K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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無音の谷ひとすじ 川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・・・・・・藤原光顕
db21a112cc944aff6e3b61e7c5540d90敗戦日
 ↑ 敗戦後の「焼け跡」

       無音の谷ひとすじ 
          川遊びから戻ると戦争に負けていた・・・・・・・・・藤原光顕


今日は、昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏して、第二次世界大戦が終結した日である。
今しも、A級戦犯・岸信介を祖父に持つ安倍晋三が「ポツダム宣言」「戦勝国・連合国」「敗戦国条項」などに異論を唱えて、素直に戦争責任を認めず、特にアジアの近隣諸国から非難を浴びている。
マスコミの名前を出して失礼するが、
七月下旬の「京都新聞」は、五十五年前の「安保」成立の頃の総理大臣・岸信介の名前を挙げて、「安倍晋三は自身を岸信介になぞらえて自己陶酔している」と評した。
まさに的確な言質というべく、敢えて、ここに引いておくものである。


戦後70年経ったからと言って、日本が近隣諸国を侵略し、何百万人の命と財産を奪い、大きな損害を与えたことは消し難い、厳然たる事実である。
「絶対的平和主義」なんていう意味不明の言辞を弄して、責任の所在について、素直に謝ろうとしないのは、愚の骨頂である。
歴代首相たちが表明してきたことを、そのままの言葉で踏襲したらいいのである。
何らかの「目新しい言辞」を作り出すことなど不必要なのである。
70年という年月は長いようであっても、侵略された国にとっては一瞬のことなのであり、忘れ難い年月なのである。
八十五年生きた私からすると、艦載機の機銃掃射に逃げまどった戦争末期の出来事は、つい昨日のような思い出なのである。
当時、私は中学三年生だったが、授業は一切なく、学徒動員で軍需工場で旋盤工としてロケット弾を削ったりしていた。
もはや日本軍には制空権はなく、日本近海には多数のアメリカの航空母艦が居て、そこから発進する艦載機が飛びまわって爆弾を落とし、機銃掃射を浴びせてきた。

戦中、敗戦後の苦労も知らない戦後生まれの「お坊ちゃん」に、とやかく言われて近隣諸国と無用の摩擦など、やってほしくないのである。
今しも中国の「覇権主義」が尖閣諸島や南国で事件を引き起こしている事実はある。 摩擦も起こっている。
さればこそ、無用の摩擦を事前に防ぐためにも「仲良く」して関係を良くしておく必要がある。それが「外交」というものではないのか。
祖父の岸信介が今の日米安保体制を作った。だから孫である私・安倍晋三が、祖父に並び称される「新」安保を成立させて歴史に名をとどめたい、というのが彼の心中だろう。
先に引用した京都新聞の「自己陶酔」云々という意味は、そういうことであろう。

安倍の評判は悪く、支持率も急速に下がっているので、最近は極めて慎重な言動に終始している。
「戦後七十年談話」も、村山富市などの「お詫び」の文言を談話の中に書き込むことになった。
しかし文面はずらずらと長たらしいもので、率直な「お詫び」の文章にはなっていない。「お詫び」も「引用」であって、彼自身の「お詫び」の言葉は、無い。お詫びの「主語」が無い。
中韓との関係を今以上に悪化させることは避けなければならない。
ともあれ敗戦の日を前にして「談話」が出されたことは、先ずはよかったとしよう。
言いたいことはたくさんあるが、最低限にとどめて、敗戦あるいは終戦について詠まれた句を引いて、戦没者のご冥福を祈り、近隣諸国にはお詫びの一日としたい。

掲出した歌は「芸術と自由」誌No:301─2015/7月号に載るものである。
私が敬愛する藤原氏は1935年生まれ、本年で満80歳になられる。
日本が戦争に負けたときは「少年」であった。本作は、そのときの「敗戦」記である。「自由律短歌」である。
敗戦記念日である今日に、敢えて掲載する意味を汲んでもらいたい。


  堪ふる事いまは暑のみや終戦日・・・・・・・・及川貞

  朝の髪一つに束ね終戦日・・・・・・・・菖蒲あや

  木々のこゑ石ころのこゑ終戦日・・・・・・・・鷹羽守行

  いつまでもいつも八月十五日・・・・・・・・綾部仁喜

  高館は雨のくさむら終戦日・・・・・・・・石崎素秋

  敗戦記念日の手花火の垂れ玉よ・・・・・・・・三橋敏雄

  敗戦日少年に川いまも流れ・・・・・・・・矢島渚男

  敗戦忌燃えてしまった青年ら・・・・・・・・北さとり

  この空を奈落より見き敗戦日・・・・・・・・岡田貞峰

  初心ありとせば八月十五日・・・・・・・・小桧山繁子

  敗戦忌海恋ふ貝を身につけて・・・・・・・・山本つぼみ

  終戦忌声なき声の遺書無数・・・・・・・・以東肇

  海原は父の墓標や敗戦忌・・・・・・・・中村啓輔

  終戦忌何も持たずに生きてきて・・・・・・・池田琴線女

  荼毘のごと燃やす破船や終戦日・・・・・・・・野村久子

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掲出した藤原作品に照応するものとして、矢島渚男の句が、きらりと屹立している。
当該句はゴチック体にしておいた。



ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ・・・・・・・・・・・・・・・西行法師
img002弘川寺

    ねがはくは花のもとにて春死なむ
          その如月の望月のころ・・・・・・・・・・・・・・・西行法師


もし願いが叶うならば、爛漫たる桜の花のもとで死にたいものだ、まさにその二月十五日の満月のころに。
 古来、日本の歌や句では「花」というと「桜」の花を指す決まりになっている。
「如月の望月のころ」は旧暦で二月十五日、望月─満月のことであるが、今の太陽暦では三月末にあたる。
西行の熱愛した桜の花盛りの時期だが、その日は、また釈迦入滅の日でもある。仏道に入った者として、最も望ましい死の日だった訳である。
この歌は、自分の歌の中から秀歌72首を自選して三十六番の歌合(うたあわせ)の形に組み、藤原俊成に判を求めた「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)に含まれている。
時に、西行70歳。
3年後の建久元年2月16日、彼は驚くべきことに、願った通りの時に死んだ。73歳だった。

西行が入滅したのは、河内の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町弘川)である。
先に書いたように釈迦涅槃の日に、しかも熱愛していた桜の満開の望月の時、という頃に命を終えたということが、世人の深い感動を誘ったのである。
 写真①②は弘川寺。
因みに、芭蕉をはじめ、西行の足跡を慕って諸国を行脚した歌人や俳人はかなりの数にのぼるが、西行終焉の地・弘川寺を突き止めたのは、
享保17年(1732年)、藤原俊成の『長秋詠草』の記事によって発見した歌僧・似雲であると言われている。
img003弘川寺

いま弘川寺を訪ねると、似雲が再興したと伝える「西行堂」が本堂背後の丘にあり、その脇に川田順の筆になる

<年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山>・・・・・・・・・西行(山家集)

の歌の石碑が立つ。
そして木下闇の広場には佐佐木信綱の書で

<仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば>・・・・・・・・・・西行(山家集)

の大きな歌碑が立っている。
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写真③は、本堂を見下ろす場所にある西行堂。
img004西行堂

以下、Web上に載る記事を転載しておく。
(草弥・註。↓ この記事はその後抹消されたらしい)

弘川寺・西行終焉の地を訪ねる(大阪府南河内郡)

 春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり   西行

西行に興味を持ったのは、
十数年前、藤田美術館で西行伝筆の一幅に出会ってから…。

 にわかにも 風の涼しくなりぬるか 秋たつ日とは むべもいいける

 よみ人知らず・西行・伝・筆とされる。ようするに詠んだ人は不詳だが西行が書いた「書」であると伝えられる高野切れの一幅。記憶のままなので正確であるかどうかの保証はない。この時代にはときの階位が低いと「よみ人知らず」とされるようだが、仮に西行が詠んだ歌ではないにしても何らかの意図を持って西行が書いたことはほぼ間違いがないし、何より覚え易い。
三度ほど暗誦して諳んじることができる。
西行の歌ほどすんなり心の内部に入ってくる歌はない。あまり歌に詳しくはないが、その頃の貴族の生活や社会環境まで併せて考慮しなければならなかったり、ときの職業歌人が技巧を弄したような歌もあまり好きではない。前段階での勉強が必要な歌に、私自身はなかなか共感できる深みにまで達することができない。もしくは私にそこまでの余裕がないか…。
西行の歌に、ある意味、辞世のような迫真性を持つ歌が多いと思うのは私だけか。
とにかく、以来…私はどんな炎暑の夏も、ある時期がくれば毎年のように前述の、よみ人知らず・西行・伝・筆の句を思い出し、その度に西行のことを思い出す。その季節ともなれば、夏の南風とは違う微かな涼風に、たしかに秋の訪れを感じるし、それは900年の時間を飛び越えて感じる同じ風のように思えるからだ。

弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られる。
西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立された。
晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのだろうか。
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私事で恐縮だが、私の姉・登志子は昭和19年2月に結核で死んだが、死期を悟ってからは、しきりに花の下で死にたい、と言った。
その花とは、私たちの村は梅の花の名所であったから、「梅」の花を指しているのだが、彼女の意識の中には、
花の種類こそ違え、西行の、この歌があったのは確かなことであった。
そして姉は、その願いの通り、梅の花咲く季節に死んだ。



つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が降り来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安永蕗子
2029434582084203803春雪
 ↑ 花に春の雪

    つきぬけて虚しき空と思ふとき
      燃え殻のごとき雪が降り来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安永蕗子


安永蕗子は熊本の人。父の創刊した歌誌「椎の木」を主宰していたが2012年3月17日、膵臓癌により死去。92歳。
昭和31年「棕櫚の花」50首で第2回角川短歌賞を受賞。
この歌は、「つきぬけて」と表現されるのだから「虚しい」とでも言うような、ポワンと何もない空だと思っていたら、突然、空から「燃え殻」と言われるように、
一般には「牡丹雪」と呼ばれる大きな雪がはらはらと降ってきた、という意味であろうか。
自然のあり様をよく観察して歌にされている。昭和37年刊『魚愁』所載。
川野里子の「短歌とエッセイ」に安永蕗子第二歌集『草炎』に触れたものがあるので、ご覧になるとよい。

以下、安永の歌をひいておく。

   何ものの声到るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる

   かすかなるものに見をれど降る雪の当然にして虎杖(いたどり)を博つ

   飲食(をんじき)のいとまほのかに開く唇(くち)よ我が深淵も知らるる莫けむ

   紫の葡萄を運ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく

   街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる

   かへり来てたたみに坐る一塊の無明にとどく夜の光あり

   死を越ゆる方途たまはらざりしかば今の現つのくれなゐ椿

   文芸は書きてぞ卑し書かずして思ふ百語に揺れたつ黄菅(きすげ)

