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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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みぞるるとたちまち暗し恐山・・・五所平之助
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──季節の一句鑑賞──冬の風雨3態──

       ■みぞるるとたちまち暗し恐山・・・・・・・・・・・・・・・・・五所平之助

「霙」ミゾレとは、雨と雪が同時にまざり降るのをいう。冬のはじめや春のはじめに降ることが多い。
ちょっとした気温の変化で、雨になったり、雪になったりするし、同じ町の山手は雪なのに、下町ではミゾレのこともある。
掲出の句は映画監督の五所平之助の作品で、私も初めて目にするものである。
私も一度だけ、ここ陸奥(みちのく)の下北半島の「恐山」(おそれざん)には行ったことがある。
ここの祭事のときでもない限り、ただの茫漠とした荒地という感じである。ただ硫黄の匂いが鼻をつき、噴火口なのだと実感する。
霊よせの「いたこ」などが集う時期だけが、おどろおどろしい雰囲気になるのだと思う。
写真①はその風景のひとつ。

「霙」という名詞に対して、この句では「みぞるる」という「動詞」になっている。

 おもひ見るや我屍にふるみぞれ・・・・・・・・原石鼎

 霙るるや灯(ともし)華やかなればなほ・・・・・・・・臼田亜浪

 霙るると告ぐる下足を貰ひ出づ・・・・・・・・中村汀女

 みぞれ雪涙にかぎりありにけり・・・・・・・・橋本多佳子

 霙るるや小蟹の味のこまかさに・・・・・・・・松本たかし

 夕霙みんな焦土をかへるなり・・・・・・・・下山槐太

 みちのくの上田下田のみぞれけり・・・・・・・・角川源義

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       ■樹には樹の哀しみのありもがり笛・・・・・・・・・・・・木下夕爾

冬、風が吹いて、垣根の竹や竿竹などに当たるとき発するひゅーひゅーという音のことを「虎落笛」(もがりぶえ)という。
「もがる」というのは「反抗する」「さからう」「我を張る」「だだをこねる」などの意味を表す言葉で、竿や棒にあたる風が笛のように立てる音である。

 虎落笛子供遊べる声消えて・・・・・・・・高浜虚子

 日輪の月より白し虎落笛・・・・・・・・川端茅舎

 胸郭の裡を想へば虎落笛・・・・・・・・日野草城

 みちのべの豌豆の手も虎落笛・・・・・・・・阿波野青畝

 虎落笛吉祥天女離れざる・・・・・・・・橋本多佳子

 余生のみ永かりし人よ虎落笛・・・・・・・・中村草田男

 虎落笛叫びて海に出で去れり・・・・・・・・山口誓子

 虎落笛ひとふしはわが肺鳴れり・・・・・・・・大野林火

 虎落笛こぼるるばかり星乾き・・・・・・・・鷹羽狩行

 灯火の揺れとどまらず虎落笛・・・・・・・・松本たかし

 来ずなりしは去りゆく友か虎落笛・・・・・・・・大野林火

 牛が仔を生みしゆふべの虎落笛・・・・・・・・百合山羽公

 今日と明日の折り目にふかきもがり笛・・・・・・・・永作火童

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       ■北風やイエスの言葉つきまとふ・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

冬の季節風は北風で、強く、かつ寒い。シベリア高気圧が発達して、アリューシャン大低気圧に向かって吹く風だと今までは言われてきたが、
今では地球規模の気圧変動が北半球では「偏西風」に乗ってやって来るのだという。
昨年の冬のはじめにヨーロッパに寒波をもたらしたものが、どれだけかの日時を経て、日本に到達したのが、昨年暮からの寒波だという。
おまけに、この偏西風が大きく南に蛇行して寒気を南まで吹き降ろしたものだという。
その偏西風の蛇行の結果、アメリカでは中西部に続いて、北東部でも激しい豪雪に見舞われて大変である。
とは言え、日本海側は吹雪、太平洋側は空っ風というのは変わりないことである。

「北風」と書いて、単に「きた」と読むこともある。
この句で詠まれている「イエスの言葉」というのは、どんな言葉だろうか、読者の方、お教え願いたい。

 北風(きた)寒しだまつて歩くばかりなり・・・・・・・・高浜虚子

 北風にあらがふことを敢へてせじ・・・・・・・・富安風生

 くらがりやくらがり越ゆる北つむじ・・・・・・・・加藤楸邨

 北風(きた)の丘坂なりにわが庭となる・・・・・・・・加藤楸邨

 北風や青空ながら暮れはてて・・・・・・・・芝不器男

 耳傾く北風より遠き物音に・・・・・・・・大野林火

 北風荒るる夜のそら耳に子泣くこゑ・・・・・・・・森川暁水

 北風鳴れり虚しき闇につきあたり・・・・・・・・油布五線

 北風の砂丘を指す馬ならば嘶かむ・・・・・・・・金子無患子


温石の抱き古びてぞ光りける・・・飯田蛇笏
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──季節の一句鑑賞──冬の暖房3題──

      ■温石(をんじゃく)の抱き古びてぞ光りける・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

温石オンジャクとは昔なつかしいものである。
写真①は「蛇紋石」を細工して磨き上げ、いわゆる「温石」用にしたもの。
石を熱湯で暖め、布で包んで身体にあてて暖めたのである。この句の作者は山梨県の昔の人であるから、この頃には普通に見られたものであろうか。
歳時記を見ると、長野県高遠辺で採れる黒い石─その名も温石石も広く用いられたという。また石の代りに「こんにゃく」なども茹でて使われたという。
これを器具化したものが「懐炉」であり、これにも色々のものがあった。
私の母も懐炉のことを「おんじゃく」と呼んでいた。これも「温石」の本来のものの呼び名が変化して使われていたものである。

 草庵に温石の暖唯一つ・・・・・・・・高浜虚子

 温石のただ石ころとさめにけり・・・・・・・・野村喜舟

 温石や衾に母のかをりして・・・・・・・・小林康治

 温石の冷えて重しや坐薬了ふ・・・・・・・・木附沢麦青

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       ■みたくなき夢ばかりみる湯婆(たんぽ)かな・・・・・・・・久保田万太郎

「ユタンポ」は今でも使われているもので、ブリキ製、プラスチック製、ゴム製などさまざまある「保温器具」である。 掲出したのは「銅」製で高価なもの。
中に入れるのは熱湯だから、それ以上には過熱しないから、安全で、むっくりした温さのものであった。
『和漢三才図会』には「湯婆 太牟保(たむぽ)。唐音か。按ずるに湯婆は、銅をもつてこれを作る。大きさ、枕のごとくして、小さき口あり。湯を盛りて褥傍に置き、もつて腰脚を暖む。よりて婆(うば)の名を得たり。竹夫人とこれと、もつて寒暑懸隔の重器たり」と書かれている。寒さの折の身辺の必要品であったことを面白く記している。
折しも厳しい寒さの今冬とあって、しかも節電も言われて「ユタンポ」が見直されて、よく売れているらしい。
私は二月七日生まれだが、この年は大変寒い年で、私は病弱でもあったから、「陶」製の、かまぼこ型のユタンポを体の両脇に二個抱えて寝かされていたらしい。
上部に穴があって、お湯を注ぐ式のものである。 母から、よく聞かされた。

 碧梧桐のわれをいたはる湯婆かな・・・・・・・・正岡子規

 湯婆の一温何にたとふべき・・・・・・・・高浜虚子

 寂寞と湯婆に足をそろへけり・・・・・・・・渡辺水巴

 老ぼれて子のごとく抱くたんぽかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 湯婆や忘じてとほき医師の業・・・・・・・・水原秋桜子

 湯婆抱く余生といふは侘しくて・・・・・・・・栗生純夫

 ゆたんぽに足あたたかく悲しかり・・・・・・・・三浦ふみ

I01091817122648手あぶり

       ■手あぶりや父が遺せる手のぬくみ・・・・・・・・・・・北さとり

「手焙」とは小さな個人用の火鉢で、手をあぶるのに使うが、膝に乗せるほどのものもある。陶器、金属などで作る。形も色々である。
蓋がついて穴の開いているもの、つるや紐をつけて持ち運びできるようにしたもの、籐のかごをかぶせたものなどある。
数人から十数人の宴席などでは、その人数分の「手あぶり火鉢」を各人の席の横に配置する。
昔は建物や部屋全体を暖めるということはしなかったから、「火鉢」というのが唯一の暖房器具だった。「手炉」とも言う。
今では、こういう小さな火鉢は室内装飾用に売られていて、一個数千円からある。

 ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな・・・・・・・・小林一茶

 手あぷりに僧の位の紋所・・・・・・・・高浜虚子

 かの巫女の手焙の手を恋ひわたる・・・・・・・・山口誓子

 彫金の花鳥ぬくもる手炉たまふ・・・・・・・・皆吉爽雨

 かざす手の珠美しや塗火鉢・・・・・・・・杉田久女

 手あぶりや雪山くらき線となりぬ・・・・・・・・大野林火

 縁談や手焙の灰うつくしく・・・・・・・・・萩原記代

 手炉の火も消えぬお経もここらにて・・・・・・・・森白象





瀬田川の霧も立木の観世音峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌
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   瀬田川の霧も立木の観世音
     峰吹く風に晴るる身の憂さ・・・・・・・・新西国三十三ケ所霊場第20番ご詠歌


立木観音は京都府と滋賀県の府県境─厳密に言うと大津市域にある。
瀬田川洗堰(南郷洗堰)から瀬田川沿いに南に2キロほど下がると、右手に立木観音(正式名は安養寺=浄土宗)の登り口が見えてくる。

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鹿跳(ししとび)渓谷に向かって聳える立木山、その斜面の急な石段を約700段ほど登りつめると、小さいながら落ち着いた雰囲気の立木観音の境内が広がる。
700段の階段というと、四国の金毘羅さんの石段の数より多いと言う。私は金毘羅さんは知らない。 とにかく疲れた記憶がある。
ここで立木観音の由来について。
石段途中に説明文が立っており、そこに詳しく書いてある。
弘仁6年(815年)、諸国を修行中の弘法大師が、瀬田川のほとりに立ち寄ったところ、対岸の立木山に光を放つ「霊木」があるのが目にとまった。
しかし急な流れの瀬田川を渡りあぐねていると、突然白鹿が現われ、その背に弘法大師を乗せて、霊木の前まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、虚空の中に消え去った。

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 ↑境内にある「白鹿に乗る弘法大師」の像。

この奇蹟に感じ入った弘法大師が、霊木に観世音菩薩像を刻んだのが、立木観音の始まりという。
弘法大師が観音さまを刻んだのが、ちょうど42歳の厄年ということで、古くから厄除け観音として親しまれているという。
これらの伝承は、現在も「地名」などに残っており、少し下流に架かる橋は「鹿跳橋」(ししとびばし)と呼ばれる。この橋の辺りから下流は「宇治川」と名前が変わる。
新年に厄除けの初詣に参詣する人が多く、松の内は登りも下りも混雑する。

前年にいただいた「お札」を返納し、ご祈祷をしてもらい、新しいお札をいただいて帰る。
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 ↑ 本堂の裏側

ここから急な狭い石段を二百メートルほど行くと「奥の院」がある。

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↑ 奥の院

掲出した和歌だが、ここは新西国三十三ケ所霊場の第20番にあたり、このお寺を詠んだものである。
「霧も立木の」という言葉は「懸けことば」になっており、「霧も立ち」の意味を懸けてあるのである。
西国ご詠歌にも同様の趣向の歌が多い。
ついでに言うと、「西国三十三ケ所霊場」の寺は天台宗、真言宗が殆どである。
それらに含まれない他宗派の寺を集めて「新西国三十三ケ所霊場」が発願されたものと思われる。


霜柱踏めばくづるる犯したり・・・油布五線
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       霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・・・・・・・・油布五線

この句は、霜柱を踏むと、ざくりと崩れる様子を、人間が「犯した」と表現して秀逸である。
こういうのを「擬人化」した描法というが、きわめて的確な表現である。

「霜柱」は、寒さがきびしい冬でないと見られない。
土の中に含まれる水分が凍って、毛細管現象によって、その下にある水分が次々と供給されて氷の柱が成長し、厚さ数センチから10センチ以上にもなるのである。
霜柱は、土があるところなら、どこでも発生するものではない。
私の子供の頃には、今よりも寒さが厳しかったので、学校へ行く道すがらの脇の畑などでも、よく見かけて、わき道に逸れてザクザクと踏んでみたものである。
総体として「暖冬化」の傾向が進んでいるので、霜柱は段々見られなくなってきた。

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写真②は発生した霜柱がカール(反った)したものである。
関東ローム層の土粒の大きさが、霜柱の発生に丁度よいそうである。
岩波書店刊の「中谷宇吉郎全集」第2巻に、自由学園で行われた「霜柱の研究」について書かれたものが載っている。
それによると紅殻の粉や、澱粉類、ガラスを砕いた粉などを用いた霜柱の発生実験をしているが、赤土だけから霜柱が発生したそうである。
その赤土も、粒の粗いもの、細かいものに分けてやったところ、粒が粗くても、細かくても霜柱は発生しなかったという。
なお、中谷宇吉郎は、世界で初めて雪の人工結晶を作った学者で、これらの文章は戦前に書かれたものである。文筆上では夏目漱石に私淑した。
雪のエッセイなどは私の子供の頃に読んだ記憶がある。

