K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(2月)月次掲示板
kohakucyou02-1コハクチョウ飛翔

二月になりました。梅の花が綻びます。
春の足音が日ごとに近づいて参ります。
 女身仏に春剥落のつづきをり・・・・・・・・・・細見綾子
 牧神の頭突きを春といふべけれ・・・・・・磯貝碧蹄館
 うべなふ死うべなひがたき死も二月・・・・・鷹羽狩行
 モジリアニの二月よ首の細き娘よ・・・・・二口けい子
 春浅き月像乗せて金三日月・・・・・・・・・中村草田男
 母の魂梅に遊んで夜は還る・・・・・・・・・・・・・桂信子
 海鳴りの激し沖より春一番・・・・・・・・・・・・高島征夫


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集)の題名はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


「宮崎信義を偲ぶ会」─2009/02/21・・・・・・・・木村草弥
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 ゆすぶってやれゆすぶってやれ
   木だって人間だって青い風が好きだ・・・・・・・・・宮崎信義


自由律の「新短歌」のトップリーダーだった宮崎信義が2009/01/02に97歳で死んだ。
その「偲ぶ会」が02/21に京都・二条の京都弥生会館で開催され約70人の参会を得た。
私も一時、「新短歌」に席を置いた者として参列した。

掲出した歌と画像は、彦根城内の金亀公園に建つ宮崎信義の歌碑である。
宮崎信義には他に、あと二つ歌碑がある。先に、それを引いておく。

 ここにこうしているのが不思議な気がする
    いなくなっても変わるまい
 ──妙心寺・如是院(京都)──

 山が描(か)けるか風や水が描(えが)けるか
    あと一日で春になる
 ──山越・印空寺(京都)──

宮崎信義は明治45年2月24日に滋賀県坂田郡息長村の母の生家で生まれる。
父・末吉、母・きみ の長男。二歳のとき警察官(滋賀県・巡査部長)だった父が37歳で殉職。
以後、外祖父の家で数年を過す。
晩学して教職に就いた母に従って各地の小学校に転校。県立彦根中学校では野球をやる。
最終学歴は横浜専門学校(現・神奈川大学)、国鉄に就職。

第二次大戦中は兵士として中国戦線に従軍。戦時詠に優れたものがある。

 土煙を被ると土の匂ひがぷんぷんする
   鋭くあたる敵弾の音をきいてゐる
────『夏雲』より

 ぐるぐるねぢて手を切つてゆく
    たたくやうに戦友の手を切つてゆく


  爆弾にびりびり地がゆれる
    目をあけると右前に微かにゆれてゐるすみれ


昭和42年神戸駅長を最後に国鉄を退き、京都駅観光デパート、中井産業取締役などの仕事の後、70歳ですべての職を辞す。

昭和6年、平井乙麿の勧めで前田夕暮「詩歌」の会員になる。
矢代東村選で「詩歌」に初めて五首の短歌が掲載される。

 九月の朝の太陽が生きることの歓びを味はせて
     黒光りにみがかれた靴
 

 ああ明るいほがらかな人生が私を招いて
     ベンチレーターが朝風に
 

これらの歌は、前田夕暮ばりの自然主義風の歌いぶりである。
その後の戦前の若い時の作品は、モダニズムっぽい、きらきらした才気に満ちたものが多い。
少し引いてみよう。

 トマトのやうな少年と歯をみがきながら
      十月の朝を味覚してゐる
 ─────第一歌集『流域』より

 海港"Empress of Canada"に展く窓 
      タイプライターがAmerica Americaを打ち続ける


 舗道にハンカチが落ちてゐた
      領事館には三色旗がはためいてゐる


 窓にしろいパイロットボートがゆれてゐる
      洗面室のタイルの冷たさ


 アカシヤの舗道のはては港 黄昏 
      山手からシェパードを連れて散歩に来る


 蜻蛉の眼球 白いタイルの手術室 
      つめたい速度 電話がよくかかつてくる


 鳩がハンカチのやうに舞ひおりる 
      貝殻の耳が伸びる海辺と透明な花瓶の周囲


 薄明を水にくぐつてひとりのをんなが女になる 
      体温の秘密に月がのぼる


 夜明け 肺胞が透明になり 
      谷底で急行列車が青い種族に変つていつた


 貨車にくろぐろと石炭がかがやく 
      空は葡萄園の上で青の焔になつてゐる


  港は白い服で埋まつてゐる 
  智慧ぶかい英国旗(ユニオンジャック) ひとりの青い服は僕らしい


  ひときれの厚い肉を焼きアスパラを切り 
       コーナー 一ぱいの球を投げる


 あなたはレモン 
      愛がめばえるまで澄んだ眼を湖にむけてゐる


 児よ 陽のやうに匂やかな華であれ 
      ときの間 地は傾いてあかいのだ


 児よ 指さすと地は陽の色にそまり 
      草木は矢のやうに晴天を過ぎる


終りの二首は「長男誕生」と題する昭和16年の作品である。
昭和18年8月、召集令状を受け中国戦線に従軍。

戦前戦後を通じて、80年間口語自由律短歌ひと筋に、その道を究める。
昭和24年「新短歌」誌を創刊し、50年間、京都で編集発行を続ける。
平成14年、90歳の時、「新短歌」を「未来山脈」に統合して光本恵子に託す。
歌集・『流域』『夏雲』『交差路』『急行列車』『和風土』『梅花忌』『』『二月の火』『太陽は今』『地に長く』『千年』『山や野や川』『右手左手』『宮崎信義作品集』など。
年譜などについては『宮崎信義作品集』が詳しいが固有名詞などについては錯覚による間違いがあるようだ。
以下、少し作品を引く。

 叡山も鴨川も何万年何十万年が経っていよう 人は何年──『千年』より

 知っといてくれこの九十の爺(じじい)にも父母があり祖父母もいた──『山や野や川』より

 青い静脈が目立つ腕だ私の体どこから燃え出すか──『右手左手』より

 炎が全身に廻ったその中でまだ顔だけが浮いている

 うすい煙が煙突から上がりだしたいま私が焼かれている

 これからは年をとらない一人の旅か会いたい人に会えるだろうか

 白い骨になった脚の骨は意外な逞しさ九十五年を生きてきた

 骨壷に入って家へ帰ってきた静かに経を読むのは私である

 いつまで生きていられるか手足を広げて日光浴だ──絶筆「未来山脈」誌2009/1月号

 いきるのも死ぬのももうお任せだ神さま仏さまでお決めください

 生きていようが死んでいようがどちらでもよくなったよいお天気だ

 自然はすべてを引き受けてくれるそのままに何事もなかったように

 ふるさとの自然に還る──それが何より 生まれ育ったところなのだ  
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「新短歌」に宮崎信義から勧められて約20回くらい読みきりで詩歌に関する記事(2ページくらい)を連載したことがあるが、いま手元にないので確認出来ない。
私自身は、自由詩から出発したので、宮崎の戦前の歌集『流域』の作品が好きである。
ここにも、いくつか好きなものを挙げた。
戦地詠としては第二歌集『夏雲』にすばらしい臨場感あふれる秀作がある。
これらのいくつかは昭和54年、NHKテレビで放映され全国の人々に感銘を与えた。
人の加齢というものは年月が否応なく体を後ろから押して老いてゆくものであり、齢を重ねているというだけが尊いのではない。齢を重ねても気持が若々しく、精神が柔軟性に満ちている老人こそ尊ばれなければならない。
その意味で晩年の時期は別として宮崎信義の老いの生き方は、自分の老いを他人に押し付けるのではなく、若い人を立てて立派だった。
こんな歌を『右手左手』から引いて、この記事を閉じたい。

 百歳になるのがどんな意義があるのかと問う者がいる 私だよ

ここには強い「自恃」も見え、「頑固者」だった宮崎信義の一面をも、かいま見せる。   


牧神の頭突きを春といふべけれ・・・・・・・・・・・磯貝碧蹄館
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牧神の頭突きを春といふべけれ・・・・・・・・・・・磯貝碧蹄館

画像は「牧神パーン」だが、このことについては、ここに貼ったリンクを読んでもらいたい。
この像は、<笛の演奏をエローメノスの羊飼いダフニスに教えるパーンの彫像>という。
牧神は、ニンフと一体として語られることが多い。
マラルメの象徴的な詩に「牧神の午後」というのがあり、この詩に触発されたドビュッシーの有名な曲「牧神の午後」がある。

この句の面白さは、「羊」というのは、よく仲間と争ったりするときに「頭突き」をしたりするので、そういう動作が「春」を誘い出した、と捉えたところにあるだろう。
また、この句は、上に書いたようなギリシア神話の牧神やニンフのことなどについても、よく知っていたことを窺わせている。
ところで、作者の磯貝碧蹄館という人だが、私は詳しいことは知らないので、ネット上から、下記のような「増殖する俳句歳時記」という面白い記事を引用しておく。
なお「碧蹄館」(へきていかん)という耳慣れない言葉だが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃(1591~)、明が援助に送った大軍を小早川隆景らが、漢城(今のソウル)北郊の碧蹄館で破っている、という故事がある。どうも、このペンネームは、そこから採られているらしい。

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磯貝碧蹄館

ジーパンをはき半処女や秋刀魚焼く

半処女という造語(?)が絶妙にして秀逸。いまどきの娘はみなそういうものです。作者は元郵便局員として有名。俳号の奇妙さでも有名。韓国の古戦場にちなんだ名というが、本当かしらん。(井川博年)
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July 022003

磯貝碧蹄館

夜間飛行機子と七月の湯屋を出て

昼間の汗を流して、さっぱりした気分で「湯屋(ゆや・風呂屋)」を出た。おそらく「子」が見つけたのだろう。指さす方向を見やると、小さな赤い灯を曳きながら、音もなく「夜間飛行機」が飛んでいる。しばし、立ち止まって眺めている親と子。七月の夜の涼風が心地よい。風呂帰りの句は数あるが、月や星ではなく飛行機をもってきたところに、新しい涼味が感じられる。もっとも新しいとは言っても、作句年は不明なれど、現代の句ではない。まだ夜間飛行がとても珍しく、ロマンチックな対象として映画や小説、詩歌などに盛んに登場した時代の句だと思う。したがって、飛んでいるのはジェット機ではなくプロペラ機だ。いまどきのジェット機では、風物詩というわけにはまいらない。ところで飛行機の話だから話は飛ぶ(笑)が、地上からは一見悠々と飛行しているようには見えても、夜のパイロットはいまでも大変のようだ。風呂上がりのさっぱり気分どころか、緊張で脂汗を滲ませての飛行である。日本航空機操縦士協会(JAPA)のHPを見ると、自家用機から商用機にいたるまで、夜間飛行の危険に対する共通の注意事項が縷々指摘されている。私にもわかる項目のいくつかを抜き書きしておくと、次のようだ。(1)夜間の離着陸は、飛行場灯火のながれを見て速度を判断するが昼間の速度感覚よりも遅く感じられる。(2)夜間飛行中に空間識失調に陥った場合には回復が困難。(3)緊急事態になった場合に、夜間の不時着は困難。(4)乱気流に入った場合には、その揺れは強く感じられて、不安感も大きい。(5)夕暮れに着陸するときには、上空はまだ明るくても地上は早く暗くなっている。(6)電気系統が故障した場合には緊急事態につながる、等々。私などはこれに高所恐怖症も加わるから、一挙に湯冷めしそうな恐ろしい世界に感じられる。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)
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November 022007

磯貝碧蹄館

ロボットの腋より火花野分立つ

句集『未哭微笑』(みこくみしょう)の中の作者の近作。鉄人28号や鉄腕アトム(かなり古いけど)のような人の形をしたロボットを思い浮かべてもいいし、工場で何かの加工や組立に用いられている複雑な形の機械ロボットでもいい、自動的に動く機械のはざまから火花が出て用途に具するわけである。外は台風の兆がある。現代と自然との力技の調和が感じられる。これまでの情緒とすればミスマッチ。しかし、旧情緒と現実の風景がぶつかれば、必ずそこに違和感が生じる。そこからの造型や新ロマンの構築が見せ場。ミスマッチをマッチにする作者の力が問われる場面である。作者は一九二四年生まれ。この世代、多くは戦後に「社会性」や「職場俳句」の洗礼を受け「前衛」に若き情熱を燃やすが、時代の変遷とともに、花鳥諷詠か、それもどきに転ずる。もちろん最初から花鳥諷詠一徹の方もいる。どちらにしても加齢とともに、季題中心、自然諷詠中心の「やすらぎ」にからめとられていくわけである。肉体と精神のエネルギーが失われ、「自己」を俳句に乗せるのがシンドくなったとき、「楽になろうよ」と花鳥諷詠がポンと肩をたたく。その手を振り切って「今の自己」を俳句に打ち付けて同時代の新しいポエジーに挑戦する。そういう作者のこういう句にこそ本物の詩人の魂が存する。『未哭微笑』(2007)所収。(今井 聖)
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November 202008

磯貝碧蹄館

林檎買ひくる妻わが街を拡大せり

謎は「拡大せり」の部分である。そのまま読めば林檎を買ってきた妻が自分が住んでいる街を大きくするのだろうが、いったいどんな具合なのだろう。魚眼レンズで覗いたように巨大な妻と林檎がいびつに大きく句の全面へ張り出してくるようだ。しかし、今までつまらなく見えていた街を拡大するのは「妻」だけでなく妻が抱えている「林檎」の鮮烈な色と香りなのだろう。林檎はいつだって暗い世相や街を明るくしてきた。戦後の荒廃した街には並木路子の「リンゴの唄」が流れ、うちひしがれた人々を力づけたというし、北原白秋の「君かへす朝の敷石さくさくと雪は林檎の香のごとく降れ」の短歌などは、林檎の香りを雪と結びつけたモダンな抒情を描き出している。くすんだ現実から別次元の世界へ拡大してくれるのが、赤くつやつやとした林檎の力と言えないだろうか。この句にはそんな林檎を抱えて自分の元へ帰ってきてくれた妻への賛歌とともに詠まれているように思う。『磯貝碧蹄館集』(1981)所収。(三宅やよい)
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January 012009

磯貝碧蹄館

賀状完配われ日輪に相対す

明けましておめでとうございます。家族そろってのお祝いが済んだあと、そろそろ年賀状が来ているかな、とポストを覗きに行く方も多いだろう。私が小さい頃、年賀状の束を取ってきて名前順に仕分けするのは子供の仕事だった。うちは総勢八人の大所帯だったので、兄と二人でせっせとより分けたものだった。小学校の頃は友達からくる年賀状の枚数が気がかりで、最初に自分の名前を見つけたときにはほっとした。今まではもらう側からばかり考えていたが、これは長年郵便配達を勤めた作者ならではの句。年賀状を待つ人々の元へ少しでも早く正確に届けようと、あふれんばかりの賀状を自転車に積んで暗いうちから働きだすのだろう。すっかり配り終えた充実感と仕事への誇りが「日輪に相対す(あいたいす)」という表現に感じられる。「賀状完配井戸から生きた水を呑む」の句も隣にある。今朝もそうやって働いてくれる人たちがいるからこそ賀状を手に取ることができる。今年一年、こんなふうに働く喜びを味わえる年でありますように。『磯貝碧蹄館集』(1981)所収。(三宅やよい)
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この作者の他の面白い句を少し追加したい。

 鯨吼ゆ夜を筆立てに筆の銛

 亀の甲羅と石棺わかつおぼろ月

 鳥貝と夜間金庫へ傘泳がす

 繰返す読経躑躅は血を溜むる

 檳榔樹と裸婦擦りかはる夏日かな

 少しづつ天へ着茣蓙と雲母虫

 素泊りの海酸漿を鳴らせとよ

『抒情小曲集』─なににこがれて書くうたぞ・・・・・・室生犀星
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金沢市に建つ室生犀星像

 詩集・『抒情小曲集』──「小景異情」第五連
   なににこがれて書くうたぞ・・・・・・・・・・・・・室生犀星

 なににこがれて書くうたぞ

 一時にひらくうめすもも
 
 すももの蒼(あを)さ身にあびて

 田舎暮しのやすらかさ

 けふも母ぢやに叱られて

 すもものしたに身をよせぬ

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室生犀星の名を一世に高からしめたのは『抒情小曲集』『愛の詩集』という、大正七年刊行の二詩集だった。前者は初期抒情詩の集成で、その中に六つの短章から成る絶唱「小景異情」も含まれる。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に始まる短詩は二番目の短章。
ここに掲げたのは五番目の短章。

不幸な出生の刻印を受け、ありあまる詩才を抱きながら苦しんだ青年期の、切々たる望郷と思慕の念が生んだ詩である。
彼は「私生児」として生まれ赤ん坊のうちに僧侶であった室生家に養子に出された。
詳しいことは「室生犀星・作家事典」に下記のような記事がある。
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生涯
 1889年8月1日、金沢市裏千日町に生まれる。本名、照道。父小畠弥左衛門吉種は元加賀藩士、妻を亡くして隠居の身で、64歳だった。母はるは女中。生後すぐに赤井ハツに預けられ、私生児として彼女の籍にはいる。ハツは「馬方お初」と渾名される莫連女で、不義の子を謝礼付きで引きとる商売をしていた。義理の兄と姉がいたが、成人後、姉は娼婦に売られている。ハツは雨宝院の住職、室生真乗と内縁関係にあったが、7歳の時、寺を継がせるために真乗の養嗣子にする。9歳の時、実父が亡くなると、生母は小畠家を追いだされ、行方不明になる。

 13歳で義母に高等小学校を中途退学させられ、地方裁判所に給仕として勤めはじめる。金沢で盛んな俳句の手ほどきを受け、文芸に興味をもつ。

 1909年、裁判所を辞め、地方新聞社を転々とした後、上京。詩がぼつぼつ雑誌に載るようになったが、金がなくなると金沢の養父のところにもどる生活を繰りかえしていた。1913年、北原白秋が主宰する「朱欒」に毎号載るようになる。無名時代の萩原朔太郎から手紙をもらい、親交を結ぶ。

