K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(10月)月次掲示板
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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十月になりました。
の季節です。味覚の秋、体育の秋です。
 あかつきのあけびゆるらに口ひらき秋のむらさきふかくおそろし・・・・・・・・・・・・・・馬場あき子
 夢一字織り出しし喪の黒き帯しめてひとゆく秋の現を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蒔田さくら子
 焼き上げし秋刀魚より抜く直線の骨美しき秋となりたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋爾郎
 拾ひ来てつやつやまろきどんぐりを幼なの撒けばそこはもう秋・・・・・・・・・・・・・・佐佐木由幾
 どんぐりとなつてあなたのポケットの中で歌つてゐたい秋です・・・・・・・・・・・・・・・・・藤井玉子
 苔のにほひ時雨にたたしむ野仏の面輪ほろほろと逝く秋の光(かげ)・・・・・・・・・・・・古玉従子
 盗聴のやうに飼ひ犬耳立ててそろりと秋が来たるを知りぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・前川佐重郎
 赤蜻蛉群れ飛ぶ下に子を立たせ秋、かなしみは足より逃す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鶴田伊津

 柳にも竹にもよらずあきのかぜ・・・・・・・・・・・・・・三浦樗良
 十月や顳顬さやに秋刀魚食ふ・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷
 地の底の秋見とどけし子芋かな・・・・・・・・・・長谷川零余子
 秋の航一大紺円盤の中・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
 石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
 カステラが胃に落ちてゆく秋の昼・・・・・・・・・・・・・大野林火
 秋暁や胸に明けゆくものの影・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
 山門をぎいと鎖すや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規
 足もとはもうまつくらや秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
 秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
 にせものときまりし壺の夜長かな・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
 機関車の底まで月明か 馬盥・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
 生後死後栗の実甘く熟れにけり・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 点鬼簿に入りしその名を虫のこゑ・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 柘榴打ちリリーマルレーン唄ふべし・・・・・・・・・・・高島征夫
 天辺はさみしきところ秋の星・・・・・・・・・・・・・・・・・・大高翔
 蒼空の下で草刈る鎌の音・・・・・・・・・・・・・・・・草刈蒼之助
 恨んだら百円ショップへ行こう・・・・・・・・・・・・・・・・畑美樹
 内海氏がもうひとりいる月の裏・・・・・・・・・・・・・・兵頭全郎
 快楽かな崩れて秋の木版画・・・・・・・・・・・・・・・・筒井祥文
 夢想する首は水平に干そう・・・・・・・・・・・・・・・・清水かおり
 首すじに森を通って来た匂い・・・・・・・・・・・・・・笹田かなえ
 天下りです千鳥足です 何か・・・・・・・・・・・・・・・遠藤哲平
 沖縄に折れたクレヨン雨ざらし・・・・・・・・・・・・・・墨作二郎
 三人の尼僧すれ合う花野行・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
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「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
文芸春秋社・書籍ショールーム

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・・・・・・木村草弥
aaooosiroiオシロイバナ本命

    おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ
      妻の夕化粧いまだ終らず・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「オシロイバナ」は熱帯アメリカ原産のもので、本来は宿根草だが、日本では一年草となっている。今では雑草なみにあちこちの草叢に自生している。
この草の花言葉は「夕化粧」というので、私の歌は、この花言葉に因んで作られている。
日本には元禄の頃入ってきたと言われる。
学名は Mirabilis jalapa というが Mirabilis とはラテン語の「不思議な」「素敵な」という意味で、「オシロイバナ」の名前の由来は、熟した黒い種をつぶすと「白粉」オシロイのような粉が出てくることによる。花言葉も、ここから名づけられたようだ。
花の色にも紅色、白、黄色、まだらの混色などさまざまある。
花は漏斗状で、花弁に見えるものは萼で、花弁は退化している。夏から秋にかけて午後4時頃から咲きだし、朝まで咲く。
花言葉「夕化粧」の由来は、この咲く時刻からも来ているだろう。
元禄7年(1694年)刊行の貝原益軒の『花譜』に、すでにオシロイバナの名が記されているという。
華麗ではないが、可憐な花で、愛されて俳句にも、よく詠まれている。それを引いて終る。

 おしろいの花の紅白はねちがひ・・・・・・・・富安風生

 おしろいの花にや触るる袖の丈・・・・・・・・石塚友二

 白粉花咲く禁酒禁煙盆暗居士・・・・・・・・金子兜太

 おしろいが咲いて子供が育つ露地・・・・・・・・菖蒲あや

 おしろいは父帰る刻咲き揃ふ・・・・・・・・菅野春虹

 おしろいの花まだ暮れず祭笛・・・・・・・・今井千鶴子

おしろいや風吹きつどふ赤子の頭・・・・・・・・阿波野爽波

 白粉草の花の夕闇躓けり・・・・・・・・渡辺桂子

 わが法衣おしろい花に触れにけり・・・・・・・・武田無涯子

 白粉花やあづかりし子に夜が来る・・・・・・・・堀内春子

 白粉花つぶてのごとき海女言葉・・・・・・・・丸山佳子

 白粉花妻が好みて子も好む・・・・・・・・宮津昭彦

 秩父せせらぎ白粉花も夜を経て・・・・・・・・森田緑郎

木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
0759b2a65ef370a366c0c0f4a5d39b22メダイチドリ

    木曽川の今こそ光れ渡り鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

海を越えて渡る「候鳥」(こうちょう)の渡りの時期は春と秋と二回あるが、春の渡りは集団となっての渡りではなく、小規模でばらばらとやって来る、
と言われるのに対し、秋の渡りは集団なので注目される。
ツバメなどが南に去ると、ツグミ、アトリ、マヒワなどが、シベリア、カムチャツカから大群をなして飛来する。

掲出した句に木曽川という川の名が入っているので写真①には、渡り鳥の「メダイチドリ」を出してみた。
この写真は雌雄であろうか。恋人同士のように、しぐさが仲むつまじく微笑ましい。
この鳥はカムチャツカ以北のロシア、アラスカで繁殖するらしい。左側が雌である。
俳句で「渡り鳥」という場合には「主として小鳥のことを言う」という但し書きが書かれているので、それにふさわしく写真②には「鶫」(つぐみ)を出しておく。
15922529ツグミ

これらの小鳥は日本の中を移ってゆくときも群れをなしてゆくという。
ヒヨドリ、シギ、チドリ、などのものも渡り鳥と言うが、それらの大群の羽音高く過ぎゆくことを鳥雲、鳥風などと表現されている。
なお、シギ類は越冬地は、もっともっと南の国だということで、日本は通過地に過ぎないらしい。
シギ類は通過の途中で川や海の干潟が採食地で、ゴカイやカニなどを啄ばんで食べているらしい。
掲出した句の「木曽川」の河口に、そんな干潟があるかどうか判らないが、間違いがあれば指摘してもらいたい。訂正いたします。
雁や鴨などのやや大型の鳥も渡り鳥には違いないが、別の季語の表現として「雁渡る」「鴨来る」などとして別に分類されるようだ。
中秋から晩秋にかけての集団をなしての渡り鳥は、空が暗くなり、雲が動くようで、大きな音を立てるという。
私の住む辺りは海に面してはいないし、盆地なので、このような大群の鳥の渡りを目にすることはないのではないか。
この推測も、もし間違っていたら指摘してもらいたい。
ツグミなどはミミズや虫などの動物性の餌を食べているから、雪の降った朝など木の根元などを雪を取り除いておくと餌を求めてやってくるのであった。
今はどうか知らないが、私の子供のころは、器用な友人などは、そうやって罠を仕掛けてはツグミを獲っていた。
今では環境保護の立場から鳥獣についても保護され、各地に「禁猟区」が設けられている。
私の近くでは琵琶湖は全面的な禁猟区に指定されている。
秋になって本州に「渡ってくる」ものと、南に「去る」ものと両方の「渡り」があるので、念のため。

以下、歳時記に載る「渡り鳥」の句を引くが、上に書いた「但し書き」に触れるかどうか私には判らない。

 四つ手網あがる空より渡り鳥・・・・・・・・水原秋桜子

 鳥渡る大空や杖ふり歩く・・・・・・・・大谷碧雲居

 むさし野は鳥こそ渡れ町つづき・・・・・・・・林原耒井

 渡鳥仰ぎ仰いでよろめきぬ・・・・・・・・松本たかし

 渡り鳥微塵のごとしオホーツク・・・・・・・・大野林火

 渡り鳥がうがうと風明るくて・・・・・・・・加藤楸邨

 渡り鳥空搏つ音の町にしづか・・・・・・・・太田鴻村

 鳥わたるこきこきこきと缶切れば・・・・・・・・秋元不死男

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ・・・・・・・・安住敦

 樹海晴れてはや渡り来る小鳥かな・・・・・・・・中川宋淵

 佐渡の方より一沫は渡り鳥・・・・・・・・篠田悌二郎

 大空の美しきとき鳥渡る・・・・・・・・深川正一郎

 渡り鳥消えて欅の空残す・・・・・・・・石塚友二

 鳥渡り夕波尖りそめしかな・・・・・・・・勝又一透

 わが息のわが身に通ひ渡り鳥・・・・・・・・飯田龍太

 渡り鳥幾千の鈴ふらし過ぐ・・・・・・・・赤城さかえ

 胸ポケットの老眼鏡や鳥渡る・・・・・・・・菱沼杜門


秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
03-kumo-02蜘蛛①

   秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は
     空の青さの点となりゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

掲出写真は、俗に「黄金蜘蛛」と呼ばれる大型の蜘蛛の雌である。正式には「ナガコガネグモ」というらしい。

写真②は「草蜘蛛」である。
kusagumo178草蜘蛛

写真③に、その草蜘蛛の巣をお見せするが、名前の通り、草などに巣を張るクモである。
83N83T83O8382草蜘蛛の巣

クモというと身近にいる虫だが、嫌がる人が多い。しかし飛ぶ虫などを食べてくれる「益虫」といえる。
農作物などでも害虫を食べてくれる貴重な存在であるが、農薬を使うと、クモなども一緒に駆除されてしまうので、天敵が居なくなり、悪循環に陥りがちである。
この頃では「生物農薬」というような名前で、こういう益虫を利用するのが出はじめてきた。

