K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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陰陽五行とインド占星術・・・・・・・木村草弥 (Doblogから転載)
陰陽五行とインド占星術

2004/07/27のBlog
占星術いろいろ(10)─東洋五千年の知恵─■TB:占星術・暦:■
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──香港の暦─通書─────木村草弥

「占星術いろいろ」として書いてきたが、インド占星術については資料のないままに(1)(2)(3)で打ち切りとした。最初から「占星術いろいろ」には最低10回は書きたいと思っていたので、今回は間に合わせの感がするが、香港の暦について岡田先生の本を参照しながら書いて、それこそ今回をもって一区切りとする。
二番目の写真は何度も引用してきたが、岡田芳朗先生の本である。
この中に19ページにわたって「香港の暦」のことが書いてある。香港は長年のイギリス植民地から先年中国に返還されたが、基本的に一国二制度ということで極端には変わっていない。

──香港の運勢暦──通書──
香港やマカオでは年末には、さまざまのカレンダーや暦を売っている。中でも目を引くのは暦で、日本の運勢暦にあたるものは中国では「通書」と呼ばれているが、日本の暦に比べて、とにかく厚くて豪華、表紙の色も金ピカで派手である。
三番目の写真が不鮮明だが、通書では老舗の「永経堂」発行のものの表紙である。縁起のいい赤や金をふんだんに使った派手な装丁。タテ25.5センチ、ヨコ12.5センチ、厚さ4センチで、電話帳くらいの厚さで枕に丁度よさそう。やや厚手の紙を二つ折りにして袋とじにし、約200丁、400ページに達する。
表紙には福の神が童子たちに金銀財宝を山積みにした手押し車を押させている目出度い絵を掲げる。見返しには十二支による一日十二時辰と、世界時と香港をはじめとする世界の主要都市の時刻などを示している。
四番目の写真が、その第一ページで、丁卯(1987)年春牛耕田図を描き、耕牛の大きさや色、それを引く牧童(芒神)についてのさまざまな記載による啓示によって、今年の農耕の吉凶を占う。また「地母経」や「地母曰」と判断の由来を記し、春社、秋社、冬至、大寒の日付、分竜と三伏(初伏、中伏、末伏)の日付、および四季の土用事(土用)の日付を掲げる。
この辺のところは日本の暦と、よく似ている。
四季の黄帝の図を示し、道教の神・張天師の「鎮宅浄水神符」などの神符
洗頭(頭髪を洗うこと)や裁衣の吉日
耳鳴りやくしゃみの時刻による占い
二十八宿の占い
六十花甲(干支)の諸神の方位
などが書かれている。
五番目の写真で、ようやく「丁卯年大字通書」ようやく今年(1987)の暦の本体に到達した。
上段に太陽暦、中段以下に農暦(太陰太陽暦)を配している。暦は農暦の正月初一日から始まるので、太陽暦の最初の日付は毎年違っている。この年の場合は1月29日から始まり、翌年2月16日で終っている。
毎日の記事は、第一段に太陽暦の日付と星期(中国では曜日を日本のように、日曜、月曜、火曜・・・などとは言わない)、第二段に「天徳」「鳳凰」など、その日に配当された吉神と十二辰刻法による時刻ごとの吉凶、第三段にその日の禁忌事項、これは「忌」の字の下に、例えば「穿井開池」とか「結網取魚」のように具体的に記述される。第四段以下が農暦の記事で、まず日付、干支、二十八宿、十二直が記されている。二十八宿のうち、角・房・尾・・・・・井・張などの14星宿は朱色で印刷され、十二直でも同じく一部が朱色で印刷される。これは朱色は吉、黒色は凶を示すことが多いことによるが、必ずしも統一されていないらしい。第五段は二行にわたる大きな字で「宜」と書いて、その下に祭祀、祈福、結婚、入学、理髪、裁衣など、さまざまな行為に対して吉とされるものを記す。吉事註の下には凶日の記事が載る。
この段には二十四節気や七十二候も記入される。日蝕や月蝕もここに記載される。

──李淳風の時刻の占い──
これは掌を使った占いだが、この占いは日本の「六曜」の起源になったもの。もともとは、この通書にあるように、一日12刻ごとに大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡が循環していく。日本には室町時代に入ってきて、幕末頃には目的も名称も変わって、日本の今日の六曜になった。大安=大安、留連=友引、速喜=先勝、赤口=赤口、小吉=先負、空亡=仏滅となった。
発案者は李淳風「儀鳳暦」を作った唐代の暦学者だが、何故か日本では諸葛孔明の発案とされる。
もとの掌を使った占いについては岡田先生の本に詳しいが、省略する。
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こうして香港の暦を見てみると、一部、日本式に変更が加えられているが、基本的に日本の暦と同じようである。
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2004/07/23のBlog
占星術いろいろ⑨──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■


──インド占星術(3)誰にもわかるインド占星術?──────木村草弥

(1)(2)とインド占星術の、ほんのさわりの所を紹介してきたが、これから先は「占い」の分野に入るので、それは私の興味の範囲を超えるので、それ以上は立ち入らない。一番はじめに書いたように、私は「占い」というものは信じない、たとえ物凄くよく当るとしても、私は試してみようという気が全くない。
したがって、インド占星術に関しては、今回で書き込みを完了する。今回はインド占星術についての「常識」的な用語についてレポートする。
今回ラオ先生の『やさしいインド占星術・入門編』その他を取り寄せて読み、その付属としてサービスで私の「ホロスコープ」を送ってもらった。ホロスコープというのは、もともとは西洋占星術の用語であり、インド占星術でも一応は使っているが、正式には「チャート」という用語を使っている。私のホロスコープでもRasi Chartというように書いてある。イギリスの長期の植民地支配で英語が定着しているので、この本も原文は英語である。インド人は数学などの理数系の思考に秀でているのと、英語が普及していることもあって、今やソフト制作などはアメリカから大量にインドに下請けに出されていることは周知の通りである。
そんなことでインド占星術はアメリカで人気があり、母国インドの方式を捻じ曲げたような発展もしているらしい。
今回の見出しに「誰にでもわかるインド占星術?」と書いたが、果たして誰にでも判るだろうか。だから、わざと「?」マークを打っておいた。
これは私に「占い」の願望がないのが災いしているのは確かだろう。その願望がなければ真剣に学ぼうとしないからである。
いずれにしても(1)(2)を読み解くのに必要なことを補足して書いておく。

──ヴェーダとジョーティッシュ──
インド占星術は別称ヒンドゥー占星術と言われるようにヒンドゥー教と切っても切れない関係にあるものである。インド古来の思想ヴェーダの教えから来ている。
ヴェーダには、リグ・ヴェーダをはじめとする4つのヴェーダがある。リグ・ヴェーダという名前くらいは耳にしたことがあろうが、ヴェーダとは根源的な自然の摂理を音で表現したもので、それは教えというよりも神の賛歌と言ったほうが適切だと書かれている。太古の聖者(リシ)たちが超越意識(真我)において直接知覚したもの、あるいは天から得た啓示などとも言われており、人間が創造したものではないとされている。だから身体的・精神的な鍛錬を経て高い意識次元すなわち真我に達したとき、おのずと理解されるものだ、と説かれる。その理解のためにサンスクリット語による教えJyotish
「ジョーティッシュ」すなわち「光の科学」と呼ばれるものがあるのだ、と。
ジョーティッシュの主流は約5000年前に聖者パラシャラが神から啓示を受けて著したブリハット・パラシャラ・ホラ・シャシュトラ(BPHS)という経典をもとにしたシステムが「ラオ先生のやさしいインド占星術」に書かれているのだという。

何だか最初から勿体をつけるような書き方になったが解説書にそう書かれているのを書き写したまでである。難しい理論を平易に読み解いて、はじめて庶民レベルまで普及する、ということがあるので、インド占星術は神秘主義で勿体をつけている、という私の批判のもとになっている。
今日、天体の運行もかなり究明され、人間が宇宙へ行こうかという時代である。5000年前の聖者の受けた啓示をいつまでも振りかざすのは感心しない。

──惑星の象意と惑星の吉凶──
チャートを読むとき惑星の強弱ということを調べる。それは、その人の人生における中心的なテーマとなるからである。太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、ラーフ、ケートゥであるが、たとえば太陽には「王、魂、エゴ、勇気、プライド、地位、名誉、権力、エネルギー、濃い赤」などの象意が配当されている。他のものは省略する。占いをするつもりはないからだ。
他に惑星の吉凶というものがあり、
 吉→木星、金星、水星、月(ただし水星、月は中立的)
 凶→土星、火星、太陽、ラーフ、ケートゥ
が配当されている。

──ハウスと支配星──
インド占星術では、それぞれの星座に一つづつハウス(室)が対応する。どの星座にどのハウスが対応するかは出生日時によって決る。
それぞれの星座にはオーナーとして惑星が一つづつ割り振られる。このオーナーを英語ではLordと言う。大家を意味する英語のHouse LordのLordと同じで、しかし日本語では「支配星」と訳されている。ラーフとケートゥは星座を支配しない。
割り振りなどの詳細は省略する。

──在住──
星座を土地、ハウスを建物、支配星を大家とすると、次は店子(たなこ)である。ハウスの住人である。
惑星が、ある星座あるいはハウスにあることを、在住すると言い、その惑星を在住星と呼ぶ。
これらのことは、何の説明もなしに一昨日、昨日と書いてきたことで、先ず説明してから本文や表を掲げるという訳にもゆかず、遅くなったが了承願いたい。

──ナクシャトラとヴィムショタリ・ダシャー──
ナクシャトラとは、12星座とは異なる、27の星座区分で、月が毎日ナクシャトラを一つ通過することから「星宿」と呼ばれている。インド占星術では、12星座と同様あるいはそれ以上にナクシャトラが重視されており、ヴィムショタリ・ダシャーもナクシャトラを基準に定義される。
12星座の幅はそれぞれ30度であるのに対し、ナクシャトラの幅は13度20’である。それぞれの星座には、ナクシャトラが3つ弱入る。
ナクシャトラには、それぞれ支配惑星がある。ナクシャトラの名前と位置、そして支配惑星は昨日の文章で「表」にして掲げたので思い出してもらいたい。

月が在住するナクシャトラをジャンマ・ナクシャトラと呼ぶ。それは「出生時の星宿」という意味である。私のホロスコープに則して見てみれば、月は牡羊座の29度41’に在住している。この位置はナクシャトラで言えばクリッティカーが、ジャンマ・ナクシャトラ、ということになる。
この時の支配星は太陽である。
私のホロスコープ(チャート)の場合、私のヴィムショタリ・ダシャーは太陽から始まる。その後、順番に月、火星、ラーフ・・・・・という具合に120年サイクルで循環する。先に掲げた「表」の右側末尾に記入した年数が私のヴィムショタリ・ダシャーの年数の推移を表すことになる。
この後には延々と説明が続くが省略する。
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以上、一昨日、昨日とインド占星術(1)(2)として書いてきたことの補足としての書き込みは終る。私の手元には、これ以上の資料がない。
私のインド占星術を瞥見した限りの印象では、インド占星術は「月」に固執した暦法だということに尽きる。だから、言い直すと古い「太陰暦」に固執したものと言えよう。太陰暦には修正すべき点が多いことは自明のことである。暦法そのものも発展、進歩しなければならない。「占い」の領域に留まっていてよい、というものではない。私はインド占星術の神秘性を有難いとは思わないし、極めて保守頑迷な暦法だ、とも思う。
もし、また後日思い出すことがあったら補記したい。
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2004/07/22のBlog
占星術いろいろ⑧──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■────木村草弥


──インド占星術(2)・ナクシャトラ(星宿)のことなど────木村草弥

昨日は私のホロスコープについて本によって読み解きながら進めて来た。
ここで私が目下テキストとしている本その他について書いておく。
(1)K・ナラヤン・ラオ『やさしいインド占星術・入門編』(星雲社・企画ASC、
2001年刊)
(2)インド占星塾『ベイシック・スキル講座』
(3)ソフト『インド占星術用語集』 India Senseijutsu.doc
(2)は(1)の本を買ったときに、本は難しいから読み解く補助にと添付して無料で呉れたもの。(3)はFrank Lloyd Wright氏がネット上で見つけてメール送信していただいたもの。ネット上で「インド占星術」と検索して、いろいろやってみたら出てくる。
私は氏に教えられて、それらを保存して利用しているが「Junior Jyotish」というものがあり、このサイトからフリーソフトをダウンロードすることが出来る。
この中にホロスコープのひな型の図が出てくる。

──ナクシャトラ(Nakshatra)星宿について──
昨日の(1)で、このことについて少し触れたので、ここで27のナクシャトラについて書く。先ず基本用語の説明。

ナクシャトラ:インド占星術には、天空を12で分ける12星座区分の他に、27で分けるナクシャトラ分割法がある。これは、月が約27日で天空を一周することに対応しており、月を重視するインド占星術では非常に重要な概念の一つである。各ナクシャトラは13度20分づつ均等に分割され、13度20分×27で合計360度となり、先に説明した12星座の360度と同じになる。9つの惑星が、それぞれ3つのナクシャトラを支配している。(9×3=27)
ダシャー(Dasha):ナクシャトラの支配星のそれぞれには、ダシャーと呼ばれる惑星期間が対応する。惑星はダシャーの期間中に、その力を充分に発揮し、もともとの出生図中においてその惑星が示している事象を、それが良いものであれ悪いものであれ、現象化させる。ダシャーは非常に便利なインド占星術の未来予測技法のひとつで、これにより出生図に示されているカルマが、いつ発現するかを知ることが出来る。
ヴィムショタリ・ダシャー(Vimshottari Dasha):多くのダシャー・システムがある中で、ヴィショタリ・ダシャー・システムは、すべてのインド占星術家によって最も多用され、最も信頼されているという。このシステムでは、出生時の月が位置するナクシャトラの位置を始点としてダシャーが計算される。

何だか難しい話になって来たが、ここで一覧表を掲げることにする。

NO. 度数──ナクシャトラ──ナクシャトラの支配星──ヴィムショタリ・ダシャーの年数
1. 0度~13.20'----アシュヴィニー-------ケートゥ--------------7年
2. ~26.40'-------バラニー------------金星---------------20年
3. ~40.00'-------クリッティカー---------太陽---------------6年
4. ~53.20'--------ローヒニー-----------月---------------10年
5. ~66.40'-------ムリガシラー----------火星--------------7年
6. ~80.00'-------アールドラー----------ラーフ-------------18年
7. ~93.20'-------プナルヴァスー---------木星-------------16年
8. ~106.40'-------プシャー-------------土星-------------19年
9. ~120.00'-----アシュレーシャー---------水星------------17年
10.~133.20'-------マガー-------------ケートゥ-------------7年
11.~146.40'----プールヴァ・パルグニー-----金星-------------20年
12.~160.00'----ウッタラ・パルグニー--------太陽-------------6年
13.~173.20'-------ハスタ----------------月--------------10年
14.~186.40'-------チトラー---------------火星-------------7年
15.~200.00'------スヴァーティー----------ラーフ------------18年
16.~213.20'------ヴィシャーカー-----------木星------------16年
17.~226.40'------アヌダーラー------------土星------------19年
18.~240.00'------ジェースタ--------------水星------------17年
19.~253.20'-------ムーラ---------------ケートゥ------------7年
20.~266.40'----プールヴァ・アシャーダー------金星-----------20年
21.~280.00'-----ウッタラ・アシャーダー-------太陽------------6年
22.~293.20'-------シュラヴァナ-------------月------------10年
23.~306.40'-------ダニシュター------------火星------------7年
24.~320.00'------シャタビシャー-----------ラーフ-----------18年
25.~333.20'----プールヴァ・バードラパダー-----木星----------16年
26.~346.40'----ウッタラ・バードラパダー-------土星----------19年
27.~360.00'-------レーヴァティー------------水星----------17年
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このナクシャトラ(星宿)一覧表は先にも書いたがインド占星術については重要なものらしい。
私のホロスコープに関して言えば、昨日も書いたように私の月の在住の角度が29.41’と判定されたので、それをこの表によって求めると、NO.3の度数~40.00’のところに当り、したがってナクシャトラはクリッティカー、支配星は太陽、となることになる。
表の最後のヴィムショタリ・ダシャーの年数、というのがどう使うのが、まだ判らない。

インド占星術ではナクシャトラ・27星宿だが、これと同じ考え方は中国にもあり、中国の場合は、一つ増えて「二十八宿曜表」となる。これについては7/17付けの占星術いろいろ④日本の暦で触れておいたが、28番に一つ増えて、インド名は「アビジト」牛の頭の形状をしている。二十八宿では「牛」という漢字で表されるが、インドと違って二十八宿では、日の吉凶を占うのみになっている。
インドの27星宿と中国の28宿、との関連や前後関係は審らかではないが、弘法大師・空海がもたらした密教占星術の原典となった『宿曜経』というのは27宿と七曜を用いて運勢判断をするインド伝来の占星術書であると言われる。実は空海に中国で密教を伝授したのは恵果である。そして恵果はインド僧不空の弟子であった。不空は多くの密教の経典とともに、インド占星術を中国に伝え、それを中国で『宿曜経』として翻訳させた、と言われているので、ここらにインドと中国との関連があると思われる。7×4=28、となり、7曜と関連づけて考えるならば中国の二十八宿の方に合理性があるように見える、がいかがであろうか。七曜とは、今でもわれわれが使っている七曜と同じもの、つまり日月火水木金土である。『宿曜経』の中では日曜を「蜜・蜜曜」とも記している。これは当時の中央アジアの国際語であったソグド語の表現が混入したもの、と言われている。先に触れた月の「白分」「黒分」の概念もインド由来のものとして、当然、空海の『宿曜経』にも載っているという。

──インド占星術と惑星──
インド占星術で使用する惑星は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、ラーフ、ケートゥの9つである。ラーフとケートゥは、太陽の軌道と月の軌道の二つの交点を意味し、それぞれ西洋占星術ではドラゴンヘッドとドラゴンテールと呼ばれている。この二つは実在する惑星ではなく、概念上の存在で、影の惑星と呼ばれている。太陽は恒星、月は衛星であって、厳密には惑星ではないことは言うまでもないが、単純化するために、これら9つをすべてまとめて惑星(Planet)と呼ぶことになっている。
12の星座に、星座自体を分割せずに、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星という7つの惑星をどうやって割り振るか。もし12の星座を7つの惑星で分割すると、一つの惑星に各星座を171%づつ割り当てることになり、星座を分割してしまう。インド占星術では、先ず太陽に獅子座(シンハ)という一つだけの星座を割り当て、月に蟹座(カルカ)という一つだけを割り当てる。そうすると、次は残りの5つの惑星に2つづつの星座を割り当てることで解決する。
──割り当て──
火星には牡羊座とさそり座の二つが割り当てられる。
金星には牡牛座と天秤座の二つが 〃
水星には双子座と乙女座の二つが 〃
木星には射手座と魚座の二つが 〃
土星には山羊座と水瓶座の二つが 〃 。
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2004/07/20のBlog
占星術いろいろ⑦──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■────木村草弥

──インド占星術(1)・ホロスコープ─────木村草弥

長らく待たされたが、昨日ようやく私と妻のホロスコープなるものが送られて来た。日本語は一切なしの不親切なもの。おまけに記載された記事を、本『ラオ先生のやさしいインド占星術・入門編』によって読み解いて解釈しなければならない。解説・説明は一切ない!!!。
三番目の写真が、そのコピーである。私のは色々書き込みをしたので写真は妻・弥生のものである。
以下、私の「ホロスコープ」を例にして私なりに読み解いたことを書いてみたい。もしインド占星術に詳しい人がご覧になって間違っていれば指摘してもらいたい。とにかく私は「素人」の俄か勉強の付け焼刃に過ぎないので、的外れのことも書くかと思うので、よろしくお願いしたい。
今までに中国の四柱推命その他の占星術、日本の暦のこと、アジアの暦のことなど書いてきたが、資料としては多くのものが手に入るが、インドのものは資料も少なく、とにかく不親切である。文句を言いたいことは多々ある。
掲出した写真は妻・弥生のものなので、間違わないようにほしい。
記載の項目の配置などは同じである。

──Rasi Chart──南インド方式と北インド方式──
先ず、左上のRasi Chart という項目である。Rasi とは「出生図」という意味であり、このホロスコープを読み解く上でも、また私のホロスコープ全体の中でも、最重要の項目である。
はじめにお断りしておくが、ホロスコープの書き方には南インド方式と、北インド方式と(他にもあるが)、という二つの方式があり、このチャートの書き方は南インド方式のものである。その違いについては、後で述べることにする。
──ホロスコープの3タイプ──
先に書いたようにホロスコープの書き方には主に南インド方式と北インド方式があるが、もう一つオリヤ、マイティリ、ベンガル方式というのがあるが、問題を単純化するために無視することにする。
南と北方式の違いは次の通り。
 星座の位置──北インド方式→変動。南インド方式→固定。
 星座の順番──北→反時計回り。南→時計回り。
 星座番号──北→記入する。南→記入の必要なし。
本には図示されているが、この編集画面では無理であり、省略する。写真でかすかに読み取れると思うが、南インド方式では四角い図の周りに縦横に12個の星座を書き込む。星座の記入は固定であり判り易い。

星座の記入の仕方は、南インド方式は固定だから、左上角に魚座を入れる。そして時計回りに牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、天秤座、さそり座、射手座、山羊座、水瓶座を配置する。(北インド方式は省略)
先にRasi Chart は「出生図」と書いたが、これはホロスコープにしたときの呼び方で、通常はRasi とは「星座の名前」のことである。
いま便宜的に左上角の魚座から説明をはじめたが、「星座番号」としては牡羊座が一番である。一覧表にすると下記の通り。
星座番号──日本語───ヒンズー語───英語──角度
 1 ────牡羊座──メーシャ(Mesha)──Aries──0度~30度
 2 ────牡牛座──ヴリシャ(Vrisha)──Taurus──~60度
 3 ────双子座──ミトゥナ(Mithuna)──Gemini──~90度
 4 ────蟹座───カルカ(Karka)───Cancer──~120度
 5 ────獅子座──シンハ(Simha)───Leo───~150度
 6 ────乙女座──カニャー(Kanya)───Virgo──~180度
 7 ────天秤座──トゥラー(Tula)────Libra──~210度
 8 ────さそり座─ヴリシュチカ(Vrishchika)─Scorpio─~240度
 9 ────射手座──ダーヌ(Dhanu)──Sagittarius──~270度
10 ────山羊座──マカラ(Makar)──capricorn───~300度
11 ────水瓶座──クンバ(Kumbha)──aquarius──~330度
12 ────魚座───ミーナ(Meena)──Pisces───~360度

──木村草弥のホロスコープは?──
さて私のホロスコープは、どうなのか。
はじめに、インド占星術では重要な3つのポイントがある。自分のホロスコープで最も大切なものを簡単に答えなさいと言われたら、以下の3つを挙げなければならない。
 ①出生時のアセンダント
 ②月の星座(出生時に月が在住していた星座の位置)
 ③出生のジャンマ・ナクシャトラ(出生時に月が在住していたナクシャトラのこと)

アセンダント(ascendant)=ASCまたはACと略記。生まれた瞬間の東の地平線と黄道が交わるポイントで、インド占星術ではラグナという。占星術では最も重要な個人の感受点となり、このアセンダントが位置する星座が第一室となる。

具体的に私のホロスコープで説明する。私のRasi Chart では、
①ACは牡牛座にある。在住する角度も表示されているが、単純化するために省略する。
②月の星座は牡羊座29.41’に在住する。
③出生のジャンマ・ナクシャトラは「クリッテイカー」でナクシャトラの支配星は「太陽」である。ここでは上に書いた度数が問題になる。②によって算出された度数29.41’をナクシャトラ(星宿)の計算表に基づいて見てみると~40.は上に書いたような判定になる。

別のカーラカ(Karaka)=表示体という判定法によると、アートマ・カーラカ(Atma Karaka)=真我の表示体というのは、最も度数の高い(30度に近い)惑星をアートマ・カーラカと呼び、これは特にジャイミニ占星術で重視される。アセンダントの支配星のように重要な役割を担うとされる。
私のチャートに戻って言うならば、②で月の星座が牡羊座29.41’にあるということは極めて30度に近く、この判定が極めて重い「真我の表示」を示していることになる。
後でナクシャトラ(星宿)の一覧表をお示しするが、上記のように、この三点を押さえておけば、私のホロスコープの基本は押さえたことになる。

私のホロスコープの読み解きは、今日は、ここまでにしておく。いろんなことが一時にわっと出てくると、私も読者も混乱するので、少しづつ書いてゆくことにする。
ただ、以下のことだけは西洋占星術との関連で、先ず押さえておかなければならないと思うので書いておく。
西洋占星術では各人の生年月日から「どの星座に属するか」が、まず求められるが、インド占星術では、上に説明したように、各人が、どの星座に属するか、などということは「無意味」であり、また求められない、というかホロスコープにも、星座だけを取り出して強調することは一切ない。

──トロピカル星座帯とサイドリアル星座帯の度数による差異──
よく西洋占星術とインド占星術とでは、所属星座が違う、とか言われるが、それは次のようなことだ。
西洋星学で使用される星座の位置は、毎年の春分点を牡羊座の起点(0度)としている。かつては実際の星座の位置と対応していたが、地球の歳差運動のために、毎年少しづつ(およそ72年に1度づつの割合)星座の位置が逆行し、現在では実際のそれよりも、およそ24度近くずれている。
つまり、現在の春分点は牡羊座0度ではなく、魚座6度近くにある。この星座をトロピカル星座(移動星座)と呼び、インド占星術ではサイドリアル星座(固定星座)を使用し、この両者の差異およそ24度を、現在におけるアヤナーンシャ(Ayanamsha)と呼んでいるものである。
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ここまで読み解いてきた私の感想である。
①星座表は先にも書いたようにバビロニアに発しギリシァ、ローマ、そして現在のヨーロッパに普及し、インドにも達した。(7/19日付けの占星術いろいろ⑥を参照のこと)私は星座表の思想はインドが発祥地かと誤解していたが、発祥はずっと西であった。
②中国ではインドと同じように極めて古い古代に占星術が発見されたが、単純な太陰暦(月の運行の観察)と太陽の運行による季節の推移との矛盾を太陽暦との折衷によって古代の早い時期に修正してきた。二十四節気などがそれである。これには次々と興亡はあったけれども、その時々に強力な集権的な政権が出来て、暦法を修正し、その普及を図ってきたから太陰太陽暦への移行も早かった。
現在、インドは太陽暦を中央政府としては採用しているが、今でもインドには14の公用語があり、ヒンズー教、イスラム教、シーク教、ジャイナ教、キリスト教、仏教など複数の宗教が信仰され、そして数十種類の暦法が存在している。暦が違うから一年の初めも、月の初めも、したがって日々の日付(暦日)も違う。
インドでは中央集権的な政権が暦法を統一するような努力をして来なかった。だから今でも「月の運行」を基礎とする太陰暦の影響を重く引きずっている。
現在ではインド政府は暦法の整理統合のために1952年に国定の太陽暦を採用したが、太陽暦が暦法の中心になることは出来ず、今まで通りの旧暦の、それも数十種類の暦法が、てんでばらばらに無秩序に使用されているようだ。口の悪い人は暦法改正委員会は新しい暦を一つ増やして混乱の種を蒔いたと言われているらしい。
暦法が「占い」の段階に留まっているのならば、それはそれでよいが、宇宙や年月の運行を正確に「暦」として把握し、庶民にも判りやすい形で周知する責任が中央政府にはあるだろう。インドの特徴は「混沌」にある、という批判を為政者が甘受するようでは許されない。
今回、インド占星術に関わって、いろいろ本を読んだり、ホロスコープを送ってもらったり、ネット上でインド占星術のサイトを検索して目を通した結果、私はインド占星術の現状に、はっきり言って失望した。混乱は混乱として、それらを整理して、特段の努力をしなくても庶民にも容易にアクセス出来るような、例えば日本、中国のような年度別の「暦」のようなものが出てきて、はじめて暦法が民衆の手にあると言える。インド占星術は、それらを整理することなく、混沌のままに放置して「神秘性」を逆手にして金儲けに走っているようだ。たとえばネット上では「インド人の○○先生は一席35000円が相談料の相場」などと書かれている。
案外、先にも書いたが、インド人のしもじもの庶民は自分の「守護神」を拝む、などのレベルに安住しているのではないか。
「用語集」と首っぴきでホロスコープを読み解かなければならない、というようなことではインド占星術に明日はない。関係者(インテリ)の自己満足に過ぎない。「難解」を売り物にした商法とも受け取れる。
私の意見をぶしつけに書き過ぎたかも知れない。ご批判はお受けする。
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2004/07/19のBlog
占星術いろいろ⑥──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■

──暦とは何か──────木村草弥

ひとくちに「暦」と言っても、意味するところはさまざまである。壁に掛けられたカレンダーや手帳なども「暦」だし、中国で盛大に祝われる「春節」は「農暦」の新年であるというときの「農暦」とか「太陽暦」「太陰太陽暦」というような「暦法」をいうときも「暦」である。その他「たべもの暦」とか「女の暦」というような人生や四季のめぐりになどの変遷を或る描写をするときにも使われる。
中国ではカレンダーの類を「暦譜(れきふ)」と言って区別しているので大変わかりやすい。農暦や太陽暦、旧暦などを対象にする場合は「暦法」と表現する。
どちらにしても、暦には年月日それに「週」という要素があって、さらに、年をいくつか集めて、世紀とかミレニアムとか区切ってみたり、一年を四季とか二十四節気とか七十二候に分けることもある。先に見たようにインド暦では1カ月を新月から満月までの「白分」と、満月から晦日(みそか)までの「黒分」に二分する方法も見られる。十日ごとの「旬」とか七日ごとの「週」などというのは、生活の便利さから起きたもので、多くの暦に見ることが出来る。
──太陽の暦と月の暦──
地球が太陽の周りをぐるりと一回転する長さを1太陽年とか1回帰年と言うが、その長さは
365.2422日(365日と5時間48分46秒)
大ざっぱに365日と4分の1日である。

暦を構成する、もう一つの重要な要素である月の満ち欠け朔望(さくぼう)の長さは
29.53059日(29日12時間44分2.9秒)
これも大ざっぱに言って29日半である。こちらは月が地球の周りを一回転する長さで「朔望月(さくぼうげつ)」という。季節によって月の運行には大きなバラツキがあるため、最長と最短では13時間21分もの差がある。
人類が使ってきた暦は、太陽だけのものを「太陽暦」、月だけのものを「純粋太陰暦」、そして両者を組み合わせたものを「太陰太陽暦」と呼んでいる。温帯地方では春夏秋冬の四季の変化があるから、太陽の運行を計測しやすいが、低緯度の地方では、それが難しい。それに対して、月の位相(かたち)の変化──新月、上弦、満月、下弦、晦日という変遷は誰の目にも判然として判りやすいので、はじめは月の朔望によった太陰暦が早くに出てきた。
人類は、意外に早く天文の技術を習得したようで、私が第四歌集『嬬恋』(角川書店)の「マヤの落暉」の中で歌に詠んだように、マヤ族はBC3世紀には、すでに数学上の「ゼロ」の概念を発見していたし、「天文の民」でもあった。歌を引用する。7/9付けのBLOGでご覧いただける。

 マヤ人は「暦の民」なり一年を365.24日割りいだしたる────木村草弥

今日われわれが採用する太陽暦とほぼ同じである。メキシコのユカタン半島にゆくと2000年も前の「天文台」が崩れかかっているが、残っている。また、その形が今の天文台と同じような円筒形をしているのにも驚かされる。

──太陰太陽暦と季節──
月の満ち欠けによって日付(暦日)を数える太陰太陽暦では、実際の季節と日付とが毎年11日づつずれてゆくから「何月何日」という日付を見ただけでは、実際の季節は判らない。
本当の季節を知る方法には大きく分けてオリエント方式と中国方式とがある。
オリエント方式とは、バビロニアに発してギリシァや古代ローマでも行われ、ヨーロッパでは今日でも用いられており、東に普及してインドにまで影響を与えた方式である。。それは太陽が黄道付近に設定された十二の星座(黄道十二宮)のどこに位置しているかによって、正しい季節を知る方法である。これは星座の占いに結びつき、いまだに人気を博している。
他方、中国の方法は、二十四節気によるもので、これは太陽の1年、つまり365日を24に等分して、その一つ一つに立春とか雨水というように季節を表す名称をつけ、暦の上に書き付けて、月の満ち欠けによる暦日と二十四節気の両者を睨み合わせることによって正しい季節を知るものである。これはまた閏月を置く目安にもなるものである。
つまり、太陰太陽暦の暦日は月(太陰)の満ち欠けによるが、毎年11日づつずれて進む。そして閏月の後では逆に20日前後逆戻りしてしまうから、たとえば3月3日の雛祭と言っても、まだ桃の花の咲かない年もあれば、とっくに散ってしまっている年もある。一方、二十四節気は太陽の動きによって決められるので、清明といえば毎年同じ頃(太陽暦で言えば4月5日前後)となる。だから、実際の季節を知らないと大変なことになる農業などでは、暦日よりも二十四節気や、同じ性格を持つ土用や八十八夜や二百十日などの雑節を目安にしたのである。

──グレゴリオ暦──閏年の入れ方──
太陽暦にも「閏(うるう)」がある。一年365日の後のハンパな時間を、一日の閏日を設けて調整しなければならない。
古代ローマの「ユリウス暦」では、四年ごとに閏日を挿入して、この問題を解決した。もっとも138年で一日の差を生じることにはなる。
現在われわれが使っているグレゴリオ暦では「閏年は4年に1回だが、400年間に三回省略する」という方法で、この問題も見事に処理している。

──中国暦の閏の入れ方──
太陰太陽暦の場合は、より深刻である。何しろ両者の差は11日にも及ぶからである。しかも月の満ち欠けを単位とする太陰太陽暦の本質からして、閏は月を単位として設けなければならない。したがって、おおよそ33カ月に1回の割で閏月を設けることになるが、閏月をどこに挿入するか、どのような時に置くか、といういわゆる置閏法の確立が必要になってくる。
中国古代の「殷」の甲骨文には「十三月」という月名が見られるらしく、おそらく閏月は年末に置かれたものと思われる。春秋時代になると、19年を「1章」とし、1章に7回閏月を設ける「19年7閏法」が成立する。これは古代ギリシァの「メトン法」と同じもので太陽暦の19年の日数と、7回閏月を設けた太陰暦の19年の日数がほぼ一致する。これを「章法」と呼んだが、この章法が成立したのと同じ頃、「二十四節気」も成立すると、二十四節気の「中気」を利用して閏月を決定する方法が考案された。中気とは二十四節気のうち、雨水、春分、穀雨、夏至など偶数番のものである。中国暦では、朔をふくむ日をある暦日の第一日(朔日)とし、次の朔の前までの1カ月にふくまれる中気によって月名を決める。二十四節気では「冬至」が11月の中気に定められており、暦の計算の基礎となる。だから、冬至を含む月が11月であり、大寒を含む月が12月であり、雨水を含む月が正月である。そして、もし中気を含まない月が到来したならば、月名がつけられないから、それを前の月の閏月とする。この方法は今も太陰太陽暦では同じである。

──中国最古の暦「甲骨文暦」──
神話の時代はさておき、今日、史料によって確認できる中国最古の暦法は「殷」時代のものである。中国文化史年表によれば、「殷」というのは紀元前1700年~紀元前1100年の政権である。この甲骨文は河北省安陽市小屯の殷廃墟から得られたものである。清朝末期の光緒25年(1899年)のこと、当時国子監祭酒(最高学府の学長)であった王懿栄のもとに龍骨(亀板)が薬種商から持ち込まれ、その甲羅に古い文字が刻まれていたのを同家の劉鉄雲が発見し、甲骨文の意味に気づいて大規模に収集につとめた。王の死後1903年に劉鉄雲によって最初の甲骨拓本集『鉄雲蔵亀』が出版され、羅振玉、などの多くの学者によって甲骨文の研究が進められた。その後1928年以降に小屯で殷墟の発掘が行われ、大量の甲骨文が出土した。日中戦争の苦難を乗り越えて研究が進められ『殷暦譜』が執筆され、殷暦の概要が明らかになった。
この研究を通じて紀元前1300年頃、殷の19代の王・盤庚が、ここに都を置いたことが明らかになった。この地は天邑商または大邑商と呼ばれ、殷の国の中心であった。因みに西洋では紀元前1183年にトロイ戦争が終っている。
ところで、殷の甲骨文は、亀の甲や牛の肩甲骨などに占いの文章が刻まれている。そこに十干もしくは六十干支を用いて日付が記されており、また六十干支の表も発見されており、これらが殷時代にすでに形成されていたことが判明する。
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2004/07/18のBlog
占星術いろいろ⑤──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■

──アジアの暦────────木村草弥

7/17付けでは、今日の日本の暦の実用的な面を紹介した。このように古代中国の深遠な、しかも難解な思想が、極めて実用的な形で日常生活に、簡単に取り入れられているのは、高度な工業社会が成立し、印刷の面でも大規模な大量印刷もたちどころに可能であり、価格も極めて廉価であるということが必須の要件としてあるからであろう。

そんなことを考えながら、ふと『アジアの暦』(岡田芳朗、2002年刊、大修館書店)という本のことを思い出し書架から引っ張りだした。今日は、この本をもとにしてアジアの暦のことを書いて見る。
二番目の写真が、その本である。岡田先生には『明治改暦』『暮しのこよみ歳時記』『日本の暦』『暦ものがたり』『南部絵暦』などの著書がある。
「暦」は各民族、各宗教ごとにさまざまなものがある。以下、興味のありそうなものを中心に取り上げる。
はじめに、この本に載るグラビアの紹介である。
三番目の写真は(クリックして拡大してもらえば少しは読み取れる)中国の清朝時代の年画の略暦である。光緒31年<西暦1905年>の太陰太陽暦である。
中国の春節(旧正月)には家中に赤、青、緑、黄などの色あざやかな年画が貼り巡らされ、晴れやかな気分にさせてくれるという。「略暦」とは簡略化した暦という意味であろう。幸福をもたらす神々や目出度い絵柄など富貴長寿、子孫繁栄を祈る人々の願いを書いた年画は中国文化の一面を示すものである。この略暦には太歳神、財神などの方位と月の大小、24節気の日付などが記載されている。
下の部分は「ベトナムの日めくり」でグレゴリオ暦と農暦の日付が入っている。
右の赤刷のものは2月12日火曜日で「壬午年 正月大 壬寅月 初一」と漢字で書いてある。またベトナム語で「テト」の文字も見える。これは太陰太陽暦の元日な訳である。中国の春節にあたるものがベトナムでは「テト」という。この日めくりではテトの3日間は赤色で印刷されている。このような色分けは日本の日めくりと同じである。ベトナムは中国文化の影響下にあったので、暦が太陰太陽暦であるのは尤もだが、24節気が中国そのままというのには驚かされる。「小寒」「大寒」などの気候がベトナムにある訳がないのだが。この暦には「十二支」の名前の漢字は、そのまま書いてあるが「卯」のウサギの絵はないという。寅と辰の間に、なんと「猫」の絵が描かれている。しかも口に魚をくわえた格好をしているという。ところ変わればさまざまということである。

四番目の写真は、また一段と読み取り難いがインドのカレンダーで、サカ紀元1900年<西暦1979年>のヒンズー暦だという。毎日複数のヒンズー暦の日付が入っているらしい。
このグラビアの左下の部分はネパールのカレンダーだということだが、説明は省略する。
──インド暦の不思議──
インドのカレンダーや日めくりには実に不思議なことに出会うという。毎月1日から数えて15日までくると、とたんに、また1日に戻って、2日、3日、4日・・・・と続く。16日とか17日とかいう日付は出てこない。唖然とするばかりであるが、よく見ると、ある月は3日の次は5日となり、5日の次は7日になる。かと思うと7日が二日続いたり、13日が二日続いたりする。これは大変と併記される太陽暦(グレゴリオ暦)を確かめると、ちゃんと毎日一日づつ進んでいる。「インド暦には16日から29日までの日付が無い」インド暦は太陰太陽暦なので1カ月の日数は29日か30日である。1カ月前半半月と後半半月に分けて最大15日とし両方合わせて1カ月としているという。
新月から上弦の月を経て満月に至る半月を「明るい月」すなわち「白分(はくぶん)」とし、満月から下弦を経て晦日に至る半月を「暗い月」すなわち「黒分(こくぶん)」とし、両者を合わせて1カ月とする。黒分の最終は必ず三十日と称している。日本の太陰太陽暦で29日の小の月も30日の大の月も、月末を「晦(みそか)」と呼んでいるのと同じである。数多いインド暦の中では黒分にはじまり白分に終るものもある。これは「満月」を月始めとする方式である。
インド暦については、この本から多くの示唆を得たが、それは「インド占星術」について書くときに詳しく書きたい。

グラビアは無いが、この本には「暦の仕組み」「中国の暦」「東アジアの暦」「イスラムの暦」「インドネシアの暦」などについて書かれている。
それらの中から私がかねてから多少は知っていることについて書いてみる。

──バリ島のウク暦──
インドネシア共和国はグレゴリオ暦を採用しているから、国家的行事にはこれが用いられるが、国民の大半はイスラム教徒であるから、宗教的行事にはイスラム暦が用いられる。グレゴリオ暦はオランダ統治時代の1914年に導入されたので月名はオランダ語に由来するものをインドネシア語風に変化させて使用する。イスラム暦、地域性のあるジャワ暦などがあるが省略する。
さて問題のバリ島にはバリ・サカ暦というヒンズー暦があるが、それとは別に「ウク暦」という、一年は210日という独特の暦法がある。これには1日の週から10日の週まで十種類の週があり、それらがさまざまに組み合わされて、極めて複雑な構成になっているが、バリ島では殆ど毎日行われている祭事や行事の多くが、このウク暦によって決められているから、この知識がないとバリ島の文化を理解できない、と言われている。
バリ観光の目玉のひとつになっている「ガルンガン」はウク暦の正月の祖霊迎えの行事であるし、学問や芸術の神サラスワティの祭日もウク暦によって決められる。この「ウク」というのは7日から成る一週間のことで、このウクがウク暦の基幹をなしている。一年の日数が210日というのは7日週のウクの30回の日数である。これらの30週には、たとえば、第一週=シンタ(Sinta)=美しい、大きい、という風な名称がつけられている。そしてウク暦七日週の曜日の名称は、次のようである。
 第一曜日 ラディテ(RadIte)=日曜日=太陽神アディティヤの日。
 第二曜日 ソーマ(Soma)=月曜日=月の神ソーマの日。男性神で神酒のことでもある。
 第三曜日 アンガラ(Anggara)=火曜日=災いの神アンガラの日。
 第四曜日 ブダ(Buda)=水曜日=月神ソーマの子で、ブダとは賢い子の意味。
 第五曜日 ウラスパティ(Wraspati)=木曜日=創造神ブリハスパティを讃える吉日。
 第六曜日 シュクラ(Sukra)=金曜日=神々の師で未来を予見できるシュクラ神を讃える日。
 第七曜日 サニスカラ(saniscara)=土曜日=黒い神シャニーの日で悪い日。
ウク暦の曜日の決め方などには一定のルールがあるが省略する。
ウク暦にはインケルという「禁忌週間」があり、決められた週間には、魚を獲ることを禁ずる、とか木を切ることを禁ずる、とかが決められている。まだまだ書くことは多いが、この辺にする。

私の第四歌集『嬬恋』にバリ島で作った一連があるので、ここに再録する。

 バリ島

古稀の語の韻(ひび)きもかなしケチャを聴く追はるるごときバリ島の夜

白き波寄するサンゴの岩礁へ夕陽落ちゆく浜風ぬるく

網膜に薄き紗かかるごとく見つモンキーフォレスト猿の交尾を

鷲(ガルーダ)はヴィシュヌ神の乗物ぞ赤き朝日が野に射し初むる

風景がわれを容るると思ふとき路上にアヒルの群が溢れぬ

椰子の樹は棄つるものなし柱となり葉を壁として屋根を葺くなり

バナナの青き広葉に飯を盛りてをりおかずも盛りて神に供ふる

アグン山ふもとの大きバトゥール湖火口に碧き水をたたへて

アグン山3142メートルバリ島の聖山にして何処からも見ゆ

ブサキ寺(プラ)はアグン中腹に鎮座せり一千年の歳月を経て

聖アグンを背景にして三、五、十一層の塔(メルー)つらなる景を畏れつ

一年を二百十日で括るとふバリのウク暦は常夏なれば

幾段も棚田のつづく田園は椰子たかだかと木蔭をつくる

「蜜蜂の求愛の踊」と名づけたる美(は)しき一組の男女の踊り
 *蜜蜂の求愛の踊=オレッグ・タムブリリガン

ケチャ踊りはドイツ人画家ウォルター・シュピース創案1928年

チャッチャッと声発しつつ踊るケチャはラーマーヤナ物語演じゐるなり

聖獣バロンと魔女ランダとの終りなき戦も長しチャロナラン劇

をとめ三人腰つき優美に踊りたりラッサム王物語ガムラン音高く

選ばれてレゴン・クラトン村中の憧れの的少女うつくし

盛装せる女が頭上に供へ物を載せてむかふは村祭(オダラン)の寺
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2004/07/17のBlog
占星術いろいろ④──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■

──日本の暦──今の姿──────木村草弥

インド占星術のラオ先生の本を買った時にサービスで私のホロスコープを作ってもらえるとのことで生年月日などのデータを送ったので、その返事があってから本格的に書きたい。
それまでは「日本の暦」の現実の姿を書いてみる。
先に書いたように日本の暦については、あちこちから年度毎の「暦」を贈呈される。先ず各新聞の地域販売店が年末には必ず呉れる。それらは尤もらしい数百円の定価が印刷されているが何千万部も印刷されるので販売店に入る値段は50円までであろう。それらは殆ど「高島易断所」のものである。高島にも幾つかの系列がある。
二番目の写真は「平安神宮」が呉れた暦。私のところは職業柄、毎年「献茶」しているので、その献茶講社から配布してくる。他に、地元の氏神さん「賀茂神社」も呉れる。「占星術いろいろ②」に書いたが安倍晴明の系統の土御門家が古来大きな力を持っており、この平安神宮の暦は発行・土御門文書編纂所、となっている。
中国4000年、日本に伝来してからでも2000年近い歴史を「日本の暦」は有している。だから体系だって整理されているのは勿論、庶民の利便のために毎年、その年度の暦を配布する。

──九星──
と言って各人の年度別の「星」が決まっているのである。私は生れ年から「七赤金星」ということになっている。
ちなみに全部あげてみると、「一白水星」「二黒土星」「三碧木星」「四緑木星」「五黄土星」「六白金星」「八白土星」「九紫火星」ということになっており、これらは年度別の配置であり、変わらない。掲出の三番目の写真は字が読みにくいが「七赤金星」の吉方、相性などが書いてある。この画像をクリックして拡大して見てもらえば何とか読み取れる。

──六曜──大安・仏滅・先勝・先負・友引・赤口──
「暦」は、一冊平均40ページ~60ページあるが、こと細かに暦に関する「常識」なるものも教えてくれる。平安神宮の呉れたものが一番詳しい。それを書き抜いてみよう。
「六曜」は暦の中でも、日本人には一番なじみのあるもので、結婚式には、絶対「仏滅」を避けて、「大安」とか「友引」にするとかのことは100パーセント近くの人が選ぶのではないか。
「六曜」は、日に配して吉凶を表すので、一月(旧暦)一日を先勝、二月一日を友引、三月一日を先負、四月一日を仏滅、五月一日を大安、六月一日を赤口として、ここに書いた順序で日々循環する。七月には再び先勝に戻り、八月一日は友引以下各月おなじく循環する。
先勝=午前は吉、午後は凶、急いで吉
友引=午前は利益なく、夕刻吉
先負=平静を守って吉、午後は吉
仏滅=吉凶なし
大安=吉日にて万事進んでよし
赤口=正午は吉、前後は大凶なり
こんな風に書かれている。葬儀の日時なども、これによって左右される。六曜なのに月によって並び方の間隔に変化があるのは、毎月ついたちに来るのが決っているからである。
「六曜」は中国陰陽道の「小六壬」なる選日が我国に伝わり、変化したものである。
四番目の写真には「九星」による「方位吉凶早見表」が載っていて、拡大すると割合読みやすい。

──納音──
五番目の写真には平成16年各人数え年などの他に「納音」というのが載っている。これは私も今まで見過ごしていたものだが、今回くわしく見てみると「山頭火」「井泉水」などの熟語があり、これを「納音」と言うらしいが、ここに引用した二つは俳人に関係がある雅号である。種田山頭火と荻原井泉水が、ここからペンネームを借用していることを、初めて発見した。いずれも自由律俳人であることも、面白い符合である。
私の納音は「路傍土」とある。私は「草」が好きでペンネームにしているくらいだが、草は路傍の土に生えるもので、何だか嬉しくなった。

──二十八宿──
暦には先にあげた最もポピュラーな六曜の他にも「二十八宿」という「角」「亢」など28の漢字のものがある。これは、月が27日半弱で全天を一周するとき通過する軌道付近の28の星座であって、月、太陽、惑星等の位置を示すため、中国、インドなどで用いられたものである。後これが月の位置と離れて(ただしインド流では形式上多少関係がある)日に配当され吉凶を占うに至った。

──十二直──
先にあげた二十八宿や、ここにあげる十二直などは、やや暦に拘る人が「六曜」などに付加して、これらのいずれもが「吉」であることを選択して、行動するもの。
「十二直」は「建」「除」「満」「平」「定」「執」「破」など12の漢字1字のもので、その起源は明らかではないが、中国古代から行われた暦註で、淮南子や漢代の暦譜にすでに見えている。月建、すなわち毎月節日の夕方北斗七星の柄が指す方位の十二支、と密接な関係を持ち、これと同じ十二支の日を「建」の日とする。

そのほか男女の「厄年」「方位の吉凶」それに月の満ち欠けによる潮位の時刻など太陰暦に由来する、漁業にたずさわる人などには必須の潮汐図、時刻など実用的なものも載っている。だから、現実問題として「暦」は庶民生活に欠かせない面を多分に持っていると言えよう。
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2004/07/16のBlog
占星術いろいろ③──東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■

 番外編:インドの話──ガネーシャ神のことなど──木村草弥

インド占星術のことを読み解くのに、読みなずんでいるので、ここらで気分を変えてインドのことなど、少し書いてみる。番外編とする所以である。

掲出の写真はインドで人気のある神様「ガネーシャ神」の画像である。これも私がFRANKさんにお願いして見つけてもらったもの。
私の月次掲示板POSTに掲げた「占星術」の統一ロゴの補助ロゴとして「インド占星術」について書くときには、必ず、これを掲げることにする。
ガネーシャ神についてはFRANK LLOYD WRIGHT氏のページに詳しく解説してあるので見てほしい。
私は1999年正月に、その頃はまだ現役で仕事をしていたので、9日間の休暇をもらって北インドを旅した。その印象記は同人誌「かむとき」に載せた。Web上でも「インド文学散歩」という記事でご覧いただける。

さて「インド」のことだが、この名前はイギリス人がINDIAと呼んだことから今でも対外的にはリパブリック・オブ・インディアのように使用されるが、正式には「バーラタ」というのが正確である。英語ではJAPANというが日本ではニホンとかニッポンというのと同じである。上に書いた私の「インド文学散歩」にも書いておいたが、これは有名なタゴールの詩の中にも出てくる。
博識ついでに披露しておくと、インドを旅していて「ヴィシュヌプール」のように地名の語尾の「プール」とつくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(たとえばハイデラバードなど)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君から聞いた。因みに、このメーラ君はインド人のくせに辛いものが大嫌いで、それでよくインドに暮らせるものと、みんなで冷やかしたものである。ヴィシュヌプールという名前はヴィシュヌ神に因む。
神の名前が出てきたので、インドの神様について、少し。
本質的にヒンズー教は多神教である。神様の名前は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし一方では恵み深い神でもあり、踊りの名手で「ナタ・ラージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表わすに至る。仏教の開祖ゴーダマ・ブッダも、その化身の一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全土に普及したのは、この化身の思想による。先に挙げたタゴールも、このヴィシュヌに捧げた詩を書いている。ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には「道徳が衰え不道徳が栄えるたびに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとって世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目をこらせば、リンガを包む丸いものヨーニがある。リンガ(またはリンガム)は「ヨーニ」とともにサンスクリット語でそれぞれ「男根」と「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、すべての生きとし生きるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るからである。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で現在は死語だと思っていたが、西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンスクリット語を自由に会話し、読み書き出来る人が5000人はいるという。1990年代の現在の話である。だから同大学のサンスクリット語科では集会や行事はすべてサンスクリット語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事のとき、たとえばイギリス議会の開会式でエリザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。

ここでガネーシャ神について簡単に触れておく。インド人は皆子供の頃から自分個人の「守護神」というのを持っている。これはインド占星術に基づいて判定したものであろうが、これは庶民段階にも徹底したものである。バスの運転手はバスの中に、その神を祀り、折にふれて香を焚き礼拝する。
ガネーシャは父はシヴァ神、母はパールヴァティ。パールヴァティは穏やかな、教養のある女神で、広い信仰を集め、いつも捧げられた多くの花に包まれている。
ガネーシャは父シヴァ神の怒りを買い、象の首とすげかえられたので、画像のような姿をしている。ガネーシャは知恵と慎重さの神、文学の神、金運の神、利殖の神などと言われるが、「インド占星術の守護神」とされるとは、今回はじめて占星術の本を読んで知ったことである。なぜガネーシャが象の首にすげかえられたか、のいきさつなどはFRANK氏のページに詳しい。ガネーシャだけを祀った寺院というのもあり、ニューデリーで、金持ちが寄進して建てたというガネーシャ寺院を詳しく見学したことがある。金ピカの派手な寺院だった。

インドという国は国土も広いが、そこに住む人の数も半端じゃない。公称9億とか10億とかいう人間が国土にひしめく。
現代のインドの現実は、身分カーストのほかに職業カーストが二重に存在して、がんじがらめとなっている。このカーストの下には更に「アンタッチャブル」と呼称される不可触賎民も存在するのである。ガンジス川の有名な聖地ヴァナーラシの沐浴のシーンを見学に舟に乗って川の半ばまで出たことがあるが、岸の上部に見える、豪邸は川岸で火葬場(ガート)の仕事に従事する不可触賎民の親方の邸だという。インドでも死体を処理する仕事は賎しいものとされ、彼らは、それに専一的に従事して、見返りに莫大な富を得ているのである。路上に住まう乞食も多く、インドを旅すると、そういう「混沌」たるものの上に成り立っているインドの現実をかいま見て、人生観が変わるような経験をするのである。
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2004/07/15のBlog
占星術いろいろ②─東洋五千年の知恵──■TB:占星術・暦:■

──中国創世記と日本神話───────木村草弥

今回は、いわゆる「占星術」を離れて、吉野裕子氏や福永光司氏の本を下敷きにして、日本人の原初記録などに、いかに中国の道教が深く根をおろしているか、を書いてみたい。それを理解するならば、現在もなお日本人の精神生活に深い影響をもつ「陰陽五行」や「暦」のことが十全に判るだろう、と思うからである。
中国の古典から『日本書紀』の記述が、丸写しにひとしい「借用」に終始している実例を、以下にお示しする。
中国の古典、『淮南子(えなんじ)』 (淮南王劉安撰、紀元前140年)の「天文訓」には、天地創造が次のように記されている。
「天地未だ形(あらは)れざるときは、憑々翼々、洞々属々たり。故に大昭といふ。(中略)清陽なるものは薄靡して天となり、重濁なるものは凝滞して地となる。清妙の合専するは易く、重濁の凝ケツするは難し。故に天、先づ成りて地、後に定まる。」
また『三五暦記』(呉、徐整撰、220~280年)には
「未だ天地あらざりしとき、渾沌として鶏子(たまご)の如く、溟として始めて牙(きざ)し、濛澒として滋萌す。」
と見えている。

『日本書紀』(720年撰上)では、どう書かれているか。
「いにしへ、天地未だ剖(わか)れず、陰陽の分れざりし時、渾沌たること鶏子の如く、くぐもりて牙(きざし)をふふめり。その清陽(すみあきらか)なるもの薄靡きて天となり、重濁れるもの、とどこほりて地となるに及びて、精妙なるが合ひ搏(あふ)ぐは易く、重濁れるが凝りかたまるは難ければ、天まづ成りて地、後に定まる。然る後に神聖(かみ)その中に生(あ)れましき。」

中国創世記は、古代中国の思想・哲学の根幹をなすものであるが、『古事記』とともに日本古典の双璧をなす『日本書紀』の冒頭が、その借用で始まっていることは、私どもに次のようなことを類推させる。
つまり、その揺籃期に、中国の文字、思想、哲学、学術、医術、暦など、あらゆる面において、その洗礼を受けた日本文化は、その基底に中国文化の影響を濃厚に宿しているということである。
古代中国の思想・哲学の基本をなしているものは陰陽五行思想であり、前述の創世記もその表れである。従って、陰陽五行を抜きにしては日本を語ることは出来ないのである。

ここで、いささか読者の注意を喚起しておきたいことは、これらの日本古典と中国創世記などの比較研究は、戦前は(明治以降第二次世界大戦敗戦まで)日本固有の「国体」を保持するということで、日本古代思想に甚大な影響を齎したというより、道教思想そのままとも言える、これらとの比較研究は弾圧され、禁じられて来たということである。福永先生たちの研究は、敗戦後になって、やっと解禁され、日の目を見ることになったのである。

正史に記載される「暦本」の初めての渡来は、欽明天皇14年の紀元553年。降って推古天皇10年の602年には百済僧観勒(かんろく)による暦本・天文地理・遁甲方術書の移入があった。
そこで日本に入った陰陽五行思想の歩みは、7世紀初頭までは緩慢であったが、640年頃、南淵請安、高向玄理らの学僧や、留学生の帰朝後は急速に浸透し、ことに663年、百済滅亡の結果、多くの百済亡命者を迎えた天智朝に至って様相は一変し、さらに次の天武天皇に及んで陰陽五行思想の盛行は、その頂点に達したと思われる。
自身、天文遁甲をよくされた天武天皇は、壬申の乱の後、陰陽寮(おんみょうりょう)を設け、治世4年の675年には占星台を造営されたが、大宝律令によれば、陰陽寮の組織は長官・副長官を頭に、陰陽師(おんみょうじ)、陰陽博士以下の職員から成り、その任務は占筮・占星・漏刻などの管掌にあった。
平安時代には賀茂保憲、安倍晴明が斯道の大家として聞こえている。中世以降は晴明の後裔・土御門家が代々世襲して長に任じられたが、徳川時代になると、その権限は一層強化され、諸国の陰陽師を統括した。
一方、徳川家康は、陰陽五行の奥義を体得して天源術を創始した天海僧正を重用したが、家康死後も彼は秀忠・家光と三代にわたって仕えたから、その影響は多大だったと思われる。
陰陽五行および実践としての陰陽道は日本渡来以来、国家組織の中に組み込まれ、一貫して朝廷を中心に祭政・占術・年中行事・医学・農業などの基礎原理となり、時に権力者によって軍事に至るまで広範囲に実践応用された。
しかし明治維新を境に陰陽五行は「迷信」として退けられ、国家の中枢から、その姿を完全に消してしまったのである。
そして先に書いたように日本文化あるいは日本国体が、日本固有のものであるかのように欺瞞するために、これらの中国古代思想が日本文化に与えた影響などの比較研究は厳しく弾圧されたのである。
今では、日本固有の文化と見られる「侘び、寂び」の境地も(たとえば俳句の芭蕉など)道教などの老荘思想の影響をモロに受けている、という研究もなされている。
国家の中枢からは排除されたが、これらの古代中国思想は暦の宗家をはじめ、庶民生活の中に、脈々と生きづいているといえよう。
千田稔氏が、この本の中で『日本の道教遺跡』にも触れたことだとして次のように書いている。
「古代の海部(あま)と呼ばれた集団が、わが国に道教的思想、あるいは神仙思想をもたらしたのではないか。」
「浦島伝説の源流は、中国の洞庭湖周辺の龍女説話や仙郷淹留譚に求めることが出来る。揚子江下流部の説話が黒潮に乗って直接にか、あるいは環シナ海を活動の舞台とした航海民族によって日本列島にもたらされたと推定することも出来る。」
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2004/07/14のBlog
占星術いろいろ①─東洋五千年の知恵─■TB:占星術・暦:■
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──陰陽五行思想と道教のことなど─────木村草弥

FRANK LLOYD WRIGHT氏が標記のような企画をお立てになったので、私も以前から関心を持っていたので、何か書こうと資料を集めはじめた。
しかし、事は容易ではなかった。というのは、ことが「占い」「占星術」に関することであり、私は本来的に、そういうものは信じない人間なので、読み進むのにも抵抗があった。一番目の写真はFRANK LLOYD WRIGHT氏が、このシリーズのために選定していただいたロゴマークである。星座配置などが読み取れる。
二番目の写真は吉野裕子『陰陽五行と日本の民俗』 (1983年、人文書院刊)という学術的な本である。
三番目の写真は福永光司編『道教と東アジア』 (1989年、人文書院刊)という本だが、福永先生は京都大学の人文科学研究所教授(所長)をされていて、この本は共同研究の成果である。執筆者には先に書いた吉野裕子氏も含まれる。
これらの本を私が読んだのは10数年も前のことだが、日本人の、上は天皇家から、しもじもの庶民にいたるまでの精神史のなかに、生活の基盤のなかに、広範な範囲で中国に発する「道教」の思想が深く沈潜して基礎をなしている、と思ったからである。
吉野裕子氏は、この本で、こう書いている。
中国哲学は具象の哲学である。根元の陰陽二気から派生した木火土金水の五気に、時間・空間・事物・事象の一切が還元され、それらはまた青赤黄白黒の五色によって象徴される。季節の推移さえ具象化され、天子が四方に四季を迎えるのはその好例である。・・・・・・
これらの二著は、もちろん低俗な「占い」の域を論じたものではないが、上の文章につづけて吉野氏の書かれることを辿ってみよう。
陰陽五行を導入して日本の民俗をみるとき、思いがけず謎がとけ、私どもの祖先は理屈のないことを余りしていないことがよくわかる。民俗行事は理によって貫かれた構造を、しっかりと持っているのである。・・・・・
こういう庶民民俗に関わることは、学者は殆ど手掛けなかったものを吉野氏などが「理」の面から解明されていったのである。
さて、四番目の写真はくだんの「インド占星術」の本である。この本の著者K・ナラヤン・ラオ氏はインドの会計検査院院長を勤められた人という。
市販の週刊誌などに載る「占い」の殆どは「西洋占星術」によるもので「星座表」によって生年月日を1年を12に分けている。
インド占星術はインド5000年の歴史を有する「哲理」だと言い、それは「光の科学」だという。これはJyotishと呼ばれるもの。そしてインド占星術の本来の目的は、人々を深い瞑想状態に導き、高い意識の状態を経験させることにある、と言う。星座表などは西洋占星術と同じ。というより、インド占星術がペルシャなどを伝わって西方に齎された、とみることが出来る。ただし、星座の配置などは30度ほど違う。
解説書のプリントも一緒にいただいたが、難しい。おいおいと書いてみるつもり。
さて五番目の一番下の写真は日本でもおなじみの中国伝来の、道教に発する「四柱推命」の本である。日本に流布する「暦」は神道系と言わず、仏教系と言わず、みな道教の教理というか哲理にもとづく。
掲出した本の著者・昇龍は「開運アドバイザー」と称し、やさしく噛み砕いて庶民の抵抗を受け流すように平易に書いている。おまけに美男子で年齢もとても若くて、その上、中国皇帝4000年の歴史を持つ秘伝「奇門遁甲」「命主占法」を操れる数少ない占術家、と自称する。父は中国人医師、母は運命鑑定の第一人者の翠真佑氏。幼い頃から特殊な能力を持って占術界に入る。

「四柱推命」学は、中国最古の文明「夏(か)」の時代から絶えることなく受け継がれてきた学問で、生まれた年・月・日・時間による四つの柱から、その人の運命を読み取る、というものである。四柱推命という名は、ここから発する。「命を推しはかる」という意味から「命理学」とも呼ぶ。

生年月日から導き出した宿命のことを「命主」と称するが、この命主を読み取るために、道教の十干・十二支を用いる。
十干(じっかん)とは甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと) を指す。「陰陽五行説」に基づいて、自然界の五元素である木、火、土、金、水を象徴しており、さらにそれぞれを陽(兄)(え)と陰(弟)(と)に割り振ったものである。
十二支とは、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い) のことであり、一般的に生まれ年を、これらで表わすが、命主占法では生まれ日も十二支で表わすことが出来る。
これらのことについては、3/30付けのBLOG「庚申さんのこと」に詳しく解説したことと同じである。

陰陽五行説では、生まれた瞬間に、初めて地球上の空気を吸うことになるが、これを四柱推命学では「気」を受けると考える。そして、生年月日によって、どのような「気」を受けたかを、陰陽五行に照らし合わせて細かく分類しているのである。
十干のキャラクターは、すべて「相生」と「相克」の関係にある。各五行は隣の五行と助け合い、二つ隣の五行と傷つけ合う。

ここまで、いろいろ解説したようなことは、陰陽五行説の基本であり、吉野先生の本でも書かれている。
これらの陰陽五行説に基礎を置いて、「占い」の各宗家は、尾ひれをつけて競っている訳である。
6/3付けの「草弥の詩・元命法という占術」に採り上げた万象学という一派も陰陽五行説に基づくものであり、エネルギー指数などという、もっともらしい用語を操っている。口承による伝承も多い、と言い、雑多な派が出てくる一因かとも考えられる。
ここまでの道教の理論だては、納得するとして、いわゆる週刊誌的な運勢なるものは、差しさわりのないことが書かれているに過ぎず、私が詩にしたように、面白おかしく書くことだって出来る。ここまで来ると西洋占星術も四柱推命の書く文章も、見分けがつかないから、いい加減なものである。

ロゴマークを一番上に入れたので本の写真の位置がずれてしまったのは、仕方ないことであり、ご了承をお願いしたい。
この本の読者は若者にしぼってあるようで、きわめて取っ付きやすい書き方になっている。いま人気のある四柱推命の占い師として脚光を浴びているというだけあって見事なものである。
インド占星術の本の読解になずむような書き方をする人に、爪の垢を煎じて飲ましてやりたい気がする。

浮世絵春画コレクション(2)・・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
浮世絵春画コレクション(2)

「浮世絵・春画」は日本の江戸時代の誇る独自の芸術作品である。
 したがって、これを単なるエロとして見られる人には鑑賞をお断りする。


      この18回にわたるシリーズでは毎回5葉づつ絵を挿入してある。
      
  こちら側が最終である。  (1)が始まりで、(18)が後なので、(1)から見られよ。

2005/11/20のBlog

──浮世絵春画コレクション──(18)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(6)
    喜多川月麿、歌川国芳・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ、このシリーズも今回で終わりになった。
時代は幕末である。

図版①②は喜多川月麿である。
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月麿については生没年不詳ということで判らない。ここに挙げた図版①②については「東男に京女郎」という題がついている。
彼の作品としては「中村歌右衛門十二変化」「萩見る二美人」(扇面)などの作品が知られているが、歌麿の門人の中で最も優れた画才を持ち、美人風俗画、花鳥図、書の挿絵などの数多くの作品を残している。
画号からして歌麿のもじりというべく、所詮、歌麿の亜流のそしりは免れないだろう。
井野酔雲『草津温泉膝栗毛』という時代小説があり、その中で、売出し中の浮世絵師・月麿が元芸者夢吉に首ったけで、夢吉を追って草津へ『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九を誘って草津温泉に行く・・・というのがあり、彼らが同時代人であることが判る。

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図版③④⑤は歌川国芳(1797-1861)である。年号でいうと寛政9年から文久元年である。私の子供の頃には文久生まれという老人が居られたから、もうすぐ明治という、幕末の頃である。
国芳の作画期は文化後期~万延元年(1814~60)。画系は歌川豊国門下。
役者絵、挿絵などを描きはじめるが人気が出ず長く不遇であったが、文政末期より描きはじめた「水滸伝豪傑錦絵」シリーズで人気が急騰し、以後「武者絵の国芳」として評判を得る。
天保期になると洋風風景画にも手を染め、近代的な写実眼によって描いた作品は、今日でも評価が高い、という。これを見ると、開国を迫られている幕末という時代の波が、絵画の世界でもヨーロッパからの潮流が、ひたひたと押し寄せて来ているのを実感するのである。
初めの姓は不明だが、のちに井草孫三郎と名のる。
一勇斎、採方舎、朝桜楼、雪谷、仙真などの号を用いた。
一時は不遇であったから、何とか号を替えることによって人気を得られるか、と苦労したことが、このことからも察せられるのである。
今日も知られる作品としては「木曾街道六十九次」「唐土二十四孝」「相馬の古内裏」「土蜘蛛とろくろ首」「源頼光公館土蜘蛛妖怪図」(大判三枚続)などが有名であり各地の美術館に展示されている。

