K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
0304768たんぽぽ綿毛

陽春の四月になりました。
芽吹く春。新人の春。「旧人」はひっそりと。。。
 四月始まる豁然と田がひらけ・・・・・・・・・・・相馬遷子
 身ごもりし乳房のあをさ四月来る・・・・・・・藤井勢津子
 一枚の転居通知の来て四月・・・・・・・・・・大橋麻沙子
 春暁やくらりと海月くつがへる・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 春暁や人こそ知らね木々の雨・・・・・・・・・・・日野草城
 赤子泣く春あかつきを呼ぶごとく・・・・・・・・・・・森澄雄
 春は曙ほのぼのと子の蒙古斑・・・・・・・・・黒崎かずこ
 鹿の脚棒ぎれのごと春草に・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 春は曙血圧計をしかと見る・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 ときどきはポコと音たて春の水・・・・・・・・・・・高島征夫


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
このテンプレートの特徴として、「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は「月次掲示板」の日付しか出ませんから、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。選んだ月のカレンダーが出ますので当該日の日付を押すと一日づつ画面に表示されます。当該月分の一覧としては出ません。
「月別アーカイブ」の場合も同様です。極めて不自由ですが、このテンプレートは、そういう設計機能になっているようです。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の採用しているテンプレートは「XPIE6」には対応しないようになっていまして表示崩れを起こしますので、悪しからず。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください
私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは5/30付けをもってサービスが廃止されることになりました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移します。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。廃止までは旧記事の閲覧はそちらからお願いします。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集)の題名はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

光は直進し/あるいは屈折する/卓上に盛られる果実や/…非時香菓・・・・・・・・・・・・・・鈴木漠
鈴木漠
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   ──鈴木漠の詩──(1)

        橙・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木漠

    光は直進し
    あるいは屈折する
    卓上に盛られる果実や
    壜の頸(くび)の丸みのあたりでは
    光は滑降しているようだ
    壜の中に水は あくまで
    透きとおっているのだが
    水はけっして自分自身を
    裸だなどと思わないだろう
    不定形の水にとって
    折々の容器のかたちは
    折々の衣裳であるからだ
    夕闇に囲まれた家庭の
    小さな食卓を
    一顆の灯(あか)りが蜜柑色に照らし出し
    その点灯をまねて 籠の中の
    柑橘の類は香りを揮発させる
    果実のめぐりで 光は
    わずかに彎曲しているようだ
    …一般相対性理論演習
    …非時香菓(ときじくのかくのこのみ)
    光源は ほんとうは何処にあるのか
    これら光は
    何処から来て何処へ消えていくのか
    明滅するすべての存在の
    その末端に連なって
    家族はそれぞれに
    光の劇を眺めている
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実は、私は、この鈴木漠氏の詩集『色彩論』(1993年書肆季節社刊)は見ていない。
この詩集はいろいろの「色彩」の色を一つ一つ取り出して詩を構成してあるらしい。
この詩は「橙色」オレンジを題にして作られている。
鈴木氏は近畿大学文芸学部で詩歌論を講じておられたらしい。
ここに引いたのは、村山精二氏の「ごまめのはぎしり」というサイトを偶然ネット上に見つけて、そこに載るものの転載である。
鈴木氏とは私の詩集を贈呈した縁で、塚本邦雄の死去に伴う思潮社発行の月刊詩誌『現代詩手帖』の「特集」に書かれた「押韻芳香領へ」という記事のコピーをいただいたのが発端である。
以下、村山氏が、この詩について書かれるのを引いておく。

 <書名だけは以前から知っていた『色彩論』をいただきました。感激です。さすがに高名な詩集だけに、色彩を操った作品は見事です。その中で、どれを紹介するかは迷うところですが、やはり私の感性に最も合うのは、これでしょう。
硬質な、いい作品ですね。惚れ惚れします。私も興味をそそられている光と水についての、詩人らしい考察。蜜柑と家族との平易に見える組み合わせも、光と水があることによって、まったく違った意味合いに捉えられます。私がやりたかったことを、93年にすでにやられてしまった、という思いです。
 作品としては、もちろん私という個人が書いて、それが残るのが一番いいと思っています。しかし人類という立場に立てば、誰が書いてもいいでしょう。そういう意味で、科学と詩という分野で、この作品が出現したことは喜ばしいことです。後世の批評家がこの作品についてどう判断するか判りませんが、少なくとも私は20世紀の成果と考えています。
 「詩人のための物理学」、「水とはなにか」、「ろうそくの科学」など科学と詩を結ぶ著名な本がすでに存在します。しかし、それらはあくまでも科学という目で書かれたもので、詩人の側からの接近はあまりありません。鈴木漠さんがそれをすでに達成していることに驚き、賞賛を惜しみません。>

この原文にある漠という字が獏になっている誤りのみ訂正しておいた。
一度、この詩集を全部見てみたくなった。
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以上の記事は、実は2008/12/18付けでDoblogに載せたのだが、Doblogが二月はじめに障害を起こし、記事の掲出も取り出しも不可能になっていたのだが、最近、一時的に見られるようになったので、急いで取り出して、ここに転載するものである。
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(追記・2011/02/20)
つい最近ネット古書店から鈴木漠の詩集、連句集をいくつか買ったので、本の画像を出しておく。
多くが書肆季節社の制作になるものである。前衛歌人であった塚本邦雄が拠った出版社として知られる。
今から、もう三十数年か四十年も前になるが、この出版社の本を何度か買ったことがある。
政田岑生は懐かしい名前である。

  

朝の少女に捧げるうた・・・・・・・・・・・・大岡信
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   朝の少女に捧げるうた・・・・・・・・・・・・大岡信

     おまえの瞳は眼ざめかけた百合の球根
     深い夜の真綿の底から
     朝は瞳を洗いだす そして百合の球根を

     おまえの髪はおまえの街の傾いた海
     光の輪が 無数のめまいと揺れている海
     おまえの潮の匂いだって嗅げるのだ ぼくは

     おまえの腕は鉄のように露を帯びる
     おまえの脚は車軸の速さで地下道を抜ける
     おまえのからだの曲線は光の指に揉まれているが
     そのいたずらがいつもおまえを新しくする
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つい昨日に、佐佐木幸綱の青春の歌を引いたが、この大岡信の詩も、彼の青春まっただ中を歌った詩と言ってよい。
ただ、この「少女」というのが、ここに描かれる色々のものの比喩になっているのだが、「今どきの」少女というイメージとして比較するとミスマッチな面もあろうか。
今どきの少女というのは一種の「怖さ」が付きまとうから悲しい。
大岡や私のような世代が少女に抱いていたイメージというのは「新鮮な」ものだった。

大岡信の詩については、何度も引いてきたので、ここでは余り多くのことを喋るのは止めにしたい。
大岡信は2003年度文化勲章受章者である。
朝日新聞朝刊に長い間連載してきた「折々のうた」が執筆を打ち切りになって感慨ふかいものがある。
ここで大岡の別の詩の一部を引用しておく。
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 ooka大岡信

  春のために(後半の一部)・・・・・・・・・・・大岡信

    ぼくらの腕に萌え出る新芽
    ぼくらの視野の中心に
    しぶきをあげて回転する金の太陽
    ぼくら 湖であり樹木であり
    芝生の上の木洩れ日であり
    木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
    ぼくら

    新しい風の中でドアが開かれ
    緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
    道は柔かい地の肌の上になまなましく
    泉の中でおまえの腕は輝いている
    そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
    静かに成熟しはじめる
    海と果実
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掲出の詩と、後に引用した詩とは、ほぼ同じような心象の詩になっていることが判るだろう。

  
なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌は・・・・・・・佐佐木幸綱
c0042797_5403356美女

   なめらかな肌だったっけ若草の
     妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は・・・・・・・・・・佐佐木幸綱


佐佐木幸綱は日本最古の一つである短歌結社「心の花」の創始者・佐佐木信綱の孫にあたる。短歌界の名門の御曹司で昭和13年生まれ。
早稲田大学教授で現代短歌界のリーダーである。

この歌は第一歌集『群黎』に載る若い時の歌。
この頃の歌は、みな若々しさに満ちている。話すべきことは一杯あるのだが省略して、歌を引いてみる。
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サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず

ゆく秋の川びんびんと冷え緊まる夕岸を行き鎮めがたきぞ

ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ

寄せては返す<時間の渚>ああ父の戦中戦後花一匁(いちもんめ)

厩昏れ馬の目はてしなくねむり麦たくましく熟れてゆく音

ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり

直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる

たちまち朝たちまちの晴れ一閃の雄心としてとべつばくらめ

ひばりひばりぴらぴら鳴いてかけのぼる青空の段(きだ)直立(すぐた)つらしき

言葉とは断念のためにあるものを月下の水のきらら否定詞

わが夏の髪に鋼の香が立つと指からめつつ女(ひと)は言うなり

噴き出ずる花の林の炎えて立つ一本の幹、お前を抱く

ゆく水の飛沫(しぶ)き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く

泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ

一国の詩史の折れ目に打ち込まれ青ざめて立つ柱か俺は

父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ

こめかみに人さし指を突き刺せば右も左も中年の崖

祖父・父・我・息子・孫、唱うれば「我」という語の思わぬ軽さ

昨夜(きぞ)の酒残れる身体責めながらまるで人生のごときジョギング

にんじんの種子蒔く子供、絵の中の一粒の種子宙にとどまる

のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ

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佐佐木幸綱
ltr01ph1佐佐木幸綱

歌人、国文学者。1938年生れ。早稲田大学大学院国文科修士課程修了。大学在学中より「早稲田短歌」「心の花」(歌誌)に参加。跡見女子大学教授を経て、現在、早稲田大学政治経済学部教授。専攻は万葉学、近代短歌。「心の花」編集長。88年より朝日歌壇選者もつとめている。祖父は佐佐木信綱(歌人)。主な歌集=「群黎」(70年、青土社。第15回現代歌人協会賞受賞)、「直立せよ一行の歌」(72年、青土社)、「金色の獅子」(89年、雁書館。第5回詩歌文学館賞受賞)、「瀧の時間」(93年、ながらみ書房。第28回迢空賞受賞)。主な評論集=「萬葉へ」(75年、青土社)、「中世の歌人たち」(76年、日本放送出版協会)、「柿本人麻呂ノート」(82年、青土社)、「父へ贈る歌」(編著、95年、朝日新聞社)。現代歌人協会理事、日本文藝家協会会員。
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早稲田大学教授としての他に、作歌や著述、講演などに忙しい日々を送る。
「口語短歌」を歌って歌集『サラダ記念日』がベストセラーになり、短歌の大衆化に貢献し、また「シングルマザー」として話題を呼んだ俵万智の師匠でもある。
「酒好き」として知られる。写真を見ても、いかにも酒好きという顔である。

主宰する「心の花」について引いておく。
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短歌結社「心の花」の歴史

【創刊】前身としての「いささ川」(七号まで刊行、一八九六・一〇-九八・一)の終刊後、一八九八(明三一)年二月、佐佐木信綱を中心に、石榑辻五郎(千亦)編集、井原豊作発行で創刊された。「心の華」、「こゝろの花」等と表記されたこともあった。誌名の由来は、創刊号の信綱の「歌はやがて人の心の花なり」による。なお信綱をとりまく歌人の集団としての竹柏会は、その翌年に第一回大会を開いている。

【歴史】創刊の当時は旧派歌人や新派の根岸派の歌人の活躍がみられ、総合誌としての性格を有していたが、一九〇四(明治三七)年四月号から、竹柏会出版部の発行となり、独自色を強めていった。また明治四〇年代からあけぼの会という在京の「心の花」の精鋭の会が行われ、信綱、千亦、新井洸、木下利玄、川田順等が積極的に出席した。一五年頃には「万葉号」として万葉集の特集が組まれるなど、国文学研究の成果を取り入れようとする動きも、積極的に行われた。また森鴎外、上田敏、幸田露伴等の歌壇外の原稿もしばしば誌上に掲載された。 
 その後、第二次大戦、佐佐木信綱の死去(六三・一二)等の困難にあいながら継続的に雑誌を発行し、七百号記念号(五七・二)、「心の花83年史」九九九号(八二・一)、「『心の花』近代歌人論、現代短歌の問題」一〇〇〇号(八二・二)、「現代『心の花』小作家論」一〇〇一号(八二・三)、「21世紀を展望する現代短歌のキーワード21等」一一一一号記念号(九一・五)、「記念作品・論文、「心の花」歌人論等 創刊一〇〇年記念号」一一九六号(九八・六)等を刊行するにいたり、現存する短歌の雑誌として、最も長い歴史をもっている。 

【特色】「心の花」には、「ひろく、深く、おのがじしに」という理念がある。これは信綱が、「歌に対する予の信念」(「心の花」三一年八月号)として、歌の題材を広く、人間性について深く、個性をおのがじしに、という内容で提唱したものである。このような理念は歌壇のなかで折衷派という批判を受けたこともあったが、佐佐木幸綱が指摘しているように、これは特に「おのがじしに」においては、むしろ個性を尊重する結社運営の理念としても機能した。
 そしてこのような自由な雰囲気のなかで、信綱自身をはじめとして、三浦守治、石榑千亦、川田順、新井洸、木下利玄、前川佐美雄(後に、「日本歌人」)、佐佐木治綱、石川一成、佐佐木幸綱、伊藤一彦等の優れた歌人が誕生していった。
 また特に、大塚楠緒子、片山広子、柳原白蓮、九條武子、栗原潔子、五島美代子(後に、「立春」)、真鍋美恵子、斎藤史(後に、「短歌人」等)、遠山光栄、佐佐木由幾、築地正子、石川不二子、俵万智等の短歌史をいろどる多くの女性歌人を輩出してきたことは特筆に値する。
 さらに信綱をはじめとして、その子の治綱(五二年から五九年まで編集・発行人)、治綱の妻の由幾(五九年から七四年まで編集人、五九年から発行人)、そしてその子どもの幸綱(七四年から編集人)という佐佐木家が、「心の花」を支えていったことが特徴としてあげられる。 結社はイエ型集団としての性格を持つが、実際の家が長期にわたって支えていったのはむしろまれであり、逆に言えば長期にわたって存続している大きな原因の一つとして、家の存在をあげることができるだろう。
 このように「心の花」は短歌の伝統を維持するとともに、その時々の短歌史の方向に重要な役割を果たした歌人を輩出してきた、伝統と革新の結社としての特色がある、といえよう。 

【参考文献】佐佐木幸綱『佐佐木信綱』(八二・六、桜楓社)、十月会編『戦後短歌結社史・増補改訂版』(九八・五,短歌新聞社)、「心の花の歌人と作品」竹柏会、「心の花 信綱追悼号」(六四・四)、「心の花」八〇〇号(六五・六)、「心の花」九九九号(八二・一)、「心の花」一〇〇〇号(同年・二)、「心の花 創刊一〇〇年記念号」(九八・六)

(篠弘・馬場あき子・佐佐木幸綱監修『現代短歌大事典』三省堂、二000年)


  
神遊びをさめたりしか蝉丸の琵琶の音色の谷を渡りし・・・村島典子
晶65号

──村島典子の歌──(3)

  蝉丸・・・・・・・・・・・・村島典子

神泉を降りて迷へり丸山町の交番にきて尋ね人われ

「クララ」へはもう四五回はきしならめ神泉巡れどゆきつけぬ店

「クララ」こそシューマンの妻、妖精のやうなる人の待ちくるるなり

あららぎの赤き実ともり新軽のきみの住まひは秋の森の中

「ごはんや」にごはんを食べに幸子さんの後ろにつきてたどたど歩く

のつしのつしと歩く人なり街道を脈うつごとくあたたかし君

礼拝堂の扉のまへに出会ひたる神のけはひを湛へたるひと

「せつかくですからお入りください」と促さる扉に顔をつけてゐたれば

幸福の谷につづける浅間石の石畳ふむ栗の毬ふむ

片足を群馬にかけて山上の秋白光にまみれてゐたり

身二つになれぬみ社秋天の碓氷峠に見てたつわれは

この峠越えてゆくべしささなみの近江草津へつづきたる道

ゆるやかな秋の坂道往き来する友ありてけふは天より出でく

須臾ふかき沈黙ののち鳴り出でしあしたのラジオ「雪の降る街」

手をあげて対岸に電車待ちゐたる若き日の師あり夢にふたたび

耳痛むひと日のをはりまはだかの柿の細木にあつまる光

冬の雷とよむあしたは偲びたりこの一年に訣れたりしひと

札の辻に別れを言ひき直(ただ)のあひ適はずなりぬわれら旅人

しろがねの実は街路樹にうつくしく冬の朝の鳥をあつむる

ばらばらと真珠をこぼす街路樹をしまらくながむ降誕の朝

日赤の裏の小さな無人駅の椅子に園児のごとき座布団

「神」一字の扁額かかげし冬のそら黄にもゆるかな蝉丸神社

蛇と見ゆ注連縄の下の神の文字神座(かみくら)なれば舞はしむるかな

神遊びをさめたりしか蝉丸の琵琶の音色の谷を渡りし

逆髪の姉をしづめて奏でられし、蝉丸の琵琶きかまほしけれ

これやこの手向の山の冬ざれの「藤三郎紐」たづねて歩く

旅人は華やぎにけむ逢坂に手にとり愛でしとりどりの紐

うつくしき三重の石塔見むがため逢坂山を越えて来りし

牛塔はふとぶとやさしはつふゆのみ魂やどると拝(をろが)みにけり

ヒマラヤゆ運ばれし乳ありけりと牛塔あふぎ慎むわれら

言葉みなとほく忘れてしまひし日ひかりと遊ぶわれは山姥
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これらの歌は2009年2月刊の季刊『晶』65号に載るもので、村島典子さんから早くにいただいていたものだが、D0blogの障害事故などで延び延びになっていたもの。
お詫びして、ここに載せる。

夏ごろも白きレースを脱ぎすてしうつくしき蛇を見まくほりすも  ・・・・・・・・・・・・村島典子
(初出・Doblog2008/12/24)
ひも

──村島典子の歌──(2)

   記 憶・・・・・・・・・・・・村島典子

島唄はラジオをあふれみんなみの海人(あま)の子どもを連れくるわれに

青銅の耳環いで来し夏見といふ未だ見ぬ丘近江にありぬ

炎なす百日紅の花かいくぐり埋蔵文化センターに入る

出土品置かれてあれど人はゐず地中のごとし八月の部屋

七年まへ契りしことの黎明の地表にいくつもの蝉の穴

骨折られ雨の路上に横たふはクローンならぬかビニール傘の

いくたびも轢かれしのちに透明のビニール傘は姿を解かる

 (写真家石山都さんとヒロシマを見てのち七首)

映像のなかとし言へど被爆せしワンピース六十四年目の夏

終戦は時間をとどむ誰もゐず凍れる夏のヒロシマの空

川七つ寄りゐる街に落されし 原爆 七つの川も燃えけむ

沈黙はつめたく烈し昭和二十年八月六日八時十五分

炎熱に落下せし首仏桑花地上に首は花を咲かしむ

生命の記憶とは何 水中をあるく 水面を首がゆきすぐ

映像にみし被爆者のワンピース水中にわれ纏へるこどし

ああ晩夏の夕暮なれど電線にテツペンカケタカと鳥は鳴くなり

みづうみを塞ぐ巨大な黒雲はまなく来らむわが街の上に

雷鳴のとどろくなかを帰りきぬ小さきくるま甲虫のごとし

車ごと驟雨に打たるこの夏はいくたび天の忿怒に触れむ

容赦なく雨に打たるるさま思ふけさ脱ぎ捨てし人のぬけがら

身じろがず雨に打たるる濡れそぼつ老人ふたりの洗濯物は

幻のひとと言ふべし「古代から来た未来人」ヲリクチシノブ──(中沢新一著書)

もう夢はなにもかも変、外套のうちより繋ぐ亡き人の手と

外套にくるまれあれど亡き人の指は冷たし死にびとの指

山道に金水引草を摘みたるはちひさな蛇の抜けがらのそば

尾の先まで見事に脱ぎありし衣(きぬ)顔ちかづけてつぶさに見たり

夏ごろも白きレースを脱ぎすてしうつくしき蛇を見まくほりすも

卵胎生とふ生態ふしぎ人間がたまごより生れしといふ神話

秋の野は匂ひたちたり紫の葛花あまた隠されてゐむ

するするとつめたき音を曳きながら水辺をい行く秋と思へり

昨夜(きぞ)見たりし夢を運びて来りけり精神科七番扉のまへに

入口は出口なるべし診察室の扉の中は真つ青な空

(歌誌「晶」64号2008.11所載)
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村島典子さん所属の歌誌「晶」64号をいただいたので、転載しておく。
この号の「あとがき」に村島さんは、こう書く。

<よく夢を見る。ほとんどがたわい無いものだが、わたしの夢によく登場するのは「蛇」。フロイトの言う、無意識の領域で抑圧されたリビドーと考えることもできるが、わたしの場合、記憶と関っているかもしれない。
秋、開け放たれた座敷に寝かされていた、生後間もない赤ん坊のわたしの枕元に、蝮の死骸が二匹置かれていたという。これは、夢ではなく実話として、幾度となく母に聞かされたこと。おそらく、猫が運んできたものであろうと、母もわたしも考えていたのだが、いつの間にか頭のなかに、霊異譚としてインプットされてしまったらしい。
「赤ん坊は人間ではなく蛇だったのではないか」。
見る夢は、いつも奇妙で、卵が木に一杯生っていたり、卵を生んでいる夢であったり、川を泳いでいる自分のまわりに蛇がうじゃうじゃいたり、前後左右蛇の中を歩いていたり、とにかくそれらの夢の後味はとても爽快とは言えないもの。けれども、どこか懐かしく、実際に池を泳いでわたっていく蛇を見たときなど、急に切なくなったものである。
記憶、それは単に、刷り込まれた母の話からではなく、折口信夫のいう「のすたるぢいの間歇遺伝(あたゐずむ)」として、現れたものではないかと、近ごろ考えたりする。
ゆるやかな雲の流れ/許された時間が ひととき/僕たちに立ち止まる/それぞれ速度のちがう身体をもつ僕たち/妻よ すれ違ってゆく<時>を/僕らは 持った/そして 一瞬のうちに/そして たぶん永遠に/光の風味──。(木村草弥 「パロール」から)
数日前届けられた、詩集『免疫系』の言葉に、蛇であっただろう日が甦る。>

村島典子さんについては11/26付け(再録・2009/04/27)に歌を載せてあるので参照されたい。

月夜茸ひかるを思ひねむりをり星への合図われもなすべく  ・・・・・・・・・・・・・村島典子
(初出・Doblog2008/11/26)
遊子

──村島典子の歌──(1)

  月夜茸ひかるを思ひねむりをり
   星への合図われもなすべく・・・・・・・・・・村島典子


村島典子(むらしま・みちこ)さんとは、私の歌集を贈呈するようになって以来の間柄であるから、もう十数年のお付き合いということになる。
大津市にお住まいで、前登志夫の「ヤママユ」門下の才(ざえ)豊かな人である。
近時、胸椎を骨折されるなど身辺に大事が起こり、「ヤママユ」も退会されたという。
そこへ今年春になってからの前登志夫の死であるから、さぞや、ご心痛のこととお見受けする。
今回、私の詩集『免疫系』を贈呈したお返しとして2006年夏に出された歌集『遊子』(柊書房刊)を恵贈された。

