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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。
葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす・・・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり・・・・・・・・・・葛原妙子
強風に向いて立てばわれも木となりて身ぬちを風通りゆく・・・・・・・・・・・・・・・・ 市野千鶴子
ソラノフカミとつぶやくひとのセエタアは雀、蛤になりさうな色・・・・・・・・・・・・・・魚村晋太郎
亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・長谷川かな女
落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・吉岡禅寺洞
武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ 伊丹三樹彦
ぼんやりと枕を抱いて十二月・・・・・・・・・・・・今井杏太郎
火をはらみ雑木林の十二月・・・・・・・・・・・・・・・坪内稔典
極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大谷句仏
ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・深田やすお
自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・D・J・リンズィー
関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・・・杉村凡栽
睫毛より太陽低き師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・四 童
二分残る浄瑠璃はねて年の暮・・・・・・・・・・・・・三井葉子
山眠る等高線を緩めつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・広渡敬雄
A液にB液を足し冬景色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿
短日やたれそわかたぬDistance・・・・・・・・・・・・七風姿
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
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著書──
歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
詩集 『免疫系』(角川書店刊)
紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)
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私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
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日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「地球上のすべての人が、
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と想像してみてください。」 ──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ
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枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ・・・・・・・・・・・加藤楸邨
「枯野」とは、草木の枯れた、蕭条とした野っぱらのことだが、場所や配合などによっては、さまざまな趣のものとなる。
何となく、わびしい枯野の起伏を見ながら、楸邨は、ふと「明日」という言葉の持つ「かなしさ」を感じたのである。
「かなしさ」というのが、漢字でなく、ひらがなで書かれているところに句のふくらみがあるのである。
つまり、「いとしい」の意味の「かなしさ」であり、「悲しさ」と同義ではないのである。
それが「自然」と「人事」との配合ということである。
同じ楸邨の句に
わが垂るるふぐりに枯野重畳す
というのがある。
ふぐり(睾丸)というのは、青年、壮年の時期には、キリリと股の肌に張り付いているもので、だらりと垂れるという感じはしないが、老年期になると、だらりと垂れる感じになる。
楸邨は、そういう自分の身体的な衰えと枯野が重畳と連なる様を「配合」して一句に仕立て上げたのである。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る・・・・・・・・松尾芭蕉
という「辞世」の句があるが、この句こそが枯野のイメージそのものだと言われている。
いかにも一生を「漂泊」にかけた芭蕉ならではの句である。
この句などは「巨人」の句という感じで、われわれ下々の者が、あれこれ言うのは気が咎めるものである。
いずれにしろ、枯野のイメージというものは冬の季節とともに、日本人の精神性に大きな翳(かげ)を落としてきたと言えるだろう。

以下、枯野を詠んだ句を引く。
戸口までづいと枯れ込む野原かな・・・・・・・・小林一茶
旅人の蜜柑くひ行く枯野かな・・・・・・・・正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな・・・・・・・・高浜虚子
吾が影の吹かれて長き枯野かな・・・・・・・・夏目漱石
枯野はも縁の下までつづきをり・・・・・・・・久保田万太郎
掌に枯野の低き日を愛づる・・・・・・・・山口誓子
土堤を外れ枯野の犬となりゆけり・・・・・・・・山口誓子
赤きもの甘きもの恋ひ枯野行く・・・・・・・・中村草田男
また雨の枯野の音となりしかな・・・・・・・・安住敦
大いなる枯野に堪へて画家ゐたり・・・・・・・・大野林火
つひに吾も枯野の遠き樹となるか・・・・・・・・野見山朱鳥
枯野ゆく人みなうしろ姿なり・・・・・・・・石井几与子
いつ尽きし町ぞ枯野にふりかへり・・・・・・・・木下夕爾
枯野行き橋渡りまた枯野行く・・・・・・・・富安風生
---------------------------------------
もうすぐ、「年が改まる」。
楸邨の句ではないが、「明日」という言葉に込められた、さまざまな「かなしさ」=愛しさ、いとしさ、哀しさ、を噛みしめて来年を迎えたい。

──冬の愛欲5態──
■しんしんと雪ふりし夜にその指の
あな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか・・・・・・・・・・・・斎藤茂吉
斎藤茂吉の妻は輝子というが、輝子は斎藤精神病院の跡取り娘で、茂吉は養子である。
北杜夫などの子供をもうけているが、輝子の恋愛事件などがあって一時別居生活などをしていた。
これらのことは「アララギ」の弟子たちの伝記などで詳しく伝えられている。
この歌がいつ頃のものかなども同定されているが、いま私の手元にはないので詳しくは書けない。
今の時代となっては女性からの反発もあるが、昔は遊郭なども公認であるから「女買い」は男性の常識であって、男どもは独り身の場合は、
そういうところで性の発散をしていたのである。
赤線廃止は昭和20何年かのことである。
茂吉が、そんな赤線地帯に入り浸っていたのも実証されていることで、茂吉は日記を克明に付けることでも有名で、彼自身の手でもいろいろ書かれているらしい。
この歌の対象が誰であるかの詮索は別にして「ああ、冷たい指をしているね」なんとか言いながら、女の指を暖め、愛撫しながら、愛欲の渦に入ってゆく、という情景が、
よく詠まれている。
■火を産まんためいましがた触れあえる
雌雄にて雪のなか遠ざかる・・・・・・・・・・・・・・・・・岡井隆
この歌の作者・岡井隆は、ひところ前衛歌人の一翼を塚本邦雄と共に担った人である。
が、私生活では度々離婚騒動を起こしている人で、最近では、数年前に妻子と別れて自分の年齢とは半分も年下の30代なかばの画家の人と結婚したことで有名である。
この歌は若い頃の歌集『土地よ、痛みを負え』(昭和36年刊)に載るものである。
いきなり読んで誰の心にもすんなり入ってくる、という歌ではない。
二人の性的接触が精神的側面と不可分のものとして捉えられているため、歌の中で「比喩」の占める比重が、ひときわ大きくなっているからである。
「火を産まんため」とは、まさに激しい性の焔を意味すると同時に、精神的な意味での、ある創造的な焔をも意味しているだろう。
しかも作者は肉体的・官能的側面に、むしろ固執しており、そこから「雌雄」という語も出てくる。
内から突き上げる官能の衝動への賛美の念が根底にあるのだ。
■目瞑(つむ)りてひたぶるにありきほひつつ
憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻・・・・・・・・・・・・宮柊二
この人も北原白秋門下にあって、のち白秋亡きあと独立して短歌結社「コスモス」を興して大きな組織に育てあげた人である。
この歌も若い頃のことを詠ったものである。はじめの恋人との交流を詠っている。
その君は、今や他人の妻となってしまった、という歌である。
「ひたぶるにあり」「きほひつつ」というくだりに、若い恋人どうしのひたむきな愛欲が詠まれている。
■夢のなかといへども髪をふりみだし
人を追ひゐきながく忘れず・・・・・・・・・・・・・・・大西民子
この歌も有名な歌であり、彼女の場合は、夫が彼女を捨てて他の女に走った。
彼女は彼のことが忘れられず、数々の歌を詠っているが、この歌は、その中のひとつ。
彼女は奈良女子高等師範の出身で、卒業後東京近郊で教師をしていた。
木俣修門下の重鎮として大きな結社を支えていた。
木俣修も北原白秋門下であった。白秋亡きあと結社「形成」を主宰していた。
■わがためにひたぶるなりし女ありき
髪うつくしく夜にはみだれき・・・・・・・・・・・・・・岡野弘彦
この人も現代歌壇を担っているひとりである。国学院大学で釈迢空(折口信夫)の門下として晩年の彼に身近に仕えた人である。
この人には、こういう女人のことを詠った歌が多い。齢80を超えた歳になっても、若い乙女との愛欲にまつわる幻影的な歌を作っている。
「夜にはみだれき」というくだりなどは、かなり際どい表現と言えるだろう。
ここに挙げた人たちは、現代歌人として著名な人たちであるが、文人らしく、赤裸々とも思える表現で「愛欲」を詠んでいる。
これこそ文学の徒として必須の態度であろう。

夜の書庫にユトリロ返す雪明り・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
モーリス・ユトリロMaurice Utrilloは1883年12月26日にパリのモンマルトルに生まれた。母はスザーヌ・ヴァラドン、父のボァシヨーはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。
1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。
その後、母の住んでいたモンマニーで学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。
17、8歳の頃から飲酒癖が始まり、1901年にはアル中症状を起こして医療を受けた。
母は、その治療目的で彼に絵を描くことを教えた。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って印象画派に入った。
1907年に彼のいわゆる「白の時代」が始まることになる。
サロン・ドートンヌに出品したのは1909年が最初である。
年譜を見ると、その後、アル中毒症状で精神に錯乱をきたしたりして、精神病院に入れられたりして、その都度、母ヴァラドンは苦労したらしい。
51歳のとき、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚したが、これも母の肝いりであるが、ユトリロは年上の妻を母のように慕い、酒に溺れることもなく、ひたすら絵を描いて、しかも絵は高い値で売れたので、心身ともに安定した。
レジオン・ドヌール勲章という最高の栄誉まで貰って1955年に亡くなったが、72歳という若い頃や中年のアル中の時期には考えられないような歳まで生きたのだった。
ユトリロの絵は、今でも結構人気があるらしい。
私はユトリロには詳しくないので、掲出した絵がどこの風景なのか判らないが、見えているのは、モンマルトルの「サクレクール」寺院ではなかろうか。とすれば、モンマルトル風景ということになる。
安住敦の句は、おそらく「ユトリロ画集」かなんかだろう、見ていた画集を書庫に仕舞いにゆく景だろう。
明治以後の「雪」を詠んだ句を引いて終わりたい。
舞ふ雪や一痕の星残しつつ・・・・・・・・藤森成吉
降る雪や玉のごとくにランプ拭く・・・・・・・・飯田蛇笏
外套の裏は緋なりき明治の雪・・・・・・・・山口青邨
雪に来て美事な鳥のだまりゐる・・・・・・・・原石鼎
落葉松はいつめざめても雪降りをり・・・・・・・・加藤楸邨
みづからを問ひつめゐしが牡丹雪・・・・・・・・上田五千石
馬の眼に遠き馬ゐて雪降れり・・・・・・・・中条明
雪の水車ごつとんことりもう止むか・・・・・・・・大野林火
牡丹雪その夜の妻のにほふかな・・・・・・・・石田波郷
病む夫にはげしき雪を見せんとす・・・・・・・・山口波津女
深雪に入る犬の垂れ乳紅きかな・・・・・・・・原子公平
狂へるは世かはたわれか雪無限・・・・・・・・目迫秩父
雪あかり胸にわきくるロシヤ文字・・・・・・・・古沢太穂
雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・森澄雄
雪明りゆらりとむかし近づきぬ・・・・・・・・堤白雨
雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし・・・・・・・・平畑静塔

──冬の浴女三題──
■雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し・・・・・・・・・・橋本多佳子
橋本多佳子は東京生まれだが、九州出身の橋本豊次郎と結婚して小倉に住んだ。
早くに夫と死別して、晩年は奈良に住まいした。
昭和38年に死去したが、晩年の多佳子をよく知る近藤英男先生によると、きれいな人であったという。
平井照敏の書くところによると多佳子は「命に触れたものを的確な構成によって詠いあげ、独自の句境に至っている」という。
「指」は手の指のこと、「趾」とは足の指、のことである。
この句は、女の「ナルシスム」とも言うべき艶やかなリリシスムに満ちている。
こういう表現は、それまでの女流俳句にも無かった句境であった。女の「命」の美しさ、はかなさ、いとほしさ、などをみづみづしく詠いあげた絶唱と言える。
この句は晩年の句集『命終』(昭和40年刊)所収。
図版①はオーギュスト・ルノワールの「横たわる浴女」(1904年)である。
■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
この句も、有名な句で多佳子の代表作として、よく引用されるものである。
この句も、死別した夫との愛欲の日を思い出して作られた句だと言われている。
多佳子の句は、このように愛欲に満ちた日々を回想しながらも、赤裸々な表現ではなく、控えめな、抑制された句作りであるから、読者にほのぼのとした読後感を与えて、すがすがしい。
この句は『紅糸』(昭和26年刊)の作で、この頃、すでに夫は死去している。同じ句集に
■雄鹿の前吾もあらあらしき息す
という句があり、この句なども「いのち」「生命」「エロチスム」というものを読後感として感得することが出来る。
こういう句作りこそ、多佳子の真骨頂だった。
■窓の雪女体にて湯をあふれしむ・・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
桂信子は大阪の人。
この人も早くに夫を亡くしている。多佳子とは違った面からだが、女体の「艶やかさ」を詠い上げた人であった。つい先年お亡くなりになった。
この句は句集『女身』(昭和30年刊)に載るもので、橋本多佳子辺りが先鞭をつけた「女の命」を詠う軌跡に則した流れというべきか。

図版②は同じくルノワールの「岩の上に座る浴女」(1882年)である。
桂信子の、この頃の句に
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜
やはらかき身を月光のなかに容れ
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき
などの句があり、いずれも女の命のリリシスムを詠いあげている。

