K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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     yun_3151ヤマユリ

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。
  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
  秋立つとしきりに栗鼠のわたりけり ・・・・・・・・久保田万太郎
  人声のうしろより来て秋立つか ・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
  秋めくや肌白かりし母のこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
  戸口出て十歩に秋を知りにけり・・・・・・・・・・・・・・・村越化石
  草笛の音色に秋の生まれけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女
  秋暑きわが体臭のぼろ辞引 ・・・・・・・・・・・・・・・・・成田千空
  星はみな女性名詞や羅馬の秋 ・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
  盆休みの職人とゐてぼてぼて茶・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
  ヴィクトリア駅より秋の終列車 ・・・・・・・・・・・・・・友田喜美子
  秋たつや旅の名残の十セント ・・・・・・・・・・・・・・・・都甲龍生
  かくすべしちりめんじわのさるすべり ・・・・・・・・・・・高島征夫
  口紅の玉虫いろに残暑かな ・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

  
ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは5/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」

三つの世界遺産都市を巡るバルト三国周遊紀行(1)・・・・・・・木村草弥
トラカイ城
  ヴィリニュス郊外の元・古都のトゥラカイ城

    三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(1)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

フィンエアー

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 旅は全員の「スーツケース不着」事故から始まった
忠実に旅の日付を追うことはしないが、私たちの旅は関西空港発フィンエアー(フィンランド航空 AY078便)で出発した。この便がヨーロッパへは最短の飛行時間という航空路であり、行きと帰りでは偏西風の関係で差があるが九時間半から十時間という、体には易しいものである。
こうしてフィンランドのヘルシンキ経由で、最初の訪問国・リトアニアのヴィリニュス空港に降り立ったのだったが、待てども一向にスーツケースが出て来ない。
ヘルシンキからヴィリニュスへの乗り継ぎ時間は約1時間5分であったから、スーツケースを乗せ忘れたわけである。
ヘルシンキ→ヴィリニュスは一日一往復の便しかなく、結局スーツケースは翌日の夕方にホテルの私たちの手元に戻ったような次第である。
フィンランドも人口数百万人という小国だが、この国は大きな造船所や航空会社も有する北欧の強国であるが、バルト三国は、後で詳しく書くが、小国に過ぎないから自前の交通手段は持ち合わせていない。ここヴィリニュス空港にはフィンエアーの駐在員は居なくて、系列の会社が荷物の手配の代行をしているに過ぎず、お詫びのしるしにとトラベルセットをくれたが全員の数があるわけではなく、たまたま私は貰ったが、若い夫婦の人にあげた。
参考までに書いておくと、8/29夜のニュースで、世界最大の客船「オアシス・オブ・ザ・シーズ」がフィンランドの造船所で完成したという。22万トン、全長300数十メートルのカリブ海周遊の新造船であり、今年のクリスマスシーズンから処女航海に就くという。

とにかく、私も旅にはたくさん出たが、荷物の不着に遭遇したのは初めてである。
このような騒動に巻き込まれながらヴィリニユスのホテル「ヨーロッパシティ」で夜を迎えることとなる。

ホテルヨーロッパシティ①

ホテルヨーロッパシティ②

このホテルは新市街の外れにあり、アメリカ風の近代的な明るいもの。部屋も広く快適である。ここには二泊する。
スーツケース不着のため、ショルダーバッグに入れていた予備のカメラで撮ったので初日と二日目までの写真のサイズは小さいので了承されたい。
なお私は自分の齢も考えてビジネスクラスにしたが、他に宮崎から参加の夫婦の方が居られた。総勢35名(添乗員を含めると36人)という大世帯である。

今回を最初にして紀行文を載せるが、手に入る資料が少なく十分な記事が書けないと思うので手元の資料を読み込みながらの掲載となるから、次回の掲載がいつになるか判らないので、あらかじめお断りしておく。

 リトアニアの元・首都トゥラカイ城
リトアニアの観光は、先ず郊外約30キロにあるトゥラカイ城から始まった。(写真①)
ここはトトーリシュキュー湖とルカ湖、ガルヴェ湖に挟まれた細長い半島に位置する。
城は14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぎ、また祭事などを行うために、キュストゥティク公とヴィタウタス大公によって建設された。
この人は今のロシアのモスクワに至る広い領土を有していたというリトアニアの建国の父として度々ガイドの説明に出てくる。

トラカイ城内

写真 ↑ は城内の様子。煉瓦で出来た城内に後から付けられた外づけの階段を上り下りする。

聖ヨハネめネムポック像

写真 ↑ はトゥラカイの守り神である聖ヨハネ・ネポムックの彫像という。
百年以上かけて建てられた城は15世紀初頭に完成するが、湖に囲まれているという地理的な有利さを持っていた。
大公の死後、権力がポーランド側に移ると城は荒れ、廃墟となったが、1961年から復元が始められ、1987年には15世紀当時の姿を取り戻した。
復元個所とオリジナル部分との煉瓦や漆喰の違いが眺められて、よく判り、面白い。
また、ここは少数民族のカライメの故郷としても知られる。彼らは15世紀はじめに大公によってクリミアから傭兵として連れて来られたトルコ語系の人々で、ここトゥラカイを中心に200人ほどが民族性を守りながら暮しているという。
カライメには、キビナイと呼ばれる窯で焼いたパイの民族料理があり、これを食べさせるカフェが数多くあるという。

 中世の面影を残すリトアニア第二の都市カウナス
トゥラカイを出て、カウナスに差し掛かった頃から雨が降りだす。
カウナスは14世紀の記録に登場する古い町。15世紀にはハンザ同盟の代表部が設けられ、商業都市として繁栄したので、旧市街には、この頃のゴシック建築が数多く残っている。
先ず、木々の茂る閑静な高級住宅地の中にある元・日本領事館の建物を利用した杉原千畝記念館に入る。

杉原記念館①

杉原記念館②

杉原記念館③

私は2000年にイスラエルのエルサレムを訪問したが、そのとき杉原千畝のことも感銘を持って知ったので、今回も厳粛な気持で建物に入った。
先ず彼に関するDVDを見る。建物の中は狭いので、われわれ一行が入ると一杯である。
応分の寄付をしたので図版ののような絵ハガキをもらい、スタンプを押した。

杉原千畝については、ご存じでない方もあるかと思うので、少し書いておく。
彼は「日本のシンドラー」と称せられるが、そのいきさつは次のようなものである。

第二次世界大戦初期、ナチスの迫害を逃れ、日本通過に活路を求めてきたユダヤ人に、本国の日本外務省の指示に背いて「通過ビザ」を発行して多くの命を救った杉原千畝。
舞台となったのが、当時リトアニアの首都が置かれていた、このカウナスである。
1940年の七月。カウナスの日本領事館の外に突然に多くの人垣が並んだ。彼らはナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人だった。その要求は日本の「通過ビザ」。すでにヨーロッパにユダヤ人が安住できる場所はなく、シベリア経由で米大陸に逃れるのが唯一生き残れる可能性を秘めた道だった。
当時の領事代理、杉原氏はビザ発給の許可を求める電報を何度も日本に打ったが答えは「否」だった。
この前年、ドイツとソ連はバルト三国併合の秘密協定を含む不可侵条約を結んでおり、リトアニアにもソビエト兵がすでに入場していた。日本領事も一刻も早い退去を求められ、その期日が近づく中、杉原は、群をなし、救いを求めるユダヤ人たちを無視することが出来ず、独断でビザを発給する決心をする。「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背く・・・・」。
その後、半月の間、彼は昼夜をわかたず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでビザを書き続けた。リトアニアを脱出する列車の中までそれは続き、第三国に渡ることが出来たユダヤ人は6000人を越えたと伝えられている。
彼の功績はリトアニアでも評価されて、ヴィリニュスには彼の名を冠した通りが生まれ、彼を記念しての桜の植樹もなされている。
カウナスの旧日本領事館も杉原記念館として保存され、地元の大学には日本文化研究センターも開設されている。

ツェベリナイト(肉詰団子)

この後、旧市街で、こちらの名物「ツェベリナイ」という肉詰団子 ↑ を食べる。
スープが脂っぽいものでカロリーは高い様子。さほど旨いものでもない。

あと観光した「旧市庁舎」「聖ペトロ&パウロ大聖堂」内部の写真2枚を掲げておく。

カウナス大聖堂

カウナス大聖堂内部①

カウナス大聖堂内部②

あとは、しょぼ降る雨の中、一路ヴィリニュスに戻りホテルに帰る。
かくてリトアニアの第一日は終る。
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ヴィリニュス市全景
 ゲディミナスの丘からのヴイリニュス全景
 
   三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(2)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

 ヴイリニュス旧市街観光
今日は午前中、ヴィリニュス旧市街の観光である。
掲出した写真は市街を見下ろす「ゲディミナス城の丘」からの全景である。
この写真の手前の方に、旧市街を取り巻いていた城壁と城門の名残りが見られる。
手前正面に口を開けているのが見えるのが「夜明けの門」で、後でそれにまつわる記事と写真を出す。

ヴィリ・聖ペトロ&パウロ教会

見学は先ず「聖ペテロ&パウロ教会」から始まる。
ペテロとかパウロとかは、キリストを取り巻く初期の聖人だから、同じ名前の教会がたくさんあるのでややこしい。
昨日のカウナスでも出てきた。
この教会は、「バロックの街ヴィリニュスを代表する、いわば記念碑的な建築だ」とガイドブックには書かれているが、それは内部にある彫刻群─特に2000以上あるという漆喰彫刻に圧倒される。
一枚だけ写真を載せておく。 ↓

ヴィリニュス大聖堂身廊

教会建設の資金を出したのは、当時の将軍バツァスで、入口右側の壁に「ここに罪人眠る」と書かれた墓石が見える。見事な教会を自らの「廟」として残すことは、当時最も誉れ高いことと考えられていたからである。
彫刻のテーマは、多くは聖書や神話から取られており、リトアニアの戦史を表したものもあるという。
女性の姿が多いことにも気づくが、彼女らの表情は差し込む光の加減によつて変化して見えるように計算されているという。

ここを出て、先に載せた写真の「ゲディミナスの丘」からヴィリニュスの街を俯瞰する。
そこを下りて、先に説明した旧城門の「夜明けの門」を見る。

夜明けの門

夜明けの門①

夜明けの門②

「夜明けの門」聖母マリアのイコン

一連の写真の三番目の写真の奥に四番目の写真の「聖母マリアのイコン」がある。イコンの前面に純金の覆いがしてあるのである。こちらでは、こういう形のものが多い。
ここはローマ・カトリックを信仰する国なので、聖母マリアは深く信仰されている。
ヴィリニュスは14世紀にゲディミナス大公によって国家の首都として創設され、その後、ポーランド・リトアニア共同国家のリトアニア側の首都となった。

ここを出て、後は徒歩で移動して、先ほどの「ゲディミナス城」の下になる「下のゲディミナス城」の横にでる。
「上のゲディミナス城」から見た「下のゲディミナス城」の写真を出しておく。
真ん中あたりに見える茶色い広い屋根のところが、その「下」の城である。
ヴィリニュス望景

ここは、すぐ大聖堂、旧市庁舎広場に隣接するところである。

ヴィリニュス大聖堂鐘楼

大聖堂と鐘楼

鐘楼は高くて、どこからでもよく見えるので、ヴィリニュスの象徴とされているらしい。

大聖堂内部①

大聖堂内部②

大聖堂内部③

大聖堂内部の写真を三枚つづけて載せた。
聖カジミエルの聖画には手が三つあるが、三つ目の手は画家が何度消しても再び現れてきたので残されたと伝えられている。また側面の絵の一つは、120年後に棺を開けた際にも遺体に変化がなかったという聖カジミエルの「奇跡」を描いたもの。この奇跡にあやかろうと、体にハンデを持つ人たちが、痛んだ部位を捧げて奇跡の恩恵に浴そうと、身体の部位の彫刻を捧げたものが三番目の写真である。
20世紀になって調査が行われ、絶世の美女と謳われたバルボラ・ラドヴィライテ妃(1522~1551)をはじめリトアニアの支配者たちの棺が、この下で発見された。

次いで、歩いて聖アンナ教会を外から見る。煉瓦づくりの独特の色と形が面白い。
聖アンナ教会

 ヴィリニュスの建築美について
リトアニアないしはヴィリニュスについての資料は少なくて、唯一、カウナスの杉原千畝記念館で買い求めてきた『ヴィリニュスとトラカイ』というガイドブックに若干の記述があるので、少し引いてみる。
この本の「原著者」はトマス・ヴェンツロヴァという人で、こんなことを書いている。

ガイドブック

<歴史上の不幸によって、町から建物は消え、通りは変り、住民構成さえも著しく変化してきた。その中でも最も悲劇的な出来事が、第二次大戦中の大規模なユダヤ人コミュニティーへの迫害であった。属国になり、言葉や文化が変わっても、ヴイリニュスは常に様々な顔を持ち続け、この町は常に異文化交流、いわゆる「ダイアローグの町」であった。そして今後ともそうあり続けるに違いない。
数多くの戦争や占領、破壊に遭ったにもかかわらず、ヴィリニュスの建築は独自のスタイルを持ち続けている。ドイツやスカンジナビアの影響を全く受けることなく築かれたヴィリニュスは、バルト三国の他の二つの首都とは大きく異なり、どちらかというとプラハやローマを思わせる。アルプスの北側にあるバロック様式の町の中で、ヴィリニュスは最も東に位置する一番大きい町であり、さらに、ゴシックから古典主義に至るヨーロッパ建築様式のほとんどをヴィリニュスで目にすることが出来るのである。これらほとんどの建築物は、いつもその全盛期を過ぎた後にヴィリニュスに辿り着いたが、恐らくこの理由によって、建築の完成度は完璧に近いものとなったのであろう。
ヴィリニュスのバロック様式のクーポラ(丸屋根)や尖塔は、不規則な中世の都市設計に溶け合う。宗教に対して寛大な態度をとっていた町には数多くのロシア正教教会やユダヤ教のシナゴーグ、バロック様式を真似して建てられつつも独自のスタテルを守り通したモスクがある。それらは、すべてヴィリニュスのローマカトリック気風に東洋の精神を込めたものである。
リトアニアの首都はパリプセスト──むかし羊皮紙に書かれた文章の下から、すでに消された文字が浮き出てくるもの──に例えられる。・・・・・・・
特筆すべきは、リトアニアがヨーロッパで最後にキリスト教を受け入れた国であるということだ。
最初、ヴィリニュスは異教の町であった。近代になっても町の周辺には異教の伝統が見られたのである。異なる宗教に異なる言語が加わり、多くのヴィリニュス出身者たちは幾つかの言語──リトアニア語にポーランド語、ロシア語、つい最近まではベラルーシ語やイディッシュ語──を自在に操る。・・・・・>

多くを引いても煩雑になるので、この辺にするが、この文章は、この地の置かれた環境と位置を的確に要約していると言えよう。

これでヴイリニュスの旧市街の見学は終りであり、レストランでコウドゥナイ(リトアニア風水餃子)の昼食を摂る。皿の真ん中の白いものはヨーグルトである。少し酸っぱい味と餃子のような肉包の取り合わせが独特の感覚である。

「コウドゥナイ」

あとは一路「シャウレイ」へ。旅の日程表にも距離の記載はないが、ほぼ3時間くらいはかかった様子。北国の乾燥した爽やかな空気とは言え、夏の陽が照りつける午後だった。

これが私たちを乗せて最終地のタリンまで乗せてくれるバスである。運転手は添乗員の英語にも無反応な、もの言わずのリトアニア人だった。かかずりあうのが面倒で、わざと英語を話せない振りをしていたのかも知れない。
バス

