K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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( 旅行記 ) 「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ハロン湾  ↑ ↓ ↓
4b7858a87b40f9ea27567e410dfca76aハロン湾
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ベトナム地図
 ↑ ヘトナム地図
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 ↑ ベトナム世界遺産地図
ベトナム通貨
 ↑ ベトナム通貨2000ドン(日本円で10円)
プレミアム
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     「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(1)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・・

        関西空港からベトナム・ホーチミンへ・・・・・・・・・・木村草弥

ベトナムの季節配置を見てみると、十一月は雨季の最終期で、まだ降雨のある時期らしい。行程中、雨に遭わなければいいが、と思うのみである。
ベトナムは南北に長い国なので、北のハノイと南部のホチミンでは気候が大変異なる。

折しも台風30号(アジア名ハイエン)がフィリピンに上陸し、レイテ島などに大被害を与えたあと、ベトナム沿岸を北上したらしい。
ベトナム中部から北部に向け海岸線を北上する形でトンキン湾へ進み、11日にかけ北部に上陸する見通し、と報道された。(共同)
「世界の天気」や「ベトナム通信」など毎日ネットで見ていたが、天気が一転して悪くなったようで心配していた。
どうも雨具が欠かせない旅になりそうである。

この心配が現実になって雨に遭うだけでなく、旅程中止などの事態を招くことになる。 詳しくは当該個所で書く。

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。(日本は北東から南西へ約3000㎞)
インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。
細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。
北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
ホーチミンで最高気温33度のときにハノイでは25度とある。夏用と秋用の服装を用意しなければならないかと思ったりした。
日本に居るときから現地の天気は毎日見てはいたが、気になるところである。

ベトナム航空直行便で10:30関西空港発ホーチミンへ。 VN321便 JL5009と共同運航である。所要時間 約五時間四十分。現地時刻14:10着である。
ベトナムと日本との間には時差が二時間である。
空港の搭乗口の表示によると、中華圏向けのものとしては「胡志明」となっている。 なるほど巧く表現したなあと思う。
今度の旅の同行者は18名で、このくらいの人数が丁度いい。 ツアーディレクターは蔵本泰子さん。
蔵本さんに聞いて、今も米ドルがベトナムでは有効な流通通貨だと聞いて、一万円を米ドル100ドルに交換する。端数は小銭で追加した。
10ドル5枚、5ドル10枚にしたが、1ドル札を多くすべきだったと後悔することになる。
 
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 ↑ 機材:A330-200 

もとサイゴンと呼ばれていた、この町には、カンボジアに行ったときに短時間トランジットで降りたのみである。
現地時間 14:10 に着いてホーチミン市内観光を少しする。
主だったところは「サイゴン大教会」「中央郵便局」、「ドンコイ通り」のみであり、あとは明日に観光することになる。

     サイゴン大聖堂と中央郵便局、ドンコイ通りなど・・・・・・・・・・木村草弥

サイゴン大教会
450px-HCMC_Notre_Dame_Cathedralサイゴン大聖堂
captionサイゴン大教会
vi07サイゴン大教会
20110605131853903サイゴン大教会

サイゴン大教会(サイゴンだいきょうかい、Nhà thờ Đức Bà Sài Gòn, サイゴン聖母大聖堂)はベトナムのホーチミン市1区にあるカトリックの大司教座大聖堂である。
聖マリア大聖堂とも呼ばれる。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設された。
1962年にバシリカ (Basilique)となっている。

サイゴン中央郵便局の横にある。ドンコイ通りが付近のロータリーから始まり、サイゴン川に向かって一直線に延びている。

フランス植民地時代に建設されたもので、ネオ・ゴシック様式の教会である。
カトリック教徒も多いベトナムにおいては休日のミサともなれば多くの敬虔なホーチミン市民によってごった返し、入りきれなかった信徒が建物正面の広場にも溢れかえるほどである。
その建物の荘厳さから普段は観光地としても人気がある。

サイゴン中央郵便局
hcmc-central-post-officeサイゴン中央郵便局
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 ↑ 郵便局内部
サイゴン中央郵便局は、ベトナムのホーチミン市1区にある郵便局。1891年に当時のフランス領インドシナの郵便・電信施設として建築された。
パリのオルセー美術館(当時駅舎)をモデルにしたといわれ、鉄骨設計はギュスターヴ・エッフェルが手がけた。
2012年現在でも通常の郵便・通信業務を行っており、コロニアルスタイルの観光名所としても著名である。

建物中心ホールの中央部および建物両翼は観光客相手のみやげ物売り場となっているが、ホール外周のカウンターでは現在でも郵便をはじめとして各種通信・金融サービスカウンターが並び、国際電話用の電話ボックスやそれを模したATMが設置されている。
ここで買った切手の画像を出しておく。  ↓
切手②
切手①
切手③

こんな公共機関でも米ドルで買えるのには驚きである。普通どこの国でも公共機関は自国通貨のみしか通用しないのに。
記念切手シート(使用済みのもの)は5米ドルだった。
為替相場は、1米ドル=21000ドンである。
日本円との換算は末尾のゼロを二つ取り、残りの数値を2で割ったものが日本円の価格。

外気は33度、湿気が多く、むっとする。 こんな気温は、ここホーチミンだけだった。
ベトナムの人口9000万人のうち10%が、ここホーチミンに住むという。

ドンコイ通り
VIET_20130802_01ドンコイ通り
sgn1201ドンコイ通

ドンコイ通りは、ベトナムのホーチミン市にある通り。
ホーチミン市の主要通りの1つで、サイゴン大教会付近のロータリーからサイゴン川にかけて一直線に延びており、グエンフエ通りと並走している。
ルイ・ヴィトンやグッチなどの高級ブランド品店やデパート、レストランやカフェ、雑貨店が多く、その数も徐々に増えている。
また、古くからホーチミン市の繁華街であったため、歴史的建造物やコロニアルホテルなどもあり、元フランスの植民地であるベトナムの「シャンゼリゼ通り」といった扱いを受けることが多い。

CLBXPIGAホーチミン
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↑ ホーチミン市内は、ものすごいバイクの数、怒涛のように押し寄せる。信号待ちのバイクが、ひしめくように連なるのは壮観である。
当然「空気」は排ガスで悪い。神経質な方にはマスクが必要。
ただし今回は雨模様で空気が湿っていて、マスクは不要。

「バイク」のことを少し書いてみる。
ヘトナムでは日本のホンダが一番はやく進出したので、バイクのことは代名詞として「ホンダ」と呼ぶ。
二人乗り、三人乗りが多いので排気量は100cc以上が多いらしい。
それにしても、こちらのバイクのエンジン音は静かである。軽やかな音である。バリバリというような騒音ではない。
値段も数万円だから、さほど物凄い出費ではないし、どこにでも気軽に行けるので普及している。
四輪車は極めて少ない。政府としても輸入には高額の関税をかけているので超富裕層でなければ車は買えない。
現地ガイドの話では、日本で買う三倍くらいするという。
いたるところで「交通警察」が検問している。日本でいう「ネズミとり」も盛んに行なわれていて、バス運転手などは、きわめて慎重な運転である。
そんなこんなで、道路の悪さも手伝って国道の移動には時間がかかることになる。 工事も人海戦術である。
四輪車はトヨタなどの日本車が多い。タクシーはトヨタ・カローラである。
韓国のKIAのタクシーも見られる。
バスは韓国のHyudaiが多い。新車か中古車かは、見た目では判らない。
ただし、後でも書くが、リゾート開発にしろ、車にしろ韓国の進出はめざまいものがあるようだ。
中国は「南沙諸島」などで覇権主義による対立を抱えているので、ベトナム政府の意向もあるのか、ものすごい進出はみられないようだ。

話は変わるが、現代中国では「電動バイク」が主流であり、こんなガソリンを焚いて走る光景は見られない。
電動バイク専用の車線が指定され、そこを二列になった電動バイクが、音もなく粛々と行くのは、まさに見ものである。
その代りに四輪車の数が物凄く多く、渋滞と、排ガスで大気汚染がひどいことは先刻ご存じのことである。 話のついでに書いてみた。

ベンタイン市場
Ben_Thanh_marketベンタイン市場
ホーチミン市最大の観光市場、「ベンタイン市場(cho Ben Thanh)」とは?
毎日観光客でごった返し、ガイドブックには必ずといっていいほど載っているこの市場。バスターミナルの正面、市内最大の大通りともいえるレロイ通りに面している。
約1万平方メートルの場内に2000軒を超えるお店がびっしり。朝賑わうのは、裏手にある生鮮食品を扱うエリア。
実は地元の人の大切な台所である。昼間は観光客であふれる場内。夜は場外に出現するナイトマーケット。3つの顔を持つベンタン市場は必見である。
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ここについては → 「ベンタイン市場の一日を探検してみよう」のサイトが写真入りで詳しい。

