K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(7月)月次掲示板
FI249257_2E未央柳

七月になりました。
梅雨が明けると、いよいよ盛夏の到来です。
   卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・・鈴木栄子
   貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・羽田岳水
   子の脛の傷あたらしき晩夏かな・・・・・・・・・菖蒲あや
   祈りとは膝美しく折る晩夏・・・・・・・・・・・・・摂津幸彦
   みなづきの何も描かぬ銀屏風・・・・・・・・・・黒田杏子
   七月の孔雀の色を窺へり・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
   七月や新書にしるすダビデの詩・・・・・・・宮田登喜子
   分校の生徒は五人金魚飼ふ・・・・・・・・・・・・高島茂
   青柿落つ歳月いたく無駄にせり・・・・・・・・・・高島茂
   どこか遠くへ古自転車と晩夏光・・・・・・・・・高島征夫
   陸封のドルフィン飛びをり日の盛り・・・・・・・高島征夫


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
「当月」の記事は開いている状態でご覧になれますが、「先月」などのバックナンバーの閲覧は、上部のカレンダーの « の印を押して「過去」へ進んでください。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは5/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと・・・・・木村草弥
hyakun3百日草②

  百日を咲きつぐ草に想ふなり
   離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「百日草」は名前の通り夏の間、百日間も秋まで咲きつづける草花である。病気などにも罹らず極めて強い花である。この歌は「花言葉」をネタに歌の連作を作っていた時のものであり、百日草の花言葉は「不在の友を想う」である。
花言葉のことだが、私の歌の「離れゆきたる友」というのは正確ではなく、私の方から何となく離れていった、というべきだろうか。
私の性癖として、友人、知人の何らかが鼻につくと身を引くところがあるのである。一種の潔癖主義というか、包容力のなさ、ということであろうか。

hyakun2百日草③

百日草に戻ると、この草は私の子供の頃からある草で日本の草のように思っていたが、外来種らしい。外国では「薬用」として栽培されていたという。
地味な花で、今では余り盛んに植えられては居ないようだ。

nichin6日日草

今では、これも秋まで百日以上も咲きつづける写真③の「日日草」が、これに取って代わるだろう。
極めて安価な草で、病気にも強く、広く植えられている。私の方でも植えている。
いま調べたところ「百日草」はメキシコ原産でキク科の一年草で、「日日草」は西インド原産でキョウチクトウ科の一年草という。
歳時記にも、両方とも載っているので、それらを引いて終わりたい。

 百日草ごうごう海は鳴るばかり・・・・・・・・三橋鷹女

 蝶歩く百日草の花の上・・・・・・・・高野素十

 これよりの百日草の花一つ・・・・・・・・松本たかし

 一つ咲き百日草のはじめかな・・・・・・・・瀬野直堂

 病みて日々百日草の盛りかな・・・・・・・・村山古郷

 心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・草間時彦

 朝の職人きびきびうごき百日草・・・・・・・・上村通草

 毎日の百日草と揚羽かな・・・・・・・・三輪一壺

 母子年金受く日日草の中を来て・・・・・・・・紀芳子

 働かねば喰えぬ日々草咲けり・・・・・・・・佐伯月女

 日日草なほざりにせし病日記・・・・・・・・角川源義

 紅さしてはぢらふ花の日日草・・・・・・・・渡辺桂子

 日日草バタ屋はバタ屋どち睦び・・・・・・・・小池一寛

 嫁せば嫁して仕ふ母あり日日草・・・・・・・・白川京子

 些事多し日日草の咲けるさへ・・・・・・・・・増島野花

 出勤の靴結ふ日ざし日日草・・・・・・・・鶴間まさし

いふならば余燼の生や百日紅・・・・・・・・・・・・能村登四郎
aaoosarusu1さるすべりピンク

  いふならば余燼の生や百日紅・・・・・・・・・・能村登四郎

百日紅──「さるすべり」は漢字読みして「ひゃくじっこう」とも呼ばれるが、この木もインド原産という。
最初は仏縁の木だったという。インド=お釈迦様という連想になるのであろうか。だから、はじめは寺院に植えられ、次第に一般に普及したという。
百日紅というのは夏の間、百日間咲きつづけるというところからの意味である。和名はサルスベリで、木肌がつるつるで、木登りの得意な猿でも滑りそうな、という意味の命名であろうか。写真の木肌を見てもらいたい。
プロである「植木職人」でも、木から落ちることがある(実際に転落事故が多く体を痛めることがある)ので、験(げん)をかついで植木屋は「さるすべり」とは呼ばず「ひゃくじっこう」と言う。
元来、南国産であるから春の芽立ちは遅く、秋には早くも葉を落してしまう。
この木も夾竹桃と同じく、夏の代表的な花木である。

掲出の能村の句は、今の私の立場を言い表したようで、すぐにいただいた。
以下、歳時記に載る句を引く。

 炎天の地上花あり百日紅・・・・・・・高浜虚子

 さるすべり夏百日を過ぎてもや・・・・・・・・・石川桂郎

 いつの世も祷(いのり)は切や百日紅・・・・・・・・中村汀女

 朝よりも夕の初心百日紅・・・・・・・・後藤比奈夫

 さるすべり百千の花観世音・・・・・・・・松崎鉄之介

 一枝はすぐ立ち風のさるすべり・・・・・・・・川崎展宏

 さるすべりしろばなちらす夢違ひ・・・・・・・・飯島晴子

 さるすべり懈(ものう)く亀の争へり・・・・・・・・角川春樹

 秘仏見て女身ただよふ百日紅・・・・・・・・黛執

 軽く飲む筈の深酔さるすべり・・・・・・・・大牧広

 百日紅ちちははひとつ墓の中・・・・・・・・上野燎


うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂
aaookyouch1夾竹桃赤

  うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂

夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。
aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・千代田葛彦

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏
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今日挙げた高島茂の句だが、高島茂のご子息の高島征夫氏が急死された今となっては、感慨新たなるものがある。
征夫氏のブログのサイト<風胡山房>も、主なきままに今だに存在しているが、虚しい限りである。
私のリンクに貼ってあるのも、思い直して消去した。後ろ髪引かれるような想いである。
改めて氏のご冥福を心からお祈りしたい。


蝙蝠に村々暮るる大和かな・・・・・・・・・・・・大峯あきら
koumori4アブラコウモリ

  蝙蝠に村々暮るる大和かな・・・・・・・・・・・・・・・大峯あきら

大峯あきらは本名、大峯顕。昭和4年7月1日生まれ。「晨」代表同人。毎日俳壇選者。大阪大学名誉教授。放送大学客員教授 。
奈良生れで、句集に『吉野』『夏の峠』『宇宙塾』などがある。
哲学者で浄土真宗僧侶、俳人。龍谷大学教授も務める、中期フィヒテ研究・西田幾多郎研究で知られる。

この句は奈良県生まれの彼らしく、大和の夏の夕暮れの景を巧みに詠んでいる。

日本で人家近くで見られる蝙蝠(こうもり)は「アブラコウモリ」(イエコウモリ)と呼ばれるもので、掲出する写真は、いずれも、これである。
アブラコウモリは東アジアの人家に棲む小型のヒナコウモリ科の哺乳類。日本でもっとも普通に見られる住家性の蝙蝠。
写真②は蝙蝠の口。
koumori6アブラコウモリ

アブラコウモリは翼をひろげた長さが20センチほど。翼の間に見えるのが股間膜。これで羽ばたいて飛ぶ。体長は約5センチ、前腕長3.2~3.5センチ、体重6~9グラムという。
普通は木造、プレハブなどの建物の羽目板の内側や戸袋などに棲みついたりするらしい。数年前に二階の廊下に蝙蝠が入り込んで、妻が娘に早く追い出すように注意したことがある。下手に家の中に入れると棲みつかれてしまう。
鉄筋コンクリートの住宅の外に開孔する排気管の中に棲みついたりするらしい。この種類は洞窟や森林には棲まない。
夕方、街中や田んぼ、川の上を集団で飛びまわって飛びながら蚊や羽虫を食べている。
ツバメかと思って、よく見ると尻尾がないのでコウモリだと判る。
私が、このイエコウモリに初めて出会ったのは戦争末期に米軍の焼夷弾爆撃から街を守るために防火帯として広い道路を作るというので人家を強制的に壊した、いわゆる「疎開道路」という政策のために京都駅南側の人家の引き倒しに動員された時である。
人家に潜んでいたイエコウモリを学友の誰かが捕まえて掌の中に包んでいたのである。掴んでみると哺乳類だから暖かかった印象が第一である。
コウモリは人には聞こえない周波数の高い声を出してレーダーのように使って、障害物を巧みに避けるという。
koumori8アブラコウモリ

蝙蝠は俳句などでは「かはほり」というが、これは蚊を欲するゆえと言い、この「かわほり」が転じてコウモリとなったという。姿や習性から気味悪い動物と思われがちだが、虫などを食べる有益な動物だということである。

以下、歳時記に載る蝙蝠の句を引いて終わる。

 かはほりやむかひの女房こちを見る・・・・・・・・与謝蕪村

 かはほりや仁王の腕にぶらさがり・・・・・・・・小林一茶

 蝙蝠に暮れゆく水の広さかな・・・・・・・・高浜虚子

 蝙蝠やひるも灯ともす楽屋口・・・・・・・・永井荷風

 歌舞伎座へ橋々かかり蚊食鳥・・・・・・・・山口青邨

 蝙蝠に稽古囃子のはじめかな・・・・・・・・石田波郷

 三日月に初蝙蝠の卍澄み・・・・・・・・川端茅舎

 かはほりやさらしじゆばんのはだざはり・・・・・・・・日野草城

 鰡はねて河面くらし蚊食鳥・・・・・・・・水原秋桜子

 蝙蝠や父の洗濯ばたりばたり・・・・・・・・中村草田男

 蝙蝠や西焼け東月明の・・・・・・・・平畑静塔

 蝙蝠に浜のたそがれながきかな・・・・・・・・山下滋久

 妻の手に研ぎし庖丁夕蝙蝠・・・・・・・・海崎芳朗


昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
hamahiru021浜昼がお

  昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この飯島晴子の句は、他の「存在感」を誇示するような花ではなく、地味に生きているヒルガオを「途方に暮れる色」と表現したのが秀逸である。