「遊子」とは「旅人」の謂いである。
カバー装は自筆の水彩画を版にしたものという。
掲出の歌は、『遊子』に載るものである。
なお村島さんには今までに『夕暮のみづ』 『時間(とき)の果実』 『タブラ・ラサ』の三冊の歌集があり、今回のものは第四歌集ということになる。

以下、私の好きな歌を抽出する。

人形を背にくくりつけ遊びゐしわがをのこごが妻を娶りぬ

草冠かむりし風の行列の白南風ならむ野をよこぎれる

草千里の牛にまじりて草を食む性愛ひとつ宥むるごとく

氷点下の朝(あした)の野辺に草木はつつましく立つ野の神は見よ

子を得たる女といふをしみじみとつくづくとわれは見届けにける

裏返しあをき斑あるを喜びぬちひさき人は紋章をもつ

子別れはきのふのごとし坂のへにひらひらひらと振りし手のひら

雨の樹のとなりに光の木が生ひてさくらよ千年まへの午後です

リハビリ室に骨を数へてゐたるかな頸胸腰仙尾なる椎骨

ああ折れて繊き背骨は夕凪のひとつ帆柱そらの入江に

ゆつくりとわれ癒ゆる日のゆふぐれを流るる秋あかねの赤い川

われに一歳零歳の孫あるを否否と言ひ諾諾と思ふ

蕪、大根白くまどかな形象を眺めてをりぬ夕ぐれながく

転生を信じてをらずさりながら五月の木々ははらからのごと

にがうりの腹に孕める赤き種子昼餉に食めばいのち熟るるよ

はや左腎切除されたる夫の身のその空洞の春のおぼろ夜

「きんの」とふことば昨日の謂なれば懐かしきかな大和の言葉

みづうみは黒を湛へてしづもれりこの沈黙のはての新年

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掲出歌の才気煥発な「比喩」表現の豊かな詩才は非凡なものである。
今宵も晩秋の森に月夜茸は蛍光を発していることだろう。
また引いたような佳い歌群を鑑賞させていただき、快く、満ち足りた気分である。深く感謝する。

両国の博物館に寒明けを観る十宜帖宜春のところ・・・・家原文昭
(初出・Doblog2008/11/27)
宜春

  両国の博物館に寒明けを
   観る十宜帖宜春のところ・・・・・・・・・・・・家原文昭


家原文昭さんはNHKに長年勤務されていた人で、60歳で定年退職された。
この歌集『宜春』(ぎしゅん)(ながらみ書房刊)は、その60歳から65歳までの五年間に制作された歌が収録されている。
「あとがき」によると妻子を東京に残して、郷里の福岡県に住む母堂の身辺の面倒をみるために、単身赴任のような形で、ほぼ十年間過して来られたらしい。
家原さんとの付き合いも十数年になろうか。今は結社「地中海」と、地元の石田比呂志主宰の「牙」短歌会に歌を出されているようだ。
私の詩集『免疫系』のお返しのかたちで、この歌集を賜った。
なお「宜春」とは、蕪村が池大雅との合作で描いた絵の一つのことだという。第六歌集になる。

以下、家原さんの目下の「境涯」詠と言える歌を引きたい。

ボンカレーは辛口を買って来よと言う八十六歳母が出掛けに

デイケアに母折るという折り紙を三セット買う文房具店

東海林太郎載る「広辞苑」四版に窓より月の光が差せり

カエサルの暗殺の日といつか知るわが誕生日ワインを飲めり

留守の間に母が焦がしし鍋磨く今宵のわれは辛抱強く

盆去れば母と二人の祖霊祭焦げたる畳に座りているも

生活費送金をして町に飲む昼のビールの苦きときあり

屠蘇散の袋沈める酒器の朱ガラス戸越しに見て独りなり

八咫烏祀る半農半漁の村鰆東風吹き松林鳴る

宇島の酒房大八に「雨後の月」飲んでゆらりと出れば梅雨空

歌一首調ぶるうちに浄土宗宗派のことに深入りをせり

焚刑にドミニコ会士死ぬるくだり冷えて暮れゆく部屋に読みたり

道祖神除きて道を拡げたる町は廃れて空風吹けり

紙パンツ尿取りパッドも買い慣れて古自転車の荷台に括る

鼻濁音好しとぞ思う女優にて冬の京都の雪の白妙

白光に春三月の淡雪が木瓜のくれない励まして降る


メタボリック症候群というなかれ俺はれっきとした河馬なのだ・・・・・・・・三浦好博
(初出・Doblog2008/11/28)
ときの扉

  メタボリック症候群というなかれ
   俺はれっきとした河馬なのだ・・・・・・・・・・三浦好博


三浦好博さんは千葉県銚子市在住の人である。
長年、NTTに勤めておられたが、今は退職されているようだ。
1942年、宮城県生れ、現在は「地中海」編集同人という。
第三歌集『ときの扉』(新葉館出版刊)は『水辺のうた』 『流星』に続くものである。
この歌集の「あとがき」に彼は書く。

<いつの間にか社会的・時事的な歌の方に感動を覚えるようになりました。つまり生きることに直接関わりある事で、今の政治状況の中で如何に人間が貶められ、恥ずかしい目に逢っているかということでした。>

ネット上に載る記事を読むと、ひところ、彼はNTTという会社の社員処遇の不当性を訴えて裁判にかけている、ということだった。それはそれで人の生き方として尊敬に値することだと私は思う。
この歌集も、ありきたりの歌集の体(てい)ではなく、時事がふんだんに盛られているので、鑑賞してもらいたい。歌の前書きのような形でゴシック体の字列が多く見られるが、これらは前書きではなく、一つの独立した歌、になっているのだった。450首を収録となっているが、実際には700首くらいになるだろう。
ネット上の歌会「題詠マラソン」に参加しての歌も多い。
なお広い分野にわたる話題を採り上げた三浦好博ホームページがあるので、ここからアクセスされたい。

以下、私が目を留めた歌を引く。私の引いたものは、どちらかというと大人しいものである。

風邪のため銃弾二粒飲みにけり強いられし死をふと思うなり

「ぬくめしー」は正岡子規が言えばこそ風邪に臥す妻に一声われも

磔刑の釘跡残すはなみずき皐月の空へ神の返礼

童心はデイゴの落花を投げ合いて獅子の甍の道を海まで

虐待死交通事故死テロ自殺過労死孤独死嗚呼嗚呼戦死

築山の陰より高くユッカ咲く勇壮恥辱の歴史を鎮め

人はみな死への囚われ人なるを長蛇の列に香月泰男も

ココシカの『風の花嫁』に封じられマーラー夫人アルマのその後

河口にて解放されし利根川の海に注ぎてなお水の道

潮騒に応えて揺るるはまゆうの花ぐるまかもやがて汚れむ

「鉄兜蹴飛ばせば人の首だった」沖縄の人の言葉忘れじ

うつせみの命枯れゆき死ねざれば老い人が老い人を介護す

死滅する弱き遺伝子の裔ならん貧乏というものを組み込み

貝になり雲丹となりゆく社の中の息苦しさを漏らし居たれど

「忙」と「忘」は心の亡びにありたれば忙にて心の解放にせん

友情の育みがたき世にありて茶房の真昼赤ゼラニューム

返答にいっも困りぬ床屋にて相田みつをの額がいっぱい

ナルシスは水の仙人自己愛を咲かせてシルクロードを来たり

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掲出の「河馬」の歌の何とも言えぬ「諧謔性」は、見事なものである。

蒲公英のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・加藤楸邨
0604042たんぽぽ

  蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・加藤楸邨

この句は中国の西域の砂漠で詠んだ句かと思われる。
タンポポは強い草で砂地にも見られる。そのタンポポが咲いている、すぐ脇から果てしない砂漠の沙(すな)が無限に始まる。
大きな景を孕んだ句である。

加藤楸邨については今さらながら語るのは気が引けるが、水原秋桜子の「馬酔木」から出発し結社誌「寒雷」に拠って名句と数々の賞を得た。
以下、彼の句を引くが、その中には人口に膾炙した名句もある。私の好きな俳人である。
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 棉の実を摘みゐてうたふこともなし

 麦を踏む子の悲しみを父は知らず

 蟇誰かものいへ声かぎり

 長き長き春暁の貨車なつかしき

 耕牛やどこかかならず日本海

 雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり

 死ねば野分生きてゐしかば争へり

 冷し馬の目がほのぼのと人を見る

 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 ゆく雁や焦土が負へる日本の名

 雪ふりふる最後の一片たりえんと

 原爆図中口あくわれも口あく寒

 馬が目をひらいてゐたり雪夜にて

 山椒魚詩に逃げられし顔でのぞく

 無数蟻ゆく一つぐらゐは遁走せよ

 蝶踏んで身の匂はずや不破の関

 花を拾へばはなびらとなり沙羅双樹

 玫瑰が沈む湖底へ青の層

 驢馬の耳ひたひた動く生きて灼けて

 蟻の顔に口ありて声充満す

 梨食ふと目鼻片づけこの乙女

 繭に似て妻にいま詩がくるところ

 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手

 糞ころがしに砂漠の太陽顔を持つ

 バビロンに生きて糞ころがしは押す

 糸遊(かげろふ)のひとりあそびぬ壺の口

 たつた一つの朝顔にメンデリズム存す

 猫が子を咥へてあるく豪雨かな

 天の川わたるお多福豆一列

 百代の過客しんがりに猫の子も

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ネット上から下記を転載しておく。
b0013476_22452772加藤楸邨

加藤楸邨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 ~ 1993年(平成5年)7月3日)は日本の俳人、国文学者。本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。

略歴
東京市北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれる。父が鉄道官吏であり出生直後に転勤となったため出生届は山梨県大月市で出された。父の転勤に伴い少年時代は関東、東北、北陸を転居した。1921年(大正10年)父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校。1923年(大正12年)金沢一中を卒業する。この頃はアララギ派や石川啄木など和歌に興味を抱いていた。1925年(大正14年)父の病死を期に一家揃って上京。1926年(大正15年)東京高等師範学校(現・筑波大学)に併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。

1929年(昭和4年)養成所を卒業し、埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の教員となる。同年、矢野チヨセ(後の俳人・加藤知世子)と結婚。 1931年(昭和6年)粕壁中学の同僚の勧めで俳句を始める。水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事する。1935年(昭和10年)馬酔木の同人となる。

1937年(昭和12年)中学を辞め家族を連れ東京に移住。秋桜子の勧めで『馬酔木』発行所に勤務しながら、東京文理科大学(現・筑波大学)国文科に進学。1940年(昭和15年)大学を卒業し、東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)の教諭となる。俳誌『寒雷』を創刊し主宰となる。1942年(昭和17年)馬酔木を離脱。1944年(昭和19年)歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。1946年(昭和21年)8月、休刊していた『寒雷』を1年8ヶ月ぶりに復刊。戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を疑われ批判された。 1954年(昭和29年)青山学院女子短期大学の教授となり、1974年(昭和49年)まで務める。

1968年(昭和43年)句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。1986年(昭和61年)には妻のチヨセが死去。太平洋戦争中より始めた松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲した。1993年(平成5年)初頭に病を得て入院。7月3日永眠、享年88。死後の8月2日、従四位を追贈される。

楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男、石田波郷らと共に人間探求派と呼ばれた。

楸邨山脈
『寒雷』からは金子兜太、森澄雄、藤村多加夫、平井照敏、古沢太穂など多様な俳人が育った。
その多さと多様さとから、これを「楸邨山脈」という。
「寒雷」の後継者は、次男の嫁の加藤瑠璃子であるが、運営主体は同人の組織の暖響会であり、加藤瑠璃子は主宰でなく「選者」となっている。

作品

句集
寒雷(1940年)
穂高(1940年)
雪後の天(1943年)
火の記憶(1948年)
野哭(1948年)
起伏(1949年)
山脈(1950年)
まぼろしの鹿(1967年)
怒濤(1986年)

著書・作品集
芭蕉講座(1951年)
一茶秀句(1964年)
芭蕉全句(1969年)
奥の細道吟行(1974年)
芭蕉の山河(1980年)
加藤楸邨全集(1982年)
加藤楸邨初期評論集成(1992年)
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b0013476_22344577寒雷

ネット上の「埼玉の文学─現代篇─」を引用する。

古利根川に培った俳句精神

加藤楸邨(かとうしゅうそん)は昭和初期から平成5年6月88歳で亡くなるまで、60年あまりにわたって活躍した現代俳句界の巨匠である。水原秋櫻子の「馬酔木」から出発したが、第1句集 『寒雷』を刊行した翌年の昭和15年に、みずからも俳誌「寒雷」を創刊主宰し、平成5年7月号で通巻600号を数えた。中村草田男、そして同じ秋櫻子門の石田波郷らとともに 「人間探求(究)派」と称され、新しい現代俳句の潮流を形成した。この楸邨門からは、現俳壇で活躍している田川飛旅子、森澄雄、金子兜太、安藤次男、沢木欣一、原子公平、平井照敏、川崎展宏氏ら、枚挙に暇がないほどの作家を輩出している。楸邨亡きあと、「寒雷」は主宰をおかない形態で現在も発行されている。
加藤楸邨が生前に出した句集は12冊。敗戦までに4冊を出し、戦後は『火の記憶』、『野哭』、『まぼろしの鹿』(昭和42、第2回飯田蛇笏賞)、『怒濤』(昭和61・第12句集・第2回詩歌文学館賞)など8句集を出した。没後、最晩年の作品は遺句集『望岳』(角川書店)として平成8年にまとめられた。昭和49年まで青山女子短大の教授をつとめる。

 鰯雲人に告ぐべきことならず
 隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 雉子の眸のかうかうとして売られけり
 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
 死ねば野分生きてゐしかば争へり
 落葉松はいつめざめても雪降りをり
 おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
 百代の過客しんがりに猫の子も
 ふくろふに真紅の手毬つかれをり
 
これらは、楸邨の代表作としてよく引かれる句である。いずれも作られた時代を背景において考えると、よく伝わってくるように思われる。1句目は戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作である。2句目は後鳥羽院をモチーフに詠んだ200句近い連作「隠岐紀行」の1句。この連作は楸邨の句の世界を画した。3句目は20年の空襲の実景を詠んだもの。4、5句には敗戦直後の闇市の雰囲気が漂っている。6句目は大本営報道部嘱託として土屋文明らとともに大陸に渡り、多くの句( 『沙漠の鶴』)を詠んで、戦争責任を草田男や俳壇内外から問われた頃の作。7句目は病後の旅の作。こうしてみていくと、楸邨は社会的な存在としての自己をつよく認識して、真に表現せねばならない事を詠んできた作家と言える。楸邨は自身のこうした作句の態度を「真実感合」と称した。
句作のほか、戦中から始まった楸邨の芭蕉への傾倒は、『芭蕉講座』『芭蕉全句』『芭蕉の山河』などに結実し、芭蕉句の解釈に新機軸を打ち出した。その仕事は『加藤楸邨全集』(講談社・全14巻、昭和57年完結)、『加藤楸邨初期評論集成』(邑書林、全5巻、平成4年完結)などにまとめられている。また、その業績に対して紫綬褒章、勲三等瑞宝章、第1回現代俳句大賞、朝日賞などが与えられている。没後従四位に叙せられた。
加藤楸邨と埼玉との関わりは、その初期にさかのぼる。昭和4年から12年までの8年間、年齢では24歳から32歳頃に相当するが、楸邨は粕壁中学校(現県立春日部高校)で国語、漢文の教鞭をとっていたのである。そして、その俳句の原点もこの春日部時代にある。
楸邨は明治38年に東京で生まれた。父が国鉄に勤務していた関係で各地を転々とした。関東大震災の年に金沢一中を卒業したが、父病臥のため進学を断念し、石川県の松任小学校の代用教員の職に就く。父の没後生活は困窮したが、読書に没頭し東西の書物にふれる。あわせて歌作に励むようになり、アララギ派や石川啄木、万葉集の歌に親しんだ。その後、昭和4年3月に東京高等師範学校併設の第一臨時教員養成所の国語漢文科を卒業、4月に粕壁中学に赴任した。この年チヨセ(後の知世子、『寒雷』同人)と結婚した。この春日部時代について、楸邨は句集『寒雷』後記やエッセイ「新興俳句の出発」、「俳句との出合い」などで書いている。また水原秋櫻子が『寒雷』に寄せた序文も、この時期の楸邨と両者の出会いを知る上で貴重な資料である。

 私が俳句を始めたのは昭和6年で(『初期評論集成』の新年譜によると、5年の「馬酔
 木」にすでに楸邨の投句が確認できるとある。… …筆者注)、丁度水原先生が ホトト 
 ギスを離れ、新風を樹立しようとせられた時代である。私は学校を終へたばかりで、粕 
 壁中学校に職を奉じてゐた。中学の先生には小島十牛・飯塚両村先生、菊地 烏江・
 石井白村両君等がゐて、皆私より前から俳句を作つてゐた。菊地烏江の「俳句をやら
 ないとつきあはんぞ」といつたなつかしい言葉は今も耳にある。 (『寒雷』後記)

こうして楸邨は俳句の道へ入ったが、当初は短歌への未練がつよく身が入らなかった。しかし、職場の句会の作品を村上鬼城に送って選をしてもらっていた関係で鬼城の句集を読み、楸邨は俳句表現につよく惹かれるようになる。現在の春日部高校の記念館には、楸邨ゆかりの品を展示した一室がある。鬼城の句のほか、春日部での秋櫻子との出会いは、楸邨俳句にとって決定的なものとなった。

 その中に春日部の安孫子病院に、水原秋櫻子先生が医術の方の応援に来ているらし
 いという噂を聞いた。そこで私を俳句に引きこんだ菊地烏江や後に万葉集の英訳をやっ
 た石井白村等と医院の前で先生の見えられるのを待ち受けたのであった。
(「俳句との出合い」)

これが楸邨と秋櫻子との出会いである。文中の安孫子医院は、現在も春日部駅東口の同じ場所で開業している。以後、句会を持ったり、古利根川、元荒川、関宿、宝珠花、船戸の運河などを共に歩いたりして、秋櫻子を囲む場が春日部に形成されていく。この頃のことを秋櫻子も『寒雷』の序文で「……それからといふものは、私の粕壁行は医用のためか俳句用のためかわからなくなつてしまつた」と述べている。折しも、昭和6年は秋櫻子が「『自然の真』と『文芸上の真』」を書いて、虚子の「ホトトギス」から離脱するという、いわば近代俳句史上の事件の年であった。楸邨は、その時の俳句革新に賭ける秋櫻子の意気込みや苦悩を春日部の地で共有したのである。句集『寒雷』は「古利根抄」「愛林抄」「都塵抄」の3章で構成されているが、「古利根抄」の作について楸邨は「……新しく動かうとしてゐた動向に接した私の心が、その美しき世界に、ひたすら歩み入らうとした頃のものである」と言い、「私はどうかすると、先生の目を通して物を見てゐたのではないかとさへ思ふ」(『寒雷』後記)と語っている。
楸邨と秋櫻子が幾度も並んで眺めたであろう古利根川は、梅雨晴れの空の下に変わることなく豊かに流れていた。川のほとりを歩きながら、楸邨の句碑の一つもないのが惜しまれた。

「古利根抄」の作品から任意に引いてみる。括弧内には詠んだ地を示した。

 棉の実を摘みゐてうたふこともなし
 渡舟守いとまのあれや麦ふみに
 下ろす音ひそかなり霧の夜は
 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ (以上、古利根)
 隅田川あかるき落穂沈めけり (古隅田川)
 降る雪にさめて羽ばたく鴨のあり 
 畦凍てて洲にかへるなり小田の鴨 (元荒川)
 行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ
 暗き帆の垂れて雪つむみなとかな (船戸)
 関の址いまは蓮の枯るるのみ
 径のべに螢こぼれぬ早稲の風 (関宿)

 のちの生活や内面を詠んだ句風と違い、「古利根抄」は自然観照に徹した詠みぶりが歴然としている。短歌的詠法と秋櫻子の抒情への傾倒が色濃い作品群である。
このほか 『寒雷』には、岩槻城址、武蔵嵐山、埼玉沼、川越の喜多院での作もみられる。また、第3句集『穂高』にも、「古利根河畔吟」と題した同時期の作が多数収められている。
楸邨は昭和12年に上京することになるが、こよなく愛した春日部の自然を背景として、その初期の世界がきずかれた。

  
芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・安住敦
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   芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・安住敦

安住敦は明治40年東京芝生まれ。逓信省に勤め、富安風生が局長の縁で俳句を始めた。新興俳句に関心を深め「旗艦」に参加。
弾圧の時代、「多麻」を創刊、応召する。
昭和20年末、久保田万太郎を擁して「春燈」創刊、支え続けた。
昭和38年、二代目の主宰となる。
句集に『貧しき饗宴』『木馬集』『古暦』『市井暦日』『暦日抄』『午前午後』『柿の木坂雑唱』など。
俳人協会会長。蛇笏賞受賞。エッセイにも勝れる。昭和63年没。 私の好きな句を上げてみる。

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 くちすへばほほづきありぬあはれあはれ

 帯のあひだにはさんでありし辻うらよ

 相倚るやしんしんとして霧の底

 霧に擦りしマッチを白き手が囲む

 ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく

 てんと虫一兵われの死なざりし──8月15日終戦──

 しぐるるや駅に西口東口

 春の蚊や職うしなひしことは言はず

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 涅槃図に束の間ありし夕日かな

 かいつむり何忘ぜむとして潜るや

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

 蛇穴を出て日蝕に遭ひにけり

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 散るさくら骨壷は子が持つものか──神保緒ヒ作縊死す──

 夜の書庫にユトリロ返す雪明り

 花明しわが死の際も誰がゐむ

 独活食つて得し独活の句は忘じたり

 枯菊焚いてゐるこの今が晩年か

 眼薬のおほかた頬に花の昼

 花菜漬愛に馴るるを怖るべし

 秋忽と癒えたるわれがそこに居ずや

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

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ネット上に載る安住敦の「言行録」の一部を紹介しておく。
4625400716.09安住本

安住敦の言葉(1)

「花鳥とともに人間が居、風景のうしろに人間がいなければつまらない。花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない。」
安住敦は、戦後久保田万太郎を擁して俳誌「春燈」を興す。
師と仰いだ久保田万太郎は、市井の人情を描いた劇作家、小説家としても大家であった。
安住敦の俳句は紆余曲折(これは別ネタで)を経た後、戦後は庶民感覚的な抒情的な句風となっていく。
これはやはり師事した万太郎の影響が大きかったのであろう。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社

安住敦の言葉(2)

「旅を詠むのでなく、旅で詠むものです」
これは説明の必要はないであろう。
しかし、単純にして奥行きの深い言葉である。
安住敦が主宰していた「春燈」の勉強会でよく言っていた言葉だという。
また、常に「ありのままを詠むしかない」と繰り返していたという。

参考 西嶋あさ子著「俳人安住敦」白凰社
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安住敦の句は好きで、何度も引いてきたが、ここに転載するのに適当な記事が余りないが、
大西巨人 の鑑賞文を引いておく。

