K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ビジネスクラス隣席のサマール・ケリー女史ダン・ブラウン新作『インフェルノ』読む・・・・・・・木村草弥
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       ビジネスクラス隣席のサマール・ケリー女史
            ダン・ブラウン新作『インフェルノ』読む・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は2013年初秋に行った「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」の際に作った歌であり、私の第六歌集『『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載る歌である。

        ダン・ブラウン/越前敏弥訳『インフェルノ』上・下・・・・・・角川書店2013/11/28刊・・・・・・

2013年九月下旬に行った「アルザス・ブルゴーニュの旅」のエピソードとして書いておいたダン・ブラウン『インフェルノ』の邦訳本が、同年十一月二十八日に発売された。
先ず、この本についての → 「ダン・ブラウン公式ホームページ」に詳しい紹介が出ている。
ここには「プロモーション・ムービー」や「荒俣宏」の解説や、翻訳者「越前敏弥」の話など、とても参考になる。
私の懇意にしている角川の編集者なども、ぜひ買ってくれるようにと興奮して語っていた。
ここで題名が採られているダンテのことについて触れておく。 Wikipediaから引用。
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Michelino_DanteAndHisPoemダンテの肖像画
 ↑ ダンテ・アリギエーリの肖像画
Portrait_de_Danteダンテ肖像画
 ↑ サンドロ・ボッティチェリ画「ダンテの肖像」1495年

『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることが特徴である。

題名『神曲』の由来
原題は神聖喜劇 (La Divina Commedia) である、 ダンテ自身は、単に喜劇 (Commedia) とのみ題した。「喜劇」としたのは、「悲劇」とは逆に円満な結末を迎えるためや、比較的平易に読める当時の俗語で書かれているためだという。出版史上では『神曲』の最初期の写本では、『ダンテ』『三行韻詩』などの題がつけられていた。15世紀から16世紀頃にはダンテの詩が活版印刷で出版されるようになり、1555年に刊行のヴェネツィア版により神聖喜劇 (Divina Commedia) の題名が定着した。

日本語訳名『神曲』は、森鴎外の翻訳の代表作アンデルセン『即興詩人』の中で用いられた。その一章「神曲、吾友なる貴公子」において『神曲』の魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら同時代の文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まった。

『即興詩人』が最初期の『神曲』紹介であり、日本における『神曲』受容はここから始まったとも言える。故に今日でもほぼ全ての訳題が、原題直訳の『神聖喜劇』ではなく『神曲』で統一されている。

『神曲』の成立
ダンテが『神曲』を世に出した背景には、当時のイタリアにおける政争と自身のフィレンツェ追放、そして永遠の淑女ベアトリーチェへの愛の存在が大きい。またダンテはヴェローナのパトロンであるカングランデ1世 (it:Cangrande I della Scala) への書簡で、人生における道徳的原則を明らかにすることが『神曲』を執筆した目的であると記している。

『神曲』地獄篇は1304年から1308年頃に執筆されたと考えられている。1319年には地獄篇と煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていたことが分かっている。天国篇は1316年頃から死の直前、1321年にかけて完成された。『神曲』は当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由である。

ベアトリーチェ
『神曲』では実在の人物の名前が多々登場する。ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは、ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名である。しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しみ、彼女のことをうたった詩文『新生』をまとめた(ダンテ・アリギエーリの項も参照)。

『神曲』に登場するベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのはともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経て、2人が18歳になった時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取る。

いずれにせよ、ベアトリーチェは愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴ともあると考えられている。地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも実在した古代ローマの詩人であり、神曲の中では「理性と哲学」の象徴とされている。

フィレンツェの政争
ダンテが『神曲』を執筆するきっかけの1つには、当時のイタリアでの教皇派(グエルフ)と皇帝派(ギベッリーニ)の対立、および党派抗争を制したグエルフィ内部での「白党」と「黒党」による政争がある。ダンテは白党に所属しており、フィレンツェ市政の重鎮に就いていたが、この政争に敗れてフィレンツェを追放されることになる。『神曲』には、ここかしこにダンテが経験した政治的不義に対する憤りが現れており、自分を追放したフィレンツェへの怒りと痛罵も込められている。またダンテを陥れた人物は、たとえ至尊の教皇であろうと地獄界に堕とし、そこで罰せられ苦しむ様子も描かれている。ほかにもダンテは自由に有名無名の実在した人物を登場させ、地獄や煉獄、天国に配置しており、これによって生まれるリアリティが『神曲』を成功させた理由の1つであると考えられる。