飯島晴子については ← いろいろ書いたので、ここを見てもらいたい。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・清崎敏郎

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・高橋沐石

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


一文字に引き結びたる唇の地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・木村草弥
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  一文字に引き結びたる唇の
   地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「地蔵菩薩」は五十六億七千万年先に弥勒下生、という仏教説話に基づいて衆生を救いにやって来るという。特に、子供の守り神として古くから庶民に信仰されている親しみのある仏様である。
だから路傍や墓地の入り口に鎮座する「六体地蔵」などで目にするものである。
掲出した歌の一つ前に

風化の貌(かほ)晒せる石が記憶する蜜蜂の羽音と遠雷の響きと

という歌があるが、これも一体のものとして鑑賞してもらいたい。
時まさに「雷雨」の季節であるから、ふさわしいと思う。
私の歌のイメージは、雷雨の中もいとわずに子供たちを引き連れて地蔵が野づらを渡ってゆく、という空想である。
thumb_1085912032稲妻

「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。そんな恐ろしい雷雨でも、地蔵には何ら支障はないのである。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。雷は「はたた神」とも言う。

 はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎

 夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎

 はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨

 赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨

 遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女

 遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子

 激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・石川桂郎

 遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾

 真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨

 鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし

 睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太

 大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨


「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・・・・木村草弥
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「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」
デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・木村草弥


昭和2年7月24日午後1時すぎ、芥川龍之介は伯母の枕元に来て、明日の朝下島さんに渡して下さいと言って、この句<水洟や鼻の先だけ暮れ残る>を書いた短冊を渡した、という。彼の辞世の句である。
短冊には「自嘲」と前書きしてあったことから、芥川の文業の終末を象徴せしめる凄絶な辞世の句となって了った。

この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)にコラージュ風の作品「辞世②」に載せたものである。この歌は「口語、自由律、現代かなづかい」を採っている。

chirashi芥川ポスター
二番目の写真は2004年4.24~6.6神奈川近代文学館で開かれた「芥川龍之介展」のポスターである。彼の生涯は1892年から1927年の35年間であった。

三番目の写真は『侏儒の言葉』の復刻版の函である。
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芥川龍之介は1892年に東京市京橋区入船町で出生、辰年辰月辰日辰の刻に生まれたというので「龍之介」と命名されたという。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に大正5年に発表した『鼻』を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物、事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材を採り、スタイルや文体を使い分けた、たくさんの短編小説を書いた。
体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なると言える。
彼の死の8年後、親友で文芸春秋社主の菊地寛が、新人文学賞「芥川賞」を設けた。

931akutagawa5羅生門
四番目の写真は『羅生門』だが、先に書いたようにいろいろの時代を題材にした中でも、これは有名な作品。後年、映画化などの際のネタ本となった。
芥川は、晩年『文芸的、余りに文芸的』という評論で「新思潮」の先輩・谷崎潤一郎と対決し「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、これがずっと後の戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想させる、と言われている。
芥川は「長編」が書けなかった、などと言われるが、それは結果論であって、短編小説作家として、「賞」と相まって新しい新進作家を誕生させる記念碑的な存在である。


akutagawa-tokyo30w我鬼先生
五番目の写真は「樹下の我鬼先生」という自画像である。彼は俳号を「我鬼」と称し、多くの俳句を残している。
 
 人去ってむなしき菊や白き咲く

これは夏目漱石死後一周忌の追慕の句。同じ頃、池崎忠孝あての書簡には

 たそがるる菊の白さや遠き人

 見かえるや麓の村は菊日和


の句が見られるが、これも漱石追慕の句。 以下、すこし龍之介の句を引く。

 稲妻にあやかし舟の帆や見えし

「あやかし」は海に現れる妖怪をいう。謡曲「船弁慶」や西鶴の「武家義理物語」に登場する。俳句にも、こういう昔の物語に因むものが詠まれるのも芥川らしい。

 青蛙おのれもペンキぬりたてか

大正8年3月の「ホトトギス」雑詠のもの。友人がルナール『博物誌』に「とかげ、ペンキ塗りたてにご用心」があると指摘したら即座に、だから「おのれも」としてあると答えたという。

掲出の句 <水洟や鼻の先だけ暮れ残る> は『澄江堂句集』所載。そのイキサツは先に書いた。

 唐棕櫚の下葉にのれる雀かな

大正15年7月の「ホトトギス」に芥川は「発句私見」を書き、「季題」について「発句は必ずしも季題を要しない」としている。こうした論は芭蕉の「発句も四季のみならず、恋、旅、離別等無季の句有たきものなり」に影響されたものと言えよう。

先に掲げた『侏儒の言葉』の中には

 人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。

という「箴言」が載っている。これは芥川らしい「箴言」で、正と負の両方に1本のマッチを擦ってみせている。彼の説明によれば「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。
ということは、芥川にはもともと箴言的なるものがあり、この箴言の振動力を、どのように小説的技法となじませるかを工夫し続けてきたのだった。こうした箴言だけをアフォリズムとして書き連ねたのが、この本だと言える。

931akutagawa8全集
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私の掲出の歌で「デビュー作」としているのは正確ではない。処女作は、この3年前に「新思潮」に出ているが、有名になったのは、この『鼻』であるので、ご了承願いたい。
今日7月24日が芥川の「忌日」であるので、日付にこだわって載せた。


かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・木村草弥
momo5t白桃
 
 かがなべて生あるものに死は一度
   白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・・・・・・・・・木村草弥

  
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
白桃と言っても早生から晩生までいろいろ種類があるので一概には言えないが、そろそろ桃が出回る季節になってきた。
いま私の座っている座敷机の前の床の間に、この歌を吉川美恵子さんが書いていただいた軸が掛かっている。
吉川美恵子さんについては、ここで詳しく書いたので参照されたい。

この歌は、私の最近の「死生観」を濃密に反映したものと言えるだろう。
人間だれでも一度は死ぬものである。一世を風靡する権力者も市井の凡人も、すべて等しく「死」は免れない。われわれは、そのことを忘れて過ごしがちである。特に、若い時や健康に恵まれて順調な時には「死」は意識の中にないのが普通であろう。
だが、古来、賢人たちは、このことに何度もメッセージを発してきた。ヨーロッパにおけるキリスト教にいう「メメント・モリ」然りである。

一方の「白桃」というのは文学的なイメージの世界では「女性の臀部」を象徴するものとして知られている。桃のもつ特有のなだらかな丸い形。それに胴に入るくびれの線から、そのように概念づけされて来た。「シンボル・イメージ小事典」などにも書かれている。
私の歌は、そういうことを踏まえて「メタファー」を含んでいると理解いただきたい。白桃という「生」に対応する「死」ということである。
字句の解説をしておくと「かがなべて」というのは、「かが」=日々である。
この言葉には歴史があって「古事記」の倭建命と御火焼の老人との会話

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる・・・・・
 日日なべて夜には九夜 日には十日を

というくだりに出てくるフレーズを踏まえている。「なべて」=並べて、であり、「かがなべて」=日々をかさねて、という意味になろうか。意識して古代の文学的な伝統に連なりたい、というところから、こういう古語を使うことになる。

以下に歌集に載る当該の私の歌8首を引用する。

      かがなべて

  臥す妻に紅ほのかにも合歓の花のこよひ咲き初む つぎねふ山城

  白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざしゐる宵

  唇(くち)を吸ふかたちにも似て水蜜桃(すいみつ)をすする夕べはほのあかりせり

  かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

  わが味蕾すこやかなるか茱茰(ぐみ)ひとつ舌に載すれば身に夏の満つ

  執着を離れ得ざればかたつむり寝ても覚めても殻の中なる

  この夏の去りゆくものを追ひたてて炎となりて夾竹桃もゆ

  夕つかた虹の脆さを哀しめばわが痩身をよぎるものあり

一番はじめの歌の終りの部分「つぎねふ」というのは「山城」にかかる「枕詞」である。ここに引用した歌の小見出しの全体の章名を「つぎねふ山城」としてある。

歳時記から「桃」の句を引いて終わる。
なお俳句では「桃」は秋の季語である。今日では季節感とズレがある。

 さえざえと水蜜桃の夜明けかな・・・・・・・・加藤楸邨

 白桃を洗ふ誕生の子のごとく・・・・・・・・大野林火

 中年や遠くみのれる夜の桃・・・・・・・・西東三鬼

 朝市の雨沛然と桃洗ふ・・・・・・・・中島斌雄

 白桃に触れたる指を愛しみをり・・・・・・・・斎藤空華

 白桃に入れし刃先の種を割る・・・・・・・・橋本多佳子

 水蜜や足を清しく婚を待て・・・・・・・・秋元不死男

 白桃をすするや時も豊満に・・・・・・・・能村登四郎

 白桃や満月はやや曇りをり・・・・・・・・森澄雄

 白桃の浮きしが一つづつ沈む・・・・・・・・小松一人静

 桃冷す水しろがねにうごきけり・・・・・・・・百合山羽公

 乳房ある故のさびしさ桃すすり・・・・・・・・菖蒲あや

 と見かう見白桃薄紙出てあそぶ・・・・・・・・赤尾兜子

 白桃に触れてはがねの薄曇る・・・・・・・・松本秀子

 桃の実のほのぼのと子を生まざりし・・・・・・・・きくちつねこ

山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・木村草弥
kuroageha-omoteクロアゲハ雌

