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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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しらじらと貫井の水はおちながら日ねもす布袋草ふるふらん・・・・片山貞美
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  しらじらと貫井の水はおちながら
    日ねもす布袋草ふるふらん・・・・・・・・・・・・・片山貞美


片山貞美は大正11年生まれの人だが、ネット上にも記載は極めて少なく資料に乏しい。
2008/12/4に酒を飲んだあと、歩行中に転倒して急死した。
伝統的な歌作りを尊重する人で、かなづかいなどでも歴史的かなづかいの誤用を厳しく指摘する人だが、いわゆる「前衛的」な歌には激しい拒否反応を示した人らしい。
私は、その運動の渦中には居なかったので、よく判らないが、記録に残るものには、それが書かれている。
角川書店「短歌」編集長、短歌結社「地中海」編集長などを勤めた。国学院大学出身。
彼についてのエピソードを二つ紹介する。
先ずは、彼の死に際しての福田龍生の追悼文から。福田は短歌結社「古今」を主宰する。

酔いどれ吹き溜り その14
超一流のバーで豆腐を食った男
................................................福田龍生

 栄一のエピソード(短歌往来)をかくならイントロには貞美のあれこれを出しにしてかいてみるかと思っていた。そして酔いどれ吹き溜りをかいていた十時二十分に電話が入り“貞美死す”との博子夫人の声。とにかく頭はまっ白、何がなんだか解からなくなり、貞美のことをかいてしまった。間を置かず、短歌往来からは「貞美の追悼特集をやるから何かかけ」と及川社主から云われた。悪口をかくならねえと考え込んでしまった。あげくが小声で「何も浮かばぬ、少しのばしてよ」とたのんだら「そうだろ、いいよ」と優しい声で快諾してくれた。やれやれの思いだった。

頑固にして固陋な酔いどれ貞美

 そこで普段着、つまりガンコな酔いどれ貞美をまとめてみる。今更のように酔いどれ先輩を考えてみたら、熊谷守一仙人をのぞいて「みんなオプティナスィ(ガンコ)な男ばかり」だった。が貞美は異質なガンコ者であった。岡山たづ子は「うちのガンコの巌は」といつも云っていたが、僕も貞美も巌センセの密造酒の試飲をさせられた。僕が今日のように酔いどれになったのはそれが原因。もちろんそれに拍車をかけたのが片山貞美であった。
 戦後の、目のつぶれそうなカストリからはじまって、何であるアイデアルの、メチールの入ったウィスキーまで飲まされた。よくぞ死ななかったもの。そんな貞美も年がたてば偉くなるもので貞美が角川の短歌の編集屋になったころ「オイ龍生ちゃん話がある」と社にやってきた。そこで神田三崎町の茶店エリカに入った。貞美はまずそうに珈琲を口にしながら「だーれも俺をバーに連れてってくれねえんだ。トリスバーじゃないぞ。ほんとのカクシキのあるところだ。みんな知らねえのじゃないかと疑ったよ。山本も白石も知ってると思うんだがな。いいとこないないか、たのむ連れてってくれ…」と云うのであった。
 僕は吹きだした。トウフの貞美と高級バーは似合わぬ。だから白石昴だって誘わないのは当然。白石とはサンスーシーにも行っているし「タンゴをくれ」なんて云って、カクテルを飲んでいたことを思いだしながら、貞美の顔をのぞきこんだ。確かにマジな面をみせていたが、オヤジと対峙して、歌の話をしているときの目をしていた。僕はちらっとツケのあまりない、銀座の馬車屋がいいと思った。ここのバーテンさんは、とびきり上等だった。
 日本バーテンダーの会長をしていたし、会報ドリンクスにカットなどかかせてくれ、ツケをパーにしてくれた。まあ僕にとっては神様のような人だった。ペイペイ時代はミソッカスで「八時までの男」だった。本番前までしか飲ませてくれなかった。だからゼニはただ同然だった。東郷青児、寺田竹雄、宮本三郎、西村愿定、大河内信敬など画家のよく集まる店だったが、やはり中心はバンカーや一流の商社マンだったがみんな紳士だった。
 こんなバーでは、まずカクテルを一杯たのむのがマナーなのだが、僕みたいなペイペイには必要なかった。その日は貞美でも飲めそうなジンリッキーをたのんだ。スピリッツの安いものである。このジンリッキーには思い出があった。ピッカピカの編集屋のころ、二科の寺田竹雄に連れられていったのだが、ある日「なに飲むんだ」と長谷川バーテンダーに云われ「ジンリッキーだ」と云うと、睨むような目をして、目の前に、十数種のカクテルグラスをずらりと並べた。なんだこれはと思った瞬間「みんなジンリッキーだ。えらそな言い方すんな、みんな飲め」と云われた。バーってのは、恐ろしいもんだなと、おずおずと僕は一杯ずつ飲み、味わったふりをしていた。
 さて、煙草を買いにいっている間に、貞美の前には、なんとなんとトウフがどんと置かれ、満足そうに箸で口に運んでいたのだ。最高級のバーでトウフを食ったのは、恐らく片山貞美が最初にして最後だったろう。「この人、歌人なんだね、それも偉い人。お前さんも歌をつくるんだってねえ」と云われた。幸か不幸か、長谷川さんもトウフが好きで、手前用の夜食のトウフを進呈したそうな。あげくが江戸切子のグラスで酒を飲んでいるのだった。いったい貞美は、どんなきっかけをつくり酒とトウフを手に入れたのだろう。このバーテンダーのボスは、本当に優しい人だったから、貞美のわがままをみんな聞いてやったのである。このにっくきわが先輩は、それこそもう大はしゃぎ。そのうちに「ここはいいなア」としきりに話してくるのだった。僕はただ憮然として杯をかさねていただけである。