 シャウレイ──十字架の丘
シャウレイは北部リトアニアの中心都市で、町の名はヴィキンタス率いるサモギティア人が帯剣騎士団を破った1236年の「サウレの戦い」に由来するという。
当時プロシアを占領しつつあったチュートン騎士団と、リヴォニアを占領した帯剣騎士団との連結を阻む位置にいたのがリトアニアだった。
シャウレイは二度の世界大戦で多くの被害を受けたため、旧市街など古い建物はほとんど残っていない。
「シャウレイの丘」というが、だだっ広い野原の真ん中に、ほんの二、三メートルの高さの土手があるに過ぎず、その丘と周辺に隣接する土地に無数の十字架が林立している。ただし「墓」ではなく、死体などはなく、記録によれば1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々のために立てられたらしい。
それからは、ここは抑圧された民族、宗教の象徴として扱われ、それを嫌ったソ連当局が禁止したり、取り除いたりしたが、その都度、夜陰に紛れて新しく立てられたという。
近年は遠くアメリカやオーストラリアからも移民の人々が、かの地から運ばれた十字架を残すという。
シャウレイ③

シャウレイ①

シャウレイ②

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 リトアニアの概況など歴史的に
<かつてヴィリニュスは、まるでトリエステやチェルノヴィッツのような異文化の坩堝で、不思議な街であった>と、二つの世界大戦の間にこの町で青年時代を過したポーランドの詩人チェスラーヴ・ミーローシュは書いた。
街の運命は歴史の変遷に翻弄され、移り変わった今もなお、ヴィリニュスは不思議な雰囲気を持つ街として生き続けている。

 年表的に
BC20 バルト族の祖先が現在の地に移住
1236年 シャウレイ近郊でセミガリア人とサモギティア人の連合軍が帯剣騎士団を破る(サウレの戦い)
1253年 ミンダウガス大公、カトリックに改宗し、リトアニア最初の王位に
1263年 ミンダウガス大公暗殺。リトアニアは再び自然崇拝の国に
1316~41年 ゲデイミナス大公、リトアニアの領土を東に拡大
1385年 リトアニア大公ヨガイラ、ポーランド王女ヤドヴィガと結婚。リトアニアとポーランドは同じ君主を戴く連合国となり、リトアニアはカトリックを受け入れる
ヴィタウタス大公、リトアニアをバルト海から黒海にいたる国に拡大
1410年 ポーランドとリトアニア軍、ジャルギリスにおいてチュートン騎士団(ドイツ)を殲滅
1547年 最初のリトアニア語の本を出版
1569年 リトアニアとポーランドは共同国家に。貴族のポーランド化が進み、リトアニアは事実上ポーランドに吸収される
1795年 第三次ポーランド分割るリトアニア、ロシア領に。共同国家消滅
1812年 ナポレオン軍、ヴィリニュスに入城
1830年 ロシアに対する蜂起多発。激しい報復。カトリックに対する弾圧、リトアニア語の禁止など「ロシア化」が進む
1904年 日露戦争。ロシア化政策の緩和
1915年 第一次世界大戦、ドイツ軍リトアニアに侵攻
1918~20年 ドイツ敗戦後、リトアニア、ソ連、ポーランド三つ巴の戦いが続く
1920年 ポーランド軍がヴィリニュス占領により首都はカウナスに置かれる
1939年 モロトフーリッペントロップ秘密協定によりソ連軍がリトアニアに駐留、翌年侵攻
1941年 数万人のリトアニア人逮捕。大流刑の始まり
1941年 ドイツ軍バルト三国に侵攻。20万人以上のユダヤ人が強制収容所へ
1944年 ソ連軍ふたたびリトアニアを占領
1949年 「人民の敵」とされた数十万人がシベリアに流刑される
1990年 リトアニア、独立を宣言
2004年    〃   EUに加盟

長々と引用したが、他民族と国家の運命に翻弄された小国の悲哀を、これらの事実が証明するからである。
この国は、広さは北海道の約八割。人口は約338万人である。
民族構成はリトアニア人84.3%、ポーランド人6.2%、ロシア人他であるが、ナチスに迫害されたためユダヤ人は皆無に近い。
宗教はほとんどがカトリック教徒、他にロシア正教徒など。

ヴィリニュスは内陸の都市のため、バルトの中では、ハンザ同盟の影響の少ないところと言えよう。

 リトアニアの名前の由来など
先に書いたようにバルト三国については資料も少なく、現地でも日本語によるガイドブックは簡単なものしかない。
今回の旅に来る前に資料として本を検索してみたが、出版が二十年以上も前のものなどが多く、参考にならないと思った。唯一、用意したのは原翔『バルト三国歴史紀行ⅠⅡⅢ』(彩流社刊)で、各国別に三冊になっている。
この他にダイヤモンドビック社『地球の歩き方・バルトの国々』は携行した。

これらの本によると、日本でいう「リトアニア」という国名は「LIETUVA」と表記されている。
この名前は、ここは他の二国と比べて雨が多いので「雨の地」を意味する「LIETUS」から由来するというが、原翔の本によると、南部のケルナヴェという小さな村の傍にネリス川に注ぎ込む「LIETAUKA」川があり=別名「LIETAVA」ということで、これがリトアニアの国名の由来だ、という。どちらが正確か私には判らないが、書いておく。

後は、バスで一路、今夜宿泊の二番目の国・ラトビアの首都リガへ。
写真は夕食のレストランで、ラトビア風冷製スープ「オクローシカ」を賞味する。
ただし、このスープの写真はない、お許しあれ。
リガ夕食レストラン

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バルト地図
 
   三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(3)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

いよいよ旅も4日目に入った。 はじめにバルト三国の地図を出しておく。
いつの旅でも、どこの旅でもそうだが、午前中、徒歩で見学して、昼食を摂って、午後から次の都市へ移動、というのが日本人の通例である。昨年の旅の時にも書いたのだが、ヨーロッパの辺地も道路がよくなって移動時間が短くなり、そのおかげで旅そのものが、せちがらくなり、面白みがなくなった。
道路のことについては、午後の移動の記事の中で触れる予定である。
今日の分から写真のサイズが大きくなる。
今回の旅も、それに同じく、今日は午前中リーガの町を徒歩で見学する。

リガホテル
 リーガホテル・・・トイレ臭、突然の「停電」など
先ず、昨夜泊った「リーガ・ホテル」だが、写真のようにソ連支配時期の1956年に建てられた一見重厚だが、内部設備は悪い。トイレ・浴室の便器の周りに尿の茶色い滓がついていて、かつての公衆便所のような悪臭がする。今どき、こんな臭いのするトイレは公衆トイレでも経験したことがない。
いつもは夜中に起きたときのためにトイレのドアは開け放しておくのだが、トイレの臭気が部屋にこもるので、閉め切っておかざるを得ない。
その上、今朝、早朝、まだ電灯の明りの要る時刻だったが、突然、「停電」した。パッと消えるのではなく、チカチカという感じで点滅して数分間、二度ばかり消えた。
こんなところにも、ラトビアの今の経済状態が現れているようで、変に納得した。
因みに、日本の電気の状態は世界最高であって、「ヘルツ」で表されるが、周波数のサイクルの状態も極めて安定しており、電圧も正常域を保っているという。
こんなラトビアのような通電状態では、バッテリーの補助を維持していなければパソコンなど一遍にオダブツである。

 ラトヴィアの首都・リーガ
先ず、この「リガ」のことだが、日本ではリガと発音するが、これはドイツ語読みと言われ、現地では長音にして「リーガ」と呼ばれる。ガイドブックなども、そのように表記される。
朝食を済ませて、8:45の集合までにホテルの前の公園の辺りを散歩する。

リガトラム①

リガトラム②

ホテルの前は、トラムが朝暗いうちから走っている。その写真2枚を出しておく。
その通りを渡ると広い緑地公園になっていて、ホテルの真向かいに国立オペラハウスが威容を見せている。 ↓

リガオペラハウス

リガ公園

この公園を抜けると、ピルセータス運河というのがあり、その橋を渡るとプリーヴィーバス大通りの真ん中に自由記念碑が建っている。
これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51メートルの記念碑。
塔の上に立つ女性ミルダは、ラトヴィアの三つの地域──クルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレの連合を表す星を掲げている。デザインは公募された中から選ばれ、建設資金も寄付によってまかなわれた。
碑の基部には「祖国と自由に」という文字が刻まれ、ラトヴィアの歴史と文化を象徴する彫刻で飾られている。ソ連時代にも破壊されることはなかったが、反体制の象徴として近づくだけでシペリア送りと噂される、民族の悲劇を具現化したような記念碑だったという。
現在昼の間、一時間毎に最初の共和国時代の軍服を着た衛兵の交代が見られる。
たまたま団体行動の際に見かけたので、写真を出しておく。 ↓

リガ自由記念碑①

リガ自由記念碑②

リガ自由記念碑拡大

リガ自由記念碑衛兵交代①

リガ自由記念碑衛兵交代②

 ラトヴィアの概要
ラトヴィアは広さは日本の北海道の約8割で、人口は226万人。ラトヴィア人59.%、ロシア人28%など。公用語はバルト語族に属するラトヴィア語。宗教は北部、西部はルター派プロテスタント、東部はローマカトリックが多い。他にロシア正教など。
バルト三国は、EUの対ロシアへの思惑もあって、政治的にはEUに加盟しているが、通貨制度である「ユーロ」には加盟が認められていないので、移動するたびに通貨が替わるので、面倒である。たった一日の滞在のために通貨交換が必要であり、ユーロは商店などでも通用しないので不便である。
おまけに両替した通貨のうち、コインは原則として交換対象にならず、また紙幣でも小額だと交換を拒否されることもある。
私は米ドル10ドル、20ドルと小額の交換にとどめ、まとまったものはクレジットカードを使った。
もっとも私の買うのはガイドブックなどであり、もはや物欲は超越したので、基本的にシヨツピングはしない主義である。水とか食事の際の飲み物などの代金が最低限必要である。
バルト三国ともユーロとの間では交換レートは、ほぼ固定されているらしい。

 ラトヴィアの歴史
BC20 バルト族の祖先が現在の地に移住
854年 スエーデン軍が、アプオレで15000人のクール人の軍隊と衝突
1186年 シトー派の司教マインハルト、ダウガヴァ川河岸のリーヴ人の村に教会設立、以後この地域はリヴォニアと呼ばれる
1201年 僧正アルベルト、リーガに上陸。翌年、異教徒征服のためにドイツ諸都市のならず者を集め、「帯剣騎士団」を組織する
1236年 サウレの戦いで帯剣騎士団敗北。より強力なリヴォニア騎士団が組織される
1282年 リーガ、ハンザ同盟都市に
1290年 現在のラトヴィア全土がリヴォニア騎士団の支配下に
1521年 宗教改革の到来。騎士団弱体化
1558年 リヴォニア戦争
1561年 騎士団、ここをボーランド・リトアニア連合に売り渡し、その保護下にクールランド公国を設立
1629年 スウェーデン、ここを支配
1700年 大北方戦争始まる
1710年 ロシアのピョートル大帝、ここを支配
1772年 第一次ポーランド分割。ラトガレ地方ロシア領に
・・・・・・・
後は、先にリトアニアのところで書いたのと同様な経緯で、ドイツ、ロシア、ナチスドイツ、ソ連などに支配される 

 リーガの旧市街見学へ
8:45集合で、徒歩で旧市街見学へ。自由記念碑については先に書いた。
そこを引き返して(ホテル側ということになるが)、いよいよ旧市街に入る。
この通りを「カリチュ通」という。この道を挟んで北側と南側に教会などの文化財がひしめく。
メモが混乱しているので、写真を撮った順番に、アトランダムに写真を載せる。
現地ガイドの話によると「リーガ」=ラテン語で「波うつ」の意味という。町の下の土は「砂地」で建物は陥没しやすいという。
リーガの町が「歴史」に登場するのは先に書いたように1201年にブレーメンの僧正・アルベルトが上陸し要塞を築いたのに始まるがハンザ同盟などドイツとの関与が大きく極言すればドイツ系の町と言える。これは先のヴィリニュスや後のタリンなどと大きく違うところである。
「新」市街には「ユーゲントシュピール」という様式の建物などがあるというが、今回は立ち寄らなかった。
かつて「バルトのパリ」と謳われたリーガの町並みもソ連支配下では手荒く扱われ、ついには「零落した貴婦人」とまで呼ばれるほど傷ついたが、独立後の復興はめざましく修復され、中世からの刻をきざむ旧市街も魅力を失わず、ハンザ商人の活躍した舞台へと観光客を誘いつづけている。
以下、旧市街の由緒ある建築群である。

リガ旧市街建築群①

リガ旧市街建築群②

リガ旧市街建築群③
 ↑この建物は「猫の館」と呼ばれる。
その由来は、この建物の持ち主は裕福なラトヴィア人商人だったが、ドイツ人が支配するギルドに加入させてもらえなかった。そこで彼は尻をギルド会館に向けた猫を屋根に取り付けたのでギルド側は激怒したが「あなた方は規則を持っているのに守らない。私の猫は規則など持っていないから、猫がどう振舞おうと勝手じゃないか」と応えたという。後に、ギルド会館はコンサートホールに替わったから、今度は猫が喜んで音楽に誘われて踊っているという。

 ギルド会館の建物は、ここ ↓
リガブラックヘッド・ギルド
この建物は「ブラックギルド・ヘッドの会館」と呼ばれていて、15世紀から、その華麗な姿をみせていたが、1941年にドイツ軍の空襲で完全に破壊され、リーガの創設800周年を記念して2000年に再現されたものである。
「ブラックヘッド」とはハンザ同盟の未婚の貿易商人の友愛会だったと言われる。建物正面に掲げられた大時計は月、日、時と月齢を刻む。時計の下には四つのハンザ戸都市、リーガ、ハンブルク、リューベック、ブレーメンの紋章が浮き彫りにされ、ギリシア神話の神々の像が置かれている。

リガ旧市街城壁の塔
 ↑ リーガ旧市街城壁の塔が奥に見える

リガ聖ヤコブ教会尖塔
 ↑ 聖ヤコブ教会の尖塔 こういう尖がった塔が北ドイツの影響下の教会の特徴 

リガ教会?②
 ↑聖ペトロ教会の塔  ここに登ってリーガの町が一望できる
 
聖ペトロ教会の塔からの俯瞰
リガ町並み屋根

リガ三人兄弟の家0001
 ↑ 「三人兄弟の家」 17世紀のもの以後三世紀にわたる建物の隣接

散策は続いて、現在、大統領官邸として使用されているところに出る。ものものしい警戒である。
丁度、衛兵交代の刻にも遭遇したので、その写真も一枚。
リガ大統領官邸①

リガ大統領官邸②

リガ大統領官邸③衛兵交代

いよいよ散策も終末に至り、「リーガ大聖堂」に来る。
ここは僧正アルベルトが建設を始め、何度かの増改築の末、今の形になったのは18世紀後半という。
先に書いたように、ここは土地が砂地で地盤が悪く、教会の周囲が、めり込んでいるようになっているのが、その証拠である。

リガ大聖堂

リガ教会蒼穹
 ↑ 上の写真二枚が大聖堂(通称ドームという)

リガ大聖堂前広場

このリーガ大聖堂前広場で解散して一時間ほど自由行動。私は広場脇の「ダブル・コーヒー」というガイドブックにも載る茶房のテラスで、カプチーノを飲む。おいしかった。
再集合して、近くのレストランで名物の「カーポストゥ・ティーテンス」というロールキャベツを食べる。あっさりした味で皆にも好評だった。

