K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(2月)月次掲示板
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
2009.02.28ポンポン山の福寿草
  高槻ポンポン山の福寿草(藤目俊郎氏撮影)

今年も、はや二月になりました。 
「二月は逃げる」と言われて早く経ちます。

 新しい読みが一行を変へて、おおその瞬間に雪ふりはじむ・・・・・・・・・・・・・岡井隆
 啄木を思ひつつ来ればきさらぎの朝の渋谷に牡丹雪降る・・・・・・・・・・・・・来嶋靖生
 はるかなる冬のすばるに見透かされときに亀裂の走る母性よ・・・・・・・・・・大口玲子
 誰が前世あるいは後生 穏やかな冬日を浴びて目つむる老猿・・・・・・・・・・・三井修
 ほんのりと色さへ添へて花の野にいざなひくるる眠剤ひとつぶ・・・・・・・・秋山佐和子
 腸(はらわた)に春滴るや粥の味・・・・・・・・・・・・・夏目漱石
 雨の中に立春大吉の光りあり・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
 立春のどこも動かず仔鹿立つ・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ・・・・・・・・・・・・石田波郷
 早春の湾パスカルの青き眸よ・・・・・・・・・・・・・・・・多田裕計
 薄紙に大吉を刷る印刷所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤文香
 冬帽が飛んだマイケルジャクソンも・・・・・・・・・・・・坪内稔典
 被写体をあへていふなら春隣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四 童
 紅梅や失ひしものありにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 渡良瀬は利根につづけり柚子は黄に・・・・・・・・・・・・・高島茂
 むめがかや昼寝の猫の耳たてて・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 感情線滑って転んで雪の国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿
 愛欲の温もりを帯び管楽器・・・・・・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
 冴返る旧居住者の鏡かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北大路

 凍滝を置き去りにする山の神・・・・・・・・・・・・・・・・・三木基史
 自我いつかしづかな琥珀霜の夜・・・・・・・・・・・・・・・田中亜美

 
ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

「夢占い診断書」(ユメカルテ) というサイトは面白い。 一度トライしてみられよ。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
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──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
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「集英社文庫」新刊
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「青土社・ユリイカ」

少年は星座の本に夢みてゐるオリオンの名をひとつ覚えて・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  少年は星座の本に夢みてゐる
    オリオンの名をひとつ覚えて・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「オリオン座」は冬の星座である。

イカロス神話によると、オリオンは海の神ポセイドンとミノス王の娘エウリュアレの間に生まれたとされる。
海の神の息子であったから、海の上をまるで陸のように歩くことができたという。
巨人オリオンは美男子で、狩の腕にも優れ、そして月の女神アルテミスの恋人でもあった。
それは、いろいろのことがあった後、クレタ島に渡って月と狩の女神アルテミスに出会い、二人は愛し合うようになるが、アルテミスの兄・アポロンが野蛮なオリオンから引き離そうと画策し、ある日、海で泳ぐオリオンの頭に金色の光を吹きつけた。そしてアルテミスに「いかにお前が弓の名手でも、あれほど遠くの獲物は一矢では射止められまい」とそそのかした。その挑発的な言葉に乗せられてアルテミスは、その海上の獲物を一矢で射抜いてしまった。
打ち上げられたオリオンの死体を見て、アルテミスは悲しんで、夜空を照らすことも忘れてしまった。
アルテミスに同情した大神ゼウスは、オリオンを天に上げ、星座にした。
月は公転運動で見かけの位置を毎日変える。1ケ月に1度はオリオン座のすぐ北を通る。
月の女神アルテミスは今では1ケ月に1回だけオリオンとのデートを楽しんでいるのである。

私は天文少年でもなかったので、星座にまつわる神話の方が面白かった。
西洋占星術だが、星座表は古代バビロニアに発し、ギリシアに到達して「西洋占星術」として確立されるようになった。
12の星座が月日によって割り振られ、たとえば2月7日生まれの私は「水瓶座」ということになる。
こんにち、週刊誌などに載る「あなたの運勢」などという記事は、この星座表によって、もっともらしいことが書かれている。

「俳句」の世界では、私の持っている程度の歳時記には「オリオン座」などは、まだ「季語」としては少ししか載っていないが、それを引いて終わる。

 石鹸は滑りオリオン座は天に・・・・・・・・・・・正木ゆう子

 オリオンの真下に熱き稿起こす・・・・・・・・・・・・小沢実

 オリオンを頭にして百の馬 潔癖・・・・・・・・・・・・星永文夫


白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう・・・・・・・・・・・・・・・斎藤史
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   白い手紙がとどいて明日は春となる
     うすいがらすも磨いて待たう・・・・・・・・・・・・・・・斎藤史


今日は2月26日である。昭和11年の、この日に、いわゆる2.26事件が起った。
掲出の歌は昭和15年刊行の第一歌集『魚歌』に載るものだが、初々しい感覚の春の歌である。

この『魚歌』の中に「二月廿六日、事あり、友ら、父、その事に関はる」の前書きで、次のような歌がある。

  春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ

  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ


これらの歌については後に

「意識してカモフラージュしたところがあるんです。そうしなきぁ発表できない情勢の中、苦しみを吐きたい。しかしリアリズムで書けば通るはずはありません。あの手法しかなかったのです」(「ひたくれなゐの生」樋口覚との対談)

という本人の談話がある。詩で多用する「暗喩」という手法である。
長くなるので、皆さんなりに読み解いて頂きたい。

2.26事件は陸軍の青年将校たち皇道派が、降りしきる豪雪の中、天皇親政を求めて決起して、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三の各連隊の部下1400名を率い、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡部錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた事件である。
昭和天皇が激怒し、徹底的な鎮圧を命じたため、彼らは「反徒」となり、首謀者は碌な弁護もなく、逮捕から僅か3か月で結審して、首謀者は死刑となった。
事件そのものについては、色々の著書があるので、ここで詳しくは書かない。

ただ斎藤史の父・斎藤劉予備少将も、心情的に彼らを支持したとして「禁固5年」の判決をうけた。
その上、死刑となった栗原安秀中尉や坂井直中尉は、史とは同年輩で、旭川師団長として劉が赴任していた頃から兄妹のように親しくしていた間柄であり、そんな諸々の関係が、斎藤親子のめぐりには存在したのである。
したがって、史には昭和天皇に対する「恨み」のような感情があり、昭和天皇生存中は、史の心は解けることはなかった。
歌集『渉りかゆかむ』に

  ある日より現神(あらひとがみ)は人間となりたまひ年号長く続ける昭和

という歌があるが、これは戦争中は「あらひとがみ」とされていた天皇が、敗戦後マックアーサーとの会見などを経て、詔書を出して、これを否定し、いわゆる人間宣言をされたこと、などへの痛烈な皮肉とも言えよう。

昭和天皇没後、平成の代になって一月の「歌会始」に召人として招かれ、ようやく心の箍が取れたのか、出席したが、

  「おかしな男です」といふほかはなし天皇は和(にこ)やかに父の名を言ひませり

という歌が残っている。宮中の歌会始の会場で天皇から声をかけられた時の情景である。
因みに、父・斎藤劉も若い頃からの歌人で結社「短歌人」に拠って活躍した人である。史は戦後、短歌結社「原型」を起して多くの歌人を育てた。

斎藤史の歌は晩年には自在な境地に達し、たとえば

  ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう

  携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか


のような歌がある。

記憶の茂み

『斎藤文歌集・記憶の茂み』(和英対訳)選歌・英訳 ジェイムズ・カーカップ 玉城周(2002/01/25三輪書店刊) という本があり、斎藤文の珠玉の700首の歌が収録されている。
この本の中に、今回掲出した、この<白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう>があり、その英訳として次のように載っている。

  With arrival of

  the white letter, tomorrow

   will surely turn to

  spring ─ so I wait, and meanwhile

  polish my windows' frail glass.


この英訳が技術的に、どの程度のものか知らないが、日本の大学で長らく教鞭をとり日本語の生理に通暁し、詩人としてまた多くの翻訳を手がけてきたジェイムズ・カーカップと、その良き協力者である玉城周の努力の賜物である。
この本のはじめの部分で「五行31音節という短歌の形式には特にこだわることにした」と書かれている。
この部分は、斎藤文の良き理解者であり、インタヴュアーでもあった樋口覚が翻訳している。
拙速ではなく長年にわたって準備されてきたものと言うべく、相当のレベルの域には達しているだろう。
この本は最近になって私も知って取り寄せたものであり、急遽ここに披露することにした。

松岡正剛の「千夜千冊」の中に彼女に触れたものがあるので参照されたい。
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なお、2.26事件に駆り出された下級兵士の、その後だが、懲罰的に戦地の最前線に送られ、殆どが悲惨な最期を遂げた、という。澤地久枝さんの本など見てもらいたい。

東風ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真
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  東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花
    あるじなしとて春な忘れそ・・・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真


今日は2月25日である。この日は菅原道真の命日として、古くは寺子屋などでも絵像を掲げて礼拝したという。
関西では、今も、この祥月命日だけでなく、毎月25日を「天神さん」の日として天満宮にお参りにゆくのは勿論、縁日が出て賑わうのである。
因みに、21日は「弘法さん」の日と言って、空海の忌日で京都の東寺境内ではお参りだけでなく、賑やかな縁日(露店)が出る。骨董品の掘り出し物があったりする。
毎年、1月には初天神、初弘法の日として、一段と混雑する。また12月は、終い(しまい)天神、終い弘法として、一年の無事を感謝し、来年への期待を願うのである。
しめ飾りなどの正月用品も、ここで買う人が多い。
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菅原道真は平安初期の詩人、文章博士。右大臣の位にまで昇ったが、摂関家藤原一族の讒言に遭い(901年天皇の廃位をはかったという無実の讒言)、太宰権帥に左遷され、配所で死んだ。(845年-903年)
道真が梅を愛したことは有名で、この歌は太宰府の地に赴くとき、庭の梅に詠みかけた歌として『大鏡』の藤原時平伝に語られる道真失脚悲話と共に伝承する。

道真の死後、「たたり」と称する異変が相次いで起り、923年罪を取り消して本官に復し、のち993年には正一位太政大臣を贈られた。
その前から民間では祠を北野に建て、天満天神として祭られ、文道の神として今日まで崇敬を受けている。
道真は、行路の危険、唐の戦乱の様子などから「遣唐使」の派遣中止を進言し、以後遣唐使は遣わされないことになったのは、有名な話である。
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ここは「梅」の名所としても有名で、神社の境内には何千本もの梅林がある。写真④は、その一例。
今しも梅の花が盛りの時期で、ここ北野天満宮には多くの人が探梅に訪れる。
この梅園で採れた梅は梅干にされて来年の正月に「大福梅」の縁起物としてお参りの人に授けられる。

掲出の「東風(こち)」のことだが、日本の気象は、台風などの特殊な時期でない限り、西から変化する。
「春一番」「春二番」などの時期は、北にある低気圧に向かって東南風が吹き込むことがある。これが「こち」であり、この歌は気象学的にも正しいと言われている。

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京都北野の北野天満宮だけでなく、大阪北野の天満宮など、天満宮、天神社は全国に5000余社に及ぶ。私の住む青谷村にも中天満宮、市辺天満宮と2社もある。
天満宮は、牛が神のお使いとして社頭にうずくまる。
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この歌の結びの「春な忘れそ」のことだが、ご存じのない方のために解説しておく。
「な・・・・そ」という文章の構成法があって、この場合の意味は「春を忘れてくれるな」ということである。
「な」と「そ」で或る動詞を挟むと、その動作を「禁止する」意味を表す。「どうか・・・してくれるな」という意味の強い「結び」の詩句が出来上がるのである。
だから、この歌のように、強いメッセージ性あふれる詩句となるのであった。
「な・・・そ」に挟む動詞は連用形(カ変、サ変動詞は未然形)にする必要がある。
応用として一例を挙げる。「私の傍を離れずにいてほしい」という意味の場合「わが傍な離れそ」というような具合になる。
ただし、これは「文語」の場合だけであって、現代の口語には一切使わない。


いのち噴く季の木ぐさのささやきをききてねむり合ふ野の仏たち・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ
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  いのち噴く季(とき)の木ぐさのささやきを
    ききてねむり合ふ野の仏たち・・・・・・・・・・・・・・・生方たつゑ


冬の間の固い殻を破って、さまざまな木草が新たな命を噴きあげる春。
それを作者は「いのち噴く季」と表現する。
目覚めたのち、ささやき合う木草。その傍らに野仏が、風化して目鼻も定かでない顔だちで、うつらうつらと眠っている。
路傍に野仏をたてた昔の人は、悲しみや祈りをこめて石仏に手を合わせたことだろう。
野仏はそれらの時間を、すべて閉じ込めて、じっと動かずに立っている。
そこには、時の移ろいと、時の停止を同時に語るものがある。

この歌は生方さんの歌集『風化暦』(昭和49年刊)にあるもの。数年前に亡くなったが、歌集だけでも20冊に及ぶ。
少し歌を引用してみる。

  草の汁浸みてこはばる手をひたす清きまみづを犯すがごとく

  紅絹(もみ)裂けば紅絹のあやしさにほひ充つ透きとほるまでの嫉妬をもてば

  「平凡に生きよ」と母が言ひしこと朱の人参刻めば恋ふる

  北を指すものらよなべてかなしきにわれは狂はぬ磁石をもてり

  かかる夜ひそかに隕石の墜ちゐむかみづうみ濡らす冬の月かげ

  潮のいろ美しきかな痣のごとき珊瑚礁あるを原点として

  結氷の季も生きゐる魚(いを)のこと羨望しつつ雪の夜点(とも)す

作者は三重県宇治山田(今の伊勢市)生まれの人。「女人短歌」結成に参加した才媛。
家庭的にも育ちのよい境遇の人で、大らかな、女らしい情感のある歌を残す。

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私の住む南山城や奈良盆地は、大陸や朝鮮半島からの渡来人が、早くから住みついて、かの地の先進的な文化をもたらした。
掲出した写真のような野仏も多い。
こういう風物も、すっかり影をひそめて来たが、先人たちの、こういう自然に対する畏敬の念は尊っとんでゆきたいものである。



春は/小さな川々まで/あふれてゐる/あふれてゐる・・・・・・・・・・・・山村暮鳥
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     春の河・・・・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

       たつぷりと

       春は

       小さな川々まで

       あふれてゐる

       あふれてゐる
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7-13_9879山村暮鳥

この詩は『雲』という大正14年刊行の詩集のはじめの「春の河」三篇のうちのものである。

山村暮鳥(1884-1924)は『三人の処女』『聖三稜玻璃』などで有名な人であるが、私の旧制中学4年の時の国語の先生から山村暮鳥の詩集を借りて、ひところむさぼるように読んだことがある。
山村調を気取って短詩を作ったりした。
詩集の題名でも明らかなように、暮鳥は宗教的ヒューマニストとしてキリスト者の人間的真実を追究するところに独自の詩風を展開した。
詩風は、かなり時期により異なり、ドストエフスキーの研究、翻訳に当っていた頃は、当然その影響を受けている。
いわゆる「白樺派」の影響を受けた第二期があり、詩集『風は草木にささやいた』(1920)などはヒューマニズムの時期である。
1924年に亡くなるが、萩原朔太郎が評しているように「虚淡時代」という第三期の東洋的な汎神論的世界に晩年はひたり込んだ。
静かに牧歌的な自然を観照し、その中に帰一し、明るい人生観が見られる時期である。
大正14年というと、もう晩年に近い頃で、掲出の詩は、そういう牧歌的な雰囲気のものである。

余談だが、彼の略歴(下記)を見ると「東京聖三一神学校」を出た、とあるが、別の記事を読むと、この神学校は「立教大学」の前身であるという。

1126505962-2山村暮鳥詩碑

写真③は彼の詩「風景 純銀もざいく」を刻んだ詩碑である。
この詩碑の建つ場所や写真などを ↑ のリンクで見られるので、アクセスしてみてください。

その詩句を下記に引いておく。

  風   景  
    純銀もざいく
・・・・・・・・・・・・山村暮鳥   詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)所収

