K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板
986-maru-shidare丸山公園シダレザクラ

三月になりました。桜の花が咲き揃います。
春の息吹きが強くなって参ります。
 三月や廊の花ふむ薄草履・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
 三月やモナリザを売る石畳・・・・・・・・・秋元不死男
 三月に入るや小鳥らもすばやくて・・・・・・相馬遷子
 三月の土間に大きな山の靴・・・・・・・・・・成田千空
 三月の旅の支度にパスポート・・・・・・・・・千原草之
 三月やサラダに散らすアーモンド・・・・・・・高橋悦男
 三月の山やはらかし手触るべう・・・・・・・・高橋睦郎
 春曙ショパンの雨だれ匂ふやうに・・・・・・・・高島茂
 三椏の花挿して常陸はるかなり・・・・・・・・・高島茂
 大根の花ゆきずりのでき心・・・・・・・・・・・高島征夫


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
このテンプレートの特徴として、「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は「月次掲示板」の日付しか出ませんから、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。選んだ月のカレンダーが出ますので当該日の日付を押すと一日づつ画面に表示されます。当該月分の一覧としては出ません。
「月別アーカイブ」の場合も同様です。極めて不自由ですが、このテンプレートは、そういう設計機能になっているようです。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の採用しているテンプレートは「XPIE6」には対応しないようになっていまして表示崩れを起こしますので、悪しからず。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください
私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの不調ということで大かたは、こちらに移転しましたが(カテゴリーを参照)「季節の詩、歌、句」は量が多いので向うに置いたままですから、閲覧はそちらからお願いいたします。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集)の題名はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ・・・・・・・・・杉田久女
yun_2351ソメイヨシノ

  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ・・・・・・・・・・・・杉田久女

この句は女性ならでは、の句である。昔の人は、皆、和服を着ていたから、特に女の人は着物を着るには、いろいろの紐が必要だった。そこから、この句には一種のエロスが香り立つのである。
昨日付けで載せた中村汀女が、彼女に憧れて俳句を始めた、と書かれているので、ここに載せる気になった。

杉田久女 は鹿児島生れ。東京の高女を出てから、小倉中学校教師・杉田宇内と結婚。「ホトトギス」で頭角を現すが、昭和11年「ホトトギス」を除籍される。その経緯などは判らない。

久女の句で、私の好きなものを抜き出してみよう。

 春の夜のまどゐの中にゐて寂し

 東風吹くや耳現はるるうなゐ髪

 燕来る軒の深さに棲みなれし

 バイブルをよむ寂しさよ花の雨

 照り降りにさして色なし古日傘

 足袋つぐやノラともならず教師妻

 右左に子をはさみ寝る布団かな

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

 ちなみぬふ陶淵明の菊枕

 虚子留守の鎌倉に来て春惜しむ

 種浸す大盥にも花散らす

 ほろ苦き恋の味なり蕗の薹

 道をしへ一筋道の迷ひなく

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私は彼女については無知なのでWeb上に載る記事を引用しておく。

杉田久女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 ~ 1946年(昭和21年)1月21日)は日本の俳人。
本名は杉田久(すぎた ひさ)。

生涯
高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い沖縄県那覇市、台湾嘉義県・台北市と移住する。1908年(明治41年)東京女子高等師範付属お茶の水高女(現・お茶の水女子大学)を卒業。この間に一家が上京する。1909年(明治42年)中学教師で画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。

1911年(明治44年)長女・昌子(後に俳人・石昌子となる)誕生。1916年(大正5年)兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿する。この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。

1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞を受賞。1932年(昭和7年)女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。しかし、5号で廃刊となった。1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともにホトトギス同人となる。

1936年(昭和11年)虚子よりホトトギス同人を除名される。しかし除名後もホトトギスへの投句を続けた。
1946年(昭和21年)1月21日、太平洋戦争後の食料難により栄養障害をおこし腎臓病悪化により福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の福岡県立筑紫保養院で死去、享年57。

愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。

作品集
ウィキクォートに杉田久女に関する引用句集があります。
杉田久女句集(1952年 角川書店)
久女文集(石昌子・編 1968年 石一郎)
杉田久女随筆集(2003年 講談社)

関連作品
杉田久女(石昌子 1983年 東門書屋)
花衣ぬぐやまつわる…-わが愛の杉田久女(田辺聖子・著 1987年 集英社)
俳人杉田久女の世界(湯本明子・著 1999年 本阿弥書店)
大正期の杉田久女(米田利昭・著 2002年 沖積舎)
杉田久女(坂本宮尾・著 2003年 富士見書房)


初蝶来何色と問ふ黄と答ふ・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
kityou4黄蝶

  初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

この句は昭和21年3月29日の作である、とされているので、どうしても今日の日付で入れたかった。虚子くらいの俳人になると弟子も多くて作品解題も詳細を極めているのである。
初出誌「ホトトギス」昭和21年6月号では、「初蝶来何色と問はれ黄と答ふ」だった。それが再掲誌「玉藻」(虚子の二女星野立子の主宰誌)同年9月号までの間に「問はれ」が「問ふ」に修正された。
この修正は、まことに興味深い。虚子の句作の実際を具体的に例示してくれるからである。
「問はれ」から「問ふ」に変ることによって、この句は単に実際の体験を詠んだだけの句から、もう一つ別の次元へ移ったと言える。
「問はれ」て「黄と答ふ」という、ひと連なりの句では、この句は「作者」一人が詠んで、それでお終い、という、つまらない句になってしまう。
それを「何色と問ふ」「黄と答ふ」としたことによって、「誰か」を見事に押し隠しているために、句に対話性が導入され、句が大きく、広くひろがった。言い換えると、或る種の超越的な象徴性を生み出し得た、と言えるのである。
なお、この句には「来」(来る、の終止形)「問ふ」「答ふ」と三つの動詞の「終止形」が使われている。
そのことによって、この句がきりりと引き締まった感じがする作品に仕上がっている。秀逸というしかない佳句である。
昭和22年刊『六百句』所載。

「蝶」を詠んだ句を少し挙げてみよう。

 蝶々のもの食ふ音の静かさよ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 一日物言はず蝶の影さす・・・・・・・・・・・・尾崎放哉

 うつうつと最高を行く揚羽蝶・・・・・・・・・・・・永田耕衣

 閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき・・・・・・・・・・・・篠原梵

 きらきらと蝶が壊れて痕もなし・・・・・・・・・・・・高屋窓秋

 大空にたはるる蝶の一つがひ・・・・・・・・・・・・香川景樹

 ほそみとはかるみとは蝶生れにけり・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 回想のうちそと蝶が舞ひはじめ・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 初蝶を見し束の間のかなしさよ・・・・・・・・・・・・松本たかし

 音楽を降らしめよ夥しき蝶に・・・・・・・・・・・・藤田湘子

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 《てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた》

これは安西冬衛の詩集『春』に載る詩である。
この詩は詩人たるものにとっては、見過ごすことの出来ない歴史的な名詩である。
この詩は、杉本良吉と岡田嘉子の樺太の荒野を越えての恋の逃避行を詠んだ、などと言われているが、それは野次馬の付け足しであろう。
私も、これに触発されて、歌を一首ものにしたことがある。


  
外にも出よ触るるばかりに春の月・・・・・・・・・・中村汀女
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  外(と)にも出よ触るるばかりに春の月・・・・・・・・・・中村汀女

この句は昭和21年敗戦間もない時期のもの。
霞むような春の真ん丸い月が、わが身に触れんばかりに間近に昇って来た一瞬の驚きと喜び、それが思わず人に呼びかける句になって、心の弾みを、よく伝えている。ハ行のフルルとハルの音の響きあいも快い。作者の代表作として、よく知られる句である。昭和23年刊『花影』に載る。

中村汀女は明治33年熊本生れの人。文化功労者にも選ばれた。
季節の句としては

 恋猫に思ひのほかの月夜かな

 ゆで卵むけばかがやく花曇り

 引いてやる子の手のぬくき朧かな

 蟇歩く到りつく辺のある如く

 滴りの思ひこらせしとき光る

 いつしかに座も満ち積むか春の雪

などが見られるが、以下に季節を問わずに好きな句を引用して終りにしたい。

 とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな

 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ

 芝を焼く美しき火の燐寸かな

 水打ちてよごせし足の美しく

 音もなくひとりめぐれる火蛾もあり

 秋の蝶黄なり何かを忘れよと

 しばらくは露の桔梗に座をまかす

 秘めごとの如く使へる扇かな

 汗ばめる母美しき五月来ぬ
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

中村汀女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 汀女(なかむら ていじょ、明治33年(1900年)4月11日 ~ 昭和63年(1988年)9月20日)は、日本の俳人。本名、破魔子。称号は名誉都民、熊本県熊本市名誉市民。

熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。

大正元年(1912年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。大正7年(1918年)、同校補習科を卒業。大正9年(1920年)に熊本市出身の大蔵官僚・中村重喜と結婚。以後、夫の転勤とともに国内各地を転々とする。

昭和9年(1934年)ホトトギス同人となり、最初の句集『春雪』を発表。戦後の昭和22年(1947年)には俳誌『風花』を創刊した。

有名な俳句では「外にも出よ 触るるばかりに 春の月」などがある。また、汀女は杉田久女に憧れていて、ファンレターも出していたらしい。

  
ひと知りて四十年経ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ・・・・・・・木村草弥
murasakihanana0111ムラサキハナナ

  ひと知りて四十年経ぬ萌え立てる
    君は野の花ムラサキハナナ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今年は暖かいので、例年なら四月に入ってから咲く「ムラサキハナナ」が、もう満開であるので、急遽載せることにする。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は、ある短歌結社の全国大会が九州であったときの応募歌である。
ムラサキハナナは、アブラナ科で学名は orychophragmus violaceus というが、
別名をショカツサイ(諸葛采)、オオアラセイトウ、花大根などという。
諸葛采は中国での名前で、諸葛孔明に因む命名である。
花大根という名がついているが、大根とは無関係である。
写真②のように、今ではあちこちに群がって咲いている。

gardenムラサキハナナ

種が落ちると、とても強い草で、どこから来たのか、私の方の菜園にも周辺部にわんさと咲いている。
種が落ちる前にこまめに除草をすると群落は減ってくる。
私の歌の「ひと」とは、もちろん妻のことである。紫色の4枚の花弁が「十字架植物」であることを示してはいるが、今では雑草扱いされている野の花であって、私は妻を、その野の花になぞらえたのである。西洋人ならば、こういう、へりくだった表現はしないが、日本では謙遜が尊ばれる。

hanadaikonムラサキハナナ

この歌を作ったときは、もう十数年以上も前のことになってしまったが、「四十年経ぬ」と詠ってあるように知り合ってから、その頃で四十年も経ってしまったのか、という感慨である。
この頃まだ妻は健康であったし、それから十年以上の歳月が経ってしまった。
やはり文芸作品というのは、思いついたら、すぐに、このように作品化しておくべきものだ。
妻が亡くなった今では、いい思い出の歌になった。

