K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(5月) 月次掲示板
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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新緑の五月になりました。
新人は五月病にならないようにストレスに気をつけましょう。 旧人はのんびりと。

手に摘みしやはらかき葉よ軒先に新茶一服いただいてゐる・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤明
プラネタリウムに巨き宇宙を眺め来しまなこが細かき緑雨よろこぶ・・・・・・・・・久々湊盈子
大空の回る速さにあはせつつトンビのこゑが伸びちぢみする・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎
気流には美しい谷があるといふ 翼くらぐらとすべりゆく鳶・・・・・・・・・・・・・・・・河野美砂子
そら豆の一つ一つをむくときにわが前に立つ若き日の母・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎
花菖蒲一面に咲く季選び再び歌のどちと巡らむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・神作光一
小さいと消耗少なく長生きとわたしを見ながら言つてくれるな・・・・・・・・・・・・・・・・今野寿美
水の上五月の若きいなびかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野林火
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
少年の素足吸ひつく五月の巌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
おそるべき君等の乳房夏来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
酔うてしまうには美しい五月の夜・・・・・・・・・・・・・・・・・有馬

佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ・・・・・・・・・・・・・ 高島茂
うつむけば人妻も夏めけるもの・・・・・・・・・・・・・・・・ 長谷川春草
春は曙血圧計をしかと見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高島征夫
夏めきしものに上向き蛇口かな・・・・・・・・・・・・・・・・・ 栗林明弘
ふと噛めば伊賀山そよぐ新茶かな・・・・・・・・・・・・・・・ 三井葉子
救心の看板のある春の坂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四童
陽炎の野を抜けし身の細りけり・・・・・・・・・・・・・・・・・ 藤山直子
姿見に映りづらくて春となる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 満田春日
てふてふの来て大小の輪をゑがく・・・・・・・・・・・・・・・ 松尾清隆
春キャベツ波蘭と書いてポーランド・・・・・・・・・・・・・・ 蜂谷一人
鼻唄をうたひ髭剃る夫のゐて・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三島ゆかり
野遊びや人のカタチに草を踏む・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七風姿
架空より来て偶然の海へ蝶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 田島健一
百千鳥クッキーとビスケットの違ひ・・・・・・・・・・・・・・ 矢野孝久
虻唸る円空仏の目ぢからに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村遥
春深し鵠沼義肢製作所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 黒山羊


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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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   「地球上のすべての人が、
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葭切のさからひ鳴ける驟雨かな・・・・・・・・・・・・・渡辺水巴
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   葭切のさからひ鳴ける驟雨かな・・・・・・・・・・・・渡辺水巴

葭切はウグイス科の小鳥でオオヨシキリコヨシキリがいるが、普通、オオヨシキリの方を言う。
5月に南方から飛来し、主に葭原などの直立する高い草に棲む。
「行々子」とも書くが、これはギョギョシ、ギョッ、ギョッという鳴声から来るものである。
葭の茎に横止まりする。茎を裂いて髄に居る虫を食べるために、この名前がついたという。
初夏から秋まで日本に居て、冬は東南アジアに渡ってゆく。
掲出の写真では昨年の古い葦の茎に止まっているので姿がはっきり見えているが、子育て、営巣の頃は葉が茂って彼らの声はすれども、姿は見えないのが普通である。
新緑の葭に止まって啼く時の写真を出しておく。
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念のために書いておくと「葦」と「葭」とは同じ草で呼び方が違うだけである。

古来、俳句には多く詠まれてきたので、それを引いて終わる。

 能なしの眠ぶたし我を行々子・・・・・・・・松尾芭蕉

 行々子大河はしんと流れけり・・・・・・・・小林一茶

 行々子どこが葛西の行き留まり・・・・・・・・小林一茶

 トロッコの過ぎて静やよし雀・・・・・・・・高浜虚子

 葭切のをちの鋭(と)声や朝ぐもり・・・・・・・・水原秋桜子

 揚げ泥の香もふるさとよ行々子・・・・・・・・・木下夕爾

 月やさし葭切葭に寝しづまり・・・・・・・・松本たかし

 葭雀二人にされてゐたりけり・・・・・・・・石田波郷

 葭切や蔵書のみなる教師の死・・・・・・・・大野林火

 葭切も眠れぬ声か月明し・・・・・・・・相生垣瓜人

 葭切の鳴き曇らしてゆく空よ・・・・・・・・波多野爽波

 葭切や未来永劫ここは沼・・・・・・・・三橋鷹女



生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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   生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷で、明治32年に杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。
のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

「浴衣」と書いて「ゆかた」と訓(よ)ませるのは、この着物が本来は「入浴」の時に着たことに由来する。
風呂は「蒸し風呂」が初めだったので「湯帷子」を着て入った。
近世以降、浴槽に湯を入れて裸で入浴するようになり、そのため出てから汗のあるまま単衣を浴衣として着るようになった。
それが外出用にも着られるようになったというのである。
だから人によっては「浴衣」はあくまでも家の中のものである、と主張する人も居るらしい。
写真は京都の祇園祭の時の浴衣の写真。
この頃では色彩もとりどりの浴衣が出てきたが、はじめは「藍」一色で染められた。
梅雨の前から気候が蒸し暑くなると、さらさらした肌さわりの浴衣が愛用される。
この頃では関西が発祥のものである「甚平」というものが、これは男性専用であるが着用されるようになってきた。
また、本来は修行僧の作業衣であった「作務衣(さむえ)」なるものを着用する人も増えてきた。

掲出の橋本多佳子の句は「藍」一色の浴衣を詠んでいるが、この句は夫に先立たれて生きてきた「女」としての情念を感じさせる名句である。

俳句にもたくさん詠まれて来たので、それを引いて終わる。

 爽やかな汗の上着る浴衣かな・・・・・・・・野村喜舟

 わきあけのいつほころびし浴衣かな・・・・・・・・久保田万太郎

 雨の日は色濃き浴衣子に着せる・・・・・・・・福島小蕾

 張りとほす女の意地や藍ゆかた・・・・・・・・杉田久女

 夕日あかあか浴衣に身透き日本人・・・・・・・・中村草田男

 かいま見し浴衣童の今逝くと・・・・・・・・中村汀女

 浴衣あたらしく夜の川漕ぎくだる・・・・・・・・大野林火

 湯上りの浴衣を着つつ夫に答ふ・・・・・・・・星野立子

 浴衣着て竹屋に竹の青さ見ゆ・・・・・・・・飯田龍太

 ゆるやかに着ても浴衣の折目かな・・・・・・・・大槻紀奴夫

 浴衣着て素肌もつとも目覚めけり・・・・・・・・古賀まり子

 浴衣裁つ紺が匂ひて夜深まる・・・・・・・・矢島寿子

 浴衣着て水得し花のごとくなり・・・・・・・・中田葉月女
揉みあがる新茶の温み掌にとれば溢るる想ひ思慕のごとしも・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   揉みあがる新茶の温み掌(て)にとれば
     溢るる想ひ思慕のごとしも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
半生を茶とともに過ごしてきた者として、今やたけなわの「新茶」シーズンを黙過することは出来ないので、今日は新茶のことを採り上げる。
写真①は茶の木の新芽である。
これは単なる植物の新芽というのではなく、飲料にする「茶」の元であるから、ここまで来るのに肥料をやったり害虫防除のために苦心したりと一年間の苦労が、この新芽に凝縮しているのである。だから、掲出した歌のような「想い」になるわけである。
私の方の茶園は「玉露」「碾茶(抹茶原料の茶)」という高級な茶製造に特化してやってきたので、茶のうちで大半を占める「煎茶」製造とは違っているが、製茶の過程そのものは一緒である。

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写真②の上の方に黒い帯状のものが見えるが、これは「覆下園」といって高級茶を製造するために日光を遮断するものであり、昔は「葦簾」の上に「菰」を敷き、稲藁をばら撒いていたが、今では化学繊維のクレモナという布を敷くように変っている。
この「日光遮断」というのは経験的な知恵として昔からやられてきたことなのだが、近年の研究で、こうすることによって茶の旨みである「テアニン」というアミノ酸系の化合物の含有が上がることが判ってきたのである。
こういう労働集約的な茶栽培は手間がかかる上に「玉露」というようなものは、世の中がせちがらくなって飲まれなくなり、今や茶の消費の主流は「煎茶」それも中級品以下のものに集中してしまった。その上にペットボトルに入った「緑茶ドリンク」の時代になってしまった。

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写真③は大規模な煎茶園である。茶園の中に電柱のように立っているのは晩霜を防ぐための「防霜扇」というものである。これは新茶時期に襲う晩霜を防ぐもので、その原理は冷気は地上の低いところにたまるが、地上5メートルくらいのところの空気は暖かいので、その空気を地表に吹き付けて霜を防ごう、というものである。
この頃では茶園栽培も機械化によって人手を省き、栽培面積を広げてコストを下げようとする規模拡大が進んでいる。写真④のように茶園を跨ぐような「乗用型摘採機」が取り入れられてきた。

kabuse11乗用型摘採機

写真⑤に示すように、もっと大型の乗用型摘採機も導入されてきた。

p1_001_05乗用摘採機

世界的に茶というと「紅茶」のことだが、ロシアも紅茶を生産するが、ここはソ連の時代から茶栽培も大型の摘採機械を使ってきた。そのような趨勢が、日本でも緑茶生産に取り入れられてきたと言える。
いわゆる「トラクター」と称するものの一種である。
このくらいの機械になると乗用車などよりも遥かに高価なものだが、農作物の中では茶の価格は比較的に安定しているので、十分にペイすると思われる。

茶専門店にとって、先に書いたペットボトルの茶の普及が一番のガンなのである。このペットボトルなどの「緑茶ドリンク」の流通は、茶専門店とは完全に別の販売ルートになっており、自販機やスーパー、コンビニにメーカーから直接に流れるので、これが普及すればするほど茶専門店は苦境に陥る。
「緑茶ドリンク」が出回りはじめて、もう十数年になるが、私は同じ歌集『嘉木』の中で「緑茶ドリンク」の題で詠んでおいたのでWebのHPでご覧いただける。

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       緑茶ドリンク・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  「おーい、お茶」缶ドリンクがごろりんと自販機の穴から出づる便利さ

  温めても冷たくしてもおいしおす緑茶ドリンクは春夏秋冬

  茶流彩々・爽健美茶・十六茶お茶専門店はあがつたりどす

  ビタミンC添加したれば酸化防止できると知りて茶ドリンク奔流

  ビタミンC添加の清涼感ありて若者は好む緑茶ドリンク

  勝敗は自動販売機の数で決まるルートセールスの車疾駆す

  流通の様変りして「茶葉」ならぬ「液体の茶」に苦しめられつ


のような歌を詠んでおいた。
この趨勢は年とともに強まり、今や緑茶ドリンクは日本茶流通の半分近くを占めるに至っている。
原料は、いずれも同じ茶葉であり、生産段階でドリンクパッカーが原料を多量に買い付けしようとするので、原料の奪い合いになり、ここでも専門店側は不利である。
茶業界にも、いろいろ悩みはあるのである。


フェロモンを振りまきながら華やぎて粧ひし君が我が前をゆく・・・・・・・・・・・・・木村草弥
androstanアルファ・アンドロスタンディオール

   フェロモンを振りまきながら華やぎて
     粧(よそほ)ひし君が我が前をゆく・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
この歌にいう「君」とは誰でもよいが、残念ながら私の妻のことではない。

