K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(12月)月次掲示板
このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
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本年も十二月、最終となりました。
泣いても笑っても「師走」の到来です。
 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・・志貴皇子
 ゆく秋のわが身せつなく儚くて樹に登りゆさゆさ紅葉散らす・・・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄
 奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり・・・・・・・・・・葛原妙子
 たましいの伸縮しつつ白鳥は前世の姿見せて飛びゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉井清弘
 からみつくことばの奥の俗のひとほむらだちゐるひとすぢの青・・・・・・・・・・・・・・・三井ゆき
 目つむればへんろ路が見ゆ目ひらけばへんろ路ゆきし母もはるけし・・・・・・・・・・高野公彦
 おのづから学芸はあれ念ずれど老いてあらそふ皆ほほゑみて・・・・・・・・・・・・・・・坂井修一
 亡き母を知る人来たり十二月・・・・・・・・・・長谷川かな女
 落ちてゐるからたちの実や十二月・・・・・・・・吉岡禅寺洞
 武蔵野は青空がよし十二月・・・・・・・・・・・・・・・細見綾子
 わが生死食思にかかる十二月・・・・・・・・・・・・・相馬遷子
 御岳に雲の荒ぶる 十二月・・・・・・・・・・・・・ 伊丹三樹彦
 ぼんやりと枕を抱いて十二月・・・・・・・・・・・・今井杏太郎
 火をはらみ雑木林の十二月・・・・・・・・・・・・・・・坪内稔典
 極月の三日月寒し葱畑・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大谷句仏
 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・深田やすお
 自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・D・J・リンズィー
 関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・・・杉村凡栽
 二分残る浄瑠璃はねて年の暮・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 山眠る等高線を緩めつつ・・・・・・・・・・・・・・・・・広渡敬雄
 生牡蠣の銀器にあれば銀器の味・・・・・・・・・・・清水良郎
 フラクタルとは無数に如来
ゆる・・・・・・・・・・・・・関悦史
 皿皿皿皿皿血皿皿皿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関悦史
 抽象となるまでパセリ刻みけり・・・・・・・・・・・・・田中亜美
 チンドン屋末法の世の鉦を打ち・・・・・・・・・・・・・八田木枯
 パスワード豚の尻尾を手繰り寄せ・・・・・・・・・・・浪越靖政
 じゅんさいのぬめりの中のベルグソン・・・・・・・・小池正博
 闇にふとたたみいわしが顔を出す・・・・・・・・・・・・石部明
 Re:がつづく奥に埋もれている遺体・・・・・・・・・・飯島章友
 一川の遡上をゆるす斑雪の野・・・・・・・・・・・・・伊藤白潮
 接木して晩節全うするごとし・・・・・・・・・・・・・・・伊藤白潮
 なおも霧相求めつつ濃くなりぬ・・・・・・・・・・・・・久乃代糸
 初時雨体内時計火の匂い・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


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ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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今日のアクセス数:617件
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

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 日本国憲法九条
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。

   
平凡も非凡もあらず青木の実・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹
image04アオキの実

   平凡も非凡もあらず青木の実・・・・・・・・・・・・・・・・青柳志解樹

「青木」という木も裏庭などの片隅にひっそりと植えられている感じの低木である。
八ツ手の木と同様である。ようやく、その木の存在に気づくのが、赤い実が映える冬の季節になってからである。

作者の青柳志解樹(1929~)は 信州育ちよろしく野草に詳しく「週刊朝日」に俳句の歳時記として連載ものを書いていた。その一節を紹介しよう。

 <山村に生まれ育ったおかげで、子どものころから、さまざまの植物と交わりを重ねた。
小学校への道筋の野原には、春になるとオキナグサのビロードの花があっちにもこっちにも咲いた。
野の花らしからぬ上品さに目を奪われたものだ。
また、山菜採りのころ、山の草原にはフグリバナと呼んでいたアツモリソウが、フグリのようにふくれた花をくらべ合っているようでおもしろかったが、
いまはオキナグサもアツモリソウも全く姿を消してしまった。 トキソウもその一つだ。
山田の畦草に交じって、ほんのり紅を染めた幼顔を、はずかしそうに覗かせていたのを思いだす。
ちょうど梅雨の時季で、雨に打たれる花はいじらしく、捨てがたい風情があった。
同じ畦のホタルブクロはよく目立ったが、トキソウは隠れ花のようだった。
田の中に巣を作っているクイナがときどきキョロロロロロロロと奇妙な声で鳴きたてたこともなつかしく思いだされてくる。>
(青柳志解樹『歳時記の花たち』朝日新聞社,1999) 
青柳には最新刊の句集『四望』 (角川書店)があるが、いつか紹介したい。
他に『木の花草の花』『俳句の花』(上・下)『花の大歳時記』などの著作があり、「花」を調べるときには便利である。
亡妻が持っていた本によって私は啓蒙されたものである。
青柳の略歴などを下記に引いておく。
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青柳志解樹(あおやぎ しげき)
 昭和4年(1929) 長野県生れ。 「山暦」創刊主宰。 
 原コウ子に師事。「鹿火屋」に投句。同人を経て昭和54年「山暦」創刊。鹿火屋賞・第32回俳人協会賞受賞。

 句集:『耕牛』『杉山』『山暦』『楢山』『山霊樹魂』『松は松』『麗江』『花顔』『四望』

 年惜しむ手紙の束を火に投じ

 たんぽぽの絮ふるさとを出奔す

 月光へ目覚めて繭の中にあり

 やすらかに割りたる冬の卵かな

 月の夜の山煌々と枯るるなり
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以下、ネット上に載る「アオキの実」に関する記事を転載しておこう。
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<青木の実>
 青木の実って御存じですか?ミズキ科の常緑潅木です。庭木として植えられて いる他、関東地方以西では比較的日当たりの悪い山地でも自生しています。実を 鳥が啄(ついば)んで増えるとのこと。そういえば、我が家の裏山にもひょっこり 生えていたりしていました。

冬でも葉を落とさない緑豊かな植物です。青木の名は 若い枝が葉と同じ薄黄緑色であることからつけられました。葉は細めの小判型で、縁が等間隔の鋸葉(のこぎりば)になっています。鋸葉といっても、柊のようにきんきんに尖っているわけではありません。どちらかという と、ゆるやかに波打っているようなやさしい葉です。

 普通、冬も葉を落とさない ものは大抵表面が固かったり、松や杉のように細く尖っていたりするものですが、 青木はそのどちらにも属さない、観葉植物めいた艶味のある美しい葉を持っています。枝の先は新しい葉、元や下に行くほど大きくなり、それらの葉が天辺から 地面ギリギリまで四方に伸びています。多分、冬の弱い陽射しでも充分吸収できる ような上手い作りになっているのでしょうね。

 大きい葉は成人男性の掌を覆って余りあるくらいにもなります。年を経たであろう大きな葉は筋張って厚みが出てきますが、若い葉はしなやかに柔らかく、なんとも形容しがたいような感触を伝えます。冬なのに水分を多く含むせいか、植物なのに人の手に馴染むしっとりした感じがあるんです。一見、ぺろんとした 頼り無い感ですし特にどうということのない植物ですが、その葉は快い手触りの ひとつなのです。 

aoki5アオキ雌株─雌花
 ↑ アオキ雌株─雌花

 青木は雌雄異株です。銀杏のように、実の生るものとならないものとあるのです。花の時期は四月はじめの頃です。
↓ アオキ雄株─雄花 
aoki4アオキ雄株─雄花

 葉について長々とお話してしまいましたが、今回のメインは実の方でした。 青木、というとまずはその紅い実が思い出される方が多いと思います。季語でも 冬期の「青木の実」は大抵の歳時記に掲載されていますが、春に位置する「青木の花」はいまひとつ通 りに欠けています。 

 実はドングリくらいの大きさで、葉が出る付け根に数個固まって色付きます。 先にお話したように、葉は冬も緑濃い状態ですから実は自然と葉の裏にひっそり 隠れるような感じになります。葉隠れに、房になって紅い実がなっています。 

 子供の頃はその葉をかき分けて実を探すことが面白く、むやみやたらに摘み取っていました。紅い衣を剥がすと、真白のスポンジ状の果 肉が表れます。林檎に 少し似ていますが、それよりもずっとぱさついた感じですね。芯の部分には蝋の ような柔らかい種があったような記憶があります。 

 じつは一度、青木の実を食べてみたことがあります。紅さに誘われ鳥が好んで啄むと言いますが、当時の自分は鳥並だったのでしょう(笑)。味はなく、青臭い、青木の葉と同じ匂いがしたような気がします。そういえば、ドウダンツツジの花やお茶の実(これは相当苦渋かった)も食べたことがありましたね。ゆっくり思い出せば、きっともっと色んなものを食べていたと思います。イマドキのお母さんが見たら仰天しそうですが、当時は結構おおらかというか、絶対食べてはいけないもの(青梅など)以外は特に駄 目だといわれていなかったような気がします。この 時も「青木食べたけどまずかったよ」と報告しても「ばっかだねぇ」と笑われる だけでしたから(笑)。

 青木の実は同時期に実をつける千両万両に比べると、どうしても一段格落ちと いう感がしないでもありません。それは、名の富貴さで既に負けているという ことがまず挙げられるでしょうし、小粒の千両万両の実の映え具合が活けるのに 手ごろであるに比べ、青木はどうしても取り入れ辛いということもありましょう。 青木はやはり屋外で眺めるのが一番です。葉が幽かに揺れる時、たまさかに紅を 見るところに冬の喜びがあるのでしょう。 

 漢名は桃葉珊瑚(とうようさんご)。あまり知られていませんが、名は体を表す 顕著な例でしょう。
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アオキ (植物)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学名 Aucuba japonica
和名 アオキ(青木)
英名 Japanese Aucuba
アオキ(青木)はミズキ科に属する日本特産の常緑低木で、北海道南部~沖縄までのの森林に自生する。また日陰にもよく育ち、庭園や公園の植え込みに植栽され、外国でも栽培される。常緑で枝も青いため、この名がある。属名「アウクバ」は方言名「アオキバ」による(ツンベルクの命名)。

高さは2mほど。花は3~5月に咲く。褐色または緑色で花弁を4枚有し子房下位、単性花で雌雄異株。果実は卵形の液果で種子を1個含み、秋頃から赤く(種類によっては白、黄色に)熟し、美しい。楕円形で大きさは2cmほど、11月~翌年5月頃まで付いている。葉は苦味健胃作用があり、有名な陀羅尼助(だらにすけ)に配合されている。

日本海側産の小型の亜種ヒメアオキvar. borealisのほか、果実の色、斑入りなど園芸品種も多い。同属にはA. chinensis、A. himalaicaなど3種ほどがあり、ヒマラヤ、中国南部から日本(照葉樹林帯)に分布する。

また、アオキ属は従来ミズキ科に入れられていたが、APG植物分類体系ではガリア科に近いとされ、ガリア目のガリア科または独立のアオキ科Aucubaceaeとしている。
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 ネット検索で、「アオキ」という名称の語源を調べていたら、「ヒバは昔アオキ(青木)といわれており、その大森林にちなんで青森という名称はつけられたという」との一文を見つけた( 「緑の雇用」総合ウェブサイ」)。
アオキの語源は分からずじまいだが、ま、青森という名称の所以が分かったことで、慰めとしておきたい。
但し、青森という地名(名称)の所以には他にも説があるかもしれない。

以下、青木の実を詠んだ句を引いて終わる。

 かぞへ日となりし日ざしや青木の実・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 長病のすぐれぬ日あり青木の実・・・・・・・・・・・・富安風生

 雪降りし日も幾度よ青木の実・・・・・・・・・・・・中村汀女

 青木の実こぼれて土に還るのみ・・・・・・・・・・・・滝春一

 赤き実の三つかたまりし青木かな・・・・・・・・・・・・三笠宮若杉

 停年やみなくれなゐの青木の実・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 夕凍のにはかに迫る青木の実・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 素早さは栗鼠の身上青木の実・・・・・・・・・・・・田中水桜

 青木の実赤しみかどの終焉地・・・・・・・・・・・・滝佳杖

 青木の実濃き口紅を拭ひさり・・・・・・・・・・・・山口昭男

 手の届くところ素直に青木の実・・・・・・・・・・・・久保保徳

 坂の上の青空が好き青木の実・・・・・・・・・・・・村山さとし

 のけぞりて鵯がこぼしぬ青木の実・・・・・・・・・・・・増田卯月

 青木の実雨の降りしも宵の口・・・・・・・・・・・・村井雄花

 青木の実学者の妻の墓小さし・・・・・・・・・・・・安立恭彦

 青木の実ころころ赤し襁褓縫ふ・・・・・・・・・・・・石沢清子

アオキの赤い実と濃い緑の葉という、その鮮やかな色彩のコントラストが、瑞々しい一年を締めくくる歳末の
一日の点景として、年越しを演出するかのようである。

今年もいよいよ終わる。 来年がいい年であることを祈りたい。

 リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・・・・脇村禎徳
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    リルケ死にし日なりき冬の薔薇の辺に・・・・・・・・・・・・・・・脇村禎徳

今日12月29日はドイツ人の作家・リルケの忌日である。
掲出句は、そのリルケと冬薔薇とを情趣ふかく描いて秀逸である。
リルケには薔薇を詠んだ24篇の詩があり、それに因んで詩集の表紙を出しておいた。

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ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~ 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。
シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに世紀転換期を代表するドイツ語詩人として知られる。

プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。
当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。
1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、
それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。

第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。
『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。

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以下は「冬薔薇」について書いておく。

   冬薔薇を剪(き)るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので小項目名「薔薇」というところに、バラを詠った歌をまとめてあるものの一つである。
バラは何と言っても「花の女王」であることは間違いない。在来種の野バラから、さまざまな改良が加えられて、今ではハイブリッドや遺伝子レベルの技術を駆使して新品種が産出されている。
写真②も「レッドヒロシマ」というハイブリッドによる品種物である。

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バラには痛い棘(とげ)があるのが難点だが、今ではトゲのない品種もあるのではないか。
バラの中でも、人それぞれ好みがあろうが、私は写真②のような「真紅」のバラが好きである。豪華なレディーという印象である。
妻の入院中にはあちこちからバラの花束をいただいたことがある。妻の大学の時の友人の某大学教授N女史から、お見舞いの花のアレンジが贈られてきたことがある。
バラが主体のアレンジであって、そんなことから、今日はバラの花のことを書いてみる気になった。

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写真③もハイブリッドものの新品種である。なんとも色合いが華麗である。ついでに、写真④にもハイブリッドもののバラを掲出しておく。これも色合いが鮮やかな花である。

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このバラには「ジーナ・ロロブリジーダ」の名がついている。そう言えばロロブリジーダの雰囲気が出ているバラである。
書き遅れたが写真③のバラの名は「マダム・ビオーレ」とある。N女史などは、まさに、そういう雰囲気にふさわしいとも言える。
そのN女史だが、先年、急性の脳梗塞に罹り半身不随で闘病の末、いまは車椅子の生活を余儀なくされている。

長年、歌作りをやっているとバラを詠み込んで、あちこちに歌を発表しているもので、歌集にする場合には、
それらを「薔薇」という項目にまとめる、というようなことをする。
以下、ここにまとめた「バラ」の歌一連を引いておきたい。
掲出した歌の主旨は「冬薔薇」を剪る時には、万物の命の休止している冬の季節に、せっかく咲いた花を切り取るということに、
極端にいうと「生き物の命」を奪うような気が一瞬した、ということである。

         薔 薇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     キーボード打てるをみなの傍(かた)へにはコップに挿せる紅薔薇にほふ

     老いびとにも狂気のやうな恋あれと黒薔薇みつつ思ふさびしさ

     飲みあけしミニチュア瓶に薔薇挿せばそこより漂ふスコッチの香り

     鬱屈のなきにもあらず夕つかた何もなきごとく薔薇に水やる

     喪に服し静もる館は薔薇垣を結界として何をか拒む

     冬薔薇を剪るためらひは何事ぞ貴きものを奪ふここちす

     冬薔薇を剪る妻の手に創(きず)ありぬ薔薇のいのちの棘の逆襲

     ほのぼのとくれなゐ淡き冬薔薇にそそのかさるる恋よあれかし

     薔薇図鑑見つつし思ふ園生には緋の花責めの少女ゐたりき

     たまさかに鋏を持てばことごとく刺す意あらはに薔薇は棘見す

     言へばわが心さびしもしろたへに薔薇咲き初めて冬に入りたり

「冬薔薇」を詠んだ句を引いて終る。薔薇は「さうび」(そうび)とも発音する。

 尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪・・・・・・・・・・・・山口青邨

 冬薔薇(さうび)石の天使に石の羽根・・・・・・・・・・・・中村草田男

 冬の薔薇すさまじきまで向うむき・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て・・・・・・・・・・・・中尾寿美子

 冬さうび咲くに力の限りあり・・・・・・・・・・・・上野章子

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人・・・・・・・・・・・・草間時彦

 ぎりぎりの省略冬薔薇蕾残す・・・・・・・・・・・・津田清子

 夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 孤高とはくれなゐ深き冬の薔薇・・・・・・・・・・・・金久美智子

 冬薔薇や聖書に多き科の文字・・・・・・・・・・・・原田青児

 ふと笑ふ君の寝顔や冬の薔薇・・・・・・・・・・・・マブソン青眼



 湯豆腐を食ひ尽くしたるメディア論・・・・・・・・・・・・・秋尾敏
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   湯豆腐を食ひ尽くしたるメディア論・・・・・・・・・・・・・秋尾敏