 1917年、養父が死去。翌年、遺産で『愛の詩集』と『抒情小曲集』を自費出版。一部で注目される。

 1919年、佐藤春夫の成功に触発されて、「幼年時代」を発表。つづく「性に眼覚める頃」、「或る少女の死まで」で評価され、一躍流行作家になるが、1922年、幼い長男を失い、スランプにおちいる。

 1934年、養母ハツの荒くれた人生を題材にした「あにいもうと」を発表して、第一線に復帰。市井鬼ものとよばれる猥雑なエネルギーにあふれた、一種のピカレスク小説を次々に書く。

 戦争が激化するにしたがい活躍の場がなくなり、戦後も雌伏をつづけたが、1955年、随筆『女ひと』で文壇に復帰。1957年には『杏っ子』、1959年には晩年の傑作『かげろふの日記遺文』を書く。

 1962年3月26日、肺ガンで死去。73歳だった。
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犀星の写真というのが芳しいものが残っていなくて、やむなく銅像で代用した。いいものが見つかれば差し替えたい。
作品などの詳しいことはWikipedia←が詳しい。

   
luluさんのBLOG ハチドリのホバリングの画像(転載)
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 luluさんのBLOG ハチドリのホバリング・・・・・・・・・木村草弥

luluさんの美しい画像の紹介・第二弾である。
このハチドリは地味だが、それはメスだからで、luluさんの画像説明には、こう書いてある。

<こちらはピンクさんの奥様なので蜜飲み放題。ちなみにハチドリは一夫多妻で、しかもかなりの多妻で(爆)、種類問わずメスを見つけたらすかさず素敵なディスプレーをします。ディスプレーの説明は複雑すぎて難しいので次回に・・・
今言える事は、人間が見ても素敵!♪と思えるほどかっこいいディスプレーです。>

人間の世界とは異なり鳥の世界では、大よそメスは姿が地味である。
luluさんは鳥たちにも全部ニックネームをつけられており、先に紹介した美しいオスの名が「ピンク」君というらしい。
私の記事をご覧になったluluさんからコメントをいただいたので下記に紹介して、補足しておく。

<名付けですが、我が家に来るハチドリ達には、縄張王でしたら「16代目」とか、
 普通に通ってくる子には、ニックネームを、
 写真のように、ほんまもんの野生のハチドリにはどれも、
 ピンクヘルメットのAnna's Hummingbirdでしたら「ピンクさん」、
 オレンジ髭のAllen's Hummingbirdにでしたら「オレンジさん」と表現しています。 >

luluさんのサイトはこちら←

    
雲水の持つ箕の中は落椿この園の花五衰に入るか・・・・・草弥
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 雲水の持つ箕の中は落椿
   この園の花五衰に入るか・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店2003年刊)に載るものである。
この歌の前には

掃くは惜し掃かぬは憂しと緋椿の散り敷く径に思案をすべし・・・・・・・・・・・・草弥

という歌が載っている。
「五衰」という言葉に関しては、少し説明が要るだろう。
仏教用語に「天人五衰」というのがあり、それについては←のリンクを見てもらいたい。
この言葉に関連するものとして「木の五衰」というのがあり、それはこういうことである。

<幸田露伴のエッセイに「樹の相」というのがあり、その中で、「木の五衰」ということについて
書いている。

木が衰えていく相〔すがた〕には、五つの型があるのだそうである。

「人長じて漸くに老い、樹長じて漸くに衰ふ。樹の衰え行く相〔すがた〕を考ふるに、
およそ五あり。天女にも五衰といふ事の有るよしなれば、花の樹の春夏に栄え、
葉の樹の秋冬におごるも、また復〔また〕五衰の悲しみを免れざることにや。・・・」

という文章から始まる名文である。

「木の五衰」には
①懐の蒸れること
②梢止り〔うらどまり〕
③裾廃〔すそあがり〕
④梢枯れ〔うらがれ〕
⑤虫付き
の五種類があるそうである。

①の「懐〔ふところ〕の蒸れ」とは、枝葉が茂ること、枝葉が茂ると風通しが悪くなり、
風通しが悪くなると、樹が弱ってくる。
人にたとえると、家にコモって世間と没交渉に成るようなことで、また欲望のままに
行動して節制しない状態であろうか。
風通しを善くするためには、ときどき剪定することが必要なんである、木にも人にも。

弱くなってくると根が③の「裾上がり」になって根が浅くなってくる。

そうなると木の成長が止って伸びなくなる。伸びなくなると 木の頭部、梢から枯れてくる。
つまり④梢枯れ〔うらがれ〕になる。
末〔うら〕というのは梢〔こずえ〕、「こ」は木で木の末。

梢が枯れてくると「末〔うら〕止まり」になり木の成長がとまる。

そうなると いろいろな害虫がつく、⑤の「虫食い」になるのだそうである。

この「木の五衰」は人や組織にも、当てはめることが出来るのではないだろうか。>

参考文献 幸田露伴著『露伴全集 第三十巻』
       安岡正篤著『知命と立命』

説明が長くなったが、私の歌の「五衰」は、そういう「天人五衰」や「木の五衰」を踏まえている。

俳句にも「落ち椿」を詠んだ句が多い。俳人は咲く椿よりも「落ちる」椿の風情を好んだのだった。
以下、それらを引いて終る。

 赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・河東碧梧桐

 落椿夜めにもしろきあはれかな・・・・・・・・久保田万太郎

 咲くよりも落つる椿となりにけり・・・・・・・・水原秋桜子

 椿見る落ちよ落ちよと念じつつ・・・・・・・・相生垣瓜人

 椿落ちて色うしなひぬたちどころ・・・・・・・・芝不器男

 椿落つおろかにものを想ふとき・・・・・・・・稲垣きくの

 いま一つ椿落ちなば立去らん・・・・・・・・松本たかし

 落ちる時椿に肉の重さあり・・・・・・・・能村登四郎

 ふるさとの火色はじまる落椿・・・・・・・・宇多喜代子

 椿みな落ち真中に椿の木・・・・・・・・今瀬剛一

 椿咲くたびに逢いたくなつちやだめ・・・・・・・・池田澄子

 はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・仁平勝

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・森澄雄

  

   
ロサンゼルスのluluさんの美しいページの紹介(転載)
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 ロサンゼルスのluluさんの野鳥の美しい画像・・・・・・・・・・木村草弥

いつも温かいお付き合いを戴いているロサンゼルス在住のluluさんのページに載るハミングバードの写真を、ここに「転載」で紹介しておく。
私は、いつもこれらの鳥たちを見て、心を洗われているのである。
詳しくは、luluさんのページにアクセスして、じかに見てもらいたい。

「猫」・・・・・・・・・詩集『月に吠える』より・・・・萩原朔太郎
k0655黒猫

  猫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・萩原朔太郎

 まつくろけの猫が二疋(ひき)、

 なやましいよるの家根のうへで、

 ぴんとたてた尻尾のさきから、

 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。

 「おわあ、こんばんは」

 「おわあ、こんばんは」

 「おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ」

 「おわああ、ここの家の主人は病気です」

─────詩集『月に吠える』より──────

この詩は有名なもので、よく引用されるものである。
この詩は、春先の今の時期の、うるさい「恋猫」騒動の様子を詠んだもの。
原文では「みかづき」のところには傍点「・・・・」が打たれている。
最終のフレーズの「ここの家の主人は病気です」という人を食ったようなナンセンスな虚無的な雰囲気が、当時の精神風土を反映しているだろう。
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萩原朔太郎についてWikipediaの記事を引いておく。

萩原朔太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 ~ 1942年(昭和17年)5月11日)

生涯
群馬県東群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれる。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)の在学中に『野守』という回覧雑誌を編集して短歌を発表した。1907年第五高等学校に入学し、翌年第六高等学校に転校するが、チフスで中退。1910年・1911年の2度慶應義塾大学予科に入学するが、どちらも短期間で退学した。

1919年5月に上田稲子と結婚し、葉子と明子の2女をもうけるが、1929年6月に離婚。1938年4月、大谷美津子と再婚するが、1年余りで離婚した。昭和15年(1942年)「帰郷者」で透谷賞受賞。1942年に急性肺炎で死去。享年56。

詩の他には、比留間賢八にマンドリンを習いマンドリン倶楽部を作るなど音楽も志し、手品も楽しむというハイカラな面も持ち合わせていた。また、大のミステリーファンとして知られており、実作こそしなかったものの、江戸川乱歩の著した「パノラマ島奇譚」に対し、いち早く激賞の評論を書いたのは有名な話である。

また、作曲もいくつか試みており、室生犀星の詩による合唱曲『野火』、マンドリン曲"A Weaving Girl"(機織る乙女)などが残されている。

長女萩原葉子も作家であり、葉子の息子である演出家の萩原朔美は孫にあたる。

朔太郎の妹愛子は、詩人佐藤惣之助の妻。

作品
北原白秋に師事し、1917年2月刊行の処女詩集『月に吠える』で全国に名を知られるようになった。続いて1923年1月に『青猫』を刊行。これは『月に吠える』と並ぶ朔太郎の代表作とされている。

この他、『蝶を夢む』、『萩原朔太郎詩集』、それらを集成した『定本青猫』がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、高村光太郎と共に「口語自由詩の確立者」とされる。一方、実生活は2度の離婚や窮乏に苦しんだ。1933年6月に刊行された『氷島』では、漢文調の文語体に立ち帰り、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、散文詩をまとめた『宿命』であった。

著作
生前に発表されたもののみを、下にまとめた。全集は現在までに5度出版されている。1986年から89年にかけて、筑摩書房から出版されたもの(全15巻および補巻)が最も新しい。

詩集
月に吠える 角川文庫
蝶を夢む
青猫 集英社文庫
純情小曲集
萩原朔太郎詩集(第一書房版)復刻版もある。
氷島
定本青猫
宿命
「詩集」は新潮文庫、ハルキ文庫(旧角川文庫)、岩波文庫がある

アフォリズム集
新しき欲情
虚妄の正義
絶望の逃走
港にて

小説
猫町 清岡卓行編で岩波文庫

随筆
詩論と感想
純正詩論
廊下と室房
詩人の使命

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この年譜では「群馬県」出生となっているが、彼の父の出身地は大阪の八尾である。
現在、ここには、父・密蔵の兄弟の子─つまり甥っ子の「萩原隆」氏が住んで居られ、詩人の三井葉子さんと懇意になさっている。隆氏はやはり医師である。隆氏は子供の頃から、無頼であった朔太郎を引き合いに出して「あんなグータラな人間にはならないように」と育てられたという。
隆氏には三井さんの紹介でお会いして、いろいろ話を聞いてみたいと思っている。


すみれ花むらさきの香に咲き出でて吾に親しき春を挿したり・・・草弥
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すみれ花むらさきの香に咲き出でて
  吾に親しき春を挿したり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けでパンジーを載せたので、今日は、いわゆる「菫」(すみれ)について書く。
掲出の写真が在来のニホンスミレ属のものである。
これにも地域によって色々の変種がある。葉が丸いもの、細長いもの。花の色が濃い紫のもの、淡いもの、など。
この草は実を結ぶと小さな種をつけ、はじけて実を八方に飛ばし、その種が雨に流されて、流れ着いたところで強靭な生命力で殖える。庭などでは雑草として取り除くのに苦労するほどである。
このスミレは日本古来のものであるから歳時記にもたくさんの句が載っている。

掲出した私の歌は第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

以下、歳時記に載る句を引いておく。

 手にありし菫の花のいつか失(な)し・・・・・・・・松本たかし

 すみれ踏みしなやかに行く牛の足・・・・・・・・秋元不死男

 川青く東京遠きかみれかな・・・・・・・・五所平之助

 騎手の目の高さに幸の菫咲く・・・・・・・・平畑静塔

 黒土にまぎるるばかり菫濃し・・・・・・・・山口誓子

 軍神の虚実は知らずすみれ草・・・・・・・・飯田龍太

 すみれ植うことに心を集めたし・・・・・・・・細見綾子

 すみれ籠ひそかに修す忌日あり・・・・・・・・草間時彦

 みちびかれ水は菫の野へつづく・・・・・・・・桂信子

 すみれ野に罪あるごとく来て二人・・・・・・・・鈴木真砂女

 摘みくれし菫を旅の書にはさむ・・・・・・・・上村占魚

 すみれ咲く聴けわだつみの声の碑に・・・・・・・・森田峠

 宇陀の日は暈(かさ)着やすくて菫草・・・・・・・・大峯あきら

 どちらからともなく言ひて初菫・・・・・・・・大石悦子

妻が植ゑて三色菫黄がちかな・・・・・・・・・・・・・安住敦
pansy3パンジー

妻が植ゑて三色菫(すみれ)黄がちかな・・・・・・・・・安住敦

スミレ科の一年草または二年草で花壇などで広く植えられることが多い。
「パンジー」と呼ばれるのが今では一般的である。
もとはヨーロッパに野生するもので、花の直径も2センチほどのものだったが、百年ほどの間に品種改良されて、今日のような数センチに及ぶ大きな花になった。たいてい紫、黄、白の三色になっていることが多いので「三色菫」と呼ばれるが、固有のニホンスミレとは別物である。
この花については別ブログでも何回か書いてきた。俳句では「遊蝶花」などと呼ばれる。今では赤色、斑入りなど、また「ビオラ」属など極めて種類も多い。

以下、歳時記に載る句を引いておく。

 遊蝶花春は素朴に始まれり・・・・・・・・水原秋桜子

 三色菫は治癒の日の花子より享く・・・・・・・・石田波郷

 パンジーの畑蝶を呼び人を呼ぶ・・・・・・・・松本たかし

 彼岸の墓どれも親しや遊蝶花・・・・・・・・角川源義

 三色菫買はしめおのれやさしむも・・・・・・・・森澄雄

 パンジーの今日泣き顔と思ひけり・・・・・・・・木田千女

 岡鹿之助の遊蝶花とてニルヴァーナ・・・・・・・・伊丹さち子

 遊蝶花日暮は人のふりむかぬ・・・・・・・・永島靖子

 三色菫働けばくる日曜日・・・・・・・・横沢放川

 園児らの組分け帽子遊蝶花・・・・・・・・清水真紀子

 パンジーは考へる花稿起す・・・・・・・・下村ひろし

 航跡を曳く海港の遊蝶花・・・・・・・・石原八束

 三色菫勤勉をただ誇りとし・・・・・・・・藤田湘子

 パンジーの仔熊の顔に似たりけり・・・・・・・・森田峠

 ことごとく風の虜や遊蝶花・・・・・・・・岡本眸

 三色菫コップに活けて退職す・・・・・・・・菖蒲あや

 遊蝶花紫濃きが翅たたむ・・・・・・・・文挟夫佐恵
 
梅の花夢に語らく風流びたる花と我思ふ酒に浮べこそ・・・・・万葉集
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梅の花夢(いめ)に語らく風流(みや)びたる
 花と我(あれ)思(も)ふ酒に浮べこそ・・・・・・よみ人しらず


梅が満開の季節となったので、ひきつづいて「梅」の花を採り上げる。
この歌は万葉集巻5、歌番号853に載るものである。
作者を大伴旅人、その妹の坂上郎女などと推定する諸説があるようである。
旅人説が妥当だと言われるが、万葉集では未詳としているのでそれに従う。
「読み方」はカッコ内に書いたように、夢=いめ、などと訓(よ)む。
それは、ご存じのように万葉集の「原文」は漢字のみで表記されているからだ。
原文は、こうである。
烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左気尓于可倍許曽

大伴旅人は九州大宰府に長官として赴任中の天平2年正月、管下の下僚31人を自邸に集めて邸内の梅園で梅見の宴会を開き、一人づつ順に梅花を讃える歌を詠ませた。
中国趣味に傾倒していた彼は、こうして日本における風流な文雅の宴の先例を作ったのである。
さて、この歌は、後日それらの歌に唱和するつもりで何者かが作ったとされるもの。
<梅の花が夢に出てきてこう言ったというのだ、「私は風流(みやび)な花でしょう、ですから、どうか酒に浮かべて下さいね」>
という訳である。
なお、蛇足だが「大伴家持」は旅人の息子である。

以下、大伴旅人の歌を少し引いておく。 歌の頭の数字は万葉集の「歌番号」

0316: 昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

0331: 我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ

0332: 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため

0333: 浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも

0334: 忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため

0335: 我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ

0338: 験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし

0811: 言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし

0822: 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

0849: 残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも

0850: 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも

1473: 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1542: 我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも

1639: 沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも

1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも


母の魂梅に遊んで夜は還る・・・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
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母の魂(たま)梅に遊んで夜(よ)は還る・・・・・・・・・桂信子

肉体を抜け出た魂が昼のうちは梅の花と戯れているが、夜が来れば、また元の肉体に戻るのだ。
ふしぎな幻想性を持った句である。
この句は、年老いた母を喪った折の「母容態悪化」一連の句だから、作者にとっては現実から得た題材だが、句には現実と<非>現実が、ないまぜになった感銘ふかいものである。
彼女については別ブログでも何回も採り上げたが、大正三年大阪生まれの作者は、結婚生活二年で夫と死別するという不幸に遭った。当時の作には哀切な句が多い。
この句は句集『新緑』昭和49年刊所載。
本名・丹羽信子。昭和13年日野草城門に入る。昭和45年「草苑」創刊・主宰。52年、第一回現代俳句女流賞、平成4年、第26回蛇笏賞受賞。 2004年12月歿。
以下、彼女の自選による句をいくつか引いておく。

 ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

 クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 やはらかき身を月光のなかに容れ

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

 窓の雪女体にて湯をあふれしむ

 ゑんどうむき人妻の悲喜いまはなし

 ひとり臥てちちろと闇をおなじうす

 さくら散り水に遊べる指五本

 山越える山のかたちの夏帽子

 きさらぎをぬけて弥生へものの影

 野の果をずいと見渡す更衣(ころもがえ)