貞美とかわいい呑兵衛たち

 新宿のとある露路の、とある二階に「あづま」という飲み屋があった。ここのオカミの主人は中央公論の編集屋。だから栄一の関係で、いろいろな人種がきていた。ある日の雨の夜に、貞美とノレンを分けたら一人だけ客がみえた。入ってみると阿部正路であった。僕をみた阿部は、止り木から慌てふためいて直立不動。そして深ぶかと頭を下げたのである。この男、信じられないだろうが、アルコールがまわらないときは、礼儀ただしい歌人であり国学院の教授であった。ある日オヤジが「龍生をよろしくな」と云ったところ彼は飛び上がって「龍生先生にぶんなぐられます」と云っていたと笑っていた。また短歌新聞社主の石黒清介は「あいつは頭はいいし、天才的なところがあるのにねえ、もう飲んだらいけねえなア」とうなずくように呟いていたことがある。まさに君子豹変というべき男であった。
 その日も嫌な予感が走った。うっかり貞美が迢空のことを洩らしたのが凶とでた。阿部迢空論がえんえんとはじまった。やがては壊れたレコードとなり、意味不明となった。とにかく話は噛みあわず、カンカンガクガクがつづいた。ただ一つ記憶にあるのは「歌がいい」ということだった。二人ともグデングデンのちょっと手前。なのにケンカにならなかったのが不思議。
  季(とき)は晩秋、うまいものがいくらでもあるのに、ボクの肴を「どうせ食わないんだから」と云って飲んでは食っていた。細い目はいよいよ細くなり、意味不明ではあったが「話しっぷりには味があった」し、なんとも云えぬ雰囲気があったのである。昔とは違い、ベロベロの阿部のグチグチを聞いてやっていた。
 泣きながら、栄一に反論していたころの貞美ではなかった。だから狂いはじめた阿部の言葉をかわしながら「いい子だから、少しぐらい黙って飲めよ」と云っているように僕にはみえた。老巧にして老実な貞美になっていたのであった。そのうち「先生の家に泊る泊る」と云いだし、やがてのち「いいでしょ、いいですよねぇ」と乞うている。つまりは国立の片山邸にとあいなる。水城春房もその一人だが、そんなのが沢山いたようだった。これは片山貞美の知られざる徳なのかも知れない。
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二番目は、最初に書いた「前衛狩り」云々を巡る記事である。

