K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋でもあります。
 十月や顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 地の底の秋見とどけし子芋かな・・・・・・・・・・長谷川零余子
 秋の航一大紺円盤の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 カステラが胃に落ちてゆく秋の昼・・・・・・・・・・・・・大野林火
 秋暁や胸に明けゆくものの影・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 山門をぎいと鎖すや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規
 足もとはもうまつくらや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
 秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
 にせものときまりし壺の夜長かな・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
 生後死後栗の実甘く熟れにけり・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 点鬼簿に入りしその名を虫のこゑ・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし・・・・・・・・・・・高島征夫
 天辺はさみしきところ秋の星・・・・・・・・・・・・・・・・・・大高翔
 時雨るるやピアニッシモに愚痴吐息・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは5/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

「夢占い診断書」(ユメカルテ) というサイトは面白い。 一度トライしてみられよ。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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ひとり膝を抱けば秋風また秋風・・・・・・・・・・・山口誓子
seishi山口誓子

  ひとり膝を抱けば秋風また秋風・・・・・・・・・・・・山口誓子

この誓子の句は「秋風」がテーマであって、「膝」は従のものであるが「秋風」というのは写真になりにくい。
ススキなどがなびくのを出して間接的に「秋風」を想像させる、というしかない。
写真は山口誓子である。
19膝本命

「膝を抱く」というのは、何かもの思うときとか心に鬱屈のある時であろう。この句は或るところで見つけたもので初出も何も判らない。誓子は結核に冒されて発病し、勤務先の住友本社を辞めて、三重県の海岸で転地療養していた時期がある。その頃の制作かも知れない。しかし余り自分では気に入っていた句ではなさそうで、自選句の中には入っていない。
山口誓子についても前に採り上げたことがある。「ホトトギス」の4Sと言われていた俊英の時期もあり俳句界の巨匠であることに変りはない有名な俳人である。
以下、以前の句に重複しないように誓子の句を少し引く。

   匙なめて童たのしも夏氷

   夏草に汽缶車の車輪来て止る

   ピストルがプールの硬き面にひびき

   夏の河赤き鉄鎖のはし浸る

   つきぬけて天上の紺蔓珠沙華

   月光に障子をかたくさしあはす

   炎天の遠き帆やわがこころの帆

   蛍獲(え)て少年の指みどりなり

   蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす

   手を入れて井の噴き上ぐるものに触る

   流蛍の自力で水を離れ飛ぶ

   街道に障子を閉めて紙一重
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以下、ネット上に載る山口誓子記念館の記事を引いておく。

 山口 誓子(やまぐち せいし) 

 明治34年(1901)年11月3日生。
 平成6年(1994)年3月26日没。

 本名 新比古(ちかひこ)。

 明治34年に,父新助,母岑子の長男として京都府京都市に生まれる。幼時より外祖父脇田嘉一に育てられ,京都・東京・樺太・京都と転居を重ねる。京都一中を経て旧制三高に入学。京大三高俳句会に参加して本格的に句作を始める。大正11年東京帝国大学法学部に入学,東大俳句会に加わり,高浜虚子に直接指導を受けるようになる。

 大正15年に東京帝国大学を卒業し,大阪住友合資会社に入社する。昭和3年浅井梅子(波津女)と結婚。住友合資会社では主に労務関係を担当していたが,学生時代からの胸部疾患のため,昭和15年に住友合資会社を休職,翌年には伊勢富田に転地し保養に努める。昭和17年病状が悪化し療養のため退職し,その後文筆活動に専念する。

 昭和初期に「ホトトギス」雑詠欄の新鋭として活躍,阿波野青畝(せいほ),水原秋桜子(しゅおうし),高野素十(すじゅう)とともに「四S」の一人に数えられた。素材としては好んで近代的材料を取り上げ,方法としては写生構成を唱えて,硬質の叙情世界を開拓,いわゆる新興俳句運動に対し先導的役割を果たした。しかし無季俳句派とは常に一線を画し,昭和10年「馬酔木」に同人として参加,秋桜子等と連携し,有季定型を遵守した。

 昭和23年主宰誌「天狼」を創刊,多くの俳友・門下を糾合して,戦後の俳句復活に大いに寄与した。ことに俳句の根源を厳しく追求する一派の運動は,俳句固有の方法の開発に貢献したと高く評価されている。

 昭和51年勲三等瑞宝章を授章,昭和62年芸術院賞受賞,平成4年に文化功労者として顕彰された。

 また,誓子が俳人として多くの優れた作品を著し,その蔵書約2万冊を神戸大学へ寄贈し同大学における国文学研究に多大なる功績があったことから,昭和63年6月16日に,神戸大学として初めてとなる「神戸大学名誉博士号」の称号が授与されました。
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この記事をご覧になったデュエットさんからコメントがあって、写真②のように膝を抱くのを「体操座り」と表現された。
ネット上でもリンクにしたようにWikipediaにも出ている。
体操時間で他の人の演技などを見ていたりするときに待機するのに、よく膝を抱いて座るのを、こういうらしい。一時「ヂベタリアン」などという表現があったが、考えてみると、若い人たちが、じきに地面に座ったりするのは、子供のときからの、こういう姿勢が影響しているのかも知れない。
私などは、老年だから「膝を抱く」というと、必ず「物思い」という連想に至るのだが、これも年月のもたらすものであろうか。
デュエットさん、有難うございました。(旧記事のリメイクです。ご了承ください)

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき・・・・近藤芳美
003霧

   たちまちに君の姿を霧とざし
    或る楽章をわれは思ひき・・・・・・・・・・・・近藤芳美


この歌は近藤芳美の、戦後まもなくに発表した「相聞」の歌として有名なものである。
作られたのは戦前で、とし子夫人との甘やかな新婚時代あるいは婚約中の交際時期のものであろうか。
『早春歌』昭和23年刊所載。
近藤芳美は東京工業大学出の建築家が本職。建築技師や大学教授などを務めた。
広島高等学校在学中に中村憲吉について「アララギ」入会。
戦後は新風十人などとして嘱望され、アララギの若き俊英と呼ばれる。
昭和26年短歌結社「未来」創刊、30年より朝日歌壇選者。近年、「未来」編集を岡井隆に譲る。
この歌のように、いかにもインテリらしい作風と処世の態度を一貫させてきた。
左翼運動さかんな頃も、それに共感を寄せつつも、それに溺れることはなかった。
また前衛短歌運動の時期も、ある一定の距離を置いて接してきた。
それらの運動の退潮期を経た今は、むしろ近藤芳美の生き方、処し方が自由な姿勢として評価されている。
以下、近藤芳美の歌を少し引く。

  落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺麭で拭く明くる朝に

  国論の統制されて行くさまが水際立てりと語り合ふのみ

  送りかへされ来し履歴書の皺つきしに鏝あてて又封筒に入る

  果物皿かかげふたたび入り来たる靴下はかぬ脚稚(をさな)けれ

  コンクリートの面にひそかに刻みおきしイニシヤルも深く土おほはれつ

  あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと

  手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ

  果てしなき彼方に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも

  鴎らがいだける趾の紅色に恥(やさ)しきことを吾は思へる

  営庭は夕潮時の水たまり処女(をとめ)の如く妻かへりゆく

  売れ残る夕刊の上石置けり雨の匂ひの立つ宵にして

  耳のうら接吻すれば匂ひたる少女なりしより過ぎし十年

  生き死にの事を互ひに知れる時或るものは技術を捨てて党にあり

  乗りこえて君らが理解し行くものを吾は苦しむ民衆の一語

  帰り来て踏まれし靴を拭くときに吾が背に妻は抱かむとする

  傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき

  講座捨て党に行く老いし教授一人小さき一日の記事となるのみ

  身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ

  離党せむ苦しみも今日君は告げ売れざる暗き絵を置きて行く

  反戦ビラ白く投げられて散りつづく声なき夜の群集の上

  森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹
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近藤芳美は90歳を越えても現役歌人として大きな地歩を占めてきたが、2006年6月21日に亡くなった。作品数も膨大なものである。上には初期の歌集『早春歌』『埃吹く街』『静かなる意思』『歴史』から引いた。これらを読むだけでも、先に書いた近藤芳美の生き方が作品の上にも反映していることが読み取れるだろう。
私としても一時は「未来短歌会」に席を置いたものとして無関心では居られない。
事典に載る記事を下記に引いておく。
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近藤芳美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人である。

本名は近藤 芳美(読みは同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活躍し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。

生涯
1913年、父の赴任先であった旧朝鮮(現・大韓民国)・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。広島二中(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。

東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。戦時中は中国戦線に召集された。終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表した。またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成している。

1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。

1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三らと共にアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。石田比呂志、大田美和、道浦母都子など多くの歌人を育成した。また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。神奈川大学の教授も務めた。

このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。

2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。

2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。遺志により、葬儀・告別式は親族のみで行い、後日未来短歌会主催による「しのぶ会」を開く予定。

思想
芯からの反戦主義者として知られる。自らの戦争体験から、平和を強く希求するようになった近藤は、終戦記念日に日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が開催した反戦集会に参加するなど、戦争に反対する主張を一貫して展開した。その姿勢は自らの評論や短歌のみならず、新聞の短歌欄における選歌にも反映されており、「朝日歌壇」で彼が選ぶ歌の中には、反戦に関する作品が必ずといって良いほど含まれていた。教育現場での日の丸・君が代強制問題が浮上した時期には、強制に反対する立場から詠まれた歌を複数回採用している。 そのためか、朝日歌壇は一部の愛国者から「時事詠が多すぎる」と批判されている事もある。

年表
1913年 出生
1932年 「アララギ」に入会
1947年 「新歌人集団」を結成
評論『新しき短歌の規定』発表
1948年 歌集『早春歌』、『埃吹く街』を刊行
1951年 6月、歌誌『未来』を創刊、編集発行人に就任
1956年 現代歌人協会設立
1969年 『黒豹』(1968年)で第3回迢空賞を受賞
1977年 現代歌人協会理事長に就任(~1991年)
1986年 『祈念に』(1985年)で第1回詩歌文学館賞を受賞
1991年 『営為』(1990年)で第14回現代短歌大賞を受賞
「近藤芳美方」としていた『未来』発行所を、東京都中野区東中野に移転。同時に発行人名義を岡井隆に譲る
1994年 『希求』(1994年)で第6回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞
2006年 死去


彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・高浜虚子
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    彼一語我一語秋深みかも・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

「深み」の「み」は、形容詞の「深し(深い)」の末に添えて名詞化する接尾語で、「秋深み」は秋の深まった状態を言う。
天地の間に置かれた二人の人物。
一方がポツリと一語を発すると、もう一方も一語ポツリと返す。言うに言われぬ時が流れて、二人の男も、発した言葉も、深い秋のまつただなかにある。『六百五十句』昭和30年刊所収。
高浜虚子は何と言っても俳句界の巨人であって、作句も多く、私も何回も採り上げてきた。
以下、重複しないように気をつけて虚子の句を少し引く。

    海に入りて生れかはらう朧月

    蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ

    ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
    ・・・・・9月14日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰く、センセイノネコガシニタルヨサムカナ トヨ
         漱石の猫の訃を伝へたるものなり。返電。・・・・・(明治41年)

    春風や闘志いだきて丘に立つ

    露の幹静かに蝉の歩き居り

    冬帝先づ日をなげかけて駒ケ岳

    石ころも露けきものの一つかな

    道のべに阿波の遍路の墓あはれ

    鎌倉に実朝忌あり美しき

    我が生は淋しからずや日記買ふ

    風生と死の話して涼しさよ



やはらかき身を月光の中に容れ・・・・・・・・・・・・桂信子
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    やはらかき身を月光の中に容れ・・・・・・・・・・・・桂信子