 バルト三国の道路事情
国から国へと移動すると、高速道路や地道の国道を通るが、高速道路は、よく整備されており、快適なものである。その道の傍に大きな「EUの星の○」がついた看板が建っている。
ガイドの説明によると、これが域内の格差を無くするためにEUの予算で建設したものですよ、というものらしい。
バルト三国にも財政的な格差はあり、特にラトヴィアは国家破産の危機にあると書いたものもあるほどで、昨日、リトアニア北部のシャウレイから国境を越えて、ラトヴィアに入った途端、道はガタガタして驚いたが、それが現実なのであった。ここでは財政的に苦しくて、道路にも十分の予算が回せないものらしい。

昼食後は、一路、次の訪問国エストニアのタリンに向かうが、日程表によると、タリンへ約309㎞とある。
添乗員の説明によると、EUの規則で一時間走ると何分休息を摂るとか、決められているそうで、途中タリンまで二回のトイレ休息を取る。
このことは昨年のスペイン・ポルトガルの旅のときにも書いておいた通りであり、今はフランスのサルコジ大統領など保守派もいるが、おおよそヨーロッパでは「社会民主主義」政党が政権を取っていたから、労働者の権利は、日本よりも、ずっと尊重されているということである。

 日本車が多い
バルト三国では、自動車の生産はしていないので専ら外国からの輸入ということになる。
したがって「日本車」がたくさん走っている。トヨタ、ニッサン、マツダ、三菱などである。スズキ、スバルもあったのではないか。
ヨーロッパに来ると、車の生産国では、その国のメーカーが強いが、車を生産していない国では日本を含めての競争ということになり、俄然、日本車が増えてくる。
昨年、スペイン、ポルトガルのところでも書いたが日本車が健闘している。アイルランドでも日本車が目だった。
バルト三国でも、リトアニア、エストニアでは日本車が多い。
後日、エストニアのタリンのところでも書くが、タクシーがトヨタのカローラが突出して多かったのが印象的である。日本車は大きくないし、故障はしないし、政府の余計な干渉がなく、自由競争が保証されれば日本車に歩があるのは当然である。

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タリン・街俯瞰・新
 ↑ タリン・トームペアの丘の俯瞰
   
三つの世界遺産都市を巡る
      美しきバルト三国周遊(4)・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         ──2009/08/22~2009/08/28 7日間── JTB旅物語主催

 エストニアの首都タリン
中世の空気を今に伝えるエストニアの首都タリンは、バルト海のフィンランド湾に臨む港町。
かつて閉ざされたソ連の地方都市の地位に貶められた時期もあったが、現在は多くの観光客の行き交う、北欧に開かれた「バルトの窓」と言われている。

タリン・ホテル①

タリン・ホテル②

タリンの宿は、シテイセンターの一角にあるレヴァル・オリンピアホテル。 ↑
REVALホテルグループは、この一角に三つのホテルを持っており、私たちの泊ったホテルは、モスクワ・オリンピックの開かれたときにヨット競技がここで開かれたので建てられたので、この名前だという。ソ連時代に建てられたとも思えない近代的な明るいホテル。エレベータも広く、速度も速い。港から数百メートルの距離である。
このホテルは二十四階まである高層で、市内のどこからでも、よく目立つ。

松村一登氏に教えていただいたところによると、

<Olumpia ホテルは,90年代初めに大規模な改装が行われて,ソビエト時代の雰囲気はなくなりました。>

つまり全面的に改装されたのであり、ソ連の建物という印象が全くないのも、よく判った。
感謝して追記しておく。

すぐ近くには一階にスーパーが入ったデパートがある。
トラムやトロリーバス、バスなどの走る通りには、数百メートル歩かなければならない。とにかく便利のいい立地にある。
ホテルの前にはタクシーが数台駐車しており、ほとんどは日本製のトヨタ・カローラであり、きれいに大事に乗られており、ピカピカに磨いてある。

 世界遺産はトーンペアの丘に集中している(掲出の写真参照)
朝、集合して午前中、半日徒歩で見物するので、トイレを済ますために先に港のフェリー乗り場のトイレに寄る。
港にはバルト海クルーズの大型客船が停泊している。
あとは一路、トーンペアの丘の駐車場へ。
こちらでは、世界遺産のあるところは、どこも「丘」の上にあるのが特徴である。
これは昔から「平地」は防御が難しく、みな高台に要塞様の建物を構えたことに由来するだろう。

 エストニアの歴史
BC30 エストニア人の祖先が、この地に到着
1187年 エストニアのバイキングがスウェーデンの首都スイグトゥーナを略奪
1211年 レンビトゥ率いるエストニア軍が帯剣騎士団と衝突
1219年 デンマーク王ヴァルデマラⅡ世、タリンと北部エストニアを占領
1227年 帯剣騎士団がタリンを占領
1343年 聖ゲオルギの夜のエストニア人の大反乱、この結果、デンマークは北部エストニアをチュートン騎士団に売り渡す
16~17世紀 ドイツの支配力強まり、エストニアは農奴に
1524年 宗教改革、リヴォニア騎士団弱体化
1558年 リヴォニア戦争、ロシアのイワン雷帝、バルト地方に侵攻
1561年 スウェーデンが北部エストニアを、ポーランド・リトアニア連合が南部エストニアを支配。リヴォニア騎士団解体
1629年 スウェーデン、リヴォニアを支配
1700年 大北方戦争始まる
1710年 ロシアのピョートル大帝、エストニアとリヴォニアを支配
1816~19年 農奴解放
1905年 ロシア革命始まる
1915年 第一次世界大戦勃発
1918年 エストニア共和国独立宣言
・・・・・・・後は、リトアニア、ラトビアと同様に変遷を辿る
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今年2009年は、1939年の独ソ不可侵条約締結から70周年になるのを記念して、1989年にバルト三国国民が連帯して、これに抗議した「人間の鎖」の手つなぎ運動が、八月二十三日に三国の人々が参加して式典が行われた、という。
その記念すべき時期に、ここに来合わせたことを意義ふかく想起したい。

なお、日本の大相撲に「把瑠都 凱斗 」という力士がいるが、彼は、ここエストニア出身である。
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私の敬愛する歌人・村島典子さんから手紙が来て、もう九年前に上梓された歌集の題が『タブラ・ラサ』であることから、私の、このサイトを見た、と書いて来られた。
私は、この歌集は未見であるが、ネットを検索してみてアルヴォ・ペルトというエストニアの作曲家のことを知った。
このリンクに貼ったサイトには、1935年生まれという、この作曲家のことが詳しく載っているし「タブラ・ラサ」が彼の著名な曲であることも知った。
ここに付記して書いておく。一度、この曲を聴いてみたいものである。

(9/29追記)この記事をご覧になって村島典子さんから、当該の歌集『タブラ・ラサ』(2000年柊書房刊)をご恵贈いただいた。
読み込んで、また記事にする予定であるが、とりあえず御礼を書いておく。
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 トーンペアの丘の見学
今日も午前中のみ、ここの徒歩での見学となる。
バルト海クルーズ船の搭乗客も、どっと押し寄せ、丘の上は押す押すなの混雑である。
以下、写真撮影順に載せる。詳細なメモを取れなかったので、間違いがあれば後日訂正する。

トーンペアの丘は、石灰岩の層で出来た高さ42m(海抜は47m)の丘。市街を見下ろすトーンペアは常に権力の居城となり、市議会が支配する下町とは政治的にも物理的にも厳格に隔てられていた。
エストニアの神話では、トームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされている。
彼の妻リンダは彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうと考え、墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたとき、エプロンの紐が切れ石は転げ落ちてしまった。疲れ果てた彼女は、その石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれた。彼女の涙は、ウレミステ湖になったという。
トーンペア城の南側下の広場に、泣き続けるリンダの像がある。

タリン・建物①
 ↑ この木造の教会?は何か不詳

タリン・建物②
 ↑ 「のっぽのヘルマン塔」と呼ばれる高さ50.2mのもの。エストニアの国旗を掲げて国を象徴する存在となっている。

タリン・建物④

タリン・建物③

タリン・トームペアの丘・建物①

 ↑ 上の三枚はロシア正教のアレクサンドル・ネフスキー聖堂。1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられた。タリンの町並との調和を考えると異端児的であるが、今ではすっかりタリンの名物建物として調和が取れている。
教会に入ってすぐ右手の壁には、日露戦争で沈んだロシア艦隊を記念したプレートがかけられている。

トーンペア城は、かつてエストニア人の砦があった場所に13世紀前半に建てられた騎士団の城。外城の中に修道院型の内城がある強力なもので、支配者が替わるたびに補強改築された。現在の姿になったのは18世紀後半のこと。
当時の権力者エカテリーナⅡ世は官邸として使うために改築を命じたので、正面から見ると城というよりは宮殿に近いものとなっている。 ↓
タリン・建物⑤

 ↓ 大聖堂(トームキリク)と呼ばれる。1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設した、エストニア本土では最古の教会。聖マリアの大聖堂とも呼ばれる。1684年の大火災で焼失したが、約100年の歳月をかけて現在の形に再建された。 
タリン・建物⑥

 ↓ 旧市庁舎北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎。14世紀半ばに最初の建物が建てられ、1404年に現在の姿になった。外側から見るだけで内部には入らない。前の広場には人が一杯。
タリン・トームペアの丘・建物②

タリン・トームペアの丘・建物③
 ↑ 「三姉妹の家」 15世紀に建てられた商家の集合体で、美しく飾られたファサードが女性的な雰囲気だというので「三姉妹」と呼ばれている。

タリン・トームペアの丘・建物④
 ↑ 「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれる、街の最も重要な出入口を守るため、1529年に建てられた「砲塔」。直径24m、壁の厚さ4.7mという頑丈なもの。ここから砲弾が発射されなくなってからは倉庫や兵舎、監獄として使われた。ここが監獄に使われていた頃、囚人の食事の世話をした慕われていたのが太ったマルガレータであったので、このように言われているという。
今では、
この塔の中には「海洋博物館」があり、船の模型、漁具から缶詰まで、海とかかわりのあるものの展示が充実しているという。塔上からの眺めも必見という。

 ↓ 以下、この丘からの俯瞰の写真を三枚かかげておく。
タリン・トームペアの丘から俯瞰②

タリン・トームペアの丘から俯瞰③

タリン・トームペアの丘から俯瞰④

タリン・トーンペア風景
 ↑ 見事な「装飾扉」だが、これはハンザの頃の「ブラックヘッド・ギルド」(ラトビアの項で書いた)の会館の建物の入口の扉だという。
これも、松村一登氏から教えていただいた「タリン市の公式案内サイト」(英文)を見て判明した。
改めて、御礼申し上げる。

タリン・トーンペア風景②
 ↑ 聖オレフ教会 北ドイツ様式の教会。落雷で焼け落ちたのち1840年に今の形になった。高さ124mにも達する塔は旧市街では最も高い建物。
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 バルト三国の言語について
リトアニアで、添乗員が「リトアニア、ラトビアの言葉はスラヴ語族で」と言いかけたら、現地ガイドの女性が待ったをかけ、「バルト語族」だと言ったのが私の記憶に残ったので、専門家である松村一登氏に聞いてみた。 その返事のコメントを下記に貼り付けておく。

<言語の系統のお話をします。

以前講義のために作ったウェブページがまだありましたので,まずごら
んください。

http://www.kmatsum.info/lec/meziro/sekai/genetic.html
http://www.kmatsum.info/lec/meziro/indoeuropean/indoeurop.html

「バルト語派」「スラブ語派」のかわりに「バルト諸語」「スラブ諸語」
といったほうがわかりやすいかもしれませんね。

バルト系の言語は,ラトビア語とリトアニア語の他に,17世紀に亡びた
プロイセン語(プロシア語)があります。歴史的なプロイセンは,ポーラ
ンド北部からカリーニングラード(旧ケーニスベルク)のあたりなので,
現在はスラブ語化されている地域ですね。

ポーランドから南の東欧の言語は,ハンガリー語を除いてほぼすべて
スラブ系ということはご存じの通りです。歴史的には,ドイツ人が北
方向と東方向に進出して,バルト三国や中部ヨーロッパに勢力を広げ
ました。

バルト語派とスラブ語派をいっしょくたにしたらバルト人がどう思うか
は,ゲルマン語派とロマンス語派を一緒にしたら,フランス人やドイツ
人がどう思うかを考えていただくと想像が付くかとおもいます。

バルト三国の人たちにとって,スラブ=ロシアという連想があるので
とくに神経質になる人が多いと思います。韓国と日本の関係がそうで
あるように,歴史はずっと尾を引きます。>

引用部にあるURLにアクセスしてもらえば、言語学でいう言語の系統が判るので参照されたい。

なお、三国のうちエストニアは言語的には別の系統「ウラル語族 - フィン・ウゴル語派のバルト・フィン諸語」に属する。
具体的には「フィンランド語」の系統に属するということであり、詳しくはWikipediaの「フィンランド語」のところを見てもらいたい。
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あと、市内に戻り、「セリヤンカ」というトマト味のスープの昼食を摂って解散、ホテルに徒歩で帰り、大阪の四人と一緒に美術館に行くことにする。
トラムに乗りたいというので、数百メートル歩いて停留所に行くが、郊外にあるので、どのトラムに乗ればいいのか判らない。停留所にいた少し足の悪い老婦人が英語が話せて、その人のおかげで、ようやく辿りつける。その人はトラムを下りてからも、わざわざ通行人に聞いたりして公園の一角のところまで案内してくれる。
 トラム、トロリーバスのこと
ラトビアのところでも書いたが、こちらでは、市内交通機関として、よく目につく。
トラムというのは軌道(線路)があり上には架線がある電車のこと。
トロリーバスとは車体はバスと同じだが、軌道はなく、バスはゴムタイヤで走り、架空の架線からポールで電気を取って走るバスと電車の折衷のようなもの。
ソ連支配地では、よく見られるもので、旧東欧─今でいう中欧のチェコ、ハンガリー、ポーランド、東ドイツなどでよく見られた。それが、ここでも市民の足として今でも使われているのである。
ソ連の支配も、すべてが悪かったのではなく、一定の社会インフラは残したことになる。
トラムの車体も、チェコとか東ドイツ製ではないか。当時は両国は技術的に高かったし、体制内で分業化していたから。
下に載せる「切符」も、トロリーバス、トラム、バスに共通するようである。
因みに、日本にも「トロリーバス」は昔あった。京都市でも四条大宮から西院まで短区間だが、走っていた。この区間は地下に阪急電車京都線が走っていたので、その関係からトロバス(と略称した)になったものか、実験的な導入かは判らない。

 ↓  トラムの切符。
タリン・トラム切符

↓ めざした美術館のカタログと写真。
タリン・美術館カタログ

タリン・KADRIORU美術館①

タリン・KADRIORU美術館②
私たちのめざしていた最終目的地の「KUMU」美術館は一番奥にあり、その手前に、写真二枚の「KADRIORU美術館」があったので先に見る。
この建物については、私の記事をご覧になった「松村一登」氏からコメントをいただいた。
 