 土瓶より濃き茶出でくる夏の果て

 水すまし水の四隅にゆかず昏る

 忘年や身ほとりのものすべて塵


春浅き月像乗せて金三日月・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
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春浅き月像乗せて金三日月・・・・・・・・・・・・中村草田男

はじめにお断りしておくが、写真のような「上弦」の三日月は、今年でいうと一月末に見られたもので、今日は二月も中旬であるから、月は満月を過ぎて欠けはじめ「下弦」に入ったところである。
この写真はネット上から拝借したが、見事な「金」三日月を捉えている。
このような三日月が見られるのは、次回は今月末から三月初めということになる。

中村草田男については何度も別ブログでも書いてきたが、←このリンクでも経歴が読める。
以下、少し彼の句を引いておく。

 つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 百日紅乙女の一身またたく間に

 冬すでに路標にまがふ墓一基

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかの女知らず

 毒消し飲むわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別式の翌日に──

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

 
モジリアニの二月よ首の細き娘よ・・・・・・・・・二口けい子
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モジリアニの二月よ首の細き娘よ・・・・・・二口けい子

モリジアニの描く女の人は、みな「首」が長いことで知られている。
掲出の絵のモデルはジャンヌと言って、彼の短い生涯の終りの時期に彼に寄り添った女で、よくモデルになったことで知られている。
ここに載せた俳句に詠まれる娘とは別人と思われるが、当該の絵が見つからないので、代りにこの絵を載せておく。

モディリアニの絵は単純なフォルムで細長い首やアーモンド形の瞳で有名である。
写真などで観ると平面的でちょっと物足りない感じがするが、実物に接するととても深みがあり、圧倒的な力で迫って来る。
この絵は、瞳のない水色だけの眼であっても、静かに語りかけてくるようである。そこには「澄んだ哀しみ」が漂っている。

彼はほとんど人物画だけを描いた。初期のデッサンなどを見ると、けっして器用な画家とは思われないのだが、36歳で亡くなる数年前、約3年間くらいの間に傑出した作品を生みだした。病弱な肉体と貧困に苦しみ亡くなったモディリアニが名声を得るのは、皮肉なことに死後間もない頃である。

孤独な彼には理解者がいた。彼を支えてくれた画商や魅力的な女性たち・・・
とくに最後に連れ添ったジャンヌは絵のモデルとしても登場しているが、愛娘をもうけているという。
それなのにジャンヌはモディリアニが亡くなった二日後、ベランダから投身自殺をしてしまう。
このあたりのことは、伝記映画「モンパルナスの灯」によく描かれている。この映画は1958年製作のモノクロ映画だが、なかなかよくできていて、20世紀初頭のモンパルナスの雰囲気が伝わってくるようである。
その頃のモンパルナスには、ユトリロやピカソやシャガール、スーティン、藤田嗣治、ブランクーシ(とくにモジが影響を受けている)など、そうそうたる画家がいたのである。彼らはまだ若く、不遇で貧しく、きっと絵に対する情熱だけがぎらぎら輝いていたのだろう。


海鳴りの激し沖より春一番・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
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海鳴りの激し沖より春一番・・・・・・・・・・・・高島征夫

こちらでは2月13日夜更けから14日未明にかけて強い横なぐりの風雨が吹き荒れた。
恐らく今年の「春一番」であろう。
高島氏は鎌倉にお住まいであり、私の住む京都とは少し遅れて同じような天気となっただろう。
私の元BLOGが障害を起して、友人たちへのアクセスもままならない時に、今朝いち早く、このサイトを察知して「訪問」していただいて有難いことである。
その感謝の念もこめて、高島氏の2/14付けに載る「句」と「画像」を紹介しておく。
高島氏は他に小説などを執筆されているので「結城音彦」というペンネームを所持されていて、HPは「風胡山房」と称される。
結城音彦氏のURL→ http://hukosanbo.exblog.jp/

高島氏から、今の季節の句をまとめて送っていただいたので、以下に掲げておく。

 冬凪やジルベールベコー耳なでる

 青き実の潮酸漿なれ冬日濃し

 冬の日ののびやかに享く花茎かな

 らんらんとまなこつぶらにかじけねこ

 数へ日の島影淡しうべなへる

 残生のかくしらじらと柾の実

 冬帽子眉毛隠して海坊主

 さてもドント・ディスターブ晦日猫

 人もまた顔かがやかせ初日の出

 牛雲の寄り添ふてをり二日富士

 広重の松のめでたさことほげる

 ビードロとビーチグラスと四日かな

 初夢やこれでいいのだそうだにや

 蠟梅や汽笛消えゆく尾を引きて

 塩鮭の茶漬けを啜り恙なし

 寒濤や傾くリグの極限に

 曲搗や消えゆくものにかの老舗

 寒濤を聴くはみな若き日の詩人

 べっとう吹き荒れ乗れる者光る海

 寒き日の天竺葵ただならず

 寒木瓜や夙起のならひなぐさまん

 たましひのこほるごとくに蝉氷

 冬凪のバッファのごと波待てる

 寒濤に身を投げ出せりたはむるる

 まつすぐに冬芽の紅し臺與の国

 灯しとや木立蘆薈の花の薹

 はや梅の咲きしところに母者人

 漫ろ神漕ぎ出でまをす冬の濤

 大根の花ゆきずりのでき心

 押し出せば砂鳴る冬の朝開き

 行方なく漂泊ラダー寒濤音

 たゆたへる物干し竿の寒の雨

 焚火して煙管煙草の紫煙かな

 錆色の橋梁ぶあつく冬日落つ

 春夙野芥子は咲ける岩垣に

 節分や猫の先導山下る

 手の平にあふるる若菜おもしろさう

 残りたる雌蕊つややか落椿

 全身で凧揚ぐ園児沖遠く

 爪切草綿毛温いかほうやれほ

 「用途を失った言葉」俳句の冬

 大焚火酔ふごと顔のあつまれり

 動輪のごとく焼酎呑みほせり

 「言葉は心の石」春一番

 遅の井のあふるる春を見てゐたり

 パン屑のかすかに動き春の風

 痼疾ならす春は曙あふぎつつ

木村草弥第四歌集『嬬恋』(2003年角川書店刊)
嬬恋①

 一二輪まことに紅濃き梅の花
 さびしきかなや若き死者のこゑ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店2003年刊)に載るものである。「自選」にも採っているので、リンクにしたWebのHPでもご覧いただける。
この歌は、私の長姉・登志子の思い出に因むもので、梅の花の咲く今頃になると懐かしく、また寂しく思い出されるのである。姉は昭和19年2月19日に結核のために死んだ。
姉を詠んだ「紅梅」という一連の歌を引いてみよう。

 凍て土に早や紅糸をほぐしたるやうに牡丹の花芽噴き出づ・・・・・・木村草弥

 紅梅を見つつ独りの酒に酔ふけふは姉の忌と思ふたまゆら

 紅梅が美しく咲けばよみがへる血喀(は)きしときの姉の悲鳴が

 めつむれば紅梅は匂ひをしたたらす月に絹暈(けんうん)かかる夜明り

 梅咲けば母の文箱に見いでたる姉の手紙の初恋のこと

これらは私の少年期の悲痛な思い出である。
姉は綺麗な字を書く人であった。「佳人薄命」の言葉そのままの人であった。
私には、このような歌でも作って、姉の菩提を弔うしかないのである。

 
香山雅代詩集『粒子空間』
粒子空間

 ・・・・・河・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・香山雅代

雲を 浮かべて

河を

舟が ゆく



一艘は 有限を ゆく舟

片や 無限を ゆく舟

はたして 櫂を あずけられた手は

河の 真中で ゆきちがった

舟のうち そとを 互に 確かめて



ゆったりと

時空を 湛える河

雲を

浮かべる

河を ゆく

----------------------------------
香山雅代の詩集『粒子空間』は2008年6月に編集工房ノア から刊行された。
私の詩集『免疫系』の贈呈が縁で交友が始まったばかりである。
この詩集の「あとがき」で彼女は
<意識と無意識の識閾下に拘泥したモティーフの細分化への希求>と書く。
このことは「詩」を書く者にとっては、とても大切で、極めて適切な表白である。
彼女は、戦中、戦後を通して「能楽」の世界に親しんできたという。
「六麓会」という能・狂言の研究者の仲間入りをしているらしい。
また「日本歌曲振興会」という会に入って、いくつかの歌曲の作詞をし、作曲されて演奏されているという。
いま詩壇では「朗読」活動が盛んだが、こういう歌曲に詩を載せるというのも大切なことで、敬意を表したい。
既刊詩集など。
1965年 詩集『楕の埋葬』
1971年 詩集『黄金色した領土を司どる天使の伝説』
1981年 詩集『空薫』
1982年 日本現代女流詩人叢書5『香山雅代詩集』
1985年 詩集『慈童』
1992年 詩集『虚の橋』
1999年 詩集『雪の天使』
2000年 Essays『露の拍手』
2001年 詩集『風韻』


女身仏に春剥落のつづきをり・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
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女身仏(じょしんぶつ)に春剥落(はくらく)のつづきをり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子


この句は奈良の秋篠寺を早春に訪れた折の句である。
折からの春雪に薄暗い堂内は森閑と冷えていた。
その引き締まった寒気の中に、寺宝の女身仏──伎芸天が立っている。
仏像の表面の黒漆は歳月の中で剥落し、やや赤みがかった地肌があらわになっているところがある。一瞬、長い時間の流れが、その仏の剥落の部分から透かし視られるような思いが作者を打ったのである。自分が視ているこの瞬間も、この仏像の剥落は見えないところで続いているのだと。
永遠と言っていい時の流れの実感を、伎芸天を見た印象に合わせて一瞬にして捉えたところに、この句の成功があったと言えるだろう。(句集『伎芸天』昭和48年刊 所載)

秋篠寺については、←このリンクに貼った記事などを参照されたい。
細見綾子については、←このリンクの記事などから読んでみられよ。
以下、少し彼女の句を引いておく。

 来てみればほほけちらして猫柳

 そら豆はまことに青き味したり

 うすものを着て雲の行くたのしさよ

 でで虫が桑で吹かるる秋の風

 弱けれど春日ざしなり夢殿に──法隆寺にて──

 ひし餅のひし形は誰(た)が思ひなる

 チューリップ喜びだけを持つてゐる

 風吹かず桃と蒸されて桃は八重

 み仏に美しきかな冬の塵──唐招提寺──

 寂光といふあらば見せよ曼珠沙華──法隆寺──

 まぶた重き仏を見たり深き春──法隆寺百済観音──

 見得るだけの鶏頭の紅うべなへり──十一月、沢木欣一と結婚──

 寒卵二つ置きたり相寄らず

 外套をはじめて着し子胸にボタン

 真をとめの梅ありにけり石(いそ)の上(かみ)

 谷へちる花のひとひらづつ夕日

 珠洲焼きのまこと砂色新茶汲む

 かきつばた紫を解き放ちゐし

 どんぐりが一つ落ちたり一つの音


俳人協会会長・鷹羽狩行
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 うべなふ死うべなひがたき死も二月・・・・・・・鷹羽狩行

彼は、目下、俳人協会会長として時の人である。
掲出した句が、どの句集に載っているのか今は判らない。歳時記の「二月」のところから引いたからである。
私のような齢になると先輩、同輩、年下を問わず、ばたばたと知人、友人が亡くなるので、この句のような感慨を抱く昨今である。


鷹羽狩行については、←このリンクのプロフィールをご覧いただきたい。
また、「鷹羽狩行」というペンネームは師である山口誓子が本名の「高橋行雄」からアナグラムで命名したというエピソードが有名であるが、東京新聞の記事も面白いので見てもらいたい。

以下、少し彼の句を引くが、最近のものは含まれないので、念のため。

 妻と寝て銀漢の尾に父母います

 みちのくの星入り氷柱われに呉れよ

 天瓜粉しんじつ吾子は無一物

 蓮根掘モーゼの杖を摑み出す

 母の日のてのひらの味塩むすび

 摩天楼より新緑がパセリほど

 一湾の縁(ふち)のかなしみ夜光虫

 紅い父青い母走馬灯かこむ

 大言海割つて字を出す稿始め

 一対(いつつい)か一対一か枯野人

 鶯のこゑ前方に後円に

 黴の世の黴も生きとし生けるもの

 ひとすぢの流るる汗も言葉なり

 蛇よりも殺めし棒の迅(と)き流れ

 湖(うみ)といふ大きな耳に閑古鳥

 昼は日を夜は月をあげ大花野

 しがらみを抜けてふたたび春の水

 息づきにおくれ息づく薄ごろも

 秋風や魚のかたちに骨のこり

 人の世に灯のあることも春愁ひ

 しみじみと端居の端といふところ

 太陽をOH!と迎へて老氷河

 落鮎や流るる雲に堰はなく

 麦踏みのまたはるかなるものめざす

 亀鳴くや人老いて去り富みて去り

 揚(あげ)雲雀(ひばり)おのれの声は越えられず

 つるべなど見ぬ世の釣瓶(つるべ)落しかな

 くれなゐは固まりやすく ななかまど

 流るるを忘るるまでに水 澄めり

 青蜜柑(あをみかん)島がそろそろ重くなる

 秋風や寄れば柱もわれに寄り

 凍星(いてぼし)やきびしかりしは誓子選

 「行(ゆき)ちやん」とわれを呼びにし不死男の忌

 
草弥の詩作品「ヤコブの梯子」・・・・・・・・・・・・木村草弥
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



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草弥の詩作品<草の領域>──(52)

    ヤコブの梯子(はしご)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベータを載せて
天上の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。

──────────────────────
彼─ヤコブは夢を見た。
見よ。
一つの梯子(はしご)が地に向けて立てられている。
その頂(いただき)は天に届き、見よ、
神の使いたちが、その梯子を
上り下りしている。

 (旧約聖書・創世記28章12節)
──────────────────────

 或る朝。
お釈迦さまが極楽を歩いていた時に、
蓮池から遥か下の地獄を ふと覗くと
罪人の犍陀多(カンダタ)が居た。
カンダタは生前さまざまの悪事の報いで地獄に
落されていたのだが、小さな蜘蛛を助けたことがあった。
そこで お釈迦さまは地獄の底のカンダタを極楽への
道へ案内するために、一本の蜘蛛の糸を
カンダタに下ろす。
カンダタは極楽から伸びる蜘蛛の糸を見て喜び、
これで地獄から脱出できると思った。
そして 細い蜘蛛の糸を伝って何万里もある距離を
上り始めた。
ところが糸を伝って上る途中で、ふと下を見ると
数限りない地獄の罪人たちが自分の下から続いて来る。
このままでは細い蜘蛛の糸は重みで切れて落ちてしまう。
カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちは
一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚く。
自分だけ地獄から抜け出そうとするカンダタの
無慈悲な心がお釈迦さまには浅ましく思えたのか、
次の瞬間、蜘蛛の糸はカンダタのぶらさがっている所から
ぷつりと切れて愚かなカンダタは再び地獄に落ちてしまった。
 芥川龍之介の見た夢の出来事である。

軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父─コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道上の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルを伸ばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。

 或る日。
大きな宇宙ゴミ(スペースデブリ)が
軌道エレベータに衝突して
ケーブルが切断され
何百人もの人が死んだ。
切断されたケーブルは、まだ修復が済んでいない。

(2009/01/14作)
---------------------------------
初めての記事である。所属しているDoblogがデータベースサーバのハードディスクに障害を起して復旧に時間がかかるというので、どうしようもなく、複数の予備サイトとして立ち上げるものである。
ここのシステムに慣れていないので、うまくアップできるか心もとないが、FC2の皆さん、よろしく。
私にとってFC2は、まんざら縁がないわけではなく、私のWebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」はFC2にお世話になっているからである。

掲出の画像は、NASAによる軌道エレベータの想像図である。
軌道エレベータについては←リンクに貼ったWikipediaが詳しい。
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(4月2日追記)
この詩『ヤコブの梯子』を、三井葉子さん主宰の季刊誌『楽市』に投稿しておいたら、このたび
4月1日発行の『楽市』65号に掲載されて、4月2日に届いた。

楽市

あいにく誤植があって、はじめから5行目の「天上」が「天井」になっている。これは完全な「変換」ミスだが、仕方ないかと思う。
「合評会」が五月下旬に大阪であるというが、どうするか、まだ未定である。
まあ、こういう具合に詩人たちとの新しい交友が始まるのも、悪くはない。
以上、ご報告まで。
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(4月19日追記)
三井葉子さんから連絡があって、私の詩が「谷内修三の読書日記」4/12付けに採り上げられているというので、さっそく検索してみた。
以下は、当該部分のコピーである。
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木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」ほか
2009-04-12 09:54:13 | 詩(雑誌・同人誌)木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」、渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」、三井葉子「からす」ほか(「楽市」65、2009年04月01日発行)

 木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」はさまざまな「語り直し」である。


 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベータを載せて
天上の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。


 このあと、「聖書」から「ヤコブの梯子」が引用され、つづいて芥川龍之介「蜘蛛の糸」が要約される。さらにつづいて、


軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父-コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルをのばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。


 「夢」を、コンスタンチン・ツィオルコフスキーの夢が「スペースシャトル」という形で実現に近づいているいま、その彼の夢と重なり合うものを、「ジャックと豆の木」「聖書」「蜘蛛の糸」と重ねてみる。
 そうすると、そこに、人間の想像力の不思議さが見えてくる。
 ひとは、どれだけ突飛なこと(?)を考えようと、どこかでつながっている。なぜ、ひとは、そんなふうにして重なり合うのか。
 そのことを木村は、「解説」しようとはしない。そこが、おもしろい。
 木村は「解説」のかわりに、「重ね合わせ」をていねいにやる。人間のことばは、常に、誰かの語ったことばの語り直しであるということを知っている。語り直す時、そこはなんらかの個人の思い、体験がしのびこみ、ずれができるのだが、そのずれの存在が逆に、離れているものを引き寄せる。ずれているから重ならないのではなく、ずれているから重なっている部分があることがわかる。ずれが増えるたびに、重なり合う部分もまた増えるのである。(注・下線部は草弥)
 私は不勉強なので木村の詩を読むのははじめてなのだが(だと思う)、とてもていねいな思索をもとにことばを動かしていく詩人なのだと思った。新しい哲学を作り上げるというよりも、すでに語られた哲学を、ていねいに自分自身のものに消化して、ことばを鍛える詩人なのだと思った。