フェロモンというのは、ファーブルの「昆虫記」にも登場する古くから知られる物質であって、昆虫などが雄とか雌を誘引するのに分泌するホルモンである。
今では害虫を駆除する農薬の代わりに、このホルモンが実用化されている。
茶の葉を害するチャカクモンホソガというのが居るが、この駆除にホルモンが開発され実用化されている。
農薬は人間にも害を及ぼすが、こういう生物農薬と言われるものは何らの害もないので有益である。
従来の学説では、人間には器官の退化によりフェロモン効果はないとされてきたが、最近の研究により、
人間にも、その器官の存在が認められため、ここ2、3年の間にフェロモンが急速に脚光を浴びてきた。
フェロモンは鼻の中にある「ジョビ器」という器官で感知するため、本来は匂いとは無関係の物質である。
写真①はヒトフェロモンと称される物質アルファ・アンドロスタンジオール誘導体の模式図である。

この頃では「フェロモン系女優」というような形容詞を使われるようになって来たが、実験の結果では、確かにヒトフェロモンは有効らしいが、人間は、もっと他の、たとえば映像とか視覚とかいうものに左右されることが多いので一筋縄ではゆかないものであろう。

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写真②は、そういうフェロモン香料化粧品の宣伝に使われているものである。
これも、いわゆる「イメージ広告」である。実際の効果とは関係がない。
最近の研究成果を見ると、いろいろ興味ふかいことが載っている。

ナシヒメシンクイという害虫の小さな蛾の雄が出すフェロモンにエピジャスモン酸メチルMethyl epijasmonateというのがあるが、
これは面白いことに、香水の女王と呼ばれるジャスミン香の主要な香り成分でもある。
写真③は、そのフェロモンの模式図。
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人間と蛾が同じ匂いに引きつけられるというのも興味ふかい話ではないか。

私の歌の関連で言うと、女の人に、いわゆる「フェロモン系」と言い得る人は確かに居る。
それがヒトフェロモンのせいばかりとは私は言わないが、そういう魅力たっぷりの人には男性を惹きつけるフェロモンのもろもろが濃厚に発散されているのだろう。
そんな意味で私がメロメロになった女性が(もちろん美貌である)我が前をゆくのであった。


重たげなピアスの光る老いの耳<人を食った話>を聴きゐる・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   重たげなピアスの光る老いの耳
     <人を食った話>を聴きゐる・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この歌の前には

   一つ得て二つ失ふわが脳(なづき)聞き耳たてても零すばかりぞ・・・・・・・・・・・木村草弥

というのが載っているので、一体として鑑賞してもらいたい。
この歌については私が兄事する米満英男氏が同人誌「かむとき」誌上に批評文を書いていただいた中で触れて下さっている。
リンクにしたWebのHPでもご覧いただけるので読んでもらえば有難い。
敢えて、ここに書き抜いてみよう。

 <何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出して みよう。・・・・・車内で見た<老婦人>であろう。
隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話を  じっと聴いている。そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう>

というのである。場面設定については読者によって違っていて、よいのである。
米満氏の批評は、私がユーモアないしは皮肉を込めて描きたかったことを、ほぼ書いていただいたと思う。
この歌で私が表現したかったのは<人を食った話>というのが眼目である。

ピアスその他の装飾品を身にまとうのは古代の風習であった。
今でも未開な種族では、こういう装飾品をどっさりと身につける習俗が残っているが、文明世界でも、この頃は装飾品が大はやりである。
耳ピアスどころか、ボディピアスとか称して臍のところにピアスはするわ、鼻にするわ、脚にはアンクレットというペンダント様のものを付けるなど、ジャラジャラと身にまとっている。
中には、ヴァギナのクリトリスの突起にピアスをするようなのも見られる。
こんなものをしてセックスのクライマックスの時に支障がないのかと、余計な気をもんだりする始末である。

私の歌にも描写している通り、この頃では老人も耳ピアスなどは普通になってきた。
最初には違和感のあったものが、このように一般的になると、そういう気がしないのも「慣れ」であろうか。




葉桜の翳る座敷に滴りの思ひをこらし利茶をふふむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   葉桜の翳(かげ)る座敷に滴りの
     思ひをこらし利茶(ききちゃ)をふふむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日、新茶の審査のことを書いたので、その関連として、今日は「利茶」のことを書いてみる。
掲出の歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店刊)に載る歌である。
Web上のHPに収録した自選50首にも入っているので、アクセスしてもらえば、見ていただける。
「ふふむ」は「含む」の古い形の言葉である。

「利茶」とは、茶の審査と同じ意味だが、「ききちゃ」という言葉は古くから茶業界では使われて来たものである。
動詞にすると「茶を利(き)く」と言う。「利茶」の適当な写真がないので古い抹茶碗を出しておく。

茶の購入─仕入れに当っては神経を使うことは、昨日書いた。
普通、茶の審査には事務所の一角に「拝見場」というものがあり、ここは幅3、4メートルぐらいで、前後左右みな黒色に塗った場所で、採光は天窓式になった天上のガラス窓からの一方的なものになっている。
審査対象の茶その他を載せる広い台も真っ黒で、見やすいように、腰をまっすぐに伸ばしてみる適当な高さになっている。
これは審査対象の茶を見誤らないように、余計な乱反射光を避けるための知恵である。
昨日も言ったが、こういうやり方は、イギリスの紅茶審査の「拝見場」と同じ構造になっているので、日本が近代になって、かの地の進んだやり方を取り入れたものと思われる。ガスこんろがあり、大薬缶に、しゅんしゅんと沸騰する湯をたぎらせ、精妙なグラム数を計れる秤で茶を計り、審査対象の茶10点20点を横に並べて、磁器の真っ白い審査茶碗に茶を入れ、熱湯を注いで、すぐに小さな網杓子で湯にひたる茶の葉を嗅ぎ、茶碗の中の「水色」を見、匙で掬って滲出液を口に含んで「味」をみる。熱湯で滲出したものだから、熱い。啜るようにして、バケツに吐き出す。何でも「比較」しなければ品質の優劣などは判らないから、必ず、複数の茶を審査する。この場合に「格見本」と言って、審査の基準になる茶が必要である。その「格見本」の茶と比較して、この茶は渋いとか、水色が悪いとか、製造段階での欠点(茶の芽の保管が悪くて「むれ香」がするとか、燃料の重油や薪の煙などが混入する「煙臭」がするとか)も、この「嗅ぐ」ことで瞬時に判定する。茶の製造時期は季語でいう「青嵐」の時で、風のために煙突からの逆流で作業場に煙が紛れ込むことがあるのである。茶は湿気や匂いを極めて吸収しやすい難しい商品である。
茶農家あるいは茶仲買業者が持ち込む見本を、こうしてシーズンには毎日、審査する。
会社によって、仕入れの審査日を限定しておくこともある。
この「仕入れ」関係の仕事を身につけるのに、最低10年はかかる。
売る方は原価がわかっていれば、一定の「口銭」を上乗せするだけだから、そんなに難しくないがーー。

掲出の歌の場面だが、通常、座敷で茶の審査をすることはないが、父が体調を崩して隠居所で長く静養していたので、その座敷で朝食までに鉄瓶一杯の湯を空っぽにしてしまうほど、茶好きだった。父のように茶商としてたたき上げてきた人にとっては拝見場であろうと、座敷であろうと、茶の利茶を誤ることはなかった。
そんなことで、この歌の情景描写が生まれたと考えてもらっても、よい。情景的に、何となく絵になっているではないか。
同じ『茶の四季』から「野点」(のだて)と題する歌を引いておく。

      野点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  芝点(しばだて)の茶事の華やぎ思ひをり梅咲き初むる如月の丘

  毛氈に揃ふ双膝(もろひざ)肉づきて目に眩しかり春の野点は

  野遊びの緋の毛氈にかいま見し脛(はぎ)の白さよ無明のうつつ

  香に立ちて黒楽の碗に満ちてゐる蒼き茶の彩(いろ)わが腑を洗へ




しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・・・・・・・・・・鈴鹿野風呂
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   しぼり出すみどりつめたき新茶かな・・・・・・・・・・・・・・・・鈴鹿野風呂

新茶の季節である。
茶業にたずさわるものにとって、今が茶の仕入れ時期として一番いそがしく、かつ、その年の豊作、不作、製品の出来栄え、などを勘案し、仕入れ金額に頭を悩ます時である。
「利は元にあり」というのが商売の鉄則であり、品質の悪い茶や高値掴みをすると、その一年、利益どころか、損をすることになる。
ところで今年は作柄としては余り豊作ではないらしい。
「らしい」というのは、いかにも頼りなさそうに聞こえるが、農産物の統計というようなものは、「アテ」にならないもので一年終ってみて、ようやく判るという性質のものである。
静岡県などでは、厳しい晩霜の被害を受けたところもみられたからである。

茶の審査というのは、茶の葉っぱを熱湯で滲出して、真っ白い磁器の審査茶碗と称する器で行う。
いま適当な「審査茶碗」の写真がないのでお許しを乞う。
審査に使う一件あたりの茶の量も厳密に計る。
これはイギリスなどでの「紅茶」の審査でも同じ方法を採る。
現在の緑茶の審査方法も、あるいは、このイギリス式の紅茶審査法を近代になって見習ったものかも知れない。
熱湯と言っても、文字通り沸騰した湯を使う。こうしないと、欠点のある茶を見分けることが出来ない。
このようにして、毎日、多くの茶を審査するので、全部飲み込むわけではないが、胃を悪くしてアロエの葉の摺り汁などの厄介になることもある。

掲出の句は「みどりつめたき」と言っているのは、新茶の青い色を表現したもので、今どき夏に流行る「水出し」のことを言ったものではない。
この「みどりつめたき」という表現が作者の発見であって、これで、この句が生きた。
鈴鹿野風呂は京都の俳人で、この人の息のかかった俳人は、この辺りには多い。
いま手元に鈴鹿野風呂の作品が他に見当たらないので、歳時記に載る新茶の句をひいておく。

 生きて居るしるしに新茶おくるとか・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 雷おこしなつかし新茶澄みてあり・・・・・・・・・・・・・土方花酔

 夜も更けて新茶ありしをおもひいづ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新茶汲むや終りの雫汲みわけて・・・・・・・・・・・・・杉田久女

 新茶淹れ父はおはしきその遠さ・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 天竜の切りたつ岸の新茶どき・・・・・・・・・・・・・・皆吉爽雨

 無事にまさるよろこびはなき新茶かな・・・・・・・・・・・川上梨屋

 筒ふれば古茶さんさんと応へけり・・・・・・・・・・・・赤松子

 新茶汲む母と一生を異にして・・・・・・・・・・・・・野沢節子

 新茶濃し山河のみどりあざやかに・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

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新茶が出回ると、前年の茶は「古茶」となるわけで「陳(ひね)茶」という。「陳腐」の陳の意味である。
むしろ古茶を好む人もある。ここに挙げた終りから三つ目の句は、それを詠んでいる。 
こんな古茶の句もある。

 女夫(めをと)仲いつしか淡し古茶いるる・・・・・・・・・・・・松本たかし

 古茶好む農俳人ら来たりけり・・・・・・・・・・・・麦草



みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・・山中智恵子
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   みづからを思ひいださむ朝涼し
     かたつむり暗き緑に泳ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山中智恵子


いま二行に分けて書いてみたが、もちろん原歌は、ひと連なりの歌であるが、二行に分けて書いてみると、その感じが一層強くするのが判った。
この歌の上の句と下の句は、まるで連句の付け合いのような呼吸をもって結びついている。
事実、作者は一時期、連句、連歌に凝っていた時期がある。
この歌の両者は微妙なずれ、あるいは疎遠さを保って結びついているので、却って、結びつきが新鮮なのである。
この歌は字句を追って解釈してみても、それだけでは理解したことにはならないだろう。
叙述の飛躍そのものの中に詩美があるからである。
みずからを思い出すという表現は、それだけで充分瞑想的な世界を暗示するので、下の句が一層なまなましい生命を感じさせる。
大正14年名古屋市生まれの、独自の歌境を持つ、もと前衛歌人であったが平成18年3月9日に亡くなられた。
この歌は昭和38年刊『紡錘』所載。