降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
この句は草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な作品である。
今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多いだろう。
この句の由来は、昭和6年、草田男が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校・青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
しかし、推敲された「降る雪や」の方が、ずっといい。
「雪は降り」では、雪の降る動きは示せても、下の句につながるだけで趣はでない。
「降る雪や」と切れ字「や」と置いて、一旦ここで一拍おいたために、中7下5の叙述の印象が一段と深くなる作用をしている。
「降る雪や」という上句が「明治は遠く」という中7に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密というか工夫があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、或るういういしい感慨の所在が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。(昭和11年刊『長子』所載)
「明治は遠く」に関していうと、句が作られたのが昭和6年ということは、大正15年プラス5年(大正15年と昭和元年は重なる)で、合計20年である。「一昔」という年月の区切りはほぼ10年と言われているから、まさに「二昔」(ふたむかし)と言えるだろう。
今年、「平成21年」は、昭和の年号が終ってほぼ二昔になるので、この頃では「昭和は遠くなりにけり」などと言われるようになってきた。歳月の経つのは早いものである。
北国では、もう「初雪」の便りも済んだ。
本州の太平洋岸でも、先日の時ならぬ大雪で首都圏などでは交通機関が止まるなど大騒動だった。
この騒動の顛末は、私は中国に居たので詳しくは判らない。「プレ・クリスマス寒波」などと言われている。
しかし本格的な寒波は、まだまだ先の話である。
というより、雪の降り方には、北と南では、全くちがうのである。
北国では西からの低気圧と寒気によって降雪が起こるのに対して、太平洋岸に雪が降るのは、俗に「台湾坊主」という低気圧が南岸を東進するときに、北から寒気が進入して雪を降らせるのである。
雪片も大きく、水分をたっぷり含んだ重い雪でベタ雪であって送電線などの倒壊などの被害をもたらす。
そんな時期は真冬というより晩冬、春先に多い。2.26事件の日の大雪などが、そうである。
日本の古来の美意識では「雪・月・花」と言って、文芸における三大季題となっている。
言うまでもないが「花」=「桜」であることを指摘しておきたい。
そんな訳で「雪」を詠んだ句も多い。
馬をさへながむる雪の朝かな・・・・・・・・芭蕉
市人よ此の笠売らう雪の傘・・・・・・・・芭蕉
撓みては雪待つ竹のけしきかな・・・・・・・・芭蕉
箱根越す人も有るらし今朝の雪・・・・・・・・芭蕉
我がものとおもへばかろし笠の上・・・・・・・・其角
下京や雪つむ上の夜の雨・・・・・・・・凡兆
心からしなのの雪に降られけり・・・・・・・・一茶
むまさうな雪がふうはりふはりかな・・・・・・・・一茶
是がまあつひの栖か雪五尺・・・・・・・・一茶
雪ちらりちらり見事な月夜かな・・・・・・・・一茶
などの名句がある。明治以後の句は、また後日。

黄落を振り返り見る野のたひら
野はゆく年の影曳くばかり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
本年も師走終盤に突入して、はや旬の半ばを越えた。
辺りを見回してみると、落葉樹の木々はあらかた葉を落とし、先日までは赤や黄の「紅葉」をつけて照り映えていたのが、足もとにたっぷりと落葉の絨緞を敷き詰めたようになっている。
おかげで、野末は見晴らしがよくなって木々の根元まで陽が射すようになった。
「冬至」も先日22日に済んで、一年中で一番昼が短く、夜が長い頃である。

「紅葉散る」というのが「冬」の季語である。
紅葉し、かつ散り始める晩秋から、紅葉散るの冬へ、季節は確実に動いてゆく。美しく散り敷くこともあり、土まみれになって貼りついていることもあり、紅葉の在りようも、人生に似て、さまざまである。
写真は「散り敷く」紅葉である。これらはネット上で、piita3氏のページから拝借したものであり、場所は京都郊外の「勧修寺」である。
ここに名を記して御礼申し上げる。

『夫木和歌抄』に
秋暮れし紅葉の色に重ねても衣かへうき今日の空かな
という歌があるが、これは初冬の紅葉を詠ったものである。秋用の衣から、冬用の着物に「衣替え」するのも、憂いことである、と詠まれている。
昔の人は、こういう「痛ましい」感じのもの、「あわれ」の思いの強いものに拘ったのであった。
『古今集』に
山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり・・・・・・躬恒
という歌があるが、落葉となる紅葉のはかなさが中心のイメージと言える。
夕映に何の水輪や冬紅葉・・・・・・・・渡辺水巴
冬紅葉冬のひかりをあつめけり・・・・・・・久保田万太郎
美しく老ゆるも死ぬも冬紅葉・・・・・・・松井草一路
などの句は「冬紅葉」という季語の名句といえるだろう。
以下、「紅葉散る」「木の葉」などの句を引いて終る。
紅葉散るや筧の中を水は行き・・・・・・・・尾崎迷堂
尽大地燃ゆるがごとき散紅葉・・・・・・・・赤星水竹居
紅葉散るしづけさに耳塞がれつ・・・・・・・・岡田貞峰
今日ありてかたみに紅葉ちるを踏む・・・・・・・・藤野基一
木の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ・・・・・・・・加藤楸邨
木の葉散るわれ生涯に何為せし・・・・・・・・相馬遷子

振り返ることのむなしさ腰下ろす
石の冷えより冬に入りゆく・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
写真①は、私の歌とは何の関係もないが、「腰下ろす石」ということで、ネット上で検索して発見した「義経の腰掛石」というものである。
頼朝に追われて逃げる義経が、休息のために腰かけたとされる石。京都の郊外の山科の京都薬科大学の校内にある。
■躓きし石にものいふ寒さかな・・・・・・・・野村喜舟
という句を先に紹介したが、「つまづく」石か、「腰かける」石かの違いはあるが、こういうように、無機物で、しかも自分とは何ら縁故のない、いわば「路傍の石」というものをも、詩歌の世界では、おのが対象物として作品化することが出来るのである。
私の歌しかり、この野村氏の句しかりである。
「冷たい」とか「冷える」という冬の寒さをいう言葉だが、これらは肌の感覚で捉えた「即物的」な表現である。
「京の底冷え」というが、これは底の方から、しんしんと冷えてくる感じである。
「石」や「水」という無機物は、冷え切ると、物凄く冷たいものである。
■なつかしき京の底冷え覚えつつ・・・・・・・・高浜虚子
という句があるが、虚子は南国の四国・松山の人であるから、何かの機会に訪れた京都の底冷えはひどく身に堪えて「記憶」にとどめられたのであろう。その意識が、この句の表現になっている。
■底冷の洛中にわが生家残る・・・・・・・・村山古郷
■底冷えの底に母病むかなしさよ・・・・・・・・井戸昌子
これらの人々は京都生まれだということが判る。
寒さが厳しくなると、水や土、室内のものまで凍ることがある。
若い頃に京都の北の「鞍馬」寺の門前の友人の家に泊めてもらったことがあるが、そこは寒くて、朝起きたら、寝ている肩口に粉雪がかすかに積もっていたことがある。障子の隙間から入ったものである。
家のすぐ裏に谷川が流れていたが、この辺りでは、撃ち取った猪の体は、そのまま谷川にロープでつないで水に漬けて置いておくのだそうである。いわば天然の冷蔵庫ということだが、そうすることによって猪についているダニなどの虫が死んで、ちょうど都合がよいのだ、ということだった。
今は暖冬化したので、一概には言えないが、京都市内でも、同志社大学のある「今出川」通より北では、比叡おろしの風に乗って粉雪がちらちら降るのが厳寒の常だった。
京都大学のある辺りも今出川通に面しているので、比叡おろしがまともに吹くので寒い。
「凍る」「氷る」「凍(こご)ゆる」「凍(い)てる」などの言葉を使った句もたくさんある。
■月光は凍りて宙に停れる・・・・・・・・山口誓子
■晒桶古鏡のごとく氷つたり・・・・・・・・阿波野青畝
■凍らんとするしづけさを星流れ・・・・・・・・野見山朱鳥
■折鶴のごとくに葱の凍てたるよ・・・・・・・・加倉井秋を
■馬の瞳も零下に碧む峠口・・・・・・・・飯田龍太
このように「自然現象」をも「人事」つまり人間にかかわるものとして作品化出来るのである。
今日は私の歌をきっかけにして、冬の寒さの表現の言葉を、さまざまに「敷衍」してみた。
いかがだろうか。

ひともとの八つ手の花の咲きいでて
霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、この歌の続きには
霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃・・・・・・・・木村草弥
という歌が載っているが、この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。
八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。
八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」
たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨
八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男
一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎
遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷
八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女
花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火
踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨
花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子
寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路
すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋
かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子
みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太
花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・草間時彦
花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと
どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや
人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり




上海・蘇州・無錫・朱家角ミニ旅 5日間 (1)・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・2009/12/16~12/20 クラブツーリズム主催・・・・・
この旅は、たまたま見つけたもので旅行は突然に始まった。
この旅は関空発JAL627で14:40発で出国するが、帰りもJAL628便で往復。全食事付き、全観光付きで、費用は何と29800円である。私は一人参加なので一人部屋追加料金18000円が必要だが、シーズンオフで、しかも年末という期間とは言え、何はともあれバーゲン投げ捨ての感じのするような始末である。
安いものには「裏」がある。ともあれトライするのみである。ツアーの同行者は、総勢20人である。
今回の旅には、日本からの「添乗員」は付かない。
各自、関西国際空港に着いて、各自で出国し、上海の浦東国際空港の入国手続きなどが終って一般人との「柵」を出たところに現地ツアーガイドが「クラブツーリズム」の旗を持って待っている、という算段である。
なお、中国に関しては「ももたろうの中国ぶらり旅日記」というサイトに詳しいので参照されたい。
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上海浦東空港からは中国自慢の「リニア」に乗る。
これには数年前にまだ妻が生存中にANAのマイレージの期限切れ消化のために三日間ほど上海に行ったときに乗ったことがあるので旧ブログにも記事を書いたのだが、どこかに行ってしまった。


中国は、さすがに漢字の国らしく、リニアのことを「磁浮」と書く。
乗った感じは、ドイツの技術らしく「硬い」感じがする。最高速度は431キロで、ほんの数秒である。
車両に入った、すぐ上のところに表示板があるので撮ってみたが、写真が小さく不鮮明だが、ご覧いただきたい。
現在は、浦東国際空港から地下鉄「龍陽路」駅まで通じているが「杭州」まで延伸される予定。
リニアを下りた後は、専用バスに乗って、一路、今晩宿泊の蘇州まで行くのだが、途中の上海市内は退勤ラッシュとあって大混雑、どこをどう通っているやら、中国時間16:25に浦東空港に着いているのに蘇州着は21時近くである。
とにかく車が多くて、以前におびただしく走っていた「自転車」というものを見かけず、「電動バイク」が音もなく走っている。上海だけでなく地方でも、そうである。
とにかく「人間」が多い。文字通り、ウジャウジャと居る。
狭い上海市内と近郊で二千万人は居るというし、地方都市という蘇州や無錫も数百万人は居るのだから、日本の感覚でいう「地方都市」とは概念を切り替えなければならない。
後日詳しくお伝えするが、上海のビル、マンションなどの建物の「林立」は、壮観である。
どこもかしこも「建設工事」でごった返して、まして来年の上海万博の工事の追い込みとあって、どこもかしこも工事中。埃が舞い、交通渋滞の拍車がかかる。
さて、蘇州に着いて、ホテルで名物だという奥壮麺やあつあつ餡かけおこげなどの夕食を済ませたあと旧市街「山塘街」散策に行くが暗くていい写真が無い。
ここには翌日、船で連れていってもらったので、そのときの写真などを載せる予定。

今晩のホテルは南亜賓館という。
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上海・蘇州・無錫・朱家角ミニ旅 5日間 (2)・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・2009/12/16~12/20 クラブツーリズム主催・・・・・
蘇州の朝が明けた
はじめに上海と近郊の地図を出しておく。
昨夜は遅くにホテルに着いて、夕食を済ませて「山塘街」という古い街区に行ったが、夜も遅く、寒くて、ツアーガイドともども、早々に立ち返った。
蘇州でのホテルは「南亜賓館」という。旧市街ではなく、新市街の一角に広い道路に面して建つ。
広い幹線道路に面している上に、私の部屋は道路側なので一晩中、車の音や警笛の音がしていた。
ここ「蘇州」や「無錫」は長江下流のデルタ地帯の低湿地で湿度が高くて「霧」や「靄」が多いところらしく、今朝も靄がかかっていて写真写りも悪いので、ご了承願いたい。


このホテルの隣には、フランスのスーパー「カルフール」の大きい店舗がある。
その写真を載せておくが、こちらでは「家楽福」と表記する。ここでも文字の国・中国であることを実感する。
当然ながら「楽」の字は簡略体で写真のような字である。

「蘇州」については、ここにリンクに貼っておくWikipediaに詳しいのでアクセスせられよ。
蘇州の名園──留園
今日の観光は、先ず「留園」から。
蘇州にはいくつかの古い名園があるが、「拙政園」には今回は立ち寄らない。数年前に単身で来たときに、現地ガイドを雇って、ここは見たので、丁度よかった。拙政園とはひとまわり小さい感じの園である。
いくつかお庭の写真などを載せておく。