  山椒の葉かげに卵(らん)を生みゐたる
   黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

掲出の写真①は黒揚羽蝶の雌の羽の表の様子である。裏側の模様は少し違うが省略する。写真映りは白っぽいが、色は真っ黒である。

ageha032クロアゲハ

黒揚羽蝶の成虫は葉っぱを食べているわけではない。写真②のように花の蜜を吸って生きているのである。
揚羽蝶には色々の種類があるが、概して卵を生む植物は「香り」の強い草木に限定されているが、その中でも黒揚羽蝶は山椒、金柑などの柑橘類の木、パセリなどのハーブ類に卵を生む。ハーブと言っても種類は多いので、その中でもパセリ類に限定される。
揚羽蝶の種類も色々あり、羽の模様もみな違うように取り付く草木も、それぞれ違う。黒揚羽と並揚羽とは取り付く木も共通するものが多い。
ここでは要点を絞って黒揚羽蝶と、その幼虫に限定する。
kuroageha-youchu01クロアゲハ威嚇

気持が悪いかも知れないが、写真③は幼虫の蛹になる直前の終齢の頃のもので、頭の先に赤い角状のものを出して「威嚇」しているところ。独特の臭気も発する。これも威嚇のためである。
この写真の一日後には、この幼虫は「蛹」(さなぎ)になった。
写真④に、その蛹の様子を載せる。
kuroageha4クロアゲハ蛹

糸を一本吐いて柑橘類の木の茎に体を固定して蛹の様態に入ったもの。この段階で捕食者から襲われないように、周囲の木と同じ色になって保護色を採るというから、その知恵には恐れ入る。
幼虫は夏の間に何度も孵るが、晩秋に蛹になったものは、この蛹の状態で「越冬」して、翌年の春に「羽化」して黒揚羽蝶の成虫になり、雄、雌が交尾して、雌が産卵して新しい年度の命が発生する。
卵は纏めては生まない。ちょうど鰊の「かずのこ」の一粒のような大きさの卵を木の葉っぱのあちこちに、ポツンポツンと産み付ける。色は葉っぱに似せて緑色をしている。この卵の段階でつまんで取り去ることも出来る。
この卵から孵ったものは黒っぽいが、黒揚羽も普通の揚羽も、とてもよく似ている。この段階では緑と黒の保護色なので、葉っぱに紛れて見つけにくい。
写真⑤は蛹になる直前の終齢の幼虫を角度を変えて撮ったもの。
kuroageha3クロアゲハ幼虫終齢

黒揚羽の幼虫は、ここまで来ると、写真③も同様だが、いかにも気味の悪い毒々しい姿になったところである。

「蝶」は春の季語だが、春以外の季節にも居るので、その時は季をつける。
夏の蝶の代表は揚羽蝶である。これには十種類ほど居るという。一番よく目に止まるのは黒と黄色の縦じまの普通の(並)揚羽蝶ということになる。黒揚羽蝶は夏らしい強さ、激しさを持っていると言われている。
以下、それらを詠んだ句を少し引いて終わりたい。

 黒揚羽花魁草にかけり来る・・・・・・・・高浜虚子

 渓下る大揚羽蝶どこまでも・・・・・・・・飯田蛇笏

 夏の蝶仰いで空に搏たれけり・・・・・・・・日野草城

 碧揚羽通るを時の驕りとす・・・・・・・・山口誓子

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 山の子に翅きしきしと夏の蝶・・・・・・・・秋元不死男

 夏の蝶一族絶えし墓どころ・・・・・・・・柴田白葉女

 日蝕のはげしきときに揚羽とぶ・・・・・・・・百合山羽公

 賛美歌や揚羽の吻を蜜のぼる・・・・・・・・中島斌雄

 夏蝶の風なき刻を飛べりけり・・・・・・・・池上浩山人

 黒揚羽舞ひ来て樹下に風起す・・・・・・・・茂恵一郎

 好色の揚羽を湧かす西行墓・・・・・・・・安井浩司

 黒揚羽黒と交わる神の前・・・・・・・・出口善子

 熟睡なすまれびととあり黒揚羽・・・・・・・・久保純夫

 魔女めくは島に生まれし黒揚羽・・・・・・・・大竹朝子

 摩周湖の隅まで晴れて夏の蝶・・・・・・・・星野椿

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子


桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷

桔梗(ききょう)あるいは漢字の音読みにして「きちこう」とも発音される。
この波郷の句ではキチコウの読みである。

キキョウ科の多年草で「秋の七草」の一つであるから、俳句では秋の季語となるが、実際には六月中旬には咲きだすところが多い。青みがかった紫のものが多いが、栽培種も多く、白、紫白色、二重咲きなどいろいろである。矮性の小さな種類もあるが、在来の50センチくらいの高さで、紫色のものが一番ふさわしい。
kikyou4キキョウ白

この波郷の句の「男も汚れてはならず」というフレーズに、老いの境地に居る私としては、ピシリと鞭うたれるような気がして、とっさに頂いた。老いても男は身ぎれいにして、シャキッとして居なければならぬ。
「万葉集」にいう「あさがお」は桔梗のこととされている。

小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、きっぱりと、すがすがしい野性味のある花と言えるだろう。
私の歌にも桔梗を詠んだものがあるが、昨年に採り上げたので遠慮して、歳時記に載る句を引いて終わる。
yado33kikyouキキョウ矮性

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗の花の中よりくもの糸・・・・・・・・高野素十

 桔梗やまた雨かへす峠口・・・・・・・・飯田蛇笏

 桔梗には鳴る莟あり皇子の墓・・・・・・・・平畑静塔

 桔梗いまするどき露となりゐたり・・・・・・・・加藤楸邨

 桔梗一輪死なばゆく手の道通る・・・・・・・・飯田龍太

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 おもかげをさだかにしたり白桔梗・・・・・・・・細見綾子

 技芸天桔梗花びら露むすび・・・・・・・・沢木欣一

 誰やらの死をたとふれば桔梗かな・・・・・・・・石原八束

 桔梗やきりりと辛き飛騨の酒・・・・・・・・草間時彦

 百本の桔梗束ねしゆめうつつ・・・・・・・・藤田湘子

 桔梗の色を見てゐる麻酔の前・・・・・・・・宮岡計次

 桔梗咲く母のいのちのあるかぎり・・・・・・・・小桧山繁子
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写真③は矮性のキキョウである。
手花火が少し怖くて持ちたくて花の浴衣の幼女寄り来る・・・・木村草弥
tehanabi手花火

  手花火が少し怖くて持ちたくて
   花の浴衣(ゆかた)の幼女寄り来る・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめにお断りしておく。適当な写真がないのでネット上からお借りした。
著作権者は画像に明記されているので了承していただきたい。
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌の次に

 手花火の匂ひ残れる狭庭には風鈴の鳴るほど風は通らず

という作品が載っているので、一体として鑑賞してもらいたい。
この頃では、線香花火というような単純なものよりも、ロケット花火のような派手なものが好まれるようだが、危険も伴い、音も高く「幼女」向きではない。
私の歌のように手花火を「持ちたい」気持ちはあるが、といって「怖い」という幼女の心理状態を、少しは表現できたかと思っている。
線香花火はパチパチと弾けた後に赤い火の玉が夕日のように、しばらく残っているのが面白い。
手花火は幼い頃の郷愁の火の色と言えるだろう。

以下、手花火を詠んだ句を引いて終わる。

 手花火に妹がかひなの照らさるる・・・・・・・・山口誓子

 手花火のこぼす火の色水の色・・・・・・・・後藤夜半

 手花火の声ききわけつ旅了る・・・・・・・・加藤楸邨

 手花火を命継ぐごと燃やすなり・・・・・・・・石田波郷

 手花火に明日帰るべき母子も居り・・・・・・・・永井龍男

 手花火にらうたく眠くおとなしく・・・・・・・・中村汀女

 手花火のために童女が夜を待ち待つ・・・・・・・・山口浪津女

 手花火にうかぶさみしき顔ばかり・・・・・・・・岡本眸

 身籠りて子の手花火をまぶしがる・・・・・・・・遠藤とみじ


ひらひらと逝きたまひしをむくげ咲く・・・・・・・・・・・・三井葉子
aaoomukuge1むくげ大判

  ひらひらと逝きたまひしをむくげ咲く・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子

詩人の三井葉子さんも俳句を作られるのである。句集『桃』(2005年5月洛西書院刊)所載。
彼女の俳句の師匠は平井照敏で、彼の発案による「山の上句会」で1999年に始まったという。
この句会には詩を書く人が多く参加した。<俳句は世界で一番短い詩だ>と句を作りはじめた照敏が胸を張った、と三井さんは書いている。その平井照敏も亡くなって、もう数年になる。
この句は、死んだ人が誰かは何も書いてないが、親しい人が亡くなったことを知る。
「逝き賜ひし」と尊敬語表現になっているから「目上」の尊敬する人だと判る。
俳句では「弔句」と言って、重要な意味を持つので、誰かを前書きにでも書いて欲しかった。
「ひらひらと」というオノマトペの表現が独自的で面白い。
三井さんの俳句については、これからも折をみて載せたい。

木槿あるいは槿と書かれる「ムクゲ」はアオイ科の落葉低木。
原産地は小アジアとも中国とも言われ、我が国への渡来は古く平安時代に薬用植物として中国から伝わったらしく『延喜式』に「卯杖」としてその名があるという。
「木槿」は中国名で、韓国の国花になっているが「無窮花」ムグンファと呼ぶ。この名前から日本名の「むくげ」の発音が由来するという。
ムクゲは朝3時ころに開花した花は夕方にはしぼんでしまう一日花。
『和漢三才図会』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎まず、暮に及んで凋み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあり、ムクゲの花の特徴を的確に描いている。
「万葉集」のアサガオにムクゲを充てる説には植物学者は否定的であるという。
先に、古くは薬用植物として渡来したと書いたが、白花の乾燥したものは煎じて胃腸薬に、樹皮は水虫の特効薬になるという。

