K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
200905<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>200907
POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
sizen266カタツムリ

六月になりました。
嫌な梅雨が始まりますが、しばらくの辛抱です。
 六月や身をつつみたる草木染・・・・・・・・・・・大石香代子
 クレヨンの黄を麦秋のために折る・・・・・・・・・・・・・林 桂
 ニコライの鐘の音色も梅雨に入る・・・・・・・・・茂木連葉子
 大寺のうしろ明るき梅雨入かな・・・・・・・・・・・・前田普羅
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 青猫といふ紙あらば詩を書かむ・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 雷鳴が腹中に棲み駆け狂ふ・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 おくら咲くひと日の色を誰がために・・・・・・・・・・高島征夫
 黒揚羽凶々しくも喉鳴らす・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 

ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
このテンプレートの特徴として、「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は「月次掲示板」の日付しか出ませんから、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。選んだ月のカレンダーが出ますので当該日の日付を押すと一日づつ画面に表示されます。当該月分の一覧としては出ません。
「月別アーカイブ」は30件表示するようになっています。30件以上ある場合は「NEXT」を押して進んでください。
「カテゴリー」を選んでいただくと、当該カテゴリーの一覧として、ずらっと出てきます。よろしく。 
私の採用しているテンプレートは「XPIE6」には対応しないようになっていまして表示崩れを起こしますので、悪しからず。
パソコンの画面は「最大化」でご覧ください
私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。

☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは5/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

banner99条守ろう

  9条守ろう!ブロガーズ・リンクに参加しています(0215)
 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」

かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす  ・・・・・・・・・・・・木村草弥
sizen266カタツムリ

  かたつむりの竹の一節越ゆるを見て
   人に会ふべき顔とりもどす・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

カタツムリはどこにでも居る陸の巻貝だが、農業を営む人たちには新芽を舐めて害するので嫌われている。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な性格の子供だったので、虫や昆虫、カタツムリなどの生態を、じっと見つめているのが好きだった。
この作品は、もちろん後年のものだが、少年期の、そういう記憶が歌に結実したものと言えるだろう。
カタツムリの這う速度は、文字通り遅々としていて、この歌に詠んである通り、竹の一節を越えるのに大層な時間がかかる。そんなカタツムリの歩みをじっと見つめていて、ようやく竹の一節を越えたなぁ、と思っているうちに、「そうだ、誰それさんに会う約束があるのだった」と、ハタと気がつく、という歌である。
私自身は、この歌が結構気に入っているのである。

梅雨のシーズンになるとカタツムリの大好きなじめじめした天気になるのである。
カタツムリを詠んだ句を引いて終る。

 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一


ガラスを透く守宮の腹を見てをれば言ひたきことも言へず 雷鳴  ・・・・・・・・・・・木村草弥
photo54やもり

  ガラスを透く守宮(やもり)の腹を見てをれば
   言ひたきことも言へず 雷鳴・・・・・・・・・木村草弥


はじめにお断りしておく。掲出の写真はネット上でeco.gooの「ようちゃんの風景」2003/5/24から拝借したものである。
この写真はガラスに張り付いた守宮を撮ったものだが、グロテスクな感じを与えないので、丁度よいと思う。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

守宮は主に人家に棲み、壁や天井、ガラスなどに張り付いて明りに寄ってくる虫を捕らえて食べている爬虫類である。指には吸盤があって、どんなところにも留まることができる。体の色は環境によって変化するらしいが、私は夜に家で見かけるので灰色の時しか知らない。毒はなく、害虫を捕らえる有益な生き物と言えよう。

ガラスに張り付いている場合は、守宮の腹の中の様子が少し透けて見えるので興味ふかい。呼吸に応じて喉がひくひくと動くところなど面白い。それにガラスに張り付いている場合は裏面から見えているわけで、守宮の目からは、こちらは見えないので、彼は気がつかないから、ゆっくり観察できる。
名前の由来は、だいたい家の中に居るので「家守」の意味で、この名がついたと言われている。鳴声が嫌だと言われるが、私はまだ聴いたことがない。
守宮は家の壁や地下の暗いところに10個ほどの卵を生む。これは私は一度みたことがある。

私の歌のことだが「何々していると」という条件句と、後のフレーズとには厳密な繋がりはない、と受け取ってもらいたい。文芸作品というものは論理的ではないことが多い。「こうしたから、こうなる」というものではないのである。まして結句に「雷鳴」というフレーズがある、などが、それである。

以下、守宮を詠んだ句を引いて終わる。

 河岸船の簾にいでし守宮かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 壁にいま夜の魔ひそめるやもりかな・・・・・・・久保田万太郎(カルカッタの飛行場にて)

 硝子戸の守宮銀河の中に在り・・・・・・・・野見山朱鳥

 灯を待てる守宮雌を待つごときかな・・・・・・・・阿波野青畝

 芭蕉葉に二重写しの守宮かな・・・・・・・・阿波野青畝

 獄いたるところに守宮の夫婦愛・・・・・・・・大喜多冬浪

 静かなるかせかけ踊守宮鳴く・・・・・・・・高浜年尾

 膝に蒲団はさみて寝るや守宮鳴く・・・・・・・・沢木欣一

 守宮ゐて昼の眠りもやすからず・・・・・・・・上村占魚

 守宮かなし灯をいだくときももいろに・・・・・・・・服部京女

 昼守宮鳴く経蔵に探しもの・・・・・・・・能仁鹿村

 玻璃に守宮眠れぬ夜の星遠く・・・・・・・・長島千城


蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・高浜虚子
aodai20041青大将

  蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・・高浜虚子

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。私の子供の頃の記憶では、もっと青い(緑がかった)蛇だったように記憶するが、あてにはならない。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
sw-1upシマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは唯一「まむし」(蝮)だけである。特徴としては頭が三角形で角張っているのと、色が黒っぽい。これに噛まれるとマムシ血清を早く打たないと障害が残る。日本では、医療機関に血清が備えられているので、手遅れにならない限り心配ない。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

掲出の虚子の句は、明らかに、蛇恐怖症の印象がする。
松山生まれだが、田舎ではなく、都会っ子なのであろう。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・菅八万雄

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三



枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子
biwa004びわの実②

  枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・橋本多佳子

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。高級品は薄い紙に包まれていたりする。
枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・石塚友二

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・秋篠光広

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



拓かれし州見台てふ仮り庵に愛ぐはし女男の熟睡なるべし・・・・・・・・・・・木村草弥
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 itii2イチイ実
  
   ──草弥の詩作品<草の領域>─(54)──

  この短歌作品12首は角川書店発行「短歌」誌7月号に編集部依頼原稿として掲載された。
     この号は、本日6月25日を以って全国一斉発売となったので、ここに公開する。

    州見山・・・・・・・・・・・・木村草弥

三香原布當(みかのはらふたぎ)の野辺をさを鹿は嬬(つま)呼びとよむ朝が来にけり

山の端の羅(うすもの)引きて朝日いづ茶畑の丘の緋の朝ぼらけ

あしひきの州見(くにみ)の山ゆ見かへれば朝霧のおぼに流るる泉川

あららぎの丹の実光れる櫟(いち)坂は寧楽(なら)と山城へだつる境

猫と老人めだつ島なるイドラ島エーゲ海の光燦と注ぎぬ

エーゲ海の島の日向に老人が屯しゐたり そんな日が来る

ニッポンの老いびとたちも日がな日がなG(グラウンド)ゴルフの球(たま)と遊べり

いそいそと誰に見しよとの耳飾り身をやつし行く老いの華やぎ

百歳を超すひと三六二七六人祝ふべきかな老人国ニッポン

<死にし人は死もて齢を堰きたる>と言ふを諾(うべな)ふ 青葡萄生(な)る

狩衣(かりぎぬ)の乱るるなへに狛錦(こまにしき)紐解き待てる若草の嬬

拓かれし州見台てふ仮り庵に愛(め)ぐはし女男(めを)の熟睡(うまい)なるべし

---------------------------------------
当初は2009/02/08に載せた同名の「州見山・長歌と反歌」を投稿しようとしたのだが、この「12首の企画欄」は「短歌」12首、という制約で編集されているので、不可、と断られたので、改めて短歌作品として作り直して、ここに載せたような歌として再投稿したものである。
なお、この欄に寄稿を依頼されたものは安いが「原稿料」が支払われる。


待てどくらせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな  ・・・・・・・・・・・竹久夢二
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    待てどくらせど来ぬ人を

     宵待草のやるせなさ

     今宵は月も出ぬさうな・・・・・・・・・・・・竹久夢二


竹久夢二の作詞による「宵待草」の、この一節を、千葉県銚子の海鹿島海岸近くに、房総夢二会によって建てられた竹久夢二の碑文がある。

夢二は明治43年、27歳の夏に海鹿島に滞在し、この「宵待草」のモデルとなる女性、長谷川カタに出会った。
宵待草とは、銚子の海岸に群生して夕方になると黄色い花を咲かせるマツヨイグサのことである。

ここに引いた夢二の作品には、以下のような「後日譚」がある。

レコード会社に頼まれた西条八十が二番を付けたという。

◆暮れて河原に星ひとつ 宵待草の花が散る 更けては風も泣くさうな

しかし、宵待草は萎れる花で、散る、ということは無い。
西条八十は晩年の自叙伝で「花が散る」を「花の露」に改めているそうである。
これは、「また聞き」であり、確認した訳ではないので、念のため。

ここで♪YouTube「竹久夢二 宵待草 川井郁子」♪の動画をお届けする。
川井郁子の演奏と共に、夢二のメルヘンチックな絵が次々と出てくる佳いものである。

月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』 (角川書店)に載せたものだが、「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。
繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。
正式には「オオマツヨイグサ」というらしい。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合ふ>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
6月半ばから一斉に咲き始めた。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。
花言葉も「ほのかな恋」という。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・文挟夫佐恵