てんと蟲一兵われの死なざりし・・・・・・・・・・・安住敦

*しぐるるや駅に西口東口

 句集『古暦』〔一九五四〕所収。「八月十五日終戦」という前書きが付けられている。

それは、たとえば、中村草田男の

切株に踞(きょ)し蘖(ひこばえ)に涙濺(そそ)ぐ〔『来し方行方』、一九四七〕、

金子兜太の

スコールの雲かの星を隠せしまま〔『少年』、一九五五〕

が作られて、

また腰折れながら私自身の

秋四年いくさに死なず還りきて再びはする生活(いき)の嘆きを〔『昭和萬葉集』巻七、一九七九〕

が作られたころである。

そののち、たとえば、斎藤史の

夏の焦土の焼けてただれし臭さへ知りたる人も過ぎてゆきつつ〔『ひたくれなゐ』、一九七六〕

が作られて、いま敗戦五十年目の夏が来た。私は、万感胸に迫る。

  
たんぽぽのはなの/さくたびに/こどもは・・・・谷川俊太郎
0604042たんぽぽ

  たんぽぽのはなの さくたびに・・・・・・・・・谷川俊太郎

    こどもは しろいとびらをあける
    とても おそろしいことを
    こころのなかで かんがえるが
    そのことは だれにもいわない
    こどもは おちていたまりをひろう
    うでのうぶげに きりのしずくが
    にぶく ひかっている
    いちどだけ たったいちどだけ
    それでいいんだと こどもはおもう
    だが いちどだけですむものか
    たんぽぽのはなの さくたびに
    こどもは かわべりでゆめみる
    ほんとうの そのことをしたあとの
    とりかえしのつかぬ かなしみを
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この詩は詩集『よしなしうた』1985年青土社刊に載るもの。
この詩の「そのこと」ということについては何も明かされていない。読者がさまざまに想像するしかないが、私は、一つの想像として、男の子が第二次性徴として誰もが通過しなければならない「手淫」のことを詠ったのではないか、と思うが、いかがだろうか。
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上に引いた詩に関連するものとして次の詩を引く。
p2-2.jpg

  おとこたち・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

   おとこたちはみなぺにすをもっていた
   いっしょうわすれられないとおもうできごとを
   あくるひにはわすれた
   すいっちひとつでうつくしいおんがくが
   死のむこうからながれでて
   そのほうがくへとおとこたちは
   じぶんをいくえにもおりたたむ

   <のぞみをたたれても のぞまぬことにはけっしてなれることはない>
   ゆかのうえのひとつぶのこめが
   とおいぬかるみでめをふくことをおそれて
   くるしみのときをすごすために
   さらにひどいくるしみのものがたりをよむ
   おとこたちはみなぺにすをもっていた
----------------------------------
更に、もう一つ関連する詩として下記のものを引いておく。
c0013496_14062.jpg

  からだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

   男が男のからだのかたちしてしか
   生きることのできないのはくやしい
   かたちのないこころだけであったなら
   もっと自在にあなたと交われるものを

   だがことばよりくちづけで伝えたいと
   そう思うときのこころのときめきは
   からだなしでは得ることができない
   いつか滅ぶこのからだなしでは

   こころがどこをさまよっていようと
   こころがいくつに裂けていようと
   女がただひとつのからだのかたちして
   いま私のかたわらにいるのはかなしい

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これらの詩は、詩集『日々の地図』1982年集英社刊に載るもの。
この詩の末尾の「かなしい」がカナ書きになっているところが曲者である。ここは「悲しい」とも「愛しい」とも読み解けるところで、この辺が詩の面白さである。
これらの詩は「たんぽぽのはなの さくたびに」と関連するものとして鑑賞してもらいたい。「たんぽぽのーー」の詩は暗喩になっていて、さまざまな解釈をし勝ちである。それについての、一つの別の面からのアプローチの詩として紹介する。
読後の、あなたの感想は、いかがだろうか。
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この記事とは何の関係もないが、三番目の写真の若い男性は、顔は隠してあるが、今をときめく人気者のプロゴルフアーの「石川遼」のものである。本来は顔も映っているのだが、トリミングして、わざと隠してみた。
それにしても、鍛えられた立派な体をしているなぁ。


三井葉子・句まじり詩集『花』より・・・・・・・木村草弥
三井葉子「花」

       あれ・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子

      いのちが
      なにものとも関わりなく生れてきたことを思えば

      いのちとは
      なにものとも関わりなく生きているもののことである

      もちろん
      私の老いなどとはなんの関係もない

      いのちは
      つやつや
      スタコラ サッサ

      なにか
      いるナ とは思っていたが
      老人になると
      彼が疾っている
      のが
      見える

      肩張って
      駆けているのが

      は は は

      は

      あれは なあに?
     
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2008年10月に私の詩集『免疫系』(角川書店)を上梓して進呈した縁で、大阪府八尾市在住の詩人・三井葉子さんと知り合った。
彼女は17、8歳の頃から塚本邦雄の身辺にあった人で、塚本や、詩人で編集者だった政田岑生のやっていた「書肆季節社」などと近しい人である。私は塚本邦雄の弟子ではないが、私の第二歌集『嘉木』を出したときに読売新聞夕刊の「短歌時評」に採り上げて批評文を書いてもらった縁がある。
また、塚本邦雄が生きていた頃から季刊誌「楽市」を出しておられるが、その発行元は「創元社」である。ここも三好達治などの詩集など私が昔から親しんだ出版社として馴染みがある。「楽市」は昨年12月発行のもので64号を数える。
今回、私の詩集贈呈の縁で昨年五月に出たばかりの、句まじり詩集『花』(深夜叢書社刊)をいただいた。
実は、この詩集については昨年秋にブログに採り上げたのだが、Doblogが記憶装置のハードディスクの不調のために、私の記事が読み取りも引き出しも不能になってしまったので、遅くなったが、ここに再掲載するものである。

この「あれ」と題する詩は巻頭から四番目に載るものである。
「あれは なあに?」なんて、とぼけてはいるが、この詩集全般に詩人・三井葉子の「老い」を見つめる視線が鋭い。
普通、詩人と言われる人には二派があり、日本古来の「定型」に否定的な人と、肯定的な人とに二分される。概して「荒地」系の詩人は西欧詩のカトランなどには好意的でも、日本の「音数律」「定型」には拒否反応を示す人が多い。
さすがに三井さんは塚本邦雄の傍にあった人らしく、そんな「食わず嫌い」ではない。
先には句集『桃』も出されているらしい。
そして今回の詩集も「句まじり詩集」と銘打っておられる。
この詩は「私の老いなどとはなんの関係もない」と言われているけれども、それは「反語」表現であって、老いを意識されていることは自明のことである。
末尾の「あれは なあに?」なんていうところなど、人を食っている。
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         値(あたひ)・・・・・・・・・・・三井葉子

  死に値するようなことはなにもない と塩野七生はいう
  一
  二
  三
  四
  五百段

  あしもとにひた ひたと暮色しのびよる

  ひた
  ひた
  湧いているような
  波のような

  白い乳
  ひた
  ひた

  ひた
  石段を濡らす
  ひた
  ひた
  苔を濡らす

  死にアタイスルものなどなにもない と私も思う

  五百段では な
  見上げる空に春の昼

  死に値(あたひ)するかもしれず空の星。
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「詩」というのは、論理的に辿っても鑑賞できない代物である。
「一 二 三 四 五百段」というところなども、「語呂合わせ」的なものであって論理的ではないが、この詩の中にあっては、欠くことの出来ない必須のフレーズとなっているのである。
作者の中では、いつか見た「五百段」という石段の現実の記憶があって、それが、この詩の中に、ふいっと甦ってきたのである。
「死に値するようなことはなにもない」というのは、それだけ「死」というものが人生最大の関心事であり、何者にも代え難い一大事であることを表している。
この詩集は「句まじり詩集」と銘打たれるように、日本語固有の五、七という「音数律」が前面に出てくる。例えば
「あしもとに/ひたひたと暮色/しのびよる」「見上げる空に/春の星」「死に値/するかもしれず/空の星」などが、そうである。
そして全編として、人生というもの、死というもの、老いというものへ観照に読者をいざなうのである。
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     はなも小枝を・・・・・・・・・・三井葉子

   ながい間 
   死は禁忌であったので てのひらでやさしく伏せられていた
   指を
    じっとみていると それは
   犬が鳴く夜もあったし
   月光が
    おお
   月光のふちから這い上がってくることもあった
   虫籠が
   伏せてあるような
   夜
   も
   あったのだ
   虫出せ
   角(つの)出せ
   と
   誰がどう騒いでも 天はシンーと したものだ

   生が
   止まっていた 血が
   ひろがっていた
   暖かい
   土

   てのひらの中には時間というもの
   がいて
   美しい
   とは
   そういうことなのだ 海の中の
   島は
   ひたと海に伏せている
   死は
   ながい間
   禁忌だったので
   はなのように咲いても
   彼は
   根の国にいた

   指の間がもぞもぞしてこそばゆい

   こそばゆしのばしたあしを摺る蝶々

   てふてふと
   蝶海峡を
   越えてゆく


   暖流や
   はなも小枝を
   ひろげつつ。
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この詩の「初出」は武田肇が発行しているGANYMEDE39号2007/04/01発行に載ったものらしい。
この詩誌は短歌作家なども作品を載せていて、私の知る歌人なども歌を発表しているから、この雑誌には馴染みがあるのである。
この作品については谷内修三の批評文がネット上で見られるのでアクセスされたい。
この詩がガニメデに初出だと知ったのも、この谷内の評を読んだからである。

詩には同じフレーズを繰返す「ルフラン」という修辞があって、ここでも「伏せ」という表現が生きている。また「詩は ながい間 禁忌だったので」というルフランの効果も利いている。
「てふてふと 蝶海峡を」のフレーズは、有名な、今や古典となった安西冬衛の『春』の詩《てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた》を踏まえているのである。
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     月離る日離る里のはなふぶき・・・・・・・・・三井葉子

   聞いてくださる?
   わたしが 子に宿るようになったのを
   むかしはわたしが 子を宿したのに

   あ
   わたしが翳っている

   あ
   なんという胴欲

   西日
   動いている

   いとしまれて育ったはずの
   内ではない外で
   日に会い
   彼方にこそ向いていとしまれたはずの わたしのいま
   子の胎にいると思うわたしの安堵を

   忘れるために
   離れるために
   ふぶいていたはなふぶき

   日に向いて
   日から出て
   あ
   と
   立ち止まる

   くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月*

   あの
   とぼとぼと
   ときには跳び ときには
   消えながらあるいた あれは

   肩です
   げんきよく動いている
   足です
   まあ 指も五本とエコーが写しているいちまいの胎の映像

   式部は泣くかしら くらきより暗き道をあるいた式部は まっかな
   かおをして 泣くかしら

   おお お
   よしよし。

*くらきより=和泉式部996年16か17歳当時のうた。『拾遺集』(哀傷1342)
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この詩集には「しおり」が添付されており宇多喜代子、藤本義一、鈴村和成が書いているが、この詩については、藤本義一が「詩は永遠の迷路」の一文を寄せている。
この詩の「出だしの三行」を引いて
<この三行で、こちらは文章の上で今まで一度として感じたこと、考えたことのない世界に連れ込まれてしまうのだ>
と述べている。
先にも書いたが、詩の発想というのは論理的なものではないから直感で捉えるしかない部分がある。
この詩については「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」というサイトで2008/06/04の(1)から、06/16の(8)まで、この詩集について詳しい関連記事が書かれているので、参照されたい。

私が下手な解説をするよりも、谷内の精細な「読み」を紹介する方がいいので、くどくなるかも知れないが、この詩に関する部分を引いておく。
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三井葉子『花』(7)
2008-06-13 01:27:27 | 詩集 三井葉子『花』(7)(深夜叢書、2008年05月30日発行)

 きのう、坂多瑩子「母は」に触れながら、「私」と「母」が入れ替わるのを感じた。三井葉子も、それに似た感覚のことを書いている。
 「月離(さか)る日離(さか)る里のはなふぶき」。その1連目。

聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに

 「宿る」。誰かが誰かに。その逆も起きる。--これは、たとえば母がこどもを宿すということを例にとれば、そこに不可逆の「時間」があるから、絶対的にありえない。母が子を宿すということはあり得ても、子が母を宿すということは、「時間」の流れがめちゃくちゃになるから、そういうことは本来許されない。
 何から許されないのか。(草弥・注。下線部は草弥。以下、同じ)
 論理からである。「頭」からである。
 そうであるなら、「頭」で考えるのをやめればいいのである。ただ「肉体」の感じだけを頼りにすれば、「時間」の流れは消えてしまい、そこには母と子が一体になる、ひとつの体になるということだけが存在する。
 その一体感のなかで、母と子は簡単に入れ替わる。母が胎内の子の動きを感じる。それは母の肉体の内部のできごとだけれど、そういう動きを感じているとき、母は同時に子が母の肉体の存在を感じていることを知っている。腹を蹴る。そのときこどもの足が母の原の感触を感じていることを知っている。
 内と外は簡単に入れ替わる。というよりも、もともと、そんなものは区別ができない。同時に存在する。そして、その「同時」という感覚が、不可逆の「時間の流れ」を消してしまう。「時間の流れ」が消えてしまうから、母が胎児であってもかまわないのだ。胎児が母であってもかまわないのだ。胎児と母が同時に存在しているということで、はじめて「いのち」がつながるのである。「同時」が存在しなければ、「いのち」はつながらないのだから。

 私の書いていることは、奇妙に「論理的」すぎるかもしれない。
 三井は、私の書いているような、面倒くさい「論理」をふりまわさない。簡単に「同時」のなかへ入っていって、するりと「いれかわり」をやってのける。


いとしまれて育ったはずの
内ではない外で
日に会い
かなたにこそ向いていとしまれたはずの わたしのいま
子の胎にいると思うわたしの安堵を

 「同時」は、「入れ替わり」は「安堵」といっしょに存在する。母→子という時間の流れが消滅し、区別がなくなること、その瞬間の「安堵」。「同時」とは「安堵」以外の何者でもない。

 この入れ替わりは、母と子の間だけで起きるのではない。他人との間でも起きるのである。たとえば三井は和泉式部の歌を読む。そうすると和泉式部は三井の胎内に入ってきて、胎児として成長する。「時間」の流れ(歴史の流れ)からいうと、三井は式部のはるかはるか先の「子」である可能性はあるが、その逆はない。式部が三井の「子」である可能性は、「時間」が阻止している。絶対に、ありえない。はずである。
 しかし、強い共感によって、三井と式部の感覚が一体になるとき、その瞬間「時間」(歴史)は消えてしまう。「時間」が消えてしまうことが「一体」の真の意味である。

聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに

と詩を始めた三井は、最後には、まったく違った「場」にいる。

式部は泣くかしら くらきよりくらき道をあるいた式部は まっかな
かおをして 泣くかしら

おお お
よしよし。

 三井は式部の子孫(?)であることをやめて、ここでは突然式部の「母」になって、式部をあやしている。
 そして、こうやって式部をあやすとき、「安堵」するのは式部だけではない。その「安堵」する式部を見て、三井自身も「安堵」するのである。
 泣くこどもをあやす母。母にあやされてこどもがにっこり笑って安堵する。だが、そのとき安堵しているのはこどもだけではない。母こそが一番安堵している。安堵のなかで二人は一体になり、入れ替わる。泣き止み、にっこり笑うこどもの顔にこそ、母は安堵をもらう。母はあやされる。
 この安堵のくりかえし、入れ替わりは、三井たち女性が、「時間」を消し去りながら共有してきた「宝」である。

 こういう詩は、ほんとうにいい。すばらしい。美しい。
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私の考えでは、この詩を創られた頃、作者は子供さんに子供がうまれ、つまりお孫さんが出来て、人間の受胎、妊娠、誕生、などの経験が生じ、そこから「わたしが 子に宿るようになった」などのフレーズが生れた、と想像する。
詩は、さまざまに「韜晦」するのである。この一連のところに出てくる「エコーが写しているいちまいの胎の映像」などは「お孫さん」の胎児の映像であろう。そして「おお お よしよし」というのも作者が、その子をあやしている、のである。それらのことどもを、この詩の中にパッチワークのように配して「韜晦」したのである。
上に引いたのは、あくまでも谷内修三のものであるから、人々は、これに捉われずに、さまざまに読み解いていいのである。

ここで、先に紹介した谷内修三(やち・しゅうそ)の記事の他の一部を、他の詩に触れたものだが、少し長いが引用しておこう。
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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

三井葉子『花』(8)
2008-06-16 10:29:20 | 詩集 三井葉子『花』(8)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 きのう「比喩」について書いたが、三井には「比喩」を題材にした詩がある。「自伝・喩」

ある 晴れた日
父はむすめに おや おまえは鴨の子のようだねえと言った
それで わたしは
その日から鴨の子になった

ある日 わたしは
荒海や佐渡に横たふ天の川というハイクに出会った

どうして?
陸に川が横たふの? 陸が海に横たわっているのではないかと思ったが
鴨の子にさえなったわたしを思い出して
あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った

荒海にさえなれば天地等価にすることができるあらあらしい自己消滅の
あらうみの
しぶき

わたしの父もいつかは鴨になりたかったのだ
ただおじさんと違うのは父がむすめを泳がせたことだ


ユウ ユウ

ララ ラ ユウユウ喩
わたしは水掻きで 水掻きながら

って
いったいなんだろうと思う
わたしを鴨の子にした

って

もしかして
変化?
進化
かも
よ。

 「喩」は「変化」か「進化」か。「変化」と「進化」に共通することばは「化」、「ばける」である。それは別のことばで言えば「なる」でもある。自分ではなく、自分以外のものに「なる」。そして、この作品には、その「なる」が「自己」と関係づける形で、しっかりと書かれている。

荒海にさえ「なれ」ば天地等価にすることができるあらあらしい「自己」消滅の

 「なる」と「自己」。しかもその「自己」は「消滅」と硬く結びついて「自己消滅」というひとつのことばになっている。「自己消滅」して、つまり、いま、ここにある「自己」を消し去って、何かに「なる」。そういうことが、「喩」のなかで起きている。
 「鴨の子」と言われたとき、そしてそれを信じたとき、三井はそれまでの三井ではない。何かが別のものになっている。それが「変化」か「進化」かは、人によって判断がわかれるだろう。そういう判断がわかれるものはどうでもいい(ともいえないだろうけれど、私はいったん無視する)。判断がわかれるだろうけれど、そこには「わたし」が「わたし以外のもの」に「なる」という運動があることだけは、共通認識として持ちうる。そういう「共通認識」をもとに、私は考えたいのである。
 この「なる」という運動のなかで、とても重要なのは、同じ行にある「天地等価にすることができる」ということばだ。
 「なる」という運動の最中は、それまでの判断基準が成り立たない。それまで「固定」されていたものがばらばらになる。どれが重要で、どれが重要でないかは、「なる」という運動のなかでは消えてしまう。何が重要かは、常に「自己」にとっての問題だから、「自己消滅」すれば、重要さを決める基準も消えてしまうのは、当然の「数学」である。
 この「天地等価」の状態、「天」も「地」も等しい、という状態を、私がこれまで三井の作品について説明するときつかってきたことばで言いなおせば、「混沌」である。
 「混沌」のなかでの「生成」。
 そういうことが「喩」の瞬間に、起きている。

 「喩」はそれまでの判断基準の解体である。揺り動かしである。判断基準がゆれるということは、「自己」がゆれる、「自己」が消えてしまう恐れがあるということである。その恐れに対して、恐れて身を引くのではなく、恐れの中に飛び込んでゆく。飛び込んで行って、自己が自己でなくなってもかまわないと決めて、「喩」を生きる。「喩」として生成する。再生する。生まれ変わる。そうすると、世界そのものが変わってしまうのだ。
 いままで見えていた世界が、まったく新しく見える。
 「荒海や佐渡に横たふ天の川」。
 それは世界の「再構築」である。
 こうしたことを、三井はもちろん「再構築」などというめんどうなことばでは書いていない。

あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った

 「ほしかった」。何かを欲する。何かを手に入れることは、「自己」がその何かによっていままでの「自己」を超越できるからである。(と、少しめんどうなことばで書いておく。)この「自己超越」を「ほしい」という簡単なことば、日常のことばでまるづかみにしてしまうところが三井のすごいところである。
 「喩」には「ほしい」に通じる思いがあるのだ。自己にはない何かを「ほしい」と思う気持ちが人間を突き動かす。いまのままでは手に入らないものを「喩」になることによって手に入れるのだ。「ほしい」と「なる」は重なり合って、世界そのものをも変えていく。
 「自伝」ということばを信じれば、三井は、そんなふうにして三井の世界をつくってきたのである。ことばをつかって、常に自己解体(自己消滅)し、「混沌」(天地等価の状態)に身をくぐらせ、そしてそのつど、何かに「なる」、何かに「再生する」。そうすることによって世界を「生成」しなおす。世界を「再構築」する。
 三井は、そういう詩人である。

 いや、それ以上の詩人である。

 私は、どこかから借りてきたような「再構築」だの「混沌」だの「生成」だのという、めんどうくさいことばをつかってしか感想を書けないが、三井はそういう借り物のことばをつかわない。あくまでも三井の生活している世界のことばで語りきってしまう。(草弥・注。下線部は草弥。以下、同じ)
 私は、三井の「喩」の意識と、その意味について、めんどうくさいことを書いたけれど、そういうめんどうくさいことよりも、もっと感心したことがある。


ユウ ユウ

ララ ラ ユウユウ喩

 この口語のリズム。「喩」は私の発音(口語)では「ユ」だが、三井の関西弁なら「ユウ」なのである。(私は三井の話すことばを聞いたことがないので、想像で書いている。間違っているかもしれないが。)関西弁は1音節のことばを、母音を伸ばす(重ねる)形で2音節にする。その「口語」がそのまま文字にすることで、「ユ」と書いたとき(発音したとき)には触れ得ない世界をつかみとる。
 「喩」は「ゆうゆう」。「ゆうゆう」は「悠々」。ゆったりしている。広々としている。「自己解体(自己消滅)」→「混沌」→「生成(再生)」→「再構築」などという固苦しい世界ではないのだ。ゆったりと、のんびりと、いつも話している日常と地続きなのである。「おまえは鴨の子のようだねえ」ということば--それは日常なのである。そういうことばをそのまましっかり受け止めて、そのことばからずれずにことばをつづける。そこに三井のほんとうの力がある。ことばの力がある。これはほんとうにすごいことである。

 最後の連。

もしかして
変化?
進化
かも
よ。

 この連に、ふいに「鴨の子」の「鴨」が「かも」になって甦り、笑い話(冗談)のようにして作品が終わるのも楽しい。「自己消滅」だの「再構築」なんてことばでガチガチになると、いやだよねえ。大阪の漫才(私は実際には見たことはないのだが)のように、さらっと「おち」をつけて、さっと引き上げる。
 いいなあ、これ。
 私はたぶん、ごちゃごちゃややこしいことを書かずに、「かもは鴨の子のカモかよ」と突っ込むべきだったんだろうなあ。それだけで、この詩の魅力はより輝いたんだろうなあ、と思う。ごめんね。せっかくの話芸をぶち壊しにしちゃって、と反省するしかない。