冠雲峰と名づけられた太湖石
「留園」は清代の建築造園様式を伝える名園である。蘇州ばかりではなく、中国四大名園にも上げられるという。ここは徐時泰が個人庭園を造園した明代の嘉靖年間(1522~1566年)にまで遡る。
清代の18世紀末には、劉恕により改築されて「劉園」となり、さらに清代の光緒年間(1875~1908年)に大規模な改築工事が行われた後、「留園」と呼ばれるようになった。
園内は四つの景区に分けられており、各々の楼閣が花窓や透かし彫りで飾られた長い回廊で結ばれている。透かし彫りのデザインは実にさまざまで、ひとつとして同じものはないという。
廊壁には、歴代の名書家による三百点以上の見事な墨跡『留園法帖』なども見られる。
先に写真に載せた高さ6.5メートルの太湖石・冠雲峰も見逃せない。
今は冬で枯れてしまっているが、夏の季節には池には美しい花蓮が咲き乱れる。
「舗道」は細かい色とりどりの石で模様がかたどられている。以下、それらを紹介しておく。


撮ってきた写真のいくつかを順不同で出しておく。



今回の旅の現地ツアーカイドとして同行してくれた孫さん(左)と助手の張さん。
二人とも中国・東北部のハルビンの出身で、現地の専門学校で日本語を学んで、仕事の多い上海に来て働いている。
張さんは、まだ日本語ガイドのライセンスを取得していなくて、目下勉強中という。
まだ言葉の端々に拙いところがあり、微妙な日本語表現が会得できていない。

漢字の国だと実感するものが多いが、これはその一例で、トイレなどの清掃直後で床が水に濡れている場合などに、この標識が置かれる。
ご覧になって、いかがですか。私は、こんなところにも関心を持って写真にしたりするのである。

私の旅行中、日本列島は「プレ・クリスマス寒波」とも言うべき激しい寒波に襲われ、北国の積雪だけではなく、首都圏でもかなりの積雪があり、現地で見る日本のNHKのテレビでも交通機関の運行停止などのニュースが見られた。
中国も同じく、とても寒くて朝の最低気温はマイナス3度などの数値を示していた。
そんな中での外歩きは、寒くて、とても辛い。事前に日本気象協会の天気予報を見てきたので、厚い防寒着は用意してきたのだが、冬の外歩きは大変だ。
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寒山寺


寒山寺入口

日本でも「寒山(かんざん)、拾得(じっとく)」で有名な寒山寺を見学する。
中国のお寺というと、写真のように外壁が黄色に塗られていることが多い。
ここは市の中心部から車で20分のところにある禅宗寺院。南北朝、梁の天藍年間(502~519年)の創建だが、唐の貞観年間(627~649年)に寒山、拾得という二人の僧が住職となったのを境に「寒山寺」と改名された。
清代末期には兵火に焼かれてしまったが、1860年に再建され現在の形になった。
森鴎外の小説に「寒山拾得」という作品がある。この寺の謂れの二人についてのエピソードが読めるので、リンクしてみてください。


五百羅漢像

鐘楼が建っており「鐘」を撞くことが出来る。一回5元とか聞いた。

この鐘楼のすぐ近くに、有名な唐代の詩人・張継の「楓橋夜泊」の詩を刻んだ石碑が建っている。
この碑の「拓本」が有名で、今までは沢山刷られてきたが、今は拓本採取は禁止されているという。
私は、最初に中国に行ったときに、この拓本を買ってきたが、まだ表装はしていない。

この碑の詩に書かれる「楓橋」というのは、次に写真を載せる橋のことらしい。 ↓
買って帰った蘇州風景写真ハガキからスキャンしておく。

境内には五重塔が建っているが、中国では五重塔を建てるという習慣はないらしく、この塔も日本の信者たちの寄付で建てられたらしい。

以上をもって寒山寺の見学を終る。
その間、昼食を挟んで「細密な蘇州刺繍」研究所やシルク工場などを見学したが省略する。
これらは見学に名を借りた物品販売が目的で、今回のツアーのはじめのところで「裏がある」と書いたのは、そういうことで、ツアー料金の安さを物品販売の店に頻繁に入ることによって勘定を合せているということなのである。
因みに、シルク店では、すらりとした見事な肢体のモデル数人によるファッションショーがあって、しばし目の保養をさせてもらったが、写真は遠慮して撮らなかったので、残念ながらお見せできない。
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虎丘──斜塔


虎丘は、越王との戦いに敗れた呉王──闔閭が葬られた小高い丘。
葬儀の三日後に墓の上に白い虎がうずくまっていたという伝説から、この丘の名がついた。
丘に建つ雲厳寺塔は、宋代建隆2年(961年)創建の蘇州最古の塔。地盤沈下で3.5度傾いており、東洋の斜塔と呼ばれる。傾きは下から見上げるのと反対方向になっているので、下からは傾きは、よく判らない。
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山塘街 船で遊覧
昨夜、夜も遅くなって見られなかった山塘街を船で遊覧する手配をガイドがしてくれた。
時間的には夕暮れが、もうすぐやって来るという午後遅くだった。
水郷・蘇州の面影の一端に触れられたのは幸いだった。しかし寒かった。順不同で写真を載せておく。







これで第二日は終るのだった。今夜は無錫泊り。
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上海・蘇州・無錫・朱家角ミニ旅 5日間 (3)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・2009/12/16~12/20 クラブツーリズム主催・・・・・
無錫の宿泊のホテルは美麗都大酒店という。新市街の大通に面したホテルで、設備は、ここが一番良かった。
「麗」という字は、簡略体では、旁(つくり)の部分を省略したものにされるので写真を見てもらいたい。
先ず、このホテルの写真を出しておく。



折りしも中国でもクリスマスが盛大に祝われるらしく、ホテルのフロントには、↓ のような装飾がされている。

大通には朝早くから車が往来し、中国人の悪い癖で、やたらに警笛を鳴らすのでやかましい。
道の風景の写真も出しておこう。


先に少し書いたが、自転車というのが極めて少なくなり、電動バイクが音もなく行き交う。
写真にも二列になって進んでくるバイクの姿が写っていよう。
トップ写真には「上海がに」を出してみたが、名前は上海がにでも、実は、この蟹は、ここ太湖で獲れるのである。
淡水カニということである。詳しくは、後で。
無錫──太湖遊覧
先ず、太湖のミニ遊覧(約30分)から、今日のツアーは始まる。
「太湖」は大きさとして日本の琵琶湖の二倍半あるという大きなもので、それでも中国では四番目という。
先にも少し書いたが、低湿地で湿度が多く一年中靄に包まれていると言い、からりと晴れた日は一年に数日しかないという。今日も靄がかかり、湖全体が薄墨色に染まっていて、見通しは利かない。
「太湖」については ← リンクに貼ったWikipediaに詳しい。
先ず太湖の写真を出しておこう。




この小船が漁師のカニを獲る船である。船の傍に見えるのは養殖用の網らしい。

船室の真ん中で喋っているのが無錫の現地ガイドの人で、この人は日本企業の通訳なども勤めるベテランで、日本語も正確である。孫さんなどには参考になったのではないか。

淡水パール工房
遊覧船を下りて、「淡水パール」工房で、淡水パールの採れるカラスガイを割って中から三十個くらいの真珠を取り出す実演などを見る。以下が ↓ その写真。

海の養殖真珠には人工で貝殻などで作った「核」を挿入するが、淡水真珠ではそんな作業は無く、自然に貝の中に入った砂が核になって真珠になるという。実演の貝は四年ものであったが、大きな粒を採取しようとすると十年~十五年とかの年数が必要だという。
ここを出て、他に「泥人形工場」を見学した後、「白魚の卵炒め」などの江南料理の昼食を摂って、後は一路、上海市内へ。
南京路の散策
上海の目抜きの通りの南京西路にある伊勢丹前で解散して散策に出るが、寒くて早々に伊勢丹に駆け込んでコーヒーを飲んで時間をつぶす。
また「茶芸館」で茶を売りつけられるが買わない。
上海がに
夕食は外灘の豫園の近くにあるレストランで「上海蟹」一匹つきの上海料理を賞味する。
上海蟹は直径10センチほどのもので、ズワイガニやタラバガニなどを食べなれているものには物足りないし、食べるところも少なく珍味とは言いがたい。
食事は毎日々々中国料理の連続で、江南料理とか上海料理とか、いくらかのバラエティはあるものの、変化に乏しい。
今晩の料理は、上海料理というだけあって質的には上の部類に入るだろう。
29800円という料金では、文句も言えまい。
ここを出て、別料金で「上海雑技団」のショーを見にゆく。日本円で3900円である。
上海雑技団は複数あり、後で検索してみると、私たちの見たのは「上海白玉蘭劇場」のショーだったのである。← リンクに貼ってあるので詳細は、ここを見られよ。
私は、この前来たときに一度見ているが、内容的には同じようなものだった。最終ショーはバイク5台による金属球の中での爆走で極めてスリリングなショーだった。
ここは写真撮影は可だが、フラッシュは団員の演技の邪魔になるので禁止であり、照明も落としてあるのでカメラは使わなかったので写真は無い。

↓ ショーが終ってから壇上で団員たちとの記念写真撮影付きである。

来年五月からの「上海万博」を控えて、外灘(ワイタン)はどこもかしこも工事中で掘り返している。
今晩の泊りは「上海南駅」北方の地下鉄一号線「漕宝路」駅ちかくの「光大会展中心大酒店」英語表記ではEVERBRIGHT INTERNATIONAL HOTEL というところ。
設備は古く、私の部屋のスチールサッシの窓が壊れていて締まらず冷たい風がスースー入って寝付けない。
ツアーガイドの孫さんは自宅に帰ってしまっているので、仕方なくエアコンを最大にして一夜を過す。
出来たときは、最新鋭のホテルだったと思われるが、年月が経って、設備も古くなり、あちこち壊れて、最新のホテルが続々と建つ今となっては、建て替えられる運命にあるのだろうと推測される一夜だった。
そのホテルの写真 ↓ 。



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上海・蘇州・無錫・朱家角ミニ旅 5日間 (4)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・2009/12/16~12/20 クラブツーリズム主催・・・・・
上海──いま世界で一番活気のある街
トップに出した写真は、上海浦東地区に建つ、日本の森コンツェルンが15年の歳月をかけて建設した「上海環球金融センター」の記念写真帖に載るものである。
この写真帖の右側にメジャーがあり、その数値が474メートルと表示されるように、目下のところ中国最高の高さを誇っている。
この建物については「上海環球金融中心」というWikipediaの記事に詳しい。
この写真の右隣に建っているのが「金茂大廈」通称・ジンマオタワー(421m)というビルで、ここにも展望台が設けられている。森ビルが完成するまでは、ここが最高だった。
浦東地区──黄浦江の東に林立する高層建築群
この日は朝8:30にホテルを出て、森ビルの開場が九時からなので、時間消化のために浦東の黄浦江の岸辺で対岸の写真を撮ったりする。
それらの一端を載せておく。

↑ 時計塔のあるビルと隣接する和平飯店などの歴史的建造物群


これらは「外灘(ワイタン)」と称する黄浦江岸に建つもので、かつては上海の東岸は、ここまでしかなかった。
前は広大な「潟」の浅い海だった。それが埋め立てられて、高層建築や浦東国際空港など上海の新しい都市機能の多くが、この浦東地区に集中するに至っている。
その中でも高層建築物が一番集中している地区の地図を出しておく。

「上海環球金融中心」──森ビルに入る
写真に見えるSWFCとは「上海ワールドファイナンシャルセンター」の頭文字を取ったものである。



↑ これが入場券とパンフレットである。
入場には地下から入る。朝早くから多くの人たちがつめかけ、先端の展望台の部分は幅は数メートルと狭いので、人数を見ながら入場を規制している。エレベータは高速で毎秒数十メートル上るので一分足らずで94階に着く。
ここからはエスカレータで97階、100階へと上る。
料金は階数によって異なり、100階展望台は100元である。 以下、先端の展望室の内部からの写真などを載せる。

↑ 100階展望台内部・ガラス張り──幅は数メートルしかない

↑ 床は強化ガラス張りで、下を覗けるようになっている。揺れているようで怖い。

↑ 独特の球形をしたテレビ塔を俯瞰する

↑ 「金茂大廈」通称・ジンマオタワーを俯瞰する


↑ 案内ガール

↑ 有料で撮ってもらった私の姿

因みに、現在、世界で一番高いビルは、台湾・台北市にある「台北101」(508m)で、ここも「台北国際金融大楼」という名前で金融支配を象徴するようなものである。
しかし、この 「台北101」の展望台の高さは公表されていないので最上階の高さでいうと439.2mであり、ここ森ビルは展望台の高さが492mだから、目下は世界一だと誇っているのである。
↑ ↓ 詳しくは、それぞれリンクを見られよ。
金融危機などで倒産を心配されたアラブ首長国連邦の「ブルジュ・ハリファ」(尖塔高824.55m、展望台高531.3m)が、ほぼ外構が完成していたこともあって、いよいよ間もなく「2010年01月04日」にオープンすることになって、世界的な高さ競争も熾烈である。
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「新天地」を散歩する



