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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・細見綾子
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     山茶花は咲く花よりも散つてゐる・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子

私の家の前栽の生垣の一番西の端にあるサザンカが咲き始めた。4、5日前から咲きはじめたと思ったら、もう一斉に咲いて満開に近い。
サザンカにも遅速はあり、この木は例年一番早い。亡妻などは「あんまり早く咲きすぎる」と文句を言っていた。
というのは今なら菊などの花の彩りもあるからで、冬が深まって周りに花の色がない時に咲いてほしい、という願いである。
サザンカは「山茶花」と書くが字の通りに発音すれば「サンザカ」となるが発音し難いので、いつしかサザンカとなったという。
原産地は日本で、学名を Camellia sasanqua というが、ここでも日本の発音通りの命名になっている。
椿科というけれど椿との違いは、ツバキは花が落ちる時にはボテッと全部一緒に落ちてしまう(このことから斬首刑を連想するのか、武士は椿の花を嫌ったという)が、
サザンカは花びらが一枚一枚づつばらばらに落ちる。
サザンカは長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師ツンベルクがヨーロッパに持ち帰り西欧で広まったという。
なお、学名の前半の Camellia は椿のことで17世紀にチェコスロバキアの宣教師 Kamell カメルさんの名に因むという。
サザンカはさまざまに改良され、もともとは5弁の茶の花に似ている花だったが今では色も花弁の枚数も多様である。

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写真には色々のものを載せてみた。
和漢三才図会』には「按ずるに、山茶花、その樹葉花実、海石榴(つばき)と同じくして小さし。その葉、茶の葉のごとく、その実円長、形、梨のごとくにして微毛あり。・・・・・およそ山茶花、冬を盛りとなし、海石榴の花は、春を盛りとなす」とある。
的確な表現である。なおサザンカは正式には「茶梅」と書いて「さざんくわ」と読むのが正しいという。
サザンカは茶に近いものであるから、この説は了解できる。

ここでネット上に載る記事を引いておく。
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サザンカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サザンカ

分類
界: 植物界 Plantae
門: 被子植物門 Magnoliophyta
綱: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目: ツバキ目 Theales
科: ツバキ科 Theaceae
属: ツバキ属 Camellia
種: サザンカ C. sasanqua

学名
Camellia sasanqua
和名
サザンカ
英名
Sasanqua

サザンカ(山茶花)は、ツバキ科の常緑広葉樹。秋の終わりから、冬にかけての寒い時期に、花を咲かせる。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は赤から白まで様々である。童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)の歌詞に登場することでもよく知られる。漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。

自生地
日本では野生種は山口県から九州および四国、沖縄である。なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャは温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である。

品種
園芸品種は花の時期や花形などで3つの群に分けるのが一般的。サザンカ群以外はツバキとの交雑である。

サザンカ群
サザンカ Camellia sasanqua Thunb.

カンツバキ群
カンツバキ (寒椿) は、サザンカとツバキ C. japonica との種間交雑園芸品種群である。

カンツバキ Camellia sasanqua Thunb. ’Shishigashira’(シノニムC. x hiemalis Nakai,C. sasanqua Thunb. var. fujikoana Makino)

ハルサザンカ群
ハルサザンカ Camellia x vernalis (Makino) Makino
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サザンカは古来よく詠まれて来た花で芭蕉一門の連句などにも、よく登場する。
以下、サザンカを詠んだ句を引いておく。

 霜を掃き山茶花を掃く許りかな・・・・・・・・高浜虚子

 無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨

 花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎

 山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城

 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨

 山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・橋本多佳子

 山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子

 山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作

 白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路

 山茶花の落花並べば 神遊び・・・・・・・伊丹三樹彦

 さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・久保田万太郎

 さざん花の長き睫毛を蘂といふ・・・・・・・・野沢節子

 不忠不孝の人山茶花の真くれなゐ・・・・・・・・飯島晴子

 山茶花の咲きて病ひの淵に入る・・・・・・・・保坂敏子


へそまがり曲りくねつてどこへゆく抜き差しならぬ杭の位置はも・・・木村草弥
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    へそまがり曲りくねつてどこへゆく
        抜き差しならぬ杭(くひ)の位置はも・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌も具体的な「杭」というのではなく、「抜き差しならぬ杭」という表現で、人生における「ままならぬ」ことどもを「心象」として表現したものとして受け取ってもらえば有難い。
この歌も私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
自選50首にも採っているので、WebのHPでも、ご覧いただける。
私の歌では単なる「杭」だが、そんな写真はないので南紀・串本の「立杭岩」を掲出しておく。

Web上で「杭」と検索すると、圧倒的に多いのが建設業界のサイトであり、その中でも「中国語」のサイトが多いのが目につく。
こういう「杭」のような単純な加工品では労賃の安い中国の優位が目立ち、売り込みのサイトなのであろうか。

「杭」というものは、例えば牧場などの境界を区切るものとして、また農作業では支柱を立てたりするときの「杭」として必要なものである。
そのような「杭」の置かれた立場として、時として「抜き差しならぬ」という場面が出てくるもので、昔の人も、そのような立場を「抜き差しならぬ」という慣用句として確立したのである。
それは、単なる「杭」の位置を離れて、人生一般についての「譬え」として広く用いられるに到るのである。
私の歌も、そういう類の「隠喩」として捉えていただくと有難い。

今しも建物を支える「地中杭」のことが大問題になっている。私の方でも鉄筋の建物を建てたときに十数本のパイルの杭を打ったことがある。
また、 イタリアのベネチアは湿地帯に出来た街なので泥の中に太い木の杭を無数に打って建物を支えていることは、よく知られている。
このように「杭」というのは重要なものなのである。


死後は火をくぐるべき我が躯にあれば副葬の鏡に映れ冥府の秋・・・木村草弥
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    死後は火をくぐるべき我が躯(み)にあれば
          副葬の鏡に映れ冥府(よみ)の秋・・・・・・・・・・・・・木村草弥


余り明るい、楽しい歌でなくて申訳ないが、この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので自選歌のなかにも収録しているのでWebのHPでもご覧いただける。
一般受けする歌ではないが、心ある人たちからは好評であった。私自身も好きな歌である。

写真①には私の住む近くの木津川市の椿井大塚山古墳出土の「三角縁神獣鏡」を掲げてみた。
我々が死ぬと日本では通常「火葬」いわゆる「荼毘」(だび)に付される。
これはインド伝来の死体の処理方法であるが、ここで「火」というものの「神聖さ」が表れているように思う。

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写真②は「那智の火祭り」であるが、これは神事に関係する「火」の浄らかさの表現である。
これに対する火葬の「火」もまた、人間の肉体処理についての「浄化」の思想の表現である、と言われている。
インドへ行ったことのある人なら、ガンジス川の畔での火葬の光景を目にしたことがあろう。
ここでは「火葬」を巡っても身分差別、貧富による死体の扱い、火の入れ方の違いに直面することになるが、今は、それは置いておこう。
シンボル、イメージの世界では、「骨」は死後も滅びないので復活の象徴とされている。
ローマ・カトリック教会(バチカン)が今なお火葬に反対しているのは、一つにはこのためであり、また原始的な社会の殆どでは、骨に同様な象徴的な意味を認めている。

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写真③はインドのクシーナガルの釈迦の入滅の地の「荼毘塚」と呼ばれるラマバル塔である。
写真④の説明を先にしておくと、ここでは線香、花など参拝のあとがうかがえる。

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お釈迦さまの最期だが、クシーナガルに着いた釈迦は、アーナンダに、こう言う。

さあ、アーナンダよ。私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

いわゆる「北枕」で横たわるのだが、中村元先生が、インドの或る知識人から聞いたところ、頭を北にして寝るというのは、インドでは今日でも教養ある人の間では行なわれているという。
北枕で右脇を下にして西に向かって臥すというのは、インドでも最上の寝方とされるようである。
釈迦の最期の言葉は

<さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」

この言葉には「万物流転」という真理が簡潔に表現されている。仏教のあまたの教義は、この単純な言葉に集約されている、と言っても過言ではないと思う。

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「荼毘」に関連するものとして写真⑤に大阪市浪速区元町1丁目にある「鉄眼禅師荼毘処地」の石碑を掲げておく。
鉄眼は寛永7年(1630年)肥後の生まれ。13歳で出家。明の僧「隠元」の来日に遇い、明暦元年(1655年)その門に入り黄檗宗の熱心な布教者となった。
また「一切経」の完全な開版を志し、喜捨を求めて全国を歴訪し、10年余の苦心の末、延宝6年(1678年)に版木6万枚の完成をみるが、その間、延宝2年の大坂の洪水、天和2年の全国的な飢饉の時など、折角の喜捨を全て、その救済にあてた。天和2年過労のために53歳で没した。
なお「一切経」の版木は本山の宇治の万福寺に収蔵されている。偉い人がいるものだ。

帚木蓬生『受命』・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・・初出Doblog2007/11/17──

     帚木蓬生『受命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・角川書店2006年6月刊・・・・・・・・・・

今度は、集中的に読んでいる帚木の表題の小説である。
はじめにWebKADOKAWAに載る同社の紹介記事をそのまま転載しておく。
作者へのインタビューも載っている。
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日系ブラジル人医師、津村リカルド民男は、北京の国際学会で平壌産院の許日好(ホ・イルホ)と知り合い、北朝鮮に知識と技術を伝え、指導して欲しいと熱心に勧誘される。返事を保留した津村は、その後、旧友のいる延吉(イェンチー)を訪れる。そこは、中国東北部、豆満江(トマンガン)を境に北朝鮮と隣り合う朝鮮族自治州。旧友の車世奉(チャ・セボン)は脱北者を支援するNGO活動を行っていた。津村は、車世奉にガイドされ、川向こうの国を眺めているうちに、招聘医師として北朝鮮に行く決意を固める。北園舞子は、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーの庶務課で働いていた。北朝鮮との強いパイプがある会長の目にとまった舞子は、万景峰(マンギョンボン)号に乗船して会長とともに元山(ウオンサン)に向かう。ツアー・コンダクターの寛順(カンスン)は、亡くなった恋人の弟・東源(ドン・ウオン)とともに、中国国境から北朝鮮への潜入を敢行する。三者三様の北朝鮮入国。だが、彼らの運命が交錯するとき、現代史を塗り替える事件が勃発する。国際サスペンス書き下ろし1000枚。
1947年、福岡県生まれ。東大仏文卒後、TBS勤務の後、九大医学部卒。現在、精神科医。93年「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、95年「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、97年「逃亡」で柴田錬三郎賞受賞。他に「受精」「国銅」「薔薇窓」「エンブリオ」「千日紅の恋人」などがある。

●日曜作家の平日
─このたび、新刊『受命』が刊行されました。昨年八月に『千日紅の恋人』を出されてから十カ月。平日は夕方まで精神科医としてのお仕事もありますし、また、一千枚強の枚数を考慮しますと、非常に速いペースではないかと思いますが、いかがでしょうか。
帚木 いえいえ。だいたい年に一作ですからね。枚数も一日四枚程度。例年一千枚ぐらいは書きますから、普通のペースではないでしょうか。

─ 一日の生活のリズムは、どんな感じでしょうか。
帚木 四時に起床して五時まで執筆して、その後、お風呂に入ったり、朝食をとったり、ジョギングしたりして、それから出勤するまでに、また一時間くらい執筆することが多いです。二時間ありますから、四枚は書けますね。

─クリニックを退勤した後、夕方から夜にかけてはいかがですか。
帚木 クリニックは五時に終わりますから、帰宅して夕食をとり、執筆はせいぜい一時間くらいです。疲れているときは、三十分くらいで、八時には寝るようにしています。本職はやっぱり精神科医ですから、まあ、日曜作家のように書いているというところでしょうか。

─この作品の構想から脱稿までは、どんな流れだったのでしょうか。
帚木 九二年に『三たびの海峡』で朝鮮半島のことを書いていましたし、いつかまた書かなければいけないという気持ちは、以前からありました。ただ、北朝鮮の傍若無人というか、言語道断で理不尽な国をきちんと取り上げる必要があるなという気持ちを持ったのは、もっと後のことでしたが。五年くらい前から資料集めを始めて、これなら行けるという感触があったのが三年くらい前でしょうか。また、『受命』は角川書店から刊行された『受精』のシリーズ作品ですから、シリーズとしての制約もあります。それと組み合わせてできるようになったのが二年前くらいです。執筆には、去年丸々一年間かけました。

●北朝鮮の取材旅行
─平壌の街の様子や田舎の自然描写など、読みながら眼前に映像が浮かんでくるようでしたが、北朝鮮に取材旅行はされたのでしょうか。
帚木 昨年、執筆している間は行けなかったのですが、北朝鮮には、この四年の間に三度行っています。もちろん作品に出てきたところ全部は歩けなかったですけど、平壌、元山、開城と見て回りましたので、行けなかったところも、だいたいこんな感じかなというイメージをつかむことはできました。

─北朝鮮には、どのようにして入られたのですか。
帚木 旅行会社のツアーに普通に申し込んで、北京から飛行機で入りました。その旅行会社に応募すれば、犯罪とか怪しい組織に加わってなければ行けるんじゃないんでしょうか(笑)。何も問題はなかったですから。しかし『受命』刊行後は、要注意人物となって入国できないでしょう。

─北朝鮮ツアーの印象はいかがでしたか。
帚木 一言で言うと、お仕着せの旅行ですね。観光バスに乗って、主体思想塔や革命博物館などお決まりの見せなければならないコースを回らせられるという感じです。街には看板が一切ないし、スケジュールが途中で変更されます。ツアーで実際に回るコースを最後まで観光客に知らせないというのも向こうの手ですね。そのため、こちらはずっとついていくしかない。写真を撮るのもダメです。ツアーガイドがどこへでも必ずついてきて、単独行動はできないですね。このあたりのことは『受命』に書いてある通りです。

●変化する日朝関係
─『受精』の刊行が一九九八年になります。それから八年の間、日朝関係が随分変わりましたが。
帚木 そうですよね。八年前は北朝鮮のことは、それほど頭にはなかったです。拉致が判明したのが四年前ですが、やっぱりあのあたりからですね。これはとんでもない国だということが分かってきた。そのうえ核査察も拒絶していた。さらに、だんだん脱北者が増えてきて、あの国が見え出してきたということもありますね。それでこれはもう放っておけない、これを題材にしなくては、作家としていけないんじゃないかという気がしました。それは前に『三たびの海峡』を書いているからではなくて、世界にとって北朝鮮の現状は最も憂慮すべき問題ですから。これが本当の意味での動機です。ただ、角川書店での発行ですし、前作『受精』との結びつきは、課題としてどこか頭の隅にはありました。ようやく結びつくと思ったのが二、三年前ですね。取材もそれで本格化してきました。

─拉致問題が明るみに出たのが二〇〇二年九月。このとき、小泉首相が訪朝し、北朝鮮の指導者が正式に認め、謝罪したわけですが。
帚木 そうですね。でも、拉致問題は昔から囁かれてはいましたよね。それを日本政府は否定してきた。被害者の家族たちの訴えはずっとあったのです。これは日本の暗部でもあるのです。この問題が出てはっきりしたことは、北朝鮮という国は、絶対に見過ごしてはいけない国だということです。ところが、韓国は北朝鮮のほうを見ないようにして生活していますし、中国は北朝鮮に存在してほしいという腹があります。それから、米国も強硬な態度を見せてはいますが、この地球上から北朝鮮がなくなっては困るというところもあるのではないでしょうか。そのへんの力学みたいなものも、小説の中でちゃんと整理したいという気持ちがありました。

─ここへきて、韓国政府もようやく動き出した様子です。横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者かどうか、DNA鑑定を行い、きわめて可能性が高いと認めました。
帚木 韓国の拉致被害者は、五百人はいるといわれていますが、それがやっぱりうやむやにされてきました。いうなれば北朝鮮というライオンを前にして立ちすくんでいるネズミかなにかの状態が、韓国ではないでしょうか。強いことが言えないですしね。金大中前大統領の「太陽政策」もその表れで、聞こえはいいですが、要するにご機嫌取りだったということではないでしょうか。

●多角度からの視点
─さて、作品の内容にふれていただきますが、北京での国際医学会で津村が北朝鮮の平壌産院にスカウトされる冒頭のシーンに続いて、津村が延吉に赴きます。
帚木 北朝鮮と国境を接している中国のあのあたりは、延辺朝鮮族自治州といって六市二県から成っています。

─中国の東北部に日本の九州より大きな朝鮮族自治州があること自体、驚きでした。
帚木 中国には朝鮮族が二百万人いますが、そのうち半数近くがこの地域に集中しています。昔は国境もなかったに等しいわけで、脱北者が出始めて監視が厳しくなるまでは、自由に行き来していたのではないでしょうか。今はもう寸断されている形ですが。

