K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(3月)月次掲示板

このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaookobusiこぶしの花

弥生三月になりました。
寒暖を織りまぜながら春は一歩づつ深まって参ります。 「北帰行」も始まってます。

 前さんにいただきしチョコをおすそ分けされて吉野の青空を恋ふ・・・・・・・・・・・・・外塚喬
 くちびるが乾かないように春風を避けて光のフルートを吹く・・・・・・・・・・・・・・・・加藤治郎
 吉野山。胸せまりくる花のかげ 西行のごとく われは死なむよ・・・・・・・・・・・・岡野弘彦
 海に散る桜をどこかで見たやうに思へど遠し亡きははの声・・・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 まつさきに地上をおほふいぬふぐりつくしはこべら光の娘ら・・・・・・・・・・・・・・・・日高堯子
 春の旅はげしき海に出会ひけり・・・・・・・・・・・・・阿部みどり女
 一燭に春寧からむ伎芸天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
 蟇ないて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 麗しき春の七曜またはじまる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 バスを待ち大路の春をうたがはず・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 春は白い卵と白い卵の影と・・・・・・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 人妻に春の喇叭が遠く鳴る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村苑子
 春障子よしなし事を母とゐて・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤伊那男
 連翹に腑抜けのまなこ射られけり・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 朧月グラプトペタルムといふは何・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 そんならと猫化けの出る春芝居・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 さくら餅たちまち人に戻りけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渋川京子
 千切つては投げたる春の名刺かな・・・・・・・・・・・・・・・・谷雄介
 徒歩ならば春昼叫ぶなら未来・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四 童
 春眠や水の皮膜を吊したり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿
 生成りやらオフホワイトやらあたたかし・・・・・・・・・・・・・三浦郁

 
ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
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──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
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「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」

ムスカリの傍に置ける愛の詩集湖より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・木村草弥
kyukon4musuムスカリ本命

  ムスカリの傍(かたへ)に置ける愛の詩集
   湖(うみ)より吹ける風はむらさき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「愛の詩集」という言葉などは、少し甘すぎるかも知れない。
ムスカリも、そうだが、総じて草花などの名前や栽培は亡妻がやっていたか、または教わったものが多い。
ムスカリは小アジアのアルメニア辺りが原産地と言われている。
学名のMuscariはギリシア語のmoschos(麝香)に由来するという。強い香りから来ているのだろうか。
このムスカリは花壇などにびっしりと密植されているのが豪華で風情がある。
球根植物の例で、暑い夏には地上部は消えてなくなってしまうが、晩秋になると芽を出してくる。
2、3年はそのまま放置して置いてよいが、数年経ったら堀り挙げて保存し、秋に植えなおすのがよい。
写真②に掲出したような「白」のムスカリもあるようである。もちろん栽培種だろう。

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私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

  ムスカリは紫の彩(いろ)に咲きいでて小人の国にシャンデリア点(とも)す ・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。
ムスカリは丁度シャンデリアをひっくり返したような形をしており、私は、それを「小人の国のシャンデリア」と表現してみた。
ムスカリの特徴を示すものとしては、この歌の方が合っているいるかも知れない。
ムスカリはカタカナ語であり、季語としての市民権を得て日が浅いので、詠まれている句は多くないが、少し紹介する。

  ムスカリは和蘭渡り施薬寺・・・・・・・・・・有働亨

  かたまりてムスカリ古代の色放つ・・・・・・・・・・青柳照葉

  ムスカリや石を起せば何かゐて・・・・・・・・・・永作火童

  ムスカリや川に火を焚く誰かゐて・・・・・・・・・・ながさく清江


きさらぎの空ゆく雲を指さして春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・・太田水穂
17392春の雲

   きさらぎの空ゆく雲を指さして
     春ならずやと君にささやく・・・・・・・・・・・・・・太田水穂


きさらぎ、は新暦の3月として今の時期に採りあげた。
この歌は相聞歌として受け取れよう。
水穂の第一歌集『つゆ草』明治35年刊に載るものだから、相聞歌と断定して、間違いなかろう。
そういう目で読むと、若者の愛の告白の歌として、みずみずしい情感に満ちた佳い歌である。

 君が手とわが手とふれしたまゆらの心ゆらぎは知らずやありけん

という歌があるが、これも同時期に作られた歌であろうか、相聞歌として受け取りたい。

太田水穂は明治9年長野県東筑摩郡生まれの人。高女の教諭や大学の教授などを務める。
大正4年短歌結社「潮音」を創刊。阿部次郎・安倍能成らと芭蕉研究会を結成し「日本的象徴」主義を主張する。「潮音」は今も大きな結社として短歌界に一定の地歩を占めている。
先の第二次大戦中は軍部の文芸界統制のお先棒をかつぎ、戦後、厳しい批判を受けることになる。

水穂の歌を少し引いてみよう。

 ほつ峯を西に見さけてみすずかる科野(しなの)のみちに吾ひとり立つ

 あけ放つ五層の楼の大広間つばめ舞ひ入りぬ青あらしの風

 さみしさに背戸のゆふべをいでて見つ河楊(かはやなぎ)白き秋風の村

 をちこちに雲雀あがりていにしへの国府趾どころ麦のびにけり

 豆の葉の露に月あり野は昼の明るさにして盆唄のこゑ

 張りかへてみぎりの石の濡るるほどあさしぐれふる障子の明り

 青き背の海魚を裂きし俎板にうつりてうごく藤若葉かな

 まかがよふ光のなかに紫陽花の玉のむらさきひややかに澄む

 すさまじくみだれて水にちる火の子鵜の執念の青き首みゆ

 命ひとつ露にまみれて野をぞゆく涯なきものを追ふごとくにも

 おおい次郎君かく呼ぶこゑも皺枯れてみちのくまでは届かざるべし──(阿部次郎氏に)

 もの忘れまたうちわすれかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ

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引用した歌の終りの頃のものは、晩年の悲痛な響きを持っている。昭和30年没。




かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄
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   かもめ来よ天金の書をひらくたび・・・・・・・・・・・・・・三橋敏雄

このところ前衛俳句を採り上げている気がするが、今日も、そういう系統の作者にする。
三橋敏雄である。
昭和10年当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より「無季俳句」を推進する。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。昭和42年現代俳句協会賞。平成元年第23回蛇笏賞受賞。

先日採りあげた富沢赤黄男と同じような俳句革新派であるが、赤黄男とは20年以上の年代差がある。
私は文芸への接近を、現代詩からはじめたので、おとなしい句もいいが、時には、こういう革新派というか、前衛的というか、の俳句も面白いと思うのである。

PICT0913-thumb飛ぶカモメ

この句は昭和16年刊の第1句集『太古』に載るもので、彼自身の自選句でもある。
俳句詩の制作を意識した句であることは、間違いない。
「天金の書」を開くたびに「かもめよ来い」という句づくりは現代詩のものである。この句につづいて

  少年ありピカソの青のなかに病む

という句が並んでいる。この句もピカソの「青の時代」と称される絵を見ての作品であるが、とても面白い。
これも句集『太古』に載るもの。

以下、少し句を引いて終りにする。

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

  海山に線香そびえ夏の盛り

  共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに

  昭和衰へ馬の音する夕かな

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

  日にいちど入る日は沈み信天翁

  母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

  夕景や降ろす気球のあたま一つ

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  天地や揚羽に乗つていま荒男

  晩春の肉は舌よりはじまるか

  くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ

  緋縮緬噛み出す箪笥とはの秋

  夏百夜はだけて白き母の恩

  裏富士は鴎を知らず魂まつり

  ぢかに触る髪膚儚し天の川

  汽車よりも汽船長生き春の沖

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

  沈みたる艦船の数海燕

  いづこへも行かぬ竹の子藪の中
-----------------------------------------------------
Web上に載る下記の記事を引用しておく。

 永遠なる戦争俳句――★三橋敏雄句集『弾道』に学ぶ 宮二健

 平成13年12月1日、俳人・三橋敏雄が他界した。大正9年11月8日生まれの82歳だった。敏雄がハイティーンの頃に、関わった「戦火想望俳句」の周辺に注目してみたい。戦争は、理由いかんと規模を問わず、世界のどこかで繰り返され続けており人類永遠の蛮行と言わざるをえない。比喩的な戦争を含めれば、世は正に戦時下にある。時代遅れな戦争俳句を持ち出したのは、常に時期なのが戦争だからだ。敏雄の訃報以前の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。それに端を発した対テロ戦争、以前からのソマリアの内乱やイスラエル対パレスチナの戦争などと、私達は背中合わせに生存している。戦争との共存は時空の遠近関係では計れないほど深刻で身近な問題だ。
 しかるに昭和10年頃台頭した超結社的新興俳句運動に、17歳で新興俳句無季派として頭角を表した敏雄の存在が気になる。14歳で「句と評論」所属の渡辺保夫に俳句の洗礼を受け兄事し、次に師としての渡辺白泉と西東三鬼に恵まれた。戦時下という社会背景の許に最前線の俳句環境と敏雄自身の才と志の三拍子が揃っていた。初期作品篇句集『青の中』(コーベブックス・昭和52年3月刊)は、昭和10年の15歳から20歳迄の作品集であり、同時期の戦火想望俳句集『弾道』(深夜叢書社・昭和52年7月刊)は、昭和13年に「風」と「広場」に発表した93句からなる。また、15歳から44歳迄の作品集の第一句集『まぼろしの鱶』(俳句評論社・昭和41年4月刊)と『弾道』は13句が重複する。当時新進の俳句表現で満17歳の若者が持てる知識と想像を巡らして戦争の有様が詠まれた。まず『弾道』の後記を参照して概要をつかみたい。
 昭和11年に二・二六事件が起き、12年7月7日に日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きた。その頃、新興(革新)俳句運動は停滞の兆しが見えていた。おりしも、その前期の新表現様式の張本人で有季固守の山口誓子が「俳句研究」12年10月号の誌上で、銃後よりも前線で「本来の面目を発揮するがよかろう。刮目してそれを待とう。もし新興無季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかったら、それはついに神から見放されるときだ」と挑発し、西東三鬼は「京大俳句」12月号の誌上で「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰が一体作るのだ? この強烈な現実こそは無季俳句本来の面白を輝かせるに絶好の機会だ」と檄を飛ばしけしかけた。敏雄はそれらの揚言に「鼓舞扇動された」と自ら記している。そして、戦争に向き合う新興無季俳句表現への志向は三鬼に、表現の外形は誓子の構成手法に拠った。
 『弾道』の20章中1章~12章の全57句は、渡辺白泉と小沢青柚子共同編集の「風」昭和13年4月第7号に「戦争」と題して発表した連作だ。後に戦火想望俳句と呼ばれた。その内の数句について「サンデー毎日」6月26日号で、誓子が「私は主義として無季俳句を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればこういう方向のものを作るのではないかという気がする」と、自己矛盾めく弱腰な評言を放った。そのことは激賞したと言われている。若い敏雄に与えた誓子の高評は終生の勉励意欲に多大な影響を与えたことだろう。敏雄の逸材を見抜いた誓子が賛意を表した句を、「俳句研究」昭和35年12月号より引用しておこう。

 射ち来たる弾道見えずとも低し
 嶽々(やまやま)の立ち向ふ嶽(やま)を射ちまくる
 嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
 砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
 そらを撃ち野砲砲身あとずさる
 戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
 あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
 夜目に燃え商館の内撃たれたり

 三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫 平成8年刊)の解説で澤好摩が「射ち来たる」「そらを撃ち」「あを海へ」「夜目に燃え」の句を抄出して、次のように評している。
 「全て無季であるという事実によって、〈戦争〉が異化した現実として存在するという側面を、よりいっそう鮮明に提示している」「『季』という日常性を切り離すことで、〈戦争〉は俳句にとってリアルな対象となりうることを、いち早く少年・三橋敏雄は察したのである」「少年の曇りなき眼がとらえた〈戦闘〉場面であるというにとどまらず、新興俳句運動のなかから導き出された無季俳句提唱に対する、見事な実践であり、大きな成果をもたらした」「少年らしい清潔な抒情の表出と、無季俳句の実践によって新たな表現領域を見出した」
 俳句で当然とされている有季に拠らないで、無季という異様さを呈し、その疎々しさをもって戦争俳句の真実味を獲得したという事だろう。異化とは鋭い指摘だ。俳句表現でも異化効果の斬新さなくして革新性は望めない。銃後でありながら、純真な眼差しが捉えた戦場の景は、天下泰平の証しでもあるような季語信奉に与しないで描かれた。当時のモダンでクールな誓子俳句に傾倒した事とあいまって独創的な連作となった。若輩の敏雄が無季俳句の実践によって成した新たな表現領域は、平成に至っての澤好摩の別角度からの適評によって再度決定付けられた。この成果は今後の俳句表現活動へも引き継がれなくてはならない。その新領域を生かし押し進める実践者の一人として私も名乗りを上げよう。

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む 誓子 (昭和7) 32歳
 夏草に機関車の車輪来て止まる (昭和8)
 夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸(ひた)る (昭和12)
 水枕ガバリと寒い海がある 三鬼 (昭和11) 36歳
 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り (昭和12)
 機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク (昭和14)

 当時の誓子と三鬼の名句である。これらの俳句は、物と動きが冷静に捉えられており、虚子の花鳥諷詠下の客観写生、つまり制縛的抒情とは一線を異にしている。句に投影されたドラマの一齣は、あたかも現実から切り取られた物証の提示のようだ。敏雄の「戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ」の、まるで巨大な昆虫のような戦車の句は、誓子の第一句「かりかりと…」での擬音語の生々しい迫力に感化されたのではあるまいか。また「…掻きすすむ」の動詞の連続は、誓子の第二句「夏草に…」の動きを畳み掛けるようにして、ドラマの終結に持っていく切れの鋭さと通底する。無粋だが「がりがりと戦車が蜂に来て止まる」と想望し、切り貼りすると3句が混在した景の作品となり面白い。それだけ句柄が異質ではなかった。もう一例、敏雄の「あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ」は、三鬼の第二句「兵隊が…」と同様、無季の戦争俳句だが、ドラマの進行に終止符を打たない不安感のよそよそしさが、何ともやりきれない戦時下の実感がある。澤好摩言うところの「〈戦争〉が異化した現実として存在する」そのものだ。
 最後に敏雄のもう一人の師・渡辺白泉は、どんな句を作っていたであろうか。