以下、この草を詠んだ句を引いて終る。「諸葛菜」である。

 諸葛菜咲き伏したるに又風雨・・・・・・・・水原秋桜子

 諸葛菜晩年の文字美しや・・・・・・・・角川源義

 諸葛菜死者が生者を走らせる・・・・・・・・和田悟朗

 目つむれば眠つてしまふ諸葛菜・・・・・・・・茂恵一郎

 諸葛菜人に委ねし死後のこと・・・・・・・・福田葉子

 新聞のたまるはやさよ諸葛菜・・・・・・・・片山由美子

 言海のとぢ糸滅び諸葛菜・・・・・・・・南雲愁子

 電柱に夜の雨走る諸葛菜・・・・・・・・西谷剛周

 廃れをる牛舎の中も諸葛菜・・・・・・・・小野塚登子

 鎌倉は木暗し崖(はけ)の諸葛菜・・・・・・・・久保美智子

 諸葛菜われらひもじき日々ありき・・・・・・・・大黒華心

 裾ふれて散り際早き諸葛菜・・・・・・・・中川禎子 

   
lulu夫妻制作「ハチドリの巣作りから巣立ちまで動画」・・・・・木村草弥
annas501091.jpg

わが敬愛するロサンゼルス在住のluluさん夫妻が、撮りつづけて来られた「ハチドリの巣作りから巣立ちまで」を「動画」にまとめて最近アップされた。
ここに紹介しておく。

lulu夫妻制作・YouTubeハチドリの巣作りから巣立ちまで動画

     ↑ クリックしてください。動画になります・・・・・・・・・・・・・木村草弥

luluさんの記事を、よく読んでいただいたら分かることだが、ハチドリ(ハミングバード)は極端な
一夫多妻だと言い、大よそのハチドリの雄には「あだ名」がつけられて、雌には「1号」とか「5号」とか番号が付けられているが、この巣の主はluluさんによれば初めて載せたものだという。
YouTubeには他にも同様の動画は見られるが、luluさんの夫君の撮ったものは巣作りから巣立ちまで、きちんと撮られてピカイチである。

巣の中に見える「卵」は「大豆」大だという。そりゃ、そうだろう。成鳥の大きさも、とても小さいからである。
子育てに当たって、与える「餌」についての私の質問に対してluluさんからは「最初の頃与えている餌は、ショウジョウバエで、徐々に蜜を与えていると思われます。」 という返事があった。
それは、そうであろう。
雑食のスズメなども子育て中の餌は「虫」などの動物性のものである。動物性のカロリーの高い餌が子育てには必要なのである。育児期間などは、この動画を見てもらえば一見してお判りいただける。
 
では、鑑賞を、よろしく。

  
池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな・・・・・・・・大伴家持
asebi3馬酔木(白)

  池水に影さへ見えて咲きにほふ
    馬酔木の花を袖に扱(こき)入れな・・・・・・・・・・・大伴家持


馬酔木の花は4月から5月にかけて咲きはじめる。山地に自生するツツジ科の常緑低木で、日本原産の木。もっとも、三月の早くから、もう咲いているのも見られる。
学名をPieris japonica という。私の推測だが、シーボルトが標本を持ち帰り命名したのではないか。
馬酔木は古典植物で、「万葉集」には10首見える。
掲出したのは、そのうちの一つで巻20の歌番号4512に見える大伴家持の歌。もともと「巻20」は万葉集の一番終りで、大伴家持の歌が多い。そこから万葉集は家持の編集になるのではないか、という説があるのである。
馬酔木(あしび)の木は有毒のもので、枝葉にアセボトキシンという有毒成分があるのである。野生の鹿などは、よく知っているので食べないという。花は香りが強い。

aaooasebi02馬酔木の花

色は白が普通だが、写真②のようなピンクのものがある。木の姿もよく、昔から好んで「庭木」として植えられたので、栽培による改良種だと言われる。
先に馬酔木は古典植物だと書いたが、歌に「馬酔木なす栄えし君」と詠まれるように、古代には「賀」の植物であり、栄えの枕詞であった。

馬酔木については俳句にも古来たくさん詠まれてきた。それを引いて終りたい。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・日野草城

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・水原秋桜子

 月よりもくらきともしび花馬酔木・・・・・・・・山口青邨

 染めあげて紺うつくしや夕馬酔木・・・・・・・・原コウ子

 花あしび朝の薬に命継ぐ・・・・・・・・角川源義

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・阿波野青畝

 指さぐる馬酔木の花の鈴の音・・・・・・・・沢木欣一

 馬酔木咲き金魚売り発つ風の村・・・・・・・・金子兜太

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・林翔

 宵長き馬酔木の花の月を得し・・・・・・・・野沢節子

 邪馬台の春とととのへり花あしび・・・・・・・・小原青々子

 囀に馬酔木は鈴をふりにけり・・・・・・・・下村梅子

 父母に便り怠り馬酔木咲く・・・・・・・・加倉井秋を

 時流れ風流れをり花馬酔木・・・・・・・・村沢夏風

  
八講の比良山見ゆれ枯木原・・・・・・・・・・松瀬青々
98-03p比良八講

  八講(はっこう)の比良山見ゆれ枯木原・・・・・・・・・・松瀬青々

比良八講または八荒というのは関西だけに通用することで関東その他では意味が判らない行事ないしは言葉である。
「比良八講」というのは、本来は旧暦2月24日に比良大明神=白鬚神社で比叡山の僧が比良山中で行なっていた修法。天台宗の僧侶が法華経全8巻を、それぞれ朝夕一巻づつ4日間読経する法会で、天台宗の試験を兼ねた大切な法会であったが、戦後に復活された、という。今では日を固定して3月26日に行なわれる。
「源氏物語」には、この法会の場面が出てくるという。
この行事の頃、琵琶湖ないしは近畿地方では、寒気がぶり返し、突風が吹いたりするので「比良八講の荒れじまい」などと言われ、季節の一つの目安とされているのである。
これが終ると湖国にも本格的な春が訪れるという。

行事の解説をしておくと、法会は日吉大社西本宮に集合して、志賀町の打見山頂で取水行事をし本福寺に至る。
3月26日午前9時、大津市長等3丁目の本福寺を出発した僧や修験者らが、ホラ貝を響かせながら大津港までお練りをし、浜大津港から船に乗って、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する湖上修法と浄水祈願を行ないながら、堅田へと向かう。
堅田に到着後は「びわ湖タワー」で護摩供法要が営まれ、これで行事は終る。
写真①は琵琶湖上の船に乗り込む一行のもの。
カラーの写真が見つけられなかったので、お許しいただきたい。
写真②は、その湖上コースの地図。

98-03m比良八講コース

「琵琶湖哀歌」に歌われている昭和16年(1941年)の金沢の旧制四高ボート部遭難事件も比良八講(八荒とも書く)によるものと言われている。

極めて地域的な言葉、風習であるから、文芸作品にも詠んだものは多くない。

比叡おろし今日もまた吹く舞姫の恋やぶれよと伝ふがごとく・・・・・・吉井勇

以下に「比良八講(または八荒)」を詠んだ句を引いて終わる。

 比良八荒沖へ押し出す雲厚し・・・・・・・・・羽田岳水

 八講や魞を流しし比良颪・・・・・・・・・・吉田冬葉

 八荒の雲とも見えて比良の方・・・・・・・・・・能村登四郎

 比良八荒波蓮殻を打ち上ぐる・・・・・・・・・・岡井省二

 伊賀に吹く比良八荒の余り風・・・・・・・・・・宮田正和

 比良八荒波濤にまさる山の音・・・・・・・・・・松本可南

 農鳥の身を削り飛ぶ比良八荒・・・・・・・・・・西村和子

 洗堰にも八講の荒れ及ぶ・・・・・・・・・・三村純也

 八荒や鵜の見え隠る波頭・・・・・・・・・・蟇目良雨

 竹生島比良八荒の浪に乗る・・・・・・・・・・大竹萌

 昨日今日比良八荒といふ寒さ・・・・・・・・・・鈴木光紫朗

 杉山の杉擲つ風や比良八講・・・・・・・・・・梶山千鶴子

 松籟も比良八講の荒びかな・・・・・・・・・・向田貴子

 法螺の音に比良八講の船出づる・・・・・・・・・・田中由子

 湖荒るる比良の八講春縮む・・・・・・・・・・岩本愛子

 比良八講らしさの湖の騒立ちに・・・・・・・・・・成宮紫水


ムスカリは紫の彩に咲きいでて小人の国にシャンデリア点す・・・・草弥
kyukon4musuムスカリ本命

  ムスカリは紫の彩(いろ)に咲きいでて
    小人の国にシャンデリア点(とも)す・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

ムスカリは丁度シャンデリアをひっくり返したような形をしており、私は、それを「小人の国のシャンデリア」と表現してみた。ムスカリの特徴を示すものとして、この歌は私の気に入っているものである。

ムスカリも、そうだが、総じて草花などの名前や栽培は亡妻がやっていたか、または教わったものが多い。
ムスカリは小アジアのアルメニア辺りが原産地と言われている。
学名のMuscariはギリシア語のmoschos(麝香)に由来するという。強い香りから来ているのだろうか。

musukari2ムスカリ

このムスカリは花壇などにびっしりと密植されているのが豪華で風情がある。
球根植物の例で、暑い夏には地上部は消えてなくなってしまうが、晩秋になると芽を出してくる。2、3年はそのまま放置して置いてよいが、数年経ったら堀り挙げて保存し、秋に植えなおすのがよい。

   ムスカリの傍(かたへ)に置ける愛の詩集
      湖(うみ)より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・・木村草弥


同じく「ムスカリ」を詠んだ歌として私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「愛の詩集」という言葉などは、少し甘すぎるかも知れない。

muscari2ムスカリ白

写真③のような白いムスカリもあるようである。
もちろん栽培種であろう。

ムスカリはカタカナ語であり、季語としての市民権を得て日が浅いので、ムスカリを詠んだ句は極めて少ないが、それを引いて終わる。

 ムスカリは和蘭渡り施薬寺・・・・・・・・・・有働亨

 かたまりてムスカリ古代の色放つ・・・・・・・・・・青柳照葉

 ムスカリや石を起せば何かゐて・・・・・・・・・・永作火童

 ムスカリや川に火を焚く誰かゐて・・・・・・・・・・ながさく清江

石川桂郎『俳人・風狂列伝』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
俳人風狂列伝

 ──新・読書ノート──初出Doblog─2007/09/14─

  石川桂郎『俳人・風狂列伝』・・・・・・・・・・・木村草弥
     ・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和48年角川書店刊

このBLOGでも何回か採り上げた俳人・高島征夫氏との交流の中で、お父上であられる高島茂氏のことを知る何かよい資料がないかと思っているうちに征夫氏から、この本を推薦された。何分もう30年以上も前の出版なので不安だったが、幸いネット上の「古書」店に多くの冊数のものが出ていた。私の買ったものは以前にも取引したことのある「高原書店」扱いのものであるが、他の書店では五千円というような高い値がついていたりした。私の買ったのは1500円であった。「角川選書」のうちのものだが、「函」入りの立派なものである。当時の定価は1300円と書かれている。

さて「石川桂郎」という人がどういう人かをネット上から引用しておく。

明治42年/1909年8月6日~昭和50年/1975年11月6日
経歴 本名=石川一雄。東京・三田生まれ。高小卒。「風土」主宰。
受賞歴 第1回俳人協会賞(昭和31年/1956年)『含羞』
第25回読売文学賞随筆紀行賞(昭和48年/1973年)『俳人風狂列伝』
第9回蛇笏賞(昭和50年/1975年)

■11.6. 石川桂郎(けいろう)忌 
明治42年東京生れ、昭和50年没。
家業の理髪店を継ぐが、昭和12年石田波郷の「鶴」創刊に参加。
戦後は、「俳句研究」「俳句」の編集長などを歴任。
ひとをひっかけて喜ぶ「虚言癖」あって俳壇の奇人といい、傑物ともいう。

昭和31年刊の句集「含羞」から二十句ほど引く──、

 激雷に剃りて女の頸(えり)つめたし・・・・・・・・桂郎
 花の雨みごもりし人の眉剃(つく)る
 理髪師に夜寒の椅子が空いてゐる
 堕ちし蛾のあをあを明くる看護かな
 かなかなに履く足袋ほそき思ひかな

