K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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星乃 真呂夢「千年の哀歌」第30回國民文化祭 現代詩の祭典・ 文部科学大臣賞受賞作 ・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 星乃真呂夢さん 2016新年を迎えて 能舞台で (FBから転載)

     星乃 真呂夢「千年の哀歌」第30回國民文化祭 現代詩の祭典・ 文部科学大臣賞受賞作 ・・・・・・・・・・・木村草弥

        千年の哀歌     星乃真呂夢

     老いに しずかに雪の降る
      父の老いという時間に
      しずかに やさしく雪が降る

     夏なのに なぜ こんなに雪が降るのだろ う

      96歳の父は 遠い目をしてつぶやいた
      父には たぶん 見えていたのだ
      とめどなく 舞い降りてくるものが

     70年前のあの日
      沈まないといわれた航空母艦が
     南洋の海に 消えたあの日
      寝食を共にした戦友たちが
     次々と大きな渦に呑み込まれていく
     「おかあさん おとうさん......」
      声だけが 何もない水面に響いていた

     お父さんは 生き残ってしまったからな
      草むしりを 休みなく続けながら
      父は 何かを刈り取っていた
     庭に 日々水を撒きながら
      父は 何かを鎮めていた

     父のたましいの深いところに
      語れない静けさがあり
     それ故 父は 笑うことを好んだ
     父のたましいの深いところに
     語れない怒りがあり
     それ故 父は 季節ごとの花を愛でた
     晩年は特に 桜の花を こよなく愛した
     若き日 水兵さんだった頃の
     消えない嗚咽のようなもの
     それら すべてを一年に一度
     透き通るさくら色にして
      さくらの花は咲ききる
      父の中の すべての名状しがたいものを
      さくら色の花びらのかたちにして
     力強く ひらく
      願いのように 祈りのように
      消えてしまった ひとりひとりを超えて
      いのち全体を 映して
      満開になっていくさくらの樹々よ

     さくらの花びらは雪に似ているな
     夏のある日 父は言った
      人間の愚かさに 人間のはかなさに
     雪と さくらが
      重なり合い どんどん透き通り
     父のなかで降り積んでいるらしい

     ある夏の暑い日 父は肺炎で逝った
      レントゲン写真の父の肺には
      真っ白な雪とも花びらともいえない斑 点が
      振り積み 振り積み
     咳き込みながらも
     しずかに おだやかに
     それでも笑って 父は逝った
      雪と さくら 見えない祈りのなかへ      
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星乃 真呂夢さんは、私の第六歌集『無冠の馬』評を月刊詩誌「詩と思想」2015年10月号で執筆していただいた。
星乃 真呂夢さんのことは何も分からなかったのだが、同氏もFBをやっておられることが今日わかって、そのページを拝見した。
山梨県甲府市にお住まいのようである。
画像として出しておいたが、星乃さんは「第30回国民文化祭・かごしま2015現代詩の祭典in南九州市」の一般の部で、最高賞の文部科学大臣賞を受賞された。
受賞作「千年の哀歌」をFBから転載しておく。
お父上のことを詠みながら、現代に生きるわれわれに考えるべき重いものを提示する。 しみじみと味わいたい。
星乃氏はFBの自己紹介によると「著述業、詩人、エッセイスト。能楽、能や狂言の名人へのインタビュー」と書かれている。
佳い詩を読ませていただいた。 感謝申し上げる。





トロピカルストーム「ハロラ」は/ハリケーンの卵の時にもらった名前のまま/台風十二号となった・・・・・・・江口 節
f0031417_1141455台風の目

      大海原・・・・・・・・・・・・・江口 節

     赤道より北側で発生した
     太平洋の熱帯低気圧は
     日付変更線の
     東側で成長すれば  ハリケ—ン
     西側で成長すれば 台風
     生まれたあたりは
     いつも東風が吹いている
     西へ西へと流され

     今日日付変更線を東から西へ越えた
     トロピカルストーム「ハロラ」は
     ハリケーンの卵の時にもらった名前のまま
     台風十二号となった

     昨日の真昼と
     今日の真昼が隣り合う
     大海原
     あてどない生のような
     果てしない水平線を
     今日から昨日に行かず
     昨日から今日に移動する
     熱と風と水の力学

     そう
     いつも今日だ
     地球の上では

     わたしがわたしの死を
     知ることはないだろう
     死とは何か 生とは何か
     知るのは ただ
     生きることであって
     生きるのは
     今曰なのであって
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この詩は「詩と思想」2015/09月号に載るものである。
「ハリケーン」が「台風」に替わる、のを詩に詠んでいる。
今年は日本に襲来する台風が多かったし、しかも悲惨な災害をもたらした。
そんなことで、たまたま目にした、この詩を出しておく。
掲出した画像は「台風の目」である。

著者プロフィール 1950年広島県生まれ。「叢生」「多島海」同人。日本現代詩人会、日本詩人クラブ、兵庫県現代詩協会各会員。神戸市在住。
著書に詩集『溜めていく』 『草蔭』 『オルガン』 『果樹園まで』などがある。
『果樹園まで』について「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」に下記のような記事が出ているので紹介する。   ↓
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江口節『果樹園まで』(コールサック社、2015年04月21日発行)

 江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
 「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。

硬い柿は籠に入れて
しばらく 眼に食べさせる
弾力が出るまで

舌はわがままで 偏狭で
十分に達した味わいしか
認めない

柿、と言うて
詩、と言うて

 この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
 ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
 その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
 詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
 詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。

 そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。

口の開き方
というものが あるらしい
どんなにか しゃべりたくても
いさんでも もの申したくとも

じゅんじゅんと
土の下から
樹液はのぼってくる

 「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
 江口自身、次のように書き換えている。

内側で
熟れていくおもみに耐えかねて
口は
おのずから開きはじめる

 感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。

おずおずと
ついに 十字のかたちで
完熟の
みずみずしく あまく

 「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。

ひりひりと血の色の
あふれでる一語一語を
ゆびさきにはりつく薄皮で
ようやく つないで

そのとき
もう ことばではないのかもしれない
とろとろ
口の中で 果肉がくずれて

 ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。

 「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。

そっと
指の腹でふれると、わかるだろうか
かすかなうぶ毛だ
尖端にさわった
と、みるみる傷つき
しなびる、こころがあって

むぞうさに
枝からもぎとれば
軸につながる皮がやぶれ
果肉は
しだいに、くろずんでいく

いずれ
皮の剥かれる時は来る
ひりひり
あ、と声も出るだろう
ぽたぽた
てのひらも果汁で濡れるだろう
             (谷内注・「もぎとる」の「もぐ」は原文では漢字。)

 「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。

 「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
 どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
 あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。

あらかじめ剥いておくのは
むずかしい
みるみる褐色にやつれてくる
クリーム色の実
剥いて 切り分け すみやかに
食べる

したたり
などと生やさしいものではない
日がな ぬれそぼつ
雨の果実
水、多き心臓のかたち
押せば
たちどころに指の痕

すいみつとう
ひとつ
あばらやの奥に隠し持つ
やっかいな種族

気まぐれに
ミューズに呼び出され
うつそみの
言の葉繁く陽の下に
みるみる褐色にやつれていく
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私は江口さんのことを何も知らないので、長くなったが紹介したみた。






千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり/春浅く水流れたり/この岸に愁を繋ぐ・・・・・・・・島崎藤村
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       千曲川旅情の歌 ・・・・・・・・・・・・・・・・・島崎藤村

    千曲川柳霞みて

    春浅く水流れたり

    春浅く水流れたり

    この岸に愁(うれひ)を繋ぐ

詩集『落梅集』に納められる有名な「千曲川旅情の歌」の最終連。
千曲川の古城跡にたたずみ、戦国武将の栄枯のあとを回想し、「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」と歎じながら、近代の旅人の愁いを歌いあげている詩だが、藤村はこの詩をのちに「小諸なる古城のほとり」と合わせて「千曲川旅情の歌」一、二番とした。
これは、そのうちの二番にあたる詩の最終連という訳である。
藤村の歌いぶりは、漢詩的な対句表現を多用したり、和歌的語法を用いたりして、伝統的な詩の美感や技法を巧みに近代的表現の中に移し得ている。
この一連では、5音7音という日本の伝統的な音数律をうまく使ってフレーズを構築し得ている。
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藤村は木曾の馬籠宿の庄屋に生まれる。
馬籠は中仙道の街道筋にあたり木曾十一宿という古い宿駅のひとつで父は明治維新まで馬籠の庄屋、本陣、問屋を兼ねていた。
滅び行く旧家の血統は、故郷の風土とともに、一人の近代日本の巨大な作家を形成するのに重大な役割を果たした。
若くして東京に遊学したが、1899年、小諸義塾の教師となる。そこで秦慶治の三女・冬子と結婚し、結婚を期に詩から散文への転換をめざす。
1912年にまとめられた『千曲川のスケッチ』や第一短編集『緑葉集』などは散文家としての最初の結実である。
『破戒』は、前年に小諸の学校を辞して帰京し、背水の陣をもって執筆にあたったという。その後『春』『家』『新生』『夜明け前』など、小説家として、その当時の文学界をリードした。
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↑ 詩碑「過ぎし世をしづかにおもへ/百年もきのふの如し」

参考のために下記を転載しておく。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『千曲川旅情の歌』(ちくまがわりょじょうのうた)は島崎藤村の詩であり、この詩に作曲した歌曲も有名である。

