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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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「詩遊」No.64/2019/Autumn・・・木村草弥
詩遊_NEW

──冨上芳秀の詩──(5)

      「詩遊」No.64/2019/Autumn・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 
とにかく冨上芳秀氏は、執筆について貪欲であり、多筆である。
今回も「詩遊」秋季号が送られてきた。
いつもながら、上田寛子のイラストが秀逸である。
同人たちの作品が載っているが、冨上芳秀作品を引いてみる。
いつもながらの「散文詩」である。 三篇ある。

       形容詞の奥・・・・・・・冨上芳秀

   ぎらぎら光る電飾の木馬に乗って走って来るあなたの形容詞が世界
   を明るく照らし出す。「暗いネズミはニンジンを齧っていますか」「い
   え、黒い寝すぎは妊娠を下賜していますが」化粧も形容詞。仮面も
   形容詞。過激な火事のカジノのチップ。彼女のヒップ。ヒップポッ
   プ。カツラも被る。ぶるぶる震えるブルドック。ドックに入るロッ
   クックンローラー。ロックアウトのアウトロー。動詞はどうします
   か。形容動詞はどうしますか。形容詞の実態。形容詞の皮。化けの
   皮を引き剥がせ。形容詞の奥に潜む本当のことを白日の下にさらけ
   出せ。
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「尻取り」のように、言葉尻を捉えて、次々に言葉を替えて、連ねて行く。
見事なものである。
いつも、この作者の言っていることだが、「詩は意味を辿ってはイケナイ」ということの典型のような優れた詩である。
もう一篇引いておく。

       マヤとの輪廻・・・・・・冨上芳秀

   笛を吹くと人魚のマヤは銀鱗をきらめかせ空中に飛び出すと頭から
   水中に飛び込む。私たちの心身は一体である。観客の拍手はやまな
   い。ある夜、マヤが盗まれた。盗んだのはサーカス団の団長だった。
   団長の妻は美しいマヤを夫の愛人と思い殺してしまった。その肉を
   冷蔵庫に保存しておいたところ十八になる娘が食べてしまった。娘
   は八百比丘尼になって八百年生きねばならなかった。何度も結婚し、
   何度も夫を見送って涙を流さなければならない。私もまたマヤの肉
   を食べて娘の八百年の人生を見届けねばならないと思った。マヤは
   娘と私の肉体の中に八百年の命を生きている。私が笛を吹くとマヤ
   は銀鱗をきらめかせてまた空中に飛び出す。マヤは本当に食べられ
   てしまったのだろうか。私は本当にマヤを食べてしまったのだろう
   か。今、私の笛に反応して演技をして泳いでいるマヤは昔から私自
   身であったような気がする。観客の拍手はいつまでも鳴りやまない。

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この詩も幻想的な衣を纏いながら佳い作品に仕上がった。
私なんかも、時々とりとめもない、不思議な「夢」を見ることがある。
若い時は、そんな「夢」のことを、起きてから様々に解釈したものだが、いつからか、そんな無駄は止めた。
この「夢幻」の境に遊ぶのが楽しいという心境になった。
このようにして、人間は、「夢」見の裡に「死」を迎えるのではないか、と考えている。 いかがだろうか。

これらの詩は、文の頭と脚を、きっちり揃えてある。 「四方形」の形である。
こうして、横書きにすると、日本語特有の文形が崩れるのが欠点である。お許しいただきたい。
面白い詩を見せていただき有難うございました。 益々の、ご健筆を。




冨上芳秀の詩「女の栽培」ほか・・・木村草弥
詩的_NEW

──冨上芳秀の詩──(5)

      冨上芳秀の詩「女の栽培」ほか・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・「詩的現代」30号掲載・・・・・・・・・