 春愁や襁褓(むつき)の嵩をうべなひつ
 蝸牛の四五寸妻に歌ありて
 凩やまた空耳の母を前
 栗飯を子が食ひ散らす散らさせよ
 独り刈る髪切りこぼす野分中

 あまり寒く笑へば妻もわらふなり
 鳴きおこる蛙忽ち腹へりぬ
 入学の吾子の頭青く後前(あとさき)す
 針供養女の齢くるぶしに
 芹蓬摘めよと与ふ子に刃物

 昼蛙どの畦のどこ曲らうか
 つまらなく夫婦の膝の柿二つ
 太宰忌の蛍行きちがひ行きちがひ
 箱溜める少女期をいま草の花
 病む秋や衾(ふすま)の裾に妻の重み

昭和31年、第1回俳人協会賞授賞。
昭和39年、「風土」創刊、主宰する。
以下、略。

今回とりあげる本についても受賞歴なども上に書いてあるので繰り返さない。
この本に取り上げられている「風狂」の人々は
 高橋鏡太郎、伊庭心猿、種田山頭火、岩田昌寿、岡本癖三酔、田尻得次郎、松根東洋城、尾崎放哉、相良万吉、阿部浪漫子、西東三鬼 であるが、4人などを除いて私の知らない俳人である。
登場人物を紹介しても一般の方々には面白くも何もないだろうと思うので、エピソード的に少し書いてみる。
とにかく、これらの「風狂」の俳人たちはいずれも「飲んだくれ」であり金銭的にも自堕落であったが、それらのうち東京在住の連中の酒、金、病気にまつわる「尻拭い」をされたのが、新宿西口で居酒屋・焼き鳥「ボルガ」を経営されていて、かつ俳人であった高島茂なのである。
この本の中にも茂氏の名前はたびたび登場する。

この本に取り上げられる俳人のうち山頭火や放哉などの記述は資料だけに拠ったもので、私がすでに読んだものに尽きるので目新しくはなかった。「西東三鬼」についてはエピソードも面白く、全体として石川桂郎の筆は、いい文章であり、読売文学賞を得たというのも納得する。



パンジーは思案する花かなしきは忘るるに委せ風と遊べり・・・・草弥
pansy3パンジー

  パンジーは思案する花かなしきは
     忘るるに委せ風と遊べり・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌にあるように「パンジー」という名前の由来はフランス語の「パンセ」(考える)という言葉から命名に至っているという。
私の方では、毎年、晩秋になると、冬から春への定番の花として「パンジー」あるいは「ビオラ」を買ってきて、プランターに植えることにしている。
種類が豊富だし、病気らしいものは、先ずないし、第一、値段が安いので、気兼ねなくたくさん植えられる。
直列のプランターには大輪のパンジーを、丸いプランターにはビオラを植えつけるのが定番である。今年の冬は寒くて氷点下の朝が多かったがパンジーは、平気だ。

panji-y-lp-1パンジー

panji-0112-39パンジー

昔は「三色すみれ」などと言って、宝塚少女歌劇的な甘ったるいロマンチックな雰囲気のする花だったように思うが、それはまんざら的外れでもなさそうで、宝塚の歌にも「スミレの花咲くころ・・・」というような歌の歌詞があったではないか。
今では宝塚も、すっかり大人の雰囲気になって「少女歌劇」とは呼ばない。
「ベルサイユの薔薇」などの芝居は華やかなインターナショナルな雰囲気のもので、海外公演もしている現状である。
写真④にビオラのヨーロッパ原野に咲く「野生種」の写真を載せる。
histry_1ビオラ野生種

このように「ビオラ」はヨーロッパが原産地らしい。
野生種は単色であるのも自然かと思う。この「ビオラ」の野生種は地味な花だ。

話は変わるが、与謝野晶子の歌で有名な「コクリコ」(ひなげし)の花が草原に彩りも鮮やかに群生しているのを見たことがあるが、もちろん「ひなげし」と「ビオラ」は別の花で咲く季節も違うが、同じくヨーロッパの野っぱらに群生する「野生種」というところからの連想である。

ビオラは、小さな花がびっしりとプランターに密植されている様子は華やかである。
冬は花が少なく彩りに欠けているからビオラの醸しだす雰囲気は貴重なものである。
花が、ほぼ二色に彩られているのも面白い。
写真⑤はビオラである。
biora-yv-02パンジー

ビオラにも実にさまざまな色の取り合わせがある。掲出したものなどは、むしろ地味な方であろう。先にも書いたが、ビオラは定植する場合は、やはり丸い鉢が似合うようだ。

俳句にもパンジーやビオラが詠まれているので、それを引いて終りたい。
花言葉は「思案」「物思い」「私のことを忘れないで」。

 パンジーの畑蝶を呼び人を呼ぶ・・・・・・・・松本たかし

 三色菫は治癒の日の花子より享く・・・・・・・・石田波郷

 三色菫買はしめおのれやさしむも・・・・・・・・森澄雄

 彼岸の墓どれも親しや遊蝶花・・・・・・・・角川源義

 妻が植ゑて三色菫黄がちかな・・・・・・・・安住敦

 三色菫勤勉をただ誇りとし・・・・・・・・藤田湘子

 パンジーの仔熊の顔に似たりけり・・・・・・・・森田峠

 ことごとく風の虜や遊蝶花・・・・・・・・岡本眸

 三色菫コップに活けて退職す・・・・・・・・菖蒲あや

 太陽へ三色すみれ笑ひだす・・・・・・・・青柳照葉

 パンジーを貌と見てゐる西東忌・・・・・・・・辻田克巳

 パンジーの大いなる斑の吹きゆがむ・・・・・・・・堀古蝶

 パンジーの今日泣き顔と思ひけり・・・・・・・・木田千女

 岡鹿之助の遊蝶花とてニルヴァーナ・・・・・・・・伊丹さち子

 遊蝶花日暮は人のふりむかぬ・・・・・・・・永島靖子

 三色菫働けばくる日曜日・・・・・・・・横沢放川

 パンジーは摘む花ならず月のぼる・・・・・・・・岸本尚毅


画像集「日光・裏磐梯の雪」T・F氏提供・・・・・・・・・・・・木村草弥
  画像集「日光・裏磐梯の雪」T・F氏提供・・・・・・・木村草弥

2009.01.24戦場ヶ原にて
2009.01.24戦場ヶ原にて

2009.01.24男体山
2009.01.24男体山

2009.01.26安達太良山頂
2009.01.26安達太良山頂

2009.01.27イエローフォール
2009.01.27イエローフォール

2009.01.28霧氷
2009.01.28霧氷

2009.01.28雄国山頂手前
2009.01.28雄国山頂手前

2009.01.28雄国山頂からの飯豊山
2009.01.28雄国山頂からの飯豊山

2009.01.28雄国山頂からの磐梯山
2009.01.28雄国山頂からの磐梯山

2009.01.29猪苗代湖の逆さ磐梯山
2009.01.29猪苗代湖の逆さ磐梯山
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T・F氏から、その後ご提供いただいた「雪の日光・裏磐梯」の画像9葉を載せる。
画像の説明は、しない。
ただ画像中で黄色のアノラックの人がF氏夫人。藍色のアノラックがF氏本人である。
写真からも上りに際しては、かなり「きつい」様子が窺える。
では、ご鑑賞あれ。

  
福寿草ゆるやかに過ぐ今の刻・・・・・・・・・能村登四郎
2009.02.28ポンポン山の福寿草

  福寿草ゆるやかに過ぐ今の刻・・・・・・・・・・・・・・能村登四郎

昨日付けでT・F氏のくださった写真を載せたばかりだが、引き続いて「2009.02.28ポンポン山の福寿草」という見事な写真を恵贈されたので、その画像を使って、この記事を書く。
下記に引いたWikipediaにも書いてある通り、日本では、この草は一月一日の「誕生花」と言われるように正月の縁起物の草であり、季節としては「冬」に載せられている。というのは旧暦であれば節分までの冬の季節にも咲くからであろうか。
いずれにしてもF氏からいただいた画像は、京都府と大阪府との境界辺りの山中に自生する群落の写真であり、日付にもある通り二月末に撮られたものである。
感謝して掲げておく。
以下、ネット上に載る事典の記事を引いておく。
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フクジュソウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フクジュソウ
分類
界 : 植物界 Plantae
門 : 被子植物門 Magnoliophyta
綱 : 双子葉植物綱 Magnoliopsida
目 : キンポウゲ目 Ranunculales
科 : キンポウゲ科 Ranunculaceae
属 : フクジュソウ属 Adonis
種 : フクジュソウ A. ramosa

学名
Adonis ramosa Franch.
和名
フクジュソウ(福寿草)
英名
Far East Amur adonis
フクジュソウ(福寿草、学名:Adonis ramosa)は、キンポウゲ科の多年草。別名、ガンジツソウ(元日草)。毒草なので注意。(シノニム:Adonis amurensis)1月1日の誕生花。

特徴
日本では北海道から九州にかけて分布し山林に生育する。種名の amurensis は「アムール川流域の」という意味。花期は初春であり、3-4cmの黄色い花を咲かせる。当初は茎が伸びず、包に包まれた短い茎の上に花だけがつくが、次第に茎や葉が伸び、いくつかの花を咲かせる。この花は太陽光に応じて開閉(日光が当たると開き、日が陰ると閉じる)する。葉は細かく分かれる。夏になると地上部が枯れる。つまり初春に花を咲かせ、夏までに光合成をおこない、それから春までを地下で過ごす、典型的なスプリング・エフェメラルである。

根はゴボウのようなまっすぐで太いものを多数持っている。

春を告げる花の代表である。そのため元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)の別名を持つ。福寿草という和名もまた新春を祝う意味がある。江戸時代より多数の園芸品種も作られている古典園芸植物で、緋色や緑色の花をつける品種もある。正月にはヤブコウジなどと寄せ植えにした植木鉢が販売される。ただし、フクジュソウは根がよく発達しているため、正月用の小さな化粧鉢にフクジュソウを植えようとすると根を大幅に切りつめる必要があり、開花後に衰弱してしまう。翌年も花を咲かせるためには不格好でもなるべく大きく深い鉢に植えられたフクジュソウを購入するとよい。露地植えでもよく育つ。

また、根には強心作用、利尿作用があり民間薬として使われることがある。しかし、毒性が強く素人の利用は死に至る危険な行為である。アドニンという毒成分を含む。

花言葉  永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福

誤食
地面から芽を出したばかりの頃は、フキノトウと間違えて食べ、中毒を起こす。

テレビ信州で2007年3月30日放送の「情報ワイドゆうがたGet!」の特集コーナー「春うらら!花の里のんびり散歩!」で、テンプラを紹介し、女性リポーターが毒草と知らず食べてしまった。幸い事故に至らず。

関連項目
環境省レッドリスト - 2000年版までは絶滅危惧II類(VU)であったが、2007年8月の見直しによって、ランク外となった。
800px-Adonis_ramosa1.jpg

野生の群落は、こういう具合に生えているという写真を出しておく。
なお、東京付近では例年三、四月に開花するが、正月用のものは栽培されているもので、埼玉県大里郡岡部村では約百万株が作られて日本一を誇っていたという。
西洋のものは花が赤く、ギリシア神話のアドニスの血から咲いたと言われ、またアイヌ伝説ではクノンという美しい女神の化身と伝えられる。