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       形(すがた)・・・・・・・・・・・・三井葉子

   恵那の雪 ゑの形して残りけり

   わたしは恵那に行きました 恵那は岐阜県にあります

   平(たいら)に坐って山をみています
   残雪の形(すがた)が吉凶の占いになったことも あったのよ 昔

   溺れそうな海で海流が変化するとき
   ひやっと 横っ腹に
   冷たい

   海道をまがるときに
   みえるのよ
   島

   島 ?
   では
   もう陸生(りくせい)ね わたしたち とわたしはときどき思い出すのです
   わたしたちが成り立ったときのこと
   まだ

   島に 這い上らなかったときのこと。
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この詩では、前半では恵那の山を見ていながら、後半になると「陸生」になる前の「海」の記憶へと突然に飛ぶ。こういう作者の飛躍に驚いては、いけない。
こういうのが詩人の発想だからである。詩人の発想と表現は、自在に詩面を飛躍し、飛び回るのである。私が、詩人の「韜晦」と呼ぶ所以である。
私は、この詩を見ながら、少年の日に触れた、自由律の俳句

   <島が月の鯨となつて青い夜の水平・・・・・・・・・・・荻原井泉井>

を思い出していた。

この詩集の「あとがき」で三井葉子は書く。

<ずうっとことばと共寝だったな、と思う。おまえさんがいてくれての人生よ、などと言ってみたい。
 この間は、湯豆腐やいのちの果てのうすあかり 万太郎 が立てた拵えの。豆腐白壁のうすあかいいのちのいろ──を泣いたりした。もちろんなが年、非定型をおこなった、つまりわたしの無法が涙ぐんだのである。しかしながらこのところのわたしの関心事は変化について、である。簡単に言えば 老化がわたしの身の上にきた。はじめてみるじぶんである。すると。成り上る形姿が、また消えるところに射し込んでいる詩型に気付いた。さすがになあと、なにがさすがかは分からないが、この集を「句まじり」と呼びたいと思う理由である。>



これ以上、私が付け加えることは何のない。

なお、三井葉子さんは少女の頃から詩を書き続けて来られたので、はや1984年には土曜美術社から「日本現代詩文庫(19)」として「三井葉子、倉橋健一、吉原幸子」集としてアンソロジーが出ている有名な専門詩人であることを申し添えておく。

この辺で、今回の三井葉子の詩37篇の中からの抜粋の鑑賞を終る。
有難うございました。
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三井葉子さんの、この詩集が今年度の「第一回 小野市詩歌文学賞」の詩部門の受賞作となった。
副賞・100万円。
昨年までは、この市出身の歌人であり小説家でもあった上田三四二の名を冠した賞であったが、今回から改称されて授賞も短歌、俳句、詩の三分野に拡大された。
心から、おめでとう、と申し上げる。
知り合ったばかり私としても喜ばしい限りである。
授賞式は5月23日午後から「第20回 上田三四二記念 小野市短歌フォーラム」の中で開催される。当日は、茂山千之丞の「連歌盗人」という狂言。授賞式の後、パネルデイスカッション「詩歌・言葉の楽しみ」が、パネリスト・馬場あき子、茂山千之丞、辻井喬、宇多喜代子、コーディネーター・永田和宏 で行われる。第三部は一般公募の短歌の表彰と選評が行われる。
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2月9日付けで載せた詩『ヤコブの梯子』を、三井葉子さん主宰の季刊誌『楽市』に投稿しておいたら、このたび4月1日発行の『楽市』65号に掲載されて、4月2日に届いた。

楽市

あいにく誤植があって、はじめから5行目の「天上」が「天井」になっている。これは完全な「変換」ミスだが、仕方ないかと思う。
「合評会」が五月下旬に大阪であるというが、どうするか、まだ未定である。
まあ、こういう具合に詩人たちとの新しい交友が始まるのも、悪くはない。
以上、ご報告まで。

麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・高島茂
高島茂「ぼるが」

  麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・・高島茂

   ■つつぢ燃ゆいつ狂ふても不思議なし・・・・・・・・・・・高島茂

   ■青蛙吸盤白く泳ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

2008年四月下旬、私の次期「詩集」の出版の打ち合わせのために上京した際に新宿西口の居酒屋「ボルガ」で、此処ゆかりの俳人の高島征夫氏と初めてお会いした。語り口も爽やかな俳句結社「獐のろ」の主宰にふさわしい人だった。うち揃ったDoblogの友や装丁家・岸顕樹郎氏などとの話しも面白かった。
その際、私は『嬬恋』を持参して一冊、名刺代わりに進呈したが、高島氏からはお父上・高島茂の遺句集『ぼるが』(平成12年・卯辰山文庫刊)をいただいた。すぐに目を通して私の好きな句を抽出しておいたのだが、直後の海外旅行や、帰国後のバタバタで、BLOGにアップするのが今になった。
なお「高島茂」については何度も書いたが、リンクに貼ったところなどを読んでもらいたい。

いただいた句集『ぼるが』は平成11年8月3日に死去されるまで、平成元年からの俳句総合誌、結社誌、主宰誌などに発表されたすべての作品を高島征夫氏がまとめられたものである。

高島茂筆跡0001

掲出した句集の「ぼるが」の文字は茂の筆跡から起こしたものである。
なお原文は漢字は「正」字体を採用されているのだが、私の勝手で新字体にさせてもらったので、ご了承いただきたい。
以下、ただいまの季節にまつわる句をいくつか引く。

 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄

 青猫といふ紙あらば詩を書かむ

 佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ

 植田の水たつぷり畦にあやめ咲く

 謎めきて新緑の山深まれる

 をとこをんな宴のごとし田を植ゑる

 かつと晴れ植ゑしばかりの稲の縞

 新緑の鉄柵朱し雪崩止

 お鷹ぽつぽすつくと五月の風を呼ぶ

 星またたき蛾の吹入りし野天風呂

 杉山の幽し萌えたつ羊歯を見よ

 戦争の終らぬままに葱坊主

 分校の生徒は五人金魚飼ふ

 葱坊主木曾の石仏小さくて
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高島茂
この句集に載る高島茂の写真である。

この句集に載るものは季節は一年にわたっているので、あとのものは、また季節の都度載せたい。
抽出した句については、特別に批評のコメントは書かないが、抽出すること自体が私の批評であることをお察しいただきたい。特に、冒頭に引いた三句は、趣き深い。
ご恵贈に厚く感謝申し上げる。

   
冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集冬日

  冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂

ネット上の古書店に注文中の、高島茂第二句集『冬日』(昭和50年大雅洞刊)が到着した。森慶文のエッチングの版画の挿画のある箱入りのもの。
昭和37年秋から46年末まで約10年間の作品488句を収録している。
私の買った値段は高くて5000円だった。
掲出した句の一連は昭和45年の収録句で「赤んぼ」の句ばかり27句が一連として連なっている。
対象となる人が誰なのか私には判らないが、いつも身近に起居していた「赤んぼ」に相違ない。
一連はほのぼのとした雰囲気が漂っている。
句集名を「冬日」としたことからも、私はこれらの一連が作者の想いの凝縮したものだと思い掲出句を選んだ。

その一連を引いてみよう。

 鳥多き青空あかんぼいつも睡る

 桃の木の白い鳥から睡りもらふ

 あかんぼの皮むけてはまゆふの花の盛り

 やはらかに産着をたたむ酷暑かな

 生れて何か見えしは風の向日葵か

 手が温くなりてねむたく乳吸へる

 全身もて糞る小さき汗を噴き

 真昼かりかりと蟹ゐてあかんぼが見る

 あかんぼがよろこぶ炎昼の水の穂を

 乳の出る指吸ひすひて睡るなる

 白凉はねむり笑ひのあかんぼに

 あかんぼの視線よろこび四十雀

 あかんぼのねむりくすぐる小鳥きて

 むづかゆき歯が生え蜜柑ほしがりぬ

 空泳ぐ魚にあかんぼ羽をふる

 乳の匂ひ満ちて冬日のオルゴール

 あかんぼう孤独なるとき鯨煮られ

 家の中にむつき乾かす嚏する

 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる

 雀ゐてあかんぼのながい食事みる

 家のどこか叩くあかんぼに粥が煮ゆ

 あかんぼに冬芽きらりと声を出す

 真冬このほのぬくきものあかんぼ抱く

 雪の日のラッパに聦く瞳がとべる

長すぎる引用になったかも知れないが、この一連を見ていただけば判るように「慈愛」に満ちた詠みっぷりである。作者の「想い」が籠っているという所以である。

その後、高島征夫氏から、この「あかんぼ」について下記のようなご教示があったので、コメントをそのまま「貼り付け」ておく。

<「あかんぼう」についても記事があるのですが、とりあえず、作品作成時(昭和45〈1970〉年)、兄に長男が産まれています。作句のモチーフになっただろうことは間違いないと思います。ただ、本人は生前人に聞かれても「モデルはいないよ」と答えていました。この一言がいまでも鮮明に思い出されます。
 付け加えると、後年(昭和61〈1986〉年『鯨座』上梓)、兄の長男は癌のため短い生涯を終えました。第4句集『鯨座』にはその初孫である高島林(たかしまはやし)への献辞が掲げられています。>

「あかんぼ」の一連の句27句以外に、私の選んだ34句を下記に列挙する。合計61句となる。

この句集の巻頭句は

 炎天の鉄路を擦つて蝶迅し

で昭和37年の作である。この句の少し後に

 虻が熱い山菜採りの紺づくめ

 職なきは老ゆるにまかす時雨また

などの句が続いている。
昭和38年の句には、以下のようなものがある。

 緩みなき電線はるかに雪道直ぐ

 雪にながきバス待つ人生の荷物負ひ

 白繭のつめたさをいま掌にしたし

 鮮明な蛍火ひとつ多佳子の死

 一途なる秋蚕の食慾ひびきけり

昭和39年の作品から抜粋する。

 すでに夏日わがため白道まつすぐに

 青柿落つ歳月いたく無駄にせり

 肩に触れる冬日の鎖戦後ながし

昭和40年の句から

 両目もつはかなしと雪の捨達磨

 雪にかうかう一軒灯り馬肉売る

 連翹に腑抜けのまなこ射られけり

 轢死の犬みてゆく犬の時雨れけり

 生きて遇ふ句碑や泉に冬日さし──行道山滝春一先生句碑除幕式

昨日付けの記事の高島茂の略歴を見てもらえば判るように、茂は俳句結社「暖流」に参加している。
以下に、その主宰者・滝春一の経歴を貼り付けておく。
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滝春一
明治34年10月15日、神奈川県横浜市生まれ。本名粂太郎。
高等小学校卒業後、三越本店に入社。三越に27年間勤めた後、根岸演劇衣装株式会社に転職。
大正10年頃より短歌を作り始め、後職場の俳句会に誘われ俳句に興味を持つ。大正15年には水原秋桜子の門を叩き、昭和6年、秋桜子が「ホトトギス」を離れる時春一も従い「馬酔木」の中心的作家となる。
昭和7年、初心者対象の雑詠欄「新葉集」の選者となり、8年には馬酔木第一期の同人に推される。
10年に「菱の花」の選者となり、14年に「菱の花」を発展させ俳誌「暖流」を創刊、主宰となる。
しかし、その後「無季容認・十七音基準律」を唱えるようになり、師秋桜子と意見が対立。その結果「馬酔木」を離れる事となった。
しかし昭和41年、楠本憲吉などの仲介により「馬酔木」に復帰している。
82年、「花石榴」で第16回蛇笏賞受賞。
1996年3月28日没。
句集に「萱」(昭和10)「菜園」(昭和15)「深林」(昭和32)など。

 風立ちて薄氷波となりにけり
 かなかなや師弟の道も恋に似る
 あの世へも顔出しにゆく大昼寝

参考松井利彦編「俳句辞典・近代」桜楓社
稲畑汀子他著「現代俳句大辞典」三省堂
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この記事を読んで興味深いことがいくつかある。
これは以前の記事にも書いたことだが、戦前には昭和一桁頃から俳句の世界にも「自由律」「無季俳句」などの運動の盛んな時期があって、多くの俳人たちが影響を受けた。昭和二桁の戦時中は、そんな「自由」を標榜する運動は秩序を乱すとして特高警察によって弾圧され投獄されたりした。戦後になってからは「前衛俳句」運動が起こり激震を起こしたので、これも多くの俳人が影響を受けた。その結果、その道を邁進した人も居るし、多くは伝統的な句作りに復帰したりした。
誤解のないように申し添えるが「自由律」俳句は大正の頃からあった。たとえば「荻原井泉水」などは、その先駆者であり終生その道を進まれた。山頭火や放哉の先輩である。もっとも井泉水は「自然主義」の作風である。
私は少年の頃に兄・庄助の蔵書にあった井泉水の句集の自由律俳句に接して、いわゆる「詩」の世界を知った。
たとえば 

<島が月の鯨となつて青い夜の水平> 

というような句である。
この句などは「俳句」というよりも「短詩」としても鑑賞できるだろう。
茂の句を見てみても、多少は影響された形跡が見える。師匠である滝春一の経歴からの連想である。
一言書いておく。

昭和41年の句に

 傷みなくともる灯はなし斑雪の村

 流さるる生きものかなしおたまじやくし

昭和42年の句に

 家継がぬ子に縋りをり寒の虻

 マッチの火ほどに芽ひらき紅柏

 盆休みの職人とゐてぼてぼて茶

 傷つきてマルメロつよき香を放つ

昭和43年の句に

 日を吸つて寒の沢蟹動きそむ

 ただの棒ならず榛の木春待つ田

 あかんぼを見せあふ桜遠景に

 耳ともしねむるあかんぼリラの花

昭和44年の句に

 中年に日は流れだす桐の花

 炎暑の人詰めてがくんと市電止る

 炎天に遠流の渇き火口壁

昭和45年の句に

 干魚・蕗縄でくくつて黙りこくる

 霧に日させばまぼろしか鶴遠き潟に

昭和46年の項、この句集の巻末句に

 南天の実や明暗を若く知りぬ

 飯どきは飯くひにくる冬仏

この句集は昭和37年というから作者42歳からの十年の句ということになる。
作者の生涯の中でも一番充実していた時期ではなかろうか。
恣意的な引用だが私の鑑賞が籠っているので、後は読者の感想に任せたい。
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なお高島茂も所属し、第34回現代俳句協会賞も得た「現代俳句協会」のデータベースを検索すると50句が出てくるので参照されたい。誰の選になるかは判らないが、この協会のオフィシャルなデータベースとされている。
なお征夫氏からのご教示によるのだが、茂の一周忌にあたっての山崎聰の「冬日」の批評の記事を紹介しておくので興味のある方は当たってみてもらいたい。



平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集しょういき

  平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂第五句集『麞域』(しょういき)(平成5年7月14日 卯辰山文庫刊)に載るものである。
この本はネット上の「古書店」で1500円で買った。
箱入りで本も箱も「硫酸紙」で巻いたもの。昔は、このように「硫酸紙」で巻いた本が多かったが、今では珍しい。
「謹呈」札が挟み込まれていて、作者がどなたかに進呈されたもののようで、読んだ形跡のないような新品同様の本である。こういうことは私にも経験がある。歌でも俳句でも、その筋のトップの人々には大量の歌集や句集が毎日贈られて来るから、彼らは「読むこともなく」定期的に古書業者を呼んで引き取らせるのである。
因みに、私の歌集も古本としてネット上に売りに出ている。むしろ、こうして古書として出回ることを私は喜んでいる。読んでくれない人のところにあるよりも、ネット上で探して買ってくれる人があるというのが幸せである。

征夫氏からご提供いただいた高島茂の略歴を引いておく。
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高島茂の略歴

大正9(1920)年1月15日、東京・芝神明町に生まれる
昭和16(1941)年1月6日 麻布歩兵第一連隊に入営。1月16日、満州へ送られる
昭和17(1942)年 肺結核を発病。療養中「ホトトギス」投稿、翌年初入選
昭和18(1943)年 内地に送還。終戦まで福島の療養所生活。満州の戦友の部隊は南太平洋ロタ島に送られほぼ全滅す
昭和20(1945)年 終戦。秋に実家の高円寺に帰り、魚屋を手伝う
昭和21(1946)年 新宿西口に「ぼるが」の前身の酒場を開く
昭和22(1947)年 俳句結社「暖流」に入会

昭和24(1949)年 「ボルガ」創業

昭和30(1955)年 第三回暖流賞受賞

昭和34(1959)年 「ボルガ」を現在地に移転

昭和61(1986)年 第34回現代俳句協会賞受賞 この間、初句集『軍鶏』(昭和39年)、『冬日』(昭和50年)『草の花』(昭和59年)を刊行し、この年『鯨座』を上梓

平成2(1990)年 「■(のろ)の会」発足 代表となる

平成5(1993)年 『■しょう域』刊

平成11(1999)年8月3日心不全により死去。享年79歳 この年2月まで大腸癌の療養中にもかかわらず、「ボルガ」に出て陣頭指揮。生涯現役を貫く。

平成12(2000)年 遺句集『ボルガ』刊

平成13(2001)年 遺句帖『武川抄』刊
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先ず、この難しい字は「鹿かんむり」の下に「章」という「旁」が一字になったものである。(図版参照のこと)
これは、この結社「獐」(犭偏に章)と同じ意味の字であり、東アジアに生息する「のろ鹿」のことである。判りにくいので、今は結社としても「noRo」と表記されている。
なぜ、こんな「のろ」という名前を結社の名にされたのかを考えると、おそらく兵士として満州の地に居たときに野生の「のろ鹿」をよく見られたのではないか。戦地で結核を発病したことと言い、この地の風物が作者の句作の原点になっているからであろうか。

句を見てゆくと、作者は戦地に行ったことの体験から、この句があるのである。そんな体験からすると、今の世相は「平和ボケ」のように見えたのではないか、それが「そら怖ろしく」のフレーズになっている。
「啖う」は「食う」にも「食らう」にも訓(よ)めるが、ルビがないので、どちらにも訓んでもらっても結構だ。
「いちじく」が今の時期の季語であるが、アダムとイブの西洋の「肉欲の原罪」の神話に「禁断の木の実」として出てくるイチジクの「喩」も、この句の鑑賞の場合には重要だろう。
あれこれ考えて、この句の「訓みかた」としては「無花果」は「いちじく」とは訓まずに漢字のまま「ム・カ・クワ」と発音し、「啖ふ」は無難に「くう」として5音に収めたい。

以下、私の選んだ句を列挙したい。合計46句になるが約一割弱ということだ。

■眼には見えぬトリハロメタン水温(正字)む

■狙撃(正字)の日連翹遠く眩しめり

■いくたびも少年と遇ふ日永かな

■羅や虚(正字)子に會ひたる日に似たる

■しいんと灼け鏡太郎忌の氣球浮く

■妄執に似たり青(正字)梅手の中に

■のつそり出る霧の太陽蟹臭し──網走

■富士見えず二十三夜の湖に彳つ──山中湖

■登校拒否身近に雨の冬至なり

高柳重信逝きて
■あざやかな沒後を雨のゆすらうめ

中村草田男死す
■汗で濡れる體つめたく汗流る

「鏡太郎」とは高橋鏡太郎のことで、先に書いた『俳人・風狂列伝』にも名が挙がる人であり、また高浜虚子、高柳重信、中村草田男など著名な俳人との交友が偲ばれる。
俳句では「弔」句というのが重要視される。その意味でも、これらの句は大切にしたい。
「登校拒否」の句は、恐らくご子息あるいは孫のことだろうが、他人事のように聞いてきたことが身近に起こったのを句にされた。こういう「時局性」も俳人には必要である。
「トリハロメタン」の句も同様であり、時事性を捉えて秀逸である。
「狙撃の日」の句から、先に述べたような印象を私は抱いたのである。

■眼を病みてしみじみ雪の角館

■金蘭を生けてはるかな土偶の目

この句はつい先日、征夫氏が私の歌

呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ・・・・・・・木村草弥

と「唱和」して彼のBLOGに掲載していただいた思い出の句である。

■認識票肌になかりし今朝の秋

「認識票」とは、軍隊で兵士の体に付けさせるもので、このことからも作者が戦争体験があるという私の認識の根拠となるのである。兵士たりし日々には肌身離さず身につけていた「認識票」が今はもう身にはまとっていない、ああ平和なんだなぁ、という感慨である。その「平和」というのも、掲出句のように「そら怖ろしい」ものなのである。この辺の屈折した作者の「想い」を汲み取りたい。

■けもの臭き忘れ襟巻茂吉の忌

■笹のひと葉身に食ひ入りて蟇交る

■平等村手押ポンプも春なれや

■しばらくは鶴の見えゐし陶枕

■鮟鱇などわが風狂の友にして

■梧桐の寒の芽むつくり脂ぎる

■冬日のぬくさ背にありエル・グレコの繪

■空即(正字)是色はるかなる白さるすべり

■凡兆のその後知らず牽牛花

■手のさきの闇ふかぶかと鉦叩

■秋暑し死魚をむさぼる龜のをり

■疵ひとつなくて大きな朴落葉

■しぐれゐてやがて本降り桂郎忌

■おのづから瞠るくらさの寒卵

■軍靴に似しゴッホの短靴かなしかり

■へくそかづらなんじやもんじやも梅雨しとど

■うらごゑのどこかしてをり夾竹桃

七月十三日
■あと幾日生きては梅雨の五日月

■鳥となり還りきませり梅雨ふかし

この「七月十三日」という日付がどういう意味か、また、この句につづく「鳥となり」の句は、今の私には判りかねるが、重い句である。

■うすうすと山茶花の襞わがエロス

■それとなくいのちのことを息白し

■佐伯祐(正字)三のたましひの繪と五月は會ふ

■聲あげて花火の傘下誰か老ゆ

■點鬼簿に入りしその名を蟲のこゑ

■ふたり子の描きし凧を枯田に置く

■哲學をまなびし道の雪蟲よ

■銀河鐵道の夜の劇に出て卒業す

この三句を詠んだ対象の人が、どなたか私には判らないが昭和終末の頃の作品ということから、「孫」のことであろうか。

■荒梅雨やこんなところにへのへのもへじ

■東京を追はれし守宮の塀もなし

■ガラス繪の裸婦うしろむき無月なり

■戰爭の火の消えざるに昭和終る

■ながかりし昭和を悼み白鳥みる

この句集は昭和63年─つまり昭和の終焉を以って終っている。大正生まれとは言え、生涯の殆どを「昭和」とともに生きた作者として格別の感慨があったであろう。
引用した終わりの二句に、それがよく出ている。
この句集は編年で作られており、昭和57年─77句、58年─58句、59年─59句、60年─58句、61年─60句、62年─92句、63年─96句、合計500句が含まれている。この中から私の恣意で、上のような句を選んだもので、選びきれていないものも多いと思うが、今回は、この位にして終る。気がつけば加筆、訂正したい。
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TB9ボルガ

先にも引用したが
高島茂氏創業の「ボルガ」の紹介記事を引いておく。

新宿西口・老舗の居酒屋『ボルガ』

高島東さんにお話を伺いました。

 新宿駅西口から徒歩3分、小田急ハルクの裏手にある居酒屋『ボルガ』。煉瓦造りの建物にはツタがからまり、なんとも風格のあるたたずまい。店先からは焼き鳥のいい匂いがたちこめ、その煙につられて毎晩多くの人々が集います。150席ある店内は、20時を過ぎるとほぼ満席に。

 「当店は昭和24年に思い出横丁に開店し、昭和33年に現在の場所に移転しました。山小屋をイメージして造られた店内では、テーブルや椅子、ランプなどの照明器具も当時からのものを使っています。看板メニューの『ばん焼き』は、豚のモツ焼きと焼き鳥の盛り合わせ。開店当初は“ばん”という鳥の焼き鳥をお出ししていたことから、この名前で呼ばれています。また、今ではすっかり居酒屋の定番となった『酎ハイ』も、当店ではかなり昔からのメニュー。『焼酎を他の飲み物で割ってみたら美味しいんじゃない?』というお客さまからのリクエストから生まれたそうです。他にも、“山のキャビア”と呼ばれる『とんぶり』や、季節のメニューなどもおすすめですよ。」

 『ボルガ』という店名は、俳人でもあった先代オーナー(高島茂氏)がロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなんでつけたもの。お店にはこの先代オーナーを慕い、多くの映画人や文学者、画家などが集まり、文化人のたまり場としても有名です。

 「映画監督の山本薩夫さんや、熊井啓さん、直木賞作家のねじめ正一さんなど、多くの方と家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。みなさん、我が家のようにくつろいでくださってますよ(笑)。また、先代から受け継いだ俳句の会『(のろ)の会』(現在は先代オーナーの息子さん・高島征夫氏が主宰)も当店を拠点に活動していますので、文芸に興味のある方はぜひ一度いらしてみてください。」

 幼い頃から新宿に縁の深い高島さん。ご自身は映画の大ファンで、週末などはお店が終わってからオールナイト上映を見に行くこともあるそうです。そんな高島さんが語る、新宿の魅力とは?