<Kadriorg の宮殿
  この建物は帝政ロシア時代にロシア皇帝によって建てられたものです。>

道理で、この美術館は、とても趣のある優雅なものであった。
ガイドブックに載る記事を引いておく。
<大北方戦争(1700~1721年)後、バルト地域を手に入れたロシアのピョートル大帝が妃エカテリーナのために離宮と公園を造られせたのがここ。地元の人々はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使い「カドリの谷」(Kadriorug)と呼んだ。離宮の建設が開始されたのが1718年、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿で、現在はカドリオルク美術館になっている。>

img20090724002355133クム美術館
 ↑ ネット上から、「KUMU美術館」の写真を拝借したので出しておく。

最終目的地である「KUMU美術館」は「カドリオルク公園」の東北端にある七階建ての近代的なもの。ここには図書館、カフェ、ミュージアム・ショップもある。
カフェのテラス席でコーヒーを飲む。
2006年完成という、この建物は、すごく金をかけた立派なもので、恐らく外資がこぞって投資していた頃に建てられたものであろう。ソ連支配下でのリアリズムの絵も展示されているが、抑圧下にあったときの絵には独特の「風刺」「アイロニー」の見られるものもあり面白い。
金融危機で、じゃぶじゃぶだった外資が一斉に引き上げた今では考えられないような贅沢な造りである。
松村一登氏のご指摘で判ったのだが、この緑地というか、広大な公園は「Kadriorg の宮殿」の敷地だったのだろう。その一角に、現代美術の殿堂として、この「KUMU美術館」が建てられたのだろう。
ご指摘に感謝して、訂正と追記をしておく。

歩き疲れたので、私は一人で先に美術館前からタクシーでホテルに帰る。
乗ったタクシーはトヨタ・カローラ。運転手に声をかけて車のことについて少し話す。
夕食はホテルのレストランで簡単なもので済ます。
これで全日程は終りである。
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最終日は出発までフリーなので、ゆっくり朝食を摂り、荷物の整理をして、昼食は現地通貨の消化を兼ねて、近くのスーパーでサンドイッチとジュースを買って部屋で食べる。
部屋は12時までの使用で、12:45集合で空港に向かいタリン→ヘルシンキは14:45発AY3926便。
ヘルシンキ→関空は17:20発AY077で、関空に゜08:55に到着して、帰宅する。



キュウリの種子/アリの死骸/魚の眼玉/ケラの歌/ひと夏はこのようにして埋葬される・・・・・・・・・・・・大岡信
shiokaraシオカラトンボ

   夏の終り・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   夜ふけ洗面器の水を流す
   地中の管をおもむろに移り
   遠ざかってゆく澄んだ響き
   一日の終りに聞くわたしの音が
   たかまるシンフォニー
   節まわしたくみな歌でないことの
   ふしぎななぐさめ
   キュウリの種子
   魚の眼玉
   ケラの歌
   《ほろび》というなつかしい響き
   それらに空気の枝のようにさわりながら
   水といっしょに下水管をつたい
   闇にむかって開かれてゆく
   わたしひとりの眼

   ひと夏はこのようにして埋葬される

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夏の終りというものは何となく寂しいものである。そういう夏を送る心象を巧みに一編の詩にまとめあげた。言葉の選択も的確である。
この詩は学習研究社の大岡信編の『うたの歳時記』2・「夏のうた」(1986年5月刊)に書き下ろしとして載る大岡信の作品である。
「うたの歳時記」と表記して「うた」としてある所がミソで、短詩形の俳句、川柳、短歌、短詩いずれにも当てはまるように「うた」と表記されているのである。
純現代詩人としての大岡の詩は決して平易なものではないが、このシリーズの性格──読者を意識して、この詩のような平易な表現になったものであろうか。
ここで、別のところに載る大岡信の短詩を一つ紹介する。

    木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

         ・・・・・・・・・・・・・・夜ごと夜ごと 女がひとり
         ・・・・・・・・・・・・・・ひっそりと旅をしている (ポール・エリュアール)

   日の落ちかかる空の彼方
   私はさびしい木馬を見た
   幻のように浮かびながら
   木馬は空を渡っていった
   やさしいひとよ 窓をしめて
   私の髪を撫でておくれ
   木馬のような私の心を
   その金の輪のてのひらに
   つないでおくれ
   手錠のように

 (昭和57年9月、小海永二編『精選日本現代詩全集』所載、㈱ぎょうせい刊)
鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
083鰯雲

  鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

夏の雲は山際にもくもくと立ち上がる「積乱雲」が特徴であるが、秋に入ってくると、写真のように、小さい雲片が小石のように並び集る「巻積雲」いわゆる「鰯雲」が季節の雲となる。
写真のように、規則的にさざ波のように並んでいることもあるが、はなればなれになっていることもある。高空に出て、鰯が群れるように見えるので鰯雲、鱗のように見えるので鱗雲、鯖の斑紋のように見えるので鯖雲などと呼ぶ。
『栞草』には「秋天、鰯まづ寄らんとする時、一片の白雲あり。その雲、段々として、波のごとし。これを鰯雲といふ」と書かれていて、鰯雲の特徴を見事に捉えている。
名前に味があり、俳句に愛用される季題のようである。

掲出の楸邨の句は、鰯雲という自然現象の中に「人に告ぐべきことならず」という私的な人事を詠みこんで、見事な主観俳句の秀句とした。
以下、歳時記から鰯雲の句を引く。

 鰯雲日和いよいよ定まりぬ・・・・・・・・高浜虚子

 いわし雲大いなる瀬をさかのぼる・・・・・・・・飯田蛇笏

 松島の上にひろごり鰯雲・・・・・・・・田村木国

 鰯雲昼のままなる月夜かな・・・・・・・・鈴木花蓑

 鰯雲こころの波の末消えて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰯雲個々一切事地上にあり・・・・・・・・中村草田男

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲・・・・・・・・安住敦

 鰯雲ひろがりひろがり創痛む・・・・・・・・石田波郷

 鰯雲予感おほむねあざむかず・・・・・・・・軽部烏頭子

 葬られてしまひしものに鰯雲・・・・・・・・中川宋淵

 鰯雲動くよ塔を見てあれば・・・・・・・・山口波津女

 いわし雲城の石垣猫下り来・・・・・・・・森澄雄

 豆腐二丁はなれて沈みいわし雲・・・・・・・・酒井鱒吉

 鰯雲子は消しゴムで母を消す・・・・・・・・平井照敏


告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋・・・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

  告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて
    山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、自選50首にも入れてあるのでWeb上でもご覧いただける。この歌は歌会で「告ぐることあるごとく」という比喩と「山城古地図」の甦りとが巧みに照応して見事だと褒められて高点を得た思い出ふかい歌である。
とんぼは晩春から晩秋まで見られる虫だが、むかしから秋の季語とされている。肉食で、昆虫を捕えて食べる。種類は日本で120、30種類棲息するが、均翅亞目の「かわとんぼ」「いととんぼ」は夏の季語となる。これらは止まるとき翅を背中でたたむ。不均翅亞目は止まるときも翅を平らにひろげ、後翅が前翅より広い。とんぼの多くは、こちらに属する。
図鑑の説明を読むと、なるほど、そうか、と納得する。これから「赤とんぼ」の飛ぶ季節だが、古来、この赤とんぼ、あるいは「秋あかね」と呼ぶとんぼが、色も赤いく目立って多いので、秋の季語となったのではないか。
写真②は大型の「やんま」の種類である。
FI1703458_2Eケンスジヤンマ

掲出した歌の載る一連を引いておく。

 牧神の午後(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋

黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき

サドを隠れ読みし罌粟(けし)畑均(なら)されて秋陽かがやく墓地となりたり

花野ゆく小径の果ての茶畑は墓を抱きをり古地図の里は

秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく

秋蝿はぬくき光に陽を舐めて自(し)が死のかげを知らぬがにゐる

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず

一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり老後の計画など無きものを

つぎつぎに死ぬ人多く変らぬはあの山ばかり生駒嶺見ゆる

ひぐらしに肩のあたりのさみしき日・・・・・・・・・・・・・草間時彦
higurasi04ヒグラシ雄

  ひぐらしに肩のあたりのさみしき日・・・・・・・・・・・・・草間時彦

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。市街地や里山では聞かない。この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。
掲出した写真は、ひぐらしの雄である。
「蜩」ひぐらしは、その鳴き声が夏から秋への季節の移り変わりを象徴するようで、何となく寂しそうで、古来、日本人には愛されてきた。
『万葉集』巻十・夏雑に

  もだもあらむ時も鳴かなむひぐらしのものもふ時に鳴きつつもとな

同・秋雑に

  暮(ゆふ)影に来鳴くひぐらしここだくも日毎に聞けど飽かぬ声かも

『古今集』秋・上に

  ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。
掲出の草間時彦の句も、初秋の、どこかものさびしい季節感を、「肩のあたりのさみしき」と巧く表現した秀句である。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 会へば兄弟(はらから)ひぐらしの声林立す・・・・・・・・中村草田男

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏

 しろがねの蜩の翅 京ことば・・・・・・・・鈴木石夫

 藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・飯島晴子

リバーマン帰る・・・・・・・・・・・・・・・・田村隆一
FI2618506_1E花の町

   リバーマン帰る・・・・・・・・・・・・・・・・田村隆一

雨男のリバーマン、アメリカは中西部
トーモロコシの空間へ帰って行くよ。
「横浜の波止場から
おお 船に乗って!」
二人の娘と、一人の息子を
両脇にかかえて、白熊のような奥さんに、
support されて、イリノイ大学へ帰って行くよ。
早く帰らないと、
ウーマン・リブの女教師に、professor の Position を
とられてしまうぞ、イリノイにはあんまり雨が降らないから
たっぷり、日本の梅雨に濡れて、
おお、青い、つぶらな瞳をうるませて、
躁鬱病のリバーマンは帰って行くよ。
そこでぼくらはお別れパーティ、
鎌倉は、いま入梅で、池はミシガン湖ほど大きくないが、
ボーフラが、ヒョロヒョロわいている。
そこで、ヒョロヒョロ立ちあがり、
ウィスキーに酔っぱらって、
ぼくは、演説したんだ、通訳は、ニークラ。
雨男が鎌倉にやってきたとき、
借家の交渉からガス風呂の修理まで、
ニークラが話をつけたんだ、ドルを、いちいち、
円に換算して、ちょうど、円の切り上げで、
ドルは下った、雨男が泣いた、
雨男は詩人だから、ドルの嘆きの詩を、ニューヨーカーに寄稿した、
原稿料が入ったから、雨男は料理屋へ行ったよ、
日本のPCBがたっぷりはいっている、いきのいいハマチが大好きで、
そこで、板前がたずねたものだ、「お客さん、ご職業は?」
雨男は、鼻をヒクヒクさせて、マイルドな日本語で答えたものさ、
「わたしは、シュジンです」
「へえ、主人?」
「シジンです」
「なーんだ、詩人ですかい」
そこで、ぼくは演説したよ、ヒョロヒョロ、立ち上がって演説したんだ、
「日本じゃ、大学の先生と、言ったほうがいいね、
詩人といったら、乞食のことだ、
中西部とはちがうんだ、あの燃える、
夕日がギラギラ落ちて行く、トーモロコシ畠のまん中で、
ほんとうの詩人とは、腕ぷしの強い農夫のことさ、
日本じゃ、進歩的なヘナチョコ百姓ばかり、アメリカといったら、ベトナム戦争と
人種差別のオウム返しさ、・・・・・・」
ぼくは酔っぱらって、なーんにもわからない
通訳も酔っぱらって、なーんにもわからない
雨男だけ、キョトンのキョンだ キョトンのキョン!
さ、元気で!きみたちの一路平安を祈る!
日本のことなんか、忘れてしまえ!
あばよ、カバよ、アリゲーター!
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田村隆一は「荒地」派の詩人として有名な人だが、短い詩が見つからないので長い詩の紹介になった。
今日、8月26日は田村隆一の忌日であるので、それに因んで彼の詩を載せる。

以下は、彼を敬愛する人・山田耕平氏のサイトを転載する。
ここには、年譜と、いくつかの面白いエピソードも書かれている。

言葉のない世界

このページは,詩人・田村隆一氏の業績を研究・紹介するため,個人的に作成したものです。
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年譜
田村氏の死に関する各氏のコメント
このページの作者(山田)の感想
田村隆一氏のサイン
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年譜