「湯豆腐」の句としては

   ■湯豆腐やいのちのはてのうすあかり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

が人口に膾炙して有名である。
久保田万太郎は昭和38年73歳で没した。
晩年、子供を亡くし、それを機に家を出て赤坂に隠れ住んだ。起居のかたわらに一人の女性がいたが、彼女は37年末に急死した。万太郎は深い孤独に陥り、自らも半年後に急逝した。
彼の死のいきさつについて書いたことがあるので、参照されたい。
この句は相手の女性の死後詠んだ句のひとつ。湯豆腐の白い揺れを見つめつつ、一場の夢に過ぎない人生を眼前に見ているような気配を伝える句である。
「いのちのはてのうすあかり」が句の眼目だが、空漠かつ幽遠である。
こういう句の深い「読み」については、若い頃には思い及ばないことで、人生の晩年に至って、ようやく思いに辿りつくことが出来るのである。
昭和38年刊遺句集『流寓抄以後』所載。
この句は何度となく引いてきたので遠慮して、今回は掲出句を引いた。

掲出句は、文化人であろうか、湯豆腐を食いながら「メディア論」を戦わしているという現代的な句である。
「湯豆腐を食い尽くして」も、なお口角泡を飛ばして議論している、という青っぽい連中の、微笑ましい光景であろう。
若い頃には私にも、こういう熱中した時期があった、と懐かしい感慨を持って、この句を抽出した次第である。

湯豆腐は冬の暖かい味覚として、親しみふかいものである。今では季節を問わず食べられるが、やはり冬のものであろう。
京都南禅寺順正の湯豆腐などが有名だが、京都には「豆腐」の老舗がいくつかあり、この頃では宅急便を利用して全国に宅配されているようだ。
以下「湯豆腐」を詠んだ句を少し引いておきたい。

 湯豆腐や澄める夜は灯も淡きもの・・・・・・・・渡辺水巴

 湯豆腐の一と間根岸は雨か雪・・・・・・・・長谷川かな女

 湯豆腐や障子の外の隅田川・・・・・・・・吉田冬葉

 湯豆腐にうつくしき火の廻りけり・・・・・・・・萩原麦草

 湯豆腐に箸さだまらず酔ひにけり・・・・・・・・片山鶏頭子

 湯豆腐やみちのくの妓(こ)の泣き黒子・・・・・・・・高橋瓢々子

 混沌として湯豆腐も終りなり・・・・・・・・佐々木有風

 湯豆腐や紫檀の筥(はこ)の夫婦箸・・・・・・・・日野草城

 湯豆腐や男の嘆ききくことも・・・・・・・・鈴木真砂女

 永らへて湯豆腐とはよくつき合へり・・・・・・・・清水基吉

 鳥羽僧正湯豆腐食べに下りけり・・・・・・・・鈴木栄子

 さりげなき話湯豆腐煮ゆるまで・・・・・・・・山本一歩

 湯豆腐や差し向かひといふ幸不幸・・・・・・・・安藤美保

 湯豆腐のふつふつそつけなき白さ・・・・・・・・日向和夫


ゆきふるといひしばかりの人しづか・・・・・・・・・・・・・・・・室生犀星
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──<雪>の句─3態──オムニバス風に──
   
   ■ゆきふるといひしばかりの人しづか・・・・・・・・・・・・室生犀星

この句の「場」を考えてみると「雪が降っていますね」と言った「人」も、それを聞いている相手、つまり句の作者自身も、部屋の中にいて、
おそらくは障子も閉めきったまま静かに対座しているのだろう。
あるいは別の情景も考えられるだろうが、いずれにせよ、雪が降るのを、じかに目撃しているのではない。
障子の外の世界を鋭敏に感じとって、ひとこと発したまま、また黙ってしまった人。
そのため、部屋の中に満ち足りた情感の世界が、一層濃く形づくられてゆく。
「人」は女性でなければなるまい。
昭和18年刊の『犀星発句集』所載。

こういう短詩形の中に、極めて凝縮された、みづみづしい感性の表現の妙は俳句ならではのもので、余白の部分を、読者にさまざまに想像させる表現の妙、と言える。

こんな句は、いかがだろうか。

   ■降る雪や明治は遠くなりにけり・・・・・・・・・・・・中村草田男

草田男の数多い句の中でも、とりわけ有名な句。今では作者名さえ知らずに、この句を口にしている人も多かろう。
この句の由来は、昭和6年、作者が20年ぶりに東京で小学校上級生当時通学した母校青南小学校(東京、青山高樹町在住当時)を訪ね、往時を回想して作ったものという。
初案は「雪は降り」だった。
「降る雪や」という上句が、「明治は遠く」という中七に、離れつつ大きく転じてゆくところに、この句の秘密があり、有名になり過ぎたにもかかわらず、
或る「ういういしい」感慨が紛れずに保たれているのも、その所為だろう。
「明治は遠く」というが昭和6年であるから、大正の15年をいれても丁度20年の年月である。「十年ひと昔」というから「ふた昔」ということになる。
その伝でいうと、今は平成22年であるから「昭和も遠くなった」という感慨を抱いても、まんざら言いすぎでもあるまい。この句は前にも引いたことがある。

雪に因んで、こんな句も、ある。

   ■雪はげし抱かれて息のつまりしこと・・・・・・・・・・橋本多佳子

多佳子は杉田久女に俳句の手ほどきを受けたのち、山口誓子に学んだ。
彼女は女性の情感のほとばしりや揺らぎを的確にとらえて表現した。
対象を即物的に鋭くとらえる厳しさと、句の表情の豊かさでは、近代女流中、有数の人と言ってよい。
30代後半に夫に先立たれたが、追慕の句に優れたものが多く、この句もその一つである。
はげしく雪の降りしきるのを見つめながら、その景色に呼び覚まされるように、かつて強く抱かれて息がつまるようであった、と当時のことを思い出している。
この句も彼女の代表作で、私も以前に引用したことがある。
昭和26年刊『紅糸』所載。

「雪」にまつわる秀句3つを、オムニパス風に採り上げてみた。
京都では年内に雪の降ることは近年では滅多にないが「竜安寺」の石庭の雪の写真を出してみた。

老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦
aaoomanryo1千両

    老いざまのかなしき日なり実千両・・・・・・・・・・・・・・草間時彦

「千両」「万両」は初冬に赤や黄の実を見せる。極めて日本的な景物である。
同じような実だが、少しづつ微妙に違う。 掲出写真は「千両」の実である。
白い実のものもある。
manryo29白千両の実

同じようなものに「南天」がある。

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも、こんな歌の一連がある。

    妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

    冬の午後を病後の妻と南天の朱美を見つつただよふごとし

    古稀となる妻を見てゐる千両と万両の朱美はなやぐべしや

妻亡き今は哀切な気分になる旧作である。
南天という木はどこにでも生える強い木で、赤い実は野鳥の冬の絶好の餌で、みんな啄ばまれてしまうが、
その未消化の糞の中の種が、あちこちにばら撒かれて繁茂するのである。
南天の赤色はさむざむとした冬景色の中に点る「一点景」ではあるが、病む身を養う妻を抱えての、
私の愁いは、まことに深いものがあったのである。そんな心象を歌にしたのが、この歌である。
「千両」「万両」の実も、同様の扱いをしてもよいものである。

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以下、歳時記に載る南天、千両、万両の句を引いておく。

 実南天二段に垂れて真赤かな・・・・・・・・富安風生

 あるかなし南天の紅竹垣に・・・・・・・・滝井孝作

 南天軒を抽(ぬ)けり詩人となりにけり・・・・・・・・中村草田男

 南天の実に惨たりし日を憶ふ・・・・・・・・沢木欣一

 いくたび病みいくたび癒えき実千両・・・・・・・・石田波郷

 千両の実だけが紅し日照雨過ぎ・・・・・・・・細田寿郎

 かけ足で死がちかづくか実千両・・・・・・・・石田貞良

 千両や筧の雫落ちやまず・・・・・・・・水谷浴子

 万両や癒えむためより生きむため・・・・・・・・石田波郷

 実万両女がひそむ喪服妻・・・・・・・・高萩篠生

 雪染めて万両の紅あらはるる・・・・・・・・鈴木宗石

 いにしへを知る石ひとつ実千両・・・・・・・・伊藤敬子

 清貧は夫の信条実千両・・・・・・・・有保喜久子

 授乳といふ刻かがやけり実千両・・・・・・・・猪俣サチ

 万両を埋めつつある落葉かな・・・・・・・・山本梅史

 万両の実にくれなゐのはいりけり・・・・・・・・千葉皓史

 千両より万両赤し東慶寺・・・・・・・・中村勢津子

 抱くたびに子の言葉増え実万両・・・・・・・・野田禎男
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こうして見てくると、南天、千両、万両ともに、明るいイメージの句は少なくて、むしろ「沈潜」した句が多いことに気付く。
それは、私の歌のイメージとも重なることに驚くとともに、共感するのである。



十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子
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   ■十人の一人が気付き枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・高田風人子

「枇杷」はバラ科の常緑高木で、初冬に枝先に三角形総状の花序の花を咲かせる。花は白く香りがよい。
実は初夏に熟する。甘くて香りのよい果実である。庭木としては、めっきり少なくなった。
枇杷の木は葉が大きくて長楕円形で、葉の裏に毛がびっしりと生えている。葉の表面の色は暗緑色である。
『滑稽雑談』という本に「枇杷の木、高さ丈余、肥枝長葉、大いさ驢の耳のごとし。背に黄毛あり。陰密婆娑として愛すべし。四時凋れず。盛冬、白花を開き、三四月に至りて実をなす」とある。
簡潔にして要を得た記事だ。
冬に咲く珍しい植物のひとつである。寒い時期であり、この花をじっくりと眺める人は多くはない。
こんな句がある。

   ■蜂のみが知る香放てり枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・・右城暮石

この句などは、先に書いたことを、よく観察して句に仕上げている。こんな句はどうか。

   ■だんだんと無口が好きに枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・三並富美

   ■一語づつ呟いて咲く枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・西美知子

   ■咲くとなく咲いてゐたりし枇杷の花・・・・・・・・・・・・・・・大橋麻沙子

いずれも「枇杷の花」の、ひっそりと咲く様子を的確に捉えている。

biwa004びわの実②

写真②にビワの実を載せる。昨年の初夏にビワの実の記事を書いた。果実として品種改良され、「茂木ビワ」が有名である。

以下、枇杷の花を詠んだ句を引いて終る。

 枇杷の花霰はげしく降る中に・・・・・・・・野村喜舟

 死ぬやうに思ふ病や枇杷咲けり・・・・・・・・塩谷鵜平

 枇杷咲いて長き留守なる館かな・・・・・・・・松本たかし

 花枇杷や一日暗き庭の隅・・・・・・・・岡田耿陽

 故郷に墓のみ待てり枇杷の花・・・・・・・・福田蓼汀

 枇杷の花子を貰はんと思ひつむ・・・・・・・・原田種茅

 枇杷の花母に会ひしを妻に秘む・・・・・・・・永野鼎衣

 枇杷の花くりやの石に日がさして・・・・・・・・古沢太穂

 枇杷の花妻のみに母残りけり・・・・・・・・本宮銑太郎

 枇杷の花柩送りしあとを掃く・・・・・・・・・庄田春子

 枇杷の花暮れて忘れし文を出す・・・・・・・・塩谷はつ枝

 病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花・・・・・・・・大下紫水

 花枇杷に暗く灯せり歓喜天・・・・・・・・岸川素粒子

 雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花・・・・・・・・福田甲子雄

 枇杷の花散るや微熱の去るやうに・・・・・・・・東浦六代

 訃を告げる先は老人枇杷の花・・・・・・・・古賀まり子

 贋作に歳月の艶枇杷の花・・・・・・・・中戸川朝人

 伊勢からの恋文めいて枇杷の花・・・・・・・・坪内稔典


君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ・・・・・・・・・・・北原白秋
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img02北原白秋

    君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと
        雪よ林檎(りんご)の香のごとくふれ・・・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋


明治末年、二冊の詩集『邪宗門』『思ひ出』で近代詩史に新時代を画した白秋は、『桐の花』で歌人としても時の人となった。
新風という意味でも、また『桐の花』哀傷篇で歌われているような、人妻との恋による未決監拘置事件という一身上の大変化という意味でも、時の人となった。

彼は当時の文章で「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である」と書いており、これに「近代の新しいそして繊細な五官の汗と静こころなき青年の濃かな気息に依って染染とした特殊の光沢を付加へたい」と言っている。
天性の官能的表現の名手であった彼の特質は、この恋の歓喜の歌に如何なく発揮されている。
大正2年刊『桐の花』所載。

この歌も白秋の代表作として長く人々の口にのぼる愛唱歌となった。
歌人としての白秋は、昭和に入ってから結社誌『多摩』を創刊し、宮柊二などの高弟を育てた。
しかし、日支事変をはじめとする戦争の勃発によって、白秋のような華麗な愛の遍歴というような世界は、許されなくなってきた。
昭和17年に没するが、その死の時期も白秋のためには良かったと思われる。
この歌は「雪よ」と呼びかけて「林檎の香のごとくふれ」という、まぎれもない「浪漫主義」に満ち溢れる歌であって新風として、もてはやされた。

この「桐の花」事件と通称される騒動については ← のリンクに詳しい。参照されよ。

e01b北原白秋生家
彼の郷土である柳川には「北原白秋記念館」があり、彼の生家も保存されている。

以下、白秋の秀歌を『桐の花』から少し引いておきたい。

   春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕

   ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

   かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

   あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと唇はさしあてしかな

   廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける

   日の光金糸雀(カナリア)のごとく顫ふとき硝子に凭れば人のこひしき

   手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ

   草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり

   ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋

   どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし

   吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり



冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎
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   冬山の青岸渡寺(せいがんとぢ)の庭にいでて
       風にかたむく那智の滝みゆ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤佐太郎


佐藤佐太郎は斎藤茂吉に師事し、茂吉に関する著書も多い。
西国三十三所第一番の札所青岸渡寺から那智の滝を遠望すると、ちょうど夢の中ででも見るような感じで、一筋の白い滝が崖から流れ落ちる。
作者は折からの冬景色の中で、滝が風を受けて、ふっと傾くのを見たのである。
「庭にいでて」とあれば文法的には、結句は「那智の滝(を)みる」となるのが自然だと思われるが、佐太郎が、
それを「みゆ」とした時、滝は言わば見る者と、見られる物という対比を超えて、ごく自然に見る者の中に入りこんで来たのである。
昭和45年刊『形影』所載。

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佐太郎の歌に描かれた風景を写真に表すならば、写真②のようになる。手前の三重の塔が青岸渡寺のものである。
遠景に那智の滝が白く見える。この滝そのものが那智大社の御神体である。
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↑ 熊野那智大社

もともとは神仏混交であって那智大社も寺も一体のものであったが、明治初期の神仏分離によって分けられたものである。今日、寺は天台宗に属する。
開基は仁徳天皇(313-399)の御代にインドから裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行6人と共に熊野灘に漂着し、熊野の各地を巡歴した。
上人は今の那智大滝のところにおいて観世音を感得し、今の御堂の地に庵を作り、その後、推古天皇(593-629)の時に、大和より生き仏と言われる聖(ひじり)が来て、玉椿の大木に如意輪観世音を彫り、前の観世音を胸に納めたと寺伝されている。
 ↓ 写真④は青岸渡寺である。
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この寺は西国三十三所観音霊場の第一番札所である。巡礼は、先ず、この寺から巡礼をはじめ、笈(おいづる)や集印帖ないしは御詠歌の本に寺の朱印を押してもらうのである。
この第一番札所の御詠歌は

    ふだらくや岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つせ

と詠われているが、作者は花山法皇と言われている。西国三十三所のほとんどの歌が花山法皇の歌である。
今や「熊野古道」は世界歴史遺産としての指定を受けるに至り、日本中の注目を集めることになった。



寒菊も黄を寄せ合へばさみしからずさ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    寒菊も黄を寄せ合へばさみしからず
       さ庭の隅のひだまりの中・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「寒菊」というのには、特別に品種があるわけではなく、初冬に咲く晩生の菊をまとめて言っているようである。ここに掲げたものは黄色であるが、白色もあれば淡藍色のものもある。

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写真②のものは白い色をしている。これも寒菊の一種とされている。
私の歌は寒さの中に、けなげに咲く寒菊に寄せて、私の心象を盛ったもので、単なる写生と受け取ってもらっては、困る。

古い俳句を見てみると

   寒菊や粉糠のかかる臼の端・・・・・・・芭蕉

   泣く中に寒菊ひとり耐(こた)へたり・・・・・・・・嵐雪

   寒菊や日の照る村の片ほとり・・・・・・・・蕪村

   寒菊や臼の目切りがぼんのくぼ・・・・・・・・一茶

などの作品がある。
冬の景物には「ものがなしさ」の心象が盛られることが多い。寒菊も、同様である。
以下、寒菊を詠った句を引いておきたい。

 寒菊を憐みよりて剪りにけり・・・・・・・・高浜虚子

 寒菊の雪をはらふも別れかな・・・・・・・・室生犀星

 寒菊や世にうときゆゑ仕合せに・・・・・・・・岩木躑躅

 弱りつつ当りゐる日や冬の菊・・・・・・・・日野草城

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ・・・・・・・・水原秋桜子

 寒菊の霜を払つて剪りにけり・・・・・・・・富安風生

 寒菊や母のやうなる見舞妻・・・・・・・・石田波郷

 わが手向(たむけ)冬菊の朱を地に点ず・・・・・・・・橋本多佳子

 冬菊の乱るる色を濃くしたる・・・・・・・・鹿野佳子

 寒菊の空の蒼さを身にまとひ・・・・・・・・渡辺向日葵

 寒菊や耳をゆたかに老い給へ・・・・・・・・越高飛騨男

 冬菊の括られてまたひと盛り・・・・・・・・横沢放川



 花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・・・・・・草間時彦
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     花八つ手生き残りしはみな老いて・・・・・・・・・・・・・草間時彦
  