 三宅坂黄套わが背より降車 白泉 (昭和11) 34歳
 遠き遠き近き近き遠き遠き車輪 (昭和13)
 銃後と言ふ不思議な町を丘で見た (昭和13)
 憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14)
 戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14)
 玉音を理解せし者前に出よ (昭和20)
 新しき猿股ほしや百日紅 (昭和20)

 一句目の「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套のことだそうだ。軍服が「背より」現れ、身近に戦争という異なものを感じる。重厚に不安なリズムを刻む車輪の動き。通常の町を不思議と惚ける諧謔。悪ふざけな口調で深刻と滑稽を同居させる。社会事象を冷徹に擬人化し、遠近法と過去形の空間に立たせる。終戦を兵隊口調で皮肉り、卑近な日常を切実に訴える。それらの事の可笑しい痛痒さを、白泉は誰よりも心得ていて俳人その人だった。

 敏雄の戦火想望俳句は、白泉のような俳味は希薄だ。実直さは誓子に、ニヒリズムは三鬼に似たのだろう。俳句はとりあえず景を捉え、あまねく表現をものにしたい文芸なのだろうが、いかんせん生真面目に深刻になり過ぎて、川柳の専有理念ではない風刺や滑稽・諧謔という俳句本来の要因を忘れがちである。そこのところを直截でなくも警鐘を鳴らし、自覚させてくれたのが、若かりし頃、革新の道を選択した一途な三橋敏雄とその作品であった。

※文字遣は、漢字は常用漢字、俳句以外の仮名は現代仮名遣とした。

【参考文献】『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57)、『西東三鬼集』(朝日文庫・昭和59)、『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邉白泉集』(朝日文庫・昭和60)、「アサヒグラフ-増刊7・20俳句入門」(朝日新聞社・昭和63)、三橋敏雄句集『眞・鷓鴣』(邑書林句集文庫・平成8)、「追想-師弟対談/西東三鬼・三橋敏雄―俳句よもやま」(三橋敏雄を偲ぶ会・沖積舎・平成14)他。

※当稿は、豈・記念冊子「黄金海岸」篇(35号)(2002.10.1発行)の物故作家・三橋敏雄小論(38~40頁)として掲載されたものである。
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前衛俳句と一口に言っても、ずいぶん幅があり、また、その後の俳人の伝統回帰などもあるので、一概には言えない。三橋はリズムに関しては575の音数律をほぼ守った人である。
上に引用した宮崎の評論は、アンソロジーでは判らない、特に戦争中の彼の在り方を知らせてくれる。



春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女・・・・・・・・・・・・・・・・・大伴家持
aaoomomo00桃の花
  
  春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花
    下照る道に出でたつ少女(をとめ)・・・・・・・・・・・・・大伴家持


大伴家持は天平18年から5年間、推定だが、29歳から34歳までの壮年期に、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越中守として赴任していた。
この歌は34歳の年の三月一日、春の苑の桃と李(すもも)を眺めて詠った二首のうちの、桃の花の歌である。
「万葉集」巻19の巻頭を飾る歌である。
「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。
と同時に下の句の木の下に立つ乙女の輝かしさをも暗示する効果がある。
満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。

因みに、この歌につづく歌を、ここに挙げてみよう。

  わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれの未だ遺りたるかも・・・・・・・・・・大伴家持

大伴家持は「万葉集」の編纂者ではないか、と推定されている程、歌の数が多い。
大伴一族は古代からの武門として有名な一族である。
父は大伴旅人(たびと)、叔母に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が居る。
「万葉集」巻6に、この二人の歌が二首並べて載っている。

    月立ちてただ三日月の眉根掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも・・・・・・坂上郎女

    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも・・・・・・・・・・大伴家持

この時、家持16歳だったと言われている。どうやら、この頃は叔母に作歌の手ほどきを受けていたらしいと言われている。

後に成人してからは、都に在る時は、天皇の傍に侍る宮廷歌人としての役割を務めているが、時の権力をめぐって藤原一族と皇族派との紛争に巻き込まれて、時に左遷人事とも思えるような仕打ちを受けたらしい。
参考として、私が書いた「恭仁京と大伴家持」というエッセイの文章もお読み頂きたい。(注・「山城町」は合併して現在は「木津川市・山城町」となっている)
もう一人の柿本人麻呂と共に「万葉集」を支える大歌人であろう。
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 ~ 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。


白木蓮の花おほどかにうち開き女体は闇に奪はれてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
hakumokuren2ハクモクレン
  
   白木蓮(はくれん)の花おほどかにうち開き
    女体は闇に奪はれてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
この歌のつづきに

   情念の日ざかりばかり歩み来て闇の真白の残像恋ほし

という歌が載っているので、掲出した歌と一体として鑑賞してもらいたい。

青空を背景にしたハクモクレンもよいが、歌に合わせてバックが闇の写真にした。

450-20060321211401465白木蓮

ハクモクレンは、写真②の「こぶし」に似た花であり、事実、この両者は同じモクレン科の木である。
「こぶし」と「もくれん」は非常によく似ているのだが、その違いについて言うと、辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、
かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。

ただし、モクレンは中国原産の木である。
遠くから見ると見分けがつかないものである。

mokuren紫木蓮

モクレンというと「紫木蓮」という色違いの種類がある。これは濃艶な花である。
写真③に、それをお見せする。
日本へはかなり古くに渡来したらしいが、日本の文学に登場するようになったのは、江戸時代からである。
中国では15世紀には賞用された花で、仏教に関係があるらしく、日本では寺院に多く植えられている。
ヨーロッパへは1790年に渡り、欧米人にも好まれるようになったという。アメリカでも庭園木として広く植えている。
中国ではハクモクレンのことを玉蘭、シモクレンを木蘭の名で呼んでいる。シモクレンはデカダン的な美だという人もいる。
つまり妖艶な感じを受けるからであろう。

掲出した私の歌では「白木蓮」と漢字で書いて「はくれん」と読ませているが、これは音数揃えのためであって、
普通「ハクレン」と言えば「白蓮」(白いハスの花)を指すので紛らわしい。
私の歌は二つとも「メタファー」の体裁を採っているので、そのつもりで鑑賞してもらいたい。
この歌を作った時は二十年も前のことであり、その頃は私も若かったので、こういう「情念」に満ちた歌も作り得たのだが、
今となっては「枯れ切って」しまったので、こういう艶のある歌は作れない。
逆にいうと、だから、その時どきに歌はどんどん作っておくべきものである。
歌は、自分の年齢に応じた「表白」を反映するからである。
後になってからでは、その時どきの年齢を映した歌は、絶対に作れないということである。

hakumokuren3ハクモクレン②

紫木蓮ないしは白木蓮を詠んだ句で、私の歌に通ずると思う好きな句を引いて終りたい。

 木蓮の一枝を折りぬあとは散るとも・・・・・・・・橋本多佳子

 白木蓮の散るべく風にさからへる・・・・・・・・中村汀女

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ・・・・・・・・森澄雄

 白木蓮純白といふ翳りあり・・・・・・・・能村登四郎

 木蓮の風のなげきはただ高く・・・・・・・・中村草田男

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮・・・・・・・・鈴木真砂女

 白木蓮や胸に卍字の釈迦如来・・・・・・・・佐久間東城

 はくれんも煩悩の炎も闇に透く・・・・・・・・山上樹実雄

 白木蓮ひらきし夜が大事なり・・・・・・・・高島茂

 はくれんを手燭のごとく延べし枝・・・・・・・・轡田進

 はくれんの花ほむらだつ風の中・・・・・・・・下村梅子

 尖り立ち色めく蕾紫木蓮・・・・・・・・石川風女

 白木蓮を意中の花として老いぬ・・・・・・・・大森輝男



来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
asebi3あせび

   来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

この句には前書きに「三月堂」と書いてある。
奈良の東大寺の境内にある三月堂である。
時しも、東大寺の二月堂では3月1日から14日まで「修二会」という、俗に「お水取り」という行事が進行中であった。

アセビ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Pieris japonica
和名
アセビ

アセビ(馬酔木、学名Pieris japonica (Thunb.) D. Don)とは、ツツジ科の植物である。あしび、あせぼともいわれる。

本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹。やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどである。早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつける。果実は扇球状になる。有毒植物であり、葉を煎じて殺虫剤とする。 有毒成分はアセボトキシン。

馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。逆に、アセビがやたら多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。

アセビは庭園樹、公園樹として好んで植栽される外、花もの盆栽等としても利用される。

asebi2あせび赤

 蟇(ひき)鳴いて唐招提寺春いづこ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

少し秋桜子の馬酔木にかかわる句を抜き出してみた。

水原秋桜子について少し触れてみる。
産婦人科医で宮内省侍医などを務めた。東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角をあらわし、四Sの一人として一時代を画す。昭和六年「馬酔木」を主宰して独立、芸術性高い「主観俳句」を唱導。石田波郷、加藤楸邨らを育てた。
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馬酔木を詠んだ他の人の句を少し挙げて結びにする。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・・・・・日野草城

 馬酔木咲く星を小出しに繭の村・・・・・・・・・・・・田部井利夫

 花あしび昔女帝のおはしけり・・・・・・・・・・・・阿片瓢郎

 耶馬台の春ととのへり花あしび・・・・・・・・・・・・小原菁々子

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・・・・・林翔

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 花馬酔木小暗き奈良の骨董屋・・・・・・・・・・・・鎌田和子

 里坊の主は若し花馬酔木・・・・・・・・・・・・寺井谷子

 花馬酔木われ瞑想の椅子の欲し・・・・・・・・・・・・小宮山勇

 あせび野の落暉鹿呼ぶ声しぼる・・・・・・・・・・・・水谷岩雄


春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてむ・・・・・・・・・・・・よみ人しらず
nanakus2春の七草

   春日野の飛火の野守出でて見よ
    今幾日(いくか)ありて若葉摘みてむ・・・・・・・・・・・・・・・よみ人しらず


この歌は「古今集・春上巻」にある歌であるが、よみ人しらず、となっている。
奈良の春日野の飛火野の野守よ、外に出て野の様子を見ておくれ。あと何日したら若葉が摘めるだろうか。という歌である。
この歌は「古今集」に収められてはいるが、春日野周辺で暮らしている人々の実感が濃く出ている。
だから、古い時代の歌に属するだろう、と言われている。

ここで、若葉摘みに関する歌を、少しまとめて見てみよう。

 春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも・・・・・万葉集・巻10、作者不詳

この歌の「うはぎ」というのは「嫁菜」のことだという。
春の若草のいろいろを摘んで、煮て食べるのは、若々しい命を願い、長寿を祈る初春の大切な行事であったらしい。
奈良一帯に住んでいた万葉時代の人々にとっては、この歌の情景は、まことに親しみ深いものだった筈である。

 春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ・・・・・・・古今集・春上巻、紀貫之

「ふりはへて」は振り合う意と、わざと目立つようにの意とをかけて用いた言葉。
京都の都の生活者となっている平安貴族の一人たる貫之は、この歌を、すでに空想の中の美しい早春の情景として作っている。
古京奈良の春日野は、懐古の情をかきたてる地名となっていて、詩的空想の源泉としての「歌枕」になりつつあるのである。

 春日野に若菜つみつつ万代(よろづよ)を祝ふ心は神ぞしるらむ・・・・・古今集・賀、素性法師

これは素性の兄・藤原定国の40歳の賀宴にあたり、その邸の屏風絵を見て詠んだ作。
全くの空想の歌である。

このように見てくると、「若草」や「若菜」を詠んでも、時代、土地、人々の生活の違いによって、自然界との接し方、その表現方法にも、著しい違いがあるのが判る。
「古今集」の歌人たちも、京都盆地の自然を前にして、詠ったには違いないが、次第に、自然詠そのものよりも、自然の季節の推移から、「時の移ろい」という観念的なものを詩の主題にするようになったということである。

万葉の実景を重視する力強い歌が好きか、古今の観念的な、美意識の強い歌が好きか、人それぞれであろうが、あなたは、どう感じられるだろうか。

以下、季語「摘み草」の句を引いて終る。

 寝転んで若草摘める日南かな・・・・・・・・小林一茶

 摘草や嬋妍さして人の指・・・・・・・・山口青邨

 川上のむかうの岸に草摘める・・・・・・・・中村草田男

 さびしさに摘む芹なれば籠に満たず・・・・・・・・加倉井秋を

 蓬摘む一円光のなかにゐて・・・・・・・・桂信子

 蓬摘み摘み了えどきがわからない・・・・・・・・池田澄子

 万葉の風立つ蓬摘みにけり・・・・・・・・大嶽青児

 つくしんぼ遠(をち)の淡海にかざし摘む・・・・・・・・佐怒賀正美

 草摘めり蜂蜜いろの夕日浴び・・・・・・・・大関靖博

 車座のひとりが抜けて草を摘む・・・・・・・・古田紀一

 日の温みもろとも摘めり蓬籠・・・・・・・・永井芙美

 野洲川の一揆の跡や蓬摘む・・・・・・・・西村康子

 ひかり合ふまほろばと吾と蓬籠・・・・・・・・今井君江


篠山の「セツブンソウ」と「リュウキンカ」の画像・・・・・・・・・・藤目俊郎氏撮影
CAAZK7U2篠山・追手神社セツブンソウ藤目俊郎撮影
   セツブンソウ
CAWM3T3X篠山・追手神社リュウキンカ藤目俊郎撮影
   リュウキンカ

  篠山の「セツブンソウ」と「リュウキンカ」の画像・・・・・・・・・・藤目俊郎氏撮影

昨夜半は激しい風と豪雨の春の嵐のひとときだった。
そして今朝は、すごい「黄沙」である。昨日のニュースで中国・北京市内の様子が放映されたので日本に達するのは時間の問題とは思っていたが、
それにしても近来にない激しさである。
この嵐と共に巻き上げられてきたものだろうか。

友人の藤目俊郎氏から兵庫県・篠山の追手神社に咲く「セツブンソウ」と「リュウキンカ」の見事な写真を、ご恵贈いただいた。
元の画像は、もっと大きいものだがブログに合うように少し縮小した。感謝とともに、皆さんに、ご披露申上げる。


次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎
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  次に落つる椿がわかる一童女・・・・・・・・・・・・・和田耕三郎