秋は、そういうクモの子の「旅立ち」のシーズンである。
どんな種類の蜘蛛も、こういう巣立ち方をする訳ではないが、掲出した草蜘蛛などは晩秋の雨あがりの、カラッと晴れた風の強くない日で、
肌をかすめる大気の流れの感じられる日に、クモの子の旅立ちが始まる。
草蜘蛛の子は高い草の先端に登り、まず、尻から糸を出し、風に流し、次に自分も風に乗る。
空に糸がキラキラ光って飛んでゆく。文字通り、どこに着くか風まかせである。
冒頭に挙げたナガコガネグモの子も、風まかせの飛翔をするらしい。

e0032399_185844蜘蛛の子
写真④は孵化したばかりのクモの子である。左側の丸い塊が「巣」で、その中から巣立ってきたのである。
この後、クモの子はちりぢりになって、先に書いたような方法で風に乗ってゆくのである。
こんなクモの子の巣立ちは、田舎でないと見られない。
蜘蛛にも多くの種類がおり、このような巣立ち方をしないクモもたくさん居る。
そんな蜘蛛は、孵化した近くに新しい縄張りを張り、一本立ちしてゆくのであるが、私はクモに関しても詳しくないので、それ以上のことは書けない。
なお、基本的なこととして「蜘蛛」は「昆虫」ではないことを確認しておいてほしい。
昆虫は「脚が6本」だが、蜘蛛は「脚が8本」で、別の分類をする。
普通のクモは、ネットを毎日張り直すが、コガネグモ、ジョロウグモの仲間の網の張り方は大雑把で、蜘蛛の巣の形は汚らしい。
ジョロウグモ、コガネグモは大きく、強いので獲物が引っかかったら、すぐにとんで行って獲物を捕らえられるからであろうか。
網の糸も、とても強くて、釣り糸ほどの太さもある。こんなものに人間が引っかかると、体に糸がからみついて取れない。
クモが夕方に網を張るのを見ていると、まさに芸術的とも言える作業である。
クモの脚は、張った糸のネバネバにもくっ付かない構造になっているらしい。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な少年で、そんなクモの作業を、じっと見つめているのが好きだった。

haya109_asinagakumoアシナガグモ
写真⑤はアシナガグモである。
蜘蛛の種類によっては全然巣を張る習性のないものもあり、そこらじゅうを歩きまわって獲物を探すものもある。
家の中に入ってきて、みんなを驚かすのも、こういう種類のクモであり、びっくりするような大きさになるものもある。
蜘蛛類は、捕らえた虫は糸でがんじがらめにした後、口から「消化液」を獲物の体内に注入して、液体状に半消化したものを吸い込んで取り入れる。
だから、掛かった獲物の体の形は残っているが、カラカラに乾いて中身はカラツポである。
蜘蛛の巣のあちこちに、体液を吸われた虫の残骸が引っかかっているのが見られる。

↓ 写真⑥は巣を作らず、屋内などを歩きまわって獲物を探す「ハエトリグモ」と呼ばれる蜘蛛の種類。
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女郎蜘蛛の生態については ← オス、メスの区別のことなど、ここが詳しい。
昆虫写真家の海野和男さんのサイトによると、スズメバチがナガコガネグモを襲ってくるらしい。

掲出した私の歌は、私の少年の頃の幼い観察の記憶を濃厚に止めている記念碑的な作品と言える。


井上章一『ハゲとビキニとサンバの国―ブラジル邪推紀行』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   井上章一『ハゲとビキニとサンバの国―ブラジル邪推紀行』・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・新潮新書 2010/10/15 刊・・・・・・・・・・・・・

      エキゾチシズムが爆発する地球の裏側で、日本及び日本人を考えなおす。

   燦燦と降り注ぐ太陽、ビーチに寝転ぶ「イパネマの娘」、カーニバルでサンバを踊り、路上でサッカー。
   そんなエキゾチックなイメージが無限増殖する国、ブラジル。
   しかし、はるばる地球の裏側に足を運んでみると……。
   なぜか愛されるハゲ、小さなビキニの秘密、日本人のトホホな扱い、
   カトリックの下心など、当地の文化や風俗は意外なことばかり。
   生まれも育ちも京都の学者が、W杯や五輪開催で注目のブラジルから日本を考える。

新潮社のHPに載る「編集者のことば」を引いておく。
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 著者の井上章一さんは、『つくられた桂離宮神話』『法隆寺への精神史』『伊勢神宮』などといった建築学史のほか、霊柩車の起源、美人論、日本の女性の下着受容史など、日本のユニークな風俗も研究、その著書のファンも多い学者(建築学者、風俗史家)です。
 その井上さんが、ブラジルのリオデジャネイロに滞在。当地の文化や生活、風俗などをレポートしたのが本書です。とはいっても、そこは井上章一。「ブラジルという国はそもそも~」などという、ありがちな前置きは無しにして、いきなり「ハゲ」の話をします。曰く、「ブラジルでは、ハゲでも女の人にきらわれないと、しばしば言われることがある。いや、ハゲのほうがもてるんだという説さえ、時には聞こえてくる」。酒場で歌っていた女性歌手が、ハゲの観客のおでこばかりにキスするのを見てショックを受けます。
 また、リオデジャネイロといえば、すぐに思い浮かべるのがコパカバーナに代表されるビーチ。抜けるような青空に燦燦と降り注ぐ太陽、砂浜に寝転ぶ「イパネマの娘」――。男なら誰でも鼻の下が伸びてしまいそうなシチュエーションですが、実際にそこで見た「ビキニの女性」は……。
 さらに、ある日のこと、京都や富山といった日本の都市名を冠した企業のポスターを見つけ、興味本位にどんな会社か調べてみると……。
 その他にも、日本のアニメやマンガが好きなブラジル版草食系男子、胸よりお尻をアピールする女性たち、支持を広げる日本の新興宗教など、政治や経済、文化といった“大文字”のテーマではなく、街ネタや風俗ネタといった身近なトピックをレポートしています。
 2010年10月初旬の現在、当地では大統領選の真っ最中。すわ、初の女性大統領誕生かと騒がれています。また、2014年にはワールドカップ、2016年にはオリンピックが開催され、注目を集めること必至のブラジル。エキゾチシズムが無限増殖する地球の裏側から、日本を考えるのが本書『ハゲとビキニとサンバの国―ブラジル邪推紀行―』です。

「立ち読み」は ←こちらから
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井上章一/イノウエ・ショウイチ

1955(昭和30)年京都府生まれ。京都大学大学院修士課程修了。建築学者、風俗史家。現在、国際日本文化研究センター勤務。著書に『霊柩車の誕生』『つくられた桂離宮神話』『美人論』『法隆寺への精神史』『日本に古代はあったのか』『伊勢神宮』など。


泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・・・・・・・・浜田正把
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   泣きべそのままの笑顔よ檀の実・・・・・・・・・・・・・・・浜田正把 

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも「檀」を詠った歌がある。
  
  真実とはいかなる象(かたち)なすものか檀(まゆみ)のまろき実くれなゐ深く・・・・・・・・・・・木村草弥

檀(まゆみ)の実は晩秋にかけて熟す。
『和漢三才図会』に「生るは青く、熟すれば淡赤、裂ければ内に紅子三四粒あり。その葉、秋に至りて紅なり」とある。
↓ 写真②は「まゆみ」の春の開花の様子である。
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↓ 写真③は、秋になって実が割れて中身が露出したところ。
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実の色が美しいだけでなく、葉の紅葉が美しい、という。
「真弓」とも書くが、これは昔、この木から弓を作ったことに由来する。

   秋くればくれなゐ深く色づきて檀の喬木山をいろどる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は先に掲出した歌につづくものである。
寒い土地ほど、この檀の紅葉は美しい、と信州の友人は言う。紅葉の写真を出しておく。↓
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以下、檀の実を詠った句を引いて終る。

 旅にをり旅の日和の檀の実・・・・・・・・森澄雄

 檀の実遠景は日のとどかざる・・・・・・・・鷲谷七菜子

 大工老いたり檀の実ばかり見て・・・・・・・・六角文夫

 まゆみの実寄りくるものをいとほしむ・・・・・・・・きくちつねこ

 奉納の神楽に高き檀の実・・・・・・・・・横山仁子

 檀の実ひそかに裂けし月夜かな・・・・・・・・菅原鬨也

 檀の実圧し来る如く天蒼し・・・・・・・・望月たかし

 檀の実まぶしき母に随へり・・・・・・・・岸田稚魚

 真弓の実華やぐ裏に湖さわぐ・・・・・・・・杉山岳陽

 檀の実割れて山脈ひかり出す・・・・・・・・福田甲子雄

 檀の実爆ぜて色濃くなりにけり・・・・・・・・小泉良子



萩の花/尾花/葛花/瞿麦の花/女郎花/また/藤袴/朝貌の花・・・・・・・・・・・・山上憶良
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   萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花
    女郎花 また 藤袴 朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良


憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

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藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
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先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



菊の花の/紅をふくんだうす紫が/箱にいっぱい/──さっとゆがいて・・・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(18)再掲載・初出Doblog2005/10/25

        菊の花・・・・・・・・・・高田敏子

     菊の花の
     紅をふくんだうす紫が
     箱にいっぱい

     ──さっとゆがいて召し上がって──
     友のことばがそえられて

     こんなにたくさん
     菊畑がそのまま
     送られて来たような
     花のまぶしさ
     花の香り

     この美しさを
     「食べる?」
     私はそれにあたいするかしら
     花のまえに はじらうばかり

     お盆に盛って
     棚においでの観音様に
     まずお供えして
     ご近所にもおすそわけしましょう

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)
----------------------------------------------------
掲出した画像は、食用菊「もってのほか」である。
普通の菊よりも苦味が少ない。 他にも、いろいろの品種があるようである。
この詩にも書かれているように、さっと茹でて「おひたし」のように食べるらしい。
「らしい」と言ったが、私は食べたことがない。

みかんをむく/よい香りが部屋に満ちる/ただよい出る/清らかな香り・・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(17)再掲載・初出doblog2005/10/24

            みかん・・・・・・・・・・・高田敏子

     みかんをむく
     よい香りが部屋に満ちる
     ただ一つのみかんから
     ただよい出る
     清らかな香り

     みかんは
     このときを待っていたように
     ふっくらと落ちついて手の中にある

     このときのために
     樹は一年をかけて みのらせ
     人は長い年月をかけて
     樹を育て

     一つのみかんにこめられた
     樹の心 人の心
     太陽の光も
     蜜蜂の姿も
     雨も風も

     私の手の上の一つのみかんから
     浮かび出る
     風景のゆたかさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)



草の音/虫の声/草の中に身を沈めていると/私も小さな 虫のよう・・・・・・・・・・・・・高田敏子
030811朝露本命②

──高田敏子の詩──(11)再掲載・初出Doblog2004/10/23

       つゆ・・・・・・・・・・・・高田敏子

    草の音
    虫の声

    草の中に身を沈めていると
    私も小さな 虫のよう
    夏の葉に光る一滴の
    つゆの面に
    私が写っている

    私の小さな存在が
    なお小さな つゆの面に
    写っている

    私は つゆと一つになる
    まろやかに その身をつつむ
    つゆの心になってゆく

    つゆの心に
    なりきったとき
    つゆは葉先にすべり
    ころげて
    地に落ちて 消えた

------------------------------------------
つづけて高田敏子の詩である。この詩は『薔薇の木』(昭和54年)に載るもの。



・・・それは、紗の服かなんかを着込んで、/そして、月光を浴びてゐるのでした。・・・・・・・・・・・・中原中也
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         幻 影・・・・・・・・・・・・・・・中原中也

     私の頭の中には、いつの頃からか、
     薄命さうなピエロがひとり棲(す)んでゐて、
     それは、紗(しや)の服かなんかを着込んで、
     そして、月光を浴びてゐるのでした。

     ともすると、弱々しげな手付をして、
     しきりと 手真似をするのでしたが、
     その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
     あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

     手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
     古い影絵でも見てゐるやう───
     音はちつともしないのですし、
     何を言つてるのかは 分りませんでした。