   西安と呼びてほのかに翳りくる四声悲泣の音あるらしも

   いづくにか水をついばむ嘴(はし)の音一尾呑まれてゐる水の音

   もろともに愛(を)しき命は満月に遠く礼(いや)して吾と吾が犬

   薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃
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「雪」も、いよいよ終わる季節である。
内村直也作詞、中田喜直作曲になる♪「雪の降るまちを」♪という歌があるが、私はこの歌が大好きで、
カラオケで歌えと言われれば、冬ならば、この歌を選ぶ。
このサイトはメロディーと歌詞と楽譜が出るので、ご覧いただきたい。

動画を出しておくが、削除されたらゴメンなさい。 ↓
かなしみのきわまるときしさまざまの物象顕ちて寒の虹ある・・・・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久
990930a虹
  
      かなしみのきわまるときしさまざまの
             物象顕(た)ちて寒の虹ある・・・・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


俳句の場合の季語としては「虹」は夏季のものとされる。
日本での気象条件からすると、高温多湿の夏に虹が多いのは当然である。
冬に虹を詠む場合には、季節の言葉をつけて「寒の虹」のようにして季語とする。

この坪野哲久の「寒の虹」の歌は、そういう点から見ても面白い。
雨と太陽光線とがあって虹が立つのが普通だが、哲久は「物象顕ちて寒の虹」が立つと詠っている。
これは上の句に「かなしみのきわまるとき」と書いているように、作者の心が空に立たせた幻の虹かとさえ思わせる。
「きわまるときし」の「し」は強調の助詞である。
このように上の句と下の句とが相まって、歌に独特の孤高性と浪漫性をもたらしている。『碧巌』所載。

加藤楸邨の句に

 Thou too Brutus ! 今も冬虹消えやすく

というのがあるのを思いだした。冬の虹というのは、そういう消えやすい「はかない」ものである。
坪野哲久の歌の「かなしみのきわまるとき」という把握の仕方と相通じるものがあるかと思う。
坪野哲久については前にも一度採り上げたことがあるが、昭和初期にプロレタリア短歌運動で活躍、昭和5年、第一歌集『九月一日』を刊行したが発禁処分を受ける。
昭和46年『碧巌』で読売文学賞受賞。石川県生まれ。昭和63年没。
哲久の歌は心象を詠いあげたものが多い。叙景だけの歌というものはない。
「物象」などという「漢語」の使い方が独特である。仏教用語も多用する。
以下、少し哲久の季節の歌を引いて終わりにする。

 母のくににかへり来しかなや炎々と冬涛圧(お)して太陽没(しづ)む

 母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零(ふら)すなり

 天地(あめつち)にしまける雪かあはれかもははのほそ息絶えだえつづく

 牡丹雪ふりいでしかば母のいのち絶えなむとして燃えつぎにけり

 寒潮にひそめる巌(いはほ)生きをりとせぼねを彎(ま)げてわが見飽かなく

 死にゆくは醜悪(しうを)を超えてきびしけれ百花(びやくげ)を撒かん人の子われは

 もろもろのなげきわかつと子を生みき子の貌(かほ)いたしふる霜の花

 冬星のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとげしめ

 冬なればあぐらのなかに子を入れて灰書きすなり灰の仮名書き

 曇天の海荒るるさまをゆめにみき没細部なる曇天あはれ
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はじめから8首までの歌は、ふるさと石川県に臨終の母を看取った時の歌であろうか。
時あたかも冬の時期であったようで、能登の怒涛の寄せる海の景物と相まって、母に寄せる心象を盛った歌群である。
歌集『百花』『桜』『留花門』から引いた。
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今日は、阪神大震災が起きてから二十年である。
朝から追悼一色である。 打撃から、未だに立ち直れない人も多い。

その朝、私は京都南部の自宅で激しい揺れに見舞われたが、震源から外れていたので建物が壊れるなどの被害はなかった。
丁度、私はイタリアのシチリア島の旅に出かけていて、その前日に帰ったばかりで、厳しい「時差ボケ」で明け方まで眠れず、ようやくウトウトとしたところだった。
妻や子供たちは、友人、知人たちの救援にリュックをかついで出かけるなど大騒動だった。
交通機関も、阪急電鉄で言うと、「西宮北口」までしか行けなかった。 後はみな徒歩である。
「ボランティア」という言葉が日本に定着したのも、この時からである。
私は多くの「紀行文」を書いてきたが、この時の旅は、出鼻をくじかれて、今に至るまで執筆できていない。書く気になれなかったのである。

二十年に当り、一筆書き添えるものである。 合掌。





かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり・・・・・・・・・・・・高安国世
高安
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無題リルケ詩集

(再録)──Doblog 旧記事──初出2005/01/16

     かきくらし雪ふりしきり降りしづみ
             我は真実を生きたかりけり・・・・・・・・・・・・高安国世


この歌は高安国世の初期の作品で「真実」と題されている。昭和26年刊の第一歌集『Vorfruhling』に載るもの。(お断り・u の上にはウムラウト(・・)が付いている)
高安先生は大阪の開業医の家に生れたが、母・やす子がアララギの歌人だった影響で少年期から短歌に親しみ、またドイツ文学を専攻することになったが、父親は医者にしたかったらしい。
家庭の中で何らの葛藤があったと思われ、そのことが、この歌によく表れている。それは「我は真実を生きたかりけり」という詩句になっている。
この歌は、そういうドイツ文学者として生きてゆくという高安氏の決意表明みたいなもので、先生にとっては、極めて愛着のあった歌らしく、自選歌集でも巻頭に載せられている。
作品としても有名なもので高安国世といえば、まず、この歌が引用される。

先生について詳しくは → Wikipedia─高安国世を参照されたし。

私事になるが、私は大学で第二外国語にドイツ語を選び、その関係から高安先生の授業も受けた。その頃、先生は京都大学助教授になったばかりであった。
その頃から先生は「歌人」としても有名であったらしいが、私はその頃短歌には無関心であったから、そんなことは知らなかった。
先生も教室では短歌のことは一切お話しにはならなかった。
先生は旧制高校の頃は第三高等学校の教授であり、新制大学になって三高は京都大学吉田分校になり、教養課程を担当していた。
三高出身の連中に聞くと、教室では短歌の話を、よくされたという。
先生はアララギ出身らしく「リアリズム」を基礎に置いておられるが、後に短歌結社「塔」を創立されるなど「主知的リアリズム」という主張を確立された。

この歌の出だしの「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ」という「たたみかける」ようなリズムが秀逸である。
歌のはじめの「かきくらし」というところは、学者として生活できるようになるまでの「生きる苦しみ」のような生活観を想像させる。
高安先生の私生活について、私は多少のことを知っているが、ここでは書くべきことではないと思うので、触れない。
同じ歌集に載る歌ひとつと、晩年の歌集『光の春』から4首を引いて終りにしたい。

   二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひいづるはや

   ゆるくゆるく過ぐる病院の一日よ忘れいし生命の速度と思う ──『光の春』より4首──

   わが父のあやぶみしごと何一つ世の表うら知らず過ぎ来し

   われ亡くとも変らぬ世ざま思いおり忘れられつつドイツに在りし日のごと

   焼き棄ててくればよかりしもろもろも恐らくは単純に火にくべられん

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ここに引用した歌を子細に見てみると、はじめのものは旧カナで、後の四首は新カナになっていることが判る。
これは先生が途中から新カナ表記に変わられたからである。
この頃は、そういうのが流行っていた。「未来」の近藤芳美が、そうだった。高安国世は「未来」創刊同人だった。
だが後に旧カナ(歴史的かなづかい)に復帰するのが流行り岡井隆など多くの歌人が復帰したが、近藤芳美は頑固に新カナを押し通した。
永田和宏なども新カナ→ 旧カナに数年前から復帰した。
ついでに書いておくと、アララギ系から出発した高安国世、岡井隆、永田和宏、みなリアリズムである。
先に書いたように高安先生は「主知的リアリズム」を唱えられたし、岡井隆の歌も「比喩」のオブラートにくるまれているので騙されるが、基本的にリアリズムである。
だから彼らは自分や家族のことを詠う。
だが、同じ「前衛歌人」と呼ばれても、塚本邦雄は自分や家族は詠わない。「われ」の把握の仕方が全く違う、と言える。
余り採り上げられないことだが、敢えて言っておく。
また天皇家とのかかわりでも、「歌会始」などを通じて岡井隆や永田和宏は「擦り寄って」行ったが、塚本邦雄は擦り寄らなかった。
歌壇に絶大な支配力を有する岡井隆などが存命中だから今は触れられることが全くないが、これらは塚本、岡井の決定的な違いであることを言っておく。

図版として掲出した『光沁む雲』(短歌新聞社昭和50年刊)は歌集『朝から朝』までの歌を収録したもので解説を永田和宏が書いている。
それとドイツ文学者としてのリルケ詩集の文庫本の表紙を二つ出しておく。
先生はリルケ研究の第一人者だった。
この旧記事にも、もちろん画像があった。しかし、Doblogが不調になったとき今のfc2にデータを移すとき画像は移せなかった。

母親の高安やす子さんの記事をある筈だが、高安病院のことも書いたので、旧記事を少し調べてみる。お待ちあれ。


明日のため今日の願いがありましてハナカタバミの葉のやすむ宵・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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     明日のため今日の願いがありまして
       ハナカタバミの葉のやすむ宵・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


ハナカタバミ
花片喰(ハナカタバミ)はカタバミ科カタバミ属の多年草である。
学名:Oxalis bowiei
和名でなく学名のオキザリス・ボーウィと呼ばれることも多い。
原産地は南アフリカのケープ地方である。日本へは観賞用として江戸時代に渡来した。
暖地では野生化しているものも見られる。
草丈は5~30センチくらいである。
葉は3出複葉(1枚の葉が3つの小さな葉に分かれた形)である。
小葉は丸みのある倒心形で、細かな毛が生えている。
開花時期は10~11月である。
葉の間から花茎を伸ばし、散形花序を出して濃い桃色の花をつける。
散形花序というのは、茎先からたくさん枝が出て、その先に1個つずつ花がつく花序のことである。
花径は3~5センチと大きく、花の真ん中は黄色い。
日当たりがよい場所を好み、曇っていたり日陰になったりすると花を閉じる。
写真は晩秋の一日、大阪へ注ぎ込む淀川の土堤に野生化したものが撮られた。
さまざまの色の園芸種があるらしい。
鳥海さんが歌に添えられたコメントによると

