K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板 
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
yun_3151ヤマユリ

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

  八月は千万の死のたましずめ夾竹桃重し満開の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき
  北国のそらあかるきにわれはみし夜空に悪魔ねぶたうごくを・・・・・・・・・・・・・・・・・葛原妙子
  逝く夏を惜しめとこそは鳴るならめ踊り太鼓の夜半につづきぬ・・・・・・・・・・・・・・上田三四二
  年どしの願いすがしくうけ継ぎて夏の夜空に映ゆる竿灯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤博
  古き代にねぶた起りし雲谷のさと八月なかば風はそよかぜ・・・・・・・・・・・・・・・・鹿児島寿蔵
  八月の雑踏に来てわが耳にもつとも近き死者を呼び出す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田島邦彦
  プードルの首根っ子押さえてトリミング種痘の痕なき肩よ八月・・・・・・・・・・・・・・・・・・穂村弘
  原爆忌昏れて空地に干されゐし洋傘が風にころがりまはる・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚本邦雄
  原爆忌おだやかに過ぎ列島に鮮血のごと湧く百日紅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富小路禎子
  つゆの世はつゆの世ながら存へて万灯流すこの濁り川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蒔田さくら子 
  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
  秋立つとしきりに栗鼠のわたりけり ・・・・・・・・久保田万太郎
  人声のうしろより来て秋立つか ・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
  秋めくや肌白かりし母のこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
  戸口出て十歩に秋を知りにけり・・・・・・・・・・・・・・・村越化石
  草笛の音色に秋の生まれけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女
  秋暑きわが体臭のぼろ辞引 ・・・・・・・・・・・・・・・・・成田千空
  星はみな女性名詞や羅馬の秋 ・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
  盆休みの職人とゐてぼてぼて茶・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
  ヴィクトリア駅より秋の終列車 ・・・・・・・・・・・・・・友田喜美子
  秋たつや旅の名残の十セント ・・・・・・・・・・・・・・・・都甲龍生
  かくすべしちりめんじわのさるすべり ・・・・・・・・・・・高島征夫
  口紅の玉虫いろに残暑かな ・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
  夏帯をかなかなと解く日暮れかな・・・・・・・・・・・・・三井葉子
  空(そら)としか読めなかったころの高い空・・・・・・原田否可立
  毛の生えた黒子も一つの定型感・・・・・・・・・・・・・・・・・海馬
  パチンコは出ないしリルケ檻の中・・・・・・・・・・・・・飯田良祐
  月光はいつものように後背位・・・・・・・・・・・・・・・・・・石部明
  O脚を抜けるツバメの白い腹・・・・・・・・・・・・・・・・・木口公遊
  想念の檻 かたちとして桔梗・・・・・・・・・・・・・・・・清水かおり
  住民サービスへ紐の付いたペン・・・・・・・・・・・・・・・・滝正治
  ラベンダー満開 猫は去勢され・・・・・・・・・・・・・・・浪越靖政
  ゆつくりと浮名を流す金魚かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四童
  群青の水着から伸び脚二本・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
  巻きついて昼顔の咲く別の草・・・・・・・・・・・・・・・・加藤かな文
  捕虫網まだ瘡蓋の乾かぬに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数によるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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「角川書店」話題の新刊書籍
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講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
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「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
草弥の詩「畢詩・京終と称ふる地なる」・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
塔

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──(69)

      畢詩・京終と称ふる地なる・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

            ──石川女郎と大伴宿祢田主との贈答歌──
       遊士(みやびを)とわれは聞けるを屋戸借さずわれを還せりおその風流士(みやびを)  
       遊士にわれは有りけり屋戸借さず還ししわれぞ風流士にはある


  山背(やましろ)の 杣のわが屋戸(やど) 西つかた 神奈備山に
  五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の樹の
  弥(いや)つぎつぎに 絶ゆることなく ありつつも 止(や)まず通はむ。
  青丹によし 寧楽(なら)の京師(みやこ)に 春の日は 山し見がほし
  秋の夜は 河し清(さや)けし 旦(あさ)雲に 鶴(たづ)は乱れつ
  夕霧に かはづは騒ぐ。
  京終(きやうばて)と称(とな)ふる地なる 仮庵(いほ)の 高楼の屋戸ゆ
  玻璃戸より ふりさけ見れば 春日なる 若草山に 雪は著(しる)しも
  一人して 巻きたる帯を 二人して帯解(おびとけ)て寝(ぬ)る 若草の嬬(つま)。

     わが命 ま幸(さき)くあらば また逢はむ
     ひたぶるに 貪(むさぼ)らむかな この熟睡(うましね)を 

奈良地図

奈良に住んでいるか、奈良によほど詳しい人以外に「京終」を「キョウバテ」と読める人は少ない。

「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降だそうである。位置からして、平城京外京の南端(厳密にいえばやや端よりやや南)であったと考えられる。
「平城京の端」よりも「外京の端」と言ったほうがいいかも知れない。理由は、鎌倉時代の奈良中心地は現在とほぼ同位置であり、記録上「京終」が南端らしい。
以下、平城京以来の歴史に遡って辿ってみよう。

元興寺小塔院趾の西側を通る道は、平城京東六坊大路の名残である。
平城京は、南北が北一条大路から九条大路まで、東西は朱雀大路を中心として西四坊大路から東四坊大路までが九条大路に至る。
奈良市の北西部から大和郡山市に及ぶ、南北四・八キロ、東西四・三キロに及ぶ、唐の長安の都を模した堂々たる日本の首都であった。
平城京の左京(東部)は、南一条大路から五条大路まで、五坊大路から七坊大路まで、三条分東へはり出していて、外京と呼ばれていた。
都が京都に遷る時、平城京の中心にあった宮殿や、主な建物は解体されて、使える材料は出来るだけ平安京の建設に使われた。
その跡地は経済観念の発達した国司の指導で、付近の農民を集めて壇を削り、溝や池を埋めて農地や民家にしたので、都が京都に遷った後は、万葉集に詠われているように

  立ちかわり 古きみやことなりぬれば道の芝草 長く生ひにけり

といった風景となり、やがてどこが宮殿の跡かも分からなくなっていった。
しかし、平城京に建立された社寺はそのまま残されたので、これ等の諸大寺を中心として門前町を形成していった。
ことに外京には、総国分寺であり、盧遮那仏がおわす世界最大の木造建築である大仏殿を持つ東大寺、藤原氏の氏神である春日大社、氏寺の興福寺、仏教寺院として日本最古の歴史を持つ元興寺等がある上、京街道に直結しているので、貴族の祖霊参り、平安時代に盛んになった長谷詣や熊野詣、江戸時代頃から庶民に拡がったお伊勢参り等で賑わい、門前町が宗教都市を形成し、観光都市として発達していった。
現在、奈良市は西郊へ拡張したり、周辺の町村を合併する等で、平城京より随分広くなっているが、旧奈良市と呼ばれる大正時代頃までの奈良の町は、ほとんど、この外京に当る部分である。

【平城京六坊大路】
平城京時代、朱雀大路は幅約八十四メートル、普通の大路でも道幅が約二十四メートルもあって、大路と大路の間には、約十二メートル幅の小路を東西南北に各三本づつ設けたというから、道幅は狭くなったり、多少折れ曲がったりはしているが、(道の東側が残ったり西側が残ったりして、折れ曲がったのだろうか。)
旧六坊大路は、京終・瓦堂・東木辻・鳴川・高御門・脇戸・下御門・餅飯殿・橋本・東向・花芝等、往時を偲ばす町名の町を貫いて、旧外京の中心を、一条通りから京終まで南北に通っている。
この六坊大路を境にして、東に興福寺、元興寺が、さらに東には東大寺が建立されたので、この西側辺りは門前町として賑わいを見せていたのだろう。
昔のことに思いを馳せながら、六坊大路の名残の道を京終から北へとたどってみよう。

【京終駅周辺】
奈良に住んでいるか、奈良によほど詳しい人以外に「京終」を「キョウバテ」と読める人は少ない。
京終町は広くて、昔は京終郷とか京終村と呼ばれていた位なので、北京終町とか南京終町等に分かれているのだが、戦争中、中国の北京や南京への関心が高まった時には「ペキンおわり町にはどう行きますか?」とか、「ナンキンおわり町はどちらでしょうか?」と道を尋ねられて、最初はとまどったものだ。
この地は平城時代、五条大路の延長線と、外京六条大路の交差するところで、文字通り、京の終、京の果からきた名前だろう。
平城時代の京終は、京の果とは言いながら、京洛の内だから、どのような人達が住んでいたのかよく分からないが、明治の中頃位までは、住民の多くは農業を営む農村地帯であったようだ。

この京終駅の一つ先には「帯解おびとけ」という、何となくゆかしい名前の駅がある。
この桜井線は、愛称を「万葉まほろば線」と称し、この先、「天理」「三輪」などを経て桜井まで達する。


  
「朸」といふ文字を知りたり「あふご」とは人の世の重き荷を担ふもの・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     「朸」といふ文字を知りたり「あふご」とは
        人の世の重き荷を担ふもの・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「おうご」とは「天秤棒」のことである。私の地方では「おーこ」と発音する。
昔は天秤棒の両端に桶をぶらさげて水や下肥(糞便のこと)を運んだりしたものである。
写真の桶だと、水を一杯入れると、すごい重さで、天秤棒は両端が大きく弓状に下にしなる。
慣れた百姓などは、担いだ肩の下に下肥(しもごえ)を汲んだ柄杓を差し込んで、拍子を取りながら、えっさえっさと担いだものである。
さすがにプロの百姓でも重いので、途中で一休みするときには、その柄杓で突っかい棒のようにして天秤棒を支えたものである。
天秤棒の両端の荷をぶら下げるところには、間隔をあけて金具が2個取り付けてあり、桶の紐がずれないようになっている。両端に2個づつ打ってある。
私の方は田舎なので、昔の小学校には高学年になると農場の実習などもあり、昔は便所の人糞を肥料に使ったので、学校の便所の下肥(人糞のこと)を汲んで、農場の肥溜めに運んだりした。
子供だから、棒の真ん中に桶を吊るし、二人で棒の両端をそれぞれ担いで運んだものである。
昔は下肥は有用な肥料で、都市の下肥は「有料」で汲み取られたものである。
人糞を肥料にしていたので、人糞に含まれる回虫の卵が農作物や飲料水に入り、回虫の卵が口から体内に入ったので、腹に回虫が寄生しているのが殆どだった。
だから小学校では月に一回、マクリと称する、苦い海草の煮出し汁を飲まされた。回虫の駆除剤である。
飲みにくいので、子供は皆、水で薄めて流し込んだものである。

今は人糞を肥料にすることもないし、飲料水はほぼ上水道を利用するので、回虫の寄生は見られないが、そのために「アレルギー」体質の子供が多くなった。
このような因果関係を研究している学者がおり、実験のために自分の消化器に「寄生虫」を飼っている人もいるらしい。
「寄生虫」には回虫だけでなく、蟯虫やサナダ虫などが居る。

汚い話になって申し訳ないが、一昔前までは、そういう時代だったのである。それは戦後しばらくまで続いていたのである。


十年/この花は/ガラス瓶の中に/おわりの夏の あなたの・・・・・・・・・・・西辻明
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──西辻明の詩──(3)──初出・Doblog2005/08/18

       水中花・・・・・・・・・・・・・・・・・・西辻明

       十年
       この花は
       ガラス瓶の中に
       おわりの夏の あなたの
       またわたしの憶いをこめて
       白と黄と
       青と赤と とりどりに
       咲(わら)っていました

      あなたがそれをもとめ
      あなたがそれを活ける
      あなた自身も知らない
      あなたの心の深い海
      その暗闇をわたしは感じとり
      あまりにはかなくて
      空に向かって開く広口瓶二つ
      手伝いもせず おし黙っていました

      丹頂と
      青龍と
      初恋と
      老いらくの恋と・・・
      名づけに興じながら
      金魚や鯉を泳がせ
      移りゆく季節は
      ウオーターヒヤシンスの紫に暮れて行きました
      また訪れる
      小鳥たち
      山雀
      四十雀
      目白
      頬白
      蜜をもとめ
      さるすべりの実を啄み

      日当りの塒(ねぐら)に憩う

      小綬鶏の家族

      また夕ぐれは
      山鳩
      冷えこみ厳しい夜の
      梟の声を二人で聴きました
      雉のつがいの
      羽音も高く
      翔び立つ日々もありました
      あなたはいつも
      山鳩と梟を
      まちがえましたね

