというせいでもあるが、罪を犯した彼女が示す「悔い改め」の身振りでもある。
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私の短歌の作品の連作に「エッサイの樹」という一連があるが、これは、この教会の見聞を元にしている。
参照されたい。


フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Abbaye_de_Fontenay-EgliseBatimentsフォントネー修道院
 ↑ フォントネー修道院
Fontenay20フォントネー中庭の回廊
 ↑ フォントネー修道院 中庭の回廊

──巡礼の旅──(17)

     フォントネーのシトー会修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

フォントネー修道院はブルゴーニュ地方コート=ドール県モンバール市内にある修道院。
サン=ベルナール渓谷とフォントネー川の合流点にあたる森の中で静かにたたずむ最古のシトー会修道院で、外観・内装とも華美な装飾性を一切排している。

フォントネー修道院は1118年にクレルヴォーのベルナルドゥスによって設立され、1147年にローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別された。
教皇アレクサンデル3世は、1170年の勅書において修道院の財産を確認し、修道士たちが選挙によって修道院長を選出することも許可した。
この頃に修道院では、近隣で採れる鉱物を用いた製鉄業や冶金業が発達した。

1259年にはフランス王ルイ9世があらゆる収税権を免除した。
1269年には修道院は王国修道院 (l'abbaye royale) となり、ジャン2世、シャルル8世、ルイ12世らも寄進を継続した。
こうした王家の保護にもかかわらず、ブルゴーニュ地方を荒らした数度の戦乱の折には略奪の憂き目にも遭った。
それでも16世紀までは伸長する諸勢力から恩恵を受けつつ発展した。
しかし、王家の利益となるように修道院長選挙の廃止が強制されたことで、修道院の凋落が始まった。
18世紀には、修道士たちは資金的な遣り繰りに窮し、食堂を取り壊さざるを得なかった。
そしてフランス革命中の1791年には、修道院は敷地ごとクロード・ユゴーに78000フランで売却され、以降100年ほどの間、製紙工場に転用されていた。
なお、1820年に所有権はモンゴルフィエ兄弟の一族であるエリー・ド・モンゴルフィエに移った。

1906年にはリヨンの銀行家で芸術愛好者だったエドゥアール・エイナールの手に渡った。
彼は1911年までかつての修道院の姿を取り戻させるべく修復工事を行い、製紙工場も解体した。
フォントネー修道院は現在でもエイナール家の私有物ではあるのだが、主要部分は観光客にも公開されている。

観光客に公開されている部分

Fontenay30フォントネー付属教会
 ↑ 修道院付属教会
これは1127年から1150年に十字形の設計に基づいて建築されたものである。
長さ66メートル、幅8メートルで、翼廊は19メートル。幅8メートルの身廊は両側に側廊を持っている。
拱廊(アーケード)はシトー会則をうっすらと刻んだレリーフの付いたランセオレ様式の柱頭を持つ柱に支えられている。
内陣は正方形で身廊よりも低い。中世には、正面入口はポーチに先行されていた。

800px-Fontenay_church_maryフォントネー聖母子像
 ↑ 内部では12世紀の聖母子像が目を惹く。
これはもともと隣接するトゥイヨン村の墓地で長く野ざらしになっていたものである。
聖母は左手で幼子イエスを抱え、イエスは右手を母の首に回し、左手で翼を拡げた鳩を胸に押し抱いている。

その他内部にはこのほかに特筆すべきものはない。
オリジナルのスタール(背の高い椅子)は湿気で劣化してしまったため、それへの対策として18世紀末には床から1メートル近く持ち上げなければならなかった。

Fontenay25フォントネー参事会内部
 ↑ 教会参事会室
付属教会を別とすれば、修道院生活の中で最も重要なものである。ここではベネディクトゥスの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた。
この部屋は中庭回廊の東の通路に面している。もともとはオジーヴ穹窿をもつ3つの大きな梁間から形成されていたのだが、3つ目の梁間は1450年頃の火災で焼失した。
なお、20世紀初頭には参事会室と面会室 (parloir) を仕切っていた隔壁が取り壊された。

修道士部屋
回廊東側通路の参事会室からさらに南(付属教会から見て遠い方)に足をのばすと、修道士部屋 (Salle des moines) がある。
ここでは写本の作成などが行われていたと推測されている。この部屋の長さは30メートルで、6つの梁間を形成する12のオジーヴ穹窿で覆われている。

Fontenay34フォントネー寝室
 ↑ 修道士寝室
寝室は参事会室の2階にある。そこへ行くには20段ほどの階段を使う。ここは15世紀に火災に遭った後、現在の船体をひっくり返したような骨組みの部屋になった。
ベルナルドゥスの戒律は、個室を認めておらず、また、床に直にわら布団を敷いて寝る事を課した。

Fontenay11フォントネー鍛冶場
 ↑ 鍛冶場
敷地の南端に、オジーヴ穹窿に覆われた縦53メートル、横30.5メートルの建物がある。
これは12世紀に修道院が保有する丘陵から採取される鉱石を利用するために建てられた。
フォントネー川の流れを変えて、槌を動かすための水車を回すようになっていた。
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ここは深い森の泉のほとりにあるが、今も泉は絶えることなく溢れている。
森の中の清明な空気と、湧き出る新鮮な泉は彼ら修道士の生活と精神を養い、活力を維持するのに必要だった。
水の便は常に重要視されるが、水は飲み水と同時に、水流によって鍛冶工場の作業の動力として必要だった。

しかも「泉」は、その本義上、絶えず新たにされる信仰の比喩である。
「フォントネー」とは「泉」フォンテーヌに語源を持ち、「泉に泳ぐ人」という意味である。身体論的にも清らかさを感じさせる。

ただ単に見物するだけでなく、こういうことにも意を尽くして見学したいものである。


サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Saint_Martin_du_Canigou_04カニグー修道院
 ↑ カニグー修道院 俯瞰
DSC_0136カニグー回廊中庭③
 ↑ 回廊中庭─花が咲いている
DSC_0143カニグー修道院回廊①
 ↑ 回廊
DSC_0142カニグー回廊②
 回廊の柱頭彫刻
DSC_0131-08154カニグー回廊④
 ↑ 柱頭彫刻の「サロメの舞い」とは、修道院生活とどう関連するのか

──巡礼の旅──(16)

     サン=マルタン・デュ・カニグー修道院・・・・・・・・・・木村草弥

山頂あるいは山上ちかくに建てられる修道院もある。
ニーチェが信仰は別として <私はそこに座ってもっともよい空気を吸った。ほんとうに天国の空気を。>と言ったような僻地のことである。

サン=マルタン・デュ・カニグー修道院 (フランス語:Abbaye Saint-Martin du Canigou、)は、フランス、ピレネー山脈にあるカトリック教会の修道院。
短縮してカニグー修道院とも呼ばれる。ピレネー=オリアンタル県の小さなコミューン、カストイユに属する。
修道院はカニグー山の岩がちな尖峰の奥に佇んでいる。1889年、フランス歴史記念物に指定された。

この修道院はサルダーニャ伯ギフレ2世の発案によって設置された。初めて文献に登場するのは997年であり、このころには建設工事が始められていたと考えられる。
これ以降に夥しい数の寄進が行なわれており、建設が間断なく着実に行われていたことを示している。

教会は1009年11月10日、エルヌ司教オリバによって聖別され、聖母マリア、聖マルタン、聖ミシェルへ献堂された。
そのしばらく後に聖ゴデリックの聖遺物を授かっている。これに際して修道院と教会堂が拡張され、再び聖別された(正確な年代は未詳であり1014年か1026年とされる)。サルダーニャ伯ギフレ2世はこの修道院で余生をおくり、1049年に没した。

しかしながらこの修道院の衰えは早く、早くも12世紀にはサント=マリー・ド・ラグラス修道院(オード県ラグラス)に併合された。
この併合は摩擦の原因となったが、これは最終的にローマ教皇の仲裁により解消されている。しかし修道院は回復の困難なほどの衰退に陥ることとなった。

またカタルーニャ地方に多くの爪痕を残した1428年2月のカタルーニャ大地震により深刻な被害を受け、教会はどうにか破壊を逃れたものの多くの建物が破壊され、鐘楼は先端が損なわれた。修復にはアルヌ司教座が動員されたものの財力が不足しており、再建工事は非常に長引くこととなった。

1506年に修道院はフランス王家の管理下に置かれ、1782年、ルイ16世によって教会財産は国有化された。

フランス革命後の恐怖政治時代、最後の修道士らが追放された後で修道院は閉鎖され、修道院内の財物は四散した。その後、建物の石材は周辺住民によって建設資材として転用され、回廊の柱頭や彫刻・家具などは持ち去られた。

修道院の再興は20世紀初頭を待たねばならなかった。
1902年にカタルーニャ人であるペルピニャン司教ジュール=ルイ=マリー・ド・カルサラード・デュ・ポン(Jules-Louis-Marie de Carsalade du Pont)が再建に着手したが、この時点では鐘楼、一部崩壊した教会堂、および下層部回廊の3歩廊しか満足に残されていなかった。この再建作業は1932年までかかることとなる。
1952年から1983年にかけて司祭ベルナール・ド・シャバンヌが修道院の修復工事を行い、宗教生活を復興した。

いずれにしても、ここはベネディクト会系の修道院であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途中にあるのである。
交通の不便な山奥で、バスなどの便もないのだが、熱心なツアー客が、遠く日本からもやってくるのである。
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今日八月十五日は前の大戦の「敗戦記念日」である。
呑気な「巡礼の旅」など書いている、と思われるかも知れないが、今日の日については、重々しい関心はあるのである。
ただ、ここで何度も書いてきたので、今回は遠慮しておく。 ご了承願いたい。
日本人であれば、この日を忘れることは出来ない日である。




聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会・・・・・・・・木村草弥
110521-lourdes7601サン・ジルダール修道院
↑ サン・ジルダール修道院教会
110521-lourdes7261ベルナデッタの棺が安置されている聖堂
 ↑ 聖女ベルナデッタの棺が安置されている聖堂
110521-lourdes6631サン・ジル 水の聖母
 ↑ 「水の聖母」像

──巡礼の旅──(15)

     聖女ベルナデッタゆかりのサン・ジルダール修道院教会・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この修道院は、奇跡の水で有名なルルドの聖女ベルナデッタが後半生の身を寄せたところであり、彼女は、ここで亡くなった。
ここ、ブルゴーニュ地方ニエーヴル県の県庁所在地ヌヴェールは、パリ南方約200キロのロワール川とヌヴェール川の交わるところにある。
ここには現在は、ルルドと同じように奇跡の洞窟が再現され、そこに湧く水もルルドから運ばれてきているという。
詳しくは、→ 「ベルナデッタの奇跡」のページに詳しい。

私は何も「奇跡」を信じているわけではないが、先に「ルルド」のことを書いたので、その延長線上のものと理解されたい。
「病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅」については ← を参照されたい。

110521-lourdes7711聖ベルナデッタの遺体
 ↑ 聖ベルナデッタの遺体

ここでは聖女ベルナデッタの遺体も拝めるようになっているが、まるで生きて眠っているかのようだが、これはミイラ化した遺体の顔と指先を「蝋細工」加工したものである。
詳しくは「聖ベルナデッタ─その体について─」を参照されたい。

蛇足だが、
教会という単語は、カトリック教会といった意味の大きな概念から、個別の聖堂共同体(小教区)という意味まで、
かなり使い方に幅があると思われるが、後者の地元教会的な意味としては、

教会とは、多くの一般信者からなる信仰共同体で、司祭(神父)が奉仕職として司牧するところ、ミサに一般信者が集う。
他方、修道院とは、修道者による共同体で、それぞれの修道会の目的による修道生活を行なうところ。
一般信者の共同体である小教区(教会)を委託されている場合、教会への司牧も行なうが、 本質的には、修道生活を行なうことが本分だといえる。
修道会は多数あるが、大きく分類すると観想修道会と活動修道会の二種類があり、 前者は基本的に祈りを中心とした修道生活を行なう。
後者は教育など修道会それぞれの社会活動を通して、神の愛を告げ知らせる活動をする。

勉強に例えると、
教会とは皆が集まる教室のようなところ、修道院とは研究者による研究室のようなところ...といえるかも知れない。
「修道院も教会みたいにミサや冠婚葬祭などの儀式を行」なうが、それは修道活動の中で行なうものである。

修道会は修道者による会であり、男性の修道会と女性の修道会がある。
修道者とは「貞潔」「清貧」「従順」という誓願を立て、奉献生活を行なう人を言う。
家族を持たず、私有財産を放棄し、長上の指導に従い、徹底的にイエスに倣って生きる。
男性の修道者には、司祭(神父)に叙階された修道司祭と、司祭以外の形で修道生活を生きる修道士がいる。
女性の修道者(修道女)の場合、司祭叙階はない。
別の切り口からいうと、司祭には、教区司祭(一般の司祭)と修道司祭(上記の修道者である司祭)の二種類があることになる。

カトリックの場合は僧職者は、昔の仏教のように「妻帯禁止」である。
聖母マリアは大工である夫が居たが、処女懐胎によってキリストを産んだことになっている。
つまりキリスト教にとっては肉欲は「罪」なのであり、童貞、処女が清らかなものとされる。
修道者は、その理想を体現しているものとされるわけである。

そんなキリスト教にあっても、世の中、せちがらくなって、修道院入りをめざす人はめっきり減ってしまった。
入り手が無くなって閉鎖される修道院も珍しくない昨今である。


ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-ChapelleFoujitaフジタ礼拝堂
↑ フジタ礼拝堂
p9251915フジタ礼拝堂①
 ↑ フジタ礼拝堂・聖母子
fujita_maria_lフジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子
↑ フジタ礼拝堂・祭壇画の聖母子 拡大図
p1011138フジタ礼拝堂④ゴルゴダの丘への道行き
 ↑ キリスト・ゴルゴダの丘への道行き
f0095128_235273フジタ礼拝堂
 ↑ ステンドグラスが少し見える

──巡礼の旅──(14)

      ランス「フジタ礼拝堂」Chapelle Foujita à Reims・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この礼拝堂については田中久美子さんが書いた → 「フジタ礼拝堂」というページがあるので、先ず、それを読んでもらいたい。 ↓
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     シャンパンの財が育んだランスのアートスポット
            フジタ礼拝堂
      ──平和を望んだ藤田嗣治晩年の傑作──


1913年、27歳の時に画家になることを夢見てフランスにやってきた藤田嗣治(Tsuguharu Fujita/Léonard Foujita)は、エコール・ド・パリのひとり としてパリのモンパルナス(Montparnasse)で大輪の花を咲かせます。
フジタは2度の大戦の後の1959年、ランスの大聖堂で君代夫人とともに洗礼を受けました。
そのときの代父はシャンパン・メーカー、マムの社長であるルネ・ラルー(René Lalou)。
そしてフジタは、マムの敷地内に平和の聖母に捧げる礼拝堂を作ることを思い立ったのです。

1966年初夏、80歳の画家は礼拝堂内部のフレスコ画に着手しました。
フレスコ画は漆喰を塗った壁が乾ききらないうちに素早く描かなければならないため、失敗が許されません。
大変な集中力を必要としますが、フジタは毎日12時間、壁と向かい合い、全部で200m²にもおよぶ空間をわずか90日間で仕上げました。
こうして秋に完成した礼拝堂は、ランス市に寄贈されることになりました。
正面の壁画にはキリストを抱いた聖母が描かれ、その右側のサインの部分に君代夫人が描かれています。
f0095128_23563772フジタ礼拝堂・君代夫人
 ↑ 君代夫人
君代夫人は2009年4月に逝去され、最愛の夫が眠る礼拝堂右側、≪最後の晩餐≫の絵の下に葬られました。

f0095128_23585717フジタ礼拝堂・最後の晩餐⑥
 ↑ 「最後の晩餐」 藤田夫妻は、この絵の下に眠る。

f0095128_23385616フジタ礼拝堂・磔刑図
 ↑ キリスト磔刑図

入り口上のキリスト磔刑図の右側には、ひざまずくラルーとフジタの自画像が描かれています。
f0095128_23523023フジタ礼拝堂・藤田の顔
 ↑ メガネの人が藤田。その左がマム社の社長ルネ・ラルー

ステンドグラスがある出窓の部分の壁には、この土地にふさわしくシャンパンの樽に腰掛ける聖母とキリスト、その向こうにはぶどう畑や大聖堂が見えます。
聖母を樽の上に腰掛けさせるという斬新な図像を描くにあたって、フジタは法王に許可を取ったと伝えられています。
ステンドグラスはフジタの下絵を、ランスの名匠シャルル・マルク(Charles Marq)の手によって仕上げられました。
その主題は、洗礼を受けたフジタの想いを表すかのように、「天地創造」や「アダムとイヴ」、「ノアの箱船」など『旧約聖書』からとられました。

f0095128_191295フジタ礼拝堂・七つの大罪
 ↑ 「七つの大罪」をテーマにした画は、傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒 が描かれている。

また聖具室の扉にも注目してください。
16枚の小さな絵がありますが、イタリア・ルネサンスのボッティチェリ(Sandro Botticelli)、ドイツ・ルネサンスのクラナハ(Lucas Cranach)やデューラー(Albrecht Dürer)など、美術史を飾る巨匠にフジタが捧げたオマージュになっています。

このように礼拝堂には、見るべきたくさんのディテールがありますが、礼拝堂奥の左右にあるステンドグラスは、故国日本に対するフジタのまなざしを感じ取ることができる作品です。
テーマは広島――。ヨーロッパとアジアで大戦を経験したフジタは、戦争の悲惨さを身にしみて痛感していたのでしょう。
この礼拝堂を平和の聖母に捧げたのも、穏やかな世界を希求してのことです。小さい空間のなかには、画家の強いメッセージがあふれています。

田中久美子(Kumiko Tanaka/文)
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彼については → Wikipedia 藤田嗣治 に詳しい。

こういう壁画の絵の中に作者やパトロンなどを描き込むのは画家の特権であって、古来いくつかの作例がある。
藤田は、それに倣ったのである。
田中さんも書いているように、シャンパン・メーカーとして功なったマム社の社長もパトロンとして金を出した代りに、絵の中に顔を永遠に残すことになった。

田中久美子さんの文章の途中に挿入した写真は、田中さんのものではない。私が、田中さんの文章に合わせて挟んだもので了承されたい。
なお、堂内は撮影禁止であり、写真は撮れないから、掲出の堂内の写真はネット上から引いたものである。


少し文章を付け加えておきたい。
このフレスコ画制作中から藤田は下腹部痛を訴えていたが、「冷え」によるものと見られていたが、絵の完成後、病院で診察の結果「膀胱がん」が見つかる。
あちこち手を尽くしたが治療の見込みのつかないほど進行していて、パリの病院を転々としたあと、スイスのチューリッヒ州立病院に転院した。
チューリッヒ湖のほとりにある病院は静かで、窓辺にはよくカモメがやってきた。激しい痛みの伴う治療の中、カモメに餌を与えるときだけ心をなごませた。
1968年1月29日、凍てつくような寒さが続く日に、藤田は八十一歳の生涯を閉じた。
遺体はフランスへ運ばれ、かつて洗礼をうけたランスの大聖堂で葬儀が行われ、藤田が絵を描いたランスの「礼拝堂」に安置された後、
終の棲家となったヴィリエ・ル・バルクに葬られたが、今では礼拝堂の≪最後の晩餐≫の絵の下に夫婦ともに眠っている。
二か月後、日本政府は藤田の功績を称え、勲一等瑞宝章を授与する決定を下した。