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車

花合歓や補陀落といふ遠きもの・・・・・・・・・・・角川春樹
05nemunohana1合歓の花

  花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・角川春樹

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が一本ある。
今が丁度、花どきである。今日あたりは少し花どきには過ぎたかと思う。この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川春樹は角川書店社長だったが、麻薬所持で検挙され禁固刑に処せられ、社長を辞めさせられ、弟の歴彦氏が後を継いだ。父親の角川源義も俳人だったが、彼・春樹も名のある俳人で多くの句集を持つ。句集一冊ごとに作風が替わるという異色の俳人だった。
俳句作りにおいて、初句からずらずらと事物を叙述するというのは初心者のすることであって、5、7、5の各部を「二物衝撃」のもとに配置するというのが現代俳句の面白みである。この句でも「花合歓」と「ふだらく」との間に直接の関係はない。それを一句の中に、句の中の宇宙として組み立てる面白さがある。
「ふだらく」というのは、むかし海彼のかなたに浄土を求めて僧侶などが渡海した故事を指すが、熊野信仰というのは、これに深く関連する。「合歓の花」というのは、そういう浄土への想いに関わるような気にさせるものかも知れない。
芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
---------------------------------------

 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
--------------------------------------
私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。もう十年も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。

をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・・・・日野草城
990930a虹

  をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・日野草城

この日野草城の句は、幼子がゆびさす「ひとさしゆび」に虹がかかっている、という心あたたまるような、ほのぼのとした情景が、さりげなく、かつ、的確に詠まれている。幼子という素材にマッチして、虹という字以外は、全部ひらがな書きにしたところが、また憎い。何とも心あたたまる句である。

ここで虹の句を歳時記から少し引く。

 虹立ちて忽ち君の在る如し・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 虹のもと童ゆき逢へりその真顔・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹といふ聖なる硝子透きゐたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹なにかしきりにこぼす海の上・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 野の虹と春田の虹と空に合ふ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 天に跳ぶ金銀の鯉虹の下・・・・・・・・・・・・・山口青邨

 いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹消えて了へば還る人妻に・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

 目をあげゆきさびしくなりて虹をくだる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹を見し子の顔虹の跡もなし・・・・・・・・・・・・石田波郷

 虹が出るああ鼻先に軍艦・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 虹二重神も恋愛したまへり・・・・・・・・・・・・津田清子

 海に何もなければ虹は悲壮にて・・・・・・・・・・・・佐野まもる

 別れ途や片虹さらに薄れゆく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 赤松も今濃き虹の中に入る・・・・・・・・・・・・・中村汀女

「虹」は、ギリシア神話では、女神イリスが天地を渡る橋とされるが、美しく幻想的であるゆえに、文学、詩歌で多くの描写の素材とされて来た。
終わりに私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた「秘めごとめく吾」と題する<沓冠>15首のはじめの歌を下記する。

 げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢・・・・・・木村草弥


ねそぴれてよき月夜なり青葉木莵森かへてまた声をほそめぬ・・・穂積忠
oaobazukuあおばずく

  ねそびれてよき月夜なり青葉木莵(あをばづく)
   森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・穂積忠


アオバズクは梟の一種で、鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声づつ含みのある調子で鳴く。オーストラリア辺りから渡ってくる夏の渡り鳥だという。

夏の、よい月の夜、寝そびれて、ふと聞きとめた青葉木莵の声。途絶えたと思うと、思いがけない方角の森で、また鳴きはじめた。声を細めて鳴きはじめるのが何とも言えず、ゆかしい感じがする。引き込まれてアオバズクの声を追っている気持が「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表れている。鳥声に心もいつか澄んでゆく。

穂積忠は明治34年静岡県の伊豆に生まれ、昭和29年に没した。教育者だった。中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折口信夫(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。昭和14年刊『雪祭』所載。

アオバズクは四月下旬頃に南方から飛来し、都市近郊の社寺などの森に棲んで5、6月頃に産卵、十月頃南方に帰る、という。そして夜間に活動して、虫や小鳥、蛙などを食うらしい。名前の由来は、青葉の森の茂みの暗がりと声の感じがよく合って、この命名となったものか。
俳句にも、よく詠まれる題材で、少し句を引いてみる。

 こくげんをたがへず夜々の青葉木莵・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 青葉木莵月ありといへる声の後・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 青葉木莵さめて片寝の腕しびれ・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 眠れざる者は聞けよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 青葉木莵おのれ恃めと夜の高処・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 五七五七と長歌は長し青葉木莵・・・・・・・・・・・・高柳重信

 青葉木莵産着のかたち縫ひ急ぐ・・・・・・・・・・・・杉山岳陽

 青葉木莵次の一語を待たれをり・・・・・・・・・・・・丸山哲郎

 考えを打ち切る青葉木莵が鳴く・・・・・・・・・・・・宇多喜代子

 眼を閉ぢてさらに濃き闇青葉木莵・・・・・・・・・・・・山口速

 うつぶせに寝る癖いまも青葉木莵・・・・・・・・・・・・石川美佐子

 青葉木莵遠流百首を諳じる・・・・・・・・・・・・野沢晴子

 青葉木莵夜もポンプをこき使ふ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 青葉木莵木椅子を森の中ほどに・・・・・・・・・・・・井上雪


白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・・・三井秋風
ari蟻

  白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・三井秋風

「蟻」の写真というものも難しいもので、対象が小さいので、いい写真が撮れない。そこで蟻が獲物を引いている写真を掲げてみた。この写真には3、4匹の蟻が写っている。何とか目をこらして見てほしい。

三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。
この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。

hiro-atake-b広重

これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。

 ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十

 祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷

 夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉

 蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶

 木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子

 大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子

 夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火

 蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女

 蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明

 蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉



散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭・・・木村草弥
tourinin01.jpg

  散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は
   一期(いちご)の夢に昏(く)るる寺庭・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

沙羅の花を詠んだ私の歌としては

沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

畳まで緑に染まる沙羅の寺黙読の経本を蟻がよぎりぬ

地獄図に見し死にざまをさまよへば寺庭に咲く夏椿落つ


『嬬恋』『茶の四季』(いずれも角川書店)に載っている。これらも一体として鑑賞してもらえば有難い。

「沙羅」の花あるいは「沙羅双樹」というのは6月中旬になると咲きはじめるが、
これは平家物語の

  <祇園精舎の鐘の声、
   諸行無常の響きあり、
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必滅の理をあらはす>

に登場する有名な花であるが、実はインドの沙羅双樹とは無縁の木であり、「夏椿」を日本では、こう呼んでいるのである。
aaoonatutu夏椿大判

こういうことは、よくあることで、たとえば菩提樹と言う木は沙羅の木と同様にインドの木で仏教でお釈迦さまの木として有名だが、ヨーロッパにもベルリンのウンターリンデン大通などにある木も菩提樹と呼ばれているし、歌曲にも菩提樹というのがあるが、これも全く別の木である。

「夏椿」は一日花で次々と咲いては、散るを繰り返す。
その儚(はかな)さが人々に愛された所以であると言われている。
沙羅の木=夏椿は、その性質上、寺院に植えられていることが多い。
京都のお寺では有名なところと言えば、
妙心寺の塔頭(たっちゅう)の東林院
                城南宮
                真如堂
                法金剛院
                宝泉院

などがある。その中でも東林院は、自ら「沙羅双樹の寺、京都の宿坊」とキャッチコピーを冠している程で「沙羅の花を愛でる会」というのが、この時期に開催されている。
この寺をネット上で検索すると、今年の会は6/12~30ということである。
6_sara30616to11夏椿落花

写真③に見られるように、この時期には散った花が夏椿の木の下に一面に散り敷くようになり、風情ある景色が現出するのである。
いわば沙羅の花は「散った」花を見るのが主眼であるのだ。
だから私は歌で、わっと派手に散った花よりも咲く花が「ひそか」である、と表現したのである。
なお沙羅の字の読み方は「さら」「しゃら」両方あるが私としては「しゃら」の方を採りたい。

俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。「沙羅の花」が夏の季語。

 踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ・・・・・・・・日野草城

 沙羅散華神の決めたる高さより・・・・・・・・鷹羽狩行

 沙羅は散るゆくりなかりし月の出を・・・・・・・・阿波野青畝

 沙羅の花もうおしまひや屋根に散り・・・・・・・・山口青邨

 沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・石田波郷

 秘仏の扉閉ざして暗し沙羅の花・・・・・・・・八幡城太郎

 沙羅の花見んと一途に来たりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・中村芳子

 齢一つ享けて眼つむる沙羅の花・・・・・・・・手塚美佐

 沙羅咲いて花のまわりの夕かげり・・・・・・・・林翔

 沙羅の花夫を忘るるひと日あり・・・・・・・・石田あき子

 沙羅落花白の矜持を失はず・・・・・・・・大高霧海

うっかりして忘れていたが、My Documentsの中に「夏椿の実」というのがあったことを今思い出したので、写真④に出しておく。
夏椿見

東林院でも、そうだが、この頃はインターネット時代で、神社仏閣も、競ってHPを作って参拝者を募っている。
私の友人で歌人仲間で奈良の藤原鎌足ゆかりの談山神社の神官二人がいるが、そのうちの一人はHPを担当して神社のHP製作にあたっている。HPを開いてから参拝者が3倍になったという。そんな世の中になったのである。
-------------------------------------
参考までに、インドに生えている「正当」な沙羅双樹の樹の写真を下記に載せておく。
写真の中に、この樹の「花」が咲いているのが見えるので、ご留意を。
この写真は「yun」の無料提供のものを拝借した。原寸は大きいが縮小した。

yun_3615x.jpg

この写真に添えた「yun」氏のコメントに、こう書いてある。

タイのバンコクにあるワット・ポー内に生えていたサラソウジュ(沙羅双樹)の木(フタバガキ科、学名:Shorea robusta、原産地:インド)です。釈迦(しゃか)が亡くなったときに近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必滅の理をあらはす」でも有名。ただし、日本では育たないので夏椿を代用しています。写真内には花が咲いているのが確認できます。