昨日が「重陽の節句」だったので、今日は引き続いて「月光」の句を採り上げる。
ただし今日が満月というわけではないので念のため。

桂信子は、大正3年大阪市生まれの俳人。
以前にも採り上げたことがあるが、結婚して2年にして夫と死別。
女盛りの肉体の「いとおしさ」「わりなさ」が「やはらかき」の一語にこもっているようだ。
澄んだ光をまるで大きな器のように溢れさせている秋の月。
その中に歩み入る成熟したひとりの女性。孤独感を根にして、みずみずしい心と体の揺らぐ思いを詠みすえている。『月光抄』昭和24年刊所収。2004/12/16死去。行年90歳。

以前にも採り上げた句と重複するかも知れないが桂信子の句を少し引く。

   ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ

   クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

   閂(かんぬき)をかけて見返る虫の闇

   ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

   衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く

   窓の雪女体にて湯をあふれしむ

   ゑんどうむき人妻の悲喜いまはなし

   ひとり臥てちちろと闇をおなじうす

   暖炉ぬくし何を言ひ出すかも知れぬ

   虫しげし四十とならば結城着む

   寒鮒の一夜の生に水にごる

   さくら散り水に遊べる指五本

   きさらぎをぬけて弥生へものの影

   忘年や身ほとりのものすべて塵

   地の底の燃ゆるを思へ去年今年


かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも/会津八一
kogetudaitotuki月光

  かすがの に おしてる つき の ほがらか に
   あき の ゆふべ と なり に ける かも・・・・・・会津八一


今日十月二十六日は暦によると「旧重陽の節句」の日である。
それに因んで、有名な会津八一の歌を載せる。

明治14年新潟県に生れた作者は、歌人としてのみならず、書家として一世に名高かった。没後その名声はますます高い。号・秋艸道人。
元来は英文学者だが、東洋美術への関心が強く、とりわけ奈良美術史研究は第一人者として有名である。
早稲田大学教授。
上の歌は、初出の第一歌集『南京新唱』(大正13年刊)では漢字になっている部分も、歌の声調を重んじる立場から、後年、かな分かち書きに変えた。
奈良春日野一帯に照り輝く初秋の月。「ほがらかに」の働きひとつで風景は一挙に大きくふくらんだ。
『鹿鳴集』昭和15年刊所収。

掲出の写真は銀閣寺の光月台に照る月である。
会津八一については以前に採り上げたが重複しないように少し引く。

かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つくよ かも

もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かも

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に すはせし ほとけ あやし も

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を さみしみ こひ つつ か あらむ

みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に かげ つぶら なる たま の みすまる

いろづきし したば とぼしみ つゆじも に ぬれ たつ ばら の とげ あらは なり

あき ふかき みだう の のき に すごもる と かや に はね うつ はち の むれ みゆ


十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところは/谷川俊太郎
na0035「な」

    な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

十月二十六日午後十一時四十二分、私はなと書く。なの意味するところ

は、一、日本語中のなというひらがな文字。二、なという音によって指示

可能な事、及び物の幻影及びそこからの連想の一切。即ちなにはなに始ま

り全世界に至る可能性が含まれている。三、私がなと書いた行為の記録。

四、及びそれらのすべてに共通して内在している無意味。

十月二十六日午後十一時四十五分、私は書いたなを消しゴムで消す。なの

あとの空白の意味するところは、前述の四項の否定、及びその否定の不可

能なる事。即ちなを書いた事並びに消した事を記述しなければ、それらは

他人にとって存在せず従ってその行為は失われる。が、もし記述すれば既

に私はなを如何なる行為によっても否定し得ない。

なはかくして存在してしまった。十月二十六日午後十一時四十七分、私は

私の生存の形式を裏切る事ができない。言語を超える事ができない。ただ

一個のなによってすら。
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日付と時間の入っている谷川俊太郎の詩なので、今日の日付で載せた。これは『定義』という24篇の散文詩風の作品で構成される詩集で1975年思潮社刊に載るもの。
物事を「定義する」ということに拘って24もの詩をものした詩才に脱帽したい。こういう詩の作り方は詩作りのトレーニングになる。


露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・小林一茶
030811朝露本命②

  露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・・・・・・小林一茶

江戸後期の代表的俳諧師の一茶は、信州柏原から15歳の時に江戸に出て、奉公生活にも俳諧修業にも辛酸をなめた。
異母弟との13年にも及ぶ遺産争いが解決し、51歳で帰郷、妻帯した。三男一女を得たが、長男、長女、それに次男と次々に幼くて死に、妻をも失った。
この句は溺愛していた長女・さと が、1歳余で天然痘のため死んだ時のもの。
この世ははかない露の世という。そんなことはよく知っている。よく知ってはいるが、知っていることが何になろう。くりかえし、くりかえし、私は悲しくてたまらないよ。 ということであろうか。
『おらが春』所載だが、「露の世」というフレーズの繰り返しが秀逸であり、かつ痛切である。
「露」の句としては代表的な秀句として、よく知られている。
以下、「露」を詠んだ句を引いておく。

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 芋の露連山影を正うす・・・・・・・・・飯田蛇笏

 蔓踏んで一山の露動きけり・・・・・・・・原石鼎

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子


ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』・・・・・・・・・・・・木村草弥
ダ・ヴインチ・コード

──新読書ノート──初出・Doblog2007/10/24

  ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』・・・・・・・・・・・木村草弥

昨日、イスラエル紀行の一環として「マグダラのマリア」について少し触れた。
その時、この本についても書いたが、今日は、この本について書いてみる。
下手な私の要約よりもWeb上に載る下記の記事を転載しておく。
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ダ・ヴィンチ・コード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では小説版の『ダ・ヴィンチ・コード』について記述しています。映画版の『ダ・ヴィンチ・コード』についてはダ・ヴィンチ・コード (映画)をご覧ください。

『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)は、ダン・ブラウンの長編推理小説。アメリカで2003年に出版された。『天使と悪魔』に次ぐ「ロバート・ラングドン」シリーズの第2作目。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎にはじまり、多くの流説を結びつけた内容は世界的にヒットし、44言語に翻訳され7000万部の大ベストセラーとなった。筆者が、事実に基づいているとしたため大衆に注目され、多くの研究者の議論が行われている。

日本では、2004年5月に角川書店から上下巻で刊行された(現在、角川文庫で上中下巻の廉価版が発売されている)。翻訳者は越前敏弥。日本国内での単行本・文庫本の合計発行部数が1000万部を突破した。(角川書店の発表によると2006年5月24日現在、単行本が237万部、文庫本が770万部、計1007万部)

2006年、トム・ハンクス主演で映画化。
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注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
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あらすじ
深夜、パリのホテル・リッツに宿泊していたハーバード大学の宗教象徴学教授であるロバート・ラングドンの下に、フランス司法警察の警部補が訪ねてきた。急用による同行を請われ、到着した場所はルーヴル美術館だった。そこでラングドンは、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールの遺体が猟奇殺人にも似たウィトルウィウス的人体図(右図)を模した形で発見されたと伝えられる。

警察は宗教象徴学者の立場から、ラングドンの事件に対する見解を聞きたいと協力を要請した。しかし、実際はソニエールと会う約束をしていたラングドンを第一容疑者として疑い、逮捕するために呼んだのである。

ラングドンはソニエールの孫娘にして司法警察の暗号解読官でもあるソフィー・ヌヴーの協力と機転により、その場を脱した。ソフィーは祖父の状態を祖父が自らに遺した、自分にしか解けない暗号であると見抜き、ラングドンの潔白に確信を持っていた。これを上に報告しても一笑に伏されると感じたソフィーはラングドンの協力を得るため、彼を逃がしたのだ。しかし彼はそのことによってソフィーともども司法警察に追われる事になってしまう。

一方でソニエールを殺した犯人とその黒幕は、かつてソニエールが秘匿したとされる聖杯の秘密を追っていた。それが「教会の名誉を守る」という狂信に踊らされて…。そして、その毒牙もまたラングドンたちを追い続ける事になる…。

登場人物
ロバート・ラングドン……ハーヴァード大学教授・宗教象徴学専門。
ソフィー・ヌヴー……フランス司法警察暗号解読官。ジャック・ソニエールの孫。
ジャック・ソニエール……ルーブル美術館館長。
アンドレ・ヴェルネ……チューリッヒ保管銀行パリ支店長。
リー・ティービング……イギリスの宗教史学者。ナイトの爵位を持っている。聖杯の探求に生涯をかけている。
レミー・ルガリュデ……ティーピングの執事。
マヌエル・アリンガローサ……オプス・デイの代表。司教。
シラス……オプス・デイの修行僧。色素欠乏症。
ジョナス・フォークマン……ニューヨークの編集者。
ベズ・ファーシュ……フランス司法警察中央局警部。
ジュローム・コレ……同警部補。

作品内に登場する観光名所
エッフェル塔
サン・シュルピス教会
ルーブル美術館
ウェストミンスター寺院
ナショナルギャラリー
キングズ・ガレッジ資料館
テンプル教会
ロスリン礼拝堂

その他
フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名[2]を挙げ、
「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。
とりわけキリスト教、とくにカトリックの教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイト[4]を開設している。
プロットの下敷にアイデアが盗用されたとして、ノンフィクション、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられたが、ロンドンの高等法院は原告側の訴えを退ける判決を下している。
批判の一環として、特別番組『ダ・ヴィンチ・コードの嘘』が放送された。また、「日経エンタテインメント!」は『大名所で原作のウソを発見!』と題し原作で描かれている名所と実際の名所の相違点を挙げている。
作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない。」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている。(日経エンタテインメント)。
ルーブル美術館館長のジャックは殺されたとき76歳だが、フランスの定年は65歳である。

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注釈
『ウィトルウィウス的人体図』、『モナ・リザ』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』など
オプス・デイは実在する組織である。シオン修道会は「秘密結社」とされているのに、「実在する組織」というのは変である。「秘密儀式」も想像上のもの。『秘密文書』なるものについては「シオン修道会」の項を参照のこと。
レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎、キリスト教における異説や、聖杯伝説に関する解釈、メロヴィング朝の由来など。多くは『レンヌ=ル=シャトーの謎』からの借用。
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以上の記事では、小説の「あらすじ」は、殆ど触れられていないことになる。
2004年5月に単行本として角川書店から出版されたときは2巻であり、私の買った文庫版は上・中・下3冊であって、結構よみごたえのあるものだが、サスペンス仕立ての小説であり、面白くて途中で止められず、一日で読了した。
私も聖書や外典のいくつかは読んでいるが、資料には、よく当たっているようだ。
マグダラのマリアに触れた部分などは少ない。聖書の当該箇所などは、クリスチャンであれば周知のことなので敢えて改めて触れられていないものであろう。
図版③は、Jan van SCORELのマグダラのマリアの絵である。
mary_magdaleneマグダラのマリア

この翻訳本の「解説」で荒俣宏が書いていることだが、「聖杯伝説」が文献に残されるようになった中世から多くの研究がなされてきたが、それはキリスト教の教義からのアプローチだったのに対して、現代のアプローチは「神秘学」「歴史学」「図像学」「語源学」さらに「美術」や「科学」など多面的になっているところに特徴がある。
異端とされて徹底的に、むごたらしい惨劇のもとに抹殺された「カタリ派」のことなどもある。
帚木蓬生の『聖灰の暗号』などは、これを描いたものである。
ヴァチカン当局が、この本や映画を見ないように、との「触れ」を出したというのは当然であって、今まで「聖書」の記述してきたことが覆されるのだからである。
欧米で大ヒットした本書も、むしろキリスト教を知らない、あるいは信仰していない人間にとっては新鮮な面白さを十分に味わえるのではないか。
ただ、この小説は「聖杯」のミステリーと「争奪」についてサスペンスタッチで描くのに大半のエネルギーが費やされているので、その面の面白さが主になっているとは言えるだろう。
とにかく未読の人には、ぜひ読まれることをお勧めする。