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写真③は「シモバシラ」という名の植物である。
この草はしそ科の植物で学名を keiskea japonica という。これは明治時代の日本の本草学者の伊藤圭介氏に因むものである。
秋10月頃に枝の上部の葉の脇に片側だけにズラッと白い花を咲かせる。
冬になると、枯れた茎の根元に霜柱のような氷の結晶が出来ることから、この名になったという。
冬に枯れてもなお水を吸い上げるが、茎がその圧力に耐えきれずに破裂してしまい、水が外にブワッと出て凍る、という。

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植物のシモバシラの凍結した写真を見つけたので④に載せておく。
写真はリンク ↑ に貼ったサイトから拝借したものである。気象条件によって「氷」の形も、いろいろあるらしい。

以下、霜柱を詠んだ句を引いて終る。

 掃きすてし今朝のほこりや霜柱・・・・・・・・高浜虚子

 霜柱ここ櫛の歯の欠けにけり・・・・・・・・川端茅舎

 落残る赤き木の実や霜柱・・・・・・・・永井荷風

 霜柱しらさぎ空に群るるなり・・・・・・・・久保田万太郎

 飛石の高さになりぬ霜柱・・・・・・・・上川井梨葉

 霜柱枕辺ちかく立ちて覚む・・・・・・・・山口誓子

 霜柱俳句は切字響きけり・・・・・・・・石田波郷

 霜柱倒れつつあり幽かなり・・・・・・・・松本たかし

 霜柱顔ふるるまで見て佳しや・・・・・・・・橋本多佳子

 霜柱傷つきしもの青が冴え・・・・・・・・加藤楸邨

 霜柱兄の欠けたる地に光る・・・・・・・・西東三鬼

 霜柱歓喜のごとく倒れゆく・・・・・・・・野見山朱鳥

 亡き友は男ばかりや霜柱・・・・・・・・秋元不死男

 霜柱深き嘆きの声に溶け・・・・・・・・野見山朱鳥

 霜柱踏めばくづるる犯したり・・・・・・・・油布五線

 霜柱踏み火口湖の深さ問ふ・・・・・・・・横山房子




大寒の茜消ゆるに間ありけり・・・河合未光
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     大寒の茜消ゆるに間ありけり・・・・・・・・・・・・・・・河合未光

今日1月20日は二十四節気の「大寒」である。寒さの最もきびしい時である。
とは言え、そろそろ梅、沈丁花、水仙、椿などが咲きはじめる。
もちろん日本列島は南北に長いから、場所によっては遅速があるのは当然である。
私の記事は、住んでいる「京都」を基準としているので了承されたい。

この頃の寒さを形容して、『年浪草』には、「栗烈として極まれり」という。
そのような峻烈な寒さの中で、寒さに強い花から咲きはじめて、春が用意されてゆく。
日本人の感性というのは、寒さに対しても、さまざまの表現を見せる。

「寒」に関していうと、寒に入って4日目が「寒四郎」、9日目を「寒九」と表現する。
北陸では「寒の入り」の日に「あずき餅」を食べ、これを「寒固」(かんがため)と称するらしい。
これは寒の入りに小豆を食えば、寒気にあたらず、という験(げん)かつぎらしい。

ところが今年は異常な暖かさで、雪も少なくスキー場も雪不足で泣く始末である。
だから「寒」という寒さの実感がない異常な冬と言えるだろう。敢えて、書いておく。
 

 うす壁にづんづと寒が入りにけり・・・・・・・・小林一茶

 宵過ぎや柱みりみり寒が入る・・・・・・・・小林一茶

のような句は、寒の感じをよく捉えている。
大陸高気圧が強いか弱いかによって、寒さや雪の程度が決まる。
この寒さの最もきびしい30日間の中に、小寒、大寒と呼び名を定めて、心の身構えをしたわけである。
以下、寒、大寒などの入った句を引いて終る。

 禽獣とゐて魂なごむ寒日和・・・・・・・・西島麦南

 背にひたと一枚の寒負ふごとし・・・・・・・・原子公平

 寒きびし一刀彫のごとくなり・・・・・・・・鈴木青園

 胎動を夫と分つや寒ゆるむ・・・・・・・・上田紀代

寒三日月凄しといひて窓を閉づ・・・・・・・・藤田烏兎

 松籟も寒の谺も返し来よ・・・・・・・・小林康治

 大寒の埃の如く人死ぬる・・・・・・・・高浜虚子

 大寒や転びて諸手つく悲しさ・・・・・・・・西東三鬼

 大寒や老農死して指逞し・・・・・・・・相馬遷子

 大寒の一戸もかくれなき故郷・・・・・・・・飯田龍太

 大寒の牛や牽かれて動き出す・・・・・・・・谷野予志

 薄日さし荒野荒海大寒なり・・・・・・・・福田蓼汀

 大寒の力いつぱい落つる日よ・・・・・・・・下村非文

 大寒ののつしのつしと来る如く・・・・・・・・中嶋音路

 大寒の堆肥よく寝てゐることよ・・・・・・・・松井松花

 大寒の鶏目を張つて摑まるる・・・・・・・・芦内くに



みちのくの町はいぶせき氷柱かな・・・山口青邨
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   みちのくの町はいぶせき氷柱(つらら)かな・・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

もうすぐ「大寒」であり、一年中で一番寒い時期である。
今年は暖冬で、「寒中」とも思えない日々が続くが、今日は、そんな寒さに因んで、「氷」「氷柱つらら」「氷湖」などについて書きたい。

掲出句については、少し解説が必要だろう。
青邨の句には「いぶせき」という、あまりなじみのない表現がある。
古語辞典を引くと「いぶせし」という「ク活用の形容詞」は
①気が晴れない。うっとうしい。②様子がわからず気がかりだ。気が休まらない。③不快である。の意味だと書かれている。
言葉の意味は、①②③のように挙げられているが、一番元の意味は①であり、番号が増える順に派生した用法ということになる。
この句の場合の「いぶせき」というのは、「いぶせし」の連体形ということだが、意味としては、②の「気が休まらない」辺りがぴったり来るだろうか。

われわれ暖地に住むものは、雪が何メートルも積もる映像を見ては、「こんなところに住んでみたい」などと簡単に言うが、
そんな豪雪地帯に毎日居住する人にとっては、雪との格闘の毎日であり、深刻な「気が休まらない」「鬱陶しい」ことなのである。
話は飛ぶが、台湾の人は亜熱帯であるから、平生に雪は知らないわけで、台湾からの観光客には北海道の冬は人気があるらしい。
というのは、先に私が書いたことと同じ心理状態ということになる。地元の悩みも知らずに、珍しいもの見たさ、ということである。

 櫓の声波を打つて腸(はらわた)氷る夜や涙・・・・・・・・松尾芭蕉

 氷上や雲茜して暮れまどふ・・・・・・・・原石鼎

 蝶墜ちて大音響の結氷期・・・・・・・・富沢赤黄男

これらの句は「凍てる」風物を単に写生するのではなく、鋭く「心象」に迫るものがある。
三番目の赤黄男の句は「前衛」俳句と呼ばれるものである。
以下、「つらら」を詠んだ句を引いて終る。

 遠き家の氷柱落ちたる光かな・・・・・・・・高浜年尾

 一塊の軒の雪より長つらら・・・・・・・・高野素十

 楯をなす大き氷柱も飛騨山家・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 絶壁につららは淵の色をなす・・・・・・・・松本たかし

 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな・・・・・・・・中村汀女

 月光のつらら折り持ち生き延びる・・・・・・・・西東三鬼

 胃が痛むきりきり垂れて崖の氷柱・・・・・・・・秋元不死男

 嫁ぐ日来て涙もろきは母氷柱・・・・・・・・・中尾寿美子

 ロシア見ゆ洋酒につらら折り入れて・・・・・・・・平井さち子

 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ・・・・・・・・鷹羽狩行



火事を噴きあげては町の密集す・・・百合山羽公
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   火事を噴きあげては町の密集す・・・・・・・・・・・・・・百合山羽公

「火事」というのは「冬」の季語である。そう言われると、冬には火事が多いから、なるほど、と納得する。
一年中、火事はどこでも起こっているし、化学的な火災もあるが、俳句の題材になるのは、何と言っても「人家」の火事だろう。
近年は民家の火事が多い。暖房器具の不始末か、焼け死ぬ人も多発しており、消防が広報の車を出して注意を呼びかけている昨今である。
逃げ遅れて死ぬのは老人と子供が多い。可哀そうなことである。

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私の住む所には、今は常設の「消防署」があるが、昔の村のときには、そんなものはなく、 「消防団」が唯一のものであった。
僅かな金額の手当ては出たが、基本的にはボランティアであったが、土着の住民にとっては青年期に達すると半ば強制的に入らざるを得ない性質のものだった。
少年期を脱したばかりの頃は「前髪」と称する使い走りをさせられるのであった。農村青年にとっては、一種の「通過儀礼」のようなものであった。
私は学校に行っていたので、そういう「前髪」的なことは経験したことがない。
私が家に帰って「消防団」に入ると、すぐ役員をさせられた。二三年後には旧村単位の「分団」長をさせられた。
私たちの「市」(当時は「町」であった)には分団が四つあったのである。私の下には副分団長以下、支部長四人、総勢約100名が居たのだった。
私の任期は一年だけで助かった。火事は任期中に一度あっただけだが、この仕事は火事だけではなく、水害などにも狩り出された。
治安を保つ一面も担わされていたのだった。
分団長の上には本団の団長、副団長が居た。
昔は田舎では、それらの役に就くことは名誉なこととされていたから、分団長クラスから上は、もっぱら飲み食いや遊興が主な仕事で、30代の血気盛んな頃であるから、
よく飲み歩いたものである。
その頃から私は酒には弱く、付き合いには閉口したが、逃げるわけにはゆかず、今から考えると、よく勤めたものだと思う。

以下、歳時記に載る「火事」の句を引いて終る。

 火事鎮むゆらめきありて鼻のさき・・・・・・・・飯田蛇笏

 火事見舞あとからあととふえにけり・・・・・・・・久保田万太郎

 粥腹はうつつの夢によべの火事・・・・・・・・石川桂郎

 火事といへば神田といへば大火かな・・・・・・・・岡本松浜

 寄生木やしづかに移る火事の雲・・・・・・・・水原秋桜子

 遠き火事哄笑せしが今日黒し・・・・・・・・西東三鬼

 火事を見る脳裡に別の声あげて・・・・・・・・加藤楸邨

 焼跡の夜火事の雲や押しこぞり・・・・・・・・石田波郷

 泣く人の連れ去られゐし火事明り・・・・・・・・中村汀女

 火事遠し白紙に音のこんもりと・・・・・・・・飯田龍太

 暗黒や関東平野に火事一つ・・・・・・・・金子兜太

 また青き夜天にかへる火事の天・・・・・・・・谷野予志



鰤網に縋る蟹あり夜明けつつ・・・吉沢卯一
352鰤網漁

    鰤網に縋る蟹あり夜明けつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・吉沢卯一

鰤(ぶり)のおいしい季節になってきた。
鰤の産地としては「富山」湾が有名である。「鰤網」という大きな定置網で捕えるのである。
鰤は「出世」魚と言われて、関西ではツバス→ハマチ→メジロと大きくなってブリとなる。
念のために書いておくが、関東では呼び名が異なり、同じ時期のものが、ワカシ→イナダ→ワラサからブリとなるという。
掲出写真は「鰤網漁」の体験催しのものである。玄人の漁師は救命胴衣などはつけない。

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ブリは、ぶり科の魚で、紡錘形の体形、青緑の体色で、体の中央に黄色い線が走っている。
秋から春にかけて、産卵のために陸地沿いに回遊する。
先に書いたように成長して「出世」し、90センチ以上になって、はじめてブリと呼ぶのである。
寒中に獲るので「寒鰤」と称する。漁期にあたる12月、1月に鳴る雷を「鰤起し」と呼ぶ。
『本朝食鑑』に「およそ冬より春に至るまで、これを賞す。夏時たまたまこれあるといへども、用ふるに足らず。かつて聞く、鰤連行して東北の洋より西南の海をめぐりて、丹後の海上に至るころ、魚肥え脂多くして味はなはだ甘美なり。ゆゑに丹後の産をもつて上品となす」とある。
当時は都が京都であったから、最寄りの海というと丹後ということになるので、ここの産が珍重されたのであろう。

鰤の料理としては、刺身のほかに照り焼き、ブリ大根、鰤の「沖すき」鍋なども季節の味覚である。

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鰤ないしは鰤網を詠んだ句は多くはないが、それを引いて終る。

 鰤網を越す大浪の見えにけり・・・・・・・・前田普羅

 鰤網を敷く海くらし石蕗(つは)の花・・・・・・・・水原秋桜子

 鰤敷や隣鰤場も指呼の中・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 血潮濃き水にしなほも鰤洗ふ・・・・・・・・山口誓子