     しろじろと身に月光を浴び、
     あやしくもあかるい霧の中で、
     かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
     眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

     ・・・・・・中原中也詩集『在りし日の歌』から・・・・・・・
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今日、10月22日は中原中也の忌日であるから、それを記念して、この詩を載せる。
山口市にある「中原中也記念館」のリンクを貼っておくのでアクセスされたい。

Wikipedia「中原中也」にも詳しい経歴などがある。今に至るも、よく読まれている詩人である。

→ 「山羊の歌」に載る詩をいくつか読める。

大正12年(1923年)3月 - 落第。京都の立命館中学第3学年に転入学。晩秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
冬、劇団表現座の女優で広島出身の長谷川泰子を知り、翌年より同棲。
大正13年(1924年)- 富永太郎と出会い、フランス詩への興味を抱く。
大正14年(1925年)- 小林秀雄と出会う。
3月 - 泰子とともに上京。早稲田大学予科を志すも果たさず。
11月 - 泰子が小林の元に去る。富永太郎病没。
大正15年(1926年)4月 - 日本大学予科文科へ入学するも9月に退学する。
11月頃、アテネ・フランセへ通う。『山繭』に『夭折した富永』を寄稿。
昭和2年(1927年)12月 - 作曲家諸井三郎と出会い、音楽団体「スルヤ」に出入りするようになる。
昭和3年(1928年)5月 - 「スルヤ」第2回発表会にて、諸井三郎が中也の詩に作曲した『朝の歌』『臨終』が歌われる。父謙助死去。葬儀に帰省参列しなかった。
昭和4年(1929年)4月 - 河上徹太郎、大岡昇平らとともに同人誌『白痴群』を創刊。翌年終刊するまでに6号を刊行。

ざっと若い頃の経歴を見ても、長谷川泰子をめぐる小林秀雄とのことなど、いかにも一頃の文学者の典型のような情景である。
一流の文化人、芸術家というのは「平凡」ではあってはならない、という気がする。

↓ YouTube動画・町田康×中原中也『汚れっちまった悲しみに』を貼り付けておくので聴いてみてください。





白洲正子『かくれ里 愛蔵版 』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    白洲正子『かくれ里 愛蔵版 』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・新潮社 2010/09/24 刊・・・・・・・・・

白洲正子は今でも人気があり、よく読まれているらしい。
私は臍曲がりのところがあり、ベストセラーや話題の本には飛びつかないが、この本の紹介に、
私の住む所から山の方に(滋賀県の方に向いて)行ったところにある「宇治田原」のことが出ている、ということが判って読んでみる気になって取り寄せた。

この本の初版は1971/12に出たものだが、それを底本として、写真版を再製版し、当時取材撮影された別の写真版や新たに製作した地図を加えて、再編集したものである。
地図も2010/7現在の地名や名称をもとに製作されている。 写真版も鮮明で、きれいな本である。
カバー図版は、滋賀県の金剛寺蔵・日月山水図屏風。
下記の文章は、この本の「帯」に載っているもの。全文を引いておく。
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      白洲正子生誕100年。山深い里に息づく、日本のこころ。

      山里の自然に息づく伝承、歴史、人々の営み……。
      日本が高度成長期に沸く時代、あえて近江、京都、大和、越前の
      「かくれ里」を求め歩き、独自の美意識を全開に、
      古典の美と魂に深々と触れた白洲正子の代表作。
      カラー写真や地図を大幅に増補した待望の新版完成。
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白洲正子/シラス・マサコ

(1910-1998)東京・永田町生れ。薩摩隼人の海軍軍人、樺山資紀伯爵の孫娘。幼時より梅若宗家で能を習う。
14歳で米国留学、1928(昭和3)年帰国。翌年、白洲次郎と結婚。1943年『お能』を処女出版。
戦後、小林秀雄、青山二郎らを知り、大いに鍛えられて審美眼と文章をさらに修業。
1964年『能面』で、また1972年には『かくれ里』で、ともに読売文学賞を受賞している。
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さて、私が読みたかった記事は「田原の古道」276ページから始まる16ページに及ぶものにある。
メモを取りながらの取材であろうが、細かいところには記載に大ざっぱなところがあり、正確ではない。
例えば、こんな記事である。

<京都から、奈良街道を南下すると、宇治をすぎるあたりから、左の方にあまり高くない岡がつづいている。
 これを綴喜(つづき)の岡というが、麓には、井出の玉水、蟹満寺、小野小町や橘諸兄などの旧跡があり、
 ・・・・・非常に古くから開けていた地方である。>

先ず地名の記載に間違いがある。「井出×」「井手○」である。他所の人は、たいがいこの間違いをする。
添付される地図には正しい地名が書かれているのであるから、なおさらのことである。
「綴喜」郡は木津川の両岸に開けたところで、私の住む旧「青谷」村、旧「多賀」村、井手町は左岸にあるが、
南北には4キロほどしかない。木津川の右岸の方が南北には長くて、ほぼ10キロくらいはあろうか。
地元の人間が「綴喜(つづき)の岡」という場合は、この右岸の西山を指すのが普通であって、この記載は不確かである。
この岡の奥に「宇治田原」があるのは確かであるが、「綴喜」郡田原村、宇治田原村が合併して今の宇治田原町になっている盆地の村である。
いま言ったように宇治田原は盆地であるから、白洲の言う「綴喜(つづき)の岡」というのは、ほんの2キロくらいの奥行きしかない。
彼女は独りで、これらの「かくれ里」を歩いたのではなく「案内人」があった。
だから初出の「芸術新潮」に連載されたときに、これらの間違いを指摘すべきであったのだが、指摘しなかったのか、彼女が従わなかったのか、
いずれにしても、記載には正確を期してもらいたい。
それに「蟹満寺」というのは井手の玉水からは、ずっと南にある寺で国宝の仏像を蔵する有名なところだが、行政的にも旧「相楽郡」棚倉村綺田(かばた)にあり、
現在は「木津川市」に属するから「綴喜」郡とはかけ離れたところに存在するのである。
私が「大ざっぱ」という所以である。

私の気づいたところ以外にも、あちこちに、こういう間違いは多いだろう。これらはメモの混同などが原因である。
得てして有名人は独断的で、他人の意見や親切を無視しがちである。
もともと他所の人間なのだから、地理や地名には不案内なのだから、他人の指摘には謙虚に従うべきだ。
こんな間違いに、いくつも突き当たると、折角の名文が色あせてしまうではないか。
ほぼ全文を読み進めたが、私にも他所のことは正確には判らないので、よく知ることのみ指摘するにとどめておく。

この宇治田原には、「与謝蕪村」の門弟が居て、蕪村も何度か脚を運んでいる文書が残っている。
それらについては彼女は何も書いていないが、案内人も説明しなかったのか、知らなかったのか、あるいは彼女が無視したのか。

巻末に「あとがき」があって、そこには、こう書かれている。

   <芸術新潮に、二年間にわたって連載した随筆である。はじめは一年のつもりだったのが、
    とても入りきらなくて、長くなってしまった上、近畿地方だけのせまい範囲に終った。
    それでも充分書けなかったし、一生かかっても書きつくせるものではないと思う。
    先日、ラジオを聞いていたら、今西錦司氏が、「日本には風景学というものがあっても
    いいね」といっておられた。勿論、生物学の立場から、一つ一つの動物や昆虫について
    研究する人は沢山いても、植物や人類まで含めた大きな景色、たとえば高い山の上から
    三千世界を眺め渡すような、綜合的な学問があってもいいというような意味である。
    そこで、私は、はたと思い当ることがあった。私が漠然としたいと考えていたのは、
    まさしくそういうものではなかったか。あえて学問とはいうまい。・・・・・
    自然が語る言葉に耳をかたむけること、──二年間にわたって、私が無意識の中に、
    曲りなりにもつとめて来たのはそれであった。・・・・・・>

この本は気軽に読みたい。 エッセイなのだから。
図版も写真も地図も鮮明だから「愛蔵版」と銘打ってあるのも、うなずける。
本文の中で、彼女は書く。

     <秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんの
      ちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」
      の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯
      があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。>

この本の「主旨」は、この一文に尽きている。

里いもの葉がゆれている/朝露を まろばせて/清らに優しい 露の玉・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(10)再掲載・初出doblog2004/10/22

       露の玉・・・・・・・・・・・・高田敏子

     里いもの葉がゆれている
     朝露を まろばせて
     清らに優しい 露の玉

     私は娘の涙を思った
     歯痛に泣いた幼い日の
     涙の玉

     嫁ぐ日のよそおいの
     頬に光った 涙の玉

     娘よ 娘
     あなたが泣くときは私も泣いて
     過ぎてみた月日

     よろこびの 悲しみの
     どちらの涙もなつかしく


この詩は『季節の詩*季節の花』(昭和49年)に載るものである。



ぶどう棚を渡る風に/実りを終えて/安堵の心をみせての/静かな落下・・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(16)再掲載・初出2005/10/23

       ぶどう棚の下・・・・・・・・・・高田敏子

     ぶどう棚を渡る風に
     葉は枝を離れて落ちる
    
     実りを終えて
     安堵の心をみせての
     静かな落下

     葉は落ちて
     地から見上げているよう
     光のよさを
     光を受けて紫の色増す
     実りのよさを

     ぶどう棚の下に座って
     落ち葉の一枚を
     ひざにのせている私

     風は少し冷たくても
     秋の深まりを素直に受けて
     落葉からまなぶ
     心の静けさ

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)


上原善広『異形の日本人』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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      上原善広『異形の日本人』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・・新潮社2010/09/17刊 ・・・・・・・・・・・

     虐げられても、貧しくとも、偏見に屈せず、たくましく生きた人たちがいた。
     哀しい宿命のターザン姉妹、解放同盟に徹底的に弾圧された漫画家、
     パチプロで生活しながら唯我独尊を貫く元日本代表のアスリート、
     難病を患いながらもワイセツ裁判を闘った女性、媚態と過激な技で勝負する孤独なストリッパー……
     社会はなぜ彼らを排除したがるのか? 
     マスメディアが伝えようとしない日本人の生涯を、大宅賞作家が鮮烈に描く。
     大宅ノンフィクション賞受賞第一作! タブーにこそ、人間の本質が隠されている。


新潮社の読書誌「波」2010年10月号より 著者のコメントを引いておく。
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         虐げられた人びとへの旅      上原善広