<夜になると、ハナカタバミは祈るように葉を閉じます。病と闘っていたころ、また葉を開くあしたを思い、希望を感じたものです>

という。私は、そういう現象をまだ観察する機会を得なかった。花言葉は「決してあなたを捨てない」

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ネット上では下記のような記事も見える。

<ムラサキカタバミ(紫片喰)の園芸種で、カタバミ属の植物のうち球根性の種類を園芸上はオキザリスと呼んでいるようです。葉はクローバー形で、色彩の変化に富んでおり、赤紫を始め斑入りなどいろんなのが有るようです。
花色も紅、紫紅、桃、藤、黄、白に複色など多彩です。夏植えで秋咲きの種類が多いのですが、冬~春咲き、夏咲きの種類もあります。球根は指先ほどの小型で、無霜地帯では庭植えもできます。
秋に咲いた花と春に咲く花では、微妙に違うような感じでした。>

歳時記を当ってみたが、句は載っていないようである。ご了承を。


幼児が顔近づけて呼びかける「セントポーリア、セントポーリア」・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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     幼児が顔近づけて呼びかける
       「セントポーリア、セントポーリア」・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


セントポーリア イワタバコ科 

 学名:Saintpaulia(イワタバコ科セントポーリア属の総称)
 和名:アフリカスミレ(アフリカ菫)
セントポーリアの学名は、この植物の発見者であるサン・ポーリーレール氏の名に由来する。英名はアフリカン・バイオレット。

<一応,四季咲きです。和名は「アフリカスミレ(アフリカ菫)」ですが,いわゆる菫とは違います。ビロードのような毛の生えた丸い葉が特徴で,この葉を葉柄から切り取り挿し木をしておくと繁殖することができます。>

ネット上を見ると、こんな説明がしてあるが、この花は暑さ、寒さには弱い草で、原則として室内栽培の花である。色はいろいろある。花言葉は「小さな愛」「深窓の美女」。

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<室内で育てることを前提とした植物です。花色は豊富で、小型の植物なので場所をとらず鉢花として人気があります。空中の湿度が高い方が好みますが、土が湿った状態にしておくと根が腐りやすい性質があるので注意が必要です。寒さ、暑さに弱く初心者の方は品種を十分に選んだ方がよいでしょう。普通に出回っているものは比較的丈夫なものが多いです。最近は小型のミニ種の人気が高い。>

育て方については、以下のような記事がある。

●空中の湿度が高いのを好みます
●暑さ、寒さに弱い性質があります
●一年を通して室内で栽培する

 <室内向きの植物で、全体的に小型で場所をとらないので鉢植えとして人気があります。花の色はピンク、赤、紫などがあり、特に紫は濃いものから淡い色のものまであります。フチどりが入ったり、しま模様になるものもあります。普通種、ミニ種、茎が伸びるトレイル種などがありますが、初心者は普通種の「オプチマラ」が花つきもよく比較的育てやすい。温度と日当たりが充分あれば一年中咲きます。品種もバラエティーが多く、セントポーリアだけを集めて栽培している栽培家もたくさんいます>

 <室内で一年中育てることになるので結構、葉の上などにホコリがたまりやすい。ときどき葉を痛めないようにホコリを軽くふき取りましょう。また、花や葉に傷が付くとそこから傷みやすいので、咲き終わりの花や枯れかけた花はこまめに取り除くようにしましょう>

 <がんがんの直射日光は葉が焼けただれてしまうのでヤバイ。一年を通してやわらかい光が必要です。レースのカーテン越しの日光がちょうどよいでしょう。もともと弱い光の下でも充分育つ植物で、セントポーリア専門で育てている方は、植物育成用の蛍光灯を用いて栽培する方も多い。これなら室内の窓から離れた暗めの場所でも育つからです
普通は窓際で管理することになりますが、寒さに弱く気温が5℃切るとを枯れてしまいますので、冬場は夜には室内の奥に移動させましょう。暑すぎるのも良くないので、夏場は風通しを良くしましょう。北向きのベランダなども案外よく育ちます(夏場だけ)>

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 <4月から10月は生育が旺盛な時期です。指で鉢土の表面を触ってみて湿り気を感じないくらいになったらたっぷりと与えましょう。冬の時期はあまり育たないのでそれよりは水やりの回数を減らしましょう。水をやりすぎると腐りますので注意。水やりの際、葉に水がかかるとそこだけ葉の色がぬけてしまったり病気にかかる原因にもなりますので、株元からそっとじょうろなどで与えます。
 肥料は薄めた液体肥料を月に1から2回与えます。室温が20から30℃を保てる時期には通常通り肥料を与えましょう。それ以外の時期は必要ありません。やりすぎると花つきが悪くなることがあります>

 <室内で栽培することを前提としているのでにおいがなく軽いものがよい。バーミキュライト5:パーライト5の割合で混ぜた土か、セントポーリア専用培養土を買い求めましょう。>

 <根がよく伸びて鉢の中がいっぱいになるので、1年に1回は植え替えが必要です。適期はだいたい6月下旬がよいでしょう。土は、上の項のものを使用します>

 <葉ざしでふやすのが一番ポピュラーです。根が出るには20℃以上の気温が必要です。温室などの加温設備があれば別ですが、普通は6月から10月の間におこないます。表面に傷の付いていない元気な葉を、3から4cm軸を付けて切り取り、用土の項で説明した土に斜めに差します。土が乾いたら水をやるようにします。ずっと湿った状態にしておくと葉の切り口から腐ることがあります。発根して芽が出てきますので、芽が大きく(2~3枚の葉がでてきたら)小さな鉢に植え替えます。
葉ざしした株はだいたい花が咲くまで、半年から8ヶ月くらいかかります。>



冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮
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  冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに
      蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮


この歌は、「口語自由律短歌」と呼ばれるものである。
「白い樹樹の光」というのを、たとえば雪を被って白くなった樹木と捉えることも出来るが、それだと詩的な面白味は薄れる。
むしろ葉が落ちて、裸になった樹木にあたっている冬の日の光そのものを、作者は「白い」と感じているのだろう。
この歌は、白い樹樹の光を「体のうちに蓄積しておいて」という捉え方も面白いが、それを受けて「夜ふかく眠る」と続くところに、作者のすぐれた資質がよく出ている。
詩句における昼から夜への移行が、歯切れのいい転換によって新鮮さとふくらみを生んでいる。
昭和15年刊『青樫は歌ふ』所収。

いま歳時記を繰っていて気がついたのだが、「裸木」という季語は載っていない。
「冬木」というのはあるが、ものすごく詳しい歳時記なら載っているかも知れないが、私などは「裸木」という表現の方が、好きである。
「冬木」と言ってしまっては、葉を落とした樹木の感じを、表現の面で狭めてしまうと思うのである。
「裸木」の方が季節感を限定せずに膨らみがあり、読者の想像に任せる面が多いのではないか。
歳時記の見出し語としては「枯木」というところに入れられている。
表現として「枯木」と「裸木」では、趣きが違うのではないか。

前田夕暮については、前にも採り上げたことがある。
この歌などは強いて「短歌」と呼ばなくても「短詩」としてのリズムも的確で、すぐれた作品である。
前田夕暮は自然主義的な定型短歌から出発し、昭和ひと桁の頃に自由律に転換し、掲出したような歌を作った。
その後、戦争さなかには自由律に対する弾圧の時代が来て、戦争末期に定型短歌に復帰するに至るのだが、
自由律の作品にも、この歌のように佳いものもあるが、全体としてみると、自由律のものは散漫な作品が多く、私などは「定型」の作品の方が、粒が揃っている、と思う。

枯木の句を少し引いて終る。

 枯木中少年の日の径あり・・・・・・・・川口松太郎

 犬細し女も細し枯木中・・・・・・・・高野素十

 真青に海は枯木を塗りつぶす・・・・・・・・山口青邨

 妻は我を我は枯木を見つつ暮れぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 大枯木しづかに枝をたらしたる・・・・・・・・長谷川素逝

 鞦韆を漕ぎはげむ木々枯れつくし・・・・・・・・橋本多佳子

 赤く見え青くも見ゆる枯木かな・・・・・・・・松本たかし

 千曲川磧(かはら)の先の桑も枯る・・・・・・・・森澄雄


家毎に柿吊るし干す高木村住み古りにけり夢のごとくに・・・・・・・・・・・・・久保田不二子
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     家毎に柿吊るし干す高木村
        住み古りにけり夢のごとくに・・・・・・・・・・・・・久保田不二子


「高木村」は長野県諏訪郡下諏訪町高木。作者の久保田不二子は同地で生まれ、昭和40年79歳で没した。
同じ高木村の久保田家の養子・俊彦、つまりアララギ派歌人の島木赤彦と結婚し、みずからも「アララギ」に参加している。

彼女は本名・ふじの、であり、赤彦(旧姓・塚原俊彦)はもともと彼女の姉・うた、と結婚したのだが、明治35年に死去したため、義妹の「ふじの」と再婚したものである。
赤彦の上京中は一緒に東京に出て暮らしたこともあるが、赤彦は病を得て帰郷、そこで病没した。
彼女は生涯の大部分を、この故郷で過ごすことになる。
「吊るし柿」は初冬の山村の風物詩、その柿がいたる所に吊るされている故郷の村で「住み古りにけり夢のごとくに」と詠んでいる。
「夢のごとくに」というところに、若くして赤彦と死別して79歳まで故郷に生きつづけた感慨が出ている。調べは滑らかだが、思いは深い。
『庭雀』所載。

参考までに赤彦の旧居・「柿蔭山房」 ← のリンクを貼っておくので参照されたい。

私が敬慕する自由律歌人で、同じ下諏訪町にお住まいの光本恵子さんにお聞きしたところ、下記のようなメールをいただいたので転載しておく。 ↓

< 久保田不二子については、先妻(うた)の子である政彦を育て、さらに自分(不二子)と赤彦との間に3男2女を育てた。政彦は1917年に十八歳で死去。
不二子との長男の建彦には、私の夫の垣内敏広が伊那北高校時代に漢文の先生として習ったと言っています。
次男の夏彦さんには私もお目にかかったことがあります。
赤彦は先妻のうたさんのことをあまりに愛していたので、再婚した不二子さんは哀しい思いをされたようですね。
二人で養鶏所をなさっていたころはよかったのでしょうか。
まあ赤彦は大正15年に50歳で亡くなり、不二子さんは昭和40年(1965年)まで長く生きられたので、子供様は教師として、お母様を守ったのでしょうね。
高木は我が家から割と近いです。昔の甲州街道筋にあり、赤彦の暮らした柿蔭山坊は多くの人が今も訪ねます。またお出かけください。私がご案内させて戴きます。 >

