K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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草弥の詩作品「 畢詩  あとがきに代えて」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
627px-Emperor_Go-Mizunoo3後水尾院
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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<後水尾院>シリーズ──(28)

    畢詩  あとがきに代えて・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

それは突然のことだった。
宗政五十緒(龍谷大学文学部教授・近世文学専攻)が大学院生の女の子を連れて私の家を訪問された。
この頃、宗政は「都をどり」の台詞の作詞を担当していて、今年は宇治茶の茶摘み風景を取り入れたいので参考にと来訪されたものである。
今から二十年も前のことで平成に入ってすぐの頃か。
話しているうちに彼と大学の同学年であることが判明。何しろ一学年には約二百人くらい居るから交友があるのは限られている。
茶園や茶摘み道具の竹製の茶摘み籠を見せたりした。都をどりの場面では茶摘み籠に当家の屋号である○京の印が入っていたりした。
宗政は短歌結社「あけぼの社」という小さな会を主宰して弟子たちに歌や文章を執筆させていた。
その中に森川知史(現・京都文教短期大学教授・コミュニケーション論)という人がいて、この人が何と私たちの従姉の子なのだった。
都をどりの関連でいうと、猪熊兼繁(京都大学法学部教授・法制史専攻)先生に一般教養の法学概論の講義を受けたが京都弁丸出しの漫談のような講義だった。
この猪熊兼繁が先任の都をどりの作詞家だったのが亡くなられて、その後任が昭和五五年から宗政五十緒ということで因縁話のように繋がるのだった。
都をどりは「甲部歌舞練場」を本拠にする格式高いもの。祇園乙部というのはいわゆる遊郭であって、一口に祇園と言っても、いろいろあるのである。
宗政五十緒『江戸時代の和歌と歌人』(同朋社出版、平成三年刊)という本で後水尾院に触れたのが、そもそもの始まりだった。
彼はハーバード大学研究員としてアメリカの大学に居たりして、その筋では名の知られた学者のようである。
彼は一九七七年に「江戸時代前期における宮廷の和歌」という論文で、いくつかの近世和歌史が近世初期の和歌の環境面について触れるところの少ない不満を述べ、
後水尾・後西・霊元三院の文学活動の一端を明らかにしたのが発端となり各氏が研究を始めたらしい。
もっとも昭和五年には、すでに 吉沢義則『頭註後水尾院御集』(仙寿院刊)のような詳しい研究書が存在する。
彼は心筋梗塞で心臓バイパス手術を受けたことがあり、後に私の亡妻も同じ手術を受けたことで、これも因縁めいている。その彼も二○○三年に心筋梗塞の再発で死んだ。
今でこそ龍谷大学は理科系の学部も揃った総合大学になっているが、私たちが学生の頃は龍谷大学は僧侶養成の学生数も数十人という文学部のみの学校だった。
西本願寺の敷地の一番南端のところが校舎だったらしい。
心臓バイパス手術というのは大手術で何時間もかかるので、その時に、彼は「臨死体験」をした、と西本願寺の雑誌に書いていた。

後水尾院に関する記録は膨大なものがあり、近衛家に伝わる『陽明文庫』の文書などを基に、よく研究されている。
『後水尾院御集』(久保田淳監修・鈴木健一著 明治書院刊「和歌大系68」平成十五年)
『後水尾天皇』(熊倉功夫 中公文庫2011年再版)
『後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて』(久保貴子 ミネルヴァ書房2003年)
『お公家さんの日本語』(堀井令以知 グラフ社2008年)
『御所ことば』(井之口有一・堀井令以知 雄山閣2011年)
小説『花と火の帝 上・下』(隆慶一郎 新潮社2010年)作者死亡のため未完

などがあるが、 隆慶一郎の小説は実在の人物─たとえば近衛信尋などが登場するが猿飛佐助なども出てくる怪奇的エンターテインメントの作品で、また八瀬童子などを中心とする親衛隊「天皇の隠密」というような者を設定して描写している。
敵方の襲撃者として白玄理なる中国人の術者なども登場する。
エンターテインメント、読み物としては面白いが虚構性が強すぎるのでサスペンス小説として受容した。しかし資料をよく読み込んだ形跡があり、さすがである。
御所ことばの件だが、その頃、宮中の一角に「お湯殿」という女官たちの溜り場のようなところがあり、そこで日常のことを記録した『お湯殿の上の日記』というのが残っていて、それらを堀井令以知らが調べたものなどが知られる。
堀井令以知は一九二五年生れだが、私の住む青谷村の中村という集落出身である。もっとも先代のときに村を出ているから当地の学校には行っていないらしい。
彼は「御所ことば」の専門家としてテレビドラマなどの考証に名前が出ている。
当時の宮廷は、まさに「身分制度」の典型であった。公家と言っても上は五摂家から下級の公家まで、ピンからキリの身分があった。
臍の緒を切った家が身分が高ければ、生まれながらにして摂政、関白などの官位につくことが出来た。一方、下級公家の家に生まれた者は、一生ずっと下級の官位のままである。
本文中にも、その一端を描写しておいたが、こういう本人の実力によらない身分制度が時代の変化に対応できずに統治能力を麻痺させ、制度崩壊を招くことになった。
それが明治維新という形で実現し、新しい立憲君主国家を始めることとなった訳である。

後水尾院は五代四十年にわたって強力な「院政」を布いたことにも象徴されるように、江戸時代全般を通ずる先例を築かれたようである。
そういう、いわば巨象のような後水尾院を、盲人が体の一部分を撫でているようなのが、私のこの詩である。
小説でもない、論文でもない、エッセイでもない、──まさに詩としか名づけようのない一片の木の葉である。
もっと虚構のフィクションに徹した詩にしたかったが、何しろ記録に残るものが多くて、それらを無視できなかった。
全くの虚構と言えば「お夏」「お秋」「お冬」「お春」の一連などだが、現代詩は何でもありだから「見てきたような」虚構で彩ってみた。

後水尾院の三十七人にのぼる皇子や内親王の数を見ていると、今の皇位継承者の断絶云々という騒ぎは何なんだという気がするが、
明治天皇を最後として「後宮」「側室」制度というのが無くなり、これも時代の移り変わりかと、うたた感慨深いものがある。
年長に生まれても「儲君」にもなれず「法親王」として寺院に追いやられた皇子たちの悲嘆も思いやられた。
後水尾院が『禁中並公家諸法度』によって統治や行動に厳しい枠をはめられ「学問・諸芸能」に役割を限定されたのを見ていると、
今の「象徴天皇」そっくりなのに感心する心境になったものである。一方は強制したのが徳川幕府であったが、他方はアメリカ占領軍であった。
歴史的に見て、この両者は、これで良かったのだという気がする。
明治維新の「皇国史観」の強制によって、天皇は「現人神」(あらひとがみ)とされ、「天皇の名」によって悪いことが圧政として強いられた。
たとえば日清、日露戦争をはじめとして第二次世界大戦に至る、当時の世界列強の帝国主義に倣った侵略戦争への突入などがそれである。
その意味では、天皇には戦争責任があったと言えるが、アメリカ占領軍は天皇制を残すことによって占領政策を円滑に進める道を選んだのだった。
先に第五歌集『昭和』を出したが、その読後感の中に「昭和という時代へのノスタルジー」というようなものがあったが、私の中では、もっと「にがい」記憶として存在するのであった。
この詩とも言えないものを書きながら、脳裏にはさまざまなことが想起した。これもいい勉強をさせてもらったと思っている。



草弥の詩作品「ひよどり越え──お春の巻」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 古代ギリシアの壺の絵つけ

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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院>シリーズ──(27)

      ひよどり越え──お春の巻・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     あたたかくなってきた
     お春は その名の通り 春が好きだった
     まして お上に呼ばれて いそいそとやってきた
     
     <ぬくうなってきたからナ
      お春の お得意の
      ひよどり越え を所望してみよう>

     と お上が呼ばれたのである

     ひよどり越え とは
     今どきの言葉で言えば 後背位である
     これは『平家物語』の一ノ谷の戦いで
     背後の山越しに後方から攻撃をかけたのに見立てたのだ
     因みに
     古代ギリシャの喜劇『女の平和』には
     「チーズ削りの上の雌ライオン式に立ち」というせりふがあり
     この体位だと 言われている

     もっとも お上は 繋がるまでに
     口吸い に始まり 
     豆なめ と続き
     お上の一物への 尺八などを
     お求めになって 徐々に
     ご気分を高めてゆかれた

     <貴(あて)も もう齢じゃからのう>
     と仰言(おうせ)られたが
     秘め事では お元気そのものであった
     ただ いろいろと趣向が多いのである

     この体位では 
     乳房や乳首 尻なども 空いている手で
     思い通り 愛撫することも出来る

     お上は 知識旺盛であられたから
     お春を相手にしても
     寝物語りに こんな話をなさった

     <『日本書紀』という本にはのう
      イザナギとイザナミの神さんが
      鶺鴒(ニハクナブリ)が交尾する様をみて
      子を成す方法を知ったとあるのじゃ>
     と 薀蓄を披露されたりした

     こんな伝説のため 古来日本では
     結婚と鶺鴒の縁は深く
     セキレイは結婚と交接を象徴する鳥となっている

     人間の場合 生物学的に様々な性交体位を取ることができる
     男性が女性の上から被さる形の正常位が一般的と考えられるが
     哺乳類のほとんどは雌の後ろから雄が覆い被さる後背位である
     人間以外では ピグミーチンパンジー(ボノボ)や
     オランウータンが正常位による交尾を行うことが知られている
     コンドームメーカーのDurex社の調査によれば
     世界で最もよく行われる体位は騎乗位で全体の29%
     続いて後背位が28% 正常位(正しくは対面男性上位)が20%となっている
     現代日本では 正常位が一般的と考えられているかも知れないが   
     実は 後背位が日本古来の姿だったと考えられている

     男性が女性との結合部や肛門を眺めながら深い挿入を行える体位でもあり
     腕が自由になるので女性の身体を摑みながら腰を使いやすい
     いわば 挿入のためだけの体位 と言う面もあろう
     膣口が背中側に近い下付き女性にとっては楽な姿勢だ

     古くは「枕を交わす」「情を交わす」といった奥ゆかしい言葉を使った
     「肌を合わせる」「体を重ねる」なども そうである

     お春のような 床上手な遊女は 
     お上にとっては 師匠のようなもので
     技(わざ)には疎い禁中の女たちを相手にしておられる お上には
     目からウロコのような 秘戯を たくさん覚えられた

     薀蓄ついでに 世界での言い方を 披露しておこう
     ラテン語 - coitus more ferarum(「動物のやり方」)
     英語 - doggy style(「犬のやり方」)on all four(「四つ足で」)from behind(「背後から」)
     フランス語 - levrette(「グレートハウンドの雌犬」)
     イタリア語 - pecorina(「小さい羊」)
     オランダ語 - hondjeshouding
     インド 『カーマ・スートラ』 - 「牛の結合」   などと言う

     お上は あらためて 挿入され
     お春の きんちゃくの締めも
     ますます 具合が良くなり
     お春の腰を抱いて 
     獅子のように 咆哮して 精を放って
     果てられた

のちに後水尾院は詠まれた

   <花よいかに身をまかすらんあひ思ふ中とも見えぬ風の心に>





草弥の詩作品「こたつがかり──お冬の巻」・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──<後水尾院>シリーズ──(26)

     こたつがかり──お冬の巻・・・・・・・・・・・・木村草弥

     寒くなってきた
     京の底冷えと言って
     盆地である上に
     都の三方を山に囲まれて
     冷気が溜まりやすく
     京の都の冬は とても寒い

     禁裏は
     北は今出川通から
     南は丸太町通までの間で
     極端に言えば 冬の間は
     比叡下ろしの風が 雪を呼んで
     いつも ちらちら 雪が舞う始末だった

     お上は
     馴染みの お冬を呼ばれたのだが
     寒くて 炬燵を出られなかった
     夜は しんしんと 更けていった

     <お上 よい知恵がありますのえ
     こたつがかり と言いますのえ>
     と言って お冬が お上を誘った

     炬燵に入ってのプレイである
     お冬は お上の膝の上に座り
     こたつ台に手をつきながら 挿入する
     座位の後背位である

     これは 炬燵を利用した冬限定の体位である
     お冬は 炬燵に手をつきながら
     一心に 腰を振った
     お上は お冬を抱きかかえながら
     お冬の乳首を もみしだいた

     二処責めの愛撫に
     お冬は よがり声を上げた
     それに刺激されて
     お上も 歓喜の声で 応じられた

     抱き合ったまま 横に倒れて
     なおも 激しく まぐわうのであった
     そして二人は 絶頂に達した

     泰平の世がつづいて 
     下々の庶民も 
     性の楽しみに 勤しむようになり
     四十八手 なんていう体位を
     編み出す 始末だった
     <江戸四十八手>という
     浮世絵の春画や 手拭に版刷りした
     体位一覧が 出回るような始末だった

     こんなものがあるが お分かりかナ

    うしろやぐら  吊り橋  寄り添い  撞木ぞり  獅子舞  菊一文字 
    こたつがかり テコかがり  岩清水  時雨茶臼  理非知らず  茶臼のばし 
    こたつ隠れ  乱れ牡丹  帆かけ茶臼  本駒駆け  百閉  雁が首  しがらみ 
    二つ巴  御所車  松葉崩し  碁盤攻め  首引き恋慕 しぼり芙蓉  仏壇返し 
    手懸け  椋鳥  窓の月  鳴門  しめ小股  千鳥  抱き上げ  流鏑馬 
    立ちかなえ  鵯越え  だるま返し  千鳥の曲  抱き地蔵  浮き橋  立ち松葉 
    鵯越えの逆落とし つばめ返し  宝船  押し車  深山  立ち花菱  鶯の谷渡り

       雪が 小止みなく降りつづき
       夜は しんしんと更けていった

のちに後水尾院は詠まれた

     <手習ひのただ一筆も書き添へばいかで待ち見るかひもありなん>


    
草弥の詩作品「公家の茶の湯」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
525px-NINSEI_Wisteria_TeaJar_MOA仁清 色絵藤花茶壺
 ↑ 仁清 色絵藤花茶壺(MOA美術館 蔵)
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──<後水尾院>シリーズ──(25)

       公家の茶の湯・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

茶の湯もまた「結界」を必要とする芸能世界であった。
千利休によって完成された侘び茶は、後水尾院の時代に改めて大きな文化の潮流となる。
日本人が古代より持っていた「宴」という神人共食的な饗応の伝統に茶の湯も組み込まれたために、主客ともに清めの儀式を強いられるような「聖性」を含んでいたのである。
聖なる場で非日常的な行為をするには、日常的な世界との間に厳しい結界が設けられる。
茶の湯では、その結界が「露地」であり、「にじり口」であった。
武家や町衆に流行した茶は、このような露地やにじり口のような市中の山居的な狭隘な場─茶室─に実現されたのだが、
後水尾院をはじめとする公家の茶の湯は、また別の結界を設けた。それが浴竜池のような「池」の結界だった。

寛永二十年(一六四三)三月二十六日、鳳林和尚が後水尾院に仙洞御所で茶を献じた日記がある。
この日は朝から青天白日のよい天気。 先ず茶屋で懐石を院に差し上げた。
部屋飾りは亀山天皇の宸翰を懸け、立花の達人である高雄上人をわざわざ招いて花を入れさせた。
やがて膳が終る。膳が済むと菓子が出る。菓子を食べ終ると客は座を立つ。この休憩を「中立」(なかだち)という。
武家や町衆の茶会では、いったん客は庭に出て待つうちに亭主は座をあらためて茶を点てる準備をするが、この仙洞での茶会ではそのまま、用意してあった舟に乗って舟遊びとなる。
ここで思い出されるのが、先に書いた桂山荘での舟遊びである。やはり書院で切麦などの軽い食事を済ませたのち、池の舟中で菓子を食べ、茶屋に上がって茶となっていた。
仙洞の茶会では菓子をどこで食べたかわからないが、あるいは舟遊びの中で食べた可能性がある。
いずれにしても茶会の中立にあたるときに舟遊びが行われていたことがわかる。
さて舟はどこに着いたのだろうか。仙洞御所の図を見ると、南北に細長い池になっていて、御殿と池を挟んで向い側に茶屋があった。
<御舟より御茶屋にならせられ、すなはち御茶を相催さる>とある。
池を舟でめぐって再び茶屋に上った。濃茶のあと菓子やらいろいろ出て薄茶が重ねられただろう。
侘び茶であればここで茶会は終るのだが、公家の茶には後段として酒宴が続けられた。
日記の記事は続く。<日暮れの後、ようやく後段を出す。御盃出し、御酒を奉る。すなはち各々謡声を発し、乱酒。>
乱雑な雰囲気となって、院はご機嫌で鳳林和尚は天盃を四回も頂戴するという破格のもてなしを受ける。
<仙洞御機嫌能く、竜顔笑みを含められるにより予の満悦浅からざるもの也。>
ついに院は酔いつぶれる。院は、今宵は庚申、いささか羽目を外してもよかろうという。夜ふけて午前二時ころにようやく茶屋から御殿に戻られた。
ほぼ同時代の建築である西本願寺の飛雲閣を見ると、まさにはじめから閣の入り口は池中の舟だけに開かれいて、池の端から舟による彼岸への渡海によって、
会所あり風呂あり、展望台まである飛雲閣に到着する。
内部ではさまざまな接待があり、茶や酒や美膳が用意され、舞踊などの遊びが池を渡ってくる人々をユートピアへ誘い込んだのである。
このような遊楽図屏風的な世界から隔たらない所に院の遊宴、ことに茶の湯の世界もあったと言えよう。
後水尾院の茶の湯好きは徹底していて、鳳林和尚の日記『隔?記』だけでも三十四回以上の詳しい記述があるので、まだまだ多かったと思われる。 
院の茶会の特徴は「掛物」で宸翰は四度登場するがそのうち三回が後鳥羽上皇であった。歌集を見ると後鳥羽上皇を慕う歌が幾首も見出せる。