なお、信濃毎日新聞によると、下記のような記事がある。あちこちに大群生地があるらしい。

<松本市四賀地区の赤怒田(あかぬた)福寿草群生地で7日、「福寿草まつり」が始まった。暖冬の影響で開花が早まり、フクジュソウの花は満開。訪れた人たちは、広さ約2ヘクタール、約50万株の群生地に整備された遊歩道を散策したり、花をカメラに収めたりして楽しんでいる。今月中旬までが見ごろという。
 毎年、写真を撮りに訪れる長野市の会社員、武井時男さん(56)は「花の周りに雪があった方がきれいなので少し残念だが、晴天で花が開いて良かった」と話していた。>

以下、福寿草を詠んだ句を引いて終る。

 暖炉たく部屋暖かに福寿草・・・・・・・・・・正岡子規

 福寿草遺産といふは蔵書のみ・・・・・・・・・・高浜虚子

 青丹よし寧楽の墨する福寿草・・・・・・・・・・水原秋桜子

 日の障子太鼓の如し福寿草・・・・・・・・・・松本たかし

 文書くもかごとも日向福寿草・・・・・・・・・・中村汀女

 福寿草襖いろはにほへとちり・・・・・・・・・・阿波野青畝

 人の世の庫裏の裏なる福寿草・・・・・・・・・・滝春一

 縁の日に当てて山家の福寿草・・・・・・・・・・石昌子

 苔に手をあてて冷たし福寿草・・・・・・・・・・上野章子

 仏具屋に日向がありて福寿草・・・・・・・・・・清崎敏郎

 死ぬるまで生きてゐること福寿草・・・・・・・・・・和知喜八

 手にめでて嬬恋村の福寿草・・・・・・・・・・加藤三七子

 まぱたけばまばたきてをり福寿草・・・・・・・・・・永田耕一郎

 昭和とは今日まで福寿草を見る・・・・・・・・・・高田風人子

 磐石と日を等分に福寿草・・・・・・・・・・大嶽青児

 福寿草の日向に母を連れ出して・・・・・・・・・・伊藤通明

 福寿草二つ花もち影二つ・・・・・・・・・・安養白翠

 福寿草掃かれて金の塵となる・・・・・・・・・・名取思郷

 老い母に高き框や福寿草・・・・・・・・・・椹木啓子

 福寿草まつ毛のひらくごとく咲く・・・・・・・・・・伊東一升
 

 
T・F氏の送ってくれた冬の蔵王の写真・・・・・・・・木村草弥
2009.03.05蔵王山苅田嶺神社軒下越の鳥居

  T・F氏の送ってくれた冬の蔵王の写真・・・・・・・・木村草弥

昨年、スペイン・ポルトガルの旅で知り合った高槻市在住のT・F氏から先日行って来られた「雪の蔵王」の写真を送ってきてくださったので、その画像四枚を載せる。
掲出した写真①には「2009.03.05蔵王山苅田嶺神社軒下越の鳥居」の書き込みがある。
積雪の高さが、どのくらいかは、鳥居の埋っているところから推察される。

写真②には「2009.03.05道標ポールに付いたえびの尻尾」のコメントがある。
標識には「熊野岳」「蔵王温泉」の文字が読み取れる。
2009.03.05道標ポールに付いたえびの尻尾

写真③には「2009.03.05スキーに乗った賽銭箱」とある。どの神社のものか判らない。
それにしても、賽銭箱を移動できるようにスキーに乗せたというのもアイデアである。
2009.03.05スキーに乗った賽銭箱

写真④には「2009.03.05熊野岳蔵王山神社の鳥居」のキャプションが付いている。
因みに、写っている人物はF氏夫人で、こんな雪ふかいところへも同道されるとは、すごい。
もっともF氏によると私よりもタフだ、と言われる。
2009.03.05熊野岳蔵王山神社の鳥居

Wikipediaを見ると、下記のような記事が載っている。
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蔵王連峰(ざおうれんぽう)は、奥羽山脈の一部を構成する連峰である。山形県と宮城県の両県南部の県境に位置する。主峰は熊野岳(1,841m)であり山形県側に位置する。『日本百名山』においては蔵王山と紹介されている。単に蔵王と呼ぶ場合は、北を山形自動車道、東を東北自動車道、南を国道113号、西を国道13号で囲まれた地域にある峰々や高原などの総称である。

活火山であり、新噴気口や火口湖の御釜が見られる(いずれも宮城県側)。火山の恩恵である温泉が両県の裾野に数多く存在し、スキー場も多く設置されている。両県における主要観光地の1つ。

2007年、「蔵王火山」として日本の地質百選に選定された。

主な山
日本海側と太平洋側とに分け、かつ、山形・宮城両県の県境を形成する「中央分水界」(分水嶺)が北東から南西にかけて斜めに走る一方、一般に「蔵王連峰」と認識される峰々は、これに交差するように北西から南東に斜めに走る(以下、これを「蔵王連峰」とする)。両者が交差するのは、熊野岳(主峰)と刈田岳の間の馬の瀬の稜線辺り。

このように蔵王連峰は、中央分水界(県境)をまたいで山形・宮城両県に張り出した形になっているため、各々の県内部分を「山形蔵王」「宮城蔵王」と呼ぶことがある。

中央分水界の峰々と蔵王連峰の峰々の両者の総称として「蔵王」と呼ばれるが、「蔵王連峰」の名称で一括されることも多々ある。以下、総称は「蔵王」とする。
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いただいた写真の説明にも、それらの地名がある。
それにしても、すごい雪の量である。しかしF氏からのメールによると今年は蔵王の雪は平年より遥かに少ないそうである。

300px-E894B5E78E8BE980A3E5B3B0.jpg

写真⑤が今年の一月に宮城県側から撮られた蔵王連峰の姿である。
(ただし、この写真はF氏の撮ったものではない、念のため)

以上、写真を掲げて、T・F夫妻への御礼としたい。
写真は少しトリミングしたが、ほぼ原寸大のものである。

  
  
掃くは惜し掃かぬは憂しと緋椿の散り敷く径に思案をすべし・・・・・・・・木村草弥
t-syuzan周山椿
 
 掃くは惜し掃かぬは憂しと緋椿の
      散り敷く径(みち)に思案をすべし・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
すでに、ご承知の方も居られると思うが、

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

という作品があり、私の歌は、この句を踏まえたものである。
「本句取り」と申してもよいだろう。
この記事をご覧になった人からの指摘があり、ここに明記しておきたい。
この歌のつづきに

雲水の持つ箕の中は落椿この園の花五衰に入るか

という歌が載っている。この歌については2月23日付けで採り上げているのでご覧いただきたい。

今回は、そろそろ咲きはじめる「椿」を採り上げる。
椿には何百という栽培品種があるようだが、関西で産出された椿の写真を四つお目にかける。
トップ掲出の写真①は「周山」椿というもので、周山というのは京都市の北方にある町の名前である。そこで産出されたものだろう。

写真②は「谷風」という椿である。
t-tanikz谷風(関西)

写真③は「淡粧」という命名を持つピンク系の椿である。
t-tanso淡粧(関西)

椿と「さざんか」は同じツバキ科の木であり、この花は一見するとサザンカに似ているが、椿とサザンカの違いは、サザンカは花びらが、ばらばらと落ちるの対して、ツバキは萼の付け根から花全体がぽろりと一度に落ちる、という違いがある。
だから昔の武士は首が落ちると言ってツバキを嫌ったという。
ツバキの名前だが、それぞれ趣向を凝らしてつけてある。花と名前を比べて見られよ。
写真④は「百合椿」という命名である。
t-yuri百合椿(関西)

先に書いたように、ここに挙げる4点のツバキは、みな関西で産出されたものである。
④のものは花びらの形が独特である。唇を尖がらしたような特異な形をしている。
育種に携わる人は根気のある人なのだろう。たくさんのツバキの中から突然変異で出て来たものを品種固定することもあろうし、今ではバイオテクノロジーの技術を駆使することもあろうが、それにしても手間のかかることである。
写真⑤は「酒中花」という名前の「やぶ椿」である。
syucyuka00801やぶ椿

伝統的なやぶ椿の系統らしいが、縁取りに薄紅色の「ふくりん」というのかボカシが入っており、これが何だか酔っ払っているようで「酒中花」という名がついたようである。3/18付けのの石田波郷のところを見られたい。

豊臣秀吉の椿好きは有名で、
俳人では石田波郷も、椿を好んだと言われている。

 一つ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

この句から彼の句集『酒中花』の題名が採られている。

文芸では「万葉集」以来、詩歌に詠われてきた。「玉椿」はツバキの美称である。
「つらつら椿」は連なり生えた椿のことで「万葉集」巻1(歌番号54)につらつら椿の有名な歌がある。

巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を・・・・・・・坂門人足

咲いている椿よりも「落ち椿」を文人は好んで詠った。掲出した私の歌なども「落ち椿」を詠んだものである。

 水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・鬼貫

の古句なども、そういう詠みぶりのものである。

椿を詠んだ句は古来たいへん多いが、「落ち椿」を詠んだものを少し引いておく。

 落ちざまに虻を伏せたる椿かな・・・・・・・・・・夏目漱石

 はなびらの肉やはらかに落椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 椿つなぐ子に父問へばウン死んだ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 椿流るる行衛を遠くおもひけり・・・・・・・・・・杉田久女

 椿見る落ちよ落ちよと念じつつ・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 愛すとき水面を椿寝て流る・・・・・・・・・・秋元不死男

 椿落つおろかにものを想ふとき・・・・・・・・・・稲垣きくの

 いま一つ椿落ちなば立去らん・・・・・・・・・・松本たかし

 落椿美しければひざまづく・・・・・・・・・・田畑美穂女

 落ちる時椿に肉の重さあり・・・・・・・・・・能村登四郎

 海女の村昼の男に椿満つ・・・・・・・・・・飯田龍太

 犇きて椿が椿落としけり・・・・・・・・・・岡本眸

 落椿われならば急流へ落つ・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ・・・・・・・・・・池田澄子

 神が来し海上の道岬椿・・・・・・・・・・本井英

 はいてもはいても女人禁制の庭椿・・・・・・・・・・仁平勝

 椿千われ白骨と化する日も・・・・・・・・・・永島靖子
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この私の歌と阿波野青畝の句の「下敷き」のことに触れたが、俳句、短歌の世界では「本句取り」「本歌取り」などと言われて古来やってきた習慣である。
世界的に見ても、西欧詩などでは、「引用」の明記、非明記にかかわらず、他人の作品の「フレーズ」を自分の作品の中に取り込むのは、常時やられていることである。これを「コラージュ」という。
「非明記」の場合でも、その「原句」を知っているひとは、「ははん、これは、あれだな」と思って、独りほくそ笑むというのが、読書人としての楽しみなのである。
一般的には「本句取り」というのは、引用句の終りから二番目の「仁平勝」の句のような場合を指すが、まあ、そこは硬いことは言わずに、何でもありでいいのではないか。
ただし俳句作者の場合は、私のやったような五、七という上の句、中の句をそのままいただいた場合には盗作ということになろう。

  
聞酒に誘はれ口にふふみたる此の旨酒の銘は「神奈備」・・・木村草弥
kikizake04利き酒茶碗

  聞酒(ききざけ)に誘はれ口にふふみたる
     此の旨酒(うまさけ)の銘は「神奈備」・・・・・・・・木村草弥


冬は日本酒の「仕込み」のシーズンであり、今はおいしい新酒が出来て来ている。今日は「利き酒」の話題を。
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この「神奈備」という銘は私が勝手につけた名前で実在しない。全国どこかにあるかも知れないが、この歌とは関係がない。私が参加した「利き酒会」は平凡な名前の蔵で、歌に詠む時には乗り気になれなかったので、架空の名にした。
写真①の茶碗は「審査茶碗」と言って、利き酒をする場合に使用する独特の茶碗である。
「神奈備」というのは、大和の三輪山その他、全国各地に存在する地名で「神の坐(いま)す地」という意味で、古代から信仰の対象として崇められてきた。