      ホゥ ホゥ ゴロスケ ホゥコゥ
      ホゥ ホゥ ホゥの
      リズムとアクセントのちがい・・・
      ・・・・・

      一つ一つの憶い出に
      別れを告げ
      一度は棄てようかとも
      また思いなおして
      言葉に書きとめようとも・・・
      しかし
      流れにしるした文字よりも淡く
      たちまち泡沫と消え去りました

      今日こそ 解き放とう
      透明な 物象のゆらめき
      花々は 風と光のなかへ
      立春も過ぎて
      そう思い立った
      夜
      斜めに舞い狂う
      粉雪の銀の砂の
      窓辺の明りに読む

        錦瑟・・・・・李商隠
      錦瑟無端五十弦 一弦一柱思華年
      荘生暁夢迷胡蝶 望帝春心托杜鵑
      滄海月明珠有涙 藍田日暖玉生烟
      此情可待成追憶 只是当然已惘然
-----------------------------------------------------
この詩は西辻明の詩集『十年』に載るものである。
これは亡くなった夫人への追憶であろうと思われるが、末尾の漢詩になって俄然、むつかしくなり、私にも、それまでの判り易いリズムとのギャップに読みなずむものがある。
しかし彼が、この漢詩を載せたかったのだから仕方なかろう。
この詩集の題に、この詩の出だしのフレーズ「十年」が採られていることからも、この詩によせる彼の思いを知るのである。

「愛の水中花」という松坂慶子の昭和五十年代のヒット曲があったのを思い出す。若い頃の見事な肢体である。
YouTubeを貼り付けておく。 削除されたらゴメンなさい。

指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ。/高原を走る夏季電車の窓で・・・・・・・・・津村信夫
s_comm_a1711b扇子朝顔図

       小 扇・・・・・・・・・・・・・・・・津村信夫
          ・・・・・・嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に・・・・・

     指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ。

     高原を走る夏季電車の窓で、

     貴女は小さな扇をひらいた。

この詩は『さらば夏の光りよ』という津村信夫の詩集の巻頭に載るものである。

この本は奥付をみると昭和23年10月20日再版発行、京都の八代書店刊のものである。
戦争直後のことで紙質は悪く、表紙もぼろぼろになってしまった。
こんな名前の出版社は今は無い。
その頃は紙が不足していて、紙の在庫を持っている会社を探して、とにかく出版にこぎつける、というのが多かったらしい。
私は、この年には旧制中学校を卒業してフランス語を学びはじめた頃である。18歳になったばかりの少年だった。
この短い詩は暗誦して愛読した。

03170022草軽鉄道

写真②は、復元された「草軽鉄道」の車両の内部である。
詩の中で「夏季電車」と書かれているのは、恐らく、この鉄道であろうと思われる。草軽とは草津と軽井沢の地名であろう。

この本の「年譜」の中で、彼の兄・津村秀夫は、こう書いている。

・・・・・時に、良家の一少女を恋し、これを自ら「ミルキイ・ウエイ」と呼ぶ。詩作「小扇」及び「四人」に掲載せる散文詩風の手記「火山灰」はすなはちその記念なり。総じて『愛する神の歌』の中の信濃詩篇を除く他の作品は、おほむねこの少女への思慕と、若くして逝ける姉道子への愛情をもとにして歌へるものといふべし。・・・・・

室生犀星に師事したことがあるが、彼を識るようになったのも、夏の軽井沢であると書かれている。

この詩の「国境」というのは「くにざかい」と読むのであろう。
この詩は、極めてロマンチックな雰囲気に満ちたもので、この本を読んだ頃、私は、こういうロマンチックな詩が好きだった。
津村信夫は昭和19年6月27日に36歳で病死する。
若くして肋膜炎を患うなど療養に努めてきたが、晩年には「アディスン氏病」と宣告されたというが、私には、この病名は判らない。

この詩の二つあとに、こんな短い詩が載っているので、それを引く。

        ローマン派の手帳・・・・・・・・・・津村信夫

     その頃私は青い地平線を信じた。

     私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト
     復活の日の白鳩を讃へた。私の藁蒲団の温りにはグレ
     ーチェン挿話がひそんでゐた。不眠の夜の暗い木立に、
     そして気がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。
-----------------------------------------------------
この詩も題名からしてロマンチックである。
津村信夫は、私の十代の青春とともにあった記念碑的な名前である。


太秦の半跏弥勒像拝しつつ新羅の花郎を思ひいでつも・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   太秦(うづまさ)の半跏弥勒像拝しつつ
     新羅の花郎(ホアラ)を思ひいでつも・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
この仏像は日本の国宝第一号に指定されたという有名なものである。
京都市右京区の太秦にある「広隆寺」にあり、その姿から「半跏思惟像」と呼ばれている。
解説文では「思惟」を「しゆい」と訓(よ)ませているが、「惟」の字は仏教用語に多く残っている「呉音」の読みで「ユイ」と発音するが、ワープロ変換では「しい」と入力しないと出て来ない。「思惟」とは哲学用語であり一般的に「しい」と発音されているから、強いて「しゆい」と訓ませるのは一般人には無理がある。

「半跏」とは片足をもう一方の太腿の上に乗せて座る姿勢をいう。右手を頬にあてて、さながら思案するような姿が独特である。半跏弥勒像というのは、この広隆寺だけでなく中宮寺などにも見られるが、この広隆寺の弥勒菩薩像の美しさは比類がない。
それに、この頃の仏像はみなクスノキを使ってあるのに、この像は「赤松」の一木づくりで彫られている。
よく知られているので、繰り返すまでもないが、この「太秦」の地は平安京を開いた桓武天皇の皇后の外戚である「秦(はた)」氏の勢力地であって、秦氏は朝鮮からの渡来人である。
平安京の造営にあたっては、この秦氏一族の財政的な面、勢力圏の面など、すべての面での支えが無ければ出来なかったと言われている。
この広隆寺は秦氏の氏寺であったとも言われ、したがって、この弥勒像も半島由来の像であるらしい。

白洲正子

↑ 私の歌の「花郎」ホア・ラという言葉を知ったのは、白洲正子『両性具有の美』(1999年新潮社刊)という本による。
そこには、こう書かれている。

・・・・・三品彰英に『新羅花郎の研究』という著書がある。(昭和18年平凡社発行)
それによると『三国史記』の真興王37年(576)、「花郎」という制度が定められ、新羅の国の興隆に大きな功績をはたしたと伝えている。花郎はホア・ラと訓(よ)んだらしく、貴族の中から美しい少年をえらんで化粧をほどこし、武芸と歌舞を教えて、若者の集団の長となるべく教育した。その修行は過酷なもので、時には死に瀕するほどの苦行を積まねばならなかったが、それは一種のイニシエーションで、そうして修行している間に彼らは身心ともに強い戦士に育つとともに、神霊的な性格を身につけて行ったのである。・・・・・
・・・・・とかくこのような伝説には奇異なものが多く、現代人には信じにくいが、人間が純朴であった頃は、夢幻のうちに天の啓示を得たり、自から神がかりとなって不思議な行為に及ぶのは珍しいことではなかった。花郎の習俗のうちには、儒教、仏教、道教などがふくまれていたが、仏教が盛んになると、弥勒信仰に集中され、花郎は弥勒菩薩の化身として崇ばれるようになった。
それについて思い出されるのは、京都太秦の広隆寺にある飛鳥時代の弥勒半跏像で、朝鮮から伝来したといわれ、松材の一木造りの肌の美しさは比類がない。この仏像にはさまざまの説があって一概にはいえないが、少年のように柔軟な姿態といい、匂い立つような清々しい色けといい、新羅の人々が崇拝した花郎とは、正にこのような姿をしていたのではなかったか。昔、ある大学生がこの仏像の指を折って盗んだとかで、騒ぎになったことがあるけれど、どうしても自分のものにして愛撫したくなった気持ちがわかるような気がする。・・・・・

長すぎる引用になったかも知れないが、私の歌の由来を説明しようとすると、これを書いておかないと皆さんには判らないと思うからである。
ついでに言っておくと、白洲正子は、この像に俗にいう「少年」──両性具有の美を見つけた、というわけである。
この本は「オルランドー」という記事から始まっている。
ここに詳しく書くゆとりはないが、これこそ「両性具有」というギリシア以来の永遠のテーマだというのである。関心のある方は本書を読んでもらいたい。

この本の「帯」のキャッチコピーには

    「男は男に
    成るまでの間に、
    この世のものとも
    思われぬ
    玄妙幽艶な
    一時期がある───。」 と書かれている。これが「少年」と言われる本当の意味である。

忽然としてひぐらしの絶えしかば少年の日の坂のくらやみ・・・・・・・・・・・・・・佐藤通雅
higurasi04ヒグラシ雄

    忽然としてひぐらしの絶えしかば
         少年の日の坂のくらやみ・・・・・・・・・・・・・・佐藤通雅


この歌は、佐藤通雅『襤褸日乗』(1982年刊)に載るもので、「角川現代短歌集成」第三巻から引いた。

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。
市街地や里山では聞かない。 鳴くのは写真①のヒグラシの雄。
この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。
海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。
『古今集』に

    ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。

この、「角川現代短歌集成」第三巻には「ひぐらし」や「つくつくぼうし」などを詠んだ佳い歌がたくさん載っている。
いくつか引いてみよう。

  たゆたへる雲に落ちゆく日の在処遠ひぐらしの声きこゆなり・・・・・・・・・・・松村英一

  大方は決りしわれの半生とひぐらしの鳴く落日朱し・・・・・・・・・・・武川忠一

  かなかなの今年のこゑよあかときの闇にとほればわれは目覚めぬ・・・・・・・・・・・上田三四二

  蜩は響き啼きけり彼の国のジャムもリルケも知らざりしこゑ・・・・・・・・・・・宮柊二

  ひぐらしの昇りつめたる声とだえあれはとだえし声のまぼろし・・・・・・・・・・・平井弘

  ひぐらしのおもひおもひのこゑきけり清七地獄すぎてゆくころ・・・・・・・・・・・小野興二郎

  木をかへてまた鳴きいでしひぐらしのひとつの声の澄み徹るなり・・・・・・・・・・・岡野弘彦

  樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりばふ・・・・・・・・・・・森岡貞香

  寂しくばなほ寂しきに来て棲めと花折峠のひぐらしぞ澄む・・・・・・・・・・・青井史

  魔の笛のごとく鳴きつぐ茅蜩の声を率きゆく麦藁帽子・・・・・・・・・・・安藤昭司

higurasiヒグラシ雌
 ↑ ヒグラシの雌は鳴かないが、念のために写真を出しておいた。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏



死ぬほどのことをお前はしてゐないなんて言ふのよみんみん蝉が・・・・・・・・・・・柳宣宏
w_minminzemi2081みんみん蝉

    死ぬほどのことをお前はしてゐない
      なんて言ふのよみんみん蝉が・・・・・・・・・・・・・・・・柳宣宏


この歌は彼の歌集『与楽』(2003年刊)に載る諧謔性に富む面白い作品である。

「みんみん蝉」を詠んだ他の人の歌を引いておく。

  みんみんはあたりを圧さへ啼き澄めば夏草のなか従ふほかなし・・・・・・・・・・・・前川佐美雄

歌人としては「蝉」一般を詠んだ歌が多い。それらを引いておく。

  澄みとほる光の中に蝉が鳴き遅きあぢさゐの咲く山の上・・・・・・・・・・・・大坂泰

  啞蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる渇く・・・・・・・・・・・・春日井建

  声しぼる蝉は背後に翳りつつ鎮石のごとく手紙もちゆく・・・・・・・・・・・・山中智恵子

  孜々として蝉鳴けりかがやける苦しみのほか地に位冠なし・・・・・・・・・・・・浜田到

  をりをりは閃くものの出入りして蝉の穴暗しひとつならずも・・・・・・・・・・・・葛原妙子

  月光は暁の光に移りゐて敏くしづけく一つ蝉鳴く・・・・・・・・・・・・初井しづ枝

  午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く・・・・・・・・・・・・小野茂樹

  くぐまりてゐるわが影のなかにして殻ぬぎ終る一匹の蝉は・・・・・・・・・・・・真鍋美恵子

  しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ・・・・・・・・・・・・河野裕子

  あすときを迷い発ちゆく熊蝉の樹にぶつかりてじゅうと鳴きたり・・・・・・・・・・・・玉井清弘

  色彩の美しさなどということを省いて生まれてきたあぶらぜみ・・・・・・・・・・・・井川京子

  ふるさとの木に近づけば蝉だまるそんなに恐くないさ僕だよ・・・・・・・・・・・・高野公彦

  夜蝉一つじじつと鳴いて落ちゆきし奈落の深さわが庭にあり・・・・・・・・・・・・馬場あき子

  ひとつ鳴きまたひとつ鳴き加わりて暁やがて濃き蝉しぐれ・・・・・・・・・・・・大下一真

  憂ひなき老と見えんか蝉がらを手ぐさに丘を降りゆくとき・・・・・・・・・・・・長沢一作

  草を引く手元に数多の蝉の穴生れしいのちの頭上に響く・・・・・・・・・・・・八重樫励子

  愛された記憶の一つ秋の蝉亡くしし我を祖母が呼ぶ声・・・・・・・・・・・・大野道夫

  白猫の捕らへてきたる熊蝉が畳の上にしわりと鳴けり・・・・・・・・・・・・岩井謙一

  ユリノキに這ひのぼりたる蜩の殻脱ぐべしと決めたる高さ・・・・・・・・・・・・中根誠


蜻蛉の夢や幾度杭の先・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石
dragonfly01アカトンボ本命