八つ手の花は冬の今の時期に、ひっそりと咲く。日面ではなく、北向きの蔭のところに植えられていることが多い。
草間時彦の句は、人生の盛りを過ぎた者どもの哀歓を湛えて秀逸である。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、こんな歌がある。

  ひともとの八つ手の花の咲きいでて霊媒(れいばい)の家に灯りつき初む・・・・・・・・・・・・木村草弥

  霊(たま)よせの家のひそけきたまゆらを呼びいださるる幼な子の頃

この「霊媒」とか「霊よせ」ということについては、少し説明が必要だろう。
今では青森県の下北半島の「恐山」のイタコなどに、その名残りをとどめるに過ぎないが、昔と言えば昭和初年の頃までは、こういう「霊媒」「霊よせ」というのが、まだ伝統的に各地に残っていたのである。
大都市では、いざ知らず、私の生れたのは純農村であったから、「あの家は霊媒の家だ」という風に職業としてやっている人がいたのである。
もっとも当時は「神さん」とか「お稲荷さん」とかいう名で呼ばれていた。「コックリさん」という呼び名もあった。
科学的な解明というよりも、神がかりな「加持、祈祷」が幅を利かせていた時代である。

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「八つ手」の木というのは家の裏の日蔭の「鬼門」とかに、ひそやかに植えられているもので、八つ手の花はちょうど今頃12月頃に咲くのである。
そういう冬のさむざむとした風景の中に咲く八つ手の花と「霊よせ」の家というのが合うのではないかと思って、これらの歌が出来上がった、ということである。

八つ手の葉は文字通り八つ前後に裂けていて「天狗のうちわ」という別名もある。

八つ手の花を詠んだ句を引いて終りにしたい。八ツ手の花言葉は「分別」。

 たんねんに八手の花を虻舐めて・・・・・・・・山口青邨

 八ッ手咲け若き妻ある愉しさに・・・・・・・・中村草田男

 一ト時代八つ手の花に了りけり・・・・・・・・久保田万太郎

 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手・・・・・・・・石田波郷

 八ッ手散る楽譜の音符散るごとく・・・・・・・・竹下しづの女

 花八つ手貧しさおなじなれば安し・・・・・・・・大野林火

 踏みこんでもはやもどれず花八ツ手・・・・・・・・加藤楸邨

 花八つ手日蔭は空の藍浸みて・・・・・・・・馬場移公子

 寒くなる八ッ手の花のうすみどり・・・・・・・・甲田鐘一路

 すり硝子に女は翳のみ花八つ手・・・・・・・・中村石秋

 かなり倖せかなり不幸に花八ツ手・・・・・・・・相馬遷子

 みづからの光りをたのみ八ツ手咲く・・・・・・・・飯田龍太

 花八ッ手さみしき礼を深くせり・・・・・・・・簱こと

 どの路地のどこ曲つても花八ッ手・・・・・・・・菖蒲あや

 人に和すことの淋しさ花八つ手・・・・・・・・大木あまり


ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・・・・・・・・角川源義
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   ポインセチア愛の一語の虚実かな・・・・・・・・・・・・・・・角川源義

掲出した角川源義の句は、「愛」と呼ばれる言葉に含まれる諸々の諸相を「虚実」と表現していて秀逸である。
この人は一代で角川書店を築いた人である。「愛」の遍歴でも有名だが、また後日に書きたい。

私の第二歌集『嘉木』(角川書店)にも、こんな一連の歌がある。

   ひととせを描ける艶(ゑん)の花画集ポインセチアで終りとなりぬ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   ポインセチアの一鉢に似て口紅を濃くひく妻は外出もせず

   あかあかと机辺を光(て)らすポインセチア冬の夜長を緋に疲れをり

という歌が載っている。

ポインセチアは学名をEuphorbia pulcherrima というが、原産地は中央アメリカ──メキシコである。赤い花の部分は正確には苞(ほう)である。
品種改良がすすみ、多くの花があるが写真②は2003年に産出されたばかりの「アヴァンギャルド」という新品種。

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あと二つほど色違いをお見せするが、私などにはポインセチアと言えば、やはり「真紅」のものが好ましい。
すっかりクリスマスのシンボルのように扱われているポインセチアだが、その歴史は、こんな経緯である。
むかし、メキシコにアズテク族というインディアンが住んでいて、生活の中で、この植物を上手に利用していた。苞から赤紫色の色素を採り、切った時に出る白い樹液からは解熱作用のある調剤が作られた。現在のタスコ(Taxco)付近の地域を起源地とするポインセチアはインディアンにCuetlaxochitlと呼ばれて、その輝くような花は「純粋性のシンボル」とされていた。
17世紀に入り、フランシスコ修道会の僧たちが、この辺りに住み着き、その花の色と咲く時期から「赤はピュアなキリストの血」「緑は農作物の生長」を表していると祭に使われるようになった。
1825年、メキシコ駐在のアメリカ大使Joel Robert Poinsett氏(1779-1851)は優れた植物学者でもあったため、アメリカの自宅の温室から植物園などへポインセチアが配られた。「ボインセチア」の名はポインセット氏の名前に由来する。
1900年代はじめから、ドイツ系の育種家アルバート・エッケ氏などの尽力で、市場向けの生産などがはじまった。
ポインセチアは「短日性」の植物で、1日のうちで夜のように暗い状態が13時間以上になると開花する。
写真③④はマーブルとピンクの改良種である。

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歳時記に載る句を少し引いて終りにしたい。

 小書斎もポインセチアを得て聖夜・・・・・・・・富安風生

 ポインセチア教へ子の来て愛質(ただ)され・・・・・・・・星野麦丘子

 時計鳴り猩々木の緋が静か・・・・・・・・阿部筲人

 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す・・・・・・・・草間時彦

 ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗・・・・・・・・宮南幸恵

 ポインセチアや聖書は黒き表紙かな・・・・・・・・三宅絹子

 ポインセチア独りになれ過ぎてはならず・・・・・・・・鈴木栄子

 ポインセチアその名を思ひ出せずゐる・・・・・・・・辻田克己

 ポインセチアどの窓からも港の灯・・・・・・・・古賀まり子

 星の座の定まりポインセチアかな・・・・・・・・奥坂まや

 ポインセチア画中に暗き聖家族・・・・・・・・上田日差子

 寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ・・・・・・・・小路智寿子

 休日をポインセチアの緋と暮るる・・・・・・・・遠藤恵美子

 ポインセチア抱いて真赤なハイヒール・・・・・・・・西坂三穂子



啼くこゑの力あるこゑさざんくわのあたりより来るよき朝なり・・・・・・・・・・・・福沢敦子
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    啼くこゑの力あるこゑさざんくわの
       あたりより来るよき朝(あした)なり・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子


この歌を含む一連を引いておく。

        雀ご・・・・・・・・・・・・・・・・・福沢敦子

     水木より黄楊の木へ土へわらわらと雀ごは来ぬ窓近くまで

     月の気配うしろにありて道にいでしわれはゆつくり呼ばれてをりぬ

     かがやきて瞬く間に過ぎし者ありとして昨日けふ思ふべく

     水にもどし手にあまるなり中国の長白山の黒木耳なる

作者は昭和16年生まれの「石畳」という結社に拠る歌人である。
伝統的な、しっとりとした歌作りをする人で、佳い歌に仕上がっている。描写が精細である。
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上に引いた一連は必ずしもスズメを全部詠んではいないが、以下は「雀」についての事典の引用である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 スズメ

学名
Passer montanus
英名
Tree Sparrow
スズメ(雀、すずめ・学名Passer montanus)は、スズメ目・スズメ科(ハタオリドリ科とも)に分類される鳥。人家の近くに生息するなじみ深い小鳥である。

 特徴
全長は約14~15cmほどで、雌雄同色。成鳥は頭部は赤茶色、背中は褐色で黒斑があり、頬から腹にかけては白色をしている。くちばしの色は夏は黒色であるが、冬になると基部が淡黄色を帯びる。頬にある大きな黒い斑点は遠くからも目立ち、これが他の近似種との区別点でもある。幼鳥は全体に色が淡く、頬の黒斑がはっきりしない。

くちばしは短くて太い円錐形で、小さな餌をついばむために都合がよい構造となっている。地上では足で飛び跳ねてすばやく移動する。たまに窓から室内に入る場合がある。

ユーラシア大陸を中心に世界に広く分布する。草原、農耕地から都市部まで、およそ人の居住域付近ではごく普通に見られ、人間生活に強く密着した鳥といえる。

「雀の学校」と言われるように、非繁殖期は若鳥を中心とした群れを作って生活するが、春の繁殖期にはつがいで生活する。雨樋と屋根のすき間などに枯れ草で巣を作るので、この時期には枯れ草をくわえて飛ぶ様が見られる。また、ツバメなど他の鳥の古巣を利用することもある。広島では、スズメバチの古巣を利用した例も報告されている。人間が設置した巣箱も利用するが、この際は出入口の位置まで巣材を積み上げる習性がある。

屋根瓦の下に作られたスズメの巣および卵
木造家屋の屋根瓦の狭い空間に作られた直径5-6cm、深さ4cm程度の椀状に凹んだ巣。屋根の葺き替えの際に見つかった。卵の長径は1.5cm、短径は1cm程度で色は薄い茶色がかった灰色。巣の材質は主に枯草。瓦1枚の寸法は約30cm。

食性は雑食性で、イネ科を中心とした植物の種子や虫を食べる。また、都市部に生息するスズメはサクラの花、パン屑・菓子屑や生ゴミまで、何でも食料にする。このようなタフな雑食性が、都会でも生き残る所以といえる。

穀物を食害することから、古来より農民に敵視されてきたが、繁殖期には虫を捕食して害虫を減らすうえ、雑草の種子も多く食べる。中国では毛沢東の指示で米へ被害を与えるスズメを根絶してしまおうという「スズメ撲滅運動」が大躍進政策で行われた。その結果、たしかにスズメによる被害は減ったが、代わりに害虫が大発生し、結局収穫は大幅な減少に至った。大躍進政策における様々な無理により結果的に計数千万人の餓死者が出たとされるが、スズメ撲滅運動はその失敗例の一つとして取り上げられることが多い。ただし日本では現在も農家による限定的なスズメの駆除は認められており、狩猟対象鳥類28種のひとつ。捕獲したスズメは焼き鳥屋などで食用にされる。

アメリカ合衆国では、19世紀半ばにミズーリ州セントルイス市に移入された。広範囲に分布するイエスズメとは対照的に、現在では同市と隣接するイリノイ州の一部にのみ生息し、スズメの分布域は広がっていない。

日本での分布域
日本のほぼ全域に見られる。ただし、小笠原諸島では見られず、青ヶ島が伊豆諸島での最南端の分布域である。また太平洋の絶海の孤島である南大東島、北大東島にはスズメが大量に住んでおり、海を渡ってきた少数の個体から、温暖な気候により増殖したものと考えられている。
人間の生活に密接に関係し、人間が住み始めた集落にはスズメも居着き、逆に人間が離れ集落が無人になるになるとスズメも見られなくなるという傾向がある。
人間になじみ深い野鳥であるが、稲の害鳥とされてきた経緯もあり警戒心は強い。ただ近年都心では人間になじみ、日比谷公園などでは人目につくところに営巣したり、人が餌付けしたりする光景も見られるようになってきている。

 分類体系上の位置
スズメ目> スズメ亜目> スズメ小目> スズメ上科> スズメ科> スズメ亜科

 近縁種
スズメ属(Passer)は世界に15種がおり、そのうちの10種が人里付近に生息していると言われる。

スズメ属のなかで最も繁栄している種で、ユーラシア大陸西部、南北アメリカ、オーストラリアと広く分布している。ヨーロッパには日本のスズメもイエスズメも生息しているが、全長約16.5cmと体格に勝るイエスズメが徐々に生息域を広めている。北アメリカ大陸にはもともとスズメもイエスズメも生息していなかったが、19世紀半ばにニレの木につく害虫駆除のためにイギリスから持ち込まれたのをきっかけに、全米で繁殖するようになった。

頬に黒斑がないスズメで、東アジアに分布する。森林に生息し、人里にはあまり進出しない。樹洞に営巣し、キツツキ類の古巣をよく利用する。

他の言語の事など
スズメは、英語では「Sparrow」となる。ただし、Sparrowはスズメ科に分類される鳥の総称として用いられる。
またAmerican sparrowは、スズメ科ではなくホオジロ科に属するあるグループを指す。American sparrowは特定の種類を指さず、多くの種が含まれる。
さらにペットとして飼われるベニスズメは、カエデチョウの仲間である。日本には元々いなかったが外来種として一部の地域で野生化している。
日本ではスズメを漢字で「雀」と書く。しかし標準的な中文(中国語)では「麻雀」と表記する。なお、中文ではスズメ科 (Passeridae) は「文鳥科」であり、中文の「雀科」はアトリ科 (Fringillidae) であったりと日本とは異なり、ややこしい。

文化
穀物を食害するスズメを追い払うため、「スズメ追い」「鳥追い」などという風習が各地にあり、それに関する民謡、民話なども伝えられている。また、かかしもスズメ追いの道具として作られたものである。
追い払われる一方で、「神様のお使い」として慕われてもきた。
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されており、地方や人によっては食用にもする。但し、獲れる肉の量が少ないために貴重な食材とされている。
都会では、猫が捕食者として雀を狙っており食物連鎖のバランスが意外にも取られている。
突然変異により羽毛の色素が無い「白スズメ」が稀に見られ、古来より瑞鳥とされてきた。聖武天皇や桓武天皇などが白スズメの献上を受けたという記録が残っている。
「スズメぐらいの大きさのもの」ということで、名前に「スズメ」を冠した生物は多い。スズメガ、スズメバチなどは他の仲間より大きいという形容、逆にスズメノテッポウ、スズメノエンドウ等は小さいという形容である。
鳥ではないが、ガの仲間「スズメガ」の標準和名は「ガ」を省略するため「-スズメ」となる。フクラスズメというガもいるが、これはスズメガ科ではなくヤガ科である。
和文通話表で、「す」を送る際には「スズメのス」という。
雀色という色もある。

 慣用句
雀の涙 日常的に「小さい」「ごくわずか」などの形容として用いられる。
雀百まで踊り忘れず 幼い頃からの習慣は容易に変わらない
雀の巣も構うに溜まる 量が僅かでも積もり積もれば大きくなる
雀の踊り足 筆跡の拙さの形容
雀の千声鶴の一声 権限者の一声



さうですねさうですねえと聞き上手の妻ありてこそ語りたるかな・・・・・・・・・・黒崎善四郎
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    さうですねさうですねえと聞き上手の
      妻ありてこそ語りたるかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒崎善四郎


この人は昭和9年生まれの歌人である。
この人には『介護5妻の青春』という歌集がある。
掲出画像は、通常の老人の脳(左)とアルツハイマー型認知症患者の脳(右)。解剖学的な特徴の違いが示してある。
アルツハイマー型認知症患者は大脳皮質、海馬の萎縮、および脳室の拡大が見られるようになる。

この歌を含む一連を引いておこう。

     東京にもこんな綺麗な秋晴れがあるかと見ればあなたの忌日

     秋晴れに小躍るほどの洗濯好きああ妻はどこにも居らず

     うつしみの妻の写真を眺むればざんげの心通り過ぐかも

     天高く鰯雲こそほそ身なれほそ身のあなたがまぎれてゐるや

この一連は「平成19年度版角川短歌年鑑」に載る作者の「自選歌5首」に載るものである。

以下は、この歌集の紹介記事である。
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歌集 『介護5 妻の青春 』

著者:黒崎善四郎 四六判 208頁
角川書店刊。定価(税込):2,500円 ISBN 4-04-621801-0

介護5の妻を看取る胸中に去来する想い。短歌と長歌に託した感動の作品群。
寝たきりの妻を看取り、見送った日々。来し方の思い出と目の前の介護の現実とが交錯する中から湧き上がる感情が、妻への深い愛情と溶け合い、数々の歌となってほとばしる。読む者の共感を誘う、感動の第五歌集。
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以下は、大山敏夫氏が書く書評である。

■歌集『介護5 妻の青春』黒崎善四郎

 帯に田島邦彦氏が書いている。「年を経て体験する妻との熱い日々、この感動的な歌の数々こそ、正に短歌版『智恵子抄』と言えよう」と。また「あとがき」は言う。

 最愛の妻美保の生命を喪失した。すでに永遠に沈黙する妻の枕辺に「あなたがこの世に存在した生命の有り様をしっかりと短歌や長歌に詠みますよ」と約束した。

 黒崎氏は以前から短歌のみならず長歌を作り歌集等にも発表していたが、この集も約半数は長歌である。集名となった長歌がある。

    わが妻よ 介護5といふ 最重度の アルツハイマーの 認定を 受けたる妻の……

と続く、読んでいて切なくなるようなものだが、この歌集は亡くなった妻を思い、その介護の日々と彼岸へと送り、その後の日々の思いを約半年間で一気に歌いあげた一巻だというところに特徴がある。若かった頃のほのぼのとした思い出も織り交ぜながら、辛く切ない介護の日常を誠心誠意を込めて共に生き抜いた歌に、男の私も涙を禁じ得なかった。それは単に歌の善し悪しとは根本的に違う何かがここにあるということだ。
 巻頭の「四十年昔の妻は」という一連に、