こうして見てくると、歌川国芳の没した1861年という年は、明治元年が1868年であるから、まさに明治維新直前といえ、時代は大きく変るという大変革のうねりの年代であった。恐らく世上も騒然としていたであろう。
そういう時代を彼らが、どんな想いで生きていたのだろうか、という気が私にはするのである。
長らく、お目を汚したか、それとも蒙を啓いていただけたか、ご協力に感謝する。
折に触れて、ゆるりと鑑賞されたい。
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2005/11/19のBlog

──浮世絵春画コレクション──(17)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(5)
    渓斎英泉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回は渓斎英泉(1790-1848)を採り上げる。
彼の生きたのは、まさに幕末、明治維新前夜ということになる。
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図版①②③④⑤とも渓斎英泉である。
安政3年=嘉永元年(1790-1848)江戸の星ケ岡に生まれる。
士分の子。姓は池田、名は義信。父は池田茂春。能書家で俳諧、茶道も心得た才人であった。
一時、水野隠岐守に仕官するが、後に浪人する。根津で遊女屋を経営したり、また白粉を販売したこともある。菊川英山宅に寄寓して浮世絵を描きはじめ、やがて美人画に本領を発揮する。幼年期には狩野白桂斎に学び、狩野派の画法を修得している。
風景画にも技量を有し、洋風風景画に特色を示す。
彼の作品として有名なものに1835年頃の「木曾街道」の絵があり「塩尻峠諏訪ノ湖水眺望」の大判錦絵がある。
木曾街道シリーズは歌川広重の東海道五十三次シリーズの成功の後、同じ版元の竹内孫八が企画したもの。当初、絵師は英泉だったが、途中、英泉が手を引き、広重が引継ぎ完成させる。英泉の作品数は全体の三分の一ほどである。
この絵は、31番目の宿駅の塩尻を描いたもので、出版が宿駅の順番ではなかったことが判る。

晩年には「一筆庵可候」という名で執筆もしている。
先に書いた北斎、歌麿の生涯の記事にも紹介したが、浮世絵の歴史に関する著作があるところなど、武士出身のインテリらしいところが特長である。
英泉の作画期は、文化末期~弘化末期頃といえる。
文政中期以降の大首絵に独自の凄絶な頽廃美を表現した。
文政末期に「藍摺絵」をはじめ、北斎の「富岳三十六景」に先駆けて「ベロ藍」を用いた。
長々と英泉の経歴を書いたが、彼の著作に見るように、彼は武士出身らしいインテリだった。
彼の春画は、局部を露出する春画ではありながら、女の着ている衣装が豪華絢爛で、大首絵の大判錦絵を得意とする彼らしく、他の作者とは異質である。性交シーンは、お添え物という感じで、絢爛たる衣装に目を奪われるというところである。
書き遅れたが、図版①②③には「春の楽しみ」という題がついているシリーズもの。
図版④⑤は「逸題組物」ということになっている。
いずれも1818年~29年の間に刊行されたものとされている。
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2005/11/18のBlog

──浮世絵春画コレクション──(16)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(4)
    葛飾北斎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回は葛飾北斎(1760-1850)を採り上げる。
図版①②③④⑤とも北斎である。

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葛飾北斎については11/14付けで、彼の生涯について詳しく書いたので参照してもらいたい。
彼の画業は多岐にわたっており、一面だけを採り上げて言うことはできない。

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ただ、ここでは「春画」だけに限定して書くことにする。
歌麿の春画が、どこか王朝風であったのに対し、北斎の春画は、一見、荒く、粗野のようにも見える。
それは、北斎の絵の線がかなり太く、繊細ではないことにも起因しよう。
それに、絵の周囲の「せりふ」の書き込みも、ものすごく多くて、ごちゃごちゃした印象を与える嫌いがあるからである。
また北斎としても、歌麿などの絵とは違った特長を出したかったとも言えよう。
それは、また、「幕末」という時代のうねりの波にも左右されていよう。
これらの錦絵は7、8色はおろか、12色、15色を重ね、さらに補色をも加えた完璧な絵画的表現である。
また、金銀の摺箔、空摺(レリーフ効果)も考案されている高度なものである。
木版画の彫刻技術は、初期の墨絵版画以来、漸次、技術的進歩、発達を遂げてきたが、粗野な描線から精緻を極めた精妙な描線へと洗練されてきたが、ある時期を過ぎて、或る程度の退歩を示すということはある。
北斎は極めて多作であったから、最高度の繊細さを求めることは酷かも知れない。
北斎の描く女の顔の特長として、歌麿の「瓜ざね顔」に対比して「細長」顔が指摘される。
それに「せりふ」の書き込みに「ずるずる」とか「くちゃくちゃ」とかの擬態音の表現が多い。
これらも歌麿の洗練された表現とは、かなり異質のものと言えるだろう。
春画も初期は(たとえば慶長期─16世紀末頃)墨摺版画であった。
それが明和2年(1765)を迎えて多彩色摺りの木版画が誕生して、これらの作品群に発達してきたものである。
「錦絵」と称される所以は、中国の金襴織物の蜀江錦のように華麗であるところから呼称されるようになったのである。
北斎はおびただしい写生図を保存していたが、先に書いたように火事で燃え尽きてしまった。
多作であった北斎だが、それらの裏づけに、このような今で言うスケッチ類の蓄積があったのであり、その蓄積のあったがゆえに、急な注文にも、速やかに応じられたのではないか。
それに幾多の苦難はあったとは言え、北斎は極めて長命であった。当時としては異例の90歳という長生きをしたおかげで、また極めて旺盛な好奇心のゆえに、今のに残る傑作をものにし得たと言えるだろう。
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2005/11/17のBlog

──浮世絵春画コレクション──(15)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(3)
    喜多川歌麿・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


図版①②③④⑤とも喜多川歌麿(1753-1806)の作品である。
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清長、春章、歌麿らを輩出した18世紀末期は浮世絵版画の黄金時代といえる時期である。
それらの中でも歌麿は、画面構成も、一層ドラマティックになり、画面内容は一層「耽美的」になり、「退廃的」な様相を深めることになる。
そこには想像のつく限りの愛欲の肖像を描き、性器はもろに、大きく描かれ、かつまた、衣装美の華麗を尽して、春画美術を極限まで描きあげた。
木版技術史上でも、摺り版を十数度も重ねるなど最高の発達を遂げた時代であった。
歌麿は、北斎のように長命であったわけではないが、50余歳の人生を精魂こめて絵と共に生きた、といえよう。

それらの中で、女の顔の「瓜さね顔」という歌麿特有の特長と、「線」の美しさ、という独自の浮世絵美を創造した。
歌麿の男女のからみの肢体には、さまざまのものがある。
それは、どうすれば、ペニスとヴァギナとが食い込む「痴態」を描き切れるかという執念のようなものであろうか。
そのためには、吉原などにおいて、実際の「からみ」を仔細に観察し、それをスケッチしたに違いなかろう。
彼の春画は、引く手あまたであったろうから、有力な版元である「蔦屋重三郎」からの、より露骨な肢体の注文もあろうし、その前に春画の購入者の強い要望があったと思われる。

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図版③の肢体など、中世キリスト教などが見たら「破門」ものの構図である。
そのゆえに、耽美的、享楽的という所以である。
今日の裏ビデオ、DVDの悦楽をしのぐものと言えるだろう。
それに、先から何度も言うように男女の性行為中における会話「せりふ」の書き込みが「真」に迫っているのが特長である。

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図版④の書き込みでは「・・・今夜は久しぶりのせいか・・・」の文字が読み取れ、クライマックスの直後の景というべく、玉門から淫水が垂れているという凝り方である。
これらの工夫こそ、原画家である歌麿と購読者である客との間に、濃密なコミュニケーション、共感、支持があればこそという気がするのである。
現在、このような大判錦絵の遺品は極めて僅少らしい。

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先に書いた11/13付けの記事の中で、研究者の間では歌麿の作品と限定できるのは27~28点と思われる、という一節があるが、それほど貴重なものである。
これらの絵が春画でなければ、国宝、重要美術品の指定を与えられるべき作品群だと言われる所以である。
春画美術としても、これらの作品は、まさしく国宝的なものであると、評価し賞賛されるべきものであろう。
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2005/11/16のBlog

──浮世絵春画コレクション──(14)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(2)
    鳥居清長、鳥文斎栄之、喜多川歌麿・・・・・・・・・・木村草弥


図版①②は鳥居清長(1752-1815)である。

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時代は寛政期を含む18世紀末から19世紀初頭ということになる。
鳥居清長は、江戸の本材木町の本屋白木屋市兵衛の子。鳥居家三代目の清満の門人となり、師の没後名跡を継ぐ人がいなかったため望まれて天明7年(1787)頃、四代目当主となった。
彼は80年代を全盛期として、江戸の町を背景に健康的な女性群像を大判二枚続きに制作したりした。
鳥居派は役者絵をお家芸とし、特に芝居の絵看板は鳥居派の独占で、これは現在も続いて、東京の歌舞伎座の絵看板は鳥居派九代清光師が描いている。
清長の有名な絵としては「大川端夕涼」という天明5年(1785)作の二枚続きのもので、夏の大川端を夕涼みがてらそぞろ歩く美女たちを描いている。ながく伸びたすらりとした肢体とふっくらした顔、それに八頭身が清長美人の特長。
この春画には「色道十二番」という題がついたシリーズになっている。
図版③④は鳥文斎栄之(1756-1829)のものである。
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彼は姓は細田、名は時富、鳥文斎は号。はじめ狩野栄川門に学び、将軍徳川家治より栄之の画号を与えられた。
のち浮世絵で名を成し、多くの門人を輩出する。肉筆画にも優れた。文政12年没。74歳。
有名な絵としては「隅田河畔雪中名妓」図があり、文化期(1810年頃)の美人画の三大巨匠(清長、歌麿、栄之)の一人と在世中から言われてきたが、当時は、その中でも最も盛名高く、絵も高価格で評価されていた。武家の出身のせいか大変上品で、キリッとした美人画が特長。
そんなに有名な画家が、なぜ春画を描くのかという疑問を持たれるだろうが、そういう有名な画家なるが故に、彼の春画を、という大名や町人のお金持ちの要望が強いのであった。世は太平であり、人々の間には「性行為」にまつわる享楽的な空気が満ち溢れていたのであった。また、名の高い彼らの間での腕くらべという要素もあろうか。
絵の周りの「睦言」のセリフも、時代とともに、書き込みが益々多くなってきたのが、見てとれるだろう。春画の閲覧者は、それらの書き込みを読んで、男女お互いの春情を刺激されて、現実のセックスに一層燃え上がる、という算段である。
栄之の春画の描き方の特長として、交合した性器をもろに描かないで、半ば衣類で隠したようなところである。この辺のところに武家出身という彼の美意識の一端がかいま見える。

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さて図版⑤から、いよいよ喜多川歌麿(1753-1806)を採り上げる。
彼については11/14付けで、人となりについては詳しく書いたので、改めて繰り返すことはしないが、ただ一つ、歌麿が鳥居派などと違って役者絵をいっさい描かなかったということだけ繰り返し書いておく。
ここらに歌麿の強烈な自信と自負をかいま見ることができると言えよう。
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2005/11/15のBlog

──浮世絵春画コレクション──(13)

   浮世絵「版画」名品聚芳─(1)
    鈴木春信、磯田湖龍斎、勝川春章・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から先月に採り上げた「肉筆」春画シリーズにつづいて、同じく福田和彦氏の撰集になる「版画」名品50選の中から30を選んで6回にわけて紹介する。解説にわたる部分は福田氏による。

図版①②は鈴木春信(1725-1770)で浮世絵「版画」の嚆矢とされる人である。制作年代は1767-72とされている。
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鈴木春信の絵は何となく童画っぽい雰囲気があり、絵もきれいである。春画の特長であるが、セツクスしている場面を、脇から覗き見るというのが図版②にも見られる。
ご承知のように名前の残るのは原画師のみで、版画の場合分業であるから「彫師」「摺り師」が必要であるが、通常、彼らの名前は残らない。彼らの腕の力量も作品の出来映えを左右するのは言うまでもない。

図版③④は磯田湖龍斎(1722-1789?)であるが、この人の名も春画界では有名である。
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この作品は「色道取組十二番」というシリーズもので、過去の木版画と隔絶した技術をもたらした。特に、その性器描写におけるリアリズム表現は木版画史上における革命的な表現描写であると評価される。これ以後の春画の性器のリアリズム表現と誇張表現に多大な影響を与えた。
それと肉筆春画にはない特長として、絵の周りに登場人物たちの「よがり声」などの「せりふ」が書き込まれはじめることになる。図版③の女の顔の周りにある「書き込み」や図版④の尻の辺りの書き込みが、それである。
先にも書いた通り、このシリーズの性器表現は明和期(1764-1771)以降の春画作品の師表となった。
かくして、木版画技術は江戸初期(17世紀初頭)から百年の盛衰を重ねて、ようやく、きらびやかな色彩と性器描写の最盛期に入ってゆくことになる。
後につづくのは、18世紀末期の鳥居清長であり、喜多川歌麿であり、さらに後年には19世紀初期~中期になって、葛飾北斎、渓斎英泉、歌川国芳などがある。そして時代は、もうすぐ明治という幕末にさしかかる。

図版⑤は勝川春章(1726-1792)である。この絵には「喜師の姫松」の題がついている錦絵である。
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時代は寛政期(1789-1800)を迎えた18世紀末期ということになる。
11/14付けの葛飾北斎の「生涯」の記事に書いた通り、長生きした北斎が習作時代に入門し「春朗」の名をもらったのが、この春章門下であった。
この絵になると人物の「せりふ」が一層たくさん書き込まれるようになり、人物の周り一杯に書き込まれているのが、判るだろう。
これは、見る人が、それらの「せりふ」を読むことによって、一層、春情を刺激されて、自分たちのセックスに没入してゆくという算段になっているのである。
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2005/11/12のBlog

──浮世絵春画コレクション──(12)

   葛飾北斎・絵本『万福和合神』・・・・・・・・・・木村草弥

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今日は葛飾北斎の絵本である。これも原本は上、中、下の3巻に分かれていたらしい。全27図である。刊行年についての記述はない。
ここには出さないが第2図には「張りがた」「ずいき」などの「性具」が11点描かれている。江戸時代には、戦争もない平和な時期が続いたので、享楽的な風潮が蔓延していて、性生活を満喫するような「道具」が発達したらしい。
絵本の用紙の関係で図版が見にくいが、ご勘弁願いたい。

この絵本は「おさね」「おつび」という13歳の娘たちと、その両親たちとの物語になっている。

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図版②は「おつび」の両親の絡みである。「食わぬ屋の貧兵衛」という大貧乏なる男、と書かれている。「一生の得はまらの大きいのと、女房おさせが味が良いのと、その他は朝夕の煙も絶え絶えで、寒いとてはしがみつき、ひもじいとては口を吸い、冬も裸の汗仕事、無ければ食わぬ上の口、食わねばならぬ下の口、口と口とは合わせても、合わぬは所帯の繰り回し。晩の夜食にゃぼぼしょじゃないか、ぼぼの他に楽しみなく・・・」と紹介されている。

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図版③は成人した「おさね」が婿を取って「新枕の楽しみ」。来る晩も来る晩も、天下晴れての高よがり。・・・しすぎで婿は養生のために里に戻され、髪結いの才三とて、小粋で如才ない男、いつしか間男のたのしみ。
人目を忍ぶ隠し食いの心地よくて婿には勝るまらの最上。負けじとおさねが、ぼぼの口元、食いしめ食いしめて、むっくむっくとあしらへども、このまら奇妙の一物にて、突く度々にうねりを生じ、ぼぼ一杯にはびこり、小壷の口をしっぱしっぱと吸い付き、高く抜き上ぐれば、中の小ざねへ雁首を引っ掛けて、いらりいらりと小突き、深く突けば吸い付きて、その離れ際の心地良さ。

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図版④は成人した「おつび」。内々は陰間買い。若衆を二人づつあげて互い違いの千本突き、むしかへしむしかへし取り乱したるよがり声。
隣座敷の坊主客、玉門寺の頓穴といふ色法師。このよがり泣きを聞きつけ、そっと覗けば、おつびのぼぼは左右の肉ふっくりと、さね高からず低からず、毛は程よく柔らかに生え・・・・・かくとも知らず、おつびはまたまた若衆の上に乗っかかり、茶臼になって、ずっぼずっぼとやりかけられ、頓穴は立ちすくみ。どうもどうもならぬところへ・・・・・。

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図版⑤は、「おつび」は玉門寺の頓穴和尚に口説かれ、殊には男振りの良いのと、万事が野暮ではない取り回しに心移りて、今は人目もはばからず上野池の端の出合い茶屋。口と口チウチウつっぱつっぱツウツウ。男は指に何やらつけたと見えて、えぐる度におつびは尻をもじもじと鼻息荒く目を細め、男の舌をちぎれる程に吸いながら、淫水がぴょこぴょことはじき出して、まらを握るに、このまら世にいふ釣鐘まらといふものにて、まらの頭に百八のいぼいぼ高く、胴中には三つ四つの括り目ありて、さながら尊きまら也。・・・・・

この草紙は睦言の書き込みが、擬態語を交えて微に入り細にわたって描写されているが、ここでは省略したい。このような草紙は、絵もさることながら、書き込みのセリフを男女がお互いに読むことによって、情欲を一層たかめて行ったものと思われる。
この本下巻に「福徳和合神」跋として

蝶、花に遊むて、蝶、花の
甘きに酔い、しかして花の香に
さめて、またよく露の情
を得る。嗚呼、花に匂ひ
有て、花に蜜のうまきを
たもつ。よく花に露の深くも、
ぬれ色を看る。げに蝶々の二つ
枕は、花に和合神の心を和らげ
蝶々、静にさし込み、また花の
甘きを知る。夫々、静にさしこめと云ふ。
 
という文章が載せられている。
巻末には、和合神・詠歌として

 何事も気のいくよふに守るべし多里(足り)不足ある 肉のあまりに
 
という歌が付け加えられている。
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2005/11/11のBlog

──浮世絵春画コレクション──(11)

   喜多川歌麿『絵本笑上戸』・・・・・・・・木村草弥

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お約束通り、肉筆につづいて浮世絵「版画」の春画を今日から8回にわたって紹介する。浮世絵には、一枚物のものと、「絵草紙」と称されるブック形式の絵本読み物とがある。
草紙は「台詞せりふ」入りで、登場する男女の睦言やクライマックスでの叫びが絵の周辺に書き込まれていて、読む人の色欲を刺激するという算段になっているのである。
今回とりあげるのは、浮世絵の第一人者である歌麿の絵本27図からなる本である。

この草紙は享和期の1806年の再販彩色本の復刻本である。原本は上、中、下3巻に分かれているらしい。この本の巻末に載る解説については、稿を改めて「エッセイ」の形でまとめて書いてみることにする。
この「笑上戸」は歌麿晩年の作品であり、市井の庶民を主題にして、その性生活を描いたものとされている。

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図版(2)は「男の一物自慢」の図である。
絵の周りに書き込まれているセリフには
「誰が大きの、なんのと云っても、俺ほど色男で、しかも、こんなみごとな物をもっている者は他にいねえだろ。どうだ、よく見てみろ」
遊女の一人は
「この年まで、お勤めしてきたが、こんなみごとなものを持っているお客さんは見たことがないわ。馬鹿らしい。いっそ、恐いような気持だわ」
スキャナで図版を取り込んだが200KBを超えるという警告が出て図版を小さくしたので、見にくいが勘弁願いたい。

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図版③は娼婦と客の戯れである。娼婦は「金猫」「銀猫」などと呼ばれていたらしいので、絵の中の書き入れセリフにも
「てめぇも猫だから、尻からするのは、あたりめぇだ。おれも此頃すこし・・・さかりがついて、どうもここえ、来たくて仕方がねぇ」
などと女を腹の上に乗せての「櫓掛け」の体位での契り。
娼婦は、そんな男の戯言など上の空。「早く本気になっておくれ」とせきたてる。

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図版④は、産後間もない夫婦の睦言。昼日中なのか、男はタバコ盆を枕にしての、あわただしい愛欲の情景である。女房は産後の休息もなんのその、待ちきれなくなっての欲求である。
「お産をして、まだ七夜もたたないうちから、交わると毒だと云うけれど、毒ほど欲しいものはない」などと、女房は亭主に持ちかける。亭主も
「なに、好きなものが、毒になるものか。世間の女は、子を産むと、下が広くなると云うが、お前のは、ちっとも、かわらないねぇ」などと褒めちぎっているという図。

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図版⑤は、色好みの医者と浮気な人妻との密通を描く。画中の書き入れ言葉を読むと、どうやら、この浮気っぽい人妻は、癪が起きたと仮病を使って、通じ合った医者を呼び、命の洗濯をするという女。坊主頭で無精ひげの医者も心得たもので
「また例のお癪が起こったと思いまして、ほかの病人をほったらかして、はせ参じました。ほんとうに、私は親切な医者でござろうよ。・・・・このように急な時には、下の穴からいたすのが、よく効くのじゃ。さ、それそれ、どうじゃな」
女房も
「お前さまの針が、私にはよく効きます。・・・・ああ、よい気持になって参りました・・・」
官能の媚感に震える女人の顔の表情が恍惚として美しい。いかにも歌麿の美人画から抜け出してきたような女人である。

ここに書いたことは、私の所感ではない。この本の解説にあるものである。
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2005/10/04のBlog

──浮世絵春画コレクション──(10)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(8)
    英一笑、河鍋暁斎ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ「肉筆」浮世絵のシリーズも終わりに近づいてきた。
時代は19世紀末頃から20世紀初頭の作品を採り上げて終わりにする。
これまで紹介してきたのは美術史家・福田和彦氏の撰集によるものである。

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図版①は「後家と若衆」と題する絵師不詳の「歌川派」の作品である。
これも綺麗な絵で、後家のエクスタシーの描き方が秀逸である。

図版②③は英一笑(はなぶさ・いっしょう)という作家の絵で「画帳から」という。

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時代は19世紀初頭ということになる。
彼については、江戸後期の画家。高嵩谷の孫、嵩渓の次男。英派を再興した一珪の養子となる。安政5年(1858年)没。享年55歳。ということくらいしか判らない。
「英」(はなぶさ)派について書いておく。
この流派は英一蝶を始祖とする狩野派の一派である。
一蝶は承応元年(1652年)京の医師多賀白庵の子として生れた。
8歳のとき江戸に移住して狩野安信に絵を学んだ。俳諧を好み、俳号を暁雲と称して、松尾芭蕉や弟子などと交友があったという。狩野信香と名乗ったが、のち師の氏を返して多賀長湖と改め、のち英一蝶を名乗る。
島流しに遭ったなどと言われ、さまざまの説がある。
江戸の都市風俗を描き、大名や武士、町人にまで幅広く人気があった。
代表作としては紙本着色「源氏物語明石・澪標図六曲一双屏風」がある。右に源氏物語の第13帖の「明石」の段を、左に第14帖「澪標」の段の情景を描いたもの。

英一笑の絵は、ご覧のように艶麗な筆致で、特色のあるものであり、きわめてエロティックである。。
図版③の坊主頭の人物は「按摩」であろうか。その頃は職業によって髪型が指定された。
按摩を頼まれてきたのが、依頼主の局部を、恐らくは依頼主の希望で弄っているという図である。

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図版④は「逸題絵巻より」という河鍋暁斎(1831年~1889年)の作品である。彼は天保2年、古河生まれであり19世紀後半の幕末、明治の激動期を生きた画家。
世相を鋭く批判した戯画や狂画、妖怪画で有名だが、伝統絵画のみならず、あらゆる絵画を描きこなす卓抜した技量と、独特で力強い作風は海外でも高く評価されている。終生、葛飾北斎を師と仰ぎ、反骨の絵師と言われる。
岩波文庫に『河鍋暁斎戯画集』(1988年刊)というのがある。この本に彼の略年譜が載っているという。

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図版⑤は絵師不詳ながら「画帖断簡より」という20世紀初頭頃の作品である。
ということは明治30年代以後の絵ということになる。
女を上に乗せた伝統的な春画の描き方である。こういう描き方は正常位よりも男の一物がヴァギナに食い込む様子が、もろに描けるからであり、だから春画の世界では、この体位が好んで描かれた。
この絵も新しい絵でありながら、女の恍惚とした表情などに非凡なところを見せる秀作である。クライマックスの情交の様を描いてあり「淫水」が垂れているのが精細に描かれている。秀逸と言うべきだろう。

これで「肉筆」浮世絵の秀作撰を終わる。
次回からは「版画」の逸物を、適当な機会を見て発表することになる。
喜多川歌麿など名品が目白押しであることを予告しておこう。乞う、ご期待である。
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2005/10/03のBlog

──浮世絵春画コレクション──(9)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(7)
   月岡雪鼎、宮川長亀、渡辺崋山・・・・・・・・・・木村草弥
 

続々と、よく知られる名前の作者が登場する。
時代は18世紀後半から19世紀に入る。
今回の作品群も美術史家・福田和彦氏の撰集によるもの。

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①②③は月岡雪鼎の絵であり、この人も浮世絵史上では有名な人である。
月岡雪鼎は江戸中・後期の画家で京生まれだが、大坂で活躍した。名は昌信、別号に信天翁、月岡山人など。1710年生まれ。
高田敬甫の門下で狩野派を学んだが、西川祐信の影響で風俗画家となり、美人画で一家を成したと言われる。天明6年(1786年)没、77歳であった。
彼は18世紀後半に活躍して大坂で肉筆画の美人図で独自の画風を築き、上方の風俗画家として人気を博したという。
その美人図は独特の顔だち、装飾性の高い衣装、華やかな彩色などが特徴だという。多くの門弟を抱え「月岡派」と呼ばれている。
画業としては「しだれ桜三美人図」「柳下美人図」「月下舞妓図」などが伝えられる。
ここに掲げた春画にも、上に書いたように顔立ちの描き方や衣装などには、他の画家にはない特徴が見えるようだ。
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図版③の「からみ」の絵では男性性器の大きさが特徴であるとともに、もう一方の女に対しては「張り型」を使ってヴァギナを弄っているのが目新しい。

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図版④は宮川長亀の「逸題・絵巻」のうちの一枚ということだが、彼のことについては生年、没年などは判らなかった。
代表作として「吉原遊楽図」というのが知られている。
江戸で活躍した画家らしい。
掲出した絵は線描も綺麗なもので、人物の顔だちなどもふくよかで、さすが美人画家として活躍したと言われるだけあって、秀逸作と言えるだろう。

図版⑤は「タコと海女」と題する渡辺崋山の春画である。
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海女(あま)にタコがからんで犯しているという独特の構図である。この絵は崋山の絵として、よく引かれる作品であるが、他に彼の春画があるかどうか判らないが、崋山は写生派画家であり男女のからみという春画に、もうひとつのめりこめなかったのかも知れない。
渡辺崋山(1793年(寛政5年)~1841年(天保12年))は三河国田原藩士の渡辺定通の長男。
時代は19世紀の初頭から中期に入る。
江戸半蔵門外の藩邸で生れる。通称・登(のぼり)。幼少の頃から赤貧の家計のために画業に励み、後、谷文晁に師事し、写生派画家となる。
高野長英らと共に幕府の外国船に対する強硬論に反対して慎重論をとり、蘭学者らと交友したため、崋山の影響力を警戒され、長英とともに処罰された。いわゆる「蛮社の獄」というが、自刃した。
享年49歳。


浮世絵春画コレクション(1)・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
浮世絵春画コレクション(1)

浮世絵・春画というのは日本の江戸時代の芸術作品であり
したがって単なるエロとして見る人には鑑賞をお断りする。


こちらが最終である。 始まりである(1)から順に見られよ。
     

2005/10/02のBlog

──浮世絵春画コレクション──(8)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(6)
    17世紀末頃 尾形光琳ほか・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から有名な芸術家の作品が更に登場する。
図版①②③④は尾形光琳の絵である。
解説にあたる部分は美術史家・福田和彦氏の文章による。

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ここに紹介するのは尾形光琳作の「絵巻・花のにしき」と題するシリーズの一部である。
鑑賞に先立ち尾形光琳のことを概略で解説しておきたい。
尾形光琳は近世以前の日本絵画史の中で、もっとも知名度と人気の高い画家のひとりに数えられよう。
彼は1658年(万治元年)京都の裕福な呉服商雁金屋の息子として生れる。幼名・市之丞。名は惟富、才祝、伊亮など。尾形乾山の実兄。
30歳の時、父の死去により家督を継ぐが、生来の遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たした。
江戸期の絵師、工芸家として元禄文化を代表する芸術家のひとり。
初め山本素軒に狩野派を学んだが、のち俵屋宗達に深く傾倒し、宗達の自由、奔放さの上に、独特の華麗で濃厚な絵画表現と、より技巧的な装飾理念を加味して、光琳派(略して琳派)と呼ばれる独自な作風を確立した。
彼は茶道、歌道にも通じ、蒔絵師としても卓抜な意匠(光琳派・光琳模様)を生み、水墨画は軽妙で風刺性に富み、弟の乾山の陶器の絵つけもしている。
姫路藩主・酒井氏、江戸の豪商・冬木氏の庇護のもとに製作をつづけ、1701年(元禄14年)法橋の位に叙せられた。
主な作品に「紅白梅図屏風」「燕子花屏風」「伊勢物語図」「八ッ橋蒔絵螺鈿」など国宝に指定されているものなど数多い。
一時江戸にも住んだことがあるが、1716年(享保元年)に京で亡くなった。

紹介が長くなったが、尾形光琳の特徴が春画にも明らかに出ているので、存分に賞味してもらいたい。彼の特徴として絵のバックを「金泥」で塗りつぶしているのも、その一つであろう。絵の構図、描線などは伝統的な描き方である。
「性器」の色を黒っぽく描くなど工芸家らしく、一物を際だたせて描いている上に、一物の形も綺麗に描いてあり、彼の特質をよく表現していて、秀逸である。

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図版⑤は「菱川派」の氏名不詳のものであるから、お間違えのないようにお願いしたい。
これも「逸題・絵巻」のシリーズのうちの一枚である。
先に四点掲げてきた尾形光琳の絵と比較すると、その絵の違いははっきりする。
光琳は登場人物の着けている着衣などの他には、バックはすべて書き込まないで「金泥」一色に塗りこめて単純化しているが、この菱川派の絵では周辺に「小道具」が描きこまれている。
光琳は、そういう物を排除して、絵の単純化を図ったものと言えよう。
しかし、この図版⑤の絵も、とても綺麗な絵で、秀作と言えるだろう。
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2005/10/01のBlog

──浮世絵春画コレクション──(7)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(5) 
   17世紀初頭─狩野探幽ほか・・・・・・・・・・・木村草弥


先に予告した通り、今回から日本画壇でも著名な画家の描いた春画を紹介する。
これらは、いずれも美術史家・福田和彦氏の撰集になるものである。

作品は、いずれも17世紀初頭頃の製作と伝えられるもの。
図版①②③は、「絵巻・梅に鶯」と題する狩野探幽の描いたものである。
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作者名を聞くと、やはり今まで見てきた作品とは描線に特徴があるのが、素人目にも、はっきりと区別できる。
構図は、こういうものだから、ありきたりの形ではあるが、描き方は明らかに違う。さすがに大家だけあって類似の絵とは大違いである。
図版①の絵のペニスの亀頭の描き方もリアリスティックである。
図版②は女を組み伏せた姿なども類型的では、ない。
デッサンというか写生がしっかりとなされており、男女とも体つきが自然に近く描写されている。
ここで「狩野探幽」について少し書いておく。
狩野探幽は慶長7年~延宝2年(1602年~74年)に生をうけた江戸前期の画家。名は守信。狩野孝信(永徳の次男)の長男。幼少から天才的画才を発揮し1612年(慶長17年)駿府で徳川家康に謁見されて江戸に上り、1617年(元和3年)16歳で幕府御用絵師となり、鍛冶橋門外に屋敷を拝領した(鍛冶橋狩野の称)。
これ以後、1619年には京都御所、1623年には改築の大阪城、1636年に完成した日光東照宮、江戸城の障壁画の製作など多数。
1638年には法眼に、1662年(寛文2年)には宮内卿法印に叙せられた。
狩野派は、こうして幕府および諸藩の御用絵師としての地位を確立した。彼の遺作は大徳寺本坊方丈の障壁画など多く伝存している。

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図版④⑤は「菱川派」の描いたものだが、絵師の名前など不詳。
「逸題絵巻」と解説される17世紀初頭の作品である。
先の狩野探幽の描き方と比べていただくと、その違いが一目でお分かりいただけよう。
これらの絵の違いは、先にも書いたが、やはりデッサン力というか写生力の圧倒的な違いであろう。
しかし、この二点とも、線描などもしっかりした傑作であることには違いないが、所詮、狩野探幽と比べると見劣りする、というに過ぎない。

ここで「菱川派」について少し書いておく。
菱川派は菱川師宣、師房、師平など寛文、延宝年間の画派であって、「吉原遊里図」などの美人画、風俗画に特異な作品を残している有力な流派である。
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2005/09/29のBlog

──浮世絵春画コレクション──(6)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(4) 
    17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


前三回に引きつづき「肉筆」春画を紹介する。
解説にあたる部分は福田和彦氏の文章による。

今回の五点は、いずれも17世紀初頭の作者不詳の土佐派絵師によるものである。
図版①②は「絵巻・花山堂述懐」と紹介されている。その詳しいことは判らない。
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図版①は、いわゆる「シックス・ナイン」という体位である。ご存じない方のために説明すると、数字の6と9は、反転すると同じ形になる。セツクスの愛戯では、体を反転してお互いの性器を舐めあう体位をいう。男女がどちらが上になっても、よい。
これは男女の間の体位でなくても、同性の間での愛戯としても成立する。
この頃では、同性愛者が増えているらしいが、彼らの常套的な体位と言えるだろうか。
図版②は男1女2のからみである。
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図版③④⑤からは、前のものとは版が変わる。
「逸題・絵巻」と解説されているから、組み物を切り取ったものであろう。
作者は不詳ながら、いずれも土佐派絵師によるものである。
そういうと絵に共通点があるので、同じ絵巻から拾い上げられたものであろう。
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図版③も男1女2のからみである。こういう構図は現代の裏ビデオ、DVDの構図と何ら変わりがない、共通したものであり、古今東西を問わず、人の考えることは同じだなと納得する。
これらが絵巻である証拠に図版の右端に他の絵の端が覗いている。
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日本の古い絵には「絵巻」になつたものが多いが、それは保管するのに場所を取らずに便利だからであろう。シート状だと保管に際して場所を取るだけでなく、出し入れの際に作品を傷つける恐れもあるだろう。
その意味で巻物、掛け軸式にしておくと、これらの難点を避けることも出来る。
日本人の生活の知恵であろう。
図版⑤の絵も前の二枚と同じ描き方の特徴が見られる。
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この絵の特徴は、事が終わった後の情景らしく、ペニスが萎れていて、しかも日本人には珍しく「包茎」である。あるいは房事にとりかかる前かも知れない。
房事の後の高ぶりが残っているのか、女がペニスを弄っている図である。
こういう場合にも、春画の常套手段として、女の性器もうち開いて描いてあり、男が足の親指で女のヴァギナを弄っている。

さて次回からは皆さんも名前をよく知っている有名画家の描いた春画を採り上げるので、ご期待いただきたい。
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2005/09/28のBlog

──浮世絵春画コレクション──(5)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(3)
   17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


前回、前々回に引きつづき「肉筆」春画の世界に、ご案内する。
解説にあたる部分は福田和彦氏の文章によることを予め申し上げておきたい。

図版五点は全部17世紀初頭頃の作品と言われている。
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絵の筆遣いの「線」の使い方が繊細で女体のふくよかな線を、芸術性豊かに表現し得ている。
これらの浮世絵を、単なる春画として見るか、芸術作品として認めるかによって、人の評価は分かれるだろう。
単なる性欲をくすぐる春画としか見ない人は、これからの展開を見てもらわなくてもよいので予め通告しておく。
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このシリーズは『浮世絵:日本のエロス・シリーズ』として企画され、編者・福田和彦、訳者・カルロ・キエザ、発行人・津布久洋治で日本芸術出版社から刊行された。
発行年月日は明記されていないので記憶をたどるしかないが、もう20数年前であると思う。
この解説書の隅に「注意:この浮世絵コレクションの日本国内への持込はできません」とある。
これは当時はまだ検閲当局の理解が得られず、摘発される恐れがあったために、敢えて明記されているもので、今日とは違って、芸術作品とはいえ、まだまだ未理解の時期だったことが判るのである。
春画をふくむ浮世絵は、むしろ西欧から高く評価され、その評価の逆輸入のような形で日本国内でも再評価されてきたという経緯があるのである。
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絵に描かれる人物の髪形や着衣を見ていると、この時代の風俗が少しは判るのである。
前回につづいて描いた絵師の名前は不詳だが、「土佐派」の絵師であることは、同じである。
嬉々としてセックスにふける男女の姿態を描いて過不足がない。
何度も言うが「線」描きの美しさを堪能してもらいたい。
これが春画だけでなく、日本画全体の特色と言えるだろう。
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図版⑤は「絵巻・花山堂述懐」という名がついている。その詳細は判らない。
絵のサイズは45×33センチと書かれているから、さほど大きいものではない。A3版くらいのものであろうか。
図版⑤に描かれる人物のうち、女の被っている頭巾は「尼」ないしは「後家」の印であろうか。男は被り物から公卿あたりかと思われ、こういうところに「ストーリー」性を持たせてあると理解できる。
ヨーロッパなら、さしずめ修道女をめぐる「からみ」の絵図というところであろうか。
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2005/09/27のBlog

──浮世絵春画コレクション──(4)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(2)
   16世紀末~17世紀初頭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


そんな時代精神を反映して、好色美術としての春画は未曾有の発達を遂げ、当代一流の、現代では国宝級の画家と言われる画家たちが競って春画に染筆した。イタリアン・ルネッサンスで言えば、ボッチチェリやラファエロのごとき画家たちであった。

はじめに書いておく。
図版①②は16世紀末期頃の「土佐派」絵師による作品であるが、絵師の名前は不詳である。
図版③④⑤は17世紀初頭の作品で、これも「土佐派」の絵師の名前は不詳のものである。
解説にわたる部分は、前回に引き続いて美術史家・福田和彦氏の文章である。
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図版①は坊主とおぼしき男が女二人を相手にしている図で、一物を挿入している女の他の女のヴァギナを口で舐めているという、現代の裏ビデオの構図と同じようなことが、数世紀前にも東洋の日本で行われていたのであった。
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図版②にみられるように、男の髪型や女の着衣など、その時代の様子を、今となれば、よく表現していると言えるだろう。
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写真③は男女が首に紐をかけて、後ろにのけぞらないようにして行為に及んでいる、というところなど、構図上も一定の工夫を凝らしてあると言えるだろう。
江戸の時代の人たちが、結構、エピキュリアンであったことが察せられるのである。
女のエクスタシーに満ちた顔つきなど、先に見たインドの春画などには見られなかったリアリティが、よく描かれていると思うのである。
先の解説で福田氏が、日本の春画の特質を誇っていたのも、むべなるかな、と肯定させられるのである。
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図版④は、俗に「立ちぼぼ」と言われる性交体位が描かれている。
この図版は「巻物」の一部らしく右側につづきの絵が顔を出している。
「版画」の浮世絵でもストーリーとして「続き物」の作品が多い。
こういう「性交体位」というのは俗に「四十八手」と言われているが、アクロバチックな体位も多く、実際上は交接不可能なものもあったのである。
これらの体位は、すでにインドなどでも早くから発達しており、もっと多くの体位が説明されていたりするが、日本と同じで不可能な無理な姿勢も多いのは当然であろう。
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図版⑤も複数の男女の「からみ」の絵であって、これは男2に女1という構図である。
挿入していない男の一物も大きく勃起した状態で描かれている上に、女の口を吸っているのもリアリティがあると言える。
それに、どの絵にも言えることだが、男は浅黒い肌に描かれ、女は色白に描かれているのも、男女の機微に触れるものとして、当然であろうか。
女の顔つきが、とろりと上気した恍惚の状態にあるのを描写しているのも、好ましい。
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2005/09/26のBlog

──浮世絵春画コレクション──(3)

  「肉筆」浮世絵名品聚芳─(1) 
   13~16世紀・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今回から「肉筆」春画の名品を8回にわたり掲載する。
このコレクションは美術史家・福田和彦氏の監修になる全75葉のうちから鮮明なもの40点を5点づつ紹介する。
浮世絵には「肉筆」のものと「版画」のものの二種類がある。はじめの8回は「肉筆」を採り上げることにする。
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図版①は「大和絵」古画と分類される、絵師の名は不詳だが「土佐派」画家の手になるもの。13世紀頃のものと言われている。
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図版②は16世紀末期頃の作品と言われ、同じく絵師不詳の土佐派によるものである。これは絵に少しストーリーがあり、浮気中に女房に見つかり後ろから女から引き剥がされようとしている面白い構図。絵巻物の一部を切り離したものという。

(以下の解説にあたる部分は、すべて福田和彦氏による)
日本の春画美術の伝統は約1000年の歴史を持つ。
山岡明阿が編集した「逸著聞集」(1800年代に成立、12、13世紀にかけて散逸した好色説話を収集して編述した文集)によれば、日本画の始祖と言われる巨勢金岡(9世紀初頭の宮廷画家)が春画を描き、それを妻女に披見したときの逸話が記述されている。この記述が事実だとすれば、日本の春画美術は、すでに9世紀初頭には成立していたことになる。
巨勢金岡は妻女の批判に耳を傾け、女人が愛欲に惑溺するときの表情を巧みに表現したという。すなわち、女人はその時<足の指が屈み、目を半ば開いて、眸が真ん中にある>表情を描いた。言うなれば、すでに、春画はその創始期からエクスタシーの好色情緒を表現していたのである。
「性器描写」においても、橘成季編集の「古今著聞集」(1252年に成立)の第11巻にも<その物(性器)の寸法は分に過ぎて大に描いて候>とあるように、すでに13世紀には春画は戯画的な手法をもって描かれていた。したがって、日本の春画美術は成立期に芸術的表現をもち、一つの好色美術としてのジャンルを確立していた。

図版③④⑤も16世紀末期頃の土佐派によるもの。
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日本の春画美術は、中国の春宮画と呼ばれる秘戯画の影響によって触発されたものであるが、中国においては、こういう芸術化はなされていない。むろん、モンゴル、朝鮮、トルコ、ラジャスタン(インド絵画)においても、好色情緒、戯画化の表現は見られず、日本の春画だけが唯一の美的昇華を成し遂げているのである。
日本の春画は大和絵のジャンルとして成立しており、画家の技術と情念を注いで創造された美の栄為であり、美の遺産であって、決して画家の余暇的な、遊びの仕事でも、画業でもない。
春画を描いた画家は、いずれも16世紀頃までは宮廷画家であった土佐派の画家によって描かれ、貴紳、高家の閨房美術として賞された。
日本の「肉筆」浮世絵(春画)が最も興隆をみたのは16世紀中葉から末期にかけての桃山時代から江戸初期にかけての美術の黄金時代であった。
この時期は貴族文化が崩壊し、新しい武家文化、大名文化が台頭した時期でもあり、長い戦国動乱時代が終息した平和な時世でもあった。そして人々は奢侈に流れ、好色に溺れた時代でもあった。
筆を執った画家の中には今でも有名な人の名があるが、それは追々、その作品を採り上げる時に書くことにする。

今回は「肉筆」浮世絵の皮切りであり、解説は、このくらいにして、作品をゆっくりと鑑賞してもらいたい。
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2005/09/24のBlog

──浮世絵春画コレクション──(2)

  インド秘戯細密画ミニアチュール・・・・・・・・・・木村草弥

今回は日本を離れて「インド秘戯細密画ミニアチュール」の世界にご案内したい。
ご承知のように、インドには「カーマ・スートラ」というセックスのバイブルとも言うべき古典がある。
そういう伝統を踏まえて、インドの春画とも言える細密画があるのである。
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今回ご紹介するのは、美術史家・福田和彦氏のセレクトによる「インドミニアチュール(1)」という12枚の細密画コレクションである。
今回は図版4枚を紹介するが、説明は順次することにする。
その前に、
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写真②は1999年正月に北インド旅行をした時に、ニューデリーのホテルのブックショップで買い求めた本である。130ページの極彩色のA5版の立派なもの。この中にもカラー図版のきれいな細密画がたくさん載っている。しかし、挿入図版は判が大きくないので、ここからの引用はやめて、掲出は福田セレクトのものだけにする。
福田和彦氏の解説を簡単に要約して、はじめに載せる。

・・・・・・・・・インドのミニアチュール(細密画)の濫觴は16世紀の初頭に起こったムガール絵画からであった。
北部インド大陸にムガール帝国を建設したバーブルの子で二代目帝王のフマーユーンが、ペルシアの宮廷画家を招いて細密画をインドに招来されたのが始まりであった。以来、ムガール帝国の宮廷文化に深く根をおろし、インド各地に広がり発展した。また、その画派も多岐にわたった。
本画集の細密画は、いずれも17世紀末から18世紀初頭にかけて台頭した宮廷画派による秘戯画作品である。
これらの秘戯画は一枚絵、好色文学の挿絵などのジャンルに分かれるが、圧倒的に多いのは好色文学の小説、詩歌の「挿絵」である。いずれも往時の貴族たちの閨房生活を活写したもので、インド的な快楽主義を謳歌し、婚遊の奢美を描いたものである。
この細密画に見る繊細な線刻描写は、いずれも鉄筆を用い、わずかに地塗り用として毛筆が使われる細密画特有の技術を駆使している。
顔料は岩絵の具であって、日本画の顔料と共通している。
この技術の精巧さは驚異的な精緻さに満ちており、細密画として卓越した画質を見せている。・・・・・・・・
以上で、福田氏の解説の概略を終る。

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ここに挙げた4枚の絵を拡大して、よく見てもらいたい。
写真③の絵は一人の男性が、二人の女性を相手にしているハレム的な構図。
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写真④の絵などは「馬」との交接を描いているが、これなどは実際には交尾不可能なもので、全般的に見て、絵の表情なども「類型的」で、性行為に際してのエクスタシーなどの「情感」が乏しいように、私には見える。
いかに王様ないしは貴族というお偉がたとの交情とはいえ、女性にも性の喜びはあった筈であり、それらの点で、日本の浮世絵春画における男女のとろけるような表情と引き比べて、私には、物足りなさが残るのである。
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しかし、同人誌「霹靂」(かむとき)のページに載せた「インド文学散歩」(一番後半のところ)を読んでもらえば判るように、多神教であるヒンズー教の性に対する大らかさもあって、「禁忌」のない開けっぴろげな明るさに満ちている。これらの点はキリスト教や東アジアの儒教の道徳という規範に毒されていない開放的な一面を見せる。
よく鑑賞してもらいたい。
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2005/08/27のBlog

──浮世絵春画コレクション──(1)

  上村松園の浮世絵春画と
    宮尾登美子『序の舞』・・・・・・・・・・木村草弥


今回から新しいシリーズとして私の所蔵する浮世絵春画を紹介する。
一番はじめは「上村松園」である。

京都の山や川に育まれた自然の中に、千年の歴史を持つ伝統ある文化、華やかにそして人間性豊かな美術・工芸が息づいてきた。
その中に美人風俗画において精彩を放つ女流日本画家・上村松園がいた。
松園春画

明治8年生れ、昭和24年、74歳没(1875~1946)、本名は津弥。京都四条御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生れる。幼くして絵に親しみ、12歳にして京都画学校に入学、鈴木松年に学ぶが、翌年には「松年塾」に通う。
入門3年目の15歳の時、内国勧業博覧会で「四季美人図」が一等の褒状を得、この作品はイギリスの殿下に買い上げられた。18歳の年、松年の許可のもと幸野楳嶺に入門、彼の死後、竹内栖鳳に師事した。楳嶺の柔らかな画風、栖鳳の近代的写実の極意を修得し、20歳にして絵を天職として身をたてる決心を固めたのであった。
以後かずかずの授賞を受け、作風においても独自の変化を見せながら、60年間にわたる日本画の閨秀作家として、美人画に終始し「近代日本画」の巨匠として不動の地位を得たのである。
66歳(昭和16年)で芸術院会員となり、次いで帝室技芸員になり、昭和23年73歳で女性として初めての「文化勲章」受章者になり画家としての最高の栄誉に輝いたのである。

長々と略歴を紹介したのには訳があるのである。
古来、画家の職は男の独占であって、その中に伍して女として身を立てるのに言うに言われぬ苦労をした。その一生を描いたのが宮尾登美子の小説『序の舞』(1985年中公文庫刊)である。
序の舞

この小説は私の入っていた或る読書会のテキストにも採用したこともあるが、もちろん小説であるから彼女の名前や師匠の名などは仮名になっているが、私が上に紹介した略歴の各人の本当の名と照合してもらうとよく判ると思う。

そういう生きてゆくにも苦労する日々の中で、彼女は薬を買うための金策として、勧められて「春画」を描いた。もちろん「芸の肥し」になるという美名のもとに、ではあるが。
そのうちの一枚が掲出した浮世絵春画「尻やぐら曲取り」と題する絵である。(全12図画帖)のうち。
私の所蔵するものは、もちろん復刻版であるが、或る浮世絵研究会が登録会員のみに配布した300部限定の出版である。これらが出た時は取り締まりも厳しかったが、今では、外国で評価されるように、日本でも美術として認められて来たのかどうか判らないが、こういうものの配布も認められるようになった。大量出版物としても、たとえば林美一氏の著作なども市販されるようになってきた。

宮尾登美子の小説では、その部分を、こう描写している。画商が言うのである。
・・・・・「ひとつ枕絵描いてみいひんか。あんたまさか生娘やおへんやろ。この絵の裸の娘さん、清らかな色気があってなかなかよろし。このいきで男女のナニ描いたらきっと喜んで買うてくれはるひともおっせ。」
枕絵とはまた何といやらしいことを、津也は顔から色の引く思いだったが、しかし見知らぬ男に体を売ることから考えると、こちらはまだしも、という気はする。もしこれが、平安なときの津也だったら、「筆が汚れます」とにべもなかったろうが、いまは追い詰められた果て、頼るは我が絵筆より他にないのであった。・・・・・

もっと前のページにも師匠の松渓から枕絵の修得を勧められる部分もある。
実際に、師匠に言い寄られて体の関係を強要され、彼女は「私生児」を生んでいる。彼女の息子の松篁が、それである。彼も日本画家として大成し、彼もたしか文化勲章の受章者ではなかったか。

彼女が文化勲章を受章するくだりを宮尾登美子の筆は、つぎのように描いている。
・・・・・「お母さあん」と大息をつきつき、「とうとう来ましたえ。文化勲章」といったきり絶句した孝太郎の手から電報を取上げ、電文を読んだあと、津也は腹の底から嗚咽がこみあげてくるのを抑えきれなかった。
電話という迅速な方法もあるものを、電報用紙をじかに手渡したさに京都から息せき切って駈けつけて来た孝太郎の気持も、津也はいま手に取るように判る。・・・・・
・・・・・世間から好奇の目でみられ続けて来た孝太郎と、一生を娘の画業に賭けた勢以、そして津也は、ただ意地ばかりで今日までを漕ぎ渡って来た感がある。・・・・・

長々と引用してきたが、この一枚の春画の背景に上村松園の並々ならぬ苦労の裏打ちがあるのである。
彼女の春画は「祐信」の構図を借りて女性の艶姿を描き、その気品の高さは清長や歌麿のごとくである。
いまは、ただ松園の春画を、存分に堪能してもらいたい。
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原画はもう少し大きいが、私のスキャナはA4版までしか出来ないので、上下左右が寸づまりになっていることをお断りしておく。
草弥の詩作品「草の領域」⑤・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
ここに転載した「草弥の詩作品」の大かたは
最新刊の詩集『免疫系』(2008/10角川書店刊)に収録して出版した。
うち幾つかは都合で載せなかった。
これらの詩一篇ごとに「写真」を付加したが
それらも転載に当たっては省略してある。
もし必要と判断したら後日付加するかも知れない。
作品には作詩日付が入れてあるが①が古く⑤が新しい。


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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品「草の領域」──(50) 

   明 星 の ・・・・・・・・・・・・・・艸木茂生
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・角川書店『短歌』2008年2月号掲載

けふ一と日誰とも言葉交はさざりき初夏のゆふべを小綬鶏の鳴く

      ──聞きなしと覚えて亡嬬の呟くとや──
ちよつと来いちよつと来いとぞ宣(のたま)へど主(ぬし)の姿が見えませぬぞえ

哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル

      ──四国遍路、同行三人──
渦潮を見つつ辿れる海道は落花しきりの鳴戸の春ぞ

さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

鎮魂の念(おも)ひやまずも南(みんなみ)の里べの土を踏みて歩めば

吾(あ)と共に残る日生きむと言ひ呉るる人よ、同行二人に加へ

      ──最御崎寺・室戸東寺──
最御崎(ほつみさき)いづれば虚空に風立ちて御厨人窟(みくろど)といふ洞の見えつつ

<明星(あかぼし)の出でぬる方の東(ひがし)寺>などて迷ひを抱きませうぞ

     ──金剛頂寺・室戸西寺──
薬師(くすし)なる本尊いまし往生は<月の傾く西(にし)寺の空>

 <甘谷の水は菊水「菊慈童」の七百歳のいのちこそ憶へ>──草弥

人倫の通はぬ処、狐狼野千の住み処(か)とぞいふ菊咲く処

蜜壺にあふるるものに口つけて陶然とすれば菊慈童めき

                      ──花言葉によせて──
赤まんま路傍にひそと咲きながら「あなたの役に立ちたい」といふ

紫の斑も賑はしく咲きいづる杜鵑草(ほととぎす)それは「永遠にあなたのもの」

(2008.01.25作)
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2007/11/02のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(49)

  う つ し み は・・・・・・・・・・木村草弥

うつしみははかなく消えて失せにけり肉(しし)の記憶もおぼろとなりて

    <夢うつつに希ふ心理のもたらすか幻の孫の血液型を言ふ──草弥>
亡き妻が譫言(うはごと)に希(ねが)ひし三女の子生れいでたり梅雨の半ばを

亡き妻の<生れ変り>と言はれをり生殖年齢ぎりぎりの男孫

流産あまた前置胎盤逆子など乗り越えて帝王切開に生まる

              ──廣貴ひろきと名づけらる──
三番目の孫とし言ひていとけなし二十年の歳月われを老いしむ

(2007/07/25作)
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この作品は角川書店『短歌年鑑』平成20年版の「自選作品集」5首に掲載された。
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2007/02/11のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(48)

  月待ちの夜に the third quarte・・・・・・木村草弥                            
       ・・・・・・・・或る水瓶座の2月11日生まれの女(ひと)に・・・・・・

<弓張月>──月齢二十三日の月
───夜更けて真夜中に二十三夜月が出て来た
 おお!下弦の弓張月よ!
 the third quarter!

早寝が習慣のあの女(ひと)が
真夜の月待ちの行事をしようと起きている
二十三夜───月待ちをして
この月に願いごとをすると叶うと言われている
この夜更けの月を崇めるという古い言い伝え
───月待ち信仰と言われた。
古くは十六世紀、京の公家に見られた
───二十三夜待ち。
女たちの集いであった。

しんしんと冷える真夜
おお!下弦の弓張月よ!
the third quarter!
あなたは何を願いごとするのか
───月待ちの夜に。
<弓張月>に弦を張って、
矢をつがえて、
この夜更けの月に願いを托すという───
水瓶座のいとしい女(ひと)よ!
いのちを愛(お)しめよ
才(ざえ)高く いとしい女(ひと)よ!
<弓張月>が
しろじろとあなたを映し出している。

しんしんと冷える真夜
おお!下弦の弓張月よ!
the third quarter!
あなたは何を願いごとするのか
───月待ちの夜に。

明け方───
下弦の月が
まだ西の空に残っていた。
 (2007.02.11作)
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「詩」を解説するほど野暮ではないが、「下弦の月」「二十三夜」「弓張月」などのについて少し補足しておきたい。
ご承知のように旧暦──陰暦は「月」を基準に成り立っているから、ほぼ29日で一ヶ月とされている。だから太陽の運行とに毎月ズレが生じる。そのズレは「閏月」を挿入することで調整されるが、このために今我々が生活する太陽暦との間にひどい時は一ヶ月ほどのズレが生じる。
①たとえば、昨年の2月11日は<月齢14日・待宵月>だった。それが今年は<月齢23日・弓張月>という具合である。
②つぎに、月の満ち欠けのことである。
月は「新月」の無明のときから、だんだん満ちて行って「上弦」の月から「満月」になり、まただんだん欠けて行って「下弦」の月になり、新月の状態に移ってゆく。
上弦、下弦という月の呼び方、見方だが、月の形の丸い外周部を「弓の弧」と見立て、その弧に渡した「弦」の見える位置によって上弦、下弦という。新月から満月に至る途中の月は「上弦」の月。満月から欠け始めてゆく途中が「下弦」の月であるが、この上弦、下弦というのは「月が西の空に沈むときの形」でいうのである。つまり「下弦」の月であれば、西の空に沈むときの形が「弦が下に来る」形なのである。このことが、よく誤解されるので、ご注意を。
③月には、月齢によって「呼び名」がつけられている。
「三日月」というのは、月齢3であるし、「待宵月」は月齢14であるというようなことになる。「弓張月」などの下弦の月は夜おそく月の出となるので、朝になっても西の空に残っていたり、中空に昼間もあることもある。
朝になっても沈まず西の空に残っている月を「残月」「有明の月」などと表現する。つまり「見える時間帯」を表わしているのである。昔は暦も月を基準した陰暦であるし、太陽よりも月をめぐって生活が廻っていたと言える。
今でも「海の潮の干満」や「農作業の播種」などは陰暦でやった方がぴったり来るのである。
④英語では「下弦の月」を The Last Quarter という。その中でも「二十三夜」辺りを The Third Quarter というようである。
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4月12日朝7時、快晴。掲出した写真そっくりの「弓張月」が、まだ中天に白く残っていた。
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2006/09/25のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(47)

・・・・・・・・・・・・・・この作品は角川書店月刊誌「短歌」2006年
・・・・・・・・・・・・・・10月号(9/25発売)に編集部の依頼原稿
・・・・・・・・・・・・・・として発表したものである。この作品は私と
・・・・・・・・・・・・・・妻のプライバシーに濃密に触れるものなので、
・・・・・・・・・・・・・・まだ一般には知られていない「艸木茂生」の
・・・・・・・・・・・・・・ペンネームで発表した。

   幽 明・・・・・・・・・・・・・・・・艸木茂生

 <母の死は十三年前の四月十二日、妻の死は四月十五日>
桜ちる頃に死にたる母と妻、お供にと母が連れたまひけむ

「一切の治療は止めて、死んでもいい」と娘(こ)に訴へしは死の三日前

好みたる「渡る世間は鬼ばかり」観てゐたりしは半月前か

吾(あ)と娘の看取りに違ひあると言ひ「娘は本を読み聞かせてくれる」

 <園芸先進国オランダの東インド会社にインターネットで発注した>
誕生日三月五日にと空輸されし薔薇シャンペン・ゴールド見分け得ぬ 哀(かな)し

夢うつつに希(ねが)ふ心理のもたらすか幻の孫の血液型を言ふ

 <若い頃には聖歌隊に居て、コーラスや音楽をこよなく愛した妻だが>
夏川りみの「心つたえ」の唄ながすCDかけたれど「雑音」だといふ

 <オキシコンチン、モルヒネ鎮痛薬なれど所詮は麻薬>
訴ふる痛みに処方されし麻薬 末期(まつご)の妻には効き過ぎたらむ

たやすくは人は死ねざり赤だしのごときを妻は吐きつづけ 果つ

とことはに幽明を分くる現(うつ)し身と思へば悲し ま寂(さび)しく悲し

助からぬ病と知りてゐたれども死なれてみればわれは孤(ひと)りよ 

<昨年春の私の前立腺ガン放射線治療は成功したやうだ>
私の三カ月ごとの診察日「京大」と日記にメモせり 妻は

<朝立ち>を告ぐれば「それはおめでたう」何がおめでたいだ 今は虚しく

<男性性>復活したる我ながら掻き抱くべき妻亡く あはれ

(2006/09/25作)
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2006/04/13のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(46)

   束の間の濃密な時間・・・・・・・・・・・木村草弥

めっきり口数の少なくなった弥生だが
それでも四六時中病室に二人きりで居るわけだから
夢と現(うつつ)とりまぜた いろんなお話をする。

数日前まで経口で摂れていた食事が
全部吐いてしまって
結局それは軽い腸閉塞だということで
今は水を飲んでも
げぼっと うす緑色の胆汁を吐き出す始末───
本人はアイスクリームを食べさせろだの
氷水が欲しいだのと
いろいろ のたまうのだが
吐けば苦しいし
泣く泣く摂取を制限するようになる
堪(こら)えておくれよなと言いながら
心を鬼にして弥生の欲求を抑える辛さ───。

夢と現(うつつ)の識閾のはざまで
突然 「もうお豆が煮えたよ」
とか夜中の11時半に言ったりする
いっときは酸素吸入器のぶくぶくする気泡が
ガスコンロの炎のように見えて怖がったりして
「ガスを切って」とか言ったものだ
苦肉の策で 私が酸素吸入器の気泡が見えないように
紙で覆って隠したりした。

弥生の夢の彷徨は
とっ拍子もない方向に飛ぶので
想像力を逞しくしていないと付いてゆけない
とっ拍子もない夢の中の話だから
頭から否定しても駄目で
夢の彷徨につきあいながら 相槌を打ちながら
私も弥生の夢の中の会話に加わる。

約五十年も一緒に暮らして来て
二人きりの濃密な時間が
こんな病室という空間の中で
生まれるとは想像もしなかった
───これも 私の生の余生の時間として
大切にしなければと思いながら───。

めっきり口数の少なくなった弥生だが
それでも四六時中病室に二人きりで居るわけだから
夢と現(うつつ)とりまぜた いろんなお話をする。

(2006.04.13作)
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──草弥の詩作品『草の領域』──(45)

  散文詩・それでも春には希望を抱き・・・・・・・・木村草弥

春は、生命の本質である「揺らぎ」が全てのものの上にあらわになる季節だ。
かつて、地球全体が厚い氷に覆われた「スノーボールアイス」の時期を経て、
その「雪融け」とともに起きた6億年前の生物種の急激な同時爆発───
<カンブリア爆発>こそ、地球上の生物にとっての「巨大な春」であった。
所詮、私たちもまた物質であるから、物質であればこそ、春来たれば、
自らの身体の中にある無数の化学物質のエネルギーの準安定状態からの
逸脱の予感が、生きるものの胸をかきむしる。
───それが<春>だ。
太古の「巨大な春」の記憶が、奥深くしかし確実な形で潜んでいる。
その太古の記憶に一年ごとの「小さな春」が積み重なり、私たちの脳の皺の
中の神経細胞の結合様式として、また再び「春」が書き加えられる。
───スケール不変のフラクタルな枝分かれの中に揺れ動く<微少項>に
過ぎない我ら!
確固として永続的な存在に見える世界は、実はいかに儚く、もろいもので
あろう。
春は、確かに麗しく、そして喜ばしい時ではある。
桜の花が散り、新しい生活が始まり、恋の訪れる季節は、しかし同時に、
この世界の中の「揺らぎ」が、私たちの生命を支えると同時に、それを破壊
さえしかねないものであるという厳粛な事実を思い起こさせもする。
生命活動を行なうことが、同時に心地よい安定性からの逸脱でしかあり得ない
形で生を享けた「私」という存在のぴりぴりとした緊張感と共に、私たちは
毎年<春>に向き合う。
<春>は、あるいは<春的な>ものは、目を閉じればいつでもそこに立ち現れる、
私たちの観念世界の中の何物かである。
インターネットや携帯電話というIT(情報技術)によって私たちの存在が、その芯
まで串刺しにされてしまいそうな今───。
「巨大な春」から「小さな春」まで、「私」という頼りない存在の誕生から、
その死まで───。
生命作用を支える<揺らぎ>=<抽象化、普遍化された春>を呼び起こせる
ようにしておくこと。
季節感の本質が、生命を支える<揺らぎ>の安定性と不安定性の間の
ダブルバインドな危うい軌跡の上にあるとすれば、そのような生命の本質から
離れた方向にITが人間を陳腐化させてしまうことを、恐れよう。

それでも春には希望を抱き───。

(2006.04.12作)
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掲出した図版は彦根の井伊家に伝わる能の「菊慈童」の面である。
ご承知のように「菊慈童」という中国の説話の人物は七百歳の命を持った、と言われている。
このように古来、人類は「命」の「永遠」と「刹那」という観念のはざまで揺れ動いて来たのだった。
そういう意味で、この私の「詩」にふさわしいと思って、この能面を掲げた。
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2006/03/28のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(44)

  飢餓の子のように痩せて・・・・・・・・・・・木村草弥

弥生の痩せが目立つ
さながら <アフリカの飢餓の子>のように痩せて───。
手も 二の腕も 脚も
顔も
骨が皮膚の下に張りついている

弥生の痩せが目立つ
<苦行する釈迦>の像のように
あばら骨が胸の皮膚の下に張りついている

cancerが物すごい速度で増殖して
弥生の体の筋肉を げっそりと食い尽してしまった

パジャマを着替えさせるとき
袖に手と腕を通させるとき
今にも折れそうな細さで 痛々しい

弥生の痩せが目立つ
さながら<アフリカの飢餓の子>のように痩せて───。

(2006.03.28作)
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2006/03/16のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(43)

   銭湯とめし屋と洗濯と・・・・・・・・・・・木村草弥

病室の妻に張りついて
泊り込む毎日で
入浴と食事と洗濯とが
目下の私の最大の関心事だ。

「銭湯」なんて何十年ぶりだろう。
H温泉という風呂屋が300メートルばかりのところにある。
次女がインターネットで見つけて地図をプリントアウトして持ってきてくれた。
誰かの<神田川>という古い曲が思い浮かぶ。
銭湯でも今はジャグジーと電気風呂とサウナがある。
電気風呂とサウナは苦手だが
ジャグジーの泡は疲れを吹きとばしてくれる。
金370円也が入浴料金である。
H温泉と言っても<温泉>ではない。

お湯に入ってさっぱりしたところで
帰途に京××食堂という「めし屋」に立ち寄って夕食を摂る。
昨年11月かにオープンしたばかりの店で
入り口でお盆トレーを取って
カウンターに並ぶ数十種類の<おかず>を選んでトレーに乗せて次に進む。
<かきフライ>238円<あじフライ>84円<南京煮>105円<いか大根>158円
<もやし炒め>158円<にんにく芽炒め>158円などなど。
<まぐろ刺身>は315円もするので食べない。
<じゃこおろし>105円<おくら>105円<もずく酢>105円などなど。
カウンターの切れたところで<めし中盛り>137円<みそ汁>84円<とん汁>137円
と進んだところでレジがあり
トレーの上のものをざっと見渡して
ハイ、675円です、てなもんだ。
外食の偏食がちを防ぐのには丁度いい献立を選べるようになっている。
席は50席ほど。昼飯と晩飯のときは席が完全にふさがる。
───コンビニで買っておいた<淡麗但馬の鬼ころし>辛口200ml─105円を湯呑に移して
ぐびぐび飲みながら。

病院の屋上に自動洗濯機と乾燥機が3台づつ並んでいる。
洗濯機は1回100円で30分余。
──妻のパジャマや清拭に使ったタオルやタオルケットなど。
私の下着と靴下など。
洗濯の合間に眺める屋上からは
北に比叡連峰
西に京の西山につづく山並みのとぎれるところに淀川の山崎辺りと
生駒連峰の北端に洞ヶ峠のくびれが見える。
天気の良いときには屋上の物干しロープに洗い物を干すが
天気の悪いときは乾燥機に洗い物を入れる。
30分×2=200円で、ほぼ完全に乾く。

病室の妻に張りついて
泊り込む毎日で
入浴と食事と洗濯が 
目下の私の最大の関心事だ。
それに病院の近くに広がる南陵町の高級住宅地の中を横切る<散歩>も欠かせない。
ここがインターネット接続環境下にあれば申し分ないのだが───。

(2006.03.16作)
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2006/03/15のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』─(42)

   子供の名前・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

長女がフリージアの切花を持ってやって来た
──季節の黄色い花が
病室に点景となって映えている
隣のテーブルには 
先日持ってきてくれたオリエンタル・リリーの
大輪の残り花が三輪咲いている。

娘をじっと見つめる妻だが
娘の名前Aがなかなか出て来ない。
いつも家に居て
病室にも来てリンパマッサージなどをしてくれる次女Yの名は
すらすら言えるのに──
折角お花を持って見舞いに来てくれた長女には
済まないという思いが 私の脳裏をよぎる。

娘をじっと見つめる妻だが
娘の名前Aがなかなか出て来ない。

糸の切れた凧のように
手のとどかないもどかしさが宙を舞う。
めっきり口数の少なくなった妻が
しきりに虚空に視線を這わすばかり──。

二時間の後
長女が「帰るわ」と言葉をかけたら
ようやく「姉ねぇちゃん」という長女の愛称が飛び出して、
ああ、やっと思い出してくれたかと
娘ともども安堵の息をつく始末──やれやれ。

(2006.03.15作)
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2006/03/14のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(41)

   麻薬オキシコンチン・・・・・・・・・・・・木村草弥

2月27日夕方に急に意識を失ったのはなぜなのか
麻薬オキシコンチンの効き過ぎか

──数日前から痛みを訴えたので処方された痛み止めの
麻薬オキシコンチン
──最低限の5mgだったのだが
衰弱していた妻の体には堪えたのか。
麻薬にもいろいろあるらしい──モルヒネの名前などを私は知るばかりだが
麻薬というだけあって肉体的には堪えるものらしい。

意識は戻ったものの
意識の昏濁はなかなか取れない。
妻の識閾は まだ<夢>と<現うつつ>のさなかをさまよっている。

麻薬オキシコンチンの効き過ぎか。
麻薬オキシコンチン──最低限の5mgだったのだが──。

(2006.03.14作)
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草弥の詩作品「草の領域」④・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品『草の領域』──(40)

     幻の孫の<血液型>・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

目覚めた妻が ぽつりと言う──
「三女Mの赤ちゃんの血液型・・・・」と。
三女になかなか赤ちゃんが出来ないのを
つねづね気にしていた妻だから
深層心理の中に そういう希望の思いが潜んでいるせいだろう──
夢のなかで待望の赤ちゃんが出来た、と夢みたのか
<幻>の孫の血液型のことを言う。

三女の身めぐりは目下あわただしい。
連れ合いが大都会N市の研究所の主任研究員のポストから
4月1日に某地方大学医学部の助教授で赴任するからだ。
引越しは3月25日ということでその準備であわただしい。
──そんな話を聞いていたせいだろう。

目覚めた妻が ぽつりと言う──
「三女Mの赤ちゃんの血液型・・・・」と。
<幻>の孫の血液型のことを言う。

(2006.03.13作)
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2006/03/12のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(39)

  <夢>と<現うつつ>のはざまで・・・・・・・・木村草弥

「いつまで ここに居るの?」と
目覚めた妻が ぽつりと言う。
めったに口を開かなくなった妻は
大きな目を見開いて
キョロキョロと虚空に視線を放つが
何かを凝視しているのでもなさそう。

2月27日夕方に 急に意識を失って
救急車で いつもの病院にかつぎこまれた妻──
意識は戻ったものの
<夢>と<現うつつ>との識閾も定かでないまま
半月が過ぎ去った。

食事は全粥と副食も普通に戻ったものの
ほんのちょっぴりしか食べない──
──じきにお腹が一杯になったと言う。
栄養源はもっぱら点滴によるブドウ糖だけ。
二の腕などめっきり痩せてしまって
今にもぽきりと折れてしまいそうで 痛々しい。

「いつまで ここに居るの?」の問いには
いくばくかの<現うつつ>の意識があるらしい──
──早く家に帰りたい
──寝たきりで 小さな褥創が3個所ほど出来かけた体がつらいのか
さぞ、つらいだろうと思いやるばかり──
私からは「もっとよく食べて元気をつけないと」と
励ますばかり──

「いつまで ここに居るの?」
この問いには十全に応えることが出来ないのがもどかしい。
「いつまで ここに居るの?」

(2006.03.12作)
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2006/02/12のBlog

草弥の詩作品『草の領域』────(38)

  甘い誘惑 iberis spp.・・・・・・・・・・木村草弥
 ・・・・・・・・・・・・「水瓶座」の花言葉によせて・・・・・・・・・・

劇的な出会いから生まれるのが水瓶座の恋。
運命の赤い糸が信じられるような恋をしようよ
水瓶座 Aquarius は新進の星座───
水瓶座生まれは知的でクール、
個性が強く、するどい観察力、豊かな創造性。
水瓶座の男は風変わりな性格で、
干渉されるのを嫌う。
独占欲の強い女性が苦手です。
水瓶座生まれはたいへん友情に厚いこと、
差別を嫌い、フェアな見方をする。

頭脳明晰だが、気まぐれでやや責任感に欠ける。
自分の価値基準で行動してマナー違反をすることも。
クリエイティヴな才能で、周囲を驚かすようなアイデアを
つぎつぎに生み出す。
水瓶座と相性のよいのは、フットワークのよい双子座と、
リーダータイプでエネルギッシュな獅子座。

水瓶座の人はあまり結婚願望が強くない、
結婚しても対等の関係を保ちたがる。
お金に執着しないのが水瓶座、
金運にも波があり、どっとお金が入ったり、大きな出費が。
水瓶座にふさわしい服装は知的なもの、
流行を取り入れたジャケット、
個性的な色柄のソフトスーツなど。
ラッキーカラーは黄色。
明るく濁りのない黄色のアクセサリーが
あなたの魅力を強調する。
水瓶座のラッキーアイテムは電話、レター。
インターネット通信が幸運を招く。
水瓶座のラッキーゾーンはエコロジーショツプや
現代アートの美術館、自然食レストランなど。

水瓶座の仲間の合言葉は「信じあう心」「的確」「青春の喜びと悲しみ」
「清浄」「気品」「誠実」「追憶」「控えめな美」「友愛」「無邪気」「あどけなさ」
「門出」「別離」
「黙っていても通じる私の心」
「夢見心地」「秘めた感情」「私から愛したい」「「愛を信じる」

(2006.02.12作)
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掲出した写真は、いずれも「水瓶座」の日に因む花であるが、日にちは本によって、がらりと違うから予めお断りしておく。
写真①は「イベリス」花言葉は甘い誘惑。2/11の花になっている。
別の本では「フリージア」花言葉は無邪気、あどけなさになっている。
写真②は「椿」花言葉は完全な愛。写真③は「パンジー」花言葉は楽しい気分である。
因みに、私の誕生日2/7の花は「パンジー」花言葉は楽しい気分。
別の本では「黄梅」花言葉は控えめな美などとなっている。
私はだいぶ前に花言葉に因む「歌」をいくつか作ったことがある。
NHKの「ラジオ深夜便」という番組で毎晩(毎朝と言うべきか)朝5時直前に、その日の「花言葉」を放送しているが、その中で鳥海昭子さんの、その日の花言葉に因む「短歌」をひとつづつ紹介しているが、その人は昨年かにお亡くなりになった。
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2006/02/11のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』───(37)

   幻影 une illusion ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

早春のまどろみだった─────。

あなたは肩から薄絹を
するりと滑らせた─────。
ああ!
今ほぼ望(もち)に近い月齢14日の<待宵月>が
しろじろと光を放って
あなたの肌(はだえ)を
ぼうと映し出している─────。
<待宵月>──いい名づけではないか
あなたは待宵の月光に
みづみづしい裸身をさらす
月光に浮かびあがる白い双丘
待宵の月光はうっとりと
あなたのすべらかな肌(はだえ)を
ぼうと映し出している─────。
水瓶座の いとしい女(ひと)よ!
いのちを愛(お)しめよ
才(ざえ)高く いとしい女(ひと)よ!