   蜻蛉(とんぼう)の夢や幾度杭の先・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石

トンボの生態を観察していると、この漱石の句にあるように、杭とか棒の先が好きである。
止まっては、ついと離れ、またふっと同じ先に止まる。
そのようなトンボの習性を漱石は精密な観察眼で巧く句にしている。
写真のトンボは俗にアカトンボと呼ばれるもの。

トンボは晩春から晩秋まで見られる虫だが、俳句の世界では「秋」の季題とされている。
肉食で昆虫などを捕らえて食べる。幼虫はヤゴで水中生活をする。
種類は日本で120~130種いるという。均翅亜目のカワトンボ、イトトンボは夏の季題になる。

FI1703458_1Eアオイトトンボ

写真②はアオイトトンボである。この種類は止まるとき翅を背中でたたむ。
写真①のアカトンボなどは不均翅亜目という分類で、止まるときも翅を平らに広げ、後翅が前翅よりも広い。
多くのトンボがこちらに属する。シオカラトンボ、ギンヤンマ、オニヤンマなどである。

FI1703458_2Eケンスジヤンマ

写真③はケンスジヤンマというもの。
「精霊とんぼ」という名もある通り、日本では精霊を連れてくる虫という捉え方をされたこともある昆虫であるが、それは祖霊迎えの時期と重なることが意味として大きいと思われる。

    蜻蛉やとりつきかねし草の上・・・・・松尾芭蕉

    とんぼ釣けふはどこまで行つたやら・・・・・加賀千代女

    遠山が目玉にうつるとんぼかな・・・・・小林一茶

    蜻蛉や村なつかしき壁の色・・・・・与謝蕪村

などが古来の名句として上げられよう。

↓ 写真④は、シオカラトンボという平地によく見られるものである。この写真のように、とにかく「先端」が好きだ。

shiokaraシオカラトンボ

以下、俳句に詠まれる明治以後の句を引いて終る。

 停車場にけふ用のなき蜻蛉かな・・・・・・・・久保田万太郎

 いくもどりつばさそよがすあきつかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 蜻蛉を踏まんばかりに歩くなり・・・・・・・・星野立子

 野辺送り蜻蛉空にしたがへり・・・・・・・・五十嵐播水

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ・・・・・・・・中村草田男

 物の葉にいのちをはりし蜻蛉かな・・・・・・・加藤楸邨

 とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな・・・・・・・・中村汀女

 うれしさは捕りしとんぼをわかちゐる・・・・・・・・篠田悌二郎

 蜻蛉に空のさざなみあるごとし・・・・・・・・佐々木肖風

 父祖の地や蜻蛉は赤き身をたるる・・・・・・・・角川源義

 清衡とんぼ秀衡とんぼ高夕日・・・・・・・・津田清子

 鬼やんまひとり遊べり櫟原・・・・・・・・石塚友二

 威風もてやんまが過ぎぬ病室を・・・・・・・・赤城さかえ



サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや
aaoosarubiサルビア大判

──夏秋の花三題──サルビア・アスター・アベリア──

    ■サルビアを咲かせ老後の無計画・・・・・・・・・・・・・・・菖蒲あや

今日は夏から秋への花三題を採り上げることにする。
はじめは写真①のサルビアである。
サルビアというと、もう6月には咲き始めるので俳句では「夏」の季語になっているが、観賞用のものは、秋がもっとも美しいと言って「秋」に分類する歳時記もあるので、ややこしい。
語源はラテン語のサウルス(安全、健康)からという。西洋では葉に香気があるところから家庭薬や料理用の香味料として用いられた。
しかし、この鮮やかな朱色は「夏」の季節のものであろう。
俳句を少し引く。

 一涼のサルビア翳を深くせり・・・・・・・・角川照子

 サルビアの百日働くを疑はず・・・・・・・・山田みづえ

 サルビアや如何なる死をも遁れたし・・・・・・・・殿村莵糸

0917_2_6045アスター

写真②はアスターである。
学名のアスターはラテン語で「星」という意味だが、花の形から来ているのだろう。
もともとヨーロッパ産のアスターがあったが、北アメリカ原産のアスターを1637年に初めてヴァージニアから持ち込んだのはジョン・トラデスカント・ジュニアだったが、ヨーロッパ産のものと交配させるまで、注目はされなかった。英国では、その後、ミカエルマス・デージーと呼ばれるようになった。それはグレゴリオ暦を導入したとき、聖ミカエル祭(9月29日)とアスターの咲く時期がちょうど一致したからだという。
その後、中国原産のアスター(エゾギク)が導入され、さまざまに品種改良されて今日に至っているので、咲く時期も花の品種もさまざまである。
この花は、まだ歳時記には採用されていない。

aaooaveria1アベリア大判

写真③はアベリアである。
この花も暑くなりはじめると咲きはじめ10月一杯咲きつづける。
私の方の道路に面した垣に植えてある。道路の街路樹としても最近よく目にする低木で排気ガスなどの公害にも強い木である。
ピンク色の花もあるが、白い花が清楚である。
アベリアの名は医師で植物学者のクラーク・エーベル博士に因んでいる。1817年中国に赴いたアマースト卿の使節団の一員だったが、彼が持ち帰ったアベリア・シネンシス(タイワンツクバネウツギ)がイギリス本土にもたらされたのだった。
この花も、まだ歳時記には収録されていない。

これから下は②で採り上げたアスターの新品種のバラエティである。

img1040929831クジャクアスター

写真④はクジャクアスターという品種の花である。
何とも上品な藤色の花で高尚な感じがする。
アスターのところで参照したのは先日に採り上げたダイアナ・ウエルズの本によるが、ヨーロッパ産のアスターと北アメリカ産のアスターと中国由来のチャイニーズ・アスター(エゾギク)という三者のさまざまな交配によって、現在のアスター属の豊富な品種揃えが見られるのである。

20050405アスターシエナ

写真⑤はアスター・シエナという「サカタのタネ」が開発したアスターの新品種で耐病性のあるものである。
夏の切花として色もさまざまのものが改良された。
この花は、お盆の供花として私の知人の花卉栽培家のM氏からいただいたものの写真である。
先に紹介したダイアナ・ウエルズ『花の名物語100』の本にもアスターは載っているが、新品種の改良は日進月歩であり、本の記載を上回るペースで進んでゆくのである。
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今回の記事は文芸作品としては貧弱だが、写真としては、せめて花の美しさだけでも観賞してもらいたい。

今日は「処暑」である。「処」とは「止む」という意味の字であり、暑さが後退しはじめることを表している。
しかし今年の夏は暑い!!!
関西、特に京都では連日35度を超える猛暑日の連続で、今日も猛暑日の予報であり「処暑」という言葉が吹き飛ぶような昨今である。 嗚呼!
昨日の夕方に北大阪地方の雷雨の余波の夕立が一しきり降って干天の慈雨だったが、先日の台風の余波の雨以来、雨が降らない。
第一、夏の空につきものの「入道雲」(積乱雲)が全く湧き立たないではないか。
今年の夏は耐え切れない。「もう、ええかげんにせぇ!」という心境である。


つくつくぼふし三面鏡の三面のおくがに啼きてちひさきひかり・・・・・・・・・・・・・葛原妙子
tukutukuつくつくぼうし

   つくつくぼふし三面鏡の三面の
     おくがに啼きてちひさきひかり・・・・・・・・・・・・・葛原妙子


つくつくぼうしは別名を法師蝉という。
こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。
つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、こんな歌がある。

  法師蝉去んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ ・・・・・・・・・・・・木村草弥

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。
先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。
ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」
という。
鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

掲出の葛原妙子は前衛短歌の名手として一世を風靡した人である。 「おくが」は漢字で書くと「奥処」である。
他の人の作品にも佳いものがあるので少し引く。

  秋立つ日につくつくぼふしの鳴きつづく亡母のたまひし玩具かも知れぬ・・・・・・・・・・島秋人

  『あい』という言葉で始まる五十音だから傷つくつくつくぼうし・・・・・・・・・・俵万智

  つくつくほうし夜をひそむに一本の鋼選び鋼の色となりたり・・・・・・・・・・正井萬喜江

  法師蝉づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへと落ちる・・・・・・・・・・渡辺松男

  夕月の照りそめてより近く来て声の激しきつくつくぼふし・・・・・・・・・・石川不二子

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

  高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

  法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

  また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

  法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

  飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

  繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

  つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

  我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

  山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

  法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

  島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

  法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

  法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

  くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

  黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

  法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


円満字二郎 『 数になりたかった皇帝』―漢字と数の物語 ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
円満字二郎

──新・読書ノート──

    円満字二郎 『 数になりたかった皇帝』―漢字と数の物語 ・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・・・岩波書店2010/08/04刊・・・・・・・・・・

       史上空前の帝国の君主は,なぜ自ら”数”となり,
       後継者にも”数”となることを命じたのか? 
       人は時に,ある”数”に思いを込める.
       ”数”と”漢字”の間のドラマ,「数」という漢字に宿る意味,
       ”数える”という行為が秘める意味など,
       ”漢字で書かれた数”がつむぎ出す28の古今の物語.
       日本文学と中国文学を縦横無尽に駆けめぐる.

岩波書店の新刊紹介に載る記事を引いておく。
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      著者からのメッセージ        円満字二郎

 史上初めて中国を統一した男は,自ら「始皇帝」と名乗り,後継者は「二世皇帝」「三世皇帝」と称するように定めた.それは,皇帝を名前ではなく“数”で呼べ,と命じたに等しい.この男,なんだって“数”にそれほどこだわったのだろう?
 本書は,歴史の本を読んでいて感じたそんな疑問が出発点となっています.『方丈記』に登場する,平安京の餓死者の数を懸命に数えるお坊さんの胸には,いったいどんな思いが渦巻いていたのか? 李白の「白髪三千丈」は単なる誇張表現なのか? 一雄さんや和子さんの「一」や「和」は,どうして「かず」と読むのか?
 ふだん算用数字で目にしている“数”も,漢字で書き表されるとちょっと違って見えてくるもの.本書では,数と漢字のあわいから読み取れる小さな物語を28,集めてみました.どこから読み始めてどこで読み終えても大丈夫.気楽にページをめくっていただけたら,著者としてそれほどの幸福はありません.

/著者略歴
円満字二郎(えんまんじ じろう)
1967年,兵庫県生まれ.大学卒業後,出版社に勤務,高校国語教科書や漢和辞典などの編集を担当する.現在,フリーの編集者兼ライターとして活動中.
著書に『人名用漢字の戦後史』(岩波新書),『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館),『常用漢字の事件簿』(NHK出版),『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書),『心にしみる四字熟語』(光文社新書),『太宰治の四字熟語辞典』(三省堂)などがある.