引用に感謝して、ここに御礼申し上げる。



石原結実「ストレスも、あってこそ」・・・・・・・・・・・・木村草弥
200px-Adrenaline_chemical_structure.png
200px-Epinephrine-3d-CPK.png

  石原結実「ストレスも、あってこそ」・・・・・・・・・・木村草弥

ダイナースクラブの会員誌「シグネチャー」2009年6月号に、おなじみの石原博士が、標記のような記事を書いておられる。以下、忠実に転載しておく。
図版はアドレナリンの模式図。

・・・・・「ストレス」という物理学用語を、医学用語にも用いるようにしたのは、カナダのハンス・セリエ博士です。
心身に負担(ストレッサー)が加わると、交感神経や副腎髄質・皮質が反応して、アドレナリン、ノルアドレナリン、コーチゾールなどのホルモンを分泌して体を防御しようとします。
つまり、血圧を上昇させ、血糖を増加させて、敵と戦おうとするわけです。しかし、ストレスが長く続くと、血液中のコレストロール、中性脂肪、フィブリン(血栓を促すタンパク質)、赤血球、尿酸・・・などが増加し、血液はドロドロになり、心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病、痛風・・・などになりやすくなります。
また、白血球のうちの顆粒球が増加し、リンパ球は減少して、活性酸素の増加、免疫力の低下も起こり、胃・十二指腸潰瘍、肝炎、膵炎、過敏性大腸炎・・・などあらゆる病気にかかりやすくなります。
こうしたストレッサーによって起こる生体の変化を「ストレス」というのですが、もちろん、このように病名がつくほどの状態が体に現れるほどの「ストレス」は好ましくありません。しかも重度のストレスはノルアドレナリンの作用により、集中力や記憶力を高め、積極的になり、痛みが感じにくくなったりします。
逆に、ストレスがかからず、副交感神経が優位になって、ノルアドレナリンの分泌が不足すると、無気力、無関心、意欲の低下が起こり、それが長く続くと、ちょっとしたストレッサー(心身の負担)で、過剰な反応を起こすようになります。
よって、適度なストレスは、心も体も強くするのです。ボディビルダーの隆々たる筋肉も、バーベルやダンベルにより「重量」という負担をかけることにより得られたものです。ただし、毎日負担をかけ続けると、筋肉が萎縮してしまいます。よって、ウェイト・トレーニングも必ず週に1~2回は休む必要があります。休んでいる間に、筋肉は、super compensation(超代償)というメカニズムにより、さらなる発達をするのです。
先日、漢方薬の最大手メーカーのツムラの風間八左衛門会長とお会いした時、興味のあるお話を聞きました。
漢方薬のほとんどに、“副作用防止“の役割として含まれている甘草(醤油の味つけにも使われる)を栽培するのは簡単で、どんな場所ででも、どんどん生長するが、肝腎の有効成分がほとんど抽出できない、のだそうです。
有効成分を豊富に含んだ甘草を育てるのには、中国の砂漠地帯の、水分が少なく、乾燥した環境で甘草を「いじめる」必要があるとの由。
同時に、われわれ人間の心身を成長させるためには、ある程度のストレスは必要であるし、ストレスがあってこそ、心身は鍛えられるという一面もあると考えてよいでしょう。
しかし、ストレスが長く続くと、万病のもとになるのですから、「ストレスを受けたら、リセットする。つまり、一日の終りにはゆっくり休める時間をとる。それが出来ない人は、せめて週末には、仕事のことを考えない時間をとって、ゆっくり休む」ことを心がけましょう。
また、心身のストレスは、ウォーキングをはじめとする軽い運動や入浴などで、体を温めることもお忘れなく。・・・・・・
---------------------------------------
下記にネット上から記事を引いておくが、アドレナリンは日本人が発見したと書かれている。よく読んでもらいたい。

アドレナリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では、ホルモンのアドレナリンについて記述しています。その他の用法についてはアドレナリン (曖昧さ回避)をご覧ください。

投与方法 点滴静脈注射、気管内チューブ
アドレナリン (adrenaline) (英名:アドレナリン、米名:エピネフリン、IUPAC組織名:4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)とは、副腎髄質より分泌されるホルモンであり、また、神経節や脳神経系における神経伝達物質でもある。分子式はC9H13NO3。

ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。

構造と生合成
アドレナリンはカテコールアミン(アドレナリン、ノルアドレナリンおよびドパミン)の一つである。L-チロシンからL-ドーパを経て順にドパミン、ノルアドレナリン(ノルエピネフリン)、アドレナリン(エピネフリン)と生合成される。

発見
アドレナリンは1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三がウシの副腎から世界で初めて結晶化した。しかし、副腎から放出されている物質の抽出研究は同時期に世界中で行われており、ドイツのフェルトはブタから分離した物質に「スプラレニン (suprarenin)」、アメリカ合衆国の研究者ジョン・ジェイコブ・エイベルはヒツジの副腎から分離した物質に「エピネフリン (epinephrine)」と名付けた。アドレナリンは英語、スプラレニンはラテン語、エピネフリンはギリシア語でそれぞれ副腎を意味する語に由来する。

エピネフリンはアドレナリンとは分子式の異なる物質であったが、高峰の死後に、エイベルは高峰の研究は自分の盗作であると主張した。これはアドレナリン発表寸前に高峰がエイベルの研究室を訪問した事実を盾に取った主張であった。それまでの実績が主として発酵学の分野で、こうした分野での実績に乏しい高峰が、研究に大きな役割を果たした上中の功績を強調せず、自己の業績として発表したことも、本当に高峰らの業績だったのかを疑わせる一因であったと指摘する考えもある。しかし、後年、上中の残した実験ノートより反証が示されており、またエイベルの方式では抽出できないことも判明して、高峰と上中のチームが最初のアドレナリンの発見者であったことは確定している。なお、上中が残した実験ノートは兵庫県西宮市の名刹・教行寺に保管されている。

エピネフリンという名称
現在ではアドレナリンもエピネフリンも同じ物質のことを指しているが、ヨーロッパでは高峰らの功績を認めて「アドレナリン」の名称が使われているのに対して、アメリカではエイベルの主張を受けて、副腎髄質ホルモンを「エピネフリン」と呼んでいる。

現在、生物学の教科書・論文では世界共通でアドレナリンと呼んでいるのに対して、医学においては世界共通でエピネフリンと呼ばれている。「生体内で合成される生理活性物質」という捉え方と、「医薬品」という捉え方の違いからだが、日本では医薬品の正式名称を定める日本薬局方が改正され、2006年4月より、一般名がエピネフリンからアドレナリンに変更された。

作用
交感神経が興奮した状態、すなわち「闘争か逃走か (fight-or-flight)」のホルモンと呼ばれる。動物が敵から身を守る、あるいは獲物を捕食する必要にせまられるなどといった状態に相当するストレス応答を、全身の器官に引き起こす。

運動器官への血液供給増大を引き起こす反応
心筋収縮力の上昇
心、肝、骨格筋の血管拡張
皮膚、粘膜の血管収縮
消化管運動低下
呼吸におけるガス交換効率の上昇を引き起こす反応
気管支平滑筋弛緩
感覚器官の感度を上げる反応
瞳孔散大
痛覚の麻痺
勃起不全
興奮すると分泌されるため、例えば喧嘩になった時に分泌され、血まみれや骨折の状態になっても全く痛みを感じないケースもある。

医薬品としてのアドレナリン

アドレナリン(商品名「スプラレニン」)のアンプルアドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬や、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられる。有害反応には、動悸、心悸亢進、不安、頭痛、振戦、高血圧などがある。

心停止の4つの病態、すなわち心室細動、無脈性心室頻拍、心静止、無脈性電気活動のいずれに対してもアドレナリンは第1選択として長く使用されてきたが、近年ではバソプレシンが救命率、生存退院率が共に上回ることが証明されバソプレシンに第1選択の座を譲りつつある。静脈内投与の場合、初回投与量は1mgである。血中半減期は3分から5分なので、3分から5分おきに1mgを繰り返し投与する。

また局所麻酔剤に10万分の1程度添加して、麻酔時間の延長、局所麻酔剤中毒の予防、手術時出血の抑制を図ることもある。

代謝はまずモノアミン酸化酵素によって酸化(脱アミノ化)され、最終的にはバニリルマンデル酸として尿中に排泄される。

商品名として「エピスタ」「ボスミン」「エピペン」がある。

併用禁忌
カフェイン(カフェイン飲料・製剤) - 相互に作用を増強させ、心臓に負荷をかける。突然死の原因につながることもある。
タバコ(喫煙) - 相互に作用を増強、精神活動を賦活、錯乱を招く恐れがある。
血管拡張作用のある薬 - 血管収縮作用を減弱させ、相互に効力を弱める。
ブチロフェノン系、フェノチアジン系薬等(α遮断作用のある薬) - アドレナリンの作用を逆転させ、急激な血圧降下を起こす。

アドレナリンと疾患
褐色細胞腫は副腎腫瘍の一つであり、多量のカテコールアミンが分泌される疾患である。

楢の木の樹液もとめて這ふ百足足一本も遊ばさず来る・・・・木村草弥
020522mukadeトビズムカデ本命

  楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)
   足一本も遊ばさず来る・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

百足(むかで)というのは噛まれるとひどく痛い害虫で、気持の悪い虫だが、樹木の茂る辺りから梅雨から夏にかけて住宅の中にまで侵入してくるから始末が悪い。朝起きると枕元に大きなムカデが居て、ギョッとして大騒ぎになることがある。噛まれなかってよかった、ということになる。
以前住んでいた家は雑木林がすぐ近くにあったので夏にはムカデがよく家の中に入って来たものだ。
ムカデは節足動物だが、ムカデ綱に属する種類のうち、ゲジ目を除いた種類の総称で、日本には1300種類も居るという。
写真はトビズムカデという名前の百足である。写真を見て「おぞましい」と思う人は見ないでもらいたい。卒倒されたら困る。

