K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・木村草弥
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 ↑ 「アーサー王の死」(アーサー王と三人の湖の乙女)
黒い頭巾を覆い包むモーガン・ル・フェイは魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を尋ねたことがあった。
その時、モーガン・ル・フェイはアーサー王の臨終の時の守護者のような役割でもある。
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島
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 ↑ セント・マイケルズ・マウント島

──巡礼の旅──(9)

     セント・マイケルズ・マウントからグラストンベリー・トーへ・・・・・・・・・・・・木村草弥

<古代遺跡群を地図上に結ぶと不思議な直線が現れる>
1921年アルフレッド・ワトキンスが唱えたこの説は、以来多くの論争を呼んでいるが、現にそれは存在する。
謎に満ちた英国最長の「レイライン」(牧草地・leyから来ている。イギリスでは牧草地をよぎって、ストーンサークル、塚、古墳、聖なる泉、スタンディンク・ストーンなどさまざまな宗教的事績が一直線上に並ぶこと)が、ここにある。

セント・マイケルズ・マウント島
普段は湾に浮かぶ島、そして干潮時には陸から一筋の道が伸びる不思議、聖ミカエルの為の壮麗な修道院が建つ聖地であり、現代では世界で最も人気のある世界遺産の一つに数えられる北フランスのモン・サン・ミッシェル・・・。
しかし、実はここはモン・サン・ミッシェルではない。ドーバー海峡を挟んで反対側にあるイギリスのセント・マイケルズ・マウントと呼ばれる場所なのだ。
モン・サン・ミッシェルとはフランス語で聖ミカエルの山という意味だが、セント・マイケルズ・マウントは英語では同様の意味である。
そしてこのイギリスのセント・マイケルズ・マウントは、モン・サン・ミッシェル同様に干潮時のみに渡る事が出来る島なのだ。

何故このような不思議な対称ができたのか。もちろん一緒に建てられた訳ではなく、フランスのモン・サン・ミッシェルの方が歴史が古い。
イギリスのセント・マイケルズ・マウントはモン・サン・ミッシェルの実質的な成立の約300年後に築かれた。
元々この地はキリスト教が至る前から聖地として信仰の対象になっていたようだが、12世紀頃に最初の修道院が建てられた。
海で分断されているが、フランスのブルターニュ地方とイギリスのコーンウォル地方はもともとケルト系住民が多かっためていたという共通点を持っており、
後の百年戦争に象徴される犬猿の中のライバル同士が競って建てたというより、恐らく文化が近い物同士が同じ流れを汲む建築と信仰を持ったという方が正しい。
規模ではフランスに少々劣るものの、イギリス側のセント・マイケルズ・マウントも神秘性では見劣りしない。
モン・サン・ミッシェルのように観光客で溢れかえるような事もなく、至って静かなのも良い。

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「リンゴ島」や「幸運の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金のリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。
この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。

ここで、「アーサー王伝説」との関連について書いておく。

アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。
モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれたとある。

ジェフリー・オブ・モンマスの別の著作『マーリンの生涯』によれば、アヴァロンの地域を統治する九姉妹は:
1.モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)
2.モロノエ(Moronoe)
3.マゾエ(Mazoe)
4.グリテン(Gliten)
5.グリトネア(Glitonea)
6.クリトン(Cliton)
7.ティロノエ(Tyronoe)
8.ディティス(Thitis)
9.モルゴース(Morgause)

であり、モーガンは九人姉妹の筆頭女性で、医術と変形術に長ける。そして、ディティスはシターンの演奏が上手、巧みである。

ほかにグラストンベリー・トー説というのがあるのだ。 ↓

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 ↑ グラストンベリー・トー
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 ↑ グラストンベリー修道院廃墟の「アーサー王の墓所」

リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。
ギラルドゥス・カンブレンシス(「ウェールズのジェラルド」の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長をつとめるヘンリー・ド・サリー)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから樫の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架があり:
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 ↑ 墓碑銘十字架。(ウイリアム・キャムデン著『ブリタニア』挿絵より)

「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」
(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia)

と刻印されていた。
王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人(ウェールズ人)の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物のあいだだとしている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリ は、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという。

アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。

しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。

はじめに書いたように、このように、「レイライン」を成して、牧草地をよぎって、宗教的事績が一直線上に並ぶ不思議が出現するのであった。

その他、アヴァロンと考えられている場所はフランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル(l'Île d'Aval)またはダヴァル(Daval)という島だという説や、あるいはかつてハドリアヌスの長城沿いにアバラヴァ(Aballava)という砦のあったイングランド最北部カンブリア州の村、ブラフ・バイ・サンズ(Burgh by Sands)という説もある。


蝌蚪生れて白き窓もつ文学部・・・・・原田青児
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       蝌蚪生(あ)れて白き窓もつ文学部・・・・・・・・・・・・・・原田青児 

「蝌蚪」(くわと)とは「おたまじゃくし」のことだが、以前にも書いたが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、その字の形が頭が大きく尾が小さい、おたまじゃくしに似ているので、そう名づけられ、それを明治以降、俳人たちが「音読」利用しているものである。
なお「生れて・ウマレテ」という言葉は、古来、「あれて」と読むようになっているので、念のため。「音数揃え」のためである。
類句はいくつもあるが、掲出句は「白き窓もつ文学部」と詠んでいて、かつて文学部に居たことのある私として、懐かしくて、頂いた。

私の歌にも
   
    春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじゃくし)の語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

私の歌は、「おたまじゃくし」の尻尾を、日本語の「語尾活用」と捉えて、いわば「比喩」的に表現したものである。一種のユーモアと受け取ってもらっても結構である。
歌としては、取り立てて、どうという歌ではないが、「比喩」表現を理解する人には好評だった。
歌作りでは、こういう「凝った」作り方を時としてやってみたくなるものである。
所詮は短歌も「歌遊び」「言葉遊び」であるから、さまざまの趣向を考えることが必要だろう。
こういう「言葉遊び」を理解しようとしない頭の固い人が往々にして存在するので、困るのである。
いかがだろうか。

「おたまじゃくし」は俳句の世界では「春」の季語で、歳時記には多く見られる。
先に引いたものと多少は重複するかも知れない。ご了承を。

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪の水わたれば仏居給へり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 流れきて次の屯へ蝌蚪一つ・・・・・・・・・・高野素十

 枕べに蝌蚪やすみなき手術以後・・・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪に足少しいでたる月夜かな・・・・・・・・・・長谷川双魚

 蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て・・・・・・・・・・金子兜太

 吾のため歌ふ子蝌蚪の水昏るる・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 蝌蚪かくも群れて天日昏めたる・・・・・・・・・・桑田青虎

 蝌蚪沈みゆけり頭を真逆さま・・・・・・・・・・大橋敦子

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・・・辻田克巳

 心ざし隆々たりし数珠子かな・・・・・・・・・・大石悦子

 散り散りの幼な馴染や蝌蚪の陣・・・・・・・・・・船平晩秋

 蝌蚪離合集散のたび数を増す・・・・・・・・・・長田等

 うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ・・・・・・・・・・鴇田智哉

 紐を出て紐に縋れる蛙の子・・・・・・・・・・木場瑞子

 泡一つ置きに来て蝌蚪沈みけり・・・・・・・・・・江川虹村

 やはらかき泥にくすぐりあうて蝌蚪・・・・・・・・・・高田正子

 蝌蚪生(あ)れてまだよろこびのほかしらず・・・・・・・・・・和田知子

 尾を振つて蝌蚪と生れたる嬉しさよ・・・・・・・・・・井上松雄

 底深く動かぬ蝌蚪の生きくらべ・・・・・・・・・・谷口栄子



春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・坪内稔典
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       春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・・・・・・・・坪内稔典 

季節が冬から春に移ってゆく頃に「春雷」が鳴るものである。 夜明けなどに鳴ることが多い。
この句は「かの日の銀の耳飾り」とだけ詠んで、多くを語らないが、読者にさまざまに想像させて、秀逸である。
「春雷」は別名「虫起し」とも言い、そのことは3/5付けの「啓蟄」のところでも書いた。

私の歌にも

    春雷一閃あやとりの糸からみつつ迷路(ラビュリントス)をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌を発表したときも評判は良くなかった。やはり判り難いということである。
この歌は「春雷一閃」「あやとりの糸」「からみつつ」「ラビュリントス」などの言葉が日常生活の情景と、どう関わるのか、というわけである。
この一連は「神経叢」という標題のもので8首の歌から成るが、全体として「暗喩」を利かした歌作りになっている。
ここで、そのメタファーを解き明かすことは、しない。いいように鑑賞してもらえば有難い。
一つだけヒントを差し上げると、掲出した写真の春雷の「いなづま」が「あやとりの糸」に見えないだろうか。
要は「想像力」の問題である──「メタファー」というのは。

以下「春雷」を詠んだ句を引いて終わる。

 下町は雨になりけり春の雷・・・・・・・・・・・・正岡子規

 比良一帯の大雪となり春の雷・・・・・・・・・・・・大須賀乙字

 再びの春雷をきく湖舟かな・・・・・・・・・・・・富安風生

 春雷や俄に変る洋の色・・・・・・・・・・・・杉田久女

 春雷や刻来り去り遠ざかり・・・・・・・・・・・・星野立子

 春雷や三代にして芸は成る・・・・・・・・・・・・中村草田男

 春の雷焦土しづかにめざめたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷・・・・・・・・・・・・石田波郷

 句縁ただ仮りそめならず春の雷・・・・・・・・・・・・石昌子

 三山の天心にして春の雷・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 春雷の闇より椎のたちさわぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 春雷の七十歳はなまぐさき・・・・・・・・・・・・伊藤白湖

 春雷を殺し文句のやうに聴く・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

 春雷の余喘のわたる野づらかな・・・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 窯出しの壺がまづ遇ふ春の雷・・・・・・・・・・・・辺見京子

 鞭のごと女しなえり春の雷・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 鶸飛べり出雲平野の春の雷・・・・・・・・・・・・葛井早智子

 幸せも過ぎれば不安春の雷・・・・・・・・・・・・黒田達子



老いづけるこころの修羅か春泥のの濁りにひるがへる紅絹・・・・・木村草弥
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    老いづけるこころの修羅か春泥の
        池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/は静かに草色の陽を温めている・・・・・大岡信
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         春のために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     砂浜にまどろむ春を掘りおこし
     おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
     波紋のように空に散る笑いの泡立ち
     海は静かに草色の陽を温めている

     おまえの手をぼくの手に
     おまえのつぶてをぼくの空に ああ
     今日の空の底を流れる花びらの影

     ぼくらの腕に萌え出る新芽
     ぼくらの視野の中心に
     しぶきをあげて廻転する金の太陽
     ぼくら 湖であり樹木であり
     芝生の上の木洩れ日であり
     木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
     ぼくら

     新らしい風の中でドアが開かれ
     緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
     道は柔らかい地の肌の上になまなましく
     泉の中でおまえの腕は輝いている
     そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
     静かに成熟しはじめる
     海と果実
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この詩は1986年8月刊学習研究社『うたの歳時記』恋のうた・人生のうた、に載るものである。
みづみづしい現代詩の息吹に触れてもらいたい。