/目次

 はしがき

第一章 “数”と“漢字”のあいだ
一夜一夜に人見ごろ 数字の語呂合わせ 
九死に一生,九分九厘 数を表す漢字の音読み
横棒四本で「四」にはならぬ 数を表す漢字の成り立ち
億は一〇万,兆は一〇億 位取りを表す漢字
一雄さんと和子さん 「かず」と読む漢字のいろいろ
一〇〇万円か,一〇〇円か? 漢数字と算用数字
数奇な運命のもとに 「数」を「サク」と読む場合
幸福と不幸の数 「数」の意味をめぐって

第二章 漢字で書かれた“数”
白髪三千丈 数を操る天才詩人,李白
三五夜中新月の色 美しき白楽天の対句
一〇〇〇日の眠りの果てに 『捜神記』の蘇生譚
王者は五〇〇年ごとに来たる 孟子の自負と失意
九万里の高み “相対性の罠”と荘子
一二三四五六七 良寛は無心に毬をつく
八月一〇日にみまかりし妻 『雨月物語』の“その日”
東西一二四度,南北一一七度 太宰治は分度器を手に

第三章 帝国の興亡の中で
数になりたかった皇帝 始皇帝が拒否したもの
二八のリアリティ 死を前にして項羽は思う
四つの点,六頭の馬 鋭い視線で武帝はみつめる
五番目の誇りと哀しみ 老大臣,第五倫の私心
七歩の間のたのしみ 曹氏兄弟の骨肉の争い

第四章 “数える”ということ
数えた漢字は五二万六五〇〇 司馬遷『史記』と原稿料の計算
漢字を“数”に還元する 画数による姓名判断
漢字に番号を振った男 栄田猛猪『大字典』の最大苦心
人を“数”へと変える魔法 一九六三年,背番号候補事件
数ならぬ身を嘆く 『源氏物語』の道ならぬ恋
数を数える宗教者たち 『方丈記』の祈り
無限の彼方への旅 漢字はいったいいくつあるのか?

 主要参考文献
 あとがき

朝がほや一輪深き淵のいろ・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村
aaooasagao6朝顔

    朝がほや一輪深き淵のいろ・・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

意外に思われるかも知れないが「朝顔」は、俳句では「秋」の季語とされている。
それは「立秋」から秋がはじまるのだが、例年8月上旬に立秋が来るから、そういうことになるのだろうが、現在の日本人の季節感からゆくと少しずれているのはやむを得ない。

掲出の蕪村の句は「淵のいろ」と詠んでいるが、私なども朝顔というと濃い青色が一番ふさわしいかと思っている。
蕪村の句の「深き淵」という言葉には、単なる淵という意味だけではなく、「人生の深淵」ということも含んでいるもので、
これによって単なる叙景でなく深い思惟をも表すものとして、秀句だと言える。

不思議なことに私の歌には朝顔を詠んだものがない。
アサガオは日本の夏にはありふれた、どこにでもある花で、いたるところでアサガオの「種」袋を春になると景品に呉れたりする。
子供の頃にはアサガオの成長日記が夏休みの宿題として出されたりするのだった。
アサガオはひるがお科の一年草でつる草。朝早く開き、昼にはしぼむ。茎は左巻きでものに巻きつく。
日本には千年以上前に薬草として渡来したという。
鎌倉時代以後は観賞用になり、江戸時代に最も盛んに栽培されて色々の品種が改良されて出てきた。
今に残る入谷の「朝顔市」などが、その名残であり、ここの朝顔など一鉢数千円もするらしい。

FI1711473_2E花の名物語

↑ イギリスの園芸家ダイアナ・ウエルズという人の著書『花の名物語100』──100 Flowers and How They Got Their Names という本(矢川澄子訳、1999年大修館書店刊)があり、その中にアサガオのことも書かれているが、英語名モーニング・グローリーと呼ぶアサガオは、アメリカ大陸の熱帯地域が原産地だという。
イギリスには1629年に紹介されたというから、日本には千年も前に渡来しているというのは、どういうルートを経てやってきたのかと不思議である。

この本には文学的なことも描写されている。

・・・・・シェイクスピアの『夏の夜の夢』の中で、タイターニアがボトムにこういっているのをご存じだろう。「あなたを腕に抱きしめよう/サンシキヒルガオが甘いスイカズラにそうするように/優しく絡まって。」・・・・・

またチャールズ・ダーウィンが研究『ツル植物の動きと習性』の中でのアサガオとは逆の巻き方をするホップなどのツル植物のことなども紹介している。


ともあれ、アサガオを詠んだ句を引いて終りたい。

 朝顔に我は飯くふ男かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 朝顔に釣瓶とられてもらひ水・・・・・・・・加賀千代女

 朝顔や横たふは誰が影法師・・・・・・・・小林一茶

 朝顔の引き捨てられし莟かな・・・・・・・・正岡子規

 暁の紺朝顔や星一つ・・・・・・・・高浜虚子

 浜に住んで朝顔小き恨みかな・・・・・・・・夏目漱石

 北斗ありし空や朝顔水色に・・・・・・・・渡辺水巴

 朝顔に喪服のひとのかがむかな・・・・・・・・滝井孝作

 朝顔の裂けてゆゆしや濃紫・・・・・・・・原石鼎

 朝顔や濁り初めたる市の空・・・・・・・・杉田久女

 朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ・・・・・・・・日野草城

 蕾あるかぎり朝顔咲きにけり・・・・・・・・安住敦

 朝顔の紺のかなたの月日かな・・・・・・・・石田波郷

 珈琲濃しあさがほの紺けふ多く・・・・・・・・橋本多佳子

 朝顔やすでにきのふとなりしこと・・・・・・・・鈴木真砂女



別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石
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     別るるや夢一筋の天の川・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石

「天の川」は無数の星が密集して川のように空を取り巻いている。
一年中見えるが、春は低く地平に沿い、冬は高いが光が弱い。
夏から秋にかけて、起き上がり、中秋には北から南へ伸び、夜が更けると西の方へ向かう。

天の川は英語では「ミルキー・ウエィ」というが、これはギリシア神話の最高神ゼウスの妻・ヘラの乳が天に流れ出したものというところから由来する。
実際は、銀河系の淡い星たちの光が重なりあって白い帯となって見えるもの。
銀の砂のように美しく、七夕伝説とも結びついて「星合」の伝統となっている。

「万葉集」に載る山上憶良の歌

   天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解け設(ま)けな

に詠われるのは、まさに星合の伝統の原点とも言えるものである。「紐解き待とう」とは、また何とも直接的な恋歌とも言えよう。

「俳句」にも

    荒海や佐渡に横たふ天の川・・・・・・・・芭蕉

    更け行くや水田の上の天の川・・・・・・・・惟然

    天の川星より上に見ゆるかな・・・・・・・・白雄

    うつくしや障子の穴の天の川・・・・・・・・一茶

などの古い句は、作者それぞれの特徴が出ていて面白い。

掲出の漱石の句は、それらとも、また違って「近代俳句」としての特徴を持った句である。伝統的な「会い」に背をむけて「別れ」を詠んだところに新しさがある。
伝統的な花鳥諷詠だけでなく、そこに「人事」つまり人間の思惟、心理ないしは苦悩を盛るのが近代俳句だと私は思う。
現代俳句となると、また、そこから前進する。このことについては、また後日に書いてみたい。

natuama天の川②

ともあれ、以下、明治以後の句を引いて終る。「天の川」も「秋」の季語である。

 北国の庇は長し天の川・・・・・・・・正岡子規

 天の川の下に天智天皇と臣虚子と・・・・・・・・高浜虚子

 草原や夜々に濃くなる天の川・・・・・・・・臼田亜浪

 子を負うて肩のかろさや天の川・・・・・・・・竹下しづの女

 銀河より聞かむエホバのひとりごと・・・・・・・・阿波野青畝

 木曽川の奈落に見たる銀河かな・・・・・・・・松本たかし

 妻二タ夜あらず二タ夜の天の川・・・・・・・・中村草田男

 妻の目に涙あふれ来天の川・・・・・・・・加藤楸邨

 天の川怒涛のごとし人の死へ・・・・・・・・加藤楸邨

 遠く病めば銀河は長し清瀬村・・・・・・・・石田波郷

 けふありて銀河をくぐりわかれけり・・・・・・・・秋元不死男

 天の川柱のごとく見て眠る・・・・・・・・沢木欣一

 ちちははに遠く銀河に近く棲む・・・・・・・・上村占魚

 天の川逢ひては生きむこと誓ふ・・・・・・・・鷲谷七菜子

 天の川山のかたちの闇匂ふ・・・・・・・・河合未光

 大銀河量感ひたと頬に濃し・・・・・・・・大野紫陽

 乳足りて息やはらかし天の川・・・・・・・・石塚悦朗
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ここで「天の川」とは直接は関係がないが、たまたま見つけた「遠い海の記憶」石川セリ(今は井上陽水夫人)唄のYouTube を載せておく。
これは新田次郎原作の「つぶやき岩の秘密」の主題歌であった。 いい唄である。 海と空は繋がっているのだ。




八月の川原に咲くナデシコのなみだぐましよ今もむかしも・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子
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  八月の川原(かわはら)に咲くナデシコの
     なみだぐましよ今もむかしも・・・・・・・・・・・・・・・・鳥海昭子


撫子は、昔から日本人に愛されてきた古典的な草花である。 秋の七草の一つである。
事典には次のように書かれている。

・撫子(なでしこ)科。
・学名 Dianthus superbus var. longicalycinus
(河原撫子)
  Dianthus : ナデシコ属
  superbus : 気高い,堂々とした
  Dianthus(ダイアンサス)は、ギリシャ語の
  「Dios(ギリシャ神話の神、ジュピター)
  + anthos(花)」が語源で、
  ”ジュピターの花”の意味。

・6月頃から8月頃にかけて開花。
・ピンク色の可憐な花。縁がこまかく切れ込んでいる。
  我が子を撫(な)でるようにかわいい花であるところからこの名前に。
・早咲きと遅咲きがある。
・よく見られるのは 「河原撫子(かわらなでしこ)」。
河原に生えるとも限らないがなぜか この名前です。
野、山、高原どこででも見かける。どちらかというと日当たりのよい草原かな。

・この撫子を代表とするダイアンサスの花には英名で「ピンク pink」の名前があり、「輝く目」の意味がある。
ピンクという色の語源はこの花にあるらしい。

・中国から平安時代に渡来した、唐撫子(からなでしこ:石竹)に対して、
在来種を大和撫子(やまとなでしこ)と呼ぶ。日本女性の美称によく使われる。
・4月25日の誕生花(美女撫子) 8月11日の誕生花(河原撫子)
・花言葉は「長く続く愛情」(美女撫子)「貞節」(河原撫子) 「純愛」「才能」

古典に詠われるものには、以下のようなものがある。

・「草の花は、なでしこ。 唐のはさらなり、大和のもいとめでたし」・・・・・・清少納言 枕草子
「野辺(のへ)見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも」・・・・・・万葉集
「わが屋戸に まきし撫子 いつしかも 花に咲きなむ なそへつつ見む」・・・・・大伴家持 万葉集
「うら恋し わが背の君は 撫子が 花にもがもな 朝な朝(さ)な見む」・・・・・大伴池主 万葉集
「久方の 雨は降りしく 撫子が いや初花に 恋しきわが背」・・・・・・ 大伴家持 万葉集
「秋さらば 見つつ偲(しの)へと 妹(いも)が植えし 屋戸の撫子 咲きにけるかも」・・・・・ 万葉集

・秋の七草のひとつ。
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念のために「秋の七草」を挙げておくと「萩」「薄」「桔梗」「ナデシコ」「葛」「藤袴」「女郎花」である。
そういうと、散歩の道端のハギの蕾が、少しふくらんできたようである。
少し涼しくなれば、一斉に咲き始めるだろう。

以下、俳句に詠まれる「なでしこ」の句を引いておく。

 撫子や海の夜明の草の原・・・・・・・・・・河東碧梧桐

 慴れゐる撫子に水太く打つ・・・・・・・・・・日野草城

 撫子やただ滾々と川流る・・・・・・・・・・山口青邨

 撫子や吾子にちいさき友達出来・・・・・・・・・・加倉井秋を

 壺に挿して河原撫子かすかなり・・・・・・・・・・田村木国

 岬に咲く撫子は風強ひられて・・・・・・・・・・秋元不死男

 撫子や狂へば老も聖童女・・・・・・・・・・福田蓼汀

 撫子や雌伏のさまの日本海・・・・・・・・・・池上樵人

 撫子の径を下りきて海女となる・・・・・・・・・・森本蒲城

 なでしこや旅に来し子と馬籠の子・・・・・・・・・・葭葉悦子




擬宝珠咲きたわみて風にゆれやすし・・・・・・・・・・・・・八幡城太郎
1062629ギボウシ

    擬宝珠咲きたわみて風にゆれやすし・・・・・・・・・・・・・八幡城太郎

擬宝珠ギボウシはユリ科の多年草。多くの種類があり、大葉、小さい葉など、いろいろである。
私の方の庭にも一株あるが、大きい葉の種類である。
『和漢三才図会』に「玉簪(ぎぼうし)、葉闊円にして末尖り、橋の欄干(ぎぼうし)の形に似る。ゆゑに俗に呼んで岐保宇之と名づく」とある。
初夏から盛夏の花だが、やはり関心は葉の形にあるようである。

