K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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黄檗山萬福寺─全国煎茶道大会を覗く・・・・・・・・・・木村草弥
萬福寺①
 ↑ 黄檗山萬福寺 三門
萬福寺②
 ↑ 黄檗山萬福寺ゆかりの「売茶翁」肖像
萬福寺③

──エッセイ──

      黄檗山萬福寺─全国煎茶道大会を覗く・・・・・・・・・・木村草弥

江本東一氏の招待で、五月二十四日、宇治市五ケ庄にある黄檗山萬福寺での第60回全国煎茶道大会に連なることになった。
江本氏とは京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアの会「いずみの会」で、ご一緒した仲である。
私は今は退会しているが、通信などでは交流しているのである。

「黄檗山萬福寺」 「Wikipedia─萬福寺」とは ← こんなところである。アクセスされたい。

先ず、ここの概略を念のために書いておきたい。

黄檗山萬福寺は1661年に中国僧 隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師 によって開創された。
禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺のご住職をされていた。
その当時、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝された。
宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けた。
その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至る。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されている。

萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式である。
美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元禅師が来られてから日本にもたらされたものであり、
当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれている。
中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっていて、
見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められている。
「精進料理」「普茶料理」などは、この黄檗山を発祥とするもので、 精進料理は各地にあるが、肉や魚を使わずに、「もどき」料理で巧みに作られる。
「もどき」の主原料は「豆腐」である。

「リンク」にした上記の記事を読んでもらった、という前提で話を進める。
画像として出したものは、この大会参加記念として呉れたクリアファイル二枚と大会案内のビラである。
ご存じのように「煎茶」は黄檗宗とともに普及した。今では「煎茶道」の流派がたくさんある。
当日は「二条流」などの席で玉露などのお茶をいただいた。
「抹茶」の茶道も、千利休が創始したときは、もっと自由なものだったが、宗匠制度が整うにつれて「形式化」「形骸化」してきて、 面白くない。
千利休語録として有名な歌がある。

   <茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる>

これこそ、自由な茶道と言えるものである。だから私は、そんな束縛から逃れて自由な「番茶道」を提唱している。 閑話休題。

私は茶のプロとして、茶園の栽培から、荒茶の再製加工、販売に至るまで熟知しているつもりである。
「煎茶道」に関しては、席に連なるのは初めてだが、ここにも、いくつかの「作法」があるようである。今は、それらについて、とやかくは触れまい。
出されたのは、みな「新茶」になっているようで、おいしかった。 このことは特に言っておきたい。全国大会であるから茶問屋も吟味されたのだろう。
「玉露」は福寿園製ということだった。

あと、「文華殿」春季特別展「歳寒三友(松竹梅)と涅槃図展」で寺所蔵の掛け軸などを拝観したあと、
江本氏が携わっている「黄檗文化研究所」事務所で、副所長兼事務局長の田中智誠師と歓談した。
同氏は滋賀県にある寺の住持をなされているようで、学識ふかい話をお伺いした。
四時ころ門前にて江本氏と別れて帰宅。

二番目の図版に出した売茶翁(ばいさおう、延宝3年5月16日(1675年7月8日)~ 宝暦13年7月16日(1763年8月24日))は、江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。
本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称した。
詳しくは「Wikipedia─売茶翁」を見てもらいたいが、私の子供の頃から、茶問屋の大人の会話の中に、よく出てくる人だった。


「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──再掲載・初出「未来」誌2001年8月号所載ほか

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん<四年間の月参り>満願・完了・・・・・・・・・・木村草弥
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   大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん<四年間の月参り>満願・完了・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

四年前から、親友のS君の発案で始めた<はつたつ参り>が、今日で四年間─合計48回の参詣が終わった。
四年と言っても、とても長かった。 途中、S君の脳梗塞のことなどもあり、苦労の連続だった。
私は大病もせず過ごせたが、昨年暮れからの持病の「腎臓結石」の再発などで難儀しての満願・完了であり、感慨ふかいものがある。
以下、過去記事を再録して、記念とする。 やれやれ! である。
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 (再 録)
──エッセイ──

     初詣といえば「すみよっさん」と大阪の人は口をそろえて言います。
     大晦日の夜から、どこからとなもく人が集まりだし、門前は人々でいっぱいになります。
     12時ちょうどになり太鼓が打ち鳴らされると、1年の幸を祈願する人でごったがえします。
     三が日の参拝客数は、毎年200万人を超え、大阪の人に今でも愛され続けています。
     御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けておりますし、
     住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名なため、大阪だけでなく全国各地から
     人々が訪れます。

大阪の住吉大社のホームページ に今の宮司・真弓常忠 が下記のような話を書いておられる。(注)当時の宮司であり、現宮司は 髙井道弘 (たかいみちひろ)氏である。念のため。
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住吉の神さまは俗に海の神とされています。正しくは、底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)で、西暦211年、この地に鎮斎になったと伝えられています。実際の年代では干支二運(120年)をくり下げて5世紀初頭と推測されますが、大和政権の玄関口にあたる難波(なにわ)に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきました。

海の神ということは、わたくしどもの生命の根源を守る神を意味します。なぜなら地球上の最初の生命は五十億年ものむかし海の中に生じ、さらに一億七千万年前までに小型の虫類となって上陸し、進化を重ねて五千万年前までに人類が出現したとされますが、原初は海から生じたとされることは間違いありません。

われわれの生命は地球を覆っている水の中に生まれ、何億年もの循環をくり返して、空気の世界に生長してきました。そして自分を出現させています。つまり大きな循環をくりかえしているものですが、その根源は海から生じたものといってよいでしょう。

この海の底・中・表の津の男神と称え、住吉の神と崇めてきた古人の智恵に深い敬意を表する次第です。

住吉さまの詳細については、このホームページをご覧ください。歴史と伝統に彩られた大社の全貌を識ることができるでしょう。

住吉大社宮司
真弓常忠 (まゆみつねただ)

大正12年、大阪市に生まれる。神宮皇學館大學に学び、皇學館大學教授、八坂神社宮司を経て、現在、住吉大社宮司。兼ねて皇學館大學名誉教授。
神道学、神道史学、とくに祭祀学を専攻。『神道の世界』『神道祭祀』『祇園信仰』『天香山と畝火山』『日本古代祭祀と鉄』など、独自の視点からの著書多数。
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私の住む地域の氏神さんは「松本神社」と称するが、宮司も居ない小さな「祠」みたいなお宮だが、もともと木津川の水運の守り神として鎮座され崇敬されてきたらしい。
その祭神が住吉大社と同じ神々を祭っているのであり、私は以前から住吉大社には親近感を持ってきた。
上の記事に書いてあるが再度引いておくと
底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)の四体の神を祭っている

この住吉大社には摂社が数社と「末社」が数社あり、その中に 楠珺社というのがあって、これが、ここで採り上げる「はつたつ参り」の主人公である。

massya_p_02.jpg
 ↑ 楠珺社(なんくんしゃ)

以下、ホームページに載る記事を引いておく。
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お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠 (くすのき) の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。現在では、大阪商人を始めとして、全国、さらに海外の信仰を集めるまでにいたりました。また祈祷木 (きとうき) があり、願い事と氏名年齢を書いて預けていただくと、お祓 (はら) いののち、みなさまの発達・安全などを祈祷し焼き納めます。

商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。

初辰(はつたつ)とは、毎月最初の辰の日のことです。この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてくれると信仰されてきました。そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達していることでもあります。

また楠珺社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招き猫です。偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の証として納めていただきます。そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁栄を祈願します。

おみくじ
和歌の神さまで有名な住吉ならではの、独特の歌占いのおみくじがあります。単なる占いではなく、和歌に託した神の教えとして、占いを受ける人に確かな指針を与えてくれます。
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ここへ「はつたつ参り」に行くようになったきっかけは、NHKの放映を見たことに由来する。
同じ番組を友人のS君も見ていて、興味を抱き、ふたりで「月参り」を四年間めざしてやってみよう、ということになった。
四年間ふたりの寿命が持つかどうか判らないが、目標として面白いのではないかということである。

2010年7月の「初辰」の日からはじめたので、今月十一月三日で都合29回お参りした。
三十回目の「はったつ」さんは、本年納めということで、本日、十二月九日ということになる。
掌に乗るような小さな(昔風に言うと一寸ということか)招き猫を賜ってきて、専用の収納ケースも買い求めて、それに飾って床の間に置いている。
四年間で合計48個貯まれば一回り大きい「中猫」と取り替えてもらえるという。
これも「生きる」目標としてのキーストーンだと思っていただければ有難い。
もっとも、住吉大社に言わせると、こういうのは民間でやっている商売であって、住吉神への信仰とは何の関係もない、ということだが、まあ、いいではないか。

そのS君のことだが、一昨年十一月末に軽い脳梗塞を起こして救急車で病院に担ぎ込まれた。
右側の上肢と顔面、それに言語障害があり、ひところは腕が痺れて手の指も開けなかったという。
現在は手、指の痺れは良くなってきた。一頃は「高気圧下での酸素吸入」、「薬剤の点滴」、理学療法士によるリハビリなどに懸命であった。
一番ひどいときは「吸呑み」に入れて吸った茶が、だらだら垂れて飲めなかったという。
軽度な障害のようなので急速に回復すると思うが、親友のこととて、一時は気を揉んだ。

住吉大社については、この記事が写真入りで面白く見られるので、お試しあれ。
詳しくは、そこで見てもらうとして、ここでは「大鳥居」と「反り橋」の写真を出しておく。
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今どきの若者の短歌・「短歌年鑑26年版」を読んで・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
短歌

──エッセイ──

      今どきの若者の短歌・「短歌年鑑26年版」を読んで・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

年末になって、一年を回顧するような企画が雑誌に載っている。
たとえば、掲出した角川書店「短歌」別冊の「短歌年鑑26年版」などである。
画像でも読み取れると思うが、今どきの若い歌人を囲む企画などである。
たとえば「永井祐」という人などが居る。永井祐は一九八一年生まれ。早稲田大学短歌会に参加した後、現在は無所属で歌を作り続けている。
他にも京都大学の理系で歌人賞を得たりする、すごく才能のある人が居たりするが、「アンケート」なども、そういう人たちを取材している。
これらの企画に共通することは、現代の歌壇の状況を反映しているのである。
歌壇は一般的に作者が「老齢化」してきており、一方で才能ある若い新人は、既成の枠にはまらない作歌法を採っているからである。
先に挙げた永井祐の作品を少し見てみよう。 こんな風である。 

  日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
  テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
  パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ 1円
  あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる
   ゆるくスウィングしながら犬がこっちくる かみつかないでほしいと思う
   
  会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい
  ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと
  新日曜美術館 美の巨人たち とりためたビデオを貸してくれる
  月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね
   ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る
  アスファルトの感じがよくて撮っている もう一度  つま先を入れてみる
  ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見 

          永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より抄出

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ネット上では時評「永井祐ロングインタビュー」田中拓也というPDF形式による記事なども見られるので参照されたい。

永井祐の歌は、題名からも分かるように、一見「無感動」のような日常の些末なことを歌にしている。
このような「歌作り」が若い歌人の一方に現に存在するということである。
何のために歌を作るのか、といったこととは無関係である。
これらを見ると、彼は一応サラリーマンだが、「契約社員」であり、私などから見ると、好きなことをやって生きている若者だが、短歌をやる必然性とかとは無縁であり、
今後いつまでも「短歌」の世界で表現を続けて行くのか、甚だギモンに思える。
先に挙げた「インタビュー」を読めば、彼の生き方も自ずと知れるので、私の意見は、敢えて、書かない。
一方、京大短歌会なんかに拠る秀才の歌人たちも、極めて優れた歌を作るが、これからも「歌を作り続けるか」はギモンである。
後者の人たちは「学者」としても十分に食って行ける才能を持っているので、「歌人」として自立してゆく道を選択するかが見ものである。
もちろん現役でバリバリやっている永田和宏や坂井修一のような学者兼歌人という人も居るが、私から見ると、この二人なども「学者」としては影が薄い。
つまり最先端の学者というわけではない。
肩書きは元・京都大学教授であったり、現・東京大学教授だったりするが、その筋の最先端の教授という枠からは外れる、と思うからである。
「二兎を追う者」は何とやら諺は、やはり生きている。
近代短歌史上の大人である斎藤茂吉なんかも歌人としては偉大だったが、医学者としては二流、三流だったというのと同じである。


「佐藤しのぶ」を聴く・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
しのぶ
しのぶ②

──エッセイ──

           「佐藤しのぶ」を聴く・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・京都市交響楽団オペラ・アリア&新世界・・・・・・

2013/11/08 京都は下鴨の京都コンサートホールで、標記のコンサートがあって、「佐藤しのぶ」のソプラノを聴いた。
演目などは画像に出したようなものである。
佐藤しのぶ の声は綺麗だが、体が、がりがりに痩せて、二の腕など今にもポキンと折れそうだった。
声楽家としては、オペラ歌手としては「体幹」の肉づきに歌を響かせて効果を高めるのが常道であろう。
佐藤しのぶも結婚して、子供を産んだころは、もっとふっくらしていたのに、現今のダイエット・ブームのせいで、痩せて魅力が無くなった。
痛々しい感じがするので敢えて書いておく。
佐藤しのぶ への花束贈呈に門川京都市長が羽織、袴姿で登場したのは微笑ましいことだった。
京都市は何かの行事があるときには「着物」を着用するように指導しているのである。

いまWikipediaにあたってみたところ、こう載っている。 ↓
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佐藤 しのぶ(さとう しのぶ、本名:現田しのぶ、1958年8月23日 - )は、日本のソプラノ歌手。声楽家。夫は指揮者の現田茂夫。