─実際にご覧になられたのですか。
帚木 延吉には一度行きました。国を隔てる川の幅が狭いから、向こう側の建物も見えるぐらいです。

─作中でも津村が川の向こうにある北朝鮮を眺める場面がありました。
帚木 表向き、張りぼてを並べて、本当に劇場国家みたいです。ショーウィンドウだけを見てるという印象でした。

─津村は延吉に赴いて、脱北者を支援するNGO活動を行っている車世奉に案内されるのですが、この車世奉という人物は中国に対してものすごく批判的ですね。
帚木 作中にも書いてますが、中国と北朝鮮を隔てるあの壁さえなくせば、北朝鮮は間違いなく崩壊します。自由にあそこから出入りができるようになれば、かつての東欧がそうであったように、どんどんそこから人々が流出しますからね。ところが、中国はそうさせない。そして、難民を難民として認めていない。まったくとんでもない話ですが、そんな国が国連の安全保障理事会の常任理事国をやっているのです。それから、今年、北朝鮮の指導者が特別列車に乗って広東あたりまで行ったのを、中国は手厚くもてなしている。旧正月前の民衆が最も忙しい時期に、極悪非道の指導者をあんなふうに手厚くもてなすなんて、もう本当に狂気の沙汰だと思います。それぐらい、中国としては北朝鮮に、現体制のまま存続してほしいということではないでしょうか。

─脱北者を北朝鮮に引き渡す、その一点に中国の本質があると車世奉に言わせています。とても印象に残りました。
帚木 絶対にそうです。この一点をもって推して知るべしです。やっぱり真実というのは、そんなに複雑なことではない。一つのことが分かれば、あとは全体が見えてくるのではないでしょうか。韓国の立場もそうだし、中国の立場もそうだし、アメリカの立場もそうです。たとえば、北朝鮮がなくなれば、日本も韓国も脅威を感じなくなり、アメリカ軍は不要になってしまう。そうさせたくないのがアメリカの立場ではないでしょうか。そういう意味では、この小説を執筆しながら配慮したのは、いろんな視点から北朝鮮を見つめるということでした。一つは、今お話に出た車世奉。これは中国側からの視点。また東源と寛順は韓国側からの視点。朝鮮総連に尽くした平山会長は在日朝鮮人としての視点です。ブラジル国籍を持つ主人公の津村は、より第三者的な目で北朝鮮を観察しますし、平凡な日本人女性の舞子もそうです。

●地に落ちた理想主義
─北朝鮮の外部からもそうですが、内部からも観察者の目が光っていました。たとえば姜将軍は、生き証人のようにこの国の歴史を見続けてきました。
帚木 姜将軍は七十代で、やっぱり建国時の朝鮮のよさを知っている世代ですからね。新しい国が戦いの後に生まれるという期待を抱いて、エリートの軍人になっていったはずですけど、途中で変質してしまった。当初の理念はこんなふうではなかったという思いは強い。そして、だんだん世代を重ねるにつれて貧しくなってゆくのを感じ出した世代ですね。そのうえ知性もあるし、理性もあったから、このままではいけないということは、肌で感じていたはずです。

─建国時の朝鮮のよさという言葉が出てきましたが、作中では先代の指導者が政権の座に就いたときから、民衆を欺く虚偽があったと書かれておりましたが。
帚木 たしかにそうですが、そのこと自体はみんな最初は知らない。それに先代の指導者には、やはり初代なりの理想主義があったのではないでしょうかね。やっぱり初代ですから物笑いにはされたくない。そう思って必死にやってきた面はあるのではないでしょうか。ところが、二代目になると、それがもう上辺だけの、劇場だけの、少数生き残りの政策に、まさしく変質してしまったということですよね。

─食料の配給を止めたというのが象徴的です。
帚木 九〇年代に入った頃から、配給が止まり出したのではないでしょうか。二代目は現実的には八〇年代に実権を握っていましたから。もちろんそういう情報は父親には隠蔽していた。やはりこうなってしまったのは、失政が原因でしょうね。農業政策を後回しにして、工業一辺倒になりましたし、上辺の数字だけを合わせればいいような政策ですからね。配給をストップして自給しろと言われても工場の機械を売るしかない。売れば工場では何もできないですしね。

─北朝鮮に潜入した東源と寛順を誘導する康春花は、身分の低い一庶民の視点から北朝鮮の国情をつぶさに語っていますね。
帚木 生理用品もない、口紅もない、化粧品はイワシの臭いがするとかですね。女性が美しくありたいのに、スカーフもろくに手に入らない。靴だって。

─こんなのは国じゃないと、康春花に言わせています。
帚木 そのように多角的に、外側からも内側からも見て、やっぱり辻褄が合ってしまうということですね。その辻褄というのは、非道なことが行われている国だということです。それも一人の指導者によって。一般国民は自由を奪われ、何もできないようにされている国。これを書かずにはおられないですよ。やっぱり作家として。

─ともすると敬遠してしまいがちなテーマですが、まさに帚木さんならではのお仕事と感じました。
帚木 まあ、そんなことはないですが。ただ、家族とか恋愛とか、そういうものも大切ですが、私にとっては、このテーマを放置して、他のテーマというのはないですね。アメリカ人の作家には書けないし、ましてや韓国人の作家には書けない。また中国人の作家にもそこまでの資料調べはできないでしょうしね。そういう意味では日本人の作家が一番いい位置にありますしね。

●日本と韓国のヒロイン
─ところで、前作『受精』に登場したヒロイン、舞子と寛順が『受命』でも再登場します。彼女たちは恋人を失った後、ブラジルのサルバドールの病院に行って、非常に辛い思いをして帰国するという共通の過去を背負っています。舞子は、その後、在日朝鮮人の平山会長が経営するスーパーチェーン店の庶務課で働き、たまたま路上でうずくまっている会長を救護したことが縁で、万景峰号に乗船することになります。『受精』からの読者には待ちに待った舞子の登場という感がありますが。
帚木 私はいつも続編を書くときは、数年の間隔を経て書くわけですけど、前作の登場人物にまた会えたなという嬉しさはありますね。続編ですから、たしかに制約はありますけど。ただ、登場人物が、生きてたんだね、懐かしいねという感じで筆が進んでいく続編のよさというものを感じます。

─舞子は会長から一緒に北朝鮮に行かないかと誘われますが、一旦は迷います。彼女の背中を押したのは何だったのでしょうか。
帚木 やはり津村が平壌の病院にいるというのが大きかったですね。津村は『受精』でも助けてくれた恩人だし、恋人を失った傷はそう簡単には癒えないわけで、それがようやく四、五年経過して癒えてきて、二人が互いに接近してゆく素地が揃ってきたということでしょうね。

─寛順の場合は、いかがですか。
帚木 亡くなった恋人の弟が北朝鮮に潜入すると聞いて、寛順としては心が動かないわけはなかったでしょうね。恋人の面影を残してますし、自分の弟のように思って面倒を見てやりたいという気持ちがあった。東源と寛順は、いわば東振(東源の兄)という太い絆で結ばれています。

─今後、津村と舞子、寛順と東源の関係がどう進展していくか非常に興味深いです。
帚木 そうですね。ですが、今は全力投球を終えたところで、その先を思いやる元気はありません(笑)。また数年すると、力が湧いてくるかもしれません。
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私の下手な要約や解説よりも、作者じきじきの、この文章の方が、はるかに判りやすい。
ただ、この紹介記事には、読者に「結末」をさらけ出すことは避けているので、結末は判らない。
少しだけ書いておくと「将軍様」一家はボツリヌス菌を醤油に入れられて絶命する。
このプロットが、現実には、今後どう展開するか。小説と現実の政治の世界とは違うから誰にもわからないと思う。小説だから、サブの登場人物は、みな死んでしまった。
これが創作という「虚構」のいいところである。
ほぼ一日かけて読了したが、いつもながらお見事な文章力とプロットである。
ぜひ、ご一読を。


帚木蓬生『臓器農場』 ・・・木村草弥
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──新・読書ノート──初出・Doblog2007/11/16

     帚木蓬生『臓器農場』 ・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮文庫(初版1993年)・・・・・・・・・・

先日来、この著者の本を集中的に読んでいるので、今回は、これを採り上げる。
著者は、東大仏文科からTBS勤務ののち、九大医学部に転身し、精神科の医者のかたわら、医療を通して現代に生きるということを問う一連の小説を執筆している。
『臓器農場』は、九州のとある総合病院を舞台とした、臓器移植をめぐっての医者や看護婦、患者の葛藤を描き、医療の暗部を剔りだしたサスペンス小説である。無脳症の胎児から臓器を移植し、難病の子どもたちを救う。誰もが反論できないような人助けの医療行為。しかし、そこでは無脳症の胎児の「いのち」はまったく顧みられることはなかった。 この小説が書かれたのち、脳死は人の死という法案が国会を通過した。
私たちにとって親密な人の死を、国家によって、あるいは専門家によって一方的に線引きされることに、多くの人は違和感を覚えるだろう。この小説は、医学の専門家である著者の知見を生かしながら、人を救う努力が人を排除することにつながる現代の医療のアポリアを見事に描いている。

ここでネット上に載る或る読後記事を引いておく。
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主人公規子が、初めて勤めだした病院では、子供への臓器移植が盛んな病院。
その臓器が、どうしてこの病院に沢山集まってくるのか。
一方で、病院近くのレストランで、無脳症児を出産しようとしている女の声を聞く。
無脳症児、読んで字のごとく、先天的に脳を持たないという障害を持ち、出生後100%死ぬ運命。そんな子供を産もうとしている事と、臓器移植の臓器提供元に疑問を持った規子は、同僚の看護婦と、親しくなった医師と共に、調べ始める。
サスペンス長編と、裏表紙には書いているが、サスペンスな部分よりも、人として何処までいのちというものを、扱っていいのか。生きていないと、生きられないの差は何なのか。
考えても答えはあるのか。色々考えてしまう作品。
***
めちゃめちゃ簡単に説明すると、その病院では、胎児を無脳症児にする方法を発見したんで、無脳症児を産んでもいいっていう女の人を探してきては、妊娠させて、その無脳症児を買い取っていたんよね。でもって各臓器を、移植する家族に、寄付金という形で高値で売りつけ、儲けてたわけだ。
その真相を知った、同僚の看護婦と、親しくなった医師は、事故や自殺に見せかけて殺されてしまう。警察もどうもぐるになっているらしい中、規子は殺されそうになりながらも、真実を暴いていく。
結局最後には、2人の死を怪しんでいた刑事によって、めでたしめでたし。
(かなり簡単しすぎかも。だってこれ文庫本600ページ。厚さにして15ミリほどのかなりの長編。)
***
この臓器農場に関わっていた人の中で、ただ金儲けのための経営者たち、自分の研究のためだけの医師、純粋に子供のいのちを1つでも助けたいという気持ちの看護婦が出てくる。
(間島)看護婦は言う。
「無脳症児は神様の贈り物。それによって先天性の奇形を持った赤ん坊が全部救われる。」
赤ん坊だけではなく、無脳症児を身ごもった母親も、無意味な妊娠いやそれよりも天罰の妊娠(と、妊婦が思いこむ)から、重要な妊娠へとなり、救われることになる、という意志の元、臓器農場に取り組む。
ただ規子は、無脳症児を人工的に作り出すことや、それで私腹を肥やしていたことにではなく、無脳症児の臓器を移植に使うこと自体に疑問を抱く。脳死からの臓器移植だと本人の意思によって行われるが、無脳症児の場合本人の意思は無視される。いや無視しようにも最初から意志なんて存在しない。
もし私が、先天性の奇形を持った赤ん坊の母親、無脳症児を身ごもった母親、双方どちらの立場になったとしても、きっと疑問を持たずに移植を進めるだろう。もし持ったとしても、その後にあるいのちを取るに違いない。
上の看護婦の台詞に規子は言う。
「頭が無くても、心臓や手足が動いていれば、そこにいのちが宿っている気がします。いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります。」
じゃあ、いのちはいつから存在するのだろう。胎児にももちろん動く手足がある。でも、無脳症児の場合、無脳症と分かった時点で、人工流産させる。人工流産は許されて、臓器移植が許されないのは何故なのか。どちらもいのちを1つ消すということに、代わりはない。
本の最初の方で、臓器移植をしてまで生きたくない、と言った母親にある医師が反論する。
「あなたのお子さんがそうだったらどうしますか?」
「人間を冒涜するとか、天命に逆らう行為だとか言って非難する人は、自分がその渦中に身を置いていないからだ」と。
この台詞にさらに反論することは、私には、どうしてもできない。
***
えらい堅くなってしまったよう。うーん、でもこれは簡単に話をまとめられる内容じゃない。多分、読む人の立場や、生き方によって、どれが正しいのか別れる、もしくは、考えるほどに分かんなくなる小説。読み終わってから思ったことは
「ブラックジャックなら、どうするだろう?」だった。(笑)
「ふたり死ぬのがひとりになった。文句があるか?」
と一喝して去っていきそうなんやけど。どう思います?
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1995年10月に米国から、次いで同年12月には日本の厚生省から、女性が妊娠中にビタミンAを過剰に摂取すると「奇形児」を産むリスクが高くなるという警告が発表された。さかのぼって1980年代半ばには、やはり米国で、皮膚病治療の目的でビタミンAを大量に服用した婦人から「無脳症児」が生れて大きな社会問題になったという。ビタミンAは生命活動に必須の物質であるが、妊娠初期に大量に摂取すると胎児に奇形が誘発されるという事実は動物実験によって確認されている。ビタミンAは、生体にとって正に「両刃の剣」と言えるのである。
この小説は、この科学的事実をプロットとして取り込み、医学の今日的課題である臓器移植と巧みにリンクさせた。おまけに、この作品では「無脳症児」を人工的に妊娠中に作りだし、出産させ、病院の「隠し施設」で、移植可能時期まで「飼育」するというプロットを描き出してみせる。これが、この作品の一番の迫真部分である。
これが「犯罪」として小説の大きな筋書きとなるのだが、レシピエント(被移植患者)の家族から1500万円とか2000万円とかの大金が秘密裏に徴収され、そのうち三分の二くらいが「無脳症児」を分娩した女の家族に支払われる、という空恐ろしいことが描かれる。

「脳死」ないしは「脳死患者からの臓器摘出」にも異論を唱える人が居るが、私は、それには異議はない。
意識を失い、呼吸が停止すれば心臓もやがて止まる。それが「死」だった。
「脳死」という概念が出てくるのは「人工呼吸器」という過剰な「生命維持装置」が発明されてからのことなのである。生きている人の治療に「人工心肺」装置が操作されるのには誰も異論はなかろうが、もはや打つ手がない時期にさしかかってもなお、生命維持装置の作動が必要かどうか。いわゆる「尊厳死」の問題である。
私の母は93歳で亡くなったが、生前、その問題に触れて過剰な「生命維持」は不要という意思表示をしていたので、意識不明に陥ったとき私も妻も、医師と相談して過剰な処置はとらなかった。私の妻も死ぬときはあっけなかったが、常日頃、意識や呼吸のなくなったときの「人工呼吸器」などの処置は不要と言っていた。医師にも、それは伝えられていた。
お釈迦様は飢えた虎に自らの肉体を差し出して食べさせる、というエピソードがある(これを捨身と言う)ように、霊魂と肉体とを緊密不可分のものと考える意見を私は採っていないが、人工的に、しかも金銭的に、しかもそれによって利益を得て「命」を操作することには反対である。
主人公の看護婦・規子の言うように、無脳症児にも「命」はあるのである。
この小説も、いろいろ考えさせるが、ぜひ一読をお勧めする一冊である。
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      帚木蓬生『三たびの海峡』・・・・・・・・・・・木村草弥

この小説にひきつづいて私は同じ著者の『三たびの海峡』(新潮文庫・初版平成4年刊)を読んだ。
これは第二次世界大戦末期に日本体制側が朝鮮半島から人々を労働者として「徴用」してきて、過酷な労働やリンチによって死なせたことを生々しく描いたものである。
作者の筆致は誠実なもので、今の韓日関係を想起して、私は感銘を受けた。
これこそ「日韓史」の深部を誠実に描くものと言える。
なお、この本は平成5年に「吉川英治文学新人賞」を得ている。
「あらすじ」を辿るためにネット上から記事を引いておく。
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■ 内 容
一代で財を成し、釜山のスーパーマーケット・チェーンの会長となっていた河時根(ハー・シグン)は、昔の仲間で今も日本にいる徐鎮徹(ソ・ジンチョル)から山本三次がN市の市長になっており、再選のための公約として、いまだ手付かずのボタ山を取り払い商工業地に変えようとしているとの手紙をもらった。河時根は三たび海峡を渡る決意をする。1度目は病弱の父に代わり、山本三次に連行された強制労働者として、2度目は祖国解放後、父母の待つ故郷を目指して、そして3度目は・・・。長年、音信不通にしていた日本人妻との間に出来た息子・時郎との再会も目的の一つであったが、彼は他にも、大きな決意を抱いて海峡を渡る。海峡をフェリーで渡る彼の心に、50年前に地獄のような苦しみを味わいながら海峡を渡った日の想いが蘇る・・・。