島木赤彦については ← を参照されよ。

「吊るし柿」と言っても、さまざまな柿の形がある。写真②は丸い形の柿である。

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私の方の南山城地方の柿は「鶴の子」柿といって大振りでない砲弾形の柿である。
専門的に作る農家では竹や杭で骨組みを立ち上げ、菰などで周りを囲い、風通しは良くした素通しの「柿屋」というものに柿を吊るさずに、藁で編んだ菰や莚の上に平らに並べて干す。
柿を剥く時に、柿の「蔕」(へた)も取り去る。「古老柿」ころ柿と称している。
冷たい風が吹きすぎるようになると、順調に白い粉のふいた干し柿になるが、気候が暖かいと、よい製品が出来ないという。
自家消費の場合は量が限られているので、納屋の窓の外などに「吊るし柿」にして陽にあてることが多い。
以下、吊るし柿を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 吊し柿すだれなしつつ窓を占む・・・・・・・・和知清

 吊し柿作りて老婆いつまで生く・・・・・・・・長井哀耳

 干柿を軒に奥美濃雪を見ず・・・・・・・・塩谷小鵜

 甘柿の粉を吹く風の北となる・・・・・・・・梅田久子

 軒端より起れる恵那や柿を干す・・・・・・・・大橋桜坡子

 干柿や同じ日向に猫がゐて・・・・・・・・榎本虎山

 夜空より外しきたりぬ吊し柿・・・・・・・・八木林之助

 干柿の緞帳山に対しけり・・・・・・・・百合山羽公


目覚むれば露光るなりわが庭の露団々の中に死にたし・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二
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    目覚むれば露光るなりわが庭の
      露団々の中に死にたし・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


この歌は『忘瓦亭の歌』(1978年刊)に載るものである。
宮柊二とは、こんな人である。

宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した歌人。本名は宮肇(はじめ)。妻は同じく歌人の宮英子。

経歴
新潟県北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)に書店の長男として生まれる。父は宮保治、俳号を木語といい俳句もやった。
1919年堀之内尋常高等小学校に入学。
1925年旧制長岡中学に入学し、在学中から相馬御風主宰の歌誌「木蔭歌集」に投稿を行っていた。
1930年に卒業後は家業を手伝う。
1932年に上京し東京中野の朝日新聞販売店に住み込みで働き、翌年北原白秋を訪ね、その門下生となり、歌作に磨きをかけた。
1939年日本製鐵入社。途中、兵役に応召し、中国山西省で足掛け5年兵士として過ごす。出征中に第1回多磨賞を受賞するが、授賞式には出られず父が代理出席した。
1946年処女歌集『群鶏』を刊行。
1953年にはコスモス短歌会の代表として、歌誌「コスモス」を創刊する。
1947年、加藤克巳、近藤芳美らと「新歌人集団」を結成。

生涯で13冊の歌集を刊行し、宮中歌会始の他、新聞・雑誌歌壇の選者をする。
1976年に第10回迢空賞を受賞
1977年に日本芸術院賞を受賞。
1979年堀之内町名誉町民の称号を贈られる。
1983年、日本芸術院会員。

一方で病(糖尿病や関節リウマチ、脳梗塞等。召集された時も疾患により一時入院していて、また晩年は、転倒して左大腿骨頸部骨折で手術を受けている)を患い、入退院を繰り返しながら、東京都三鷹市の自宅で急性心不全のため74歳の生涯を閉じる。

門下には島田修二、中西進、奥村晃作、高野公彦、桑原正紀、小島ゆかりなど。


さて、「露」のことである。 今しも明け方には、露がしとどに置いている季節である。

「露」を詠んだ文芸作品としては

     露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・・・小林一茶

という句が何と言っても、ピカ一であろう。
宮柊二の歌を掲出しながらではあるが、小林一茶のことに少し触れてみることを許されよ。

江戸後期の代表的俳諧師の一茶は、信州柏原から15歳の時に江戸に出て、奉公生活にも俳諧修業にも辛酸をなめた。
異母弟との13年にも及ぶ遺産争いが解決し、51歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。
この句は溺愛していた長女・さと が、1歳余で天然痘のため死んだ時のもの。
この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。
よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。くりかえし、くりかえし、私は悲しくてたまらないよ。ということであろうか。
『おらが春』所載だが、「露の世」というフレーズの繰り返しが秀逸であり、かつ痛切である。
「露」の句としては代表的な秀句として、よく知られている。
以下、「露」を詠んだ句を引いておく。

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 芋の露連山影を正うす・・・・・・・・・飯田蛇笏

 蔓踏んで一山の露動きけり・・・・・・・・原石鼎

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 われもまた露けきもののひとつにて・・・・・・・・・・・・森澄雄

 牛の眼が人を疑ふ露の中・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 骨壷を抱きしこと二度露の山・・・・・・・・・・・・矢島渚男

 露の世の江分利満氏の帽子かな・・・・・・・・・・・・星野石雀

 「母」の字の点をきつちり露けしや・・・・・・・・・・・・片山由美子

 まるきものに乳房心根露の玉・・・・・・・・・・・・鳥居真里子


浜菊のむらがり白き丘吹きてかがよふ風よ人に逢ひたし・・・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ
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   浜菊のむらがり白き丘吹きて
        かがよふ風よ人に逢ひたし・・・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ


今日は「文化の日」で、菊の香る頃とされている。あちこちで菊花展なども開催され、文化の日を彩りよく演出している。
今日から5、6回にわたって「菊」に因む作品を連続して、採り上げる。

「菊」キクは、春の「桜」と並びたつ秋の花の代表である。
もともとは中国から渡ってきたものだが、徳川時代に鑑賞され、品種改良がなされて、日本独特の立派な「日本菊」となった。皇室の御紋章も十六弁の菊である。
大菊、中菊、小菊に分けられ、大菊は一本仕立て、中・小菊は懸崖づくりや盆栽にされる。江戸時代にマニアックに改良され、各地に独特の品種が開発された。
各地で改良されて「江戸菊」「伊勢菊」「奥州菊」「嵯峨菊」「肥後菊」などがある。
欧米でも改良が進み、それらの品種が輸入されて「切花」にされいてる。

文芸の世界でも、古来、詩歌にさまざまに詠まれてきた。
『古今集』に

     心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花・・・・・・・・・・・・・凡河内躬恒

と詠われて、色と香の移ろいの中の菊の鮮やかさが、秋の情感を強めるとされる。
菊は「散る」ことがなく「枯れてゆく」ところが情感の中心になる、とされる。また「不老不死」の霊草としても尊重されてきた。

俳句の世界でも

   菊の香や奈良には古き仏達・・・・・・・・松尾芭蕉

   黄菊白菊其の外の名はなくもがな・・・・・・・・服部嵐雪

   村百戸菊なき門も見えぬかな・・・・・・・・・与謝蕪村

などの名句がある。明治以降の近代俳句でも多くの作品があるので、明日以後、それらを紹介してゆくことにする。


萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良
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   萩の花/尾花 葛花/瞿麦(なでしこ)の花/
       女郎花/また 藤袴/朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良



憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。念のために区切りを入れておいた。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

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藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
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先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



草もみぢしてそよぐなる風ばかりゑのころ草の原たれもゐず・・・・・・・・・・・・・藤井常世
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   草もみぢしてそよぐなる風ばかり
        ゑのころ草の原たれもゐず・・・・・・・・・・・・・藤井常世


「エノコロ草」というのは、別名「猫じゃらし」のことである。
その名の通り、この草の穂で子猫などをじゃらすと、とても面白い。
食用の「粟」は、この草を改良したものだという。
青く茂っているときは、こんな様子である。 ↓
imagesエノコロ草

古来、この草は俳句にも、よく詠まれてきた。 それを引いておく。

 秋の野に花やら実やらゑのこ草・・・・・・・・楚常

 よい秋や犬ころ草もころころと・・・・・・・・一茶

 ゑのこ草媚びて尾をふるあはれなり・・・・・・・・富安風生

 猫ぢやらし触れてけもののごと熱し・・・・・・・・中村草田男

 父の背に睡りて垂らすねこじやらし・・・・・・・・加藤楸邨

 猫じやらし子にも手触れずなりしかな・・・・・・・・石田波郷

 木曾に入る秋は焦茶の猫じやらし・・・・・・・・森澄雄

 本日の死者と負傷者ねこじゃらし・・・・・・・・森田智子

 岐路に佇ち踊り出でたる猫じゃらし・・・・・・・・高沢晶子

 どこへでも蹤いて来る愛狗尾草・・・・・・・・竹中碧水子

 行きさきはあの道端のねこじゃらし・・・・・・・・坪内稔典

 人恋へば昏るる高さにねこじゃらし・・・・・・・・横田欣子

 君が居にねこじやらしまた似つかはし・・・・・・・・田中裕明

 子が描く遊山の絵地図ねこじやらし・・・・・・・・上田日差子

 叢雨やゑのころ草は濡れてゐず・・・・・・・・小林鱒一

 猫じやらし持てばじやらさずにはをれず・・・・・・・・西宮舞

 この道を芭蕉と曾良はゑのこぐさ・・・・・・・・板藤くぢら

 振り向けば金ゑのころの道なりし・・・・・・・・かとうさきこ

 全身で少女スキップねこじゃらし・・・・・・・・永田千代

 猫じやらし不意に思い出湧いてくる・・・・・・・・石川幸子

 絶滅の狼以後を狗尾草・・・・・・・・神戸秀子
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掲出した歌の作者藤井常世さんは、昨年十月にお亡くなりになった。
リンクにしたWikipedia ↑ が詳しい。 アクセスされたい。


かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・・・・・・・・・・・会津八一
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  かすがの に おしてる つき の ほがらか に
   あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・・・・・・・・・・・会津八一


今日十月二日は暦によると「旧重陽の節句」─旧九月九日である。
それに因んで、有名な会津八一の歌を載せる。

明治14年新潟県に生れた作者は、歌人としてのみならず、書家として一世に名高かった。没後その名声はますます高い。号・秋艸道人。
元来は英文学者だが、東洋美術への関心が強く、とりわけ奈良美術史研究は第一人者として有名である。
早稲田大学教授。
上の歌は、初出の第一歌集『南京新唱』(大正13年刊)では漢字になっている部分も、歌の声調を重んじる立場から、後年、かな分かち書きに変えた。
奈良春日野一帯に照り輝く初秋の月。「ほがらかに」の働きひとつで風景は一挙に大きくふくらんだ。
『鹿鳴集』昭和15年刊所収。