このように気持の悪い虫だが、私の歌にある通り、ナラやクヌギなどの里山には、カブトムシなどと争って木の樹液を求めて出てきたりするのである。
ムカデにも肉食と、樹液などを吸いに来るものと二種類いるそうである。
私の歌は、そういう樹液に群がるムカデを詠んでいる。
ムカデの動きを観察していると、私の歌の通り、あの多くの足をからませることもなく、すすすすと進んで来るのである。だから私は「足一本も遊ばさず来る」と表現してみた。

先に「害虫」だと書いたが、昔から、ものの本によるとムカデは「益虫」だと書いてあるという。
ムカデは百足虫とも、また難しい字で「蜈蚣」とも書いて、いずれもムカデと訓(よ)ませる。

 蜈蚣をも書は益虫となしをれり・・・・・・・・相生垣瓜人

という句にもある通りである。
以下、歳時記に載るムカデの句を引いて終わりたい。

 小百足を打つたる朱(あけ)の枕かな・・・・・・・・日野草城

 硬き声聞ゆ蜈蚣を殺すなり・・・・・・・・相生垣瓜人

 夕刊におさへて殺す百足虫の子・・・・・・・・富安風生

 百足虫出づ海荒るる夜に堪へがたく・・・・・・・・山口誓子

 ひげを剃り百足虫を殺し外出す・・・・・・・・西東三鬼

 殺さんとすれば百足も動顚す・・・・・・・・百合山羽公

 壁走る百足虫殺さむ蝋燭火・・・・・・・・石塚友二

 なにもせぬ百足虫の赤き頭をつぶす・・・・・・・・古屋秀雄

 三四日ぐづつく雨に百足虫出づ・・・・・・・・上村占魚

 殺したる百足虫を更に寸断す・・・・・・・・山口波津女

 百足虫出て父荒縄のごと老いし・・・・・・・・大隈チサ子


蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・中島斌雄
p-japonicus200707suki.jpg

   蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・中島斌雄

ウォーキングしていて、道端の石の上を蜥蜴(とかげ)が横切ったので、急にトカゲのことを書く気になった。
トカゲは色々の種類が居るが、写真のような「青とかげ」が美しい。
掲出の句は、トカゲが危険を感じると、尻尾を切り離して逃げて、取り残された尻尾の断面が「縞」模様になっている、と観察眼するどく描いている。
切り離された尻尾が、まだ生きていて、ぴくぴくと動いているさまは、よく目にすることである。尻尾を切り離した尾の部分は、また再生する。

私も蜥蜴を詠んだ歌があるが、多くはないので、いま見つけられないので、この句を掲出する。
変温動物なので冬は冬眠する。春とともに活動をはじめ、7、8月に土を掘って十個ほど産卵するというが、田舎暮らしながら、私は、まだ見たことがない。
爬虫類はどことなく不気味だが、蜥蜴は可愛い感じの小動物である。その怜悧そうな目や、喉の動きなどは、動きのすばやさとともに印象的である。

蜥蜴を詠んだ句を引いて終わる。

 三角の蜥蜴の顔の少し延ぶか・・・・・・・・高浜虚子

 歯朶にゐて太古顔なる蜥蜴かな・・・・・・・・野村喜舟

 石階の二つの蜥蜴相識らず・・・・・・・・富安風生

 さんらんと蜥蜴一匹走るなり・・・・・・・・小島政二郎

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る・・・・・・・中村草田男

 薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ・・・・・・・・西東三鬼

 直はしる蜥蜴わが追ふ二三足・・・・・・・・石田波郷

 いくすぢも雨が降りをり蜥蜴の尾・・・・・・・・橋本鶏二

 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし・・・・・・・・加藤楸邨

 蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・山口誓子

 高熱の青き蜥蜴は沙(すな)に消え・・・・・・・・角川源義

 青蜥蜴おのれ照りゐて冷え易し・・・・・・・・野沢節子

 青蜥蜴オランダ坂に隠れ終ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 蜥蜴楽し青き牛蒡の葉に乗つて・・・・・・・・沢木欣一

 人に馴ることなく蜥蜴いつも走す・・・・・・・・山口波津女



草づたふ朝のほたるよみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ  ・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉
s-109蛍

草づたふ朝のほたるよみじかかる
 われのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉


蛍は農薬の使用などで一時ものすごく数が減ったことがある。この頃は蛍復活作戦とか言って、蛍の餌となる巻貝「カワニナ」の養殖や放流、農薬使用の自粛などで、あちこちで復活しつつある。
六月下旬になると、そろそろホタルが出はじめる。あいにく梅雨に遭うと蛍狩は中止である。
私の子供の頃は──と言っても、もちろん戦前のことである、蛍狩りには菜種の実を振い落した「菜種がら」を棒の先にくくりつけて、暗くなると家族や友人たちと川べりに繰り出したものである。川べりと言っても、大河ではない。せいぜい幅1、2メートルの田圃の中の水路などに蛍は居る。川べりに着くと、中には悪童がいて、ゴムパチンコに花火弾をつけて人に向かって発射する悪戯をする連中がいた。運悪く私の腹にあたり火傷をさされて、泣いて家に帰ったことがある。私が小学生の下級生の頃のことだ。
その頃、蛍は文字通り、うじゃうじゃといた。蛍籠に入れて持ち帰り、蚊帳の中に放して明りを消して楽しんだものである。
掲出したのは「ホタルブクロ」という草花である。白花と紅花とがある。
私の家にも一鉢があり、しばらく前からぼつぼつと咲きはじめた。

この茂吉の歌は蛍に感情移入して、蛍の短い命に心をよせて詠んでいる秀歌である。
今日は趣向を変えて俳句、短歌ごちゃまぜに蛍に関するものを採り上げたい。
---------------------------------------
 うつす手に光る蛍や指のまた・・・・・・・・・・・・炭太祇

「うつす」は直接には「移す」で、捕まえた蛍を相手の掌中に移しているところだろう。その蛍が指の股を透かして光っている。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。いずれにせよ
「うつす」が「映す」の語感を伴っている句作りが、全体にふっくらした味をかもしだしている。
炭太祇は江戸中期の俳人。江戸に生れて、京都を永住の地とした。蕪村より7歳年長だったが親しく交わり、影響を与えあった。人情の機微をとらえた人事句に優れ、特色ある句が多い。
 <初恋や灯籠によする顔と顔>
 <寝よといふ寝ざめの夫や小夜砧>

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

 蛍這へる葉裏に水の速さかな・・・・・・・・長谷川零余子

 夏草のしげみが下の埋れ水ありとしらせて行くほたるかな・・・・・・・後村上院

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす・・・・・・・・山家鳥虫歌

一番終わりのものは和歌ではなく、7、7、7、5という音数律の「都都逸」と称するものである。
---------------------------------------
歳時記から「蛍籠」「蛍狩り」の句を少し引いて終わりにする。

 蛍籠ともり初むれば見ゆるなり・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 蛍籠極星北に懸りたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 あけがたやうすきひかりの蛍籠・・・・・・・・・・・・大野林火

 蛍籠霧吹くことを愛として・・・・・・・・・・・・山口波津子

 吾子の死へ朝が来てゐる蛍・・・・・・・・・・・・時田光子
 
 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである。

 蛍待つ幽に山のたたずまひ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 夕焼の橋に遊んで蛍待つ・・・・・・・・・・・・鈴木花蓑

 磧(かはら)石蹠にあらく蛍狩・・・・・・・・・・・・高浜年尾

 闇にふむ地のたしかさよ蛍狩・・・・・・・・・・・・赤松恵子

 ひとすぢのこの川あふれ蛍狩・・・・・・・・・・・・前田野生子

水馬がふんばつてゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる  ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618395_1E.jpg

  水馬(あめんぼう)がふんばつてゐるふうでもなく
    水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「あめんぼう」は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。私は幼い頃から、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、じっと眺めているのが好きだった。と言って「昆虫少年」になることもなかった。

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。「みずすまし」というのは全然別の虫であって、1センチほどの紡錘形の黒い虫である。「まいまい」という名前がある通り、水面をくるくると輪をかいて廻っている。水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には<常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。正黒色、蛍に似たり>と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については<長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。よりて水馬と名づく>と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。
以下、「あめんぼう」についての俳句を少し引くが、その中で「水すまし」とあるのは間違いということになる。
---------------------------------------
 水馬水に跳ねて水鉄の如し・・・・・・・・・・・・村上鬼城

 水隈にみづすましはや暮るるべし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 夕焼の金板の上水馬ゆく・・・・・・・・・・・・山口青邨

 水馬交み河骨知らん顔・・・・・・・・・・・・松本たかし

 打ちあけしあとの淋しき水馬・・・・・・・・・・・・阿部みどり女

 八方に敵あるごとく水すまし・・・・・・・・・・・・北山河

 水馬はじきとばして水堅し・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 水玉の光の強き水馬・・・・・・・・・・・・八木林之助

 水路にも横丁あつて水馬・・・・・・・・・・・・滝春一

 あめんぼと雨とあめんぼと雨と・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 恋に跳ね戦ひに跳ねあめんぼう・・・・・・・・・・・・村松紅花

 あめんぼうつるびて水輪ひろがらず・・・・・・・・・・・・長谷川久々子

 風来の風風来の水馬・・・・・・・・・・・・・・・・・的野雄

 水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・・・西嶋あさ子

ナルシスの鏡を磨く水馬・・・・・・・・・・・・宮下恵美子

 あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」という・・・・・川崎洋
index酒器

   乾盃の唄・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
---------------------------------------
FI2618803_3E.jpg

この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
00000673_10ぐい呑

「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・・・室生犀星
s-109蛍

  蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は写真②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・八幡城太郎

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・桂信子
---------------------------------------
余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。後は、もっぱら根を管理するだけである。


オトシブミとふ名前もらひし甲虫の青き葉つぱの早春の手紙  ・・・・・・・・・・・村島典子
木立

──村島典子の歌──(5)