■ 人間の本質について考えさせられる
河時根や同胞たちが落とされた境遇はあまりにも悲惨です。これはフィクションですが、同じ様な事が行われていただろう事は推察出来ます。
人間はこうも残酷になれるのか・・・現代の河時根は、「彼らも戦争と言う非常時が作り出した被害者だ。」との考えに至るのですが、そんな小心翼々たる小市民ばかりでない事は、河時根はちゃんと知っているのです。彼の恨みがそうでない者たちに向けられるのは当然です。
この事からは人間の本質ついて考えさせられます。
非常時だからこそ、人それぞれの本質が露呈するのでしょう。同じ境遇にいても、人間性を失う者と失わない者、屈しない強さを持つ者と屈してしまう者。この作品の中にも、その両者が描かれています。それは朝鮮人日本人に拘りません。民族の違いなど関係なく、人間の本質の違いなのだと作者は言いたかったのでは、と思います。

■ 執筆動機は
しかし、この作品を著者に書かせた一番の動機は、過去の日本の行状に対する現代の私たちの無理解、無関心に対する憤りだったのではないでしょうか。
私自身、強制連行問題、従軍慰安婦問題など、TV・新聞などで見聞きして、朝鮮の方たちに同情もし、当時の日本の悪辣さや今の政府の反応の悪さに怒りを覚えたりもしていましたが、朝鮮の方たちの怒りを実感として感じてはいなかったと思います。過去の国の過ち・・・と、どこか傍観し、知識として知っているだけという感じでした。しかし、当事者の方たちには今もなお続いている・・・いえ、死んでも忘れられない屈辱の体験で、怒り覚めやらぬのも無理のない事。また、政府を始めとした私たち戦後の日本人の問題に対する鈍感さに、その怒りは更に強くなったのではないかと感じました。

■ 結末について

<以下は重要な内容に触れています。構わない方のみ下の*をクリックしてお読みください。>
<*>

一度として侵略された事の無い国・日本に住み、また、民族問題に直面した事も無いから言えるのだ、と思いますし、だから説得力が無いのはわかっていますが・・・。
今起こっている民族紛争は、見え隠れしながらも昔から脈々と続いている恨みの連鎖の結果だと思います。報復が報復を呼び、果てしなく殺し合い、傷付け合っているように見えます。その悪しき連鎖を断ち切り、理性を持って事に当たらなければ、民族紛争は永遠に続くように思えます。

ですから、河時根には殺人と言う手段でだけは決着をつけてほしくありませんでした。
自分の所業に苦しみもせず、悔いてもいない者には、それなりの末路が用意されています。勧善懲悪的な結末ですが、納得は行きます。寧ろ、罰が与えられなければ、読んでいる方もスッキリしませんし、彼らの所業はそれに値するものだと思います。同胞でありながら彼らに最も残酷な仕打ちをし、祖国に対する愛着も誇りも持たない康元範(カン・ウォンボム)が、全く心の痛みも無く、いまだに山本とツルみ、甘い汁を吸いながら大きな顔をしているのですから、報いを受けるのは当然でしょう。殺す以外には晴らせないと思うほどに深く恨みを抱くのも無理のない事だとも思います。そして、河時根の決着の付け方を潔い、見事だ、と<他の小説だったら>感じると思います。
しかし、同胞同士とは言え、民族問題の絡む作品の主人公に暴力的な報復をさせるのは、どうでしょう。あれだけの恨みなら仕方が無い? 殺人と気付かれないから、自らも死ぬのだから良い? 他の作品ではご自分の理想に忠実な作者が、あの結末を書いたのは何故だろうかと不思議に感じます。心情を重視したという事なのでしょうか。河時根の心情は非常に良くわかりはするのですが・・・。

日本人の身でこの作品を書くには大変な勇気が要ったと思います。国のため、天皇のための美名の下、日本がどんな卑劣で残忍な事をして来たかを、日本人として反芻するのは辛い事です。また、このような内容を日本人が書く事に対する朝鮮の方たちの反応も気になったのではないでしょうか。しかし、日本人によって書かれた事がこの作品の重みを一層増していると思います。
(2004.7.28)
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      帚木蓬生『受精』・・・・・・・・・・・・木村草弥

ひきつづいて『受精』(角川文庫4版・初版1998年刊)を読んだ。
ここで、ストーリーを辿るために、ネット上に載る記事を引いておく。
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「受精」 帚木蓬生
 2001.9.25 角川文庫 1998.6単行本初版「受精-Conception」

 文庫本で723Pと分厚い本。

 読み始めて50Pほど進んだところで、あれっ、と気づいた。登場人物の名前をどこかで見たような。そうだ、昨年読んだ「受命ーCalling」と同じではないのか。そうか、この本は、「受命」の前編となる本だったんだ、と。

 舞子と寛順、2人がそろったところで気づき、あとで、DR.ツムラが登場して確信した。

 読んでいるうちに、何か引っかかるものがあり、212Pあたりで確信に変わった。

 舞子は、愛する明生を結婚を決めた矢先に交通事故で失う。自ら死を決意して、昔、明生といったあるお寺を訪れる。そこで、外人の僧に声をかけられ、不思議な体験(明生と出会う)をする。そして、明生の子供を産めると言われ、ブラジルへと旅立つ。

 ソウルで合流した寛順も、結婚前日に、東振がこれも交通事故で死亡、お寺で僧に声をかけられ、東振の子を産むため、ブラジルへと向かう途中だった。

 ブラジルの病院であったユゲットも、フランスの協会で同じような経験をし、ブラジルに来ていた。

 3人とも、お寺や教会に、以前に恋人と訪れている。そして、病院には、彼女たちの食べ物の好みから、家族構成まで、あらゆるデータが揃っているという。

 あまりにも共通したシチュエイション、何か仕組まれているのではないか?本はあと500Pもある。陰謀の匂いがしてくる。

 病院で、同じように入院していた女性バーバラが殺害される。たまたま、舞子と寛順は、殺害直後の彼女の死体を見てしまう。ところが、病院は、飛び降り自殺として処理してしまう。

 舞子の担当主治医で、殺された女性の主治医でもあった、日系3世のDR.ツムラも彼女の死に不審を抱き始める。

 バーバラの叔父に会いに行く舞子、寛順、ユゲット。死の直前の彼女の様子を聞き、自殺するような人間ではないこと、叔父に何かを告げたがっていたこと、などを知る。
叔父もバーバラの死に不審を抱き、患者として病院に入院する。

 徐々に、巨大な悪の組織の存在が明らかになって行く。

 著者は、精神科医であり、心理学的な要素、そして、1998年当時の遺伝子研究の到達点を元に、この物語を形作っている。その知識は、賞賛ものである。またご紹介しようと思うが、次作「受命」の発想と構成力には驚かされたが、どちらの物語も、ある種、現代への問題提起ではないかと感じる。
 また、海亀の産卵シーンや、豊かなブラジルの自然も、鮮やかに描き出している。分厚い本ではあったが。一気に読み通してしまった。
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この記事では結末を載せていないが、彼らは「ナチス・ドイツ」の生き残りの組織であり、この小説の中では「逆まんじ」と書かれているが「ハーケンクロイツ」というナチスのシンボルマークが「伏線」として小説の初期から出てくる。サスペンスたる所以である。
彼らの組織はドイツ民族の純血を守るために「ヒトラー総統」の「精液」を冷凍保存しておいたものを、これと目星をつけた女の子宮に注入して妊娠させ、その血統を後世に残す活動をしていたのだった。

私は『受命』という本を、まだ読んでいないが、上に引いた記事には、これは『受精』の前編にあたると書いてあるので、乞う、ご期待である。



菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる・・・木村草弥
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    菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の
       音なくよぎる夕月夜(ゆふづくよ)なる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
今や「菊」真っ盛りのシーズンだが、あちこちで「菊花展」が盛んであるが、菊という花は、どことなく、うら淋しい気分がするものである。
私は第一歌集『茶の四季』(角川書店)に

   一の峯二の峯越えて詣づれば秋の奢りの菊花百鉢・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を載せたが、これなども心底からの明るい歌とは言い難い。それは「秋」という季節の持つ性格から来るものであろう。
掲出の歌の前後の歌を引いておきたい。

         残 菊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  身めぐりに祝ふべきこと何もなし水引草の花あかけれど

  ひようろりと残んの菊と成り果てて庭のかたへに括られてゐつ

  菊の香はたまゆら乳の香に似ると言ひし人はも母ぞ恋しき

  菊の香のうごくと見えて白猫(はくべう)の音なくよぎる夕月夜なる

  白菊に対ひてをればわが心しづかなりけり夕茜して

  嵯峨菊が手花火のごと咲く庭に老年といふ早き日の昏(く)れ


「菊」というのは、春の桜と並びたつ秋の花とされる。中国から渡ってきたもので日本でさまざまに改良されてきた。
私は菊作りは、しない。春の挿し芽にはじまり、朝夕の水遣り、それも天候、降雨を勘案して、やらなければならないし、葉を虫に食われたり、欠いたりしてはならない。
茎立ちの寸法も重要な審査項目となる。
これでは、私のような旅行好きとは両立しない。以前は多い時には年間50日くらいは海外に出かけていたが、今では国内旅行が主で、こまぎれの旅をするばかりである。
そんな旅行も、今では「不如意」の現状である、ああ !

十月末に近所に住む菊作りの友人が、見事な三本たちの菊二鉢を持ってきてくれた。
玄関に飾ってあるが、花も、もうそろそろ終りである。 有難いことである。

菊を詠んだ句を少し引いて終りたい。

 黄菊白菊其の外の名はなくもがな・・・・・・・・服部嵐雪

 有る程の菊なげ入れよ棺の中・・・・・・・・夏目漱石

 かにかくに明治は恋し菊膾・・・・・・・・富安風生

 国原や到るところの菊日和・・・・・・・・日野草城

 菊白く死の髪豊かなるかなし・・・・・・・・橋本多佳子

 白菊とわれ月光の底に冴ゆ・・・・・・・・桂信子

 白菊や暗闇にても帯むすぶ・・・・・・・・加藤知世子

 菊の棺とともに焼かれしわが句集・・・・・・・・平井照敏


アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・木村草弥
700px-Panorama_place_stanislas_nancy_2005-06-15スタニスラス広場
 ↑ ナンシー・スタニスラス広場のパノラマ
Nancy-place-stanislas-suedスタニスラス広場
 ↑ スタニスラス広場
o0480064010690730321世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
無題ナンシー・世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス

     アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・木村草弥
     
朝8時出発だから辛い。強行軍である。ホテルを出て約185㎞を二時間かけて、街全体がアールヌーヴォーの美術館のような古都ナンシーへ。

Wikpediaによると、ナンシーとは、こんなところである。 ↓

ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、ロレーヌ地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。

ナンシーのスタニスラス広場
896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。
1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。

歴史
ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった) 。
普仏戦争後の1871年、フランクフルト条約によってストラスブール、メスとともにアルザスとモゼル県はドイツに併合された。ドイツ市民となることを拒んだアルザス人およびモゼル人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住してきた。ナンシーは新たな繁栄期と新たな文化の黄金時代を迎えた。15世紀頃から、ガラス工芸が盛んであったが、19世紀後半になると鉄鋼業が盛んとなり、新興の中産階級が台頭した。
1870年代から1900年代までの急激な人口増加で、ナンシーの都市化が無秩序に進行した。1894年に創設されたロレーヌ工芸会社はのちのナンシー派の集団で、エミール・ガレ、アントナン・ドーム、ルイ・マジョルール、ヴィクトル・プルーヴェ、ウジェーヌ・ヴァランたちがいた。

ナンシーはフランス第5の金融都市である。国内主要銀行の地方拠点がある。ナンシーにはムルト=エ=モゼル県商工会議所が置かれている。ナンシーはフランス北東部第一の医療都市で、大学付属病院が設置されている。ナンシー市内および都市圏内には多くの私立クリニックがある。

ヴァンドゥーヴル=レ=ナンシーとの間の平野にあるナンシー=ブラボワ・テクノポールは、国内有数の規模を誇る。

ナンシー
 ↑ 日本語版のナンシーのガイド・パンフレット二種 (左は地図、拡げると新聞紙大になる)

n12ナンシーのトラム
ナンシーのトラム

02ナンシー派美術館
↑ ナンシー派美術館
ナンシー派美術館
 ナンシー派美術館のパンフレット

ナンシー派美術館(Musée de l'École de Nancy)は、フランスのナンシーにある美術館である。アール・ヌーヴォーの芸術家たちの作品で知られている。

エミール・ガレのパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装した美術館で1964年に開館。ナンシー派の芸術家たちの作品を多く所蔵している。庭園も整備されている。

コレクション
エミール・ガレのデザインしたベッドやランプ、ジャック・グリュベールのステンドグラス、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランの家具などを所蔵。作品を展示しているというより、工芸品、陶器、ガラス製品、織物等が日常の生活空間の中に作品が配置されている。
01エミール・ガレ
 ↑ エミール・ガレ
04ナンシー派美術館内部②
05ナンシー派美術館内部
 ↑ ナンシー派美術館内部の展示
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↑ 美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館


甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶へ・・・木村草弥
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    甘谷の水は菊水『菊慈童』の
        七百歳のいのちこそ憶(おも)へ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので「菊」の一連の中にある。

いま菊の花の真っ盛りであるので、菊の花に因んで書いてみる。
「菊慈童」については解説が必要だろう。
写真①は彦根の井伊家に伝わる能楽に使われる菊慈童の「能面」である。
写真②は菊慈童の能楽の一場面。
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「菊慈童」というのは中国の古典を題材にした能楽の作品。
お話は、こうである。

中国・魏の文帝は、山に薬の水が湧くと聞き、臣下に霊水の源を探れとの命令を下した。
臣下が秘境の奥深く入ってゆくと、菊の乱れ咲く里があり、慈童という仙人が薬小屋に住んでいた。
尋ねると、慈童は700年も昔、周の穆王に仕えていたが、ある日、王の枕をまたいだ罪で、この山に流されたという。
700年前ということを信じない臣下に対して、慈童は、流罪されるにあたり王は憐れみ、枕に法華経の偈を書いて与えた。
その経文を菊の葉に書くと葉の露が不老不死の霊薬となり、以来それを飲みつづけて齢を取らなくなった、と述べた。
そして慈童は勅使に菊の葉の酒を勧め、自分も飲むと喜びの舞楽を舞い、法華経の功徳と枕に感謝し、700年の長寿を文帝に捧げて祝福し、仙家の中に消えてゆく。
能楽では観世流のみが「菊慈童」という演名で演じるが、他流派は「枕慈童」という演目である。
能楽だけでなく、日本画にも度々描かれ、菱田春草のものなど有名である。
↓ 写真③が春草の絵の部分。(絵の全体は大きなもので、この部分は下の方に描かれている)
mir815-2菱田春草「菊慈童」
ご参考までに写真④に横山大観の同名の絵を出しておく。↓
皆さんは、どちらを選ばれるだろうか。
mir545-2横山大観「菊慈童」

また小説にも採り上げられ円地文子の作品などがある。芥川龍之介も書いている。

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写真⑤は熊本県八代市の「宮之町」の菊慈童の笠鉾である。立派なものである。。
京都の祇園祭に「菊水鉾」という大きな鉾があるが、この鉾も「菊慈童」から着想されたと言われている。写真⑥⑦に菊水鉾を載せる。
写真⑥は菊水鉾の全景である。とにかく背の高い鉾で全景となると絵が小さくなるのは、お許しいただきたい。写真⑦は「胴掛け」の部分である。
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すっかり「菊慈童」の話題だけになってしまったが仕方がない。
ここで歌集に載る前後の歌を抄出して、終りにしたい。他にも「菊」の歌があるので、それは次回にしたい。

     窯 元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   しがらみの多き世の中たはやすく暮らすにあらね菊うつろひて

  はきだめといふ名の菊のありと聞く波郷一葉忌を隣りとし

  甘谷の水は菊水『菊慈童』の七百歳のいのちこそ憶(おも)へ

  をみなへしあまた剪りきて瓶に挿す蕪村ゆかりの商家の床の間

  <秋草をごつたにつかね供へけり>結びし紐を解くは悲しも

     *久保田万太郎

  秋草にまろべば空も海に似て泊り重ねし波止の宿おもふ

  秋草の波止場の旅籠(はたご)に蛸壺のセールスマンと泊りあはせし



返り咲く暴を老木も敢てせり・・・相生垣瓜人
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      返り咲く暴を老木も敢てせり・・・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