「ベトナム」というと、私などのような年配者は、果てしない泥沼のような「ベトナム戦争」を思い出す。
世界の共産主義の防波堤たらんとしたアメリカが、遠く離れた越南の地で介入したものである。
最初は北のホーチミン率いる共産政権と、アメリカの傀儡政権だった「南ベトナム政府」の抗争だったが、南の劣勢にアメリカが直接介入した。
それでも事態は改善せず、一村みな殺し作戦とか、ゲリラの潜む密林を枯葉剤で丸坊主にする作戦など「非人道的な」戦術の限りを尽くしたが、
アメリカ本国での「介入反対」「引き揚げ」の抗議行動に耐え切れずに、最後はベトナム解放戦線の総攻撃でもろくも崩れ、打ち切りとなった。
少し後に出すが、当時の南政府の大統領官邸にT5戦車が突入するニュース映像などは、今も私の脳裏に濃く焼き付いている。
「枯葉剤」の後遺症は今も残っており、奇形双生児のベトちゃん、ドクちゃんのことなども悲惨な話題となった。
参考までに[閲覧注意]ベトナム枯葉剤作戦の犠牲者の画像 を出しておく。

この国は正式には「ベトナム社会主義共和国」と言い、「ベトナム共産党」の一党独裁下にあり、その他の政党は存在しない。
そういう特異な国である、ということを先ず頭に入れておく必要があるだろう。

特に中国(中華人民共和国)との間には「南沙諸島」の領有権などの厳しい対立点を抱えている。
Wikipediaには、下記のような記事が見られるので、引いておく。 ↓
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中国との関係
ベトナムは長い歴史の中、中国歴代王朝から繰り返し侵略を受けた。
紀元前111年から約1000年のも間、中国歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、938年にゴ・クェン(呉権)が白藤江の戦い (938年)で南漢軍を破って独立を果たした。
この間、1世紀にベトナムで初めて中華王朝、後漢の圧政に立ち上がったハイ・バー・チュン(チュン姉妹)は英雄視され、その名はベトナムの都市の街路名等に使われている。
また、大元ウルスの侵攻に対して陳興道率いる陳朝ベトナム軍が白藤江の戦い (1288年)で勝利した。
15世紀初頭に明朝の永楽帝にベトナムが支配された際にも、1418年にレ・ロイ(黎利)の蜂起により、明軍を撃破し、黎朝を建国している。
その功績は、ベトナムの大小都市の街路名として、至る所で見かける事ができる。
13世紀-19世紀に中国の漢字をベースとしたチュノムがエリート層を中心に浸透したが、一般庶民までは浸透しなかった。

南北ベトナム統一後も、親中派の民主カンプチアに対する親ソ派のベトナムによる侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡って1979年に中華人民共和国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、1989年までたびたび交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。

また、最近では南シナ海にある南沙諸島(ベトナム語名チュオンサ諸島)・西沙諸島(ベトナム語名ホアンサ諸島)の領有権問題も抱えている(1988年には人民解放軍によるスプラトリー海戦によって、駐留していたベトナム人民海軍水兵を虐殺され、ジョンソン南礁を占拠されている)。
その為、中華人民共和国に対する関係も悪く、南沙諸島の領有権問題で、普段は禁止されているデモも2007年12月に公安(警察)の取り締まりもなく、半ば公然と行われた。

また、中華人民共和国が南沙諸島と西沙諸島を含む南シナ海の島嶼部を『三沙市』(通称:牛の舌)の成立を勝手に宣言した事に対して、ベトナム外務省は猛烈に抗議をし、ベトナム社会主義共和国は、領有するに十分な歴史的証拠と法的根拠を持っているという見解を示し、中華人民共和国の三沙市設置はベトナムの主権を侵害することであり、両国間合意に違反するともに、中越両国が海洋領有問題解決を目指し開始した交渉を妨害するものである、と抗議した。2012年6月21日、ベトナムの国会は、南シナ海の南沙諸島・西沙諸島の領有権を定めた「ベトナム海洋法」を可決、これに対し中華人民共和国政府は強い抗議声明を発表、ベトナム社会主義共和国もまた中華人民共和国の抗議に対して「中華人民共和国の道理に反した批判は強く拒絶する」と非難する声明を発表した。ベトナムにとって、中国からの独立は、国家としてのアイデンティティでもある。
更に、2012年5月から中華人民共和国で新規発行されたパスポートの査証ページ上に南シナ海の三沙市の行政区画が印刷されており、ベトナム社会主義共和国の領土主権を主張し実効支配している西沙諸島・南沙諸島を否定する図となっている事が発覚、ベトナム外務省は中華人民共和国に対して猛烈に抗議をし、新パスポート所持者に対しては、入国審査官が入国・出国スタンプの捺印を拒否、ベトナム政府が用意した別紙にて入国・出国スタンプを捺印する事で、新しい中華人民共和国のパスポート上に捺印する事を拒否している。 この様な中華人民共和国の一連の出来事に対して、毎週日曜日にハノイ市にある、駐ベトナム中華人民共和国大使館前にて、ベトナム人民が抗議のデモ活動をしている。

しかし、北京オリンピックの聖火リレーでは、表立って非難はされなかった。
対中関係は首脳レベルでの会議は行われるものの、領土・領海紛争問題で対立を続けている。
中華人民共和国とは陸続きの為、中国製品(Made in China)も多く流通しているが、ベトナムでは華人(主に漢民族)が急増し、不法滞在・不法就労も多発している事から、過去の侵略された歴史を含めて、反中感情を抱く者は非常に多い。

↓ ホーチミン宿泊のホテル
ニュー ワールド サイゴン ホテルの写真
ニューワールドサイゴンホテル  ← クリックするとホテルの概要などがスチール写真で次々に紹介される。

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↑ ホテル前の公園で体操などをする人たち
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        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(2)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・・

いよいよ第二日である。

       クチ地下トンネル・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

郊外約40㎞にある「クチ地下トンネル」の見物に。 地図を見ると、すぐカンボジアとの国境である。
入場料は9万ドンということだった。団体切符なので入場券は貰えなかった。
トンネル内は湿気と人間の体臭などが籠って、気分はよくない。 私は「閉所恐怖症」なので、中には入らなかった。

クチトンネルパンフレット
 ↑ 「クチトンネル・パンフレット」
クチ地下トンネル
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↑ トンネルに入ろうと並ぶ私たちの列
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クチの地下トンネルは、ベトナムホーチミン市クチ県(ベトナム語: Củ Chi、市中心部から北西約40km)にある、全長200kmの地下トンネルネットワークである。
ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線 によって作られた。ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされていた。
周辺には落とし穴などのトラップも数多く見られ、また戦時中は米軍に見つからないように、様々な工夫をして身を潜めて暮らしていた様子を知ることができる。

あとホーチミン市へ戻る。

    貴賓の来訪で突然に「統一会堂」公開中止。代りにベトナム歴史博物館見学・・・・・・木村草弥

統一会堂
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1966年に、南ベトナムの建築家のゴ・ベト・チューによる4階建ての現代建築として再建され、ベトナム戦争終結まではベトナム共和国の大統領府及び官邸とされ使用された。
最初に使用した大統領(供用当時の肩書は「国家指導評議会議長」。1967年9月3日に正式に大統領に就任した)はグエン・バン・チューで、その後計3代の大統領が使用した。

1975年4月8日には、北ベトナム軍が鹵獲したノースロップF-5戦闘機による爆撃を受けた。

同年4月30日のベトナム戦争終結時に、サイゴン市内に突入した北ベトナム軍の戦車が当時は大統領府であったこの建物のフェンスを破り突入、南ベトナムの首都サイゴンは陥落した。
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↑ 突入したT5戦車

その際の映像は「一つの国が消滅する瞬間」として全世界に配信され有名となった。現在でも、その当時のソ連製の戦車が敷地内で展示されている。

ベトナム歴史博物館パンフレット
 ↑ 「ベトナム歴史博物館パンフレット」

あと、ドンコイ通りで名物の「ココナッツアイス、ケム・チャイ・ズア」を賞味する。
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 ↑ 特製ココナッツアイス、ケム・チャイ・ズア(KEM TRAI DUA)