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私の詩に関する部分のみ引用した。
的確な評をいただき感謝申し上げる。
こういう的を射たコメントを貰うと、作者冥利に尽きる。
余談だが、ネット上に載る記事によると、谷内修三氏は「読売新聞西部本社編成部」に所属されているようである。詩集があちこちから送られて来るようで、それらの詩集などを読み込んで、毎日、精力的にブログに記事を書いておられる。
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これも三井葉子さんからの連絡によるのだが、「楽市」に載った私の詩をご覧になった「杉山平一」氏から「若き日の詩集」(自注)という、アンソロジーに載った文章のコピーと手紙を託された。
そのコピーの全文を下記に貼り付けておく。

  秋晴・・・・・・・・杉山平一

 夏の日 綺麗な麦藁帽子(かんかん)をかむつて 詩よ
 きみはやつて来た 僕達は色々話をした
やがて別れる時が来た 忽ちきみは透明なエ
スカレエタアに乗つて麦藁帽子を銀色にふ
り乍らゆるゆるゆるゆる青空にのぼつて行
つた

 この秋の日 僕もきみのエスカレエタアを
踏みあてたやうな気がする 見上げる紺青の
深みに 動きも見えぬ程たかくたかく飛行機

が一台 ちひさな十字架のやうであつた ゆ
るゆる登つて行つてきみに逢へさうだ 僕の
全身を支へてゐる血管の枝々は 一枚一枚葉
を散し乍ら 一斉に青空へもつれる梢とな
りつつあつた
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 若き日の詩集/(自注)

この「秋晴」という作品を取上げたのは忘れない思出があるからである。
私が「四季」に投稿していたとき、すでに同人扱いになっていた立原道造さんが、
同じ学年の大学生と知って驚き、やがて「四季」の集りで知り合い、同じ美学の
講義にくるようになり親しくなったある日、一しょに歩いていると「きみ、この間の詩
よかったね」といい、つづけて、「あの梯子で天へ昇ってゆくやつ」といってくれた。
私は彼に畏敬に近い感じをもっていただけに、大変うれしかった。
エスカレーターと気どっているのに梯子といったのも、ヤコブの梯子を思わせて負けた
と思った。当時、神戸の三の宮の駅に阪急電鉄が長いエスカレーターをつけたのに
感激して使ったのだった。
空たかく飛行機が十字架のように見えたのも感激だったが、立原さんにほめられたのが、
忘れられない思出である。
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私のような無名の人間の詩だから、普通なら無視されるところを、有名な詩人である三井葉子さんの主宰誌である「楽市」に載せてもらった縁で、関西詩壇の重鎮である杉山平一氏から詩のコピーと手紙をいただき感謝して、御礼申し上げる。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり・・・・・・・・久保田万太郎
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  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり・・・・・・久保田万太郎

久保田万太郎は昭和38年73歳で没した。
晩年、子供を亡くし、それを機に家を出て赤坂に隠れ住んだ。起居のかたわらに一人の女性がいたが、彼女は37年末に急死した。万太郎は深い孤独に陥り、自らも半年後に急逝した。
彼の死のいきさつについて書いたことがあるので、参照されたい。
この句は相手の女性の死後詠んだ句のひとつ。湯豆腐の白い揺れを見つめつつ、一場の夢に過ぎない人生を眼前に見ているような気配を伝える句である。「いのちのはてのうすあかり」が句の眼目だが、空漠かつ幽遠である。
こういう句の深い「読み」については、若い頃には思い及ばないことで、人生の晩年に至って、ようやく思いに辿りつくことが出来るのである。
昭和38年刊『流寓抄以後』所載。
湯豆腐は冬の暖かい味覚として、親しみふかいものである。今では季節を問わず食べられるが、やはり冬のものであろう。
20041112ap12南禅寺順正湯豆腐会席6000円

写真②は京都南禅寺順正の湯豆腐セット6000円のものである。京都には「豆腐」の老舗がいくつかあり、この頃では宅急便を利用して全国に宅配されているようだ。
万太郎の沈潜した、命をみつめた深い思いの句を見たあとでは不謹慎のそしりは免れないが、「湯豆腐」を詠んだ句を少し引いておきたい。

 湯豆腐や澄める夜は灯も淡きもの・・・・・・・・渡辺水巴

 湯豆腐の一と間根岸は雨か雪・・・・・・・・長谷川かな女

 湯豆腐や障子の外の隅田川・・・・・・・・吉田冬葉

 湯豆腐にうつくしき火の廻りけり・・・・・・・・萩原麦草

 湯豆腐に箸さだまらず酔ひにけり・・・・・・・・片山鶏頭子

 湯豆腐やみちのくの妓(こ)の泣き黒子・・・・・・・・高橋瓢々子

 混沌として湯豆腐も終りなり・・・・・・・・佐々木有風

 湯豆腐や紫檀の筥(はこ)の夫婦箸・・・・・・・・日野草城

 湯豆腐や思へばこその口叱言・・・・・・・・鈴木真砂女


  
草弥の詩作品・・・「州見山」・長歌と反歌・・・・・・・木村草弥
初出・Doblog2008/09/02
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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itii2イチイ実

──草弥の詩作品『草の領域』──(51)
 
  州見山・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   長歌   あららぎの丹の実光れる州見山

三香原(みかのはら) 布當(ふたぎ)の野辺を さを鹿は嬬(つま)呼びとよむ。

山みれば山裳(やまも)みがほし、里みれば里裳(さとも)住みよし。

櫟坂(いちさか)を登りいゆけば 山城(やましろ)と寧楽(なら)の境に、

あららぎの丹(に)の実光れる 州見山(くにみやま)。

天地(あめつち)の依り合ふ限(きは)み 春草を馬食ひをらむ州見山。

あしひきの州見の山ゆ 見かへれば朝霧のおぼに流るる泉河(いづみがは)。

青丹よし寧楽の都に木材(きだち)運ぶと、木の津なる浜辺に見ゆる大船の ゆくらゆくらと。

陽炎のあるかなきかの、春霞たつ つぎねふ山城。

夏草の繁き勢(きほ)ひの 幣(みてぐら)を寧楽に。

秋草に結ぶさ露のしろしろと、天つ水仰ぎて待たむ。

石(いは)走る垂水も凍(い)てて 羽交ひの鴨に雪は零(ふ)りつつ。

古への賢(さか)しき人の 天雲(あまぐも)のたどきも知らず

 ししくしろ熟睡(うまい)に落つるぬばたまの妹(いも)。

狩衣(かりぎぬ)の乱るるなへに狛錦(こまにしき)紐解きまけて 

はねず色の移ろひやすき若草の嬬。

   反歌

拓かれし州見台てふ仮り庵(いほ)に愛(め)ぐはし 女男(めを)の熟睡なるべし
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(2008年9月1日 作)(まだ習作で推敲することがあります)

「州見山」というのは京都府最南端の奈良県との境にある小高い山。
この名をとどめているからには、昔は京都(山城)盆地と奈良盆地を240度くらい見晴らせる丘であったろう。
一角には古墳も見つかり、今は古墳公園として保存されている。
「木の津」という泉川(木津川、古くは山背川とも表記した)の浜辺に着いた木材を陸に引き上げて荷車で奈良の都造営に運んだという歴史的考証もある。「木津」という地名は、これに由来する。
例えば、琵琶湖の東岸の材木を伐り出して瀬田川、宇治川、木津川を経て「木津」の浜に陸揚げしたという考証がある。そのために琵琶湖東岸の辺りの山は、禿山になったという。
「三香原」「布當」の地名は、束の間の宮都であった「恭仁京」を取り巻く辺りで、字の表記は時代とともに変遷がある。
この作品は、いわゆる「万葉」調の調べを習作してみた。国語辞典を調べてもらえば判るが「枕詞」を多用してみた。音数律は五、七を基本として繰り返す、流れるような、うねるような感じを模索した。古語も駆使してあるので、意味の面から読もうとするのではなく、音読の面白さを追及してもらいたい。
この地は今、関西学術研究都市の一角として、行政的には昨年発足した京都府「木津川市」であるが、「州見台」1丁目~8丁目にわたる計画的な住区と研究機関との調和を図った。さらに東には古い地名である「梅谷」から名前を取った「梅美台」数丁目も開発され、それらを合わせて、完成すれば住民数一万数千の、広い庭を持つ、高級住宅地となるはずである。戸建だけでなく、住民の層を多層化すべくマンション、アパートも多く建てられている。老齢化に備えて老健施設や老人ホーム、各種診療科の医院も多くある。
小学校2校は、すでに開校し、来春には中学校も、この一角に開校する予定である。
大きなショッピングセンターも、住宅の構成を崩さないように一番西端の道路沿いに開かれ、スーパー、コンビニも数箇所あり、生活の利便性も確保されつつある。
バスも奈良交通が路線を敷き、近鉄奈良駅、高の原駅に直結していて便利である。バスはICカードの「PITAPA」「ICOCA」が使えるので小銭要らずでワンタッチ。
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178333491アララギ実

掲出した写真①②とも「あららぎ」「イチイ」「櫟」「一位」とさまざまに呼ばれる、この木の実である。 ②は接写。
下記にネット上に載る記事を引いておく。

イチイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イチイ(一位、櫟、学名Taxus cuspidata)
イチイ科イチイ属の植物。またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。別名をアララギ。
北海道ではアイヌ語由来のオンコと呼ばれる。

同属にヨーロッパイチイ(T. baccata)があるが、本稿においては特に注記しない限りは日本に生息するイチイ(T. cuspidata)についての説明である。

分布
日本では北海道から九州にかけて山地に自生する。特に東北から北海道までの寒冷地帯に群生する。庭木としては一般的で沖縄を除いた日本全国で見られる。

特徴
イチイ(Taxus cuspidata)は果実雌雄異株で、高さ20mほどの高木になるが成長は遅い。樹型は円錐形になる。幹の直径は50-100cmほどになり、樹皮には縦に割れ目が走る。

葉は濃緑色で、線形をし、先端は尖っているが柔らかく触ってもそれほど痛くない。枝に二列に並び、先端では螺旋状につく。

4月ごろ小形の花をつけ、初秋に赤い実をつける。種子は球形で、杯状で赤い多汁質の仮種皮の内側におさまっている。外から見れば、赤い湯飲みの中に丸い種が入っているような感じである。 果肉は甘いが、種は苦く、アルカロイドの一種が含まれ、有毒。

用途
耐陰性、耐寒性があり刈り込みにもよく耐えるため、日本では中部地方以北の地域で庭木や生垣に利用される。東北北部と北海道ではサカキ、ヒサカキを産しなかったため、サカキ、ヒサカキの代わりに玉串など神事に用いられ、神社の境内に植えられる。
木材としては年輪の幅が狭く緻密で狂いが生じにくく加工しやすい、光沢があって美しいという特徴をもつ。工芸品や机の天板、天井板、箸、鉛筆材として用いられ、岐阜県飛騨地方の一位一刀彫が知られる。

日本(一説には仁徳天皇の時代)では高官の用いる笏を造るのにこの木が使われた。和名のイチイ(一位)はこれに由来するという説もある。

果実は甘く、そのまま食用にしたり、焼酎漬けにして果実酒が作られる。しかし種子にはタキシン(taxine)という有毒のアルカロイドが含まれている。種子を誤って飲み込むと中毒を起こし、量によってはけいれんを起こし、呼吸困難で死亡することがあるため注意が必要である。イチイのタキシンは果肉を除く葉や植物全体に含まれる。

葉はかつて糖尿病の民間薬としての利用例があるが、薬効についての根拠はなく、種子と同様有毒であるために絶対に服用してはならない。
心材が赤い為、赤色の染料にも用いられる。

雑学
ル=グウィン著の「ゲド戦記」で、当初ハイタカが愛用していた杖は「イチイの木」でできた杖であった。同書では、イチイの木は人を叩いても、傷つけない特殊な木として扱われている。

地方公共団体の木に指定している自治体
岐阜県

市町村の木に指定している自治体
北海道 - 恵庭市、北見市、函館市、富良野市、今金町、小平町、中川町、当麻町、東神楽町、美幌町、むかわ町、由仁町、西興部村、奥尻町
青森県 - 八戸市、五戸町
岩手県 - 遠野市
山梨県 - 忍野村、山中湖村
長野県 - 上田市、岡谷市、塩尻市、飯島町、御代田町、高山村、山形村
岐阜県 - 高山市
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■私の友人の崎川宗伯君の話によると、彼の住む城陽市「市辺」は「いちのべ」と読むが、昔は「櫟野辺」とも書いたらしい。念のため『京都府地名大辞典』(角川書店)の「地名編」に当たってみると、確かに、そのように出ている。そして「地名の由来は、当地付近に櫟樹が繁茂していたことに由来するという」と書かれている。
これらを見ると、昔(と言っても古代のことであろうか)は、山城の地にも「イチイ」の木がかなりあったらしいことが判る。
■「州見山」については、崇神天皇10年に大毘古命が「山代ノ国ヲ見ルニ宣シ」と述べたところから、その名の生れたという国見山(105m)、という記述があるので、この山の歴史も古いことになる。
■「櫟坂」については、今の地名は「市坂」というが、「一ノ坂」と書かれた時期があるようである。「古事記」崇神天皇条に「山城之幣羅坂」、「日本書紀」にも「山代平坂」の記述があり、これが古名か、と書かれている。
とにかく古い地名であり、古代から州見山の麓を通って山代国から大和国に通ずる街道が通っていたのである。
芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅咲き初むる如月の丘・・・・・草弥
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芝点(しばたて)の茶事の華やぎ思ひをり
    梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
掲出の写真は野外で茶をたてる時に使う「野点(のだて)セット」というもので、この携帯用のものの中に茶をたてる最低必要なものが入っている。
「芝点」と称して芝に毛氈を敷いて茶会をやる時には、もう少し道具類を用意するのが普通である。
寒い風の吹く季節をやり過ごして、うららかな春になると、家の中ではなく、野外に出て「野点(のだて)」をやりたくなる。芝生の上でやるのが「芝点(しばたて)」である。
「芝点」では「旅箪笥」などを使って茶を点てるのが普通である。
その由来についてWEB上では、次のような記事が出ているので貼り付けておく。

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<旅箪笥(写真②)は桐木地・ケンドン扉・鉄金具の鍵付きの小棚で、小田原出陣の折、陣中にて茶を点てる為に、利休居士により創案されたものだそうです。道具を中にしまって背中にしょって出掛けたのでしょうか。

旅箪笥を使って「芝点て」の稽古です。準備は地板に水差しを、2枚ある棚板の下方に棗と茶碗を飾り、上方の棚の左端の切り込みに柄杓を掛け、柄杓の柄の元に蓋置を飾り、ケンドン扉を閉めます。建水だけを持ち手前座に入り、扉を開け(この開け方もなめらかに静かに行います)道具を取り出しお茶を点てるのですが、棚板の1枚を抜き出し、その上に棗・茶筅を置く「芝点て」は、花見時の野点の光景が目に浮かぶ様な気がします。その雰囲気を楽しむ為か旅箪笥はよく釣り釜とあわせられるそうです。特に季節を選ぶ棚ではないと言われますが、その風情から早春~春に用いられることが多いそうです。風炉との取り合わせはないそうです。>
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上の記事にあるように、本来は野外で点てるのを、後世になると、「芝点」と称して家の中でお点前をするようになったものであり、ここまで来ると、「先ず茶道の作法ありき」という気がして嫌である。
私が「芝点」というのは文字通りの芝生の上での野点である。
私の歌は、梅が咲き初めた如月の丘に居て、もうしばらくすると芝点の時期がやって来る、楽しみだなあ、という感慨である。

以下、掲出の歌につづく一連の歌を下に引いて、ご覧に入れる。

 野 点

芝点の茶事の華やぎ思ひをり梅さき初むる如月の丘・・・・・・・・・・木村草弥

毛氈に揃ふ双膝肉づきて目に眩しかり春の野点は

野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明(むみやう)のうつつ

香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ


終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・加藤楸邨
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 終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨


この楸邨の句も「二物衝撃」の見本のような句で面白い。
「ショパン」の曲と、「大根」とは全く何の関係もない。
それを取り合わせてある。
しかも大幅に破調である。7、8、6音になるようであるが、これを削ることは難しい。
さて、大根は春の七草の中の「スズシロ」と昔呼ばれていたものの改良種である。
写真①は「青首大根」と呼ばれるもので「耐病総太り」という作りやすい品種で、現在では生産量の95%を占めるまでになっている。私の家でも栽培しているが、この青首大根を9月はじめに種から蒔いて作る。
3メートルくらいの畝を2筋も作っておけば春までたっぷり食べられる。

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写真②は京都の伝統京野菜として品種登録されて生産が奨励されている「聖護院大根」である。これは甘みがあっておいしい大根である。他にも「守口大根」など各地に伝統野菜がある。昔は沢庵漬に最適の品種として「宮重大根」というのがあった。

大根はアブラナ科の一年草で越冬する。春に薹(とう)がたつ。原産地は地中海沿岸と言われ、日本には中国経由で早くに入ってきたという。
大根は水分がたっぷりあり、しかもジアスターゼという消化酵素も含んでいて、体には大変よい野菜である。私などは、どんな料理にしろ、大根おろしにしろ、大根を食べると大変消化がよいのを実感している。私の大好きな野菜である。

 菊の後大根の外更になし・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

という古句があり、まさに的確に大根の性格を言い表わしている。
以下、大根を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 大根引大根で道を教へけり・・・・・・・・小林一茶