この号には冨上芳秀の詩作品が四篇載っている。
「白骨化した探偵」 「長屋の人情」 「女の栽培」 「まだらな記憶」である。

       女の栽培     冨上芳秀

   夢を見ることは技術の問題である。しかし、何を栽培するかは、倫
   理の問題である。では、私は女を栽培しましょう。いいですね、男
   を栽培するより私は女の方が好きだ。そんなこと押し付けられては
   かなわない。私は男の方がいいのだから男を栽培するのだ。あなた
   は男だのに女ではなく男なのですか。 そうだよ。 しかし、そもそも
   私が男だと誰が決めたのだ。私は身体が男でも心は女なのだから男
   が好きなのは当然なのだ。 何が当然なものか男が女を好きになって
   も、女が女を好きになってもいいのだ。 おい、待て、 人間を植物と
   して栽培することは政府が禁じている。だから、それは犯罪なのだ。
   政府が栽培を禁じる権利はないはずだ。 そんな議論をしてから何ケ
   月かが過ぎた。私が部屋の中で栽培している女は大輪の白い花を咲
   かせた。 今では、部屋全体に生い繁った植物からは、女の笑い声が
   絶え間なく響いている。 困ったな、 この女は美し過ぎる。 だから、
   男を栽培しろと言ったのだ。 逃げろ、手が回ったぞ。 何で私のよう
   な立派な男が倫理の問題で逃げなければならないのだ。 女が笑って
   いる。 困ったこの女はあまりにも美し過ぎる。
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原文に忠実に、一行の字数も揃えて再現してみた。
この詩は、今はやりのLGBTのうちのT──つまりトランスジェンダーの問題を捉えて「詩」に昇華させている。
見事なものである。
冨上芳秀氏の最近の作品は、こういう「散文詩」の形を採っていることが大半である。
一見、突拍子もないようでいて、実は綿密に計算し尽くされた詩作なのである。

では、版を厭わずに、もう一つ引いてみよう。

        まだらな記憶     冨上芳秀

   灰色の脳の海を一匹の赤い蝶がひらひらと飛んでいく。それを黒い
   海馬が鈍重な動作で追いかけていった。大きな図体をしているけれ
   ど、うれしそうにしているのが外見にもわかる気がする。 ああ、な
   つかしいのどかな風景だなあと歩いていくと、「そんなに虫捕りばか
   りしていないで早く帰っておいで」というお母さんの声が聴こえた。
   しまった。 もう、夕飯の時間だったのか、急いで家の帰ると知らな
   い女の人がご飯の支度をしていた。「おかえりなさい、早かったのね」
   「失礼ですが、あなたはどなたさまですか」 「ああ、やっぱり痴呆が
   進んでいる。 もう私の手には負えないから先日、話し合って決めて
   いた介護施設に入所の手続きを進めることにしよう」 「思い出した、
   あなたは私の奥さんだ。 許してください。 お母さん、ちゃんとご飯
   を食べますから、明日はちゃんと幼稚園に行きますから」 そうだ、
   まちがいない。 ボケてなんかいるものか。私は少年だったのだ。真
   っ白い捕虫網を風になびかせて、今、赤い蝶を捕まえたところだ。
   すると、 辺りの景色が灰色の夜になって、海馬が死にそうな悲し
   い鳴き声を長く響かせた。
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この詩も、「許してください。 お母さん、ちゃんとご飯を食べますから、明日はちゃんと幼稚園に行きますから」という個所など、
今どき報道で問題になっている継父の幼児虐待のニュースなんかを巧みに取り込んで詩に仕立てている。
お見事なものである。

これらは、一頃、集中して読んでいた「帚木蓬生」の小説─例えば「臓器農場」のプロットと共通するところがあり面白かった。
お見事な「散文詩」に堪能したことをお伝えして鑑賞と、紹介を終わる。 有難うございました。





「詩遊」No.63/2019/Summer・・・木村草弥
詩遊_NEW

──冨上芳秀の詩──(3)

       「詩遊」No.63/2019/Summer・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この季刊の冊子が贈られてきた。
とにかく冨上芳秀氏はタフな人である。
こまめに、創作にグループ誌の発行に熱心に取り組んでおられる。
最近は毎年1月1日に詩集を刊行されてきたが、今年は都合で刊行できなかった、と謝まられる始末である。
先ず、掲出した冊子の挿絵をみてもらいたい。
冨上芳秀が出す詩集も、この冊子も、すべて上田寛子の手になるものである。
今回のカットの絵は「ASITA BLDG」と描いてあり、恐らく、これは「明日」ビルティングの謂いだろう。
またエレベータの階数表示のところには「63」と、この冊子の連番が描いてある、という「凝り」ようである。
いつもながら、斬新なイラストに敬意を表しておく。

二、三作品を抄出してみよう。

        水光る朝       立花咲也

   くの字に曲がった老人が
   乾いたアスファルトに
   ものすごい勢いで放尿している。

   と思ったら
   枯れたからだの
   ステテコの腰のあたりで持った   
   ホースで散水していたのだった
   ふ
   ふふふ
   思わず笑うと涙が止まらなくなる

   ・・・・・・・

   チリリ
   そろそろ通りたいので
   遠慮がちに自転車のベルを鳴らしてみる
   あっ
   ホースごとこっちに振り向いたら
   あかんっておじいさん
   わっ