「返り花」とは、小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節はずれの花をつけることを言う。
主にサクラについて言うが、ツツジやヤマブキ、タンポポなどにも見られる。
掲出した写真は「シャクナゲ」の返り花である。
花がほとんど無い季節だけに、自然からの授かり物のように思える。
和歌、連歌の題にはないが、俳諧では盛んに詠まれたという。
この瓜人(くわじん)の句は「老木」の癖に「返り咲く」というような無謀(暴)なことをしたものだ、という意味だが、
この句を見つけたとき、わが身にひきつけて思わずドキリとした。
「返り花」は、はかないものであるが、それがまた文人たちに愛されたのだった。

私の敬愛する松本氏のサイト「硯水亭歳時記Ⅱ」2009/11/05付けに「冬の桜~妙見大悲は北の北」という記事が載っている。
この記事は「返り花」のことに直接言及しているものではないが、「冬桜」と「返り花」が混同されて誤解されている場合もあるようなので、ご参考までにアクセスされたし。

なお松本氏は桜に詳しいが、それは或る財団の理事長をしておられる故である。
日本中に、山櫻を植え廻ろうというNPOである。
ちょうど各地の櫻の名所では「補植」の時季になっている関係上、各地の行政庁中心に需要が来ているようである。
よく知られる財団法人日本さくらの会は半分以上は公的機関であるのに対して、「僕たちは故人である前理事長の残した資産だけで、すべて民間で管理運営しております。櫻山を造ることも夢の一つです。」とおっしゃっている。
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相生垣瓜人は1898年兵庫県高砂市生れ。本名は貫二。東京美術学校製版科を卒業。浜松工業学校教師となる。俳句は水原秋桜子に師事。
角川書店の第10回「蛇笏賞」を昭和51年に『明治草』他で受賞。百合山羽公と俳誌「海坂」を発行する。1985/02/07に死去している。

ネット上を見ていたら下記のようなcogito,ergo sumという面白いサイトを発見したので貼り付けておく。 ↓
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藤沢周平と海坂(うなさか)
「三屋清左衛門残日録」を読んで藤沢周平作品の虜になり、「蝉時雨」「暗殺の年輪」等々、10数編を次々と読んだ。
今から既に十年以上前のこと。時代小説作品の裏に潜む人間性がたまらなく好きだった。

その藤沢周平の作品の舞台になっているのが出羽の国海坂(うなさか)藩。海坂藩は勿論架空の藩ではあるが、周平の生地に当たる山形県庄内地方を領してきた庄内藩を母型として作られた名前で、周平自身が「海辺に立って一望の海を眺めると水平線は緩やかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」と述べている。

しかし彼が海坂藩と名づけた由来はもっと単純で、その昔彼が会員の一人として投句していた俳句雑誌の誌名「海坂」からとってきていると言うのが本当の所である。

俳誌「海坂」は、水原秋桜子主宰の俳誌「馬酔木(あしび)」の同人で俳句界最高の賞と言われる蛇笏賞を共に受賞した、百合山羽公(うこう)、相生垣瓜人(あいおいがき かじん)が中心となって発行された俳誌で、その伝統が今も生き続け今年の6月号で通巻710号を数える。

藤沢周平の、「海坂」会員として活躍していた時代の作品の一つに、

 天の藍流して秋の川鳴れり

があり、きりりとして美しい作品だと思う。
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以下、「返り花」「帰り花」「返り咲き」「忘花」「狂花」「狂咲き」などの句を引いて終わる。

 凩に匂ひつけしや帰花・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 かへり花暁の月にちりつくす・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

 あたら日のついと入りけり帰り花・・・・・・・・・・・・小林一茶

 真青な葉も二三枚返り花・・・・・・・・・・・・高野素十

 返り花三年教へし書にはさむ・・・・・・・・・・・・中村草田男

 返り花日輪さむく呆けたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 死神のへつらい笑う帰り花・・・・・・・・・・・・橋間石

 帰り花身は荒草(いらくさ)の花ながら・・・・・・・・・・・・中村苑子

 返り花咲けば小さな山のこゑ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 返り咲く花はさかりもなく散りぬ・・・・・・・・・・・・下村梅子

 いのちには終りあるべし帰り花・・・・・・・・・・・・加藤三七子

 帰り花空は風音もて応ふ・・・・・・・・・・・・広瀬直人

 一度しか死ねぬとこそ知れ返り花・・・・・・・・・・・・折笠美秋

 返り花知己のひとりは国の外・・・・・・・・・・・・友岡子郷

 約束のごとくに二つ返り花・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 返り花そは一輪がよかりけり・・・・・・・・・・・・渡辺恭子

 雑言のなかの金言返り花・・・・・・・・・・・・木内彰志

 眉墨で書き留む一句帰り花・・・・・・・・・・・・宮下みさえ


秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ・・・木村草弥
gmikaduki三日月

     秋暮れて歯冠の中に疼くもの
        我がなせざりし宿題ひとつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも入れているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌は、今からだと、もう二十数年前の作品になるが、私の経て来た人生を溯ると、数々のやり残したこと、果たせなかったこと、などのもろもろが浮かんで来て、
それを「宿題」という言葉で表現したもので、作った頃から私自身の気に入った作品だった。
具象だけを詠う人には、判りにくいなどの批判も受けたが、歌というものは目につく具体だけを詠んだらいい、というものでもない。
この歌は以前から、ぜひ記事にしたいと思っていたが「秋暮れて」という季節の言葉が入っているので、今日まで時季を待っていたのである。
気がつくと、もう時雨の降る11月になってしまったので、この時期を外すわけにはいかないので、今日づけで載せることにする。
この歌は「原風景」と題する章名のところに入っているもの。この歌の前後の歌を引いておく。

     寧楽(なら)山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  突き抜けるやうな青空秋ふかみ世渡り下手で六十路すぎゆく

  ねこじゃらし風の言葉にうなづきて白雲ひとつ遊ぶ秋の野

  淋しうて西へ歩けばいとほしきものの一つよ野菊咲きゐる

  老鹿がふぐりを垂れて歩みゐる寧楽山あたり秋澄みわたる

  秋暮れて歯冠の中に疼くもの我がなせざりし宿題ひとつ

  茶祭を終へ来て辿る琴坂の萩の白さよ秋も闌(た)けゆく

  私が死んでもやはり陽はのぼり地球の朝がきらきらはじまる

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私の歌だけでは芸がないので、もうすぐ立冬だが「秋の暮れ」を詠んだ句を引いておく。

 誰彼もあらず一天自尊の秋・・・・・・・・飯田蛇笏

 彼の女今日も来て泣く堂の秋・・・・・・・・河野静雲

 鯉も老いこの寺も古り幾秋ぞ・・・・・・・・高浜年尾

 驚けば秋の鳥なる烏骨鶏・・・・・・・・加藤楸邨

 天を仰げば身の錆おつる秋なりけり・・・・・・・・高柳重信

 しとしては水足す秋のからだかな・・・・・・・・矢島渚男

 白樺や秋は風からかと思ふ・・・・・・・・高田風人子

 しみじみと共に老醜寺の秋・・・・・・・・石川風女

 星はみな女性名詞や羅馬の秋・・・・・・・・マブソン青眼

 ヴィクトリア駅より秋の終列車・・・・・・・・友田喜美子

 蛇の縞まで美しく見せて秋・・・・・・・・山下しげ人

 朝は鳥夕べはけもの啼きて秋・・・・・・・・和田耕三郎

 愉しまず晩秋黒き富士立つを・・・・・・・・山口誓子

 帰るのはそこ晩秋の大きな木・・・・・・・・坪内稔典

 残り時間気にしています晩秋です・・・・・・・・湯山珠子


三角形のキッシュ出でたり素朴なるアルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・木村草弥
img06dc8114zikezjキッシュ
1328967116ロレーヌ名物キッシュ
 ↑ キッシュ

──アルザス・ロレーヌ料理いろいろ──

       三角形のキッシュ出でたり素朴なる
            アルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・・・・・・・・・木村草弥


「キッシュ」はアルザス・ロレーヌ地方の郷土料理で、練りパイ生地にベーコン、野菜、クリームを入れチーズを振りかけて焼き上げる。
当地では日常料理として、しょっちゅう家庭のテーブルに出るという。
キッシュ(仏: Quiche)は、卵とクリームを使って作るフランス、アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理。

パイ生地・タルト生地で作った器の中に、卵、生クリーム、ひき肉やアスパラガスなど野菜を加えて熟成したグリュイエールチーズなどをたっぷりのせオーブンで焼き上げる。
ロレーヌ風キッシュ(キッシュ・ロレーヌ)では、クリームとベーコンを加える。ナッツ類を加える場合もある。生地ごと三角形に切って皿に出す。
地中海沿岸の地域でも一般的な料理である。語源はドイツ語のKuchen(クーヘン)である。

c0067421_7163832タルト・フランベ(アルザス風ピザ)
 ↑ 昼食に出たタルト・フランベ(アルザス風ピザ)

「キッシュ」 「タルト・フランベ」 「ベッコフ」というような料理は、中に入れる具などが違うが、基本的には同種の料理である。

5550003687_803f13fc9b_zベッコフという郷土料理
 ↑ 「ベッコフ」という郷土料理   ↓ その由来の物語
かつてアルザスの主婦たちは毎週月曜日は洗濯の日と決まっていたそうな。
そして手仕事の洗濯は、やっぱり一日掛りの大変な仕事であったそうな。
朝から夕方まで一日洗濯から手の離せない主婦たちは、前日の日曜の夜に牛や豚や羊やらの肉の切れ端を土地の白ワインと一緒にベッコフ鍋に漬け込んでおいて、翌朝に野菜をその鍋に何でも入れて洗濯に向かう途中、なじみのパン屋へ預けていったそうな。
パン屋は朝早くからパンを焼き始め昼過ぎには仕事は終わっていたのだろう。預かったベッコフ鍋にあまり生地で隙間を押さえまだまだ十分に熱い仕事の終わった石窯に入れておいてあげる。

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 ↑ クグロフ
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 ↑ 昔ながらの菓子クグロフや塩っからいプレッツェルなども並んでいる。これらはドイツ支配の名残りを思わせるドイツ菓子である。

5328047526_0474f9d286_z酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)
 ↑ 酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)。これもドイツ語圏ではおなじみのおかず。

page_escargo6_1エスカルゴ・ブルゴーニュ風
 ↑ ボーヌでの日の昼食に「エスカルゴ・ブルゴーニュ風」が出る。 美味しかった。
かつてはブドウの葉につく害虫だったが、食べたら美味なので飼って当地名産の食材としたのである。ガーリックとバターで味付け。 

ボーヌの夕食はブルゴーニュ名物の「ブフ・ブルギニョン」─牛肉の赤ワイン煮。「ブフ」とはフランス語で牛肉の意味である。 ↓
ff5603fdブフ・ブルギニョン

f0140365_21502833リヨン風サラダ
 ↑ リヨンでの昼食に出た「リヨン風サラダ」 野菜の上に半熟タマゴが乗るものを称するらしい。




アルフォンス・ドーデ『最後の授業』独仏支配交替のアルザスの悲哀・・・木村草弥
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↑ アルフォンス・ドーデ
51omwApAAoL__SX298_BO1,204,203,200_ドーデ『最後の授業』

       アルフォンス・ドーデ『最後の授業』
           独仏支配交替のアルザスの悲哀・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は2013年初秋に行った「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」の際に作った歌であり、私の第六歌集『『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載る歌である。
その旅行記から当該部分を引いておく。  ↓
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後日談になるが、一行中には40~50代の女の人が多く参加していた。
それらの人たちが口々に言ったのがフランスの作家ドーデの短編小説「最後の授業」だった。
知らない人のためにWikipediaの記事を引いておく。 ↓

『最後の授業』(さいごのじゅぎょう、仏: La Dernière Classe)は、フランス第三共和政時代の初期、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』(仏: Les Contes du Lundi)の1編である。副題は『アルザスの少年の話』(Récit d'un petit alsacien)。『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載された。

あらすじ
ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

小説が書かれた時代背景
フランスとドイツの国境地域に位置するアルザス・ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsass-Lothringen エルザス・ロートリンゲン)では古くからケルト人が住んでいた。ローマ帝国に支配された後は、歴史の中で幾度となく領土侵略が繰り返されたことにより、ゲルマン系のアルマン人とフランク人が相次いで侵入してきた。それにより北部ではドイツ語のフランク方言が、南部ではスイス・ドイツ語に近いアレマン語が長らくこの土地で話されるようになった。この地は、元来神聖ローマ帝国に属していたものの、帝国に野心を抱くフランスの侵略の標的となった。しかし神聖ローマ帝国の側では、アルザス・ロレーヌを帝国の領域から切り離してフランスに割譲する事によって、フランスの帝国への干渉を食い止めた(ヴェストファーレン条約を参照)。結局1736年に、アルザス・ロレーヌはフランスに編入された。その間に公用語としてフランス語を用いられたため、アルザス地方の言葉はフランス語の語彙が入ったアルザス語として形成されていった。

1871年に普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスと、ロレーヌの東半分がプロイセン(ドイツ帝国)に割譲される、という複雑な経緯を辿る。普仏戦争に敗戦したフランスに反ドイツ感情が湧き起こったこの頃、毎週月曜日にパリで『月曜物語』の新聞連載が始まった。
ドイツ帝国統治下当時の住民の大多数はドイツ系のアルザス人だったため、フランス語にそれほどなじみがあったわけではなかった。ドイツ統一後もアルザス人は必ずしもドイツから完全な「ドイツ人」とは見なされていなかった節がある。しかし安全保障上の問題からエルザス・ロートリンゲンを必要としていたプロイセンが「統一ドイツ」というナショナリズムを利用して普仏戦争を勝ち抜いたという経緯もあり、後には自治憲法の制定を認めるなど、比較的穏やかな同化政策を取っていたと考えられている。しかしツァーベルン事件の発生後は中央政府および軍との関係が悪化し、自治憲法も停止された。戦間期と第二次世界大戦第一次世界大戦でドイツが敗北した後の1918年11月8日、同地域はアルザス=ロレーヌ共和国(fr)として独立した。アメリカのウィルソン大統領はこれを承認しようとしたが、フランスは拒絶した。11月19日にはフランスによって占領され、この地域は再びフランス領アルザス=ロレーヌとなった。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツのフランス侵攻によって同地方は再びドイツ領エルザス=ロートリンゲンとなった。ナチス・ドイツの統治においても同化政策は一定程度踏襲された。

第二次大戦後のフランス化政策
第二次世界大戦後この地区には再びフランス化政策が敷かれたが、テロや独立運動が発生するなど反発が強く、間もなくフランス政府も方針を転換した。1999年のジョスパン改革により、初等教育からドイツ語・アルザス語の教育が認められている。イタリアの南チロル地方ほど明確なドイツ人地区あつかいではないが、バイリンガルを基本として民族的な独自性が尊重されている。ストラスブールにEU議会が設置されたのもこうした背景が大きい。
政治的には、普仏戦争で勝利したプロイセン王国がエルザス・ロートリンゲンでのドイツ式初等教育義務化を実施し、フランス語は外国語教育としてのみ導入されていた時代である。ただしもともと、アルザスにおけるフランス語は公的文書などのごく一部に使用されていたに過ぎず、フランス政府自身がアルザスにフランス語を強制しても定着の見込みはないと諦めていた、という意見もある。

小説の政治的側面
アルザスは以前からドイツ語圏の地域であり、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていた。普仏戦争にも従軍したプロヴァンス(同地にはロマンス語系のプロヴァンス語がある)出身のフランス人である作者ドーデは、作中のアメル先生に「ドイツ人たちにこう言われるかもしれない。“君たちはフランス人だと言いはっていた。なのに君たちのことばを話すことも書くことも出来ないではないか”」(その後に、フランツや生徒だけの責任ではない、国語をきちんと指導しなかった我々大人の責任でもある、と反省の弁)と言わせている。

すなわち、アルザスの生徒達は(ドイツ語の一方言であるアルザス語が母語であるため、)国語であるフランス語を話すことも書くこともできず、わざわざそれを学校で習わなければならない状態であったのである。アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として押しつける立場にあったものであり、本小説においてはこの点が隠蔽されていることとなる。

日本ではこの小説は1927年(昭和2年)に教科書の教材として採用された。戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えたが、1952年(昭和27年)に再登場した。しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。また、戦後のフランス政府は同地でのアルザス語・ドイツ語教育を容認しており、同作のフランス語純化思想はすでに過去のものとなっている。1985年(昭和60年)からは日本でも教科書に採用されていない。
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この小説は『月曜物語』の中の短編で、私は原書で読んだ。
この旅については、このブログの「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」 を読んでもらいたい。
Wikipedia─アルフォンス・ドーデ については ← を参照されよ。




AIBOに尾を振らせゐし少年が新世紀に挑むロボットサッカー・・・木村草弥
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 ↑ 新型 aibo
ts_aiboai06初代AIBO─1999発売
↑ 初代AIBO ─ 1999年発売