   四十年つねに吾妻はわが帰り嬉しさうに迎へてくれたり

   四十年おもへば妻は楽し気にいつもお祭りみたいでしたね

がある。私が氏の板橋のアパートで歌を語りあったのがこの頃か。そう言えば一緒に行ったのが帯文の田島氏だった。美保夫人は確かに明るくはっきりものを言うお人だった。妻の青春と言うが、それは黒崎氏ご自身の青春でもあり、そして同時代を生きている私の青春でもあるのだ。あの人がアルツハイマーで亡くなった。そして黒崎氏はこんなふうにお二人で生き、こんなふうに介護をして、こんふうに今もなお美保さんを愛し続けて「青春」しているんだなと、切なくて、涙がこぼれた。
 長歌のもつ味をよく出しているが、三首だけ短歌の方を引く。黒崎氏の今後の新境地の開拓を祈るしかない。合掌。

   投票所のケアに痴呆の妻がこゑ意中の人は黒崎善四郎

   ベッドの妻なれど女王のやうなれば医師もヘルパーもわれも従ふ

   介護5の妻がベッドに招くかもああ厳粛なる時流るるは

(角川書店刊)

(以上担当/大山 敏夫)
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上の文章にも書かれているが、事実に即して歌にしようとすると定型の制約のある「短歌」では限界がある。
私も第四歌集『嬬恋』(角川書店)で経験があるが、私は、それを「散文」を挿入することで試してみたが、この人は「長歌」でやろうとされたのである。
この歌集は、この人なりの「嬬恋」であったと言えるだろう。ひと頃、介護の歌としてあちこちで紹介されたことがある。
ただし、この人は2010/09/10に大腸ガンのために亡くなられた。 合掌。

私は2003年に生前の妻との想いを『嬬恋』に発表した。その後の介護の日々のことはまだ歌集の形では出してはいない。
妻の末期(まつご)の日々には、私は定型の短歌ではなく、制約のない「詩」の形で書き綴って詩集『免疫系』(角川書店2008年刊)として上梓した。

絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・川本千栄
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    絵葉書のような恋とは思えども
        しまい忘れた椅子一つある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄


この人は昭和37年生まれというから40歳半ばを少し過ぎたところであろうか。
今をときめく短歌結社「塔」の若手として期待される人で、評論もよくする理論派でもある。
ご夫君は松村正直という同じ結社の歌人で「塔」の編集の責任者ということだが、略歴を見るとフリーターらしい。
私事をつつくようで申し訳ないが、彼は昭和45年生まれというから彼女とは七つも年下である。
「絵葉書のような恋」というのは「絵空事のような恋」とか「もう絵葉書のように過去になってしまった恋」とかいう意味であろうか。
結句の「しまい忘れた椅子」というところに「未練がある」ということが表現されている。作者の「恋」に対する「未練」という所以である。

掲出歌と同じところに載る作品の残りを引いておく。

     日ざかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川本千栄

   一人子は一人遊びが得意なり剣振りながら物言いやまず

   日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

   もうわれは子を産まぬのか青年のような男にすがりて悲し

   牡蠣の腸(わた)そのふかみどり舐むる時かく隔たりし君のしのばゆ

この一連の最後に掲出歌が来るのである。

ここで以下にネット上に載る「尾崎」さんという人のBLOGの記事を転載しておく。
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川本千栄歌集『青い猫』(その1)
8月の「塔」全国大会でもお世話になった、川本千栄さんの
第一歌集「青い猫」を読んだ。作者に会った事があるか否かは
一冊の歌集を味読するのに関係あるのだろうか。

まず気になるのが巻頭歌と表題歌。

 竹林はそのまま山につながって登りつめれば天の群青

 青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

だいぶ雰囲気の違う二首だ。言葉は平易で辞書はほとんど必要ない。
これらの間にどんな歌があるのか?心に留まった歌、前半の部。

 タコしゃぶはしゃしゃらしゃらしゃら湯に泳ぎ情事の合間に日常がある

 われを洗い日々縮みゆく石鹸よ魚の形の受け皿の中

 月あかり指の先まで溶かし込みト音記号となり君を抱く

 髪切ってすいすいぎっちょん冬の街身隠すもの無きバッタが行くよ

 三十を超えた男の横顔はみなキリストに似ると思う日

 頭とは脳を入れたる器なり口づけらるるは蓋のあたりか

 押し入れを開け放している部屋のなか内蔵さらしたままに眠るよ

 アメリカに憧れる母「奥様は魔女」のようなる台所持つ

全体に「距離感」を感じた。隔靴掻痒ってほど近くではない位置から
第三者的にながめる視線というのかな。わたしとは違う立ち位置の
歌が多く、読んでいて「言われてみれば」「なるほどなあ」が多かった。

歌集前半は独身時代、教師としての職場詠、家族詠旅行詠をはさんで
夫君松村正直氏との恋愛、新婚時代、そして出産までを描いている。
本書を手にする前に、「塔」誌上での歌集評や100人を集めたという
批評会の報告などを読んでいたが、先入観というか他の人が本書の
ある側面をあげた批評については、一部納得できない部分もあった。

 <その2に続く>
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つづいて同じくネット上から、春畑茜という「短歌人」という結社に所属する人のサイトから引く。

『青い猫』(川本千栄歌集)を読む
『青い猫』は川本千栄さん(塔短歌会)の第一歌集。2005年12月10日砂子屋書房発行。

*
タイトルの青い猫とは何だろうかと思って読んでいくと、歌集の終り近くに青い猫が登場する一首がある。

・青い猫振ってお前が放つ声 腹這いのままわれを見つめて

青い猫は、まだ乳児であるわが子の玩具(ぬいぐるみかもしれない)らしい。腹這いの子は、その青い猫を振っては喜びの声を上げ、母を見上げているのだろう。母にも自分の喜びを共有して欲しいのかもしれない。そして母である川本さんのまなざしは、そのような子供の欲求をしっかりと捉えているのだ。この歌は実景描写がしっかりとしているので、母と子の情景がくっきりと目に浮かんでくる。

実は川本さんと私は同学年であり、同じ年齢の子供がいる。そういう共通点があるせいか、この歌集にはまるで自分の気持ちを代弁されたかのようなドキリとさせられる歌もある。

・来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

時に子供は、それほど悪意があるわけでもないのに、相手にとってひどく酷なことを言ってしまう。教師である川本さんにはそれがよくわかっているのだろう。

歌集はほぼ編年順に作品が配列されているせいか、五年間の歳月の流れが無理なく読めるようになっている。Ⅱではご主人との出会いと結婚・妊娠生活の歳月が描かれ、Ⅲでは出産と育児の日々が歌われている。Ⅱの冒頭にはこのような歌がある。

・夏に会いし君は夏の人あおあおと朝顔のような耳開きいる

「夏の人」と歌われる青年は、青々とした朝顔のような耳を持っているのだという。朝顔のような耳という直喩が面白い。朝顔は、意外に奥行きが深いところがあるのだ。そしてその耳は次のようにも歌われている。

・初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳

また、歌集のところどころに観察眼が鋭く、描写のゆきとどいた歌があり、印象的だった。川本さんの歌にはさまざまな魅力があるが、私は次にあげるような歌たちに特に味わい深さを覚えた。

・西洋の時計のみ置く骨董屋寺町通りのガラスの向こう

・胎児らはいつまで眠る米兵のその子が孫が眺めたあとも

・ペット屋の裏手のドブに捨てられる熱帯魚たち 日本で乾く

・髪を切る女と今日は饒舌なわれとが上下に顔置く鏡

・君のシャツ拾い上げてはたたみゆく今はひとりの妻である指

そして最後に少しさびしく、しかし美しく、一番印象にのこった一首をひく。

・みごもりの日は遠くなり黄金(きん)の雨身に降るような時も過ぎたり


多くの方々にこの『青い猫』を味わっていただけたらと思う。
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余計なお喋りは慎みたいが、そろそろ中年にさしかかってきた作者が、年下の夫君に、まだまだ「恋」を求めているように私は受け取ったが、いかがだろうか。
因みに作者は、夫君らと一緒に「Darts」という評論主体の同人誌を出している。
なお、2009年には第二歌集『日ざかり』を出しておられる。私が引いた歌群は、ここに載るものである。

詩のごとき財務分析書く人と言はれしことをひそかに誇る・・・・・・・・・・・・・渡辺幸一
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     詩のごとき財務分析書く人と
         言はれしことをひそかに誇る・・・・・・・・・・・・・・渡辺幸一


この人はイギリスのロンドン在住のエコノミストという職業についていた。日系企業ということではなく、英国籍の企業で、英語を日常語として勤務しているらしい。
「いた」と過去形にしたのは昨年かに長年勤めた「シティ」を退職したらしいからである。最近は歌人だけではなく「著述業」専門にされているらしい。
掲出画像は最新刊の本である。
「角川短歌賞」を受賞したこともある歌人としても有名な人であるが、2006年に『イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?』という本を出された。

以下は、その当時の紹介記事。
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『イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?』 渡辺幸一さん
在英15年の歌人の目

渡辺幸一さん タイトルの問いかけに、それは街並みがきれいで緑が多いからでしょう、と答えるのは簡単だ。では、なぜそのような住環境が保たれているのか、
この本は、そこまで考えさせ、教えてくれる。

 ロンドンに移り住んで15年。世界の金融の中枢、シティで働き続けてきた金融マンであり、角川短歌賞を受けた歌人でもある。イギリスについてのエッセーはこれで4冊目になる。
(草弥注・2006年末現在では、エッセイも6冊となった)

 「年を重ねるにつれて、いろんな面が見えてきます。イギリスの良い面は、だれもが人間らしい暮らしをする権利がある、という考え方が浸透していること。
今回は、人や環境にやさしい社会を作っている仕組みや制度を、『フレンドリー・ネットワーク』と名付けて書いてみました」

 ロンドン市街のコインストリートでは、高層ホテルを中心にした民間デベロッパーの再開発を退け、住民たちが公園や公共施設、賃貸住宅からなる再開発に成功した。
その事例を紹介しながら、権利を守るためには驚くほど行動的で、コミュニティーという人とのつながりを大切にする住民たちの姿をとらえる。

 イギリスに移住した理由の一つは、自閉症の長男によりよい環境を求めたためだった。
老人や障害者に対する福祉の、親身さやネットワークの緊密さが、どれほど彼らの生活の質を上げているかが、詳しく描かれる。

 「たしかに効率がよくないところも多い。私も買い物に行くとしょっちゅう腹を立てています。注文した商品が来なかったり、時間にルーズだったり。
でもだれかが本当に弱っている時、困っている時には助けてくれます」

 最近気づいたのは、本の表紙にカバーをつけている人がまずいないこと。「この国では他人と自分を比べない。
隣の人が何を読んでいるか関心がなく、だれものぞいたりしないからじゃないか、なんて思うんですよ」

 散歩が楽しいわけは、住環境の良さばかりではない。悠々とした精神のありようのためでもあるとわかってくる。(河出書房新社、1500円)(晶)

(2005年6月7日 読売新聞)

『イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?』
渡辺幸一
出版社:河出書房新社
発行:2005年5月
ISBN:430924338X
価格:¥1575 (本体¥1500+税)
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この紹介記事にも書かれているが、イギリスに関するエッセイも今では6冊にもなるという。
年譜によると昭和25年生まれというから、いわゆる「団塊世代」ということになる。現在は「世界樹」という短歌会に所属しているらしい。

掲出歌は、並みの財務分析ではなく、「詩のごとき」財務分析を書く人と呼ばれることを文化人として「ひそかに誇っている」というものである。
欧米では「詩人」というのは尊敬される対象であることを申しておきたい。
この歌の載る一連を書き出してみよう。

       母なる国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺幸一

   病む神を我らいただき中世と変はらぬ空を雲動くなり

   大戦の歴史に触れて靖国を「戦争神社」(ウオーシュライン)と英字紙は書く

   日本を「母なる国」と呼ぶまでに過ぎし時間の長さを思ふ

   日の丸を負ひておのれを鼓舞したるイチロー思へば涙ぐましも

このように、この人の歌は、いつも世界の中から見た「日本」を詠っている。
ここに引用した部分だけでも、例えば「靖国」の歌などに鋭い「批評精神」があるだろう。

次に、これもネット上に載るsanpomichiというサイトの「歌集逍遥」という記事である。
書き手の名前は不詳。
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[歌集逍遥5]
渡辺幸一第二歌集『日の丸』

 祖国などという言葉を、痛切な気持ちで思い浮かべることは、日本国内で暮らしているわたしの日常にはありません。
国際社会で生起するニュースを、新聞やテレビで見るとき、日本という国家意識はあっても、祖国という、個人の内面に結びつくような感情は湧きません。
オリンピックで、わたしが日本を応援するのは、学校の運動会で我が子を応援するのとかわりません。身贔屓です。
 しかし、ちょっと国外に出ると、たとえ短期間の観光旅行であっても、国内にいるときの自分が、如何に局所的かつ一面的見聞にしか触れていないか
ということを痛感させられるものです。

 『日の丸』の著者は、長い間、イギリスの金融界に身を置いて、みずから「移住者」と自己規定しています。
その視線の先に象徴的にあらわれて来るのが、表題の〈日の丸〉です。〈日の丸〉は、イギリスから見える日本でもあり、
イギリス人から見えるであろう自画像でもあり、また作者の存在根拠でもあります。

 白人がしばし我が顔見つめをり『南京の凌辱』買はむとすれば
 日本の英語を聞かせ笑はせるテレビCMが流されてをり
 〈アジア圏と君が言ふ時日本は含まれるか〉と洪氏は問へり

異国に日常を過ごすというのは、こういうことなのかと思います。白人の容赦ない視線や侮蔑に晒されながら、アジア人の詰問を受けながら、
作者は〈日の丸〉についての思索を深めてゆきます。その思いは、当然のことながら二項対立的に腑分けできるものではありません。
しずかに作者の内部に錘のような重さとして蓄積されます。

 異国にて言葉こそ斧 刃の先を鋭利にせよと告げをり我は
 ひとすぢの水零すごと日本の文字縦書きす異国の冬に

こういう歌の前で、わたしは長い時間たちどまりました。わたしたちは、何故短歌を作るのだろうと考えてしまうからです。
『日の丸』の作者にとって、短歌を作るということは、単なる日本文藝の踏襲でもないし、自己表現の手段でもないように思われます。
「言葉こそ斧」は、多くの局面を経てきた作者の必然を負っています。作歌も必然としてあるのでしょう。

 狂ひゆく我が日本語を哀しみぬ楔のごとき助詞求めつつ
わたしは『日の丸』を読みながら、日本語を美しいと思いました。

歌集『日の丸』(ながらみ書房、2004.4.21発行)
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ここに載る『日の丸』という歌集は渡辺氏の第二歌集ということである。
以下は、渡辺幸一の著作一覧である。

1. 英国のバランス日本の傾斜
渡辺幸一 /河出書房新社 2006/11出版 225p 20cm ISBN:4309243975 \1,575(税込)
2. イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?人にやさしい社会の叡智
渡辺幸一 /河出書房新社 2005/05出版 208p 20cm ISBN:430924338X \1,575(税込)
3. 日の丸渡辺幸一歌集
渡辺幸一(1950-) /ながらみ書房 2004/04出版 151p 19cm ISBN:4860232305 \2,100(税込) 入手不可
4. ロンドン金融街で学んだイギリス式仕事と人生の絶妙な知恵
渡辺幸一 /河出書房新社 2004/01出版 206p 20cm ISBN:4309243037 \1,575(税込)
5. イギリス発・私的日本人事情(朝日文庫 )
渡辺幸一 /朝日新聞社 2002/04出版 263p 15cm ISBN:4022613599 \672(税込)
6. 通じる英語通じない英語日本の英語教育では絶対に教えてくれない実践会話術
渡辺幸一 /飛鳥新社 2001/06出版 247p 19cm ISBN:4870314673 \1,470(税込) 入手不可
7. イエロ-差別される日本人
渡辺幸一 /栄光出版社 1999/05出版 254p 20cm ISBN:4754100271 \1,575(税込)
8. 霧降る国(かりん叢書 ) 渡辺幸一歌集
渡辺幸一 /角川書店 1997/10出版 223p 20cm ISBN:4048716565 \2,625(税込) 入手不可
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(追記)
冒頭に掲出した歌について、ご本人が角川書店・月刊誌「短歌」2011年一月号に「仕事の歌」として、こんな記事を書いている。

<イギリスに移住した1990年から2008年まで、私はロンドンの金融街に身を置いた。
最初の五年間は株のセールスマンとして、その後の十三年間は企業の財務を分析し、英文でレポートを書くアナリストとして働いた。
同僚のアナリストには、独自のレポートのスタイルを誇示するために、わざと難解な表現を用いて得意がる者が多かった。
ある時、同僚の書いたレポートに理解できない個所があったので、本人に質問すると、「これは旧約聖書の『出エジプト記』からの引用だよ」とこともなげに言われた。
財務分析の文章に、なぜか「出エジプト記」が出てくるのである。
私も対抗して、特徴のあるレポートを書きたかったが、英語の作文力ではイギリス人に遠く及ばない。
そこで、せめて分かりやすく美しい文章を書くことを心がけ、私なりに工夫した。
たとえば、日本の消費者金融業界が世論にきびしく批判され、法律の改定によって窮地に立たされた時、
「Loan companies are forced to fight alone(金融業者は孤軍奮闘を強いられている)」という具合に、
前の「loan」と後の「alone」で韻を踏む文章を書いた。
この種の文章をレポートの随所にこっそり忍び込ませると、「ワタナベは詩のような財務分析を書く」と評判になった。
むろん、いろいろな指標に基づいて財務の細部を調べるのは大変な作業で、文章にばかり力を入れるわけにいかなかったが、
詩的な雰囲気を湛えた英文レポートを書くことは、ひそかな快楽であり、誇りであった。
そこには多分、短歌という詩に関わる私の自負心も働いていたと思う。>