     早春の手紙・・・・・・・・・・・村島典子

つくづくと見よと朝のむらさきの横雲にゐる比叡向つ嶺

百年の山栗の下につどふとき小啄木鳥(こげら)たちまちかくれてしまふ

ちよつきり虫が落して散らす若書きの数葉があり枯芝のうへ

オトシブミとふ名前もらひし甲虫の青き葉つぱの早春の手紙(ふみ)

菱餅もあられもなきに雛の日にあはあは春の泡雪ふれり

びちよびちよとみぞれ降る昼雛の日の硝子のうちにわたしはありて

胸の疼痛いつときなれどいまたしか死者通りけり胸のうちがは

「おくりびと」見てのち通る法務局庁舎のまへに鶯のこゑ

納棺師といふ職あることのつつしみて身を伸ばしたり夜の小床に

草木のこゑきくべしと説きしひと 樹となりたまふ一年が過ぐ
-------------------------------------
この一連の歌は、高松秀明主宰の歌誌「木立」140号2009/5の「招待席」に載る村島典子さんの作品である。
多くの歌誌、結社誌、同人誌などが毎月、または隔月刊で、或いは季刊で出されているが、
村島さんは、その才(ざえ)を愛されて、「寄稿」を求められたのである。
なお、この一連の最後の歌は昨年亡くなった師・前登志夫に捧げた歌である。
歌の数は少ないけれど、ここに載せておく。 ゆっくりと鑑賞されたい。


池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも・・・・木村草弥
庄助日誌

  池水は濁り太宰の忌の来れば
   私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日6月13日は小説家・太宰治の忌日。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。

この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌

  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる

に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。

太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。

宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ

立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)

我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり


「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。

 太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎

 太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父

 太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治

 太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子

 眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子

 太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江

 濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己

草弥の詩作品「花吹雪」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

メシエ

──草弥の詩作品<草の領域>──(53)

   花吹雪・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
         ──パイロットインクをずっと使ってた
             あなたに遭えたころのブルーよ
                          上野久雄──


      地下深くエスカレータに下る
      トーキョー駅の奈落の底へ
      トーキョー・ベイの波しぶきも
      ここまでは届かない
      今しがたトーキョー・ベイの
      遊歩道に散る桜吹雪を
      浴びて来たのだった

      球根は地下に育っていた
      庭石の先にクロッカスが咲いた
      花の散る気配ひそけき夜の底ひに
      命あるものの温みに安らいで眠ろう
      老いらくは老ゆらくにして老楽ならず

      よい事ばかりではなかった
      私の中を通り過ぎて行った一人の女(ひと)
      梅はもとより辛夷、沈丁花、花馬酔木
      花の名は一人の女(ひと)に習って覚えた
      めらめらと嫉妬の炎を燃やす女(ひと)ではなかった
      そっと坐っているような穏やかさがいとほしかった

      連翹の花の黄が目に痛い
      それは
      かりそめのまた必然のことであったか

        (2009/03/10作)
-------------------------------------
この詩は、西宮市で発行されている詩誌「Messier」33号─2009/6/8 に載るものである。
発行人・香山雅代氏とは、私の詩集『免疫系』を贈呈して以来のお付き合いで、Messier誌を頂いたりしていたが、今年になってから突然電話して来られて長い長い会話をした。そして同誌に作品を投稿するように誘われた。同人になってほしい、との話はお断りしたが。。。。

この号は、もっと早くに出る予定だったが大分おくれて今になった。
四月に出る、ということだったので作品も季節に合わせて「花吹雪」というものにした。
私の作品の場合は、いつでもそうだが、まだ「習作」のもので、今後推敲するかも知れない。     

    
乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・・橋本多佳子
toukakukago乳母車②

  乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・橋本多佳子

夏の怒涛がうち寄せる海岸の砂浜、乳母車が波に向かって横向きに置かれている。乳母車の中の幼児は怒涛を飽きることなく上機嫌で眺めているかも知れない。しかし、この乳母車の位置や置かれ方には、読む人をハッとさせる危うさがある。作者の感じ取った不安が、「よこむきに」の一語にさりげなく、しかし正確に表現される。幼い命を容れる乳母車と、迫る夏の土用波の怒涛。
この句は作者の意図を、たぶん大きく超えて、深く読み込まれる類の作品だろう。

橋本多佳子は昭和38年64歳で亡くなった東京生れの人。九州小倉の橋本豊次郎と結婚。自宅の櫓山荘での句会で虚子を知り、杉田久女に習う。あと山口誓子に師事する。命に触れたものを的確な構成によって詠いあげたが、東京生まれだけあって都会的なセンスが溢れている。この句は昭和26年刊『紅糸』に載る。
以下、多佳子の句を少し引く。

 若布(め)は長けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 月光に一つの椅子を置きかふる──夫の忌に

 母葬る土美しや時雨降る──82歳の母を郷土に葬る

 つゆじもや発つ足袋しろくはきかふる──四日市に誓子先生を訪う

 箸とるときはたとひとりや雪ふり来る

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 鶏しめる男に雪が殺到す

 万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす

 老いよとや赤き林檎を掌に享くる

 霧月夜美しくして一夜ぎり

 青芦原をんなの一生(よ)透きとほる──久女を恋いつつ遠賀川を渡る

 この雪嶺わが命終に顕ちて来よ

 おとろへて生あざやかや桜八重

 綿虫とぶものに触れなばすぐ壊(く)えん

 火を恋ふは焔恋ふなり落葉焚き

 雪の日の浴身一指一趾愛し
---------------------------------------
私は彼女の句が好きで、何度も引いてきたが、ネット上に載る記事を、下記に転載しておく。
エピソードも豊かで、いい文章である。

2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと
------------------------------------------------------------------

 橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。「忌籠り」と題する一句にある。

 曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

 息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

 深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

 雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

(『紅絲』昭和二十六)

*『橋本多佳子全集』(立風書房)、 『橋本多佳子句集』(角川文庫)
---------------------------------------
彼女については何度も句を引いて書いてきたので、記事に重複があるかも知れないが、ご了承を願いたい。


村島典子「地上には春の雨ふる」30首・・・・・・・・・・・・・木村草弥
晶

──村島典子の歌──(4)

  地上には春の雨ふる・・・・・・・・・・・・・村島典子

きさらぎの淡海かすむ琵琶のうみ万(よろづ)の鳥のこの世にあそぶ

朝もやの水面に降りてあそびたり父ははそしてこぞ逝きしひと

     武田百合子『富士日記』を読みつつ五首
本の中のことにてあれど犬が死にわたしは哭きぬ机に伏して

著者の日々読みつぎくればその夫、娘、その犬身内のごとし

日に三度の献立よむも面白し濃やかなりし百合子の暮し

泰淳の死は近づくか、死の予感「日記」にあふる胸つまりたり

ただ過ぎに過ぎゆくものと記されし春夏秋冬しみじみとして

父ははも師もいませねば夜に爪切りて咎めらるることなしさみし

秋埋めし球根なれば芽を出せりはや忘れゐしところにも出づ

水の中歩かむとして出できたり雨しげきなか傘さしながら

きさらぎの水中ウオーク雨の日も春です雨を見ながらあるく

立ち話する肩ごしに見えゐたり美容室に髪洗はるるひと

此の月は修繕月となりぬべし外科歯科内科医者めぐりする

待ち時間二時間にしてぐらぐらと生身のわれ石となるまへ

神経を殺すとたやすく言ひきられ麻酔の口がまず従へり

「この歳になつても死にたいと思ふ日があるのよ」晩年に言ひしか白洲正子

かくありて春はめぐりぬひと日づつ死者にちかづくわれと思へり

地上には春の雨ふる雲上は快晴である昨日もけふも

父ははの位牌にならび微笑みます至誠院釈道登居士こぞの春より

    春浅き日、歌劇「トゥーランドット」のゲネプロを観る
「誰も寝てはならぬ」テノールの哀切のこゑ湖面をわたる

いつだつて女はつめたく美しく謎掛けをする血祭りをする

観客の一人にあれどわたくしは女奴隷となりかはりたり

昭和とふ時代のわが家の押入れにカズマスクあり、戦争ありき

藷釜と信じこみしにいま思へば防空壕でありしかしらん

花二三分咲くとし聞けば落ちつかずさむき夕べの川辺まで来つ

花冷えのあしたの堤かはいさうな桜と鳥といたはりあへる

とにかくに今年の春は気難しとささやきあふか首をすくめて

指ほどのつくしを摘みて食(たう)べしは二週間まへ比良山に雪

さりながらなづなたんぽぽほとけのざ可憐な花は野に揃ひたり

朝なさな鳴くウグヒスに声あはせ鳴かずにをれずほゝほゝほきい
--------------------------------------
村島典子さんについては何度も書いた。
先日、彼女の所属する歌誌「晶」66号、2009.5を恵送された。
ここに歌を転載しておく。
この号には彼女も執筆する小林幸子歌集『場所の記憶』(砂子屋書房刊)の批評特集が載っている。
この歌集はアウシュビッツ収容所などを巡った歌が中心に置かれた、重い主題が詠われている。

  方舟の内側からの声たち

  救助されたのは、
  口たちばかり。
  お前たち、
  沈みゆく者よ、聞け、
  私たち口のこの声も。    パウル・ツェラン「声たち」から
忘れないで下さい ひとりづつふりむきていふ口だけがうかぶ

ここに引いたフレーズを掲げて、村島さんは

<小林幸子の『場所の記憶』の、この一首の前にいまも立ち竦んでいる。鮮烈な「声」と無数の「口」の前で。
パウル・ツェランの「声たち」を枕にした、一首
   <救出されたのは口たちばかり> 声のなき六十年をあぎとへる口
にはじまる「場所の記憶」はこの歌集の前半の、いや一集のクライマックスとして、読む者を震撼とさせる。ツェランは、両親を強制収容所に喪い、自身も労働収容所生活を体験し、それを題材した幾つかの詩を書いた。ことばを基軸に死者に会おうとするが果たせず、セーヌ川に入水自殺をした詩人である。・・・・・・ >

