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六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。
木管楽器金管楽器に風めぐり前世来世もひとはさびしい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
そら豆の一つ一つをむくときにわが前に立つ若き日の母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎
言ひ当てることなど出来ぬ鶺鴒が磧の隙に啄むものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木六戈
朝七錠、昼・夜一錠、ほぼ十年飲みつづけ先のまだある話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西村尚
唇ふれて茂吉はかなし赤くらき日本翁草に唇ふれし茂吉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
椿象に触れたる指をあらひつつアフマディネジャド髭のきたなさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
司書室の淵に潜める山椒魚のこのいくとせをたれかれに謝す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史
迦楼羅炎なす雨脚のトヨタシティ荒びしを行けりわがカローラは・・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚寅彦
ドバイよドバイ「ほうらいわんこっちゃない」ともう何ケ国語で言われたか・・・・・・・・・・・・斎藤芳生
六月や身をつつみたる草木染・・・・・・・・・・・・大石香代子
クレヨンの黄を麦秋のために折る・・・・・・・・・・・・・林 桂
ニコライの鐘の音色も梅雨に入る・・・・・・・・・茂木連葉子
大寺のうしろ明るき梅雨入かな・・・・・・・・・・・・・前田普羅
麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
青猫といふ紙あらば詩を書かむ・・・・・・・・・・・・・・高島茂
黒揚羽凶々しくも喉鳴らす・・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
水恋し胸に蛍を飼ひたれば・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
弁当の折を投げ出す汽車の窓・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
呼ぶ者の声遠のきぬ夏の川・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿
麦秋や光る東芝明るいナショナル・・・・・・・・・・・・・・・四童
身籠りの気配を放ち牡丹域・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四童
半身にくっつく力かたつむり・・・・・・・・・・・・・・斎藤朝比古
夏の夜のストロボ乳房感応す・・・・・・・・・・・・・河野けいこ
歓声に離れて水母数へけり・・・・・・・・・・・・・・・・堺谷真人
夢精かじとじとじとじと自戒せむ・・・・・・・・・・・・・井口吾郎
松本たかし忌だと抱きし固き妻・・・・・・・・・・・・・井口吾郎
鹿の目に涙のあとや青嵐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本享
明易の情欲である大絵皿・・・・・・・・・・・・・・・渡辺誠一郎
ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。
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私のブログは大きい写真が入りますので、チョン切れを避けるためです、よろしく。
☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。
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著書──
歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
詩集 『免疫系』(角川書店刊)
紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)
★木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。
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日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「地球上のすべての人が、
人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
と想像してみてください。」 ──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ
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★講談社BOOK倶楽部
★「集英社文庫」新刊
★「岩波書店」
★「青土社・ユリイカ」
★詩の本の思潮社

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水無月の夏越(なごし)の祓(はらへ)する人は
千歳の命延(の)ぶといふなり・・・・・・・・・・・・・・・・三輪明神
夏越の祓というのは陰暦六月晦日に行われる祓で、大宝令以後、六月晦日と十二月晦日の祓が定められてきたが、六月の祓の方が残ったものである。
太陽暦が採用されてからは七月晦日その他の日に行われるようになった。
夏越の神事は「茅の輪」をくぐったり、人形(ひとがた)に穢れを託して流れに流すことである。
神道の基本は「祓」だと言われている。
あちこちの神社で、このことは広く行われている。
紙のヒトガタで病人などのの患部を撫で、肩や胸をさすり、息を三回吹きかけて封筒に収めて初穂料という祈祷料を添えて神社に送ると、
三輪明神では6月30日に「水無月の大祓」という神事でお祓をしたのち、三輪川に流すという。
ヒトガタには祈祷を受けたい人の名前と生年月日を記入する。一般的には「形代かたしろ」と呼ぶ。

古い行事なので俳句にも多くの句が詠まれてきた。季語にもなっているのである。
それらを引いて終わる。
真菰わけ形代ながす人ゆきぬ・・・・・・・・水原秋桜子
形しろの墨のにじみしわが名かな・・・・・・・・西山誠
ぬばたまの晦日祓の恐ろしき・・・・・・・・高野素十
日かげりて御祓はじまる河原かな・・・・・・・・荻原井泉水
竹さやぎ夏越の星の流れたる・・・・・・・・久米三汀
かたむきし夏越の月に社家鎮む・・・・・・・・小枝秀穂女
形代やわがいきかくるぬくきいき・・・・・・・・阿片瓢郎
形代を流しては生きのびにけり・・・・・・・・細川加賀
形代につつがなき名をしるしけり・・・・・・・・徳永山冬子
形代にわが名を書きて恐ろしき・・・・・・・・前田普羅

夾竹桃かかる真昼もひとうまる・・・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎
夾竹桃はインド原産という極めて強い、繁殖力旺盛で排気ガスなどにも強い木である。根や樹液に有毒な成分を含んでいるという。
インド原産というだけあって北国の寒いところには生育しないらしい。信州人に聞くと長野県には夾竹桃はない、という。

改良されたのか色々の色があり、赤、白のほかにピンク色の種類もあるようである。
私の住む京都では、冬も常緑のミドリがあざやかな木である。
夾竹桃は花期の長いことでも、花の少ない真夏には重宝するのではないか。単調な高速道路などでは、夏の景観を賑わすものとして貴重である。

三番目の写真は、夾竹桃の「実」というものである。
これは冬も加温する植物園のもので、私の家にも生垣に夾竹桃をたくさん植えていたが、こんな実は生ったことがない。
文字どおり熱帯的な環境ならば、実が生る、ということであろうか。

四番目の写真は、その実が熟して「種子」が綿毛に包まれて、そよいでいるところ。もちろん植物園の環境下でのもの。
ここまでが夾竹桃の説明であり、本題の掲出した句に戻りたい。
掲出した篠田悌二郎の句は、夾竹桃という季節感と「かかる真昼も人が生まれる」という二物衝撃の巧みさ、意表を突くような発想が見事である。
以下、歳時記に載る夾竹桃の秀句を少し引く。
画廊出て夾竹桃に磁榻(じたふ)濡る・・・・・・・・・・飯田蛇笏
夾竹桃荒れて台風圏なりけり・・・・・・・・・・山口誓子
夾竹桃花なき墓を洗ひをり・・・・・・・・・・石田波郷
白夾竹桃のたそがれながし予後の旅・・・・・・・・・・角川源義
病人に夾竹桃の赤きこと・・・・・・・・・・高浜虚子
夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・・・中村草田男
夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・・・加藤楸邨
しどけなく月下夾竹桃みだる・・・・・・・・・・篠田悌二郎
火を焚くや夾竹桃の花の裏・・・・・・・・・・波多野爽波
夾竹桃垣に潮の香があげて来る・・・・・・・・・・道部臥牛
怒涛もて満ち来る潮や夾竹桃・・・・・・・・・・岡田貞峰
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一番はじめの句の「磁榻」(じとう)とは磁器製の長椅子のことである。雨に濡れてもいいように、庭園などに置かれるのであろう。

戦争に遠くブーゲンビリア咲く・・・・・・・・・・・・・・玉山翆子
この句の詠まれた場所は、沖縄であろうか、それとも東南アジアのどこかの国であろうか。
いずれにしても、さる世界大戦の苦い思い出のまつわる土地に違いない。鎮魂の深い思いのこめられた重い句である。
その思いがブーゲンビリアという真紅の花とマッチしているというべきだろう。
もはや敗戦後65年の歳月が経とうとしている。
戦後生まれの人が人口の大半を占めるとは言え、さる世界大戦の悲惨な記憶は、語り継がれるべきであり、文芸作品とて同じである。
そういう意味で、この句の語る奥行きは深いものがある。

二番目の写真は沖縄のものである。
ブーゲンビリアはハイビスカスと共に熱帯を代表する花。よじ登る性質の潅木である。
大きく花びらのように見える部分は苞葉で、受粉の手伝いをするハチドリを呼び寄せるためという。
苞葉は果実になる時期まで残る。
ブーゲンビリアは原産地はブラジルと言い、19世紀フランスの戦艦がソロモン諸島からヨーロッパへ持ち帰った木で、
その時の艦長の名前がブーゲンビリアBougain villea だという。学名は、この名前のあとにglabra がつくだけ。
オシロイバナ科の木と言われ、和名はイカダカズラという。
ブラジル原産だと言いながら、艦長が19世紀にソロモン諸島から持ち帰ったということは、
すでに古くからポリネシア、ミクロネシア一帯には広く分布していたことになる。
ブーゲンビリアの本当の花は、この苞葉の中に黄白色の小さな花が、それである。
イギリスでは、ブーゲンビリアを「ペーパーフラワー」と呼ぶらしい。
いずれにしても改良種など、色も紫から黄色、ピンクなど極彩色の数々の色がある。
蔓性のよじ登る性質があるので人工的な形にしやすくタイ国などでは巧みに細工したアーチなどのガーデンが見られる。
俳句では、ブーゲンビリアという7音が邪魔をして詠まれる句は多くはない。歳時記でも載せていないものも多い。
以下、その数少ない句を引いてみる。
ブーゲンビリアテラスに読める老夫婦・・・・・・・・・・古賀まり子
ブーゲンビリア無口になるも旅疲れ・・・・・・・・・・鈴木真砂女
ブーゲンビリア咲かせ北大植物園・・・・・・・・・・千葉仁
日を秘めてブーゲンビリア棚をなす・・・・・・・・・・森田峠
ブーゲンビリア紅き緑蔭なせりけり・・・・・・・・・・山崎ひさを
ぶつかるはブーゲンビリアバス走る・・・・・・・・・・小路紫峡
天界をブーゲンビリアまた紊す・・・・・・・・・・北登猛
ブーゲンビリア民話は死より始りぬ・・・・・・・・・・曹人
咲きのほるブーゲンビリア椅子涼し・・・・・・・・・・伊都子

そのかみの貴公子といふ未央柳(びようやなぎ)
黄なる雄蕊は梅雨を明るうす・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)に載るもので、「未央柳」は昔は「貴公子」として珍重されたらしいが、その由来を私は知らない。
Doblogに居た頃、たまたま、マグ氏が、この花をBLOGにお載せになったので、旧作を懐かしく思い出し、載せてみる気になったものである。
マグ氏の話によると、この花木は、とても強い木で、一度植えるとどんどん大きくなるらしい。私の歌には詠ったものの、私の方の庭には、この木はない。
雨模様の鬱陶しい梅雨の時期に黄色の花が咲く様は、まさに「梅雨を明るうす」るにふさわしい。
特に、写真のように「雄蕊」が黄色くて、長いのが印象的である。
この歌をはじめ、ここに引用した歌群は、残念ながら『嬬恋』自選60首には全部は収録していないので、Web上では、ご覧いただけない。
そこで、この歌を含む一連その他を下記してみたい。
解語の花 ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴(ざくろ)と知りぬ
そのかみの貴公子といふ未央柳(びやうやなぎ)黄なる雄蕊は梅雨を明るうす
おんばこの穂を引抜きて草角力(すまふ)したるもむかし夕露しとど
目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
桧扇を活くる慣ひはいつよりか一期一会の祇園会となる
玄宗が楊妃を愛でし言の葉に因める「解語の花写真家倶楽部」
「解語の花写真家倶楽部会長」の秋山庄太郎きのふ逝きたり
4首目の歌は「自選」60首に収録してある。
この小項目の見出し「解語の花」というのは、唐の皇帝・玄宗が愛妾・楊貴妃のことを、「言葉を解する花」と言って愛玩したという故事に因む。
秋山庄太郎は「女性専科」の写真家と呼ばれた時期があり、女性を専門的に撮る「解語の花写真家倶楽部」というのが実在したのである。
私は写真は下手だが、写真集は好きで集めていたので、この歌になった。私にとっては一時期を思い出させる、懐かしい歌群である。
花 ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
裸木の蕭条と立つ冬の木よわれは知るなり夏木の蒼を
<老梅いつぽんあるゆゑ家を捨てられず>我には捨てし老梅がある
うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
洗礼名マリアなる墓多ければ燭ともす聖母の花アマリリス
月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花
わが妻は函館育ち海峡を越えて蝦夷桜の初花待たむ
父母ありし日々にからめる縷紅草(るこうさう)ひともと残る崩垣(くえがき)の辺に
縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情(こころ)の傷つきやすく
雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしょくき)まぬがれがたく病む人のあり
このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす
上から3、4首目の歌は「自選」60首の中に収録してある。
終りから3、4首目の「ルコウソウ」の歌については、2003年秋の「出版記念会」で、光本恵子氏が、
この歌と私の生い立ちに触れて佳い批評をしていただいた。
この「批評」はWeb上の『嬬恋』のページの「出版記念会」のところで読むことが出来る。
これらの歌群も、私の中では愛着のあるものばかりである。
-----------------------------------------------------
掲出した写真は、文中でも触れたが、マグ氏のご好意で借用した。有難く御礼申し上げる。
そのマグ氏も亡くなられて、もう数年になる。ご冥福を祈りたい。 合掌。

