K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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あたたかい冬の味覚・うどん・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  あたたかい冬の味覚・うどん・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日は寒い冬の味覚として、あたたかい「うどん」の話をしよう。
うどん、そばは何も冬の味覚と決ったものではなく、一年を通して食べられるものだが、冬の味覚として「鍋もの」と共に、体が温まるので、好んで食べられる。
一般的な印象として、関東では余り「うどん」は食べないような気がするが、いかがであろうか。

夏の味覚である「そーめん」(素麺)と「ひやむぎ」でも関東と関西では、消費量に大きな差があると聞く。
そーめんは関西で、関東はひやむぎということである。私は関西だが、むしろ「ひやむぎ」の方が好きである。

さて、「うどん」だが、物の本によると、奈良時代に唐から輸入された菓子だと書かれている。それがどんなものであったかは、判らない。
古くは927年の『延喜式』という法律(律令の施行細則)の中に、米粉と小麦粉を練って縄のように伸ばし、ゆでて食べる「索餅」が登場するという。また同じ頃に、小麦粉の皮で肉や野菜を包んで丸め、肉汁に浮かせた「昆飩」というものがあり、その名前が今の「うどん」になつたという説もある。当時は、貴族や中国大陸と縁が深い僧侶の口にしか入らない高級料理だった、とある。

現在の「うどん」は、鎌倉時代以降に中国から伝わった「切り麦」が原型で、当初は今より細い麺だったらしい。室町時代には、現在の手打ちうどんと同じ製法が、ほぼ出来上がったといいます。
「そば」については、現存する最古の記録は722年の『続日本紀』に冷夏で米が収穫できない時に備えてソバを栽培せよ、という文章が残っているという。だが、蕎麦が今のような細い麺になったのは、うどんよりも遅く、江戸時代だと言われる。寛永年間に浅草寺の境内に「そば売り」が登場したと言われている。それまでは、ソバの実から殻を取り除いた「蕎麦米」を煮て食べたり、そば粉に熱湯を注ぐ「そばがき」や、餅や団子にして食べる方法が一般的だったという。
そう言われると、京都市内でも「かわみち屋」などの菓子屋に「蕎麦菓子」と共に「蕎麦」を食べさせる蕎麦屋が現存するのが、その証と言えようか。

生地を寝かして熟成させ、小麦のタンパク質(グルテン)を使って独特のコシを出すのが「うどん」である。粉の種類や練り方によって、粘りの様子が違い、現在は粘りの強い「讃岐うどん」が好まれるようだ。ただし、これには各人の好みがあるので、どうぞ自由に好きなものを食べて下さい。名古屋へ行くと、ここは圧倒的に「きしめん」の領域で、讃岐うどんも影がうすい。

亡妻が麺類を好きだったので、私もすっかり感化されて、独り住まいとなった今では、手軽に料理できるので、うどんをよく食べるようになった。「ゆでうどん」がたくさん売られているが、もらい物の乾麺がたくさんあるので、大きな鍋でゆでて、数回分を作り、一食分づつサランラツプでくるんで冷凍しておいて、鍋にいれて炊きあげて食べる。
「もらい物」の乾麺が無くなったので、以後は「ゆでうどん」を買ってきて、一食150グラムづつに分けて冷凍しておいて温めて野菜、卵を入れて昼食には、ほぼ毎日食べる。
一日に一食は、かならず、うどんである。
さあ、今日もあたたかいうどんを食べて、体の芯から温まろう。

(参考文献・「たべもの日本史」永山久夫「蕎麦辞典」植原路郎など)
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──初出・Doblog2004/03/30──

 京滋の銘菓を訪ねて(2)・名所にうまいものあり・・・・・・木村草弥

先にアップしたものに前口上は、たっぷり書いたので、ここでは各銘菓の説明を書くにとどめたい。

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一番上は滋賀県草津市の「お菓子処 うばがもちや本店」の、その名も「うばがもち」である。草津は東海道五十三次の宿場町で、近江守護代、佐々木義賢の家に仕えた乳母が、郷里の草津で作って売ったのが評判になり、徳川家康も賞賛。東海道と中山道の分岐点で、交通の要衝だった草津宿に、諸大名が立ち寄っては買い求めた、という。小さな餅を、こし餡が包み、上にちょこんと乗った白餡は、乳房から乳が出る様子を表わすという。いくつでも口に入ってしまう上品な甘さ。

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二番目は平地から少し山の方に入った「信楽焼」で有名な滋賀県甲賀郡信楽町の「紫香楽茶寮」の「うずくまる」という銘菓。「紫香楽宮」は742年、聖武天皇の都が短期間あった所。
「蹲」は室町時代からある信楽焼の小さな壺。
華道では、茶室で花入れとして珍重された名高い小壺である。
人間がしゃがんだような形から名づけられた壺をかたどった菓子。米粉の柔らかな皮がまろやかな甘みのつぶ餡を包む。信楽名産の朝宮茶が練りこまれた抹茶生地は、ほんのりした香り。