今日の記事は短いので ↓ イブ・モンタンの動画を出しておく。「春」を唄うシャンソンである。
私など古い人間には懐かしいが、もう古いかな。




賞味期限切れた顔ねと言ひながら鏡の中の妻は紅ひく・・・・・木村草弥
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     賞味期限切れた顔ねと言ひながら
            鏡の中の妻は紅(べに)ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「賞味期限」とは食品に付けられている期限の数字であるが、今では、日常会話の中でも、よく言われるようになっている。
亡妻が実際に、この言葉を言ったのか、それとも私が作品化するときに採り入れたのか、今となっては判然としないが、いずれにしても面白い歌に仕上がっている。
掲出した写真は、もちろん妻のものではない。この写真の女の人などは、まさに「賞味期限」最中である。
化粧品会社のサイトから拝借したものである。

女の人が、お化粧しているのを、こっそり眺めるのは面白いものである。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)の中で「化粧」という一連10首を作ったことがある。その中に

   私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

   お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

   化粧はエロチックだ 女のナルシスムだと決めつけてはいけない

   化粧する女は淋しがりやだ。 化粧なしの素肌では不安なのだ

   素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

   化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

というような歌がある。この歌集は「自由律」のものなので定型をはみ出た自由なリズムで作っている。
いかがだろうか。
もっとも、この頃では男も化粧に精を出すような時代になった。
着るものも「ユニセックス」の時代と言われ、男性、女性という区別が明確ではなくなり、「中性」の時代とも言われている。
男性と女性とが「結婚」するという時代でもなくなり、同性同士の結婚が、法的に認められるところも出てくる、という時勢なのである。
私などは時代に取り残された「骨董品」的な価値しかないかも知れない。
それでも、私でも女の人に「まぁ、おしゃれね」と言われたら嬉しいのだから、何をか言わんやである。
この辺で、退散しよう。チャオ!
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この記事は2006/02/19に初出のもので、当時これをご覧になったChibisaruさまが、こんなコメントをお寄せになった。

   <私はコンタクトを入れるときは「ウロコをいれる」といい
    お化粧するときは「化ける」もしくは「変装する」といい
    着替えるときは「武装する」といいます
    家から一歩でると私にとっては戦場なのかな?(笑)>

とても面白くて、的確な表現なので、ここにご紹介しておく。
その人もDoblogの廃止騒動前後の頃から音信不通である。




唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・木村草弥
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      唐国の壺を愛して梅を挿す
           妻の愁眉や未だ寒き日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、妻の体調が悪くなりかけた頃のものである。
それは「妻の愁眉」という個所に表現してある。
自分の体調に愁眉の愁いを表わしながら、妻が唐国の壺に梅を活けている、という歌である。
この歌は自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

梅の開花は、その年によって遅速があるが今年は寒さが厳しく遅れていたが、ようやく満開になった。
何度も書いたことだが、私の住む「青谷村」は鎌倉時代以来、梅の名所として規模は大きくはないが、伝えられてきた。
「万葉集」では、「花」というと「梅」のことだった。今では俳句の世界では「花」と言えば「桜」を指すことになっている。
「和歌」「短歌」でも同じである。気候的にも桜の咲くころは春まっさかりという好時期であり、日本人は一斉に花見に繰り出すのである。
しかし、「梅」には、馥郁たる香りがあり、しかも花期が極めて長くて、長く楽しめる。
梅の産地生まれだからというわけではなく、どちらかというと、私は「梅」の方が好きである。

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梅の花については、先に姉・登志子のところでも挙げたが、私は梅の歌をいくつも詠んでいる。
掲出した歌の次に

     壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく

という歌がある。実は、私の次女は外国語学部でスペイン語が専攻だった。

歳時記にも「梅」の句は多い。それらを引いて終りたい。

 梅が香にのつと日の出る山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 むめ一輪一りんほどのあたたかさ・・・・・・・・服部嵐雪

 二もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・与謝蕪村

 梅一枝つらぬく闇に雨はげし・・・・・・・・水原秋桜子

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・中村草田男

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・星野立子

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・西島麦南

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・古賀まり子
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普通、紅梅は白梅よりも時期があとになることが多い。

猫の恋パリの月下でありにけり・・・・山田弘子
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        猫の恋パリの月下でありにけり・・・・・・・・・・・・山田弘子
 

猫の繁殖期は春と秋の二回あるが、春のものは、まだまだ寒い今の時期に始まる。
去勢手術をしてある猫ならいざ知らず、何もしていない猫は、このシーズンになると、狂気にとりつかれたように昼も夜も相手を求めて鳴きながら徘徊する。
夜など家の周りでギャーギャー鳴きたてられては安眠妨害である。
このような現象は、野良猫であろうと、由緒ただしい血統書つきの猫であろうと違いはない。
掲出写真は、いわゆる「ブランド猫」と呼ばれる由緒正しい、高価な猫の画像である。

掲出句は、猫の恋には東西の区別はなく、フランスはパリでも、同じ現象があることの句であり、微笑ましい。

私の歌にも
  
   いねがたき夜半にしあれば血統をかなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

私の歌の趣旨は、先に書いたようなことである。

私は基本的に「猫嫌い」である。
というのは、わが家の庭は、放し飼いにされた猫たちの通り道に当り、臭い臭いウンチはされるわ被害甚大で、
通り道に忌避剤を撒いたり、灯油を撒いたりして対応しているが、じきに効力がなくなり困り果てているからである。
猫を飼っている人の言い草も気に入らない。
「犬は毎日、散歩に連れてゆかなければならないが、猫は一人で、どこかでしてきてくれるから楽だ」。
そのトバッチリが私の方に降りかかっているのである。
いつか散歩をしていたら、猫に手綱をつけて散歩させている飼い主さんに出会った。
「猫の散歩とは珍しいですね」と言ったら「猫のウンチも迷惑ですから」という返事があって感心したものである。
こんな人は滅多に居ない。

    大比叡の表月夜や猫の恋・・・・・・・・・・鈴木花蓑

という句があるが、これなどは猫の恋を美的に、大きな景物の中に捉えて成功している。
猫の交情というのは、観察した人の文章などを見ると、凄まじいらしい。
猫の交尾というのは何回も執拗に雄、雌を問わず求めるようで、お互いを挑発したりして延々とつづくらしい。私は見たこともない。
交尾期が終わって家に戻ってきた猫は毛は傷つき、精力を使い果たしたようになっているらしい。
ライオンの交尾というのをテレビで見たことがあるが、腹ばいの雌の上に、雄がかぶさるようにするらしい。
猫も同じ種らしいから交尾の姿勢も同じらしい。人目につかない夜などが多いそうである。
犬の交尾は人が居ようがお構いなしで、これはこれで凄まじいものであるが、犬の交尾と狐の交尾は、種が同じだから、そっくりだという。

歌に戻ると、うるさくて安眠妨害のときはバケツに水を用意しておいて、ぶっかけて追っ払ったりする。
野良猫でもボス的なものが居て、やはり強いものの遺伝子を受け取りたいという雌の本能があるのか、多くの雌に種付けするようだ。
私の他の歌にも「猫」を詠ったものもあるが、それらはあくまで「道具建て」として使ってあるに過ぎない。
それらの歌のいくつかを引いて終わりたい。

   三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・・・・・・木村草弥

   入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫

   菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる

   黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

歳時記の春を見ると季語「猫の恋」として、たくさん載っているので、それを引いて終わりたい。

 菜の花にまぶれて来たり猫の恋・・・・・・・・小林一茶

 おそろしや石垣崩す猫の恋・・・・・・・・正岡子規

 色町や真昼ひそかに猫の恋・・・・・・・・永井荷風

 恋猫の丹下左膳よ哭く勿れ・・・・・・・・阿波野青畝
 
 恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく・・・・・・・・加藤楸邨

 老残の恋猫として啼けるかな・・・・・・・・安住敦

 悪猫が舐めあふ春の猫の味・・・・・・・・三橋敏雄

 奈良町は宵庚申や猫の恋・・・・・・・・飴山実

 あらすぢも仔細もあらぬ猫の恋・・・・・・・・三田きえ子

 八車線渡り切ったる猫の恋・・・・・・・・出口善子

 エジプトの恋猫の闇青からむ・・・・・・・・布施伊夜子

 借りて来し猫なり恋も付いて来し・・・・・・・・中原道夫

 山形訛り恋猫をわしづかみ・・・・・・・・今井聖

 恋をしてわが家の猫と思はれず・・・・・・・・小圤健水

 よれよれになりたる恋のペルシャ猫・・・・・・・・藤井明子

 西鶴の墓にかしまし恋の猫・・・・・・・・倉持嘉博



妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・・木村草弥
72279灯り
 
     妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
        いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。
近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、
そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、
先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の吉川美恵子 教授の書をお手配くださった。
吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

    かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがあると思う。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

    丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに、とは行かずに最近は厳しい寒さのぶり返しであるが、そのうちに暖かい日も来るようである。
今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきてほしいものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。


下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・木村草弥
江戸は川柳京は軽口

──新・読書ノート・・・初出Doblog2005/10/21──(再編集)

   下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この本は1992年山手書房新社刊のものである。
著者の「下山山下」という名前からして、人を食っているではないか。
この本の裏表紙のキャッチコピーに

 京童も人の子
 笠づけ句集「軽口頓作」
 夫婦ぜんざい・甘味辛味
 こども・いとし子・邪魔なガキ
 どら息子・いろ娘
 恋心・欲目流し目
 金、金、金の世の中
 仕事・商売・メシのタネ


と書かれている。けだし、この本の特長を巧く要約している。

江戸は川柳京は軽口0001

この本の出だしに、こう書かれている。

「たまには京都へ遊びに行きたいなあ」なんて考えるときがあるでしょう。そういうとき、京都の何を思い浮かべますか。
・・・・・「古都」のイメージでわれわれは京都に憧れてる、たぶん。その京都に、江戸時代のことだが、こういう句を詠んだ人がいた。

 むづかしい・しゃもじなんどと御所の内

「しゃもじ」というのは、もちろん飯をよそったりする「杓子」のことだが、御所では、品がないといって「しゃ文字」と呼んだ。
湯具(女の腰巻)を「ゆ文字」、髪の毛を「か文字」というのも、この類。今でも、これらの言葉は標準語としても生きている。・・・・・・

江戸は川柳京は軽口0002

上に引いた句の5、7、5のはじめの5のあとに「・」を置いたのは著者であるが、これは「川柳」に対抗する「笠句」という文芸であることを示すためである。
「笠づけ」と言われて、「冠句」のように上5が課題として出されるものである。
文芸としてのジャンル上では「雑俳」と呼ばれるものである。
つまり、これは笠づけ句集「軽口頓作」という句集に入っているということである。
川柳とは違う文芸が三百年も陽の目を見ずに埋もれていたのに陽を当てたということである。
以下、この本に載る名作・迷作を少し紹介する。

 これはこれは・つめたい足を夫(とと)どうぞ

 よいものじゃ・つめたい足じゃがかかゆるしゃ

 どうしても・足がさはれば手がさはる


房事での夫婦のやり取りである。「軽口頓作」の句は「口語」(はなしことば)で書かれていることがわかる。
江戸時代の川柳に「末摘花」というエロっぽいアンソロジーがあるが、そこに載る句では