この句は面白い。ある童女が「次は、あの椿が落ちるよ」と言えば、不思議に、その花が落ちる、という句であろうか。
この作者のことは何も判らない。
森澄雄編集の「花の大歳時記」という大部の本に載っているもの。
昨日も「椿」を採りあげたが、今日も続いて椿を載せる。
特定の作家ということではなく、出来るだけ多くの作家の句を採りあげて鑑賞する。

 腸(はらわた)のよろこんでゐる落椿・・・・・・・・・・・・飯島晴子

 あけぼのや陸(くが)の水泡の白椿・・・・・・・・・・・・林翔

 椿散るああなまぬるき昼の火事・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 掃くは惜し掃かぬは憂しや落椿・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 落椿ふむ外はなき径かな・・・・・・・・・・・・・富安風生

 椿咲く出雲八重垣神の婚・・・・・・・・・・・・角川源義

 釘づけにさる神隠てふ椿見・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 白椿老僧みずみずしく遊ぶ・・・・・・・・・・・・金子兜太

 濡れてゐし雨の椿をいま憶ふ・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 落椿くだく音して仔馬来ぬ・・・・・・・・・・・・石原八束

 椿落つ脈絡何もなかりけり・・・・・・・・・・・・岡本眸

 白椿みていて身の裡昏れはじむ・・・・・・・・・・・・杉本雷造

 橋すぎて椿ばかりの照りの中・・・・・・・・・・・・平井照敏

 牛角力の花道うづめ落椿・・・・・・・・・・・・下田稔

 一園の椿五衰に入りにけり・・・・・・・・・・・・石田勝彦

 はたと膝打ちたるごとく椿落つ・・・・・・・・・・・・須磨直俊

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飯島晴子、富沢赤黄男の句は前衛的な句で、人によっては好き嫌いがあろうが、面白い句である。
金子兜太の句は前衛的作家でありながら、それとはちょっと違って、諧謔性のある句と言えようか。
橋本鶏二の句は、さっき見た雨に濡れていた椿を、後になって思い出して感慨にふける、という内省的な佳い句である。
あとは皆さん、それぞれに鑑賞して頂きたい。


赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐
t-kurowabi黒詫助(関西)

   赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・・・・河東碧梧桐

碧梧桐は明治6年松山市生まれ。
中学生の頃から同郷の先輩正岡子規の影響で俳句をはじめ、高浜虚子とは当時から親友であり、かつ好敵手だった。

この句は明治29年の作と言われ、印象明瞭な新世代の秀作だと子規が絶賛、有名になったという、初期の代表作。
この句は、読みようによっては、まず赤い椿が落ち、ついで白い椿が落ちる、というようにも読めるが、作者自身は、紅白二本の椿の下に赤い花、白い花それぞれが散っている情景に感興を得たようである。

t-konoesiro近衛白(関西)

碧梧桐は虚子と競って句や文章に活躍したが、次第に虚子との確執が抜き差しならないものになり、その後、「新傾向」と言われる運動に突き進むことになる。
この面では、毀誉褒貶あい半ばする、というのが本当だろう。

ここでは、碧梧桐を論ずるのが本筋ではなく、季節の花として「椿」を語ることにする。
椿は「山茶」と書くのが正式らしく、その字の感覚からも、さざんか(山茶花と書く)や茶の木と同種である。
木扁に春と書くように、日本の春の代表的な花である。豊臣秀吉の椿好きがよく知られ、俳人では石田波郷がこの花を好んだ、と書いてある。
「玉椿」は椿の美称。「つらつら椿」は連なり生えた椿で、万葉集に出てくる。落ち椿の印象が、よく詠われる。
以下、歳時記にも載る代表的な椿の句を挙げておきたい。

 水入れて鉢に受けたる椿かな・・・・・・・・・・・・鬼貫

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな・・・・・・・・・・・・召波

 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・・・高野素十

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・・・森澄雄

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・・・石原八束


連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・山田あき
  H11-PCD1116-014m山田あき

  連翹の花にとどろくむなぞこに
    浄(きよ)く不断のわが泉あり・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき


昨日、坪野哲久の歌を採りあげたので、その夫人である山田あきの歌をここで挙げてみたい。
いま気づいたのだが、哲久とあきは、あきの方が六つ年上である。
哲久、あき共に先年亡くなった。
二人は同じ文学的志を共有した夫婦で、終生かわることがなかった。
掲出の歌も連翹の花に言寄せながら、胸底に「浄く」湧き上がる「不断の」わが泉がある、という揚言である。
こういう勁い意思表示の出来る歌人は、そう居ない。

掲出した写真は、この歌を自筆した彼女の色紙である。彼女自身も、この歌が好きであったことが判る。

少し彼女の歌を引用してみよう。いずれも生前「自選アンソロジー」に収録されたものである。

 戦に子を死なしめてめざめたる母の命を否定してみよ

 すがすがと秋の古巣を落し去る蜂の集団われにまされり
 
 寒の鮒笊にみじろぎ光発(た)つかくしも冴ゆる命あるものよ

 みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として

 縛されてきみ若かりし指先に茫々とあそぶ今日の煙草火

 古史伏せて声哭くものをきかんとすみじめに過ぎき人類の母

 新しき世紀をよぶは誰ならん拈華(ねんげ)微笑(みしょう)のアジアびとあり

 夜を徹し規(ただ)しあいたる若き日の一途は過ぎぬ黒き渦朱き渦

 原初くらく文字無き国の裔(すえ)われら漢字一字のめぐみ忘れず

 捨身飼虎この語のひびき聴くのみに魂ふるえつつ終らむおそれ

 一握の塩を出し合う誠あらばこの世明るくまた進むべし

 大いなる歴史を見よやうつくしく興るものあり滅び去るあり

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夫・坪野哲久とともに夫人の山田あきも「述志」の歌人と言えよう。最近は、こういう述志の歌人は、ほとんど居なくなった。
ここに引用した歌を見れば判るように、終始一貫して、戦前は侵略戦争に、戦後は原爆反対や、戦前の中国をはじめとするアジア人への残虐な日本の仕打ちへの謝罪など、首尾一貫した生を生きた夫婦である。


春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久
kityou4黄蝶

  春潮のあらぶるきけば丘こゆる
    蝶のつばさもまだつよからず ・・・・・・・・・・・・・・坪野哲久


この歌は敗戦翌年の春の歌。
かよわい蝶の翼と、荒らぶる春潮との対比の中には、単に自然界の描写にとどまらず、当時のきびしい時代相の、おのずからなる心象風景も含まれるように思われる。
「丘こゆる」という簡潔な描写が、この歌では、よく生きている。
重圧に耐えつつ、挑む生まれたばかりの小さな生命が、この飛びゆくものの描写の中に、可憐に、しかも雄々しく表現し尽されている。
能登生まれの作者は孤高詰屈の調べを持っているが、その中にも孤愁がにじみ、浪漫的な郷愁が流露するところに、独特の魅力がある。

知らない読者のために、坪野哲久の経歴を少し書いてみよう。

「アララギ」から出発し、「ポトナム」などで戦前活躍した人だが、昭和初年、新興歌人連盟に参加、プロレタリア短歌運動で活躍したが、第一歌集『九月一日』が発禁処分を受ける。
獄中生活など苦難を体験。夫人は、その頃知り合った山田あき、である。この夫人も名のある歌人。
こういう経歴の持ち主と知れば、さまざまな「くびき」から解放された作者の心象が、掲出した歌には、十全に表出されている、と知ることが出来よう。

坪野哲久の歌を少し引用してみよう。

  憂ふれば春の夜ぐもの流らふるたどたどとしてわれきらめかず

  春さむきかぜ一陣の花びらがわが頬をうち凝然と佇つ

  春のみづくぼめて落ちし遺響ありおもく静かに水は往きにき

  たんぽぽのはびこる青に犬は跳びきりきりと排糞の輪をかきはじむ

  にんげんのわれを朋とし犬の愛きわまるときにわが腓(こむら)噛む

  百姓の子に生れたるいちぶんを徹すねがいぞ論理にあらず

  ほら聞けよぶんぶん山から風がきて裏の蕪がただ太るぞえ

  残り生が一年刻みとなりしこと妻とわらえりあとさきいずれ

  死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん

  つまどいの猫のさわぎも生きもののうつくしさにて春ならんとす

  無名者の無念を継ぎて詠うこと詩のまことにて人なれば負う

  老人のぼくだけですね雨のなか生ごみという物を運ぶは




春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂
2009022F252F462Fc0108146_234431887柳新芽

   春さればしだり柳のとををにも
     妹(いも)は心に乗りにけるかも・・・・・・・・・・・・・柿本人麻呂


この歌の意味は、春になると、しだれ柳がたわたわとしなう。そのように私の心もしなう。そのしなった私の心の上に、恋人よ、おまえは乗ってしまった。
「春されば」のサルは「移る」の意で、春が来ると、の意味。
「とをを」は「撓(とをを)」で、タワワの母音が変化した形、たわみしなうさま。
「妹は心に乗りにけるかも」という、現代でも新鮮な具象的映像による表現は、当時の古代人にも大変好まれたようで、『万葉集』には同工異曲の歌が散見される。
『万葉集』巻十所載。

『柿本人麻呂歌集』には、人麻呂自身の作と、当時民間で歌われた民謡を人麻呂が採集記録したものとが含まれていると考えられるが、広義には記録者としての人麻呂の作と考えてよいだろう、と言われている。

柿本人麻呂の忌日は陰暦3月18日とされている。新暦だが、その日に因んで載せる。

人麻呂は『万葉集』の代表歌人、歌聖と言われた。
彼の伝記はほとんど不明で、生没年も判らないが、『正徹物語』の説によって、この日を忌日とする。
3月18日は、小野小町や和泉式部の忌日でもあり、この日は民俗的に大切な日であったらしい。
人麻呂忌を詠った句を引いて終りにしたい。

 土佐が画の人丸兀(は)げし忌日かな・・・・・・・・正岡子規

 山の辺の赤人が好き人丸忌・・・・・・・・高浜虚子

 人丸忌わが俳諧をもて修す・・・・・・・・富安風生

 二三人薄月の夜や人丸忌・・・・・・・・飯田蛇笏

 いはみのくにいまも遠しや人丸忌・・・・・・・・山口青邨

 人麿忌野に立つ我もかぎろふか・・・・・・・・大庭雄三

 人麿とつたへし像をまつりけり・・・・・・・・水原秋桜子

 人丸忌歌を詠むにはあらねども・・・・・・・・大橋越央子

 顔知らぬ人々寄りぬ人麿忌・・・・・・・・阿部みどり女

 山国の川美しや人麿忌・・・・・・・・西本一都

 歌やめて太りし妻や人麿忌・・・・・・・・肥田埜勝美

 人麻呂忌砂にひろごる波の末・・・・・・・・長尾俊彦

 人麿忌旅の枕を返しけり・・・・・・・・細貝幸次郎

 謎の歌石見に残る人麻呂忌・・・・・・・・水津八重子


鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
  e0083820_12144715兜子色紙

  鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子

今日3月17日は俳人・赤尾兜子(あかお・とうし)の忌日である。
彼は大正14年姫路市生まれ。京大文学部卒。毎日新聞に勤めた。俳句は大阪外語のときに始めた。
「太陽系」「薔薇」「俳句評論」などにかかわった。
昭和35年「渦」を創刊、主宰。昭和36年、現代俳句協会賞を受賞するが、選考をめぐり、協会の分裂をひきおこし「俳人協会」が発足することになった。
新興俳句系の俳人だったが、のち伝統俳句への回帰に進んだ。昭和56年歿。

以下はネット上に載る「zenmz」という人のサイトに載るものである。全文を引用する。
これを読めば、彼の「鬱」に陥っていたということなども、よく氷解して理解出来るのである。
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【6082】 赤尾兜子を偲ぶ
★ 去る者は日々に疎し、と言いますが、鬼籍に逝った親友はいつまでも我が心の中にあって、生きています。いつも3月になると、その人を想い起こすのは赤尾俊郎さん。その人の名を知る人は、もう少なくなりましたが、和歌、俳句等、短詩型文学に親しまれている方なら直ぐおわかりになる「兜子」(とうし)の俳号を持つ俳人でした。

★ エッ? あなたが俳人と交遊を??? 驚かないで下さい。赤尾さんと私は、毎日新聞記者時代の先輩・後輩の関係にあり、赤尾さんが5年先輩。晩年は共に新聞記者の第一線から離れ、大阪本社出版局で、赤尾さんは編集課長、「サンデー毎日」の大阪在勤次長職にあり、私は「点字毎日」編集長をし、文字通りに共に机を並べて仕事をしました。親交はその時に始まりました。

★ 当時、大阪・千里ニュータウンにあった我が家にもしょっちゅ遊びに来て,我が家族共々、お付き合いさせていただきました。達筆の人で、最初に夕食を共にした時、色紙に書いてくださったのがこの一句です。
多分、兜子句集2000句の中にも含まれているだろうと思います。

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (掲出の写真①)
★ 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

★ ここでちょと、赤尾兜子の紹介をしておきます。今から半世紀以上も前、終戦直後の京大学生時代に伝統を打ち破る斬新な俳句を次々と発表して”前衛俳句”の新ジャンルを築いた鬼才です。
 代表作 音楽漂う岸侵してゆく蛇の飢
が打ち出す強烈なイメージでその作風をご想像下さい。

★ 大阪外語専門学校(旧制)時代の同級生に司馬遼太郎さん、陳舜臣さんなど著名作家がおり、赤尾兜子さんと合わせて「外語3鬼才」は大阪文壇の3重鎮として並び称せられていました。京大卒業と同時に毎日新聞記者になりましたが、前衛俳句運動は自ら創刊した俳句誌「渦」の結社を中心に展開されました。

★ 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。が、私とは妙に気が合って親密なお付き合いをさせていただきました。

★ 多分、全くの門外漢であったことが良かったのでしょう。いつか一度、結社を覗かせてもらいましたが、門下生を前にその風格は絶対的な権威を思わせるものがありました。「あんなん、シンドイでしょう」と言うと、「それや、どうにもならん」と笑っていました。

★ しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などビックリしたことがあります。

★ 生家は兵庫県網干の旧家、何代か続いた材木問屋です。八人兄弟の次男。長兄の龍治氏は、著名な郷土史研究家で、『盤珪禅師全集』 を刊行して姫路市文化功労賞を受け、 次いで 『徳道上人』 を刊行して兵庫県文化功労賞を受けておられます。(因みに兜子も兄に続いて後に兵庫県文化功労賞を受けています)

★ 親交が深まるにつれ、私は、自分が編集長をしている週刊新聞「点字毎日」の俳句欄”点毎俳壇”の選者をお願いしました。盲人俳句を育てていただけないか? 恐る恐るお願いしたら即座に引き受けて下さいました。「極限から生を見つめる。スゴイ作品がいっぱいある」 初めての月の選評で、今も、心に残る選者・兜子の総評です。

★ そういう次第で、定年で新聞社を去った後も、毎月、”点毎俳壇”の選句をしていただくために新聞社に迎えていました。そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。

★ 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。

★ 折りも折り、兵庫県文化功労賞を受賞しました。当然、マスコミは長兄・龍治氏に続く「兄弟ダブル受賞」を称えました。傍目には大きな慶事、網干の名門一族にとっても喜ぶべき朗報のはずですが、ご本人にとっては逆だったようです。

★ 自らもその作風が伝統回帰を目指していることの意味を問い続け、悶々とそのナゾを密かに問いつめていた兜子にとっては大きなプレッシャーになりました。「これから芭蕉に挑戦や。えらいこっちゃ」 当時、喜びに訪れた私に赤尾さんはニコリともせず、そう語ったものでした。

★ それをずっと引っ張ってきていたのですね。「芭蕉を超えられん」とは、あまりに生真面目すぎます。そこで・・・「あんな、赤尾さん、芭蕉、芭蕉、言うけど、ボクなんか、俗人に言わせてもらえば乞食としか想えへんで。芭蕉超える、言うけど、赤尾さん、乞食にならんと・・・乞食の次元の話とチャウ?」 

★ 眉を顰めて私の前にいた赤尾さんは、突然、「ワッハッハー」 大声で笑い始めました。 「乞食か。そうやな、乞食。コジキや」 本当にこの時、私たちは、悪ガキに戻ってのはしゃぎぶりでした。赤尾さんは、来たときとは全く異なる明るい顔で帰って行きました。

★ それから間もなく。昭和56年(1981)3月17日のこと。「赤尾さんが交通事故で亡くなられました」 人事部から急ぎの連絡がありました。とりもなおさず阪急岡本の自宅に駆けつけました。

★ 奥様のお話では、「今朝、起きがけにタバコを買うと言うて出て行ったが踏切で電車にはねられて即死だった」とか。ただ集まった多くの人々は、「ひどい鬱状態だったからね・・・」と、咄嗟に自殺と見たようでした。

★ 当時、兜子は重度の鬱状態にあったのはたしかです。でも・・・私は、今なお、赤尾さんは自殺という積極的な自己否定に出るはずはなかった、それはきっと、鬱による事故だった、と信じています。赤尾家は急坂の中程にあります。下を走る阪急電車。だらだら坂を下る途中に踏切があります。物思いに深けていた赤尾さんが迷い込んだとしか想いようがありません。

★ 何故、そう断定するか。赤尾さんが残した一つの句があります。
    父として生きたし風花舞う日にも 
 赤尾さんにはたった一人の男の子がいました。その頃、高校に入ったばかり。「息子もこれで片付いた」と私にその喜びを語りました。その子を想う歌です。 赤尾兜子の記録を見ると、多くの解説はその偉大な功績を顕彰した後、昭和56年56歳で自殺、としています。だがこんな歌を残して自殺する人がいるでしょうか?

★ 兜子の現代俳句誌「渦」は妻の恵以さんが引き継ぎ、神戸に兜子館カルチャーサロンを運営して居られる、と仄聞します。是非、一度、訪れたいと思います。ご子息も40代になっておられるはず。出来れば、共々、亡友追善の語らいの機会を得たい、と願っています。
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uzuhyousi渦表紙

写真②は彼の結社「渦」誌の表紙である。

以下は、彼の代表作とされる句である。ここには、伝統俳句に回帰した時期の句は、余り引かれていない。

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
たのむ洋傘に無数の泡溜め笑う盲人
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
ねむれねば頭中に数ふ冬の滝
まなこ澄む男ひとりやいわし雲
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
マッチ擦る短い橋を蟹の怒り
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
愛する時獣皮のような苔の埴輪
悪地もなやむなまこのごとき火の鉄片
暗い河から渦巻く蛇と軽い墓
烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸
嬰児泣く雪中の鉄橋白く塗られ
屋上照らす電光の雪記者も睡り
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
蛾がむしりあう駅の空椅子かたまる夜
海の空罐細り細りて疎(まば)らな葦
柿の木はみがかれすぎて山の国
乾ききる鳩舎寝顔の燃ゆるころ
巻舌よりパン光りおつ医大の傍(そば)
機関車の底まで月明か 馬盥
帰り花鶴折るうちに折り殺す
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
空地で刺さる媚薬壜掘る墓掘人夫
空鬱々さくらは白く走るかな
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
硬く黒い島へわめく群集核(たね)を吐き
子の鼻血プールに交じり水となる
少女の足が研ぐ鯨のような繊維街
赤茶けたハムへ叫ぶ老人が寒い極点
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光
多毛の廃兵遠くで激しくつまづく驢馬
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
大雷雨鬱王と合ふあさの夢
朝発つ牝牛に異音流れる霰の丘
鉄階にいる蜘蛛智恵をかがやかす
独裁のけむりまきつく腰帯の発端黴び
破船に植えた血胤のいちぢく継ぐ
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
白い唾で濯ぐ石斧の養老院
白い体操の折目正しく弱るキリン
白い牝牛の數藁を擦る薄明の門
薄皮の蝸牛白い営みを濯ぐ老婆
髪の毛ほどのスリ消え赤い蛭(ひる)かたまる
番人へ菌絶える溝のなかからの声
麻薬街の内部撫で了る鼠の孤児
未知の発音尖る陸橋の白い茸(たけ)
密漁地区抜け出た船長に鏡の広間
眠れぬ馬に釘打つ老いた霧の密室
名なき背に混みあう空家の青い石
夜は溜る鳩声惨劇するする刷られ
油でくびれた石白く笑いだす鉄道員
揺れる象のような海聾女の新聞ちぢむ
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
埃から埠頭吸い馬の眼馬の眼を怒る
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
膠(にかわ)のごとく雪呑み乾く髪の老人
鴉の咳ごとに嬰児の首洗う
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昨日付けで書いた「飴山実」もそうだが、京都大学出身の俳人は多い。
「京大俳句会」という会があって、戦前から俳句界革新のために活動してきたが、第二次大戦中の昭和十年代には「自由」とか「革新」ということが徹底的に弾圧されて、多くの俳人たちが獄に繋がれた。今日の赤尾兜子は、そういう戦前からの「俳句革新」の運動を戦後になって継承したと言えるだろう。現役で作品を発表している俳人で言えば「伊丹三樹彦」なんかはその系統に属するとも言える。
戦後になって「前衛俳句」として華々しく開花した運動にも、戦前からの、そういう伝統というか、「伏線」があるのである。
京都大学というのは、官僚養成を主目的として発足した東京大学とは違って、また対抗意識を抱いたものとして、時たま、こういう自由な運動が発生するのであった。
「京都」という土地が、そういう「自由」な雰囲気を湛えているとも言える。
京都は千年の間、「みやこ」のあった王城の地であったが、明治になって日本の首都が東京に移って、一時は寂れかけたが、西欧文明の取り込みにも先端を切り、文明開化に先んじた、自由なプライドを「京都人」は持っている。
そんなこんなの諸々が京都には底づいているのである。


花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実
e88bbae381aee88ab111苺の花

   花の芯すでに苺のかたちなす・・・・・・・・・・・・・・・・飴山実

今日3月16日は俳人・飴山実の忌日である。

飴山実は俳人としても有名な人であるが、科学者としても高名な人である。
「日本農芸化学会功績賞」というのがあり、昭和63年 1988年 、 山口大学農学部教授のときに「 酢酸菌の生化学的研究 」という論文で、この賞を得ている。
昭和元年、石川県小松市生まれ。旧制四高の勤労動員中に芭蕉や蕪村の七部集を読んで作句。
家業が醤油醸造業だったので、昭和22年京都大学農学部に入学し、発酵醸造学を専攻した。
昭和25年卒業して、大阪府立大学農学部助手に就職。その後、静岡大学、山口大学教授を歴任し、応用微生物学研究の礎を築く。
先に書いたような学会の最高賞を得た。酢の研究では世界的権威。

俳句では、金沢大学教授で、かつ俳人の沢木欣一が戦後創刊した「風」に参加。
自らも「楕円律」を創刊し、戦後の俳壇で活躍したが、のち無所属となり、結社も持たず公平な俳句評論に定評があった。
安東次男の人と書に親しむ。
平成12年(2000年)3月16日、東京での選句会を翌日に控え、腎不全のために急逝した。
句集に『おりいぶ』『少長集』『辛酉小雪』『次の花』など。
現代俳壇の中堅として活躍する長谷川櫂も一時彼に師事した。

以下、彼の句を引いて終る。

 てのひらに葭切の卵のせてきぬ

 熱のからだはどこも脈うつ青林檎

 花林檎貧しき旅の教師たち

 授乳後の胸拭きてをり麦青し

img5efff1b0zikdzj飴山実色紙

 うつくしきあぎととあへり能登時雨

 柚子風呂に妻をりて音小止みなし

 春浅き海へおとすや風呂の水

 蚊を打つ我鬼忌の厠ひびきけり

 土堤刈つてより二日目の曼珠沙華

 奥能登や打てばとびちる新大豆

 手にのせて火だねのごとし一位の実

 比良ばかり雪をのせたり初諸子(もろこ)

 鮒二つ日たけて釣れし丈草忌

 花杏汽車を山から吐きにけり

 法隆寺白雨やみたる雫かな

 あをあをとこの世の雨のははきぐさ

 茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす

 田雲雀の十(とを)も来てゐる夕日かな

 年酒して獅子身中の虫酔はす

 この峡の水を醸して桃の花

 酒唎(き)いてやや目のほてる初桜

 光琳忌きららかに紙魚(しみ)走りけり

 大雨のあと浜木綿に次の花

 花筏やぶつて鳰の顔のぞく

 山ふたつむかふから熊の肉とどく

 青竹に空ゆすらるる大暑かな

 かなかなのどこかで地獄草紙かな



深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・堀口大学
  2-5堀口大学

  深海魚光に遠く住むものは
    つひにまなこも失ふとあり・・・・・・・・・・・・・・・堀口大学


今日3月15日は詩人・堀口大学の忌日である。
先ず、彼のことをネット上から引いておく。
掲出歌に関しては、この引用記事の終りの方に書いてある。

堀口大學
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堀口 大學(ほりぐち だいがく、1892年(明治25年)1月8日 ~ 1981年(昭和56年)3月15日)は、日本の詩人、フランス文学者。

略歴
1892年、東大生堀口九萬一(のち外交官となる)の長男として、東京・本郷に生まれる。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。幼児期から少年期にかけては、新潟県長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し、上京。

17歳のとき、吉井勇の短歌『夏のおもひで』に感動して新詩社に入門。歌人として出発する。

1910年、慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を始める。

19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。

この頃、肺結核を患う。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

1919年、処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。以後も多数の出版を手がける。その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与えた。三島由紀夫もまた、堀口の訳文から大きな影響を受けた一人である。

1957年に芸術院会員となり、1979年に文化勲章を受章。1981年、歿。享年89。

娘の堀口すみれ子も詩人でエッセイスト。

1967年、歌会始で(お題は「魚」)、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。
生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、一部には天皇に対する、本人を目の前にしての批判であると解する向きもまたある。

著訳書
月光とピエロ(1919年)
パンの笛(1919年)
訳書・夜ひらく(1924年)
訳詩集・月下の一群(1925年)
砂の枕(1926年)
人間の歌(1947年)
夕の虹(1957年)
月かげの虹(1971年)
沖に立つ虹(1974年)
ルパン傑作集(翻訳年はかなり以前で近年再版されている。)
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はじめに、昭和25年、住んでいた高田を去るときに彼が詠った詩が詩碑として残っている写真をかかげておく。

hori2大学詩碑

高田に残す(堀口大学詩碑)

ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞ無けん
すめば都と いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ 清う咲け
雪とこしへに白妙に

堀口大学は父親が外交官であったために、家族として同行して海外生活が長かった。
外国語に堪能であったので、西欧詩の翻訳家として出発した。
引用したところにも書いてあるように「ミラボー橋の下セーヌは流れる」というのが有名だが、近年、詩の翻訳としては、その適否について、とやかく言われている。

人間よ

知らうとするな、自分が、

幸か不幸だか、

問題は今そこにはない。

在、不在、

これが焦眉の間題だ、

灼きつくやうな緊念事。

生きて在る、死なずに在る、

感謝し給ヘ、今日も一日、

調和ある宇宙の一點、

生きものとして在つたこと。

神にでもよい、自然にでもよい、

君の信じ得るそのものに。

知らうとするな、

知るにはまだ時が早い、

人聞よ、

墜落途上の隕石よ。

(人間の歌・隕石)の詩より。(詩集『人間の歌』昭和22年宝文館刊)

この堀口大学の詩は、人の世の愁色感と一種の軽快さ漂わせ、多くの人の青春を流れていった。
先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩が出来たといった、辞世の詩

「水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです」

というのが知られている。

昭和56年、堀口大学は永い詩人生の最期を、春一番の風雨が去ったこの日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら静かに迎えた。
89歳という長寿であったが、今は鎌倉霊園に眠っている。写真③が、その墓碑。

horigutidaigaku大学墓碑

以下は、この記事を書いた人のコメントである。

<ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると>アポリネール・ミラボー橋のこのあとにつづく、<日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る>の一節は今になっても私の耳元に小波をうって渡ってくる。この高台の芝垣で囲まれた墓碑のある塋域には、広い谷から吹き上がってきた梅雨の風が抜けきれず、どことなく空しさを携えて残っていた。