   水滴る朝
   今日もきっと暑くなる
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ただいまは、この詩の終連の通り、焼け付くような暑い日が続いている。
それらの日々に因んで、この作品を頂いておく。

        カノッサの屈辱       桑田今日子

   何故だろうか
   時々、思い浮かんでしまう
   カノッサの屈辱という言葉
   世界史の教科書で見たのは
   破門されたローマ皇帝がひざまずいて
   教皇に許しを乞うている挿絵だった
   ・・・・・・・

   昔、軍隊の教練で街中を行進中
   馬から落ちた父は
   「貴様っ、馬に謝れっ」と上官に怒られ
   馬に土下座して謝った
   ・・・・・・・

   その娘が床にひざまずいて
   家の拭き掃除をしている
   「子持たずちゃ、かわいさげに。」
   どこかで聞いた一言を背に
   立ち上がるとき
   えいこらしょっと
   と、わなわなする膝に伝えた

   ・・・・・・・

--------------------------------------------------------------------
タイトルの「カノッサの屈辱」という言葉が的確であり、印象ふかい。

長いので引用するのは控えるが、
   数字遊び    冨上芳秀  という作品が面白い。
いつもながら冨上芳秀氏の「詩」は、プロットが秀逸である。
巻末の「編集後記」の文章の末尾に、こう、ある。
<・・・・・百年経てば、もう名前なんて影も形もない。名前なんか、どうでもいいではないか。
 詠み人しらずというのは、作者ではなく歌そのものが存在するということだ。
 その時、作者は世界そのものを手に入れて、世界そのものになることができる。>

何と凄い「揚言」ではないか。
冨上芳秀氏の今後に期待したい。               (完)




   

冨上芳秀詩集『真言の座』 『かなしみのかごめかごめ』 『蕪村との対話』 『恥ずかしい建築』 『詩遊60』 『詩遊61』 『詩遊62』・・・木村草弥
真言_NEW
 ↑ 第9詩集
かごめ_NEW
 ↑ 第10詩集
蕪村_NEW
 ↑ 第11詩集
建築_NEW
↑ 第12詩集
詩遊60_NEW
  ↑ 詩遊60号
詩遊61_NEW
 ↑ 詩遊61号
詩遊62_NEW
↑ 詩遊62号

──冨上芳秀の詩──(2)

   冨上芳秀詩集『真言の座』 『かなしみのかごめかごめ』 『蕪村との対話』 『恥ずかしい建築』
                  『詩遊60』 『詩遊61』 『詩遊62』・・・・・・・・・木村草弥


半月ほど前、初めて冨上芳秀の詩を紹介したばかりだが、今回、詩集などが、一度にドカッと贈られてきた。
私の紹介が認められたものと考えて嬉しい次第である。
今回は本の数か多いので、ほんのつまみ食い程度しか触れられないと思うが、お許しを。
そして、冨上芳秀の詩」を「カテゴリ」にまとめることにしたので、前回のものも含めて設定し直したので、ご了承を。

さて、本論である。
現代詩作家というと、とかく日本古来の文学、文芸の「伝統」から「切れたがる」人が多い。
つまり「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」などの差別、切れる、のみを強調することである。
日本人として生きてきて、そんなことが果たして可能なのか、否である。
良識ある詩人たちは、そんなことは、しなかった。
今回いただいた本を見てみると、冨上芳秀氏は、そんな人たちとは立場が違うようである。
詩集の題名を見るだけで、それが分かる。 「真言」「蕪村」など、作者は、これらを、よく学んで居られることが分かる。

『真言の座』では、難解な仏教の定義「真言」を、見事に噛み砕いて「九界によって構成された混沌としたメーズ」として把握して作品が創られている。

「真言」は、サンスクリット語の「mantra」を漢訳したものである。
最初はバラモン教の聖典である『ヴェーダ』に、神々に奉る讃歌として登場し、反復して数多く唱えることで絶大な威力を発揮すると考えられていた。
後に、バラモン教に限らず不可思議力を有する呪文をことごとく「mantra」というようになった。
バラモン教や非アーリヤ系の土着の信仰の「mantra」が仏教に採り入られて、治歯・治毒・悪鬼羅刹からの護身・延命など現世利益のための「mantra」が用いられるようになった。
この「mantra」を龍樹や玄奘は、「呪文」または「神秘的な呪文」の意味で「呪」・「神呪」等と訳し、善無畏や不空は、「仏の真実の言葉」の意味で「真言」、「仏の秘密の言葉」の意味で「密言」等と訳した。