    夕刻、空路ホーチミン → ダナン → バス移動でホイアンへ・・・・・・・・・・・・・木村草弥

夕刻、空路、国内線で18:30発VN1328便でダナンへ。約一時間ちょっとのフライト。
低気圧が通過中とかで大気の状態が悪く、機体がはげしく揺れる。
地上では大雨で道路は水びたしである。
着後、ダナンの街でおそい夕食を摂ったあと、バスでホイアンに移動してホテルに入る。十時を過ぎている。強行軍である。

ダナン市(越:Thành phố Đà Nẵng・英: Da Nang City)とは、ベトナム中部の中央直轄市。ベトナムの主要な港湾都市である。行政的には7区に分かれる。
仏領インドシナ時代にはトゥーラン(Tourane)と呼ばれ、中国語では峴港と呼ばれる。
16世紀には広南政権の首府フエの外港ホイアンでは南蛮貿易が行なわれていたが、ダナンは小漁村に過ぎなかった。

18世紀になるとトゥボン川の河口にあるホイアン港が上流から運ばれた砂の堆積によって、次第に使用できなくなったため、ハン川の河口にあるダナン港が成長し始めた。
1835年、阮朝の明命帝は全ての欧州船にダナンに入港するよう勅令を発したため、ダナンがベトナム中部最大の港となった。
1847年4月15日、ダナンの戦い。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行し、コーチシナ戦争(1858年-1862年)が勃発。
1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。1887年10月、フランス領インドシナ連邦の成立。
1889年、フランスのインドシナ総督府はダナンをクアンナム省から切り離し、トゥーランと命名して、総督直轄地とした。
20世紀始めのトゥーランはインフラストラクチャーが整備されて、食品加工業や造船業が発達し、ハイフォンやサイゴンと並んでベトナムの主要貿易港となった。

1965年3月、ベトナム戦争の際には、朝鮮戦争以来のアメリカ海兵隊が上陸して、大規模な米軍基地を建設し、1967年には中央直轄市となった。
1968年の旧正月に南ベトナム解放民族戦線がダナン駐留米軍に大攻勢をかけたテト攻勢はベトナム戦争の激戦の一つである。
ベトナム戦争後、ダナンはクアンナム省と合併して「クアンナム=ダナン省」となった。
ダナンには空港、港湾、倉庫、銀行、工場などが次々に建設され、大規模な産業都市に発展する。1996年7月6日には再びクアンナム省から分離して中央直轄市となり、現在に至る。

800px-Marble_Mountains,_Vietnamダナン郊外の五行山
↑ ダナン郊外の五行山(マーブルマウンテン)──ダナンの名所として名高い。 大理石が採れる。石細工の店が多い。

ダナンは遊覧しなかったので、YouTubeの動画を載せておく。 ↓
ダナンはベトナム第三の都市であり、ベトナム戦争でひどい被害を受けたが、その復旧めざましいという。


ダナン市はベトナム中部に位置し人口約80万人、ハノイ、ホーチミンに次ぐベトナム第3の都市。
2011年12月にダナン国際空港新ターミナルビルが日本の協力の元で完成し、綺麗になった玄関で観光客を出迎える。
ハノイ、ホーチミンとは違い街に流れる時間はゆっくりしており、行き交うバイクの運転も穏やか。自然も多く、近年ではビーチリゾートの建設が続いている。世界遺産のホイアン、フエ、ミーソンへも近くベトナム中部観光の拠点として便利である。

気候はホーチミンとは違い、9月~1月ごろが雨季という。ベトナム中部の雨季は一日中雨が降り続くことも多く、洪水もしばしば発生する。
逆に乾季になるとホーチミンよりも気温は高く強い日差しが照りつける。この日差しはとても強いが、その分海や自然を綺麗に見せてくれる。

↓ ホイアン宿泊のホテル
スイス ベルホテル ゴールデン サンド リゾート & スパの写真
スイス ベルホテル ゴールデン サンド リゾート & スパ  ↑ ↓

別棟に分かれたホテルで、すぐ傍は海。海が荒れて怒涛の音が響いていた。
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 ↑ 私の泊まった棟─部屋は二階だった
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「スイス・ホテル」というインターナショナルのホテル・チェーンがあるが、ここが、その系列らしい。
このホテルには二泊したので、その行き帰りに、私たちの泊まるホテルの海岸線の並びに建設されるマンションやリゾートホテルをたくさん見かける。
韓国企業の進出が旺盛なようである。
海岸沿いに建つ現地人の住宅を立ち退かせ、建設が進んでいる。
中にはカジノの建設計画もあるらしい。
もっとも金融引締めの噂などが出て、新興国から資金を引き揚げることがあると計画はとん挫して廃墟のような姿をさらすことになる。
こういう開発計画の苦しいところである。「乱開発」になりはしないか。
日本のように厳しい規制があるわけではないので、開発業者の「したい放題」を心配する。 
人間の「慾」には限度がなく、また、こういう開発業者たちの強欲は、よく知られるところであるから、計画が順調に進むことを祈るばかりである。

現地ガイドが話してくれるところによると、ベトナムの土地、建物に関する規制は、中国とは少し違うようである。
中国は、土地は原則、国家のもので「私有」は出来ない。国から借りる形になる。地上に建てた建物は私有できる。
だから土地に高層のものを建てて極限まで有効利用しようとするから高層の建物が林立することになる。
ベトナムでは、国に金を払えば、土地も「私有」できる、という。
ただし外国人は私有できないので合弁事業の形になるのだろう。

「マクドナルド」の進出は遅れている。代りに韓国の「ロッテリア」が広く進出しているという。
アメリカはベトナムに極めて大きな惨禍を与えた「旧敵国」であり、それらのことも関連してるのだろうか。

外国人、白人の姿をよく見かけるが、フランス人が観光客としては多いという。
「クチ・トンネル」でも「フエ」の街でも、レストランでも、とても多い。ベトナム料理でも巧みに「箸」を操っているのは微笑ましい。
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      「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(3)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

      ミーソン遺跡見学、ホイアン観光は中止。代りに「チャム彫刻博物館」見学・・・・・・木村草弥

先ず、公式ホームページから記事を引いておく。↓

 チャム彫刻博物館は各地で発見されたチャンパ彫刻を広く収集、保存している施設で、ダナン市の観光名所にもなっています。チャンパ彫刻の一級品の多くは、フランスのギメ美術館に持って行かれてしまい、それ以外はハノイの国立美術館に収蔵されているため、チャム彫刻博物館にあるものは1.5級品と言われています。しかし、美術史や歴史学的には非常に価値のあるものが多々収蔵されており、絶対に一見に値します。

 チャム彫刻博物館は、最初個人のコレクション所蔵から始まりました。1892年にCharles LemireがTourane Gardenにいくつかの彫刻を持ち込んだのが始まりであるとされています。その後1908年に、チャンパ研究者アンリ・パルマンティエによって将来的な博物館構想が提出され、1915年に博物館が建設されました。1919年に一般公開され、1928年には増え続けるコレクションに対応して増築が行われ、新たに両翼が増設されました。そして、1936年11月に「アンリ・パルマンティエ博物館」と名前が付けられました。

 その後、抗仏独立戦争やベトナム戦争などの相次ぐ戦渦の中で、所蔵品が盗まれる等の被害があったものの、博物館を管理する人々の粘り強い努力によって盗品の回収がおこなわれました。1963年に、「ダナン博物館」と改名し、地質学者としてアンリ・パルマンティエを補佐してきたグエン・スアン・ドンが館長となり、名実ともにベトナムの博物館となりました。これが、現在のチャム彫刻博物館の前身となっています (Tran 2001) 。

 チャム彫刻博物館の所蔵品の写真を紹介したいのですが、これらはベトナムの観光資源であり、彼らの財産です。そのため、ここで公開するわけにはいきません。是非ともダナンに足を運んで、自らの目で見てきてください。
500_14273775チャム彫刻博物館
 ↑ チャム彫刻博物館
2402e94d42122fdb_S2チャム彫刻博物館①
e1838bb8fb826bbc_S2チャム彫刻博物館②
 ↑ ガネーシャ像
c3b78e1e0f7ab71e_S2ガルーダ像
 ↑ ガルーダ像

ここで30ドルで買ってきた現代画家の絵(少し周りが縮小されている) ↓
買った絵

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以下は行けなかったので「参考資料」として載せておく。

       (参考資料)古代チャンパ王国のミーソン遺跡・・・・・・・・・・木村草弥

20120725102752_807104979_2092_9ミーソン遺跡
 ↑ ↓ ↓ ↓ ミーソン遺跡 (一部は ミーソン遺跡展示館より)
ec340bbbbb066fac_Sミーソン遺跡①
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t7ミーソン遺跡③