写真②③は、私の住む所から木津川を隔てて対岸の丘にある「神奈備神社」である。

kannabi_shrine_2神奈備神社

kannabi_shrine神奈備神社

写真でも読み取れるが「式内」社の字が見え、この字のつく神社は古代はじめからの神社であることを示している。
この山一帯は甘南備山と呼ばれ、一帯には古代の古墳が多数存在する。継体天皇の「筒城宮」もこの一角にあったとされる。
ついでに言うと、この丘の一角に近年、同志社大学が「田辺校地」を構え、女子大学と工学部の全部と各学部の「教養課程」の2年間の学生が通学する。チャペルも設置され、丘の上の煉瓦づくりの校舎が遠望できる。
もっとも、全国的な傾向だが、大学発祥の地に回帰するのが風潮で、同志社も京都市内の「今出川」校地の周辺を買収して校地を広げて、教養課程も今出川校地に戻すことになっている。だから田辺校地に残るのは女子大学と工学部だけとなる。それと海外からの帰国子女のための「同志社国際高校」がある。
また、この丘の麓には「一休禅師」が晩年隠れ住んで、森女と愛欲のかぎりを尽したという「一休寺」がある。このいきさつについては私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で「狂雲集」という一連で歌にしておいた。
そのうちの一首を抜き出すと

一休が森手をみちびき一茎を萌えしめし朝 水仙かをる・・・・・・・木村草弥

というものである。これはメタファーに仕立ててあるので、解説すると「森手」というのは「森女」の手ということであり、「一茎」というのはpenisのことであり、「水仙」というのは文芸の世界ではvaginaのことを指す隠語として定着しているのである。
「利き酒」から話題が逸れたようだが、そういう「いわれ」のある名前を私は歌の中で使いたかったのである。私が酒の蔵元だったら、この「神奈備」の名前を必ずつけるだろう。

写真④⑤には全国的にも銘酒の誉れ高い京都伏見の蔵元の写真を掲げておく。

kiki01大倉

kiki02黄桜カッパカントリー

清酒醸造石数トップの「月桂冠」の大倉酒造(現・月桂冠)と、新興勢力だが醸造石数もトップクラスに躍り出た「黄桜」の黄桜酒造(現・黄桜)の本社である。黄桜はコマーシャルでも才を発揮し、この本社も「黄桜カッパカントリー」と称している。これらのところでは有料だが、利き酒と料理が楽しめる。京都の観光コースにも入っていて、工場見学と「利き酒」と料理などがセットになっているものもある。
下記に引いた資料のように2007年度には「白鶴」がトップになっているので念のため
誤解のないように申し添えると、現在では大手の酒造会社では、工場、蔵全体が空調になっていて、年中休みなく醸造する、いわゆる「四季醸造」になっている。だから冬の間だけ酒を仕込むということがない。また酒仕込みに特有の「杜氏」(とうじ)という専門職は無くなって、彼らの「ノーハウ」をコンピュータ制御の数値化して、工場の従業員が扱える蔵になっているのである。もちろん「生きている」発酵菌を扱うのであるから、それなりの苦労があるのは自明のことである。正確に言うと、「杜氏」という出稼ぎの専門職が無くなって、年中働く、連休もボーナスもある、健康保険も有給休暇もある、普通の工場労働者になったということである。もちろん「酒作り」という特殊な技能を持った技能者であるのは当然のことである。

ついでに付け加えておくと、以前は国税庁が清酒の仕込みの「酒米」の石数を割り当てていて、制限があった。だから地方の小さな蔵元は醸造した酒を「桶売り」と称して、大手酒造に買い取ってもらっていたのである。
中には酒の仕込みもせずに割り当ての原料米の権利だけを売り渡していたところもあったという。私の村にある酒造会社も、ひところは月桂冠に「桶売り」していた。そんな枠もなくなって仕込みは自由であるが、地方の小さな蔵元は販売先を確保するのに大変であり、また独自の吟醸酒などに特化して、それなりの成功を収めているところもある。清酒だけでなく「梅酒」を作ったりして門戸を広げて生き残りに必死である。
なお参考までに以下のような統計記事をお見せする。
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清酒のランキング10を見てみましょう、下図のように成っています。

 銘 柄 企業名 製造石数
01、白 鶴 白鶴酒造㈱ 347,000石
02、月桂冠 月桂冠㈱ 300,000石
03、松竹梅 宝酒造㈱ 259,000石
04、大 関 大関㈱ 225,000石
05、日本盛 日本盛㈱ 178,000石
06、世界鷹G ㈱小山本家酒造 133,000石
07、黄 桜 黄桜㈱ 125,900石
08、菊正宗 菊正宗酒造㈱ 118,000石
09、オエノンG オエノンHD㈱ 107,778石
10、白 雪 小西酒造㈱ 89,500石
 出典:酒類統計月報(07年02月号)

どのメーカーも努力されてはいますが清酒飲酒の減少傾向は続いています。
この清酒減少傾向は、トレンドですのでこの流れが変化する様子は今のところ見られません。食生活や消費者の意識が少しでも変化し、変化の兆候が見られれば傾向は変る可能性が有りますが、今のところ変化の兆候は見られません。

清酒に取って現在は受難の時代なのです。
昭和48年を境に清酒の減少傾向が今も続いています、
ピーク時の半分以下です、焼酎にも抜かれてしまいました。

清酒の合計数量は、3,941,506石です。
焼酎の合計数量は、4,200,000石と成っています。


ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・石田波郷
syucyuka00801やぶ椿

  ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・石田波郷

今日3月18日は石田波郷の生れた日である。
この句は彼の晩年の昭和43年に出た句集『酒中花』の題名にもなった句である。
掲出した写真①が「酒中花」という名の伝統種のやぶ椿である。
「酒中花」という呼び名の由来は判らない。漢和辞典にも載っていないから、中国由来の漢語ではないらしい。
この花の花弁の縁取りが、ほんのり染まっている(ふくりん、と言うのか)様子が、何だか酔っ払っているようで、こんな名がついたのかも知れない。
なお「酒中花」についてはネット上で、下記のような説明がある。

酒中花(しゅちゅうか)
あんどんの灯は昔は普通、菜の花の油に山吹の茎の芯を浸してその先に火をつけましたが、その山吹などの髄芯を使った酒興の一つがあります。山吹などの茎の髄を花や鳥の形に作って押し縮めておきます。これを、盃に入れておいて酒を注ぐと、酒を吸って開くという趣向です。遊び心をたっぷり持った江戸人の考えそうなことですが、今私たちが粋がって行うほとんどのことは、100年以上前にすでに行われていたといって良いように思われます。>

cbccbc11-s花菖蒲

この説明にあるようなものが「玩具」として売られているようだが、私は見ていない。
ついでに申しあげておくと、酒中花というのは、写真②に挙げた花菖蒲にもあるのだ。
この花も椿と同じく花弁の縁が彩られている。

石田波郷は成人してからの大半を、持病の結核との闘病に費やした人である。
以下、事典に載る記事を先ず引いておく。

石田波郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石田 波郷(いしだ はきょう、1913年3月18日~ 1969年11月21日)は、昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。
草弥注・この記事では「垣生」となっているが、ハブと発音する限りでは「埴生」が正しいと思われる)

早くから句作
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。1919年4月、垣生尋常高等小学校に入学。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学(現・松山東高校)4年の時で、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)に勧められたことによる。俳号は「山眠」、「二良」とつけた。ちなみに中富は「如煙」、「悠々」と号した。中学5年の頃、同級生と「木耳(きくらげ)会」を起こす。同村の村上霽月主宰の今出(いまづ)吟社に出入りし、句作に励む。

本格的に活動
1930年3月、松山中学を卒業した波郷は自宅で農業を手伝いながら、同年4月、近くに住む俳人、五十崎古郷(いかざきこきょう)に指導を受けた。「波郷」という俳号は古郷による命名。水原秋桜子の指導を受けたことのある古郷の勧めで秋桜子主宰の『馬酔木(あしび)』に投句を始める。高屋窓秋らとともに流麗清新な抒情俳句に新風を開き、水原秋桜子門の代表的俳人となった。1932年2月20日、単身上京。5月頃、東京市経営の深川一泊所に勤務。10月頃、秋桜子の下で『馬酔木』の事務を、後に編集を担当するようになる。石橋竹秋子、牛山一庭人らと親しく交わり、俳句以外の文芸の世界にも目を開く。1934年4月、明治大学に入学(第3期生)。1935年11月、第1句集『石田波郷句集』を刊行。1936年3月、大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念する。同年9月、馬酔木新人会『馬』創刊。同人として加わる。1937年9月、『馬』と『樹氷林』を合併し、句誌『鶴』を創刊、主宰となる。波郷24歳であった。秋桜子は波郷の句を「昭和時代を代表する秀句」と絶賛した。1938年6月末、目黒区駒場町761駒場会館アパートに転居する。1939年8月、『鶴の眼』を上梓。新興無季俳句運動の素材的・散文的傾向に同調せず、韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれた。

戦争と病苦
第二次世界大戦中は、俳句固有の方法と格調を元禄俳句に探り、古典と競う俳句一途の決意を深めた。1942年3月、縁談の人、吉田安嬉子(本名せん)と初めて会い、同年6月27日九段軍人会館にて結婚挙式。1943年5月19日、長男修大(のぶお)が誕生し、同年6月、浦和市本太後原2145の岳父の家作に転居する。同月、未召集兵教育を受ける。波郷の禍福は9月23日、30歳で召集されたことに始まる。月末、千葉佐倉連隊に入隊し、10月初旬、華北へ渡り、山東省臨邑に駐留する。1944年、元旦を不寝番兵として迎える。同年3月、左湿性胸膜炎を発病、陸軍病院を転々とし、1945年1月22日夕刻に博多に帰還する。同年3月9日、安嬉子と修大を伴い北埼玉樋遺川村に疎開する。6月17日兵役免除となり、8月15日、盆休みの農家の庭先にて終戦の玉音放送を聞く。この頃より病気が再び悪化、以後、1969年に死去するまで、手術と入退院を繰り返す。

生をかみしめる秀句
しかし波郷は、病気との闘いを通して、生をかみしめ自分を見つめる数々の秀句を詠みついでいった。1946年1月、妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。同年3月10日、江東区北砂町1-805に転居。3月15日、長女温子(はるこ)が誕生。9月、綜合雑誌『現代俳句』を創刊、編集に当たり、1947年11月には現代俳句協会の創立など、俳壇の再建に尽力する一方、焦土俳句を経て、1950年6月に刊行された『惜命(しゃくみょう)』は、子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられている。「俳句は生活そのもの」とする波郷は、『ホトトギス』の「花鳥諷詠」に対する「人間探求の」俳句を深化させることに成功した。その後、病苦を乗り越え人生の日々を静かに凝視した句境を格調正しい表現によって詠み続けたが、1969年11月21日、肺結核で病没した。