『神曲』の構成

『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)
の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。
また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられている。各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。各歌の末尾のみ3+1行で、 xyx yzy z という韻によって締めくくられる。したがって、各歌は3n+1行から成る。
このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。

なお、地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は星 (stella) という言葉で結ばれている。また地獄篇はキリスト教新約聖書外典である「ペトロの黙示録」で語られている世界観を踏襲している。

あらすじ
ユリウス暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回る。ウェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチーフェロの幽閉されている領域まで至る。そこから、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどりつく[1]。煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。そしてダンテはそこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。

地獄篇 Inferno
地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。 ギュスターヴ・ドレ による挿絵
西暦(ユリウス暦)1300年の聖金曜日(復活祭直前の金曜日)、人生の半ばにして暗い森に迷い込んだダンテは、地獄に入った。作者であり主人公でもあるダンテは、私淑する詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐって地獄の底にまで降り、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。ウェルギリウスは、キリスト以前に生れたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人とともに未洗礼者の置かれる辺獄(リンボ)にいたが、ある日、地獄に迷いこんだダンテの身を案じたベアトリーチェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて辺獄を出たのである。

冥界の渡し守カロンが死者の霊を舟に乗せてゆく。地獄篇の挿絵より。
『神曲』において、地獄の世界は、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される。かつて最も光輝はなはだしい天使であったルチフェロが神に叛逆し、地上に堕とされてできたのが地獄の大穴である。地球の対蹠点では、魔王が墜落した衝撃により、煉獄山が持ち上がったという。地獄はアリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本としてそれぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて亡者が各圏に振り分けられている。地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、中ほどにあるディーテの市(ディーテはプルートーの別名)を境に地獄は比較的軽い罪と重罪の領域に分けられている。

Botticelli_ChartOfDantesHellボッティチェリ「地獄図」
↑ ボッティチェッリの 「地獄」の図 c. 1490年

『神曲』の地獄において最も重い罪とされる悪行は「裏切り」で、地獄の最下層コキュートス(嘆きの川)には裏切者が永遠に氷漬けとなっている。数ある罪の中で、「裏切り」が特別に重い罪とされているのは、ダンテ自身がフィレンツェにおける政争の渦中で体験した、政治的不義に対する怒りが込められている。

地獄界は、まず「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と銘された地獄の門を抜けると、地獄の前庭とでも言うべきところに、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれている。その先にはアケローン川が流れており、冥府の渡し守カロンの舟で渡ることになっている。地獄界の階層構造は以下のようになっている。

地獄界の構造
地獄の門 - 「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記されている。
地獄前域 - 無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺される。
アケローン川 - 冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していく。
第一圏 辺獄(リンボ) - 洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす。
地獄の入口では、冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
第二圏 愛欲者の地獄 - 肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流される。
第三圏 貪食者の地獄 - 大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る。
冥府の神プルートーの咆哮。「パペ・サタン・パペ・サタン・アレッペ!」
第四圏 貪欲者の地獄 - 吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る。
第五圏 憤怒者の地獄 - 怒りに我を忘れた者が、血の色をしたスティージュの沼で互いに責め苛む。
ディーテの市 - 堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した環状の城塞。ここより下の地獄圏はこの内部にある。
第六圏 異端者の地獄 - あらゆる宗派の異端の教主と門徒が、火焔の墓孔に葬られている。
二人の詩人はミノタウロスとケンタウロスに出会い、半人半馬のケイロンとネッソスの案内を受ける。
第七圏 暴力者の地獄 - 他者や自己に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。 第一の環 隣人に対する暴力 - 隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
第二の環 自己に対する暴力 - 自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエに葉を啄ばまれる。
第三の環 神と自然と技術に対する暴力 - 神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる(当時のキリスト教徒は同性愛を罪だと考えていた)。