娼婦たりしマグダラのマリア金色の教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・木村草弥
lrg_11707601マグラダのマリア教会

──イスラエル紀行(4)──

  娼婦たりしマグダラのマリア金色(こんじき)の
   教会に名とどむオリーヴ山麓・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「マグダラのマリア」については、ここに改めて書くまでもないが、リンクできるようにしてあるので、ご覧いただきたい。
「マグダラのマリア教会」は同じ名の教会が世界各地にいくつかあるが、もともとの物語の発祥の地であるイスラエルのエルサレムにある教会は、 1888年ロシア皇帝アレキサンダー3世が、マグダラのマリアと母后マリアの二人を記念して建てたものである。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)には、掲出した歌につづいて

  「マリアよ」「先生(ラボニ)!」ヨハネ伝20章に描かるる美(は)しき復活の物語

という歌が載っている。
キリスト磔刑の死後3日目、復活したイエスをはじめて見たのはマグダラのマリアだった、と言われている。
キリストを深く、心から敬愛した彼女なればこそ、復活したイエスが誰よりも最初に「姿」を見せたのが彼女なのであった。
マグダラのマリアは「聖女」に列せられている。
キリストの聖母もマリアという名である。
そんなこともあって、キリスト教世界では女の子に「マリア」という名をつけるのが大変多いのである。
英語名では「メアリー」と発音される。
絵画の世界でもマグダラのマリアは、さまざまに描かれてきた。
一例として、ティツィアーノの描いた絵を挙げておく。
magdelene3ティツィアーノマグラダのマリア像

この絵については、こんなエピソードがある。

いろんな画家の伝記を書いたことで有名なヴァザーリ(いちおう本業は画家だが)
いわく
「髪が乱れほつれたマグダラのマリアの半身像で、
その髪は瀧のように肩、喉、胸にかかっている。
彼女は頭を上げ、その目はしっかりと天を見据えている。
その赤く泣きはらした目は悔悛の表れであり、
涙は犯した罪に対する悲しみの表れである。
このような絵であったから、それを見る者ははげしく心を動かされた。
さらに彼女の姿は非常に美しかったが、
その美は情欲をそそるものではなく、
むしろ深い哀れみの情を誘うものであった」
・・・と。
ここまで言われたら、画家冥利というものである。
あ、ここにもマグダラのマリアの象徴である香油の入った小瓶が描かれている。(左下)
膝の上の骸骨は「限りある命」の象徴なんだそうである。
「香油」というのは、死んだ人の体を香油で拭い、清めて「葬り」の儀式に備える聖なる儀式の一環なのである。
参考までに図版③に、カラヴァッジヨの同名の絵を載せておく。
carav028カラヴァッジョマグダラのマリア

この絵も、有名な画家であるから、よく採り上げられる絵ではあるが、題名がマグダラのマリアでなければ、どこかの庶民の女の午睡なんかと解されるのではないか。
だから宗教画としては二流だと言えるだろう。
この絵にはマグダラのマリアという歴史上の人物──それもキリスト教における重要人物を描くという必要条件を欠いている。
強いて言えば、椅子の下にこぼれている「小物」──切れたロザリオと香油瓶──がマグダラのマリアを描いた宗教画であることを、僅かに示唆するに過ぎない。
図版④はカルロ・クリヴェッリの描くマグダラのマリアである。
1354976クリヴェッリマグダラのマリア

こうなると、典型的な、というか、類型的なというか伝統的な宗教画を一歩もでていない。
こうして比較してみると、テイツィアーノの絵が、いかに優れているかが判る。
とは言っても、美術というものは各人さまざまに鑑賞されるものであるから、好き好きであっていいのである。

とにかく、オリーヴ山 というのは聖書あるいはキリスト教の世界では重要な歴史的場所なのである。
私が行ったときは、実は「マグダラのマリア教会」には立ち寄らなかった。
ネット上のイスラエル旅行記を見ても、ツアーでは、ここに立ち寄らなかったという記載が多い。マグダラのマリアに対する「偏見」が、あるいは関係しているのかも知れない。
したがって、この教会の写真が遠景からのもので小さいことをお詫びしたい。

オリーブ山麓には、
lrg_11707600万国民の教会

万国民の教会(写真⑤)─別名苦悶の教会と呼ばれ、最後の夜イエスが苦悶しながら過ごしたと言われている─がある。この教会は新しいもので、聖書のエピソードに因んで、最近に建てられたものである。
この教会に隣接して ゲッセマネの園というのがある。イエスが頻繁に訪れた場所で「最後の晩餐」のあとイエスは弟子とともに訪れ、受難を予言した場所。名前の通り、オリーヴの木が茂るところである。

ここから少し離れたところに金ピカの「マグダラのマリア教会」はある。
この教会は、見れば判るように典型的な「ロシア正教」の様式である。玉ネギ坊主の屋根といい、ダブル十字架の下の段の横棒が「キ」の字にならずに、「斜め下」に傾いでいるのもロシア正教特有のものである。
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小説『ダ・ヴィンチ・コード』及び、これを原作にした映画は先年に大きな話題を呼んだ。
この本については明日10/24付けで記事を載せるので、よろしく。
キーパーソンとして「マグダラのマリア」が存在する。キリストが死んだとき、マリアは腹にキリストの子を宿していた、というフィクションが「キー」になっているのだ。
昔から聖書や福音書などには「外典」というものが存在し、小説は、それらを好んで題材にしてきた。
ローマ法王庁は、この本および映画を読んだり、見たりしないように信者に呼びかけた。

2005/09/02に、私の歌

   紺ふかき耳付の壺マグダラのマリアのやうに口づけにけり

を引いて、マグダラのマリアのことについて少し書いている。ご参考までに。
そこに載せたJan van SCORELのマグダラのマリアの絵の方が趣きがある。


終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(3)──

  終末に向き合ふものの愛(かな)しさか
   ハル・メギドの野は花に満ちたり・・・・・・・・・・・木村草弥


はじめに「ハル・メギド」の野ということについて少し説明しておく。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」に「ハルマゲドン」の最終戦争、というようなくだりがあり、一般人にも、このハルマゲドンという言葉が知られるようになったのは、サリン撒布事件などを起した麻原一派の恣意的な解釈、からである。
聖書の中の、この記述は邪悪な悪魔と、正しい信仰ないしは正しい人生との戦いを言ったものであり、本来的に「ハルマゲドン」とはイスラエルにある地名である。
紀元前何世紀かの戦場跡と言われている。現地の発音に忠実にいうと「ハル・メギド」と言うのが正しい。
「ハル」とは「丘」の意味である。今は草花の咲く草原である。


イスラエルで売られる本には、そのハル・メギドの草原の写真が載っている。
掲出の写真①はアネモネ属の花で、イスラエルでは、アネモネは「国花」になっている。
春になると野原一面に咲くアネモネ。
赤・白・黄色・紫・ピンク・青と、さまざまな美しい色で、気持ちを明るくさせてくれる。
イスラエルに行く機会のある人は、是非この季節のアネモネの一群を見てもらいたいものだ。

麻原一派の事件が起こった時、私は、すでにこういういきさつは知っていたので、こんな歌を作った。
第二歌集『嘉木』(角川書店)に載.る。

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   ハルマゲドンそは丘の名と知らざるや世紀末なる憂愁深く

   くるふ世とみな言ふべけれ僧兵が毒液ふりまく擾乱(ぜうらん)なれば

   ハルマゲドンかの丘原に展(ひら)けしは「たましひ救へ」の啓示ならずや


はじめに 掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
top野の花④

イスラエルという土地は旧約聖書などを読んでも、昔から、川の流れる流域以外は砂漠の不毛の地だったらしい。
今でも農耕が行なわれ豊穣の土地と言われるのは「約束の地」と呼ばれる限られた地域だけである。
その風土的な極端な特徴がユダヤ教などの宗教が発生する精神的なものの基礎を形成したことは確かである。
だから、当然、その肥沃な土地をめぐる争奪戦が繰り返されたのも理解出来よう。
百聞は一見に如かず、であり、本で読んで知っていても、実際に現地を見てみると、十全に理解できる。
私は2000年5月に訪問して、このことをはっきりと知ったのである。
かの地ハル・メギドの野に咲く花のいくつかを写真にして掲出するが、詳しくは私は知らない。

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ハニタのアイリスという草花

私は、掲出した、この歌で「終末に向き合ふものの愛(かな)しさかーー」と呼びかけたが、これには聖書の「ハルマゲドン」の記述や西洋のキリスト教会で見られるタペストリーの絵解き物語を踏まえている。「哀しさ」「悲しさ」とは、私は言っていない。「愛(かな)しさ」と言っている。この言葉は「いとしさ」と言い換えてもよい。その表現の中に、私は未来に対する希望を盛ったのである。
あと二、三イスラエルの野の花を載せておく。

karumerit1.jpg
カルメラ

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ルリハコベ属の花

現地イスラエルに行くと、この歌の背景の豊穣の土地を外れると、砂ばかりの不毛の地が続く。
同じ歌集に載る私の歌の

   断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)

ガリラヤ湖周辺の肥沃な地を離れて、ヨルダン川沿いに南下してゆくと、上の歌のような風景が現出する。ユダ沙漠は広大なもので、この沙漠を越えて西に行ったところにエルサレムの街がある。エルサレムの街は、東から入るにしても西から入るにしても、うねうねとした道を延々と登り下りした高い丘の上にある。
旧市街は高い城壁に囲まれている。新市街は、その城壁の外に広がっている。

   あたらしき千年紀(ミレニアム)に継ぐ風景は?パソコンカフェのメールひそかに

同じ歌集に載る私の歌のひとつである。ここにも私の問いかけと願いをこめてあるのは、勿論である。
イスラエル紀行の歌は、歌集に載せたものだけでも80首を越えるが、いずれも愛着のあるものだが、今日は、この辺でくぎりにする。

こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする・・・・・・木村草弥
taiyou084夕日本命

    こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶(きよほうへん)
     かしましき日の暮れなむとする・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも採っているのでWeb上でもご覧いただける。
「うた作り」というのは、連作として、はじめから作るものもあるが、ある程度ばらばらに作った歌を、後から一定の小章名のもとにまとめる、ということもする。
この歌を含む一連を後で引用するが、その中では、掲出の歌は、どちらかと言うと異質かも知れない。
しかし、この歌の持っている雰囲気は、季節で言うと、やはり「秋」のもので、決して気分の浮き立つ春のものではないし、まして夏のものでもない。
私の、この歌は歌会で、私の他の歌のことで「的を射ていない」ような批評を小半日聴かされて、うんざりした気分の時の作品である。咄嗟に出来た歌かと思う。
以下、この歌を含む一連を引く。

     雌雄異株・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

  須勢理比売(すせりひめ)恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかりきぬ

  いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

  こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

     ・・・・・・・・・・・聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
   わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大伴家持・万葉集第三・476)
   秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積(あさか)親王葬られし地(つち)

   このあたり黄泉比良坂(よもつひらさか)といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く

     ・・・・・・・・白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため・・・・
   役小角(えんのをづぬ)の開きし鷲峰山金胎寺平城(なら)の都の鬼門を鎮めし

   無住寺に人来るけはひ紅葉に視界がよくなつたといふ声聞こゆ

   日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光(ゆふかげ)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正安2年(1300年)建立の文字・・
   宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖(うみ)の見ゆる蒼さや

   つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

   いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

   古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

   厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

   億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
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この一連の舞台回しになっている金胎寺は京都府南部の山間部にあり、聖武天皇が一時造営された恭仁京のすぐ近くであり、平城京の鬼門にあたる北東に位置している。
だから、ここに役行者(えんのぎょうじゃ)が、この寺を建てたことになっている。
鷲峰山(じゅうぶざん)は高山というのではないが、この辺りでは最高峰ということになっている。
もっとも当地では「じゅうざん」と発音する。「じゅうぶざん」では言いにくいからである。
ここは昔、「行者」が修行したところで、今でも「行者道」と称するところがあり、このサイトでは写真入りで詳しく書いてあるから参考になる。「東海自然歩道」の一部になっているらしい。
ついでに言うと有名な「関が原」も地元では「せがら」と呼んでいるのと同様の扱いである。

この一連は、舞台回しにかかわらず、小章名の通り、私としては妻との間の心の揺れを描いたものが中心になっている。
歌というのは一連として鑑賞してもよいし、一首づつ単独で鑑賞してもらっても、よい。
この一連などは一首づつ、あるいは「一塊」の歌群を別々に鑑賞してもらっても、よい。


君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・木村草弥
susukiススキ

    君とゆく曽爾(そに)高原の萱原の
     銀のたてがみ風吹きすぎぬ・・・・・・・・・・・木村草弥


曽爾高原は奈良県宇陀郡曽爾村にあり、曽爾高原と言えばススキとハギが秋の草として有名である。春、すっかり焼き払われたあと、地中から芽を出す。
若い葉は、さほど剛くはなくチマキを包むのに適している。お月見の頃、平地より10日ほど早く紫の穂を出す。すっかり出揃った穂は草原一面を紫に染め、風が起こると繊毛運動を見るように一斉に波打つ。
野分の吹く頃、実が出来て銀色の毛が逆光に美しい。実がとび去ると穂はほうけて、わびしくなる。この頃から屋根葺き用に注文があれば地元の人によって刈り取られる。
ススキ──イネ科の多年草。カヤ(萱)、オバナ(尾花)とも呼ばれる秋の七草のひとつ。薄、芒など、さまざまの字が使われる。
写真②③に曽爾(そに)高原の遊歩道と地図を載せた。
b曽爾遊歩道

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ススキと共に高原の秋を代表する植物と言えば、ハギを挙げなければならない。紫の小さな蝶形花が集って短い総状花序をなしている。花はやがて青紫色になってこぼれ落ちる。茎は70~150cm、お箸か鉛筆ほどの太さだから、花時には花の重みで湾曲する。葉は互生し3枚の小葉に分かれている。「萩」と書くように秋の花、秋の七草のひとつ。晩秋に刈って筆軸や柴垣に作られる。
写真④はハギである。
hagi_L4萩②

この高原には多くの植物と動物が生息しているが、例えば、キイチゴは5月~8月に遊歩道や草原周辺の道端に白い5弁の梅花形の花をつける。茎や枝は細い蔓ののようで、鋭いトゲがある。花が終ると粒々した桑の実のような実が出来る。実は小さい核果が集合したもので、赤く熟したものは甘い液を含み、おいしく食べられる。いわゆるベリーである。木苺の仲間は落葉低木で茨(イバラ)とも言う。

掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
この歌の一連のはじめの部分を少し引いておく。

    土 偶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  君とゆく曽爾高原の萱原の銀のたてがみ風吹きすぎぬ

  この夏の終りに蜩(ひぐらし)鳴きいでてそぞろ歩きのうつせみの妻

  わがいのちいつ終るべきペルセウス流星群の夜にくちづける

  流砂のごと流るる銀河この夏の逝かむとしつつ霧たちのぼる

  みづがめ座われのうちらに魚(いを)がゐてしらしらと夏の夜を泳げり

  呼ばれしと思ひ振りむくたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ

  萱原に立てば顕ちくる物影のなべては人に似るはかなしも

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なお、万葉集には、ススキを詠んだものとして17首、をばなを詠んだものとして19首、萱を詠んだものとして10首、出てくるという。もっとも、私は全部をあたってみた訳ではない。

かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・史邦/はきごころよきめりやすの足袋・・・凡兆
027toukei.s水墨画

  かきなぐる墨絵をかしく秋暮て・・・・・・・・・・・史邦

    はきごころよきめりやすの足袋・・・・・・・・・凡兆


これは発句と付句という連句遊びの一対である。
史邦の発句の575に対して、凡兆が付句で77と応じたもので、連句特有の約束事があり、簡単には説明できないが、見事な受答えと言える。

少し解説してみよう。
史邦の句の「墨絵」は15世紀なかば宋元画がわが国に流入して以来興った水墨画で、禅宗とも深いかかわりが生じた。
この句が詠まれた頃には、中国伝来という意味で、異国風な新鮮さがあった。
一方、凡兆の付け句の「メリヤス」は長崎などを通じて入ってきた紅毛の舶来品である。
つまり、この付け合いは、二様の異国情緒を取り合わせ、両句あいまって、晩秋ひとり心ゆくままに墨絵に没頭して楽しむ人物を描き出している。風雅を解する豪商か、それとも脱俗の隠士か。
これは『芭蕉七部集』の『猿蓑』はつしぐれの巻、の一部である。

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写真に掲げたように「足袋」というのは日本の履物で二本指に分れ、「こはぜ」という独特の「留め金」で足首に留めるというものであるが、その材質を西洋渡来の「メリヤス」の生地で仕立てると、何ともしっとりとした感じの足袋に仕上がり、足になじむのである。
こういう「言葉あそび」が歌仙などの「連句」遊びなのである。芭蕉の頃から盛んに遊ばれたが、現代になって甦り、あちこちで歌人、俳人、詩人などが連句遊びをやっている。私も一時期、誘われて「付け合せ」てみたことがある。これらは私のWebのHP「連句の巻」を参考に見てもらえば、多少はご理解いただけると思う。
ついでに説明すると「歌仙」というのは、ここに見るような一対が18対つまり合計36の句で出来ているのが、それである。時間の都合で「半歌仙」という18句の一連もある。
こういう連句は、基本的に「座の文芸」であるが、今では「捌き手」を置いて、Web上で投稿を募り、捌き手が一番適当と思われるものを採用して、次に進むという催しも行なわれている。
連句に興味のある方には、新潮選書に入っている 高橋順子『連句のたのしみ』をおすすめする。もう10年も前の出版だが、在庫はあるはずである。高橋は詩人で、小説家の車谷長吉の夫人である。
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掲出の写真に「メリヤス」の足袋のものが手に入らなかったのが残念である。

樹は樹で、張りつめた水を足もとに見おろすとき/よこたはる精霊が低く嘯つてゐる・・・大岡信
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    水樹府(すいじゅふ)・・・・・・・・・・・・大岡信

   樹は樹で、
   張りつめた水を足もとに見おろすとき
   よこたはる精霊が低く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   水は水で、
   そびえる樹を根もとから見あげるとき
   手をかかげた精霊が高く嘯(うた)つてゐるのを見る。

   だが、心やすい挨拶をかつてかはさず
   夜が明ければ、水は水の、
   樹は樹の、別別の、唯一の朝に目覚める。

   根にすべらかな蛇を眠らせ
   ごつごつの樹皮の下には虫の卵、かすかな蛆(うじ)の糞。
   鬱勃と水を吸つて、樹はしげる。

   水は水で、樹のきららかな葉といふ葉に
   やがておのれが露となつて入つてゆく
   涯(は)てのすがたを見つめてゐる。

   だが、心やすい挨拶をかつて交さず、
   樹は樹の虚空をかぎりなく突き、
   水は水の充満にかぎりなく散り。

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この詩は、いかにも「現代詩」らしいもので、決して平易な詩ではない。暗喩を駆使して作られている。
しかも「旧なかづかい」になっている。
漢和辞典で「水樹府」を引いてみたが、「水樹」というのが、水辺に建てられた「四阿(あずまや)」あるいは「水亭」という熟語が載っているのみであり、この言葉は大岡信の造語であると思われる。この詩は1985年秋刊の学習研究社『大岡信・うたの歳時記』秋のうた、に載っているものである。
書き下ろしか旧作かは判らない。

じっくりと、この詩を眺めていると、水と樹との様態が、巧みに捉えられ、表現されているのを読み取れるだろう。また、水と樹とに宿る「精霊」を縦糸にして、この詩が組み立てられているのを知るだろう。
アニミズムである。そのようにして読み解くと、この詩も何となく親しめ、判ってくるというものである。
掲出写真には「四阿」(あずまや)を採り上げてみた。


「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高くイエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(2)──

   --------「わが神、わが神、いかで余を見捨てしや」
   ------------------------(マルコ伝15章33-39)
  「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」声高く
   イエス叫びて遂に息絶えぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


かぎ括弧内の言葉はイエスが息絶える最後の言葉として有名だ。
前書きの形で引用した部分が日本語にしたものである。一般的には「エリ、エリーー」のように翻訳されているものが多いが、私がイスラエルから持ち帰った資料には「エロイ」の言葉が使われていたので、私はそれに従った。この言葉はイエスの「人間的」な生の声として私たちの心を打つものがある。
写真①はゴルゴダの丘の「聖墳墓教会」の内部である。
写真②は聖墳墓教会内の、十字架から降ろされたイエスに葬りのための香油を塗ったとされる塗油台である。
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この歌の前に

  ゴルゴダは「されかうべ」の意なりイエスは衣を剥がれ真裸とされし

という歌を載せている。ゴルゴダの丘というのは、そういう意味を含んでいるのである。
10/15付けで載せたものに続くものとして私の第四歌集『嬬恋』からのものであるが、紀行文としての「ダビデの星」もお読みいただきたい。
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写真③はエルサレム近郊にある町・ベツレヘムの「聖生誕教会」の中のイエスが生まれた場所とされている所。今は銀の星型が地面にはめこまれている。
このベツレヘムの町はパレスチナ自治区の管轄下にありパレスチナ警察が厳重に固めている。聖地巡礼のキリスト教徒の、凄い行列が出来ている。ガイドが警備員に便宜を図ってもらって、行列に並ばずに横から入れてもらった。
この教会も丘の上に位置している。

  主イエス、をとめマリアから生れしと生誕の地に銀の星形を嵌む

  一人では生きてゆけざる荒野なり飼葉桶には幼子入れて


私のベツレヘムでの歌である。
言いおくれたが、ゴルゴダの丘の聖墳墓教会は、キリスト教各派がそれぞれの管理権を主張する世俗的空間である。ローマカトリックやギリシア正教、コプト派などが内部を分割管理している。詳しくは「ダビデの星」の解説文を読んでほしい。
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写真④はイスラエル北部にあるガリラヤ湖畔のナザレにある「受胎告知教会」の外観である。
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イエスの母マリアは、このナザレでイエスを身籠った啓示を受けたとされる。
なお「ナザレ」とは「守る」「信仰を守る」の意味である。
この教会は世界各地からの信徒の寄進で建てられた新しいモダンな教会で、内部には世界各地の信徒の画家が描いたいくつものイエス像のモザイクや絵が壁面を埋めている。
詳しくはリンクに貼った ↑ ところをクリックしてご覧ください。

  主イエスを日本の姿(なり)に描きたる長谷川ルカの真珠のモザイク

という私の歌にある通りである。つまりイエスを日本の着物姿で長谷川ルカは描いたのであった。
詳しくは、リンク設定したページにアクセスしてもらえば見られる。
イエスは伝承によれば、ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村