以下は「地中海」誌に載るもので筆者は前編集長の椎名恒治だと思う。
この「原文」には誤植が多いので念のため。
少し長いが途中で端折っては誤解を招きかねないので前後の記事もそのままにする。

<地中海でわたしが千勝重次に出会った頃、周辺はみな「千勝先生」と呼ぶ大家であったが、没年五十六歳であったとは、不思議な思いで略歴をたどっている。

・若き日におごりあそびしこともなし。いま無為にして四十ならむとす

・茫々と遠き夜の闇の底ひより澄みてきこゆるは何のこゑぞも

 こんな歌をつくられていた。精悍な風貌が今もおぽろにうかんでくる。没後三周忌に刊行された歌集「丘よりの風景」に添えられ年譜の一部を抜いたのだが、千勝二喜男(令弟)の記す、歌集『刊行記』の結びの部分を抄出しておきたい。

 昭和二十二年の冬だったと思う。その年の春から、「短歌研究」の編集にたずさわっていた故人は、当時私もともに仮寓していた世田谷上馬の家の二階に、香川さん、宮柊二さんを御案内申してきた。事の前後は、定かでないが、御自分をまはだかにしてぐいぐいと人に押し迫ってくるような気鋭の香川さんの語り口は、そのとき初対面の私に、強い畏怖を覚えさせた。私がそのとき感じた畏怖は、故人にとって深い友情として根づき、はぐくまれ、やがて「地中海」創刊に至ったことである。敗戦後の、暗い灯火の下の、それでいて妙に生き生きとした空気が、「新歌人集団」夜明け方の明るさを思わせるひと時であった。それは故人ごのみのことばでいえば「茫々」たる過去の日の断片である。

 香川進の姿が、簡明な文によくあらわれている。地中海の草創期に重く存在した千勝重次像がこの略年譜と、三善男氏の文章でいくらかでも理解できたであろうか。「編集長は地中海創立の事情から…」と『三十年記念号』に香川進が書いた真意もここで理解できたように思う。この千勝重次の推薦で片山貞美は地中海編集者となる。

 ここで話は一転飛躍する。昨年の「短歌往来」(ながらみ書房)二月号は香川進追悼特集であった。連載中の「挫折と再生の季節」(岡井隆)の文中に、雑誌「短歌」の編集者に片山貞美、石本隆一に変わったことにふれながら、香川進とのかかわりを述べて、更に三月号で補足的なことを記しているから興味深く読まれた人もあるだろう。地中海一月号で久我田鶴子も香川論の中で触れているが、それはそれとして、片山貞美、石本隆一が、角川書店の「短歌」編集者(石本は後に「俳句」の編集者)であったことをわが地中海の仲間はあまり知らないかも知れない。現に岡井隆のあの文章の内容が全くわからないという同人がいたので、参考のために記すのだが、わたしの主観で記すよりも、前田芳彦著「戦後の歌論」(短歌新聞社・平成三刊)から借用することにしたい。

 ――富士田(註・富士田元彦)の、いわば逸脱は角川幹部を極端に刺戟するもので、昭和三十七年にはそれが表面化するに至る.とくに十月三日の社内会議はあたかも彼に対する査問会であったと自ら書いている。以来、「短歌」の編集をおろされる翌年末まで、居直りといってもよいほど性急な問題提起を続けたのであった。担当は翌三十九年一月より神崎忠夫に、ついで片山貞美に移り、「前衛狩り」の季節に向うことになる。――「短歌」の編集は石本隆一(四十一年四月)を経て四十二年十月再び片山に戻り、四十五年十一月赤塚才一に渡った。片山によれば「伝統系短歌」の復活を図って前衛短歌偏向から転換したのだが、この方針はすくなくとも四十八年六月の秋山実編集まで続いた。――