第八圏 悪意者の地獄 - 悪意を以て罪を犯した者が、それぞれ十の「マーレボルジェ」(悪の嚢)に振り分けられる。 第一の嚢 女衒 - 婦女を誘拐して売った者が、角ある悪鬼から鞭打たれる。
第二の嚢 阿諛者 - 阿諛追従の過ぎた者が、糞尿の海に漬けられる。
第三の嚢 沽聖者 - 聖物や聖職を売買し、神聖を金で汚した者(シモニア)が、岩孔に入れられて焔に包まれる。
第四の嚢 魔術師 - 卜占や邪法による呪術を行った者が、首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す。
第五の嚢 汚職者 - 職権を悪用して利益を得た汚吏が、煮えたぎる瀝青に漬けられ、12人の悪鬼であるマレブランケから鉤手で責められる。
第六の嚢 偽善者 - 偽善をなした者が、外面だけ美しい金張りの鉛の外套に身を包み、ひたすら歩く。
第七の嚢 盗賊 - 盗みを働いた者が、蛇に噛まれて燃え上がり灰となるが、再びもとの姿にかえる。
第八の嚢 謀略者 - 権謀術数をもって他者を欺いた者が、わが身を火焔に包まれて苦悶する。
第九の嚢 離間者 - 不和・分裂の種を蒔いた者が、体を裂き切られ内臓を露出する。
第十の嚢 詐欺師 - 錬金術など様々な偽造や虚偽を行った者が、悪疫にかかって苦しむ。

最下層の地獄、コキュートスの手前には、かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられている。
第九圏 裏切者の地獄 - 「コキュートス」(Cocytus 嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。 第一の円 カイーナ Caina - 肉親に対する裏切者 (旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来する)
第二の円 アンテノーラ Antenora - 祖国に対する裏切者 (トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテノールに由来する)
第三の円 トロメーア Ptolomea - 客人に対する裏切者 (旧約聖書外典『マカバイ記』上16:11-17に登場し、シモン・マカバイとその息子たちを祝宴に招いて殺害したエリコの長官アブボスの子プトレマイオスの名に由来するか)
第四の円 ジュデッカ Judecca - 主人に対する裏切者 (イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来する)

地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。魔王はかつて光輝はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めていた。魔王は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルートゥスとカッシウスの三人をそれぞれの口で噛み締めていた。

2人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。そこは煉獄山の麓であった。
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長すぎる引用になったかも知れないが、ダン・ブラウンの小説のプロットとして知っておいてもいいと思うからである。
 
引用文中で、この詩の形式「テルツァ・リーマ」三韻詩のところには「下線」を入れておいた。
現在、日本の詩壇でも「連句」が営まれているが、この形式で連句が巻かれることもあるので、全く無関係ではないのである。
その積極的な推進者である鈴木漠さんの名前を挙げておく。 私の敬愛する詩人である。

先に挙げた「ダン・ブラウン公式ホームページ」には、
別項目として「作品ガイド」「キャラクター・ファイルの謎解き」「キーワード辞典」「作品舞台」「ダン・ブラウン解析・ロバード・ラングドック解析 地獄篇」などが見られる。
ぜひアクセスされたい。

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 ↑ ダンテのデスマスク

ダン・ブラウンの小説は、ハーヴァード大学教授ラングドン・シリーズとして書き継がれているが、この小説では
キーワードとして
  「フィレンツェ」→ 「ダンテ・新曲」→ 「現在進行形の謎とき」としてフィレンツェ市庁舎の大広間にかかる大きな絵の裏にヒントがある。
ボッティチェリの「地獄の見取り図」の絵のことである。

多少のネタばれをしておくと、ラングドンのツィード・ジャケットの隠しポケットには、チタン製バイオチューブbiotubeが入っていた。
この中には、奇妙な彫り物を施された、象牙か骨でできた円筒が。
そして、その円筒は、自己発電式で、デジタル・イメージを壁に投光する仕掛けになっていた。
投光される絵が、上記の『地獄の見とり図』である。
また、今回も「シエナ・ブルックス」というIQ208という天才美女が大きな役割を果たす。