ミーソン聖域(ミーソンせいいき、越:Thánh địa Mỹ Sơn/聖地美山)はベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

サンスクリットによる正式名称をシュリーシャーナバドレーシュヴァラといい、チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むクアンナム省ズイスエン県ミーソン圏谷にある。
ミーソンにはレンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。
遺跡の近くを大河トゥーボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。
トゥーボン川の中流には王都チャキエウ遺跡があり、河口には近世に日本人町が栄えた港町ホイアンがある。

チャンパ王国はサンスクリットによる正式名称をチャンパープラ / チャンパーナガラといい、シュリークシェートラ(ビルマ)、ドヴァーラヴァティー(タイ)、カーンボージャ(カンボジア)、シュリーヴィジャヤ(インドネシア)などと同じ東南アジアにおける中世インド化国家である。チャンパ王国は今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。その支配民族は不明であるが、遺跡からはサンスクリット碑文と共にマレー系(オーストロネシア語族西インドネシア語派)に属する古チャム語碑文が出土しており、チャンパ人(古チャム人)は現在のチャム族の祖先であると考えられる。ミーソンの現在の住民はモン・クメール系のベト族(キン族)であるが、本来はモン・クメール系のカトゥ族の勢力範囲であったことから、カトゥ族の祖先(古カトゥ人)もまた古チャム人と共にチャンパ王国の構成員であったと考えられる。

建造物はグプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物にはセメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。
チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人、建塔工人の多くは徴用労働者として動員された山岳民族である。周囲に住む山岳民族カトゥ族は現在でも有名な木彫職人を輩出している。

ミーソン聖域は20世紀初頭にフランス人によって発見され、フランス極東学院 (EFEO) のパルマンチェ、クレイらにより数次にわたり修復、補強がなされた。
その一方、フランス統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争でアメリカ軍の空爆を受け、大半の遺跡が破壊された。
ベトナム戦争後はポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のカジミエシュ・クヴィアトコフスキ、ベトナム文化情報省文化財修復公司のホアン・ダオ・キンらにより補強がなされた。
日本のトヨタ財団、アメリカのワールドモニュメントウォッチ財団による保護助成が行われ、現在はイタリア隊が調査を行っている。
500_14261784ミーソン遺跡展示館
 ↑ また、2005年3月には日本の国際協力機構の技術協力により「ミーソン遺跡展示館」が完成した。

       (参考資料)ホイアン・・・・・・・・・・・・・木村草弥

20130922005942_1015979053_9ホイアンの街並み
↑ ホイアンの街並み

ホイアン(越:Hội An・英: Hoi An, チュノム:會安)は、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナンの南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。人口121,716人。
ヨーロッパ人にはファイフォ (Faifo) と呼ばれたこともある。
中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

概要
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。
ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。
1601年には広南阮氏は徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。
約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。
ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど繁栄をみせたが、間もなく江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。
17世紀後半、清朝と鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。
1770年代には西山(タイソン)党の乱によって町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。
しかし、ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。

一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。

主な建築物

来遠橋(日本橋)
XmXAiDr7kg96o-0ホイアン来遠橋
 ↑ 来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。

ホイアンの旧市街地
800px-PhoCoHoiAnホイアン旧市街
d0148902_1045835ホイアン福建会館
 ↑ 福建会館 中国・福建省出身者が建てたもの
d0148902_1053445ホイアン福建会館②
 ↑ 福建会館 
d0148902_1016792ホイアン海のシルクロード博物館
 ↑ 「海のシルクロード博物館」の展示
d0148902_10171430ホイアン海のシルクロード博物館中庭
 ↑ 「海のシルクロード博物館」中庭
800px-Chua_Ong_Hoi_Anクワン・コン寺(関帝廟)
 ↑ クワン・コン寺(関帝廟)
800px-Trieu_Chau_Assembly_Hallホイアン潮州会館
 ↑ 潮州会館 潮州出身者の建てたもの
Good_88_sum640_1328275180ホイアン・チャンフー通り
 ↑ ホイアンの目抜きの通り──チャンフー通り

5e1ac90b43242932_S2ランタンはホイアンの名産
 ↑ 「ランタン」はホイアンの名産──町を華やかに彩る。

毎月、旧暦の十四日(満月)に「ランタン祭」が催行される。今日がまさに、その夜なのである。
今回のわれわれのツアーの日程も、この日に合わせて催行されたとのことだが、華やかなランタンの灯の余韻を満喫できず残念。
HUE106E3838AE382A4E38388E3839BE382A4E382A2E383B32028229ランタン祭①
4c5d8b133dba67e9a6386a04a0ec2f8cd48795721372511743ランタン祭②
無題ランタン祭③
 ↑ 来遠橋(日本橋)のランタン
ac_130613_pic8灯篭ひとつ一ドル
 ↑ トゥポン川に流す紙の灯篭 ひとつ1ドル 子供もお手伝い
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         ベトナム庶民の足・シクロ・・・・・・・・・・・・・木村草弥

観光できなかった代りに、水に浸かっていない新市街の街を、しばらくベトナム庶民の足・シクロに乗って遊覧する。

img_1064052_31723498_0シクロ④
img390a293bzik2zjシクロ③

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      「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(4)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

      中国文明の影響の濃い阮朝の街・フ エ・・・・・・・・・・・木村草弥

昨夜というか今朝というか、腹が張っていて夜中に目覚めたが、昨夕食が食滞していて、梅肉エキスを嘗めたり、腹をさすったりして、ようやく胃が動きだし、
五時すぎに排便がたくさんあり、お尻をシャワーで洗ったりして、あとよく眠る。
今朝は朝食は抜く。梅肉エキスを水で飲んでおく。 以後、帰るまで、朝食は抜くことで調子を整える。

すごい湿気である。あらゆるものが湿っている。クーラーの効いた室内に置いておいたカメラはレンズが曇って撮影出来ない。
明け方にも、ざっと強いにわか雨。 雨にたたられる旅である。

ホイアンからフエまでは約三時間半かかる。 移動に時間がかかるのが、ツアーは難である。
途中、山にさしかかったところで長い「ハイヴァン・トンネル」を抜ける。
このトンネルは日本がODA資金で建設したもので、この個所の通過時間が大幅に短縮された。
現地ガイドが、しきりに日本のお蔭と力説する。

行き交う車からの様子を出しておく。 ↓
豚
あひる

ホーチミンは高校生の頃フエの高校で学んでいた
バスの車窓から、その高校が見える。フエの街の、すぐ外れである。
男子校と女子校とが隣接していたが、今は共学になり、ベトナム屈指の進学校として有名らしい。入るのも、とても難しいという。
名もホーチミン高校というらしい。 とにかく、こちらではホーチミンは最大の尊敬すべき人なのだから。写真は無い。

20120726233721_1861228207_2092_9カイディン帝廟
 ↑ カイディン帝廟
20120726233729_1309317829_2092_9西洋色の強いカイディン帝廟
 ↑ 西洋色の強いカイディン帝廟

歴代の皇帝は、中国式の庭園を作成しているが、この皇帝は庭園は造らず、あくまで建物の中身に凝ることに集中している。

内部の壁は、全面モザイクで装飾されているのだが、その材料が面白い。
中国陶器や日本の陶器を割ったもの、その中に日本の戦前のビール会社「大日本酒造」と書かれた”ビールビンのかけら”まであった。

kaidinimperi_1カイディン帝廟室内写真
↑ カイディン帝廟室内写真

この「カイディン帝廟」については、「猫的生活」というサイトに詳しいのでアクセスされたい。

20120726233712_1558580708_2092_9グエン王宮
 ↑ 阮朝(グエン)王宮
hue1フエ王宮「午門」
 ↑ フエ王宮「午門」
Good_204_sum640_1367822759フエ王宮塔門
 ↑ フエ王宮塔門
img_1048327_43556542_6フエ・ティエンムー寺
 ↑ ティエンムー寺


ティエンムー寺を見たあと、すぐ脇のフォン河をドラゴン船に乗ってしばらくクルーズする。
クルーズと言っても、クラブツーリズムが名付けたもので、豪雨で濁った川を下流に架かる橋の手前まで行くだけである。

昼食には、フエ名物の麺・ブンボーフエを賞味する。
後で、これもベトナム名物の「フォー」の画像を出すが、それとは少し違う。
91E682U98b8B8D83s838A90h83X815B83v95C495B296CB81F83u8393837B815Bブンボーフエ