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三番目の菓子は滋賀県大津市園城寺町の、これも有名な三井寺の近くにある「三井寺力餅本家」の「力餅」である。

僧兵との争いで三井寺の鐘を奪って、比叡山まで引きずったという弁慶の怪力にちなんで付けられた名前の「力餅」。
注文を受けてから作ってくれるため、いつでも出来たてがいただける。
秘伝の蜜をかけた餅に、たっぷりまぶした青大豆のきな粉。ほどよく柔らかな食感の餅に、蜜と香ばしいきな粉が絶妙にからむ。持ち帰りも可能。

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四番目の菓子は、京都市右京区嵯峨にある「あゆよろし・鮎の茶屋平野屋」の「志んこ」である。
「火伏せの守護神」として有名な愛宕神社の一の鳥居の傍に建つ平野屋は創業400年、鮎料理でも有名な老舗の茶屋。

「志んこ」は米の粉を練った昔ながらの団子で、この独特の捻ったような形は、盂蘭盆の8月16日に御魂がお帰りになる時に作ってお供えする「しんこ」という餅の形である。

ここの「志んこ」はきな粉をまぶして頂く。表の床几で愛宕街道を見渡しながら口に含めば、古人の足音が聞こえてきそう。

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五番目の菓子は滋賀県犬上郡多賀町の多賀大社の門前にある「ひしや」の「糸切餅」である。
多賀大社は、いざなぎ、いざなみの二命を祀る。もと官幣大社という高い格式を有する。室町時代以降は、「寿命の守護神」としての信仰が普及して崇敬されたという。名神高速道路の「多賀サービスエリア」は大きなサービスエリアとして著名。

この菓子は鎌倉時代、蒙古軍の来襲を免れたことを感謝して神前に供えたことが始まりという。
この「糸切餅」は平和を願って、刃物ではなく糸を使って切るのが特徴。米粉の柔かい生地に上品な甘さの餡がよく合う。
糸切りの実演が目の前で見て楽しめるのも、一興。

(参考文献)など(1)に同じ。
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 京滋の銘菓を訪ねて(1)・名所にうまいものあり・・・・・・・・・木村草弥

季節もよくなって桜や桃の花咲く絶好の行楽シーズンになった。
名所を訪ねる楽しみの一つは、その土地土地の銘菓を食べること。京都・滋賀(京滋と言う)には、伝統を重んじる老舗の高級菓子から、親しみ深い庶民の味まで数多くの銘菓がある。
今日は「菓子」のことを少し。

上古、「菓子」は「くだもの」と発音され、文字通り、果物や木の実などを指した。現在のような、さまざまの材料に手を加えて作る菓子は、奈良時代に遣唐使が唐から持ち帰った「唐菓子」が始まり。米粉や小麦粉をこね、油で揚げた唐菓子は、団子や煎餅の原点となった。

鎌倉時代に入ると禅宗とともに茶が伝来し、同時に茶菓子の「点心」も伝わって来る。点心は、羹(あつもの)類、麺類、饅頭類、餅類があり、後の羊羹や饅頭の源流となるもの。
室町時代には、南蛮貿易によりカステラ、ビスケットなど、卵と砂糖をふんだんに使う菓子が入って来る。砂糖の輸入が大量になるが、まだまだ貴重品で庶民の口には入らなかった。

江戸時代になって世の中が平穏になり、菓子店の数も増え、それぞれの特色を出した菓子が作られるようになる。
茶道の盛んな京都では、茶席用の優雅な上菓子が生れ、宮廷や公家、寺社など上流階級の人々の間で、味だけでなく、色、形、銘を楽しむ文化へと洗練され、各地の菓子に大きな影響を与えることになる。
また、雛祭、端午の節句などの行事が一般化し、折り目ごとに特別の菓子を食べる習慣が出来たのも、この頃である。
東海道などの街道が整えられ人々の往来が活発になると、道中菓子、門前菓子も増え、菓子の世界はますます多彩になって来る。各地のさまざまな味を口にする機会も増え、菓子は庶民の間にも浸透し、各地に銘菓が誕生するようになる。

豊かな自然に恵まれ、神社仏閣も多い京滋には、今も昔も大勢の人が観光や参拝に訪れるため、銘菓がたくさん作られる。そのうちの一端を、写真に撮れたものに限って少し紹介しよう。
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一番上は、京都市北区紫野にある今宮神社の東門前にある、本家根元・かざりやの「あぶり餅」である。もともとは神前に供えられていた神饌菓子であった。初詣のみやげや、春には門前の桜を見ながら床几で頂くのも風流というもの。