        <波風を嶋のほかまでおさめてや世を思ふ道に春もきぬらむ>

という歌は寛永八年(一六三一)二月、後鳥羽上皇が流された隠岐の島へ奉納する二十首の歌の中のひとつである。 
嵯峨天皇にはじまり、清和、後鳥羽、後醍醐と続く皇統の系譜が後水尾院の文化を形成せしめる骨格を成していたと言えるだろう。
後鳥羽上皇以上に多用されたのが藤原定家で、江戸時代初頭の定家ブームが、こうしたところにも表れている。
院が茶を誰から学んだかの記録はないが、当時の公家の茶に一番大きな影響を与えたのは金森宗和であった。院も間接ではあったが宗和を信頼する一人であった。
金森家は代々茶の道に詳しく名物茶器も所持する家であったから、宗和はもともと茶人として著名だった。大阪冬の陣に際して父子の間で意見が衝突して母を伴って京へ出奔。
京都御所八幡町という禁裏のすぐ西側に住まいする牢人茶人としての新しい人生を始めたのである。
茶道史の通説では宗和の好みを<姫宗和>という。公家好みの上品で華やかさを持った優雅さが特徴だったようである。彼の茶を愛したのは近衛信尋や一条兼遐だった。
陽明文庫に収蔵される院の手紙に<金森宗和とやらん内者、古筆あつめ候者の手鑑、其外にも短冊も切も所持申し候分、み申し度く候>とあって、両者の深い縁を思わせる。
公家の茶で金森宗和が人気があったのは、彼が竹の茶入の名人だったことも一理だろう。
公家たちは茶の湯で使う竹の茶入を珍重したので、引っ張りだこだった様子が記録に残る。
それとともに近世前期の陶芸史を輝かしいものにした京焼の世界、ことに野々村仁清の焼物であり、特に「錦手」と言われる色彩鮮やかな陶器を生み出し、非凡な造形力の天才的な人物だが、
彼が御室焼と呼ばれる新しい陶芸を始めたとき、いち早く支持者になったのが金森宗和だった。

寛文四年(一六六四)十二月四日に、後水尾院の修学院で、世にいう<修学院焼>が焼き上がった。
いま、その焼き物の遺品を見ると初期京焼独特の優美さと色彩を持ち、仁清と共通するところが強く感じられる。
『隔?記』寛文七年(一六六七)十二月九日の条によれば、修学院焼五点を鳳林和尚は拝領しており、翌年正月十一日には院が修学院焼をいくつも部屋に飾って人々に優劣をつけさせ配分している。
ついに院の山荘の風流は一会の遊興のみならず、新しい陶芸をも含み込むものへと展開したのだ。

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今度も「?」字の個所があるが、前と同じような理由である。
この字は草冠に「冥」が付くものである。 今度も全体が消えなくてよかった。



草弥の詩作品「一絲文守七言絶句に後水尾院和韻の十首」・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 永源寺
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──<後水尾院>シリーズ──(24)

     一絲文守七言絶句に後水尾院和韻の十首・・・・・・・・・・・・木村草弥

年代は判らないが、一絲文守から投贈された七言絶句に対して、院は和歌でもって応えられた。
はじめに院の和歌を出し、その歌に対応する和尚の漢詩を出しておく。

      山陰道のかたはらに世捨人有、白茅を結びて住める事十年
      ばかりに成ぬ、かの庵に銘して桐江といふ、三公にもかへ
     ざる江山を望みては詩情の資となし、一鳥鳴かざる岑寂を
      あなまひては禅定を修し、すでに詩熟し禅熟せり、ここに
      十篇の金玉を連ねて投贈せらる、幽賞やまず翫味飽くこと
     なきあまりに、芳韻をけがしつたなき言葉をつづりて、是
      に報ふといふ、愧赧はなはだしきものならし


「世捨人」一絲文守のこと。「桐江」寛永九年に和尚が開いた庵の名、後の法常寺。
「愧赧」恥じて赤面する。

   うら山し思ひ入りけん山よりも深き心のおくの閑けさ(一〇二五)    

   「憶昔誅茅空翠間、隨縁幾度入人寰、而今悔識聖天子、減却生前一味間」 一絲文守

   いかでそのすめる尾上の松風に我も浮世の夢を醒さん(一〇二六)

   「遅日融々透短櫺、落梅埋尽読残経、春来殊覚?眠快、万岳松風喚不醒」 一絲文守

「すめる」は「住める」と「澄める」 に掛かる。
「浮世の夢」─本歌「年のあけて浮世の夢のさむべくは暮るともけふは厭はざらまし」(新古今・冬・慈円)

   思へこの身をうけながら法の道踏みも見ざらん人は人かは(一〇二七)

   「偏愛清閑養病身、簷山偃蹇四無隣、有時偶傍水頭立、痩影驚看似別人」 一絲文守

「法の道」─仏道。
 本歌「いつしかと君にと思ひし若菜をば法の道にぞけふは摘みつる」(拾遺・哀傷・村上天皇)
「踏みも見ざららん人」─仏道に入らない人。

   鶯も所得顔にいとふらん心をや鳴く人来(ひとく)人来と(一〇二八)

   「扶宗微志化為灰、杲日西傾麾不回、自恨卜居山甚浅、未流菜葉惹人来」 一絲文守

本歌「梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる」(古今・俳諧歌・読人不知)
「所得顔」得意顔。「軒の忍ぞ、所得顔に青みわたれる」(源氏物語・橋姫)。
「人来人来」人が来た、人が来た。俗世との関わりを厭う和尚の気持に鶯も共感する。

   心して嵐もたたけとぢはてて物にまぎれぬ蓬生(よもぎふ)の門(一〇二九)

   「茶炉薪尽拾松葉、薬圃地空栽菜根、曾被世人奪幽興、会聴剥啄不開門」  一絲文守

「蓬生の門」蓬などが生い茂って荒れ果てた門。

   山里も春やへだてぬ雪間そふ柴の籬(まがき)の草青くして(一〇三〇)

   「痩骨峻?似鶴形、聊?薄?任頽齢、钁頭不用重添鉄、荒草遶門春転春」  一絲文守

「雪間そふ」 積雪の消えたところが増してくる。

   去年よりも今年やしげき雪おもる深山の杉の下折の声(一〇三一)

   「春浅巌房寒未軽、布団禅板適幽情、定中猶厭生柴火、彷彿秋虫霜後声」 一絲文守

参考「待つ人のふもとの道は絶えぬらん軒ばの杉に雪おもるなり」(新古今・冬・藤原定家)
   「松杉の下折れしままうづもれて岡を並らぶる雪の山中」(草根集)

   此国に伝へぬこそは恨なれ誰あらそはむ法の衣を(一〇三二)

   「人間得喪久忘機、古木陰中昼掩扉、定有諸方闡玄化、不妨寒涕湿麻衣」 一絲文守

参考「いにしへは思ひかけきや取り交しかく着んものと法の衣を」 (千載・雑中・藤原忠道)

   世にふるはさても思ふに何をかは人にもとめて身をば拳(かが)めむ(一〇三三)

   「白雲分与安禅榻、青草宜為座客氈、収得百年閑影迹、対人懶更竪空拳」 一絲文守

「身をば拳めむ」身を潜める。忍び隠れる。

   故郷に帰ればかはる色もなし花も見し花山も見し山(一〇三四)

   「透得閑名破利関、更無一物犯心顔、客来若問解何道、笑払巌花見遠山」  一絲文守

下句の対句表現は漢詩に唱和するという行為に触発されてのものか。
この一連は、一絲文守の漢詩の七言絶句の四句目末字に和韻するものである。

院の和歌の後の数字は『後水尾院御集』の和歌に付けられた歌番号である。

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案の定、「記事を保存」をクリックすると、いくつかの漢字が「拒否」されたが、「?」になるだけで、全体の記事が消えることはなかったのは、よかった。
正しい原稿はマイドキュメントの文書ファイルに入っているので安心である。
一応「?」字になっている理由を説明しておいた。 昔のお坊さんは難しい字を使うものである。
歌番号1030の「?」のところの字は、前から
①山偏に「曾」の字。 ②「冫」(にすい)に「食」の字。 ③米偏に「参」の字の正字。 よろしく。



草弥の詩作品「紫衣事件」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
takuan001沢庵
↑ 沢庵宗彭像
imgc98bbaabzikbzj沢庵書
 ↑ 沢庵 書
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院>シリーズ──(23)

       紫衣事件・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。
江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。
後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。

紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。
僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。

事件に至る事情
慶長18年(1613年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定め、
さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

一、 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。
 向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

事件の概要
このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。
これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、
京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、
また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。
これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。

この事件の中心人物である沢庵について少し書いておく。
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、天正元年12月1日(1573年12月24日)~ 正保2年12月11日(1646年1月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。
大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。
書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。

生立ち
天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父・綱典は但馬国主山名祐豊の重臣であった。
8歳のとき但馬の守護山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。
沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。
天正19年(1591年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になった。
文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。
薫甫の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、慶長9年(1604年)沢庵の法号を得た。
慶長12年(1607年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。
慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。
元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。名付けて投淵軒という。

紫衣事件
江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。
特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。
これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。
寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。
これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。
上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。
沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。

寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物である。
沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。
しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。
宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。
この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年、郷里出石に戻ったが、翌年に家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。
寛永16年(1639年)、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。
家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。
正保元年(1644年)、土岐頼行が東海寺に上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。
晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。
正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。
「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。

ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。
後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。

フィクション上では、しばしば宮本武蔵と結び付けられる。
例えば、吉川英治作の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担っているが、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無い。
(吉川自身も「武蔵と沢庵和尚の出会いは、自身による創作である」と明言している)。




草弥の詩作品「徳川家光薨去に遣わされた歌」・・・・・・・・・・木村草弥
736px-Iemitu徳川家光
↑ 徳川家光像
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──<後水尾院>シリーズ──(22)

      徳川家光薨去に遣わされた歌・・・・・・・・・・木村草弥 

徳川第三代将軍・徳川家光は慶安四年(一六五一)四月二十日に亡くなった。享年四十八歳。
院の中宮・東福門院和子は秀忠の娘で、家光の妹である。

      将軍家光公薨去の時、女院御方へつかはさる 

   あかなくにまだき卯月のはつかにも雲隠れにし影をしぞ思ふ

   いとどしく世はかきくれぬ五月やみ降るや涙の雨にまさりて

   時鳥宿に通ふもかひなくてあはれなき人のことつてもなし

   たのもしな猶後の世も目の前に見ることわりを人に思へば

   ただ頼め蔭いや高く若竹の世々のみどりは色もかはらじ

「あかなくに」まだ飽き足りないのに。「まだき」早くも。「はつか」二十日と「はつか」=僅か、との掛詞。
「雲隠れにし」月が雲が隠れることを薨去の意味を重ねる。
「いとどしく」いよいよ。「かきくれぬ」悲しみで心が暗くなってしまった。「五月やみ」=五月闇。これも薨去に掛けてある。
三番目の歌の本歌は「亡き人の宿に通はば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ」(古今・哀傷・読人不知)
             「山賎の垣ほに這へる青つづら人はくれども言伝もなし」(古今・恋四・寵)
五番目の歌「蔭」=家光のこと。「世々」竹の縁語「節よ」を利かせる。「若竹」は次世代の喩え。

「女院御方」とは、もちろん中宮・和子のことである。

ここで、徳川家に関連するものとして、下記のように引いておく。

   東照権現十三回忌につかはさるる心経の包み紙に 

   ほととぎす鳴くは昔のとばかりやけふの御法(みのり)を空にそふらし

   梓弓八島の浪を治めおきて今はたおなじ世を守るらし

寛永五年四月十六日に「東照権現十三回忌二十八品和歌」が成った。
ほととぎすも家康を追慕して鳴くだろう、という歌。
次の歌の「梓弓」は枕詞で、この歌の場合「八島」の「八」に「矢」の意が利いていて、それに掛かる。
「今はたおなじ」は本歌があり
本歌「わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はんとぞ思ふ」(後撰・恋五・元良親王)

    柏の葉のかたしたる石を将軍家光公につかはさるとて

        色にこそあらはれずとも玉柏かふるにあかぬ心とは見よ

幕府とは、さまざまの争いの経緯があったのだが、禁裏を維持する金は、すべて徳川幕府に依存しているのである。
また中宮・和子との縁は断ち切れないので、時の経過とともに、徳川家に、院も心を許すようになられたのであろう。 



   
草弥の詩作品「八条宮智仁親王添削歌」・・・・・・・・・・木村草弥
dsc17173b桂離宮 松琴亭から
↑ 松琴亭から古書院と月波楼を望む
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──<後水尾院>シリーズ──(21)

     八条宮智仁親王添削歌・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院が若い頃に、父君の弟つまり叔父の八条宮智仁親王から「古今伝授」を受けられたことが記録に残っている。
和歌を作るに際しても自作の歌の「添削」をお受けになっている。記録から、その一端を引いておく。
上が院の元歌。下段が添削済みの完成した、「御集」に載る御歌である。カッコ内は御集の歌番号。

   ■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる(一 一七四)

    降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る

   ■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉(一 一七六)

    見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花哉

   ■郭公まつにいく夜をかさねても聞にかひある初音ならずや(一 一七九)

    郭公待つ夜をあまた重ねても聞くにかひある初音ならずや

   ■タ月夜ふり出しより在明のかげまでもらぬ五月雨の空(一 一八〇)

    タ月夜ふり出(いで)しままに在明のかげまでもらぬ五月雨の空

   ■此里はくもりしはてず一むらの雲もとをちの夕立の空( 一一八四)

    此里にめぐりはやらで一むらの雲もとをちの夕立の空

   ■たちぬるるしづくもあかず片岡や秋まつほどの森の涼しさ(一 一八七)

    立ち濡るるしづくもあかぬ片岡は秋待ちあへず森の涼しさ

   ■四方にみな人はこゑせで更るよの月ぞ心もさらにすみゆく( 一 一九四)

    四方にみな人は声せで更る夜ぞ月も心もさらに澄みゆく

   ■山川やもみぢ葉ながらとぢはてし氷もかくる水のしら波(一ニ〇一)

    山川やもみぢ葉ながらとぢはてし氷にかはる風の白波

   ■越路にはただ時の間に日数ふるみやこの雪のふかさをやみむ(一二〇二)

    日数ふる都の雪の深さをや時の間に見る越路なるらん

   ■をのが妻まつはつらくも大よどの恨わびてや千鳥鳴覧(一二〇四)

    おのが妻待つはつらしと大淀の恨わびてや千鳥鳴覧

   ■夕波に立行千鳥風をいたみ思はぬかたに浦つたふらん(一二〇五)

    友千鳥立ち行く須磨の風をいたみ思はぬかたに浦づたふらん

   ■笛の音もかぐらの庭のおもしろくさゆる霜夜にすみのぽる覧(一二〇六)

    笛の音も神楽の庭のおもしろく冴ゆる霜夜に澄みのぽりぬる

   ■いかになを人は見るらん世のうきにいひまぎらはす袖の涙も(一二〇八)

    よそめにはいかに見るらん世の憂きに言ひ紛らはす袖の涙も

   ■ふけぬとや猶や待みん宵のまはさすがえさらぬさはりもぞある(一二一二)

    更けぬとや猶ぞ待みん宵のまはさすがえさらぬ障りありやと

   ■此ままに又もあはずは中々にありし一夜の夢ぞくやしき(一二一五)

    又も逢はむ頼みなければ中々にありし一夜の夢ぞくやしき

   ■もらさじなそれにつけてもつらからば中々ふかき恨もぞそふ(一二一七)

    もらさじなそれにつけてもつらからば深からん中の恨もぞそふ 

こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であるのが判る。 しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。
八条宮の添削のうち、記録に残っているのは六十首ほどである。
因みに、この八条宮こそ今の桂離宮──その頃は「桂山荘」と称された建物と庭園を造られた人であり、後水尾院の父君・後陽成帝が譲位を望まれた、その人である。
幕府は後水尾院に譲位を迫る。 そんな因縁のまつわるお二人であった。