1923年 3月18日,北豊島郡巣鴨村字平松に生まれる。家業は「鈴む良」という鳥料理専門店。
9月1日,関東大震災。母に抱かれて裏の竹薮に避難する。
1929年 仰高西尋常小学校に入学。
1935年 東京府立第三商業学校に入学。
1938年 西脇順三郎『Ambarvalia』を読む。級友とともに企画し,詩誌「エルム」創刊。
1939年 中桐雅夫編集の「ル・バル」に参加し,鮎川信夫,森川義信,衣更着信,
三好豊一郎,牧野虚太郎等と知り合う。また,春山行夫,村野四郎,上田保,
近藤東共同編集の「新領土」の会員になる。
1940年 府立第三商業学校を卒業,東京瓦斯への就職を取りやめ,神田研数学館に通うが,
やがて「ル・バル」同人と新宿の飲み屋で語らうようになる。
エリオット『荒地』を原文で読む。
1941年 明治大学文芸科に入学。小林秀雄,長与善郎から学ぶ。「新領土」終刊。
1942年 森川義信,鮎川信夫,中桐雅夫らが召集される。「詩集」(「ル・バル」改題)が終刊。
1943年 文科系学生の徴兵猶予が停止され,豊島公会堂で徴兵検査を受ける。
横須賀第二海兵団に入団。海軍二等水兵を命じられる。
1944年 土浦海軍航空隊,鹿児島海軍航空隊を経て,滋賀海軍航空隊に配属。
予科練の教官となる。
1945年 陸戦隊に編入となり,若狭湾防衛にあたる。9月,京都から東京へ復員。
1946年 「日の出書房」という出版社で絵本の編集をする。
「純粋詩」十号に詩「坂に関する詩と詩論-一九四六年秋」および「出発」を発表。
1947年 4月,第一回純粋詩人賞作品賞受賞。9月,「荒地」創刊。
1948年 6月,「荒地」終刊。
1951年 『荒地詩集一九五一』に「腐刻画」「黄金幻想」「冬の音楽」「皇帝」などを収録。
この『荒地詩集』は年刊アンソロジーとして1958年まで続く。
1952年 『荒地詩集一九五二』に「立棺」などを収録。この年より4年間,早川書房に勤務し,
江戸川乱歩,植草甚一の協力のもと,ハヤカワ・ポケット・ミステリの編集にあたる。
みずからもアガサ・クリスティーなどを翻訳する。
1956年 3月,処女詩集『四千の日と夜』刊行。
1958年 大塚から北区中十条に転居。
1960年 「ユリイカ」に「若い荒地」の連載をはじめる。9月,保谷へ転居。
1961年 この年より3年間,群馬県の山荘で過ごす。
1962年 第二詩集『言葉のない世界』刊行。
1963年 4月,第六回高村光太郎賞受賞。
1965年 新宿区西落合に転居。長詩「腐敗性物質」成る。
1966年 3月,戦後20年間の全作品を編んだ『田村隆一詩集』を刊行。神奈川県伊勢原に転居。
1967年 第三詩集『緑の思想』刊行。12月,アイオワ州立大学客員芸術家として渡米。
「この国には,真の意味の階級がない。金があるか,ないかでクラスが決まってしまう。
したがって,アメリカでは金がないということは悪そのものです。」(「アメリカからの手紙」)
1968年 1月,思潮社現代詩文庫の第1回として『田村隆一詩集』刊行。
5月,アメリカからの帰国後,三鷹市大沢に転居。10月,『若い荒地』を刊行。
1969年 季刊誌「都市」の編集にあたる。渋谷参宮橋へ転居。『詩と批評A』刊行。
1970年 春,初台へ転居。9月,鎌倉材木座海岸へ転居。『詩と批評B』刊行。
1971年 3月,「アメリカ詩人アカデミー」の招きにより谷川俊太郎,片桐ユズルとともに渡米。
アメリカ各地で詩の朗読会を開く。ニューヨークにW・H・オーデンを訪ねる。
11月,鎌倉稲村ヶ崎へ転居。12月,自撰詩集『腐敗性物質』刊行。
1972年 12月,『詩と批評C』刊行。
1973年 3月,詩集『新年の手紙』刊行。5月,『詩と批評D』刊行。
同月,「ユリイカ」で田村隆一特集号。10月,月刊誌「旅」の依頼でインド旅行。
1974年 父友次郎,79歳で没。
1975年 3月,エッセイ集『ぼくの遊覧船』刊行。同月,二度目のインド旅行。
6月,エッセイ集『青いライオンと金色のウイスキー』刊行。
1976年 2月,インド紀行『インド酔夢行』を刊行。4月,エッセイ集『ぼくの交響楽』『詩人の
ノート』を刊行。5月,詩集『死語』刊行。12月,5冊の既刊詩集と,「恐怖の研究
「腐敗性物質」を収めた『詩集1946~1976』を刊行。
1977年 11月,現代詩文庫『新選田村隆一詩集』を刊行。
1978年 1月,詩集『誤解』刊行。2月,エッセイ集『書斎の死体』刊行。
10月,『詩と批評E』を刊行。同月,エッセイ集『ジャスト・イエスタディー』刊行。
この年,『詩集一九四六~一九七六』で第5回無限賞を受賞。
1979年 12月,「面白半分」臨時増刊号「さて,田村隆一」刊行。
1980年 3月,詩集『水半球』刊行。
1981年 6月,詩集『小鳥が笑った』(挿絵・池田満寿夫氏)刊行。
1982年 4月,詩集『スコットランドの水車小屋』刊行。6月,詩集『五分前』刊行。
1983年 4月,詩集『陽気な世紀末』刊行。
1984年 10月,詩集『奴隷の歓び』刊行。この年,日英バイリンガル詩集”Dead Languages
Selected Poems 1946-1984”をオークランド大学から刊行。
1985年 2月,『奴隷の歓び』で読売文学賞受賞。3月,詩集『ワインレッドの夏至』刊行。
1986年 3月,詩集『毒杯』刊行。
1987年 詩集『ぼくの鎌倉八景 夜の江の電』刊行。
1988年 2月,『詩集一九七七~一九八六』刊行。
1989年 詩集『唇頭の灰』刊行。
1990年 11月,詩集『新世界より』刊行。
1991年 10月,詩集『ぼくの航海日誌』刊行。
1992年 9月,詩画集『Torso』(画・宮崎進氏)刊行。
10月,詩集『20世紀詩人の日曜日』刊行。
11月,詩集『ハミングバード』刊行。
1993年 6月,詩集『灰色のノート』刊行。10月,現代詩文庫『続・田村隆一詩集』,
『続続・田村隆一詩集』刊行。この年,『ハミングバード』で第11回現代詩人賞受賞。
1995年 6月,詩集『狐の手袋』刊行。
1996年 2月,詩集『花の町』(写真・荒木経惟氏)刊行。
1997年 10月,『ロートレック ストーリー』(画:T・H=ロートレック 詩:田村隆一氏)刊行。
1998年 5月,詩集『1999』刊行。6月,日本芸術院賞を受賞。
12月,詩集『帰ってきた旅人』刊行。
8月26日午後11時27分,食道がんのため東京都目黒区の病院で死去。75歳。

注 本年譜では,詩集を中心に収録しました。この他にもエッセイ,
翻訳等多数の著作があります。
参考文献 青木健「田村隆一年代記」(「面白半分」1979年12月号臨時増刊号所収)
建畠晢「年譜-田村隆一」(講談社文芸文庫『腐敗性物質』,1997所収)
高丘卓+稲田智宏「田村隆一略年譜」(田村隆一『スコッチと銭湯』,角川春樹事務所,1998所収)

係累
生涯で五度結婚をした。最初の妻は鮎川信夫の妹。二度目の妻は福島正実のいとこ。岸田衿子は三度目か四度目の妻。最後の妻は田村悦子。
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田村氏の死に関する各氏のコメント

飯島耕一
「モダニズム的な詩と,下町的なユーモアの両面を持っていた。インテリで利口な詩人が多いなかで,型破りでダンディーで,男性的な人柄は貴重な存在でした。」
(毎日新聞1998年8月27日夕刊)
浦田憲治氏 「モダニズムの詩人として生き方もダンディーで粋(いき)だった。どこか”不良少年”の面影があった。長身でおしゃれ,酒飲み,ユーモラスで陽気だった。古典落語の世界と,英米ミステリーをこよなく愛していた。中原中也が灰色のマントなら,田村氏はレインコートがよく似合う詩人だった。」(日本経済新聞1998年8月27日夕刊)
大岡 信氏 「戦後詩最大の詩人の一人。七五調が中心だった戦前の詩と決別した詩は,現代社会に対する鋭い批評にもなっており,衝撃的だった。高踏的な内容を,平易な言葉で表現し,大衆に愛された。」
(朝日新聞1998年8月27日夕刊)
(同氏) 「最後の戦後派詩人を失った。「荒地」派は俗悪な戦後社会に対する批判精神をもっていたが,田村さんはアイドルのおじいちゃんとしてテレビや広告に出るなどして,笑いを込めたユニークな
活躍をされた。これで戦後詩はきっぱり終わった。」(中日新聞1998年8月27日夕刊)

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このページの作者(山田)の感想

 田村隆一氏は長命の家系だから100歳まで生きるはずと思っていました。

 最近古本屋で見つけた『さて,田村隆一』(「面白半分」昭和54年12月増刊号)に,「文明はエロス」と題する金子光晴氏と田村氏の対談(初出は「ピエロタ」昭和45年1・2月号)が載っていて,男色の話に始まって江戸時代の男郎屋,各自の初体験,大正期の噺家,荷風日記などについて両詩人が語っておられるのを,とても面白く読みました。
氏の死を報じた新聞には,

最後に人々の前に姿を見せたのは,今年一月のある雑誌社の新聞広告だった。
『おじいちゃんにも,セックスを』というコピーだった。(朝日新聞)
と書かれていました。その広告を見た事はありませんが,何だか嬉しい気持ちになってきます。思えば金子光晴氏も,年老いてからも街で若いお姉ちゃんをナンパし,一緒にお茶を飲んでいたといいますから,今頃は天国で古今東西エロス談義に違いありません。

 詩人は「路上の鳩」という文章のなかで,C・D・ルイースの『詩をよむ若き人々のために』を導きの糸として,「立棺」というみずからの詩作品の生い立ちについて語っておられます。そのなかで詩人は,鮎川信夫氏や中桐雅夫氏の詩編から「詩の種子」をもらったこと,またそれがみずからの心で知らず知らずのうちに大きく成長していたことの驚きについて触れつつ,こうした作詩過程が説明不可能なものであることを率直に述べています。短いながらすぐれた詩論であると思います。
(「路上の鳩」は現代詩文庫『田村隆一詩集』,思潮社,1968所収)

この詩論の中に,

詩人が自己の感情の歴史のなかに生きているかぎり,彼は思ってもみないことや
感じてもみないことをいかにも意味ありげに,そしていかにも直実そうに書いたり
歌ったりすることはありえないことなのです。

という一文がありますが,これは哲学者スピノザが,

真の観念をもつ者は,同時に自分が真の観念をもっていることを知り,
その真理について疑うことはできない。
(『エティカ』工藤喜作・斎藤博訳,中央公論社,1980)
という文章で言わんとしていることと同じであるといっていいと思います。詩人は,詩が単に個人のでたらめな空想から出発するものでも,ある特定の集団のために書かれるものでもなく,すべての人の「ただひとつの心」に宿るものであって,そこから成長してひとりの詩人の手(=技術)によって確かなものへ鍛え上げられていくものだと言っているのです。

詩人が死去したことは残念ですが,私たちの前にはこれらもくりかえし読み継がれるべき詩が遺されて
います。
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田村隆一氏のサイン
tamura1隆一サイン

いわゆる「自筆サイン本」のもの(山田所蔵)。実物はタテ3センチ,ヨコ2センチ程度です。
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田村隆一の写真を探したが見当たらないので、『花の町』(田村隆一・詩、荒木経惟・写真)(1996/2河出書房新社刊)という本の表紙を出しておく。
なお、Tokira氏の「Aladdin's cock」に関連する面白い記事があるので、ご覧あれ。
ここには新聞に載るコピーではあるが、田村隆一の写真が載っているので、写真は、これにて「代用」させてもらう。
粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦の花咲く・・・・木村草弥
sobaソバの花

  粟谷は山より暮れてゆく辺り
   夜目にも白く蕎麦(そば)の花咲く・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、この歌のつづきに

 窯元へぬかるむ道のつづきけり蕎麦の畑は白とうす紅

 風かるき一と日のをはり陶土練る周囲ぐるりと蕎麦の畑ぞ


という歌が載っている。私の住む辺りは大都会の近郊農村で、平地で、蕎麦は昔から栽培されるのを見たことがない。ということは都会にも近く、かつ温暖で水の便もよく救荒作物である「ソバ」のようなものの世話になる必要のない土地だったということになろうか。
写真①は蕎麦の草を接写したものだが、蕎麦畑の全体像は写真②のようなものである。
buckwheat-6ソバ畑

ソバは夏蒔きと秋蒔きと2回時期があるらしいが、いずれにしても稔るのが早く、2~3カ月で収穫できるらしい。荒地を厭わないので救荒作物として高冷地では広く栽培されたという。
写真③で「ソバの実」をお見せする。
buckwheat-5ソバの実

この写真は、まだ脱穀したばかりで色が白いが時間が経つと皮が黒っぽくなる。この実を臼で挽いて出来るのが「ソバ粉」で、粉に少し黒っぽい色がついているのは、皮が混ざっているためである。

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 山畑や煙りのうへのそばの花・・・・・・・・与謝蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・与謝蕪村

 山畑やそばの白さもぞつとする・・・・・・・・小林一茶

というような昔の句にも詠まれているように、そのさりげない蕎麦の花の風景が愛(め)でられていたのである。
写真④はソバの花を接写したものである。
buckwheat-7ソバの花

今では「そば」と言えば食べるソバがもてはやされて、どこそこの蕎麦が旨いとか、かまびすしいことである。しかし文芸の世界では「蕎麦の花」がもてはやされる。食べる「そば」では実態を描きようがないからである。食べる「そば」は味覚の問題であって、文学、文芸上で描写する対象にはなり得ない。仮に描写することが出来ても、そこから広がる世界、連想、想像を推し量ることには限界がある。
img_22ソバの草

以下、俳句に詠まれた作品を引用しておく。

そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・山口青邨

 浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・杉田久女

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 蕎麦の花下北半島なほ北あり・・・・・・・・加藤楸邨

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山脈の濃くさだまりてそばの花・・・・・・・・長谷川双魚

 蕎麦咲きて牛のふぐりの小暗しや・・・・・・・・中条明

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 月光の満ちゆくかぎり蕎麦の花・・・・・・・・古賀まり子

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・大堀たかを
109地蔵盆

  幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・・大堀たかを

8月24日は地蔵菩薩の縁日、この日の祭りが地蔵盆である。お盆の行事と結合したので地蔵盆という。毎月24日はお地蔵さまの縁日なのだが、上に書いたようにお盆の行事と一緒になって、この日に開かれるようになった。
地蔵菩薩は末法の世の末に46億7000万年かの先に衆生を救いに来ると言われている。特に子供の守り本尊で、写真②のような路傍の地蔵堂のお地蔵さまに、子や孫の順調な生育を願って、涎掛けや頭巾を手縫いしてお地蔵さまに着せる、ということがされる。扉の前に垂れる鈴鳴らしの紐には願をかける子や孫の名前と年齢を書き込むのが普通である。
4-13-3地蔵祠
お地蔵さまはお寺の境内に祠として祀られているものもあるが、多くは町や村の路傍──辻や三叉路などに建っているのが多い。
この地蔵盆という行事は関西、特に京都で派手に催される。京都市内では8月22日頃から3日間、町内の大人たちが総出で接待をする。主役は子供である。
この日には路傍にあるお地蔵さんも祠から出して、町内の集会所あるいは当番の役員宅などに場所を設営して、提灯を飾り、縁日のように金魚すくいなどをする。しかし、基本は宗教的な行事なので「数珠繰り」などを子供たちにさせるなどする。はじめには町内の僧侶が読経をすることになっている。

ji06地蔵盆
写真③では、ちょうど僧が拝んでいる後姿が見える。地域によって祭りの様子は様々である。私の住む地域では町内役員がやっていたが、今では子供会に任せて、収入も一切、子供会のものとして自主財源として使えるように変えた。私の所は田舎であり、京都市内のような大掛かりなことは昔から、しない。開催日も子供会の親の集りやすい、前後の日曜や土曜日にすることが多い。
ji01地蔵盆②

地蔵盆は子供のお祭とはいっても、やはりお地蔵さんを祀る宗教行事の一環であるから、写真④のように「数珠繰り」などもさせる。数珠繰りとは108玉の大きな数珠を「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら手でたぐって廻すものである。写真の中に祭壇に向かって読経する僧の姿が写っている。こういう行事の次第は地域によって違う。
この地蔵盆の費用は、どうするのか、ということだが、町内の各家から「お賽銭」または「お供え」のかたちで何千円かのお金を包んでお供えする。これは町内の戸数によって違うから総額には大きな開きがあるだろう。因みに、田舎だが私の町内(自治会)は現在120戸くらい、私たちの小さい頃は60戸くらいだった。
もちろん地域や大きさによって、まちまちであることは言うまでもない。

掲出の大堀たかをの句の「幻燈」というのは、子供に西遊記の幻燈を見せている場面である。

ji08地蔵盆③
写真⑤は子供の余興で「金魚すくい」をさせているところ。こういうのは専門の露天商を呼んで来て、費用は町内会もちで、子供たちには無料でさせる。
上に書いた「幻燈」などは、教養的要素のものと言える。暑い夏の盛りであるから、かき氷の機械を据えて「かき氷」を振舞うこともあるようだ。
今は少子化の時代であり、小学校も統合、廃校になる時代であるから、こういう地蔵盆の在り方も少しづつ変わってゆくだろう。
今では郊外に新興住宅地も増え、そういう地域では「お地蔵さん」のないところが多いので、そういう地域対象にお地蔵さんの「貸し出し」をするお寺があるそうで、この時期になると新聞、テレビの絶好のニュースとなる。大変な数のお地蔵さんを大小取り揃えてあるそうで、好みの大きさのお地蔵さんを借りてゆくそうだ。時代は変わっても、こういう伝統的な行事とは縁が切れないのが、人間社会の辛いところである。首都圏の人には、こういう風習もないから理解が及ばないことが多かろう。