何度も引用するが、ダイアナ・ウエルズの『花の名物語100』にも
・・・・・ギボウシという花は、今世紀になって、園芸家たちがあまり手のかからない花はないかと探すようになってから、もてはやされるようになった。まったく陽の当らないところでもよく育ち、大小さまざまな奇妙な形の葉をつける。ずぶ濡れで床に座ったときにできる、お尻の型ほどの大きな葉もある。花の色は真ッ青から黄色まであって、皺、縞模様、すぼまっているもの、尖っているもの、丸いものなど、いまではさまざまの種類のものが手に入る。しかもいったん庭に植えれば、後は眺めて楽しめばよい。・・・・

この描写の通りで、手間の罹らない草である。
まったく陽の当らない、といっても夏の間は多少は高木の木漏れ日程度の陽が当るのがよい。

ギボウシの原産地は中国と日本である。学名をホスタHostaというが、この名に落ち着くまでに紆余曲折があった、とこの本には詳しく書かれている。
はじめて生きているギボウシを日本からライデン植物園に送ったのは、かの有名なフィリップ・フォン・シーボルトだという。

1062644ギボウシ接写
 ↑ 花の接写

私の方の花は、今年は珍しく8月中旬になっても花を次々につけている。それで今ここに載せる気になったものである。
以下、歳時記に載る句を引いて終る。

 這入りたる虻にふくるる花擬宝珠・・・・・・・・高浜虚子

 湖張つて一襞もなし花擬宝珠・・・・・・・・秋元不死男

 花売りの擬宝珠ばかり信濃処女・・・・・・・・橋本多佳子

 旅ゆけば我招くかに擬宝珠咲く・・・・・・・・角川源義

 登り来て擬宝珠花叢霧ふかし・・・・・・・・村沢夏風

 睡き子のかたむきかかる花擬宝珠・・・・・・・・石田いづみ

 熱の瞳に紫うすきぎぼしかな・・・・・・・・飯島みさ子



唇を吸ふかたちにも似て水蜜桃をすする夕べはほのあかりせり・・・・・・・・・・木村草弥
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    唇(くち)を吸ふかたちにも似て水蜜桃(すゐみつ)を
      すする夕べはほのあかりせり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「白桃」については先に載せたが、引きもらしたものがあるので、改めてここに載せる。
この歌の前に

     白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざしゐる宵・・・・・・・・・・・木村草弥

9ページ前には

     白桃を剥く妻の指みてをれば寧(やす)らぐ日々と言ふべかりけり・・・・・・・・・・木村草弥

という歌が載っている。
これらは、いずれも亡妻の所作を詠んだもので、健やかだった妻の生態を描写したものとして、今となっては懐かしい記念碑的な作品と言える。
二番目の歌は前にも書いたが「白桃」というイメージを象徴的に「比喩的」に捉えて表現したものである。一種のエロスと言ってよい。
そういう点を含んで鑑賞してもらいたい。
「桃」「白桃」を詠んだ句については前回に引いたものに追加して少し引く。

 桃の如く肥えて可愛や目口鼻・・・・・・・・正岡子規

 葉がくれに水蜜桃の臙脂かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 内維核ほのほのごとし大白桃・・・・・・・・原石鼎

 水蜜桃はかげりけりからだを拭く・・・・・・・・滝井孝作

 水蜜桃を徒弟が顎にしたたらす・・・・・・・・山口誓子

 白桃や彼方の雲も右に影・・・・・・・・中村草田男

 吾が啖(くら)ひたる白桃の失せにけり・・・・・・・・永田耕衣

 中年や遠くみのれる夜の桃・・・・・・・・西東三鬼

 さえざえと水蜜桃の夜明かな・・・・・・・・加藤楸邨

 桃啜り覗けたる胸見られしや・・・・・・・・石田波郷

 磧(かはら)にて白桃むけば水過ぎゆく・・・・・・・・森澄雄

 葉に隠れ築地の裡に桃太る・・・・・・・・沢木欣一

 白桃に唇濡れしまま笑ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 白桃を剥くうしろより日暮れきぬ・・・・・・・・野沢節子



大もじや左にくらき比えの山・・・・・・・・・・・・・・・蝶夢
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    大もじや左にくらき比えの山・・・・・・・・・・・・・・・蝶 夢

今日、8月16日は祖霊をお送りする「送り火」の日だが、京都の町衆は五山に大掛かりな送り火を焚くことを思いついた。
これについては昨年のBLOGに「大文字の送り火」と「補遺」で詳しく書いたので、それを参照してもらいたい。

京都は千年の都があった場所だけに、祇園祭にしろ、この大文字の送り火にしろ、とにかくスケールが大きい。
昨年にも書いたが、この両者は官製の行事ではなく、「町衆」が発起して行なったものである。
だから、これらの行事を見ようと内外から見物客が押し寄せるので、この時期のホテルは、ずっと前から予約で満杯である。
京都の町にも高層の建物が増えて、大文字の送り火の見える場所は限られてしまった。
高層のホテルの屋上などは料理つきで観覧席に早代わりする始末である。

京の町は、この後、「地蔵盆」の行事が終ると、本当の意味で古都の夏が逝くことになる。

以下、大文字の送り火ないしは送り火の句を引いて終る。

 送火やぱたりと消てなつかしき・・・・・・・・小林一茶

 送り火や母がこころに幾仏・・・・・・・・高浜虚子

 門跡に我も端居や大文字・・・・・・・・河東碧梧桐

 大文字の大はすこしくうは向きに・・・・・・・・藤後左右

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 大文字の空に立てるがふとあやし・・・・・・・・藤後左右

 船形の灯や街路樹の闇の上・・・・・・・・鎌田松緑

 いとせめて送火明く焚きにけり・・・・・・・・長谷川零余子

 送り火のすずろに消えてゆきにけり・・・・・・・・高橋淡路女

 送火をこえてショパンの流れけり・・・・・・・・石田波郷

 送り火のあとの月夜や松落葉・・・・・・・・渡辺水巴

 門川をやがてぞ去りぬ霊送り・・・・・・・・高野素十

 浦人の送り火波に焚きのこる・・・・・・・・橋本多佳子

 送火の名残の去年に似たるかな・・・・・・・・中村汀女



紺しるき茄子に黍がらの脚さして死者の乗る馬つくる盂蘭盆・・・・・・・・・・・木村草弥
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   紺しるき茄子に黍がらの脚さして
     死者の乗る馬つくる盂蘭盆・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「盂蘭盆」は、日本人の心に深く食い入っている古来の行事で、祖霊を迎える年一度の大きなイベントである。
「盂蘭盆」については昨年の8/15の記事で詳しく書いたので参照してもらいたい。
この中では歴史的な由来にも詳しく触れてある。

掲出した私の歌について間違いを訂正しておきたい。
「胡瓜の馬」「茄子の牛」というのが正しく、私の歌では「死者の乗る馬」となっているが、これは掲出写真のように「牛」が正当であることが判ったので訂正しておく。
ただし、作品なので歌そのものは、そのままにしておく。
祖霊が家に戻ってくるときは足の早い「胡瓜の馬」に乗ってやってきて、お盆が終って、あの世に帰るときは、足の遅い「茄子の牛」に乗って帰る、という謂れらしい。

お盆の行事は、東京などでは新暦の7/15に行なうところもあるが、圧倒的に多いのは月遅れの8/15にするところであり、民族の大移動と言われるお盆休みも、この日を挟んで取られることが多い。
この古来からの行事に、この日は「敗戦記念日」が重なり、日本人にとっては記念碑的なものとなって65年が経過する。
先に8月は「鎮魂」の月と書いたが、まさに酷暑の時期と相まって忘れられない日々と言えようか。

お坊さんの都合にもよるが、8/12頃から菩提寺の僧が檀家の家に「棚経」をあげに回る。次々と予定が立て込んでいるので、このときのお経は短いのが普通である。
私の家の宗旨は日蓮宗(身延山派)だが、幕末に先祖が木村家の親類うち揃って浄土宗から改宗したものである。だから菩提寺の「寺墓」には浄土宗の法号を彫り込んだ墓石がある。檀家の数は少ないので、私宅でのお経は割合に長めであるが、周辺は皆浄土宗の家ばかりで檀家の数も多いからお経をあげる時間も極端に短く、お坊さんが唱えたと思ったら、もうすぐに家を出てくるような始末である。
祖霊をお迎えするために焚く「迎え火」は8/13夕方に燃やすのが正式とされているが、この頃では火は焚かないところも多い。私の地方では迎え火は昔から焚かない習慣だった。その代わりに8/7に宇治の三室戸寺に祖霊を迎えにゆくという風習がある。
ただし、この寺は天台宗であるから、私の方の菩提寺のお坊さんは、そんなことはしなくてよろしい、と言うので、行かないことにして、同じ日に菩提寺に参って祖霊をお迎えする。
そして、8/16には「送り火」を焚いて祖霊をお送りするわけである。私たちの方では、当日の朝に小豆飯と米粉で作った「しんこ」団子を添えて、仏壇に供えた野菜や花などを木津川に流す風習があり、岸辺で線香を焚いたものだが、川を汚すというので、もう30年以上も前から川流しも廃止された。

盂蘭盆、迎え火などの句を引いて終る。

 山川に流れてはやき盆供かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 としよりのひとりせはしきお盆かな・・・・・・・・森川暁水

 女童らお盆うれしき帯を垂れ・・・・・・・・富安風生

 地の曇りしづかに盆の蓮を剪る・・・・・・・・内藤吐天

 盂蘭盆や暮れて猶啼く蝉一つ・・・・・・・・増田龍雨

 母の座は常のごとくに盆果つる・・・・・・・・橋爪四禾子

 そこはかと仏はなやぐ盆供かな・・・・・・・・内山起美女

 竹林の奥あかるくて盆休・・・・・・・・古賀まり子

 風が吹く仏来給ふけはひあり・・・・・・・・高浜虚子

 門火焚くおもざしの死に親しめり・・・・・・・・伊丹三樹彦

 門火焚き終へたる闇にまだ立てる・・・・・・・・星野立子

 妻のしらぬほとけばかりや門火焚く・・・・・・・・西山誠

その背中ふたつに割りて緑金の山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫
010704aokanabun1アオカナブン

  その背中ふたつに割りて緑金の
      山のなだりを黄金虫翔ぶ・・・・・・・・・・・・・前登志夫


この歌は『角川現代短歌集成』③巻から引いた。初出は『鳥総立』(03年刊)。前登志夫については ← に詳しい。

学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。コガネムシとも言う。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくものである。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に

  少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・木村草弥

という歌があるが、先に書いたような情景を描いているのである。

樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

040629miyamaミヤマめす

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。 (昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、いくつもあった。日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
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五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
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虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

     沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

   かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

   蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我
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新潮社の読書誌『波』2004年8月号の連載コラム「猫の目草」103回で、故・日高敏隆先生が「カブトムシたちの苦労」というのを書いてらっしゃる。
それを読むと、交尾の済んだカブトムシの雌は卵を生みつける手ごろな「腐葉土」を見つけて産卵すると、雌の一生は終る。カブトムシの幼虫は腐葉土を食べて育つ。
カブトムシと並んで子供たちの関心の的であるクワガタムシは、親はカブトムシと同じく樹液を唯一の食物としているのに、どういうわけか朽木に産卵し、幼虫は朽木を食べて育つ。朽木により腐り方がいろいろあり、クワガタムシの種類によって好みも違うが、総じて朽木は腐葉土に比べて栄養価がずっと低い。だからクワガタムシの幼虫が親になるには、少なくとも2、3年はかかる。けれど、その代わり、親は、カブトムシと違って2年以上生きられる。同じ樹液に集る虫なのに、カブトムシとクワガタムシは、まるで違った一生を過ごしているのである。
──こんなことは、今はじめて知ったことである。自然は一面、公平なところがあるのだ。
感心して追記しておく。

壕の中・・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(14)──初出・Doblog2005/08/03

        壕の中・・・・・・・・・・・・・高田敏子

   そそり立つ崖の上の壕の中は
   熱い太陽をさえぎって冷たい
   海に面した壁は
   艦砲射撃にうちぬかれて
   赤錆びた鉄骨が曲りくねった線を見せていた

   鉄骨の間から外をのぞいた私の目に
   朝顔に似た花の姿が映った
   白い花の 一りん 二りん
   熱帯樹の茂みに咲いて
   それはまごうことなく朝顔の花

   娘のころ作りつづけた慰問袋の中に
   花の種を入れたことがあった
   朝顔の種 コスモスの種
   私の庭から摘みとった種の一つがここに蒔かれ
   芽ばえ咲き 種をこぼして
   二十年を咲きつづけていたとしたら?
   この想像は少女趣味でありすぎるにしても
   私の心は花から離れることができなかった