 鰤が人より美しかりき暮の町・・・・・・・・加藤楸邨

 二三言言ひて寒鰤置いてゆく・・・・・・・・能村登四郎

 大き手もて鰤つかみ佇つ老いし漁婦・・・・・・・・柴田白葉女

 青潮のもまれ躍れり鰤と見ゆ・・・・・・・・出羽里石

 鰤と蜜柑夕日どやどや店に入る・・・・・・・・小原俊一

 虹の脚怒涛にささり鰤湧く湾・・・・・・・・楠美葩緒

 鰤来るや大雪止まぬ越の岬・・・・・・・・羽田岳水

 鰤網に月夜の汐のながる見ゆ・・・・・・・・原柯城

 鰤敷や海荒れぬ日は山荒るる・・・・・・・・西本一都

 
古暦雑用帖にまぎれけり・・・正岡子規
暦

     古暦雑用帖にまぎれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規

昨日は1月15日いわゆる「小正月」であった。7日までを「松の内」というが、昔は「小正月」までが、お正月だった。
戦後の一時期、この日が「成人の日」となったことがあるが、近年では「成人の日」は移動休日になって、「第二月曜日」が、この日となって、何だか締まりのない休日になってしまった。
私の地方では、1月14日の夜に町内の者が寄って「日待講」を催し、小正月の朝を迎え、当日の朝に「注連飾り」や「古暦」、神社や寺院の「お札」などを持ち寄って
「とんど」という焚火を焚いて、それらを燃やしたものである。
「小正月」には「小豆かゆ」を炊いて、その中に鏡餅の固くなったものを刃物で細かく切って食べたものである。

掲出した子規の句は、無用になった昨年の「暦」が、うち捨てられて粗末に扱われる様を、うまく描いている。

    古暦吹かるるや三輪の町はづれ・・・・・・・・与謝蕪村

この蕪村の古句は大和の三輪明神の町はずれの風景を心象ふかく描出している。三輪山を御神体とする「三輪」ならではの心象である。他の町の名には置き換えがたいものである。

    一日もおろそかならず古暦・・・・・・・・高浜虚子

この句も「古暦」への、なみなみならぬ愛着を盛っている。今は「古暦」になったとは言え、旧年中は、さんざお世話になった暦なのである。
現代は、こういう「暦」などにも世話になることはないが、昔は何事をするにも「暦」にはお世話になったのである。農事なども旧暦でする方がぴったり来たものらしい。

    大安の日を余しけり古暦・・・・・・・高浜虚子

この句は、まだ正月前の暮のことであろう。年内に、まだある「大安」の日のことが気になって「古暦」を捨てられずに居る、という意味であろうか。

    古暦日々の消えゆくたしかさに・・・・・・・・井沢正江

光陰矢のごとし、というが「日々の消えゆくたしかさ」という把握の仕方が秀逸である。

    古暦ひとに或る日といふ言葉・・・・・・・・長谷川照子

歳月というものは水の流れのようで、堰き止められるものではないが、人は誰しも「或る日」というのを記憶に留めたがるものである。そんな心象に迫るものとして非凡である。

    古暦焚く束の間の焔なりけり・・・・・・・・菊地久城

この句も「古暦」に多分の愛着を示して、それを燃やした後になっても「束の間の焔」というところに未練を残していて忘れがたい。
みなさん、いかがだろうか。


オモシロク狂ツテ舞ヘバ/身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ/声ハ大気ヲツン裂イテ/スガタハ空ノ青ニ染ム・・・大岡信
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       閑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     ハツ春ノ
     空ニタチマチ湧キイデテ
     羽音モタテズ狂ヒタツ
     雪サナガラノ思ヒカナ

     オモシロク狂ツテ舞ヘバ
     身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ
     声ハ大気ヲツン裂イテ
     スガタハ空ノ青ニ染ム

     閑閑タリ
     ヒトリ遊ビノ
     小宇宙

     巌ニ星モ エイ
     咲カシテミシヨウ
----------------------------------------------------------------------
この詩は学習研究社1985年12月刊の「うたの歳時記」─冬のうた、に載るものである。
5、7という日本の伝統的な音数律に則った詩作りになっている。
日本の現代詩作家も、こういう日本古来の韻律に時には立ち返ることもあるのである。
その大岡氏も先年亡くなられた。 私は大岡氏の作品が好きで、このブログで何度も引用してきた。
感謝の念と共に、ご冥福をお祈りしたい。 合掌。

掲出した写真は北海道の鶴居村で舞う鶴の姿である。
鶴は春の繁殖期を前にして、もう番いの間で愛を確かめる愛技ともいえる「舞い」をはじめるのである。
涙ぐましい自然の摂理とも言えようか。
今日は「小正月」というハレの日であるから、「瑞鳥」である鶴に因む詩を掲げる日として、ふさわしい、と思って出しておく。



干鮭も空也の痩せも寒の中・・・松尾芭蕉
c0061761_1244391干し鮭
  
     干鮭も空也の痩せも寒の中・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

今年は閏年なので、1月6日に二十四節気の「小寒」に入った。いわゆる「寒の入り」であり、大寒の1月20日を経て、節分(立春の前日)までの30日間を「寒」という。
この間を「寒の内」と言い、寒さの一番きびしい頃である。

10空也上人像

芭蕉の句に因んで、写真①には「干し鮭」を、写真②には「空也上人像」を載せた。
空也上人像については、多少の説明が必要だろう。
「空也」上人は「念仏行者」の始祖と言われる人で「南無阿弥陀仏」と唱えながら京の町や、日本中の村々を歩いて「念仏」行を提唱して回ったという人である。
上人像はあちこちにあるらしいが、この像は、京都の北西の端に聳える愛宕山の尾根を東に30分ほど下る月輪寺にある。
この寺は、寺伝によると藤原京時代の大宝4年(704年)に泰澄が開山した寺で、空也はここで修行したという。
像の口の前に変なものが出ているが、これは「仏」さまが数体、空也の口から出ているもので、その意味は、空也が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて行をしたので、有難い仏さまが空也の口から出て来る、ということを表しているらしい。
どこの像も、みなこのようになっているという。

芭蕉の句にある空也の像が、どこのものかは判らないが、芭蕉の旅日記があるから、恐らく解明済みであろうと思われる。
諸国を行乞して歩いた空也であるから、像の上人も、ひどく痩せている。芭蕉の句は、その「痩せ」を寒の歳時として峻しく捉えて句にしている。

結城音彦氏からお聞きしたところによると、この句の制作場所について、参考になるかとお知らせいただいたので載せておく。
それにによると、元禄13年12月、48歳、京都での作、ということである。

また、この句の出だしは「乾鮭」となっている。私の読んだ資料には「干鮭」となっていたので、こう引用したが、「乾鮭」が原典に合致しているのであろう。
また、結城氏の意見では「空也」=「空也僧」とされており、この句には
「都に旅寝して、鉢叩きのあはれなる勤めを夜毎に聞き侍りて」という前書きがあるようで、この解釈が正確なのであろう。
だから、掲出句は「空也」像を見ての作句ではないのである。

その結城音彦氏も先年、突然亡くなられてしまって寂しい限りである。
ここに結城氏の御教示を載せて、ありし日を偲ぶよすがとしたい。

「寒の入り」あるいは「小寒」「寒」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 きびきびと万物寒に入りにけり・・・・・・・・富安風生

 校正の赤きペンもつ寒の入り・・・・・・・・山口青邨

 寒の入り心あやふき折には旅・・・・・・・・中村草田男

 寒に入るわが跫音は聴くべかり・・・・・・・・加藤楸邨

 百はある鶏卵みがく寒の入り・・・・・・・・及川孤雨

 中年のどれも足早や寒に入る・・・・・・・・宮尾苔水

 小寒のひかり浸して刷毛目雲・・・・・・・・火村卓造

 一切の行蔵寒にある思ひ・・・・・・・・高浜虚子

 捨水の即ち氷る寒に在り・・・・・・・・池内たけし

 黒き牛つなげり寒の真竹原・・・・・・・・水原秋桜子

 乾坤に寒といふ語のひびき満つ・・・・・・・・富安風生

 約束の寒の土筆を煮て下さい・・・・・・・・川端茅舎

 痩せし身をまた運ばるる寒の内・・・・・・・・石田波郷

 寒の日の爛々とわれ老ゆるかな・・・・・・・・中川宋淵


一人退き二人よりくる焚火かな・・・久保田万太郎
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    一人退(の)き二人よりくる焚火かな・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

この頃では「焚火」も簡単には出来なくなってしまった。
条例で「野焼き」が規制されているのに表れているように、ダイオキシン規制の影響でもあろうし、「火」を焚くことに世の中が神経質になっているからである。

「たきび」という童謡の風景は、今や死語と化してしまった。

00376巽聖歌
 ↑ 巽聖歌

この歌は、作詞は巽聖歌、作曲は渡辺茂。(今風の表記になっているので了承を)

     <かきねの かきねの まがりかど
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      きたかぜぴいぷう ふいている>

     <さざんか さざんか さいたみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      しもやけ おててが もうかゆい>

     <こがらし こがらし さむいみち
      たきびだ たきびだ おちばたき
      「あたろうか」「あたろうよ」
      そうだん しながら あるいてく>

という唄などは、もはや郷愁の中の一風物となってしまったのである。

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この童謡「焚き火」の作詞者・巽聖歌に因む土地として伝えられるのが ↑ ここである。
中野区上高田にある『たきび』の歌発祥の地。一般人の住居であるが、中野区による説明板がここの傍にある。
歌詞冒頭の垣根の風情が現在も見ることができる。

当時、巽は東京都中野区上高田に在住していたが、自宅の近辺には樹齢300年を越す大きなケヤキが6本ある「ケヤキ屋敷」と呼ばれる家があった。その家にはケヤキの他にもカシやムクノキなどがあり、住人はその枯葉を畑の肥料にしたり、焚き火に使ったりしていた。「ケヤキ屋敷」の付近をよく散歩していた巽は、その風景をもとに詞を完成させた。
同年の9月に、「幼児の時間」のコーナーの「歌のおけいこ」12月分で放送するために巽の詞に曲を付けて欲しいと、NHK東京放送局から渡辺のもとに依頼があった。詞を見て「ずっと捜し求めていた詞」だと感じた渡辺は、「かきねのかきねの」「たきびだたきびだ」などの繰り返す言葉を気に入り、詞を口ずさんでいるうちに自然にメロディが浮かび、10分ほどで五線譜に音符を書き込み完成させた。

今でも「行事」としての「どんど」「とんど」という大掛かりな焚火もあるが、これらは予め届け出て許可をもらったものである。
この唄にもある通り、「落葉焚き」というのは自然現象とは言え、降り積もる落葉という厄介ものを処分する良い方法だったのである。
この燃えた灰の中にサツマイモを入れて「焼き芋」にして、ほかほかの熱いのを食べるのは、冬の子供の楽しみのひとつだったのに。。。
古来、洋の東西を問わず、「火」というものは「穢れ」を浄化するものとして崇められてきた。

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 ↑ 写真に掲げる「那智の火祭り」などは、その一例である。
ヒンズー教や仏教における「火葬」の風習なども「穢れ」を浄化する意味以外の何ものでもない。
京都の夏を彩る「大文字の送り火」なども、そういう意味であり、それに「鎮魂」「魂送り」の意味も含まれる。
「火」はあたたかい。万物を焼き尽くすものでありながら、「冷たく」はない。
輪廻し転生する思想が「火」には含まれているのである。

「焚火」を詠んだ句も、古来たくさんある。それらを引いて終る。

 焚火かなし消えんとすれば育てられ・・・・・・・・高浜虚子

 燃えたけてほむらはなるる焚火かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 離れとぶ焔や霧の夕焚火・・・・・・・・原石鼎

 夜焚火に金色の崖峙(そばた)てり・・・・・・・・水原秋桜子

 道暮れぬ焚火明りにあひしより・・・・・・・・中村汀女

 紙屑のピカソも燃ゆるわが焚火・・・・・・・・山口青邨

 とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな・・・・・・・・松本たかし

 ねむれねば真夜の焚火をとりかこむ・・・・・・・・長谷川素逝

 焚火火の粉吾の青春永きかな・・・・・・・・中村草田男

 隆々と一流木の焚火かな・・・・・・・・西東三鬼

 安達太郎の瑠璃襖なす焚火かな・・・・・・・・加藤楸邨

 若ものとみれば飛びつく焚火の秀・・・・・・・・能村登四郎

 夕焚火あな雪ぞ舞ひ初めにけり・・・・・・・・石塚友二

 わめきつつ海女は焚火に駈け寄りぬ・・・・・・・・稲垣雪村

 焚火中身を爆ぜ終るもののあり・・・・・・・・野沢節子

 ひりひりと膚にし響かふ焚火かな・・・・・・・・青木敏彦




凍仏小にしてなお地にうもれ・・・鈴木六林男
2701ac241df72953e782a5738387d041化野念仏寺

    凍仏(いてほとけ)小にしてなお地にうもれ・・・・・・・・・・・・・・・鈴木六林男

嵯峨野の化野(あだしの)念仏寺の辺りは千年前には「風葬」の地であった。
風葬とは、今でもチベットなどで行われる死体を野っぱらに放置して、獣や鳥に肉を食わせ、あるいは腐るに任せる葬送の方法である。
この寺は現在は浄土宗に属する寺だが、およそ1000年前、空海が、ここに五智山如来寺を開創し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことにはじまるという。
「あだし野」というと『徒然草』にも「あだし野の露消える時なく、鳥辺野の烟立さらでのみ住み果る習なれば、如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」と書かれている、
かつての葬送の地に建ち、境内に集められたおびただしい数の石仏が、葬送地としての過去を彷彿とさせる。
寺の本尊は阿弥陀如来で、湛慶の作。本堂は江戸時代に再興されたもの。
夏の8月23~24日の地蔵盆のときの「千灯供養」は有名である。
この寺の地番は 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町 という。

写真②に夏の「千灯供養」の様子を出しておく。

PN2010082301000790_-_-_CI0003千灯供養

掲出句は、夏の千灯供養が、凄絶ではありながら、火の力によって温もりを感じるのに対して、きびしく凍てる京都の冬の名も無き石仏のみじめな姿を、
よく活写しているというべきだろう。