蝙蝠や西焼け東月明の・・・・・・・・・・・・・・・・・平畑静塔
日本で人家近くで見られる蝙蝠(こうもり)は「アブラコウモリ」(イエコウモリ)と呼ばれるもので、掲出する写真は、いずれも、これである。
アブラコウモリは東アジアの人家に棲む小型のヒナコウモリ科の哺乳類。日本でもっとも普通に見られる住家性の蝙蝠。

写真②は蝙蝠の口。
アブラコウモリは翼をひろげた長さが20センチほど。翼のように見えるのが股間膜。これで羽ばたいて飛ぶ。体長は約5センチ、前腕長3.2~3.5センチ、体重6~9グラムという。
普通は木造、プレハブなどの建物の羽目板の内側や戸袋などに棲みついたりするらしい。
昨年、わが家の二階の南東角の窓のシャツターの下に大量の糞がうず高く堆積しているのを見つけた。
このシャッターケースに蝙蝠が住み着いていたのである。この窓は平常は開け閉めしないので、言わば死角になっていて気付かなかったものである。
さっそく追い払う手立てを取ったのは、言うまでもない。
鉄筋コンクリートの住宅の外に開孔する排気管の中に棲みついたりするらしい。この種類は洞窟や森林には棲まない。
夕方、街中や川の上を集団で飛びまわって飛びながら蚊や羽虫を食べている。
ツバメかと思って、よく見ると尻尾がないのでコウモリだと判る。

私が、このイエコウモリに初めて出会ったのは戦争末期に米軍の焼夷弾爆撃から街を守るために防火帯として広い道路を作るというので人家を強制的に壊した、いわゆる「疎開道路」という政策のために京都駅南側の人家の引き倒しに動員された時である。
人家に潜んでいたイエコウモリを学友の誰かが捕まえて掌の中に包んでいたのである。掴んでみると哺乳類だから暖かかった印象が第一である。
コウモリは人には聞こえない周波数の高い声を出してレーダーのように使って、障害物を巧みに避けるという。
蝙蝠は俳句などでは「かはほり」というが、これは蚊を欲するゆえと言い、この「かわほり」が転じてコウモリとなったという。
姿や習性から気味悪い動物と思われがちだが、虫などを食べる有益な動物だということである。
とは言え、住み着かれると臭いし、衛生的に悪いので、立ち退いてもらうに越したことはない。
以下、歳時記に載る蝙蝠の句を引いて終わる。
かはほりやむかひの女房こちを見る・・・・・・・・与謝蕪村
かはほりや仁王の腕にぶらさがり・・・・・・・・小林一茶
蝙蝠に暮れゆく水の広さかな・・・・・・・・高浜虚子
蝙蝠やひるも灯ともす楽屋口・・・・・・・・永井荷風
歌舞伎座へ橋々かかり蚊食鳥・・・・・・・・山口青邨
蝙蝠に稽古囃子のはじめかな・・・・・・・・石田波郷
三日月に初蝙蝠の卍澄み・・・・・・・・川端茅舎
かはほりやさらしじゆばんのはだざはり・・・・・・・・日野草城
鰡はねて河面くらし蚊食鳥・・・・・・・・水原秋桜子
蝙蝠や父の洗濯ばたりばたり・・・・・・・・中村草田男
蝙蝠に浜のたそがれながきかな・・・・・・・・山下滋久
妻の手に研ぎし庖丁夕蝙蝠・・・・・・・・海崎芳朗

「異徒の唄」序章・・・・・・・・・・・・・・・・丹野文夫
生きるとは
朽ちはてることだが
それだけではない
草の茎を噛んで立っていること
きついにがみをのみつくすこと
あすもあさっても
憑かれた行いの昼と夜を
己れの熱に耐えてたたかうことなのだ
---------------------------------------------------------------------------------------------
今日は、いわゆる「現代詩」と言われる詩を出してみた。
この丹野文夫のことは、私は何も知らない。
清水昶の『詩の根拠』──清水昶評論集(昭和47年11月冬樹社刊)という古い本を書庫から引っ張りだして読んでいて、見つけたものである。
この詩について清水昶は、こう書いている。
・・・・・「生きることは朽ちはてること」という断言の背後に疼いている「生き急ぐ」ラディカリズムを支えるのも、またおのれの生きている肉体であり、その肉体を突きはなしてなお、どうしようもなく生に執着するみずからの肉体深く内なる告発をつよくすることによって、生理的な痛みを逆に外部に向けていくのである。・・・・・
部分的な引用では、何だか訳が判らないと思うが、こういう詩歌の場合、読者がいま置かれている「心のありよう」によってさまざまに解釈できるだろう。
というのは、私は最近ずっと「生きる」ということ──それは「死ぬ」ということに連なってゆくのだが、──について考えることが多いからである。
それは私が、病気の亡妻を抱えて日々を過ごしてきたということもあるだろう。
また先だって、宮田美乃里さんとアラーキーの写真歌集を読んだことにも関係するだろう。
丹野文夫の表現したかったものは「孤独な個我」ということであろう。苦汁に満ちた「孤独な個我」の時期というのは、長い人生の中では起ってくるものであり、いま私自身が、そういう時期に遭っているのではないか、と思うのである。
詩歌の読み方、受け取り方は人それぞれであってよいのである。

──新・読書ノート──
三井葉子詩集『人文』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・・・編集工房ノア2010/06/01刊・・・・・・・・・・
三井葉子さんが新・詩集を出された。「人文」(じんもん)と題する。
それは巻頭に載る詩に由来する。 こんな詩である。
人文
ヒトだけでいいのに
文(ぶん)とつなぐと生活がはじまってしまって
朝星夜星 郵便配達夫は人から人へ文をとどけなければならぬ
むかし
アルプスのモンブラン山の上を
プロペラ機でひらひらととんだとき
山頂から山の裾まで続く道が途切れながら山をめぐっているの
が みえた
道かァ
と思った
あの道の
うつくしさ
道を歩くあしのうつくしさ
が
文だねえ
と
今朝 咲いた朝顔に
いうと
ええ
あついわねえ
朝から
と
首筋の汗を拭っている。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
いつも言うことだが、詩は意味を辿っては、いけない。
特に三井葉子さんの詩は、文脈が脈絡なく「跳ぶ」ので意味を辿っては、いけない。
難しい語彙が使ってあるわけではないのに、「三井さんの詩は難しい」と、よく言われる所以である。
アルプスの道の美しさ、のことに目を奪われていると、突如
今朝 咲いた朝顔に
いうと
ええ
あついわねえ
朝から
と
首筋の汗を拭っている。
というような詩句が入ってくる。詩の脈絡としては「意味」は辿れない。
この終末の六行は、その夏の朝の暑さに対する家人か近所の人か、あるいはきれいに咲いた朝顔に、
話しかけた三井さんの言葉かも知れない。それを、ここに、さりげなく挿入したのである。
俳句や短歌でいう「二物衝撃」という技法である。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日は、こうして一冊の詩集にまとめられた、推敲された詩と「初出」との「異同」について書いてみたい。
私は三井さんとの付き合いも日が浅いし、これらの詩の初出がどこか明記もないので、たまたま詩誌「楽市」に載った作品が数点あるので、それらを対照しながら書いてみる。
詩にしろ歌にしろ俳句にしろ、初出の作品を「推敲」するというのは大切な作業であって、それによって作品が生きるからである。
「取り敢えず」作る、発表する、というのは有り得ることで、後から手直ししたらいいのである。
短歌の場合などは「歌会」というのがあるから、そんな時に発表して、みんなの意見を聞いて手直しして、いい歌になることがある。
母・・・・・・・・・・・詩集『人文』の詩になったもの
わたしの母は夜
マスクをかけて寝ていた
どんなに考えても
夜の底で
マスクをして 寝ている母は
さびしい
あれは舟で
いま舟出を待っているところよ
ほんとの舟は
もうすこし大きいのだが
あれは母の影なのだ
ふんわりと水に映って
ね
雲も映っていて
ね
と
いうところまで行きたいのだけれど
あれから
母のマスクは
どうしたのだったか。
「初出」の詩誌「楽市」65号に載る 母 という詩
わたしの母は 夜 マスクをかけて
寝ていた
どんなに考えても夜の底でマスクをして寝ている母は
さびしい
白いマスクが 夜のなかで浮いている
舟出を待っている
よう
よ
ふんわりと水に映って
雲も
映って
あれから母のマスクはどこへ行ったのだったか。
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お判りいただけただろうか。 どこが、どう変ったのか対照して、見てもらいたい。
「下線」を引いたところに異同がある。それらは「行分け」を取り入れたり、行を削除したり、「助詞」を取り替えたり、新しく詩句を作ったりして、詩としての雰囲気を、がらりと変えている。
かなしみ
わたしの母は生まれて半歳にもならない子をそのかいなに抱
いてから生涯、そのむすめを愛した。
母はかなしみを知っていた。わたしはそのかなしみを生きた。
許してねと母は養い子になったわたしに言い。あきらめて、
とわたしに運命をおしえた。
母には養育を断ることができなかった。夫が、そう決めたの
で。母の慰めは自らの従順であった。夫を信じて夫に従ったの
である。そしてかなしみはわたしが育つにつれてすこしずつあ
らわれた。
ある日。
母はこんな話をした。
あるところにナ。
鶏のお母さんいてたんや。鶏のお母さんはことしの春子の卵
を暖めていた。さぁ、十もあるのかねえ。
羽根の下に入れてナ。あしで裏返して。ふくらんで座ってい
た。ようやく雛が孵る。黄色いくちばしで雛は虫を食べ、ピヨ
ピヨ鳴いてナ。まい日すこしずつ育った。
ある夕方。お母さん鶏はその雛たちを連れて散歩に出掛ける。
溜め池があってナ。そこまでくるとなんと。そのなかの一羽
がとつぜんスルスルと水に入ってうれしそうに泳ぎ出した。お
母さん鶏は水に落ちたとばっかり思うだろ。コ、コココココと
鳴きたてる。けれどお母さん鶏は泳げないのだ。水に入って助
けてやることができない。
お母さん鶏が暖めていた卵のなかにアヒルの卵がひとつ、ま
ぎれていたんだよ。
わたしはかなしみを母に習った。
わたしはいま。この母とまじりながら池の端をとんでいる。
といまは
思っている。
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「初出」の詩を引くことはしないが、「下線部」は「初出」が推敲されて、詩が厳密になっている。
このように詩集に収められたものと「初出」を対照することによって、詩人としての三井葉子さんの「こだわり」を知り、
三井さんに対する敬意と思慕を深める次第である。
この詩集には全部で29篇の作品が収録されている。
折々にひもといて鑑賞したい。