   同行の若者たちは 壕の中でもしきりにカメラのシャッターを切っている
   私のカメラはフィルムが切れていた
   幸いにもフィルムが切れていたことで
   鉄骨に手をかけたまま そこにしゃがんで
   私は花を見つづけていた

   ここから見える海はいっそうに青い
   花は青い海を背景に次第に輪郭をはっきりと浮かばせ
   細くのびたつるは 海からの風に倒れては
   また支えを求めるようにして立ち上っている

    (詩集『砂漠のロバ』から)
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紹介しだすときりがない程である。この詩も先の詩と同様に南の戦跡を訪ねた際のものであり、思慮ふかい雰囲気に満ちている。いかがだろうか。

念のために書いておくが、掲出した写真は「夜顔」の花である。



ダガンダガンは何故蒔かれたか/ダガンダガンは何故茂ったか・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(13)──初出・Doblog2005/08/02

    ダガンダガンは何故蒔かれたか・・・・・・高田敏子

   ダガンダガンは何故蒔かれたか
   ダガンダガンは何故茂ったか
   ネムに似たその木は
   私のめぐった南方の島々に茂り
   熱帯樹の間を埋めて
   丘にも平地にも バスの走る国道の両側にも
   茂りに茂り 地をおおい
   枝に垂れ下がる実を割ると
   黒褐色の種がこぼれた

   艶やかな黒褐色の種を手のひらに遊ばせながら 木の名を尋ねる私に
   「ダガンダガン」と 裸の土民は答え
   彼もまた腕をのばして頭上の枝から種をとり
   手のひらにこぼして見せた

   ──この種は戦争が終るとすぐ
    米軍の飛行機が空から蒔いた
    島全体に 蒔いていった
   土民は種を手のひらから払い落すと
   空いっぱいに両手をひろげて説明した

    ダガンダガンは何故蒔かれたか
    ダガンダガンは何故茂ったか

   ダガンダガンの種は首飾りや花びん敷になって
   土産物屋に売られている
   1ドル50セントの首飾りを二十本も求めたのは
   この島サイパンで兄一家を失い 慰霊のために訪れたと語る中年の
   夫婦だった

   テニヤン ヤップ ロタ
   どの島々にもダガンダガンは茂りに 茂り 地をおおい

   島の旅から帰って二カ月ほど過ぎた日
   硫黄島に戦友の遺骨収集に行った元工兵の記事が目にとまった
  ──島はギンネムのジャングルにおおわれ 昔の地形を思い出すのに
    困難をきわめた。山刀でギンネムのジャングルを切り倒しながら進
    み ようようにしてかつての我々の壕を発見し 目的を果たすことが
    できた。これは全く死者の霊に導かれたと思うほかはない──

   このギンネムとはダガンダガンに違いない

    ダガンダガンは何故蒔かれたか
    ダガンダガンは何故茂ったか
   南の島々に蒔かれた種が 急速に成長し
   茂り 隠したものの姿が 突然に私の目に浮かんだ
    ダガンダガンは何故蒔かれたか
   首飾りを求めた夫婦はそれについて何んの疑問も持たなかった

   ダガンダガンの首飾りは若い娘の胸にゆれて
   どこかの町を歩いているだろう

    ダガンダガンは何故茂ったか

    (詩集『砂漠のロバ』から)
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長い詩の紹介になったが、これも単なる観光客あるいは視察者の視点に終らず、この木の蒔かれるに至った原点に迫っている。
詩の技法としての基本であるが「ダガンダガンは何故蒔かれたか ダガンダガンは何故茂ったか」というフレーズのルフランが生きている。
この詩もまた、今月8月を偲ぶのに相応しいと思わないか。


雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・木村草弥
011紅蜀葵

    雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)
      まぬがれがたく病む人のあり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌のすぐ後に

   このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がつづく。病身の亡妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

紅蜀葵は和名を「もみじあおい」という。アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。
日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。
花は朝ひらいて夕方には、しおれる。次に咲く花は、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いて、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

俳句にも、よく詠まれているので、以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・瀧春一

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・岡本差知子

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子



草弥の詩作品「アメリカ」─新語を媒介として・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
yun_1664アメリカ国旗

以下の詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せたものである。
「イミダス」の1992年版に載る「新語事典」に則って作ったもので、もう10数年も経っているから古いかも知れない。
何しろ新語の命は短いから。私は、これでアメリカのすべてを表現したつもりはない。
ほんの一部の風潮──それも主に西海岸に顕著にみられることに少しばかり触れたと思っている。
ご批判はお受けする。
文中の(*1)などは一番終りのところで、新語の解説をしておいたので、その注番号である。
掲出の写真はアメリカ国旗、カナダ国旗、カリフォルニア州旗が見える。
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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 ──草弥の詩作品<草の領域>──旧作の再掲

     ア メ リ カ──新語を媒介として・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  あの国はコンドームカルチャー(*1)に満ちている まさにボンクハッピー(*2)だ

  LAに電話したらセックスライン(*3)につながってしまった

  この国は大がかりなナルコテロリズム(*4)に汚染されてしまった

  彼らはコックリング(*5)している あんまり大きくない方が似合う

  きみはゲイダー(*6)を持っているんだろう?俺を見抜けなかったのか

  「黄桜」の地ビールを呑んで来たよ そうかブリューパブだな

  新宿の地下道のカードボードシティ(*7)を東京都が撤去した

  橋本首相は行政改革をやれるかジェスチャリズムでは駄目だぞ

  国民には何だかよく分らない──何しろディプロスピークだからな

  みんなが一斉にスイッチをオンしている──ドライヴタイム(*8)

  マスキュリニスト(*9)たることを止めよ ニューマン(*10)の時代が来る

  あの人はボーイトイヤー(*11)だから少年のコックをもてあそんだ

  突然アベンド(*12)になった タイガーチーム(*13)がクラック(*14)したのだ

  私はキーボード入力が下手だ ペントップPCを頂戴

  イソップ物語ではないESOP(*15)──労働組合なんなお呼びじゃない

  彼女はフォックストレル(*16)だ胸の大きな谷間を見せつける

  あの娘がスキーを担いで出かけた バニースロープ(*17)の比叡山へ

  スランガー(*18)の縄張り争いの発砲でマッシュルーム(*19)が転がっていたよ

  アイス(*20)を喫煙(や)るとよい気分になる、メス(*21)だスピード(*22)だ

  金曜日に出かけたパーティではカウチダンス(*23)が演じられていたよ

  昼下がりの情事──まさに彼女はメラー(*24)のとりこになっている

  ヒストリーではない 彼女はハーストーリー(*25)の第一人者だ

  「種の倫理が存在する」彼はアース・ファーストの実践家である

  ブティックコンサルタント──誤解してはいけない機密情報スパイのことだ

  ここはデスティネーション(終着地)じゃないウェイポート(*26)のLAだ

  ブラジルのサンパウロまで二十四時間!レッドアイになっちまった

  イギリスではお産をするときドミノ(*27)が付き添ってくれる

  そんなムーンボール(*28)を打っては駄目だ するどい低い球を打て

  老いて来たのかな?一度アンドロロジー(*29)の専門家に診せろ

  ぼくもウーファー(*30)になったから、やっとゲッタウェー(*31)を手に入れた
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新語の解説(補注)

(1)男女が性的関係を結ぶことに対して寛大な風潮
(2)自由気ままに簡単に性行為に走る風潮、ボンクとは性交のこと
(3)電話をかけるとエロチックな話や声が聴ける電話回線
(4)大がかりな麻薬犯罪のこと
(5)ペニスにはめる宝石、ゲイの間で流行
(6)相手が自分と同じホモであるかどうかを見抜く能力、ゲイとレーダーの合成語
(7)段ボールなどで風雨をしのぐホームレスの住む場所
(8)ドライバーの聴取者の多いラジオ放送枠
(9)男性優位の考え方をする人
(10)女性にやさしく性差別をしない男、新しい男
(11)若い男の子を愛人にする、中年以上の女性
(12)コンピュータのプログラムが異常終了すること
(13)コンピュータのシステム破りを仕事とするハッカーのこと
(14)上と同じこと
(15)従業員持ち株制度
(16)性的魅力のある若い女性
(17)バニーは兎のこと、初心者むきのやさしいスキーのゲレンデ
(18)麻薬取引人
(19)発砲事件で巻き添えになった市民の死体
(20)アンフェタミン(日本でいうヒロポン)の粉を煙草にして吸うこと
(21)(22)も同様の隠語
(23)プライベートなパーティで演じられるストリップショー
(24)テレビのメロドラマのこと
(25)女性史のこと。ヒストリーという綴りには男を意味するhisが入っているのをもじったもの
(26)中継地トランジットやトランスファーのこと
(27)助産婦が妊婦を入院から退院まで面倒をみてくれる英国の制度。ドミノ倒しに由来する
(28)テニスでゆるい球を打ち返すこと
(29)男性の特に生殖機能障害に関する医科学
(30)十分な所得とゆとりのある中年以上の人
(31)終末や休暇をすごす目的の郊外の別荘やコテージ



中原英臣 『読む人間ドック』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   中原英臣 『読む人間ドック』・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・・新潮新書2010/07/16刊・・・・・・・・・

          その症状、本当に年のせいですか? 一家に一冊! 
          「未病」を発見するための45のチェックリスト付き。


     「肩がこる」「腰が痛む」「もの忘れする」。誰でも年齢を重ねれば、
     体に多少のガタがきても不思議はありません。しかし、「いつもの症状」の背後に
     実は深刻な病気が隠れているとしたら――。
     本書では代表的な四十五の自覚症状を取り上げ、意外な病気と治療の最新知識を紹介。
     危険度の自己判定にも医師の診断にも役立つチェックリストを配しました。
     安易に見過ごす前に、慌てて病院に駆け込む前に、一家に一冊の必読書!

新潮社の読書誌「波」2010年8月号より 著者本人の書評を引いておく。
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       誰よりも早く病気に気づくために      中原英臣


 私たち日本人は人間ドックが大好きです。なかには人間ドックだけでは飽き足らずに、脳ドックやアンチエイジングドックまで受ける方もいらっしゃいます。そのほとんどの方は、「異常なし」といわれて安心するために人間ドックを受けているようですが、医者の立場からいわせていただくと、人間ドックの最大の目的は病気の早期発見にあります。
 しかし、すべての病気を人間ドックで見つけてもらえるわけではありません。人間ドックで「異常なし」といわれて安心するのも結構ですが、病気を見逃されてしまうことだって少なくありませんし、人間ドックで見つけることができない病気だって沢山あります。人間ドックの予防効果は、決して一〇〇%ではないのです。
 それでは病気を早期に発見するための、もっとも優れた予防法はいったい何なのでしょう。答えはとっても簡単で、皆さんが心身のいろいろな異常や異変に自分で気がつくことです。こうした心身の異常や異変のことを、医学的には「自覚症状」といいます。
 痛みや発熱はもちろんのこと、普段とはちょっと違う感じがするとか、何となく疲れやすいといった、細かい体調の異変に気がつくことが、何といっても病気の早期発見につながるのです。この自覚症状に一刻も早く気がついて、医者に診てもらうことは、究極の病気予防法といっても過言ではありません。
 その証拠に、診察室に入ったとき、最初に医者が尋ねるのはいろいろな自覚症状です。患者さんの自覚症状さえわかれば、どういった病気が考えられるのか、おおよその見当がつけられるわけです。いろいろな検査はそのあとの話になります。
 不思議なことに、誰でも健康なときは心臓や胃がどこにあるのか、まったく意識していないと思います。ところが、心臓の病気なら動悸や胸の痛み、胃の病気なら胸やけや吐き気といったように、いろいろな自覚症状が起きますから、心臓や胃がどこにあるかわかるようになります。
 自覚症状は、あなたの身体に点灯した黄色信号と思ったらいいでしょう。黄色信号である自覚症状を無視していると、赤信号すなわち病気になってしまいます。こうしたことを踏まえて、本書では「腰が痛む」「胸焼けがする」など代表的な四十五の自覚症状を取り上げたうえで、そこから考えられる病気について、できる限りわかりやすく説明してみたつもりです。
 ここで紹介した自覚症状が二週間以上続くようだったら、医者に行ってみた方がいいでしょう。さらに、自覚症状が一カ月を超えても消えないようなら、すぐにでも医者の診察を受けるべきだと思います。この本が健康で長生きするための一冊として、少しでもお役に立つことができたらと願っています。
(なかはら・ひでおみ 医学博士・新渡戸文化短期大学学長)
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ともすると日頃 、不摂生にうち過しているくせに、何か持病がないか気にかかるものである。
軽い気持で、読んでみた。 お試しあれ。

かん声をあげて/海へ走り/しぶきのなかに消える/子どもたち・・・・・・・・・・川崎洋
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          海 ・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     かん声をあげて
     海へ走り
     しぶきのなかに消える
     子どもたち
      わたしは
     砂に寝て
     海を想っている

     ひとつづきの塩水よ
     われらが夏の始まりは
     いずれの国の
     冬のまつさかりか

     そして
     わたしの喜びは
     誰の悲しみ?