 石くれ仏ひしめく限り冬茜・・・・・・・・文挟夫佐恵

 あだし野に日の一すぢの霰かな・・・・・・・徳永山冬子

 石仏の首から首へ虎落笛(もがりぶえ)・・・・・・・・鷹羽狩行

 冬ざれの片寄せ小さき仏たち・・・・・・・・二橋満璃

 化野のひとつづつ消ゆ冬灯・・・・・・・・間中恵美子
 
 鼻寒きわれに鼻なき餓死仏・・・・・・・・秋元不死男

 風葬の明るさの原ひかりは凍(し)み・・・・・・・・榎本冬一郎

のような句も、同じく冬の季節のあだし野の石仏を描いて秀逸である。
他の季節の、あだし野を詠んだ句は、また後日。
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長い間、都の置かれてきた京都の地には土塁をめぐらせた「街区」が仕切られていた。そのなごりが、豊臣秀吉によって再整備された「お土居」である。
この区域より外は人間の住む場所ではなく、その「お土居」の外は「葬送」の地であった。
庶民の死者は、この「お土居」の外に置かれ、いわゆる「隠亡」(おんぼう)と呼ばれる葬送の専門職の人間が、
ここ、あだし野や、東山の鳥辺野、洛北の蓮台野などに死体を放置(風葬)したのであった。
今では京都市北区に「蓮台野町」という地番があり、住宅地になっていて、人々は何も知ることもなく平気に暮らしているが、
もともとは葬送地であったから、地名にそれが残っているのである。

冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・久保田万太郎
c0007122_7415486寒椿

      冬つばき世をしのぶとにあらねども・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

久保田万太郎の句は私も大好きなので何度も採り上げてきた。
万太郎は夫人を亡くされてから「隠棲」された。
身辺には或る女の人が寄り添っていたが、その人にも先立たれて沈潜した生活をしていた時期があるが、この句はその頃のものであろうか。

「寒椿」または「冬椿」とも書かれるが、この花はツバキ科で、山茶花や茶とは同じカメリア属である。
椿は、なかでも「薮椿」と呼ばれるものは、学名をCamellia japonica と言うように、日本の固有種である。
日本では、初冬から晩冬にかけて寒中に咲くものを「寒椿」と称している。
寒椿の学名はCamellia sasanqua cv. Fujikoana と言うが、ラテン語の学名の付けかたの世界では「cv」とは「園芸品種」とされている。
藪椿が、日本固有の椿の原種ということであろうか。詳しいことは学名のページを見てもらいたい。

写真①は、「獅子頭」(ししがしら)という品種の寒椿で、物の本によっては「山茶花」に分類されているのもあるとのことで、まことに紛らわしい。
椿や山茶花については先に詳しく書いたが、椿と山茶花との区別の仕方として、ツバキは花が散るときに萼(がく)のところから、花がポロッと全体が落ちるのに対して、
サザンカは花びらが一枚づつばらばらと落ちる、という違いがあるとされている。
しかし、寒椿の花は、サザンカと同じように花びらがばらばらに散るものもある、というから、余計にややこしい。
一般的にツバキは、いま書いたように花全体がポロッと落ちるので、昔の武士は縁起が悪いと嫌がったという。
先に書いたように、学名でもCamellia sasanqua までならサザンカなのである。
なお、Camellia というのは17世紀のチェコの宣教師Kamell氏の名に因んでいることも、椿のところで書いたと思う。

123450987245516312944寒椿・白

写真②は白の寒椿である。山茶花か寒椿か、紛らわしいと追求されても私には判定は出来ない。
歳時記を見ると、一重咲きの早咲きには白に紅の絞りの「秋の山」、桃色の「太郎冠者」があり、
八重のものには白の牡丹咲きの「白太神楽」、紅絞りの「白露錦」というような品種があると書いてあるが、
それらの写真がないのは残念である。

寒椿を詠んだ句を引いて終わりたい。

 竹薮に散りて仕舞ひぬ冬椿・・・・・・・・前田普羅

 冬椿落ちてそこより畦となる・・・・・・・・水原秋桜子

 寒椿つひに一日の懐手・・・・・・・・石田波郷

 寒椿落ちたるほかに塵もなし・・・・・・・・篠田浩一郎

 山の雨やみ冬椿濃かりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 寒椿朝の乙女等かたまりて・・・・・・・・沢木欣一

 白と云ふ艶なる色や寒椿・・・・・・・・池上浩山人

 妻の名にはじまる墓碑や寒椿・・・・・・・・宮下翠舟

 海女解けば丈なす髪や冬椿・・・・・・・・松下匠村

 寒椿嘘を言ふなら美しく・・・・・・・・渡辺八重子

 花咲いておのれをてらす寒椿・・・・・・・・飯田龍太

 寒椿月の照る夜は葉に隠る・・・・・・・・及川貞



 初戎ねがひのうなじうつくしく・・・牧野多太士
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       初戎ねがひのうなじうつくしく・・・・・・・・・・・・・・・牧野多太士


「十日戎」は大阪の今宮戎神社の祭礼である。
一年はじめの1月10日は「初戎」として何十万の人が、一説では百万人が、さほど広くはない境内に押すな押すなの様相を見せる。 ↑ 今宮戎のホームページを見てもらいたい。
前日の9日夜は「宵えびす」、11日は「残り福」と称して、わざと、この日に参詣する人もある。社殿の裏に廻って、羽目板をどんどん叩いて「えべっさん、頼んまっせ」と大声で言うのが上方風である。
掲出した写真が当日の神社の境内の様子である。参拝のあと、「福笹」という笹の枝に小判やらをぶらさげたものを買い求めて、肩にかついで帰る。笹は笹だけで売られ、それにつける小判などは、別途金を払って追加するのである。東京の「熊手」に福面をつけたりするのと同様のことである。

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 ↑ 福笹
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↑ 福笹につける縁起物
『年浪草』という本に「諺にいふ、この神は聾にましますとて、参詣の諸人、社の後の板羽目を敲く。その音、昼夜にかまびすし。これ、今日参詣して諸願を訴ふる謂ひなり。」とある。
近年は「福娘」と称して公募して福笹の売り子を募っているが、応募者が多いので、なるべく美人を選ぶという。今年は45人採用したという。
1月10日前後には南地の花柳界の芸妓の綺麗どころを「宝恵かご」と称する駕籠に乗せて近在を練り歩く行事がある。これも神社の宣伝のためとは言え、人気がある。

ネット上では、他にも動画などがたくさん見られる。お試しあれ。
今年は1月9日に盛大に練られた。

以下、十日戎を詠んだ句を引いて終る。

 福笹をかつぎ淋しき顔なりし・・・・・・・・高浜年尾

 地下道を華やぎ通る福笹持ち・・・・・・・・橋詰沙尋

 初戎ねがひのうなじうつくしく・・・・・・・・牧野多太士

 残り福得んと人出に押されけり・・・・・・・・吉川一竿 

 大阪を好きも嫌ひも宵戎・・・・・・・・吉田すばる

 十日戎所詮われらは食ひ倒れ・・・・・・中本圭岳

 小火騒ぎありて今宮宵戎・・・・・・・・後藤鬼橋

 福笹にきりきり舞の小判かな・・・・・・・・倉西抱夢

 きらきらと賽銭舞へり初戎・・・・・・・・金田初子

 福笹の大判小判重からず・・・・・・・・嶋杏林子

 凶くれて残り福とは面白し・・・・・・・・細見しゆこう

 雑踏を夫にかばはれ初戎・・・・・・・・上野美代子

 残り福疲れし声をあげて売る・・・・・・・・大戸貞子

 吉兆や佳人に足を踏まるるも・・・・・・・・大野素郎

 初戎笹の葉一枚づつの福・・・・・・・・三島敏恵





蝋梅が咲くとろとろととろとろと・・・青柳志解樹
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       蝋梅が咲くとろとろととろとろと・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

蝋梅は年末から年始にかけて咲くが、花期は長いので今がポツポツ咲きはじめたというところである。
この句の「とろとろと とろとろと」というオノマトペが秀逸である。
この句に添えた彼のコメントには「老人がローバイの花を見ながら、日向でとろとろと、うたた寝している」様という。
蝋梅は、丁度いま年末から新年の時期にかけて咲く花である。
花期は寒い時期なので満開になるには一ヶ月くらいは綺麗に見られる。
昨年末からプレ・クリスマス寒波が来たりしたが、まだ葉が残っていて、葉が残っていると、黄色の花が見え難いので葉をむしって落したりする。
蝋梅は学名をChimonanthus praecoxというが、中国には広く分布している。
花びらが芯まで黄色一色なのが「素心蝋梅」という。花びらが「蝋」に似ているので蝋梅という。
いかにも蝋細工で出来ているという感じの花である。

sosin-roubai3蝋梅

花は下向きにつく。
下から見上げると青空に花びらが少し透けて見える。

sosin-roubai2蝋梅の実

写真③は蝋梅の実である。この実が地に落ちて新芽が出てきて新しい幹が育つ。日当たりのよい場所を好むが、条件が整えば、やたらに増える木である。
梅と同じく、花は旧い枝につき、その年に伸びた徒長枝にはつかない。放っておくと木はどんどん大きくなって始末に負えないので、成長期には徒長枝は、どんどん切る。
中国から渡来したので「唐梅」の名もあるが、梅とは別種のもの。
きわめて香りの強いもので、屋内であれば頭痛を起すのではないかと思われる。
私の家の庭の一角にも、他所から頂いた蝋梅が位置を占めているが、樹形を大きくしないように維持するのに苦心している。
放っておくと大きくなりすぎて、他の木を日蔭にしてしまうので始末に悪い。
しかし花の少ない冬の景物として貴重な存在である。
以下、蝋梅を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 蝋梅のこぼれ日障子透きとほす・・・・・・・・菅裸馬

 蝋梅のかをりやひとの家につかれ・・・・・・・・橋本多佳子

 蝋梅の咲くゆゑ淡海いくたびも・・・・・・・・森澄雄

 蝋梅に斎庭(ゆには)は雪を敷きにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 蝋梅やいつか色ます昼の月・・・・・・・・有馬朗人

 蝋梅の光沢といふ硬さかな・・・・・・・・山上樹実雄

 蝋梅のぬかるみ匂ふ鯖の道・・・・・・・・吉田鴻司

 蝋梅の蕾の数が花の数・・・・・・・・倉田紘文

 蝋梅に虻は上向きつつ移る・・・・・・・・高木石子

 蝋梅につめたき鳥の貌があり・・・・・・・・岸本尚毅

 蝋梅の蕾ながらも黄の目立つ・・・・・・・・江口竹亭

 蝋梅の咲く日溜りを皆好む・・・・・・・・佐藤兎庸

 蝋梅の花びら重し花透けて・・・・・・・・安田建司
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なお蛇足だが、橋本多佳子の句にあるように、「香る」という言葉の歴史的かなづかいは「かをる」が正しい。「香り」ならば「かをり」である。
布施明が歌ってヒットした歌 「シクラメンのかほり」 というのがあるが、なまじ大ヒットしたが故に、この仮名づかいが正しいように誤解されているが、
これは作者の小椋佳の勘違いによる間違いであり、いつまでも恥を曝しているようなものである。
知ったかぶりをして、歴史的かなづかい(旧かな)にしたために間違ったのである。ここは素直に「新」かなづかいにしておいたら、恥をかかずに済んだのである。
ブログ上でも、これにつられて「かほり」と書いてあるのを時々見かける。念のために申し上げておく。
ただし「人名」である場合は、この限りではない。


喪中欠礼の葉書数葉脇に置き生ける人らに賀状書き継ぐ・・・米満英男
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──季節の歌鑑賞──年頭の歌風景いくつか

     ■喪中欠礼の葉書数葉脇に置き
           生ける人らに賀状書き継ぐ・・・・・・・・・・米満英男


米満氏は私の兄事する歌人であった。昭和三年生まれ。先年亡くなられた。
亡くなられたときにブログに記事を書いた。
この歌は角川書店「短歌年鑑」の過年度(2008年)の「自選作品集」に載るもので、
「賀状欠礼」と題する5首のうちのものである。
前後に載る歌を引くと

   ・しんかんと大根抜かれし畑の穴満月の下いよよ冥(くら)かり・・・・・・・・・米満英男
   ・朝夕に向かふ食卓この狭く温き平面を日常と呼ぶ
   ・目頭が目尻を詰(なじ)り言ふことにお前すこしはその尻拭へ
   ・この歳まで生くればついで百歳まで生くるべしなんて はい冗談冗談

とあり、何とも洒脱なものである。以下、引用は同じところから。

  ■新(にひ)年のふるさとの山明けそめて
    はろばろとおもふ <春はあけぼの>・・・・・・・・・・・・・・・志野暁子

  ■波の穂に止(とど)まれるかにかもめ飛び
    沖ほの暗し冬の日本海・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子正男

  ■無尽数の雪片意思をもつごとく
    海に降り陸(くが)に降り人間(じんかん)に降る・・・・・・・・橋本喜典

前後に載る歌を引く。

   ・この年の初の買物ずつしりと上下二冊の『道元禅師』・・・・・・・・・・・橋本喜典
   ・白き葉を紅がつつめる寒椿眼を遣るたびにわれをみつむる
   ・初出勤の朝戴きしチョーク箱いづれはわれの柩に入れよ
   ・少(わか)き日の疑問の奥に在りしもの解らねばいまだ老いに到らず