ブンボーフエは、ベトナム中部都市フエ名物の米粉の麺と牛肉を用いた料理。太麺を用いた牛肉ライスヌードルで、庶民に親しまれている。
“ブン”はビーフン、“ボー”は牛を意味し、“フエ風の牛肉汁ビーフン”の意味で、日本で“フエの牛肉麺”或いは“フエの牛肉うどん”と呼ばれることもある、ライスヌードルの一種。

フエは旧南ベトナムと旧北ベトナムの間に位置するベトナム中部の都市で、このブンボーフエは中部ベトナムで代表的な麺となっているが、
近年袋麺やカップ麺も売り出され、いまではベトナム全土で食べられるようになっている。

スープの味付けにはレモングラスと赤唐辛子を炒めて作った調味料サテ(sa tế)とニョクマム(魚醤)を使う。
スープのだしは、レモングラス、フエ産の塩辛、豚足、牛肉などから取り、具としては、ベトナム風の蒲鉾などの練り物や牛の腿肉の外、薄荷葉、空芯菜、甘蕉の茎、糵、香草など、野菜をたっぷりのせてスープをかける。それら野菜を盛った皿と共に供される場合もある。

レモングラスと赤唐辛子の香辛料が効き、酸っぱくてピリッと辛いのが特徴だが、さらに赤唐辛子を加えて食べるのが一般的。
北部名物の米の平打ち麺フォーとよく対比される。
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フ エ(Huế)は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン゠フエ省の省都である。

フランス語風にユエと呼ばれることもある。フエは化の漢字音 hoáの変化したものといわれる。漢名・順化(トゥアンホア)は中国語として現在も用いられている。

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」が登録されている。

地理
香江(Hương Giang、フオンザン)が市の中央を流れ、およそ15キロメートル下流で南シナ海に注ぐ。年間平均気温帯25度。

歴史
1558年以降、広南阮氏の本拠地となり、タイソン朝による中断の後、1802年に成立した阮朝の都が置かれた。フエが位置する北中部2省―クアンチ省、トゥアティェン・フエ省は1306年まではチャンパ王国の烏里(ウリク)州であり、大越陳朝の領有後に北の順州(現クアンチ省)と南の化州(現トゥアティエン・フエ省)に分割され、現在に至る。広南阮氏時代の名称は順化都城、阮朝時代の正式名称は富春京師。
10世紀 - チャンパ王国(チャム族)の中心都市の1つ。
16世紀~18世紀 広南阮氏政権の都。
18世紀後半の西山党時代(西山党の乱)、西山阮氏三兄弟の1人、光中帝(阮文恵)に占領され、その拠点となった。
1802年 - 初代皇帝嘉隆帝(阮福暎)により阮朝の首都になる。
1883年 - フランスに占領され、8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)を結び、安南(アンナン)保護国となる。
1884年 - 6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)をフランスと締結し、保護国化を確認する。 フランス領インドシナでもフエには皇族(阮福族)が宮廷を構えており、日本など各国の領事館があった。

1968年 テト攻勢の激戦地となった(フエの戦い、1月30日 - 3月3日)。南ベトナム解放民族戦線占領下では解放勢力によって南ベトナム政府関係者や無関係の民間人(保守派知識人、キリスト教神父、外国人医師など)への虐殺が発生し、また解放勢力からの奪還後は逆に容共派知識人や学生活動家への虐殺が発生するなど(合わせてフエ虐殺と呼ぶ)、今も市民の記憶に暗い影を落としている。

市内は香江を挟んで旧市街と新市街に分かれ、中心は新市街にある。旧市街は碁盤の目状の方形都市であり、その南側に世界遺産の王宮南門、宮殿と帝廟がある。一部には園宅(ニャーヴオン)と呼ばれる旧貴族・皇族の住宅が残っており、首里城や京都御所のような佇まいがある。

嘉隆帝(ザロン帝)が1805年から造営させたフエ城の城郭は、フランス帰りの建築家レー・ヴァン・ホク(Lê Văn Học、黎文学)が設計したもので、五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。城郭内部の建築は構造的には中国建築とは無関係なベトナム特有のもので、全国から招聘された職人の流派の影響で北部・中部や會安(ホイアン)華人の様式が融合している。後期の建築物にはこれにフランスの影響が加わる。阮朝第4代嗣徳帝(トゥドゥク帝)は広南阮氏の正史『大南寔録正編』を編纂させたことで知られるが、建築も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

第二次世界大戦終戦までは宮殿の多くの建物が残っていたが、ベトナム戦争の激戦地となったため多くの建物が破壊された。現在、復元に向けて調査などが行われている。

「ベストウエスタン・プレミア・インドシナ・パレス・ホテル・フエ」に泊まる。 
3348019_11_bフエ・ベストウエスタン・インドシナ・パレス・ホテル
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 ↑ ↓ ホテル9階の自室からの眺望
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↓ フエ宿泊の「The BEST WESTERN PREMIER INDOCHINE PALACE HOTEL HUE」の公式ホームページを出しておく。スチール写真が次々と出る。 クリックされたい。
今回の旅のホテルはみな良かったが、ここのホテルが最高だった。
ホテルのパンフレットによると、BEST WESTERNには三つのグレードがあり、PREMIERは最高級のグレードだという。設備といい、従業員の接遇といい申し分ない。

INDOCHINE PALACE HOTEL

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夕食は、宮廷音楽を聴きながら「フエ宮廷料理」を賞味する。

1701_1フエ宮廷料理①
857d9b9d1e34c726_Sフエ宮廷料理②
宮廷料理
↑ ここで撮られた集合写真
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        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(5)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・

        フォンニャケバン国立公園・・・・・・・・・・・木村草弥

移動する国道1号線は幹線塘路でありながら穴ぼこだらけのところや、狭い部分もありバスのスピードが出ない。
往路の途中、クアンチ省のところに南北ベトナム分断の頃の「17号線非武装地帯」があって、現在ここに「モニュメント」が建っている。 ↓
khe-sanh-28-08-2009-08717号線モニュメント

これは家族が戦争に行った父を思う気持ちを表現したものという。
遥か彼方の画像なので見にくいが、よろしく。

フォンニャ=ケバン国立公園(フォンニャ=ケバンこくりつこうえん、越:Vườn quốc gia Phong Nha-Kẻ Bàng/𡑰國家峯牙-几榜)は、ベトナムのクアンビン省にある国立公園である。
2003年7月3日、ユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。4億年以上前にできたとされるアジア最古、世界最大の岩山が集まる地域。

フォンニャ=ケバン国立公園は、約86,000haの面積をもつ。
公園の94%は原生林で、専門家によると568種の植物、876種の動物(大きな獣類113種、爬虫類と両生類81種、魚類72種、鳥類259種、鳥類302種)が生息しているという。
植物には世界とベトナムのレッドブックに入っているものも多い。

大小約300の洞窟がある。これらはまだ詳しく調査されていないが、フォンニャ洞、ティエンソン洞、ヴォム洞など一部が開発されている。
洞窟はそれぞれ多様で、鍾乳洞は非常に美しく幻想的だ。
英国の王立地理学会の報告によると、フォンニャ洞の長さは7,729m、その美しさ、大きさ、広さなどから最高の評価を与えられている。

概要
フォンニャ洞窟はベトナム最大の洞窟で、2億5千年前に形成された。フォンニャとは「歯の洞窟」という意味である。多くの観光客が訪れる。
9 - 10世紀にチャム族が仏教の聖域として利用し、1990年に英国の探検隊が地下及び水中の地図を作成し、総延長を計測した。
ベトナム戦争中は、武器庫または病院として利用され、アメリカ軍の爆撃の標的となった。

フォンニャ・ケバンはベトナム中部に位置しており、ラオスとの国境近くの山岳地帯にある。
フォンニャケバン国立公園内にはフォンニャ洞窟、ケバン洞窟がある他、近隣には天国のような景色といわれる天国洞窟、そして世界最大のソンドン洞窟などを含めて数多くの洞窟がある。
この特異な自然が評価され、2003年に世界自然遺産として登録された。

洞窟の周辺にも小さなホテルなどがあるが、基本的には40kmほど離れたドンホイという街から訪れるのが一般的で、ドンホイは外国人が観光で訪れるような街ではないので、フエからのバスツアーがある。
観光客はこちらが一般的だということで我々もフエから約四時間かけて見にゆく。
フエからは約200キロ離れており、観光ツアーによって入場する洞窟が異なるらしい。

