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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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画狂人・北斎と青楼画家・歌麿・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
img0406-02北斎お岩

2005/11/14のBlog

 画狂人──葛飾北斎の生涯・・・・・・・・・・木村草弥

北斎の出生については未だ多くのことが不明である。宝暦10年9月(1760)、江戸本所割下水に生まれ、父は徳川家用達の鏡師・中島伊勢で、幼名を時太郎、後に鉄蔵と改めたと云われるが、北斎が葬られている浅草・誓教寺の墓碑銘には
<川村氏>とあり、通説とは異なる。北斎の実父は中島伊勢の弟にあたる川村市良衛門であり、生母不詳、養母は吉良上野介の臣、小林平八郎の孫娘にあたる人であった。

 習作時代 (1760~1792)
鏡師・中島伊勢の養子になった時期は馬琴の書簡に見るように25歳前後のことであった。通説の幼年期からではない。もし、幼年期から中島伊勢の養家で育てられていれば、14、5歳頃から貸本屋で丁稚奉公をするようなこともなかったろうし、その青年期を貧窮のうちに過すこともなかった筈である。
実父は叔父中島伊勢と同様に鏡作りの職人ではなかったかと思われる。13、4歳頃から木版彫刻を習ったというのも、鏡の裏面を飾る鋳物彫刻の木型作りのためではなかったか。
北斎が終生、「割り物」を得意としていたのも、鋳物彫刻による影響からではなかったかと想像され、やはり鏡職人にすべく実父に育てられたと見るべきだろう。
幼時より父の家業を継ぐべく木版彫刻を習い、やがて絵師志望に変って自立したのではないか。19歳の時に勝川春章の門下になったときには、すでに絵師になっていたように思える。そうなくては、入門1年たらずで画号を春朗と名乗れ、師匠の代筆や役者絵の画作などが出来るわけがない。
入門前に絵師としての素地が出来上がっていて、春章門に入ったのは絵師として自活するためであり、浮世絵門界に入るための一里塚として籍を置いたのであろう。
北斎は安永8年、春章の門に投じ、春章没の前年寛政3年に至る13年余の習作時代に、是和斎、群馬亭などと号して黄表紙本の戯作を2、3種発表している。
寛政4年(1792)12月8日、師の勝川春章が病没すると、これを契機に美人風俗画に新機軸を拓くべく勝川門から去った。

 宗理から画狂老人へ(1793~1828)
勝川春章没後、自ら春朗の画号を廃し、琳派の町絵師・俵屋宗理の門を叩く。この前に狩野派や堤等琳などに師事し、大和絵の画法を習得している。とりわけ等琳からは、後年「北斎漫画」に見られるごとく、自由闊達な逸筆飛墨を学びとり、粗画、略画、漫画の手法を体得している。
二代目俵屋宗理を継いだが(1795~98)浮世絵師しての安定した地位と画作に恵まれたが、4年後に門人にその席を譲る。
銅板画風の風景画を描いたのは享和年間から文化年間初頭(1802~8)にかけての頃である。文化元年(1804)に初めて馬琴の読み本「小説比翼文」の挿絵を描いた。北斎の絵の写実の精密さに驚嘆した馬琴は、文化3年(1806)に北斎を自宅に招き、読み本の挿絵描きを3カ月にわたって専念させた。「椿説弓張月」「苅萓後伝玉櫛笥」「敵討裏見葛葉」「墨田川梅柳新書」などなど、馬琴邸で仕上げた。
また当時の無類の書籍収集家であり、考証家としても名をなしていた知識人であった柳亭種彦とも親交があった。
渓斎英泉は『无無翁随筆』の中で

