K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・石田波郷
syucyuka00801やぶ椿

  ひとつ咲く酒中花はわが恋椿・・・・・・・・・・・石田波郷

今日3月18日は石田波郷の生れた日である。
この句は彼の晩年の昭和43年に出た句集『酒中花』の題名にもなった句である。
掲出した写真①が「酒中花」という名の伝統種のやぶ椿である。
「酒中花」という呼び名の由来は判らない。漢和辞典にも載っていないから、中国由来の漢語ではないらしい。
この花の花弁の縁取りが、ほんのり染まっている(ふくりん、と言うのか)様子が、何だか酔っ払っているようで、こんな名がついたのかも知れない。
なお「酒中花」についてはネット上で、下記のような説明がある。

酒中花(しゅちゅうか)
あんどんの灯は昔は普通、菜の花の油に山吹の茎の芯を浸してその先に火をつけましたが、その山吹などの髄芯を使った酒興の一つがあります。山吹などの茎の髄を花や鳥の形に作って押し縮めておきます。これを、盃に入れておいて酒を注ぐと、酒を吸って開くという趣向です。遊び心をたっぷり持った江戸人の考えそうなことですが、今私たちが粋がって行うほとんどのことは、100年以上前にすでに行われていたといって良いように思われます。>

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この説明にあるようなものが「玩具」として売られているようだが、私は見ていない。
ついでに申しあげておくと、酒中花というのは、写真②に挙げた花菖蒲にもあるのだ。
この花も椿と同じく花弁の縁が彩られている。

石田波郷は成人してからの大半を、持病の結核との闘病に費やした人である。
以下、事典に載る記事を先ず引いておく。

石田波郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石田 波郷(いしだ はきょう、1913年3月18日~ 1969年11月21日)は、昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。
草弥注・この記事では「垣生」となっているが、ハブと発音する限りでは「埴生」が正しいと思われる)

早くから句作
愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。1919年4月、垣生尋常高等小学校に入学。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学(現・松山東高校)4年の時で、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)に勧められたことによる。俳号は「山眠」、「二良」とつけた。ちなみに中富は「如煙」、「悠々」と号した。中学5年の頃、同級生と「木耳(きくらげ)会」を起こす。同村の村上霽月主宰の今出(いまづ)吟社に出入りし、句作に励む。

本格的に活動
1930年3月、松山中学を卒業した波郷は自宅で農業を手伝いながら、同年4月、近くに住む俳人、五十崎古郷(いかざきこきょう)に指導を受けた。「波郷」という俳号は古郷による命名。水原秋桜子の指導を受けたことのある古郷の勧めで秋桜子主宰の『馬酔木(あしび)』に投句を始める。高屋窓秋らとともに流麗清新な抒情俳句に新風を開き、水原秋桜子門の代表的俳人となった。1932年2月20日、単身上京。5月頃、東京市経営の深川一泊所に勤務。10月頃、秋桜子の下で『馬酔木』の事務を、後に編集を担当するようになる。石橋竹秋子、牛山一庭人らと親しく交わり、俳句以外の文芸の世界にも目を開く。1934年4月、明治大学に入学(第3期生)。1935年11月、第1句集『石田波郷句集』を刊行。1936年3月、大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念する。同年9月、馬酔木新人会『馬』創刊。同人として加わる。1937年9月、『馬』と『樹氷林』を合併し、句誌『鶴』を創刊、主宰となる。波郷24歳であった。秋桜子は波郷の句を「昭和時代を代表する秀句」と絶賛した。1938年6月末、目黒区駒場町761駒場会館アパートに転居する。1939年8月、『鶴の眼』を上梓。新興無季俳句運動の素材的・散文的傾向に同調せず、韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれた。