第15章にこんな部分がある。

<「ロバート」シエナが、壁のイメージに近づきながら言った。「あれを見て!」彼女は、漏斗の形をした地獄の、底近くのエリアを指さした。
彼女が指さしたエリアは、マルボルジMalebolgeとして知られる。意味は『邪悪な堀』だ。
そこは、8番目の、そして終わりから2番目の地獄の環ringで、10個の独立した堀ditchに分けられている。それぞれが、特有の形の欺瞞に割り当てられているのだ。>

また、後半になって国連の保健衛生機関WHOが大きな役割を果たす、など虚実入り混じっての展開となるので、息を継げない。



消えかかりし石のプレート石垣に嵌め込みたりな「ロマネ・コンティ」・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 石垣に囲まれた「ロマネ・コンティ」の畑
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       ■消えかかりし石のプレート石垣に
              嵌め込みたりな「ロマネ・コンティ」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

        ■グラン・クリュ街道なる葡萄畑の丘
                  「コート・ドール」ゆく、黄金の夕焼け・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は  「ロマネ・コンティのワイン畑」という項目に載るものである。
これは2013年初秋に行った「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」の際に作った歌であり、私の第六歌集『『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載る歌である。

グラン・クリュ街道のぶどう畑の丘陵「コート・ドール」をドライブ。
「コート・ドール」とは、ドール=黄金の、丘の意味である。
歌の「クリュ」Cru とは「ぶどう生産地」「ワイン生産地」の意味で、「グラン・クリュ」=grand cru とは「特産地」ということになる。

途中にはワインのシャトー(醸造所)の案内標識が見られる。
移動途中なので 銘酒「ロマネ・コンティ」の畑を見に行く。
「ロマネ・コンティ」は一本数十万円もするものだから、手が出ないので、せめて「ぶどう畑」だけでも見ようというものである。
「ロマネ・コンティ」は年間6000本とか8000本しか瓶詰めしないと言い、それだけ厳選されているので超高価になるのであった。
われわれ以外にも観光バスやタクシーで畑を見にくる人が多いのには、あきれかえるばかりである。タクシーで乗り付けた中国人の数人がいた。
せめてネット上からワイン瓶の画像を出しておく。 ↓

romane1ロマネ・コンティ
DSCF1220_convert_20090223095405ロマネ・コンティ




アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

700px-Panorama_place_stanislas_nancy_2005-06-15スタニスラス広場
 ↑ ナンシー・スタニスラス広場のパノラマ
Nancy-place-stanislas-suedスタニスラス広場
 ↑ スタニスラス広場
o0480064010690730321世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
無題ナンシー・世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス

     アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・木村草弥
     
朝8時出発だから辛い。強行軍である。ホテルを出て約185㎞を二時間かけて、街全体がアールヌーヴォーの美術館のような古都ナンシーへ。

Wikpediaによると、ナンシーとは、こんなところである。 ↓

ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、ロレーヌ地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。

ナンシーのスタニスラス広場
896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。
1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。

歴史
ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった) 。
普仏戦争後の1871年、フランクフルト条約によってストラスブール、メスとともにアルザスとモゼル県はドイツに併合された。ドイツ市民となることを拒んだアルザス人およびモゼル人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住してきた。ナンシーは新たな繁栄期と新たな文化の黄金時代を迎えた。15世紀頃から、ガラス工芸が盛んであったが、19世紀後半になると鉄鋼業が盛んとなり、新興の中産階級が台頭した。
1870年代から1900年代までの急激な人口増加で、ナンシーの都市化が無秩序に進行した。1894年に創設されたロレーヌ工芸会社はのちのナンシー派の集団で、エミール・ガレ、アントナン・ドーム、ルイ・マジョルール、ヴィクトル・プルーヴェ、ウジェーヌ・ヴァランたちがいた。

ナンシーはフランス第5の金融都市である。国内主要銀行の地方拠点がある。ナンシーにはムルト=エ=モゼル県商工会議所が置かれている。ナンシーはフランス北東部第一の医療都市で、大学付属病院が設置されている。ナンシー市内および都市圏内には多くの私立クリニックがある。