院が幕府の紫衣事件などに憤慨して娘の明正天皇に、幕府の承認もなく突然「譲位」された同じ年──寛永六年(一六二九)八条宮智仁親王歿。 このとき後水尾院三十四歳である。



       
草弥の詩作品「一絲文守のこと他 立花と庭園」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
C006-thumb-3168x4752-120_533x800一糸文守筆
↑ 一絲文守筆 禅文化研究所「聴松堂文庫」蔵
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──<後水尾院>シリーズ──(20)

     一絲文守のこと他 立花と庭園・・・・・・・・・・・・・木村草弥

一絲文守(いっし・ぶんしゅ)は後水尾院に寵愛された僧である。
院は政治的、権力的な繋がりの人物よりも、こういう文人肌の人を好まれた。
院は弟の近衛信尋の仲介によって、彼に出会った。
ただ若くして早逝したので、長命の院と違って、エピソードには乏しいが、いかに寵愛されたのかが判るのが、死後三十年も経たのちに「仏頂国師」の号を贈っている。
以下、彼の履歴を引いておく。

一絲文守(1608-1646) 江戸時代前期の僧。
慶長13年生まれ。臨済宗。はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,のち京都妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)の法をつぐ。
後水尾上皇の帰依をうけ,寛永18年丹波亀岡に法常寺をひらいた。
彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。
この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。
詩文や書画にすぐれ,茶の湯にも通じ,小堀遠州,松花堂昭乗らと交遊した。
正保3年3月19日死去。39歳。岩倉公家の出。諡号は定慧明光仏頂国師。別号に桐江,丹山。

亀岡の法常寺のほかに、永源寺の再興に尽した。
永源寺(えいげんじ)は、滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の本山。山号は瑞石山。
紅葉の美しさで知られる。開山忌が、毎年10月1日に行われる。
寺は1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。
中世戦乱期に兵火により衰微したが、江戸時代初期に中興の祖とされる一絲文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。
1873年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、1880年に永源寺派として独立した。
三重県いなべ市に永源寺跡 があるが、鈴鹿山脈を挟んですぐ東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったと言われている。
三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切触れられていない。
三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている。
本尊は世継観世音菩薩。
寺内には彦根藩主井伊直興公の墓所がある。
旧永源寺町は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、木地師発祥の地として知られる。
また付近からは平成22年に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。


後水尾院とその周辺の「文事」が栄えた理由としては、幕府との軋轢によって政治の舞台から追いやられ『禁中並公家諸法度』に従って文事に専念せざるを得なかったことが幸いした。
それだけではなく、後水尾院が本来持っていた文学的志向、大局を見渡せる能力、根底にある大らかな性格なども重要な要素として働いただろう。
「和歌」を中心とした文学活動については今までいくつか述べてきたので、ここでは立花と庭園について述べる。
立花」は、譲位後の後水尾院が和歌と並んで最も情熱を注いだ遊芸である。
いわゆる禁中大立花(寛永立花)においては、二代池坊専好が後水尾院の庇護のもと指導的役割を果たしている。
今日、立花を高度の芸術として大成させたのは専好とされるが、日本花道史の側からみても後水尾院は最大のパトロンの一人であった。
近衛家熙が記した『槐記』の享保十三年(一七二八)二月四日の条には、立花に才能を発揮していた尭然法親王(獅子吼院。後水尾院第十皇子)に対して後水尾院が、
自分の歯が悪くなったのは立花のためであるから、ほどほどにせよと忠告したという逸話が載っている(一般に、物事に凝ると歯が抜けると言われる)。
もっとも、この話には落ちがあって、法親王は、後水尾院の歯が抜けたのは立花のせいではなくて和歌のせいだと言って笑ったという。
庭園」は、もちろん修学院山荘のことである。
寛永十八年(一六四一)頃鹿苑寺の鳳林承章に命じて衣笠山付近に適地を求めさせるなど検討を統けていたが、明暦元年(一六五五)長谷への行幸の途次、
第一皇女梅宮(文智女王)のいた円照寺に後水尾院が立ち寄ったところ、その一带が気に入り、ここに山荘を造する構想が成ったらしい。
万治三年(一六六〇)頃には、ほぼ完成していた。
現在では、上・中・下の茶屋が存するが、万治にできた当時はまだ中の茶屋はなかった。
上の茶屋は最も壮大な庭園で、小高い隣雲亭に立って、眼下の浴竜池から遥か京都北山一带へと目を移していくと、雄大な景色を我が物にしようとした帝王ぶりを味わうことができる。






草弥の詩作品「尺八──お秋の巻」・・・・・・・・・・・・木村草弥
4397206尺八
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院>シリーズ──(19)

       尺八──お秋の巻・・・・・・・・・・・・木村草弥

      お秋も市井の遊女である 
      「尺八」の名手として知られていたのを
      お上が連れて来られたのである

      尺八とは今風に言うと「フェラチオ」である
      今どき風俗店では常識の遊びである
      昔の人は、優雅な言葉を隠語に使ったものだ
      フェラチオ (Fellatio) は オーラルセックスの一種であり
      パートナーが相手の一物を口に含んだり舌を使うなどして刺激する
      語源はラテン語の fellare(吸うという意味の動詞)
      英語の隠語ではBlow jobなどと言う
      フェラチオは短縮されて「フェラ」と呼ばれることが多い
      古語では「吸茎」 「口取り」 「雁が音」 「尺八」 「千鳥の曲」とも言った
      今どきの隠語では「F」 「フェラーリ」などという
      また勃起した陰茎を横から咥えることを俗に「ハーモニカ」と言う。


      お上は 今や熟年の齢となられて
      さまざまのことをお試しになった
      下々の者がやっている性行為の体位に
      とても関心を持たれた

      <四十八手などというそうじゃのう>
      などと言われた

      世の中は戦国時代から太平の世になって
      世の中が落ち着くと
      性そのものを楽しむ機運になってきた
      浮世絵の隆盛になるのは もっと先だが
      その走りの肉筆描きの春画などが
      市井の巷には出回りはじめていた

      また院は旺盛な読書家であられたので
      平安時代初期に書かれ 伝承される
      最古の説話集『日本霊異記』のことも
      ご存じだった
      著者は奈良右京の薬師寺の僧・景戒
      上・中・下の三巻
      変則的な漢文で表記されている
      この本の成立年は 序と本文の記述から
      弘仁13年 (822年) とする説がある
      景戒は下の巻三十八に自叙伝を置いて
      妻子とともに俗世で暮らしていたと記して
      国家の許しを得ない私度僧に好意的で
      自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという
      生国は、紀伊国名草郡。

      上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で、合計116話が収められる
      それぞれの話の時代は奈良時代が多く 古いものは雄略天皇の頃とされている
      場所は東は上総国 西は肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い
      その中では畿内と周辺諸国が多く 特に紀伊国が多い
      登場する人物は 庶人 役人から貴族 皇族に及び
      僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。

      説話自体が事実を伝えるものではないとしても
      その主題から外れた背景 設定からは
      当時の世相をうかがい知ることができる
      田に引く水をめぐる争い(上巻第3)
      盗品を市で売る盗人(上巻第34、第35、下巻第27)
      長期勤務の防人の負担(中巻第3)
      官営の鉱山を国司が人夫を使って掘ること(下巻第13)
      浮浪人を捜索して税をとりたてる役人(下巻第14)
      秤や桝を使い分けるごまかし(下巻第20、第26)などである
      また、性愛を扱った説話も収められ
      息子を愛するあまりにフェラチオするようになった母が臨終の際に
      息子のものを吸いながら「わたしは、今後次々に生れ変って
      後の世でいつもそなたと夫婦になります」と言い残し
      隣家の娘に生まれ変わって息子と結婚するといった奇譚などがある(中巻第41)。

      編纂の目的から奇跡や怪異についての話が多い
      『霊異記』の説話では、善悪は必ず報いをもたらし
      その報いは現世のうちに来ることもあれば 来世で被ることも
      地獄で受けることもある
      説話の大部分は善をなして良い報いを受けた話
      悪をなして悪い報いを受けた話のいずれか あるいはその両方だが
      一部には善悪と直接かかわりない怪異を記した話もある。

      仏像と僧は尊いものである
      善行には施し 放生といったものに加え 写経や信心一般がある
      悪事には殺人や盗みなどの他 動物に対する殺生も含まれる
      狩りや漁を生業にするのもよくない
      とりわけ悪いこととされるのが僧に対する危害や侮辱である
      これらが『霊異記』の考え方である
      転生が主題となる説話も多い
      動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く
      人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。

      『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)
      来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)
      前田家本(下巻、重要文化財) 金剛三昧院(高野 本、上中下巻)などがあり
      興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い。

      その中で天竺の話として息子にフェラチオをする母親の説話があるのも
      お上は ご存じで
      <母子の間でのう>などと
      お秋に語りかけられるのだった

      江戸時代の川柳にもこの行為を扱ったものがあり
      この頃の人々には珍しくなかったと言える
      地方藩でこの行為が禁止されたことが
      藩士の日記の中に残っているらしい。

      キリスト教が広く信仰される前の大半の世界では
      とりわけ古代ギリシア・ローマ世界では広くフェラチオが
      愛好されており ごく一般的に行われていた
      発掘されたポンペイの遺跡の壁画などに見られる
      中世キリスト教では生殖を伴わない快楽を求める行為として忌み嫌われたが
      他の文化圏では性行為が繁栄の象徴として扱われたこともあって
      他地域と比べておおらかに描かれている
      インドの『カーマ・スートラ』に描写があるほか
      紀元1世紀 ~ 7世紀に南米に栄えたシパン文明の出土品の中に
      フェラチオを行っている像がある
      インドはカジュラホの寺院の壮大な壁彫刻にも見られる。

      フェラチオというラテン語が近代世界に知られるようになったのは
      チャップリンの二番目の妻リタが怪文書「リタの不満」で
      「彼(=チャップリン)にフェラチオという倒錯行為を強要された」
      と明かしたためであると言われる。


         お上と お秋との 尺八の秘戯の様子を
         描くのは 長くなるので
         止めておこう

のちに後水尾院は詠まれた

     <誰がなかの人目づつみの隔てとて立ち隠すらん秋の河霧>


草弥の詩作品「渋川春海のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
P6113279天球儀
↑ 「紙張子製地球儀(実物)」1695年渋川春海作 重要文化財 国立科学博物館
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院>シリーズ──(18)

      渋川春海のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

朝廷から「暦」の事業を拝命しているのは、陰陽師統括たる土御門(つちみかど)家であった。官許、独占である。当主は土御門泰福(やすとみ)である。
「暦」は生活のすべてを司っていた。その暦を発行しているのは朝廷=帝なのであった。

渋川春海が、暦に係わるようになるのは、ずっと先のことである。
安井算哲は、先ず「碁打ち」から始まる。
碁打ち衆として登城を許されたのは、安井、本因坊、林、井上の四家のみである。
碁打ち衆のあり方は、かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の覇者に碁をもって仕えた「本因坊算砂」に始まる。
算砂は、信長から名人と称えられてその初めとなり、秀吉から「碁所」(ごどころ)および将棋所に任じられた。
そして本因坊算砂の背景には日蓮宗の存在があったことから、家康は城の碁打ちや将棋指しを寺社奉行の管轄とした。
だから碁打ちたちが頭を丸めて僧形であるのは、その理由による。
だが安井算哲=渋川春海は僧形ではなかった。

「渋川春海」と名乗るようになる経緯は次のような理由による。
碁打ちである安井家は一時、河内国の渋川郡に知行地を得ていたことがあり、その上に、

   雁鳴きて菊の花咲く秋はあれど春の海べにすみよしの浜

        この歌は『伊勢物語』(六十八段)に

      むかし 男 和泉の国へ行きけり 住吉の郡 住吉の里
      住吉の浜をゆくに いとおもしろければ おりゐつつゆく
      或る人「住吉の浜をよめ」といふ

         雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春の海辺に住吉の浜

      とよめりければ みな人々よまずなりにけり

    昔 男が和泉の国へ行った 住吉の郡 住吉の里 住吉の浜を
    行くと とても趣深かったので 馬から降りて 腰を下ろし
    風景を楽しみながら行った 或る人が「住吉の浜を下の最後
    の句に使って歌を詠め」と言った そこで男は

    雁が鳴いて菊の花が咲く秋もよいものだが やがては飽きて
    しまふでせう それに比べ この住吉の浜の春の海辺は この
    憂き世で長く住み良い浜と思はれます

    と詠んだので この歌に感銘して 他の人々は もうそれ以上詠おうとはしなかった

という逸話に拠っている。

    住吉の浜 = 住み良しの浜 を掛けている
    春と秋 の対比  飽きと憂み の対比
    秋には飽き を掛けている
    海には憂み を掛けている

実は、渋川春海としてではなく「碁打ち」として後水尾院にお逢いしている記録が残っている。
院が碁を好まれたかどうかは分からない。 恐らく将軍御前碁の話などを板倉あたりから聞かれて、お召しになったのか。

貞享元年十月二十九日。大統暦改暦の詔が発布されてから七か月のその日。
霊元天皇は、大和暦採用の詔を発布された。これにより大和暦は改めて年号を冠し「貞享暦」の勅命を賜り、翌年から施行されることが決まった。
この大和暦を学理と天測によって開発したのは、渋川春海であった。朝廷の暦司どりの仕来りを知った上での巧みな采配であった。
土御門家の面目も立て、自分は一旦うしろに引いての「改暦」だった。
以後、渋川春海は、幕府の「天文方」として、また暦の専門家として君臨した。
霊元天皇は、院と新広義門院との間に生まれた皇子であり寛文三年に即位されている。
享保十七年(一七三二)七十九歳で崩御された。長寿であった。

因みに、今でも全国神社の総元締めである神社本庁が発行する暦には「土御門」家の名前が書いてある。その謂れは以下のようである。

天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)は、福井県おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く神道・陰陽道の流派。
天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が、後に天皇より「土御門」と言う称号を賜い、以後は土御門家を称する堂上家として仕えた。室町中期から戦国期にかけては、都の戦乱を避け、数代にわたり、所領のある若狭国に移住していた。
戦乱の終息後、都に戻ったが、秀次事件に連座し、豊臣秀吉の怒りを買い、またしても、都を追われる事になってしまい、宮廷陰陽道は一時終息する。 しかし、関ヶ原の戦いが終わり豊臣家が衰退すると、土御門久脩(つちみかど ひさなが)は、徳川氏に「陰陽道宗家」として認められ、慶長5年(1600年)には宮廷出仕を再開する事になった。また慶長8年には、家康の征夷大将軍任命式を行っている。
土御門久脩の後、泰重・泰広と続き、その後の泰福が陰陽頭になった時(天和3年5月(1683年))諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉の朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」の開始と言われている。
土御門家の陰陽道組織化は、幕末には全国に広まったが、明治維新後の明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受ける。 それによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになった。 そうして民間の習俗・信仰と習合しつつ陰陽道は生活に溶け込んでいったのである。
安家神道(土御門神道)は、そうした状況の中で古神道などの影響を受けながら、かつての関係者の手によって守られた、現代の陰陽道である。 現在は、かつての土御門家の領地であった福井県おおい町(旧名田庄村地区)に日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」が置かれている。

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DSC01608_convert_20080528151401渋川春海墓
 ↑  渋川春海の墓 東海寺

渋川春海 土御門泰福 など ← に詳しい。


草弥詩作品「後水尾院の側近──中院通村の歌」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
380px-Nakanoin_Michimura中院通村像
 ↑ 中院通村像(京都大学総合博物館蔵)
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院>シリーズ──(17)

      後水尾院の側近──中院通村の歌・・・・・・・・・・・木村草弥

中院通村 (なかのいんみちむら) 天正十六~承応二(1588-1653) 号:後十輪院
通勝の子。母は細川幽斎の娘。
後水尾天皇の側近として働く。右近中将などを経て、慶長十九年(1614)、参議に就任。元和三年(1617)、正三位・権中納言。同六年(1620)、従二位。同九年(1623)、武家伝奏(武家に対して朝廷の窓口となる役職)となる。寛永六年(1629)、権大納言。同年、後水尾天皇が譲位すると、翌年、右大臣二条康道とともに謀議に参与し罪を得、武家伝奏を免ぜられて江戸寛永寺に幽閉された。寛永八年(1631)、正二位。同十二年(1635)、天海和尚の訴えにより赦され、京に戻る。正保四年(1647)七月、内大臣に任ぜられたが、同年十月辞任した。承応二年(1653)二月二十九日、六十六歳で薨去。

古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった。家集『後十輪院内府詠藻』には、1600余首が収められる。
また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対してしばしば『源氏物語』の進講を行っている。
世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった。日記に『中院通村日記』がある。
将軍家光に古今伝授を所望されて断ったという逸話がある。
後水尾院への奏覧本と推測されている家集『後十輪院内府集』(『後十輪院内大臣詠草』『内府詠藻』とも。
続々群書類従十四輯・新編国歌大観九所収)に千六百余首を残す。

以下には『後十輪院内府集』より十首、『新明題和歌集』より一首を抄出した。  春 4首 夏 1首 冬 1首 雑 5首 計11首


元日雨降りければ

ひと夜あけて四方の草木のめもはるにうるふ時しる雨の長閑(のどけ)さ   (後十輪院内府集)