 「新宿は言わずと知れた大都会。新しいお店や流行りのスポットなどが次々とできる一方で、人の暖かみを感じさせてくれる昔からのお店も残っている。人々が求めるその両方を兼ね備えているところが1番の魅力ですね。『ボルガ』も、これからもずっと変わらずに、ここで皆さんのお越しをお待ちしています。初めての方、お久しぶりの方、もちろん常連さんも大歓迎です!」
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住所: 東京都新宿区西新宿1-4-18
TEL: 03-3342-4996
営業時間: 17:00~23:00(ラストオーダー 22:00)
日曜・祝日休み
アクセス: 「新宿」駅西口より徒歩3分

一見居酒屋には見えない個性的な店構え。バックには高層ビル群がそびえます。

木の温もりあふれる店内。カウンターには民芸品なども飾られています。

テーブル席やお座敷など、さまざまなスタイルで楽しめる2階フロア。

やさしいランプの明かりが、和みの空間を演出。

  
高島征夫『近作句』2009/03/23編集・・・・・・・木村草弥
「のろ」誌
 
 高島征夫『近作句』2009/03/23編集・・・・・木村草弥

わかわかし沖の大波春の余波

佐保姫の裳裾きらめき沖に立つ

雪起こしとぞ咲けるなり春の海

豚かとも狼かとも春の雲

春雨もいまだし風の寒かりき

むめがかや昼寝の猫の耳立てて

シベリアの春は遠かり月の牙

朧月グラプトペタルムといふは何

不思議なる春の浅きにラベンダー咲く

旅芸人雨の椿をみつめをり

小鬼らが嬉しさうなり仏の座  (「獐のろ」誌2005年5月号所収)

ぬきんでて雨に山茱萸ひかるかな

啄める福良雀よ春まだし

2009・02・28

水仙の透きとほるなり海眼下  (「獐のろ」誌2005年4月号所収「百句」より)

不作なる年もありけり若布刈る

甘き香の花とも見えず枇杷の花  (「獐のろ」誌2005年1月号所収)

沈丁花書かねばならぬ結び文  (「獐のろ」誌2005年4月号「百句」初出句改案)

啓蟄や朝陽あふぎつ出でて来い

春潮や犬総身の武者震ひ  (2007年3月12日)

ヒヤシンス海の色なる少年愛

航跡の白さすぐ消ゆ春の海  (「獐のろ」誌1993年5月号所収)

ミモザとかアカシアとかフランス花祭

ときどきはポコと音たて春の水  (「獐のろ」誌2005年5月号所収)

仮想空間伝搬春の朧かな

治にあれば乱とぞ鳶春の潮

脳内の電位の波よ春の波

兄と共荷車押せる春あらし  (「獐のろ」誌1999年5月号所収)

ねはんにし浮世に近く波に乗る

人知れず咲きにし思ふ花杏

春は曙血圧計をしかと見る  (2009年3月14日「獐のろ」句会出句

吹かれつつぺダルは重し花辛夷  (「獐のろ」誌2003年5月号所収)

クレソンの花はたまさか野に遊ぶ

點滴の針の冷たき春彼岸  (「獐のろ」誌1993年4月号所収)

老いて朦朧ひらききったるチューリップ

酔ふて見る夢はコビトノチューリップ
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高島征夫の句─(2) Doblogから転載

aaoookura0オクラ花

  おくら咲くひと日の色を誰がために・・・・・・・・・・・高島征夫

先のものと一体として引いておく。

「おくら」は、この頃では、よく食べられるようになった野菜である。
あの独特のネバネバが体にいいと言われている。「花」も、うす黄色の清楚なものである。花は一日花と言われ、それを「誰(た)がために」と捉えたところが優れている。
以下、最近の掲載句からの抄出である。

  ■木瓜の実の熱き日ざしをしかと抱き

  ■法師蝉なきやみ猫のあくびかな

  ■源平はいまも戦のアブチロン

  ■返り咲くわが夾竹桃を禊かな

  ■処暑の雨はや還りなむ祈り新た

  ■どこか遠くへ昼寝も覚めず古電車

  ■サイレンの遠ざかりゆき夾竹桃

  ■裸子の歓声沖へニゲラ咲く

  ■海へ一線犬死なれどカンナさかる

  ■秋浜の光飛ぶもの想い出の

  ■明けぬればほつとためいき野分かな

  ■かくすべしちりめんじわのさるすべり

  ■みそなはす仏もおはしねこじやらし

  ■雨後の天などみてありし青くわりん

  ■青柿のひそと葉陰に実りをる

  ■炎天のブラックベリー飢餓の国

  ■紫御殿二度とかへらぬ夏休み

  ■かくれんぼ鬼も隠れて蛍草

  ■どこか遠くへ古自転車と晩夏光

  ■陸封のドルフィン飛びをり日の盛り

  ■酔ふことも遠き沖なり酔芙蓉

  ■落蝉と思ひし俄に翔びたちぬ

  ■生きてゐる化石ここにも木賊かな

  ■片陰に常盤露草しばし憩ふ

手に入る資料から、とりあえず数十句を引き出してみた。もとよりアトランダムなものである。
高島征夫氏は、サイトを見ればわかる通り、鎌倉の「海辺」に住んでおられる。
したがって、「海」を詠んだ句が多い。毎日の散歩は海辺であるという。
句会などでは喜んで東京に出て来られるらしいが、実は「猥雑な」都会が好きではない、とおっしゃる。
東京都心の生まれでありながら、一時、八王子の「高尾」に住んでおられたらしい。
そんなところから「山棲み」「海棲み」が身についたのかも知れない。
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高島征夫の句─(1) Doblogから転載

kuroageha-omoteクロアゲハ雌

  黒揚羽凶々(まがまが)しくも喉鳴らす・・・・・・・・・・高島征夫

この句が、いつの制作になるものか判らない。
この句は「前衛句」を思わせるような鋭い作品である。「凶々しくも」「喉鳴らす」というフレーズが秀逸である。
『東京詩歌紀行』(日本詩歌紀行3・北溟社2006年刊)の中の「私の東京ポエジー」というエッセイと一緒の欄に載っているものである。
先日来、征夫氏の父君・茂氏のことは、ここでも二回とりあげたが、その交友のきっかけとなったのが高島征夫氏なので、何とか記事にしてみたいと思っていた。
征夫氏には「風胡山房」というサイトがあり、ペンネームを「結城音彦」と言われる。
前にも書いたと思うが高島茂が創刊し、その死後、征夫氏が継承した俳句結社「獐」(noRo)の主宰をされる。
俳句誌その他に精力的に作品を発表しておられるようだが、句集は、まだお出しになっていないと言い、先に書いたサイトにも、まとまった作品は見られないようになっているので、とりあえず「のろ」誌に載る最近の句などを紹介しておきたい。

  ■ゆふがほのねぢれほとびてひらくかな

  ■厭離(おんり)とも思へどはしき浜万年青(おもと)

  ■空蝉のこゑは聞こゆる遠き沖

  ■ほほづゑのあとほんのりと夏終はる

  ■抜歯せし跡のへこみや秋の潮

  ■珊瑚樹の実はむらぎもに沖遠し

  ■南溟に命日もなく父逝くは

  ■鳥影の涼しく過ぎし父ならむ

  ■南溟に嵐あるかや秋の波

  ■と見かう見ちがふ貌して秋怒涛

  ■柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし

  ■ポーチュラカ暑き秋日をものとせず

  ■デュランタの垂るる壁より秋日さし

  ■草原の如く海辺の相撲草

  ■白露なる日の美しき沖となり

  ■無愛想なメグレ警部と秋の雲

  ■沖かけて旅の心も青みかん

  ■信号の赤あざやかに秋の雨

  ■八月の埴輪は踊るおらびをる

  ■ハイビスカス真つ赤に朝は秋めくに

  ■おしろいのアンドロギュヌスへだつなし

  ■父逝けるしんかんとして百日紅
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冒頭に挙げた『東京詩歌紀行』には、私の歌3首も載っている。

うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり 

振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

ペン胼胝(たこ)の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ
・・・・・・木村草弥


高島征夫自選「百句」2005年・・・・・・・・・・・木村草弥
「のろ」誌

 高島征夫自選「百句」2005年・・・・・・・木村草弥       

       (1)               

元旦を雪積み流るくわりんの実

信心の薄き身なれども初参り

初詣まんぢゆうの湯気みぎひだり

元旦に怒鳴る声あり雪日影

なにもかも去年に押し込み詣でけり

あめつちはここ元旦の珈琲屋

雪しづく日は燦々と二日かな

尖りしよ硬き冬芽の桜木は

初電話なにゆゑ縺れてをりしかな

青猫のよぎりて吹かる竃祓

武蔵野の雲ひろごりし三日かな

ひよどりの目の縁赤らめ枯木揺る

寒風に抗ひをりし九十九折

水仙の透きとほるなり海眼下


      (2)

手の平の種あたたかし寒に入る                        

たはむれに若菜摘みたりうたごころ

冬の雨柚子のにほへる部屋にゐて

味噌包む青さの失せし朴落葉

枯芙蓉ひかりの中にたふとかり

裸木の中の黒木の寂しさよ

着膨れてひとりはみだし終電車

冬日影ありくも長きホームかな

冬陽炎をちに機関車動かざり

墓標のごとし冬の路傍に石積むは

薄ラ日を背に裸木の力瘤

小正月白き巨塔の焼却場

寒灯のとどかざる闇ポスト鳴る

大寒の我ら絶滅危惧種なる

自転車の検問寒きゆうごころ

一声を寒の鼓と発したる

夜を焦がす山焼き蛇のごとくなり


     (3)

春近しゆつくり跳ぼう兎君                        

成人の日より煙草やめました

マフラーを後ろ結びに出てゆけり

人間は人のみならず裸の木

空のある川冬ざるる薬王院

浅川の冬を雲雀の鳴きにけ

薄鈍の広場汚れし松飾

冬の鵙天に欅の秀のゆるぐ

うつくしや赤き木の実を寒寂光

あかときの首だけ出せる寒さかな

かじかみし手に鉛筆のチビてゐる

日の残る水に動かず寒の鯉

あるくたび寒気に壜の触れ合へり

鯨狩る今も狩る縄文人のウラア

花枇杷や書棚の隅の大図鑑

霙降りカフェラテ淹るる泡の音

白骨樹屹立北風やむことなし

セルロイド擦りし匂ひ林檎かな

      (4)

霙ふる街出し人の遠ざかり

霙ふり傍若無人なる車両

しなやかに生きたしといふ霙降る

霙降るかたくなに席拒みをり

つるつるのレール凍つるを走るがに

橙のひとつ灯せし海の宿

日の匂ひ蒲団ごくらく極楽然

ダリのパン籠冬の眼の見つめをり

馬鹿っちょといわれる由なし寒くもなし

秀の撓り鶸の重さのほどなれる

冬の日や石筍伸ぶに時かけて

寝る時もぎつちよはぎつちよ猯狸

あかときのすがもり光る山家かな

あん肝の舌にこつてりあつき酒

風流も塀のうちなる寒の入り

かじかみし手を振り入る宿場町


       (5)

さびしさの煮凝売りし頃のこと                        

螺旋を捲く音の響ける寒夜かな

寒き夜や時計にはかに動き出す

寒の水笑ひ羅漢に入日あり

ひかり著て大寒の日の雀をる

ぶつかれりラガーら湯気を吹つ飛ばし

冬空にまざとありけり鳥の首

聴き做せり桂の森の三十三才

いとけなし波行く方の浮寝鳥

冬の雨こちらを向きて猫座る

寒き日や磯鵯の丸まつて

薄曇り水仙ひともと原種なる

探梅や当山高尾薬王院

踏切の音消し長き雪の貨車

さながらにそは神の雨春を待つ

影雪のシュプールふかき人傾く

実の消えて鳥は来たらず春待つ木


       (6)

さらさらと波の氷凝り石洗ふ                       

氷凝りの銅像見上ぐ見つめらる

宇宙遊泳・リュージュいづれぞ遅速なる

外套を吊し目張りとなせるなり

冬の影ものみな低く地を這へる

雲光るまなざし黒き寒立馬

日向ぼこ猫は日陰に移動する

寄せかへししぶき氷の花となる

中折れの棕櫚の葉寒くバンバラに

我が足に靴下二枚着膨れし

節分や猫の先導山下る

立春の金魚の力ここにあり

沈丁花書かねばならぬ文のあり

山峡の畑に残りし雪はだら

盆地覆ふ野焼の煙ミルク色

丘の村軒寄せ春のまだ浅し

鴇の雲たちまち褪せし雪嶺に

道の辺の火の見しづかに春の日さす
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高島征夫氏より提供された自選句である。

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e0055861_19485774ルーラン・ゴッホ
  
渦巻ける髭と春くる郵便夫・・・・・・・・・・・・・高島征夫

この句を載せたら、作者がさっそくご覧いただいて、この句にまつわる「自句自註」を知らせていただいた。
それを下記する。

 【この句は『獐』(一九九四年三月号)に載っているからその年の立春頃の作である。十年前(2004年現在)の作品ということになる。この句を一読、誰でも「ゴッホ」を連想するかもしれない。事実、「ゴッホの絵に、郵便配達夫ルーランがある。碧い鳥打帽をかぶって、青い服を着て正面を向く顔中髯だらけのような彼は、威厳すら感じられる。これを人は髯のルーランと呼んで親しんでいる。渦巻ける髯はゴッホの描く麦畑でもあり、糸杉でもある。髯の郵便夫が春を呼んでいるようでもある。」という撰評を師・高島茂から貰った。
 出来上がったものはすでに作者の手を離れているから、こういうことを言うべきではないのだろうが、正直なところ、作者はこの時、それをまったく意識していなかったのである。
 そういう意味で思い出の深い句となった。】
(自註:『獐』2004年4月号「150号記念特集」のための草稿より)

  
わが兄・木村重信のこと・・・・・・・・・・・木村草弥
木村重信著作集④
 
  わが兄・木村重信のこと
   ・・・・美学者・兵庫県立美術館名誉館長・・・・・・・・・木村草弥



昨日来、私の兄弟のことを書いたので、亡長兄・庄助のことは、さておいても、次兄・木村重信については、何者かということに頬かぶりでは済まされないと思い、少し書いてみる。

次兄・重信は1925年京都府城陽市生まれ。私とは5歳年長である。
京都大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を出て、今の京都市立京都芸術大学教授を経て、大阪大学文学部美学科が創設されると同時に主任教授として赴任、その後、国立民族学博物館併任教授を歴任、定年退官。あと国立国際美術館館長を経て、兵庫県立美術館館長を経て、現・名誉館長。
この館の前身は兵庫県立近代美術館であるが、川崎製鉄の工場跡地に住宅団地と併設して「芸術の館」として、今までの単なる美術館の枠を出て、総合的な芸術運動の拠点として建設された画期的な文化施設である。神戸港に面した憩いのスペースもあり、喫茶・レストランもしゃれている。世界各地の文化施設を見て歩いての兄の主張が色濃く反映されていると言えよう。

掲出した写真は、『木村重信著作集』第四巻「民族芸術学」のものである。一巻平均500ページ余の大部のもので、全八巻が刊行済みである。(京都市・株式会社 思文閣出版)
この第四巻の標題に見るように、兄は、世界の原始美術研究のパイオニアであり、1970年代にアフリカのカラハリ砂漠などを探検し──いわゆる文化人類学などが多用するフィールドワークを関西テレビの後援でおこなった。その様子は関西テレビで放映され多くの人が、はじめて見る光景に興奮したものである。
その後、それらの経験を踏まえて「民族芸術学会」なるものを創設し、初代会長を今も務めている。
その間、新聞雑誌への執筆も多く、世界各地への視察も多い。
主な著書──『美術の始源』(新潮社)、『はじめにイメージありき』(岩波新書)、『現代絵画の変貌』(三一書房)、『カラハリ砂漠』『アフリカ美術探検』『アフリカ美術』『モダン・アートへの招待』(講談社現代新書)──この本の初版は昭和48年だが、その後もよく売れて版を重ねて現在数十版に至る。信濃毎日新聞の日曜版に数年間連載したものを1冊にまとめた『世界美術史』(朝日新聞社・15000円)も今までの類似の美術史と異なり、未開美術に目配りしたものとして独自の視点を持つ。
京セラの創始者・稲盛和夫の創設した稲盛財団の主催する国際的な「京都賞」というのがあるが、賞金額も一人5000万円という豪華なものだが、その文化芸術部門の選考委員を設立当初から務めている。外国人の受賞者も多く、それらの選考のための資料集めも大変だと思われる。
昨日付けで「木村庄助」のことを書いた中にも重信にも触れてあるので参照されたい。

ここで兵庫県立美術館の写真を出しておく。安藤忠雄の設計である。
300px-Hyogo_prefectural_museum_of_art12s3200.jpg

兄の夫人・木村嘉子は画家で、兄が京都芸大の教授をしていた頃の教え子である。ずっと神戸の海星女子大学で定年まで教授をして来た。子供は二人とも女の子で、長女は高校を出てからアメリカのコロンビア大学のカレッジを皮切りに最後はUCLAの大学院のドクターコースに進み、有給のティーチング・アシスタントを務めていたが、ドイツ系アメリカ人の会社経営者で美術コレクターというお金持ちに見初められて結婚、二児の母親である。ロサンゼルス在住。
次女は日本で結婚。相手は兄の見つけてきた学者の卵で藤田治彦という。現在、大阪大学大学院教授で、イギリスのウイリアム・モリスに関する著書もある。兄と共同でH・W・ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン父子の本『西洋美術の歴史』(創元社)を翻訳、この本は大部の本だが、美術史関係の副読本の指定をしているところが多く、新学年ごとに、よく売れるらしい。そのために大部の割には3300円と定価も安い。
彼は若い頃、フルブライト留学生としてアメリカで勉強した。今日、有力な日本人学者にはフルブライト留学生出身者が多い。
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76i.jpg

この写真はネット上に載る「白鳥正夫のぶんか考~新聞人から見たアートの周辺」という記事に載るもの。
兄・重信の話も結構おもしろいので、読んでみてください。

実は、私たちの家業・宇治茶問屋「丸京山城園製茶場」は、兄・重信が継ぐことになっていた。事実、戦後数年間は、兄が実務を見ていたことがある。兄は京大に入る前は、京都市立第一商業学校、その上の名古屋高等商業(名古屋経済専門学校)の出身であり、簿記は専門で、鼻歌まじりでも経理は処理できた。その兄が、学者の道に転進することになり、茶問屋の後継者のお鉢が、三男である私に廻ってきたのである。
私は、ずっとフランス語を専攻し、できればジャーナリストの道に進みたいと希望していたが、私も、かなり父親には無理をいって、好き勝手なことをして来たので、年貢の納めどきと観念して家業を継ぐことになった。しかし、根っからの商売人ではないので、商売に関しては苦労した。

このように私自身は大した人間ではないが、兄・重信や私の同級生たちが、みな偉くなっているので、他の人とは違って、これらの友人から多くの恩恵を得て来たと思って感謝している。


『木村庄助日誌』・・・太宰治『パンドラの匣』の底本、出版・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
庄助日誌

『木村庄助日誌』──太宰治『パンドラの匣』の底本、出版!・・・・・・・・・・木村草弥


先にも少し書いたことがあるが、私たち兄弟の亡長兄・木村庄助の療養日記を元にして、太宰治の小説『パンドラの匣』が書かれたことは、この小説の「解説」などで、よく知られていることである。
この兄の日記が、次兄・木村重信編によって2005/12/26付けで出版された(編集工房ノア)。
写真①は、その外箱である。
「帯」には、こう書かれている。
 
 特異な健康道場における
 結核の療養日誌だが、
 創作と脚色のある自伝風小説。
 一少女に寄せる濃密な思いの詳細な描写が圧巻。


また、「帯」の背の部分には

 太宰を思い
 太宰に生かされた
 生のかたち


これらのキャッチコピーは、もちろん出版元である「編集工房ノア」の涸沢純平氏の手になるものであるが、この日誌の性格を、実に簡潔にして要を得て、的確に捉えていると言えよう。
写真②は、本の表紙である。
庄助日誌本

編集工房ノアは大阪の小さい出版社だが、文学書、小説、詩集、エッセイなどの出版社として、よく知られた存在である。
詩集では、読売文学賞を得た詩人の天野忠さんの詩集『私有地』などが、ここから出版されているのが思い出される。
今回の編者・木村重信のエッセイ『右往左往』も、二十年も前に、ここから出されている。
写真③が、この日誌の著者・木村庄助である。
庄助写真

庄助は昭和18年5月13日に22歳で亡くなったが、この写真は、なくなる三ヶ月ほど前に撮ったもので、遺影と言えるだろう。現在、私の手元にある彼のアルバムに残されているものだが、今回、この本の出版にあたって、巻頭口絵として収録した。

木村庄助と太宰治の関係については、この本に17ページにわたる「解説」を書いている浅田高明氏の「小説『パンドラの匣』の原資料「木村庄助日誌」をめぐって」に詳しい。

小説家とモデルないしは原資料、という関係は、あちこちに広く存在する。
よく言われることであるが、 「作家と作中人物」というのは、そういうことである。
フランスの作家フランソア・モーリアックに、その名も「作家と作中人物」Le romancier et son personage という著書があり、この本はフランス語専攻のゼミの原書講読の上級のテキストとして使われていたこと、などを思い出す。
それは、現代小説のみならず、時代小説も、同じことである。
作家が下敷きとする資料3割、フィクション7割ということもあり得ることで「原」資料にいかに肉付けするか、そこにこそ、作家としての力量があるわけである。
場合によっては、1、2行の記録から、膨大な小説がたち上がるということもあるのである。それこそ、作家の力量、醍醐味というものである。