ここ「新天地」は淮海中路という市の中心部の南側を東西に走る通りのエリアにある。
地下鉄一号線「黄陂南路駅」と「常熟路駅」を結ぶエリアである。この辺りは元フランス租界であったところで、現在も洋館や並木道も残り独特の雰囲気の残っている地区。
今は冬の時期で寒いのでテラス席で憩う人も少ないが、ヨーロッパの街角のようにオープンエアになっているカフェなども見られる。
私は買うものもないので、カフェでコーヒーを飲んだ。
あと昼食に「小龍包」などの上海料理なるものを賞味する。
「上海博物館」というところに連れ込まれるが、何のことはない「玉(ぎょく)」などの細工物の売りつけであった。
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あと上海旧市街での観光の一つの目玉である「豫園」に行く。
「豫園」──上海随一の名園だが周囲の店屋の喧騒に包まれる

↑ せせこましいが、ここが「豫園入口」である。
この入口の前の池には池を斜めに横切るように「九曲橋」というのがあり、その真ん中に「湖心亭」という歴史的な茶館があるのだが改修中で趣がないのは残念だった。



豫園について、Wikipediaの記事を引いておく。蘇州の留園などの大庭園を見てきたものには、ここは狭いし、猥雑で喧騒に過ぎる。
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豫園(よえん)は中華人民共和国上海市黄浦区安仁街に位置する明代の庭園。
「豫」は愉を示し、すなわち「楽しい園」という意。面積は約2万m²。もとは四川布政使(四川省長にあたる)の役人であった潘允端が、刑部尚書だった父の潘恩のために贈った庭園で、1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の18年の歳月を費やし造営された。完成した時には父は没していたといわれる。清代初頭、潘氏が衰えると荒廃するが、1760年(乾隆25年)、上海の有力者たちにより再建され、豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園となり「西園」と改称された。当時は現在の2倍の広さがあった。1853年(咸豊3年)園内の点春楼に小刀会の司令部が置かれた。1956年、西園の約半分を庭園として改修整備し現在の豫園となる。残りの部分が豫園商城となる。1961年に一般開放され、1982年は国務院により全国重点文物保護単位となる。入園には大人30元。子供10元。
装飾や様式は伝統的(中華-上海的)でありつつ、周辺は中華的な高層な建築物が並んでおり、観光地として豫園商城と呼ばれている。お土産物店や飲食店が軒を連ね、小籠包の本家を名乗る南翔饅頭店などがある。
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以下の二枚の写真は、ここを取り巻く周囲の店屋の写真。
中には長い行列の出来ている食い物屋があったりする。
この日も寒い日で、私は予め「湖心亭」でお茶を飲むことにしていたのだが、それが叶わずスターバックしかないので(ここのバカでかい紙カップは私の好みではない)うろうろと歩くばかりで困った。


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夕食には「北京ダック」の名門・全聚徳で北京料理を賞味する。
さすがに名門だけあって出てくる料理も味がよく、最後に出てきた「北京ダック」もコックが目の前で皮を削いでサーヴするので趣があった。
カメラのフィルムが切れていたので私の撮った写真はないので「全聚徳」のHPから引いておく。
私たちの行ったのは地下鉄一号線「上海火車站」駅の近くの、天目西路にある店らしい。

これで、今日の観光はすべて終了し、ホテルに戻る。
ガイドに言って部屋をチェンジしてもらったが、浴槽のないシャワーのみの部屋だったが、暖房がよく利いたので、辛抱して、そのままにする。
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上海・蘇州・無錫・朱家角ミニ旅 5日間 (5)・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・2009/12/16~12/20 クラブツーリズム主催・・・・・
朱家角の観光
ここは上海市青海区にあり、市中心部から西へおよそ48kmに位置する。
昔は、この辺りが上海の旧地だったとも言われる。万暦年間(1573~1620年)に出来た水郷古鎮で、漕港河と朱泖河に囲まれ、運河が網の目のように張り巡らされているという。
大小さまざまの橋が見られるほか、水郷めぐりも出来るという。
トップページの写真は、この古鎮への入口の楼門である。

↑ 楼門を過ぎてゆくと「放生橋」という石造りの全長72m、幅5.8m、高さ7.4mの江南地方最大級の石橋。
1571年に慈門寺僧・性潮和尚による募金で建立された。橋の下では魚を放つことだけが許され、殺生を禁じて漁獲を禁止していたため、この名前がついた。橋の上から川へ魚を放つと善行を積むとされ、今では観光客用に金魚が売られている。
↓ 下の二枚は、その橋の上からの対岸の風景。


↓ 橋の手前の横丁の風景。

↓ 観光バスの駐車場となっている広場の「商城」というショッピングの建物(中国ではショツピングセンターの意味で「商城」を使う)

この写真は広場に面した西洋式のコーヒー店の二階から撮影。
私は風を避けて、ここでカプチーノを呑んで過す。
↓ この店のくれた「ティツシュ・ペーパーのホルダー」


↑ 私たちを五日間乗せてくれた専用バス。車体が古く、座席が固定せず、すぐ倒れてしまう癖があった。
上海へ引き返し、民芸品店などに連れ込まれた後、香港のボート・レストランにような龍頭をかたどった黄浦江に係留した水上レストランで何種類もの「麺」の出てくる店で昼食を摂り、後は一路、開通したばかりの「盧浦大橋」を渡って浦東国際空港に向かう。
この辺りは黄浦江を挟んで「上海万博会場」であり、突貫工事で建物や敷地の整備が行われている様子が見える。
同行者の中には「間に合うのかいな」という声もある始末。

来年の「上海万博」は黄浦江を挟んだ会場で開催される。 ↓ の地図に予定会場が書かれている。

地図下部の「南浦駅」の近く、「盧浦大橋」(赤い∴のマークがついている橋)が両岸の会場をつなぐ橋となる模様。
先の地図が見にくいので、別の地図を出しておく。↓

出してはみたものの、これも見にくいが、お許しあれ。
上海万博の「日本館」が12/26に竣工したという。
日本館は「紫蚕島」と称されるらしいが、その最新の画像は「ももたろうのぶらり中国旅日記」に載っているので参照されたい。
途中、リニアの高架線路と平行して道が走るので、リニアが疾走するのを二度見ることが出来た。
17:30発 JAL628便で出国し、関空着20:35。
この地域の旅については
★地球の歩き方「上海・杭州・蘇州・水郷古鎮」(タイアモンド・ビッグ社)
★地球の歩き方ポケット「上海・杭州・蘇州」( 〃 )
★街歩きMAP「杭州・蘇州・上海」(昭文社)
などが詳しい。参照されたい。
(気がつけば加筆することもあることを書いておきたい)

冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ
貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。
バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。
在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。

写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。
バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
バラについては、つい先日にも記事を載せたのだが、掲出歌を変えて書いてみる。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
また私からも病床にある妻にオランダ直輸入のバラを贈ったこともあった。
その他、前にもさまざまの記事を載せたこともある、思い出のある花なのである。

写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。

これも色合いが鮮やかな花である。
このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。
長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。
薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ
老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ
飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り
鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる
喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む
冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす
冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲
ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし
薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき
たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す
言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり
以下、「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。
先日引用したものと一部重複するかも知れない。お許しを。
尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨
冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男
冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子
冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子
冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦
ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子
夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行
孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子
冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児
リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・脇村禎徳
ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼

ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集
ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌のつづきには
ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず
あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり
という歌が載っている。
ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。

品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。
あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。
むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。


歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。
小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生
ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子
時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人
ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦
ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵
ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子
ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・角川源義
ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子
ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己
ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子
星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや
ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子
寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子
休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子
ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子

とぢし眼のうらにも山のねむりけり・・・・・・・・・・・・木下夕爾
「山眠る」という季語についてだが、春の山は「山笑ふ」、秋の山は「山粧ふ」と擬人法で言うが、冬の山は「山眠る」と言う。
しずかに枯れて、動きのない様子を表している。
『臥遊録』に「冬山惨淡として眠るが如し」とある。この表現を紹介して『改正月令博物筌』という本に「春山淡冶トシテ笑フガ如シ、夏山蒼翠トシテ滴ルガ如シ、秋山明浄ニシテ粧フガ如シ、冬山惨淡トシテ眠ルガ如シ」と書いたあと「冬の山はものさびしうて、しづまつたこころなり」と釈している。
また「山笑ふ」「山粧ふ」「山眠る」の三つを季語に用いて、夏の「山滴る」を季に用いないのは、「俳の掟」だとしている。その当否は別にして、ともあれ冬山の印象の形容である。
この季語を用いた句を引くと
■大いなる足音きいて山眠る・・・・・・・・前田普羅
の「大いなる足音」というのは、大自然という畏敬の対象である「季節の歩み」ということであろうか。
そうだとすれば、まことに大きな句意の句であると言える。
■眠る山或日は富士を重ねけり・・・・・・・水原秋桜子
この句の趣も壮大なものである。
眠る山に富士山を重ねて想起する、というのであるから何とも大きい句と言うべきだろう。
はじめに掲出した夕爾の句にも、あるいは富士山を重ねることも出来ようか。
■水べりに嵐山きて眠りたる・・・・・・・・後藤夜半
この句の場面は京都の嵐山である。
大堰川(保津川)の水辺に対岸の山(嵐山)が映って眠っている、という景である。せせこましくない、大らかな俳意の句である。
■山眠る最中(もなか)に我を現じたる・・・・・・・・松本たかし
この句は眠る山に、生臭い、生身の人間を置いたところに「配合」の妙がある。
「現じたる」の「現」=うつつ、である。人間の生きる「うつつ」には、さまざまの魑魅魍魎の跋扈する「現し世」があるのである。
■山眠る大和の国に来て泊る・・・・・・・・山口青邨
「大和は国のまほろば」と称せられるところであり、古い神々が鎮座するところでもある。
冬の大和は、まさに「山眠る」というにふさわしい邦(くに)ではないか。
おそらく作者の心の中に去来するものは、そういう心情であろうと推察される。
■硝子戸にはんけちかわき山眠る・・・・・・・・久保田万太郎
この句の「山」がどこかは判らないが、この句は、また何と人間臭い句であろうか。
山に向かって開いた窓のガラス戸にハンケチが干されている、という景である。前夜から干されていたのか、ガラス戸のハンケチが、もう乾いている、というのである。
万太郎は、こういうささやかな人事の匂いのする句に秀句がある。
■眠りつつ山相怒る妙義かな・・・・・・・・轡田進
「眠る山」は、どこでもよいが、この句の場合には「妙義山」と特定されている。
浅間、妙義辺りの山は活火山で、時折はげしく「怒って」噴火したりする。この句は、そういう事実を踏まえているのは確かだろう。
こういう「地名」の喚起力というものがあり、うまく固有名詞を使うと、句に現実味が出て強い句が出来る。

しばらくはその香に酔ひてをりにけり
晩白柚風呂に浸るひととき・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前に
賜ひたる晩白柚まろく大きかり男手借りてむき分かちたり・・・・・・・木村草弥
という歌が載っているが、晩白柚を下さったのは「コスモス」の古参の安立スハル氏である。
写真①は贈答用箱に鎮座した晩白柚(ばんぺいゆ) 。
この果物は、一般に知られる赤い実のザボン(白柚)の一種で、その実は淡い黄緑色である。
柑橘類の中では最大級で直径は20~25センチ、重さは1.5~2.5㎏にもなる。
原産地はマレー半島。白柚より完熟期が遅いことから晩生白柚→晩白柚と命名された。
発見者は、当時の台湾の農業技師で植物研究家の島田弥市氏である。
晩白柚の父として知られる同氏は熊本県八代郡東陽村の出身で、同村を全国有数のショウガ産地に育てて「ショウガの父」としても知られる他「ポンカン博士」としても有名で、その生涯を植物研究に燃焼し尽くした人である。

写真②には、晩白柚の大きさを示すために手に持った人物の顔と対比してもらいたい。
晩白柚の産地の八代地方は、かなり以前からザボンが栽培されていたが、晩白柚は熊本県果樹試験場を経て、一般農家にも広まるようになり、独特の香りと柔らかな食味を持つことから、昭和40年代に入ると急速に栽培量が多くなった。
現在では、昭和52年にハウス栽培に成功して以来、露地よりも1カ月以上早く収穫できるようになり、正月前に出荷できるので、お歳暮やお年始に引っ張りだこ、という。

写真③はハウスの中に整然と並ぶ収穫された晩白柚の壮観さである。
掲出した私の歌のように、香りが爽やかなので、皮を風呂に入れると絶妙の晩白柚風呂になる。
柑橘類特有の果油によって肌がツルツルになる。柚子湯のデラックス版と考えてもらえばお判りいただけよう。
私の歌のように皮を剥くのも一苦労で、力の強い男手が必要である。
身の味は、やはり酸味が強いので、実のまま玄関などに飾って鑑賞してから熟するのを待って食味すると、おだやかな酸味となる。
晩白柚のもてはやされ方をみると、食料の不自由な時期には見向きもされなかったかも知れないと思われる。
世の中に物が満ちあふれ、少しでも変わった贈答品を、という時代になって、もの珍しさも手伝って今日に至っているように見える。
安立氏が、これを下さったのは、もう数年も前で、以後、安立氏は帯状疱疹でお苦しみで、歌壇との交際も断っておられ私にも音信がなかったが、音信不通のまま2006年春にお亡くなりになってしまった。
安立氏は、私を歌の道に導いて下さった恩師であった。