あなたは肩から薄絹を
するりと滑らせた─────。

(2006.02.11作)
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2006/02/07のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(36)

  1/f の揺らぎ・・・えふぶんのいちのゆらぎ・・・・・・・・木村草弥

心拍の打つリズムを聴いている。
ああ!私のいのちのリズム!
あたたかい血のぬくもりがリズムを打っている
時にはドキドキしたり
落ち込んでぐったりすることもあるが─────。
1/f のいのちの揺らぎ!

ロウソクの炎が揺れている。
今日は私のン十年の誕生日
自分で買ってきたバースデーケーキのロウソクに
火をつけて
じっと見つめている。
ハピーバースデー ツー ユウ!
口の中で ぶつぶつと呟いてみる。
ローソクの炎が揺れている。
1/f の炎の揺らぎ!
買って来た「物」についているバーコード。
同じ太さの線が等間隔に並ぶというのではなく
細かったり、太くなったりするバーコードの線のリズム!
その線の間隔の並びが心地よい。
もっとも バーコードとは言っても
マトリックス型二次元コードは駄目!
1/f のバーコードの線の揺らぎ!
どこかで メトロノームが
かちかちと リズムを刻んでいる
ヨハン・ネポムク・メルツェルが発明した────。
規則正しい、ということもいいことだが
一斉整列、一心不乱、というのは嫌だ。
強弱、弱強の、
寄せては返す波のようなリズムの
波動が欲しい!
1/f のおだやかな波動の揺らぎ!
杉板の柾目の箱を眺めている。
寒い年、暑い年、
雨の多い年、旱魃の年────
それらの気候の違いが
柾目の間隔に刻印されている柾目。
等間隔ではない樹のいのちのリズム!
1/f の樹の柾目の揺らぎ!
そよ風が吹いている。
小川のせせらぎが聞こえる。
自然現象は
時には暴力的な素顔を見せることもあるが─────。
今は
そよ風が吹き
小川のせせらぎの音が心地よい!
1/f の自然のささやきの揺らぎ!

どこかで
ラジオの「ザー」というノイズが流れている
周波数が合わないのか─────。
もう片方の耳には
妻の弾くピアノの音の合間に
かちかちというメトロノームの
規則正しい音が聞こえる。

そのラジオのノイズの「ザー」という不規則な音と
メトロノームの規則正しい音とが
いい具合に調和するような
ちょうど中間にあるような
1/f の調和したリズムの揺らぎ!
私の体のリズムと同じリズムである
<1/f の揺らぎ>に包まれて
<1/f のやさしさ>に包まれて
今日いちにち快適に過ごそう!

──(2006.02.07 私の誕生日に寄せて)──
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久し振りに「草弥の詩作品」の新作を発表する。ここ半年近く、私の心の底に湧き上がってくる言葉の素材が見つからなかった。
それが、今回、<1/f えふぶんのいち>という言葉に触れて、私の詩作の感受性が一気に開花したようである。
因みに申し上げると「1/f 」とは音楽用語というよりは科学用語である。関心のある方は、お調べ願いたい。
「f」=freqency周波数の略称というか、記号である。フランス語ではfrequenceということである。難しいので、今回はフランス語の「副題」をつけるのはやめる。
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2005/07/18のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(35)

  散文詩・勃起する bander ・・・・・・・・・・木村草弥

つい最近から明け方に我がいとしの cock が
時たま勃起するようになった。
つまり「朝立ち」の復活ということである。
妻に言ったら「それは、おめでとう」と言われた。
妻の膣は腫瘍に占拠されてしまっていて
使うあてとてない我が cock だから
何がおめでとうだ!人の気も知らないで!
とは思うが、生理現象というのは
正直というか、あさはかというか驚くばかりである。
私の男性機能は完全に喪失したと思っていたが、
突然の復活には とまどうばかりである。
勃起はするが、こすっても射精には至らないだろう。
というのは
睾丸は生きているから精虫を含む精液は生産されようが、
精液の殆どを占めるのは
前立腺が生産する液体であるからだ。
放射線で前立腺は傷めつけられ
というより 徐々にではあるが
二年くらい先をめざして
がん細胞とともに「死滅」させられるから
精液の主成分を生産することはないからだ。
だからエクスタシーは起きても「射精」には至らないだろう。

これは、あくまで資料を読んでの知識であって
まだ私の体験にはなっていないから、確かなことは言えないが。
客観的にみて 私の「男性」性は復活したらしい。

思いかえせば、一昨年12月から始めたホルモン療法の「リュープリン」の注射は月1回だが、絶大な効果があった。それは男性ホルモンのテストステロンが前立腺の癌化を促進するのを阻止する目的の療法だった。男性ホルモンを阻害されて私の cock は、すっかり大人しくなり、朝立ちどころか勃起のボの字もなくなった。
その後、前立腺治療の新展開を求めて京都大学病院「前立腺外来」で本年3月9日から毎日、放射線照射を合計37回やり、5月10日に終了した。

放射線治療が始まったので、ホルモン治療は2月の注射を最後に打ち切ったが、その効果は6カ月くらい続くと言い、したがって「のぼせ」などの副作用も、却ってLH-RHアゴニストのホルモンが抜ける時の方がひどいという。
京大病院泌尿器科の賀本助教授の診察日に、勃起の復活のことを話してみたら、Dr.は多くは語らないが、そういうことはあり得ることで自然なことだという。

私は、これから、どこへ行こうとするのだろうか。鬱勃たる心境である。
(2005.7.18作)
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昨年8/01付け「散文詩・ホルモン療法」で「リュープリン」については詳しく書いたので、ここでは繰り返さないが、参照してもらいたい。
なお、副題として掲出した bander というフランス語はスラングであって「勃起する」の意味であるが、正式のフランス語では entrer en erection ということになる。何度も書くが erection の e の字の頭にはアクサンテギュの記号がつくが省略してある。
文中の cock というのは英語のスラングで penis のことである。裏ビデオなどを見ていると「カーク」と聞こえる発音である。以上、蛇足のおしゃべりである。
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2005/05/25のBlog

──草弥の詩作品『草の領域』──(34)

・・・・・・・・・・・・・・この作品は角川書店月刊誌「短歌」2005年
・・・・・・・・・・・・・・6月号(5/25発売)に編集部の依頼原稿
・・・・・・・・・・・・・・として発表したものである。この作品は私と
・・・・・・・・・・・・・・妻のプライバシーに濃密に触れるものなので、
・・・・・・・・・・・・・・まだ一般には知られていない「艸木茂生」の
・・・・・・・・・・・・・・ペンネームで発表した。

    生 き る・・・・・・・・・・・艸木茂生

たやすくは人は死ねざり夥しき下血にまみれゐたりても なほ

・・・抗癌剤それは毒物「毒をもて毒を制す」と世に言ふ・・・
妻に効く抗癌剤求め尋(と)め来たる某がんセンター丘の上にあり

マンスリー・マンション三階、病室より持ち帰り洗ふ妻の下着を

「原発不詳」とカルテに書かれゐたりけりロプノールのごとくわれらさまよふ

妻に効く抗癌剤なしのご託宣、異郷の空に夕光(ゆふかげ)赤く

「死に場所は故郷が理想」主治医言ふ、われら同意す帰心矢のごとく

民間の救急車に揺られ帰りつく京都の地なり地の香なつかし

ベッド拘束されてゐたのが嘘のやうリハビリの成果杖なしで歩く

点滴も服用薬もなし自前なる免疫力で妻は生きる

小康のひとときを得し安らぎに家族の絆(きずな)深まる春だ

   ・・・イタリアの諺にいふ<人は時を測り 時は人を計る・・・
アメリカ留学帰りのM助手斯界の権威、三十代なかば

    ・・・リニアック2100C/Dはアメリカ製深部照射X線治療器・・・
照射時間十五秒×2、リニアックは我がいとしの前立腺(prostata)を射る

照射位置を示す腰間の+の字三七回済みたればアルコールで消す

「夫婦して癌と共生、なんちやつて笑はせるわね」妻がつぶやく

(2005.05.25作)
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2005/03/10のBlog

──草弥の詩作品──(33)

   弥生のリハビリ─(2)・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

(1)My杖
弥生のリハビリは益々快調だ。
3月2日には「My杖」を購入した
リハビリ器具の専門メーカー川村義肢株式会社の製品
──1本4000円也。
杖を突いたときに腕(かいな)が肘のところで30度~40度の
ゆとりがあるのが最適という
弥生の身長に合せて杖の寸法を決める。

今では、平坦なところなら杖なしでも大丈夫。
リハビリ室から病室へ戻るときは
1階と2階の昇りにはエレベータを使わず階段を使う。
さすがに手すりにつかまりながらだが──
踊り場を挟んで11段が2回ある。
最初の11段は右足から始動する
踊り場に来たら、次の11段は左足から始動する。
利き足が右だから、左足からの始動は力が要るらしい。

(2)病院外への散歩
3月9日、10日と暖かい日がつづくので
3月10日は病院外への散歩のリハビリ。
N理学療法士が先へ先へとリハビリのメニューを考える。
外を歩くので パジャマではなく 
ブラウス、スラックスに上着も着ける。
病院の廊下と違って 道路には凹凸があるので
足運びには注意が必要──
変な出っ張りに足を引っ掛けて転んでは危険。
初日は、ほんの少し200~300メートルの距離にとどめる。
病院の玄関を出て、通りを左折する。
病院の前は正式の歩道というのがなく、ごちゃごちゃしている。
先に進むと京都生協組合員センターのショップがあり
その辺りから歩道が整備されて歩きやすい。
その先の京都銀行ATMの手前の横断歩道を向い側の歩道に渡る。
渡って右折して病院のまん前の京都中信ATMのところまで来て
通りを渡って病院に戻る。
だらだらの登り勾配になっていて結構足に力が入る。
N理学療法士からは 足のどの部分が凝っているか
翌日教えて下さいと言われる。

(3)おむつ外し
3月9日から おむつ外しにかかる。
履くパンツ式の吸水パンツに吸着パッドをつけて
弥生が自分で着脱できるようにする。
便意を催せばウォシュレットのトイレに行って排便するようにする。
夜間だけは危険防止のため 今まで通り
おむつに吸着パッドにする。

最低37㎏まで落ちた体重も もりもり食べているので
最近では2㎏増えて39㎏まで回復した。
リハビリのおかげで必要な個所の筋肉を使っているので
筋力もついて来たというところである。

あとは、のびのびになっているK医師による
膣口の腫れ物を炭酸ガスレーザーのメスで切除するだけ。
これが成功すれば一時帰宅も許されよう。
昨年11月中旬、名古屋の愛知県がんセンターに行って以来の
久し振りの、待ち遠しい帰宅!!
(2005.03.10作)
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2005/02/25のBlog

──草弥の詩作品──(32)

    弥生のリハビリ─(1)・・・・・・・・・・・・木村草弥

弥生のリハビリがはじまった。
五階の病室にリハビリ室のN理学療法士が迎えに来て
歩行器で病室を出て 約20メートル先のエレベータへ。
エレベータで一階に下りて廊下を約60メートル歩いて リハビリ室へ。

リハビリ室では 先ず専用の背の固いビニールベッドに仰臥で寝て
お尻あげを5回、
脚を左右に開脚するのを各5回、
膝を立てて足底をずらして膝を伸ばすのを5回。

ベッドを下りて 平行棒のところに移動して
両手をバーに触れながら、往復する
途中に鏡があって それに映る自分の姿勢──
頭がちゃんと体の中心に重心を置いているかをチェックする。

初日は、ここまでだった。所要時間約30分。
N理学療法士が弥生の体力の現状を把握するのが主眼。

病室に戻ったら、適当な時にお尻あげの動作を自分でやってみる宿題。

第2日からは
弥生の体力の現状が判ったので 少しづつメニューが増える。
お尻あげ、開脚、膝の屈伸のほかに
平行棒では片手を放して往復するようになる。
参考のために私にも見学するように、とのN理学療法士のお達し。


3日後からは、病室とリハビリ室との往復に歩行器を使わず
「杖」を片手に突いただけで ゆっくりと歩く。

リハビリ室でも 緩急3段階ある階段を 
はじめは緩い段から 杖だけを突いて昇り下りする。
最初は5段からはじめて、
2回目からは全段10段くらいを昇り下りする。
はじめは一段づつ左右の足を揃えてから次の段に移っていたのを
翌日には左右の足で交互に一段づつ昇り下りするという風に
課題が前進する。


杖の突きかた、杖の出しかた、重心の取りかたの
要領が判って来て 弥生のリハビリはすこぶる快調だ。
気のせいか、少し筋肉が戻ってきたみたい。
リハビリ開始から1週間の 中間発表である。
(2005.02.25作)
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2005/02/17のBlog

──草弥の詩作品──(31)

    あなごの握り鮨・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

弥生は「あなご」の握り鮨が好きだ
海辺の港町・函館で育ったので
魚は新鮮なものでないとおいしくないと言う
だから 握り鮨も
「あなご」のように醤油で さっと煮て 火を通したものが
変な臭みがなくてよいと言う。

毎日、私は昼食を病院で弥生と一緒に食べる
正確に言うと 弥生の昼食が配られる前に
私の食事を済ませてしまう
日によって 私の食べるものは「いなり寿司」だったり
「ばってら」だったりするが
病院の隣の京都生協組合員センターのショップで
買ってくる398円の「握り鮨セット」は六個か七個かの少量なので
カロリーオーバーにならずに丁度よいのだ。

その中に「あなご」の握り鮨が入っている
小ぶりのあなごをさっと醤油で火を通したものの
特に尻尾の部分が乗ったものを好む
あなごを鮨めしにのせて とろりと甘い醤油を刷毛で塗って 海苔を巻いてある。
その「あなご握り鮨」を一個と
あと 「烏賊握り」を一個つまんだりする
烏賊も函館名物だ
病院の給食の前のつまみ食いである。

一月中旬までが嘘のように
一月下旬から食欲が もりもり出て来て
むかついたり 吐いたりすることもない。

長らくぶらさがっていた点滴の管も一月下旬には全部外れた。

うどんが食べたい、海苔巻きおにぎりが食べたい、ヒレ肉のビフテキが食べたい、
弥生は さまざまのリクエストをした。
そして それらをきれいに食べてクリアして来たのだ。
病院の給食も お粥から普通の飯に戻って 食べやすいらしい
副食も飯に見合うように いろいろ工夫されて
はたから見ても食欲が出そうだ。

昼食後には歩行器につかまりながら
入っている五階の廊下を一周する
病院の休日にはエレベータで一階に下りて 一階の廊下を歩き回る。
病院の廊下には先日98歳で亡くなった初代院長の岡本隆一が
世界中で撮って来た写真の額が一杯かかっている
弥生が行ったところも多く それらを見ながら
私と話しながら ゆっくりゆっくり歩く。
顔見知りの看護婦が声をかけてくる おしどり夫婦に見えるのだろうか
私が 先へ先へと目標を決めてやるので 看護婦たちには
私は「スパルタ」爺さんと言われているらしい。

昨日 リハビリ科の先生が来て リハビリ室で
専用のメニューを組んで筋力アップに取り組むことになった。
何しろ 名古屋の愛知県がんセンターで二度ほど大出血して
ベッド拘束になって以来、寝たきりになって
筋力がめっきり落ちてしまった。

腹筋、背筋などの筋力も取り戻さなければならない。
目標が見えて来た。
これも嬉しい目標だ。
(2004.02.17作)
草弥の詩作品「草の領域」③・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品──(30)

  散文詩・欠乏の中の豊穣 manque et riche・・・・・・・・・・・木村草弥

中東という地域が、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教を生み出した背景には「欠乏と豊穣のコントラスト」があったのではないか。
かつてエルサレムを訪問した時、ふとそんなことを思った。

こんにち、パリをはじめとする都市で、あるエリアを指すために使われている「クォーター」(四分の一)という言葉は、エルサレム旧市街の小さなエリアが三大宗教者地区とアルメニア人地区の計4地区に棲み分けられていることに由来する。
信仰を異にする者たちが、狭い地域に、肩を寄せ合って生き、欠乏の中の豊穣を創り出す。このような知恵の中に、都市の起源がある。

宗教改革者としてのキリストの本領も、欠乏の中に豊穣を創り出した点にあったのだろう。
もし、世界が愛に満ち溢れているのであれば、ことさらに愛を説く必要はない。現実の世界が過酷で、悪意と悲惨に満ちているからこそ、愛を説くキリストは、不毛な世界に、都市と同じ豊穣のオアシスを現出させることに心を砕いたのではないか。
愛の宗教を生み出した土地の人々は、近現代史において、切実に愛を必要として来たのである。
かつてエルサレムを訪問した時、ふとそんなことを思った。

エルサレム旧市街の、モハメッドが天に昇ったとされる「岩のドーム」のすぐ下には、ユダヤ教徒にとっての聖地である「嘆きの壁」がある。
黒づくめの正統派ユダヤ教徒たちが、壁に向かって礼拝を繰り返し、祈りを捧げている。その上では、岩のドームに向かうムスリムたちが列をなしている。
イデオロギーにとらわれれば、水と油であるはずの人たちが、城壁の中の隣り合うクォーターの中に、お互いの息づかいが聞こえるほどの距離で生活している。
まるで魂の集積回路のような、そんな光景を思い起すと、都市というものは、やはり欠乏の中の豊穣をこそ、その本懐とするのではないかと確信する。

都市には溢れているが、その外にはないもの。それは、例えて言えば人々の「情熱」(パッション)である。エルサレム旧市街の城壁の中には、宗教的情熱が溢れていた。「パッション」は、キリストの受難を指す言葉である。もちろん、宗教だけが人間の情熱を独占しているわけではない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「都市の宗教」であると言われる。「欠乏の中の豊穣」という視点から、その意味を捉え直すと、都市にも宗教にも新たな光が見えてくる。乾いた沙漠の中の水のように宗教の原始的意味が甦ってくる。
欠乏と豊穣のコントラストこそが、人々の魂を癒す。それが人間の魂の糧である。

都市は、宗教や愛と共通の起源を持つ。都市の高層ビルの間で、文明生活の豊穣を享受しながら、コンビニも水道も暖かなベッドもない原生林を夢みる。
その時、私たちの魂はきっとキリストや、嘆きの壁の前の正統派ユダヤ教徒や、クラブの中で踊る若者たちの魂に繋がっている。
かつてエルサレムを訪問した時、ふとそんなことを思った。
 (2005.02.02作)
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2005/02/02のBlog

──草弥の詩作品──(29)

   散文詩・免疫系 Immunologie・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
         ──最新の免疫学の成果を踏まえて──

私たち人間が最期の時を迎えるときは、免疫を司るリンパ球がどんどん減少して10%以下になった頃である。健康に暮らしているときのリンパ球比率は35~40%であるが、30%以下になると何らかの病気が出てくるし、20%以下になると重病人である。

免疫系の元になっているのは、単細胞時代のアメーバが特殊化せずに残った細胞で、私たちの体の中で「マクロファージ」と呼ばれている細胞である。単細胞生物が多細胞化して起った最大の変化は、各細胞の「特殊化」である。たとえば、筋肉細胞になれば、収縮の機能に磨きをかけたが、体を守る力は却って失われている。骨の細胞に進化すれば、リン酸カルシウムを沈着させ丈夫さに磨きをかけるが、やはり体を守る力は失われる。
このような流れの中で、多細胞生物が、どのように我が身を守ったかというと、単細胞時代の自分自身をとどめ置いて守りとしたのである。マクロファージは擬足を出して体の中を移動するし、異物があれば飲み込む。アメーバとそっくりである。
マクロファージの食べる力をさらに退化させて、マクロファージが炎症部位にとどまる時に使っていた接着分子を発展させたのが「リンパ球」で、それらを合わせて「免疫系」を構成するようになった。
マクロファージはみずからの分身であるリンパ球を作って体を守る効率を高めているが、基本的な働きは今でも、やはりマクロファージが行なっている。サイトカインなどの高分子蛋白を分泌してリンパ球が働くか休むかを決定しているし、抗原をリンパ球に提示するのもマクロファージの働きである。マクロファージ無しで免疫系が動き出すことは出来ない。また、免疫反応が起こって組織が破壊された場合でも、最後の修復はマクロファージが行なっている。
このように、単細胞時代の生き残りは体の防御の基本になっているし、その個体の生死も決定している。

一つの組織を維持するのも、壊すのもマクロファージの仕事であるが、骨の場合はもっと関連が深い。マクロファージは栄養を貯めてやれば次世代を残すたるの生殖細胞になるし、脂を貯めて脂肪細胞にも変わる。
そして、細胞は興奮して生じるカルシウムやリン酸を一次的に貯め置くと骨になる。つまり、マクロファージがリン酸カルシウムという老廃物を貯め置いたのが骨細胞なのである。この骨を壊す破骨細胞も、そもそもマクロファージで、骨を食べて壊してゆく仕事をしている。
私たちは運動不足になったり、寝たきりになると細胞興奮で生じるリン酸カルシウムの生産が少なくなるので骨が出来にくくなる。さらに体を使わないので骨は不必要と判断して破骨細胞は骨を削って縮小させてゆく。寝たきりのおばあさんが骨粗鬆症になるのも、寝ている人に骨の丈夫さは不必要とマクロファージが決定して骨を溶かしはじめたのである。すべて、なるべくして、なっているのである。

よく「輸血」をするがA型、RHプラスとかの血液型が適合しても、自己血でない場合は免疫系は、他人血は「異物」と判定して、できるだけ早く分解しようとする。だから輸血の回数を重ねるに従って、輸血の効率は極めて悪くなる。この頃はできるだけ手術などの場合に、計画的に事前に「自己血」を貯めておく傾向は、そういうことを避けるためなのである。

癌の末期には「やつれ」が極限になるが、マクロファージが作る腫瘍壊死因子(TNF)が癌細胞を攻撃すると同時に、脂肪細胞を燃焼尽きさせ、いわゆる悪液質と言われる体調、体力状態を作る。ここでもマクロファージは個体を燃焼尽きさせて最期とするのである。
点滴や管で栄養を補給し続ける医療行為があるが、マクロファージは送られ続ける栄養を消費するために、大量の炎症性サイトカイン(先に挙げたTNFやインターフェロン)を出しながら、生き残っている細胞を攻撃しつづける。病院で死ぬと激しい苦しみとともに最期を迎えることが多い理由である。
その逆がある。
空海は死を迎える五日前に自分で食を断った、という。栄養無しになると、さすがのマクロファージも自己破壊の働きを止め、静かにして個体の死を待つのである。

私たちは無理な生き方をしていると「やつれて」来るが、それはマクロファージや、そこからのもう一つの分身である「顆粒球」が働きだして個体を消滅しにかかる。顔色が悪くなって、やせ細って命を終える。進化した細胞はだんだん枯渇して、マクロファージと顆粒球が全身にはびこり一生を終える。
 (2005.02.01.作)
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2005/01/26のBlog

──草弥の詩作品──(28)

   弥生の不在──その(2)・・・・・・・・・木村草弥
     ・・・・・・absente ma famme < Yayoi >

たやすくは人は死ねない。
名古屋の愛知県がんセンターで
「あなたに効く抗がん剤はない」と宣告されて以来
弥生は「生きる苦しみ」を味わっている。
人の余命など誰にも判らぬ。
──イタリアの諺にいう
 <人は時を測り 時は人を計る>

がん細胞が増殖してエネルギーを猛烈に消費するので、
どうしてもカロリー不足に陥って、痩せ細ってしまった。
狭い骨盤内の空間で、がん腫瘍は八方に触手を伸ばし
腎臓を、膀胱を侵襲し、消化器にも風穴をあけているらしい。
それは下血している証しであるタール状便となって排出される。
膣口に腫瘍の押し出しの先端が大きな「瘤」となって露出して久しいが、
昨年十月までは主治医のK医師が何度も電気メスで切り取ってくれた。
今も膣口ににぎりこぶし大の異物が鎮座する。これは名古屋にいる時に
押し出して来たもので、向こうでは切除できなかったもの。
直腸にも「悪さ」をして出血が起き、名古屋では二針縫った。
人の余命など誰にも判らぬ。
──イタリアの諺にいう
 <人は時を測り 時は人を計る>

猛烈に増殖するがん細胞の中には、栄養が行き渡らずに「壊死」する部分が出て来る。
「壊死」(えし)というと好都合のようだが、この「壊死」した細胞の塊が破裂すると、
周りの健康な血管などを巻き込んで大出血を起す、と警告を受ける。
壊死したがん細胞が「下りもの」となって膣口から発する臭気──屍匂にも似た臭気を、
医師たちは「がん臭」と言う。
がん臭を発する「下りもの」と肛門から排出される糞便の臭い──
それらにまみれて、弥生は「襁褓」(むつき)を当てて生きている。
これが「生きる苦しみ」でなくて何だろうか。
人の余命など誰にも判らぬ。
──イタリアの諺にいう
 <人は時を測り 時は人を計る>

名古屋の主治医N医師から
「死ぬなら、いま住んでいる所が一番だよ」と言われて、
「それが私の持論」と言われて、
私たちも同意して、京都の元の病院に引揚げて来た。
まるで「帰心矢のごとし」という古言のように──。
「あなたに効く抗がん剤はない」と宣告されて、
他に、どんな選択肢があるというのか。
弥生の不在は、まだまだ続く。
「生きる苦しみ」も、ますます深いのだ。
人の余命など誰にも判らぬ。
──イタリアの諺にいう
 <人は時を測り 時は人を計る>

膣口に押し出していた腫瘍の先端部を
1月26日午後、K医師によって切除することに成功した。
炭酸ガス・レーザーによるメスは出血を抑制する作用がある。
膣内には、なお大きな塊が残っているので、根元を太い糸で縛り、
血流を阻止した上で、約2週間あとに切除する予定。
これで弥生の起居も少しは楽になるだろう。
人の余命など誰にも判らぬ。
──イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>
 (2005.01.23作、01.26補作)
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2005/01/23のBlog

──草弥の詩作品──(27)

  散文詩・ 生きる苦しみ agonie ・・・・・・木村草弥

人間以外の動物に「生きる苦しみ」なんてあるのだろうか。
怪我をした犬や猫の痛々しそうな表情を見れば、彼らが苦しみに耐えている
ことが判るが「生きる苦しみ」を感じているかどうか。
人間は格段に悩みの多い動物である。

 (1)人間は「死」を発見した
人間は、人間らしく生きたいと思っている。
この「人間らしく」という言葉が問題だが、その含む内容はじつに幅広くて、
しかも時代と共に、文化と共に、変化する。
人間という動物は、著しくすぐれた論理能力を身につけたので、人間は「死」を発見してしまい、
誰もが一生、大きな悩みを抱えることになる。
人間は健康に恵まれて生きている間は何でも出来るような錯覚に陥っているが、
「死」の発見によって断崖に立たされることになる。

 (2)生命とは?魂とは?
心は嬉しくなったり、悲しくなったり、怒ったりする。しかし、死んだら心は無くなる。
「心」とは「意識」の世界であり、肉体と不可分である。肉体と不可分なものは、
死んだら無くなっても不思議ではない。
ところが「無意識」の世界というものがある。これは自分でもはっきり意識できない
世界だが、この世界が魂とつながっているのではないか。
魂が無意識とつながっていて、そこから、大自然の偉大な働き──「サムシング・グレート」
の世界へ通じている、と生物化学者・村上和雄は考えた。

 (3)身体は大自然からの借り物
生きている時は肉体と心も大切。この二つがあって、はじめて生きられる。
人間を本当に理解するには「魂」にまで踏み込むことも大切だろう。
私たちの身体は、地球からの借り物である。借り物である証拠に、私たちの身体は、
一定期間、地球上に存在して、消滅する。つまり借りたものを地球に返すのである。
私たちの身体は、貸し主は地球、大自然やその奥にあるサムシング・グレートだ、
ということになる。
そうすると、借り主は誰か。それは「心」ではない。なぜなら意識できる「心」は、
「死」とともに消滅する。
そうすると借り主は、死によっても消滅しない「魂」しかあり得ない。
私たちの生命は「個体のいのち」の死とともに終っても、私たちの身体の元素は
世界に広がって生きつづける。古人は、これを「輪廻転生」と呼んだ。
(2005.01.23作)
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2004/10/11のBlog

──草弥の詩作品(26)──

   散文詩・宇宙暗闇と生命の光 ・・・・・・・・木村草弥
     ───la obscurite cosmique dans la clarte de la vie

人間が集い住む場所──都市の中に、夜でも光が溢れるようになって、もうどれくらいの歳月が経ったのだろう? 人工衛星から地球を撮影すると、夜、宇宙の暗闇と一つながりの半球に、都市がある場所だけ光が見える。それは、天上に輝く星の光に似ているようでもあり、清流の上を飛ぶ蛍を思い出させるようでもある。
暗闇の中の光は、恐らく太古の人類にとっての炎の記憶に結びついている。蛍光灯によって照らし出されたフラットな室内照明よりは、暗闇に輝く街灯の方に喚起力がある。

この前の戦争に狩り出されて南の島で蛍の何万という大群が樹にむらがっているのを見た兵隊の話がある。「蛍の木」という。
本来、自然界の文法においては、地上や水中で光るものは、必ず生命である。
ライアル・ワトソンは著書『未知の贈りもの』の中で、インドネシアの夜の海で船の下の巨大な発光体に出会った体験について書いている。その正体は、無数のイカの発する光であった。この出会いが、ワトソンが地球上の生命潮流の中を彷徨する一つのきっかけになったのではないか。

死という絶対の暗闇と交錯する時、生命の光は世界そのものと同じくらいの強度をもって、私たちの心に焼き付けられる。
都市のビルの高層レストランから外の夜景を見るとき、そこに広がる光の海の正体が、判りきったものだと思うことで、私たちは何か大切なものを失ってはいないか?
地上の光は生命の作用であるという光の文法に立ち返るとき、はじめて私たちは、その大切なものを回復できるのではないか?
ユークリッドやトレミーをはじめとする古代の思想家は、光は目から放出されるものだと考えた。何かを「見る」ということは、何かを「触る」ということと同じであると考えた。生命の作用として、光の本性を考えると、それほど私たちの実感から離れているわけではない。

アマゾンのマナウス近郊で、夜、ワニの目を見に行ったことのある友人の話───。
ネグロ川に浮かぶフローティング・ハウスに一泊した。アレクサンドルというインディオの青年に率いられて、ボートに乗ってネグロ川に漕ぎ出した。
月のない晩で、川の油のように滑らかな黒い水面と、川沿いの木々、そして、その上の天空が、少しづつ質感の違う一連なりの黒として私たちを包んだ。
アレクサンドルがサーチライトで照らし出す水辺の暗闇に、丸々と光の点が見えて来た。それがライトを反射して光るワニの両眼であった。

死と隣りあわせの南の島で、蛍の木を見つめる兵士たちを包んでいたものも、夜の海で巨大な発光体のイカに接近されたライアル・ワトソンの頭上にあったものも、全てを包み込む一つの巨大な「宇宙暗闇」ではなかったか?
私たちが築きあげた都市の中で、もはや無数のイカの群にも、蛍の木にも、ワニの目にも出会うことはない。都市化によって、私たちが失ったもの、消え去ったものの大きさに心を震わせない人は果たしているだろうか?
私たちは何かを摑もうとしている。
太古から変ることなく私たちを包んできた宇宙暗闇の中で、何かを摑むために宇宙暗闇の中の光という文法が、太古から生命の印であった、という地点まで戻るしかない。

夜でも昼のように明々と照らし出された机の上で、私はインターネットをサーフィンし、エアコンの効いた部屋に閉じこもり、車のドアを閉める音が消えた後の静寂の中に、辛うじて文明以前の太古の響きを聴く。大自然の営みの気配は遠く去り、ガラスと鋼鉄の生命維持装置が、私の目を曇らせる。しかし、そんな私のちっぽけな生命をも、宇宙暗闇はきっと包んでいる。
今もなお、インドネシアの海で光るイカの群が、南の島の木に集う何十万匹という蛍が、ネグロ川の川辺に潜むワニが、しっとりと包まれているように、文明の中に棲む、この私も、どこまで続くか判らない、果てしのない深い闇に抱かれて、今までに見たこともない素晴らしいものとの出会いを夢みている。 (完) (2004.10.03作)
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「草弥の詩作品」では今までから、題名の次に副題としてフランス語表記を書いてきたが、ご存じのようにフランス語には「アクサンテギュ」や「アクサングラーヴ」という記号が付く。私のワープロもフランス語表記の設定をしているが、これらは転送したりすると外されてしまう。これが日本語という特殊なワード・プロセッサの操作を経由したシステムの弱点である。英語、フランス語、ドイツ語など西欧語同士では、こういう障害は起らない、という。専門家にも聞いてみた結果がこれである。従って、私のフランス語表記の「副題」は、はじめから、そういう記号は、承知の上で外してあるので、予めご了承くださるよう一言申しあげる。
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2004/08/02のBlog

──草弥の詩作品(25)──

   茶の悦楽 plaisirs du the ・・・・・・・・木村草弥

中国から世界に広まった喫茶文化は長い歴史を経て各国、各地に定着した。
背後に広大な茶産地を控え、広東省の飲茶(ヤムチャ)文化と英国の紅茶文化を継承する香港───。
茶の悦楽に出会うために、いくつかの心得を伝授しよう!


心得(1)
 飲茶は広東式お茶の時間。食事に非ず

広東省伝来の「飲茶」は文字通りお茶を飲むことであり、飲茶につきものの「点心」は間食のこと。点心をつまみながらお茶を飲み、飲んではまた点心をつまむティータイム。
20世紀の初めまで飲茶処は茶楼、茶室、茶居などと表示され、それらを引っくるめて「茶館」と呼んでいた。しかし昼は飲茶、夜は食事を提供する「酒楼」(レストラン)が徐々に増え、飲茶処と食事処の境界線は薄らいでいった。
香港で最も歴史のある「陸羽茶室」から、新感覚の茶芸館などバラエティがある。
心得(2)
 点心との相性を考えてお茶を選ぶ

香港では飲茶の席で人々が頼むのは黒茶と白茶が圧倒的に多い。
発酵度の違いにより、不発酵茶の緑茶、弱発酵の白茶、半発酵の青茶、完全発酵の紅茶、後発酵の黄茶と黒茶と便宜的に分けておく。
緑茶には淅江省産の龍井茶は釜炒り緑茶。ひなびた風雅な味わいだ。
海鮮素材や野菜中心の点心に合う。月餅にも向いている。不発酵茶には「花茶」という分類で、緑茶に開花したてのジャスミンを混ぜて茶の香りを移した茉莉花ジャスミン茶、菊の花を乾燥した菊花茶、野バラの一種のハマナスの玫瑰(メイクイ)茶などもある。
弱発酵茶の「白茶」には一芯一葉を摘んだ高級な「白毫銀針」があるが、日常茶の寿眉(さうめい)でよい。おだやかな味なので、ほとんどの点心に合う。
後発酵の「黒茶」には普洱沱(プーアールトウ)茶がある。血中コレステロール値を下げる効果があると言われ、脂っこい点心に合う。
香港の飲茶の席で人々が頼むのは黒茶と白茶が圧倒的に多いが「黒茶」のカビ臭さは日本人には違和感がある人が多い。
完全発酵の「紅茶」には茘枝(ライチー)紅茶というライチーの香りとほのかな甘みを紅茶につけたもので、香港ではよく飲まれて蓮餡の包子など甘い点心に合う。
半発酵の「青茶」には福建省産の「鉄観音」や武夷山一帯で採れる烏龍茶の「岩茶」がある。ほかに広東省産のフルーティな香りと、とろんとした飲み心地の「鳳凰単欉(タンソウ)」がある。
茶碗にお茶が注がれたら指先でトントンとテーブルを軽く叩いて謝意を表そう。

心得(3)
 伝統とモダン、両方の点心を味わおう

高層ビルに囲まれたポケットパーク香港公園は、アヘン戦争終結後に英国が初の駐屯地として使用した一帯。ここに2003年6月にオープンした「楽茶軒」はお茶の繊細な味が引き立つという理由から素食(ベジタリアンフード)に徹しているモダンな茶館。
一方、跑馬地にある「誉満坊」も現代人好みの食材を組み合わせたものながら、この道28年の点心シェフ曾さんの自信作。
また尖沙咀金巴利道の「福臨門」は高級料理店として有名だが、飲茶は割安でしかも高級食材を駆使している。
ペニンシュラ・ホテル2階の「嘉麟楼」は点心の旨さと茶の品揃えが魅力的である。
小鳥の声に包まれて飲茶を楽しめる九龍の川瀧村の「端記茶楼」は、早朝から鳥カゴを提げた男たちが集り、儀式のようにカバーをはずし、鳥の水浴びをさせ、歌声披露を競う。この風流な道楽を飲茶処で披露する伝統は広東から伝わった。

心得(4)
 香港流の蓋碗使いを会得する

香港のナイトスポットとして知られる中環蘭桂坊の「慶公宴」は昼下がりのティータイムに飲茶を楽しめる。ここでは、蓋碗使いの要領をスタッフに頼めば教えてくれる。「ハスのパイナップルソースかけ」などオリジナルの点心が供される。

心得(5)
 香港の知られざる悦楽は、アウトドア・ティー

茶を愉しむ極めつけは、自然の中で味わうこと──いにしえの文人たちは自然との一体感を大切にして、心を幽、閑、清、雅の境地に遊ばせた。喫茶風の創始者・陸羽の心意気である。新界の粉嶺に「雅博茶坊」が運営する香港唯一の茶園があり、緑一面の中で茶菜(お茶を使った料理)を味わい、食後にのんびり銘茶を味わいたい。
また九龍から1時間半で着く新娘潭付近は遊歩道が整備された景観区で、森林浴をしながら峡谷を歩き、中国本土まで見渡せる大帽山の山頂で飲む茶も、また佳いものだ。
 (2004.08.02作)
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2004/08/01のBlog

──草弥の詩作品(24)──

   散文詩・ホルモン療法 Hormone sexuelle・・・・・・木村草弥

ホルモン療法とは何か?
これは読んで字のごとく、人間が内分泌するホルモンの働きを利用した治療法のことである。
癌細胞は、ある種のホルモンを《ドリンク剤》のように摂取して元気ハツラツ、活発に成長して行くのだから困ったものだ。
だとすれば、それを利用しない手はない。癌細胞の成長に必要なホルモンを与えないようにすれば、癌細胞は飢えて死ぬ。
ならば「ホルモンをコントロールすることで癌の成長を止めよう」というのが、ホルモン剤療法の基本原則である。
一般にホルモンは、癌細胞の核内にあるホルモン・レセプター(受容体)と結びついて癌細胞の増殖をうながす。その性質を逆手にとって、ホルモンによく似たホルモン剤を投与すると、癌細胞はだまされ、《偽物》をつかまされる。
癌細胞の分子を狙い撃ちする分子標的薬の先駆的な存在──これである。

前立腺癌では、男性ホルモンのテストステロンが癌細胞を活性化する。
脳下垂体は脳の下部にある内分泌腺で、黄体形成ホルモンなどの性ホルモンや、成長ホルモンなどを分泌する器官である。
黄体形成ホルモン放出ホルモン作用剤=LH-RHアゴニストは(Luteinizung Hormone Releasing Hormone Agonist)の頭文字を取った略称。Luteinizung Hormone(黄体形成ホルモン)は、女性に対しては成熟した卵巣に作用して排卵を促し、男性に対しては睾丸に作用して男性ホルモン=テストステロンの生産を促す。
LH-RH(黄体形成ホルモン放出ホルモン)は、下垂体に隣接した脳の視床下部から放出されるホルモンで、このホルモンの血中濃度が常時高いレベルに維持されると、LHが下垂体から分泌されず、結果として男性ホルモンの分泌が抑えられる。Agonistとは作動薬という意味。
つまりLH-RHアゴニストは、LH-RH(黄体形成ホルモン放出ホルモン)と同じ働きをするホルモン剤。
このような薬剤を一般的にアナログAnalogue(類似物)と呼ぶのでLH-RHアナログとも言う。
下垂体の中で、LH-RHの作用をブロックする(イス取りゲームのようにLH-RHのイスをLH-RHアナログが先取りする)。
武田薬品開発の世界特許ヒット薬品「リュープリン」は成分としては酢酸リュープロレリンで、リュープリンの下垂体に対する働きはLH-RHの100倍にも達して、逆に働く(逆調節)の作用を示すので1カ月に一本を皮下注射すればよい。
併用薬としてプロスタールL錠50mgを毎朝1錠服用する。この錠剤は体内の男性ホルモン「アンドロゲン」の働きを抑える「抗男性ホルモン剤=抗アンドロゲン剤」の一つで、生化学的にいうと「酢酸クロルマジノン」というステロイド剤である。
ホルモン療法には副作用として「更年期障害」が起きる。男性でも顔のほてりや多汗、むかつき、動悸など。そして深刻なのが精神面での影響である。これが必ず起きてくることを無視できない。
そして、わが草弥氏の前立腺Prostataの現状である。2剤の併用によって、ただいまは、すっかり大人しくなって、更年期障害らしきものもひどくはない。2003年12月にリュープリンの注射をはじめて丁度8カ月だが前立腺腫瘍マーカーPSAの数値も0.6と順調に下がっている。
来年になれば予約待ち中の、その筋の最先端医療機関、独立行政法人・国立病院機構・東京医療センターの「小線源療法」を受診、手術することになる。アメリカでは半数以上の件数が、この小線源治療を占めており、経験件数としても安定して増えてきている。
秋には上京して、先の治療方針を確認することになる。
(2004.08.01作)
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2004/06/29のBlog

──草弥の詩作品(23)──

  散文詩・「ピエタ」 pieta -la mort et le corps・・・・・・木村草弥

 ────地のものは地へ、そして魂は天へ、 その他のものは死滅する。 
      ───────────────────<ミケランジェロ詩篇>───

89歳という長寿を全うしたミケランジェロは、1564年の死の瞬間まで、彫刻の鑿を振るっていたと伝えられる。最後の作品は「ロンダニーニのピエタ」と通称される。現在、ミラノのスフォルツァ城に収蔵されて、展示される。この作品は未完成である上に、たいそう問題含みの作品と言われる。
ピエタとは、イタリア語で「哀れみ」を意味する言葉。この作品は、磔刑に付されて死を迎えたイエス・キリストが十字架から降ろされたとき、母マリアが子イエスの遺体を抱きかかえて、悲嘆にくれる情景を表わす。ピエタは図像や彫像として表現され、ヨーロッパ美術の重要な主題とされて来た。恐らくは、ミケランジェロに先立つこと2世紀、北方ヨーロッパで発案されたという。中世末の聖堂で、イエス受難のクライマックスを表現するものとして、盛んに、この像が祈拝されたようである。
ミケランジェロは、生涯に四つのピエタ像を作った。現在ローマのヴァチカンのサンピエトロ大聖堂に納められるのは、ミケランジェロの最初のピエタで23、4歳の頃の作品である。ピエタという主題を表現した最高傑作として、特別の場所に置かれている。ルネッサンス芸術が理想とした、肉体と精神との確実な響和が、サンピエトロの建物の中にみなぎっている。
その最初のピエタ制作の日から約65年の年月が経過した。晩年のミケランジェロは、今またピエタの大理石に向かい合っている。これまでに、なお2点のピエタを作っている。
「ロンダニーニのピエタ」は、まずもって未完成である。イエスの遺体に添えられた右腕は、たぶん削除される筈だったのだろう。胸と腹の部分には、荒削りな鑿のあとが残る。それよりも問題なのは、イエスとマリアとの姿勢が、慣例と違って、二人とも立ち上がった形を取ること。マリアがイエスを引き立てて、死者を慈しんでいるのだろう。共に、力なくよろけ落ちんばかりに、辛うじて立体として支えられている。イエスの肉体は、すっかりと筋肉がこそげ落とされ、顔には疲労感が一杯に覆う。
ほとんど木彫とおぼしき鑿跡の像からは、死者と生者との、母子の温和な対話が聞こえて来るようである。このときイエスは30歳あまり、マリアは50歳ほど。大人の母子が、失われた幸福と引き換えに、永遠の安息に至った、そんな安堵感に捉われそうになる。
先にも述べたが、そもそもピエタとは「哀れみ」の意味である。「悲しみ」ではない。哀れみにふさわしい肉体の表現とは、一体どういうものなのか。ミケランジェロは、ひたすら思考したのだろう。若いときに制作したヴァチカンのピエタに見られる強靭な肉体力によって、受難に耐える像を制作したことのある芸術家は、今度は細々とした肉体を選択した。だが、しかし、それは単なる弱さや惨めさを表現するためではなく、現世の死という通過点を辛うじて受苦する母子の、今ひとつの強靭さを表現するためであった。哀れみは、ここではまた、安堵の喜びでもあった。
いずれにせよ、死期を悟ったかに見えるミケランジェロが、その晩年の肉体の感受性に依拠して生み出した、稀有の作品である。未完成なりに、完成したら、どうだったか、と色々想像させてくれる傑作と言えようか。
 (2004/06/29作)
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──草弥の詩作品(22)──

   散文詩・イスラームの楽園 paradis d'islam・・・・・・・木村草弥

───敬虔な信者に約束された楽園を描いてみようなら、そこには絶対に腐ることのない水をたたえた川がいくつも流れ、いつまで経っても味の変わらぬ乳の河あり、飲めばえも言われぬ美酒の河あり、澄み切った蜜の河あり。また、そこではあらゆる種類の果実が実り、その上、神の赦しがいただける・・・・・。 ─────────────(コーラン第47章)───

「イスラーム」とは、「神に身をゆだねる」という意味である。
イスラーム教の楽園は、天国を指す。この世において信仰篤く、善行を励んだ者は、その報いとして、死後、楽園に入ることが許される。この楽園は、キリスト教世界とは異なり、禁欲的な世界が全く存在しない。コーラン第47章に書かれるような花園。
これは、現世のイスラーム教徒(ムスリムという)の抑圧された欲望の反映のようにさえ見える。
それに比して、地獄は業火と熱風の灼熱の世界として描かれる。喉の渇きをいやすために、ぐらぐらと煮えたぎる熱湯を、渇き病にとりつかれた駱駝さながらに飲み干さなければならない。
楽園にあるのは、砂漠で最も魅力的な存在である「水」のイメージである。イスラーム教徒にとって夢のような空間が、ここにある。

───えも言われぬ幸福の楽園に入る人々。
向かい合わせでゆったりと手足を伸ばせば、永遠の若さを受けたお小姓がお酌にまわる。この酒はいくら飲んでも、頭が痛んだり、酔って性根を失ったりしない。
その上、果実は好みに任せ、鳥の肉など望み次第。目涼しい処女たちは、そっと隠れた真珠さながら・・・・。もうそこでは、くだらない馬鹿話も罪作りな話も聞かないですむ。
耳に入るのは「平安あれ」「平安あれ」のただ一言
・・・・・・。
     ────────────────────(コーラン第56章)───────

地上のパラダイス「アル・アンダルス」
西暦711年、アラブ人とベルベル人からなるイスラム軍団が、ジブラルタル海峡を渡り、わずか2年足らずでイベリア半島を制圧した。イベリア半島は「気候はシリアのように温和で、土地はイエメンのように肥え、花や香料はインドにように満ち溢れ、吹く風も麝香のように芳しい」と表現され、広大なイスラム帝国各地から、この地上のパラダイスを求めて多くの人が集った。
その中に、アッバース朝の粛清を逃れたウマイヤ朝の若い王子がいた。長い放浪の末に王子はイベリア・ウマイヤ朝を築き、アッバース朝への敵愾心をむき出しにして帝国の繁栄に心血を注いだ。当時、パリやロンドンが人口3万にも満たない頃に、首都コルドバは100万近くの人口を抱えていた。世界中から一流の学者、芸術家が集り、医学、数学、天文学、文学などさまざまな分野で華々しい成果をあげていた。また、自由な気風の中で、宗教の垣根を越えてキリスト教徒も学問に励み、のちにヨーロッパ・ルネッサンスを生み出す基礎がここに築かれていた。
この繁栄も政権の内部崩壊とキリスト教徒のレコンキスタ運動に圧迫されて敗退するが、迫り来るキリスト教徒の気配を濃密に感じながら生きてきたイスラーム教徒の死の恐怖と悦楽・・・・・。
コーランには、このような美しい来世の楽園の話ばかりではない。生きるために、正当なイスラームの血の家系を守るためには、戦争、略奪、殺人も正当化される話も多い。今や「聖戦」の名のもとに繰り広げられる殺戮は、その一面の反映であろうか。
 (2004/06/29作)
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──草弥の詩作品(21)──

    「弓を引くヘラクレス」 Herakles ・・・・・・木村草弥

               ───表面的な面は偶発的な出来事に過ぎない。
              しかし、構成的な深い面は、いわば運命なのだ。
 
                       ───アントワーヌ・ブールデル──

 (1)「弓を引くヘラクレス」 

「弓を引くヘラクレス」の矢は
どの標的を狙っているのか。
両足を しっかりと地につけ
歯を食いしばって強弓を構える──その姿。
ヘラクレスの狙うのは 天空を舞う鷲だ。
かの鷲は コーカサス山脈を棲みかとし
獲物を見つけては その鋭い嘴をもって 攻撃してやまない。
ヘラクレスが狙う鷲は
いまプロメテウスを獲物として
ほしいままにその内臓にまで食い込もうとする。

かつて ゼウスの不意をついて「火」を盗み出し
人間界に火の恵みをもたらしたプロメテウスは
その罪を問われて 高山の頂で
磔刑に服している。
人類の恩人を
こんな罪業におとしめるとは何事か。
ヘラクレスの義侠心が これを許さない。
弓を構え、鷲を射落とし、プロメテウスの縄を解いてくれよう!
剛力のヘラクレスにして
はじめて可能な人間技であった。

ブールデルの鑿をもって
その情景は現実になった。
ヘラクレスは あくまでも人間である。
けれども、ほとんど神々に近いとなれば
筋力すらも 何か自然を超えた魔性をたたえているかのよう。
ブールデルの師・ロダンの作品では
人間の筋肉は まさしく物理力の表現だが
ブールデルは どうだろう
ヘラクレスは天空を飛翔する形而上の化身とでも言うべきか。

ヘラクレスは不可思議な伝説上の英雄だ
ギリシアのいずれかの地──たぶんアルゴス地方に口承で伝えられ、
たちどころに剛力を発揮するようになる。
ゼウスのアルクメネとの不義の子で、若くして武芸を学ぶ。
テーバイ南方の山岳で 恐怖のライオンを退治し、
のちのちまで このライオンの皮を頭からかぶって威厳を示した。

「弓を引くヘラクレス」の矢は
プロメテウスを襲う鷲を狙っている。

 (2)オンパレに迷うヘラクレス

ヘラクレスがギリシアから東方にむかい、
アナトリア──つまり小アジアに向かうと
紀元前6世紀ころに、かの地に勢力を張り、
繁栄を誇ったリュディア王国にたどり着くが、
彼は この王朝の創始者とみなされるようになる。

リュディアはアナトリア半島の交通の要衝を占め、
貯えた富によって、早くも金貨を鋳造したという。
リュディア人は、その王朝の初発に、
こともあろうに英雄ヘラクレスの名を据えた。

因みに、リュディア王国の一氏族──アシア氏の名が、
のちの「アジア」という陸地名に受け継がれたのだ、と
ヘロドトスが書き残している。
つまり ヘラクレスの一族はアジアの王家として語り継がれることになる。

ヘラクレスがリュディア王朝を打ち立てる次第は
アポロドトスの『ギリシア神話』に由来する。
──遍歴する力自慢のヘラクレスが、
小アジアのリュディアに至ると、かの地の女王オンパレによって
奴隷として寵愛を受け、いつもの通りに悪蛇や盗賊を退治し、
国の安全を守ることに貢献する。
亡夫の王の死後、孤閨を守っていたオンパレは
ヘラクレスに惚れ込み、再婚して子供をもうける。
これがリュディアのヘラクレス王朝の創始であると伝える。

客分であったヘラクレスは女王オンパレの色香に迷い、
その手練手管に見事にはまってしまう。
剛力の英雄を前に、オンパレはサンダルを振りかざして叩きつけ、
いとも容易にヘラクレスを制圧する。
ヘラクレスの神通力のもとであるライオンの皮と棍棒を奪い取り、
みずから身につけて英雄ヘラクレスに命令する。
私に従順に従いなさい、と。
なんとも形無しのヘラクレスというべきか。

ヘラクレスとオンパレの王朝創設伝説は
のちにギリシア、ローマの話題となった。
いま ヴァチカン美術館に行けば
紀元前2、3世紀ローマの彫像「オンパレの姿をした女性」立像を
見ることが出来る。

ヘラクレスの弓は、天空に向けられるとしても
地上のヘラクレスは、容易に美女の前にひれ伏し、
武器をさし出して従順を誓う。
こうした起承転結のゆくりなさ故に、
我々は古代への共感を編み出すことになるのだ。
 (2004/06/29作)
──草弥の詩作品「草の領域」②・・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品(20)──

   元命法という占術 l'avenir ・・・・・・・・・木村 草弥

 陽光
心が繊細になっている今月は、ひとり旅がおすすめ。
特に、水辺の風景がイマジネーションの源泉に──。
波音を聞きながら思索にふけると、新たな人生の方向性が
見えてくるかも。
海や湖に面したホテルで過ごすのも、マル!
心が狭くなっている時には、初夏のさわやかな空を眺めて
深呼吸を──。
感覚が鋭くなる時。普段よりワンランク上のものを身につけたり、
一流の芸術に触れ、感性に磨きをかけましょう。
作品の発表やプレゼンはチャンスです!
個性を前面に出すと強いでしょう。
新しい流れは柔軟に受け入れて、吉!
ただ、完璧さを求める余り、周りに厳しい目を向けがちに。
おおらかに許しあう道を選んで──。

 稲妻
発言力が高まっています。
会議やミーティングなどでリーダーシップを発揮できそう。
交渉事も有利。
夢が叶いやすい運気なので、大きなビジョンをアピールすると
強いでしょう。ただ、言葉が過ぎて、周りを傷つけてしまう可能性も。
冷静さを取り戻せるはず──。
素朴な自然との触れあいが、みずみずしい感性を取り戻してくれる。
原生林や野生のハーブ、野鳥が生息する場所に出かけてみては?
森の中の一軒家のような宿で、小鳥のさえずりに目覚める休日──。
体力が充実しているなら登山もおすすめ。温泉も、マル!

 田園
新展開とリーダー運。
ひとつのジャンルでトップに立ったり、新しい環境で責任者に推されることも。
率先してリーダーシップを発揮すると、上昇運に乗れそう。
ただ、今までのやり方にこだわると、孤立する恐れも──。
苦言も素直に聞いて。
水と緑ゆたかな風景が、頑なになりがちな今月のあなたに、
しなやかな感性を与えてくれそうです。
ミズバショウの咲き乱れる高原を散策したり、山里に湧水の名所などを
尋ねるのも、おすすめ。
迷いがちなら、直立する杉木立や竹林を眺めると、心が落ち着き、
目標が見えてくるかも──。
菖蒲の花にも、気持ちを立て直す力が!

 風雲
狙い通りの答えや結果が得られる時。
特に、目上の助けで状況が好転しそう。恩師や上司に紹介や、
口添えを頼むなどの根回しを──。
素直な態度が協力を得るカギ。
虚勢を張ったり、背伸びすると、礼儀を失してしまう可能性も。
考えすぎると、かえって答から遠ざかるかも。
書物にヒントを求めて──。
初夏の陽光をたっぷり浴びるほど、運気に希望が差す時。
草原に寝そべって青空を見上げたり、日当たりのよい場所で
読書もいいでしょう。
考え過ぎた時には、満天の星を眺めると、視野が広がり、
行動力が湧いてきそう。
風流な世界との縁もあるので、神社仏閣や日本庭園を尋ねるのも、マル!
風景を見て一句ひねってみては?

 天星
発展的な運気。
何事も、あなたの予想を越えて広がりそう。
今までのやり方をガラッと変えてみることが、飛躍のきっかけに。
意外な相手と組んだり、海外の仕事のスタイルを取り入れるのも、おすすめ。
ただ、優柔不断になったり、意思が通じにくくなる傾向も。
誤解を恐れずに、堂々と発言を。
冒険的な旅が、発展運に火をつけそう。
人生観を変えるような出会いの暗示も──。
言葉の通じない国や、ガイドブックに載っていない場所にゆく、
初めての乗り物を利用する、など未知の要素を取り入れるほど充実しそう。
船旅も、おすすめです。
移り変わる海の色を眺めていると、今までとは全く違う発想ができそう!
海岸リゾートで、ダイビングやサーフィンなどマリンスポーツを楽しむのも、マル!