西欧詩をやられた人なら、これを読まれたら、ニヤリとされると思う。 いい文章である。
「物書き」と呼ばれるからには、こういう緻密な作業をしたいものである。 紹介しておく。



詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)・木村草弥『愛の寓意』・・・・・・・・・・木村草弥
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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わが敬愛する谷内修三氏が、私の詩集『愛の寓意』について触れて下さった。
有難いことである。
以下に、その全文を転載しておく。
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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)木村草弥『愛の寓話』(角川書店、2010年11月30日発行)
(草弥注・谷内氏では「寓話」となっているのは間違い)

 木村草弥『愛の寓話』には、短歌(和歌)がいくつか載っている。私は不勉強で知らなかったのだが、木村は歌人だったのか。
(詩集の文末の「著書」一覧を見ると、歌集がある。)


その場所をあなたの舌がかき混ぜた 快楽(けらく)の果てに濃い叢(くさむら)だ

ふたりは繋がつて獣のかたちになる 濃い叢にあふれだす蜜


 この二首は「口語的」な作品だが、


拓かれし州見台てふ仮り庵(いほ)に愛(め)ぐはし女男(めを)の熟睡(うまい)なるべし


 という旧かなづかいの文語調の作品もある。
 この「短歌」に触れて、木村のことばの秘密が少しわかったような気がした。木村のことばは非常に読みやすいが、それは日本語のリズムを短歌(和歌)の形で鍛えているからである。伝統の文学形式をとおして、音感だけではなく、イメージの飛躍のさせかたもきっと鍛練しているのだ。

 だから、「散文」も、ふつうの「散文」とは違う。
 もっとも、今回の本は「詩集」と書いてあるから「散文」と違って当たり前ではなるのだが。

 「ピカソ「泣く女」」の書き出し。


「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法だ。
この絵は一九三七年に製作されたという。
派手な赤と青の帽子をかぶり、髪をきれいに梳かしつけた大人の女性が、幼児のように、恥も外聞もなく、ひたすら泣いている。
モデルはドラ・マール。当時ピカソの愛人だった。
マン・レイによる彼女の写真が残っており、知的で個性の強い神経質そうな美人である。
ほっそりした繊細な指に長いトランペット型シガレットホルダーを挟んで煙草をくゆらす姿は、粋なパリジェンヌという雰囲気である。


 一行一行は「散文」である。けれど、一行と、次の一行が「散文」のつながりではない--というところに、何か秘密があるのかもしれない。「散文」というのは、基本的にあることがらを書いたら、そのことがらを踏まえながらことばが動いていくものだが、木村のこの作品には、そういうことばの運動がない。木村は「散文」の鉄則を踏まえずに書いている。
 具体的に言いなおすと。
 「「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法だ。」という書き出しを受けて、二行目は「この絵は一九三七年に製作されたという。」とつながるのだが、この二つの文章に「散文」の「要素」がない。「キュビズム」がさらに詳しく説明されるわけではない。まあ、「キュビズム」が1937年当時絵画のひとつの運動であったことはわかるが、それ以外のことはわからない。さらに、「派手な赤と青の帽子をかぶり、髪をきれいに梳かしつけた大人の女性が、幼児のように、恥も外聞もなく、ひたすら泣いている。」も、前の文章とは何の関係もない。派手な帽子の女がひたすら泣けば「キュビズム」になるわけではない。また、1937年に女が泣いたからといって「キュビズム」になるわけではない。さらに「モデルはドラ・マール。当時ピカソの愛人だった。」とつづくが、これも「キュビズム」とは関係がない。
 「「キュビズム」というのは……」と書きはじめながら、木村のことばは、その「キュビズム」に対する木村の考え方を表明するわけでもなければ、書くことによって「定義」が深まるわけでもない。ピカソの「泣く女」が見えてくるわけでもない。
 何なの? 「散文」ではないから、これはこれでいいのかもしれないが、やっぱり何なの?と思ってしまう。何を書きたい?
 「愛人」について書いた関係なのだろうか、その後、ピカソの女性関係が延々と書かれていく。これは、ピカソのスキャンダル(?)を報告する文章? いや、そうでもないなあ。
 もしかすると、「散文」の堅苦しい、前後関係の緊密なことばの運動ではなく、和歌のもっているリズムでことばを動かしたい、ことばをほぐしたいということなのかなあ。

 そんなことを考えていると、突然、


芸術家は怖い。
蜘蛛が餌食の体液を全て吸い尽すように、他人の喜怒哀楽、全ての感情を吸い取って自分の糧にしようとする。


というような、ピカソに対する感想が書かれる。そして、


紛れもないサディストであったピカソにとって、ドラを泣かせるのは簡単だったし、ドラもまた都合よく泣いてくれる女ではあった。彼女があられもなく泣き顔を曝すとき、ピカソの動かない目は羽をちぎられてもがく蝶をじっと観察するように眺めていたのだろう。
そんなシーンを思うと怖い。
(略)
蜘蛛が干からびた獲物の残骸を網からぽいと捨てるように、ピカソはドラを捨てた。
ピカソの残酷さが遺憾なく発揮された『泣く女』は傑作となり、ドラの名前も美術史に永遠に残ることになった。


 あ、これは、「泣く女」について書いた詩ではなく、その絵が書かれた背景を描いた「評伝」なのか。いや、そうじゃないなあ。「泣く女」を借りて、蜘蛛と餌食の命を懸けた「愉悦」を描いているのかもしれない。蜘蛛と蝶の「愉悦」を語ることばの響きを楽しんでいるのかもしれない。そのイメージを楽しんでいるのかもしれない。
 おもしろいなあ。
 すると、最後が、突然やってくる。その最後が、とてもとてもとてもとてもとても、何回「とても」を繰り返していいかわからないくらい、おもしろい。


厖大な作品量、数えきれない女性関係も含めて、ピカソという名前自体が一種のブランドなのだが、彼のフルネームを知るとまた驚く。
まるで「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ・・・・・・」のように長い--
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウル・ホアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニーダド・ルイス・イ・ピカソ」!


 この最後の、長い長い名前を木村は書きたかったのかもしれない。
 いや、そんなことはない、名前ではなく、ピカソについて書きたかったのだと木村は言うかもしれないが、私は「誤読」する。絶対に、この長い名前が書きたかったのだ。
 名前の最後の「ルイス・イ・ピカソ」というのは父の姓と母の姓である。出自を明確にするためなのか、スペイン人の名前は両方の姓を持つことになっている。名前のなかに人間関係がある。--この「人間関係」に収斂するように、女をめぐるスキャンダル(?)を書いたのだ。
 ピカソのなかに、そんなにたくさんの「名前」があるのだから、その「名前」のひとりひとりが、それぞれの女とつきあったっていいじゃないか。
 そして、私はカタカナ難読症なので、読むことができないのだけれど、この名前--そのリズム、きっと、それはカタカナを読めるひとにはおもしろいに違いない。そこに音楽があるに違いない。それはきっと、詩集の冒頭の作品の、


三香原(みかのはら) 布当(ふたぎ)の野辺を さを鹿は嬬(つま)呼び響(とよむ)。山みれば山裳(やまも)みがほし 里みれば里裳(さとも)住みよし。


 というようなものなのだ。「意味」はもちろんある。けれどひとは「意味」だけでことばを読むわけではない。むしろ、どんな「意味」があろうと、「音」がおもしろくないければ、それを読まない。「音」を読み違えながら、「意味」を超えていくのだ。
 「泣く女」について書いたことばのなかに、


彼女があられもなく泣き顔を曝すとき、ピカソの動かない目は羽をちぎられてもがく蝶をじっと観察するように眺めていたのだろう。


ということばがあったが、そのなかほどの「比喩」は「意味」であると同時に「音」であり、イメージである。いや、音とイメージだけであると言った方がいいかな。「羽をちぎられてもがく蝶」と書くとき、木村はピカソの目を一瞬忘れる。木村は忘れないかもしれないが、私は忘れる。蝶の苦悩と、苦悩の愉悦のようなものを感じ、なんだかうれしくなる。
 「散文」を装いながら、「意味」を逸脱していく「音」を木村は書いているのかもしれない。

黒猫に白毛混じりて猫にくる老いをながむる感動はあり・・・・・・・・・・・・高田流子
k0655黒猫

──<猫>の歌いくつか──

    ■黒猫に白毛混じりて猫にくる
        老いをながむる感動はあり・・・・・・・・・・・・・・高田流子


私は猫は嫌いなので飼ったことがないが、この歌は、黒猫も老いると白毛混じりになる、という理(ことわり)を面白く、かつ諧謔的に歌にしてある。
この一連に載る歌を、もうふたつ挙げておく。

   ■猫の歳十四はすでに大婆と言ひやればばたり床にたふれる

   ■秋の夜の膝にきたれる黒猫と白髪多きをともに嘆きぬ・・・・・・・・・・・・・高田流子

長年、生活を共にして来たので、この猫は「人語」を解するらしい。この歌も愉快である。
この作者は「年譜」によると昭和15年生まれとあるから、さほど老齢ということもないが、女の人にとっては「白髪」というのは、嫌なものらしい。
猫に向って「お前も白髪が目立つようになったわね」と呟く様子が見えるようである。
「描写」というものは、かくあらねばならない。

私の方の家は猫どもの「通りみち」になっていて、臭い臭いおしっこはするわ、ぐんにゃりとしたウンコをするわ、で大被害なので、猫を可愛がる人の気が判らない。
こんな歌がある。

     ■五日まり行方不明の親猫が霧ふかき朝鳴きつつ帰る・・・・・・・・・・・・関根栄子

この猫は、恐らく交尾期の盛りの時期だったのではないか。
この時期の猫の狂ったような嬌声は安眠妨害である。私はバケツに水を張ったものを用意しておいて、やかましい猫の叫び声がしたら窓からぶっかけることにしている。

     ■立ちどまり現在位置をたしかめて方向音痴のわが猫がゆく・・・・・・・・・・・西海隆子

「犬は人につき、猫は家につく」と、よく言われることである。この歌のように、方向音痴の猫が居るのであろうか。

     ■この電車地下を這ひつつゆくからにうかがふやうな猫の形だ・・・・・・・・・・・池田はるみ

この歌は直接には電車を詠っている。這う形の猫の姿勢のようだ、という比喩になっている。

     ■隣家はこぼたれ小さき闇となり麻布猫族夜な夜な集う・・・・・・・・・・・・千家統子

     ■だれにでも抱かれるわたしのネコはもうわたしのネコであるはずはなく・・・・・・・・・・武藤雅治

「猫」の歌をよく目にすると思っていたが、こうして選り出してみると、なかなか見つからないものだ。
この辺にする。



言語とふ異形の遺伝子持ちしよりひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・沢田英史
ひも

    ■言語とふ異形の遺伝子持ちしより
        ひとの生くるは複雑微妙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史


聖書に「はじめに言葉ありき」という教えがある。
これはイエス・キリストの言葉を信じよ、ということであろうが、「はじめに言葉ありき」という言葉は、さまざまにバリエーションをつけて語られてきた。
人間が他の生物と異なるのは「言語」を持っているからだと言われる。
それは正しいだろう。
だが、掲出した沢田英史の歌のように、この「言葉」というものを持っているが故に、人間は言語に縛られ、動きがとれなくなった、とも言える。
私にも、こんな旧作がある。

   ■「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統(す)べられつ・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の「エッサイの樹」という連作に載る11首の中のものである。
この項目名からも分かるようにキリスト教──旧約聖書、新約聖書に因むものであるが、西欧世界に遊ぶと、キリスト教が、かの地に深く深く根を張り、
がんじがらめに支配していることを知らされる。
私の歌は、そんなヨーロッパの地を覆う、いわゆる「言葉」なるものの存在を意識したものである。

沢田英史の歌は、「異形(いぎょう)の遺伝子」という側面から「言語」「言葉」というものを捉えた秀歌である。

この歌の前に、「対」になるように、こんな歌がある。

   ■遺伝子を残さむがため生くるなり
        生物のいのちは単純明快・・・・・・・・・・沢田英史


この二つの「対」になった歌で、ひとつの主張がなされていると言うべきだろう。
秀歌という所以である。

ヨーロッパの「精神史」に触れると、この「大枠」の中で、中世以後、デカルトをはじめとして多くの知識人が苦悩してきた事実が判って来る。
そして多くの人がカトリックに回帰してゆく。唯一、回帰しなかったのはサルトルとボーボワールの夫婦だけだったのでないか、という気がする。
「中世」が今に生きている、と言えば、そんな大げさな、と言われるかも知れないが、アメリカのブッシュ大統領が、現代の「十字軍」を標榜していた事実を見られるが、よい。
そして、結果として、イスラームを敵に廻してしまい、にっちもさっちも行かなくなった、というのがイラク戦争の報いであろう。
ひと頃、前ローマ法王が、中世の十字軍は間違いだった、とイスラームに謝った、というのに、ブッシュは時計のネジを逆に廻してしまったのだった。

こんな歌がある。

   ■「アメリカが悪い!」と言へば大抵のことが収まる二○○六年・・・・・・・・・・・・武下奈々子

事実は、それほど簡単ではないことは判っているが、大きな側面を指摘していることは本当だろう。
同じ作者の歌に

   ■軍隊の民営化てふ発想の線を辿れば戦争の外注・・・・・・・・・・・武下奈々子

という空恐ろしいのがあるが、これは事実、アメリカがイラクでやったことなのである。
文学者も、たまには、言うことは言うのである。

これらの歌は角川書店「平成19年版・短歌年鑑」自選歌から引いた。



初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・・・・・・・・・・・・・・・沢木欣一
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   初炬燵開く亡き妻在るごとく・・・・・・・・・・・・・・・沢木欣一

もう、この時季になれば、どこの家でも「炬燵」(こたつ)を出しただろう。
もっとも、この頃では全くの洋風暮らしをしている家もあるので、一概には言えない。
炬燵には「置き炬燵」と「掘り炬燵」の二種類があるが、床板をくりぬいた「掘り炬燵」の方が、絶対に足が楽だ。
この頃では和風料理屋などでも年中、掘り炬燵式のものにテーブルを置いてあるのが増えてきた。
正座をしたり、アグラをかくのに苦手な外人などにも好評である。
わが家でも10数年前に家を建て替えた時に、座敷に「掘り炬燵」を設置した。
夏も天板を、そのまま座卓にして、足は下に垂らせるようにした。天板も和風に合うように、落ち着いた、少し立派なものにした。
冬には下半身を暖めると全身が、ほっこりする。
「書斎」にも、三面が天井までとどく万冊に及ぶ本に囲まれているが、冬になると真ん中に「置き炬燵」を据えて、そこからテレビを見たりする。
書斎は椅子式の部屋だが、出入りの大工さんに頼んで椅子から足を伸ばせる台を特注で作ってもらい、
その板の上に「置き炬燵」を乗せるので、一人かけのソファーから足が伸ばせるのである。

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写真②は昔の浮世絵の炬燵の図である。鈴木春信画とか書いてあるが真偽のほどは判らない。
うら若い娘が仲良く炬燵を囲んで、「あやとり」をしながら語らっているという構図である。

江戸の日常暦によると、神無月の行事として、上亥、中亥、下亥とある亥の日のうち、武家では上亥の日に、商家では二の亥(中亥)の日に「炬燵開き」をした、という。
コタツには蜜柑が、よく似合う。これは何と言っても季節の風物詩である。

掲出の沢木欣一の句は、妻を亡くした感慨が盛られた句なので、私の今の心情に近いものとしていただいた。

    腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

というのがあるが、これは炬燵で温まった細君が腰抜けのようなしどけない状態になってしまった、という光景であろうか。以下、コタツを詠んだ句を引いて終りにしたい。

 淀舟やこたつの下の水の音・・・・・・・・炭太祇

 思ふ人の側に割り込む炬燵かな・・・・・・・・小林一茶

 句を玉と暖めてをる炬燵か・・・・・・・・高浜虚子

 炬燵の間母中心に父もあり・・・・・・・・星野立子

 横顔を炬燵にのせて日本の母・・・・・・・・中村草田男

 淋しくもなにもなけれど昼炬燵・・・・・・・・永井龍男

 編み飽いて炬燵の猫をつつき出す・・・・・・・・原田種茅

 炬燵出づればすつくと老爺峰に向ふ・・・・・・・・加藤知世子

 切炬燵夜も八方に雪嶺立つ・・・・・・・・森澄雄

 炬燵嫌ひながら夫倚る時は倚る・・・・・・・・及川貞

 熱き炬燵抱かれしころの祖母の匂ひ・・・・・・・・野沢節子

 どつぷりとつかりてこその炬燵かな・・・・・・・・中嶋秀子

 炬燵して向ひに誰も居らぬ母・・・・・・・・千葉浩史

 調法に散らかしてある炬燵の間・・・・・・・・小畑けい

 活断層の真上に住みて炬燵かな・・・・・・・・安達光宏



われわれはどこからきたか われわれはどこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・栗城永好
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    われわれはどこからきたか われわれは
       どこへゆくのか ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・・栗城永好


『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
原題は '''D'où venons nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?  である。
この絵と言葉を日本に最初に紹介したのは大正年間の「白樺派」の雑誌であった。
ゴーギャンの絵の題名としても有名であり、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている。