作品リスト
1935/11 石田波郷句集
1939/08 鶴の眼
1940/03 行人裡
1941/01 俳句愛憎
1941/04 大足
1943/05 風切
1946/11 病鴈
1947/05 風切再刻版
1947/12 風切以後
1948/03 雨覆
1949/05 現代俳句大系第一巻 石田波郷集
1949/11 胸形変
1950/06 惜命
1952/03 石田波郷句集
1954/04 定本石田波郷全句集
1954/05 臥像
1954/12 自註石田波郷集上
1955/05 定稿惜命
1956/06 清瀬村
1957/03 春嵐
1957/04 現代俳句文学全集 石田波郷集
1957/05 俳句哀歓 俳句と鑑賞
1957/10 波郷自選句集
1966/07 江東歳時記
1967/11 定本石田波郷全句集
1968/04 酒中花
1970/05 酒中花以後
1970/11 石田波郷全集(1972年完結、全9巻、別巻1)
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上の記事にも書いてあるが「現代俳句協会」も彼が呼びかけて結成されたものである。参照されたい。
水原秋桜子門下からは彼の他にも加藤楸邨なども出ており、私も彼や楸邨は好きで何度も採り上げてきた。
季節の句として掲出句を挙げたが、改めて私の好きな句を引いて終る。

 プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ──昭和七年二月二十日上京

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷──銀座千疋屋にて

 女来と帯纏き出づる百日紅

 葛咲くや嬬恋村の字(あざ)いくつ

 雁や残るものみな美しき

 秋の風万の祷を汝一人に

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな

 稲妻のほしいままなり明日あるなり

 妻が来し日の夜はかなしほととぎす

 桔梗や男も汚れてはならず

 たばしるや鵙叫喚す胸形変

 麻薬うてば十三夜月遁走す

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ

 接吻もて映画は閉ぢぬ咳満ち満つ──患者慰問映画

 為さざりしことのみ春の落葉焚

 柿食ふや命あまさず生きよの語

 寒菊や母のやうなる見舞妻

 春雪三日祭のごとく過ぎにけり

 安心(あんじん)の一日だになし稲妻す

 蛍籠われに安心あらしめよ

 萬両や癒えむためより生きむため

 息吐けと立春の咽喉切られけり

 わが死後へわが飲む梅酒遺したし

 今生は病む生(しやう)なりき鳥頭(とりかぶと)
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末尾の6句ほどは死の間際の「辞世」と言える作品である。
末尾の句の「とりかぶと」というのは、ご承知のように「麻酔薬」であるが、彼の死の間際には痛みなどを和らげるためにモルヒネなどの麻薬が使われたかも知れないので、私の独断による推察だが、「とりかぶと」という表現は、その麻薬治療を踏まえてあるのかも知れない。
いずれにしても、この末尾の句は死の間際に際して、「俺の一生というのは、本当に病気との付き合いに終始した人生だっな」という悲痛な述懐の句と言えよう。
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電気が到来する明治以前は「明り」には蝋燭や行灯などが唯一の照明だったが、仏壇の灯明などは、私の子供の頃も、菜種油のかわらけに「灯芯」を浸して火をつけていた。だから、仏壇も煤けていたものである。蝋燭や菜種油を求めてネズミが仏壇の中に入り込んだりした。上の「酒中花」の遊びの記事は、そういう実生活の「灯明」を遊びないしは玩具化したものである。

なお松岡正剛の「千夜千冊」というサイトは私の愛読するところだが、波郷句集『鶴の眼』の記事も面白いので参照されたい。波郷のご子息修大氏が日本経済新聞の論説委員だったことなど、私はこのサイトで知った。

googleの検索で「石田波郷」で探すと「風鶴山房」というご長男・修大氏の制作されるサイトがある。
ご覧になってみてもらったらよいが、目次のページに「あき子の部屋」というのがある。これは夫人の名だが、そのページのドアが「寒菊や母のやうなる見舞妻」という波郷の句になっている。上に私が引用した句である。
なお、夫人の名は安嬉子(本名せん)であり、ペンネームとしては「あき子」になつているらしい。この「あき子の部屋」には、波郷と妻との相聞の句のやりとりなど、私生活にわたって書かれているので、ほのぼのとした雰囲気にひたれる。ぜひアクセスされることをおすすめする。
「波郷語録・著作」のページのドアは「霜柱俳句は切字響きけり」という句になっているが、この句は、かの桑原武夫の「俳句第二芸術論」に反論した句として知られている。松岡正剛の記事にも書かれているが、これらのいきさつを読みすすむのも、私には、とても楽しい時間である。
それにしても、このご子息・修大氏のページの最終更新が2004年末以後ないのが気にかかる。他の記事で「腎臓癌の手術うんぬん」とあるので、それ以後、体調を壊しておられるのか。

角川書店刊「石田波郷読本」というのを7&yを通じて買い求めた。これには全句集も入っているし、随筆もたくさん収録されている。つれづれに目を通すのに最適である。
先に「今生は病む生なりき鳥頭」という句の「解」を書いたが、これらを読んでいると「痛み止め」に麻薬を何度も使っているようで、私の「解」に自信を深めた。



真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

野ゆき山ゆき海辺ゆき

真ひるの丘べ花を藉(し)き

つぶら瞳の君ゆゑに

うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

 1.
野ゆき山ゆき海辺ゆき
真ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。

 2.
影おほき林をたどり
夢ふかき瞳を恋ひ
なやましき真昼の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。

 3.
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。

 4.
君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。
佐藤春夫については2007年初夏に少し書いたことがある。
掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。

  
夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず・・・・木村草弥
tukusikinokawa土筆

  夜の卓に土筆(つくし)の吐ける胞子とび
      我死なば土葬となせとは言へず・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
川の堤防の土手などに「つくし」が頭を出す時期になってきた。
採ってきた「つくし」をテーブルの上などに置いておくと、未熟なものでは駄目だが、生長した茎が入っていると、私の歌にあるように「胞子」が白く下に溜まってばら撒かれることがある。

この頃では季節の野草としてスーパーなどで「つくし」が売られるような時代になってきたが、本来は春の野にでて「摘草」を楽しむものであろう。
「つくし」は「スギナ」の若い芽(正しくは胞子茎)で、学名を
Equisetum arvense という。スギナは嫌われものの野草で深い根を持ち、畑などに侵入すると始末に負えないものである。
食料として「つくし」を見ると、子供には、苦くて、旨くなくて、なじめない野草だった。大人の、それも男の大人の酒の肴というところであろうか。

昔の人は、土の中から、あたかも「筆」先のような形で出てくるので、これを「土筆」(つくし)と呼んだのである。

tukusi土筆

私の歌は「国原」という長い一連の中のもので、この歌の前に

土筆(つくし)生(お)ふ畝火山雄々し果せざる男の夢は蘇我物部の

あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌(た)けゆく


という歌が載っている。
こうして一首あるいは二首を抜き出すと判りにくいかも知れない。一連の歌の中で、或る雰囲気を出そうとしたものだからである。
掲出した歌も上の句と下の句とが、ちょうど俳句の場合の「二物衝撃」のような歌作りになっていて、この両者に直接的なつながりはなく、それを一首の中に融合させようとしたものである。
敗戦後しばらくまでは、私の地方では、伝統的に「土葬」だった。私なども町内の手伝いとして何度も、土葬のために墓の穴掘りに出たものである。すでに埋葬された人の人骨などが出てくることもあった。キリスト教では基本的に土葬であり、土葬が野蛮とか遅れているとかいうことは出来ない。風習の問題である。「火葬」は仏教に特異な遺体の処理法であると知るべきである。今では、当地も、すっかり火葬一色になってしまった。墓が石碑で固めた墓地になってしまったので、私だけ「土葬」にしてくれ、といっても出来ない相談である。

二番目の歌について少し解説しておくと「蘇我物部」(そが・もののべ)というのは、蘇我氏、物部氏とも滅びた氏族である。ご存じのように蘇我氏は渡来人系であり、物部氏は日本古来の氏族であったが蘇我氏などとの抗争で滅ぼされた。だから私の歌では、それを「果せざる男の夢」と表現してみたのである。

墓地にはスギナが、よく「はびこる」ものである。私の歌の一連は、そういう墓地とスギナとの結びつきからの連想も歌作りに影響している、とも言えようか。
「つくし」を詠んだ句は大変多いので、少し引いておく。
写真③が土筆が生長した「スギナ」である。まだ遅生えの土筆も見える。

sugina-apスギナ

 土筆野やよろこぶ母に摘みあます・・・・・・・・・・長谷川かな女

 病子規の摘みたかりけむ土筆摘む・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 つくづくし筆一本の遅筆の父・・・・・・・・・・中村草田男

 土筆見て巡査かんがへ引返す・・・・・・・・・・加藤楸邨

 まま事の飯もおさいも土筆かな・・・・・・・・・・星野立子

 土をでしばかりの土筆鍋に煮る・・・・・・・・・・百合山羽公

 土筆折る音たまりける体かな・・・・・・・・・・飯島晴子

 生を祝ぐ脚長うしてつくしんぼ・・・・・・・・・・村越化石

 土筆の袴とりつつ話すほどのこと・・・・・・・・・・大橋敦子

 惜命や夜のつくしの胞子吐く・・・・・・・・・・神蔵器

 一行土筆を置けば隠れけり・・・・・・・・・・小桧山繁子

 土筆など摘むや本来無一物・・・・・・・・・・矢島渚男

 週刊新潮けふ発売の土筆かな・・・・・・・・・・中原道夫

 着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ・・・・・・・・・・池田澄子

 生きる途中土筆を摘んでゐる途中・・・・・・・・・・鳥居真理子

 「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと・・・・・・・・・・小沢実

 生き死にの話に及び土筆和え・・・・・・・・・・増田斗志

 末黒野の中の無傷のつくづくし・・・・・・・・・・村上喜代子

 摘み溜めて母の遠さよつくづくし・・・・・・・・・・田部谷紫

 土筆たのし巨木のやうに児は描く・・・・・・・・・・国分章司


森村泰昌・藤森照信『フリーダ・カーロのざわめき』・・・木村草弥
602162フリーダ・カーロ

──新・読書ノート──初出Doblog─2008/03/23

  森村泰昌・藤森照信『フリーダ・カーロのざわめき』・・・・・木村草弥
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新潮社・とんぼの本2007/09刊)

はじめに、新潮社の、この本の編集者の言葉を引いておこう。
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「フリーダは人生も凄いけど、絵がおもしろい!」。日本を代表する美術家・森村泰昌さんによる、本書の冒頭を飾る言葉です。確かにフリーダって人生が凄すぎて、ともすると作品より生き方のほうを強調されがち。少女時代の病気と事故による肉体的ハンディ、著名な壁画家である夫ディエゴ・リベラとの激しい愛憎劇、男女を問わず重ねた情事(しかも相手は著名人ばかり!)……。
 しかし、森村さんが指摘されるとおり、フリーダは作品じたいも凄いんです(凄い人生があるから凄い作品が生まれたともいえるのですが)。彼女が描いたのは、主として自画像。数えきれないほど描いていますが、いずれの作品でも、力強く揺るぎのない眼差しがこちらを見据えています。たとえ身体は傷だらけでも、涙を流していても、生を信じ続ける心が、そこにある。フリーダが遺作に記したメッセージも「生命万歳」でした。これこそ、彼女にとって永遠のテーマだったのではないでしょうか。

 さて、今年2007年は、フリーダの生誕100周年を飾る年。メキシコシティでは、大規模な回顧展が開催されました。会場となったのは、フリーダの葬儀が行われた国立芸術宮殿と、生家である「青い家」(現・フリーダ・カーロ博物館)。主要作品の多くが集められたほか、永らく封印されていたデッサンや写真、書簡類も初公開され、内外から40万人もの観客が訪れたといいます(現地在住リポーターによる詳細は、本書でどうぞ!)。秋以降は、アメリカでも展覧会が巡回するほか、世界各地で写真展や舞台などの記念イヴェントが開催される予定だとか。日本での展覧会が待ち遠しいのですが、現在のところ、確たる情報はキャッチできず……。フリーダの作品をじかに目にする機会が訪れるその日に向けて、本書をぜひお手元に。
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FRIDAフリーダ・カーロ