 タブーには何か、人間の本質のようなものが隠されているのではないか。私が「路地」(被差別部落)にこだわるのも、そのような思いが根底にあるからだ。
 幸いにも、日本全国の路地を巡った旅をまとめた『日本の路地を旅する』(文藝春秋)が、本年度の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。本作は受賞後、第一作にあたる。
 受賞作は、どちらかといえば土地を巡る旅であったが、本作では人を旅している。私が当初からもっていたテーマについて、さまざまな形で禁忌と見なされている人に取材して歩いたのだった。
 タブーというのは、何も路地だけではなく、さまざまな形で社会に存在している。
 例えば、第一章「異形の系譜」、第四章「クリオネの記」は、障害者問題をテーマにしている。ある謎の姉妹をめぐって、東大教授の研究まで辿りつく騒動の顛末。そして、障害者の性と、あるセクハラ事件について考えたものである。
 路地と障害者というのは、まったく別の問題、テーマであるように思われるかもしれないが、どちらも社会的にはまだまだタブーとして扱われている。また、同和教育の洗礼を受けている私は、路地も障害者も「人権」というくくりの中で学生時代から関わってきた。そのため、私にとってはごく自然な取り組みであった。とくに第四章に出てくる難病の女性は、高校時代からボランティアをしていた、私の後輩でもあった。
 それから一転して第三章「溝口のやり」は、陸上競技のやり投げ現アジア記録保持者、溝口和洋の半生記である。彼は破天荒な言動から陸上界ではタブー視されてきた存在だった。しかし彼が日本人でなければ、その評価もかなり違った形になっていたことは間違いない。
 存在自体が実は非合法であるストリップ。その中でも間もなく消滅すると言われている花電車の芸人と行動を共にしたのが、第五章「花電車は走る」。決して幸せとはいえない家庭環境で育った一人の女性が、自分の芸一つをもって、真っ直ぐに生きようともがいていく様を描いた。
 最後に、路地をテーマにしたものでは二つある。第二章「封印された漫画」は、解放同盟による糾弾から封印されてしまったある劇画に焦点をあて、双方の不幸な誤解について取材、考察した。
 最終章「皮田藤吉伝」では、現在でも多くの舞台や歌謡曲で取り上げられる伝説の噺家、桂春團治を取り上げた。彼はどのようにして一代で名跡に成り上がり、伝説となったのか。路地からの視点で、その内実に迫ろうと試みた、本書のための書き下ろしである。
 こうして一冊に組み上がってみると、これら群像の中に、実は個性豊かな日本人の素顔が見えてくるようでもあると、私は思った。それは筆者の自惚れなのか、読者の判断を仰ぎたい。
(うえはら・よしひろ ノンフィクション作家)

上原善広/ウエハラ・ヨシヒロ

1973(昭和48)年、大阪府生まれ。大阪体育大学卒業後、様々な職を経た後ノンフィクションの取材、執筆をはじめる。2010年『日本の路地を旅する』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『被差別の食卓』『聖路加病院訪問看護科―11人のナースたち―』『コリアン部落』などがある。

↓ 編集者の「つぶやき」の一部を紹介する。
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         無頼の「やり投げ」アスリート

 本書の「第三章」で、「やり投げ」の選手、溝口和洋氏が取上げられています。
 ソウル五輪にも出場した溝口氏は、80年代当時、従来の技術論とは違う独自のダイナミックな投擲フォームを貫きながらも、喫煙も続け、食物の好き嫌いも激しい選手でした。しかし、過重なウェイトトレーニングを早くから行い、「根性」を主張するも自らの激しいトレーニングで裏付けしました。彼の独自のアスリート人生は陸上競技の世界やマスコミからは異端視され続けていました。しかし、常識を逸脱し、無頼なアスリートであるがゆえに、とても魅力的でもあります。
 溝口氏のやり投げのアジア記録は、現在でも破られていません。
 引退後はパチプロで生計を立て、全国で投擲のコーチをし、あのハンマー投げの室伏広治選手にも教えを授けました。そして、現在は郷里で農業を営んでいるそうです。



夕日の赤/あれは ほおずきの赤/風車の赤/柿の実の赤/糸につるした折鶴の赤の色・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(15)再掲載・初出Doblog2005/10/22

         夕日・・・・・・・・・・高田敏子

     すすきの穂のまねく
     秋の道
     まねかれ
     歩みつづけて
     岬のはずれまで来てしまった

     もう先へは行きようもないけれど
     ひろがる海はおだやかで
     やさしい小舟を浮かばせている

     水平線もはっきり見えて
     海上近くに落ちかかる
     夕日の赤
     あれは ほおずきの赤
     風車の赤
     柿の実の赤
     糸につるした折鶴の赤の色

     夕日は刻々海に近づいて
     円のはしが
     水平線に接したと思うと
     刻々の 時の早さを見せて
     沈んでいった

     沈みきったあとも
     私はまだ 赤の色を追っている
     母が髪に結んでくれたリボンの
     赤の色も思い出され

(詩集『こぶしの花』1981年花神社刊より)

猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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   猫と生れ人間と生れ露に歩す・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

「露」は、夜晴れていて風のないとき、放射冷却によって地面が冷えると、それに接する空気が冷えて、大気中に含まれる水蒸気が水滴になるものである。
秋に多いので秋の季題になっている。
一面に降り、しぐれのように見えるのを「露時雨」という。
「古今集」に

       啼き渡る雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩の上の露

という歌があるが、「涙の露」「白露」「露けき」などの「思い」にかかわる用例とともに、「消ゆる」「徒(アダ)なる」のような「はかなさ」の一面が強調されてきた。
情感の深さにひびくとともに、「むなしい」ところが詠われる。

    露とくとく試みに浮世すすがばや・・・・・・・・松尾芭蕉

    しら露やさつ男の胸毛ぬるるほど・・・・・・・・与謝蕪村

    露の世は露の世ながらさりながら・・・・・・・・小林一茶

などが古句の名句とされている。
因みに言うと、一茶の句は長女を乳児のうちに死なせたときの句である。
掲出の楸邨の句は現代俳句として、古句とは違った心象の世界を描いて秀逸である。

以下、明治以後の句を引いて終る。

 病牀の我に露ちる思ひあり・・・・・・・・正岡子規

 露今宵生るるものと死ぬものと・・・・・・・・岡本松浜

 疾くゆるく露流れ居る木膚かな・・・・・・・・西山泊雲

 露の道高野の僧と共に行く・・・・・・・・池内たけし

 露けさの弥撒のをはりはひざまづく・・・・・・・・水原秋桜子

 巨杉の露の日筋を十方に・・・・・・・・高野素十

 落ちかかる葉先の露の大いさよ・・・・・・・・星野立子

 金剛の露ひとつぶや石の上・・・・・・・・川端茅舎

 露の花圃天主(デウス)を祈るもの来る・・・・・・・・山口誓子

 ショパン弾き了へたるままの露万朶・・・・・・・・中村草田男

 露の野やふとかはせみを見失ふ・・・・・・・・五十崎古郷

 露燦々胸に手組めり祈るごと・・・・・・・・石田波郷

 露踏んで相聞の句をつくらばや・・・・・・・・京極杞陽

 露の中つむじ二つを子が戴く・・・・・・・・橋本多佳子

 露の夜の一つのことば待たれけり・・・・・・・・柴田白葉女

 露の土踏んで脚透くおもひあり・・・・・・・・飯田龍太

 幾万の露けき石とわれひとり・・・・・・・・白石蒼羽

 白露や死んでゆく日も帯締めて・・・・・・・・三橋鷹女

 白露の瞳はかなしみの鈴をふる・・・・・・・・石原八束

 露の戸を敲く風あり草木染・・・・・・・・桂信子

 白露の世尊寺道をつくりをり・・・・・・・・大峯あきら



添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎
492-shishiodoshi鹿おどし

   添水鳴る遠ざかり来てあきらかに・・・・・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

「添水」(そうづ)はまたの名を「鹿おどし」シシオドシとも言う。
竹筒の中央に支点を作り、一方を削って水が溜まるようにした装置である。
水が溜まって重くなると竹が下がり水が流れ出て軽くなり、はねあがる。
すると、他端が急に下がり、石や金属を打って、コンと音を発する。
この音により山田を荒らす鳥獣を驚かして追い払う、という仕掛けである。
それから派生して、庭園などに設けて、流水を利用して、音を楽しむようにしたものである。
写真は、庭園にしつらえたものである。
添水というのは、字義からいうと「走り水」に添う、つまり「水路」のことから派生したものであろう。
水を引いて来て、その水を利用して「威し」の仕掛けを作る。

玄賓僧都が

    山田守るそほづの身こそあはれなれ秋果てぬれば訪ふ人もなし

と詠んだのが本意と言われている。
九州では兎鼓とか左近太郎とか呼ばれ、山口では「さこんた」とも言い、また訛って「迫の太郎」とも言われていたという。
水による、しゃれた動物おどしだが、実用には、ほど遠い音だと言える。

こういう音の威しの他に、「添水唐臼」といって、杵を仕掛け、米や稗を搗くものがある。
「水車」の類と言えば判りやすいだろう。

以下、添水を詠んだ句を引いて終る。

 ぎいと鳴る三つの添水の遅速かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ばつたんこ水余さずに吐きにけり・・・・・・・・茨木和生

 ばつたんこまた山の水受け始む・・・・・・・・朝妻力 

 添水かけて木々からびゆく響かな・・・・・・・・大須賀乙字

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る・・・・・・・・西山誠

 闇ふかく添水は己が音を待つ・・・・・・・・有働亨

 京鹿の子咲くと添水のはずみけり・・・・・・・・佐野青陽人

 闇中に声あるものは添水かな・・・・・・・・山中北渚

 ふるさとや添水かけたる道の端・・・・・・・・吉田冬葉

 あれ聞けと尼のかけたる添水かな・・・・・・・・前川舟居

 詩仙堂花なき庭の添水かな・・・・・・・・貞永金市

 失ひし時の重さに添水鳴る・・・・・・・・高橋謙次郎

 手に掬ふ添水に音を生みし水・・・・・・・・大岳水一路

 ばつたんこ法鼓のごとくこだませり・・・・・・・・山本洋子

 次の音自づと待たるばつたんこ・・・・・・・・脇坂豊子

 落柿舎の静けさとまる添水かな・・・・・・・・荒木千都江


短歌に詠まれるものを見つけるのが難しいのだが、こんな歌をひとつ見つけた。

  竹叢に淡く日の射す寺の庭思はぬ方に添水の音す・・・・・・・・・・・・・・神作光一 『未来都市』02年より



父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   父を詠みし歌が少なし秋われは
      案山子(かかし)のやうに立ちてゐたりき・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

この頃では、農民が鳥よけのために実用に立てるものは殆ど見かけなくなった。
昔は、写真のような素朴な案山子が立っていたのだが、今ではネットを張ったり、「爆音器」でプロパンガスを爆発させたりして鳥を威すようになり、メルヘンはなくなってしまった。
この頃では廃棄された古いマネキン人形を田んぼに立ててあるのを見ることがある。
変になまめかしいもので、スズメなどの鳥が、どう感じるかは判らない。

私の歌は、もちろん案山子を詠んだものではなく、「父を詠んだ歌」が少ないというのが主眼であるから、ここで案山子のことを、あれこれ書くのも語弊があるかも知れない。
私の父は厳しい人で、反抗しては、よく、こっぴどく叱られたものである。
そんなときは、歌のように私は「案山子」のように突っ立っていたものである。
そんな回想が、この歌には込められているのである。
「案山子」かかしというのは、田畑の収穫を鳥獣から守る仕掛けだが、「嗅がし」から出た言葉だという。
古名は「曾富騰」(そぼと)で、『古事記』に「少毘古那神を顕はし白(まを)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田の曾富騰といふぞ。この神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と書かれている。
この「そぼと」は「そぼつ」に変り、案山子と添水の二つに分かれて用いられてゆく。そめ、しめ、とぼし、がんおどし、鳥かがしなどと各地で使われている。