この本から一つ詩を引いてみる。

     誰もいないさびしい町で、私は初めて死と出会った。そっと私の横に滑り込んできた青白い死の身体は冷たく冷え切っていた。 
     それ以来、死はいつも私の側にいた。・・・・・  
     尖った乳房をこすりつけてくる死の柔らかい耳を咬みながら、「もう別れよう」と囁いたが、死は自信たっぷりに嫣然と笑った。
     「いいわ、別れても。でも、私はけっしてあなたを忘れない」と。            最愛の人  

題名が作品の末尾に置かれるのが、独特である。
どの詩集でも、そうだが、上田寛子による挿絵が秀逸である。
この本は八個の絵が入っている。
この詩集は2014年1月1日に刊行された。 最近は1月1日発行が続いている。 これも特異なことである。

『かなしみのかごめかごめ』である。
この頃、作者の娘さんが自裁されたという。そこから「かなしみのかごめかごめ」の題になっているという。

かなしみのかごめかごめ
地獄の鐘が毎朝、毎晩カンガン響いてとてもこわいのですとあの子が言いましたか。そうですか。あの子がかごめかごめの話をしましたか。体育館で生徒たちがバスケットボールをしています。いつまでたっても鳥は籠からは出られません。鳥は永遠に愛を失くした恨みを歌っています。・・・・・
そうしてみんな死にました。・・・・・後ろの正面だぁあれ?と尋ねる人も、もう、だれもいません。此の世にはぽつねんと両手で目隠しをして、何も見ようとしない鬼が一匹、蹲っているばかりでした。もう周りにはだれもいませんでした。そうして鬼はひとりで死にました。

この詩は、創作ではありながら、娘さんの死に関連するものだということは確かだろう。
作者の、辛い記憶に結び付く一篇と言っておく。
この本は2015年1月1日に刊行された。

 『蕪村との対話』である。
この本の「帯」裏に、こう書かれている。

<蕪村の俳句には特異なポエジーがある。
 特にシュールレアリズム的な魔的で不気味な魅力を感じながら蕪村とは異質な私自身の世界で蕪村と対峙しようと思ったのである。
 ・・・・・ここ十年ほど私は無謀ともいえるこの実験を繰り返してきた。
 蕪村という時代を超えた偉大な詩人と対話することで私は自分の姿を少しは見ることができたのではないかと思っている。>

作品を一篇引いてみる。

  月光西にわたれば花影東に歩むかな (蕪村)

  猫時計は昼も夜も眠っています。真っ赤なトマト、まともなマトン。どうやら背中に傷を負ったらしい。
  昨日、観音講に行った時に女に舐められたからな。酒を飲んでぶっとんじやったんだ。死ぬまで沼でチリヌルオワカ。
  ・・・・・不精な蕪村。今朝の電話にはまいったな。変わらぬ古女房は歳月の猿。・・・・・
  町をさっそうと長いコートで身を包んで大股に歩いていた。その下はスッポンポンだったのには笑ってしまったな。
  また、はじめての時みたいに皮を剥いで新鮮に食べた。                       歳月の猿


  古池に草履沈ミてみぞれ哉 (蕪村)

 老いを追い人生の枯野をさまよう。ウリウリガウリウリニキテウリウレズ、ウリウリカエルウリウリノコエ。
  笈を背負い人性の町で鯖を読む。売れませんねえ。人生の晩年の重い思いを売り売り、笈を負い人生の涸れ、彼の悩を収まんように。
  ウリウリガウリウリニキテウリウレズ、ウリウリカエルウリウリノコエ。
  生いを蔽う新生の華麗の能に産婆さま酔う。老いを負い人世の加齢の脳をさまよう。        老いのニガウリ

「言葉あそび」が秀逸である。詩人の極致である。 上田寛子の絵も、ますます冴えている。
この本は2016年1月1日に刊行された。

 『恥ずかしい建築』

この本は、散文詩の形ではなく、普通の「行分け」の詩になっている。
この本の「帯」裏に、こう書かれている。

<建築という言葉は通常の場面では恥ずかしいものではない。しかし、状況によっては、恥ずかしいと感じさせる言葉にもなる。
 ・・・・・言葉は色々な側面からアプローチしなければ、その実態をつかませない鵺のような存在である。
 ・・・・・言葉の足の裏をくすぐって笑わせたいと思った詩が集まってきたように思う。>