 流れゆく大根の葉の早さかな・・・・・・・・高浜虚子

 ぬきん出て夕焼けてゐる大根かな・・・・・・・・中田みづほ

 畑大根皆肩出して月浴びぬ・・・・・・・・川端茅舎

 老いの仕事大根たばね木に掛けて・・・・・・・・西東三鬼

 ダンサーに買はるしなしなと大根・・・・・・・・秋元不死男

 大根きしみかくて農婦の腰まがる・・・・・・・・米田一穂

 死にたれば人来て大根焚きはじむ・・・・・・・・下村槐太

 身をのせて桜島大根切りにけり・・・・・・・・朝倉和江

 荒縄で洗ふ大根真白きまで・・・・・・・・冨石三保

 煮大根を煮かへす孤独地獄なれ・・・・・・・・久保田万太郎

 窓が開いてをる大根畑は昼深し・・・・・・・・滝井孝作

 大根煮や夕餉の病舎さざめきて・・・・・・・・石田波郷

 大根を刻む刃物の音つづく・・・・・・・・・山口誓子

 大根洗ふや風来て白をみなぎらす・・・・・・・・大野林火

  
ルノアルの女に毛糸編ませたし・・・・・・・・・・・阿波野青畝
img10551124952毛糸玉本命

 ルノアルの女に毛糸編ませたし・・・・・・・・・・・阿波野青畝

「毛糸編む」というのが冬の季語である。
この頃では、昔のように毛糸を編む人を余り見かけなくなったが、「ニット手芸」は相変わらず盛んで、亡妻の学友であった人は、今やニットサロンを経営し、NHKの趣味講座の先生をするなど大活躍している。この頃では男のニットの先生も出て来たりしている。
この句は、ルノアールの絵に出てくる豊満な女の人に毛糸を編ませてみたい、という、いかにも男の人らしい句である。

この句については亡妻との間の会話について、私には哀しい思い出がある。
5年前の今ごろ、食事も録に摂れずの最悪期から食欲も出て、体力も戻りかけた時期に、私がこの句を見つけて、病院に行って妻に見せたら、これが大変気に入ったらしく、いろんな人に、この句を披露していた姿を思い出す。
妻の死後、家の中を整理していたら、妻の仕事部屋にしていた二階の南向きの陽のよくあたる部屋に、未使用の毛糸玉がたくさん出てきた。私の娘たちも仕事に忙しくて、毛糸編みなどはしないし、捨てるのも忍びないので、そのままにしてある。
こういう遺品というのは、見るのも辛いものである。
昔は私たち兄妹の着るセーターは、みな母の手編みだった。着込んだセーターは解いて皺を伸ばし、また編み直して新しいセーターに仕立てたものだった。亡妻も編み機を使って私のセーターも手作りだった。
この頃では、そういう手芸を一切しない人と、ニット手芸の趣味に生きる人との両極端に分かれてしまった。ひと頃はニット編み機が流行って、その教室というものもあった。私の妹なんかは手早くて、人からも頼まれて結構収入になったらしい。ニット編みの機械の先生をしたりしていたものだ。

明治30年に

  襟巻を編むべき黒の毛糸かな・・・・・・・・高浜虚子

の句があり、これは「毛糸編む」という季語のもっとも早い用例だと言われている。
以下、毛糸編む、毛糸玉の句を少し引きたい。

 久方の空いろの毛糸編んでをり・・・・・・・・久保田万太郎

 こころ吾とあらず毛糸の編目を読む・・・・・・・・山口誓子

 毛糸編む気力なし「原爆展見た」とのみ・・・・・・・・中村草田男

 毛糸編はじまり妻の黙はじまる・・・・・・・・加藤楸邨

 離れて遠き吾子の形に毛糸編む・・・・・・・・石田波郷

 編みかけの毛糸見せられ親しさ増す・・・・・・・・山口波津女

 毛糸編み来世も夫にかく編まん・・・・・・・・山口波津女

 毛糸玉幸さながらに巻きふとり・・・・・・・・能村登四郎

 時編むに似たるが愛し毛糸編む・・・・・・・・余寧金之助

 毛糸編む冬夜の汽笛吾れに鳴り・・・・・・・・細見綾子

 祈りにも似し静けさや毛糸編む・・・・・・・・戸川稲村

 母の五指もの言ふごとく毛糸編む・・・・・・・・今井美枝子

 毛糸編む幸福を編み魅力を編む・・・・・・・・上田春水子

 毛糸編みつつの考へゆきもどり・・・・・・・・竹腰朋子

 毛糸玉頬に押しあて吾子欲しや・・・・・・・・岡本眸

 白指も編棒のうち毛糸編み・・・・・・・・鷹羽狩行


取得せし斜面三町歩雪ふれば雪に野心の片鱗が舞ふ・・・・時田則雄
     001冬景色本命

  取得せし斜面三町歩雪ふれば
      雪に野心の片鱗が舞ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・時田則雄


時田則雄は北海道の帯広郊外で広大な農場を営む歌人である。
時田 則雄(ときた のりお)
1946年帯広市に生まれる。道立帯広農業高校卒業後、1967年帯広畜産大学別科(草地畜産)終了。父の後を継ぎ農業経営。1998年林業功労により帯広市産業経済功労賞。
高校在学中に啄木の歌に魅かれて作歌を開始し「辛夷」に入会し野原水嶺に師事。
1980年第26回角川短歌賞受賞、1982年第26回現代歌人協会賞、1999年第35回短歌研究賞他数々の賞を受賞する。
歌集『北方論』、『緑野疾走』、『十勝劇場』、(雁書館)他4冊。他にエッセイ集「北の家族」(家の光)。1992年8月より「辛夷」編集発行人となる。
帯広大谷短期大学非常勤講師、日本文芸家協会、現代歌人協会会員として現在に至る。
掲出の歌は、彼がまだ若いときの作品であり、満々たる野心に溢れている。
現役で労働に従事する歌人というのは、今の歌壇では特異な存在である。
私の好きな歌人である。とにかく「土の匂い」のする歌を作る。
ネット上から「現代田んぼ生活」を引いておく。
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2007-03-08-Thu 苗箱に土を入れ始めることと時田則雄『歌集 野男伝』
昨日の朝は道には積もってなかったですが、屋根や麦の上には雪が積もっていました。気温も低いまま続いています。やれやれ。
昨日から苗箱への土入れを始める。準備すべき苗箱は1400箱ほど。ボチボチとやります。
そういえば昨日は営農組合の「男の料理教室」に参加して、ハンバーグやフルーツのサラダ、みそ汁、まぐろのカルパッチョ、ロールケーキなどなど、他にもあったような気がするを教えてもらいながら作りました。盛り沢山で少々疲れましたが、面白かったです。昆布とかつお節でダシをとってのみそ汁とか、はい、なかなか贅沢なみそ汁です。

時田則雄『歌集 野男伝』(本阿弥書店)読了。いや、すばらしいですね、これは。読んでいたら、農業に、百姓に、やる気がぐりぐりと出てきました。

 小学校校長の名は米太郎部屋の三面本あふれゐき

 「寒ければこうして金玉握れよ」とキンタマ握ってゐし米太郎

 めらめらと燃ゆる丸太の火に抱かれ老婆は荼毘に付されてをりし

 日に一升十日で一斗酒喰らひ野良仕事せりわが二十代

 PTA会長となり知りしこと若き教師の態度のでかさ

 大病を患ふ妻を家に残しひとり百姓続けぬ 黙黙

 大枚を投じて家建て山林買った 三十代半ばなんでも出来た

 借入金五千万円 凩を聴きつつ湯船に首浮べゐし

 娘が婿とりて農場を継ぐといふことの嬉しく月に乾杯

 種を播けばよいといふものではないぞ適地適作 凶作もある

いや、この辺でやめておかなければ。ページパラパラやって十首だけ紹介させてもらいました。でもその他にたくさんいいのがありました、というか、次々なんですけどね。うーむ、時田則雄さんの他の歌集も読まねば。
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050618時田則雄

上の引用部にも書かれているが、この人の歌集の題名からして、すごいではないか。
『北方論』『緑野疾走』『十勝劇場』『野男伝』そして最近刊に『ポロシリ』(角川書店)がある。
この歌集は平成20年度の第60回「読売文学賞」詩歌俳句部門を受賞している。
私はまだこの歌集は読んでいないが、ポロシリ(山の名前)を仰ぎ、農業に就いて40数年。妻の闘病、娘婿の急逝、など喜びと悲しみがこもごも押し寄せた数年を詠った349首という。第九歌集にあたる。
因みに「ポロシリ」とはアイヌ語でポロ=大きい、シリ=山の意味で、北海道日高山脈の雄峰の一つ十勝幌尻岳(1846m)のことである。この本から二首引く。

 ポロシリは静かに座つてゐるゆゑに俺は噴火をつづけてゐるぞ・・・・・・・・・・・時田則雄

 ポロシリに向かひて二キロほど行きて戻り来ぬ明日を創り出さむと


以下、以前の刊行の歌集から少し歌を引いて終わる。

獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ

野男の名刺すなはち凩と氷雨にさらせしてのひらの皮

指をもて選(すぐ)りたる種子十万粒芽ばえれば声をあげて妻呼ぶ

トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ

妻とわれの農場いちめん萌えたれば蝶は空よりあふれてきたり

牛糞のこびりつきたるてのひらを洗へば北を指す生命線

麦の香のしみし五体を水風呂に沈めてあれば子が潜りきぬ

按摩機に体をゆだねて眠りゐる妻の水母のごとき午後かな

十勝土人時田則雄がふりあふぐ部落(むら)を跨げる七色の虹

春の水を集めて走る朝の川さうだよ俺は朝の川だよ

とりあへず胃袋に水を注ぎ込みあしたの闇に突き刺さりゆく 『力瘤』

どどどーんどどどどーんと轟いてゐるのはエンジンだけではないぞ

三日三晩寝ずに稼ぎしゆゑなるか手足蒟蒻のやうにへろへろ

スパナをぐいつと引きぬ力瘤まだまだ力の固まりである

十トンの乾燥豚糞撒き終へて月のあかりに包まれてゐぬ




少年は星座の本に夢みてゐるオリオンの名をひとつ覚えて・・・・草弥
orion1オリオン座

 少年は星座の本に夢みてゐる
    オリオンの名をひとつ覚えて・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「オリオン座」は冬の星座である。
イカロス神話によると、オリオンは海の神ポセイドンとミノス王の娘エウリュアレの間に生まれたとされる。海の神の息子であったから、海の上をまるで陸のように歩くことができたという。
巨人オリオンは美男子で、狩の腕にも優れ、そして月の女神アルテミスの恋人でもあった。それは、いろいろのことがあった後、クレタ島に渡って月と狩の女神アルテミスに出会い、二人は愛し合うようになるが、アルテミスの兄・アポロンが野蛮なオリオンから引き離そうと画策し、ある日、海で泳ぐオリオンの頭に金色の光を吹きつけた。そしてアルテミスに「いかにお前が弓の名手でも、あれほど遠くの獲物は一矢では射止められまい」とそそのかした。その挑発的な言葉に乗せられてアルテミスは、その海上の獲物を一矢で射抜いてしまった。
打ち上げられたオリオンの死体を見て、アルテミスは悲しんで、夜空を照らすことも忘れてしまった。
アルテミスに同情した大神ゼウスは、オリオンを天に上げ、星座にした。
月は公転運動で見かけの位置を毎日変える。1ケ月に1度はオリオン座のすぐ北を通る。月の女神アルテミスは今では1ケ月に1回だけオリオンとのデートを楽しんでいるのである。

私は天文少年でもなかったので、星座にまつわる神話の方が面白かった。
西洋占星術だが、星座表は古代バビロニアに発し、ギリシアに到達して「西洋占星術」として確立されるようになった。12の星座が月日によって割り振られ、たとえば2月7日生まれの私は「水瓶座」ということになる。
こんにち、週刊誌などに載る「あなたの運勢」などという記事は、この星座表によって、もっともらしいことが書かれている。

星座については2008/02/01に「冬の星座6態」として詳しく書いたので、ご覧いただきたい。

「俳句」の世界では、私の持っている程度の歳時記には「オリオン座」などは、まだ「季語」としては少ししか載っていないが、それを引いて終わる。

 石鹸は滑りオリオン座は天に・・・・・・・・・・・正木ゆう子

 オリオンの真下に熱き稿起こす・・・・・・・・・・・・小沢実

 オリオンを頭にして百の馬 潔癖・・・・・・・・・・・・星永文夫


  
冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・草弥
602113-7_3奥高麗茶碗

 冷えまさる如月の今宵
  「夜咄(よばなし)の茶事」と名づけて我ら寛ぐ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、「夜咄の茶事」という11首からなる一連のはじめの歌である。
WebのHPでも自選に採っているので、ご覧いただける。
「夜咄の茶事」というのは伝統的な茶道の行事で、作法としても結構むつかしいものだが、私たちは、歌にも「寛ぐ」と書いたように略式にして楽しんだものである。
千利休などが茶道の基礎を固めはじめた頃は、茶道は、もっと融通無碍の自由なものであった。それが代々宗匠の手を経るに従って、それらの形式が「教条主義」に陥ってしまった。そういう茶道界の内実を知る私たちとしては、そういう縛りから自らを解放して、もっと自由な茶道をめざしたいと考えた。
だから先人にならって「番茶道」を提唱したりした。
利休語録として有名な言葉だが、

  「茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる」


というのが、ある。これは、まさに先に私が書いた利休の茶道の原点なのである。

この「夜咄の茶事」の一連は、私にとっても自信と愛着のあるものなので、ここに引用しておく。

 夜咄の茶事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ

風化せる恭仁(くに)の古材は杉の戸に波をゑがけり旧(ふる)き泉川

年ごとに替る干支の香合の数多くなり歳月つもる

雑念を払ふしじまの風のむた雪虫ひとつ宙にかがやく

釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ

緑青のふきたる銅(あか)の水指にたたへる水はきさらぎの彩(いろ)

恭仁京の宮の辺りに敷かれゐし塼(せん)もて風炉の敷瓦とす

アユタヤのチアン王女を思はしむ鈍き光の南鐐(シヤム)の建水

呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩餅(はなびらもち)はくれなゐの色

釉薬の白くかかりて一碗はたつぷりと掌(て)に余りてをりぬ

手捻りの稚拙のかたちほほ笑まし茶盌の銘「亞土」とありて


「日本語倶楽部」──元Doblog記事の「再録」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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元Doblog記事の「再録」──

2007/06/01のBlog

──★日本語倶楽部★──(1)

   買春(かいしゅん)という言葉について・・・・・・・・・・・木村草弥

もう十数年も前のことになるが、私の旧制中学校から大学も同じ友人で、某一流会社の専務まで勤めて威張っていた男が、放送局のアナウンサーが「買春」を「かいしゅん」と読み上げるのは、けしからんと、私あての手紙で言ってきたことがある。
当然、私は正当な返事をしたが、このことは日本語の成り立ちに面白い示唆を含むので、少し書いてみる。

結論を先に言っておこう。「買春」を「かいしゅん」と読むことは正しい。
日本語というのは「音」(おん)と「訓」(くん)の二本立てで成り立つ言語である。
この友人の言ってきたことにも一理はある。「売買」(バイバイ)という熟語があるように「音よみ」すれば「買」は「バイ」と発音するが、事は、そう簡単ではないのだ。
(お断り) 概念を正確にするために、これからは「音(おん)読み」は「カタカナ」で、「訓(くん)読み」は「ひらがな」で表記するようにする。 

「売春」(バイシュン)という音読みの言葉があるので「買春」を音読みでしてしまうと、おなじ発音になってしまって紛らわしい。そこで考えられたのが「かい・シュン」という読み方である。
日本語の読み方には先に言ったように二通りある上に、このような一つの熟語に「音読み」と「訓読み」を一緒にして「読み」を合成することがある。こういうのを「湯桶」(ゆ・トウ)読み、あるいは「重箱」(ジュウ・はこ)読み、と称するものである。
「湯」は訓読みでは「ゆ」であり、「桶」は音読みでは「トウ」である。これが湯桶読み。重箱を読むときは「ジュウ・はこ」と読む。これが重箱読みと称されるもの。
太古、日本には文字が無かった。歴史時代になって中国、朝鮮半島から渡来人によって、かの地の先進的な文明が齎されるときに「漢字」という文字が一緒に渡来した。しかし、文字は無くても、「言葉」はあった。それが「和語」あるいは「やまとことば」と称されるもの=訓読み、の基礎となるものである。
一方、大陸から齎された漢字による「漢語」は音読みとして成立し、以後、日本語は、この二つの「読み」を使い分けて、今日に至っている。
有名な「万葉集」は、原文は全部、漢字表記である。上に述べたように「やまとことば」も「漢字に由来するもの」も、すべて漢字で書かれている。その仕組みは複雑で、単に「音」(オン)を表わすもの、漢文を読み下す時の上下かえり点式のものなどの組み合わせで表記される。ここで一例をあげる。
有名な柿本人麻呂の歌

ひんがしの野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ

(原文) 東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡 (万葉集巻①歌番号48)

の歌は後世に賀茂真淵が訓み下したとされるが、結句の「月かたぶきぬ」の原文は「月西渡」の三文字である。だから今の万葉学者の中には、これはいかにも文学的な「意訳」であり、人麻呂の言いたかったのは、単純に「月西渡る」ではなかったのか、と言われたりしいている。
このように「訓(よみ)くだし」てゆく訳だが、国語専門の友人に聞いてみたら、どうしても訓みくだせない歌が数個あるらしい。

私がもっともらしく、ここに書いたことは国語辞典、漢和辞典の中規模のものであれば、巻末に書いてあることである。先に述べた「漢語」の中には「漢音」「唐音」「呉音」という、渡来時期の前後によって「発音」の違うものがあり、余計にややこしい。たとえば仏教用語──お経、などは「呉音」である。極端な例では、一つの漢字に、この三つの「音」が全部使われているものがある。実例は、お楽しみに、お探し願いたい。これを「日本語倶楽部」のクイズにして皆さんに当ててもらおうか。