以下、ゴーギャンなどについてネット上から引いておく。
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ポール・ゴーギャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 ~ 1903年5月9日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館) (掲出の図版①の絵)
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。
死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
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図版②にゴーギャンの自画像を載せておく。
484px-Paul_Gauguin_111ゴーギャン自画像

掲出した歌の作者・栗城永好は昭和6年生まれの「沃野」という結社に所属する人であり、
この歌は、はじめに紹介した有名なゴーギャンの言葉を歌の中に取り込みながら、趣ふかい歌に仕立てあげた。
この歌につづいて、こんな連作になっている。

   ランプをかざす・・・・・・・・・・・・・・栗城永好

  希望とは待つことである ひつそりと診察を待つ二時間余り

  点滴は天のしたたり 外は雨 誰もおのれの余命は知らぬ

  サヨナラをいくたび言へどどこらまで己れさらしてゐるのだらうか

  虫けらも人間もいのち奪ひあふ地球は青き星といひつつ

何とも命を深く見つめた佳作であることか。最近こういう、しっとりとした佳い歌に出会うことが少ない。
角川書店「平成19年版・短歌年鑑」に載るものから引用した。

しどろもどろと言ふ語を「源氏」に見出しぬ只それのみにて本日愉し・・・・・・・・・・・米満英男
wakamurasaki源氏物語

   しどろもどろと言ふ語を「源氏」に見出しぬ
       只それのみにて本日愉(たの)し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米満英男


米満英男(よねみつひでお)氏は私の兄事する歌人である。
長らく教師生活をして来られた後は、今はあちこちで文学関係の講師などをされている。
よみうり文化センター「神戸校」では、「短歌」と「随筆と小説の書き方」の講座を受け持っておられる。
私の第三歌集『樹々の記憶』と第四歌集『嬬恋』 には懇切な批評文を賜った。

掲出の歌は角川書店「平成19年度版・短歌年鑑」に載る「自選作品5首」のうちのものである。
因みに私の歌「幽明」5首も収録されている。

米満氏の歌は源氏物語の中に「しどろもどろ」という言葉の使い方が、すでに存在するということを発見して、この言葉の使い方が今も生きている、ということの喜び、嬉しさ、懐かしさを表現していて微笑ましい。
掲出画像は「源氏物語」絵巻の一場面。

ここで1996年に刊行された彼の歌集『遊歌之巻』から引いてみる。

       白き骸 五情

   喜びの果たてのごとし山巓に出逢ひたるま白き骸(むくろ)は鷹か

   怒りのすべては乱、変ま近きこの<大和朝廷>の底にずんと溜めおけ

   哀れとはみづから発しみづからへ戻りくる咳(しはぶき)のこだまか

   楽しみのひとつなり孤り酌む酒の肴にこぼす濃口(こいくち)の愚痴

   怨むほどひと頼み来し訳でなしさはさりながら夜半(よは)の雷鳴

この一連5首は「喜怒哀楽怨」という「五情」を歌の頭に据えて作られている
この歌集の題名のように「遊び歌」として自在に作られている一巻なのである。
次のような一連は、いかが?

      青き水 五彩

   青き水の果てよりひとつ帆柱の徐徐に伸び来て空に創(きづ)生む

   黄の花畑とほくにありて近く見ゆこの距離感即(そく)われの望郷

   赤赤と燃えたつ焚火に詩歌焚く愉悦のさまにたかぶりながら

   白みゆくにつれて稜稜(かどかど)しき峰の現(あ)れ来ぬ述志の定座のごとく

   黒き夜の信濃は八坂 金熊(かねぐま)の湯につかりやをら肉をふやかす

この一連は「青黄赤白黒」の「五彩」という言葉で作られている。()の中のふりがなは原文通りである。


      土の坂 五行

   木づくりの首の欠けたる仏にてまざまざと目鼻涼しく佇てり

   火の中をかいくぐり来し秘色(ひそく)とふ青き壺生死(しやうじ)の外に覚めをり

   土の坂のわづかにたわむ中程に宙映しかつと開(あ)く水たまり

   金泥の経文の文字鮮らけく匂へり念願さへわづらはし

  水流るる時の間ふいにくらみたる素志置き去りにしなほ水流る

この一連は陰陽「五行」説にいう「木火土金水」に基づいてつくられている
一つ一つのそれぞれの歌も自立して佳いものである。


       惑星系 新枕詞

   をのへなす空まどかなるあかね空この惑星のまどひ深めて

   みつゆけし現身を曲げ祈りゐる前に素透しのままの神据ゑ

   さむしろの<私>にもどり靴下を脱げば青白き足のあらはる

   ははくろの肉老(ふ)けたればためらはずまつ先に刺せ己れの芯を

   きりきらふ若者らくらき目としろき歯を見せあひて何を嗅ぎあふ

   おきあをむはるけき異土に今もなほ<皇統(すめろき)のたてがみ>を刈る戦没兵

   よろひうつ火の芒空(のぎくう)をなぶりつつその上のくらやみに届かぬ

   たかとほる樹上に憩ふ死者ひとり否やからすがねずみ食ふ影

   もろはまひ乱れて互みに殺しあふホモ・サピエンス?ホモ・エレクトス?

   からふさの猛るけものをとらへたるカメラアイずずいとその目に迫る

   あやめくさ生まるるものと生ふるものこの星の土と水わかちあひ


      鬱の字 漢字種種愚歌等稿

   鬱の字のうつうつ茂る画のなかひそけく二本の木の立てる見ゆ

   人の字の右のつつかへ棒なくしノのまま傾ぎ立つ人もあり

   虱はいつ風のもつノの一画を失ひてあはれシラミと化ししや

   母の中に小さく抱へらるる乳わが垂乳根のはまことたらちね

   鬼は人の帰せし者ゆゑその鬼の下半身まさしく人の形す

   雨の中の雨だれ四つ古代文字には六つ十二もありて土砂降り

   頁(けつ)をページと読めば年齢がわかるといふ思へば随分頁をめくりぬ

   便は尻を開きまたは鞭を打つさまと説きありあな不埒なる姿態

   寺はもとハベルの意にて寺人とは宦官の謂と知ればいやはや

   井戸の中にもの投げ入れしその擬音通りドンブリと読むは丼

   尸(しかばね)部の尻屁尿屎とならぶ字の中にて突如尼と出遭へり

   女偏の字の中奸妄妖妙姥わけても姦姚嫋などよろし

   はらはらと落つるは涙したたるは涕と聞けば涙選ばむ

   草の化したるもの花といふそれにしても何と美しき化け様もある

   人が姿をかへるを以て化となせり左様バケルは狐狸ならず人

   黒の字クロシ白の字シロシひとみなの思ひこみとはかくのごときか

   人の形と月とによりてつくりたる夜と知ればたまに夜に月を見む

   啼鳴哭啾涕泣とナク意の漢字を思案してやはり氵(さんずい)の字が湿つぽい

   凡人の凡の字いささか風に似て虫よりちひさき<、>かかへをり

   漢字と永く馴染み来たりしわが人生前半疎外後半昵懇

いかがだろうか。「言葉遊び」のさまざまの諸相を楽しませてくれるではないか。
まだまだあるが、今日は、この辺で。



島が月の鯨となつて青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水
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     島が月の鯨となって青い夜の水平・・・・・・・・・・・・・・荻原井泉水

自由律俳句の先駆者である荻原井泉水の、この句に初めて触れたのは、私の少年時代であり、亡長兄の蔵書で彼の句集を見たときである。
彼の経歴を、先ずお見せする。
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 荻原井泉水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい)1884年6月16日(明治17年) ~ 1976年5月20日(昭和51年))日本の俳人。本名・幾太郎のち藤吉。

経歴
東京府芝神明町(現・東京都港区浜松町)で雑貨商・新田屋を営む荻原藤吉の3番目の子として生まれる。
長男・長女を幼くして失ったため、延命地蔵で占ったところ「今度生まれる子は男の子であるから、幾太郎と名づけよ。必ず長命する。」というお告げがあり幾太郎と名づけられる。荻原家は家督を継ぐものは代々藤吉を名乗ることとなっており井泉水もこれを継いだが、幾太郎の名を好んだようだ。

麻布中学の頃より俳句を作り始める。正則中学、第一高等学校(一高)を経て、明治41年(1908年)東京帝国大学文学部言語学科卒業。明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。河東碧梧桐もこれに加わる。この年、桂子と結婚。大正3年(1912年)、自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。大正4年(1913年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去る。この頃、一高時代の同窓であり1歳年下の尾崎放哉や、種田山頭火が層雲に加わる。しかし彼らが実際に面会したことはなかった。

大正12年(1923年)妻・桂子死去。また同年、母も死去し、京都に転居。昭和4年(1929年)寿子と再婚。翌昭和5年(1930年)、長男海一誕生。昭和40年(1965年)日本芸術院会員となる。昭和51年5月20日死去。享年91と、門弟の放哉や山頭火と違い、延命地蔵のお告げ通り、天寿を全うした。

なお、俳号は当初、荻原幾太郎のイニシャルから愛桜(あいおう)としていたが、生年の納音(なっちん)から井泉水と改めた。因みに、山頭火も井泉水に倣い俳号を納音から付けたが、これは本人の生まれ年からでなく単に音の響きが良いので決めたようだ。

代表著作

句集
『湧出もの』(1920年)
『流転しつつ』(1924年)
『無所在』(1935年)
『金砂子』(1946年)
『原泉』(1960年)
『長流』(1964年)

評論
『山頭火を語る』
『放哉という男』
『一茶随想』
など
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先にも書いた通り私が彼の句に触れたのは少年の頃であり、彼の句集も次兄の蔵書になってしまったから、いま私の手元にはないので、掲出句のほかには引用出来ない。
ネット上に載る記事を以下に引いておくが、これらの句が彼の代表作であるとは、私には思えないが仕方がない。
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荻原井泉水の俳句

秀句とその鑑賞

 佛を信ず麦の穂の青きしんじつ

「佛を信ず」に思い至らす麦の穂の青さ。季感の把握が的確。一粒
の麦から育ち、青い穂に幾多の実を結ぶ。麦の穂の、先ずは形とな
っと青さに佛の一途さを見たのであろうか。麦の穂の青さが訴える
強い印象に佛性が象徴される。 (高橋正子)

 力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝

 空を歩む朗々と月ひとり

 石のしたしさよしぐれけり

 南無観世音杉間より散るは櫻よ


萩原井泉水、日田を詠む

 行く水日永し遠山水いろに暮れていく

 水音水棹の石にふれる音の暗く涼しく

 灯して灯のうつる水を水上へとる

 更けて月はと思う涼しすぎるへさきをめぐらす 

 今は流れに放ちたる舟の舟灯との棹

 山は日を入れて水のひろびろとあるヤナ番

 手からはねてヤナにはねる鮎を手にする

 闇を一つの灯が鵜のはしに鮎がいる

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 井泉水講演から

フォーラムへのコメント

「写生」という言葉が出てきましたので、小豆島で発見された井泉水講演の記録から取り上げてみます。これは昭和初期のころ、井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したもので、提供は井上泰好さんです。長文ですから、2、3回に分けてアップします。

「子規は写生主義の主張には非常に真剣で、命を打ちこんで句作に没入したので

ありましたが、晩年になって病床六尺に捕らわれてしまい、自然に接する機会が

無くなったが為に、その句も遺憾ながら新鮮味を欠くようになってしまいました。

その時、周囲の人が子規に頼ってばかりいないで、写生ということを一層深く

掘り下げて研究して、もっと気張ればよかったのですが、そのことをしなかった

が為に写生主義が一つの新しい袋小路に迷い込んでしまいました。

(ここで4句実例を上げてありますが、1例だけ取り上げます)

 職業のわからぬ家や枇杷の花

こういう句になると、句を作る人と否とでその味わい方も異なってきますが、

この句の勘所は、あまり美しくないボヤッとした感じの枇杷の花と、職業のわか

らない家というものを、くっつけたものなのです。こんな句は写生して出来たの

ではなくて机の上で作ったということが直ぐに判ります。枇杷の花と職業の判ら

ぬ家を取り合わせたところに手品のたねがあるのです。病床にばかりいた子規の

晩年は実際に見て作ったと見せかけるようにだんだんなりました。

そういう風になると、味わう上にも写生そのままの句は面白味が無く、こしら

えた句が面白い、物心一如という気持からではなくて、句として面白いのがいい

ということになってきました。

前にも言ったように、俳句は俳句であればいいのではありません。精神がなけ

ればいけないのです。ところが子規の晩年は真精神から一歩退いたものでありま

す。

今日のホトトギスの人達の句の作り方は子規の跡を継いだもので、写生主義を

根本として題による作り方しています。子規が亡くなってから三十年も経

った今も子規の晩年の頃(明治三十五年頃)もちっとも相違がありません。何故

そうであるのか、それは、俳句を題で作ることを、子規が勧めたことが原因であ

るのです。

昔も全然題詠をしなかったのでもありませんが、元禄時代には、今日のような

題ではなく、「山によせて」とかいう風な和歌で出すような題で作ったものでし

た。子規が連句は文学でないといって止めてしまってから、大勢集まった俳句の

会のときに題を出すようになったのです。」

 

承前、これは井泉水が小豆島で行った講演を伊東俊二が筆記したものです。仮名遣いは現代風にしました。
 

「その頃俳句会を運座と言いました。旧派の方でもよくやりますが、運座という

のはたとえば、十人ばかりの人が寄ったとしますと封筒を十枚用意して各人に一

枚ずつ渡し、各人が好きな題を、牡丹なら牡丹、或いは時鳥とか若葉とか書いて

次へ回す。次の人は麦なら麦と書く、こうして隣から隣へと回します。
 

その中には滋養食だとか鍋祭りだとか、ちょっと解らないような題を出して人

を困らせるというような悪戯をする者もあったりします。

鍋祭りというのは近江の国の津久摩神社の祭礼のことなのですが、そのお祭り

には、里の女が婚家の数によって鍋の数を増して頭にいただいて神幸に従う、奇

習があります。それが珍しい風俗なので俳句の題になっているのですが、一茶な

ども、「今一度婆もかぶらんつくま鍋」と・・・こんな句を作ったりしています。
 

運座ではどんな題が回って来てもそれには必ず一句を詠まねばならない掟にな

っていますので、隣から回ってきた題が難しいと困るわけです。

それで懐に忍ばせている季寄せや歳時記などをそっと取り出して、俄か勉強を

して十七字にまとめて出すようなことをします。
 

私もその頃、運座の句会に好んで出歩いた頃は、歳時記を片っ端から読んで、

題に出るものの意味や趣味を研究したものです。
 

子規に夏木立十句とかいうものがありますが、一題十句といって一つの題でた

くさんの句を作る、そういう風な作り方もしたものです。
 

こうなると、自然面白そうにこしらえて行くようにならざるを得ないことにな

り、写生主義の真実の建前を通すことが難しくなりました。写生俳句が行詰まっ

たのはこの為であります。」(つづく)

 
承前、
 

「それから、句の形が、五七五を離れたら俳句でないということを鉄則として

いた為に行詰まらざるを得ないわけなのです。
 

難しく言いますと、数学のパーミテーション(錯列法)によって数えてみても、

僅か十七字に過ぎない俳句の数は決まった数でしかないのです。例えば、時鳥の

題ならば、ホトトギスで五字とられますからあとは十二字です。十二字でホトト

ギスらしい事を詠もうとしたところで、人の想像にも、物にも限りがあるのです

が、そうそう良い句が限りなく出来る筈はないのです。
 

俳句が十七字の物とすると俳句の全数はパーミテーションの式による四十八字

の十七乗という限られた一定の数になります。その中には、いろはの並んでいる

ものもありましょうし、勿論、俳句として価値のないものも込めての数でありま

す。
 

俳句が一升のものとすると、元禄時代に三合、天明時代に三合、明治時代に三

合出てしまって、あと一合だけしか残っていないのだ・・・・と、ある人が言いまし

たが、ちょうど小豆島の水不足のようなもので・・・俳句の行詰まりは数学的の運

命なのです。」

 

このあと、子規晩年の作品から新鮮味を失った経過、さらに新傾向俳句運動、野村朱鱗洞の紹介と続きますが、いちおうここまでとします。
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「短歌」の世界でも同じだが、俳句の世界でも「自由律」というと、定型を墨守する連中からは毛嫌いされている。
戦争中は自由律は弾圧されたので、彼もすっかり逼塞してしまったようである。
先にも書いたように私は「詩」を書いていたので、そんな定型云々ということは何ら気にならなかった。
当時は、この句以外にもいくつか覚えていたのだが、今では、この句以外は忘れてしまった。
平井照敏編「現代の俳句」(1993年講談社学術文庫刊)にも彼は含まれていない。
種田山頭火や尾崎放哉は収録されているのに残念である。彼の句集などが手に入れば後日に書きたい。
なお、彼のペンネーム「井泉水」が納音から付けられた、とあるが「納音」とは少し詳しい「暦」なら載っているので参照されたい。
念のために下記にネット上に載る資料を転載しておく。
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納音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。