明治38年に発行された「落梅集」が初出。同詩集冒頭に収められた『小諸なる古城のほとり』、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。

幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。弘田は後半の「昨日またかくてありけり」にも作曲している。


「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
 島崎藤村

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
 島崎藤村

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る

鳴呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
 (百年もきのふのごとし)

千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
 (この岸に愁を繋ぐ)


野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも・・・・・・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     野ゆき山ゆき海辺ゆき

     真ひるの丘べ花を藉(し)き

     つぶら瞳の君ゆゑに

     うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

      1.
     野ゆき山ゆき海辺ゆき
     真ひるの丘べ花を藉(し)き
     つぶら瞳の君ゆゑに
     うれひは青し空よりも。

      2.
     影おほき林をたどり
     夢ふかき瞳を恋ひ
     なやましき真昼の丘べ
     花を藉(し)き、あはれ若き日。

      3.
     君が瞳はつぶらにて
     君が心は知りがたし。
     君をはなれて唯ひとり
     月夜の海に石を投ぐ。

      4.
     君は夜な夜な毛糸編む
     銀の編み棒に編む糸は
     かぐろなる糸あかき糸
     そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。

掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。
今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。



春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず
nanakus2春の七草
↑ 「春の七草」
3842660630_fe52bbe37c飛火野
 ↑ 現在の奈良・飛火野

   春日野の飛火の野守出でて見よ
        今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず


この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。

ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。

 春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳

この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。

 春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之

「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。

 春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師

これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。

このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。

万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。

以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。

 寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶

 摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨

 川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男

 さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を

 蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子

 蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子

 万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児

 つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美

 草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博

 車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一

 日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美

 野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子

 ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江



東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤
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  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・慶滋保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

ume3白梅

なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


呼吸すれば、/胸の中にて鳴る音あり。/凩よりもさびしきその音!・・・・・・・・・・・・・・・石川啄木
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    呼吸(いき)すれば、
   胸の中にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音!・・・・・・・・・・・・・・・石川啄木


石川啄木は短歌というジャンル分けには納まらない詩人である。
写真は、同郷人で終生親友であった金田一京助(左)とのもの。

この歌も三行分かち書きであり、かつ句読点も打ってあり、横文字の感嘆符!まで付けてある。
 ↑彼についてはリンクにしてあるので、ご覧ください。

「胸の中にて鳴る音」というのは、肺を出入りする呼吸音のことであろうか。啄木はいつも貧窮のうちにあったから、身のうちの呼吸音にも「さびしさ」を感じたというのである。
啄木には
  <働けど働けど、わが暮らし楽にならざり。ぢつと手を見る>
というような作品もあるが、ここは、そういう身すぎ世すぎを書きたいとは思わないし、今日は石川啄木について書くつもりは無いので、「木枯し」を詠んだ句を引いて終りたい。

 木枯の果てはありけり海の音・・・・・・・・池西言水

 凩や何に世わたる家五軒・・・・・・・・与謝蕪村

 木枯や鐘に小石を吹きあてる・・・・・・・・与謝蕪村

 凩や広野にどうと吹きおこる・・・・・・・・・与謝蕪村

 木がらしや地びたに暮るる辻諷(つじうた)ひ・・・・・・・・小林一茶

 木がらしや目刺にのこる海のいろ・・・・・・・・芥川龍之介

 海に出て木枯帰るところなし・・・・・・・・山口誓子

 木枯や水なき空を吹き尽す・・・・・・・・・河東碧梧桐

 こがらしや女は抱く胸をもつ・・・・・・・・加藤楸邨

 死は深き睡りと思ふ夜木枯・・・・・・・・相馬遷子

 木枯と星とが知つてゐるばかり・・・・・・・・矢田部芙美

 凩や馬現れて海の上・・・・・・・・松沢昭

 妻へ帰るまで木枯の四面楚歌・・・・・・・・鷹羽狩行

 木枯らしに暮れてモンドリアンの木々・・・・・・・・高橋謙次郎

 木枯やいつも前かがみのサルトル・・・・・・・・田中裕明

 木枯のあとの大いなる訃がひとつ・・・・・・・・堀米秋良



太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。・・・・・・・三好達治
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      雪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三好達治

         太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

         次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

掲出の書は、この詩を書いた彼の「習作」である。

三好達治は、私が少年の頃から好きな詩人だった。大学に居るときに文芸講演会があって、大きな法経教室で三好達治が話をした。
題名も詳しい話の内容も忘れたが、その中でポール・ヴァレリーの言葉として
  <散文は歩行であるが、詩はダンスである>  という話が、私には数十年来、ずっと心に残っている。
このことは、あちこちに書いたし、このBLOGでも書いたかと思うが、散文と詩の違いを極めて的確に、この言葉は言い表わしている、と思う。
参考までに書いておくと、ヴァレリーの、この言葉は彼のエッセイ「詩と抽象的思考」(1939年)の中で書いていることである。
そんなことで三好達治は大好きな詩人として私の「詩」生活とともに、あった。
達治は私とは、もう二世代も前の人、というより私の母と同じ歳だが、彼の詩集は私の書架に残っている。
晩年の「駱駝の瘤にまたがって」という枯淡の境に達した作品なども、舐めるようにして読んだ。

達治の詩は難解な詩句は何もない。俳句や短歌という日本の伝統詩にも理解があり、自分でもたくさん作っている。
「詩」の中に俳句や短歌をコラージュとして含めることも、よくあった。
と、いうより、短歌とか俳句とか詩とかのジャンルの区分をしなかった。

掲出した詩は、一行目と二行目との「太郎」と「次郎」の詩句の違いだけで、字数もきっちり同じという、すっきりした詩の構成になっている。
「詩」作りの常套的な手法として「ルフラン」(リフレイン)が有効であるが、この詩の場合には、これがお手本というような見事なルフランである。

この詩を下敷きにして短歌などがいくつか作られた。
もちろん、その作者なりの必然的な表現として、ではあるが・・・・・・・。

9_photo07三好達治

三好達治(1900年8月23日 ~ 1964年4月5日)は、大阪市西区西横堀町に生まれた。
父政吉・母タツの長男。家業は印刷業を営んでいたが、しだいに没落し、大阪市内で転居を繰り返した。達治は小学時代から「神経衰弱」に苦しみ、学校は欠席がちだったが、図書館に通って高山樗牛、夏目漱石、徳冨蘆花などを耽読した。大阪府立市岡中学に入学し、俳句をはじめ、「ホトトギス」を購読した。学費が続かず、中学2年で中退し、大阪陸軍地方幼年学校に入学・卒業、陸軍中央幼年学校本科に入学、大正9年陸軍士官学校に入学するも翌年、退校処分となった。このころ家業が破産、父親は失踪し、以後大学を出るまで学資は叔母の藤井氏が出してくれた。

大正11年、第三高等学校文科丙類に入学。三高時代はニーチェやツルゲーネフを耽読し、丸山薫の影響で詩作を始める。
東京帝国大学文学部仏文科卒。
大学在学中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。シャルル・ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』の全訳を手がけた後、処女詩集『測量船』を刊行。叙情的な作風で人気を博す。

十数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』などがある。また中国文学者吉川幸次郎との共著『新唐詩選』(岩波新書青版)は半世紀を越え、絶えず重版されている。 

若いころから朔太郎の妹アイに憧れ、求婚するが、彼女の両親の反対にあい、断念。
が、アイが夫佐藤惣之助に先立たれると妻智恵子(佐藤春夫の姪)と離婚し、アイを妻とし、三国で暮らす。しかし、すぐに離婚する。
これを題材にして書かれたのが萩原葉子(朔太郎の娘)による『天上の花』(現在は講談社文芸文庫)である。

1953年に芸術院賞(『駱駝の瘤にまたがつて』)、1963年に読売文学賞を受賞(『定本三好達治全詩集』 筑摩書房)。翌年、心臓発作で急死。
没後ほどなく、『三好達治全集』(全12巻、筑摩書房)の刊行が開始された。

20090426110815792s三好達治墓

三好達治の墓は大阪府高槻市の本澄寺にある。三好の甥(住職)によって境内の中に三好達治記念館が建てられている。
私の畏敬するBLOG友であるbittercup氏による「三好達治記念館、墓、伝記などの記事」と写真などがあるので参照されたい。


 都の外れには/底なしの池があって/ 坊主や女の骨が沈んでいる/部屋の中で生き返らせて遊ぶ・・・・・・・・冨上芳秀
hs08-s広沢池朝霧

        骨遊び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨上芳秀

       都の外れには

       底なしの池があって

       坊主や女の骨が沈んでいる

       それを拾ってきて

       部屋の中で生き返らせて遊ぶ

       坊主は木魚を叩くが

       音感はまるでないので苛める

        女は酒を飲ませて

       算盤で計算させて間違えると

       足の裏をくすぐって

       死ぬほど笑わせる

       冬枯れの池に漁師は凍えながら

       網を投げ入れて

       遊ぶための骨を引き上げている。

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この詩も『滋賀・京都 詩歌紀行』に載るものである。
ここにいう「池」とは、作者によると嵯峨野の「広沢池」のことである。
この池は周囲1.3キロほどの割合に広い池で、989年に宇多天皇の孫・寛朝僧正が池の北西に遍照寺を建立した際に造らせたとされる。
今はもう寺はないが、昔は釣殿や月見堂があったとされ、月見の名所として大宮人や歌人が訪れ、歌を詠んだという。
この詩は、一見すると何となく不気味な感じがするが、幻想を含んだ現代詩であって、面白い。
この辺りも幾多の戦乱に巻き込まれたので、この池にも屍などが放り込まれたらしい、という設定で、この詩は成り立っている。