ムクゲは俳句では「秋」の季語になっているが、地方によって異なるだろうが、私の辺りでは、もう六月下旬から咲きはじめるから違和感がある。
花は長く咲きつぎ秋まで鑑賞できる。
私の歌にはムクゲを詠んだものは一つもないので、歳時記に載る句を引いておく。

 日の出待つやむくげいつせいに吹かるる中・・・・・・・・大野林火

 墓地越しに街裏見ゆる花木槿・・・・・・・・富田木歩

 台風まだ木槿揺るのみ舟溜り・・・・・・・・石田波郷

 他人の母の八重歯や木槿も若々し・・・・・・・・中村草田男

 木槿咲く籬の上の南部富士・・・・・・・・山口青邨

 白木槿嬰児も空を見ることあり・・・・・・・・細見綾子

 亡き父の剃刀借りぬ白木槿・・・・・・・・福田寥汀

 木槿咲かせて木曽人の無愛想・・・・・・・・森澄雄

 白木槿芯まで白し加賀女・・・・・・・・沢木欣一

 拭けば乾くみどり児の髪夕木槿・・・・・・・・岡本眸

 木槿咲くトランペットの破調音・・・・・・・・遠山弘子

 四五人の賛美歌木槿咲きそめし・・・・・・・・藤田湘子

 いい朝のいい顔でゐて白木槿・・・・・・・・能村登四郎

 むくげ垣なるほど馬の顔大き・・・・・・・・神尾季羊

 老後とは死ぬまでの日々花木槿・・・・・・・・草間時彦

 白むくげ燦爛として午前九時・・・・・・・・川崎展宏

 木槿咲き揚羽来る日の刻同じ・・・・・・・・佐久間東城

 白木槿湖畔を走る貨車の音・・・・・・・・皆川盤水

 木槿咲き円をいくつも湾の浮槽(ブイ)・・・・・・・・和知喜八

 花木槿素足はばかる尼寺の廊・・・・・・・・小宮山恭子

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       木槿のはな・・・・・・・・・・三井葉子

     むずかしいことに
     飽いて

     どうしてもカンタンにしたい

     では
     イチニのサン
     わたしたちは肉体のはずかしさを手で拭って
     拭っても
     また垂れている紐のくちをへの字にして
     東の角を曲がる

     すると
     白いフェンスに
     木槿のはなが咲いているのでした。
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この詩は、三井葉子詩集『草のような文字』(1998年5月深夜叢書社刊)に載るもの。

いま、たまたま開いてみた詩集の中に、この詩を見つけたので載せてみた。
三井さんの詩は、使われている言葉自体は何でもないのだが、「詩」としては、とても「難しい」と、よく言われる。
<非>日常である、詩句の典型であろう。
そこらに転がっている言葉を拾ってきて、<非>日常の詩句に仕立てる。
意味があるようで、無さそうで、それが三井さんの詩の特徴である。

「詩」は意味を辿ってはいけない。詩句に脈絡は無いのである。
詩人によって発想は、さまざまであり、詩句に起承転結のある人もあれば、「意味的」に辿れる人もある。私の詩などは、どちらかというと辿れる方である。
三井さんの場合は、「辿れない」典型であろう。だから、よく「難しい」と言われる所以である。
詩は、声に出して朗読してみるとよい。
この詩も短いから何度でも朗読できよう。
すると、この詩一編が、不思議な趣をもって立ち上がり、或る「まとまり」となって知覚できるだろう。
そうなれば「詩」の鑑賞として一歩近づけた、と言える。

献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日・・・・・・木村草弥
2k_19mうなぎ丼

  献立(こんだて)は有季定型と鰻丼(うなどん)を
   妻は供しぬ土用丑の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は土用に入って初めての「丑の日」である。この日には「うなぎ」を食べることになっている。
年によっては土用に二回「丑の日」があり、今年がそれで7月31日にもある。
この歌はもう二十年も前の歌で私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
亡妻・弥生は俳句をやっていたので「有季定型」というのは、そこから来ている。定型という言葉には、季節の食事の「定番」という意味もこめてある。
この歌は私のWeb上のHPでもご覧いただける。
いつまでも亡妻でもあるまい、と思われるかも知れないし、また昨年から「中国産」のものに発ガン物質などの混入事件、産地偽装などがあって、とかく「うなぎ」の評判が悪いが、今日の「丑の日」の記事として適当なものがないので、お許しを。
「うなぎ」好きの私なればこそである。

「土用」あるいは「丑の日」などの言葉は、「暦」に関係するもので、土用は二十四節気のもの。丑の日は十二支のものである。深遠な暦法の話が、こうして、すっかり日本人の庶民の生活に溶け込んでいるのも微笑ましいことである。
mainひつまぶし

それよりも先ず、二番目の写真は名古屋地方で食べられる「ひつまぶし」という鰻丼の一種である。セットになっていると結構高くて2000円くらいはする。中京圏ということで三重県でも出てくる。名古屋は独特の生活慣習を持っているところで、うどんも「きしめん」という幅広のものが愛用される。
p000437うな重

三番目の写真は普通の「うな重」だが、このくらいの膳になると3000円~4000円は、する。肝吸いが付いていれば当然である。

ここで土用の丑の日に鰻が日を決めて食べられるようになったイキサツの薀蓄を少し。
江戸時代、何か鰻の食用増進に良い知恵はないかと、さる鰻屋が平賀源内に相談したところ、源内が「本日、丑の日」と紙に書いて店頭に張り出した、のがはじまりとされている。土用の丑の日に消費される鰻の数は、物凄いもので、鰻屋としては平賀源内は神様みたいなものである。
この話には前段がある。「万葉集」に大伴家持の歌として

  石麻呂にわれ物申す夏痩せに吉(よし)といふものぞ鰻とり食(め)せ

という有名な歌がある。夏痩せに鰻が有効という、最古のキャッチコピーとも言えるが、平賀源内は、この歌を知っていたものと思われる。

私はウナギが好きで夏でも冬でも一年中食べるが、娘なんかは食べない。
20040701lうなぎ丼ピリ辛風

この頃では、いろんなウナギの食べ方があり、四番目の写真は「ピリ辛風鰻丼」というもので、実は某スーパーの広告に載っているもの。ピーマンや赤ピーマンなども乗っている。ピリ辛というのだから唐辛子なども利いているのだろうか。

掲出した私の歌の一連5首を引用しておく。

   朱夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

三代に憂きこともあれ古時計いま時の日に平成刻む

缶を蹴る音からころと転がりて一学期終へて子ら帰りくる

夏風邪に声出ぬといふ電話口この夏も娘(こ)は里訪はぬらし

三伏の暑気あたりとて香水を一滴ふりて妻は臥しをり

献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日
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土用の鰻を詠んだ句を引いて終りにする。

 土用鰻店ぢゆう水を流しをり・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 鰻食ふカラーの固さもてあます・・・・・・・・・・・・皆川盤水

 うなぎ食ふことを思へり雲白く・・・・・・・・・・・・稲垣晩童

 荒涼と荒川鰻裂いて貰ふ・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 まないたの疵曼陀羅や鰻割く・・・・・・・・・・・・百合山羽公

 うなぎ焼くにほひの風の長廊下・・・・・・・・・・・・きくちつねこ

 いのち今日うなぎ肝食べ虔めり・・・・・・・・・・・・簱こと

 うなぎひしめく水音朝のラジオより・・・・・・・・・・・・豊田晃

 一気に書く土用うなぎの墨太く・・・・・・・・・・・・吉田北舟子
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名古屋の友人の話によると、名古屋市内の某有名うなぎやさんは、土用の丑の日には、うなぎに感謝して、休業する、という。私は初めて聞く話だが、そのうなぎやさんの心意気をよし、としたい。あたら超繁忙期の日を棒に振って、うなぎに感謝するという何という心の優しい主人の哲学だろう。

合歓の花夜は蠍座を掲げたり・・・・・・・・・・・・肥田埜勝美
img70合歓の花本命

  合歓の花夜は蠍(さそり)座を掲げたり・・・・・・・肥田埜勝美

合歓(ねむ)の木はマメ科ネムノキ属。北海道を除く日本および東アジアから南アジアに広く分布し、山の浅いところに見かける落葉高木。「ねむの木」というのは夜、羽状複葉の葉がぴったりと合わさるからで、眠るように見える。葉の付け根の細胞に水分が少なくなるからという。七月ころ牡丹刷毛のような、先がほんのり紅い花を開く。今となっては少し時期が過ぎたかも知れない。
刷毛のようなところが雄しべで、花弁や萼はその下にある。
花は夕方開花し、日中は萎む。
芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが「西施」というのは中国の女で異国に嫁いだ悲運の人。この句はそれを踏まえており、夜咲き、昼つぼむ花は悲運の女性を象徴する。
葉が逆に夜閉じ、昼ひらくのも面白い。「ねむ」という名は、この葉の習性から名づけられたものである。

私にも合歓を詠んだ歌があるが、先に書いたので今は遠慮しておく。以下、句を引く。

 うつくしき蛇が纏ひぬ合歓の花・・・・・・・・松瀬青々

 総毛だち花合歓紅をぼかし居り・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・三好達治

 黒髪を束ねしのみよ合歓挿さな・・・・・・・・佐々木有風

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・加藤楸邨

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・安住敦

 合歓の花底なき淵の底あかり・・・・・・・・中川宋淵

 合歓の花沖には紺の潮流る・・・・・・・・沢木欣一

 どの谷も合歓の明りや雨の中・・・・・・・・角川源義

 風わたる合歓よあやふしさの色も・・・・・・・・加藤知世子

 花合歓に夕日旅人はとどまらず・・・・・・・・大野林火

 花合歓や補陀落といふ遠きもの・・・・・・・・角川春樹

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・福田甲子雄

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・森澄雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・大串章

 日本に小野小町や合歓の花・・・・・・・・辰巳あした

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・森賀まり


白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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  白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子


京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われている。
掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。