以下、山中智恵子の歌を少し引く。
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道の辺に人はささめき立春の朝目しづかに炎えやすくゐる

わが戦後花眼を隔てみるときのいかにおぼろに痛めるものか

ああ船首 人は美し霜月のすばるすまろう夜半めぐるらう

さやさやと竹の葉の鳴る星肆(くら)にきみいまさねば誰に告げむか

淡き酒ふくみてあれば夕夕(ゆあべゆふべ)の沐浴ありときみしらざらむ

この世にぞ駅てふありてひとふたりあひにしものをみずかありなむ

未然より未亡にいたるかなしみの骨にひびきてひとはなきかな

秋はざくろの割れる音して神の棲む遊星といふ地球いとしき

こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

こもりくの名張小波多の宇流布志弥(うるぶしね) 黒尉ひとり出でて舞ふとぞ

ああ愛弟(いろせ)鶺鴒のなくきりぎしに水をゆあみていくよ経ぬらむ

ながらへて詩歌の終みむことのなにぞさびしき夕茜鳥

意思よりも遠く歩める筆墨のあそびを思ひめざめがたしも

きみとわれいかなる雲の末ならむ夢の切口春吹きとぢよ

その前夜組みし活字を弾丸とせし革命よわが日本になきか

くれなゐの火を焚く男ありにける怪士(あやかし)の顔ふりむけよいざ

ポケットに<魅惑>(シャルム)秋の夕風よ高原に棲む白きくちなは



はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・塚本邦雄
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   はつなつのゆふべひたひを光らせて
     保険屋が遠き死を売りにくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄


塚本邦雄は、言うまでもなく前衛短歌運動の旗手の一人として、もう一人の岡井隆とともに昭和20年代の後半から30年代にかけて疾風のように短歌界を駆け抜けた。
2005年に亡くなるまで、多大の影響を短歌界に及ぼしてきた。今もなお、その影響力が及んでいると言えるだろう。
すでに多くの人が、塚本その人と作品について論及している。
私などが、それらに触れることは、おこがましいことであるので、ここでは作品を挙げて引くことに徹する。

掲出歌は、塚本の歌の中では割合に判りやすい歌である。
塚本の歌は「比喩」と、本歌取りをはじめとする「引用」に満ちているので、読者自身も広い読書の蓄積を要求される。
「保険」というものは「死」を前提にした商品であって、この歌は、そういう保険の持つ性格をうまく比喩的に作品化した。
この歌から広がるイメージこそ、前衛短歌の基本である。
本来「短歌」というのは、「作者」=歌の中の「我」、という構図で古来作られて来た。
前衛短歌は、そういう構図を、先ずぶち壊し、歌の中の「私性」を引き剥がした。
明治以後、前衛短歌までの歌を「近代」短歌と規定するなら、前衛短歌以後の歌が「現代」短歌だと、規定することが出来よう。
「近代短歌」に聳える巨人の一人として斎藤茂吉を挙げることが出来る。
「現代短歌」の巨人としては、この塚本邦雄と岡井隆の二人を挙げなければならないだろう。
塚本の歌を少し引いて責めを果たしたい。
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春きざすとて戦ひと戦ひの谷間に覚むる幼な雲雀か

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯(とし)

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La Fontaine

ロミオ洋服店春服の青年像下半身なし * * * さらば青春

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

ペンシル・スラックスの若者立ちすくむその伐採期寸前の脚

壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

馬を洗はば馬のたましひ沍ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

レオナルド・ダ・ヴィンチと性を等しうし然もはるけく蕗煮る匂ひ

壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

父となり父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水

ノアのごと祖父ぞありける秋風にくれなゐの粥たてまつるべし

紅鶴(フラミンゴ)ながむるわれや晩年にちかづくならずすでに晩年

文学の塵掃きすててなほわれの部屋の一隅なるゴビ砂漠

死のかたちさまざまなればわれならば桜桃を衣嚢に満たしめて

またや見む大葬の日の雨みぞれ萬年青(おもと)の珠実紅ふかかりき

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状
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塚本邦雄というと、天皇制や戦争ということに拘って作歌して来たと言われている。後の二首は昭和天皇崩御に際しての歌である。
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0188-3塚本邦雄歌集

塚本邦雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本邦雄(つかもとくにお、1920年8月7日 ~ 2005年6月9日)は、日本の歌人。

人物
滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業。前川佐美雄に師事。短歌結社『玲瓏』を主宰。
戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』でデビューし、第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。
近畿大学文芸学教授を務めた。
作家塚本史は長男。

作風
とりわけ反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性に支えられたその作風によって、『未來』(アララギ系)の岡井隆・『アララギ』の寺山修司等と共に、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与え、その衝撃は穂村弘や荻原裕幸のニューウェーブ短歌にも及んでいる。 よく知られた歌に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)、「日本出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)、「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)、「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)など。作品では一貫して旧字旧仮名を用いた。

作品

短歌
水葬物語
装飾楽句
日本人霊歌
水銀伝説
緑色研究
感幻楽
星餐図
蒼鬱境
青き菊の主題
されど遊星
天変の書
詩歌変
黄金律
汨羅変
透明文法



俳句
断弦のための七十句

小説
藤原定家―火宅玲瓏
連彈
菊帝非歌―小説後鳥羽院
獅子流離譚-わが心のレオナルド
荊冠伝説-小説イエス・キリスト

評論
定型幻視論
序破急急
花隠論―現代の花伝書
麒麟騎手―寺山修司論
詩歌宇宙論
言葉遊び悦覧記
国語精粋記-大和言葉の再発見と漢語の復権のために
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資料として引いた「ウイキペディア」の記述の中に、寺山修司の所属を「アララギ」としてあるのは誤りである。
これを誰が執筆したかわからないが、寺山がアララギに所属する筈もないし、その事実もない。


アマリリス跣の童女はだしの音・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
アマリリス

   アマリリス跣の童女はだしの音・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

今年は季節の推移が早いので、5月半ばというのに私の家のプランターのアマリリスも一斉に開花した。
大柄な華やかな花で、花壇が一気に賑やかになる。
アマリリスは中米、南米原産のヒガンバナ科の球根植物だという。
わが国へは嘉永年間に渡来し、その頃はジャガタラズイセンと呼ばれたという。
花の時期は短くて、一年の後の季節は葉を茂らせ、球根を太らせるためにある。
強いもので球根はどんどん子球根が増えて始末に終えないほどである。
うちの球根も、あちこちに貰われて行ったり、菜園の隅に定植されたりして繁茂している。

この多佳子の句は、アマリリスの華やかさと子供が跣(はだし)で駆け回る様をうまく結びつけて句に仕立てた。
以下、アマリリスの句を少し抜き出してみる。

 燭さはに聖母の花のアマリリス・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 病室の隅の未明やアマリリス・・・・・・・・・・・・石田波郷

 ウエートレス昼間はねむしアマリリス・・・・・・・・・・・・日野草城

 温室ぬくし女王の如きアマリリス・・・・・・・・・・・・杉田久女

 太陽に烏が棲めりアマリリス・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 アマリリス過去が静かにつみかさなる・・・・・・・・・・・・横山白虹

 原爆の地に直立のアマリリス・・・・・・・・・・・・横山白虹

 アマリリス泣き出す声の節つけて・・・・・・・・・・・・山本詩翠

 アマリリス貧しい話もう止そう・・・・・・・・・・・・川島南穂

 アマリリス眠りを知らずただ真紅・・・・・・・・・・・・堀口星眼

 アマリリス心の窓を一つ開け・・・・・・・・・・・・倉田紘文

 あまりりす妬みごころは男にも・・・・・・・・・・・・樋笠 文

 アマリリス描く老画家の師はマチス・・・・・・・・・・・・皆吉司

 アマリリス耶蘇名マリアの墓多き・・・・・・・・・・・・古賀まり子
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私は 、第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)で、次のような歌を、ものしたことがある。 ここにアマリリスの句を抽出していて思い出したのである。

  洗礼名マリアなる墓多ければ燭ともす聖母の花アマリリス・・・・・・・・・・・・木村草弥

「花」という小見出しのところに収録したが、ヨーロッパの墓地を尋ねた時の印象を、このような歌にしてみたのである。


鼻の穴涼しく睡る女かな・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
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   鼻の穴涼しく睡る女かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

草城は中学5年(今の高二)の時から「ホトトギス」に投句し、21歳で巻頭掲載をかちとった程の早熟の才だったという。
この句も初期作品だが、対象把握の即物的かつ感覚的間合いの良さは抜群である。夏の昼寝であろう。
女の健康な寝息まで聞こえて来そうな午後の静けさ。
一見、簡単に詠んでいるようだが、こういう端的に爽やかな印象の句は意外なほど少ない。昭和7年刊『青芝』所収。

掲出の絵はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵するフェルメールの絵「眠る女」である。

夏は暑くて体力を消耗するので、午後のしばらくを昼寝して元気を回復させる。 
三尺寝という言葉があるが、これは日影が三尺移るぐらいの時間を眠るので、こういう。
植木屋や大工などの職人は、いたるところで場所をみつけて昼寝する。これも生活の知恵である。
ラテン・ヨーロッパや南方ではシエスタと称して店も役所も閉める習慣がある。

以下、昼寝または午睡の句を挙げてみよう。
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 ひやひやと壁をふまへて昼寝哉・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 我生の今日の昼寝も一大事・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 うつぶせにねるくせつきし昼寝かな・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 稍固き昼寝枕や逗留す・・・・・・・・・・・・松本たかし

 一片舟昼寝の足裏涛のむた・・・・・・・・・・・・中村草田男

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」・・・・・・・・・・・・中村草田男

 昼寝覚凹凸おなじ顔洗う・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 父の齢しみじみ高き昼寝かな・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 昼寝覚うつしみの空あをあをと・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 昼寝ざめ剃刀研ぎの通りけり・・・・・・・・・・・・西島麦南

 よき昼寝なりし毛布をかけありし・・・・・・・・・・・・堺梅子

 やまひなきひとの昼寝を羨しめり・・・・・・・・・・・・山口波津子

 光陰の流るる音に昼寝覚・・・・・・・・・・・・野見山朱鳥

 さみしさの昼寝の腕の置きどころ・・・・・・・・・・・・上村占魚

 麦の青樹の青赫と昼寝さむ・・・・・・・・・・・・野沢節子

 午睡たのしげ乳ぽつちりと釦はづし・・・・・・・・・・・・中山純子

 いづくより手足しびれて昼寝覚・・・・・・・・・・・・森澄雄



散文詩「イェイツの墓碑銘」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
ドラムクリフ教会(イエイツ墓)

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──(67)

      散文詩・イェイツの墓碑銘・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

         Cast a cold Eye

         On Life,on Death

         Horseman,pass by!・・・・・・・・・・・・William Butler Yeats


氷河によって削られ特異な形をしたベンブルベン山(525m)の見えるドラムクリフの聖コロンバ教会。
ここはノーベル賞詩人のW.B.イェイツの祖父が牧師を務めていた教会で、イェイツもよくここを訪ねており、
ここの墓地にイェイツの墓がある。

この教会の敷地の一角には立派な「ハイクロス」があり、写真も撮った。
この特異な形のベンブルベン山の見える土地にはイェイツは幼い頃から家族で夏を過し、
この自然がイエイツの詩作にも大きな影響を与えたと言われている。
ここスライゴー郊外のドラムクリフで、イェイツは村の人々から聞いた口伝えの伝説を集め
『アイルランド農民の妖精物語と民話』(1888年)、『ケルトの薄明』(1890年)に収めたりした。
そして民話に触発された独自の詩の世界を完成させた。
また『秘密の薔薇』(1896年)では、妖精や神々、英雄を登場させたりもした。

ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats, 1865年6月13日 ~ 1939年1月28日)は、
アイルランドの詩人、劇作家。
イギリスの神秘主義秘密結社黄金の暁教団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)のメンバーでもある。
ダブリン郊外、サンディマウント出身。
神秘主義的思想をテーマにした作品を描き、アイルランド文芸復興を促した。
日本の能の影響を受けたことでも知られる。

イェイツの属した、黄金の夜明け団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)とは、
19世紀末にイギリスで創設された近代西洋儀式魔術の秘密結社である。
黄金の暁会、ゴールデンドーンなどとも訳され、GD団と略される。
この結社は1888年3月1日、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザース、
ウィリアム・ロバート・ウッドマンの三人によって発足。
最盛期には100名以上の団員を擁したが、内紛により1903年頃までに3結社に分裂する。
その教義はカバラを中心に、 当時ヨーロッパでブームを起こしていた神智学の東洋哲学や薔薇十字団伝説、
錬金術、エジプト神話、占い、グリモワールなどを習合させたもの。
教義の習得ごとに、生命の樹(カバラの創世論の図)になぞらえた位階を設定。昇格試験を経て上位の位階に
進むというシステムを採用し、一種の「魔法学校」の様相を呈していた。
後の多くの西洋神秘主義団体も、このシステムを受け継いでいる。
人間の階級は当初最低が「ニオファイト」で最高が「アデプタス・マイナー」であるとされていたが、
後期には指導者が勝手にそれらより上の階級である「アデプタス・メジャー」等を名乗り始める。
長らくその内容は謎に包まれていたが、イスラエル・リガルディによって出版されて公に知れることになった。
なおリガルディーはのちに自宅を魔術マニアに荒らされ、コレクションを盗まれる。
これを天罰だという向きもあった。

イェイツは1865年 画家J・イェイツのもとに生まれる。15歳まではロンドンで過ごす。
1880年 ダブリンに帰郷。父の影響で絵の勉強をしたが、むしろ文学の方面で実力を発揮した。
1889年 「アシーンの放浪」出版。ケルトの古伝説に興味を持ち始める。
1892年 アイルランド文芸協会設立。
1899年 アイルランド国民劇場協会設立。
1923年 ノーベル文学賞受賞。

イェイツは1939年南イタリアで亡くなったが、遺言により第二次大戦後、ここに改葬されて、
懐かしい教会の墓地に眠っている。
墓石には、亡くなる数日前に書かれたという「ベンブルベンの麓にて」と題する詩の一部が彫られている。
 
      Cast a cold Eye

      On Life,on Death

      Horseman,pass by!

私は、まだ詩の全文にも当たっていないし、不正確は承知の上で下記のように訳してみた。
私のやっている短歌の音数律に則っている。

      冷徹な 視線を 

      生に、死に 投げて
 
      馬の乗り手は、 時の過ぎつつ

墓碑には、この詩とともに、生死の年月日が刻まれている。
黒い石の墓石に白い字が印象的な、簡素な墓である。
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(2010/05/15作)
習作中のため改作することがあります。

イェイツパンフレット

写真は、当地の教会でくれたイェイツに関するブックレットである。
ここにはDerick Binghamが記事を書き、Ross Wilsonがポートレートを、ほかの数人が写真を撮ったとある。

万緑の中や吾子の歯生えそむる・・・・・・・・・・・・・中村草田男
青葉①

   万緑の中や吾子(わこ)の歯生えそむる・・・・・・・・・中村草田男

「万緑」(ばんりょく)は夏の見渡すかぎりの緑を言う。
元来は季語ではなかった。
草田男は、中国の古詩、王安石の詩の一節 <万緑叢中紅一点> 
から「万緑」の語を得て、これを季語として用い、現代俳句の中に定着させた点で、記念碑的な作品である。
一面の緑の中で、生え初めた我子の赤ん坊の歯の白さが健気に自己を主張している。
生まれ出るもの、育ちゆくものへの讃歌が「万緑」の語に託されている。

満目の緑と小さな白い歯、この対比が鮮やかで、俳句的に生きたので、たちまち俳句界に共感を呼ぶ季語となった。
しかし、季語として流行することは、また安易な決まり文句に堕する危険をも含んでいて、この万緑の句も例外ではない。
昭和14年刊『火の鳥』に載る。
ちなみに、高浜虚子は死ぬまで、この万緑を季語としては認めなかった、というのも有名な話である。

   葉桜の中の無数の空さわぐ・・・・・・・・・・・・・・篠原梵

初夏、花の去った後の葉桜が、風にゆれつつ透かして見せる様々な形の空の断片を「無数の空」と表現した。
それを「さわぐ」という動態でとらえたところに、この句の発見がある。
掲出の写真を取り込みながら、草田男の句に添えて、この句を載せたいという気になった。
写真のイメージが、この句にぴったりだと思ったからである。
誰でもが見る、ありふれた光景を的確な言葉で新鮮にとらえ直すという、詩作の基本的な作業を行なって成功した句である。
篠原は明治43年愛媛県生まれ。昭和50年没。「中央公論」編集長を経て、役員を務めた。
昭和6年臼田亜浪に師事して以来、斬新な感覚を持って句誌「石楠」に新風を起こした。俳句の論客としても活躍。
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ここで「万緑」「新緑」の句を少し引く。

 万緑やわが掌に釘の痕もなし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 万緑や血の色奔る家兎の耳・・・・・・・・・・・・河合凱夫

 万緑に蒼ざめてをる鏡かな・・・・・・・・・・・・上野泰

 万緑や死は一弾を以て足る・・・・・・・・・・・・上田五千石

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・・・・・五百木瓢亭

 恐ろしき緑の中に入りて染まらん・・・・・・・・・・・・星野立子

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・・・・・辻田克巳

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・・・・・沖田佐久子

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・・・・・・日野草城

 新緑に紛れず杉の林立す・・・・・・・・・・・・山口波津子

 新緑の山径をゆく死の報せ・・・・・・・・・・・・飯田龍太



緑蔭に三人の老婆笑へりき・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
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   緑蔭に三人の老婆笑へりき・・・・・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

西東三鬼は、さいとう さんき、と読む。本名は斎藤敬直で、このペンネームの由来はアナグラムだと言える。
明治33年岡山県津山市生まれ。歯科医師。新興俳句運動にかかわり、弾圧事件で検挙された。
戦後、現代俳句協会、俳人協会設立などに奔走。「俳句」編集長も勤めたが胃がんを病んだ。昭和37年没。

この句も単なる写生と見ては、間違うだろう。
老人国家となった今日では普通の明るい日常の光景だが、この句は一種の「不気味さ」を湛えた句として鑑賞したい。
この句は昭和15年刊『旗』に載るもので、彼の戦前の新興俳句最活躍期の作品と見られるからである。
一ひねりある句として私は見る。
以下、彼の句を引くが、戦争、戦後の飢え、などに拘りを見せるほか、前衛俳句としての特徴を示す句たちである。
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 聖燭祭工人ヨセフ我が愛す

 右の眼に大河左の眼に騎兵

 梅を噛む少年の耳透きとほる

 道化師や大いに笑ふ馬より落ち

 厖大な王(ワン)氏の昼寝端午の日

 機関銃低キ月輪コダマスル

 逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!

 塹壕の壁を上りし靴跡なり

 主よ我もよふけに家にかへらざり

 国飢ゑたりわれも立ち見る冬の虹

 寒灯の一つ一つよ国敗れ

 中年や独語おどろく冬の坂

 おそるべき君等の乳房夏来る(きたる)

 赤き火事哄笑せしが今日黒し

 黒蝶は何の天使ぞ誕生日

 逃げても軍鶏に西日がべたべたと

 くらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり

 モナリザに仮死いつまでもこがね虫

 やわらかき蝉生まれきて岩つかむ

 暗く暑く大群集と花火待つ

 つらら太りほういほういと泣き男

 凶作の刈田電柱唸り立つ

 春を病み松の根っ子も見あきたり・・・・・・・(絶筆)
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Web上から彼の故郷・津山市の「西東三鬼俳句賞」の記事を転載しておく。

西東三鬼について

 新興俳句の旗手、鬼才と呼ばれた西東三鬼=本名・斉藤敬直=(1900-1962)は南新座の生まれ。津山中学に学び、両親を失った十八歳で東京の長兄に引き取られ、歯科医になる。患者に誘われて俳句を始めた。俳号、三鬼はサンキューのもじりだが、波乱の人生を送る彼のぺーソスとユーモアが潜んでいるような気がする。
 33歳で俳句入門して3年後の昭和11年、「水枕ガバリと寒い海がある」を発表、その鋭い感覚が俳壇を騒然とさせるのである。「十七文字の魔術師」の誕生であり、「ホトトギス」的伝統俳句から離れた新興俳句運動の記念碑でもあった。

戦争への道を急ぐ日本。三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」が世情不安をあおるとして弾圧を受け、無季を容認した新興俳句は三鬼が幕を引く結果になる。
 三鬼は、弾圧のショックを胸に東京の妻子を捨てて神戸に移り住む

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 そんなスナップのある安ホテルで、特高警察の刑事につけ狙われながら雌伏する。NHKテレビドラマ「冬の桃」は、その時代の三鬼の随筆をドラマ化したもので、小林桂樹が三鬼に扮して好演、再放送されるほど好評だった。
 俳句がすべてだった三鬼は、昭和17年、転居した神戸市内の西洋館(「三鬼館」と呼ばれる)の和室の畳まで売り払い、「天狼」創刊運動費にあてるほど徹底していた。

終戦。三鬼は俳句活動を開始、同志と現代俳句協会を創設、昭和23年、山口誓子を擁して俳誌「天狼」創刊の中心になった。編集長になり、自分も「激浪」を主宰し、昭和28年ぶりに帰郷する。そして昭和37年、惜しまれつつ永眠する。空前絶後の俳壇葬で三鬼を見送った。4月1日は西東忌、三鬼忌として歳時記に不滅である。

●平成4年4月5日、三鬼顕彰全国俳句大会が津山文化センターで開かれた。その朝、記念事業の三鬼句碑が生誕の地、南新座に市文化協会によって建てられ、三鬼の次男、斎藤直樹さんと孫の有哉君の手で除幕された。句は、
 枯蓮のうごく時来てみなうごく。
 昭和21年、奈良・薬師寺で詠んだ作品で、代表作の一つである。苅田龍氏所蔵の色紙の文字を拡大した。「生誕の地」の標柱を立てたが、三鬼の生家は近所にあった。文化協会は標識を立てていたが、老朽がひどく家主が平成二年、取り壊した。旧門下たちが惜しみ、三鬼が移り住んだ同町内の日笠頼助氏宅に句碑を建てることになったのである。