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夏休みになって、毎日あついから、「海」は、子供たちにとっては楽しい遊び場である。

川崎 洋(かわさき ひろし、1930年1月26日 ~ 2004年10月21日)は、日本の詩人・放送作家。東京都出身。
彼は私と同年輩の詩人である。
海に近い東京は大森海岸に生れた。
1944年福岡に疎開。八女高校卒、父が急死した1951年に西南学院専門学校英文科(現:西南学院大学)中退。
上京後、横須賀の米軍キャンプなどに勤務。1948年頃より詩作を始め、1953年茨木のり子らと詩誌「櫂」を創刊。
谷川俊太郎らを同人に加え、活発な詩作を展開した。
その傍ら1971年にはラジオドラマ「ジャンボ・アフリカ」の脚本で、放送作家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受けた。
1987年、詩集「ビスケットの空カン」で第17回高見順賞。1998年、第36回藤村記念歴程賞を受賞した。
1955年詩集『はくちよう』を刊行。1957年から文筆生活に入る。
日本語の美しさを表現することをライフワークとし、全国各地の方言採集にも力を注いだ。
また1982年からは読売新聞紙上で「こどもの詩」の選者を務め、寄せられた詩にユーモラスであたたかな選評を加え人気を博した。
主なラジオ脚本に「魚と走る時」「ジャンボアフリカ」「人力飛行機から蚊帳の中まで」などがある。
作曲された詩は数多い。
歌の作詞経験も豊富で、NHK全国学校音楽コンクールでは4回作詞を担当した(「きみは鳥・きみは花」「家族」「海の不思議」「風になりたい」)。

「海」に因んだ、次のような彼の文章がある。
大森海岸近くで生まれ、太平洋戦争中、中学2年の時、父の故郷である福岡県の有明海に臨む地に疎開し、敗戦後をはさむ7年間を過ごした後、現住地の横須賀市に居を移す。
つまり彼は、ずーっと海の近くに住み続けてきたことになる、と書いている。

<家で仕事をしていて、不意に海岸へ行きたくなり、飛び出すことがある。 海は不思議な生き物で、あの東京湾の海水の寄せる三浦海岸の磯でさえ、潮の具合によっては、まるでコマーシャル・フィルムに出てくるような、透明で美しい海の表情を見せてくれることがある。夏、ああ海は光の祭りだなと思う。波は二度と同じ形を示さない。美しいものの何と気短かなことだ。「人間は海のようなものだ。それぞれ違った名前を持っていても、結局はひと続きの塩水だ」というゲーテの言葉を思い出したりする。>

<以前、小笠原が返還された年の夏、放送取材の仕事で、巡視船に同乗させてもらい、嵐の海で、マストより高い波を見たことがある。とうとう引き返さねばならぬ激しい荒れようだったが、私は舷側の柱にしがみつき、船酔いのため吐きながら、そんな海を見とどけた。その時、身をのり出して下をのぞくと、海の暴れ方からは思いもつかない、青白くやさしい泡が、船体にくっついて揺れをともにしていたのが忘れられない。>
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今日は8月9日。長崎にプルトニューム原爆が落とされた。
太平洋戦争の末期だが、8月6日には広島に原子爆弾が落とされ、市街が灰燼に帰した上に、数万人の人が放射線により死んだ。
今や戦後生まれの人が日本人の大半を占めて、戦争を知らない人々が殆どであるが、戦中派の一人として、この日は語り継がれるべきだと思う。
さすがの日本軍閥も敗戦を受け入れるきっかけになった両日である。
私は、その頃、軍需工場に動員され、旋盤工としてロケット砲弾の部品を削っていた。
あれから、もう65年が経つ。



塩野七生『絵で見る十字軍物語』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    塩野七生『絵で見る十字軍物語』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
         ・・・・・・・・・新潮社2010/07/23刊・・・・・・・・・・・・

     現代にもつながるキリスト教vs.イスラム教、その対立の原点。
     聖地イェルサレム奪還のための遠征はどう始まり、どう戦われ、どう破綻したのか――。
     複雑に絡み合う歴史背景をわかりやすく解きほぐし、美しい挿絵とともに壮大な物語へと誘い出す。
     「ローマ人の物語」に続く待望の新シリーズ「十字軍物語」の第一弾が登場!

新潮社の読書誌「波」2010年8月号より[塩野七生「十字軍物語」シリーズ刊行記念インタビュー]を、そのまま引いておく。
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    [塩野七生「十字軍物語」シリーズ刊行記念インタビュー]      塩野七生

             「千年の眠り」から男たちを呼び覚ます


大ベストセラーとなった「ローマ人の物語」に続く塩野七生さんの新シリーズ、「十字軍物語」(全四冊)の刊行がいよいよ始まります。その先頭をきって登場する『絵で見る十字軍物語』。執筆の背景や、新シリーズ全体の構想について聞きました。

  オペラでいえば“序曲”

――この『絵で見る十字軍物語』、文章だけではなく、百枚近い美しい版画と地図という構成に、大変驚きました。

 この挿絵を描いたフランスのギュスターヴ・ドレという人は、十九世紀最高のヴィジュアル・アーティストで、聖書やダンテの「神曲」などの挿絵を描いた大変なベストセラー画家なんです。現代の漫画家ではとてもかなわないクオリティでしょう。
 さらに地図も添えて見せるというのが、私のアイディアでした。歴史と地理は表裏一体であるというのが私の考え方ですから、ヨーロッパからメソポタミア地方、つまり現代のイラクまでという、「距離感」を読者に体感して欲しかった。そのために地図はどうしても必要でした。テクノロジーに関してはファックスどまりで、コンピュータなど触ったこともない私ですが、iPadやKindleなどが注目されている今、書籍というアナログな媒体でも、こんなことができるということをお見せできたと思います。
 ヨーロッパの古本屋には、今回使ったような美しい版画を集めた本がたくさんあるんです。この挿絵が載っていた本も、もう何十年も前にヴェネツィアの古本屋で、綺麗だなと思って眺めていたら、「これはきっとすぐに売れてしまうよ」と店主が囁くんです。こういった本をバラして、絵の部分だけ額装するのが当時流行っていたためです。それでつい慌てて買ってしまった。そうして買った本がこんな形で甦るとは、思ってもみなかったのですが。
 このドレの絵を使った『絵で見る十字軍物語』が、私の新たな挑戦の先陣となります。オペラでいえば“序曲”、映画でいえば“予告編”という感じですね。 

  健全なる野次馬根性

――十字軍を次のテーマに選ばれたと聞いて、一歩引いたところから政治的な面を中心にお書きになるのかと想像していたのですが、「ローマ人の物語」と同じように、あくまで人間に即した作品になっていますね。

 まず前提として、中世というのは肖像画が描かれなくなった時代だということを押さえなくてはならない。顔のない社会と言ってもいい。
 イスラム教は今もそうですが、初期においてはキリスト教も偶像崇拝を禁止していました。しかし中近東で生まれたキリスト教は、ギリシア・ローマの素晴らしい彫刻やモザイク画の伝統があるヨーロッパに普及していった。その過程で、「偶像崇拝は禁じられているので、あなたが信じている人の顔を描くことはできません」というのでは、とても通用しなかったはずです。自分が信じている人の顔を見たいというのは、人間の素朴な欲求ですからね。それで少しずつ肖像が増えていきます。それでも十字軍時代に描かれる人の顔といえば、せいぜいキリストか聖者の顔くらいのもの。これから私が「十字軍物語」で物語る将たちや王の顔は、ほとんど描かれなかった。前作『ローマ亡き後の地中海世界』でもそれを痛烈に感じました。これは海賊や将たちが主人公の物語ですが、やはり彼らの肖像は遺っていません。
 ある人の顔が、その人物の特色を持って描かれはじめるのは、ルネサンスの幕開けとして語られる画家ジョットーの登場以後のことです。ヨーロッパではそういった、顔を見ることによって人間世界の現実を見つめるという精神が発達して、それがのちにルネサンスにつながっていくのですね。
 そうした状況の中でも、やはり私は読者に顔を見てもらいたかった。そして人間を見てもらいたい。そこで活用したのが、学問的なマナーからは外れるのかも知れないけれども、十字軍時代からずっと後に描かれたドレの作品でした。

――そのおかげか、続いて刊行される『十字軍物語1』でも、登場人物がみな生き生きとして、非常に身近な存在として感じられました。
「あなた、本当にしょうがない人ね」なんて苦笑しながら史料を読んでいると、それぞれのキャラクターがなんとなくわかってくるんです。私は自分自身を「健全なる野次馬根性」、「素朴なミーハー精神」の持ち主だと思っていますが、おっちょこちょいの人物がいたり、ただの“チンピラ”でしかなかった人物が力強く成長していったり、かと思えば奥さんにお尻を叩かれて十字軍に出かける人物もいたりと、これではまるで何人かで一組の男たちが登場する西部劇のようなものではないか、そんな気分になりました。 
 俳優で映画監督でもあるクリント・イーストウッドが『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』という二つの作品を撮っています。当初の企画では、硫黄島での攻防をアメリカ側から描いた『父親たちの星条旗』だけだったらしいのですが、イーストウッドが優れているのはそこから先で、「あちら側(日本側)はどうだったのだろう?」という、ある種野次馬的な、そして素朴な疑問から発してあれだけの作品を撮った。歴史叙述も同じことだと思います。
 ただし歴史上の人物というのは、古代ローマ人にかぎらず中世の人物も、相当な猛獣です。私が猛獣使いになったつもりで馴らそうとした途端、その猛獣たちはサーカスの動物になってしまいます。しかし私は彼らを、猛獣のままに読者に見せたい。馴らすとか、自分に引きつけて書くとか、そういうのはひどくつまらない態度のように思います。私の方法は、馴らすというよりは寄り添うという感じに近いですね。

  歴史叙述に「客観性」はありえるか

――キリスト教とイスラム教それぞれに対して、どちらにも公平な視点から書くということで苦労なさったのではないかと思うのですが……。

 いえ、歴史を書くということにおいて、完全に客観的な立場というのはありえません。私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないですし、健全なる野次馬根性でもって、「キリスト教徒もイスラム側も、どっちもどっちよね」なんて、ミーハー的に見ているものだから、多少は中立的になれるのかも知れない。しかし完全に客観的というのはあり得ません。
 中世というのは、メディアの時代、有権者の時代である現代とは、決定的に違います。たとえば、菅直人さんが首相になって、市民運動をやっていたお尻の青い頃の理念とは相容れないことも、せざるを得ない局面になったとする。かつての考えと、首相になって実行することとが違ってもいいと私は思いますが、しかしなぜ自分は以前の考えとは異なることをするのか、それをメディアや国民に対して明確に説明しなければならない。説明責任というものがあるのが現代です。 
 しかし私の扱う時代の男たちはそうではなかった。メディアもなければ有権者も支持者もいない。ですから、十字軍を記録した年代記はたくさんあっても、なぜこんな風に行動したのかという説明がない。私にとって歴史を書くということは、当時の人間にかわってそれを説明するということなんです。何を考えたのか、なぜその選択肢を選んだのか。そういった説明責任を、当時の人間にかわって果たそうと思いながら書いています。
 単に「情報」という面から言えば、インターネットの発達のおかげで、私よりも読者の方がより多くの情報を入手しやすいかも知れない。しかし、客観的な情報だけを並べれば真実に迫れるわけではない。いま歴史の共同研究というのが盛んですが、しばしば両論併記というところに落ち着くことがあります。一見客観的なようですが、私には無責任な態度に思えます。こうだと思ったことを、責任を持って明確に書くのが作家です。