この本の校正は、重信兄と私の二人でやった。
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『木村庄助日誌』──太宰治『パンドラの匣』の底本
    ──(図書新聞掲載の編集工房ノアの広告から)

 太宰治が才能を惜しみ、庄助日誌をもとに『パンドラの匣』を書く。
 該当する昭和16年9月13日~12月26日の日誌。
 編集・木村重信、解説・浅田高明。 定価・3150円

 編集工房ノア
 〒531-0071 大阪市北区中津3-17-5
 TEL 06-6373-3641 FAX 06-6373-3642
 メールアドレス──hk.noah@fine.ocn.ne.jp
編集工房ノアのホームページから直接注文も出来る

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なお「検索」で「木村庄助」と入れてもらえば、たとえばGoogleの検索では約2000件の検索結果が出て来る。
Wikipediaの検索でも記事が載っている。お試しあれ。
そこには浅田高明氏の、庄助日誌の探求、などの著書その他、が詳しく見られるだろう。
もちろん私が書いたBLOGの文章なども出て来る。
よろしくお願いいたしたい。
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(追記)2005/12/28付けで「京都新聞」夕刊が、7段組みで大きく採り上げてくれた。編者・木村重信へのインタビューの形式である。
ネット上ではGoogleで「木村庄助」または「木村重信」と検索すると「京都新聞」電子版として見ることが出来る。お試しあれ。
太宰治「パンドラの匣」の底本──「城陽の男性闘病記」兄の日誌 後世に──
という見出しである。
サブ見出しには「会話や設定 随所に生きる」として
「日誌」原文 12月11日付け と、太宰の小説「パンドラの匣」の「マア坊 5」の文章を12行にわたって対比して掲載している。
極めて、適切な要を得た記事であり、私たちも喜んでいる。
余談になるが、私の住む地域を所管する京都新聞南部支社の編集デスクは、当時、大橋晶子さんで、彼女に本を渡したのがキッカケで、城陽担当の記者が兄・重信宅に出向いて取材したものである。
大橋晶子さんの父上は、私の大学のときの一年先輩で十数年前に亡くなったが、京都大学教授(フランス文学語学)だった。在学中からピカ一の秀才で、在学中にフランス政府給費留学生試験に合格、3年間の留学から帰国すると、すぐ京都大学の助手に採用されるなど、才能ゆたかな人だった。昭和42~3年に兄・重信が大サハラ学術探検隊(フジテレビ昭和43年1~3月、13回にわたってデレビ放映された)を組織したチームにも、副隊長兼言語班長として参加して、苦楽を共にした、極めて親しい仲であって、私と兄との共通の友人であった。
私の歌集の出版の際に取材に来てくれたのも晶子さんで、その取材の話の中で、父上が故大橋保夫君であることが判り、何とも言えぬ不思議な縁(えにし)に驚いたのであった。先に書いた大サハラ学術探検隊とフジテレビの取材チームが羽田国際空港(その頃は成田空港はまだ無い)に帰国したとき、母上・大橋寿美子(元同志社女子大学長)さんが乳飲み子を抱えて出迎えに来ていたが、その乳飲み子こそ、晶子さんなのであったという。
あれも、これも不思議な縁というべきである。

   
山なみ遠に春はきて/こぶしの花は天上に・・・・・三好達治
kobushi1504こぶし②

  こぶしの花は天上に・・・・・・・・・・・・・・三好達治

      山なみ遠(とほ)に春はきて

      こぶしの花は天上に

      雲はかなたにかへれども

      かへるべしらに越ゆる路


辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
kobushi3036こぶし③

「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。
掲出の三好達治の詩は詩集『花筐』(はながたみ)から。
この詩は孤高隠栖の心境を詠った四行詩だが、こぶしの純白な花が青空を背景に山路にみごとに咲き誇っているさまが彷彿する。

kobusi1四手こぶし④

写真③は「幣(しで)辛夷」という種類の辛夷。
この「幣こぶし」だが、絶滅危惧種と言われている。
湿地性の植物で、各地で開発などで姿を消しているらしい。
四月三日のNHKの朝のラジオで、大きな生息地だった岐阜県の各務原の群落が産業廃棄物処分地の影響で消滅してしまったという。目下、その土地で採取した種から発芽させて苗木にしたものを安全な地に植えつけて復活させる努力がなされているという。苗木屋などには結構出回っているらしいが。。。
写真④は、こぶしの実である。
kobusi_3こぶしの実

私の歌にも辛夷を詠ったものがいくつかあるが、ここでは俳句に詠まれたものを採り上げて終りたい。

 一弁のはらりと解けし辛夷かな・・・・・・・・富安風生

 花辛夷月また花のごとくあり・・・・・・・・飯田龍太

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く・・・・・・・・能村登四郎

 清滝の奥の四五戸の花辛夷・・・・・・・・河野南畦

 辛夷咲く空へ嬰児の掌を開く・・・・・・・・有馬朗人

 花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村

 式内社田打ざくらの花かざす・・・・・・・・森田峠

 辛夷咲く一樹のもとの苗代田・・・・・・・・滝沢伊代次

 辛夷咲き会津に白き山いくつ・・・・・・・・岡田日郎

 水源の水もりあがる花辛夷・・・・・・・・矢島渚男

 辛夷咲き畳のうへに死者生者・・・・・・・・岡井省二

 目をあぐるたびに石見の花辛夷・・・・・・・・飴山實

 みな指になり風つかむ花辛夷・・・・・・・・林翔

 逢ひたくて辛夷の花の傷みゆく・・・・・・・・宮坂静生

 辛夷咲く飛騨朝市の黄粉菓子・・・・・・・・勝田享子


  
<沓冠>という遊び歌について・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥(Doblogから再録)
──初出Doblog・2004/05/22のBlog
  <沓冠>という遊び歌について・・・・・・・・・・木村草弥

──エッセイ──

<沓冠>(くつかぶり)という遊び歌について──

 ───木村草弥の作品<秘めごとめく吾(わ)>の場合── 

或る人との交信の中で「沓冠」(くつかぶり)という、中世から和歌の世界でやられてきた「遊び歌」について触れたところ、どういう仕組みかという質問があった。
そこで私の作品を例にあげて説明してみたい。

これは「秘めごとめく吾(わ)」という題名の沓冠15首であるが、雑誌『未来』誌1996年9月号に、
特集・異風への挑戦③で「課題・沓冠」が編集部から指名で課されてきたものに応じて発表したものである。
「くつかぶり」は漢字で書くと「沓」と「冠」とになる。
<冠>とは一首の歌の頭の音(おん)を①~⑮へ。
<沓>は歌の末尾の音を⑮~①へと辿ると
「現代短歌に未来はあるか
 そんなことは誰にもわからない」 となる。
この文をよく覚えておいてほしい。
これが「くつかぶり」という歌の遊びであるが、15首の歌の頭と末尾が、事前に決っているので、それに基づいて歌を作り、連ねて行かなければならない、
という難しさがある。
この、沓冠に宛てる「文」は作者の自由に決めてよい。
なお沓冠には二種類あり、私は一首の頭と末尾に沓冠をあてはめたが、
もう一種類は、各歌の5、7、5、7、7の各フレーズの区切りに、沓冠に選んだ字(音=おん)を当てはめてゆく、というもの。

では、実際に、私の作品を見てみよう。なお歌の頭に便宜的に①~⑮の数字を付けておいた。
実際の作品にはついていない。

 秘めごとめく吾(わ)──沓冠15首・・・・・・・・・・・・・・・・木村 草弥

①げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢

②ん、といふ五十音図のおしまひの大変な音(おん)が出て来ちやつたな

③だいぢやうぶ、忘八といふ大仰な題名つけた人がゐるから

④生きものはみな先ず朝を祝福せむ、徹夜してまで作るな短歌

⑤たまさかの独り居の夜のつれづれに十指を洗ふ秘めごとめく吾(わ)

⑥ん、ならね 人の世の運などといふ不確かなるに縋りてをるも

⑦革ジャンに素乳房を秘めハーレーに跨る少女、血を怖れずに

⑧にちげつを重ねて揃ふ茶のみどり摘むゆびさきは陽光(ひかり)に刺され

⑨みどりなす陽ざしに透ける茶摘女の肌うるはしき茶ばたけの段(きだ)

⑩ライラックそのむらさきの髪ふさの舞姫ソフィゆめに顕(た)てるは

⑪いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音

⑫花火果てて元のうつろな河となり晩夏の水を眺むるをとこ

⑬アポトーシス自然死なるにあくがれて華甲も六とせ越えし吾かな

⑭るいるいと海松(みる)の朽ち藻に身をまかせ記憶の森にトラウマ尋(と)めん

⑮愛(かな)しさは遠浅なして満ちくるをもくれんの花は昼もだすとぞ

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お判り頂けただろうか。見ていただけば判るように、かなりの習練と、当意即妙な自由さ、が必要である。
私などは、かなり遊びの要素の多い人間で、こういう遊びは大好きであり、もう15年も前のことだが、
これを制作中は、嬉々として楽しく作品作りに当った。実際の制作期間は2日ほどである。
先ず、当てはめる<冠>と<沓>になる「文」を作り、それを歌の頭と、歌の末尾に配置してから、歌の制作にかかる。
作ったあとには、大きな達成感があるのである。
並べる歌の数は15とは限らない。10でもよいし、30でも、よい。
ただし、30となると、かなり難しさが増すだろう。どんな数にするかは、課題を出す編集者の裁量である。
この一連は第二歌集『嘉木』に収録してあるが、自選50首には載せていないので、Web上では、ご覧いただけない。

風薫る春の昼過ぎいずかたへ向けて屠られにゆく豚の尻・・・・・・・・・・石田比呂志
DSC_01691豚

  風薫る春の昼過ぎいずかたへ
     向けて屠(ほふ)られにゆく豚の尻・・・・・・・・石田比呂志


石田は昭和5年、福岡県生まれ。旧制中学中退後、さまざまな職につきながら歌を作る。
時には同棲する女を糧としたり、スポンサー的な金持ちを見つけては取り入って金を貢がせてみたり、目的には手段を選ばないような面があると言われている。神戸に住む私の友人の歌人A氏なども事業をしているので、彼に取り入られて食い物にされたと憤慨していた。
結社誌「牙」を主宰する。
わが身の、そういう苦労した人生に比べて、この頃は学歴があって、小細工の利く才能がある若者が、何の苦労もなく歌壇に登用されるのが、気に食わないようである。しかし、時代は変わるものなのである。

この歌のように一種ひょうきんな歌を特色とする。以下、彼の歌を引く。
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<職業に貴賎あらず>と嘘を言うな耐え苦しみて吾は働く

遠くにて鳩群れ遊ぶ園が見え摑みたきまでに羞(やさ)し小世界

挫けざる一個の精神(こころ)ここに在りてあなたわやすき比喩を許さず

思想とはかくも無言に泥流に押し戻されているひとつ舟

あぱーとの窓に軽羅は飜えり酸ゆし小市民的幸福論は

その浮力奪われながらゆっくりと引き下ろさるる春の気球は

からからと風に釣瓶の鳴るからにかのふるさとのかの少年よ

ろくろ屋は轆轤を回し硝子屋は硝子いっしんに切りているなり

春香をふふめる風を孕むゆえろう琅玕(ろうかん)は鳴る竹の林に

楓(かえるで)のふふめる朱に落涙すゆきつくところ孤りの未来

鼻高き処女のひとりその鼻のゆえに障りになるときあらむ

大根の首切り落すはずみにて首斬り浅右衛門のことを思いぬ

のどかなる春の昼過ぎ生殖器さげたる犬が通るなどして

五十歳過ぎて結語をもたざれば夜の酒場に来たりて唄う

酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

くら闇に咲かす手花火指さきにしばし呟くごとくに爆ぜつ

一尺の悲しみのなし三尺の悲しみなどというもののなし

春宵の酒場にひとり酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな

今年またわが門前の若ざくらひらくがあわれ天つひかりに

梅雨終る阿蘇五つ岳まれまれにその悲嘆なき全容が見ゆ

蟹の脚せせりながらに飲むお酒われは困った男かな

酒飲みのかつ人生の先輩として先に酔う ちょっと失礼
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ネット上に載る下記の記事の中に「石田比呂志」のことが書いてあるので引用する。石田の写真を探したが見つからない。先に「気に食わない」と書いたのは、「穂村弘」などが、そうである。

夏空の飛び込み台に立つひとの
 膝には永遠のカサブタありき

 穂村 弘

 穂村が初めて短歌と出逢ったのは、札幌の旭屋書店で偶然に手にとった『國文學』によってだという。その中に塚本邦雄の次の歌があった。「輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」穂村はこの歌に脳を直撃されるような衝撃を受けたという(『短歌』角川書店、2002年10月号)。当時、漠然と「言葉の呪的機能」について夢想を巡らしていた穂村は、言葉がその呪的機能によって世界を変えてしまうということが現実に存在することを知った。この原体験から穂村の短歌観は発している。評論集『短歌という爆弾』(小学館)の冒頭にある「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」としての短歌という発想は、この原体験の直接の申し子なのである。

 爆弾犯は下宿の四畳半に閉じこもり、なるべく隣人と顔を合わせないようにして、孤独に夜ごと爆弾製造にいそしむ。彼が通うのは近所のコンビニであり、そこで買うのは甘い菓子パンばかりである。エッセー集『世界音痴』(小学館)を読むと、このような爆弾犯のイメージと穂村の実生活は、あまりかけ離れてはいない、いやむしろピッタリすることがわかっておもしろい。勤め帰りにスーパーに寄って、割引シールの貼られたトロの刺身のパックを手にとり、「俺の人生はこれで全部なのか?」と叫ぶくだりは、涙なしには読むことができない。

 塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて作歌を始めた穂村が作るのは、しかし次のような歌なのである。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 最近の穂村は次のような歌まで作るようになった。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(この歌集のタイトルからして相当なものだとおわかりだろう) から引用する。

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき

 天才的手書き表札貼りつけてニンニク餃子を攻める夏の夜

 整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 巻き上げよ、この素晴らしきスパゲティ(キャバクラ嬢の休日風)を

 舌出したまま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん

 かくして山田富士郎のように、穂村を「短歌界のM君」と呼ぶ人まで現われるようになった(『現代短歌100人20首』邑書林に所収の「「歌壇」の変容について」)。M君とは、1988年から89年にかけて、猟奇的な幼児殺人事件を引き起こした宮崎勤のことである。山田が言いたいのは、幼児的全能感を肥大させたまま大人になり、社会化されなかった自我形成において、M君と穂村には共通する点があるということだろう。ずいぶんな言われようである。

 もっとすごいのもある。石田比呂志は、自分の作歌生活40年が穂村の歌集の出現によって抹殺されるかも知れぬという恐怖感を語り、「本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」と述べている(現代短歌『雁』21号)。今どき「腹かっさばいて殉死」とはすごい。つまりは石田は穂村の短歌を、「頭から」「完全に」否定しているのである。

 おもしろいのはこのエピソードを紹介しているのが穂村自身だという点だ。「一読してショックで頭の中が白くなった」とは書かれているものの(『現代短歌最前線 下』北溟社)、石田比呂志の激烈な批判に、穂村は反論しようとしない。むしろ自分の歌のなかに、いやおうなくはだかの自分が現われているということを、ややあきらめを込めて認めている。穂村のなかで何かが壊れていると感じるのは、このようなときである。

 とはいえ、『短歌はプロに聞け』(本の雑誌社)で、沢田康彦主宰のFAX短歌会「猫又」に投稿される素人短歌を添削する穂村の批評は冴えている。また、言葉がピシリと決まったときの穂村の短歌には、確かに本人が爆弾と呼ぶほどの起爆力があるのもまた事実なのである。

 ねむるピアノ弾きのために三連の金のペダルに如雨露で水を

 卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

 限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

2003年7月21日

穂村弘のホームページ
 http://www.sweetswan.com/0521/syndicate.cgi
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もう一つ、別の記事を転載しておく。先に私が書いたことにも関連するが、男でも女でも、石田の都合で利用できるものは「食い物」にするという「批判」の見本のような事実である。なお、阿木津英さんは石田と別れて東京に出て、女流歌人として独立する。ひところウーマンリブの闘士と呼ばれた人である。彼女は彼女なりに、石田を乗り越えて行った女人である。

『あすに生きる女たち』
 読売新聞朝刊1981(昭和56)年1月11日(日)

歌人 阿木津英(あきつえい)さん
本名、末永英美子。昭和25年、福岡県生まれ。九州大学文学部哲学科卒。地方出版社、児童相談所の心理判定員を経て、現在、塾の教師として生計を立てながら作歌。「未来」「牙」同人。54年短歌研究新人賞受賞。近年まれにみる大型新人と評されている。歌集「紫木蓮まで・風舌」。無頼派と呼ばれる歌人・石田比呂志さんと熊本市に住む。

「女の時代」は、誰かが開いてくれるのではない。女性たち自身が目を開いていくものだ。主婦であれ、働く女性であれ、娘であれ、ひとりひとりが「与えられた役割」によって生きるのでなく、自ら選び取った生を、いきいきと生きる。昨年、一昨年と各地の女性を毎週この欄で紹介してきたが、今年も「あすに生きる」女性たちに、自らを語ってもらおう。

唇をよせて言葉を放てども
わたしとあなたは
わたしとあなた

寒い日でした。父と石田(歌人・石田比呂志)が座敷で向かい合っている。1時間、2時間・・・夕方、わが家(福岡県行橋市)に呼びつけられた石田は、正座したまま黙っている父の前で、なすすべもなく耐えていた。夜半過ぎ、私はたまらなくなって、ふすまを開けて叫びました。「もういい加減にして下さい。私の気持ちは変わりませんから。かえしてください」。あとで、彼はしみじみ申していました。「あの瞬間、この子を裏切れないと思ったね」
20歳も年の違う、妻のある人と、いわゆる不倫の恋をしたのですもの、両親は泣きました。父なんか、オレより白髪があるじゃないかと、もうがっかりしてしまって。母はほとんどノイローゼ状態。24歳の秋に、歌と石田に同時に出会って、1月にはそういう関係になって、2月、3月は修羅。

蒼みゆくわれの乳房は
菜の花の黄の明るさと
相関をせり

4月に石田がこっち(熊本)に逃げてきて、5月に私が家出した。紙袋に身のまわりの品を詰めて。歌の仲間が見つけてくれた崩れかかった小さな家。貧しかった。毎日、100グラム50円のホルモンを400グラム、一人一合の焼酎を買い、飽きると一丁の豆腐を二人で分けて冷ややっこ。

鬱の日は花を買いきて
家妻と親しむなどの
発想憎し

自己表現したい気持ちはいつもあったのだけど、一般的な意味での短歌的抒情は好きでなかった。あるとき、母のもとに届いた封筒の裏に石田比呂志と風変わりな書体で書いた名前を見つけた。妙に印象的だった。それまで東京に出ていた彼が九州に戻って復刊したばかりの「牙」を見せてもらったら、母のやっている歌とはまるで違うのね。やってみようかと、ふと心が揺れた。でも、最初は本気じゃなかった。なぜ五七調なのか、なぜ文語なのか、やたら理屈を並べて抵抗して、全く破調の歌を作っていた。そんなとき、一首に出会ったのです。「赤茄子の腐れていたるところより幾程もなき歩みなりけり」----斉藤茂吉の作です。体が震えた。歌の空間が見えたっていうのかな、言葉で何かを伝えるのじゃなくて、歌が物体として見えた気がした。

花柄の
傘をかざしてゆくわれに
粘着をするごときよろこび

昨秋、初めての歌集「紫木蓮まで・風舌」を出版。解説をお願いした歌人・田井安曇さんが、この歌をオルガスムスに関連させて読むべきだと書いて下さった。作者である私は、ああそうなのかと、うなずくだけ。性を直截に歌うとか、食道派とか、いわれますが、私は特別に意識していない。ただ性にこだわっていることは事実でしょうね。

厨べに
烏賊の嘴ぬきにつつ
阿部定などのことも過ぎりぬ

与謝野晶子も中城ふみ子も、勇気ある女人はずいぶん、自らの性を歌ってきた。でも私は生意気みたいだけど、女歌をうたいたくない。恋とか愛とか、ぬれた感情をかぶせたくない。男と女がいて、そこに性がある。物理的な次元で見つめていきたい。
女であることにずっとひっかかってきた。大学卒業までは、勉強さえできれば平等だったけど、就職のときにイヤというほど壁にぶつかった。ようやく探し当てた地方の出版社では、お茶くみ、雑用。私、お茶くみがどうしてもできませんでした。ストレスのため、夏の最中、生理が2ヶ月も止まらなくなった。女の置かれている状況を、まさに女の体を通して突きつけられたのね。8ヶ月で挫折。
その後、公務員試験を受けて、児童相談所で働いたのだけど、このままいけば、結婚して子供を産むというルートに乗せられてしまう。逃れなければと焦っていた。石田との恋愛のエネルギーで、普通の生き方を捨て切ったというのかな、全く違う、しかし自分の心にかなった生き方を選べた。
女はもっと否といわねばならないと思う。「触れ合ひて音たつしじみの汁すひて涙をおとす結婚はいや」これは「高嶺」の同人・渡辺貞枝さんの作なんですが、「結婚はいや」と、すっぱり言い切っている点がいいでしょう。「鳥篭に男を返してほうやれほ」。どこで見つけたのか、私のノートに書き写してあった俳句。「ほうやれほ」にとても上質のユーモアがある。ニタリと笑った女の顔が出ている。かわいていますね、俳句だから。
私もはっきり、ものを言っていきたい。自分の心にかなうかどうか、これは好き、これはイヤだと。男の視野に包含されるのではなく、男に対立する視点を持ち、刻一刻と生成し、変貌する”わたし”をうたい止めていきたい。うたうことによって変貌をとげたい。

春がすみいよよ濃くなる春昼間のなにも見えねば大和と思へ・・・・・・・・前川佐美雄
tengu天狗面

  春がすみいよよ濃くなる春昼間の
     なにも見えねば大和と思へ・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄


前川佐美雄は明治36年奈良県北葛城郡の裕福な地主の家に生れる。昭和5年第一歌集『植物祭』でモダニズム短歌の旗手として華々しく登場する。昭和9年「日本歌人」を創刊、日本浪漫派の人々と親交を結ぶ。敗戦により農地解放で小作地をみな失う。これらの経験が彼独特のコンプレックスとして歌の上にも影響する。
塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子など多くの異色の歌人を育てた。晩年は鎌倉に居住。
平成2年没。

掲出の歌は歌集『大和』に載るもので、彼の代表作として有名。彼の歌は、すっと読み下せる発想になっていないので、「ねじれ」があったり、「韜晦」があったりして難解とされるが、特徴を知って臨めば理解できよう。
以下、歌を引いてみる。
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春の夜のしづかに更けてわれのゆく道濡れてあれば虔みぞする