この地での私の歌である。

イエスはもともとユダヤ教徒である。しかしユダヤ教の律法学者はイエスの説く教義が律法をないがしろにするものだと考えた。それはイエスが自分を「神の子」と称したからである。そして、人々の心を捉えたイエスの力を脅威と感じ、結果的に十字架磔刑へと導いて行ったのである。
ローマ提督ピラトから死刑の宣告を受けてから、十字架を背負って歩くゴルゴダへの道はヴィア・ドロローサ Via Dolorosa 悲しみの道(正しくは痛みの道)と称する約1キロメートルである。新約聖書の記述にしたがって道すじには、歴史的場所として「ポイント」(英語ではステーション)が置かれている。毎週金曜日にはフランシスコ会の修道士が十字架を担ぎながらイエスの行進を再現する。詳しくは私の「ダビデの星」の叙事文を見られたい。

  異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る

の私の歌の通りである。
今まではローマ提督ピラトはイエスを捕らえて磔刑に処した極悪人とされてきたが、今日では、先に書いたようにユダヤ教の律法学者たちが、イエスを捕らえ、処刑するように仕向けた、というのがキリスト教内部での通説となっている。

  「視よ、この人なり」(エッケ・ホモ)ビラト言ひきユダヤの律法に盲(めし)ひし民に

だから私は、このように歌に詠んでみたのである。
今日はエルサレム及び近郊のキリスト教に因む聖地を辿りながら、少しキリストについて書いてみた。
エルサレムの地は一昨日にも書いた通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地である。したがって、ユダヤ教の聖地も多いというより、ユダヤ教の聖地は最近のユダヤ迫害による歴史的事物の展示が主となつている。ユダヤ教とキリスト教は切り離せない。新約聖書はキリスト教の聖典であるが、旧約聖書はユダヤ、キリスト教共通の聖典である。更に言うと、イスラム教も、この旧約聖書は教典として認めているのである。こういうところから、これらの3つの宗教は「同根に発する」と言われる所以である。

  ------------母ラケルが難産の末いまはの際に、その子をベン・オニと名づけたが
  ------------------------父ヤコブは彼をベン・ヤミンと呼んだ(創世記35-18)
   行く末を誰にか問はむ生れきたる苦しみの子(ベン・オニ)はた幸ひの子(ベン・ヤミン)

私は、この歌で旧約聖書の創世記に載る、このエピソードを元に、現下のイスラエルの置かれている厳しい現実を、この歌の中に盛り込んだ。それは「行く末を誰にか問はむ」という呼びかけの形である。こういうのを「比喩」表現と言える。

  「永遠に続く思ひ出」(ヤド・ヴェシェム)と名づけたるホロコースト記念館に「子の名」呼ばるる

現下のホロコーストの哀しい思い出の、「ホロコースト記念館」での歌である。スピーカーから幼くして虐殺された子供たちの名前が読み上げられて流される。

写真⑤は、ユダヤ教会──シナゴーグに掲げられる幕である。
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聖墳墓教会や聖生誕教会、聖受胎告知教会など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。


沈黙は金なり金木犀の金・・・・・・・・・・・・有馬朗人
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  沈黙は金なり金木犀の金・・・・・・・・・・・・・・・・・有馬朗人

金木犀の爽やかな香りが漂う季節になった。例年、東京オリンピックを記念した「体育の日」前後というところである。日本は広いから地域によって異なるだろう。関西では今頃である。私の父は10月14日に亡くなったが、金木犀の強く薫る頃であった。
写真は花を接写で撮ったもので、花は十字の形をしている。地面に散り敷いた時は一面金色で見事なものである。
掲出の句は、もと東京大学学長も務めた有馬朗人のもので「沈黙は金なり」という諺を取り込んで、しかも一句のなかに「金」という字が3個もあるという独自性のある面白い句。この人は海外滞在が長く海外吟が多い。「天為」主宰。

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キンモクセイは雌雄異株だが、日本には雄株しか入って来なかったと言われている。キンモクセイは中国南部の桂林地方が原産地。中国語では「桂」は木犀のことを指し、「桂林」という地名も、木犀の木がたくさんあることに由来する。有名な観光地である漓江下りの基地であり、現地に行ってみると、そのことがよく判る。中国には「月には木犀の大木が茂っている」という伝説があるそうである。夢見心地にさせてくれる花の香りが、地上のものとも思えなかったのであろう。花言葉は「謙遜」。中国の酒に「桂花陳酒」というのがあり、木犀の香りのついた名物の酒である。

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写真③は和知小学校にあるキンモクセイの巨木である。キンモクセイの巨木では三嶋大社のものが有名で樹齢1200年と言い、天然記念物に指定されている。
キンモクセイは学名を Osmanthus fragrans var. aurantiacus というが、一番はじめのOsmanthus というのはモクセイ属というものだが、このオスマンサスはギリシア語の「osme(香り)プラス anthos(花)」というのが語源。因みに学名には末尾にMAKINO とついているものもあるが、それは牧野富太郎博士の命名か整理による故だろう。ついでに言えば fragrans=芳香のある、 aurantiacus=橙黄色の、の意味である。木犀には銀木犀というのもある。私の家の旧宅の庭にあったが、今の家に引っ越す時に庭に入り切らずに植木屋にもらわれていった。
木犀を詠んだ句を引いて終りにする。

 木犀や月明かに匂ひけり・・・・・・・・山口青邨

 木犀の香や年々のきのふけふ・・・・・・・・西島麦南

 夜露とも木犀の香の行方とも・・・・・・・・中村汀女

 木犀の香がしてひとの死ぬる際・・・・・・・・小寺正三

 金木犀手鞠全円子へ弾む・・・・・・・・野沢節子

 木犀が髪にこぼれてゐて知らず・・・・・・・・神戸はぎ

 富士に雪来にけり銀木犀匂ふ・・・・・・・・伊東余志子

 身の饐えるまで木犀の香に遊ぶ・・・・・・・・鷹羽狩行

 金木犀の香の中の一昇天者・・・・・・・・平井照敏
<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球はアポリア・・・木村草弥
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──イスラエル紀行(1)──

  <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ
   殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア・・・・・・・・・・木村草弥


2000年5月にミレニアム記念の年にエルサレムを訪問できたのは幸運だった。その年の秋にはシャロン首相の「黄金のドーム」強行視察に反発してパレスチナ人との間に果てしない流血の衝突が起り、今日に至る泥沼化した紛争の起因となってしまった。
掲出した写真はオリーヴ山からの「黄金のドーム」の遠景である。
掲出の歌は私の第四歌集『嬬恋』((角川書店)に載せたもので、歌以外の叙事文はイスラエル紀行「ダビデの星」をWeb上で見ることが出来るのでアクセスしてもらいたい。歌集には、この叙事文も全文収録してあるが、Webでは収録していないので、紀行文「ダビデの星」をみてもらいたい、という意味である。短詩形としての短歌は事実を叙事するには適していないので、私は慣例を破って、この歌集の中で歌と叙事文を併用するという手段を採ったものである。
写真②はエルサレム旧市街を囲む城壁である。
028エルサレム旧市街城壁

写真③は、エルサレム旧市街の壁の中にある「嘆きの壁」と称されるところで、黒づくめの服と帽子に身を包んだユダヤ人がブツブツと経文を唱えながら壁に向かってお祈りする場所である。この壁の上段にイスラム教の「黄金のドーム」がある。
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なぜエルサレムが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地として古来、たびたび争奪戦の対象になってきたのか、などについて私の紀行文「ダビデの星」に詳しく書いてあるので、お読みいただきたい。

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写真④が「嘆きの壁」に向かうユダヤ人。立っている人もたくさん居る。ここには厳重なイスラエル警察の護衛と監視つきで短時間立ち入ることができる。イスラエル国民にはユダヤ教徒だけではなく、イスラム教徒も、他の信徒も居るが圧倒的多数はユダヤ教徒であるが、ユダヤ人が寛容の精神でエルサレム市を運営するかぎり、みな共存共栄の関係なのである。パレスチナ人(イスラム教徒)も肉体労働や車の運転手などの仕事をユダヤ人からもらって生活しているのである。暗殺されたラビン首相は穏健派だったので両者の関係は蜜月時代だった。今では強硬派のシャロン首相が、そういう危うい両者の関係を破壊してしまい、果てしない殺戮と報復の泥沼に入ってしまった。余談だが、そのアリエル・シャロンが昨年に病気で倒れ人事不省になり、今はどうしているのか、死んだという報道もないが、人騒がせな政治家であった。

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写真⑤は記念館に展示される「2000年前のエルサレムの街の模型」である。エルサレムは東西の交易路の交わるところとして、古来、重要な位置を占めてきた。そういう場所であるだけに、事がこじれてしまうと、血を血で洗う紛争の地と化してしまうのである。
私は歌集の中で

   山 翻 江 倒 海 巨 瀾 捲 奔 騰 急 萬 馬 戦 猶 酣──毛沢東

という毛沢東の詩を「引用」の形で挿入した。これは私の友人・西辻明 が自作の詩の中に使ったのを了解を得て使わせてもらった。全部は理解できなくても、漢字ひとつひとつの意味するところから何となく、現代を表現し得ていると思えるではないか。
毛沢東は晩年には文化大革命などの間違いを犯したが、間違いなく20世紀を代表する偉大な政治家・哲学者であった。

イスラエルやエルサレムについては、旅の途中にガイドのニムロード・ベソール君から色々話を聞いて、まだ書いていないこともあり、いつか機会をみて書いてみたいと思うが、ユダヤ人の中でも人種の違いによって明らかな「差別」が存在するのである。白人のユダヤ人が優位で、有色人のユダヤ人は差別されている。また我々には理解しにくいことだが、ユダヤ教典の中では「働くな」と書かれているらしい。だから現在のイスラエル国民のうちで、保守派の連中は、教典に集中するという名目で働かず、国家の助成で暮らしている、という。これはガイドのベソール君から聞いた。大体、保守派はヒゲを生やし、黒づくめの服装をしているから一見して判るが、湖水地方などの保養地でモーターホード遊びなどをして、はしゃいでいるのは、そういう保守派の連中の子弟である。だから、ベソール君は「間違っていますね」と言うわけである。
ベソール君については私の紀行文を読んでもらいたいが、イスラエル国民は、決して強硬派一色ではない。暗殺されたラビン首相のように平和裡にユダヤもパレスチナも共存する方策を模索した勢力が、今でも多数いるのである。
民族、国家の古さから言えば「ユダヤ人」「イスラエル」「ユダヤ教」は一番古いのである。

私の歌集では、この歌の後に

  夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで

  目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす

  何と明るい祈りのあとの雨の彩(いろ)、千年後ま昼の樹下に目覚めむ


と続けて、この歌集の「ダビデの星」の章を終っている。もちろん私の願望を込めてあるのは当然である。
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「エルサレム」や「嘆きの壁」「ダビデの星」など「リンク」を貼ったページは、私の記事に不足する写真などを補足してくれると思う。
「前のページ」や「リンク」など、次々と検索できるので、ご覧になっていただきたい。


竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる・・・木村草弥
dragonfly01アカトンボ本命

  竹杭が十二、三本見えてをり
   その数だけの赤トンボ止まる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ赤蜻蛉の飛び交う季節になった。この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。とりたてて巧い歌でもないが、叙景を正確に表現し得たと思っている。赤トンボというのは竿などの先端に止まる習性をもっており、また、群れる癖もある。よく観察してみればお判りいただけると思うが、私の歌のように立っている杭の先端すべてに赤トンボが止まって群れているという情景は、よく見られるところである。
この歌は「嵯峨野」と題する一連5首のものである。下に引いておく。