ここでネット上から彼女に関する記事を転載しておく。

フリーダ・カーロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フリーダ・カーロと夫のディエゴ・リベラフリーダ・カーロ(Frida Kahlo、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。当時のメキシコシティ郊外、南西にある小さな町コヨアカンに生まれた。父親は画家・写真家でルーマニア オラデア出身のドイツ系ユダヤ人移民であった。

6歳の時ポリオ(小児麻痺)に罹患し右足が不自由になった。更に1925年9月17日、学校から下校途中に乗っていたバスで事故にあい、肩の脱臼、肋骨・鎖骨・背骨・骨盤が骨折、右足の粉砕骨折、子宮等女性器に重度の受傷を被る瀕死の重傷を負った。

入院中絵を独学で学び、創作した作品が、著名な壁画家であったディエゴ・リベラ(Diego Rivera, 1886年 - 1957年)に才能を認められ、後1929年8月21日に結婚。リベラの浮気、バス事故の後遺症での流産を繰り返すなどがあり1939年離婚するが翌年復縁、以降、怪我の後遺症に苦しみながら創作活動をした。

ヨーロッパ的感性にインスピレーションを得た創作活動を行い、知的かつ特徴的な独自のシュルレアリスムの創作は、のちにフランスのシュルレアリストたちに高く評価された。

メキシコで最も有名な画家の一人とされ、とくに結婚後の恋愛(彫刻家のイサム・ノグチやロシアの革命家レフ・トロツキーなどとの奔放な恋愛、いわゆる不倫)は憧れと尊敬の対象で、メキシコやラテンアメリカの女性のひとつの理想像の典型とされ、何度か映画化されている。社会主義を建前とするメキシコで生活したため、スターリンを尊敬し、居室にスターリンの肖像を掲げて暮らしていた。 (メキシコ共産党員)一説にはメキシコで最初にジーンズを履いた女性といわれる。

1954年7月13日肺塞栓症により47歳で逝去した。フリーダ・カーロの生家であった通称「青の家」(La Casa Azul)は、現在フリーダ・カーロ博物館(Museo de Frida Kahlo)となっている。
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森村泰昌と言えば「コラージュ」の第一人者と言われ、世間でよく知られている──たとえば、「モナリザ」の絵をコラージュ化してみたり、はてはモナリザに成りきって写真に撮らせたりという「絵画」という概念をひっくり返すような破天荒なことをやる美術家であるが、その彼が書くフリーダだから文章も、とても面白いのである。
先に見たようにフリーダ自身が、夫にさまざまの不倫をされ、自身も破天荒な「不倫」を重ねてきた人なのであった。
松岡正剛の森村についての記事なども面白いので見てもらいたい。

冴返る二三日あり沈丁花・・・・・・・・・高野素十
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 冴返る二三日あり沈丁花(ぢんちやうげ)・・・・・・高野素十

ジンチョウゲは寒さに強い木で寒中から花芽をつけている。
花が写真のように咲き開くのは三月になってからだが、極めて強い香りが特徴である。だから屋内に置くのは無理である。
私の方の庭にもジンチョウゲがあったが木の芯のところに芯虫が入りやすく、その株は枯れてしまったので、引き抜き、土を木酢液で充分に消毒してから、鉢植にしてあったジンチョウゲを跡の土に下ろした。数年順調に大きくなって花をつけていたが、結局また枯れてしまった。だから今は無い。

jinchoge沈丁花
写真②は垣根状になった大きな株である。
図鑑によると、花びらのように見えるものは萼片(がくへん)で、ジンチョウゲには花びらはない、という。
ジンチョウゲは中国原産の常緑低木で、高さは1メートルくらい。枝が多く、卵形の厚い葉が密生して、全体として丸く玉のように茂る。
沈香と丁子の香りを合わせ持ったような香気があるという意味で沈丁花の名がある。
わが国へは江戸時代に中国から渡来し、生垣や庭先に植えられることが多い。

jinchouge0974沈丁花

私の歌にもジンチョウゲを詠ったものがあったと思って、さんざん探してみたが、見つからないので、俳句を掲出することにする。
素十の句にあるように、この花の咲く頃には冴え返るような「寒の戻り」の寒い日がある。
白い花のジンチョウゲがあると聞いてネット上から探し出したので、
写真④に載せる。

jincyo9白ジンチョウゲ

以下、歳時記に載る句を引いて終りたい。

 沈丁の香の石階に佇みぬ・・・・・・・・高浜虚子

 隣から吾子呼んでをり沈丁花・・・・・・・・臼田亞浪

 ぬかあめにぬるる丁字の香なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 靴脱に女草履や沈丁花・・・・・・・・水原秋桜子

 沈丁の四五花はじけてひらきけり・・・・・・・・中村草田男

沈丁の香の強ければ雨やらん・・・・・・・・松本たかし

 沈丁に雨は音なし加賀言葉・・・・・・・・細見綾子

 沈丁に水そそぎをり憂鬱日・・・・・・・・三橋鷹女

 沈丁も乱るる花のたぐひかな・・・・・・・・永田耕衣

 沈丁花多産を恥じる犬の瞳よ・・・・・・・・永野孫柳

 沈丁の花をじろりと見て過ぐる・・・・・・・・波多野爽波

 沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・・・・・・上村古魚

 授乳の目とぢて日向の沈丁花・・・・・・・・福田甲子雄

沈丁の恣(ほしいまま)なる透し垣・・・・・・・・石塚友二

 沈丁の香のくらがりに呪詛一語・・・・・・・・細川加賀

 鎌倉の月まんまるし沈丁花・・・・・・・・高野素十

c0128628_1181097ジンチョウゲ実
写真⑤はジンチョウゲの実。
雌雄異株で、実は雌株にしかできない。
日本には雌株は非常に少ないとのことで、実を見かけることは少ない。


今日の逢ひいや果ての逢ひと逢ひにけり村々に梅は咲きさかりたり・・・中野重治
nakanosigeharu中野重治墓

 今日の逢ひいや果ての逢ひと逢ひにけり
     村々に梅は咲きさかりたり・・・・・・・・・・・中野重治


今日逢うのが最後、と思いつつ恋人に逢った。村々は梅の真っ盛りだった、の意味である。
「逢ひ」という言葉を三回繰り返すルフランの効果が、すばらしい。
この歌の他に

相よりてくらやみのなかに居りしかば吾が手かすかに人の身に触れつ

風吹けばただに逢はんと手をのべつ心かよふといへどせつなく


などの歌も並んでいる。
掲出した歌は大正12年に四高の校友会雑誌に発表した恋歌の一首。
後のプロレタリア作家として著名な中野重治の若い頃の歌である。この頃の室生犀星や窪川鶴次郎らとの交遊のさまは小説の初期代表作「歌のわかれ」にうかがわれる。
『中野重治全集』から。

後年のプロレタリア作家あるいは評論家として戦争中は投獄されたり、執筆禁止を食らったり、という境遇からは、想像できないような、真っ当な、伝統的な詠いぶりである。
『中野重治詩集』などに見られるような政治性、プロパガンダ性の強い詠いぶりとは、大違いである。
そういう時期もあった、という見本として引いておく。
作者は戦後、参議院議員として政治活動にも携わった人である。

写真は中野重治の墓である。
彼の墓というよりも「中野家」の墓であり、彼の故郷の村の「太閤さんまい」だと書かれている。詳しくは、このリンクの記事を読んでもらいたい。
彼の夫人は新劇俳優の原泉だった。

他に「中野重治記念文庫」「Wikipedia」などに詳しく出ているので参照されたい。

中野重治の著作で注目すべきものは、ほぼ戦前に出つくしていると言ってよい。『詩集』にせよ『歌の別れ』にせよ『斎藤茂吉ノオト』にせよ、特高警察の厳しい監視の中にありながら書かれたものである。
戦後の政治活動などは、文学者らしい偏狭な拘りは見られるものの、彼の執筆者としての生涯からすると蛇足みたいなものである。

春くれば田んぼの水に蝌蚪の語尾活用を君は見るだらう・・・・草弥
img1098ヒキおたまじゃくし
 
春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじゃくし)の
    語尾活用を君は見るだらう・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

「蝌蚪」(くわと)とは「おたまじゃくし」のことだが、以前にも書いたが、この字は中国の上代に、竹簡に漆の汁をつけて字を書き、その字の形が頭が大きく尾が小さい、おたまじゃくしに似ているので、そう名づけられ、それを明治以降、俳人たちが「音読」利用しているものである。

私の歌は、「おたまじゃくし」の尻尾を、日本語の「語尾活用」と捉えて、いわば「比喩」的に表現したものである。一種のユーモアと受け取ってもらっても結構である。
歌としては、取り立てて、どうという名歌ではないが、「比喩」表現を理解する人には好評だった。
歌作りでは、こういう「凝った」作り方を時としてやってみたくなるものである。
所詮は短歌も「歌遊び」「言葉遊び」であるから、さまざまの趣向を考えることが必要だろう。
こういう「言葉遊び」を理解しようとしない頭の固い人が往々にして存在するので、困るのである。
いかがだろうか。

「おたまじゃくし」は俳句の世界では「春」の季語で、歳時記には多く見られる。
先に引いたものと多少は重複するかも知れない。ご了承を。

 川底に蝌蚪の大国ありにけり・・・・・・・・・・村上鬼城

 蝌蚪の水わたれば仏居給へり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 流れきて次の屯へ蝌蚪一つ・・・・・・・・・・高野素十

 枕べに蝌蚪やすみなき手術以後・・・・・・・・・・石田波郷

 蝌蚪に足少しいでたる月夜かな・・・・・・・・・・長谷川双魚

 蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て・・・・・・・・・・金子兜太

 吾のため歌ふ子蝌蚪の水昏るる・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 蝌蚪かくも群れて天日昏めたる・・・・・・・・・・桑田青虎

 蝌蚪沈みゆけり頭を真逆さま・・・・・・・・・・大橋敦子

 蝌蚪の水少年のなほ女声・・・・・・・・・・辻田克巳

 蝌蚪生れて白き窓もつ文学部・・・・・・・・・・原田青児

 心ざし隆々たりし数珠子かな・・・・・・・・・・大石悦子

 散り散りの幼な馴染や蝌蚪の陣・・・・・・・・・・船平晩秋

 蝌蚪離合集散のたび数を増す・・・・・・・・・・長田等

 うたたねのはじめに蝌蚪の紐のいろ・・・・・・・・・・鴇田智哉

 紐を出て紐に縋れる蛙の子・・・・・・・・・・木場瑞子

 泡一つ置きに来て蝌蚪沈みけり・・・・・・・・・・江川虹村

 やはらかき泥にくすぐりあうて蝌蚪・・・・・・・・・・高田正子

 蝌蚪生(あ)れてまだよろこびのほかしらず・・・・・・・・・・和田知子

 尾を振つて蝌蚪と生れたる嬉しさよ・・・・・・・・・・井上松雄

 底深く動かぬ蝌蚪の生きくらべ・・・・・・・・・・谷口栄子

おぼおぼと春の宵月赤ければ土龍は土をもくもく盛りぬ・・・・木村草弥
Mogura1もぐら

 おぼおぼと春の宵月赤ければ
   土龍(もぐら)は土をもくもく盛りぬ・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