 あっためてくれなと足をぶっからみ

ということになる。
これについて、著者は、次のように書く。

・・・・・この、言葉がキリッと締まった都会人的センス。「軽口頓作」のブヨブヨノロノロした調子とはまつたく対照的だ。なぜこうも違うんだろう。
時代が古い。それもある。「軽口頓作」は1709年の出版。片や川柳の最初の句集は、それより五十年以上あとだった。
京都と江戸という違いもある。平安遷都から900年も天皇を戴いてきた京都と、わずか100年前に武士が幕府を開いた江戸。気候風土も違う。
それから、たぶん作者の中身も違う。「軽口頓作」の句の作者は全然わからないが、たぶん商人や職人、つまり町人と言われる階層の人々が多かった筈で、そういう人たちが詠んだ句の中から雲鼓という宗匠が選んで出来たのが、この句集である。
江戸は武士の町で、彼らは知識階級であり、幼いときから中国の古典なんかも読んでいる。
川柳は「河井川柳」という人が始めた文芸なのである。

この句集でも、やはりメインはエロっぽい句が主流を占める。

 にくいもの・あんまり仲のよい夫婦(めをと)

それが、川柳の「柳多留」という、これも有名な句集では

 そこ掻いてとはいやらしい夫婦仲

となる。どちらがよいか、は読者の判断に任せよう。

 大事ない・毛虫が留守じゃながうなれや
 ・・・・・・・・・・・・・親をさして云也・・・・・・・・・・・(こういう注釈がつく)

 しうとめの留守の炬燵に顔二つ

川柳では、こうなる。(「・」の区切りのあるのが「軽口頓作」である今後は一々断らない)

 くたびれる・ずんずとのびる娘の背

 背がのびりゃ苦は色ぐるひですばいの

 娘もふ筆をかくして使ふなり

 十六で娘は道具ぞろひ也

これは、すなわち、ヘアが生える齢。お月さんはすでに始まってるから、これですっかり女の支度ができた、そういう年齢というわけ。

 ゆだんせぬ・二八ばかりの生ざかな
 ・・・・・・・・・・・・・・・娘子也・・・・・・・・・・
「二八」は2×8で十六歳。いちばん娘盛りの時期。

江戸は川柳京は軽口0003

愛憎が行き着くと「恋に恨み」はつきもの。
図版④は図の下にも説明がある通り「呪いの釘を打つ女」とある。

 ようはする・にくければとて時まいり

いわゆる丑の刻参りを「時まいり」とも言う。江戸でもこれをやったが、京都では貴船神社へお参りするのが代表格だった。
「ようはする」は「よくやるものだよ」くらいの意味。

 何とせう・貴船様めもぬかに釘

肉欲の楽しみを詠んだ句を少し。

 あぢをやる・ろの字なんどのよさはいの

味なもんだよ。「ろの字」の良さったらないもの。ひらがなの「ろ」は、漢字の「呂」の字を崩したもの。
この漢字をよく見ると「口」という字が二つ繋がっている。つまり口と口を重ねるということ「キス」である。
「よさはいの」は「良さつたらないの」である。キスのことは日本では古来「口を吸う」と表現する。

 めにかけて・ちんぷんかんと女子の乳
 …・・・・・・唐人は女の乳をよろこぶもの也・・・・・・・・
長崎出島の廓の風景である。

 小きみよい・日本人でもをなごの乳

この句は、先の句のパロディであろうか。

 丸山の客の騒ぎはチンプンカン

 身を入れてはたらく下女は両用い

 あんのじゃう・旦那の御作玉が腹

 ・・・・・・・・・・・・下女也・・・・・・・・・・・

 おきおきに・下女とらまへてむごいぞよ

 いやならばいいが女房(かかあ)にそう言ふな

 させぬのみならず女房に言っ付ける


江戸は川柳京は軽口0004

図版⑤は「鍛冶や」の図である。

 なるものじゃ・気がいってつに刀鍛冶

 我知らず歯をくいしばる細字書き

 ちがひます・具足屋の気と鑓(やり)屋の気


精を出す職人の働き振りには、率直には感動して、けなさずに描かれている。
いよいよ、この本も終わりにしよう。
「早乙女」を詠んだ、少しエッチな句である。

江戸は川柳京は軽口0005

 かしましや・こらへかねてぞ田へつぶて

 五月女をうしろから見ておやす也


田植えをする女たちが、一斉にこちらへ尻を向けて苗を植えてくる。
それを見て男どもが、いやあ、こりゃたまらん、と石つぶてを可愛いお尻めがけて投げつける、という図である。

 早乙女の股ぐらを
 鳩がにらんだとな
 にらんだも道理かや
 股に豆を挟んだと、ナヨナ


という民謡があったらしい、と書かれている。お分かりかナ。 

 つとめとて・あほと呼ばれてはあいはい

この句には、現代に通じるものがあり、涙がちょちょ切れる。 では、また。
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最近になって、同じ著者による、こんな本を手に入れた。 ↓
下山弘
下山弘

後者の本の版元である太平書屋の主人によると「下山山下」というペンネームは下山弘氏の著作の初期に使われたものだという。
なお、下山弘氏は2011年の秋に亡くなられたという。まだまだこれからだというのに、惜しいことである。

下山弘 略歴。
1938年群馬県前橋市生まれ。青山学院大学文学部卒業。
江戸生活感情史を研究する東京古川柳研究会会員。
著書に『遊女の江戸』 『江戸古川柳の世界』 『江戸川柳─男たちの泣き笑い』
『お江戸怪談草子』 『川柳 江戸の四季』。
それに、今回採り上げた本─『江戸は川柳 京は軽口』があるのは当然である。

あとの二冊については、読み込んで後日、詳しく書きたい。 乞う、ご期待。


東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・・・慶滋保胤
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  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

ume3白梅

なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


なで肩のたをやかならむ真をとめがパットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・木村草弥
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──初出・2006/02/21 Doblogを再構成──

    なで肩のたをやかならむ真をとめが
         パットの肩をそびやかし過ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』((角川書店)に載るものである。
この歌を作ったのは、もう二十数年前になるので、いま女の人の服の肩がパットを入れた「いかり肩」の流行になっているのか、どうか知らない。
当時は「いかり肩」が全盛期だったので、「私は、なで肩の女らしい方が好きなのになぁ」という気持で作ったものである。
掲出写真は「アカプルコの海」という昔のエルヴィス・プレスリーの1963年の映画のマギー役のエルサ・カルデナスのものである。
彼女は典型的な「なで肩」の美人と言える。
対照するために、同じ映画の、マルガリータ役のウルスラ・アンドレスの典型的な「いかり肩」の写真を出しておく。
因みに、外国人に圧倒的に人気があったのは、後者のアンドレスだという。 ↓

e0123392_2355559いかり肩

日本の女の人には「なで肩」の人が多いと言われている。
外国人の場合は、どうなのだろうか。
私は、そういう日本人の女の人の「なで肩」が好きである。
なで肩の線が、何ともなく、艶めかしくて、見ていても、いい気分になる。
それを、わざわざパットを入れて「いかり肩」にどうしてするの、というのが、この歌の趣旨である。

この頃では余り「ウーマンリブ」というような言葉を聞かないが、ひところは盛んに主張されたことがある。
そのことの良し悪しを、私は言っているのではない。
なで肩が好きという、あくまでも私の個人的な感想に過ぎない。
女性の社会進出は年々ますます盛んで、女性がそれぞれの分野で重要なポストを占めるようになってきた。
そんな時代になっても、女の人には「ユニセックス」のような状態にはなってほしくない、と私は思うのである。
社会の重要なポストを占めながら、なお「女性」としての魅力を失ってほしくはない、のである。
女としての魅力を「売り物」にする人もあるだろうが、それでも、いいのではないか。

なで肩の歌というのではないが、女の後姿その他の歌を引いて終わる。

   後肩いまだ睡れり暁はまさにかなしく吾が妻なりけり・・・・・・・・千代国一

   泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ・・・・・・・佐佐木幸綱

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・近藤芳美

   とことはにあはれあはれは尽すとも心にかなふものか命は・・・・・・・・和泉式部
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この記事の初出は2006/02/21のもので、当時、この記事をご覧になったFRANK LLOYD WRIGHTさんが、下記のコメントを寄せられた。

<なで肩は、
中国で言えば、華南とか上海とか海沿いの地域はなで肩ですね。
つまり、海から離れた北京とかはいかり肩が多い。満州も内陸部はそうですね。
日本・韓国は、島国・半島国家ですから言わずとしたなで肩。海沿いです。
東南アジアはおしなべてなで肩。海に関係するからですかね?
インドなんて、北インドはいかり肩で、南インドはなで肩。ドラビタ系はなで肩が多い。
スリランカは、同じ家族でいかり肩、なで肩がとびとびに。
インドからの移住と現住のドラビタとの血の現れでしょうか?>

私には新しい知識だが、面白いので、ご紹介しておく。


三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・木村草弥
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↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。当初は余りの惨状に政府は非公開にしていたもの─アメリカの新聞が公開。

──再掲載──

       三月十一日の悲劇を忘れないために・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日は東日本大震災が起こって、地震と大津波が襲来した日である。
地震の被害もさることながら、大津波によって大被害が起こり、あまつさえ「福島原発」が大爆発し、核燃料が溶けるメルトダウンを起こした悲劇は今に続いている。
この「メルトダウン」については、チェルノブイリ発電所での事故と同様であるが、日本では原発事故当初から、「影響は少ない」という「ウソ」の報道が政府などからなされている。
爆発した原子炉の片付けが進んできた昨今になって、メルトダウンの状況が予想以上に深刻であることが判ってきた。
チェルノブイリでは解けた燃料を取り出すのが不可能なので、建物全体をコンクリートで覆って、いわゆる「死の棺」として数十年経ったのだが、経年劣化でコンクリートが崩壊しだしたので、それを更に再び覆う工事が着手されようとしている。
溶けた原料の塊は「象の足」と呼ばれているが、フクシマの場合も、その象の足と同様の状態であるらしい。
放射線が強くてロボットのカメラも壊れて実情を写すことすら出来ない、ということである。
これらの真実に鑑みて、この悲劇を忘れないために、これに関連する過去記事を再掲載しておくので読んでみてください。  ↓

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佐藤

──新・読書ノート──

     いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め
            原子炉六基の白亜列(つら)なる・・・・・・・・・・・・・・・佐藤祐禎

         ・・・・・佐藤祐禎歌集『青白き光』2004年初版・短歌新聞社。2011年再版・文庫版いりの舎・・・・・・・・・

大熊町に在住され福島の原発を以前から告発し続けていた、歌集『青白き光』の佐藤祐禎(さとう・ゆうてい)さんは2013年3月12日に亡くなられた。 83歳であった。
初版の「あとがき」で
<七十五歳にして初めての歌集である>
と書いているように、遅くからの歌の出発であった。
「アララギ」から始まり、アララギ分裂後は宮地伸一の「新アララギ」に拠られた。序文も宮地氏が書いている。
「あとがき」にも書かれているが「先師」とあるように「未来短歌会」の近藤芳美の弟子を標榜されていて、桜井登世子さんと親しかったようである。
角川書店「短歌」六月号に、桜井さんが追悼文を書いておられる。