DSC_2102フジタ礼拝堂
 ↑ フジタ礼拝堂への入口のアーチ・奥にチャペルが見える

フランスはカトリック信仰の強い国で、文化人なども若い頃にはカトリシスムに反抗したりしていても、死ぬときには、カトリックに和解を求めて死ぬという。
藤田も晩年には夫婦でカトリックの洗礼を受けて、聖母マリアに抱かれて安息に入ったということである。
田中さんの言うように、シャンパンで儲けた財力によって、このチャペルが成ったことは喜ばしいことである。

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──新・読書ノート──として、下記に追記する。

フジタ①
 ↑ 「藤田嗣治エッセイ選─腕一本 巴里の横顔」近藤史人・編─講談社文芸文庫2008/12/01第八刷刊
フジタ②
 ↑ 近藤史人「藤田嗣治─異邦人の生涯」講談社文庫2008/01/15刊

この記事の関連で、ここに挙げた二冊の本を読んだ。
編者の近藤史人という人は

1956年愛媛県生まれ。1979年東京大学文学部独文科卒。同年NHKにディレクターとして入局。
教養番組部、スペシャル番組部などを経て現在NHKエデュケーショナル統括部長。
制作した主な番組は、NHKスペシャル「革命に消えた絵画──追跡ムソルグスキー『展覧会の絵』」。同「故宮」。
同「空白の自伝・藤田嗣治」など。

藤田夫人・君代さんなどにも信頼されて色々のエピソードなどを聴かせてもらうなど、貴重な裏付けに満ちている。
詳しくは引かないが、広く読まれるべき本である。


アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Arles_Eglise_Saint_Trophimeサントロフィーム
↑ サン・トロフィーム教会
450px-Arles_-_Trophime_8サントロアフィーム
 ↑ 回廊中庭から鐘楼を望む
 
──巡礼の旅──(13)

     アルル「サン・トロフィーム教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

サン=トロフィーム教会 (Cathédrale Saint-Trophime d'Arles)は、南フランスの都市アルルに存在するロマネスク様式の教会堂。
教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。

もともとはこの教会の敷地に存在していたのは、聖ステファノ(サン=テチエンヌ)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。
11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうという動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移されると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。
15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。
かつてこの教会は大聖堂(司教座聖堂)であったが、1801年に小教区教会に格下げされた。
この司教座教会はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの4つの巡礼路の始点の一つにあたる。
この巡礼路は、現在のこの教会がつくられた11世紀頃からローマ(カトリック)教会が奨励したものであり、建物の建て直しと関連があるものと推察される。

この教会堂は、古代ローマ建築との共通性が特徴とされている。
確かに、アーキトレーヴ(開口部の回りに付けられる装飾用の枠組み)を埋める浮彫りとそれを支える円柱、その中に立つ彫像の組み合わせも古代ローマ神殿を思わせる。
特に見どころとされているのは、西正面(ファサード)と回廊である。

800px-Arles_St_Trophime_Kreuzgang_20040828-240サントロフィーム回廊
 ↑ 回廊

入り口のティンパヌムには、最後の審判をイメージした彫刻がある。
そこでは、イエスが中心に配され、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネらが黙示録の四つの獣に対応させられる形で描かれている。
またその周囲の壁面などにも、十二使徒、受胎告知、ステファノの石打ち等の聖書にゆかりのある諸情景、および諸聖人が刻まれている。
回廊の柱も様々な美しい彫刻に彩られている。ここには、イエスの生涯などのほか、地元プロヴァンスにゆかりのある聖トロフィムスや怪物タラスクなども描かれている。

この教会については → 「南仏ロマネスク訪問記」に詳しい写真などがある。アクセスされよ。
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ここで、先日来、「巡礼の旅」として書いてきたことだが、「プロヴァンス」という地名の由来について書いておきたい。
この「プロヴァンス」という名前は、古代ローマでの「属州」(プロヴィンキア)という普通名詞に由来する。
しかも、この地方は五世紀の蛮族侵入のあともローマに最後まで忠実であった「ゴール」の州だからである。そして、その中心がアルルであった。
後年、ローマ教皇庁がローマに居られなくなったときに、かなりの期間、ここアルルはアヴィニョンにローマ教皇庁が置かれたのも、そういう理由によるのである。
ここではローマの古代都市の俤が、闘技場、劇場、広場(フォラム)などに、もっとも典型として残っており、社会教育制度も八世紀までローマ風に維持されていたのである。
アルルは当時ローヌ川を遡ってくる港であり、地中海の貿易が盛んであったから、古代文明は衰退したとはいえ、それは人々の心性に残り、
それが一般民家や教会、修道院建築にまで大きな影響を及ぼした。その一つが、ここに採り上げたアルルのサン・トロフィーム教会なのである。
ここはギリシア出身のペテロの弟子で、46年、当地、プロヴァンス地方に布教した聖トロフィームを祀ったところであり、
一時は「司教座教会」としてプロヴァンス地方に重きをなしていたのもその故である。
詳しくは、リンクに貼ってある「南仏ロマネスク訪問記」を参照されたい。見事な写真や記事が見られる。

ここで、蛇足かも知れないが「カテドラル」という呼称の教会のことについて書いておく。
これはカトリックに限ることだが、「カテドラル」=「司教座教会」に限って呼ばれるのであって、建物の大きさとは関係がないから念のため。
よくガイドなんかも、でたらめな説明をする人が居るが、これは厳密な約束事であるから、よく覚えておいてもらいたい。
その地域を管轄する「司教」さんが駐在する教会ということである。





シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Senanqueセナンク修道院
↑ セナンク修道院
800px-Le_Thoronet_eglise_abbatialeル・トロネ修道院
 ↑ ル・トロネ修道院
800px-Church_of_Silvacane_Abbeyシルヴァカンヌ修道院
 ↑ シルヴァカンヌ修道院

──巡礼の旅──(12)

    シトー会修道院教会堂「プロヴァンスの三姉妹」・・・・・・・・・・・木村草弥

アヴィニョンから東へ50キロほど行くとセナンク修道院に着く。
途中、別荘の多いなだらかな丘にのぼり、ゴルドの町を通る。まるでイタリアの丘の上の町のような印象だ。
春には曲がりくねった露地の向こうに杏の花が咲き、夏には修道院を前にしてラヴェンダーの畑が広がり、谷一帯が匂い、強いプロヴァンスの光によって溢れている。
まるで「幸福の谷」とでも呼びたいほどである。
14世紀、アヴィニョンに教皇庁が出来たとき、教皇ベネディクトゥス十二世がシトー修道会出身であったため、この修道院の保護は厚かったという。

プロヴァンスの三姉妹(Trois sœurs provençales)とは、フランス南部のプロヴァンス地方にある三つのシトー会修道院教会堂の呼び名である。

12世紀から13世紀初頭にかけてほぼ同時期 に建設された、マザン修道院の娘修道院としての二つの修道院、ル・トロネ修道院、セナンク修道院そしてシルヴァカンヌ修道院の三つをさしてプロヴァンスの三姉妹と呼ぶ。
この呼び名は一般的に、これら三つの修道院が「よく似ている」という説明として使用され 、賛辞としてのニュアンスも含まれる。

1098年、ロベール・ド・モレーヌがブルゴーニュのシトーに創建したシトー修道院は12世紀以降急速に発展し、ヨーロッパ各地に支院(支部のこと)が創建されてゆく。
この支院のことを娘修道院と呼ぶ。
800px-Mazan_l_Abbayeマザン修道院の廃墟
 ↑ マザン修道院の廃墟
1120年、ヴィヴァレ地方にマザン修道院が創建され、そのさらに娘修道院として「三姉妹」のル・トロネ修道院とセナンク修道院が創建されることになるが、
13世紀を頂点として、以降はヴァルド派の異端勢力やフランス革命の影響により衰退してゆくことになる。
シルヴァカンヌにいたっては革命後には農場になっているという有様であった。 再発見されるのは19世紀中ごろになってからのことである。
セナンクにはこの時期に一旦は修道士たちが戻ってきたが長続きはせず、現在のような現役の修道院となるのは20世紀に入ってからであった。

なお、2002年現在でも、母修道院であるマザン修道院だけは廃墟のままであり 、2013年現在で修道院として使用されているのはセナンク修道院だけである。
Abbey-of-senanque-provence-gordesセナンク③
↑ セナンク修道院 俯瞰
Abbaye-senanque-diableセナンク
↑ セナンク修道院内部

三姉妹という呼び名
最初にこれらの修道院に対して「三姉妹」という語が使われた時期は判明していないが、「研究対象として」最初に「三姉妹」の呼称を用いたのは再発見の時期、1852年である。
これは当時、ヴァール県の記念物監査官であったルイ・ロスタンがその報告書の中で使用した時が「三姉妹」の初出であり、
現在でも一般的に使用されるようにその外見の類似性に力点を置いた記述であった。
この呼び名であるが、観光ガイドや一般の解説書向けの「非専門家」用語として使われるケースが主であり、逆に現在の研究書や専門書ではあまり用いられないと指摘される。
まず「三姉妹」はそれぞれの大体の外見や寸法は確かに似ているものの、細部においてはむしろ差異のほうが多いからである。
とはいえ、シトー会修道院の建築には一定の様式的な統一性があることも確かである。
母修道院のマザン修道院からル・トロネ、セナンクに受けつがれた側廊の傾斜尖頭トンネルヴォールトなど 、 たしかに類似性・影響はある。
あくまでもこの「プロヴァンスの三姉妹」という呼び名は「学術分野ではあまり使われない」、ということである。