 几帳面な前田芳彦はこのように穿って書いている。わたしたちは、総合誌の編集者が誰で、どんな人であるか殆どが知らないと共に、右のような歌壇の情勢と編集者との関わりなど知るよしもなく雑誌を買っている。ついでだから、前田芳彦の述べることをもう少し聞くこととする。『短歌往来』の岡井隆の言うことが理解出来ようではないか。

前田芳彦は前衛論争をさらにいろいろ解明したあとで次のように結論した。
 ――富士田は昭和三十九年六月から四十二年までの片山貞美および石本隆一編集の『短歌』は評論の上では不毛の時代であったと言う。彼がそれを言いたいのは分るが、非前衛の動きは新しい主張を盾とするものでなく、総合誌編集のあり方に対する批判から出たもので、評論の沈静は当然であったそれ故回顧的な特集や技術論・鑑賞論が誌面に復活したのを性急に負の面のみ此判するのは正しくない。戦後短歌のこのような転換期、敗戦より二十年経て“戦後”を問い直す傾向と奇しくも一致していた。――

 前田芳彦によって、総合雑誌「短歌」と、歌壇における前衛派との関わりがよく整理されている。このような歌壇の動きとは別に企業角川書店そのものの場合、この時期は拡大してゆく新しい出版物と、増大した社点数に社長角川源義は「組織と人事」に苦闘していたようだ。「経営者としての角川源義像を見てみると、源義は直感の人で、計数の人ではなかった。企画・宣伝・販売の戦略・戦術に卓抜なアイデアを出し、多くを的中させたが、データや数字を分析し合理的に詰めていくのは苦手というより嫌いだった。」(鎗田清太郎『角川源義の時代』)さらに、「足の角川」といわれ「この角川書店の人海作戦は定評があり、沖縄の離れ小島まで足を運ぶ」ほどであった、という。鎗田清太郎の同著によれば、山本友一は昭和三十八年七月から四十八年四月まで角川書店取締役をつとめている。町田市鶴川の山里のような地に「角川多摩文庫」の責任者の山本友一を訪ねたことがある。事務所の軒に燕が出入りしている、静かな環境であったことが思い出される。

 『角川源義の時代』は角川書店の五十年史でもある。波瀾万丈の角川源義の生涯と角川書店の推移が縦横に描かれていて興味深い本である。たとえば、昭和二十九年一月一日発行の「短歌」創刊に至るまでの、千勝重次、宮柊二、香川進と釈迢空、角川源義とに関わるエピソードの記録など興味津々である。角川源義と千勝重次は国学院大学の級友であった。
 なお、この著によると「ある期間、片山貞美が顧問という形で企画・編集に参画した」ごと記されてある。>

どこの世界にも「揺れ」というものはあるもので、物事は「あるがまま」に受容してゆきたいものである。
掲出歌の「貫井」は「うち抜き井戸」のことであろうか。「井筒」のことであろう。
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「布袋草」「ホテイアオイ」とも呼ばれる水草で、熱帯アメリカの原産だという。
今では世界中に広がって、たとえばナイル川にも上流からおびただしいものが流れているのを私も見たことがある。
葉柄の下がふくれて布袋腹のようなので、この名がついたという。水に浮きやすくなっている。
歳時記に載る句も多くはないので、少し引いて終る。夏の季語だ。

 布袋草美ししばし舟とめよ・・・・・・・・・・・・富安風生

 ほてい草月の面を流れ過ぐ・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 布袋草ほこりの道にすててあり・・・・・・・・・・・・星野立子

 布袋草一つはなれて花持たず・・・・・・・・・・・・山中石人

 布袋草ひつくりかへり堰越ゆる・・・・・・・・・・・・草野駝王

 汐入の水門しまり布袋草・・・・・・・・・・・・田川夏帆


村島典子歌集『タブラ・ラサ』 抄・・・・・・・・・・・・木村草弥
タブラ・ラサ

タブラ・ラサCD


 ──村島典子の歌──(7)