以下、地蔵盆を詠んだ句を少し引いて終りにする。先に言ったように地域性のある行事なので有名俳人の句は、余り、ない。

 地蔵会や芒の中に灯のともる・・・・・・・・長谷川零余子

 地蔵会や高くひびくは母の鉦・・・・・・・・中村若沙

 さまよへるちさき蛍や地蔵盆・・・・・・・・五十崎古郷

 地蔵盆とみに露けくなりにけり・・・・・・・・河原白朝

 涎掛け取替え在す地蔵盆・・・・・・・・松井蕪平

 両の手の吾が子よその子地蔵盆・・・・・・・・宮城きよなみ

 六波羅はいま陋巷の地蔵盆・・・・・・・・西尾砂穂


六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・・・・・・中田余瓶
bouzu壬生六斎踊②

  六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・・・・・中田余瓶

仏教では1カ月に6つの「斎日」というものがあり、それは8、14、15、23、29日と晦日の6日。これらの日には斎戒謹慎し仏の功徳を修し、鬼神に回向して善心を発起すべきとされた。これが六斎日である。

この六斎念仏踊りという行事は関西それも京都に伝わるもののようであり、これを詠んだ句にも有名人のものはないようである。京都には嵯峨野念仏保存会、壬生六斎念仏などが保存会を結成して保存につとめている。写真①②は壬生六斎念仏の踊りの一場面である。
kumo2壬生六斎踊①

■踊り念仏とは
飢饉や疫病に苦しむ人々を救うこと、念仏を分り易く民衆に伝えることを目的に採用された宗教的手法のことである。

鎌倉期に一遍が開いたという時宗は、この流れに属するが、六斎念仏はそれより前に平安時代に空也が始めたものが源流である。壬生六斎念仏では、空也上人が托鉢に用いる鉢を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えながら市中を練り歩いたという伝承に起源を求めている。嵯峨野、壬生とも空也系だと称し、ほかにも流派があるらしい。
写真③④とも嵯峨野六斎念仏保存会に伝わる木札と無形文化財の指定書である。
fuda六歳念仏札
syojo六歳念仏指定書

■六斎念仏の由来
「六斎」という言葉の文献上の初出は『日本書紀』に持統天皇の5年(691年)2月に公卿らに詔して六斎を行なわしめたという記事がある。
念仏踊りは、いつしか六斎日と結びついて、六斎念仏と呼ばれるようになり、いつごろからか、お盆信仰と深く結びつけられるようになり、今ではほとんどの六斎保存団体が、現在はすっかりお盆行事の一環という位置に定着してしまった。
六斎念仏踊りは8月16日の壬生六斎念仏をはじめとして、地蔵盆の頃に地蔵盆の行事とも結びついて催行されるのが多く、遅くは8月29日催行というのもある。
B035吉祥院六斎踊

写真⑤は吉祥院六斎念仏のもので8月25日午後8時吉祥院天満宮の境内で催行されるという。ここには掲出しなかったが、桂六斎念仏(8月23日奉納)のHPは鳴り物入りで写真も多く詳しいサイトとなっているので、ぜひ見ていただきたい。
ここも地蔵盆の一環という感じである。神社の境内で催行というのも神仏習合で面白い。

先に書いたが、六斎念仏は京都を中心とする地域性が強く、詠まれた句も多くはないが、以下に書き抜いておきたい。

 清水の舞台灯すや六斎会・・・・・・・・水茎春雨

 六斎や身を逆しまに打つ太鼓・・・・・・・・高崎雨城

 六斎や久世も桂も盆休み・・・・・・・・中嶋黒洲

 息合ひて六斎太鼓乱れ打ち・・・・・・・・つじ加代子

 六斎は太鼓を抛りあげにけり・・・・・・・・田中告天子


谷内修三「詩はどこにあるか」─「風力分級」評・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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楽市66号

「楽市」66号に発表した私の詩「風力分級」について、谷内修三氏がネット上で評を載せていただいたので、下記に引用しておく。私の詩についての当該個所のみ。
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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」

2009-08-22 00:44:32 | 詩(雑誌・同人誌)木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」(「楽市」66、2009年08月01日発行)

 知らないことを読むのはとてもおもしろい。そして、私のようなずぼらな人間は知らないことがあると、それについて調べるのではなく、知らないことの中にある「知っていること」(わかっていること)、いや正確にいうと知っていると思っていること、わかっていると思っていることを中心にして「誤読」へ踏み込み、そこで勝手に「わかった」と自分だけで喜んでしまうのである。
 木村草弥「風力分級」は蟻地獄のことを延々と書いている。そこには「感想」というよりも事実が書いてある。(たぶん。)そして、その事実は専門的なことなので、私にはわからないことばがある。
 蟻地獄は、粒揃いでない荒地でどうやって巣(わな?)をつくるか。粒揃いになるように「整地」するのだそうだ。そして、そのとき「風力分級」という作業をする。


<風力分級の極意をアリジゴクに学ぶ>など考えてもみなかった。
つまりアリジゴクは整地作業をする際に砂を顎の力で刎ね飛ばすのだが
その際に「風力分級」という「物理学」を応用するのである。


 「風力分級」というのは風の力を利用して「ふるい」にかけるようなものなんだろうなあ。軽いものは遠くへ飛んで行く。重いものは近くに落ちる。それを利用して、自分にふさわしい砂(罠にふさわしい砂)を集める。うーん、アリジゴクのことを思うと気が遠くなるけれど、きっと、そういうことなんだろう。
 木村さん、あっています? 間違っています? 間違っていた方が、私はうれしい。
 どんな間違いであっても、その間違いさえも土台にしてことばう動いていける。間違っていた方が、とんでもない「思想」にたどりつけるからね。バシュラールは想像力を「ものを歪める力」と言ったような気がするが(あっています? 間違っています?)、このものを歪めてみる力の中にこそ、「思想」がある--と私はまたまた勝手にかんがえているので……。
 そして、このアリジゴク。成長する(?)とウスバカゲロウになるのだけれど、巣(罠)のなかにいる間は、糞をしないそうである。巣が汚れるのがいやだからだそうである。(アリジゴク語、ウスバカゲロウ語で聞いたのかしら?)そして、羽化してから、「二、三年分の糞を一度に放出するらしい。」(ああ、よかった。やっぱり、見えることを手がかりに、想像しているだけだね。--私のやり方と同じ、…………じゃないか。私は、ことばを勝手に「誤読」するのであって、事実を観察して、そこから推論を築いているわけではないから。)
 というようなことを、書いてきて、突然、最終連。


何も知らなかった少年は
年月を重ねて
女を知り
<修羅>というほどのものではないが
幾星月があって
かの無頼の
石川桂郎の句--《蟻地獄女の髪の掌に剰り》
の世界を多少は判る齢になって
老年を迎えた。


 あ、あ、あ。「女を知り/<修羅>というほどのものではないが/幾星月があって」なんて。小説(私小説)なら、その<修羅>を綿密に描くのだけれど(最近、詩でもそういうことを書いたものを読むけれど)、その肝心なこと(?)は書かずに、アリジゴクにぜんぶまかせてしまっている。
 きっと、そのなかには木村独自の「風力分級」があり、何年も糞をこらえているというようなこともあったんだろうなあ。(触れて来なかったけれど、途中に水生のウスバカゲロウの「婚姻飛翔」についての説明もあるのだ。)
 まあ、これは私の勝手な想像だけれど、この瞬間、アリジゴクの生き方が木村の「思想」そのものに見えてきて、とても愉しい。笑いたくなる。陽気になる。(申し訳ないけれど。)きっと、女との「修羅」を具体的に書かれても、これほどまでにはおもしろくないだろうと思う。女のことを書かずに、アリジゴク、ウスバカゲロウを科学的(?)に書くということの中にこそ、木村の「思想」がある。女、その修羅については、「科学的」には書けない。だから、書かない。書けることを(知っていること)を積み重ねて、その果てに、これは女と男の世界のことに似ているなあ、とぽつりと漏らす。その瞬間に、木村の「肉体」が見えてくる。
 私は、こういう作品が好きだ。

みづがめ座われのうちらに魚がゐてしらしらと夏の夜を泳げり ・・・・・・・・・・・・木村草弥
yun_1311エイ

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐて
   しらしらと夏の夜を泳げり・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
西洋占星術でいう星座の分け方によると、私は2月7日生まれなので、「水瓶座」ということになる。
占星術については、2004年の夏にFrank Lloyd Wright 氏の発案で「インド占星術」を中心に10回ほど日本、中国、インドなどの暦などについて書いたことがある。
この頃では、週刊誌などにも「占い」「運勢」のページがあって、それらはいずれも西洋占星術の星座表に基づいている。書いてあることは、当り障りのないことで、さして「占い」とも言えないようなものだ。
しかし、一応は自分の星座表くらいは知っていても邪魔にはならない、という程度の代物かなと思う。
星座表は古代ギリシアで、ほぼ出来上がった。
ギリシア神話の「みずがめ座」Aquariusの由来というのは、こんなものだ。
・・・・・トロイの国にガニメデという羊飼いの美少年がいた。天上から見た大神ゼウスは一目でガニメデを好きになってしまい、ゼウスは鷲に姿を変えてガニメデをさらってしまった。みずがめ座は、この美少年ガニメデを表している、と言われる。・・・・・

「水瓶」についていうと「甕」という字も使うが、昔は今のように水道があるわけでもなく、水汲みも大変だったので、「水瓶」が使われた。写真②のような大きなものなど、いろいろあったようだ。
yun_2245水瓶

私の歌だが、着想というか連想というのは単純なもので「みづがめ座」→「水」→「魚」ということから、このような歌が生れた。魚の読み方「いを」は古語の読みである。
水瓶座とかいう季語はないので、もう少し先になるが「星月夜」の季語による句を引く。

 われの星燃えてをるなり星月夜・・・・・・・・高浜虚子

 子のこのみ今シューベルト星月夜・・・・・・・・京極杞陽

 星月夜生駒を越えて肩冷ゆる・・・・・・・・沢木欣一

 星月夜白き市門のあらびあ海・・・・・・・・角川源義

 寝に戻るのみの鎌倉星月夜・・・・・・・・志摩芳次郎

 星月夜小銭遣ひて妻充てり・・・・・・・・細川加賀

 中尊寺一山くらき星月夜・・・・・・・・佐藤棘矢

 鯉はねて足もとゆらぐ星月夜・・・・・・・・相馬遷子

 星涼し樅のふれあふ音かさね・・・・・・・・星野麦丘人

 星月夜ひとりの刻は沖を見る・・・・・・・・高橋淑子



法師蝉去んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ ・・・・・・・・・・・・木村草弥
tukutukuつくつくぼうし

  法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくは
   はかなきいのちこそ一途(いちづ)なれ・・・・・・・木村草弥


法師蝉というのはつくつくぼうしのことである。こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
ただしWeb上では自選50首には入れていないので、ご覧いただけない。

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」という。鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

 高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

 法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

 また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

 法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

 飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

 繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

 つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

 我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

 山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

 法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

 島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

 法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

 法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

 くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

 黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情のよすがとやせむ ・・・・・・・・・・・木村草弥
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

  月見草ほのかなる黄に揺れをれば
   けふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものだが、「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。
太宰治が

<富士には月見草が、よく似合う>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・文挟夫佐恵

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車


星に死のあると知る時、まして人に快楽ののちの死、無花果熟す  ・・・・・・・・・・木村草弥
fig01いちじく木

  星に死のあると知る時、まして人に
   快楽(けらく)ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥


無花果(いちじく)はアラビア原産で、江戸時代に日本に入ってきたという。
私の住む辺りでも、田圃に畔(くろ)を作って土を盛り上げ、無花果を作っている。無花果と書くが、花がないわけではなく、これは中国名のインジェクフォが訛って、こうなったという。
イチジクの木は放置すると3メートルから6メートルにも達する落葉喬木であるが、
日本では栽培する木は収穫し易いように1メートルくらいの高さで枝を横に整枝する。
実は新しい枝に生るので、冬には徹底して旧徒長枝を切り詰める。

fig11いちじく木②

写真②のように多くの実が生るが、生育のよいものを残して摘果する。八月下旬頃から実が熟しはじめ10月頃まで生る。軟弱果実であり、痛み易い。
アラビア原産ということだが、アダムとイブが蛇にそそのかされて「禁断の木の実」を食べたというのが、このイチジクである。事実、中東ではイチジクが多い。向うも暑い土地なので、生食というよりも「乾燥いちじく」として多くが売られている。

itijikuzaruドライいちじく

写真③が乾燥させたイチジクである。ギリシア、トルコ、イスラエルなどに行くと、いたるところで売られている。フニャフニャに柔かくはなく、噛み応えのあるドライフルーツである。日本にもドライいちじくの形で輸入されている。品質にはピンからキリまであり、一流の取り扱い店のものは、おいしい。私も向うへ行ったときは何度も買って帰った。

掲出の歌は、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。

d020701aいちじく

写真④が箱詰めされて商品として出荷される生イチジクである。生食としては1、2日しか日持ちしない。熟しすぎたものはいちじくジャムとして食べても、おいしいものである。

以下、歳時記から無花果の句を引いて終りにする。

 無花果の古江を舟のすべり来し・・・・・・・・高浜虚子

 乳牛に無花果熟るる日南かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 いちじくのけふの実二つたべにけり・・・・・・・・日野草城

 無花果のゆたかに実る水の上・・・・・・・・山口誓子

 天地(あめつち)に無花果ほどの賑はひあり・・・・・・・・永田耕衣

 雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・桂信子

 蜂が吸ふいちじく人は瞬時も老ゆ・・・・・・・・細見綾子

 無花果や目の端に母老いたまふ・・・・・・・・加藤楸邨

 無花果や永久に貧しき使徒の裔・・・・・・・・景山旬吉

 無花果にパンツ一つの明るさ立つ・・・・・・・・平畑静塔

 無花果食べ妻は母親ざかりなり・・・・・・・・堀内薫

 日本海黒無花果に無言なり・・・・・・・・黒田桜の園


挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・石塚友二
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  挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・・・・・・・・石塚友二

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の石塚友二の句は、そういうカマキリの特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天
「日蓮と法華の名宝展」によせて・・・・・・・・・・・木村草弥
日蓮展

先日、八月七日の早朝、お盆の祖霊迎えのために菩提寺に「水供」の塔婆を賜りに行った際に、
「日蓮と法華の名宝展」という、掲出の画像のようなパンフレットを渡された。
京都国立博物館で10月10日~11月23日まで開催される。
その説明文に

<鎌倉新仏教の一翼を担った日蓮の足跡を辿り、
 その門下の活躍、特に孫弟子にあたる日像の京都布教以降、
 公家文化と並ぶ町衆文化の形成に果たした日蓮諸宗の大きな役割を紹介します。
 狩野元信や長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、
 こうした近世日本美術の潮流を築いた京都の芸術家たちが、
 皆、法華の信者だったことは驚くべきことではないでしょうか。・・・・・>

と書かれている。
私は、初めて聞くことで、蒙を啓かれたのだが、彼ら法華信者たちに、新しいものへの、ふつふつと滾るものがあったのであろう。
昨日の「大文字の送り火」にも北山の「妙法」の二字があったが、これも当地の法華信者の手によるものである。
私事になるが、私宅の宗派も日蓮宗(身延山)で、私たちの周辺は皆「浄土宗」が殆どで、私たちの一族も元は浄土宗に属していたが、幕末に布教があって、私たちの一族は、まとまって日蓮宗に改宗したのであった。今でも菩提寺の墓には浄土宗の名号を刻んだ墓碑があって、改宗に当って移築したことを物語っている。
私宅の一族は、木津川回船業に携わってきたので、根っからの商家と言える。
明治になって、大口の輸送が鉄道貨物に取って代わられたので川船便は廃れ、茶業に手を出していた私宅を除いて、本家筋もみな離散して今では音信不通のところも多い。
「日蓮展」のパンフレットからの連想である。