写真はモグラ。百科事典によると、東日本にはアズマモグラ、西日本にはコウベモグラ、九州にキュウシュウモグラ、佐渡にサドモグラ、高山限定のシナノミズラモグラ、などが居るという。近年大型のコウベモグラが勢力を拡大して東は箱根山に及んでいるという。
この解説を見て気付くことは海で種が異なっていることである。つまりモグラは海を渡れないということであろうか。写真はネット上から拝借したもので、何モグラなのか私には判らない。

モグラは土の中のミミズや虫などを食べているもので、巣から餌場への往復に、もくもくとトンネルを掘り、農作物の根を荒らすので嫌われものである。
私の方の菜園でも、ひどい被害を受け、ペットボトルを再利用した「風車」などを設置してみたが、風がなければ地中に音が響かないし、殺鼠剤は使いたくないし、なかなか効き目がない。巣は雨水が入らない、何かの物体の下などに作るらしい。私の方の菜園ではコンポストの下に、どうも巣をしているらしいので、そこにトンネルを利用して石油ストーブ用の「灯油」を流し込んでみたら効果があった。
また、風車も、そうだが、地中に響く振動が嫌らしいので、菜園の4、5個所に長めの杭を打って、一日に数回、その杭を槌で20回くらい打つ、というのをやってみた。昨年は効果があった。
モグラは冬眠するので、今年また冬眠から覚めて悪いことをするようなら、試してみたい。
モグラの思い出としては、昔、少年の頃、モグラの被害を防ぐためにモグラの捕獲を奨励し、モグラを捕まえて農協へ持ってゆくと賞金をくれた。私の方は農家ではないのでやってみたことはなかったが、農家の子供たちはモグラを捕まえて小遣いかせぎをしていたのを覚えている。


春雷一閃あやとりの糸からみつつ迷路をくぐりゆくらし・・・木村草弥
thumb_1085912032稲妻

 春雷一閃あやとりの糸からみつつ
    迷路(ラビュリントス)をくぐりゆくらし・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「春雷」は別名「虫起し」とも言い、そのことは3/5付けの「啓蟄」のところでも書いた。

この歌を発表したときも評判は良くなかった。やはり判り難いということである。
この歌は「春雷一閃」「あやとりの糸」「からみつつ」「ラビュリントス」などの言葉が日常生活の情景と、どう関わるのか、というわけである。
この一連は「神経叢」という標題のもので8首の歌から成るが、全体として「暗喩」を利かした歌作りになっている。
ここで、そのメタファーを解き明かすことは、しない。いいように鑑賞してもらえば有難い。
一つだけヒントを差し上げると、掲出した写真の春雷の「いなづま」が「あやとりの糸」に見えないだろうか。
要は「想像力」の問題である──「メタファー」というのは。

以下「春雷」を詠んだ句を引いて終わる。

 下町は雨になりけり春の雷・・・・・・・・・・・・正岡子規

 比良一帯の大雪となり春の雷・・・・・・・・・・・・大須賀乙字

 再びの春雷をきく湖舟かな・・・・・・・・・・・・富安風生

 春雷や俄に変る洋の色・・・・・・・・・・・・杉田久女

 春雷や刻来り去り遠ざかり・・・・・・・・・・・・星野立子

 春雷や三代にして芸は成る・・・・・・・・・・・・中村草田男

 春の雷焦土しづかにめざめたり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷・・・・・・・・・・・・石田波郷

 句縁ただ仮りそめならず春の雷・・・・・・・・・・・・石昌子

 三山の天心にして春の雷・・・・・・・・・・・・沢木欣一

 春雷の闇より椎のたちさわぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 春雷の七十歳はなまぐさき・・・・・・・・・・・・伊藤白湖

 春雷を殺し文句のやうに聴く・・・・・・・・・・・・鈴木栄子

 春雷の余喘のわたる野づらかな・・・・・・・・・・・・鈴木貞雄

 春雷やかの日の銀の耳飾り・・・・・・・・・・・・坪内稔典

 窯出しの壺がまづ遇ふ春の雷・・・・・・・・・・・・辺見京子

 鞭のごと女しなえり春の雷・・・・・・・・・・・・岸本マチ子

 鶸飛べり出雲平野の春の雷・・・・・・・・・・・・葛井早智子

 幸せも過ぎれば不安春の雷・・・・・・・・・・・・黒田達子

老いづけるこころの修羅か春泥の池の濁りにひるがへる紅絹・・・草弥
img10631315564紅絹長襦袢

 老いづけるこころの修羅か春泥の
     池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)の長襦袢」である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢を着物の下着として身に着けて、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

 鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る・・・・大岡信
yun_596砂浜

  春のために・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

砂浜にまどろむ春を掘りおこし
おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
波紋のように空に散る笑いの泡立ち
海は静かに草色の陽を温めている

おまえの手をぼくの手に
おまえのつぶてをぼくの空に ああ
今日の空の底を流れる花びらの影

ぼくらの腕に萌え出る新芽
ぼくらの視野の中心に
しぶきをあげて廻転する金の太陽
ぼくら 湖であり樹木であり
芝生の上の木洩れ日であり
木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
ぼくら

新らしい風の中でドアが開かれ
緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
道は柔らかい地の肌の上になまなましく
泉の中でおまえの腕は輝いている
そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
静かに成熟しはじめる
海と果実
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この詩は1986年8月刊学習研究社『うたの歳時記』恋のうた・人生のうた、に載るものである。
みづみづしい現代詩の息吹に触れてもらいたい。
妻消す灯わが点す灯のこもごもにいつしか春となりて来にけり・・・・・・・・木村草弥
72279灯り
 
  妻消す灯わが点(とも)す灯のこもごもに
     いつしか春となりて来にけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌については若干の思い出がある。近藤英男先生と一緒に同道して出雲の「空外記念館」を訪ねたりしたことがあるが、先生は脚がお悪いので、往復の飛行機や乗物、ホテルなど、その面倒などを私がみたことがあり、そのお礼にと何か「書」を先生が言われたので、いただけるなら前衛的な書ではなく、伝統的な「かな書」の水茎麗しいものを所望しておいたところ、先生の旧知の後輩の奈良教育大学書道科の 吉川美恵子教授の書をお手配くださった。吉川先生は日展書道部の現役作家として数々の賞に輝く逸材であられる。また読売書法展などでも活躍される。
その時に吉川先生が書いて下さった私の歌が、掲出したものである。
二つ書いていただいた、もう一つは

かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

というものである。この歌については先に、このBLOGで採り上げたことがあると思う。
「灯り」(あかり)と言っても、その種類はさまざまである。
掲出の歌を作った頃は、妻が病気になりはじめた頃ではないか、
と思う。この歌の続きに

丹精の甲斐もあらずて大根の花を咲かせて妻病んでをり

の歌が並んでいるからである。
わが家では一番遅くに寝るのが妻であり、「妻消す灯」である。
朝ないしは夕方に私が灯を点すこともある。
それが「わが点す灯」ということである。誰が消すか、誰が点すか、ということは逆でもいいのである。
そういう順序にこだわってもらっては困る。
そういう日々の何気ない繰り返しがわが家の日常であった。
妻も私も元気であった頃は、そんなことは考えもしなかったが、妻が病気がちになって、こういう日常の何気ない光景が、貴重なことに思えるようになったのである。

この「書」二つは奈良の有名な店で表装してもらい掛け軸にし、吉川先生には「箱書」をお願いした。
妻亡き今となっては、この歌と掛け軸は、深い思い出とともに、この時期になると床の間に掲げて、妻を偲ぶのである。

奈良東大寺二月堂の「お水取り」が終ると関西では春らしくなるという。
その修二会は3月1日から14日間行なわれるのであった。
この言葉通りに三日ほど前から暖かく、朝の最低気温も7度とか8度という日が続いている。今年は「寒」に入ってから寒かったので、地虫が穴から出てくる「啓蟄」さながらに、戸外に出るのが愉しくなってきたから現金なものである。
その「お水取り」も、いよいよ14日で終わる。いよいよ本格的な「春」の到来である。

魚はも冬はひもじく耐へたれば春のうしほは愉しかるべし・・・草弥
yun_1315魚群

  魚はも冬はひもじく耐へたれば
     春のうしほは愉しかるべし・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌についての解説は不要だろう。
「春潮」とは春の海のあたたかい水の流れをいう。
いかにも海の生物をはぐくむ感じがする。
潮の色も明るく、藍色になり、澄んで見える。
潮の干満の差が大きくなり、彼岸の頃が一番の大潮となる。
そうなると干潟では「潮干狩」がおこなわれるようになる。

俳句では「春潮(しゅんちょう)」とも呼ぶ。
以下、それを詠んだ句を引いておく。

 春潮といへば必ず門司を思ふ・・・・・・・・高浜虚子

 春潮に梳(くしけづ)りをるものを刈る・・・・・・・・富安風生

 春潮に浮びて険し城ケ島・・・・・・・・水原秋桜子

 春潮に海女の足掻きの見えずなる・・・・・・・・山口誓子

 いつとなく解けし纜(ともづな)春の潮・・・・・・・・杉田久女

 春潮の彼処(かしこ)に怒り此処に笑む・・・・・・・・松本たかし

 春潮を見て来し胸や子を眠らす・・・・・・・・細見綾子

 春潮や三ケ月型に海女もぐる・・・・・・・・加藤知世子

 春潮のかけのぼらんとする崖に・・・・・・・・山口青邨
 
 紀の国の渚は長し春の潮・・・・・・・・高浜年尾

 春潮に巌は浮沈を愉しめり・・・・・・・・上田五千石

 ひらかなの柔かさもて春の波・・・・・・・・富安風生

 春の涛寄せたるあとはささやけり・・・・・・・・加倉井秋を
 
 春涛の一線あまる小漁港・・・・・・・・大野林火

春雷が大地を打ちてめざめしむ啓蟄の日よ昏き蛇穴・・・・・・草弥

azuma8アズマヒキガエル

春雷が大地を打ちてめざめしむ
 啓蟄(けいちつ)の日よ昏(くら)き蛇穴・・・・・・・・・・・木村草弥


今日3月5日は二十四節気の一つ「啓蟄」の日である。
啓とはひらく、蟄とは巣ごもりのこと。
つまり土中に冬眠していた爬虫類、両棲類や虫が、この頃になると冬眠から覚めて、地上に姿を現すこと。
また「地虫」そのものを指すこともある。
啓蟄をさらに具体的に言った言葉に、地虫穴を出づ、蛇穴を出づ、蜥蜴穴を出づ、などがある。
今まだ寒い日もあるので彼らの動きは鈍いだろう。まだ穴を出ていないかも知れない。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この頃に鳴る雷を「虫出しの雷」などと言う。掲出の私の歌は、まさに、そういう光景を詠ったものである。
この「啓蟄」という言葉には、天地が春の躍動を示しはじめた喜びと活気を表わし、開放感がこめられていると言えよう。
掲出した写真はガマガエルである。歌に詠んだ「蛇」の適当な写真がないので、同じく、この頃に地上に出てくるガマガエルで代用する。正式の学名は「アズマヒキガエル」という。

俳句でも古くからさまざまに詠われてきた。それを少し引いておく。

 啓蟄の蟻が早引く地虫かな・・・・・・・・高浜虚子

 啓蟄のいとし児ひとりよちよちと・・・・・・・・飯田蛇笏

 香薬師啓蟄を知らで居賜へり・・・・・・・・水原秋桜子

 啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる・・・・・・・・山口青邨

 啓蟄の雲の奥より仏の目・・・・・・・・加藤楸邨

 啓蟄や四十の未知のかぎりなし・・・・・・・・能村登四郎

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・石川桂郎

 水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・森澄雄

 啓蟄の土洞然と開きけり・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・川端茅舎

この句などは、先に書いた「啓蟄=地虫」そのものを描いている。

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・大野林火


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