と書く。
私事になるが、私たち夫婦もミレニアムの年2000年にエルサレムを訪問して、かの地の「ホロコースト記念館」を訪れた時のことを思い出す。詳しくは「ダビデの星─イスラエル紀行」をご覧いただきたい。
そこで私の詠んだ歌──

「永遠に続く思ひ出」(ヤド・ヴェシェム)と名づけたるホロコースト記念館に「子の名」呼ばるる
                        
私は、まだこの歌集を読んではいないが、ぜひ読んでみたいものである。
私事に脱線したが、村島さんの沈潜しているが、心に響く歌群を鑑賞してもらいたい。
この一連の2首目、19首目の歌は昨年亡くなった師・前登志夫のことを詠んだものである。


そのかみの貴公子といふ未央柳黄なる雄蕊は梅雨を明るうす  ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
FI249257_2E未央柳

  そのかみの貴公子といふ未央柳(びやうやなぎ)
   黄なる雄蕊は梅雨を明るうす・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)に載るもので、「未央柳」は昔は「貴公子」として珍重されたらしいが、その由来を私は知らない。
「未央柳」は、この長い雄しべが特徴の潅木で園芸種としても栽培され、ウォーキングの途中などでときたまお目にかかるようになった。
小さな鉢植えに、この黄色い長まつげのような花が咲いているのを見ると、何だか健気に咲いているなあ、と一寸した感動ものである。

図鑑によるとオトギリソウ科の半落葉低木で高さ60センチから1メートル。原産地は中国で江戸時代に渡来したという。株立状で多く枝分れし、葉は対に出てカワヤナギに似ている。鑑賞用花木として庭に植えられるが、最近は公園や緑地帯に群植されるという。公害にも強いのだろうか。
その美しさから「美容柳」「美女柳」「金糸桃」などとも呼ばれるらしい。

私の歌にある「そのかみの貴公子」と呼ばれるに至る謂れについては私は知らない。
この花には、以下のような中国の文芸があるのを紹介しておこう。

玄宗皇帝が3000人の美女を見限り、ただ一人愛した楊貴妃との悲恋を詠んだ、白楽天の「長恨歌」の一節に次のような詩がある。

 帰り来たれば 池苑(ちえん)みな旧に依る
 太液(たいえき)の芙蓉 未央(びおう)の柳
 芙蓉は面(かお)の如く 柳は眉の如く
 此に対して 如何にぞ涙垂れざらん

「安禄山の乱」の後に、楊貴妃とともに過ごした長安の宮殿(未央宮)を訪ねた玄宗皇帝は、太液の池の芙蓉(蓮の花のこと)も宮殿の柳も、楊貴妃がいない以外は昔のままで、池の蓮の花は楊貴妃の顔に見えて、柳は楊貴妃の細く美しい眉に見えて、涙が止まらなかった、という意味である。

以下、歳時記に載る句を引くが数は多くはない。

 水辺の未央柳は揺れ易し・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

 そのかみの貴公子なりき未央柳・・・・・・・・・・・・中西舗士

 未央柳咲き金色に婚ののし・・・・・・・・・・・・嶋田麻紀

 古語糺す未央柳の黄なる夜に・・・・・・・・・・・・高木石子

 ひとりゐて未央柳の雨ふかし・・・・・・・・・・・・上野好子

 降りぐせの風の重さよ未央柳・・・・・・・・・・・・横田さだ子

 傘ひらく未央柳の明るさに・・・・・・・・・・・・浜田菊代
---------------------------------------
マグ氏の話によると、この花木は、とても強い木で、一度植えるとどんどん大きくなるらしい。私の歌には詠ったものの、私の方の庭には、この木はない。雨模様の鬱陶しい梅雨の時期に黄色の花が咲く様は、まさに「梅雨を明るうす」るにふさわしい。特に、写真のように「雄蕊」が黄色くて、長いのが印象的である。

掲出の歌をはじめ、ここに引用した私の歌群は、残念ながら『嬬恋』自選60首には全部は収録していないので、Web上では、ご覧いただけない。そこで、この歌を含む一連その他を下記してみたい。

  解語の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴(ざくろ)と知りぬ

そのかみの貴公子といふ未央柳(びやうやなぎ)黄なる雄蕊は梅雨を明るうす

おんばこの穂を引抜きて草角力(すまふ)したるもむかし夕露しとど

目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を

桧扇を活くる慣ひはいつよりか一期一会の祇園会となる

玄宗が楊妃を愛でし言の葉に因める「解語の花写真家倶楽部」

「解語の花写真家倶楽部会長」の秋山庄太郎きのふ逝きたり

4首目の歌は「自選」60首に収録してある。この小項目の見出し「解語の花」というのは、唐の皇帝・玄宗が愛妾・楊貴妃のことを、「言葉を解する花」と言って愛玩したという故事に因む。秋山庄太郎は「女性専科」の写真家と呼ばれた時期があり、女性を専門的に撮る「解語の花写真家倶楽部」というのが実在したのである。私は写真は下手だが、写真集は好きで集めていたので、この歌になった。私にとっては一時期を思い出させる、懐かしい歌群である。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

裸木の蕭条と立つ冬の木よわれは知るなり夏木の蒼を

<老梅いつぽんあるゆゑ家を捨てられず>我には捨てし老梅がある

うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば

洗礼名マリアなる墓多ければ燭ともす聖母の花アマリリス

月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花

わが妻は函館育ち海峡を越えて蝦夷桜の初花待たむ

父母ありし日々にからめる縷紅草(るこうさう)ひともと残る崩垣(くえがき)の辺に

縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情(こころ)の傷つきやすく

雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしょくき)まぬがれがたく病む人のあり

このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

上から3、4首目の歌は「自選」60首の中に収録してある。終りから3、4首目の「ルコウソウ」の歌については、2003年秋の「出版記念会」で、光本恵子氏が、この歌と私の生い立ちに触れて佳い批評をしていただいた。この「批評」はWeb上の『嬬恋』のページの「出版記念会」のところで読むことが出来る。これらの歌群も、私の中では愛着のあるものばかりである。
---------------------------------------
掲出した写真は、文中でも触れたがDoblogで親しくしていただいたマグ氏のもので、マグ氏は2006年夏に亡くなられた。
ご冥福をお祈りしたい。

石原結実「ファイト・ケミカル」の効能・・・・・・・・・・・木村草弥
FI2618399_1E.png

──新・読書ノート──初出Doblog2007/07/18──

  石原結実「ファイト・ケミカル」の効能・・・・・・・・・・・木村草弥

ダイナースクラブの会員誌『シグネチャー』7月号に、おなじみの石原結実博士が表題のような文章を載せておられる。
原文に忠実に転載してみよう。

野菜や果物といえば、種々のビタミンやミネラルなどの微量栄養素を含有しているのが特徴で、それらの不足からくる病気(ビタミンA不足=肌荒れ、視力低下、鉄不足=貧血・・・・・など)や体調不良に対して、それを改善することができる、と一般には考えられています。もちろん、そうした面もありますが、野菜や果物に含まれるファイト・ケミカル(phyto=ギリシャ語で「植物」、chemical=「化学成分」)には、種々の「薬効」があることが最近注目されています。その代表が、数年前から話題になっているポリフェノールです。

(草弥注・図版①はイソフラボン=フラボノイドの仲間の模式図)

ポリフェノールは、植物の葉、茎、樹皮、花、果皮、種子に含まれ、植物が作り出す色素や防御成分の総称です。
ポリフェノールのうち、フラボノイドとアントシアニンは、色素成分で、フラボノイドが「黄~橙」、アントシアニンが「青~赤」の色を呈しています。
またカテキンは無色ですが、熱や酸素などが加わると、重合して「タンニン」という苦くて渋い物質に変わり、褐色に変色します。リンゴやバナナの皮をむくと変色するのは、このカテキンのせいで、葉や未熟な果実を虫や小鳥から守る働きがあります。

ポリフェノールとは違った構造式をもつものにカロチノイドがあります。人参のカロチンやトマトのリコピンであり、ファイトケミカルの一種と考えてよいでしょう。
つまり、体に良いと言われる茶、赤ワイン、ココア、そば、リンゴ・・・・などの薬効成分が、みなファイトケミカルなのです。

植物は、生まれてから死ぬまで同じ場所にとどまり、害虫や有毒物質、紫外線などの有害物質にさらされたり、攻撃を受けても逃げ隠れができません。そのため、体内に入ってきた有害物を解毒、除去する力が備わっており、その主役を演ずるのがファイトケミカルによる抗酸化(活性酸素除去作用)なのです。
こうしたファイトケミカルは、野菜や果物を食べることによって、人体に入ってきても人体内の有毒物を解毒・排出したり、セロリや茄子に含まれるアピン、お茶の中のルチン、キャベツのMMSC(ビタミンU)などのごとく、白血球の働きを促し免疫力を高める作用があります。

このほど、米国農務省のデビッド・ヘイトウィッツ博士は、「強い日照やしつこい昆虫の攻撃という激しいストレスに耐えた野菜や果物ほど、フラボノイドを多く含み、人間の健康増進に寄与する」という研究結果を発表しました。
たとえば「同じ赤いサクランボ100グラムを分析してみても、フラボノイドの量に30~114ミリグラムまでのばらつきがあった」とのこと。
このような見地からみると、野菜や果物もハウス栽培のものより、露地栽培のもののほうが、それを食べる我々の健康増進や病気を治す力は、ずっと大きいことがわかります。
7月から8月にかけて、日照量が多くなりますが、この時期、燦々と照りつける陽光をいっぱい浴びた野菜や果物を存分に食べて、健康を増進しましょう。

---------------------------------------
FI2618399_2E.jpg

ネット上に載る記事を下記に転載しておく。

ポリフェノール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポリフェノール (polyphenol) とは、ポリ(たくさんの)フェノールという意味で、分子内に複数のフェノール性ヒドロキシ基(ベンゼン環、ナフタレン環などの芳香環に結合したヒドロキシ基)をもつ植物成分の総称。ほとんどの植物に含有され、その数は 5,000 種以上に及ぶ。光合成によってできる植物の色素や苦味の成分であり、植物細胞の生成、活性化などを助ける働きをもつ。