鍾乳洞の画像を順不同で出しておく。 ↓
DSCF0285.jpg
 ↑ 国道二号線に面して立つ山に掲げられた洞窟の看板
o0640042811795557114鍾乳洞入口
2013-05-03-09_43_26-540x405フォンニャケバン鍾乳洞③
cave23-570x880フォンニャケバン鍾乳洞②
worldheritage117_1_20120519134333フォンニャケバン①
worldheritage117_1_20120519133956フォンニャケバン②
worldheritage117_1_20120519134119フォンニャケバン③
6967903771_8df6834d64_zフォンニャケバン④
6821780690_b04b59a739_zフォンニャケバン⑤
洞窟での写真
 ↑ 洞窟での写真

片道四時間、往復八時間に加えて洞窟見物三時間なので、フエのホテルに、くたくたに疲れて帰る。
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       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(6)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・

       空路フエ → ハノイ。四時間かけてハロン湾へ・・・・・・・・・・木村草弥

今日は、フエから空路ハノイに約一時間十分かけて移動して、あとハロン湾までバスで四時間かけて移動して、と「移動日」に終始した。
フエ空港発10:50、VN1540便。ハノイ着12:00である。

今夜はハロン湾に連泊である。
夕食は早めに、ベトナムの麺・フォーや生春巻きなどのベトナム料理を賞味する。

        ベトナムの麺・フォー・・・・・・・・・・・木村草弥

650foフォー①
20080428014302フォー②
07b99180e8aedecb_Sフォー③

フォー(ベトナム語: phở)はベトナム料理を代表する平打ちの米粉麺である。
形は日本のきしめんに似るが、原料は米粉と水であり、ライスヌードルの一種である。
水に漬けた米を挽いてペースト状にしたものを熱した金属板の上に薄く流し、多少固まったものを端から裁断して麺の形状にする。
中国広東省潮州市の粿條、広州市の河粉、広西チワン族自治区 桂林の「切粉(中国語: チエフェン)」などと酷似している。

多くの場合、鶏や牛から出汁を取った透明なあっさりしたスープにコシのない米麺を入れ、鶏肉や牛の薄切り肉、肉団子などが典型的な具材として乗る。生卵を追加できる店舗もある。
最後にライムの絞り汁や、チリソース、ニョクマム、唐辛子やスライスしたニンニクをつけ込んだ酢などを加えて各人が好みの味に仕上げる。
またサイドメニューにクワイquẩyという油条をオーダーし、汁に浸して食べることも多い。牛肉入りフォーの場合は、牛肉の茹で具合をリクエストすることも可能である。

一般に、本場とされるハノイのフォーは肉の他はネギを入れる程度のシンプルな盛りつけが多い。
一方、南部のフォーは甘めの味付けで、たっぷりのバジル、コリアンダー、ニラ、青唐辛子などのハーブや生のモヤシなどをトッピングして食べる。
トッピング自体もテーブルの上に置いてあって無料で好きなだけ投入できる店舗が多い。

ベトナムでは高級レストランから街角の屋台までフォーを作っており、朝昼晩の3食すべてで食されるほどに極めて生活に密着した食べ物である。
最近ではチェーン店の進出が目覚しい。ただし家庭で作ることはあまりなく、基本的に外食する料理であり、多くの店舗でテイクアウトすることが可能である。
本国では生麺使用が基本だが、生麺の入手が難しい日本など国外のベトナム料理店では乾麺を使っているところも多い。

派生メニューとしては、スープにワインソースで牛肉を煮込んだものを使用するフォー・ソットヴァン(phở sốt vang; ソットはソース、ヴァンはワインのこと)、
フォーの麺を使った具だくさんの焼きそばであるフォー・サオ(phở xào ; フォー・アプチャオ(phở áp chảo)とも言う)などがある。

        ベトナム料理の本命・生春巻き・・・・・・・・・・木村草弥

5526227生春巻き 本命
4252765354_0515115227生春巻き
img_621282_13378798_0揚げ春巻き
 ↑ 揚げ春巻き

↓ ハロン湾宿泊の「NOVOTEL HLONG BAY HOTEL」
ノボテルハロンベイの写真
「ノボテルハロンベイ」
「スーペリア・ベイヴュー・ル-ム」ということで、ハロン湾を望める部屋に連泊である。 ↓ ホテル11階の自室からの眺望
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       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(7)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・

        終日ハロン湾クルーズ 約六時間・・・・・・・・・・木村草弥 

先ず、ハロン湾の概要を少し書いておく。

ハロン湾(越:Vịnh Hạ Long/泳下龍)は、ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。
クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。
伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。
カットバ島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石器時代にはわずかに人が住んでいた。
また、数世紀前までは海賊の隠れ家として利用され、また モンゴル軍の侵攻の際には軍事的に利用された。

彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。
地質学的には北は桂林から、南はニンビンまでの広大な石灰岩台地の一角である。石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。
1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。

ハロン湾クルーズというと、通常、ツアーでは三時間ほどのようだが、我々の旅では丁寧に六時間かけてビューポイントや鍾乳洞を訪れる。
画像を順不同で出しておく。

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↑ 乗った船
03782xハロン湾洞窟
 ↑ 洞窟(Hng Sung Sotの鍾乳洞)
halong22ハロン湾①
1645855ハロン湾②
DSC_3922ハロン湾③
無題ハロン湾④
hanoi_2010-1014ハロン湾⑤
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↑ ↓ Ti Top島の展望台と眺望
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↑ 「闘鶏岩」
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 ↑ ↓ 湾内で飼われているイケスの魚
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       夜、水上人形劇鑑賞・・・・・・・・・・・・木村草弥

「ベトナム水上人形劇」については ← このサイトに詳しい解説があるので参照されよ。
画像を順不同で出しておく。

311571_base_13621930679351水上本命
15c0743aecbcd9cf9d70b0f9c2a3a3161水上①
bf07fd37e4ea3296216617f5d7611195水上②
Tr00100420090507194021587水上③
14_2水上④
Vietnam20Water20Puppet_jpg_opt605x259o0,0s605x259水上⑤

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       「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(8)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・ 

       ハノイ郊外・陶器のバッチャン村。水牛車に乗る・・・・・・・・・木村草弥 

ここは、ハロン湾からハノイへの途中にある陶器生産の村。
以下、画像を順不同で出しておく。

500_10568478バッチャン村①
500_22115275バッチャン村②
500_22115276バッチャン村③
500_22115385バツチャン村④
500_22115580バッチャン村⑤
500_22115489バッチャン村⑥

a11f17バツチャン村水牛車
 ↑ バッチャン村水牛車

       ハノイでの昼食はミンパレスで飲茶料理・・・・・・・・・木村草弥 

ここは「ソフィテル・プラザ・ホテル」にある。
ソフィテル・プラザ・ハノイ SOFITEL PLAZA HANOI は湖畔にそびえ立つ高層の大型ホテル。 ↓

pict1044ソフィテル・プラザ・ハノイ

街の中心からは少し外れるが、時間を忘れるくらいゆっくりくつろげる。各国のVIPや著名人の利用も多く、客室は設備も揃い華麗な空間を演出。
レストランはアジアン&インターナショナル料理の「BRASSERIE WESTLAKE」や広東料理とベトナム料理の「ミン・パレス」などの料理を堪能出来る。
極めつけは最上階の「サミット・ラウンジ」。ハノイの夜景が20階から360度で眺められる。プールは開閉式の温水プールなので一年中利用できる。
2011年に大改装されて設備が格段に良くなったようだ。

hioki_111025_4ミンパレス
 ↑ 「ミンパレス」 

         ハノイ市内観光・・・・・・・・・・・・木村草弥

午後はハノイ市内観光である。
先ずハノイの概要をWikipediaから引いておく。 ↓
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ハノイ市(ベトナム語: Thành phố Hà Nội, 漢字:河內)とは、ベトナム社会主義共和国北部に位置する同国の首都。
ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。
地名の「河内」は当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。
2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。

歴史
詳細は「ハノイの歴史」、「:vi:Biên niên sử Hà Nội」、「:en:Timeline of Hanoi history」、および「:gl:Historia urbana de Hanoi」を参照

ハノイがベトナムの中心都市となったのは、7世紀頃のことである。
唐代には雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったこともあり、安南都護府がおかれ唐による南方支配の拠点となった。
唐末に安南都護府の支配は形骸化し、さらに紅河が当時の海上交易網から外れていったため、その重要性は一時低下した。
しかし、11世紀の李朝はこの地を都と定め、農業地帯を統治する拠点とした。李朝の成立以降、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄。
その間は昇竜(タンロン)、東京(トンキン)など様々な名で呼ばれてきたが、1831年に現在の名称になった。
1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となった。

