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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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狎れるてふことを戒め去年今年・・・・・・・・・・・・・・・・千原叡子
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    狎(な)れるてふことを戒め去年今年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千原叡子

掲出句には

    去年今年貫く棒の如きもの・・・・・・・・・・・・高浜虚子

という虚子の代表的な有名な句を引きたかったが、もう何回も引いているので遠慮して、ご覧の掲出句にした。
何事も長くやっていると「狎れて」しまって惰性に流れがちである。
「心機一転」して新しい気持でやってゆきたい。
この掲出句を選んだのも、そういう心意気も込めてある。
掲出した正月飾りは関西地方で一般的なもので地味なお飾りと言える。
この頃では関東でやられるようなものもホームセンターなどで売られていて飾られるようになった。

「去年今年」(こぞ・ことし)というのが「新年の季語」である。
私は長い間、ここにいう「去年今年」が新年の季語であることを知らずに愛誦してきた。
去年から今年にかけて、長い歳月を貫いて、一本のぬっとした棒のようなものが貫いている、というイメージであろうか。
ところが「去年今年」というのは、漠然たる一般概念としての去年および今年ということではなく、旧い年が新しい年に改まる特定の瞬間をさす季語、だったのである。
これに気付いた時は蒙を啓(ひら)かれたものだったが、改めて考え直してみれば、この季語は虚子のこの句によって初めて、一つの季語として定着したのではないか、
という気がするのである。

このような季語は、約束の上に成り立つ特殊な術語という条件のもとで、自然界という、いわば「のっぺらぼう」に広がっている多様性の世界を、
特定の尺度によって切り取って、鮮やかに一新して見せるのである。
虚子の句はその意味で、自然界の類型的な分類語としての季語を、新鮮に生かした一例といえよう。
これは虚子の、強引な力わざ、とも言えるほどの魅力を湛えている。

こんな句もある。

    いざや寝ん元日はまたあすのこと・・・・・・・・・・・・・・与謝蕪村

蕪村としては、ぐっと砕けた、磊落な作である。自筆句帖は、蕪村が最晩年に自ら記録していた自作句集。
会心とする作には○印を振ってあり、これも、そのひとつ。晩年の蕪村の心のあり様をうかがわせるような句である。

俳句をおやりの人には常識だが、歳時記には春、夏、秋、冬の四つの季節のほかに「新年」という季節分けがあって、分冊の場合は全部で5冊になるのである。
そこに載る句を少し引いておく。

 去年の如く今年の如く母のそば・・・・・・・・萩原麦草

 この間逢ひしばかりに去年今年・・・・・・・・高浜年尾

 針に糸通してゐるや去年今年・・・・・・・・細見綾子

 読みさして方丈記あり去年今年・・・・・・・・遠藤梧逸

 去年今年一と擦りに噴くマッチの火・・・・・・・成田千空

 白光の一筋通ひ去年今年・・・・・・・・平井照敏

 去年今年闇の向ふに犬鳴いて・・・・・・・・渡辺七三郎

 いそがしき妻も眠りぬ去年今年・・・・・・・・日野草城

 命継ぐ深息しては去年今年・・・・・・・・石田波郷

 去年今年雨降り埋む妻との隙・・・・・・・・角川源義

 去年といひ今年といひて火に集ふ・・・・・・・・鷹羽狩行

 去年今年去年今年とて今更に・・・・・・・・能村登四郎

 夢もなし吉凶もなし去年今年・・・・・・・・森澄雄

 去年今年ニーチェを読んで老い知らず・・・・・・・・野崎ゆり香

 洗ひ干す筆のいのち毛去年今年・・・・・・・・松本可南
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年末、年始にかけて日本列島は風雪の大荒れの天気になった。
昨年暮れからヨーロッパは大寒波に見舞われたようだが、地球を半周して、その寒波が日本に到達したらしい。
政治の世界の底の見えない混迷を象徴するようで、今年も前途多難である。
哲学と理念のない指導者たちに居座られる日本国民が哀れである。
ぼやいて居ても仕方がない。 いつかは爆発するだろう。




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