くの字くの字に/折れ曲がった路地/石畳を囲むようにそびえる石の塀の上を/ここは東山のふもと石塀小路・・・・・・・・松山妙子
24013PAAK019_03_02石塀小路

         石塀小路・・・・・・・・・・・・・・・松山妙子

     くの字くの字に
     折れ曲がった路地
     石畳を囲むようにそびえる石の塀の上を
     紫の煙が這う
     忍者がひょっこり
     とびだしてきてもおかしくない
     ここは東山のふもと石塀小路

     路地のさきにぽつり
     狭い路地 どんつき折れると またぽつり
     狐火のように門灯がともる
     ゆれるあかりのあいまに
     しずかにきこえる三味線の音

     海底深く 船底深く
     乙姫さまに案内された 龍宮城
     鯛や平目に杯を傾け 杯をかさね
     ゆれるこころ
     ゆれるゆどうふ
     ゆれるゆげ

     酔いがまわった足取りで
     石畳のように角張った
     とうふのかどなぞりながら
     本当のかえりみちさがしている
----------------------------------------------------------------------
この詩は、日本詩歌紀行2.『滋賀・京都 詩歌紀行』という本(著者・日本詩歌句協会、発売・北溟社)に載るものである。
名前の通り、詩・歌・句の地名によるアンソロジーである。
私も要請があって3首の歌が載っている。

「石塀小路」というのは、京都の東山山麓の「路地」のことである。「路地」を京都では、長く伸ばして「ろーじ」と発音する。
写真①は、この路地の入り口に掲げられる路地の門灯である。
 
↓ 写真②は石塀小路入り口。 写真③は石塀小路の一部。 写真④は明りの入った夜景。
04石塀小路入り口
02石塀小路
03石塀小路

近くには「高台寺」などもあり、「清水寺」にも近い。
「三年坂」(産寧坂と書かれることもある)「二年坂」など清水寺かいわいの土産物屋の多い通りは、すぐそこである。
三年坂の辺りの、「売らんかな」の雰囲気とは違って、写真③に見るような昔の趣を伝える、落ち着いた通りである。
石塀小路が出来たのは比較的最近のことで、大正時代の初期の頃だ。
石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地だったが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、
圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造った。
↓ 写真⑤は圓徳院の外壁だが、この赤レンガは外国から輸入して築いた壁で、レンガが珍しい当時としてはモダンな雰囲気を作った。
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石塀小路に入る路地には、はじめに掲出したガス燈のような電灯が掲げられていて、すぐにわかる。

ここが、 現在のような姿に完成したのは、昭和になって、しかも戦後になって京都から市電が廃止されるようになり、市電に使われていた石畳をここに敷いたことからのようである。
石塀小路が出来た頃には現在のように旅館や飲み屋さんはなかったが、東山を舞台とした映画ロケが盛んにされた頃から、
映画関係者を目当てとした旅館や飲食店などが建ち並び、現在のような姿になった。
今でもここの旅館を愛する映画関係者も多く、ここから夜には祇園に繰り出す事も多いようだ。
地元の方も町並みを大切に保存されている。

八坂神社から南に歩き、石塀小路を目指して歩くと、大きな建物があるわけではないので、探し出すのに少し時間がかかる。
しかし、小路に入ると石畳の道が続き、町の雰囲気はガラッと変わる。
自動車の乗り入れ制限があるので、閑静な雰囲気があり、ゆったりとしてそぞろ歩きが出来る。
石畳なので夏場の照り返しがきつくなく、アスファルトの道を歩いているときの、うだるような感じがない。

それぞれのお店を覗いてみると、一見料金が高そうなところが多そうなのだが、意外とリーズナブルなところもあるが、
人気の観光スポットなので、早くから予約を入れないとなかなか泊まったりすることは難しそう。
しかし一見さんお断りが無いので、早い時期から予約すれば、宿泊できるらしい。
この通りは特別な許可がないと、自動車の通行が出来ないこともあり、町の情緒を楽しむのにゆっくりと歩くことが出来る。
通りの雰囲気もさることながら、少し足を伸ばすだけで、高台寺や八坂の五重塔に行くことが出来るので、京都東山観光をするにははずせまないところ。

料亭などの、しっとりした商売もあるし、旅館なども風情がある。
私は、別にお金をもらったわけではないので、個々の紹介はしない。ネット上で検索されたい。
「詩」にも書かれているが、「湯豆腐」は京都の冬の食べ物として、絶好のものではないかと思う。京都は「水」がいいので、おいしい豆腐がある。

この詩は、さほど巧い作品ではないが、最終連の

      石畳のように角張った
      とうふのかどなぞりながら

というくだりは、秀逸である。
この「松山妙子」という作者のことは、私は何も知らない。

ネット上では「石塀小路」と検索すると多くの記事が出ているので各自調べられよ。




オモシロク狂ツテ舞ヘバ/身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ/声ハ大気ヲツン裂イテ/スガタハ空ノ青ニ染ム・・・・・・・・大岡信
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       閑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     ハツ春ノ
     空ニタチマチ湧キイデテ
     羽音モタテズ狂ヒタツ
     雪サナガラノ思ヒカナ

     オモシロク狂ツテ舞ヘバ
     身ハ幽谷ニ浮ク鶴ノ
     声ハ大気ヲツン裂イテ
     スガタハ空ノ青ニ染ム

     閑閑タリ
     ヒトリ遊ビノ
     小宇宙

     巌ニ星モ エイ
     咲カシテミシヨウ
---------------------------------------------------------------------
この詩は学習研究社1985年12月刊の「うたの歳時記」─冬のうた、に載るものである。
5、7という日本の伝統的な音数律に則った詩作りになっている。
日本の現代詩作家も、こういう日本古来の韻律に時には立ち返ることもあるのである。

掲出した写真は北海道の鶴居村で舞う鶴の姿である。
鶴は春の繁殖期を前にして、もう番いの間で愛を確かめる愛技ともいえる「舞い」をはじめるのである。
涙ぐましい自然の摂理とも言えようか。
「鶴」はメデタイものの縁起物として引かれるので、新年を迎えた今の時期のものとして出しておく。




黒猫に白毛混じりて猫にくる老いをながむる感動はあり・・・・・・・・・・・・・・高田流子
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──<猫>の歌いくつか──

    ■黒猫に白毛混じりて猫にくる
        老いをながむる感動はあり・・・・・・・・・・・・・・高田流子


私は猫は嫌いなので飼ったことがないが、この歌は、黒猫も老いると白毛混じりになる、という理(ことわり)を面白く、かつ諧謔的に歌にしてある。
この一連に載る歌を、もうふたつ挙げておく。

   ■猫の歳十四はすでに大婆と言ひやればばたり床にたふれる

   ■秋の夜の膝にきたれる黒猫と白髪多きをともに嘆きぬ・・・・・・・・・・・・・高田流子

長年、生活を共にして来たので、この猫は「人語」を解するらしい。この歌も愉快である。
この作者は「年譜」によると昭和15年生まれとあるから、さほど老齢ということもないが、女の人にとっては「白髪」というのは、嫌なものらしい。
猫に向って「お前も白髪が目立つようになったわね」と呟く様子が見えるようである。
「描写」というものは、かくあらねばならない。

私の方の家は猫どもの「通りみち」になっていて、臭い臭いおしっこはするわ、ぐんにゃりとしたウンコをするわ、で大被害なので、猫を可愛がる人の気が判らない。
こんな歌がある。

     ■五日まり行方不明の親猫が霧ふかき朝鳴きつつ帰る・・・・・・・・・・・・関根栄子

この猫は、恐らく交尾期の盛りの時期だったのではないか。
この時期の猫の狂ったような嬌声は安眠妨害である。私はバケツに水を張ったものを用意しておいて、やかましい猫の叫び声がしたら窓からぶっかけることにしている。

     ■立ちどまり現在位置をたしかめて方向音痴のわが猫がゆく・・・・・・・・・・・西海隆子

「犬は人につき、猫は家につく」と、よく言われることである。この歌のように、方向音痴の猫が居るのであろうか。

     ■この電車地下を這ひつつゆくからにうかがふやうな猫の形だ・・・・・・・・・・・池田はるみ

この歌は直接には電車を詠っている。這う形の猫の姿勢のようだ、という比喩になっている。

     ■隣家はこぼたれ小さき闇となり麻布猫族夜な夜な集う・・・・・・・・・・・・千家統子

     ■だれにでも抱かれるわたしのネコはもうわたしのネコであるはずはなく・・・・・・・・・・武藤雅治

「猫」の歌をよく目にすると思っていたが、こうして選り出してみると、なかなか見つからないものだ。
この辺にする。



ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/うらぶれて異土の乞食となるとても・・・・・・・・室生犀星
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   小景異情 その二・・・・・・・・・・・・・・・・室生犀星

     ふるさとは遠きにありて思ふもの

     そして悲しくうたふもの

     よしや

     うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

     帰るところにあるまじや

     ひとり都のゆふぐれに

     ふるさとおもひ涙ぐむ

     そのこころもて

     遠きみやこにかへらばや

     遠きみやこにかへらばや

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この有名な詩は『抒情小曲集』の巻頭に載るもので、年譜によると