生前の佐藤さんのことは私は知らない。
原発の大事故のあと、事故前、それも十年ほども前に原発の事故を予測したような歌を発表されていると知って衝撃を受けた。
その歌集が『青白き光』である。
彼が短歌の道に入ったのは五十二歳のときで、遅い出発だった。
この歌集には昭和56年から平成14年までの歌511首が収録されている。
もちろん原発関連の歌ばかりではなく、羈旅の歌もあり、海外旅行の歌などもある。
ここでは、それらの歌には目をつぶり、原発関連の歌に集中する勝手を許されよ。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる・・・・・・・佐藤祐禎

この歌は、この歌集の最後に置かれたものだが、題名も、この歌から採られているが、まるで「予言」のような歌ではないか。

彼・佐藤祐禎は再版に際して、別のところで、次のようなことを書いているので引いておく。 ↓      
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   『青白き光』を読んでくださる皆様へ    佐藤祐禎

私共の町は、新聞テレビで、充分世にまた世界にフクシマの名で知れ渡ってしまいましたが、福島県のチベットと蔑まれて来ました海岸の一寒村でした。
完全なる農村でして、一戸あたりの面積は比較的多かったのですが、殆ど米作りの純農村故に収入が少なく、農閑期には多くの農民が出稼ぎに出て、生活費を得た状態でした。

そこへ天から降って来たような感じで、原子力発電所が来ると知らされたのです。

この寒村に日本最大の大企業が来れば、一気に個人の収入も増え、当然町も豊かになるだろうと、多くの人は両手を挙げて賛成しました。
わずかに郡の教員組合などは反対したようですが、怒涛のような歓迎ムードの中では、表に出ることはありませんでした。
常識的に言って、これほどの大事業を興すには多くの問題が山積みするはずでしたが、ここでは全く問題は起きなかったのです。

先ず、用地ですが、ここには宇都宮航空隊の分教場があったのです。
敗戦となり、飛行場が撤収された跡には、面積92万坪つまり300ヘクタールの荒れ地が残っていました。
それが地元民の知らない内に、3分の2が、堤財閥の名義になっていました。
どのような経緯があったのかは未だわからないのですが、当時の衆議院の議長は西武財閥の祖、堤康次郎であったことを考えると、自ずから分かる気が致します。
あとの3分の1の殆どは、隣の双葉町7人の名義になっていました。

これらの土地は、全くの痩地で、生産性が殆どありませんでしたので、かつては、軍のために無償で提供した夫沢の地区の人らは顧みることもありませんでした。

当時、東京電力の社長・木川田は、福島県出身であり、建設省に絶大なる影響力を持っていた衆議院議員、天野は、ここ大熊町の隣の双葉町の出身だったのです。
そういう立場ですから、同県人として地元の為にと、木川田は考えたのだろうと思います。
そこに、天野は、俺の故郷には、うってつけの土地があると言いました。

立地条件として、第一に、相当広い土地。
第二に、1キロ以内に人家が全くないこと。
第三には、海水が充分確保できること。
第四に、土地取得に障害がないこと。
これらの条件が全て解決できるところが双葉郡大熊町夫沢地区だったのです。


東電の意志が県に伝えられ、双葉郡そして我が大熊町に伝えられ、トントン拍子に ことが運んだようです。
そんな訳で土地の価格が、驚くなかれ、一反歩「300坪」当時で5万円。
地上の樹木「矮小木」5万円。併せて10万円だったのです。
白河以北、一山百文といわれた東北でしたから、単に売買するとしたら一反歩5,000円か、1万円くらいにしか思っていませんでしたから、地権者は喜んで手放しました。
びっくりしたのは東電だったようで、後で聞きましたら、買収予算の4分の1で済んだとのことでした。
後に大きな増設問題が出ました7号炉、8号炉の建設予定地となった厖大な土地は、その余った予算で買った
ということです。

いよいよ工事が始まり、全てのものが大きく変わってゆきました。
数千人という作業員が入り、20キロ離れた山から岩石を切り出して、工事現場に骨材を運ぶトラックが延々と続きます。
労賃も飛躍的に上がりました。
今までは、小さい土木会社の手間賃が700~800円だったのが、数倍に跳ね上がったのです。
農家の人たちは早々と農事を済ませて、我がちに作業員として働き始めたのです。
年間の収入は飛躍的に増加したものですから、原発さまさまになって行きました。

それまでは収入が少なかったものですから、家を建てる時も村中総出で手伝い合い、屋根葺きなども「ゆい」という形で労力を出し合っていましたが、一日数千円の労賃が入るということで、助け合いなどすっかりなくなってしまったのです。
「町は富めども こころ貧しき」とも私は歌いました。

人口一万弱の町に、30軒以上の飲み屋、バーがあったといいます。
下戸の私などは一回か二回くらいしか行かなかったはずで、その実態などはよく分かりませんが大凡の見当はつきます。

原発に関する優遇税はどんと入りますし、原発に従事する人達の所得税は多くなりますし、何か箱物とか運動場とか施設を造る度に、原発からは協力費として多額の寄付金がありました。
いつの間にか県一の貧乏村が分配所得県一になってしまいました。

ここだけではありません。
となりの富岡町には、111万キロの原子炉が4基出来ましたし、そのとなりの楢葉町と広野町には、100万キロの火力発電所が4つ出来ました。
原発10基と火力4基から生み出される電力は、全て首都圏に送られ、地元ではすべて東北電力の電気を使ってまいりました。
東京の人達に、ここをよく理解してもらいたいと切に願うものです。

私の反原発の芽生えは、一号炉建設の頃、地区の仲間たちが皆そうであったように、どんな物だろうと好奇心を持って少しのあいだ働いた時です。
ある時、東芝の社員の方がこう言ったのを今でも覚えています。
「地元の皆さんは、こんな危険なものをよく認めましたね」という言葉でした。
その時は、変なことをいう人だなと思いましたが、だんだんと思い当たるようになったのです。

最初に気づいたのは、小さいけれども工事の杜撰さでした。
誤魔化しが方々にあったのです。
小さい傷も大きな災害にひろがることがあります。
それらは末端の下請け会社の利を生むためには、仕方がないというのが、この世界の常識だったらしいのですが、ただの工事ではないのです。
核という全く正体の分からない魔物を扱う施設としては、どんなに小さい傷でも大きな命取りになるはずです。
次第に疑念を持ち始めた私は、物理の本を本気になって読み始めました。
そして、それを短歌に詠みました。

   <この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す>・・・・・・・・・・佐藤祐禎
    
                                   (後略)
----------------------------------------------------------------------------
この文章を読むと、かの地に福島原発が、大した反発もなく建設し得たのかの疑問が氷解する。
上の文章の中のアンダーラインの部分は、私が引いたものである。

「資本の論理」と言われるが、まさに巨大財閥と巨大企業による「犯罪」とも言える行為である。
こんなことは、事前も事後も、日本のマスコミは一行も書かなかった。

さて、本論の佐藤さんの歌である。
多くの歌は引けないので、はじめに掲出した歌を含む巻末の平成十四年の歌の一連を引いておく。

     平成十四年    東電の組織的隠蔽

  三十六本の配管の罅(ひび)も運転には支障あらずと臆面もなし

  原発の商業主義も極まるか傷痕秘してつづくる稼働

  さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の

  破損また部品交換不要と言ひたるをいま原発のかくも脆弱

  原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人

  原発の港の水の底深く巨大魚・奇形魚・魔魚らひそまむ

  「傷隠し」はすでにルール化してゐしと聞くのみにして言葉も出でず

  ひび割れを無修理に再開申請と言ふかかる傲慢の底にあるもの

  ひび割れを隠しつづくる果ての惨思ひ見ざるや飼はるる社員

  埋蔵量ウランは七十年分あるを十一兆かけるかプルサーマルに

  法令違反と知りつつ告発に踏み切れぬ保安院は同族と認識あらた

  面やつれ訪問つづくる原発の社員に言へりあはれと思へど

  組織的隠蔽工作といふ文字が紙面に踊る怖れしめつつ

  原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ

  いつ爆(は)ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列(つら)なる

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極めて不十分な鑑賞だが、この辺で終わりにする。 ぜひ取り寄せて読んでもらいたい。

この歌集の「初版」は短歌新聞社から刊行されたが、そのときに担当されたのが「玉城入野」氏であった。ちょうど、その頃、彼は短歌新聞社で編集者だった。
その後、短歌新聞社は社長の石黒氏の高齢のために解散されたので、初版本は絶版となった。
フクシマ原発事故の後、佐藤さんの「予言」のような歌を覚えていて、ぜひ再版をと働きかけて再版に至り、よく売れて、私が買ったものは第三刷である。
因みに、この玉城入野氏は、高名な玉城徹の息子さんであり、きょうだいに「塔」所属の歌人として有名な花山多佳子が居る。
玉城徹 ← については私の記事にあるので参照されたい。

梅の奥に誰やら住んで幽かな灯・・・・・夏目漱石
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──季節の一句鑑賞──梅題──

    ■梅の奥に誰やら住んで幽(かす)かな灯・・・・・・・・・・・・夏目漱石

梅の花が本格的に咲き揃う時期になって来たので、今日は梅に関する「三題ばなし」を書くことにする。
掲出の句は夏目漱石の作品で、彼独特の諧謔性に満ちた句である。
「誰やら住んで」というところが面白いし、「幽かな灯」というのも広い梅林を想像させて奥行がある。
漱石は俳句を余技としてたくさん作っている。
漱石は英文学者として出発したが、小説家として主に朝日新聞を拠り所にして、次々と作品を発表した。
当代一の文化人であったから、師弟関係にあった文学者、科学者などが多い。
科学者なども──たとえば中谷宇吉郎など、いずれも文筆でも優れた文章を残している。
漱石における俳句はあくまでも「余技」であったが、伝統的な文学として、漱石は深く愛していた。

t-konoesiro近衛白(関西)

  ■片隅で椿が梅を感じてゐる・・・・・・・・・・・・林原耒井

林原耒井(らいせい)は、明治20年福井県に生まれ、昭和50年に没した。
号の耒井は本名の耕三の「耕」の字を分解したもの。
旧制一高時代から夏目漱石の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛弟子の一人であった。英文学徒として旧制松山高等学校で教えていたことがある。
俳句は臼田亞浪の「石楠」(しゃくなげ)に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要な著作とされる。
掲出句は『蘭鋳』(昭和43年刊)から。