草笛で呼べり草笛にて応ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻田克己
「草笛」なつかしい響きである。
うまい人にかかると、どんな葉でも草笛になる。
私は子供の頃から「鈍」な子供で、うまく操れなかった。
掲出の辻田克己は京都・宇治に住む人である。たしか教職にあった人で、今では小さいながら結社を率いているらしい。
この人も「草笛」は巧かったのであろう。
写真の吹き方は葉を平らにして吹いているが、ものの本によると葉を丸めても吹けるらしい。私は見たことがない。
私の亡長兄・庄助が病気療養中に気晴らしに草笛を吹いているのを聴いたことがある。はるかはるかの遠い昔の思い出である。
草笛を詠んだ句は多くはないが、少し引いて終わる。
草笛の葉は幾千枚もありかなし・・・・・・・・山口青邨
荒れ濁る海へ草笛鳴りそろふ・・・・・・・・西東三鬼
子守り子や緑ひねりて草の笛・・・・・・・・平畑静塔
草笛や物差余すランドセル・・・・・・・・石井花紅
草笛や眼を遠き雲に据ゑ・・・・・・・・宮原山水
兄のふく草笛にやや憂あり・・・・・・・・美野田ひろ
草笛や泣く母の顔子にふしぎ・・・・・・・・伊藤みちこ
草笛のきこゆるごとき手紙かな・・・・・・・・加藤三七子
左右の手の草笛の音を吹き分けぬ・・・・・・・・三宅清三郎
母の忌や野に草笛の輪があふれ・・・・・・・・若つき輝

山椒(さんせう)の脇すぎたれば葉ずれして
匂ひたつなりすずやかなる香・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
写真①がサンショウの花である。
山椒の匂いは葉から発するもので花そのものには匂いがあるかどうかは判らない。
掲出した歌の次に
摘み取りし山椒の若葉を摺りこみて田楽豆腐の竹串ならぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
という歌があるが、季節の木の芽として香り高く、重宝なものである。もちろん私の方には山椒の木がある。

写真②が山椒の実である。
今その実が緑色に色づいて一杯なっているところである。
実は熟すると黒っぽくなるが、一般的には完熟させることはない。というのは青いまま採りいれて、山椒こんぶとか、佃煮とかに実を使うからである。
「山椒ちりめん」などちりめんじゃこと山椒を炊いて、よく乾かしたものは熱いご飯に載せると美味なものである。
山椒のぴりりと辛い成分は腐敗を防ぐ作用もあるらしい。日本人の生活の知恵である。
山椒の木は香りの強い木であるが、こういう香りの高い木の葉を好む虫がいるので始末が悪い。
アゲハチョウの類の蝶である。写真③はクロアゲハ蝶の雌である。

この歌のつづきに
山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚葉蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
という歌がある通りである。この幼虫自身も、つぶすと山椒の匂いがする。
大きな山椒の木になると多少食われても支障はないが、苗木の段階では、すっかり丸坊主にされてしまうことがある。
油断も隙もあったものではない。写真④はクロアゲハ幼虫の終齢期のもの。

山椒の花、山椒の芽は俳句では春の季語である。
それらを少し引いて終わりたい。
日もすがら機織る音の山椒の芽・・・・・・・・長谷川素逝
芽山椒の舌刺す一茶の墓詣・・・・・・・・野沢節子
朝夕に摘む一本の山椒の芽・・・・・・・・上村占魚
芽山椒青年を摘む匂ひして・・・・・・・・星野明世
花山椒煮るや山家の奥の奥・・・・・・・・松瀬青々
風立てば山椒の花も揺らぎたる・・・・・・・・神津杉人
誰か知る山椒の花の見え隠れ・・・・・・・・渡辺桂子

踏まれながら花咲かせたり大葉子(おほばこ)も
やることはやつてゐるではないか・・・・・・・・・・・・・・・・安立スハル
安立さんは私を短歌の道に引き入れてくれた恩人である。宮柊二創立の有力な短歌結社「コスモス」の幹部であられた。
この歌のように歌の作り方も独自の詠み方をする人で自在な心情の持ち主であったが、先年亡くなられた。
オオバコあるいはオンバコともいうが、この歌のように踏まれるような路傍に生える雑草で、花の終わったあとの茎を双方からからませて草相撲をしたものだった。

写真②はオオハゴの穂と花である。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に
おんばこの穂を引抜きて草角力(すまふ)したるもむかし夕露しとど・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
という歌があるが、子供の頃は、こうして遊んだものであった。昔の遊びは素朴で単純なものであった。
この草は「車前草」とも書かれる。この命名の由来は往来の踏まれるような所にもかまわず生える強い草であるからだろう。
この草を詠んだ句は多くはないが、それを引いて終わりたい。
車前草に蹄痕ふかし五稜郭・・・・・・・・富安風生
おほばこの花の影あり草の上・・・・・・・・星野立子
湖畔にて車前草の露滂沱たり・・・・・・・・富安風生
近ぢかと路よけあふや車前草鳴る・・・・・・・中村草田男
話しつつおほばこの葉をふんでゆく・・・・・・・・星野立子
車前草に夕つゆ早き森を出し・・・・・・・・室生とみ子
踏まれつつ車前草花を了りけり・・・・・・・・勝又一透
車前草の葉裏くぐりに蛇去りぬ・・・・・・・・青木可笑
車前草の花かかげたり深轍・・・・・・・・高木良多
車前草の花引抜きて草角力・・・・・・・・大崎幸虹

■黒南風(くろはえ)の岬に立ちて呼ぶ名なし・・・・・・・・西東三鬼
■白南風(しろはえ)にかざしてまろし少女の掌・・・・・・楠本憲吉
「黒南風」とは、梅雨に入り、空が暗く長雨がつづく陰鬱な頃に吹く南風で、柔らかい風だが、低気圧や梅雨前線が通り、荒い風が吹くときは「荒南風」となる。
「白南風」とは梅雨が明けて明るい空になり、晴れて吹く南風が、これである。
また梅雨の間でも、晴れようとする様子のときの南風も白南風という。
空や雲の様子から、白、黒を南風(はえ)にかぶせたもの。
ここでは「黒南風」と「白南風」の句を並列に並べて掲出してみた。
「風」というのは、視覚化できないので、ネット上から某菓子舗の「練り切り」の菓子を写真にする。
以下は、その「説明書」である。
<風は季節によって、ほぼ方向が定まっています。
春は東風、秋は西風、冬は北風で、
夏季の「南風」は、「みなみ」とか「はえ」とも読みます。
この「はえ」、中国・四国・九州地方など主に西日本の言葉で、
特に、梅雨時のどんよりと曇った日に吹く南風を、黒南風と呼ぶそうです。
梅雨入りの頃はこの風が吹いて空が暗くなる、というのがこの名の由来。
ちなみに梅雨明け頃の南風は、吹くと空が明るくなるので、「白南風(しらはえ)」と呼ばれています。
どんよりとした梅雨空を黒ゴマ入りの煉切で表し、一陣の風を、力強い一筆書きのように水色で描きました。
ジメジメと鬱陶しい季節ですが、まぁ、お茶とお菓子でも…。 >
掲出の西東三鬼の句は、私には亡妻に対する「レクイエム」のように受容できるもので 、「呼ぶ名なし」などと言われると、私のことのようで身に沁みるのである。
以下、「黒南風」「白南風」を詠んだ句を引いて終わる。
黒南風や島山かけてうち暗み・・・・・・・・・・・・高浜虚子
黒南風に水汲み入るる戸口かな・・・・・・・・・・・・原石鼎
黒南風は伏屋のものを染めつくす・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人
黒南風や潮さゐに似て樹林鳴る・・・・・・・・・・・・占 魚
沖通る帆に黒南風の鴎群る・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
和歌の浦あら南風鳶を雲にせり・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
あらはえや雲のちぎれに月さやか・・・・・・・・・・・・桂 居
黒南風や屠所への羊紙食べつつ・・・・・・・・・・・・中村草田男
黒南風に嫌人癖の亢ずる日・・・・・・・・・・・・相馬遷子
白南風の夕浪高うなりにけり・・・・・・・・・・・・芥川龍之介
白南風やきりきり鴎落ちゆけり・・・・・・・・・・・・角川源義
白南風や永病めば土摑みたし・・・・・・・・・・・・香取哲郎
いや白きは南風つよき帆ならむ・・・・・・・・・・・・大野林火
海南風死に到るまで茶色の瞳・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
クラリネット光のごとく南風(はえ)にきこゆ・・・・・・・・・・・・川島彷徨子
汐満てりはえとなりゆく朝の岬・・・・・・・・・・・・及川貞
のけぞれば吾が見えたる吾子に南風(みなみ)・・・・・・・・・・・・中村草田男

六月の氷菓一盞の別れかな・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
六月に入って蒸し暑くなってきた。
暦の上での「入梅」は今年は6月11日だが、すでに数日前から「梅雨入り」しており、関西でも時おり激しい雨が降ったりしている。
蒸し暑いときには、こういう「氷菓」が合う。
「梅雨寒」という日もあるが、全般的には湿気の多い、むしあつい日がつづく嫌な季節である。
掲出した草田男の句は、誰かが訪ねてきて、「氷菓」というから、何か冷たいものを出して迎えたあと、食事をともにするというのでもなく、
「氷菓一盞」というから、それだけで「別れた」のだが、後がどうなったかは書かれていないから、読者それぞれに想像したらいいのである。
読者に「梅雨寒」のような、冷え冷えとする雰囲気を伝える佳句である。
六月のことを旧暦では「みなづき」と言うが、太陽暦では七月にあたる。
漢字では「水無月」と書くが、太陽暦の六月では雨が多いから「水無月」と書くのは違和感があろう。
六月から七月にかけて、和菓子の季節の生菓子として「みなづき」というのがあるが、これも旧暦でないと趣が出ないが、
現実には6月から7月上旬にかけて売り出される。

写真②は「五建ういろ」屋の「ういろう」だが、これがいわゆる「みなづき」であり、6、7月にかけて売り出されるが、ここの店は、一年中、売っている。
いわば、この店の看板商品である。私は、この店のものが一番好きである。
土台になっている部分が白だけではなく、抹茶入りのもの、黒砂糖入りなど、いろいろある。
その上に小豆の粒餡がたっぷり乗っているのである。
「ういろう」とは「外良」と書く。
もともとは中国伝来のものらしいが、名古屋でも「ういろう」と称するものが菓子の名産品となっている。
以下、「六月」「入梅」「梅雨寒」などを詠んだ句を引いて終わる。
六月を綺麗な風の吹くことよ・・・・・・・・・・・・正岡子規
六月の風にのりくる瀬音あり・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
六月の女すわれる荒筵・・・・・・・・・・・・石田波郷
六月の花のさざめく水の上・・・・・・・・・・・・飯田龍太
六月のゆふべや肩に道具箱・・・・・・・・・・・・山口誓子
杉に雨ふる六月の杉こんもりと・・・・・・・・・・・・森澄雄
天気図の皺くしやくしやに梅雨くらし・・・・・・・・・・・・富安風生
樹も草もしづかにて梅雨はじまりぬ・・・・・・・・・・・・日野草城
二夜三夜傘さげ会へば梅雨めきぬ・・・・・・・・・・・・石田波郷
童謡(わらべうた)かなしき梅雨となりにけり・・・・・・・・・・・・相馬遷子
ひとの句が心占めをり梅雨入前・・・・・・・・・・・・林 翔
うとましや声高妻も梅雨寒も・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
梅雨寒や崖田にねまる出羽の山・・・・・・・・・・・・角川源義
梅雨寒や屏風を渡る蝸牛・・・・・・・・・・・・庄司瓦全
我が胸に梅雨さむき淵ひそみけり・・・・・・・・・・・・中村嵐楓子
梅雨寒の猫に怒りをよみとらる・・・・・・・・・・・・三沢みよし

まどろみて覚むればつよき梔子(くちなし)の
香りまとひて黒猫が過ぐ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
ものの本によると、この木は本州中南部、四国、九州で見られるものだという。
常緑低木で1メートルから3メートルくらいのものである。葉は光沢があり、写真①のように六弁の香りの高い花をつける。
香りと言っても、とても強い香りで屋外にあるからよいが、とても屋内には置けない強い香りである。

花が終わると写真②のような実をつける。
秋になると、この実は漢方薬で解熱剤に用いられたり、自然色素として鮮やかな黄色を出すので、染料やお正月料理のクリキントンの色づけに使ったりする。
以前に住んでいた土地は広かったので、このクチナシの木を植えていた。母が、その実を採集してお正月料理の時に利用していた。
ただ、この木には、こういう香りの強い木を好む虫がわんさとついて困ったものである。人の人差し指くらいもある無毛の虫である。
書きおくれたが、「くちなし」という名前は、この実が熟しても口を開かないので、こんな名前になったという。
なお漢名の「梔子」という字は花が杯に似ているためについたという。