<二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中「小景異情」最も古く・・・・・>と書かれている極く初期の作品である。初出は『朱欒』大正2年2月、となっている。

    故郷にて冬を送る・・・・・・・・・・・・・室生犀星

     ある日とうどう冬が来た
     たしかに来た
     鳴りひびいて
     海鳴りはひる間も空をあるいてゐた
     自分はからだに力を感じた
     息をこらして
     あらしや
     あらしの力や
     自分の生命にみち亘つてゆく
     あらい動乱を感じてゐた
     木は根をくみ合せた
     おちばは空に舞ふた
     冬の意識はしんとした一時(とき)にも現はれた
     自分は目をあげて
     悲しさうな街区を眺めてゐた
     磧には一面に水が鋭どく走つてゐた

『愛の詩集』所載。初出は『詩歌』大正4年1月。

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という詩もある。
最初に掲げた詩は有名なもので、特に、はじめの短歌のリズムの二行だけを取り出して引用されることもある。
私の持っている『定本・室生犀星全詩集』(昭和53年・冬樹社刊)は全三巻で、一冊の厚さは5センチもあるものである。
近代詩の巨人として、その後の現代詩に繋がる偉業を成し遂げた。
むつかしい語句もないので、年末の忙しい時期だが、ゆっくり鑑賞してもらいたい。





群青のストールに深く身を包む冬の眸をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子
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──銀座態──

    ■群青のストールに深く身を包む
        冬の眸(め)をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子


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「深く身を包む」ストールの羽織り方と言えば、このスタイルであろうか。
今どき流行りの着方というと、こういうことになるのだろうか。
「冬の眸をもつ人」という言い方が、とてもしゃれている。
おでかけの行き先は、もう銀座しか、ないだろう。

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   ■いつぽんの櫂のわたくし朝雨の
        ガラスの林道漕ぎ銀座まで・・・・・・・・・・・・・・小黒世茂


この歌の作者は前衛歌人であった塚本邦雄の愛弟子で、才気煥発な女の人である。
銀座も、すっかり高層化したので、それを「ガラスの林道」と表現した比喩に満ちた歌である。
先に挙げた歌ではないが、この時、彼女は、どんな服装をしているのであろうか。
さまざまに、読者に想像させるのである。
短詩形の場合、答えが一つしかないような作品では面白くない。さまざまに考えさせるのが、よい。

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   ■夜の青 乾く銀座の石畳
       雪よりほかに乞ふものはなし・・・・・・・・・・・・・高崎淳子


今の銀座の、どこに石畳があるのか、私は知らない。
今は、もう無いとしても、乾く冬の銀座の石畳に雪よ、降ってほしい、という表現は秀逸である。

    ■モンパリの歌母と口ずさみ歩む夜の
        外堀セーヌの春の香のたつ・・・・・・・・・・石田容子


この歌は、銀座をフランスのパリになぞらえて詠まれている。パリの町並みはナポレオン3世によって都市計画がなされ、5階以上の高さの建物はないが、外見的には似ていなくもない。

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      ■雪赤く降り青く解け銀座の灯・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

赤い灯、青い灯、と俗称される巷灯が、時ならぬ雪に映えているのを巧みに詠んでいる。

よく知られていることだが、ここでネット上に載る銀座の成り立ちを転載しておく。
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銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~

それは海から始まった
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8年)には、銀座はまだ海だった。
江戸に城はあったものの、城の東側は利根川水系の作る低湿地で、葦(あし)が繁っていた。
江戸の西側には、関東ローム層からなる武蔵野台地が広がっていた。
武蔵野台地の東側には、いくつもの谷が深く切れ込み、坂や崖を作っていた。
現在の東京都心の高台は、こうした台地の先端部分に当たる。
上野、本郷、小石川、四谷、赤坂、白金などいわゆる山の手を形成する高台だ。

日比谷入江の埋め立て
江戸城も、こうした台地の先端に築かれていた。
江戸城から見ると、現在の日比谷あたりは浅い海の入江。
日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂州が出ている。
これを江戸前島といい、前島の付け根の部分に、江戸湊(みなと)が築かれた。
幕府が最初に埋め立てたのが、日比谷の入江だった。
江戸城の目の前まで入り込んでいた入江だけに、船で攻め込まれる危険があったからだ。
加えて、武士たちを住まわせる屋敷も必要だった。
そこで埋め立て工事に拍車がかかり、江戸城から前島にかけて、新しい陸地が造られた。

水の都 江戸
日比谷の埋め立てに先立って、江戸城と江戸湊を結ぶ堀が造られた。
道三堀というこの運河は、現在は姿を消しているが、江戸城へ物資を運ぶ幹線運河だった。
川の多い江戸では、水上交通が便利であることに、幕府はいち早く気がついた。
武士、町人にとっても同じこと。
猪牙(ちょき)舟で行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通だった。
ヴェネツィアの水上タクシーと同じ様に、猪牙舟はお江戸の人たちの足だったわけだ。
水をたたえた堀と猪牙舟の実物は、「江東区立深川江戸資料館」に再現されている。

消えた三十間堀
銀座にも、掘割が巡らされていた。現在、掘割も川もまったく残っていない。
すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまった。
橋は消え、その名前だけが交差点や高架橋の名称として残っている。
消えた川と掘割の代表例が、銀座通りの東側を並行して流れていた「三十間堀」だ。

三十間堀にかかる三原橋とその上を走るチンチン電車
江戸時代に造られ、1949年(昭和24年)に埋め立てられて姿を消した。
名残は唯一、「三原橋」という名前が、人びとのなかに通称として残っていること。
晴海通りと旧三十間堀が交わるあたりは、歩くと、橋のあった証拠の起伏が感じ取れる。

橋あってこそ銀座
最も有名な数寄屋橋は、外濠(ぼり)にかかっていた。
現在、上を高速道路が走る。

数寄屋橋附近
銀座にあった橋のすべてが、今は水ではなく車の流れる道と接している。
白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(同)、土橋(同)、新橋(同)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(同)、三吉橋(同)etc.
今こうした橋は銀座への入口として、往時と同じ役割を果たしている。
流れる水はなくなっても、銀座へ足を踏み入れるときめきは、変わらない。


いくたびか冷たい朝の風をきって私は落ちた/雲海の中に・・・・・・/  ・・・・・・・・大岡信
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      さむい夜明け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

     いくたびか冷たい朝の風をきって私は落ちた
     雲海の中に・・・・・・
     となかいたちは氷河地帯に追いやられ
     微光の中を静かな足で歩んでいた

     いくたびか古城をめぐる伝説に
     若い命がささげられ
     城壁は人血を吸ってくろぐろとさび
     人はそれを歴史と名づけ蔦で飾った

     いくたびか季節をめぐるうろこ雲に
     恋人たちは悲しくめざめ
     いく夜かは
     銀河にかれらの乳が流れた

     鳥たちは星から星へ
     おちていった
     無法にひろがる空を渡って
     心ばかりはあわれにちさくしぼんでいた

     ある朝は素足の女が馳けさった
     波止場の方へ
     ある朝は素足の男が引かれてきた
     波止場の方から

     空ばかり澄みきっていた
     溺れてしまう 溺れてしまうと
     波止場で女が
     うたっていた

     ものいわぬ靴下ばかり
     眼ざめるように美しかった
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この詩は、学習研究社『うたの歳時記』冬のうた(1985年12月刊)に載るものである。
「いくたびか」という詩句の3回のルフランなども詩作りの常套手段とも言えるが、この一篇で「初冬」の「さむい夜明け」の、さむざむしさを表現し得たと言えるだろう。



白鳥はその閉じた壮麗な翼をゆっくりとふるわせ/自分のうえに、柔らかな光の陰の白いテントを張った・・・・・・オルダス・ハックスリー
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    白 鳥・・・・・・・・・オルダス・ハックスリー・・・・『レダ』より

      白鳥はその閉じた壮麗な翼をゆっくりとふるわせ

      自分のうえに、柔らかな光の陰の白いテントを張った

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この詩は、ジェイナ・ガライ『シンボル・イメージ小事典』(社会思想社・現代教養文庫、中村凪子訳1994年)に「白鳥」という項目のはじめに載るものである。
原題はJana Garai THE BOOK OF SYMBOLS である。

シンボル事典

この本については先に採り上げた。図版②にその写真を出しておく。
以下、この項目の全文を長いが引用する。
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詩人のシンボルであり、詩人のインスピレーションの源であり、ウェルギリウスとアポロンの魂そのものである白鳥は、美しい姿と優雅な動きが忘れがたい印象を与える。
ウェヌス(ヴィーナス)は水に映った白く柔らかく、ふくよかな自分の体を見て、白鳥を自分の鳥とした。
そこで白鳥は、官能的な裸身を持ち、しかも貞節な処女というイメージで詩にうたわれた。
しかし、白鳥はいま一つ別の意味をもつ。
水にさしのばされる力強く長い首は男性としての意図をもつものとされ、両性を表わす二重の意味をもつことによって、白鳥は満たされた欲望を象徴するようになった。
この不思議な両性具有という相反する二つの性質のゆえに、白鳥は神話のなかではもっとも深い尊敬の念をもって扱われ、また呪術的な意味をもつものとされた。
騎士も、そしてまた処女も、ともに白鳥の羽をまとって変身する。ユピテルは白鳥となってレダのもとへ飛び、ローエングリーンはエルザのもとへ飛ぶのである。
ケルト神話によればケールはある年ケルトの乙女に、次の一年は白鳥に姿を変えて、貴公子アンガスを誘惑する。
瀕死の白鳥が歌うという神秘の歌は、プラトンやアリストテレスさえ信じたが、いま一つ欲望の充足という隠された意味をもち、その欲望は死を代償とするものであった。
王家の紋章、あるいは居酒屋の看板に、竪琴とともに描かれた白鳥をしばしば見るが、これは白鳥の歌についてさらに深い説明を与えている。
竪琴の音は熱情的でもの悲しく、地上の苦しみへの哀歌を奏でる。
情熱的な白鳥はこの切々とした旋律と結びついて、詩人の悲劇的な死や、芸術に身を捧げた人びとのロマンティックな自己犠牲の精神を象徴するのである。
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 ↑ コレッジョの絵 (ベルリン 絵画館)
西洋の絵に見られる「レダ」には必ず白鳥が共に描かれる。
これはギリシア神話に由来するが、上に書かれたことが頭に入っていれば、その絵が象徴する意味が、理解できるというものである。
しかも、それが「両性具有」という深い二重の意味を胚胎している、と知れば、絵画といえども、なおざりには見過ごせない、ということである。