 紅葉
停滞していた人も自信復活。
人との出会いや交流によって、励まされたり、癒される出来事がありそう。
不穏な状況や地位も安定するでしょう。
もめていた相手とも信頼関係を取り戻すチャンス!
有用な情報も集って来ます。周りに還元することで人気が益々不動に──。
ただ、八方美人にならないよう注意して。
運気が落ち着く今月は、山の中に滝や石清水を探して歩くと、
心が洗われるでしょう。新緑の渓谷を散策するのも、おすすめです。
また、人との触れあいに和める運気でもあるので、ガイドやインストラクターに
案内してもらったり、現地の人々との交流をはかるツアーに参加するのもよいでしょう。
また、ラベンダー畑などハーブの群生地に出かけると、元気を取り戻せそう!
 (2004.06.03作)
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この詩を載せたら質問があったので追記する。
通常の、週刊誌などに載っている「占い」欄は、みな「西洋占星術」によるもので、星座表──みずがめ座とかさそり座とかに月日によって割り当てられている。因みに、私は2月7日生まれで「みずがめ座」ということになっている。
だから私は第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)の中で、こんな歌を作った。
 みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐてしらしらと夏の夜を泳げり
この歌は『嬬恋』自選60首の中にも採っているのでWeb上の、上記のHPで見ることが出来る。
脱線したが、私が目をとめた、今回の「元命法」という占い術は中国の陰陽五行説をベースとする「万象学」という膨大な理論体系に基づくという。
だから12に分けられた生年月日の分け方の名前も、「陽光」5月5日~6月5日生まれ、「稲妻」6月6日~7月6日生まれ、という風に名づけられている。一般的な西洋占星術の星座表の名前と違って、漢字にどっぷりと浸かっている日本人には面白いと思った。
しかし、書かれている占いの文章の中身は、西洋占星術のものと変りない。もっともらしい、誰しも心当たりがありそうなことが書かれている。
私は「詩」として、これを書いたので、生年月日の区分などは書かなかった。もっとも、私の文章も、もっともらしいことが書かれているに過ぎない。どちらかというと、知識労働者──デスクワークの人を対象に書いたかも知れない。
いずれにしても、お笑い種(ぐさ)として読んでもらえば有難い。
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2004/06/02のBlog

──草弥の詩作品(19)──

   プラシーボ placebo ・・・・・・・・・・・・木村 草弥

Y'a le printemps qui chante.
春が歌っている──少しばかり気取って言えば
目の前の田園に
そんな風景が広がっていた──。
そんな季節も過ぎ去って
もう 夏が来ようとしている
<プラシーボ>を処方してあげよう

2004年2月の『サイエンス』に載った
「プラシーボ(にせ薬)の効果」についての
ウェイガー博士の論文──
<心は感覚さえもコントロールする>のである
一般に素直で几帳面な人は鬱病になりやすいが
また プラシーボが効きやすいという
<プラシーボ>を処方してあげよう

<ジャンル>というのは
あくまでも<後付け>
詩は いずれも
心のうちにある韻律の産物──。
「私の内面にはプリミティヴな情熱、本能があるの」
と、その人は言う
日常生活の中で
自分の感情を発散したり
言葉で表現するのが苦手
だが
紙片に向かうと
いつの間にか自分の気持ちを託せるという。
<プラシーボ>を処方してあげよう

<ジャンル>というのは
あくまでも<後付け>
詩は いずれも
心のうちにある韻律の産物──。
<プラシーボ>を処方してあげよう

<最近泣いたことはありますか>
問われて はたと つまづいた
感情のおもむくままに
泣くという行為が 久しく ない。
<プラシーボ>を処方してあげよう
 (2004.06.02作)
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2004/06/01のBlog

──草弥の詩作品(18)──

   弥生の不在 absente ma femme ・・・・・・木村草弥

弥生が家に居なくなることが多くなる
イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>

五十年暮らして来て
いつも一緒だった
入院して手術して 1カ月、1カ月半の
不在ということも幾度かあった
だが それが済めば
また ずっと一緒だった
離ればなれになって過ごすのが
苦しくて仕方なかった

イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>
だが ここ数カ月
出血や レーザーメスによる腫瘍の切除やらと
数日単位の入院が多くなる
それを積算すると
弥生が家に居なくなることが多くなる

夢を見ていた
魚になって あてもなく 
海を漂っているような日々
海流が冷たい こごえるようだ
魚類最大のジンベイザメが近づいて来る
呑み込まれはしないか 怖い
ジンベイザメはプランクトンを食べていて
人が食べられることはない
と判ってはいるが──。
イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>

今度の入院は三日間
初日に レーザーメスで
膣口に押し出してくる腫瘍の先端を切り取った
二日目は 切り口の観察と静養
三日目は 排尿管の取替え
イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>

ミレニアムの年 2000年に
二人してエルサレムのゴルゴダの丘を
訪れたのは幸運だった
今 しきりに
十字架にかけられたキリストの叫びが偲ばれる
<エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!>
「わが神、わが神、いかで余を見捨てしや!」 (マルコ伝15章 33-39)
と叫んで息絶えた、というキリストを──。
イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>

めっきり痩せた弥生が
そろりそろりと午後の散歩から戻ってくる
初夏の陽炎(かげろう)に
ゆらゆらと揺れながら──。
弥生の不在に 慣れなければならないのだろうか
<永遠(とわ)の不在>を恐れる。
イタリアの諺にいう
<人は時を測り 時は人を計る>
(2004.06.01作)
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2004/05/28のBlog

──詩作品⑰──

    皆既月蝕 eclipse totale de lune・・・・・・・木村 草弥

明けがたの
レム睡眠の夢見の中を起き出して
何年ぶりかの皆既月蝕を見た
月の面に ひとつの黒い影が近づいてくる
月が蝕まれてゆく
それを見ている私がいる
何という暗さだろう
月は いつもは さほど明るくはないが
今暁は 何という暗さだろう
月を蝕んでゆく地球の淵に
私が居る
何という遠さだろう
現(うつつ)のすぎゆきに私を置き去りにして
私が居る
何という儚(はかな)さだろう

暗さの中で 私は あの人を抱いた
いとしい生きものを
そっと包み込むように──。
その上を時間が流れ
赤銅色の月が ふたたび
ゆるやかに夏の早暁の森を照らし始めたとき
ぼんやりした意識の底に
私たちは居た

私の唇は あの人の唇をふさいだまま
愛は 確かめられたか
傍らに寄り添う暮しが何十年も続いている

地球に蝕まれている間も
月は確実に太陽の光を受けていた
日常の意識が
太陽の光を屈折させて届けて来る

私の中に
すっぽりと包まれるている あの人に
──愛を伝える術(すべ)をまさぐり
──まだ 愛し尽くしていない

いま月蝕の回復を目のあたりにして
月と太陽と ふたつのものの間(あわい)に
宙(そら)に浮ぶ地球の淵で
私は立ちすくんでいる
 (2004.05.27作)
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2004/05/26のBlog

──詩作品⑯──

   パロール parleur et parleuse ・・・・・・木村 草弥

ゆるやかな雲の流れ
許された時間が ひととき
僕たちに立ち止まる
それぞれ速度のちがう身体をもつ僕たち
妻よ すれ違ってゆく<時>を
僕らは 持った
そして 一瞬のうちに
そして たぶん永遠の
光の風味───。

僕たちは 多くの そして ひそやかな
パロールを交わしていた
そして たぶん ランプのほのかな光
さしあげた脚を照らしていた
草叢のざわめくときに
終わりを知らぬ<愛>
よどむ水面にただよう<言葉>の断片たちよ

夜を潜って
君を探しあてると
そこに<唇>があった
それは夜にしか
顕(あらわ)れないのかも知れない
言葉のやり取りが
果てしない線路のような気がして
どこかに 終わりがないかと
やみくもに潜ったものだった

夜を潜って
君を探しあてると
そこに<唇>があった
そこを かき分けるように進む

僕たちは 多くの そして ひそやかな
パロールを交わしていた
そして たぶん ランプのほのかな光
さしあげた脚を照らしていた
草叢のざわめくときに
終わりを知らぬ<愛>
よどむ水面にただよう<言葉>の断片たちよ
 (2004.05.26作)
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2004/05/25のBlog

──詩作品⑮──

   臓器 organ ・・・・・・木村 草弥

身体(からだ)の内外というのは
どの辺を境界とするのだろうか
骨も内臓も わが意のままにならぬ

私の身体は 私にとって
最も身近な<他者>
私の臓器の見る夢を捕まえられるのは
<言葉>しかない

この肉体は仮の姿とも言う
仮の姿の臓器のたぐいを持ち 
生きる
<思想>も<愛>も臓器の見る夢か

わたくし という仮の宿りの肉体を
かけめぐる液体──血液とリンパ液
わが意思の及ばぬ<私>という皮袋
不断の血のリズムで温もりを保っている

アントナン・アルトーは言った
<僕の自我と折り合いの悪いもろもろの臓器>
<呼吸をする箱としての身体>
つまり 理性ではない身体そのものの思考を展開した
───アントナン・アルトー

私の身体は 私にとって
最も身近な<他者>
私の臓器が見る夢を捕まえられるのは
<言葉>しかない
 (2004.05.25作)
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2004/05/24のBlog

──詩作品⑭──

   男根 phallus・・・・・・・木村 草弥

 (1)
オーギュスト・ロダンの彫刻に
バルザックを彫った塑像がある
私は まだ それを見ていない
バルザックはガウンを羽織って
ガウンの下で男根を握っているという
それは愛 それとも闘志?
バルザックの男根を彫るという
したたかなロダンの目──

私は まだ それを見ていない
ガウンの下に隠れたバルザックの男根
勃起したバルザックの男根
──それを握りしめているという男根
彫刻的に
そんなことが可能なのか?
あるいは この塑像のための
デッサンの中で 男根を握りしめているのか
この話を私にしてくれた男の精神のしたたかさ

オーギュスト・ロダンの彫刻
バルザックを彫った 男根を握りしめる塑像
私は まだ それを見ていない

 (2)
今どきの わが憂鬱のみなもと
わが愛する前立腺よ わがprostataよ

タケダ薬品が開発した商品名─リュープリン
一般的な薬品機能名─LH・RHアゴニスト
それは男性ホルモンを遮断する注射薬
その効き目は著功というにふさわしい
前立腺癌 adenocarcinoma は
男性ホルモンの作用で癌化が促進されるという
<非男性化>させよ!
この絶対命題のもとに開発されたリュープリン──
世界特許の戦略的ヒット商品
わずか1ccほどの注射液1本が8万円もする

わがprostataは
すっかり おとなしくなり 勃起の気配もない
腫瘍マーカーの数値も 0.7なんぞという低さ
リュープリンお手柄、お手柄というところ
すっかり手なずけられた prostataよ

今どきの わが憂鬱のみなもと
わが愛する前立腺よ わがprostataよ
 (2004.05.24作)
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2004/04/15のBlog

──『草の領域』──

**草弥の詩作品**⑬──

    妻の手・・・・・・・・・・・・・・木村 草弥

春昼である。
右手を投げ出して妻がまどろんでいる
その手は いかにも病人という手で、いとしい。

愛咬───時実新子の句《愛咬やはるかはるかにさくら散る》を思い出す
いつだったろうか
抱擁しながら戯れに妻の耳たぶを咬んでみた
そして 耳たぶを咬んだ唇(くち)から
「弥ぃちゃん」とささやいていたっけ。
今は ただ眺めているだけ。

春昼である。
右手を投げ出して妻がまどろんでいる
その手は いかにも病人という手で、いとしい。

手───安住敦の句《芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ》
私のBLOGに この句を採り上げたので
挿入する写真にデジカメで妻の手を撮った。
その手は いかにも病人という手で、いとしい。

その妻の手を口に含んで
舌先でころころ弄(もてあそ)びながら愛玩することも出来よう。
今は ただ眺めるだけ。

春昼である。
右手を投げ出して妻がまどろんでいる
その手は いかにも病人という手で、いとしい。
 (2004.04.15作)
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2004/02/14のBlog

  長篇詩・・・水の思想・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 第1章 水惑星となるまで

宇宙ガスが渦巻く太陽系の中に
原始の地球が誕生し
隕石の衝突によって爆発を繰り返していた。
約38億年前、マグマに覆われた地球の地表に
熱湯のような雨が滝のように降り注ぎ、
燃えさかる大地を急速に冷やして行った。
降り注いだ雨は再び天にのぼり、
新たな雨となった。
毎日毎日いつ果てるともなく豪雨がつづき
地上では大洪水が起り
激流となった水の力は
広大な地表を削り、固め、砕いて行った。

それから億年単位の歳月が過ぎ
生命が生まれ、植物が繁茂し
生命体を、人類を、
ホモサピエンスを地上に送り出した。
私たちの地球が、今も奇跡の星でありつづけるのは、
大いなる水が、天と地を激しく循環するからだ!
水惑星なんぞと命名したのは誰か?

 第2章 海の名残り

人類の遠い先祖が海を離れてから、三億年か
四億年という長い歳月が経った。
私たちの体には今もって、海の名残りがある──
私たちの体は60~80パーセントが水で、
そうした体液の成分の比率は、海水によく似ているらしい。
四分の一の濃度の海水と同じと学者は言う。
PHも海水と同じ弱アルカリ性だから──

 第3章 モンゴリアンの記憶

「運のいい人は、雨と共に」とモンゴルの諺は言う。
夏到来を告げる「初雨」の日は、その幸運も大きいと喜ばれる。
春夏秋冬は雨の多寡によって色分けされる。
「天への崇拝は、まだモンゴルに残っていますか」
「モンゴル人なら、血や肉のなかに入っています。天を忘れて、
たれが生きられますか」
モンゴルの旅の途中、司馬遼太郎の問いに同行のツェベクマという
モンゴル女性が答える『草原の記』の一場面である。
司馬は「そこには空と草だけでできあがっている。人影はまばらで、
そのくらしは天に棲んでいるとしかおもえない」と言う。

モンゴリアンの記憶をとどめる我ら日本人は
日本列島という山紫水明の風土に辿り着いたのだ!
太古から縄文、弥生時代を引き継いで来たとは言え、
奈良、鎌倉、室町、戦国、江戸時代を経て
明治、大正、昭和、平成と延々と時空を経て
戦乱と飢饉と喜びと悲しみと、もろもろの経過があった。
昔は一年に休みは二回──盆と正月──
それが、ひと月に休みが二回となり、やがて毎日曜が休みになり、
土曜、日曜が連休になり、週末と言えば金曜日のことになった。
今や日本人は「七曜」という日常生活を一週間単位の周期で
過ごすようになった。

 第4章 水をめぐる一週間──une semaine qui concerne de l'eaux

何せむといふにもあらぬ
 日めくりを剥げば日曜の朱色の数字

夕ぐれの同じき景色みえながら、
 ああ月(ルナ)いづるlundi(月曜)は昏れ

きらめけるものを恃まむうつしみは
 朝の光を浴ぶる火曜日

蔦もみぢのいのち移ろふ
 虫喰ひのくれなゐの葉が昧爽(まいさう)に疼(いた)む

雨を得て秋茄子の紺艶(えん)なれば
 深まる秋も水曜の朝

われら住む京都盆地の底ひには
 巨き水瓶(すいべう)よこたはるてふ

満々と水を湛ふる地底湖よ
 億劫の時空とどめて邃(ふか)し

巨いなる水瓶の恵み
 我ら掬(く)む水の旨さよ地下の清みづ

哀れなる女ありけり
 行(ぎやう)あけの男と寝(い)ぬる洞川(どろがは)の夜を

万緑のなかの一葉を笛にせば
 清(すず)しかるべし木曜の晨(あさ)

一位の実手に乗せみれば
 煙管(きせる)いでし火だねのごとくまろぶも愛(かな)し

生業を退きても朝より忙(せは)しかり
 もう銭勘定はすまじき金曜

池の面に緋鯉の唇(くち)のあぎとへば
 土曜は吾妻いのち虔(つつ)しむ

毎日が日曜などと言ふまいぞ
 一週しかと巡り来るゆゑ

「初雨」の水を得し日よ
 一週の日々を重ねてひととせとせむ


 第5章 水を汚すな

今のメキシコ辺りに住んでいたマヤ族の雨の神は
「チャク」という名で呼ばれ、雨とともに稲妻も司どった。
カバー神殿の「コズ・ポップ」遺跡、ここは崩落が激しいが、
400にも及ぶ雨神チャクの顔のモザイクの彫刻によって覆われていた。
その、ところどころに長く垂れ下がる鼻が雨神チャクのものだ。
洋の東西を問わず、大洪水や水にまつわる神話や逸話があふれている。
これは、すべて、いかに「水」が生命あるものにとって、切実なものかを物語る。

我ら住む京都盆地の底には巨きな地底湖があり、満々と水を貯えている。
その水は、地上の琵琶湖の水とも関連があると言われている。
地底湖の水は、何十年、何百年、何千年の歳月を経て、
地層の土に濾過されて貯えられたものだ。
わが城陽市水道は掘り抜き井戸から、この水の恵みを頂いているが、
これらの汲み上げは、節度を守るかぎり、許されよう。
だが、近時の化学物質の地下水汚染だけは、断じて許してはならない。
ひとたび、これらの化学物質に汚染されると、
地底湖の水は清らかさを失い、
人間の体を蝕む素因となるからである。

いつの日か太陽は大膨張して爆発し、
その核融合反応の光線の恩恵を受けて、
気温を保ち、光合成して来た地球の生命が滅ぶのは勿論、
「太陽系」そのものが無くなる日が来る、と言われている。
「ヨハネの黙示録」あるいは仏教の終末思想、そんな光景が、
いつかは現実のものとなるのである。
こんな悲しい先のことを考えると「水の汚染」など、
ちっぽけなことだと言うかも知れないが、
その日まで、我ら地球上の生命は「いのち」を永らえなければならぬ。
今や「水の思想」とも言うべき哲学を、我々は持たねばならぬ。
(2004年02月14日作)

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第4章だけは、文語、歴史的かなづかいにしてある。「韻文」として、あるリズムを創出したいと考えたからである。同好の士の閲覧とコメントを得たいものだ。
「水」の写真というのは難しいもので、掲出のようなもので代用した。

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2004/02/13のBlog

  前立腺─Prostata・・・・・・・木村草弥

いのちあるものはいとほし冬さればプランターに培(か)ふビオラ・フィオリーナ

ま白なる花あまたつけ咲き満ちし一夏(いちげ)はニューギニア・インパチェンス

間なくして用済みとなる器官なれ愛(いと)しきかなや我が前立腺(prostata)

PSAの示す数値よ老い初めしうつしみに点す哀愁の翳(かげ)

男たる徴(しるし)はばまむ薬にて去勢に同じきLH・RHアナログ

下垂体ゆ出づるホルモン断たんとし予後よき癌かわれの腺癌(adenocarcinoma)

猛々しき男ならざる我ながら男を止めよと言はるる哀れ

生きたきは平均余命にて充分とうつしみを割く術(すべ)は拒みつ

いとしきは吾妻なれば病める身を看取りてやらな、それが気がかり

semen(精液)の一雫こそ恋しけれ間なくし絶ゆる腺をおもへば

(2003年11月05日作)

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この作品は、昨年あるところへ発表するつもりで制作したが、いろいろの事情で断念したものである。
これも短歌形式になっているが、自由詩として鑑賞してもらいたい。この作品も当時は文語、歴史的かなづかいを採用している。はからずも「前立腺癌」の初期のものがみつかり、以後、現在も治療中である。
テーマとしては、かなり深刻なものを主題としている。
掲げた写真は「ピサの斜塔」である。私の体の変調を象徴する意味で、あえて、この写真にしてみた。「比喩」として、これを見てもらってもよい。
草弥の詩作品「草の領域」①・・・・・木村草弥(Doblogから転載)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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   王道─La Voie royale・・・・・・・・・木村草弥

クメールの統べし五百年の栄華の跡ひそと佇む然(さ)れども峨々と

しかけたる猪の罠も錆びつかせ闇を抱きて密林ねむる

 『王道』4連
《ながく夢を見つめる者は自(し)が影に似てくる》といふインドの諺

P・ボワデッフル言へり<『王道』は狂ほしきバロックのごとき若書き>

「若い時は死とは何かが判らない」初対面のクロードにペルケン言へり

シレーヌの素肌に夜と昼が棲む、さて、やさしさを縛つてはみたが

 アンコールワット5連
「乳海攪拌」さながら交合のエロスに似てそこより天女アプサラ生(あ)れたり

王なべて不老不死を願ふもの「攪拌」ののち妙薬・甘露得しといふ

歯を見せて笑ふ女神(デヴァータ)像珍しとみれば豊けき乳房と太腿

幾何学的構造といふ神殿は135度の二等辺三角形

地雷に脚を失ひし人老いも若きも寺院の門(かど)に物乞ひをせり

 比喩として2連─物理学徒A・Hに─
競馬場の帰りにつつく関東煮(かんとだき) 非ユークリッドと君は言へども

「幾何学に王道は無し」弟子たりしプトレマイオスの治世はいかに

 「東洋のモナリザ」バンテアイ・スレイ2連
クララ率(ゐ)て女神像盗み捕縛されし逸話はマルロー二十二歳

ひと巡りにて足る寺院ロープ張りて女神と我らを近づけしめず

*幾何学の祖ユークリッドの弟子にエジプト最後の王朝であるギリシア人のプトレマイオス朝の創始者──つまりプトレマイオスがいた。
この王朝の最後の女王がクレオパトラである。
エジプトの古王朝とは、このプトレマイオス朝で、人種的に交替した訳である。
「幾何学に王道は無し」という言葉はユークリッドのもので、上記の私の詩の中では、深い意味はない。
アンドレ・マルローの『王道』からユークリッドの言葉を連想したからに過ぎない。
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私のWebのHP『王道』──アンコールワット紀行──がある。ご参考までに見ていただけると嬉しい。
この作品は、57577の短歌定型の形を採っているが、これはあくまでも「詩」であることを明確に、申しておきたい。自由詩にとっては、形式は自由である。定型であろうとなかろうと、それは問題ではない。
この作品は2003年2月19日の制作日付がついているので、この頃、私は文語、歴史的かなづかいを採用していたので、ここでもそれを尊重して、制作時のままとする。同人誌「かむとき」に発表予定だったが、取り止めたもので、ここに再録しておく。
掲出した写真はアンドレ・マルローが盗もうとした「バンテアイ・スレイ」寺院の女神像デヴァータ である。
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2004/02/08のBlog

   散文詩・南イタリア料理とポモドーロ・・・・・木村草弥

旅の楽しみは何と言っても食事だろう。各国が育んで来た偉大な食文化の数々。まずは南イタリアの料理を。
日本同様、国土が南北に長いイタリアは気候や食文化に大きな地方差が存在する。南イタリアは「太陽の国」のイメージがする。それはこの地方が乾燥しているからで、その条件に合った硬質小麦デュラム・セモリナやオリーヴなどが栽培される。パスタに使われるのは、このデュラム・セモリナのこと。南イタリアでパスタやピッツアがよく食べられるのは、そのため。
対して雨の多い北部は水田もあり、リゾットという米料理をよく食べる。また北イタリアではバターやクリームを使った料理が主流だ。肉料理や、トリュフやポルチーニ茸という高級茸の産地を抱えているので「山」のイメージの強い料理体系と言えるだろう。
南イタリア料理は「海」のイメージがする。アサリ、イワシ、マグロなど豊富な魚介類を使ったパスタは南部ならでは。アサリや数種の魚介を使ったボンゴレ、ペスカトーレといった名前に聞き覚えがあろう。イワシの塩漬けのアンチョビや、イタリア式カラスミのボッタルガなど。西洋人には珍しくタコも好む。
味付けをみると、北部や中部に比べて、圧倒的にオリーヴ油、トマト、ガーリックを多用する。サンマルツァーノという細長い品種のトマトは、トマトソースには欠かせない。唐辛子も南部の方が多用する。ピリッと辛いトマトソースのアラビアータは定番だ。ペンネというペン先型のマカロニと相性がよく、日本人にも評判がよい。ナスも良いのが採れ、オリーヴ油、トマトと相性がよい。煮込み料理カポナータやスパゲティ・メランザーネがおいしい。
ひと口にパスタと言うが、さまざまな形状に分かれるとともに、手打ち生麺か乾麺かという違いがある。アルデンテと言って少し芯を残すイタリア料理独特の茹で加減を楽しむのは乾麺の方で、硬質小麦の産地である南部ならでは。ソースにクリームを多用する北部では生麺が主流、と違う。
さて南イタリアと言えば、ナポリのピッツァを外すわけにはいかない。ピッツァの生まれ故郷であるナポリには「真のナポリピッツァ協会」なるものまである。生地にオイルを練り込まない、伸ばすのは大理石の台上で、薪を燃やして450度以上で焼かねばならぬ、など厳格な基準をクリアした店しか加盟出来ないことで有名。そこまで厳格な店でなくてもナポリの街角で見かけるピッツェリアでも充分においしい。特徴は北部や中部のような薄型でなく、縁が厚くモチモチふっくらしていること。ナポリの人々はこれを4つ折りにして紙に包み路上で立ち食いする。この楽しさは抜群。人気メニューはトマト、モッツァレラチーズ、オリーヴ油、バジリコだけのマルゲリータ。立ち食いはシンプルが一番。因みにバジリコは緑、トマトは赤、モッツァレラチーズは白。つまり三色で、イタリアの国旗が表現される。
ご存知のように「トマト」はイタリアでは「ポモドーロ」と言われ太陽の恵みと賞賛される。ポモドーロに幸あれ !
 (2004.02.08作)

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   詩・誕生日のお祝についての四題噺・・・・・・・・木村草弥

 (1)オドントグロッサム
大きなボール函で包装した蘭の鉢
オドントグロッサム─<彗星蘭>─が届いた
昨年上梓した歌集『嬬恋』の編集元・角川学芸出版から──
品種名・マリー・ノエル・<ベラノ>という
花の形が odonto(歯)と glossa(舌)に似てるからと
ギリシア語に因んでつけられたという
蘇芳(すおう)色の五弁の花びらの真ん中に
黄色みを帯びた glossa 舌様の花弁が乗る
寒さに弱く 温度は 10度Cを保て、という

シンビジュームはありふれているが
今年は豊かに花をつけて
窓べに咲き誇っている
デンドロビュームは まだ花芽を出していない
オンシジュームも まだ花芽の兆しもない
黄色の華麗な花が今年も見られるだろうか
贈られたオドントグロッサムが
それらの蘭に 新しく仲間入りした
「水は鉢の中が乾きそうになったら与えて下さい」
寒さに弱く 手入れの難しそうな花みたいだ
贈られた花鉢を枯らす訳にはゆかない

 (2)パーカー
先日たずねて来た長女が帰る時に
丁度私が散歩に出るところだった
冷たい北西風の吹きつける中を黙々と
ウオーキングに出る私の後ろ姿を見て
パーカーを贈る気になったという
QUIKSILVER のマークが胸のところにある
商標の意味はどうでもよいが
雨や風の日の外出には重宝だろう
この歳になると 娘の心ざしが 身に沁みる

 (3) ドライいちじく
いちじくは地中海沿岸の名産品で
トルコやギリシアで何度も食べた
今日 贈って来たのは札幌のROYCE'社が
トルコから輸入したDRIED FIGS だ
一個づつ平たく四角くアルミ箔包装にしてある
アダムとイブの神話の昔から
いちじくは甘美なものであったらしい
サボテンの実はイスラエル人の象徴という
「外側は棘、内側は甘美だ」と
ナツメヤシの蜜の甘さも 一神教の風土と切り離せない

贈られたドライいちじくを齧っていると
なつかしい地中海の太陽の香りがする

 (4)ティラミス・チョコレート
ティラミスのココアパウダーをまぶした
生チョコレートの四角形が
4個×5列 計 20粒 並んでいる
表面にまぶしたココアパウダーの
ほろ苦い味覚が 大人のものだ
REMY MARTIN の CHAMPAGNE COGNACが
配合されて 大人の味覚がほろ苦い

これも札幌のROYCE'社製のもの
キャッチコピーに「北海道の原風景をテイストに」とある
長女の会社は輸入雑貨などを商っている
もうすぐバレンタインデーだから
ちゃっかりとバレンタインのシールなんぞ貼って
わが家のリビングにもプレゼントとして届くのだ
 (2004.02.07作)
画狂人・北斎と青楼画家・歌麿・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
img0406-02北斎お岩

2005/11/14のBlog

 画狂人──葛飾北斎の生涯・・・・・・・・・・木村草弥

北斎の出生については未だ多くのことが不明である。宝暦10年9月(1760)、江戸本所割下水に生まれ、父は徳川家用達の鏡師・中島伊勢で、幼名を時太郎、後に鉄蔵と改めたと云われるが、北斎が葬られている浅草・誓教寺の墓碑銘には
<川村氏>とあり、通説とは異なる。北斎の実父は中島伊勢の弟にあたる川村市良衛門であり、生母不詳、養母は吉良上野介の臣、小林平八郎の孫娘にあたる人であった。

 習作時代 (1760~1792)
鏡師・中島伊勢の養子になった時期は馬琴の書簡に見るように25歳前後のことであった。通説の幼年期からではない。もし、幼年期から中島伊勢の養家で育てられていれば、14、5歳頃から貸本屋で丁稚奉公をするようなこともなかったろうし、その青年期を貧窮のうちに過すこともなかった筈である。
実父は叔父中島伊勢と同様に鏡作りの職人ではなかったかと思われる。13、4歳頃から木版彫刻を習ったというのも、鏡の裏面を飾る鋳物彫刻の木型作りのためではなかったか。
北斎が終生、「割り物」を得意としていたのも、鋳物彫刻による影響からではなかったかと想像され、やはり鏡職人にすべく実父に育てられたと見るべきだろう。
幼時より父の家業を継ぐべく木版彫刻を習い、やがて絵師志望に変って自立したのではないか。19歳の時に勝川春章の門下になったときには、すでに絵師になっていたように思える。そうなくては、入門1年たらずで画号を春朗と名乗れ、師匠の代筆や役者絵の画作などが出来るわけがない。
入門前に絵師としての素地が出来上がっていて、春章門に入ったのは絵師として自活するためであり、浮世絵門界に入るための一里塚として籍を置いたのであろう。
北斎は安永8年、春章の門に投じ、春章没の前年寛政3年に至る13年余の習作時代に、是和斎、群馬亭などと号して黄表紙本の戯作を2、3種発表している。
寛政4年(1792)12月8日、師の勝川春章が病没すると、これを契機に美人風俗画に新機軸を拓くべく勝川門から去った。

 宗理から画狂老人へ(1793~1828)
勝川春章没後、自ら春朗の画号を廃し、琳派の町絵師・俵屋宗理の門を叩く。この前に狩野派や堤等琳などに師事し、大和絵の画法を習得している。とりわけ等琳からは、後年「北斎漫画」に見られるごとく、自由闊達な逸筆飛墨を学びとり、粗画、略画、漫画の手法を体得している。
二代目俵屋宗理を継いだが(1795~98)浮世絵師しての安定した地位と画作に恵まれたが、4年後に門人にその席を譲る。
銅板画風の風景画を描いたのは享和年間から文化年間初頭(1802~8)にかけての頃である。文化元年(1804)に初めて馬琴の読み本「小説比翼文」の挿絵を描いた。北斎の絵の写実の精密さに驚嘆した馬琴は、文化3年(1806)に北斎を自宅に招き、読み本の挿絵描きを3カ月にわたって専念させた。「椿説弓張月」「苅萓後伝玉櫛笥」「敵討裏見葛葉」「墨田川梅柳新書」などなど、馬琴邸で仕上げた。
また当時の無類の書籍収集家であり、考証家としても名をなしていた知識人であった柳亭種彦とも親交があった。
渓斎英泉は『无無翁随筆』の中で

<彩色に一家の工風をこらして一派の妙を極めたり、総て総身に画法充満したる人にして一点の戯墨も画をなさずと云事なし、稀代の名人なり>

と賞賛をもって記述している。
北斎は挿絵描きによって画業を大きく伸ばし、文化3~7年の5年間というもの読み本、合本、黄表紙の挿絵本だけでも160冊を数える。
文化9年からは絵手本『略画早指南』を板行する。『北斎漫画』もまた絵手本であって、今日のコミック風な内容ではない。文化11年(1814)~文政初年(1819)にかけて『北斎漫画』『北斎写真画譜』『略画端早学』『画道独稽古』など精力的に絵手本を上梓した。これらの中で画道指南のみならず、構成論的な美学を論述した。

v233凱風快晴

晩年の画業(1829~1849)
文政12年(1829)に北斎は70歳の古希を迎える。
しかし前年、後妻ことが病死し、三女阿栄は離縁されて家に戻ってきた。北斎自身も、この2、3年中風を患い、画作が思うように進まなかった。医師の薬石では効果がなく、業を煮やした彼は自ら漢方の医書をひもとき、薬を自製して治したと「葛飾北斎伝」にはある。持病であった中風を治すと倍旧の画業に精魂を傾け、天保2年(1831)板行の『富岳三十六景』、天保5年(1834)の『富岳百景』、文政11年(1828)の絵本『庭訓往来』などである。
図版②に挙げた<凱風快晴>のような鮮烈な風景画の数々は、色彩の鮮麗さ、完璧なフォルムの様式化など、風景画史上、画期的な大胆な試みであった。後年、西欧絵画にも大きな影響を与えたのは知られる通りである。
このような画境の進展のさなかに、不幸にも愚昧な孫のために天保5年(1834)冬、浦賀に潜居することを余儀なくされた。その孫というのは、先妻との間に生まれた長女阿美与が、柳川重信の許へ嫁して生まれた子供である。この孫は不肖の子で放蕩三昧の末、借財を作り、祖父をさんざん悩ませた。孫の罪の累罰を恐れて北斎は浦賀に逃亡生活を送ることになった。
そのほとぼりがさめて江戸に帰るが天保の大飢饉による不況で巷には夜盗、辻斬りが横行し、版元も出版どころではなく、画作の注文もなく北斎も困窮した。この頃の身すぎ世すぎには色々のエピソードもあるが割愛する。天保10年(1839)には本所達磨町で大火に見舞われ、大八車一杯の画財と縮画などの資料を焼失する。
この失意に屈することなく、北斎は六尺棒を杖に替え、房総の海へ写生に赴き、あるいは信州小布施の高井鴻山を訪ねて数々の作品を残す。
弘化4年(1847)、北斎88歳、絵手本『画本彩色通』の「序」に
<己六歳より八十八年、独立して心に怠らざりし事を、いかでか今方寸の紙中に演画すことを得べき、唯赤きと紅のひとしからざる、藍と緑のわかちたる、或は方円長短の形を説示するの外は、能はざるなり>
と書いている。
しかし、嘉永2年(1849)4月18日、浅草聖天町遍照院の境内の草庵で、ひそかに息を引き取った。享年90歳であった。
生前、古希のときに、英泉の描いた北斎像に

 <ひと魂で、ゆく気散じや、夏の原>

と、辞世の句を詠んで刻んだ。
葬列には家族縁者はもとより、生前親交の厚かった絵師や戯作者、版元連中が百人余も加わり、中には槍、挟箱を持った侍もまじり、遍照院から誓教寺の墓地まで、荘重な葬列であったという。北斎こそは世紀の巨匠であり、美神に魅入られた美のデーモンであった。
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この記事は、絵本『万福和合神』の後に載る解説文を要約したものであるが、解説者の名はないので、誰の執筆かは判らないが、念のため、お断りしておく。
北斎については、昨年このBLOGに記事を載せたことがある。それらと合わせて読んでもらえば有難い。図版①は北斎の「お岩」の絵で、昨年の記事にも載せたものである。
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bidoro歌麿本命

2005/11/13のBlog

青楼画家・喜多川歌麿と春画・・・・・・・・・・・・木村草弥

天保3年(1832年)に、浮世絵師の渓斎英泉(1791~1848)が著わした『増補・浮世絵類考』に、歌麿について次のように書き残されている。
<喜多川歌麿、文化3年(1806)に死す。本名、勇助。住まいは初め、江戸、弁慶橋久右衛門町(現在の神田界隈)。後に馬喰町(現在の日本橋界隈)に住む。画号は紫屋。江戸の生まれなり。歌麿、はじめ、鳥山石燕(1712~88)の画塾に学び、狩野派の画法を究め、後に独立して、浮世絵中興の祖と称揚さる。とくに、男女の時俗を描くこと巧みにして、近世、此人より、錦絵(多彩色木版画)は華美をきわめたりとぞ。彼、みずから云う。「われは生涯役者絵を画かず。何となれば劇場繁昌なるゆえ、老若男女の贔屓の役者あり、これを画きて、おのが名を弘むるは拙き画業なり。なんぞ、役者の威光を借る要あらんや。われは、日本(やまと)絵師なり。つとめて浮世絵画派を起こし、世にわが名を轟かすべし」と。その意に違わず、やがて彼の名は海外にも聞こえたるは、まさに一豪傑とや云うべし。歌麿は殊の外に、春画に妙を得て秀れたり。後に絵本『太閤記』の図を画きて、時の幕府の咎めを受け、獄屋につながれしが、出獄後間もなく、病死す。可惜、措しむべし。>

以上、英泉が歌麿の事歴を簡潔にしかも愛惜をこめて記述している。まさに適切にして、正確な記録であろう。
現在でも、歌麿の出生については明らかではない。彼の師、鳥山石燕の記述によれば、歌麿は宝暦3年(1753)に生まれたとするも、出生地については定かにしていない。幼少の頃から鳥山石燕の許で養われ、画家として育てられた。いうなれば、天性、画家としての資質に恵まれ、その天与の才能を生涯、練磨して生きた天才的な画家であったのであろう。
安永4年(1775)に、絵本の挿絵画家として世に出て、美人風俗画にも染筆したが、初期の作品は往時の美人画家で、すでにこの時すでに盛名を馳せていた鳥居清長(1752~1851)、勝川春章(1726~92)らの亜流にも及ばぬ稚拙な技量であった。やがて、江戸の有力なる版元・蔦屋の庇護を受けて、歌麿の画境は急速に成長した。
天明七、八年頃(1787から8)、吉原の芸者風俗を画いた「青楼仁和嘉女 芸者之部」において、独自の画風による美人画の様式を確立した。この頃から清長、春章の美人画の芸林から完全に脱却する。
やがて、いわゆる「青楼画家(遊女風俗を描く画家)」として、いつしか江戸浮世絵の第一人者となり、先輩画家をも凌駕する力量を示すようになるのである。
とりわけ、寛政期(1789~1800)は、歌麿の全盛期だった。真に「大首絵」の傑作が続々と創作されたのは、この時期だった。
また、先に書いたように渓斎英泉をして<春画に妙を得て、秀でたり>と言わしめたほど、歌麿の描いた春画は浮世絵史上においても貴重な存在である。

歌麿の春画作品の研究においては、フランスの Edmond de Goncour (1822~96)の<OUtamaro> (1891,Paris)が有名であり、さらにドイツの Dr.Jurius Kurthの<Utamaro>(1907,Leipzig)の著作が世界的に知られている。
しかし両者とも日本語資料の調査研究において、著者が外国人なるがゆえに正確さを欠き、いささかの誤解と誤記が見られるのは残念である。
いま、日本および海外の歌麿研究(特に春画作品)を参考にしつつ、述べると、歌麿の春画作品の初筆とみられるのは、大錦絵の組物『歌まくら』(1787年刊)であろうと推察されている。
前述のゴンクールは15種の春画作品目録を掲げ、クルス博士は28種を記載している。現在ほぼ、歌麿の画作に間違いないと思われる春画作品は27種であると言われている。
天明、寛政期(1781~1800)に作画期を持つ浮世絵師の中では、歌麿が最も作画量が多く、彼が春画画家として優れ、いかに庶民の人気を得ていたかが知られるのである。

  
俳人・飯島晴子のこと・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
葛の花

2004/02/02のBlog

俳人・飯島晴子のこと(1) 鶏ガラしゃぶり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

俳人・飯島晴子というと俳壇のみならず文学、短詩形文芸の世界では有名な人である。
2000年6月6日に亡くなった。自殺である。この言葉が不当ならば「自裁」と言い換えても、よい。
私は、もちろん俳句については門外漢であり、素人であるが、彼女の作品は好きである。
彼女は私と同じ京都府城陽市に生れた。大正10年生れであるから私とは10歳の年長である。面識はない。
旧姓は山本で、父は山本清太郎と言い、当時の富野荘村の父の生家で生れる。父は商社員として長年ニューヨークなどに駐在。
大正14年(晴子4歳)に京都市上京区に転居しているから、城陽市での生活は、ほんの少しだったと言える。
しかし両親の墓は城陽市にあるし、彼女の中では大きな地歩を占めていたことが、彼女のエッセイなどを読むと、よく判る。
彼女のエッセイに「夫婦」という1981年に書かれた作品がある。少し引用してみよう。
 <私の父の郷里は南山城の木津川のほとりで、私もそこで生れたし両親の墓もある。
この間「鷹」の同人総会の翌日、奈良へまわったのでついでに墓参りをした。
親類ではないのだが、昔から代々親類よりも親しくしている家があって、墓の面倒もみてくれている。大きい茶問屋である。--->
この茶問屋というのが、私も同業として親しく付き合っている芳香園という。現会長の北村昭二氏から、いつも飯島晴子のことを聞かされていたのである。
このエッセイには北村家の血縁のことも赤裸々に書かれているが、この文章のことを昭二氏が知っているかどうかは判らない。
このエッセイの中で、昔のご馳走と言えば、かしわのすきやきであったと書いた後に、こんな文章がある。
<子供の頃の私は、鶏の肉よりもガラをしゃぶるのが好きであった。
私たちの顔を見てからおじさんは鶏の羽根をむしって、どんどん湧いている噴井のそばでつぶす。
---だしがらの骨は全部どんぶりに入れてもらって、私がしゃぶることにきまっていた。--->
「噴井」と書かれているが、富野荘は水が豊富に自噴する土地で、今でも城陽市水道は、ここで打抜き井戸を掘って水源とする。旨い水である。
ここに書かれる「おじさん」というのは先代の亡・太一郎氏のことである。
このエッセイを読むと、彼女の心の中に「原風景」として城陽市(富野荘村)が生きづいていたことが、よく判るのである。

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飯島晴子

俳人・飯島晴子のこと(2) 葛の花・滅亡の予見・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子は、今でもよく読まれている俳人で、『飯島晴子全句集』というのが没後の平成14年に出ているが、目下品切れ中である。
『飯島晴子読本』というのが同じ富士見書房から出ていて、これには彼女の全句集が収録されている他、随筆や自句自解、俳論などが納められ、
これ一冊で飯島晴子のほぼ全体が俯瞰できる。
これと別に『葛の花』というエッセイ集が、同じく富士見書房から娘さんの後藤素子さんの編集で平成15年に出ている。
彼女の俳句に

 葛の花来るなと言つたではないか

というのがある。この作品を見ると判るように、五七五全体に、ずらずらと何が何して何とやら、というような句作りを彼女は、しない。
「葛の花」と「来るなと言つたではないか」とには直接の関連はない。
というより普通の俳句をやる人は、驚くか、とまどう筈である。
俳句の決まりとして季語が必要であり、「葛の花」は、あくまで季語として、この作品に持って来られた。
「来るなと言つたではないか」というフレーズは日常会話で、ふっと出て来そうな言葉で、その二つを一句の俳句に仕立てた腕は見事である。
彼女の「自句自解」には、この作品の説明はない。
このエッセイ集『葛の花』の帯に富士見書房のつけた文章には<晩夏初秋の濃艶な葛の花に滅亡を予見する著者>と書かれている。
この句は没後、後藤素子さんがまとめて刊行された句集『平日』の終りの方の平成11年に収録されているもので、
没年が翌年6月6日であるから、このキャッチコピー的な帯文は、彼女の心象を的確に捉えていると言えるかも知れない。
彼女のエッセイに「葛の花」という1975年に書かれたのがある。そこで、こう書かれている。

<葛の花は、私の好きな花である。木々を覆って、一谷を埋めて葉のはびこる有様は、荒々しく粗野なエネルギーにあふれている。
葛の葉裏の風にひるがえる白い風景は、古人のさまざまの思いを誘ったことも頷ける。
赤っぽい紫色の花は艶に濃い情感を漂わして、粗い葉の茂りと妙に調和がとれている。
---季節の傾きのなかに、万物の衰えが急にどっと見えてくるような瞬間を持つことがある。
私の葛の花は、いつもそういう気分のなかに咲いている。>

このエッセイの後半では、有名な釈迢空の歌<葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり>にも触れて、この歌には釈自身の自歌自註があり、
その解の特異さにも触れて

<俳句や短歌のような短い詩形では、作品をかりて読み手の内部を読むより読み様がないとも言えるが、
---精神の質感の違いを、葛の花の具体的な質感の違いにみるのは、興味深いことであった>

と書かれている。

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俳人・飯島晴子のこと(3) 第一句集『蕨手』から・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の『蕨手』は昭和47年に出ている。
この句集の開巻第一句に

 泉の底に一本の匙夏了る 

がある。
この句については「鷹」主宰の藤田湘子が「序」の中で、こう書いている。

<泉の句は、「鷹」がまだ創刊当初の混沌としたなかで、私に飯島晴子の名を印象づけた一句であった。
ここから飯島さんの新しい出発が見られるのではないか、そう漠然と思った。
しかし今日のようなきびしい作家に成長することは、実は予測もしていなかった。
----俳句を告白の詩から認識の詩として自覚しはじめる過程に、当時の飯島さんはさしかかっていたのだと思う。
一月の畳ひかりて鯉衰ふ  その後の飯島さんは、急激に変貌の歩みをつづけた。作品が情緒と妥協することを、極力拒んだ。
----ひたすら情緒という皮下脂肪を削ぎ落していった。
見えるものと対峙して眼をこらしていた飯島さんは、次第に、見えるものをとおして見えない世界へはいりこんでいった。
やがて、俳句を認識の詩として確信したにちがいない、そう思える一句に出あった。45年作の である。
この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。>

この文章は飯島晴子の俳句の特性を、かいつまんで鋭く把握していると言えよう。
<認識の詩>として俳句を作るという、ものの存在をとらえる、という作句の基底の思想ということであろうか。
泉の句については「自句自解」の中に、義兄が蓼科に建てた山荘のサクラ草の咲く湿地の泉の景があるが、そこに一本の匙をみたのではない、と書き、
当時住んでいた豊島園の近くの豆腐屋の前の道路と、蓼科の高原の夏終る気分とを思っていると、この句になったのである、と書いている。
また藤田湘子の引用した、後の句について、これも自句自解の中で 

<具体的にどこの景でもない。いつどうしてつくったのかも思い出せない。
京都に生まれ育った私の原風景というよりない。----京都に生まれ育てば、何となく自然にこういう世界が身につくのではなかろうか。
美意識といえば聞こえがよいが、たえず一方向への規制を働きかけてくる厄介な荷物である。
嫌だと思いながら、いつの間にかその価値観でものを見ている自分に気がつく。
----とすれば、これがなるべく固定硬化しないように、出来る限り弾性をもって、生産的に働くように心掛け工夫するよりない。>

と書いている。作者本人の言と、藤田湘子の解説とを、まとめてみると、飯島晴子の姿が見えてくるのではないか。

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俳人・飯島晴子のこと(4) 現代俳句と写生・俳論抄・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の「俳論抄」の中から、標題に即したものを少し書き抜いてみる。すこしは飯島晴子に迫れるかと思うからである。

<俳諧の滑稽も風狂も、目に見えないものの一つであるが、その他あらゆる目に見えないものがある。
一句を成すということは、最後の結果として、この目に見えないものを顕ち現れさすことである。
目に見えないものをそっくりそのまま捕獲したかのように見える方法で書くか、それとも、目に見えるものの向うに目に見えないものを見るような方法で書くかの違いがあるだけで、どちらにしても最終的には目に見えないものが現れていなければ、作品になっていないわけである。
そして、目に見えるものの向うに目に見えないものを見ようとする──見ようとするというより、見えてくるといった方がよいのかもしれない──のが、写生といわれる方法の本来の在り方なのではあるまいかと思う。>
 (現代俳句と写生・昭和51・8)

<言葉として書きとめられれば、その時以後は言葉があるだけであり、言葉は証人も弁護士もいない法廷で、自力で「詩」を出現させねばならない。そして、言葉自体が綺羅をまとっていようと、ボロをひきずっていようと、嘘であろうとほんとうであろうと、どちらでもよい、ただ、言葉の向うに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である。>
 (水原秋桜子の意義・昭和54・5)

<「物」は、人間の創造物であろうと自然物であろうと、見られ、聞かれ、触れられ、読まれ、その他すべて「られる」ことによって在るより在りようがないという面がある。
言葉も、また当然、一つの「物」となり得る資格をそなえた素材である。言葉の絡み合いが一つの物体となっているのが詩であり、----「物」であらねばならない。
俳句が「物」であるからには、読み手によって存在したりしなかったりするし、その存在を決めるのも読み手である。---->
(俳句を読むということ・昭和55・5)

これらを読んでくると、前回のところで藤田湘子が書いた、飯島晴子に於ける「認識の詩」としての俳句、という定義づけを理解することが出来ようか。

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2004/02/03のBlog
俳人・飯島晴子のこと(5) 37句抄・恣意的抄出・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の七冊の句集から、俳句には、ど素人の私の文字通り恣意的な抽出を、下記にしてみる。

*泉の底に一本の匙夏了る

*鍋の耳ゆるみしのみが女の冬

*ベトナム動乱きやべつ一望着々捲く

*旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

*火葬夫に脱帽されて秋の骨

*これ着ると梟が啼くめくら縞

*ねんねこから片手出てゐる冬霞

*跫音が跫音を聞く寺の水仙

*一月の畳ひかりて鯉衰ふ

*蜥蜴ほそくめしをくふのに向ひあふ

*寒卵寝るのもいやになりにけり

*わが末子立つ冬麗のギリシヤの市場

*かげろふのちる茶問屋をきりまはす

*やつと大きい茶籠といつしよに眠らされ

*鴨屋一軒美事な風の吹いてゐる

*いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは

*牧谿の虎濠々と去年今年

*たはやすき泪もありぬ諸葛菜

*カステラの底の砂糖や山眠る

*とりかへしつかずかがやく夏大根

*大仏の肉叢(ししむら)てふも夏の果

*茶の花のこんなに咲いてゐる寒さ

*寒晴やあはれ舞妓の背の高き

*男らの汚れるまへの祭足袋

*油断すなおたまじやくしの腹光る

*縁(えにし)ともごまだら天牛(かみきり)髭まはす

*冬の虹ぬきさしならぬかのやうに

*青柚子の疵強運といふことを

*正月や鱪(しいら)の男方女方置く

*大男桜落葉を焚くに侍す

*父母祖父母はや赤蛙浮かぶ沼

*薄氷をつつと一禽つつつつと

*怒るにも足らぬ短きブランコよ

*新聞は東奥日報海猫鳴いて

*葛の花来るなと言つたではないか

*てんと虫発つああだかうだといふうちに

*丹田に力を入れて浮いて来い


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俳人・飯島晴子のこと(6) 切字「かな」の多用・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の句を読んでいて、先ず感じることは切字「かな」で終わる句が、大変多いことである。
少なくとも10句に1句、多いときは三、四句に1句が「かな」である。
彼女の場合には、意識して使われているのだが、近頃の俳句では、こういう「切字」は、なるべく使わない、というのが時流らしい。
この切字を使ってあったために、俳壇賞の選考から外された、というようなこともあるらしい。
たしかに、「かな」で止めるというのは、一見して安易な気がするからである。
この傾向は第一句集の時から見られるが、さすがに第一句集辺りでは、少ない。
第一句集『蕨手』では「かな」留めは9句だけである。それ以後は殖えはじめ、遺句集『平日』に至っても、同じことである。
私は門外漢なので判らないが、このことが俳壇で取り上げられることは、なかったのだろうか。
底辺の俳人ならば、安易であると言われかねない。
また「けり」も多い。

 吊柿鳥に顎なき夕べかな

 夕蜘蛛のはしる白紙も遊山かな

 わが土鳩鳴く七月の火星かな

 栗咲くと面のすさぶ翁かな

 筍をゆがく焔の快楽(けらく)かな

 鯉の淵百日眠らさるるかな

 ぎりぎりまで青蝉さがす男女かな

 わが影の先走りたる踏絵かな

 黒揚羽に当られいゐる軀かな

 友多き鱸の海の朝日かな

 墓霧に懶かりける手足かな

 少々の土龍の土も恵方かな

 日に勢ふ白髪太郎の白毛かな

 わが墓標夏手袋の叩くかな

 男山さすがに春の寒さかな

 容赦なき夏鶯の近さかな

 吾ながら卑しき日焼手首かな

 流灯会果てたる山の容(かたち)かな

 土筆折る音たまりける体かな

 夕立の地雨となりし名張かな

 茶畠の二月の色を往来かな

 褌の尻浅黒き祭かな

 凍蝶を現(うつつ)に見たる伊良古かな

 なぜかしら好きになれない金魚かな

アトランダムに抽出してみたが、この「かな」が生きている句は、どれだろうか。
安易に流れている句がありはしまいか。
私の意見では、句集の中で、ああ、「かな」が多いな、と感じた割には、こうして抽出してみると、一句として「かな」の使用が、句にぴったり収まる句が多い、
ということである。この辺のところが、俳人として第一人者であったことの証であろうか。
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2004/02/04のBlog

俳人・飯島晴子のこと(7) 「おかしみ」と「抒情」・・・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子の「私の俳句作法」という文章の中に、小エッセイとして<言葉とこころ>というのがある。引用する。

<俳句ではおかしみが大切にされる。滑稽という言葉にすると少し変質してしまいそうな微妙な境地である。
おかしみは、やさしさであり、ゆとりであり、批評であり、人間の精神にとって酸素のようなものであるから私も大切に思っている。
だがおかしみは形にすると無くなってしまう場合が多く、難しい領域である。
いくらかおかしみになっているかと思われる拙句を次に拾ってみる。

 凍蝶を過(あやまち)のごと瓶に飼ふ
 さるすべりしろばなちらす夢違ひ
 春の航わが紅唇を怖ぢにけり
 孔子一行衣服で赭い梨を拭き
こういうロマンティックな作品が天から授かったように出来るととてもうれしい。私は志してもできない境地だからである。
これも私には、作法の外の賜りものということであろう。 「馬酔木」から出発したのに、私に一番遠いのは甘美な抒情句である。
でもそれが皆無というわけでもなくて、次のような作品もある。
 鯛焼の頭は君にわれは尾を
おかしみは対象を「視る」ことをつめていくと自然ににじみ出てくることもあり、作法というような技の外に在るものかもしれない。>

彼女自身も、よく判っているのである。肩ひじ張らない、こんな本音を読むのも、楽しいことである。
第一句集『蕨手』の序文で藤田湘子が、彼女を評して「抒情の詩から、認識の詩」への指向を指摘しているのだから、抒情句が少ないのも、仕方ないことである。
この後の文章に彼女は次のように書く。

<結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の言葉としていかに機能よく働かせるかという興味である。
俳句の場で言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。
だが作品をなすにはまず何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。>

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2004/02/05のBlog  

俳人・飯島晴子のこと(8) 生地・富野荘村長池・・・・・・・・・・木村草弥

飯島晴子のエッセイ集『葛の花』を読み出すと、面白くて途中で止められない。その中に「私の住んだ家」という文章がある。
少し引用してみよう。

<私の生れた家は、京都と奈良を結ぶ街道の中間、京都府富野荘村長池という農村の、藁葺屋根の百姓家であった。
私の生れる大分前に亡くなった祖父は上昇志向の強い人であったらしく、中年からは百姓仕事は人にまかせて金貸しなどしていたらしい。
---祖父は財を殖やすだけでなく、子女の教育にも熱心であった。
しかし結果からすれば、私の父も学校など行かず生れた家で農業を継いで役場にでも勤めた方が安穏な人生ではあった。
どちらにしても今は、生れた土地の土に眠っている。
田舎に住むつもりのない父母は、私の物心つく頃は京都市内に住んで、父は貿易商を始めていた。
---戦時体制に入った日本で、贅沢な雑貨の輸入などできるわけがなく、父は失意のうちに商売を止め、金閣寺に近い寓居で亡くなった。
それからの母と私は西宮市で罹災し、墓だけの残っている生地、富野荘村へ疎開し終戦を迎えた。
一年後、左右違う履物を履いて戦地から夫が帰って来た。更に一年後、赤ん坊の長女を抱いて鵠沼へ引越した。
海のすぐそばの松林の中の県営住宅であった。鵠沼時代に藤沢馬酔木句会で俳句とめぐり会った。--->

先の私の文章にも書いたが、これを読むと、子供の頃だけでなく、終戦前後にも彼女一家は富野荘村長池に生活していたわけで、
そんな生活の中で、先の「夫婦」というエッセイに描写されるような、「芳香園」の北村氏一家との濃い交流があつたのである。
ここに引用した部分の他に京都市内の住いのことなども、まざまざと当時の状態が目に浮かぶように書かれている。
エッセイの妙手と評されるだけの見事な文章である。
富野荘村長池(城陽市長池)は古くは、奈良朝時代から、山城盆地を貫く街道が通じ、ちょうど京都と奈良を結ぶ中間の宿場町として「五里五里の里」と呼ばれ、
商人の町としても発達していた土地である。
昔は、特に江戸時代は町人や百姓が徒党を組むのを防ぐために連帯責任の五人組に組織され、それ以外に許されるのは、神仏の講(伊勢講など)だけであった。
だから、物見遊山も兼ねて、伊勢参りが盛んで、そんな伊勢参りの連中の宿として「松屋」があった。
宿札などの資料も残るが、明治以後、松屋は和菓子屋に転業し、今日に至っている。
因みに、茶問屋「芳香園」は松屋の隣で、旧奈良街道に面している。

  
島本融の詩と句・・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
午後のメニスカス

2007/02/20のBlog

──島本融の詩と句──「春昼冬夜譜」抄─(2)

hingisヒンギス

 春寒のややヒンギスのいかり肩・・・・・・・・・・・・・・・島本融

この句の詠まれたのは、いつかは判らないが、つい最近、東レ・パンパシフィック・オープンテニス大会でヒンギスが、アナ・イワノビッチを破り優勝した。
女の魅力としてはシャラポワがロシア美人の典型のようで頭抜けているが、ここは氏の句のことであるから、時事性もあるものとして掲出しておく。
ヒンギスの「いかり肩」というのは、スポーツに疎い私でも感じることである。
何でも句の題材にしてしまう氏の力量に脱帽である。

彫り深く残夏女身の肩甲骨・・・・・・・・・・・・・・・島本融

 諍いを息みて柚子湯にめをとかな

 時雨来てここも野ずえに六地蔵

 春いくたびすこやかのとき病めるとき

 おんな坂すがるるままに萩桔梗

 被昇天ネウマ音譜の浮き沈み

 春愁や童女妖しき逢う魔時

kuroageha-omoteクロアゲハ雌

黒揚羽なつきしような別れよう・・・・・・・・・・・・・・・島本融

 あなたと切れたあの宵晩霜注意報

 傲りつつ女身の背なの夏消ゆる

 なめくじの軌跡あらわにひたむきに

 あの帽子セピアの夏に消えたまま

 内視鏡残夏の旅でどうでした?

 ヴェガならでおぼつかなげの流れ星

meigetu.jpg

満月がよごれて揚がるビル狭間・・・・・・・・・・・・・・・島本融

 新涼のアウラほのかに猫眠る

 すべりやすきひとを庇いてあじさい寺

 夜すすぎを已みて隣人くつろぎし

 切り口というもの蒼し弥生尽

 縁台で臨死を語る人もいて

 ケータイで神輿同士のゆずり合い

 初詣宮司かなしきふけぐあい

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島本融氏の句を二回に分けて載せてみた。
なにぶん数多くの作品の中から、ザッと見ての抄出であり、見落としも多いかも知れない。私好みの句の抄出になった。
見直して、改めて採りたいものは追加したい。


氏には、句集『午後のメニスカス』があり、Web上の私のHPでご覧いただける。
島本融氏は、未知の人であったが、偶然に私のHPを見た、と言ってメールを送って来られて交友するようになった。本人は何も仰言らないが、検索してみて、氏が河井酔茗、島本久恵氏のご次男であること、群馬県立女子大学教授であられたこと、東京工芸大学のことなどが、サーフィンの結果判った。美学者であられる。
島本氏には先年上梓された歌集『アルカディアの墓碑』もある。
氏のホームページは、こちらである。
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2007/02/18のBlog
島本融の詩と句──「春昼冬夜譜」抄─(1)

senbon千本鳥居

初午や鳥居よろしきかしぎよう・・・・・・・・・・・・・・・島本融

この句は島本融氏の「春昼冬夜譜」と題する数百句に及ぶ作品の中から引いたものである。
「初午」については言うまでもないが、今年の場合2月5日だった。二月の最初の午の日を初午と言い、お稲荷さんの祭礼が行われる。稲荷の縁日となったのは、伏見稲荷大社の祭神が稲荷山三ケ峰に降臨したのが、和銅4年2月11日で初午だったからという。
写真①は千本鳥居というもので、この密集した光景は、壮観である。
中には、「傾(かし)いで」いる鳥居もあり、掲出句は、その様子をユーモアたっぷりに詠んでいる。
なお、氏の俳句は「新かなづかい」で作られているので、念のため。
ここでは、出来るだけ多くの氏の作品を引いておきたい。

 人日を発ち行く黴の解脱かな

 からみ餅ふるまいたまう友の妻

 庚申に牧のマリアに片時雨

oni大津絵鬼の寒念仏

廃材にまぎれ大津絵逝きし春・・・・・・・・・・・・・・・島本融

「大津絵」に関しては解説は不要だろう。図版②は「鬼の寒念仏」という伝統的な大津絵である。

 はるうらら邪鬼がねむたい京都奈良

 ファインダーに他生のえにし京は秋

 皿割って叱る人なし秋の暮れ

 みじか日や山越え阿弥陀旅支度

 小春日や聞こえずなりしトカトントン

sperm_16024523精子

えらばるる精子に孤愁栗は花・・・・・・・・・・・・・・・島本融

 啓蟄だサチュロスなども跳ねまわれ

 おぼろ月廃線軌条啣筒小屋

 はすかいに姉三六角ほととぎす

 静脈に顕つ子淡い子おぼろ月

 退色のプリントいつの残夏光

 副乳とためらい傷ところもがえ

image生足

春雷やなまあしあまた下校どき・・・・・・・・・・・・・島本融

 花まんだら描かばや童女熟るるころ

 山下白雨凱晴シチリア山上町

 フラクタルに揺らぎは見えで羊歯に夏

 山椒の棘も乳房も芽生えどき

 ほうやれほ生あるものは歩むべし

azuma8アズマヒキガエル

おどろいて喃語対峙のガマガエル・・・・・・・・・・・・・・・島本融

 彼岸花忉利天ではなんという

 弔うならば蝕の燭の灯わが葉月

 秋水の銘も女身もけざやかに

 春寒のくらき裸像の無言館
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島本融氏は美学者でいらっしゃるから、句作りにも「教養主義的な」ものが反映する。
ここに引用した終りから4句目の
<忉利天>は「トウリ」天と訓むが、この字(リッシン扁に刀)はJIS第二水準の字で、以前はコンピュータ上に表示できなかった。今では或る設定をすれば表示できるようになった。私もソフトのメカには弱いが、「Unicode(UTF-8)」というのがあり、私のパソコンは、それを設定してあるので、こんな難しい「表外漢字」も画面上に出て来る。
島本先生のパソコンの設定、というか「HP作成ソフト」が、それに対応していないらしく、今回の「春昼冬夜譜」についても、先生と私との間で何回かメールのやりとりをした。
さて、この<忉利天>という見慣れない言葉だが、お釈迦さまと生母・摩耶夫人とに関わる「仏教説話」が出典である。ネット上でも見られるが、お釈迦さまが入滅されたとき、摩耶夫人が<トウリ天>から下りてきて、激しく悲嘆に暮れられた。それを見た釈迦が摩耶夫人を諌めた、というくだりが説話にある。
また島本先生のメールによると

<弟子どもが講義中に居眠りをするので釈迦がむかっ腹を立てて、われわれとちがうのは家に帰ってしまうのでなくて、(ついでだから?)天へ上って麻耶夫人の追悼演説をやった、それがトウ利天のどこやらの辻で、清涼寺式釈迦像はその姿を模したのだとか、どこかにくだらないことが書いてあったのを思い出します。>

とある。釈迦入滅に関しては、いろいろの説話が伝わっており<兜率天>(トソツテン)という天上の世界もあるらしい。
とにかく、そんな具合で先生のHPでは「トウリ天」という変な表示になっていて、先生も「漢字で書きたかった」とあとがきでお書きなので、せめて、表示できる私のページでは直しておきたいと思った。
なお、2月15日は、お釈迦さまの入滅された日で、仏教の世界では、あちこちで行事が行われるが、「涅槃会」については、ここを見られるとよい。
奈良国立博物館には「釈迦入滅図」というのが所蔵されているという。
以上、蛇足である。
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2004/11/01のBlog

──島本融の詩と句──(1)

 天動説の夏・・・・・・・・・・・・・島本融

 Ⅰ
降っているなにせの千枚田はどうなった
イベント片付けてひきずって
幟のロゴは Ohne Mondlicht Kafer Wandert だったか
何だったか

ウルトビーズ俺はテレビで眺めて
漁師村の外典も私物化しなかった
コクトーさん嘘でほんとを挑発しましたか

イベント引きずって
梅雨どきの無為はいけません
月が鏡であったならあなたさぞかしうざったい
いえいえまあ 仕事に出るとこではありますけど

 Ⅱ
巨大な櫛と思ったが廃屋だった
人という 火という気配は

実りのうすい秋と幟が野面をこすってゆく
 が
人という体臭は 火という体温は
格子からのぞいて畏れて待っているが返事は来ない

わわけさがって抜け毛のように
モンス・デジデーリョばりの柱廊に
蔓草というには遺骸めいたものがしがみついて

私は目をそらして空をさがした
やがて枯葉色の虹がかかって
近親婚でさびれた聚落の
貴族の裔はいつまでたっても不在だった

 Ⅲ
高名な物理学者で
Bクラスの美術史屋ではない
校了になって三校目、念校取ったのがおととい

俺はもうそしらぬ顔してフェルメールなど見に行った

まあ誤解というのも解釈のうちではありまして
したり顔して俺は
市民講座なんかでいつかしゃべっていた

 Ⅳ
みやこの蝉はペダンティックで
festina lente と啼くそうな
蝉のイントネーションすこし無理でないかい
と思ったが
内科医と変換になった時点で考える

アスクレピオス故地で松籟も蝉も聴いたような
バスは何分遅れだろうと思ったら
夕づつに砂塵を巻きあげて
さだかにクテルは走ってきた

帰国したらまもなく年金生活だ
いまはちょっと耳鳴りふうで
うちでも festina lente と泣きはじめる

 Ⅴ
朝ではなくて薄明の宵というべきか。この寂寞を思う
ものでなくて未来は語れない。

想うならば夕べみちのべの陽射しのアタラクシア、
行くならばかわたれどきの地平をすかし見て、
背伸びの胎児のごとく呼吸を始めよう。

やがて人々が集ってくるそして
ひとつの死を確認する。

あたらしい呼吸の息吹きをひとは、
もう識別することはない。

ひとびとの追憶からとても
とても遠いところで私は、
ときどき朝とも夕べともつかないこの光を、
とても遠い陽射しのように思い浮かべることはあるか
もしれない。

うすれゆく意識のなかにたぶんこの世最期の悟性は、
そう思って途絶える、そして・・・・・・

 Ⅵ
天動説を枉げぬ娘(こ)が居て夏合宿

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同人誌『浪曼群盗』51号・2004年秋季号から転載。
(おことわり)はじめから3行目の横文字Kafer の a の上にはドイツ語の記号・・が付くが、省略してある。日本語変換のワードプロセッサの所為で送信などすると削除されてしまうので、予め省略する。
作者にはおわびする。私のフランス語表記と同じことである。
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掲載しただけでは無責任なので、少し解説する。
島本融氏は美学者であるから、この詩のはしばしに教養が見え隠れする。
3行目のKaferの a の上にはドイツ語の記号「・・」ウムラウトが本来は付くことは先に書いたが、この一連のドイツ語は英語でいうと without moonlight beautiful girl wanderd となろうか。こうして見てみるとドイツ語と英語には名詞や動詞に同じ発生の語というのがあるのが、よく判る。mondlicht=moonlight 、 wander などが、それである。この部分を日本語に直せば、「月(の光) もないのに、きれいな若い娘はさまよう」あるいは「月の光がなくても若いきれいな娘はめだつ」というような意味になろうか。
とにかく「現代詩」というのは、文脈を「意味」で辿っては、イケナイ。ある「詩句」が、そこにオブジェのように在るだけで詩としての存在感を持っているのである。
も一つ横文字を解説しておく。Ⅳの2行目の festina lente というのはラテン語で「急いで!ゆっくり」の意味であり、これは一見して矛盾する言葉だと気づく。この矛盾した詩句が、とても成功している。
また、同じⅣのすぐ後の「ないかい」という語尾を受けて「内科医」という詩句があるのも、とてもシャレている。これはワープロをやる人なら、誰でも経験することで、こういう詩の表現に接すると、思わずニヤリとするのではないか。
そんなこんなで島本氏の、この詩は楽しく読ませていただいた。
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その後、島本氏からメールが来て、Kafer というのは作者の意図では「甲虫」の意味に使われたらしい。この言葉には私が解釈した「若いきれいな娘」の他に「甲虫」の意味もある。私は甲虫も確認したが、私は「娘」の方を採用したのだった。この辺のところが横文字の場合は、難しいところである。お許し願いたい。
なおドイツ語の「・・」ウムラウトを使わずに Kaefer と「ae」と表記することも可能のようである。ただし目下のところは「ae」は発音記号のようなものでドイツ語辞書にはKafer と載っているだけである。
いずれにしても一旦発表された作品は作者の意図を離れて「ひとり歩き」するので、いかように解釈されようと、それは、それで仕方のないことである。私の作品についても同じことは言える。

  
サンティアゴ巡礼紀行・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
サンチアゴ標識

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(1)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・・・・・・・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

 サンティアゴに掛ける私の想いについて
この旅は私にとっては、さまざまの想いが籠っている。
先ず、今年の三月なかばに亡くなったフランス文学者の畏友・田辺保が、1992年に翻訳したアルフォンス・デュプロン『サンティヤゴ巡礼の世界』(原書房)を呉れたこと。
その「偲ぶ会」が4月27日に京都で行われ、多くの同僚や弟子たちが彼の偉業を語った。同級生の国語学者の玉村文郎が旧制中学校の頃から知りあっていたことなど家族ぐるみでの親密な交友ぶりを語ったが、心のこもった佳い話だった。
そして私が何度も、このルートを旅行社に申し込んだが催行されなかったこと。
妻が死んで、その鎮魂のために、ぜひ行きたいと念願していたこと、などである。
今回の旅はスペイン、ポルトガルを周遊するもので、巡礼の道は駆け足の旅だったが、こういう機会に便乗しておかないと、このルートだけの旅は仲々行けないのだった。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ─日本語に訳せば「星の野原の聖ヤコブ」─
イベリア半島の西のはずれに位置する、この都市は、キリスト教の三大巡礼地の一つである。
キリストの直弟子・十二使徒のひとり「聖ヤコブ」──スペイン語では「サンティアゴ」と呼ぶ──の遺骸が眠る地である。最盛期には年間50万人もの人々が、ヨーロッパ中から、この地をめざした。
標題の「El Camino」とは「道」の意味である。「El」はスペイン語の「定冠詞」。
伝説によれば、スペインで布教した聖ヤコブはBC44年頃、エルサレムに戻って殉死した。が、その遺骸は舟に乗せられ、風まかせの漂流の末、スペインのガリシア地方に流れ着いたという。そして長い年月を経た9世紀のはじめになって、なんと、この地で聖ヤコブの墓が「発見」されたのだ。
当時イベリア半島の大半はムーア人──イスラム勢力に占拠されていたが、キリスト教世界は、この墓の発見によって俄然色めきたち、イスラム勢への「橋頭堡」を確保する「反攻」レコンキスタに立ち上がる契機となった。
以来、巡礼路はめざましい発展を遂げることとなった。

掲げた図版の説明を先にしておきたい。
図版①は、この巡礼道の要所要所に掲げられている標識である。
私が買ってきたものはマグネット付きになっているもの。

図版②が田辺たちが共同で翻訳し、田辺が監修したデュプロンの本である。
デュプロン本0001

今後、折に触れて、この本を引用することになる。
デュプロンはソルボンヌ大学名誉学長、高等研究学院長という経歴を持つ人であり、
この本も学術的な内容の本で万人向きのやさしい本ではない。

このルートについては日本でも本が出ていて読むことが出来る。

小谷明 粟津則雄『スペイン巡礼の道』(1985年新潮社とんぼの本)
檀ふみ他『サンティアゴ巡礼の道』(2002年新潮社とんぼの本)