掲出の写真は銀閣寺の光月台に照る月である。
会津八一については以前に採り上げたが重複しないように少し引く。

かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つくよ かも

もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かも

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に すはせし ほとけ あやし も

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を さみしみ こひ つつ か あらむ

みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に かげ つぶら なる たま の みすまる

いろづきし したば とぼしみ つゆじも に ぬれ たつ ばら の とげ あらは なり

あき ふかき みだう の のき に すごもる と かや に はね うつ はち の むれ みゆ
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「会津八一」ならびに、「会津八一記念館」については ← を参照されたい。

なお「会津」の表記については「會津」の字が正字であり、こういうことには八一は煩かったので、念のために書いておく。

白桃の箱の隙間の先週の山梨新聞広げてみたり・・・・・・・・・・飯坂友紀子
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 白桃の箱の隙間の先週の
           山梨新聞広げてみたり・・・・・・・・・・東京都・飯坂友紀子


この歌は、角川書店月刊誌「短歌」平成二十五年十二月号の題詠「隙間」に小畑庸子さんの選で載るものである。
箱詰めの「隙間」の詰め物として入っている「山梨新聞」を広げて読んでいるというもの。
何となく情景が目に浮かぶようではないか。 さりげないが、佳い歌である。

いま検索してみたが「山梨新聞」というのは存在しないようである。「山梨日日新聞」「山梨新報社」というのはあるが、ほかは全国紙の山梨版である。
だから、この歌に詠まれるのは固有名詞ではなく、「山梨の新聞」ということであろう。

この題詠で載る他の歌を引いておく。

  ルルルルル夢の隙間を潜り抜け私に還るおはよう私・・・・・・・三重県・伊藤里奈

  ガラス戸とアミ戸のはざまで思案する蛾はモンシロの仲間らしいよ・・・・・・・兵庫県・北野中

  正直に生きるかときにもどかしいヘアーウィッグと頭皮の隙間・・・・・・・神奈川県・安由衣子

  本を抜く棚の隙間に文士見え昭和の幻影鎌倉古書店・・・・・・・石川県・三宅立美

  手で顔を覆ったくせにすぐ指を開いてつくる隙間がいいね・・・・・・・岡山県・小橋辰矢

  障子戸の格子の隙間を動かずにわたしに手を擦る冬蠅がいる・・・・・・・北海道・葛西全

  君はずるいいつだって風をしたがえて私のすきまにするりと入る・・・・・・・大阪府・蒼井杏

  コンビニの冷蔵棚のペットボトル富士山の水隙間なく並ぶ・・・・・・・愛知県・湯朝俊道

  午後五時の微妙に混んだ地下鉄で見つけた隙間〇・八人分・・・・・・・神奈川県・浜本准

  歴史書の隙間に夏の風はさみ三二一頁めくる・・・・・・・神奈川県・永沢優岸

  算盤の余分な珠を弾いてしまう狭すぎるんだよ珠の隙間が・・・・・・・徳島県・戸山二三男


忽然としてひぐらしの絶えしかば少年の日の坂のくらやみ・・・・・・・・・・・・・・佐藤通雅
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    忽然としてひぐらしの絶えしかば
         少年の日の坂のくらやみ・・・・・・・・・・・・・・佐藤通雅


この歌は、佐藤通雅『襤褸日乗』(1982年刊)に載るもので、「角川現代短歌集成」第三巻から引いた。
佐藤通雅については ← ここに詳しい。

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。
市街地や里山では聞かない。 鳴くのは写真①のヒグラシの雄。
この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。
海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。
『古今集』に

    ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。

この、「角川現代短歌集成」第三巻には「ひぐらし」や「つくつくぼうし」などを詠んだ佳い歌がたくさん載っている。
いくつか引いてみよう。

  たゆたへる雲に落ちゆく日の在処遠ひぐらしの声きこゆなり・・・・・・・・・・・松村英一

  大方は決りしわれの半生とひぐらしの鳴く落日朱し・・・・・・・・・・・武川忠一

  かなかなの今年のこゑよあかときの闇にとほればわれは目覚めぬ・・・・・・・・・・・上田三四二

  蜩は響き啼きけり彼の国のジャムもリルケも知らざりしこゑ・・・・・・・・・・・宮柊二

  ひぐらしの昇りつめたる声とだえあれはとだえし声のまぼろし・・・・・・・・・・・平井弘

  ひぐらしのおもひおもひのこゑきけり清七地獄すぎてゆくころ・・・・・・・・・・・小野興二郎

  木をかへてまた鳴きいでしひぐらしのひとつの声の澄み徹るなり・・・・・・・・・・・岡野弘彦

  樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりばふ・・・・・・・・・・・森岡貞香

  寂しくばなほ寂しきに来て棲めと花折峠のひぐらしぞ澄む・・・・・・・・・・・青井史

  魔の笛のごとく鳴きつぐ茅蜩の声を率きゆく麦藁帽子・・・・・・・・・・・安藤昭司

higurasiヒグラシ雌
 ↑ ヒグラシの雌は鳴かないが、念のために写真を出しておいた。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏


はまゆふのそよがぬ闇に汝を抱き盗人のごと汗ばみにけり・・・・・・・・・・・・・・高野公彦
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    はまゆふのそよがぬ闇に汝(なれ)を抱き
        盗人のごと汗ばみにけり・・・・・・・・・・・・・・高野公彦


この歌は、浜木綿(はまゆふ)を詠んでいるというよりも、不気味なエロスを詠んでいると言えよう。
高野公彦については ← ここに詳しい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、浜木綿を詠んだ歌がある。

   海へ出る砂ふかき道浜木綿に屈めばただに逢ひたかりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「浜木綿」については前に2010/07/07付けで詳しく書いたので、それを参照してもらいたい。

今ごろでは、もうハマユウも実が太っているのではないか。写真②に、実を出しておく。
hamayuu3はまゆう実

四国遍路をしたときに室戸岬のみやげもの屋で実を捜していたら店主が遍路供養だと言って、呉れた。代金は取らなかった。
その実を大火鉢に蒔いたものが庭先に大きく葉を広げている。


俳句の世界でも古来たくさんの句が詠まれて来たので、それを少し引いて終りたい。

 浜木綿や落ちて飼はるる鳶の雛・・・・・・・・水原秋桜子

 浜おもと島人はただおもととも・・・・・・・・高野素十

 わだつみの神のかざしの浜おもと・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 浜木綿の白きかんざし月に濡れ・・・・・・・・滝春一

 浜木綿や青水脈とほく沖へ伸ぶ・・・・・・・・山口草堂

 浜木綿に子を抱きかへて帰り海女・・・・・・・・白川朝帆

 はまゆふの澎湃として庭のうち・・・・・・・・山口青邨

 浜木綿の花と暴風圏に入る・・・・・・・・後藤比奈夫

 浜木綿に流人の墓の小ささよ・・・・・・・・篠原鳳作

 浜木綿の花にみちびき観世音・・・・・・・・角川照子

 浜木綿咲く朝の岬を呼びよせて・・・・・・・・千代田葛彦

 浜木綿や素足正座の隠れ耶蘇・・・・・・・・綾部仁喜

 浜木綿や伊良湖水道どどと明く・・・・・・・・稲垣法城子

 浜木綿やとつぷり暮るる種子ケ島・・・・・・・・・成瀬正俊

 浜木綿の白し遍路と別るるとき・・・・・・・・山崎みのる


咲き急ぐことなどはなし睡蓮の葉あひにひとつ莟のまろき・・・・・・・・・・・・・・・女屋かづ子
a0019858_2277睡蓮②

  咲き急ぐことなどはなし睡蓮の
      葉あひにひとつ莟(つぼみ)のまろき・・・・・・・・・・・・・・・女屋かづ子


この歌は睡蓮を詠っている。今さかりの時期を迎えている花である。
この作者については何も判らない。『角川現代短歌集成』③巻 から引いた。

掲出した写真の一番目、二番目のものは、いずれも「睡蓮」であり、素朴な可憐な蓮である。フランス人画家・モネの絵も、この蓮である。

a0019858_22541睡蓮

蓮には多くの種類があり、花を観賞するだけでなく、食用の「蓮根」として地下茎の部分を極端に太らせる品種改良したものなど、さまざまである。
鑑賞用の蓮にも古代の蓮「大賀蓮」のように古代の古墳から出た蓮の種から発芽させたものなど色々ある。
私の住む辺りは昔から地下水が豊富に「自噴」する地域として、その水を利用した「花卉」(かき)栽培が盛んで、海芋(かいう)──カラーや、花菖蒲などが栽培されるが、これからのお盆のシーズンの花として「花蓮」が水田で栽培され、夏の強い日差しの中にピンクの鮮やかな花を咲かせる。

a0019858_194529花蓮②

a0019858_191621花蓮

もちろん商品として出荷するものは「つぼみ」のうちに切り取り、葉っぱも添えて花市場に出荷される。摘採は太陽のあがる前の早朝の作業である。
月遅れ盆の8月上旬が出荷のピークであり、この時期には臨時に多くの人を雇って、早朝から作業する。

私の歌にも睡蓮、蓮を詠んだものがあるので下記に引いておく。
作歌の場面は、奈良の唐招提寺である。説明する必要もなく一連の歌の中に詠み込んであるので、歌を見てもらえば判ることである。
唐招提寺の一連の歌は「夢寐むび」と題して詠んでいる。
「夢寐」は、漢和辞典にも載るれっきとした熟語で「寐」=「寝」の字に同じである。
その後に引続いて「西湖」と題する一連から蓮に関するものを引用しておく。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

  夢寐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

睡蓮の咲くも閉づるも夢寐(むび)のうち和上の言ひし朱き蓮(はちす)よ

くれなゐの蓮は鑑真のために咲き朝日さしたり安心(あんじん)の池

結跏趺坐和上のおはす堂の辺の蓮に朝(あした)の日照雨(そばへ)ふるなり

<蓮叢を出て亀のゆく苦界あり>さわさわと開花の呼吸整ふ
           *丸山海道

くれなゐの蓮群れ戯(そば)ふ真昼間の風はそよろと池を包みぬ

睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたび過(よ)ぎる

   西湖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

<睡蓮の中に西施が舫(もや)ひ舟>西湖の蓮にわれ逢ひ得たり
               *堀古蝶

睡蓮の花閉ぢむとして水曇る金色の夕べ波立ちゆらぐ

睡蓮にぴりぴり雷の駆けゆけり花弁をゆらし騒だつ水面

声明(しやうみやう)に湖の明けゆく水面には岸にむかひて日照雨ふるなり

てのひらに蓮の紅玉包みたし他郷の湖を風わたりゆく

湖に真昼の風の匂ふなり約せしごとく蓮と向きあふ

手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭(よ)りゐつ

戻り来しいのち虔(つつ)しみ菖蒲田を妻と歩めば潦(にはたづみ)照る
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「日照雨」(そばえ)とは、陽が差しているのに小雨がはらはらと降ること。別名「きつねの嫁入り」などという。
「潦」(にわたずみ)とは俄か雨などで一時的に出来た水溜りのこと。


