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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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葉桜となりし座敷の利茶かな・・・・・亞土──木村庄助日誌と太宰治『パンドラの匣』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   葉桜となりし座敷の利茶かな・・・・・・・・・・・・・・木村亞土

この句は私の兄・木村重信のものである。「亞土」は、その俳号である。兄は学生時代に一時、俳句をやっていたことがある。
私がまだ14、5歳の頃のことだが、記憶力の一番強い頃で、この句のことは、よく覚えている。
実は、この「亞土」という雅号は亡・長兄、木村庄助が使っていたもので、長兄が昭和18年に22歳で死んでから、重信兄が継承して使っていたもの。
亡・長兄、木村庄助は中等学校卒業後、茶業修行のために静岡の某商店に見習い奉公に出ていた。
そこで結核に罹り、帰省して静養。
その間に文学書に耽溺し、その頃の新感覚派の川端康成などを読みふけり、その後、太宰治に私淑し、習作を太宰に送るなどしていた。
兄の没後、結核療養日記「太宰治を偲ぶ」と題したもの──日記とはいうものの、丸善で製本させた立派な装丁のものである──が太宰に送られ、これを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれた。
これらのことは、この作品の解説の中で詳しく書かれていて、周知の事実である。全集の中の「書簡集」には太宰からの手紙も収録されている。
この「日記」は戦災で多くが焼失したが、そのうちのいくつかが残り、「日本近代文学館」の展示室に展示されていたという。

庄助日誌

この「木村庄助日誌」には太宰治研究者の浅田高明氏が居られ、私や兄の家に来られて、専門的に、日記と太宰の小説との異同を研究され、5冊の単行本にまとめて上梓されている。この「日記」は兄・重信の再三の要請に応じて、近年、太宰未亡人・津島美知子氏から3冊が返還されてきて、現在、兄・重信が保管している。
この「日記」が何とか出版されたのは先に、このブログにも載せた。
日陰にあった日記が広く公衆の目にさらされることになり、私たち兄弟としても嬉しい限りである。

私が中学生の頃、家には、庄助の蔵書の文学書などがたくさんあり、私は、それらをむさぼるように読んだものである。
私が今日、短詩形ではあるが、文芸の道に脚を踏み入れるようになったのは、その頃の原体験がもたらしたものである。
「庄助」という特異な命名は、私たちの祖父が立行司・木村庄之助と同姓同名であったが、その祖父が自分の名前から取って「庄助」と名づけたことに由来する。

太宰の小説と、亡・庄助の「日記」との異同などをみてみると、ものすごく面白い。どの作家によらず、何らかの資料が底本として存在するのである。
それでなければ、人間の発想などというものには限界があり、ネタは、すぐに尽きてしまう。
時に、資料提供者と、作家との間に軋轢が生じるが、亡兄・庄助は太宰に私淑していたものであり、その遺言によって「日記」は提供されたものであり、そういう紛争は起るはずもないことであった。

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庄助は療養中に陶芸なども、少し手がけていたので、私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)の中の「茶の歌」と「族の歌その他」に、次のような歌があるので、それを引いておく。
これらの歌はWeb上のHPに載せた自選50首にも含まれるから、アクセスしてもらえば見ることが出来る。

      家族(うから) ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

    兄・木村庄助
   茶商ふ家に生まれし長(をさ)の子は茶摘みさなかの五月に逝きぬ

   青嵐はこぶ焙炉(ほいろ)の香にぞ知る新茶の季(とき)と兄の忌日を

   宿痾なる六年の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

   私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

   兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の「パンドラの匣」

   池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも

太宰が玉川上水に愛人と投身自殺した年は、雨の多い梅雨で、今でも大々的な新聞報道を忘れない。
太宰の仕事場の机の上には、伊藤左千夫の歌「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる」が書き抜いてあったという。
私の歌の出だしの部分「池水は濁りーー」云々は、それを踏まえている。

   水茎のうるはしかりし庄助の墨痕出できぬ納屋の匣より

   座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」(ゑしやぢようり)沙羅の花見れば美青年顕つ

    祖父・木村庄之助
   立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)


      夜咄(よばなし)の茶事・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   冷えまさる如月の今宵「夜咄の茶事」と名づけて我ら寛ぐ

   風化せる恭仁の古材は杉の戸に波をゑがけり旧(ふる)き泉川

   雑念を払ふしじまの風のむた雪虫ひとつ宙にかがやく

   釜の湯のちんちんと鳴る頃あひの湯を注ぐとき茶の香り立つ

   緑青のふきたる銅(あか)の水指にたたへる水はきさらぎの彩(いろ)

   アユタヤのチアン王女を思はしむ鈍き光の南鐐(シヤム)の建水

   呉須の器の藍濃き膚(はだへ)ほてらせて葩(はなびら)餅はくれなゐの色

   手捻りの稚拙のかたちほほ笑まし茶盌の銘は「亞土」とありて

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ここに引いた一番あとの歌の「亞土」は、先に書いた庄助の雅号のことである。


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