などは写真が一杯で読みやすいものである。
数年前に全世界で1000万部も売れ、読書界で話題になったベストセラー小説『アルケミスト』の著者であるブラジル人作家パウロ・コエーリョと檀ふみとの道中記は面白い。
図版③は、この巡礼の道中に巡礼者がリュックなどにぶら下げる「目印」の「帆立貝」である。
サンチアゴほたて貝0001

これらの謂れについても聖地に辿りつく頃に詳しく書きたい。

こちらについては海外旅行に初めて行った時に、ヨーロッパ主要都市をハイライト的に廻るツアーでマドリッドとトレドに来たことがある。
第二回目は1990年一月はじめ、ポルトガルのリスボンに着き、シントラ、ロカ岬などを見物、リスボンに二泊した。後、バス移動でスペインのセビリヤに一泊、コルドバ一泊、グラナダ一泊のあと、ラ・マンチャを北上し、アランフェスの離宮を見たあとマドリッドに二泊し、トレドも見た後、空路バルセロナに至り二泊した。
このときはブッシュ父が起こした「湾岸戦争」前夜で、欧米の旅行者も少なく、普通なら食事のときのワイン、水など有料のものが、毎回無料でサービスされた。
経由地のイギリスのロンドンのヒースロー空港の手荷物検査などは厳重をきわめ、空港内移動でも100メートルごとに再検査されるような始末だった。
このときはサンティアゴなど北スペインはコースに無かったので、今回が初めてということになる。
スペイン、ポルトガルとも、その時とは道路が格段に整備されて時間的には半分で着ける状態であるが、その分、旅はあわただしく、せちがらく、余裕がない印象である。
書き遅れたが、私たちの旅の同行者は総勢29名で、利用する飛行機は関西空港発のKLMオランダ航空868便で飛行時間11時間で速い。アムステルダム・スキポール空港乗り継ぎでKL1705便でマドリッドに向かう。
ここアムスでEUに入国することになる。手荷物、身体検査は厳重で、私は肌着一枚まで脱がされる。
現地時間20:30マドリッド着。
明日以降、旅の行程ごとに書いてゆきたい。

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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道─(2)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ホテルコンベンション

旅はマドリッドから始まった(1)・・・プラド美術館
前回のときはマドリッドには丸一日いたが、今回は昼食後までの半日である。なんともあわただしい旅である。
この記事は日程を忠実に辿るとは限らないので念のため。
ホテル・コンベンシオンを出て、先ず最初に「プラド美術館」(写真①)に入る。
プラド

私たちの宿泊したホテルは、広大なレティーロ公園の東にあるが、この美術館も公園の西側に隣接して建っているのだった。
ここには前に二回来ているが、そのたびに整備されている。
入場は、写真の入口ではなく、昨年夏に拡張工事が完成した新館の入口から入る。
写真の「黒い掲示板」の矢印の方角に新館の入口がある。
プラド②

写真②が、その入口。ここには広いミュージアム・ショップもあり美術館関連のものが買える。私はカレンダーなどを買った。
目下、ゴヤ展の開催中のようであった。
ここの目玉は「エル・グレコ」「ゴヤ」「ベラスケス」の三人の画家の作品が見ものである。
グレコでは「胸に手を置く騎士」「受胎告知」「羊飼いの礼拝」などが有名。
ゴヤでは「裸のマハ」のシリーズ。「着衣のマハ」は外国へ貸し出し中で無かった。

ここで「裸のマハ」についての薀蓄を少し。
ゴヤは50歳にして「スペインの新しいヴィーナス」と謳われたアルバ公爵夫人との恋に落ちた。公爵夫人は惜しげもなくゴヤに裸身をさらして「裸のマハ」を描かせたが、スキャンダルを恐れたゴヤは、裸の夫人に服をまとわせた同構図で同寸法の作品を描いて、客が来るとこの「着衣のマハ」で「裸」を覆い隠したと伝えられる。
しかし、今日では、モデルは宰相マヌエル・ゴドイの愛人ペピータ・トゥドーであるとする説が有力で、このアルバ公爵夫人説を主張する人はほとんど居ない。
それは、これらの二点の「マハ」が1808年にゴドイのコレクションの中から発見され、しかも1800年にゴドイの邸で「裸のマハ」を見たという記録まで現れたからである。アルバ夫人は1802年に謎の急死を遂げているが、天衣無縫な性格の持ち主だったらしい。
一般にゴヤの肖像画は、モデルに対する画家の関心の強弱によって質を大きく異にする。「裸のマハ」のコケティッシュで挑発的な肢体と表情を見れば、ゴヤとこのモデルが特殊な関係にあったことは十分に察せられる。技法からみて「裸」は1795年頃に描かれたものと推定されるが、まさにその頃にゴヤと公爵夫人との愛は頂点に達していたのである。「マハ」をめぐる問題は、いまだすべてが解明された訳ではないのである。

「1808/5/3プリンシペ・ビオの丘での暗殺」の絵も有名で、ナポレオン軍に対する前日の蜂起と、翌日の市民殺害の絵は迫真的である。銃殺される恐怖におののく「手を上げた」犠牲になる市民兵の表情が印象的。
ベラスケスでは「ラス・メニーニャス」「マルガリータ皇女」などの作品が有名。
今回も現地ガイドが詳しい説明をしてくれた。
これらについては、一般的な美術書にも詳しく書いてある。
なお、中丸明『絵画で読む グレコのスペイン』(1999年新潮社刊)という本が独自の視点で、面白く書いている。一度トライしてみられよ。

なお今回は立ち寄らなかったが、プラド美術館から歩いても数分のところにある「国立ソフィア王妃芸術センター」には、ピカソの有名な「ゲルニカ」の絵が常設展示されている。現代アートの展示に特化している。ピカソ、ダリ、ミロなど。
ここは1992年に開設されたもので、私が前回来たときは他の場所で「ゲルニカ」を見た。

MUSEO del JAMON
昼前に美術館を出て、王宮近くの「MUSEO del JAMON」(写真③)(ムゼオ・デル・ハモンと発音する)というハム・ソーセージの専門店付属のレストランで昼食。
ハム屋①

メイン料理は「コシード」という豆と肉の煮込料理である。
イベリア半島では、日常の食事に「豆」をよく使う。
京都ならば「おばんざい」というところであろうか。
この店の内部には多くのハム、ソーセージの製品が天井に至るまで、ぎっしりと飾られて市民たちで満員であった。
ハム屋②

店内の写真を写真④に出しておく。
「イベリコ豚」という黒褐色の小型の豚がスペインの名産で、秋になって牧草が無くなると「ドングリ」の実を食べさせるという。
このイベリコ豚の「生ハム」というのは高価で、少し塩味が利いているが、おいしいものである。
ポルトガル国境の辺りが産地と聞いて、バスの車窓から、あれがイベリコ豚と添乗員が説明してくれた。
ハム屋③

写真⑤も同じ店内である。
何という名前の品物か私には判らない。
イベリコ豚についてネット上から引いておく。

イベリコ豚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イベリコ豚(イベリコぶた)とは、豚の一品種。スペイン西部地方のみで飼育されるイベリア種というスペイン原産の黒豚。黒い脚と爪をもつ傾向があり、スペイン語では「黒足の豚」(pata negra)と表現される。

以前はスペインでの豚コレラ流行の影響から日本への輸入が禁止されていたが2004年より輸入解禁となっている。

特色
肉質が良く脂身はさらりとして甘味があるのが特色。脂身には餌であるドングリ由来のオレイン酸を多く含む。この特色は餌や飼育法に拠るところが大きく品種的な特徴ではない。

脂肪分はいわゆる霜降り状に付いているがこの特色は飼育法と品種的な特徴の両方から成る。

飼育法
イベリコ豚は品種名であるだけではなく特別な飼育法で育てられる。最大の特徴は放牧を行うことである。

哺乳期間
誕生から2ヶ月までは母豚からの哺乳により飼育される。
予備飼育
離乳から体重が100kg前後になるまでの期間。樫やコルク樫の森で天然穀物飼料、牧草、種子、草の根を自由に食べさせる。
肥育期間
モンタネーラ(montanera)と呼ばれる放牧期間。
一般的には10月から翌年2月、3月まで続く。この間、イベリコ豚は自分でドングリ、牧草、球根植物、植物の根を食べる。放牧中に運動することによって脂肪分がいわゆる霜降り状に付く。
この時期ドングリの木の根を掘り起こさないように鼻輪をつける。こうすることで土を掘ろうとすると鼻輪がずれて痛くなるため豚は土を掘らなくなる。

ランキング
モンタネーラ後の肉質や増加体重によってイベリコ豚はランク付けされる。

ベジョータ(BELLOTA)
放牧期間前と比較して、50%以上の体重増があり、肉質がベジョータの基準をクリアしたもの。
レセボ(RECEBO)
肉質がベジョータの基準をクリアできなかったものや、体重増が50%未満であり、モンタネーラ後も引き続き自然餌を加えた人工飼料を与え、体重を増加させたもの。
セボ(CEBO)
穀物飼料だけで肥育されたもの。
ピエンソ(PIENCO)とも呼ばれる。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(3)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

マドリッド(2)・・・王宮とスペイン広場
昼食後の自由時間を利用して「王宮」の写真などを撮りにゆく。
写真①が王宮である。
王宮

国王は、ここには住んでいない。
今の国王はフランコ独裁政権が無くなってから王制に復帰して「国家元首」になられたのだが、平素は質素な生活をされており、別の場所で静かに暮しておられるという。
前回来たときは王宮の中にも入り自由に見学したが、大広間なども何もなくがらんとした単純な広い空間だった。今は内部に入れるのか、調度品や装飾なども追加されたか、など判らない。
王宮前の広場にはたくさんの椅子が用意され、軍隊か何かの軍楽隊が演奏の用意をしていた。
撮ってきた写真もあるが省略する。
王宮の前庭に隣接するのが「スペイン広場」である。
スペイン広場の名前のつくものは各地にあるが、ここマドリッドにあるのが、その本家である。
ここにはスペインの誇る物語作家・セルバンテスの大きな坐像と、その物語・ドンキホーテと従者・サンチョ・パンサの像がある。写真②がそれ。
セルバンテスほか

像の背後に大きなビルが写るが「スペインビル」と称されるもの。最近のものではなく、いつのものかは知らぬが、20年まえからあった。
この広場の別の一角には、これもスペインの誇りとする「ゴヤ」の銅像が建っている。
ゴヤ像

写真③がそれ。

今回のマドリッド観光は、これでおしまいである。

マドリッド観光としては、マドリッドを東西に貫く大通り「グラン・ヴイア」を欠くことは出来ないだろう。
また「マヨール広場」という市民生活の舞台となったところなども見ておく必要がある。ここは1619年に5階建ての集合住宅に囲まれた広場として建設。南北94m、東西122mの広場では、かつて王室の儀式や祭り、闘牛などのイベントなどだけではなく、異端者の焚刑なども行われたという。今の建物は三度の火災を経て、1853年に四階建てとして建てられたもの。回廊ふうの建物の一回にはみやげ物屋や飲食店などがあり、ここの散策も趣きがある。
前回にはゆっくりと堪能した。
添乗員大橋と某

写真④に掲げるのが、添乗員・大橋さんと、現地ガイドの男性・某である。弁舌さわやかで、プラド美術館の解説も懇切丁寧を極めていた。
写真を掲げて、感謝の意を表するものである。
大橋さんは英語とスペイン語に堪能で、添乗員としての世話もこまめな人で、旅行者には大変評判いいらしく、海外添乗は年間280日
くらいはあると言い、一年の大半は海外に居ることになる。

私たちは、マドリッドを出て、一路、郊外の「セゴビア」に向かう。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(4)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セゴビア・・・ディズニー「白雪姫」の構想のモデル
マドリッドから峠を越えると一時間ほどで郊外の「セゴビア」に着く。
ここは海抜1000メートルあるというが、マドリッドがすでに海抜数百メートルの高地にあるから、峠をひとつ越えたところである。現在は高速道路で楽々と到着するが、前は、くねった道がひとつで、前回行ったときは冬で雪が積もっていて交通停滞で難儀したことを憶えている。

セゴビア・サン・エステバン教会

写真①は「サン・エステバン教会」で、この近くにバスを停めて、あとは徒歩である。この教会は外観のみだが、13世紀に建てられた後期ロマネスク様式。高さ63メートル、六層に積み上げられた鐘楼が有名で「ビザンチン様式の塔の女王」と称されるという。回廊との調和も美しい。
写真②はセゴビアの「カテドラル」。
セゴビア・カテドラル

二つの川──エレスマ川とクラモレス川に挟まれた高台のセゴビアの町は、一見して「トレド」とそっくりの形をなしていて、三方を川が防御する天然の要害となっているところ。現地ガイドも、そのような説明をした。
その町の中に、このカテドラルはある。
ゴシック様式のカテドラルとしては最も新しく、18世紀後半に完成した。
内部に入って、たくさん写真を撮ったが、高いところにあるステンドグラスなどは鮮明に撮れなかった。
ここで「カテドラル」という呼び方について、一言ご注意を申し上げておく。
「カテドラル」というのは、単に大きな立派な寺院を言うのではなく、カトリック寺院の中でも「主教座」として、管区を統べる「主教」さんが駐在した寺院に限って称することが出来るのである。
それ以外の寺院は、たとえ大きくも「バジリカ」のように呼ぶのが正式であるから、念のため。
これはカトリックのみの呼称であって、新教(プロテスタント)には、こういう呼び方はない。ガイドなんかでも出鱈目な説明をする人が居る。

ウオルト・ディズニーの映画「白雪姫」モデルのアルカサール
写真③がそれである。
セゴビア・アルカサール

前回はここにも立ち寄ったが、今回は、ここをよく見はらせる丘から「遠望」するだけであった。
何とも、つまらない、あわだたしさである。
この城はディズニーの構想のモデルになったというだけで、このお城の話ではないから念のため。
なお「アルカサール」とは「城砦」の意味であり、英語のキャッスルと語源を同じくするもの。
ここセゴビアのアルカサールは、切り立った崖の上に建つ優雅な古城。
12世紀にアルフォンソ8世が築城して以来、増改築を繰り返し、1940年に現在の姿に。
展望台からは市街を一望できる。

セゴビアのローマ水道橋
あちこちに水道橋はあるけれど、ここほど完全に大きく残っているのは数少ない。
世界遺産に指定されている。1世紀後半に建てられたもので、全長728m、最も高い部分はアソゲホ広場横で約29mある。
セゴビア水道橋

私の撮った写真の左端に少し写っているが、メリーゴーラウンドなども設置されていて遊園地気分になる。
接合剤を一切使わず、花崗岩のブロックを積み上げるだけで造られた、二段式の巨大な遺跡だ。
以前は他の地点にバスを停めて見物したが、車の振動などで橋が傷むというので、今は近くには車で行くことを禁止している。

セゴビアを出て、一路、今夜宿泊のホテル、「コルテス・デ・レオン」に向かう。写真⑤がそのホテル。
ホテル・コルテス・で・レオン

市街地ではなく、郊外の国道沿いにある。市街地にないので夜の外出も出来ないので、気を利かしたのかワインや水などが無料でテーブルに置かれる。みんなご機嫌で酔っ払う。
大きいのでホテルの名前の前の部分が、ちょん切れてしまった。
なかなかいいホテル。

このレオンの町の辺りから、いよいよ「サンティアゴ」への巡礼路が始まる。
この途上の路傍の原っぱには、ところどころ「ヒナゲシ」が群落を作って咲いていた。
日本では栽培種の色とりどりのポピーがあるが、ヨーロッパの原野に咲くのは、もっぱら濃い朱色の花である。
よく知られているが、与謝野晶子の歌

ああ皐月仏蘭西(フランス)の野は火の色す君は雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)

のようにフランス語では、この花を「コクリコ」と呼ぶ。スベイン語では「アマポーラ」と呼ぶ。
アマポーラという題名の歌がいくつかあり、よく知られている。

セゴビア→レオン間約400㎞。
近道をしようとバスの運転手が脇道に入るが、高速道路に入る入口を見失い、また道を戻り時間を空費する。この辺のところが、いかにもスペイン人らしい。
こういう経験は、前に私が来たときにもあって、ポルトガルからスペインに入る道を見失い、運転手が路傍の人に道を聞く、ということがあった。
スペイン人に限らず、こちらの運転手は事前に地図で確認するということをしない。
昔、イギリスのスコットランドのエジンバラ郊外でも、運転手が道に迷って土地の人に聞くというハプニングがあった。いずれも日本とは、国民性の違いである。
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遍路道標識


サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(5)・・・木村草弥
 El Camino de Santiago de Compostela・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)

レコンキスタ発祥の地・・・・・オビエド
このレオンの街について書く前に写真①の道路標識を見てもらいたい。
オビエドの標識

オビエドは、今の巡礼路の主流からは逸れるけれども、かつては重要な役割を果たして来た。
このレオンから北へ逸れる。
北はカンタブリア海、南はタブリカ山脈に面したアストゥリアス地方の中心都市。8~10世紀には、レオンに遷都されるまでアストゥリアス王国の首都としての役割を果たした。この地方はレコンキスタ発祥の地としても有名で、中でもオビエドは、その中心であったから、サンタ・マリア・デル・ナランコ教会など、その時代に建てられた特有の建築様式をもつ周辺の建物とともに、街自体も世界遺産に登録されている。

かつてのレオン王国の首都・・・レオンはサンティアゴ巡礼路の半ば・・・レオン(1)
レオンはローマ遺跡の上に築かれた。かつてのレオン王国の首都。
ここレオンからサンティアゴまで残り336㎞と巡礼の本には書いてある。行程の半ば過ぎというところであろうか。
この街の見学は中心部のサント・ドミンゴ広場から始まった。
この広場に面して、アントニオ・ガウディが1892~93年に建てたカサ・デ・ボティネスという建物がある。現在は銀行として使われているが尖塔などにガウディらしい特徴が表われている。
写真②がそれ。
ガウディの建てた建物0001

建物の前にはガウディがベンチに座っているオブジェがある(写真③)。
ガウディの像

レグラ広場に面して建つカテドラルは13~14世紀に建てられたものである。
巡礼たちは、正面扉口中央に立つ白いサンタ・マリアの像に癒される。
カトリック圏では、いたるところに聖母マリアが居るが、特に、ここスペインは「マリア信仰」が盛んであることで有名。
この像は「白いヴアージン」と呼ばれている。
写真④にレオンのカテドラルを掲げておく。
レオン・カテドラル

街の中心部にあるカテドラル──大聖堂は、スペイン国内でも最も純粋なゴシック建築のひとつ。堂内のステンドグラスは圧巻である。私も何枚も写真に撮ったが、窓は高く、堂内は薄暗いので鮮明なものは撮れなかったので省略する。
一番はじめの回に書いた、檀ふみ他の『サンティアゴ巡礼の道』には野中昭夫撮影による鮮明な写真がある。
写真⑤に先に書いた「白いヴァージン」──正面ファッサードに立つサンタ・マリアの写真を掲げておく。
FI2618780_5E.jpg

この円柱には巡礼者たちがキスをしたり、帆立貝をこすりつけたり・・・・というわけで、無数の傷跡が残っている。道中の安全を願い、マリア像に祈りを捧げていくのだった。
ここを出て数キロ先の丘の上から振り返ると、眼下に大都市レオンの町並みが望めるという。

その前われわれはカテドラルから程近い同じく旧市街にある「聖イシドロ」教会を見学。

われわれは行かなかったが、巡礼者たちは病に冒されたりしてベルネスガ川沿いにあるサン・マルコス救護院に向かっただろう。川沿いに教会、女子修道院を連ねた、その建物は壮大なルネッサンス様式のファサードを持つもので、救護を乞う巡礼者たちには、さぞ頼もしい存在だったろう。
現在は、世界に誇る、教会、博物館つきの豪華なパラドールとなっているのは何とも皮肉なことである。
川に架かるベルネスガ橋を渡って巡礼者たちが向かうのは次のアストルガである。
レオンの街は現在、人口13万人余の中核都市としてある。

私の記事は、レオン(2)につづく。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(6)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

レオン(2)・・・・・サン・イシドロ教会の穹窿天井画
写真①にサン・イシドロ教会の見事な前室を荘厳するロマネスクの穹窿天井画を見つけたので掲出しておく。ただし私の撮ったものではない。
レオン・サンイシドロ教会梁

このところは王や王妃の墓室だが、そこに描かれている彩色画は「サン・イシドロの魂が燃えている」と評した人があるらしい。12世紀頃の中世人の理解したキリスト信仰の物語である。

レオン・・・・遍路宿
写真②はレオンに辿りついた巡礼者たちが、格安の実費で泊れる、いわゆる「遍路宿」と呼べるものである。
レオン・巡礼者宿

この建物には「SANTA MARIA DE CARBAJAL」と書かれている。
CARBAJALの意味が判らないが、さすがにSANTA MARIA と謳ってあるところが巡礼者にとっての「避難所」という感じがする。
ここを曲がって中庭のようになったところの二階の通ずる階段に人々が列を作って並んでいた。この中庭の周囲に遍路の泊まる部屋があるようであった。
その写真③を出す。
レオン・巡礼者宿予約の順を待つ人

巡礼の旅で疲れた身体を、こうした立派な施設で一夜か二夜か知らないが、休めるというのは幸運だろう。だから午前中から、こうして順番を待つのである。
この列の中ほどに居る人が東京から遍路に来ているという「萩原さん」とか聞いた。
みんな口々に声をかけて話しを聞いていたようである。
遍路をする人には、そんなに高齢の人は居なくて、せいぜい60代前半のようであった。誰かが外人の年齢を聞いて、たしか60歳とかいう返事が聞こえたので、私が進み出て、自分の鼻を指さしながら「I am 78years old」と言うと、おう、というような返事が返ってきて、私は、その外人と握手した。それは階段の人につづいて、下に列を作っていた人たちである。
レオン・巡礼者スタンプ

その際にガイドが、巡礼の「スタンプ帖」を見せてくれと頼んで、巡礼者の誰かが開いて見せてくれたのが写真④である。
四国遍路の集印帖とは、また違って、これはこれで色とりどりの美しい集印帖であった。
因みに、遍路の資料によると、これらの集印は「歩き遍路」で100㎞、「自転車を使った遍路」で200㎞の距離があれば、終着点のサンティアゴで証明書を呉れる、ということである。
見せてもらったスタンプ帖には、ほぼ30を越す印が押されているようであった。

なお、巡礼路にはイタリアから来るルート。
フランスからビレネーを越えて来るルートがある。いずれも千数百キロメートルあろうか。
全部を歩き通す人も多いらしい。

帆立貝の案内標識
レオンの街の舗道や石畳には、写真⑤のような「帆立貝」の標識が埋められていて、これを辿るとサン・イシドロ教会やカテドラルに行けるようになっている。
レオン・巡礼路の舗道の標識

写真の標識は「真鍮製」のようで、人の靴で踏まれて、ピカピカに光っていた。
街中は、人に聞けるからよいが、田舎に出ると、在来の「遍路道」が高速道路で分断されたりして判りにくいので、さまざまの標識が立てられている。
それらは後日お見せしたい。

レオンの観光を終って、カテドラル近くの、その名も「バール・レストラン・カテドラル」というところで「ガリシア風たこ料理」なるものを昼食に食べる。




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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(7)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ルーゴ・・・・・ローマ時代の城壁の旧市街
レオンからサンティアゴに行く前に「ルーゴ」Lugo の街に寄る。
ルーゴ城壁

ルーゴ城壁0001

地図を見ると、レオンから300㎞くらいありそうで、もう「ガリシア地方」に入っている。
持参したガイドブックによると、ここは2000年に世界遺産に登録されたという記事はあるが、肝心の街の項目は全く載せていない。写真①が、その城壁で、街をぐるりと囲んでいる。この城壁の中が旧市街で、城壁に隣接する商店などは、この城壁をうまく壁に取り込んで建てている。ここでは教会にも入ったので、その写真もあり、またバスの乗り降りをした広い「バスターミナル」があり、この地方の田舎へ行く発着点らしかった。ここでトイレなどを借りたが省略する。
ここを出たあとは一路、サンティアゴへ向かう。

遍路道標識

サンティアゴ巡礼路の標識
サンティアゴに近づくにつれて、通過する道路ぎわに、写真②のような標識──特に、放射状の図案の「帆立貝」を模した標識が巡礼路を示して立っている。
私が、この紀行文の一番はじめのところに載せた標識である。
先にも書いた通り、巡礼路は、高速道路などの建設により分断されており、それらとの分岐点に立てられるのが多いようだ。
これらの様子は、日本の四国遍路と似ていると言える。
この辺りは山越えの地域に入ったようで、険しくはないが、山地で、平野の景色とは一変する。

なぜ人々は歩くのか?
それは、ここサンティアゴ・デ・コンポステーラにおいては敬虔なキリスト者としての祈りが基底としてあろうが、洋の東西を問わず、現代人にとっては、そういう信仰心、宗教心ばかりとは言えないだろう。
檀ふみの『サンティアゴ巡礼の道』の中で、彼女と同行したブラジル人作家パウロ・コエーリョは

<巡礼とは、生まれ変わること。今までの自分を捨てることなんだ。
 この道を歩いて、あなたもまた、新しい自分を見つけてほしい>

と言う。コエーリョには『星の巡礼』という本もある。この本こそ、彼の作家デビューを果たしたものである。

同じような「問いかけ」を日本でもするのである。
私の尊敬する短歌の先生である玉井清弘氏が昨年ご自身の「四国歩き遍路」のことを書いた『時計回りの遊行─歌人のゆく四国遍路』(本阿弥書店刊)(原文は「四国新聞」に週一回、平成17年1月~18年12月に連載されたもの)を上梓されたが、その中でも同様のことを書いておられる。

<なぜ遍路に出ようとしたのか、・・・・・歩くことによって自分の中にどのような想念が去来するのか見つめたい思いが強まっていた。・・・・・老いの入り口を迎えて、じっくりと自己と向き合ってみたかったのである。>

巡礼姿の聖ヤコブ

写真③は、アストルガの南、サンタ・マルタ・デ・テーラ聖堂南入口に立つ「巡礼姿の聖ヤコブ」(1129年頃)の像である。「帆立貝」の模様も見られる。

なぜ「帆立貝」なのか?
ものの本によると、ヤコブの遺体とともにスペインのガリシア海岸に漂着した弟子たちが「男の幻影を見た。男は波間から馬に乗って現れ、全身はびっしりとホタテ貝に覆われていた」からという。
しかし、巡礼のシンボルとして、帆立貝は美しいし、よく目立つ。
昔は、つば広の帽子に、長いマント、そして水筒がわりのヒョウタンが結ばれた杖。マントの肩口に、白い帆立貝が揺れていれば、それはサンティアゴへ向かう巡礼を現し、いわば制服であった。
今も巡礼たちは帆立貝を身につけている。リュックにくくりつけたり、首からぶら下げたりしている。
フランスでは帆立貝料理のことを「コキーユ・ド・サン・ジャック」と呼ぶのも、これに因んでいるのである。
聖ヤコブは、また、「サンティアゴ・マタモロス(ムーア人殺しの聖ヤコブ)」という物騒な異名を持つが、これは844年、クラビーホでのイスラム教徒との死闘を繰り広げていたとき、白馬に乗ったサンティアゴが忽然と現れキリスト教軍を勝利に導いたという伝説があるからである。

歓喜の丘・・・・・ゴゾの丘から夕陽のサンティアゴを望む
長いバスの旅の後、ようやくサンティアゴの街と聖堂の三本の尖塔を望む「ゴゾの丘」に立つ。ここは長旅をしてきた巡礼者たちが、ようやく辿り着いたかと、「歓喜の涙」にくれたということから「歓喜の丘」と呼ばれている。
ゴゾの丘

ゴゾの丘0001

私たちの着いたときもサマータイムを採用しているとは言え、スペインの西の端とは言え、さすがに西日も傾いて夕陽になっていた。
遠望するサンティアゴの街も、夕陽の中にあった。
丘の上に建つ銅像には、二人の巡礼者が、先に書いたような伝統的な遍路衣装に身
を包み、右手をあげて、サンティアゴの聖堂に向かって、まさに「ついに着いた」という
歓喜の姿が刻まれている。
写真④に掲げた標識には「MONTE DO GOZO」と書かれている。
私の想像では、この丘に立つと、直下にサンティアゴの街が見えるのかと思っていたが、実際には、街はまだ遥か彼方である。
しかし、長旅をしてきた巡礼者にとっては、そんなことは、とりたてて遠くはなく、まぢかの風景なのであったろう。

今夜はサンティアゴのホテル・コングレソ泊りで、いよいよ明日はサンティアゴ大聖堂を見学することになる。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(8)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(1)
私たちの着いた日は5月13日であり、この日は「ファティマの聖母」の日として、ポルトガルから参詣団が来ているとかで大変混んでいた。
サンチァゴ正面

ファティマの聖母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファティマの聖母(Fátima)は、カトリック教会が公認している、ポルトガルの小さな町ファティマでの聖母の出現譚の一つ。

概要
1916年春頃、「平和の天使」と名乗る少年がファティマに住む3人の子供(ルシア、ジャシンタ、フランシスコ)の前に現れ、祈りのことばと額が地につくように身をかがめる祈り方を教えた。その後も天使の訪問は続いた。

1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に謎の婦人が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。子供たちは様々な妨害にあいながらも聖母マリアと名乗る婦人に会い続け、婦人から様々なメッセージを託された。

婦人からのメッセージは大きく3つあった。

①悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。ここには、悪魔の所作が働いている。対処は悪魔払い参照。
②人類の危機:全人類の大半を数分のうちに滅ぼす武器が戦争で使用されることによって、人類が瞬時に滅ぼされる可能性の伝達
③教皇暗殺の危機:1981年5月13日の事件をヨハネ・パウロ2世は、東欧の政権による暗殺未遂と発表している
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写真②が、ポルトガルのファティマから来た少年少女を主体とする参詣団である。みな赤い上っぱりやネッカチーフをしている。
サンチァゴ信者

礼拝が始まると、彼らは内陣で祝福を受けていた。
私たちも聖堂の中に入り、ごったがえす人並みにもまれながら、内陣奥に鎮座する本尊の「サンティアゴ」像の裏側に廻り、像に触れて祝福と加護を願ったものである。
本尊の写真などは、後で掲出する。
サンチァゴ・ヤコブの柱

栄光の門──サンティアゴが座る大理石の円柱
写真③がそれである。
ここについた巡礼者は、はるばると旅してきた苦労を思い出し、万感の想いをこめて、この柱の下部の聖ヤコブの「顔」に右手をつき、下の怪物の開く口(写真④)に左手を差し入れて感慨にひたる、というのが解説書の常識だったが、つい先月から、その基礎部分は太い鉄柵で厳重にガードされ、触れないようになっていた。
傷みがひどいのであろう。
聖堂と言えども、押し寄せる人並みには勝てないのである。
この写真は、私が鉄柵の隙間からカメラを差し込んで撮ったもので、写真の脇に太い鉄柵が見えるだろう。
サンチァゴ・ヤコブの柱0001

7月25日がサンティアゴの祭日である。
大聖堂は信徒で埋まることであろう。カトリックの儀式は長年の伝統によって、華麗に、厳粛に、敬虔に演出されるから、さぞや見事なものであろう。
私たちも「ファティマの聖母」の日に遭遇して、それと同じような経験をさせてもらうことが出来たのであった。
その後、私たちは現地ガイドに導かれるままに、堂内を辿り、内陣奥に鎮座する本尊のサンティアゴ像(写真⑤)の裏側に廻り込み、
サンチアゴ本像0001

一人づつ狭いところを通ってサンティアゴ像の背中に触れ、キスをして、祝福と加護を願ったのであった。

一旦、集団行動としては解散したあと、ミサの時間に合わせて各自で、その様子を拝観することになる。
その様子などは、サンティアゴ・デ・コンポステーラ聖堂─(2)で詳しく書くことにする。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(9)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

サンティアゴ大聖堂(2)ファティマのミサ
自由行動から堂内に戻ってみると内陣の周りには十重二十重に人波が取り囲んでいた。
先に書いたようにポルトガルのファティマから来た少年少女の巡拝団の一行が内陣の柵内に案内されて、ミサの開始を待っていた。
FI2618785_1E.jpg

振られる香炉「ボタフメイロ」・・・迫力ある動画
内陣では僧侶が出てきて、祈りの言葉が朗々と唱えられる。
荘厳なミサのはじまりである。
式は進んで、巡拝の少年少女たちに「聖パン」が与えられる。
そして一般参拝者の中からも信徒たちが内陣に導かれ、同じく「聖パン」の授与を受けている。口を開いて、じかに舌の上に置いてもらう人、手に受けてから口に運ぶ人など、さまざまである。
私たちの同行者の中にもカトリック教徒の婦人が二人おられて内陣で祝福を受けておられた。

私が、ここで待ち構えているのは、振られる香炉「ボタフメイロ」Botafumeiroを見るためであった。
出来ればカメラに収めたいと思ったが、動きが速すぎて撮れなかった。

私が今回の旅で唯一、お名前、住所などを交わした高槻市のT・Fさんから香炉の静止画をメール送信していただいたのだが、ここに掲出するには不適当でやむなく見送った。T・Fさん、ごめんなさい。
代わりに現地で買ってきた写真集の中に載る香炉の写真を転載しておく。
煙も出ている写真である。
T・Fさんは、ここでの香炉の「動画」を見事に撮られたとのことであり、ぜひネット上の動画サイト「You Tube」などににアップしてほしい。そしたら、私は「リンク」で紹介させてもらうのだが。。。。

サンチアゴ香炉0001

(追記)この記事をご覧になったbittercup氏からコメントがあって、すでにYouTube ♪ボタフメイロの動画♪ が出ているというので、さっそく見てみた。



すごい迫力である。ぜひ皆さん、ご覧ください。
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今回の旅の食卓を共にした人のうち、インターネットなどの話から、私がBLOGをやっているという話の延長で、私の名刺を上げた人は何人か居るが、先方からは何のお知らせもないから、私には何も判らないのである。
サンティアゴへの観光客の写真を出しておく。
サンチァゴ観光客

彼らは私たちと同じように少し離れた駐車場から、ぞろぞろ歩いて道一杯になってやってくる。
私は敢えて「信徒」とは呼ばない。彼らがキリスト教徒ではあっても、われわれと同じような観光客のレベルだと思うからである。
日本人のわれわれが、仏教徒ではあるが、お寺にぞろぞろ団体で押し寄せるのと大差ないと思うからである。
この日がファティマの日であるためかどうか知らないが、この人出は大変なものであった。
サンチァゴ帆立貝の巡礼者

「帆立貝」のリュックの巡礼者
先にも巡礼者が着ける「帆立貝」のことについて書いたが、サンティアゴの門前の路地で見かけた「遍路」たちの後姿である。白人の初老の夫婦のようであった。
ようやく念願の聖地に到達できて、ほっと肩の荷を下ろしたところだろうか。
労わり合うように寄り添って歩く仲むつまじい姿に接して、私の胸中に亡妻を思い出して、去来するものがあった。
一番はじめにも書いたが、ここサンティアゴに来たいと思ったのは、昨今のことではない。
妻と一緒にイスラエルの「エルサレム」を訪問したのはミレニアムの年2000年5月のことであった。亡妻も、このイスラエルの旅が一番印象に残っているようであった。さればこそ、私の胸に迫ってくるものがあるのであった。
巡礼者や観光客の姿が絶えない、大聖堂前の「オブラドイロ広場」。
その北面を占めるのが、かつて無数の巡礼者に宿泊と食事を提供し、病気になった者の治療を行っていた旧王立救護院の壮大な建物である。写真⑤。
サンチァゴ・パラドール

コロンブスを新世界への旅に送り出したイザベル、フェルナンド両王の命により16世紀はじめに完成したもので、とりわけ金銀細工のような緻密な装飾を見せるプラテレスコ様式の正面入口は見事である。
今ここは近代的設備とサービスを備えた国営ホテル「パラドール」に生まれ変わっている。
今日の昼食はここで摂ることになるが、今までの昼食とは一味違ったものになったかどうか。

Compostela・・・・「星の野原」の意味について
このことについては、この紀行文の一番はじめの日6/2の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ──日本語に訳せば「星の野原の聖ヤコブ」──」に書いておいたが、田辺たちの翻訳した本『サンティヤゴ巡礼の世界』には、
こう書かれている。

<原初の伝説が伝えるコンポステーラは星の野原であり、それゆえ天上の性格を有した場所であると同時に、そこにやってくる巡礼者にとっては超越性の場所でもある。それは西欧の果てにある、ベツレヘムの星の記憶である。それはまた、compostumすなわち墓地と呼ばれていたが、そのことがコンポステーラの歴史的真実と復活の約束を示している。・・・・・フルカネッリは「あるものを受け取ったことを意味するラテン語のコンポスcomposは、ステルラstellaすなわち星を所有している。」いくつかの伝説はまた、コンポスcomposというラテン語を異なったふうに強調して、この語に「なにものかの主人である」という意味、すなわち力の源泉の意味を与えている。>(訳書365ページ)

この文章を読むと、あらゆる説明は結局、生と死の神秘に、そして実存の能力と存在への勇気における人間の営みの神秘に収斂される、ことを実感するのである。

キリスト教世界三大聖地の固有の記号
三大聖地ということも同じ日の記事に書いたが、それについて少し説明したい。
西ヨーロッパのキリスト教の三大聖地にはそれぞれ固有の記号がある。
エルサレムの巡礼者にとっては棕櫚、「ローマ詣でをする人」にとっては交差した鍵、そしてサンティアゴ巡礼者にとっては少なくとも12世紀からはホタテ貝であった。
これらの習慣の意味する象徴的性格は、棕櫚は凱旋を、貝殻は善行を表す。なぜか。ホタテ貝殻は、その形によって、善行の道具である人間の手を想起させるからだ、と書かれている。
しかし、近代に入ってからは、どこの巡礼者にも、コンポステーラの印(ホタテ貝)がつけられるようになる。
北フランスのモン・サン・ミッシェルでも、巡礼はホタテ貝をつける。
聖ロックのような「バチカン」派の高位聖職者の上着にもホタテ貝がついているのが見られる。
こういう「符号化」を見ると、サンティアゴ巡礼が近代西欧の精神世界に深くかかわっていることが理解できるだろう。
この本を読むと、ホタテ貝についても墓の発掘による考古学的発見のことなども書かれているが詳細は省略する。関心のある方は、本書を参照されたい。
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一路、ポルトへ
これでサンティアゴでの見学は終わり、あとは一路、国境を越えて、今夜宿泊のポルトガルの「ポルト」まで走ることになる。
地図を見ると、サンティアゴ・デ・コンポステーラの街はイベリア半島の西北端というところであり、ポルトガル国境まで、つい目の前という感じがするが、結構な道のりがあり、海岸線(大西洋)に出ると、入り江が入り組んだリアス式海岸で、それらを迂回するように道路が走っていて時間がかかる。
国境のところにトゥイTuiという町があり、そこに流れる川の真ん中が国境であった。
右手はすぐに海岸、左手には山が迫るが高さはいずれも1000メートル台の山脈である。
海が見えたり、見えなかったりして海岸線を一路、約300~400km走ったろうか、夕闇の迫る中、ポルトの街に着く。
ポルトは狭い坂の街。トラムが縦横に走っている。バスはホテルを探して、迷って、今夜宿泊のBatalha広場に面したホテルQuality Innに入る。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(10)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

ポルト・・・坂の町・・・街全体が世界遺産
写真①は私たちの宿泊したホテル・クオリティ・インの自室の窓からの眺めである。
トラムの軌道が見えているが、トラムを撮ろうと、ずっとカメラを構えて待っていたのに、早朝のせいか全然来なくて結局一枚も撮れなかった。
この広場はバターリャBATALHA広場という。他のコーナーにはオペラハウスがあるということだった。
ポルトは「坂の町」で、狭い道にトラムが、ごとごと走っている。
ポルト・バタルハ広場

ポルトの歴史
ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

ポルトを含む一帯は、イスラーム勢力に占領されたこともあったが、12世紀フランス王族ブルゴーニュのアンリがレコンキスタでこの地を奪回した。

1387年、ジョアン1世とイングランド王エドワード3世の第4子であるジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパ・デ・ランカストルとの結婚式がポルトで行われた。イギリスとポルトガルの同盟関係は、この時代から始まっており、現代のNATOにまでつながる盟約関係である。

14世紀から15世紀にかけての大航海時代、ポルトで生産された船団は、ポルトガルの海軍の発展に大いなる貢献をした。1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子は、ポルトを出発し、モロッコの地中海に面する港町セウタを攻撃した。エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外への雄飛への出発点であった。
18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。

「歴史地区」は、全体が世界遺産になっている。

ポルト・ドウロ川

ドウロ川に架かる橋
両岸がきつい傾斜になっているので、鉄製の高い橋が両岸を繋いでいる。
聖フランシスコ教会、ポルサ宮、リベルダーデ広場などを徒歩で廻るが、記憶が曖昧で省略する。
ポルト・リベルダーデ広場

今日は雨になってきて一日小雨あるいは本降りの雨に濡れた。
アズレージョの陶板の美しいというサン・ベント駅なども車窓から眺めるだけである。
写真③にドウロ川をクルーズする船などを出しておく。
ポルト・ドウロ川0001

エンリケ航海王子も探検に出掛けたのも、ここの川岸からだという。
それを記念して、カテドラルやポルサ宮の上手に「エンリケ航海王子広場」というのがある。

写真に写る対岸ヴィア・ノーヴァ・デ・ガイア地区には60ヶ所ほどのポルトワインセラーが並び、そのうちの「サンドマン社」に入って、見学と試飲をする。
名前の通り、ここはイギリスの会社である。ポルトワインは、赤ワインにブランデーを添加して熟成して製造する。独特の製法である。
写真④⑤が「サンドマン社」。
対岸の川沿いは「カイス・ダ・リベイラ地区」といって、臓物料理からシーフードの店など多彩な店があるというが、説明を受けるだけで、午前中は店も開いてはいない。
ポルト・サンドマン社

ポルト・サンドマン社0001

工場の案内は、商標になっている黒いマントを着た日本人の女の人が案内人になる。
その写真も撮ったがピンボケで掲出はあきらめる。
仕込みの樽にも、商標になっている「黒いマント」のマークが刷り込まれている。
試飲と即売のコーナーでは、すぐに飲む若いワインと何年も熟成されたワインとの「飲み比べ」をする。
アルコール度数が19度くらいあるから、グラスのものを全部あけると酔っ払うので、私は少し口をつけた程度にする。
口当たりは極めて甘く、日本でサントリーが「赤玉ポートワイン」の手本にしたというのも頷ける。私は熟成ものの二本セットを買った。36ユーロというから、結構たかいものである。

ここを出て、後は一路「ナザレ」へ向かう。

(サンティアゴ・デ・コンポステーラを過ぎたので、今回から見出しに──スペイン・ポルトガル周遊──を付加することにする)
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ナザレいわし塩焼き

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(11)・・・・・・・・木村草弥

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 ──スペイン・ポルトガル周遊──
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ナザレ・・・古代フェニキア人が開いたリゾート地
美しい砂浜の海岸線を持つ──ナザレ。
砂浜すぐ近くの海鮮レストランで「イワシの塩焼き」を昼食に食べる。
日本の塩焼きそっくりで、肉料理ばかりのお腹に心地よく入る。
写真②が、そのレストラン。
ナザレいわし塩焼きレストラン

白人たちもたくさん食べている。
白く長いビーチもあるので、バカンス客も訪れるリゾートという。
ナザレ海岸

古代フェニキア人によって拓かれた歴史のある漁村だという。
レストランの他には、みやげ物屋が一杯。
レストランの二階から上はホテルになっている様子。

ケーブルカーで崖の上へ
食後は、写真③のように急な崖になっている丘があり、ここへは「ケ-ブルカー」ascensorが通じているので、出掛ける。
町並みとビーチが一望のうちに眺められ、天気も良くて爽快。太陽の直射が久しぶりにきつかった。
ナザレケーブルカー

ナザレケーブルカー俯瞰

④⑤にケーブルカーと丘の上からの俯瞰を出しておく。
ケーブルカーの線路を下から写したもの。
ケーブルの線路脇には見事な野生のアロエが茂っていた。
写真⑤に写るように、町並みも美しいが、この地を何年かぶりで訪れた添乗員の話によると、町並みもすっかり変わり、住宅もリゾート目当ての人も増えて、金額も大幅に高くなっているという。
どこにでも、住宅バブルみたいなものはあるのである。
写真はクリックすると大きくなる。その大きくなった写真の右下に拡大マークが出るので、それをクリックすると更におおきく鮮明に見られる。
俯瞰した町並みと右側には白いビーチ。
リゾートの用件を、すべて満たした条件である。
この街へ出入りするのに林の中を横切ったが、松の木が多い。
「松」の木にも「地中海」性の松というのがあるらしく、一概には言えないらしい。
そう言えば「まつぼっくり」なども形のすごく大きいものから、日本の松のように小さいものまで、いろいろあるのが、その証拠だろう。
イベリア半島には「松」の木が本当に多い。
後は、一路、「オビドス」へ向かう。
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オビドス0002

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(12)・・・・・・・・木村草弥

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オビドス王妃に愛された「谷間の真珠」
周囲をブドウ畑に囲まれ、ブーゲンビリアの赤が白壁に映える美しい、中世の町。
王妃の直轄地として代々受け継がれてきた。
オビドス

オビドス0003
ポルタ・ダ・ヴィラ内部の見事なアズレージョ
オビドス・アズレージョ

ここオビドスは、ポルトから、ナザレを経て、リスボンに至る途上の景勝地である。
ここオビドスは石畳の小道に白壁とオレンジ色の屋根の家々が連なる可愛らしい町。
添乗員の話によると、ここは旅の後のアンケートでも、一番に上げられる人気のある場所だという。
この町が「谷間の真珠」と言われる、と聞くと、むべなるかなと肯定できる。
城壁内は一周ぐるりと廻っても20分ほど。
しかし城壁に上下する階段の石は結構きつい。
城壁への道の両側は、ショップやカフェがぎっしり。
街への入口、ポルタ・ダ・ヴィラの内部にある17世紀の「アズレージョ」は美しい。
城壁に囲まれた町の南側にある二重構造の城門の内部である。

サンタ・マリア教会内部にも17世紀の素晴らしいアズレージョがあるという。
町を囲む城壁が、ぐるりと見渡せる。
城壁の外にはブドウ畑が見えている。
リスボンから、バスで、1時間10分。日帰りも可能なので人気の町である。
オビドスはは城壁に囲まれた人口800人ほどの小さな町。
「谷間の真珠」と呼ぶにふさわしい絵のような町で夏は色とりどりの花が彩る。
1282年にすっかり魅了された王妃イザベルにディニス王が村をプレゼントした。
以後1834年まで代々の王妃の直轄地となり今もなお中世のままの姿をとどめている。
おとぎの国のようにかわいい町で、観光地として人気の町であるらしい。

リスボンに着いて、夜は「ファド」ショーを見物する。
民族舞踊なども入っていて、純粋なファドとは違う。はじから終わりまでなじめなかった。
席の位置の関係もあって(隅に押し込められたので)写真も一切撮れなかった。
前回1990年1月に来たときに、ファドを聴いて作った私の歌

哀愁を帯びたるファドの熱唱に不意に涙すエトランゼわれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

眼つむりて聴きたりアマリア・ロドリゲスむせびて唄ふ「暗いはしけ」(バルコ・ネグロ)を
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リスボン・トラム

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(13)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
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リスボア・・・曽遊の地、車が多く道路が良くなる
かつてポルトガルというと、ヨーロッパの中では最も貧しい国と言われてきた。
パリなどの「子守り」や「メイド」さんはポルトガル人だというのが常識だった時代があった。
サラザール独裁政権が長く支配していたのが倒されて、選挙によって、ようやく自由主義国の仲間入りをした。前回来たときには選挙期間であって、華やかに選挙運動が繰り広げられていた。社会民主主義政党も躍進したりした。
この前に来たのが1990年だから、久しぶりに来たリスボアの町は郊外に街が広がって、どこがどこやら判らないような浦島太郎の気分。
しかし、アルファマ地区などの面影は残っていて、トラムも健在であった。
そのときに、ここで私の詠んだ歌

坂多きアルファマの小路すぎゆけば洗濯場あり女群れゐて・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

ベレンの塔・・・16世紀、大航海時代の栄華の象徴
リスボアの旧市街と言えるアルファマ地区の海沿いにあるベレンの塔。
リスボン・ベレンの塔

司馬遼太郎は「テージョ川の公女」と評したが。。。
本体は変わらないが、周辺に何だか構築物が増えた感じ。
塔に装飾物が架かっているのも説明があったが忘れた。
前はベレンの塔を見たあとは次のエンリケ王子のところまで歩いたものだが、今回はバス移動だが、却って大廻りして時間がかかる。

発見の モニュメント──エンリケ航海王子500年記念
これはエンリケ航海王子の死後500年を記念して建てられたもの。高さ52mの帆船ヲイメージした船の先端にはエンリケ王子が立ち、ヴァスコ・ダ・ガマや宣教師、学者などが並ぶ。
リスボン・エンリケ王子碑

ガイドブックを読めば判ることは省略することにしよう。
エレベータで上に登れるようになっているらしい。そこに登ると、ジェロニモス修道院やインペリオ広場などが一望できるという。ここの広場が、そういう名前というのは初めて聞いた。
リスボン・床の地図

リスボン・床の地図0001

モニュメント前の広場の床には大航海時代を切り拓いた地図などが大理石で、きれいに作られている。これも以前には無かったものだ。
これらのものの前に広がるのはテージョ川であって、まだ大西洋ではない。
テージョ川はスペインに源を発して大河となり、ここに注いでいるのである。流れる国によって呼び名も変わる。
タホ川(スペイン語: El Tajo)・テージョ川(ポルトガル語: Rio Tejo)はイベリア半島で最も長い川。全長1008km、そのうち上流側の910kmがスペインにあり、河口側の98kmがポルトガルにある。アラゴン州のテルエル県付近から流れ出し、アランフェス、トレド、タラベラ・デ・ラ・レイナを通り、ポルトガルのコンスタンシア、サンタレン、リスボアで大西洋に注ぐ。

リスボアのテージョ川河口部には4月25日橋(かつてはサラザール橋と呼ばれた)とヴァスコ・ダ・ガマ橋が架かる。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は全長が17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。

ジェロニモス修道院
ここはエンリケ航海王子が船乗りたちのために建設した礼拝堂を元にして、大航海時代全盛期の1502年、マヌエル1世の命により造られた修道院。
リスボン・ジェロニモス修道院0001

リスボン・ジェロニモス修道院

19世紀の完成までに長い年月と、東方交易で得た巨万の富がつぎ込まれた。付属のサンタ・マリア聖堂から成る建物である。
内部は、とても込んでいたが、現地ガイドの堀さんの案内で廻ったが碌な写真は撮れなかった。
建物の柱や入口などの装飾に航海に必須の「ロープ」が文様として彫られているなど専門的な話を聞いた。
堀さんは「世界ふしぎ発見」などのルボ番組や映画撮影の現地での設営などのプロダクションを本業としてされているという。

この後、堀さんの案内でアルファマ地区のリベルダーデ大通から、坂の町リスボアの高地を結ぶケーブルカー・グロリア線の乗り場近くの金細工店などに入るが私はバルでコーヒーを飲んでいた。雨が小降りから本降りになり、ズボンの裾がすっかり濡れた。
昼食をアルファマ地区のレストランで「バカリャウ」(たら料理)を食べて、あとは一路、シントラ、ロカ岬へ。

これで「リスボア」の観光は終わりである。前回はタクシーで「サン・ジョルジェ城」にも登ったし、フルファマ地区を散歩して、洗濯場を覗いたりしたが、そんなものは今回はいっさい無し。
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300px-Nt-sintra-palacionacional2シントラ宮

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(14)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

シントラ宮──王たちの避暑地
午後はリスボア郊外の山地にある王の避暑地・シントラ宮へ。
ここも曽遊の地である。1990年1月にここに来たとき私の詠んだ歌

バイロンがエデンの園と讃へたるシントラの街は濃き緑なす・・・・・・・・・・・木村草弥

合戦に勇める馬を描きたりシントラ宮のアズレージョの藍・・・・・・・・・・・・・木村草弥

いずれも第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。

ネット上の記事を引いておく。
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シントラ宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シントラ宮のメイン・ファサード・シントラ国立宮殿 (Palácio Nacional de Sintra)は、ポルトガル・シントラにある宮殿。少なくとも15世紀初頭から19世紀後半にかけポルトガル王家が住み続けており、ポルトガル国内で最も保存状態の良い中世の王宮である。シントラの文化的景観の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

歴史
中世
シントラ宮殿の歴史は、イスラム教徒がイベリア半島を支配していた時代から始まる。その頃シントラには2つの城があった。一つはシントラをのぞむ丘の上に立つ城で、カステロ・ドス・モウロス(Castelo dos Mouros,ムーア人の城、という意味)と呼ばれていた。この城は現在廃墟となっている。もう一つは、下り坂に位置し、シントラ地方を治めるムーア人支配者の住居となっていた。12世紀、シントラの村はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちのポルトガル王アフォンソ1世)によって征服され、彼はムーア人の住居を我が物とした。ゴシック様式、マヌエル様式、イスラム風建築が現在の城で混在しているが、これは15世紀から16世紀初頭にかけての建築の結果である。

かつてのムーア人支配者の宮殿と、初期のポルトガル王が住んだ宮殿はどちらも遺っていない。14世紀初頭のディニス1世治下で建てられた王室礼拝堂が遺るのみである。城の大部分は、1415年頃から始まったジョアン1世が後援した建設計画で建てられた。

1509年頃、画家ドゥアルテ・ダルマスの描いたシントラ宮殿。マヌエル様式翼がまだ建っていない。中央中庭のほとんどの建物(アラ・ジョアニーナ、ジョアン翼)はこの計画で建てられた。ファサードの建物、マヌエル様式の中方立て窓、アジメゼスというイスラム建築、厨房の円錐形煙突、そして多くの部屋も計画に含まれた。

白鳥の間 - Sala dos Cisnes マヌエル様式。天井に描かれた白鳥の絵にちなむ。
鵲の間 - Sala das Pegas 天井に描かれた鵲の絵にちなむ。鵲のくちばしにはpot bem(善意で、という意味)と書かれた紅バラがくわえられている。これには逸話があり、ある時、ジョアン1世は女官にキスしているところを王妃フィリパ・デ・ランカストルに見つけられた。王は『善意でキスしたのだ。』と弁解し、フィリパは何も言わなかったが、噂が女官たちの間で広まってしまった。王は、「おしゃべり」という意味のある鳥である鵲を部屋の装飾に用い、かつまたフィリパの実家ランカスター家の紋章である紅バラを描かせた。
アラビアの間 - Sala dos Árabes
ジョアン1世の長子ドゥアルテ1世は、この宮殿を非常に好み、長く滞在した。彼は、建物の使い方や、進化を了解するのに非常に価値のある記述を残している。この宮殿を好んだ証拠として他に、ドゥアルテ1世の嫡子アフォンソ5世はシントラで1432年に生まれ1481年にシントラで死んでいる。アフォンソ5世の子ジョアン2世 は、シントラ宮殿でポルトガル王即位を宣言した。

16世紀
マヌエル1世の代に、彼の後援の元で建物増設や装飾が加えられた。1497年から1530年にかけての建築では、大航海時代の発見による富が惜しげもなく注ぎ込まれた。マヌエル1世の治下でゴシック様式、ルネサンス様式は移り変わってマヌエル様式の発展を見た。同様に、イスラム建築の復古がされ(ムデハル様式)、アズレージョという色彩タイルの装飾が好まれた。

マヌエル1世は、メイン・ファサードの右に『アラ・マヌエリーナ』(Ala Manuelina、マヌエル翼)の建設を命じ、典型的なマヌエル様式の窓で飾らせた。彼は紋章の間(Sala dos Brasões, 1515年-1518年)を、主要なポルトガル貴族の紋章と自身の紋章の計72個描いた壮麗な木製の天井で飾り立てた。そのうちコエーリョ家の紋章は、ジョアン2世に対する陰謀が発覚した後取り除かれた。

ムデハル様式の歩廊マヌエル1世は、宮殿ほとんどの部屋を彼がセビーリャに特注させたタイルで再度装飾した。多色使いのタイルのパネルは、イスラムのモチーフを生み、アラビア風の雰囲気を漂わせている。

近代・現代
宮殿は、代が変わっても王たちの住まいとなり、そのたびに新しい画法の装飾やタイル装飾、家具などが付け加えられた。身体・精神ともに障害があったというアフォンソ6世は、実の弟ペドロ王子(のちのペドロ2世)により実権を奪われ、シントラ宮殿に1676年から幽閉されていた。彼の住んでいた部屋がそのまま保存してあり、彼が動き回っていた場所だけ、絨毯がすり切れているのが確認できる。アフォンソ6世は宮殿から出ることのないまま、1683年に死んだ。

1755年のリスボン地震で宮殿全体が傷んだが、現代的な理由から『古風に』修復された。アラビアの間の塔が大地震で大きく損傷し、崩壊してしまった。18世紀後半、マリア1世がアラ・マヌエリーナを装飾し直して再度部屋を分割した。

19世紀の間、シントラ宮殿は再び王家のお気に入りの場所となり、一家がしばしば滞在した。特にカルルシュ1世妃アメリアはシントラを愛し、いくつもの絵画を描いた。1910年の共和国樹立と同時に、宮殿は国の文化財となった。1940年代、建築家ラウル・リノは宮殿に元の輝きを取り戻そうと、他の宮殿から古い家具を持ち込ませたり、タイル・パネルを修繕した。以来、この宮殿は重要な歴史的文化財となっている。
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今回は、このシントラ宮しか見学しないが、前回来たときは自由時間がたっぷりあり、昔の城跡まで登ってたっぷりと見た。

ロカ岬・・・地果て、海はじまるところ
次いで、イベリア半島というより、ヨーロッパ最西端のロカ岬へ。
ロカ岬(Cabo da Roca)は、ポルトガル共和国リスボア都市圏にあるユーラシア大陸最西端の岬である。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島が点在する。シントラやカスカイスから、バスが出ており、リスボアからの日帰り観光も可能である。

またここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」の
第3詩20節の一節
「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」
を刻んだ石碑が立っている。 また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。証明書には名前・日付等が入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩(日本語もある)が書かれている。

写真②に岬の突端に立つ石碑。
ロカ岬

写真③に、上に書いた有名な「詩」の一節が書かれたプレート。
ロカ岬0001

写真④に「到達証明書」 を載せておく。
ロカ岬証明書


1990年1月ここに来たときに私の詠んだ歌

遠く来て海を見てをりロカ岬海風つよく吹きすさぶなり・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。
「到達証明書」には、私の名前をアルファベットの「飾り文字」体で書いてある。
前回来たときにも貰ったが、今回は紙の様式が少しちがうようである。

写真⑤が、ロカ岬の「灯台」である。
ロカ岬灯台

大西洋を進んできた船にとっては、この辺りは、結構、霧がかかることが多いので、航行の安全のための、貴重な目印、導きであるらしい。

ヨーロッパの夏時間も、すっかり夕暮れになり、辺りは薄暮の気配になってきた。
さすがに、もう、この時間からロカ岬に来る車もほとんど無い。
夕方の気配の中を一路、リスボアへ戻る。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(15)・・・・・・・木村草弥
  El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)

エヴォラ──スペイン途上の世界遺産の街
写真①はエヴォラ大聖堂のファサード。
200px-SC3A9_C389voraエヴォラ大聖堂ファサード

以下にネット上から記事を引いておく。
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エヴォラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エヴォラ (Évora) はポルトガル南東部アレンテージョ地方にある町である。人口は、55,619人。面積は、1307.0平方キロメートルであり、スペイン国境に近い。

旧市街は1986年に、ユネスコの世界遺産に「エヴォラ歴史地区」の名で登録された歴史ある街である。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街である。

ローマ時代
アレンテージョ地方は、タホ川(ポルトガル語では、テージョ川)の南に広がる平野地帯であり、エヴォラは、河口に位置するポルトガルの首都リスボンより東に約130㎞の所に位置している。旧市街の史跡の保存状態も良く、UNESCOの世界文化遺産に登録された。
エヴォラの歴史は、ドウロ川以南のポルトガル及びスペインのエストレマドゥーラ州に居住していたイベリア半島の先住民族であるルシタニア人(en:Lusitanians)が建設したことに始まる。彼らによって、アレンテージョ地方の首都として機能をエヴォラは持つこととなった。
紀元前57年、エヴォラは、共和制ローマの支配下に入った。これ以降、エヴォラは2重の城壁を持った町へ発展を遂げた。ガイウス・ユリウス・カエサルは、エヴォラの町を「Liberalitas Julia(肥沃なるジュリア)」と呼んだ。町の成長は、エヴォラが交易路の交差点であったことからも続き、ガリア、ルシタニアを旅行した博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)も、エヴォラを訪問し、著書『博物誌』に「Ebora Cerealis」として、記述した。その記述によると、当時のエヴォラは、周囲を小麦畑で囲まれていたことが分かる。また、エヴォラの繁栄は、この当時に多く発行されたコインでも明らかである。町の中心部には、コリント様式の神殿が建立され、ローマ初代皇帝アウグストゥスが祀られた。

ローマからイスラームへ
4世紀になると、エヴォラにもキリスト教が浸透し、司教座を持つようになった。その名前は、クインティアヌス(Quintianus)と呼ばれた。

民族移動時代の間、エヴォラは、西ゴート族の領土となった。エヴォラの地位は、聖堂を持つ都市へと昇格していた。とはいえ、この時代の建造物は多く残されていない。

715年、ターリク・イブン・ズィヤード率いるムーア人が、エヴォラを征服した。イスラームの統治は、1165年にまで及んだが、エヴォラはゆっくりとではあるが、繁栄を取り戻していった。エヴォラは要塞とモスクを持つ町となり、この地方の農業の中心地となった。エヴォラの町の特徴は、ムーア人の影響を受けている。

レコンキスタ以降
1165年9月、ジェラルド豪胆王(pt:Geraldo Sem Pavor)の攻撃を受けた。翌年、エヴォラは、アフォンソ1世の統治下に入った。その後、15世紀にかけて、ポルトガルは経済的繁栄を築くが、ブルゴーニュ王朝・アヴィシュ王朝の時代を通して、ポルトガル国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。エヴォラでは、王族の結婚式が行われ、また、重要な決定もしばしば行われた。
特に、アヴィシュ王朝時代、とりわけマヌエル1世やジョアン3世が統治した15世紀後半から16世紀の前半にかけて、エヴォラはルネサンスの中心となり、フランス人彫刻家のニコラ・シャントレーヌ(en:Nicolau Chanterene)やポルトガルの戯曲の父であるジル・ヴィセンテ(en:Gil Vicente)といった芸術家が集まった。
エヴォラは、1540年に大司教座に昇格した。1559年には、イエズス会によってエヴォラ大学が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗改革の中心となり、スペインのクエンカで生まれたルイス・モリーナ(en:Luis Molina)などが、ここで宗教教育を受けた。
1759年、ポンバル侯爵がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されると、エヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。)
多くの芸術家によって、たくさんの建物がエヴォラの地に建設された。現存する建築物の様式は多様性に富んでおり、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築、バロック建築と様々である。
現在、歴史地区の範囲は1.05平方㎞であり、約4000の建物がある。
世界遺産
UNESCOのリストによると32の物件によってエヴォラ歴史地区が構成されている。以下にその一部を記す。

主な世界遺産物件
アグア・デ・ラプラタ送水路(Água de Prata Aqueduct)--1531年から1537年にかけて、ジョアン3世の手によって建設された送水路。ベレンの塔を設計したフランシスコ・デ・アルーダが9㎞に及ぶ送水路を設計した。この送水路は、ジラルド広場が終点である。
エヴォラ大聖堂(Cathedral of Évora)--1280年から1340年の間に主に建設されたエヴォラの誇る大聖堂。1335年頃に作られた使徒の像を伴った入り口と美しい教会堂の身廊(en:Nave)と回廊を持つ。(十字形教会堂の左右の)翼廊のチャペルの1つは、マヌエル様式であり、メイン・チャペルは、バロック様式である。また、パイプオルガンと聖歌隊用の部屋はルネサンス様式である。
エス・ブラス・チャペル(S. Brás Chapel)--1480年に建設されたムデハル建築とゴシック建築が融合した一例である。
サンフランシスコ教会(Saint Francis Church)--15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設されたゴシック様式とマヌエル様式が混合した建築物である。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作である。多くのチャペルがバロック様式で装飾されている。
ヴァスコ・ダ・ガマ邸宅(Palace of Vasco da Gama)--1519年から1524年の5年間、ヴァスコ・ダ・ガマは、エヴォラに滞在していた。マヌエル様式の回廊とルネサンス様式の絵画が現存してる。
カダヴァル公爵邸(Palace of the Dukes of Cadaval)--14世紀に出来た建築物で、17世紀にファサードは改装されている。
ロイオス教会(Lóios Convent and Church)--ディアナ神殿の隣にある15世紀に建築された教会。教会と回廊はゴシック様式を採用し、内壁はアズレージョ(en:Azulejo)と呼ばれるタイルワークで飾られている。
Ladies' Gallery of Manuel I's Palace--マヌエル1世によって建てられた邸宅。ゴシック様式とルネサンス様式が融合した建物であり、ヴァスコ・ダ・ガマがここで、インドへの航海を任命されたと伝えられている。
ディアナ神殿(Roman Temple)--前述の通り、1世紀に皇帝アウグストゥスを祀るために作られた神殿である。
エヴォラ大学(University of Évora)--前述の通り、1559年に建設されたイエズス会の神学校を起源とする。16世紀のマニエリスムの教会と17世紀から18世紀にかけて建設された巨大な回廊がある。
ルネサンス時代の泉(Renaissance fountain at Largo das Portas de Moura)--1556年に作られたルネサンス様式の泉。
ジラルド広場(Giraldo Square)--街の中心部であり、ドゥアルテ1世が建設したゴシック建築の建築物が現存している。
アルメンドレス環状列石遺跡(en:Cromeleque dos Almendres)--エヴォラから15キロメートルのところにある巨石記念物
ザンブジェイロ巨石遺跡(en:Anta Grande do Zambujeiro)--エヴォラから10㎞のところにある支石墓。
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ここでの昼食は「豚肉とあさり貝の炒め物」であった。

写真②は「サンフランシスコ教会」
エヴォラ・サンフランシスコ教会

写真③④は人間の骨で壁などを装飾した「骸骨寺」
エヴォラ・骸骨寺

エヴォラ・骸骨寺0002

写真⑤は「ディアナ神殿跡」
エヴォラ・ディアナ神殿跡

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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(16)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セビリアでの「フラメンコ」ディナーショー
ポルトガルとスペイン国境近くのエヴォラから、延々とバスを走らせて、夕刻にセビリアに入る。ホテルに荷物を置いて午後9時過ぎからフラメンコショーに出かける。

劇場式の大きな場所である。二階から観覧席。
ワイン、水など飲み物は料金に付いている。食事が大かた済んだ頃から踊りが始まる。
フラメンコ・ディナーショー館

私たちのの席は正面ではなく、舞台の袖に近いところで角度が余り良くない。
出番は、若い人から先に出てきて、真打は後の方から出てくるというのが普通である。
この写真②の人は中ごろに出てきたから、さほど若いということはないが、20代後半というところか。プロポーションはすばらしく、踊りで鍛え上げた体の線のメリハリは見事である。腰の辺りの線は何とも言えない。
同じ人が男のダンサーと掛け合いで踊るシーン。
私の一眼レフに使っているフィルムはASA400で、私の未熟な腕でも「動態モード」にしておくと、結構、撮れているものである。
この人の胸の線なんかもいいではないか。
フラメンコ0001

フラメンコ0002

フラメンコ

前回1990年1月に来たときにフラメンコを見て詠んだ歌

フラメンコ踊る娘は十七、八
 若き肢体に青春(はる)は息づく・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
集団の群舞を出しておく。
余りうまく撮れていないが、お許しを。
劇場の天井や壁なども、このように華やかな絵が描かれている。

夜中の12時近くになって打ち止めとなる。
この後、明け方までショーの三幕、四幕がつづくという。
セビリアでの泊りはSAN PABLOという周辺部の新しいホテル。
ホテル・サンパブロ

写真⑤が、それだが、コンドミニアム式にキッチンも備えた2室に分かれた広い室内。
今までのホテルの部屋を見慣れた目には、かえってガランとした印象を受ける。

スペインも住宅、不動産のバブルで、中心部は価格が高騰しているらしい。
アメリカのサブプライムをきっかけとするバブルの崩壊の余波がスペインにも及び、銀行が住宅不動産融資を引き締めているので、バブルがはじける様相とか、日経新聞などは伝えている。