角川歴彦『クラウド時代と<クール革命>』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
クラウド

──新・読書ノート──

    角川歴彦『クラウド時代と<クール革命>』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・・・・・・・角川oneテーマ21(2010/03刊)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本は、角川グループホールディングスCEOの角川歴彦の著書である。
この本は、ITとかメカとかには極めて弱い私には苦手のものだが、今を流行りのカタカナ語につられて、少し勉強しようと思って買ってみた。
次に、この本の「帯」裏を出しておく。
角川歴彦「帯」裏

「クラウド・コンピューティング」とは、いかなるものか、について、← このリンク先に詳しい。
また、「キンドル」とは、何なのか、も ← このリンク先で読まれたい。
貼り付けてもいいのだが、記事が物凄く多くなるので遠慮しておく。

この本の「裏表紙」にも書かれているように、角川グループ・ホールディングス(GHD)は最近、今話題の「YouTube」と提携したらしい。
角川グループ・ホールディングスCEOとして、書籍、映画などの情報産業最前線に立つ者として、昨今のメディアの激変は、まさに「黒船」襲来というべく、舵取りを誤れば、一転して時代の奔流の埒外に置き去りにされる恐れがあるのだから、必死なのであろう。
この本は「新書版」の薄いものだが、著者のガケっ淵に立った危機意識が素人の私にも、ひしひしとせまってくる想いがする。
一知半解の要約は止める。 志ある人は、本書を読んでみてほしい。


花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女
  本山可久子

   花冷や箪笥の底の男帯・・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

今日3月14日は俳人・鈴木真砂女の忌日である。
彼女の長女で新劇俳優である本山可久子の本 『今生のいまが倖せ・・・・・・母、鈴木真砂女』(2005年講談社刊)というのをネット書店で買った。

unami12卯波
写真②は銀座にあった彼女の小料理屋「卯波」である。
彼女の孫・宗男(可久子の長男)が経営していた。

unami14.jpg
写真③が「卯波」の厨房の様子で、左側に居るのが宗男らしい。
この店も再開発とかで2008/01に立ち退いた。寂しい限りである。元の店の写真など載せておく。

(追記)
俳句界に詳しいところからの情報によると

<卯波、再開です!(嬉)
以前の店のとなりのビルの地下になるけど、住所は前とおんなじ。オープンは、二月を予定しているらしい。
一家離散していた家族が、またおうちができて集まるような、そんな心境です。
いやー、本当にいいニュースやった 。>

という記事が載っていた。
その後の報道によると、つい最近「新・卯波」が開店したらしい。アクセスして見てもらいたい。

彼女の経歴については、可久子の「本」をはじめWeb上でも詳しく載っているので読んでもらいたいが、ここで簡単に載せておこう。

鈴木真砂女は明治39年11月24日に千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋に生れる。
夫の出奔や再婚、自身の愛の出奔など波乱に富んだ人生を送ったあと、昭和32年銀座の路地奥に小料理屋「卯波」を開く。
句作は昭和10年からはじめたという。
その間、久保田万太郎に師事するなど文学者に愛され、石田波郷の定席が決まっていたなどの話がある。
写真④が「卯波」のくれたマッチに刷られた真砂女の句である。
unami16.jpg

昭和38年久保田万太郎の急逝のあとは「春燈」の後継者・安住敦に師事。
句集は七冊出しているが、第四句集『夕蛍』で俳人協会賞を受賞。
第六句集『都鳥』で読売文学賞を受賞。
第七句集『紫木蓮』で蛇笏賞を受賞する。
平成15年3月14日死去。享年96歳。

可久子の本には瀬戸内寂聴が帯文を書いているが、彼女自身も愛の遍歴で家庭を捨てた人であるから、面白い。
この本は、真砂女の生涯を簡潔に、かつ娘として知る「本当の」話を描いていて情趣ふかい。

写真⑤は静岡県にある冨士霊園の彼女の墓。
suzukimasajyo墓
以下はWeb上に載る或る人の記事である。借用にお礼を申したい。
引かれている句も味わいがある。
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 羅(うすもの)や細腰にして不逞なり (卯浪)

 罪障のふかき寒紅濃かりけり (生簀籠)

 あはれ野火の草あるかぎり狂ひけり (夏帯)

 柚味噌練つて忽然と来る死なるべし (居待月)

 恋を得て蛍は草に沈みけり (都鳥)

 戒名は真砂女でよろし紫木蓮

 恋のこと語りつくして明易き (紫木蓮)

丙午うまれとはいえ恋の女は気性も激しい。2度結婚して2度離婚。51歳で不倫の恋を貫くため、鴨川の実家、「吉田屋旅館」の女将の座を捨て、女手一つで銀座に小料理屋「卯波」を開店するなどという離れ業をやってのける。以後の40年、「卯波」は立ち位置となり、句は「卯波」となった。「老いてますます華やいだ」生涯現役の俳人、腰痛のため療養生活を強いられてなお4年余り、96歳の春、強靱な生命力を持ち続けたさすがの真砂女も平成15年3月14日夕刻、東京・江戸川区の老人保健施設で老衰のため逝く。

 あるときは船より高き卯浪かな

紡ぎ綿を敷きつめたような空、梅雨の中休みにしてもとにかく暑い。何回目かの訪問で慣れているとはいえ、幹線道路のような広く長い坂道をのぼりきると汗がどっと噴き出てくる。眼下に大パノラマを展開する霊園の背後から、遙か前方の山稜に霞ゆく高圧鉄塔のつながりを何となく眺めながら、ふと、そういえばいつもはあのあたりには確信に満ちた冨士の顔が見えていたはずだがと、ぼんやり思い出していた。ゆるゆると深呼吸した足許に、湿気を含んで黒ずんだ火山灰土に据え置かれた碑

 芽木の空浮雲一つゆるしけり

亡くなる20年前、喜寿の年に建立した真砂女の墓。句碑ともいえる矩形の石塊に閉じこめられたのは、美しい思い出ばかりであろうはずもない。
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他人の引用ばかりでは芸がないので、私の選んだ句を少し引く。重複するのは除く。

 人のそしり知つての春の愁ひかな

 女三界に家なき雪のつもりけり

 男憎しされども恋し柳散る

 夏帯や運切りひらき切りひらき

 暖炉燃ゆわれにかへらぬものいくつ

 人もわれもその夜さびしきビールかな

 掌にぬくめやがて捨てたる木の実かな

 裏切るか裏切らるるか鵙高音

 亀鳴くや夢に通へと枕打ち

 風鈴や目覚めてけふのくらしあり

 ふぶく音を海鳴りとききねむらんか

 かくれ喪にあやめは花を落しけり

 老いまじや夏足袋指に食い込ませ

 限りあるいのちよわれよ降る雪よ

 住みつけば路地こそしたし夜の秋

 とほのくは愛のみならず夕蛍

 鴨引くや人生うしろふりむくな

 忌七たび七たび踏みぬ桜蘂

 水もさびし空もさびしと通し鴨

 隠しごと親子にもあり桜餅

 死なうかと囁かれしは蛍の夜

 怖いもの知らずに生きて冷汁

 今生のいまが倖せ衣被

 生国も育ちも上総冬鴉

 ふるさとは遂に他国か波の華

 かのことは夢まぼろしか秋の蝶

 捨てきれぬものにふるさと曼珠沙華

 人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華

 如月や身を切る風に身を切らせ

 ふるさとの冬の渚が夢に出て

 白南風や漕ぎ馴れてきし車椅子
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「鈴木真砂女ミュージアム」というのが開設されているので、ご覧いただきたい。彼女の写真もある。

彼女の眠る冨士霊園には、彼女と親しかった中村苑子、秋元不死男、三谷昭、高柳重信などの俳人が葬られているという。
本山可久子の関係では杉村春子などの墓も建っているという。


下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
江戸は川柳京は軽口

──新・読書ノート・・・初出Doblog2005/10/21──

   下山山下『江戸は川柳 京は軽口』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この本は1992年山手書房新社刊のものである。
著者の「下山山下」という名前からして、人を食っているではないか。
この本の裏表紙のキャッチコピーに

 京童も人の子
 笠づけ句集「軽口頓作」
 夫婦ぜんざい・甘味辛味
 こども・いとし子・邪魔なガキ
 どら息子・いろ娘
 恋心・欲目流し目
 金、金、金の世の中
 仕事・商売・メシのタネ


と書かれている。けだし、この本の特長を巧く要約している。

江戸は川柳京は軽口0001

この本の出だしに、こう書かれている。

「たまには京都へ遊びに行きたいなあ」なんて考えるときがあるでしょう。そういうとき、京都の何を思い浮かべますか。
・・・・・「古都」のイメージでわれわれは京都に憧れてる、たぶん。その京都に、江戸時代のことだが、こういう句を詠んだ人がいた。

 むづかしい・しゃもじなんどと御所の内

「しゃもじ」というのは、もちろん飯をよそったりする「杓子」のことだが、御所では、品がないといって「しゃ文字」と呼んだ。
湯具(女の腰巻)を「ゆ文字」、髪の毛を「か文字」というのも、この類。今でも、これらの言葉は標準語としても生きている。・・・・・・

江戸は川柳京は軽口0002

上に引いた句の5、7、5のはじめの5のあとに「・」を置いたのは著者であるが、これは「川柳」に対抗する「笠句」という文芸であることを示すためである。
「笠づけ」と言われて、「冠句」のように上5が課題として出されるものである。
文芸としてのジャンル上では「雑俳」と呼ばれるものである。
つまり、これは笠づけ句集「軽口頓作」という句集に入っているということである。
川柳とは違う文芸が三百年も陽の目を見ずに埋もれていたのに陽を当てたということである。
以下、この本に載る名作・迷作を少し紹介する。

 これはこれは・つめたい足を夫(とと)どうぞ

 よいものじゃ・つめたい足じゃがかかゆるしゃ

 どうしても・足がさはれば手がさはる


房事での夫婦のやり取りである。「軽口頓作」の句は「口語」(はなしことば)で書かれていることがわかる。
江戸時代の川柳に「末摘花」というエロっぽいアンソロジーがあるが、そこに載る句では

 あっためてくれなと足をぶっからみ

ということになる。
これについて、著者は、次のように書く。

・・・・・この、言葉がキリッと締まった都会人的センス。「軽口頓作」のブヨブヨノロノロした調子とはまつたく対照的だ。なぜこうも違うんだろう。
時代が古い。それもある。「軽口頓作」は1709年の出版。片や川柳の最初の句集は、それより五十年以上あとだった。
京都と江戸という違いもある。平安遷都から900年も天皇を戴いてきた京都と、わずか100年前に武士が幕府を開いた江戸。気候風土も違う。
それから、たぶん作者の中身も違う。「軽口頓作」の句の作者は全然わからないが、たぶん商人や職人、つまり町人と言われる階層の人々が多かった筈で、そういう人たちが詠んだ句の中から雲鼓という宗匠が選んで出来たのが、この句集である。
江戸は武士の町で、彼らは知識階級であり、幼いときから中国の古典なんかも読んでいる。
川柳は「河井川柳」という人が始めた文芸なのである。

この句集でも、やはりメインはエロっぽい句が主流を占める。

 にくいもの・あんまり仲のよい夫婦(めをと)

それが、川柳の「柳多留」という、これも有名な句集では

 そこ掻いてとはいやらしい夫婦仲

となる。どちらがよいか、は読者の判断に任せよう。

 大事ない・毛虫が留守じゃながうなれや
 ・・・・・・・・・・・・・親をさして云也・・・・・・・・・・・(こういう注釈がつく)

 しうとめの留守の炬燵に顔二つ

川柳では、こうなる。(「・」の区切りのあるのが「軽口頓作」である今後は一々断らない)

 くたびれる・ずんずとのびる娘の背

 背がのびりゃ苦は色ぐるひですばいの

 娘もふ筆をかくして使ふなり

 十六で娘は道具ぞろひ也

これは、すなわち、ヘアが生える齢。お月さんはすでに始まってるから、これですっかり女の支度ができた、そういう年齢というわけ。

 ゆだんせぬ・二八ばかりの生ざかな
 ・・・・・・・・・・・・・・・娘子也・・・・・・・・・・
「二八」は2×8で十六歳。いちばん娘盛りの時期。

江戸は川柳京は軽口0003

愛憎が行き着くと「恋に恨み」はつきもの。
図版④は図の下にも説明がある通り「呪いの釘を打つ女」とある。

 ようはする・にくければとて時まいり

いわゆる丑の刻参りを「時まいり」とも言う。江戸でもこれをやったが、京都では貴船神社へお参りするのが代表格だった。
「ようはする」は「よくやるものだよ」くらいの意味。

 何とせう・貴船様めもぬかに釘

肉欲の楽しみを詠んだ句を少し。

 あぢをやる・ろの字なんどのよさはいの

味なもんだよ。「ろの字」の良さったらないもの。ひらがなの「ろ」は、漢字の「呂」の字を崩したもの。
この漢字をよく見ると「口」という字が二つ繋がっている。つまり口と口を重ねるということ「キス」である。
「よさはいの」は「良さつたらないの」である。キスのことは日本では古来「口を吸う」と表現する。

 めにかけて・ちんぷんかんと女子の乳
 …・・・・・・唐人は女の乳をよろこぶもの也・・・・・・・・
長崎出島の廓の風景である。

 小きみよい・日本人でもをなごの乳

この句は、先の句のパロディであろうか。

 丸山の客の騒ぎはチンプンカン

 身を入れてはたらく下女は両用い

 あんのじゃう・旦那の御作玉が腹

 ・・・・・・・・・・・・下女也・・・・・・・・・・・

 おきおきに・下女とらまへてむごいぞよ

 いやならばいいが女房(かかあ)にそう言ふな

 させぬのみならず女房に言っ付ける


江戸は川柳京は軽口0004

図版⑤は「鍛冶や」の図である。

 なるものじゃ・気がいってつに刀鍛冶

 我知らず歯をくいしばる細字書き

 ちがひます・具足屋の気と鑓(やり)屋の気


精を出す職人の働き振りには、率直には感動して、けなさずに描かれている。
いよいよ、この本も終わりにしよう。
「早乙女」を詠んだ、少しエッチな句である。

江戸は川柳京は軽口0005

 かしましや・こらへかねてぞ田へつぶて

 五月女をうしろから見ておやす也


田植えをする女たちが、一斉にこちらへ尻を向けて苗を植えてくる。
それを見て男どもが、いやあ、こりゃたまらん、と石つぶてを可愛いお尻めがけて投げつける、という図である。