今しも、白鳥が日本に避寒のために飛来しはじめているらしい。越冬地では、しばらく優雅な白鳥の姿が見られるのである。
歳時記に載る白鳥の句も多いので、少し引いて終わる。

 一夜吾に近寝の白鳥ゐてこゑす・・・・・・・・・・橋本多佳子

 白鳥といふ一巨花を水に置く・・・・・・・・・・中村草田男

 白鳥見て海猫見て湖に安寝する・・・・・・・・・・角川源義

 亡き妻を呼び白鳥を月に呼ぶ・・・・・・・・・・石原八束

 八雲わけ大白鳥の行方かな・・・・・・・・・・沢木欣一

 霧に白鳥白鳥に霧というべきか・・・・・・・・・・金子兜太

 千里飛び来て白鳥の争へる・・・・・・・・・・津田清子

 白鳥のふとこゑもらす月光裡・・・・・・・・・・きくちつねこ

 写真ほど白鳥真白にはあらず・・・・・・・・・・宇多喜代子

 白鳥のこゑ劫(こう)と啼き空(くう)と啼く・・・・・・・・・・手塚美佐

 白鳥の黒曜の瞳に雪ふれり・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 白鳥の野行き山行きせし汚れ・・・・・・・・・・行方克己

 白鳥の大きさ頭上越ゆる時・・・・・・・・・・吉村ひさ志

 白鳥の仮死より起てり吹雪過ぐ・・・・・・・・・・深谷雄大

 白鳥の岸白鳥の匂ひせり・・・・・・・・・・小林貴子

 白鳥の首の嫋やか冒したり・・・・・・・・・・福田葉子

 群青をぬけ白鳥の白きわむ・・・・・・・・・・蔵巨水

 白鳥の頸からませて啼き交す・・・・・・・・・・小谷明子


しら露も夢もこのよもまぼろしもたとへていへば久しかりけり・・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部
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izumi和泉式部画探幽

──和泉式部<恋>のうた鑑賞──四題

   ■しら露も夢もこのよもまぼろしも
     たとへていへば久しかりけり・・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部


今回は、和泉式部の<恋>の歌を四つ採り上げる。
はじめの歌は、前書に「露ばかりあひそめたる男のもとへ」とある。
ある男と一夜を共にした。しかし実に短い逢瀬だった。
それに比べると「白露」も「夢」も「現世」も「幻」も、すべてなお久しいものに思えるという。
白露以下すべて「はかない」瞬時の譬えである。それさえも「たとへていへば」久しく思われるほど、夢のごとくに過ぎた情事だったのだ。
「たとへていへば」という表現は平安朝とも思えぬ大胆な言い回しで、男の歌人でもこれほどの斬新な用法はなし得なかった。
相手に贈った歌で、文語の中に突然として口語を入れたような表現だが、これがぴたっと決まっている。天性の詩人の作である。

     ■黒髪の乱れも知らず打伏せば先づ掻き遺りし人ぞ恋しき・・・・・・・・・・・・・・和泉式部

「浮かれ女(め)」とまで戯れに呼ばれたほどの和泉式部は、また人一倍悲しみの深さを知っていた女でもあった。
激しい情事のあとの一情景を思い出して詠ったと思われる、この歌でも、相手がすでに儚くなっている人だけに、移ろう時間の無惨さが一層鮮烈だ。
足かけ五年ほど続いた年下の恋人・敦道親王の死を悲しんで詠んだ挽歌の中の一首で、黒髪の乱れも知らず打ち伏していると、いとしげに髪の毛を掻きやってくれたあの亡き人と生きて、肌身に接していた折の濃密な感覚、そして時間が、永遠に失われてしまったことへの痛恨を詠っている。
表現の率直さが、そのまま詩美を生んでいる。

     ■とことはにあはれあはれはつくすとも心にかなふものかいのちは・・・・・・・・・・・・・和泉式部

平安女流歌人の中でも随一の天性の「うたびと」であった和泉式部は、なかんずく恋のうたびとであった。
恋の「あわれ」をこの人ほど徹底して生き、かつ歌った人は稀だろう。
その人にして、こういう歌があった。
これは、男からたまには「あはれ」と言って下さい、その一言に命をかけています、と言ってきたのに答えた歌。
恋のあわれとあなたは言うが、かりにあわれを永久に尽してみても、限りある人間の身で、この心の無限の渇きを癒すことなど出来るのでしょうか。心はついに満たされはしないのです、というのである。
情熱家は反面、驚くほど醒めた人生研究家でもあった。

     ■つれづれに空ぞ見らるる思ふ人天降り来ん物ならなくに・・・・・・・・・・・・・・・和泉式部

「つれづれに空ぞ見らるる」は何も手につかず、恋の想いが鬱屈して、ふと気がつけば空を見ているといった状態。
特定の相手が今はいないということかも知れないが、また相手がいても少しも自分のもとへは訪れては来てくれない日々の憂鬱というものも、当時は男性の「通い婚」という結婚形態では、しばしばあった。
平安女流文芸に最も一般的な恋の想いも、そこにあったとさえ言える。
和泉式部は恋多き女性だったから、そういう気分も、またよく知っていたのである。
彼女の恋愛と、そこから生じる思想には、散文には盛り切れぬ濃厚な気分の反映があった。

「和泉式部」については、10/1付けのBLOGで詳しく書いたので、参照してもらいたい。

なお、これらの歌は『和泉式部集』『後拾遺集』『和泉式部続集』から拾った。
ここに掲げる図版は狩野探幽が百人一首のために描いた「和泉式部」像である。
これは10/1付けの記事にも使ったものである。


十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ・・・・・・・・・谷川俊太郎
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    な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ

は、一、日本語中のなというひらがな文字。二、なという音によって指示

可能な事、及び物の幻影及びそこからの連想の一切。即ちなにはなに始ま

り全世界に至る可能性が含まれている。三、私がなと書いた行為の記録。

四、及びそれらのすべてに共通して内在している無意味。

十月二十六日午後十一時四十五分、私は書いたなを消しゴムで消す。なの

あとの空白の意味するところは、前述の四項の否定、及びその否定の不可

能なる事。即ちなを書いた事並びに消した事を記述しなければ、それらは

他人にとって存在せず従ってその行為は失われる。が、もし記述すれば既

に私はなを如何なる行為によっても否定し得ない。

なはかくして存在してしまった。十月二十六日午後十一時四十七分、私は

私の生存の形式を裏切る事ができない。言語を超える事ができない。ただ

一個のなによってすら。
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日付と時間の入っている谷川俊太郎の詩なので、今日の日付で載せた。
これは『定義』という24篇の散文詩風の作品で構成される詩集で1975年思潮社刊に載るもの。
物事を「定義する」ということに拘って24もの詩をものした詩才に脱帽したい。
こういう詩の作り方は詩作りのトレーニングになる。


いつの頃からか/薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて/それは、紗の服かなんかを着込んで/そして、月光を浴びてゐるのでした・・・・・・・中原中也
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         幻 影・・・・・・・・・・・・・・・中原中也

     私の頭の中には、いつの頃からか、
     薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、
     それは、紗(しや)の服かなんかを着込んで、
     そして、月光を浴びてゐるのでした。

     ともすると、弱々しげな手付をして、
     しきりと 手真似をするのでしたが、
     その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
     あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

     手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
     古い影絵でも見てゐるやう───
     音はちつともしないのですし、
     何を言つてるのかは 分りませんでした。

     しろじろと身に月光を浴び、
     あやしくもあかるい霧の中で、
     かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
     眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

     ・・・・・・中原中也詩集『在りし日の歌』から・・・・・・・
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今日、10月22日は中原中也の忌日であるから、それを記念して、この詩を載せる。
山口市にある「中原中也記念館」のリンクを貼っておくのでアクセスされたい。

Wikipedia「中原中也」にも詳しい経歴などがある。今に至るも、よく読まれている詩人である。

→ 「山羊の歌」に載る詩をいくつか読める。

大正12年(1923年)3月 - 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。晩秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
冬、劇団表現座の女優で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。
大正13年(1924年)- 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
大正14年(1925年)- 小林秀雄と出会う。
3月 - 泰子とともに上京。早稲田大学予科を志すも果たさず。
11月 - 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。
大正15年(1926年)4月 - 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。
11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
昭和2年(1927年)12月 - 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
昭和3年(1928年)5月 - 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。
昭和4年(1929年)4月 - 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