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二番目の写真は京都市左京区にある下鴨神社近くにある和菓子店「亀屋粟義」が営む「加茂みたらし茶屋」のみたらし団子。下鴨神社の御手洗池の泡をかたどったとされる。上新粉を練った団子を串に刺して焼き、とろりと甘い黒蜜のタレがかかっている。五つの団子は、御手洗祭や葵祭の時に、神前に奉納される形を受け継いでいるという。

「葵祭」というと京都三大祭の一つで、毎年5月15日に行われる。午前9時に御所を出て葵橋を渡り下鴨神社で神事を行い、糺の森で走馬の儀を催し、賀茂川堤を北上し上賀茂神社で同じ神事をおこなう。御所に戻るのは夕方になる。

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三番目の写真は、京都市上京区にある北野天満宮近くの、創業400年を誇る長五郎餅本舗の「長五郎餅」である。
店はいま天満宮の外にあるが、創業当時は今よりもずっと広かった境内に含まれ、参拝客に向けて餅を売っていたという。
天満宮で大献茶会を開いた時に用いられた、この餅を豊臣秀吉が気に入り、当時の店主の名をとって命名したという。柔かい食感の餅と、すっきりした甘さの餡が絶妙に調和する。

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四番目の写真は京都市東山区にある「八坂神社」の少し南にある1617年創業という老舗。京菓子司・亀屋清永の銘菓「清浄歓喜団」である。
この菓子は奈良時代に遣唐使が仏教とともに伝えた唐菓子を再現したもの。
白檀、桂皮(ニッキ)など、仏教で「清め」の意味を持つ7種の香料の入った皮で小豆餡を包み、ゴマ油で揚げてある。カリッとした皮は意外にあっさりしている。
シルクロードの時代を彷彿させる珍味。
八坂神社というと、7月の「祇園祭」は、この神社のお祭である。また、12月31日から新年にかけては、この神社の灯籠から頂いた火を火縄に移し、消えないようにくるくる回しながら家に帰り、その日でお雑煮を炊くのが京都の風習。

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五番目のものは葵祭で有名な京都市北区の上賀茂神社近くの「神馬堂」のやきもち。
この店は1872年というから明治のはじめに上賀茂神社の神馬の厩舎横で創業したことから[神馬堂]の名前になった。
両面を焼いた香ばしい「やきもち」には、餡がたっぷり入っていて、食べ応えも十分。焼きたてのおいしさに思わず唸るほど。すべて手作り、手焼きのため、個数に限りがあり、売り切れ次第終了。

(参考文献)『京・銘菓案内』鈴木宗康 1999年 淡交社
京都新聞トマト倶楽部情報誌「トマト・マガジン」4月号
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──初出・Doblog2004/02/19

   シチリアのシーフード・・・・・・・・・・木村草弥

この文章は短歌結社「未来」誌2004年1月号の「樹海の雫」という欄があって、
(22)「冬の歓び」というテーマで投稿を依頼されたものの再録である。


  シチリアのシーフード・・・・・・・・・・・木村草弥

私は二月はじめの生れで虚弱児だった。生れた年は厳寒の冬で、私は体の両側に陶器のユタンポを抱えて寝かされていたらしい。冬生れの者は汗腺の数が少なく、したがって夏には弱い。中年過ぎまで梅雨に入ると途端に蒸し暑さにゲンナリして食欲もなくクーラーにすがっていた。そして季節の代り目には胃腸障害で食滞を起して、一からオジヤに梅干からはじめるという食養生をしていた。それが老年期に入った頃から、そんな胃腸障害もなくなり、夏の暑さが苦にならなくなり、代りに冬が苦手になり風邪を引き易くなった。
だから課題「冬の歓び」と言われても体を使うスポーツ系ではあり得ない。冬のスポーツの王スキーも大学の体育実技で単位もらいのために一、二度行ったきりだ。まして私はスポーツ全般が不得手で、ゴルフをやっていた頃は同行者にスコアカードもつけてもらえない程の冷遇を受けていた。
そんな私に「冬の歓び」と言えば、おいしいものを食べる楽しみ位しかない。この歳になると量は要らない。美味なるものを少量づつ食べれば充分。冬の味覚というと山陰・北陸のズワイガニということになるが、私は蟹を食べるのが下手で、そんなにご馳走とも思わない。
今でも印象に残っているのは1995年1月にシチリア島と南イタリアの旅をした時に、シチリアのタオルミーナで、岸顕樹郎君たち男女六人とオプションで食べたディナーを思い出す。地中海というと、やはりシーフードがおいしい。
どんなメニューだったか、今となっては思い出せないが、みんなでわいわいとレストランのシェフやウエイターと喋りあい、ワインの品さだめをして、という雰囲気が楽しい。そしてタオルミーナの夜は更けてゆくのだった。
岸君が装丁家だと知って、私の歌集の装丁は、以後ずっと彼の手になる。彼を角川書店に繋いだのは私で、今では角川の多くの本の装丁を彼が手掛ける縁である。
私が角川書店から出した歌集、詩集4冊は、みな彼の手による装丁である。





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