──冬山女流三態──
■冬山を仰ぐ身深く絹の紐・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本眸
冬の山は、草木が枯れて、しーんとしずまりかえって眠っている。枯れ山であり、雪を積もらせていれば雪山となる。
今では冬山登山やスキーが盛んになって、冬の山の中には、却って冬に賑やかになる山もある。
昔は、一般人は、冬には山には入るものではなく、眺めるものだった。だから「遭難」とかいうものは無かったから
心隈なくぞ覚ゆる冬の山・・・・・・・・才麿
めぐりくる雨に音なし冬の山・・・・・・・・蕪村
あたたかき雨にや成らん冬の山・・・・・・・・召波
など、静かな、澄んだ、なごやかな冬山が詠われてきたのが多い。
掲出した岡本眸の句は、どこの山か知らないが、白く雪の積もる山を眺める温泉か何で、身支度をする景を詠んでいる。
句には何も書かれていないが、句の言外に漂う雰囲気が何となく「艶っぽい」ものである。
こういう句は「女句」と言うべく、男には作れない領域である。
静かなとは言っても、やはり「厳しい」冬山である。それに対比して、たおやかな女体を配するという作句の妙、とも言うべきものを的確に表現された秀句と言えるだろう。
■この雪嶺わが命終に顕ちて来よ・・・・・・・・橋本多佳子
という句があるが、これは晩年の作品であるが、一点の汚れもない白亜の雪嶺を前にして多佳子は心洗われる想いがしたのだろう、命終の際には山容を見せてほしい、というのである。
彼女の句には、また
箸とるときはたとひとりや雪ふり来る・・・・・・・・橋本多佳子
というような、夫に先立たれた、たよりなげな女身の不安な心理を詠った優れた句もある。
季語には「冬の山」「冬山」「枯山」「雪山」「雪嶺」「冬山路」などがある。
■冬山のさび藍色のこひしさに・・・・・・・・細見綾子
この句も女流ならではの句というべきだろう。男ならば山「恋しい」とは詠わないだろうと思う。
彼女にとっては、何かの思い出が、かの山にはあり、特に冬山の「さび藍色」に想いが籠っているとみるべきだろう。
この人は俳人の沢木欣一の夫人である。今の季節の句を引くと
雪渓を仰ぐ反り身に支へなし・・・・・・・・細見綾子
という佳作もある。
今日は、岡本眸の句を皮切りにして、女流の目から見た「冬山」の句を中心に書いてみた。いかがだろうか。
冬山を前にしても「人事」の艶っぽさを滲ませた「女句」の冴えを鑑賞してみて、寒い季節ながら、ほのぼのとした肌の温もりみたいなものを感得したことである。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
木には常緑樹と落葉樹とがあって、落葉樹は冬には葉を落して、春の芽吹きを待つ。落ちかかる葉や、地に落ちている葉を「落葉」と言う。
樹の種類にもよるが、落葉というのは、一時に集中して、ハラハラと落ちる。
美しい眺めであるが、掲出の楸邨の句は擬人的に「いそぐないそぐなよ」と言っている。これは明らかに、人間の一生になぞらえて、「散り急ぐな」と言っているのは確かだろう。
ここで、俳句や短歌などの「句切り」のことについて、少し書きたい。
この楸邨の句は、一読すると「破調」のように見える。「意味」の上から「句切り」をすると、確かに5、7、5というリズムからはみ出そうだが、この句の場合は
木の葉ふり/やまずいそぐな/いそぐなよ と区切って読めば5、7、5という「定型」のリズムに乗るのである。
こういうのを「句またがり」と言う。
昔は、こういう「句またがり」などは、リズムを崩すとして忌み嫌われたが、前衛短歌、前衛俳句華やかなりし時期に多用され、以後は一つの技法として認められるようになった。
確かに日本語の、こういう5音7音などの「音数律」はリズムを作るものとして重要である。というのは、日本語は、その特性として「音韻」を踏めないから西洋の詩や中国の詩(いわゆる漢詩)のように「韻」や「平仄」でリズムを取れないから、その代用として「音数律」という特有のリズムが発見されたのである。
交通標語などに採用されるものの多くが、この5音7音などの「音数律」によって作られているのが、その実証といえようか。
何度もあちこちに書いたので気が引けるが、ポール・ヴァレリーの言葉に
<散文は歩行であるが、詩はダンスである>
という一節がある。この一節は私が大学生の頃に、文芸講演会があって、三好達治から聞いて、以後、私の座右の言葉として日々ふりかえっている言葉である。これは「散文」と「詩」との違いを簡潔に言い表した言葉であり、過不足がない優れた表現である。
「落葉」「木の葉」「枯葉」などの句を引いて終る。
寂寞を絢爛と見る落葉かな・・・・・・・・松根東洋城
風といふもの美しき落葉かな・・・・・・・・小杉余子
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉・・・・・・・・臼田亜浪
多摩人の焚けば我もと落葉焚く・・・・・・・・水原秋桜子
ごうごうと楡の落葉の降るといふ・・・・・・・・高野素十
わが歩む落葉の音のあるばかり・・・・・・・・杉田久女
野良犬よ落葉にうたれとび上り・・・・・・・・西東三鬼
ニコライの鐘の愉しき落葉かな・・・・・・・・石田波郷
落葉踏みさだかに二人音違ふ・・・・・・・・殿村莵糸子
子の尿が金色に透き落葉降る・・・・・・・・沢木欣一
からまつ散る縷々ささやかれゐるごとし・・・・・・・・野沢節子
本郷の落葉のいろの電車来る・・・・・・・・伝田愛子
宙を飛ぶ枯葉よ麦は萌え出でて・・・・・・・・滝春一
一葉づつ一葉づつ雨の枯葉かな・・・・・・・・八幡城太郎
落柿舎は煙草盆にも柿落葉・・・・・・・・阿部小壺
その中に猫うづくまり朴落葉・・・・・・・・佐佐木茂索
朴の落葉わが靴のせるべくありぬ・・・・・・・山口青邨
朴落葉うれしきときも掃きにけり・・・・・・・・村田とう女
落葉して凱歌のごとき朴の空・・・・・・・・石田勝彦

小景異情 その二・・・・・・・・・・・・・・・・室生犀星
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
-----------------------------------------
この有名な詩は『抒情小曲集』の巻頭に載るもので、年譜によると
<二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中「小景異情」最も古く・・・・・>と書かれている極く初期の作品である。初出は『朱欒』大正2年2月、となっている。
故郷にて冬を送る・・・・・・・・・・・・・室生犀星
ある日とうどう冬が来た
たしかに来た
鳴りひびいて
海鳴りはひる間も空をあるいてゐた
自分はからだに力を感じた
息をこらして
あらしや
あらしの力や
自分の生命にみち亘つてゆく
あらい動乱を感じてゐた
木は根をくみ合せた
おちばは空に舞ふた
冬の意識はしんとした一時(とき)にも現はれた
自分は目をあげて
悲しさうな街区を眺めてゐた
磧には一面に水が鋭どく走つてゐた
『愛の詩集』所載。初出は『詩歌』大正4年1月。
----------------------------------------
という詩もある。
最初に掲げた詩は有名なもので、特に、はじめの短歌のリズムの二行だけを取り出して引用されることもある。
私の持っている『定本・室生犀星全詩集』(昭和53年・冬樹社刊)は全三巻で、一冊の厚さは5センチもあるものである。
近代詩の巨人として、その後の現代詩に繋がる偉業を成し遂げた。
むつかしい語句もないので、年末の忙しい時期だが、ゆっくり鑑賞してもらいたい。

冬海へ落ちもせざりし千枚田・・・・・・・・・・・・・・・津久井進子
掲出した句に合わせて「千枚田」の写真を載せる。これは石川県能登の輪島市にある「白米千枚田」のものである。
写真中にも明記されているようにKENJI AOYAGI 氏が著作権をお持ちの作品である。
拝借した御礼に、ここに明らかにしておきたい。
句に合わせて冬の棚田の写真を出したかったが、残念ながら冬田のものはなかった。
ここで「白米千枚田」の紹介をしておきたい。ここは輪島市内から東へ車で15分のところ。
104枚の田があるそうである。海原へ向かう斜面に、これだけの田が広がると圧巻であろう。

千枚田、棚田というのは全国各地にあり、なかでも三重県紀和町の「丸山千枚田」は丸山地区の斜面に2200枚余の田を数える日本でも最大規模の棚田だが、残念ながら、ここは山に囲まれた山地で海に面していないから、掲出した句には合わないので見送った。

写真③は秋の千枚田の稲刈の頃の様子である。
棚田は、土地の有効利用として、斜面に石垣を築いて狭い面積の田を層状に積み上げた、ものすごい手間の要るものである。
米余りの時代になって、かつ農耕の担い手がなくなり、棚田は荒廃する一方であり、今ではボランティアを募って棚田のオーナーになってもらい、その資金で地元の農家が維持管理するという苦肉の策で運営されているというのが実情である。
棚田協議会のようなものが組織されて、全国的な連携を図ってやられている。
今日は、たまたま千枚田を詠んだ句を引いたので、千枚田のことを先に書いたが、本来は「冬の海」「冬の波」あるいは「寒潮」のことを書くのが主旨であるので、以下、冬の海のことと、それを詠んだ句を引きたい。
「冬の海」と言えば、暗く、荒涼として、時化ていることが多い。これは主として北国の海のことで、南国の海は冬でも明るく、凪いでいることも多い。
しかし、冬の海と言えば、語感からして、やはり北国の海を連想することが多いだろう。

写真④は瀬戸内の牛窓の冬の海である。OCEAN2氏の撮られたものである。
借用した御礼を申し上げておきたい。
暗いが凪いだ瀬戸内の冬景色が、よく表れている。
以下、冬の海、冬の波、寒潮を詠んだ句を引いて終る。
灯台のまたたき長し冬の海・・・・・・・・富安風生
冬浜に老婆ちぢまりゆきて消ゆ・・・・・・・・西東三鬼
鷺とんで白を彩とす冬の海・・・・・・・・山口誓子
冬浜に人現れて消えにけり・・・・・・・・池内たけし
一望の冬海金粉打ちたしや・・・・・・・・中村草田男
喪の家に冬海月をあげにけり・・・・・・・・大野林火
ひとり帰すうしろに夜の冬の海・・・・・・・・篠田悌二郎
冬の海てらりとあそぶ死も逃げて・・・・・・・・飯田龍太
一瞬の紅刷き冬の海昏るる・・・・・・・・逸見嘉子
立ちあがる浪の後の冬の海・・・・・・・・平野吉美
冬波の百千万の皆起伏・・・・・・・・高野素十
玄海の冬浪を大と見て寝ねき・・・・・・・・山口誓子
冬の涛あらがふものを怒り搏つ・・・・・・・・富安風生
冬波をおそれに来しか見に来しか・・・・・・・・谷野予志
天垂れて冬浪これをもてあそぶ・・・・・・・・木下夕爾
胸先に冬涛ひかり暮れゆけり・・・・・・・・角川源義
立ち上りくる冬涛を闇に見し・・・・・・・・清崎敏郎
冬浪のひかり鴎となりてたつ・・・・・・・・桑原志朗
寒潮の涛の水玉まろびけり・・・・・・・・飯田蛇笏
寒潮に少女の赤き櫛が沈む・・・・・・・・秋元不死男
流人墓地寒潮の日のたかかりき・・・・・・・・石原八束
冬潮といへどもぬくし岬の果て・・・・・・・・鈴木真砂女
ただ寒潮灯台チヨークほどに立つ・・・・・・・・保坂春苺

ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇に
そそのかさるる恋よあれかし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌の前後に
冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす
言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり
などの歌が載っているが、いずれも、四季咲きの薔薇のうち、初冬に咲く薔薇の命の貴重さを詠っている。

近代バラの代表格である大輪四季咲きは、暖地では12月まで咲きつづく。
この冬バラは比較的寒さには強く、霜いたみすることもないが、剪ればもう咲いてくれない、という儚さがある。
露にしっとりと濡れた冬バラを切るときは、この地上の最も貴いものを奪うという思いのためらいがあるのである。
これらの歌は、そういう気分を表現している。
もちろん、この露地栽培のものに拘らず、温室栽培のものは季節を問わず出荷されていて、それも冬バラには相違はないが、冬薔薇(そうび)の持つ風情には及ばない。
バラと言えば思い出すのは、オランダの花の取り扱い会社「東インド会社」だが、数年前にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの、いわゆるベネルックス三ケ国を歴遊した際に、この会社からオランダ直送の「カサブランカ」という百合を家に留守する妻と、妻と私との共通の女の友に送ってもらった。黙っていたので、妻も友人も驚いていたが、いい花で喜んでもらった。
その後、何回かバラを直送してもらってプレゼントしたことがあった。
妻亡き今となっては、いい思い出になってしまった。

以下、冬薔薇を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「そうび」と音読することもあるので一言。
尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・山口青邨
冬ばらの蕾の日数重ねをり・・・・・・・・星野立子
ケロイド無く聖母美し冬薔薇・・・・・・・・阿波野青畝
しろたへに鵜匠の門の冬薔薇・・・・・・・・石原八束
冬薔薇日の金色を分ちくるる・・・・・・・・細見綾子
冬薔薇やわが掌が握るわが生涯・・・・・・・・野沢節子
冬薔薇の花弁の渇き神学校・・・・・・・・上田五千石
山国のわづかにひらく霜の薔薇・・・・・・・・福田甲子雄
四季咲きの薔薇の小さき冬の色・・・・・・・・今井千鶴子
冬薔薇咲きためらひて十日ほど・・・・・・・・木村有恒
冬薔薇一輪にしてまくれなゐ・・・・・・・・吉田悠紀
火の色に冬薔薇凍てし爆心地・・・・・・・・山田春生