  村島典子歌集『タブラ・ラサ』 抄・・・・・・・・・・・・木村草弥

私が敬愛する村島典子さんについては何度か記事にしてきたが、八月の私のバルト三国の旅の「エストニア」のところをご覧になった村島さんが、エストニアの現代作曲家
アルヴォ・ペルトのことを思い出されて、彼の楽曲「タブラ・ラサ」を題名にした第三歌集『タブラ・ラサ』(柊書房2000年5月刊)を恵贈された。
私はアルヴォ・ペルトについては何も知らなかったので、ネット上で調べてみて、また、この曲のCDもアマゾンから取り寄せて聴いてみた。
今この記事も、それをバックミュージックのように聴きながら書いている。
「タブラ・ラサ」=Tabula rasa とは、ラテン語で「きれいな石板、精神の無垢な状態」を言う、とあとがきに書かれている。村島さんは書く。

<喪失によって空っぽになった心に、ふつふつと湧いてきた歌が大半である。
 《タブラ・ラサ》との出会いが早くから用意されていたかのように。
 「たぶら・らさ」と呪文のごとく唱えると不思議に心が澄む。・・・・>

以下、私の好きな歌を引いて鑑賞したい。

 言問へば旧き村名を告げたまふ時間の迷路はゆつくりと来よ

 大いなる手があらはれて点灯す野辺いちめんのらふそくの花

 ひぐらしの声とぎれつつ従きてくる猿丸神社のまへ過ぐるとき

 すこしづつことばを捨ててゆきたまふ母のめぐりは初秋の湖

 人間の生死にちかく楽あれば夕はふかぶか楽にひれふす

 どんぐりを拾ひて母と日だまりに坐りてをれば彼岸図のごと

 冬ざれの禅定寺峠にてらてらと熟柿下がりて落暉を反照す

 喪の衣にうつしみ包み昼くらき岩船神社越えて母焼きに来し

 ならまちの庚申堂に背をみせてゆらり佇む石坂幸子

 ゆきこさんになりて渚を走りすぐ「トリカヘバヤ」と鳴くか小斑鳩

 死後のことまた言ひ出でてわれよりも五歳上なる夫を困らす

 夜すがらをみづは醒めをり隣室に舅もさめゐてしはぶきをする

 今朝夫といさかひし血が一本の採血管に立ちてしづけし

 体臭をもつことかなし夢に来てすれちがひざま ア と言ひにけり

 一人二人三人減つて桃の木のしたの家族のこゑも失せたり

 亀甲墓アダンの崖のほのあかる月うづむらむ慶良間の海は

 道の辺に野ばら咲きみつはつ夏の風のなかにて会はむと言へり

 軒いでて飛燕は空を截りゆきぬまぶかく夏の帽をかむらむ
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 タブラ・ラサ花をあふれてヴィオロンの潮は夜のそらを満ちくる