写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

03s祇園祭外人

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。

ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。
02s稚児

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。

祇園祭は「町衆」の祭と言われる。この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。

詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。
IMG_1333-01s胴がけ

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。
祇園祭方向転換

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。

ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。
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終りに歳時記に載る句を少し引く。

 月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良

 祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規

 人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半

 鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼

 神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇

 大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女

 水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭

 鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵

 鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子


立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・・・・・・矢島渚男
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  立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・・・・・・・・矢島渚男

アオイ科の越年草で人間の背丈よりも高くまで伸びる。単にアオイという植物はなく、一般にタチアオイのことを葵という。
原産地は中国、小アジアで、日本には室町時代に渡来し、鑑賞用に、また薬用に植えられたという。

葵の名が日本で最初に現れるのは「万葉集」だが、これはフユアオイまたはフタバアオイ(写真②)であるらしい。
futaba-aoiフタバアオイ本命

京都の「葵祭」に用いられるのもフタバアオイで、花ではなく葉を「挿頭」(かざし)にされるのである。
この植物は葵の名はついていても全く別のものでウマノスズクサ科のものである。
徳川家の家紋に使われたのが、これで、葉を三枚組み合わせて使われた。
先に5/15付けの「葵祭」の記事を書いた時に牛車の脇に吊るされるのが「藤の花」かと書いたのは正解で、葵祭は挿頭にフタバアオイの葉をかざしたので、この名がついたことが判明した。
写真③にフタバアオイの花をお見せする。
futaba-aoi3フタバアオイ花

話は変わるが、ネアンデルタール人の埋葬骨と一緒にタチアオイの花粉が発見されているという。
中国の唐代に牡丹が台頭するまではタチアオイが花の代表選手だったという。
花言葉は「平安」「単純」。花の色には白、赤、紫などがある。中国美女の立ち姿に似ており、古い中国で花の代表だったのも頷ける。

俳句にもたくさん詠まれており、それを引いて終わる。

 ひともとの葵咲きつぎたのしけれ・・・・・・・・日野草城

 門に待つ母立葵より小さし・・・・・・・・岸風三楼

 峡深し暮をいろどる立葵・・・・・・・・沢木欣一

 立葵のぞき棚経僧来たる・・・・・・・・石原八束

 己(し)が花粉浴びまみれてや立葵・・・・・・・・三橋敏雄

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ・・・・・・・・森澄雄

 呼鈴を押してしばらく立葵・・・・・・・・鷹羽狩行

 雨はゆめなり雨の夜は白蜀葵・・・・・・・・阿部完市

 立葵まつすぐに来て破顔せり・・・・・・・・金谷信夫

 呼ぶ子帰る子十二時の立葵・・・・・・・・広瀬直人

 咲きのぼるばかり葵の咲きのぼる・・・・・・・・見学玄


木の椀に白粥さくと掬ひをり朝粥会の法話終りて・・・・・・木村草弥
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  木の椀に白粥さくと掬(すく)ひをり
   朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

京都の夏は、盆地性の気候のため、とても暑い。
この夏の間を利用して各地の寺院などで暁天座禅会や緑蔭講座などが催される。
掲出の私の歌は、もう十数年も前のものであり、どこの寺のものか、などの詮索は止めて、一般的なものと受け取ってもらいたい。
掲出の「白粥」も、その場で写せるものではないので、あくまでもイメージであることを了承されたい。

hodo法堂

写真②は建仁寺の法堂(はっとう)であるが、ここ建仁寺でも毎年7月中旬に「暁天座禅会と緑蔭講座」が催される。
もともと昔からの行事として「夏安居」という90日間の僧の修行の行事があったが、それを庶民にも開放したのが、暁天行事として定着したと言えるだろう。
建仁寺の場合に触れると、暁天座禅会は6:30~7:10。緑蔭講座は7:10から約50分という時間割でやられる。
2009年の場合は

 7月10日(金)~12日(日)まで毎年恒例の

 暁天坐禅会並びに緑陰講座を開催された。

 6:30より坐禅を行い(20分×2回)、その後

 7:10~8:00頃まで緑陰講座を行った。

 3日間の講師は

 7月10日(金) 

 伝統工芸士  裕人 礫翔(ひろとらくしょう) 氏

           演題  『箔 花 繚 乱』     

 7月11日(土)

 作  家     松井 今朝子氏

           演題  『わたしたちの根っこにあるもの』

 7月12日(日)  

 建仁寺派管長  小堀泰巖老大師 

           提唱  『無門関第四十六則 竿頭進歩』


 なお、最終日講座終了後、粥座(朝食)の接待がなされた。.

このような催しはあちこちで盛んであり、京都でもたくさんあるが、朝粥の接待のあるところは、後始末が面倒なので減ってきたらしく、朝粥の出るのは、西本願寺の法話・朝粥、智積院の法話・朝粥などである。後は「おにぎり」「点心」「そーめん」などの接待が見える。
全国各地で朝粥会は行なわれ、毎週おこなわれるところも見られる。

ここでは「夏安居」を詠んだ句を引いて終りたい。

 まつさをな雨が降るなり雨安居・・・・・・・・藤後左右

 夏行とも又ただ日々の日課とも・・・・・・・・高浜虚子

 杉深くいかづちの居る夏行かな・・・・・・・・富安風生

 食堂(じきどう)も炷きこめられし安居かな・・・・・・・・皆吉爽雨

 夏に籠る山六月の椿かな・・・・・・・・・喜谷六花

 山門に山羊の仔あそぶ夏の始め・・・・・・・・中川宋淵

 夏行僧白粥に塩落しけり・・・・・・・・土居伸哉

 土性骨敲かれて居る安居僧・・・・・・・・河野静雲

 黒揚羽絶えず飛びゐる安居かな・・・・・・・・川上一郎

昏梅雨をつきて盛れる火の祭たいまつの男は汗みどろなる・・・・木村草弥
himatsuri4那智火祭

  昏(くれ)梅雨をつきて盛れる火の祭
   たいまつの男(を)は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る「み熊野」と題する一連の中のものである。
毎年7月14日に行なわれる「那智の火祭」は熊野那智大社の例大祭である。
この祭は12体の熊野の神々が大滝の前の飛滝神社に年に一度の里帰りの様子を表したものである。12体の大松明の迫力と熱気に、みんな我を忘れての歓声である。
2004年に「熊野三山の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、観光客も大幅に増えて来たという。参詣道として世界で二例目ということでスペインの「サンチアゴ巡礼の道」からの視察団も表敬訪問してくれたという。

himatsuri2那智大社

写真②が熊野三山のひとつ熊野那智大社だが、社殿の前に熊野三山の守り神、三本足の神鳥「八咫烏(やたがらす)」の像が建っている。
熊野三山というのは、この熊野那智大社のほかに熊野本宮大社、熊野速玉大社をいう。
熊野那智大社は、ご神体は那智の滝であり、自然信仰の原点のように考えられるところである。この大社に隣接して青岸渡寺があるが、明治初期の廃仏棄釈までは、両社一体の神仏混交のものであった。前に書いたが、この青岸渡寺は「西国三十三ケ所霊場」巡りの一番札所である。
himatsuri5那智火祭②

写真④は、この火祭で松明をかつぐ役を奉仕した男たちが勢ぞろいして役目の報告をするところである。
himatsuri7那智火祭③

中世には「熊野詣で」と称して天皇や法皇などが行列をしつらえて京の都から遥々と参詣したのである。今それらの道程が日の目を浴びて復活してきたのであるが、「歴史遺産」というのは古いままで保存されているのが原則であるのに、道を整備し直して批判を浴びているという笑えぬ事態も出てきているらしい。

写真⑤は、この祭の一環として、火祭の前に奉納される「稚児の舞」である。和歌山県の無形文化財に指定されている。
himatsuri1火祭稚児の舞

いま歳時記を調べてみたが、那智の火祭ないしは火祭という項目は出て来るが、例句は無い。今でこそ「熊野那智」の地は脚光を浴びているが1980年代あるいは90年代は、ローカルな行事として採録されなかったものと考えられる。私の持っているようなものではなく、もっと大部の歳時記であれば載っているかも知れないが、お許し願いたい。
そんなことで、この辺で終りにしたい。


とぼけやがってとふざけやがっての間あたりでむかむかしてくる  ・・・・・・・・・・・・藤原光顕
0b4c2a3a1abf873c6b76be33108e30c3ハナカタバミ

──藤原光顕の歌──(1)

  穏やかな老いの日々・・・・・・・・藤原光顕

近づいては遠ざかりそしてまた消える 病院のある遠景が春らしい

歌は退屈しのぎと嘯(うそぶ)いた浅野英治がひょっこり来るような春である

重力というものがあって春の地上を二本の足で移動する

むず痒い言葉聞きとりにくくなって穏やかな老いの日々というか

捨てる 闇雲に捨てるときがある そしていつものように悔いる

とぼけやがってとふざけやがっての間あたりでむかむかしてくる

翔び走り追っかけ逃げる じいちゃんが夢を見るのは良いことだ

昼寝から覚めると障子が白い また何かが失くなっている

薬局の窓に広がる五月の空 またどこかに何かがあるようで

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私の敬愛する藤原光顕さんの、標題の自由律の歌9首である。(「芸術と自由」誌266号2009/7所載)
この「穏やかな老いの日々」という標題は「反語」表現である、と私は読み取った。
藤原さんは私よりは少し若いが、それでも「老人」と言われても腹は立たない、と思う。
小泉純一郎の、いわゆる「改革」という美名のもとで、私たち老人は、その政策の「悪い」面ばかりを押し付けられて、今の日々を過している。
本当の意味の「改革」とは、もっと他に重要なことがあるだろう、と声を大きくしたい。
私は、このブログで、専ら短詩形の文芸のことばかり書いているから、政治、経済や世界的な事象に無関心だ、と受け取ってもらっては困る。長年、生きてきて、政治には、さまざまな失望と裏切りの「煮え湯」を呑まされて来たので、昨今は意識的に距離を置いているだけである。
掲出した藤原さんの歌など、そういう老人の気持を、よく詠まれている。
四首目の歌にある通り、「むず痒い言葉」が「聞き取りにくくなって」丁度いいのである。こんな言葉が、ガンガン耳の中で響いていたら、やってられない、から丁度いいのである。
先にも書いたが、この歌は「反語」表現として受け取ってもらいたい。時代、世相、あるいは老いに対する「アレゴリー」「皮肉」ということである。
昨日の東京都議会議員選挙で自民党が惨敗した。「ざまぁ見ろ」という人も多いだろう。
この「ざまぁ見ろ」の気持を、いかに組織化してゆくか。「衆愚民主主義」と言われないようにも、国民の皆さんの「お手並み」が注視されているのである。