これらの修道院については、 → 「この旅行記」 に詳しいので参照されたい。

また → 「女一人旅」 というサイトにも写真などがある。


ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥
img_1602294_50211404_0ポンタヴァン トレマロ礼拝堂
 ↑ トレマロ礼拝堂
E38388E383ACE3839EE383ADE7A4BCE68B9DE5A082トレマロ礼拝堂
 ↑ 礼拝堂 背面から
lrg_10163633黄色いキリスト磔刑像
 ↑ 黄色いキリスト磔刑像

──巡礼の旅──(11)

     ポン=タヴァン「トレマロ礼拝堂」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス北西部、ブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァン。
村はずれの山道を上りつめると、この地方独特のどっしりとした石造りの礼拝堂が見えてくる。
森の中でひっそりと佇む礼拝堂の中に、その「黄色いキリスト磔刑」像がある。

ポール・ゴーギャンが、辺境の地ブルターニュを初めて訪れたのは1886年。
産業革命で近代化著しい大都会パリに疲れた多くの芸術家たちは、対極的なものを求めてブルターニュにやってきた。
そこには昔ながらの田舎の風景があり、フランス人の起源─ケルトの文化が息づいていたのである。
女性は黒いスカートに「コワフ」という髪飾りをつけており、その姿は、いくつかゴーギャンの作品の中で見ることが出来る。
もともと株の仲買人をしていた彼は、印象派の影響を受けて画家への道に踏み出したのだが、彼の作品が三度にわたるブルターニュ滞在で徐々に印象派から脱してゆく。
そして太い輪郭線で区切った中に平坦な色合いで構成する独特の様式を確立してゆくことになる。
カトリック信仰が色濃く残るブルターニュで、ゴーギャンがキリストの受難や聖書の物語、そして「黄色いキリスト」を題材に描いたのも自然な選択だった。
gauguinゴーギャン 黄色のキリスト像といる自画像
 ↑ 「黄色いキリストと居る自画像」
lrg_10271563黄色いキリスト 拡大
 ↑ 別の「キリスト磔刑像」の絵

ブルターニュ滞在を含む四年間で、ゴーギャンはさまざまな画家と交流し、パナマへも旅をし、やがて未開の地への憧れを抱くようになる。
ここに引いた「黄色いキリストと居る自画像」はオルセー美術館所蔵のもので、1891年、終焉の地となるタヒチに旅立つ数か月前の作品である。

ここは今でも画家の村として有名なところ。
なお本によると「ポン・タヴエン」と書かれていることがあるが、ポン・タヴァン(Pont-Aven)がフランス語としては正確であることを指摘しておきたい。
この地の写真を載せておく。
061101_copyポンタバン①
061102_copyポンタバン②
061104_copyポンタバン③
コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
cq34コンク サント・フォア修道院
 ↑ フランス中部オーヴェルニュの南限にある「サント・フォア教会」
800px-Conques_doorway_carving_2003_IMG_6330サント・フォア修道院
 ↑ 「サント・フォア教会」半円形壁面

──巡礼の旅──(10)

     コンク「サント・フォア教会」・・・・・・・・・・・・木村草弥

フランス中部オーヴェルニュの南限にあるコンクの「サント・フォア教会」は、もともとは修道院として発足したもので、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にあたる。

799px-Conques_JPG01コンク

コンク (Conques、オック語:Concas)は、フランス、ミディ=ピレネー地域圏、アヴェロン県のコミューン。
中世、コンクは聖アジャンのフォワの聖遺物を祀る地として巡礼地であった。

フランスのミディ・ピレネ地方のコンクはル・ピュイを出発地とするスペインのサンチアーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の経由地として、
ここコンクは、サント=フォワ修道院教会とドゥルドゥ川に架かる橋がユネスコの世界遺産に登録されている。
また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。

Conques_pont_romainコンク ローマ橋
 ↑ 14世紀に架けられたローマ橋

コミューンはドゥルドゥ川とウシュ川の合流地点にある。
この地形がホタテガイに似ていたため、コンク(ラテン語ではconcha、オック語ではconcas)という名称を与えられたとされる。
県都ロデーズの北にあり、サント=フォワ修道院周囲に密集する中世以来の町並みが、陽光差す山の中腹に現れる。
生け垣に囲まれた住宅は、正午頃にそのファサードに日が当たる。ホタテガイの意匠が目立つ。通りの舗装、屋根に至るまで石が使われている。
扉や窓の縁飾りのために切石が使われ、灰色やピンク色の砂岩、さらに花崗岩が使われることは非常にまれである。
cq14コンク
cq50コンク

歴史
一説によると、5世紀から、この地に聖ソヴールを祀った小修道院とそれを囲む定住地があったとされる。
この小修道院は、イスラム教徒の北進で壊され、730年以降にカール・マルテルの子ピピン3世の支援で再建された。
同時期、修道士ダドンが修道院を建て、819年にはベネディクト会の規則を採用した。
社会組織が非常によくできていたこの修道院は、重要な領地を次第に統合し、9世紀の経済減退期に繁栄する小島のような状態となった。

864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。
聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教した少女である。 この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。

同時期、聖ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとヨーロッパ各地に伝わった。
955年から960年の間、ルアルグ伯は使徒を敬い、ガリシアで報いの御礼を述べるべく最初の巡礼の一人となった。
30年あまり後、彼の息子レーモンはバルセロナにてイスラム教徒を撃退した。謝意の証として、彼は大規模な戦闘を物語る贈り物をコンクへ贈った。
銀に鞍の彫り物がされた祭壇飾りである。それを用いて修道士たちは大きな十字架をつくった。

11世紀の間、聖フォワは、スペインでのレコンキスタに赴く十字軍騎士たちの守護聖人であった。2人のコンクの聖職者が、ナバーラとアラゴンで司教となった。
1077年以降にパンプローナ司教となったピエール・ダンドック、1100年にバルバストロ司教となったポンスである。
アラゴン王ペドロ1世は、その後に聖フォワへ献堂した修道院を建てている。

コンクを出発後、クエルシーへ向かうものと、モワサックの修道院へ向かうそれぞれの道程をつなぐ巡礼路がある。
最短のものはオーバンへ向かう、ドゥルドゥ川に架かる古い橋である。しかし、グラン=ヴァブル村の小集落ヴァンズルと北西のフィジャックを通過する道程が主流であった。
13世紀、コンクのサント=フォワ修道院は強力になり、その経済力は頂点に達した。しかし14世紀から15世紀に衰え、1424年12月22日、ついに世俗化された。

フランス革命後に廃れていたコンクは、1837年、当時歴史文化財の検査官でもあったプロスペル・メリメによって再発見された。
宝物や教会の正門は住民の手で完全な状態で保存されていたが、教会には幾らかの補強が必要だった。

1873年、ロデーズ司教ブールは、プレモントレ修道会の再建者エドモン・ブルボンによって、聖フォワ信仰と巡礼地コンクの復活を依頼された。
1873年6月21日から、白い修道服をまとった6人の修道士たちが、ロデーズ司教の命令により厳かにかつての修道院に居住するようになった。
フランス第三共和政初期、コンクの住民たちは、既に失われた信仰の記憶が甦るのを目撃したのだった。

1911年、中世以来の宝物を保管する博物館が建設された。聖フォワの聖遺物は1875年に取り戻され、1878年から巡礼が敬意を表しに現れた。

サント=フォワ修道院と教会
この壮大なロマネスク様式の建物は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。ファサード両側の2本の塔は、19世紀のものである。
ティンパヌムは特筆されるものである。修道院と教会には、カロリング朝美術の独特の美が保存されている。
内部はピエール・スーラージュによるステンドグラスで飾られている。

サント・フォアの名前を頂いた教会は巡礼路のあちこちに建てられている。
というのは、彼女こそそれらの巡礼路の「守護聖人」だからである。
この地についてはこのサイトに詳しい。アクセスされたい。

図版②に掲げた「半円形壁面」について少し触れておきたい。
「半円」という意味は神の「宇宙」であるから、いわば「円蓋」(ドーム)に対応するイメージであろう。
東方ビザンチンに多い「集中方式」(上から見て円が大きな円蓋を柱にして集まること)を水平軸から眺める場合、半円は砂漠をベースとした天空で、星をちりばめた形となる。
したがってそれは宇宙の像であり、神の支配する空間と見るのも不思議ではない。
そこに多様な主題が刻まれたり、描かれたりするのである。
ここコンクのサント・フォアの場合は「最後の審判」を主題とする。言うまでもなく「ロマネスク」期にはもっとも多いものである。
「世の終わり」が近づきつつあるという人々の心性の表現である。
中心に神が位置し、上部には天使が舞う。挙げた右手の側には「善き人々」が聖母マリアの先導にしたがって神を目指している。
その中にこの教会の設立に力があったというシャルルマーニュ大帝の姿も見える。
その反対側は地獄であり、いましめを受け、拷問にあっている罪人たちの中心には悪魔(サタン)が居る。
その左前には「淫乱」の罪を犯した男女が立っている。
一説によればオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランにあるノートル・ダム・デュ・ポール教会の柱頭の一つに刻まれた人名、ロベールなる職人の組合が、
この壁面を刻んだという。
ピレネー山脈に近いラングドック地方の流麗な様式と異なり、ずんぐりとして、しかもどこか童画的な印象である。
先に書いた「このサイト」には詳しい説明が載っているので参照されたい。
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蛇足① 聖人・聖女たちは、名前の頭に「聖」をつけて呼ばれるが、男性の場合はフランス語などのラテン語系の場合には「Saint」であり、語尾の「t」は発音されないので「サン」だが、
女性名詞の場合には「Sainte」となり「サント」と発音される。今回の、この教会は聖女なので「Sainte-Foy」サント・フォアと発音される。
ただ、上にも書かれている「サンチアゴ・デ・コンポステーラ」Santiago de Compostela の場合は「男性」だが、名前の頭に母音があり、
本来なら無音の「Saint」の語尾の「t」と頭の母音とが「リエゾン」となってサンティアゴと発音されていいるのである。
ヤコブの名前はスペイン語では「iago」というので、聖ヤコブ=Santiago となる次第である。
蛇足② 上の記事の中で、聖フォアの表記が、「サント・フォア」や「サント=フォア」となっているのは、表記の仕方の違いで、間違いではないので念のため。
これらの単語は、本来一まとめのもので、それを日本語表記にする場合に「・」「=」を使ったりするからである。
多くの場合には「・」で済まされることが多いが、厳密に区別する人は「=」を使用するので、こんなことになる。
余計なことを書いてしまったが、ご了解をお願いしたい。


セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥
The_Death_of_King_Arthurアーサー王の死
 ↑ 「アーサー王の死」(アーサー王と三人の湖の乙女)
黒い頭巾を覆い包むモーガン・ル・フェイは魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を尋ねたことがあった。
その時、モーガン・ル・フェイはアーサー王の臨終の時の守護者のような役割でもある。
800px-England-Saint-Michaels-Mount-1900-1.jpg
 ↑ セント・マイケルズ・マウント島
58caa093-sセント・マイケルズ・マウント
 ↑ セント・マイケルズ・マウント島

──巡礼の旅──(9)

     セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥

<古代遺跡群を地図上に結ぶと不思議な直線が現れる>
1921年アルフレッド・ワトキンスが唱えたこの説は、以来多くの論争を呼んでいるが、現にそれは存在する。
謎に満ちた英国最長の「レイライン」(牧草地・leyから来ている。イギリスでは牧草地をよぎって、ストーンサークル、塚、古墳、聖なる泉、スタンディンク・ストーンなどさまざまな宗教的事績が一直線上に並ぶこと)が、ここにある。

セント・マイケルズ・マウント島
普段は湾に浮かぶ島、そして干潮時には陸から一筋の道が伸びる不思議、聖ミカエルの為の壮麗な修道院が建つ聖地であり、現代では世界で最も人気のある世界遺産の一つに数えられる北フランスのモン・サン・ミッシェル・・・。
しかし、実はここはモン・サン・ミッシェルではない。ドーバー海峡を挟んで反対側にあるイギリスのセント・マイケルズ・マウントと呼ばれる場所なのだ。
モン・サン・ミッシェルとはフランス語で聖ミカエルの山という意味だが、セント・マイケルズ・マウントは英語では同様の意味である。
そしてこのイギリスのセント・マイケルズ・マウントは、モン・サン・ミッシェル同様に干潮時のみに渡る事が出来る島なのだ。

何故このような不思議な対称ができたのか。もちろん一緒に建てられた訳ではなく、フランスのモン・サン・ミッシェルの方が歴史が古い。
イギリスのセント・マイケルズ・マウントはモン・サン・ミッシェルの実質的な成立の約300年後に築かれた。
元々この地はキリスト教が至る前から聖地として信仰の対象になっていたようだが、12世紀頃に最初の修道院が建てられた。
海で分断されているが、フランスのブルターニュ地方とイギリスのコーンウォル地方はもともとケルト系住民が多かっためていたという共通点を持っており、
後の百年戦争に象徴される犬猿の中のライバル同士が競って建てたというより、恐らく文化が近い物同士が同じ流れを汲む建築と信仰を持ったという方が正しい。
規模ではフランスに少々劣るものの、イギリス側のセント・マイケルズ・マウントも神秘性では見劣りしない。
モン・サン・ミッシェルのように観光客で溢れかえるような事もなく、至って静かなのも良い。

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「リンゴ島」や「幸運の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金のリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。
この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。

ここで、「アーサー王伝説」との関連について書いておく。

アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。
モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれたとある。

ジェフリー・オブ・モンマスの別の著作『マーリンの生涯』によれば、アヴァロンの地域を統治する九姉妹は:
1.モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)
2.モロノエ(Moronoe)
3.マゾエ(Mazoe)
4.グリテン(Gliten)
5.グリトネア(Glitonea)
6.クリトン(Cliton)
7.ティロノエ(Tyronoe)
8.ディティス(Thitis)
9.モルゴース(Morgause)

であり、モーガンは九人姉妹の筆頭女性で、医術と変形術に長ける。そして、ディティスはシターンの演奏が上手、巧みである。

ほかにグラストンベリー・トー説というのがあるのだ。 ↓

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 ↑ グラストンベリー・トー
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 ↑ グラストンベリー修道院廃墟の「アーサー王の墓所」

リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。
ギラルドゥス・カンブレンシス(「ウェールズのジェラルド」の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長をつとめるヘンリー・ド・サリー)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから樫の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架があり:
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 ↑ 墓碑銘十字架。(ウイリアム・キャムデン著『ブリタニア』挿絵より)

「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」
(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia)

と刻印されていた。
王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人(ウェールズ人)の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物のあいだだとしている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリ は、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという。

アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。

しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。

はじめに書いたように、このように、「レイライン」を成して、牧草地をよぎって、宗教的事績が一直線上に並ぶ不思議が出現するのであった。

その他、アヴァロンと考えられている場所はフランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル(l'Île d'Aval)またはダヴァル(Daval)という島だという説や、あるいはかつてハドリアヌスの長城沿いにアバラヴァ(Aballava)という砦のあったイングランド最北部カンブリア州の村、ブラフ・バイ・サンズ(Burgh by Sands)という説もある。


奇跡の褐色の聖母出現─メキシコ・グアダルーペ寺院・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
383px-Matka_Boza_z_Guadalupe.jpg

──巡礼の旅──(8)

  奇跡の褐色の聖母出現─メキシコ・グアダルーペ寺院・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
 
1531年12月12日、メキシコのインディオ、アステカ族の農夫であったフアン・ディエゴは叔父のフアン・ベルナルディーノが病気で死にかけており、告解と終油の秘蹟を求めたので、司祭を呼びにトラルテロルコまで急いで出かけた。

実はフアン・ディエゴはその少し前12月9日に聖母の御出現を受けていた。
彼のアステカ名はクアウトラトフアック(その意味は「歌う鷲」)であったが、キリスト教に改宗してフアン・ディエゴの名を貰った。彼は自分の住む村クアウティトランからよくテノクティトラン(メキシコ・シティ)の北にあるトラルテロルコまで25kmの距離を早朝ミサに与り、秘蹟を受けるために出かけていた。
その日、彼がテペヤックの丘の側を通り過ぎたとき、丘の上でさまざまの鳥の歌のような音楽を聴いた。それで彼は40mほどのその丘を登って行き、その頂上に美しい貴婦人を見た。その貴婦人はフアンが話しているアステカ語(ナフアートル語)で話しかけられた。そして御自分がおとめマリアであることを打ち明けられ、このテペヤック丘の上に聖堂を建てるように、そのために司教館に行って司教に、聖母がディエゴを遣わしたと告げるように言われた。しかし司教はそのようなディエゴの話を信じないで、彼を帰らせた。

 ディエゴはしかたなく、またテペヤックの丘に戻ると、聖母が待っておられた。ディエゴは自分はこの役に相応しくないので、もっと身分の高い人を代わりに任命してくださいと聖母に頼んだが、聖母はこの使命を引き受けることになっているのは他の誰でもなくフアン・ディエゴですと言われたので、彼は翌日もう一度やってみることを聖母に約束した。

 翌日ディエゴはもう一度会いに行ったが、司教スマッラガにすげなく断られた。しかし、このとき、司教はディエゴに話が本当なら聖母から天のしるしを貰うようにと要求した。それで、ディエゴはもう一度テペヤックに行き、聖母に司教の要求を告げた。聖母はそのしるしを明日用意しましょうと言われた。

翌日、叔父のベルナルディーノの容態が悪化して、その面倒を見るためにディエゴは聖母と約束したテペヤックの丘へは出かけることができなかった。その夜、最初に述べたように叔父の具合がますます悪くなり、司祭に来て貰いたいという叔父の望みを叶えるために翌日12月12日朝四時半にまだ暗くて寒い中をトラルテロルコまで出かけたのであった。

 ディエゴは聖母との約束が気になっていたが、急いで司祭のところに行かなければならないので、テペヤックの丘で聖母に会うのを避けようとして、丘の反対側の道を取った。しかし、聖母は道を遮るために丘から降りて来られた。聖母は微笑みながら、ディエゴに何か問題がありますかと尋ねられた。それから、ディエゴの叔父がこの瞬間に癒されたと言われた。そしてこれから丘へ登って前に聖母に出会った場所で花を摘んで降りて来るように言われた。ディエゴは言われた通りに丘の頂上に登って驚いた。この冬の寒空にさまざまの種類の美しい花が岩、アザミ、乾燥地の藪の間に満開になっていた。露に濡れてよい香りを放っていた。彼はすべての花を摘もうとしたが、多すぎて全部摘むことはできなかった。摘んだ花を運ぶために彼は自分の羽織っていたティルマにくるんだ。ティルマはアステカの伝統的なマントで首のところで結ぶようになっている。ディエゴが着ていたティルマはサボテンの茎の繊維で作られたもので、20年もすればすり切れてしまうものだった。彼は急いで丘を降りて聖母のところへ戻った。聖母はディエゴがティルマに包んで持って帰った花を特別な仕方で整えられ、ティルマの中にもう一度しっかり包まれた。そして、誰にも見せずに、司教自身にそれを開けて見せなさいと言われた。