クチナシにつく虫は写真③の虫そっくりではないが、いま手元に、その写真がないので、よく似た虫の写真で代用するが、こんな感じの虫である。
この写真の虫はパセリなどにつく虫でパセリも香りが極めて強い草であるから、この種類の虫には共通するものがある。
成虫はアゲハチョウの類である。
文学の世界では「口なし」と捉えて
山吹の花色衣主や誰れ問へど答へず口なしにして・・・・・・・・・・・・素性法師
のように詠われた。
私の歌のことだが、黒猫がクチナシの香りをまとって過ぎる、というのは文学的な大げさな表現で、
黒猫が過ぎてゆくにつれてクチナシの香りがした、ということである。
黒猫と白いクチナシの花との対比ということも私は考えた。
以下、クチナシを詠った句を引いて終わる。なお夏の季語としては「梔子の花」である。
口なしの花咲くかたや日にうとき・・・・・・・・与謝蕪村
薄月夜花くちなしの匂ひけり・・・・・・・・正岡子規
山梔子の蛾に光陰がただよへる・・・・・・・・飯田蛇笏
スモッグにくちなしの白傷付けり・・・・・・・・滝井孝作
驟雨くるくちなしの香を踏みにじり・・・・・・・・木下夕爾
口なしの花はや文の褪せるごと・・・・・・・・中村草田男
今朝咲きしくちなしの又白きこと・・・・・・・・星野立子
くちなしの花より暁けて接心会・・・・・・・・中川宋淵
夜をこめて八重くちなしのふくよかさ・・・・・・・・渡辺桂子
辞してなほくちなしの香のはなれざる・・・・・・・・中田余瓶
山梔子のねばりつくごと闇匂ふ・・・・・・・・森島幸子
梔子に横顔かたき修道女・・・・・・・・三宅一鳴
風生れ来るくちなしの花の中・・・・・・・・入江雪子

蟇(ひき)歩く到り着く辺のある如く・・・・・・・・・・・・・・中村汀女
ガマは、オタマジャクシの時期以外は、水に入ることはない。
湿気のある草地や土管や床下、穴の中などに棲息し、夕方に出てきてミミズや虫などを捕らえて食べる。
冬は土の中で冬眠するが、2、3月頃一度冬眠から覚めて池に集り、「抱接」して産卵し、また冬眠に戻り4、5月頃に出てくる。
グロテスクで鈍重、動作も緩慢だが、それが自分を思わせるためか、秀句の多い季語である。
掲出した中村汀女の句も、誤解なく読める秀句である。
掲出の一番目の写真はニホンヒキガエルの横顔である。アズマヒキガエルと、どこが違うのか、私には判らない。
二番目の写真は、それを拡大したもの。

盛り上がっている部分が、目のうしろにある耳腺であり、講釈師でおなじみの、ガマの油がたーらりたらーり、という所で、特有の毒液を分泌する。
その右側の平たい○の部分が「鼓膜」である。

三番目の写真が、浅い水中に産みつけられたヒキガエルの「卵塊」である。
カエル類の卵は、みな紐状のゼラチン質のものに包まれており、中に黒い卵が数百個ないしは数千個入っている。
私はヒキガエルの卵塊は見たことがないが、普通のトノサマガエルやツチガエルなどの卵塊は子供の頃に何回もみたことがある。
カエルの種類によって紐状の太さや長さは、みな違いがある。

四番目の写真が、その卵塊を拡大したもの。管の中の黒い粒粒が卵の1個1個である。
この管状のゼラチン様のものは卵の栄養になるとともに、卵を外界から保護する作用も果たしている。
ヒキガエルの卵1個の大きさは直径6ミリと言われている。
卵の大きさとカエルの成虫の大きさは、やはり成虫の大きさと比例して、大きさに違いがあるようだ。
五番目の写真が卵から孵った「オタマジャクシ」である。
はじめは「外鰓」があるが、じきに外鰓はなくなり、写真のような姿になる。

この後は、後ろ足が出て、前足が出て、だんだんカエルの姿に似て来て、最後に尻尾が取れてカエルの姿になる。
これを「変態」と言うが、このとき水から酸素を得る鰓呼吸から、空気から酸素を得る肺呼吸に替わる。
変態して、すぐの幼体は、形はすっかりカエルの形をしているが、大きさは1円玉に乗るほどの小ささである。
これが大きくなると体長15、20センチにもなるのである。
ヒキガエル、ガマを詠んだ句を引いて終る。
蝿のんで色変りけり蟇・・・・・・・・・・高浜虚子
蟇交む岸を屍の通りをり・・・・・・・・・・中村草田男
てのひらに茶碗の重み蟇鳴くも・・・・・・・・・・大野林火
蟇総身雨具鎧はせて・・・・・・・・・・角川源義
蟇のこゑ沼のおもてをたたくなり・・・・・・・・・・長谷川素逝
蟇出でて一山昏き接心会・・・・・・・・・・中川宋淵
崖下へ捨てし蟇鳴く崖下に・・・・・・・・・・殿村兎糸子
蟇子をうとむとはあらざりき・・・・・・・・・・小林康治
蟇のこゑ一夜鉄塊より重し・・・・・・・・・・目迫秩父
跳ぶ時の内股しろき蟇・・・・・・・・・・能村登四郎
蝦蟇よわれ混沌として存へん・・・・・・・・・・佐藤鬼房
日輪を呑みたる蟇の動きけり・・・・・・・・・・橋間石
蟇鳴いて孤島のやうな大藁屋・・・・・・・・・・成田千空
蟇ほども歩まず山に親しむよ・・・・・・・・・・村越化石
蟇交む川に片肢遊ばせて・・・・・・・・・・福田甲子雄
だぶだぶの皮のなかなる蟇・・・・・・・・・・長谷川櫂
蟇は蟇人は人恋ふ夜なりけり・・・・・・・・・・小沢実
喉袋ふくらみしのみ夜の蟇・・・・・・・・・・奥坂まや
蟇踏んでしまひし夜のわだかまり・・・・・・・・・・大口公恵

蟇(ひきがへる)誰かものいへ声かぎり・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
蟇─ヒキガエルは、「がま」とも言うが、この頃では目にかからないカエルになってしまった。
ヒキガエルは鳴くことがない、と言われる。繁殖期に、ぐーぐーと底ごもるような声で鳴くという。
私の旧宅にはガマが住み着いていたが、いつしか見かけなくなった。
ガマの説明は後にして、掲出の楸邨の句について先に書いておく。
上に書いたようにガマは鳴かないので、却って不気味であり、だから楸邨は「誰かものいへ声かぎり」と詠んだ。
主観俳句の典型的な秀句である。
一番目の写真は「アズマヒキガエル」という東日本に棲むガマのもの。日本には4種1亜種のカエル目ヒキガエル科が居るという。
学名はBufo japonicus formosus と言い、ハンサムなニホンのヒキガエル、という意味だという。
ニホンヒキガエルは本州の鈴鹿山脈以西と、四国、九州、壱岐、五島列島、屋久島、種子島に棲息。
他にナガレヒキガエル、ミヤコヒキガエルがいる。

二番目の写真はガマの「抱接」(amplexus)である。
ヒキガエルは産卵のときに雄が雌の背中に取り付いて産卵を刺激するだけ。「交尾」はしない。
精子は産まれた卵(のある水中)に放出するだけ。

ヒキガエルは雌に比べて雄の数が数倍も多いので、三番目の写真のように複数の雄が一匹の雌に取り付くことが多い。
三番目の写真では4匹が抱接している。その圧力で雌が圧死することが報告されている。
「抱接」はラテン語の「抱擁」から派生して「用語」として使う。

四番目の写真は西日本に生息するニホンヒキガエルの、背後からの写真である。
なかなか背中全面を撮った写真は多くはない。後で横顔などを詳しくお見せする。
ヒキガエルは、この写真のように背中にイボイボがあるのが特徴である。
普通カエル類の皮膚は湿りを帯びた平滑なものが多いがヒキガエルは、イボがある。
子供の頃、棒でつついたりしていじめたことがあるが、ヒキガエルの背中の皮膚は、とても硬くて丁度ワニの皮のようで、つついても撥ね返るような硬さだった。
アズマヒキガエルとニホンヒキガエルは「亜種」の違いと言われる。先に書いたように三重県西を縦に走る鈴鹿山脈で棲息域を隔てている。

五番目の写真が「ミヤコヒキガエル」という沖縄に棲むヒキガエルである。胸の模様が本州に棲む2種とは、少し違っている。
このつづきは、BLOGを改めて、同じく蟇を詠んだ句を掲げて載せたい。
そこでは「ニホンヒキガエル」の写真などを載せることにしている。
こういう蟇の写真は気味悪いという人は、見ないようにお願いする。6/17日付のBLOGにつづく。

茹であげしアスパラガスが蒼々と
皿に盛られて朝餉は愉(たの)し・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
私の家ではアスパラガスを菜園で育てている。
アスパラガスというと昔は白いアスパラガスを指したが、近年は新芽のグリーンアスパラが季節のものとして賞味されるようになった。
私の歌も、もちろんグリーンアスパラである。

写真②に緑と白のアスパラを出しておく。白いアスパラは新芽に土を寄せて日光を遮断したものである。
これを茹でても食べられるし、缶詰にして年中食べることが出来る。西洋料理の付け合せなどには、よく使われた。
どちらを好むかは、人それぞれである。
今でもヨーロッパに行くと、アスパラガスの料理が旬のものとして名物だが、いずれも「白」アスパラである。
日本人は季節の「旬」ということを重視するので、先に書いたように近年は緑色のアスパラが盛んに出回るようになった。
写真③が地面から顔を出したアスパラガスの新芽である。

アスパラガスは地中にかなり太い地下茎を這わせて、その所々から新芽を出す。その良さそうなところを地面すれすれのところから切り取る。
種または苗を植えてから2、3年は根を育てるために新芽の切り取りは、しない。これをすると先で十分な収穫が得られない。
掲出した歌の次に
アスパラの新芽を食(た)ぶるは一刻(いつとき)ぞ あとはひととせ根を養(か)ふるなり・・・・・・・・・・木村草弥
という歌があるが、このように一年の大半はアスパラの根に堆肥を施すなど、根を養うのである。

アスパラガスは冬の間は地上部は全部枯れる。
春になると新芽が出て、切り取って食べないかぎり、写真④のように茎と葉の茂る形になる。
夏の間は十分に日光を浴びさせて光合成をして、根に栄養を蓄えるようにする。
なよなよとしたもので風で倒れたりして倒伏するので杭や紐で支柱を立てる。
生け花用のアスパラガスは、食用のものとは少し種類が違う。
アスパラガスの産地として北海道は有名だが、亡妻の妹が札幌に居て、いつも今ころになるとグリーンアスパラの見事なものを贈ってくれる。
今年も見事な音更産のアスパラと煮豆セットが届いた。
私の家の菜園のものが終わった時期である。
アスパラガスは、植えつけてから十年間は、たっぷりと収穫出来るが、それを過ぎると根が老化して芽が出にくくなるので、改植が必要である。
私の家のものは、今年その時期で昨年新しい苗を植えたので、少ししか食べられなかった。
私の持っている歳時記にはアスパラガスの句は収録されていない。

わが味蕾すこやかなるか茱萸(ぐみ)ひとつ
舌に載すれば身に夏の満つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
茱萸(ぐみ)は秋に収穫するものもあるようで、それは種類が違う。ここでいう茱萸は「夏ぐみ」と称するものである。
この頃では栽培種のグミも出ているが、私の子供の頃に親しんだのは、少し渋みのあるグミだった。

昔は甘味が簡単には手に入らなかったので、田舎では家の敷地の中に、こういう季節の果樹を植えてあった。
グミは渋みのある中に甘酸っぱい素朴な味の実だった。
人間より先に小鳥たちがよく知っていて、油断すると食べ尽くされてしまうのだった。
実の表面にはざらざらした細かい黄色の点々があった。
ものの本によるとグミ科の落葉喬木とある。食べられるのは苗代グミと唐グミだという。
写真②のものでは実の先に「花」の名残りが、くっついているのが判る。