土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ・・・木村草弥
shirohige広重白雨

  土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて
   梅雨あけ近しと知らすこのごろ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
掲出の写真①は広重の「白雨」と題するもので、白雨とは俄か雨や夕立のことである。激しく降る雨を太い線で描いてある。

20050622231029.1土鈴辰

写真②は「土鈴」(どれい)で、これは辰をかたどったもので太った辰でユーモラスである。土鈴とは、この中に粘土の玉が入っていて、振るとごろごろという野太い音がする。
この写真のもののように干支に因んだみやげ物などにされている。

今ごろになると梅雨末期に入ってきて、各地で集中豪雨が起きたりするが、梅雨入りと梅雨明けの大まかな目安として、どちらも雷が鳴ることが多い。気象庁の発表よりも、この雷雨の方を目安にしている人が多い。それは、掲出した私の歌の通りである。

俳句の季語にも「梅雨入り」「梅雨明け」というのがある。
以下、歳時記に載る「梅雨明け」の句を引いて終わる。

 ばりばりと干傘たたみ梅雨の果・・・・・・・・原石鼎

 葭原に梅雨あがるらし鰻筒・・・・・・・・石田波郷

 梅雨去ると全き円の茸立つ・・・・・・・・西東三鬼

 梅雨あけの雷とぞきけり喪の妻は・・・・・・・・石田波郷

 梅雨明の天の川見えそめにけり・・・・・・・・加藤楸邨

 梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 梅雨明けぬ猫が先づ木に駈け登る・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅雨明けのもの音の湧立てるかな・・・・・・・・・本宮銑太郎

 梅雨明けや胸先過ぐるものの影・・・・・・・・吉田鴻司

 子の目にも梅雨終りたる青嶺立つ・・・・・・・・谷野予志

梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝・・・・・木村草弥
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  梅雨空へ天道虫が七ほしの
   背中を割りて翔びたつ朝(あした)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、制作時期は、もう10数年以上も前になるが、大阪、京都、奈良の30数人が出席した合同歌会が、奈良の談山神社で開かれたときの出詠歌で、出席者の大半の票を獲得した、思い出ふかい歌である。自選50首にも選んでいるので、Web上でも、ご覧いただける。
この談山神社は藤原鎌足を祀るが、蘇我氏の横暴を抑えようと、中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をしながら談合したという故事のある所である。ここに務める神官で、かつ歌人でもある二人の友人がいるところでもある。
「テントウムシ」には、益虫と害虫の二種類があって、この「ナナホシテントウムシ」は作物にたかるアブラムシなどを食べてくれる「益虫」である。朱色の背中に黒い●が7個あることから、この名前になっている。テントウムシには、ほかに「二星」などの種類があるが、これらはすべて「害虫」とされている。つまり、作物の汁を吸ったり、食害を与えたりする、ということである。
今日、農業の世界でも農薬、除草剤などの薬害の影響が叫ばれ、できるだけ農薬を使用しないように、ということになっている。こういう化学合成による農薬ではなく、この「七ほし天道虫」のように「天敵」を利用するとか、害虫の習性を利用して、雌雄の引きあうホルモン(フェロモン)を突き止めて、それを発散する簡単な器具を作り、雄を誘引して一網打尽に捕える、などが実用化されている。

ここで歌集に載せた一連の歌を引いておきたい。

 天道虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

菖蒲湯の一たば抱けばああ若き男のにほひ放つならずや

梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝(あした)

濡るるほど濃き緑陰にたたずめば風さわさわと松の芯にほふ

夏草の被さる小川は目に見えず水音ばかり韻(ひび)かせゐたり

散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭

野良びとが家路を辿る夕まぐれ野の刻しんとみどりに昏るる

土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ

茄子の花うす紫に咲きいでて農夫の肌にひかりあふ夕

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談山神社に関していうと、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に、次のような歌がある。

談山の社に佇てば鞠を蹴る音のまぼろし「蘇我氏を討たむ」・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、もちろん上に書いた鎌足と中大兄皇子の故事に因むものである。

天道虫は童謡にも登場する虫で、どこか人なつっこいところがある。
俳句にも、よく詠まれているので、それを引いて終わる。

 のぼりゆく草細りゆく天道虫・・・・・・・・・中村草田男

 旅づかれ天道虫の手にとまる・・・・・・・・阿波野青畝

 ほぐるる芽てんたう虫の朱をとどむ・・・・・・・・篠田悌二郎

 翅わつててんたう虫の飛びいづる・・・・・・・・高野素十

 天道虫だましの中の天道虫・・・・・・・・高野素十

 老松の下に天道虫と在り・・・・・・・・川端茅舎

 天道虫天の密書を翅裏に・・・・・・・・三橋鷹女

 てんと虫一兵われの死なざりし・・・・・・・・安住敦

 愛しきれぬ間に天道虫掌より翔つ・・・・・・・・加倉井秋を

 砂こぼし砂こぼし天道虫生る・・・・・・・・小林恵子

 天道虫羽をひらけばすでに無し・・・・・・・・立木いち子

 天道虫バイブルに来て珠となりぬ・・・・・・・・酒井鱒吉

 天道虫玻璃を登れり裏より見る・・・・・・・・津村貝刀


仏桑華咲けば虜囚の日の遠き・・・・・・・・・・・・多賀谷栄一
hibiscusハイビスカス①

  仏桑花咲けば虜囚の日の遠き・・・・・・・・・・・・多賀谷栄一

仏桑花(ぶっそうげ)とは「ハイビスカス」のことである。
今では、この句のような「虜囚」という言葉は死語になってしまったが、この前の戦争では多くの人が敗戦国民として戦勝国の捕虜となって辛酸をなめたのである。
その頃、戦争は南の国で行なわれたので、南方系の植物──ハイビスカスに想いは繋がるのであった。
今年の春に沖縄本島に旅した。
以前にも訪れたことがあるが、今では激戦地だった南部の丘に「平和の礎(いしじ)」や記念館の立派なのが出来て、国内外の戦没者の名に拝して戦争の悲惨さに想いを馳せたのだった。
ここにも「ハイビスカス」は赤く色あざやかに咲いていた。

歳時記の句を引いて終わる。

 仏桑花爆心に咲き喪の季節・・・・・・・・下村ひろし

 口笛は幼くかなし仏桑花・・・・・・・・塚原麦生

 海の紺ゆるび来たりし仏桑花・・・・・・・・清崎敏郎

 島人の血はかくも濃し仏桑花・・・・・・・・青柳志解樹

 ひめゆりの塔に火種の仏桑花・・・・・・・・井口荘子

 天に入る熔岩原風の仏桑花・・・・・・・・古賀まり子

 仏桑花真紅の声を挙げて基地・・・・・・・・山田みづえ

 仏桑花咲く島に来る終戦日・・・・・・・・北沢瑞史

 ひめゆり塔声を挙げゐる仏桑花・・・・・・・・田口一穂

 仏桑花供華としあふれ自決の碑・・・・・・・・岩鼻十三女

むらさきにけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ・・・・木村草弥
yagapanアガパンサス

──草弥の季節の歌鑑賞──夏の「花」三題──

  ■むらさきにけぶる園生の遥けくて
    アガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は夏の花三題を採り上げることにする。
掲出する歌は、いずれも私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。「花言葉」の連作を作っていたときの作品だ。
写真①は「アガパンサス」で、このごろではあちこちに見られるようになった。花言葉は「恋の訪れ」であるから、この言葉を元にして歌を作ってある。
ユリ科の多年草で、南アフリカ原産。強い性質で日本の風土にもよく合うらしく、各地の花壇や切花用に盛んに栽培されるようになった。君子蘭に似ているのでムラサキクンシランの和名もある。

gabera4ガーベラ①

   ■ガーベラに照り翳(かげ)る日の神秘あり
    鷗外に若き日の恋ひとつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真②のガーベラも花色はいくつもある。花言葉は「神秘」。
この花はキク科の多年草で、この花も南アフリカ・トランスバールが原産地。野生ではなく、はじめから園芸植物として開発されたらしい。明治末にわが国に紹介されたが、今では公園などに広く植栽され、色とりどりの彩りを見せている。
花期は長く秋まで咲く。

yun_942ルピナス

   ■藤房の逆立つさまのルピナスは
     花のいのちを貪りゐたり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「ルピナス」は、マメ科ハウチワマメ属の総称。ルーピンとも言う。
世界各地に300種類もあるという。原産地は南ヨーロッパ。
藤の花を立てたようなので和名は立藤草。
私の歌は藤色の花を詠んでいるが、写真③には、昨年、北海道の富良野で撮ってきたものを出しておく。
生命力旺盛な草で、花言葉は「貪欲、空想」。私の歌は、その「貪欲」を詠み込んである。

俳句に詠まれるものは、横文字の花の名で字数も多く、詠みにくいのか作品数も多くないので、省略する。


朝火事の煙黒々閏月・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
東京詩歌紀行

緊急にお知らせしなければならない。
親しくお付き合いいただいてきた俳人の高島征夫氏が急逝された。
六月三十日のことらしい。氏の写真などは無い。
心からお悔やみ申し上げる。

下記に引くのが、高島さんのブログ「風胡山房」6/29付けの最後の記事である。
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  朝火事の煙黒々閏月・・・・・・・・・・・高島征夫
               (初出句)