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     ひばりのおしやべり
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     やめるはひるのつき
     いちめんのなのはな。

同じ詩句を連ねた中に8行目にだけ異なった詩句を嵌めるというシンプルな構成になっている。

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ここで同じ詩集『雲』に載る短詩をひとつ紹介する。

   雲・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      おうい雲よ
      ゆうゆうと
      馬鹿にのんきさうぢやないか
      どこまでゆくんだ
      ずつと磐城平の方までゆくんか
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また『月夜の牡丹』という詩集の作品──

      ある時・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      娘よ
      うんと力をいれて
      何がそんなにはづかしいのよ
      ほら、ぬけた
      なんといふ
      太いまつ白い大根だらう
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ネット上に載る「文車」というサイトの記事を下記に貼り付けておく。
この記事が一番よく書けていると思うからである。

山村暮鳥

[文車目次] 

思潮社 「山村暮鳥詩集」(1993年9月15日 初版第二刷)より
  『聖三稜玻璃』
彌生書房 「山村暮鳥全詩集」(1973年7月10日 第五版)より
『風は草木にささやいた』
筑摩書房 「現代日本文學大系41」(1973年12月20日 第一刷)より
『雲』
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ひとりごと
 山村暮鳥の詩をはじめて読んだのは、実はマンガの中でのことでした。多分、小学校の高学年か中学の1年生ぐらいだったと思うのですが、作家もストーリーも忘れてしまいましたが、一番最後のコマに「いちめんのなのはな」の繰り返しがあって、島村暮鳥《風景》というのが小さく書いてありました。とにかく、その繰り返しにもの凄くインパクトを感じて、曖昧な記憶の中で、次の日には紀ノ国屋書店に《風景》の詩を確認しに行った、ということだけは鮮明に覚えています。
 その後、暮鳥の詩で代表的のものは高校まででほぼ読み終えましたが、《風景》の収められた『聖三稜玻璃』の3年後に出版された『風は草木にささやいた』は、とても同じ人が書いているとは思えないぐらい穏やかな詩が並んでいて、かなり戸惑ったものでした。『聖三稜玻璃』が世に認められず悪評の中で一度壊れた暮鳥が、苦しみの中から自分を組み立て直して作り出したのだろう、力強いながらも平明な詩や、『雲』の中の穏やかな詩を読んでいると、時々泣きたくなるような気がしてくることがあります。
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山村暮鳥について
1884年(明治17年)~1924年(大正13年)。詩人。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう)
群馬県生れ。貧しい家庭に育つ。1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中は文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。神学校卒業後、キリスト教日本聖公会伝道師として各地で布教活動を行いつつ、1913年(30歳)に詩集『三人の処女』を出して世に認められる。同年、萩原朔太郎、室生犀星らと人魚詩社を興す。このころから鋭角的で斬新な詩風の作品を書き、それらは『聖三稜玻璃』(1915)に結晶して朔太郎らに大きな影響を与えた。しかし自身は人道主義的作風に転じ、『風は草木にささやいた』(1918)『雲』(1925:死後一年後に出版)をまとめた。1924年、茨城県大洗町で結核により永眠。享年41歳。
明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている
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『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』について

1915(大正4)年、人魚詩社刊。
大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に発表された詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集。2年後に出版された萩原朔太郎の《月に吠える》が好評のうちに迎えられたのとは対照的に、当時の詩壇からは悪評を買うのみで、広く世に認められることがありませんでした。けれど、言葉をその意味から離して、詩人の鋭い感覚のみで自由に結合させた幻想的な詩法は、極めて実験的で独創的な世界を作り出しています。これらの詩は、萩原朔太郎や室生犀星などに大きな影響を与えましたが、暮鳥自身はこの形式を放棄し、以後は平明な詩法へと転換して行くことになります。

『風は草木にささやいた』について

1918(大正7)年、白日社刊。
大正6年1月から大正7年12月までに制作、発表された作品を集めた第3詩集。大正5年11月に雑誌『感情』第5号に、暮鳥が「無韻小詩」という題で発表した14篇の散文詩の翻訳は、山崎晴治の「不遜の言-暮鳥氏訳『無韻小詩』に就て-3」と題した文章によって、誤訳であると批判されます。『風は草木にささやいた』は、山崎晴治の批判文を読んで《卒倒》した暮鳥が、結核に冒されつつも旺盛な創作活動を続けた結果の、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な作風の詩が納められています。

『雲』について

1925(大正14)年、イデア書院刊。
暮鳥の死の翌年に刊行された第6詩集。暮鳥自らが病床で編集したもので、大正13年7月に入稿し、11月に校了となったが、翌月の8日に暮鳥は永眠しました。その序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。」と書かれた『雲』に納められた詩には、平淡な自在さを持った宗教的、あるいは東洋的な哲学めいたおもむきを感じさせるものが多いような気がします。

菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村
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  菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

日本は春夏秋冬の四季が、はっきり分かれていて、季節の推移が日本人の心に大きく投影している、と思う。
ここに採りあげた蕪村の句は、よく知られた句である。
菜の花の季節は、ちょうど今ころと言えるだろう。
日本列島は南北に長いから、九州では、もう過ぎたかも知れないし、北国では、まだ雪も深い。
ここに書く感覚は、あくまでも京都に住む私の感覚とお許し願いたい。

「菜の花や」と季語と切れ字を冒頭に置いて、見渡す限りの一面の菜の花の姿を読者に想像させる。
そして「月は東に日は西に」である。
ちょうど夕暮れどきで、西に落ち行く日と、東に上る月が、同時に見られる、という場面設定である。
こういうのは、いつも見られるわけではない。
調べてみたわけではないが、興味のある方は、日没と月の出の時刻を調べて頂くと有難い。おそらく二、三日もあれば、よい方であろう。

現代の我々は、物質文明に毒されて、自然を、ゆっくり見つめるということがない。
田舎に住む私としても、微妙な季節の移り変わりを、自然の風物や風のそよぎに身を任せて感じるという機会が少ない。
どうしても、頭の中で何事も処理し勝ちである。
この句を読むと、春の夕暮れの、のんどりとした田舎の景を目の辺りに、するようではないか。

蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市)の生れだが、毛馬の閘門と言われる堰のある辺りの生れである。
絵にも才能を持っていて、いわゆる俳画の面でも優れた作品を残している。
故郷の毛馬の辺りを詠った「春風馬堤曲」という連作もあるが、この題名自体が、そのことを、よく物語っている。
蕪村とて裕福な生活をしていたわけではなく、常に「旦那」という「贔屓筋」が必要だった。
私の住むところから数キロ行った宇治田原にも、商家の旦那衆がいたらしく、蕪村筆の作品があるらしい。
蕪村の年譜を覗いてみると、1783年(天明3年)8月風雨のなかを「太祇十三回忌追善俳諧」に出席し、晩秋、宇治奥田原の門人毛条に招かれてキノコ狩りにゆき、初冬から病に倒れた。

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり・・・・・・・・・・・与謝蕪村

が最後の句と言われている。

池西言水という俳人に、

<菜の花や淀も桂も忘れ水>

という句があるが、「淀」というのは宇治川沿いの京都の南はずれ。現在、京都競馬場のあるところ。
「桂」というのは、どなたもご存知だろう。
京都の西郊外を流れて来た桂川と木津川と宇治川が三川合流して淀川となるが、その合流寸前の地が淀である。
豊臣秀吉の側室「淀君」の居城・淀城があったところである。

 菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・・・・久保田万太郎

という句も、菜の花の咲く田園の様子を、よく観察して佳い句になっている。
私は久保田万太郎の句が好きである。
京都、滋賀の名産に「菜の花漬」というのがあり、菜の花を蕾のうちに摘み取り、浅い塩漬けにしたもの。
黄色の花の色と緑の葉や茎の配色が鮮やかで、見た目にも食欲をそそる。
季語では5音になるので「花菜漬」と詠まれることが多い。

 人の世をやさしと思ふ花菜漬・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

という句もある。この漬物など、日本人の細やかな感性の賜物であろう。


心臓が「ぽっぺん」と鳴ればそれは恋・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛
bidoro歌麿本命
──初出・Doblog2007年2/21──

  心臓が「ぽっぺん」と鳴ればそれは恋・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

「ぽっぺん」という長崎由来の玩具がある。「びーどろ」とも呼ばれる。
図版①は歌麿の「びいどろを吹く女」という浮世絵である。
この「ぽっぺん」は何と、俳句の世界では「新年」の季語として歳時記にも載っているのである。
「ポッペン」が、どうして「新年」の季語になったかの経緯は判らない。
角川俳句大歳時記には「正月に吹いて厄を祓う」とあるから、これが妥当な由来かも知れない。

掲出の坂崎重盛はエッセイストで、俳号を「露骨」というらしい。
私はまだ未見だが、石田千『ぽっぺん』という本が出て、その本の紹介記事として新潮社「波」2007年2月号に彼の「ぽっぺん讃句」というのが載って、私は見たのである。
「ぽっぺん」とは薄いガラス製で、細い管と、その先が、お尻の平たい丸い月。
管の先に唇をつけて、息を吹き入れると「ぽっぺん」と乾いたような、くすぐったいような音がする。
オランダかポルトガル由来の西洋のものらしい。
新潮社「波」の記事には、坂崎氏のぽっぺんの句が50近く載っている。
そのうちのいくつかと、歳時記に載る句とを引いておきたい。

img3b75be47xuzj2kビイドロ

写真②が「ぽっぺん」。
長崎みやげの郷土玩具として、いろいろの柄の「ポッペン」が見られる。
その中のいくつかを載せてみる。

■ぽっぺんの生まれは長崎ぶらぶら節・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

 ぽっぺんはタートルよりも鶴の首

 情無や指切りぽっぺん牛蒡切り

 「ぽっぺん」と時のめくれる音がする

 ぽっぺんと果報は寝て待て三日待て

 「今どこに?」ぽっぺん只今迷子中

 鈴は鳴るぽっぺんは吹く人は去る

■ぽっぺんを吹かずに包むたなごころ・・・・・・・・・・・・・・・坂崎重盛

 生き選ぶ、たとえばぽっぺん、無地、格子

 ぽっぺんを吹く瞬(ま)に大人になりにけり

 ぽっぺんのぺこんと凹む色気かな

 ぽっぺんや犬の鼻唄冬の歌

 ぽっぺんの一吹の間のセ・ラ・ヴィかな

以上、ここまでが坂崎氏の「川柳句」である。
「ぽっぺん」という季語は入ってはいるが、彼の句の場合、私はこれを季語だと思わない。
「俳句」ではなく「川柳」だろう。「川柳」には季語という拘束はない。
私が、こう言う根拠は、この坂崎の文章に「これがなぜか新年の季語らしい」とあるからである。
彼が「俳人」ならば、まさか、こういう書き方はしないだろうから。
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2004.12popen三つ組

以下は、歳時記に載る俳句である。

 ぽつぺんは口より遠くにて鳴れり・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫

 ぽつぺんを吹いて佳きことあるらしき・・・・・・・・・・・・松本旭

 やみつきのぽつぺんを吹くばかりかな・・・・・・・・・・・・岡井省二

 ぽつぺんの闇の深さを計りたる・・・・・・・・・・・・岡田史乃

 ぽつぺんを吹いて浮世絵いろの空・・・・・・・・・・・・中尾杏子

 ひとしきりぽつぺん吹いて母子眠し・・・・・・・・・・・・石垣青葙子

 ぽつぺんと鳴りぬ力を抜きしとき・・・・・・・・・・・・金田志津枝

 ぽつぺんを吹けば夢二の女に似・・・・・・・・・・・・大森扶起子
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koubougiyaman2_1928_17077368三つ組

この記事を載せたら阿佐谷みなみ氏が「ポツペン」を詠んだ次のような漢詩があるとお知らせいただいた。
下記に載せておく。

「倒掖戯」・・・・・・・・・・・・太田玩鴎

玲瓏恰比水晶清。奇韻殊憐玉振声。豈啻揺唇呼吸巧。還縁合掌抑揚鳴。
春風未見携市遊。夏夜初聞吹満城。愛玩多親雛妓袂。涼棚月榭独縦横。

訓読すれば。

玲瓏あたかも比す 水晶の清/奇韻ことに憐れむ 玉振の声
あにただ揺唇 呼吸の巧のみならんや/また合掌 抑揚に縁りて鳴る
春風いまだ見ず 市に携へて遊ぶに/夏夜はじめて聞く 吹きて城に満つるを
愛玩おほく親しむ雛妓の袂/涼棚 月榭 ひとり縦横

鮮やかな美しさは水晶のように清らか。珍しい音は玉振のようで、とりわけ心を引かれる。
唇の呼吸の巧みさだけではなく、てのひらを合わせて抑揚によって音を立てる。
春風のころには街に携え遊ぶ人を見ることはないが、夏の夜になると町中に吹く音が聞こえる。
半玉がもっぱら愛玩し親しみ、涼み棚や月見台で吹くのはこれに限るよ。

詳しいことは阿佐谷みなみ「近代詩探偵の事件簿」の記事を見てください、とは言えない。
阿佐谷さんとは連絡がつかないからである。
ここに記して、御礼申し上げておく。


石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも・・・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
warabi17さわらび

  石(いは)ばしる垂水の上のさ蕨の
    萌え出づる春になりにけるかも・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子


歌いぶりは率直、歌意も単純明快である。垂水=滝と言っても小さなものだろうか。
その滝の傍らに生えているわらびが、芽を出す春になった、という喜びを述べている。
立春から多少日を経たころの景色だろう、爽やかに、心のはずむ春の到来が、快い調べになっている。

この歌は「万葉集」巻8、春の雑歌の巻頭にある有名な歌だが、実景に即して、感動や情感を写し取るように描写する「万葉集」の表現方法は力づよい。
これ以上の余計な雑言は不要だろう。

わらび、ぜんまいの類は山野草摘みの代表的なもので、早春の風景と切り離せない。
地下茎から春に芽が出て、こぶしを丸めたような形をしている。この頃の若芽が食べ頃である。
「さわらび」の「さ」は「早い」という意味の「接頭語」である。わらび、ぜんまいの類は早春の今ごろに新芽が萌え出てくる。
昔の本には旧暦の一月の頃に出ると書かれているから、今の陽暦に直すと二月頃ということになる。

 みちのくのわらび真青に箸に沁む・・・・・・・・・・・・・ 島みえ

という句にもある通り、山里の季節のものとして珍重される。
「ぜんまい」(薇、狗背と書かれる)も同じ羊歯類の植物である。
以下、「わらび」「さわらび」「蕨狩」を詠んだ句を引いて終る。

 負ふた子に蕨をりては持せける・・・・・・・・・・・・暁台

 天城嶺の雨気に巻きあふ蕨かな・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

 早蕨は愛(かな)しむゆゑに手折らざる・・・・・・・・・・・・富安風生

 道ばたに早蕨売るや御室道・・・・・・・・・・・・高野素十

 月日過ぐ蕨も長けしこと思へば・・・・・・・・・・・・山口誓子

 早蕨の青き一と皿幸とせん・・・・・・・・・・・・成田千空

 早蕨や地下錯綜の上に立ち・・・・・・・・・・・・和田悟朗

 良寛の天といふ字や蕨出づ・・・・・・・・・・・・宇佐美魚目

 落ちかけて日のとどまりし蕨かな・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 早蕨や蔵王の見える厨窓・・・・・・・・・・・・星野椿