経歴
東京都生まれ。その後、大阪府高槻市に引越す。音楽とは無縁の一般家庭に育つ。大阪音楽大学付属音楽高等学校(現在は閉校)、国立音楽大学声楽専攻卒業。
文化庁オペラ研修所に最年少で入所し首席で修了。文化庁芸術家在外研究員としてイタリアミラノへ留学。「椿姫」でデビューにして主役を演じる。

帰国後のリサイタルではイタリアオペラを歌い、衛星放送を通して世界へ披露された。その後「トスカ」、「蝶々夫人」等のタイトルロールを次々に演じた。1987年から4年連続「NHK紅白歌合戦」に出演。「トスカ」で指揮助手を務めていた現田茂夫と知り合い結婚。1991年に長女を出産。

ブラティスラヴァ国際フェスティヴァル80周年のオープニングに、「トスカ」のタイトルロールで招聘され、ヨーロッパデビューを飾る。初のCDアルバムは、1990年1月、シュナイト指揮ベルリン放送交響楽団の演奏で、ベルリンにてモーツァルトのオペラアリア集を録音。その後も、ヴェルディ、プッチーニ等のオペラアリアのCDをヨーロッパ各地で録音した。

ウィーン国立歌劇場での「蝶々夫人」を皮切りに、ケルン市立歌劇場やベルリン・ドイツ・オペラなどヨーロッパ各地で公演。1996年韓国政府から初めての日本人正式招聘歌手として、5万人のソウルスタジアムでチョン・ミュンフン指揮KBOと共演。1997年新国立劇場開場記念オペラ『建』乙橘姫役。

1999年プラハにて世界首脳が列席の中、「ビロード革命10周年記念演奏会」でアシュケナージ指揮、チェコ・フィルと共演し、ニュースとして世界に放映。

2005年8月被爆60年平和巡礼コンサート(長崎・広島)、2009年4月「天皇皇后両陛下ご成婚50周年&ご即位20周年記念コンサート」に出演。また、2009年11月「天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典」に出演し、3万人を前に歌う。

共演した指揮者は、コリン・デイヴィス、クリスティアン・ティーレマン、クリストフ・エッシェンバッハ、小澤征爾、エリアフ・インバル、シャルル・デュトワ、ピンカス・スタインバーグ等、オーケストラはローマ・サンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団、フランス国立管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、チェコ・フィル、シカゴ交響楽団等。

文化放送音楽賞、都民栄誉章、ジロー・オペラ賞大賞、マドモアゼル・パルファム賞、Federazione Italiana Cuochi、日本文化デザイン賞大賞等を受賞。

1999年からテレビ神奈川「佐藤しのぶ 出逢いのハーモニー」のパーソナリティを務める。CDは11枚リリース。著書に『佐藤しのぶ出逢いのハーモニー』、『歌声は心をつなぐ』(東京書籍)がある。声楽を島田和子、中山悌一、田原祥一郎に師事。   
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奇しくも、昨夜は夫・現田茂夫の指揮の下で唄った次第である。
彼女も、もう結構いい歳になったものである。

話は変わるが、ドヴォルザークの「新世界」については、大学も同級生の友人Y・Kが、この曲が大好きで、先年、黄綬褒章を受賞したお祝いの会が、
京都・蹴上のウエスティン都ホテルで開催された際、この第二楽章の出だしの部分に乗って彼夫妻が入場するという一幕があったのを思い出した。

大ホールをほぼ八割がた聴衆が埋めて盛況だった。修学旅行生らしい制服姿の高校生の団体も多かった。
開演前にホワイエで呑んだ赤ワインも、おいしかった。

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 ↑ フレンチ・レストラン「La Muse」のコースター

このコンサートを聴く前に、このホール附属のレストラン「ラ・ミューズ」で食べた料理と赤ワインは美味しかった。
食後のコーヒーも久しぶりにおいしいコーヒーだった。
この頃は、おいしいコーヒーに仲々いきあたらないので、一層そういう感じになったのである。
京都に用事があって上洛した友人と、一昨年できたばかりの「ホテル近鉄京都駅」という、近鉄京都駅のホームの上に建てられたホテルに一緒に泊まった。


「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日

──エッセイ──再掲載・初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。
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昨年、第五歌集『昭和』を出版したが、七月下旬に東京で「読む会」を開いていただき二十数人の方がおいで下さった。
その中に、小野雅子さんもおいでいただいて批評を賜った。久しぶりにお会いして挨拶したが、お元気そうで何よりだった。
ここに記して、改めて御礼申し上げる。





大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・・・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

  大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。

ジョルジュ・ムスタキが死んだ・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

       ジョルジュ・ムスタキが死んだ・・・・・・・・・・・・木村草弥

通信社が一斉に伝えたが、ひと頃ひろく愛唱されたジョルジュ・ムスタキである。
彼・ムスタキは「プロテスト・シンガー」と呼ばれたことがあるが、その頃は、そういう社会状況だった。
私自身は、そういう頃の「一昔前」の人間だが、彼の曲は、よく聴いたものてある。

 → 彼のMa Solitudeという歌の動画だが歌詞もついていて便利なのだが、、埋め込み不可ということで、クリックして聴いてみてください。

ジョルジュ・ムスタキとは、こういう人である。 Wikipediaの記事を引いておく。 ↓
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ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki、1934年5月3日 - 2013年5月23日)は、フランスのシンガーソングライター。
エジプト・アレクサンドリア出身のギリシャ系セファルディムユダヤ人。本名、Yussef Mustacchi。

略歴
ケルキラ島出身のギリシャ系ユダヤ人の両親がエジプトに亡命中に生まれた。フランス系の学校に通っていたが、民族など様々なトラブルがあり、自らを「Méditerranéen-地中海人」と見做すようになる(ヨーロッパ各国、アフリカ、アラブの文化が混在した無国籍ないし多国籍の意)。17歳の時にエジプトからフランス・パリに出る。

パリは実存主義者の終わりの時代で、ムスタキはパリの左岸を生活の場とし、時々、友人のために曲を書いたり、カフェやキャバレーで歌ったり、エジプト新聞の特派員、本屋のセールスマンなどをしていた。

1957年にアンリ・クローラを通してエディット・ピアフに紹介され、約一年間の恋人生活を送り、ピアフのためにたくさんの曲を書いた。中でも作詞した『Milord』(「ミロール」)は、ヒットナンバーとなり、ムスタキの名が広まる。その後、イヴ・モンタン、ダリダ、アンリ・サルバドールらが曲を依頼する。また、映画やTVの音楽も担当している。

ムスタキは、フランスの伝統を受け継ぐシンガーソングライターの第一人者で、イタリア、ベルギー、スイス、アメリカなどでも人気がある。また、伝統的なシャンソンだけではなく、サンバ、ボサノバ、フォルクローレなどの要素を巧みに取り入れた曲風も少なくない。とりわけブラジル音楽について、「1972年のブラジル訪問は自分の音楽観を一変させた」と語っている。その歌い上げるテーマは、愛、旅、孤独から自由、闘い、革命まで幅広い。ギリシャ語・アラビア語・フランス語を話し、旅行・絵画・オートバイが趣味である。

2013年5月23日、ニースで死去した。79歳没。

大ヒット曲『Le Métèque』(異国の人) ← クリックして聴いてください。

歌手としてのキャリアは長いが、本格的な歌手デビューは、1968年に当初ピア・コロンボのために作り、69年に自身も吹き込み大ヒットした『Le Métèque』(邦題「異国の人」- 直訳すると差別的な意味としての「よそ者」もしくは「ガイジン」)といっていいだろう。前年68年のパリ五月革命の余熱の中で、フランス社会でタブーともいえた「Juif -ユダヤ人」という単語をロマンチックに謳い上げ、自由を求める時代の気風によって、ムスタキは初めて歌手として広く認知されたといえる。

ムスタキ自身は、この『Le Métèque』のヒットについて、自著『Les Filles La Mémoire』(『ムスタキ自伝 思い出の娘たち』 山口照子 訳 彩流社)で「ある者はそこに世の中からはみ出した者のロマン主義や絶対自由主義を、また他の者はそこに政治的、イデオロギー的、戦闘的、1968年的な合言葉を見てとった。移民たちはアメリカの黒人が言うところの"Black Is Beautiful"に匹敵する、自分たちが他者とは異なっていることへの誇りをそこから汲み取った。それは祖国をなくした人々の賛歌、無国籍者の集合の叫び、無銭旅行者たちの要求だった。(略)僕にとって、それはただの恋の告白の歌だった」と語っている。

プロテスト・シンガーとしての顔
1969年に発表した『Le Temps De Vivre』(邦題「生きる時代」-同名映画の主題歌)では「聞いてごらん、五月の壁の上で言葉が震えている。いつかすべてが変わると確信を与えてくれる。Tout est possible,Tout est permis -すべてが可能で、すべてが許される」と五月革命時の有名な落書きのスローガンを曲にして歌った。1972年の『En Méditerranée』(邦題「地中海にて」あるいは「内海にて」)では、70年代に入っても(「政治の季節は終わった」とされていても)、独裁政治に抗するスペイン、ギリシャの民主化運動に捧げて「アクロポリスでは空は喪に服し、スペインでは自由は口にされないが、地中海には秋を怖れぬ美しい夏が残っている」と歌い、まだ発売される前の1971年にフランコ独裁下のスペイン・バルセロナ公演で発表する。1974年の『PORTUGAL』(邦題「ポルトガル」)では、「理想なんて実現しないと思い込んでいる人々に、ポルトガルにはカーネーションが咲いたんだと言ってやって下さい」とカーネーション革命を祝福して歌った。また、同年のスペインの独裁者フランシスコ・フランコ危篤の報に、『FLAMENCO』(邦題「フラメンコ」)で「フランコのいないスペインは、お祭り騒ぎになるだろう。僕はそこでフラメンコを聴きたい。地中海のほとりで歴史の風向きが変わった」と歌って物議を醸し、フランスのスペイン大使館はレコード会社に『FLAMENCO』の発売差し止めを申し入れるという「外交問題」にまで発展した。

ムスタキは常に社会変革の運動に心をよせ、五月革命の最中に、そして90年代に入っても度々、ストライキを行っている労働者たちのピケットで歌った。自身の曲に、ストライキを闘う(女性)労働者たちに捧げて「闘う者に名はつけられない。しかし人はそれをRévolution permanente-永続革命と呼ぶ」と歌った『Sans La Nommer』(邦題「名も告げずに」)がある。また、ムスタキは2007年フランス大統領選挙において、フランス社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル候補の支持を表明し、5月1日の「ロワイヤル支援集会」にも参加した。

日本とのゆかり
大塚博堂・さとう宗幸らはムスタキを敬愛し、ムスタキの曲をカバーして歌う。1974年4月からTBS系で放映されたテレビ・ドラマ『バラ色の人生』(主演:森本レオ、寺尾聰、香山美子)では、主題歌として『Ma Solitude』(邦題「私の孤独」)が使用され、劇中にもムスタキの曲がふんだんに使われた。また、桃井かおりの84年のアルバムに収録された『愛のデラシネ』の作曲も手がけた。日本には、1973年の「第2回東京音楽祭」のために初来日し、1976年には日本全国23ヶ所のコンサート・ツアーを盛況のうちに成功させる。1995年には「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」の審査委員長を務め、映画祭の直前に起こった阪神・淡路大震災の被災者のために急きょ、「阪神大震災チャリティーコンサート」を栗原小巻、あがた森魚らと開き、集まった義援金四十万七千円を被災地の兵庫県に贈った。現在まで通算で、八度来日している。

ムスタキは日本(人)観として「(自分にとって)ヒロシマの敗者が彼らの伝統と精神性を放棄しつつ、勝者の価値観に同調しているといったくらいの漠然とした小国でしかなかった。ヴィクトリア王朝的な厳格さ、馬鹿丁寧にぺこぺこすること、常に自制心を失わないこと、能率のよさ、何が何でも時間を厳守すること、これらに対しては何の魅力も感じない。(略~しかし)冷静な微笑の裏には本物の親切がある」(前掲書)と書いている。

主な楽曲
MA SOLITUDE(私の孤独)
LA DAME BRUNE(ブリュネットの貴婦人 - 共演:バルバラ)
LE TEMPS DE VIVRE(生きる時代)
LE METEQUE(異国の人)
SANS LA NOMMER (名も告げずに)
EN MEDITERRANEE (地中海にて-2002年Maria del Mar BONETとの共演)
FLAMENCO(フラメンコ)
LE FACTEUR(若い郵便屋)
SARAH(サラ)
HIROSHIMA(ヒロシマ)
ET POUR TANT DANS LE MONDE(この世の果て)
LES AMOURE FINISSENT UNJOUR(ある日恋の終りが)※大塚博堂(訳詞:大塚博堂)、さとう宗幸(訳詞:高野圭吾)などがカバー。

現在、ポリドールレコードから日本盤として発売されている『私の孤独~ベスト・オブ・ジョルジュ・ムスタキ』が比較的入手が容易である。
1. MA SOLITUDE - 私の孤独
2. LE TEMPS DE VIVRE - 生きる時代
3. LES AMIS DE GEORGES - ジョルジュの友達
4. LES ENFANTS D'HIER - 幼年時代
5. L'HOMMES AU COEUR BLESSE - 傷心
6. GRAND-PERE - おじいさん
7. 17 ANS - 17歳
8. IL EST TROP TARD - もう遅すぎる
9. IL Y AVAIT UN JARDIN - 悲しみの庭
10. LE METEQUE - 異国の人
11. LE FACTEUR - 若い郵便屋
12. SARAH - サラ
13. HIROSHIMA - ヒロシマ
14. MA LIBERTE - 僕の自由
15. PORTUGAL - ポルトガル
16. EN MEDITERRANEE - 内海にて
17. NADJEJDA - 希望
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 ↓ 46本の曲が入っているという動画である。 次々と再生される。 聴いてみられよ。