この人は早稲田高校の校長をされた人である。この人も2019年に亡くなられた。

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     ■ふるふると宇宙に地球が浮いてゐる
          サッカーボールのやうな淋しさ・・・・・・・・・・・・・・由良琢郎


地球は、まさに宇宙に宙づりに浮いているのであるが、それを「サッカーボール」のような「淋しさ」と捉えたところが凄いと思う。
いつも言うことだが、詩というのは陰影を深めるためには「比喩」表現に尽きる。
そういう観点から見ても、この歌は詩として自立し得ているだろう。

「凄い」と言えば、この歌の前に載る作品を引く。

   ・このごろのわれの自在は一瞬に物忘れする凄さもち初む・・・・・・・・・・・・・・・由良琢郎
   ・夜半覚めてふとかなしめり抽出しに余分の時計刻(とき)きざみつぐ

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     ■いつの日か惚け行くらむ素焼の皿に
          盛らるる夢のはんなりとあり・・・・・・・・・・・・・・・山中加寿


ここに引く何人かの人の歌群は、いずれも「老い」の寂寥を湛えていて、それぞれの様相の違いはありながら、いずれも秀逸である。
この山中さんの歌は「素焼きの皿に盛られる夢」という表現が、何とも「詩的」である。
この後につづく歌には

   ・箒持つをりに嗚咽の始まりぬ梅雨のさなかに南瓜はな持つ・・・・・・・山中加寿

この歌は、2008年春四月に亡くなった師・前登志夫の死を思っての「嗚咽」であろう。

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 ↑ モンブラン万年筆

     ■パイロットインクをずっと使ってた
         あなたに遭えたころのブルーよ・・・・・・・・・・・・・・・上野久雄


上野久雄氏は2008年秋9月17日に亡くなった。
この一連は死の前に投稿されていたものである。
上野氏は昭和二年生まれ。短歌結社「未来」創刊以来の同人で、「みぎわ」という自分の歌誌を創刊して才能ある歌人を育てられた。
私なども若い頃は万年筆のインクはパイロットの「ブルーブラック」のインク壺を愛用していた。ご冥福を祈りたい。
この歌は、「未来」の主宰者だった近藤芳美の若い頃の「相聞歌」そっくりの趣を湛えている。

この歌の前後につづく一連を引いて、終りたい。

   ・一切れのロールケーキを食いて立つ死はたしか四時過ぎであるから・・・・・・・上野久雄
   ・午後からは編集会に行くのだと晴れた球場の空に手を振る
   ・稀にしてああ病感のなき目覚め味噌汁の具に今朝はしじみを
   ・西空に集まっている雲たちや一番知っているのは俺さ


人日の日もて終りし昭和かな・・・稲畑汀子
BN-EN052_Hirohi_G_20140912065015昭和天皇
↑ 新年の賀を受ける昭和天皇(撮影年度など不詳)

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    ■人日の日もて終りし昭和かな・・・・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

     ■人日(じんじつ)や江戸千代紙の紅づくし・・・・・・・・・・・・・・木内彰志  


冒頭に掲出した稲畑汀子の句について言うと、昭和天皇の亡くなったのは昭和64年の1月7日だった。
翌日1989/01/08をもって、元号は「平成」と改まったのであった。
私は、その時、ニュージーランドのオークランドからオーストラリアのシドニーへの飛行機の中に居て、そのニュースを聞いたのだった。
思えば、昭和も遠くなったものである。平成も終わり、今や「令和二年」である。
なお「元号一覧」について考えてみるのも面白いので見てみてください。

先に書いたように元日から六日まで「六日年取り」として過し、七日は年改まる日と考えられていた。
今日、七日は七種(ななくさ)粥を食べる風習が平安時代から行われ、今に続いている。
一年の無病息災を祈りつつ粥を食べる日であり、七日に門松などの正月飾りを外す地域も多い。
「人日(じんじつ)」 という呼称の由来については、五日付けで先に書いた。
「七種粥」についても、昨年までに何度も書いたので参照されたい。↓ 参考までに「春の七草」の画像を出しておく。

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さて「七草」のことである。
正式には、七日の前日に、今日七日朝に食べる七種の草の材料として用意したものを賞味するのである。
昨日付けで書いたものを再録すると、天明頃の本『閭里歳時記』に「七種の菜を採りて明朝の粥にまじへ食ふこと、旧きならはしなり。城下にてはわづかに芹・菘等を用ひて、必ずしも七草を用ひず。今夕、かの菜を魚板に置き、桶の上にあげ、擂木(すりこぎ)・魚箸(まなばし)等をも載せて、菜を割りながら節あり、<七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に>と、はやすなり。時々にはやして暁に至る。家々にすることなり」とある。

img_1210957_43046191_2原節子

     ■人日や古き映画に原節子・・・・・・・・・・・・・・・木内満子

「原節子」は往年の大スターだった。キリッとした美貌が、まぶしかった。
「永遠の処女」と呼ばれた彼女だが、2015/9/05に肺炎のために95歳で亡くなった、という。
一時代を画した彼女の写真を掲げておく。

1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の主題歌「青い山脈」とともに大ヒットとなった。また同年から1961年まで、小津安二郎監督と組んだ6作品は、日本映画を代表するものとして、国際的にも有名になった。
1962年の『忠臣蔵』を最後に映画界を引退。1963年、小津安二郎監督の葬儀に姿を見せて以降、公の場に姿を現さないように隠棲。その後は神奈川県鎌倉市で妹夫婦と暮らしていたらしい。

ここでは、「人日」に因む句を引いて終る。

 何をもて人日の客もてなさん・・・・・・・・・・高浜虚子

 人の日や読みつぐグリム物語・・・・・・・・・・前田普羅

 人日のこころ放てば山ありぬ・・・・・・・・・・長谷川双魚

 人日の厨に暗き独言・・・・・・・・・・角川源義

 人日の夕凍み頃をふらり行く・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 人日やにぎたまもまた臓のうち・・・・・・・・・・野沢節子

 人日の納屋にしばらく用事あり・・・・・・・・・・山本洋子

 人日の肝胆沈む枕かな・・・・・・・・・・宇多喜代子

 人日や粥に小匙の塩加減・・・・・・・・・・伊藤白雲

 人日の空のぼりつめ観覧車・・・・・・・・・・星野恒彦

 人日の暮れて眼鏡を折り畳む・・・・・・・・・・岩城久治

 人日や日暮れて鯛のすまし汁・・・・・・・・・・秋篠光広

 人の日の墓に備への竹箒・・・・・・・・・・熊田侠邨

 人日や昭和を楯のわれも老ゆ・・・・・・・・・・江ほむら

 人日や海鵜は高き杭を得て・・・・・・・・・・玉木郁子

 人日の日を分け合ひし烏骨鶏・・・・・・・・・・天野きく江





祓はれて馬の嘶く六日かな・・・原茂美
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  ■祓はれて馬の嘶(いなな)く六日かな・・・・・・・・・・・・・・原茂美

    ■一きほひ六日の晩や打薺(なづな)・・・・・・・・・・・・・鬼 貫


節日である七日正月の前夜である。
文化五年刊の『改正月令博物筌』に「今日を馬日とす。○六日年越し、七日は式日なれば、今日をいふにや」とある。
「馬日」に因んで、雪原を駈ける馬の写真を出してみた。

天明頃の本『閭里歳時記』に「今日七種の菜を採りて明朝の粥にまじへ食ふこと、旧きならはしなり。城下にてはわづかに芹・菘等を用ひて、必ずしも七草を用ひず。
今夕、かの菜を魚板に置き、桶の上にあげ、擂木(すりこぎ)・魚箸(まなばし)等をも載せて、菜を割りながら節あり、<七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に>と、はやすなり。
時々にはやして暁に至る。家々にすることなり」とある。

今日から「寒」に入った。寒さの厳しくなる頃である。
「寒の入り」に合せて本格的な冬になるということで、季節の推移というものは正直なものである。
なお「大寒」は一月二十日ということである。


「正月六日」を詠んだ句も多くはないが、それらを引いて終る。

 六日はや睦月は古りぬ雨と風・・・・・・・・渡辺水巴

 凭らざりし机の塵も六日かな・・・・・・・・安住敦

 六日夜も灯のついてゐる手術室・・・・・・・・石井保

 眠りの森の美女を見にゆく六日かな・・・・・・・・須川洋子

 冷えきつて賀状の戻り来し六日・・・・・・・・福井隆子

 海を見に来てゐて松も六日かな・・・・・・・・中野あぐり

 活け直し六日の床を新たにす・・・・・・・・鵜飼濃尾女

 朝食をはやばらばらに摂る六日・・・・・・・・細川洋子

 賀状来し人の訃へ発つ六日かな・・・・・・・・伊藤真代

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今日の記事は短いので、週刊「川柳時評」 に載る記事を転載させてもらうことにする。

転 載─週刊「川柳時評」 ─2019年9月13日金曜日

   古代ギリシャ柳人 パチョピスコス

「触光」63号(編集発行・野沢省悟)が届いた。
同誌62号に発表された第9回高田寄生木賞のことが話題になっている。
五十嵐進の前号鑑賞は〈「パチョピスコス」や「らいら」の存在を教示された前号だった〉ではじまり、芳賀博子の「おしゃべりタイム」では〈第9回高田寄生木賞受賞作は、森山文切さんの「古代ギリシャ柳人 パチョピスコス」。そのタイトルを見てびっくりしました。実は発表誌が届くちょうどひと月前のこと。他誌の連載でパチョピスコス氏こと森山文切さんに電話取材し、同タイトルの一文を書いたところだったからです〉とある。

芳賀の同タイトルの文章はまだ読んでいないなと思っているところへ、「船団」122号が届いた。(「船団」前号で坪内稔典が「散在(解散)」を宣言して世間をアッと驚かせたのは記憶に新しい。)芳賀の連載「今日の川柳」は47回目になるが、そのタイトルが「古代ギリシャ柳人パチョピスコス」。芳賀はこんなふうに書いている。

ここはアポロンの神託書。ある日、古代ギリシャ柳人パチョピスコスは神託を授かった。
「川柳を広めよ」
その瞬間「ピカ―みたいな、フワーみたいな」感覚に見舞われるも、神からの具体的な指示はない。そこで、
「取り急ぎTwitterなるものを始める。川柳に関する疑問は #教えてパチョピスコス で我に質問せよ」

パチョピスコスというネーミングの由来だが、川柳は難しくものではなく「パッとやってチョッとやってピッでできる」ということらしい。そういえば以前「川柳は紙と鉛筆があればできる」なんて言われていましたね。
芳賀が紹介している「僕は川柳の営業をやります」という発言は、私もその場にいて聞いていたが、確かに川柳には営業(流通)が欠けている。作品(商品)はあっても、それを売る人がいないのだ。森山は自ら営業マンを買って出た。
「川柳スパイラル」3号の「小遊星」のコーナーでは飯島章友が森山文切と対談している。森山が運営している【毎週web句会】の発信力は半端ではなく、川柳に関心をもつ層がずいぶん広がった。飯島と森山の対談の一部を紹介すると―。

飯島 さて【川柳塔】webサイトを拝見すると、「若手同人ミニエッセイ」の欄があるし、「同人・誌友ミニ句集」の欄では若い人の作品も閲覧できます。このあたり、やっぱり川柳塔としては意識的に行っているんですか?
森山 そうですね。意識的に行っています。おっしゃるように若手を押し出すことで活性化になると思います。人材育成の観点からも若手に積極的に参加してもらっています。若手同人エッセイの担当者はいわゆるアラフォーで、世間一般では中年です。この層がバリバリの若手というのが川柳界の厳しい現状です。私たちより下の世代がもっと増えてくるといいのですが、そのためにも結社内の若手を集めた企画の実施を通して、コアを固めておくことが重要と考えています。

「触光」62号に掲載された「古代ギリシャ柳人 パチョピスコス ―インターネットによる川柳の普及―」を改めて読み直してみると、「教えてパチョピスコス」に寄せられた川柳に関する疑問には次のようなものがあるという。

・結社に入るメリットとデメリットは?
・初心者が句会に出るための心構えは?
・選者制と互選の違いは?
・誌上句会とは何か?