かくして、セビリアの夜は更けるのであった。


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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(17)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

セビリア・・・・・アンダルシア自治州の州都(1)
今日は午前中、セビリア観光である。

800px-Sevila10セビリア大聖堂

廻った順序は無視して載せる。写真①はセビリア大聖堂カテドラルである。
ここには新大陸発見者コロンブスの墓がある。

450px-Sevila12セビリア大聖堂コロンブス墓

写真②が、それ。と言っても、これは「棺」のモニュメントであり、聖堂の床の大理石の下に正式の墓はある。写真のピントがぼけているのはお許しいただきたい。
この聖堂の中を見学する前に、付属する写真③の「ヒラルダの塔」に登った。
ヒラルダとは風見鶏の意味。
ここは一番上まで長いスロープだが上ることが出来る。これは、元イスラム教のミナレットで坊さんが一日5回上り下りが楽なようにロバに乗って登れるようにしたから。
セビリアも曽遊の地である。
詳しい説明は、以下↓の文章を読んでほしい。
セビリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セビリア(Sevilla)はスペイン南部の都市。アンダルシア州の州都で、セビリア県の県都。人口は70万人でスペイン第4位。セビリア都市圏の人口は130万人に上る。スペイン南部の政治、経済、文化の中心地であり、観光都市である。

発音・表記
日本では、ラテン語風にセビリア(またはセビリヤ)とする表記が一般に定着している(「セビリアの理髪師」など)。また、スペイン各地のスペイン語の発音の差異から、セビージャ(マドリード首都圏)、セビーヤ(アンダルシア州)、セビリャ、セビーリャとも表記される(ジェイスモを参照されたい)。

英語ではSeville (「セヴィル」 太字はアクセント)、フランス語ではSéville(セヴィル)と発音する。
スペイン語では b と v を区別せず語・文中では[β] で発音し、カタカナで表すときはバ行を使うことが普通である。しかし、英語などの発音を混在させてセヴィージャ、セヴィリアなどと表記する者もいる。

地勢
グアダルキビール川沿いに位置しており、大西洋からセビリアまで船舶が遡航できる。そのために港湾都市としての役割を果たし、農作物や工業製品が盛んに輸出される。近隣の都市としては、約100キロ南西のカディス、120キロ北東のコルドバが挙げられる。

歴史
古代ローマ時代には「ヒスパリス」と呼ばれた。紀元前8世紀か9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。カルタゴ人は紀元前216年に都市を破壊したが、紀元前206年にスキピオが近郊にイタリカを建設し、ヒスパリスの再建を始めた。

8世紀よりイスラム勢力の支配下に入り、「イスビリヤー」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期には、セビリア王国が栄えた。レコンキスタの進展により、1248年にカスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展した。

イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはこの都市でポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及をみせ、多くのユダヤ人が迫害を受けた。

15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタを完了させるとともに新大陸へ航海を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、アメリカとの貿易の独占港となって繁栄を誇った。16世紀から17世紀には、セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。

19世紀のスペイン立憲革命では、セビリアは自由主義者の拠点となった。20世紀のスペイン内戦では、アフリカに近い位置にあることから、早期にフランコ軍に占領された。

1992年にはセビリア万博が開催された。万博に合わせて、グアダルキビール川にはアラミロ橋が建設された。2002年には欧州理事会の会場となった。

現在、セビリアは社会労働党の強固な地盤となっており、2004年の総選挙では他党を30%以上も引き離した(スペインの県都の中でもっとも高い)。

観光
闘牛やフラメンコの本場で、スペインを代表する観光都市。セビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館は世界遺産に登録されている。

セビリア大聖堂 - 1402年に建設が始まり、16世紀に完成した。カトリックの大聖堂としては世界一大きい(サン・ピエトロ大聖堂を除く)。内部にはクリストファー・コロンブスの墓がある。
ヒラルダの塔 - もとはモスクのミナレットだった。
アルカサル - スペイン王室の宮殿。イスラム時代の建築物の跡地に14世紀に建設された。ムデハル様式の代表例の一つ。


スペイン広場
スペイン広場(スペインひろば、Plaza de España)は、セビリア市中心部南寄りにある広場の名称。元来は1929年にセビリアで開催された万国博覧会「イベロ・アメリカ博覧会」の会場施設として造られたもの。パビリオンとして建てられた広場内の建物は、セビリアをはじめアンダルシア地方の典型的な建築様式であるムデハル様式を取り入れたもので、両翼に半円形に延びる回廊と、スペイン各県の歴史的出来事を描写した壁面タイル絵が特徴的である。

映画スター・ウォーズ エピソード2でアナキン達が惑星ナブーに着いた直後のシーンの撮影はこのスペイン広場で行われた。
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写真⑤に、スペイン広場の装飾タイル絵の一つを出しておく。
スペイン広場

グラナダ開場の場面である。
説明しているのが添乗員だが、今回の旅では「イヤホンガイド」を各自装着したので、少しぐらい離れていても、よく聞こえるので楽だった。彼女が「親機」を持って話しているのが写真でも、よく判るだろう。
この頃ではJTB旅物語では、いつも使用することになっている。

セビリア(2)につづく。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(18)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
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 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

800px-Sevila10セビリア大聖堂

セビリア(2)
写真①は、ヒラルダの塔の上からの眺め。

セビリアヒラルダの塔から

塔上りは、階段と違って、スロープだから息も切れずに楽である。
集団行動のため、時間の制限があるので、上って写真を撮ったら、すぐに下りる。
前回1990年1月に来たときに、ここで私の作った歌

セビリアの大聖堂の風見鶏(ヒラルダ)の高き尖塔に鐘うち鳴れり・・・・・・・・・木村草弥

たわわなる中庭(パティオ)の紅きオレンジにはらりはらりと時雨さしぐむ・・・・・・木村草弥

いずれも私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
写真②はアルカサールの入口。

セビリアアルカサール

アルサカールというのは普通名詞で、スペインのあちこちに一杯ある。先にも書いたが「城砦」とか「城」と言う意味だが、一般的に王の城である場合が多い。
ここは「セビリア王宮」と呼ばれている。
ここはイスラム宮殿跡であるから内部の天井、壁などには細かい幾何学的な文様がびっしりと刻まれている。その写真は無い。

セビリア中庭

広い中庭があり緑が濃い。
このような「中庭」パティオというのもイスラム教徒の残した文化である。
乾燥地帯に住んでいた彼らは、水とか緑とかいうものに憧れていたから、それが庭園などに色濃く残っているのである。

ここでアルカサールの語源の薀蓄を少し。
アラビア語アル・カスール(al-quasr)は、ラテン語のカストゥルム(castrum)から転じたものである。英語のcastleも同じ語源から。
このように言語というのは、お互いに強い影響を受けて、現在のような形になったのである。

セビリアオレンジ

アンダルシアをはじめとして、スペイン各地では街路樹などとして、写真④のように「オレンジ」の木がよく見られる。
旧市街の「ユダヤ人」街などと説明されるところには必ずある。
これらのオレンジの多くは実が酸っぱくて、そのままでは食用にならず、ママレードにしか出来ないという。だから木の下に実が落ちているのが多い。
イギリスではママレードが愛用されるので、その原料として輸出されるとか。
私もママレードが好きで、亡妻は夏みかんの皮などで、よく手作りしてもらったものだ。

セビリア新型トラム

写真⑤は街角で見つけた新型トラム。
つい最近はじまったものらしい。
低床式の美しい車体で、数分おきに電車が来るのが見えた。
こういうトラムの導入は世界的な傾向で、車社会で、電車がほとんど見られないアメリカでも、たとえばダラスなんかでも、一部の地区にトラムが走っている。

昼食はガスパッチョ(冷たいトマトスープ)ということだったが、写真には撮らなかったので、どんなものだったか忘れた。
後は、一路、コルドバへ。
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コルドバメスキータ

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(19)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

コルドバ・・・・・壮麗なイスラム文様のメスキータ
ここも曽遊の地であるが、ここでの見ものは何と言ってもメスキータであろう。
写真①は、その一部である。

800px-Mosque_Cordobaメスキータ

なお補足しておくと、大理石の柱はローマ、ギリシアなどの「遺跡」から持ってきたもので一本一本長さなどが違うので継ぎ足したり鉛のプレートを挟んだりしてある。
こういう「使い回し」は、いつの時代にもやられてきたことである。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。
写真②はメスキータの城壁の塔である。イスラム教の時代には、ここから一日5回
アザーンを唱えた。
以下、ネット上から記事を引いておく。
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メスキータ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メスキータ(mezquita)とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語 ("Masjid")に由来する。しかし、一般的には固有名詞として、スペインアンダルシア州コルドバの聖堂を指す場合が多い。本項でも、コルドバ聖堂について著述する。

現在のコルドバ聖堂の建物は、当初はイスラム教のモスクとして建てられた。13世紀にレコンキスタによりコルドバがキリスト教徒の支配下におかれたため、カトリック教会の聖堂に転用された。後にドームを加えるなどの改築も行われている。聖堂の建設地自体は、ローマ時代、西ゴート王国時代にも、キリスト教の教会がおかれていた場所である。 世界遺産に登録されている。
歴史
67世紀 西ゴート王国の聖ビセンテ教会の地であった。
西暦711年 ウマイヤ朝の西ゴート王国征服成る。教会の半分をモスクとする。
西暦784年 コルドバの初代アミールアブド・アッラフマーン1世の命により、コルドバ教会の所有部分を買い取り、王宮に隣接するモスクとして建設工事がスタート。 妃の名をとってAljama Mosqueと名付けた。(第1次建設部分)
アブド・アッラフマーン3世(889-961)がミナレット(塔)の建設を命ずる。
西暦961年 ハカム2世の命により、拡張工事が実施され、ミフラーブも拡張される。
西暦987年 アル・マンスール・イブン・アビ・アーミルにより拡張工事、現在のメスキータの形となる。
西暦1236年 カスティリャ王フェルナンド3世の軍によりコルドバ征服。モスクは教会として再び聖化される。
カール5世(1500-1588)により、メスキータ中心部に身廊が増築される。

特徴
もともとキリスト教の教会の土台の上に立てているため、ミフラーブは正確にメッカを向いていない。
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コルドバ歴史地区(コルドバれきしちく)は後ウマイヤ朝の都であったコルドバにある世界遺産(文化遺産)地域。メスキータやローマ橋などの建造物とユダヤ人街が登録されている。

コルドバ黄金の小道

写真③は、元ユダヤ人街だったところの「花の小径」として有名。
みやげ物屋や飲食店として賑わっている。

800px-Guadalquivir_Mezquitaローマ橋

写真④は、ローマ人が建設し、今も現役の橋として使われている「ローマ橋」。
この川はグアダルキビール川でセビリアへ流れてゆく。
写真⑤は、コルドバでの現地ガイド。日本語を見事にあやつる。ジョークも交えて達者である。

コルドバのガイド

後は一路、今夜宿泊のグラナダへ。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道 (20)・・・・・・・・木村草弥

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 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

グラナダ(1)・・・・・ムーア人最後の拠点
写真①は、今日のハイライト・アルハンブラ宮殿の入口である。
昔と違って、遺跡を傷つけないために観光客の車は山を反対側に廻って入るようになっている。
アルハンブラ入口

ネット上から引いておく。
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グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシンはスペインにあるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたグラナダの世界遺産としての名称である。

概要
グラナダはナスル朝の首都であった。ナスル朝はイベリア半島で最後まで残存したイスラーム勢力である。レコンキスタでイスラーム勢力が衰えていく中でマリーン朝がイベリア半島から撤退した、これによりイスラーム教徒がグラナダに流れ込んだ。この中には高度なイスラーム技術を持った職人が居た。さらに、当時のナスルの王、ムハンマド5世(在位・1354年 - 1359年、1362年 - 1391年)がこれらの技術者を保護したことによりグラナダに世界を代表する高度なイスラーム文化が花開くことになった。

19世紀には外交官、ワシントン・アーヴィングの紀行文によって世界に広く紹介された。
ナスル朝
グラナダの開城(1492年)1232年、アンダルスの支配者の一人、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(アル・アフマル)は王を名乗り、1238年にグラナダに王国(ナスル朝)を建国した(ムハンマド1世:en)。1246年、ムハンマドはフェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。
ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価される。しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服が始まり、1492年1月2日にグラナダが降伏してナスル朝は滅亡した。

レコンキスタ後
他宗教にも寛大であったナスル朝のグラナダには、当時キリスト教世界で弾圧されていたユダヤ人も多く存在していた。しかし、レコンキスタ完了後は、キリスト教徒によるユダヤ人の虐殺が行われ(スペイン異端審問)、多くのユダヤ人がイベリア半島から去った。そうしたユダヤ人は、オスマン帝国などで保護され、経済発展を支える一勢力になる。
アルハンブラ宮殿 Palacio de la Alhambra
アルハンブラ宮殿はグラナダのイスラーム建築の最高傑作とされる。その美しさから「イスラーム建築の華」とよばれることもある。特に「二姉妹の間」の天井の鍾乳石はその緻密さから、「蜂の巣」と呼ばれ世界最高の建築とたたえられることもある。

ヘネラリーフェ宮殿 Palacio de el Albaycín
ヘネラリーフェ宮殿は王族のための夏用の離宮である。イスラームの天国をイメージしたとされる庭園があり、詩人に好んで歌い上げられた。

アルバイシン地区 El Albayzín
アルバイシン地区はグラナダ市内でもっとも古い地区とされる。元々はイスラーム教徒のための居住区である。白壁を特徴とし、その景観を壊す開発が禁じられている。
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アルハンブラ0003

アルハンブラ0001

アルハンブラ

アルハンブラ0002

補足的に書いておくと、アーヴィングが来たときには、ここは完全に廃墟となり、忘れられていた。宮殿の内壁には金箔が張られていたのだが、住み着いたジプシーたちが剥がして売って金に換えていたのである。
このアーヴィングの本がきっかけで地元でも何とかせねばという機運になり、復旧に取り掛かったというのが実情なのである。
なお、アーヴィングの、ここアルハンブラについて書いた「本」は日本でも出ている。岩波文庫などいろいろある。私はまだ学生の頃に紙質の悪い本で読んだことがある。アルハンブラに関心を抱く、ずっと以前のことである。

宮殿の内部の天井や壁は、イスラムの伝統的な文様である草花やコーランの文字の一節を装飾にしたもの。鍾乳洞を思わせる飾り(写真②④など)で細かく、華麗に装飾されている。写真③のように外に面する部分にも精細な文様が彫られている。
写真⑤のライオンの噴水の、周りを取り巻いていたライオンは修理のため外され、元に戻るのには二年ほどかかるという。そのうちの一頭が資料館で展示されていて、間近に見ることが出来る。
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アルハンブラ入口

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(21)・・・・・・・・木村草弥

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 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

アルハンブラ・ヘネラリーフェ

アルハンブラ0005

グラナダ(2)・・・・・ヘネラリーフェ庭園
アルハンブラ宮殿から、しばらく歩いて、この庭園に入る。
ネットを検索しても、スペイン随一の名所でありながら、ここグラナダに関する記述は貧弱で引用できるものが少ない。
前回きたときの現地ガイドは日本語をあやつる現地人だったが、冗談を言って笑わせるばかりで、肝心のことは余り話さず、私には不満が残った。
ガイドブックにも簡単な記述しかない。
この辺りは太陽の丘と呼ばれているが、唯一現存しているのがヘネラリーフェ庭園だという。そのうちでも、素人の私でも全部がその当時のものとは思えず、現地ガイドの女の人に聞いてみたら「アセキアの中庭」と呼ばれる、写真①の一角だけが13世紀から14世紀初頭に建ててられた王家の夏の離宮のオリジナルということであった。ただし隣接する庭の噴水などは18世紀のものであり、周辺部の植栽などは現代になって手が入ったものである。
アルハンブラ宮殿も含めて、ここに引かれる水はシエラ・ネバダの山脈の雪解け水だという。
なお「ヘネラリーフェ」とはアラビア語で「天国の庭」の意味だという。
アルハンブラ0004

アルバイシンの町並みと、サクロモンテの丘
写真に出すのが「アルバイシン」の町並みと、向うに見える小高い丘が「サクロモンテの丘」と言い今もジプシーが穴を掘って生活しており、観光客にフラメンコを踊ってみせたりする。
前回私は疲れていて行かなかったが、同行者で行った人が居て、結構たのしかったという。アルバイシン地区も世界遺産であり、勝手にいじることが出来ないことは、先に引用した個所にも書いてあると思う。
なお、「グラナダ」=「ざくろ」の意味である。
写真④に現地ガイドを出しておく。
彼女は目下妊娠中で七月半ばが出産予定日という。

グラナダ・ガイド

前回来たときに私がここで詠んだ歌

ムーアの血遺れる街に購(もと)めたる柘榴は朱しグラナダ地霊・・・・・・・木村草弥


ライオンは水時計なりぬそれぞれにシエラネバダの水を垂らして

 いずれも私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
これでグラナダの観光は終わり、写真⑤の店ALBANTAで昼食を摂る。
メインは「タパス」(おつまみ料理)ということだった。詳しいことは忘れたが、結構おいしくいただいた。
アルハンブラ・昼食のレストラン

アルハンブラ・昼食のレストラン0001

後は、一路、バレンシアまで、延々と540キロ走る。途中で二回トイレ休憩する。
運転手は走行距離の関係で、労働基準法に決められているとかで一回30分以上の時間を取る。
さすがにスペインは社会民主党が政権を取る国であり、きちんとしている。
もちろん日本にも、そういう規定はあるので、ご心配なく。試みに、長距離のバス旅行をされてみたら、よく判る。

イベリア半島のガソリン・車のこと
国道の沿線にあるガソリンスタンドの値段のことだが、トイレ休憩で立ち寄るところで表示される価格を見ると、日本以上に高いようである。ディーゼルとガソリンでは、もちろん値は違うが、どちらも高いようだ。イベリア半島では原油は採れないから日本と同じく専ら輸入オンリーである。標準のガソリンで150~160ユーロとか書いてあるから、今の為替レートで換算してみても、とても高い。
それに走っている車は、総じて、日本とは、一回り小さい車が大半。
一昨年のアイルランド旅行で見たのと同様で、1リッターカーというところ。ここでは乗用車の生産はしていないから、(一時、組み立てなどやっていて日産でスペイン製というのがあったが)走っているのは外国車ばかり。近くのフランス、イタリアの車が多い。もちろんドイツのベンツやアウディ、BMWというようなものもあるが数は少ない。フランスの車も日本では見かけないような小さいものが多い。これらを見ていると、日本の車は一回り大きいということになる。その代わり日本では「軽」というジャンルがあり、これが全体としては数が多いから、オアイコということになるか。

道沿いに「城砦」の廃墟
延々と走るバスの車窓からは、沿道に点々と小高い丘の上に古い「城砦」の廃墟が見える。中にはクレーンが立って修復途上のものもある。古来、幾度も戦乱に巻き込まれてきたので、自衛のために、こうした城砦を中心にして彼らは過ごしてきたのだった。
それらは「石造り」だからこそ、今まで、その形を保ってきたのである。
そういう「名も無い」城砦を見ていると、(六月の月次掲示板にも引いたが)、折りしも、かの地も「麦秋」の季節まぢかであって、こんな句が浮かんだ。

 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(22)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
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 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

バレンシア・・・・・火祭とオレンジで有名
写真①は、パレンシア宿泊のホテル・HUSA ALAQUASでの夕食の「パエリヤ」である。それは、ここが「パエリヤ」の発祥の土地に因んだものである。

パエリヤ

パエリヤ0001

ただし、これは日本人向けに改良されたもので、柔らかくて水分も多い。
「シーフード・パエリヤ」になっている。
スペインでは本来は「海」のものは余り使わないという。地域によって違う。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。
写真②が一人前づつ取り分けられたもの。
本場スペイン人の食べるものは、米も、もっと「芯」のあるものではないか。
これは日本人ふうにやわらかく炊いてある。

バレンシアというと何と言っても火祭であろう。
もちろん今は、そのシーズンからは外れている。
以下に「火祭」の記事をネット上から引いておく。
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スペイン バレンシア サン・ホセの火祭リ
・期日:3月12日~19日 (実際に街中に人形が設置されるのは15日深夜) 
・場所:バレンシア市内 

スペイン三大祭りの一つ、サン・ホセの火祭りが地中海に臨む都バレンシアで華々しく催されます。
これは街々の広場や通りを張子人形で飾り付け、3月19日のサン・ホセの夜に全て焼き払ってし
まう祭りです。 「ファヤ」と呼ばれるこの人形は大小とりまぜて計600にのぼり、バレンシアの街々
を埋め尽くします。

 連夜深夜には大規模な仕掛け花火が打ち上げられ、人々は夜が白々と明ける頃まで飲み歩きます。
最終日19日のサン・ホセの夜には小さなファヤから一斉に火がつけられ、20日午前1時にバレンシア
広場の巨大なファヤが炎に包まれると火祭りは閉幕、これをもって本格的な春の訪れとなります。

■祭りの起源は?
 サン・ホセとはスペイン語で聖ヨセフ、つまりイエス・キリストの父親のこと。職業が大工だったことから
大工職人達の守護聖人として崇められています。昔からサン・ホセの日に古い材木や木屑などを集めて
大きな焚き火をする習慣が大工達の間で受け継がれていましたが、ある日 張子の人形を火の中に投げ
入れたのが周囲の人々に面白がられ、それがきっかけとなり色々な人形が作られるようになりました。
現在では1年も前から競って構想を練り、飾り付けも凝った風刺のきいたテーマが取り上げられるように
なりました。

■ファヤとは?
 「ファヤ」とは街中を飾る張子人形のことで、その人形の大きさは大小さまざま。「ファヤ」が単数形で、祭りの名前でもある「ファヤス」が複数形。通常、「二ノット」(ninot)と呼ばれる張子人形の単体を複数組み合わせて一つの「ファヤ」が造られています。一般的に、地区ごとに1つの「ファヤ」を造ります。

ファヤはその大きさによって、大型な「ファヤス・アドゥルトス」(“大人のファヤス”の意)と、小ぶりな「ファヤス・インファンティレス」(“子供のファヤス”の意)に分類され、大きなものは高さ30mにも及びます。人気投票でも部門が分けられ、点火も小型と大型は別々に行われます。
■祭りの見どころは?
 -祭りがクライマックスを迎える19日深夜-

 祭り最大の見どころは、19日深夜に行われるファヤスへの点火。最も人気があるのが、市役所広場に設置されている大小2つのファヤスで、バレンシアの火祭りのシンボルとなっています。

 市庁舎広場で見学する方の多くは、小型のファヤの点火を見て、そのままその場に残り、大型ファヤへの点火を待ちます。大勢の人が集まりますので、早めに場所取りをしたほうがよいでしょう。

 また、あまり近づきすぎると、火の粉が飛んでくることがありますのでご注意を!ファヤスは市庁舎広場以外にも、町のいたるところに設置されているので、市庁舎広場にこだわる必要はありません。
 
■連日14:00の爆竹ショー “マスクレター”
 連日14時に行われる市庁舎広場での爆竹ショーは迫力満点。3月初旬から行われていますが、祭り本番の16日頃からは爆竹量が増える傾向にあります。すさまじい爆音とともに、あっという間に広場は真っ白な煙に包まれます。数分間続く爆竹の轟音は、決して忘れられない体験となるでしょう。
■華やかな献花パレード
 民族衣装を身にまとい、カーネーションの花束を手にした大勢の老若男女が列を成し、大聖堂裏手のビルヘン広場を目指します。広場には巨大な聖母像をかたどった木製の骨組みが作られており、献花者一人一人が捧げる花を使って聖母のマントが描き出されていきます。献花パレードが全て終了すると、目にも鮮やかな花のマントを覆った聖母像が完成します。またパレードには、音楽隊も参加します。
■“ニット・デ・フォック” (花火大会)
 「ニット・デ・フォック」とはバレンシアの言葉で「火の夜」の意味。場所はバレンシア旧市街地を取り巻く緑地帯(旧トゥリア川)であるアラメダ通り(パセオ・デ・ラ・アラメダ)です。ちょうど近代的な“エクスポシシオン橋”(Puente de Exposicioin)と古い“花の橋”(Puente de las Flores)の間辺りで開催されます。
■“カバルガタ・デル・フエゴ” (炎のパレード)
 悪魔をイメージした黒や赤の衣装の人々がたいまつを手に行うパレード。コロン通りを通り、プエルタ・デル・マル広場で終了。プエルタ・デル・マル広場には特別席が設けられ、「火祭りの女王」
たちもパレードを観覧。

人形

■燃やされない人形がある?
 2月中旬から3月14日まで人気投票用の「二ノット」(ファヤスを構成する張子人形の単体)が展示され、そのなかで最も投票数の多かった作品1点(ファヤス・アドゥルトスとインファンティル各部門1点)だけが火の手を免れ、「火祭り博物館」に永久保存されます。「火祭り博物館」は年間を通して開いているので、火祭り以外の時期にバレンシアを訪れても見学可能。

■ファヤを造るための主な資金は?
 各地区で「ファヤ」の組合を作り、メンバーから会員費を徴収
各地区で宝くじを作り、それを販売して得る収益金
地元政府の経済援助(各ファヤの制作予算の25%)
スポンサー契約
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バレンシア観光ではカテドラルなども案内されたが、現地ガイドは都市ごとに変わるから、自分のところのが最高などと言うが、スペインはカテドラルだらけで見分けもつかない。他に「メルカード」という大きな、清潔な中央市場にも行ったが省略する。
写真③は、火祭りに使う人形のいいものを保存してある「フアーリヤ製作者博物館」。(ファヤが正式)
写真④⑤は、そこに陳列してあるもの。滑稽み、皮肉に満ちたものが多い。

昼食に「トルティーヤ」というスペイン風オムレツを食べて、一路このツアー最後の訪問地「バルセロナ」へ。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(23)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
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バルセロナ(1)・・・・今回の最終地・・・・ガウディ・・・・グエル公園
バルセロナも1990年1月に来たときの曽遊の地だが、オリンピックなども開催して、ここも特に周辺部が広がって大きく変貌した。
ここも市内の観光は午前中だけである。
ここバルセロナでの目玉は何と言ってもガウディに関係するものだろう。
写真①には「サクラダ・ファミリア」教会を出しておく。
写真②以下はすべてグエル公園。
グエル公園0001

私たちの泊ったホテル・カタロニア・ルーベンスはグエル公園に近い高台の斜面にあった。

ガウディのことをネット上から引いておく。
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アントニ・ガウディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アントニ・ガウディ(カタルーニャ語:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet, 1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリアをはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)。

誕生
アントニ・ガウディは、1852年6月25日午前9時半、カタルーニャ州タラゴナ県に、フランセスク・ガウディ・イ・セラとその妻アントニア・クルネット・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。

ガウディの出生地とされる場所には、レウス(Reus)とその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(Mas de la Calderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている。
ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。

幼少時代
一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った。バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。
ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる。[6]後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物」であると語った。
1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会(Piarists)の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「アルレッキーノ」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家マリア・フォルトゥニ(Marià Fortuny)の影響が指摘されている。
ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近いタラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院への小旅行もしている。特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている。

学生時代
1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの建築事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。

1878年に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。
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グエル公園0002

グエル公園

グエル公園くねる椅子

グエル公園管理事務所

グエル公園(カタルーニャ語:Parc Güell, 英語:Park Guell)は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。
なお、現地のカタラン語では、グエルではなく「グエイ」と発音されるから、念のため。
もともとはアントニ・ガウディの設計した分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人と発注者のエウセビオ・グエル伯爵だけであったという。
グエル伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家がガウディ記念館として公開されている。中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。
写真②は回廊。
写真③は「トカゲの噴水」。
写真④は「うねるベンチ」。
写真⑤は、元は「守衛室」として建てられたもの。
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ガウディについては下記の本を参照されよ。
丹下敏明『ガウディの生涯』彰国社、1978年
中山公男・磯崎新・粟津潔編『ガウディ全作品1 芸術と建築』六耀社、1984年
中山公男・磯崎新・粟津潔編『ガウディ全作品2 解説と資料』六耀社、1984年
鳥居徳敏『アントニオ・ガウディ』SD選書197、鹿島出版会、1985年 ISBN 4306051978
サビエル・グエル(入江正之訳)『ガウディの世界』彰国社、1988年 ISBN 4395050808
鳥居徳敏『ガウディの建築』鹿島出版会、1987年 ISBN 4306042146
入江正之『ガウディの言葉』彰国社、1991年 ISBN 439500315X
赤地経夫・田澤耕『ガウディ建築入門』とんぼの本、新潮社、1992年 ISBN 4106020017
ファン・バセゴダ・ノネル(岡村多佳夫訳)『ガウディ』美術公論社、1992年 ISBN 4893301195
ロベール・デシャルヌ、クロヴィス・プレヴォー(池原義郎・菅谷孝子・上松佑二ほか訳)『ガウディ――芸術的・宗教的ヴィジョン』鹿島出版会、1993年 ISBN 4306043029
ヘイス・ファン・ヘンスベルヘン(野中邦子訳)『伝記ガウディ』文藝春秋、2003年 ISBN 4163594906
外尾悦郎『ガウディの伝言』光文社新書、2006年 ISBN 4334033644

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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(24)・・・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
 ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

サグラダファミリア0002

バルセロナ(2)・・・・・サグラダ・ファミリア教会
ガウディの傑作──サグラダ・ファミリアを見学する。
ここも曽遊の地だが、前回1990年に来たときには周辺の建物は取り壊し中で景観を良くするためにしているということだったが、今回来てみると前にも増して周辺には、ぎっしりと建物が建っている。施主にも、それらを買収するお金がないのだと思った。
前回1990年1月に、ここに来たときに私の詠んだ歌

ガウディの聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の尖塔は長き影ひき夕陽に輝(き)らふ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。
写真はクリックすると大きくなり鮮明に見られる。

ネット上から記事を引いておく。
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サグラダ・ファミリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語:Sagrada Familia)はスペイン、バルセロナに建設中の教会。サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味する。正式名称はEl Temple xpiatori de la Sagrada Família(聖家族贖罪教会)。日本語では聖家族教会または神聖家族聖堂などと呼ばれる。ガウディの代表作の1つ。
概要
民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画したものである。

初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、1882年に着工したが意見の対立から翌年に辞任。その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディである。以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。

ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっている(模型も破片になってしまった)。この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定であり、またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成である。
東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはりんごをくわえた蛇が彫刻されている。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。
西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ポンティウス・ピラトゥスと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。
もっとも最近の予測では、完成は2256年前後と言われている。建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して修復も行われている。

2005年、建設途中ながら、外尾悦郎の手がけた生誕のファサードの部分がアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録。
2006年、直下に高速鉄道AVEのトンネルを建設する計画が持ち上がり、教会側は地元自治体などにトンネル建設中止の働き掛けを要請している。この騒ぎで教会が市に建築許可を受けていないことが判明し、違法建築であることがわかった。
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サグラダファミリア0001

工事は、最近は急ピッチで進んでおり、上の記事とは、ずっと早く完成するかも知れないという。
今の建築責任者はスビラックスと言い、彼はガウディとの差別化をはっきりさせるために直線的なフォルムを採用しているから、彼の担当個所からは全体とマッチしないような印象を受ける。写真②の左側の白い部分。
サグラダファミリア0003

写真③の「生誕の門」の彫刻は外尾悦郎の手になるもの。
余り言われないことだが、フランコ総統の頃の「内戦」で、この部分は損傷を受け、それを元に戻す作業を外尾氏がなさっていたということである。
写真④は「受難の門」。上の解説記事など参照のこと。
写真⑤の「受難の門」の像の左側の数字パズルは縦からも横からも数字を足すと「33」になるのはキリストが磔刑に付されたときの「年齢」が33歳であったことを暗示するという。

その他、ガウディの作品になる「カサ・ミラ」「カサ・バトリョ」などを外から解説を受けながら眺めるが、写真はない。前回は建物の中にも入って見学した。
これで、団体行動としての観光を終わり、午後からはOPの「モンセラート」観光に出る。
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 サグラダファミリア


サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道(25)・・・・・・木村草弥

 El Camino de Santiago de Compostela
 ──スペイン・ポルトガル周遊──
        ・・・・2008/5/10~5/22、13日間(JTB旅物語)・・・・

バルセロナ(3)・・・・・モンセラ 見学
ピカソ美術館も見学したが、厳しい撮影禁止のため写真は一切ない。
前回来たときに、ここで私の詠んだ歌

ファシストを告発したるゲルニカの絵を見る人はみな立ちつくす・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載る。

一言書いておくと、この絵は現在はマドリッドの「国立ソフィア王妃芸術センター」にある。
そのことはマドリッドのところで書いておいたが、1990年時点では、ここに展示されていたのである。
モンセラ0002

モンセラについて、ネット上からChika Nakanishi氏の記事を引いておく。
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モンセラバルセロナから内陸側に向かってカタルーニャ公営鉄道またはバスで1時間ほどのところにある奇怪な形状の山,それがモンセラです.モンセラ (Montserrat) とはカタラン語で「ぎざぎざ山」というような意味で,その名の通り,見るからにぎざぎざ,不自然な形であり,その不思議な迫力は見る者誰もを圧倒させます.バルセロナから日帰りで観光できるスポットとして外人観光客にも人気のようです.
 
1.カタルーニャの象徴
一般観光客からすると,この形状のあまりの奇怪さのため,他の見所を忘れそうになりますが,実はこの山の中腹には,カタルーニャ最大の聖地といわれるベネディクト派の修道院があります.
ベネディクト派というのはベネディクトゥスが529年頃モンテカシノに創立したカトリック教会の修道会の一つで,服従・清貧・貞節の三原則に基づく戒律により労働と勉学を重んずる宗派です.

労働と勉学を重んじる,というのはいかにも,几帳面で勉学に仕事に熱心なカタラン人にしっくりくる価値観なのでしょう.実際,モンセラを訪れる人の半分近くはカタラン人,半分近くが外国人,そして残りがその他スペイン人なのですが,一般に外人訪問客は少年聖歌隊の歌を聴く以外は特に宗教的行事に参加しないのに対し,カタラン人訪問客は信心深い人が多く,訪問客の過半数が毎年訪れ(毎年ではないけれども何度か来ている人も合わせると9割),宗教的行事に参加しているそうです.
モンセラ0003

フランコの独裁時代,カタラン語の使用が禁じられていたときも頑としてカタラン語でミサを行い続けたこともあり,この修道院を含めてモンセラはカタラン人の心のより所,シンボルとなっています.そういえば私がたまたま訪れた日には,カタルーニャの大統領,プジョール君が来ていました.スペインでも一応,憲法で,政治と宗教は分離が定められているのですが(でも祝日にはキリスト教の影響が色濃いですけれど),日本での靖国神社参拝問題に近いような気がしました.

またカタルーニャにはモンセという名の女性が多いのですが,これもモンセラから来ているそうです.
2.カタルーニャの英知
この修道院の特筆すべきは,カタルーニャの英知の中心と言われるほど,博学の僧侶達が住むところとして知られているということです.大学で神学を修めるだけでなく,その後バルセロナのビジネススクール (ESADE:私の通っている学校です) で企業経営,管理手法などを学んでいる人もいます.
 まあビジネススクールに行く人が皆博学というわけでは無いんですけど... 中にはそーゆー人もいるという...(苦笑)

特に1980年代前半からは,宗教的な勤めとともに,山,礼拝堂 (Santuario),修道院 (Monasterio) の3つを1つの複合施設とみなし,この複合施設においてより望ましい経営活動を実現させるための都市計画に関して,並みならぬ努力をしています.
例えば,87年夏には建築家グループを参加させた都市計画コンクールを開催したり,90年にはマーケティング会社にはじめての本格的調査を依頼しているのがその例です.
また,93年には複合施設の財産を管理する組織(設立は1913年:ホテルやレストラン,バー,ロープウェー,本屋,レコード屋,医療施設から郵便,両替などまで提供,監督している)に,やはりESADEのMBA出身で監査法人アーサー・アンダーセン勤務の監査人の1人を顧問兼ジェネラルマネージャーとして迎えいれ,さらにアンダーセンには,前述のマーケティング会社に外部状況分析を依頼したのに並行し,組織の内部状況の分析を依頼し,現状認識,改善の方向を探り,それに向けて絶えず努力しているようです.一般企業であれば特に珍しいことでもありませんが,修道院がここまでしているというのは世界でも珍しいと思います.
モンセラ0005

あまりコマーシャリズムを意識させないように,というところまで考慮に入れ,かつ,宗教と経済活動の両立を目指しているその姿勢は,私の想像をはるかに超えるものです.
ただし経済活動といっても営利主義ではなく,目的は地域の繁栄のようで,必要とする人に必要とするモノ,サービスを提供したい,なるべく多くの人に訪れてほしいから,彼らが必要とするものを用意しよう,という姿勢が基本になっているようです.
3.修道院,少年聖歌隊
モンセラの見所といえば,まずは,その眼下に広がる見事な絶景だと思うのですが,その他にも,修道院の中にいくつか見所があります.
モンセラ黒い聖母

1つには,黒いマリア,ラ・モネレータとして有名な木彫りのマリア像があります.黒いマリア像というのは珍しいそうなのですが,理由は何らかの化学変化だろうとか,ろうそくのススだろうとか,いろいろ言われています.礼拝堂の2階にあり,上がって触ることができます.私が行ったときは,お昼前の時間帯は非常に混んでいて行列ができていましたが,お昼を食べて2時過ぎくらいに行ったら,全く行列はなくなっていて,ゆっくり見ることができました.修道院の中のステンドグラスも外から光りが差し込み,とても美しかったです.

もう1つの見所(聴き所))と言えば,エスコラニア (Escolania) と呼ばれる少年聖歌隊です.非常に美しい歌声なのですが,私が行った日は,プジョール君が来てたこともあってか,冬の割には異様に訪問客も多かったようで(普通は春から秋にかけての方が多い),合唱が始まってからも妙にざわざわして,少し聴きづらかったです.時間は,ガイドブックによって情報が若干異なるので何なんですが,少なくとも昼の13時からというのは7月以外は毎日あるようです(私はこれを聴きました;ちなみに7月は彼らのお休みです).彼らの歌のCDやテープはお土産屋さんで購入することができます.ビデオもありますが,スペインはPAL式なので,日本で見るにはNTSC方式に変換できる特別なビデオが必要になるでしょう.

なお,冒頭に日帰りできる,と書きましたが,中にはホテルやオスタル(安ホテル)などの宿泊施設もありますし,レストラン,スナックなどもありますので,一泊して早朝のモンセラからの壮大な眺めを堪能するというのも素敵かな,なんて思います.なお予約は要らないと思われます.

4.モンセラのチーズ・マト 
モンセラの修道院ではマト (mato) と言われるフレッシュチーズを作っていて,これはカフェで食べることも,お土産屋さんで買い求めることもできます.カテージチーズのような,軽めの,ほろほろした感じのチーズです.カフェではハチミツと一緒に出されますが,これがマトの食べ方なのです.
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添乗員の大橋さんは、ここモンセラを、ギリシアの「メテオラ」の奇岩の上の修道院と同じような話をしたが、全然、別個のものであることを申しておきたい。
私のWEBのHPに「エーゲ海の午睡」というページがあり、そこに「メテオラ」のことも写真と記事で書いてあるし、また、このBLOG2007/11/10付けにも写真や地図を入れて載せているので、参照されたい。
ここモンセラには確かに「奇岩」はあり、ずっと大昔には、そういう奇岩に潜んで修行していた僧たちがいたのだが、近世になってから下界からの道もつき、ご覧のような超立派な教会(バジリカ)も建って、今ではすっかり観光名所となっている。
だから、これを嫌って、修行僧たちは、文字通り、奇岩に庵をたてて修行しているという。
ギリシアの「メテオラ」は、今は観光客を受け入れているとは言え、道路は狭く、文字通り奇岩の上にひっそりと建っているのである。
この辺のところが、ローマ・カトリック配下にある世俗化し、権力化した「モンセラ」の現実の姿であり、私は人には言わなかったが、はっきり言って「幻滅」した。
モンセラの「奇岩」の景観については何も言うことはない。

モンセラの発音について
上の記事にも書かれている通り Montserrat と表記する。ガイドブックなどでは「モンセラ」と書かれているが、現地ガイドの人が「モンセラット」と聞こえる発音をしたので、私は質問してみた。語尾の「T」は子音のみで発音しないと同様、というような微妙な返事だった。
カタラン語というのは、フランス語とイタリア語をミックスしたような言語であり、アルファベットの表記を見るかぎり、フランス語式に、二つの「T」は発音しないのであろう。

公衆トイレ

写真⑤は、ここに行く前に、どこかのショッピングを逃れて外を散歩していて見つけた「公衆トイレ」である。
有料で料金は30セントだった。私が物好きで利用して出てきたところをT・F氏が撮ってメール送信してくださったものである。御礼申し上げ、ここにアップしておく。

これで、今回の旅は、すべて終った。何かいい資料が手に入れば、手直し、肉付けすることはあり得ると申し添えておく。

 
四川省世界遺産の旅─黄龍・九寨溝他・・・・・・・・・・木村草弥
2007/07/02のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間(1)・・・・・・木村草弥

        ・・・・・・JTB旅物語・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

旅物語0001
標記のような旅をしてきた。
中国には数回行ったが、直近のものは2002年6月の山東半島青島・曲阜・泰山の旅で、それ以後は妻の体調不良で行けなかった。
中国は刻一刻と大変動しており、一昨年11月にANAのマイレージの期限切れ消化のために三日間上海に単身行ったときよりも、更に激しく変わっていた。
この頃は、国内旅行もJTB─特に「旅物語」の利用がほとんどである。
というのは私は以前からクレジットカードに「JTB」カードを持っていて、旅の申し込みと決済の一切を、このカードで居ながらにして行えるからである。しかもインターネット上で申し込みをすると、直後にJTBから確認の電話があって確定する、という簡便さが何とも便利なのである。
「旅物語」の品質としてのグレードは大衆的なものではあるが、ホテルなども決して悪くない。
今回は成都と九寨溝とシェラトンホテルだったが、現代中国では五つ星のトップクラスであり、極めて快適だった。

中国は沿海部を中心に大発展しているし、高速道路と航空網の整備には目を見張るものがある。
昔の中国では、飛行機は定員しか載せないのにもかかわらず、鉄道と同じような感覚で、空港でも押し合いへし合いの混雑で、発着時刻も混乱が普通だったが、今回は乗客も平静で、飛行機の発着の時刻も日本以上に定刻に離発着し、正確そのものだった。
ただ、旅の資料などは、まだまだ不自由で、今回手に入れた資料は『四川の魅力』(日本語版・著者 許文祥)、『蜀の風情』の二冊のみである。
ヨーロッパなどでは、今の時期になると、もう来年のカレンダーが出来ていて、みやげ物屋の店頭で買えるのだが、そういう文化的な面、観光開発の面では、極めて遅れている。
日本で買えるガイドブックとしては『地球の歩き方・成都・九寨溝・麗江』(ダイヤモンド社)、『ワールド・ガイド中国』(JTBパブリッシング)の二冊くらいである。あとは昭文社のものがあるくらいだが、全体として地域的な詳しい情報に乏しい。
したがって、今回の紀行文が、果たして読むに値するものになるかどうか、保障しかねるので、予めお断りしておく。
それに、中国は漢字も「簡略体」を採用しているので、ガイドブックなどは、この簡略体を併記しているが、このBLOGでは、私は現代中国語のフォントを採用していないから、出せないと思うので、ご了承を得たいと思う。
たとえば「九寨溝」は「九寨沟」と表記する。同じ発音なのであろう。ローマ字表記では Jiu Zhai Gou であり、これが現代中国語の発音を、ほぼ忠実に示しているようだ。
現代中国語の発音は中国の北西地方の方言が基礎になっていて、「ク」「サイ」「コウ」などの「清音」を「濁音」に濁るのが特長であり、われわれ現代日本人が「漢字」として発音しているのとは「違和感」があることを理解すべきである。つまり「キュウサイコウ」ではなく「ジウ ジャイ ゴウ」と発音するのだ。
これらのことは「日本語倶楽部」の記事のところでも少し触れたことがある。
旅は6月2日関西空港9:00中国国際民航CA164便上海行ではじまった。定刻よりも10分も早い離陸だった。総勢35名という大所帯。
上海現地時間10:30着。定刻で2時間半だが、実際は2時間しかかからなかった。
上海浦東空港で国内線に乗り継ぎ13:00にCA4504便成都行に乗る。
中国と日本との時差は一時間であり、中国国内は単一時間で時差は設けていない。
だから、東の沿海部と西の内陸部とでは、日の出、日の入りの時刻にかなりの明暗があろうと思われる。成都に15:50着。着後、宿泊のシェラトン リド ホテルに入る。
英語表記はSHRATON CHENGDU LIDO HOTELである。
漢字表記は「天府麗都喜来登飯店」である。

シェラトンホテル成都0001

写真②がホテル。高層で35階まである。私の部屋は30階だった。
市内には高層の建物が林立し、私が十数年前に訪れたときとは隔世の様子で、まるで浦島太郎のような心境になった。今の成都空港も数年前に新設されたもので、旧空港は国内地方専用の空港になっている様子。
このホテルは人民中路に面しており、目抜きの通りであり、ホテルに隣接して大きなサッカー場兼400メートルのアンツーカーのトラックを持つ競技場である。

サッカー場

翌朝は日曜日の朝とあって、薄暗いうちから、市民がトラックを列をなして疾走したり、サッカー場の周りのところでは太極拳や剣舞に打ち込む人たちなど、中国人たちの鍛錬ぶりを目のあたりにした。
中国、台湾、香港と言わず、中国系の人の住むところは、みな朝から体育というか、に励んでいる。これが中華系の特徴である。
写真④は、サッカー場の周りで太極拳に励む人たち。
リーダーらしき人が中に居ることがわかる。

太極拳

私が、この写真を撮って先へ進み、しばらくして引き返してきたら、「剣舞」をやっていたので撮ろうとしたら、やめてしまったので撮れなかった。
ジョギングする人は、もっと多い。先に書いたように、トラックを列をなして走っている人たちなどは、明らかに陸上競技の基礎の出来た人たちであるのは確かで、言わばトレーニングをしているかのようだった。

室内から
写真⑤は、私の30階の窓から見たサッカー場である。
窓越しなので、ガラスに反射して、いい写真が撮れなかった。

四川省のこと
「四川」という名称は、元朝が、この地に「四川行省」という行政区を設置したことに始まる。これが省略されて四川省と呼ぶようになり、清朝の時代に正式名称として採用された。
この四川省の省会(日本の県庁所在地に相当)が成都。
四川省は、以前までは人口1億3000万人と言われていたが、重慶市が直轄市として分離されたので、今は1億人という。それでも、この省ひとつでほぼ日本の人口に匹敵する多さである。
ここ成都は中国西南エリアの中心地で、かつ交通の要衝でもある。
市花は「芙蓉」で、市樹は「イチョウ」。
「三国志」の時代に活躍した劉備玄徳の「蜀」の国、参謀の諸葛孔明が活躍したところ。後で詳しく触れる。
成都は古くから「天府の国」と呼ばれ、肥沃な四川盆地の中心だった。2500年前にはすでに城壁で囲まれた大規模な街だった。現在の成都の街のかたちになったのは清の康熙帝のときに清城が築かれて以降だという。ただ今は、もう城壁は無い。
そして四川省と言えば、「パンダの故郷」「激カラの四川料理」というのが一般的な日本人のイメージということになろうか。

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  峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(2)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

青城山

 青城山
観光の第一日は成都の北西63kmにある「道教」の発祥地である「青城山」に向かう。
ここは標高1600メートルの峰々がつづく緑の木々が山全体を覆う原始林で、その様子から「青城山」と称される。前山と后山とがあるが、普通には「前山」のことを言う。
後漢の末期、道教の前身といわれる宗教集団五斗米道の創始者張道陵が布教をはじめたのが、ここである。その後も道教の聖山として栄え、今でも山中に道観が点在し多くの道士が修行する。
そのような文化的価値が認められ、2000年に「都江堰」水利施設とともにユネスコの世界遺産に登録された。

青城山ロープウエー

ここには長いロープウエー(二人がけのスキー場にあるようなリフト)に乗って上ってゆく。
月城湖という池があり、ワイヤー引きのフェリーみたいな船で渡った対岸にリフト乗り場がある。
よくご覧いただくと、写真②の向かいの山にリフトの筋が見える。
とても長いリフトである。
このリフトの終点のすぐ近くに「上清宮」がある。(写真③)

青城山上清宮

道教の寺院だけあって、普通の仏教寺院とは建物の形なども違いがある。
日本のガイドブックには載っていないが、現地で買ったガイドブック『四川の魅力』には、こう書かれている。

<昔、この山は「清い城山」と呼ばれたが、道教の教義「静心、無欲、素朴」というのが、この山の名前にマッチしています。唐の時代、領地をめぐって仏教と道教の間で紛争が起こり、皇帝が「観を道家に返し、寺を外へ移せ」と詔書を書いたとき、「清い城山」の「清い」を「青」に書き間違えました。以後、この山は「青城山」ということになりました。この事実は麓にある石碑に残っています。>

写真④は上清宮本堂前に供えられた「赤いローソク」である。どぎつい赤色で美的感覚を疑うが、中国人は、こういう派手な原色が好きである。

青城山上清宮ローソク

『四川の魅力』から引用してみよう。

<前漢時代の紀元143年、張道陵という人がここで道教を創始しましたが、唐代末には「鶴の仙人」と呼ばれた杜光庭が道教の本を出したりして、道教の普及につとめた。南宋の時代には李少薇が体を鍛えることを説き、信者を大幅にふやした。清時代の初めには陳清覚という人が修行に専念して、康熙帝から「丹台碧洞」という額をいただき、勢力を伸ばした。>

青城山屋台
写真⑤は、門前でおかずを売る屋台である。
おいしそうな匂いが辺りに漂っていた。

書きもらしたが「上清宮」の扁額の字は国民党主席だった蒋介石が書いたもの。
「上清」というのは、仙人が住んでいるという意味だという。
伝説によると、太上老君が大きな青い羊に乗って、吉祥の雲を追って、この辺りに来たという。成都の街中に「青羊宮」という大きな道教の道観(寺院)があるが、これに因んでいる。
この山には「樹木の王様」と言われる銀杏の木があり高さ30m、枝の傘の直径36mと言い、創始者の張道陵が植えたという。
「銀杏の実」「漬物」「茶」「酒」は青城山の四絶と褒められ、いい贈り物になるという。
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   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
        四川省世界遺産の旅8日間(3)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 都江堰
青城山を降りて、すぐ近くの岷江のほとりの「都江堰」へ。
ここは成都の北西48km、岷江の上流にある古代水利施設。

都江堰②

この工事は紀元前256年(秦の襄王の統治期)、岷江の氾濫を防ぐために蜀郡太守の李氷が指揮を執って始まった。大規模な工事は息子の李二郎が受け継いだが完成したのは彼の死後、数世紀経ってからである。
現地ガイド・張さんの説明によると、上に書いた息子というのは、実際には居なかった。
李氷を慕う現地の人たちが、事業を継続する建前として、空想上の息子というのを作って事業完遂のための「シンボル」としたのだという。

都江堰③

都江堰の構造は「魚嘴」「飛沙堰」「宝瓶口」の3部分から成る。岷江の水は、先ず人工の中洲によって外江と内江に分かれる。外江の水は、そのまま岷江として下流へ流れてゆくが、内江の水は灌漑用水として宝瓶口へ流れこみ、いくつかの用水路に振り分けられて成都平原を潤すことになる。
写真③は当時の国家主席・江沢民の揮毫になる額。

この堤防を兼ねる中洲は竹製の籠に石を詰めたもの(土木工学上では「蛇籠」ジャカゴと呼ぶ)を積んで築かれた。

都江堰蛇籠

この中洲の最上流部を「魚嘴」という。鋭角になっていて、魚の嘴のような形なので、この名がある。中洲の最下流部を「飛沙堰」と呼ぶ。この堰は洪水対策のもの。岷江が増水したとき、内江へ多量に流れると、四川平原に水が流れ過ぎて氾濫を起こす。そのため、内江の水が多いときは、内江の水が飛沙堰を通して外江に戻るようになっている。
ここから引かれた水は成都平原5300平方キロメートルの農地を潤し、成都を「天府の国」と呼ばれる豊かな大地に変えた。
堰の東岸にある二王廟は李親子の徳を讃えるために南北朝時代に建てられたものである。
もちろん現在われわれが目にする堰は現代人の手が加えられたものなのは言うまでもないが、基本的に古代の工法が今も生きているのは貴重なものである。
写真⑤は、見学用に置かれた「蛇籠」の見本である。
この工法は、日本でも施工されていたものである。
竹の代わりに金属製の網などが使われることもある。

アメリカの宇宙飛行士が月から地球を見下ろしたとき、見えたのは万里の長城、エジプトのピラミッド、そして「都江堰」だったと言われている。『四川の魅力』によると、

<中国の戦国時代は多くの英傑を輩出しました。道教の老子、儒家の孔子、墨家の墨子などですが、李氷は水利工事の専門家であるとともに、優れた政治家でした。庶民の苦しい生活を考慮し、なるべく税金を減らすよう中央の宰相にも進言したりしました。彼は庶民との人間関係を重視したのです。李氷殿の上の額には「利済全川」と書かれていて、文字通り、この堰が出来てから四川省の庶民に恩恵をもたらした、という意味です。>

この日は、四川省の南西部にある「峨眉山」の麓の街まで約200数十kmをバス移動して、今晩宿泊のホテル峨眉山大酒店に入る。かくて第二日は終わった。
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2007/07/03のBlog
  峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(4)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

峨眉山
第三日が始まったが、昨夜泊まったホテル・峨眉山大酒店は部屋はともかく、ホテルとしての従業員教育がなっておらず、悪かった。
私たちは第三棟というところに泊まったが、本館と呼べる建物が、フロントというものがなく、食堂、レストラン棟という態のものだった。
ホテルの従業員もなっておらず、朝食の時間になっても出勤して来ず、私たちが群れをなして待っていたら、時刻を過ぎてノロノロと出てきて、大遅れで用意する始末。一頃の「国営商店」の頃の態度そっくり。おまけに、ここの食事は、おざなりの最低だった。その昼、峨眉山から下りてきての昼食も、ここで摂る始末で、踏んだり蹴ったりである。
旅のアンケートには、さんざん悪く書いておいた。

峨眉山金頂④


峨眉山は成都の南西160kmにあり、標高は3000mを越す高い山の頂上に「金頂」寺がある。バスで緑の森の中を延々と登り、最後はゴンドラに乗って頂に至る。空気が希薄で息苦しい。
ここは1996年に、隣接する楽山大仏とともに自然との複合世界遺産に指定された。

青城山ロープウエー

金頂に上るのには、私たちの乗ったゴンドラとは別に、むき出しのリフトもある。
ここの見所は、金頂で見られる「ご来光」「山の風景」「山中に残る歴史的建造物」だという。
「金頂」の建物─正式には「華蔵寺」という。全体に金ピカで、これらはそんなに古いものではなさそうである。

峨眉山金頂

峨眉山金頂③

 峨眉山の由来(『四川の魅力』による)
<昔から「青城こそ天下幽たれ」、「険門こそ天下雄たれ」、「三峡こそ天下険たれ」、「峨眉こそ天下秀たれ」という諺があり、四大絶景の一つとして、ここの景色が素晴らしい、しかも仏教の四大名山の一つとしても知られている。仏教の四大名山とは、山西省の五台山─文殊菩薩、浙江省の普陀山─観音菩薩、安徽省の九華山─地蔵菩薩、四川省の峨眉山─普賢菩薩、が修行していた場所です。>
<大昔、山の中の寺に一人の画家が訪ねてきました。画家は和尚さんと仲良く付き合って三ヶ月経ちました。宿泊料を和尚さんが取らないので、代わりに「峨眉四女」の掛け軸を置いて、必ず49日の後にご覧下さい、と言って去ったのに、和尚さんは、その絵を壁にかけてしまいました。ある日、外から和尚さんが戻ると部屋の中から笑い声がしたので、不思議に思って戸をあけると4人の美女がいて、あわてて逃げ出しました。
和尚さんが追っかけ、一人の裾に掴んだら、彼女は恥ずかしがって山に変わりました。後の三人も彼女を捨ててはいけないので、次々に三つの山に変わり、今の峨眉山になった、と言います。
実は今より6千万年前、ここはまだ川水一杯でした。地球の地殻変動のために東の方は沈下して平原になり、西の方は、この山になり、またチベット高原も含めて「地質の博物館」と呼ばれる峨眉山は、こうして生まれたのです。特異な地理条件のために、いろいろの珍しい動物と植物がここに生きているのです。>
<「金頂」の標高は3077mで、「日の出」「雲海」「「仏光」「聖灯」という四大絶景があるとされます。
特に「仏光」は、この吉祥の象徴を見たら、仏縁があると有難がられています。
この現象は今では「ブロッケン現象」として説明出来ますが、昔の人には不思議な体験だったでしょう。
普通、午後の2:00~5:00頃まで、また雨の後、雲が多いとき、よく出てきます。
ここでは年間75回くらい、どの季節にも見えて、他のところでは稀ですから、峨眉山の仏光は世界一だと言われます。>

ここは仏教寺院であるから、熱心な信徒が中国特有の、ひざまづいての礼拝を捧げるのが、写真⑤である。

峨眉山金頂⑤

今は仏教寺院だが、もともとは、この山は道教の山であった。
仙人の修行に一番のところであったが、仏教伝来以来、もう土着の道教と争いはじめたのである。
唐の時代に「禅宗」は、現地の主な宗教になり、お坊さんもどんどん集まってくるようになり、宋の時代を経て、明と清の時代には、ここには170の仏教寺院が見られ、そのときから道教は、ここから引いて行ったのである。
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2007/07/04のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(5)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 峨眉山山麓・・・報国寺・・・中国の食事のこと
峨眉山の頂上から降りて、昨夜宿泊したホテルで昼食を摂る。
ここで、中国の食事のことを書いておく。
朝食はバイキングが多いが、シェラトンホテルの朝食は、西欧式のものも多く、中華風のものなどバラエティに富んでいるが、外で食べるときも含めて、いわゆる「中華」料理と称するものの連続であり、おまけに「四川」料理の味付けは概して「激カラ」である。
私は中華料理は嫌いではないが、毎日毎日、昼も晩も、これが続くとうんざりする。
回転テーブルの食卓で、一品で食べる量は少しづつだが、8日間も居ると、お腹の中が変になったようで、私は痔の持病があるので、脱肛気味になり、血がにじんだりした。肛門の辺りがゆるくなったのかブリーフの局部が汚れて困った。
それに、海外旅行の旅はヨーロッパでもそうだが、バスに乗る移動時間が多くて、体調を崩しがちである。私は疲れが胃腸に来る質で、今回も口の周りに「あくち」の吹き出物が出たりした。

峨眉山麓

写真①は、山麓にある峨眉山の登り口に建つ碑である。「書」の国らしく、毛筆体の達筆の字が彫られている。
「報国寺」は作られたのは古くはない、16世紀の明代に創建され、清朝に今の場所に移されたという。
峨眉山ガイド張さん

写真②には世界遺産のマークが見られる。
マイクを握っているのが現地ガイドの「張」さんである。日常会話に不自由はないし、説明すべき文物の知識もほぼ完璧だが、ときどき微妙な表現に違和感があるのはやむを得ないだろう。
このツアーでは、「イヤホーン」ガイドによる説明を採用していて、少し離れていても聞き取れるので便利である。
この「山麓」は海抜500mくらいのところで、暑い日中だった。
写真③が報国寺。
峨眉山報国寺

この辺りは山への上り口で緑も多く、ホテルやみやげ物屋も軒を連ねている。
中国政府も地方の機関も「観光」開発には力を入れており、予算もつぎ込んであるらしく、よく整備されている。
ここは行政的には「峨眉山市」になっているというが、ここの観光を済ませて、われわれは一路、隣接する「楽山市」へと向かう。

 楽山大仏(1)
楽山市は成都の南西164kmに位置し、人口348万人で四川盆地の南西部における水陸交通の要衝である。中国は、どこでも、ちょっとした都市でも数百万の人口を擁している。
ここは「楽山大仏」のあるところで古くから観光地として栄えた。
有名人では作家の郭沫若が、ここの出身だ。
街について「岷江」の船つき場から船に乗って水上から大仏を見る。

楽山大仏船②

写真④は船つき場。
この大仏は1996年に峨眉山と合わせてユネスコの世界遺産(文化、自然の複合)に登録されたが、仏像は高さ71m、肩幅28m、頭部の高さ14m、頭の直径10mという巨大さである。足の甲には大人100人がゆったりと座れるという。仏像の正式名称は「凌雲大仏」と言い、弥勒菩薩である。
この大仏が作られたのは岷江の氾濫を鎮めるためだった。
船に乗るには写真⑤のように救命胴衣をつけさせられる。
大仏は先に書いたように、大きいから、川の上から船に乗ってしか全容を見られないのである。
なぜこんなに大きい大仏が作られたのか、それは、この凌雲山の下で大渡河と青衣江が岷江に合流するために、古来水害が絶えなかったので、それを鎮めるためであった。
唐の玄宗皇帝の時代の713年に凌雲寺の僧・海通が建立を発案し、浄財を募り取り掛かったが、完成したのは803年で、実に90年の歳月を要したのであった。
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2007/07/05のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間(6)・・・・・・木村草弥

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9
楽山大仏

 楽山大仏(2)
船は一旦、大仏前よりも上流まで行き、流れを利用してエンジンを加減しながら大仏前に静止するかたちで航行する。その間に、観光客は写真をパチパチと撮るわけである。
写真①のように、この山は川の上から見ると、「涅槃仏」のように見える。山の上に見えるのが仏塔ストゥーパである。
大仏の彫られている岩は紅砂岩という風化しやすい、壊れやすいのだが、なぜ1200年もの間その姿を保ち得たのか。
先ず、大仏は周りの岩の隠れた位置にあって、原始林に囲まれていて、太陽の日差しも弱まり、風もある程度防げて、風化が他のところより遅かったと思われる。
次に、大仏自身に精巧な排水設備があるためで、後ろの排水のための穴や、頭部の三本の排水溝は、下の衣の折り目と繋がり、雨水による被害を防いだ。
また、もともと大仏には当初、屋根が掛けられて保護されていたのである。明朝の末期に農民の蜂起軍によって焼き払われたが、長年、このように保護が手厚くされてきたので、今日も立派な像を拝見できるのである。
現在、昔のように「屋根」を復元しようという計画があるという。
船を下りて、駐車場から歩いて「凌雲寺」と、大仏の頭部のよく見えるところへ上る。

楽山大仏頭

写真③が間近に見る仏の頭部である。頭の上には1021個の「螺髪」ラホツがあるという。
耳の長さは7mもある。ここまで上ると、川を渡ってくる風が涼しい。
この大仏建立にあたった海通の浄財を集める苦労話も伝わっている。
「布施」を求めていた或る日、貪欲な役人に遭い、集めた浄財を奪われそうになった。海通は毅然として「たとえ目を取られても、浄財は一銭も渡さない」と言い放った。役人が怒って「では目を頂こう」と言ったら、海通はその場で自分の目を抉りだした。これには強欲な役人も驚き、以後は二度と彼を困らせることはなくなったという。
写真④は頭の高さのところから、下の台座と川を見下ろしたもの。
この辺りから、大仏の脇を通って石段を川まで降りられるというが、私は降りなかった。

完成した当時、大仏は金ピカに全身金箔が貼られていたという。
海通の死後、工事は中断され、以後、遺志を継いだ人たちの名前もわかっているが、省略する。
凌雲寺のある、頭部の公園からは対岸の楽山市の町並みが一望できる。
先に書いたように楽山市は、この地方の要衝であり、ご覧のような高層建築も林立しており、日本ならば大都会の規模と言えるだろう。

楽山市街

 「一人っ子」政策の見直し
何しろ中国は13億の人口を抱える大国であり、いたるところに人が溢れている。
「一人っ子」政策を推し進めて人口抑制政策を採ってきたが、おかげで高齢化が進み、人口構成の歪化が見られるようになったとかで、今では「二人っ子」まで子供を産むのを認めるように転換したとか。
楽山観光を終えたあとは、一路、高速道路を経て、成都まで戻る。約二時間半の行程だ。
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2007/07/06のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(7)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 武候祠・・・劉備玄徳と諸葛孔明
私は1993年1月に、昆明、石林、桂林、広州などを訪ねた旅で、成都に来たことがある。十数年ぶりということになる。
先に少し書いたように、成都の街は、その頃の面影は全く無いと言ってよい。
この武候祠や後日行く「杜甫草堂」などは、よく保存され、昔のままの風情だが、辺りはすっかり近代化してしまっている。
紀元223年4月に劉備玄徳が白帝城で亡くなり、諸葛孔明が彼の遺物をここに埋葬して以来、すでに1800年の歴史のあるところである。
入口には黒い壁があり、それは中国の礼儀では、重要な人物がここに祀られているという意味である。

武候祠②

写真②の横額には「漢昭烈廟」と書いてある。
「昭烈」、「武候」とは、それぞれ劉備玄徳、諸葛孔明の尊号で、古代では君臣の身分を厳しく区別して、劉備には皇帝としての「贈り名」で「昭烈」と名づけたが、諸葛孔明の功績を讃えて、後世に君臣を一緒に、この地に祀ったものである。
この武候祠の敷地は4ヘクタールある。
明の時代に隣の劉備玄徳の廟と合併して今の規模になった。
「三国志」の時代と関連する塑像、鼎、太鼓、碑など200余りの文物が展観されている。

劉備殿
この建物の中に入ると上の横額に「業紹高光」と書いてある。「業」は功績、手柄ということで、劉備が蜀の国を建てたということだ。「紹」は当たるということ、「高」は前漢の創始者である高祖劉邦のこと、「光」は後漢を建てた光武帝劉秀のことで、つまり劉備の功績は、祖先である劉邦や劉秀の功績と同じくらいだという意味である。
劉備は、もともと「漢」の再興をめざしていたということに因むものである。
劉備は河北省の生まれで、40歳頃まで各地を流浪する者であった。
当時「黄巾党」の乱で庶民が苦しんでいたので、彼は自分の兵を連れて、この乱を平定しようと考え、その後、張飛、関羽と桃の木の下で義兄弟の契りを結ぶ。これが有名な「桃園の義」という物語である。「関羽殿」「張飛殿」に彼らが祀られている。
関羽は「関帝廟」として後世、中国、世界各地に祀られて有名である。

武候祠

武候祠
ここが本来の意味で諸葛孔明を祀るところ。
入口の横額に「武候祠」と書いてあるのは、有名な作家・郭沫若の筆になるもの。
先に書いたように「武候」とは孔明の「贈り名」である。
殿に入る上の額に「名垂宇宙」と書かれているが、これは孔明はいつまでも人々に偲ばれる人だ、という意味である。
武候祠③0001

武候祠③

羽毛の団扇を持って、穏やかな顔つきをしているが、紀元181年、山東省の生まれで、27歳まで湖南省の北にある襄陽で晴耕雨読の生活をしていた。
劉備の「三顧の礼」によって宰相に迎えられたというのは有名な話。
後は省略する。

武候祠⑤

写真⑤が劉備玄徳の陵である。
私の写真には無いが、『四川の魅力』誌には、この陵には「千秋凛然」という横額があるという。
劉備は威風堂々としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味だという。
この陵墓は高さ12m、周囲180mである。紀元223年4月に劉備玄徳は夷陵の戦いに敗れ、白帝城で病死した。
そこから、ここ成都まではとても遠いから、劉備の遺体が確かにここに埋葬されているかどうかは判らない。
この千年間、一度も盗掘されたことがないというが、物語があり、唐の時代に二人の泥棒が盗掘に入ったところ、声がして、近づくと、劉備と孔明が碁をさしていて、しかも関羽と張飛が側に立って見ている。驚いた二人が逃げようとすると酒をすすめられ、一気に飲んで逃げたところ大きな雷が鳴った。帰った二人は、病気になり死んでしまったという。

ここにどのくらいの時間居ただろうか。
われわれは一路、黄龍、九寨溝めざして奥地へ向かうことになる。今晩の宿泊地は「茂県」である。途中、悪路と交通渋滞に遭遇することになる。乞う、ご期待。
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2007/07/07のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
  四川省世界遺産の旅8日間(8)・・・・・・木村草弥