生(な)るときには文字通り写真③のように鈴なりに生るものである。
この頃でも散歩しているとグミが一杯生っているのを見ることがある。
時期的には梅雨前の今頃が最盛期である。この頃では食べる人もなく、専ら小鳥のご馳走になっているようだ。
いま食べれば、さほどおいしいとも思わないかも知れない。
この実の生っているのを見ると、さあ夏がやって来たなあ、という感じがするのである。
歳時記に載る句を引いて終わりたい。
苗代茱萸うれぬ因幡へ流れ雲・・・・・・・・大谷碧雲居
島の子と岩グミ噛めば雲親し・・・・・・・・中島斌雄
田植ぐみ子が一人ゐて揺りゐたり・・・・・・・・若色如月
夏ぐみや童話作家はいつも若し・・・・・・・・河府雪於
洞窟に八幡様や苗代茱萸・・・・・・・・・関梅香
苗代茱萸たちまちに葬終りたり・・・・・・・・上野さち子
夏く゜みの大粒の枝に母歓喜・・・・・・・・竹林清
夏ぐみや息やはらかに牛老いし・・・・・・・・黒杉多佳史
夏茱萸を含めば渋き旅愁かな・・・・・・・・村岡黎史

青蛙おのれもペンキぬりたてか・・・・・・・・・・・・・・・・芥川龍之介
厳密に言うと「青蛙」という種類はちゃんと居るのだが、この句の場合、そんな厳密な区別をして作ってあるとは思えない。
一般的に「緑色」の蛙ということだろう。
芥川龍之介については昨年くわしく書いたが、この句を掲出して書いたことはないので、ここで書いておきたい。
写真は「モリアオガエル」である。大きくなっても体長6~7センチくらいのカエルである。
「青蛙」という種類は緑色の体長7センチくらいのカエルで、シュレーゲルアオカエルという、れっきとした名前を持っている。
「モリアオガエル」は本州、四国、九州の平地の低い木や草に棲む。指先に吸盤がある。

写真②はモリアオガエルの卵塊である。
浅い池や沼のあるところで枝先が水面に張り出した低い木の葉の先に卵を産む。孵った蛙のオタマジャクシは水面に落ちるという工夫である。
写真のように枝先の白っぽい塊が卵塊である。

↑ 雨蛙は住宅地なんかの草や木にも繁殖する。
天気が雨模様になってくると、湿気を感知してキャクキャクキャクと鳴く。
私の家の辺りにもたくさん居るが、どこで卵、あるいはオタマジャクシになるのか、いまだに知らない。
↓ 上に書いた「青蛙」シュレーゲルアオガエルの写真

「シュレーゲル」なんていう外国名がついているが、れっきとした日本の固有種である。
Wikipediaに載る記事を下記に引いておく。
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シュレーゲルアオガエル
Rhacophorus schlegelii
学名
Rhacophorus schlegelii
(Günther, 1858)
和名
シュレーゲルアオガエル
英名
Schlegel's green tree frog
シュレーゲルアオガエル(Rhacophorus schlegelii)は、両生綱無尾目アオガエル科に分類されるカエル。
名前はオランダのライデン王立自然史博物館館長だったヘルマン・シュレーゲルに由来する。
「シュレーケルアオガエル」とも言われる。
分布
日本の固有種で、本州・四国・九州とその周囲の島に分布するが、対馬にはいない。
形態
体長はオス3cm-4cm、メス4cm-5.5cmほど。体色は腹側は白く背中側は緑色をしているが、保護色で褐色を帯びることもある。虹彩は黄色。
外見はモリアオガエルの無斑型に似ているが、やや小型で、虹彩が黄色いことで区別できる。また別科のニホンアマガエルにも似ているが、より大型になること、鼻筋から目、耳にかけて褐色の線がないこと、褐色になってもまだら模様が出ないことなどで区別できる。
生態
水田や森林等に生息し、繁殖期には水田や湖沼に集まる。繁殖期はおもに4月から6月にかけてだが、地域によっては2月から8月までばらつきがある。
食性は肉食性で昆虫類、節足動物等を食べる。
繁殖期になるとオスは水辺の岸辺で鳴く。鳴き声はニホンアマガエルよりも小さくて高く、「コロロ・コロロ…」と聞こえる。卵は畦などの水辺の岸辺に、泡で包まれた3cm-10cmほどの卵塊を産卵する。泡の中には200個-300個ほどの卵が含まれるが、土中に産卵することも多くあまり目立たない。孵化したオタマジャクシは雨で泡が溶けるとともに水中へ流れ落ち、水中生活を始める。
なお、地域によってはタヌキがこの卵塊を襲うことが知られる。夜間に畦にあるこの種の卵塊の入った穴を掘り返し、中にある卵塊を食うという。翌朝に見ると、水田の縁に泡と少数の卵が残されて浮いているのが見かけられる。
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芥川の句は青蛙の皮膚の色を巧みに捉えてユーモアたっぷりに表現してある。
彼の写真の下の画像は「我鬼先生」と自称した彼自筆の戯画である。
以下、青蛙ないしは雨蛙を詠んだ句を引いて終わりたい。
梢から立小便や青かへる・・・・・・・・小林一茶
青蛙喉の白さを鳴きにけり・・・・・・・・松根東洋城
青蛙ばつちり金の瞼かな・・・・・・・・川端茅舎
軒雫落つる重たさ青蛙・・・・・・・・菅裸馬
青蛙影より出でて飛びにけり・・・・・・・・中川宋淵
空腹や人の名忘れ青蛙・・・・・・・・井上末夫
雨蛙人を恃みてうたがはず・・・・・・・・富安風生
雨蛙ねむるもつともむ小さき相・・・・・・・・山口青邨
枝蛙喜雨の緑にまぎれけり・・・・・・・・西島麦南
掌にのせて冷たきものや雨蛙・・・・・・・・太田鴻村

葉桜となりし座敷の利茶かな・・・・・・・・・・・・・・木村亞土
この句は私の兄・木村重信のものである。「亞土」は、その俳号である。兄は学生時代に一時、俳句をやっていたことがある。
私がまだ14、5歳の頃のことだが、記憶力の一番強い頃で、この句のことは、よく覚えている。
実は、この「亞土」という雅号は亡・長兄、木村庄助が使っていたもので、長兄が昭和18年に22歳で死んでから、重信兄が継承して使っていたもの。
亡・長兄、木村庄助は中等学校卒業後、茶業修行のために静岡の某商店に見習い奉公に出ていた。
そこで結核に罹り、帰省して静養。
その間に文学書に耽溺し、その頃の新感覚派の川端康成などを読みふけり、その後、太宰治に私淑し、習作を太宰に送るなどしていた。
兄の没後、結核療養日記「太宰治を偲ぶ」と題したもの──日記とはいうものの、丸善で製本させた立派な装丁のものである──が太宰に送られ、これを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれた。
これらのことは、この作品の解説の中で詳しく書かれていて、周知の事実である。全集の中の「書簡集」には太宰からの手紙も収録されている。
この「日記」は戦災で多くが焼失したが、そのうちのいくつかが残り、「日本近代文学館」の展示室に展示されていたという。

この「木村庄助日誌」には太宰治研究者の浅田高明氏が居られ、私や兄の家に来られて、専門的に、日記と太宰の小説との異同を研究され、5冊の単行本にまとめて上梓されている。この「日記」は兄・重信の再三の要請に応じて、近年、太宰未亡人・津島美知子氏から3冊が返還されてきて、現在、兄・重信が保管している。
この「日記」が何とか出版されたのは先に、このブログにも載せた。
日陰にあった日記が広く公衆の目にさらされることになり、私たち兄弟としても嬉しい限りである。
私が中学生の頃、家には、庄助の蔵書の文学書などがたくさんあり、私は、それらをむさぼるように読んだものである。
私が今日、短詩形ではあるが、文芸の道に脚を踏み入れるようになったのは、その頃の原体験がもたらしたものである。
「庄助」という特異な命名は、私たちの祖父が立行司・木村庄之助と同姓同名であったが、その祖父が自分の名前から取って「庄助」と名づけたことに由来する。
太宰の小説と、亡・庄助の「日記」との異同などをみてみると、ものすごく面白い。どの作家によらず、何らかの資料が底本として存在するのである。
それでなければ、人間の発想などというものには限界があり、ネタは、すぐに尽きてしまう。
時に、資料提供者と、作家との間に軋轢が生じるが、亡兄・庄助は太宰に私淑していたものであり、その遺言によって「日記」は提供されたものであり、そういう紛争は起るはずもないことであった。
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庄助は療養中に陶芸なども、少し手がけていたので、私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中の「茶の歌」と「族の歌その他」に、次のような歌があるので、それを引いておく。
これらの歌はWeb上のHPに載せた自選50首にも含まれるから、アクセスしてもらえば見ることが出来る。
家族(うから) ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
兄・木村庄助
茶商ふ家に生まれし長(をさ)の子は茶摘みさなかの五月に逝きぬ
青嵐はこぶ焙炉(ほいろ)の香にぞ知る新茶の季(とき)と兄の忌日を
宿痾なる六年の病みの折々に小説の習作なして兄逝く
私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄
兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の「パンドラの匣」
池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも
太宰が玉川上水に愛人と投身自殺した年は、雨の多い梅雨で、今でも大々的な新聞報道を忘れない。
太宰の仕事場の机の上には、伊藤左千夫の歌「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる」が書き抜いてあったという。
私の歌の出だしの部分「池水は濁りーー」云々は、それを踏まえている。
水茎のうるはしかりし庄助の墨痕出できぬ納屋の匣より
座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」(ゑしやぢようり)沙羅の花見れば美青年顕つ
祖父・木村庄之助
立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)
夜咄(よばなし)の茶事・・・・・・・・・・・・・木村草弥
冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ
風化せる恭仁の古材は杉の戸に波をゑがけり旧(ふる)き泉川
雑念を払ふしじまの風のむた雪虫ひとつ宙にかがやく
釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ
緑青のふきたる銅(あか)の水指にたたへる水はきさらぎの彩(いろ)
アユタヤのチアン王女を思はしむ鈍き光の南鐐(シヤム)の建水
呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩(はなびら)餅はくれなゐの色
手捻りの稚拙のかたちほほ笑まし茶盌の銘は「亞土」とありて
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ここに引いた一番あとの歌の「亞土」は、先に書いた庄助の雅号のことである。

椎落花煩悩匂ふ無尽かな・・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎
椎(しい)の花は6月になると、深緑色の葉に混じって、強い甘い香りのする淡黄色の雄花が穂状に開く。
スダジイとツブラジイがあり、スダジイの実は円錐形、ツブラジイの実は球形と、やや違うが、共にブナ科の常緑喬木、20メートルから25メートルにも達する。
暖地の木である。雌雄同株で虫媒花だが、雄しべが花粉を撒くと、穂ごと雄花は落ちる。
強い匂いで、酔うような異様な雰囲気になる。美しい花ではないが、セクシーな、活力のある空気を生み出す。
だから、掲出した川端茅舎の句でも「煩悩匂ふ無尽」と表現している。
しかも時期としては「落花」を詠んでいるのである。
私の歌にも(歌集『嬬恋』(角川書店)所載)
饐(す)ゆるごとく椎の花咲き斎庭(ゆには)なる仁王の像は固く口つぐむ・・・・・・・・・・・・木村草弥
というのがあるが、掲出した句の方が佳いと思って、この句を掲げる。
俳句にも多くの椎の花の句があるが、総じて上に述べたような句境のものが多い。それを引いて終わる。
旅人のこころにも似よ椎の花・・・・・・・・松尾芭蕉
尾長どり巣かけし椎は花匂ふ・・・・・・・・水原秋桜子
椎咲くや恋芽ぐみゐる英語塾・・・・・・・・野村喜舟
杜に入る一歩に椎の花匂ふ・・・・・・・・山口誓子
椎の花こぼれて水の暗さかな・・・・・・・・増田手古奈
椎匂ふ夜を充ち充ちて書きゐたり・・・・・・・・大野林火
椎咲きてわが年輪のほのぐらき・・・・・・・・松村蒼石
下品下生の仏親しや椎の花・・・・・・・・滝春一
椎にほふ未定稿抱き眠る夜も・・・・・・・・能村登四郎
言葉のあと花椎の香の満ちてくる・・・・・・・・橋本多佳子
椎咲いて猫のごとくに尼老いぬ・・・・・・・・河野静雲
花椎の下照る径や子を賜へ・・・・・・・・星野麦丘人
遠目にはもゆる色なり椎の花・・・・・・・・松藤夏山
教師みなどこか疲るる椎の花・・・・・・・・上野波翠

