K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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資料『高階杞一詩集』付録「谷川俊太郎・エッセイ」
     資料 『高階杞一詩集』付録「谷川俊太郎・エッセイ」

   エッセイ

         ずっと ずっと  いっしょ       谷川俊太郎

今日は一日外での用事がないので、うちでゆっくり高階さんの詩を読んでいる。する
と何だか終わりのない変奏曲を聴いているような気持ちになってくる。バッハの「ゴル
トベルク」やべートーベンの「ディアベリ」やレーガーの「モ—ツァルトの主題によ
る」など、ぼくは変奏曲という形式が好きで、人生そのものが日々の暮らしという変奏
によって成り立っているのではないかと思うほどだけど、じゃあ元になる主題は何かと
問われると、困る。
人生のテーマは愛であると言う人、信じることだと言う人、魂の進化と言う人などい
ろんな言い方があるけれど、それを言葉で名付けることはほんとは出来ないんじやない
かな。高階さんの詩についても同じことが言えて、その繊細な変奏の元になるものを名
指そうとしても、音楽なら譜面に書けるかもしれないけれど、言葉の明示的な意味では
とらえることが出来ない。
初めっから高階さんは書いている。〈忘れていることが/憶いださなければならない
ことが/何かあるような気がしてくる> (「石像」)、これはぼくが〈何かとんでもないお
とし物〉(「かなしみ」)と書き、朔太郎が〈のすたるぢや〉と言い、中也が〈名辞以前〉、
賢治が〈無意識即〉と書いたのに通じる心の動きなんじゃないかと思える。
そういう生きることの素が気になるのは、何も詩人に限らない。詩なんかに無関心で
暮らしている人たちだって、(特に若い人は)ふっと自分がどこから来てどこへ行くの
かなんて考えることがあるだろう。でもほとんどの人はそんなことは世間での生活に、
日々の喜怒哀楽に紛れてすぐ忘れてしまう。高階さんだってお勤めの場では忘れている
かもしれない。でもドローン(無人で空飛ぶ奴じゃなくて、音楽の持続低音のほう)の
ように、心の深みに途切れずに続いている響きは、いったいどんな言葉になって出現す
るのか。

   二日に一度
   この部屋でキリンの洗濯をする  (「キリンの洗濯」)


   ゆうゆうと
   夕焼けは焼けて
   なくなった       (「ゆ」)

   忘れ物をした電球が
   犬を連れて帰ってくる     (「電球」)

日常会話の言葉とも、法律や契約の言集とも違うとんでもない言菜がどこからか湧い
てくる、それが詩の言葉だ。だけどその言葉は見かけはそうは見えなくても、私たちの
毎日の生活と地続きなのだ。平成六年九月、高階さんは三歳の息子、雄介くんを亡くし
た。この苦しい経験を髙階さんは詩に書いて他者と分かち合い、そうすることで自身の
内面で深めようとしたと思う。それは言語をもった人間という生きものの本能みたいな
ものだった。
「早く家へ帰りたい」と題された作は、平明な行分け散文で書かれていて、他の作に出
てくる〈とんでもない言葉〉はひとつもない。高階さんは意識してそういう文体を択ん
だのではないと思う。ぼくも「父の死」という作で気がついてみたら自然に、同じよう
な文体で書いていたことがある。死という曰常的な現実でありながらそこからはみ出す
出来事は、それ自体が詩的と言っていい深さをもっているから、かえって散文的な表現
を作者に求めるのではないかとぼくは思う。死という事実にひそむ詩は、事実に即した
散文によってかえって明らかになるという逆説。
今日は土曜日のせいか電話もファックスもほとんどない。窓の外に眼をやると、あじ
さいがほころびかけている。チャイを淹れて一休み。去年、癌の手術をしたと年譜で読
んだから、高階さんはどうしてるかなあと思う。子どもを亡くした悲しみよりもっと前
からあった哀しみ、この世では癒されようもない、あの世にまで続いているかのような
哀しみ……。
たとえばハ口ーワークへ行っても仕事がなかった杜子春、イヌにもキジにもサルにも
死なれてもうすることがない桃太郞、「靴がない/病院に忘れてきた」という新参の死
物の父、——─パパさん、おやつをちようだいと言い、やらないとひっくりかえって泣く
犬、高階さんは悲しみをユーモアに翻訳(?)することで、ささやかなカタルシスを自
分と読者にもたらす。
活字で読んでいても詩から声が聞こえてくるのが高階さんの詩だ。その声は彼の暮ら
しの中での肉声とつながっている。〈ずっとずっといっしょだよ〉という一行が、
「夏の散歩」の中で他の行とは違う組み方をされているのを読むと、レトリックとは無
縁のこの言葉が、まるでぼくがぼく自身の愛する存在に向かって囁いた言葉であるかの
ように胸に迫る。
自分という一個人から書き始める高階さんの詩が、かつての私小説のような狭さに陥
らず、〈ずっといっしょ〉への切ない魂のひろがりを保っているのは、詩という形式の
おかげではないかとぼくは思う。

    愛
    という形のないものが
    はじめて〈愛〉という形になった       (「愛」)

    からだの形を失った後も、〈愛〉は言菜の形を得てよみがえる。


そろそろ自然の光が人工の光に変わる時間だ。今日はこれでマックを閉じよう。
高階さんにぼくの近況を伝えて。


    高いところが苦手になった
    階段から転がり落ちる心配が
    杞憂どころじやなくなって
    一か八かで上がったり下がったり

  二〇一五年五月             (たにかわしゅんたろう/詩人)
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