【通釈】大晦日から一夜明けて、周囲の草木の芽も張る春となって、潤う時を知る雨が降る――その雨ののどかなことよ。

【補記】雨が降った正月元日の作。「めもはる」は「目も張る」と「春」を言いかけている。

【参考歌】紀貫之「古今集」
霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける

遠山如画図

色どらぬただ一筆の墨がきを都の遠(をち)にかすむ峰かな   (後十輪院内府集)

【通釈】彩色をほどこさない、たった一筆の墨で描いたかのように、都の遠くに霞む峰であるよ。

【参考歌】後柏原院「柏玉集」
墨がきのただ一筆の外なれや雨おつるえをわたる白さぎ

簷梅

春の夜のみじかき軒端あけ初(そ)めて梅が香しろき窓の朝風   (後十輪院内府集)

【通釈】春の短か夜が軒端に明け始めて、梅の香が白々と感じられる、窓辺を吹く朝風よ。

【補記】結句「園の朝風」とする本も。

【参考歌】徽安門院「光厳院三十六番歌合」
吹き乱し止みがたになる春雨のしづくもさむき窓の朝風

静見花

朝露もこぼさで匂ふ花の上は心おくべき春風もなし   (後十輪院内府集)

【通釈】朝露もこぼさずに美しく映えている桜の花の上には、気にかけるような春風も吹いていない。

【補記】『新明題和歌集』では上句「朝露にそのまま匂ふ花の上は」。

【参考歌】肖柏「春夢草」
こころだに花にみださじ露ばかり梢うごかす春風もなし


夏旅

あつからぬ程とぞいそぐのる駒のあゆみの塵も雨のしめりに   (新明題和歌集)

【通釈】まだ暑くない内にと急ぐのだ。乗っている馬の歩みが起こす塵も、雨の湿りに鎮まって。

【補記】『新明題和歌集』は宝永七年(1710)刊、当代の宮廷歌人の作を集めた類題歌集。編者は不明。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」「玉葉集」
ゆきなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏のをぐるま


落葉

山風にきほふ木の葉のあとにまたおのれと落つる音ぞさびしき   (後十輪院内府集)

【通釈】山風と争って落ちた木の葉のあとで、その上にまた自然に落葉する音が寂しいことである。

【補記】山風がやんだ静けさの中、ひとりでに落ちる葉の音に、ひとしおの寂寥を感じている。元和四年(1618)閏三月の当座詠。

【参考歌】後伏見院「風雅集」
をかのべやさむき朝日のさしそめておのれとおつる松のしら雪


旅友 公宴聖廟御法楽

たれとなく草の枕をかりそめに行きあふ人も旅は親しき   (後十輪院内府集)

【通釈】誰となく、かりそめに行き遭う人でも、旅する時は親しく感じられる。

【補記】第二句「草の枕を」は、野宿するとき草を刈って枕にしたことから「刈り」と同音を持つ「かりそめに」を導く枕詞として用いる。言うまでもなく旅と縁のある語句でもある。

薄暮雲

暮れにけり山より遠(をち)の夕日かげ雲にうつりし跡の光も(後十輪院内府集)

【通釈】昏くなってしまった。山の彼方の夕日が雲に映じていた――そのなごりの光も。

【補記】元和年間の月次歌会での作。

暁鐘

初瀬山をのへのあらし音さえて霜夜にかへる暁の鐘   (後十輪院内府集)

【通釈】初瀬山の峰の上から吹く嵐の音が冷たく冴えて、鳴り響く暁の鐘も霜夜へ逆戻りしたかのように寒々と聞こえる。

【語釈】◇初瀬(はつせ)山 奈良県桜井市。長谷観音のある山。泊瀬山とも。山寺の鐘が好んで歌に詠まれた。

【補記】元和三年(1617)二月二十二日、摂津の水無瀬宮での法楽(法会のあと、詩歌を誦するなどして本尊を供養すること)における作。第三句「春さえて」とする本もある。

【参考】「山海経」
豊嶺に九鐘有り、秋霜降れば則ち鐘鳴る

庭苔

まれにとひし人の跡さへ庭の面はいくへの苔の下にむもれて   (後十輪院内府集)

【通釈】稀に訪れた人の足跡さえ見えず、いま庭の地面は幾重の苔の下に埋もれている。

【補記】元和三年(1617)の作。

懐旧

我が身には何ばかりなる思ひ出のありとてしのぶ昔なるらん   (後十輪院内府集)

【通釈】我が身にはどれほどの思い出があるというので、かくまで昔を思慕するのだろうか。

【補記】元和五年(1619)の月次歌会での作。作者三十二歳。

【参考歌】源通忠「続拾遺集」
橘のにほふ五月の郭公いかにしのぶる昔なるらん

王朝和歌あるいは堂上和歌と呼ばれる、この頃の歌は、今の短歌のような叙景、抒情もリアリズムではなく、「本歌」と呼ばれる昔の歌を引き添えて詠む手法である。
上の解説で「参考歌」などとして書かれている歌を下敷きにして作られている。

上記の中にもある中院通村が「武家伝奏を免ぜられて江戸寛永寺に幽閉された」時に後水尾院が詠んだ歌を見つけたので、以下に披露する。

     八月中旬の比(ころ)、中院大納言 武家の勘当の事ありて武州にある比、つかはさる

   思ふより月日経にけり一日だに見ぬは多くの秋にやはあらぬ

   秋風に袂の露も故郷をしのぶもぢずり乱れてや思ふ

   いかに又秋の夕をながむらん憂きは数そふ旅の宿りに

   見る人の心の秋に武蔵野も姥捨山の月や澄むらん

   何事もみなよくなりぬとばかりを此秋風にはやも告こせ

信頼していた通村を気遣う院の気持ちが、よく出ている。



草弥の詩作品「儲君とは?」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
b12_0035_16_3京都所司代板倉勝重印判状
↑ 京都所司代板倉勝重印判状
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院シリーズ>──(16)

        儲君とは?・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

それらの資料を読んでいると「儲君ちょくん」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。
    
皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。
歴史的に皇位は、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚の勢力を考慮して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。
それゆえ、皇位継承順位が明文化される以前には、皇太子は立太子された当今の子という意味を持つに過ぎない。
また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。
これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。
通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。
しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。
これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。

因みに、今の皇統は「北朝」の系統である。 まさに、後水尾院の頃の時代のことである。
先に書いたように、天皇が多くの「後宮」の女と交わり、多くの子を成した場合には、生母の間の勢力争いとか、天皇の好き嫌いで「儲君」になれたり、なれなかったりした。
後水尾院の場合も父君である後陽成天皇に好かれていなくて、皇弟の後の八条宮に継がせたかったらしいが、徳川幕府の意向で即位されたという経緯がある。
この不仲は後陽成天皇が死ぬまで、ずっと続いたという。
禁裏には、とにかく金が無かった。今風に言えば財政不如意ということである。
世は室町時代に続く戦国時代の後であり、禁裏の権威など、有って無いような時代だった。
御所を取り巻く「築地塀」はあちこち崩れ、盗賊が横行し、禁裏から火事を出したり、町屋からの出火で延焼したりした。それらについては先に書いた。

後水尾院が徳川秀忠の娘・和子を女御に迎えるにあたっては、「およつ御尞人」との間に二人の子が居た、ということで悶着があったが、
結果的には、この縁組によって禁裏には一万石の加増があり、また和子女御には別に一万石の化粧料が持参金として支給されるなど、禁裏の財政は大いに潤った。
私の村の旧家に残る資料には「禁裏御料」の田という名前が出てくる。
また、禁裏と幕府の間を取り持っていたのは「京都所司代」だが、初代と二代は板倉勝重父子だが、私の村には今でも「板倉」という田の地名が存在する。
後水尾院は即位から娘・明正天皇に譲位する頃までは、幕府のやり口に憤懣やるかたない様子であったが、生母・中和門院のとりなしなどもあって、
次第に幕府には金を出させて、自らは、幕府の言い種ではないが、学問、書、絵、和歌などに興味を集中されたのだった。
とにかく禁裏には金が無かった。院の執着された修学院山荘の修築なども、和子女御のちに中宮となるが、その縁からの幕府の出費がなければ出来なかった。

ここで板倉 勝重について少し引いておく。
安土桃山時代から江戸時代の大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。板倉好重の次男。母は本多光次の娘。子に板倉重宗、板倉重昌ら。
史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。
優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った妥当な裁きを見せ、大岡忠相が登場するまでは、名奉行と言えば誰もが板倉勝重を連想した。

三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。
ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、
徳川家康の命で家督を相続した。
その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、
武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、
さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある。
慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している。
同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。
大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。
元和6年(1620年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624年)に死去、享年79。

とかく幕府の代弁者として悪者に描かれるが、後水尾院が一番信頼していたのが、彼だと言い、院の「宸筆」の書や絵を賜ったりしている。
上に引いた資料の中にも、「近江・山城に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している」とあるから、私の村に板倉の地名が残るのも頷ける。

とにかく、色々の曲折を経て、後水尾院は江戸時代を通して、学問、有職故実、和歌の道の第一人者として君臨された。
公生活においても、上皇、法皇として五代にわたって「院政」を布かれ、八十五年に及ぶ生涯を以て、一時代を築かれた。

ここで晩年のお歌 「二十首」─延宝五ノ比(ころ) 御年八十二

       春暁月
   梅が香の夢さそひきて暁はあはれさも添ふ月を見よとや

       独見花
   我のみは花の錦も暗部山まだ見ぬ人に手折る一枝

       風前花
   あひ思ふ道とも見えず風のうへにありか定めず花は塵の身

       惜残春
   花鳥に又逢ひみんもたのみなき名残つきせぬ老が世の春

       款冬露
   言に出でて思ひなぐさめ山吹の言はぬ色しも露けかるらん

       雨後郭公
   心あれや雨より後の一声はものにまぎれず聞(きく)郭公

       樹陰避暑
   秋とひそ岩根の清水流出(ながれいで)て木陰に夏の日を暮しつつ

       荻風告秋
   荻の声ひとりさやけし鳴(なく)虫もおのがさまざま秋を告ぐれど

       山川
   うらみじな山の端しらぬ武蔵野は草にかくるる月も社(こそ)あれ

       月前雲
   もれ出(いで)て今ひときはの光そふ雲にぞ月は見るべかりける

       栽菊
   知らずたれ秋なき時と契おきて植ゑし砌(みぎり)の花の白菊

       寒衣
   思ひやる旅寝の夢もかよふらしうつや砧の音も寒けき

       冬暁月
   冴ゆる夜の澄む月ながら影白く暁ふかき雪にまがひて

       落葉
   朝日にもそむるばかりに夜半の霜解(とけ)わたりたる落葉色こき

       寄月恋
   見るたびにその世の事ぞ思はるる月ぞ忘れぬ形見ながらも

       寄雲恋
   憂しやただ人の心も白雲のへだてぬ中と思はましかば

       寄雨恋
   我袖の涙くらべば秋ふかく時雨る木々も色はまさらじ

       寄風恋
   心あらばうはの空なる風だにも此ひと筆を吹も伝へよ

       海路
   知る知らずここぞ泊りと漕寄せて語ひなるる船の路哉

       釈迦
   散りうせじただ我ひとりとばかりも説きし言葉の花の匂ひは

仮名遣いが今のように統一されていないので読みにくいが、了承されたい。
死の三年前ということだが、達者なものである。 まだまだ紹介する御歌は多い。



   



草弥の詩作品「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
後水尾院御集_0001
 ↑ 「後水尾院御集_」御製1420首余を収録
537px-Callirgaphy_by_Emperor_GoMizunoo後水尾院雅歌色紙
↑ 後水尾院雅歌色紙
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>─(15)

     「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」・・・・・・・・・・木村草弥

「禁中並公家諸法度」は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。
元和元年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)徳川家康、将軍(二代)徳川秀忠、前関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。
漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一切改訂されなかった。

この法度の制定に先立ち、慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、
この法度によって、さらに天皇までを包含する基本方針を確立した。
以後、この法度によって幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定するものとなった。

1631年(寛永8年)11月17日には当時の後水尾上皇主導で「若公家衆法度」が制定された。
この制定には幕府は間接的な関与しか行わなかったが、青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進とともに公家の統制を一層進める事となり、
禁中並公家諸法度を補完するものとなった。

全文は17条からなり、その内容は武家諸法度と異なり、幕末まで変わらなかった。
1条から12条が天皇家および公家が厳守すべき諸規定、13条以下が僧の官位についての諸規定となっている。
原本は万治4年1月15日(1661年2月14日)の御所火災で焼失し、その後副本を元にして復元された。

第1条に天皇の主務として次のように規定されている。

一、 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。
和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。

意味は「天皇の務めは芸能である、その中でも学問が第一である」として具体的に経史、『群書治要』といった漢籍を宇多天皇の遺誡を引いて勧めたあと、和歌の道こそ、天皇の最もたしなむべき道としている。
さらに『禁秘抄』(順徳天皇が著した禁中行事に関する書で、後世の有職の基準となった)をあげ、禁中の行事、有職の知識を学ぶように勧めた。
ここでいう芸能とは現在の芸能界とか芸能人というのとは異なり、いわば教養として心得るべき知識の総体を指す。
天皇が文化の面での最高権威であり、文化そのものの体現者たれ、とされたのである。
ここでも、先進文化として中国唐代の帝王学である『群書治要』が挙げられている。

後水尾天皇は、十代にあたる時期に熱心に漢学を学んでいた記録があるが省略する。『日本書紀』なども学ばれた記録がある。
歴代天皇の中で、この法度の規定を最もよく体現した人と言えるだろう。

膨大な院の御歌の中から、今回は父君・後陽成院が元和三年に四十七歳で崩御されたときに作られた歌

     九月の末つかた、思ひもあへず倚蘆(いろ)にうつろひしは、ただ夢のうちながら、
     覚むべきかたなき悲しさに、仏を念じ侍りけるついでに、諸法実相といふ事を思ひ出でて
     句の初めに置きて、つたなき言の葉をつづり、いささか愁嘆の思ひを述べ侍るならし

      白雲のまがふばかりをかたみにて煙のすゑも見ぬぞ悲しき

      よそへ見るたぐひもはかな槿(あさがほ)の花の中にもしをれやすきを

      ほし侘ぬさらでも秋の露けきに涙しぐるる墨の袂は

      うつつある物とはなしの夢の世にさらば覚むべき思ひともがな

      知らざりきさらぬ別れのならひにもかかる嘆を昨日今日とは

      つかふべき道だにあらばなぐさめん苫の雫を袖にかけても

      さまざまにうつりかはるも憂き事は常なるものよあはれ世中(よのなか)

      受け継ぎし身の愚さに何の道もすたれ行べき我世をぞ思ふ

前書きに書かれているように歌の頭に「諸法実相」という仏語を置いて作られている。「冠かぶり」という歌の作り方の手法である。
字句の解説をしておこう。
「倚蘆」とは天皇が父母の喪に服する仮屋。正殿の庇の板敷きを地上におろし、十三日間籠る。
「諸法実相」─宇宙間のすべての存在がそのまま真実の姿であること。 出典は「諸法実相者、謂実智所照、諸法実相境也、即是立章門」(法華義疏・序品)。
「ほし侘ぬ」─干しかねて困惑してしまう。
本歌「刈りて乾す山田の稲をほしわびて守る仮庵に幾世経ぬらん」(拾遺・雑秋・凡河内躬恒)
「知らざりき」─本歌「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はさりしを」(古今・哀傷・在原業平)
「さらぬ別れ」─本歌「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」(古今・雑上・在原業平)

解説としてはまだまだあるが、このくらいにしておく。こういうのを「本歌取り」という。
それにしても、この年、後水尾天皇わずか二十一歳である。中院通村の添削があったとしても、お見事なものである。


草弥の詩作品「禁裏は火事が多かった」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Reizeike冷泉家表門
 ↑ 冷泉家表門─冷泉家も御所の一角を成していた
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──<後水尾院シリーズ>──(14)

     禁裏は火事が多かった・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

冷泉為人が2007年に書いた論文を見ると、禁裏は火事が多かったことが判る。
一部を引いてみる。因みに、冷泉為人は現当主であり、財団法人・冷泉家時雨亭文庫理事長である。
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4. 後西天皇の万治四年(一六六一)正月十五日、関白二条光平室賀子内親王家より出火。内裏
を始め、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、明正院の新院御所等が炎上した。火元の関
白二条光平邸をはじめ、公家の邸宅一一九、社寺一六、町家五五八を焼失した大火であった。
これほどの大火であったのにもかかわらず、幸いにも西御唐門、御輿宿、御文庫、北女中雑蔵
の四棟と、塀(築地塀)などが焼け残った。これらの焼失を免れた原因は何かを検討することが
大事。ここでも御文庫、雑蔵、築地塀などの土蔵造が残っているので、土蔵造は防火には有効で
あることが知られる。これは前の承応二年の火災の時においても、同様に御文庫、御蔵、塀など
24が焼け残っている。
さらに寛文三年(一六六三)に後西天皇が譲位する時、築地之内に明地がなかったので、内裏
の南にあった二条家の屋敷地を築地之外へ移転させている。つづいて延宝元年(一六七三)から
はじめられた後西院御所造営のため、院御所の南にあった頂妙寺を鴨東へ移転させている。