椿は春の花とされ、梅に引続いて咲きはじめる。
時期的には咲くのが重なることもあるので、この句では、それを「片隅で椿が梅を感じてゐる」と表現する。
先に挙げた漱石の句の諧謔性に相通じるものがあるではないか。師弟の関係の妙である。
「明暗」というサイトに漱石と林原との記事があるので見られるといい。

hana565_1_ume紅梅

  ■白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり・・・・・・・・・・飯田龍太

紅梅は白梅よりも少し遅れて咲きはじめることが多い。
白梅の「白」のあとにグラーデーションのように「紅」色が色を増してゆく、というところが面白い。
それに花の上の「空」を「深空」と表現したのも秀逸である。
飯田龍太は飯田蛇笏の子として幼少の頃から俳句に親しんできたが、父の死後、俳誌「雲母」の主宰者を継承して俳壇で重きをなしてきたが、十余年前に結社を解散した。
俳誌などの世襲制に対する批判などもあるが、主宰制は、いくたの欠点もある。
そういうことを自覚した上での、いさぎよい決断だ。まだまだ影響力があった全盛期での決断だった。2007/02/25没。
飯田龍太については、 ← のWikipediaに詳しい。

以下、「梅」「椿」を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子

 赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・河東碧梧桐

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・高浜虚子 

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・高野素十

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・西東三鬼

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・森澄雄

 火の独楽を回して椿瀬を流れ・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・石原八束




鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・三橋鷹女
h-rno6ルノワールぶらんこ

       鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・三橋鷹女     

鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。
中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。
唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。
唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・・・中村汀女

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・三橋鷹女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男


かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・島谷征良
img1098ヒキおたまじゃくし

      かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・・・・・・・島谷征良

一般に蛙は、まだ寒い頃に穴から出てきて、相手を見つけて抱接し、雌は田の水溜りに卵を産み、また土の中に戻って冬眠をつづけるという。
その間に水の中で卵は成長し、「おたまじゃくし」になって水中の微生物を食べて大きくなる。
親蛙たちはゆっくり冬眠して水温が、そこそこになるまで出て来ない。というのは蛙は「変温動物」であるから気温が低ければ活動できないからである。

私の歌に

    水底に動くものあり見つむれば蛙の卵(らん)の孵(かへ)りはじめぬ・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「風二月」の一連の中にある。

写真②は卵嚢に入った蛙の卵。 ↓

img1035ヒキ卵

掲出した歌の前に

    田の水に映るものにも春兆し風は二月の光に触れ来(く)・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているのが、掲出した歌の舞台背景ということになる。

「おたまじゃくし」のことを漢字では「蝌蚪」(かと)と書くが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、
その字の形が頭が大きく、尾が小さい、おたまじゃくしに似ていたので、そう名づけられ、それを明治以降俳人たちが音読利用しているものという。

そんなことで俳句にも、よく詠まれているので少し引いて終りにする。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水・・・・・・・・高浜虚子

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪曇りなほ三月の日のごとき・・・・・・・・山口誓子

 蝌蚪の水山ふところにありにけり・・・・・・・・富安風生

 蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ・・・・・・・・中村草田男

 蝌蚪の上キューンキューンと戦闘機・・・・・・・・西東三鬼

 税の数字よ小学生の日の蝌蚪よ・・・・・・・・加藤楸邨

 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪を見る病後の杖を抱きかがみ・・・・・・・・皆吉爽雨

 蛙の子飼つて孤独の性(さが)子にも・・・・・・・・安住敦

 蝌蚪に打つ小石天変地異となる・・・・・・・・野見山朱鳥

 蝌蚪に肢不思議な平和充満し・・・・・・・・北登猛

 あるときはおたまじゃくしが雲の中・・・・・・・・飯田龍太

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・辻田克己

 おたまじやくしにも青雲の志・・・・・・・・宮坂静生

 一つ出ておたまじやくしのどろけむり・・・・・・・・石田郷子

 かたまつて生くるさびしさ蝌蚪も人も・・・・・・・・島谷征良

 かたまれる蝌蚪に行末ひとつづつ・・・・・・・・まついひろこ

 うちみだれ蝌蚪の疑問符感嘆符・・・・・・・・新明紫明



菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・久保田万太郎
040207nanohana01菜の花

     菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

菜の花は早いところでは、もう一月はじめには咲きはじめて、遅いところでは満開は四月になる、という息の長いものである。
早春を告げる花として庶民的な親しみの持てる花である。
「菜の花」というのは、昔は「菜種油」を採るために栽培されていたのだった。
ずっと昔、電気のない頃は灯心に「菜種油」を注いで明りにしていた。
電気が来てからは、神棚や仏壇の灯明として終戦後も長く使われていたものだった。
菜種油を採る実を振い落したあとの「菜種柄」は、竈などの焚きつけに使われたが、蛍の出るシーズンになると、
それを持ち出して蛍をはたき落すのに使ったものである。
この頃ではエコロジー運動の一環として菜種油で軽油の代わりにディーゼル車を動かそうというような企てもある。

私の歌に

   春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉(たの)し生きるは哀(かな)し・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
掲出した私の歌は、「生きる」ということは「愉しい」ことでもあり、また或る一面では「生きる」というのは「哀しい」ことでもある、
という哀歓を詠んだものである。
「菜の花」を詠んだ歌を、この歌集からまとめて引いておく。

    咲きほこる菜の花いつぽん切りとりて花瓶に挿せり危ふく挿さる・・・・・・・・・・・木村草弥

    春が来た春が来たよと菜の花よ生きるは愉し生きるは哀し

    菜の花を花瓶に挿せば風景が青き地図埋めたちまち展(ひら)く

    見ひらける瞳のかなた産土(うぶすな)のひろごる視野は黄なる菜の花

この頃では「菜の花漬」として蕾の花と茎の先端の部分を塩漬けにして芥子を少しあえて「菜の花漬」というものが季節の浅漬け、
あるいは「おひたし」としてスーパーなどでも盛んに売られている。あっさりしておいしいものである。
時代とともに、菜の花の利用法も変わってくるのである。

俳句の世界でも、芭蕉、蕪村の頃から「菜の花」は盛んに詠まれてきた。
以下、それらを引いて終りにしたい。

 菜畑に花見顔なる雀かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・与謝蕪村

 菜の花やかすみの裾に少しづつ・・・・・・・・小林一茶

 菜の花の野末に低し天王寺・・・・・・・・正岡子規

 菜の花といふ平凡を愛しけり・・・・・・・・富安風生

 菜の花や夕映えの顔物を言ふ・・・・・・・・中村草田男

 菜が咲いて鳰も去りにき我も去る・・・・・・・・加藤楸邨

 菜の花に昔ながらの近江富士・・・・・・・・山口波津女

 三輪山の裾ひろがりや菜の花に・・・・・・・・滝井孝作

 家々や菜の花色の灯をともし・・・・・・・・木下夕爾

 菜の花の地平や父の肩車・・・・・・・・成田千空

 菜の花や西の遥かにぽるとがる・・・・・・・・有馬朗人

 一輌の電車浮き来る花菜中・・・・・・・・松本旭

 菜の花の怒涛のごとき黄なるかな・・・・・・・・辰巳あした



三毛猫の蹠あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・木村草弥
16810猫足裏

    三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の
         玻璃に五弁の花捺(お)しゆけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

猫の足裏は「肉球」と呼ばれ、猫にとっては足裏の重要な感覚器官であるらしい。
足形は、ちょうど五弁の梅の花のような形をしており、これは梅鉢形と似ている。
私の歌は、別にとりたてて、どうという歌ではないが、明り取りの天窓のガラスを渡って行った三毛猫の足裏を五弁の梅の花と捉えて、即興的に詠んだものである。

世の中には「猫好き」の人が多くて、ネット上でもさまざまの記事や写真が出ている。
私自身は「猫嫌い」である。
というのは、私の家の庭は猫の通路になっていて、臭い臭い糞をしたり、小便をひっかけたりするので、被害甚大である。
家の中だけで飼い、下のものの始末も砂箱を用意したりする心がけのよい愛猫家なら私は何も言わないが、得てして、「犬は毎日散歩させなければならないから面倒だが、猫は自分で用を足してくるから楽だ」などとほざく手合いが大半なのである。
そのトバッチリが私の家に廻ってきているのだ。
農家も困っている。種などを蒔いて白い砂で表面をきれいにしてある畑を足でかき回したり、敷き藁の上に糞をしたりと、悪さをするばかりである。
おまけに犬の糞は固くて、そんなに臭くはないが、猫の糞はべちゃべちゃに緩い便で、しかも限りなく臭い。
私が「猫嫌い」になった理由である。
そんな私が猫を歌に詠んだというのだから、褒めてもらいたい気分である。
今しも当地は「梅の花」の咲くシーズンである。梅の花と似た足裏を持つゆえに、先ずは許しておこう。


いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅・・・・玉城徹
ume3白梅

    いづこにも貧しき道がよこたはり
          神の遊びのごとく白梅・・・・・・・・・・・・・・玉城徹


玉城徹は大正末期の生まれで、東京大学美学科卒業という人である。
彼の私生活ないしは辿ってきた道程については知らないが、高校教師をしていたらしい。その頃、教員組合の幹部として政治活動にも携わったらしい。
歌人としては、専攻した学問の教養もあって優れた作品を残し、結社「うた」を主宰していたが、先年解散した。
後継の結社も、「うた」を継承するようなことは許さなかったらしい。彼の父親は玉城肇という高名な学者である。
今をときめく短歌結社「塔」の選者をしている花山多佳子が玉城の娘であり、「うた新聞」を発行しているいりの舎玉城入野は彼の息子であり、西欧文学の翻訳家でもある。
因みに、この人は2010/07/13に八十六歳で亡くなられた。
追悼記事で篠弘は言う

<論作の両面においてディレッタンティズムに徹したひとで、「ことば」をもって新たなる現実を構成しようとする志向は、後続する世代にすくなからぬ影響をもっていた。
まずディレッタントであった証左に、戦後短歌のリアリズムに反発する。
「既成の技法に近代的擬装をほどこし得たに過ぎない」と、果敢に批判視する。・・・・・・・>

この歌は、メタファーによって構成された歌である。
「貧しき道」というのも、いろいろに解釈は出来るが、本当のところは作者自身の自歌自注を聞かないと判らない。
「神の遊びのごとく」というフレーズが独特であり、かつ、この歌の眼目である。白梅が「神の遊びのごとく」咲いている、という表現によって、
漂う雰囲気から、すがすがしい白梅であることが推察される。
言葉を替えれば「神の造化」の力によって──つまり、それが「神の遊び」なのだが──この清らかな、すがすがしい「白梅」が作られた、というわけである。

先に言ったように玉城徹については私は何も知らないし、資料もないが、彼の作品を少し抄出しておきたい。
阿木津英のホームページにも彼のことが記事にしてあるので、参照されたし。
以下、彼の歌を少し引いておく。