三代に憂き事もあれ古時計
いま時の日に平成刻む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「平成」に替わった、早い時期に作ったものだろうと思われる。
今日6月10日は「時の記念日」である。
この歌のように、私の家にも古時計があって、ゼンマイを巻く方式のもので、螺子を巻く仕事は子供に責任を持たされていたものだった。
今の家に建て替えるまでに二度引越しをしたので、いま古時計がどうなったかは判らない。
あるいはどこかに仕舞ってあるかも知れない。
そんなことで、掲出した写真の時計はネット上の「古時計」販売サイトから拝借した。
この時計は明治後期製作の「愛知時計」製のもので、中古品だが58000円の値がついている。
このメーカーは国産時計として割合名前の知られたところである。
この時計などは、まだ値が低い方で、何十万というような高い値のついているものもある。
「時の記念日」ということで、ネット上に載る記事を転載しておく。
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セイコー株式会社(社長:村野晃一)では、2004年の時の記念日(6月10日)にちなんで、現代に生きる日本人を対象とした「時間の過ごし方」についてのアンケートを実施し、男女合わせて500名から回答を得ました。
現代人は、競争社会が激化する中、ビジネスではますます多忙になり、またプライベートにおいても生活環境が変化する中、やりたいこと、やるべきことが積み重なり、時間のやりくりをいかに上手くこなすかが課題となっています。こうした中、人々はどのように時間を管理しているのでしょうか。本調査では、最初に「時間管理が上手くできているか?」、「時間を管理するための考え方や行動は?」といった質問を用意。さらに、時間管理の考え方がストレートに反映される「人との待ち合わせ」について、「待ち合わせる際の約束の仕方」、「待つ時間、待たせる時間の相手別(目上の人、恋人、家族、友人)の許容時間」といった質問に対する回答を求め、相手別、男女別、世代別の意識の違いを分析しました。
さらに、昨年に引き続き、 「日常生活の中で増やしたい時間、減らしたい時間」、「最近、自由な時間が増えているかどうか」といった基本的な質問も用意し、昨年との比較でどのように人々の意識が変化したかを分析し、報告しております。
時の記念日は1920(大正9)年に制定されました。当時の日本人に欧米人なみに時間を尊重する意識を持ってもらう事を願い、生活改善同盟会が「日本書紀」の天智天皇の条、水時計創設の記によって6月10日を選定。時間の大切さをかみしめる日と意義づけられています。
「時の記念日」の認知度について調査したところ、「知っていた」と回答した人が最も多く4割強。「何となく聞いたような気がする」を合わせると、7割以上の人が「時の記念日」の存在を認知しているという結果が出ました。また、年代別で見ると、「知っていた」との回答は年代が上がるにつれて増え、60歳以上では7割近く。また「何となく聞いたような気がする」を合わせた認知度については、40代が93%と最も多いことが判明しました。
意識は高いが実態は…
*意識は高いが、5割以上が不得手と感じている
*遅刻を防ぐために“時計を進める”シンプルな手法を4人に1人が実践
*携帯電話が普及しても、待ち合わせは時刻を指定して
相手を待つなら25分、待たせるなら17分
*目上の人は、待つが待たせない“敬う関係”
*家族は、待たないが待たせる“厳しい関係”
*友人は、待たないし待たせない“節度ある関係”
*恋人は、待ちたいし待たせたい“スイートな関係”
現代人の時間の過ごし方について
*「増やしたい時間」「減らしたい時間」「自由な時間」
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まだまだあるが、以下は省略しておく。
とにかく「現代人」は、時間、時刻に追われている毎日である。
それに、幼い時、若い時に比べて、歳をとると日時の経つのが加速度的に速いのが実感させられる。
絶対的な時間というのは物理的に同じなのに、このような「感覚」というのは、どういうことなのだろう。
「歳月人を待たず」とか「歳月は非情である」とかいう諺があるが、このような諺を作った人は、おそらく老人であって、
私が上に書いたような実感を持ったが故であったろう、と思われる。
「時の日」にあたって私の感慨を披露してみた。

忍冬(にんどう)に茶事の客あり朝日窯・・・・・・・・・・・田下宮子
朝日焼(あさひやき)は京都府宇治市で焼かれる陶器。
宇治茶の栽培が盛んになるにつれ、茶の湯向けの陶器が焼かれるようになった。
江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられていた。
なお、朝日焼の由来は朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が、旭光を思わせるという説がある。
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歴史
宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。
室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている。
今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。
しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、
陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。
後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。
同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している。
三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。
それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった。
朝日焼の特徴
朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。
そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている。
燔師(はんし)
分かりやすく解釈すると、師匠が焼いた物という意味である。赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器をいう。
鹿背(かせ)
燔師とは対称的に、肌理細かな斑点が見られる器をいう。鹿背とは名の如く、鹿の背中でそれを思わせるような模様から名付けられている。
紅鹿背(べにかせ)
鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見えるものを指す。
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上に引用した百科事典の記事のように、宇治の「朝日焼」は古い歴史を有している。
写真は「朝日焼窯芸資料館」の建物。
朝日焼は宇治川の川東にあり、宇治橋を上流に向けて数百メートル上ったところにある。
窯元は代々、松林豊斎を襲名していて、当代は15世になる。
「ちゃわんや15世豊斎のblog」なるBLOGも開設しておられるが、更新もとびとびのようである。
「朝日焼作陶館」というのがあり、作陶もできる。
当代の豊斎氏は、事業も大きくされ儲けておられるようだったが、先年敷地の大半を茶問屋の福寿園に買い取ってもらい、ここには「福寿園宇治工房」という店舗が開設されている。
先々代(13世ということになるのか)は、芸術家肌のひとで儲けには繋がらなかったかもしれないが、芸術的には良い作品を作られたようだ。
私の父は、「窯だし」のときには招待されて、気に入ったものを何点か所蔵していた。
今もわが家にあるが趣のあるものである。
朝日焼の「急須」は注ぎ口のところが特徴があり、お茶の最後の一滴まで、急須に残らずに注ぎ切れる。

掲出句の「忍冬」というのは、先に採り上げた「スイカズラ」のことである。
いましも、6月5日は「県祭」が催行されて、たくさんの人で賑わった。
この「川東」地区は宇治上神社や興聖寺のほかに「源氏物語ミュージアム」などもあり、興味のあるところである。
ぜひ一度、脚をのばしてみられては、いかが。
スイカズラの花については先に書いたので、今日は触れない。

──新・読書ノート──
中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』―日本人の羞恥心―・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・・新潮選書2010/05刊・・・・・・・・・・・
新潮社の読書誌「波」六月号に載る「書評」を、そのまま引いておく。
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150年前の「混浴図」が、現代の日本人には奇異に見えるのはなぜか?
「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」。
幕末に訪日した欧米人が驚いたのは、公衆浴場が混浴だったから。
当時の裸体観は今と異なっていたのだ。
だが、次第に日本人は裸を晒すことを不道徳と考えて、私的空間以外では肉体を隠すようになる。
その間、日本人の性的な関心がどう変化したかを明らかにする。
「ホンネの眼差し」から「タテマエの視線」へ・・・・・・・・・・・・紀田順一郎
百五十年前、日本にやってきたペリー艦隊の一行を最もおどろかせたものが、伊豆下田公衆浴場の混浴風景だったことはよく知られている。キリスト教を基盤とする欧米人の風習やモラルから見れば、公共の場で男女ともに異性の前で平然と裸をさらけ出すような光景は、世界観を揺るがすほどの衝撃だった(「第一章 この国に羞恥心はないのか!?」)。随行画家により描かれたこのスケッチは彼らの遠征記を飾り、十九世紀の欧米社会に流布した。
ところが、この絵を見る現代の私たちが「一種の奇妙さとある種の居心地の悪さ」を覚えるのは、著者のいう通りであろう。いったい、これは真実を描いたものだろうか?
銭湯や入浴の歴史は、これまでにも目にしたことがあるが、本書の眼目はここからで、江戸時代の日本人がなぜ裸に対して許容度が高かったのか、いつごろから弾圧がはじまったのかといった疑問を豊富な文献を手がかりに、ていねいに掘り下げていく。
まず、著者が裸体をかくす衣服に着目しているのは鋭い。日常の衣服をきわめて簡単なものですませる日本人は、仕事にしても褌姿が多く、手工業者、馬丁の場合は裸が仕事着といえた。女性も暑いときは着物を大方脱いでしまう。その延長で、男などは銭湯から裸で家に帰ることが常態化していた。家屋も開けっ放しで、西欧人の考えるようなプライバシー保持の感覚もなかった。したがって肌脱ぎして化粧するような場面を外国人に対して隠そうとしなかったのも不思議ではない。著者は「日本人は、性器を隠そうとする意識が極めて低かった」として、タウンゼント・ハリスの通詞ヒュースケンが「相当な身分の日本人の家」を訪れた際、その主人が家族の面前で自分の陰部を指し、英語の名称を訊ねたという例をあげている。これは『ハリス 日本滞在記』に出て来る記述で、読んだ人も多いはずだが、“未開時代”の話として、その意味までは考究しなかったのではあるまいか。
このような挿話に浮かび上がる日本人の裸体観は、文明と未開の落差ではなく、キリスト教国や儒教国との裸体観の相違であるとする著者の指摘は、まさに正当であろう。“未開”は西欧の基準に過ぎず、この国では裸体は顔の延長としての「日常」であった。セックスとの結びつきも緩やかだった。春画だけは裸体とセックスが結びついているが、性器を大きく、体位をアクロバティックにすることで、性行為自体を強調しようとしている。
性をコントロールする方法は二つあり、一つは性を隠蔽すること、もう一つは性をオープンにすることだが、江戸時代の日本人は明らかに後者を採用したとする考え方も正しい。まさにそのような文化的差異を前提にしてこそ、明治以降の裸体の禁圧政策の意味が見えてくるからだ。西欧に追いつき追い越せを国是とした明治新政府は、外からの視線で自らの伝統的な感性を否定し、基準に合致しないものを野蛮の陋習として弾圧する。「裸体禁止令」と「違式註違条例」はその最たるものだった。施行当時のある錦絵新聞は、縁側で肌脱ぎ状態で涼んでいる女性すら、警察にしょっ引かれたという出来事を扇情的に報じている。「羞恥心を日本人に植えつけたのは西洋文明の複眼であり、それに大いに加担したのが明治新政府であり、後の新聞社だったのである」
その後の歴史の教えるところは、女性が肌どころか陰部や胸部までを蔽い隠すようになったことだ。本書は生活文化に関わるテーマを、資料を博捜することで跡づけた風俗史に属するものであろうが、単なる風俗よりもその奥にあるものを発見しようとしている点が特色である。それは結論部分を見てもわかる。著者によれば、現代の女性は裸体を何重にも隠している。最初の契機は、幕末日本にやってきた外国人の「ホンネの眼差し」から身を隠すことだった。ついで明治新政府が外国人の「タテマエの視線」に配慮し、混浴をはじめ街頭における裸体を排除した。こうして女性の裸が二重の拘束を受けた上にパンツをはく習慣が加わり、さらには胸部を蔽うまでにいたる。これでも収まらずに、その下着類まで隠す習慣が一般化することにより、裸体は五重に隠蔽されることとなった。
このような隠蔽の度が加わるにつれ、男性も影響を蒙り、昨今の「スカート男子」の出現どころか、ついには著名タレントが深夜の公園で全裸になったという理由で処罰を受けるという騒動に発展した。百五十年前とは、なんという違いであろうか。「かつて日本人がおおらかな裸体観をもっていた事実をふまえて考えると、裸体を徹底的に隠す日本社会も、行き着くところまで来た感がする」とは、著者の嘆きである。
裸やセックスの社会的制御は微妙な問題で、西欧にもタテマエとホンネの相違はあるが、日本ほどではない。かつての「チャタレイ裁判」にせよ、先ごろの篠山紀信の公然ワイセツ罪容疑(公衆の目にふれやすい場所でのヌード撮影)にせよ、取締の根拠はきわめて恣意的、場当たり的である。近世における、裸体を日常の一部として無化する感覚は、明治の他者志向の近代化により性急な抑圧を受けた。本書の意義は近代化の歪みの最も大きな部分が裸体の否定にあったことを、これ以上求め難いほど精力的に抉り出した点にあろう。 (きだ・じゅんいちろう 作家)
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中野明という人の著作を見ると、ビジネス、経営、ハウツーもの、に関するものが殆どで、かつ著書も物凄く多い。
日本には「軽犯罪法」という法律があり、たとえば、戸外で裸体を(上半身でも)露出するのは「犯罪」とされるらしい。
こういう明治以降の「為政者」の判断が、今日の日本人の意識に反映していると思うのだが、いかがだろうか。