川柳の句会がどういうものか一般にはあまり知られていないようだし、はじめての人が川柳句会に参加するのはけっこうハードルが高いと思われているのかもしれない。
森山の【毎週web句会】は平成28年4月にスタートし、投句者は6人。以下、二回目11人、三回目22人と増えていった。投句者の8割以上は結社に所属するなどの川柳人だったという。
転機は平成30年8月にやってくる。「いちごつみ」を実施したのだ。
前の人の句から一語選んで自分の句に使い、次の人も同じことを繰り返してつないでゆく。尻取りとは違うので、前の句のどの語を選ぶかは自由である。
「いちごつみ」はもともと短歌の界隈で流行っていたので、短歌をしている層の目にとまり、投句者が50名前後に増えたという。
以上のような経験から、森山は川柳の普及に必要な事項を三点挙げている。

・サイトやSNSなどネットなどネットによるアピールは有効である。
・活動を継続すること。
・きっかけを掴むこと。

句会に自足するのではなく、森山のように川柳の発信について戦略的に考える川柳人が現れてきたことは心強い。来年1月19日に開催される「文学フリマ京都」では、「川柳スパイラル」と「毎週web句会」のブースが隣接配置されることになっている。文フリへの川柳の出店がはじめて複数になるが、そのことによって川柳の存在感を少しでもアピールできればいいと思っている。

投稿者 如月和泉
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この引用にあたり筆者には厚く御礼申しあげる。

筆者プロフィール
如月和泉 本名・小池正博。川柳人・連句人。
句集にセレクション柳人『小池正博集』『水牛の余波』(邑書林)評論集に『蕩尽の文芸―川柳と連句』(まろうど社)がある。




江ノ島や五日の磯に人のせて・・・星野恒彦
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 ↑ 江の島と富士山
  
  ■江ノ島や五日の磯に人のせて・・・・・・・・・・・・・・・星野恒彦

  ■牛日や駅弁を買いディスク買い・・・・・・・・・・・・・・・木村美智子


正月の各日に獣の名を宛て、元日=鶏日、二日=狗日、三日=猪日、四日=羊日、五日=牛日、六日=馬日とし、七日=人日つまり人を占い、人を尊ぶ日、とされていた。
人勝節などとも言い、中国の前漢時代に定められた日だという。

元日から六日まで、天候によりその年の禽獣や農作物が豊かかどうかを占い、七日は人の世界の運勢を占ったらしい。
昔の『歳時故実』という本に「牛日といふ。○木造り始め 禁裏にあり。千寿万歳ならびに猿楽等来たる」とある。
掲出した二句目に「牛日」とあるのは、その意味である。

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図版②は葛飾北斎「富嶽三十六景」相州江ノ島の図である。

歳時記に載る「正月五日」の句は多くはないが、引いて終る。

 水仙にかかる埃も五日かな・・・・・・・・松本たかし

 黒燦々正月五日の護美袋・・・・・・・・林 翔

 五日まだ賀状整理に更くる妻・・・・・・・・水島涛子

 蛸干すや五日の凪を讃へつつ・・・・・・・・中村君永

 歳徳の護符の舞い落つ五日かな・・・・・・・・渋谷天眠

 五日舞ふ大袖の振り潮を呼ぶ・・・・・・・・猪俣洋子

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今日の記事は短いので、週刊「川柳時評」 に載る記事を転載させてもらうことにする。

転 載─週刊「川柳時評」 ─2019年8月17日土曜日

現代川柳と現代短歌の交差点

9月28日(土)15:00~17:00、梅田蔦屋書店で「現代川柳と現代短歌の交差点」というイベントが開催される。歌人2名と川柳人2名によるトークに簡単な川柳句会とサイン会が付く。岡野大嗣・なかはられいこ・平岡直子・八上桐子という珍しい顔ぶれで、司会は小池正博。梅田蔦屋書店ではこれまでもさまざまなトーク・イベントが実施されてきたが、川柳が加わっての開催ははじめてとなる。

すでに旧聞に属するが、6月25日~7月7日に東京・高円寺で『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)の展覧会があった。
私は連句協会理事会に出席のため7月5・6日に東京にいたが、時間の都合がつかずに会場へ行くことができなかったのは残念だった。ネット情報では、歌集に掲載された全217首とともに、詩人・谷川俊太郎の詩、小説家・舞城王太郎による小説、マンガ家・藤岡拓太郎によるマンガなど、コラボ作品が展示されたということだ。
この歌集は木下龍也と岡野大嗣がそれぞれ男子高校生に成り代わって、7日間を短歌で描いた、役割詩による物語だが、興味深いのはその7日間が7月1日~7日であって、展覧会の開催と重なることである。
よく知られている歌集だが、二人の作品を何首か引用しておこう。

まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日    木下龍也
この夏を正しい水で満たされるプールの底を雨は打てない
ぼくはまたひかりのほうへ走りだすあのかみなりに当たりたくって

近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった     岡野大嗣
本当に言いたいことがひとつだけあるような気があると思います
自販機で何か一匹出てきました持ち帰ったら犯罪ですか

岡野は現代川柳にも理解のある歌人のひとりである。
特に飯田良祐の川柳作品を評価して、ネットで推していただいたことがある。それで2016年7月に「飯田良祐句集を読む集い」を開催したときに、岡野をゲストに招いて話をしてもらった。そのとき岡野が挙げた飯田良祐作品は次のようなものである。

下駄箱に死因AとBがある   飯田良祐
バスルーム玄孫もいつか水死体
ポイントを貯めて桜の枝を折る
母の字は斜体 草餅干からびる
吊り下げてみると大きな父である

「飯田さんのことは、イラストレーターの安福望さんに教えてもらって知りました。飯田さんの句が孕んでいる、早退の帰路にガラ空きの電車から見る夕焼けのような痛みに強く惹かれます」と岡野は語っている。

なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』(北冬舎)はもう手にはいらないのかと聞かれることがあるが、もう一冊も余分がないそうで、古本とかアマゾンで買うしかない。
この句集は2001年4月発行で、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000年7月)とともに現代川柳が話題になる契機となった。「WE ARE!」3号(2001年12月)に掲載された「ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ」という句は現在でもしばしば取り上げられている。
『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」には石田柊馬・倉本朝世・穂村弘・荻原裕幸が参加していて、この時点における短歌と川柳の相互認識を浮き彫りにするものとなっている。特に「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」というなかはらの句に対する短歌側と川柳側の評価の違いは両ジャンルの考え方の差を如実にあらわしていたと記憶している。
その後、なかはらは「ねじまき」句会を発足させ、現在「川柳ねじまき」は5号まで刊行されている。また、『15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)の編集もなかはらの大きな仕事である。

あいさつの終わりにちょっとつける雪  なかはられいこ
おい森田、そこが夏だよ振りぬけよ
サボテンに赤い花咲くそうきたか

平岡直子は「率」の活動のほか『桜前線開架宣言』(左右社)の収録作品でも注目された。
彼女の批評の冴えは昨年連載の「日々のクオリア」(砂子屋書房)で認められ、最近では短歌同人誌「外出」に参加している。
平岡も現代川柳と交流のある歌人のひとりで、「川柳スパイラル」東京句会にも何度か参加し、実際の句会・実作を通じて交流がある。「川柳とは何か」という抽象的な議論ではなくて、実作を通じて川柳の手ざわりや特性を語り合うことのできる段階にきているのだ。瀬戸夏子と平岡直子、我妻俊樹などの川柳作品集『SH』は文フリでも販売され、川柳としてクオリティの高いものになっている。

蟻の巣に蟻のサクセス・ストーリー  平岡直子
口答えするのはシンクおまえだけ
さかさまの壺が母系にふさわしい
魔女のおふたりご唱和ください
いいだろうぼくは僅差でぼくの影
すぐ来て、と水道水を呼んでいる 
雪で貼る切手のようにわたしたち
星の数ほど指輪のいやらしい用途

八上桐子句集『hibi』についてはこの欄で何度も紹介したが、句集を発行したあと八上はさらに活動領域を広げている。八上桐子、牛隆佑、櫻井周太による川柳と短歌と詩のユニット、フクロウ会議が結成され、最初の作品集『蕪のなかの夜に』が8月末には発行されるという。葉ねかべには現在、八上と升田学のコラボが展示中である。
句集『hibi』は広く話題になり、増刷もされたので、周知のことだろうが、何句か掲載しておく。

そうか川もしずかな獣だったのか   八上桐子
くちびると闇の間がいいんだよ
ふくろうの眼に詰めるだけ詰めて
向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ
その手がしなかったかもしれないこと
藤という燃え方が残されている
からだしかなくて鯨の夜になる

以上四人の表現者たちが短歌・川柳について語り合うことになる。どういうことになるかは当日のお楽しみ。第一部はトーク、第二部は短時間だが川柳句会も行われる。事前投句作品をパネラーが選句して講評する予定。
参加申し込みは梅田蔦屋書店のホームページから。9月28日までにイベントがいろいろあるので、すぐには該当ページが出てこないかもしれないが、9月の分をクリックすればこのイベントが出て来るはず。申し込みのときに、よろしければ雑詠一句を投句してください。念のため、蔦屋書店のアドレスは次の通り。

https://store.tsite.jp/umeda/event/humanities/7751-1431560626.html

投稿者 如月和泉 : :

筆者プロフィール
如月和泉 本名・小池正博。川柳人・連句人。
句集にセレクション柳人『小池正博集』『水牛の余波』(邑書林)評論集に『蕩尽の文芸―川柳と連句』(まろうど社)がある。


一人居の四日の風呂を溢れさす・・・佐怒賀直美
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──季節の一句鑑賞──正月「四日」3

      ■一人居の四日の風呂を溢れさす・・・・・・・・・・・・・・・佐怒賀直美

正月四日となった。
「二日」「三日」と書き続けてきたが、念のために申しておくが、これから書く「四日」「五日」「六日」「七日」というのは、いずれも、これらの日は「正月の季語」であるから、ご注意願いたい。
つまり「四日」と言えば、正月四日の日を指すということなのである。
俳人には自明のことだが、敢えて書いておく。

三が日の正月行事が終り、職人は仕事の道具を揃え、農家では軽く農事をおこない、仕事始めとして祝う。
サラリーマンもこの日から出勤することが多いが、本年は六日からの出勤が多いだろう。

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      ■ひとり分珈琲豆を碾く四日・・・・・・・・・・・・・・染谷佳之子

コーヒー愛好者には、凝る人が多い。
写真②はプジョー社製のコーヒー・ミルである。
クラシックな機能のもの。
コーヒーを淹れるのにもサイフォンとか、いろいろあるが、単純に「ドリップ」式のものが風情がある。
淹れ方よりも、コーヒー豆のブレンドの配合の方が、私なんかは重要視したい。
外に出て、有料で飲むコーヒーにも値段の割りにおいしくないものが多い。
つい最近になって知ったことだが、エチオピア産の「モカ」の豆から残留農薬が検出されて輸入禁止になったため、コーヒーのメーカーはブレンドに困っているいるという。
「モカ」豆の「酸味」はコーヒーの風味を左右するもので、ブレンドには欠かせないが、先に書いた「おいしくない」云々という件に、このことが影響しているのかも知れない。この影響は当分つづくだろう。
以上、ひとこと書き加えておく。
私が六ヶ月に一度、定期診察に行っていた京都大学病院の玄関フロアに出店する「ドトールコーヒー」のカプチーノを私は、値段の割りにおいしいと愛用していたが、先年の診察で「快癒」と宣告されて終わった。

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     ■舟一艘二艘三艘四日かな・・・・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

写真③は銚子港に停泊する漁船である。
東日本大震災の時は、大震災・大津波と原発爆発による放射能飛散により、千葉県も大きな影響を蒙った。
しかし、銚子港は魚の水揚げが好調で、漁民は久々の活気に浸ったという。

以下、「四日」を詠んだ句を列記して、終る。

 コンドルの貧乏歩きも四日かな・・・・・・・・飯島晴子

 気が付けば頬杖癖も四日かな・・・・・・・・小桧山繁子

 合点してざぶざぶ使う四日の湯・・・・・・・・宇多喜代子

 磨ぎ終へし四日の米の白さかな・・・・・・・・若井新一

 心音を拾ふ四日の聴診器・・・・・・・・細川洋子

 好きなものゆつくりと煮て四日かな・・・・・・・・大橋麻沙子

 俎にのせて四日の豆腐かな・・・・・・・・今関淳子

 卓袱台は昭和の匂ひ四日かな・・・・・・・・端山日出子
 
 ビードロとビーチグラスと四日かな・・・・・・・・高島征夫
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a0ed6080-e8ac-40b0-8551-3596451d584c「しぶんぎ座流星群」
↑ 北斗七星を貫く「しぶんぎ座流星群」2001/01/04AM1時台 撮影者─gazoo.com

一月四日未明は「しぶんぎ座流星群」の見られる特異日であるが、今年は雲が多く、かつ月明があったりして観測できないなかったところが多かったらしい。
上に掲げた画像は過去のものである。撮影者と時刻は書いてある通りである。
撮影者である著作権所有者に御礼申上げて、ここに記しておく次第である。


老いの愛水のごとくに年新た・・・飯田蛇笏
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──季節の一句鑑賞──新年の句と歌─(3)

     ■老いの愛水のごとくに年新た・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

老人にも「愛」の感情とか「性」の欲求というものは、あるのである。
掲出の図版は、彦根の井伊家に伝わる能の「菊慈童」の面だが、古来、中国でも日本でも、人々は「老い」を嫌がり、「不老不死」を求めたのだった。
今の時代は、文明国では人々は長生きになり、老人も「性」を貪るらしい。
飯田蛇笏は77歳で亡くなっているが、いまの私は彼の没年を超えた。
彼は、老いの愛は「水のごとく」と詠むが、今の老人がどうかは読者の想像に任せたい。

     ■老とおもひいまだとおもひ年立てり・・・・・・・・・・・・・及川貞

この人は女であるが、自分では「老人」と思うことに抵抗している。

     ■星恋のまたひととせのはじめの夜・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

     ■年立つて耳順ぞ何に殉ずべき・・・・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房

     ■人死んでまた死んで年新たなり・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦

ここに引いたような句は、年頭にあたって「老い」について考察している。
いずれも作者は若くはなく、いわゆる老人と言えるだろう。
「耳順」とは孔子の『論語』にある「六十而耳順」(六十にして耳したがう)が出典であって、年齢の六十歳のことを表す。

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 ↑ 工房でのパブロ・ピカソ

     ■八十の恋や俳句や年の花・・・・・・・・・・・・・・・細見しゆこう

こうなると、「すごいね」と言う他はない。
ピカソは80歳にして何番目かの妻に子を産ませているから不思議ではない。

     ■草の戸にひとり男や花の春・・・・・・・・・・・・・・・村上鬼城

この句などは私のことを言われているのかと思ってしまう。

     ■喜寿の賀を素直にうけて老の春・・・・・・・・・・・・・・・・富安風生

     ■おいらくのほのぼのかなし明の春・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨

     ■八つ口をほころばせたり老の春・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

俳人たちは、自分の老いをさまざまに描いて感慨に耽っている。
最後に、きれいな、美味な、美しい句を引いて終わりたい。

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     ■明の春はなびら餅にごぼうの香・・・・・・・・・大石洋子