       AIBOに尾を振らせゐし少年が
              新世紀に挑むロボットサッカー・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載るものである。
ところで2017年11月1日に、ソニーが新型の犬型ロボット aibo を発売すると発表した。
名称も大文字のAIBO から、小文字の aibo に替わった。 
ソニーとすれば、ここで踏み切らないとAI の開発に乗り遅れると判断したらしい。

ソニーは2017年1日夜、12年ぶりに復活させるイヌ型のロボットペット「aibo(アイボ)」の予約の受け付けを始めた。
半導体事業などが好調で業績は過去最高水準まで回復したが、爆発的なヒット商品は不在のまま。
独自技術を組み合わせてつくった新型アイボに、SONYブランドの再構築も託す。

「ワン、ワン、ワン」。1日に開いた発表会で、新型アイボは平井一夫社長に鳴き声を上げて近寄った。
鼻にあるカメラで持ち主の表情を認識し、有機EL製の瞳の色や動きで感情を表す。
税抜き19万8千円。来年1月に発売する初回分は30分ほどで完売した。次回の予約受け付けの時期は未定という。
1999年に発売した旧型は感情表現のパターンが決まっていた。
新型は人工知能(AI)を搭載し、自ら感情表現を生み出す。平井社長は「自ら好奇心を持って成長していくパートナー」とアピールした。
旧型は25万円ながら、初回発売分の3千台は20分で売り切れた。
ロボットをペットにする発想は画期的で、携帯音楽プレーヤーのウォークマンと並び、前例がない「ソニーらしい製品」と評された。

旧型の保守サービスは打ち切られているが、老人を中心に孤独を慰める相手として愛用され、修理関係のところは忙しい、という。
私の歌では「少年」と詠っているが「老人」と言い直さなければならないかも知れない。 閑話休題。





かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・加藤楸邨
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      かなしめば鵙(もず)金色の日を負ひ来(く)・・・・・・・・・・・加藤楸邨

モズは百舌とも書かれ、「留鳥」と言われるが晩秋から冬季以外に人の耳目にかかることは少ない、と思われる。
モズの存在に気づくのは木の先端などに止まって、ききききき、とけたたましく啼く冬季の「高鳴き」であろうか。これはモズの縄張り宣言だと言われている。写真①はモズの雄。

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写真②はモズの雌。
モズの学名はLanius bucephalus というが、雄は嘴から目を通る過眼線が黒く、嘴はカギ状で翼に白斑があり、雌は過眼線は茶色く、腹部に波模様がある。
中国東北部、朝鮮半島周辺部に分布し、日本でも北海道から九州まで広く分布して繁殖するという。
「留鳥」だが、楸邨の句のように俳句では「秋」の季語になっているように人の耳目に触れるのは「高鳴き」をする冬季になってからである。
昆虫、カエル、大型の虫など何でも食べるが、スズメを襲って食べることもあるという。
捕らえた獲物を小枝などに刺しておくことがあり「モズのはやにえ(早贄)」と呼ばれる。
写真③は、その一例でトカゲの串刺しである。
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モズは冬季になると一羽づつ縄張りを持つようになり、ききききき、あるいはギチギチギチギチギチ、と鳴くのは「警戒音」だと言われている。
他の鳥の鳴き真似をするのがうまいというので「百舌」と呼ばれる所以である。
2月中旬頃に雄の縄張りに雌が訪れて、雌の一方的選択で一夫一妻が成立する。
と見られてきたが、DNA指紋法によって「婚外交尾」があることが明らかにされた、という。
巣作り、子育ては夫婦で一緒にやる。
求愛ダンスの最中の囀りに、雄はウグイス、ヒバリ、ホオジロなどの他の鳥の鳴き真似を入れるらしい。
求愛給餌は、番いの成立から、巣立ちに至るすべての時期に見られるという。
私も長年、田園地帯に住んでいるが、モズの地鳴きがどんなものか、いまだによく判らない。
モズを詠んだ句を引いて終りたい。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 たばしるや鵙迸る野分かな・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子

 鵙高音死ぬまでをみな足袋を継ぐ・・・・・・・・渡辺桂子

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊地麻風

 鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 青年を呼びつつありき鵙の贄・・・・・・・・永田耕衣

 鵙の贄閉ぢし田小屋の戸の釘に・・・・・・・・太田嗟

 てつぺんはかわくかわくと鵙の贄・・・・・・・・小桧山繁子

 まだ乾びちぢむ余地あり鵙の贄・・・・・・・・寺島ただし

 鵙の贄思ひ出さねば過去は無し・・・・・・・・岡崎るり子

 いま沈む日輪を刺し鵙の贄・・・・・・・・星野衣子


真実とはいかなる象なすものか檀のまろき実くれなゐ深く・・・木村草弥
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      真実とはいかなる象(かたち)なすものか
          檀(まゆみ)のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので2003年10月に開いてもらった出版記念会で光本恵子氏が採り上げていただいた歌である。
自選60首にも入れているので、出版記念会の光本氏の批評とともにWeb上でもご覧いただける。
この歌につづいて次の歌が並んでいる。

  <生るは青く、熟すれば淡紅、裂ければ内に紅子三四粒>と檀を記す
    *和漢三才図会

  秋くればくれなゐ深く色づきて檀の喬木山をいろどる

檀(まゆみ)は錦木(ニシキギ)科の種類で、ヤマニシキギという。
学名をEuorymus Sieboldianus というが、ここにもシーボルトの名前が見え、シーボルトの命名か分類によるものと思われる。
写真②は春に花が咲いたところである。

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「檀」というのは「真」「弓」の意味であって、すなわち弓をつくるのに最適の有用な木、ということである。信州などの寒い地方にも育ち、木目の緻密な木質なのであろうか。
光本氏の家の庭にも、この木があり寒くなると彩りが鮮やかだと話された。

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写真③は外皮から赤い実が頭を見せたところ。場所によって違いはあるが、10月頃のことである。
私の二番目の歌に描いたのが、丁度その頃と言える。
「マユミ」は園芸用の栽培種でもなく一般的には、余り知られていない木といえようか。
写真は掲げないが「ウメモドキ」という木があり、上に引いた歌のつづきに、次の歌が載っている。

  伊賀人の誇り高きぞ梅もどきのほてりの艶(ゑん)あり榊莫山邸

ウメモドキはモチノキ科の木で学名を Ilex serrata というが雌雄異株だという。

先に引用した「和漢三才図会」の文章のつづきには「・・・・その葉、秋に至りて紅なり」と書かれている。
マユミを詠った句を少し引いて終る。

 檀の実割れて山脈ひかり出す・・・・・・・・福田甲子雄

 檀の実圧し来る如く天蒼し・・・・・・・・望月たかし

 真弓の実華やぐ裏に湖さわぐ・・・・・・・・杉山岳陽

 檀の実まぶしき母に随へり・・・・・・・・岸田稚魚

 日の逃げて風のみ急ぐ檀の実・・・・・・・・太田秦樹

 旅にをり旅の日和の檀の実・・・・・・・・森澄雄

 大工老いたり檀の実ばかり見て・・・・・・・・六角文夫

 まゆみの実寄りくるものをいとほしむ・・・・・・・・きくちつねこ

 檀の実ひそかに裂けし月夜かな・・・・・・・・菅原鬨也

 西の山人居てまゆみの実を握る・・・・・・・・金子兜太

 舞妓ゐて外にぎやかや檀の実・・・・・・・・渡辺純枝

 ほほゑみを分かちたくなる檀の実・・・・・・・・平林孝子

 泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・浜田正把

 岩峰に雲触れ流れ檀の実・・・・・・・・石原栄子




大いなるドームのごとく横たはるストラスブール駅朝もやの中・・・木村草弥
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      大いなるドームのごとく横たはる
          ストラスブール駅朝もやの中・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA)の「フランスの美しき村」に載るものである。
「アルザス、ブルゴーニュ」観光の初日の光景である。
 掲出した画像は、巨大なドームのようなストラブール駅の外観。 サマータイムの朝なので画像が暗い。 ホテルの自室から望遠で撮影。
東京ドームのように、空気で膨らませた構造になっている。
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 ↑ ストラスブール駅の入口。 駅名がくっきりと読み取れる。
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↑ ロータリーの真ん中にはトラムと国鉄駅への地下通路の入口が口を開けている。
mkfs_693ストラスブール・トラム
 ↑ ストラスブールの市電。トラム。この駅の辺りでは地下にもぐり、国鉄駅に隣接する地下駅になっている。

宿泊のホテル─「ル・グラン」Le Grand Strasbourg のことにふれなければ片手落ちだろう。ここには連泊する。

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 ↑ 「ル・グラン」は建物の左端。    ↓ ホテル玄関
27278_31_bル・グランホテル玄関

このホテルは、フランス国鉄のストラブール駅前の大きなロータリーに面したところに建っていて、ロータリーを取り巻くように多くのホテルが見える。
ル・グランのように建物に複数のホテルがあるのはヨーロッパでは当り前。
この建物の右端には「イビス・ホテル」が見える。写真には無いが左手のビルには「メルキュール・ホテル」が見える。
これらのホテルはスタンタードなB級の三ツ星ホテルのチェーンとして知られている。今回の旅のホテルは最終日を除いて、みな、このクラスである。

この歌集『無冠の馬』を読んだ人から、さまざまの批評をいただいたが、中には、この歌を選んで言及してくれる人もあった。

この度の旅行記は「アルザス・ブルゴーニュ ワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅」を参照されたい。


小さき泉遺して神託絶えにつつデルポイの地は世界の臍ぞ・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(4)──

    小さき泉遺して神託絶えにつつ
        デルポイの地は世界の臍(へそ)ぞ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


先日来、3回に分けて書いたギリシアの記事の続編である。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、WebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文と一緒にご覧いただくと、よくご理解いただけよう。
「ギリシア(3)」に載せた地図を見てもらえばよく判るが、カランバカ──メテオラから南に戻る途中にデルフィの遺跡がある。
古代ギリシアでは、何か事を行なう際には、デルフィのアポロン神にお伺いをたてて、「神託」をいただいてから行動に移ったという。
だからデルフィは「世界の臍」と言われ、写真①の「臍石」というのが発掘されて「デルフィ神殿博物館」に陳列されている。
遺跡の野外には、その臍石が安置されていたという場所にはレプリカが置かれ、元の位置が示されている。

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写真②は「デルフィの聖域」と呼ばれる神殿跡である。世界遺産に指定されている。

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写真③はこの遺跡から発掘された「御者の像」という青銅製の彫刻である。
この「御者の像」は、もちろん紀元前数百年の制作になるもので、この博物館でも逸品と言われているもの。
他に神殿の「破風」とその下部に大理石に彫られた見事な彫刻の「ファサード」が展示されているが大き過ぎて写真に撮れなかった。
「博物館」に展示される遺品では、これらのものがめぼしいもので博物館としては簡素なものである。

アポロン神殿は紀元前850年に建造されたドーリス式の神殿。神託も、この神殿で行なわれた。
「ピュティア祭」というのが4年に1度開催されていた。
この大会は紀元前582年に始められ、当初は8年毎に「音楽と文芸の神アポロン」に因んで、詩、演劇、演説、音楽などのコンテストがメインに行なわれ、運動競技もあったという。
大きな競技場跡も見られる。

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写真④はアポロン神殿の遺跡に、ここにアポロン神殿のあった場所を示す石である。ギリシア語、フランス語、英語で書かれている。

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写真⑤は、デルフィの神託の書かれた宝物庫の壁の文字。

デルフィは山の中の岩山で、発掘された岩や石が散乱する、文字通りの遺跡である。
山の中のデルフィの遺跡からバスで20~30分戻ったところに小さなデルフィの集落がある。
私たちは、ここのヴーザスという崖に張り付いて建てられたホテルに泊った。
道路に面した一階がホテルの玄関で、客室はエレベータに乗って下に下ってゆく。5階ぐらいはあったと思う。
崖に張り付いているので、エレベータも客室の窓からも眺望は絶景である。ホテルの周りには土産物屋が軒を連ねている。
ここからは遥か先にギリシア本土とペロポネソス半島の間に挟まれた細長い水道──コリンティアコス湾が望める。

掲出した私の歌の「泉」について解説しておく。
この泉は「カスタリアの泉」と言い、アポロン神殿に参詣する人々も、お告げをする巫女たちも、まず、この泉で身を清めてから、聖域へと進んだという。
なお「デルフィ」というのは英語よみの発音であり、「デルポイ」というのは古代ギリシアの発音に近いということになっている。
掲出した歌の前後の私の歌をひいて終りにしたい。

    星の幾何学──MARE MEDITERRANEUM──・・・・・・・・木村草弥

  森羅いま息ひそめつつデルポイはみどりの芽吹き滴るばかり

  小さき泉遺して神託絶えにつつデルポイの地は世界の臍ぞ

  熟れたれば舗道に杏の実は落ちて乳暈(アレオラ)のごとく褐色(かちいろ)に乾く

  したたる緑、永遠の春、あくなき愛、浄福の地ぞアルカディーアは

  悦楽(ロクス・アモエヌス)の地と描かれて画布にあるそはアルカディーア場所(トポス)たり得し

  場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり

  曲線はなに狩る弓ぞキャンバスに強く張らるる弦画(か)かれゐき

  星に死のあると知る時、まして人に快楽(けらく)ののちの死、無花果(いちじく)熟す

  かの射手座海に墜ちゆく彼方にはわが銀河系の母胎あるといふ

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「デルフィまたはデルポイ」については、このWikipediaに詳しい。
なお「日刊ギリシャ檸檬の森」という実地踏破による詳しいサイトがあるので、ご覧いただきたい。


わが泊る窓の向うにメテオラの奇岩の群のそそりたつ朝・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(3)──

     わが泊る窓の向うにメテオラの
         奇岩の群のそそりたつ朝・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は先日から二回書いた私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたギリシア紀行の奇岩「メテオラ」の歌である。
WebのHP「エーゲ海の午睡」の紀行文と一緒にお読みいただくと、よく理解していただける。

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「メテオラ」と言っても関心のない人には、なじみのない地名だと思うので地図を掲げてみた。
 ↑ また「リンク」設定してあるので見られるとよい。
ギリシアの首都アテネからバスで北へ半日余り行ったところにカランバカという村がある。
そこまで行くとメテオラの奇岩が平地から、そそりたつように林立している。
その岩の頂に千年前から迫害を逃れたキリスト教徒の修道院がいくつも建っているのである。
写真①は「アギア・トリアダ修道院」である。
ギリシア正教管内では「アギア」とか「ハギア」とかの呼び方が教会の名前につくが、これは「聖なる」という意味の言葉である。
ギリシア、トルコなどのギリシア正教の地域に見られる。
イスタンブールの「アヤ・ソフィア」大聖堂の場合の「アヤ」も同じである。

先に書いたようにアテネを朝でて、バスで平地、山地、平地、山地と越えてゆくとカランバカ近郊に至ると、昼食の時間になるレストラン──もちろん田舎の粗末な食堂であるが、
そこの庭から突如としてメテオラの奇岩が眼前に屹立するのである。
行程としては、そこで期待に胸を高鳴らせながら昼食を摂り、やおら岩山の修道院見学に出立するという算段である。
平地から岩山は屹立しているのだが、裏側に廻り込むと尾根づたいに岩山の修道院に接近できるルートがあるのである。

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写真③は「メガロ・メテオロン修道院」の遠景である。「メテオロン」とは「中空の」という意味である。
写真左下に見える苦労して作られた岩道をあえぎながら登って修道院に至る、というものである。
崖の途中の塔のようなものは物資を吊り上げる滑車が設置してあるところ。
乗ってきたバスは、この岩山を望む手前の山の平たいところに駐車場があり、そこから歩く。

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写真④は岩山から見た平地のカランバカとカストラキの村の遠望である。
上からの俯瞰であるが、これらの岩山を平地から振り仰いだとすると、まさに奇岩の屹立という感じがするのである。
昔は修道院も、もっと数も多かったが、いまでは過酷な修行をする人も少なくなり、6カ所ほどに修道士あるいは修道女がいるに過ぎない。
詳しくは私のWeb上の紀行文「エーゲ海の午睡」をお読み願いたい。
「アギオス・ステファノス女子修道院」を見学したが、ここは元は男子修道院だったが最近(1950年)になって女子修道院として再開された。
以下に私の当該個所の歌を引いておくが、修道院の中は撮影禁止であり、したがって写真はないので、私の歌から推測していただきたい。

    メテオラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  名を知らぬ村の教会の鐘の音が朝の七時を告げて鳴りいづ