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

地図

 岷江上流・・・映秀・茂県への道・・・悪路と交通渋滞
先日行った楽山を流れている川も岷江だった。
岷江は大河・長江に合流して遥か東シナ海に注ぐのだが、今回の旅は、ずっとこの岷江にかかわるものだった。
黄龍、九寨溝に至る道は、ずっとこの川に沿っていることが、今回の旅で、よく判った。
中国の大河・長江は、大国・中国の遥か西の奥地から発しているのだった。

成都を発った私たちのバスは、地図を見ると、楽山への距離の三分の一足らずのところにある茂県(今晩の宿泊地)をめざして「地道」に入ったが、途中、どこか名前の判らない所で激しい交通渋滞に巻き込まれた。ガイドの話ではトンネル工事にともなう一方通行規制のためらしかったが、ここでわれわれは「勝手者」の中国人の一面を、かいま見ることになる。片側一車線の道路が渋滞しているのに、反対車線を強引に逆走してクラクションを鳴らしながら、先に割り込もうとするマナーの悪さ。
一頃の中国は、全くこうだった。マナーもよくなったと思っていたら、マナーの悪さは温存されていた。
今までからの経験から、私は中国人は、尊大で、「勝手者」だと思っている。激しい「自己主張」の持ち主である。厳しい乱世を生き抜いて来た何千年来の経験が性格として定着したのだろう。おまけに、世界は自分たちを中心に回っているという「中華思想」を抱いている。いまアフリカなどで天然資源の獲得を求めて中国人が進出しているが、その際の現地人などへの対応で、この尊大さが各地で多くの紛争を起こしているという。
私は日本人の「自己主張の無さ」をいつも反面教師として問題にするのだが、今回のような事態に直面すると、いろいろ考えさせられた。
高い山が延々とつづき、うねる谷あいに沿って狭い国道が走っている。「地道」にトンネルというものはない。ところどころにトンネル工事が見られるのは、山腹をぶち抜く「高速道路」の工事現場だ。
険しい岩山の山腹に張り付くようにして道は、くねり、登り、下りして延々とつづく。こちらから向うへ向かう車も大渋滞なら、向うから来る対向車も延々と渋滞しいている。ルートは、この道一本しか無いらしい。この間、何時間空費しただろうか。約3時間か。

 映秀での昼食は午後3時ころ
悪路でゆられ、ゆすぶられ、くたびれ果てて、写真どころではなかったので、写真は無い。
途中、土砂崩れのために、工事中の高速道路予定地の地道に迂回することになったが、仮設の橋が重量制限のため、乗客のわれわれは下車して先に歩いて対岸に渡る。もうもうとした土煙にむせながら300mも歩いたか。
みんな奥地でも学校教育には力を入れており、もうもうたる土煙の横に立派な小学校があったのを印象ふかく覚えている。
この辺りから、もう「アバチベット族チャン族自治州」に入っているらしかった。
そして、すっかり暗くなった中、できたばかかりの茂県国際飯店に着く。雨である。ホテルの横には岷江の流れが渓流の音をたてて流れていた。

茂県国際飯店はモーニングコールは午前5時─弁当もらって6時出発
高地と雨と低気温に備えてフードつきのコートを着用する。

どのくらい進んだだろうか。トイレ休憩も兼ねて羌(チャン)族の村に立ち寄る。
この「羌」という字は日本では「キョウ」と音読みするが、現代中国語では「チャン」と発音されている。
羌族は中国の少数民族の中では歴史が一番古い民族の一つで、アイマーとも呼ばれ、「現地の人」という意味である。彼らは今ほとんど九寨溝へ行く途中の岷江流域に住み、人口ほぼ20万人だという。

チャン族の村

チャン族の村②

チャン族の村④

写真②は羌族の村。
道沿いに住む彼らは写真③のように乾燥させたサクランボやナッツ類、などを売って生計をたてている。

羌族の歴史は3000年くらい前に遡ることができるという。殷の時代に甲骨文の中に彼らに関する記録があるという。秦の始皇帝の時代から、もうこの辺りに住み始めたという。もともとは遊牧民だったが、次第に農牧民になった。自分たちの言葉はあるが文字はない。漢民族とチベットの言葉によく似ているという。
牛の仲間の「ヤク」は黒色をしているが、一万頭に一頭ほどの割合で、白いヤクが居ると言い、珍しいので写真④のように観光客を乗せて一回5元で写真を撮らせる。

チャン族の村③

もっともガイドの張さんの話では、あちこちに白いヤクが見られるので、白毛に染めているのではないかという。
彼らの宗教は、万物には神と霊魂が宿るという、日本とよく似た宗教観を持つ。
それぞれの神は無限の力を持ち、人と家畜の安全、植物の収穫などの一切を支配しているから、彼らの宗教活動の主な内容は「魔よけ」などであるという。

この村から下に見えるのが、写真⑤の「畳渓海子」という湖で、ここは199?年の直下型の大地震で500メートル陥没して出来たと言い、数千人が亡くなったという。
おそらくは死者のほとんどはチャン族であったと思われる。

チャン族の村⑤

このような痛ましい記憶の湖を横目に見ながら、われわれのバスは一路、今日の第一の目的地である「牟尼溝」に向かう。
ここは谷筋から逸れて山の中に入ってゆくが、一般の観光コースにはめったに入っていないという。JTBは珍しいとガイドの張さんは言う。バス一台がようやく通れる道であるが、道路はよく舗装されている。

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2007/07/08のBlog
   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
        四川省世界遺産の旅8日間(9)・・・・・・木村草弥

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 牟尼溝─地図にもガイドブックにも載っていない
ここ「牟尼溝」は、後から振り返る今だから説明できるが、地質的には「ミニ黄龍」「ミニ九寨溝」だと言える。
岷江沿いの谷筋から逸れて山の中に入ってゆく。
写真①がその入口であり、ここで入場料を支払い、ゲートのバーを上げてもらって入る。先には駐車場もあり、施設は整備されている。
資料がないので、高度がどのくらいか判りかねる。

牟尼溝③

滝(瀑布)がいくつかあり、写真②のように説明板が設置されている。
土が石灰分を含んでおり、茂る草に付着した石灰分が沈着し、それらが「堰」の役目をして「棚田」のような形の段を作る。石灰分を含んでいるので、水は見る角度によって青く見えるということである。
ここはチベット族の村(寨)だという説明である。これらも、後でゆく黄龍などと共通する。
扎嘎瀑布。どう発音するのか判らない。
この滝の位置は海抜3100メートルと言い、歩くと息切れする。
ここは夏から秋にかけてがベストシーズンとかで、冬場には黄龍の代わりのツアーとして組み込まれることが多いという。後から言えることだが、黄龍を見たら、ここの規模は小さいので、改めて見る必要はないところ。
資料がないので、写真だけ載せておく。悪しからず。

牟尼溝④

写真④が成都を基点として各地へ乗せてくれた大型バスである。
エアコンも快適に効く立派なもの。
中国製である。狭い道もあるので、都江堰を終わってから「助手」を一人乗せた。
このようなことはトルコなどでは、よくあることである。運転の交代要員ということではない。
九寨溝空港までわれわれを送った後は、また、例の悪路と渋滞のところを通って成都まで帰ってゆくのだと思うと大変である。

牟尼溝⑤

牟尼溝を出てからの昼食は写真⑤のところ。
地元で採れた「キノコ」が主体のものでおいしかった。
店の名前もキノコにふさわしく「山野軒」とは恐れ入る。
しかし、料理の写真は撮らなかった。
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  峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
       四川省世界遺産の旅8日間(10)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

黄龍①

黄龍・・・・・富士山山頂のような高地で酸素うすく息切れする
ここは1993年にユネスコの世界遺産の自然遺産として指定された。
成都から400kmの四川省北西部の松藩県の北部に位置している。色とりどりの池群、3400もの沼、奇妙に鍾乳洞の景観が特徴である。8万平方メートルの土地はカルシウム化で、世界でも独特なカルストの形になっている。
トルコの地中海沿岸のパムッカレとよく似ているが、ここは大自然の中に広大な面積を占め、規模は比較にならないほど大きいし、海抜も3300~3600mにも達する高地である。黄龍の「龍」の字は、簡略体では、このように書く。
ここの施設は立派で、入口に着くと、構内専用のバスが待っており、ロープウエイの乗り場まで乗せてくれる。
全部歩いて上下してもいいのだが、大半の人は上りは写真②のロープウエイを利用するようだ。

黄龍②

ロープウエイの終点の高度は3500メートルだと言い、ここから歩いて頂上のお寺までの2キロほどの道は、木道も含めて相当のアップダウンがあり、もらった携帯用の酸素ボンベを吸っても息も絶え絶えで、ヘトヘトで何度も休憩してぜいぜいする。
私が高地に、いかに弱いかが、よく判った。

黄龍③

写真③が頂上の「黄龍寺」である。
この周りには青色の水の美しい棚田の沼が散在する。

s1860黄龍

沼、池の周りは木道が巡らされて見事に整備されている。
もっとも私は息も絶え絶えでゆっくり鑑賞する暇はなかった。
帰りの集合時間が迫っており、早々にロープウエイの駅に引き返したが、この帰りの道が予想に反してアップがあり、息を切らせて難渋したのだった。
山頂では辺りをよく見る余裕はなかったので、目についた池の写真を夢中で撮ったのみである。
心配した添乗員が途中まで迎えにきてくれていた。
頂上駅で少し休んでロープウエイで下におり、バスに乗って、集合場所で待つ。
頂上から歩いて下まで降りた人が大半であるが、酸素を使い果たしたと言って疲れたという人など多数である。

 黄龍の由来
『四川の魅力』から少し引いておこう。
むかし、大禹という神が岷江の水を治めたとき、彼は騎乗の黄龍に乗って、いろいろの辛苦をなめた末に、やっと水害を鎮めた。その功績を讃えるために山の南麓に寺を建てた。
この辺りの地勢は飛び起きそうな金色の龍のようで、こういう名前がつけられたという。
水に溶けた炭酸カルシウムの沈殿物が数万年を経て、独特のカルスト地形になり、見る角度によって青かったり、緑っぽく見えたりする見事な景観を呈している。
頂上にある「黄龍寺」について『四川の魅力』誌には、こう書かれている。

<この寺は、平凡だと見えるが、一つの「絶」がある。それは玄関の横額である。
正面から見ると「黄龍古寺」、右から見れば「飛閣流丹」、左から見れば「山雪水碧」ということです。実は、近くに行ってみると一つの額に書かれていることがわかり、角度によって字の形、内容も変わるようになっていて、不思議でしょう。>

とある。
私は写真③にも写っている通り、息も絶え絶えだったので、少し離れた正面から一枚だけ写真を撮ったのだった。
この説明に気づいた人が、どのくらい居ただろうか。

集合場所に落ち合って、あとは一路、今夜の宿泊の九寨溝シェラトンホテルに入る。
そこまでに長い道のりを二時間くらいも走ることになる。
このホテルは九寨溝の入口の至近距離にある。
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2007/07/09のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(11)・・・・・・木村草弥

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

九シェラトン②

 九寨溝シェラトンホテル・リゾート
英文で書くと SHERATON JINZHAIGOU RESORT
中国語表記では 九寨溝喜来登国際大酒店 となる。
この街は道路沿いにホテルや旅館がずっと並ぶ細長い街道をなしているが、その一番奥の入口に近いところに広い敷地を占めている。成都のホテルのような高層ではなく、五階建てくらいの中国風の作りになっている。
シェラトンホテルは世界的なホテルチェーンではあるが、オーナーが居るフランチャイズ制になっている。ここのホテルは多分に中国風の経営スタイルになっている。
オーナー制のフランチャイズについて言えば、たとえば、神戸の六甲アイランドにあるシェラトンは、オーナーは旅行代理店のJTBである。ここには、阪神大地震以後に、亡妻と一緒に泊まったことがある。
このホテルの敷地には東棟と西棟と歌劇棟などがあり、多少は行き来がわずらわしい感じがする。
ここには二泊する。
写真②は東棟であり、ここには主レストランが配置されている。
先に書いた敷地の案内板。
案内板に隠れているのが「歌劇棟」で翌日の夜に「西蔵民族ショー」を見ることになる。
私たちの泊まった「西棟」。
内部は西欧風の近代的な作り。
私の泊まった部屋のすぐ裏は山並みであった。
西棟の玄関入口。
案内板には、WEST WING と書かれている。
朝食は、この中でバイキング。洋風のメニューも豊富。

モーニングコールは7時で、各自朝食を済ませて8:30集合で九寨溝観光へ。
構内へはバスは横付けできないので、少し離れた駐車場から露店の中を歩いて構内へ入る。
入ると、広大なビジターセンターがあるが、写真は撮れなかった。
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2007/07/10のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(12)・・・・・・木村草弥

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 九寨溝(1)
世界遺産の中でもピカ一のところだけあって、入口のビジターセンターも、ゲートもきれいに整備されている。

九寨溝①

写真①はゲート。混むときは一日に3万人が押し寄せるという。
今日は、せいぜい1万人だろうと言い、空いているらしい。
九寨溝は成都市の北450kmのチベット族チャン族自治州に属する。
ここの魅力は峡谷に沿って、「海子」と呼ばれる大小の湖と周囲の自然が織り成す景観にある。特に濃い青色をした湖水に代表される色彩が人々を魅了する。
写真はクリックすると大きくなり、鮮明に見られる。お試しあれ。
ここはY字型になっている3つの峡谷に沿って、チベット族の9つの山寨に分かれて暮らしていたことから、このように呼ばれるようになったが、標高2000~4500メートルの高地にあって、交通の便も非常に悪かったため、昔から一部の人しか知らない風光明媚な場所に過ぎなかった。
しかし、1992年にユネスコの世界自然遺産に登録されると、その特異な景観が知られるようになり、21世紀に入るとホテルの建設や空港、道路の整備がすさまじいスピードで進められ、国内外から多くの観光客を迎えるようになった。
特に、中国の景気が良くなり、旅行ブームにも乗って、中国人の観光客が多いのが目立つ。
写真②は「諾日朗瀑布」である。


九寨溝②諾日朗瀑布

入口の標高は2000メートルだが、一番奥の長海は3100メートルになる。
入口から長海までは距離が31.6kmもある。
この中の移動は天然ガスを燃料にするバスを使用しており、私たちはグループで一台を貸切で使用した。
標高が高く気温が低いので、写真③の「五花海」の倒木なども腐敗しないので、倒れたままの姿をとどめている。

九寨溝五花海倒木

写真④は「樹正瀑布」である。
ここの標高は2200メートル、滝の高さは11メートル、巾は62メートルある。
九寨溝⑩樹正瀑布

岩の間に樹木が生え、樹木の間を水が流れ、こういう樹木と水との融合した風景は、ここに無限の生命力を見せつける。
秋の紅葉のシーズンには、また違った印象を与えることだろう。
ここは冬も閉鎖しないと言い、冬は冬で、氷や氷結した瀑布に落ちる水の様子が見ものだろう。

ここには114の高山湖沼(海子という)、47の泉、17の滝(瀑布)、5つの湿地、11の急流が点在し、その透明度の高い水面に周囲の緑や雪山の白が映える様は、とても見事である。
写真⑤は、一番奥の「長海」である。

九寨溝⑦長海

沢は他にもあるが、ここら辺りから水は下に流れてゆくことになる。
この長海から下ったところに「湿地」が点在するが、ガイドの話では、湿地に水が溜まることが少なくなり、乾燥化が進んでいる、と言い、やはり開発の影響が徐々に及んでいると思われる。
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2007/07/11のBlog

 峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
      四川省世界遺産の旅8日間(13)・・・・・・木村草弥

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 九寨溝(2)
ここの峡谷には、もともと西蔵族─チベット族が主に9つの山寨に分かれて住んでいた、と先に書いた。

九寨溝⑥

政府は、ここを開発するにあたり、彼らに売店などの権利を与えて融和策を取っているのだった。①の写真は樹正瀑布だが、ここを下がったところにチベット族の水車を利用した「磨房」が展示されている。水車を利用して穀物を粉に挽くところである。

九寨溝11マニ車

写真②が、その「磨房」の建物の説明板。
チベット族も広い地域に散らばって住んでいるので、地域によって生活様式は異なるらしい。
ここでは農牧生活を送っていたのであろう。
先日に行った「牟尼溝」に住むのもチベット族であったが、帰りに立ち寄った昼食のレストラン「山野軒」の料理のメインは「きのこ」だった。

この辺りは標高が高い、湿潤な土地であるから、きのこ類が豊富なのであろうか。
そういう山野草などの採集も彼らの主な仕事だったと思われる。
写真③が「磨房」の建物。

九寨溝磨房②

渓流の上に高足式で建てた水車小屋である。
床下には冷たい、清らかな渓流の水が、とうとうと流れていた。
小屋の周りには、チベット仏教の象徴である旗「タルチョ」が何本も立てられている。
多くの人々が(ほとんどは中国人だが)珍しそうに小屋の中を覗きこんでいる。
屋根は板の上に石を置いた素朴なもの。
その並びには、これもチベット仏教の象徴である「マニ車」が置かれている。
このマニ車は、中に「経典」が入っており、くるくると回すことで一巻のお経を読んだことになるのだった。
中国人の観光客も珍しいのか、横に立ってさかんに写真に納まっている。
中国は総勢13億人という巨大な人口を擁する国であるから、旅に出る人間の数も巨大である。
写真⑤は、この中の移動に使うバスの助手のチベット族の女の子である。
私たちのバスは貸切だったから、私たちが降りて観光中は運転手とお喋りをしながら待っているのだった。

九寨溝⑤専用バスの女の子

私が写真をせがむと気軽に被写体になってくれた。
まだ15、6歳だろうか、可愛い子だった。
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2007/07/12のBlog

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       四川省世界遺産の旅8日間(14)・・・・・・木村草弥

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 九寨溝(3)・・・・・チベット族民族村
先に書いたように原住民であるチベット族には、この施設の中でのみやげ物屋などの権利を与えて、優遇策を採っているという話だった。

九寨溝15民族村

とにかく、すごい数の観光客だから、みやげ物の売れる金額も大変だろう。
貧しい生活をしていた彼らにとっては、生活様式も一変したにちがいなかろう。
写真①が「民族村」の遠景である。
その一角に立つ仏塔とマニ車とタルチョの林立である。
『四川の魅力』誌から、ここにまつわる伝説の物語を引いておく。
<昔、ここで暮らしていた男の神様・ターゴオと女の神様・スオーモオがお互いに恋い慕っていましたが、山の鬼に反対されて、二人は鬼と激しい戦いをしました。
スオーモオがうっかりして手鏡を落とし、その割れた欠片が今の一つ一つの湖になりました。
ターゴオは勇ましくて、鬼を九寨溝の入口まで追いかけました。彼を助けるために山の神様は山を屏風にして、鬼の進路を塞ぎ、力を入れて鬼を岩壁に押し込めました。
今その鬼の顔が山の壁に見えたり隠れたりして、その山も「宝鏡岩」と呼ばれるようになっています。ターゴオとスオーモオは一緒になり、ここの守り神になりました。>

丁度ここに駐留する中国人民解放軍の交代式と遭遇したので撮ってみた。

九寨溝14警備の兵交代式

表面的には彼らの存在には気づかなかったのだが、軍隊が何かに備えて目を光らせているのだった。
ついでに書いておくと、現在、中国人民解放軍は「志願制」で、志願者の中から優秀な人物を選抜しているのだそうだ。
この写真からも、一種の威圧感をひしひしと感じるではないか。
写真④が「民族村」という施設だが、実際は、みやげ物を売る売店と変わりはなかった。
チベットの「曼荼羅」と説明されたものは、マンダラでも何でもなく、仏像を描いたものに過ぎず、マンダラとはどういうものか、が何も判っていないのであった。
仏画なども、べらぼうな値段を言い、文化的価値など一切ない代物である。
毛皮なども豊富だが、製品の質が悪く、買って帰っても、臭くて室内には置けないという。
黄龍と九寨溝は土質的にも、よく似たものでありながら、黄龍は棚田式の石灰池の連続が美しいところだった。
もっとも、私は酸素不足で、青菜に塩だったので、詳しく観察できなかったのが残念であったが、ここ九寨溝は移動もバスによるもので体は楽だったが、規模は雄大である。
写真⑤は五花池のものであるが、刻々と光線の具合で七色に変化する湖沼の様子は、神秘的ですらあった。
ゆっくりと楽しみたいところだが、この景観が、いつまで、今のような状態で見られるかが気になるところである。
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2007/07/13のBlog

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      四川省世界遺産の旅8日間(15)・・・・・・木村草弥

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 西蔵民族ショー
九寨溝見学から帰って、ホテルで夕食を食べてから、ホテル内の「歌劇棟」でチベット族の民族ショーを見ることになった。

九寨溝18チベットショー

客席がすり鉢状に傾斜した数百席の立派なものだが、音響がボリューム一杯のガンガン響くものだった。
ヴォーカルで歌う男性はCD屋の店頭で見かけた人らしく、声量の豊かな歌手だった。
一番あとのフィナーレでCDを手にしていたから、間違いなかろう。
言葉がわからないので歌詞については何とも言えないが、舞台の袖のところのテロップに文字が出るようになっていて、おおよそのことは理解できた。「人民解放軍」を讃えたり、共産党を讃えたりという文字も見えたので、少数民族としても、生き抜くためには、現政権にこびる必要があるのかなあと、少しかわいそうな気になった。
出演者が、果たしてチベット族かどうかは判らない。
羌族の歌や踊りという説明の字も見えた。

人民解放軍の名前が出たところで、一席。
このツアーには女の人ばかり3人4人というグループが居る。
私は一人参加なので、一人掛けの席から、彼女らの会話を聞いていると面白い。
それらには必ず「仕切り屋」の人がいて何かと威張って仕切っている。会話が中国の軍隊のことになって、仕切り屋が「中国は国民皆兵だ」と断定している。先にも書いたように中国は「志願兵」制度を採っている。
後で、ガイドの張さんにこっそり聞いてみたら、「国民皆兵なんかにしたら人数が多すぎて持ちませんよ」と彼は一言で切り捨てた。
因みに、いま中国軍は装備の近代化を図り、兵隊の数は必要ないのである。量より質を目指している。

九寨溝16チベットショー

出演の女性は、美女ばかりだった。
同行者の中からは「きれいな人ばかりね」という声も聞かれた。
この晩はお客は多くはなく、40~50人か。
出演時間は一時間半ほど。料金は250元である。

先にも書いたが、中国の国民の大多数を占めるのは「漢民族」であり、少数民族は圧迫を受けて、辺地に追いやられたり、漢民族と混血して同化したりしている。
有史以来、この傾向はつづき、まだ終わっていない。
建前的には、少数民族は権利を認められ、保護されていることになっているが、たとえば、チベットでは、中央政府の政策に反する言動は厳しく弾圧されている。ダライラマがインドに逃れているのなど、一例である。
この夜のショーの舞台袖のテロップの文字板に出てくる言葉が、はしなくも、このことが「衣の下に覗く鎧」の諺よろしく、かいま見させてくれた。
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杜甫草堂①

2007/07/14のBlog

   峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(16)・・・・・・木村草弥

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9

 杜甫草堂
翌朝は成都に戻る飛行機の便に備えてモーニンクコール5:00、集合6:00で、ホテルの用意した「お弁当」を持って九寨溝空港に向かう。ここは数年前に出来たばかりの高度3500mという山の上にある。ホテルから黄龍方面に向かう道を2時間ほど走る。
途中、ここへ来るときに通った道を一部戻る。
バスの中でお弁当を食べる。
途中、来るときに通った道の道標に「九道拐」というのがある。「道拐」とは180度の急カーブ=ヘアピンカーブのことであり、それが連続して9つあるということである。それだけ急カーブで高度を上げてゆくということだ。ガイドの張さんの説明では360mの間に「道拐」が9つあるということだった。
英語表記も併記され、それには「first turn」という風に書かれていた。
飛行機は8:30発。成都着9:20。着後、「杜甫草堂」を見学。

杜甫草堂②

ここには先に書いたように1993年に一度来たことがある。
草堂の中は全く変わっておらず、竹の茂る静寂そのものの風情だったが、以前は「郊外」だったのだが、周辺はすっかり都市化してしまって面影がない。
成都における歴史的文物というと、武候祠とここだけである。
私には『南船北馬』という紀行歌文集がある。1990年と1993年の中国の旅を素材にしたものだが、その中で「杜甫」については「漢詩」を引いて詳しく書いたことがある。
いま読み返してみても、よく書いてあると思うが、少部数しか出さなかったので、何とか再出版したい気がするほど愛着がある。
この敷地の中は梅林、竹林が茂り、渓流が走っている。この渓流の名前─浣花渓から「浣花草堂」が由来する。

杜甫草堂③

写真③の横額のかかる小径を好んで散歩したという。額の字は「花」の元の象形文字である。
杜甫は、ここ成都に3年しか暮らしていない。
彼は「科挙」試験に失敗するなど苦労した。ようやく40歳を越えた年齢になって、ようやく職を得たが、「安禄山の乱」が起こり、捕らえられたり、脱出したりのあと、大飢饉にあって生計がたたず、官職をすてて放浪の旅に出た。そして剣南(成都)の節度使であった巌武の保護を受けて、ここ成都にしばらく落ち着いた。ここはその頃の仮寓生活に由来する。
しかし三年後、また江を下って湖北省から長安に帰ろうとしたが、流浪の旅暮らしの中で、舟の中で死んだ。
彼の詩をひとつ引いておく。

 江碧鳥逾白 江は碧にして鳥いよいよ白く
 山青花欲燃 山は青くして花燃えんとす
 今春看又過 今春みすみす又過ぐ
 何日是帰年 何れの日か是れ帰年ならん

「江」というのは成都を流れる錦江を指す。「帰年」とは家に帰る時期の意味である。
また「旅夜書懐」(旅夜、懐いを書シルす)という詩もある。これは旅の一夜、心に浮かぶ感懐を書きつけた、という題である。
成都の浣花草堂に住んで比較的安定した生活を送っていたが、永住することも出来ず、再び流浪の旅にのぼった彼の心には、深い憂愁と絶望感があつたろう。

ここに引いたのは私の『南船北馬』の文章である。

杜甫草堂④

毛沢東がここに来て杜甫の旧跡を偲んだ記念の写真などが展示されている。
毛沢東に『浣渓沙』という詩があるが、これは杜甫草堂を流れる浣渓に因むものである。
その一句は

 一唱雄鶏天下白

というものであり、ひところ中国のあちこちにスローガンのように掲げられたという。
このエピソードも、私の文章に書いてあることである。

写真⑤がガイドの張さんと、添乗員の山中さんのスナップである。
場所は杜甫草堂の「花径」の一角である。

杜甫草堂⑤

ガイドの張さんが登場したので、彼の話を、少し。
バス移動のつれづれに彼が中国のことについて、いろいろ話してくれた。

中国では、毎年、給料が10数パーセントづつ上昇している。
日本でも昭和30年代の高度成長期には、まさにもそうだった。
つまり「インフレ」ということである。
もう十年もすれば、中国の賃金は大幅に上昇し、低賃金だけが目当ての中国進出は頭打ちになるだろう。
中国では、いまマンションなどの不動産の投機ブームである。
彼の父が成都市内で利殖目的でマンションを購入したが住まずに何年か置いてある。
知人たちの買った物件が数年を経ずして何倍にも値上がりしているからである。
シャンハイなどでは株式投資も過熱して、有り金をはたいてつぎ込んでいるという話も日本でも報道されている。
まさにバブルもいいところである。
張さんは、得意げに話すが、バブルが弾けて日本が立ち直るまでに何年要したか。
大気汚染、水質汚染なども深刻であり、中国は、日本の公害の轍の教訓を学んでいないと痛感した。日本を反面教師としてほしい気が、しきりにしたことである。

この後、昼食を「老房子」というところで摂り、午後は「パンダ繁殖研究基地」に行く。
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2007/07/15のBlog

峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
     四川省世界遺産の旅8日間(17)・・・・・・木村草弥


       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2007/6/2~6/9(JTB旅物語)

 成都パンダ繁殖研究基地
成都の市街地のはずれにある「パンダ基地」である。
パンダの生息地は秦嶺山脈の奥地にあり、観光客の踏み込めるところではないし、研究者も立ち入るには不便なので、交通の便のよい、ここに開設された。
パンダ基地①
写真は「パンダ研究基地」の入口ゲート。

竹林の茂る静かな広い一角であり、門を入ったあとは12人乗の電気トロリーで回る。
パンダ基地②

現在、パンダは絶滅に瀕しており、なかなか数が増えない。
人口繁殖などで頭数を増やすことは出来るが、それを自然に帰すことが難しい、という。戻しても、自立できず餓死してしまうケースが多いと報じられている。
ここで繁殖したもので、現在9頭が世界各地の動物園などに「貸し出し」されているという。

パンダ基地③

パンダ基地⑤

パンダは一日の40%ほどの時間を「笹」や「たけのこ」の食事に費やし、あとはほとんど寝て過ごす、と言い、私たちにも寝ている姿しか見せなかった。見物人慣れしていて、人声がうるさいのか、後ろ向きやソッポを向いているのが多い。
色が白くきれいなのは一年以内の頃で、後は毛がうす汚れて黄色っぽくなる。
写真③は一歳未満のもの。
写真④は二歳以上のもの。
パンダは普通1頭産むが、人工受精では2頭以上産むことがあるが、その場合、2頭目からは、親から離して人工栄養で育てることになり、人間の未熟児と同じような「保育器」も展示されている。
とにかくパンダの赤ちゃんは、数百グラムという超未熟の状態で生まれるからである。
ここでは「レツサーパンダ」も数頭飼育されていた。彼らは起きて、しきりに動き、あちこちに縄張りの「臭いつけ」の行動をしたりしていた。

パンダ基地⑦

最後の夕食には麻婆豆腐発祥の地である「陳家麻婆豆腐店」本店で食べた。
いろいろ説はあるが、日本でもおなじみの麻婆豆腐は、この陳家のおばあさんが材木運搬の労働者向けに創りだした庶民的な料理である。
出てくる料理は一般と同じだが、さすがに味は良かったように思う。
以前、私が来たときとは場所が変わっているという、旧本店は火災で燃えたとかである。
夜にはオプションで「川劇」観賞があるが、私は疲れているので参加しなかった。
これで旅の日程は終わり、明日は成都空港から上海空港経由で関西国際空港に帰る。
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初出・Doblog2008/05/24
チャン族の村⑤

  補遺・・・中国・四川省大地震のこと・・・・・・・・木村草弥

今回の「中国・四川省大地震」のことについては、スベイン旅行中のホテルで観る現地のテレビ報道でも、トップ・ニュースの扱いだった。
しかし、横文字の国であるし、私はスベイン語は出来ないから、テレビ図面に映るテロップの「中国語」文字から判断するに過ぎなかったが、四川省、北川、綿竹、汶川、などの地名が読み取れたに過ぎないが、一見しても昨年、私が旅した岷江上流部のことだと直感した。
この地については、下記に若干触れてあるので見てもらいたい。

2007/07/07 付け
峨眉山・楽山・黄龍・九寨溝・成都
 四川省世界遺産の旅8日間──(8)
 岷流上流─映秀・茂県への道─────悪路と交通渋滞

地図

掲出してある地図を見られよ。地名を大きくして見られないが、この旅での「谷筋」あるいは平行する谷筋が大被害を受けているのは間違いない。
今朝の新聞によると、この地震を起こした「断層」は250キロメートルにも及び、80秒かけて南西から北東にかけて走ったらしい。マグニチュード8という超巨大地震だったようだ。
私の昨年の記事にもある通り、道路は谷筋に張り付くように狭い国道が通じているに過ぎず、ここがふさがると交通は途絶する。被害は少数民族のチャン(羌)族の住む地域であり、彼らに多くの犠牲が出ているのは道理である。
掲出した写真が199?年かの地震で陥没して出来た湖(畳渓海子)のものである。
今回も、同様のことが起きているらしい。せき止められた水が一気に流れでると洪水を起こして大被害になるので軍隊が出て爆薬で堆積した土砂を取り除いたなどという新聞報道があるからである。
旅行中は日本の新聞などには全く触れられなかったので、帰国して走り読みした新聞記事から、とりあえず書いてみた。
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(5/25追記)
昨夜の午後8時からのNHK特集で四川大地震のことが詳しく報道された。
私の旅行中のことで詳細が判らなかったが、この特集で、よく判った。
上記に書いたことが基本的に正しかった。
正確な地震の発生時刻が5/12午後2時28分すぎということも私は知った。
震源地は「都江堰」の西北約150キロらしい。この町についても私の紀行文に書いてある。上に書いた通り、この震源から北東に250キロにわたって断層が走った。
都江堰の町も壊滅的な被害を受けたらしい。
私の紀行文にも地名のある「映秀」の町は壊滅的な被害で、とにかく生き残った人が三千余人のみという。私がバスで通った土地だけに、ひしひしと胸に迫ってくるものがある。
テレビ画面は「映秀」から「都江堰」まで約150キロを徒歩で避難してくる多数の人々を映していた。未曾有の集団的避難だという。
死者は「綿竹」で7000人以上。 「北川」で8600人以上。「汶川」で2560人。全体で五万人を越え、行方不明者が二万数千人居るというから、死者は八万人にも及ぶだろう。
被災者のうち540万人以上が現在避難生活をしており、被災者でない人も含めて1400万人が避難生活をしているという。
小学校などの学校の倒壊が多く、授業中であったため、多くの児童、生徒が犠牲になった。私の通った道端にも多くの学校があって、川に沿ったところにあったから、地震の直撃を受けて大被害となったらしい。
テレビ画面は、鉄筋などの手抜き工事があったのではないかと当局者に詰め寄る群集の姿を映していた。
四川省は、この省だけで日本全体と同じくらいの人口をかかえており、また四川省の夏は蒸し暑くテントや路上での避難生活は、とても厳しいだろう。





タラの丘に還る・・・アイルランド紀行・・・・・・・・・・木村草弥
2006/07/26のBlog

アイルランド地図

  「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (1)・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

図版①に出したのはアイルランドの地図。

今回の旅は、もともと北スペインの巡礼路サンチアゴ・デ・コンポステーラに行く予定でツアーも催行確定であったのに、間際になってキャンセルが出て、旅行社が罰金を払って振込金を返してきたので、急遽、たまたま欠員の出た、このツアーに参加することになったものである。
アイルランドというと、先ず第一に思い浮かべるのが「ケルト文化」のことである。写真②に出したのが「ケルト十字」という中世の独特の十字架である。これについては折に触れて、その都度書きたい。

ケルト十字

今回の紀行文全体のタイトルを「タラの丘に還る」とした。
タラの丘は首都ダブリン近郊にある丘で何の変哲もない丘だが、ケルト人の重要な聖地とされ、飢饉を逃れて100万人単位で北アメリカなどに移住した人々の源郷とされるところ。「風と共に去りぬ」などの文芸作品にも、必ず、この丘が出てくるのも、その所以である。だから、私の紀行文のタイトルも、これにすることにした。
写真③④にタラの丘を出しておく。

タラの丘
タラの丘②

アイルランドは、イギリスの「ブリテン島」の真西側に横たわる島で、大きさは北海道をひとまわり大きくしたようなところ、人口も現在は
540万人が住んでいる。(アイルランド共和国400万人、北アイルランド150万人)
追々詳しく書くことになるが、100万人単位で18世紀以来、多くの人が移住して行ったが、1961年には人口の最低を記録し、この年には270万人まで減った。
これに危機感を抱いた政府が、外資導入策などに優遇措置を採って産業振興を図った結果、産業が興り、若者が流出することもなくなり、現在の人口まで回復したのである。
行ってみると、島の各地を結ぶ「高速道路」が整備されつつあり、沿道から見る住宅は、日本の「ウサギ小屋」などと違って立派なものである。今でも人口の8割の人が農業に従事するというが、一戸あたりの農地も広いらしい。沿道から見えるのは大半が牧草地であり、耕作地では麦がちょうど「麦秋」の時期であった。他にはトウモロコシが見えるが、実を採るものではなく、そのまま刈り込んで「飼料」にする種類、と私は見た。野菜を作るビニールハウスのようなものは余り目につかなかったが、ホテルの朝食に出る野菜は新鮮で、どこか目につかなかったところだが栽培しているのだろう。食料の輸入も多いと聞いた。
島は岩の岩盤で覆われていて、掘るとすぐ岩が出てくるので荒蕪地と言えるが、今では外国から「土」を輸入したりして建設工事地や農地に使っているらしい。
行ってみると判るが、島の東部は岩の露出も少なく広い耕地が見られるが、島の西側は岩だらけで、写真などで見る、掘り出した石を並べて畑や放牧地を囲ってあるアイルランド独特の風景を見ることが出来る。

人種的にはローマ以前にヨーロッパ全域に勢力を広げていたというケルト人の血が濃いと言われ、文化的にも他のヨーロッパ諸国とはずいぶん違ったものを持っているらしい。
ケルトの渡来 アイルランドに最初のケルト人がやってきたのは紀元前数百年頃。数度の移入で先住民族を制圧、アイルランド全島はケルト化されたという。
現在のアイルランドの「地名」には、後に侵入してきたヴァイキングやノルマン人がつけたものが多いが、地方都市や山や川の多くはケルト人の言語・ゲール語を受け継いだものが多いという。
写真④に出したタラの丘の石造物に関して言うと、こういう「ストーンサークル」環状列石はイングランド南部の「ストーンヘンジ」と同じ系列のものと言え、昔はもっともっと多くのものがあっただろう。写真④のものは、インドのリンガ(リンガム)(陽物)の形にそっくりで豊穣、多産のシンボルと同じ考えの築造物であると思われる。立っているリンガに対して、下の平らな部分はヨニ(女陰)そっくりで、これらを一体としてリンガとヨニとで繁栄のシンボルとしたと考えられる。というのはケルトの宗教観がインドの宗教観とよく似ているからである。太陽神信仰に関しては南米のマヤ文明にも酷似する。いずれも古代の原始宗教である。強引な結びつけは避けたいが、似通った認識であることを言っておきたい。
もっともらしく言われていることも、どこからがケルト人渡来のものか、あるいは土着民族のものかは見極めにくい。現地ガイドの説明を聞いても、後から文章化してみると時期的に前後して矛盾が多いので断定は避けたい。
写真③④に関する現地ガイドの説明では、これらの古墳は4500年~5000年前のものと言い、こういう古墳は、この辺りを流れるボイン川流域に40ほどあるという。
写真④の立石(メンヒル)は「ファロの石」と呼ばれ、上王を決定する儀式のときに、真の上王となる者が触れると、石が雄叫びをあげると言い伝えられている。
4500年~5000年も前のものとなると、ケルトとは関係のない遥か以前の原住民のものと考えるのが正当だろう。
写真⑤にケルト由来の「渦巻文様」の彫られた岩を出しておく。
詳しい説明はも後にすることにする。

渦巻文様

ケルト人は、もともと中央ヨーロッパ辺りの民族ではないかと考えられている。
ケルト人は他の民族と比べて、王を選んだり、権力者に服従する気風に乏しい、と言われ、家族単位を重視し、いつも小さいグループ単位で行動し、緩やかな連合体を作ったようだ。
「タラの丘」はケルト人の重要な聖地だが、絶対権力の王の地ではなく、宗教上の意味が大きいという。もちろんキリスト教流布以前の原始宗教である。この丘は紀元前600年頃に築かれたという。
ケルトの宗教観──ケルトの宗教についてはまだよく分からないといい、彼らの残した民話から、生命はあらゆるものに宿り、転生すると信じられていたようだ。死後の世界との行き来もしばしば語られている。特に太陽は重要な意味を持っていたらしい。自然現象と超自然現象との境も曖昧で、神秘性を重視する点では、他の文明とは異質と言われている。
キリスト教─カトリックの伝来 ケルトの世界に新しい意識を定着させたのは、キリスト教をもたらした聖パトリックである。彼は432年アイルランドに渡り、キリスト教の布教に尽力した。彼はアイルランドという国の聖人として、彼の3月17日の命日は「セント・パトリックデー」として休日になっている。
しかし、十字架にケルトの太陽神のリングが組み合わされているように、改宗というよりも、もともとの宗教観にキリスト教を取り込んだものと考えられる。
ケルトの「口承伝説」には、かなりの頻度で聖書の物語が混入している。
これらのことは『ケルトの神話──女神と英雄と妖精と』(井村君江、ちくま文庫)などの日本語訳の本に詳しい。
ゲール語 ゲール語はアイルランドの第一公用語で、交通標識にも英語と並んで表記される。実生活でも西海岸、南部の山岳地帯では日常語として使われているという。
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今日を第一回として、順次アイルランド紀行の記事を載せることにする。
このツアーの正式名称は「北アイルランド・南アイルランド周遊 13日間」という。
記述はアトランダムで、今回は一眼レフカメラが故障して、予備のカメラだけで撮ったので、碌な写真がないので絵葉書などで補いたい。
今回の旅の同行者は23人で、添乗員・帯津和美さんを入れて総勢24名だった。参加者名簿はあるが「氏名」のみで、私が住所、勤務先を確認したのは一人だけであり、他の人のことは先方が名乗らないので、一切わからない。
その唯一の身元のわかる人は
 阿部行子さん
㈱集英社・翻訳書編集部 所属の現役の編集者だった。世田谷区成城にお住まいである。私は角川書店などには編集者の知り合いが多いので、旅中いろいろ話をした。
一行のなかに「南雲道彦」という人が居られ、旅中で交わした会話によると「物理」の研究者ということだった。帰ってからインターネットで検索してみたら、そのページに顔写真が出ていて、本人であることが判って、早稲田大学理工学部の名誉教授である。金属が専門らしい。昭和7年のお生まれ。
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2006/07/27のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (2)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

アイルランド人とは?
写真①が今回、ずっと利用するバスと、運転手のマイケルである。
「アイルランド人」の特徴をひと言でいうと、背が高くて、髪は赤毛、顔は日に焼けると(サン・バーン)赤くなる、ちょうど、我々のマイケルが典型のようであるらしいので、ここに紹介しておく。

バスと運転手

アイルランド系でアメリカ合衆国の大統領になった人が、何と14人も居るというが、そのうちカトリックはケネディとレーガンの二人だけで、あとはプロテスタントであるが、クリントンもその一人であるが、クリントンの顔はアイルランド人の典型と言える。今回、そんな説明を聞いて、なるほどと納得した。
因みに、アイルランド移民のことに触れておくと、せいぜい400万人という元の移民がいまではUSAに4000万人、全世界では8000万人に増えているという。

エンヤのCD
今回、アイルランドに行くことになって、ぜひ私の好きなエンヤの親父さんがやっているというパプに行きたかった。しかし、聞いてみると、親父さんのパブは、スライゴーの町外れの田舎で、車で一時間半もかかると聞いて断念した。

エンヤのCD

写真②は、今年になってから日本でも発売されたエンヤの最新アルバムである。妻の病気にかまけて、まだ買っていなかったので、アイルランドみやげに買った。値段も21.99ユーロであり、しかも説明書も英語なので、日本で買ったほうが安くて、しかも日本語の解説なのでよかったのだが、みやげとして買った。
エンヤの曲は、原稿を書いたりするときにBGMとしてかけると、ちょうどいいのである。
私の第三歌集『樹々の記憶』はエンヤのアルバムMemory of trees から拝借している。作品中に、それをテーマにした歌群があるからである。

ニューグレンジ・・・羨道墳・・・ケルティック・スパイラル
そんなことで、私たちのツアーはマイケルの運転するバスで一泊目のダブリンを出発して、先ず「タラの丘」に向った。
タラの丘については昨日に書いたので省略する。
タラの丘を出たら、バスは一路、「北アイルランド」に向う。その途中で「ニューグレンジ」の古墳に立ち寄る。写真③が、それである。

ニューグレンジ

ビジターセンーというものが、主な遺跡には設けられており、ここで巨石を運んだ様子などを見学したあと、ミニバスに乗って古墳へ。
ここは約4500年前(紀元前2500年)頃に作られた巨大古墳で、直径85m、高さ11m、中は19mの通路があり、奥は墓となっている(羨道墳という)。17世紀に偶然発見された。奥からは遺灰や骨が見つかったが誰のものかはわからない。狭い通路、入り口より2メートル上の小さな窓から冬至の前後5日間10数分のみ太陽の光が奥の墓まで入る設計になっている。天井は石版を積み上げ、巨大な石で蓋をしてあり、建設以来、雨水が一滴も入っていないという。
写真③の白い部分は「石英」の石が積んである。
写真④が「羨道」への入り口。

ニューグレンジ②

昨日紹介した「渦巻文様」(ケルティック・スパイラル)を刻んだ石は、この入り口前に配置されている。
この文様の意味はさまざまに解釈されているが、仏教の「卍」の模様と同様に「永遠性」を表すものではないか、というのが一番有力な説である。この神秘性の故に、現代人の占いや装身具などに生かされている。
ここで、エンヤとケルト研究者の鶴岡真弓さんとの対談を「地球交響曲第一番」の栞から引用しておく。

ケルトの渦巻模様は、
生命の永遠性を表している
歌手 エンヤ
ケルト美術研究家 鶴岡真弓
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(エンヤ)
 私にとって、それはあまりにも自然なことで、若いころにはまったく意識しません でした。故郷グイドーを出て、ダブリンに住み作曲を始めるようになって、初めて自 分の音楽の中にケルトの魂が深く宿っていることに気づいたのです。私の音楽の中に は、この土地の風土から受けた影響が強くあると思います。でもそれは、あらかじめ 意識しているのではなく、自分の心に自然に生まれた音楽を聴いて、初めて自分でも 気づくようなものなのです。

(鶴岡真弓)
 ケルト的な思考というのは、一見、渦巻のように遠回りで、まったく瞬間に湾曲す るわけですから前が見えないんですね。そしてその見えない先にまた一歩踏み出して、 さらにまた見えない壁とか闇とか森とかが前にくる。その見えないこと見えない世界 をひじょうに感じて、いろんなイメージを描く。エンヤさんの音のように、どこで切 れるともない、ピリオドのない、スパイラルのような繰り返しですよね。しかし、そ の繰り返しというのは、二度と同じ円周の上を辿らなくて、いま私たちがいる世界で はなくて異界から響いてきて、それに誘われて別の世界に連れていかれるような・・・。
 言ってしまえば、ケルトの渦巻的な、あるものの見方、宇宙観、自然との付き合い 方。それはスパイラルなんじゃないかということですね。

(エンヤ)
 私の祖父は素晴らしい語り部でした。小さいころ、学校から帰ると、いつも祖父の 帰宅を待ちわび、彼のそばに座ってたくさんのケルト神話を聞きました。祖父が語る 妖精物語に夢をふくませながら、いつのまにか眠ってしまうことがよくありました。
 私は、自分は現代に「ケルトの魂」を送る作曲家だと思っています。

(鶴岡真弓)
 カトリックがきてから以降のケルト人というか、その末裔であるアイルランド人は、 新しい宗教、キリスト教を受け入れました。でも、おそらく日本人もそうですけど、 彼らは、神道という自然の山とか水とか太陽とか、その中にある神秘的なものへの信 仰心は失わずに、むしろそれはもっと強まって残っていったと思うんです。
 なぜエンヤさんの音楽の中に漂っている渦巻が魅力的かというと、自然が向こう側 だけに漂っているものじゃなくて、そこに私たちの身体が入っているからなんですね。 天の、あるいは自然の、水の流れの、光の、空気の、その渦巻に、私たちの身体にう ごめいている「気」のようなものがついているわけです。
 だからケルティック・スパイラルというのはとても身体的だし、そして宇宙的なも のと一緒に絡まり合いながら、私たち自身が向こう側から見えるスパイラルなんです。

(エンヤ)
 私の曲の中には、ゲール語で歌ったものがたくさんあります。それを聴いた世界中 の人々が、意味はわからないのに、これはきっと私の魂の遠い遠い記憶を歌っている のだろう、と手紙を書いてくれます。言葉の意味を越えた何かが、人々の心に伝わっ ているのです。これは本当に素晴らしいことだと私は思います。

(鶴岡真弓)
 ケルトの渦巻は、永遠性や輪廻転生のシンボルだという説もありますが、どう思い ますか?

(エンヤ)
 そのとうりだと思います。渦巻を見ていると、いつのまにか引き込まれて、永遠の 中に連れていかれるような気がします。
 私は、どこまで行ってしまうのかしら・・・。
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ついでにエンヤと鶴岡真弓さんのプロフィールを紹介しておこう。

★エンヤ(アイルランド) 
 1963年アイルランド生まれ。18歳のとき兄姉のバンド「クラナド」に参加。82年脱 退、作曲家として活躍するようになる。86年にアルバム『ザ・ケルツ』でデビュー。 89年『ウォーターマーク』が世界的な大ヒットとなる。ファンを魅了したその神秘的 な歌声には、古代ケルト民族の宇宙観が宿っている。91年『シェパードムーン』96年『エニウェア イズ』97年ベストアルバム発表。

☆鶴岡真弓(日本)
 1952年茨城県生まれ。早稲田大学美術史科卒業。同大学大学院文化研究科修士課程 終了。ダブリン大学トリニティカレッジ留学。89年第一回倫雅美術奨励賞授賞。現在 立命館大学文学部教授。専攻は西洋美術史、ケルト学。
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モナスターボイス

 「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (3)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

モナスターボイス教会・修道院跡
ニューグレンジを出て、この辺りを流れるボイン川は「ボイン川の古戦場」と言って1690年、イギリスの王位争いにからんで、アイルランド、フランス連合軍約25000人がイギリスを追われたジエイムス2世に加担して、イギリス軍と激突した。これはカトリックとプロテスタントとの宗教戦争で、これに敗れたアイルランドのカトリック教徒はプロテスタントの支配を受けることになり、さまざまの差別を受けることになる。これが(目下は沈静中ではあるが)カトリック教徒側からのイギリス支配に対する「抵抗」運動として表れているのである。
やがて「モナスターボイス」教会、修道院跡を見学する。
ここは聖パトリックの弟子・聖ボイスが5世紀に建てたもの。その中に高い「ハイ・クロス」がある。これは10世紀のものでアイルランドで最も有名なケルト十字架である。
昔は文盲の人が多かったから、ハイクロスの石碑の面には全面にレリーフが刻まれ、日輪を配した十字架の中央には最期の審判を下す聖人を配し、柱の部分にはキリスト降臨のときの東方の三博士、民を率いるモーゼ、禁断の果実を手にしたアダムとイブなど聖書の物語が刻まれている。写真①が、それである。

モナスターボイス②

これには922年まで修道院長をしていた人の名前をとって「モルイダのクロス」と呼んでいる。
写真②は境内に建つラウンドタワー。

写真③は、先に説明した柱に彫られたアダムとイブの物語のレリーフの部分。

モナスターボイス④

この石碑の下部が欠けているのは、19~20世紀に移民を決意した人が「お守り」に削って持って行ったものであるという。
境内には、もう一本「西のクロス」という6.5mの高さのハイクロスもある。
写真④にハイクロスの部分を出しておく。

モナスターボイス③

この後は一路、高速道路を経て、北アイルランドの首都ベルファストに向う。
ここは今でもプロテスタントが多数を占める故をもって、イギリスが直轄支配する地域で、人口60万人を超える、元は造船業で栄えた都市である。ヴィクトリア女王の頃に大きく発展した。
ここはアイルランド原理主義者のIRAが爆弾騒ぎを起したところとして恐れられていたが、目下はIRAが武装闘争を放棄すると宣言して収まっている。
ただイギリス支配地だから、通貨はポンドで、二日間だけの滞在なので両替に困った。
結局、2227円=10ポンドだけ成田で両替した。10ポンド紙幣1枚だけ。
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2006/07/29のBlog

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (4)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

北アイルランド・・・・ベルファスト
アイルランドの北東部アルスター地方6州は、1920年にアイルランドが自治権を獲得したときに、分離して英国領になった。人口は約160万人。プロテスタントは約60%、近年カトリックが増えてきているという。
先に書いたように造船業で栄えた街であり、イギリスに所属させるようになった一因に、この造船業の繁栄があったからとも言われている。
ベルファストは北アイルランドの首都で人口60万人と言い、アイルランドで唯一、産業革命を経験した土地である。その頃はリネン(麻)や造船業が盛んになる。
写真は省略するが、リネン業で成功した大邸宅も見学した。現在は麻、タバコ、造船は閉鎖され、外国企業を誘致し航空機、コンピュータ、プラスチック製造、電子機器が主な産業という。
16世紀からイギリス、スコットランドからの移民が入ってきて、もともと住んでいたカトリックの人々の土地を取り上げたりしたプロテスタント優位の確執がIRAの爆弾騒ぎなどの底辺に横たわっているのである。

ガイドのバーバラと

写真①は、ベルファスト現地ガイドのバーバラさん。私よりは若いが、いいおばあちゃん。クイーンズ大学に隣接の植物園にて。

写真②は市庁舎の前に建つヴィクトリア女王像。この頃一番栄えた都市である。
写真はないが、有名な汽船タイタニック号は、ここで建造された。ハーランド&ウルフ社の造船所で1911年に完成、1912年サザンプトンからニューヨークに向けて出航した。タイタニック号で死んだ人の慰霊塔もあり。
バスはユニオニスト(プロテスタント系で北アイルランドの英国統治継続を主張する一派)の多く住む地区を通ってゆく。
ここを過ぎてナショナリスト(カトリック系でアイルランドとの統合を望む一派)の多く住む地区を通る。明らかに街の雰囲気が変わるのがわかる。
ユニオニストの連中は、いわばプア・ホワイトであって、差別主義者の常道として、自分たちよりも下に隷属させる「層」を持ちたい、のだった。写真があったのだが、今みつからないが、見つかったら載せる。
この地区では夜になると出入り口が閉鎖されるという。
アメリカでは富裕層が「gated sociaty(area)」を作って、ゲートで出入りの人をチエックする現象が出てきているが、ここは、その逆でユダヤ人の「ゲットー」のような感じの雰囲気である。

クイーズ大学

クイーズ大学②

写真③はヴィクトリア女王によって1849年創立の名門校のクイーンズ大学。
バーバラも、ここの卒業生だと言い、ちょうど卒業式の日だった。写真④に記念写真を撮る親子を載せる。
かぶっているマントの柄は学部によって違うらしい。
学生数は25000人だという。
あと隣接の植物園へ。大学と同じ建築家ラニオンの設計で、ロンドンのキューガーデンを模したと言われている。
昼食の後は、一路、ジャイアンツ・コーズウエーの奇岩を見に行く。

ここで記事の「埋め草」としてゲール語の会話例を少し。

こんにちは Dia duit. デイア グット

ありがとう Go raigh maith agat. グ レフ マハ グット

はい Ta. トー (aの上にアクサン・テギュがつく)

いいえ Nil. ニール

字の表記と発音が乖離しているものがある。

ジャイアント・コーズウエーは、アイルランド島の北端にある。
巨人の石道の意味である。この辺りの海岸6kmにわたって六角形の石柱が続く。
今から6000万年前に火山の爆発で噴出したマグマの溶岩が急速に冷却して凝固したもの。 「柱状節理」という。日本では福井県の東尋坊や宮崎の青島海岸などに少し見られる。
アイルランドでは自然遺産の見物には「ビジターセンター」が設置され、そこから先はミニバスに乗って移動するという形を取っているところが多い。ビジターセンターを手前に作り、それから先は車の立ち入りを規制し、当然、距離が遠くなるので、その間をミニバスに乗らせてつなぐ、という賢明なやり方だと思った。
写真はコーズウエイの標識とミニバス。
コーズウエイ

コーズウエイ②

岩そのものは、日本の海岸にも見られるもので、特別面白いというものでもない。
写真をまとめて載せておく。
コーズウエイ③

コーズウエイ④

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2006/07/30のBlog
デリー・タワーホテル

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (5)・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

デリー/ロンドンデリー ボグサイト地区 血の日曜日
ツアー第四日はデリーのタワーホテルに隣接する城壁の散歩から始まった。
写真①が城壁とタワーホテルである。ぐるっと旧市街を1.5kmにわたって囲んでいる。1613年からのものである。1689年に英国王を追放されて、この地を攻めてきたジェームス2世((カトリック)から身を守ろうと城壁内に3万人が篭城した。
オレンジ公・ウイリアム3世軍(プロテスタント)が駆けつけ105日後にやっと解放された。
城壁からはボグサイト地区が見える。
地区入り口の(写真の枚数制限の都合で省略するが)
 YOU ARE NOW ENTERING FREE DERRY
の大きな標識が印象的である。

デリー・ボグサイト地区①

ボグサイト地区
アイルランドのプロテスタント優位が決定づけられる中、18世紀末、仕事を求めて貧しいカトリック教徒たちが低地のじめじめした土地に移り住むようになった。それが「ボグサイト」地区である。
写真②③に、1970年代を中心に起こったカトリック教徒たちの差別反対のデモやテロの様子を描いた壁の絵を載せる。

デリー・ボグサイト地区②

デリー・ボグサイト地区③

銃を構えて制圧する英国軍の様子。③には、その中から議員となって先頭に立って戦い、マイクを持って演説する女性議員(名前失念)の絵。
写真③の絵の奥にも、先に書いた地区の標識の文字が描かれている。この文字が、この地区の抵抗の「合言葉」として象徴のようになっているらしい。
そして1972年1月31日、公民権運動の平和なデモ隊に英国軍が発砲し、無抵抗の罪もない婦女子など14名が亡くなった。これにより反英感情が一気に高まった。
これを「血の日曜日事件」という。
写真④に、その日を記念した碑を載せる。

デリー・ボグサイト地区④

デリー・ボグサイト地区⑤

1998年の和平合意以降、カトリック教徒の生活改善もなされ、現在は平穏に推移しているが、カトリック教徒側は、こんな記念碑を建てたりして、今さらながら昔に逆戻りしないように求めているものである。

「ロンドンデリー」という呼び方について
ここデリーDERRYの街の呼称には、しばしばDERRY/LONDON DERRYと並べて書かれることが多い。
城壁の見物のあと街を巡ったが、その中にひときわ大きい建物があり、それはロンドンの商工業組合(ギルド)の建物ということで、(現在は市庁舎になっているが)、この街の城壁の建設などに当たって、ロンドンの商工業組合が多大の財政的援助をしたというので敬意を表して「ロンドンデリー」と表記することになったらしい。
「ロンドンデリーの歌」というのは、もちろん、ここのことを歌ったものであることは言うまでもない。

デリー・ロイヤリスト地区

その後、歩いて街を一周する中で、旧市街の一角で、写真⑤のような「ロイヤリスト」と呼ばれるプロテスタントの人たちの住む地区に出た。
この金網に囲まれた一角の看板には「NO SURRENDER」(引き渡されない)と書かれており、今もなおプロテスタントの──特に「プア・ホワイト」たち下層民には同化しようとしない機運がみなぎっていると言えよう。不気味である。
この街は小さなものだが、これらの見物は、まるで重い鉛の塊を抱えさせられたようで、印象的な忘れられない半日だった。
城壁内の一角には英国軍の基地もあったが、5月で全て撤退したという。基地跡の横を過ぎて外へ出た。
聖コロンバ大聖堂などのことは省略する。

ここでデリーの語源について少し。
中世に聖コロンバが546年にこの丘に修道院を建てたのがデリーの町のはじまりだが、その頃、ワルト語で「デリー」とは「樫の木」の意味で多くの樫の木があったので、そう呼ばれることになったが、先に書いたように城壁を築いたりするときにロンドンの商工業組合(ギルド)に資金的援助を受けたので、それ以後「ロンドンデリー」という呼称を名乗ることになった。
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2006/08/01のBlog

「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (6)・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行
ドラムクリフ教会(イエイツ)

ドラムクリフ教会(イエイツ)②

ドラムクリフ W.B.YEATS
行程途中の「フランシスカン修道院跡」については省略する。
午後三時前、氷河によって削られ特異な形をしたベンブルベン山(525m)の見えるドラムクリフの聖コロンバ教会に到着。ここは後のノーベル賞詩人のW.B.イエイツの祖父が牧師を務めていた教会で、イエイツもよくここを訪ねており、ここの墓地にイエイツの墓がある。

ドラムクリフ教会(イエイツ墓)

この教会の敷地の一角には立派な「ハイクロス」があり、写真も撮ったが省略する。
この特異な形のベンブルベン山の見える土地にはイエイツは幼い頃から家族で夏を過し、この自然がイエイツの詩作にも大きな影響を与えたと言われている。
ここスライゴー郊外のドラムクリフで、イエイツは村の人々から聞いた口伝えの伝説を集め『アイルランド農民の妖精物語と民話』(1888年)、『ケルトの薄明』(1890年)に収めたりした。そして民話に触発された独自の詩の世界を完成させた。
また『秘密の薔薇』(1896年)では、妖精や神々、英雄を登場させたりもした。
写真③がイエイツの墓である。
イエイツは1939年南イタリアで亡くなったが、遺言により第二次大戦後、ここに改葬されて、懐かしい教会の墓地に眠っている。
墓石には、亡くなる数日前に書かれたという「ベンブルベンの麓にて」と題する詩の一部が彫られている。
 
 Cast a cold Eye
 On Life,on Death
 Horseman,pass by!