5. 寛文十三年(一六七三)五月八日に、内裏は江戸時代になって三回目の火災にあった。これ
は未明丑刻(午前二時)、内裏の東南の関白鷹司房輔邸より出火。内裏をはじめ、仙洞御所(後
水尾院)、女院御所(東福門院)、新院御所(後西院)などが炎上した。さらに左大臣九条兼晴邸
をはじめ、多くの公家邸宅を焼失し、町数一三〇、町家一三〇〇余を焼き尽くす大火であった。
しかしこれほどの大火であったにもかかわらず本院御所(明正院)の中程から北側は焼失を免れ
た。その他御文庫三棟が焼け残った。
明正院の御所の北側半分が焼け残ったのはどうしてであろうか。風向きによるものであろうか、
消火が有効に機能したためであろうか。これらは今後の検討課題である。

6. 東山天皇の宝永五年(一七〇八)三月八日午刻(正午)、油小路姉小路の銭屋市兵衛宅より
出火。西南の風が強く吹いたため、火はたちまち東北に燃え広がり、内裏をはじめ、仙洞(霊元
院)、女院(新上西門院)、東宮(慶仁親王)、中宮(皇后幸子内親王)、女一宮(後光明院女一宮
孝子内親王)などの御所を焼き、左大臣九条輔実邸、前関白鷹司兼熈邸などの多くの公家邸宅を
も焼失した。およそ北は今出川通より南、東は鴨川より西、南は四条通より北、西は堀川より東
の広大な地域が灰燼に帰した。
大火と気象との関係が課題となるであろう。そしてさらにこの宝永の大火後の、内裏新造営や
公家町の復興において、防災の観点から公家町の拡張という公家町再編がなされた。注目すべき
ことである。これについては後述することになる。

7. 天明八年(一七八八)正月晦日の未明五時頃、どんぐり橋近くの鴨川東宮川町団栗図子の空
家(建仁寺町通四条下ル二丁目辺り)より出火した火は大火となった。「天明の大火」という。
翌二月一日は一日中燃えつづけ、二月二日の明け方にようやく鎮火した。洛中、京都の中心部の
ほとんど全てを焼き尽くした大火で、応仁の乱以来といわれる大惨事であった。北は鞍馬口通、
東は鴨川の東、南は七条通、西は千本通までが焼けた。
この天明の大火の再建、復興の特色は、平安朝古制を用いたことである。総奉行となった老中
松平定信は柴山栗山と裏松固禅を登用し、固禅の『大内裏考証』に基づいて、紫宸殿や清涼殿等
の一部や飛香舎を、平安朝の古制に戻して復興、再建したのである。
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参考までに書いておくが、京の町全体の大火事となったのは、次のようなものである。

     京の町を襲ったふたつの大火

 花の元禄期ともいえる十七世紀末、京都には伝統的な権威の象徴でもある京都御所と、武家の権力を示す二条城が置かれ、近世京都の形成がなされていた。
だが、十八世紀を迎えて、京都はふたつの大火による災害を被り、甚大な打撃を受けることとなった。「宝永の大火」および「天明の大火」である。

 宝永の大火は一七〇八(宝永五)年三月、油小路通姉小路付近から出火し、二日間に渡って燃え続けた。
火は西南風に煽られ、延焼地域は東北部へと拡大し、最終的には東は鴨川、西は堀川、北は今出川南、南は四条までが被災地域となった。
「宝永五年炎上記」によると町数四一五町、家数一万百三十軒余、寺数五十ケ所、社頭十八ケ所、西道場十二ケ所、東道場二十三ケ所、土蔵火入六百七十余と記録されている。
さらに禁裏御所の焼失も余儀なくされ、七十八軒もの公家屋敷ほか、諸藩の武家屋敷も二十四軒焼失している。
 宝永の大火よりちょうど八十年後に起きたもうひとつの大火が天明の大火である。応仁以来の大惨事をもたらし、京都史上、最大規模の大火ともいわれている。
「天明炎上記」「京都大火」「京都大火記録」などの記録も多く残され、当時は京都焼亡図や木板による大火記録も売り出されたばかりでなく、後にわらべ唄にもなったほどだ。
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 炎が上ったのは一七八八(天明八)年一月二十九日未明、鴨川東宮川町団栗図子の空家から出火した。
火は鴨川の西岸へも飛び火し、やがて全市中へと燃え拡がった。
火消の人々の尽力ではもはやどうにもならず、火消たちは禁裏をはじめとする警固を担い、また亀山、高槻、郡山、膳所、淀、篠山などからかけつけた近国の大名もなす術なく、
各所の警衛にあたるほかなかった。
 焼失家屋は三万六千軒以上、洛中の戸数がおよそ四万軒であるから、実にほぼ九十パーセントが焼失したことになる。焼けた寺は二百一ケ所、神社は三十七にのぼっている。
また、この大火により御所も炎上を免れず、二条城や周辺の武家屋敷の焼失をも招いている。
 禁裏においては、宝永の大火の先例にならい、下鴨神社への避難の行幸が決まった。
が、その後、御所が炎上したとの注進を受け、還幸が不可能となったことから再び聖護院へと行幸している。
 天皇は仮御所を聖護院に置き、そこで避難の日々を過すこととなった。
あわせて仙洞御所は青蓮院、女院御所は修学院竹内宮御殿、女一宮は妙法院へと落ち着き、東西両町奉行はそれぞれ焼け残った北南両二条門番頭の屋敷に入って仮奉行所とした。
 この天明の大火で死者についての正確は記録は残されていない。「大島家文書」では百五十人とされているが、「伊藤氏所蔵文書」では千八百人余と記されている。
 なお、寺町清浄華院境内には、「焼亡横死百五十人之墓」と刻まれた天明大火の供養塔が建てられ、死者が祀られている。

念のために書いておくと「仙洞御所」とは上皇、法皇などが住まいされる所。「女院御所」とは中宮以下女人が暮らす所である。
「仙洞御所」は寛文以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

こんな大火事という災難に遭ったのに、これらを詠んだ歌は無い。
その頃の「和歌」は、今の短歌のように叙景、抒情などもリアリズムではないから、身辺に起こることを詠むことはないのである。
その頃の和歌は「王朝和歌」とか「堂上和歌」とか呼ばれるが、雅を基本として、「本歌」という過去の歌を引いて詠うのが常道である。
こういうのを「本歌取り」という。
今の短歌は、こういうのを剽窃として、つまり盗み取ってきたとして嫌うので、時代的にひどく変わったものである。
その頃は、「本歌」を、いかに多く知っているかが教養として尊ばれたのであった。






草弥の詩作品「後水尾院と徽宗のこと」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
449px-Huizong徽宗皇帝
 ↑ 徽宗皇帝像
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   草弥の詩作品<草の領域>
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<後水尾院シリーズ>──(13)

     後水尾院と徽宗のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の葬送のときに、院の遺体の上段に「徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ・・・・」と描写されているのは先に書いた。
なぜ「徽宗」なのかというと、芸術、書、絵などの才能に優れた点を院は敬愛されたのである。
徽宗の生涯は政治的には失敗であったといえるが、そんなことは院には判らないことであった。以下のようである。

徽宗 (きそう、1082年11月2日(元豊5年10月10日)~ 1135年6月4日(紹興5年4月21日)、在位:1100年 ~ 1125年)は北宋の第8代皇帝。
諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。
諱は佶。第6代皇帝神宗の子。芸術面では北宋最高の1人と言われる。


神宗の第11子として生まれたが、1100年、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である徽宗が皇帝に即位した。
宰相章惇ら重臣は徽宗の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により徽宗に決まったとされている。
治世当初は芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、穏健な新法派で皇太后の信任が厚かった曾布を重用、曾布は新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、
福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた。だが、やがてこれに飽き足らない新法派の蔡京らの策動によって曾布は失脚し、蔡京が政権を掌握するに至る。

550px-Momohatozu_Huizong桃鳩図
 ↑ 桃鳩図 (国宝)

文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の1人とされる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。
現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある桃鳩図は国宝に指定されている。
200px-Songhuizong4徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている
 ↑ 徽宗の「芙蓉錦鶏図」(故宮博物院)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている。

皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。
また芸術活動の資金作りのために、『水滸伝』の悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。
神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いるに至ったのである。
この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、
それによって発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。
このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。
こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが明代の小説『水滸伝』である。
当時、宋の北方の脅威であった遼は皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭していた。
女真と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。
1121年(宣和3年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。
翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。
宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられない事を理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は金に援軍を要請。
海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応えてたちまち燕京を陥落させた。
この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、
この地からの税収は当分見込めない状態であった。
さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。
1125年(宣和7年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。
しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗は宋に対して出兵する事態を招く。
慌てた徽宗は「己を罪する詔」を出すと退位し、長男の趙桓(欽宗)を即位させ、太上皇となった。さらに金軍から逃れるべく開封を脱出したが、欽宗により連れ戻されている。
1126年(靖康元年)、金は開封を陥落させた。徽宗は欽宗と共に金に連行され(靖康の変)、1135年(紹興5年)、五国城(現在の黒竜江省依蘭県)で54歳で死去した。
またこの時共に彼の妃韋氏、息子欽宗の妃朱皇后など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女達が、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、
1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて金人皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。
結果、韋妃は高宗の生母であったこともあって、耐えて後に南宋に帰国したものの、朱皇后は、その境遇に耐えかねて、身を投げて自殺している。

道教との関係
徽宗は、道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。
その矛先は仏教に対する抑仏政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。但し、これは1年間で撤回された。


草弥の詩作品「後水尾院と後宮の女たち」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
622px-Emperor_Reigen霊元天皇
↑ 霊元天皇像 新広義門院が生母
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──<後水尾院シリーズ>──(12)

     後水尾院と後宮の女たち・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

日本の禁中でも「後宮」という言葉が使われていたということを知った。この言葉も、もともとは中国由来のものである。
私のこの詩では、これらの女性たちとは別に、後水尾院が巷の遊郭に遊んだり、禁中にも引き入れたと言われる「遊女」がある。
遊女のことは別段で書くので、区別しておく。

後水尾院は生涯に三十七人の子を産ませたことで知られているが、さぞや十数人の女が居たのではないかと思うが、一統を見てみると、女の数は数人のみである。
その代り一人の女がたくさんの子を産んでいる。時系列的に挙げると、このようになる。
■典侍・四辻与津子(およつ御寮人)が二人。
■中宮・徳川和子(東福門院)が七人。
■典侍・園光子(壬生院)─後光明天皇の生母─が五人。
■典侍・櫛笥隆子(逢春門院)─後西天皇の生母─が十人。
■典侍・園国子(新広義門院)─霊元天皇の生母─が六人。
■典侍・四辻継子が三人。
■宮人・水無瀬氏子が二人。  などである。
今までに、その素性について書かなかった人を採り上げてみる。

新広義門院
園国子(その くにこ、寛永元年(1624年)-延宝5年7月5日(1677年8月3日))は、後水尾天皇の後宮の一人。霊元天皇の生母。
院号は新広義門院(しんこうぎもんいん)。父は権大納言園基音(薨去後左大臣追贈)。母は山家藩主谷衛友の娘。兄に准大臣園基福がいる。
園家の本姓は藤原氏であるので、藤原国子(ふじわら の くにこ)と記されることもあり。

叔母の園光子(壬生院)に続いて彼女も後水尾天皇の後宮として召された。天皇とは28歳差であった。
典侍となり、従三位に叙せられた。四皇子二皇女を出産する。うち末子の皇子が霊元天皇となる。
この第十九皇子・識仁親王は、五十六歳で出家・落飾された後水尾法皇の五十八歳のときの子である。
因みに霊元天皇は在位期間は二十四年と短いが、後水尾院と同じように院政を布き幕府と一悶着起こしたりしたが七十八歳という長寿だった。
激しい性格の天皇だったらしいが、江戸時代を通じての和歌の名手と言われているが詳しくは書かない。
性生活も旺盛で十五人の中宮以下後宮の女との間に十七皇子、十三内親王という子だくさんであった。
後水尾天皇の中宮は徳川和子であったため、息子の霊元天皇の即位後にも皇太后位が授与されることはなかったが、
延宝5年(1677年)7月5日、国子が危篤状態になるに及んで霊元天皇は急遽准三宮に叙し、また院号を与えて新広義門院とした。しかし同日中に薨去している。

彼女の存在は出身家である園家に大きな栄華をもたらし、彼女の父である園基音には左大臣が追贈され、兄の園基福には異例の准大臣の位が与えられた。
もともと園家は権中納言を極官とする下級公家だったが、これ以降の園家当主は早世した者を除き、全員が権大納言となっており、羽林家一の名門家となった。
明治維新後にも子爵ではなく伯爵となった羽林家のひとつである。

因みに、羽林家(うりんけ)とは、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。
近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで進むことができる武官の家柄(ただし、個々の家の立場(旧家・新家、内々・外様など)によって昇進の速度や経路に異同がある)。
ごく稀ではあるが、内大臣まで昇進する者もいた。また、代わりに准大臣や従一位を宣下されたり、本座宣下を受けた例もある。明治維新後の華族令では子爵や伯爵に叙せられた。
羽林とは「羽の如く速く、林の如く多い」という意で、中国では北辰(北斗星)を守護する星の名称。それが転じて皇帝(天子)を護る宮中の宿衛の官名となった。
日本では近衛府の別称(唐名)となり、近衛の将を任ずる家、すなわち羽林家となった。

禁中の身分や行事は中国の例に倣うことが多い。氏素性、身分がすべてを律する世界なのである。

逢春門院 この人については詳しい記事がない。お許しあれ。
櫛笥 隆子(くしげ たかこ、慶長9年(1604年) - 貞享2年5月22日(1685年6月23日))は後水尾天皇の後宮で後西天皇の生母。出仕名は御匣殿、四条局、勾当内侍。
父は左中将櫛笥隆致(贈従一位、贈左大臣)。
寛永8年(1631年)に御匣殿別当として入内し、後西天皇、八条宮穏仁親王、光子内親王、理忠女王など6男4女をもうける。
貞享2年(1685年)5月に従三位、准三宮となり、院号宣下を受けて逢春門院と称する。同月に薨去。

壬生院
園 光子(その みつこ、慶長7年(1602年)-明暦2年2月11日(1656年3月6日))は、後水尾天皇の後宮の一人。後光明天皇の生母。院号は壬生院(みぶいん)。
父は権大納言園基任(薨去後左大臣追贈)。園家の本姓は藤原氏であるので、藤原光子(ふじわら の みつこ)と記されることもあり。初名は国子、継子。
後水尾天皇の典侍の一人に選ばれ、後宮に入った。宮中では京極院・京極局と称されていた。寛永10年(1633年)に後光明天皇を出産した。
その後も守澄法親王、元昌女王、宗澄女王、桂宮などを出産。
後光明天皇治世の承応3年(1654年)8月18日に准三宮に叙せられたが、同年中に天皇が崩御している。これを受けて光子は10月26日に落飾している。
また後継の後西天皇から壬生院の院号を宣下された。薨去後には京都泉涌寺に葬られた。墓は泉山月輪陵にある。
国母となった彼女の存在により出身家の園家の地位は大きく上がり、光子の父である基任には正保2年(1645年)に左大臣が追贈されている。
なお光子の兄である園基音の娘園国子も後水尾天皇の後宮に入り、霊元天皇を出産している。国母を二人も輩出した園家はその後大いに繁栄していく。

水無瀬氏子は生没年不詳。帥局、小兵衛局と称した。
新宮は夭折 (戒名/月桂院宮)。豊宮は仁和寺御室となり、当初承法法親王と称したが性承法親王に改称。
1656(明暦2)年二品、1678(延宝6)年薨去2日前に一品に叙された (戒名/法金剛院、後大御室)。
 四辻継子は生没年不詳。およつ御寮人の姪。
榮宮は徳川家光猶子となり、知恩院門跡となる。1654(承応3)年親王宣下、1679(延宝7)年二品。1779(安永7)年贈一品 (戒名/無量威王院宮)。
英宮は梶井門跡・天台座主。1660(万治3)年親王宣下、1673(寛文13)年二品 (戒名/正法院宮)。
睦宮は光照院門跡。尊賀女王(ソンガ)から改称。字は瑞慶 (戒名/宝地光院宮)。

院のお手のついたものは、もっと多く居ただろうが、子を成した人が記録に残っているだけだから、女の数は増えることはあっても、やはり特定の女との性交渉だったことが判る。
特に、院との相性もあるから、晩年の愛妃であった新広義門院のことが記録に残っているのも当然だろう。
しかも園家は、その後もずっと天皇家と深い関係が明治まで続いて、伯爵位を得ているのだから、新広義門院の功績は大きかったというべきだろう。