 ディエゴは三度目に司教館に行き、司教に面会を申し入れた。司教館で待っている間に、召使いたちが花を持ち去ろうとすると、花はあたかもティルマを縁取りする絵となってティルマの中に溶けてしまうかのように見えた。彼らは驚いて司教に直ぐ来るように呼びに走った。スマッラガ司教はメキシコ新総督のドン・セバスチアン・イ・フエンレアルなど重要人物たちと話し合いをしていたが、直ぐにディエゴに会いに出て来た。ディエゴは約束通りの貴婦人の天からのしるしと言って、ティルマを開いた。すばらしい色と香りを持つ花が床を埋めた。スペインにしかなく、メキシコにはまだ輸入されたことがなかったカスティージャのバラは居合わせた高官たちと司教を驚かせた。

 さらに人々を驚かせることが起こった。人々が見ている前でティルマの内部に一つの像が現れた。最初、フアン・ディエゴはこの像を見ていなかったが、見たとき、その像がテペヤックの丘で見た聖母に生き写しだったので叫び声をあげた。そしてそのことを人々に告げた。この時以来、聖母像は今日まで468年近くもティルマの中に消えずに残っている。スマッラガ司教は自分の不信をディエゴに泣いて詫び、彼を抱擁した。テペヤックの丘に小さな聖堂を建ててそこに奉納するまでの間司教はそのティルマの聖母像を自分の小礼拝堂に飾って崇敬した。現在このテペヤックの丘には聖母が望まれた大聖堂が建っていて、ティルマの聖母が崇敬の対象になっている。その後まもなく多数のアステカの人々がこの聖母像を崇敬するためにやって来て、次々に改宗が始まった。一説では十六世紀初めルターの宗教改革でヨーロッパで失われたカトリックの数だけこのメキシコでアステカ人のカトリックへの改宗があったと言う。聖母はヨーロッパ大陸で失われた人数をアメリカ大陸で取り戻されたのだ。

 ところで、スマッラガ司教はお付きの者を一人つけてフアン・ディエゴを村まで送り届けた。叔父のフアン・ベルナルディーノは聖母が言われたその時刻に癒されていて、ディエゴを出迎え、聖母が自分にも御出現になったと彼に告げた。聖母はそのとき、御自分が呼ばれたいと望んでおられる名前をベルナルディーノに打ち明けられた。今、グアダルーペの聖母と言われている名前であるが、これには実は行き違いがあった。聖母は二人のアステカ人にアステカの言葉、ナフアートル語で話された。ナフアートル語にはGとDの文字がない。だから、アステカ人がグアダルーペと発音するわけはない。しかし、スペイン人の通訳がフアン・ベルナルディーノの話を聞いて、「永遠のおとめ、グアダルーペの聖マリア」と言っていると理解した。スペインのグアダルーペ川の近くに聖母御出現で有名なマリア聖地があったからである。しかし、後に明らかになったことであるが、ベルナルディーノがアステカ語で語ったのは、「テコアトラホプー」あるいは「コアトラロープ」であったのに、その発音がグアダルーペのように聞こえたのであろう。「テコアトラホプー」あるいは「コアトラロープ」の意味、つまり聖母が御自分の呼び名として望まれたのは、「石の蛇を踏みつぶし、踏みしだき、一掃し、根絶するまったく完全なおとめ聖マリア」という名であった。石の蛇というのはアステカの神々の中でも最も恐ろしい蛇の神「ケツァルコアトル」のことであり、この神はこれまでにアステカの人々から一年に二万人の人身御供を要求していた神であった。アステカの人々はフアン・ディエゴとフアン・ベルナルディーノという二人のアステカ人のフアンに御出現になった聖母を神から遣わされた方として理解し、人身御供の悪習は突然終わった。1539年までに、すなわち御出現後わずか8年ほどの間に800万人のアステカの人々がカトリックに帰依した。これはティルマの内側に姿を残された聖母の力である。

聖母像が刻み込まれたこのサボテンの繊維でできたティルマはさまざまの科学的な鑑定を経ても、未だにその謎が完全には解けないと言われている。1531年以来468年も崇敬されて人目にさらされ、聖堂の中で祭壇の上方に掲げられていたため、ろうそくですすけ、悪化するはずなのに、不思議なことに全然古びていず、今もみずみずしく、生き生きとしており、繊維質の悪化がまったく見られないという。おまけに粗い繊維質のティルマに描かれた聖母像の顔料が未だに特定できないそうである。例えば、太陽光線、飾りふさ、天使ケルビム、マントの三日月や星、金の縁取りなど、後からの書き込みがあることが確証されているが、それらの顔料は特定されており、年代によるひび割れや劣化を示している。しかし、後からの書き込みでない最初の聖母像の衣装、マント、顔、手などの顔料は化学分析によっても何であるかが特定できず、しかもいかなる汚れ、すすけもなく、年代による劣化もないという。もっと不思議なことは、聖母像の瞳には人物像の反映があることが分かったという。コンピューターを用いた画像処理で判明したように、瞳に映っていたのははっきりと認められる複数の人物の顔と手である。ティルマが最初にスマッラガ司教の前でほどかれたときに、列席していたスペインの高官たちが聖母像の瞳に映ったと信じられている。新しいスペイン総督ラミレス・イ・フエンレアルはその一人ではないかと言われている。
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 ↑ 旧大聖堂─地震のために地盤が悪くて傾いている
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 ↑ 新聖堂
1709年に二つの塔をもつバジリカ(大聖堂)が建てられ、ティルマはそこに移されて崇敬されて来たが、1976年にこのバジリカの隣に一万人が入れる円形の新しい聖堂が建てられた。グアダルーペは現在年間1200万人とも2000万人とも言われる巡礼者が訪れる世界でも有数の聖母巡礼地である。

1810年から始まったメキシコ独立革命の際には、指導者のイダルゴ神父が、このグアダルーペの聖母像をシンボルとして掲げて戦った。
その後、この褐色の聖母は、メキシコ独特の混血文化の象徴として崇拝、敬愛されるようになった。

1999年7月7日、カトリック・ワールド・ニュースはメキシコのノルベルト・リヴェラ・カレラ枢機卿が福者フアン・ディエゴの列聖の日が近いうちに告知されることを望んでいるという記事を発表した。



ここには私は十数年前にメキシコに行った際に参詣した。
巨大な体育館のような寺院で、聖母像の前には、押し寄せる信者をさばくために、エスカレータ式の「動く歩道」が設置されていた。
ここで詠んだ私の歌─第四歌集『嬬恋』(角川書店)所載─を引いておく。

    信篤きインディオ、ディエゴ見しといふ褐色の肌黒髪の聖母

    カトリック三大奇跡の一つといふグアダルーペの聖母祀れり

    聖母の絵見んと蝟集の群集をさばくため「動く歩道」を設置す
・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥



イエスの最初の奇蹟「カナの婚礼のワイン」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ルーヴルにあるヴェロネーゼ作「カナの婚礼」の絵

──巡礼の旅──(7)

     イエスの最初の奇蹟「カナの婚礼のワイン」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今から約二千年前、イエス・キリストが誕生した。
彼は万人の病を癒し、自然の力さえも操ることが出来た奇蹟の人と伝えられている。
イエスの最初の奇蹟は、喜びに満ちた婚礼に招かれたときに起こったとされる。
ヨハネ福音書(2章1-11)によると、ガリラヤ地方のカナという村で、イエスと母マリア、弟子たちが村の婚礼に招かれたとき、長い宴がつづいたために、とうとう葡萄酒がなくなってしまった。
「葡萄酒がないなら喜びもない」という諺があるほど、葡萄酒は祝い事に必要不可欠なものだったため、イエスは召使に、石甕に水を満たすよう命じて、それを極上の葡萄酒に変えた。
それを知らない世話役は召使が運んだ石甕に入った葡萄酒を呑み「最初は良い葡萄酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すのに、こんな良い葡萄酒が出てくるとは」と驚いた。
その奇蹟を見た弟子たちは、イエスを神の子だと確信し、信頼を捧げたという。
これがカナの婚礼の奇蹟、と今に至るまで伝えられる物語である。

IMG_4711V6カナ婚礼教会
 ↑ イスラエル・ガリラヤ湖畔カナ村の「カナ婚礼教会」

この奇蹟のエピソードのある地には「カナ婚礼教会」が建てられている。
写真のものはフランチェスコ会の建てたもので、もう一つギリシャ正教の建てたものが他にある。
これらの二つの教会は、イエスの生涯を辿る巡礼地の一つとして、現在も多くの人々が訪れるのである。

イエスは伝承によれば、
ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ  ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村
・・・・・・・・・・・・木村草弥

この地での私の歌である。第四歌集『嬬恋』(角川書店)所載。

はじめに掲出した絵はフランスはパリのルーヴル美術館にあるもので、世界的に名高い絵「モナリザ」の向かいに展示されている。
この絵はルーヴルはもとより、美術史上、最も大きなカンヴァス画の一つであり、タテ6.7m、ヨコ9.9mの大きさを誇る。
イエスの起こした最初の奇蹟は、おそらく、そのキャンバスの大きさが象徴するように、人々に多大な影響を与えた出来事だったに違いない。