ざっと若い頃の経歴を見ても、長谷川泰子をめぐる小林秀雄とのことなど、いかにも一頃の文学者の典型のような情景である。
一流の文化人、芸術家というのは「平凡」ではあってはならない、という気がする。

↓ YouTube動画・町田康×中原中也『汚れっちまった悲しみに』を貼り付けておくので聴いてみてください。





かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦/はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆
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  かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦

    はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆


これは発句と付句という連句遊びの一対である。
史邦の発句の575に対して、凡兆が付句で77と応じたもので、連句特有の約束事があり、簡単には説明できないが、見事な受答えと言える。

少し解説してみよう。
史邦の句の「墨絵」は15世紀なかば宋元画がわが国に流入して以来興った水墨画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。
この句が詠まれた頃には、中国伝来という意味で、異国風な新鮮さがあった。
一方、凡兆の付け句の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅毛の舶来品である。
つまり、この付け合いは、二様の異国情緒を取り合わせ、両句あいまって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描き出している。
風雅を解する豪商か、それとも脱俗の隠士か。
これは『芭蕉七部集』の『猿蓑』はつしぐれの巻、の一部である。

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写真に掲げたように「足袋」というのは日本の履物で二本指に分れ、「こはぜ」という独特の「留め金」で足首に留めるというものであるが、
その材質を西洋渡来の「メリヤス」の生地で仕立てると、何ともしっとりとした感じの足袋に仕上がり、足になじむのである。
こういう「言葉あそび」が歌仙などの「連句」遊びなのである。
芭蕉の頃から盛んに遊ばれたが、現代になって甦り、あちこちで歌人、俳人、詩人などが連句遊びをやっている。
私も一時期、誘われて「付け合せ」てみたことがある。これらは私のWebのHP「連句の巻」を参考に見てもらえば、多少はご理解いただけると思う。
ついでに説明すると「歌仙」というのは、ここに見るような一対が18対つまり合計36の句で出来ているのが、それである。時間の都合で「半歌仙」という18句の一連もある。
こういう連句は、基本的に「座の文芸」であるが、
今では「捌き手」を置いて、Web上で投稿を募り、捌き手が一番適当と思われるものを採用して、次に進むという催しも行なわれている。
連句に興味のある方には、新潮選書に入っている 高橋順子『連句のたのしみ』をおすすめする。もう10年も前の出版だが、在庫はあるはずである。高橋は詩人で、小説家の車谷長吉の夫人である。
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掲出の写真に「メリヤス」の足袋のものが手に入らなかったのが残念である。


ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫
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   ながむれば心もつきて星あひの
     空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫


京都市左京区大原草生町(市バス大原下車)の寂光院の境内の裏に、この歌の作者である建礼門院右京大夫の墓と伝えられる五輪の塔がある。
寂光院は、第80代高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘、安徳天皇生母)が、平家滅亡後、晩年に隠棲した寺であり、終焉の地でもある。
『新版・都名所図会』の巻の三に「寂光院は草生村にあり。もと弘法大師の開基にして、文治の頃、建礼門院閑居し給ひしより、今に至り尼寺となる。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり。即ち門院の御影(みえい)、阿波内侍の像あり。庭にはみぎはの池、みぎはの桜あり。」として、後白河法皇が大原御幸のとき詠まれた

    池水に水際(みぎは)の桜ちりしきて浪の花こそさかりなりけれ

その返し歌に女院(建礼門院)が詠まれた

    思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは

という、共に『平家物語』の歌を紹介している。

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それは文治2年(1186年)加茂の祭の終わった初夏のある日であった。
法皇を迎えた建礼門院は、仏前で、ここ数年の間に自らが体験した六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の有様、先帝の最期などを語り、共に涙で袖を絞られるのであった。
『平家物語』に名高い「大原御幸」のくだりである。
現在は寺は天台宗で、本堂は淀君の寄進と伝えられている。
写真③が長楽寺に安置される建礼門院の坐像である。
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右京大夫が女院に仕えたのは承安3年(1173年=17歳)から治承2年(1178年=22歳)までの五年間ほどで、女院のもとを辞したのは母・夕霧の病気看護のためである。
晩年、平家滅亡の後、逆境にある女院のために再びお側に仕えたいという意思はあったようだ。

     今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

という『右京大夫集』に載る歌の詞書で、大原の里を訪ねたことは知られているが、その後お仕えしたかどうかははっきりしていない。
もし寂光院の裏庭にある五輪の塔の中に右京大夫の墓があるとすれば、死してもなお女院にお仕えしたい彼女のたってもの願いによるものかも知れない。

大原が京都市に編入されたのは昭和24年であるから、女院の歌のように当時は都から隔てられた地、という意識が強かったであろう。
はじめに書いたように建礼門院右京大夫と書かれることが多いが、これは右京大夫が建礼門院にお仕えしていた職務上の身分を付け加えて表記してあるに過ぎず、建礼門院・徳子尼と同じ人物ではないことを留意いただきたい。
写真②の図版(岩波文庫)のように右京大夫は歌人として著名な人ある。
右京大夫の恋の相手としては平重盛の子・資盛、源頼朝の肖像画を描いた藤原隆信などが知られるが、資盛は壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ入水して果て、隆信は彼女が49歳のときに亡くなっている。
彼女の中では、若くして死んだ資盛にかけた思いは強く、ただ一人で一周忌法要を営んだことが

     いかにせん我がのちの世はさてもなほ昔のけふをとふ人もがな

という歌と、その前書き(右京大夫集)から知ることが出来る。
恋人を失った彼女にとって、旧主・建礼門院が救出され、都へ戻ってきたことが唯一の慰めだったろうと思われる。たとえ伝説であるとしても、右京大夫の墓が旧主・建礼門院の御陵墓(大原西陵)に近く、寂光院山中にあるというのは、そこを訪れる私たちの心の慰めでもあろうか。
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寂光院は先年、心ない人によって放火され、ご本尊の地蔵菩薩像などが焼けたが、ようやく建物も修復され、ご本尊の像も専門のところで修復されて戻ってきた、と報道されている。
私は、まだ、それを拝観していないが、ご本尊は恐らく、本体はそのまま仏像の体内に残して、表面を新しい部材で修復したのではないか。
報道でも、そういう肝心のことは何も伝えられないので、よく判らない。
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先年放映のNHKの連続ドラマ「義経」では、幼い安徳天皇は、?親王と入れ替わって建礼門院の手元で生きている(すぐ出家されるが)という筋書きになっているが、これは原作者の宮尾登美子の「宮尾本平家物語」が、そういう設定になっているものに基づくもので、あくまでも架空の話で、事実はどうだったのかは判らない。


秋 ぼくは時の階段をおりてゆく/生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら・・・・・・・・・・大岡信
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     痛み・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   秋 ぼくは時の階段をおりてゆく

   永遠の岸に腰をおろして

   空をわたる人の微(かす)かな足音にききいるために

   そこを一つの肉体が 時間が通る



   風がしげみを吹きわけるように

   永遠がぼくらのあいだを横切っている

   ぼくらが時おり不安にみちて

   恋人の眼をのぞきこむのはそのためなのだ



   遠い地平を魚がゆきかう暗い夜明け

   夢がふいに過去を抜けでて

   ひらきかけた唇のうえにやってくる

   誰にも知られずそこで乾いて死ぬために



   生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら

   水と空とに映えながら 愛は死の

   死は愛の旗をうち振っている

   ぼくらの中でそれにひそかに応えるものに応えながら

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この詩は学習研究社『大岡信・うたの歳時記』──秋のうた(1985年9月刊) に載るもので、書き下ろしの詩だという。
現代詩読者向けではなく、一般読者向けの平易な、分り易い詩である。
冒頭の「秋 ぼくは時の階段をおりてゆく」という出だしから、4連冒頭の「生はゆきつくことのない吊橋 揺れながら」という個所など秀逸である。
題を「痛み」としたところに作者の内面を知ることが出来よう。


好きよと書いて/封をして/てがみにするとてがみはわたしの身替りになり/わたしのてがみが発って行く・・・・・・・・・三井葉子
草のような文字゛

akatoアカトンボ②

         とんぼ・・・・・・・・・・三井葉子

     好きよと書いて

     封をして

     てがみにするとてがみはわたしの身替りになり

     いまごろは

     静岡かしら

     はるばると

     もみじの山を越えて行く


     夜になると霜がふる

     いちばん逢いたくなるそのときは

     七色の魔除けの紐でからだじゅう ぐるぐる巻いて寝ていましょう

     そらがあかねに染まるころ

     わたしのてがみが発って行く


     おお とんぼ

     あきつあかねというような

     よい名貰って

     まちがえないで行けるかしら


     わたしのひたいに当るほど

     低くとんぼが飛んでいる

     ねえ あなた

     そのうちに届きます

     いまごろは箱根の山をこえている。
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この詩は、三井葉子さんの詩集『草のような文字』(深夜叢書社1998年5月刊)に載るものである。
この詩集には全部で32篇の詩が載っているが、女が男に語りかけるような体裁になっている。
この本の装丁が、昔の源氏物語絵巻のような図版になっていて、まるで「王朝物語」に出てきそうな雰囲気を漂わせている。
三井さんが「王朝風」詩人、と呼ばれる所以である。
その三井葉子さんも、今年一月はじめに亡くなられた。 寂しいことである。