その背中ふたつに割りて緑金の山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫
010704aokanabun1アオカナブン

  その背中ふたつに割りて緑金の
      山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫


この歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いた。初出は『鳥総立』(03年刊)。前登志夫については ← に詳しい。

学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。コガネムシとも言う。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくものである。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・木村草弥

という歌があるが、先に書いたような情景を描いているのである。

樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

040629miyamaミヤマめす

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。 (昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、いくつもあった。
日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
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五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
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虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

     沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

   かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

   蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我




てのひらに蝉のぬけがら ぬけがらを残して人はただ一度死ぬ・・・・・・・・・・・・・永田和宏
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  てのひらに蝉のぬけがら ぬけがらを
      残して人はただ一度死ぬ・・・・・・・・・・・・・永田和宏


この永田和宏の歌は「蝉のぬけがら」を見た目から「人間の生死」にまつわる死生観に話を振って秀逸である。
この歌は『角川現代短歌集成』③巻 から引いた。初出は『風位』(03年刊) 永田和宏については ← に詳しい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、次のような蝉の抜け殻を詠んだ歌がある。

  空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・木村草弥

写真の蝉はアブラゼミかと思う。
二番目の写真から三枚つづけてアブラゼミの羽化の様子を載せる。
ll0021.kuma羽化①

二番目の写真は地中から這い出てきて、羽化するために足場をがっしりと固めた様子。
地中から這い出て来るのは目撃者によると夜8時頃からという。
羽化の途中は蝉の肌も弱く、敵に襲われたら一発でアウトなので慎重らしい。
羽化に失敗するのが、いくつもあるらしい。
一番目の写真のように葉っぱにすがって羽化するのもあり、地中から出て来た環境なりに羽化する足場を探すらしい。
いよいよ羽化がはじまり、幼虫の背中が割れて蝉が外に半身を乗り出した様子。
ll0031.kuma羽化②

この姿勢から下の方にのけぞり、全身が外に出た後、足で殻に捕まって、のけぞり姿勢を正し、ゆっくりと時間をかけて羽や全身を伸ばす。
羽にも血液が流れ、蝉の成虫の羽の大きさと色になってゆく。
この姿勢の時間は一晩をかけて、ゆっくりと行われる。こうしてアブラゼミならアブラゼミなりの大きさと色に変わってゆくのである。
昆虫の場合には「変態」という用語を使うこともあるが、蝶や蝉など羽が生えて空を飛ぶものには「羽化」という言葉がふさわしい。
ll0011.kuma羽化③

四番目の写真では、羽化が終った蝉が抜け殻から離れたところに静止しており、右側に抜け殻が見えている。写真で見るかぎり、まだ体の色はアブラゼミにはなり切ってはいない。
朝になれば羽化した蝉は餌(樹液など)や配偶者を求めて飛び立たなければならないから、それまでに全身を成虫の体にしておかなければならない。
蝉の成虫の命はせいぜい10日か2週間と言われている。地中で木の根から樹液を吸って生きる数年の期間のことを考えると、誠にはかない命と言うべきだろう。
その故に日本人は古来から多くの詩歌に詠んできたのである。
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以下、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る一連の歌を引用する。
これらはWeb上のHPでもご覧いただける。

     青蝉よ翔べ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   別離とは白き紙かも夏逝くといのちの影をうつしてゐたり

   かるかやにすがりて羽化を遂げし蝶あしたの露にいのち萌え初む

   空蝉は靡ける萱(かや)にがつしりとすがりて残る 青蝉よ翔べ

   青蝉は野仏の耳をピアスとし脱皮の殻を残しゆきけり

   野仏の遠まなざしのはたてなる笠置山系に雲の峰たつ

   <汗匂ふゆゑにわれ在り>夏草を刈りゐたるとき不意に想ひぬ

   ひたすらに地に生くるもの陽炎(かぎろ)ひて蟻の行列どこまでつづく

   罪いくつ作り来しとは思はねど差しいだす掌(て)に蟻這はせをり

   蟻の列孜々(しし)と励みし一日は日の昏れたれば巣穴に戻る

   呵責とも慰藉(いしゃ)ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は

   翔べるものわが身になくて哀しめば蜻蛉(あきつ)は岸の水草を発つ

   身も影もみどりとなりて畦(あぜ)渉る草陽炎の青田つづける

   法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ





暦には立秋とある今日の午後黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一
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  暦には立秋とある今日の午後
     黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一


今日は「立秋」である。
しかし、今年の暑さはどうだろう。朝の最低気温が28度を示していたりして、いいかげんにせぇ、という気分だ。
今朝も熱帯夜は免れがたく、南をゆく台風の余波で湿気の多い蒸し暑さである。
これからも暑さは続くだろう。今日以後は暑くても「残暑」と言わなければならないが、まだまだ酷暑真っ盛りという昨今である。嗚呼!

立秋の歌としては、次の歌が古来、人口に膾炙してきた。

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行

この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。
この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

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『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。
次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。

筏井嘉一の歌のことに触れるのが後になった。この歌は歌集『籬雨荘雑歌』(65年刊)に載るもの。

立秋に関する歌として

  十張のねぶた太鼓のつらね打ち夏跳ねつくせ明日は立秋・・・・・・・・・・・・布施隆三郎(『北斗のα』97年刊)

というものもある。青森在住の歌人なのであろうか。



蓮の葉は静かになりぬ戦いにさやぎて死にし兵のごとくに・・・・・・・・・・・・・・・香川進
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  蓮の葉は静かになりぬ戦いに
     さやぎて死にし兵のごとくに・・・・・・・・・・・・・・・香川進


今日八月六日は広島に原子爆弾が投下された日である。 その鎮魂の日に因んで、この歌を載せる。
掲出の歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いたが、初出は歌集『湖の歌』(84年刊)。
香川進については ← リンクに張ったところなどを参照されたい。
私も一時、彼の主宰する短歌結社「地中海」に席を置いていたことがあり、その「地中海」誌に一年弱ほど彼の自由律の第一歌集『太陽のある風景』について記事を載せたことがあるが、今は纏まっては引き出せないので失礼する。
香川の活躍したのは塚本邦雄や岡井隆らの活動した「前衛短歌」運動に対して、いわば「前衛狩り」を強行したことで知られている。
これは彼一存ということではなく、そういう前衛の運動に対する「短歌界」の保守派の委任を得たような形ではなかったか。
当時、私はまだ歌壇には関係しておらず、事情には詳しくはないが、むしろ関係が無かったからこそ、今となっては客観的に見られると思うのである。
「前衛狩り」は、角川書店発行の月刊誌「短歌」の編集長に山本友一や片山貞美などを送り込むなどの画策の前面に出たのが香川進であったらしい。
今となっては、いろいろの事実が明らかにされているので調べられたい。
毎年一月半ばに皇居で催される「歌会始」の行事の選者や召人として一時香川進が参列していたが、その頃は一種の批判勢力だった岡井隆が、今や、その中心メンバーとして人選などを牛耳っているようであり、世はまさに隔世の感がある。今や会に招かれる人の顔ぶれを見ると専ら岡井隆の息の掛かっている人ばかりと言える様相である。

a0019858_22541睡蓮

『角川現代短歌集成』③巻には「蓮」「睡蓮」の項にいくつか歌が出ているので、それを引いておく。(出典は省略)

   冲(むな)しきが若(ごと)くしあれと念じけむ墨もて描く蓮(はちす)白花・・・・・・・片山貞美

   睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗ふなり・・・・・・・・・・・・・・・石川不二子

   水上の雅歌の如しも睡蓮の花ことごとく発光すれば・・・・・・・・・・・・・・山下雅人

   大賀ハス水のうえしげく咲きほこるその下いかに根っこの修羅場・・・・・・・・・・加藤隆枝

   長江のほとりゆ来たる乾草の中より拾ふ蓮実四つ・・・・・・・・・・・・・石川不二子

   睡蓮の葉はなまけもの水面にひつたりと青き己れを伸べて・・・・・・・・・・・・・奥村晃作

   花びらを散らすことなく身を閉じて睡蓮水に帰りゆきたり・・・・・・・・・・・・・陣内容子

   陶酔はきみだけでない睡蓮がぎつしりと池に酔ひしれてゐる・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎

   睡蓮の閉ぢて色濃き花びらに明日も開かむ明るさのあり・・・・・・・・・・・・・・林三重子

   交配をみづから拒む蓮の話今朝の思ひのすがすがしけれ・・・・・・・・・・・・・・大河原惇行

a0019858_194529花蓮②

今日、八月六日は、広島に原爆が落とされた日である。
今日は朝から慰霊の行事が例年通り行われる。
「集団的自衛権」など、世の中はかまびすしいが、今日一日、犠牲者を偲ぶとともに、過去に人間が犯してきた「間違い」を思い起し、平和の意味を問い直したいものである。
掲出した香川進の歌も、それを思い出す「よすが」にしたいからである。
私の「意」のあるところを汲んでもらいたい。



デュフィの海のやうなる空にさやぎ欅若葉は一会のさみどり・・・・・・・・・・・・・・島田修三
bin070326191301009デュフィ「波止場」

  デュフィの海のやうなる空にさやぎ
     欅若葉は一会(いちゑ)のさみどり・・・・・・・・・・・・・・島田修三


梅雨が上って、いよいよ照りつける太陽の季節が巡ってきた。
青葉、若葉が萌える時期である。
この島田修三の歌は、そんな季節の一風景をトリミングして見事である。『シジフォスの朝』(砂子屋書房01年刊)
掲出した画像は、デュフィ「波止場」である。

ラウル・デュフィについてWeb上から記事を引いておく。

ラウル・デュフィ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 ~ 1953年3月23日)は、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。

画風
アンリ・マティスに感銘を受け彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。 また本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、VOGUE表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。