香料や色素として古くから食品、化粧品に使われていたが、1992年、フランス、ボルドー大学の科学者セルジュ・レヌーが「フランスやベルギー、スイスに住む人々は、ほかの西欧諸国の人たちよりもチーズやバターといった乳脂肪、肉類、フォアグラなどの動物性脂肪を大量に摂取しているにもかかわらず、心臓病の死亡率が低い」という説を打ち出し、彼らが日常的に飲んでいる赤ワインに着目。人間をはじめとする動物が、赤ワインに豊富に含まれる「ポリフェノール」を摂取すると、動脈硬化や脳梗塞を防ぐ抗酸化作用、ホルモン促進作用が向上すると発表した。

学者の中には、フランスで心筋梗塞が少ないのはワインのポリフェノール効果ではなく、「ワインの飲みすぎで肝疾患で死ぬ人が多いから、相対的に心疾患で死ぬ人が少ないだけだ」、あるいは「フランス人の心臓疾患の発症率がアメリカ人の1/3なのは、単にアメリカ人に比べて1回の食事量が少ないからだ」と考える者も存在する。が、その理論は世界保健機構 (WHO) などによって「フレンチ・パラドックス(フランスの逆説)」と呼ばれ、1990年代初頭、世界的に広まった。1991年11月、レヌー教授は米国CBSネットワークのニュース番組60ミニッツに出演。その後、米国だけでなく、白ワインの消費量のほうが多かった日本でも、赤ワインブーム、健康ブームを巻き起こすきっかけとなる。

以来10数年間、研究者の間では化学的見地からではなく、食物繊維や5大栄養素(たんぱく質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラル)に次ぐ栄養素として、細かい研究が行われている。これまでにも様々な種類のポリフェノールが発見・抽出・開発され、医薬品、健康食品として多くの商品を生み出した。

同様に抗酸化作用を持つ物質として抗酸化ビタミンであるビタミンAやビタミンEに関して心筋梗塞の予防効果があるかなどの研究が1990年代に行われている。

■代表的なポリフェノール

フラボノイド
カテキン ワインやリンゴ、ブルーベリーやお茶に多く含まれる。殺菌作用をはじめ、血中コレステロールを低下させたり、高血圧予防などにも効果あり。
アントシアニン ブドウの実皮やムラサキイモ、ブルーベリーなど赤紫色をした果実に多く含まれている色素成分。肝機能の向上を助け、疲れ目の解消などにも効果的。
タンニン お茶や赤ワイン、柿、バナナなどに含まれる苦味成分。カテキン同様、殺菌効果がある。
ルチン ビタミンPの一種で、そばに含まれる。
イソフラボン 大豆や大豆加工商品(豆腐、納豆など)に含まれる。エストロゲンと同様の働きをするため、アンチエイジングなどの視点から着目されている。

フェノール酸
クロロゲン酸 コーヒーに多く含まれる。消化器、代謝性疾患を改善する作用がある。
エラグ酸 イチゴなどに含まれるポリフェノール。美白効果があり、化粧品に多用されている。
リグナン ゴマに多く含まれる。セサミンもこの一種。
クルクミン ウコンに多く含まれるポリフェノール。
クマリン サクラの葉、パセリやモモ、カンキツ系に多く含まれるポリフェノール。甘い香りのもと。軽油識別剤として、灯油及びA重油に添加される。

抗酸化作用に関する参考文献
Rapola, J. M. et al. (1997). "Randomised trial of alpha-tocopherol and beta-carotene supplements on incidence of major coronary events in men with previous myocardial infarction". Lancet 349 (9067): 17151720. PMID 9193380.
あくまで抗酸化ビタミンにおける疫学データであり、ポリフェノールで行ったものではない。心筋梗塞を起こした患者に抗酸化ビタミンを投与したところで心筋梗塞の再発に関して、この論文では効果がないという結論を出している。
--------------------------------------
FI2618399_3E.jpg

もう一つの記事を引いておく。

■ポリフェノールの説明
ポリフェノールは、フラボノール、イソフラボン、タンニン、カテキン、ケルセチン、アントシアニンなど植物が光合成を行うときにできる物質の総称です。糖分の一部が変化したもので、植物の葉や花、樹皮などに成分として含まれており、植物自身が生きるために持っている物質ですが、人のからだの中に入っても、抗酸化物として有効に働くことが明らかになっています。
 
ポリフェノールの効果は、体内に摂取、蓄積された悪玉のLDLコレステロールの酸化を阻害し、高血圧、動脈硬化および動脈硬化を原因とした脳血管障害、心臓病などを予防することです。

また、ポリフェノールには多くの種類がありますが、特にお茶に含まれるポリフェノールについては、胃がんの抑制に高い効果をあげることが認められています。

さらに、ポリフェノールはO-157にも効く優れた抗菌作用、抗腫瘍作用、虫歯菌の増殖を抑える作用、血糖値を下げて糖尿病を予防する作用なども報告されています。

摂取量は特に定められていませんが緑茶を例に取った場合、LDLの酸化防止、ガン予防にポリフェノールの有効な1日の目安量は、濃い目に入れたものを湯のみに7~10杯といわれています。
 
ポリフェノール食品の代表ともいえる赤ワインには、タンイン、カテキン、ケルセチン、シンプルフェノール、アントシアニン、フラボノールなどのポリフェノールが含まれています。ポリフェノールはブドウの果皮や種子に多いため、果皮を除いて作られる白ワインではポリフェノールの効果は期待薄です。

■ポリフェノールの効果があると思われるもの

抗酸化作用 / 虫歯予防 / 糖尿病 / ガン(癌) / 動脈硬化 / 高血圧 / 
■ポリフェノールが含まれる食品例

ココア / さつまいも / 山芋 / ごぼう / シシトウガラシ / 葡萄(ぶどう) / 甜茶 / ヤーコン / 桑の葉 /


あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  ・・・・・・・・・・・小野茂樹
IS693-003ルージュ

  あの夏の数かぎりなきそしてまた
   たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。
この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲であるが、茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

---------------------------------------
ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

---------------------------------------
愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
なお、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。


詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)から・・・・・・・木村草弥
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

免疫系75dpi

──(草弥作品についての批評)──
 
 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)から・・・・・木村草弥

詩誌「楽市」65号に載せた私の詩「ヤコブの梯子」について、谷内修三氏が書いてくれた批評については先に紹介したが、それを読んで御礼の手紙と共に『免疫系』を贈呈しておいた。
何も反応がないので彼の批評の網に掛からなかったのかと思っていたら、6月8日付けの記事が載ったので、下記に紹介しておく。極く一部に言及したに過ぎないが、批評してもらっただけで有難い。
 下記の色替り字の部分をクリックすれば「原文」が見られる、お試しあれ。
---------------------------------------
  木村草弥『免疫系』(角川書店、2008年10月25日発行)

2009-06-08 12:12:43 | 詩集
 木村草弥『免疫系』は詩集と書かれているが、なかに短歌がある。その短歌がとても美しい。「王道」のなかの4首。


《ながく夢を見つめる者は自(し)が影に似てくる》といふインドの諺

P・ボワデッフル言へり<『王道』は狂ほしきバロックのごとき若書き>

「若い時は死とは何かが判らない」初対面のクロードにペルケン言へり

シレーヌの素肌に夜と昼が棲む、さて、やさしさを縛つてはみたが


 1首のなかにドラマがある。そして、ドラマとは「他人」との出会いである。詩とは異質なものとの出会いという定義があるが、木村にとって「異質」とは「他人」とほとんど同義である。
 「他人」と出会って、出会った二人が動いていく。どう動くかは、詩にとっては重要ではない。ただ動くということ、それだけが重要である。
 「他人」との「出会い」は「免疫」にまでおよぶ。「免疫」を「マクロファジー」という細胞の「出会い」のドラマとして書いている。そのドラマの舞台は「人間の肉体」である。「前立腺」という短歌もあるが、木村自身の「肉体」が体験していることを、ドラマとして観察するという意識があるのかもしれない。人間は「ひとり」であるけれど、その「ひとり」のなかにも「他人」が存在し、その「他人」との対話というドラマが、いつも起きている。そのドラマを、木村は、「他人」を意識することで客観化しようとしている。
 「他人」というのは、「客観」のはじまりなのかもしれない。

 と、ここまで書いてきて、私は木村の短歌を美しいと感じた理由がやっとわかった。
 「王道」で木村は「他人」のことを描いている。「他人」の言ったこと。しかもそれは「他人」が木村にではなく、木村ではないもうひとりの「他人」に言ったことである。(「諺」も日本の諺ではないので、それはほんらい木村に向けられたことばではない。 )
 「他人」が「他人」に言ったことば--それを木村は、まるで詩を読むようにして、読んだ詩の記録のようにして書いている。そこには「客観」を目指す視線がある。自分に埋没してことばを動かすのではなく、「他人」と「他人」のあいだで動いていることばをとおして、自分のなかの「他人」を探しているような感じがする。自分のなかにいる「他人」を探し出し、その「他人」と対話する。それは、自己を「客観化」するきっかけでもある。
 そして、そのとき、木村は、「客観化」をとおして「他人」になる。自己を捨てる。そこに、ほんとうの美しさがある。自己に拘泥しない美しさが。

 たとえば前立腺ガン。肉体のなかの「他人」。それを「免疫」という視点からとらえ直す。「他人」は木村の「肉体」のなかで「生きている」。その「生きている他人」というものを、生き直してみる。「他人」の可能性に「肉体」をあずけてみる。
 自己を捨てる、「他人」に身をまかせる、というのは「死」と同じ意味なのだが、そうすることではじめて見えてくる「知」というものがある。「肉体」が死んで「知」が生きる。そして、その「知」はまた「肉体」のなかの「他人」の「肉体」でもある。
 これは理不尽なドラマであるけれど、そういうドラマが「肉体」のなかにおきる。「肉体」でも「知」でもなく、ほんとうは「ドラマ」を生きている。人間は、それぞれ「ドラマ」を生きている--ということかもしれない。
 この「ドラマ」をはっきり浮かび上がらせるためには、「他人」が絶対必要な存在なのだ。