 早乙女の股ぐらを
 鳩がにらんだとな
 にらんだも道理かや
 股に豆を挟んだと、ナヨナ


という民謡があったらしい、と書かれている。お分かりかナ。 

 つとめとて・あほと呼ばれてはあいはい

この句には、現代に通じるものがあり、涙がちょちょ切れる。 では、また。


水取りや氷の僧の沓の音・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
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    水取りや氷の僧の沓(くつ)の音・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句には「二月堂に籠りて」の前書きがある。
奈良東大寺二月堂では、3月1日から14日まで修二会(しゅにえ)の行法が行われる。
2月21日から練行衆と言われる僧は精進潔斎をおこない、3月1日の夜から堂に参籠し、授戒、籠松明、お水取りなどの諸行を修し、達陀(だったん)の法で行が終り、15日の東大寺涅槃講を迎える。
二月堂の開祖・実忠和尚が始めたと言われる。修二会とは、2月に修するという意味で、旧暦の2月1日から14日間にわたって行われたもので、今の暦では、上に書いたように3月に行われる。「お水取り」は、そのうちの一つで、3月13日の午前2時頃から行われる。
二月堂で一年間仏事に用いる聖水を、堂の近くの閼伽井(あかい)で汲み、本堂に運んで五個の壺に納め、須弥壇の下に置くもので、この「あかい」の水は若狭国から地下でつながっていると伝えられる。この水で牛王(ごおう)の霊符を作り参詣の人々に分けるのである。

以上がお水取りの行法だが、これを拝観に人々が集まるのは、雅楽の響きの中、法螺貝を吹き鳴らし、杉の枯葉を篝火に焚き、僧が大松明を振りかざして回廊を駆け昇るのだが、クライマックスとなるのは3月12日午後8時頃に籠松明12本を次々に連ねて廻廊から揺りこぼす(関係者は「尻松明」と称するらしい)という壮観な行事である。
この大松明の振りこぼした「燃え残り」を拾って、家に持ち帰ると、ご利益があるというので、人々は競って拾うのである。写真は、その時の大松明の燃えさかる様子だが、どうして、お堂に火が移らないか、と不思議である。

関西では「水取りや瀬々のぬるみも此日より」の句にある通り、お水取りが終わらないと暖かくならないと言われ、事実、季節の推移は、そのようになるから不思議である。こういう感覚は、関東や西国の人には理解できないことかも知れない。

2010/03/04に撮影された動画 をリンクに貼っておくので、ご覧ください。



掲出した芭蕉の句だが、しんしんと冷える深夜、凍てついた氷さながらの僧の、森厳な修法の姿を端的に示す氷ついた沓音が響く。「氷」は「僧」にも「沓音」にもかかると見るべきだろう。
貞享元年から二年にかけての記念すべき関西への旅の体験である。出典は『野ざらし紀行』。
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修二会を詠った句を挙げて結びにする。

  廻廊の高さ修二会の火を降らし・・・・・・・・・岩根冬青

  修二会の赤き雪かな火の粉かな・・・・・・・・吉川陽子

  籠りの僧煙のごとしや走り行・・・・・・・・堀喬人

  女身われ修二会の火の粉いただくや・・・・・・・・斎藤芳枝

  修二会の奈良に夜来る水のごと・・・・・・・・角川源義

  修二会僧女人のわれの前通る・・・・・・・・橋本多佳子

  巨き闇降りて修二会にわれ沈む・・・・・・・・藤田湘子

  走る走る修二会わが恋ふ御僧も・・・・・・・・大石悦子

  法螺貝のあるときむせぶ修二会かな・・・・・・・・黒田杏子

  修二会果つ大楠の根を雨洗ひ・・・・・・・・針呆介

  雨音も修二会も鹿の寝(い)の中に・・・・・・・・志摩知子

  倶に寡婦修二会の火の粉喜々と浴び・・・・・・・・我妻草豊

  参籠の修二会に食ぶ茶粥かな・・・・・・・・大橋敦子

  ささささと火を掃く箒お水取り・・・・・・・・山田弘子

  火と走る僧も火となるお水取り・・・・・・・・銀林晴生

  お水取り青衣女人のまかり出る・・・・・・・・磯野充伯

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友人の井芹能一氏から提供頂いた、平成16年2月26日に行われた修二会のための「社参」という行事の写真があったのだが、ブログ移転の際に紛失してしまった。。
写真は、先頭から和上、大導師、咒師、堂司とつづく行列であった。
場所は戒壇院前。「社参」は神仏習合そのもので、修二会が無事に遂行できるように、二月堂の守護神社を中心に八幡殿、天皇陵、開山堂を参詣するものという。
おわび申し上げる代りとして 「お水取り その1」というサイトをリンクに貼っておくので、ご覧ください。行事が写真入りで詳しく書かれており、文中から「その2」へと繋がって行く。
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(追記)3月15日に井芹氏からメールが届いて14日間の修二会の行が終わったことが書いてあった。
以下、井芹氏のメールを引用して紹介したい。

<行としては18日観音講の日を最後とするのですが、14日間の修二会が今朝方終わりました。 眠いというよりも、ある種の幸を感じる朝でもありました。 誰が名づけたか「名残の晨朝」、ここで聞く行中最後の観音経は「蛍の光」の曲と同じ感じ。大の大人が観音との別れを惜しみ唄ってもこうなるのでしょうか。名残の晨朝の時導師は総衆が勤めることに決っているそうですが、今年は名代の時導師で胸に迫りました。 東大寺では野ざらし紀行の「氷」と違って、「籠り」を採っているようです。これも東大寺の独自性を表わそうとしたものでしょうか。 二月堂と法華堂との間に行場の滝があり、その前に芭蕉の句碑が建っています。曰く「水取りや籠りの僧の沓の音」。 額に牛玉印を押し、達成した満足感を顔一杯に表わし、牛玉杖を抱え、満行下堂してくる練行衆を迎え、ああ!今年も終わったなと帰路についたのが、明け方の4時半。まさに堂内の和上が「よあけんたりや」と問うのに対して、堂童子が「暗し」と応えるのと同じ時刻です。>
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(以下は2004/03/12Doblog記事の再掲である。ご了承を。)
  
  東大寺修二会1253回お水取り
     ──参籠役のこと──井芹能一氏による──


東大寺修二会の行事について、井芹氏から資料を頂いた。井芹氏は京都府立山城郷土資料館の解説ボランティアを務める人だが、この近年、東大寺に日参し、もろもろの行事に精通しておられる。
井芹氏から頂いた資料により、平成十六年度の「東大寺修二会1253回お水取り」のことを、少し書いてみたい。

平成十六年修二会参籠役

 和上──森本公誠/清涼院・上院院長・東大寺学園理事長──参籠27回

和上は練行衆に戒を授ける。かつては四職の中で堂衆が勤めることが出来る唯一の役であった。

 大導師──上野道善/真言院・華厳宗宗務長・東大寺執事長──参籠29回

導師は修二会の最高責任者として法会を統括する。かつては学侶の所役であった。

 咒師──筒井寛昭/龍松院・大仏殿院主・福祉事業団理事長──参籠25回

咒師は呪禁師であり、結界勧請などの密教的修法を司り、神道的な作法も行う。かつては学侶の所役であった。

 堂司──平岡昇修/上之坊・勧学院院長──参籠19回

堂司は法会進行上の監督責任者。かつては学侶の所役であった。

以上が「四職」(ししき)という。
他に「北座衆之一」「南座衆之一」などの7役が居るが省略する。
これらの役割は、昨年12月16日に「良弁忌」の日に東大寺の名のもとに、二月堂に告知されたものという。

この資料を拝見していると、なかなか面白い。と申し上げては失礼かも知れないが、伝統的な行事というものは、なかなか大変な仕来りを経なければならないと思うのである。
例えば、「堂童子」という役割は、礼堂外陣閼伽井(あかい)屋などを掌握し、練行衆の勤行に付随する外縁作法を担当する、とある。
「駈士」とは湯屋を掌握し、雑法務にたずさわる。
「大炊」とは炊飯役であり、「院士」とは調菜役、「庄駈士」とは湯の番、のことという。
精進潔斎のご苦労も知らず、面白がっているのも、お許しいただきたい。
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3月18日付で新資料を頂いたので、参籠までの行事次第を以下に書き記す。

★2月末日の次第
2/29(28)
15:00 「追い出しの茶」を頂き、別火坊を出立。参籠宿所に向かう。
15:30 参籠「宿所入り」。「娑婆古練」と称し、東大寺の管長や修二会の四職を務めたことのある長老や、参籠経験のある僧の出迎えを受ける。
15:40 「内陣改め」。堂司が堂童子を伴い内陣の荘厳の具合を検分する。この後、内陣と外陣を分ける「戸帳」を設置。
16:40 「お湯布令」。「お湯屋にござれ」の掛け声で練行衆が湯屋に向かうが、新入りの参籠衆がいる時には別の作法あり。
18:00 「大中臣の祓」。咒師の意向を受けて、小綱の「お祓いにござろう!お祓いにござろう!」の掛け声で参籠衆を集め、咒師が登廊の下にある細殿の前で無言で行う「結界」作り。通称「天狗寄せ」。天狗も「何をしているのか」と興味を持って寄って来る、ということか。
3/1
00:45 「おめざ!」の掛け声で「お目覚」。
01:00 「受戒」。「小綱の房!小綱の房!大膳殿の出仕なら鐘をつきやれ!鐘をつきやれ!」の掛け声で食堂に参集。和上が自戒の後、参籠衆に沙弥の十戒の内、蓄金銀宝を除いた九カ条の戒を授けるが、その時、和上が「~を保つや否や」と問えば、参籠衆「よく保つ、よく保つ、よくたもーつ!」と応える。食堂内では、その他に七条袈裟の「袈裟給り(ケサタバリ)」が行われるようだ。
手松明に導かれ「開白上堂」。このとき練行衆が喜び勇んで、十一面観音に上堂を知らせる沓の音は、はじめて履いた沓を確かめるようでもある。
02:00 「一徳火」。真の闇の中で堂童子が火打石を打つ。代々この童子の名前が「一徳」であったために「一徳火」と言っているようで、後年には一発で火を得る童子を讃え、「一徳法師」の称号もあるらしい。ここで得た火を「常灯」に移し、行中および今後1年間の「火」とする。
この後、日中の行法に入り、修二会6時の行法が始まる。

★松明について
修二会では14種類の松明が使われるが、特に知られている松明は「上堂松明」「達陀松明」「蓮松明」かと思われる。
*「上堂松明」は練行衆が初夜上堂する時に先導する松明で、3月12日以外は10本で、3月12日の上堂のみ、一段と大きい11本の「籠松明」が上がる。通常上がる10本の松明の中でも、最後の日となる3月14日の松明は10本が間を置かずに上がるため「尻つけ松明」と言われている。
*「達陀松明」3月12・13・14日の「後夜」の途中、正確には13・14・15日の午前0時か午前3時に内陣で主役となる火天・水天をはじめ八天を勧請して行われる行法。火天が周りで吹かれる「ほら貝」に囃し立てられるがごとく、水天を相手に堂内を飛び跳ね、飛び回り、大人の火遊びにしても大き過ぎる松明を振り回す。通常の大きさではない。事実、寛文7年2月13日この火が原因と思われる火事により、天平勝宝4年以来のご本尊、経文、建物を消失している。それでも「行」を続けたとかで、凄いというかアホというか、「不退の行法」と言われる由来である。
*「蓮松明」は3月12日の「後夜」で「行」を中断して行われる「お水取り」に使われるもので、レンコンの一節に似ているところから、この名が出ているようだ。「お水取り」の最中には外陣の例時の間で雅楽の演奏が行われる。「お水取り」には咒師以下6人の練行衆が携わり、礼堂では行の途中のため五体板の上に片膝をついたままの総衆と、咒師を除く三役と「南座乃衆一」が待機している。
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以上が井芹氏から追加で頂いた資料であるが、古来からの仕来りで行われる「行」も大変である。
井芹氏から、折角貴重な資料をお送り頂いたので、その万分の一かの御礼に代えて、ここに記しておく。
私が書いた本文との異同の個所があれば、正しくは井芹氏の資料に拠られたい。


梅の奥に誰やら住んで幽かな灯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石
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──季節の一句鑑賞──梅題──

  ■梅の奥に誰やら住んで幽(かす)かな灯・・・・・・・・夏目漱石

梅の花が本格的に咲き揃う時期になって来たので、今日は梅に関する「三題ばなし」を書くことにする。
掲出の句は夏目漱石の作品で、彼独特の諧謔性に満ちた句である。
「誰やら住んで」というところが面白いし、「幽かな灯」というのも広い梅林を想像させて奥行がある。
漱石は俳句を余技としてたくさん作っている。
漱石は英文学者として出発したが、小説家として主に朝日新聞を拠り所にして、次々と作品を発表した。
当代一の文化人であったから、師弟関係にあった文学者、科学者などが多い。
科学者なども──たとえば中谷宇吉郎など、いずれも文筆でも優れた文章を残している。
漱石における俳句はあくまでも「余技」であったが、伝統的な文学として、漱石は深く愛していた。

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  ■片隅で椿が梅を感じてゐる・・・・・・・・・・・・林原耒井

林原耒井(らいせい)は、明治20年福井県に生まれ、昭和50年に没した。
号の耒井は本名の耕三の「耕」の字を分解したもの。
旧制一高時代から夏目漱石の門に入り、漱石作品の校正を任されるなど愛弟子の一人であった。英文学徒として旧制松山高等学校で教えていたことがある。
俳句は臼田亞浪の「石楠」(しゃくなげ)に参加、論客として知られ、特に『俳句形式論』は重要な著作とされる。
掲出句は『蘭鋳』(昭和43年刊)から。

椿は春の花とされ、梅に引続いて咲きはじめる。
時期的には咲くのが重なることもあるので、この句では、それを「片隅で椿が梅を感じてゐる」と表現する。
先に挙げた漱石の句の諧謔性に相通じるものがあるではないか。師弟の関係の妙である。
「明暗」というサイトに漱石と林原との記事があり、また「川本臥風」というサイトの<忘れ得ぬ人々・臼田亜浪>の項に林原のことが出ているのも見られるといい。