以下、案山子、鳥威しを詠った句を引いて終る。

 水落ちて細脛高きかがしかな・・・・・・・・与謝蕪村

 案山子たつれば群雀空にしづまらず・・・・・・・・飯田蛇笏

 倒れたる案山子の顔の上に空・・・・・・・・西東三鬼

 案山子運べば人を抱ける心あり・・・・・・・・篠原温亭

 案山子翁やあち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 夕空のなごみわたれる案山子かな・・・・・・・・富安風生

 胸うすき案山子舁がれゆきにけり・・・・・・・・只野柯舟

 案山子相知らず新顔ばかりにて・・・・・・・・天野莫秋子

 抱へゆく不出来の案山子見られけり・・・・・・・・・松藤夏山

 かの案山子もつとも睨みきかせをり・・・・・・・・・河野白村

 鳥おどしこれより秋のまことかな・・・・・・・・小杉余子

 鳥威し簡単にして旅に立つ・・・・・・・・高野素十

 鳥おどし動いてをるや谷戸淋し・・・・・・・・松本たかし

 母恋し赤き小切の鳥威・・・・・・・・秋元不死男

 山風にもまるる影や鳥おどし・・・・・・・・西島麦南

 結び目だらけにて鳥威しの糸・・・・・・・・加倉井秋を

 金銀紙炎のごとし鳥威し・・・・・・・・加納流笳

 威し銃たあんたあんと露の空・・・・・・・・田村木国

 強引に没日とどめて威し銃・・・・・・・・百合山羽公

 怺へゐしごとくに威し銃鳴れり・・・・・・・・古内一吐



牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


    牧神の午後ならねわがうたた寝は
      白蛾の情事をまつぶさに見つ・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

秋の季節は生き物の世界でも越冬に備えて、卵の状態で冬を越すものが多いから交尾をして卵を産むのに忙しい繁殖期だと言えるだろう。
「白蛾の情事」というのも実景としても見られるものである。
しかし、この歌ではそれは添え物であって、私の詠いたかったのは「牧神の午後」というところにある。
はじめに、ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲(ピアノ独奏) 演奏:土佐礼佳(全音版)のさわりの部分を出しておく。
この動画は「全音」企画のYouTube版らしいので、削除されることはないと思われる。

 シュテファヌ・マラルメについては ← が詳しい。
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 ↑ポール・パレェ指揮による「ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲」CDのジャケット。
 
『牧神の午後』 L'Après-Midi d'un Faune はフランスの詩人シュテファヌ・マラルメの「長詩」である。
着想そのものはギリシァ神話に基づいている。
物語自体は非常に単純なものである。水辺でニンフたちが水浴びをしている。
そこへ彼女たちの美しさに目を奪われた牧神パンが仲間になりたいとやって来るが、ニンフたちはパンが半獣半人の姿なので驚いて逃げてしまう。
追っかける、逃げる、の繰り返しの中で、一人のニンフだけがパンに興味を示し、パンも求愛の踊りをする。
愛は受け入れられたかに見えたが、パンが彼女を抱きしめようとするとニンフは逃げてしまう。
パンは取り残されて悲しみにくれたが、彼女が落としていったスカーフを見つけ、それを岩の上に敷いて座り「自慰」(オナニー)する。
マラルメは、これを劇として上演したかったが無理と言われ、マネの挿絵付の本として自費出版した。
これに感動したドビュッシーが、マラルメへのオマージュとして『牧神の午後への前奏曲』を作曲する。
マラルメの夢のバレエ化が、20年後にニジンスキーによって実現されることになったのである。
初演は1912年5月29日、ディアギレフ・ロシア・バレエ団で、パリのシャトレ劇場において、ワスラフ・ニジンスキーの主演で催行された。
当時、このラストシーンで、ニジンスキーは舞台の上で恍惚の表情を見せ、しかも最後には「ハー」と力を抜く仕草までして見せたと言い、
彼の狙い通り「スキャンダル」の話題を引き起こしたという。
クラシック・バレーに仕組まれた歌劇については ← に詳しい。

 ↓ 写真は牧神パンとニンフのイメージである。
pan_nymph牧神の午後イメージ

↓ 写真に「蚕蛾」を出しておく。
PICT7372.jpg
この蛾は、人間が改良したもので、飛ぶ力は、全く、ない。羽根は退化して体重に比べて極めて小さい。
蚕蛾の場合は、ここまで蛹から成虫になること自体が人工的であって、普通は繭から糸を取り出す段階で熱湯で茹でられてしまって死んでしまうのである。
蛾は雌雄が引き合うのに雌が出す「フェロモン」を雄が感知して、羽根を震わせながら狂ったように寄ってくる。
今では、こういう蛾の習性を利用して、「生物農薬」として、特有のフェロモンを合成して、特定の蛾の害虫の誘引に使っている。
蛾にとっては交尾は「本能」であって「情事」との認識はないのだが、この歌の中では「擬人化」して、情事と詠ってみた。擬人化は文芸の常套手段である。

子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子
モズ雄

   子がなくて白きもの干す鵙の下・・・・・・・・・・・・・・・桂信子

「鵙」モズの高鳴きがひびく季節になってきた。
モズは燕雀目モズ科の猛禽。やや大きめものでも捕食する。生餌を食べる鳥である。
掲出の写真①はモズの雄で、眼のところに横に黒い筋(過眼線)がある。
写真②はモズの雌で、雄のような黒い筋がない。色も相対的に地味である。
mozu02-2モズ雌

モズは一年中いる「留鳥」だが、秋には先に書いたように「高鳴き」をするが、これは縄張り宣言のための警戒音と言われている。
モズは「百舌」とも書くが、これは他の鳥の鳴き真似をするからで、じっと聞いていると、さまざまの鳥の鳴き声を真似している。
繁殖期も含めて、高鳴きをすることがないから、目立たないので、気がつかないだけである。
「高鳴き」のシーズンは、人が近づくだけでも、けたたましく鳴きたてる。
秋には「モズの早贄(はやにえ)」と言って、捕らえた餌を尖った枝の先などに刺しておく習性がある。
これは蓄食のためだというが、乾燥してこちこちになったものは食べないのではないか。もともとモズは生餌を食べる鳥である。
写真③はトカゲを捕らえたところ。
mozu03モズはやにえ

↓ 木の枝に刺した早贄(はやにえ)の写真。
hayanie4モズはやにえ

餌は昆虫、トカゲ、蛇、魚、野ねずみ、蛙、小鳥など多岐にわたる。猛禽と呼ばれる所以である。
モズについては私の歌を掲出して昨年に書いたことがあるので、参照してもらいたい。
このようにモズの高鳴きが目立つのが秋なので、鵙の季語は秋になっている。
すでに「万葉集」にもモズを詠んだ歌があるほど文芸の世界では、古い付き合いである。
『本朝食鑑』に「およそ鵙、つねに小鳥を摯(と)りて食ふ。その声高く喧くして、好からず」とあり、猛く喧しい鳥と考えられてきたのも秋の「高鳴き」のイメージから定着したものであろう。
俳句に詠まれる句も多い。
掲出した桂信子の句は、早くに夫に先立たれて「子を産めなかった」女の哀しみをモズに寄せて情感ふかく詠まれている。
以下、モズの句を引いて終る。

 我が心今決しけり鵙高音・・・・・・・・高浜虚子

 大空のしぐれ匂ふや百舌の贄・・・・・・・・渡辺水巴

 われありと思ふ鵙啼き過ぐるたび・・・・・・・・山口誓子

 かなしめば鵙金色の日を負ひ来・・・・・・・・加藤楸邨

 御空より発止と鵙や菊日和・・・・・・・・川端茅舎

 百舌鳥に顔切られて今日が始まるか・・・・・・・西東三鬼

 たばしるや鵙叫喚す胸形変・・・・・・・・石田波郷

 逢はざるを忘ぜしとせむ雨の鵙・・・・・・・・安住敦

 鵙は嘴なほ血塗らねば命絶ゆ・・・・・・・・中島月笠

 鵙鳴けり日は昏るるよりほかなきか・・・・・・・・片山桃史

鵙の贄叫喚の口開きしまま・・・・・・・・佐野青陽人

 鵙の贄まだやわらかき日ざしかな・・・・・・・・塩尻青茄

 生きものの形ちぢみて鵙の贄・・・・・・・・山口速

 鵙鳴いて少年の日の空がある・・・・・・・・菊池麻風

 夕百舌やかがやくルオー観て来たり・・・・・・・・小池文子



浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・杉田久女
img_22ソバの草

    浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花・・・・・・・・・・・・・・・杉田久女

信州は蕎麦の名産地として名高い。
この句は浅間、小諸など長野県の有名な地名を配して「地名の喚起力」によって格調高い。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

   粟谷は山より暮れてゆく辺り夜目にも白く蕎麦の花咲く・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。

buckwheat-6ソバ畑

buckwheat-7ソバの花

蕎麦は正式には「ソバムギ」というらしい。ソバムギは中央アジアを原産地とするタデ科の一年草。
夏または秋に茎の先や葉腋から出る枝の先に短い総状花穂を出し、白または淡紅色の小花をつける。
播種時期によって夏ソバと秋ソバに分かれる。夏ソバは夏のはじめに種を蒔き夏の終わりに花をつけるが、秋ソバは夏の終わりに種を蒔き秋に開花する。
歳時記では「秋そば」を指すことが多い。実は三角稜で大粒。これから蕎麦粉を作る。
播種から二ヶ月ほどで実が収穫できるので昔は「救荒作物」としても栽培された。
『続日本紀』には養老6年(722年)の夏は雨が降らず、稲が育たなかったため、凶作に備えて元正天皇が蕎麦を植えさせた、という記述が見え、
奈良朝以前に日本に伝えられたことがわかる。

↓ 写真④はソバの実である。
buckwheat-5ソバの実
夏にも秋にも収穫できることから、米の作柄を見てからでも間に合う便利な作物だった。
ソバ栽培の発祥は近江の伊吹山下と言われるが、次第に東へ移り、甲斐、信州が産地として有名になった。

蕎麦の花は秋の季語だが

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな・・・・・・・芭蕉

 山畑や煙のうへのそばの花・・・・・・・・蕪村

 道のべや手よりこぼれて蕎麦の花・・・・・・・・蕪村

 山畠やそばの白さもぞつとする・・・・・・・一茶

などの句が名句として知られている。
山畑などに多く見られ、さびしげな花で夕暮れ時が特に印象が深い花である。
以下、明治以後の句を引いて終わる。

 降りいでし月下ほのかに蕎麦の花・・・・・・・・水原秋桜子

 そばの花山傾けて白かりき・・・・・・・・山口青邨

 花蕎麦のひかり縹渺天に抜け・・・・・・・・大野林火

 花蕎麦や日向の山はわが山のみ・・・・・・・・中村草田男

 雁(かりがね)やけふはなやぎし蕎麦の紅・・・・・・・・石田波郷

 秩父路や天につらなる蕎麦の花・・・・・・・・加藤楸邨

 花蕎麦や見ゆる限りを送らるる・・・・・・・・木下夕爾

 蕎麦畑のなだれし空の高さかな・・・・・・・・沢木欣一

 山村といふも四五戸や蕎麦の花・・・・・・・・長沢青樹

 母にまだとる齢あり蕎麦の花・・・・・・・・村松ひろし


さんま さんま、/そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて/さんまを食ふは・・・・・・・・・・佐藤春夫
佐藤春夫記念館