西東三鬼略年譜
明治33年 5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。本名 斎藤敬直。
大正 4年 県立津山中学校に首席入学。7年上京して青山学院に編入学したが中退。
 10年 日本歯科医専に進学する。
 14年 卒菜後、シンガポールで歯科医院を開業。
昭和 3年 帰国して歯科医院開業、のち病院に勤め、8年俳句と出会う。
 9年 同人誌「走馬燈」に加わり新興俳句運動に参加。
 10年 「京大俳句」に加わり、13年、歯科医をやめる。
 15年 「京大俳句」が反戦思想とみられ弾圧が始まる。有志と「天香」を創刊、第一句集「旗」刊行。
 17年 東京から神戸に移り、特高警察の監視下、「三鬼館」に雌伏。
 22年 石田波郷、神田秀夫らと現代俳句協会を創立。
 23年 山口誓子を擁して「天狼」を創刊、編集長となる。第二句集「夜の桃」を刊行。「激浪」主宰。春、30年ぶりに帰郷する。「激浪」の発行所を上之町、室賀達亀方に置く。
 26年 第三句集「今日」刊行。
 27年 新主宰誌「断崖」を創刊。
 31年 角川書店の「俳句」編集長になる。翌年辞職。
 34年 津山での美作婦人大会で「幸福と不幸」と題して講演。
 35年 俳壇あげて還暦祝賀会。
 36年 俳人協会設立発起人になる。10月、胃癌の手術。
 37年 第四句集「変身」を刊行。4月1日、永眠。61歳と11ヶ月だった。8日、角川書店で俳壇葬。5月27日、関西追悼祭。28日、遺骨を成道寺に納める。墓句樽銘は山口誓子筆。第二回俳人協会賞を贈られる。「断崖」は108号で終刊。
 52年 随筆「神戸・続神戸・俳愚伝」を改題「冬の桃」(毎日新聞社刊)を出版し、NHKテレビドラマ化「冬の桃」が放送される。
 53年 津山市文化協会が句碑「花冷えの城の石崖手で叩く」を建立。
平成4年 4月5日、没後三十年、三鬼顕彰全国俳句大会を津山文化センターで開く。選者は稲畑汀子、飯田龍太、金子兜太、沢木欣一、鈴木六林男、三橋敏雄、山口誓子(50音順)。南新座の旧三鬼住居(日笠家)に「生誕の地句碑」=「枯蓮のうごく時来てみなうごく」を除幕する。三鬼回顧展を西東忌の4月1日から誕生日の5月15日まで津山郷土博物館で催す。遺墨(軸11、色紙26、短冊40点)写真、遺品などを展示。


すぎし時もきたる日も/わすれたる昼の夢なれや/ただ今宵/君とともにあるこそ 真実なれ・・・・・・・・・・竹久夢二
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   すぎし時もきたる日も
   わすれたる昼の夢なれや
   ただ今宵
   君とともにあるこそ 真実(まこと)なれ・・・・・・・・・・・・竹久夢二


夢二は、いつも満たされぬ心を抱き、郷愁を抱いてさまよいつづけた「永遠の旅びと」である、と言われている。
茂(も)次郎という泥くさい名前が本名であるが、この名前を嫌い「夢二」というペンネームに替え、名前の通り、常に夢を追いつづけたと言える。

この詩は夢二の夢の通い路を詠んでいるが、しかし「真実」もまた、瞬時ののちには、虚しい夢となってしまうことを、一番よく知っていたのも、夢二自身であったろう。
どの時代においても、恋も人生もすべては夢、そう知りながら、やはり人は、恋をし、人生をひたすら歩いてゆかなければならないようである。

この詩を引用している私の心中にも、亡妻とともに過ごして来た日々を振り返って、それらの日々が、ああ夢のように過ぎ去ったのか、という深い感慨に満たされるのである。
太閤秀吉は死に際して「夢のまた夢」と呟いたというが、私の心中にも深く共感するものがある、と告白せざるを得ないだろう。

夢二の詩の終連の

     <君とともにあるこそ 真実(まこと)なれ>

という表白を忘れないように心に刻みたい、と念じて・・・・・。


石畳 こぼれてうつる実桜を/拾ふがごとし!/思ひ出づるは・・・・・・・・・・土岐善麿
    さくらんぼ

     石畳 こぼれてうつる実桜を
    拾ふがごとし!
    思ひ出づるは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿


これは土岐善麿のローマ字三行書きの歌集の巻頭の作で、原文はローマ字。
明治43年刊『NAKIWARAI』に載るもの。
短歌三行書きは親友・石川啄木、また「アララギ」派から出た釈迢空らに影響を与えた。

「実桜」はサクランボのこと。
思い出すことの内容は描写せず、ただそれが石畳に散る実桜を拾う感じだと、直截な気分の感触だけを記述する。
きびきびした語の動きは感傷をも律動感に溶かし込んでいる。
2行目の末尾に感嘆符!を打つなど新機軸を打ち出そうとしたことは、明らかだった。
土岐善麿は新聞記者としての経歴も長く、その幅ひろい視野に立って、戦後になっても国文学者として、漢学者として、またエスペランティストとして活躍した。能の新作も試みた。
青年時代の号は「哀果」で、この詩を作った頃は哀果だった。昭和55年没。

三行書きの詩(歌というべきか)を少し書き抜く。

    指をもて遠く辿れば、水いろの
    ヴォルガの河の
    なつかしきかな。

    おほかたの、わかきむすこのするごとき
    不孝をしつつ、
    父にわかれぬ。

    手の白き労働者こそ哀しけれ。
    国禁の書を
    涙して読めり。

    焼跡の煉瓦のうへに、
    小便をすれば、しみじみ、
    秋の気がする。

    りんてん機今こそ響け。
    うれしくも、
    東京版に雪のふりいづ。
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大正末期から昭和ひと桁、10年代にかけての「自由律」短歌運動にも深くかかわった。その頃の歌

   上舵、上舵、上舵ばかりとつてゐるぞ、あふむけに無限の空へ

   いきなり窓へ太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から

   あなたをこの時代に生かしたいばかりなのだ、あなたを痛々しく攻めてゐるのは

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敗戦後の歌に作者の歌として有名なものがある。それを少し引く。

   ふるき日本の自壊自滅しゆくすがたを眼の前にして生けるしるしあり

   鉄かぶと鍋に鋳直したく粥のふつふつ湧ける朝のしづけさ

   あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
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xhwa00101善麿ほか

写真②は、銀座カフェ・ヨオロッパにて、大正3年4月。
前列右より若山牧水、土岐善麿
後列右より古泉千樫、前田夕暮、斎藤茂吉、中村憲吉。

土岐善麿
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土岐 善麿(とき ぜんまろ1885年6月8日 ~ 1980年4月15日)は、日本の歌人・国語学者。

略歴・人物
東京・浅草の真宗大谷派の寺院の息子に生まれる。府立一中を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘をうけ、同級の若山牧水とともに作歌に励んだ。

卒業の後、読売新聞記者となった1910年に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これを切っ掛けとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの翌年啄木が死去。その死後も、善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。

その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年に東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた(これが今日の駅伝の起こりとなっている)。翌1918年に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940年に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。

戦後再び歌作に励み、1946年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早大教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や能・長唄の新作をものにするなど多彩な業績をあげた。他に紫綬褒章受賞。

第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。



神田川祭の中をながれけり・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
0805sanja三社祭

   神田川祭の中をながれけり・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

夏祭の、五穀の生産暦とは無縁な、いわゆる都市型の祭礼の華やかさは、江戸の山王権現(日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭に典型が見られたという。
この二神社の祭は天下祭と呼ばれ幕府公認の祭事だった。
今の日本橋の川筋がひとつの境になっていたという。

久保田万太郎は浅草生まれだが、この句は神田明神の祭を詠んだものか。
神田川もコンクリートで岸を固められて細くなったり暗渠になったりしている。
昔の神田川の風情を読んだ懐かしい句として、この句は鑑賞したい。
どの祭を指すか判らないまま、江戸の夏祭に触れてみたい。

浅草三社祭は古くは陰暦三月だったが、今年は5月14日~16日に催行される。今日は、その日に因んで、この句を載せることにした。
ご存じかと思うが浅草寺と浅草神社は神仏習合の頃からの仕来りで、浅草神社の祭礼とある。
浅草寺の縁起は古く、本尊観音が宮戸川(今の隅田川)で漁師に拾われたのは推古朝のことだという。
三社とは、その時の漁師、浜成、武成の兄弟と土師直中知(はじのあたいなかとも)を指す。
人の名前に「社」という字が宛てられる理由は知らない。
とにかく、この観音の出現により、武蔵野の片隅だった江戸湾近くの寒村が次第に江戸の盛り場として、人の通う所となっていったのだという。

 三社まつり山王まつりともに雨・・・・・・・・・・・・・室積徂春

折角、山車や神輿を飾ったのに、という江戸っ子の舌打ちが聞こえてきそうである。
今年のお祭は、どうであろうか。

庶民の夏にかかせない行事に縁日があることを忘れては片手落ちである。
都市生活に伴い、江戸中期以降、日中勤務する商人や職人にとって夜の市(いち)は憩いの場で、参詣によるご利益と市の立つ賑わいは、庶民の夢と実用が重なっていた。
もっと先のことになるが、7月10日に観音様に参詣すれば4万6000日分の参詣に相当するということと、夜市で楽しむということは、まことに一挙両得の感があったのではないか。

 朝顔を見にしののめの人通り・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 夫婦らし酸漿(ほほづき)市の戻りらし・・・・・・・・・・・・高浜虚子

これらの句は朝顔市、酸漿市の描写だが、夏の夜の路傍に、アセチレンガスを点けて、飴や綿菓子、小亀やヒヨコなどの小動物、草花、金魚などを売っていた夜店は懐かしい風物詩であった。夕食後、家族そろって夕涼みをかねて出掛けた思い出を持つ人は多いだろう。
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三社祭

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三社祭(さんじゃまつり)は、毎年5月に行われる東京都台東区浅草の浅草神社の例大祭である。江戸三大祭は通説では神田祭、山王祭、深川祭の事であるが、深川祭に代えてこちらを加える学説もある。

旧幕以来の江戸文化の中心であった神田とも、隅田川以東の下町文化圏とも浅草は別個であるが巧妙に両者のイメージを利用してきた背景がある。文化圏について鈍感な行政やマスコミの影響もあり、その中心部は土地持ちの富裕層が多かったにも関わらず下町イメージで語られる不思議な町「浅草」の魔力といっても過言ではない。

但し、「観光宣伝色が強い」「浅草の内部での結束が悪すぎる」「各町神輿連合をヤクザが組の宣伝に利用している(昔は酒をタカリにしか来なかったが、現在では同好会を主催)」など問題点も多く、地元都民の全面的支持は受けていない。参加者のモラルの低下も指摘される処であり、このため自治体としての台東区も万が一に火の粉を被りたくないためか、暖かく見守りはするが積極的に関わろうとしない「隣の話」という態度を崩していない。この背景には「祭り」でありながら「氏子」が中心としての求心力をもち得ない特殊な事情があり、何かあっても責任の押し付け合いに終始する浅草の悪癖が根底にある。

現在は5月第3週の金・土・日曜日に行われる。正式名称は浅草神社例大祭。

かつては観音祭・船祭・示現会に分かれていたが、1872年から5月17・18日に行われるようになった。

本来ならば氏子が担ぐのが正当であるが、一時期、担ぎ手不足の時代に他所から担ぎ手を募った歴史はある。現在は人員は足りているが、神輿同好会が参加している。ふんどしを穿いてる担ぎ手も結構多い。


祭りの構成
1日目(金):名物大行列(浅草芸者、田楽、手古舞、白鷺の舞、等が登場)
2日目(土):氏子各町神輿連合渡御
最終日(日):宮だし・本社神輿各町渡御・宮入り
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今日は京都では「葵祭」だが、これについては昨年の記事に書いたので、それを参照されたい。


はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・・・・・会津八一
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   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
     をゆび の うれ に ほの しらす らし・・・・・・・・・・・・・・・・・会津八一


会津八一の歌は「ひらがな」書きで、しかも単語と助詞などを間隔を空ける独特の表記の仕方に特色のある歌である。
初夏の風になってきたなぁ、と、み仏は「をゆび」=小指の「うれ」=末端=先で、ほのかにお感じになったようだ。
という意味の歌であり、み仏と一体になるような感じで、作者がいわば言葉によって、ひたと寄り添おうとしている仏の温容、その慈悲に満ちたたたずまいが、おのずと浮びあがってくるようである。

八一については前回に少し書いたので、ここでは繰り返さない。大正13年刊の『南京新唱』に載るもの。
南京とは、北の京都に対して奈良を指して言ったもの。
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会津八一の歌を二、三ひいておく。