 ガンの例では、深刻すぎて、木村の描いている「逆転ドラマ(?)」とでも呼ぶべき「肉体」と「知」の交代--他人を生きるということの美しさがわかりにくいかもしれない。
 詩集の冒頭の「一滴一滴も溜めれば」から語りはじめるべきだったのかもしれない。


アンコール遺跡へ行った
「タ・プロム」とか「タ・ケオ」と呼ばれる遺跡がある
カンボジア語では「プロム爺さん」「ケオ爺さん」の意味だ
<この遺跡はいまたしかに崩壊の危機にある>
と石沢良昭先生は言う

石の遺跡の上で枯葉が腐葉土となり
そこに植物の種が落ち 芽を出してゆく
やがて成長した樹木は石の隙間に根を張り
石を動かし 石の上に無数の葉を散らし
再び腐葉土を生産する
その繰り返しによって石の寺院は
少しずつ蝕まれ 崩れてゆくのだ

プロム爺さんは
毎朝 箒で落葉を掃き 下生えを切り払い
堂守の役目をつとめる
いつしか人々は御堂を「タ・プロム」と言うようになった

カンボジアの諺に言う
「一滴一滴も溜めれば筒一杯になる」
仏教徒であるプロム爺さんは そうして
涅槃への道のりを辿ってゆくのだ


 腐葉土、樹木は石の遺跡にとっての「他人」。「ガン細胞」。それはやがて遺跡そのものを乗っ取るだろう。これが第1のドラマ。
 そして、そいうことを知っている「もうひとり他人」が登場する。「タ・プロム」「プロム爺さん」。彼は、いまでは御堂の名前になっている。それは、まったく新しい「いのち」の誕生である。いのちの誕生とは、たぶん意識されないものかもしれないけれど、いま、ここに生きているいのちであり、御堂にとっては「他人」であるにもかかわらず、いまでは御堂そのものになっている。名前になっている。これが第2のドラマ。ほんとうのドラマ。
 この第2のドラマは「認識のドラマ」でもある。そして「認識のドラマ」とは「ことばのドラマ」でもある。
 こういう「認識」の動きは、認識のドラマは人間にも起きている。
 ガン。「肉体」のなかの「他人」。その「他人」を排除しようとする「免疫」。「肉体」は「免疫」だけでできているわけではないが、肉体のなかに起きている癌細胞と他の細胞のドラマを見ていると、肉体とは「免疫系」であると呼ぶことができる。
 人間を免疫系でとらえる「学問」がある。その学問にとっては、人間とは「免疫」そのものである。御堂が肉体。プロム爺さんが免疫の働き。御堂がプロム爺さんと呼ばれるように、肉体が免疫系と呼ばれるのだ。
 これは理不尽なことだろうか。
 木村は、美しい変化と思っているだと思う。「認識」として確立された時、そのドラマはドラマ自体として美しい。ドラマのなかに昇華されていく変化を美しいと感じて書いているから、そのこことばが美しいのだと、私は思う。

 ガンと免疫の戦い、そしてその結果としての肉体の変化--それが美しいかどうかは難しい問題だが、そこに起きていることを客観化できるということばの力、「認識の力」、「認識のドラマ」そのものは美しい。美しいとは、信頼できる、という意味でもある。信頼できるとは、それを繰り返すことができるということでもある。

 短歌に戻る。「王道」の4首。そこに書かれていることがらは、どの「他人」にとって有益(?)なのかわからない。だれが「肉体」で、だれが「ガン」なのかわからない。また「免疫」がどういうものであるかもわからない。けれど、その「他人」同士の出会いの瞬間にドラマが動きはじめていることがわかる。そういう動きの瞬間を予感させて動くことばが美しい。そういう動きを客観化することばの力が美しいのだ。そこに書かれていることば、その動きは、「時」を超えて、いまも、そして将来もつづくのだ。普遍のドラマに触れているから、そのことばは美しい。そして普遍のドラマの普遍は、いつも「認識」のなかにおきるドラマなのだ。
 
黒田正子『京都語源案内』から「埒があく」「小倉あん」・・・・木村草弥
kamigamo上賀茂神社

──新・読書ノート──初出・Doblog2007/06/08

  黒田正子『京都語源案内』から
    「埒があく」「小倉あん」・・・・・・・・・・木村草弥


黒田正子氏が『京都語源案内』(光村推古書院)という本を出された。そこには私たちが普段なにげなく使っている日本語の語源が、住み慣れた京都の町の、身近にあることを教えられる。
今回から少しづつ紹介する。

唐突だが、「埒(らち)があく」という言葉は、京都の上賀茂神社に生まれた、ということをご存知だろうか。
大仕事が片付いて「これでやっと、ラチがあきました」とか「こんなことしてたら、ラチがあかへん」とか、あるいは「ふらちな行ない」「ふらちなヤツ」なんて言い方もする。
<~いっそこのままふらちな心でいるなら、胸が痛むね>は、サザンオールスターズの桑田クンが歌う『C調言葉に御用心』の一節。
このように使われる「埒」という言葉は、そもそもは馬場の囲いのことで、これを破ることを「不埒」という。そして、この馬場の囲いが、ほかでもない、上賀茂神社で5月に行われる「競馬(くらべうま)神事の囲い」のことである。これは当の上賀茂神社の解説であるから間違いない。
競馬神事は葵祭神事の一環と神社の公式ページに書いてある。それもその筈。上賀茂神社と下鴨神社は葵祭を一体として運営しているからである。
競馬会(くらべうまえ)というのは、平安京の宮中行事に由来する伝統神事。この行事を滞りなく終えて、境内の馬場と観客を仕切る柵囲いがすべて取り払われたとき、はじめて「らちがあく」のだそうである。まさに「へぇー」というほかないところ。

ここには上賀茂神社の競馬神事の写真を3枚お見せする。
一番はじめの写真は上賀茂神社の社殿の写真であることは言うまでもない。

aoimaturi18競馬①

aoimaturi17競馬②

aoimaturi21競馬③

そもそも、5月5日に行われる競馬神事は堀河天皇の寛治7年(1093)に始まった。
神事の式次第には難しいことがいろいろあるが省略させてもらう。
この競馬会の様子は『徒然草』にも書かれている。
これに先立ち5月1日には、5日の競馬に出場する馬足の優劣を定める「足汰式」(あしそろえしき)が行われるという。平成15年には競馬会神事910年祭が斎行された。

そう言えば、「らち」という言葉は、現代競馬でも使われるではないか。
競馬の実況中継なんかでも「ラチ沿いを・・・」とか放送される「柵」のことである。

さて、終りになったが、話題は変わって、「小倉(おぐら)」アイスとか「小倉餡(あん)」という言葉に残る「小倉」というのは嵯峨嵐山の紅葉の名所、「小倉山」のことである。
鎌倉時代に歌人の藤原定家の山荘「時雨亭」のあったところ。
ここで撰集されたのが「小倉百人一首」である。
100099s小倉百人一首本命

それを色紙に書いて山荘の障子に張り愉しんだのである。
「小倉アイス」は今の季節にぴったりのものだが、甘党には懐かしい「小倉あん」「小倉ようかん」「小倉あんパン」もある。この小倉餡が、この小倉山に生まれたことを知る人は多くはなかろう。今や「小倉あん」というのは日本中で通用するが、実際、江戸時代には、小倉山のふもとに小豆畑があった、と言われている。

考えてみれば、京都は長らく「都」であり、日本文化の中心であった。言葉は都に生まれ、同心円を描いて各地に広がっていったから、京の町のあちこちや伝統行事のあれこれに語源が潜んでいても不思議ではなく、いやむしろ当然すぎる話である。
次回からの語源探訪をお楽しみに。 では、また。


冷されて牛の貫禄しづかなり・・・・・・・・・・・秋元不死男
touk.jpg

  冷されて牛の貫禄しづかなり・・・・・・・・・・・秋元不死男

「牛洗う・牛冷やす」は夏の季語。炎天下の労働を終えた牛を、夕方、水に浸からせて体をきれいに洗ってやり、疲労を回復させる。静かに、堂々となすがままに任せている牛。「貫禄」の一語が牛の描写を的確に成し遂げている。
こういう農村風景も、戦後は機械化の進展で、牛を労働力として使うこともなくなり、見られなくなった。この句は昭和42年刊『万座』に載る。

秋元不死男は、昭和52年75歳で没した横浜生まれの人。旧号・東(ひがし)京三。新興俳句運動の中心作家の一人でリアリズム俳句を唱えて、論・作両面で活躍したが、昭和16年、いわゆる俳句事件により検挙拘禁され2年間拘置生活を経験した。戦後は現代俳句協会、俳人協会などの幹事をつとめ、数種の歳時記の編集など、啓蒙の面でも功績があった。
以下、不死男の句を少し引く。
---------------------------------------
 寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き

 降る雪に胸飾られて捕へらる──昭和16.2.4未明、俳句事件にて検挙3句

 独房に釦おとして秋終る

 獄の冬鏡の中の瞳にも顔

 獄出て着る二十廻(とんび)に街の灯が飛びつく──昭和18.2.10夜、わが家へ帰る2句

 蝿生れ早や遁走の翅使ふ

 幸さながら青年の尻菖蒲湯に

 鳥わたるこきこきこきと缶切れば

 今日ありて銀河をくぐりわかれけり

 明日ありやあり外套のボロちぎる

 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し

 ライターの火のポポポポと滝涸るる

 焦燥や白魚に目がちよんとある

 年の瀬や浮いて重たき亀の顔

 病む妻の裾に豆撒く四粒ほど

 人工肛門(オストミー)のおなら優しき師走かな

 床ずれや天に寝返るつばくらめ

 ねたきりのわがつかみたし銀河の尾──(絶句)


copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.