生涯
1877年 北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港街に 貧しいが音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家。教会の指揮者兼オルガン奏者。母はヴァイオリン奏者。兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍。家計を助けるため14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で使い走りとして働くためにサン・ジョセフ中学校を離れる。後にル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船、ラ・サヴォアで秘書をする。
1895年 18歳のときに美術学校ル・アーヴル市立美術学校の夜間講座へ通い始めた。生涯愛したモチーフとなるル・アーヴルの港をスケッチ。右利きのデュフィは技巧に走り過ぎることを懸念し、左手で描いた。学校の友人フリエスらと共にアトリエを借り彼らとアーブル美術館でウジェーヌ・ブーダンを模写。ルーアン美術館でニコラ・プッサン、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ジェリコー、ウジェーヌ・ドラクロワを学ぶ。
1898年~99年 兵役 戦争から戻り病身でヴォージュ地方のヴァル・ダジョルに滞在
1900年 兵役の1年の後にル・アーブル市から1200フランの奨学金を得て23歳のときに一人故郷を離れパリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学。モンマルトルのコルトー街で暮らす。レオン・ボナのアトリエで学ぶ。ジョルジュ・ブラックと学友だった。印象主義の画家クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、カミーユ・ピサロなどに影響を受ける。
1902年 ベルト・ヴェイルを紹介されて、彼女のギャラリーにパステル作品を納入。
1903年 アンデパンダン展に出品。
1905年 アンリ・マティス、マルケと知り合い、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク、パブロ・ピカソなどの若いアーティストの作品をサロン・デ・ザンデパンダンを見てフォービズムに関心を向けリアリズムに興味を失う。
1906年 ベルト・ヴェイル画廊で個展を開く。
1907年 34歳の時に結婚。生活の為、木版画の制作を始める。
1908年 ブラックとレスタックで制作。セザンヌ風様式を採用。フォービズムから離れていく
1909年 フリエスとミュンヘンに旅行。
1910年 ギヨーム・アポリネール と親交を結ぶ
1911年 当時豪華王と呼ばれたファッション・デザイナーのポール・ポワレと知り合う。彼との仕事で木版刷りで布地のテキスタイルデザインをプティット・ユジーヌ工場で創る。アポリネールの動物誌の木版挿絵を制作。
1912年 フランスのシルク製造業を率いたリヨンのビアンキーニ・フェリエ商会とデザイナー契約を結ぶ。
1913年 南仏イエールに滞在。
1914年 第一次世界大戦が起こり陸軍郵便事業に従事。
1917年 翌年まで、戦争博物館の図書室員となる。
1918年 ジャン・コクトーの舞台デザインを手がける。
1919年 ヴァンスに滞在。
1920年 パリに戻りモンマルトルのジョルジュ・ブラックの近所に居を構える。
1922年 フィレンツェ、ローマ、シチリアに旅行。
1925年 「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが国際装飾美術展で金賞
1936年 ロンドンに旅行。
1938年 パリ電気供給会社)の社長の依頼でパリ万国博覧会電気館の装飾に人気の叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」を描く。イラストレーターと兼アーティストとしての評判を得る。多発性関節炎発症。ポール・ヴィヤール博士は、デュフィの主治医
1943年~44年第二次大戦中はスペイン国境に近い村に逃れて友人と共に暮らす
1945年 ヴァンスに滞在。
1950年~52年 リューマチのコーチゾン療法を受けるために米国のボストンへ。
1952年 ヴェネツィア・ビエンナーレの国際大賞を受賞。
1953年3月23日にフランス、心臓発作のためフォルカルキエにて死去。75歳没。ニース市の郊外にあるシミエ修道院墓地に埋葬される。

代表作
サンタドレスの浜辺(1906 年)(愛知県美術館)
海の女神(1936年)(伊丹市立美術館)
電気の精(1937年)(パリ市立近代美術館)長さ60メートル、高さ10メートルの大作
三十年、或いは薔薇色の人生(パリ市立近代美術館)

画集
小学館ウィークリーブック 週間美術館 ルソー/デュフィ 小学館
ユーリディス・トリション=ミルサーニ著 太田泰人訳 デュフィ 岩波世界の巨匠 岩波書店
島田紀夫 千足伸行編 世界美術大全集 第25集 フォービズムとエコールド・パリ 小学館
ドラ・ベレス=ティピ著 小倉正史訳 デュフィ作品集 リブロポート

収蔵
オルセー美術館
ポンピドーセンター
パリ市立美術館等の有名美術館
大谷美術館
国立西洋美術館
石橋財団ブリヂストン美術館
愛知県美術館
メナード美術館
三重県立美術館
島根県立美術館
大原美術館
ひろしま美術館
鎌倉大谷記念美術館
青山ユニマット美術館
ブリヂストン美術館
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島田修三は、こういう人である。

島田 修三(しまだ しゅうぞう、1950年8月18日 - )は、歌人、日本古典研究者、愛知淑徳大学学長。

神奈川県生まれ。歌誌「まひる野」所属。1975年横浜市立大学文理学部日本文学専攻卒業、1982年早稲田大学大学院博士課程中退。専攻は万葉集。
愛知淑徳大学文化創造学部教授、副学長を経て、2011年学長。短歌は窪田章一郎に師事。
現・角川短歌賞選考委員。

受賞歴
2002年、『シジフオスの朝』で第7回寺山修司短歌賞受賞。
2008年、『東洋の秋』で第6回前川佐美雄賞受賞。
2009年、『東洋の秋』で第9回山本健吉文学賞短歌部門受賞。
2010年、『蓬歳断想録』で第15回若山牧水賞受賞。
2011年、『蓬歳断想録』で第45回迢空賞受賞。

著書
晴朗悲歌集 砂子屋書房 1991
離騒放吟集 砂子屋書房 1993
東海憑曲集 ながらみ書房 1995
風呂で読む近代の名歌 世界思想社 1995
古代和歌生成史論 砂子屋書房 1997
短歌入門 基礎から歌集出版までの五つのステージ 池田書店 1998
島田修三歌集 砂子屋書房 2000(現代短歌文庫)
シジフオスの朝 歌集 砂子屋書房 2001
「おんな歌」論序説 ながらみ書房 2006
東洋の秋 歌集 ながらみ書房 2007
蓬歳断想録 短歌研究社 2010

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮
23ひまわり②

     向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびて
        ゆらりと高し日のちひささよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮


前田夕暮は明治44年「詩歌」を創刊、自然主義短歌を唱えて若山牧水と共に、明治末期歌壇に一時代を画したが、
大正に入るや一転、この歌のように対象のもつ生命感を鮮やかに描くことに力を傾けるようになる。
「金の油を身にあびて」には、太陽さえも小さく見えるほどの盛んな向日葵の花への讃歌がある。
この歌の「ゆらり」の個所には傍点が打たれている。
昭和3年休止していた「詩歌」を復刊し、新感覚派風の口語自由律短歌を提唱、たとえば
  「冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに蓄積しておいて、夜ふかく眠る」
のような方法で歌を詠んだ。
戦時下に定型歌に復帰、平明で好日的な歌風を貫いたが、振幅の大きい作歌生涯を送ったと言える。
昭和26年没。
この歌は大正3年刊『生くる日に』所載。以下、夕暮の歌を少し引く。
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秋の朝卓の上なる食器(うつは)らにうすら冷たき悲しみぞ這ふ

君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな

初夏の雨にぬれたるわが家の白き名札のさびしかりけり

夕日のなかに着物ぬぎゐる蜑(あま)乙女海にむかひてまはだかとなる

自然がずんずん体のなかを通過する──山、山、山

野は青い一枚の木皿──吾等を中心にして遥かにあかるく廻転する

戦ひに敗れてここに日をへたりはじめて大き欠伸をなしぬ

チモールに病めるわが子を嘆かへる吾ならなくに坂道くだる

ともしびをかかげてみもる人々の瞳はそそげわが死に顔に

一枚の木の葉のやうに新しきさむしろにおくわが亡骸は

枕べに一羽のしとど鳴かしめて草に臥(こ)やれりわが生けるがに

雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は
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6首目7首目の歌は自由律短歌の時期のもの。
終りから4首の歌は最晩年のもので、自分の「死に顔」を詠むという特異なものである。
掲出した歌と3首目の歌は夕暮の代表作として、よく引用されるものである。
いまは多磨霊園に眠っている。
ネット上から記事と写真を載せておく。
maedayuugure前田夕暮墓

本名・前田洋造 (1883-1951・明治16年-昭和26年)
昭和26年4月20日歿 69歳 (青天院静観夕暮居士) 多磨霊園
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魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな

若竹は皐月の家をうらわかき悲しみをもてかこみぬるかな (収 穫)

沈思よりふと身をおこせば海の如く動揺すなり、入日の赤さ

ムンヒの「臨終の部屋」をおもひいでいねなむとして夜の風をきく

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちいささよ

我がこころの故郷つひにいづかたぞ彼の落日よ裂けよとおもふ (生くる日に)

蜜蜂のうなりうづまく日のもとをひっそりとしてわがよぎりたり

ひたむきに空のふかみになきのぼる雲雀をきけば生くることかなし (原生林)
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昭和26年、前年よりの仰臥生活が続くなか、1月には主治医が急逝し「自然療法」に入った。
死期を感じた夕暮は遺詠「雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は」他を遺し、4月20日午前11時30分東京・荻窪の自宅「青樫草舎」で死を迎えた。
自らの死をも清々しく客観的に歌った彼の自我意識は最後まで醒めていた。
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ゴーギャン・ゴッホなど印象派からの強烈な刺激をうけ、外光や色彩に多くの影響がみうけられる彼の歌は、数回に及ぶ作風転換にもかかわらず一貫してみずみずしく清新なものであった。いまその塋域に立つと、赤や黄や白い供花の間から碑面を光らせている主の清らかさが偲ばれる。

「空遥かにいつか夜あけた木の花しろしろ咲きみちてゐた朝が来た」



踏まれながら花咲かせたり大葉子もやることはやつてゐるではないか・・・・・・・・・・・・・・・・安立スハル
oobako04大葉子

   踏まれながら花咲かせたり大葉子(おほばこ)も
     やることはやつてゐるではないか・・・・・・・・・・・・・・・・安立スハル


安立さんは私を短歌の道に引き入れてくれた恩人である。宮柊二創立の有力な短歌結社「コスモス」の幹部であられた。
この歌のように歌の作り方も独自の詠み方をする人で自在な心情の持ち主であったが、先年亡くなられた。

オオバコあるいはオンバコともいうが、この歌のように踏まれるような路傍に生える雑草で、花の終わったあとの茎を双方からからませて草相撲をしたものだった。

oobako05オオバコ花

写真②はオオハゴの穂と花である。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  おんばこの穂を引抜きて草角力(すまふ)したるもむかし夕露しとど・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌があるが、子供の頃は、こうして遊んだものであった。昔の遊びは素朴で単純なものであった。
この草は「車前草」とも書かれる。この命名の由来は往来の踏まれるような所にもかまわず生える強い草であるからだろう。
この草を詠んだ句は多くはないが、それを引いて終わりたい。