宝石のごときがそらに巣を張りて犠牲(いけにへ)を待つ敢へて払はず

足羽川秋の終りのかがやきを越えて入りゆく曙覧の山へ

悄然とゐるにもあらず硝子戸にうつりてわれは李太白読む

夢に聴く箴言一つ棒を把らば棒の力に動かされなむ

おのれよりほつれ出でたる一筋の糸に爪さきのかかりてころぶ

ひばりの音(ね)そらに満つるを縫ふごとくセツカ鳴くなりひねもす浜に

語るべきことにあらねど焼跡の東京に日の沈みゆく見き

海の辺に三年住みつつ今朝われの松原歩む形容(かたち)老いたり

方代の歌碑の石見むと右左口の村に今日くれば桃の花照る

春雷の昨夜(よべ)わたりける朝空を鎮めて富士は雪あらたなり

椅子を起(た)つ。──図録取(と)う出てブラックが晩年作に鳥を見るべく

力なく信なき衆多(あまた)群れ集ひ塔造らむとはたらく見やる

海ばらは白波たてり双ぶごとあひ背くごと限りも知らに

第一次の大戦に出でモダニストのその幾人かいのちを殞(おと)す

軍歌一つ唱へとわれに要(もと)めて言ふカウンターの暗き隅より一人

吾れやこれいかなる手にも把(つか)まれず挙げられざりし觴(さかづき)のごと

今の世に既視感(デ・ジャ・ヴュ)といへることなども書きとどめたり兼好法師

香貫野は田は鋤きにけり日のひかり土くれに沁み午ちかづきぬ

侵略はつねに防衛の名によりきこの単純を言はざるべからず

ワカキヒニモオイタルヒニモイクタビモハゲマシクレキキミハイマナキカ
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いま手元にある資料から歌を抽出したが、さすがに深い教養に裏打ちされた歌群である。いくつかは解説が必要だが、今回は省略する。



水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・森澄雄
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     水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄

今日3月5日は二十四節気の一つ「啓蟄」の日である。
啓とはひらく、蟄とは巣ごもりのこと。
つまり土中に冬眠していた爬虫類や虫が、この頃になると冬眠から覚めて、地上に姿を現すこと。
また「地虫」そのものを指すこともある。
啓蟄をさらに具体的に言った言葉に、地虫穴を出づ、蛇穴を出づ、蜥蜴穴を出づ、などがある。

私の歌に

    春雷が大地を打ちてめざめしむ啓蟄(けいちつ)の日よ昏(くら)き蛇穴・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この頃に鳴る雷を「虫出しの雷」などと言う。掲出の私の歌は、まさに、そういう光景を詠ったものである。
この「啓蟄」という言葉には、天地が春の躍動を示しはじめた喜びと活気を表わし、開放感がこめられていると言えよう。
ガマガエルなどは、まだ寒い時期に穴を出て交接し、雌は産卵して、また穴に潜って、もっと暖かくなった頃に本式に穴を出るという。
(注)動物の繁殖方法には一般的には「交尾」という言葉を使うが、厳密には区別される。
   つまり雄が生殖器を雌の体内に挿入して体内受精するものを「交尾」。
   抱きつくなどの姿勢で雌が放出した卵に雄が精子を放出して受精させるのを「交接」または「抱接」と区別される。
   魚などの抱き合うこともない水中などへ精子を放つのを「放精」という。
   こだわるようだが、これらは生殖にまつわる「概念」なので、意識して厳密に区別して使いたい。

寒い頃には餌になる生き物も少なく、また「変温動物」なので寒いと活動に支障をきたすからだろう。
掲出した写真は「ナミヘビ」である。地中で越冬するときも、こういうとぐろを巻いた姿勢だろうか。

俳句でも古くからさまざまに詠われてきた。それを少し引いておく。

 啓蟄の蟻が早引く地虫かな・・・・・・・・高浜虚子

 啓蟄のいとし児ひとりよちよちと・・・・・・・・飯田蛇笏

 香薬師啓蟄を知らで居賜へり・・・・・・・・水原秋桜子

 啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる・・・・・・・・山口青邨

 啓蟄の雲の奥より仏の目・・・・・・・・加藤楸邨

 啓蟄や四十の未知のかぎりなし・・・・・・・・能村登四郎

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・石川桂郎

 啓蟄の土洞然と開きけり・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・川端茅舎

この句などは、先に書いた「啓蟄=地虫」そのものを描いている。

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・大野林火



さりながら独りは一人の行く道あり食う寝る自由死ぬるも勝手・・・・沖ななも
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   さりながら独りは一人の行く道あり
     食う寝る自由死ぬるも勝手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖ななも


沖ななもは加藤克巳の弟子だけあって、歌作りも自由闊達なところのある、面白い作品を作る人である。
この歌などは、まるで老人の私が言いそうな口ぶりである。
彼女も独り暮しなのであろうか。
掲出画像は彼女の著書の一冊である。そのほかに下記のような著書などがある。
歌集・詩集
詩集『花の影絵』 若い人社、1971年
歌集『衣裳哲学』 不識書院、1982年
歌集『機知の足首』 短歌新聞社、1986年
歌集『木鼠浄土』 沖積舎、1991年
歌集『ふたりごころ』 河出書房新社、1992年
歌集『天の穴』 短歌新聞社、1995年
歌集『一粒』 砂子屋書房、2003年
歌集『三つ栗』 角川書店、2007年
歌集『木』 短歌新聞社、2009年
選集
『現代短歌文庫 沖ななも歌集』 砂子屋書房、2001年
評論・エッセイ・入門書
『森岡貞香の歌』 雁書館、1992年
『樹木巡礼』 北冬舎、1997年
『優雅に楽しむ短歌』 日東書院、1999年
『神の木 民の木』 日本放送出版協会、2008年
『今からはじめる短歌入門』 飯塚書店、2011年
『季節の楽章─短歌を楽しむ24節気』 本阿弥書店、2012年

彼女の経歴の紹介代りに、下記の「茨城・古河」市のHPから引いておく。
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現代短歌では、「サラダ記念日」の俵万智が有名ですが、古河出身の素敵な歌人がいることをご存知ですか。
今回ご紹介する沖ななも先生がその人です。
沖先生は、昭和20年古河生まれ。昭和30年に浦和市に転居するまでの幼少期を古河で過ごしました。中学生のころから、現代詩をつくり始め、昭和43年若い人社文学会に参加、昭和46年には同会より詩集「花の影絵」を刊行しています。
昭和49年には個性の会に入会。短歌を中心とした文学活動を開始。3年後には、「個性」新人賞を受賞されました。
その後の3年は、「式子内親王論」「和泉式部論」等の古典研究、「大西民子論」「葛原妙子論」「五島美代子論」「齋藤史論」等、現代女流歌人論を次々と「個性」に執筆連載。 昭和57年には、第一歌集「衣裳哲学」を刊行します。

 歌集の序文で歌人の加藤克巳は、先生の歌を、「現代短歌に特に女性の歌に、かなりときやかに新しい局面を拓くものと私は思う。もうすこしひろげていえば、いままでになかった明日の短歌をになう、有力な一人にかならずなるにちがいないと私は信ずる」と高く評価しております。同歌集は、現代歌人協会賞と埼玉文芸賞を受賞されました。 昭和61年には、個性賞を受賞、その後は、「機知の足首」「木鼠浄土」「ふたりごころ」と次々に歌集を刊行、平成4年には評論「森岡貞香の歌」、平成6年には、佐藤信弘と「詞法」を創刊。平成9年には、埼玉県を中心とした樹々をめぐっての珠玉のエッセイ集「樹木巡礼」等も出版しています。
最近は、NHK歌壇にゲスト出演されるなど、活動の幅を広げています。
(草弥・注)平成16年より「熾」月刊を創刊し主宰している。

この椅子をわたしが立つとそのあとへゆっくり空がかぶさってくる-----歌集「衣裳哲学」より

やぶこうじ、からたちばなの赤い実が鳥に食われてみたいと言えり---歌集「天の穴」より
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ネット上には高橋みずほの評論[沖ななも論] 撓う強さ というのがあるので覗いてみられるとよい。
手元には余り資料がないが、少しだけ彼女の歌を引いておく。

   ふかくものを思うというにあらねども冬くれば冬の身仕度をする 『機知の足首』

   駐車場と化したる原っぱいっぱいに冬の陽そそぐわれ横切るときも

   そばがらの枕にこめかみ押しあてて寝るときわれのこの夜の脈

   目に追う鳥の空の奥の雲の奥の夏のうしろを見極めむとす 『衣裳哲学』

   パラソルのちいさき影のあやうさやうつろう時をひとり歩めり

   壺を持つ反り身の女のあし首のめぐりの影はやわくあたらし

   上の葉が下の丸葉にかげをおとしともにゆれいるところを過ぎき 『木鼠浄土』

   ところどころ黄の花が咲き大粒の雨うけるとき首ふりている

   下から上、上から下へと楓(ふう)の木の幹にそいつつ視線をずらす

   吊革を握らんとせし右の腕ふいにむげんをさまようあわれ 『春の魚』

   藍深き空あり空に風のありここにこうしていること不思議

   雷と雨と風とが連れ立ちて駆け足に関東平野をめざす

   すきまからそよと夜風のおとずれて過去ばかりなる一生というは

   春の魚一気に裂けば緊密な生一式の臓器詰まれり

   正月はいずこに行かん何せんと先ある者の声ははれやか 「医家の『英雄待望論』」

   くされ声あまやかな声もつれつつ夜のとぱりに消えてゆきたり

   あきびんもそれはそれとて日を返す一言申したきとう風情

   袖振りあう他生の縁のありし人地方新聞の隅にほほえむ

   単語登録しておきしかば迢空も鬱金も言語の地位獲得す

   用もなく歩くを誰もあやしむな<散歩>は文化の証にあれば

   犬が行き猫が渡りてそのあとを枯葉と風が追えり舗道を

   図書館に八冊の本返したるのちのわが手は浮力をもてり

   左手に風あり右手に空(くう)があり何もあらずと言うにはあらず

   二十三センチ二枚の足裏に刻印すうちたたなわる風紋の上

   一所懸命も一生懸命もいのちがけ一所を守るが一生(ひとよ)の仕事

   脇町の医家の書棚にひっそりとくすみていたる『英雄待望論』



男の雛の黛 暈をもちたまふ・・・・・・後藤夜半
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     男(を)の雛の黛(まゆずみ)暈(かさ)をもちたまふ・・・・・・・・後藤夜半

雛祭は、もともとは旧暦の三月三日であったから、桃の花が麗しく咲き誇る季節であり、桃の花や白酒、菱餅などが供えられた。
九州の柳川では、この時期には「川くだり」の舟の中から見られるように家々が雛壇を飾るのが恒例である。
なお、男雛と女雛の置き位置が、京都と東京では逆であると言われる。調べられたい

IMG_1700桃切花

今は太陽暦の新暦で祭るから植物的には違和感がある。
つまり、太陽暦の今では野外ではまだ桃の花は咲いていない。だから写真②のように「切花」を飾る。
これらはビニールハウスを使った「促成栽培」である。
先年十二月に上海に行ったが、その同行者の中に大阪・河内の花卉栽培農家が居て、促成栽培の話を聞いた。

今でも女の子の居る家では「おひなさま」を飾るが、家の広さに制限があり、簡単な飾りで済ますところも多いらしい。
だから昔ほど、おひなさまを囲んでという光景は薄れたと言えようか。

雛祭の古い句としては

  とぼし灯の用意や雛の台所・・・・・・・・加賀千代女  

  雛祭る都はづれや桃の月・・・・・・・・与謝蕪村

  蝋燭のにほふ雛(ひひな)の雨夜かな・・・・・・・・加舎白雄

などが挙げられよう。
近代以後の句も歳時記にはたくさん載っているので、いくつか引いておく。
「雛」の字の読み方としては、前後の音数の関係から「ひな」と訓んだり「ひひな」と訓んだり区別する。