 早蕨や若狭を出でぬ仏たち・・・・・・・・・・・・上田五千石

 堰かれては水のはばたく初蕨・・・・・・・・・・・・三田きえ子

 早蕨や野川鳴りつつ光りつつ・・・・・・・・・・・・山田美保

 野に惚けゐるは吾とも蕨とも・・・・・・・・・・・・藤村瑞子

 窯焚きへ湯気あたたかき蕨飯・・・・・・・・・・・・武田稜子

 丘にきて風のうごかす蕨摘む・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 八ヶ岳仰ぐやわらび手にあまり・・・・・・・・・・・・及川貞

 ぜんまいののの字ばかりの寂光土・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 ぜんまいの渦巻きて森ねむくなる・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 ぜんまいの渦の明るさ地をはなれ・・・・・・・・・・・・岸霜陰



一二輪まことに紅濃き梅の花かなしきかなや若き死者のこゑ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  一二輪まことに紅濃き梅の花
    かなしきかなや若き死者のこゑ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


いよいよ梅の花が咲きはじめる季節になった。
「梅」の花の時期になると、私には忘れられない亡姉・登志子の忌日が巡ってくる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌は私の亡長姉・登志子を詠んだもので『嬬恋』をはじめ、第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも、姉のことを詠った歌がある。
先に、それらの歌を引用しておく。

  紅梅を見つつ独りの酒に酔ふけふは姉の忌と思ふたまゆら・・・・・・・・・・・・木村草弥

  紅梅が美しく咲けばよみがへる血喀(は)きしときの姉の悲鳴が

  めつむれば紅梅匂ひをしたたらす月に絹暈(けんうん)かかる夜明り

  一二輪まことに紅濃き梅の花さびしきかなや若き死者のこゑ

  梅の香に抱かれて死なむと言ひし姉いまだ寒さの厳しかりしを

  うら若き処女(をとめ)のままに姉逝きて忌日の二月十九日かなし

  満開の梅の下にてわれ死なむと言ひし姉逝き五十年過ぐ

姉・登志子とは私は十歳の年齢の開きがある。上の歌に詠んだように姉が結核で「喀血」したとき、私は同じ二階の部屋に寝ていたのである。
長兄・木村庄助が結核に感染して帰郷して来て以来、わが家は次々と結核に罹った。
長兄が昭和18年5月に死んで、姉は、その翌年19年2月19日に死んだ。
姉は喀血したとき、私にすぐに階下に降りるように悲痛な声をあげた。私は中学一年生であった。
そのような体験は私の少年期の記憶として鮮明に残ることになった。
これらのことは何度もあちこちに書いたので、ここでは詳しくは書かない。
ただ肉親として姉弟としての関係のほかに、上に書いたようなことがあるので私には忘れがたい悲痛な思い出として残っているのである。
念のために書いておくが、死んだのは庄助が先だが、私たち兄姉では、姉・登志子が一番上である。
5首目と7首目の歌については、もうあちこちに何度も書いたことだが、西行の有名な歌があり、それは「桜」を詠ったものだが、私の村は鎌倉時代以来、「梅」の名所でもあるので、姉は、明らかに西行の「ーー花のもとにてわれ死なむーー」の願望を踏まえた上で、「梅」に置き換えて言った心境だったのである。
引用した終りの歌では五十年となっているが、この歌を作ったときが五十年だったわけで、今では、もう六十年を過ぎてしまった。まさに、嗚呼というほかない歳月の速さである。
今日は登志子の祥月命日にあたるので、ここに記事を記して、姉に捧げるものである。
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梅の花は桜と並んで代表的な春の花だが、当地・青谷は鎌倉時代から梅林で有名なところであり、私たちには、ゆかりのある花なのである。
その所以については、上に書いた通りである。
梅は香気が高く、気品のある清楚な花であり、桜のようにわっと咲いて、わっと散ることもなく、まだ寒さの残る気候の中で、長く咲きつづけるから、私などは、どちらかというと、梅の方が好きである。
古くから日本人には親しまれ、「万葉集」では、花と言えば梅のことであった。
以下、梅を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 白梅のあと紅梅の深空あり・・・・・・・・・・飯田龍太

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子


はつとしてわれに返れば満目の冬草山をわが歩み居り・・・・・・・・・・・・・・若山牧水
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  はつとしてわれに返れば満目の
    冬草山をわが歩み居り・・・・・・・・・・・・・・・・・若山牧水


若山牧水は「酒」と「旅」の詩人だと、よく言われる。確かにそうだったが、彼は今日さかんな観光旅行の旅人ではなかった。
思いつめて旅に飛び出し、山間を歩み、水辺をさまよい、常に何ものかを追いつつ、結局は「放心」の旅であるような、そういう旅をしつづけたように思われる。
「酒」にしても、ただ酒好きというだけではなく、のめり込むように酒を飲んだ人のようである。
心に何かしら満たされぬものを抱きつづけて「生き急いだ」人だったようだ。
この歌にも、そういう牧水が居る。
解題によると、この歌が作られた頃、牧水はまだ若かったが、苦しくてたまらない「恋」をしていたのだった。
妻・喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードであるが、その恋の苦しみを詠ったものか。
詳しくはリンクに貼ったWikipediaをご覧いただきたい。

この歌は明治44年刊の歌集『路上』に載るものである。
初句の「はつとして」という個所など、何か思いつめて考え事をして周りの景色も目に入らなかった様子が表現されている。

photo01若山牧水

 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く


この二つの歌は、掲出歌よりも3年前に出た処女歌集『海の声』に載るものだが、初期の歌集にも、すでに「寂しさ」に満ちた歌の調子なのである。
牧水の代表作として、よく引用されるのは

 白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり


などである。
牧水は「花鳥諷詠」のような景色を詠むことはしなかった。自分の「心象」にひびくものだけを詠んだと言える。
そして、前にも牧水についてはBLOGにも載せたが、圧倒的に多いのが「酒」にまつわる歌である。
彼は44歳で亡くなっているが、「酒」によって健康を害して医師からも酒を控えるように言われても、なお、意地汚く飲酒から足を洗えない様子が歌にも見てとれる。

 酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり

というような歌がある。
彼の主宰した短歌結社「創作」は、孫か曾孫かの経営で、今もつづいている。
宮崎県の出身で、それを記念して「若山牧水文学賞」というものが先年創設された。


水仙のりりと真白し身のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
  narsissus3水仙

  水仙のりりと真白し身のほとり・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

「水仙」はいろいろの品種があるが、日本水仙は12月頃から咲きはじめて、春先まで息の長いものである。
『山の井』に「霜枯れの草の中に、いさぎよく咲き出でたるを、菊より末の弟ともてはやし、雪の花に見まがひて」云々とあるのも、簡潔にして要を得た水仙の紹介である。
写真②は黄水仙である。

narsissus黄水仙

わが家の庭の一角にも1月中ごろから日本水仙が咲きはじめ、今も寒風の中に、けなげに咲いている。
水仙の集団的な自生地としては、越前海岸や淡路島南端などが有名で、観光バスを連ねて見物に大勢が来る。
水仙の球根は植えっぱなしでよく、変にいじくらない方がよい。数年に一度くらい掘りあげて植えなおしする程度でよい。
夏になると、地上部の葉は、すっかりなくなり、他の植物の陰に隠れてしまうが、寒くなると葉が地上に出てくる。
水仙は学名を Narissus というが、これはギリシア神話で美少年ナルシッサスが水面に映るわが姿に見とれ、そのまま花になってしまったのが水仙だという。自己陶酔する人を「ナルシスト」というのも、これに由来する。
なお「水仙の隠喩」というのがあるので、「シンボル・イメージ」の世界では、こういう象徴的な捉え方をするので、参照してもらいたい。 

 水仙や白き障子のとも映り・・・・・・・・松尾芭蕉

 水仙に狐遊ぶや宵月夜・・・・・・・・与謝蕪村

のような古句があるが、この両句は、ともに水仙をじかに見て詠んだのではなく、「障子」を通して、障子に映る影からの印象を句にしている。
何分、水仙の咲く頃は厳寒だから、それも当然であろうか。

掲出の橋本多佳子の句は、水仙の「白さ」を「りりと真白し」と把握して、わが身になぞらえているところに、情感あふれる句を詠んだ彼女ながら、芯は清楚さを湛えていた自画像を、よく表現し尽くしている。
「りり」は、漢字で書くと「凛々」しい、となるだろう。

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以下、水仙の句を少し引いておく。

 水仙を剣のごとく活けし庵・・・・・・・・山口青邨

 海明り障子のうちの水仙花・・・・・・・・吉川英治

 水仙花紙に干しある餅あられ・・・・・・・・滝井孝作

 水仙や古鏡の如く花をかかぐ・・・・・・・・松本たかし

 水仙花三年病めども我等若し・・・・・・・・石田波郷

 水仙花眼にて安死を希はれ居り・・・・・・・・平畑静塔

 水仙の花のうしろの蕾かな・・・・・・・・星野立子

 水仙や捨てて嵩なす蟹の甲・・・・・・・・大島民郎

 水仙や老いては鶴のごと痩せたし・・・・・・・・猿橋統流子

 水仙花死に急ぐなと母の声・・・・・・・・古賀まり子

 牛追ふや磯水仙を手にしつつ・・・・・・・・山田孝子

 水仙やカンテラに似て灯はともり・・・・・・・・飴山実

 奪ひ得ぬ夫婦の恋や水仙花・・・・・・・・中村草田男

 水仙の吾を肯へり熟睡せむ・・・・・・・・石田波郷

 水仙や時計のねぢをきりきり巻く・・・・・・・・細見綾子

 水仙やたまらず老いし膝がしら・・・・・・・・小林康治

 水仙のしづけさをいまおのれとす・・・・・・・・森澄雄

 抱かねば水仙の揺れやまざるよ・・・・・・・・岡本眸

 水仙は一本が佳しまして予後・・・・・・・・鈴木鷹夫

 水仙の香や一睡の夢の後・・・・・・・・高橋謙次郎

 水仙は八重より一重孤に徹す・・・・・・・・西嶋あさ子

 水仙花私淑は告ぐることならず・・・・・・・・山田諒子

 水仙の切り口に夜の鮮しき・・・・・・・・野崎ゆり香

 日の果てに水仙立ち止れば岬・・・・・・・・吉田透思朗



つらら落つる朝の光のかがやきが横ざまに薙ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  つらら落つる朝の光のかがやきが
    横ざまに薙(な)ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
今年の冬はどちらかと言うと暖冬と言えるが、北国では時折、1月、2月と厳しい寒さが訪れている。
今日は、「つらら」を詠んだ私の歌を載せた。この時期を逃すと、この歌を載せる機会を逸するからである。
歌に合わせて「つらら」の写真をお目にかける。「萱葺き屋根」から垂れるつららである。
この歌を作った頃、私の神経は異常にぴりぴりしていて、ナーヴァスになっていた。
なんとかして、この心理状態を歌にできないものか、といろいろ考えた末に出来たのが、この歌である。
私としては「つらら」という一風あやういものと「神経叢」との取り合わせが面白いと思ったのだが、発表したときの皆の反応は、良くなかった。
もう一つ判り難いというのだった。しかし私は敢えて歌集にも収録した。
日常ばかりを詠むのが歌ではないと考えたからである。いかがであろうか。

「氷柱」と書いて「つらら」と読む。水の滴りが寒気のもとで成長して凍ったもので寒い地域での冬の風物詩と言えるだろう。
以下、「つらら」を詠んだ句を引いて終る。

 外に立ちて氷柱の我が家侘びしと見・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 みちのくの町はいぶせき氷柱かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 氷柱落つ音に遅れて朝日来る・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな・・・・・・・・・・・・中村汀女

 いま落ちし氷柱が海に透けてをり・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 巌つららぽつんと折れて柩通す・・・・・・・・・・・・岸田稚魚

 大文字は好きな山なり草つらら・・・・・・・・・・・・波多野爽波

 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 人泊めて氷柱街道かがやけり・・・・・・・・・・・・黒田杏子

 日に痩せて月に太りし氷柱かな・・・・・・・・・・・・上野泰

 やがて日の雫はぐくむ草氷柱・・・・・・・・・・・・三田きえ子

 後の世に逢はば二本の氷柱かな・・・・・・・・・・・・大木あまり

 地上まであと一寸の氷柱かな・・・・・・・・・・・・荻原都美子

 木曽は木の国木の樋に氷柱して・・・・・・・・・・・・小川原嘘師

 後朝や草の氷柱の賑やかに・・・・・・・・・・・・市川葉

 白鳥の嘴の垂氷のまだ落ちず・・・・・・・・・・・・加藤未英

 軒氷柱ぐるりに垂るる宿に着く・・・・・・・・・・・・里川久美子



さらさらとまたさらさらと崩れゆく砂の粒粒春をふふめり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  さらさらとまたさらさらと崩れゆく
    砂の粒粒春をふふめり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「風二月」という言葉があるように、二月も半ばとなると季節は確実に春に向かって進んでゆく。
二十四節気によれば、本年は2月19日が「雨水」ということになる。
「雨水」とは、これからは一雨ごとに春に向かってゆくという意味の節気である。
私は子供の頃から内向的な性格で、砂や虫をじっと見ているというようなことが多かった。
もっと季節が進んで暖かくなると、家の縁側の下の砂地に、すり鉢形の「蟻地獄」があったりした。
これは「ウスバカゲロウ」の幼虫が、このすり鉢形の砂の斜面に蟻などの虫が差し掛かると、下から砂をさらさらと掻いて、すり鉢の底に引きずり込んでパクリと頂戴するという仕掛けである。
そんなのを、何するというのでもなく、また昆虫少年というのでもなく、ただ、じっと見つめていたものである。
ただ、今の季節では、そういう光景には早く、さらさらと崩れてゆく砂の粒粒に春の足音を私は、見たのであった。
「ふふむ」というのは「含む」の動詞の古い形である。
この歌のつづきに

   如月に幽(かす)かに水を欲るらむか祖(おや)ねむる地に雪うすらつむ・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、この歌のように二月には雪の降る日もあるが相対的に雨は少ない時期であり、先祖の眠る墓地に、うっすらと雪が積もる様が、祖先が水を欲しがっているかのようである、という歌である。
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掲出した写真は鳥取砂丘の砂浜のもの。かすかに「風紋」が見える。

私の歌に合わせて、寒さの中にも「春」が動いている様子を表す句を引いてみたい。

 春立ちてまだ九日の野山かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ・・・・・・・・・・石田波郷

 ブローニュに怒涛のごとく春来たる・・・・・・・・・・本井英

 渦巻ける髭と春くる郵便夫・・・・・・・・・・高島征夫

 立春の樹幹の水を聴きにゆく・・・・・・・・・・山本千舟

 立春へ笛吹きケトルのファンファーレ・・・・・・・・・・北川逸子

 白き皿に絵の具を溶けば春浅し・・・・・・・・・・夏目漱石

 空も星もさみどり月夜春めきぬ・・・・・・・・・・渡辺水巴

 春めくと百済観音すくと立ち・・・・・・・・・・和田悟朗

 バラ窓の真中に聖母春きざす・・・・・・・・・・福谷俊子

 春めくや波は光を巻きこみて・・・・・・・・・・飯尾婦美代

 春浅き耳洗ふとき音聴こゆ・・・・・・・・・・林 桂

 兵馬俑軍団無言春寒し・・・・・・・・・・磯直道

 蓋開けて電池直列春寒し・・・・・・・・・・奥坂まや

 春めくや足の裏なる歩き神・・・・・・・・・・泉紫像

 うりずんのたてがみ青くあおく梳く・・・・・・・・・・岸本マチ子

 うりずん南風がじゆまる太き根を垂るる・・・・・・・・・・三原清暁

 美しき奈良の菓子より春兆す・・・・・・・・・・殿村莵絲子

 
さっぽろ雪まつり4日間の旅(1)(2)(3)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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2010雪祭り関連0005

   さっぽろ雪まつり4日間の旅 (1)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・2/9~2/12  クラブツーリズム主催・・・・・・・