この本の詩を一篇引いてみる。

   アニマルごっこ

  雨の降るあばら家で
  あなたと私は
  アニマルごっこをしています
  明日の朝は雨が止んで
  朝顔の花
  青い花
  赤い花が咲いているでしょうか
  アボガド、アオクビ、アホウドリ
  アカチャン、アリサン、アシタノシアワセ
  アセボ、アオムケ、アンパンマン
  青虫は雨の紫陽花を登って
  虹の橋を渡り
  朝日を浴びて
  青空の向こうに
  蝶となって飛んでいきました
  浴びる浴びる愛の雨
  アニサン、アネサン、アカネサス
  あなたと私のアニマルごっこ

他に「ガムを噛むアメリカ人」という作品があるが、作者の愛着のある詩らしいが、掲出した図版で読み取れるだろう。
これらはいずれも見事な「言葉あそび」である。
この本は2017年1月1日に刊行された。

詩遊は、作者が講師を務める大阪文学学校の卒業生らが、作品を発表する場として用意されているようだが、この冊子の巻末に「詩についてのメモ」という欄があって、恵贈された詩集などについて書かれている。
作者が先年、病気になられたようで、本がたくさん溜まっているらしい。
62号までで、新延拳詩集2018/10/30までのものに言及されている。
ここに載る作品については、勝手ながら省略させてもらう。

たくさんの本を有難うございました。                     (完)




冨上芳秀詩集『白豚の尻』 『詩遊No.59』・・・木村草弥
富上_NEW

詩遊_NEW

──冨上芳秀の詩──(1)

     冨上芳秀詩集『白豚の尻』 『詩遊No.59』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・詩遊社2018/01/01刊ほか・・・・・・・

標記の本が贈られてきた。
巻末の略歴によると、冨上芳秀氏は1948年和歌山市生まれ。
多くの著書がある。
その中で、1980年 詩集『聖母の月』 (紫陽社) というのが目についた。
紫陽社というのは、荒川洋治がやっていた詩の出版社で、私がまだ壮年期の頃ここからこの本を買ったことがある。
昨年、蔵書整理をして詩書は日本現代詩歌文学館などに、まとめて寄贈したので今は手元にないが、本の名前は記憶している。
はっきりとは覚えていないが、『聖母の月』はリリックな詩ではなかったか。まだ若い頃の作品である。

今回の本『白豚の尻』 は題名からして極めて特異である。そして「散文詩」である。
図版の画像からも読み取れると思うが、この画像の作品は「赤き明日の下心」という詩で、画像には、その60パーセントくらいが読み取れる。
読んでみてもらいたい。
それからも判る通り、極めて特異な幻想的な作品で、いかにも現代詩、というところである。

全部を引くことはしないが、この一巻がすべて、こういう風に展開する。
題名の「白豚の尻」については「後記」という巻末の文章に詳しく書かれている。

<この詩集で私が伝えようとしたものが、〈白豚の尻〉である。
 詩で伝えようとしたものというと何かの思想や世界の意味を伝えようとしていると誤解されるかもしれない。
 しかし、 詩というものはそれとは全く逆のものである。
 最初からそんなものがないのが詩なのである。
 私の詩が寓意を持つものであると考える人がいるが、そんなものはない。
 ・・・・・詩は言葉の意味ではなく、その世界を感じることである。
 私が伝えたかったのは、〈白豚の尻〉を感じてもらうことであった。
 ・・・・・この詩集を読んだあなたが、ニヤリと笑うようなことがあったならば、私の〈白豚の尻〉は、確かに、あなたに伝わったのである。>

と書いている。
私は前から、「詩は意味を辿ってはイケナイ。詩は感じるものである」と言ってきたが、まさに、同じことが、ここに書かれている。

ただし、この本には「白豚の尻」という詩は載っていない。「白豚の尻」とは、題名だけであるから、念のため。
この本には「上田寛子の絵」というのが九枚載っている。
どこかで、この絵について書いてあったようだが、今は見つからないが、本文の詩と関連があるものも、ないものもあるようである。

図版②に掲出した「詩遊」には、この『白豚の尻』についての「自詩自注」みたいな文章が載っている。
意味を辿れない人は、それを読め、ということであろうか。

ネットを検索すると、冨上芳秀氏は「大阪文学学校」の講師をなさっているらしい。
「詩遊」には、その生徒たちの作品が載せられているらしい。

また「イプリス Ⅱnd」iにも作品を発表されている。
いま手元にある「イプリス Ⅱnd」26 には「アヤメ沼の帽子売り」として「色事根問の蛍踊り」「ウシウマ君」「約束の町」などの散文詩が載っている。
とにかく、冨上芳秀氏は今や油の乗りきった頃と言え、70歳ということだが、極めて旺盛な活動をなさっているようだ。
中途半端な書き方になったが、ここに、ご恵贈に感謝して筆を置く。 有難うございました。     (完)



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