これらの女の人を見ていると、五十くらいで死んだ人もあるが、いずれも七十、八十という長命であり、下々の庶民の寿命から考えると、とても長寿である。
やはり衣食住など特権的な地位のおかげであろう。
後水尾院の前後の天皇の記録を見ると、いずれも中宮、典侍、後宮など多い場合は十数人抱えており、子の数も二十数人から三十人に及ぶものがある。
だから後水尾院が特に色好みというわけではないようである。
宮中というところは、天皇の胤を宿して自家の出世繁栄を得たいと、公家の上下を問わず女を禁裏に差し出したようである。

『後水尾院御集』より「恋」の歌をいくつか引いておく。

             顕恋
   つつみこし思ひの霧のたえだえに身は宇治川の瀬々の網代木

             旧恋
   先の世の夢を忘れぬ契かとたどる斗(ばかり)の中の年月

   思ひやれ逢はぬ月日にいつしかと昔がたりも積る恨を

             遠恋
   忘れずは思ひおこせよ海山も心のうちにさはるものかは

   行きかよふ心ばかりび岩根踏む山は遠くて近き道なる

             片恋
   などか我つらき心のつらからぬむよし相思ふ道はなくとも

   恋わぶる人の嘆を身に知らで思ひ知らぬも憂き心かな

   我のみの涙ぞつらき羽かはす鳥のためしもあれば有る世に

             難忘恋
   年月を隔てし憂さも憂さながら見しは昨日の俤にして

   恨みじよ詞の限り尽くすとも一節をだにえやははるけん

   情こそ思ふに憂けれつらしとておほよそ人に恨やはある

             関路恋
   したひこし俤ながら鳥が音にいそぐ関路のならひさへ憂き

             寄月恋
   もろともに見し夜忘れぬ面影に霧ふたがりてくもる月かな

   たのめしはあらずなる世に俤の昔おぼゆる月さへぞ憂き





草弥の詩作品「昔の修学院山荘見学ツアー」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
01-1修学院浴竜池
 ↑ 修学院浴竜池
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
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──草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ(11)

     昔の修学院山荘見学ツアー・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院は色々の人を招きながら、さらに山荘の充実に努められた。
万治三年正月には茶屋が完成しているし、これに合わせて「修学院八景」の詩歌を五山の僧や廷臣に命じている。
詩が作られたのは、寿月観、彎曲閣、蔵六庵(以上は現在の下の茶屋の建物)。窮??亭、隣雲亭、洗詩台、止々斎(以上は上の茶屋の建物)。
菩提樹、浴竜池、万松塢(以上は上の茶屋の庭園・池)であった。
因みに、茶屋の建物の名称には仏典から採られているという。
「蔵六庵」は『阿含経』から。「止々斎」は後水尾院の好きな『法華経』の「止々不須説」から、など。
後水尾院は深く仏に帰依していたから、嵯峨院の故事に倣って、将来、後水尾院自身と東福門院の尊像が修学院に於いて礼拝され、
後生菩提を弔ってくれることを密かに期待されていたのだろう、と言われている。
だが、結論的にいうと、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。詳しくは別段で書いた。

万治二年の五月から年末まで鳳林和尚の日記『隔?記』には、この八景詩のことが頻出する。それだけ後水尾院も、この山荘の美を文芸の世界に残そうという意欲があったのだろう。
因みに、別の資料によると、この鳳林和尚というのは鹿苑寺く金閣寺)の僧侶だった人らしい。
ちょうど嵯峨天皇が巨勢識人らに嵯峨院の詩を献じさせたのと同じ趣向である。

越えて寛文年間になると修学院を訪れる人の数も増えてきた。
それまでの公家や門跡などの限られた人ばかりではない。
何と、一般の僧侶や、寺に関係する町人など、あたかも今日の離宮見学と同じような団体の見学まで行われた。
これも寛永文化の名残りであって、公家・町人社会が未だ隔絶していなかったことの証左でもあろう。
『隔?記』寛文二年(一六六二)四月二十一日の条を見ると、どうやら前々から依頼しておいた見学の許可が下りたらしい。
「明日、修学院之御屋敷・仙洞離宮之御池、おのおの拝見、ないない申し上げ明日参らるべき旨、予案内者として修学院へ赴く」。
こうした願いに対しては、許可証となるべき<見学之割符> が出されるシステムが出来上がっていたと見え、鳳林和尚も<割符>を受け取っている。
翌二十二日は相国寺衆は大体のこらず同伴、北野社家の日ごろ連歌などで顔見知りのメンバーも、鹿苑寺の寺侍などももちろん一緒である。
その他画家の父子や町の人々、総勢八十人ほどの大きな団体になった。
御殿・御茶屋・亭を見学して前もってことわってあったので池の舟も飾りつけてあって三隻に分乗し、持参の弁当を開いて一日の宴遊を楽しんでいる。
翌日見物の割符を無事に返上して、この見学行は終わった。
この日の記録に見えるように、見物には一応の型があった。御殿・御茶屋の見物、さらに浴竜池での舟遊び、さらに茶や食事の饗応というのが一般的であったようだ。
後水尾院の皇女で近衛基熙に嫁していた級宮常子内親王(旡上法院)は度々修学院山荘に遊んでいて、寛文七年(一六六七)閏二月六日の条には少し早い春を、ここで楽しんでいる様子が見える。
先ず下の茶屋の寿月観の庭の土筆採りがある。
今も寿月観の前に白砂を敷いた小さな庭がある。その向うにかつては彎曲閣が建てられていた。きっと、この渓流端の傾斜地に生えていた土筆でも採ったのだろう。
それより上の池に赴く。田の畦づたいに土筆を採りながらとあるから、今のような松の並木はまだ無かったであろうが、田の中を通って上の茶屋へ行った。
隣雲亭には上がらず、西浜を行って止々斎から舟に乗っている。今も止々斎跡の近くに舟乗り場がある。舟から窮??亭、隣雲亭を眺めて堤にあがり寿月観に帰っている。
寿月観には基熙が居て平松可心らとともに夕食を摂った。
同じ『旡上法院殿御日記』の寛文十一年(一六七一)三月二日には後水尾院のお伴をして下の茶屋より上の茶屋に行き、止々斎で昼食を摂っている。
「所々、葉まじりに桜咲き、山ぶきも少有り、山にはつつじ咲き、みごとのうつくしさ、いふばかりなし」という風情であった。
この時すでに中の茶屋にあたる朱宮の茶屋が完成しており、ここにも立ち寄っている。

このような山荘の遊びのパターンは修学院に限らず、後水尾院の好んだ風流の一つであった。
後水尾院は先にも書いたように前後三回にわたって八条宮の桂山荘を訪れているが、寛文三年(一六六三)三月六日の桂御幸を、これも鳳林和尚の記すところによると、和尚は早々に桂に到着し、玄関より書院に移り、あちこち見物し、やがて一同が揃ったところで庭に出ている。例によって鳳林和尚は讃嘆の辞を記す。「処々之佳景、桜木奇石、方地百里絶言語佳境、御茶屋処々之飾、御菓子驚凡眼者也」。
書院で切麦(索麺)などを食べたのち、増水した桂川に舟を出している。
さすがに舟が自由にならないというので桂川の舟遊びは早めにきりあげて山荘の池に舟を浮かべることになった。
法皇、朱宮、級宮以下法親王たち。すなわち後水尾院は娘や息子たちに囲まれて舟遊びに興じ、舟の中では菓子がふるまわれ、たぶん舟を降り、茶屋に移ってからであろうが茶がたてられている。

これらの宴遊記録を見て気づくのは、宴遊の中で池の舟遊びと茶の湯が重要な役割を果たしている。
寛文二年(一六六二) 十月十八日の修学院での後水尾院の「口切りの茶」では、夕方から舟に乗り、開飛亭に移って、ここで後段と濃茶がふるまわれている。

浴竜池は平安時代以来の貴族庭園の伝統をよく伝えるものであった。池泉舟遊式ともいうべき舟遊びに主眼のある庭園であった。
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(お断り)
この記事を入力・編集中、はじめの方にある「窮??亭」のハテナ字の部分の字「スイ」を一昨日来「表外漢字」として入れて「記事を保存」にすると、とたんに、この字以降の記事が消える現象が発生。
何度も記事を入れては消え、またやり直しを繰り返し、fc2にも原因と対策を聞いたりして。。。問題は解決しなくて、ハテナ字の部分はそのままにすることにした。
原文はマイドキュメントの文書として保存してあるから詩集を編むのには困らないが、ブログ読者にはご了承を得たい。
「窮??亭」のハテナ字はIMEにも載っている、レッキとした表外漢字で発音は「スイ」、三画の「辶」部にある画数の多い字。
この字を入れると、とたんに記事が消えるので、どうしようもない。
このJIS表外漢字は、fc2の編集機能の「規格」から外れる、ということなのである。
しかし、ハテナマークになる、くらいにしておいてもらわないと困る。その字以後の文章が全部消えてしまうなんて。
この部分は、この記事に必要な「固有名詞」で欠かすことが出来ないし、他の字で代用できないので困る。
この字を知りたければWikipedia修学院離宮をご覧あれ。出ている。
なお、この建物は後水尾院の創建当時から、そのまま残る唯一の建物である。
この建物の「扁額」は後水尾院直筆のものである。
詳しい写真は → ここ または こっち に見事なものが載っている。 お試しあれ。
他の建物は建て替えられたりしており、創建オリジナルではない。
もう一字は別の字だが、これもこのままにする。
とにかくハテナマークの部分については、そのような次第なので、ご了承を。


草弥の詩作品『後水尾院葬送記』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
800px-Sennyuji_Kyoto11o4592月輪陵
↑ 泉涌寺山内の月輪陵。後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──(79)──<後水尾院>シリーズ(10)

      『後水尾院葬送記』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。
晩年のお二人の円満な様子は、前半生を思えば、想像も出来ないほどの仲の良さであった。
徳川秀忠の娘・和子(まさこ)としての入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、
想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたのだろうが、
そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。
女御と呼ばれていた入内当時から、東福門院の難しさを支えていたのは、
化粧料一万石と言われる経済力であった。
入内当時、禁裏御領全体と殆ど同額の公式な収入が女御御所にはあったからである。
東福門院の派手好み、衣装好きは有名だったらしく、当時の京都有数の呉服商だった
雁金屋尾形家の資料に女院からの注文が残るという。
東福門院は三十七人にのぼる子供たちの良き母親でもあった。
ことに後光明天皇(一六四三~一六五四在位)、後西天皇(一六五四から一六六三在位)、
霊元天皇(一六六三~一六八七在位)三人の親王を自分の子として即位させたことは、優れた配慮だった。
東福門院自身から生まれた二人の親王は早逝し、明正天皇(一六二九~一六四三在位)一人が女帝として
即位しただけで、その後に生まれた親王たちはすべて他の女房から生まれている。
後光明天皇は京極局、後西天皇は逢春門院、霊元天皇は新広義門院を実の母としているが、
これらの女房たちには全く経済力はない。
もし禁中最大の経済的実力者・東福門院と反発しあうことになったら無用の摩擦が起きるだけであり、
そこで東福門院は、親王が即位するにあたって、
わが子として扱い、経済的にバックアップしたのである。
また内親王に対しても、その配慮は行き届いていた。
ことに東福門院入内に際して最大の難関となった「およつ」御寮人の娘・梅宮に対して深切なるものがあった。
後水尾院が修学院山荘造営にあたり、可愛がっていた梅宮すなわち文智女王の円照寺を大和国に移したが、
その寺領として寄進するだけでなく、幕府に命じて寄進させている。

東福門院は、延宝六年六月十五日にわかに病状があらたまって臨終を迎えたが、文智女王に従っていた文海尼ただ一人招いたのであった。
記録には

   法皇御愁傷、以ての外の躰也

と書かれている。 
時に、東福門院は七十二歳、後水尾院は八十三歳。 
この日、元和六年(一六二〇)の入内から、ほぼ六十年に及ぶ二人の生活が終わったのだ。

東福門院の死を悼んで、後水尾院は歌をお作りになった。

     東福門院崩御の時、弥陀の六字を句の上に置きてあそばしける

  南(な)に事も夢の外なる世はなしと思ひしこともかきまぎれつつ

  無(む)かひゐてたださながらの俤に一ことをだにかはさぬぞうき

  阿(あ)け暮れにありしながらのことわざも目の前さらに見る心地して

  弥(み)ぬ世まで思ひのこさずとばかりも此の一ことを何にかふべき

  陀(た)れに思ひ聞きてもみても驚かぬ世をばいつまで空たのみして

  仏(ふ)たたびはめぐりあはむもたのまれずこの世を夢の契りかなしも

八十の賀を過ぎてもなお元気だった後水尾院も、延宝五年(一六七七)に晩年の愛妃・新広義門院を亡くし、
翌年東福門院を失ってからは、急に衰えを見せてきた。
後水尾院は、東福門院のあとを追うように、その二年後、延宝八年八月十九日早朝、崩御され、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

納棺の際の様子について堯恕法親王の日記に詳しく書かれている。
『後水尾院御葬送記』によると、「上段に徽宗皇帝の三尊仏が掛けられ、屏風には不動の像が掛けられた。
院の体は文智女王と朱宮の手で沐浴され、北首西面に安置され、枕元に酢を入れた鉢が置かれた。暑気が激しいから臭気を取るためである。
屏風の絵を外にして引きまわし、中の机に本尊と香炉を置いた。翌日納棺である。・・・・・」

念のために、泉涌寺について書いておく。
ここには後水尾院をはじめとして孝明天皇までの二十五人が葬られている。恐らく天皇には「戒名」も付けられていたと思われる。

泉涌寺 伽藍
総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。
長い参道の先にある大門(重文)をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿(重文)、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など
皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。
大門(重文)-慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。
楊貴妃観音堂-大門を入ってすぐ左手の奥まったところに建つ。中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。
心照殿-楊貴妃観音堂に接して建つ宝物館で、泉涌寺および塔頭寺院所蔵の文化財を順次公開している。
仏殿(重文)-寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建したもの。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。
内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置する。
天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の筆になる。
舎利殿-仏殿の背後に建つ。俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。
霊明殿-天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。
御座所-仏殿・舎利殿の背後に建つ。安政年間(江戸時代末期)に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。
女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。
玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋である。
平成期(1989年-)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に今上天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。
海会堂(かいえどう)-御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。
元は宮中にあり、「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の神仏分離令発布を機に泉涌寺に移築したものである。
かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。

なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。
八十五歳という長寿だった。
因みに、この長寿記録は、昭和天皇によって破られるまで、歴代天皇の中で長年、群を抜いて一位だった。
その最晩年は、却って長寿の淋しさが、後水尾院を襲ったであろう。
二十五人いた兄弟姉妹のうち存命者は二人のみ。四歳年下の弟で仲のよかった近衛信尋は、
すでに三十一年前に歿している。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文の
やり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
佐野紹益と島原の名妓・吉野太夫を争ったという粋な話は先にしたことが思い出される。

諡号は、遺詔により「後水尾院」とされた。
水尾帝とは清和天皇のことで、徳川家が清和源氏を祖とすると名乗っているので、
その徳川氏を上回るとの意思が見える。
数々の経緯のあった徳川氏とのことを思えば、うたた感慨を覚える心地だったのだろう。

辞世のお歌は

   ゆきゆきて思へばかなし末とほくみえしたか根も花のしら雲

いまわの際(きわ)に後水尾法皇は幻を視(み)られた。
修学院山荘の浴竜池の大池に舟が浮かんでいて、およつ御尞人、新広義門院と東福門院が
仲良くこちらを向いて微笑んでいる。


草弥の詩作品「なぜ修学院なのか」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
01-1修学院浴竜池
 ↑ 修学院浴竜池 
20060928122733修学院飾り棚
 ↑ 修学院茶屋 飾り棚
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   草弥の詩作品<草の領域>
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草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ──(9)

    なぜ修学院なのか・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院を遡ること約八百年前、嵯峨天皇は在位中よりしばしば嵯峨山荘に行幸し、譲位後は歿するまで嵯峨院で過ごすことが多かった。
そして詩を文人たちに作らせたという。
嵯峨上皇の歿後、その皇女で淳和天皇の皇后であった正子は貞観十八年(八七六年)、嵯峨院を大覚寺と改め、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地としたいと望み、その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替り、以来、禁中と深い結びつきをもつ寺として寺容を誇ってきたのである。
後水尾院の脳裏には、この嵯峨院のことが深く意識され続けてきたのだった。
嵯峨院は明らかに後水尾院の修学院のモデルであった。
後水尾院は、洛西の衣笠山なども候補地として調べさせたり、自らも洛北の岩倉や幡枝などに山荘を設営させたり、御幸したりしたが、気に入らなかった。
後水尾院は大覚寺にあるような「大池」が欲しかった。