2010年の「さっぽろ雪まつり」について、さっぽろ雪まつり実行委員会は12日、7日間の日程で11日に終了した第61回さっぽろ雪まつりの来場者数が前年比約17%増の243万3000人だったと発表した。
現在の集計方法で最高だった第42回(91年)を7万6000人上回り、過去最高を記録した、という。

これを見るべく二月九日早朝、京都駅発新幹線ひかり東京行き7:29発で出発した。グリーンパス利用である。
今回の旅は東海道新幹線、東京からは東北新幹線で八戸に至り、八戸からは特急・白鳥に乗り換え、津軽海峡線で津軽海峡の海底を潜り、函館に着くと、もう夕方である。
私は飛行機大好きだが、同行者がヒコウキ怖い、という人なので、およそ非能率的な旅が始まった。
 ↑ トップ画像に、北海道のJR路線図を出しておく。

バスで函館山に直行してロープウエーで山に上り百万ドルの夜景というのを見下ろす。
2010雪祭り関連

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ここに上るのは三回目だが、初めて見事な夜景にお目にかかった。
ゴンドラは満員で、山上ではさまざまのイベントが行われている。気温は氷点下で、さすがに寒い。

第一日は函館・湯の川の「啄木亭」泊り。
2010雪祭り関連0002

2010雪祭り関連0003

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ここに泊るのは昨年につづいて二回目だが、今回の部屋は控えの間もなく、悪い。
今回の旅はJRグリーン車利用ということで料金が高いのは判るが、一人110000円も出しているのだから、旅館も、もっとましな部屋であっていい筈である。部屋に関しては大いに不満。
写真は翌朝に撮ったもの。中庭があって趣がある。

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   さっぽろ雪まつり4日間の旅 (2)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・2/9~2/12  クラブツーリズム主催・・・・・・・

 ↑ 掲出の写真は、五稜郭タワーからの雪の中の「五稜郭」の俯瞰である。

 「トラピスチヌ女子修道院」
宿を出て、先ず湯の川近くの「トラピスチヌ女子修道院」を外観から見学する。敬虔な修道の施設なので、われわれ部外者は内部には立ち入れない。
撮ってきた写真いくつかを出しておく。最後のものは売店で買ってきた「恵みあふれる聖マリア」という賛美歌のCDである。

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 「五稜郭」
ここを出て「五稜郭」に向かう。 雪の中の五稜郭を2006年に完成したばかりの「五稜郭タワー」展望台高さ90メートルから俯瞰する。
上から見ると全景と周辺の函館の街が見渡せる。
タワーの内部には五稜郭にまつわる「五稜郭歴史回廊」という展示スペースがある。
それらを含めた写真を列挙する。
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 ↓ タワー内部に展示してある五稜郭の「模型」
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 ↓ タワー内部にある「土方歳三」像
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参考までに言うと、こういう五つの郭を持つ城はヨーロッパ由来の城郭建築であって、今でも、例えば、カナダのケベック近郊に行くと河を見下ろす丘に巨大な「シタデル」と呼ぶ城が見られるが、ここは典型的な五稜郭になっている。

自由時間を利用して喫茶室でコーヒーを飲む。
あと函館市内に戻り函館山の丘の下の元町界隈を散歩する。 以下、その写真など。

 ↓ 聖ハリストス正教会─ロシア正教・・・・・十字架の一番下の部分が斜めになっているのが特徴
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 ↓ 元町カトリック教会
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 ↓ 旧函館市公会堂
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 ↓ 趣のある煉瓦作りの?番小屋
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 ↓ 函館山ロープウエーのゴンドラ 150人乗り
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↓ 私たちを載せたバス
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 ↓ 函館港の旧青函連絡船 摩周丸
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 ↓ ブリッジから見た船首
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 ↓ 摩周丸から見た「函館山」
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元町の函館山行きのロープウエー近くの「沙羅」という店で昼食を摂る。
ここは函館駅前の朝市ショップ「新鮮喰味」の系列の店。函館名物の「イカ刺」など美味。
順序が逆になったが、函館駅前の「新鮮喰味」(しんせんぐみ)などのショツピングには私だけ行かずに函館港の摩周丸を見学したもの。

後は函館駅から、「北斗11号」に乗り一路札幌へ向かう。夕方5時すぎに札幌に着き、今夜宿泊の「ホテル・モントレエーデルホフ札幌」に入り、すぐ歩いて大通公園に向かう。

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o0600045010315678496さっぽろ雪祭り

 さっぽろ雪まつり大通会場
先ず、入場券を貰っている札幌テレビ塔に上る。 
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 俯瞰を見ようとする人で、すごい行列、三十分待ちである。↓ 私のカメラで撮った大通会場─露出2秒
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 ↓ イルミネーション、雪像など数点 会場は踏み固められた雪でツルツル。 表面に砂を撒いてあるところは歩きやすい。
迷子になるのを避けるために二人で手をつないで歩く。「一丁」が約100メートルだから、数丁目も歩くと結構時間がかかる。

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 ↓ スケートリンクが作られていて家族連れが恐る恐る滑っている
1_l雪祭りスケートリンク

↓ スキーのジャンプ台が作られていて、数人の人がジャンプなどを披露する。
3_lジャンプ台

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 ↓ 朝のテレビ塔
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 ↓ 昼間の雪像「ブラウエン教会」
7w_lブラウエン教会

 ↓ 宿泊のホテルの写真2枚
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 ↓ 「さっぽろ雪まつり」については、下記のサイトに画像などが詳しい。
「大通会場さっぽろ雪まつり公式サイト」
画像の著作権の都合などで、取り込めないようになっているサイトが多いので、ご了承されたい。
後は私の不鮮明な写真で、ご辛抱願う。

ホテルは大通から歩いてすぐのところにあり、現代的なシティ・ホテルで快適。
帰ってホテル内の和食「随縁亭」で夕食。 随縁、という名前に記憶があり店の人に聞いてみたら「随縁カントリークラブ」というゴルフ場が各地にあり、三重県伊賀にもあり、その名前を私が記憶していたのであった。元伊賀カントリークラブということである。
三千円の牛肉のセットを食べたが、おしいかった。グラスワインを二杯お替りする。 午後10時ころ就寝。
かくして第二日は終った。

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   さっぽろ雪まつり4日間の旅 (3)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・2/9~2/12  クラブツーリズム主催・・・・・・・

 運河の街・小樽散策
九時半にホテルを出て、札樽自動車道を経て、運河の街・小樽に着く。
ここは三度目だが、雪のシーズンは初めてである。
いつもながら広大な「北一硝子」駐車場にツアー会社あるだけの標識のバスがひしめいている。
運河沿いで集合写真を撮られ、あとは自由行動である。
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先ず、貰っている寿司の3000円の食事券を使って、駐車場脇の鮨屋「竜敏」で昼食。 ↑ 食べた鮨の写真をトップに。
小屋がけみたいな狭いところだが、次々と客が入ってきて混んでいる。
バスの運転手やガイドなんかも、ほぼここで食事を摂っている様子。

食事の後、近くを散策。 ↓ これも駐車場脇の小屋がけの田中義剛の「花畑牧場」直売店で「ソフト・キャラメル」などを買う。
昨年も、ここで買ったが、シーズンとあって開店前から長蛇の列だったのを思いだす。 
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「北一」ヴェネツィア美術館に入る。いいものは高価である。
この辺りは殆どが「北一」の所有で、北一硝子も五号館まであり、他にも「クリスタル館見学工房」「ランプと手作りガラス館」など、この辺は北一の完全な縄張りらしい。
また「地酒屋北一」や「北一アウトレット」など、現代風の流行りそうな施設が目白押しである。

あと、隣接の「可否茶館」に入って二階のテーブルで集合時刻までゆっくりする。
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 支笏湖「氷涛まつり」
午後一時集合で、後は札樽自動車道、道央道を通って一路、「支笏湖」畔の「氷涛まつり」へ。
当日は二月十一日の「建国記念の日」の祝日とあって、会場に通じる道はマイカーの行列で渋滞。
なので観光バスは特別に山際の雪深い道の迂回路が設定されていて、すいすいと入場できる。
会場設営の費用に困っていると言い、任意のカンパを募っているので、そのお礼に貰った絵はがきが ↓ これ。
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組んだ木の幹や枝、葉っぱなどに湖の水をかけて徐々に氷結させたものという。夜間はライトアップされ、花火も打ち上げられるそうで、マイカーの列は、その場所取りのために明るいうちに来た車だという。

 登別温泉「第一滝本館」
あとは一路、登別温泉「第一滝本館」へ。午後五時頃の到着である。2010雪祭り関連0055

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ここに来るバスの中でバスガイドさんが開設の由来を話してくれたが、「第一滝本館」HPに詳しく載っているが、少し転載しておく。

<第一滝本館の創始者である滝本金蔵は、武蔵の国本庄村(埼玉県)に生まれました。もともと江戸の大工職人だった金蔵は、1858年(安政5年)2月に(当時32歳)、幕史の新井小一郎が函館奉行所付きで渡道する際に誘われて長万部へ、同年8月には幌別へと移住しています。
 当初は幌別で駅逓所(えきていじょ…運送業と旅館業を兼ねた施設)の建設に携わっていましたが、その頃、妻の佐多はひどい皮膚病に悩んでおり、登別温泉の噂を聞きつけた金蔵は佐多を伴い山道を分け入って温泉にたどり着き、皮膚病治療のためのささやかな湯小屋を作り湯治いたしました。温泉の効果はてきめんで見る見るうちに佐多の皮膚病は快癒しました。そこで温泉への感謝とその効能を広く利用されるようにと、湯守の許可を取り湯宿を創築し温泉経営を始めました。これが「愛妻の湯」滝本の始まりです。
 その大工の腕を振るって建てられた湯宿は吹きさらしのものでしたが、元来の利用者であったアイヌの人々や、硫黄山の労働者、さらには白老の仙台藩陣屋や南部藩出張陣屋の武士も訪れ、賑わいをみせたそうです。また、同時期に金蔵は登別に駅逓所を設け、温泉開発のみならず漁場経営や農業開拓など多方面で活躍しました。>

現在に至るまで、いろいろ載っているので参照されたい。

ただ、ここも函館と同様に「部屋」が一間きりのもので、悪い。
クラブツーリズムには文句を言っておいた。食事は部屋で食べるもので、内容も、まあまあ。
増築で部屋数も多く、温泉などへ移動するのにも時間がかかって困る。
かくて、今回の旅も終りに入る。

 帰途
朝八時すぎにタクシーが迎えにきて二組づつ四人が乗り込み、計四台で「登別」駅へ。
以前にも来たことがあるが、この駅は小さい駅で朝七時十分までは無人である。観光地の割りにはJR北海道としても簡素なものであり、観光客の大半はバス移動で来るからであろうか。

かくして、登別駅→函館駅(北斗4号)。函館→八戸(白鳥20号)。八戸→東京(はやて20号)。東京→京都(ひかり525号)と乗り継いで、京都駅に21時すぎに着いて、あとまた乗り継いで帰宅。
今日は、結局、列車に乗ること十三時間余りで、これで一日が終った。 ヤレヤレ!

あと少し肉付けのために記事を付加するかも知れないが、一応これで終る。



ひとつ枯れかくて多くの蓮枯るる・・・・・・・・・・・・秋元不死男
img103枯れ蓮

  ひとつ枯れかくて多くの蓮枯るる・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

普通、「ハス」は蓮根を採るための農作物だが、この頃では「生け花」用に「花蓮」が栽培されている。
私の方の近所でも花卉栽培農家があちこちに「蓮田」を作っている。
もっとも忙しい時期は、月遅れ盆の前10日間くらいである。お盆の行事に蓮の花を仏前に供えるからである。

「枯れ蓮」というのが冬の季語で、葉や蓮の実が残骸のように転がっているのが「あわれ」を催すというので、古くからの季語になっている。
掲出の秋元不死男の句は、見ようによっては「暗喩」の句とも読み取れよう。
以下、枯れ蓮を詠んだ句を引いておく。

 枯蓮の銅(あかがね)の如立てりけり・・・・・・・・高浜虚子

 蓮の骨日日夜夜に減りにけり・・・・・・・・青木月斗

 蓮枯れて水に立つたる矢の如し・・・・・・・・水原秋桜子

 湖の枯蓮風に賑かに・・・・・・・・高野素十

 枯蓮となりてののちの日数かな・・・・・・・・安住敦

 枯蓮をうつす水さへなかりけり・・・・・・・・安住敦

 枯蓮のうごく時きてみなうごく・・・・・・・・西東三鬼

 枯蓮に昼の月あり浄瑠璃寺・・・・・・・・松尾いはほ

 白くさむく枯蓮の裾透きにけり・・・・・・・・草間時彦

 枯蓮の敵味方んく吹かれゐる・・・・・・・・清水昇子

 枯蓮(はちす)考へてゐて日が動く・・・・・・・・岸田稚魚

 枯蓮の折れたる影は折れてをる・・・・・・・・富安風生

 枯蓮をめぐり一生を経しごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 われを消すものほうほうと蓮枯れて・・・・・・・・手塚美佐

 繋がっているを悦び枯蓮(はちす)・・・・・・・・久保純夫

 蓮枯れて風の放埓はじまりぬ・・・・・・・・浅沼艸月



煮凝や父在りし日の宵に似て・・・・・・・・・・・・・草間時彦
nikogori2ひらめのアラにこごり

  煮凝(にこごり)や父在りし日の宵に似て・・・・・・・・・・草間時彦

煮魚を汁とともに寒夜おいて置くと、汁がこごり固まる。これが煮凝りである。特に骨にはゼラチンが多く含まれているのでよく凝る。
掲出の写真は、ひらめのアラを使った煮凝りだという。アラを、このように捨てずに有効利用するとおいしい食物になる。
適当な写真がないので出せないが、煮魚の煮凝りは冬には普通に見られるものであった。

nikogori1ふぐ煮こごり

写真②は、高級食材の「ふぐ」の皮などを煮詰めた「ふぐの煮凝り」であり、ふぐのセット料理の一品としてだされるもの。
こうなると、たかが煮凝りなどとは言えない、高級料理である。

煮凝りは、どちらかと言うと、大人向きの食事で、子供向きではない。掲出の句は、そういう機微もうまく捉えた、ほのぼのとした句である。
以下、煮凝りの句が多くあるので、それを引いて終りたい。

 煮凝を探し当てたる燭暗し・・・・・・・・高浜虚子

 煮凝や色あらはなる芹一片・・・・・・・・大谷碧雲居

 煮凝や親の代よりふしあはせ・・・・・・・・森川暁水

 寂寞と煮凝箸にかかりけり・・・・・・・・萩原麦草

 煮凝りの魚の眼玉も喰はれけり・・・・・・・・西島麦南

 煮凝りを箸にはさみて日本人・・・・・・・・山口波津女

 煮こごりや夫の象牙の箸づかひ・・・・・・・・及川貞

 煮凝や他郷のおもひしきりなり・・・・・・・・相馬遷子

 煮凝りのひえびえと夜のかなしけれ・・・・・・・・長谷川湖代

 煮凝りや母の白髪の翅のごと・・・・・・・・土橋璞人子

 煮凝や死後にも母の誕生日・・・・・・・・神蔵器

 煮凝や凝るてふことあはれなる・・・・・・・・轡田進

 煮凝りて眼鼻なほあり鮒の貌・・・・・・・・松本翠影

 煮凝やますます荒るる海の音・・・・・・・・佐藤漾人

 煮凝や若狭の入江深うして・・・・・・・・辻桃子

 居酒屋のいつもの席の凝鮒・・・・・・・・沖鴎潮

 煮くづれしまま煮凝となりにけり・・・・・・・・来栖恵通子

 煮凝の喉にとけゆく母国かな・・・・・・・・大屋達治

 さびしさの煮凝り売りし頃のこと・・・・・・・・高島征夫
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わが敬愛する島本融氏がHPを更新されて作り溜めた俳句を、たくさんアップされた。
その中に