 朝火事のようだった。この季節の火事は珍しい。風もなく穏やかな快晴。文字通り「梅雨晴間」。
 浜に向かう交差点で、海から戻ってくるタレントの山田邦子とすれ違った。7、8人のクルー(カメラ、マイクその他)を引き連れて、皆と談笑しながら町の中心部へ移動していった。見られていることを意識している表情は面白い。俳句には出来そうもないが、今日は不思議な日になりそう。
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高島さんとの「いきさつ」は、私の記事に高島さんの父上・高島茂の句を引いたのをご覧いただいて、向うからコメントを貰ったのが、はじめであった。
その後、北溟社編『東京 詩歌紀行』に「私の東京ポエジー」という特集欄に高島さんの半ページの句と文章が載り、同じ本に私の歌3首も収録されたので、それらの関係から一層親密になったのだった。
念のために「東京ポエジー」に載る記事を引いておく。
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高島征夫(獐)

黒揚羽凶々しくも喉鳴らす
命をかし高尾の森の黄鶺鴒


廿里町(とどりまち)
八王子の高尾に住んでいた頃は、近くの廿里町の山にある多摩森林科学園によく行ったものである。自然のままの景観で、桜の保存林は、全国各地から約1700本、百種以上の品種がおくられて、シーズン中はまさに桜の山といった趣になる。
廿里という名の由来は「秩父まで十里、鎌倉まで十里」という立地からで、その昔、北条氏と武田氏との合戦の場となったところである。八王子市のウェブサイトを見ると、<「廿」という字は、パソコン等で使用する場合は「にじゅう」と入力し変換していただくと表示されます。>と親切丁寧。IT時代の地名案内も一苦労というところである。
科学園からの帰りは、南淺川沿いの道を回って両界橋の袂に出て、川に集まるセキレイ、ジョウビタキ、カワセミなどの野鳥を見るのが常だった。それが叶わぬ時は、ミステリーを持って、駅前の珈琲屋へ。
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2008年四月下旬に私の詩集『免疫系』を上梓する打ち合わせのために上京した際に、高島さんと新宿西口の「ボルガ」で、初めてお会いして歓談して楽しかった。その際、私は名刺代わりに歌集『嬬恋』を差し上げ、お返しに高島茂句集『ぼるが』をいただいたのだった。

高島征夫氏を取り上げた私の記事としては2009/04/20、04/19、02/14を参照してもらいたい。
高島茂氏については2009/04/23、04/22、04/21に詳しいので、よろしく。
新宿西口の「ぼるが」については2009/04/21の記事の末尾に詳しく書いておいた。
「カテゴリー」の「高島征夫の句」「高島茂の句」から入っていただけるので、よろしく。

高島氏のブログが更新されないので、私は異常を感じ、高島氏のやっておられる俳誌「獐」の編集発行人である吉川葭夫氏に電話して、その死を知ったのだった。
高島氏は鎌倉の由比ガ浜の山荘に一人住まいをされていたが、六月三十日の早朝に急死されたらしい。家人が発見されるまで判らなかったようである。
私は遠出している日以外は、毎朝、氏のサイトを訪問して拝見していたのだが、その死の直前に私のサイトを閲覧されている「日時の記録」が所属しているFC2の「訪問者リスト」に残っているのだった。(氏はExciteの他に、FC2にもミラーサイトを持っておられたのである)
これも奇しき縁(えにし)というべきだろう。
改めて、高島征夫氏(小説などの執筆のペンネーム「結城音彦」)のご冥福をお祈りしたい。

石楠花や鳥語瞭か人語密か・・・・・・・・・・・・・・滝春一
05050015シャクナゲ本命

  石楠花や鳥語瞭(あきら)か人語密(ひそ)か・・・・・・・滝春一

石楠花(しゃくなげ)の花期も5月ごろが多いので、やや時期を逸した気味である。
シャクナゲはツツジ科の常緑低木だが、別にシャクナゲ科を立てて分類する学者も居る。高山性の花木で、日本では亜高山帯と周辺に自生する。
はじめに書いておくと「石楠花」の字は漢名を誤用したもので、中国でいう石楠花は全く別の植物である。
シャクナゲは葉が厚く、革質で光沢があり、花とあいまって美しい。淡紅色を主として白花や黄花もあり、日本列島にはおおよそ10種類あるという。
シャクナゲはヒマラヤ地方、中国、北アメリカ、ヨーロッパにも分布するが、ヨーロッパでは早くから品種改良に取り組み、日本へも西洋シャクナゲの名で来ている。一般家庭のシャクナゲはほとんどが西洋シャクナゲだという。
050520_001シャクナゲ②

050520_003シャクナゲ③

家庭で鑑賞するシャクナゲもよいが、写真②③で見るように広大なシャクナゲ園や山の自然環境の中で群生するシャクナゲを見るのは、また格別の風情があるものである。
今では全国各地に競って「石楠花園」が開設されている。

以下、歳時記に載るシャクナゲの句を引いて終わる。

 石楠花に手を触れしめず霧通ふ・・・・・・・・臼田亜浪

 石楠花や山深く来て雲の雨・・・・・・・・吉田冬葉

 白石楠花夜になり夜の白さなる・・・・・・・・加藤知世子

 しやくなげは天台ぼたん雲に咲く・・・・・・・・百合山羽公

 石楠花の摘花浮かべし庫裏の水・・・・・・・・右城暮石

 石楠花の花一巒気(らんき)一巒気・・・・・・・・後藤比奈夫

 石楠花の一花残りて籠堂・・・・・・・・村越化石

 石楠花に渓流音をなせりけり・・・・・・・・清崎敏郎

 石楠花や水櫛あてて髪しなふ・・・・・・・・野沢節子

 石楠花の咲く寂けさに女人講・・・・・・・・角川春樹

 石楠花や那智大神に子は抱かれ・・・・・・・・斎藤夏風

 石楠花にかくれ二の滝三の滝・・・・・・・・宮下翠舟

 薬湯をたてて石楠花ざかりかな・・・・・・・・吉本伊智朗
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「シャクナゲ」については、このWikipediaに詳しい。参照されたし。

砂浜にひと叢さかる豌豆は縋るものなし 虚空に蔓を・・・・・木村草弥
hamaendou01浜豌豆

  砂浜にひと叢(むら)さかる豌豆は
    縋るものなし 虚空に蔓を・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「浜豌豆」は海岸の砂浜に生える草で5月頃から見られるようになる。日本は縦に長いから北へゆくほど遅い時に見られる。
どうも日本の固有種らしく、学名はLathyrus japonicus という。白と紫の可憐な花である。
名前の通り、マメ科の多年草で海岸に生える。丈が50センチほどになるというが、その海岸の風その他の条件によって異なる。先は蔓になるのは、私の歌の通りである。
砂浜の植物は、潮の波打ち際には生えない。いくらか離れたところに叢を作るようにかたまっているのが通常である。
何ら縋るものがないので、私は「虚空に蔓を」と表現してみた。それは私自身の心象の表白でもあろうか。
写真②は、その実である。
hamaendou04ハマエンドウ実

その可憐さを愛でられて俳句にも詠まれているので、それを引いて終わる。

 はらはらと浜豌豆に雨来たる・・・・・・・・高浜虚子

 礁の上にいつく神あり浜豌豆・・・・・・・・富安風生

 浜豌豆雨はらはらと灘光る・・・・・・・・角川源義

 風落ちしとき松籟す浜豌豆・・・・・・・阿部みどり女

 夕日荒く浜豌豆に尾を引けり・・・・・・・・大野林火

 役立たぬ蛸壺隠し浜えんどう・・・・・・・・藤田美雄

 海光に牛踏み荒らすはまゑんどう・・・・・・・・庄司とほる

 浜豌豆陽にも風にも砂丘動き・・・・・・・・野沢節子

 遊子あり浜豌豆のむらさきに・・・・・・・・森田峠


絹糸腺からだのうちに満ちみちて夏蚕は己をくるむ糸はく・・・・木村草弥
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  絹糸腺からだのうちに満ちみちて
   夏蚕(なつご)は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「養蚕」(ようさん)という蚕を桑の葉で育てる仕事は、最近では急速に廃れ、見られなくなった。
一応、説明しておくと、蚕蛾(かいこが)という虫の幼虫が吐く糸から「絹糸」が出来る。
この「蚕(かいこ)」には春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)とがあり、春蚕は四月中、下旬に掃き立てをし、五月下旬か六月上旬に繭になる。夏蚕は夏秋蚕のことで、二番蚕とも言い、飼う時期が暑いので成長も速く七月には上簇するが、量も多くなく、収量も品質も劣るという。

sanken01蚕本命
写真②は蚕蛾の幼虫──俗に「蚕」と言う──の選り分け作業の様子。

写真③は蚕の口である。口は二つあり、下の小さな口が「吐き口」といって繭を作るとき糸を吐く口。上の大きな口には、アゴが一対あって桑の葉を噛み切る。
kuti蚕の口

蚕の幼虫の体は細長く13の体節からなり、体長は5齢盛食期で6、7センチ。頭部、胸部(第1~3節)、腹部(第4~13節)に分けられる。
蚕の雌は幼虫、蛹、蛾とも雄より大きい。
「上簇」(じょうぞく)というのは、いよいよ繭を作る段階に達した蚕を集めて繭を作るために専用の蚕簿に移す作業をいう。
蚕は四回眠り四回脱皮して、そのあと繭を作るが、その際、体が半透明になる。これが私の歌に詠んだ「絹糸腺」が肥大して体中に満たされるためである。
「蚕簿」というのは藁を加工して三角錐の空間が集合したようなもの。ここに蚕を移してゆく手間のかかる労働である。後は蚕が絹糸腺から糸を吐き「繭」を作る。
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この繭から絹糸を引き出すのだが、これは蚕が吐いた糸であるから、一つの繭から引き出した糸は一本である。大きな釜に湯を沸かし、その中に繭を入れて中の蛹を茹で殺して糸を探り出して引き出す。独特の臭気がして慣れないと不快なものである。
糸を取った後の蛹の死体は栄養豊富なので、ウナギの餌などに使われた。