話は時代を飛ぶが、後水尾院が修学院に山荘を造営されてから約七十五年後、近衛家熙は大覚寺門跡とともに修学院を訪れた記録が残っている。山科道安の『御記』である。
それによると、近衛家熙は山荘の作者を明快に断言している。
  <御亭をはじめ、御庭の一草一木に至るまで悉く後水尾院の御製なり。>
道安が尋ねる。
  <それは何とてあの遠き処を、遊ばしけるにや。>
家熙は、次のように語った。
  <ふと、あの山を御手に入てより、あの地勢山水を御考へにて雛形が出来て、草木をはじめ踏石捨石に至るまで、皆それぞれに土にて石形をこしらへ、その処に置い見て、恰好よきやうにあそばし、其の七八分も出来たる時分に、ござつつみの輿にのせ、平松可心、非蔵人某などを付られて見分に遣はさるること度々なり。>
非蔵人某とは赤松芸庵かも知れないと言われる。
造営はかなり長期にわたった。すでに明暦元年(一六五五)以前に隣雲亭が建っているのだから、万治三年(一六六〇)以後に茶屋が完成したのは確かだろう。
それが、上・中・下のどの茶屋なのかなどの資料はないし、この後にも工事は続いたであろう。

後水尾院が山荘造営の上で一番気になったのが八条宮の桂山荘である。すでに智仁親王は亡くなっている。
かつて譲位や和子入内をめぐって朝幕間の仲介に努力した智仁親王は、元和年間(一六一五~二四)に桂の里に茶屋を設け、次第に山荘としての体裁を整えていた。
智仁親王は寛永六年(一六二九)に歿し、しばらく荒廃するが、二代目・智忠親王に至って中書院が完成し、今日に至る姿が半ば出来上がった。
後水尾院は、ここを参考にしたいと考えたのであろう。
修学院の造営が進む明暦四年(一六五八)三月十二日、お忍びで桂へ出かけられた。後水尾院は、この忍びの御幸を含めて三回桂を訪ねている。

後水尾院が「大池」に拘られたことは先に述べたが、この地には水が無かったから、今の「浴竜池」を作るために堰堤を築き、山麓に至る流れの水を引き、さらに音羽川の水を引いて溜めた。
そのために山際の地形を造成した際の土を西側に盛って堤を築いた。堤は四段の石垣で約八メートルの高さとし、さらにゆるいカーブで幅広い盛土をもって約七メートルの高さを得て、あわせて十五メートルの高さをもつ堰堤としている。
当然、この堰堤は下の茶屋からみれば異様な姿を見せるので、ここに数メートルの高さの植え込みを作り、さらにその間に楓などを植えた「大刈込」の独特の景観を工夫したのである。
記録によると盗賊が侵入して放火され、隣雲亭も燃え落ちているから、今に残る隣雲亭が明暦以前のものと同じ位置かどうかは分からないが、少なくとも浴竜池が築かれてからの位置はほとんど変わらないと言われている。
前の大池、西浜を越えて遠望される松ヶ崎より岩倉方面の山々の風景は、後水尾院が眺めたのと余りかわらぬ姿をとどめていると思われる。
後水尾院は、嵯峨院が大覚寺として、嵯峨上皇の尊像、禅経文などを納めて礼拝する仏地となり、その二宮恒寂法親王を開山として勅額を賜り、嵯峨院の山荘は仏祖をまつる霊地へと替った故事に倣おうとなされたのは確かだった。
皇子の尊敬法親王に、この山荘を贈るべく寛文六年十月二十五日に「置文」(遺言)を書いておられるが、後水尾院より前に歿しておられ、この計画は実現せず、そのまま禁裏に所属することになった。
因みに、尊敬法親王は寛永十一年(一六三四)に五番目の皇子として出生、名を幸教。兄の後光明天皇の蔭にかくれて目立たない。幼くして、しかるべき門跡寺院への入室が運命づけられていた。
十一歳で青蓮院で得度し尊敬と号した。二十二歳で天台座主。ちょうど後水尾院が叡山領の一部を割いて修学院の山荘を造営しようとしたときの叡山の座主だったわけである。
先に書いた「置文」の書かれたとき三十三歳。
結論から言えば、この修学院に門跡寺院を建立する計画は実現しなかった。
後水尾院の「長寿」は、生涯、余りにも多くの肉親の死に立ち会うという悲劇をもたらした。
尊敬法親王は延宝元年(一六七三)江戸・上野の東叡山寛永寺に遷り、守澄法親王と名を改めたが、その七年後、後水尾院の崩御の三か月前の延宝八年(一六八〇)五月十六日に江戸で歿してしまった。

修学院山荘は後水尾院の<閑放の地>であった。
すでに落飾し、建前としては朝廷の実務を離れた法皇であり、念願通り、案外気楽に山荘へ出かけることが可能だった。
京都所司代も東福門院同伴のときは警備を厳重にしても、院一人であれば、お忍びとして殆ど放っておくことになっていた。

鳳林和尚が後水尾院に随行して山荘を訪れたのは万治二年(一六五九)四月十四日のことであった。
妙法院堯然法親王、照高院道晃法親王らと一緒だった。
床飾りの掛物は京極摂政良経の懐紙と日観のぶどうの絵であった。このあと一同は山荘の南、雲母坂の方へ出かけて俳諧を楽しんだ。
鳳林和尚が

    <卯の花や白きはげにも雲母坂>
  
と禿(はげ)の字を隠して、それに「きらら」を利かせた発句を作ると、
後水尾院は

       <絵にもおよばぬ夏山の隈>

と「脇句」をお付けになった。
続いて「三句」をお命じになったが、ついに誰も出来なかった、と鳳林和尚は日記に書いている。

草弥の詩作品「花 芯 ──お夏の巻」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──(82)──<後水尾院シリーズ>(8)  

       花 芯 ──お夏の巻・・・・・・・・・・木村草弥

      お夏は市井の遊女である
      お上が遊里に遊ばれたときに 見つけて来られた
     「床上手」として知られていた

     お上は上皇として 直接には禁裏の公式行事にも縛られず
      学問と言っても いつもあるものではないし
      連歌の会も センスのある者が揃わないと面白くない
      と仰せられて ますます 色道に精を出された
     禁裏に詰める女は 氏素性を明らかにする者ばかりで
      色事には慣れておらず お上は専ら 自分の精を放つのみであった

     今しも院も熟年の齢になられて
     それも 市井の遊里に遊ばれて
      お相手をする遊女が 性の喜びを あからさまに発するのに驚かれた
     女が歓喜の声を発すると それがお上にも伝わって
      何とも言えぬ男女の性の一体感を味われたのだった
      お上は男女が共に果てる という性の秘め事の極致を求められた
      此処を愛撫すると女が喜ぶのだという秘処も お覚えになった

     口を吸われ 乳首を愛撫されて お夏は喘いだ
      さらに 花芯──豆へのお上の攻めはつづいた
          因みに 豆とはクリトリスのことをいう(閑話休題)

           早乙女の股ぐらを
           鳩がにらんだとな
           にらんだも道理かや
           股に豆を挟んだと、ナヨナ

         という民謡があったらしい、と
         当時流行り始めていた「笠句」の本に書かれている。お分かりかナ。 

     お上の舌が 容赦なく 花芯の尖端を舐めつづけるので
     お夏は 恥ずかしげもなく 嬌声を上げた
     「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求めた
      お上の 温といお筆先が お夏の巾着に食い込み
          因みに 巾着とはヴァギナのことである
          この巾着は よく締まる などという
         お筆先とは ペニスのことである(閑話休題)
      二人は 獣のように つながりあった
     お夏の巾着の中で お上の筆先は ぬめぬめと動き
     挿入は 浅く 深く ぐるぐる廻って 変幻自在となり 
      二人は汗まみれになって 至福の境地へと高まってゆく
      まさに夢幻の時間が過ぎてゆくのであった

      途中で お上は挿入を止め 
      お夏を組み敷いて またもや 
     花芯へのクリニングスの攻撃を はじめるのであった
      お夏は耐えかねて 「行く!行く!」と息も絶え絶えになって絶叫する
     そして 「入れて!入れて!」と お上の一物の挿入を求める
     二人は ふたたび 獣のように番って 合体して 一つになる
     汗は 二人の顔や胸や腰や腹や背中やらを べとべとに濡らし
      いつしか 頂点に達して 「出る!行く!」と叫びあい
      お上のお筆先から シーメンが お夏の巾着に 放たれる
      遂に 二人は果てたのだ
     お上は 甘美な射精感と 
     お夏は 至福の受容感と に満たされて 
     遂に 二人は果てたのだ
     まさに 二人は合体の極致に達したのだった
     激しい息遣いと けだるい倦怠のうちに
     二人は布団に横たわり 高まった息遣いを 静めて
     けだるい眠りに落ちた

  のちに後水尾院は詠まれた

       <常夏のはかなき露に嵐吹く秋をうらみの袖やひがたき>

  「常夏の花」は撫子の異名である
                 

草弥の詩作品「近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う」・・・・・・・・・・木村草弥
d0116099_8522322吉野太夫の墓
 ↑ 二代目吉野太夫の墓
img吉野太夫
 ↑ 吉野太夫イメージの絵
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──<後水尾院>シリーズ──(5)

   近衛信尋 吉野太夫を灰屋紹益と張り合う・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院の生涯を語るとき、「近衛信尋」の名を欠くことは出来ない。
彼は一体どういう男なのか。

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日(1599年6月24日)~ 慶安2年10月11日(1649年11月15日))は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。
慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ、公卿に列する。慶長12年(1607年)に権中納言、慶長16年(1611年)に権大納言、慶長17年(1612年)には内大臣となる。
慶長19年(1614年)、右大臣に進み、元和6年(1620年)に左大臣、元和9年(1623年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂にての交流は有名である。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山と号する。慶安2年(1649年)10月11日、薨去。享年51。近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。

近衛前久、信尹の文化人の資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した文化人であった。書道は、養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家であった。
茶道は古田重然に学び、連歌も巧みであった。実兄の後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。
また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

系譜
父:後陽成天皇
母:中和門院 - 近衛前久の娘
養父:近衛信尹
同母兄弟 後水尾天皇
一条昭良
高松宮好仁親王

正室:不詳
子女 近衛尚嗣
寛俊 - 大僧正法印、勧修寺門
娘 - 東本願寺光瑛室
泰姫 - 水戸藩主徳川光圀室
娘 - 法華寺高慶尼
娘 - 三時知恩寺尼

今に続く公家の筆頭の家柄である。いつも朝廷の中心に居座り続け、天皇家とともに運命を共にしてきた。
多大な日記や記録を保存する「陽明文庫」が有名である。
近衛家の陽明文庫に残る百数十通の院との勘返状(往復書簡)を見ると二人の頻繁な文のやり取りの繁きことが手にとるようにわかるという。
後水尾院とは、すぐ下の弟であり影になって院を支えてきた。母方の近衛家に養子に入ったが、このような血の交流は、後にもしょっちゅうあった。

最高級の遊女と言われる「二代目 吉野太夫」との関係が史実として伝わっている。
吉野太夫というのは代々称された名前で、吉原の高尾太夫・大阪の夕霧太夫と並び、「最高の遊女」であった。
吉野太夫は10代以上続いたと言われるが、特に有名なのが「二代目」。本名は松田徳子という。

京都で生まれた徳子は7歳の時に遊里へ売られた。
そして林弥という禿(かむろ・遊女見習い)となった。

当時の遊里は、五条大橋畔から下流域にあった。六条三筋町(のち島原へ移転)に棲息する。

徳子は持ち前の美貌と、そして頭の良さでぐんぐんと美しく成長し、なんと14歳にして「太夫」となった。
「太夫」というのは最高級の遊女、その中でも「吉野太夫」という名を貰った徳子はピカイチ。

茶の湯・和歌・舞などどれをとっても超一流、また思慮深く教養があり、たちまち京都中の大評判になった。

ある時、京都の鍛冶屋の弟子が吉野を見てヒトメボレ
だが吉野は最高級の遊女なため「値段」がめちゃくちゃ高い。
吉野に恋焦がれたその男は、頑張って働いて大金を貯め、「一生に一度だけでも」と、吉野と一晩を過ごしたのだ。
そしてあまりの嬉しさに、もう思い残すことはない・・・と、その日に桂川にて入水自殺したのである。

そんな吉野太夫だが、この吉野を巡って2人の男が対立していた。
一人は豪商の跡取り息子・灰屋紹益。
もう一人は後水尾天皇の実弟で公家筆頭の近衛信尋。彼は芸術家本阿弥の一族とも繋がりがある。
恋のさや当ての結末は、吉野が選んだのは灰屋のほうだった。吉野26歳・灰屋22歳だった。

が、灰屋にはちゃんとした妻がいた。
そのため父から勘当されてしまった。
でも妻が死んでしまったため、父は灰屋を許し、吉野太夫を正妻にすることを許したのだ。
因みにこの時のエピソードだが、吉野は所持品を売ったりしてけなげに夫に尽くした。
ある日のこと、ある老人が雨が降ってきたので吉野の家で雨宿りさせてもらった。
そこで心ある茶のもてなしを受け、感動した老人が後日吉野のもとへたずねたところ、そこに息子がいたのでビックリ!
この老人は紹益の父だったのだ。こうして2人は勘当を解かれ、正式な妻となったのだった。
吉野を親戚に紹介する日、親戚の女房達は吉野なんかに負けるものか!と、競ってゴージャスな着物を身にまといやってきたが、吉野は質素な着物で、物腰柔らかに挨拶。女房達は恥かしくなったそうである。
だが吉野は病気になってしまい、そして38歳で死んでしまったのである。
灰屋は吉野の死をすっごく悲しみ、吉野の骨を粉にして飲んだと言われている。

    後水尾院は、一夕、近衛信尋と雑談をしておられた

    吉野太夫の噂などが院の耳にも届いていたのである
    
        <汝(なれ)は気ままでいいのう>

    信尋が答える

         <お上 何を仰せられます
          お上こそ生殺与奪の権を
          手中にしておいでです>

    院は苦笑いして

         <何が生殺与奪の権じゃ
          貴(あて)には何の力もないのじゃ
          幕府の食い扶持で生かされておるのみじゃ
          何を以て 生殺与奪の権などと言うか>

   と、改めて苦虫を噛みつぶしたような顔で仰せられた。

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resizeImg近衛信尋懐紙
 ↑ 近衛信尋懐紙

この歌の読み下しは

  <うぐいすも こゑうららけき 春日野の 松に残らむ 雪にならはば>    となる。

草弥の詩作品「およつ御寮人」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
o0400030011955918403東福門院像 光雲寺
 ↑ 東福門院像 光雲寺
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──(80)──<後水尾院シリーズ>(6)

     およつ御寮人・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「およつ」と呼ばれていた此の女性は、儚い数奇な人生を辿った。
禁中に上がって女官「典侍」という地位にいたが、若い後水尾帝の
寵愛を受けて二人の皇子と皇女を生んだ。
名は四辻与津子というので「およつ御寮人」と呼ばれていた。
生年は分かっていない。 一六三八年に歿している。
丁度この頃、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内の話が出て、
その最中に天皇に寵愛する女が居て、子を成していることが分かり、
徳川家が怒って一悶着あった。
近臣を罰するなどの詫びを入れて、元和六年(一六二〇)に和子が
女御として入内した。
「およつ」の生んだ第一皇子・賀茂宮は四歳で一六二二年に歿し、
第一皇女・梅宮・文智女王は、十三歳で鷹司教平に嫁したが、
三年足らずで離縁。
およつの死後は和子女御──後には中宮が育て、後水尾帝も可愛がった
ので「円照寺」住持として傍に置いていた。
円照寺は修学院山荘の敷地の一角にあったが、山荘の整備のために
大和に移されたが、寺領を幕府に寄進させるなど、和子は多大の援助
を注いだ。
文智女王は、後年にこんな詩を和子に贈っている。

   思碧潭
君在洛陽我嶺南  屢難飛錫侍清談
思看宮裡凭欄日  玉兎移輪浸碧潭

この自作の詩に詳細な自註を施しているのが知られている。
それは「女院様を慕うにつけて御所の碧潭の額を思うの詩」の意とある。
文智女王は文才があったので後水尾帝も可愛いくて仕方なかった。
かつて和子(東福門院)の入内によって母およつ御寮人は後水尾帝の側から
引き離され、兄・賀茂宮は皇統の一族から、その名を抹消された。
それらのことを見てきた梅宮・文智女王である。
東福門院その人に怨みはなくとも心うちとけぬ日々もあっただろう。
もはやあれから半世紀。
今では蔭となり日なたとなって文智女王を援ける東福門院のやさしさが
身に沁みるばかりであった。
その仲立ちの労を取ったのが、かつて東福門院の侍女であり、のちに
「円照寺」住持となった文智女王に帰依して尼僧として仕えた文海尼
であった。
文海尼は上賀茂の社家松下家の出身。母は梅宮の幼いころに乳母を務めて
いて、因縁は浅くはない。
寛永七年(一六三〇)生まれだから東福門院の侍女・相模(さがみ)として
仕えたが、東福門院は相模を大いに信用し、二十二歳で出家し文海と名を得て
仏道の学問に親しんだ後も、法談を聴いたこともあった。
文智女王が出京できないときは文海が替って京都と奈良を往復して仲介の役を
果たしたのである。
東福門院が歿するとき、文海尼だけを招いたことが、その最もよき証拠である。