 アルボス<樹>のかなたから静寂の耳降りて来つ生れて久しき

 夏雲が窓より盗み見しものは身をほどきたる一本の紐

 はらりはらり布解かるるわれならむ二月の湖の陰(ほと)より生れて

 対面の長身のをとこの埴輪面にぶきひかりを呑まむとすらむ

 千の契り万の契りの水無月のみづより溢るみづの言葉に

 在るもののなべては音楽ささなみの志賀つ少女の絶対音感

 まるき口に青き葡萄をくくみゐる未生子よ野鳩のごとく八月

 十本の指あらはれて水面にさみだれの楽奏せられゐむ

 月清とふ神女ありけり十月のとほきみなみの青き海坂

 一里山のきつねは銀のふさふさの太き尻尾をもちて出でけり

 いまたれもわれに触るるな夕暮は泥人形になつてしまへる

 老ばかり集ひてなごむ冬の日に一人が質す死ののちのこと

 白桃の流れくるとふあかときの入江に待ちて百年が過ぐ

 生きながら懐かしきひとに抱かれて眠れり一山他界の匂ひ

 いまわれは湖にむかひて坐りをりとほく真水の気配たちくる

 不意打ちに彼岸は雪となりてけり咲きてさくらは花うちふるふ

 「無伴奏バッハ組曲」ボリュームをいつぱいにして窓を放てり

 水仙は水仙と別れこの春はわれに甘えてくることをせず

 するするとしろがねの身を泳がせて水よりわれらの夢に入りくる

 裸樹となり抱きあひたり死してのち土から生えしやはらかき枝

 犬の首撫でつつ思ふ首のべて翔びゐし記憶青のまなかを

 夏泊そのうつくしき名前もて岬に夏の客人(まらうど)は来む

 月読の桂の大樹のみどりかげみどり児の手が無数にそよぐ

 穂孕みの季(とき)は来しかな境いでて玉依姫の山をくだる日

 地を打つ無尽の雨の音きこゆわれら及ばぬこの単純に

 娘のシャツを肌に纏へばさわさわとさたうきび畑のわれは秋風

 くろぐろと日焼けせし夏の半身を立たせてゆふべ人送りたり

 すれ違ふわれらと蛇の尾の尖のかすかにつめたき秋と思へり

 ポケットに栗の実ひとつしのばせて空跳ばむとす月夜のうさぎ
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村島さんは<Ⅰは偶然、レクイエムの章となった>と書いている。
ここには私も旧知の間柄であった石坂幸子さんの名前も見える。石坂さんは、突然、私宅を訪問されて、驚いたものである。
禅定寺とか、猿丸神社とか、私方から大津へ抜ける沿道の名前もあり、抽いてみた。
引用する歌が多すぎたかも知れないが、この歌集の頃は、村島さんも作歌的にも、一番充実した時期だったように思える。だから、引く歌が多くなった。
この本の「帯」に

<エストニア生れの現代音楽家、アルヴォ・ペルトの曲《タブラ・ラサ》
 ──永遠の静寂を表現した音楽に寄せて、
 喪失した心に湧いた無垢な歌は、
 ある時は古代へ、ある時は逝きにし者へ、
 ある時は身めぐりの風物へと自在に飛翔する。>

と書かれている。
私が下手な鑑賞をするより、この帯文が村島さんの歌の特徴を端的に表現している、と言えよう。
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アルヴォ・ペルト

注文しておいたCD「タブラ・ラサ」の解説には、ウォルフガング・ザンドナー「アルヴォ・ペルトについて」に、こんなことが書いてある。

<エストニア人アルヴォ・ペルトは、彼が1980年まで住んでいたソヴィエト社会主義同盟という社会形態と関係なくはない。彼の作品──「クレド」「ヨハネ受難曲」「追悼曲」「タブラ・ラサ」「フラトレス」など──は、《受難曲》であり、それは同時にそのままその性格を越えている。
・・・・・彼は1972年に結婚したユダヤ系の妻と、ふたりの子供をつれて、1980年、イスラエルへ出国する許可を当局から得た。しかしその途上彼の音楽作品の出版元のあるウィーンに
一年半とどまり、そこでオーストリア市民権を得た。それから彼は西ベルリンへ移り、結局イスラエルには向かわなかった。
 「わたしは書くために長い期間の準備を必要とする。それに五年かかることもまれではない。そのあと一気に、とてもたくさん作品が生まれる。」
「フラトレス」「タブラ・ラサ」などは、1974年から1976年にかけての、この実りある沈黙から生み出されたのである。>

タブラ・ラサ
<「タブラ・ラサ」はある意味で、ギドン・クレーメルの委嘱によって作曲された。
わたしはいつも新しい楽想には自信がもてない。“ゆっくりしたテンポの音楽でもかまいませんか。”
“もちろん、かまいませんとも”とクレーメルは答えた。──この作品は思ったより早く完成した。楽器編成は、タリンで同時期に演奏されるはずだった、アルフレート・シュニトケの作品にのっとっている。
二つのヴァイオリンとプリペアード・ピアノ、それに弦から成る。
演奏者が楽譜を見たとき“音楽はどこにあるのだ”と叫んだ。しかしそのあと彼らはとてもすばらしく演奏した。それはとても美しかった。それは静かで美しかった。・・・・・>

字で書くと、こんな風になってしまうが、現実に、この曲を聴くと、「この世ならぬものの静寂」へ誘われるようである。
この曲が村島さんの心を浸し、歌集の題名となったいきさつを知る思いがするのである。
いい曲を知らせてもらって有難う!