君が育て君が摘み来し食卓の
スイカズラ甘く匂いていたり・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
スイカズラの花言葉は「愛の絆」「友愛」という。
スイカズラの説明をネット上から、以下に、引用しておく。
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スイカズラは、つるは右巻きで、まわりの木などに絡み付いて、よく延び若枝には褐色の毛がびっしりと生えていますが、後で毛はなくなります。
葉は対生、形は長楕円形で先は鈍頭、基の方は円形あるいはくさび形をしています。長さ3~6センチで葉縁は全縁となっています。
スイカズラは、冬にも葉が落ちないことから、忍冬(ニンドウ)の名があります。
花は枝の上部の葉腋から短枝をだし、2個の花をつけます。大きさは3~4センチで花冠の外面には軟毛が生えています。下の方から中頃までは筒状で、その先は上片1、下2片の唇状となっています。色は始めは白で後に黄色となります。甘い香りがあります。雄しべ5、花柱1。
果実は褐色で広楕円形をしています。
生薬名で金銀花(きんぎんか)といいます。
管状になった花を引き抜き、管の細いほうを口に含んで静かに吸うと、良い香りがあって、花の蜜は甘い味がすることから「スイカズラ」といわれています。
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上の説明で「金銀花」というのがあるが、その状態のスイカズラの花が、写真②である。

白色から薄茶色に変わったのが見てとれよう。
淡紅色に咲く花もあるらしい。
忍冬のこの色欲しや唇に・・・・・・・・・三橋鷹女
という佳句があるのが、それである。
以下、この花の句を引いて終わる。
忍冬神の噴井を司る・・・・・・・・・・・・・阿波野青畝
すひかずら尾根のかなたの椎の群・・・・・・・・・・・・志摩芳次郎
忍冬の花折りもちてほの暗し・・・・・・・・・・・・後藤夜半
雨ぐせのはやにんどうに旅二日・・・・・・・・・・・・石川桂郎
魂魄の塔にすがりし忍冬花・・・・・・・・・・・・沢木欣一
忍冬の花のこぼせる言葉かな・・・・・・・・・・・・後藤比奈夫
忍冬乙女ら森を恋ひ来たり・・・・・・・・・・・・・堀口星眠
渡船場よりすこし風くる忍冬・・・・・・・・・・・・佐野美智
結界に吹かれ忍冬朱を殖やす・・・・・・・・・・・・松本澄江
山荘に独りが好きやすひかずら・・・・・・・・・・・・堤俳一佳

──新・読書ノート──
石井光太『レンタルチャイルド』―神に弄ばれる貧しき子供たち―・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・・・・・新潮社2010/05刊・・・・・・・・・・・・・・・・・
石井光太の本は以前に『神の棄てた裸体─イスラームの夜を歩く』(新潮社2007/09刊)を読んで旧Doblogに記事を書いたことがある。体当たり的なルポを書く人である。
以下、新潮社の読書誌「波」六月号に載る「書評」を、そのまま引いておく。
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高度成長真っ只中、インドの商都ムンバイの街角。
物乞いは憐れみを誘うため、マフィアから借りた赤ん坊を抱き路地に立っていた。
だが月日を経て、その赤子は「路上の悪魔」へと容赦なく変貌させられていく。
そして、今。子供たちの「その後」は? 最後に著者の目に映るものはなにか。
執筆に十年をかけた渾身のノンフィクション!
痛くてたまらない文章・・・・・・・・・・・・・東 えりか
石井光太の文章は痛い。読んでいると、体が痛くてたまらなくなる。こういう経験は今までしたことがない。例えれば、映画の拷問シーンで目をそむけたり、地獄を描いた宗教画で戦慄したりするのと似ているかもしれない。しかし、石井のノンフィクションは文字で表す。心と体の痛みは弱者が生きるために不可避なこと、それはデビュー作『物乞う仏陀』から繰り返し描かれてきた。アジア諸国の障害者や物乞いを追い続けたルポルタージュは、若さに任せて突っ走った作品だったが、下層の人々の痛みを読者に強烈に印象付けた。
新刊『レンタルチャイルド』を読んでも痛い文章にクラクラさせられる。舞台はインドのムンバイ。以前はボンベイと言われていた、インドの西海岸に位置する国内経済の中心、商都である。映画好きなら「ボリウッド」発祥の地であると聞けば、あそこね、と思うかもしれない。中心街には大企業のビルが立ち並び、富豪や映画スターの豪邸が目を引く。しかし反面、巨大なスラムが存在し、人口の半分の人々は狭いバラックで暮らしている。
二〇〇二年、石井は町で見かける障害を持った物乞いを調べ始めた。都市伝説のように流布する「障害者の物乞いの中には故意に体を傷つけられたものがいる」という噂を追って、手当たり次第に声をかけ続けた。やがて全身が疣に覆われた不気味な男から一人の青年を紹介される。片目の元路上生活者「マノージ」との出会いであった。彼は幼い頃にマフィアに片目を潰され物乞いにされた。しかし数ある障害の中で片目が見えないというだけでは、人々の同情を買うには弱い。そこで、不気味な風体で荒稼ぎする疣男の慰み者となり生きてきたのだった。日常会話なら流暢な英語を話すマノージは石井にとってありがたい相棒であり相談相手となった。
何らかの原因で路上生活をする子どもを捉え、体を傷つけて障害者の物乞いを作りその稼ぎを搾取する。ムンバイにはそんなマフィアの組織がいくつもあった。同情を引くために女の物乞いに赤ん坊は必要不可欠だ。マフィアは、どこからか調達してきた赤ん坊を宛がう。本書のタイトル「レンタルチャイルド」である。傷つけられ血を流しながら人々の喜捨を待つ少年の痛々しさは、文章なのに思わず目をつぶってしまうほどだ。
この取材で石井は、五歳から十代前半の路上生活少年グループのリーダー的な存在であるラジャという少年と出会った。薄汚れてはいるが、目鼻立ちがはっきりとした聡明な顔立ち。彼との出会いが、石井にとっても、またこの作品にとっても大きな意味を持ってくる。
二〇〇四年、二〇〇八年とムンバイの取材は時間を置いて行われた。六年というのは、子どもにとって長い時間である。この間インドは大きな経済成長を遂げた。特にムンバイは日々土地の価格が暴騰するいわゆるバブルまっただ中となった。スラムは壊され大きなマンションが建築される。夥しい数の路上生活者は駆逐され、郊外へと逃げた。マノージは疣男から離れ、靴磨きから肉体労働者となって稼ぎ、妻を娶り小さい借家で落ち着いた生活を送っていた。
一方ラジャは、ムンバイから電車で一時間ほどのベッドタウンで暴力で支配する側に回っていく。ムンバイの闇組織はアフリカ系の移民に乗っ取られ、物乞いや売春婦はラジャたちに付いて郊外へ避難していたのだが過酷な暮らしは変わらず、最下層の人々の頭の上を好景気が素通りしていく。
石井自身、二十五歳で始めたアジアの最下層からのルポは本書が集大成となる。ひとりの日本人の若者が、インドの闇の部分へ潜り込み、若さにまかせてがむしゃらな取材をしたことは暴挙であったかもしれないが、図らずもインドの経済成長の記録ともなった。中国と肩を並べて成長し続けるインドという国の、隠してしまいたい裏の歴史を、日本の若者が書き上げた。このことを素直に賞賛したいと思う。 (あづま・えりか 書評家)
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石井光太には「公式ホームページ」があるのでアクセスしてみてください。Twitterもやっているらしい。
このページから河出書房新社の「KAWADE Web Magazine」に連載公開中の「飢餓浄土」の最新作が読めるのでトライされたい。
彼の著作──
『日本人だけが知らない日本人のうわさ』(2010年光文社)
『絶対貧困』(2008年光文社)
『物乞う仏陀』(2005年文芸春秋社、2008年文庫化)

ひっそりと卯の花匂う露地を来て
今は秘密とするものもなく・・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
「卯の花」は「ウツギ」のことである。
昔の文部省唱歌に
<卯の花の匂う垣根にほととぎす早も来なきて忍び音もらす夏は来ぬ>
というのがあり、子供の頃から、この植物の名前は知っていた。
花言葉は「秘密」という。
鳥海昭子さんの歌は、この花言葉を巧みに取り入れて詠われている。
この歌に添えた作者のコメントには
<年を重ねると隠し事も少なくなるものですね。>
とある。
この花は万葉集には24首に登場するという。その多くが、霍公鳥(ほととぎす)とセットで詠まれている。
ここから、先に書いた文部省唱歌の「卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて・・・」という歌が生まれてくるのであった。
この詩の作詞者は、佐佐木信綱である。
万葉集の大歌人・大伴家持の歌に
卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ(歌番号4091)
というのが知られている。
さらに時代がすすんで『古今和歌集』を経て俳諧の世界にも引き継がれ、芭蕉の『奥の細道』の「白河の関」の章には、旅中の点描として使われている。
陰暦4月の「卯月」は卯の花の咲く月という認識である。「卯の花腐し」「卯の花月夜」などの季語にも登場する。

以下、この花を詠んだ句を引いて終わる。
押しあうて又卯の花の咲きこぼれ・・・・・・・・・・・・正岡子規
顔入れて馬も涼しや花卯木・・・・・・・・・・・・前田普羅
卯の花の夕べの道の谷へ落つ・・・・・・・・・・・・臼田亜浪
花うつぎみごもることをひた惵(おそ)れ・・・・・・・・・・・・安住敦
卯の花に用無くて人訪ねたり・・・・・・・・・・・・橋間石
かすみつつこころ山ゆく花うつぎ・・・・・・・・・・・・飯田龍太
卯の花を高野に見ては涙ぐむ・・・・・・・・・・・・沢木欣一
卯の花に雨のはげしくなるもよし・・・・・・・・・・・・細見綾子
前(さき)の世もかく散り敷きし卯の花か・・・・・・・・・・・・中村苑子
卯の花や流れは鍬を冷しつつ・・・・・・・・・・・・飴山実
卯の花に豪雨吹くなり鮎の淵・・・・・・・・・・・・橋本鶏二
卯の花や一握となる洗ひ髪・・・・・・・・・・・・鷲谷七菜子
ところどころの卯の花に触れてゆく・・・・・・・・・・・・岡井省二
卯の花の月夜の声は室生人・・・・・・・・・・・・大峯あきら
谷咲きの初の卯の花機神に・・・・・・・・・・・・神尾久美子
卯の花へ鎮まる雨の白さかな・・・・・・・・・・・・藤本映湖