梅宮・文智女王は、一六一九年生まれ。一六九七年に歿しているが長命だった。


  
草弥の詩作品「およつ可愛いや」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 東福門院入内図屏風(徳川美術館 17世紀)
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──草弥の詩作品──(81)──<後水尾院シリーズ>──(7)
     
     およつ可愛いや・・・・・・・・・・・・木村草弥

     お上(かみ)のお筆下ろしがいつだったかは判らない
     お上は十六歳で即位された
     すでに れっきとした青年である
     三十七人もの子を産ませる後年の精力絶倫さをみると
     この頃 性欲にめざめても当然である

     下々であれば浮世絵春画の交合図などを見て覚えるのだが
     高貴な処にあっては
     男女の仲に手慣れた女官が手引きするなどがなされた

     典侍をつとめていた四辻与津子は
     公家の四辻公遠(きんとお)の娘で
     四辻の字を取って
     「およつ」と呼ばれていた
     お上のお手がつくように配置されたのだった

     お上──三宮政仁(ただひと)親王は
     慶長十六年(一六一一)四月十二日に即位された
     天皇は十六歳 父の後陽成上皇四十三歳である

     お上は「およつ」を可愛がられた
     やがて およつは第一皇子・賀茂宮を
     元和四年(一六一八)に出産する
     このとき お上は二十三歳である
     そして翌年に第一皇女・梅宮──のちの文智女王を産む

     元和六年(一六二〇)徳川和子入内
     元和九年(一六二三)十一月十九日
     和子が女一宮・興子内親王のちの明正天皇を産む

 この頃の主な事件を年表風に記すと こんな風である

 元和九年六月 将軍徳川秀忠上洛 一万石を禁裏に増献
 寛永元年四月 初代京都所司代・板倉勝重歿
 女御和子 中宮に冊立
 寛永三年 将軍・徳川家光上洛
 九月六日 二条城に行幸 幕府より銀三万両献上
 寛永六年七月二十五日 紫衣事件の結果 近習の公家ら配流
 十月十日 家光の乳母・春日局参内
 十一月八日 後水尾天皇にわかに譲位
 同九日 中宮は東福門院とあらためる
 この年 禁中で立花が流行
 寛永七年七月三日 後水尾院母・中和門院歿
 九月十二日 明正天皇即位

『後水尾院御集』には多くの「恋」の歌が載っている。
堂上和歌に於いては、ものに寄せて詠まれるもので、今の短歌のように即物的リアリズムではないが、
この頃の最愛の「およつ」御尞人であるから、まんざら違和感があるとは言い切れないので、こんな歌を引いておく。

            初恋
   末つひに淵とやならん涙川けふの袂を水上にして

   今日ぞ知るあやしき空のながめよりさは物思ふ我身なりとは

   萌え初むる今だにかかる思草葉末の露のいかに乱れん

            見恋
   我にかく人は心もとどめじを見し俤の身をもはなれぬ

   人にかく添ふ身ともがな見しままに夢も現もさらぬ面影

            且見恋
   忘られぬ思ひはさしも浅からで浅香の沼の草の名も憂し

   思ひのみしるべとならばたのめただ哀あやなき今日のながめを

            誓恋
   たのまじよ言の葉ごとの誓ひにて中々しるき人のいつはり

            契恋
   別れてはよもながらへじ憂き身をも思はぬ人や契る行末

   心ならぬさはりあらばと此の暮を思ひ入るるも思ふにはうき

   たのまじよ言よく契る言の葉ぞ終(つひ)になげなる物思ひせん

   此の暮をまづ契おけ命だに知らぬ行衛はあやな何せん

            不逢恋
   いかさまにいひもかへましつれなさのおなじ筋なる中の恨は

   つれなさの心見はてて今更に思へばおなじ身さへくやしき

   あればありし此の身よいつのならはしに夜を隔てむも今更に憂き

             惜別恋
   あくる夜の程なき袖の涙にや猶かきくらすきぬぎぬの空

   とどめては行かずやいかに我こそは人にのみ添ふ今朝の心も

   くり返しおなじ事のみ契る哉行きもやられぬ今朝の別れに

   誰がための命ならねど思ふにも見はてぬ夢の今朝の別路(わかれぢ)

             後朝恋
   身に添へて又こそは寝め移り香もまださながらの今朝の袂を



   
草弥の詩作品「桂の月」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img_1493601_42647926_2桂離宮
127944817585616315456_IMG_1944桂離宮
dsc17173b桂離宮 松琴亭から
↑ 松琴亭から古書院と月波楼を望む
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──(78)──<後水尾院>シリーズ(4)

      桂 の 月・・・・・・・・・・木村草弥

桂川の水面に涼やかな秋風と月が巡って来た。
桂川の川水を引いた池の水面に満月が映っている。
古書院の縁側から張り出した竹箕子の<月見台>に
八條宮智忠親王たちの観月の宴が催されたのだ。
ここ桂の地は古くから貴族の別荘地として知られ、
古くは藤原道長の別業が営まれていた。
近くの松室には<月読神社>があり、桂という地名も
中国の<月桂>の故事から来ている。
八條宮家初代の智仁親王によって桂山荘の基礎が築かれ
<古書院>は一六一五年頃に竣(な)ったと言われる。
八條宮家二代の智忠親王は<新御殿> などを付加され、
今宵、後水尾院をお招きになったのだった。
回遊式庭園の桂川から水を引いた池には築山や洲浜、
橋、石灯籠が配され、茶屋の松琴亭、賞花亭、笑意軒、
月波楼が黒い影となって佇んでいる。

後水尾院は、すっかり寛がれ

   河波に月のかつらのさほさして
        明くるもしらずうたふ舟人

   明けぼのや山本くらく立ちこめて
          霧にこゑある秋の川水

と歌を詠まれた。
松琴亭の唐紙の雲母(きらら)刷りの紋様が光線の射し方によって
様々に変化するのにも興味を示され、職人は誰かなどと
お聞きあそばされた。
後水尾院は四代の帝にわたって絶大な院政を敷かれ、
また色好みとしても知られている。

    身にそへて又や寝なまし移り香も
          まださながらの今朝の袂を

    待ちいでてかへるこよひのつれなさは
            ひとり見はつる有明の月

などの恋の歌を残された。
この頃、徳川幕府は慶長二十年(一六一五年)に
「禁中並公家諸法度」を発するなど朝廷の行動全般を支
配するようになった。それに対する怒りと諦めとが、
ないまぜになった御生涯であったろうか。

   芦原やしげらば繁れ荻薄
      とても道ある世にすまばこそ

   世の中はあしまの蟹のあしまとひ
         横にゆくこそ道のみちなれ

これらの歌に、院の想いの一端が、かいま見える。

e0048413_19442227桂離宮
b81cfaa6092005eb53e8984f458c5a17桂離宮
img52c0a41dzikczj桂離宮
9433332桂離宮「笹垣」
 ↑ 外構の笹垣

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アンソロジー
↑ アンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社刊)← 538名の現代詩作家を集めたものである。
私の、この作品は、この本に登載したものである。今日、発刊されたので表紙を出しておく。

私の詩作品もさることながら、桂離宮の見事な佇まいの写真を、ご堪能あれ。
私の詩の場面の時代には「桂殿」と宮中では呼ばれていたらしい。
「桂離宮」と称されるようになるのは、明治以後に宮内庁が所管するようになってからである。
昔は金がなくて、荒(すさ)びようがひどかったようである。


草弥の詩作品「お車返しの桜」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
mikuruma2御所御車返しの桜
dd1383ed1e44f7f99c3b8a383508ca1b車返し桜接写②
7ce68ceb20b94944364111c97f2aaf1f車返し桜接写①
↑ 御所御車返しの桜
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   草弥の詩作品<草の領域>
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──草弥の詩作品──(77)──<後水尾院シリーズ>(3)

     お車返しの桜・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

京都の人々の憩いの場として、普段はひっそりとしている御所も、春と秋の一般公開期間には沢山の観光客が訪れる。
東西700m南北1300mの広大な敷地の中には、様々な樹木が植えられて、どれも手入れが行き届いている。
3月になると、まず梅林が春の訪れを告げる。続いて梅林の隣の桃林が満開になり、4月には桜が春の主役になる。
御所は枝垂れ桜が多数植えられていることでも有名で、北側にある枝垂れ桜はどれも枝振りが大きく、見ごたえがある。
芝生の上に腰を下ろして、ゆっくりと桜を楽しむことが出来る。
御所の中でもっとも有名な桜と言えば「御車返しの桜」だろう。
御所、宜秋門の斜め前にある、御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)。

     一重と八重がまざって咲くめずらしい桜である
     そのあまりの美しさに 後水尾天皇が
     御車を引き返させて 再びご覧になったことから
     「御車返しの桜」と呼ばれるようになった

     後水尾院は 別に花見をしたかったわけではない
     「修学院山荘」の出来上がり具合を見届けに行きたいと
     思って牛車に乗られたところだった
     院は 松の木に特別の関心を抱いておられた
     上御茶屋へ行く途中の松並木の刈込みの仕方にも
     あれこれと指図をなされた
     普通は松を低く刈込むというようなことはないのだが
     小径(こみち)を歩いて上ってゆくときに
     周りの景色がよくみえるように との意図であった
     牛車は山荘の入口までしか乗っては行けないので
     後は歩くしかなかった

因みに、いま山荘と書いてみたが、当時は「修学院殿」と称(よ)ばれていた。
ましてや「離宮」などと呼ばれるのは明治以後のことである。
樹木は毎年少しづつ大きくなる。刈り込んでも造営当初とは大きくなりすぎてしまった。
つづいて因みに、ここの池や樹木などの管理は佐野藤右衛門が請け負っている。
佐野籐右衛門(さの とうえもん)は、庭師の名跡。京都・嵯峨野にある造園業「植藤」の当主が襲名する。
籐右衛門は、天保3年(1832年)より代々、仁和寺御室御所の造園を担ってきた。
当代の第16代 佐野籐右衛門(1928年(昭和3年) ~ )は、日本の造園家、作庭家。
祖父である第14代籐右衛門が始めた日本全国のサクラの保存活動を継承し、「桜守」としても知られる。
京都府立農林学校卒業。造園業「株式会社植藤造園」の会長。桂離宮、修学院離宮の整備を手がける。
パリ・ユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチに協力して造る。
1997年(平成9年)、ユネスコからピカソ・メダルを授与された。
1999年(平成11年)には、勲五等双光旭日章を受章。
2005年(平成17年)には、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成。
豪放な振舞いで知られ、この迎賓館の造成中も宮内庁の役人の干渉がひどい、と
「さあ、休みや、休みや」と職人を引き揚げさせたエピソードが伝えられる。

 院は山荘に着かれ 隣雲亭で一休みして こんな歌を詠まれた

  <やよひ山咲きおくれむもうらみじや花を卯月のぬさとたむけむ>

  <見し春のつつじをうつす山水のただ松青き夏になりゆく>


草弥の詩作品『修学院幻視』 序詩・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
627px-Emperor_Go-Mizunoo3後水尾院
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(76)──<後水尾院シリーズ>(2) 

    『修学院幻視』 序 詩・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

後水尾院
後陽成天皇の第三皇子。名は政仁(ただひと。即位後、ことひと、に改める)。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。
後陽成院は弟・八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(1617)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。
幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、
寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、
寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)。
以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。
和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。
慶安四年(1651)、落飾し法皇となる。延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。
泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。
二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、
後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。
叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。
『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
女性関係は派手で、男女あわせて三十七人の子を産ませている。
禁中法度を無視して宮中に遊女を招き入れたり、遊郭にまでお忍びで出かけた、と言われている。
退位して「上皇」になってからも中宮・和子以外の女性に三十数人の子を産ませ、五十六歳で出家して法皇になった後でも直らず、五十八歳で後の霊元天皇を産ませた。

【仙洞御所】
京都御所の東南にある。
仙洞とは上皇の御所の意で、寛永六年(1629)後水尾上皇の御所として、徳川幕府が桜町の地を相して造進した。
故に桜町宮または桜町の仙洞とも称した。
爾来、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格各上皇の仙洞となった。
その間、数度の火災に焼亡し、寛文以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

庭園(江戸)は三部分よりなる池泉廻遊式の観賞庭園。
寛永十一年(1634)小堀遠州が泉石奉行となり、庭師賢庭を用いて作庭したと言われ、
東西約百メートル、南北三百メートルの広大な地に大池をつくり、奇岩怪石を配置し、
古木老樹を植えて深山幽谷の景観を現わしている。
このうち北苑の池泉は巨石を組んで「真」の山水とし、桃山時代に行われた書院式廻遊庭園としての様式がとられている。
中苑の池泉は東部滝組を中心にして行体の景を示し、八ツ橋を架け、小田原石を敷いて浜を作り、中島を設け、爽快な池泉庭園としての景観を形成している。
なお北苑北隅の一潭を「阿古瀬淵」といい、紀貫之の旧栖地と伝え、渡忠秋撰文の石碑が建っている。

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先に発表した詩につづく<後水尾院シリーズ>である。
これらは草稿であるから大幅に推敲される余地があることを了承されたい。


草弥の詩作品「後水尾院の御放屁」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
詩と詩論
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品<草の領域>──(75)──<後水尾院>シリーズ──(1)
  
        後水尾院の御放屁・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ──世の中は気楽に暮せ何事も
                      思へば思ふ思はねばこそ    後水尾院──


     修学院村にも若葉の初夏が訪れた。
     お忍びで後水尾院が供ぶれも少なくお越しになった。
     時しも田植の時期で、山荘の周囲の棚田では
     早乙女が一心に稲の苗を植えていた。
     水張田には蛙がころころと盛んに鳴いていた。
     何人かが横一列になって、こちらに丸い尻を向けて
     ひたすら苗を植えていた。
     この頃、軽口の「笠句」というのが
     庶民の間で流行りはじめていて

         かしましや こらへかねてぞ田へつぶて

     という句を院は存じておられた。
         ははあ、この光景は正にこの句そのものじゃな、と
         心の中で呟かれたものである。

     刈り込まれた松並木の狭い道を辿って、
     院は上御茶屋の隣雲亭にお着きになった。
     眺望が開け、眼下に浴龍池、遠景に借景の山並が拡がった。
     ここは眺望を目的とした簡素な作りで床も棚も無い。
     六畳の一ノ間、三畳の二ノ間と六畳間の三室だけからなる。
     院はうっすらと汗ばまれた肌を拭われた。

     つい先日、八條宮のお招きで院は桂山荘に遊ばれた。
     そこでご覧になった襖などの唐紙の紋様が、
     陽の移ろいにつれて様々に変化するのを堪能されたのだった。
     今日は、その唐紙を作った唐長(からちょう)の当主を呼んでおられて、
     雲母(きらら)刷りの原料のことなどを聴かれた。
        因みに唐長は創業寛永元(一六二四)年。今に続く本邦
        唯一現存する唐紙屋である。現当主・千田堅吉は十一代
        目にあたる。修学院に工房を構える。創業からのデザイ
        ンの板木が六五〇本も伝来するが、それらの伝統を受け
        つぐと共に、現代的なデザインも旺盛に取り入れて創作
        している。

     見はるかす池に張り出した木々の枝先には
     モリアオガエルの卵塊が、いくつもほの白く点っていた。
     院は胸をはだけて、ごろりと横になられて寛がれ
        やよ唐長や、許せよ、
        貴(あて)は、ちと、おいどの埃を払いとうなったわ、
     と仰せられて、ぷぉ~と
     豪快に御放屁(ごほうひ)あそばされた。   
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この詩は<後水尾院>シリーズの初めてのものとして発表したものである。
月刊詩誌「詩と思想」2012年7月号に載ったものである。 本日発売されて私の手元にも届いたので披露する。
制作の順序は不同で、いずれ一冊の詩集にまとめるときに「順番」は決めることになる。
すでにシリーズ二番目の作品も送稿済みで八月には出て来ることになっている。
全体では二十数篇の詩を束ねたものとなる予定である。
原文は、もちろん「タテ書き」であり「ルビ」も振ってあるが、ここでは振れないのでカッコ内に入れて表示したし、傍点(・)も「下線」で代用してある。
なお、「朕(ちん)」という天皇が自らのことを表現する人称代名詞のことだが、この言葉は「公式」の場面で使われるものらしい。
私的な、平生の暮らしの中では、天皇も「余」などと言われたらしいが、これも考えてみれば文章語である。
豪放磊落な後水尾帝のことであるから、或いは「貴(あて)」などと言われたかも知れないと思い初出では「朕(ちん)」だったのを改作した。
もっとも「御所ことば」については調べてみたい。
因みに下々でも、自分のことを「わて」「あて」とか言うのも、御所言葉が移ってきて使われていたとみられるからだ。
例えば「おみおつけ」という味噌汁を指す言葉があるが、これも元はれっきとした御所言葉なのである。
「汁」は「つけ」と言われたが、これに丁寧語の接頭語「お」を、ご大層にも三つもくっつけたものである。
御所言葉の本は堀井令以知のものなどいくつかあるが、天皇が自身を、どう呼ばれたか、などは分からない。
だから私の書いたものは私の独断である。
今回のものは暫定的なものであり、改作する余地がある。


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