K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(4月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
呑気そうな記事があっても、これらは既に予約してあったものですから、お許しを。
                                       木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
entry_25しだれ桜小渕沢

四月になりました。陽春の到来です。
新人の春です。 旧人はひっそりと暮らしましょう。

だんだんにわたしに占める死者の量増えきて傘にはりつくさくら・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺松男
うぐひすの声にうたた寝より覚めぬ紀伊の野べ行く列車にありて・・・・・・・・・・・・・・・・安田純生
春の花が咲きまだ声の調はぬうぐひすが啼きとりあへず 春・・・・・・・・・・・・・・・山埜井喜美枝
薔薇垣をかはるがはるに出でて入るほつそりとせる雀の春子・・・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
かつて海から上がりしときの足裏の記憶あたらし春の潮騒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯裕子
青空に群れ波だちてゐしのちのさくらの花のゆくへ知るなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松坂弘
赤土に赤き土偶の眠れるをしずかに満ちて桜ひらきたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 奥田亡羊
久々に花見をせむと上野に来ぬひとりなれば酒を飲む心もなく・・・・・・・・・・・・・・・・・ 宮地伸一
遠見にはさわに花咲くシダレにて棒突っ張って枝支えてる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 奥村晃作
死はそこにあるかと思ふあかるさに菜の花咲けりその花を食ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 外塚喬
おとろへて生あざやかや桜八重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
さくら咲きあふれて海へ雄物川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・時実新子 
野を穴と思い跳ぶ春純老人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永田耕衣
亜隆隆ほどの朝魔羅遠辛夷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤鬼房
春昼のすぐに鳴りやむオルゴール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木下夕爾
極楽に風吹くときやさくら散る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
ときどきはポコと音たて春の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
千代紙をまき散らしては春の地震・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九堂夜想
手鏡にとるまつげの塵や春休・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神野紗希
ゆふぐれの乳房に帰る春野なう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ゆかりり
げんげ田や点滴の液よく澄める・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外山一機
天井に配管うねるさくらかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口優夢
ペットボトル踏むとき春の東京都・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 関悦史
ひむがしに春の結び目ほどかれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
童貞といふひとと行く日永かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四童
識閾に豆粒ほどの健脚者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小池正博
手の届く丘だが油断なく登る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山本芳男
インターチェンジからジャンクションまで放射能・・・・・・・・原田否可立
花冷えやルドンの花の青ざめる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
コメントは各記事の末尾に「コメント」「CM」という欄がありますから、それをクリックしてお入りください。
私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
 GoogleYahooで「木村草弥」や「K-SOHYA POEM BLOG」で検索して頂くと数千件のヒットがあります。重複も多いのですが、ここでしか読めないものもあります。

閲覧の仕方
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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「角川書店」話題の新刊書籍
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「集英社文庫」新刊
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「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
文芸春秋社・書籍ショールーム

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。


おまえの腕は鉄のように露を帯びる/おまえのからだの曲線は光の指に揉まれているが・・・・・・・・・・・大岡信
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   朝の少女に捧げるうた・・・・・・・・・・・・大岡信

     おまえの瞳は眼ざめかけた百合の球根
     深い夜の真綿の底から
     朝は瞳を洗いだす そして百合の球根を

     おまえの髪はおまえの街の傾いた海
     光の輪が 無数のめまいと揺れている海
     おまえの潮の匂いだって嗅げるのだ ぼくは

     おまえの腕は鉄のように露を帯びる
     おまえの脚は車軸の速さで地下道を抜ける
     おまえのからだの曲線は光の指に揉まれているが
     そのいたずらがいつもおまえを新しくする
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つい昨日に、佐佐木幸綱の青春の歌を引いたが、この大岡信の詩も、彼の青春まっただ中を歌った詩と言ってよい。
ただ、この「少女」というのが、ここに描かれる色々のものの比喩になっているのだが、「今どきの」少女というイメージとして比較するとミスマッチな面もあろうか。
今どきの少女というのは一種の「怖さ」が付きまとうから悲しい。
大岡や私のような世代が少女に抱いていたイメージというのは「新鮮な」ものだった。