言語学者・堀井令以知が死んだ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
堀井
 ↑ グラフ社2008/08/06刊
堀井②
↑ 雄山閣2011/11/25刊
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 ↑ 京都新聞出版センター2009/05刊
46堀井令以知
 ↑ 晩年の堀井令以知

──エッセイ──

     言語学者・堀井令以知が死んだ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

京都新聞2013/05/07夕刊を見ていたら、「追想」欄に下記のような記事が出ていた。再録する。 ↓

   言語学者・堀井令以知さん 3月10日死去、87歳
   
言葉は面白い、この面白さを広く伝えたい─言語学者として京ことばからフランス言語学まで広く、深く追究し続けた生涯だった。
京都市伏見区淀出身。旧制桃山中(現•桃山高) 1年の時、河原町丸太町上ルへ。実家は戦前には珍しい欧文専門印刷所。
関西日仏学館が得意先だった。
フランス人館長から「オリイさん」と呼ばれ、「なぜ『h』を発音できないのか」と疑問を持ち、
敗戦を告げる玉音放送には「難解だ。どれほどの人が理解できるのか」と感じた。
激動の時代でも、常に言葉に関心を持ち続けた。
大阪外国語学校(後の大阪外国語大)フランス語専攻を経て戦後、京都大へ。
寺院や花街、隠れキリシタンの里で調査を重ねた。関西外国語大学教授の傍ら、他大学でも言語学を教えた。
約30年前に1年間、筆者も受講した。教壇から身を乗り出して言語学者ソシュ—ルを解説し、教科書の誤訳を指摘。
時に「ようござんすか」と問いかけた。長女の谷口利恵子さん(49)によると、あらたまった時の口癖だったという。
2008年4月から1年間、本紙朝刊1面で「折々の京ことば」を連載し、NHK大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」など幕末
劇のせりふを監修するなど、研究成果の発信にも尽力した。
「広辞苑」編集で知られる新村出博士の孫弟子だけに、同辞書第6版の編さんに携わった時は、さぞうれしかったのではないか。
序文には博士への敬愛の情を率直に表し、「ことばは絶えず変化し、揺れている」「辞書を楽しくおもしろく
使える人が増えることを期待したい」と結ぶ。
晩年も自宅で研究一筋で気分転換は野球、相撲のテレビ観戦。妻和子さんを一昨年暮れに失って気落ちしたというが、
近くミネルヴァ書房から刊行される自伝のゲラ点検は終えていた。研究に区切りはついていたのだろうか。(内田孝)
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記事には同氏の写真が配され、その写真下に
<堀井令以知さんは、晩年も月に1、2回は大阪府枚方市の自宅から、ゆかりの新村出記念財団(京都市北区)に通っていたという>
というキャプションが付けられている。

今調べてみたらWikipediaに彼の項目が出ている。 → 堀井令以知

なお、同紙の死亡記事は下記の通り。 ↓

堀井令以知氏死去 言語学者、「折々の京ことば」執筆

 京言葉を中心に幅広い言語比較、語源研究を行った言語学者で関西外国語大名誉教授の堀井令以知(ほりい・れいいち)氏が10日、肺炎のため大阪府枚方市内の病院で死去した。87歳。京都市出身。自宅は公表していない。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男知彦(はるひこ)氏。

 京都大でフランス言語地理学を学び、後に対馬方言調査への参加をきっかけに日本の方言学に研究を移した。1978年から2009年まで関西外国語大教授、03年から新村出記念財団理事長を務めた。編著書に「ことばの由来」「京都語辞典」(共編)など多数。映画やNHK大河ドラマ「篤姫」「風林火山」などで京言葉、御所言葉の指導も手がけた。08~09年に本紙朝刊1面「折々の京ことば」を執筆した。

【2013年03月11日 23時20分】
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長々と新聞記事などを引いたが、彼は、私の住む青谷の「中村」という在所の出身なのである。
私の母方の親族が、ここにあり、彼の本家というのが母方の親族で、葬儀や、その後の「なおらい」の宴席などで本家の人から彼の話を聞いた。
私の母も「中村」の出身だが、旧姓は「堀井」であり、この地域は「堀井」と「新井」姓が全体の8~9割を占めるという特異なところ。
同姓同名という現象も発生し、郵便物の誤配など混乱が生じたりする。そんな際に変に改名したりすると改名した人が「負けて」早死にしたりするのだった。
これは明治になって百姓、町人も苗字を名乗るようになった際に、同じ株などの親族が一緒の姓を付けたのに由来するが、出身地特定などに便利である。
そういうのを研究する学問分野もある始末である。 因みに「加藤」「横井」などの姓は愛知県に多い。 など。

彼・堀井令以知の死去を知って、友人の玉村文郎君に手紙を書いたら手紙と電話をいただいた。
上の記事にも書かれているが、彼は新村出記念財団理事長だったが、彼の後任の現・理事長が玉村君である。
彼・堀井令以知の父親の代に「中村」を出ているようで、昔は地主以外はみな貧しく、また子だくさんだったから、早くから徒弟奉公に出たもので、
彼の父親も印刷の技を身につけたものであろう。
上の記事にもある通り、横文字専門の印刷所というのは特異なものであり、玉村君の手紙によると父親は「エスペランティスト」だったという。
ご承知の通りエスペラント語は全くの人工語であり、共通言語を作ろうという考えで発生したが、戦前までの現象で、この運動は戦後は進展しなかった。
第一次世界大戦後には、国際連盟の公用語として採用してはどうか、という働きかけもあったらしいが実現しなかった。
言語というのは、食習慣がなかなか改まらないのと同様に、極めて保守的な性格を持っているからである。
第二次大戦後は、戦勝国として世界に君臨したのはアメリカであり今や、その言語・英語(米語)が世界の共通語となったからである。
戦後しばらくまでは、大学生の周辺でも「エスペラント語」云々という言葉が聞かれたものだが、今回の訃報を機に、そんなことが思いだされる。
先に紹介したが、Wikipediaの彼の項目を見ると、「著書」のところの一番初めに
「古い校舎 綴方と漫画 堀井欧文印刷所 1938」
とある。これは父親が彼・令以知の作文と絵を冊子にしたものであろう。 自宅が印刷所だから出来ることである。
1938年と言えば、彼が13歳のことである。 微笑ましい限りである。印刷所の名前が「 堀井欧文印刷所 」というのだったのも判然とする。

彼・堀井令以知は「桃山中学校」出身とある。 私も旧制・桃山中学校出身であり、大阪外語出身ということも縁があるのである。
今はまだ明るみに出来ないが、私の次詩集の編集に際して、彼・堀井令以知の著書などを参照したので、これも縁があると言える。
だから今日は、いささか私的ではあるが、彼・堀井令以知を採り上げた次第である。
玉村君については、このブログでもお世話になったことがある。 → ケンタッキー・フライドチキンの中国語表記は?

近くミネルヴァ書房から刊行される自伝なるものは、ぜひ買って読んでみたいと思う。



今日は楽しいバレンタイン・デー。あなたはチョコを貰いました?・・・・・・・・・・・・木村草弥
chocotop02抹茶チョコ

──エッセイ──

   今日は楽しいバレンタイン・デー。
     あなたはチョコを貰いました?・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真①は宇治茶の茶問屋さん発売の「抹茶濃厚生チョコ」である。

今日2月14日は、女の人が男性にチョコレートを呉れる日とされている。
しかし、案外、なぜそうなったかを知る人は少ない。
「義理チョコ」なんていう奇妙な習慣まで出来てしまった。歴史的沿革をひもといてみよう。
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 バレンタイン・デーは、英語では「Saint Valentine’s Day」、訳せば「聖バレンタインの日」という意味です。
つまり、バレンタインというのは、人の名前なのです。どんな人だったかというと・・・。

 西暦3世紀のローマでのことです。皇帝クラウディウス二世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからだと確信するようになったクラウディウスは、ついに結婚を禁止してしまったのです。

 ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるバレンチノ(英語読みではバレンタイン)は、かわいそうな兵士たちをみかねて、内緒で結婚をさせていました。それが皇帝の知るところとなったから大変です。しかも、当時のローマでは、キリスト教が迫害されていました。皇帝は、バレンチノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。そこで、投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。(269年という説もあります)。

Q) バレンタインデーはどのように始まったの?

A) ローマではルペルクスという豊穣(ほうじょう)の神のためにルペルカーリアという祭が何百年ものあいだ行われていました。毎年2月14日の夕方になると、若い未婚女性たちの名前が書かれた紙が入れ物に入れられ、祭が始まる翌15日には男性たちがその紙を引いて、あたった娘と祭の間、時には1年間も付き合いをするというものです。翌年になると、また同じようにくじ引きをします。

 496年になって、若者たちの風紀の乱れを憂えた当時の教皇ゲラシウス一世は、ルペルカーリア祭を禁じました。代わりに、違った方法のくじ引きを始めたのです。それは、女性の代わりに聖人の名前を引かせ、1年間のあいだその聖人の人生にならった生き方をするように励ますものです。そして、200年ほど前のちょうどこのお祭りの頃に殉教していた聖バレンチノを、新しい行事の守護聖人としたのです。

 次第に、この日に恋人たちが贈り物やカードを交換するようになっていきました。

Q) バレンタイン・カードの始まりは?

A) バレンチノは、獄中でも恐れずに看守たちに引き続き神の愛を語りました。言い伝えによると、ある看守に目の不自由な娘がおり、バレンチノと親しくなりました。そして、バレンチノが彼女のために祈ると、奇跡的に目が見えるようになったのです。これがきっかけとなり、バレンチノは処刑されてしまうのですが、死ぬ前に「あなたのバレンチノより」と署名した手紙を彼女に残したそうです。

 そのうち、若い男性が自分の好きな女性に、愛の気持ちをつづった手紙を2月14日に出すようになり、これが次第に広まって行きました。現存する最古のものは、1400年代初頭にロンドン塔に幽閉されていたフランスの詩人が妻に書いたもので、大英博物館に保存されています。

 しばらくたつとカードがよく使われるようになり、現在では男女とも、お互いにバレンタイン・カードを出すようになりました。バレンチノがしたように「あなたのバレンタインより」(From Your Valentine)と書いたり、「わたしのバレンタインになって」(Be My Valentine)と書いたりすることもあります。現在アメリカでは、クリスマス・カードの次に多く交換されているとか。

Q) どうしてチョコレートをあげるの?

A) 実は、女性が男性にチョコレートを贈るのは、日本独自の習慣です。欧米では、恋人や友達、家族などがお互いにカードや花束、お菓子などを贈ります。

 では、チョコレートはどこから出てきたかというと、1958年に東京都内のデパートで開かれたバレンタイン・セールで、チョコレート業者が行ったキャンペーンが始まりだそうです。そして、今ではチョコレートといえばバレンタイン・デーの象徴のようになってしまいました。クリスマスもそうですが、キリスト教になじみの薄い日本では本来の意味が忘れられて、セールスに利用されがちのようですね。

 自分の命を犠牲にしてまで神の愛を伝え、実践したバレンチノ・・・。今年のバレンタイン・デーは、そんな彼のことを思い出してください。
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layer4_118ロイズ生チョコ
写真②は北海道の「ロイズ」ROYCE’の「生チョコレート<山崎シェリーウッド>」735円、である。
写真①のような抹茶を使った変り種(定価1050円)もいいが、私はオーソドックスに生チョコと行きたい。
数年前に「ロイズ」の生チョコをもらってから、すっかり、ここの贔屓になった。北海道では他にも「六花亭」のものも有名ではある。
ROYCE'と書いてロイズと読ませるのも印象に残る。

バレンタイン・デーには、何もチョコをあげるばかりが能ではない。
ネット上では、さまざまのギフトが載っている。中には男性下着を贈るというのがあり、なまめかしい「Tバック」を贈る人もあるらしい。
「一緒に旅行に行く」というギフトもあるというが、これなど、まさに本命中の彼氏であり、身も心も捧げようという、いじらしい女心の発露と言えるだろう。

私のことだが、つい先日2/7が誕生日だったので、先取りで娘から散歩用の靴とチョコをもらった。生チョコがROYCE’のものであるのは、言うまでもない。



青江三奈を聴く・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

      青江三奈を聴く・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の知人に、青江三奈を好きな男が居た。 彼女が出演するというので一緒にクラブに行ったりした。
彼は昨年亡くなったが、あのハスキーな声が今も頭のどこかに残っている。
青江三奈のニューヨークでの「伊勢佐木町ブルース」の動画を見つけたので出しておく。
「あぁ~」というセクシーさったら、堪らんねぇ。



青江 三奈(あおえ・みな、1941年5月7日 ~ 2000年7月2日)は、東京都江東区砂町出身の演歌・歌謡曲の歌手。本名は井原静子(いはら・しずこ)。
自身本来の生年月日は1941年5月7日であるが、芸能活動におけるプロフィール上では1945年7月7日としていた。成徳学園高等部卒業。