「はなびら餅」は、正式には「葩餅」と書く。
これは、御所ゆかりの菓子だとか、茶道の表千家の「菱葩餅」を菓子化したものだなどのいくつかの説がある。
この餅を貫いている「棒」は、「ごぼう」を棒状にカットして甘く柔らかく煮たもので、微かに牛蒡の香りがする。掲出句は、それを詠んでいる。
私の作品にも第一歌集『茶の四季』(角川書店)に

   呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩餅(はなびらもち)はくれなゐの色・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。


白富士は雲間にふるひたち上る二十一世紀の風の鳴る朝・・・藤岡武雄
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──季節の歌鑑賞──新年の句と歌─(2)

     ■白富士は雲間にふるひたち上る
        二十一世紀の風の鳴る朝・・・・・・・・・・・・・・藤岡武雄


初夢に縁起をかつぐ諺に、一、富士 二、鷹 三、茄子という言葉が、古くからある。
毎年の初夢に、この諺を願っているが、まだ一回も見たことがない。
この歌の作者は、大正15年生まれの人である。
この人は三島に住んでいるようで、夢ではなく、現実の富士山が北側に聳えているという。
春から夏にかけては、毎日のように雲に包まれて、姿を現すことは少ない、という。
富士山が一番よく全姿を現すのは、冬の寒い時期だという。冬に次いでは秋晴れの時だそうだ。
掲出した写真の富士は、どこからの撮影であろうか。
先年は富士山が他のものと一緒に「世界自然遺産」に登載されて喜ばしいことだった。
その意味からも時節柄ぴったりの歌である。

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     ■何もかも去年(こぞ)のままなる書斎にて
         鉛筆の芯みな天を向く・・・・・・・・・・・・・・・・橋本喜典


「鉛筆」を使わなくなって久しい。
いま鉛筆を常用するのは小学生か中学生くらいのものではないか。
高校生、大学生あたりになると「シャープペンシル」を使うようだ。
この人は、たしか早稲田高校の校長を務めた人だと記憶する。
この人は昭和3年生まれ。2019年に、さまざまな病気と闘った末に亡くなった。 合掌。
そういう「書斎」派らしく、きれいに削り揃えた鉛筆がペン立に立っているという情景が詠われている。
「何もかも去年のまま」というところに、今さら新年の感慨など、という気概が見てとれる。

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      ■元日の夜を清めて降りぬらし
         自転車のサドルに残るうす雪・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美


この人は昭和16年生まれの人。国学院大学在学中に、「安保世代の学生歌人」として有名な岸上大作から一方的に好きになられた、という経験の主である。
国学院短歌会系統の「滄短歌会」(代表・中井昌一)の発行人である。

   ■新しき皮靴下ろす元旦のまっさらの陽に対うここちに・・・・・・・・・・・・・・・田村広志

この人も昭和16年生まれである。

   ■百八をこえて鐘の音(ね)なりつづく除夜この寺の山門くぐる・・・・・・・・・・前川佐重郎

この人は有名な歌人・前川佐美雄のご子息で、結社「日本歌人」を継承しておられる。
元NHKの職員であられた。鎌倉に在住であり、「寺」というのは、どこであろうか。

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     ■新年のメールのなかに救ひの手を
           待つてゐるやうな迷惑メール・・・・・・・・・・・・・・・外塚喬


インターネットの普及とともに無差別送信されるメールは急増した。
マカフィーが2010年4月から6月にかけて調査した結果では、スパムメールの1日あたり配信数は約1750億通とされている。
メール使用者にとって必要な通常のメールよりも、これらスパムがはるかに多く届くといった事態にもなり、大きな社会問題となっている。

対象となるメールや別の呼び方
これらの無差別かつ大量に一括して送信される電子メールのほとんどは広告メールで、「迷惑メール」「ジャンクメール(junk mail)」「バルクメール (bulk mail)」とも呼ばれ、
日本国内においては総務省などの省庁が使う表現に従って「迷惑メール」と呼ぶことが多い。
その大半がアダルト勧誘(ワンクリック詐欺の場合もあり、要注意)のURLが記されている。
コンピュータウイルスやワームの動作で無差別的に発信される電子メールも存在し、「ウイルスメール」と呼ばれる。
「フィッシング・メール」と呼ばれ、こちらのデータを盗もうとするものが最近は横行する。見ないで即刻「削除」するが困ったものである。
このメールに添付されるファイルは、ウイルスそのものである場合が多く、厳重な警戒が必要である。
私は目を通さない。だから知人には必ず「サブジェクト」を明記することを求めている。

語源
語源は、缶詰の "SPAM" およびモンティ・パイソンのコントから来ている。
スパムではないメールのことを、スパムに準えて"ham"(ハム)と表現することが多い。多くのアンチスパムソフトウエアでhamという表現が採用されている。

掲出した歌が、どういう状況を詠っているのか知らないが、私は「救いの手」を待っている、とは思わない。この人は昭和19年生まれ。

    ■同じ人同じ景色ぞいとおしき改まりたる年の初めは・・・・・・・・・・・小塩卓哉

この人は、まだ若い人で昭和35年生まれだという。
この歌の末尾の「改まりたる年の初めは」の部分は「倒置法」になっていて、本来は歌の頭に来るものであり、本来の歌の「結句」は「いとおしき」となる。
これは「いとおし」の「連体形」であり「連体止め」という形である。名前の通り「連体形」であるから後に「体言」が接続するが、それが省略された形である。
「事よ」とか「物よ」とかいう体言=ここでは「名詞」が来る筈のものが省略されているのであり、それによって或る「詠嘆」の趣きを表現している働きである。

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      ■あらたまのわらべ歳神よく肥えて
           まろまろ笑ふ春の日の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田はるみ


この人は岡井隆の門下で、昭和23年大阪生まれの目下、陽の当たる歌人である。短歌結社「未来」の選者をなさっている。
「招き猫」ではなくて「開運猫」と書いている。「我が家には気合を入れられた開運猫が玄関に並んでいる」という。

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      ■新しきノートにつつしみつつ記す
            一首目は能登の春潮の歌・・・・・・・・・・・・・・・三井修


ここに書かれている「春潮の歌」というのは、同じ能登半島の出身で著名な歌人・坪野哲久の歌

     春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久

のことを指している。 掲出した画像が、その歌の載る歌集『一樹』(昭和22年刊)である。

この人・三井修は以前にも採り上げたことがある。
結社「塔」所属で、アラビア語専門で、商社の中東駐在員を務めたあと、今は中東専門のシンクタンクに籍を置いている。昭和23年生まれ。短歌結社「塔」選者。
私の第四歌集『嬬恋』の出版記念会で書評をしていただいた。
また私の第二詩集『愛の寓意』の「栞」文を書いていただいた。
その後、私の第五歌集『昭和』の帯文を書いてもらった他、東京で「読む会」を開いてもらった際も万事お世話になった。ここに改めて御礼を申し上げておく。
「能登」のお生まれである。

(ここに引いた歌は、角川書店「短歌」2008年1月号の特集・エッセイ<幸運を呼ぶ>わたしのおまじない に載る文章から)




老いざまはとまれ生きざま年初め・・・安住敦
0D8254C917B44411B9085E28445CAE5D_LL犬吠埼の初日
 ↑犬吠埼の初日の出
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↑ 奈良・大神神社の「2020年」干支絵馬

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        ↑ サントリー・プレミアム 子年記念缶

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 ↑ 「晩白柚お正月飾り」

──季節の歌鑑賞──新年の句と歌─(1)

     ■老いざまはとまれ生きざま年初め・・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

ここ数年間、有名な

   去年今年貫く棒の如きもの・・・・・・・・・高浜虚子

を引いてきたが、余りにも芸が無いので、余り知られていない佳句を引いた。
安住敦は私の好きな俳人で、もう何度も句を引いてきた。 この句は老いの境地にいる私にふさわしい、と思った。

ともあれ、年が改まったのであるから、気分を新たにして生きたい。
新年の念(おもい)というのは、古来さまざまに詠まれて来た。 以下、初めに「短歌」を、次に「俳句」を採り上げる。

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    ■新しいなにかがやって来そうな日
       ほのにおやかに朝茜空・・・・・・・・・・・・・・・・加藤克己


ながらく歌壇長老だった人だが、先年亡くなった。
年が改まると言っても、虚子の句のように、時間は「棒」のように一本の貫いたものであるから、特別に感慨を新たにする必要などないのだが、
それは、こちらの気持の持ちようで、誰しも新年という区切りをつけて気分を一新したいからである。

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   ■お正月はここにきはまる角(つの)もちて
      慈姑(くわゐ)ほこつとオモダカ科なり・・・・・・・・今野寿美


「慈姑」クワイは、お節料理の定番だが、私は久しく食べていない。
亡妻も余りお節料理には加えなかった。あの独特の、ほろっとした風味は懐かしい。
写真②は、料理する前のもので、この丸い部分の皮を厚く剥いて煮る。③は調理して重箱に入れる状態。
このように、いくつかの工程の手間がかかるのである。 
今の若い人たちは、こういう作業に慣れていないし、ヒマもないので、買った「おせち料理」セットで済ますだろう。
そういうセットにも入っていない場合が多いらしい。

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    ■元日や手を洗ひをる夕ごころ・・・・・・・・・・芥川龍之介

彼は、もとより小説家ではあるが、俳句にも佳い句を残している。
今までに何度か引いたことがある。
元日の朝ではなく、「夕方」を詠んだところに、天邪鬼な彼の心が見えて面白い。
画像のものは「手水鉢」で、「手水」は「ちょうず」と発音する。京都では今でも、そう読む。
トイレの後に水を使って洗うときに「手水を使う」などと言う。

 ■元日の昼過ぎにうらさびしけれ・・・・・・・・・・・細見綾子

こういう気分を感じたことはないだろうか。

 ■元旦やふどしたたんで枕上ミ・・・・・・・・・・・・村上鬼城

余り綺麗な句ではないが、新年になったので「ふんどし」も新しいものにして、枕元に置いて寝る、というのだ。
「枕上ミ」は「まくらかみ」と読む。昔の人の句は読むのにも苦労する。
ということは、寝るときは「ふんどし」を外してあるのだから「ふりチン」で寝ているということだが、考えてみたら、そのほうが何かと便利ではある。ご放念あれ。

以下、「新年」を詠んだ句を引いて終わる。

 オリオンの楯新しき年に入る・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 年いよよ水のごとくに迎ふかな・・・・・・・・・・・・大野林火

 朝酒はせず年頭の雪つのらす・・・・・・・・・・・・古沢太穂

 ふとうかぶ一句を玉と年新た・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 年変はる他は大方変はらざる・・・・・・・・・・・・小出秋光

 あらたまの彩はこびきし緋連雀・・・・・・・・・・・・きくちつねこ

 年立つや華甲きのふと思ひしに・・・・・・・・・・・・野見山ひふみ

(注)「華甲」とは六十歳の異称である。

 未知という豊かな余白年あらた・・・・・・・・・・・・松本夜詩夫

 あらたまのこむらがへりでありにけり・・・・・・・・・・・・夏井いつき

 怒涛駆けよる残波岬の年始・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 あらたまや息災といふ宝もの・・・・・・・・・・・・小菅礼子

 願い事無き身軽さの年はじめ・・・・・・・・・・・・田所ひろし



枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・加藤楸邨
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    枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に

   わが垂るるふぐりに枯野重畳す

というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。

   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉

という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

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以下、枯野を詠んだ句を引く。

 戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶

 旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規

 遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子

 吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石

 枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎

 掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子

 土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子

 赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男

 また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦

 大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火

 つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥

 枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子

 いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾

 枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
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もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。

この私のブログは毎月最終の日付は「月次掲示板」としているので、これ以外の記事を書くことはない。
更新する日付としては、今日が終わりということになる。
「喪中」の方もいらっしゃるが、無事ご越年なさるようお祈りしたい。 では来年、また。


しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか・・・斎藤茂吉
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──冬の愛欲5態──

     ■しんしんと雪ふりし夜にその指の
        あな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉


斎藤茂吉の妻は輝子というが、輝子は斎藤精神病院の跡取り娘で、茂吉は養子である。
北杜夫などの子供をもうけているが、輝子の恋愛事件などがあって一時別居生活などをしていた。
これらのことは「アララギ」の弟子たちの伝記などで詳しく伝えられている。
この歌がいつ頃のものかなども同定されているが、いま私の手元にはないので詳しくは書けない。
今の時代となっては女性からの反発もあるが、昔は遊郭なども公認であるから「女買い」は男性の常識であって、男どもは独り身の場合は、そういうところで性の発散をしていたのである。
赤線廃止は昭和30何年かのことである。
茂吉が、そんな赤線地帯に入り浸っていたのも実証されていることで、茂吉は日記を克明に付けることでも有名で、彼自身の手でもいろいろ書かれているらしい。
私は茂吉を貶めるために書いているのではない。
何と言っても、彼・斎藤茂吉は「アララギ」の主宰者として、後継者の土屋文明と二人だけ短歌界では文化勲章受章の巨人であることは自明のことである。