  わが泊る窓の向うにメテオラの奇岩の群のそそりたつ朝

  峨々と立つ岩山にして奇景なり信を守りて一千年経ぬ

  中空の意なるメテオロン修道院すなはち岩は中空に架かる

  披かれて置かるる本は古(いにしへ)の朱の書き込みの見ゆる楽譜ぞ

  美貌なる修道女にてイコン売る黒き衣にうつしみ包みて

  携帯用イコンなる聖画ゑがけるは聖母とわらべ金泥の中

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補足的に書いておくと、
岩山の何カ所かの修道院の見学を終えて平地に下り、宿泊地のカランバカに帰り着き、夕食を摂ってしまうと、田舎のこととて、外は真っ暗である。
そのまま寝てしまい、翌朝、自室の窓を開けたら、眼前にメテオラの奇岩が屹立しており、ワッという感動のうちに作ったのが、掲出した歌、だということになる。

img_574703_52774906_1イコン
 ↑ イコン 聖母マリアと幼子キリスト
なお、これらの修道院は、もちろんギリシア正教徒のものであるから、ご存じのように「イコン」を制作して見学者に売る。
圧倒的に多いのが、私の歌にもある聖母マリアと幼子キリスト、という構図である。
女子修道院というのは2カ所だけである。




たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・近藤芳美
003霧

    たちまちに君の姿を霧とざし
        或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美


この歌は近藤芳美の、戦後まもなくに発表した「相聞」の歌として有名なものである。
作られたのは戦前で、とし子夫人との甘やかな新婚時代あるいは婚約中の交際時期のものであろうか。
『早春歌』昭和23年刊所載。
近藤芳美は東京工業大学出の建築家が本職。建築技師や大学教授などを務めた。
広島高等学校在学中に中村憲吉について「アララギ」入会。
戦後は新風十人などとして嘱望され、アララギの若き俊英と呼ばれる。
昭和26年短歌結社「未来」創刊、30年より朝日歌壇選者。近年、「未来」編集を岡井隆に譲る。
この歌のように、いかにもインテリらしい作風と処世の態度を一貫させてきた。
左翼運動さかんな頃も、それに共感を寄せつつも、それに溺れることはなかった。
また前衛短歌運動の時期も、ある一定の距離を置いて接してきた。
それらの運動の退潮期を経た今は、むしろ近藤芳美の生き方、処し方が自由な姿勢として評価されている。
以下、近藤芳美の歌を少し引く。

  落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

  国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

  送りかへされ来し履歴書の皺つきしに鏝あてて又封筒に入る

  果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

  コンクリートの面にひそかに刻みおきしイニシヤルも深く土おほはれつ

  あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

  手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

  果てしなき彼方に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

  鴎らがいだける趾の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

  営庭は夕潮時の水たまり処女(をとめ)の如く妻かへりゆく

  売れ残る夕刊の上石置けり雨の匂ひの立つ宵にして

  耳のうら接吻すれば匂ひたる少女なりしより過ぎし十年

  生き死にの事を互ひに知れる時或るものは技術を捨てて党にあり

  乗りこえて君らが理解し行くものを吾は苦しむ民衆の一語

  帰り来て踏まれし靴を拭くときに吾が背に妻は抱かむとする

  傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき

  講座捨て党に行く老いし教授一人小さき一日の記事となるのみ

  身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ

  離党せむ苦しみも今日君は告げ売れざる暗き絵を置きて行く

  反戦ビラ白く投げられて散りつづく声なき夜の群集の上

  森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹
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近藤芳美は90歳を越えても現役歌人として大きな地歩を占めてきたが、2006年6月21日に亡くなった。
作品数も膨大なものである。上には初期の歌集『早春歌』『埃吹く街』『静かなる意思』『歴史』から引いた。
これらを読むだけでも、先に書いた近藤芳美の生き方が作品の上にも反映していることが読み取れるだろう。
私としても一時は「未来短歌会」に席を置いたものとして無関心では居られない。
事典に載る記事を下記に引いておく。
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近藤芳美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人である。

本名は近藤 芳美(読みは同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活躍し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。

生涯
1913年、父の赴任先であった旧朝鮮(現・大韓民国)・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。広島二中(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。

東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。戦時中は中国戦線に召集された。終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表した。またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成している。

1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。

1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三らと共にアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。石田比呂志、大田美和、道浦母都子など多くの歌人を育成した。また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。神奈川大学の教授も務めた。

このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。

2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。

2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。遺志により、葬儀・告別式は親族のみで行い、後日未来短歌会主催による「しのぶ会」を開く予定。

思想
芯からの反戦主義者として知られる。自らの戦争体験から、平和を強く希求するようになった近藤は、終戦記念日に日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が開催した反戦集会に参加するなど、戦争に反対する主張を一貫して展開した。その姿勢は自らの評論や短歌のみならず、新聞の短歌欄における選歌にも反映されており、「朝日歌壇」で彼が選ぶ歌の中には、反戦に関する作品が必ずといって良いほど含まれていた。教育現場での日の丸・君が代強制問題が浮上した時期には、強制に反対する立場から詠まれた歌を複数回採用している。 そのためか、朝日歌壇は一部の愛国者から「時事詠が多すぎる」と批判されている事もある。

年表
1913年 出生
1932年 「アララギ」に入会
1947年 「新歌人集団」を結成
評論『新しき短歌の規定』発表
1948年 歌集『早春歌』、『埃吹く街』を刊行
1951年 6月、歌誌『未来』を創刊、編集発行人に就任
1956年 現代歌人協会設立
1969年 『黒豹』(1968年)で第3回迢空賞を受賞
1977年 現代歌人協会理事長に就任(~1991年)
1986年 『祈念に』(1985年)で第1回詩歌文学館賞を受賞
1991年 『営為』(1990年)で第14回現代短歌大賞を受賞
「近藤芳美方」としていた『未来』発行所を、東京都中野区東中野に移転。同時に発行人名義を岡井隆に譲る
1994年 『希求』(1994年)で第6回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞
2006年 死去

近藤芳美の歌碑が此処にあるのでご覧あれ。彼の出身地である広島のことも書かれている。
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この掲出歌の対象と思われる「近藤とし子」夫人も、2010年秋に亡くなられた。
その件について、こんなツィッターがネット上に出ているので引いておく。

@caille2006
うずら

近藤年子氏、2日に死去。92歳。向山のご自宅によく芳美先生の原稿を頂きに伺った。
リリアン・ギッシュのような可憐な姿は「早春歌」の名歌「たちまちに君の姿を霧とざし」の「君」そのままだと思ったものだった。
06年に芳美先生が亡くなってからのお辛さが偲ばれる。楽になられただろうか。合掌。
11月4日 TweetMe for iPhoneから
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これによると2010/11/02に亡くなられたようだ。本名は年子だが、ペンネームは「とし子」だった。
ご夫妻の間には子供はなかったので、淋しい晩年だった、と思われる。ご冥福をお祈りする。

彼一語我一語秋深みかも・・・高浜虚子
05曽爾高原すすき

    彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

「深み」の「み」は、形容詞の「深し(深い)」の末に添えて名詞化する接尾語で、「秋深み」は秋の深まった状態を言う。
天地の間に置かれた二人の人物。
一方がポツリと一語を発すると、もう一方も一語ポツリと返す。言うに言われぬ時が流れて、二人の男も、発した言葉も、深い秋のまつただなかにある。
『六百五十句』昭和30年刊所収。
高浜虚子は何と言っても俳句界の巨人であって、作句も多く、私も何回も採り上げてきた。
以下、重複しないように気をつけて虚子の句を少し引く。

    海に入りて生れかはらう朧月

    蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ

    ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
    ・・・・・9月14日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰く、センセイノネコガシニタルヨサムカナ トヨ
         漱石の猫の訃を伝へたるものなり。返電。・・・・・(明治41年)

    春風や闘志いだきて丘に立つ

    露の幹静かに蝉の歩き居り

    冬帝先づ日をなげかけて駒ケ岳

    石ころも露けきものの一つかな

    道のべに阿波の遍路の墓あはれ

    鎌倉に実朝忌あり美しき

    我が生は淋しからずや日記買ふ

    風生と死の話して涼しさよ



帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・木村草弥
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──新・読書ノート・・・初出Doblog2007/11/11──

     帚木蓬生『白い夏の墓標』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・新潮文庫16刷・初版昭和54年・・・・・・・・・・・

先日、同じ作者の『聖灰の暗号』を採り上げたが、多くの小説が書かれているので、引き続いて読んでみたいと思い、bk1から十数冊取り寄せた。
この小説は帚木の初期の作品で昭和54年(1979年)に新潮社から発表されたが「直木賞」候補に挙げられ注目を浴びている。
サスペンスの体裁を取りながら、採り上げているテーマが、いわゆる「細菌兵器」開発にまつわるということで、今日的意義を持っている。
細菌兵器開発といえば、古くは旧関東軍731部隊が知られているが、今でもアメリカをはじめ先進国でも、ひそかに開発が進められているらしい。
この小説は、「遺伝子」操作のことにも触れているように、極めて「身近な」危険性について考えさせる。
現代科学は、一体、われわれ人類をどこに連れてゆこうとしているのか、という不安をかきたてるが、利用の仕方ひとつで救世主にも悪魔にもなり得る現代科学の両面性を、この本は気づかせてくれる。

筋書きは、肝炎ウィルス国際会議に出席すべくパリを訪れた北東大学の教授、佐伯をストーリー・テラーとして、フランスおよびピレネー山中の小国アンドールを舞台に展開してゆく。
主人公は、仙台型肺炎ウィルス、いわゆる「仙台ヴァイラス」の研究で、米軍にその能力を買われて渡米した若き細菌学徒「黒田武彦」である。彼は発表した英文の論文を米軍によって発見され、細菌兵器開発のために「仙台ヴァイラス」株と一緒に連れ去られ、ピレネー山中の小国「アンドール」にある研究所に詰め込まれる。
研究者が発見し開発した「培地」が、大学からも強引に持ち去られたのには、日本の敗戦後数年という時期が関係していて占領軍である米軍の「強権」によるものである。
米軍が目をつけたのは、黒田の開発した「細胞融合」という手法にあった。
そして黒田は、その地でいったい何を研究していたのか?その結果いかなる運命に巻き込まれたのか?彼の死をめぐる真相は?

興味津々たるそれらの謎を、作者は佐伯の目を通して一枚、一枚はぎとってゆく。パリにおける佐伯とベルナール(黒田の所属した研究所の所長だった)との邂逅、佐伯と黒田との学生時代へのフラッシュバック、次いで舞台は現代に戻り、佐伯のウスト(ピレネー山中の現地)行き、一転して「黒田の手記」という形で、謎の核心が語られてゆく。

見所は、何と言っても第4章に登場する「黒田の手記」だろう。そこでわれわれは、ウイルスに憑かれた一人の男の秘められた生い立ちを知ることになる。<ウイルスは人間よりもきれいだ>と言い切るまでに至った男の苦闘をかいまみることになる。そこで暴露される細菌兵器開発の実態は、人類に背を向けた「逆立ちした科学」の不条理を明瞭に物語っていると言える。現代科学の暗い狭間に身を置いた黒田の「煩悶」が描かれる。
『聖灰の暗号』でも「マルティの手稿」なるものが、重要なキーになっていたが、帚木は、こういう主人公の「手記」なるもののプロットという手法を得意としているようだ。

物語は後半、黒田の死をめぐる真相に焦点が絞られる。アンドールの病院における黒田とジゼル・ヴィヴの出会い、二人の恋、そして決死の脱出行、など。

帚木は東京大学文学部仏文科を出ているのでフランス語には堪能で、小説の舞台にもフランスは、先の『聖灰の暗号』同様たびたび出てくる。
この小説でもフランス南西部の、いわゆる「カタリ派」の舞台が登場し、カタリ派のことにも、さらっとだが触れられる。「モンセギュール」の山も出てくる。『聖灰の暗号』では重要な場所であるが、ほぼ30年のちに書かれる小説の素材というか、素地が、すでにこの小説に「芽生えて」いることは興味深い。
「アンドール」という国名は、「アンドラ公国」として私たちが知っている国であろうか、アンドールとは、この国のフランス語読みの発音であろう。

時代と切り結ぶ先鋭なテーマ、それを生かす緊密な「プロット」と、清冽な文体──欧米の優れたミステリーのように、プラス・アルファの面白さを備えた、知的なエンターテイメント・ノヴェルと言えるだろう。
先にも書いたが帚木は、フランス文学を専攻後にTBSに勤めたのち、九州大学医学部に入り直し、医学を修めているから医学の知識も豊富で、付け刃でない緊密性のある文体を書ける人である。今は「精神科医」として開業しているようだ。
一年に一作という節度のある執筆態度も、好ましい。 いい小説である。


驢馬の背に横座りしてゆく老婦大き乳房の山羊を牽きつつ・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(2)──

       驢馬の背に横座りしてゆく老婦
         大き乳房の山羊を牽きつつ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで載せたものの続きである。
繰り返しておくと私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に「エーゲ海」の一連15首として載せたものである。
この旅は2002年6/26から7/7に行ったものである。
私のWebのHP「エーゲ海の午睡」に詳しい。
この歌の前後の歌を引いておく。

  鄙びたる小さき教会と風車一基丘の高みの碧空に立つ

  どの家も真白にペンキ塗りあげて窓枠は青エーギアン・ブルー

  歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は

  戸口の椅子二つに坐る老夫婦その顔の皺が語る年輪

  愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に坐る二人


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掲出した写真二枚について、何も説明を要しないだろう。先に写真があって、それを見ながら、これらの歌が出来たということである。
この歌の場面は、ミコノス島で私ひとりで島の坂道を散歩したものである。

↓ その他のミコノス島の風景写真を出しておく。
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ミコノス島は、町の反対側が「ヌーディスト」の浜パラダイスビーチとしてヨーロッパに有名で、各国から裸を見せびらかしたい連中が、やって来る。
ただし、この写真は私の撮ったものではない。 ↓
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次の歌は2首だけだが、それを描いた歌である。

  ミコノスの浜べはヌーディスト陽を浴びる美女の乳房の白い双丘

  男も女も一糸まとはずとりどりの恥毛光らせ浜辺を歩く


残りのギリシア各地の歌と写真は、また折をみて載せたい。
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「ミコノス島」については、このWikipediaの記事を参照されたい。


クレタ人ゑがける海豚つぶらなる目をしてゐたり四千年経て・・・木村草弥
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──ギリシア紀行(1)──

     クレタ人ゑがける海豚つぶらなる
       目をしてゐたり四千年経て・・・・・・・・・・・・・木村草弥


Web上のHP「エーゲ海の午睡」には詳しく載せているが、この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に「エーゲ海」の一連15首として載せたものである。
自選60首にも入れているのでWeb上でもご覧いただける。

掲出の絵は有名な壁画で「ミノア文明」期のものである。
この歌の前後には

  海の民クレタ人築きし文明のクノッソス宮殿あをぞらの下

  描けるは海豚五頭の壁画なりはるばる逢ひに来し我なるか

  海豚はも人なつつこく寄るものぞミノアの世にも今の時代も


が並んでいる。この壁画は現在は剥されてクレタ島の「イラクリオン考古学博物館」に展示されている。
元の絵にはイルカが五頭いるが、絵が小さくなりすぎるので二頭だけにした。
これらの歌のつづきには

  牛頭の酒杯(リュトン)に光る金の角凍石製は三千六百年前

が載っている。

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写真②が、それである。これも同じ博物館に、大きなもの、小さいものなど膨大な数の展示品とともに並んでいる。
この博物館は好きな人には何日かかっても見飽きない見事なものである。これらについては先に書いたWebのHP「エーゲ海の午睡」に詳しい。
ギリシアについては本土の古代ギリシアの文物もいいが、エーゲ海の各地に散らばる歴史的文物も蒙を啓かれる。

このエーゲ海への旅は2002年6/26から7/7まで日通旅行の主催でタイ航空ビジネスクラス利用で、途中からはイタリア船籍の客船で島々を巡ったものである。
この一連の最後は、次の歌でしめくくっている。

  ミノア人の統べし多島(エーゲ)海はこぞりたつ文明のはざまの交差点たり

  線文字Aいまだ解読されずして渦巻く象形《フェストスの円盤》

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「クレタ島」については、このWikipediaの記事に詳しい。

他にも色々と紀行文が出ているが一長一短がある。
「和田フォト」というサイトなどは写真も大きく美しいが、採り上げる対象に偏りがあるがご覧あれ。



帚木蓬生『聖灰の暗号』上・下・・・木村草弥
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──新・読書ノート・初出Doblog2007/11/03──

     帚木蓬生『聖灰の暗号』上・下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・新潮社2007/07刊・・・・・・・・・・

この小説で採り上げられている「カタリ派」なるものについては私の歌に

   金雀枝は黄に盛れどもカタリ派が暴虐うけしアルビの野なる・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る。
カタリ派については2009/05/19に記事を載せたので、ご覧いただきたい。

先ずはじめに彼の経歴を引いておく。
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帚木蓬生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい、1947年1月22日 - )は、日本の小説家、精神科医。福岡県小郡市生まれ。本名、森山 成彬(もりやま なりあきら)。
東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。ペンネームは、『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木」と「蓬生」から。