大岡信の詩については、何度も引いてきたので、ここでは余り多くのことを喋るのは止めにしたい。
大岡信は2003年度文化勲章受章者である。
朝日新聞朝刊に長い間連載してきた「折々のうた」が執筆を打ち切りになって感慨ふかいものがある。
ここで大岡の別の詩の一部を引用しておく。
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 ooka大岡信

  春のために(後半の一部)・・・・・・・・・・・大岡信

    ぼくらの腕に萌え出る新芽
    ぼくらの視野の中心に
    しぶきをあげて回転する金の太陽
    ぼくら 湖であり樹木であり
    芝生の上の木洩れ日であり
    木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
    ぼくら

    新しい風の中でドアが開かれ
    緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
    道は柔かい地の肌の上になまなましく
    泉の中でおまえの腕は輝いている
    そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
    静かに成熟しはじめる
    海と果実
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掲出の詩と、後に引用した詩とは、ほぼ同じような心象の詩になっていることが判るだろう。

「大岡信ことば館」
2010年10月、三島駅北口から1分のZ会ビル(文教町ビル)の中に、大岡信ことば館がオープンした。
所在地は、〒411-0033 静岡県三島市文教町1丁目9-11 - 055-976-9160 である。
三島市は大岡信の故郷であり、彼の父・大岡博(歌人)の息子として、ここで生れた。
東京で大学生活や大学教授や詩人・文筆業を務めた後、現在は静岡県裾野市に居を構えておられる。
この館についてはリンクになっているのでアクセスしてみられよ。

なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌は・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
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   なめらかな肌だったっけ若草の
     妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は・・・・・・・・・・佐佐木幸綱


佐佐木幸綱は日本最古の一つである短歌結社「心の花」の創始者・佐佐木信綱の孫にあたる。短歌界の名門の御曹司で昭和13年生まれ。
2008年、祖父と同じく日本芸術院会員となる。
早稲田大学教授で現代短歌界のリーダーであったが、2009年、早大教授を定年退任、名誉教授となる。

この歌は第一歌集『群黎』に載る若い時の歌。この頃の歌は、みな若々しさに満ちている。

掲出した写真は、彼の歌とは無関係である。若い今どきの女性ということでネット上から拝借した。
話すべきことは一杯あるのだが省略して、歌を引いてみる。
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サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず

ゆく秋の川びんびんと冷え緊まる夕岸を行き鎮めがたきぞ

ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ

寄せては返す<時間の渚>ああ父の戦中戦後花一匁(いちもんめ)

厩昏れ馬の目はてしなくねむり麦たくましく熟れてゆく音

ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり

直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる

たちまち朝たちまちの晴れ一閃の雄心としてとべつばくらめ

ひばりひばりぴらぴら鳴いてかけのぼる青空の段(きだ)直立(すぐた)つらしき

言葉とは断念のためにあるものを月下の水のきらら否定詞

わが夏の髪に鋼の香が立つと指からめつつ女(ひと)は言うなり

噴き出ずる花の林の炎えて立つ一本の幹、お前を抱く

ゆく水の飛沫(しぶ)き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く

泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんとわが腕に眠れ

一国の詩史の折れ目に打ち込まれ青ざめて立つ柱か俺は

父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ

こめかみに人さし指を突き刺せば右も左も中年の崖

祖父・父・我・息子・孫、唱うれば「我」という語の思わぬ軽さ

昨夜(きぞ)の酒残れる身体責めながらまるで人生のごときジョギング

にんじんの種子蒔く子供、絵の中の一粒の種子宙にとどまる

のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ

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佐佐木幸綱
ltr01ph1佐佐木幸綱

歌人、国文学者。1938年生れ。早稲田大学大学院国文科修士課程修了。大学在学中より「早稲田短歌」「心の花」(歌誌)に参加。跡見女子大学教授を経て、現在、早稲田大学政治経済学部教授。専攻は万葉学、近代短歌。「心の花」編集長。88年より朝日歌壇選者もつとめている。祖父は佐佐木信綱(歌人)。主な歌集=「群黎」(70年、青土社。第15回現代歌人協会賞受賞)、「直立せよ一行の歌」(72年、青土社)、「金色の獅子」(89年、雁書館。第5回詩歌文学館賞受賞)、「瀧の時間」(93年、ながらみ書房。第28回迢空賞受賞)。主な評論集=「萬葉へ」(75年、青土社)、「中世の歌人たち」(76年、日本放送出版協会)、「柿本人麻呂ノート」(82年、青土社)、「父へ贈る歌」(編著、95年、朝日新聞社)。現代歌人協会理事、日本文藝家協会会員。
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早稲田大学教授としての他に、作歌や著述、講演などに忙しい日々を送った。
「口語短歌」を歌って歌集『サラダ記念日』がベストセラーになり、短歌の大衆化に貢献し、また「シングルマザー」として話題を呼んだ俵万智の師匠でもある。
「酒好き」として知られる。写真を見ても、いかにも酒好きという顔である。