葡萄の起源は極めて古い。
紀元前7000年頃、古代文明発祥の地メソポタミアでは既に葡萄栽培が行われており、人々にとって身近な食物だった。
それ故に、葡萄にまつわる譬えや教えは人々の心に直接働きかけるのに好都合だったのだろう。
聖書の世界では、葡萄や葡萄酒にまつわる話が数多く記されている。
皮肉にも、イエスが最初の奇蹟で人々に喜びを与えた葡萄酒は、のちに、最後の晩餐で「多くの人のために流される自分(イエス)の血」と形容されることとなるのだが、彼の生涯の中で、葡萄酒がいかに重要なものであるかを窺い知ることが出来るというものである。



ピレネー山脈ボイ谷の「サン・クレメンテ教会」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
VQ7T0191ボイ谷サン・クレメンテ教会
↑ ピレネー・ボイ谷の世界遺産サン・クレメンテ教会

   ──巡礼の旅──(6)

   ピレネー山脈ボイ谷の「サン・クレメンテ教会」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

スペインの玄関口、地中海に面したバルセロナからイベリア半島北部をピレネー山脈に沿って横断し、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラに向かうルートに乗る。
バルセロナを出てしばらく北上すると、目の前に巨大な山塊が出現する。余りに大きすぎてバスの車内からでは頭を屈めないと頂が見えないくらい。
これがイベリア半島北部を東西に横断している、標高二~三千メートル級の山々が連なるピレネー山脈だ。
スペインの秘境ボイ谷は1948年にビエラ・トンネルが開通するまでは全く交通手段のない所で千年前の独自の伝統を持ち続けてきた奇跡の谷だった。
トンネルは約30分かかり、そこを抜けると別世界だ。

1999年12月、谷の一番奥のタウイのサンタ・マリアとサン・クレメンテ。ボイのサン・ジュアン。一番トンネルに近いバルエラのサン・フェリオの四か所の教会が世界遺産に指定された。
アクセスと知名度のおかげで、今では主要観光ルートの一つになったが、しばらく前までは祭壇の前に立つと千年まえの雰囲気がそのまま残っていたという。
その後、この谷は大きく変容して、今では古い民家は今は一軒も残っていないという。
今でこそピレネー山中にひっそりと佇むロマネスク教会の里・ボイの谷として有名になったが、この谷にあるタウイ村は、まるで天空の村のようだ。

↓ サンタ・マリア教会の穹窿
83T8393835E81E837D838A83A8140835E83E838Baaボイ谷サンタ・マリア教会蒼穹

歩いて聖地サンチアゴに向かう巡礼者にとってはピレネーは山岳美よりも、むしろ目の前に立ちはだかる難所なのである。
フランスからスペインに抜けるルートでは巡礼者が誰しも越えなければならない苦しい峠越えだ。
ピレネー越えのソンボール峠の標高は1640メートルほどだが、20キロ前後の荷物を背負って何百キロもの道のりをひたすら歩いて来た巡礼者にとっては、とても厳しい。
かつて中世の頃は、このピレネー越えで命を落した巡礼者はおびただしいという。
今も峠の旧道を一歩一歩、ゆっくりとした足取りで峠を登ってゆく巡礼者の姿を見ることがある。
ピレネー山脈は、そんな人々の思いを乗せて、今も天に聳えている。
IMG_0366aaボイ谷の石造りの小屋

ここで「聖人サン・クレメンテ」のことを書いておく。
聖ペテロと聖パウロの直弟子であったと言われている4代教皇聖クレメンテという人が居られて、キリスト教への貢献によって聖人に列聖された人である。
彼の名を冠した教会はあちこちにあり本拠はイタリアだが、アメリカ大陸にもある。


病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)

   病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。
私も参加したこともあるユーラシア旅行社による動画 ↓


ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で常温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。

ポーランドを守る「黒い聖母」──チェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Kompleks_klasztorny_na_Jasnej_GC3B3rzeヤスナ・グラ僧院
410px-Czestochowskaヤスナ・グラ僧院の黒い聖母

  ──巡礼の旅──(4)

   ポーランドを守る「黒い聖母」──チェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

国民の95%以上がカトリック信者であるポーランド。
前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の出身地でもあり、最大の聖地チェンストホーヴァには国内外から多くの信者が訪れる。
人々の向かう先は、ポーランド語で「光の丘」を意味するヤスナ・グラ修道院である。
800px-Jasna_GC3B3ra_260506_01ヤスナ・グラ僧院
ヤスナ・グラ修道院(Jasna Góra Monastery)は、ポーランドのチェンストホーヴァにあり、聖母マリアを祀った寺院として有名であり、ポーランド中から巡礼が訪れる。
ヤスナ・グラの聖母と呼ばれるイコンは奇跡的な力を持つとされており、ヤスナ・グラ修道院の最も貴重な宝とされている。
1382年、オポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクに招かれてハンガリーからやってきたカトリックの司教団が建設した。
このあたりでは最も重要とされる聖母マリアのイコンがあるため、数百年にわたって巡礼地となっている。
ヤスナ・グラの聖母は数々の奇跡を起こしてきたとされ、あがめられている。
たとえば17世紀の大洪水時代にスウェーデンに侵略された際、この修道院が包囲された時にも奇跡的に残ったのは、このイコンが守ったからだとされている。
この一件は軍事的には重要ではなかったが、これによってポーランドの抵抗が盛り上がった。
ただしポーランド側は即座に戦局を盛り返したわけではなく、クリミア・ハン国との同盟後にスウェーデン側を撃退することができた。
その直後の1656年4月1日、ポーランド王ヤン2世はリヴィウの大聖堂で、神の母の庇護の下に国を捧げることを誓い、彼女を彼の王国の守護者にして女王とすることを宣言した。

イコン「黒い聖母」の名の通りの褐色の肌は、材質のためとも煤によるものだと言われる。
世界にはいくつかの黒い聖母像があるが、ここヤスナ・グラの聖母は、その中でも最も有名なものとされる。
伝説によれば、このイコンは聖ルカが糸杉の板に聖母マリアを描いたもの。
ある貴族が大金を払ってこのイコンを購入し、ヤスナ・グラに差し掛かった所で急に重くなり動けなくなったことから、聖母が望む地だとみなされ修道院に安置されたという。
また修道院に侵入したモンゴル軍が運びだそうとした際にも、鉄のように重くなったという。聖母の頬に残る傷は、怒ったモンゴル人が刀で切りつけた跡とも。
傷からは二筋の血が流れたとか。
しかし、幾つか奇跡の中でも最も有名なのが、先に書いた17世紀の大洪水時代にスウェーデンに侵略された際のエピソードと言われている。
それは、1655年11月から1666年1月まで、包囲・猛攻を受けながらも持ち堪え、今でも語り草となっている大修道院長の統率によるものだった。
以後、ポーランドは国土の分割の時代には祖国復活、統一の悲願のシンボルとされたのである。

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現在、年間500万人の信者が訪れるが、中でも8月15日の「聖母被昇天祭」には、写真のように多くの信者が広場を埋める。
修道院への道は巡礼者で埋め尽くされ、自動車も飛行機も使わず、遠いところからは何と二ヶ月かけて歩いてくる信者も居るという。
敬虔な信仰心を目の当たりにすると、大国に翻弄されてきた歴史の中で、聖母という一つの希望を求めて絆を固く強めて、戦いつづけてきたポーランドの人々の、
強い心に触れる想いが、しみじみとするのである。

389px-Czestochowa-bazylikaヤスナ・グラ僧院内部

申し添えておくが、ポーランドだけではなく、「カトリック」圏では聖母マリア信仰が盛んなので、どこでも8月15日は「聖母マリアの日」の祭日で休日になるので、念のため。


ブッダの「八大仏跡」を巡る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 「初転法輪像」サールナート考古博物館収蔵

──巡礼の旅──(3)

      ブッダの「八大仏跡」を巡る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

経済発展が目覚しく、あらゆるものが急激なスピードで変わりつつあるインドは、今もっとも世界の注目を浴びる国といえるだろう。
だが同時に経済格差は著しく、貧富の差も極端である。
そんなインドは「仏教」が生まれた土地であるが、今のインドはヒンズー教が圧倒的に信者の多い国で、仏教徒は極めて少ない。
ヒンズー教に言わせるとブッダの教えはヒンズー教の一派として数えられているに過ぎない。
しかし、われわれ日本人は「仏教徒」を自認しているのであるから、その教えの由来や仏教聖地を辿るのも意味があるだろう。
私は1999年正月に北インドと仏跡を歴訪したことがある。
以下、仏教、仏跡について少し書いてみる。

仏陀(ブッダ、梵:बुद्ध buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。
buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。

「佛」の字について─「仏」(ぶつ)の字は、通常は中国、宋・元時代頃から民間で用いられた略字として知られるが、唐の時代にはすでに多く使われており、日本の空海も最澄宛の『風信帖』(国宝)の中で使用している。これを漢字作成時の地域による使用文字の違いと見る有力な説がある。

中国において buddha を「佛」という字を新たに作成して音写したのは、おそらく中国に buddha に当たる意味の語がなかったためであろう。
この「佛」の語は、中央アジアの "but" もしくは "bot" に近い発音を音写したもので、元北京大学の季羨林教授によれば、この語はトカラ語からの音写であるとするが、根拠は不明である。

4世紀以後に仏典がサンスクリットで書かれて、それが漢文訳されるようになると、buddha は「佛陀」と2字で音写されるようになる。
つまり、「佛陀」が省略されて「佛」表記されたのではなく、それ以前に「佛」が buddha を意味していたことに注意すべきである。