「青江三奈」の芸名は、作詞家・川内康範が『週刊新潮』で連載していた小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。
高校在学時から東京・銀座の「銀巴里」でステージに立つ。
高校卒業後、西武百貨店勤務の後、クラブ歌手となり、1966年、「恍惚のブルース」でメジャーデビュー。
以後、1968年に「伊勢佐木町ブルース」、「長崎ブルース」、翌1969年には「池袋の夜」が大ヒット。
森進一と並んで「ため息路線」と呼ばれ、「伊勢佐木町ブルース」の冒頭部分は特に有名である。
「NHK紅白歌合戦」には1966年(第17回)に初出場。翌1967年(第18回)は落選するも、その後1968年(第19回)から1983年(第34回)まで、16年連続で出場した。
1990年(第41回)には、同年12月に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家・浜口庫之助を偲ぶという形で7年ぶりの復帰、通算18回目の出場を果たしたが、これが青江の生涯最後の紅白出演となった。

1999年1月23日、渋谷公会堂のコンサートを最後に、病気療養のため一切の歌手活動を停止。当初は膵炎と公表されたが、実際は膵臓癌であった。
その後は入退院を繰り返しながら闘病生活を送り続けていたが、翌2000年7月2日、膵臓癌により54歳(プロフィール上、実年齢は59歳)の若さで他界した。
没後に「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が、神奈川県横浜市中区のイセザキモールに建立された。

なお、若き日の青江に大井町で同居しながら長年にわたり歌唱指導を行い 死亡直前に婚約した作曲家・花礼二と青江の兄弟との間で、激しい遺産争奪戦が起こりマスコミの話題を呼んだ。さらには後にその兄弟の間でも遺産争奪戦が起こり、訴訟沙汰になっている。


節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)
kesoubumi03懸想文売り

──(転載)──

以下の文章と写真は「ディープな京都と認知療法」の中のサイトから転載させてもらったものである。いつの年の記事かは不明。転載に深く感謝するものである。
記事末尾の俳句二つは、私が見つけて来て、載せたものである。(草弥記)

  節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)

 吉田神社をはじめ京都の神社やお寺では、節分に鬼が出るところが多いのですが、懸想文(けそうぶみ)売り が出るのは、ここ聖護院を東に入った所にある須賀神社をおいてはないでしょう。「懸想文」とは聞き馴れないものですが、これは直訳するとラブレターということになります。ラブレターを「売る」とは、またどういうことなのか?疑問が湧いてきます。好奇心の虫がうずうずしてきます。

kesoubumi01須賀神社

須賀神社は小さな神社で、普段は街のなかに埋もれてほとんど目立たない存在なんですが、節分の二月2・3日になると、お琴の音や、案内を語るおばさんの声がスピーカーから流れ、がぜん活気づいてきます。参拝客も大勢こられます。この境内に入るとすぐ目につくのが、写真①と③の怪しい二人組み。
手に持つのが「懸想文」です。これを売るのが「懸想文」売りで、怪しい二人組みこそ、その正体なのです。
写真①は、その「売り人」にカメラを向けて、ポーズを取ってもらったところなのです。

kesoubumi02懸想文売り

これがうわさの「懸想文売り」なのです。懸想文とは、説明によると「縁談や商売繁盛などの願を叶える符札で、鏡台や箪笥に入れておくと容姿が美しくなり、着物が増え、良縁にめぐまれるというので、古くより町々の娘や嫁にあらかたなものとして買い求められた。この風習は明治以降はなくなり、いまは須賀神社が二月三日の行事をしている」ということなのす。そこで私もぜひ一つ買ってみなくては。もっとも私は別の良縁を求めているわけではないのですが・・・。

この姿は、懸想文の外装にも描かれていて、忠実に再現しているようです。
 
 さっそく件の懸想文を開けてみることにしました。奉書紙に包まれていたのは、梅の枝に結ばれた風情の結び文。そこにはゆかしい和歌が変体がなで書かれています。
「むすほれし 霜はうちとけ 咲く梅の 花の香おくる 文召せやめせ 」と読めます。

kesoubumi05懸想文

kesoubumi06懸想文

 写真が④と⑤に分かれてしまいましたが、④が外装、⑤が中身ということです。
さらに、結び文を解いて読むことにします。こちらは普通のかな書きなので読むだけなら苦労はありません。
「行く水の 流れは 絶えずして・・・」と、なんとラブレターが諸行無常の「方丈記」の冒頭から始まります。艶っぽい内容を期待していたのは、あてがはずれました。

「 創造や漂ひ化せしてふ地(つち)の いにしへぶりの 大地を 」とか「活人剣の像成(かたち)し」とか、なかなか難しい漢語や縁語・懸詞がちりばめられて、ちょっとやそっとでは歯が立たない内容になっています。とても女の人が書いたものとはみえません。これはどこかの大学の国文学の先生が書いているのだと聞いたことがあります。
 最後には、
「壬午(みずのえうま)の春 巳遊喜より
 春駒さままいる」

とあり、この内容は毎年変わっていること、差出人と受取人の名前はそれぞれその年の干支にちなんだ名前になっているのが解ります。あとで調べてみると、最近では
緋兎美(ひとみ)->龍比古(たつひこ)->巳遊喜(みゆき)->春駒(はるこま)

と、女男女男(女性の名前が字は古風なのに、読みは今時風なのが面白いですね)と、毎年つながっているようです。ちょっと考えてみれば、12人のとんでもない片思いの数珠つなぎが、円環をなしているわけで、シェクスピアもびっくりものなんですねぇ。こんなにレアーで、奇想天外・霊験あらたかな懸想文を、皆さんもぜひゲットされるといいと思います。ただしお代は壱千円也で、売りだしは来年の二月2・3日までまたなければならないのですが・・・。

終わりに、俳句の大家の詠んだ句を引いて終わる。

 もとよりも恋は曲ものの懸想文・・・・・・・・高浜虚子

 淡雪を讃ふることも懸想文・・・・・・・・後藤比奈夫


「大島渚が死んだ」追悼番組など・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

      「大島渚が死んだ」追悼番組など・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「愛のコリーダ」など騒然たる話題を提供した映画監督の大島渚が一月十五日に死んだ。
2013/01/20BS朝日が、掲出した番組を放映した。 彼の一生を、ほぼ正確に伝えたようだ。

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 ↑ 日本映画監督協会理事長のときの大島渚

20120204_880627「愛のコリーダ」一場面
 ↑ 「愛のコリーダ」の一場面
この映画はセックス場面が出てくるので、日本では違法であり、大島は日本で撮影したネガフィルムをフランスに送り、あちらで編集して海外で発表した。
日本に持ち込まれたものは映倫によって、ずたずたに削除や「ぼかし」が入れられた。
無削除の海外製のもののDVDもあるようである。
日本でも動画が見られるが、会員登録が必要で有料である。
どうしても見たい人はアクセスされよ。

enn1301161147008-p1「御法度」
 ↑ 「御法度」を出品してカンヌ映画祭に乗り込んだ大島たち

2000年の、この時には彼は先年の脳梗塞の後遺症で右半身に障害が出て、リハビリ中で車いすや他人の支えがないと出歩けなかった。
この「御法度」は残念ながら入賞することは出来なかった。

その後、症状は改善せず、晩年は病院に入っての闘病に終始したようである。

大島渚は1932年生まれであり、私より二年あとだが、同年代である。
学年が違うし、一学年の学生数も2500人くらいいるから、彼のことは何も知らないし交友もない。
「目立ちたがり屋」で、いつも自分がスポットライトを浴びていないと我慢できない性格の人だったようだ。
激情家だが、物事の本質をつばやく摑み、反応は早い。芸術家の典型のような人である。
一時代が終わったという感じがする。 ご冥福をお祈りしたい。



大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

   大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     初詣といえば「すみよっさん」と大阪の人は口をそろえて言います。
     大晦日の夜から、どこからとなもく人が集まりだし、門前は人々でいっぱいになります。
     12時ちょうどになり太鼓が打ち鳴らされると、1年の幸を祈願する人でごったがえします。
     三が日の参拝客数は、毎年200万人を超え、大阪の人に今でも愛され続けています。
     御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けておりますし、
     住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名なため、大阪だけでなく全国各地から
     人々が訪れます。

大阪の住吉大社のホームページ に今の宮司・真弓常忠 が下記のような話を書いておられる。
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住吉の神さまは俗に海の神とされています。正しくは、底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)で、西暦211年、この地に鎮斎になったと伝えられています。実際の年代では干支二運(120年)をくり下げて5世紀初頭と推測されますが、大和政権の玄関口にあたる難波(なにわ)に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきました。

海の神ということは、わたくしどもの生命の根源を守る神を意味します。なぜなら地球上の最初の生命は五十億年ものむかし海の中に生じ、さらに一億七千万年前までに小型の虫類となって上陸し、進化を重ねて五千万年前までに人類が出現したとされますが、原初は海から生じたとされることは間違いありません。

われわれの生命は地球を覆っている水の中に生まれ、何億年もの循環をくり返して、空気の世界に生長してきました。そして自分を出現させています。つまり大きな循環をくりかえしているものですが、その根源は海から生じたものといってよいでしょう。

この海の底・中・表の津の男神と称え、住吉の神と崇めてきた古人の智恵に深い敬意を表する次第です。

住吉さまの詳細については、このホームページをご覧ください。歴史と伝統に彩られた大社の全貌を識ることができるでしょう。

住吉大社宮司
真弓常忠 (まゆみつねただ)

大正12年、大阪市に生まれる。神宮皇學館大學に学び、皇學館大學教授、八坂神社宮司を経て、現在、住吉大社宮司。兼ねて皇學館大學名誉教授。

神道学、神道史学、とくに祭祀学を専攻。『神道の世界』『神道祭祀』『祇園信仰』『天香山と畝火山』『日本古代祭祀と鉄』など、独自の視点からの著書多数。
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私の住む地域の氏神さんは「松本神社」と称するが、宮司も居ない小さな「祠」みたいなお宮だが、もともと木津川の水運の守り神として鎮座され崇敬されてきたらしい。
その祭神が住吉大社と同じ神々を祭っているのであり、私は以前から住吉大社には親近感を持ってきた。
上の記事に書いてあるが再度引いておくと
底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)の四体の神を祭っている

この住吉大社には摂社が数社と「末社」が数社あり、その中に 楠珺社というのがあって、これが、ここで採り上げる「はつたつ参り」の主人公である。

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 ↑ 楠珺社(なんくんしゃ)

以下、ホームページに載る記事を引いておく。
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お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠 (くすのき) の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。現在では、大阪商人を始めとして、全国、さらに海外の信仰を集めるまでにいたりました。また祈祷木 (きとうき) があり、願い事と氏名年齢を書いて預けていただくと、お祓 (はら) いののち、みなさまの発達・安全などを祈祷し焼き納めます。

商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。

初辰(はつたつ)とは、毎月最初の辰の日のことです。この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてくれると信仰されてきました。そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達していることでもあります。

また楠珺社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招き猫です。偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の証として納めていただきます。そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁栄を祈願します。

おみくじ
和歌の神さまで有名な住吉ならではの、独特の歌占いのおみくじがあります。単なる占いではなく、和歌に託した神の教えとして、占いを受ける人に確かな指針を与えてくれます。
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ここへ「はつたつ参り」に行くようになったきっかけは、NHKの放映を見たことに由来する。
同じ番組を友人のS君も見ていて、興味を抱き、ふたりで「月参り」を四年間めざしてやってみよう、ということになった。
四年間ふたりの寿命が持つかどうか判らないが、目標として面白いのではないかということである。

2010年7月の「初辰」の日からはじめたので、今月十一月三日で都合29回お参りした。
三十回目の「はったつ」さんは、本年納めということで、本日、十二月九日ということになる。
掌に乗るような小さな(昔風に言うと一寸ということか)招き猫を賜ってきて、専用の収納ケースも買い求めて、それに飾って床の間に置いている。
四年間で合計48個貯まれば一回り大きい「中猫」と取り替えてもらえるという。
これも「生きる」目標としてのキーストーンだと思っていただければ有難い。
もっとも、住吉大社に言わせると、こういうのは民間でやっている商売であって、住吉神への信仰とは何の関係もない、ということだが、まあ、いいではないか。

そのS君のことだが、一昨年十一月末に軽い脳梗塞を起こして救急車で病院に担ぎ込まれた。
右側の上肢と顔面、それに言語障害があり、ひところは腕が痺れて手の指も開けなかったという。
現在は手、指の痺れは良くなってきた。一頃は「高気圧下での酸素吸入」、「薬剤の点滴」、理学療法士によるリハビリなどに懸命であった。
一番ひどいときは「吸呑み」に入れて吸った茶が、だらだら垂れて飲めなかったという。
軽度な障害のようなので急速に回復すると思うが、親友のこととて、一時は気を揉んだ。

住吉大社については、この記事が写真入りで面白く見られるので、お試しあれ。
詳しくは、そこで見てもらうとして、ここでは「大鳥居」と「反り橋」の写真を出しておく。
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肥後六花──肥後菊その他について・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
20071106_438758肥後菊

──エッセイ──

     肥後六花──肥後菊その他について・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「肥後六花」というのは季節順に「肥後椿」「肥後芍薬」「肥後花菖蒲」「肥後朝顔」「肥後菊」「肥後山茶花」を指す。
肥後──熊本の藩主・細川家8代の細川重賢公の時代に薬草園が作られ、藩主の命によって植物の品種改良が行われ、その結果うまれたのが、これらの花である。