夜ふけ洗面器の水を流す/キュウリの種子/魚の眼玉/水といっしょに下水管をつたい/ひと夏はこのようにして埋葬される・・・・・・大岡信
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   夏の終り・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   夜ふけ洗面器の水を流す
   地中の管をおもむろに移り
   遠ざかってゆく澄んだ響き
   一日の終りに聞くわたしの音が
   たかまるシンフォニー
   節まわしたくみな歌でないことの
   ふしぎななぐさめ
   キュウリの種子
   魚の眼玉
   ケラの歌
   《ほろび》というなつかしい響き
   それらに空気の枝のようにさわりながら
   水といっしょに下水管をつたい
   闇にむかって開かれてゆく
   わたしひとりの眼

   ひと夏はこのようにして埋葬される

--------------------------------------------------------------------
夏の終りというものは何となく寂しいものである。
そういう夏を送る心象を巧みに一編の詩にまとめあげた。言葉の選択も的確である。
この詩は学習研究社の大岡信編の『うたの歳時記』2・「夏のうた」(1986年5月刊)に書き下ろしとして載る大岡信の作品である。
「うたの歳時記」と表記して「うた」としてある所がミソで、短詩形の俳句、川柳、短歌、短詩いずれにも当てはまるように「うた」と表記されているのである。
純現代詩人としての大岡の詩は決して平易なものではないが、このシリーズの性格──読者を意識して、この詩のような平易な表現になったものであろうか。
ここで、別のところに載る大岡信の短詩を一つ紹介する。

    木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

         ・・・・・・・・・・・・・・夜ごと夜ごと 女がひとり
         ・・・・・・・・・・・・・・ひっそりと旅をしている (ポール・エリュアール)

   日の落ちかかる空の彼方
   私はさびしい木馬を見た
   幻のように浮かびながら
   木馬は空を渡っていった
   やさしいひとよ 窓をしめて
   私の髪を撫でておくれ
   木馬のような私の心を
   その金の輪のてのひらに
   つないでおくれ
   手錠のように

 (昭和57年9月、小海永二編『精選日本現代詩全集』所載、㈱ぎょうせい刊)




指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。/高原を走る夏季電車の窓で、/貴女は小さな扇をひらいた。・・・・・・・津村信夫
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       小 扇・・・・・・・・・・・・・・・・津村信夫
          ・・・・・・嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に・・・・・

     指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。

     高原を走る夏季電車の窓で、

     貴女は小さな扇をひらいた。

この詩は『さらば夏の光りよ』という津村信夫の詩集の巻頭に載るものである。

この本は奥付をみると昭和23年10月20日再版発行、京都の八代書店刊のものである。
戦争直後のことで紙質は悪く、表紙もぼろぼろになってしまった。
こんな名前の出版社は今は無い。
その頃は紙が不足していて、紙の在庫を持っている会社を探して、とにかく出版にこぎつける、というのが多かったらしい。
私は、この年には旧制中学校を卒業してフランス語を学びはじめた頃である。18歳になったばかりの少年だった。
この短い詩は暗誦して愛読した。

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写真②は、復元された「草軽鉄道」の車両の内部である。
詩の中で「夏季電車」と書かれているのは、恐らく、この鉄道であろうと思われる。草軽とは草津と軽井沢の地名であろう。

この本の「年譜」の中で、彼の兄・津村秀夫は、こう書いている。

・・・・・時に、良家の一少女を恋し、これを自ら「ミルキイ・ウエイ」と呼ぶ。詩作「小扇」及び「四人」に掲載せる散文詩風の手記「火山灰」はすなはちその記念なり。総じて『愛する神の歌』の中の信濃詩篇を除く他の作品は、おほむねこの少女への思慕と、若くして逝ける姉道子への愛情をもとにして歌へるものといふべし。・・・・・

室生犀星に師事したことがあるが、彼を識るようになったのも、夏の軽井沢であると書かれている。

この詩の「国境」というのは「くにざかい」と読むのであろう。
この詩は、極めてロマンチックな雰囲気に満ちたもので、この本を読んだ頃、私は、こういうロマンチックな詩が好きだった。
津村信夫は昭和19年6月27日に36歳で病死する。
若くして肋膜炎を患うなど療養に努めてきたが、晩年には「アディスン氏病」と宣告されたというが、私には、この病名は判らない。

この詩の二つあとに、こんな短い詩が載っているので、それを引く。

        ローマン派の手帳・・・・・・・・・・津村信夫

     その頃私は青い地平線を信じた。

     私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト
     復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温りにはグレ
     ーチェン挿話がひそんでゐた。不眠の夜の暗い木立に、
     そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。
-----------------------------------------------------------------------
この詩も題名からしてロマンチックである。
津村信夫は、私の十代の青春とともにあった記念碑的な名前である。

(追記)
「現代詩手帖」2012年9月号は「杉山平一」特集をしているが、その中に

   国中治「杉山平一という複合体」─<近代>を体現する方法

という5ページにわたる文章が載っている。
その文章の末尾に、杉山最後の詩集『希望』から

     花火が

     パラソルをひらいた

     その下に きみ

という短詩を引き、

<この詩の隣にはぜひ津村信夫「小扇──嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に」(『愛する神の歌』所収)を置いてみたい。
 映画のモンタージュ技法を詩に適用した成功例として、杉山が青年時代から繰り返し言及・称揚してきた作品である。
<小扇>が花火の<パラソル>となって清楚に花開くまでの長い長い年月を、やはり想わずにはいられない。>

として、私が掲出した、津村の、この詩を置いて締め括りにしていることを書いておきたい。



この惑星の地軸が/少しばかり傾いているお蔭で/どんなに猛暑が続いても/こうして/この列島にも 秋がくる・・・・・・坪井勝男
アンソロジー
↑ アンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社刊)← 538名の現代詩作家を集めたもの。
higurasi04ヒグラシ雄

      口 伝・・・・・・・・・・・・・・・・・坪井勝男

     この惑星の地軸が
     少しばかり傾いているお蔭で
     どんなに猛暑が続いても
     こうして
     この列島にも 秋がくる

     寒蝉(ひぐらし)が遠い記憶の谷間で鳴き始めると
     ぼくは背筋を伸ばして杜にゆく
     ヒトであることに疲れたら
     幹に凭れて
     樹に流れる いのちの水音でも聴いていよう

     この巨樹をめぐる陽光と風
     枝々のざわめきは
     屈折し重なり合ううちに
     言語を超えたコトバを投げかけてくる

     それは
     たぶん
     見知らぬ 親しい者たちからの口伝(くでん)なのだろう
     聞き取ろうと
     手を擦りながら
     風に耐えている

     千枚あまりの年輪を包む ひび割れた樹皮
     梢の方を見やる
     あ
     いま
     文脈を捉えたような気がする

---------------------------------------------------------------------------
この詩はアンソロジー『詩と思想詩人集2012』(土曜美術社2012/08/31刊)から引いた。

今年の猛暑は異常だし、今日も残暑というのも憚られるほど暑いが、季節というものは正直なもので、いつしか秋風が吹くようになる。
そういう推移を、この詩は、うまく詩にしている。
「早く涼しくなってくれ」という願いもこめて、この詩を出しておく。
この作者のことを検索してみると
1929年生まれ。詩集として『樹のことば』『見えない潮』などがあるらしい。アマゾンで買えるようである。



かん声をあげて/海へ走り/しぶきのなかに消える/子どもたち・・・・・・・・・・川崎洋
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          海 ・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     かん声をあげて
     海へ走り
     しぶきのなかに消える
     子どもたち
      わたしは
     砂に寝て
     海を想っている

     ひとつづきの塩水よ
     われらが夏の始まりは
     いずれの国の
     冬のまつさかりか

     そして
     わたしの喜びは
     誰の悲しみ?

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夏休みになって、毎日あついから、「海」は、子供たちにとっては楽しい遊び場である。

川崎 洋(かわさき ひろし、1930年1月26日 ~ 2004年10月21日)は、日本の詩人・放送作家。東京都出身。
彼は私と同年輩の詩人である。
海に近い東京は大森海岸に生れた。
1944年福岡に疎開。八女高校卒、父が急死した1951年に西南学院専門学校英文科(現:西南学院大学)中退。
上京後、横須賀の米軍キャンプなどに勤務。1948年頃より詩作を始め、1953年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。
谷川俊太郎らを同人に加え、活発な詩作を展開した。
その傍ら1971年にはラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受けた。
1987年、詩集「ビスケットの空カン」で第17回高見順賞。1998年、第36回藤村記念歴程賞を受賞した。
1955年詩集『はくちよう』を刊行。1957年から文筆生活に入る。
日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。
また1982年からは読売新聞紙上で「こどもの詩」の選者を務め、寄せられた詩にユーモラスであたたかな選評を加え人気を博した。
主なラジオ脚本に「魚と走る時」「ジャンボアフリカ」「人力飛行機から蚊帳の中まで」などがある。
作曲された詩は数多い。
歌の作詞経験も豊富で、NHK全国学校音楽コンクールでは4回作詞を担当した(「きみは鳥・きみは花」「家族」「海の不思議」「風になりたい」)。

「海」に因んだ、次のような彼の文章がある。
大森海岸近くで生まれ、太平洋戦争中、中学2年の時、父の故郷である福岡県の有明海に臨む地に疎開し、敗戦後をはさむ7年間を過ごした後、現住地の横須賀市に居を移す。
つまり彼は、ずーっと海の近くに住み続けてきたことになる、と書いている。