    嵯峨野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

北嵯峨の遊女の墓といふ塚に誰が供へしか蓼の花みゆ

竹杭が十二、三本見えてをりその数だけの赤トンボ止まる

虫しぐれ著(しる)く響かふ嵯峨の夜は指揮棒をふる野の仏はや

輪廻説く寂聴は黒衣の手を挙げていとほしきもの命とぞ言ふ

さわさわと風の愛撫に任せつつうつつの愉悦に揺るる紅萩

赤トンボの「赤」色は繁殖期の「婚姻」色らしく、赤色をしているのは「雄」だという。雌は「黄褐色」をしているらしい。
赤トンボというと、三木露風の歌が有名で、判り易く、今でも愛唱されている。
赤トンボの句を少し引いて終りにする。

 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり・・・・・・・・正岡子規

 から松は淋しき木なり赤蜻蛉・・・・・・・・河東碧梧桐

 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉・・・・・・・・夏目漱石

 洞然と大戦了り赤蜻蛉・・・・・・・・滝井孝作

 赤とんぼまだ恋とげぬ朱さやか・・・・・・・・青陽人

 旅いゆくしほからとんぼ赤とんぼ・・・・・・・・星野立子

 美しく暮るる空あり赤とんぼ・・・・・・・・遠藤湘海


芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ・・・・長塚節
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  芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ
   子芋は白く凝りつつあらむ・・・・・・・・・・・・・・・長塚節


長塚節は正岡子規の高弟。初期「アララギ」を伊藤左千夫とともに主導した歌人・小説家。茨城県に旧家の地主の長男として生まれ、育った。結核のため36歳で没。
写生の歌に独自の境地を開き、鋭い観察と冴えた感覚には完成された風格があった。

掲出の歌は里芋の葉から地面に落ちつづける夜の露。その白玉の露がしみて、地中の芋は白く輝きながら実りつつあるだろう、という。地中を凝視する目と想像力がもたらした印象鮮やかな歌。
ただ「芋」というと里芋のことである。里芋は学名を Colocasia antiquorum var. esculenta というが、インドからマレーシアにかけての南アジアが原産地。ミクロネシアなど南方に広がったタロイモは、その野生種に近いと言われる。サトイモの方は、寒さに適応してアジア北部まで広がった品種で、中国では紀元前から栽培の記録あり。日本では稲作が始まった時期よりも古く、縄文中期から栽培されたと考えられる。つまり古代日本では、サトイモ栽培が稲作と共存していたが、連作が効かないサトイモに対して、一度田んぼを作ると毎年連作できる稲作の方が日本の国土に合っていたのだろう。稲作が出来ない畑地などに、ようやく生き残ってきた。
東北地方で河原などで開かれる「芋煮会」の芋というのもサトイモのこと。むかしはサトイモはよく食べられた。種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋を増殖させて10月に収穫する。

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地方によって呼び方は違うと思うが、関西では写真(2)を「子芋」と呼ぶ。

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写真(3)は子芋の味噌和えの煮付けだが、子芋自体は甘みもない淡白なものなので、どんな料理にも合う反面、特徴のある味ではないので、人すきずきである。親芋は京都では「頭(かしら)芋」と言い、お正月の雑煮に入れて、一家の家長に「頭にふさわしく」と言って食べさせるが、余りうまいものではない。「衣被(きぬかつぎ)」というのは皮のついたままの子芋を茹でたもの。
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写真(4)(5)にサトイモの調理例を出しておく。(4)はサトイモと鶏肉の煮付け、(5)は鶏肉ミンチとのそぼろあんかけである。
サトイモが調理上嫌われるのは手がかゆくなるヌルヌルのためだが、その正体は蓚酸カルシウムの針状結晶のしわざ。皮をむくときに皮膚について刺激する。茹でれば問題ないが、防御としては芋をむくときに、手に酢か塩をつけること。濡らしたキッチンタオルで皮ごと一つ一つくるんで電子レンジにかけてから皮をむくとよい。
この一見やっかいな里芋のヌルヌルにはガラクタンという脳細胞を活発にする物質や消化酵素が含まれているので体によいものであるから毛嫌いせずに使いたい。電子レンジ調理が一番手軽である。

俳句にも古くは松尾芭蕉の

   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

という有名な句があるが、現代俳句にも秀句があるので、それを引いておく。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 雀らの乗ってはしれり芋嵐・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・平畑静塔

 箸先にまろぶ子芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・平井照敏


入って行く 日本剃刀の/一瞬の光りが眺めたさに・・・・田村隆一
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   路上にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・田村隆一

     花の形をした花がある
     人の形をした人がいる

     花ならば散るだろう
     人ならば枯れるだろう
      高層ビルは腐敗するだけ
     そんな都市空間にどんな花が

     どんな人間が生きているのか
     ぼくは露地のある町並を歩き

     小さな鉢植の花が咲いている
     「若返り軒」という床屋さんに
      入って行く 日本剃刀の
     一瞬の光りが眺めたさに

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この詩は田村隆一・詩、荒木経惟・写真『花の町』(河出書房新社1996年刊)に載るものである。
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このシリーズの詩は雑誌「草月」の連載「花の街」に書き下ろし詩、撮り下ろし写真を加えて編集されたものだ。
田村は1998年に亡くなっているから、最晩年の作品ということになる。
彼については8/26に記事を載せたので、ご覧いただきたい。

田村隆一は「荒地派」の詩人として出発しているから、当初の詩は高踏的で極めて難解なものであったが、後半にはマスコミに登場したりして取り上げられたので、意識して平易な作風に転換した。
この詩などは、そのような典型である。
この詩集の終わりには「路地は毛細血管」という題で、田村と荒木との「掛け合い漫才」のような対談が9ページにわたって載っている。
というのは、この詩集の写真は東京の古い「路地」で撮られたものが大半だからである。

田村◆路地というのは、僕ふうに言うと、人間の世界の毛細血管になる。
僕は風呂で亀の子束子(たわし)を使うんだけど・・・・
荒木◆あたしもアレですよ、亀の子束子。顔もこすっちゃう。
田村◆あれ一回使ったら、やめられなくなっちゃう。
荒木◆ほかは駄目ですよね。
田村◆駄目駄目。あれでないとお湯に入った気がしない。手とか足をこすると、全体の血行が良くなるだろう。つい毛細だと思ってるけどね、毛細血管って、血行なんかに非常に重要な役割をしているんだよ。
まあ路地が毛細血管だとすると、鉄道やハイウェイなんかは、動脈だね。人間は、いったん動脈に乗っちゃうと、物流のブツになるんだよ。会社での月給というのは、モノの値段なんだ。
荒木◆毛細血管てのはいいな。あたしの感じだと、たとえば木だと枝ですよね。だからすぐに入りこみたくなっちゃう。

という具合につづく。
今どき「亀の子束子」なんて使うのは「西式健康法」なんかを信奉している人のすることで、若い人なんかにかかれば、呆れられちゃうだろう。二人とも江戸っ子だから、「てやんでぇ!」という意気軒昂な「きっぷ」が見て取れる。
荒木は「アラーキー」と称される過激な写真家だから、この本に載る写真にも女体の「緊縛」ヌードがあるなど「大人」の気配の濃いものである。窓辺に坐る若い女性のヌードが濃い恥毛をさらけだしている写真などもある。いかにも田村や荒木の面目躍如という感じの本である。この過激さゆえに多くのアラーキーファンを擁しているのである。
読み出したら面白くて、やめられないが長いので全部は引ききれない。関心のある方は買うか借りるかして読んでみてほしい。
荒木経惟については2009/10/11の記事に書いた「宮田美乃里」さんの壮絶な歌集の写真を撮ったのがアラーキーである。ぜひご覧いただきたい。

静脈や いのち支えし青き河かなしき流れよ一条の孤独・・・宮田美乃里
乳房、花なり。
──初出・Doblog2005/06/17、18──(再録に際して編集した)

  静脈や いのち支えし青き河
   かなしき流れよ一条(ひとすじ)の孤独・・・・・・・宮田美乃里


掲出したのは、宮田美乃里さんと写真家・荒木経惟氏の共著になる写真歌集『乳房、花なり。』(ワイズ出版刊)である。
この本についてはネット上でも紹介されているが、この本が陽の目を見るようになったイキサツが「癌の歌人からヌードを撮ってほしい、という手紙が来て」と言い、またショッキングな手術痕も露わな胸の写真も公開されているのである。
宮田①

荒木氏のコメントによると「手紙が来て、2004年1月4日に冬の海で撮影をはじめた」とある。
宮田さんの書いた「あとがき」によると

<31歳のとき乳がんを告知され、32歳で左乳房を全摘出した私が、ヌードになった理由は、簡潔に言えば一つです。
乳房を失っても「私は女である」ということを世の中に示したかった、ということなのです。
私は、自分の胸の傷跡も、痛みも、悲しみも、すべて自分を「誇り」だと思っています。
だから、世の中にさらしたとしても、それを恥だとは思いません。>

と書いている。
写真家の荒木氏は、癌で失った妻の陽子さんの最期の日々を綴った写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991/2/25、新潮社刊)を出しておられるから、宮田さんは、どうしても荒木氏にヌードを撮ってもらいたかったのであろう。
宮田②

宮田美乃里──1970/11/23静岡市生まれ。大学で心理学を専攻。在学中および卒業後、フラメンコ・ダンサーとしてイベント等に参加。フラメンコ・ダンス教師となるが、乳がん手術後の転移のため平成17年3月28日死去。
この写真歌集が遺書となった。

2005年に、この本──宮田美乃里さんと写真家・荒木経惟氏の写真歌集『乳房、花なり。』を紹介したとき、多くのコメントをいただいた。(ただし、コメントは再録できていない。お許しを)賛否さまざまであった。しかし、私がこの本に出会ったことは、私にとって、一つの事件であったので、ここに再録して、お示しするものである。

掲出したのが宮田さんのポートレートである。綺麗な女(ひと)である。
写真③は五体万全のときのものであろうか。

宮田ポートレート

以下、宮田さんの歌を出来るだけ多く載せることにする。
写真はアート紙を使ってあるが、歌番号のついた歌は袋とじの和紙様の薄い紙が使われている。1ページに6首づつ載っている。
そのように歌番号のついた歌は、この歌集に初めて載るものだが、掲出歌のように番号外のものは歌集『花と悲しみ』からのものである。

昨日の記事で荒木氏のコメントを書いたが、「2004年1月4日から冬の海で撮影をはじめた」とあるが、写真⑤は、その時のものと思われる。

宮田海岸

この写真には宮田さんの筆跡で「アラーキーのために」とサインされている。
アラーキーとは荒木氏の愛称であり、荒木氏を知る人は、みな知っていることである。
因みに「アラーキー」は「荒木」に因むものであるだけでなく、氏の作風が「アナーキー」であることにも由来する、と聞いたことがある。
Tokira氏がTBして下さったが、氏はアラーキーとは30年来の知人であるという。
荒木経惟(のぶよし)氏のことを知らない人のために少し書いておく。1940年、東京生れ。千葉大学工学部写真工学科卒業。電通を経て、1972年以降フリー。写真集として「さっちん」「センチメンタルな旅」「東京物語」「愛しのチロ」「ARAKI by ARAKI」など多数。当年69歳。
ご覧のように宮田さんは、フラメンコダンサーとして鍛え抜かれただけあって、見事なプロポーションである。
このヌードの写真が、いつ撮影されたものか判らないが、この頃は、まだ豊かな体型であったことが判る。というのは、癌が進行すると、ガン細胞に栄養を奪われて、体がひどく痩せ衰えるからである。
残っている右の乳房も大きく、恥毛も豊かで黒々としている。腋を見せた写真もあるが、腋毛はつるつるに脱毛してあるが、そうしなければ、腋毛も黒々と豊かであったろう、と思われる。