掲出写真は「肥後菊」である。
以下、季節の順に花の写真を出してゆく。

b0066409_147257肥後椿

↑ 写真②は「肥後椿」である。
ツバキについては寒い頃にいろいろの品種のものを紹介したことがある。そのうちの一つに、この「肥後椿」があるということである。

b0066409_1481022肥後芍薬

↑ 写真③は「肥後芍薬」である。大きな豊かな花が特長である。
古来、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と表現されるように花の代表とされてきた。これから転じて、美人の形容に使われたりした。

b0066409_1485176肥後花菖蒲

↑ 写真④は「肥後花菖蒲」である。
この花も彩りと言い、花の大きさと言い、豪華な花という感じがする。
この辺のところに藩主の派手好みが出ているというべきだろう。
ネット上に、この「肥後六花」のことも載っているが、細川家・現当主の元首相の細川護煕氏が談話を寄せて書いている文章が見られる。
細川護煕氏は今、伊豆で陶芸制作三昧の日々を送っているが、その伊豆の屋敷というのが、母方の近衛公のものであるという。
臍の緒を切ったのが高貴な生まれとは言え、優雅な世界である。

b0066409_1492581肥後朝顔

↑ 写真⑤は「肥後朝顔」である。
この朝顔も大輪で、たっぷりとした、あでやかな雰囲気を湛えている。色はいろいろあるらしい。

順番からすると、この花の後に「肥後菊」が来るのであるが、一番はじめに出しておいた。色についてはさまざまあるようである。
今の時代は海外との交流が、過剰とも思えるほどに激しく、日々あたらしい品種のものが導入されてくるが、昔は花の種類も多くはなく、
品種改良も重点的にやられたと言えようか。だから丹精の結果、花が豪華である。

b0066409_1503929肥後山茶花

↑ 写真⑥は「肥後山茶花」である。
この花もボカシ入りの大きなものである。

これで「肥後六花」と呼ばれるものを一渡り紹介したことになる。
季節としてはまだ寒い気候の「ツバキ」から、初冬の花「サザンカ」まで、ほぼ二ヶ月おきに一年を経過したことになる。
花は花ながら、こういう季節感というものを古人は、大切にしたのである。
終わりに、サザンカの句をひとつ引いて終る。

    山茶花の咲き散り呉須の手塩皿・・・・・・・・田口一穂


はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・出崎哲朗
出崎
 ↑ 昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された
小堀
 ↑ 2012年9月発行

──エッセイ──(出崎哲朗の歌)

   ■はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ
            涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


      ■忘れな草と忘れ草の話をしたけふ
            教卓のコップぎつしりの忘れな草・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


はじめに、掲出した本の説明をしておかなければならない。
「定本・出崎哲朗読本」は、短歌結社「未来」の当時の編集長・田井安曇の手によって、昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された。
図版①が、それである。
その頃には私はまだ短歌の世界には足を入れておらず、もちろん知る由もなかった。
それが、図版②に載せた『小堀鉄男・小堀和子 遺稿集 春雁逍遥』が出て、編集の幹事をした西井弘和の手元にあることを知り、急遽借りてコピーさせてもらった。
小堀たちは、高校で出崎の教えた生徒だった。

出崎哲朗は1921年(大正10年)6月4日北海道小樽生まれ。幼い頃に京都に移住。父は京都でも一流の料理店を経営していたが、彼が中学五年のときの秋に急死した。
三高を経て、1942年に京都大学に入る。その頃にアララギに入会。
出崎哲朗は戦争末期から戦後にかけて、京都大学文学部国文学科を出たあと、京都府立第一高等女学校(のちに新制・鴨沂高校)の国語の先生として赴任。
戦争中から「京都アララギ会」に歌を出していたが、近藤芳美の『早春歌』の影響などを受けて、戦後、アララギの幹部たちの宗匠的な指導に反発して、
短歌革新の運動として『ぎしぎし』誌の形をとって発足することになる。
その中心に出崎哲朗が居り、太宰瑠維などが居た。 

ここで「ぎしぎし」発足のときに出崎の書いた「言挙げ」の文章を出しておく。

<人間全体に対する祈りや人間の病める魂への慟哭やを措いて偉大なる文学の基盤はありはしなかつたのである。
 僕らは真の文学としての短歌をうたひたいと念ふ。僕らは僕らの非力をかなしむ。
 だが偉大なる不可能事にぶつかつて砕け散る以外、生甲斐ある生涯が一体どこにあらうか。
 今こそ祖国にシュトゥルム・ウント・ドラングの時代が来ていいのである。
 青春は奪回されねばならぬ。そして青春とは年齢を問はぬ性別を問はぬいのちの暁紅ではなかつたか。>

何とも凄まじい揚言である。(上記の部分の文章は井上美地さんの文章から引いた。引用に感謝する)

後年私が「未来」川口美根子選歌欄「マリオン集」に参加したのだが、その川口さんは京都府立女専に居られて、
彼らと行動を共にしておられ、何度か、その頃の話は聞かされていたのだった。
これらの動きは、のちに「未来」や「塔」の形で実現することになる。
そんなことで私としては、親近感があったし、近藤芳美の若い頃の『早春歌』の持つ抒情性は大好きなもので、出崎哲朗の歌は、瓜二つのような詠いぶりで好きである。
この本は短期間で返す必要がありコピーを取っただけだが、本当は時間をかけてスキャナしたかったが仕方がない。

ゴタゴタと書くよりも、先ず出崎の他の歌を引いておく。

 ■あけくれを人麿集にこだはりゐて月の夜となればひとり嘆かゆ──「京都アララギ会詠草」「高槻」など昭和21年より

 ■論文書きおしめの洗濯もするべしとこころは決めて煙草すひをり

 ■論文を書き倦みゐしが嬰児(みどりご)の乳くさくにほふ蚊帳に入りゆく

 ■わが論文は学問ならずといはれ思ひゐしが夜の更けゆきてつひに涙出づ

 ■安静も鍛錬なりと思ひつつ夏日臥れば泪流れぬ

卒論に熱中していた時期の出崎の歌である。彼は終戦の年の春に結婚した。学生結婚である。赤ん坊が生まれ生活は厳しかった。
なぜ急いで結婚したのか。すでに結核に罹っていたから、早く結婚して子供が欲しかったのかと考えられる。

 ■北窓よりひかりは淡きベッドの上に臨月の妻と昼餉食し居り──「ぎしぎし」④⑤号より

 ■わが妻は赤ちゃん全集のみ読み居ると街歩みつついく度も思ふ

 ■上り湯に体をぬぐふひとときよ夕飯がたのしかりしは幾年前か

 ■かやの実を噛みつつ君と向ふ玻璃戸竹群はしきりに風明りして

 ■わが妻を女中のごとくおとしめて懶惰に居れば心適くかな

 ■アスファルトで女の児と男の児と野球するよたのしかるかな君らの未来よ

「結核」というのは良くなったり悪化したりという繰り返しで、その療養をしながらの心境が、うまく、さりげなく、或いは悲哀に満ちて詠われている。

はじめに掲出した歌二首は、いま引いた号につづく「ぎしぎし」六号に載る。
出崎哲朗は女学校の先生になりたかった、という。そんな念願の女学校の先生になれて、結核の症状の晴れ間に、生徒たちとほのぼの過ごす様子が目に浮かぶようだ。

 ■僕の眼をじつとみつめて「狭き門」を質問する君らの前に嘘はいへない──「ぎしぎし」⑥⑦⑧⑩号より

 ■上靴に赤いリボンつけてゐる生徒たちああ君らのためにしたいことが山ほどある

 ■古今集はだめだと云つたら泣いた生徒よお前のことばかりで京極通り抜ける

 ■わが心崩れ来しかば夕の舗道あかるき中を歩み帰らむ

 ■生きゆくといふは何ならむ灯のあれば鈴懸の影はあらあらしかり

 ■新しきパン焼器に顔寄せてパン焼く妻をいかにかもせむ

 ■素直なる平凡なる生活でやはりいいのかと生徒のひとりひとりを夜半に思ふも

 ■われに似て果物好む幼な子よ夕べ風たてばともに梨食ふ

こういう教師と生徒との関係というのは今の教室にもあるのだろうか。今の教師というのは、管理教育のはざまで、多忙な毎日を過ごしているようで可哀相な気がする。

 ■四畳半の暗きわが家に妻と子と暮すを客観としてみればすこしは面白し──「ぎしぎし」⑪~23号より

 ■子と遊ばず買出しにゆかぬ亭主にわれあれば近所の評判もつとも悪し

 ■一年にいくたび家を追はるるならむ今宵は一杯に月の差す部屋

 ■トロイメライ低くひびきて乙女死ぬ劇見るときに一日はやさし

 ■無理しても教壇に立つと医者の前に涙ぐみ云ひきはかなかりにき

 ■窓に干すガーゼ明るくひるがへり思ひは次第に諦めとなる

 ■わが生徒みなうるはしと思ひをりはや疲れたる心にかあらむ

 ■小路より出で来し少女と並びゆくいたく明るき街燈の下

 ■霧しづむ夕べ舗道を帰るべしはかなしと思ふこともよろしき

 ■教卓の水仙の花に光(かげ)ありききほひ云ひし幸福のことはさびしかるよ

 ■教師の限界といふことにこだはりゆきとめどなきこのさびしさよ

 ■鈴蘭灯いつかあかるくつづけば思ふ冷淡なりと酔ひながらいはれし言葉

 ■だれとでも妥協してゆくわれと思ふ妻持ちてからか女学校に勤めてからか

 ■先生四条までついていつていいですかと明るき雨の中をつき来る

 ■気胸室にけふも待ちゐる人多しむらむらとなり思ふ日本の結核のこと

 ■ああ五月風は吹くと床の上にくり返し居れば慰めに似て

 ■健やかと病むとはやはり別の世界にて日の入れば物干に臥してさびしむ

 ■少しづつ風吹き透る部屋に臥し夏草の匂ひがしきりにかぎたし

 ■やすやすと近寄りて笑ふ少女あり去年休学してゐし生徒なり

 ■気胸にくれば帰りには寄る君のベッドけふはカーネーションの花挿してある

 ■しろじろと白楊の葉そよぐさびしきに自転車を起し帰る少年

 ■教会の十字架はいつしかシルエットとなりパン提げて帰る思ひ貧しく

 ■病にたへわが生きなむを寺田和子死ぬことなかれ毒のむなかれ

 ■夜ごと乱れ酒のみあるく小堀鉄男よからだこわす意味を君知らざらむ

 ■何しても呼吸困難となるわが妻にとなりつつまた息たへだへとなる

出崎哲朗は、昭和25年(1950年)2月19日に死んだ。 享年29歳である。その頃、結核は今のガンよりも怖い不治の病気だった。
丁度この頃アメリカからの特効薬が出ているが、まだ一般には出回っておらず、出崎には間に合わなかった。
私の父も、この年に大喀血して発病したがパスなどの薬を取り寄せて長く療養したのち快癒した。
大学への通学の途中に、この薬を京都河原町の佐々浪薬局に買いにゆくのが私の役目だった。この薬局は明治39年開業という老舗だが今も盛業中である。
私も、すぐ後に発病したが、私は入院してパス、ヒドラジッド、ストレプトマイシンの三者併用の治療で良くなった。時代が救ってくれたのである。(閑話休題)

多くの歌を引いたが、終わりから二、三首目の歌は、図版②に載せた本の主人公だからである。寺田和子は、のちに結婚して小堀の妻になった。
彼らも出崎哲朗の親しい弟子であって、今回ここに載せる歌のように「深いえにし」で結ばれているからである。
私は彼らとは生前には何の関係もないが、これらの弟子たちが同人誌「零」に集って小説などを書いていた意味を、ここに来て納得した次第である。
西井弘和、西村美智子など、しかりである。彼らについては何度か、ここに書いたことがある。
太宰瑠維氏には、私の第一歌集『茶の四季』の合同出版記念会でお会いしたことがあるが、この人も結核で苦しまれたようだ。
この人の名前はフランス語の「ルイ」に因む命名であり、この人の父君は太宰施門という京都大学教授のフランス文学者であり、この人の名も「シモン」という西欧名に由来する。
私の師であった川口美根子先生も、ご主人を亡くされてから惚けられて今は妹さんのお世話で専門施設に居られるそうで、うたた感慨無量の心境である。
人の縁というものは不思議なもので、ひよんな事から交友が始まることがある。
七月下旬に東京で私の第五歌集『昭和』読む会を開いてもらったが、その中に、日向輝子さんが居られ、その歌集評を、ここに書いたことがあるが、
その日向輝子さんが、田井安曇の結社「綱手」に所属されているのであった。
田井安曇は、自ら言っているように近藤芳美に「まさに信徒」として付き従ってきた人である。
その近藤芳美も亡くなって丸六年が経った。
この出崎哲朗読本を編集していた頃は、近藤の配下として「未来」の編集をしていた。 この頃、岡井隆は女と九州に駆け落ちしていた。
その後、岡井は編集に立ち戻るが、前衛短歌運動の隆盛、消長とかがあって、今日に至るが、田井安曇は「未来」に同一性アイデンティティを持てなくなり、
離れてゆき、自らの会誌「綱手」を立ち上げるようになったもののようである。
近代の日本の文学運動として「アララギ」は大きな影響力を持っていた。
俳句の「ホトトギス」と共に、この両者は正岡子規の始めた運動を引き継いでいるが、末期症状として「宗匠」的なセクトに陥った。
そんなセクトに反発して、今ここに見る「ぎしぎし」や「未来」や「塔」などの文学運動があるのである。
これらを単なる現象として捉えるのではなく「文学運動」として把握すれば、よく理解できると思うのである。

コピーを読んでいると、田井が、これをまとめるにあたって、井上美地さんが協力されたようであるが、彼女も「ぎしぎし」の仲間の一人であった。
角川歌人名鑑を見てみると、井上美地さんは昭和三年生まれで、川口美根子さんより一歳年長であるが、米田(秦)律子、川口美根子の三人で「三人組」と呼ばれた。
この人も目下は田井安曇の「綱手」に所属されている。