  いきいきとほそ目かがやく雛(ひひな)かな・・・・・・・・飯田蛇笏

  箱を出て初雛のまま照りたまふ・・・・・・・・渡辺水巴

  雛の唇(くち)紅ぬるるまま幾世経し・・・・・・・・山口青邨

  鎌倉の松風さむき雛かな・・・・・・・・久保田万太郎

  かんばせのひびのかなしき雛かな・・・・・・・・野村喜舟

  函を出てより添ふ雛の御契り・・・・・・・・杉田久女

  老いてこそなほなつかしや雛飾る・・・・・・・・及川貞

  雛の座を起つにも齢の骨鳴りて・・・・・・・・石川桂郎

  初雛の大き過ぎるを贈りけり・・・・・・・・草間時彦

  ぢかと見知らぬ乳房ひなまつり・・・・・・・・・鈴木明

  雛まつり薬缶も笛の音色して・・・・・・・・成田千空

  ひとり居の雛とぢこめて出勤す・・・・・・・・菖蒲あや

  木に彫つて寧楽七色の雛かな・・・・・・・・飴山實

  日の高きうちより点し雛の燭・・・・・・・・片山由美子

  灯すもの灯して寂か雛の間・・・・・・・・浜崎浜子

  雛壇を奥の一間に鮮魚店・・・・・・・・中間秀幸
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私の家では女の子ばかりだったから「お雛さま」を当然飾ったが、亡妻が実家から持ってきた木彫りのミニ雛を
玄関内の飾り戸棚の上に赤い毛氈を敷いて飾っていた。
素朴だが趣のあるものだった。今ではみな家を出てしまったので、出してはいない。





水仙に時計のねぢをきりきり巻く・・・・・細見綾子
narsissus3水仙

   水仙に時計のねぢをきりきり巻く・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子

「水仙」はいろいろの品種があるが、日本水仙は12月頃から咲きはじめて、春先まで息の長いものである。
しかし「水仙」も、そろそろ終わりだろう。
『山の井』に「霜枯れの草の中に、いさぎよく咲き出でたるを、菊より末の弟ともてはやし、雪の花に見まがひて」云々とあるのも、
簡潔にして要を得た水仙の紹介である。
ネット上では「細見綾子の世界」というサイトに彼女の紹介記事があるので、ご覧になるとよい。

narsissus黄水仙

写真②は黄水仙である。
わが家の庭の一角の日本水仙は今年は遅くて先日あたたかくなって咲きはじめたばかりである。
水仙の集団的な自生地としては、越前海岸や、淡路島南端の灘黒岩水仙郷などが有名で、観光バスを連ねて見物に大勢が来る。
水仙の球根は植えっぱなしでよく、変にいじくらない方がよい。数年に一度くらい掘りあげて植えなおしする程度でよい。
夏になると、地上部の葉は、すっかりなくなり、他の植物の陰に隠れてしまうが、寒くなると葉が地上に出てくる。
水仙は学名を Narissus というが、これはギリシア神話で美少年ナルシッサスが水面に映るわが姿に見とれ、そのまま花になってしまったのが水仙だという。
自己陶酔する人を「ナルシスト」というのも、これに由来する。

 水仙や白き障子のとも映り・・・・・・・・松尾芭蕉

 水仙に狐遊ぶや宵月夜・・・・・・・・与謝蕪村

のような古句があるが、この両句は、ともに水仙をじかに見て詠んだのではなく、「障子」を通して、障子に映る影からの印象を句にしている。
何分、水仙の咲く頃は厳寒だから、それも当然であろうか。

掲出の細見綾子の句は、水仙と時計のねぢをきりきり巻く、という異質のものを一句の中に統一するという、俳句でいう「二物衝撃」という詠み方の典型のような句である。

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以下、水仙の句を少し引いておく。

 水仙を剣のごとく活けし庵・・・・・・・・山口青邨

 海明り障子のうちの水仙花・・・・・・・・吉川英治

 水仙花紙に干しある餅あられ・・・・・・・・滝井孝作

 水仙や古鏡の如く花をかかぐ・・・・・・・・松本たかし

 水仙花三年病めども我等若し・・・・・・・・石田波郷

 水仙花眼にて安死を希はれ居り・・・・・・・・平畑静塔

 水仙の花のうしろの蕾かな・・・・・・・・星野立子

 水仙や捨てて嵩なす蟹の甲・・・・・・・・大島民郎

 水仙や老いては鶴のごと痩せたし・・・・・・・・猿橋統流子

 水仙花死に急ぐなと母の声・・・・・・・・古賀まり子

 牛追ふや磯水仙を手にしつつ・・・・・・・・山田孝子

 水仙やカンテラに似て灯はともり・・・・・・・・飴山実

 奪ひ得ぬ夫婦の恋や水仙花・・・・・・・・中村草田男

 水仙の吾を肯へり熟睡せむ・・・・・・・・石田波郷

 水仙のりりと真白し身のほとり・・・・・・・・橋本多佳子



つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が降り来る・・・・・安永蕗子
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 ↑ 花に春の雪

    つきぬけて虚しき空と思ふとき
      燃え殻のごとき雪が降り来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安永蕗子


安永蕗子は熊本の人。父の創刊した歌誌「椎の木」を主宰していたが2012年3月17日、膵臓癌により死去。92歳。
昭和31年「棕櫚の花」50首で第2回角川短歌賞を受賞。
この歌は、「つきぬけて」と表現されるのだから「虚しい」とでも言うような、ポワンと何もない空だと思っていたら、突然、空から「燃え殻」と言われるように、
一般には「牡丹雪」と呼ばれる大きな雪がはらはらと降ってきた、という意味であろうか。
自然のあり様をよく観察して歌にされている。昭和37年刊『魚愁』所載。
川野里子の「短歌とエッセイ」に安永蕗子第二歌集『草炎』に触れたものがあるので、ご覧になるとよい。

以下、安永の歌をひいておく。

   何ものの声到るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる

   かすかなるものに見をれど降る雪の当然にして虎杖(いたどり)を博つ

   飲食(をんじき)のいとまほのかに開く唇(くち)よ我が深淵も知らるる莫けむ

   紫の葡萄を運ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく

   街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる

   かへり来てたたみに坐る一塊の無明にとどく夜の光あり

   死を越ゆる方途たまはらざりしかば今の現つのくれなゐ椿

   文芸は書きてぞ卑し書かずして思ふ百語に揺れたつ黄菅(きすげ)

   西安と呼びてほのかに翳りくる四声悲泣の音あるらしも

   いづくにか水をついばむ嘴(はし)の音一尾呑まれてゐる水の音

   もろともに愛(を)しき命は満月に遠く礼(いや)して吾と吾が犬

   薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃
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「雪」も、いよいよ終わる季節である。
内村直也作詞、中田喜直作曲になる♪「雪の降るまちを」♪という歌があるが、私はこの歌が大好きで、
カラオケで歌えと言われれば、冬ならば、この歌を選ぶ。
このサイトはメロディーと歌詞と楽譜が出るので、ご覧いただきたい。

動画を出しておくが、削除されたらゴメンなさい。 ↓



日にちから風にちからや牡丹の芽・・・・・・大嶽青児
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     日にちから風にちからや牡丹の芽・・・・・・・・・・・・・・・・大嶽青児

牡丹の花は四月から六月にかけて咲くが、牡丹の芽は例年だと一月下旬から二月中旬には芽を出すようになる。
この頃には色々の木や草が芽吹いてくる。
牡丹はキンポウゲ科の落葉低木で中国原産だが、たいへん寒さには強く、晩冬、早春の今の時期に芽を覗かせる。
まだ辺りが枯れ一色の中に、その赤みがかった明るい芽は印象的であり、一種の潔さを感じさせる。

写真①のような芽は、三月頃に成長した芽らしい芽になったものである。

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今の時期では、まだ芽が出始めたもので、せいぜい写真②の程度である。↑

「起てば芍薬、坐れば牡丹・・・」という譬えがある通り、日本でも豪華な花とされるが、中国では古来、牡丹の花が国を代表するものとして珍重される。
写真①と写真②との間に

    折鶴のごとくたためる牡丹の芽・・・・・・・・・山口青邨

というような時期があるのであるが、写真③のような芽である。↓
35753092_v1291497006牡丹の芽

俳句の世界では、「春先の、その逞しい炎のような芽の勢い」を賞するのである。
いわば春の勢いの象徴とも言えよう。
以下、牡丹の芽を詠んだ句を引いて終わる。

 牡丹の芽或ひと日より伸びに伸ぶ・・・・・・・・菅裸馬

 ゆるがせにあるとは見えぬ牡丹の芽・・・・・・・・後藤夜半

 牡丹の芽ほぐるるは刻かけて待つ・・・・・・・・安住敦

 牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ・・・・・・・・水原秋桜子

 牡丹の芽一つ二つを雪つつむ・・・・・・・・山口青邨

 咲かねばならず待たねばならず牡丹の芽・・・・・・・・加藤楸邨

 牡丹の芽萌えむとすなりひたに見む・・・・・・・・加藤楸邨

 牡丹の芽すでに紅糸をほぐしたる・・・・・・・・安住敦

 ゆつくりと光が通る牡丹の芽・・・・・・・・能村登四郎

 うごくかと思ひ見てゐる牡丹の芽・・・・・・・・斎藤玄

 人ごゑの遠巻きにして牡丹の芽・・・・・・・・岸田稚魚

 牡丹の芽青ざめながらほぐれけり・・・・・・・・加藤三七子

 よろこびのきわまるときの牡丹の芽・・・・・・・・高橋沐石

 南面の仏の視座に牡丹の芽・・・・・・・・北沢瑞史

 牡丹の芽まだ火の匂ひなかりけり・・・・・・・・坂本俊子

 むきだしの力を見せて牡丹の芽・・・・・・・・青柳照葉

そして五月になれば ↓ のような見事な牡丹の花ざかりとなるのである。

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詩に痩せて二月渚をゆくはわたし・・・・・三橋鷹女
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       詩に痩せて二月渚をゆくはわたし・・・・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

もう二月も終わりに近づいてきたので「二月」「如月」「余寒」「冴え返る」などの季語に因む記事を急いで書くことにする。
二月とか如月とかを映像で示すのは、どうしてよいか判らない。
そこで写真には「冬の渚─砂浜に残る人の足跡」を掲出することにした。

掲出した三橋鷹女の句は、季語として二月という言葉はあるけれども、極めて観念的な句で、そこがまた、類句を超えていると思って出してみた。
「詩に痩せて」というところなど、今の私のことを言っているのではないか、とドキリとした。

 うすじろくのべたる小田の二月雪・・・・・・・・松村蒼石

 竹林の月の奥より二月来る・・・・・・・・飯田龍太

 雪原の靄に日が溶け二月尽・・・・・・・・相馬遷子

 枯れ伏せるもののひかりの二月かな・・・・・・・・遠藤悠紀

 山彦にも毀れるひかり二月の樹・・・・・・・・速水直子

 二月果つ虚空に鳩の銀の渦・・・・・・・・塚原岬

「二月」という季語を使った句を挙げてみた。
「如月」というのは陰暦の二月のことであるから、陽暦では二月末から三月に入るだろう。
「衣更着」の字を宛てるのは、寒さが戻って衣を更に着るからで、「きぬさらぎ」を誤って「きさらぎ」と使ったのだという。
したがって、この言葉は「余寒」のあることを念頭に置いて使うべきだという。