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに・・・・・・・・・・・橋本多佳子
山茶花さざんかはツバキ科の常緑の小高木で、葉に光沢があり、初冬に椿に似た、一回り小型の五弁の花を開く。
この花の咲く期間は長くて11月から咲きはじめて、次々に咲きつぎ、12月中旬の今もなお咲いている。
この木にも早咲き、仲咲き、遅咲きなどの種類がある。
木の下にはハラハラと落ちた花びらが一杯散り敷いている。
色には白、淡紅のほか、しぼりなどさまざまな品種改良されたものがある。
原産地は日本だが、園芸品種として改良され、庭に植えたり、盆栽にしたりする。正しくは「茶梅」というらしい。
山茶花を音読みするとサンザカとなるが、言いにくいので語順が入れ替わって「サザンカ」となったものである。
サザンカについては先にも書いたが、掲出の橋本多佳子の句が引きたくて、出してみた。

写真②は昔、肥後熊本城主・細川家で改良された「肥後山茶花」である。
「肥後六花」のうちの一つ。
掲出した橋本多佳子の句は、「サザンカが紅ふかく咲いたが、訪う人もなく淋しい」という意味の、老いの寂寥感のただよう作品である。
若くして夫に先立たれ、晩年は奈良で暮らした多佳子の佳品である。
図版③に多佳子の写真を出しておく。

以下、山茶花を詠んだ句を引いて終る。
山茶花のここを書斎と定めたり・・・・・・・・正岡子規
霜を掃き山茶花を掃くばかりかな・・・・・・・・高浜虚子
無始無終山茶花ただに開落す・・・・・・・・寒川鼠骨
山茶花のみだれやうすき天の川・・・・・・・・渡辺水巴
さざんくわにあかつき闇のありにけり・・・・・・・・久保田万太郎
山茶花の散りゆきすでに月夜なる・・・・・・・・水原秋桜子
山茶花の長き盛りのはじまりぬ・・・・・・・・富安風生
山茶花の貝の如くに散りにけり・・・・・・・・山口青邨
山茶花の散るにまかせて晴れ渡り・・・・・・・・永井龍男
花まれに白山茶花の月夜かな・・・・・・・・原石鼎
山茶花やいくさに敗れたる国の・・・・・・・・日野草城
山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ・・・・・・・・加藤楸邨
山茶花の日和に翳のあるごとく・・・・・・・・西島麦南
山茶花の咲きためらへる朝かな・・・・・・・・渡辺桂子
山茶花の散り重なり土濡れぬ・・・・・・・・原田種茅
山茶花の咲く淋しさと気付きたる・・・・・・・・栗原米作
山茶花にたまさかさせる日なりけり・・・・・・・・望月健
白山茶花地獄絵のごと蜂群るる・・・・・・・・高木雨路

垢じみたこころ洗ひたし 冴えわたる
極月の夜に月の利鎌(とがま)だ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
ご存知のように「月」にはほぼ29日周期で満ち欠けがあるが、写真のような「利鎌」の形をするのは月齢の中で2回ある。
新月から満ちはじめ上弦の月に至る途中の利鎌と、写真のような下弦の月から欠けが更に進んだ利鎌、である。この二つの場合には「弧」の向きが逆になる。
詳しくは「下弦の月」というのをご覧いただきたい。

写真②は上弦の月である。↑
写真①のような月は「有明月」というが、これは月齢でいうと26日頃の月である。
「有明の空」というのは夜明けの空のことで、そこに昇る月が有明月ということである。
これは本来は十六夜(いざよい)以降の月の総称だが、この時期に限定すれば「暁月」と呼ぶ方が正確であろう。
古くは「二十六夜講」などの風習があった。
「新月」からはじまって月には月齢のそれぞれの時点で呼び名がある。これも詳しくは先に紹介したサイトでご覧いただきたい。
「三十日月」というのは、もうすぐ「新月」になって消えてしまうという頃の月の姿である。
今朝6時すぎに起きてカーテンを開けたら、夜明け前の薄暗い南南東の空に、この下弦の月──有明月が光っていた。
私が懇意にお付き合いしていただいた 高島征夫さんのサイトには毎日の「暦」─その日の日の出、月の出などのデータが載っていたが、
京都府の場合、今日の月の出は2:28、南中時は08:06、月の入りは13:28。月齢は24.8 あたりではないかと思う。
まさに今朝、夜明けまえに私の見たのは、そういうタイミングだったのであろうと思う。
高島さん亡き今となっては、聞くことは出来ないが、詳しくは、ネット上の国立天文台の「こよみの計算」にアクセスすれば簡単に知ることができる。
「利鎌」の説明をしていて、つい月の話になったが、本来、話題にすべきは「垢じみた心」を洗いたい、ということであろうか。
私のように長い年月を生きて来ると、体も心も、すっかり「垢」じみたものになってしまっている。
「冴えわたる」極月(12月の異称)の夜の月の「利鎌」を見ていると、それで自分の心の垢を削ぎ落したい、という想いに捕われるというのである。
これらは「比喩」表現であるから、言葉のあれこれの詮索は無用である。
俳句には「寒月」「冬の月」「月冴ゆる」「月氷る」「寒三日月」などの季語が見られる。
さむざむとした青白い月で、毎月見られる月ではあるが、この時期に見ると、厳冬を思わせる月の凄まじさがある。透徹した空気のため、研ぎ澄まされたような、刺すような寒さが感じられて、美しい。「寒月」と言えば、特に冷厳な凍りついたような月を言い、氷輪というようで、人を離れて寂として輝いている。「冬三日月」は仰向きはじめた形で、ひえびえと利鎌のように鋭くかかる。
『枕草子』には「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」と書かれている。
『源氏物語』朝顔の巻では「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折りなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」とある。
寒月や僧に行き合ふ橋の上・・・・・・・・与謝蕪村
の句は、そういう雰囲気を、よく表現し尽している。
以下、冬の月を詠んだ句を引いて終る。
我影の崖に落ちけり冬の月・・・・・・・・柳原極堂
冬の月をみなの髪の匂ひかな・・・・・・・・野村喜舟
吹雪やみ木の葉の如き月あがる・・・・・・・・前田普羅
冬三日月羽毛の如く粧ひ出づ・・・・・・・・原ヨウ子
寝ぬる子が青しといひし冬の月・・・・・・・・中村汀女
あたたかき冬月幸を賜はるや・・・・・・・・石田波郷
寒月に大いに怒る轍あり・・・・・・・・秋元不死男
人穴を掘れば寒月穴の上・・・・・・・・富沢赤黄男
寒月や耳光らせて僧の群・・・・・・・・中川宋淵
降りし汽車また寒月に発ちゆけり・・・・・・・・百合山羽公
煙突と冬三日月と相寄りし・・・・・・・・岸風三楼
寒の月酒にもまろみありとせり・・・・・・・・相生垣瓜人
寒三日月不敵な翳を抱きすすむ・・・・・・・・野沢節子
寒月光いつか一人となるこの家・・・・・・・・古賀まり子
寒月の作れる陰につまづける・・・・・・・・高木貞子
寒月にまぶたを青く鶏ねむる・・・・・・・・田中祐三郎
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草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is question. me free !
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

──草弥の詩作品<草の領域>─(56)──
贋作・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
──にせものときまりし壺の夜長かな 木下夕爾──
本手瀬戸唐津茶碗直斎宗守(武者小路七代)箱書
<時代金直しがされてます
高台までニューがのびてますが使用には問題ありません
仕服は淡々斎雪月花裂です
後から付加えられたものと思われます
箱底が虫食いとなっています
桃山から江戸初期の伝世茶碗です
寸法 ・ 巾140 高70
価格 ・ お問合せください>
<淡々斎>というと裏千家十四世のことだが。。。。
「贋作」とは
或る名高い物があって
誰かが
それに似せようとして
それに阿(おもね)ろうとして
あわよくば 真品だとして
誰かを騙そうとして製作するものを指す
だが
この茶盌はいいものだな
誰かが 後から
淡々斎の裂(きれ)なんかを
付加えたのが間違いだった
誰かさんの詩のように
稚拙でもいいから
他人の真似でない
自立した作品を作ろうよ
利休も言っているではないか
<茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる>
或る未見の人からEメールで
<言葉を操る業師>と言われた
わざし、寝わざ師。
いっそ「仕事人」(しごとにん)と呼ばれたい。
------------------------------------------------------
かねて投稿中の詩作品が2009/12/1発行の「楽市」誌67号に掲載されたので、披露しておく。
(2010/04/06追加補記して改稿)
草弥の詩作品<草の領域>
poetic, or not poetic,
that is question. me free !
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──草弥の詩作品<草の領域>─(56)──
贋作・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
──にせものときまりし壺の夜長かな 木下夕爾──
本手瀬戸唐津茶碗直斎宗守(武者小路七代)箱書
<時代金直しがされてます
高台までニューがのびてますが使用には問題ありません
仕服は淡々斎雪月花裂です
後から付加えられたものと思われます
箱底が虫食いとなっています
桃山から江戸初期の伝世茶碗です
寸法 ・ 巾140 高70
価格 ・ お問合せください>
<淡々斎>というと裏千家十四世のことだが。。。。
「贋作」とは
或る名高い物があって
誰かが
それに似せようとして
それに阿(おもね)ろうとして
あわよくば 真品だとして
誰かを騙そうとして製作するものを指す
だが
この茶盌はいいものだな
誰かが 後から
淡々斎の裂(きれ)なんかを
付加えたのが間違いだった
誰かさんの詩のように
稚拙でもいいから
他人の真似でない
自立した作品を作ろうよ
利休も言っているではないか
<茶の湯とはただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなる>
或る未見の人からEメールで
<言葉を操る業師>と言われた
わざし、寝わざ師。
いっそ「仕事人」(しごとにん)と呼ばれたい。
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かねて投稿中の詩作品が2009/12/1発行の「楽市」誌67号に掲載されたので、披露しておく。
(2010/04/06追加補記して改稿)

ひひらぎの秘かにこぼす白花は
鋭き鋸歯(きょし)の蔭なるゆふべ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
柊(ひいらぎ)は、悪魔を祓うとかいう言い伝えで、家の玄関脇に植えられていたりする地味な木だが、鋭いノコギリ状の葉を持っている。
この木は初冬に、その鋸歯の葉の蔭に小さな白花をつける。季節が寒い冬であり、しかも皆いそがしい12月だから、この花に気づく人も少ないだろう。
今この花の花盛りで11月下旬から咲きはじめた。、傍を通ると、すずやかな佳い香りがする。人によってはスズランに似た香りだという。花言葉は「用心」「歓迎」

結構かわいらしい清楚な花である。図鑑を見るとモクセイ科の常緑小高木と書いてある。
柊という名前の由来は疼(ひいらぐ)で「痛む」という意味である。
疒(やまいだれ)に旁(つくり)に冬と書く。
熟語に「疼痛」(とうつう)があるのをご存じだろう。
葉の棘に触れると疼痛を起こすことから言う。「いら」とは「苛」で棘を意味する。
本来、この木は関西以西の山地に自生する暖地性の木らしい。
この頃に咲く花としては「枇杷」の花などもある。さざんか、茶の花などは、よく知られているものである。この頃に咲く花は初夏の頃に実をつける習性がある。
年が代って節分になると、この木の小枝に鰯の頭を刺して魔除けの縁起かつぎをする木として、一般に知られているが、この頃では家が小さくなって、この木が植えられる家が見られなくなって、この風習も廃れる一方であろう。
以下、この花を詠んだ句を引いて終る。
柊の花一本の香かな・・・・・・・・・・・・・高野素十
柊の花と思へど夕まぐれ・・・・・・・・・・・・・富安風生
柊の花多ければ喜びぬ・・・・・・・・・・・・・中村草田男
柊の花のともしき深みどり・・・・・・・・・・・・・松本たかし
粥すくふ匙の眩しく柊咲く・・・・・・・・・・・・・長谷川かな女
花柊母の伝言短くて・・・・・・・・・・・・・小西敬次郎
柊の香がする夜昼田がねむり・・・・・・・・・・・・・森澄雄
柊の花を見し日や眼帯す・・・・・・・・・・・・・細見綾子
父とありし日の短さよ花柊・・・・・・・・・・・・・野沢節子
柊の花音もなく海は夜に・・・・・・・・・・・・・村田脩
花柊袖通すものひやひやと・・・・・・・・・・・・・永方裕子
弥陀の扉を花柊の香へひらく・・・・・・・・・・・・・吉野義子
花柊一つぶ髪に真野間来て・・・・・・・・・・・・・中村明子