経歴
東京大学仏文科時代は剣道部員、卒業後TBSに勤務。退職後九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。現在は、福岡県中間市にて「通谷メンタルクリニック」を開業。開業医として診察をしながら、人間の心と社会倫理を鋭く射抜く、ヒューマニズムあふれる作品を世に出し続けている。

医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『ギャンブル依存とたたかう』を上梓している。

2008年に急性骨髄性白血病に罹り、半年間の入院生活を余儀なくされた。現在は復帰している。

受賞歴
1975年 - 『頭蓋に立つ旗』で第6回九州沖縄芸術祭文学賞
1990年 - 『賞の柩』で第3回日本推理サスペンス大賞佳作
1992年 - 『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞
1995年 - 『閉鎖病棟』で第8回山本周五郎賞
1995年 - 福岡県文化賞
1997年 - 『逃亡』で第10回柴田錬三郎賞
2010年 『水神』で新田次郎文学賞

著書
白い夏の墓標 1979年4月 新潮社 / 1983年1月 新潮文庫)
十二年目の映像(1981年6月 新潮社 / 1986年1月 新潮文庫)
カシスの舞い(1983年10月 新潮社 / 1986年11月 新潮文庫)
空(クウ)の色紙(1985年2月 新潮社 / 1997年12月 新潮文庫)
賞の柩(1990年12月 新潮社 / 1996年2月 新潮文庫)
アフリカの蹄(1992年3月 講談社 / 1997年7月 講談社文庫)
三たびの海峡(1992年4月 新潮社 / 1995年8月 新潮文庫)
臓器農場(1993年5月 新潮社 / 1996年8月 新潮文庫)
閉鎖病棟 1994年4月 新潮社 / 1997年5月 新潮文庫)
空夜(1995年4月 講談社 / 1998年4月 講談社文庫)
総統(ヒトラー)の防具(1996年4月 日本経済新聞出版社 / 1999年5月 新潮文庫 上下巻 改題『ヒトラーの防具』)
逃亡(1997年5月 新潮社 / 2000年8月 新潮文庫 上下巻)
受精(1998年6月 角川書店 / 2001年9月 角川文庫)
安楽病棟(1999年4月 新潮社 / 2001年10月 新潮文庫)
空山(2000年6月 講談社 / 2003年6月 講談社文庫)
薔薇窓(2001年6月 新潮社 / 2004年1月 新潮文庫 上下巻)
エンブリオ(2002年7月 集英社 / 2005年10月 集英社文庫 上下巻)
国銅(2003年6月 新潮社 / 2006年3月 新潮文庫 上下巻)
アフリカの瞳(2004年7月 講談社 / 2007年7月 講談社文庫)
ギャンブル依存とたたかう(2004年11月 新潮選書)
千日紅の恋人(2005年8月 新潮社 / 2008年4月 新潮文庫)
受命(2006年6月 角川書店 / 2009年9月 角川文庫)
聖灰の暗号(2007年7月 新潮社 / 2010年1月 新潮文庫 上下巻)
インターセックス(2008年8月 集英社)
風花病棟(2009年1月 新潮社)
水神(2009年8月 新潮社 上下巻)
ソルハ(2010年4月 あかね書房)
やめられない ギャンブル地獄からの生還(2010年9月 集英社)
蠅の帝国 軍医たちの黙示録(2011年7月 新潮社)
日御子(2012年6月 講談社 / 2014年11月 新潮文庫【上・下】)
天に星 地に花(2014年10月 集英社)
悲素(2015年7月 新潮社)

翻訳
精神医学の二十世紀 ピエール・ピショー 大西守共訳 新潮選書 1999.10

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内容(「MARC」データベースより)
南フランスのピレネー山麓にその古文書は眠っていた…。謎めいた文字が躍る羊皮紙、行間に滲む火刑審問、声なき叫び。「手稿」が長き眠りから目を覚ます時、ヴァチカンの闇が再び動く。人間の救済と信仰の真実を問う歴史大作。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読み始めると止まらないくらい面白い。ハハキギはいつも道具立てが秀逸で、登場人物がちょっと不思議なんだけど、今回も若干その傾向。とはいえ、主人公の須貝明は行動力もあるし、周辺人物も魅力的で、交流もよく描かれている。フランスの食べ物もおいしそうだし。

初めのうち、主人公の行動にどうも疑問が残った。新発見の重大な証拠となる古文書を保全しようとしないとか、そのために関係の無い人を巻き込んでも余り動揺していないところとか。言い訳は、何よりも700年前の悲痛な叫びに突き動かされて、第二,第三の手稿を探し求めずにはいられなかったということらしいのだが。

でも、それも半分くらいはうなずけるほどに、古い手稿の記述が迫力に満ちていたため、途中からは気にならなくなった。異端として拷問にかけられたカタリ派の聖職者たちの火を噴くような舌鋒が克明に記されて、胸に深く突き刺さる。これが全くの創作であるなら、作者はよほど深くキリスト教とカタリ派の教義を研究したにちがいない。

カタリ派はキリストの復活を信じないのが異端とされた最大の理由らしいが、彼らの言葉はどれも確信に満ちている。
「父と子そして聖霊が人の肉体の形を取ることはありえない」
「この世にあるすべての目に見えるものは、神の意志や栄光をあらわすものではなく、教会も礼拝堂も、その他もろもろの城と同じく、神とはゆかりのないものであり、祈りは洞窟の中、小屋の内、森の空地でなされるべきもの」
として、その理由をよどみなく何ヶ所も聖書の中から引いて語る、情熱に満ちた博識。

中でも、審問の記録係を務めてその問答を聞くドミニコ会修道士レイモン・マルティの胸に深く響いた「神の社はあなたの中にある。野にいても山にいても、町の中にいても」という言葉のすがすがしい単純さは、読み手の胸をも深く打つ。これが信仰の核心でなくて何だろう。この原点から離れてしまった宗教がどれほど多いことか。というより、宗教は何とたやすく原点から離れてしまいがちなものか。

常にその警鐘を鳴らしながら物語は進んでいく。カタリ派の聖職者<良き人(ボノム)>であるアルノー・ロジェそしてピエール・サンスと、審問の記録係であるマルティとのひそやかな交流は、息を呑むクライマックス。特に、最後の<良き人>ピエール・サンスとの場面は、互いに心の寄り添うもので、胸に迫る。

ミステリとしての完結はあっさりしたものなのだが、古文書の探索と謎解きだけでも十分に面白い。かつ、その古文書には信仰の本質にかかわる大きなドラマが幾つも書き記されているので、上下巻を読み通すと、単なるミステリにとどまらない深い感情が揺り起こされ、激しく熱い信仰のまっすぐな姿に触れたかのように粛然とする思いが残った。
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この小説中にも書かれていることだが、「カタリ派」という呼び方は、カタリ派が自称したものではない。
ローマ教会が押し付けたものである。
語源はドイツ語の Ketter だと目されている。<神から愛される者>という意味がそこにこめられていた。当時のイタリアではそれを Cathare と呼んだので、弾圧と審問の過程でその呼び名が定着してしまったという。
カタリ派信仰の萌芽は10世紀で、小アジアやシチリア島、ドイツで起こったと考えられている。当初からカタリ派の聖職者はローマ教会の司祭とは異なり、現在のギリシア正教と似て長髪で髭を生やしていた。実生活では独身を通し、菜食を厳守し、祈りと肉体労働の日々を送った。形式と権威だけにしがみついていたローマ教会に、人々はもう「信」を置かなくなったのが十世紀で、ここにカタリ派が生長する下地が出来ていたと言えよう。
──完全な信仰者になりたければ、行きなさい。お前の所有する物をすべて売り、貧しい者に与えなさい。そうすればお前は天に財宝を築くだろう。来なさい、私に従うのです。──余りにも有名な「マタイによる福音書」の一節だが、カタリ派の聖職者はこの聖句そのものの生活をし、信徒たちもその生活信条を理想とするようになったという。
信徒に男女の区別がなく、聖職者にも女の人が就いていた。

小説の題名の「聖灰」とは、処刑された聖職者アルノー・ロジェとピエール・サンスの、火あぶりにされて燃やされた「遺灰」のことを指す。
全体はドミニコ会の修道僧で、カタリ派として処刑された人を父母に持ちながら、火あぶりの刑の通訳をさせられたレイモン・マルティの三つの「手稿」と共に暗号として隠されるという筋書きなのだった。
上巻の扉のところに名前が明記されているが、

 A Patrick
30年前共にモンセギュールに登って以来、
カタリ派の哀しみを語り続けたその熱意が
なければ、本書は成らなかった。

のようにパトリックのカタリ派に対する執念が、この書を書かせたということである。

上に引いたWikipediaの記事には書かれていないが、彼の経歴として下記のことは欠かせない。

79~80年、フランス政府給費留学生としてマルセイユ・聖マルグリット病院神経精神科、80~81年、パリ病院外国人レジデントとしてサンタンヌ病院精神科で研修。

ということである。フランス語と医学について精通していることが、その後の彼の著作の基礎になっているのである。


和 訶 羅 河・・・木村草弥
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 ↑ 木津川に架かる「流れ橋」(上津屋橋) (文中に説明あり)
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↑ 京田辺校地にある同志社大学ラーネッド記念図書館

──エッセイ──

    和 訶 羅 河・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
     
私は運動のために木津川堤をほぼ毎日ウォーキングしていた。
私の住いは東岸にあるので、徒歩の場合は専ら東岸のみだが、自転車に乗っていたときは西岸も使って「流れ橋」を渡って往復十数キロを動いていた。
この西岸は北は嵐山から南は木津まで三十キロ余りがサイクリング路として整備されている。
因みに「流れ橋」とは洪水の時も材木が流失しないように金綱で連結してある。
欄干がない橋桁だけの木橋で時代劇の撮影によく使われるので有名。
その「流れ橋」が、先日の台風19号の大雨の増水で壊れた。だから今は、この写真の風景は無い。

木津川は三重県に源流を発し奈良県境から京都府に入り、琵琶湖を源とする宇治川と京都盆地北部を源とする桂川と三川合流して、淀川と名前を変えて大阪府へ入り大阪湾に達する。
見出しに見慣れない「和訶羅河」(わからがわ)と書いたが、これが木津川の一番古い名称である。
古事記中巻・崇神天皇の条、建波邇安王(たけはにやす・おう)の反逆の記事中にみえる。(日本書紀には輪韓河と表記される)。
一般的には木津川の古名は「泉川」あるいは「山背川」(やましろがわ)として知られるが、それより古い呼び名があったと知ったのは最近のことである。
ただしこの名称が何に由来するかは、まだ知らない。
付け加えておくと「山背国」という呼称が「山城国」と表記されるのは、桓武天皇による平安京建都以後のことであるので、ご留意を。

 わが「山城盆地」は大和盆地に隣接し、淀川を通じて瀬戸内海とつながり、琵琶湖を通じて丹後、北陸と通じる交通の要衝であり、朝鮮半島から渡来する文明が早くから到達した地域であった。
南山城には「上狛」「高麗」などの地名が現存し渡来人の有力者が居住していたことが判る。

 木津川西岸の京田辺市の丘陵地(天神山古墳と言われる)には先年、同志社女子大学の全学部、同志社大学工学部、同志社大学の一、二年生(教養課程)の田辺キャンパスが開校し、
木津川堤からは赤褐色の煉瓦建の校舎が、よく見える。一きわ高く尖塔の見えるのは女子大学のチャペルである。
もっとも、私立大学のこういう郊外地に新キャンパスを立地させる動きは地価の落着きとともに創立地に回帰する動きが首都圏でもあり、
同志社大学でも創立地である今出川校地の周辺を買収して、回帰する傾向にあり、同志社大学の教養課程も今出川校地に戻った。
女子大学も田辺校地と今出川校地と半々である。
とすると、京田辺校地には工学部と、今もある帰国子女のための同志社国際高校と、これから新設される理工系、医系学部などが立地するものと思われる。

 この丘陵地には古代には筒城宮(つつきのみや)が在ったとされており、この宮は継体天皇の宮都が置かれていた所と言われている。
継体天皇は即位までに河内、筒城宮、大和と長い年月をかけて大和に入ったという、謎の多い天皇である。

PN2009080801000466_-_-_CI0003イタセンパラ
↑ 二枚貝に産卵しようとするイタセンパラ
参考までに、木津川、淀川には「イタセンパラ」という絶滅危惧種の淡水魚が「わんど」という岸辺の窪みに生息していると言われている画像を出しておく。

 私の日々の散歩コースからの雑感である。
(このエッセイは短歌結社「地中海」誌2004年一月号のエッセイ欄「送風塔」に載せたものに加筆した)
以下に、この堤防に因む私の旧作(『昭和』に掲載)を掲げておく。

        木津川堤・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  日々あゆむ我が散歩みち歩数計が八千五百を示せば戻る

  狼煙(のろし)台がありしと聞けり飯岡(いのをか)は木津川に張り出だしたる丘

  イタセンパラは絶滅危惧種の魚なり木津川の<わんど>の潜みゐるといふ

  あまたなる謎の遍歴ありしとぞ継体天皇の筒城宮(つつきのみや)跡

  筒城宮ありたる辺り同志社女子大学の赭 (あか)きチャペル見ゆ

  小春日を浴びつつ展(ひら)く茶畑に茶の花白く咲き初めにけり

  「三川合流点から十三km」木津川の堤防の標(しるべ)よぎりつつゆく

  三川合流すなはち宇治川、桂川、木津川あひ合ふ地点いふなり

  音如ケ谷瓦窯(おんじょがたにごよう)跡あり平城(なら)京の瓦を焼きし跡と伝ふる

  窯跡は相楽台なる新興の大住宅地に囲まれにけり

  黒木美千代住む住宅地すぎゆけば楢の並木の黄葉つもる

  丸瓦軒平瓦鬼瓦刻印瓦、ヘラ書き瓦ありき

  古書しるす一貫百文、瓦窯二烟作工七十九人功人別十四文

           八幡、西山廃寺出土
  瓦焼く職人の戯画線刻の人面と名前裏面に残す



芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ・・・長塚節
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    芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
       子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節


長塚節は正岡子規の高弟。
初期「アララギ」を伊藤左千夫とともに主導した歌人・小説家。茨城県に旧家の地主の長男として生まれ、育った。結核のため36歳で没。
写生の歌に独自の境地を開き、鋭い観察と冴えた感覚には完成された風格があった。

掲出の歌は里芋の葉から地面に落ちつづける夜の露。その白玉の露がしみて、地中の芋は白く輝きながら実りつつあるだろう、という。
地中を凝視する目と想像力がもたらした印象鮮やかな歌。
ただ「芋」というと里芋のことである。
里芋は学名を Colocasia antiquorum var. esculenta というが、インドからマレーシアにかけての南アジアが原産地。
ミクロネシアなど南方に広がったタロイモは、その野生種に近いと言われる。
サトイモの方は、寒さに適応してアジア北部まで広がった品種で、中国では紀元前から栽培の記録あり。
日本では稲作が始まった時期よりも古く、縄文中期から栽培されたと考えられる。
つまり古代日本では、サトイモ栽培が稲作と共存していたが、連作が効かないサトイモに対して、
一度田んぼを作ると毎年連作できる稲作の方が日本の国土に合っていたのだろう。稲作が出来ない畑地などに、ようやく生き残ってきた。
東北地方で河原などで開かれる「芋煮会」の芋というのもサトイモのこと。むかしはサトイモはよく食べられた。
種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋を増殖させて10月に収穫する。

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地方によって呼び方は違うと思うが、関西では写真(2)を「子芋」と呼ぶ。

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写真(3)は子芋の味噌和えの煮付けだが、子芋自体は甘みもない淡白なものなので、どんな料理にも合う反面、特徴のある味ではないので、人すきずきである。
親芋は京都では「頭(かしら)芋」と言い、お正月の雑煮に入れて、一家の家長に「頭にふさわしく」と言って食べさせるが、余りうまいものではない。
「衣被(きぬかつぎ)」というのは皮のついたままの子芋を茹でたもの。
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写真(4)(5)にサトイモの調理例を出しておく。(4)はサトイモと鶏肉の煮付け、(5)は鶏肉ミンチとのそぼろあんかけである。
サトイモが調理上嫌われるのは手がかゆくなるヌルヌルのためだが、その正体は蓚酸カルシウムの針状結晶のしわざ。
皮をむくときに皮膚について刺激する。茹でれば問題ないが、防御としては芋をむくときに、手に酢か塩をつけること。
濡らしたキッチンタオルで皮ごと一つ一つくるんで電子レンジにかけてから皮をむくとよい。
電子レンジ調理が一番手軽である。

俳句にも古くは松尾芭蕉の

   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

という有名な句があるが、現代俳句にも秀句があるので、それを引いておく。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 雀らの乗ってはしれり芋嵐・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・平畑静塔