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  ■白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり・・・・・・・・・・飯田龍太

紅梅は白梅よりも少し遅れて咲きはじめることが多い。
白梅の「白」のあとにグラーデーションのように「紅」色が色を増してゆく、というところが面白い。
それに花の上の「空」を「深空」と表現したのも秀逸である。
飯田龍太は飯田蛇笏の子として幼少の頃から俳句に親しんできたが、父の死後、俳誌「雲母」の主宰者を継承して俳壇で重きをなしてきたが、十余年前に結社を解散した。
俳誌などの世襲制に対する批判などもあるが、主宰制は、いくたの欠点もある。
そういうことを自覚した上での、いさぎよい決断だ。まだまだ影響力があった全盛期での決断だった。2007/02/25没。
飯田龍太については、 ← のWikipediaに詳しい。

以下、「梅」「椿」を詠んだ句を引いておく。

 梅一輪踏まれて大地の紋章たり・・・・・・・・・・中村草田男

 勇気こそ地の塩なれや梅真白・・・・・・・・・・中村草田男

 悲しめば鱗のごとく梅散りしく・・・・・・・・・・原コウ子

 梅も一枝死者の仰臥の正しさよ・・・・・・・・・・石田波郷

 梅白しまことに白く新しく・・・・・・・・・・星野立子

 梅が香に襲はれもする縋られも・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 梅咲けば父の忌散れば母の忌で・・・・・・・・・・安住敦

 梅挿すやきのふは酒のありし壜に・・・・・・・・・・石川桂郎

 梅二月ひかりは風とともにあり・・・・・・・・・・西島麦南

 静けさのどこか揺れゐて梅白し・・・・・・・・・・鷲谷七菜子

 月光に花梅の紅触るるらし・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 うすきうすきうす紅梅によりそひぬ・・・・・・・・・・池内友次郎

 紅梅の燃えたつてをり風の中・・・・・・・・・・松本たかし

 紅梅や熱はしづかに身にまとふ・・・・・・・・・・中村汀女

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは・・・・・・・・・・永田耕衣

 紅梅の天死際はひとりがよし・・・・・・・・・・古賀まり子

 赤い椿白い椿と落ちにけり・・・・・・・・・・河東碧梧桐
 
 落椿投げて暖炉の火の上に・・・・・・・・・・高浜虚子

 御嶽の雲に真つ赤なおそ椿・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 人仰ぐ我家の椿仰ぎけり・・・・・・・・・・高野素十

 落椿かかる地上に菓子のごとし・・・・・・・・・・西東三鬼

 椿見て一日雨の加賀言葉・・・・・・・・・・森澄雄

 火の独楽を回して椿瀬を流れ・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 雪解けの底鳴り水に落椿・・・・・・・・・・石原八束




東岸西岸の柳 遅速同じからず/南枝北枝の梅 開落已に異なり・・・・・・・・・・・・・・・保胤
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  東岸西岸の柳 遅速同じからず

  南枝北枝の梅 開落已(すで)に異なり・・・・・・・・・・・・・・・・・保胤


作者は慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安中期の著名な文人で、その作『池亭記』は鋭く社会の変貌を捉えて鴨長明の『方丈記』に影響を与えた、とされる。
出典は『和漢朗詠集』巻上「早春」から。
保胤は白居易に傾倒し、この詩も白居易の詩句「北の軒 梅晩(ゆふべ)に白く 東の岸 柳先づ青みたり」や「大庾嶺上の梅 南枝落ち北枝開く」を踏まえているが、謡曲「東岸居士」その他に多く引かれ愛唱された。

同じ春とは言え、地形や場所によって季節の到来には遅速がある。
開く花あれば、散る花あり。
造化の妙は、そんな違いにも現れて、感興の源泉となる。

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なお、

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

の句は、この保胤の詩句を踏んだ句と言われている。

今しも、柳の新芽が芽吹く頃である。梅も、そろそろ咲き揃う頃である。
以下、柳の新芽を詠んだ句を引いて終わる。

 柳の芽雨またしろきものまじへ・・・・・・・・・・久保田万太郎

 芽柳に焦都やはらぎそめむとす・・・・・・・・・・阿波野青畝

 芽柳や成田にむかふ汽車汚れ・・・・・・・・・・石橋秀野

 芽柳の花のごとしや吾子あらず・・・・・・・・・・角川源義

 芽柳のおのれを包みはじめたる・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 風吹いてゐる綿菓子と柳の芽・・・・・・・・・・細川加賀

 芽柳を感じ深夜に米量る・・・・・・・・・・平畑静塔

 あれも駄目これも駄目な日柳の芽・・・・・・・・・・加藤覚範

 芽柳や銀座につかふ木の小匙・・・・・・・・・・伊藤敬子

 芽柳の揺るる影浴び似顔絵師・・・・・・・・・・太田嗟

 利根万里風の序曲に柳の芽・・・・・・・・・・三枝青雲

 芽柳のほか彩もなき遊行かな・・・・・・・・・・今村博子

 水色に昏るる湿原柳の芽・・・・・・・・・・神田長春


山口謡司 『 ん 日本語最後の謎に挑む』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
「ん」

──新・読書ノート──<日本語倶楽部>──(12)

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   山口謡司 『 ん 日本語最後の謎に挑む』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・・・・・・新潮新書2010/02/20刊・・・・・・・・・・・・・・

つい先日、『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明 という本を採り上げた。
この本は同じ著者による、その本の続編である。
ついでに、この本の「帯」裏の写真を出しておく。ここには、この本の項目が出ているからである。

「ん」裏

この本については、新潮社「波」三月号に著者自身による紹介記事が載っているので全文を貼り付けておく。

   「ん」をめぐるミステリー・・・・・・・・山口謠司

 トンボ鉛筆といえば、「Tombow」というローマ字を思い浮かべる方が多いだろう。しかし、虫の名前なら「Tonbo」と書かれるべきではないだろうか。また東京メトロの駅名「日本橋」には、「Nihombashi」と書かれている。これも、なぜ「日本」の「n」が「m」と書かれているのだろうか。このように「ん」と書かれる日本語が、ローマ字では「m」と書かれている例は他にも多数みられる。これは本書執筆へのひとつの契機になった。
 日本語表記の歴史を精査してみると、我が国には平安時代初期まで「あいうえお」から始まる平仮名や片仮名はなく、すべて漢字を利用した万葉仮名で書かれていた。万葉仮名で書かれた奈良時代の文献『古事記』『日本書紀』『万葉集』などには、実はただの一文字も「ん」という字は使われていないのである。
 また、平安時代初期に著されたとされる『伊勢物語』には「掾」が「えに」と書かれており、『土佐日記』にも本来「あらざんなり」と書くところを「あらざなり」と「ん」を抜いて書いてある。鎌倉初期の鴨長明『無名抄』には、「和歌を書くときには、〈ン〉と撥ねる音は、書かないのが決まりである」と記されているのである。また、江戸時代でも、井原西鶴の『好色一代男』には「ふんどし」を「ふどし」と書いてある。
「ん」は無くてもよい日本語だったのだろうか?
 江戸時代の国学者、本居宣長は、この点について次のように述べている。「我が国の五十音図は、整然と縦横に並ぶものとして作られているが、この『ン』という音は、いずれにも当てはまらない。これは、日本語の音としては認められないものである。だからこそ古代の日本語には『ン』という音がないのである」(『漢字三音考』より拙訳)
 しかし、「書かない」のではなく「書けない」というのが平安時代の実状だった。なぜなら平仮名の「ん」、片仮名の「ン」、また、それを書き表すためのもととなる漢字も存在しなかったからである。そして、その影響は江戸時代まで続いていた。
 江戸時代には、「しりとり」遊びもなかったし、「んー」と返したり、「うん!」と相槌を打つ言葉もなかった。現代の日本語からは、かつて「ん(ン)」がなかったなどとは考えられないだろう。
 では、この「ん」を、いつ、誰が創り出したのか。また、どうして現代日本語の五十音図の最後に取り入れられたのか。
 日本語の脇役的な存在「ん」を主役にして、とくとその舞台裏までお見せしたい一心で、四年間をかけ、私は本書を書いた。前著『日本語の奇跡―〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明―』(新潮新書)と共にお読み頂ければ、「あいうえお」から「ん」までの音と文字の歴史、隠された機能と壮大な思想から日本文化の奥深さを知って頂けると思う。
 日本語は実に面白く、ミステリーに満ちている。  (やまぐち・ようじ 大東文化大学文学部准教授)

的確な要約と言えるので、↑ 先ずこれを読んでもらいたい。

ところで、この「帯」の冒頭に書かれているローマ字の「n」「m」のことだが、執筆動機となったものだが、このことについて彼の奥さんがフランス人であり、そのネイティヴな日本人ではない、いわゆるネイティヴ外人の日本語についてのローマ字表記についてのエピソードから、この本は始まる。
地下鉄の駅名が、日本橋にほんばし=nihobashiと筆記されることからの疑問である。
彼の妻がローマ字で書いたメモを持って買い物に行くときに「あんぱん」→ampan、「がんもどき」→gammodoki と書くそうである。「帯」に載る nihombashi の場合と同じである。
結論を急ぐために説明してしまえば、英語やフランス語、ドイツ語などヨーロッパ諸言語の辞書をひもといてみると、「n」と「m」の表記には厳然たる書き分けがあることが判る。
つまり、次に来る子音が「m」「b」「p」である場合は、普通「n」がその直前に現れることはなく、「m」が書かれるという原則である。
これらのことは、多少、西欧語教育に触れたことのある人なら経験があり、周知のことかも知れない。
口に出して発音してみれば「m」「b」「p」の場合は、唇が触れる「接唇音」であることが判るだろう。このことは彼の本には書かれていないが、私は読んで、すぐ、そのことに気付いた。

他にエピソード的に紹介すると<西洋人は「んー」が大嫌い>というのは、彼の奥さんは、日本人なら誰しもよく発する、喉の奥の方から鼻に抜けるような「んー」という声が大嫌いなのだそうだ。これは西洋人一般がそうらしい。
こういう場合に、フランスも含めて欧米の漫画や小説を見ると、我々日本人が「んー」という音を出す場面では「mmm」「hmmm」と書いてある。日本語に直せば「ムムム」や「フムムム」だという。試しに妻に向かって「んー」の代りに「ムムム」と答えてみると嫌な顔をしないという。

この本には「空海」や「サンスクリット語」のことなど、日本語の発展、新展開に関する重要な話も書いてあるので、先に紹介した『日本語の奇跡』<アイウエオ>と<いろは>の発明 の本とともに読んでもらいたい。
<日本語倶楽部>の一環として、ここに採り上げた次第である。



鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女
h-rno6ルノワールぶらんこ

  鞦韆(ふらここ)は漕ぐべし愛は奪ふべし・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

鞦韆(しゅうせん)とは「ぶらんこ」のことである。
中国では、北方の蛮族のものが紀元前7世紀に輸入されたと言い、それほど古くから中国では行なわれていたという。
唐の玄宗皇帝は羽化登仙の感じがあるとして「半仙戯」の名を与えている。
唐詩などにもよく詠われ、それが日本にもたらされた。中国では古来、春の戯れとしたという。
和語では「ふらここ」ともいう。詩歌では、この言葉が愛用される。

掲出した写真はオーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵である。オルセー美術館蔵。
春になって暖かくなったので、若い女性が公園でブランコに乗っている図である。

先に書いたように「鞦韆」は漢字で書いて「しゅうせん」と音読みにする他に「ふらここ」と和語読みにすることもある。
掲出の三橋の句は「ふらここ」と読ませている。
以下、ブランコを詠んだ句を引いておきたい。

 鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す・・・・・・・・高浜虚子

 鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな・・・・・・・・松瀬青々

 鞦韆や春の山彦ほしいまま・・・・・・・・水原秋桜子

 鞦韆やひとときレモンいろの空・・・・・・・・石田小坡

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな・・・・・・・・星野立子

 鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ・・・・・・・・加藤楸邨

 鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ・・・・・・・・山口誓子

 ふらここを揺りものいはずいつてくれず・・・・・・・・中村汀女

 達治亡きあとはふらここ宙返り・・・・・・・・石原八束

 ふらここのきりこきりこときんぽうげ・・・・・・・・鈴木詮子

 鞦韆と雲一ひらと遊ぶなり・・・・・・・・加藤望子

 島の子のぶらんこ島を軋らせて・・・・・・・・谷野予志

 ブランコの子に帰らうと犬が啼く・・・・・・・・菅原独去

 鞦韆の綱垂る雨の糸に浴び・・・・・・・・堀葦男


桐野夏生『ナニカアル』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   桐野夏生『ナニカアル』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・・・・新潮社2010/02/25刊・・・・・・・・・・・・・・・・

この本は出たばかりである。
この本の「帯」に、こう書かれている。

 <女は本当に罪深い。
   戦争に翻弄された作家・林芙美子の秘められた愛を、
   桐野夏生が渾身の筆で炙り出し、描き尽くした衝撃の長篇小説。>

「帯」裏には

  <年下の男は、可愛い。
    早く早く、早く結ばれないと、思い出せない。
    早く愛し合わないと,忘れてしまう。>

  <昭和17年、南方へ命懸けの渡航、束の間の逢瀬、張りつく嫌疑、そして修羅の夜。
   波爛の運命に逆らい、書くことに、愛することに必死で生きた一人の女を描き出す感動巨編の誕生。>

もちろん、これらは出版社の付けたキャッチコピーであるが、この一冊の本の核心を捉えている。

この本については新潮社「波」三月号に関川夏央×桐野夏生の対談として載るほか、新潮社のHPにも収録されているので、リンク先から読んでみてほしい。

この小説は「週刊新潮」2008/12/11号から2009/11/12号まで連載されたものに、単行本化するに際して加筆修正されたものである。
私も林芙美子の私生活については詳しくは知らなかったので、面白く一気に読み切った。
どこまでが資料的に事実なのか、どこからがフィクションなのか私には判らないが、ぜひ一読されることを、お勧めする。