<彩色に一家の工風をこらして一派の妙を極めたり、総て総身に画法充満したる人にして一点の戯墨も画をなさずと云事なし、稀代の名人なり>

と賞賛をもって記述している。
北斎は挿絵描きによって画業を大きく伸ばし、文化3~7年の5年間というもの読み本、合本、黄表紙の挿絵本だけでも160冊を数える。
文化9年からは絵手本『略画早指南』を板行する。『北斎漫画』もまた絵手本であって、今日のコミック風な内容ではない。文化11年(1814)~文政初年(1819)にかけて『北斎漫画』『北斎写真画譜』『略画端早学』『画道独稽古』など精力的に絵手本を上梓した。これらの中で画道指南のみならず、構成論的な美学を論述した。

v233凱風快晴

晩年の画業(1829~1849)
文政12年(1829)に北斎は70歳の古希を迎える。
しかし前年、後妻ことが病死し、三女阿栄は離縁されて家に戻ってきた。北斎自身も、この2、3年中風を患い、画作が思うように進まなかった。医師の薬石では効果がなく、業を煮やした彼は自ら漢方の医書をひもとき、薬を自製して治したと「葛飾北斎伝」にはある。持病であった中風を治すと倍旧の画業に精魂を傾け、天保2年(1831)板行の『富岳三十六景』、天保5年(1834)の『富岳百景』、文政11年(1828)の絵本『庭訓往来』などである。
図版②に挙げた<凱風快晴>のような鮮烈な風景画の数々は、色彩の鮮麗さ、完璧なフォルムの様式化など、風景画史上、画期的な大胆な試みであった。後年、西欧絵画にも大きな影響を与えたのは知られる通りである。
このような画境の進展のさなかに、不幸にも愚昧な孫のために天保5年(1834)冬、浦賀に潜居することを余儀なくされた。その孫というのは、先妻との間に生まれた長女阿美与が、柳川重信の許へ嫁して生まれた子供である。この孫は不肖の子で放蕩三昧の末、借財を作り、祖父をさんざん悩ませた。孫の罪の累罰を恐れて北斎は浦賀に逃亡生活を送ることになった。
そのほとぼりがさめて江戸に帰るが天保の大飢饉による不況で巷には夜盗、辻斬りが横行し、版元も出版どころではなく、画作の注文もなく北斎も困窮した。この頃の身すぎ世すぎには色々のエピソードもあるが割愛する。天保10年(1839)には本所達磨町で大火に見舞われ、大八車一杯の画財と縮画などの資料を焼失する。
この失意に屈することなく、北斎は六尺棒を杖に替え、房総の海へ写生に赴き、あるいは信州小布施の高井鴻山を訪ねて数々の作品を残す。
弘化4年(1847)、北斎88歳、絵手本『画本彩色通』の「序」に
<己六歳より八十八年、独立して心に怠らざりし事を、いかでか今方寸の紙中に演画すことを得べき、唯赤きと紅のひとしからざる、藍と緑のわかちたる、或は方円長短の形を説示するの外は、能はざるなり>
と書いている。
しかし、嘉永2年(1849)4月18日、浅草聖天町遍照院の境内の草庵で、ひそかに息を引き取った。享年90歳であった。
生前、古希のときに、英泉の描いた北斎像に

 <ひと魂で、ゆく気散じや、夏の原>

と、辞世の句を詠んで刻んだ。
葬列には家族縁者はもとより、生前親交の厚かった絵師や戯作者、版元連中が百人余も加わり、中には槍、挟箱を持った侍もまじり、遍照院から誓教寺の墓地まで、荘重な葬列であったという。北斎こそは世紀の巨匠であり、美神に魅入られた美のデーモンであった。
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この記事は、絵本『万福和合神』の後に載る解説文を要約したものであるが、解説者の名はないので、誰の執筆かは判らないが、念のため、お断りしておく。
北斎については、昨年このBLOGに記事を載せたことがある。それらと合わせて読んでもらえば有難い。図版①は北斎の「お岩」の絵で、昨年の記事にも載せたものである。
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bidoro歌麿本命