<家で仕事をしていて、不意に海岸へ行きたくなり、飛び出すことがある。 海は不思議な生き物で、あの東京湾の海水の寄せる三浦海岸の磯でさえ、潮の具合によっては、まるでコマーシャル・フィルムに出てくるような、透明で美しい海の表情を見せてくれることがある。夏、ああ海は光の祭りだなと思う。波は二度と同じ形を示さない。美しいものの何と気短かなことだ。「人間は海のようなものだ。それぞれ違った名前を持っていても、結局はひと続きの塩水だ」というゲーテの言葉を思い出したりする。>

<以前、小笠原が返還された年の夏、放送取材の仕事で、巡視船に同乗させてもらい、嵐の海で、マストより高い波を見たことがある。とうとう引き返さねばならぬ激しい荒れようだったが、私は舷側の柱にしがみつき、船酔いのため吐きながら、そんな海を見とどけた。その時、身をのり出して下をのぞくと、海の暴れ方からは思いもつかない、青白くやさしい泡が、船体にくっついて揺れをともにしていたのが忘れられない。>
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今日は8月9日。長崎にプルトニューム原爆が落とされた。
太平洋戦争の末期だが、8月6日には広島に原子爆弾が落とされ、市街が灰燼に帰した上に、数万人の人が放射線により死んだ。
今や戦後生まれの人が日本人の大半を占めて、戦争を知らない人々が殆どであるが、戦中派の一人として、この日は語り継がれるべきだと思う。
さすがの日本軍閥も敗戦を受け入れるきっかけになった両日である。
私は、その頃、軍需工場に動員され、旋盤工としてロケット砲弾の部品を削っていた。
あれから、もう69年が経つ。



三宝の声一鳥に聞こゆ /一鳥声有り 人心有り /声心雲水倶に了了・・・・・・・・・・・空海
tropicalscreech-owl-1コノハズク

    後夜に仏法僧の鳥を聞く・・・・・・・・・・・・空海

        閑林に独り座す草堂の暁

        三宝の声一鳥に聞こゆ

        一鳥声有り 人心有り

        声心雲水倶に了了

この詩は、真言宗の開祖・空海(弘法大師)の詩文集『性霊集』巻十の漢詩・七言絶句「後夜に仏法僧の鳥を聞く」である。
(原文は漢字ばかりの詩、訓み下しにして漢字かなまじりにした)

「後夜(ごや)」つまり未明=夜半から朝にかけて、の勤行中ブッポウソウと鳴く鳥声を聞いたのである。
ブッポウソウは仏と法と僧、いわゆる「三宝」を言う。
ブッポウソウと鳴く仏法僧という鳥がいると考えられていたが、姿を見た人がなく、長く、そう信じられて来た。
しかし近代になってブッポウソウと鳴くのは、実はコノハズクというフクロウ科の鳥であることが判った。
しかし、その鳴き声に三宝(仏・法・僧)を聞き取って尊ばれた。
空海が独り座して夜を徹して勤行する山中の夜明け、仏法僧の声に心は澄みわたる。
鳥声と人心、雲と水(大自然)は一体となり、一点の曇りもなく(了了)心眼に映る、と。
「倶」は「共に」の意味である。

空海は中国から「密教」を日本に伝え、天台宗の開祖・最澄とともに、南都仏教の政治介入を排したくて平安京を開いた桓武天皇を宗教の面から強力に支えた思想家・宗教者であった。
彼が書き残した文章も、いずれも特異なものに満ちている。
たとえば

    三界の狂人は狂せることを知らず。
    四世の盲者は盲なることを識らず。
    生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
    死に死に死に死んで死の終りに冥し。────空海

この詩について詩人の富岡和秀氏は、次のように解説している。

 <この詩は、コスモロジーへの契機となる消滅の途方もない暗さを暗示しているように聞こえる。
   自らを含めて、あらゆる存在が消滅に向かっているとするならば、空恐ろしさも、また無限に近いと言えるだろう>

後の空海の漢詩は、極めて哲学的で、かつ宗教的であって難しいが、じっくりと熟読、玩味するならば、われわれに多くの示唆を与えてくれていると思うのである。
面白おかしく、この世を生きるばかりが人生ではない。時に、人生に頭を打ち、ふかく自他を見つめ直すことも必要である。
なぜなら、生あるものは必ず滅ぶことを知るのが、人というものであるからだ。
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俳句では「仏法僧」「三宝鳥」「木葉木莵」などで詠まれている。ブッポウソウと鳴くのはコノハズクだと判ったのは、昭和10年のことだと言われている。
愛知県の鳳来寺山でのNHKの録音がきっかけだという。三宝鳥の鳴き声は、ギャー、ゲアであるという。写真はコノハズク。

 杉くらし仏法僧を目のあたり・・・・・・・・・・杉田久女

 仏法僧鳴くべき月の明るさよ・・・・・・・・・・中川宋淵

 仏法僧こだまかへして杉聳てり・・・・・・・・・・大野林火

 木葉木莵月かげ山をふかくせる・・・・・・・・・・山谷春潮

 仏法僧青雲杉に湧き湧ける・・・・・・・・・・水原秋桜子



生きるとは/朽ちはてることだが/それだけではない/草の茎を噛んで立っていること・・・・・・・・・・丹野文夫
suibaすいば本命

      「異徒の唄」序章・・・・・・・・・・・・・・・・丹野文夫

    生きるとは

    朽ちはてることだが

    それだけではない

    草の茎を噛んで立っていること

    きついにがみをのみつくすこと

    あすもあさっても

    憑かれた行いの昼と夜を

    己れの熱に耐えてたたかうことなのだ

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今日は、いわゆる「現代詩」と言われる詩を出してみた。
この丹野文夫のことは、私は何も知らない。
清水昶の『詩の根拠』──清水昶評論集(昭和47年11月冬樹社刊)という古い本を書庫から引っ張りだして読んでいて、見つけたものである。

この詩について清水昶は、こう書いている。

・・・・・「生きることは朽ちはてること」という断言の背後に疼いている「生き急ぐ」ラディカリズムを支えるのも、またおのれの生きている肉体であり、その肉体を突きはなしてなお、どうしようもなく生に執着するみずからの肉体深く内なる告発をつよくすることによって、生理的な痛みを逆に外部に向けていくのである。・・・・・

部分的な引用では、何だか訳が判らないと思うが、こういう詩歌の場合、読者がいま置かれている「心のありよう」によってさまざまに解釈できるだろう。

というのは、私は最近ずっと「生きる」ということ──それは「死ぬ」ということに連なってゆくのだが、──について考えることが多いからである。
それは私が、病気の亡妻を抱えて日々を過ごしてきたということもあるだろう。
また先だって、宮田美乃里さんとアラーキーの写真歌集を読んだことにも関係するだろう。

丹野文夫の表現したかったものは「孤独な個我」ということであろう。
苦汁に満ちた「孤独な個我」の時期というのは、長い人生の中では起ってくるものであり、いま私自身が、そういう時期に遭っているのではないか、と思うのである。
詩歌の読み方、受け取り方は人それぞれであってよいのである。


雨ニモマケズ/風ニモマケズ/丈夫ナカラダヲモチ/サムサノナツハオロオロアルキ・・・・・・・・・宮澤賢治
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       雨ニモマケズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮澤賢治

     雨ニモマケズ
     風ニモマケズ
     雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
     丈夫ナカラダヲモチ
     慾ハナク
     決シテ瞋ラズ
     イツモシヅカニワラッテヰル
     一日ニ玄米四合ト
     味噌ト少シノ野菜ヲタベ
     アラユルコトヲ
     ジブンヲカンジョウニ入レズニ
     ヨクミキキシワカリ
     ソシテワスレズ
     野原ノ松ノ林ノノ
     小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
     東ニ病気ノコドモアレバ
     行ッテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母アレバ
     行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
     南ニ死ニサウナ人アレバ
     行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
     北ニケンクヮヤソショウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイヒ
     ヒドリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボートヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ

     南無無辺行菩薩
     南無上行菩薩
     南無多宝如来
     南無妙法蓮華経
     南無釈迦牟尼仏
     南無浄行菩薩
     南無安立行菩薩

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底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房 1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行

まだ夏が始まったばかりなのだが、岩手県や宮城県など太平洋岸は「冷夏」──東北で言う「やませ」に悩まされてきた。
掲出した賢治の詩は、そういう「やませ」に際して詠まれた作品である。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に次のような一連がある。

     みちのく飢饉・・・・・・・・・・・・木村草弥

  やませ吹き稔らぬ村を賢治詠むサムサノナツハオロオロアルキ

  稔らざる粃(しひな)ばかりの稲藁を焼き払ひゐる男の無念

  米穫(と)れず白湯(さゆ)のみゐるかみちのくは茶も売れぬなり平成五年

  みちのくに米穫れざればわが商ひ三割減りて師走に入りぬ

  農すてていづかたに移りゆくらむか「転居先不明」の数おびただし

  歩いても駈けても年は詰まり来て唄はぬ喉を師走風過ぐ

この作品の中の日付を見ると、平成五年が東北の大冷害だったことが判る。
昨年、東北に旅したが、その折、この「やませ」というのが低温で濃い霧が立ち込め、何日も何日も日射しが遮られて日照不足で稲が稔らないのだということを体験した。

先年の三月には東日本大震災と大津波に三陸は見舞われた。
宮澤賢治が生きていたら、どんな作品を書いただろうか。

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