明日のため今日の願いがありまして
ハナカタバミの葉のやすむ宵・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
ハナカタバミ
花片喰(ハナカタバミ)はカタバミ科カタバミ属の多年草である。
学名:Oxalis bowiei
和名でなく学名のオキザリス・ボーウィと呼ばれることも多い。
原産地は南アフリカのケープ地方である。日本へは観賞用として江戸時代に渡来した。
暖地では野生化しているものも見られる。
草丈は5~30センチくらいである。
葉は3出複葉(1枚の葉が3つの小さな葉に分かれた形)である。
小葉は丸みのある倒心形で、細かな毛が生えている。
開花時期は10~11月である。
葉の間から花茎を伸ばし、散形花序を出して濃い桃色の花をつける。
散形花序というのは、茎先からたくさん枝が出て、その先に1個つずつ花がつく花序のことである。
花径は3~5センチと大きく、花の真ん中は黄色い。
日当たりがよい場所を好み、曇っていたり日陰になったりすると花を閉じる。
写真は晩秋の一日、大阪へ注ぎ込む淀川の土堤に野生化したものが撮られた。
さまざまの色の園芸種があるらしい。
鳥海さんが歌に添えられたコメントによると
<夜になると、ハナカタバミは祈るように葉を閉じます。病と闘っていたころ、また葉を開くあしたを思い、希望を感じたものです>
という。私は、そういう現象をまだ観察する機会を得なかった。花言葉は「決してあなたを捨てない」

ネット上では下記のような記事も見える。
<ムラサキカタバミ(紫片喰)の園芸種で、カタバミ属の植物のうち球根性の種類を園芸上はオキザリスと呼んでいるようです。葉はクローバー形で、色彩の変化に富んでおり、赤紫を始め斑入りなどいろんなのが有るようです。
花色も紅、紫紅、桃、藤、黄、白に複色など多彩です。夏植えで秋咲きの種類が多いのですが、冬~春咲き、夏咲きの種類もあります。球根は指先ほどの小型で、無霜地帯では庭植えもできます。
秋に咲いた花と春に咲く花では、微妙に違うような感じでした。>
歳時記を当ってみたが、句は載っていないようである。ご了承を。

水昏(く)れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり
誰よりもこの女(ひと)のかたはら・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、巻末の締めくくりをする歌で、私自身でも感慨ふかいものである。
自選60首にも採っているので、Web上のHPでもご覧いただける。
ツワブキは晩秋から初冬にかけて咲く花であり、今の時期の貴重な草花である。
先日採り上げた「アゼトウナ」と同じような色と季節の花である。
四国遍路の路傍にもしきりに咲いていた。
私自身は、格別に愛妻家とも思わないが、振り返ってみると、4冊の歌集の中で、数多くの「妻恋」の歌を詠ってきたことに、改めて気付くのである。
掲出した歌は、何も難しいものではないので、解説は控えるが、歌集『嬬恋』の巻末の一連の歌を引いて終りにしたい。
「石蕗」ツワブキの花は、木蔭に咲く、ひっそりとした花だが、そのイメージを妻に重ねていることを言っておきたい。
花言葉は「困難に負けない」
嬬恋(つまごひ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
嬬恋を下りて行けば吾妻(あがつま)とふ村に遇ひたり いとしき名なり
吾妻(あがつま)氏拠りたるところ今はただキャベツ畑が野づらを埋む
視(み)のかぎり高原野菜まつ黒な土のおもてにひしめきゐたり
黒土に映ゆるレタスがみづみづし高原の風にぎしぎしと生ふ
草津なる白濁の湯にひたるときしらじらと硫黄の霧ながれ来る
ゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら
柔毛(にこげ)なる草生の湿り白根山の夕茜空汝(なれ)を染めゆく
朱しるく落ちゆく夕日ゆゑもなく「叱られて・・・」の唄くちずさみゐつ
本白根と地の人呼びぬしんかんとエメラルド湛(たた)ふ白根の火口湖
水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
「嬬恋」は長野県から入ってすぐの群馬県の地名である。また「吾妻」というのも、その近辺の地名である。
有名な草津温泉も、この一画にある。私の嬬恋の思いを、これらの地名によせて、一連の作品として綴ったものである。
嬬バカとお取りいただいても、結構である。私は「嬬恋」を宣言することに、何の衒いもない。
「おのろけ」という謗りにも敢えて甘受する。
なお、歌集『嬬恋』は2003年いい時期に上梓できたと思っている。
妻が死んだ後では、「レクイエム」になってしまうので、まだ元気なうちに、妻に捧げることが出来たのを、
妻亡き今になると切実に、いい時期に出せたと、つくづく思い知るのである。
ツワブキの花を詠んだ句も多いので、少し引く。
石蕗黄なり文学の血を画才に承け・・・・・・・・富安風生
けふの晴れ狭庭は既に石蕗のもの・・・・・・・・及川貞
母我をわれ子を思ふ石蕗の花・・・・・・・・中村汀女
石蕗咲けりいつも泥靴と並びたる・・・・・・・・加藤楸邨
病まぬ生より病める生ながし石蕗の花・・・・・・・・石田波郷
石蕗咲いていよいよ海の紺たしか・・・・・・・・鈴木真砂女
讃歌(ほめうた)や地に沈金の石蕗の花・・・・・・・・文挟夫佐恵
日もすがら碧空を恋ひ石蕗の花・・・・・・・・飯田龍太
黄八丈色に石蕗咲き妻が着て・・・・・・・・草間時彦
そこに日を集めて庭の石蕗明り・・・・・・・・稲畑汀子
一隅を一切とせり石蕗の花・・・・・・・・和田悟朗
花石蕗につねのたそがれ誕生日・・・・・・・・きくちつねこ
大津絵の鬼が杖つく石蕗日和・・・・・・・・谷中隆子
一族はすぐ縦列に石蕗の花・・・・・・・・坪内稔典
石蕗咲くや沖はいちにち鉛色・・・・・・・・森田たみ
一病が老いを早めし石蕗の花・・・・・・・・山本白雲
野生馬に岬の断崖石蕗咲けり・・・・・・・・波江野霧石
石蕗咲いて身になじみたる黄八丈・・・・・・・・鈴木みや子

幼児が顔近づけて呼びかける
「セントポーリア、セントポーリア」・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
セントポーリア イワタバコ科
学名:Saintpaulia(イワタバコ科セントポーリア属の総称)
和名:アフリカスミレ(アフリカ菫)
セントポーリアの学名は、この植物の発見者であるサン・ポーリーレール氏の名に由来する。英名はアフリカン・バイオレット。
<一応,四季咲きです。和名は「アフリカスミレ(アフリカ菫)」ですが,いわゆる菫とは違います。ビロードのような毛の生えた丸い葉が特徴で,この葉を葉柄から切り取り挿し木をしておくと繁殖することができます。>
ネット上を見ると、こんな説明がしてあるが、この花は暑さ、寒さには弱い草で、原則として室内栽培の花である。色はいろいろある。花言葉は「小さな愛」「深窓の美女」。

<室内で育てることを前提とした植物です。花色は豊富で、小型の植物なので場所をとらず鉢花として人気があります。空中の湿度が高い方が好みますが、土が湿った状態にしておくと根が腐りやすい性質があるので注意が必要です。寒さ、暑さに弱く初心者の方は品種を十分に選んだ方がよいでしょう。普通に出回っているものは比較的丈夫なものが多いです。最近は小型のミニ種の人気が高い。>
育て方については、以下のような記事がある。
●空中の湿度が高いのを好みます
●暑さ、寒さに弱い性質があります
●一年を通して室内で栽培する
<室内向きの植物で、全体的に小型で場所をとらないので鉢植えとして人気があります。花の色はピンク、赤、紫などがあり、特に紫は濃いものから淡い色のものまであります。フチどりが入ったり、しま模様になるものもあります。普通種、ミニ種、茎が伸びるトレイル種などがありますが、初心者は普通種の「オプチマラ」が花つきもよく比較的育てやすい。温度と日当たりが充分あれば一年中咲きます。品種もバラエティーが多く、セントポーリアだけを集めて栽培している栽培家もたくさんいます>
<室内で一年中育てることになるので結構、葉の上などにホコリがたまりやすい。ときどき葉を痛めないようにホコリを軽くふき取りましょう。また、花や葉に傷が付くとそこから傷みやすいので、咲き終わりの花や枯れかけた花はこまめに取り除くようにしましょう>
<がんがんの直射日光は葉が焼けただれてしまうのでヤバイ。一年を通してやわらかい光が必要です。レースのカーテン越しの日光がちょうどよいでしょう。もともと弱い光の下でも充分育つ植物で、セントポーリア専門で育てている方は、植物育成用の蛍光灯を用いて栽培する方も多い。これなら室内の窓から離れた暗めの場所でも育つからです
普通は窓際で管理することになりますが、寒さに弱く気温が5℃切るとを枯れてしまいますので、冬場は夜には室内の奥に移動させましょう。暑すぎるのも良くないので、夏場は風通しを良くしましょう。北向きのベランダなども案外よく育ちます(夏場だけ)>

<4月から10月は生育が旺盛な時期です。指で鉢土の表面を触ってみて湿り気を感じないくらいになったらたっぷりと与えましょう。冬の時期はあまり育たないのでそれよりは水やりの回数を減らしましょう。水をやりすぎると腐りますので注意。水やりの際、葉に水がかかるとそこだけ葉の色がぬけてしまったり病気にかかる原因にもなりますので、株元からそっとじょうろなどで与えます。
肥料は薄めた液体肥料を月に1から2回与えます。室温が20から30℃を保てる時期には通常通り肥料を与えましょう。それ以外の時期は必要ありません。やりすぎると花つきが悪くなることがあります>
<室内で栽培することを前提としているのでにおいがなく軽いものがよい。バーミキュライト5:パーライト5の割合で混ぜた土か、セントポーリア専用培養土を買い求めましょう。>
<根がよく伸びて鉢の中がいっぱいになるので、1年に1回は植え替えが必要です。適期はだいたい6月下旬がよいでしょう。土は、上の項のものを使用します>
<葉ざしでふやすのが一番ポピュラーです。根が出るには20℃以上の気温が必要です。温室などの加温設備があれば別ですが、普通は6月から10月の間におこないます。表面に傷の付いていない元気な葉を、3から4cm軸を付けて切り取り、用土の項で説明した土に斜めに差します。土が乾いたら水をやるようにします。ずっと湿った状態にしておくと葉の切り口から腐ることがあります。発根して芽が出てきますので、芽が大きく(2~3枚の葉がでてきたら)小さな鉢に植え替えます。
葉ざしした株はだいたい花が咲くまで、半年から8ヶ月くらいかかります。>

──師走の句5態──
■がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信
師走も一週間を過ぎて、いよいよ歳末のあわただしさが本格的になってきた。
今日は「師走」に因む句を採り上げる。
この句は、いかにも前衛俳句の作者としての面目躍如という句であるが、しばらく前は首都圏などでは建築ラッシュで、たとえば東京駅周辺などは様変わりしてきた。
まさに重信の詠んだような光景そのものである。
ただ昨年からの世界不況で、特に金融不安から不動産市況も急ブレーキがかかっているが。。。。
もっとも今では「高層建築」は「鉄筋コンクリート」ではなく「鉄骨」作りである。鉄骨を組み上げて外側に外壁パネルを組み付ける工法である。
何階から高層建築というか、など私は知らない。
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この記事を書いた後で我が敬愛するbittercup氏が高層建築について記事を書かれたので聞いてみた。
その返事のコメントを感謝とともに、下記に貼り付けておく。
<都市計画法施行令第6条第1項第7号に、低層は1 - 2階、中層は3 - 5階、高層は6階以上とされ、
建築基準法に基づく施行令第36条の第3項に「高さが60mを超える建築物を超高層建築物という」と、
15階建てビル以上が「超高層」となりますから、「高層」は15階までとなります。
その後、100m超のビルが多く建てられたことから、2007年6月には削除され、
「建築基準法に基づく告示」1461号に超高層建築物という言葉だけが見られ、
具体的な数値規定は無くなったようです。
156mの霞が関ビルを超高層ビルと呼んでいることから、100m(25階)以上を超高層ビルとすると、
ドバイの824.55m(162階)のブルジュは超超高層ビルとでも呼べばよいのでしょうか。>
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■極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・大谷句仏
大谷句佛(1875~1943) 明治~昭和期の真宗大谷派僧、東本願寺23世、京都生、法名・彰如、諱・光演、号・愚峰、俳号・句佛、現如上人の次男、地方各地を巡錫、門徒を督励し親鸞650回忌を勤修、画を竹内栖鳳に学び、俳句を子規・虚子らに私淑、書画・俳句に通じる風流人としても知られた。昭和18年歿67才。
十二月の呼び方としては「師走」のほかに、ここに出した「極月」「臘月」など、いろいろあるが、いずれも一年の終りとしての月の意味を孕んでいる。

■極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・・・・山口青邨
写真は渋谷のスクランブル交差点である。
この青邨の句は単純でありながら、せせこましい師走の情景を捉えて過不足がない。
■師走もつともスクランブル交叉点・・・・・・・・・岩岡中正
という、そのものずばりの句もある。
通行人の懐がぬくいのか、金欠か、さまざまの人々が往来する。
円高と株安で大分損をした人も居ることだろう。

■法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子
ここらで関西の師走の句も採り上げないと不公平だろう。
法善寺横丁
石畳が続く古い路地で、織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台としても有名。商売繁盛や恋愛成就を祈願した人がかけた水で、全身が苔むした水掛け不動がある。
写真④に見える「正弁丹吾亭」は大阪の文化人の溜り場で、今でも歌人の前登志夫や私の兄事する米満英男氏なども屯していたところである。
その前氏も亡くなって一年以上が経った。