主宰する「心の花」について引いておく。
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短歌結社「心の花」の歴史

【創刊】前身としての「いささ川」(七号まで刊行、一八九六・一〇-九八・一)の終刊後、一八九八(明三一)年二月、佐佐木信綱を中心に、石榑辻五郎(千亦)編集、井原豊作発行で創刊された。「心の華」、「こゝろの花」等と表記されたこともあった。誌名の由来は、創刊号の信綱の「歌はやがて人の心の花なり」による。なお信綱をとりまく歌人の集団としての竹柏会は、その翌年に第一回大会を開いている。

【歴史】創刊の当時は旧派歌人や新派の根岸派の歌人の活躍がみられ、総合誌としての性格を有していたが、一九〇四(明治三七)年四月号から、竹柏会出版部の発行となり、独自色を強めていった。また明治四〇年代からあけぼの会という在京の「心の花」の精鋭の会が行われ、信綱、千亦、新井洸、木下利玄、川田順等が積極的に出席した。一五年頃には「万葉号」として万葉集の特集が組まれるなど、国文学研究の成果を取り入れようとする動きも、積極的に行われた。また森鴎外、上田敏、幸田露伴等の歌壇外の原稿もしばしば誌上に掲載された。 
 その後、第二次大戦、佐佐木信綱の死去(六三・一二)等の困難にあいながら継続的に雑誌を発行し、七百号記念号(五七・二)、「心の花83年史」九九九号(八二・一)、「『心の花』近代歌人論、現代短歌の問題」一〇〇〇号(八二・二)、「現代『心の花』小作家論」一〇〇一号(八二・三)、「21世紀を展望する現代短歌のキーワード21等」一一一一号記念号(九一・五)、「記念作品・論文、「心の花」歌人論等 創刊一〇〇年記念号」一一九六号(九八・六)等を刊行するにいたり、現存する短歌の雑誌として、最も長い歴史をもっている。 

【特色】「心の花」には、「ひろく、深く、おのがじしに」という理念がある。これは信綱が、「歌に対する予の信念」(「心の花」三一年八月号)として、歌の題材を広く、人間性について深く、個性をおのがじしに、という内容で提唱したものである。このような理念は歌壇のなかで折衷派という批判を受けたこともあったが、佐佐木幸綱が指摘しているように、これは特に「おのがじしに」においては、むしろ個性を尊重する結社運営の理念としても機能した。
 そしてこのような自由な雰囲気のなかで、信綱自身をはじめとして、三浦守治、石榑千亦、川田順、新井洸、木下利玄、前川佐美雄(後に、「日本歌人」)、佐佐木治綱、石川一成、佐佐木幸綱、伊藤一彦等の優れた歌人が誕生していった。
 また特に、大塚楠緒子、片山広子、柳原白蓮、九條武子、栗原潔子、五島美代子(後に、「立春」)、真鍋美恵子、斎藤史(後に、「短歌人」等)、遠山光栄、佐佐木由幾、築地正子、石川不二子、俵万智等の短歌史をいろどる多くの女性歌人を輩出してきたことは特筆に値する。
 さらに信綱をはじめとして、その子の治綱(五二年から五九年まで編集・発行人)、治綱の妻の由幾(五九年から七四年まで編集人、五九年から発行人)、そしてその子どもの幸綱(七四年から編集人)という佐佐木家が、「心の花」を支えていったことが特徴としてあげられる。 結社はイエ型集団としての性格を持つが、実際の家が長期にわたって支えていったのはむしろまれであり、逆に言えば長期にわたって存続している大きな原因の一つとして、家の存在をあげることができるだろう。
 このように「心の花」は短歌の伝統を維持するとともに、その時々の短歌史の方向に重要な役割を果たした歌人を輩出してきた、伝統と革新の結社としての特色がある、といえよう。 