 仲直りよべの煮こごり食べようよ・・・・・・・・・・・・・・・島本融

という句を見つけたので、ここにご披露しておく。
氏には、句集『午後のメニスカス』があり、Web上の私のHPでご覧いただける。
島本融氏は、未知の人であったが、偶然に私のHPを見た、と言ってメールを送って来られて交友するようになった。
本人は何も仰言らないが、検索してみて、氏が河井酔茗、島本久恵氏のご次男であること、群馬県立女子大学教授であられたこと、東京工芸大学のことなどが、サーフィンの結果判った。美学者であられる。
島本氏には先年上梓された歌集『アルカディアの墓碑』もある。
ここに引いた句を含む新作については機会をみて載せたい。


呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!・・・・・・・・・・石川啄木
Kyosuke_Kindaichi_and_Takuboku_Ishikawa.jpg
  
  呼吸(いき)すれば、
   胸の中にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音!・・・・・・・・・・石川啄木


石川啄木は短歌というジャンル分けには納まらない詩人である。
写真は、同郷人で終生親友であった金田一京助(左)とのもの。

この歌も三行分かち書きであり、かつ句読点も打ってあり、横文字の感嘆符!まで付けてある。
 ↑彼についてはリンクにしてあるので、ご覧ください。

「胸の中にて鳴る音」というのは、肺を出入りする呼吸音のことであろうか。啄木はいつも貧窮のうちにあったから、身のうちの呼吸音にも「さびしさ」を感じたというのである。
啄木には
  <働けど働けど、わが暮らし楽にならざり。ぢつと手を見る>
というような作品もあるが、ここは、そういう身すぎ世すぎを書きたいとは思わないし、今日は石川啄木について書くつもりは無いので、「木枯し」を詠んだ句を引いて終りたい。

 木枯の果てはありけり海の音・・・・・・・・池西言水

 凩や何に世わたる家五軒・・・・・・・・与謝蕪村

 木枯や鐘に小石を吹きあてる・・・・・・・・与謝蕪村

 凩や広野にどうと吹きおこる・・・・・・・・・与謝蕪村

 木がらしや地びたに暮るる辻諷(つじうた)ひ・・・・・・・・小林一茶

 木がらしや目刺にのこる海のいろ・・・・・・・・芥川龍之介

 海に出て木枯帰るところなし・・・・・・・・山口誓子

 木枯や水なき空を吹き尽す・・・・・・・・・河東碧梧桐

 こがらしや女は抱く胸をもつ・・・・・・・・加藤楸邨

 死は深き睡りと思ふ夜木枯・・・・・・・・相馬遷子

 木枯と星とが知つてゐるばかり・・・・・・・・矢田部芙美

 凩や馬現れて海の上・・・・・・・・松沢昭

 妻へ帰るまで木枯の四面楚歌・・・・・・・・鷹羽狩行

 木枯らしに暮れてモンドリアンの木々・・・・・・・・高橋謙次郎

 木枯やいつも前かがみのサルトル・・・・・・・・田中裕明

 木枯のあとの大いなる訃がひとつ・・・・・・・・堀米秋良

咳をしても一人・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎放哉
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  咳をしても一人・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎放哉

ご存じの通り、尾崎放哉は「自由律」の俳人である。この句は「せきをしてもひとり」というかな書きばかりのテキストもあるが、今回は掲出のような表記にした。
放哉は東京大学法学部出のインテリで、生命保険会社や火災海上保険会社の支配人などを歴任したが、酒癖が悪くて退職に追い込まれたという。須磨寺などの下働きのあと、小豆島西光寺南郷庵の堂守となる。
大正4年から荻原井泉水の「層雲」に句を発表し、その個性は自由律俳句によって存分に発揮された。

syuzouko尾崎放哉資料館収蔵庫

香川県の小豆島に尾崎放哉記念館がある。写真は資料館の収蔵庫である。
放哉については余り資料がないが、彼の句を少し引いておきたい。

Hosai2尾崎放哉

 夕日の中へ力いつぱい馬を追ひかける

 一日物云はず蝶の影さす 

 氷がとける音がして病人と居る

 仏にひまをもらつて洗濯してゐる

 こんなよい月を一人で見て寝る

 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

 つめたい風の耳二つかたくついてる

 糸瓜が笑つたやうな円右が死んだか

 大雪となる兎の赤い眼玉である

 底がぬけた柄杓で水ほ呑まうとした

 なんにもない机の抽斗(ひきだし)をあけて見る

 蛙たくさん鳴かせ灯を消して寝る

 淋しいからだから爪がのび出す

 昼寝の足のうらが見えてゐる訪ふ

 漬物石になりすまし墓のかけである

 すばらしい乳房だ蚊が居る

 足のうら洗へば白くなる

 畳を歩く雀の足音を知つて居る

 爪切つたゆびが十本ある

 入れものが無い両手で受ける

 月夜の葦が折れとる

 枯枝ほきほき折るによし

 渚白い足出し

 肉がやせて来る太い骨である

 春の山のうしろから煙が出だした

<明星の出でぬる方の東寺>などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・木村草弥
24最御崎寺

  ■<明星(あかぼし)の出でぬる方の東(ひがし)寺>
     などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


角川書店「短歌」2007年2月号に「艸木茂生」のペンネームで「明星の」14首の歌を編集部寄稿依頼として発表した。
全文は、詩集『免疫系』(角川書店)で読んでほしいが、「四国遍路」に関する部分を、今日は書いてみる。 
自歌解題の形になる。

先ず、掲出歌のことから。
高知県室戸岬の突端に、四国霊場第24番札所「最御崎寺」(ほつみさきじ)というのがある。
下記に、そのお寺の簡単な説明文を貼り付けておく。

本尊: 虚空蔵菩薩
真言: 「のぅぼう、 あきゃしゃ、 きゃらばや、 おん あり、きゃまり、 ぼり 、そわか」
詠歌: 「明星の 出でぬる方の 東寺 暗き迷いは などかあらまじ」
縁起: 正しくは最御崎寺と言うのですが、普通、東寺と呼ばれており、室戸岬の突端の山の上にあります。
弘法大師が19才の時、仏法の迷いを払わんとして、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登り、命がけの難行苦行をされましたが、悟りを開くことができませんでした。そして次に来られたのが、この室戸だったのです。果てしなく広がる太平洋の自然を前にして、雨の日も風の日も勤行を続け、ついに悟りを開かれたのでした。「法性の 室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠まれたように、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。そこで山の上にお寺を建てられましたのが、この24番東寺で、本尊の虚空蔵菩薩はお寺の創建と共に大師が刻まれたものです。

この歌の前に

■最御崎(ほつみさき)いづれば虚空に風立ちて御厨人窟(みくろど)といふ洞の見えつつ・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は、上記の説明文にあるように、ご本尊の虚空蔵菩薩の名前をいただいて「虚空に風立ちて」と表現している。
<>の中には、ご詠歌にある「明星の出でぬる方の東寺」をコラージュとして引用させてもらい、かつ、「迷いはなどかあらまじ」を私なりに砕いて歌の中に取り込んだものである。
この辺りのくだりは千数百年の謂れのあるものであり、その謂れに素直に私の歌を添わせた方がいいと思って作ったのが私の表現になっている、と理解してほしい。

ここは、文字通り「室戸岬」の突端の岩の上にある寺で、いつ行っても風が強い。
ここには野生の椿の林があり、そのトンネルの中をくぐって室戸岬灯台に行けるようになっている。椿のトンネルが防風林となって、椿の林の中は風もなく穏やかである。
この寺を出て少し行くと、空海も籠ったという洞窟がある。
私の歌では「御厨人窟」としてあるが、これは現地での説明文によるものだが、こう書いてある。

800px-Mikurodo_01みくろど
 御厨人窟 (みくろど) 

  <岬から1キロほど離れた海岸に、「御厨人窟 (みくろど) 」という海食洞穴があります。
  この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚の口に、ある日突然“光り”が
  飛び込みました。

  その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしいのです。
  洞穴から見える外の風景は、「空」と「海」だけでしたが、その二つが、今までと全く違って、
  光り輝いて見えました。そのときから、真魚は「空海」を名乗るようになりました。

  「光り」が入ったときに、空海は“悟った”のでした。求聞持法を会得し、無限の智恵を手に
  入れたのです。 求聞持法会得に至るまで、空海は四国のけわしい山々で修行をするのですが、
  このとき修行したといわれるところが、「四国八十八ヶ所」のお寺になりました。>

玉井清弘さんの『時計回りの遊行』では「御蔵洞」(みくろど)と表記してあるが、玉井さんの本の記述の方が訓み方が自然であると思う。

26金剛頂寺

  ■薬師(くすし)なる本尊いまし往生は
    <月の傾く西(にし)寺の空>・・・・・・・・・・木村草弥


掲出歌につづいて、この歌が載っている。室戸岬から少し戻ったところにあるのが第26番札所「金剛頂寺」である。

本尊: 薬師如来
真言: 「おん ころころ せんだり まとぅぎ そわか」
詠歌: 「往生に 望みをかくる 極楽は 月の傾く 西寺の空」
縁起: 大同二年(807年)、勅願により弘法大師が開基した寺です。本尊の薬師如来は弘法大師が刻まれたもので、現在まで一度も人の目に触れたことのない秘仏です。
海抜160mの山の上にありますが、室戸岬の最御崎寺と相対しているところから、最御崎寺を東寺、こちらを西寺と呼んでいます。昔は沢山の僧侶や修験者などがいた大きいお寺でした。
今から500年前の文明年間、火災のため焼け、再建されましたが、明治時代に再び火災に遭い、全焼しました。しかしすぐ又再建され、現在も諸堂備わる立派なお寺です。宝物館や鯨館も新しく建てられています。これらは西寺の檀家で、太洋漁業の南氷洋の捕鯨船の砲手となり、やがて会社の重役さんにまで出世した人が、鯨1万頭を捕った記念にこちらに寄贈したものです。
明治時代までは室戸沖でも沢山の鯨が捕れたそうです。よく、「鯨一頭、七浦栄える」と言われていますが、大漁の時には浜は大変な景気で、道行くお遍路さんにも鯨の肉を接待したそうです。ところがお遍路さんには肉類は禁物で、折角もらってもお大師様の手前食べるわけにいかず、民家に持って行ってお米と替えてもらったそうです。

上記の説明文にもある通り、ご本尊は薬師如来であり、私の歌は、ご詠歌の「往生」と「月の傾く西寺の空」のフレーズを借用している。
因みに、四国88ケ寺のうち、ご本尊が一番多いのが薬師さんであり、全部で23ケ所ある。これを見ても、昔は如何にも病気などが多かったので、その平癒のために「お薬師さま」を祀って祈願したかが判るのである。

henro遍路

これらの歌の前には

 ■渦潮を見つつ辿れる海道は落花しきりの鳴戸の春ぞ ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 ■さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

 ■鎮魂の念(おも)ひやまずも南(みんなみ)の里べの土を踏みて歩めば

などの歌が連なっているが、四国霊場巡りは阿波・徳島から始まるのだが、折しも桜の季節の終りで、菜の花の咲く頃だったということである。
一昨年にも書いたが、この千二百キロとも千四百キロとも言われる「四国遍路」は、阿波の「発心の道場」、土佐の「修業の道場」、伊予の「菩提の道場」、讃岐の「涅槃の道場」と繋がっている。
ここで「四国八十八箇所」のリンクを貼っておくので参照されたい。

私の行程は、2008年一月で伊予(愛媛県)を打ち終えて、二月からは最後の讃岐(香川県)を二回に分けて辿ることになった。
巡拝することを「打つ」というが、これは昔は「納め札」に「片木」を使っていたことに由来するという。
俳句の季語では遍路は「春」の季語だが、前にも書いたように、夏は梅雨の季節をはじめとして「降雨」に遭うのが巡礼には辛く、また夏の「酷暑」も苦しい。また冬も外歩きは寒くて辛いものである。私たちのようなバスによる略式の巡拝でも、一日中寒気の中を歩くのは身にしみるものがある。
今まで書いてきた中に「空海」「虚空蔵菩薩」などが出てきたが、仏教ないしは「密教」というのは深い智慧を有したものであり、軽々しく語ることは出来ないが、ネット上で見られる教義のさわりを、以下に貼り付けておく。

 虚空の音を聞く、虚空を見る

虚空蔵求聞持法

----「虚空蔵」とは

弘法大師空海は、若い時に「虚空蔵求聞持法」というマントラ・ヨーガの瞑想修行を
海辺の洞窟の中で体験しました。この修行により、彼は抜群の記憶力が得られ、
その後の成功につながったと信じられています。

この「虚空蔵」とは、サンスクリット語のアーカーシャガルバのことで、
神智学のブラバッキー女史や人智学のシュタイナーが「アーカーシャに参入する」
と語っているところでもあるのです。

「虚空」とはなんでしょうか? 一般的には空間には何もないと信じられています。
しかし、真言密教ではその
「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空蔵、虚空蔵菩薩がいる
と述べているのです。
 
----「求聞持(ぐもんじ)法」とは

ビックバンという宇宙創造の時は、何もない虚空から物質が産み出されたのです。
密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質性を考え、
そこに重々無尽(融通無碍)に浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えました。

弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると
「五大に響きあり、十界に言語を具す」
(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意している。声字実相義)と述べています。

求聞持法とはアーカーシャの音を聞くという体験なのでしょう。
同じ体験をした行者(ヨギ)がインドにいます。
パラマハンサ・ヨガナンダは自署「あるヨギの自叙伝」の中で 
「創造の波動オームとして、宇宙に鳴り響いている宇宙原音に意識を合わせたヨギ(ヨガ行者)は、
 その音を直ちに自分の理解できる言葉として聞くことが出来るのである」と述べています。

虚空の音を聞く

あなたも雑踏の中でさまざまな音を聞いているうちに、自分の携帯電話の音が聞こえてきた経験はありませんか?
ケイタイを取り出すと鳴っていないのに、音が聞こえた経験です。
私たちの脳内には今までに記憶していた音が残っているのです。

この記憶が感覚器官に伝わることにより、音を聞いたという意識になるのです。
つまり耳の記憶を引き出して来ることができれば、音がなくても音を聞いたという体験が得られるのです。

臨済宗を復興した白隠禅師は、隻手(せきしゅ)の声という公案を考えました。
隻手とは片手のことです。この隻手の声がわずかでも耳に入る時には、超能力(六神通)を得るというのです。

心理学者カール・ユングの言うように、心の奥に人類の叡智が集まった集合無意識があれば、
そこに入って音を聞くことができるのではないでしょうか?
ちなみに空海は、「乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)」と言っています。
あなたも虚空の音を聞いて見ませんか?

虚空を見つめる
---青空を見つめる修行法

チベット仏教の修行法には、岩山の洞窟に登り、青空を見つめる修行法があります。
オーストラリアの原住民アボリジニにも同じような修行法があります。
アボリジニは岩山の上で青空を見つめると、過去の先祖の記憶がよみがえってくるといいます。

私も何度かこの瞑想法に挑戦しました。
最初は遠方の山や町を眺めていました。視線を前方に向けると静かに雲が流れています。
雲に焦点を会わせ前方を見つめたままでいると、視界から雲が消えてしまいます。
雲のあった位置に視線を固定しようとしているうちに、自分の目の機能、
焦点を合わせようとする機能があることを発見しました。

眼球を支える筋が顔の横にあり眼の焦点を動かしているのです。
この筋に意識を置くと、目が開いているのに外部の状況を見ないことができるのです。
その状態を保つと視野は180度に広がりますが、意識は外には行かず内部を見つめるようになります。
コツは、意識が外の動きに引っ張られないように、意識を呼吸に置くことです。

この瞑想法はネパールのミルクババジをインタビューしている時学びました。
小さな祠に突然入ってきた一人の若者が、ババジの顔の前でカメラのフラッシュを焚きました。
ババジは瞬き一つせずにフリーズしたようになっていました。気配を察し心を内側に向けたのです。
残念ながらそのときの若者は、日本人でした。

意識によって欲望をコントロールする

感覚対象(色・声・香・味・触・法)は感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が感じるから存在するだけではなく、
感覚の記憶を思い出すだけでも感覚対象があるように思えるのです。

高野山の修行中、仏さまの観想が難しかったので、観想の対象を食べ物に切り替えました。
禁酒禁煙・肉類なしの食生活でしたので真っ先にビールを観想しました。
コップに滴る水滴やビールの泡など微細に観想できるのです。
のど越しのよいイメージも観想でき、ついでにすし屋に入りトロなどを・・・・・!