――『十字軍物語1』では、十一世紀末に始まる第一次十字軍が語られるわけですが、さまざまな思惑が複雑に絡んで、決して聖なる戦いとは言いきれないのが面白いですね。
 第一次十字軍というのは、十字軍の歴史のなかで、唯一勝った戦争なんです。ですから重要度も飛躍的に高く、西洋側の文献では圧倒的にこの第一次十字軍についての言及が多い。そしてその始まりにおいては、領土が欲しいという現世的な野心が根底にはあったかも知れません。しかし同時に、聖なる動機もたしかにあった。ですから、単なる侵略戦争だったと片づけるのも違う。そういう複雑な面白さがあります。
 これから第一次十字軍を皮切りに、いかにして戦いが展開され、どうやって最終的に破綻するのか、そしてその後、世界はどうなったのか、そういう話を書いていくことになります。
 総体として見れば、十字軍というのは西洋側にとって、負けた戦争なんですね。しかし負けた戦いから学ぶという態度がヨーロッパにはあった。これはヨーロッパ側の確固たる美点です。この頃から「大学」というものが都市を中心に誕生し始めるのですが、そこでは「イスラム学」とでもいうような講座もできてくる。ところが勝った側のイスラムはどうでしょう。「アラーのおかげ」という以上の探究心を持たなかったように思うのです。人間というのは一度勝ってしまうと、そういうものなのかも知れません。 
 ある古代ローマ史の先生がローマにいらした折に、「千年の眠り」という焼酎をお土産にいただいたことがありました。われわれは二千年前の古代ローマを研究しているのだから、この焼酎をダブルでいただきましょうって、笑って話し合っていたんです。今回もまさに「千年の眠り」から、中世の男たちを呼び覚ましていくわけです。『眠れる森の美女』とは男と女が逆になっちゃうけど(笑)。眠りの中にある男たちを呼び覚まし、そして二十一世紀の、しかも異文明のわれわれ日本人の前で、生き生きと動いてもらう。どうぞお愉しみに!
(しおの・ななみ 作家)

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私は塩野七生のファンである。「ローマ人の物語」は全巻持っていて、病院などへ行くときには必ず持参して、読む。

今回のシリーズも四巻らしいが出るのが楽しみであり、本書は、その前触れである。
この本の体裁は、見開きの左ページにギュスターヴ・ドレの絵を載せ、右ページの上部に地図を載せ、下部に塩野さんの文章を乗せる、という形になっている。
言わば、ドレの絵に因む地図と短い文章の説明があるというヴィジュアルな本である。
この本で、おさらいをして、九月から始まる本篇の期待に胸をわくわくさせるという筋立てである。

当分の間は、ほんのさわりだが立ち読みも出来るので、お試しあれ。


誰でも一生に一度は詩人になれる、だがやがて「歌のわかれ」が来て詩を捨てる・・・・・・・・・・木村草弥
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        死と詩人・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

  昔は「いかに死ぬべきか」という問いは「いかに生くべきか」よりも美しかった

  近代戦のように死人を量産するとどうしても一つ一つの死が粗雑になる

  人は赤ん坊のかたちで生れる 死ぬときも赤ん坊にかえって死ぬ人もある

  人が死ぬ時にふさわしい曲があるという それを聴きながら死ねればしあわせだ

  ひとの生誕が未知の荒野へのさすらいなら死もまた未知への消去だ

  詩人とは世界と自分の間に横たわる「時」を言葉によってたぐり寄せる人のことだ

  詩人は言葉で人を酔わせる酒みたいなものだ 時には言葉で人を傷つける

  詩人は ようくみがいた言葉で相手の心臓をぐさり とやる

  詩人にとって「書かれた詩句」以上に「消された詩句」の方が多い

  誰でも一生に一度は詩人になれる、だがやがて「歌のわかれ」が来て詩を捨てる
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この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。
掲出した写真のように中野重治の著書の中に「歌のわかれ」というのがあり、私の詩の終連は、それを踏まえて作られている。
掲出の本の他に講談社の文芸文庫に入っているものもある。

この一連は「アフォリズム」的な文体の体裁を採っている。
こういうアフォリズムはヨーロッパには多いが、日本の文芸には数が少なく、先に紹介した芥川龍之介の『侏儒の言葉』などに見られるだけである。
萩原朔太郎の著書の中にも「アフォリズム」をまとめた一冊があり、私は少年の頃から、そういうものに親しんで来たので、私には、そういうアフォリズムを好む性癖が身についたのかも知れない。
だから、この一連を発表した時も、なかなか理解されずに困惑したものである。
その頃私が主として付き合っていたのは歌人と呼ばれる人たちであったので、現代詩から出発した私などとは違って「詩」というものについての広い見識を持っている人が少なかった。
私などは俳句も川柳も短歌も現代詩も、すべて含めて「短詩形」として広く見る癖がある。
ジャンルを融通無碍に、自由に捉える人は多くない。
私の第三歌集『樹々の記憶』は、そういう意味で、冒険的な編集であったかも知れない。

解説的なことを付け加えると、一番はじめの行の「いかに死ぬべきか」というのは、この前の戦争中にはもてはやされた『葉隠』の中の「武士道とは死ぬこととみつけたり」というフレーズを想起したものである。
題名の「死と詩人」というのは感心しなかった、今では後悔している。何か佳い題名があれば改訂したい。

加藤幸子 「〈島〉に戦争が来た」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     加藤幸子 「〈島〉に戦争が来た」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
        ・・・・・・・・・・新潮社 2010/07/30刊・・・・・・・・・・・・


        僕たちの島にも戦争がくるの? ある少年と少女の瑞々しい物語。

     太平洋戦争末期、にわかに帝都防衛の拠点となった太平洋上の小さな島。
     強制的に連れてこられた朝鮮人の少年インスは、厳しい労働に従事しつつ脱出する機会を窺っていた。
     ある日、インスは島の少女キヨと出会う――。運命に翻弄されながらも結びついて行こうとする少年と
     少女を中心に、島という世界を丸ごと描き上げる鮮烈な長編小説。

新潮社の読書誌「波」2010年8月号より 作者本人の文章を引いておく。

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       <島>との出会い        加藤幸子


 五年前の冬、老母の世話で体力も気力も凍ったような状態に陥っていた私に、植木屋のTさんがある島の話をしてくれた。釣りのために毎年そこに通っているTさんによると、その島(八丈島)は年中暖かで、眺めのいい温泉場があちこちにあり、鳥や花も多いし、伊豆七島最南端なのに飛行機なら四十五分で行けるらしい。小ざっぱりした庭を残してTさんが帰ったあと、急に思いついた。まもなく母は近所の施設で一週間のホームステイをすることになっている。その間の三日ほどをその島でぼーっと時を過ごそう、と。
 八丈島に行くのは初めてだったが、あえて何も調べなかった。島についての知識は黄八丈の産地であり、江戸時代は流刑地だったということのほかは、Tさんから聞いた話に限られている。だから飛行機が着陸する前に、狼が剥きだした牙のような波浪にもまれている島の輪郭を見おろしてびっくりした。青い海に白い砂浜という想像していた風景とはちがっている。でも降りてみると、真冬なのに空気はふんわりと温かく、体の中に張った氷が溶けていくようだった。やはり南の島だ。ただし風が烈しいのは予想外だった。植物のように根を張らないと、よろけてしまいそうだ。
 八丈島観光協会に予約しておいた民宿のご主人が車で迎えにきてくれた。沿道は片側が常緑広葉樹の森で、反対側には海に落ちこむ崖が多い。たしかに眺めは抜群にいい。駐車場の隣りに柵をめぐらした空地があった。先代の時代に人気を呼んだ闘牛場だ、と教えられた。そのころは観光客が島民の数を上まわり、島も景気がよかったらしい。ぼーっと時を過ごしにきた私には、少し寂しい今の島のほうがありがたいけれど。
 当てられた部屋に荷を入れ、何気なく窓から見おろすと、ひょこひょこと地面を歩いている鳥がいた。首から上が黒く、腹部は鮮やかな朱色だ。まさか、と思いつつ見直したが、やはり紛れもないアカコッコ。ずっと以前、天然記念物として有名なこの鳥に会いたくて、わざわざ三宅島に行って探しまわったことがある。その鳥がまるで東京の庭のキジバトのように歩いていたのだ。
 このとき私は、初めて八丈島には私にとって何か特別のものがあるにちがいない、という奇妙な感覚を味わった。ここはどういう〈島〉なのだろう、という強い好奇心とともに。
 翌日は散歩の途中知りあった『東京七島新聞』の通信員Fさんが、島内の名所を案内してくださるという幸運に恵まれた。縄文時代の遺物のある資料館、美しい玉石垣を巡らした陣屋跡、関ヶ原の役に敗れ、流されてきた宇喜多秀家と流人でありながら島を愛し『八丈実記』六十九巻を著わした近藤富蔵の墓、巨大なヘゴ群落地や曲がりくねった末に到達した登龍峠から対峙した西山こと八丈富士、途中で名物の明日葉そばをいただき、最後に丘全体をおおうアロエ園に行った。八丈島は何と多彩な歴史と自然を秘めていることだろう。
 帰京の当日、とうとう好奇心が休養を求める気持にうち勝って、私は町立図書館に出かけた。その一画の郷土資料室で幾冊かの本や記録を二時間余り拾い読みし、その結果尋常ならざる事実を新たに知ることになった。
 太平洋戦争中、八丈島には陸海軍合わせて三万人近い日本兵が駐留していたのだった。島内には現在も当時掘られたままのトンネル(地下壕)が残っている。飛行場や軍用道路などの建設にたずさわったのは、強制連行されてきた朝鮮の人びとであった。大勢の日本兵はなぜ島に来たのか? 限られた面積しかない島の住民たちはどうしたのか? そして朝鮮人たちはこの島でどういうふうに暮らしていたのか? ある冊子の「小笠原・伊豆諸島は捨て石として位置づけられた」という一文には、抑えきれない島民感情がにじみ出ていた。
 その日以降、七回、私は八丈島を訪れた。頭の中に流れはじめた物語を、独特の島史と重ねて小説を書くために。様々な取材に協力してくださった八丈町の方々にお礼申しあげたい。 (かとう・ゆきこ 作家)

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加藤幸子/カトウ・ユキコ 略歴

1936年北海道生れ。北海道大学卒業。1982年「野餓鬼のいた村」で新潮新人賞、1983年「夢の壁」で芥川賞、1991年『尾崎翠の感覚世界』で芸術選奨文部大臣賞、2002年『長江』で毎日芸術賞を受賞。他著に、『北京海棠の街』『翡翠色のメッセージ』『時の筏』『苺畑よ永遠に』『翼をもった女』『茉莉花の日々』『ジーンとともに』『池辺の棲家』『家のロマンス』などがある。

↓ この小説の「目次」だけ抜いておく。

第一章 歴史
誕生/黒砂漠/生活/丹那婆(たなば)あるいは艫抱女子(ろかこみにょこ)/シイノトモシビダケ/火の潟/漂着/ギンタカハマ貝/隠れ穴(やあ)/黄土色の二本足/森を透かして見る/地底の物音その他/出来事
第二章 戦争が来た
一人/秘密/集会/労役/子守/参加/邂逅/義務と貢献/〈島〉に戦争が来た/二人/目的と手段/戦争の始まり/それぞれの戦争/八・一五 前日/八・一五/八・一五後
第三章 〈島〉へ
一日目/二日目/三日目/四日目/童唄

立ち読みも出来るのでお試しあれ。


暦には立秋とある今日の午後黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一
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  暦には立秋とある今日の午後
     黍の葉鳴らす風吹きいでぬ・・・・・・・・・・・・・筏井嘉一


今日は「立秋」である。
しかし、今年の暑さはどうだろう。朝の最低気温が28度を示していたりして、いいかげんにせぇ、という気分だ。
ところが今朝は、さすがに立秋である。熱帯夜は免れた様子で、涼風が通るではないか。
ただこれからも暑さは続くだろう。今日以後は暑くても「残暑」と言わなければならないが、まだまだ酷暑真っ盛りという昨今である。嗚呼!

立秋の歌としては、次の歌が古来、人口に膾炙してきた。

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行

この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。
この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

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『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。
次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、その目前の秋の景物を詠んだ。 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。

筏井嘉一の歌のことに触れるのが後になった。この歌は歌集『籬雨荘雑歌』(65年刊)に載るもの。

立秋に関する歌として

  十張のねぶた太鼓のつらね打ち夏跳ねつくせ明日は立秋・・・・・・・・・・・・布施隆三郎(『北斗のα』97年刊)

というものもある。青森在住の歌人なのであろうか。



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