散るあとのさみしさあれば誇らかに
咲き盛んなるアマリリスかな・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
先日にも採り上げたが、アマリリスは球根の花で今が盛りである。五月下旬から咲きはじめる。
せいぜい一週間の花期である。私の家のアマリリスは五月中に花は終わった。
あとの一年は、専ら球根を養う。植えっぱなしでも、律儀に翌年も花はつけるが、2、3年に一回は掘りあげて植えなおすのが望ましい。
この歌はNHKの「ラジオ深夜便の誕生日の花と短歌365日」という本に載るものである。この本では5/28の花としてある。
この歌のあとの作者のコメントには
<鮮やかに大輪の花を咲かせるアマリリス。
散ったあとの寂しさがあるからこそ、アマリリスは華やかに咲き誇っているのです。>
と書かれている。けだし、適切な表現と言うべきだろう。
アマリリスの花言葉は「誇り」 「おしゃべり」である。
アマリリスを詠んだ俳句についても先日上げたので今回は省略する。

おはなしはあしたのばんげのこととして
二人静(ふたりしずか)の今夜を閉じる・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
ネット上に載るフタリシズカの記事を、下記に引用しておく。
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木々が葉を繁らせ緑に染まり一段落ついた頃、光が射し込まない林下で、フタリシズカは小さな白い米粒のような花を咲かせます。
この花は少し変わっていて、白く見えるのが雄しべで、写真では判りませんが内側に1本の雌しべを包み込むように咲いています。
つまり、花びらも萼もない花ということです。
また、この花が実を結ぶのと並行して、閉鎖花と呼ばれるつぼみのようなものをつけます。
この閉鎖花は、開花せず、アリに運ばれるまで待つか、落下するまで植物自体についているそうです。
ところで、フタリシズカ(漢字では「二人静」と書きます)の名は、花をつけた2本の軸を静御前(しずかごぜん)とその亡霊の舞姿にたとえてつけられたそうですが、
実際には軸が1本だったり、3~5本あったりとまちまちです。
私も1本や3本のものには時々であう機会がありますが、4~5本も軸がついたフタリシズカにもいつかお目にかかってみたいものです。
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この歌は「NHKラジオ深夜便 誕生日の花と短歌365日」という本に載るものである。
この歌についた作者のコメントには
<東北のことばで「ばんげ」とは夜のことです。
話の続きはまたあした、と仲良く布団に入る情景が、花の名前と花ことばからイメージされます。>
と書かれている。まさに適切なイメージぶりと言えるだろう。
この花は上に引用したように、5月から6月にかけて林の中の薄暗い、ひっそりした木蔭に生えるもので、私の歌には、ない。
因みに、フタリシズカの花言葉は「いつまでも一緒に」ということである。
この花言葉から、作者の歌がイメージして作られた。
私には「いつまでも一緒に」なんて言葉を聞くのは、つらい。
「ふたりしずか」の花は、歳時記では「春」の花に収録されている。数は多くはないが引いておく。
群れ咲いて二人静といふは嘘・・・・・・・・・・高木晴子
二人静ひとり静よりさびし・・・・・・・・・・角川照子
二人静をんなの髪膚ゆるみくる・・・・・・・・・・河野多希女
二人静娶らず逝きし墓の辺に・・・・・・・・・・吉野義子
生き残ること考へず二人静・・・・・・・・・・丸山佳子
前の世の罪許されて二人静・・・・・・・・・・檜紀代
村滅び二人静もほろぶらし・・・・・・・・・・河北斜陽
高野泊りは二人静を活けし部屋・・・・・・・・・・清川とみ子
二人静木洩れ日と囁きあふは・・・・・・・・・・渡辺千枝子
帳りして二人静の咲きはみだす・・・・・・・・・・折笠美秋
身の丈を揃へて二人静かな・・・・・・・・・・倉田紘文

──新・読書ノート──
丸谷才一『文学のレッスン』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・・・・・新潮社2010/05/31刊・・・・・・・・・・・・・・
丸谷才一の書くものは一風独特である。この本は彼なりの「文学概論」と言えるものである。
以下、新潮社の読書誌「波」六月号に載るインタビューを、そのまま転載しておく。
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アメリカがイギリスに根強く抱く長篇小説コンプレックスとは?
物語を読むように歴史を読んでなにが悪い? などなど、
古今東西の文学作品をつぎからつぎへと繰り出しながら、
目からウロコのエピソードでその真髄に迫る。
小説から詩、エッセイ、批評、伝記、歴史、戯曲まで。
絶対聞き逃せない文学講義! 聞き手・湯川豊
ジャンル別に文学を語る
――この本の「はしがき」で、「文学概論ないし文学原論ないし文学総論、まあ呼び方は何でもいいが、とにかくその手の文学についての一般論には関心がなかつた」と書いていらっしゃいますね。『文学のレッスン』は一般論でこそありませんが、小説から詩、エッセイ、評論、伝記、歴史、戯曲という幅広いジャンルを網羅した、「丸谷才一 決定版文学講義」ともいうべき本になりました。
丸谷 少年時代に漱石の『文学論』を読んだのだけれど、ちっともおもしろくなかったんです(笑)。小説はあれほどすばらしいのにね。だけど同じようなタイトルでも、吉田健一さんの『文学概論』はまったく違っていた。言葉と精神についての考察から始まって、詩、散文、劇という文学の各ジャンルを一気呵成に攻めていくエネルギーに圧倒されました。これは、もともと大学の講義で話されたものだったということが大きいのではないか。折口信夫が吉田健一を国学院によんで、文学について自由に語る場所を提供した。それがもとになっているから、生き生きしていて、勢いがあるんです。漱石の本も、もとは大学の講義だけど、あれは気張りすぎですね。
――今回のご本のはじまりは、三年前、季刊誌「考える人」の「短篇小説を読もう」という特集で、湯川豊さんを聞き手にお話をうかがったことでした。イギリスではいかに短篇小説の地位が低いか、オックスフォードの英語大辞典(OED)に「短篇小説(ショート・ストーリー)」という言葉が載ったのも一九三〇年の補遺が初めてだったとか、長篇大国イギリスに対し、アメリカは根深いコンプレックスを抱いているとか、身を乗り出してしまうようなお話ばかりでした。その一年後、「考える人」の「海外の長篇小説ベスト100」特集のときに再度ご登場いただき、この際、文学の各ジャンルについて語っていただけませんか、と無理なお願いを申し上げました。
丸谷 先ほどの『文学概論』や吉田秀和さんが訳されたクセジュ文庫のアンドレ・オデール『音楽の形式』などを読んで、ジャンル別というのはおもしろい趣向だなと思ってはいたんです。文学全般についての一般論というのは、ちょっとばかばかしいというか(笑)、照れくさいでしょ。でもそれぞれのジャンルごとなら、なにか面白い話もできるかもしれないと思ったわけです。
話すこと、書くこと
――丸谷さんのお仕事のなかには、ときどき、『文学のレッスン』のように、聞き手がいて、それに答えてゆかれるというスタイルのものがありますね。たとえば、この本と同じ湯川豊さんが聞き手をつとめられた『思考のレッスン』などがそうです。こうしたものは、丸谷さんにとってどんな意味をもつものなのでしょう。
丸谷 ちょっと回り道になりますが、僕は子どものころから、自分の考えはずいぶん人と違うみたいだなと思いつづけてきました。最初にそう思ったのは満州事変のとき。昭和六年ですから、僕は六歳だった。九月十九日の午後、祖母のお供をして呉服屋にいっていた。そうしたら号外が出たんです。呉服屋の小僧たちがその号外をもらってきて、「戦争だ! 戦争だ!」とものすごく浮かれている。それを見て、子どもながらに、どうしてこんなことで浮かれて喜ぶんだろうと思った。あのとき僕は、それまでいた幼年時代という場所から、いきなり世界史のなかに連れ出されてしまったんだけれど、同時に、自分がストレンジャー、というとなんだかかっこいいが、人とはちがう考え方をするということを認識させられたんですね。それは小学校に行っても、大学に入ってもずっとそうでした。いわゆる文壇でももちろんそうだった。
つまり、そんな僕の話を面白がってくれる人がたまにいると、非常にうれしいわけね(笑)。それでがんばって答える。僕は器用ではないから、できるだけ準備して、いろんな話を用意する。
――毎回うかがうお話を本当に楽しみにしていたのですが、書くことと語ることでは、やはりずいぶんちがうものですか。
丸谷 ちがいますね。たとえば、歴史というものは一種の物語で、そうである以上、ブローデルの『地中海』だって、タキトゥスの『年代記』だって、読みものとして楽しめばいいし、読み飛ばしたっていいんだ、なんていうのは、あまりに当たり前の話で、いちいち書かないでしょ。でもおしゃべりとしてなら自然と出てくるし、それなりに役に立つ。
――歴史の本だって、これまでどおり、物語として勝手に面白がって読んでいいんだ、と励まされました(笑)。
かなり過激な文学論
――この本のなかには、丸谷さんの考え方というか、論法のおもしろさがたくさん出てきます。モーパッサンが一八八〇年代に、どうしてあんなに集中的にたくさんの短篇を書いたかというと、そこには大衆日刊紙の急激な発展があったからだとか、そういう社会背景とのつながりは、なかなか語られることがありません。あるいは、イギリスで「ショート・ストーリー=短篇小説」という言葉が生まれる以前に使われていた「スケッチ」という言葉が、明治期の日本に入ってきて、それが子規や虚子、斎藤茂吉らの写生文につながって、さらにそこから自然主義文学が生まれたとか、東西の文学事情、古今の文学の歴史が、縦横につながっていきますね。
丸谷 それは自分という人間がどういうふうに成り立っているかということでもあると思うんです。昔の日本といまの日本、西洋も中国もラテンアメリカも、それぞれの文学がみんな結びついたかたちで成立している。僕だけじゃなくて、たいていの読者がそうでしょう。でもそれを自由につなげていくことは、ものの考え方の定型や約束事によって抑圧されているのではないでしょうか。
八回にわたって話してみて、僕の文学についての考え方は、日本の一般的な文学論とはやっぱりずいぶん違うみたいだなと思いました。たとえば詩についての考え方。音楽とレトリックが同時に表現されているのが詩で、しかもこれは文学全体の重大な条件であると言いましたが、ここのところを誰も言わない。文学の中心には詩がなければならなくて、詩には、いいまわしの面白さと言葉のつらなりの美しさ、意味とは別の音の楽しさ、それが同時にあることが要求される。そしてこれはあらゆる文学に要求される。現代日本の文学論は現在にいたるまで、ずっとその認識を欠いたままできたと思うんです。
僕は今回、いちいち根本のところにさかのぼってしゃべってみたのですが、これだけ異端者的な説をたてつづけに話している本というのも、刺激が強くていいんじゃないかなと思いました。そうだそうだ、と言ってくださる方がいるのはもちろん楽しいことだけれども、丸谷の考え方はおかしいという意見も大いに期待しているんですね。そのくらい危険な意見が充満している本だと思います(笑)。
小説を書く方法
――丸谷さんのお話のおもしろさは、さまざまなジャンルの膨大な本をお読みになって、それをある種の証拠にして、独自の考えを組み立てていかれるところにあるのではと思います。それにしても、小説の実作者で、これほど文学のことをあれこれ考えている方もそうはいないような気がします。
丸谷 それは僕の小説を書く方法がちがうからですね。日本の小説では、昔もいまも、自分がしたことを書くというのが主流なわけでしょ。つまり生活者の報告。それはおおもとをたどると、さっき話に出たスケッチに行きつく。スケッチを書くのであれば、土台のところでは、ほとんど考えずにすむ。僕の小説はスケッチではなく、夢想者の行動なので、自分がしなかったことを書く。典型的なのは『笹まくら』の徴兵拒否。そこでどうしたって考えることになる。何を考えるかというと、つまり組み立てですよね。構成というのか、建築というのか。その方法と文芸評論の方法とは、かなり似ているんです。
――そういうお話をうかがっていると、こんどは丸谷さんの小説を読みたくなってきます。『輝く日の宮』はポリフォニックな長篇でした。つぎの小説のことをうかがえますか。
丸谷『文学のレッスン』で小説の話をしていると、自分でも書きたくてたまらない気持ちになりました。そろそろ機も熟したし、この春に病気をして、ようやく元気になったこともあって、本式に始めようかと思っているところです。中篇小説をひとつ書き上げて、小説集を一冊つくりたいと思っています。
――それはほんとうに楽しみです。新作をお待ちしています。 (まるや・さいいち 作家・文芸評論家)