2005/11/13のBlog

青楼画家・喜多川歌麿と春画・・・・・・・・・・・・木村草弥

天保3年(1832年)に、浮世絵師の渓斎英泉(1791~1848)が著わした『増補・浮世絵類考』に、歌麿について次のように書き残されている。
<喜多川歌麿、文化3年(1806)に死す。本名、勇助。住まいは初め、江戸、弁慶橋久右衛門町(現在の神田界隈)。後に馬喰町(現在の日本橋界隈)に住む。画号は紫屋。江戸の生まれなり。歌麿、はじめ、鳥山石燕(1712~88)の画塾に学び、狩野派の画法を究め、後に独立して、浮世絵中興の祖と称揚さる。とくに、男女の時俗を描くこと巧みにして、近世、此人より、錦絵(多彩色木版画)は華美をきわめたりとぞ。彼、みずから云う。「われは生涯役者絵を画かず。何となれば劇場繁昌なるゆえ、老若男女の贔屓の役者あり、これを画きて、おのが名を弘むるは拙き画業なり。なんぞ、役者の威光を借る要あらんや。われは、日本(やまと)絵師なり。つとめて浮世絵画派を起こし、世にわが名を轟かすべし」と。その意に違わず、やがて彼の名は海外にも聞こえたるは、まさに一豪傑とや云うべし。歌麿は殊の外に、春画に妙を得て秀れたり。後に絵本『太閤記』の図を画きて、時の幕府の咎めを受け、獄屋につながれしが、出獄後間もなく、病死す。可惜、措しむべし。>

以上、英泉が歌麿の事歴を簡潔にしかも愛惜をこめて記述している。まさに適切にして、正確な記録であろう。
現在でも、歌麿の出生については明らかではない。彼の師、鳥山石燕の記述によれば、歌麿は宝暦3年(1753)に生まれたとするも、出生地については定かにしていない。幼少の頃から鳥山石燕の許で養われ、画家として育てられた。いうなれば、天性、画家としての資質に恵まれ、その天与の才能を生涯、練磨して生きた天才的な画家であったのであろう。
安永4年(1775)に、絵本の挿絵画家として世に出て、美人風俗画にも染筆したが、初期の作品は往時の美人画家で、すでにこの時すでに盛名を馳せていた鳥居清長(1752~1851)、勝川春章(1726~92)らの亜流にも及ばぬ稚拙な技量であった。やがて、江戸の有力なる版元・蔦屋の庇護を受けて、歌麿の画境は急速に成長した。
天明七、八年頃(1787から8)、吉原の芸者風俗を画いた「青楼仁和嘉女 芸者之部」において、独自の画風による美人画の様式を確立した。この頃から清長、春章の美人画の芸林から完全に脱却する。
やがて、いわゆる「青楼画家(遊女風俗を描く画家)」として、いつしか江戸浮世絵の第一人者となり、先輩画家をも凌駕する力量を示すようになるのである。
とりわけ、寛政期(1789~1800)は、歌麿の全盛期だった。真に「大首絵」の傑作が続々と創作されたのは、この時期だった。
また、先に書いたように渓斎英泉をして<春画に妙を得て、秀でたり>と言わしめたほど、歌麿の描いた春画は浮世絵史上においても貴重な存在である。

歌麿の春画作品の研究においては、フランスの Edmond de Goncour (1822~96)の<OUtamaro> (1891,Paris)が有名であり、さらにドイツの Dr.Jurius Kurthの<Utamaro>(1907,Leipzig)の著作が世界的に知られている。
しかし両者とも日本語資料の調査研究において、著者が外国人なるがゆえに正確さを欠き、いささかの誤解と誤記が見られるのは残念である。
いま、日本および海外の歌麿研究(特に春画作品)を参考にしつつ、述べると、歌麿の春画作品の初筆とみられるのは、大錦絵の組物『歌まくら』(1787年刊)であろうと推察されている。
前述のゴンクールは15種の春画作品目録を掲げ、クルス博士は28種を記載している。現在ほぼ、歌麿の画作に間違いないと思われる春画作品は27種であると言われている。
天明、寛政期(1781~1800)に作画期を持つ浮世絵師の中では、歌麿が最も作画量が多く、彼が春画画家として優れ、いかに庶民の人気を得ていたかが知られるのである。

  
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