 箸先にまろぶ子芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・平井照敏


病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出・・・北原白秋
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      病める児はハモニカを吹き夜に入りぬ
      もろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋


私の子供の頃は「ハーモニカ」全盛の時代だった。
ハーモニカ演奏の名手だった宮田東峰という人がいて伝説的な話を聞かされたりした。
今でも「ミヤタ」ブランドのハーモニカがあると思うが、この名前は、この人に因んでいる。

掲出したハーモニカは今のもので「クロマチック・ハモニカ」というらしい。画面右側に見えるボタンを操作して半音とかの切り替えをするらしい。
私は楽器には素人なので間違っていたらゴメンなさい。昔は、こんな機能のあるハモニカはなかった。

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写真②はネット上で見つけたハーモニカのカタログからのもの。
私たちの子供の頃は原始的なハーモニカだったが、その頃からさまざまな、複雑な演奏のできるハーモニカがあったようだ。
吹く穴と吸う穴が同じなのは、今も同じだろうか。
私は音楽、楽器音痴だったので何も知らない。

この白秋の歌は、白秋の子供がまだ小さかった頃のものであろうか。
病んでいる子という人事と「もろこし畑の黄なる月の出」という叙景が、うまく一首のなかで溶け合っている。
その後どこかで読んだ文によると、この歌の「子供」というのは、フィクション上の子供だ、ということらしいので、ここに付記しておく。
「ハーモニカ」という季語はないし、短歌に詠われている作品も目下は見出せないので、この辺にしておく。以下は余談である。

だいぶ以前に、NHK-BSでマカロニウエスタンの、その名も「ウエスタン」という映画を視たことがある。
チャールズ・ブロンソンの吹くもの悲しげな「ハモニカ」が響いて、アメリカの西部劇とは一味違った佳い映画だった。
エンリコ・モリコーネの曲だということである。


ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下三巻・・・木村草弥
ダ・ヴインチ・コード

──新・読書ノート──初出・Doblog2007/10/24

        ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下三巻・・・・・・・・・・・木村草弥

昨日、イスラエル紀行の一環として「マグダラのマリア」について少し触れた。
その時、この本についても書いたが、今日は、この本について書いてみる。
下手な私の要約よりもWeb上に載る下記の記事を転載しておく。
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ダ・ヴィンチ・コード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では小説版の『ダ・ヴィンチ・コード』について記述しています。映画版の『ダ・ヴィンチ・コード』についてはダ・ヴィンチ・コード (映画)をご覧ください。

『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)は、ダン・ブラウンの長編推理小説。
アメリカで2003年に出版された。『天使と悪魔』に次ぐ「ロバート・ラングドン」シリーズの第2作目。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎にはじまり、多くの流説を結びつけた内容は世界的にヒットし、44言語に翻訳され7000万部の大ベストセラーとなった。
筆者が、事実に基づいているとしたため大衆に注目され、多くの研究者の議論が行われている。

日本では、2004年5月に角川書店から上下巻で刊行された(現在、角川文庫で上中下巻の廉価版が発売されている)。翻訳者は越前敏弥。
日本国内での単行本・文庫本の合計発行部数が1000万部を突破した。(角川書店の発表によると2006年5月24日現在、単行本が237万部、文庫本が770万部、計1007万部)

2006年、トム・ハンクス主演で映画化。
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注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
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あらすじ
深夜、パリのホテル・リッツに宿泊していたハーバード大学の宗教象徴学教授であるロバート・ラングドンの下に、フランス司法警察の警部補が訪ねてきた。急用による同行を請われ、到着した場所はルーヴル美術館だった。そこでラングドンは、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールの遺体が猟奇殺人にも似たウィトルウィウス的人体図(右図)を模した形で発見されたと伝えられる。

警察は宗教象徴学者の立場から、ラングドンの事件に対する見解を聞きたいと協力を要請した。しかし、実際はソニエールと会う約束をしていたラングドンを第一容疑者として疑い、逮捕するために呼んだのである。

ラングドンはソニエールの孫娘にして司法警察の暗号解読官でもあるソフィー・ヌヴーの協力と機転により、その場を脱した。ソフィーは祖父の状態を祖父が自らに遺した、自分にしか解けない暗号であると見抜き、ラングドンの潔白に確信を持っていた。これを上に報告しても一笑に伏されると感じたソフィーはラングドンの協力を得るため、彼を逃がしたのだ。しかし彼はそのことによってソフィーともども司法警察に追われる事になってしまう。

一方でソニエールを殺した犯人とその黒幕は、かつてソニエールが秘匿したとされる聖杯の秘密を追っていた。それが「教会の名誉を守る」という狂信に踊らされて…。そして、その毒牙もまたラングドンたちを追い続ける事になる…。

登場人物
ロバート・ラングドン……ハーヴァード大学教授・宗教象徴学専門。
ソフィー・ヌヴー……フランス司法警察暗号解読官。ジャック・ソニエールの孫。
ジャック・ソニエール……ルーブル美術館館長。
アンドレ・ヴェルネ……チューリッヒ保管銀行パリ支店長。
リー・ティービング……イギリスの宗教史学者。ナイトの爵位を持っている。聖杯の探求に生涯をかけている。
レミー・ルガリュデ……ティーピングの執事。
マヌエル・アリンガローサ……オプス・デイの代表。司教。
シラス……オプス・デイの修行僧。色素欠乏症。
ジョナス・フォークマン……ニューヨークの編集者。
ベズ・ファーシュ……フランス司法警察中央局警部。
ジュローム・コレ……同警部補。

作品内に登場する観光名所
エッフェル塔
サン・シュルピス教会
ルーブル美術館
ウェストミンスター寺院
ナショナルギャラリー
キングズ・ガレッジ資料館
テンプル教会
ロスリン礼拝堂

その他
フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名を挙げ、
「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。
とりわけキリスト教、とくにカトリックの教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイトを開設している。
プロットの下敷にアイデアが盗用されたとして、ノンフィクション、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられたが、ロンドンの高等法院は原告側の訴えを退ける判決を下している。
批判の一環として、特別番組『ダ・ヴィンチ・コードの嘘』が放送された。また、「日経エンタテインメント!」は『大名所で原作のウソを発見!』と題し原作で描かれている名所と実際の名所の相違点を挙げている。
作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない。」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている。(日経エンタテインメント)。
ルーブル美術館館長のジャックは殺されたとき76歳だが、フランスの定年は65歳である。

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注釈
『ウィトルウィウス的人体図』、『モナ・リザ』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』など
オプス・デイは実在する組織である。シオン修道会は「秘密結社」とされているのに、「実在する組織」というのは変である。「秘密儀式」も想像上のもの。『秘密文書』なるものについては「シオン修道会」の項を参照のこと。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎、キリスト教における異説や、聖杯伝説に関する解釈、メロヴィング朝の由来など。多くは『レンヌ=ル=シャトーの謎』からの借用。
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以上の記事では、小説の「あらすじ」は、殆ど触れられていないことになる。
2004年5月に単行本として角川書店から出版されたときは2巻であり、私の買った文庫版は上・中・下3冊であって、結構よみごたえのあるものだが、
サスペンス仕立ての小説であり、面白くて途中で止められず、一日で読了した。
私も聖書や外典のいくつかは読んでいるが、資料には、よく当たっているようだ。
マグダラのマリアに触れた部分などは少ない。聖書の当該箇所などは、クリスチャンであれば周知のことなので敢えて改めて触れられていないものであろう。
図版③は、Jan van SCORELのマグダラのマリアの絵である。
mary_magdaleneマグダラのマリア

この翻訳本の「解説」で荒俣宏が書いていることだが、「聖杯伝説」が文献に残されるようになった中世から多くの研究がなされてきたが、
それはキリスト教の教義からのアプローチだったのに対して、現代のアプローチは「神秘学」「歴史学」「図像学」「語源学」
さらに「美術」や「科学」など多面的になっているところに特徴がある。
異端とされて徹底的に、むごたらしい惨劇のもとに抹殺された「カタリ派」のことなどもある。
帚木蓬生の『聖灰の暗号』などは、これを描いたものである。
ヴァチカン当局が、この本や映画を見ないように、との「触れ」を出したというのは当然であって、今まで「聖書」の記述してきたことが覆されるのだからである。
欧米で大ヒットした本書も、むしろキリスト教を知らない、あるいは信仰していない人間にとっては新鮮な面白さを十分に味わえるのではないか。
ただ、この小説は「聖杯」のミステリーと「争奪」についてサスペンスタッチで描くのに大半のエネルギーが費やされているので、その面の面白さが主になっているとは言えるだろう。
とにかく未読の人には、ぜひ読まれることをお勧めする。


娼婦たりしマグダラのマリア金色の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・木村草弥
lrg_11707601マグラダのマリア教会

──イスラエル紀行(4)──

       娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の
         教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「マグダラのマリア」については、ここに改めて書くまでもないが、リンクできるようにしてあるので、ご覧いただきたい。

「マグダラのマリア教会」は同じ名の教会が世界各地にいくつかあるが、もともとの物語の発祥の地であるイスラエルのエルサレムにある教会は、
1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世が、マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てたものである。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)には、掲出した歌につづいて

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

という歌が載っている。
キリスト磔刑の死後3日目、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった、と言われている。
キリストを深く、心から敬愛した彼女なればこそ、復活したイエスが誰よりも最初に「姿」を見せたのが彼女なのであった。
マグダラのマリアは「聖女」に列せられている。
キリストの聖母もマリアという名である。
そんなこともあって、キリスト教世界では女の子に「マリア」という名をつけるのが大変多いのである。
英語名では「メアリー」と発音される。
絵画の世界でもマグダラのマリアは、さまざまに描かれてきた。
一例として、ティツィアーノの描いた絵を挙げておく。
magdelene3ティツィアーノマグラダのマリア像

この絵については、こんなエピソードがある。

いろんな画家の伝記を書いたことで有名なヴァザーリ(いちおう本業は画家だが)
いわく
「髪が乱れほつれたマグダラのマリアの半身像で、
その髪は瀧のように肩、喉、胸にかかっている。
彼女は頭を上げ、その目はしっかりと天を見据えている。
その赤く泣きはらした目は悔悛の表れであり、
涙は犯した罪に対する悲しみの表れである。
このような絵であったから、それを見る者ははげしく心を動かされた。
さらに彼女の姿は非常に美しかったが、
その美は情欲をそそるものではなく、
むしろ深い哀れみの情を誘うものであった」
・・・と。
ここまで言われたら、画家冥利というものである。
あ、ここにもマグダラのマリアの象徴である香油の入った小瓶が描かれている。(左下)
膝の上の骸骨は「限りある命」の象徴なんだそうである。
「香油」というのは、死んだ人の体を香油で拭い、清めて「葬り」の儀式に備える聖なる儀式の一環なのである。

とにかく、オリーヴ山 というのは聖書あるいはキリスト教の世界では重要な歴史的場所なのである。
私が行ったときは、実は「マグダラのマリア教会」には立ち寄らなかった。
ネット上のイスラエル旅行記を見ても、ツアーでは、ここに立ち寄らなかったという記載が多い。マグダラのマリアに対する「偏見」が、あるいは関係しているのかも知れない。
したがって、この教会の写真が遠景からのもので小さいことをお詫びしたい。

オリーブ山麓には、
lrg_11707600万国民の教会

万国民の教会(写真⑤)─別名苦悶の教会と呼ばれ、最後の夜イエスが苦悶しながら過ごしたと言われている─がある。
この教会は新しいもので、聖書のエピソードに因んで、最近に建てられたものである。
この教会に隣接して ゲッセマネの園というのがある。
イエスが頻繁に訪れた場所で「最後の晩餐」のあとイエスは弟子とともに訪れ、受難を予言した場所。名前の通り、オリーヴの木が茂るところである。

ここから少し離れたところに金ピカの「マグダラのマリア教会」はある。
この教会は、見れば判るように典型的な「ロシア正教」の様式である。
玉ネギ坊主の屋根といい、ダブル十字架の下の段の横棒が「キ」の字にならずに、「斜め下」に傾いでいるのもロシア正教特有のものである。
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小説『ダ・ヴィンチ・コード』及び、これを原作にした映画は先年に大きな話題を呼んだ。
この本については明日10/18付けで記事を載せるので、よろしく。
キーパーソンとして「マグダラのマリア」が存在する。キリストが死んだとき、マリアは腹にキリストの子を宿していた、というフィクションが「キー」になっているのだ。
昔から聖書や福音書などには「外典」というものが存在し、小説は、それらを好んで題材にしてきた。
ローマ法王庁は、この本および映画を読んだり、見たりしないように信者に呼びかけた。

2010/09/06に、私の歌

   紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり

を引いて、マグダラのマリアのことについて少し書いている。ご参考までに。
そこに載せたJan van SCORELのマグダラのマリアの絵の方が趣きがある。



終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(3)──

       終末に向き合ふものの愛(かな)しさか
        ハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめに「ハル・メギド」の野ということについて少し説明しておく。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」に「ハルマゲドン」の最終戦争、というようなくだりがあり、一般人にも、このハルマゲドンという言葉が知られるようになったのは、
サリン撒布事件などを起した麻原一派の恣意的な解釈、からである。
聖書の中の、この記述は邪悪な悪魔と、正しい信仰ないしは正しい人生との戦いを言ったものであり、本来的に「ハルマゲドン」とはイスラエルにある地名である。
紀元前何世紀かの戦場跡と言われている。現地の発音に忠実にいうと「ハル・メギド」と言うのが正しい。
「ハル」とは「丘」の意味である。今は草花の咲く草原である。


イスラエルで売られる本には、そのハル・メギドの草原の写真が載っている。
掲出の写真①はアネモネ属の花で、イスラエルでは、アネモネは「国花」になっている。
春になると野原一面に咲くアネモネ。
赤・白・黄色・紫・ピンク・青と、さまざまな美しい色で、気持ちを明るくさせてくれる。
イスラエルに行く機会のある人は、是非この季節のアネモネの一群を見てもらいたいものだ。

麻原一派の事件が起こった時、私は、すでにこういういきさつは知っていたので、こんな歌を作った。
第二歌集『嘉木』(角川書店)に載.る。

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   ハルマゲドンそは丘の名と知らざるや世紀末なる憂愁深く

   くるふ世とみな言ふべけれ僧兵が毒液ふりまく擾乱(ぜうらん)なれば

   ハルマゲドンかの丘原に展(ひら)けしは「たましひ救へ」の啓示ならずや


はじめに 掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
top野の花④

イスラエルという土地は旧約聖書などを読んでも、昔から、川の流れる流域以外は砂漠の不毛の地だったらしい。
今でも農耕が行なわれ豊穣の土地と言われるのは「約束の地」と呼ばれる限られた地域だけである。
その風土的な極端な特徴がユダヤ教などの宗教が発生する精神的なものの基礎を形成したことは確かである。
だから、当然、その肥沃な土地をめぐる争奪戦が繰り返されたのも理解出来よう。
百聞は一見に如かず、であり、本で読んで知っていても、実際に現地を見てみると、十全に理解できる。
私は2000年5月に訪問して、このことをはっきりと知ったのである。
かの地ハル・メギドの野に咲く花のいくつかを写真にして掲出するが、詳しくは私は知らない。

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ハニタのアイリスという草花

私は、掲出した、この歌で「終末に向き合ふものの愛(かな)しさかーー」と呼びかけたが、
これには聖書の「ハルマゲドン」の記述や西洋のキリスト教会で見られるタペストリーの絵解き物語を踏まえている。
「哀しさ」「悲しさ」とは、私は言っていない。「愛(かな)しさ」と言っている。この言葉は「いとしさ」と言い換えてもよい。
その表現の中に、私は未来に対する希望を盛ったのである。
あと二、三イスラエルの野の花を載せておく。

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カルメラ

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ルリハコベ属の花

現地イスラエルに行くと、この歌の背景の豊穣の土地を外れると、砂ばかりの不毛の地が続く。
同じ歌集に載る私の歌の

   断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)

ガリラヤ湖周辺の肥沃な地を離れて、ヨルダン川沿いに南下してゆくと、上の歌のような風景が現出する。
ユダ沙漠は広大なもので、この沙漠を越えて西に行ったところにエルサレムの街がある。エルサレムの街は、東から入るにしても西から入るにしても、うねうねとした道を延々と登り下りした高い丘の上にある。
旧市街は高い城壁に囲まれている。新市街は、その城壁の外に広がっている。

   あたらしき千年紀(ミレニアム)に継ぐ風景は?パソコンカフェのメールひそかに

同じ歌集に載る私の歌のひとつである。ここにも私の問いかけと願いをこめてあるのは、勿論である。
イスラエル紀行の歌は、歌集に載せたものだけでも80首を越えるが、いずれも愛着のあるものだが、今日は、この辺でくぎりにする。




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