ヴァンドゥーヴル=レ=ナンシーとの間の平野にあるナンシー=ブラボワ・テクノポールは、国内有数の規模を誇る。

ナンシー
 ↑ 日本語版のナンシーのガイド・パンフレット二種 (左は地図、拡げると新聞紙大になる)

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ナンシーのトラム

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↑ ナンシー派美術館
ナンシー派美術館
 ナンシー派美術館のパンフレット

ナンシー派美術館(Musée de l'École de Nancy)は、フランスのナンシーにある美術館である。アール・ヌーヴォーの芸術家たちの作品で知られている。

エミール・ガレのパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装した美術館で1964年に開館。ナンシー派の芸術家たちの作品を多く所蔵している。庭園も整備されている。

コレクション
エミール・ガレのデザインしたベッドやランプ、ジャック・グリュベールのステンドグラス、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランの家具などを所蔵。作品を展示しているというより、工芸品、陶器、ガラス製品、織物等が日常の生活空間の中に作品が配置されている。
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 ↑ エミール・ガレ
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05ナンシー派美術館内部
 ↑ ナンシー派美術館内部の展示
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↑ 美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館


三角形のキッシュ出でたり素朴なるアルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・・・・・・・・・木村草弥
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1328967116ロレーヌ名物キッシュ
 ↑ キッシュ

──アルザス・ロレーヌ料理いろいろ──

       三角形のキッシュ出でたり素朴なる
            アルザス・ロレーヌの郷土料理ぞ・・・・・・・・・・・木村草弥


「キッシュ」はアルザス・ロレーヌ地方の郷土料理で、練りパイ生地にベーコン、野菜、クリームを入れチーズを振りかけて焼き上げる。
当地では日常料理として、しょっちゅう家庭のテーブルに出るという。
キッシュ(仏: Quiche)は、卵とクリームを使って作るフランス、アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理。

パイ生地・タルト生地で作った器の中に、卵、生クリーム、ひき肉やアスパラガスなど野菜を加えて熟成したグリュイエールチーズなどをたっぷりのせオーブンで焼き上げる。
ロレーヌ風キッシュ(キッシュ・ロレーヌ)では、クリームとベーコンを加える。ナッツ類を加える場合もある。生地ごと三角形に切って皿に出す。
地中海沿岸の地域でも一般的な料理である。語源はドイツ語のKuchen(クーヘン)である。

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 ↑ 昼食に出たタルト・フランベ(アルザス風ピザ)

「キッシュ」 「タルト・フランベ」 「ベッコフ」というような料理は、中に入れる具などが違うが、基本的には同種の料理である。

5550003687_803f13fc9b_zベッコフという郷土料理
 ↑ 「ベッコフ」という郷土料理   ↓ その由来の物語
かつてアルザスの主婦たちは毎週月曜日は洗濯の日と決まっていたそうな。
そして手仕事の洗濯は、やっぱり一日掛りの大変な仕事であったそうな。
朝から夕方まで一日洗濯から手の離せない主婦たちは、前日の日曜の夜に牛や豚や羊やらの肉の切れ端を土地の白ワインと一緒にベッコフ鍋に漬け込んでおいて、翌朝に野菜をその鍋に何でも入れて洗濯に向かう途中、なじみのパン屋へ預けていったそうな。
パン屋は朝早くからパンを焼き始め昼過ぎには仕事は終わっていたのだろう。預かったベッコフ鍋にあまり生地で隙間を押さえまだまだ十分に熱い仕事の終わった石窯に入れておいてあげる。

imgecc20dfazik0zjクグロフ
 ↑ クグロフ
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 ↑ 昔ながらの菓子クグロフや塩っからいプレッツェルなども並んでいる。これらはドイツ支配の名残りを思わせるドイツ菓子である。

5328047526_0474f9d286_z酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)
 ↑ 酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)。これもドイツ語圏ではおなじみのおかず。

page_escargo6_1エスカルゴ・ブルゴーニュ風
 ↑ ボーヌでの日の昼食に「エスカルゴ・ブルゴーニュ風」が出る。 美味しかった。
かつてはブドウの葉につく害虫だったが、食べたら美味なので飼って当地名産の食材としたのである。ガーリックとバターで味付け。 