私達は日々の生活の中でこのように観想しているのでしょう。その欲求がつのると欲望になります。
意識によってこれをコントロールすることが出来れば、一段上の意識になれるのです。

真言密教の月輪観・瞑想法は、このイメージ瞑想の基本です。
心に真実の象徴である月・光明・蓮・阿字のイメージを刷りこむことにより、
心身を変容させようとするテクニックなのです。
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四国遍路でお寺を巡拝するときに 「般若心経」 を唱えるが、この般若心経というのは、「観自在菩薩」=観世音菩薩=お釈迦様が、「舎利子」=舎利弗という弟子に語るという体裁を採ったものであり、仏教教義のエッセンスであると言われている。
以下は、その解説文のはじめの部分である。

■「磨訶般若波羅密多心経、これをつづめて、般若心経という経文は、わずか266字から成り立っています。これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人舎利弗に対して、観世音菩薩が深い最高の統一に入って、正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いたものです。」とありますように、「般若心経」は、お釈迦さんが舎利弗に対して説かれたもので、一般の初心者を相手にした教えではありません。十大弟子である舎利弗は、もともとすごく頭のいい人で、霊能力もあり霊性高く悟りが非常に高い、そういう心境のお弟子さんに対して説いた教えですから、理解するのは容易ではありません。・・・・・・・・

■この般若心経の中で、一番の極意は、「色即是空 空即是色」という言葉で表現されています。「色即是空 空即是色」というのは、いろんなお坊さんや宗教学者が解釈していますが、「空」については虚無的な解釈が多くて、わかっているようでわかっていない、と五井先生はおっしゃっています。

■「色」とはどういう意味かというと、物には色がついていますから、あらゆるものを総称して「色」と言います。目に見える物質だけでなく、目に見えない想念も、すべての現象も「色」に含まれます。「色は空に異ならず、空は色に異ならず」ということは、この世のすべての物質や想念や現象は空なんだ、という意味です。言い方を変えれば、この世の不完全な現象は実在するものではない、という意味です。・・・・・・・


人生はすなわち遍路 しみじみと杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
時計回りの遊行

  人生はすなわち遍路 しみじみと
    杖を握りて山を越えゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘


玉井さんは著名な歌人で昭和15年生まれ。国学院大学文学部卒。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の書評を角川「短歌」誌上でいただいたのが、お付き合いのはじまりである。
その「書評」は上記のリンク先で読める。

掲出歌は、一昨年上梓された『時計回りの遊行』─歌人のゆく四国遍路(本阿弥書店刊)に載るものである。
この本は、平成17年1月から18年12月にかけて「四国新聞」に週一回連載されたものである。
先生は正式の「歩き遍路」を始められ、二度目の遍路も終えられたようである。

tabibito巡礼者

この本の「帯」にも書かれているが、そもそも四国遍路というものは「何のために歩くのか?」という疑問を投げかけられる人も多いだろう。
この本が、それに応えるものであるとは言えないが、全88項目に及ぶエッセイの中には、さまざまな動機を抱いて四国遍路にやってきた人々の哀歓が描かれる。

この中の(38)に「なにのために歩くのか」という項目がある。少し引いておく。

<室戸岬を回りこんだ時、苦しい道中に去来したのが芭蕉の『奥の細道』。
芭蕉は何のために、何を考えながら歩いたのだろうか。芭蕉の時代の東北の地は、宿などが整備されていたわけではなく、宿を探す苦労も書き止めている。多くはその土地の俳諧の仲間を頼っての旅だったようだが、・・・・・門人曾良を連れての旅、文学の深化のためとはいえ、病弱の身には命懸けのものだった。ずぶ濡れで歩きながら芭蕉が私の頭を去来していた。
途中から引き返そうという思いはもう湧かなかったが、しかし幾度も「なにのために歩くのか」という問いは自分の脳裏から離れなかった。一週間か、十日ほどの区切り。切り上げて戻って来ると翌日には次回の計画を練り始めていた。土佐の道場は寺と寺との間隔が開いていて、自己との対話の時間がたっぷりと確保できる。

  なにのために歩くのかと問いて答えなし 笑うのみにてまた歩き出す

各自さまざまな悩みを抱えて四国を巡拝している遍路が多いだろうが、出会うどの顔もどこかきりっとしていた。どの顔もどの顔も悩みから解放されたすがすがしい日焼けした顔で挨拶を交わしてくれた。

  一歩ずつ何に近づく 無にちかくなりゆく心に草木の触れて>

玉井さんは、このように書いているが、しいて結論めいたことは言っていない。
それが本当のところであろう。
「自分を見つめ直す」というのが、四国遍路の一つの到達点ではないかと私は思う。
私も略式だが遍路の真似ごとをしたが、私の場合は、長年、妻の病気と伴走してきて、特に妻の死期を看取ったものとして「鎮魂」ということが、主たる目的と言えるだろうか。
また玉井さんは、この本の中で

<遍路の旅では、相手に遍路に出た動機を聞くのはマナー違反だとされている。
人生途上抱えきれない悩みに人は遭遇する。そのような時、思いつく一つが四国遍路なのではないだろうか。これを思いつき実行できる人は幸福かも知れない。時間と金と体力を必要とする。歩いてとなればなおさらである。>

と書いている。

私の最近作「明星の」にも遍路の歌があるので、それらについては次回に書いてみたい。

天ライ

玉井さんには一昨年12月に出たばかりの第七歌集『天籟』(短歌研究社刊)があるが、
ここにも多くの遍路を詠った歌がある。
「天籟」という難しい題名は、作者の「あとがき」によると

<空海の『遍照発揮性霊集』を開いていた時出会った「地籟天籟如筑如箏」の一句による>

とある。この「籟」という字は辞書を引くと、竹かんむりに「賴」と書くが、意味は「笛」ということである。
ここにも書かれているが、「遊行」の本と時期的に重なるものであり、遍路の歌も多い。
いくつか引いて終りにしたい。

  菅笠のしたかげくらしからだより抜けたるこころ草木に遊ぶ

  おかげさまの祖霊地霊に声かわし露しとどなる蓬野をゆく

  家にあれば笥に盛る酒をカップにて飲めば眠たし紫雲英野に寝る

  ふんどしはくらしっくぱんつと名をかえて遍路の使う我も使いぬ

  さすらいて岬の果てまでたどり着き最御崎寺の古き道ゆく

  食うと寝る排泄をする明快な遍路の旅の七日を経たり

  ポケットに賽銭三つ坂ゆくにちりちりちりと魂の泣く

  四万十のさだちを浴びぬしろがねの五寸釘降るまことますぐに

三首目の歌の「家にあれば笥に盛る・・・」の部分は「万葉集」に、このフレーズの歌があり、玉井さんの歌は、その「本歌取り」ということであり、元歌を知っている者にとっては思わずニヤリとするところであり、こういうさりげないところに玉井さんの教養が滲みでていると言える。

歌人の「詠い方」にも、いろいろあって私などは妻とか家族とかのことを割合たくさん詠む方であるが、玉井さんの歌を見ていても、奥さんとか家族のことは全くと言っていいほど詠まれない。
『時計回りの遊行』には二箇所ほど奥さんのことが出てくる。短歌作品とエッセイの違いからであろうか。
気がついたことを少し書き添えてみた。
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「般若心経」を横書きにしたものを、下記に貼り付けておく。読み方については、「ふりがな」をつけてあるサイトもあるので、関心のある方は探してみられるとよい。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

ここで、♪「般若心経を聴く」♪というサイトを紹介しておく。このお経を「音声」で聴くことが出来る。
ネット上を探すと、この他にも、いくつかあるが、このサイトの読経の声が一番美しい。


哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  哀しみとポテトチップスと比べつつ
    しあはせ計れば鳴る赤ケトル・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は、角川書店「短歌」誌2008年二月号に「艸木茂生」のペンネームで載った「明星の」14首の一連の中のものである。
亡妻の介護の日々と死にまつわる一連の歌は、プライバシーに配慮して、少しは知られている木村草弥の名ではなく、一般には知られていない「艸木茂生」のペンネームを使用した。
詩集『免疫系』の末尾に収録してある。

「鳴る赤ケトル」とは、お湯が沸けば鳴る「笛吹きケトル」のことである。
「哀しみ」と「ポテトチップス」を比べる、などというのは、現実には考えられないことであって、「詩」という<非日常>の世界だからこそ言えることなのである。

この一連を発表したら、私の親しい友人であり、「自由律」短歌の先生でもある光本恵子さんから、特にこの歌を引いて、メールで褒めていただいた。
そのメールの一部を貼り付けて置こう。

<艸木茂生様の短歌を読ませて頂きました。「明星の」3首目

・哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル

この歌はいいですね。なにか木村様のことを思うと泣けてきました。
木村様の静謐な想い、心境がじわっと伝わって参ります。
奥様を亡くされ、さらにご自身が病を抱えながらも意思的に生きようとする姿を思い浮かべ、
「鳴る赤ケトル」にほっとして味わいました。>

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ポテトチップスにも、いろいろあるが、私はジャガイモを単純にフライしただけのものが、いい。新じゃがが収穫されると期間限定で売り出されるものもある。
外国系のものでは、じゃがいもを一旦粉にして、それを成形して、どの片も全く同じ大きさ、反り具合も同じというのがあるが、私は好まない。如何にも「加工品」として手を加えすぎてあると思うのである。
英国では、ポテトチップスばかり食べて、結局死んだという記事が、どこかに載っていたが、口当たりがいいので、食べだすと途中で止められなくなって、結局一袋を平らげてしまうことになる。植物油を使ってあるので、カロリーは結構あるだろう。
よく悲しいとヤケ食いするとか言われるが、私はそんなこともないが、老来カロリーの摂り過ぎは碌なことがないので注意しなければならない。

歌に戻ると、普通、短歌の世界では、この歌のような「詠み方」は、しない。
これは短歌というよりも「詩」として鑑賞した方がいいかも知れない。
私は自由詩から出発しているので短歌と言えども「詩」の一環として把握しているので、このようになる。
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これも「戯れ」に過ぎないが、「ランキングを確認する」という設定があり、今朝の発表は下記の通り。

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   登録ジャンル:学問・文化・芸術 > 小説・詩

   木村草弥さんのランキング
   学問・文化・芸術  96位 (昨日:254位) / 17765人中
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   更新日時:2010/02/08 04:21

さすがに一位というのは多くはないが、何度かあったが、昨日が私の誕生日であったので、そのお祝いの意味からも愉快な一日であったことを喜びたい。 拍手、拍手!


かぶらない帽子がひとつ押入れの隅に小さな世界を占める・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──■私の誕生日によせて■──

  かぶらない帽子がひとつ押入れの
    隅に小さな世界を占める・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は2月7日で私の誕生日である。
私の生れた年は、とても寒い冬で、私は体の両脇に陶器製のユタンポを抱えるようにして寝かされていたという。
先年の、この日には「誕生日の詩」を作って載せたことを思い出した。詩集『免疫系』にも載せたし、「草の領域」でもご覧いただける。

掲出した歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「小さな世界」と題する5首の歌からなる項目のもの。
自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。
この歌集には

 こぼれ灯が一つ洩れゐる茶の村へ帽ふかくかぶりひた帰りゆく

という歌も「冬木」と題する項目のはじめに載っている。今では「こぼれ灯が一つ」というような夜は田舎でも、ない。したがって、この歌に詠まれる時代背景は数十年前ということになる。
この歌のつづきに

 野火放ち緋色となれる草原はゆらめくごとし片時雨ふる

という歌の季節は厳寒の今ごろである。雑草がはびこった草原は燃やして虫などを焼き払うのである。
私も一枚だけある「休耕田」の枯れ草を2月5日午後に火を放って焼き払った。結構、北西風が吹いていたので、またたく間に、きれいに焼き払われた。
奈良の「若草山」の野焼きが行なわれるのも厳寒の1月半ばのことである。

私の生れた2月はじめという時節は、なお厳しい寒さがつづくとは言え、「風二月」という言葉もある通り、ようやく春のきざしが感じられる頃であり、中国の故事にあるように「一陽来復」の時候である。
誕生日を迎えて、目下は「独居老人」だが、私も老来ますます張り切って頑張る必要があろうか。

季語に「風光る」というのがあり、延享2年に出た『手桃灯』という本に、この季語が「一月」として所出する、というから今の陽暦でいうと2月になろうか。
また嘉永4年に出た『栞草』には「春情日出でて風吹くを光風といふと云々。これによりていふか。」などとあり、いずれも「風光る」という季語の由来をよく捉えている。
以下、「風光る」の句を引いておく。

 陽炎のものみな風の光りかな・・・・・・・・・・・・曙台

 風光りつつ漣(さざなみ)を作りつつ・・・・・・・・・・・・高木晴子

 風光る海峡のわが若き鳶・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房

 風光る白一丈の岩田帯・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 風光りすなはちもののみな光る・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 一艇身一馬身風光りける・・・・・・・・・・・西川織子

 光風や誓ひに似たる二樹の間・・・・・・・・・・・・森かつみ

 聖句記すわが家の礎石風光る・・・・・・・・・・・・宮田登喜子

 墨絵にもほのかなる紅風光る・・・・・・・・・・・・福島加津

 風光るひろげしノート眩しくて・・・・・・・・・・・・武田知子

 潜り出し自動洗車や風光る・・・・・・・・・・・・鈴木照子

 黒髪もうなじも婚期風光る・・・・・・・・・・・・ましお湖

 稚魚に声かけて放流風光る・・・・・・・・・・・・石塚シヅ

なお「帽子」のことだが、私もいくつか帽子は持っているが、ほとんどかぶらない。
年寄りで帽子をかぶっている人は、概して「頭の禿げている」人である。
私は幸いにも頭は禿げていないので、夏の炎天下とかウォーキングとかスポーツをするとき以外は、かぶらない習慣である。
私は頭が真っ白なので、帽子をかぶった方が白髪が隠れていいかも知れないが、これも習慣で仕方がない。
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今年は、私の誕生日を祝ってくれる人があって、大きな、フルーツがたくさん入った生クリームのデコレーションケーキに私の齢だけのローソクを立てて、ワインを飲みながら焼肉で盛り上がった。有難いことである。
ローソクを齢の数だけ、とは言っても、10歳を長いローソク1本として倍数立て、端数の齢の数だけ少し短いローソクを立てるのである。ケーキ屋さんには、ちゃんと用意してある。
その後、長女からはミズノのウォーキング・シューズ(私が日頃愛用しているものと同じ靴)を贈ってくれた。
有難いことである。こういうことがあるのだから、さあ、気分一新して、また頑張ろう!