      秋刀魚(さんま)の歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤春夫

     あはれ
     秋風よ
     情(こころ)あらば
     伝へてよ
     ───男ありて
     今日の夕餉に
     ひとりさんまを食(くら)ひて
     思ひにふけると。

     さんま さんま
     そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
     さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
     そのならひをあやしみ なつかしみて女は
     いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかひけむ。
     あはれ、人に捨てられんとする人妻と
     妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
     愛うすき父を持ちし女の児は
     小さき箸をあやつりなやみつつ
     父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
     あはれ
     秋風よ
     汝(なれ)こそは見つらめ
     世のつねならぬ団欒(まどゐ)を。

     いかに秋風よ
     いとせめて
     証(あかし)せよ かの一ときの団欒
     ゆめに非ずと。

     あはれ
     秋風よ
     情あらば伝へてよ、
     夫を失はざりし妻と
     父を失はざりし幼児に伝へてよ
     ───男ありて
     今日の夕餉に ひとり
     さんまを食ひて
     涙をながすと。

     さんま さんま、
     さんま苦いか塩つぱいか。
     そが上に熱き涙をしたたらせてさんまを食ふは
     いづこの里のならひぞや。
     あはれ
     げにそは問はまほしく をかし。
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秋刀魚の季節になると、決まったように、この詩の一節が頭に浮かぶ。
写真②に掲げる「さんま寿司」は小ぶりで、あっさりした味で、私の好物である。一年中、ここに行けば、いつでも買える。

この春夫の詩の背景には、谷崎潤一郎の妻・千代への思いが秘められていることは、よく知られている。
谷崎の推薦で出世作『田園の憂鬱』などを1918年に発表しはじめた春夫は、谷崎との親交を深め、
同棲していた女性と1920年に別れた時には、小田原の谷崎宅に一時滞在したほどだった。
当時、谷崎は他の女に夢中で家庭を顧みなかった。春夫の千代への同情は、いつしか恋愛感情へと深まった。
この詩の第二連などのように、まるで物語の一場面のような詠いぶりである。

いろいろあった後、ようやく春夫と千代が一緒になれたのは1935年のことであった。千代は潤一郎と離別して春夫と結婚。
双方交際は従前どおり・・・・という三人連名の挨拶状が関係者に送られ「細君譲渡事件」として話題を呼んだという。

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↑「秋刀魚の歌」の碑が、JR紀伊勝浦駅前に建てられている。

新宮市が春夫の故郷だが、掲出写真に掲げるように東京の佐藤邸を移築した「佐藤春夫記念館」が、熊野速玉大社の境内脇に建っている。
この地の人たちは、郷土の生んだ作家を誇りにしている。

↓ 原稿は違うが佐藤春夫の自筆原稿の写真を出しておく。
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草弥の詩作品「散文詩・宇宙暗闇と生命の光」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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──草弥の詩作品(26)──再掲載・初出Doblog2004/10/11

     散文詩・宇宙暗闇と生命の光 ・・・・・・・・木村草弥
          ───la obscurite cosmique dans la clarte de la vie

人間が集い住む場所──都市の中に、夜でも光が溢れるようになって、もうどれくらいの歳月が経ったのだろう?
 人工衛星から地球を撮影すると、夜、宇宙の暗闇と一つながりの半球に、都市がある場所だけ光が見える。
それは、天上に輝く星の光に似ているようでもあり、清流の上を飛ぶ蛍を思い出させるようでもある。
暗闇の中の光は、恐らく太古の人類にとっての炎の記憶に結びついている。
蛍光灯によって照らし出されたフラットな室内照明よりは、暗闇に輝く街灯の方に喚起力がある。

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この前の戦争に狩り出されて南の島で蛍の何万という大群が樹にむらがっているのを見た兵隊の話がある。「蛍の木」という。
本来、自然界の文法においては、地上や水中で光るものは、必ず生命である。
ライアル・ワトソンは著書『未知の贈りもの』の中で、インドネシアの夜の海で船の下の巨大な発光体に出会った体験について書いている。
その正体は、無数のイカの発する光であった。
この出会いが、ワトソンが地球上の生命潮流の中を彷徨する一つのきっかけになったのではないか。

死という絶対の暗闇と交錯する時、生命の光は世界そのものと同じくらいの強度をもって、私たちの心に焼き付けられる。
都市のビルの高層レストランから外の夜景を見るとき、そこに広がる光の海の正体が、判りきったものだと思うことで、
私たちは何か大切なものを失ってはいないか?
地上の光は生命の作用であるという光の文法に立ち返るとき、はじめて私たちは、その大切なものを回復できるのではないか?
ユークリッドやトレミーをはじめとする古代の思想家は、光は目から放出されるものだと考えた。
何かを「見る」ということは、何かを「触る」ということと同じであると考えた。
生命の作用として、光の本性を考えると、それほど私たちの実感から離れているわけではない。

アマゾンのマナウス近郊で、夜、ワニの目を見に行ったことのある友人の話───。
ネグロ川に浮かぶフローティング・ハウスに一泊した。
アレクサンドルというインディオの青年に率いられて、ボートに乗ってネグロ川に漕ぎ出した。
月のない晩で、川の油のように滑らかな黒い水面と、川沿いの木々、そして、その上の天空が、少しづつ質感の違う一連なりの黒として私たちを包んだ。
アレクサンドルがサーチライトで照らし出す水辺の暗闇に、丸々と光の点が見えて来た。それがライトを反射して光るワニの両眼であった。

死と隣りあわせの南の島で、蛍の木を見つめる兵士たちを包んでいたものも、夜の海で巨大な発光体のイカに接近されたライアル・ワトソンの頭上にあったものも、全てを包み込む一つの巨大な「宇宙暗闇」ではなかったか?
私たちが築きあげた都市の中で、もはや無数のイカの群にも、蛍の木にも、ワニの目にも出会うことはない。
都市化によって、私たちが失ったもの、消え去ったものの大きさに心を震わせない人は果たしているだろうか?
私たちは何かを摑もうとしている。
太古から変ることなく私たちを包んできた宇宙暗闇の中で、何かを摑むために宇宙暗闇の中の光という文法が、太古から生命の印であった、という地点まで戻るしかない。

夜でも昼のように明々と照らし出された机の上で、私はインターネットをサーフィンし、エアコンの効いた部屋に閉じこもり、車のドアを閉める音が消えた後の静寂の中に、辛うじて文明以前の太古の響きを聴く。大自然の営みの気配は遠く去り、ガラスと鋼鉄の生命維持装置が、私の目を曇らせる。
しかし、そんな私のちっぽけな生命をも、宇宙暗闇はきっと包んでいる。
今もなお、インドネシアの海で光るイカの群が、南の島の木に集う何十万匹という蛍が、ネグロ川の川辺に潜むワニが、しっとりと包まれているように、文明の中に棲む、この私も、どこまで続くか判らない、果てしのない深い闇に抱かれて、今までに見たこともない素晴らしいものとの出会いを夢みている。 (完) (2004.10.03作)
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①「草弥の詩作品」では今までから、題名の次に副題としてフランス語表記を書いてきたが、ご存じのようにフランス語には「アクサンテギュ」や「アクサングラーヴ」という記号が付く。
私のワープロもフランス語表記の設定をしているが、これらは転送したりすると外されてしまう。
これが日本語という特殊なワード・プロセッサの操作を経由したシステムの弱点である。
英語、フランス語、ドイツ語など西欧語同士では、こういう障害は起らない、という。
専門家にも聞いてみた結果がこれである。
従って、私のフランス語表記の「副題」は、はじめから、そういう記号は、承知の上で外してあるので、予めご了承くださるよう一言申しあげる。
②この作品は詩集『免疫系』(角川書店2008/10刊)に収録してあるので、ご覧ください。


萩に蝶の風たつとしもなきものをこぼして急ぐいのちなりけり・・・・・・・・・・・・木村草弥
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   萩に蝶の風たつとしもなきものを
     こぼして急ぐいのちなりけり・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

萩は秋の七草のひとつとして日本の古来の花として挙げられてきたものである。
九月中旬から咲きはじめ、小花を次々と咲きついで、盛りの頃には散り敷いた落花で地面が色に染まるのであった。
花の色は紅色、白色、紫色などさまざまある。
これも品種改良されているらしい。

同じ歌集に載る私の歌

   妻を恃(たの)むこころ深まる齢(よはひ)にて白萩紅萩みだれ散るなり

というのがあるが、先に妻が亡くなってしまって「恃む」人も無くなった。

ところで、同じ「萩」を詠んでも、俳句と短歌では全然違った詠み方になるので、俳句の例句はたくさん挙げてきたので、今日は「短歌」の例を出来るだけ挙げてみる。
引用は「角川現代短歌集成」③自然詠から。

 この真昼神われに助力するらしく庭の上の萩ひとりゆれうごく・・・・・・・・・・前川佐美雄

 遠き萩それよりとほき空蝉の眸(まみ) 文学の余白と知れど・・・・・・・・・・塚本邦雄

 萩の花紅く散り敷く庭の隅うずくまる子は長く黙して・・・・・・・・・・・・・・武川忠一

 日の光朝より涼し白き花咲くべくなりし萩をたのしむ・・・・・・・・・・・・・・宮柊二

 忘れねば空の夢ともいいおかん風のゆくえに萩は打ち伏す・・・・・・・・・・・・馬場あき子

 曇天に触るる萩群ぴらぴらと天を掃くべく伸びあがりたり・・・・・・・・・・・・葛原妙子

 谷戸のぼる風に一夜をたわみつつ萩しろたへの花も散るべし・・・・・・・・・・・小中英之

 紅萩のこの世の秋のしだり枝のそよろと遊ぶ心見えたり・・・・・・・・・・・・・築地正子

 ひと夏のわれの憂ひの眼のやりど萩ひとむらを焼きつくすなり・・・・・・・・・・・岡野弘彦

 大寺の萩まんだらの夕まぐれ陰陽の水澄みてめぐれり・・・・・・・・・・・・・・辺見じゅん

 萩ほろほろ薄紅のちりわかれ恋は畢竟はがれゆく箔・・・・・・・・・・・・・松平盟子

 まなかひの萩むらさきに靡きつつ何にか遇はむつかのまの朝・・・・・・・・・篠弘

 ひとしづく露のおもひと告げなむか萩むらの萩咲きそめにけり・・・・・・・・・山中智恵子

 秋風のかたちを残す萩群のあな解体は激しかりしか・・・・・・・・・・・・長岡千尋

 感情のうねりのさまに白萩の撓みやまざり風すぎてなほ・・・・・・・・・・・・佐藤輝子


芋洗ふ女西行ならば歌よまむ・・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉
Satoimo2里芋

     芋洗ふ女西行ならば歌よまむ・・・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

ただ「芋」というと「里芋」のことである。
里芋は東南アジアの原産で、日本でも古くから栽培されて来た。種芋を植えて親芋として太らせ、子芋、孫芋と増やさせて、十月になると収穫する。
「さつまいも」と混同する人が居るが、別のものである。写真①が収穫した「子芋」である。
satoimo里芋の葉