1940年、日本軍の仏印進駐により、日本の事実上の占領下となるが、1945年8月にその占領状態は終了し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が宣言された。
その後、1946年から1954年の第一次インドシナ戦争においては、ハノイも戦場となり、一時フランス軍が占領した。
しかし、ベトナム側が戦争に勝利したことにより、ハノイはベトナム民主共和国の首都となった。

ベトナム戦争中は、橋などの交通施設を中心にアメリカ軍の爆撃を受けた。1976年には南北ベトナムの統一に伴い、ベトナム社会主義共和国の首都となった。

2010年は、1010年に李太祖がハノイに遷都して1000年目にあたることから様々な記念行事が行なわれた。同年10月10日には軍事パレードも行なわれている。

行政
2008年5月29日、ハタイ省全域とヴィンフック省メリン県、ホアビン省ルオンソン県の4村 (Đông Xuân, Tiến Xuân, Yên Bình, Yên Trung) がハノイ市に合併されることが決定し、2008年8月1日に合併した。この合併により面積は約3.6倍、人口は約2倍となった。[2]同年12月11日、ハドン市を区(Quận, 郡)とし、ソンタイ省直轄市(thành phố)から「市」(thị xã, 市社)とすることが決定された。

vietnam2010_108ホチミン廟
 ↑ ホ・チ・ミン廟
ホー・チ・ミン廟(ホーチミンびょう)とは、ベトナムのハノイにあるホー・チ・ミンの霊廟である。
2年の歳月をかけて建てられ、1975年9月2日に完成した。
兵士によって厳重に警備されていて、一年中冷房の効いた内部の部屋に永久保存処置を施されたホー・チ・ミンの遺体が安置されている。
廟の中は軍人により警護されており、私語厳禁で立ち止まることは許されない。また、事前にカメラなどを預けておく必要がある。

ホー自身は存命中に自己顕示的行動におよぶことは殆どなく、その死に際しても本人は火葬および北部(トンキン)、中部(安南)、南部(コーチシナ)に分骨を望んでいた、という。

一柱寺
Chua_Mot_Cot一柱寺

ハノイ観光のハイライト、「ホーチミン廟・ホーチミンの家」に隣接する一柱寺。
一本柱で支えられ、池に浮かぶ蓮の花のような建築と形容される一柱寺は、そのユニークな外観から、フランス統治時代の建物と並び、ハノイを代表する歴史建造物。

一柱寺が浮かぶ池は「霊沼池(リンチエウ;Linh Chiểu)」と言い、季節になると睡蓮の花が足元を飾る。
この柱は地上からの高さが4m、直径が1.2mあり、上に3㎡の御堂をのせている。
御堂の中には「蓮花台」という扁額が掲げられ、八本手の黄金色をした観音像が中央に据えられている。

一柱寺とは、その形状から来る俗称で、この南向かいにある本堂とその脇の祖師堂も含めて、正式名を「延祐寺(ジエンヒウ;Diên Hựu)」と言い、
一本柱の一柱寺は延祐寺の楼閣にあたり、この部分のみを単独で「蓮花台」とも呼んでいる。

ハノイの旧市街といえば、ハノイ観光には欠かせない名所だという。
ホアンキエム湖の北に位置し、 古くから手工業者の居住区が集中し、 同時に彼らの商いの土地として栄えた場所である。

ハノイ旧市街は世界遺産でもあるタンロン(Thăng Long)城址の東側に位置し、まさに城下町として歴史を刻んできた。

といっても、 現在では城郭は一部を残して姿を消し、 旧市街との位置関係をパッと見て確認することは困難である。

タンロン城郭は、 周囲4キロを超える長さを持つ巨大な建造物だったようである。

現在、その城址の内部には、 首相府や外務省がバーディン広場を中心に位置し、その西には建国の父ホー・チ・ミンが眠るホーチミン廟、
南には赤星旗がはためくフラッグタワーが立つなど、 政治関係の建物やロケーションが集中していることがわかる。
そして、 城郭外部の東側の地区が、ハノイ旧市街なのである。

ハノイ城・タンロン城遺跡(Di tích Hoàng Thành Thăng Long)
2010年、ハノイ市ドンダー区、ホアンジエウ通りの東側のハノイ城と、西側のタンロン城遺跡を合わせた区域が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
ハノイ城は当時のまま残されている門などがあり、タンロン城は、建物の遺構や建築遺物などが発掘されている。

タンロン城
1010年、ベトナム最初の長期王朝リー(李)朝の初代皇帝リー・タイトー(李太祖)は、都をタンロン(昇龍)(現在のハノイ)に定めた。
唐(中国)の高駢が9世紀末に築いた城壁(大羅城)の土台を基礎としてタンロン城は築かれ、 その後歴代王朝により何度も再建されていった。
しかしグエン(阮)朝時代(1802~1945)を迎えると、1802年、初代ザーロン帝は都をタンロンからフエに移した。
遷都するにあたって、重要な建築物は分解されて運ばれ、フエで再度組み立てられた。

タンロン城遺跡
タンロン城遺跡パンフレット
 ↑ 「タンロン城遺跡パンフレット」
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 ↑ 国旗のひるがえる塔門
hanoijouhashimon1タンロン城・端門
↑ タンロン城・端門
201107Hanoi-1009タンロン・龍の階段
 ↑ 龍の階段


グエン朝期、タンロンはハノイ(河内)と改名、ハノイは一地方都市として扱われ、1804年から1805年にかけて規模が縮小されたハノイ城が建てられた。
四代皇帝トゥ・ドゥック帝は、更にその一部を壊し縮小したという。そして1884~86年には、フランス植民地政府によって、部分的に破壊されてしまった。
フランス軍が1954年に撤退した後、1975年まではベトナム人民軍の最高司令部がハノイ城に置かれ、2004年にハノイ市に受け渡されるまで国防省の管理下にあった。
1999年より建物の修復が行われ、2000年の遷都990年を記念して一部(瑞門、後楼、北門)の公開が始まり、その十年後2010年には遷都千年にあわせて残りの部分(敬天殿跡、D67の家)も一般公開が開始された。

タンロン城址遺跡は入場して見学するが、上にも書いた通り、解体してフエ王朝の建物に再利用されたので、めぼしいものは残っていない。

ここの広場には多くの若い人たちが正装して集まっており、何事かと聞いてみると、卒業は六月なのだが、卒業証明書が出るのが今なので、記念に写真撮影をしている、という。 ↓

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ホアンキエム湖
img_1192103_37318187_6ホアンキエム湖

ホアンキエム湖(越:Hồ Hoàn Kiếm/湖還劍?)は、ベトナムのハノイにある湖の1つである。ハノイの主要な景観スポットでもある。
(お断り)この池に着いたのは夜のことであり、だから、この写真は、参考資料として見てもらいたい。
この池の近くが、ハノイの繁華街である。多くのショップや飲食店、喫茶店などがひしめいている。

以前に紅河が何度も氾濫を繰り返した際にできた湖の一つである。かつては紅河とも繋がっており、"hồ Lục Thuỷ"(緑水湖)として知られていた。
その後湖は2つに分かれ、一つがホアンキエム湖となり、もう一つが "hồ Thuỷ Quân"(水軍湖)となった。
水軍湖にはベトナム水軍の訓練場が置かれていたが、現在は埋め立てられている。

伝説では、黎利が湖の宝剣を手にし、その剣によって明との戦いに勝利した。
その後、黎利は湖の上で金の大亀 (Kim Qui) から平和になったので持ち主である竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返した。
それゆえ、湖は現在の名前で呼ばれるようになった。この物語は水上人形劇で観ることができる。小島にはその後、亀の塔 (Tháp Rùa) が建てられている。

湖の北岸の近くにあるもう一つの島には、18世紀に建てられた玉山祠 (Đền Ngọc Sơn) が建っている。
それは13世紀の元に対する戦いで活躍した陳興道、文昌帝 (Văn Xương Đế Quân)、1864年に寺の修理を担当した儒者者で作家の阮文超 (Nguyễn Văn Siêu) らを祭っている。
島と岸の間には、赤く塗装された木製のフク橋(Cầu Thê Húc, 棲旭橋)が架けられている。

湖の中のシャンハイハナスッポンおよびいくつかの種の大型の軟殻亀は、皇帝の名誉たる "Rafetus leloii" と名づけられている。
その種はきわめて危機にさらされていて、湖の中の個体数は不明である。
1968年には湖で体重250キログラムの大亀が発見され、伝説の亀とされて玉山祠に剥製が祭られている。剥製の大きさは長さ210センチメートル、幅120センチメートル。