戦争と病苦
第二次世界大戦中は、俳句固有の方法と格調を元禄俳句に探り、古典と競う俳句一途の決意を深めた。1942年3月、縁談の人、吉田安嬉子(本名せん)と初めて会い、同年6月27日九段軍人会館にて結婚挙式。1943年5月19日、長男修大(のぶお)が誕生し、同年6月、浦和市本太後原2145の岳父の家作に転居する。同月、未召集兵教育を受ける。波郷の禍福は9月23日、30歳で召集されたことに始まる。月末、千葉佐倉連隊に入隊し、10月初旬、華北へ渡り、山東省臨邑に駐留する。1944年、元旦を不寝番兵として迎える。同年3月、左湿性胸膜炎を発病、陸軍病院を転々とし、1945年1月22日夕刻に博多に帰還する。同年3月9日、安嬉子と修大を伴い北埼玉樋遺川村に疎開する。6月17日兵役免除となり、8月15日、盆休みの農家の庭先にて終戦の玉音放送を聞く。この頃より病気が再び悪化、以後、1969年に死去するまで、手術と入退院を繰り返す。

生をかみしめる秀句
しかし波郷は、病気との闘いを通して、生をかみしめ自分を見つめる数々の秀句を詠みついでいった。1946年1月、妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。同年3月10日、江東区北砂町1-805に転居。3月15日、長女温子(はるこ)が誕生。9月、綜合雑誌『現代俳句』を創刊、編集に当たり、1947年11月には現代俳句協会の創立など、俳壇の再建に尽力する一方、焦土俳句を経て、1950年6月に刊行された『惜命(しゃくみょう)』は、子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられている。「俳句は生活そのもの」とする波郷は、『ホトトギス』の「花鳥諷詠」に対する「人間探求の」俳句を深化させることに成功した。その後、病苦を乗り越え人生の日々を静かに凝視した句境を格調正しい表現によって詠み続けたが、1969年11月21日、肺結核で病没した。

作品リスト
1935/11 石田波郷句集
1939/08 鶴の眼
1940/03 行人裡
1941/01 俳句愛憎
1941/04 大足
1943/05 風切
1946/11 病鴈
1947/05 風切再刻版
1947/12 風切以後
1948/03 雨覆
1949/05 現代俳句大系第一巻 石田波郷集
1949/11 胸形変
1950/06 惜命
1952/03 石田波郷句集
1954/04 定本石田波郷全句集
1954/05 臥像
1954/12 自註石田波郷集上
1955/05 定稿惜命
1956/06 清瀬村
1957/03 春嵐
1957/04 現代俳句文学全集 石田波郷集
1957/05 俳句哀歓 俳句と鑑賞
1957/10 波郷自選句集
1966/07 江東歳時記
1967/11 定本石田波郷全句集
1968/04 酒中花
1970/05 酒中花以後
1970/11 石田波郷全集(1972年完結、全9巻、別巻1)
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上の記事にも書いてあるが「現代俳句協会」も彼が呼びかけて結成されたものである。参照されたい。
水原秋桜子門下からは彼の他にも加藤楸邨なども出ており、私も彼や楸邨は好きで何度も採り上げてきた。
季節の句として掲出句を挙げたが、改めて私の好きな句を引いて終る。

 プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ──昭和七年二月二十日上京

 あえかなる薔薇撰りをれば春の雷──銀座千疋屋にて

 女来と帯纏き出づる百日紅

 葛咲くや嬬恋村の字(あざ)いくつ

 雁や残るものみな美しき

 秋の風万の祷を汝一人に

 牡丹雪その夜の妻のにほふかな

 稲妻のほしいままなり明日あるなり

 妻が来し日の夜はかなしほととぎす

 桔梗や男も汚れてはならず

 たばしるや鵙叫喚す胸形変

 麻薬うてば十三夜月遁走す

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ

 接吻もて映画は閉ぢぬ咳満ち満つ──患者慰問映画

 為さざりしことのみ春の落葉焚

 柿食ふや命あまさず生きよの語

 寒菊や母のやうなる見舞妻

 春雪三日祭のごとく過ぎにけり

 安心(あんじん)の一日だになし稲妻す

 蛍籠われに安心あらしめよ

 萬両や癒えむためより生きむため

 息吐けと立春の咽喉切られけり

 わが死後へわが飲む梅酒遺したし

 今生は病む生(しやう)なりき鳥頭(とりかぶと)
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末尾の6句ほどは死の間際の「辞世」と言える作品である。
末尾の句の「とりかぶと」というのは、ご承知のように「麻酔薬」であるが、彼の死の間際には痛みなどを和らげるためにモルヒネなどの麻薬が使われたかも知れないので、私の独断による推察だが、「とりかぶと」という表現は、その麻薬治療を踏まえてあるのかも知れない。
いずれにしても、この末尾の句は死の間際に際して、「俺の一生というのは、本当に病気との付き合いに終始した人生だっな」という悲痛な述懐の句と言えよう。
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電気が到来する明治以前は「明り」には蝋燭や行灯などが唯一の照明だったが、仏壇の灯明などは、私の子供の頃も、菜種油のかわらけに「灯芯」を浸して火をつけていた。だから、仏壇も煤けていたものである。蝋燭や菜種油を求めてネズミが仏壇の中に入り込んだりした。上の「酒中花」の遊びの記事は、そういう実生活の「灯明」を遊びないしは玩具化したものである。

なお松岡正剛の「千夜千冊」というサイトは私の愛読するところだが、波郷句集『鶴の眼』の記事も面白いので参照されたい。波郷のご子息修大氏が日本経済新聞の論説委員だったことなど、私はこのサイトで知った。

googleの検索で「石田波郷」で探すと「風鶴山房」というご長男・修大氏の制作されるサイトがある。
ご覧になってみてもらったらよいが、目次のページに「あき子の部屋」というのがある。これは夫人の名だが、そのページのドアが「寒菊や母のやうなる見舞妻」という波郷の句になっている。上に私が引用した句である。
なお、夫人の名は安嬉子(本名せん)であり、ペンネームとしては「あき子」になつているらしい。この「あき子の部屋」には、波郷と妻との相聞の句のやりとりなど、私生活にわたって書かれているので、ほのぼのとした雰囲気にひたれる。ぜひアクセスされることをおすすめする。
「波郷語録・著作」のページのドアは「霜柱俳句は切字響きけり」という句になっているが、この句は、かの桑原武夫の「俳句第二芸術論」に反論した句として知られている。松岡正剛の記事にも書かれているが、これらのいきさつを読みすすむのも、私には、とても楽しい時間である。
それにしても、このご子息・修大氏のページの最終更新が2004年末以後ないのが気にかかる。他の記事で「腎臓癌の手術うんぬん」とあるので、それ以後、体調を壊しておられるのか。

角川書店刊「石田波郷読本」というのを7&yを通じて買い求めた。これには全句集も入っているし、随筆もたくさん収録されている。つれづれに目を通すのに最適である。
先に「今生は病む生なりき鳥頭」という句の「解」を書いたが、これらを読んでいると「痛み止め」に麻薬を何度も使っているようで、私の「解」に自信を深めた。



真ひるの丘べ花を藉き/つぶら瞳の君ゆゑに・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

   少年の日・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

野ゆき山ゆき海辺ゆき

真ひるの丘べ花を藉(し)き

つぶら瞳の君ゆゑに

うれひは青し空よりも


この「少年の日」という詩の全文は、下記の通りである。

 1.
野ゆき山ゆき海辺ゆき
真ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。

 2.
影おほき林をたどり
夢ふかき瞳を恋ひ
なやましき真昼の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。

 3.
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。

 4.
君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰がものぞ。

佐藤春夫は小説家でもあったが、大正10年刊の第一詩集『殉情詩集』以来、大正、昭和の詩壇に特異な地位を占めた。
多く恋愛詩から成る、この詩集は、詩形においては古格を守りつつ、盛られた詩情の鮮烈さ、憂愁の情緒、鋭敏な神経のおののきによって、多くの人の心を捉えた。
掲出の詩は「少年の日」と題する四行詩四章の初期作品で、「四季」に分けられており、掲出のものは一番「春」である。
表現が古風な型を守っているため、却って少年の恋ごころを、よく歌い得て、愛唱された。

この詩は7、5調のリズムで作られており、日本の伝統的な音韻構造を採っていると言える。
佐藤春夫については2007年初夏に少し書いたことがある。
掲出した写真は故郷の新宮市にある「佐藤春夫記念館」のパンフレットである。
佐藤春夫は創作を止めた後は、多くの弟子をとり文筆指導で多額の指導料を得ていた。今では見られない処世術であったと言える。文壇に絶大な影響力があり、文化勲章の受章にも至っている。

  
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