■臘月や錦市場に鯛の粗(あら)・・・・・・・・・・・・・・岡井省二
京の台所といえば、ここ錦市場である。
錦市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
錦市場(にしき いちば)は、京都市街ほぼ中央に位置する錦小路通のうち「寺町通 - 高倉通」間の商店街で、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京都言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。京都独特の食材は、ほぼここで揃う。
鮮魚店400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の市民はもとより、新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生も訪れる観光名所として活気のある市場として賑わう。
スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質のよさや豊富な品揃えが支持されて市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している[1]。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。
京都の目抜き通り四条通の一本北の錦小路通に位置し、赤緑黄の色鮮やかなアーケードにおおわれた石畳の道の距離は、東西390メートル。商店街振興組合に所属する店は約130店舗、道幅は3.2 - 5メートル、道に迫り出して商品や商品棚を並べる店舗が少なくなく実際はもっと狭い。東の端は、新京極と交差し、その先に錦天満宮がある。
ここで業務用の食材を仕入れる割烹、料亭、旅館なども多く[2]、一般向けには京都名物の鱧など鮮魚を扱う店が20店舗以上と一番多い。そのほか伝統野菜とも呼ばれる京野菜、京漬物・豆腐や湯葉・麩・鰻・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・パン・寿司まで京料理の食材はほとんどここで揃うといっても過言ではない。
年の暮れには正月用の食材を求める客であふれ、上野のアメ横同様の混雑となる。店舗の営業時間は、店にもよるが、おおむね午前九時から午後五時までが目安となっている。水曜日と日曜日に休業する店が多い。

蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・右城暮石
「枇杷」はバラ科の常緑高木で、初冬に枝先に三角形総状の花序の花を咲かせる。花は白く香りがよい。庭木としては極めて少なくなった。
実は初夏に熟する。甘くて香りのよい果実である。
枇杷の木は葉が大きくて長楕円形で、葉の裏に毛がびっしりと生えている。葉の表面の色は暗緑色である。
『滑稽雑談』という本に「枇杷の木、高さ丈余、肥枝長葉、大いさ驢の耳のごとし。背に黄毛あり。陰密婆娑として愛すべし。四時凋れず。盛冬、白花を開き、三四月に至りて実をなす」とある。簡潔にして要を得た記事だ。
冬に咲く珍しい植物のひとつである。寒い時期であり、この花をじっくりと眺める人は多くはない。
こんな句がある。
■十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子
この句などは、先に書いたことを、よく観察して句に仕上げている。こんな句はどうか。
■だんだんと無口が好きに枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・三並富美
■一語づつ呟いて咲く枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・西美知子
■咲くとなく咲いてゐたりし枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・大橋麻沙子
いずれも「枇杷の花」の、ひっそりと咲く様子を的確に捉えている。

写真②にビワの実を載せる。このブログ2009/06/26にビワの実の記事を書いた。果実として品種改良され、「茂木ビワ」が有名である。
以下、枇杷の花を詠んだ句を引いて終る。
枇杷の花霰はげしく降る中に・・・・・・・・野村喜舟
死ぬやうに思ふ病や枇杷咲けり・・・・・・・・塩谷鵜平
枇杷咲いて長き留守なる館かな・・・・・・・・松本たかし
花枇杷や一日暗き庭の隅・・・・・・・・岡田耿陽
故郷に墓のみ待てり枇杷の花・・・・・・・・福田蓼汀
枇杷の花子を貰はんと思ひつむ・・・・・・・・原田種茅
枇杷の花母に会ひしを妻に秘む・・・・・・・・永野鼎衣
枇杷の花くりやの石に日がさして・・・・・・・・古沢太穂
枇杷の花妻のみに母残りけり・・・・・・・・本宮銑太郎
枇杷の花柩送りしあとを掃く・・・・・・・・・庄田春子
枇杷の花暮れて忘れし文を出す・・・・・・・・塩谷はつ枝
病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花・・・・・・・・大下紫水
花枇杷に暗く灯せり歓喜天・・・・・・・・岸川素粒子
雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花・・・・・・・・福田甲子雄
枇杷の花散るや微熱の去るやうに・・・・・・・・東浦六代
訃を告げる先は老人枇杷の花・・・・・・・・古賀まり子
贋作に歳月の艶枇杷の花・・・・・・・・中戸川朝人
伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・坪内稔典

思ふ人の側へ割り込む炬燵かな・・・・・・・・・・・小林一茶
もう、この時季になれば、どこの家でも「炬燵」(こたつ)を出しただろう。
もっとも、この頃では全くの洋風暮らしをしている家もあり、また「床暖房」も急速に普及してきたので一概には言えない。
炬燵には「置き炬燵」と「掘り炬燵」の二種類があるが、床板をくりぬいた「掘り炬燵」の方が、絶対に足が楽だ。
この頃では和風料理屋などでも年中、掘り炬燵式のものにテーブルを置いてあるのが増えてきた。
正座をしたり、アグラをかくのに苦手な外人などにも好評である。
わが家でも10数年前に家を建て替えた時に、座敷に「掘り炬燵」を設置した。
夏も天板を、そのまま座卓にして、足は下に垂らせるようにした。
天板も和風に合うように、落ち着いた、少し立派なものにした。
冬には下半身を暖めると全身が、ほっこりする。
もっとも「床暖房」など便利だが「文化生活」をすると経費がかかって仕方がない。
「炬燵」くらいが丁度いい。
「書斎」にも、三面が天井までとどく万冊に及ぶ本に囲まれているが、冬になると真ん中に「置き炬燵」を据えて、そこからテレビを見たりする。
書斎は椅子式の部屋だが、出入りの大工さんに頼んで椅子から足を伸ばせる台を特注で作ってもらい、その板の上に「置き炬燵」を乗せるので、一人かけのソファーから足が伸ばせるのである。

写真②は昔の浮世絵の炬燵の図である。うら若い娘が仲良く炬燵を囲んで語らっているという構図である。
江戸の日常暦によると、神無月の行事として、上亥、中亥、下亥とある亥の日のうち、武家では上亥の日に、商家では二の亥(中亥)の日に「炬燵開き」をした、という。
コタツには蜜柑が、よく似合う。これは何と言っても季節の風物詩である。
掲出の一茶の句は、一茶らしい滑稽味と、ちょっぴりのエロスがあって面白い。
他に蕪村の句に
腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな
というのがあるが、これは炬燵で温まった細君が腰抜けのようなしどけない状態になってしまった、という光景であろうか。
なお、掲出した炬燵の写真は、私宅のものではないので、念のため。
以下、コタツを詠んだ句を引いて終りにしたい。
句を玉と暖めてをる炬燵かな・・・・・・・・高浜虚子
炬燵の間母中心に父もあり・・・・・・・・星野立子
横顔を炬燵にのせて日本の母・・・・・・・・中村草田男
淋しくもなにもなけれど昼炬燵・・・・・・・・永井龍男
編み飽いて炬燵の猫をつつき出す・・・・・・・・原田種茅
炬燵出づればすつくと老爺峰に向ふ・・・・・・・・加藤知世子
切炬燵夜も八方に雪嶺立つ・・・・・・・・森澄雄
炬燵嫌ひながら夫倚る時は倚る・・・・・・・・及川貞
世の中の炬燵の中という処・・・・・・・・池田澄子
ばらばらに帰り炬燵の一家族・・・・・・・・山本美紗
亡き夫の席そのままに掘炬燵・・・・・・・・佐々木ツタ子
母のゐて集まりやすき炬燵の間・・・・・・・・沢村やな枝
調法に散らかしてある炬燵の間・・・・・・・・小畑けい
活断層の真上に住みて炬燵抱く・・・・・・・・安達光宏
折鶴の嘴うつくしき炬燵かな・・・・・・・・馬場龍吉

ふりむけば障子の桟に夜の深さ・・・・・・・・・・・・・・・・長谷川素逝
障子というと、昔はもっと広い呼称であったが、今では「明り障子」のみを「障子」という。
掲出の写真は「雪見障子」と呼ぶもので、これにも、いろいろの形のものがある。
「明り障子」には美濃紙や半紙などを貼るが、やはり無地のものが佳い。
紙を越した光線はやわらかく、落ち着いた感じがして好ましい。
今風の家でも一部屋くらいは座敷があり、障子があるだろう。

写真②は「葦簾障子」というもので、夏になると障子や襖を、この「よしず障子」に入れ替えたものである。
「よしず」の一本一本に隙間があり、夏の蒸し暑さから「通風」を保って、多少なりとも和らげようとの思惑の産物であった。
この頃では、よほどの古い家か大きな家でないとお目にかからない。
冬になれば外して収納しなければならないから、その収納スペースも大変である。
障子は、防寒、採光のための建具だが、また奥ゆかしい空間を作り出す用具でもあった。
一年に一度は、紙を張り替える「障子貼り」というのが年中行事として行なわれていた。
障子の枚数の多い家など大変である。
「障子紙」の用意からはじまり、糊を炊き、障子を外して古い紙の剥しと、水洗いが、また大変であった。
昔のわが家では「障子の張替え」は、専ら母の仕事だった。
父は仕事で忙しかったから、そういう家事は殆ど手伝わなかった。子供たちにも手伝わせなかった。
田舎の家だから障子の枚数も多かった。母は手際がよかったから、貼る障子紙も、「桟」の幅に合せて事前に剃刀で、きれいに切り揃えて用意してあった。
貼って糊が乾いてから、霧吹きで水を吹き付けると、乾いたときにピンと張ってきれいに仕上がるのだった。
今の我が家は、すっかり洋風になって「障子」は四枚だけになった。 夏用の「よしず障子」も無い。
以下、障子の句を引いて終わりにしたい。
美しき鳥来といへど障子内・・・・・・・・原石鼎
しづかなるいちにちなりし障子かな・・・・・・・・長谷川素逝
死の如き障子あり灯のはつとつく・・・・・・・・松本たかし
柔かき障子明りに観世音・・・・・・・・富安風生
うすうすと日は荒海の障子かげ・・・・・・・・加藤楸邨
われとわが閉めし障子の夕明り・・・・・・・・中村汀女
涛うちし音かへりゆく障子かな・・・・・・・・橋本多佳子
嵯峨絵図を乞へば障子の開きけり・・・・・・・・五十嵐播水
枯色の明り障子となりにけり・・・・・・・・山口草堂
煎薬の匂ひ来る障子閉ざしけり・・・・・・・・角川源義
以下ネット上に載る長谷川素逝の記事を転載しておく。

写真は下の記事中にも書かれている句碑。
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津の生んだ俳人 長谷川素逝
俳誌『阿漕』
阿漕浦の岩田川寄り、ヨットのマストが林立している伊勢湾海洋スポーッセンターの前の海岸堤防の所に、わりあい大きな石碑が立っている。これが津の生んだ、全国的にも有名な俳人長谷川素逝の句碑で、次の句が刻まれている。
遠花火海の彼方にふと消えぬ
この句は、昭和10年7月下旬に詠まれた。その当時、津中学校の国語教師をしていた素逝は、夕方から乙部の自宅に集まってきていた俳友たちと、夫人と妹さんを伴って、涼を求めて海の方へ散歩に出掛けた。贄崎海岸から新堀に出て、そこの渡しで岩田川を渡って、阿漕浦へ出た。浜辺を歩くうちに、暗い海の彼方に遠く花火の上がるのが見られた。音もなく、ふと消える遠花火の風情を素逝はそう詠んだ。このエピソードは、俳友七里夏生氏の直話による。
素逝長谷川直次郎は、明治40(1907)年大阪に生まれた。父が大阪砲兵工廠の技師だったからで、本籍は津市。大正4(1915)年、父の退職によって津に帰り、養正小学校に転入。津中学校を経て、京都の第三高等学校文科入学、俳句を田中王城・鈴鹿野風呂に師事した。昭和4年、「京鹿子」(野風呂主宰)の同人となり、「ホトトギス」初入選は昭和5年。昭和7年、三島重砲連隊幹部候補生として入隊している。除隊後、津の自宅に帰り、母校の関係で「京大俳句」の創刊に参加し、一方地元三重の俳句の振興を目指して俳誌「阿漕」を昭和8年創刊、主宰した。昭和9年4月、京都伏見商業学校の教員となるが、その9月津中学校の教員となって津に帰った。ところが、昭和12年中国との戦争が始まると程なく砲兵少尉として応召。昭和13年12月、病を得て入院、内地送還となった。翌年、その間の句を収録した句集「砲車」を出版してその名をうたわれた。
その後は、病をいやしながら句作に励み、句集「三十三才」「ふるさと」「村」「暦日」と編んでいく。その静寂な自然凝視の句は、「ホトトギス」を通じて全国の俳人たちに親しまれた。落葉を詠んだ句が多かったので、"落葉リリシズム"ともいわれた。一時、甲南高等学校教授となったこともあったが再入院し、戦後は各地に転地療養したが、ついに昭和21年10月10日、旧大里陸軍療養所で没した。享年わずかに40歳であった。
高浜虚子は、その死をいたんで、「まっしぐら炉に飛び込みし如くなり」の句を寄せた。