繭をそのままに放置しておくと、繭の中の蛹が蚕蛾になり繭を溶かして孔を開けて出てくる。
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写真⑤が蚕蛾である。繭の中で蛹は十日で羽化する。だから養蚕というのは、繭が完成したら、すばやく熱湯にひたして羽化を阻止しなければならない。日数の計算も厳密な作業であり、忙しい。
羽化した雌は腹に卵を一杯もっており、雄と交尾すると産卵し、雄雌ともにすぐに死んでしまう。
この交尾の際に雌が特有の「フェロモン」を出し雄を誘引するのである。ものの本によると、これを感知すると雄は狂ったように全身を震わせて匂いの元に寄ってくるという。だから実験として蚕の雌が居なくても、このフェロモンを放射すれば雄は群がるように寄ってきて交尾しようとするらしい。
養蚕用には優秀な蚕に黒い紙の上に生ませた「蚕卵紙」というのが養蚕試験場などから交付され、それを養蚕家は買って蚕の幼虫を孵化させて桑の葉に移す。これを「掃き立て」という。

昔は桑の葉を摘んで蚕に与えていた。これを桑摘みという。この労働を簡素化するために桑の枝を切ってきて与える、というのが戦後に開発され、今日では桑の葉を含むペレット状の粒剤を与えているようであるが、それよりも中国などから安価な絹糸が入ってくるようになり、今では絹布にした加工品が中国で最終製品として作られるようになり、日本国内の養蚕業は壊滅したと言える。養蚕器具は資料館でしか見られず、養蚕の様子も学習のためか、デモンストレーションとして行なわれるに過ぎない。
私の子供の頃は、近所でも養蚕や糸の引き出し作業などもやられていたし、繭の集荷に小学校の講堂が使われていたものである。

掲出の歌の前後に載る歌を引いて終わりたい。

くちびるを紫に染め桑の実を食みしも昔いま過疎の村・・・・・・・・・・木村草弥

よき繭を産する村でありしゆゑ桑摘まずなりて喬木猛る

桑実る恋のほめきの夜に似て上簇の蚕の透きとほりゆく

桑の実を食みしもむかし兄妹(きやうだい)はみんなちりぢり都会に沈む


この歌の一連は、もちろん創作であるから舞台設定や兄妹というのも、事実そのものではない。文学作品中における「虚構」ということである。

もともと蛾類は自然環境で「繭」を作ることが知られて(その中でサナギになるためである)、人間は、これに着目して幼虫を捕らえて飼い、繭を作らせることを考案した。そして立派な繭を作らせるために品種改良を加えて、今日の養蚕業となったのである。
今でも「天蚕てんさん」「山繭やままゆ」といって、自然環境で作られた「繭」を採取して布にしたものがあるが、極めて希少価値の高いもので高価であり、めったに手には入らない。

「養蚕」については、このWikipediaの記事に詳しい。参照してみられたい。
また「かいこ」のひみつ(JA全農)には蚕の飼い方など判りやすく詳しく書いてある。
過程ごとの詳しい動画があるので、よく判る。未知の方には、目からウロコである。


梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴と知りぬ・・・木村草弥
zakuro2石榴花

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  梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて
    風が点(とも)せる石榴(ざくろ)と知りぬ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
ザクロは3メートルほどの高さになる落葉樹で、細長い艶のある葉が対生している。梅雨の頃に赤橙色の六弁の花が咲く。肉の厚い筒型の赤い萼がある。

zakuro5石榴落花

写真②が落花である。先に書いたように厚い筒型のガクであるのがお分かりいただける。
八重咲きや白、薄紅、紅絞りなど色々あるらしい。
中国から古くに渡来してきたもので、花卉として育てられてきたが、原産地はペルシアだという。
梅雨の頃に咲く印象的な美しい花である。
ザクロと言えば、花よりも「実」が知られているが、実は徳川時代から食べるようになったという。ザクロは種が多いことから、アジアでは子孫繁栄、豊穣のシンボルとされてきた。実を煎じた汁でうがいをすると扁桃腺炎にいいと言われる。

zakuro3石榴実

zakuro9.jpg

写真③④がザクロの実である。この中には朱色の外種皮に包まれた種がぎっしりと入っている。種は小さく外種皮を齧るように食べるのだが、甘酸っぱい果汁を含んだものである。果皮は薬用になる。
実が熟してくると実の口が裂けて種が露出するようになる。実が熟するのは8、9月の頃である。

以下、歳時記に載る石榴の花を詠んだ句を引いて終わる。
花は夏の季語だが、実は秋の季語である。

 花柘榴また黒揚羽放ち居し・・・・・・・・中村汀女

 花柘榴病顔佳しと言はれをり・・・・・・・・村山古郷

 ざくろ咲き織る深窓を裏におく・・・・・・・・平畑静塔

 妻の筆ますらをぶりや花柘榴・・・・・・・・沢木欣一

 花柘榴の花の点鐘恵山寺・・・・・・・・金子兜太

 深爪を剪りし疼きや花石榴・・・・・・・・鈴木真砂女

 掃いてきて石榴の花が目の前に・・・・・・・・波多野爽波

 花石榴階洗はれて鬼子母神・・・・・・・・松崎鉄之介

 花石榴子を生さで愛づ般若面・・・・・・・・鍵和田柚子

 妻の居ぬ一日永し花石榴・・・・・・・・辻田克己

 黄檗の寺の駄犬や花ざくろ・・・・・・・・阿片瓢郎


父の眸や熟れ麦に陽が赫つとさす・・・・・・・・・・・飯田龍太
2345ce88de1d51518c75ab54d1a23da7麦秋

  父の眸や熟れ麦に陽が赫(か)つとさす・・・・・・・・・・飯田龍太

私の辺りでは昔は米の「裏作」として秋に種を蒔いて麦を栽培していたが、今では全く作られなくなった。
ここにも書いたが、昨年5月にスペインに行ったときには、かの地はちょうど麦秋の時期に入るところだった。日本の何倍もの面積があるので、すでに麦の刈り取りの済んだところもあった。

   麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

という句を思い出していた。
写真②は、まだ青い麦である。
c0042797_1424114まだ青い麦

「麦秋」と言う言葉は趣のあるもので秋蒔きの麦が初夏の頃に黄色く熟れるのを表現している。あいにく日本では梅雨の頃に麦秋が訪れるので、雨の多い年などは大変である。雨が多くて刈り取りが遅れると立った穂のまま湿気で発芽したりするのである。
以前に地方に出張していた頃は車窓から麦刈りの風景などが見られたものである。九州などでは麦刈りの時期も早いので梅雨までには済んでいるようである。
私の歌にも麦を詠ったものがあり「・・・熟れ麦にほふ真昼なりけり」というようなものがあったと思って歌集の中を探してみたが、なにぶん歌の数が多くて見つけられず、掲出の龍太の句にする。

麦にはいろいろの種類があり、用途によって品種改良がされてきた。
小麦粉にするのは「小麦」である。ご飯にまぜて食べるのは「裸麦」である。ビール原料になるのは「大麦」で、専用のビール麦というのが開発されている。
因みに言うと「裸麦」は荒い石灰と一緒に混ぜて専用の臼で表面の固い殻を摺り落す。その際に麦の割れ目の筋が褐色に残る。昔は、そのまま押し麦にして米飯と一緒に混ぜて炊いたが、今では、その筋に沿って縦にカットして米粒のような形に加工してあるから一見すると区別がつかないようになっている。他に「ライ麦」や家畜の餌にする「燕麦」などがある。むかし軍部はなやかなりし頃、「陸軍大演習」になると、私の辺りの農村も舞台になったが、空き地には軍馬が臨時の厩舎を作って囲われたが、馬に与えられた燕麦がこぼれて翌年に麦の芽が出て穂になったりしたものである。
参考までに言うと、馬に与える草などは地面に置いた餌箱に置かれるが、麦のような細かい粒のものは零れて無駄にならないように帆布のような厚い餌袋を耳から口にかけさせて食べさせるのである。馬は時々頭を跳ね上げて、袋の中の麦粒を口に入れようとするので、多少は辺りに飛び散るのだった。

以下、麦秋を詠った句を引いて終わる。

 麦秋や葉書一枚野を流る・・・・・・・・・山口誓子

 いくさよあるな麦生に金貨天降るとも・・・・・・・・中村草田男

 麦熟れて夕真白き障子かな・・・・・・・・・中村汀女

 一幅を懸け一穂の麦を活け・・・・・・・・田村木国

 灯がさせば麦は夜半も朱きなり・・・・・・・・田中灯京

 麦笛に暗がりの麦伸びにけり・・・・・・・・山根立鳥

 少年のリズム麦生の錆び鉄路・・・・・・・・細見綾子

 麦の穂やああ麦の穂や歩きたし・・・・・・・・徳永夏川女

 褐色の麦褐色の赤児の声・・・・・・・・福田甲子雄

 郵便夫ゴッホの麦の上をくる・・・・・・・・菅原多つを

 麦は穂に山山は日をつなぎあひ・・・・・・・・中田六郎

 会ふや又別れて遠し麦の秋・・・・・・・・成田千空

 石仏に嘗て目鼻や麦の秋・・・・・・・・広瀬直人

 麦秋のいちにち何もせねば老ゆ・・・・・・・・関成美

 クレヨンの黄を麦秋のために折る・・・・・・・・林 桂

 麦の秋男ゆつくり滅びゆく・・・・・・・・立岩利夫

 麦秋や老ゆるに覚悟などいらぬ・・・・・・・・水津八重子

 一杯の水に底あり麦の秋・・・・・・・・吉田悦花

 麦秋の中に近江の湖をおく・・・・・・・・大高霧海


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