床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

春になり魚がいよいよなまぐさくなるをおもへば生きかねにけり

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし

遠い空が何んといふ白い午後なればヒヤシンスの鉢を窓に持ち出す

あたたかい日ざしを浴びて見てをれば何んといふ重い春の植物

ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる

園丁が噴水のねぢをまはすとき朝はしづかな公園となる

ひんがしに満月朱きころなれば爬虫類も野に腹かへしゐむ

悪事さへ身に染みつかぬ悲しさを曼珠沙華咲きて雨に打たるる

春の夜にわが思ふなり若き日のからくれなゐや悲しかりける

無為にして今日をあはれと思へども麦稈(むぎわら)焚けば音立ちにける

がらくたを寄せあつめてはなにくれと妻いとなめり春のをはりを

草花と子は漢字もて書きをれり草がんむりの文字ふたつよき

ま向ひの屋根ゆく猫が見下してまだ寝をるかといふ顔したり

われ死なばかくの如くにはづしおく眼鏡一つ棚に光りをるべし

走り出ていくたびも五体投地すも己(し)が煩悩を救はむがため

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ネット上に載る「新庄図書館」の記事を転載しておく。
samiokona3佐美雄

【前川佐美雄略歴】
1903年2月5日、奈良県忍海村(現葛城市)に生まれる。
前川家は、代々林業を営む地主であった。佐美雄は父佐兵衛と母久菊の長男として生まれ、幼い頃から絵画や短歌に親しんでいた。
1922年に東洋大学東洋文学科に入学、在学中に佐々木信綱に師事し、「心の花」に入会する。その後、新井洸、木下利玄らの「曙会」にも参加する。
昭和に入って(1925年)新興短歌運動がおこると、その先頭に立ち、1930年、第一歌集『植物祭』を刊行、現代的で斬新なものを主張するモダニズムの代表的歌人として、歌壇に登場する。
しかし、1933年、父の急逝により奈良に帰郷する。
その翌年の1934年に『日本歌人』を創刊する。以後、『大和』『天平雲』『白鳳』『積日』『大和六百歌』などを刊行する。
戦前、戦中、戦後を通して歌壇の旗手として活躍し、新芸術派運動の積極的な推進者として、歌壇に浪漫主義に基づく新風を送り、優美で詩的直感の鋭い、独自の歌風を樹立した。
また、長年にわたり後進の指導育成にも尽力し、塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子等の幾多の歌人を世におくった。
1954~88年まで、朝日歌壇の選者、1972年には『白木黒木』で第六回釈迢空賞を受賞、1986年に(旧)新庄町名誉町民、1989年には日本芸術院会員となった。
1990年に永眠。
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前川佐美雄歌集

■佐美雄の残した歌集を、制作年順に紹介します。図書館が蔵書しているものは貸出もできます。ぜひ手にとって、時代とともに変遷を遂げた、佐美雄の歌風と心の軌跡を辿ってみてください。

歌集出版年 佐美雄の年齢 歌集名
昭和 5年(1930年) 27歳 処女歌集『植物祭』素人社
昭和15年(1940年) 37歳 第二歌集『大和』甲鳥書林
昭和16年(1941年) 38歳 第三歌集『白鳳』ぐろりあ・そさえて
昭和17年(1942年) 39歳 第四歌集『天平雲』天理時報社
昭和18年(1943年) 40歳 第五歌集『春の日』臼井書房
第六歌集『日本し美し』青木書店
昭和20年(1945年) 42歳 第七歌集『金剛』人文書院
昭和21年(1946年) 43歳 第八歌集『紅梅』臼井書房
昭和22年(1947年) 44歳 第九歌集『寒夢抄』京都印書館
第十『積日』札幌青磁社
昭和25年(1950年) 47歳 第十一歌集『鳥取抄』山陰観光旅行普及会
昭和39年(1964年) 61歳 第十二歌集『捜神』昭森社
昭和46年(1971年) 68歳 第十三歌集『白木黒木』角川書店
平成 2年(1990年) 87歳没
平成 4年(1992年) 第十四歌集『松杉』短歌新聞社

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■処女歌集『植物祭(しょくぶつさい)』 四季出版 昭和5年7月刊行

収録期間:大正15年9月~昭和3年10月(575首)
大胆かつ鮮烈な歌い方と、ダダイズム・シュールレアリスム運動の影響を大きく受けているのが特徴。新たな昭和の時代の始まりを告げる、画期的な歌集。
後記より・・・・「短歌をやつて革新を思はぬ程ならばよした方がいいと思ふのだ。」

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■第二歌集『大和』 甲鳥書林 昭和15年8月刊行

収録期間:昭和11年~昭和14年夏(550首)
後記より・・・・「正直言つて僕はこの歌集を編集しながらどうにもをさまりのつかない気持ちを味はつた。色々考へてゐると何とも言ひようのない憂鬱さに襲われる、結局は自分の作品に対する不満以外の何物でもないが・・・この歌集はさうした破れかぶれの気持ちのうちに編集を終へた。」

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■第三歌集『白鳳(はくほう)』 ぐろりあ・そさえて 昭和16年7月刊行

収録期間:昭和5年春~昭和10年(410首)
前半は東京時代の歌。後半は奈良に帰住してからのもの。

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■第四歌集『天平雲(てんぴょううん)』 天理時報社 昭和17年3月刊行

収録期間:昭和14年8月~16年7月(710首)
後記より・・・・「この歌集の『天平雲』といふのは、絵画の方でしばしば用ひられる言葉で火雲の謂である。天平の絵画や彫刻に盛んにあらはれるものだが、私はこの雲を愛すると同時に天平の文化をこよなく愛してゐる。」

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■第五歌集『春の日』 臼井書房 昭和18年1月刊行

収録期間:大正10年~昭和2年3月(755首)
「春の日以前」の章(57首含)。大正10年18歳で「心の花」に入会し、本格的に作歌活動を始めた佐美雄の初期の作品。写実的作風。

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■第六歌集『日本し美し』 青木書店 昭和18年刊行

収録期間:昭和16年秋~約8ヶ月間
戦争歌集(戦争賛歌)。象徴技法の歌。
歌集構成の特色は、制作年代順で戦況の進行にしたがって作品が並べられている。

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■第七歌集『金剛』 人文書院 昭和20年1月刊行

収録期間:昭和17年夏~昭和18年秋(650首)
戦時歌集。歌集全体を「公」・「私」で区別。
前半は「公」、後半は「私」が中心となっている。
後記より・・・・「それが如何なる効果をもたらすかは分からないが、この方が私には快適な気がする。」

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■第八歌集『紅梅』 臼井書房 昭和21年7月刊行

収録期間:昭和21年2・3月(245首)
「甘藷の歌」は、昭和20年秋の作にもかかわらず『紅梅』に収録されている。

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■第九歌集『寒夢抄』 京都印書館 昭和22年10月刊行

『日本し美し』や『金剛』の作品を自選または改作して、戦後に改めて出版したものである。戦争協力歌とみなされそうなものは、ことごとく削除している。
後記より・・・・「この歌集は、戦時中に出した『日本し美し』『金剛』のなかに入れないで、やむなく割愛した歌の中から五首十首と取り併せ一冊にした歌集であって、『天平雲』に続く自分の歌の本筋は、やや不明瞭としてもここにある。」

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■第十歌集『積日』 札幌青磁社 昭和22年11月刊行

収録期間:昭和20年4月~昭和21年1月(500首)
『積日』は、「朝木集」と「残滴集」に分かれている。
「朝木集」・・・家族の鳥取疎開時代の歌(昭和20年4月~昭和21年1月)
「残滴集」・・・奈良に帰郷後の歌(昭和21年4月~11月)

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■第十一歌集『鳥取抄』 山陰観光旅行普及会 昭和25年1月刊行

『鳥取抄』は『積日』に収容したものをも含めて鳥取疎開中の作品(上巻)と、この歌集のため昭和22年大山に登った大山行一連の作品(下巻)併せて630首からなる。(上巻)は、疎開中と敗戦直後の作品であるだけに限りない哀愁が巻全体から漂っている。(下巻)は、大山紀行を中心とする旅行詠である。

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■第十二歌集『捜神』 昭森社 昭和39年8月刊行

収録期間:昭和22年暮れ~昭和30年(1074首)
「飛簷」は、昭和28年以降の作、「野極」は、昭和27年以前の作。二部構成で配列が逆となっている。

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■第十四歌集『白木黒木』 角川書店 昭和46年2月刊行

収録期間:昭和41年~昭和45年(648首)
後記より・・・・「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。奈良とちがつてここには亡霊や怨霊がゐない。私は憑かれない。これを機会だと思つた。奈良を去るまでの最近数年間の作だけでも先にまとめようと思つた。」

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■第十三歌集『松杉』 短歌新聞社 平成4年7月刊行

収録期間:昭和31年~昭和40年(558首)と昭和20年代の補遺作品43首を収める。
『白木黒木』の後記より・・・・「三十一年から四十年まで、まる十年間の作は残つてゐる。出版の順は逆になつたが、これらのものもおひおひと集にまとめたいと思つてゐる。さうでないとやはり具合悪いのである。」

その他の作品集

『カメレオン』同人39名を率いて『日本歌人』創刊

保田與重郎企画の浪曼叢書の第一冊として選集『くれなゐ』を出版
合同歌集『新風十人』に作品35首収録

肉筆歌集『奈良早春』を大八洲出版より出版
評論集『短歌随感』を臼井書房より出版
歌集『植物祭』の増補改訂版を靖文社より出版
選集『一茎一花』を目黒書店より出版
自選『一千歌集』を養徳社より出版
歌集『饗宴』を三興出版より出版

角川文庫『前川佐美雄歌集』を出版

『秀歌十二月』を筑摩書房より出版
『日本の名歌 古典の四季』を社会思想社より出版
『大和六百歌』を短歌新聞社より出版

『前川佐美雄歌集』を五月書房より出版
『大和まほろばの記』を角川書店より出版
永眠
『前川佐美雄全集第一巻』小沢書房より出版
『前川佐美雄全集第一巻短歌Ⅰ』砂子書房より出版

《参考文献》『短歌現代』1990年5月号(短歌新聞社)・『日本歌人』1991年7月号(日本歌人発行所)・『鑑賞現代短歌-前川佐美雄』伊藤一彦(本阿弥書店)
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ネット上に載る別の記事を下記に転載しておく。
上の新庄図書館が公のものであるので、表現を抑制しているのに対して、この記事は赤裸々に書いてあるからである。
佐美雄を語るときに「没落地主」という、彼のコンプレックスを抜きにしては語れないと思うからである。

新庄町で生まれた歌人 前川佐美雄

前川佐美雄は明治36年、現在の忍海(おしみ)小学校の辺りの代々続いている大地主である家の長男として生まれました。
現在でも佐美雄のことを記念して忍海(おしみ)小学校では、佐美雄作の校歌を歌っています。

大正7年、15歳で下淵(しもふち)農林学校(現在の吉野高等学校)に入学した佐美雄は、油絵を描いたり、文学史を読んだりして、この間に芸術的な才能や視野などを大いに養ったようです。
在学中の大正9年12月、朝日新聞大和版の大和歌壇で

「秋更けぬ 竹林院のさ庭べに つめたくさける白菊の花」の処女作を発表

大正10年下淵(しもふち)農林学校を卒業、歌人 佐々木信綱の主催する「ちくはくかい」に入会し、薬師寺で一ヶ月間の合宿を行(おこな)っています。
また、この年の12月、隣家の出火の延焼で、家屋を半焼する不幸に見舞われました。

大正11年、東洋大学に入学し、歌人仲間と親交を深めながら、大正14年卒業後、自分の生き方に疑問を持ちながら小学校の代用教員として勤務していました。
大正15年、親族4家が相次いで没落し、その借財の連帯保証人に佐美雄の父がなっていたことで家運が傾き、母の実家に移り住むこととなりました。
この頃、歌壇の風潮に疑念を抱いていた佐美雄は、古賀春江に注目しはじめていました。

昭和5年7月、前衛的作風の洋画家 古賀春江の装丁(そうてい) 佐々木信綱の序で、処女歌集、植物祭を発行、昭和9年6月カメレオンの同人39名を率いて日本歌人を創刊しました。
昭和45年12月神奈川県 茅ヶ崎市に移り住み、翌46年に新庄町の前川家の菩提寺である極楽寺に歌碑を建立しました。
その同じ年に、歌集「しろきくろき」を発行。

その後記に「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。ここには亡霊や怨霊がいない。私はつかれない、これを奇怪だと思った。」
と語っています。

学生時代に芽生えた歌人としての生命。その革新的精神とともにシュールレアリズムに深く傾倒し、奈良から離れた茅ヶ崎の地でやまと歌人として、逃れられない自分の運命に改めて気づいたのではないでしょうか・・。
詩・桃の花・・・・・・・・・・・・・・・天野忠
aaoomomo00桃の花

    桃の花・・・・・・・・・・・・・天野忠

   ある日
   ポロリと歯が抜けて
   御飯の中におちた。
   御飯の中からつまみ出し
   てのひらに転がしながら
    「長いことつれ添うてもろうて
    御苦労さん・・・・・」
   と頭を下げたら
   フフフ・・・・・と
   横で 古女房が笑った。
   眼尻にいっぱい黒い皺をよせて。

   桃の花が咲いた
   その朝。
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この詩は京都の誇る詩人・天野忠さんの詩である。

この詩は多くの詩集の中から夫婦を詠んだものを集めた『夫婦の肖像』1983年編集工房ノア刊に載るもので、初出は1974年刊の「天野忠詩集」に収録されていたものである。
天野忠さんは先年亡くなったが、現代詩特有の難解な暗喩を使うこともなく、日常使うような平易な言葉を使って作詩した。
『私有地』という詩集で昭和56年度・第33回「読売文学賞」を受賞された。他の詩集には『掌の上の灰』『讃め歌抄』などがある。

この詩集の「帯」で富士正晴が、次のように書いている。

<詩を完結させる見事さは、そこに一つのアイマイさも、鈍重さも、ごまかしもなく、冴えかえったエスプリとでもいったものがあり、詩人はまことにつつましやかに見えるが、微塵ゆらがぬ賢者のおもむきがあり、しかも老いのユーモアと、いたずらの精神による寛容なサービスも忘れていない。 「夫婦の肖像」とあるのにたがわず、多くの詩に夫婦共演の趣があって、そのおもむきはこれを読む老男、老女のこころをなごませ、一時の解放感、ゆとりのある感動によって、自分が老人であることの滑稽さと同時に安定した気分を抱かせるのにちがいないようだ。>

少し長い引用になったが、天野さんは若い頃は、もう少し肌ざわりの違う詩を書いていたが、老年になって洒脱な、人を食ったような飄逸な詩世界を表現するようになった。この詩には、特別に解説を要するようなものは、何も要らない。そのまま、素直に鑑賞したい。
天野さんの詩を選ぶ時も、現代詩というものは、「季節」を詠うものではないので、苦労した。
京都では、医師であって、物書きであった松田道雄氏などとの交友があったようだ。
ここで、『私有地』から短い詩をひとつ紹介しておく。

    花・・・・・・・・・天野忠

    山桜のふとい枝が一本
    ごろりんと
    道ばたにころがっている。
    土をいっぱい載せたダンプカーのお尻に
    何べんとなくこすられ
    こすられして
    とうとう辛抱しきれずに
    道ばたに倒れてしまったのである。
    それでも春だから
    ぼろぼろの胴体にくっついた
    小枝の花は
    まだチラホラと咲いている。
    風が吹くと
    チラリホラリとこぼれる。

    それが非常に綺麗で困る。
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天野忠さんの写真をと思ったのだが、天野さんはビッグな詩人ではなかったので、ネット上でも見つからなかった。
私は天野忠の詩集を何冊か持っているので、また季節にこだわらずに載せてみたい。

  
なぜ 花はいつも/こたえの形をしているのだろう・・・岸田衿子
aaookobusiこぶしの花

   なぜ 花はいつも・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

      なぜ 花はいつも

      こたえの形をしているのだろう

      なぜ 問いばかり

      天から ふり注ぐのだろう

この詩は岸田衿子の「なぜ 花はいつも」という詩の一節である。
岸田衿子は昭和4年東京に生まれる。父は劇作家・岸田国士。妹に俳優の岸田今日子がいる。東京芸術大学油絵科卒業。茨木のり子、川崎洋、大岡信らの拠った詩誌「櫂」に10号から作品を発表しはじめる。
詩集3冊の他、放送詩劇も書いて放送イタリア賞を受賞している。童話や絵本も多く著している。
現代詩でいう「四季派」の一番世俗的けがれのない部分を、いい意味で、そのまま引き継いでいると言われている。岸田一家の、育ちの良さを見せると言える。
原崎孝の解説によると

<世の苦渋を巧みにかわして、ファンタジーの方へ、絵の方へと、悲哀や苦渋を収斂させてゆこうとしているかに見える。無垢な青春の美しさを、詩の中に保ちつづけている詩人のひとりである>

と書いている。

ほかの詩だが長いので、短い詩を引用するのに苦労する。それぞれ後半は省略する。

  花かぞえうた・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

    いちごのはなの さくばんは
    いちばんぼし いちみつけ

    にわうめのはな にわにさく
    にわのにわとり にげてった

    さざんかのはな さいたとき
    さむいほっぺた さんりんしゃ

    しひらのはなは しろじろと
    しなののやまに ちっている

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   南の絵本・・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

      いそがなくたっていいんだよ
      オリイブ畑の 一ぽん一ぽんの
      オリイブの木が そう言っている
      汽車に乗りおくれたら
      ジプシイの横穴に 眠ってもいい
      兎にも 馬にもなれなかったので
      ろばは村に残って 荷物をはこんでいる
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こうして見て来ると、先ほど紹介した原崎孝の解説が、ぴったりだと気づくだろう。

岸田衿子は一時、谷川俊太郎と結婚したこともあるが、以後は童話作家として、以下のような本がある。
妹の岸田今日子は2007年に亡くなった。

1. ソナチネの木(新装版)
岸田衿子/安野光雅 /青土社 2006/08出版 \1,470(税込)
2. ア-ノルド・ロ-ベルベストセレクト16(全16巻)
ア-ノルド・ロ-ベル/岸田衿子 /文化出版局 2006/07出版 \14,347(税込)
3. ぼ-るがころころ(えほん・あかちゃんへ )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2006/06出版 \840(税込)
4. うみ(えほん・あかちゃんへ )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2006/06出版 \840(税込)
5. だれもいそがない村(ジュニアポエム ) 岸田玲子詩集
岸田衿子 /冬至書房 1980/12出版 \1,223(税込) 絶版
6. こねこのミヌ-
フランソア-ズ/岸田衿子 /のら書店 2006/05出版 \1,365(税込)
7. いかだはぴしゃぴしゃ
岸田衿子/堀内誠一 /福音館書店 2004/11出版 \840(税込)
8. たいせつな一日(詩と歩こう ) 岸田衿子詩集
岸田衿子/水内喜久雄 /理論社 2005/03出版 \1,470(税込)
9. かばくん(英語版)(R.I.C.story chest )
岸田衿子/中谷千代子 /ア-ルアイシ-出版 2004/11出版 \2,310(税込)
10. ゆきむすめロシアの民話
岸田衿子/鈴木康司 /ビリケン出版 2005/02出版 \1,470(税込)
11. ア-ノルド・ロ-ベルベストセレクト16(全16巻)
ア-ノルド・ロ-ベル/岸田衿子 /文化出版局 2005/01出版 \14,347(税込)
12. おうさまのみみはろばのみみ(みんなでよもう!日本・世界の昔話 ) (第2版)
岸田衿子/村上勉 /チャイルド本社 2004/09出版 \470(税込)
13. おうさまのみみはろばのみみ(みんなでよもう!日本・世界の昔話 ) (第2版)
岸田衿子/村上勉 /チャイルド本社 2004/09出版 \950(税込)
14. てんきよほうかぞえうた(日本傑作絵本シリ-ズ )
岸田衿子/柚木沙弥郎 /福音館書店 2004/04出版 \1,260(税込)
15. かばくん(こどものとも劇場(大型絵本) )
岸田衿子/中谷千代子 /福音館書店 2001/11出版 \8,400(税込)
16. ほしがいっぱい(小さな子どもの心におくる絵本 )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2002/06出版 \924(税込)
17. さくらんぼさくらんぼ(小さな子どもの心におくる絵本 )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2002/06出版 \924(税込)
18. にほんたんじょう(復刊・日本の名作絵本 )
岸田衿子/渡辺学 /岩崎書店 2002/04出版 \1,575(税込)
19. パンケ-キのおはなし(ひかりのくに傑作絵本集 )
岸田衿子/おおば比呂司 /ひかりのくに 2002/01出版 \1,260(税込)
20. 野の花散歩ノ-ト365日
古矢一穂/岸田衿子 /ポプラ社 2001/11出版 \1,050(税込)
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昨日付けで谷川俊太郎を採り上げたので、その関連で今日は「岸田衿子」を出してみた。

  
目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を・・・・・・・木村草弥
040207nanohana01菜の花

   目つむれば菜の花の向うゆらゆらと
      揺れて母来るかぎろひの野を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

私の歌には母を詠ったものが多い、といつも言われる。母は四月に亡くなって、今年は17回忌になるが、丁度、私が「短歌」に深くかかわるようになった頃に母が亡くなり、短期間に集中して「レクイエム」の小冊子に歌をまとめて作ったりした。
母親というのは、子供にとって一番近しい存在ではないか。
私の父は厳しい人だったが、家庭的というよりは「仕事」に没頭するという存在だった。父には、随分反発し逆らったものだったが、仕事の厳しさを教えられたのは、やはり父だった。父は、もう40年以上も前に69歳で亡くなったが、母は先に書いたように、つい17年前に93歳の長寿を全うして死んだ。自宅で死を看取ったので、余計に印象が深いのかも知れない。

この歌は私にも自信のある好きな作品である。母の祥月命日の4月12日に載せる。「菜の花」を詠み込んであるので、この時期にもぴったり合うし、載せることにする。わかり易いし、母を思う心情がしみじみと出ているというので、皆さんにも好評な歌だった。
今年は17回忌ということで、菩提寺のお坊さんに来てもらって法事を催した。


電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花・・・・谷川俊太郎
yun_2518菜の花

  ルフラン・・・・・・・・・・谷川俊太郎

 いくらか誇張されいくらか
 縁飾りをつけられていたけれど
 その物語はとても本当の人生に似ていて
 だがそれを読み終えたあとも
 自分の暮らしは続いていることに
 気づかないわけにはいかない
 電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花

 たとえば<たとえば>と言ってみて
 ふと<ふと>と言ってみてそのあとに
 生きることのこまやかな味わいのあれこれを
 目録のように並べたてても矛盾は解けない
 束の間の慰めなら一杯の紅茶でも事足りる
 それからいったいどうするのか
 電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花

この詩は谷川俊太郎の詩集『日々の地図』の中の「ルフラン」という題の詩である。
この詩集で彼は読売文学賞を受賞した。1982年集英社刊。

谷川俊太郎は現代詩の作家としてピカ一の存在である。詩人というと、殆どの人が、大学教授であったりするが、彼は、そういう本業を持たない。だから、詩を書いて詩集を出して読者に買ってもらい、「マザーグース」などの翻訳をして本を出したり、朗読会を開いてみたりして稼いでいる。だからお金持ちではない。いつも自転車を愛用し、インタビューには近くの喫茶店を指定して、そこには自転車で現れる、という風である。