 きさらぎのふりつむ雪をまのあたり・・・・・・・・久保田万太郎

 如月や十字の墓も倶会一処(くゑいつしよ)・・・・・・・・川端茅舎

 きさらぎの水のほとりを時流れ・・・・・・・・・野見山朱鳥

 きさらぎやうしほのごとき街の音・・・・・・・・青木建

 きさらぎは薄闇を去る眼のごとし・・・・・・・・飯田龍太

二十四節気あるいは季語の上では「立春」以後は「春」である。
だから、立春以後、まだ残る寒さを「余寒」という。「冴え返る」という季語も、そういう時に使う。
「春寒」という季語と違うのは、力点が残る寒さの方にあるのである。

 鎌倉を驚かしたる余寒あり・・・・・・・・高浜虚子

 鯉こくや夜はまだ寒千曲川・・・・・・・・森澄雄

 余寒晴卵を割つて濁りなし・・・・・・・・青柳菁々

二月の終わりを「二月尽」という。この「尽」というのは毎月の終わりの日に使える。
もうすぐ三月だという季節感が盛られている季語である。

 ちらちらと空を梅ちり二月尽・・・・・・・・原石鼎

 束の間のかげろふ立てば二月尽・・・・・・・・森澄雄

 風邪の眼に雪嶺ゆらぐ二月尽・・・・・・・・相馬遷子

 よべの雨に家々ぬれて二月尽・・・・・・・・内田百閒



芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・木村草弥
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      芝点(しばたて)の茶事の華やぎ思ひをり
            梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

掲出の写真は野外で茶をたてる時に使う「野点(のだて)セット」というもので、この携帯用のものの中に茶をたてる最低必要なものが入っている。
「芝点」と称して芝に毛氈を敷いて茶会をやる時には、もう少し道具類を用意するのが普通である。
寒い風の吹く季節をやり過ごして、うららかな春になると、家の中ではなく、野外に出て「野点(のだて)」をやりたくなる。芝生の上でやるのが「芝点(しばたて)」である。
「芝点」では「旅箪笥」などを使って茶を点てるのが普通である。
その由来についてWEB上では、次のような記事が出ているので貼り付けておく。

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<旅箪笥(写真②)は桐木地・ケンドン扉・鉄金具の鍵付きの小棚で、小田原出陣の折、陣中にて茶を点てる為に、利休居士により創案されたものだそうです。
道具を中にしまって背中にしょって出掛けたのでしょうか。

旅箪笥を使って「芝点て」の稽古です。
準備は地板に水差しを、2枚ある棚板の下方に棗と茶碗を飾り、上方の棚の左端の切り込みに柄杓を掛け、柄杓の柄の元に蓋置を飾り、ケンドン扉を閉めます。
建水だけを持ち手前座に入り、扉を開け(この開け方もなめらかに静かに行います)道具を取り出しお茶を点てるのですが、棚板の1枚を抜き出し、
その上に棗・茶筅を置く「芝点て」は、花見時の野点の光景が目に浮かぶ様な気がします。その雰囲気を楽しむ為か旅箪笥はよく釣り釜とあわせられるそうです。
特に季節を選ぶ棚ではないと言われますが、その風情から早春~春に用いられることが多いそうです。風炉との取り合わせはないそうです。>
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上の記事にあるように、本来は野外で点てるのを、後世になると、「芝点」と称して家の中でお点前をするようになったものであり、
ここまで来ると、「先ず茶道の作法ありき」という気がして嫌である。
私が「芝点」というのは文字通りの芝生の上での野点である。
私の歌は、梅が咲き初めた如月の丘に居て、もうしばらくすると芝点の時期がやって来る、楽しみだなあ、という感慨である。

以下、掲出の歌につづく一連の歌を下に引いて、ご覧に入れる。

      野 点

   芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・木村草弥

   毛氈に揃ふ双膝肉づきて目に眩しかり春の野点は

   野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明(むみやう)のうつつ

   香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ




冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・木村草弥
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    冷えまさる如月の今宵
       「夜咄(よばなし)の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「夜咄の茶事」という11首からなる一連のはじめの歌である。
WebのHPでも自選に採っているので、ご覧いただける。

「夜咄の茶事」というのは伝統的な茶道の行事で、作法としても結構むつかしいものだが、私たちは、歌にも「寛ぐ」と書いたように略式にして楽しんだものである。
千利休などが茶道の基礎を固めはじめた頃は、茶道は、もっと融通無碍の自由なものであった。
それが代々宗匠の手を経るに従って、それらの形式が「教条主義」に陥ってしまった。
そういう茶道界の内実を知る私たちとしては、そういう縛りから自らを解放して、もっと自由な茶道をめざしたいと考えた。
だから先人にならって「番茶道」を提唱したりした。
利休語録として有名な言葉だが、

  「茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる」

というのが、ある。これは、まさに先に私が書いた利休の茶道の原点なのである。

この「夜咄の茶事」の一連は、私にとっても自信と愛着のあるものなので、ここに引用しておく。

     夜咄の茶事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ

   風化せる恭仁(くに)の古材は杉の戸に波をゑがけり旧(ふる)き泉川

   年ごとに替る干支の香合の数多くなり歳月つもる

   雑念を払ふしじまの風のむた雪虫ひとつ宙にかがやく
   
   釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ

   緑青のふきたる銅(あか)の水指にたたへる水はきさらぎの彩(いろ)

   恭仁京の宮の辺りに敷かれゐし塼(せん)もて風炉の敷瓦とす

   アユタヤのチアン王女を思はしむ鈍き光の南鐐(シヤム)の建水

   呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩餅(はなびらもち)はくれなゐの色

   釉薬の白くかかりて一碗はたつぷりと掌(て)に余りてをりぬ

   手捻りの稚拙のかたちほほ笑まし茶盌の銘は「亞土」とありて


春浅き耳洗ふとき音聴こゆ・・・・・林 桂
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      春浅き耳洗ふとき音聴こゆ・・・・・・・・・・・・・・・林 桂

「春浅き耳」を「洗う」という言葉の捉え方が何とも独特で、快い。

私の歌に

    さらさらとまたさらさらと崩れゆく砂の粒粒春をふふめり・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「風二月」という言葉があるように、二月も半ばを越すと季節は確実に春に向かって進んでゆく。
二十四節気に「雨水」というのがあり、先日二月十八日がそうだった。
雨水」とは、これからは一雨ごとに春に向かってゆくという意味の節気である。

私は子供の頃から内向的な性格で、砂や虫をじっと見ているというようなことが多かった。
もっと季節が進んで暖かくなると、家の縁側の下の砂地に、すり鉢形の「蟻地獄」があったりした。
これは「ウスバカゲロウ」の幼虫が、このすり鉢形の砂の斜面に蟻などの虫が差し掛かると、下から砂をさらさらと掻いて、すり鉢の底に引きずり込んでパクリと頂戴するという仕掛けである。
そんなのを、何するというのでもなく、また昆虫少年というのでもなく、ただ、じっと見つめていたものである。
ただ、今の季節では、そういう光景には早く、さらさらと崩れてゆく砂の粒粒に春の足音を私は、見たのであった。
「ふふむ」というのは「含む」の動詞の古い形である。
この歌のつづきに

   如月に幽(かす)かに水を欲るらむか祖(おや)ねむる地に雪うすらつむ・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、この歌のように二月には雪の降る日もあるが相対的に雨は少ない時期であり、
先祖の眠る墓地に、うっすらと雪が積もる様が、祖先が水を欲しがっているかのようである、という歌である。
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掲出した写真は鳥取砂丘の砂浜のもの。かすかに「風紋」が見える。

寒さの中にも「春」が動いている様子を表す句を引いてみたい。

 春立ちてまだ九日の野山かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ・・・・・・・・・・石田波郷

 ブローニュに怒涛のごとく春来たる・・・・・・・・・・本井英

 渦巻ける髭と春くる郵便夫・・・・・・・・・・高島征夫

 立春の樹幹の水を聴きにゆく・・・・・・・・・・山本千舟

 立春へ笛吹きケトルのファンファーレ・・・・・・・・・・北川逸子

 白き皿に絵の具を溶けば春浅し・・・・・・・・・・夏目漱石

 空も星もさみどり月夜春めきぬ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 春めくと百済観音すくと立ち・・・・・・・・・・和田悟朗

 バラ窓の真中に聖母春きざす・・・・・・・・・・福谷俊子

 春めくや波は光を巻きこみて・・・・・・・・・・飯尾婦美代

 兵馬俑軍団無言春寒し・・・・・・・・・・磯直道

 蓋開けて電池直列春寒し・・・・・・・・・・奥坂まや

 春めくや足の裏なる歩き神・・・・・・・・・・泉紫像

 うりずんのたてがみ青くあおく梳く・・・・・・・・・・岸本マチ子

 うりずん南風がじゆまる太き根を垂るる・・・・・・・・・・三原清暁

 美しき奈良の菓子より春兆す・・・・・・・・・・殿村莵絲子

 
地の意思を空に刻みて冬木立つ・・・・・・・馬場駿吉
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      地の意思を空に刻みて冬木立つ・・・・・・・・・・・・・・馬場駿吉

この馬場駿吉の句をコラージュとして借用して、私は
   
   <地の意思を空に刻みて冬木立つ>男ごころと言ふべし 冬木・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を作ったことがある。
馬場は名古屋市立大学病院の教授で医師であるが、前衛的な俳句作者としても著名な人である。
馬場の句は「地の意思」を「空に刻み」という立体的な句作りが独特である。
このような他人の作品を、歌なり句なり詩の中などに取り込むのを「コラージュ」という。

私の歌も、それを採用している。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、「阿音の形而上学」という13首からなる一連の中の一首である。
冬のきびしい空気の中に立つ冬木に「男ごころ」を読み取ったというのである。

「冬木」という冬の季語には、冬の間の、息をひそめたような木々を表わすものがあるのである。
以下、少し冬木の句を引いて終りたい。

 大空にのび傾ける冬木かな・・・・・・・・高浜虚子

 冬木中一本道を通りけり・・・・・・・・臼田亞浪

 夢に見れば死もなつかしや冬木風・・・・・・・・富田木歩

 つなぎやれば馬も冬木のしづけさに・・・・・・・・大野林火

 その冬木誰も瞶めては去りぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 わが凭れる冬木ぞ空の真中指す・・・・・・・・八木絵馬

 みちのくの夕日あまねき冬木かな・・・・・・・・五所平之助

 猫下りて次第にくらくなる冬木・・・・・・・・佐藤鬼房

 冬木伐り倒すを他の樹が囲む・・・・・・・・武藤不二彦

 大冬木鹿の瞳何にうるほふや・・・・・・・・松野静子

 冬木の手剪られ切り口鮮しき・・・・・・・・稲垣きくの


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