【参考文献】佐佐木幸綱『佐佐木信綱』(八二・六、桜楓社)、十月会編『戦後短歌結社史・増補改訂版』(九八・五,短歌新聞社)、「心の花の歌人と作品」竹柏会、「心の花 信綱追悼号」(六四・四)、「心の花」八〇〇号(六五・六)、「心の花」九九九号(八二・一)、「心の花」一〇〇〇号(同年・二)、「心の花 創刊一〇〇年記念号」(九八・六)

出典:(篠弘・馬場あき子・佐佐木幸綱監修『現代短歌大事典』三省堂、二000年)



蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
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      蒲公英(たんぽぽ)のほとりから沙無限かな・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

この句は中国の西域の砂漠で詠んだ句かと思われる。
タンポポは強い草で砂地にも見られる。そのタンポポが咲いている、すぐ脇から果てしない砂漠の沙(すな)が無限に始まる。
大きな景を孕んだ句である。

加藤楸邨については今さらながら語るのは気が引けるが、水原秋桜子の「馬酔木」から出発し結社誌「寒雷」に拠って名句と数々の賞を得た。
以下、彼の句を引くが、その中には人口に膾炙した名句もある。私の好きな俳人である。
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 棉の実を摘みゐてうたふこともなし

 麦を踏む子の悲しみを父は知らず

 蟇誰かものいへ声かぎり

 長き長き春暁の貨車なつかしき

 耕牛やどこかかならず日本海

 雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり

 死ねば野分生きてゐしかば争へり

 冷し馬の目がほのぼのと人を見る

 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 ゆく雁や焦土が負へる日本の名

 雪ふりふる最後の一片たりえんと

 原爆図中口あくわれも口あく寒

 馬が目をひらいてゐたり雪夜にて

 山椒魚詩に逃げられし顔でのぞく

 無数蟻ゆく一つぐらゐは遁走せよ

 蝶踏んで身の匂はずや不破の関

 花を拾へばはなびらとなり沙羅双樹

 玫瑰が沈む湖底へ青の層

 驢馬の耳ひたひた動く生きて灼けて

 蟻の顔に口ありて声充満す

 梨食ふと目鼻片づけこの乙女

 繭に似て妻にいま詩がくるところ

 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手

 糞ころがしに砂漠の太陽顔を持つ

 バビロンに生きて糞ころがしは押す

 糸遊(かげろふ)のひとりあそびぬ壺の口

 たつた一つの朝顔にメンデリズム存す

 猫が子を咥へてあるく豪雨かな

 天の川わたるお多福豆一列

 百代の過客しんがりに猫の子も

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ネット上から下記を転載しておく。
b0013476_22452772加藤楸邨

加藤楸邨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 ~ 1993年(平成5年)7月3日)は日本の俳人、国文学者。本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。

略歴
東京市北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれる。父が鉄道官吏であり出生直後に転勤となったため出生届は山梨県大月市で出された。父の転勤に伴い少年時代は関東、東北、北陸を転居した。1921年(大正10年)父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校。1923年(大正12年)金沢一中を卒業する。この頃はアララギ派や石川啄木など和歌に興味を抱いていた。1925年(大正14年)父の病死を期に一家揃って上京。1926年(大正15年)東京高等師範学校(現・筑波大学)に併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。

1929年(昭和4年)養成所を卒業し、埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の教員となる。同年、矢野チヨセ(後の俳人・加藤知世子)と結婚。 1931年(昭和6年)粕壁中学の同僚の勧めで俳句を始める。水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事する。1935年(昭和10年)馬酔木の同人となる。

1937年(昭和12年)中学を辞め家族を連れ東京に移住。秋桜子の勧めで『馬酔木』発行所に勤務しながら、東京文理科大学(現・筑波大学)国文科に進学。1940年(昭和15年)大学を卒業し、東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)の教諭となる。俳誌『寒雷』を創刊し主宰となる。1942年(昭和17年)馬酔木を離脱。1944年(昭和19年)歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。1946年(昭和21年)8月、休刊していた『寒雷』を1年8ヶ月ぶりに復刊。戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を疑われ批判された。 1954年(昭和29年)青山学院女子短期大学の教授となり、1974年(昭和49年)まで務める。