アルヴォ・ペルトについては、 ← このリンクのWikipediaが詳しいので参照されたし)


をとめごの純潔は死語コスモスを風はなかなか抜け出せずゐる・・・・木村草弥
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  をとめごの純潔は死語コスモスを
    風はなかなか抜け出せずゐる・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので「牧神の午後」という項目に入っている。ここには採りたい歌が多く、すでにいくつか紹介した。

コスモスの「花言葉」は、おとめの純潔、おとめの心情、真心、調和、愛情などがあるが、この歌は、それを踏まえて作ってある。フリー・セックスの風潮盛んなこんにち「おとめの純潔」などということは、文字通り「死語」である。そういう風潮を踏まえて、ある種の皮肉をこめて歌にしてある。「風はなかなか抜け出せず」というのは、コスモスというのは、なよなよした草で、風が吹いても、もたもたしているようで、それを、こういう表現にしてみた。この頃ではコスモスも品種改良が進み6月頃から咲くものもあるらしい。
コスモスCOSMOSというと「宇宙」のことである。ギリシア語KOSMOSでは、秩序、調和、宇宙を意味するが、その後に「美しさ」という意味が付加したという。
コスモスはキク科コスモス属だが、メキシコ原産で中米から南米にかけて分布するが、メキシコには30種くらいの原種があるという。今では品種改良され、開花時期も早くなり、草丈も半分くらいのものがある。写真には、それらの中からいくつか載せてみた。

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コスモスのことを「秋桜」とも呼ぶが、秋桜というと、山口百恵のヒット曲♪「秋桜」♪を思い出す。これも漢字で表記されているが、ふりがなは「コスモス」となっている。
歌詞を引いてみよう。

 淡紅の秋桜が秋の日の
 何気ない陽溜りに揺れている
 
 縁側でアルバムを開いては
 私の幼い日の思い出を
ありがとうの言葉をかみしめながら
 生きてみます私なりに
 こんな小春日和の穏やかな日には
 もう少しあなたの子供でいさせて下さい

歌詞も詩的である。今でも山口百恵のアルバムは、コンスタントに売れているという。国鉄がコマーシャル・ソングに採用した「旅立ち」という歌も佳い歌だった。

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私の第一歌集『茶の四季』にも、次のような歌がある。

   コスモスの花のさやぎを見てあれば心騒がすもの欲しきなり

   コスモスの咲きたる駅に大鴉するどき爪に蛙を食めり

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コスモスを詠んだ句にもいいものが多い。以下、それを引いて終る。

 馬の来て尾の遊び居る秋桜・・・・・・・・田村木国

 コスモスに雨ありけらし朝日影・・・・・・・・水原秋桜子

 コスモスの向ふむきよりしぐれきぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 コスモスや遠嶺は暮るるむらさきに・・・・・・・・五十崎古郷

 月光に風のひらめく秋ざくら・・・・・・・・西島麦南

 紅白もさみしきものよ秋桜・・・・・・・・上野泰

 風船をつれコスモスの中帰る・・・・・・・・石原八束

 コスモスの揺れやむひまもなかりけり・・・・・・・・久永雁水荘

 コスモスのむこう向けるは泣けるなり・・・・・・・・秋沢猛

 秋ざくらもの思ふとき眼閉づ・・・・・・・・北浦ばら女

 コスモスに寿貞の声のきこえけり・・・・・・・・平井照敏


病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出・・・北原白秋
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  病める児はハモニカを吹き夜に入りぬ
   もろこし畑の黄なる月の出・・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋


私の子供の頃は「ハーモニカ」全盛の時代だった。ハーモニカ演奏の名手だった宮田東峰という人がいて伝説的な話を聞かされたりした。今でも「ミヤタ」ブランドのハーモニカがあると思うが、この名前は、この人に因んでいる。
掲出したハモニカは今のもので「クロマチック・ハモニカ」というらしい。画面右側に見えるボタンを操作して半音とかの切り替えをするらしい。
私は楽器には素人なので間違っていたらゴメンなさい。昔は、こんな機能のあるハモニカはなかった。

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写真②はネット上で見つけたハーモニカのカタログからのもの。私たちの子供の頃は原始的なハーモニカだったが、その頃からさまざまな、複雑な演奏のできるハーモニカがあったようだ。吹く穴と吸う穴が同じなのは、今も同じだろうか。
私は音楽、楽器音痴だったので何も知らない。

この白秋の歌は、白秋の子供がまだ小さかった頃のものであろうか。病んでいる子という人事と「もろこし畑の黄なる月の出」という叙景が、うまく一首のなかで溶け合っている。
その後どこかで読んだ文によると、この歌の「子供」というのは、フィクション上の子供だ、ということらしいので、ここに付記しておく。
「ハーモニカ」という季語はないし、短歌に詠われている作品も目下は見出せないので、今回は短いが、この辺にしておく。
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新潮社の読書誌『波』2004年10月号に庄野潤三の「けい子ちゃんのゆかた」連載10回のなかに、ハモニカに関連する次のような文章が載っているので、紹介する。

ハーモニカ(2月4日)
夜のハーモニカは、昨日に続いて「どこかで春が」を吹く。一日の仕事が終り、あとはフロに入って寝るだけというときに、妻は書斎の本棚の前においたハーモニカの箱をとって来て、こたつの上におく。「夜のハーモニカ」の時間である。何にしようかといって、曲をきめ、私の吹くハーモニカに合せて妻が歌う。昔の唱歌や童謡のなかから選ぶ。これが私たちの大切な日課となってからどのくらいたつだろう?十年になるかも知れない。その季節の歌を吹く。二月の「早春賦」、九月ごろの「赤蜻蛉」は、二人のいちばんのお気に入りのレパートリーである。四月の「春の小川」も好きで、よく吹く。
「どこかで春が」もいい。「どこかで春が生れてる」で始まり、「どこかで水が流れ出す」と続くところがいい。「どこかで芽の出る音がする」というのもいい。百田宗治の作。この人のことはよくしらないが、「どこかで春が」一作で尊敬すべき詩人であることが分る。好きな童謡だ。
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この連載は「私小説」の作者らしく、日記風に身辺の雑事が描かれている。別の日付に「誕生日」という2月9日付けの記事があり、孫(次男の子)の文子ちゃんから82歳のお誕生日おめでとうございます、という手紙が来る、というのを見ると作者の年齢が判る。2004年に82歳だから今年は87歳ということになる。
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上のような記事を「下書き」に入れておいたのだが、その庄野潤三さんが9/21に亡くなられた。
毎日新聞ネット版の記事を引いておく。

訃報:作家、庄野潤三さん死去 88歳

作家の庄野潤三さん=2004年4月 「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。88歳。葬儀は28日午後1時、川崎市多摩区南生田8の1の1の信行寺春秋苑。自宅は多摩区三田5の9088。喪主は妻千寿子(ちずこ)さん。

 大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

 夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など人生の機微を追求する家庭小説を書いた。一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

 「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

 父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

 ▽作家、阿川弘之さんの話 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

 ▽女優、大浦みずきさんの話 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。心よりご冥福をお祈りします。

毎日新聞 2009年9月22日 15時29分(最終更新 9月23日 0時48分)

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私の書こうとしていた記事に符合するような死に際会して、感慨あらたなるものがある。
ここに記して、ご冥福を祈りたい。

いま思い出したが、NHK-BS2でマカロニウエスタンの、その名も「ウエスタン」という映画を視たことがある。チャールズ・ブロンソンの吹くもの悲しげな「ハモニカ」が響いて、アメリカの西部劇とは一味違った佳い映画だった。ハモニカの話題がない、と言っていたので、何とか記事の埋め草をと思って書いてみた。

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