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こゑ の さやけさ 

かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと

このごろ は もの いひ さして なにごと か きうくわんてう の たかわらひ す も

さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を ひさしみ こひ つつ か あらむ

いちじろく ひとき の つぼみ さしのべて あす を ぼたん の さかむ と する も



つちふるや日輪たしかに黄に変じ・・・・・・・・・・・・・山口素逝
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  つちふるや日輪たしかに黄に変じ・・・・・・・・・・・・・山口素逝


「つちふる」を漢字で書けば「霾」となる。なんて難しい字だが、今でいう「黄砂」のことである。
昔は「黄沙」と書いたが、常用漢字では「砂」を採用している。
黄砂については今さら言うまでもないが、中国北部やモンゴルの砂塵が偏西風によって日本まで運ばれてくるもの。
朝鮮半島では、距離的に近いので、その被害もひどいらしい。学校が休校になったりするらしい。
「霾」の字は雨かんむりに狸という字がくっついているが、昔は古代中国ではタヌキが悪さをして、こんな変な天気になると信じられていたのであろう。
とにかく「黄砂」「霾る」というのが春の季語になっている。
今年は昨年暮れ以来、黄砂の襲来が早く、かつ程度がひどくて五月になった今も激しく降る日がある。黄砂アレルギーの人も出る始末である。

黄砂の句は多くはないが、少し引いておく。

 青麦にオイルスタンド霾る中・・・・・・・・・・・・富安風生

 真円き夕日霾なかに落つ・・・・・・・・・・・・中村汀女

 つちふりしきのふのけふを吹雪くなり・・・・・・・・・・大橋桜坡子

 幻の黒き人馬に霾降れり・・・・・・・・・・・・小松崎爽青

 驢馬の市つちふるままに立ちにけり・・・・・・・・・・三篠羽村

 霾ぐもり大鉄橋は中空に・・・・・・・・・・・・山崎星童

 黄塵のくらき空より鳩の列・・・・・・・・・・・・鈴木元

 鉢の蘭黄塵ひと日窓を占む・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 黄沙濃し日冰輪(ひょうりん)となりて去る・・・・・・・しづの女

 喪の列や娶りの列や霾る街・・・・・・・・大橋越央子



舞へ舞へかたつぶり、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏みわらせてん、・・・・・・・・・・ 梁塵秘抄
sizen266カタツムリ

   舞へ舞へかたつぶり、
   舞はぬものならば、
   馬の子や牛の子に蹴させてん、
   踏みわらせてん、
   まことに美しく舞うたらば、
   花の園まで遊ばせん・・・・・・・・・・・・・・・・ 『梁塵秘抄』


蝸牛かたつむりは陸産の巻貝で、でんでんむし、まいまい、とも言われる。
関東地方の森や野に多いのはミスジマイマイで殻の直径が3.5センチ、2センチほどの高さで黒っぽい三本の帯斑がある。
暖かくなると活動をはじめ、農家にとっては農作物を害するので困り者である。
いろいろの種類があり、ヒダリマキマイマイは貝殻を前から見て口が左にあり、黒い帯は一本である。
他にクチベニマイマイ、セトウチマイマイ、ツクシマイマイなどがよく見られる種類だという。
大きいのはアワマイマイで四国の山地に居る。
雌雄同体だが、交尾は別の個体とする。

403otomおとめまいまい

写真②はオトメマイマイという名前らしい。かわいい小さい種類である。
童謡に歌われる「角」というのは「目」である。突くとひょいと引っ込める。

芭蕉の句に

 かたつぶり角ふりわけよ須磨明石

というのがあるが、この角というのも、もちろん目であり、古来、角──争う、という連想から詠われたものが多い。どこか遊び心の湧く季語だったようである。
古句を引くと

 蝸牛の住はてし宿やうつせ貝・・・・・・・与謝蕪村

 蝸牛見よ見よおのが影法師・・・・・・・・小林一茶

などがある。明治以後の句を引いて終わりたい。

402tukuかたつむり

 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一



柿若葉愛静かなる日を照るも・・・・・・・・・・・・・・岩崎富美子
kaki006柿の花

   柿若葉愛静かなる日を照るも・・・・・・・・・・・・岩崎富美子

今しも「柿若葉」のうす緑が美しい季節である。
私の地方では、柿の若葉が茂りはじめて来て、枝に止まるスズメなどの小鳥の姿が隠れるようになると、お茶摘みが出来る頃になると言われている。
「柿若葉」の適当な写真がないので、もう少し先になるが、柿の花の写真を掲げておく。
それにしても、この句のように「愛静かなる」などと言われると、この作者は、この句を詠んだとき「静かな愛」に包まれていたのだなぁと思う。
なかなか、こういう句や歌は詠めないものであり、羨ましい。

昔は「柿」の木は民家の敷地には必ず一本くらいはあったものだが、この頃では見かけなくなった。今は昔ほど「柿」の実を食べなくなった。
他に、いくらでも「食べるもの」が豊富にあって、第一、ナイフで皮を剥いて、小分けにして、種を出して食べなければならない、というのが面倒らしい。
その点、指だけで剥いて食べられる「みかん」や「バナナ」などには衰えない人気があるのと好対照である。

初夏に「柿の若葉」は、つややかに光る萌黄色をしていて、さわやかで新鮮である。
みずみずしくデリケートに、のびのびした「命」そのもののような若葉であり、初夏の心にひびく眺めのひとつであるのは、確かであろう。
以下、「柿若葉」の句は多くはないので、「柿の花」の句も引いて終わる。

 柿若葉雨後の濡富士雲間より・・・・・・・・・・渡辺水巴

 柿若葉重なりもして透くみどり・・・・・・・・・・富安風生

 節目多き棺板厚し柿若葉・・・・・・・・・・中村草田男

 まだ柿のほか月かへす若葉なし・・・・・・・・・・篠原梵

 柿若葉嬰児明るき方のみ見る・・・・・・・・・・鎌田容克

 父の代の風が吹きをり柿若葉・・・・・・・・・・高橋沐石

 柿若葉すこし晴れ間を見せしのみ・・・・・・・・・・川口益広

 こぼるるもくだつも久し柿の花・・・・・・・・・・富安風生

 柿の花農婦戸口に入る背見ゆ・・・・・・・・・・大野林火

 柿の花あまたこぼれて家郷たり・・・・・・・・・・岸風三楼

 飲食に腋下汗ばむ柿の花・・・・・・・・・・岡本眸

 葬式に従兄弟集まる柿の花・・・・・・・・・・広瀬直人

 総領は甚六でよし柿の花・・・・・・・・・・高橋悦男

 ふるさとへ戻れば無官柿の花・・・・・・・・・・高橋沐石

 行宮跡ひそかに守りて柿の花・・・・・・・・・・築部待丘



享けつぎて濃く蘇るモンゴル系ゐさらひの辺に青くとどめて・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   享けつぎて濃く蘇るモンゴル系
     ゐさらひの辺に青くとどめて・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

よく知られていることだが、いわゆる「モンゴリアン」という人種のお尻には尾骶骨の上の方に、特有の「蒙古斑」という青い「あざ」の模様が幼少期には見られる。
大きくなると、それは薄れて見えなくなる。
ハンガリー人なども源流はモンゴリアンと言われているが、その後白人との混血も進んでいるのだが、今でも「蒙古斑」は見られるのだろうか。

掲出した写真はネット上から拝借したもので「白人」のお尻であり、「蒙古斑」とは関係がない。
このように見事にくびれたプロポーションは黄色人種には、ない。
現在の南北アメリカ大陸に渡ったネイティヴ・アメリカンは、ずっと昔にベーリング海峡を渡って辿り着いたモンゴリアンだと言われているが、そう言われているからには、この「蒙古斑」が彼らにも認められるということなのだろうか。

念のために申し添えると「ゐさらひ」というのは「尻」のことを指す「やまとことば」古語である。
お尻というところを「いさらい」と言えば、何となく非日常化して来るではないか。
これは「おむつ」というところを「むつき」と言い換えるのと同様のことである。いわば「雅語」化するのである。
これらは詩歌の世界においては常套的な手段である。

ずっと昔に、うちの事務所にいた子育て中の事務員さんと雑談していて、話がたまたま「蒙古斑」のことになったところ、その人は真顔になって「うちの子には、そんなアザはない」と反論して来たことがある。われわれ日本人はモンゴリアンといって必ず「蒙古斑」があるのだと説明したことである。もちろん人によってアザの濃淡はあるから気づかなくても不思議ではない。

それにしても、掲出の写真の人のお尻あるいはプロポーションのすばらしさは、どうだろう。
この辺で、終わりにする。



老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   老いびとにも狂気のやうな恋あれと
     黒薔薇みつつ思ふさびしさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
バラに関しては、このBLOGにも何度か書いてきたが、四季咲きの薔薇があるとは言え、やはり今の時期が薔薇のシーズンである。
私の歌では「狂気」=黒、という連想のイメージから黒バラとしたが、何と言ってもバラは「真紅」が好きだ。情熱的な真っ赤が一番ふさわしい。
もっとも「黒」バラとは言っても、掲出した画像のような色のものを黒バラと称しているらしい。
薔薇は紀元前から北半球の各地に自生しているバラ科の植物だが、いまバラとして鑑賞されているのは、ほとんど「近代バラ」である。

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近代バラの歴史は古くはなく、その黎明はナポレオン一世の皇后ジョゼフィーヌによって、ヨーロッパ原産の一季性大輪のものと、中国産の四季咲き庚申バラを交配させたことに始まる。
1867年にフランスの園芸家ギヨが、ラ・フランスという名花を作り出し、近代バラの主流の地位を確立して以来、今日までおびただしい新種が国際登録されてきた。
世界的に、それほど芸術の場に採りあげられた花はないし、どれだけ多くの男性が、バラを捧げて愛を告げたことであろうか。
花言葉は「愛」。単純、明快である。

今みつけた句に、こんなのがあった。

   薔薇大輪稚ければ神召されしや・・・・・・・・・・角川源義

この句は源義が、誰か肉親の死に際して詠んだものであろうが、私には身に沁みるものである。

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歳時記にもバラを詠んだ句は多い。
それらの中からいくつか選んで終わる。

 薔薇に付け還暦の鼻うごめかす・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 タイピストコップに薔薇をひらかしむ・・・・・・・・・・・・日野草城

 咲き満ちて雨夜も薔薇(さうび)のひかりあり・・・・・・・・水原秋桜子

 手の薔薇に蜂来れば我王の如し・・・・・・・・・・・・中村草田男

 憂なきに似て薔薇に水やつてをり・・・・・・・・・・・・安住敦

 薔薇垣の夜は星のみぞかがやける・・・・・・・・・・・・山口誓子

雨の伊豆海暗けれど薔薇赤し・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 薔薇剪れば夕日と花と別れけり・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 睡る嬰児水あげてゐる薔薇のごとし・・・・・・・・・・飯田龍太

 薔薇咲かせ心の奢り失はず・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

 薔薇挿せど空瓶になほ洋酒の香・・・・・・・・・・・・桂信子

 おうおうと金春家いま薔薇のとき・・・・・・・・・・・・森澄雄

 足袋に散る薔薇の花びら更年期・・・・・・・・・・・・横山房子

 バラ垣をもて一切を拒みけり・・・・・・・・・・・・徳永山冬子


手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭りゐつ・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  手にすくふ水に空あり菖蒲田の
    柵に病後の妻と凭(よ)りゐつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
私の地方は、豊富な地下水を利用して花菖蒲、かきつばた、海芋(かいう)カラーなどの花卉栽培の盛んなところで、この時期になると「花菖蒲」田が見ごろになる。
この歌は数年前の亡妻の大手術の後の小康の頃の様子を詠っている。