この本の「あとがき」には「2004年三十三歳の初夏に」宮田美乃里、の記述があり、発行は2004年7月7日、ワイズ出版刊、定価3990円である。
「あとがき」の中で、宮田さんは、こう書く。

<乳がんで乳房を失った女性は、もう自分は女ではない、温泉にも入れない、夫や恋人にも傷跡を見られたくない、などと思い悩むと耳にします。
心痛む話です。その気持ちは、私なりに理解できます。・・・・・・
私の職業は歌人です。
まわりの知人にヌードになることを話したとき、反対する人が少なからずいました。私の肩書きに傷がつくのではないかと心配されました。・・・・・
私は一輪の花。いいえ、すべての女性が花であるのです。>

なお彼女は「私」と漢字表記にした場合は「わたし」と訓(よ)ませているので留意してほしい。
(歌の終りの数字は歌番号である)

モルヒネも効かぬ五月の病床であなたの指に指を絡める(282)

乳がんで乳房を切った女たち夜風に揺れる野の花となれ(7)

わたくしを批判するならご自由にならば自分も脱いでみなさい(256)

わたくしは同じ病の人たちをはげましたかったそれだけでした(257)

わたくしの瞳の主張うけとめて「もっと激しく生きていきたい」(21)

わたくしが女であるということを切除されたる乳房が語る(29)

塩漬けの桜の花に湯をそそぐ陰部のようにほころんでゆく(78)

生きていることに疲れて真夜中に泣くわたくしを抱きしめに来て(113)

生きている私に触れて今朝咲いた桜のように濡れているから(120)

モルヒネも効かぬ五月の病床であなたの指に指をからめる(282)

紫陽花(あじさい)はただ雨だけを待っている恋と命をつちかう雨を(275)

聖処女にもどる私は進行がん神のもとへとお嫁にいきます(270)

情念を燃やし尽くしていま枯れる薔薇に幸あれヒバリが歌う(258)

いらだって叩き壊したティカップ私の乳房かえしてほしい(248)

菖蒲湯に白肌ひたし香るときひとりの”つう”は何を想うか(247)

薔薇ほどの赤いドレスをひるがえし踊ったことも もう夢のよう(243)

砂時計ガラスの中にわたくしの海が見えます懐かしい海(239)

もう誰も私の体を抱けないわ処女のくちびる神に捧げる(238)

葉桜の裏の真赤なサクランボ五月の歌をくちずさんでる(227)

母の日に真赤なカーネーション贈る(私も子供を産みたかったの)(186)

藤の花あなたは知っているのでしょう私の余命がどれほどなのか(174)

目が覚めて猫のひたいにキスをする「お互い今朝も生きてたね」って(168)

この歌集に載る歌の数は300以上あるので、まだまだ書き抜きたいものはあるが、今日は一応このくらいにしたい。
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宮田美乃里さんの、他の著書

第一歌集『花と悲しみ』(沖積舎)
第二歌集『死と少女』(沖積舎)・・・・・・・(この出版社は詩集などで著名である)
自叙伝『乳がん 私の決めた生き方~限りある命を花のように』(リヨン社)

いずれもネット上で見る限り取り寄せ可能の様子である。彼女は「アロマテラピスト」の資格も持つ。
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宮田さんの場合、三十代半ばという「女ざかり」の時期に、理不尽にも命を奪われるという「無念さ」を想うとき、やりきれないと思うのである。昨日書いたように彼女は2005/3/28死去。
私はコスモスの創始者で主宰だった宮柊二の言葉「歌でもって生の証明をしたい」という宣言文を作歌の信条としてきたので、宮田さんの歌なり、ヌード写真を撮らせた心情が、痛いほど判るのである。私の真意を汲んでもらいたい。

五体健全な女の人でヌード集を出す人が何人も居る。たとえば松坂慶子なども、もう結構な年齢だと思うが、お美しくて、セミヌードになって化粧品会社のコマーシャルに出たりしている。女の人の肢体の美しさは、一つの財産であるから、その時々のヌード写真を撮らせる気持ちも判る気がする。一種のアルバムとして貴重なものである。
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写真家と呼ばれる人にも報道写真、風景写真、人物写真など専門的な何かを持っている。
先年亡くなった秋山庄太郎は女の人の写真が得意で「女性専科」などと呼ばれたことがある。「解語の花写真家倶楽部」というのがあり「写ガール」という年刊のシリーズを出していたことがある。私の壮年期に10年間ほど買っていたことがある。
彼が死んだ時に、彼に因んで歌を数首作ったことがある。

余談だが、私の知人で、同級生の「俵萌子」という人が居る。旧姓は中野萌子である。この人は元新聞記者で俵幸太郎の奥さんだったが、離婚しても姓は子供の姓との関係もあり「俵」を名乗っているが、評論家としても著名な人である。その彼女も乳がんで乳房切除の口で、彼女は「仕切り屋」らしく、乳房をなくした女で温泉に入る「1、2の3で 温泉に入る会」なるものを組織したりしていた。
その彼女も2008/11/27に死去された。

余計なお喋りが過ぎたかも知れない。
改めて、宮田美乃里さんのご冥福を祈り、合掌。


「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
   「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
     混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。
「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
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ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。

滝白く落ちて虚空のたそがれの滴り一つ沢蟹を搏つ・・・・・木村草弥
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  滝白く落ちて虚空のたそがれの
   滴り一つ沢蟹を搏(う)つ・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に「茶の神」という小項目名で9首を載せたもののうちの一つである。

沢蟹は淡水の蟹だが、水気のあるところには、たくさん居た。今は農薬使用などで、農薬のかかるところでは見かけなくなったが、山手にゆくとたくさん居る。沢蟹にもいろんな種類があるらしく形、色ともさまざまである。
この歌の背景は、小さな滝らしきものが落ちていて、そのなけなしの飛沫が滴りとなって沢蟹の甲羅をうつ、という叙景である。しかも時間的には「たそがれ」だから、夕方ということになる。
この歌の一つ前には

天高し視野の限りの京盆地秋あたらしき風の生まるる

という歌が載っている。ここに詠ったような天高い秋の季節が、ようやく訪れようとしている。
私の少年期は、もちろん戦前で、食べるものも、遊ぶものも、今の比ではなく、素朴な自然を相手にするものだった。この歌は、そんな少年期の思い出を、現在形で歌にしている。回想にしてしまうと歌が弱くなるので、回想の歌でも現在形にするのが、歌を生き生きさせる秘訣である。孵化したばかりの小指の爪にも満たない子蟹の誕生など、何とも趣きのあるものである。少年期の回想シーンを自歌自注しておく。

散歩コースを秋へ延ばす しばらくは蜻蛉の一群を率いてゆく・・・・・・・・・・・・藤原光顕
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──藤原光顕の歌──(2)初出・Doblog2007/10/08──(再録にあたり編集した)

  散歩コースを秋へ延ばす 
   しばらくは蜻蛉の一群を率いてゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕


この歌は藤原氏の発行する季刊誌「たかまる通信」No.68 2007/10/01号に載るものである。
藤原光顕氏については2007/01/08に

  「美しい国」では<おまえはアホか>というギャグで暮らす芸人もいて

という歌を掲出して載せたが、ここに再録で全部を貼り付けておく。

   チョイ悪で・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

暗いアフリカを救うため夜更けて一万円の靴下を売りにくる

「美しい国」では<おまえはアホか>というギャグで暮らす芸人もいて

出来ることできればよくてどっちにでもとれる返事ふえてくる

まァそれなりの欲求はあってボッキのボツの字が出てこない

五十年前捨ててきたはずのふるさとが細川村のまま居座っている

スープさえ二本の箸で飲んでしまうそしてまた一人疎外する

左右交互に出てくる足がおもしろく下向いて歩く散歩のしばらく

ありがたく貰ってきたが日めくりは慌ただしすぎてついていけない

一枚当たり十数円の紙マスクちぎれるまで使って 冬の野郎!

チョイ悪で今年はいこうか 七十年人畜無害できたんやものなァ
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今号はA4・16ページ建てで「なんやねん」という藤原さんの「コラム」欄。「太鼓山日記」という三段組の連載ものがある。「太鼓山」というのは、いまの住まいの地名に由来する。
「季節の詩」という欄には

   年賀状・・・・・・・・・・・・藤原光顕

裏おもて活字の賀状でいいのです お元気ならそれでいいのです

新年の挨拶ができることめでたくてテレビは芸人だけでいい

こんな日もあったメモ黄ばんで それからの時間が元日で

という作品が載っている。
これらも諧謔性があって面白い。

そこで藤原氏が皮肉と諧謔をこめた安倍晋三の姿は、今はもう総理の座にない。
どころか後を継いだ福田首相も政権を投げ出し、麻生太郎の政権が世界不況の中で喘いでいたが、八月の総選挙で負けて、民主党の新政権が発足したが、お手並み拝見というところである。

以下、藤原氏の作品の一連を引いておく。

   夏が終わるよ・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

  どうするの?どうするんだよ、まったくもう、知らないよもう、夏が終わるよ

  散歩コースを秋へ伸ばす しばらくは蜻蛉の一群を率いてゆく

  終いの住み処と来て秋も五度目 火葬場への道いまも知らない

この一連には老年にさしかかった一人の男の「幽愁」の秋が、巧みな比喩と諧謔に満ちて詠われている。
少し解説してみよう。
「どうするの?」の歌は、自由律の作家ではあるが、仔細に読んでもらうと、57577という伝統的な短歌の音数律にほぼ完全に合っていることが見て取れよう。
日本語は西洋詩や中国の漢詩のように「脚韻」を踏むことが出来ないので、古来「音数律」でリズムを形成してきたのである。だから「自由律」とは言えども、日本語で「詩」を発表しようとする限りは、完全な自由詩でない限りは、この古来からの音数律を無視することは不可能である。一音、二音の増減はあっても、この日本語の「定型」の持つ「リズム」の枠を大幅にはみ出すことは、日本語詩として極めて「不安定」「リズムを欠いた」「散漫な」ものになってしまう。現在の「自由律」歌の作家の大半は、このことに無知か無頓着で勉強不足である。
藤原氏の、この歌は読み下してみて、リズム感がすばらしいと気づくのは、そういうことなのである。
「美しい国」の歌も同様である。
この歌にリズムの区切りを入れてみると、こうなる。

  美しい/国ではおまえは/アホかという/ギャグで暮らす/芸人もいて

いかがだろうか。
人それぞれに、さまざまに鑑賞してもらってよいが、玩味してほしい。
同じ号に載る別の連作を引いておく。
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   スローライフ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

  朝から32度という陽射し 手足の爪摘んでしまうと予定がない

  なるようになるなるようにしかならない居直れば2度ほど涼しい

  病むと聞き癒えたと聞く 三樹彦は今も赤シャツで老いているか

  当然の道理として雨に遅れるバス当然の道理として濡れて待つ

  缶ジュースより安いドリンク剤が効く(ような気がする) まだいける

  喘ぎながらおんぼろの扇風機が回るので時々涼しい顔をしてやる

  一時間に2本のバスが出てしまうスローライフでもやっぱり悔しい

  時実新子、小田実、阿久悠 訃報が続く 消えてほしい奴らはしぶとい

  老人会では靖国と皇居参拝が決まって そんな電話が谷から来る

  ずぶ濡れの湿度へ覚める誕生日と気づくのは午後も遅くのことだ
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写真②は、前にも記事にしたことのある俳人の伊丹三樹彦である。三番目の歌で「伊丹三樹彦」が詠まれている。藤原氏は彼とも親しいらしいことが判る。
余計な私の感想は控えておく。熟読、玩味されたい。