ともしびが音もなく凍る冬の夜は書架こそわれの黄金郷たれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  ともしびが音(ね)もなく凍る冬の夜は
    書架こそわれの黄金郷(エルドラド)たれ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌集については春日真木子さんが角川書店「短歌」誌上で批評文を書いていただいたが、その中で、この歌を抽出して下さった。この批評文もWebのHPでご覧いただける。
黄金郷エルドラドなどと大きく出たものであるが、これも読書人としての私の自恃を示すものとして大目に見てもらいたい。

黄金郷エルドラドというのはスペインのアメリカ新大陸発見にともなう時から使われるようになった言葉である。
そのいきさつは、こうである。
「なんでも、アンデスの奥地のインディオの部族は、不思議な儀式をやっていたそうだ。そのインディオの首長は裸の全身に金粉を塗りつけて<黄金の男>に変身すると、金細工できらびやかに装った従者たちを連れて筏で湖へ漕ぎ出す。筏には黄金やエメラルドが山積みにされていて、湖水の真ん中に捧げ物の財宝が投げ込まれ<黄金の男>はやおら水に体を浸すと、金粉をゆっくり洗い落す。金粉はキラキラと輝きながら湖底へ沈んでゆく・・・」。
これこそ15世紀に新大陸を征服したスペインのコンキスタドール(征服者)が耳にした噂だった。そして、遂に、この湖を見つけた。黄金郷エルドラドは本当にあったのだ。
この湖グァタビタ湖に近い盆地に都市を築いた。それが今日のコロンビアの首都ボゴタである。
写真①は、そんな「筏」を黄金で作った現地の金細工である。
黄金郷エルドラドの説明に長くかかってしまったが、私の書架を書くのが本当なのだ。
私は少年の頃は腺病質な子供で、ひ弱な体で、季節の変わり目には腹をこわすような子だったので、戸外を活発に駆け回るというのではなく、家に居て本を読むなどの内向的な性質だった。
祖父・庄之助から毎月「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」という雑誌が送り届けられ、兄たちと夢中に貪り読んだものである。
そのうちに長兄・庄助が集めた小説などを読むようになった。こんな環境が私を文学、文芸の道に親しむ素地を作ったと言えるだろう。
今では庄助の蔵書などは兄・重信の方に行っているから、私の書斎の書架にあるものは、私が今までに読んだもの、私が買ったものであり、その数は万の桁になるだろう。
特に、私は現代詩から入ったので、「詩」関係の本が多くを占める。
私が死んだら、それらは埋もれてしまうので、出来れば「詩」関係の本だけでも「日本詩歌文学館」にでも寄贈したいと思っている。出来れば「木村草弥文庫」というコーナーでも作ってもらえば有難いと思うが、もっと有名人もおられるので、果たしてどうなるやら。

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写真②は日夏耿之介『明治大正新詩選』という本である。
また講談社から発行されていて今でもある雑誌「群像」の創刊号から10年間くらいのものが欠本なく揃っている。これらは資料的な価値もあると思われるので、図書館、記念館などに保存してもらうのには最適であろうと考えるのである。

コーラスのおさらひをする妻の声メゾ・ソプラノに冬の陽やさし・・・・・・・・・・・・・木村草弥
im20060112AS3K1200D1201200613モーツァルト楽譜

  コーラスのおさらひをする妻の声
    メゾ・ソプラノに冬の陽やさし・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
妻が元気だった頃、コーラスに入って楽しく歌っていた。もともとはソプラノだったが、齢を取って発声が無理なのでメゾ・ソプラノに代った。
大学に居る頃はチャペルの聖歌隊に入っていたので歌うことは好きだったのである。
病気が進行して療養に専念するためにコーラスも辞めた。
妻亡き今となっては、私にとっては、この歌は健やかな妻の思い出として貴重な、愛着のあるものである。
掲出の写真①は、2005年に大英博物館で見つかったモーツァルトの自筆楽譜──妻のコンスタンツがヒステリーを起こして二つに破り捨てたというイワクつきのもの。

c0064819_10375157モーツァルトの楽譜

写真②はオーストリアの首都ウイーンの街の楽譜屋の店頭に飾られているモーツァルトの楽譜である。

ウイーンには何度か行ったことがあるが、この街は大きくない街で、歩いても30分もあれば突き切ってしまえる程で街歩きをしていても楽しい。
リンクという環状道路を走るトラムに乗って一周しても30分もあれば十分であり、王宮や、その向かいの美術史博物館、自然史博物館を覗くのも楽しい。
この二つの博物館の間の庭園には女王マリア・テレジアの大きな銅像があり、王宮の方を向いて建っている。
美術史博物館は何日通っても見飽きるということはない。
少し郊外にはシェーンブルン宮殿もあり、この辺りには古いが趣のあるシェーンブルン宮殿の元ゲストハウスだったというホテル・シェーンブルンがある。
ここには私は二度泊まったことがある。

ウイーン一番の目抜きの通りケルントナー・シュトラーセの散歩も楽しい。
ウイーンは「ザッハトルテ」というチョコレートケーキで有名な店があり、いつも買い物客で立て込んでいる。
散歩に疲れたらカフェでコーヒーを飲むのも素敵である。
ウイーンナー・コーヒーというのは外国で言うのであって、地元では、そんなことは言わない。
私はいつもカプチーノを注文する。もっともカプチーノというのはイタリア風の飲み方だが、今ではドイツでもどこでも、これで通る。
ウイーンの地下鉄はシェーンブルン宮殿の近くでは地上を走っているが、街に近づくと半地下になり、あと本当の地下鉄になる。
2006年はモーツァルト生誕250年ということでモーツァルト・イヤーということで、モーツァルトの故郷であるザルツブルクをはじめ、世界中で行事が目白押しであった。
ウイーンのお土産には「モーツァルト・チョコレート」というのが何種類かあり、モーツァルトの絵が印刷してあって、手ごろなお土産になる。音楽好きな人や女の人には喜ばれる。
ここで「薀蓄うんちく」を披露しておくと、モーツァルトの故郷ザルツブルクsalzburgのことだが、「ザルツsalz」とは英語のsaltで「塩」のことである。
この辺りは岩塩の産地で大きな岩塩採掘跡の洞穴があり観光コースになっている。
「ブルクburg」とは「城」「城郭都市」の意味である。このブルクという名前のつくところは、一杯ある。
因みに、現地の人は「ザルツ」と濁っては発音せず「サルツ」と清音で呼ぶらしい。これは現地のガイドからの受け売り。

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写真③は、2005年に開かれた愛知万博のオーストリア館の売店で売られていたモーツァルトの楽譜を印刷したマグカップであり、行った人からのお土産である。
私は妻の体調のお付き合いで行かなかったが、万博というのは、いずこも同じく人気館は何時間待ちの状態で、碌に見られたものではない。
せめて、この土産にもらったマグカップでコーヒーでも飲むのが関の山である。
私自身は楽譜も読めないし、歌うのも得意ではないが、妻からの感化もあり音楽を聴くのは好きである。
私はアイルランドの歌姫エンヤが好きで、本を読んだり、パソコンを見たりするときにもBGMのようにエンヤのインストゥルメントなどをかけて聴くともなしにするのが多い。
エンヤの最新アルバムは、まだ買っていないが、この中ではエンヤの創造した「新」言語にお目にかかれるらしいので、楽しみだ。
今までは作詞はローマ夫妻が担当していたのだが、今回はどうなっているのだろう。
昨年、村島典子さんの歌集『タブラ・ラサ』を採り上げたが、その際、村島さんから、この曲の作者・アルヴォ・ペルトのことを聞き、「タブラ・ラサ」のCDを買って聴いてみた。
心に沁みるような曲だった。
この記事を書きながら、そんなことどもを思い出している。

掲出した歌の並びに

 つらら落つる朝の光のかがやきが横ざまに薙ぐ神経叢を・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているが、先に「氷柱」のことは書いたので、今回はやめておく。
昂ぶった「神経叢」をモーツァルトの音楽でも聴いて「癒され」たいものである。

先に書いたモーツァルト・チョコレートのうちの一種の写真を④⑤に載せておく。

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この他にも、ヴァイオリン型のパッケージに入ったもの、洋酒のリキュールの入ったチョコレートなど、さまざまある。
折しも、まもなくヴァレンタインデーであるから、百貨店などのチョコレート売場を覗いてみたら並んでいるかも知れない。


立春大吉絵馬堂に墨匂ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本菊絵
12_17p4出雲大社「立春大吉」符

   立春大吉絵馬堂に墨匂ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本菊絵

「立春」は二十四節気の一つ。暦の上では今日から「春」になる。
まだまだ寒いが、これから「立夏」の前日までの90日間の季節をいう。
これを「九春」という。これは「春九旬(90日間)」のことである。
春は寒暑の移り変わりの時期で、二月は寒く、三月に入って寒暖を繰り返しながら、次第にあたたかくなって、四月に暖かさが定まるということである。


昨日は「節分」だったが、この字の「節」の通り、季節がこの日をもって分かたれるのである。
寒い寒い冬よ早く去れ、春よ来たれ、という「春」が動きはじめ、春の「気持」が用意されてゆく。
写真①は出雲大社の「立春大吉」の吉札である。
この「立春大吉」という字はタテ書きにすると左右対称形になるから縁起がいい、と古代中国の時代から言い慣わされてきたお目出たい字である。

『山の井』という本に「よろづのびらかに豊かなる心を仕立つ」と書かれているように、春の到来を喜ぶ気持が生まれる頃である。
「春」という字は「張る」「発る」が語源だというが、万物発生の明るい季節感を表現したものである。

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写真②は京都市上京区の鶴屋吉信(つるやよしのぶ)の「福ハ内」。
杉の箱に入った「福ハ内」。パッケージをとく前から、とにかく、杉のいい香りで、立春を祝うお菓子。水引が結ばれている。
長さ約6、7センチのお多福豆。
生地は黄身色と焼色が、つるんとして、上品できれいで、中は白餡。うっすらと自然の色がついてる。
豆をかたどった桃山生地のお菓子。
中に、富岡鉄斎の作による「このうまき大多福豆をめしたまへ よはひをますは受合申す」という歌を記した紙が入っている。
「桃山」とは、白餡に卵黄・寒梅粉などを混ぜて煉り、成型し表面を焼くという製法で作られる和菓子。
譬えるなら・・・俵型の栗饅頭をもっと優しくしたような、1904年から作られてるお菓子だそうである。
販売は12月1日~2月3日(節分)まで。
私が買ったのは一番小さい箱 8個入り、1,890円 (日持ち:20日)
私の小学校からの友人のS君の家は旧家で、いつも大晦日に京都に出て、この「福ハ内」のセットをいくつも買い求めて、年始客に振舞うのを習慣にしている。
奥床しい年中行事であることよ。

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写真③は、同じく鶴屋吉信の「追儺」(ついな)という上生菓子セット。
きんとん製の鬼と、薯蕷製お多福。
薯蕷(じょうよ)とは、大和芋、山芋、つくね芋などを指す。
この薯蕷芋を饅頭の皮に用いた蒸し菓子を「薯蕷(じょうよ)」という。 薯蕷(じょうよ)は蒸すとふくらむ性質があるので、出来上がった饅頭の皮は、フワッとした優しい食感に仕上がる。
上用と略されて書かれることがある。
「追儺」は、大晦日の夜、内裏で催されていた祓(はらえ)の行事。
別名、「儺(おにやらい)」とも言い、節分の行事のルーツである。
お多福の下にひいらぎが敷いてあるのは、これも節分にちなむ風習、「焼嗅 やいかがし」からである。
鰯の頭を焼いて柊(ひいらぎ)の枝に刺したものを家の戸口に置くと、異臭で鬼の侵入を防ぎ、ひいらぎの葉の棘が、鬼の目を刺して追い払う、と考えられていた。
鬼のツノは、ごぼうの甘煮で、なんだかちょっと、ユーモラスである。

「立春」という抽象的な概念を表現するのは難しいもので、ならば、こういう季節感を持った具体的な「物」で視覚的に表わした方がいいと考えて、やってみた。
季節や行事を大切にする気持ちとともに、こういうお菓子は毎年楽しみに味わっていきたいものである。
念のために申し上げるが、写真②③に掲げたのは「節分菓子」であり、厳密に言うと、昨日の節分のところに載せるのが本当なのだが、お許しあれ。
いずれにしても「節分」で冬は終り、「立春」から春が始まる。この両者は、切り離しがたく結びついている。

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写真④は日本酒の「立春搾り」という本日限りの限定版である。
日本酒は消費がじりじり減る傾向にあるので、こういう限定版の商品を発売して何とか売り上げを伸ばしたいという涙ぐましい努力である。
おかげで、こういう限定ものは、よく売れているらしい。インターネット上でも、いくつかの銘柄の立春酒が見られる。
昨年秋からの日本酒の仕込みも今が最盛期で、「蔵出し」の原酒などはおいしいものである。
左党ならぬ私なんかも美味だと思う。
この酒のラベルは今年の「暦」の図柄になっていて、瓶には「立春朝搾り」のシールを斜めに貼ってある。
予約販売である。このような趣向は、あちこちのメーカーが同じように採用している。

写真⑤は「白椿」である。
以下、「立春」を詠んだ句を引いて終わる。

 寝ごころやいづちともなく春は来ぬ・・・・・・・・与謝蕪村

 春立つや愚の上に又愚にかへる・・・・・・・・小林一茶

t-konoesiro近衛白(関西)

 雨の中に立春大吉の光りあり・・・・・・・・高浜虚子

 さざ波は立春の譜をひろげたり・・・・・・・・渡辺水巴

 立春や一株の雪能登にあり・・・・・・・・前田普羅

 かかる夜の雨に春立つ谷明り・・・・・・・・原石鼎

 山鴉春立つ空に乱れけり・・・・・・・・内田百

 春立つと拭ふ地球儀みづいろに・・・・・・・・山口青邨

 冬よりも小さき春の来るらし・・・・・・・・相生垣瓜人

 春立ちて三日嵐に鉄を鋳る・・・・・・・・中村草田男

 立春の米こぼれをり葛西橋・・・・・・・・石田波郷

 春が来て電柱の体鳴りこもる・・・・・・・・西東三鬼

 立春のどこも動かず仔鹿立つ・・・・・・・・秋元不死男

 立春の雪のふかさよ手鞠唄・・・・・・・・石橋秀野

 人中に春立つ金髪乙女ゆき・・・・・・・・野沢節子

 立春の鶏絵馬堂に歩み入る・・・・・・・・佐野美智

 立春のぶつかり合ひて水急ぐ・・・・・・・・会田保

 畳目の大きく見えて春立つ日・・・・・・・・八田和子


節分に「懸想文」は、いかが?・・・・京都・須賀神社・・・・・(転載)
kesoubumi03懸想文売り

──エッセイ──

以下の文章と写真は「ディープな京都と認知療法」の中のサイトから転載させてもらったものである。いつの年の記事かは不明。転載に深く感謝するものである。
記事末尾の俳句二つは、私が見つけて来て、載せたものである。(草弥記)

  節分に懸想文はいかが?・・・・・・・京都・須賀神社・・・・

 吉田神社をはじめ京都の神社やお寺では、節分に鬼が出るところが多いのですが、懸想文(けそうぶみ)売り が出るのは、ここ聖護院を東に入った所にある須賀神社をおいてはないでしょう。「懸想文」とは聞き馴れないものですが、これは直訳するとラブレターということになります。ラブレターを「売る」とは、またどういうことなのか?疑問が湧いてきます。好奇心の虫がうずうずしてきます。

kesoubumi01須賀神社

須賀神社は小さな神社で、普段は街のなかに埋もれてほとんど目立たない存在なんですが、節分の二月2・3日になると、お琴の音や、案内を語るおばさんの声がスピーカーから流れ、がぜん活気づいてきます。参拝客も大勢こられます。この境内に入るとすぐ目につくのが、写真①と③の怪しい二人組み。
手に持つのが「懸想文」です。これを売るのが「懸想文」売りで、怪しい二人組みこそ、その正体なのです。
写真①は、その「売り人」にカメラを向けて、ポーズを取ってもらったところなのです。

kesoubumi02懸想文売り

これがうわさの「懸想文売り」なのです。懸想文とは、説明によると「縁談や商売繁盛などの願を叶える符札で、鏡台や箪笥に入れておくと容姿が美しくなり、着物が増え、良縁にめぐまれるというので、古くより町々の娘や嫁にあらかたなものとして買い求められた。この風習は明治以降はなくなり、いまは須賀神社が二月三日の行事をしている」ということなのす。そこで私もぜひ一つ買ってみなくては。もっとも私は別の良縁を求めているわけではないのですが・・・。