手にすくった水に空の青さが映っている、という歌の意味であるが、今となっては、妻との思い出として忘れられない歌になってしまった。

「菖蒲」の句を少しひいて終わる。

   白菖蒲過去なくて人生きられず・・・・・・・・・・・・稲垣きくの

この句なども、作者にいかなる事情があったか分からないが、私の心象に激しく迫るものがある。

   菖蒲見しこころ漂ふ如くなり・・・・・・・・・・・・・藤田湘子

文芸のいいところは、読者が、作者の意図を離れても、さまざまに解釈し得るということである。
花菖蒲の群生を見ても、私の場合、妻に心が行って、「こころ漂う」というフレーズに心動かされるのであった。

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   白菖蒲剪つてしぶきの如き闇・・・・・・・・・・・・鈴木鷹夫

この句なんかも私の身にびんびん響くものがある。それは、受け取る私の心が、そういう受動の個所に居るというからに他ならない。

   風渉りゐて菖蒲田の白ばかり・・・・・・・・・・・・篠崎圭介

この「叙景」は、何ともない情景のようであるが、心象に迫るものを持っている。

   ほぐれそめ翳(かげ)知りそめし白菖蒲・・・・・・・・・・・・林 翔

菖蒲が心を持つ筈もないのだが、人というものは、何につけても、心を盛りたがるものである。「翳知りそめし」という表現が秀逸である。


大いなる月の暈ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて
     梨の蕾は紅を刷きをり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
写真は蕾でなく開いた梨の花だが、「二十世紀」という種類である。
ほぼ真白だが、心持ち少しピンクがかっていると言えようか。
写真②が純白の梨の花である。

CIMG22711梨の花

梨の栽培は、外国では芸術的な大きな梨は余り作らないので、なるべく手間のかからない栽培をするが、日本では労働集約的な手間をかけて立派な果実を作ろうとする。
梨の受粉も、花粉を人手で一つ一つ雌蘂に付けるという大変な手間をかける。
受粉が済んだら、よい実だけを残して、あとは全部もぎとる「摘果」という作業をする。
その後には一つづつ紙袋をかぶせるという手間をかける。
この頃では「無袋」栽培というのも一部では行なわれてはいるが、主流は「袋」ありである。
写真③が受粉作業の様子。

CIMG22701梨の受粉

筆の先に雄しべの花粉をつけて、花の雌蘂に一つ一つつけてゆく大変な作業。
梨の木は落葉する木で冬には幹と枝だけである。冬の間に徒長枝などを剪定して活かす枝だけを残す。
昨年秋に、9/8付けで、このBLOGに 梨の実 のことで少し書いた。二十世紀という梨の株の最初の開発者のことなども書いたので、参照してもらいたい。
写真④が広い梨畑に一斉に花が咲いた様子である。

CIMG23251梨の花畑

古来、梨の花は俳句に詠まれてきたので、それを引く。

 梨棚の跳ねたる枝も花盛り・・・・・・・・松本たかし

 青天や白き五弁の梨の花・・・・・・・・原石鼎

 梨咲くと葛飾の野はとのぐもり・・・・・・・・水原秋桜子

 梨の花わが放心の影あゆむ・・・・・・・・山下淳

 多摩の夜は梨の花より明けにけり・・・・・・・・斎藤羊圃

 能登けふは海の濁りの梨の花・・・・・・・・細見綾子

 梨の花郵便局で日が暮れる・・・・・・・・有馬朗人

 はてしなき黄土に咲いて梨の花・・・・・・・・青柳志解樹

 キリストの蒼さただよふ梨の花・・・・・・・・福田甲子雄

 梨の花白にはあらず黄にあらず・・・・・・・・信谷冬木


豊作を願う石楠花採りて来し学徒の戦死語りつぐべし・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
050520_001シャクナゲ②

   豊作を願う石楠花(しゃくなげ)採りて来し
     学徒の戦死語りつぐべし・・・・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


NHKラジオ深夜便の本『誕生日の花と短歌365日』によると、今日5月6日の誕生日の花は「シャクナゲ」ということになっている。
「花言葉」は「威厳」ということである。
「誕生日の花」については、本や著者によって、まちまちであるから、この本はあくまでも選者の「柳宗民」氏によるものであることを付記したい。

この歌についている鳥海昭子さんのコメントによると

<ふるさとの山形県庄内地方には、シャクナゲを田の水口に供えて豊作を願う神事がありました。
 白装束の青年たちが、自生するシャクナゲを採りに鳥海山に登るのです。>

とある。植物と農耕との深い結びつきを示す神事と言えるだろう。
単なる植物観察や鑑賞の域を超えて、日本人の精神性に思いを馳せるのも無意味ではないだろう。

蛇足だが、私の持つ他の本では、今日の誕生日の花は「花蘇芳」「紫蘭」となっており、全くかけ離れている。
「シャクナゲ」に指定されている日というと「5月8日」であり、もう一誌は「シャクナゲ」の採用自体がない。
これも、どうかと思う。

シャクナゲは、ヒマラヤ地方、中国、北アメリカなどにも分布するというが、日本列島には大よそ10種類ほど種類があるという。
ヨーロッパでは早くから品種改良につとめ、日本へは「西洋シャクナゲ」の名で移入されていて、一般家庭のシャクナゲは、ほとんどこの西洋シャクナゲだという。
しかし、やはりシャクナゲは山で野生の状態で見るのが一番風情がある。

050520_003シャクナゲ③

以下、俳句に詠まれる句を引いて終わる。

 石楠花に手を触れしめず霧通ふ・・・・・・・・・・・・臼田亜浪

 石楠花や山深く来て雲の雨・・・・・・・・・・・・吉田冬葉

 白石楠花夜になり夜の白さなる・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 しやくなげは天台ぼたん雲に咲く・・・・・・・・・・・・百合山羽公

 石楠花や鳥語瞭(あきら)か人語密(ひそ)か・・・・・・・・滝春一

 石楠花の一花残りて籠堂・・・・・・・・・・・・村越化石

 石楠花に渓流音をなせりけり・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

 石楠花や水櫛あてて髪しなふ・・・・・・・・・・・・野沢節子

 石楠花や雨に削がれし牧の道・・・・・・・・・・・・皆川盤水

 石楠花の咲く寂けさに女人講・・・・・・・・・・・・角川春樹

 石楠花や那智大神に子は抱かれ・・・・・・・・・・・・斎藤夏風

 石楠花にかくれ二の滝三の滝・・・・・・・・・・・・宮下翠舟

 薬湯をたてて石楠花ざかりかな・・・・・・・・・・・・吉本伊智郎

 石楠花の山は高さを惜しまざる・・・・・・・・・・・・只野柯舟

 石楠花に溺れし夜の三斗小屋・・・・・・・・・・・・秋山花笠

 雲下りてくる石楠花のあたりまで・・・・・・・・・・・・北野石竜子
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この頃では、眠っても早く目が覚めたりすることが多いので、ラジオをかけて、このNHKの「ラジオ深夜便」をかける。
ここ2、3日つづけてかけている。
そうしていると、聴きながら、いつしか、またトロトロまどろむこともある。
いろいろ参考になることも放送している。


散文詩と長歌「愛の寓意」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──(63)

    散文詩と長歌・愛 の 寓 意・・・・・・・・・・・・・・・・・木 村 草 弥

魅力的になりたければ「謎を纏うこと」と、ココ・シャネルは言った。
「謎めいているからこそ、人生は生きるに値する」と、アルフレート・クービンは言った。
「謎以外の何を愛せよう」──デ・キリコは言った。
古来「謎」をめぐる名言がいくつもある。

いくつもの謎を纏った絵と言えば、イタリアのメディチ家からフランス国王フランソア一世に
贈られたブロンツィーノの『愛の寓意』の絵がピカ一であろう。
寓意画は十六世紀に流行した。
画家が難解で凝った寓意や擬人像を考案し、鑑賞者はその解読に挑戦するという賞玩が、
宮廷社会での知的遊戯となった。
『愛の寓意』の絵も、彼らの目を悦(よろこ)ばせるとともに、その教養や見識を問うたものだ。
まだ、すべての謎が解き明かされたものではなく、謎は謎を呼び、さまざまな解釈がなされて、
作品の魅力を倍加させて今日に至っている。

真っ先に目を引くのは、色彩の美しさだろう。
冷たい光に浮かび上がる、陶器のように滑らかな裸身、その輝く白さが、背景の妖しいブルーに
よく映える。クッションの赤や衣装の緑という配色にも、心憎いばかりの計算がある。
計算と言えば、人物のポーズもそうだ。
主役二人の取り澄ました表情と、引き伸ばされ捩れた官能的肢体の落差が効果的である。
そして直角に上げ、だらりと下げ、画面を横切る、腕、腕。
軽快に一歩踏み出し、くの字に曲げ、しどけなく投げ出される、脚、脚。
これらの動きと方向が少しでも違えば、作品の均衡は崩れてしまうに違いない。
そして圧倒的なエロティスムがある。
その放射の源は、右手に矢、左手に金のリンゴを持つ成熟した女性と、両性具有的な面立ちの
少年との絡み合いだ。
身につけているのはティアラだけという彼女は、少年のキスを受け、指に乳首をはさまれ、
横顔はあくまで典雅で無表情ながら、頬と耳をほのかに紅潮させている。
Z型の非常に不自然な体位は、恍惚のあまり脱力しつつある瞬間なのだろうか。
そんな彼女の頭を繊細な手で支える相手も、やはり不自然で無理な姿勢を取っている。
背にブルー・白・緑の小さな三色翼を生やし、片足を赤いクッションに載せた彼は、顔の輪郭
からどう見ても思春期前後の少年の筈だが、下半身はすでに一人前の逞しさが感じられ、
そうしたアンバランスなところが見る者の不安を増幅する。背中に見えるベルトは矢筒を下げ
るもので、矢筒そのものは左足の近くにある。右の足元には、番いの白鳩が見える。
少年の背後の暗がりには、醜い老婆や、口をあける女の横顔、カーテンをむんずと摑む腕の主の
禿げ頭で白髭の老人も白黒の大きい翼を生やしている。その他にもまだ何人かの人物が居る。
こうした登場人物たちや、さまざまな物、それらが何を意味するのか。
ブロンツィーノの友人だったヴァザーリの記述──<彼は特異な美しさをたたえた絵を描いたが、
それはフランス国王フランソアのもとへ送られた。絵には裸のヴィーナスと、彼女にキスする
キューピッドが描かれ、周りには快楽、戯れ、欺瞞、嫉妬、愛の情欲などが描かれていた>や、
当時の図像研究書『イコノギア』、また現代イコノロジー(図像解釈学)の泰斗パノフスキーの
説などがあるので参照されよ。 因みに、この絵はロンドン・ナショナルギャラリー所蔵。

ひとつだけ書いておこう。
白髭の老人が「時の翁」である。砂時計と大きな翼が象徴するものは、無慈悲な「時」であり、
この絵の一番上に居ることからも、あらゆるものに君臨するのである。
彼が荒々しく容赦なく剥ぎ取ろうとしているカーテンはロマンティックな薄闇色ブルーであり、
夜の帳に隠れていた、愛という名のもとに蠢くさまざまなもの──快楽、戯れ、欺瞞、嫉妬、
情欲などが、一挙に白日のもとに曝されるところだ。
だけど、何かがおかしい。
キューピッドは、ヴィーナスとゼウスとの間に生れた息子なのだ。
つまり、この二人は、愛の女神と、その実子なのだ。これは母子像なのだ。
本能的にアブノーマルを感じさせるところに、この『愛の寓意』の絵の凄さ、があるのだ。
愛というものの大きな要素である<官能>は人間性を逸脱させることもある──この絵は、
そう語っているようである。
しかし、作者ブロンツィーノは、それを肯定しているのか、否定しているのか。謎である。

       極東の果て古代中国には「菊慈童」という不老不死の物語があった
          そんな夢幻の境に沈潜する男が現代に居たのである
             現代版「愛の寓意」そのものである
              以下は、その男の夢物語である