写真②が里芋の葉である。茎の部分も食用になるが、それを干したものが「芋茎」イモガラ、ズイキである。
「八つ頭」あるいは地方によっては九里芋と称するものは親芋を食べるものである。蝦芋と称する芋もある。

『本朝食鑑』に「近世、八月十五夜月を賞する者の、必ず芋の子、青連莢豆をもつて煮食す。九月十三夜月を賞する者の、芋子薄皮を着するものをもつて衣被(きぬかつぎ)と称し、生栗と煮食す。正月三朝、芋魁(いもがしら)をもつて雑煮の中に入れて、ともにこれを賞す。上下家家、流例となすなり」とある。
この文章のはじめの部分は旧暦八月十五日を「芋名月」として祀る慣わしのことを言っている。
九月十三日には「皮のまま茹でた子芋」=衣被きぬかつぎ、を供えて月を愛でる習慣を言っているのである。
後半の部分では、お正月の雑煮の中に入れる頭芋(かしらいも)のことで、これは地方によって異なるから一概には言えないが、
関西では、必ず入れるものとされた。特に、家長や跡継ぎの男の子は、必ずこれを食べて、一家の長たれ、と言われたものである。だから「頭(かしら)芋」という。

cook256里芋と鶏肉のそぼろ煮
写真③は里芋と鶏肉のそぼろ煮の料理だが、今は昔ほどは里芋を料理に使わないかも知れない。
歳時記を見てみると、植物としての里芋を詠んだものが殆どであって、料理になった里芋ないしは子芋を詠んだものはない。
料理する場合には写真①のような芋の皮を剥かなければならないが、その際に芋に含まれる成分によって手がかゆくなるので、
昔は小桶に芋と水を入れ、均し鍬のようなものでガシガシ動かしながら皮を、あらかた擦り落としてから刃物で仕上げをしたものである。
里芋を洗うと手が痒くなるが、これは茎や球茎にシュウ酸カルシウム結晶が含まれているためである。
食品としての芋を洗う場合では、この球茎の皮の下2-3mmほどにある細胞内に多くのシュウ酸カルシウム結晶が含まれており、
大きな結晶が僅かな外力によって壊れて針状結晶へ変わり、外部へと飛び出る。
調理者や作業者が手袋などを用いずに洗うと、皮膚にこの針が刺さって痒くなる。
里芋は極めて若い時からシュウ酸カルシウムを針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に作り始める。
やがてこれらが集合して、大きく脆い結晶の固まりとなる。シュウ酸カルシウムは「えぐ味」の原因ともなり、
えぐ味はシュウ酸カルシウムが舌の刺さることによって起きるとする説や、化学的刺激であるとする説があり、
他にもタンパク質分解酵素によるとする説がある。
里芋は昆虫から身を守るためにこのようなものを作り出していると考えられている。

掲出の芭蕉の句は、まさに上に書いた動作をしている女を詠んだものである。
西行ならば、というところに芭蕉ならではの「滑稽味」が出ているというべきだろう。
以下、里芋を詠んだ句を引いて終わる。

 芋の露連山影を正しうす・・・・・・・・飯田蛇笏

 地の底の秋見届けし子芋かな・・・・・・・・長谷川零余子

 案山子翁あち見こち見や芋嵐・・・・・・・・阿波野青畝

 八方を睨める軍鶏や芋畑・・・・・・・・川端茅舎

 芋の露父より母のすこやかに・・・・・・・・石田波郷

 芋掘りし泥足脛は美しく・・・・・・・・・平畑静塔

 芋照りや一茶の蔵は肋あらは・・・・・・・・角川源義

 箸先にまろぶ小芋め好みけり・・・・・・・・村山古郷

 芋の葉の手近な顔も昏れにけり・・・・・・・・遠藤梧逸

 生涯を芋掘り坊主で終るべし・・・・・・・・美濃部古渓

 風の神覚むるや芋の煮ころがし・・・・・・・・野中久美子

 芋の露天地玄黄粛然と・・・・・・・・・平井照敏



ある晴れた日につばくらめかへりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
swallow5ツバメ

   ある晴れた日につばくらめかへりけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦

日本で夏の間、巣をつくり子を育てていた燕も九月に入ると、大きな川や湖などの葦原などに大集結して南へ海を越えて帰る準備に入る。
京都近郊では、淀川などが集結地となっているようである。何千羽、何万羽という大きな集団である。
この間もツバメは餌になる飛ぶ虫を捕らえなければならないから、そういう条件を備えた場所というと大きな川や湖ということになる。
この渡りは九月から十月にかけて続く。

この渡りを「帰る」と表現するが、日本が生まれ故郷なので「去る」というのがふさわしい、と書かれている本もある。
しかし彼らは南方系の鳥なので、日本は子育ての地とは言え、やはり仮住まいの土地というべく、南へ帰るというのが本当だろう。
「渡り鳥」の大型のものは渡りのルートが、ある程度解明されているが、ツバメのような小型の鳥は何万羽の集団とは言え、渡りが話題になることは少ないようだ。
私自身もツバメの渡りを見たこともない。日本列島を南下し、後は島伝いに南へゆくのであろう。


 ↑ マリア・カラスの歌う「蝶々夫人」から「或る晴れた日に」

掲出した安住敦の句は、歌劇「蝶々夫人」の有名な歌のフレーズ「ある晴れた日に」を踏まえているのは明らかで、そういう連想が、この句をなお一層、趣のあるものにしている。
私は第二歌集『嘉木』(角川書店)の中で

     翔ぶ鳥は群れから個へとはぐれゆき恐らくは海に墜つるもあらむ・・・・・・・・・木村草弥

という歌を作ったことがある。これはツバメその他の「渡り鳥」のことを思って詠ったもので、渡りの途中で多くの鳥が命を落とすことになるのであろう。
俳句でも古来たくさんの句が作られて来た。「燕帰る」「帰燕」「秋燕」などが秋の季語である。単なる「燕」というと春の季語であり、「燕の子」というと夏の季語ということになる。
古句としては

    落日のなかを燕の帰るかな・・・・・・・・与謝蕪村

    乙鳥は妻子揃うて帰るなり・・・・・・・・小林一茶

などが知られているが、一茶の句は年老いるまで妻子を持てなかった一茶の「羨望」の心情を表現しているようである。
以下、明治以後の句を引いて終わる。

 燕の帰りて淋し蔵のあひ・・・・・・・・正岡子規

 いぶしたる炉上の燕かへりけり・・・・・・・・河東碧梧桐

 高浪にかくるる秋のつばめかな・・・・・・・・飯田蛇笏

 やがて帰る燕に妻のやさしさよ・・・・・・・・山口青邨

 身をほそめとぶ帰燕あり月の空・・・・・・・・川端茅舎

 ふる里の古き酒倉秋燕・・・・・・・・・大竹孤愁

 秋燕や靴底に砂欠けつづけ・・・・・・・・加藤楸邨

 去ぬ燕ならん幾度も水に触る・・・・・・・・細見綾子

 ひたすらに飯炊く燕帰る日も・・・・・・・・三橋鷹女

 秋燕に満目懈怠なかりけり・・・・・・・・飯田龍太

 秋つばめ少し辛めの五平餅・・・・・・・・岸田稚魚

 胸を蹴るごとく秋燕かぎりなく・・・・・・・・二枝昭郎

 つばめ去る空も磧も展けつつ・・・・・・・・友岡子郷
 
 海へ向く坂がいくつも秋燕・・・・・・・・田中ひろし


ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・右京大夫
E5AF82E58589E999A201寂光院

   ながむれば心もつきて星あひの
     空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫


京都市左京区大原草生町(市バス大原下車)の寂光院の境内の裏に、この歌の作者である建礼門院右京大夫の墓と伝えられる五輪の塔がある。
寂光院は、第80代高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘、安徳天皇生母)が、平家滅亡後、晩年に隠棲した寺であり、終焉の地でもある。
『新版・都名所図会』の巻の三に「寂光院は草生村にあり。もと弘法大師の開基にして、文治の頃、建礼門院閑居し給ひしより、今に至り尼寺となる。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり。即ち門院の御影(みえい)、阿波内侍の像あり。庭にはみぎはの池、みぎはの桜あり。」として、後白河法皇が大原御幸のとき詠まれた

    池水に水際(みぎは)の桜ちりしきて浪の花こそさかりなりけれ

その返し歌に女院(建礼門院)が詠まれた

    思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは

という、共に『平家物語』の歌を紹介している。

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それは文治2年(1186年)加茂の祭の終わった初夏のある日であった。法皇を迎えた建礼門院は、仏前で、ここ数年の間に自らが体験した六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の有様、先帝の最期などを語り、共に涙で袖を絞られるのであった。『平家物語』に名高い「大原御幸」のくだりである。
現在は寺は天台宗で、本堂は淀君の寄進と伝えられている。
写真③が長楽寺に安置される建礼門院の坐像である。
Cus10022建礼門院坐像

右京大夫が女院に仕えたのは承安3年(1173年=17歳)から治承2年(1178年=22歳)までの五年間ほどで、女院のもとを辞したのは母・夕霧の病気看護のためである。
晩年、平家滅亡の後、逆境にある女院のために再びお側に仕えたいという意思はあったようだ。

     今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

という『右京大夫集』に載る歌の詞書で、大原の里を訪ねたことは知られているが、その後お仕えしたかどうかははっきりしていない。
もし寂光院の裏庭にある五輪の塔の中に右京大夫の墓があるとすれば、死してもなお女院にお仕えしたい彼女のたってもの願いによるものかも知れない。

大原が京都市に編入されたのは昭和24年であるから、女院の歌のように当時は都から隔てられた地、という意識が強かったであろう。
はじめに書いたように建礼門院右京大夫と書かれることが多いが、これは右京大夫が建礼門院にお仕えしていた職務上の身分を付け加えて表記してあるに過ぎず、連礼門院・徳子尼と同じ人物ではないことを留意いただきたい。
写真②の図版(岩波文庫)のように右京大夫は歌人として著名な人ある。
右京大夫の恋の相手としては平重盛の子・資盛、源頼朝の肖像画を描いた藤原隆信などが知られるが、資盛は壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ入水して果て、隆信は彼女が49歳のときに亡くなっている。
彼女の中では、若くして死んだ資盛にかけた思いは強く、ただ一人で一周忌法要を営んだことが