これらの資料を提供していただいた関係者の皆さんに御礼申し上げる。
今後この記事に補足して追記するかも知れない。 予め言っておく。
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(追記10/29)
この記事をコピーして日向輝子さんが井上美地さんにお送りになり、それを見た井上さんから手紙と歌集などが届いた。
それによると井上美地、川口美根子、米田律子は「京都府立女専」の同級生であり「ぎしぎし」の会員だったと書いてある。
だから先に、ここに書いておいた<井上美地さんは、京都女子大時代に「ぎしぎし」のお仲間だったと聞いています。>というのは日向さんの勘違いということである。
府立女専は桂に学校があったから「桂女専」と通称されていた。今は京都府立大学として理科系の学部と一緒になっている。
一方の京都女専(のちの京都女子大学)は浄土真宗の西本願寺系列で、所在地は東山七条にあった。
京都のことを知らない人には、よく混同されるので日向さんを責めることはない。

(10/24夜記)
ただいま届いた角川「短歌」誌11月号を見ていたら、前号まで「未来」誌の広告に「主要作家」として名前の出ていた太宰瑠維、川口美根子の名前が無い。
いつの時点で、この広告が修正されたのかはわからないが、ここ数か月のことに違いない。
この記事にお二人のことを書いたばかりなのに、お二人が死去されたのは確実であり、感慨あらたなるものがある。歳月は非情だ。ご冥福を祈りたい。


世界にはばたく須藤元気『WORLD ORDER』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     
     世界にはばたく須藤元気『WORLD ORDER』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

いま話題の須藤元気とWORLD ORDERは、およそ均一的な日本ならびに日本人の枠をはみ出ている。
そのデビューのスタートを外国から始めるというのも、須藤の経験から来ている。
彼は「格闘家」としてのスタートも外国──アメリカから始めている。

彼のサイト←はここ。
そのデビューの仕方も今風で、youtubeという無料の媒体を利用し、何千万というアクセスを獲得した。
すでにご承知かと思うが、それらのyoutubeを出しておいた。

↑ 掲出したのは、 2009/07/11、須藤元気率いるパフォーマンス集団「WORLD ORDER」が、アメリカ・ロサンゼルスのステイプルズセンターで開催されたIT業界の世界的イベント「Worldwide Partner Conference 2011 」(WPC)初日のオープニングアクトを務め、見事なダンスで、約1万4,000人の観衆を沸かせた。

 「Worldwide Partner Conference 」は、マイクロソフト社が毎年開催しているIT業界屈指の一大イベントであり、
マイクロソフト社のパートナー企業など、1万人以上の関係者が世界中から集結。
今年は、7月10日から14日まで盛大に開催される。「WORLD ORDER」は、マイケル・ジャクソンの告別式が行われたロサンゼルスのアイコン的なイベント会場であるステイプルズセンターのメインステージで開催されるオープニングイベントのトップバッターにゲストアーティストとして大抜擢された。

冒頭、スーツ姿で登場した須藤は、流暢な英語でスピーチを披露。大地震、そして津波により尊い命が数多く奪われた、東日本大震災の悲劇を伝え、「日本は、復興への道の途中なのです」と静かに語った。
その後、会場のスクリーンでPVが流れると、「WORLD ORDER」がステージに登場! 
オリジナリティあふれる個性的なダンスで観客を圧倒し、会場は大きな歓声と拍手に包まれた。

 「WORLD ORDER」は、須藤が現役の男性ダンサーと共に結成した7人組のダンスパフォーマンスユニット。
音楽も、須藤自身が直接手がけ、一線級のアーティストの協力のもと、作詞、作曲、そしてみずからボーカルも務めている。
まるで機械のように細やかな振り付けは、須藤自身がディレクションし、メンバーたちのアイデアを形にしているという。クオリティの高いPVは、YouTubeで紹介され、“今まで誰も観たことも聴いたこともない、唯一無二にして驚愕のパフォーマンス”として、当初だけで580万アクセスを記録。今では数千万アクセスと言われている。

フランスの番組でも取り上げられるなど、活躍が目覚ましい。ロサンゼルスで大成功を遂げ、
まさに海外進出の第一歩を踏み出した「WORLD ORDER」、これからの活躍に注目したい。



今夜2012/09/05 18:55 NHKEテレ「Rの法則」で「ワールドオーダーと運動部101人」のライブが放映される。
その様子を 最新の音楽ニュース「ナタリー」で画像として見られるので、お試しあれ。


米満英男・遺詠『地に杖を』9首・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
米満

        地に杖を・・・・・・・・・・・・・・米満英男
               ・・・・・・同人誌「黒曜座」67号(2012年5月)掲載・・・・・・・・・

   家といふこの大き柩のなか眠りては醒めいつかは目覚めず

   髭が生え爪伸ぶる間は大丈夫生きてゐるのだと励ましてゐる

   地に杖を刺しつつ歩むその行方真赤な夕日が黝くなるまで

   雪の下雪を仰ぎて雪を飲みきあの咽を過ぎし雪は今どのあたり

   川を泳ぐ犬あり首をたかく上げ誰もゐない彼岸へ急ぐ

   人の夢まさに儚しその夢を見ずなりたればさらに儚し

   悲しみの器とふにんげんに蓋あらざるは涕涙を零すため

   芯のなきトマト食ひつつ芯のない脳味噌をもて歌を考ふ

   影法師ひとり連れきてここ掘れと唆(そそのか)されて掘る深き墓穴(あな)

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なお、同人誌「黒曜座」67号(2012年5月)の編集後記全文は、下記の通り。  ↓

★本誌編集代表米満英男が二月二十日亡くなりました。
自宅での穏やかな最期でした。この世の息をゆっくり大きく吐いてから、発っていきました。
苦しみも痛みもなかったその最期に、医師は老衰という死因を記入していました。
あと一ケ月ばかりで八十四歳の誕生日を迎えるはずでした。書きかけの原稿用紙とペンを棺に入れました。
あの世に着いたら、早速読み且つ書いていることでしょう。
★次号六十八号を米満英男の追悼号とします。詳細については、後日お知らせします。
そして、この「黒曜座」は六十八号をもって終刊といたします。一九九四年七月創刊以来、十八年の歳月が過ぎました。
長かったのか短かったのか、いずれにしても重い歳月です。
★最初は「鴉・a」次いで「海馬」、そして「黒曜座」と、米満は短歌同人誌を編集、発行し続けてきました。「鴉・a」を発行したのは三十五歳の時でした。
爾来、決して“宗匠”になることなく、一歌人として仲間たちと共に一途に歌を愛し、歌に遊び、同人誌発行に関わってきました。
最期の、あの穏やかな表情はそうした生涯を自ら納得したからなのでしょうか。
★天野律子歌集『空中の鳥かご』が発刊されました。次いで小西美根子歌集も近く発刊予定です。さらに歌集発刊を準備中の幾名もあるやに聞いております。
「黒曜座」の仲間たちが、これからも益々、いい歌人として活躍していくことを願います。(a)
--------------------------------------------------------------------------
米満英男氏が亡くなった。
彼は昭和三年三月十九日の生まれである。
上に引いた「編集後記」の末尾にある(a)というのは、令夫人の天野律子さんの執筆になる、ということだろう。
私とは二つ上の短歌の上での先輩、先達だった。前衛短歌はなやかなりし頃の活動家だったらしい。
その頃は私は短歌界には縁がなかったので、よくは知らない。
米満氏の同行者であった、当地に住んでいる新井瑠美さんから話はよく聞かされた。
個人的には浅い付き合いだったが、今はもう無くなったが「短歌現代」の新年会が関西であったとき、誘われて出席したことがあり、
会の後、米満氏などと酒杯を交わしたことがある。
私の歌集について的確な「批評」をしていただいたことが二度ある。 以下に引いておく。

*書評*
   定型・自由律ニ刀の手練れ・・・・・・・・・・米満 英男


       (短歌新聞社「短歌現代」平成11年11月号所載)

   先に上梓された定型歌集『嘉木』に次いで出された口語自由律短歌の
   第三歌集。
   その「あとがき」に記されているように、著者にあっては、文語定型も、
   口語自由律も<韻文>という点において、差別のない同根の存在
   として認識され、かつ作り分けられている。
      ・蜂たちは飛んで味覚を知覚する「女王はどこだ、火口をさがせ」
      ・わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的ね
                  挑発的=プロヴォカティヴ
   など、見事に定型に収まりきっている。が声に出して再読すると、さらに
   見事に「口語自由律短歌」としての今日的言語表現に転化して響いて
   くる。 その逆の歌い方の作品もある。
      ・悲しいお便りでした 善意に囲まれて晴ればれと暮らしていた鳩には
   の歌など、<完全自由律>のようだが、57577にきっちり読み下すこと
   ができる。
      ・ここに二匹のカメがいる 一匹は質問という名でもう一匹は答という名だ
   別して上の類の<直覚的思想>にこめられたエピグラム風の軽さと重さの
   絶妙の均衡の前に立つ時、その手練れの技にただ息をのむ。

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  *書評*
   木村草弥歌集『嬬恋』──感応・・・・・・・・・・・・米満英男(黒曜座)

           その多様な発想と表現に向けての恣意的鑑賞

 今、眼前に、四八二首を収載した歌集『嬬恋』がある。
まずその歌の抱える幅の広さと奥行の深さに圧倒された。
東はユカタン半島から、西はエーゲ海に到る<規模雄大> なる覊旅の歌にも目を瞠ったが、その現地体験もなく、宗教や風習にも全く疎いと気付き直し、
敢えてそれらの歌からは、紙数の関係もあって降りることにした。
 私が平素上げている専用のアンテナに、強く優しく伝わってくる歌からの電波をとらえて、私なりの気ままな読み取りを行い、それを返信の言葉に代えて述べてみることにする。
   ①目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
   ②父を詠みし歌が少なし秋われは案山子(かかし)やうに立ちてゐたりき
   ③うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
   ④夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず
   ⑤石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
   ⑥うつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ
 いずれの作品も、まさに現代短歌の本筋とも言うべき、肉眼と心眼、写実と抽象、正視と幻視が一元化した上で、さらに濃密性と透明感を秘めた歌に仕上がっている。
 一首ずつ、恣意的に味わってみる。
 ①の歌、目つむれば常に花の向うから現れる母の姿。おそらくは母が纏う甘い匂いも嗅ぎ分けていよう。
②の作品、父と同様、作者自身も、父となった以後は、子から見れば孤独な存在に過ぎない。
③真昼間の春爛漫のさくらではない。若気の至りを越えた後をふり返りつつ、その回想を子に聞かせている。
④上句にこめられている妖気が、下句の願望を妨げ作者の口を閉ざさしめる。
⑤花にかこまれて坐っている自分の姿を、奈落の中と観じた刹那、投げた石の谺のひびきがわが身を禊ぐ。
⑥の歌、白い月光の下、藍色の影を曳きゆくほどに、うつしみの欠落部分が、いよいよつよく感じられると詠じている。
 次に、上掲の歌とがらりとかわって、何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出してみよう。
   ⑦重たげなピアスの光る老の耳<人を食った話> を聴きゐる
   ⑧手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す
   ⑨クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ
   ⑩春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじやくし)の語尾活用を君は見るだらう
   ⑪園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた
 ⑦の作品、車内で見た<老婦人>であろう。
隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話をじっと聴いている。そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう。
⑧は、これまた、何とも鮮やかな応答である。結句の<呵々大笑>の締めがよく効いている。
⑨読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。
⑩さてさて、こういう発見もあったのかと頷き返す。<君> が何者かと思案する楽しさも残されている。
⑪<レンブラント>という重々しい命名のトマト─是非食べてみたい。
こういう、絶妙な軽みを持つ歌を随所に据え置いているのも、作者のすぐれた<芸> の内であろう。
 さて、ここら辺りで、題名の『嬬恋』にぴたりと即した作品をとり上げてみよう。
   ⑫雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり
   ⑬億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
   ⑭生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
   ⑮ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
   ⑯水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
ありきたりの感想など入れる隙間などない、まさに絶唱としか言いようのない作品である。が、それではいささかこちらが無様すぎるので、敢えてひとこと述べてみる。
 ⑫雷鳴が葵というはかない存在を経て、病む人につながるその緊迫感。
⑬永遠の時間に比べれば、人のみならずすべての生き物は瞬間の命しか持ち得ないという詠嘆。
⑭四句から結句に至るその間に付けられた<、>の重さによって、<凭れてよいぞ>という作者の肉声が何とも切なく伝わって来る。
⑮若かりしころの艶なる妻の姿態がふと浮かぶ。歳月の流れ。
⑯一歩踏み出せば一種の惚気とも取られかねない際どい線の手前に踏みとどまって、己れの身をその<女>(ひと)に委ねている。

 好き勝手な、自己流の鑑賞──というよりも、一方的な受容と合点を行って来た。
そこであらためて気付いたのは、この歌集のもつ多様性であった。しかもそれは、歌の表層部分の言葉の置き換えから来るものではなく、
作者自身のその場その時における情念と直感が導き出す重厚にして膨みのある、ユニークな詠嘆であった。 
 その詩的詠嘆の、さらなる充溢と進展に向けて、惜しみなき拍手を送りたい。 (完)

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はじめに掲げた「地に杖を」の一連は、何だか自分の死を予感したようで、せつせつと胸に迫るものがある。佳い歌である。