ボーヌの夕食はブルゴーニュ名物の「ブフ・ブルギニョン」─牛肉の赤ワイン煮。「ブフ」とはフランス語で牛肉の意味である。 ↓
ff5603fdブフ・ブルギニョン

f0140365_21502833リヨン風サラダ
 ↑ リヨンでの昼食に出た「リヨン風サラダ」 野菜の上に半熟タマゴが乗るものを称するらしい。




アルフォンス・ドーデ『最後の授業』独仏支配交替のアルザスの悲哀・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ アルフォンス・ドーデ
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       アルフォンス・ドーデ『最後の授業』
           独仏支配交替のアルザスの悲哀・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は2013年初秋に行った「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」の際に作った歌であり、私の第六歌集『『無冠の馬』(KADOKAWA刊)に載る歌である。
その旅行記から当該部分を引いておく。  ↓
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後日談になるが、一行中には40~50代の女の人が多く参加していた。
それらの人たちが口々に言ったのがフランスの作家ドーデの短編小説「最後の授業」だった。
知らない人のためにWikipediaの記事を引いておく。 ↓

『最後の授業』(さいごのじゅぎょう、仏: La Dernière Classe)は、フランス第三共和政時代の初期、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』(仏: Les Contes du Lundi)の1編である。副題は『アルザスの少年の話』(Récit d'un petit alsacien)。『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載された。

あらすじ
ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

小説が書かれた時代背景
フランスとドイツの国境地域に位置するアルザス・ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsass-Lothringen エルザス・ロートリンゲン)では古くからケルト人が住んでいた。ローマ帝国に支配された後は、歴史の中で幾度となく領土侵略が繰り返されたことにより、ゲルマン系のアルマン人とフランク人が相次いで侵入してきた。それにより北部ではドイツ語のフランク方言が、南部ではスイス・ドイツ語に近いアレマン語が長らくこの土地で話されるようになった。この地は、元来神聖ローマ帝国に属していたものの、帝国に野心を抱くフランスの侵略の標的となった。しかし神聖ローマ帝国の側では、アルザス・ロレーヌを帝国の領域から切り離してフランスに割譲する事によって、フランスの帝国への干渉を食い止めた(ヴェストファーレン条約を参照)。結局1736年に、アルザス・ロレーヌはフランスに編入された。その間に公用語としてフランス語を用いられたため、アルザス地方の言葉はフランス語の語彙が入ったアルザス語として形成されていった。

1871年に普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスと、ロレーヌの東半分がプロイセン(ドイツ帝国)に割譲される、という複雑な経緯を辿る。普仏戦争に敗戦したフランスに反ドイツ感情が湧き起こったこの頃、毎週月曜日にパリで『月曜物語』の新聞連載が始まった。
ドイツ帝国統治下当時の住民の大多数はドイツ系のアルザス人だったため、フランス語にそれほどなじみがあったわけではなかった。ドイツ統一後もアルザス人は必ずしもドイツから完全な「ドイツ人」とは見なされていなかった節がある。しかし安全保障上の問題からエルザス・ロートリンゲンを必要としていたプロイセンが「統一ドイツ」というナショナリズムを利用して普仏戦争を勝ち抜いたという経緯もあり、後には自治憲法の制定を認めるなど、比較的穏やかな同化政策を取っていたと考えられている。しかしツァーベルン事件の発生後は中央政府および軍との関係が悪化し、自治憲法も停止された。戦間期と第二次世界大戦第一次世界大戦でドイツが敗北した後の1918年11月8日、同地域はアルザス=ロレーヌ共和国(fr)として独立した。アメリカのウィルソン大統領はこれを承認しようとしたが、フランスは拒絶した。11月19日にはフランスによって占領され、この地域は再びフランス領アルザス=ロレーヌとなった。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツのフランス侵攻によって同地方は再びドイツ領エルザス=ロートリンゲンとなった。ナチス・ドイツの統治においても同化政策は一定程度踏襲された。