 車前草に蹄痕ふかし五稜郭・・・・・・・・富安風生

 おほばこの花の影あり草の上・・・・・・・・星野立子

 湖畔にて車前草の露滂沱たり・・・・・・・・富安風生

 近ぢかと路よけあふや車前草鳴る・・・・・・・中村草田男

 話しつつおほばこの葉をふんでゆく・・・・・・・・星野立子

 車前草に夕つゆ早き森を出し・・・・・・・・室生とみ子

 踏まれつつ車前草花を了りけり・・・・・・・・勝又一透

 車前草の葉裏くぐりに蛇去りぬ・・・・・・・・青木可笑

 車前草の花かかげたり深轍・・・・・・・・高木良多

 車前草の花引抜きて草角力・・・・・・・・大崎幸虹



君が育て君が摘み来し食卓のスイカズラ甘く匂いていたり・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
suikazuraスイカズラ

   君が育て君が摘み来し食卓の
    スイカズラ甘く匂いていたり・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


スイカズラの花言葉は「愛の絆」「友愛」という。
スイカズラの説明をネット上から、以下に、引用しておく。
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スイカズラは、つるは右巻きで、まわりの木などに絡み付いて、よく延び若枝には褐色の毛がびっしりと生えていますが、後で毛はなくなります。
葉は対生、形は長楕円形で先は鈍頭、基の方は円形あるいはくさび形をしています。長さ3~6センチで葉縁は全縁となっています。
スイカズラは、冬にも葉が落ちないことから、忍冬(ニンドウ)の名があります。
花は枝の上部の葉腋から短枝をだし、2個の花をつけます。大きさは3~4センチで花冠の外面には軟毛が生えています。下の方から中頃までは筒状で、その先は上片1、下2片の唇状となっています。色は始めは白で後に黄色となります。甘い香りがあります。雄しべ5、花柱1。
果実は褐色で広楕円形をしています。
生薬名で金銀花(きんぎんか)といいます。
管状になった花を引き抜き、管の細いほうを口に含んで静かに吸うと、良い香りがあって、花の蜜は甘い味がすることから「スイカズラ」といわれています。
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上の説明で「金銀花」というのがあるが、その状態のスイカズラの花が、写真②である。

suikazura5金銀花

白色から薄茶色に変わったのが見てとれよう。
淡紅色に咲く花もあるらしい。

 忍冬のこの色欲しや唇に・・・・・・・・・三橋鷹女

という佳句があるのが、それである。
以下、この花の句を引いて終わる。

 忍冬神の噴井を司る・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 すひかずら尾根のかなたの椎の群・・・・・・・・・・・・志摩芳次郎

 忍冬の花折りもちてほの暗し・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 雨ぐせのはやにんどうに旅二日・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 魂魄の塔にすがりし忍冬花・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 忍冬の花のこぼせる言葉かな・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

 忍冬乙女ら森を恋ひ来たり・・・・・・・・・・・・・堀口星眠

 渡船場よりすこし風くる忍冬・・・・・・・・・・・・佐野美智

 結界に吹かれ忍冬朱を殖やす・・・・・・・・・・・・松本澄江

 山荘に独りが好きやすひかずら・・・・・・・・・・・・堤俳一佳



ひっそりと卯の花匂う露地を来て今は秘密とするものもなく・・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
unohana2卯の花

   ひっそりと卯の花匂う露地を来て
     今は秘密とするものもなく・・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


「卯の花」は「ウツギ」のことである。
昔の文部省唱歌に

  <卯の花の匂う垣根にほととぎす早も来なきて忍び音もらす夏は来ぬ>

というのがあり、子供の頃から、この植物の名前は知っていた。
花言葉は「秘密」という。
鳥海昭子さんの歌は、この花言葉を巧みに取り入れて詠われている。
この歌に添えた作者のコメントには

    <年を重ねると隠し事も少なくなるものですね。>

とある。

この花は万葉集には24首に登場するという。その多くが、霍公鳥(ほととぎす)とセットで詠まれている。
ここから、先に書いた文部省唱歌の「卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて・・・」という歌が生まれてくるのであった。
この詩の作詞者は、佐佐木信綱である。

万葉集の大歌人・大伴家持の歌に

  卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ(歌番号4091)

というのが知られている。
さらに時代がすすんで『古今和歌集』を経て俳諧の世界にも引き継がれ、芭蕉の『奥の細道』の「白河の関」の章には、旅中の点描として使われている。
陰暦4月の「卯月」は卯の花の咲く月という認識である。「卯の花腐し」「卯の花月夜」などの季語にも登場する。

unohana08卯の花接写

以下、この花を詠んだ句を引いて終わる。

 押しあうて又卯の花の咲きこぼれ・・・・・・・・・・・・正岡子規

 顔入れて馬も涼しや花卯木・・・・・・・・・・・・前田普羅

 卯の花の夕べの道の谷へ落つ・・・・・・・・・・・・臼田亜浪

 花うつぎみごもることをひた惵(おそ)れ・・・・・・・・・・・・安住敦

 卯の花に用無くて人訪ねたり・・・・・・・・・・・・橋間石

 かすみつつこころ山ゆく花うつぎ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 卯の花を高野に見ては涙ぐむ・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 卯の花に雨のはげしくなるもよし・・・・・・・・・・・・細見綾子

 前(さき)の世もかく散り敷きし卯の花か・・・・・・・・・・・・中村苑子

 卯の花や流れは鍬を冷しつつ・・・・・・・・・・・・飴山実

 卯の花に豪雨吹くなり鮎の淵・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 卯の花や一握となる洗ひ髪・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 ところどころの卯の花に触れてゆく・・・・・・・・・・・・岡井省二

 卯の花の月夜の声は室生人・・・・・・・・・・・・大峯あきら

 谷咲きの初の卯の花機神に・・・・・・・・・・・・神尾久美子

 卯の花へ鎮まる雨の白さかな・・・・・・・・・・・・藤本映湖


みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中智恵子
403otomおとめまいまい

   みづからを思ひいださむ朝涼し
        かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
みずからを思い出すという表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆあべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



石畳 こぼれてうつる実桜を/拾ふがごとし!/思ひ出づるは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿
さくらんぼ

     石畳 こぼれてうつる実桜を
    拾ふがごとし!
    思ひ出づるは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿


これは土岐善麿のローマ字三行書きの歌集の巻頭の作で、原文はローマ字。
明治43年刊『NAKIWARAI』に載るもの。
短歌三行書きは親友・石川啄木、また「アララギ」派から出た釈迢空らに影響を与えた。

「実桜」はサクランボのこと。
思い出すことの内容は描写せず、ただそれが石畳に散る実桜を拾う感じだと、直截な気分の感触だけを記述する。
きびきびした語の動きは感傷をも律動感に溶かし込んでいる。
2行目の末尾に感嘆符!を打つなど新機軸を打ち出そうとしたことは、明らかだった。
土岐善麿は新聞記者としての経歴も長く、その幅ひろい視野に立って、戦後になっても国文学者として、漢学者として、またエスペランティストとして活躍した。能の新作も試みた。
青年時代の号は「哀果」で、この詩を作った頃は哀果だった。昭和55年没。

三行書きの詩(歌というべきか)を少し書き抜く。

    指をもて遠く辿れば、水いろの
    ヴォルガの河の
    なつかしきかな。

    おほかたの、わかきむすこのするごとき
    不孝をしつつ、
    父にわかれぬ。

    手の白き労働者こそ哀しけれ。
    国禁の書を
    涙して読めり。

    焼跡の煉瓦のうへに、
    小便をすれば、しみじみ、
    秋の気がする。

    りんてん機今こそ響け。
    うれしくも、
    東京版に雪のふりいづ。
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大正末期から昭和ひと桁、10年代にかけての「自由律」短歌運動にも深くかかわった。その頃の歌

   上舵、上舵、上舵ばかりとつてゐるぞ、あふむけに無限の空へ

   いきなり窓へ太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から

   あなたをこの時代に生かしたいばかりなのだ、あなたを痛々しく攻めてゐるのは

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敗戦後の歌に作者の歌として有名なものがある。それを少し引く。

   ふるき日本の自壊自滅しゆくすがたを眼の前にして生けるしるしあり

   鉄かぶと鍋に鋳直したく粥のふつふつ湧ける朝のしづけさ

   あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
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xhwa00101善麿ほか

写真②は、銀座カフェ・ヨオロッパにて、大正3年4月。
前列右より若山牧水、土岐善麿
後列右より古泉千樫、前田夕暮、斎藤茂吉、中村憲吉。

土岐善麿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土岐 善麿(とき ぜんまろ1885年6月8日 ~ 1980年4月15日)は、日本の歌人・国語学者。

略歴・人物
東京・浅草の真宗大谷派の寺院の息子に生まれる。府立一中を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘をうけ、同級の若山牧水とともに作歌に励んだ。

卒業の後、読売新聞記者となった1910年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これを切っ掛けとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの翌年啄木が死去。その死後も、善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。

その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年に東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた(これが今日の駅伝の起こりとなっている)。翌1918年に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940年に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。

戦後再び歌作に励み、1946年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早大教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や能・長唄の新作をものにするなど多彩な業績をあげた。他に紫綬褒章受賞。

第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。



はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・・・・・・・・・・・会津八一
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   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
     をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・・・・・・・・・・・・・・・会津八一


会津八一の歌は「ひらがな」書きで、しかも単語と助詞などを間隔を空ける独特の表記の仕方に特色のある歌である。
初夏の風になってきたなぁ、と、み仏は「をゆび」=小指の「うれ」=末端=先で、ほのかにお感じになったようだ。
という意味の歌であり、み仏と一体になるような感じで、作者がいわば言葉によって、ひたと寄り添おうとしている仏の温容、その慈悲に満ちたたたずまいが、おのずと浮びあがってくるようである。

八一については前回に少し書いたので、ここでは繰り返さない。大正13年刊の『南京新唱』に載るもの。
南京とは、北の京都に対して奈良を指して言ったもの。

DSC_8803-A-600八一色紙
 ↑ 会津八一 色紙

会津八一の歌を二、三ひいておく。

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こゑ の さやけさ 

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

このごろ は もの いひ さして なにごと か きうくわんてう の たかわらひ す も

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を ひさしみ こひ つつ か あらむ

いちじろく ひとき の つぼみ さしのべて あす を ぼたん の さかむ と する も



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