♪YouTube「宇宙戦艦ニート」♪・・・・・・・・・・木村草弥
  ♪YouTube「宇宙戦艦ニート」♪・・・・・・・・・・・木村草弥

たまたまネット上で見つけた、この歌詞。
「宇宙戦艦ヤマト」の替え歌だが、現下の社会風潮を鋭くえぐっている。
原歌の著作権なども尊重するようになっているが、法律の上で、どうなのかは私には判らない。
削除されても仕方ない、という覚悟で、ご紹介しておく。
ご静聴をお願いする。


磬三たび打てど不在か師の寺を訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝る・・・・木村草弥
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  磬(けい)三たび打てど不在か師の寺を
   訪ふ門に紫式部のつぶら実が輝(て)る・・・・・・・・・・木村草弥


磬(けい)というのは、もともと中国の石製楽器で、それが青銅製のものに作られ、仏教の儀式などに使用されたものである。上部の紐穴に紐を通し、木製の磬架につるして鳴らす。

掲出の私の歌は第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものだが、この歌の場合は、この「ケイ」は宗教儀式用のものではなく、師が中国から新作ものだが、古代の石製楽器に模したものを買って帰り、門に呼鈴かわりに吊るしてあるものである。石製なので、カンカンという甲高い澄んだ音がするものである。庫裏の入口に掲げてあった。
今回のアップにあたり中国の石製「ケイ」の写真がないものかと探してみたが、見つからなかった。
この記事をご覧になったbittercup氏から教えていただいた中国のオリジナルの虎纹石磬の写真を出しておく。
出所は中国の「国家博物馆馆藏精品特展」という簡略体のサイトである。 御礼申し上げて、ここに追記しておく。
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この歌のつづきに

  紫を禁色(きんじき)と誰(た)がさだめけむ紫式部のむらさきの実よ

という歌が載っている。もちろん日本朝廷が権威の象徴として高貴な僧などに限って着用を許したことは知っている。しかし、それを「誰かさだめけむ」と、ぼかすところが詩なのである。

ムラサキシキブについては10/5に採り上げたので、それを参照されたい。私としては「ケイ」を詠った歌を採り上げたかったので重複する部分があるが敢えてアップした。
収録してある歌集も違うからである。
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この楽器についての解説をネット上から引いておく。

磬(けい)は古代の打楽器であり、中国で最も古い民族楽器の一つでもあります。素朴で古風な感じのする楽器で、とても精巧に作られています。磬の歴史はとても古く、遠い昔の《母系社会》で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれていました。当時、人々が漁や狩猟で生計を立てていた頃、一日の仕事が終わった後にこの石を叩きながら様々な獣を真似た踊りを踊ったということです。このとき叩かれていた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となりました。
磬は当初人々の踊りや歌の中で演奏されていましたが、その後は編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が戦や祭りなどの場面で使うようになりました。

磬は使われる場所や演奏法によって特磬と編磬の二種類に分けられます。特磬は皇帝が天地と祖先を祭祀する時に演奏され、編磬は主に宮廷音楽に使われるもので、幾つかの磬からなる楽器で木製の棚に並べて演奏します。2000年ほど前の戦国時代、楚の編磬製造技術は既に比較的高いレベルに達していました。

1978年8月、中国の考古学者が湖北省随県の擂鼓墩で2400年ほど前の古墳(曽侯乙墓)を発掘したとき、その古墳の中から古代・楚文化の特徴を表す編鐘、編磬、琴、瑟、簫、鼓など120点余りの古代楽器や多くの文化財が出土しました。そのなかに32枚の曽侯乙編磬があり、上下に配置された青銅製の磬が棚の上に並んでいます。これらの編磬は石灰石や玉などから作られていて、通常は澄んだ明るい音色を出しますが、残念なことに出土した大多数がボロボロでヒビが入っており、音が出ない状態でした。1980年に湖北省博物館と武漢物理研究所が協力して作成した曽侯乙編磬の複製品は、本来の編磬とほぼ同じ美しい音色を再現しました。

1983年、湖北省音楽団が十二平均律に従い32枚の石製編磬を作ったほか、1984年9月には蘇州の民族楽器工場と玉彫刻工場が碧玉で18枚の編磬を作りました。

鑑賞曲:『竹枝詞』(曽侯乙編磬の複製品での演奏) ←この部分はリンクになっていない(草弥・注)


玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづるいで湯の朝をたれにみせばや・・・・木村草弥
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  玉の緒の花の珠ぼうと浮きいづる
    いで湯の朝をたれにみせばや・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌のつづきに

   草むらにみせばやふかく生(お)ひにけり大きい月ののぼるゆふぐれ

という歌が載っている。私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に収録したものである。
「みせばや」=玉の緒は、原産地は昨日書いた「紫式部」と同様に、日本、朝鮮半島、など東アジアとモンゴルなどに産する。
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写真②は開花前の「みせばや」である。多肉植物である。ムラサキベンケイ草属の耐寒性の多年草。学名は、学者によって分類が異なるが、今はHylotelephium sieboldii ということになっている。
日本では、小豆島の寒霞渓にしか自生しないと言われているが、栽培種としては一般家庭でも広く栽培されている。
写真③は紅葉したミセバヤである。
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ところで「玉の緒」という名前はともかく、「みせばや」という名前は何に由来するのだろうか。
これは言葉の「綾」からきたものである。「みせばや」という古い表現は「誰かに見せたいな」という意味であり、私の歌も、その隠された意味を踏まえて作ってある。掲出した私の歌に立ち戻ってもらえれば、よく判っていただけるものと思う。
私の歌は一時、花の歌を作るのに、まとめて凝っていた頃があり、その頃の歌の一連である。
温泉の朝湯に豊かな肢体をさらす女体に成り代わって詠んでいる。
女性のナルシスムである。
俳句にも詠われており、それらのいくつかを引いておきたい。

 たまのをの花を消したる湖のいろ・・・・・・・・森澄雄

 みせばやのありえぬ色を日にもらふ・・・・・・・・花谷和子

 みせばやの花を点在イスラム寺・・・・・・・・伊藤敬子

 みせばやの花のをさなき与謝郡・・・・・・・・鈴木太郎

 みせばやの洗ひ場に干す五升釜・・・・・・・・福沢登美子

 みせばやが大きな月を呼び出しぬ・・・・・・・・鈴木昌平

 老母のたまのをの花さかりなる・・・・・・・・西尾一

 みせばやの半ばこぼれて垣の裾・・・・・・・・沢村昭代

 みせばやに凝る千万の霧雫・・・・・・・・富安風生

 みせばやの珠なす花を机上にす・・・・・・・・和知清

 みせばやを愛でつつ貧の日々なりき・・・・・・・斎木百合子

 みせばやを咲かせて村の床屋かな・・・・・・・・古川芋蔓
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いま「みせばや」の学名を見ていて思いついたのだが、学名の中の sieboldii というのは、かのシーボルトが命名したか、あるいは標本を持ち帰ったかの、いずれかではないか、ということである。語尾の ii を除いた名前はシーボルトの綴りではないのか。植物の学名に詳しい方のコメントを待ちたい。


才媛になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら・・・木村草弥
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  才媛(さいゑん)になぞらへし木の実ぞ雨ふれば
    むらさきしきぶの紫みだら・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので秋の花のところにまとめてある。自選50首にも入れてあるので、Web上でもご覧いただける。

この木はクマツヅラ科の落葉低木で、高さは2~3メートル。同類にコムラサキなどの低くて、実も小粒のものがある。
園芸種には、この手のものが多い。
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俳句にも、よく詠まれているので引いて終る。

 冷たしや式部の名持つ実のむらさき・・・・・・・・・・・・長谷川かな女

 うち綴り紫式部こぼれける・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 倖あれと友が掌に置く実むらさき・・・・・・・・・・・・石田あき子

 胸焦がすほどの詩欲し実むらさき・・・・・・・・・・・・小沢克己

 室の津の歌ひ女の哀実むらさき・・・・・・・・・・・・志摩知子

 むらさきしきぶかざせば空とまぎれけり・・・・・・・・・・・・草間時彦

 鑑真の寺の紫式部かな・・・・・・・・・・・・角川春樹

 地の冷えの色に出でてや実紫・・・・・・・・・・・・林 翔

 その奥に一系の墓所実むらさき・・・・・・・・・・・・北さとり

 実むらさきいよいよものをいはず暮れ・・・・・・・・・・・・菊池一雄

 眼(まなこ)よりこぼれて紫式部かな・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

 式部の実いくさは人を隔てたり・・・・・・・・・・・・東海すず

 式部の実日あたれる珠あたらぬ珠・・・・・・・・・・・・田中千里

白丁が「三の間」に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭・・・・・木村草弥
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   白丁が「三の間」に身を乗りいだし
     秋の水汲むけふは茶祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日10月4日、京都府宇治市で茶業の基礎を築いた3人の祖──栄西、明恵、利休に感謝し、宇治茶の発展を願う「宇治茶まつり」が開かれる。法要式典会場の興聖寺や塔の島周辺で開かれ、野点の席や、茶の飲み比べコンクールなどが催される。

写真①は宇治橋の「三の間」から白丁に扮した人が宇治川から水を汲む様子である。この「三の間」という欄干の出っ張りは他の橋には見られないもので宇治橋独特と言われている。
むかし太閤秀吉が手ずから、ここから水を汲んだという故事が伝えられる。

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写真②は茶祭の法要の会場の興聖寺である。
この催しは今年で58回を迎える行事で、午前9時から「名水くみ上げの儀」を行なった後、茶業者らが平等院前を通り、興聖寺まで行列する。

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写真③は宇治平等院の鳳凰堂である。10円玉でおなじみだ。
興聖寺では午前10時から「茶壺口切り」や裏千家による供茶、使い切った茶筅(せん)に感謝する茶筅塚供養が営まれる。

ここで茶業の基礎を築いた3人を紹介しておこう。
すなわち、日本に初めて茶の実を持ち込んだ栄西禅師、宇治に茶園を拓いた明恵上人、茶道の祖である千利休、の三人である。
「宇治茶まつり」は例年10月の第1日曜日に催される。この頃は、まだ結構暑くて、そのことは私の歌の中にも描いてある。「祝竹」というのは三の間の写真にも出ているが正式には「忌竹」というが一般的には祝い事なのにと違和感があるので「祝竹」と改めた。ほぼ、こんな行事進行だということが私の歌を見てもらえば理解していただけよう。もっとも私がこの一連を作ったのは15年も前のことである。
私の掲出の歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた11首の一連である。
ただし自選50首には採っていないのでWeb上ではご覧いただけない。

  茶 祭・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

白丁が三の間に身を乗りいだし秋の水汲むけふは茶祭

三の間に結ふ祝竹この年の秋の茶事とて日射しに輝(て)らふ

青竹の水壺五つささげゆく琴坂あたりうすもみぢして

水壺の渡御のお供はみな若し即ち宇治茶業青年団

汲みあげて散華の雫となすべけれ茶祖まつる碑に秋日が暑く

一位の実色づく垣の橋寺の断碑に秋の風ふきすぎぬ

口切は白磁の壺の緋房解く美青年汝(な)れは青年団長

口切の茶は蒼々と光(て)りいでて御上水もて今し点つるも

茶の香りほのかににほふ内陣に茶祖の語録の軸かかげらる

秋空へ茶筅供養の炎(ひ)はのぼり茶の花は未だ蕾固しも

たそがれて皆ゐなくなる茶の花の夕べを妻はひとりごつなり
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宇治橋の「三の間」に因んでだが、私の家の座敷に、三の間から翁が水を汲む絵と「若鮎や雨にもあらぬ峡の雲──俊宣」という俳句を書いた額が架かっている。書いた人が誰かわからないが、絵の中の水を汲む人物は太閤さんだと仄聞するが、本当かどうかは判らない。ご愛嬌までに。

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