私の個人的なことを書くのを、お許しいただきたい。
私は「読書的」には早熟で、というのは亡長兄・木村庄助の小説などの文学書がたくさんあったので、思春期から、そういうものに耽溺してきた。
戦後になって文芸雑誌──例えば「群像」「人間」「新潮」というような雑誌を中学生の頃から読んでいた。
だから林芙美子の同年輩たちの平林たい子や佐多稲子なども当時の新作で読んでいた。
この小説にも出てくるが、大正、昭和初期は政治的、文壇的には「アナーキスト」全盛であって、後の「ボルシェビキ」=共産党はむしろ少数派だったのである。
平林たい子の小説なんかにも、それらが描かれている。「アナ」「ボル」と略して言われたという。当時読んだ平林たい子の小説の記憶では、「君はボルな」なんていう記述があった。
佐多稲子の『キャラメル工場から』が書かれたのは、林芙美子の『放浪記』と同じ時期だというが、労働組合にきちんと組織された運動というのでもない。佐多稲子の夫である窪川鶴次郎の女癖の悪さなんかも、この小説に書かれている。とにかく林芙美子も含めて彼ら、彼女らは奔放というか、だらしない、というか、そんな生活をしていたらしい。
戦後、窪川鶴次郎なんかもプロレタリア文芸評論家として脚光を浴びることになるが、昔日のことを知っているものには違和感があった。
誰かの小説にあったが、「俺に淋病を罹(うつ)した芙美子」というような文章のくだりがあったりした。
私の同級生で頭のいい女の子がいたが、その人が「私は林芙美子のようになりたい」というのを聞いたとき、私は芙美子の行状を知っていたから、なんて何も知らない純情なんだろう、とせせら笑った記憶がある。
その女の人は同じ大学の先輩と結婚し、二人とも母校のフランス語、フランス文学の教授を務められた。
つまらない追憶である。忘れられよ。

春愁やくらりと海月くつがへる・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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  春愁やくらりと海月(くらげ)くつがへる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

明るく、浮き立つ春ではあるが、ふっと哀愁を覚えることがある。はっきりした「憂鬱」ではなく、あてどない物思いのような気持ちを「春愁」という。
春ゆえに心をかすめる淡い、かなしい、孤独な、物思いである。

春愁を写真にしようとすると、難しい。
だから「クラゲ」の写真を出しておいた。

俳句には「春愁」を詠んだものがたくさんある。少し引いておきたい。

 春愁のまぼろしにたつ仏かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 春愁や派手いとへども枕房・・・・・・・・飯田蛇笏

 白雲を出て春愁もなかりけり・・・・・・・・中川宋淵

 いつかまたポケットに手を春うれひ・・・・・・・・久保田万太郎

 春愁のかぎりを躑躅燃えにけり・・・・・・・・水原秋桜子

 髪ばさと垂れて春愁の額としぬ・・・・・・・・三橋鷹女

 春愁に堪ふる面輪に灯りけり・・・・・・・・日野草城

 春愁の一端に火が燃えてゐる・・・・・・・・野見山朱鳥

 春愁もなし梳く髪のみじかければ・・・・・・・・桂信子

 春愁やせんべいを歯にあててゐて・・・・・・・・大野林火

 春愁のいとまなければ無きごとし・・・・・・・・皆吉爽雨

 ハンカチに鏝(こて)あてて春愁ひかな・・・・・・・・安住敦

 山椒魚の春愁の顔見とどむる・・・・・・・・後藤秋邑

 春愁やかなめはづれし舞扇・・・・・・・・鷲谷七菜子

 春愁や夫あるうちは死ぬまじく・・・・・・・・末広千枝


わが一生にいくたりの族葬りしや春の疾風はすさまじく吹く・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  わが一生(ひとよ)にいくたりの族(うから)葬(はふ)りしや
    春の疾風(はやち)はすさまじく吹く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌に詠んだように、私が物心つくようになってから何人の肉親を葬っただろうか。

はじまりは、昭和18年5月の長兄・庄助を22歳で送ったことである。
その同じ年の12月には庄助の名づけ主である祖父・木村庄之助が亡くなった。
そのお供に父の妹の婿養子・木村保次郎が亡くなった。この人は祖父と共にお茶の仕事をしていた人である。
引続いて母の兄・堀井東次郎が急死した。この人は小学校の校長だった。
その翌年昭和19年2月には私の長姉・登志子が亡くなった。このことは2月19日づけのBLOGで書いておいた。
そして敗戦後の昭和20年12月には私たちの末の妹・京子が結核性髄膜炎で亡くなった。小学校二年生だった。

このように親しい人々が短期間の間にバタバタと死んで、思春期の少年だった私には、この世は、一体どうなるのか、という「死」と向かい合う時期だった。
その後は少し肉親の死はなかったが、父と母を送った。父を昭和40年に送って45年。母が平成5年に死んで今年の四月は十八回忌になる。
そして妻・弥生が一昨昨年に死んで、この四月は満4年になる。

春の疾風は季節の変わり目で、すさまじく吹く。
普通「疾風」はハヤテと呼ばれるが、私の歌に使った呼び方「はやち」は、昔の古い呼び方なのである。
疾風というのは映像にならないので、プリズムの画像を出しておいた。

ここで春の季語「春疾風」の句を引いて終わりたい。

 春疾風すつぽん石となりにけり・・・・・・・・・・水原秋桜子

 春嵐奈翁は華奢な手なりしとか・・・・・・・・・・中村草田男

 春颷ききゐて沼へ下りゆかず・・・・・・・・・・加藤楸邨

 春疾風屍は敢て出でゆくも・・・・・・・・・・石田波郷

 春嵐鳩飛ぶ翅を張りづめに・・・・・・・・・・橋本多佳子

 春嵐足ゆびをみなひらくマリヤ・・・・・・・・・・飯島晴子

 春疾風吹つ飛んで来る一老女・・・・・・・・・・山田みづえ

 なびきつつ女あらがふ春疾風・・・・・・・・・・松尾隆信

 煮え切らぬ男撫で切る春疾風・・・・・・・・・・石田静




水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
03080027ヒキ抱接①

  水あふれゐて啓蟄の最上川・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄

今日は「啓蟄」(けいちつ)である。
「啓蟄」は24節気の一つで、平年は3月6日に廻って来る。「啓」は開くの意味。「啓蒙」という言葉があるが、これは蒙を開くの意味からきた熟語である。
「蟄」は巣ごもり、のこと。土中に冬眠していた虫が、この頃になると、冬眠から醒め、地上に姿を現しはじめる。
啓蟄を更に具体的に言った言葉に「地虫穴を出づ」「蛇穴を出づ」「蜥蜴穴を出づ」「蟻穴を出づ」などの表現がある。
この頃鳴る雷を「虫出しの雷」というが、そういうと昨晩というか未明に雷鳴とともに激しい雨が降った。
今ごろは、冬から春への季節の変わり目で、こういう気象現象が起りがちなのであろう。
いずれにせよ、地下の虫も動き出してきたか、という一種の感慨とともに、使われる言葉であり、季節感を、よく表現していると言えるだろう。
掲出写真は「ヒキガエル」の抱接だが、この類は、この頃に地中から出てきて抱接し、雌は水溜りに卵を生んで、また冬眠を続けるために地中に戻るという。
「交尾」と「抱接」とは、ちょっと違う。言葉の定義としては厳密に区別されなければならぬ。
交尾というのは雄が生殖器を雌の生殖器に挿入して受精するが、カエルの類は抱きあって、雌が放出した卵に雄が精子を振りかけて受精する仕組みになっている。
ついでに書いておくと、これと対応する言葉として「射精」と「放精」という言葉も区別して厳密でなければならない。
昨年に或る未知の歌人から歌集が恵贈されてきたが、その中に「鮭の<射精>」という歌があって、この歌を今をときめく中堅の有名歌人が採り上げていた。
これは、上に述べたように言葉の使い方が間違っている。
魚類の生殖は交尾するのではなく、雌が産んだ卵に雄が精液をかける「放精」であるからである。
この有名歌人は大学の自然科学者であるから言葉には厳密であってもらいたい、と思ったことである。余談だが少し書いておく。

森澄雄は大正8年(1919年)兵庫県姫路市生まれ。昭和15年「寒雷」創刊と同時に加藤楸邨に師事。
彼は、戦後俳壇の社会性論議の域外にあって自分の生活に執し、清新な句境を拓く。
のち古典、中国詩、宗教書に親しみ、時間、空間の広がりの中に思索的な作品世界を構築した、と言われる。
最近は体調を損ねているらしいが、読売新聞の俳壇選者などは努めておられる。
森澄雄の作品を少し抜きだしてみよう。

 チェホフを読むやしぐるる河明り・・・・・・・・・・・・森澄雄

 家に時計なければ雪はとめどなし・・・・・・・・・・・・ 〃

 明るくてまだ冷たくて流し雛・・・・・・・・・・・・ 〃

 雪夜にてことばより肌やはらかし・・・・・・・・・・・・ 〃

 雪国に子を生んでこの深まなざし・・・・・・・・・・・・ 〃

 田を植ゑて空も近江の水ぐもり・・・・・・・・・・・・ 〃

 春の野を持上(もた)げて伯耆大山を・・・・・・・・・・・・ 〃

 水入れて近江も田螺(たにし)鳴くころぞ・・・・・・・・・・・・ 〃

 火にのせて草のにほひす初諸子・・・・・・・・・・・・ 〃

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他の作家の啓蟄の句を少し挙げて結びにする。

 啓蟄の土洞然と開き・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 啓蟄や庭とも畠ともつかず・・・・・・・・・・・安住敦

 啓蟄の大地月下となりしかな・・・・・・・・・・・・大野林火

 啓蟄や解(ほぐ)すものなく縫ふものなく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 啓蟄を啣へて雀飛びにけり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

一番あとの川端の句の啓蟄は、出てきた「虫」のことを指しているのである。


村上春樹『めくらやなぎと眠る女』24の短篇集・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  村上春樹『めくらやなぎと眠る女』24の短篇集・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・・・・・・・・・新潮社2009/11/25刊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨年の冬のはじめに何冊かの本を、まとめて買った。
そして日々の雑事の合い間にぼつぼつと読んだ。読了したものもあるし、読み差しのものもある。
今日は、その中の一冊である、この本のことを書いてみる。
村上春樹の本は、割合に読んでいる方だろう。ただし、熱心な読者とは言えない。
この頃では彼は社会的な事象についても関心を見せる小説を書くが、以前は極めてキッチュな身の回りのことを書く作家だった。少なくとも「社会派」ではなかった。
それが変りはじめたのが『ねじまき鳥クロニクル』からであろうか。この小説では、「ノモンハン事件」に係わる主人公を登場させた。
村上春樹は元々は短篇作家であった。今では長篇と短篇とを交互に書いているようである。

この本『めくらやなぎと眠る女』は、元々は英語で書かれ、アメリカはニューヨークで上梓されたものであり、それを日本語に翻訳したものが、これである。
原題は「BLIND WILLOW, SLEEPING WOMAN」である。
村上春樹の小説は、日本語で書かれたものでも、文体に難解なところは何もないし、叙法にも特殊なものは何もないが、今回のものは、特に引っ掛かるものは何もない。
彼の小説は翻訳されているものも多く、世界中の人に多く読まれているので、次回のノーベル文学賞候補などと言われるのも理解できる。
この本には24の短篇が収録されていて、厚さも3センチもある大部のものである。三方の切り落とし面には、薄いピンクの色が塗られていて、アメリカのハードカバーという本は、こういう作りになっているのだなあ、と思う。
この本のはじめに(日本版の読者に)という部分があって、そこに、「イントロダクション」として、こう書かれている。

<できるだけ簡単に定義してしまうなら、長篇小説を書くことは「挑戦」であり、短篇小説を書くことは「喜び」である。長篇小説が植林であるとすれば、短篇小説は造園である。それら二つの作業は、お互いを補完し合うようなかっこうで、僕にとってのひとつの重要な、総合的な風景を作り上げている。緑なす林が心地よい影を大地に落とし、風に葉をそよがせる。あるいは鮮やかな黄金色に染まる。・・・・・・・
僕が小説家としてデビューしたのは1979年のことだが、それ以来ほぼ一貫して、長篇小説と短篇小説を交互に書き続けてきた。集中して長篇小説を完成させてしまうと、短篇小説がまとめて書きたくなり、短篇小説をワンセット書いてしまうと、今度は集中して長篇小説が書きたくなる。・・・・・・
長篇小説と短篇小説を同じ時期に書くということはない。・・・・・・たぶんそれぞれの作業に使用する頭の部位がはっきりと異なっていて、そのレールを切り替えるのに時間がかかるのだろう。・・・・・・
短篇小説を書くにあたっての喜びのひとつは、その作業が比較的短い期間で終了してしまうことだ。通常の長さの短篇小説の場合、だいたい一週間あれば、ひとつの作品のかたちとして完成させることができる。長篇小説の場合のように、ひとつの世界に一年も二年ものめり込んで、身も心もそこに深くコミットするようなことはない。入り口から部屋に入り、仕事を仕上げ、出口から出て行く。それでおしまい。長篇小説ばかり延々と書き続けていたら、身が持たないだろうという気が──あくまでも僕の場合はということだが──する。短篇小説を書く時期を持つことは、僕にとっての大事なチェンジ・オブ・ペースなのだ。
それから短篇小説の場合、どんな些細なことからでも、ひとつの物語を作り上げてしまえる。ふと頭に浮かんだひとつのアイデア、ひとつの言葉、ひとつのイメージから、物語が立ち上がっていく。その多くはジャズの即興演奏のように、自由自在に発展していく。短篇小説を書くとき、失敗を恐れる必要がない。・・・・・・・>

個々の作品に触れることはしない。
題名だけ紹介しておこう。
「めくらやなぎと眠る女」「バースデイ・ガール」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「飛行機──あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」「鏡」「我らの時代のフォークロア──高度資本主義前史」「ハンティング・ナイフ」「カンガルー日和」「かいつぶり」「人食い猫」「貧乏な叔母さんの話」「嘔吐1979」「七番目の男」「スパゲティーの年に」「トニー滝谷」「とんがり焼の盛衰」「氷男」「蟹」「蛍」「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」

この本については斎藤英治の書評があるので、このリンク先から参照されたい。

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村上春樹についてはWikipediaに詳しいので参照されたい。
私には「へそ曲がり」のような変な性癖があり、『1Q84』のような世の中を騒がすようなベストセラーは意識して読まないところがあり、今だに読んでいない。
これが「熱心な読者ではない」という所以である。


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