はじめに私の友人の憤慨していた「買春」=かい・シュン、は、上に書いた「湯桶読み」にあたるわけである。こんな用例は、いくらでもある。「思惑」=おも・ワク、もそうである。他に、どんな用例があるか、探してみてほしい。
そのお楽しみに、ここでは、これ以上の例示はやめておく。

たとえば「五月一日」を「ごがつ・ついたち」と読むのが一般的だが、昔の軍隊あるいは今のお役所などでは「ごがつ・いっぴ」などの読み方をする。私なども、その真似をして「いっぴ」と言ってみたりもする。
この場合の「ついたち」という読み方は「和語」「やまとことば」である。

(注)上に書いた「万葉集」の原文に当りたければ、
 『萬葉集』本文篇─佐竹明広・木下正俊・小島憲之 共著(塙書房)が
 漢文の原文と「訓み下し文」を併記してあり、かつ値段も2100円と手ごろである。
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2007/06/02のBlog

──★日本語倶楽部★──(2)
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「ら」抜き言葉のこと・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

日本語が乱れていると言って、よく例にあげられるのが「ら」抜き言葉である。もう十年以上も前になるが、或る短歌結社の全国大会の班別歌会で、地方ではかなり威張っている人が、この「ら」抜き言葉に触れて、何かの機会に国語学者の金田一春彦氏に、そのことを言ったら金田一さんは、たいして取り合わなかった、と憤慨して話した。私は、そのとき司会者をしていたが、「金田一さんは寛容ですからね」と言ったら、私まで攻撃の対象にされてしまったことがある。

言語、あるいは言葉というものは揺れ動くものである。 今ある言語あるいは言葉あるいは表記というものは、時代とともに変化する。そういう点で専門の学者の方が寛容である。

見出しに挙げた「ら」抜き言葉も、何の原則もなしに「ら」抜きにされているわけではないのだ。
長野県─信州方言では「ら」抜きが一般的らしいが、たとえば「見ることが出来る」という可能動詞では「見れる」となる。一方、誰かに「見つめられる」という意味の「受身動詞」では「ら」抜きではなく「見られる」となる。
このように規則性は、ちゃんとあるのである。
いま私は信州方言と言ったが、私は信州人でもなく、また信州と言っても木曾谷、佐久平、伊那谷その他縦に走る山脈によって隔てられた信州には一律にはゆかない違いがあるかと思う(間違いは指摘して下さい)が、これは信州出身のかなり影響力のある文化人の発言であるから当らずとも遠からずだと思う。
信州人は東京には多くの人が進出しており、文化人も多い。
だからというわけではないが、「ら」抜き言葉は、遠からず「許容」されて一般的になると、私は見ている。

辞書などを見てみると上古以来、日本語の使い方は、ものすごく変化して来た。「ことわざ」「格言」的な言葉など本来の意味と違う意味に現在は使われているものが、たくさんある。これについても「日本語倶楽部」のアンケートの対象にしても面白いので、ここで実例を挙げることは控えておく。これらを、よく知るためには国語辞典ではなく「古語辞典」を紐解いてみると面白い。暇な何もすることがない時など、辞書は最高の友人になり得る。
よく言われることだが、文化人とか詩人とか歌人、俳人と呼ばれる人の机の脇には辞書が、でんと置かれて、ちょっとした疑問や物忘れなどの折に触れて彼らは辞書を引く。素人に限って、そういう努力をしない。これが才能が開花するかしないかの分かれ道である、と。
その通りで恐れ入るが、いずれにせよ辞書には何千年の日本人の「日本語」に関する叡智が詰め込まれているのである。

私自身は駄目な男だが、私の同級生には仏文の教授や国語学の専門家や外国人に対する日本語教育のパイオニアなど、錚々たる友人がたくさん居るので、著書などを戴く機会も多いので勉強させてもらっている。

いずれにしても言葉は揺れ動くものだということを言っておきたい。その変化は先ず「発音」から始まる。それが「表記」と矛盾してくる時に、例えば「新かなづかい」のような大掛かりな国語表記についての大変動が起きるのである。これは何も日本語だけの問題ではなく外国などでもしょっちゅう起っていることである。
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5/19.17:00追記
いま届いた「読売新聞(大阪)」夕刊を開いてみたら、金田一春彦先生が91歳で今日なくなられたという。文化功労者。解説には、私が先に書いた通りの事が書いてある。すなわち「言葉は時代とともに絶えず変化する」が持論で、若者の「ら」抜き言葉などにも理解を示した、など。早く書いておいてよかった。ご冥福をお祈りしたい。
5/20.追記
京都新聞は今朝の記事で大きく伝えた。先生は八ヶ岳の別荘に滞在中に倒れ、意識不明のまま甲府市の病院で、蜘蛛膜下出血のため死去された。
今日の記事には玉村文郎同志社大学名誉教授の話として、次のように書かれている。
<今春、東山七条の智積院に真言声明の研究に訪れられ、同席させて頂いた時にも、お元気だったので、突然の訃報に驚き、また残念でならない。新村出先生と春彦先生の父、京助先生は先輩後輩の関係で、新村出記念財団発足では春彦先生に陰に陽に助言いただき、発起人にもなって頂いた。同じ国語学の研究者として北京で一緒に滞在したこともあるが、幅広い方で、難しい専門の歴史的なアクセントの研究も一般の人に実に面白く上手に話された。>
見出しは「難しい話を面白く」とある。これこそ達人の真髄である。この玉村文郎君は私の同級生で国語学と外国人留学生に対する日本語教育のパイオニアである。国語学の著書の他に『日本語学を学ぶ人のために』
『新しい日本語研究を学ぶ人のために』などの本がある。

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2007/06/03のBlog

──★日本語倶楽部★──(3)

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日本語の成り立ち(1)──訓読の由来・・・・・・・・・・木村草弥

先日来、「買春」「ら」抜き言葉、など、いろいろの話題を書いてきたが、日本語の「訓読」というのは、簡単に書いてしまっては、いけないのではないか、と考えて2、3回にわけて少し書いてみることにする。
初回は訓読の由来について。

上古、私たちの祖先は文字を知らない人たちであった。大切な事は、もっぱら「語り部」の口伝えによって伝承された。
日本と中国との間には、遠く西暦2、3世紀の頃から多少の行き来はあったが、応神天皇の16年(285年)に、百済から王仁が「論語」「千字文」などを携えて来た。漢字によって記録し、漢籍を読んで知識を得るようになったのは、それから後のことである。
漢字を知った日本人は、さっそくそれを二つの方面に利用しはじめた。
(1)漢字を表音文字として活用し、わが国の固有の言葉や地名、人名などを書き表すことであった。「つしま」を都斯馬、「みこと」を彌己等、などと書く。これが真仮名(まがな)つまり「古事記」や「万葉集」の和歌などを書くのに用いられた、いわゆる万葉仮名である。またその方法を簡略にしたのが、後の平仮名や片仮名である。たとえば日本語の「ア」という音を表わした漢字「安」を簡略にして「あ」と書き、あるいは漢字「阿」の一部をとって「ア」と書いた。日本語の表記のために、今日に至るまで大きな働きを演じてきた仮名の起こりは、実はここにあったわけである。

(2)つぎに中国の書物を理解するために、それを日本式に訳して読む方法を考えた。もちろん当初は、中国や朝鮮から渡来した人たちについて、原書をそのまま棒読みしたに違いない。たとえば雄略天皇から中国六朝の宋国にあてた手紙や、推古天皇の15年に、小野妹子が隋に届けた「日出処天子、致書日没処天子、無恙」という手紙などは、整った漢文であるし、「懐風藻」という見事な漢詩集さえも我が国で作られている。しかし外交文書は、当初は渡来人の起草したものであろうし、また自由に漢詩を作れたのは、特別な教育を受けた人か留学生に限られていた。漢籍や仏典をもっと手近に会得する方法はないかと、幾たびも繰り返して翻訳の努力を重ねるうちに、こうした願いがかなって、いつしか訳読の型が習慣的に決ってきた。たとえば「我=われ」「汝=なんじ」「草=くさ」「木=き」と訳する。これを訓読みという。「仁義」だの「国家」だのという言葉は固有の日本語では訳しにくいので、そのまま中国式の発音を真似て「じんぎ」「こっか」と言い、わが国の言葉の中に取り入れてしまう。これが音読みである。
こうして訓と音とを併用して、先ず一つ一つの漢字の訳し方が決ってきた。多くの漢字には、訓(字訓)と音(字音)の双方がつけられた。草=くさ、木=き、国=くに、家=いえ、などは字訓であり、同じ字だが、草=ソウ、木=ボク、国=コク、家=カ、などは字音である。

また、中国語では単語を一定の順序に並べて文意を表現するだけで、日本語の用言の活用にあたるものがないし、また単語の橋渡しをする助辞(助字)も少ない。もちろん単語の並び方も日本語と違っている。そこで先ず単語の訳し方を決めるとともに、次には語順を日本語式に入れ替えたうえ、活用語尾やテニヲハなどの助辞を補わねばならない。日本と朝鮮は言語の性質が似ているから、三韓においても漢文を読むにはこのような方法を用いた。朝鮮ではそれを吏読(リト)と言い、わが国では訓読と呼ぶ。
単語を和訳し、語順を入れ替え、活用語尾や助辞を補うという手順を経て、「食肉」「登泰山」という漢語は、肉を食らう、泰山に登る、という日本語に訳される。こうして奈良時代の末には、もう今日の訓読法に近い訳読の仕方が、だいたい成立していたと考えられる。漢文訓読の方法は、平安時代の博士家、鎌倉・室町時代の五山の僧侶、江戸時代の学者たちなど、それぞれに多少の特色があり、ことに訓点のつけ方には、いろいろの変遷があったが、詳細は省略するが、近代、現代の我々が習ったものは明治45年(1912年)に作られた折衷法に従っているのである。

当時の中国と言えば、世界に冠たる文明を誇ったものであり、日本人にとっては、見るもの、聞くものがすべて驚異の的であった。我々の祖先が精魂を傾けて、この外来の文化をわが物にしようと心掛けた努力の結晶が仮名の発明となり、また漢文の訓読法となって稔ったと言うよう。
次回からは、字音、漢音・唐音・呉音、字訓などについて触れたい。
(参考文献)貝塚茂樹ほか『漢文について』から間違いのないようにほぼ忠実に転記した。
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2007/06/04のBlog

──★日本語倶楽部★──(4)

日本語の成り立ち(2)──呉音・漢音・唐(宋)音について・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

まだ大規模の往来がなく、西国(さいごく)の住民たちが風のたよりに細々と大陸の文明の末端に接していた頃にも、すでに漢語が日本語の中に紹介されている。馬 ma 、梅 mei は、早くから訛ってウマ、ウメとなり、竹 tiuk →タケ、麦 mek →ムギ、銭 dzien →ゼニ、郡 giuen →グン、などの言葉も極めて古い時代に借用されて、まるで固有の日本語であるかのように、生活の中に溶け込んでしまった。
だが系統的に漢字の字音が訳読されたものと言えば、呉音・漢音・唐(宋)音の三つを挙げなければならない。
もっとも呉音の前にも、推古時代以前の碑文や古代歌謡をしるすのに用いられた珍しい漢字の音がある。たとえば、明=マ、宜=ガ、移=ヤ、居=ケ、止=ト、意=オ、己=コ、などがそれで、これは中国の六朝以前、つまり3、4世紀ごろの発音を反映したものであり、その痕跡は万葉仮名にも残っている。その詳しいことは省略して、まず呉音の伝来とその系統を考えてみよう。
応神天皇からあと推古時代にかけて、朝鮮から王仁、段楊爾、曇徴などのすぐれた学者や僧侶が渡来し、多くの文物がもたらされた。つまり6世紀ごろになって、にわかに大陸との文化的な接触が増えてきた。その頃に取り入れられた字音が次第に固まって、呉音と呼ばれる字音の層を形成した。
当時の中国は南北朝の時代で、文化の中心はむしろ長江下流、つまり古代の呉の国の故地に建国した南朝にあったが、のち隋・唐が天下を統一してから、北方の長安が首都となり、江南の発音は呉音と呼ばれて軽んじられるに至った。日本でもその風を真似て、のちの漢音に対して、その前に伝わった南朝式の字音を呉音と呼んだのであろう。
呉音の主な特色は五つある。
(1) 漢語の清濁の区別を読み分ける。
 〔例〕 半p ハン⇔盤b バン、刀t タウ⇔陶d ダウ、糟ts サウ⇔曹dz ザウ。 漢音では盤ハン、陶タウ、曹サウ のように清(す)んで読む。
(2) 漢語の鼻音mnなどをマ行、ナ行に読む。
 〔例〕 馬mメ、万mマン、奴nヌ・ノ、難nナン、人nニン。 漢音ならば馬バ、万バン、難ダン、人ジンのように、バ行、ダ行、およびジに濁って読む。
(3) 六朝の漢語では、広いaと、狭いaとを区別した。(狭いaの上には・という記号がつくが、ここでは表示できないので省略し、例のみ書く)
 〔例〕 干カン⇔間ケン、歌カ⇔家ケ。 漢音では間カン、家カと読んで、区別しない。
(4) 中国の庚・清・青などの諸韻および祭・斉などの韻は、だいたいeに近い母音を含んでいたと思われる。だから漢音では京ケイ、青セイ、礼レイ、西セイと読む。しかし呉音では、なぜか、これをア段に読む。
 〔例〕 京キャウ、青シャウ、礼ライ、西サイ、と読む。これは南朝特有の方言的な癖を反映したものらしい。
(5) 中国の欣韻、元韻に属する字を、近ゴン、隠オン、言ゴン、建コンのようにオ段に読む。漢音では近キン、隠イン、言ゲン、建ケン、である。

ところが平安時代つまり8、9世紀に入ると、わが国からしきりに遣唐使が入唐し、また空海や慈覚大師のような名僧も唐土に留学した。
当時の都は大陸の西北地方に近い長安であったから、これらの人々の習得してきた、いわゆる漢音は当時の標準語だったものの、いわば中国の西北方言であった。呉音の層とは、その時代も違い、土地も異なるので、両者の間にはかなりの隔たりがあった。
朝廷では、音博士や僧侶に対し、この新来の漢音を学ばせることにしたが、すでに呉音はかなり広く日本人の生活に浸透していたため、一朝一夕には改まらない。結局、仏典の読経には今まで通り呉音が多く用いられたし、当時のインテリたちに愛好された漢籍の読み方は、次第に漢音に傾き、一般人の言語生活には、漢呉両音混用の状態が生じてしまった。
漢音の特色は先に呉音のところで書いたが、漢音でなぜ、清濁を混同し、鼻音のmnをバ、ダに読んだかと言えば、当時の長安において、b d gをp t kから区別せず、またmnをb d に近く発音する癖が起っていたためで、たまたま留学生が忠実に、その風を伝えたからに他ならない。(清濁を混同する癖は、下って今日の北京語にも残っているが現代中国語に関することなので、ここでは触れない)
漢音、呉音の二つの層が重なったことは、日本語の漢字音を混乱させ、多くの漢字に二種、三種の字音が出来て、学習上まことに面倒な事態を引き起こした。たとえば同じ字について次のように使い分けている。
 〔例〕 極ゴク楽(呉音)⇔極キョク致(漢音)、東京キャウ(呉音)⇔京ケイ浜(漢音)、古今コン(呉音)⇔今キン時(漢音)、関西サイ(呉音)⇔西セイ洋(漢音) など。
熟語の上下字に漢呉両音の混用されたものがある。
 〔例〕 「面目メンボク」は、呉音ならメンモク、漢音ならベンボク というのが当然であるが混用されている。「埋没マイボツ」は呉音マイモチ、漢音バイボツが正当。
正月、二月という際に「グワツ」と読むのは、まったく両者の絡み合った混生児である。このようなものを慣用音という。「乙オツ」と読むのも呉音オチ、漢音イツを混用したものである。

最後に唐音とも宋音とも呼ばれる新しい字音の層がある。12、13世紀の鎌倉・室町時代の頃、中国の宋と往来した禅僧の伝えたのが、これである。北宋は開封に、南宋は江南の杭州に都した。ただし当時はすでに今日の北京語の母体をなす標準語が成立しかけていたので、日本に伝わった唐宋音は、かなり今の北京語に似ている。ここでは例を挙げるにとどめる。
 〔例〕 湯たん婆ポ、和尚ヲシャウ、暖簾ノレン、緞子ドンス、蒲団フトン、椅子イス、下司ゲス、箪笥タンス、行灯アンドン、普請フシン、 など。
唐宋音は数も少ないし、さほど負担にはならない。

こうして見てくると、漢字の字音が多岐にわたり、学習上からも面倒なのだが、字音伝来の歴史として理解し、それぞれの体系のあらましを心得ておきたい。
今日では、実生活上、いずれかの「音」に統一されてゆく傾向にある。間違いでない限り、どちらでもいい場合は、それが望ましい。たとえば「発疹」は以前は呉音で「ホッシン」と呼ばれていたが、次第に漢音で「ハッシン」と呼ばれるようになったのは、一例。
次回は「字訓」について簡単に触れたい。
(参考文献)貝塚茂樹ほか『漢文について』
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こうして見てくると「呉音」はほぼ時代的に、もと呉の国の辺りの発音を表わしているので呼び方として妥当だが、「漢音」は時代的には「唐」の首都の辺りの発音であるから「唐音」という呼び方が本来的には正しかった。「漢」という国は、ずっとずっと昔の国だったから、「漢」の国の「音」が、どうだったか、は判らない。だから、呉音の後に漢音という呼び方は、すべきではなかった。強力な唐という国で使われていた「漢字」の音、というような単純な発想から「漢音」と呼ばれるようになったのだろう。「唐音・宋音」というのは唐音はやめて「宋音」とすべきだった。
しかし、これは歴史的に呼ばれて来たことなので仕方ないことではあるがーー。
ずっと以前から疑問に思っていたことなので、この機会に書いておく。