     いかにせん我がのちの世はさてもなほ昔のけふをとふ人もがな

という歌と、その前書き(右京大夫集)から知ることが出来る。
恋人を失った彼女にとって、旧主・建礼門院が救出され、都へ戻ってきたことが唯一の慰めだったろうと思われる。たとえ伝説であるとしても、右京大夫の墓が旧主・建礼門院の御陵墓(大原西陵)に近く、寂光院山中にあるというのは、そこを訪れる私たちの心の慰めでもあろうか。
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寂光院は先年、心ない人によって放火され、ご本尊の地蔵菩薩像などが焼けたが、ようやく建物も修復され、ご本尊の像も専門のところで修復されて戻ってきた、と報道されている。
私は、まだ、それを拝観していないが、ご本尊は恐らく、本体はそのまま仏像の体内に残して、表面を新しい部材で修復したのではないか。
報道でも、そういう肝心のことは何も伝えられないので、よく判らない。
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先年放映のNHKの連続ドラマ「義経」では、幼い安徳天皇は、?親王と入れ替わって建礼門院の手元で生きている(すぐ出家されるが)という筋書きになっているが、これは原作者の宮尾登美子の「宮尾本平家物語」が、そういう設定になっているものに基づくもので、あくまでも架空の話で、事実はどうだったのかは判らない。


白石一文『砂の上のあなた 』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──
    
     白石一文『砂の上のあなた 』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・・新潮社 2010/09/30刊・・・・・・・・・・・・・


             ひとかけらでいい。
             僕が死んだら、
             愛する女性の骨と一緒に眠らせてほしい。

   最愛の父に愛人がいた――見知らぬ男からもたらされたのは、娘が最も知りたくなかった事実。
   しかし亡き父の妄執は、35歳の主婦・美砂子の結婚生活にまで影を落としていく。
   愛に理由はあるか。人生に意味はあるか。運命は遺伝するのか。
   命から命へ脈々と根を張る「縁」に搦め捕られる男と女を描いた圧倒的長編小説。

新潮社の読書誌「波」2010年10月号に載る 刊行記念インタビューを引いておく。
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     【白石一文『砂の上のあなた』刊行記念インタビュー】

         心を豊かにするただ一つの方法・・・・・・・・・・・・白石一文

●「直感」は成長する

――『砂の上のあなた』ほど、一言で説明しにくい小説もありませんね。
白石 そうですね。意図的に訳が分からないように書きました(笑)。作家になって十年以上が経ちましたが、僕はデビュー当初から小説を通して伝えたいことは同じなんです。人間の一生なんかものすごく短くて、ただフツーに生きているだけでは、この世界のただならない真実はとても知り得ない。だが、我々は意識的に思考の枠組みを拡げつづけなくてはいけないということを、手をかえ品をかえて書いてきたつもりです。ですから、この小説自体も、一度読んだだけでは分からない部分が残るように、とにかくごちゃごちゃした感じを出したいと思って構成しました。読んだ後、何が書いてあったかはよく分からないけど、すごく強いイメージだけが残るような、そんな小説にしたかったんです。

――この物語を書こうと思われたきっかけからして、強烈です。
白石 小説の前半に、主人公の三十五歳の主婦である美砂子が、父親の骨の欠片を、彼の愛人の骨壺に入れてあげる場面がある。生前に父親が愛人に宛てた手紙に、そうしたいと書いてあることを実行したのですが、その時、二人の骨を一緒にしたとたん、なぜだか骨壺が暖かくなるんです。「愛し合う二人の骨を一緒にしたら、骨壺が暖かくなった」なんてことがあったら、人はどんなふうにその出来事を受け止めるんだろうか、と考えたことから、物語全体が出来ていきました。
――非常に印象的なシーンでした。「そんなことあるわけない」と頭では思いながらも、心のどこかで「いいや、そういうことはある」と感じました。
白石 何度も言いますが、この世の中には訳が分からないことが溢れています。ですから、「こういうこともきっとある」と感じたなら、その直感は信じるべきです。人は年をとるほど、経験やキャリアを積むことによって成長した自分だけを信じたがりますが、生きているだけで「直感」も成長するのです。ですから理論的には説明のつかないことでも、強く感じたなら自分の直感や本能を信じた方がいい局面は必ずあると思います。それまでの考えや行動と全く辻褄が合っていなくても、直感を信じて取った行動が、自分を助けることもままありますから。

●固体の振りをしたがる現代人

――『砂の上のあなた』は「え?」「なんで?」という連続で、「こうなるんじゃないか」という予想はことごとく裏切られますね。
白石 僕の小説には、ものすごく悪い人や、根っからいい人というのは出てきません。全員がある意味、非常に自分勝手で、自分本位に行動します。そうすると、倫理とか、道徳とか、論理とか、そういうものからどんどん離れていくんです。世の中の全ての事柄は「感情」によって支配されているのに、人は誰しも、なかなかそれを認めようとしません。気持ちに正直に動くことは良くないことだと思っている。言い換えれば、人は皆、液体のように容易に考えや気持ちを変化させながら生きているのに、強い力が加わっても形を変えない固体の振りをしたがっているように思えます。生身の人間をありのまま描いたせいで、物語が予想と違う方へ進むように感じられるのかもしれません。
――これまでの作品でも、論理と感情のぶつかり合いが描かれてきたように思いますが、本作では、その溝は深いけれども、過去の作品より狭まっている印象を受けました。
白石 そんなふうに言ってもらえるとすごく光栄です。『砂の上のあなた』では、ある登場人物によって「命をつなぐことの不利益」が語られます。それは、僕自身が三十代後半に考えていたことです。理論的に考えることは重要ですが、いま五十二歳になって、言葉や形にならない非常に不確かなものが、自分たちに多大な影響を与えていることに気づかずにはいられなくなってきている気がする。現代の日本は、物質的に豊かになって、感情のままに生きていけるようになっています。だから自分にとって邪魔だと感じれば、子供をネグレクトしたり、親でさえ殺すようになってしまった。「感情」が人の運命をも支配するのならば、人は「感情自体をコントロールする」ことを学ばねばならない。この「感情」の背景には何が潜んでいるのか、それを知ることでしか、心を豊かにする方法はないのではないかと思います。この作品から、その一端を読み取ってもらえたら嬉しく思います。
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 ↓ 引き続き同誌に載る書評を引いておく。
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        足の裏の熱砂         金子ありさ

 バルーンのように膨らんで臍が伸び切ったお腹。時々、中からぐにゅっ、めりっと波動が襲い思わず身をよじらせる。頭の大部分は冴えていて、なのに体の一部分はもっさり鈍い。自他共に認める男っぽい性格ゆえに「私ママよ」的な感傷は全くないが、何かが起きる前触れはひしひしと感じている。まるで歩いても歩いても絡みつく熱砂に足を取られ、自然と行き先が運命づけられていくかのように。
 そんな、現在妊娠九カ月の私が出会った白石文学。直木賞受賞後第一作。白石一文著『砂の上のあなた』である。
 正直言って、男性作家が描くヒロインを私は基本的に信用しない。どんなに流麗に女性賛美されようと、どんなに優れた観察眼で女という生き物を描写されようと、必ずそこに願望、誇張、幻想が見て取れるからだ。
 しかし今回、私がその人生を垣間見た「彼女」、ヒロイン美砂子の生々しさにまず息を呑んだ。
 例えば、子作りに励む彼女がわずかの変化も見逃すまいと自分の体内に耳を澄ます様。
 会話している相手の微かな語気の変化に目ざとく気付く繊細さ。
 そして夫への、亡き父への、別れた恋人への、突如目の前に現れた魅力的な男への剥き出しの感情の浮き沈み。
 何の足し算も引き算もないそのヒロインの「ありのまま」加減は読み手を無理なく、その人生の只中へと引き込んでいく。
 ごくごく平凡なありふれた日常。だがその三十五歳の女の人生は亡き父の遺した手紙、そこに記された意外な事実によって思いもかけない方向へと転がっていく。
 残酷なまでに痛々しく、今までの生活から踏み外していく様は実にダイナミックで、ヒロインに同情しながらも心の片隅で妙に胸躍る。そして出て来る男たちの身勝手さ、弱さ、愛おしさについ思い当たる。私のまわりの誰それもまさに「こんな感じ」。
 対照的に描かれる女性は誰も彼も程よい強さと脆さを兼ね備え、粒ぞろいの生命力。そして余談だが出て来る料理料理の、美味しそうなこと!(目下ブラックホールのような食欲と闘っている妊婦にはかなり過酷な読書体験)
 白石文学独特のちょっと毒のある哲学、「この世の真理」をちりばめながら、美砂子の人生は二転三転する。次第に明らかになっていく因果関係。回転扉が回るごとく、次々と登場人物が現れては消えて目まぐるしいほどだ。その連なりと、ヒロインが抱え込んだ孤独。確固たる思考理屈、だが言葉で表せない不思議な現象。
 様々な「対」を鮮やかに内包し、物語は時に恋愛小説のように、はたまたミステリー小説のように謎を撒き散らし深まっていく。そして最後に彼女が得たものに少なからず驚いた。結末に、というよりその感覚に。そんな風に物事って見えてくるものなのか。最初はすぐにピンと来ず、だが時間を経るごとにじわじわと胸に広がるこの実感。そう言えば、そんな「ざわざわ」を私もずっと抱えて今日まで来た気がする。翻ってよく見ると私自身、そんな土台の上に成り立って、そして今、臨月を迎えようとしている。
 彼女は言う。「そうやって巨大な砂丘を動かしているのは私たち女自身」だと。私は急に足の裏に熱砂を感じ、『砂の上のあなた』とは『あなた』の事だったのかと思い当たり、痺れるような感動に襲われた。いつもそうだ。白石文学には最後の最後、必ず読み手に突き刺さる五感が用意されている。それは文字でしか味わえないクライマックス。
 人生の節目に出会う本がある。私にとって今、この物語と出会った事は偶然とは思えない。この先、いわゆる出産という一大事が待っているが、何かの拍子に必ず私はヒロイン美砂子の人生に思いを馳せるだろう。それはとても幸せな疑似体験だ。

(かねこ・ありさ 脚本家)

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白石一文/シライシ・カズフミ

1958年福岡県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。文藝春秋勤務を経て、2000年『一瞬の光』でデビュー。他に『不自由な心』『すぐそばの彼方』『僕のなかの壊れていない部分』『私という運命について』『どれくらいの愛情』『心に龍をちりばめて』『この世の全部を敵に回して』など著書多数。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で第22回山本周五郎賞を、翌年には『ほかならぬ人へ』で第142回直木三十五賞を受賞した。『砂の上のあなた』は、直木賞受賞第一作となる。

ふっと人の肩にかけた手/疲れたみにくい皺の中に/・・・・・・・・・・・・・・・高田敏子
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──高田敏子の詩──(9)再掲載・初出Doblog2004/10/06

         手・・・・・・・・・・高田敏子

     ふっと人の肩にかけた手
     疲れたみにくい皺の中に
     不思議な私がひそんでいる

     この肉体の末葉に生きて
     私の時間をみんなで吸い
     汚れて 痛んで
     そして私を支えている

     私の忘れた過去さえも折り重ねて
     止まった思考の外で
     いま ひらひらと泳いでいる

     この手の甲の背後で
     私の眼はつめたいなげやりの
     まなざししか持てない
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この詩は詩集『雪花石膏(アラバスタ)』に載るもの。
手の皺を見て人生の残年の心情を深くえぐり出した。
詩人というものは、時に非情な心境になって自分を見つめ、さらけ出す。
詩人とは哀しい存在である。

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