この姿は、懸想文の外装にも描かれていて、忠実に再現しているようです。
 
 さっそく件の懸想文を開けてみることにしました。奉書紙に包まれていたのは、梅の枝に結ばれた風情の結び文。そこにはゆかしい和歌が変体がなで書かれています。
「むすほれし 霜はうちとけ 咲く梅の 花の香おくる 文召せやめせ 」と読めます。

kesoubumi05懸想文

kesoubumi06懸想文

 写真が④と⑤に分かれてしまいましたが、④が外装、⑤が中身ということです。
さらに、結び文を解いて読むことにします。こちらは普通のかな書きなので読むだけなら苦労はありません。
「行く水の 流れは 絶えずして・・・」と、なんとラブレターが諸行無常の「方丈記」の冒頭から始まります。艶っぽい内容を期待していたのは、あてがはずれました。

「 創造や漂ひ化せしてふ地(つち)の いにしへぶりの 大地を 」とか「活人剣の像成(かたち)し」とか、なかなか難しい漢語や縁語・懸詞がちりばめられて、ちょっとやそっとでは歯が立たない内容になっています。とても女の人が書いたものとはみえません。これはどこかの大学の国文学の先生が書いているのだと聞いたことがあります。
 最後には、
「壬午(みずのえうま)の春 巳遊喜より
 春駒さままいる」

とあり、この内容は毎年変わっていること、差出人と受取人の名前はそれぞれその年の干支にちなんだ名前になっているのが解ります。あとで調べてみると、最近では
緋兎美(ひとみ)->龍比古(たつひこ)->巳遊喜(みゆき)->春駒(はるこま)

と、女男女男(女性の名前が字は古風なのに、読みは今時風なのが面白いですね)と、毎年つながっているようです。ちょっと考えてみれば、12人のとんでもない片思いの数珠つなぎが、円環をなしているわけで、シェクスピアもびっくりものなんですねぇ。こんなにレアーで、奇想天外・霊験あらたかな懸想文を、皆さんもぜひゲットされるといいと思います。ただしお代は壱千円也で、売りだしは来年の二月2・3日までまたなければならないのですが・・・。

終わりに、俳句の大家の詠んだ句を引いて終わる。

 もとよりも恋は曲ものの懸想文・・・・・・・・高浜虚子

 淡雪を讃ふることも懸想文・・・・・・・・後藤比奈夫


萩原隆『ザシキワラシ考』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
ザシキワラシ考
──新・読書ノート──

  萩原隆『ザシキワラシ考』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・編集工房ノア(2009/12刊)・・・・・・・・・

萩原隆氏は、私と同じ「楽市」同人だが、この本は「楽市」誌に2003年から2009年まで連載された二十篇の文章に二つ書き加えて出されたものである。
「目次」を列挙しておくと
■映画『墨東綺譚』をめぐって ■『随想録』を読んで ■不滅の神々のために ■天命を知る ■安楽死 ■更年期 ■偶然と人生 ■夢 ■幸福の処方箋 ■きのふ けふ 
■<私>探しの季節 ■『潮騒』紀行 ■日本の心 ■<ボケ>の話 ■狂気の詩集──ヘルダリンの場合 ■馬鹿三題 ■幻のイスラエル周遊 ■この無の日に ■歴史に学ぶ 
■ザシキワラシ考 ■対幻想の彼岸 ■終章  
というようである。

この本の出版記念会が2010/01/30にシェラトン都ホテル大阪の「大和の間」で開かれた。
発起人は三井葉子さんをはじめ出版元の涸沢純平氏や萩原さんの医者仲間などで、100名弱の参会者があった。
ここは、その場の様子を書くのが目的ではないので触れない。

萩原隆氏は、詩人・萩原朔太郎の甥っ子にあたる。代々の医者の家系であり、1925年生まれで大阪大学医学部卒。
先に『朔太郎の背中』(深夜叢書社2002年刊)という本がある。↓

朔太郎の背中

この本も「楽市」に連載された文章が中心になっている。
文学者、作家なんていうものは、本来「無頼」なもので、中でも萩原朔太郎の無頼ぶりは、よく知られているが、萩原隆氏は、朔太郎を反面教師として「あんな風にはならないように」と言われて育てられたという。

以下、この本(ザシキワラシ考)を贈呈されたときに萩原氏あてに出した私の手紙の一部を再掲しておく。
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この本は著者の医師としての現況から、豊富な読書の中から、わが身に引き寄せて書かれていて、単なる読書の感想の域を超えて、優れた「エセー」となっております。
辻井喬が「帯文」に書いておられます通り、
  <医者として生きることが、かえって才能に舞台を提供したのではないかと想われる>
ことがあります。
著者は萩原朔太郎のような無頼にはならないように、との配慮の下に育てられた、と他の文章で書いておられますが、「血」は争えないもので、文学的な素地が脈々と通じているものと存じます。
ざっと一読した限りですから、読み落しもあるかと思いますが、少し書いてみます。

①「安楽死」の項で、「西行」に触れて書かれた中に、<西行の最期は、自死> のように書かれていますが、これには抵抗があります。私が今までに読んだ資料の中には、そんな捉え方をしたものは無い、と存じます。ネット上での検索でも出て来ません。
西行の有名な歌 <願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃> 
は、出だしの<願はくは>の通り、願望を表したもの(注・願はくば、と間違って書かれているものが見られるが文法的には「ば」では逆の意味になってしまう)でありまして、長年そのことを願い続けて来た結果として<きさらぎの十五日>(お釈迦さまの忌日でもあります)に入寂するという稀有な、望ましい死に方、をしたというに過ぎず、自死という根拠は何もない訳であります。
自死にしてしまっては、西行の死の神秘性を削ぐことになります。文学的にも面白味がなくなる、かと存じます。
定家の歌の前書きの<おはりみたさりけるよしききて>(注・漢字まじり文に直すと<終り満たさりける由聴きて>となる)の部分も、西行の件(くだん)の歌に由来するものですが、「羨ましい」という定家の心を読み取れこそすれ、自死云々の結論は導きだせないかと思います。

②「更年期」の項。(これは反論ではなく、私からの補足です)
ヒト科・ホモサピエンスだけが「排卵期」に関係なく交尾出来る、というのは今では否定されています。ヒト以外にも、例えば「ボノボ」=旧称・ピグミーチンパンジーなどは、ヒトと同じように排卵に関係なく「交尾」するのが観察されています。これは京都大学・霊長類学教室の黒田末寿などの観察によるもので本にもなっていますから、ご覧になってください。
私も2009/01/30付けのブログに載せてます。
黒田の本などによると、彼らの性行動はヒトと同じで驚きます。
彼らは群の緊張緩和のためにも、よく交尾すると言い、これはヒトの性行為もストレス解消の手段として極めて有効、というのと同様の効果です。

③「幻のイスラエル周遊」の項。
イエス・キリストは「ユダヤ教徒」として死んだ、のです。ユダヤ教の旧弊な指導者や立法学者などの意に沿わずにユダヤ教を改革しよう、としていたのは事実らしいですが、その時期に今でいう「キリスト教」なるものが在った訳ではありません。当時のローマ提督ピラトは、イエスを磔刑に処した大悪人と、以前は言われていましたが、現今の説はユダヤ教の指導者たちがイエスを処刑するようにピラトに「仕組んだ」もの、というものです。
これも私の歌集『嬬恋』の中の叙事文に書いていますので、ご参照ください。

「あとがき」に
  <どの話題もいつのまにか自分の関心領域、即ち<医>に戻っていることが多いのに気付かされました>
とありますが、そうなればこそ、この一巻が読者の胸に沁みるのであります。
題名になりました「ザシキワラシ考」の中の故ご子息・あきら氏に触れたくだりは、読むものの心を激しく揺さぶります。長く長く著者の心の奥底に秘めて来られた「子想い」の親としての心情に心打たれるのです。「ザシキワラシ考」を題名にされたこと、良かったと思います。
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この本には百数十名の人の名前が登場するというが、萩原氏の旺盛な読書には感服させられる。
阪大医学部に居られるころに「哲学概論」という教養課程のような講義があり、それをきっかけに氏はベルグソンなどの哲学書を読みふけっておられたという。
氏のいいところは、それが単なる読書ノートに終っていないところで、<医>の自分に引きつけて書かれているのが成功している。
経歴を拝見すると、
■NPO法人日本医師ジョガーズ連盟代表理事 ■NPO法人「医師と歩こう ハートの会」代表理事 ■NGO組織「ハート・オブ・ゴールド」理事長 など、アウトドア派の会に関する肩書が目立つが、(目下は健康を害されているので、それもままならないと思われるが)その間にこういう著作にかかっておられたというのは、やはり朔太郎に繋がる「文学者の血」が、そうさせるのであろう。
ほんの一部にしか触れられなかったが、この辺で筆を置きたい。

なお『朔太郎の背中』は、朔太郎に関する生資料や写真など、一見の価値があるので、取り寄せて読んでみてもらいたい。


鰤を起し雪を起してつづけざま・・・・・・・・・・・・・・・・・・三村純也
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  鰤を起し雪を起してつづけざま・・・・・・・・・・・・・三村純也

「鰤起し」とは12月、1月に鳴る雷で、ちょうど鰤の獲れる時期にあたり、漁師は呼んで「鰤起し」というのである。
寒冷前線の通過によって雷が発生し、一天にわかに掻き曇り荒天になる。こういう時に鰤が、よく獲れるというのである。
三村純也の句は、そういう海の状況を巧くとらえている。
「鰤起し」というのは、この雷が鰤を起して豊漁をもたらしてくれるという意味で、「雪起し」という言葉から転じたものであるという。
この句は、そういう意味で、両方の意味をも巧く捉えて表現している。

鰤というのは「出世魚」で、鰤という名前になるまでにいくつもの呼び方がある。
関西ではツバス(体長20センチ前後)、ハマチ(40センチ前後)、メジロ(60センチ前後)、ブリ(80センチ以上)と出世してゆくのである。
関東では、同じ大きさの魚をワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ、となるという。
鰤は回遊魚であり、上に書いたように大きくなってゆきながら冬季を迎えて、海岸線に接近してくるのを大敷網で捕らえるのである。
この時期の鰤は脂が乗って極めて美味である。
鰤の大敷網のいい写真が見つからないので断念する。
脂の乗った鰤は醤油の照り焼きにしてもおいしいし、鰤と大根の煮付けなども冬の味覚である。

昔、私が少年の頃、敗戦後しばらくは「茶」も統制品で自由に売買できなかったので、お茶の取れない地方では茶に不自由した。
ある冬に富山県から大きな鰤をかついで「物々交換」で、はるばるやって来た人がいる。
こちらで鰤に見合う茶を買って帰って商売しようというのである。
私たちの方では、鰤なんぞは貴重品であるから何の異存もなく何がしかの茶と交換したようであり、その後のわが家のご馳走ぶりは、ご想像に任せよう。
鰤というと私は、先ずそういうエピソードを思いだす。

以下、鰤、鰤網ないしは鰤起しなどの句を引いて終りにしたい。

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 佐渡の上に日矢旺んなり鰤起し・・・・・・・・岸田稚魚

 一湾の気色立ちをり鰤起し・・・・・・・・宮下翠舟

 隠岐の雲ただならぬあり鰤起し・・・・・・・・昆野草丘

 父祖の地の住み難しかな鰤起し・・・・・・・・今牧茘枝

 加賀太鼓乱れ打つなり鰤起し・・・・・・・・溝口青於

 鰤起しずしりと重き露伴集・・・・・・・・中西舗土

 千枚田暮れてとどろく鰤起し・・・・・・・・和田祥子

 鰤網を越す大浪の見えにけり・・・・・・・・前田普羅

 鰤起し杉山桧山色褪せぬ・・・・・・・・阿波野青畝

 鰤網や伊豆山権現波駆りて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰤網に月夜の汐のながる見ゆ・・・・・・・・原柯城

 鰤網に縋る蟹あり夜明けつつ・・・・・・・・吉沢卯一

 鰤網を敷く海くらし石蕗の花・・・・・・・・水原秋桜子

 鰤敷や隣鰤場も指呼の中・・・・・・・・鈴鹿野風呂

 血潮濃き水にしなほも鰤洗ふ・・・・・・・・山口誓子

 鰤が人より美しかりき暮の町・・・・・・・・加藤楸邨

 二三言言ひて寒鰤置いてゆく・・・・・・・・能村登四郎

 大き手もて鰤つかみ佇つ老いし漁婦・・・・・・・・柴田白葉女

 鰤と蜜柑夕日どやどや店に入る・・・・・・・・小原俊一

 虹の脚怒涛にささり鰤湧く湾・・・・・・・・楠美葩緒

 鰤来るや大雪止まぬ越の岬・・・・・・・・・羽田岳水

 一閃のあと一喝の鰤起し・・・・・・・・山崎羅春

 能登の灯の今宵は見えず鰤起し・・・・・・・・堀流水子

 鰤起こし能登は夜すがら戸の鳴れる・・・・・・・・谷口順子

 鰤起し波の大きくめくれけり・・・・・・・・能勢ゆり


NHK教育テレビ・中野京子<「怖い絵」で人間を読む>・・・・・・・・・・・木村草弥
中野京子
──新・読書ノート──

  NHK教育テレビ・中野京子<「怖い絵」で人間を読む>・・・・・・・・・・・木村草弥

先に中野京子の『怖い絵3』を紹介したが、目下、京都国立博物館で開催中の「THEハプスブルク」展に合せて、中野京子の講演会「怖い絵─華麗なるハプスブルク家の人々」が昨日1/31に国立博物館近くのハイアットリージェンシー京都ホテルで開かれ話を聞いてきた。有料で2800円(入場券含む)もするが何人くらい入れるか数百人の会場は満員であった。
掲出した本は、今日を第一回としてNHK教育テレビで毎週八回にわたって、月曜日午後10:25から放映されるもののテキストである。

↓ この講演会用に特別に作られたプレミアム・チケットで、池田理代子のイラスト入り。
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↓ 彼女には、こんな新作もある。『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』(光文社新書2009/11/30 10刷)
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展覧会のポスターも出しておこう。
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ハプスブルク家とかについては世界史の教科書などにも出てくるので詳しく書くことはしないが、展覧会会場で買ってきたハガキを数葉載せておく。

↓ この人はルドルフ二世という人で王様としては凡庸だったが、美術史的には多くの優れたコレクションを遺した人として有名。神聖ローマ皇帝の称号を持つ。(アーヘン筆)
私の歌にも、この王様を詠んだものがある。第一歌集『茶の四季』(角川書店)にウィーン・美術史博物館の前書付きで載る。

    政治的無能と廃位されしかどルドルフ二世のコレクション残る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

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↓ 十一歳の女帝マリア・テレジア(メラー筆)
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↓ オーストリア皇妃エリザベート(ヴィンターハルター筆)
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↓ 白衣の王女マルガリータ・テレサ(ベラスケス筆)
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↓ 皇太子フェリペ・プロスペロ(ベラスケス筆)
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先に引いた私の歌の前後に、こんな作品が載っているので参考までに引いておく。

  美しき泉(シェーン・ブルン)の水を汲まむとてマリア・テレジア黄の館に来(く)・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  ブリューゲル描きたる絵には狩人が犬ひき連れて森から帰る 

私の亡妻は、こういうヨーロッパの宮廷物語とかシャトー、お城とかが大好きで、彼女の書棚には今でも多くの本や画集などが残っている。
生きていれば、さぞ大喜びするであろうな、と思いながら、講演会を聞いたり、展覧会を見て回ったりしたことである。一言、書き添えておく。


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