「佛」の発音については、「拂」「沸」の発音が *p‘iuet であるから、初期には「佛」も同じかそれに近かったと考えられる。この字は「人」+「弗」(音符)の形声文字であり、この「弗」は、「勿」「忽」「没」「非」などと同系の言葉であって、局面的な否定を含んでおり、「……ではありながら、そうではない・背くもの」という意味を持っている。その意味で、buddha が単に音だけで「佛」という字が当てられたのではなく、「(もとは)人間ではあるが、今は非(超と捉える説もある)人的存在」となっているものを意味したとも考えられる。なお、「仏」の右の旁(つくり)は、「私」の旁である「△」から来ていると見られている。

仏陀の範囲─ 基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。
しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、
古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。

しかして時代を経ると、その仏陀思想がさらに展開され大乗経典が創作されて盛り込まれた。
このため一切経(すべての経典)では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事が説かれた。
例を挙げると、初期経典では「根本説一切有部毘奈耶薬事」など、大乗仏典では『阿弥陀経』や『法華経』などである。

また、多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。
悟り(光明)を得た人物を「ブッダ」と呼ぶ場合があるが、これは仏教、ことに密教に由来するもので、ヴェーダの宗教の伝統としてあるわけではないと思われる。
一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けて「ニューエイジ」と呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在を「ブッダ」と呼ぶ伝統が一部に広まった。

仏陀への信仰─ 釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する唯一神(主催神、絶対神)の存在を認めなかった。
その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」(deva, 天部)としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。
その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々が護法善神として仏教神話の体系に組み込まれていった。
また仏滅500年前後に大乗仏教が興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。

なお、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。
当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。
したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。そのため当初はレリーフなどでは、法輪で仏の存在を示していた。
しかし、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。
とはいえ、死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。

IMG_0095ccマヤ・デヴィ寺院
800px-Lumbinibodhiルンビニ
 ↑ ブッダの生誕地ルンビニ──今のネパール南部にあるが今はマヤ・デヴィ寺院と菩提樹の立ち木と池があるに過ぎない。
寺院も、たとえば塔などもすっかりネパール風の装飾になっていて馴染めない。

仏教の八大聖地(はちだいせいち)は、仏教における重要な8つの聖地の総称。その全てがゴータマ・ブッダの人生に関わる遺跡である。

ルンビニ - 生誕の地。
ブッダガヤ - 成道(悟り)の地。
サールナート - 初転法輪(初めての説教)の地。
ラージギール - 布教の地。
サヘート・マヘート - 教団本部の地。
サンカーシャ - 昇天の地。
ヴァイシャリ - 最後の旅の地。
クシーナガラ - 涅槃(死)の地。

ブッダガヤ(仏陀伽邪 बोधगया)は、釈迦(如来)が六年の苦行の末に成道(悟り)の地で、八大聖地の1つ。ボードガヤーとも表記する。
また、ヒンドゥー教における聖地でもある。特に仏教では最高の聖地とされている。
450px-Mahabodhitemple大菩薩寺
Dscn1218_m金剛座
 ↑ 大菩提寺内の「金剛宝座」
ブッダガヤの大菩提寺-菩提樹はインド東部、ビハール州、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河のほとりにある。
古い煉瓦構造建築様式の1つである。 ユネスコにより世界遺産に登録されている。
ブッダガヤには、中心にあるブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)と、そのまわりにある各国各宗派の寺院(例 中国寺、日本寺、ネパール寺など)がある。マハーボーディー寺の中には、その本堂である高さ52mの大塔と、ゴータマ・ブッダが成道したときに座っていた金剛宝座と、成道したときにその陰にいたゴータマ・ブッダの菩提樹、沐浴の蓮池がある。
388px-Mahabodhitree.jpg
 ↑ ブッダガヤの大菩提寺脇にある菩提樹
釈迦牟尼が悟りを開いた場所であり、ビハール州パトナーからおよそ96km離れたところに位置している。
紀元前約530年、僧として放浪している釈迦牟尼がガンジス川支流の森の岸に着いたその位置を示すために造られた。
長らくヒンドゥー教の管理下にあり、寺院が整備されず荒廃していたが、1949年にヒンドゥー教徒と仏教徒の各4名と政府要員1名による管理となった。
さらに1992年には佐々井秀嶺などによるブッダガヤ奪還運動が行われ、近年では仏教徒のみによる管理へと移行しつつある。
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 ↑ 日本寺の仏塔

 サールナート 
img_350964_32173841_1サールナート
 ↑ サールナート遺跡──俗に「鹿野苑」(ろくやおん)と呼ばれている。
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↑ サールナート ダメーク・ストゥーパ

サールナートは、インドのウッタル・プラデーシュ州にある地名。ワーラーナシー(ベナレス)の北方約10kmに位置する。
釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる。初転法輪の地。仏教の四大聖地のひとつ。
鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表される。

現在はインド政府によって整理され遺跡公園になっている。
またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館に収蔵されている。
( ↑ 一番はじめに掲出した像)
サールナート出土初転法輪像はお釈迦さまの初めての説法を描写した傑作の仏像。5世紀頃の作と考えられる。
足元には中央に法輪があり、それを囲んで右に三人、左に二人の計5人の弟子がいる。左端には母と子が描かれているという。
また法輪の両側に鹿が二頭配置され、鹿野苑での説法であることを表わしている。

クシーナガラ
800px-Mahaparinirvana.jpg
 ↑ パリニッバーナ寺院の涅槃仏

クシーナガラ(英語:Kushinagar、タミル語:กุสินารา)は、古代インドのガナ・サンガ国であったマッラ国(末羅国)の二大中心地のひとつで西の中心地であり、
現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村。
釈尊入滅の地とされ、四大聖地のひとつ。ワーラーナシー(ベナレス)の北150kmの地にある。

死期を悟った釈尊は霊鷲山(ビハール州)から生まれ故郷に向う途中にこの地で亡くなる。
純陀(チュンダ)の供養した「スーカラ・マッダヴァ(sukara maddava)」(豚肉料理、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコ料理とも)
を食して激しい下痢を起こしたのが原因とされる。
マハー・パリニッバーナ・スートラ(大般涅槃経)には、このクシナガラで釈尊が涅槃するまでの模様が書かれている。

DSC_2479bインド修行僧
↑ インド人修行僧たち



大聖堂のスズメたち「レーゲンスブルク少年合唱団」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Regensburg_08_2006_2レーゲンスブルク

  ──巡礼の旅──(2)

   大聖堂のスズメたち「レーゲンスブルク少年合唱団」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

母なる大河ドナウにはローマ時代から築かれた石橋が架かり、今も街の人々が生活のために利用している。
その橋の先には大聖堂の二つの尖塔が聳えたち、街の中心であることを示している。
x1603レーゲンスブルク大聖堂

レーゲンスブルク(Regensburg)はユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人(2002年)。

ここはバイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置する。
そのため、水上運輸の要所としての役割を果たしている。歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める。
近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタットが位置する。

歴史的には、 1世紀、ローマ帝国軍の駐屯地、カストロ・レギーナがおかれた。これが現在の地名の由来ともなる。
6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。
その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。
13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。
神聖ローマ帝国における帝国議会がこの地で幾度か開催され、1654年にレーゲンスブルクでなされた「最終帝国議会決議」は、正規の帝国議会における決議としては最後のものであった。
1663年以降、それまで各地で開かれていた帝国会議は、レーゲンスブルクに常置された。
1803年に独立を失い、マインツの代わりとしてマインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクに引き渡された。
カールは街を近代化させ、プロテスタントとカトリック教徒に同じ権利を与え慕われた。1810年にバイエルン王国に引き渡され、カールはフルダへと移った。
1809年4月19日から4月23日までオーストリア軍とフランス軍が交戦し、街に大きな被害が出た。
第二次世界大戦中にはドイツ軍の第8軍管区本部が置かれたが、連合軍の空襲は小規模で、多くの歴史的建造物は破壊されずに残った。

x1607レーゲンスブルク少年合唱団
大きくて威厳ある大聖堂では、その堅いイメージとは対照的に「大聖堂のスズメたち」、ドイツ語で「ドームシュパッツェン」という名の少年合唱団が活躍している。
生徒たちは専門の学校で寄宿生活しながら学び、声楽のレッスンや音楽の授業のほかに通常の学校教育を受ける。
合唱団には約500人の生徒が所属。一千年以上の伝統があり、ドイツ最古の少年合唱団だけあって彼らの歌声を聴くためにここを訪れる観光客も多い。
毎週日曜日、大聖堂でミサが10時から始まり「スズメたち」の歌声が堂内にひびく。
ミサに着用するローブには赤白と黒白との二種類があるようであり、写真のものは黒白である。
大聖堂は十三世紀に建築が開始され、それから300年もの歳月をかけて完成した堂々たる姿のゴシック様式である。
「スズメたち」の歌声 ↓ (ただしミサのものではない。動画用に採録されたもの)


世界的に有名でアメリカやアジアの諸国、もちろん日本でも度々公演を行っていて、CDなどもネット上にも出ている。
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ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)

   ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。



↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十三年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

       水ためはどこに行ったか
       市場は廃墟のようだ
       誰もエルサレムの神殿の丘を散策できない
       岩の洞窟には風がうなりをあげ
       エリコを通って死海に下るものは
       一人も居ない
        (中略)
       丘の空気はワインのように澄み
       松の香りが夕べの鐘の音と共に漂ってくる

       木も石も深いまどろみの中で
       孤独な町が建っている
       その懐に壁を抱いて

        (リフレイン)

       黄金のエルサレム、銅色と光の、

       あなたの歌のひとつひとつにあわせて
       私は竪琴になろう

       もし 全てが黄金に包まれる
       このエルサレムを
       私が忘れるなら
       今 私たちは
       水ために
       この市場に、野原に帰ってきた
       エルサレムの神殿の丘には
       角笛の音が響きわたる
       岩の洞窟には幾千もの太陽が輝いている
       さあ エリコを通って再び死海へ下ろう

この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を無くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。

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