掲出した本は、彼が豊富な歌人たちとの交友の中から選んだ古今の14人にまつわるエッセイである。
奥付けを見ると、2000/03に出ている。
この文章は「黒曜座」に連載されたものを一冊にまとめて出されたものである。
他にも歌集などがあるが、本が多すぎて書架から見つけられないので、この本を掲出するにとどめる。
私より二歳上に過ぎないのに、精力を使い果たしたのか、まだ早い死である。
私は亡妻の介護に没頭していた数年があり、その間、歌壇とも縁を切っていた時期があり、彼や「黒曜座」とも縁遠くなってしまったのが悔やまれる。
ここに、この文章を載せて、ご冥福を祈りたい。 合掌。

なお、彼の死は藤原光顕氏の「たかまる通信」87号で知って、藤原氏には、この歌の全文などを知らせてもらった。厚く御礼申し上げる。

「王朝文化の華」─陽明文庫名宝展を見る・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
用明文庫①_0001
用明文庫①_0002

   「王朝文化の華」─陽明文庫名宝展を見る・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

目下開催中の標記の展覧会を見た。
これについては昨年、京都文化博物館で一部のものを見たが、今回、大掛かりな展観とあって覗いてみた。

これについては、同じFc2に居られる → 「遊行七恵の日々是遊行」のサイトに詳しいので、ぜひ参照されたい。

Kumano-kaishi_Go-Toba_1201.jpg
 ↑ 国宝・熊野懐紙3幅のうち後鳥羽天皇筆
Ruiju_Utaawase.jpg
 ↑ 類聚歌合(二十巻本歌合)部分

国宝、重要文化財などに指定されているものが多い。

用明文庫①_0003
 ↑ 近衛家略系譜

近衛家は藤原道長を祖とする直系で、宮廷公家として天皇家の傍に仕えた名門公卿の一族であり、
「陽明文庫」は第二十九代の近衛文麿が紀元二千六百年を記念して、京都の宇多野に保存のために開設したものである。
陽明文庫(ようめいぶんこ)は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。
公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書(こもんじょ)、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約20万点に及ぶ史料を保管している。昭和13年(1938年)、当時の近衛家の当主で内閣総理大臣であった近衛文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に設立した。近衛家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衛文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、影印本の刊行などの事業を行っている。これに匹敵するものに九条流摂関家の一条家の「桃華堂文庫」がある。
近衛家は、終始、天皇の傍に居られた筆頭公家であり、天皇家との縁戚も、ただならぬものがある。
天皇家から移って来られた方──例えば、十八代「信尋」は後陽成帝の皇子であり、また十七代「信尹」の妹・前子は後陽成帝の女御で、後水尾帝の母である。
今回の名宝を見ても、明治期以後の絵画の所蔵品などにも、当時随一の画家、横山大観、上村松園などの作品があり、それらは寄贈されたものだろう。

「陽明文庫」については、このWikipediaの記事に詳しい。



ケンタッキー・フライドチキンの中国語表記は?・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    ケンタッキー・フライドチキンの中国語表記は?・・・・・・・・・・・・木村草弥

つい先日、上梓した私の第五歌集『昭和』(角川書店)に載せた歌に

  ケンタッキーフライドチキンは「背徳基家郷鶏」たり、背徳とはいかに

というのがある。これはシンガポールで作った歌だが、これを見た私の友人で言語学・国語学者の玉村文郎君から手紙が来て、

<ケンタッキーフライドチキンの中国語の歌が詠われていますが、
 「背」ではなく → 「肯」特基だと思います。
 現代中国語の発音では「背」bei : 「肯」ken と異なります。>

と教えていただいた。
玉村君は中国にも留学生教育の指導者としても中国で教えていた経験があり、中国語にも堪能である。
その後、ケンタッキーフライドチキンの公式ホームページにも確かめてみたが、玉村君の指摘の通りだった。
したがって、この歌の当該部分は「肯徳基」と訂正したい。
ご教示に有難く御礼申上げる。 持つべきものは、やはり「友」である。
玉村文郎君は、私の大阪外語の同級生で、その後、京都大学大学院に進み、言語学・国語学の権威として、同志社大学教授などを務められた。
先年亡くなった金田一春彦先生などとも親しい間柄だった。

中国語には、日本のような「カナ」はないので、外国語・外来語には同じような発音の漢字を充てて表記する。
ちょうど、むかし万葉集が編纂されたとき、当時の日本語には「文字」が無かったので、中国伝来の漢字の「音おん」を借りて、
いわゆる「万葉カナ」として表記されたのと同じような意味と考えればわかり易いだろう。

ここに感謝して、訂正しておく次第だが、
この歌は結句の「背徳とはいかに」で成り立っている歌なので、ここを訂正すると、この歌は成り立たなくなる。
したがって、この歌は歌集には載っているものの、私としては「没」にするものである。

私が、街頭に掲げてあるケッタッキーの看板の「肯」の一文字を読み間違えたために起こったミスである。
この歌は、もう二十年も前に作ったもので、今度の歌集に収録するにあたって、チェックすることを怠った私のミスである。
今回、この記事を書くに際して、かの地での「看板」の画像を出してみた。私のミスが一目瞭然で、よく判る。
ここにお伝えし、ご了承を得たいと思う。

「激動の昭和見つめ歌集」・・・・・・・京都新聞が歌集『昭和』を紹介記事
京都新聞

     「激動の昭和見つめ歌集」・・・・・・・京都新聞が歌集『昭和』の紹介記事
                 ・・・・・・・・・京都新聞2012/04/14朝刊掲載・・・・・・・・・・・・・・

城陽市で宇治茶問屋を経営してきた木村草弥さん(82)がこのほど、山城地域の風景や妻への思いなどを詠んだ歌集「昭和」を自費出版した。
九年ぶり五冊目の歌集で、昭和の時代を見つめつつ、日常から異国の情景まで、幅広いテーマで詠んだ490首が紹介されている。
木村さんは、家業の製茶業のかたわら、国内外を旅して歌を詠み、これまでに四冊の歌集を自費出版してきた。
五冊目は、九年間に詠んだ新作が中心で、自身の人生の象徴である激動の時代「昭和」への思いでまとめた。
巻頭歌は、祈りのイメージを歌にした
    祈らばや薄明のわが胸中の沼の一つの橋渡りゆく
また、亡き妻との思い出を詠んだ
    妻呼ぶに愛称「弥いちやん」久しくも呼ばざりしこと不意に憶ひぬ

    イシュタルの門の獅子たち何おもふ異国の地にぞその藍の濃き

山城地域を題材にした
    梅の花の記憶の村に相違なし雨から雪に変はる早春

など、日々の暮らしから異国の情景まで、「気まま」な独自の世界を表現している。
A5版215ページで、角川書店刊。        (京都新聞南部支社・小坂綾子)

セシウム流出量、東電推計の6倍…海洋研試算・・・・・・・・・・・・・読売新聞 3月6日(火)21時29分配信
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 ↑ 東電・福島第一原発3号機の爆発の写真。

(緊急・転載) 
 セシウム流出量、東電推計の6倍…海洋研試算
     ・・・・・・・・・・・読売新聞 3月6日(火)21時29分配信


 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、原発から海に流出した放射性セシウム137の総量は最大で5600テラ・ベクレル(1テラは1兆)に上るとの試算を、
海洋研究開発機構がまとめた。

 東電の推計量の約6倍にあたる。6日に開かれた日本原子力研究開発機構の研究報告会で発表した。

 海洋研究開発機構の宮沢泰正主任研究員らは、福島県の沿岸など約500地点で採取した海水のセシウム濃度や、潮の流れなどをもとに、
昨年5月7日までにセシウムが移動した経路を模擬計算した。
その結果から、海に流出した高濃度汚染水のセシウムの総量は、4200~5600テラ・ベクレルと算出された。
このほか、同原発から大気中に放出され、雨などによって海に沈着したセシウムは1200~1500テラ・ベクレルになった。
最終更新:3月6日(火)21時29分
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(以下、草弥記) この報道は、見過ごせない重要な意味を持っている。
今しも東日本大震災一周年を前にして、福島原発爆発事故の「後遺症」が、いかにひどいか、を事実でもって突きつけられた格好である。
蛇足かも知れないが付け加えておくと、セシウム137の「半減期」は30年であるから、極めて深刻である。
ということは、この海域の生物(ワカメなどの海草も含む)は高濃度で汚染されていると推定されることになる。
海水中の濃度を、生物は「濃縮」するからである。
今後の詳しい研究、報道に注視したい。

節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)
kesoubumi03懸想文売り

──エッセイ──

以下の文章と写真は「ディープな京都と認知療法」の中のサイトから転載させてもらったものである。いつの年の記事かは不明。転載に深く感謝するものである。
記事末尾の俳句二つは、私が見つけて来て、載せたものである。(草弥記)

  節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・(転載)

 吉田神社をはじめ京都の神社やお寺では、節分に鬼が出るところが多いのですが、懸想文(けそうぶみ)売り が出るのは、ここ聖護院を東に入った所にある須賀神社をおいてはないでしょう。「懸想文」とは聞き馴れないものですが、これは直訳するとラブレターということになります。ラブレターを「売る」とは、またどういうことなのか?疑問が湧いてきます。好奇心の虫がうずうずしてきます。

kesoubumi01須賀神社

須賀神社は小さな神社で、普段は街のなかに埋もれてほとんど目立たない存在なんですが、節分の二月2・3日になると、お琴の音や、案内を語るおばさんの声がスピーカーから流れ、がぜん活気づいてきます。参拝客も大勢こられます。この境内に入るとすぐ目につくのが、写真①と③の怪しい二人組み。
手に持つのが「懸想文」です。これを売るのが「懸想文」売りで、怪しい二人組みこそ、その正体なのです。
写真①は、その「売り人」にカメラを向けて、ポーズを取ってもらったところなのです。

kesoubumi02懸想文売り

これがうわさの「懸想文売り」なのです。懸想文とは、説明によると「縁談や商売繁盛などの願を叶える符札で、鏡台や箪笥に入れておくと容姿が美しくなり、着物が増え、良縁にめぐまれるというので、古くより町々の娘や嫁にあらかたなものとして買い求められた。この風習は明治以降はなくなり、いまは須賀神社が二月三日の行事をしている」ということなのす。そこで私もぜひ一つ買ってみなくては。もっとも私は別の良縁を求めているわけではないのですが・・・。

この姿は、懸想文の外装にも描かれていて、忠実に再現しているようです。
 
 さっそく件の懸想文を開けてみることにしました。奉書紙に包まれていたのは、梅の枝に結ばれた風情の結び文。そこにはゆかしい和歌が変体がなで書かれています。
「むすほれし 霜はうちとけ 咲く梅の 花の香おくる 文召せやめせ 」と読めます。

kesoubumi05懸想文

kesoubumi06懸想文

 写真が④と⑤に分かれてしまいましたが、④が外装、⑤が中身ということです。
さらに、結び文を解いて読むことにします。こちらは普通のかな書きなので読むだけなら苦労はありません。
「行く水の 流れは 絶えずして・・・」と、なんとラブレターが諸行無常の「方丈記」の冒頭から始まります。艶っぽい内容を期待していたのは、あてがはずれました。

「 創造や漂ひ化せしてふ地(つち)の いにしへぶりの 大地を 」とか「活人剣の像成(かたち)し」とか、なかなか難しい漢語や縁語・懸詞がちりばめられて、ちょっとやそっとでは歯が立たない内容になっています。とても女の人が書いたものとはみえません。これはどこかの大学の国文学の先生が書いているのだと聞いたことがあります。
 最後には、
「壬午(みずのえうま)の春 巳遊喜より
 春駒さままいる」

とあり、この内容は毎年変わっていること、差出人と受取人の名前はそれぞれその年の干支にちなんだ名前になっているのが解ります。あとで調べてみると、最近では
緋兎美(ひとみ)->龍比古(たつひこ)->巳遊喜(みゆき)->春駒(はるこま)

と、女男女男(女性の名前が字は古風なのに、読みは今時風なのが面白いですね)と、毎年つながっているようです。ちょっと考えてみれば、12人のとんでもない片思いの数珠つなぎが、円環をなしているわけで、シェクスピアもびっくりものなんですねぇ。こんなにレアーで、奇想天外・霊験あらたかな懸想文を、皆さんもぜひゲットされるといいと思います。ただしお代は壱千円也で、売りだしは来年の二月2・3日までまたなければならないのですが・・・。

終わりに、俳句の大家の詠んだ句を引いて終わる。

 もとよりも恋は曲ものの懸想文・・・・・・・・高浜虚子

 淡雪を讃ふることも懸想文・・・・・・・・後藤比奈夫


ワシントン・ナショナル・ギャラリー展・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   ワシントン・ナショナル・ギャラリー展・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

立冬を過ぎた一日、京都市美術館に標記の美術展を見に行った。先日の「細川家の至宝」展と同様に、何だか空いていた。
展示は「印象派」「ポスト印象派」ということである。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、銀行家、実業家として財を成したメロン財閥のコレクションの寄贈をもとにして設立された。
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 ↑ クロード・モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」1875年
この絵は、よく知られる有名な絵だが、大きな画像が手に入ったので出してみた。

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↑ エドゥアール・マネ「鉄道」1873年
この絵は鉄道と題されているが、二人の背後の柵の後ろに蒸気機関車の吐く白い蒸気が、もうもうと出ているのと、鉄道線路がようやく見えるくらいで、
これがなければ駅風景とは見えないのだが、ここに描かれる女の人と子供の服装の色の対比が素晴らしい。

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 ↑ ルノワール「踊り子」1874年
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 ↑ ベルト・モリゾ「姉妹」1869年
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 ↑ ルノワール「アンリオ夫人」1876年