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結局、このツアー中ずっと雨か曇りで晴天は拝めなかった。
雨に祟られたツアーだった。 この時期を選んだのか悪かったということである。
気温も高くなく、ハノイなどでは寒いくらいだった。


ベトナム悪天候のこと、日本では詳しく報道されていたようで、メル友たちから心配のメールをもらった。
日本は公平に報道するのだと実感した。
ベトナムでは海外ニュースは乏しく、テレビもBBCもCNNも碌に受信できなかった。
都市により日本のNHKが時差二時間進みの状況で見られたが。
WiFiが普及しだして、二つのホテルでは繋いでみた。
私のブログはアメリカ籍のFC2で「.com」なので、さすがにインターナショナル、すぐに立ち上がったが、BLOG友の「ne.jp」サイトなどは、なかなか立ち上がらなかった。
そんなこんなで色々の体験をさせてもらった旅だったことに感謝したい。

長い長い移動の途中で現地ガイドが色々の話を聴かせてくれた。
現在、ベトナムの人口は9000万人を超えたこと。中でも14歳以下の子供が人口の半数を占めるとのことで、まさに発展途上の若々しい国である。
アセアン地域では突出した大国である。

私たちの乗ったバスは、みな韓国のHyudai製で、握り棒の取っ手がちぎれていたり、座席のシートの固定が緩んでいて後ろに倒れたり、とかしたが、
ハングルの文字の表記があったりしたのは、これらのバスは、実は韓国で使われていたものの中古車で、標記をそのままに使っているからだという。
ずっと前に行ったミャンマーが、そうだった。
これも発展途上の国としては仕方のことだと実感した次第である。


夕食後、深夜00:30にベトナム航空直行便VN330便(JL5006便と共同運航・機材はA321)でハノイ発、一路、関西空港へ。 機内泊。

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        「ノスタルジック・ベトナム世界遺産紀行9日間」(9)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・クラブツーリズム・プレミアムステージ主催2013/11/14~11/22・・・・・・・・・
      
朝、06:40 関西空港着。 帰りはハノイからなので、飛行時間が短く、所要時間約四時間半である。偏西風の関係もあろうか。 着後、入国審査を経て、解散。

書き忘れなどは、思い出した都度「追記」することがあるので、ここに申し上げておく。

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ベトナム語というのは、どういう言語なのだろうか

Wikipediaに載るのを引いておく。

クオック・グー(越:Chữ Quốc Ngữ/)とは、ラテン文字を使用してベトナム語を表記する方法。
アクセント符号を併用することにより、ベトナム語の6声調を表記し分ける。「クオック・グー」とは、「国語」のベトナム語読みである。

1651年フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが作成した『ベトナム語-ラテン語-ポルトガル語辞典』において、ベトナム語をラテン・アルファベットで表記したものに起源をもつ。ベトナムのフランス植民地化後、公文書などで使用されるようになったことから普及し、1945年のベトナム独立時に漢字に代わりベトナム語を表記する文字として正式に採択され現在に至る。

使用するアルファベットは、次の29文字(下線をつけた子音字は音節末に立つことができる)。
A Ă Â B C D Đ E Ê G H I K L M N O Ơ(O') Ô P Q R S T U Ư(U') V X Y
また、2字の組み合わせで1子音を表すものがある。以下の8種類:
ch, gi, kh, ng, nh, ph, th, tr 


ベトナム語

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張A・B、ラテン文字拡張)が含まれています(詳細)。

言語系統
オーストロアジア語族 モン・クメール語派 ベト・ムオン語群 ベトナム語

表記体系
ラテン文字(クオック・グー)

統制機関
ベトナム社会科学院言語学研究所 (Viện Ngôn ngữ học, Viện Khoa học xã hội Việt Nam)

語(越:Tiếng Việt/㗂越)とは、ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語である。
キン語や安南語ともいい、ベトナムの少数民族の間でも共通語として話されるほか、中国と台湾など周辺諸国のキン族/ジン族、アメリカ合衆国、フランスなど在外ベトナム系移民によっても話される。

歴史
東南アジア大陸部の言語は、通常インド文化の影響を強く受けているが、ベトナム語は例外的に日本語・朝鮮語・チワン語などと同様に中国語と漢字文化の強い影響を受けている。

現在のベトナムの北部は、秦によって象郡が置かれて以来、中国の支配地域となった。この地を含む華南は「百越」と総称される諸民族が住んでいた地域で、そのひとつが、現在のキン族の祖先であった。「ベトナム (Việt Nam)」は漢字で書けば「越南」であり、「越」は現在浙江省周辺にあった国の名でもあるが、広東省を指す「粤」と同音の類義語で、これらの南にある地域のために「越南」と呼ばれた。

しかし、系統的にはシナ・チベット語族やタイ・カダイ語族ではなく、オーストロアジア語族に属すると解することが一般的である。この説に従えば、話者数でクメール語(カンボジア語)を上回るオーストロアジア語族で最大の言語ということになる。また、中国語などの言語の影響を受け、声調言語になった。

表記法の歴史
中国の支配を受けていたため、ベトナムの古典や歴史的な記録の多くは、漢字による漢文で書かれており、漢字文化圏である。現代語をみても、辞書に載っている単語の 70% 以上が漢字語であり、漢字表記が可能である。対応する漢字が無い語については、古壮字などと同じく、漢字を応用した独自の文字チュノム(越:Chữ Nôm/𡨸喃*?)を作り、漢字と交ぜ書きをすることが行われた。しかし、1919年の科挙廃止、フランス総督府によるクオック・グー教育の推進により漢字、チュノムの使用頻度は次第に減少、1945年の阮朝滅亡とベトナム民主共和国の成立により、ベトナムの国字として漢字に代わりクオック・グーが正式に採択されたことで、漢字やチュノムは一般には使用されなくなった。公式な漢字の廃止は1954年であり、南北に分断したこの年にベトナム民主共和国紙幣における漢字使用は廃止されている。現在では日常生活で漢字が見られるのはテト(旧正月)や中秋節などの伝統行事や仏事、冠婚葬祭などである。漢字の理解者も、高齢者の一部や、国文学や歴史学などの研究者、書道家や仏僧、日本語及び中国語の学習者などに限定される。

これに取って代わったものは、17世紀にカトリックの宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが考案し、フランスの植民地化以降普及したローマ字表記「クオック・グー(越:Quốc ngữ/國語)」であった。植民地期にはクオック・グーはフランスによる「文明化」の象徴として「フランス人からの贈り物」と呼ばれたが、独立運動を推進した民族主義者はすべてクオック・グーによる自己形成を遂げたため、不便性と非効率性を理由にして漢字やチュノム文は排除され、クオック・グーが独立後のベトナム語の正式な表記法となった。現在、クオック・グーを公式の表記法とすること自体への異論はあまり存在しないが、漢文や漢字チュノム文を理解運用できる人材が少ないため、人文科学、特に歴史研究の発展に不安をもつ知識人の間には、中等教育における漢字教育の限定的復活論がある。

文字
現在の正書法であるクオック・グーでは、ラテン文字と、それに補助記号をつけたものが用いられる。ただし、F, J, W, Z は用いられない。

文法
語順はSVO型(主語-動詞-目的語)である。

修飾語が基本的に被修飾語の後に置かれる点は、オーストロ=アジア語族の言語をはじめとする東南アジアの多くの言語と共通である。
たとえば、「ベトナム社会主義共和国」は、"nước Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Nam" (国-共和-社会主義-ベトナム)となる。

古典的類型論からみると孤立語的特徴をもっており、形態変化をせず、接辞をあまり用いず、統語的関係はもっぱら語順によって表されること、使役、受動を動詞に先行する前置詞句構文で表すこと、動詞に補語を後置して動作の方向や結果を表すこと、事物の存在を表すための特別の構文が存在することなどは、中国語(普通話)と共通する特徴である。
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余り難解になってもいけないので要点のみに要約した。

声調言語というのは、俗な説明をすれば、現代中国語でみられるような「四声」法の抑揚発音のことであり、ベトナム語も同様だということ。

声調
ベトナム語には 6 種の声調があり、各音節は必ずいずれかの声調を持つ。ただし南部方言では thanh hỏi と thanh ngã が合流し、5 声調になっている。

ベトナム語の属するオーストロアジア語族のほとんどは声調を持たない。その後、頭子音の無声/有声に従って各声調が二つに分かれ、今日の 6 声調になった。

ベトナム人の話しているのを聴くと、確かに「声調」があることが判る。


  
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