薮入や皆見覚えの木槿垣・・・・・・・・・・・・・正岡子規
2_薮入り

  薮入や皆見覚えの木槿(むくげ)垣・・・・・・・・・・正岡子規

「やぶいり」というのは、旧暦の7月16日に奉公人が休暇をもらって家に帰り親に会うことが出来る日である。正月16日にも薮入りがあるので、この日を「後の薮入り」というのが正式である。
掲出の絵は大阪の記念館で展示する薮入りのひとコマで、お内儀に頭を下げて丁稚が帰ってゆくところである。昔は奉公人の休みは1カ月に一日、十五日の二日だけであり、年端の行かない幼い丁稚たちにとって、親に会えるのは、一年に「薮入り」の日二回だけだった。と言っても遠方から勤めに来ている者にとっては、それもままならぬことだったろう。
karamo薮入り

二番目の写真も展示の商家の風景である。

関西では、今でも8月16日は「薮入り」の日と呼ぶ。丁稚たちの実家帰りの風習は薄れたので、他所に暮らしている子供たちが家に帰ってくる日とされる。もっとも、今では、こんな風に日を決めて帰ってくるというのではなく、勤務先の休暇の都合や土曜、日曜に引っ掛けて帰ってくるのが普通である。それでも「今日は薮入りやなぁ」と言ったりする。先に書いたように8月15日のお盆前後は、日本の特異日であって、民族の大移動の時期で、その中に「薮入り」の日も含まれる。

kamado薮入り

三番目には、これも直接に関係はないが、昔の台所には、こういう「かまど」があったということで出してみた。京都では「へっつい」さん、などと呼ぶ。日本は八百万の神さんの居る国だから、「かまど神」も当然いるわけで、朝晩には灯明をあげ、ご飯を供えるのである。

──中元ということについて──

もともとは、中国の「三元」という考え方があり、上元が1月15日。中元が7月15日。下元が10月15日と称した。元というのは「はじめ」のことで、一年を三分して考えたのである。本来は天の神を祀る中国の風習が、かの地でも、中元は節供にあたるものとなり、それが日本に入って贈答習俗と変わったのである。「中元」という言葉自体が変化してしまい、「お中元」という贈答の中元になってしまった。
8月は、本当に行事が多くて、書くことはいろいろあるので、今回は「薮入り」と「中元」の二つを同時に書くことになった。
以下に「薮入り」と「中元」の句を引いて終りにしたい。

 薮入して秋の夕を眺めけり・・・・・・・・松瀬青々

 薮入り子の窺ふや萩薄・・・・・・・・松瀬青々

 薮入の姉の下駄履き野菊摘む・・・・・・・・南南浪

 薮入に実生の桐の育ちかな・・・・・・・・菊地赤水

 薮入や彩あでやかにアロハシャツ・・・・・・・・吉田北舟子

 盆礼に忍び来しにも似たるかな・・・・・・・・高浜虚子

 盆礼やひろびろとして稲の花・・・・・・・・高野素十

 中元や老受付へこころざし・・・・・・・・富安風生

 中元の使患者にまじり来る・・・・・・・・五十嵐播水

 母居ぬ町に手受けて中元広告紙・・・・・・・・中村草田男

 中元の新聞広告赤刷に・・・・・・・・上野泰

 中元や萩の寺より萩の筆・・・・・・・・井上洛山人


大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・・・与謝蕪村
dai2002大文字

  大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・・・・与謝蕪村

8月16日には各家庭に還っていた御魂が送り火に送られて、あの世にお帰りになる。
京都では、各家庭で送り火を焚くことはなく、東山の如意ケ岳で行なわれる「大文字」(だいもんじ)の巨大な送り火に代表させて焚くことになる。この山は通称・大文字山と言われ、多くの奉仕する人々の力によって毎年おこなわれる。
この日は山腹に薪を焚く石の台座が据えられ、薪を井桁に組んで積み上げ午後8時を期して点火する。この「大」の字は第一画73メートル、第二画146メートル、第三画124メートル。字画に沿って4メートル間隔に75個の穴を掘り、松の薪を使用する。松は火付きがよいからである。
この行事は慶長年間からはじまったという。
この後に8:10分に松ケ崎の「妙法」、8:15に西賀茂正伝寺の「船形」と金閣寺のうしろ山の「左大文字」、8:20に洛西曼陀羅山で「鳥居形」の順に間隔を空けて、火をつけてゆく。
京都の街は東山、北山、西山と三方を山に囲まれ、南は加茂川が流れる地形のように開けている。
火は東山から北山、西山と順に移ってゆくのである。掲出した写真のうちに「左大文字」はない。
「左大文字」は「大文字」の真向かいにあたり、字体も「大文字」の反対の書き方と考えてもらえば判りやすい。

myo2002妙

hou2002法

「妙」「法」は横に並んで一体となっている。
これらの山それぞれには別々の「火の講」があり、真剣な宗教的行事のようなものと考えれば理解しやすい。
知らない人は「大文字焼」などということがあるが、これは、あくまでも盆の送り火という宗教的行事であるから、間違った呼び方はしてほしくない。

写真④は「船形」である。
fune2002船形

点火される薪の湿り具合とか、いろんな要素のために火床にも場所によって火の勢いに違いがあり、それがまた趣きのあるところである。
先に言ったように10分から15分づつずらして点火されるから、当然、最初に点火された「大文字」と、後から点火されたものとは火勢に違いが出てくる。
そういう火色の違いを眺めるのも面白いものだ。昔は今のような高層建築がなかったから、市内のどこからでも見られたが、今では高層ビルの屋上でなければ見られない。

torii2002鳥居形

「鳥居形」は愛宕山と言えば分りやすいだろう。曼陀羅山というのは愛宕山の支峰である。愛宕山は火伏せの神として「火の用心」の神様で、古来、京都市民は交代で月参りをして火災からの鎮撫を祈ってきた山である。愛宕山の上り口には鳥居が建っており、鳥居形は、それに因んだものかも知れない。鳥居形が点火されるまでに、この間30分。京の三山は火の色に彩られる。

京都の夏は初夏の葵祭に始まり、七月の祇園祭を経て、このお盆の大文字の送り火で、ひと夏を送ることになる。千年余の都として、これらの行事は、いずれも大がかりなもので、さすがに王朝の首都としての貫禄に満ちている。さればこそ、古来、先人たちは詩歌に詠んできたのである。

掲出した蕪村の句も琵琶湖(近江)から見れば、京の空が真っ赤に染まって、ただならぬ様子であろうと詠んでいるのである。
以下、大文字を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 いざ急げ火も妙法を拵(こしら)へる・・・・・・・・小林一茶

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・山口誓子

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ・・・・・・・・森澄雄

 筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・岡本眸

 大文字消えなんとしてときめける・・・・・・・・佐野青陽人

 大文字畦の合掌に映えゐたり・・・・・・・・米沢吾亦紅

 はじめなかをはり一切大文字・・・・・・・・岩城久治

 一画もおろそかならず大文字・・・・・・・・田中千鶴子

 さびしさのことにも左大文字・・・・・・・・藤崎さだゑ
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2007年はNHKが全国に「京都の五山の送り火」を75分にわたって中継の放映をした。この送り火が宗教行事であること。また、これを維持管理するのに、各送り火ごとに特色のあること、などを採り上げた。おおむね妥当な、いい放映だった。
また地元の京都新聞夕刊は、同年の8/6~11まで「五山の送り火」と題する特集記事を6回にわたって掲載した。内容はNHKが解説で採り上げたのと同様だったが、「火」を支える「人」の面から詳しく取材されて、時宜を得たいい記事だった。

大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

  大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。

迎へ火やをりから絶えし人通り・・・・・・・・・・・久保田万太郎
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  迎へ火やをりから絶えし人通り・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

盂蘭盆会(うらぼんえ)は旧暦7月13日から16日まで行われる祖先の魂祀りの行事である。東京などでは新暦の7月にするところがあるが、全国的には旧暦に近い月遅れの8月15日に行われ、この前後を休暇とする企業が多い。
しかも、この前の世界大戦の終戦日が8月15日となったので、すべてのものが一時に集中する特異日となった。

仏壇前に先祖迎えのための霊棚を作り、野菜などを供え、ナスの牛、キュウリの馬を割り箸などで作って供える。先祖の御霊はキュウリの馬に乗って還り、16日にはナスの牛に乗って、ゆっくりと、あの世にお帰りになる。ナス、キュウリの由来については、このように説かれている。

13日の夕方、門口で迎え火を焚く。掲出の万太郎の句は、その情景を詠んだものである。もちろん各地で風習が異なるから、いくらかの違いはあるだろう。
私たちの地方では、門先での「迎え火」を焚く習慣はない。その代りに、住まいのある「在所」の入口の道の最寄りの場所に出向いて線香を焚く。その煙に乗って祖霊が家にお帰りになるという。もっとも現在では、車の往来も激しいし、そんな風習も廃れて、菩提寺に参詣して、盂蘭盆会供養のご祈祷をした「塔婆」などをいただいて家に持ち帰る。
写真①は霊棚の一例。写真②は盆提灯の一例である。その年に新仏が出た家では親戚が提灯をお供えする。
bon-choutin-150-2盆提灯

8月1日のBLOGで「睡蓮」や花蓮のことを書いた中で、私のところでの花栽培農家の「お盆用の花ハス」の出荷のことに触れたが、8月上旬から出荷がはじまり、ハスの花のつぼみと、花の咲いたあとの「萼」(がく)、それにハスの葉、の三点セットを花屋やスーパーなどで買い求めて仏壇に飾る。ハスはお釈迦様がお座りになる花の「うてな」という意味であり、また仏教とハスの花は信仰を彩るものとして切り離せないものである。

bon盆踊り
8月に入ると各地で「盆おどり」が行われる。開かれる日は村によって決っており、遅くは9月1日に「八朔」の行事の一環として催される。京都には京都おどりというようなものはなく、「江州音頭」による踊りが一般的である。むろん都会では、いろいろの踊りがごちゃ混ぜに踊られる。

ここで盂蘭盆会の由来について、少し書いておきたい。
この行事は、安居(あんご)の最後の日で、7月15日を盂蘭盆(サンスクリット語でullambana)と呼んで、父母や祖霊を供養し、倒懸の苦を救うという行事。
近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だという説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば可能性が高いという。

中国での盆会
盂蘭盆の中国での起源は古く『仏祖統紀』という本では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝みずから同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日を中元と言って、先祖に供え物をし、灯籠に点火し祖先を祀る風習によってであろう、と言われる。

日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、4月8日と7月15日に斎を設ける、とあり、また斉明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西に作って盂蘭盆会を設けたとされ、聖武天皇の天平5年7月(733年)には大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行われ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」をあわせて行なった。
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ここで盂蘭盆あるいは迎え火、門火などのお盆にまつわる句をあげたい。

 盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙・・・・・・・・・・・・・正岡子規

 あをあをと盆会の虫のうす翅かな・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 くちなはのしづかに失せし魂祭・・・・・・・・・・・・・山口誓子

 もの食(た)ぶも食ぶるを見るも盆あはれ・・・・・・・・・・・・・中村草田男

 としよりのひとりせはしきお盆かな・・・・・・・・・・・・・森川暁水

 盆過ぎの墓地の寧けき暗さかな・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

 かの世より父来る盆の帽子掛・・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 迎火は草の外れのはづれ哉・・・・・・・・・・・・・小林一茶

 迎火やほそき芋殻を折るひびき・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

 門火焚き終へたる闇にまだ立てる・・・・・・・・・・・・・星野立子

 迎火を女ばかりに焚きにけり・・・・・・・・・・・・・高野素十

 迎火や母つつみ去る風少し・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎

 おほわだの父呼ぶ芋殻焚きにけり・・・・・・・・・・・・・板東紀魚
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nasuナスの馬

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中に、こんな歌を載せた。

紺しるき茄子に黍がらの脚さして死者の乗る馬つくる盂蘭盆・・・・・・木村草弥

この歌を作った後に、先に書いたような「祖霊迎え」の際の「キュウリの馬」、お帰りの際の「ナスの牛」という謂れを知ったので、正しくは「死者の乗る牛」でなければならないことが判ったが、そのままにしておく。

諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな・・・・木村草弥
0405_p1_1赤い月

  諍(いさか)ひて朝から妻にもの言はぬ
   暑い日なりき、月が赤いな・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せた歌である。
「諍い」とは「口げんか」のことを言う。この歌は上4句までは、すらすらと出来たが、結句の7音がなかなか出来なかったので、半年ばかり放置してあったが、何かの拍子に、この言葉が見つかり、くっつけた。私自身でも気に入っている歌である。
この歌は『茶の四季』の「族の歌」でWeb上でもご覧いただける。

「赤い月」というのは、月が出始めの低い位置にあるとき、または月の入りで西の空低くにあるときに、地球の表層の汚れた空気層を通過するときに、空気に含まれる塵の作用で、赤く見えることがある。月が中空にあるときには、めったに赤い月にはならない。

この歌は、妻と口げんかして、お前なんかに口もきくものか、とカッカしている気分のときには頭に血がのぼっているから、赤い月が見えたというのは、絶好の舞台設定で、ぴったりだった。歌作りにおいては、こういう、時間を置くことも必要なことである。一旦、作った歌でも、後になって推敲して作り直すということも、よくある。
妻亡き今となっては、懐かしい作品になった。 ここで、この歌を含む一連を引いておく。

 月が赤いな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

路地裏の畳屋にほふ鉾町へしとどに濡れて鉾もどりけり

ガラスを透く守宮(やもり)の腹を見てをれば言ひたきことも言へず 雷鳴

諍ひて朝から妻にもの言はぬ暑い日なりき、月が赤いな

手花火が少し怖くて持ちたくて花の浴衣(ゆかた)の幼女寄り来る

手花火の匂ひ残れる狭庭には風鈴の鳴るほど風は通らず

機械音ふつと止みたる工場に赫、赫、赫と大西日照る

季節の菓子ならべる京の老舗には紺ののれんに大西日照る

秋季リーグ始まりにつつ球(たま)ひろふ明日の大器に大西日照る

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掲出の「赤い月」の写真はWeb上で拝借したものだが、撮影者の名前(市川雄一)や撮影日時が明記されており、著作権は撮影者にあることを言っておきたい。この写真の場合の「赤い月」は皆既月蝕という特殊な環境下での赤い月である。

妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・・・鷹羽狩行
natuama天の川②

  妻と寝て銀漢の尾に父母います・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

「天の川」は一年中みえるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。夏から秋にかけて、写真のように起き上がり、仲秋には北から南に伸び、夜が更けると西の方へ向かう。「銀漢」とは「天の川」のことである。

天の川の句としては芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」などの秀句があるが、敢えて、この句を選んだ。
折りしも、月遅れのお盆であり、父母を偲ぶにはよい句である。
「います」は尊敬語であり、「坐す」「在す」であって接頭語「い」+「ます」─「いらっしゃる」の意味。古語辞典には用語の例もあがっているが省略する。

天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。
『万葉集』に山上憶良の歌

  天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな

の歌が、古くからあり、美しさと星合の七夕伝説とが結びついてイメージされている。
以下、歳時記に載る天の川の句を引いておく。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・・・・・正岡子規

 虚子一人銀河と共に西へ行く・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・夏目漱石

 天の川人の世も灯に美しき・・・・・・・・・・・・沼波瓊音

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・・・・・臼田亞浪

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・・・・・石田波郷

 けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・・・・・石塚悦郎

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この句とは直接の関係はないが、私はこんな歌を創ったことがある。
(第四歌集『嬬恋』所載)

わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける・・・・・・・・・・・木村草弥

銀河からの連想であるが、今しもペルセウス流星群の活動の激しい時期である。


石原結実・「房事と健康」・・真夏の夜の夢・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──初出・Doblog2005/08/19

  石原結実・「房事と健康」・真夏の夜の夢・・・・・・・木村草弥

ダイナースクラブの会員誌「シグネチャー」2005年8月号を読んでいたら医学博士・石原結実氏が「房事と健康」という題で1ページの記事を書いておられる。
今日は目先を変えて、この記事に即して少し書いてみたい。
現代社会は「ストレス」が多いが、それらのストレスを解消するのに「セックス」行為、つまり房事が極めて有効であることは、以前から識者は指摘してきたことである。

今回の記事で石原氏は、統計的な数字を引いておられる。
少し引用してみよう。
・・・・・既婚者の場合の規則正しい夫婦生活(房事)も、健康・長寿の大きな要素になるようです。
イギリスのブリストル大学の研究者らは、45~59歳の男性900人を対象に10年間調べたところ、「1週間に2回以上オルガスムスがある人たちの死亡率は、月に1回もオルガスムスのないグループの死亡率に比べて半分であった」と発表しています。
スコットランドのロイヤル・エディンバラ病院のデービス・ウィーク博士は、20歳から104歳までの欧米人、1750組の夫婦を10年間経過観察したところ「週3回、房事をする夫婦は、心身の機能のバランスがとれ、実年齢より10歳若く見える」ことがわかったとのこと。その理由として「女性はオルガスムスで新陳代謝が活発になる」「男は同じくテストステロン(男性ホルモン)の分泌が促され筋肉が強化される」ことをあげています。・・・・・

セックスがストレスの解消に有効だというのは、オルガスムスに達した時に大脳から分泌されるオピオイトという物質に「鎮静作用」があるからだと言われている。
その他にも房事が病気に対する抵抗力を高めることも指摘されている。

・・・・・アメリカの研究者らも「週1、2回の房事はIgA(免疫グロブリン)の血中レベルを上昇させ種々の病気に対する抵抗力を高める」ことを実験で明らかにしています。
かくのごとく、結婚して夫婦が一緒に暮らすこと、またその根源的な営みである夫婦生活(房事)が夫や妻の健康・長寿にとって極めて大切であることがわかりますね。・・・・・
・・・・・最近、イギリスのコンドーム・メーカーのデュレックス社が、世界各国の世論調査機関に委託して出した「年間のセックスの平均回数」は
 米国人・・・・・124回
 ギリシァ人・・・・・117回
 南アフリカ人・・・・・115回
 中国人・・・・・72回
 日本人・・・・・36回
という結果が出ています。これを見ると、日本人の回数が世界最少。世界の平均回数は96回であるとのこと。
最近、日本の夫婦の間でも、特に若年の夫婦の間にセックスレスが増加していることが社会問題化していますが、こういう点も、今後の日本人の健康が危ぶまれる一要因かも知れません。・・・・・・

長く引用しすぎたかも知れないが、これらのことは以前から言われてきたことで、石原博士は、統計的な数字を示して指摘されたわけである。
私の知人で太極拳の指導者として本場中国にも度々行っている人がいるが、中国本土だけでなく、台湾、香港などの中華圏に行くと、朝はやくから公園、空き地には大勢の人が集まって太極拳をしているが、概して老人が多い。その人の言うには「木村さん、その時間が老人と同居している若夫婦にとってのセックスタイムなのですよ。」というのである。私が勝手に言うのではなく、太極拳の指導者という人が言うのだから、説得力があるだろう。老人が太極拳に励む間に、若夫婦は房事に励んでストレスを発散し、夫婦の絆を強める、というわけである。世の中、うまく出来ている。

先ほどのセックス回数のデータを見ると、アメリカ人は3日に1回のペース、日本人は10日に1回のペースということになる。これを見ると、10日に1回というのは、いかにも少ない、と言え、博士のいうセックスレスの危機ということも切実に感じることが出来る。
私の身近の夫婦が最近離婚したが、その理由が夫の側の長期間にわたる「セックスレス」が原因だと聞いた。その女の人は、浮気とかではなく、知り合った人と正式に再婚して、通常の性生活を取り戻したと聞いた。これが本当の姿ではないのか。

今しも、今年も暑い暑い毎日が続いてストレスも溜まる一方だが、冷房の効いた部屋で、せいぜい「房事」に励んで、ストレスを解消してもらいたい。
それが「真夏の夜の夢」であろう。
妻亡き今となっては、それも詮無いことで、ストレスも解消するアテもない。嗚呼!

樹々の記憶を求めて ここは何処? 自由というのは怖い・・・・木村草弥
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  樹々の記憶を求めて ここは何処?
   自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた一連の一行である。
以前から何度も『樹々の記憶』から引用してきたので、この本について書かなければならないと思って、今回は、この本を採り上げる。
掲出した写真がカバー装丁である。写真は娘・ゆりから提供してもらった。
では、この一連を引用する。

  樹々の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処?地平線まで歩いてゆこう

月は動き続け波はうねり続け わたしは歩き続けよう

柔らかな言葉が織り成ししなやかな波が引いてゆく 夢ではない

時を紡ぐ糸から手を放し 道は一つ曲がり角ではよく考えて

新月に導かれるまま夢の森へと それが私の生き方になるかも

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い

私はどこから来たか 今ここにいる私という希望と自由

夢を約束できる人などいない 「時」は絶望を与えることもある

思い出されるのは楽しいことばかりではない 樹々の記憶は遠く

<日々これが己に輝く最後と信ぜよ>聖なる警句に従って生きよう


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エンヤ

この「樹々の記憶」という題名は、丁度その頃聴いていたアイルランドの歌姫・エンヤのCDのアルバムが 「The memory of trees」 というのであり、そこから借用したものである。このアルバムの歌詞からも多くの示唆をえている。厳密に言うと、エンヤのアルバムの場合、このアルバムに限らず、歌詞はニッキー・ライアンとその妻・ローマの力によるものが多いようである。
ケルトの旋律を世界中に知らしめたのは何と言ってもエンヤの力である。
エンヤの音楽は聴き手である我々に、深いイマジネーションを喚起する。解説者によると、これは「ケルト的叡智」に発するものだと言ったりする。アルバムに添えられた歌詞の原文を見ると、ケルト語(ゲール語)らしきものが書かれており、それらの響きが我々をケルト的な雰囲気にひたらせるのであろうか。
因みに、エンヤのことについて少し触れておく。

1962年にドニゴール州グウィードアに生れたエンヤは芸名を<enya>と表記するが、本名はEithne Ni Bhraonain と綴ってエンヤ・ニ・ブレナンと発音する。Ni は~家の娘という意味を持ち、つまり「ブレナン家の娘エンヤ」というわけである。
エンヤの父親がパブをやっているとかで、先年アイルランドに行く機会があったので聞いてみたが、私たちのツアーのルートからは相当離れていて、無理だった。
このことは紀行文にも書いた。

私の詩の、この一連は、およそ楽しい雰囲気のないものに終始しているが、この本を出した頃も妻の体調がよくなく、そういう私の憂愁が全体に流れている。
それに「自由というのは怖い」というようなフレーズは、その頃、自由律歌人と言われる人たちと付き合いはじめた私だが、彼らの作品が詩としての「韻律」から遠いことに幻滅し、「自由律というのは詩としての韻律を離れれば、ただの散文になってしまうぞ」という私からの強烈なメッセージをも秘めているのである。だからこそ「自由というのは怖い」という表現になっているのである。こういう私の発するメッセージに気づいてくれる人がいなくて、歯がゆい思いをしていた頃である。

エンヤの曲は書き物をしたりしている時にも、BGMのように流しながら物を書いても差し支えがなく、私の友人のフランス文学者のT君なども推奨していた歌姫である。
このエンヤのCDと私のこの本は、私の中で一時代を形作るものとして、私の中に深く根ざしている。

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー ・・・木村草弥
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  私は化粧する女が好きだ
   虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。
掲出の写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。
野草のように、どこにでも生えている花である。

  化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

女の体はお城である、中に一人の少女がかくれている

女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

旅をする風変りなドレスを着てみる寝てみる 腋の下を匂わせる女


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「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。
この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。 この人は先年亡くなった。

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です  ・・・・・・・・・・木村草弥
28キス?

  言葉には重さはないけれど 
   愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「愛」という一連のうちの一行である。
これはWeb上でもご覧いただける。
この一連を引いてみる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

自分たちにしか通じない言葉を持つのが恋人同士というものです

相合傘は世界で一番小さな、二人のための屋根であります

ビバ!恋のアンブレラ!この傘の下にいると二人は「はだかの王様」です

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です

愛は虚構です それはつかまえどころのないものだからです

愛は数えることも測ることも出来ません愛のお相手はみな様々です

「愛」を多く持つことの出来る人は心の財産目録の豊かな人です

今しみじみと不足するのは 愛ではなく愛にかかわる思想です

貞淑を失った関係はわびしいが貞淑をいつも必要とする関係はもっとわびしい

不条理とは人と神との葛藤 愛怨とは等身大の人間同士の葛藤です


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この一連も見方によっては「アフォリズム」と受け取られるかも知れない。
これを書いた頃、私の関心が、アフォリズム的な方向に傾いていたのかも知れない。
ここに掲出した写真は、いろいろ探した末に「間接表現」ながら、このキスの写真に落ち着いた。少しインパクトには欠けるが。

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・木村草弥
type活版活字

  印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬ
   ハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に「言葉②」に載せたもの。

私は家業の商売のカタログの印刷などで印刷屋の仕事場に幼い頃から出入りしていた。活字拾い(植字チョクジという)なども面白く観察していたりしたものである。
bunsen文選①

日本語の活字の場合には活字を拾う「文選」という工程が必要で、原稿に合わせて活字を木枠に拾ってゆく。「植字」(ちょくじ)と独特な発音で、この工程を呼ぶ。これが済めば「組版」ということになる。

kessoku-han文選③

活版印刷の場合は、組み付けは平面であるから原稿の大きさに合わせて、どんどん組んでゆく。試し刷りを経て本印刷にかかるわけだが、インクの載せ具合とか、いろいろ難しいものである。印刷活字と紙の隙間の関係も微妙で、どこかの活字が飛び出ていると、その字だけ太く濃くなる。

sudare.case植字

漢字の活字は「部首」毎にまとめて分類して棚のケースに入っているのを拾い出すわけである。
私は4冊の歌集を出したが活版印刷は第二歌集『嘉木』までで、第三歌集からは、活版をやるところが無くなってコンピュータ写植になってしまった。活版には独特の刷り上りの趣があって文人と呼ばれる人は、その手づくりの味を尊んだが、今では、もう仕方がない。

──アジアと活字の長い関係──
実はグーテンベルクよりも早く世界で最初の活字は中国や朝鮮で生れている。しかし、アジアに広く広まることはなく、活字文化がアジアで花ひらくのは500年後、ヨーロッパから最新の活版印刷技術が渡来してからのことである。

活字は中国ではじまった
作られた年代がハッキリしている世界最古の印刷物は、法隆寺に伝わる『百万塔陀羅尼』(760年代後半)と言われる。この技術は中国からの輸入であろう。東アジア文化圏の中で、中国は最も早くから印刷が発達していたからである。それは中国には拓本や押印の習慣があったからである。これは技術的には木版印刷と共通のものと言える。
その後、唐代(618~907年)にはお経や暦、占いの本などが木版で刊行された。
宋代(960~1279年)には科挙の制度のために受験参考書なども多数出版される。
活字の発明は11世紀半ば、畢昇が膠泥を用いて陶製活字を作ったのが最初とされる。13世紀末には王禎が木活字を作成し、1313年に刊行した『農書』で、その様子と考案した活字を納める回転式の台について触れている。
明代(1368~1644年)には畢昇の方法を受け継いで銅活字が生まれ、清朝の康煕(こうき)帝の治世(1661~1722年)以降、これを用いて中国最大の百科全書『古今図書集成』が印刷された。

朝鮮で金属活字が花ひらく
中国の活字文化は隣国の朝鮮に伝わり花ひらく。
14世紀末以降には木、銅、鉄、鉛など、さまざまの素材の活字鋳造が太宗、成宗の時代には合計300万本以上が鋳造された。
科挙制度を推進し、抑仏崇儒の政策を採った太宗には、儒教教典などを整備する必要があったのである。
写真④が朝鮮の金属活字である。
3-04朝鮮王朝の活字

しかし1592年以降、2度にわたる豊臣秀吉の侵攻により、大量の活字と技術者を奪われて衰退する。荒廃の中から立ち上がった朝鮮印刷の伝統は17世紀後半の顕宗時代に金属活字が復活する。1680年~1800年頃にかけて、明朝体の美しい印刷本が多数上梓され、近世の朝鮮印刷文化の精華とされている。

西洋印刷がやってきた
16世紀の中国の銅活字は朝鮮の影響が強いが、その頃、イエズス会によって西洋印刷術が伝来するが、宣教師たちの布教活動には中国伝統の木版印刷が適していると判断され、西洋の金属活版術は広まらなかった。
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以上、東アジアの印刷術について書いたが、ここで私の第三歌集『樹々の記憶』の中の「言葉①」の一連の歌を引いておく。
これらはWeb上でもご覧いただける。
これは一行づつの歌としてではなく、一連の詩として鑑賞してほしい。

   言葉 ①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

言葉を友にしたいと思った あれは一人旅でのことだ

確かに言葉の肩をたたくこと、言葉と握手すること、は出来ない

だが言葉には言いようもない旧友のようななつかしさがある

「はじめに言葉ありき」人間は言葉と出会ったときから思想的である

人間は 一つの言葉、一つの名のためにさすらう動物だ

だから、ドラマで最も美しいのは、人が自分を名乗るときだ

人は言語によってしか自由になれない──言葉を言語へと高めよ

どんな桎梏からの解放も言語化されねば、ただの「解放感」に過ぎない

いまや標準語は政治を語る言葉に堕した、人生を語る言葉は方言しかない

例えば、平和という言葉を蒐集している人達は大量殺戮だってやってのける

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる



一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・・・・・・・瀧春一
011紅蜀葵

  一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・・・・・・・瀧春一

紅蜀葵(こうしょっき)は和名を「もみじあおい」という。アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から咲きはじめ、9月になっても咲きつづける。葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。花は朝ひらいて夕方には、しおれる。花の蕾だが、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いているものは、明日あさに開花する。咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

この花は私にも、ひとしお愛着のあるもので、下記のようないきさつがある。

雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり・・・・木村草弥

このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

これらの歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、病身の妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・岡本差知子

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子

 紅蜀葵常住はだかなる昼を・・・・・・・・臼田亜浪

 草にねて山羊紙喰(は)めり紅蜀葵・・・・・・・・飯田蛇笏

 紅蜀葵真向き横向ききはやかに・・・・・・・・花蓑

 沖の帆にいつも日の照り紅蜀葵・・・・・・・・中村汀女

 つま立てて跼む女や紅蜀葵・・・・・・・・星野立子

 紅蜀葵日に向く花の揺れて居り・・・・・・・・土方花酔

 紅蜀葵砂浴び鶏の寄りどころ・・・・・・・・田島秩父

 紅蜀葵子の見上ぐるに撓ひ咲く・・・・・・・・西森請子


秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる ・・・・・・・・・藤原敏行
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  秋来ぬと目にはさやかに見えねども
   風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行


今日は「立秋」である。
この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。
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この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。
『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。
次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、その目前の秋の景物を詠んだ。 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。
今日8月7日は立秋である。その日に因んで、この歌を掲げた次第である。

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