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──★日本語倶楽部★ ──(5)

日本語の成り立ち(3)──字訓について・・・・・・・・・・木村草弥


漢字の意味を取り、それを日本語に訳して読むのが訓であるが、山ヤマ、草クサのような素直な訳をつけたものを正訓という。熟語のうちでも、本来わが国にあった言葉に、素直に漢字をあてた場合には、手洗テアライ、神棚カミダナ、昔話ムカシバナシ、のように、すらりと読むことが出来る。
しかし既成の漢語の熟語に対して、いちいちの漢字を問題とせずに、全体として適当な訳語をあてはめた場合には、独特の訓が成立する。全体の意味をとって訳したのであるから、これを義訓という。
 〔例〕 七夕タナバタ、団扇ウチワ、海苔ノリ、蟷螂カマキリ、鴛鴦オシドリ。
また逆に、本来わが国にある言葉を仮名で書かずに、やや気取って漢字の熟語にあてた場合もある。この場合にも結果から見れば義訓で読むこととなる。
 〔例〕 祝詞ノリト、時雨シグレ、百足ムカデ、足袋タビ、不知火シラヌヒ。
明治以降に外国語が輸入されると、それを仮名で書かずに、意義の上から類似している漢字をあてた。これもやはり義訓の一種である。
 〔例〕 燐寸マッチ、硝子ガラス、麦酒ビール、煙草タバコ、倶楽部クラブ。
次に日本人の生活の中から生まれ出たいろいろの熟語のうちには、音と訓をつきまぜて読むものも少なくない。
 〔例〕 夕刊ゆうカン、手本てホン、消印けしイン、水鉄砲みずテッポウ。
このように、上字を訓で、下字を音で読むものを湯桶(ゆとう)読み、という。
これに対して
 〔例〕 天窓テンまど、本棚ホンだな、仕立シたて、馬車馬バシャうま。
このように上字を音で、下字を訓で読むものを重箱読み という。

字訓は漢字の意義を取ってこしらえた訳語であるから、その漢字に幾つかの意義があれば、それに対する訓も幾つも用意せねばならない。たとえば
漢字「生」に対して、「いきる」「うまれる」「うむ」「なま」などの訓があり、「行」に対して、「いく」「おこなう」のなどの訓が並存するのは、そのためである。特に「姓名」には誰しも一工夫こらすのが常であるから、ふだん使わないような訓読みがしばしば登場する。地名にもまた珍しい訓がある。ただし、これらのうちには、むしろ固有の日本名に対して、その意義に近い漢字をもじってあてたものもある。
 〔例〕(姓名)日下クサカ、服部ハットリ、五月女サオトメ、五十嵐イガラシ
 (地名)利根トネ、乙訓オトクニ、柘植ツゲ、七浦シツラ、勿来ナコソ。
七寸五分クツワタ、子子子ネコジ、大歩危オオボケ
などに至っては、事情を知らぬ者には読める筈がない。

さて、漢字に対して字音と字訓とが並存し、かつ訓読みが、これ程範囲を拡大した原因はどこにあるのだろうか。それは文字としての漢字の本質に由来する。
漢字は中国の言葉の音を代表するのはもちろん、同時に言葉の意義をも表わしている。abcなどの表音文字と違って、漢字は表意文字(むしろ表語文字と言う方がよい)である。意義を表わす以上は、いちいちの字に対する訳がつけられ、やがて訳が固定すれば、その応用が許される。そこで、借用するには極めて便利であるが、かといって、むやみに乱用すると煩雑に流れるのを避けがたい。

ここに書かれているのを読むと、今どきの、子供の名前の命名法には疑問を感じざるを得ない。当て字、宛て音もいいところで、自制的な行動を求めたい。

これで、今回の「日本語の成り立ち」シリーズは終わりにする。
(参考文献)貝塚茂樹ほか『漢文について』

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2007/06/06のBlog
──★日本語倶楽部★ ──(6)

日本語の実際─呉音・漢音・唐音の実例・・・・・・・・・・・木村草弥


私は短歌の世界に入る前に、時期的にいうと昭和60年頃、「日本漢字能力検定」に挑んでいたことがある。子供の頃から、国語や文学が好きで中等学校の頃にも点数も良かったし、自信もあった。日本語という国語は生まれた時から意識せずに使ってきて、私の身についたものだった。学校教育を離れて久しく、実生活では不自由なく読み、書き、していた。
この漢字能力検定というのは、一時、「文部省公認」という資格に認定され、英語検定などと同じように、上から1級、2級という風にランク分けされるようになるが、その前は、段位と級位のランク分けで、上は5段とか7段とかのランクもあった。もっとも、こういう高段の試験は数年に一回しか試験がなかった。
この検定は京都に本部のある日本漢字能力検定協会というのが主催しており、会長は京都大学名誉教授の日比野丈夫、顧問には有光次郎、貝塚茂樹などの名前があった。
さてテキストを取り寄せて、やり始めてみると、学校の国語教育、つまり文部省の国語教育の指導要綱に準拠しており、字を書く時の「ハネ」なども厳密に採点段階で審査され、守れていないと減点になった。一般人は1級から受験できたが、(というのは小学校、中学校単位の集団受験が多かった。この段階では、当然、学校教育での学習指導要綱により、受験できる級位はおのずと決っていた)、自信があるからと言って、どこの段位から受験できるということはなく、必ず1級から順番に受験することになる。
1級は200点満点で160点が合格点であり、先に書いたように筆順の「ハネ」なども、ひとつ5点の配点だから、かなり気を使うことになる。
因みに、私は1級から受験して、幸い一回で1級に合格、あと春秋と年2回の試験を受けることになる。初段に合格し、2段にも、途中の失敗もなく到達した。1級は中学までの国語教育──当用漢字(今は常用漢字)表、音訓表などに準拠したものだが、初段からは表外漢字や旧字体の漢字(正漢字)などが出題対照となるので難度は、著しく高くなる。初段からは合格点は200点満点で170点だった。 それ以後は、短歌の世界に脚を踏み入れたので、先へは進まなかった。 だから2段の立派な免状が残っている。

いま手元に、そのときのテキストがあるので、それに基づいて書いてみよう。
先に呉音・漢音・唐音などのことを書いたときに、いろいろ質問があり、実例を示してほしい、などのご意見があったので、ここでは、それらの実例を出来るだけ多く挙げてみることにする。

(1)呉音の例
呉音は仏教用語に残っているものが多い。 (呉音に該当するもののみ、カナで音を付す)
 〔例〕 菩提ぼだい、法主ーす、衆生しゅじょう、冥加みょうー、勤行ごんぎょう、修行しゅぎょう、読経どきょう、解脱げー、輪廻ーね、礼拝らいはい、回向えこう、欣求ごんぐ、権化ごんげ、金堂こんどう、建立こんりゅう、還俗げんぞく、清浄しょうじょう、自業じごう。
日常用語に残る呉音は下記のようなもの。
 〔例〕 平等びょうー、強情ごうじょう、天然ーねん、人間にんげん、本名ーみょう、無言むごん、黄金おうごん、献立こんー、有無うむ、境界きょうー、最期ーご、文句もんー、関西ーさい、極楽ごくー、金色こんじき、会釈えしゃく、家来けー。

これらの熟語を、いまワープロで入力して変換してみたが、これらの言葉は、みな常用漢字の音訓表に載っているものと見え、ちゃんとIMEに入っていて遅滞なく変換できる。

(2)漢音の例
 〔例〕 平穏へいおん、強行きょうこう、自然しぜん、人権じんけん、期間きかん、終生しゅうせい、著名ちょめい、格言かくげん、献金けんきん、有益ゆうえき、無礼ぶれい、境内けいだい、初期しょき、文化ぶんか、北西ほくせい、極地きょくち、会社かいしゃ、家庭かてい。

このように、現在われわれが使っている漢字では、漢音で読むものが最も多い。
ここまで変換した漢字もIMEで遅滞なく変換できる。

(3)唐音(宋音)の例
 〔例〕 行灯あんー、提灯ちょうちん、蒲団ふとん、緞子どんす、炭団たどん、風鈴ーりん、花瓶ーびん、椅子いす、甲板かんぱん、行火あんー、饂飩うどん、饅頭ーじゅう、銀杏ーなん、、石灰しっくい、普請ーしん、亭ちん、餡あん、栗鼠りす、行宮あんぐう、行脚あんぎゃ、胡散うー、胡乱うろん、和尚おー、明朝みんー、南京ーきん。

これらのうち、「石灰」は「しっくい」、「亭」は「ちん」とは変換できなかった。「せっかい」「てい」と漢音で変換できた。

(4)同じ字が呉音・漢音・唐音三つに読み分けられる例 同じ字は太字で示す
〔例〕呉音=京都きょうー、読経ーきょう、頭痛ずー、光明ーみょう、平和ーわ、行列ぎょうー、外科げー。
 ★ 漢音=京浜けいー、経済けいー、頭髪とうー、明治めいー、和楽かー、行進こうー、外国がいー。
 ★ 唐音=南京ーきん、看経ーきん、饅頭ーじゅう、明朝みんー、和尚おー、行脚あんー、外郎ういー。

(5)慣用音 いろいろの音がゴッチャに混ぜて使用されている例
 〔例〕 格子こうー、脚立きゃー、信仰ーこう、懸念けー、合戦かっー、留守ーす、情緒ーちょ、掃除ーじ、仁王にー、一切ーさい、早速さっー、愛想ーそ、愛着ーじゃく、弟子でー、法度はっと、音頭ーど、納得なっー、納屋なー、納戸なんー、出納ーとう、拍子ひょうー、博徒ばくー、反物たんー、夫婦ふうー、法主ほっー、由緒ゆいー、暴露ばくー。

こうして見てくると、日本語というのは何とも複雑なものか、と思うとともに、日常生活では、それらを巧みに使いわけて見事に、読み書きしていると感心する次第である。
余り長くなるので、あとは次回にしたい。
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2007/06/07のBlog

──★日本語倶楽部:★──(7)

「四字熟語」の話──「南船北馬」ほか・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

1993年1月に「南船北馬」と題する中国旅行に関する紀行歌文集を上梓した。
私は中国には数回しか行っていないし、中国を語るのは、おこがましいかも知れないが、人気作家・村上春樹の文章なども引用して、文明批評的な小文にはなったかと思っている。
(1)そこで、この題名の「南船北馬」である。ここに採り上げる「四字熟語」としても有名なものであり、その意味は、中国の南部地方では、川が多いので船を利用し、北方は平原が多いので馬に乗って、旅をする。そこから敷衍して、今日は南を船で旅し、明日は馬で北へ行く、という国中を忙しく飛び回る意味の喩え、となる。
四字熟語には、みな「出典」というものがあり、この南船北馬の出典は『淮南子』(えなんじ)「斉俗訓」という本に載るものである。
「四字熟語」の解説書は、いろいろ出ていると思うが、私の手元にあるのは、以前に書いた漢字能力検定の時に揃えた真藤建志郎『「四字熟語」の辞典』(昭和60年)というのが、総収録数を書いてないので判らないが、とにかく270ページにわたってギッシリと載っている。日本語ないしは漢字能力検定には四字熟語は必ず出題されるので、版を重ねているものと思う。出典を細かく明記していないものは駄目である。
いま、この文章を入力するに当ってワープロで「なんせんほくば」と一気に入力して変換してみたが、有名な熟語だけあって、スパッと変換できた。

(2)いま『淮南子』が出て来たので、ついでに挙げると「新陳代謝」という熟語も、出典は『淮南子』俶真訓である。「陳」とは、陳腐の意味で、古いこと。「謝」は、去ること。古いものが去って、代りに新しいものが来ること。
このように四字熟語は和製のものもあるが圧倒的に中国の古典伝来のものが多い。

(3)上に書いた私の小冊子にも書いたのだが、「一衣帯水」という熟語がある。この熟語の意味は一筋の帯のように狭い川の意から、その川を挟んで二つのものの間が非常に近い、という喩え。「衣帯」というのは着物の帯のこと。だから、この四字熟語は、意味から区切りを入れるとすると「いちい・たいすい」ではなく「いち・いたいすい」と読むべきである。「衣帯」という熟語が先に存在し、そこから、この四字熟語が出来たということである。私は先の小冊子で「いち・いたいすい」と書いて注意を喚起しておいたら、これを読んだ友人が「木村君、よくぞ、区切りを入れておいてくれました」と感謝された。これを見るかぎり彼も、それまでは「いちい・たいすい」だとばかり記憶していたものだろう。
この熟語は「わが国と中国は、同文同種、一衣帯水の関係にある」などと用いられるが、日本語と中国語は、同じ「漢字」を使用するとは言え、現代中国語とは大きな隔たりがあり、同種とは言えない。発音も乖離がはなはだしい。
因みに、この「一衣帯水」の出典は『南史』陳後主紀、ということになっている。

(4)折角の機会だから、あと少し四字熟語を挙げてみよう。
「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)この四字熟語ふた並びは、徳川家康が戦の幟に二行に並べて書いた、ので有名である。意味は「けがれ多い現世を嫌い、おだやかな浄土を恋い願う」というもので、出典は仏教の経典の文句である。呉音のことを書いたときにも挙げておいたが、これらの仏典の発音は、「呉音」のものである。

(5)「如是我聞」この頃は余り聞かないが、以前は「自分は、このように聞いた」という意味で、よく使われた。仏典の書き出しの言葉で、釈迦の説法を述べるとき、「如是我聞」と前置きして説明する。この言葉も熟語として有名で、いま「にょぜがもん」と一気に入力したがスパッと変換された。出典は『仏地経論』という。

(6)「因果応報」これも最もポピュラーな四字熟語。因果は原因と結果。善因からは善果が、悪因からは悪果が、それぞれに応じて現われるというもの。出典はやはり仏典の『慈恩伝』から。

このように四字熟語には、それぞれに対応する「同義語」と「類語」それに「反義語」が存在する。これらが明記されているのが、よい熟語辞典と言える。
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2007/06/09のBlog

──★日本語倶楽部:★──(8)

新かなづかいと旧かなづかいのこと・・・・・・・・・・木村草弥


ある人と交信していて、私の歌の「旧かなづかい」のことが話題になった。
今や「新かなづかい」が法律で施行されて50年以上が経ち、今さら「旧かなづかい」というのが、むしろ異常なのかも知れないが、旧かなづかいには「歴史的かなづかい」として意味もある訳で、日本語の変遷を辿る点からは意義のあることで、一概に無視することは出来ない。
そこで、今日は新・旧かなづかいについて、少し書いてみたい。

ある人との交信のきっかけは私の歌の旧かなづかいによる「をとめ」という表記である。新カナでは「おとめ」と書く。
旧カナでは、雌雄を示す「雄」または「男」、「女」は「をす」「をとこ」「をんな」「をみな」と表記するが、これは歴史的に「わ行」音ではWOと発音していた時期があったことの名残りである。

★五十音図を思い出してもらいたい。 「わ行」はローマ字表記にすると

WA WI WU WE WO というのが、「わ行」の音を読み分けていた時代の発音である。
「ひらがな」で書くと、 わ、ゐ、う、ゑ、を、 となる。
今は、それが WA I U E O になってしまっているのである。

どこの国の言語も、時代とともに変化し、言語「表記」と「発音」との矛盾が、いつか生じる。それを時期時期に「表記」を「発音」に近づけるように修正して来るのが普通である。
わが国の場合、昭和21年11月16日に内閣告示第33号によって「現代かなづかい」が施行されるに至ったのである。
その結果、旧カナの「ゐ」「ゑ」「を」は、「い」「え」「お」と書くようになった。ただし助詞「を」は元のままである。

★ここで わ行「旧カナ」の<和語><字音>を書き抜いてみる。代表的なものだけにする。
藍=あゐ、紫陽花=あぢさゐ、位=くらゐ、紅=くれなゐ、率いる=ひきゐる、参る=まゐる、居る=ゐる、井戸=ゐど、田舎=ゐなか、域=ゐき、院、員、韻=ゐん。

餌=ゑ、植える=うゑる、飢える=うゑる、声=こゑ、末=すゑ、据える=すゑる、杖=つゑ、絵=ゑ、壊=ゑ、園=ゑん、円=ゑん、援助=ゑんじょ。

上に書きぬいた中で「植ゑる」「飢ゑる」「据ゑる」の文語は「わ行」の下二段活用だが、文法を覚えるのには、数の少ない、あるいは例外から暗記するのが、覚える近道である。これらの終止形は「飢う」「植う」「据う」の三語のみであり、これをしっかり覚えておけば、植ゑる、ほかの表記を間違うことはない、のである。

青=あを、香り=かをり、十=とを、尾=を、丘=をか、おかしい=をかしい、桶=をけ、惜しい=をしい、終る=をはる、居る=をる、女=をんな、汚職=をしょく、温度=をんど、温泉=をんせん。

むかし布施明のヒット曲で「シクラメンのかほり」という歌があった。この歌の作詞・作曲は、ある銀行の幹部出身の小椋佳のものだが、この人は「香り」という単語の旧カナ表記を「かほり」だと勘違いして、間違って作詞したのである。正しくは上に書いたように、香り=かをり、が正当である。
なまじ間違った「知ったかぶり」をしないで、新かなづかいで「かおり」としておけば恥をかかずに済んだのだ。

★今は「か、き、く、け、こ」の発音になつているものも、以前は KWA KWI KWU KWE KWO と発音されたものがあった。今でも、一部の地方では、この古い発音が残っている所がある。「旧カナ」では、古い表記で書く。