私は谷川の詩が好きで『谷川俊太郎詩集正・続』をはじめ『コカコーラ・レッスン』『定義』『よしなしうた』など殆どの詩集は持っているが、今回こうして「季節の詩」として採りあげようとすると、彼の詩には、自然とか日本の四季というような風土を詠った作品が殆どない、のに気づいて愕然とした。
考えてみれば、それも当然かも知れない。彼は現代詩作家なのであり、日本伝統の「花鳥諷詠」というようなものからは、遠い存在だからである。「詩人」というのは、「言葉を操る」人である。自然や季節を題材にしている訳ではない、からである。
あちこち探しまわって、結局、掲出のような詩を選んだ。これは谷川の責任ではない。私のBLOGの企画に向かなかったというだけのことで、季節を問わなければ、佳い詩は一杯あるのである。

この詩は「ルフラン」と題されるように「電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花」というフレーズの繰り返し(ルフラン)が生きている。また、たとえば<たとえば>や、ふと<ふと>、という言葉の繰り返しも、ルフランとして効果的である。この「ルフラン」の意味は、いま私が書いたことの他に、この詩全体が言おうとしている、人生そのものが繰り返しである、という比喩になっているのである。

谷川俊太郎には、一度だけ会ったことがある。もう数年前に短歌結社「塔」が発足何十周年かの企画で、有料のシンポジュームがあり、大岡信と永田和宏との三人が鼎談をするというもの。この席でも、谷川は、短歌的な世界に批判的な発言をしていたのを思い出す。
彼の父は谷川徹三で、高名な学者であり、文学者とも親交があったので、俊太郎の作家デビューも、父が詩作ノートをひそかに三好達治に見せて、その才能を発見されたことによる。デビュー作『二十億光年の孤独』には巻頭に三好達治の推薦の長い詩が載せられている。
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フジテレビ系列のアニメTV『鉄腕アトム』の主題歌の作詞家は谷川俊太郎、作曲家は高井達雄、とある。
このテレビアニメは有名だったから、巷に流れていたので、もちろん私は知っていたが、仕事に、しこしこと励む壮年期だったから、このTVアニメはみたこともない。
歳の差、年代の違いを実感させられるが、いずれにしても、俊太郎の偉大さは、こういう大衆に愛されるマスコミの世界にも、彼の足跡が大きく残っている、ということである。
彼は現代詩詩人として、玄人受けする作品を作ると共に、広く大衆にも受け入れられる詩作品も、気軽に作詞できる、という柔軟さを備えている。
だから、私は谷川俊太郎は、ピカ一の詩人だという所以である。谷川俊太郎ブラボー!!!。
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shuntaro谷川俊太郎

ネット上に載る記事を転載しておく。

谷川俊太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、男性、1931年12月15日 ~ )は、詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として東京都に生まれ育つ。 東京都立豊多摩高等学校卒。

詩集
1950年 三好達治の紹介によって『文学界』に「ネロ他五編」掲載。
1952年 処女詩集『二十億光年の孤独』刊行。
1962年「月火水木金土日の歌」でレコード大賞作詞賞受賞。
1975年『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞受賞。
高校時代、国語や英語などの教科は優秀な成績であったが、集団行動に違和感を持ち学校から脱走、以後進学の意志を持たなかった。

よく知られる代表作の一つであり、日本の中学校国語の教科書でも取り上げられる『朝のリレー』はネスレのCMに、日本生命のCMにはオリジナルの詩『愛する人のために』が使われるなど、わかりやすい言葉で、日常を新鮮な視点で切り取る感性は世間に高く評価され、小学校の教科書に採用される詩も多い。が、その一方で『なんでもおまんこ』、『へのへのもへじ』(いずみたく作曲で『みんなのうた』の曲として流される)などユニークな詩も作っている。また、彼の詩の春にや二十億光年の孤独にメロディーをつけた曲は、合唱コンクールなどで多く使われている。ちなみに、『ピーナッツ』の翻訳は、日本の『ピーナッツ』ファンに高く評価されている。

三度結婚していて、岸田衿子と佐野洋子は元妻。音楽家の谷川賢作は息子。

詩集
二十億光年の孤独(東京創元社、1952年)
六十二のソネット(東京創元社、1953年)
愛について(東京創元社、1955年)
あなたに(東京創元社、1960年)
落首九十九(朝日新聞社、1964年)
旅(求龍堂、1968年)
うつむく青年(山梨シルクセンター出版部、1971年)
ことばあそびうた(福音館書店、1973年)
空に小鳥がいなくなった日(サンリオ、1974年)
夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった(青土社、1975年)
定義(思潮社、1975年)
そのほかに(集英社、1979年)
コカコーラ・レッスン(思潮社、1980年)
わらべうた(集英社、1981年)
みみをすます(福音館書店、1982年)
日本語のカタログ(思潮社、1984年)
よしなしうた(青土社、1985年)
どきん(理論社、1986年)
はだか(筑摩書房、1988年)
魂のいちばんおいしいところ(サンリオ、1990年)
女に(マガジンハウス、1991年)
これが私の優しさです(集英社、1993年)
十八歳(東京書籍、1993年)
世間知ラズ(思潮社、1993年)
詩めくり(マドラ出版、1994年)
モーツァルトを聴く人(小学館、1995年)
やさしさは愛じゃない(幻冬舎、1996年)(写真 荒木経惟)
minimal(思潮社、2002年)
夜のミッキー・マウス(新潮社、2003年)
シャガールと木の葉(集英社、2005年)

絵本
けんはへっちゃら
こっぷ
わたし
これはのみのぴこ
まり
よるのようちえん
えをかく
いっぽんの鉛筆のむこうに
もこもこもこ
んぐまーま

対談集
谷川俊太郎の33の質問
対談現代詩入門(大岡信との共著)

翻訳
チャールズ・M・シュルツ『SNOOPY』(『ピーナッツ』)
『マザー・グース』
『かみさまへのてがみ』
スージー・ベッカー『大事なことはみーんな猫に教わった』
レオ・レオニ『スイミー』

作詞
ひとくいどじんのサムサム(童謡)
鉄腕アトム(アニメ主題歌)
危いことなら銭になる(映画主題歌)
死んだ男の残したものは(作曲/武満徹)
世界の約束(作曲/木村弓・映画「ハウルの動く城」主題歌)
六花亭の歌(作曲/林光・六花亭社歌)
同志社小学校校歌(作曲/大中恩)
東京都東村山市久米川東小学校校歌(作曲/武満徹)
大阪府豊中市立第十五中学校校歌(作曲/湯浅譲二)
春に(詩として発表した後、木下牧子が作曲)
未来(詩として発表した後、高嶋みどりが作曲)
埼玉県上尾市立南中学校校歌(作曲/林光)
山形県立山形東高等学校新応援歌「みなぎる力」(作曲/服部公一)
山形県立北村山高等学校校歌(作曲/村川千秋)
新潟県立高田北城高等学校校歌
富山県立高岡南高等学校校歌(作曲/中田喜直)
静岡県立静岡東高等学校校歌(作曲/林光)
埼玉県立和光国際高等学校校歌(作曲/谷川賢作)
城西国際大学学歌(作曲/谷川賢作)
北海道札幌開成高等学校校歌(作曲/宍戸睦郎)
大阪芸術大学校歌(作曲/諸井誠)
三重県立みえ夢学園高等学校校歌(作曲/小室等)
三重県立四日市南高等学校校歌(作曲/武満徹)
福山市立福山中・高等学校校歌(作曲/林光)
土浦日本大学中等教育学校校歌(作曲/湯浅譲二)
北星学園大学学歌(作曲/谷川賢作)
東京都田無市立西原小学校校歌(作曲/牛腸征司)
神奈川県相模原市立若草中学校校歌(作曲/谷川賢作)
徳島県立海部高等学校校歌(作曲/小室等)
愛知県常滑市立南陵中学校校歌(作曲/湯浅譲二)
愛知県立常滑高等学校(新設)校歌(作曲/谷川賢作)
岐阜市立長森南中学校校歌(作曲/谷川賢作)
東京都荒川区立汐入小学校校歌(作曲/林光)

関連書籍
写真集『少女アリス』(写真 沢渡朔)谷川俊太郎と瀧口修造の詩がおさめられている。

関連人物
河合隼雄
小室等(谷川と歌を共作)
武満徹
寺山修司
大岡信
長谷川龍生
大江健三郎
高石ともや
小林彰太郎(30年間の隣人で幼馴染だった。今も良き友人という。)
楠かつのり
佐野洋子(3番目の妻・離婚)
中島みゆき(大学の卒業論文で谷川について執筆するなど、影響を受けている。)
乳房や ああ身をそらす 春の虹・・・・・・・・富沢赤黄男
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  乳房や ああ身をそらす 春の虹・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

伊丹三樹彦の句を採り上げたので、先駆的な前衛俳句を採りあげたい。

富沢赤黄男(とみざわ・かきお)である。
私の尊敬する近藤英男先生が若い頃、彼に師事されていたという。
早稲田大学政治経済学部卒。応召して工兵将校として出征。戦後、詩人的才質と教養によって、実存的な、鋭い詩意識の「俳句詩」を創り出した。句集に『天の狼』など。

掲出の句は、5音7音5音の間に空白を置くなど、実験的な句作りである。「乳房や」という切れ字を使った出だしからして、突飛である。そして「ああ身をそらす」という中7が、一層センセーショナルで、初句を受けて、何やら曰くのありそうな、思わせぶりな句作りである。そして下5が「春の虹」と来る。ここで、一種のどんでん返しの様相を呈する。
こういう句作りには、伝統俳句の側からは、激しい異論があろうが、現代詩から出発した私などから見ると、どうということもない。現代詩の世界では、常識のことである。
以下、私の好きな赤黄男の句を書き抜いてみよう。

 ペリカンは秋晴れよりも美しい

 灯を消してああ水銀のおもたさよ

 冬天の黒い金魚に富士とほく

 蝶墜ちて大音響の結氷期

 椿散るああなまぬるき昼の火事

 蝶ひかりひかりわたしは昏くなる

 やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

 三日月よ けむりを吐かぬ煙突(けむりだし)

 秋を匍ひ 柔毛(にこげ)のごとき日を嗅げり

 切株に 人語は遠くなりにけり

 蛾の青さ わたしは睡らねばならぬ

 寒い月 ああ貌がない 貌がない

 春雷は 乳房にひびくものなりや

 黒い手が でてきて 植物 をなでる

 男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ

 草二本だけ生えてゐる 時間

 首のない孤独 鶏 疾走(はし)るかな

 くらやみを 鶏 くろい卵を生め


赤黄男独特の実存的な表現だが、「蝶墜ちて大音響の結氷期」や「男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ」や「草二本だけ生えてゐる 時間」などの句は赤黄男の代表作と言われている。
終わりの二句などは、現在、人々に恐怖を与えている「鶏インフルエンザ」の果てしない蔓延の様相を見るとき、極めて今日的な、凄い句だと思うが、いかがだろうか。
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Web上に載る「ぴいぷる」私たちの街の人たち というサイトの記事を引いておく。
写真②は小平霊園に眠る赤黄男の墓。
tomizawakakio赤黄男の墓

富澤 赤黄男(とみざわ・かきお)(1902~1962)
新興俳句旗頭。カナダ、トロント大学が出版した英文の句集では、日本人俳句の代表的作家の一人として二十首の俳句とともに世界に紹介されている。 俳人富澤赤黄男は新興俳句旗頭として、また難解俳句で全国に知られている。目立つ身長であったせいか「一見とりつきにくい感じの人」とか、「ヴァイオリンを弾きながら波浮の港や影を慕いて等を歌われる抒情豊かな人」と、馴染みの人々は語っている。はたして「富澤赤黄男」とはどうのような人物だったのであろうか。
 赤黄男は俳句作りを「我流・自己流」がいいとしていた。それも厳しい自己問答・葛藤によって練り上げる姿勢を論じている。例えば目の前を飛ぶ蝶、赤黄男の眼から入って赤黄男の口から「蝶」と叫ばれる。
叫ばれた「蝶」は赤黄男の「思い」の代物としての蝶であって、実在の蝶ではないという。つまり赤黄男の肉体を通り抜けた俳句、厳しい自己問答・葛藤の洗礼を経て生まれたものが「赤黄男俳句」ということになる。定型は中味の必然において生まれる形式だとし、季語無用論を主張した。そういった俳句作りをしていたため「難解である」と言われるのであろう。それでは富澤赤黄男の俳句はただ難解であるから有名なのであろうか。

戦時中でも赤黄男は俳句を作り続けた。

 戞々(かつかつ)とゆき戞々と征くばかり

「蒼い弾痕」の第一句に収録されている戦争俳句である。戦争俳句は昭和13年頃より俳壇に流行した 。赤黄男の戦争俳句は他の俳人と比べて、実際に戦場での経験が作りだした赤黄男自身の肉体が感じられる俳句となっている。季語を使わず、独自の表現方法で戦争の状況を表している。
 「潤子よ、お父さんは小さな支那(しな)のランプを拾ったよ」の前書きで始まる「ランプ八句」という俳句も戦時中に作られた作品である。これは書き出しでも判るように愛娘潤子へ宛てたものである。殺伐とした野戦での心安らかな一時が故郷の娘を想うことだったのであろう。子煩悩だった赤黄男の一面である。また赤黄男には7歳離れた妹がいた。

 足袋はいてつつましき娘となりにけり

女学生時代の妹粽は豊かな家庭にありながら乗り物を使わず、徒歩で名坂越えの通学をしていた。その姿を思い詠んだ句であろう。まさに妹を見る兄の愛情である。妻清に対する俳句もある。

 氷砂糖かりかり噛んで風邪の妻
 風邪の妻梅酒に酔ふてゐたりけり

「妻にも戦時中は苦労をかけておりますよ。着物の賃縫いをしたり、或る時は駅に新聞を売りに出たりしました。」と、感謝といたわりの情があふれていた。

記念すべき赤黄男の初の句集『天の狼』の初版は昭和16年で、この年は昭和12年以来の日中戦争が、ついに太平洋戦争と発展した忌まわしい年である。文壇では治安維持法違反容疑で新興俳句作家が検挙され、すべての新興俳句作家は拠点を失う時世であった。初版では字句を歪めまたは差し控えて発表していたが、10年後再版するにあたって生来どおりに戻した。この間赤黄男は苦難と悲痛の時代を過ごし、羞恥と後悔を感じていた。再版『天の狼』の赤黄男が本来の姿なのである。

赤黄男は「俳句は詩である」と主張した。どのように解釈するかは百人百様であってよいのである。ましてや赤黄男の超現実化した俳句においてはなおさらであろう。幾多の波にも信念を曲げることなく、自分の俳論を貫きとおした俳人であった。赤黄男の俳句精神が集約されていると思われる一部を紹介する。

復習・・・
踏切にて、列車は僕を拒止し傲然(ごうぜん)と駆け抜けた。が、彼奴、レールを取残して行った。そこで僕は、意地にでもこのレールを横切らねばならない。
(『雄鶏日記』より)


--------略歴--------
明治35年(1902年) 7月14日愛媛県川之石村(川之石琴平)に父岩生、母ウラの長男として生まれる。
本名正三。
大正9年(1920年) 宇和島中学を卒業後、鹿児島の第七高等学校の受験の際、同宿の受験生との腕相撲で腕を折って受験に失敗。
大正15年(1926年) 早稲田大学を卒業した後、国際通運東京本社に就職。

昭和3年(1928年) 26歳、喜多郡の酒造家菊池愛太郎の次女清(きよ)と結婚し、大阪東成区生野町に移住
昭和5年(1930年) 父が病気で眼を病み医者をやめ、川之石木材株式会社を経営。それを手伝うために帰郷、地元の国立第二十九銀行へ入社。郷土の俳句同好会『美名瀬吟社』に入り俳句を始める。
昭和7年(1932年) 俳号を「蕉左右」と改め、後に「赤黄男」と改号。
昭和10年(1935年) 俳詩『旗艦』が創刊され、その中で「新興俳句昭和の問題」を執筆するなど各誌に寄稿。水谷砕壺、日野草城、西東三鬼らと共に新興俳句家として俳壇にその名を知られる。
昭和13年(1938年) 戦争俳句が俳壇に流行。翌年、『旗艦』に「ランプ」を発表。『俳句研究』の「新鋭16人集」に作品「蒼い弾痕」を寄稿。
昭和16年(1941年) 安住敦のすすめで句集「天の狼」出版
昭和20年(1945年) 終戦。43歳。翌年から意欲的に数々の俳句雑誌に執筆、作品発表。昭和23年(1948年)詩論「モザイック詩論」発表。昭和27年(1952年)句集「蛇の声」刊行。翌年、『薔薇』に「クロノスの舌」を執筆。以後終刊まで随時発表
昭和36年(1961年) 体の調子を悪くする。句集「黙示」刊行
昭和37年(1962年) 60歳。3月7日永眠

昭和62年(1987年) 『郷土の偉人の灯を消すことは郷土の恥である』と、第1回富澤赤黄男顕彰俳句大会を開催。以後毎年赤黄男の忌日前後に開催
平成5年(1993年) 琴平公園に富澤赤黄男句碑広場が完成。句碑には胸像のレリーフとともに赤黄男直筆の句が刻まれ、そばに俳句ポストが設けられている。
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参考:教育委員会文庫5 郷土の俳人富澤赤黄男(保内町教育委員会)
愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・時実新子
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  愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・・時実新子

時実新子は1929年岡山市生れの「川柳」作家である。2007年3月10日肺がんのため78歳で死去した。
句集に『時実新子一萬句集』『有夫恋』などがある。
 人気川柳作家でエッセイストでもあった時実新子(ときざね・しんこ、本名・大野恵美子=おおの・えみこ)だが喪主は夫で川柳研究家の曽我六郎だという。
死去したときの毎日新聞によると、以下のように書かれている。
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 55年ごろから川柳を作り始め、63年、初めての句集「新子」を出した。75年、個人季刊誌「川柳展望」を創刊。初期の「子を寝かせやっと私の私なり」といった母親らしい“台所川柳”から、やがて「ヘアピンで殺す男を視野に置く」など男女の愛憎や人生の悲哀を詠み込む作風に変化し、川柳界の与謝野晶子とも呼ばれた。

 2歳年下の曽我さんと再婚した87年の句集「有夫恋(ゆうふれん)」がベストセラーに。91年から2年間、毎日新聞夕刊(大阪本社発行)の川柳選者を務めた。95年、阪神大震災の被災体験を共有しようと、曽我さんとともに震災川柳を募った。96年には月刊「川柳大学」を創刊。川柳研究に貢献した。
また「川柳新子座」なるものを主宰して、広く一般から川柳を募集して「アサヒグラフ」という写真画報に発表し、まとまると一冊の本にして朝日新聞社から出版されている。

 ◇愛好家の裾野広げ
 川柳に造詣が深い作家の田辺聖子さんの話 
<川柳といえば、俳句、短歌に比べて一段下に見られる傾向があったが、「新子川柳」の登場は文学に携わる者に衝撃をもたらした。日常の俗事をふまえながら、花鳥風月を超えたインテリジェンス(知性)を感じさせ、川柳界に新しい道を切り開いた。若い女性をはじめ川柳の愛好家の裾野を広げたのも新子さんの大きな功績だろう。>
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sinko時実新子

掲出した句に戻る。この句の「なまめかしさ」は、どうだろう。
「愛咬」とは成熟した男女の情事での秘戯である。この句は、一萬句集のなかでも後の方の「除籍入籍」1981~87という、作者50歳を過ぎてからの年代の頃の作品である。
情事の床で、いろいろのテクニックを駆使しての成熟したカップルの、もつれ合う姿が脳裏に浮かんでくる。時しも、桜の季節──しかも「はるかはるかに桜ちる」というお膳立ても出来上がっている。愛は「はかないもの」で、はるかはるかに散る桜のように、愛の熱情も、いつか色あせ、移ろってゆく。そういう愛の「哀しみ」を、状況設定も見事に芸術作品に仕立て上げた、お見事!!。
作者の万を越す作品のなかでも、ピカ一に光る秀作である。

私は、時実新子という人を詳しくは知らない。しかし、書かれたものを見ると、17歳で結婚して、夫と死別して、再婚してという愛の遍歴を過ごされたらしい。
この人の川柳の師匠は川上三太郎で、処女句集『新子』の序文の中で、

<新子は女性であるから何よりも先ず女性の手に成った句を書くように仕向けた>

という。
川柳人口のほとんどが男性であった昭和30年頃、他の男性作家と同じような句を書いていた新子に、三太郎が与えた啓示であった。

以下、結婚当初から年代を追って、作品を抽出する。

★背信の汽車 1955~60

 十七の花嫁なりし有夫恋
 背信の汽車なら走れ有夫恋
 逆光線即ち三十歳の乳房
 紅(べに)引くと生きてゆく気がする不思議
 凶暴な愛が欲しいの煙突よ

★問わぬ愛 1966~70

 一月に生きて金魚の可能性
 二ン月の裏に来ていた影法師
 三月の風石に舞うめくるめき
 四月散り敷いて企み夜になる
 美しい五月正当化す別離
 六月の雨まっさきに犬に降る
 七月に透ける血脈陽を怖れ
 八月の蝉からからと完(おわ)りける
 脈うつは九月の肌にして多恨
 十月の藍の晴着に享く光
 あくまでも白し十一月の喉(のんど)かな
 極月のてのひらなれば萼(うてな)です

★女のくらがり 1971~75

 まだ咲いているのか夾竹桃のバカ
 恋は終わったがこの乳臭きこのいのち
 つきつめてゆくと愛かなてんと虫

★有夫恋 1976~80

 すかんぽのぽかんと今があるばかり
 菜の花の風はつめたし有夫恋
 菜の花菜の花疲れてしまうコトバたち

★除籍入籍 1981~87

 五十を過ぎて天神さまの細道じゃ
 死のような快楽(けらく)覚えし洗い髪
 除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中
 れんげ菜の花この世の旅もあとすこし
 愛はもう問わず重ねたパンを切る
 新しい男しばらく鹿の艶(つや)

★想夫恋

 草の露ゆうべ抱かれし足運び
 待っていると椿は落ちずくもり空
 二人で歩くちょいとそこまで地の果てまで
 王道や女ながらも志
 かきつばた今淡々と人が好き
 青いみかんは私よりも好色だ
 さみしさに似た歓喜ありけしの花
 仰向けになって研師に身を任す

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たくさんの句を引用したが、「十七の花嫁なりしーー」の若い時の句から、老年にさしかかった頃の句への変化を見てもらいたい。
いずれにしても、この作者は「恋多き」性情の女性であるから、「五十を過ぎて天神さまの細道じゃ」の句のように、わらべ歌のつづきに唄われるように「往きはよいよい、帰りは怖い」と知りながら、恋に身を焦がした作者なのである。

私は掲出した句を取り込んで「妻の手」という詩を作り、昨年出版した詩集『免疫系』(角川書店刊)に載せた。

 
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