この歌の対象が誰であるかの詮索は別にして「ああ、冷たい指をしているね」なんとか言いながら、女の指を暖め、愛撫しながら、愛欲の渦に入ってゆく、という情景が、よく詠まれている。

     ■火を産まんためいましがた触れあえる
         雌雄にて雪のなか遠ざかる・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆


この歌の作者・岡井隆は、ひところ前衛歌人の一翼を塚本邦雄と共に担った人である。
が、私生活では度々離婚騒動を起こしている人で、最近では、二十数年前に妻子と別れて自分の年齢とは半分も年下の30代なかばの画家の人と結婚したことで有名である。
この歌は若い頃の歌集『土地よ、痛みを負え』(昭和36年刊)に載るものである。
いきなり読んで誰の心にもすんなり入ってくる、という歌ではない。
二人の性的接触が精神的側面と不可分のものとして捉えられているため、歌の中で「比喩」の占める比重が、ひときわ大きくなっているからである。
「火を産まんため」とは、まさに激しい性の焔を意味すると同時に、精神的な意味での、ある創造的な焔をも意味しているだろう。
しかも作者は肉体的・官能的側面に、むしろ固執しており、そこから「雌雄」という語も出てくる。
内から突き上げる官能の衝動への賛美の念が根底にあるのだ。

     ■目瞑(つむ)りてひたぶるにありきほひつつ
        憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻・・・・・・・・・・・・宮柊二


この人も北原白秋門下にあって、のち白秋亡きあと独立して短歌結社「コスモス」を興して大きな組織に育てあげた人である。
この歌も若い頃のことを詠ったものである。はじめの恋人との交流を詠っている。
その君は、今や他人の妻となってしまった、という歌である。
「ひたぶるにあり」「きほひつつ」というくだりに、若い恋人どうしのひたむきな愛欲が詠まれている。

     ■夢のなかといへども髪をふりみだし
        人を追ひゐきながく忘れず・・・・・・・・・・・・・・・大西民子


この歌も有名な歌であり、彼女の場合は、夫が彼女を捨てて他の女に走った。
彼女は彼のことが忘れられず、数々の歌を詠っているが、この歌は、その中のひとつ。
彼女は奈良女子高等師範の出身で、卒業後東京近郊で教師をしていた。
木俣修門下の重鎮として大きな結社を支えていた。
木俣修も北原白秋門下であった。白秋亡きあと結社「形成」を主宰していた。

     ■わがためにひたぶるなりし女ありき
         髪うつくしく夜にはみだれき・・・・・・・・・・・・・・岡野弘彦


この人も現代歌壇を担っているひとりである。国学院大学で釈迢空(折口信夫)の門下として晩年の彼に身近に仕えた人である。
この人には、こういう女人のことを詠った歌が多い。齢90を超えた歳になっても、若い乙女との愛欲にまつわる幻影的な歌を作っている。
「夜にはみだれき」というくだりなどは、かなり際どい表現と言えるだろう。
その岡野氏だが、角川「短歌」誌2018年一月号に載る岡野氏の文章によると三年越しに看護された令夫人を喪くされたという。合掌。

ここに挙げた人たちは、現代歌人として著名な人たちであるが、文人らしく、赤裸々とも思える表現で「愛欲」を詠んでいる。
これこそ文学の徒として必須の態度であろう。


降る雪や明治は遠くなりにけり・・・中村草田男
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    降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な作品である。
今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多いだろう。
この句の由来は、昭和6年、草田男が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校・青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
しかし、推敲された「降る雪や」の方が、ずっといい。
「雪は降り」では、雪の降る動きは示せても、下の句につながるだけで趣は出ない。
「降る雪や」と切れ字「や」と置いて、一旦ここで一拍おいたために、中7下5の叙述の印象が一段と深くなる作用をしている。
「降る雪や」という上句が「明治は遠く」という中7に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密というか工夫があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、或るういういしい感慨の所在が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。(昭和11年刊『長子』所載)

「明治は遠く」に関していうと、句が作られたのが昭和6年ということは、大正15年プラス5年(大正15年と昭和元年は重なる)で、合計20年である。
「一昔」という年月の区切りはほぼ10年と言われているから、まさに「二昔」(ふたむかし)と言えるだろう。
今年、「令和元年」は、平成の年号が終ってほぼ三昔強になるので、この頃では「昭和は遠くなりにけり」などと言われるようになってきた。歳月の経つのは早いものである。

雪の降り方には、北と南では、全くちがうのである。
北国では西からの低気圧と寒気によって降雪が起こるのに対して、太平洋岸に雪が降るのは、俗に「台湾坊主」という低気圧が南岸を東進するときに、北から寒気が進入して雪を降らせるのである。
雪片も大きく、水分をたっぷり含んだ重い雪でベタ雪であって送電線などの倒壊などの被害をもたらす。
そんな時期は真冬というより晩冬、春先に多い。2.26事件の日の大雪などが、そうである。

日本の古来の美意識では「雪・月・花」と言って、文芸における三大季題となっている。
言うまでもないが「花」=「桜」であることを指摘しておきたい。
そんな訳で「雪」を詠んだ句も多い。

 馬をさへながむる雪の朝かな・・・・・・・・芭蕉

 市人よ此の笠売らう雪の傘・・・・・・・・芭蕉

 撓みては雪待つ竹のけしきかな・・・・・・・・芭蕉

 箱根越す人も有るらし今朝の雪・・・・・・・・芭蕉

 我がものとおもへばかろし笠の上・・・・・・・・其角

 下京や雪つむ上の夜の雨・・・・・・・・凡兆

 心からしなのの雪に降られけり・・・・・・・・一茶

 むまさうな雪がふうはりふはりかな・・・・・・・・一茶

 是がまあつひの栖か雪五尺・・・・・・・・一茶

 雪ちらりちらり見事な月夜かな・・・・・・・・一茶

などの名句がある。明治以後の句は、また後日。


雪の日の浴身一指一趾愛し・・・橋本多佳子
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↑ オーギュスト・ルノワール「横たわる浴女」(1904年)

──冬の浴女三題──

     ■雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し・・・・・・・・・・橋本多佳子

橋本多佳子は東京生まれだが、九州出身の橋本豊次郎と結婚して小倉に住んだ。
早くに夫と死別して、晩年は奈良に住まいした。
昭和38年に死去したが、晩年の多佳子をよく知る近藤英男先生によると、きれいな人であったという。
平井照敏の書くところによると多佳子は「命に触れたものを的確な構成によって詠いあげ、独自の句境に至っている」という。
「指」は手の指のこと、「趾」とは足の指、のことである。
この句は、女の「ナルシスム」とも言うべき艶やかなリリシスムに満ちている。
こういう表現は、それまでの女流俳句にも無かった句境であった。女の「命」の美しさ、はかなさ、いとほしさ、などをみづみづしく詠いあげた絶唱と言える。
この句は晩年の句集『命終』(昭和40年刊)所収。


   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この句も、有名な句で多佳子の代表作として、よく引用されるものである。
この句も、死別した夫との愛欲の日を思い出して作られた句だと言われている。
多佳子の句は、このように愛欲に満ちた日々を回想しながらも、赤裸々な表現ではなく、控えめな、抑制された句作りであるから、読者にほのぼのとした読後感を与えて、すがすがしい。
この句は『紅糸』(昭和26年刊)の作で、この頃、すでに夫は死去している。同じ句集に

   ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

という句があり、この句なども「いのち」「生命」「エロチスム」というものを読後感として感得することが出来る。
こういう句作りこそ、多佳子の真骨頂だった。


  ■窓の雪女体にて湯をあふれしむ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

桂信子は大阪の人。
この人も早くに夫を亡くしている。多佳子とは違った面からだが、女体の「艶やかさ」を詠い上げた人であった。つい先年お亡くなりになった。
この句は句集『女身』(昭和30年刊)に載るもので、橋本多佳子辺りが先鞭をつけた「女の命」を詠う軌跡に則した流れというべきか。

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 ↑ ルノワール「岩の上に座る浴女」(1882年)

桂信子の、この頃の句に

 ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 やはらかき身を月光のなかに容れ

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき


などの句があり、いずれも女の命のリリシスムを詠いあげている。


夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・安住敦
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     夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

モーリス・ユトリロMaurice Utrilloは1883年12月26日にパリのモンマルトルに生まれた。母はスザーヌ・ヴァラドン、父のボァシヨーはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。
1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。
その後、母の住んでいたモンマニーで学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。
17、8歳の頃から飲酒癖が始まり、1901年にはアル中症状を起こして医療を受けた。
母は、その治療目的で彼に絵を描くことを教えた。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って印象画派に入った。
1907年に彼のいわゆる「白の時代」が始まることになる。
サロン・ドートンヌに出品したのは1909年が最初である。
年譜を見ると、その後、アルコール中毒症状で精神に錯乱をきたしたりして、精神病院に入れられたりして、その都度、母ヴァラドンは苦労したらしい。
51歳のとき、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚したが、これも母の肝いりであるが、ユトリロは年上の妻を母のように慕い、酒に溺れることもなく、ひたすら絵を描いて、しかも絵は高い値で売れたので、心身ともに安定した。
レジオン・ドヌール勲章という最高の栄誉まで貰って1955年に亡くなったが、72歳という、若い頃や中年のアル中の時期には考えられないような歳まで生きたのだった。
ユトリロの絵は、今でも結構人気があるらしい。

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 ↑ 母親シュザンヌ・ヴァラドンによるモーリスの肖像画(1921年)

私はユトリロには詳しくないので、掲出した絵がどこの風景なのか判らないが、見えているのは、モンマルトルの「サクレクール」寺院ではなかろうか。とすれば、モンマルトル風景ということになる。
安住敦の句は、おそらく「ユトリロ画集」かなんかだろう、見ていた画集を書庫に仕舞いにゆく景だろう。
今日が彼・モーリス・ユトリロの誕生日ということなので、日付に合わせて載せてみた。

明治以後の「雪」を詠んだ句を引いて終わりたい。

 舞ふ雪や一痕の星残しつつ・・・・・・・・藤森成吉

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く・・・・・・・・飯田蛇笏

 外套の裏は緋なりき明治の雪・・・・・・・・山口青邨

 雪に来て美事な鳥のだまりゐる・・・・・・・・原石鼎

 落葉松はいつめざめても雪降りをり・・・・・・・・加藤楸邨

 みづからを問ひつめゐしが牡丹雪・・・・・・・・上田五千石

 馬の眼に遠き馬ゐて雪降れり・・・・・・・・中条明

 雪の水車ごつとんことりもう止むか・・・・・・・・大野林火

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな・・・・・・・・石田波郷

 病む夫にはげしき雪を見せんとす・・・・・・・・山口波津女

 深雪に入る犬の垂れ乳紅きかな・・・・・・・・原子公平

 狂へるは世かはたわれか雪無限・・・・・・・・目迫秩父

 雪あかり胸にわきくるロシヤ文字・・・・・・・・古沢太穂

 雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・森澄雄

 雪明りゆらりとむかし近づきぬ・・・・・・・・堤白雨

 雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし・・・・・・・・平畑静塔




黄落を振り返り見る野のたひら野はゆく年の影曳くばかり・・・木村草弥
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     黄落を振り返り見る野のたひら
        野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
本年も師走終盤に突入して、はや旬の半ばを越えた。
辺りを見回してみると、落葉樹の木々はあらかた葉を落とし、先日までは赤や黄の「紅葉」をつけて照り映えていたのが、足もとにたっぷりと落葉の絨緞を敷き詰めたようになっている。
おかげで、野末は見晴らしがよくなって木々の根元まで陽が射すようになった。
「冬至」も先日22日に済んで、一年中で一番昼が短く、夜が長い頃である。

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「紅葉散る」というのが「冬」の季語である。
紅葉し、かつ散り始める晩秋から、紅葉散るの冬へ、季節は確実に動いてゆく。美しく散り敷くこともあり、土まみれになって貼りついていることもあり、
紅葉の在りようも、人生に似て、さまざまである。
写真は「散り敷く」紅葉である。これらはネット上で、piita3氏のページから拝借したものであり、場所は京都郊外の「勧修寺」である。
ここに名を記して御礼申し上げる。

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『夫木和歌抄』に

  秋暮れし紅葉の色に重ねても衣かへうき今日の空かな

という歌があるが、これは初冬の紅葉を詠ったものである。秋用の衣から、冬用の着物に「衣替え」するのも、憂いことである、と詠まれている。
昔の人は、こういう「痛ましい」感じのもの、「あわれ」の思いの強いものに拘ったのであった。
『古今集』に

  山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり・・・・・・凡河内 躬恒

という歌があるが、落葉となる紅葉のはかなさが中心のイメージと言える。

 夕映に何の水輪や冬紅葉・・・・・・・・渡辺水巴

 冬紅葉冬のひかりをあつめけり・・・・・・・久保田万太郎

 美しく老ゆるも死ぬも冬紅葉・・・・・・・松井草一路

などの句は「冬紅葉」という季語の名句といえるだろう。
以下、「紅葉散る」「木の葉」などの句を引いて終る。

 紅葉散るや筧の中を水は行き・・・・・・・・尾崎迷堂

 尽大地燃ゆるがごとき散紅葉・・・・・・・・赤星水竹居

 紅葉散るしづけさに耳塞がれつ・・・・・・・・岡田貞峰

 今日ありてかたみに紅葉ちるを踏む・・・・・・・・藤野基一

 木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ・・・・・・・・加藤楸邨

 木の葉散るわれ生涯に何為せし・・・・・・・・相馬遷子


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