菓子=くわし、化=くわ、貨幣=くわへい、過去=くわこ、会=くわい、結果=けっくわ、怪談=くわいだん、壊滅=くわいめつ、活発=くわつぱつ、習慣=しゅうくわん、喚起=くわんき、観察=くわんさつ、緩慢=くわんまん、返還=へんくわん、科学=くわがく、愉快=ゆくわい、冠=くわん、完=くわん。
瓦解=ぐわかい、願=ぐわん、頑張る=ぐわんばる、外国=ぐわいこく、二月=にぐわつ。

小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの傑作『怪談』は、原文は英語で書かれたもので、そこでは英文の表記は
「KWAIDAN」となっていることに留意を求めたい。上に書いたことの、ひとつの証明になろうか。

★今は「じ」「ず」に書くものも旧カナでは「ぢ」「づ」と書くものがあるが、これもS音による「さ行」ではなく、T音の「た行」の濁音DZ音という別の発音がされていたものの名残りであり、それらは区別される。

味=あぢ、鯵=あぢ、氏=うぢ、舵=かぢ、路=ぢ、閉じる=とぢる、捻じる=ねぢる、恥じる=はぢる、肘=ひぢ、女=ぢょ、軸=ぢく。
預かる=あづかる、東=あづま、泉=いづみ、渦=うづ、うなずく=うなづく、築く=きづく、盃=さかづき、静か=しづか、訪ねる=たづねる、水=みづ、譲る=ゆづる、豆=づ、頭=づ。

書き抜きだすと、きりがないくらいに長くなるので、またの機会にしたい。
ただ、禄に辞書にあたることもしないで、恥をさらしている田舎俳人・歌人の笑えぬ「間違い」を書いて終わる。

★「あるいは」(或るいは)は、「あり」の連体形+間投助詞「い」+係助詞「は」で成り立つものだが、旧カナといえば「い」→「ひ」になると勘違いして「あるひは」と書く人がある。これは間投助詞「い」の意味が不明になった誤用である。
★「老い」は、旧カナでも「老い」であるが、これを「老ひ」と書く人がいる。これも上に書いたのと同じ間違いである。
あやふやな、未熟な癖に辞書にあたってキチンと覚えようとしないミスである。旧カナを採用するからには、それなりの勉強する覚悟が要るのだ。後は、時期をみて、また書き継ぐことにする。

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2007/06/10のBlog

──★日本語倶楽部★──(9)

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古代日本語の「八母音」について・・・・・・・・・・・・木村草弥

昨日付けの記事をご覧になったエスペラ氏からコメントを頂いて、
佐賀県の或る地域の老人には、今でも「七母音無アクセント」の「ゐ」音が話されている、という。
「七母音」などと言っても、一般的には、何のこっちゃ、ということになろうが、古代日本語には現代日本語の「かなづかい」の母音─あ、い、う、え、お─のほかに、もっと多くの母音があったというのである。

そこで今回は、これに関して少し書いてみたい。
先ず、今でもネット上で見られる当該の論文をお見せする。

上代特殊仮名遣古代の文献では、い・え・おの三段について、か・さ・あ・は・ま・や・ら各行とその濁音行の音が二種類に分れてゐた事に基き、漢字を遣ひ分けて萬葉假名の文章が書かれてゐる。一つの音節を表記するのに複數の假名の中から一つの假名を選んでゐるかのやうに見えるので、これを「上代特殊假名遣」と呼ぶ。

「假名遣」と呼びならはされてゐるが、「上代特殊假名遣」は、音節の辨別が存在した事實の表記への反映である。當時の音韻組織に基いた「表音的」な表記であると言つて良い。だから、「上代特殊假名遣」は、「假名遣」とは呼ばれてゐるものの、今普通に云ふ假名遣とは意味合ひが異るものである。

假名遣は、表記の混亂の意識が生じてはじめて必要となる概念である。混亂のない、或は混亂の意識の無い時代に、現代的な意味での假名遣は存在しない。「上代特殊假名遣」の存在した時代には、定家以後に意識されるやうな混亂は存在しなかつた。言換へれば、上代には假名遣の問題はなかつた。

概説
萬葉假名や、平安朝以前の文獻には、或種の規則がある。8世紀の文献には、現代とは異る音韻體系に基く表記の規則が存在する。この表記の規則を「上代特殊假名遣」と呼ぶ。

日本書紀と古事記、萬葉集、風土記等の上代の文献では、言葉によつて、音節を表はす漢字が遣ひ分けられてゐる。現代の日本人には「古」「故」「孤」「許」「己」の「こ」は同じ音節「こ」を表はすもののやうに思はれる。しかし、上代の文献では、「言」「心」の「こ」を「許」「己」で表記し、「古」「故」「孤」では表記しない。逆に、「戀」「越」「子」の「こ」は必ず「古」「故」「孤」で表記し、「許」「己」では表記しない。

このやうに、二類の區別される音節をそれぞれ、甲類・乙類と呼ぶ。

記紀以降の文獻には(或は記紀にすら)、「上代特殊假名遣」の規則に合致しない混亂した表記が見られる。

萬葉集では、後になつて編纂された卷に、一部の音韻が失はれた爲生じた混亂が存在するので、時代が下るに從つて「上代特殊假名遣」の規則は意識されなくなつたものと考へられてゐる。記紀における混亂は、書寫の際の誤もあるのだらうと考へられてゐる。

江戸時代の研究
契冲の「和字正韻」、奧村榮實の「古言衣延辨」、そして石塚龍麿の「假字遣奧山路」の三著が江戸時代の萬葉假名の研究としては代表的なものである。萬葉假名研究には他に草鹿砥宣隆「古言別音鈔」、「假名大意抄」「萬葉用字格」等がある。

上代假名遣の存在に初めて氣附いたのは本居宣長である。宣長は、「古事記」の用字に偏りがある事を「古事記傳」の序文で報告してゐる。

宣長の發見を受けて、石塚龍麿が古事記・日本書紀・萬葉集を調査してゐる。

假名遣奥山路
寛政十年/1798年以前に成立か。
石塚龍麿著
上代特殊假名遣の詳細な報告書。
清音「え」「き」「け」「こ」「そ」「ち」「と」「ぬ」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」と、濁音「ぎ」「ご」「ど」「び」「べ」の各音節における二類の區別が示されてゐる。ただし、「古事記」のみ、「ち」「も」の二類の別がある、とされてゐる。
「用字用法上の區別が見附かつた」と云ふ發見の報告である。記述には混亂が見られ、發見の意義は一般に理解されなかつた。橋本進吉に見出され、紹介されるまで、長い間忘れ去られてゐた。
昭和四年になつて、正宗敦夫らの日本古典全集に收録された(第三期)。
龍麿には「古言清濁考」の著作もある。

奥村榮實は、「古言衣延辯」で延暦・天暦(901~957)以前には、あ行の「え」とや行の「え」とに音韻上の區別があり、書分けがなされてゐた事を述べた。

古言衣延辯
文政十二年/1829年成立。
奥村榮實著
「衣・延」の區別に關する研究書。
「新撰字鏡」では「衣」と「江」が區別されてゐる事。
古語では「ゆ・え」とや行に活用する動詞がある事。
本居宣長「字音假字用核」で扱はれてゐる字餘りの事について。和歌にはや行の「え」が多く、あ行の「え」が少いが、字餘りの場合、あ行の「え」を含む場合に限られてゐる事。
阿行ノ假字として「衣・依・愛・哀・埃・英・娃・翳・榎・荏・得」を、夜行の假字として「延・要・曳・叡・江・吉・枝・兄・柄・頴娃」を擧げる。
「え」に二種類の別がある事は、龍麿も氣附いてゐた。榮實は「音韻の區別があつたから表記にも區別が生じた」と考へてゐたやうで、その點、高く評價されてゐる。
ほかに、萬葉假名における文字の使ひ分けについては、以下のやうな研究があつた。

假字袋
八木美穂
古言別音鈔
草鹿砥宣隆
江戸時代の間に、上代における文字の遣ひ分けの背景には音韻の區別があつたものであるらしい、と考へられるやうになつてゐた。

明治以降の研究
明治になつて、橋本進吉は萬葉集の研究を進めてゐた。橋本は、萬葉假名に於る文字の使ひ分けを整理してゐた。橋本はこの遣分けを「上代特殊假名遣」と呼び、甲乙二類の音韻の區別に據るものであるとした。

研究の過程で橋本は、石塚の「假名遣奥山路」の存在に氣附いた。橋本は「國語假名遣研究史上の一發見――石塚龍麿の假名遣奥山路について――」(「帝國文學」1917年11月號)で報告し、同書を高く評價した。橋本は、「ぬ」ではなく「の」に二類がある、「古事記」の「ち」には二類がない、として、龍麿の説を訂正した。

上代特殊假名遣は當時の音韻に基く表記である、と云ふ橋本の主張には、現在までに反對意見も幾つか出てゐる。しかし、上代の文献を解釋する上で上代特殊假名遣は屡々重要な鍵となつた。その爲、この上代特殊假名遣が存在したと云ふ事實は、現在のところ學問上の定説として認められてゐる。

現在知られてゐる「上代特殊假名遣」は、一部の音を表記する文字にのみ出現してゐる。しかし、それは上代以前の日本語に八つの母音があつた事の名殘なのではないか、と云ふ説がある。即ち、現在知られてゐるa・i・u・e・oに ï・ë・ö を加へた八母音が古代の日本語の母音であつたのではないか、と云ふ説である。
(注・アンダーラインは草弥)
有坂秀世は「上代特殊假名遣に母音調和の痕跡がある」と指摘した。母音調和はアルタイ語系言語の特色とされ、日本語がアルタイ語系である可能性が高い事を示唆する。

ただし、古代の日本語における八母音説は假説に過ぎず、上代特殊假名遣にしても萬葉假名にのみ見られる擬似的な「假名遣ひ」である。いづれにしても、平安時代末以來の一般的な意味での假名遣ひ――歴史的假名遣とは直接、關係があるものではない。

參考
国語学史 日本人の言語研究の歴史
馬渕和夫・出雲朝子著・笠間書院
日本語の歴史
佐藤武義編著・朝倉書店
日本語概説
加藤彰彦・佐治圭三・森田良行著・おうふう
資料日本語史
沖森卓也編・おうふう
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また、こんな記事がネット上で見られる。

苗字に残る八母音表記 ── 「日本の苗字七千傑」より──
 我が国の地名は大和朝廷成立以前から存在しており、各地名は領土画定を明確にする目的で各部族国家群により体系的に命名されている。 各地に残存する環状列石は、無文字時代における領土明示の地籍簿なのである。
 中央政権樹立後は地域に拠る方言は存在するものの、日本語の基層(文法)が北方系、語彙が南方(中国江南)系で言語の融合が進み、奈良朝頃までは八母音が存在したことが万葉仮名により裏付けられる。
 平安時代初期には五十音図が登場して、次第に五母音化が進むが表記法としては仮名遣いに残存する。
(注・アンダーラインは草弥)
 また地名から発祥した多くの苗字も上古の八母音の名残りや旧仮名遣いの影響がうかがえる。

現代仮名
(5母音) 旧仮名遣
(8母音) 主要苗字例
あ あ 阿部 青木 安藤 新井 東 秋山 荒木 浅野 足立 天野 浅井 相沢 有馬
い い 伊藤 池田 石川 今井 岩崎 市川 五十嵐 飯田 稲垣 泉 入江 一色
ゐ 井上 井口 井手 井出 井川 井原 井沢 井本 猪股 猪俣 猪狩 院相
う う 上田 内田 植田 梅田 宇野 臼井 牛島 浦田 海野 鵜飼 卜部 漆原
え え 榎本 榎 榎田 江口 江藤 江崎 江川 荏原 海老名 海老沢 塩冶 朴井
ゑ 遠藤 恵良 恵藤 恵本 恵比須 恵川 恵島 絵内 絵野沢 絵所 絵沢 殖栗
お お 太田 大野 奥村 落合 押田 隠岐 織田 音羽 興津 刑部 忍坂 鬼柳
を 小川 岡田 小田 尾崎 長田 及川 緒方 荻野 越智 乙葉 折井 園城寺

 昭和21年(1946)の内閣告示「現代かなづかい」により法令、公文書、雑誌、放送などの社会的規範となる。
 母音はあ行に統一されたが「を」はわ行に残置され、「ゐ」、「ゑ」は古典などを除き使用を控えさせられる。
 表音主義が画期的なものと国語改良論者は言うが、「は」、「へ」、「を」は頻繁に表記例外の矛盾が存在する。
 また「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の混同、「おう」、「おお」、「おー」のお列長音の表記混乱が見られる。
 古事記の太安麻呂の「太」は、旧仮名遣いでは「おほ」で於保と通ずるが、墓場の中で苦笑いと思われる。
 織田も小田も現代では「おだ」だが、旧仮名遣いでは「おだ」、「をだ」と振り仮名が異なるのである。
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長すぎる引用になったかも知れない。
つまり、古代日本語には、今はもう無くなった「発音」が存在したということである。
エスペラ氏が言ってこられた佐賀県の一部に「ゐ」wi音で、しかも「無アクセント」が「発音されている」ということである。
一般的には知られていなくても、国語学、言語学の世界では、知られていることで、研究もされているのである。
エスペラ氏のコメントでは「七母音」となっているが、学問的には「八母音」と言われているのが普通である。詳しくは上に引用の論文を見てもらいたい。
人によっては、五母音以外の三母音を「い」ダッシュ、「え」ダッシュ、「お」ダッシュ という書き方をされる場合がある。
ついでに申し上げておくと「無アクセント」とは「平板」アクセントのことで、今でも東北をはじめ各地で一般的に見られる現象であり、最近の若者を中心にする発音は、だんだん「平板化」する傾向にある。この頃では、NHKのアナウンサーなどにも(厳しい発音指導をしないためか)平板な発音をする傾向がある。
私の記事は、特殊な、こ難しいことを書くのが目的ではないのだが、折角のコメントを頂いたので、特に書いてみた。

なお、 「わ」行の表記 わ、ゐ、う、ゑ、を WA、WI、WU、WE、WO は、母音を、5母音としても「発音的」に区別できることであり、強いて七母音あるいは八母音とする必要もないのである。平安朝では、すでに、そのように五母音で整理・説明されているのである。
また「観察」を「くわんさつ」KWAN─と発音するなどの古い形なども、今は「か」行 K音だけになっているが、かつては KW音が存在したということであり、「母音」というよりも「子音」とのからみで論じられるべきことであろう。
なお、今回の場合は、当時の時代を表すのには「上古」「上代」とするのが正確かと思うが、一般的な「古代」としておいたので、ご了承ねがいたい。

ネット上で「八母音」で検索すると数十のサイトが出てくる。
それらをサーフィンするのも面白い。たとえば「縄文語を復元したい」という記事なんかも多分に示唆的である。

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2007/11/18のBlog

──★日本語倶楽部★──(10)──(但し、一部削除した個所があります)

「四字熟語」メーカーの話・・・・・・・・・・木村草弥

「親父さん」のサイトその他で、標記の話題が出ていたので、私も興味を引かれて、やってみた。
「木村草弥」と入力したら、返ってきた「答え」は、なんと「嫌味急行」だった。
何とも「嫌味」な答えだが、このナンセンス、暴虐ぶりが面白いと言えば面白い。
私のペンネームが「草弥」なのが、その判定の根拠かも知れない。
もう一つのペンネーム「艸木茂生」では「多分王子」というものだった。
「艸」という字が表外漢字のJIS第二水準にあるからであろう。
ついでに私の本名でやってみたら、こんどは「計算不足」と来たもんだ。
しばし、一人で大爆笑したものである。
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ところで話が変わるが、もう数年も前、1999年に、朝日新聞に連載されたらしいが、
所ジョージの『四字列語』というのがあった。
これは新潮社から本になったので買ったことがある。
この本の「帯」には
<古くさい四字熟語なんて、もう使えない!
 鬼才・所ジョージさんが、面白くて暮らしに役立つ
 新語八十八個を一挙公開>
とある。 少し引いてみよう。

 ■自動挨拶じどうあいさつ
なんとなく挨拶してしまったが、誰なのか思い出せない、という歯がゆい状況を指す。
 使用例=「このお歳暮、どこから来たんだろ」「自動挨拶かも知れない」と使う。

そう言えば、そろそろ「お歳暮」のシーズンである。「例年の通りに出しておくか」。

 ■作詩錯覚さくしさっかく
ロマンチストだと自ら言う人、詩を書いたり読んだりするのが好きだなどという奴にかぎって、気持ち悪かったり、顔立ちが凄かったりする。ないものねだり、の意。
 使用例=アイドルが立場を利用して本を出したり、学校に入学する事などに使う。

 ■三度増築みたびぞうちく
少しづつよくしようという考えが、かえってロクな結果を招かない、ということ。目の前の物に左右されてしまう計画性のなさを指す。

三度も増築を繰り返されると、近所の人たちにしてみれば、その度に挨拶されても、工事の音やら何やらで大迷惑する。従って、「仏の顔も三度まで」や「我田引水」の意も含む。

 ■燃料来客ねんりょうらいきゃく
ガソリンは、車を動かすために入れるのだが、気がつくとそのガソリンも、人と同じように運んでいる事になる。燃費を考えるならば、出来るだけ軽い方がよいのだが、乗せないわけにはいかない。その事から、一つの事には素晴らしいが、他の事には邪魔になるほどダメ、というものを指す。
 使用例=「登山もいいし、旅行もいいけど、燃料来客だからね。パンツ一枚ってわけにいかネエもんな」など。

今しも、自動車燃料が史上最高値をつけている。時宜を得た標語だと言えよう。

 ■孔雀体質くじゃくたいしつ
かわいい娘を見つけると髪を整えたり、ネクタイを締め直したりと、尾羽をこれでもかと広げる孔雀の発情期のように期間のない性質。男女を問わずである。
 類似語=斑魚体質うぐいたいしつ 発情した時に顔全体に脂がにじみ出て顔に赤い線が現れる。あかはら。
 使用例=「あいつ、あんなに明るかったっけ」「女の子がいるからだな」「普段と違う。孔雀体質だわ」など。



   
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