後の画像三枚は、美術館で買ってきたハガキをコピーしたもので画像が小さいが、お許しを。いずれもよく知られている作品である。
最初に掲出したパンフレットの絵はヴァン・ゴッホの自画像である。鏡に映して描いたもので、絵には写っていない耳は、この絵を描く前に自分で切り落とした。
その後に自殺するに至る時期の作品だと言われている。

杉岡華邨と門人展・・・・・・・・・・・・・木村草弥
杉岡
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──エッセイ──

      杉岡華邨と門人展・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

秋晴れの一日、「書」をやっている友人と二人で奈良市にある「杉岡華邨書道美術館」を鑑賞した。
杉岡華邨は98歳になる今も現役で書の道を究めておられるという。
下記の記事は、とても不十分なもので、パンフレットなどから少し補充しておいた。
  
杉岡華邨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杉岡 華邨(すぎおか かそん、1913年3月6日 - )は、書家、文化勲章受章者。

奈良県吉野郡下北山村生まれ。
昭和9年、奈良師範学校専攻科を卒業。昭和23年大阪第一師範学校(現大阪教育大学)に勤務。
昭和十五年、漢字を辻本史邑に師事。
昭和二十一年、尾上柴舟にかなを学ぶ。
昭和23年、大阪第一師範学校(現大阪教育大学)に勤務。
昭和26年、文部省内地研究員として京都大学に留学し、文学、美学を聴講、「王朝文学にあらわれた日本書道について」を研究する。
昭和32年、かなを日比野五鳳に師事。
昭和40年、久松真一から禅美術の思想的背景を学ぶ。
昭和45年、大阪教育大学教授就任。この間、平安朝のかな美の世界を美学によって分析、伝統を踏まえた現代のかな書を作りあげた。

日展、朝日現代書道二十人展、毎日書道展、読売書法展に作品を発表、かな書の第一人者となる。
奈良県文化賞、日展文部大臣賞、日本芸術院賞受賞、1989年日本芸術院会員、95年文化功労者、2000年文化勲章受章。杉岡華邨書道美術財団がある。

著書
かな書き入門 保育社, 1980 (カラーブックス)
古筆に親しむ かなの成立と鑑賞 淡交社, 1996
書教育の理想 二玄社, 1996
かな書の美を拓く杉岡華邨 ビジョン企画出版社, 1998
関連項目
杉岡華邨書道美術館
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和 訶 羅 河 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 木津川に架かる「流れ橋」(上津屋橋) (文中に説明あり)
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↑ 京田辺校地にある同志社大学ラーネッド記念図書館

──エッセイ──

    和 訶 羅 河・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
     
私は運動のために木津川堤をほぼ毎日ウォーキングする。
私の住いは東岸にあるので、徒歩の場合は専ら東岸のみだが、自転車の場合は西岸も使って「流れ橋」を渡って往復十数キロを動く。
この西岸は北は嵐山から南は木津まで三十キロ余りがサイクリング路として整備されている。
因みに「流れ橋」とは洪水の時も材木が流失しないように金綱で連結してある。
欄干がない橋桁だけの木橋で時代劇の撮影によく使われるので有名。

木津川は三重県に源流を発し奈良県境から京都府に入り、琵琶湖を源とする宇治川と京都盆地北部を源とする桂川と三川合流して、淀川と名前を変えて大阪府へ入り大阪湾に達する。
見出しに見慣れない「和訶羅河」(わからがわ)と書いたが、これが木津川の一番古い名称である。
古事記中巻・崇神天皇の条、建波邇安王(たけはにやす・おう)の反逆の記事中にみえる。(日本書紀には輪韓河と表記される)。
一般的には木津川の古名は「泉川」あるいは「山背川」(やましろがわ)として知られるが、それより古い呼び名があったと知ったのは最近のことである。
ただしこの名称が何に由来するかは、まだ知らない。
付け加えておくと「山背国」という呼称が「山城国」と表記されるのは、桓武天皇による平安京建都以後のことであるので、ご留意を。

 わが「山城盆地」は大和盆地に隣接し、淀川を通じて瀬戸内海とつながり、琵琶湖を通じて丹後、北陸と通じる交通の要衝であり、朝鮮半島から渡来する文明が早くから到達した地域であった。
南山城には「上狛」「高麗」などの地名が現存し渡来人の有力者が居住していたことが判る。

 木津川西岸の京田辺市の丘陵地(天神山古墳と言われる)には先年、同志社女子大学の全学部、同志社大学工学部、同志社大学の一、二年生(教養課程)の田辺キャンパスが開校し、
木津川堤からは赤褐色の煉瓦建の校舎が、よく見える。一きわ高く尖塔の見えるのは女子大学のチャペルである。
もっとも、私立大学のこういう郊外地に新キャンパスを立地させる動きは地価の落着きとともに創立地に回帰する動きが首都圏でもあり、
同志社大学でも創立地である今出川校地の周辺を買収して、回帰する傾向にあり、同志社大学の教養課程も今出川校地に戻ることになっている。
女子大学も恐らく今出川校地に戻るだろう。
とすると、京田辺校地には工学部と、今もある帰国子女のための同志社国際高校と、これから新設される理工系、医系学部などが立地するものと思われる。

 この丘陵地には古代には筒城宮(つつきのみや)が在ったとされており、この宮は継体天皇の宮都が置かれていた所と言われている。
継体天皇は即位までに河内、筒城宮、大和と長い年月をかけて大和に入ったという、謎の多い天皇である。

PN2009080801000466_-_-_CI0003イタセンパラ
↑ 二枚貝に産卵しようとするイタセンパラ
参考までに、木津川、淀川には「イタセンパラ」という絶滅危惧種の淡水魚が「わんど」という岸辺の窪みに生息していると言われている画像を出しておく。

 私の日々の散歩コースからの雑感である。
(このエッセイは短歌結社「地中海」誌2004年一月号のエッセイ欄「送風塔」に載せたものに加筆した)
以下に、この堤防に因む私の旧作(ただし未発表)を掲げておく。

        木津川堤・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  日々あゆむ我が散歩みち歩数計が八千五百を示せば戻る

  狼煙(のろし)台がありしと聞けり飯岡(いのをか)は木津川に張り出だしたる丘

  イタセンパラは絶滅危惧種の魚なり木津川の<わんど>の潜みゐるといふ

  あまたなる謎の遍歴ありしとぞ継体天皇の筒城宮(つつきのみや)跡

  筒城宮ありたる辺り同志社女子大学の赭 (あか)きチャペル見ゆ

  小春日を浴びつつ展(ひら)く茶畑に茶の花白く咲き初めにけり

  「三川合流点から十三km」木津川の堤防の標(しるべ)よぎりつつゆく

  三川合流すなはち宇治川、桂川、木津川あひ合ふ地点いふなり

  音如ケ谷瓦窯(おんじょがたにごよう)跡あり平城(なら)京の瓦を焼きし跡と伝ふる

  窯跡は相楽台なる新興の大住宅地に囲まれにけり

  黒木美千代住む住宅地すぎゆけば楢の並木の黄葉つもる

  丸瓦軒平瓦鬼瓦刻印瓦、ヘラ書き瓦ありき

  古書しるす一貫百文、瓦窯二烟作工七十九人功人別十四文

           八幡、西山廃寺出土
  瓦焼く職人の戯画線刻の人面と名前裏面に残す

「細川家の至宝」─珠玉の永青文庫コレクション/「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展・・・・・・・・木村草弥
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  「細川家の至宝」─珠玉の永青文庫コレクション/「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展・・・・・・・・木村草弥

秋晴れの一日、友人と二人で、標記の二つの展覧会を見に出かけた。開催場所は掲出のパンフレットを見られたい。

掲出したのは、同展のパンフレットだが、裏面には、その中の名品のいくつかが載っている。
詳しくは ↓『細川家の700年・永青文庫の至宝』(角川とんぼの本2008/10/25刊)などに詳しいので参照されたい。
細川とんぼの本
細川家の現当主は第18代細川護煕氏で熊本県知事、日本新党代表などを経て連立内閣の総理大臣を務めた人だが、目下は政界からも引退し、
湯河原「不東庵」で作陶、書、水墨画、茶杓作り、漆芸などに携わる悠々自適の生活を送っている。
細川家は初代を細川藤孝(幽斎)とされており、この文庫の中興の祖と言われるのは第16代・護立である。
大正末から昭和初期にかけて独特の審美眼と目利きによって中国の唐代などの逸品を収集したので知られる。
時代も逸品が世に出てくる時期でもあって幸運だったらしい。この時期に国宝などに指定されている名品を買っている。
現代画家としても菱田春草の「黒き猫」小林古径の「髪」「鶴と七面鳥」二曲一双屏風などの名品を収集している。
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ルドン
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京都駅に移動して「ルドンとその周辺」─夢見る世紀末展 を見る。
ルドンについては、私の第二詩集『愛の寓意』(角川書店)で彼の絵「キュクロプス」を採り上げたので、その関連として関心があった。
参考までに、その絵を ↓ 出しておく。
7337060ルドン・キュクロプス

ただし、この展覧会は「岐阜県美術館」が所蔵する作品が主になっているので、サイズの小さい絵が多く、私が詩に採り上げた作品は展示されていない。
しかし、青年期から孤独な道を進んできたオディロン・ルドン(1840年~1916年)の十九世紀末の「象徴主義」世代の特徴を湛えた絵が並んでいた。

北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 京都・東山 清水寺境内、音羽の滝近くに建つ顕彰碑
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 ↑ 同顕彰碑の裏面の銘文

    北天の雄「アテルイ、モレ」伝説・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
いま表題に「伝説」と書いたが、没年も史実に残るレッキとした実在の人物である。詳しい資料もないので伝説としたものである。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。
坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
アテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても史書に記載する。
以下、Wikipediaに載る記事の当該部分のみを引用しておく。
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史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。
もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。
802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。
「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。
確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。
しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。
この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。
2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。
しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。
「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。
しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。

現代のアテルイ像
評価 坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。
明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。
学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。
アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。

これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

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↑ 「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市・片埜神社)

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、
1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。
但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。
また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。
同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、
一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。
2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。
後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。
他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。
2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション「アテルイ」が制作された。

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。フルネームは磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
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今までは一部の識者だけに知られていた蝦夷地──東北の地だが、今回の大震災・大津波などによって脚光を浴びることになり、
この地と人物についても見直されるようになってきた。
『続日本紀』と同様の古代の史書である『日本三代実録』に載る「貞観大津波」については先に触れた。
なぜ大和朝廷政権は、多大な人的損害を蒙りながら辺境の地である蝦夷地を攻めたのか。それには、かの地で「砂金」が採取されたからと言われている。
後の藤原氏三代の栄華も、この砂金の掌握によっていると、今では言われている。これについてはネット上にも記事があろうかと思うので検索されたい。

蝦夷地は「大和朝廷」政権に長らく反抗し、平定された後も、例えば明治維新の「戊辰戦争」の際には会津は抗戦し多大の損害を蒙った。
その記憶は「恨」となって、今も「東京」への反感となっているようである。特に福島では原発の爆発事故による放射能撒き散らしなど被害意識は物凄いものがある。
最近発行された角川書店月刊誌「短歌」十月号に載る、吉川宏志「何も見えない」30首の歌によると、こんな歌がある。

 とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら

 こだなことになったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ


当然のことだろう。管轄する電力会社も違う土地にまで「越境」してきて「原発安全神話」を、さんざ撒き散らした挙句の、この大事故である。
因みに、この歌の作者・吉川宏志は京都在住の壮年の歌人で、今をときめく短歌結社「塔」の選者を務める人である。

今日は、吉川の歌から「北天の雄・アテルイ、モレ」のことを書いてみた。


「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・・・・・・・・・・木村 草弥
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↑ 宇治橋「断碑」古代の碑文
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↑いまは「覆い屋」で保護される。境内から発見された古い碑の断片(上部)と江戸時代に復元・継足した部分(下部)が明白に判別できる。

──エッセイ──

   「京を詠った私の一首」─宇治・・・・・・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・・・(角川書店「短歌」2001年3月号・大特集<旅に出てみませんか・歌めぐり京の旅>⑤ 所載)・・・・・・・・


      ■一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ・・・・・・・・・・・木村 草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』に「茶祭」の題で収録した十五首の歌の一つである。
 毎年十月に宇治茶業青年団の奉仕で催される「茶祭」は年中行事として定着した。
「橋寺」というのは宇治川の川東にある寺で、川底から引き揚げられたことで有名な「断碑」を安置してある。
 昨年11月に私が訪れたら台座を修理中で他へ預けられていたが、今は元通り置かれている。

ここには平成3年に上田三四二の初めての歌碑が建立された。それは

<橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき>

という歌で、原文には濁点はふらず、歌は四行書きで、結句の文字は万葉仮名で「賀祢吉」と書かれている。
この歌碑の写真は、このホームページで見られる。

京都と奈良の中間にある「宇治」は、この歌に詠まれているように古来、「宇治川の合戦」をはじめ歴史的に枢要な土地であった上に平等院などの史跡にも富む。
源氏物語の「宇治十帖」に因んで十年前に創設された「紫式部文学賞」と、川東に建つ「源氏物語ミュージアム」が成功して、
特に秋のシーズンには観光客で、ごった返すようになった。
因みに昨年の紫式部文学賞の記念フォーラムはNHKの桜井洋子さんの司会で俵万智、江国香織、川上弘美他の各氏が「愛と恋と文学と」と題して盛況であった。

(お断り)
この文章は2001年に発表したものであるから、記事中の「昨年」などの記載は、現時点のものではないから、予め読み替えていただきたい。

「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日

──エッセイ──初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     ・くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。



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