第二次大戦後のフランス化政策
第二次世界大戦後この地区には再びフランス化政策が敷かれたが、テロや独立運動が発生するなど反発が強く、間もなくフランス政府も方針を転換した。1999年のジョスパン改革により、初等教育からドイツ語・アルザス語の教育が認められている。イタリアの南チロル地方ほど明確なドイツ人地区あつかいではないが、バイリンガルを基本として民族的な独自性が尊重されている。ストラスブールにEU議会が設置されたのもこうした背景が大きい。
政治的には、普仏戦争で勝利したプロイセン王国がエルザス・ロートリンゲンでのドイツ式初等教育義務化を実施し、フランス語は外国語教育としてのみ導入されていた時代である。ただしもともと、アルザスにおけるフランス語は公的文書などのごく一部に使用されていたに過ぎず、フランス政府自身がアルザスにフランス語を強制しても定着の見込みはないと諦めていた、という意見もある。

小説の政治的側面
アルザスは以前からドイツ語圏の地域であり、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていた。普仏戦争にも従軍したプロヴァンス(同地にはロマンス語系のプロヴァンス語がある)出身のフランス人である作者ドーデは、作中のアメル先生に「ドイツ人たちにこう言われるかもしれない。“君たちはフランス人だと言いはっていた。なのに君たちのことばを話すことも書くことも出来ないではないか”」(その後に、フランツや生徒だけの責任ではない、国語をきちんと指導しなかった我々大人の責任でもある、と反省の弁)と言わせている。

すなわち、アルザスの生徒達は(ドイツ語の一方言であるアルザス語が母語であるため、)国語であるフランス語を話すことも書くこともできず、わざわざそれを学校で習わなければならない状態であったのである。アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として押しつける立場にあったものであり、本小説においてはこの点が隠蔽されていることとなる。

日本ではこの小説は1927年(昭和2年)に教科書の教材として採用された。戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えたが、1952年(昭和27年)に再登場した。しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。また、戦後のフランス政府は同地でのアルザス語・ドイツ語教育を容認しており、同作のフランス語純化思想はすでに過去のものとなっている。1985年(昭和60年)からは日本でも教科書に採用されていない。
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この小説は『月曜物語』の中の短編で、私は原書で読んだ。
この旅については、このブログの「フランスの美しき村─アルザス・ブルゴーニュの旅」 を読んでもらいたい。
Wikipedia─アルフォンス・ドーデ については ← を参照されよ。




大いなるドームのごとく横たはるストラスブール駅朝もやの中・・・・・・・・・・・木村草弥
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      大いなるドームのごとく横たはる
          ストラスブール駅朝もやの中・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第六歌集『無冠の馬』(KADOKAWA)の「フランスの美しき村」に載るものである。
「アルザス、ブルゴーニュ」観光の初日の光景である。
 掲出した画像は、巨大なドームのようなストラブール駅の外観。 サマータイムの朝なので画像が暗い。 ホテルの自室から望遠で撮影。
東京ドームのように、空気で膨らませた構造になっている。
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 ↑ ストラスブール駅の入口。 駅名がくっきりと読み取れる。
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↑ ロータリーの真ん中にはトラムと国鉄駅への地下通路の入口が口を開けている。
mkfs_693ストラスブール・トラム
 ↑ ストラスブールの市電。トラム。この駅の辺りでは地下にもぐり、国鉄駅に隣接する地下駅になっている。

宿泊のホテル─「ル・グラン」Le Grand Strasbourg のことにふれなければ片手落ちだろう。ここには連泊する。

15893887ル・グランホテル
 ↑ 「ル・グラン」は建物の左端。    ↓ ホテル玄関
27278_31_bル・グランホテル玄関

このホテルは、フランス国鉄のストラブール駅前の大きなロータリーに面したところに建っていて、ロータリーを取り巻くように多くのホテルが見える。
ル・グランのように建物に複数のホテルがあるのはヨーロッパでは当り前。
この建物の右端には「イビス・ホテル」が見える。写真には無いが左手のビルには「メルキュール・ホテル」が見える。
これらのホテルはスタンタードなB級の三ツ星ホテルのチェーンとして知られている。今回の旅のホテルは最終日を除いて、みな、このクラスである。

この歌集『無冠の馬』を読んだ人から、さまざまの批評をいただいたが、中には、この歌を選んで言及してくれる人もあった。

この度の旅行記は「アルザス・ブルゴーニュ ワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅」を参照されたい。


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