荻原井泉水、種田山頭火などはこの納音から俳号をつけた。

海中金 かいちゅうきん 甲子・乙丑
爐中火 ろちゅうか 丙寅・丁卯
大林木 たいりんぼく 戊辰・己巳
路傍土 ろぼうど 庚午・辛未
釼鋒金 じんぼうきん 壬申・癸酉
山頭火 さんとうか 甲戌・乙亥
澗下水 かんかすい 丙子・丁丑
城頭土 じょうとうど 戊寅・己卯
白鑞金 はくろうきん 庚辰・辛巳
楊柳木 ようりゅうぼく 壬午・癸未
井泉水 せいせんすい 甲申・乙酉
屋上土 おくじょうど 丙戌・丁亥
霹靂火 へきれきか 戊子・己丑
松柏木 しょうはくぼく 庚寅・辛卯
長流水 ちょうりゅうすい 壬辰・癸巳
沙中金 さちゅうきん 甲午・乙未
山下火 さんげか 丙申・丁酉
平地木 へいちぼく 戊戌・己亥
壁上土 へきじょうど 庚子・辛丑
金箔金 きんぱくきん 壬寅・癸卯
覆燈火 ふくとうか 甲辰・乙巳
天河水 てんがすい 丙午・丁未
大駅土 たいえきど 戊申・己酉
釵釧金 さいせんきん 庚戌・辛亥
桑柘木 そうしゃくもく 壬子・癸丑
大溪水 だいけいすい 甲寅・乙卯
沙中土 さちゅうど 丙辰・丁巳
天上火 てんじょうか 戊午・己未
柘榴木 ざくろぼく 庚申・辛酉
大海水 たいかいすい 壬戌・癸亥
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因みに、私の干支から言うと、私の納音は「路傍土」となるらしい。
私は「草」や「土」が好きなので、この路傍土という納音は気に入っている。
正確には生年からの「年納音」と、生まれ日からの「日納音」というのがあり、「納音配当」というのに当てはめると

 あなたの結果

 生まれ年の干支 庚午
 生まれ年の九星 七赤金星
 生まれ年の納音 路傍土
 生まれ日の納音 霹靂火

という結果が出てきて、私の生まれ日の納音は「霹靂火」というらしい。
私は一時、同人雑誌に所属していたときの雑誌の名前が「霹靂」(かむとき)だったので、この不思議な一致にも驚いている。

大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
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    大空のあくなく晴れし師走かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

掲出した写真は「冬空」と、後半の方に出すのは久保田万太郎である。
彼については大分まえに書いたことがあるが、今日は彼のことではなく「師走」という言葉について、少し書いてみたい

「師走」とは陰暦十二月の異称で、ほぼ太陽暦の一月の時期に該当するが、他の陰暦の月の名称と違って、師走だけは太陽暦の十二月にも使う。
師走の語源として「お経をあげるために師僧も走るほど忙しい」とする説から、年末の多忙を表わす語として定着したためだろうと言われている。

はじめに申しあげておくが「師走」の読み方としては「しわす」ではなく「しはす」と訓(よ)みたいものである。

『万葉集』巻8・冬雑歌(歌番号1648)に

   十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして

という「紀少鹿女郎」の歌として載っている。
この歌の原文は

   十二月尓者 沫雪零跡 不レ知可毛 梅花開 含不レ有而
しはすには あわゆきふると しらねかも うめのはなさく ふふめらずして

であって、これを上記のように訓み下しているわけである。
この訓み下しが誰によってなされたかは知らないが、万葉集の頃に、すでに「十二月」が「しはす」と読まれていたという証明にはならない。
つまり「しはす」という訓みが、十二月=しはす、ということが、すでに定着していた頃に「訓み下された」に過ぎないからである。
書き遅れたが、万葉集の頃には、日本にはまだ文字はなかったので、日本語を書き表わすには、漢字を借用して表記された。
だから漢字の「音」オン「訓」クンを漢字に当てはめている。万葉集では、それに「漢文」の「反り点」のように(上の歌の例の③⑤のフレーズ)文章が綴られている。

以前に書いたことだが、分かりやすい例をあげてみる。

有名な柿本人麻呂の歌(巻1・歌番号48)の

     ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ

は名歌としてもてはやされるが、これは賀茂真淵が訓み下したものであって、原文は

     東 野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡

であって、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と訓むのは「意訳」ではないか、人麻呂は単純に「月にしわたる」としたのではないか、という万葉学者の異論もあるのである。

万葉集の「訓み下し」に深入りして脱線したので、本論に戻そう。
「角川俳句大歳時記」の「師走」の考証欄には以下のように書かれている。

元禄11年に出た『俳諧大成新式』という本に

<ある説に、およそ亡き人の来ること、一とせに二たびなり。盂蘭の盆内と年の尾にありて、いにしへは大歳(おほどし)にも魂(たま)迎へせしよし、兼好のころもなほありと見えたり。それをとぶらふ僧と、仏名の師と、道もさりあへず走りありくゆゑに、師走といふなりとあり。>

と書かれているのが、今日、一番妥当な説として定着しているらしい。

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↑ 久保田万太郎

ここで「師走」を詠んだ句を引いて終る。

 隠れけり師走の海のかいつぶり・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

 エレベーターどかと降りたる町師走・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 極月や晴をつづけて巷ある・・・・・・・・・・・・松根東洋城

 極月の人々人々道にあり・・・・・・・・・・・・山口青邨

 病む師走わが道或はあやまつや・・・・・・・・・・・・石田波郷

 青き馬倒れていたる師走かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

 がんがんと鉄筋のびる師走かな・・・・・・・・・・・・高柳重信

 法善寺横丁一軒づつ師走・・・・・・・・・・・・稲畑汀子

 極月の舞台悪党ぞろぞろと・・・・・・・・・・・・馬場駿吉

 極月の書棚に置きし海の石・・・・・・・・・・・・高室有子

 自転車よりもの転げ落ち師走かな・・・・・・・・・・D・J・リンズィー

 極月の罅八方にかるめ焼・・・・・・・・・・・中村弘

 ソムリエの金のカフスや師走の夜・・・・・・・・・・・・深田やすを

 赤札を耳に師走の縫ひぐるみ・・・・・・・・・・・・大町道

 迷いなく生きて師走の暦繰る・・・・・・・・・・・・田島星景子

 関所めく募金の立ちし街師走・・・・・・・・・・・・杉村凡栽


大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──エッセイ──

   大阪・住吉大社・楠珺社「はつたつ」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

     初詣といえば「すみよっさん」と大阪の人は口をそろえて言います。
     大晦日の夜から、どこからとなもく人が集まりだし、門前は人々でいっぱいになります。
     12時ちょうどになり太鼓が打ち鳴らされると、1年の幸を祈願する人でごったがえします。
     三が日の参拝客数は、毎年200万人を超え、大阪の人に今でも愛され続けています。
     御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けておりますし、
     住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名なため、大阪だけでなく全国各地から
     人々が訪れます。

大阪の住吉大社のホームページ に今の宮司・真弓常忠 が下記のような話を書いておられる。
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住吉の神さまは俗に海の神とされています。正しくは、底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)で、西暦211年、この地に鎮斎になったと伝えられています。実際の年代では干支二運(120年)をくり下げて5世紀初頭と推測されますが、大和政権の玄関口にあたる難波(なにわ)に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきました。

海の神ということは、わたくしどもの生命の根源を守る神を意味します。なぜなら地球上の最初の生命は五十億年ものむかし海の中に生じ、さらに一億七千万年前までに小型の虫類となって上陸し、進化を重ねて五千万年前までに人類が出現したとされますが、原初は海から生じたとされることは間違いありません。

われわれの生命は地球を覆っている水の中に生まれ、何億年もの循環をくり返して、空気の世界に生長してきました。そして自分を出現させています。つまり大きな循環をくりかえしているものですが、その根源は海から生じたものといってよいでしょう。

この海の底・中・表の津の男神と称え、住吉の神と崇めてきた古人の智恵に深い敬意を表する次第です。

住吉さまの詳細については、このホームページをご覧ください。歴史と伝統に彩られた大社の全貌を識ることができるでしょう。

住吉大社宮司
真弓常忠 (まゆみつねただ)

大正12年、大阪市に生まれる。神宮皇學館大學に学び、皇學館大學教授、八坂神社宮司を経て、現在、住吉大社宮司。兼ねて皇學館大學名誉教授。

神道学、神道史学、とくに祭祀学を専攻。『神道の世界』『神道祭祀』『祇園信仰』『天香山と畝火山』『日本古代祭祀と鉄』など、独自の視点からの著書多数。
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私の住む地域の氏神さんは「松本神社」と称するが、宮司も居ない小さな「祠」みたいなお宮だが、もともと木津川の水運の守り神として鎮座され崇敬されてきたらしい。
その祭神が住吉大社と同じ神々を祭っているのであり、私は以前から住吉大社には親近感を持ってきた。
上の記事に書いてあるが再度引いておくと
底筒男命・中筒男命・表筒男命という、イザナギノミコトのミソギハラエに際して海の中から現れた神、および息長足姫命(神功皇后)の四体の神を祭っている

この住吉大社には摂社が数社と「末社」が数社あり、その中に 楠珺社というのがあって、これが、ここで採り上げる「はつたつ参り」の主人公である。

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 ↑ 楠珺社(なんくんしゃ)

以下、ホームページに載る記事を引いておく。
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お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠 (くすのき) の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。現在では、大阪商人を始めとして、全国、さらに海外の信仰を集めるまでにいたりました。また祈祷木 (きとうき) があり、願い事と氏名年齢を書いて預けていただくと、お祓 (はら) いののち、みなさまの発達・安全などを祈祷し焼き納めます。

商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。

初辰(はつたつ)とは、毎月最初の辰の日のことです。この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてくれると信仰されてきました。そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達していることでもあります。

また楠珺社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招き猫です。偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の証として納めていただきます。そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁栄を祈願します。

おみくじ
和歌の神さまで有名な住吉ならではの、独特の歌占いのおみくじがあります。単なる占いではなく、和歌に託した神の教えとして、占いを受ける人に確かな指針を与えてくれます。
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ここへ「はつたつ参り」に行くようになったきっかけは、NHKの放映を見たことに由来する。
同じ番組を友人のS君も見ていて、興味を抱き、ふたりで「月参り」を四年間めざしてやってみよう、ということになった。
四年間ふたりの寿命が持つかどうか判らないが、目標として面白いのではないかということである。

2010年7月の「初辰」の日からはじめたので、都合5回お参りしたことになり、今日十二月八日が六回目の「はつたつ」ということになる。
掌に乗るような小さな(昔風に言うと一寸ということか)招き猫を賜ってきて、専用の収納ケースも買い求めて、それに飾って床の間に置いている。
四年間で合計48個貯まれば一回り大きい「中猫」と取り替えてもらえるという。
これも「生きる」目標としてのキーストーンだと思っていただければ有難い。
もっとも、住吉大社に言わせると、こういうのは民間でやっている商売であって、住吉神への信仰とは何の関係もない、ということだが、まあ、いいではないか。

そのS君のことだが、十一月末に軽い脳梗塞を起こして救急車で病院に担ぎ込まれた。
右側の上肢と顔面、それに言語障害があり、ひところは腕が痺れて手の指も開けなかったという。
七日現在、手、指の痺れは良くなってきた。「高気圧下での酸素吸入」、「薬剤の点滴」、理学療法士によるリハビリなどに懸命である。
一番ひどいときは「吸呑み」に入れて吸った茶が、だらだら垂れて飲めなかったという。
軽度な障害のようなので急速に回復すると思うが、親友のこととて、一時は気を揉んだ。
したがって、今日のお参りは私ひとりである。

住吉大社については、この記事が写真入りで面白く見られるので、お試しあれ。
詳しくは、そこで見てもらうとして、ここでは「大鳥居」と「反り橋」の写真を出しておく。
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群青のストールに深く身を包む冬の眸をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・村田嘉子
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──銀座5態──

    ■群青のストールに深く身を包む
        冬の眸(め)をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子


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「深く身を包む」ストールの羽織り方と言えば、このスタイルであろうか。
今どき流行りの着方というと、こういうことになるのだろうか。
「冬の眸をもつ人」という言い方が、とてもしゃれている。
おでかけの行き先は、もう銀座しか、ないだろう。

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   ■いつぽんの櫂のわたくし朝雨の
        ガラスの林道漕ぎ銀座まで・・・・・・・・・・・・・・小黒世茂


この歌の作者は前衛歌人であった塚本邦雄の愛弟子で、才気煥発な女の人である。
銀座も、すっかり高層化したので、それを「ガラスの林道」と表現した比喩に満ちた歌である。
先に挙げた歌ではないが、この時、彼女は、どんな服装をしているのであろうか。
さまざまに、読者に想像させるのである。
短詩形の場合、答えが一つしかないような作品では面白くない。さまざまに考えさせるのが、よい。

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   ■夜の青 乾く銀座の石畳
       雪よりほかに乞ふものはなし・・・・・・・・・・・・・高崎淳子


今の銀座の、どこに石畳があるのか、私は知らない。
今は、もう無いとしても、乾く冬の銀座の石畳に雪よ、降ってほしい、という表現は秀逸である。

    ■モンパリの歌母と口ずさみ歩む夜の
        外堀セーヌの春の香のたつ・・・・・・・・・・石田容子


この歌は、銀座をフランスのパリになぞらえて詠まれている。パリの町並みはナポレオン3世によって都市計画がなされ、5階以上の高さの建物はないが、外見的には似ていなくもない。

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      ■雪赤く降り青く解け銀座の灯・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

赤い灯、青い灯、と俗称される巷灯が、時ならぬ雪に映えているのを巧みに詠んでいる。

よく知られていることだが、ここでネット上に載る銀座の成り立ちを転載しておく。
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銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~

それは海から始まった
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8年)には、銀座はまだ海だった。
江戸に城はあったものの、城の東側は利根川水系の作る低湿地で、葦(あし)が繁っていた。
江戸の西側には、関東ローム層からなる武蔵野台地が広がっていた。
武蔵野台地の東側には、いくつもの谷が深く切れ込み、坂や崖を作っていた。
現在の東京都心の高台は、こうした台地の先端部分に当たる。
上野、本郷、小石川、四谷、赤坂、白金などいわゆる山の手を形成する高台だ。

日比谷入江の埋め立て
江戸城も、こうした台地の先端に築かれていた。
江戸城から見ると、現在の日比谷あたりは浅い海の入江。
日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂州が出ている。
これを江戸前島といい、前島の付け根の部分に、江戸湊(みなと)が築かれた。
幕府が最初に埋め立てたのが、日比谷の入江だった。
江戸城の目の前まで入り込んでいた入江だけに、船で攻め込まれる危険があったからだ。
加えて、武士たちを住まわせる屋敷も必要だった。
そこで埋め立て工事に拍車がかかり、江戸城から前島にかけて、新しい陸地が造られた。

水の都 江戸
日比谷の埋め立てに先立って、江戸城と江戸湊を結ぶ堀が造られた。
道三堀というこの運河は、現在は姿を消しているが、江戸城へ物資を運ぶ幹線運河だった。
川の多い江戸では、水上交通が便利であることに、幕府はいち早く気がついた。
武士、町人にとっても同じこと。
猪牙(ちょき)舟で行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通だった。
ヴェネツィアの水上タクシーと同じ様に、猪牙舟はお江戸の人たちの足だったわけだ。
水をたたえた堀と猪牙舟の実物は、「江東区立深川江戸資料館」に再現されている。

消えた三十間堀
銀座にも、掘割が巡らされていた。現在、掘割も川もまったく残っていない。
すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまった。
橋は消え、その名前だけが交差点や高架橋の名称として残っている。
消えた川と掘割の代表例が、銀座通りの東側を並行して流れていた「三十間堀」だ。

三十間堀にかかる三原橋とその上を走るチンチン電車
江戸時代に造られ、1949年(昭和24年)に埋め立てられて姿を消した。
名残は唯一、「三原橋」という名前が、人びとのなかに通称として残っていること。
晴海通りと旧三十間堀が交わるあたりは、歩くと、橋のあった証拠の起伏が感じ取れる。

橋あってこそ銀座
最も有名な数寄屋橋は、外濠(ぼり)にかかっていた。
現在、上を高速道路が走る。

数寄屋橋附近
銀座にあった橋のすべてが、今は水ではなく車の流れる道と接している。
白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(同)、土橋(同)、新橋(同)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(同)、三吉橋(同)etc.
今こうした橋は銀座への入口として、往時と同じ役割を果たしている。
流れる水はなくなっても、銀座へ足を踏み入れるときめきは、変わらない。


石野晶 『月のさなぎ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

  石野晶 『月のさなぎ』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
       ・・・・・・・・新潮社2010/11/19刊・・・・・・・・・・・

      森の中の学園に隔離されて育った、性別のない子どもたち。
      年に一度の降誕祭を前に、男性としてふるまっていた上級生の薄荷は、
      外界から侵入してきた少年と恋に落ちた。
      森への逃避行、フラッシュバックする記憶、
      意思とはうらはらに変わっていく身体と心――。
      蝶になる前の一瞬を描ききる、はかない箱庭のミステリー。

新潮社の読書誌「」波 2010年12月号に載る書評を引いておく。
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       通過地点にたちどまって、月の祝福をうけること。      小谷真理