              菊慈童めき・・・・・・・・長歌と挿入歌二首

     人倫の通はぬ処、狐狼野千(ころうやせん)の住み処(か)とぞいふ菊咲く処
      ──甘谷の水は菊水「菊慈童」の七百歳のいのちこそ憶へ──木村草弥
     蜜壺にあふるるものに口つけて陶然とすれば菊慈童めき
     ケータイがどこかで鳴るな、あの音を鳴らぬ設定にしておきなさい
     その場所をあなたの舌がかき混ぜた 快楽(けらく)の果てに濃い叢(くさむら)だ
     ふたりは繋がつて獣のかたちになる 濃い叢にあふれだす蜜
     頭と頭よせあつてかき抱けばぢきに夜の闇が二人を包む
     刻々と<時>は進むがカレンダーはもう見ないでよ無明のうつつ
     睦みあひもだえしのちは寂(さび)しくも泥のごとくに眠れるわれら
     山の端に朝日のぼりぬあかときをわれらはひしと掻き抱きたり
     あなたとの子が欲しいと君は言ふ、君の子宮はもう無いのだよ
      ──ぬれてほす山路の菊のつゆのまにいつしか千歳を我は経にけむ──素性法師
     飲むからにげにも薬と菊水の月は宵の間身は酔ひにつつ
     <愛の寓意> 何の謂ひぞも 股間から春画のままに滾(たぎ)るものかな

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(2010/05/05作)
習作のため改作することがあります。
「菊慈童めき」の長歌の部分は歴史的かなづかいを採用しています。ご了承ください。
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この絵は「愛のアレゴリー」とか「愛の勝利の寓意」とか書かれることもある。
ここで参考までにブロンツィーノのことを載せておく。

アーニョロ・ブロンツィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 - 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリアフィレンツェの画家。本名はアーニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ・トルリ(Agnolo di Cosimo)。ブロンツィーノという愛称は、恐らく彼の髪の色であった「青銅」色を意味するイタリア語”ブロンツォ”に由来する。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。「愛の勝利の寓意」に代表される画風は、極めて知的・技巧的で洗練された美しさに満ちている。また、肖像画にも多数の優れた作品を残している。

生涯
ブロンツィーノは1503年11月17日フィレンツェ近郊の貧しい肉屋の息子として生まれた。ブロンツィーノは始めラファエリーノ・デル・ガルボの弟子となり、次いで1515年頃からポントルモの工房で働き始めた。 1523年から25年にかけて、ガッルッツォのカルトゥジオ会修道院の回廊装飾、次いでサンタ・フェリチタ教会のカッポーニ家礼拝堂の装飾を師ポントルモと共に行った。カッポーニ家礼拝堂の天井にある4つの円形パネルの内2つはブロンツィーノの手によるとされている。

1531年には、デッラ・ローヴェレ家の元で働くためペーザロに移住した。 1530年から45年にかけて制作された一連の肖像画(≪ウゴリーノ・マルテッリの肖像画≫≪パンチャティキ夫妻の肖像画≫は、芸術家としての新局面を示している。

1539年、ポッジョ・ア・カイアーノの装飾に従事していたポントルモの要請によりフィレンツェに帰還した。フィレンツェ公コジモ一世とエレオノーラ・ディ・トレドの結婚祝祭のための装飾に携わった後、彼はメディチ家の宮廷画家となり、ドゥカーレ宮殿内(現ヴェッキオ宮殿内)の公妃エレオノーラ・ディ・トレドの私用礼拝堂の装飾を施した。宮廷画家として公爵家族の一連の肖像画を制作し、さらにはメディチ家により設立されたばかりの綴れ織り工場のため、数々の下絵を制作した。


1557年のポントルモの死後、サン・ロレンツォ教会において未完になっていた彼のフレスコ画装飾を完成した。

ブロンツィーノはアカデミア・デル・ディゼーニョの設立に関わり、1563年には設立者のひとりとなった。

1572年11月23日に弟子であり、息子のように扱っていたアレッサンドロ・アローリの家で亡くなり、サン・クリストフォロ・デイ・アディマリ教会に葬られた。

幸さながら青年の尻菖蒲湯に・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
hanasyobu1429ss菖蒲田本命③

   幸さながら青年の尻菖蒲湯に・・・・・・・・・・・・秋元不死男

今日五月五日は「端午の節句」であり、昔は「菖蒲を入れた湯」を焚いて入浴したものである。
今日は明るい、健康的な句を採り上げた。「幸さながら」「青年の尻」など心地よい句である。

「端午」とは、五月の端(はじめ)の午(うま)の日の意味であり、のちに五月五日に固定されて、こう呼ばれることになった。
五月五日と「五」が重なるので「重五」という。「菖蒲の節句」なども夏の季語である。
菖蒲が咲く頃に、この花で邪気を祓ったので「菖蒲の節句」という。言わば、この日は「菖蒲」が主役の日である。
この日には粽(ちまき)を作って食べるが、その起源は、昔、中国の屈原という人が、汨羅(べきら)に入水したとき人々が五色の粽を作って弔った故事に因む。
武家が好んだ行事であり、男の子を祝う節句となったのである。

なお、菖蒲湯に使う菖蒲とは、現在ふつうに見られる花菖蒲とは別個のものであるから下記の記事を引いておく。
私が掲出した画像は花菖蒲のものである。念のため。下の画像のように「穂」も全く形も似もつかぬものである。
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ショウブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名
Acorus calamus var. angustatus
和名
ショウブ(菖蒲)
英名
sweet flag

特徴
茎は湿地の泥の中を短く横に這い、多数の葉をのばす。葉は左右から扁平になっている。花は目立たない黄緑色の肉穂花序で5月ごろ咲く。花茎は葉と同じ形で、花序の基部には包が一枚つくが、これも花茎の延長のように伸びるので、葉の途中から穂が出たような姿になる。

菖蒲湯
中国では古来より、ショウブの形が刀に似ていること、邪気を祓うような爽やかな香りを持つことから、男子にとって縁起の良い植物とされ、家屋の外壁から張り出した軒(のき)に吊るしたり、枕の下に置いて寝たりしていた。日本でも、奈良時代の聖武天皇の頃より端午の節句に使われ始め、武士が台頭してからは「しょうぶ」の音に通じるので「尚武」という字が当てられるようになる(勝負にも通じる)。また、芳香のある根茎を風呂に入れ、菖蒲湯として用いたりする。漢方薬(白菖、菖蒲根)にもなっている。

同じ「しょうぶ」の名前をもち花の咲くハナショウブと混同されることもあるが、両者は全く別の植物である。古くは現在のアヤメ科のアヤメではなく、この植物を指して「あやめ」と呼んだ。

近縁のセキショウ(石菖)はやや小柄な、深緑色の草で、渓流ぞいにはえる。根茎は、昔から薬草として珍重されており、神経痛や痛風の治療に使用した。サウナでは、床に敷いて高温で蒸す状態にしてテルペン(鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて皮膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する。
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私の住む辺りは地下水の豊富なところで、それを汲み上げて菖蒲や海芋(かいう)カラー、花蓮などの花卉栽培が盛んで、今は菖蒲の切り取りで忙しい時期である。
以下、菖蒲湯、粽、鯉幟などの句を引いて終わりたい。

 さうぶ湯やさうぶ寄りくる乳のあたり・・・・・・・・・・加舎白雄

 沸きし湯に切先青き菖蒲かな・・・・・・・・・・・中村汀女

 菖蒲湯の香の染みし手の厨ごと・・・・・・・・・・及川貞

 菖蒲湯の菖蒲片寄り沸き居たり・・・・・・・・・・篠原温亭

 菖蒲湯を出てかんばしき女かな・・・・・・・・・・日野草城

 菖蒲湯に永浸る妻何足るや・・・・・・・・・・石田波郷

 ある露地に菖蒲湯あふれ来たりけり・・・・・・・・・・石橋秀野

 菖蒲湯に端然と胸乳ふくまする・・・・・・・・・・細見綾子

 笹粽ほどきほどきて相別れ・・・・・・・・・・川端茅舎

 粽結ふことにもしつけ厳しけれ・・・・・・・・・・池内たけし

 一つづつ分けて粽のわれになし・・・・・・・・・・石川桂郎

 写真また鬼籍へひとり笹粽・・・・・・・・・・中島斌雄

 結び目の愛しき粽ほどきけり・・・・・・・・・・加倉井秋を

 鯉幟きそふ緑のありてよし・・・・・・・・・・後藤夜半

 町変り人も変りし鯉のぼり・・・・・・・・・・百合山羽公

 幟立てて嵐のほしき日なりけり・・・・・・・・・・正岡子規

 はたはたと幟の影の打つ如し・・・・・・・・・・中村汀女

 ここら町空幟も見えず寂れけり・・・・・・・・・・富田木歩

 起伏の丘みどりなす吹流し・・・・・・・・・・角川源義

 雀らも海かけて飛べ吹流し・・・・・・・・・・石田波郷

 森の上に幟の鯉の泳ぎいづ・・・・・・・・・・水原秋桜子
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今日、五月五日は「立夏」である。今日から「夏」が始まるのである。

今日で、今年のゴールデン・ウィークが一応終った。
今年は五月一日が土曜日で、この日から始まって休みの続き具合が良かったので、連休中の人手は多かったと思われる。
私たち老人は、そういう人込みは避けて、外出しないようにして、連休が開けた明日から「立山・室堂の大谷の雪の除雪した絶壁」や黒部トロッコなどの遊覧に出る予定になっている。
写真などが撮れればブログに載せることもあろうか。

杭いつぽん打ちこみをれば野の蕗が杭の根もとに淡き香はなつ・・・・・・・・・・・・木村草弥
f5b67ba27ba54689447d3393b21db5cd花のついた野蕗
   
   杭いつぽん打ちこみをれば野の蕗が
     杭の根もとに淡き香はなつ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
この歌のつづきに

   ほろ苦き野蕗の茎は蒼々と生味噌まぶせばはりはり旨し・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っているので、一体として鑑賞してもらいたい。
蕗(ふき)は本来、野生していたものを人間が栽培して野菜用に改良したものが出回っている。
写真は花のついた野蕗である。食用には花のつく前の新芽の茎を摘む。
新しい茎を採って売られているが、季節の味覚として、ちよっとほろ苦いところが美味なものである。

fuki001蕗のとう

この蕗の新芽が写真②の「蕗のとう」である。
これは少し大きくなったもの。ほんの新芽は砲弾型している。
それは早春の野草狩で見られる。
これらの野生のものでなく山形県などでは、大型の2メートルにも達する蕗を栽培している。
いずれも茎だけを食用にする。
もっとも子供の頃は、このほろ苦さが嫌で、食べられなかったものである。いわば大人の味といえようか。
ここで写真③にフキノトウの芽だし直後の写真を出しておく。

fuki007蕗のとう

蕗は俳句にも詠まれているので、それを少し引いて終る。

 うすうすと日は空にあり蕗の原・・・・・・・・田村木国

 あらはれて流るる蕗の広葉かな・・・・・・・・高野素十

 蕗切つて煮るや蕗畠暮れにけり・・・・・・・・石田波郷

 母の年越えて蕗煮るうすみどり・・・・・・・・細見綾子

 風みどり母が蕗煮る時かけて・・・・・・・・古賀まり子

 言ひ勝ちて妻ほきほきと蕗を折る・・・・・・・・庄中健吉

 母とあれば風ゆづり合ふ蕗円葉・・・・・・・・神林信一

 よろこびの淡くなりたり蕗茂る・・・・・・・・本宮銑太郎

 きやらぶきを煮つめ短き四十代・・・・・・・・大島龍子

 夜の蕗むく父母の墓ねむりをらむ・・・・・・・・寺島京子



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