私は、まだ詩の全文にも当たっていないし、不正確は承知の上で下記のように訳してみた。私のやっている短歌の音数律に則っている。

 冷徹な 視線を 生に、死に 投げて 馬の乗り手は、 時の過ぎつつ

イエイツパンフレット

写真④が、当地の教会でくれたイエイツに関するブックレットである。
ここにはDerick Binghamが記事を書き、Ross Wilsonがポートレートを、ほかの数人が写真を撮ったとある。

イエイツは1865年6月13日に生まれ、1939年1月28日に亡くなった。
墓碑には、上の詩とともに、上の年月日が刻まれている。
黒い石の墓石に白い字が印象的な、簡素な墓である。


あと、スライゴーの街中に進んで、イエイツ博物館などを見たあと、街中を散歩する。
写真⑤は、イエイツの現代的な像が街角に建っている。

街中のイエイツ像

ここでは現地ガイドのマリさんが付いたが、この夜宿泊のスライゴー・パークホテルのロビーで、息子の高校生ショーン君のイエイツの詩の朗読があった。
彼はダブリンの国立図書館で行われたイエイツ朗読会の4位に入賞したという経歴を持っているということだった。

アイルランド文学について
こんな小さな国でありながら、アイルランドは4人のノーベル文学賞作家を出している。
イエイツ、バーナード・ショウ、サミュエル・ベケット、シェイマス・ヒーニーである。
イエイツは先にも書いたが、アイルランド文学協会、アイルランド国民文学協会を組織したりした。
バーナード・ショウは主にイギリスで活躍した作家。独特の皮肉、風刺、諧謔で知られている。
サミュエル・ベケットは作品の難解さで知られ、ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』の仏語訳を手伝ったりした。日本でも知られる『ゴドーを待ちながら』という戯曲は、割合知られているのではないか。
ヒーニーのことは、私は、よく知らない。
他に、オスカーワイルド、ジェイムス・ジョイスなどがいる。
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先に書いたイエイツの詩のことだが、「詩」の翻訳は、難しい。
というのは、詩は非日常のものであり、センテンスも飛躍があって文脈が辿れるとは限らないからである。
この墓碑の詩も、どのフレーズを主語とするかを見極める必要がある。
私は horseman は、はじめの cast にかかるとみた。文末の pass by!は単独のフレーズで「時は過ぎる」という慣用句として独立していると思う。だから私は「時の過ぎつつ」としてみた。これなら、独立する。
horsemanは訳語としては「騎手」としてもよいが、この場合もルビは「乗り手」としたい。
乗り手「は」と一応はしておくが、ここは乗り手「よ」とする手もある。
短歌の翻訳を多く手がけている結城文さんに聞いてみるのもよいと思っている。
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2006/08/02のBlog

 「タラの丘に還る」─アイルランド紀行 (7)・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

第五日は小雨や驟雨にたたられる
この辺りは「コマネラ」地方という。約15000年以上前に氷河によって大地が削られて山や谷、沼やフィヨルドが出来た。泥炭層が多く見られるところ。
ところどころで泥炭を採取している風景が見られ、乾燥させて燃料として使われているが、自然保護のために2025年には泥炭の使用はやめる政策とか。

カイルモア修道院

写真①はカイルモア修道院である。
この城館は1871年に完成した下院議員でマンチェスターの富豪マイケル・ヘンリーと妻のマーガレツトのためのものだが、何代かの手を経てベネディクト派の修道院となった。現在はベルギーの女子修道院の経営で、付属の良家の子女のための全寮制の女子学校がある。前のカイルモア湖に館が映ってきれいである。
ビジターセンターで選択制の昼食のあと、コマネラ国立公園の散歩。
だらだら上がりの道である。3kmの道を約1時間かけて廻る。
写真②は路傍の斜面のヒースの花の群落である。

コマネラ国立公園の散歩ヒース

ヒースという呼び名は、ヘザーが群生している様子を指すそうである。
この辺りは緯度的にはちょうどスコットランドと同じようなところにある。もっと大きな群落地があったのだが、写真がなくてゴメンなさい。
写真③のように泥炭の露出したところもある。

コマネラ国立公園の散歩泥炭露出

私は、とろとろ歩くのが嫌いで、みんなより早く丘を下りたのが悪くて、バスの停まるところの手前で激しい驟雨に遭い、濡れてしまう。

ここを出て、コングの村を散歩するが小雨で気が乗らない。
ここはジョン・フォードの故郷で1952年公開の「静かなる男」のロケ地となった。
俳優たちもアイルランド系を多く使ったという。だからアメリカ人の観光客が多いという。

この夜は西海岸最大の都市ゴールウェイ泊り。
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2006/08/03のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (8)・・・・・・・木村草弥
         
         ・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・ユーラシア旅行社催行

ゴールウェイ イニシュモア島 ドゥーン・エンガス
ゴールウェイは西海岸で一番大きい都市で人口約9万人。1845年創立のゴールウェイ大学(学生数15000人)もあり若者が多く活気がある。コマネラ地方の自然やビーチ、アラン諸島などとの基地となっていて、西の経済、文化の中心になっている。
郊外のロサヴィル港からイニシュモア島へ写真①のフェリーで渡る。300人乗り。

イニユシュモア島フェリー

本土から島へは約12km、約45分。

イニユシュモア島フェリー②

同行の大きな体のガイドと添乗員・帯津さん。
私の隣にドイツ人の女の人が座る。
帰途、同じ人が夫婦で座り、まあ、と声を上げる。ドイツのツアー客で隣に座った老婆と話す。71歳だという。ドイツの飴をくれたので、たまたま添乗員の帯津さんのくれた日本のパインキャンデーをお返しにあげる。ドイツ人も団体旅行好きである。波に乗り上げて船がかしぐと怖がって声をあげるので、手を握ってあげる。

イニユシュモア島ドゥーンエンガス

イニシュモア島のキルローナン港に到着
この島はイニシュモア諸島のうちのひとつ。人口は約900人という。
紀元前5世紀にケルト人が渡ってきたが、すでに先住民の遺跡ドゥーンエンガス(写真③)があったという。発掘調査によりBC1500年頃には人々がこの島に住んでいた形跡があるという。この砦はBC1100年頃には建造が始まったと考えられ、BC800年頃まで増築され、崖から三重になっており、その壁の間に人々が住んでいたと考えられるが詳しいことはわからないという。崖の先端から、這いつくばって海を覗く人もいる。
写真④が、その断崖。

ここもビジターセンターから先はミニバスで行くが、ドゥーンエンガスに行く前に聖キーラン修道院跡を見る。写真は省略。
アラン諸島には490年に聖エンダによりキリスト教が伝えられ、その弟子キーランによって6世紀に建てられたのが、ここである。
12世紀には他へ移ったため廃墟となった。
この島でも小雨にたたられる。
因みにイニシュモア島とは「大きな島」の意味。他に、イニシュマン島は「まん中の島」の意味。イニーシア島は「東の島」の意味という。

イニユシュモア島断崖

イニユシュモア島石囲いの牧草地

写真⑤が西海岸特有の拾い集めた岩を積み上げて放牧地の周囲を囲った風景。
昔は海藻などを敷いて土壌の基礎を作り、ジャガイモなどを採っていたという。
下は石灰岩の岩盤である。

ゴールウェイ・夕食シーフード

ゴールウェイに帰ってから夕食はフリーなので、添乗員おすすめのシーフード・レストランに行く。予約してあったが、とても混んでいて、テーブルが空く都度、4人づつ席につく。
何が出たか、忘れてしまったが、おいしかった。
写真の右側の人が唯一名前を紹介した「阿部行子」さん。風貌が一見外人っぽい。

ここのホテル──インペリアル・ホテルというが、街の中心にはあるが、その名に値しない古くて、がさつなホテル。環境も悪くて、ホテルの前で若者がおそくまで、騒いでいたという。
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2006/08/04のBlog

  「タラの丘に還る」アイルランド紀行 (9)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

バレンBurren高原 巨人のテーブル 
第七日はゴールウエイを出てリムリックに至る間に横たわる、どこまでもつづく石灰岩の丘陵である。
かつてクロムウエルが侵攻してきたとき「人を吊るす木もなく、溺れさせる水もなく、生き埋めにする土もない」と拷問に方法を考えるのに途方に暮れたという土地である。
このエピソードは残忍なクロムウエルならではの言葉だと思うが、現実の土地は、まさにそのような土地であった。バレンという言葉の語源となったバレンBhoireannとはゲール語で「石の多い場所」を意味する。石は水による侵食を受けやすい石灰岩で、洪積世に氷板で凝固や溶解作用を起した。さらに2億6000万年前に起こった地殻変動で海底から押し上げられて、現在のように石灰岩がひろがる光景となつたという。

巨人のテーブル

写真①は、そんな光景が創り出した「巨人のテーブル」という造形である。
紀元前3800年~3200年頃に作られたといわれている。1989年の発掘調査で25人分の人骨、壷の破片、宝石類が出てきたという。元々は、このテーブルの上にはニューグレンジのように墳墓として土が覆っていたと考えられる。

モハーの断崖
モハーとは廃墟になった崖の意味。
海面からの高さが約200メートル、約8kmにわたってつづく断崖である。
岩には海鳥の巣がたくさんあるという。最近は年間70万人もの観光客が来るという。

モハーの断崖

強い風と雨の中、カッパを着て歩いた。
岩肌には黒い泥板岩と砂岩の層が交互に美しいラインを描いている。

アデア村
16時頃、リムリツク近郊のアデア村に到着。
数軒の藁屋根の昔の建物があるだけだが、保存されて観光客を引きつけている。
これらの家は観光客向けのみやげもの店などになっている。
かわいい村コンテストで優勝したことがあるという。
藁屋根の家はイギリスのストラドフォード・アポン・エイボンのシェクスピアの母親の家なんかもそうだし、デンマークの漁師の家なんかも保存されているのと同様である。

藁葺屋根のアデア村

藁葺屋根のアデア村②

いずれにしろ雨と風にたたられた一日だつた。
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2006/08/05のBlog

  「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (10)・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

キラーニー国立公園 マクロス邸
第八日は朝、小雨。キラーニー国立公園の湖の傍にあるマクロス邸へ馬車4台で。
「マクロス」とは人の名前ではなく、ゲール語で「マク=豚、ロス=所」の意味。
この邸は1843年ウエールズの富豪H.A.アーサーにより建てられた邸宅。
1861年にヴィクトリア女王訪問のために八年も前から改装したりした。
その後、いろいろの手を経て、19?0年にサンフランシスコでゴールドラッシュで財を成したW.B.ボウルが購入。

マクロス邸へ馬車で

娘モードとビンセント氏の結婚祝いに買って、二人の子供も生まれ暮していたが、妻モードが死んで引越し、1932年アイルランド政府に寄贈され11000ヘクタールの土地とともに国立公園となった。
邸内を詳しく案内してもらうが、省略。
ヨーロッパのお城や宮殿を数多く見てきた目には規模が小さい。

マクロス邸

外へ出て、湖を望む景色などを自由時間で見物する。
マクロス邸へ馬車で行ったので馬車を降りてからの写真を出しておく。雨に備えて青いカッパを着ているのがわかる。

マクロス邸へ馬車で②

あと、14世紀に建てられたが、クロムウエル軍の攻撃で破壊され廃墟となったロス城などを見て、一旦昼食のためにキラーニーの街中に戻る。
ちょうど、この日はアイルランドラグビー(普通のラグビーとどうちがうのかわからない)の決勝戦が行われるというので、赤と緑のチームカラーを着分けた人々がおびただしく往来しており、笛を吹いたりして大騒ぎ。夕方、ラジオで聞いていたドライバーの話では同点で引き分け、後日、決定戦を行うらしい。

イベラ半島170kmのリングオブケリーのドライブ
午後は大西洋に突き出たイベラ半島のドライブ。山を越え、谷に降り、海岸に出て、また山中に入るというドライブ。気が乗らず写真なし。

妖精標識

途中に、写真④のような「妖精に注意」という横断歩道の看板が出ていたりして、ここが妖精伝説の国であることを示す面白い場面にも出くわすことになる。
イエイツなどの著作に妖精の話があることはも先に書いた通り。
もう一つ。海岸を走っていたら、チャーリー・チャップリンが妻や子供たち家族とよく夏を過したというButler Anns Hotelのあるウォータービル村で写真ストップ。
写真⑤がその銅像。

ウォータービル村チヤップリン像

夕方18時といってもサマータイムのため、太陽はまだまだ真上だが、キラーニーのエビストンハウスホテルに帰着。
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2006/08/06のBlog

 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (11)・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

写真①はキラーニー宿泊のエビストンハウスホテルである。

キラーニー・ホテル

街中にあり、古いが、まあまあ設備も整ったホテル。グラウンドフロアの一角には広いパブがあり、宿泊客でない一般の人も利用している。
宿泊客のためには二階(ここでは一階)のレストランを利用することになる。
朝スーツケースを運ぶポーターが少ないので、私は自分で玄関まで階段を使って運んだ。

ブラーニー城 ロックオブキャシェル
第9日は、先ずブラーニー城へ。

ブラーニー城

10世紀頃にあった木造の城跡に1446年マンスター地方の王マッカーシーが今に残る城を作った。彼は雄弁家で、エリザベス女王の命令もうまく丸め込み自治権を獲得するまでになった。ここからコーク出身の詩人マホーイが城の或る石にキスをすると「誰もが雄弁になり、恋人に愛をささやくもよし、国会議員になるもよし」と詠ったことから有名になった「ブラーニーストーン」というのがある。

ブラーニー城②

ブラーニー城③

写真③は、イナバウアー状になって石にキスしようとする同行者。
長い行列が出来ている。みんな物好きである。
石は屋上にある。途中の階はがらんどう。
広い庭の散歩をする。
「エレファントイヤー」という大きな葉の南米原産の植物があったりする。
近くのブラーニー・キャツスルホテルという立派なホテルのレストランで昼食。念のためにメニューを紹介しておく。
ゆで玉子とサラダの前菜。スモークハドック(鱈の一種)のグリル。デザートはパブロヴアというメレンゲを焼いたものとクリーム。

ロックオブキャシェル

ロックオブキャシェル 聖パトリックの十字架
約2時間かけて到着。
この教会跡は5世紀マンスター地方の王族オブライエンが居住のための城を建てた。448年に聖パトリックが来て王を改宗させ、9世紀からは王が司教を兼ねる司教座となった。1141年頃には大司教座に昇格し、アイルランドの4大司教区の一つとなったが、宗教改革や戦争や大虐殺のために教会群も破壊され、1749年からは近くの聖ジョン教会が代わりの役目を果たしている。1847年からは国の管理下に。

ロックオブ・聖パトリック十字架

聖パトリックの十字架
聖パトリックがこちらで布教したのにちなんで作られた。左半分は壊れている。
キリストが十字架にかけられている彫刻が彫られている。
コーマック礼拝堂。カテドラル(大聖堂)など。
とにかくアイルランドでは聖パトリックがキリスト教を布教した人なので、どこへ行っても「聖パトリック」一色である。

添乗員の帯津さんが詳しく説明してくれたが、省略。
あとは一路、ウォーターフォードのタワーホテルめざして出発。
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2006/08/07のBlog

「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (12)・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

グレンダロッホ
第10日はウォーターフォード・クリスタル工場の見学から始まったが、写真は省略。
チェコのボヘミヤンガラス、イタリアのベネチアンガラスを見てきた人間には、芸術的に、もう一つ物足りない。ここの説明にもあったが、スポーツ競技のトロフィーなどに特色があるということか。またケネディ大統領以来、就任の記念クリスタルが贈られているという。
ここを出たあとは山のなかに入り、アボカ村にあるギリシア料理のみすぼらしいレストランで昼食。
アボカ渓谷のドライブというが、渓谷というような趣のものではなく、まして道の両側の木が邪魔をして渓谷が見えない。
15時すぎグレンダロッホに到着。ここもビジターセンターを経て、歩いて中に入る。
写真①のゲートウエイという石積みの門をくぐって入る。

グレンダーロッホ

①の石積みの門は11~12世紀に作られたもので現在唯一残っているもの。
ここは6世紀に聖ケビンが修行を始めた頃すでに小さな教会があったという。、その後修道院を作り人々が集まり村となった。聖ケビンは初代司教。
写真②は大聖堂(カテドラル)の跡。

グレンダーロッホ②

10~12世紀のアイリッシュ・ロマネスクのがアーチに残っているという。
写真③は10~12世紀に建てられた円塔。高さ約30m保存状態が大変よい。

グレンダーロッホ③

この塔は「物見」の役目も果たしており、入り口は地上から3mほど上に開いており、まさかのときには梯子を取り外して、中に篭城することも考えられていたという。
写真④は聖ケビン教会と言い、ロマネスクよりも前、11世紀に建てられた急勾配の屋根と突き出た円塔が特徴的。
現在の形になる前、ケビンが来る前にすでに木造の教会があり、ケビンはここに住んだという。

グレンダーロッホ④

グレンダーロッホ⑤

写真⑤は、ビジターセンターの中の展示にあったもの(メモがなく不詳)。

ここに入る前に渓谷の途中にトーマス・ムーアの詩を刻んだ石碑があった。
それはThe meeting of the waters というものであり1807年にこちらを訪れたときに書いたという。
詩は<アボカの美しい谷よ!最愛の友と緑陰に抱かれて、この上なく静かな憩う、ここでは冷たい世の嵐が吹きすさぶこともない、せせらぎのようにわが心は平安にひたる>
というものである。

グレンダロッホとは湖に囲まれた谷、の意味。ここはウイークロー国立公園の中にあり、ハイキングを楽しむ人が多い。ローワーレイクまでミニ散歩を楽しんだ。
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 「タラの丘に還る」 アイルランド紀行 (13)・・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・2006/07/02~07/14(13日間)・・・・・ユーラシア旅行社催行

2006/08/08のBlog

首都・ダブリン
ここでの2連泊はバーリントンホテルと言う大きな近代的なホテル。
第11日は午前中団体行動で、午後からフリーとなる。

オスカーワイルド像

写真①はメリオンスクエアという公園の一角にあるオスカーワイルド像。
ダブリンの街はリフィ川の南北に開けた街。中心部の1720年代から約100年の間に建てられたジョージアン様式の建物の写真を撮ったりする。カラフルなドアや、その上の半円形の窓が特徴。
写真②は聖パトリック大聖堂。

聖パトリック大聖堂

ここはアイルランド国教会のため、信者は250人くらいだという。だから維持のために入場料などで収入を得ている。中は人で一杯。
現在の建物は1191年当時の大司教によって建てられた。
床には、この教会で大司祭長として務めたジョナサン・スイフトとその恋人ステラの墓があり、カラフルなプレートが埋め込まれている。写真③にそれを載せる。
スイフトは『ガリバー旅行記』の作者として有名。

司祭長ジョナサンの墓

先に書いたように写真③がジョナサン・スイフトと恋人ステラの墓。

ここの大聖堂の修復には、ビールで有名なギネスが多額の寄付をしている。窓にはギネス家が作らせたすばらしいステンドグラスが見られる。
バスはリフィ川南北を案内してくれ、旧国会議事堂(現アイルランド銀行)、トーマス・ムーア像、ダニエル・オコンネル像、中央郵便局(1916年イースター蜂起のとき独立軍が占拠)などが見える。
11時頃、トリニティ・カレッジに入る。

トリニティ

トリニティ②

トリニティ・カレッジの中にあるオールドライブラリーの『ケルズの書』を見学する。内部は撮影禁止である。
ここトリニティ・カレッジはエリザベス1世により1592年にプロテスタントの神学校として創立された。現在の学生数は11500人という。そのうちの75%はカトリックという。
ケルズとは、アイルランド中部の町の名で、そこで書かれ、発見されたので「ケルズの書」という。仔牛の皮をなめして、その上に福音書を修道士たちが書き写した。120頭分という。4冊のうち2冊がこちらで保管され、公開されている。装飾文字なので美術品としても価値が高い。
「ロングルーム」という図書館を見学。
ここのシヨツプで鶴岡真弓さんの翻訳の「ケルズの書」(創元社刊)を買う。日本で買ったら定価で買えるので安いのだが、記念に買った。写真⑤が、それである。

ケルズの書

後、団体行動としては「国立博物館」で紀元前1200年~1000年という金の装飾品や、最近、泥炭層の中から発見され、つい先日から展示コーナーが出来たというミイラ。国宝・タラ・ブローチ8世紀のもの(ただし、タラの丘でみつかったものではなく、アイルランド人の心の故郷としてタラと名づけたという)。アーダの聖杯(8世紀)。コングの十字架などを見学。
国立美術館のカフェで各自に昼食を摂って解散。
私はホテルへ戻り休息する。
長かったツアーが終了した。
翌日、ダブリン空港を経て、ロンドン・ヒースロー国際空港から成田へ帰る。私だけビジネスクラスである。

大急ぎで、とにかく全部まとめてみた。資料などで追加するものがあれば、後日、記事にしたい。


     
西辻明の詩・・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
2005/08/18のBlog
水中花

──西辻明の詩──(3)

  水中花・・・・・・・・西辻明

十年
この花は
ガラス瓶の中に
おわりの夏の あなたの
またわたしの憶いをこめて
白と黄と
青と赤と とりどりに
咲(わら)っていました

あなたがそれをもとめ
あなたがそれを活ける
あなた自身も知らない
あなたの心の深い海
その暗闇をわたしは感じとり
あまりにはかなくて
空に向かって開く広口瓶二つ
手伝いもせず おし黙っていました

丹頂と
青龍と
初恋と
老いらくの恋と・・・
名づけに興じながら
金魚や鯉を泳がせ
移りゆく季節は
ウオーターヒヤシンスの紫に暮れて行きました
また訪れる
小鳥たち
山雀
四十雀
目白
頬白
蜜をもとめ
さるすべりの実を啄み

日当りの塒(ねぐら)に憩う

小綬鶏の家族

また夕ぐれは
山鳩
冷えこみ厳しい夜の
梟の声を二人で聴きました
雉のつがいの
羽音も高く
翔び立つ日々もありました
あなたはいつも
山鳩と梟を
まちがえましたね

ホゥ ホゥ ゴロスケ ホゥコゥ
ホゥ ホゥ ホゥの
リズムとアクセントのちがい・・・
 ・・・・・

一つ一つの憶い出に
別れを告げ
一度は棄てようかとも
また思いなおして
言葉に書きとめようとも・・・
しかし
流れにしるした文字よりも淡く
たちまち泡沫と消え去りました

今日こそ 解き放とう
透明な 物象のゆらめき
花々は 風と光のなかへ
立春も過ぎて
そう思い立った

斜めに舞い狂う
粉雪の銀の砂の
窓辺の明りに読む

 錦瑟・・・・・李商隠
錦瑟無端五十弦 一弦一柱思華年
荘生暁夢迷胡蝶 望帝春心托杜鵑
滄海月明珠有涙 藍田日暖玉生烟
此情可待成追憶 只是当然已惘然
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この詩も西辻明の詩集『十年』に載るものである。
これは亡くなった夫人への追憶であろうと思われるが、末尾の漢詩になって俄然、むつかしくなり、私にも、それまでの判り易いリズムとのギャップに読みなずむものがある。
しかし彼が、この漢詩を載せたかったのだから仕方なかろう。
この詩集の題に、この詩の出だしのフレーズ「十年」が採られていることからも、この詩によせる彼の思いを知るのである。
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2005/08/17のBlog
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──西辻明の詩──(2)

 山遁の術・・・・・・・・・・・西辻明

         ───五郎君はフーガの技法をマスターしました───

お昼寝の時間です
扇風機がゆっくり首を振っています
五郎君は四ツ肢を投げ出して
眼をつぶっています

二階から
気持の良いメロディが聞こえて来ます
タンタンタラタラ タンタンタラタラ
「フーガの技法」です

五郎君の眼が明きました
玄関が開いています
今こそチャンス
五郎君は裏山を伝って飛び出します

タンタンタラタラ タンタンタラタラ
いそげや いそげや ほらいそげ
遁走曲だよ 走れや 走れ
五郎君は一目散 そこでマーチがワンワンワン

父ちゃん 覚めたよ
マーチの啼き声
これはしまった しくじった
自転車飛びのり 追いかける

逃げろや 逃げろや えっさっさ
五郎君は一目散
桜ケ丘まで一目散
ミートとセーラの匂いがするよ

そこで留って一服すれば
父ちゃんチーズで おいでおいで
五郎君は覚悟を決めた
首輪を嵌めて お散歩だ

真夏の日の夢さめました

 *ミート──黒ラブラドル雌、 セーラ──ゴールデンレトリバー雌
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西辻明が詩集『十年』を送ってきた。ここには24編の詩が載っている。
彼の詩については私のHPに連詩三人集『命あるものへの頌歌』に「箴言」を収録してあるのでご覧いただきたい。
この詩は「五郎君」という飼い犬の柴犬の遁走のことをユーモラスに書いている。五郎だから雄犬である。桜ケ丘というところにミートとセーラという雌犬が居るので、遁走して、そこへ会いにいったというもの。
結句が「真夏の日の夢」というので、この時期の詩として載せてみた。
「 鶴見俊輔の詩」・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
もうろくの春
2005/11/10のBlog

──鶴見俊輔の詩──(3)

 意外になが生きして・・・・・・・・・・鶴見俊輔

八十歳にひとつきをあまし
ひとにほこれるものは何もなく
おのれにほこれるものは、
運だ。
あれ、
これ、
それ、
をさけることはできた。
そのくらいのことか。
そしてときに
おやじの復讐と
感じることがある。
突然に
演説をはじめるときなど。

概してしゃべりすぎる。
はなしたりないおやじを
私は内にもっている。

八十八歳まで生きて
最後の十五年、
言葉をうしなった彼は
まだはなしたりなかった。
それが突然にわたしのなかで
エンジンがかかる。

ばからしいことだが、
仕方がない。
親不孝者のわたしには、
このくらいしか、
不孝のつぐないはない。
他に何か?

 (鶴見俊輔詩集『もうろくの春』より)
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全80ページという掌篇詩集とも言えるものだが、約10篇くらいのカミングズ、オウエン、エズラ・パウンドなどの「訳詩」と思われる詩を含んでいる。また「北アメリカの先住民オマハ」の儀式の祝詞みたいなものも訳されている。
「本のなりたち」という、あとがきみたいなもので
・・・・・自己批評は、批評のむずかしい領域で、年をとるにつれ、作者本人のもうろくにあとおしされて、さらにむずかしくなる。
 これは、自選詩集ではない。
 ある日、黒川創がこの詩集をおくってきた。それに、私が前から考えていた題をそえた。
 「もうろくの春」は、私が編むことのできる詩集をしのぐ。そのことがうれしい。
 もっとも小さい出版社の出発にさいして、一言、おいわいの言葉を。
 2002年10月5日─────鶴見俊輔

と書いてある。これで、この詩集が2002年に編まれたことが判る。
「おやじ」というのは雄弁な自由主義者の政治家だった「鶴見祐輔」である。
雄弁家でありながら、晩年に「言葉」を失った父の代りに自分が「おしゃべり」だと書いているのは「親孝行」ではないのか。
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2005/11/09のBlog

──鶴見俊輔の詩──(2)

 状況歌・・・・・・・・・・・鶴見俊輔

国民の都 東京は

日本の知識人(インテリ)を包む

高く立て日の丸を

ゴッド・ブレス・アメリカ

 (鶴見俊輔詩集『もうろくの春』より)
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この詩は、痛烈な「アイロニー」満ちている。
アメリカ育ちなのに、この視線の厳しさ、諷刺、はどうだろう。
今の首相・小泉純一郎の、ブッシュべったりの姿勢を批判しているとも受け取れる。
日本が、よく言われることだが、アメリカの51番目の「州」であるかのごとき現状へのアイロニーであろうか。
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2005/11/08のBlog

──鶴見俊輔の詩──(1)

  寓話・・・・・・・・・・鶴見俊輔

きのこのはなしをきいた
きのこのあとをたぐってゆくと
もぐらの便所にゆきあたった
アメリカの学者も知らない
大発見だそうだ

発見をした学者は
うちのちかくに住んでいて
おくさんはこどもを集めて塾をひらき
学者は夕刻かえってきて
家のまえのくらやみで体操をした

きのこはアンモニアをかけると
表に出てくるが
それまで何年も何年も
菌糸としてのみ地中にあるという

表に出たきのこだけをつみとるのも自由
しかしきのこがあらわれるまで
菌糸はみずからを保っている
何年も何年も
もぐらが便所をつくるまで

 (鶴見俊輔詩集『もうろくの春』より)
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この詩集は13×15センチという、小型で変形のかわいいものである。
編集グループ<SURE>工房という京都市内の名も知らぬ出版社の発行である。
定価は3000円+税、と高いものだが、2003年3月の初版から2004年2月の3刷と版を重ねている。こんな本には珍しく700部も刷を重ね、今どき「著者検印」のハンコまで押してある。ハンコは「狸男」というもので、人を食っている。
この詩集は出版元への直接注文でしか買えない。
写真①は本を納める外箱であり、写真②は本の本体だが、萌黄色の布装なのに色が変なものになってしまった。ご了承願いたい。
鶴見俊輔の専門は何なのだろうか。哲学者なのか心理学者なのか。もう80歳を超えた。鶴見和子の弟である。
アメリカの大学で若い日々を過ごし、太平洋戦争に入る末期に在留邦人交換船で帰国したという経歴を持つ。都留重人などの次の世代にあたる。
掲出した「寓話」という詩は、とても佳いものである。引き続いて、あと二つほど詩を載せたいと思う。

  
木村重信 『美術史家 地球を行く』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
美術史家地球を行く

──新・読書ノート・・・初出Doblog2009/01/12──

 木村重信『美術史家 地球を行く』・・・・・・・・・・・木村草弥
    ・・・・・・・・・・・・2008/12ランダムハウス講談社刊(定価2100円)

この本は昨年12/17に発行されたばかりで、年末押し詰まった時期に著者から恵贈された。著者は私の、すぐ上の次兄である。
この本の「帯」には、こう書かれている。

 <美術史界の重鎮、地球を走る!
 本書は、1956年、フランス・スペインの洞窟美術遺跡を
 オートバイで踏査以来、現在まで、地球のほぼ全域で
 多くのフィールドワークを行ってきた著者が、
 その厖大な資料を基に、美術のみならず、そこに住む人々との
 交流を通じ、生活、文化、自然をルポルタージュした
 壮絶な体験記録である>


この帯文は、この本を要約して過不足がない。
ネット上に載る「白鳥正夫のぶんか考─新聞人から見たアートの周辺」というサイトには木村重信の顔写真入りで対談が載っているので、ご覧いただきたい。

この本の「帯」の裏面に、この本で取り上げられている地域が列記されている。
Ⅰヨーロッパ
アルタミラ(スペイン)、アルシー・シュル・キュール(フランス)、クレタ(ギリシア)、ミュケナイ(ギリシア)、モナスターボイス(アイルランド)、モルドヴァ(ルーマニア)、ブルッヘ(ベルギー)、マイセン(ドイツ)
Ⅱアジア
ウル(イラク)、カルバラ(イラク)、サマルカンド(ウズベキスタン)、慶州(韓国)、ビーマーベトカ(インド)、ニアス島(インドネシア)、ランテバオ(インドネシア)、バリ島(インドネシア)、景徳鎮(中国)
Ⅲアフリカ
トンブクトゥ(マリ)、タッシリ・ナジェール(アルジェリア)、エネディ(チャド)、メロエ(スーダン)、イフェ(ナイジェリア)、ツォデイロ・ヒル(ボツワナ)、大ジンバブエ(ジンバブエ)
Ⅳオセアニア
カカドゥ(オーストラリア)、イースター島(チリ)、ヒヴァ・オア島(仏領ポリネシア)、トロブリアンド諸島(パプア・ニューギニア)、セビク地方(パプア・ニューギニア)、スヴァ(フィジー)、ナン・マトル(ミクロネシア)
Ⅴアメリカ
サンライムンド・ノナト(ブラジル)、ティアワナコ(ボリビア)、ラ・ベンタ(メキシコ)、パレンケ(メキシコ)
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この私のHPおよびBLOGとの関連で見てみると、、「クレタ」について20~25ページにクノッソスについて書かれている。
またアイルランドについては「モナスターボイス」のことが32~37ページに関連記事が載っているのでWeb上の私の記事を補足して読んでもらいたい。

「連句の巻」・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
2007/01/09のBlog
kikizake04利き酒茶碗

──連句の巻──

  連句・歌仙『酒蔵の』の巻
      ・・・・・・・・・・・・・・・起首 平成17年5月31日 満尾 18年12月22日

  連衆 桃風/奥田清和 鳴夫/田土成彦 皿登/山本孟 
      黒旋風/浜田昭則 花宵/行本昭子

初折 表
発句 夏 酒蔵の昔がたりやあやめの湯・・・・・・・・・・・桃風
 脇 夏 蚊遣りの灰の残る渦まき・・・・・・・・・・・・・・・・鳴夫 
第三 雑 謡曲の習ひ始めは飴持ちて・・・・・・・・・・・・・皿登
四句目 雑 宵の高座に扇子を鳴らす・・・・・・・・・・・・・黒旋風
五句目 秋月 うたたねの覚めて見上げる居待月・・・・・花宵
六句目 秋 石垣の間のきちかうの青・・・・・・・・・・・・・・鳴

初折 裏
初句 秋 ふりあへず竜胆の野を離れゆき・・・・・・・・・・・黒
二句目 雑 衣装着替へてCMを撮る・・・・・・・・・・・・・・・皿
三句目 雑 思ひ出を詰めて嵩張る可燃ゴミ・・・・・・・・・・花
四句目 雑 浮世の海のカナリアの歌・・・・・・・・・・・・・・・桃
五句目 雑恋 窓を開けはるかな恋の風入るる・・・・・・・・皿
六句目 雑恋 マッチの炎手に庇ひあふ・・・・・・・・・・・・・鳴
七句目 雑 赤じゆうたん昨日の友とすれ違ひ・・・・・・・・花
八句目 雑 天衣無縫の所作胸のうち・・・・・・・・・・・・・・桃
九句目 春月 おぼろ月思案の外の駒照らし・・・・・・・・・黒
十句目 春 遍路の宿の煎餅蒲団・・・・・・・・・・・・・・・・・鳴
十一句目 春花 しまなみの大橋渡る花嵐・・・・・・・・・・・皿
十二句目 春 歌碑をめぐりて陽炎もゆる・・・・・・・・・・・・花

名残の折 表
初句 雑 火の国の木の間洩れくる宮の鈴・・・・・・・・・・・・・桃
二句目 雑 鵜殿の海へと放るかはらけ・・・・・・・・・・・・・・・黒
三句目 冬 うすら氷を割るうれしさに童靴・・・・・・・・・・・・・鳴
四句目 冬 来年こそはと日記帳買ふ・・・・・・・・・・・・・・・・花
五句目 雑 ポケットにすり切れてゆくはづれ籤・・・・・・・・・黒
六句目 雑 残党集め復活ねらふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皿
七句目 雑恋 このたびはたとへどなたの意見でも・・・・・・桃
八句目 雑恋 手を携えてタラップ上る・・・・・・・・・・・・・・・・花
九句目 夏 日常も祇園祭も忘れ果て・・・・・・・・・・・・・・・・黒
十句目 秋 カンツォーネ聞く秋の城跡・・・・・・・・・・・・・・・桃
十一句目 秋月 刀身のそりゆるやかに月の光(かげ)・・・鳴
十二句目 秋 菊師が最後の兜をつくる・・・・・・・・・・・・・・皿

名残の折 裏
初句 秋 超高層ビル光背に敗荷(やれはちす)・・・・・・・・黒
二句目 雑 のぼりつめれば落つるも早し・・・・・・・・・・・・・花
三句目 雑 隕石に屋根こはされて「吉」を得る・・・・・・・・・皿
四句目 雑 青天井の舞台に阿国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒
五句目 春花 都はも生けるしるしあり糸桜・・・・・・・・・・・・桃
挙句 春 風やはらかにつばめむれ飛ぶ・・・・・・・・・・・・・・鳴
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utsukushii盃

浜田昭則氏からの連絡があって、「連句」の披講があった。
この連句会の連衆は短歌結社「地中海」のベテランの皆様で、全国大会を期して連句を巻かれたようだ。ほぼ一年半の時間を要しているのは残念だが、お見事に巻き終わられた。
この連衆の皆さまとは、私も「座」のはしくれに加えていただいたことがある。「有馬の湯」「宙のいづくに」「鬼やんま」の巻などである。ご覧いただきたい。
次回には、ぜひお仲間に加えていただきたい旨、メールを打っておいた。
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「連句」については
私のWebのHPに「連句のページ」
というのがあり
私の参加している記事もあります・・・・・木村草弥
アドレスは下記 ↓ です


「連句のページ」

高田敏子の詩②・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
2006/02/02のBlog

──高田敏子の詩──(20)
aaoosuisen2水仙

 水仙・・・・・・・・・・高田敏子

水仙が咲いている
昨年の暮れから ずっと
ひと月余り
水仙の花は咲いている
私の部屋の花びんに

花は少し疲れて
花びらのへりを少しちぢませて
花は私を見ている
夜 机の前に坐る私を
家族の目のないときの私を
誰にも知られない一人のときの私を
少し疲れた花のやさしさで

灯を消しても
花の視線は私の上にあるのだった
闇の中
ほの白い清らかな星のかたちで
私の生をいたわり
静かな眠りへと誘ってゆく

(詩集『こぶしの花』から)
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2006/02/01のBlog

──高田敏子の詩──(19)

  雪・・・・・・・・・・・・・高田敏子

樹の根元のまわりから
雪はとけてゆく
樹の肌にそって まるく
くぼみを作ってゆく
その静かな環(わ)のかたちを見るのが
私は好きだ

雪はうっとりと
とけてゆくのだろう
とけて雪は
地の中にしみ入り
樹の根に吸いあげられて
樹液に変わるのだ

枝々の先に いっせいに
噴きだす芽!
 
うっとりと とけてゆく
雪の心が
あの環のくぼみから
伝わってくる

(詩集『こぶしの花』から)
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2005/10/25のBlog

──高田敏子の詩──(18)
菊ピンク

 菊の花・・・・・・・・・・高田敏子

菊の花の
紅をふくんだうす紫が
箱にいっぱい

──さっとゆがいて召し上がって──
友のことばがそえられて

こんなにたくさん
菊畑がそのまま
送られて来たような
花のまぶしさ
花の香り

この美しさを
「食べる?」
私はそれにあたいするかしら
花のまえに はじらうばかり

お盆に盛って
棚においでの観音様に
まずお供えして
ご近所にもおすそわけしましょう

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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2005/10/24のBlog

──高田敏子の詩──(17)
mikan21蜜柑本命

 みかん・・・・・・・・・・・高田敏子

みかんをむく
よい香りが部屋に満ちる
ただ一つのみかんから
ただよい出る
清らかな香り

みかんは
このときを待っていたように
ふっくらと落ちついて手の中にある

このときのために
樹は一年をかけて みのらせ
人は長い年月をかけて
樹を育て

一つのみかんにこめられた
樹の心 人の心
太陽の光も
蜜蜂の姿も
雨も風も

私の手の上の一つのみかんから
浮かび出る
風景のゆたかさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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2005/10/23のBlog

──高田敏子の詩──(16)

 ぶどう棚の下・・・・・・・・・・高田敏子

ぶどう棚を渡る風に
葉は枝を離れて落ちる

実りを終えて
安堵の心をみせての
静かな落下

葉は落ちて
地から見上げているよう
光のよさを
光を受けて紫の色増す
実りのよさを

ぶどう棚の下に座って
落ち葉の一枚を
ひざにのせている私

風は少し冷たくても
秋の深まりを素直に受けて
落葉からまなぶ
心の静けさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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2005/10/22のBlog

──高田敏子の詩──(15)
taiyou084夕日本命

  夕日・・・・・・・・・・高田敏子

すすきの穂のまねく
秋の道
まねかれ
歩みつづけて
岬のはずれまで来てしまった

もう先へは行きようもないけれど
ひろがる海はおだやかで
やさしい小舟を浮かばせている

水平線もはっきり見えて
海上近くに落ちかかる
夕日の赤
あれは ほおずきの赤
風車の赤
柿の実の赤
糸につるした折鶴の赤の色

夕日は刻々海に近づいて
円のはしが
水平線に接したと思うと
刻々の 時の早さを見せて
沈んでいった

沈みきったあとも
私はまだ 赤の色を追っている
母が髪に結んでくれたリボンの
赤の色も思い出され

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
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今日から四日間、久しぶりに高田敏子の詩を4編のせることにする。
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2005/08/03のBlog

──高田敏子の詩──(14)
yoruga3ヨルガオ

 壕の中・・・・・・・・・・・・・高田敏子

そそり立つ崖の上の壕の中は
熱い太陽をさえぎって冷たい
海に面した壁は
艦砲射撃にうちぬかれて
赤錆びた鉄骨が曲りくねった線を見せていた

鉄骨の間から外をのぞいた私の目に
朝顔に似た花の姿が映った
白い花の 一りん 二りん
熱帯樹の茂みに咲いて
それはまごうことなく朝顔の花

娘のころ作りつづけた慰問袋の中に
花の種を入れたことがあった
朝顔の種 コスモスの種
私の庭から摘みとった種の一つがここに蒔かれ
芽ばえ咲き 種をこぼして
二十年を咲きつづけていたとしたら?
この想像は少女趣味でありすぎるにしても
私の心は花から離れることができなかった

同行の若者たちは 壕の中でもしきりにカメラのシャッターを切っている
私のカメラはフィルムが切れていた
幸いにもフィルムが切れていたことで
鉄骨に手をかけたまま そこにしゃがんで
私は花を見つづけていた

ここから見える海はいっそうに青い
花は青い海を背景に次第に輪郭をはっきりと浮かばせ
細くのびたつるは 海からの風に倒れては
また支えを求めるようにして立ち上っている

(詩集『砂漠のロバ』から)
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紹介しだすときりがない程である。この詩も先の詩と同様に南の戦跡を訪ねた際のものであり、思慮ふかい雰囲気に満ちている。いかがだろうか。
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2005/08/02のBlog

──高田敏子の詩鑑賞──(13)
ginnemu_0303.jpg

 ダガンダガンは何故蒔かれたか・・・・・・高田敏子

ダガンダガンは何故蒔かれたか
ダガンダガンは何故茂ったか
ネムに似たその木は
私のめぐった南方の島々に茂り
熱帯樹の間を埋めて
丘にも平地にも バスの走る国道の両側にも
茂りに茂り 地をおおい
枝に垂れ下がる実を割ると
黒褐色の種がこぼれた

艶やかな黒褐色の種を手のひらに遊ばせながら 木の名を尋ねる私に
「ダガンダガン」と 裸の土民は答え
彼もまた腕をのばして頭上の枝から種をとり
手のひらにこぼして見せた

─この種は戦争が終るとすぐ
 米軍の飛行機が空から蒔いた
 島全体に 蒔いていった
土民は種を手のひらから払い落すと
空いっぱいに両手をひろげて説明した

 ダガンダガンは何故蒔かれたか
 ダガンダガンは何故茂ったか

ダガンダガンの種は首飾りや花びん敷になって
土産物屋に売られている
1ドル50セントの首飾りを二十本も求めたのは
この島サイパンで兄一家を失い 慰霊のために訪れたと語る中年の
 夫婦だった

テニヤン ヤップ ロタ
どの島々にもダガンダガンは茂りに 茂り 地をおおい

島の旅から帰って二カ月ほど過ぎた日
硫黄島に戦友の遺骨収集に行った元工兵の記事が目にとまった
─島はギンネムのジャングルにおおわれ 昔の地形を思い出すのに
 困難をきわめた。山刀でギンネムのジャングルを切り倒しながら進
 み ようようにしてかつての我々の壕を発見し 目的を果たすことが
 できた。これは全く死者の霊に導かれたと思うほかはない──

このギンネムとはダガンダガンに違いない

 ダガンダガンは何故蒔かれたか
 ダガンダガンは何故茂ったか
南の島々に蒔かれた種が 急速に成長し
茂り 隠したものの姿が 突然に私の目に浮かんだ
 ダガンダガンは何故蒔かれたか
首飾りを求めた夫婦はそれについて何んの疑問も持たなかった

ダガンダガンの首飾りは若い娘の胸にゆれて
どこかの町を歩いているだろう

 ダガンダガンは何故茂ったか

(詩集『砂漠のロバ』から)
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長い詩の紹介になったが、これも単なる観光客あるいは視察者の視点に終らず、この木の蒔かれるに至った原点に迫っている。
詩の技法としての基本であるが「ダガンダガンは何故蒔かれたか ダガンダガンは何故茂ったか」というフレーズのルフランが生きている。
この詩もまた、今月8月を偲ぶのに相応しいと思わないか。
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2005/08/01のBlog

──季節の詩鑑賞──高田敏子の詩(12)──
akari212さくら灯り

 八月の若者・・・・・・・・・高田敏子

若者たちは出かけてゆく

かがやく太陽を浴びに

おいしい空気を吸いに

むかし このような若者たちは

軍服を汗にぬらし

火をふく風のなかへ

かりたてられていった


私が水筒に水を満たしてあげた

あの若者たちは

いま どこにいるのだろう

あの若者たちも出かけていった

笑顔を残して

(『月曜日の詩集』所載)
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久しぶりに高田敏子の詩を載せてみる。
現代詩のような難しい語彙を連ねることもなく、平易な、判り易い言葉ながら、高田敏子の詩には深い思想が盛られている。

「八月」という月は日本人にとっては「鎮魂」の月である。
古来「盂蘭盆」の行事として祖霊をお迎えする季節だったが、8/15戦争に負けてからは、現代の鎮魂の行事が新しくはじまることになった。8/6の広島、8/9の長崎も同様の日々となった。
これらを風化させてはならないだろう。
八月のはじめに、この詩を掲げる意味は、それに尽きる。
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2004/10/23のBlog

──高田敏子の詩──(11)

  つゆ・・・・・・・・・・・・高田敏子

草の音
虫の声

草の中に身を沈めていると
私も小さな 虫のよう
夏の葉に光る一滴の
つゆの面に
私が写っている

私の小さな存在が
なお小さな つゆの面に
写っている

私は つゆと一つになる
まろやかに その身をつつむ
つゆの心になってゆく

つゆの心に
なりきったとき
つゆは葉先にすべり
ころげて
地に落ちて 消えた

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つづけて高田敏子の詩である。この詩は『薔薇の木』(昭和54年)に載るもの。

  
高田敏子の詩①・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)

2004/10/22のBlog
satoimo里芋の葉

──高田敏子の詩──(10)

 露の玉・・・・・・・・・・・・高田敏子

里いもの葉がゆれている
朝露を まろばせて
清らに優しい 露の玉

私は娘の涙を思った
歯痛に泣いた幼い日の
涙の玉

嫁ぐ日のよそおいの
頬に光った 涙の玉

娘よ 娘
あなたが泣くときは私も泣いて
過ぎてみた月日

よろこびの 悲しみの
どちらの涙もなつかしく

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またまた高田敏子の詩を載せる。この詩は『季節の詩*季節の花』(昭和49年)に載るものである。
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2004/10/06のBlog

──高田敏子の詩──(9)
98f696a1.jpg

  手・・・・・・・・・・高田敏子

ふっと人の肩にかけた手
疲れたみにくい皺の中に
不思議な私がひそんでいる

この肉体の末葉に生きて
私の時間をみんなで吸い
汚れて 痛んで
そして私を支えている

私の忘れた過去さえも折り重ねて
止まった思考の外で
いま ひらひらと泳いでいる

この手の甲の背後で
私の眼はつめたいなげやりの
まなざししか持てない
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この詩は詩集『雪花石膏(アラバスタ)』に載るもの。手の皺を見て人生の残年の心情を深くえぐり出した。詩人というものは、時に非情な心境になって自分を見つめ、さらけ出す。詩人とは哀しい存在である。
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2004/10/05のBlog

──高田敏子の詩──(8)
9.19koushuuhatake葡萄畑

  ぶどう畑・・・・・・・・・・高田敏子

ぶどう畑で ハサミの音が鳴っている
実りを終えたぶどうの樹は
一房 一房を 切りとられ
その枝を軽くしていった

ぶどう棚の上の 空は冷めたく澄み
風もまた冷めたく
私の着物の布目をとおして吹きすぎてゆく
ぶどうの葉は かわいた音をたてて散りおちる

収穫のハサミは鳴りつづけ
その音に 私は小さく身ぶるいしていた
私も実りを終えた一本のぶどうの樹
鋼鉄の刃の冷めたさが 私の胸の乳房にも
触れる思いで。
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「私も実りを終えた一本のぶどうの樹」という把握の仕方が、この詩を犀利な刃物にしている。「葡萄を切るハサミの音に身ぶるいする」という詩人の繊細な心情と表現の的確さ。この詩は詩集『藤』から。
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2004/10/04のBlog
──高田敏子の詩──(7)
scan4450横浜外人墓地

  丘・・・・・・・・・・・・高田敏子

「墓地を買いませんか」
友人がいった
墓地を買うなんて
私は一度も思ったことはなかった
「丘の上の海の見えるところです」

カモメがとんで 波がくだけて
島がよいの汽船が見えて
むかし そんな丘に住みたいと思った
夢二の絵のように坐って
レモンティーを飲みたいと願った

──そう レモンティーはさぞおいしいだろう
「生もたのし 死もまたたのしです」
友人は
引越しの日をたのしむようにいった
そして最後につけくわえた
「必需品ですよ」
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掲出の写真は、横浜山手の外人墓地のものである。この詩の「丘の上の海の見える」丘という設定に、なにほどかマッチするのではないか。この詩は詩集『にちよう日』から。
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2004/10/03のBlog

──高田敏子の詩──(6)

  縁日・・・・・・・・・・高田敏子

綿菓子売りのおばさん!
あなたは ずっと昔から
そうしていたのではありませんか

花火屋のおじいさんも
ほおずき売りのおばあさんも
みんな 昔のまんま
ああ 幼なじみの少年が
金魚を下げて歩いてくる

ここは魔法の国ではないかしら?
アセチレン灯の匂いのなかで
私は子どもにかえってゆく

そう すず虫のごちそうは
キュウリの輪切でしたっけ
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この詩は詩集『月曜日の詩集』に載るもの。今ではアセチレンガスの灯はなくなってしまった。この詩は詩集『月曜日の詩集』から引いた。
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2004/10/02のBlog

──高田敏子の詩──(5)
bryuraブランコ

  鞦韆(ぶらんこ)・・・・・・・・・・高田敏子

私の手で作ったぶらんこが
乗り手もなくなったまま
庭木の枝から下がっていて
子犬のおもちゃになっている

夜中に目覚めて
ぶらんこを押している犬
ぶらんこは
ときどき こつんと
犬の頭をたたくらしい

戸を閉した部屋の中で
私は文字と遊んでいる
愛とか死とかの文字を書きながら
私はときどきちいさな悲鳴をあげる

月夜か闇夜か知らない庭で
子犬はぶらんこと遊んでいる
小さな頭に こつんと当る
その音だけを 私に聞かして
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この詩は詩集『砂漠のロバ』に載るものである。
詩人というのは、この詩に書かれるように「文字と遊ぶ」ものである。「愛とか死とかの文字を書きながら/私はときどきちいさな悲鳴をあげる」というフレーズは、私も詩人として全き同感を表明する。
掲出したブランコの写真が詩の内容とミスマッチであることは、お許し願いたい。
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2004/10/01のBlog

──高田敏子の詩──(4)
P5-4すすき原①

  すすきの原・・・・・・・・・・高田敏子

さようなら さようなら
すすきの穂のくりかえす
さようなら
ひがな一日
すすきは 風に
さようならを おくりつづけている

ごめんなさい
私はあなたに あのような
美しいさようならを したでしょうか

あなたにも あなたにも
いつまでもああして
手をふりつづけていたでしょうか

私はうかつにも
別離がいつもあることに気づかずに
すぎてきたように思う

私のまわりから いつとはなしに
時の流れのなかに
去っていった人たちのことが思われる
すすきの原
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久し振りに高田敏子の詩を載せる。この詩は詩集『あなたに』に載るもの。余計な私のコメントは必要ないだろう。少しまとめて続けて、いくつか載せてみる。
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2004/04/07のBlog

──高田敏子の詩鑑賞──(3)

 雑草の花・・・・・・・・・・・・・高田敏子

紫大根の花が咲いていた
半日の外出から帰った夕ぐれの
家の戸口の傍らに

いつの間に
そこに芽をのばしていたのでしょう
少しも気づかずにいて
いま目にする花の紫

昨年もそこに咲いていたと
それさえ忘れていた私に
花は静かな微笑の姿を見せている

そう!
こうした雑草は
待たれることなく
咲き出すのだ
人目についても つかなくても
花を咲かせて
咲くことの出来た自分自身に
静かな微笑をおくっているのだ
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この詩は高田敏子の詩集『こぶしの花』1981年花神社刊に載るもの。
高田敏子の詩も、難解な言葉は何もない。難しい暗喩もない、平易な表現である。それでいて、詩全体から漂う雰囲気に読者は虜になってしまう。この詩の題「雑草の花」というのには引っかかるが、それは「雑草」というものはなく、どんな草にも、みんな名前があると思うからである。事実、作者も詩本文の中では「紫大根」という名前を書いているのだから、題名もそれにしてもらいたかった。
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高田敏子の詩については2/12付けで2編採り上げたが、それは季節の詩という訳ではなく、「戦争」にまつわる「女」の哀しみというものを採りあげたのだった。
高田敏子の詩集には1954年の『雪花石膏』1955年の『人体聖堂』にはじまって20冊近くが刊行されている。
ここで、同じ詩集に載る短い詩を一つ紹介する。
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aaookobusiこぶしの花

 こぶしの花・・・・・・・・・・・・・・高田敏子

 あなたの好きな
 こぶしの花が咲きました
 ご健勝にお過ごしのご様子
 およろこびしています

四行の文字
四行のことば
誰に見られても困らない
一枚のはがき

長い年月のむこうに咲く
こぶしの花
見上げる花枝の上に
形よい雲のひとひらが浮いていた

 ありがとう
文字にはしないことばを
ひとこと送って
文箱に納める
こぶしの花

ひとひらの雲はそのまま消えずにあって
肩のあたりがふわっと
あたためられている
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2004/02/12のBlog
553-huyou芙蓉白

高田敏子の詩──②

  白い花・・・・・・・・・・・高田敏子

灯を消して
床に体を横たえると
ノートに書き写したことのある
詩の一節が思われて来る
 眠っているものからは降るのだ
 棚引いている雲からのように
 重力の豊かな雨が
リルケの「重力」と題された詩の終連なのだが
私 このとき 微笑を浮かばせている
わが身を横たえて識る
わが身から降るゆたかな雨に
私は微笑をむけている

その微笑は 私がはじめて生んだ子に
乳房をふくませていたときの微笑に結ばれているように思う
私が看護した兵士の
高熱の中で呼びつづけていた かすかな声の女名前に
私が答えていたときの
兵士の微笑 私の微笑 にも似ているように思う

遠い過去の年月から 立ちもどって来た私の微笑よ

闇に白い花が開いてゆく
白いむくげの花のような
私が私自身にむける微笑の鼻を闇に咲かせて
私は眠りに入ってゆく

私はもういまは 哀しみに眠れない夜を持ちたいとは思わない
闇に目を見開いたまま悲しみを見つめつづける力も消え去っている
私の心はもうどこへ行くこともなく私の中にあって
私を眠りに引き入れて行く

毎夜 私はそうして眠る
私一人を包む闇の 眠りの 平和を思って──

窓の下の軒下には 白猫が眠っている
昼間何度かこの家の庭に来て 縁の敷居に前脚をかけ
家の中をのぞき見している猫
宿のない猫が この家の軒下に来て眠っている
猫もいまは雀を追うこともなく
庭の柿の木の幹で爪を研ぐこともなくなっていた
猫も白い花になっている

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この詩は詩集『夢の手』の巻頭に置かれているものだ。先に引用した詩「手の記憶」と同様に、私は「母性」というものの「勁さ」を羨ましいと感じる。
こういう言い方は変だが、男には書けない詩である。
この詩も平易でありながら、言葉に無駄がない。
これも戦争にまつわるエピソードを縦糸にして詠われている。これが女の「かなしみ」というものである。
あなたは、どう受け取るだろうか。
この詩も先の詩と同じ日にBLOGGERに載せたものの再録である。
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高田敏子の詩──①
98f696a1.jpg

 手の記憶・・・・・・・・・・・・・・高田敏子

息子が久々に顔を見せて
「お母さん ビール ぬこうか?」
「そうね 冷えてはいないけれど」
私は買いおきのビールを息子の前に置き
センヌキを出し
息子の手がセンヌキをとり上げ
センをぬく手つきを見ている
「コップ !」と言われてあわてて立ち
コップ 二つをとりだして
息子の手がその一つを私に渡し
ビールをついでくれるのを見ている
息子は次に自分の前のコップにつぎ
ちょっと乾杯の仕草をして
一気に飲み干すと
「じゃあ」とコップを置いて立ち上った
「忙しいから また来るよ」
「そうお」 息子を送りだしたあと私は
息子の手ばかりを見つづけていたことを思った

息子の手は 美しかった
三十歳を過ぎたばかりの男の手
若い男の手は みな美しい
つややかで のびやかで 力強い
その手は 私の肩を抱き
「じゃあ」と 挙手の礼をして
日の丸の旗の振られるむこうに消えていった
そして その手は何をしたか

挙手の礼の その
ぴんとそろえた手の形を私は忘れない
私は息子の手に その手を見ていたのだろうか

息子の手は 挙手の礼をしなかった
「また来るよ」と「また」の時間を残していった にしても
美しい男の手が 挙手の礼をしたまま
消えていってしまったことを 私は忘れない

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この詩は1985年花神社刊行の詩集『夢の手』に載っているものである。
高田敏子の詩は、とても平易な言葉で書かれ、現代詩の難解な暗喩もなく、多くの読者を持っていた。
この詩はBLOGGERのサイトに2003.03.13の日付で載せたものだが、ここに改めて収録してみた。
この詩は、母という女の目から見た「戦争」というものの持つ「かなしみ」を、さりげなく詠いあげた小品の秀作である。若い人に、特に読んでほしい詩である。
昨年、この詩を載せたのは、国連などでは多くの国が反対を表明する中で、アメリカが単独でもイラクを攻めるかどうか、が世界の関心の的だった頃のことである。
この頃では、五十数年前の第二次世界大戦を知る人も段々と少なくなって、悲惨な戦時下の体験を語るのも、はばかられるが、敢えて、そんな戦時下のことに触れた高田敏子の詩を採りあげた、と私は書いている。


吉野弘の詩
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 四つ葉のクローバー・・・・・・・・・・・ 吉野 弘

クローバーの野に坐ると
幸福のシンボルと呼ばれているものを私も探しにかかる
座興以上ではないにしても
目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない

四つ葉は奇形と知ってはいても
ありふれて手に入りやすいものより
多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
その比喩を、誰も嗤うことはできない

若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
<幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか>
を私はなつかしく思い出す

なつかしく思い出す一方で
ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か

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この詩も詩集『陽を浴びて』に収録されているものである。
この詩もカトラン(ソネット)の形式に則ったものだが平易な言葉を使いながら、鋭い詩語となっている。
いましも、まだ風は冷たいが、もうすぐ春の野にクローバーが萌えいづることであろう。
季節に先駆けて、この詩を採りあげた。
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  陽を浴びて・・・・・・・・・・・・吉野 弘

冬の朝
通勤時間をすぎた郊外電車の駅
人影まばらな長いホームの
屋根のないところで
やわらかな陽を浴び
私は電車を待っていた

ひととき
食と性とにかかわりのない時間
消費も生産もせず
何ものかから軽く突き放されていた時間

何ものか
私を遥かな過去から今に送り出したきたもの
無機質から生命への長い道程(みちのり)
生命の持続のための執拗な営み
信じがたいほど緻密で
ひたむきでひたすらであった筈の意思

その意思に収監されたまま
私は、そのとき
ひたむきでもなく
ひたすらでもなく
食と性との軛(くびき)を思い
ぼんやりと
冬の陽を浴びていた
逸脱など許す筈のない意思が
見て見ぬふりをしているらしい、ほんのひととき
あり余るやわらかな光を
私は私自身に、存分に振舞っていた
ホームで
電車を待ちながら

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この詩のキーワードは「食と性」である。こういう言葉の選択の的確さが何とも言えず見事だ。
また「ひたむきでもなく、ひたすらでもなく」という、二字だけ変えたリフレインが利いている。
1983年花神社刊行の詩集『陽を浴びて』より。私の親友・宮田操の好きな詩人である。


坂村真民の詩
yun_2351ソメイヨシノ

2007/03/10のBlog

──坂村真民の詩──(10)

 二度とない人生だから・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日しずむ日
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一篇でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう
------------------------------------
この詩は坂村真民の詩集『二度とない人生だから』に載るものである。
短いものを含めて10日分にまとめて集中して載せてみた。
また折をみて載せたい。
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2007/03/09のBlog

──坂村真民の詩──(9)

 軽いもの・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

重荷になるものは
もう何一ついらぬ
年をとると
すべて軽いのが
何よりの願いだ
軽い布団
軽い服
軽い履物
軽い食事
ただ軽口の人だけは
敬遠しよう
そのほかはみな
軽いのが一番いい
-------------------------------------
この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
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2007/03/08のBlog

──坂村真民の詩──(8)

 からっぽ・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

頭を
からっぽにする
胃を
からっぽにする
心を
からっぽにする
そうすると
はいってくる
すべてのものが
新鮮で
生き生きしている
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この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
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2007/03/07のBlog

──坂村真民の詩──(7)

 すべては光る・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて光る
-----------------------------------
この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
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2007/03/06のBlog

──坂村真民の詩──(6)

  一本の道を・・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

木や草と人間と
どこがちがうのだろうか
みんな同じなのだ
いっしょうけんめいに
生きようとしているのをみると
ときには彼等が
人間よりも偉いとさえ思われる
かれらはときがくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
じぶんを完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしはじぶんに言いきかせ
今日も一本の道を歩いて行く
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この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
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2007/03/05のBlog

──坂村真民の詩──(5)

  かなしみはいつも・・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

かなしみは
みんな書いてはならない
かなしみは
みんな話してはならない
かなしみは
わたしたちを強くする根
かなしみは
わたしたちを支えている幹
かなしみは
わたしたちを美しくする花
かなしみは
いつも枯らしてはならない
かなしみは
いつも湛(たた)えていなくてはならない
かなしみは
いつも噛みしめていなくてはならない
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この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
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2007/03/04のBlog

──坂村真民の詩──(4)

  体の中の鶴・・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

わたしの体の中には
一羽の鶴が宿っている
孤独になれば慰めてくれ
不遇になれば励ましてくれ
蹉跌すれば救ってくれる
ふしぎな鶴である
時にはひどくよごれ
羽根もぼろぼろになることもあるが
天に向かって飛び立とうとする気概は
一度も失ったことがない
考えてみるとこのような鶴は
母の体のなかにもいたようだ
きっと母がわたしを孕んだとき
その血をわけてくれたのであろう
孤独ではあるが孤立はしない
和しはするが同じはしない
わたしの体のなかの鶴よ
わたしはおまえと共に生き
おまえと共に老いてゆこう
わたしの鶴よ
大事な鶴よ
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この詩は坂村真民の詩集『二度とない人生だから』に載るものである。
『念ずれば花ひらく』『二度とない人生だから』『宇宙のまなざし』は彼の決定版詩集三部作、と呼ばれている。

2007/03/03のBlog

──坂村真民の詩──(3)

  もっとも美しかった母・・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

もっとも美しかった母の
その姿がいまもなお消えず
わたしの胸のなかで匂うている
きょうはわたしの誕生日
わたしに乳を飲ませて下さった最初の日
わたしはいつもより早く起きて母を思い
大地に立って母の眠りいます
西方九州の空を拝み
満天の星を仰いだ
その日もきっとこんなに美しい
星空だったにちがいない
よく母は話してきかせた
目の覚めるのが早い鳥たちが
つぎつぎに喜びを告げにきたことを
その年は酉年だったので
鳥たちも特に嬉しかったのであろう
そういう母の思い出のなかで
わたしが今も忘れないのは
乳が出すぎて
乳が張りすぎてと言いながら
よく乳も飲まずに亡くなった村びとの
幼い子たちの小さな墓に
乳をしぼっては注ぎしぼっては注ぎ
念仏をとなえていた母の
美しい姿である
若い母の大きな乳房から出る白い乳汁が
夕日に染まって
それはなんとも言えない絵のような
美しい母の姿であった
ああ
いまも鮮明に瞼に灼きついて
わたしを守りわたしを導き
わたしの詩と信仰を支えている
虹のような乳の光よ
春の花のような乳の匂いよ
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この詩は坂村真民の詩集『宇宙のまなざし』に載るものである。
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2007/03/02のBlog

──坂村真民の詩──(2)

  月と鯨・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

妻呼ぶ鯨の
声聞けば
月も冴え冴え
冴えわたる
かつては
陸にいた頃の
ことを知ってる
月ゆえに
鯨も
ほろりと涙する
海よ
輝け
鯨よ
跳べよ
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この詩は坂村真民の詩集『宇宙のまなざし』に載るものである。
話は替わるが、「月と鯨」というと、私は

 島が月の鯨となつて青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水

という自由律の句を思い出す。この句は、私の少年期とともにあったもので、懐かしい。
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2007/03/01のBlog

──坂村真民の詩──(1)

  朴とタンポポ・・・・・・・・・・・・・・・・坂村真民

わたしが一番好きなのは
朴(ほお)とタンポポだ

一つは天上高く
枝を伸ばしてゆく
野の木であり
一つは地中深く
根をおろしてゆく
野の草だからである
この天上的なものと
この地上的なものを
こよなく愛するがゆえに
願えることなら
この二つを
わたしの眠るかたわらに
植えてもらいたい
風ふけば
朴の花は
ほのかに匂い

タンポポの種は
訪れた人の胸にとまって
わたしの心を
伝えるであろう
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この詩は坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』に載るものである。
ご承知のように、真民の詩は、難しい語句もなく、きわめて判り易いが、多くの読者を引きつけ版を重ねている。
2006.12.11に亡くなられたが、彼の願い通りに、彼の墓の傍らに「朴の木」と「タンポホ」が植えられているのだろうか。
以下、Web上からプロフィールを引いておく。

坂村真民プロフィール

癒(いや)しの詩人、坂村真民(さかむら しんみん)先生
”人はどう生きるべきか”を一生の命題とする祈りの詩人。
分かりやすくて、深く掘り下げられた詩は、幼稚園児から財界人まで、年令、職業を間わず幅広く愛唱され、その生き方とあわせて、「人生の師」と仰ぐ人が多い。

1909年(明治42年)1月6日熊本県荒尾市に生まれ、玉名市で育つ。本名昂(たかし)。
2006年(平成18年)12月11日永眠される。享年97才。

8歳の時、小学校の校長をしていた父親の急逝によりどん底の生活に落ちる。5人兄弟の長男として母親を助け、幾多の困難と立ち向かい、甘えを許さぬ一徹さを身につける。
昭和6年、神宮皇学館(現皇学館大学)を卒業。25歳の時、朝鮮にて教職につき、36歳、全州師範学校勤務中に終戦を迎える。
昭和21年から愛媛県で高校の国語教師を勤め、65歳で退職、以後詩作に専念する。

最初は短歌を志し、昭和12年に「与謝野寛評伝」を著している。四国移住後、一遍上人の信仰に随順して仏教精神を基本とした詩の創作に転じる。
昭和37年、月刊詩誌「詩国」を創刊、以後1回も休むことなく毎月発刊、1200部を無償で配布していた。また詩の愛好者によって建てられる真民詩碑は、日本全国43都道府県に分布、その数は海外と合わせれば、現在730余基を数える。

真民詩の愛読者の中には、各界の有名人も多いが、船井幸雄氏は、坂村真民さんを日本を代表する「徳の人」25人の一人として取上げ、次のように評価している。
「彼の作品の最大のポイントは、命あるものへの惜しみない愛と感謝、そして優しい激励であると言えよう。だから現代の社会に疲れた人たちは、救いとともに希望を見出し、愛唱するのである」と。(『清富の思想』)
また斎藤茂太氏は、『プラス思考がその人を強くする』という本の中で、このように言っている。「真民さんの詩や文章には、人を包み込むようなあたたかさがある。それは真民さん自身が本物だからなのだ。」「どん底を見てきた人は、人間に対する眼差しに慈愛が満ちるのだろう。」さらに斎藤氏は、真民さんが挫析と劣等感をバネに詩をつくって来たことに共感し、心から敬意を表している。

真民先生は、〒791-2101愛媛県伊予郡砥部町高尾田167(松山市より車で約20分)にお住まいになられ、大宇宙の大和楽を念願して、老年になってからも毎日午前0時に起床、未明混沌の霊気の中で打坐し、念仏し、称名し、詩作された。午前3時30分には、月の光、星星の光を吸飲し、重信橋を渡って大地に額をつけ、地球の平安と人類の幸福を祈願しておられた。

1974年愛媛新聞賞(文化部門)、1980年正力松太郎賞、1989年愛媛県教育文化賞、1991年仏教伝道文化賞の各賞を受賞。

主な著書は、詩集『自選坂村真民詩集」『坂村真民全詩集』(全6巻)、『朴』『詩国第一集』『詩国第二集』、随筆集『念ずれば花ひらく』『生きてゆく力がなくなる時』『愛の道しるベ』、詩画集『自分の花を咲かせよう』『花一輪の宇宙』『あうんの花』、韓国語対訳詩集『二度とない人生だから』、英文対訳詩集『鳥は飛ばねばならぬ』、独文対訳詩集『タンポポ』など多数です。

全国各地に先生の詩の好きな方々の親睦クラブ『朴の会』があります。朴(ほう)は、先生の好きな木でした。
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「朴(ほお)の木」

・木蓮(もくれん)科。 成長すると高さ20メートルにも達する落葉高木。
・学名 Magnolia obovata
Magnolia : モクレン属
obovata : 倒卵形の
Magnolia(マグノリア)は、
18世紀のフランス、モンペリエの植物学教授
「Magnol さん」の名前にちなむ。

・「ほお」は「ほう」(包)の意で、
大きな葉に食べ物を盛ったことからの命名。
葉はものすごくでかく(多分、日本の樹木の
葉の中で一番大きい?)、おにぎりが
10個ぐらい包めそうなサイズです。
本によると、葉は長さ40cmにも達し、
昔は今でいう紙皿やアルミホイールの用途として
使われた。
・「朴葉焼き(ほおばやき)」
朴の木の葉に、刻んだ山菜と味噌をのせて炭火で
焼いたもの。香ばしくおいしいらしい。
・5月頃、香りのある大きな白い花が咲く。

・幹などの材は軟らかく均質で、今でも
下駄(げた)の歯や家具の引きだし、
版画用の板などに使われる。
・学名の obovata は「倒卵形の」を意味する。
葉っぱの形から。
・別名 「朴(ほお)」、
「朴柏(ほおがしわ)」。

・「わが背子(せこ)が 捧げて持てる ほほ柏
あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)」・・・・・・・ 恵行(えぎょう) 万葉集
「皇祖神(すめろぎ)の 遠御代(とおみよ)
御代(みよ)は い敷き折り
酒(き)飲むといふそ このほほ柏」 ・・・・・・・・・ 大伴家持 万葉集

  
飛幡祐規『「とってもジュテーム」にご用心!』・・・・・・・・・木村草弥
ジュテーム

──新・読書ノート・・初出Doblog2005/08/20──

   飛幡祐規『「とってもジュテーム」にご用心!』・・・・・・・・木村草弥

この本のことについては、つい先日あるところで雑談中に採り上げたので、思いついて書棚から引っ張り出した。
この本は1998年に出たもので、もう数年も前のことで、詳しいことはすっかり忘れていた。
晶文社刊のもので、著者の名前は(たかはたゆうき)と読む。私は(とびはた)とばかり記憶していて、失礼した。女の人である。
同じ著者に『ふだん着のパリ案内』『素顔のフランス通信』の著作がある。
著者は1956年東京生まれ。1974年に18歳で渡仏してから在パリ。パリ第五大学にて文化人類学を専攻、パリ第三大学でも学ぶ。

この本のキャッチコピーとして

<憎からず思っている誰かさんからに、「ジュテーム・ボークー」と言われたら?
脈がないのね、と観念しましょう。フランス語の愛の告白は単純明快な「ジュテーム」ひとこと。「ボークー=とっても」がくっつくやいなや、「ただの友だち」的好意となってしまうのです。>


と書かれている。 こんなことは学校では教えないことで、まさに「目からウロコ」である。
フランス語で書くと Je t’aime beaucoup となる。
親しくない間柄では Je vous aime となるが、上記のような親しい間柄になると tu toi の言葉を使う身近な存在になるが、この beaucoup の一語が余計だというのである。
この本の一節を引用すると

・・・・・フランス生活にまだ慣れない日本人の若い女の子から、相談を受けた。
「ジャン=リュックのことなんだけど、私に気があると思う?やさしいし、この間も一緒にパーティに行ってうちまで送ってくれたけど、けつきょく何もなかったの」・・・・・
「あなたに気のあるような態度を示したことがある?口説かれた?」
「うーん、それがあんまりはっきりしないの。でも、いつだったか、君のことが大好きだって言われたのよ」
あっ、そりゃまずい。フランス語の愛の告白は修飾のいっさいない Je t’aime 単純明快なこの一語だ。うしろに bien(とても)やら beaucoup(たくさん)やらがつくと、愛しているのではなく「ただの友だち」的好意を意味する。あえて相手がそう口にする場合は、恋人関係になる気はないよとの警告なのです。
英語の love と like を aimer(愛している)ひとつで使い分けるので、こうした妙なことになるわけだが、強調が逆に愛の度合いを低めてしまうというひねくれた用法は、いかにもフランス的だ。・・・・・

飛幡さんの、この本は「普段着のフランス語」というコピーもついているように、「言葉がわかる。暮らしが見える。カルチャーショックも楽しめる」というもので、37編の文章が、一つの話題について3~4ページで読みきりという体裁になっている。

とにかくフランス人は会話におけるユーモアを重視する。女の子をものにするのも、先ず、視線から入って、あとは短時間のうちに女の子を話題で笑わせること、だと言われている。
この本に「どこかで会ったっけ? On se connait?」という項目があるが、これも女の子に近づく道具の言葉だという。
ジュテーム Je t’aime という「殺し文句」だって、フランス人は自由に操り、使いこなすだろう。英語では I love you というが、この言葉は使用範囲も、とても広いようである。肉体関係の出来た二人の間だけでなく、もっと広い場面で家族でも、友人でも師弟関係でも使用できる。
英語のこの言葉は 主語→述語→目的語 の順番になっているが、フランス語の Je t’aime では 主語→目的語→述語 の順番になる。フランス語では「修飾語」が「被修飾語」の後につくことも多い。この二つの言語は違っているようでいて、歴史的にみると実は多くの言葉が溶け込んでいると言われている。
この頃ではフランス人も英語をどんどん取り入れて会話するらしいが、発音をフランス語的にするからとても混乱するという。

この本の「やさしく口説いて galanterie 」という項目では、

・・・・・フランスには、ちょっときわどい軽口をたたくのが好きな男性が多い。相手に夫や恋人がいようがおかまいなし。現実性やモラルは抜きにして、感じのいい女性には賛辞を惜しまない。口説くふりをするのが礼儀だと思われているふしさえある。フランス男がイタリア男と並んで世界に名だたる「女ったらし」の評判を得たのは、この寛大な(?)口説きの芸や女性を見る技によるところが大きいだろう。・・・・・・

と書かれている。 galanterie ということについても色々本や歴史的にも引用されているが、煩雑になるので省略するが、フランス人ないしはフランス的なものを知るには、とても面白い本である。
「あの人のにおいは嗅げないわ ne pas pouvoir sentir 」という項目など、内容を見なくても、嗅覚のアンテナを張ってみれば、何となく生理的にお分かりになるのではありませんか。

余り長くても退屈でしょうから、この辺で退散しましょう。では、 Je t’aime!
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何度も書くが、フランス語にはアルファベットの上に色々の記号がつく。なるべく、それらの付かないものを選んだが、on se connait?の i の上には長音記号がつくが省略してあるので、お断りしておく。


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