 ファンタジーの世界では、「月」はつねに存在感がある。太陽の輝く真昼の世界に対して、月は夜の世界を静かに照らす。太陽に照らされてなにもかもが明瞭に見える世界は、ものがはっきりと見えるが故に、現実的な世界と捉えられることが多い。それに対して、乳白色のおぼろげな光に照らされた夜の世界は幻想的であり、影多き世界は、ぼんやりとした夢や無意識と関わっているのでは、と思わせる。ファンタジーは、だからこそ、月と親和性が高い。
 本書は、その月をモチーフにした物語である。
 冒頭は、ミッション・スクールの寄宿舎か、と思うような風景から始まっている。主人公である生徒たちの描写からは、当初こそ少女的な印象を受けるけれど、それはいわゆる「女」のひな形である少女ではない。この世界では、最初から性別が決まっていない両性具有の子供たちが、一定の割合で生まれている。彼らは、体が弱く、通常の世界では生きられないがために、親元から引き離されて、周囲から隔絶された学園に送られてくる、という。この性の曖昧な、将来どちらに変化するかわからない子供たちは、「月童子」と呼ばれている。そして、独特の月信仰のもとで教育される。つまり、学園とは、現実的な世界からはなれた、月を崇める神秘的な世界なのである。
 性別が曖昧であったり、あるいは、「小麦」や「空」や「薄荷」という、日本らしからぬ名前がついていたりと、全体的には奇妙な学園小説という印象だが、物語が進むにつれて、違和感は解消される。それどころか、生徒たちの、どきりとするようなエロティックな魅力にひきこまれ、他のことなど、すっかりどうでもよくなってしまう。ただし、基本は、性別がない人々なのだ。エロティックといっても、ずっと観念的でナイーヴで透明感にあふれている。
 この雰囲気は、独特の美学をもつ日本の少女マンガや、異性愛的な作法から逸脱する吉屋信子やデューナ・バーンズの作品、あるいはヴァージニア・ウルフ『オーランドー』のモデルになった男装の麗人ヴィタ・サックヴィル=ウェストの面影に共通する、女性同士の――あるいは少女同士の――親密で清冽な愛情関係を思い起こさせるかもしれない。
 こんなふうに、生徒たちの視線がたえず強調されている一方、それ以外のことが希薄きわまりないことに驚かされた。授業も現実感をもたず、教師たちも影のよう。学園の外がどうなっているのか、一応は理屈がつけられているけれど、本当かどうかは、判断できない。外部の他者と遭遇し、学園を離脱しようとする生徒もいるが、そう努力すればするほど、学園が一種の閉鎖空間であるかのような展開になる。そのあげくわたしたちは、内部に閉じ込められている価値観が、外部のリアリスティックな世界を灰色にみせてしまうほど魅力的だ、という感性の倒錯に直面する。
 読んでいてふと、女性監督ルシール・アザリロヴィックが撮った映画『エコール』を思い出した。『エコール』もまた少女たちの学校生活を描いたもので、少女たちは棺に入れられて学校に運び込まれる。学園全体が「少女」という幼生体を注意深く飼育しているかのような展開なのだが、それは社会のために穢れなき少女を守り育てているというより、少女という文化を守っているように見える。成長した娘たちが無造作に外へ出されるようなラストには、胸を衝かれたものだった。
 ファンタジーの成長物語だったら、もちろん学園は成長過程の一プロセスで、通過地点にすぎないもの、と考えられよう。外の世界へ出て行くことこそが美徳である、という解釈が一般的だろう。
 ところが本書は、『エコール』同様、その通過地点こそ、かけがえのない異世界と見なす。それは、成長譚を自明とする男性神話から逸脱した世界として描かれている。だからこそ、月の女神に祝福された世界への思慕の情が、どこまでも美しく切なく心に残るのではないだろうか。   (こたに・まり 評論家)
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この本は第22回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞した小説である。

上に引いた小谷真理の文章でも触れられているが、

<外に出たい――でも、大人になるのはこわい。

森の中の学園に隔離されて育った、性別のない子どもたち。年に一度の降誕祭を前に、男性としてふるまっていた上級生の薄荷は、外界から侵入してきた少年と恋に落ちた。森への逃避行、フラッシュバックする記憶、意思とはうらはらに変わっていく身体と心――。蝶になる前の一瞬を描ききる、はかない箱庭のミステリー。>

である。
大賞だけでなく「優秀賞」からも後に大きく成長する作家も多い。 

石野晶/イシノ・アキラ

1978年生まれ。岩手県立伊保内高校を卒業後、2007年に『パークチルドレン』(筆名:石野文香)で第8回小学館文庫小説賞を受賞。2010年、『月のさなぎ』で第22回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。好きな作家は恩田陸、京極夏彦、宮沢賢治など。岩手県九戸郡在住。

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日動画廊扉の把手は青銅の女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・阿木津英
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 「荻太郎遺作点」から「パレリーナ」──日動画廊ホームページより

──東京風景いくつか──

   ■日動画廊扉の把手は青銅の
      女体にて腰のくびれをつかむ・・・・・・・・・・・・・・・・・阿木津英


日動画廊(にちどうがろう)は1928年創業の洋画商。日本国内の洋画商としては、最も歴史があるとされる。
店の名前の由来は、最初の画廊は日本橋の高島屋の近くだったが、立ち退きをせまられ、旧日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになる。
日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のこと。
HPを見ると、系列に名古屋、福岡、フランスのパリ、軽井沢、茨城県の笠間日動美術館がある。ギャラリーは銀座にあり、今の所在地は銀座5-3-16。
毎年作家の個展を開催している。現在まで多数の作家たちを輩出してきた伝統ある画廊とされる。
取り扱い作家は油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現役作家あわせて数百名になる。
関連するネット上を閲覧すると、こんな記事があった。

<日動画廊の長谷川智恵子副社長が2009年11月19日、フランス大使公邸で行われた叙勲式で、レジオン・ドヌール勲章オフィシエに叙されました。
長谷川智恵子氏は夫の長谷川徳七氏(日動画廊社長、1998年芸術文化勲章コマンドゥール受章)とともに、フランス美術を印象派から近代、現代美術に至るまで日本に広く紹介し、国内多数の美術館のコレクション形成に貢献したほか、笠間日動美術館(茨城県笠間市)の創立にも尽力しました。>

今の社長は長谷川徳七というらしい。

掲出の阿木津英の歌は、店のドアの把手が青銅製の「女体」だとして、その腰のくびれをつかむことになるのを、巧みにエロチックに表現して秀逸である。

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 ■ビル風に行き処なき落葉かな・・・・・・・・・・・・・・・山口絢子

   ■ミレナリオ丸の内の冬虹色に・・・・・・・・・・・・・・・上間和子

「ミレナリオ」は、阪神大震災の鎮魂のために始められた「ルミナリエ」に呼応する形ではじまった。写真②は、そのHPのものである。
丸の内の歳末の風景として、すつかり定着したが2006年度(2006年末からのもの)からは休止している。
はじめの句のように高層のビルが建つと、吹き抜ける風が、いわゆる「ビル風」となって、とても強いのである。
このようなことも最近の大都会の冬の風物と言えるだろう。

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   ■電脳に追いたてられてふらふらの
        僕は歩くよ夜の地下鉄・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗明純生


この人は確か「銀座短歌会」というところに所属する若手の都会派歌人である。
写真③は「地下鉄博物館」に展示される丸の内線301号車と奥は銀座線1001号車である。以下は、その説明。

<未だファンの多い丸ノ内線の真っ赤な車両。いくつかは払い下げになり個人で所有している方もいらっしゃるとか。
そんな人気の真っ赤な300型車両は、どんな活躍をしてきたのでしょうか。
博物館では、車内に入ると窓に映写機で映し出された開通当時から博物館に納められるまでの映像を見ることが出来ます。>

   ■地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり・・・・・・・・・・・・・・前登志夫

この歌も青春の日々に過ごした東京を偲んで作られている。奈良・吉野山住みだったが先年亡くなった。

   ■大江戸線地下ふかぶかと降りゆくに青きあやかしかケータイ光る・・・・・・・・・・・・小島熱子

大江戸線が開通して、もう数年になるが、それまで不便だったところが大変便利になった。
後発の路線ということで、走る深度はとても深いから、駅について地上にでるのに急角度のエスカレータに延々と乗ることになる。
そのエスカレータの速度が遅いのでイライラする。こんなときに思い出されるのがロシア・モスクワの地下鉄のエスカレータの速さである。
ここも地下深いので、必然的にエスカレータが速くなったものだろう。各駅もそれぞれ装飾的で、個性があって面白い。
東京で一番新しい地下路線は「りんかい線」だろうか。ここも便利になって埼京線川越まで直通で行ける。
私は京都人なので、東京には時たま行くだけで詳しくないので、間違いがあったら訂正してほしい。

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    ■鶯も通ったろうかうぐいすだに 
      かつて東京は川と谷と武蔵野の森だった・・・・・・・・・・・・光本恵子


鶯谷駅は大ターミナルである上野駅の隣に隠れて影が薄く、都区内のJR駅の中でもとりわけ地味で小規模である。
それを裏付けるかのように、山手線の駅ではいちばん乗降客数が少ない。
駅の西側は上野の山で、寛永寺の墓地になっている。
東側は市街地だが、なぜかラブホテルが密集している。駅ホームから眺めても、ラブホテルばかりが目につく。
こんなにも駅からラブホテルが見える駅も珍しい。

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   ■「笹の雪」の暖簾のかたる昔もあって
         根岸の里の入り陽の朱・・・・・・・・・・・・・・・・・梓志乃


「根岸」というと正岡子規が住んでいたところで、今は台東区になっているが、ここには私は、まだ行ったことがない。
古い家並などが残っているのだろうか。この歌からは、そんな気配も感じられるのだが。。。。
ネット上に載る記事によると、この「子規庵」のあるのは「笹の雪」の看板のある辺りらしい。そこで聞けば判ると書いてある。
Wikipediaに載る記事を引いて終りたい。
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俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においては、所謂月並俳諧の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においてはいくつかの問題を指摘することもできる。俳諧におけるゆたかな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉の所謂「挨拶」の心を失ったこと。連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと、などは近代俳句に大きな弊害を与えているといってよい。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。

『歌よみに与ふる書』における歌論は、俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。

特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子として、その主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。 いまでも否定できない俳句観である。

日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶるおおきいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。


紫野貴李 『前夜の航跡』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

紫野貴李 『前夜の航跡』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
      ・・・・・・・・・・新潮社2010/11/19刊・・・・・・・・・・・・・・・

     大戦前夜の昭和初頭、頻発する演習事故に巻き込まれ、多くの海軍将兵が命を落とした。
     明日をも知れぬ時間の中で、青年将校たちに訪れたのは不思議な奇跡。
     ある者は荒れ狂う海から生還し、ある者は死んだはずの友と語り合い……。
     椎名誠氏、絶賛! 
     謎めいた仏師を軸に織りなされる、切なく温かい涙を誘う幻想奇譚。

新潮社の読書誌「波」 2010年12月号より 書評を引いておく。
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        「救い」と「導き」に二度、泣いた      ペリー荻野

「霊」とか「怪奇現象」と聞けば、たいてい「恐怖」「怨念」「ホラー」などという言葉が連想されるが、本作は超常現象を扱いながら、まったく方向性が違う。「救い」「導き」に満ちた展開に、私は二度、泣いた。
 主人公はそれぞれに異なるが、五話の連作の舞台は共通していて、とても特殊だ。昭和初期の日本海軍。軍隊という人間関係の閉鎖性と、海に浮かぶ軍艦の閉鎖性。二重に閉じられた世界の息苦しさと、たびたび起こる悲惨な海難事故が「怪奇現象」に結びつく。
 第一話「左手の霊示」の物語の語り手は、爆発事故で左手を失った芹川達人中尉である。彼は、若き仏師笠置亮佑が作った義手をした途端、その「左手」が、霊に反応して光り、漂う者たちの言い分を「聞ける」ようになった。そこに目をつけたのが、同じ事故で片目を失くし、「独眼竜」と呼ばれるようになった支倉竜之介大佐。諜報部の特殊任務機関「丁種特務班」に所属する彼らは、自死した村路海軍大佐が夜な夜な現れるという空き家で、その霊と向き合う。
 何より、登場人物のキャラクターがいい。海軍大学校を次席で卒業しながら、「いささか素行に問題があって」出世が遅れている独眼竜は、口は悪いが部下思い。人間味いっぱいの男である。そんな独眼竜に振り回されつつも、不可思議な出来事に立ち向かう芹川。さらに重要なのは、その左手を作った亮佑である。天才肌だが、芸術家にも教育者にもなるつもりがない亮佑は、ひとりの仏師として生きるために修業を重ねる。その生き方だけでもカッコいいのに、その外見が「不精髭を剃れば、観音菩薩も尻を端折って逃げそうな面差し」で、「着やせする体格は、皮膚の下にひそませた筋肉が均斉美でもって人目を魅きつけた」というくらいの美形なのである! うれしいことにこの超美形の亮佑は、五話全部に登場する。この他、勇敢な猫の黒吉、「将校ともあろう者が、軍服で風呂敷包みなど持つものではありません」と芹川にきりりと説教する旅館女将の叔母も、すごく魅力的だ。
 第二話「霊猫」は、タイトルの通り、不思議な猫の話である。
 材木問屋大和屋の三男坊・榎田利秀は、海軍経理学校を卒業後、経理畑で仕事をしていた。軍艦に積み込む米がねずみによって多大な被害を受けていると知った彼は、その対策として、著名な仏師笠置峻作が彫った猫を置くことを提案する。その後、急な人事異動で軍艦に乗り込むことになった榎田のところに、峻作の息子・亮佑が現れる。彼は「この子が一日でも早く、きみの傍に行きたがって……」と、丸まって眠る木彫りの子猫を持参していた。半信半疑で子猫と航海に出た榎田は、すさまじくも感動的な体験をすることになる。
 多くの読者は、このストーリーに先般、チリで起きた落盤事故と救出劇を思い出すはずである。もちろん、小説が執筆されたのは、事故発生のずっと以前だが、極限に追い詰められた人間の勇気と決断の描写は、とてもリアルで作家の力を見た思いがする。
 続く第三話「冬薔薇」は、体調を崩して療養を余儀なくされた機関長が体験する友情の物語、第四話「海の女天」は、幼い頃に悲惨な出来事を体験した主人公が、海で幻想的な出会いをする話。海は男たちの希望の職場であり、同時に命を飲み込む魔界でもある。暗い緊迫感のなかに、ふと差し込むあたたかな光。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、己のみが助かろうとしたために、せっかくお釈迦様がたらしてくれた蜘蛛の糸は切られ、主人公は再び地獄に堕ちていく。しかし、本作では、差し込んだ光のおかげで、漂う霊も、現世に生きる人間も救われるのである。このあたたかさこそが、作家の個性といえると思う。
 作者の紫野貴李氏は、当時の海軍事情や立身を願う軍人たちの心理にとても詳しい。文中の海難事故も、すべて実際に起きた事例である。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで感銘を受け、この分野について研究を重ねた結果だという。第五話「哭く戦艦」では、再び芹川・独眼竜の「丁種特務班」コンビと亮佑が登場。有名な戦艦「三笠」の謎に挑む。丁種特務班は、ぜひシリーズ化してもらいたい。美形仏師があっさり妻帯してしまったのは、ちょっと残念だが、彼の魅力もたっぷりと書き加えてほしいと願っている。   (ぺりー・おぎの コラムニスト)
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この本は第22回日本ファンタジーノベル大賞受賞作に輝いたものである。
私は、この大賞の第一回の酒見賢一のときから愛読してきた。
この賞を得てから大きく羽ばたいて行った作家を何人も知っている。

さて、この小説は

“さて、船霊さんに会いましょうか――”美しい仏師は、微笑みを湛え奇跡を呼ぶ。

大戦前夜の昭和初頭、頻発する演習事故に巻き込まれ、多くの海軍将兵が命を落とした。明日をも知れぬ時間の中で、青年将校たちに訪れたのは不思議な奇跡。ある者は荒れ狂う海から生還し、ある者は死んだはずの友と語り合い……。
 謎めいた仏師を軸に織りなされる、切なく温かい涙を誘う幻想・・・・・・。

紫野貴李/シノ・キリ

1960年、埼玉県生まれ。二十歳の頃から小説を書き続け、2007年には第1回「ちよだ文学賞」大賞を受賞。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』に感銘を受けたことをきっかけに旧海軍への関心を深めた。
2004/06には『椈(ぶな)は唄う』という作品を出している。

「立ち読み」も出来るので、さわりだけだが覗いてみられよ。


跳び乗った電車の中で/踵の無くなった靴の持ち主は/・・・・・・・・・・・・・中原道夫
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    東京メトロ霞ケ関駅で・・・・・・・・・・・・・・・・・中原道夫

     踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
     磨りきれた傷を残して
     通勤ラッシュのメトロのホームに
     切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

     跳び乗った電車の中で
     踵の無くなった靴の持ち主は
     やがて自分の足が
     ちぐはぐで不揃いになっていることに気がつくことだろう
     そして、だれも恨むことのできないこの不幸なできごとを
     仕方なしに笑いに替えてごまかすことだろう
     (ああ、参ったな、困ったな、どうしよう)

     泣きだしたくなるようなこの笑い
     困惑を吃逆のように呑み込んでしまうこの笑い
     ぼくらの日常に纏わり付いているこの笑い
     ぼくは無性に切なくなって
     磨りきれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
     哀しいぼく自身を拾うように

     まもなくホームに電車が入ってくる
     通勤客が降りてくる
     いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
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念のために書いておくと「霞ヶ関」駅の名前の表記は「ケ」を全角で書くのが正式であるらしい。小文字にしない。
この中原の詩の場合、きちんと「霞ケ関」と書いてある。さすがである。

この詩は<日本詩歌紀行3 『東京 詩歌紀行』>(2006年北溟社刊)に載るものである。
現代の都市交通のありようやサラリーマンの哀歓の様子が、かいま見られるだろう。
因みに、付け加えておくと、私の旧作の歌3首も収録されている。

   うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

   振り返ることのむなしさ腰下ろす石の冷えより冬に入りゆく

   ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・木村草弥

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参考までに霞ヶ関駅を発車する「小田急電鉄メトロはこね23号東京メトロ千代田線」の動画を載せておく。



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