1968年(昭和43年)句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。1986年(昭和61年)には妻のチヨセが死去。太平洋戦争中より始めた松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲した。1993年(平成5年)初頭に病を得て入院。7月3日永眠、享年88。死後の8月2日、従四位を追贈される。

楸邨は「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男、石田波郷らと共に人間探求派と呼ばれた。

楸邨山脈
『寒雷』からは金子兜太、森澄雄、藤村多加夫、平井照敏、古沢太穂など多様な俳人が育った。
その多さと多様さとから、これを「楸邨山脈」という。
「寒雷」の後継者は、次男の嫁の加藤瑠璃子であるが、運営主体は同人の組織の暖響会であり、加藤瑠璃子は主宰でなく「選者」となっている。

作品

句集
寒雷(1940年)
穂高(1940年)
雪後の天(1943年)
火の記憶(1948年)
野哭(1948年)
起伏(1949年)
山脈(1950年)
まぼろしの鹿(1967年)
怒濤(1986年)

著書・作品集
芭蕉講座(1951年)
一茶秀句(1964年)
芭蕉全句(1969年)
奥の細道吟行(1974年)
芭蕉の山河(1980年)
加藤楸邨全集(1982年)
加藤楸邨初期評論集成(1992年)
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b0013476_22344577寒雷

ネット上の「埼玉の文学─現代篇─」を引用する。

古利根川に培った俳句精神

加藤楸邨(かとうしゅうそん)は昭和初期から平成5年6月88歳で亡くなるまで、60年あまりにわたって活躍した現代俳句界の巨匠である。水原秋櫻子の「馬酔木」から出発したが、第1句集 『寒雷』を刊行した翌年の昭和15年に、みずからも俳誌「寒雷」を創刊主宰し、平成5年7月号で通巻600号を数えた。中村草田男、そして同じ秋櫻子門の石田波郷らとともに 「人間探求(究)派」と称され、新しい現代俳句の潮流を形成した。この楸邨門からは、現俳壇で活躍している田川飛旅子、森澄雄、金子兜太、安藤次男、沢木欣一、原子公平、平井照敏、川崎展宏氏ら、枚挙に暇がないほどの作家を輩出している。楸邨亡きあと、「寒雷」は主宰をおかない形態で現在も発行されている。
加藤楸邨が生前に出した句集は12冊。敗戦までに4冊を出し、戦後は『火の記憶』、『野哭』、『まぼろしの鹿』(昭和42、第2回飯田蛇笏賞)、『怒濤』(昭和61・第12句集・第2回詩歌文学館賞)など8句集を出した。没後、最晩年の作品は遺句集『望岳』(角川書店)として平成8年にまとめられた。昭和49年まで青山女子短大の教授をつとめる。

 鰯雲人に告ぐべきことならず
 隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 雉子の眸のかうかうとして売られけり
 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
 死ねば野分生きてゐしかば争へり
 落葉松はいつめざめても雪降りをり
 おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
 百代の過客しんがりに猫の子も
 ふくろふに真紅の手毬つかれをり
 
これらは、楸邨の代表作としてよく引かれる句である。いずれも作られた時代を背景において考えると、よく伝わってくるように思われる。1句目は戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作である。2句目は後鳥羽院をモチーフに詠んだ200句近い連作「隠岐紀行」の1句。この連作は楸邨の句の世界を画した。3句目は20年の空襲の実景を詠んだもの。4、5句には敗戦直後の闇市の雰囲気が漂っている。6句目は大本営報道部嘱託として土屋文明らとともに大陸に渡り、多くの句( 『沙漠の鶴』)を詠んで、戦争責任を草田男や俳壇内外から問われた頃の作。7句目は病後の旅の作。こうしてみていくと、楸邨は社会的な存在としての自己をつよく認識して、真に表現せねばならない事を詠んできた作家と言える。楸邨は自身のこうした作句の態度を「真実感合」と称した。
句作のほか、戦中から始まった楸邨の芭蕉への傾倒は、『芭蕉講座』『芭蕉全句』『芭蕉の山河』などに結実し、芭蕉句の解釈に新機軸を打ち出した。その仕事は『加藤楸邨全集』(講談社・全14巻、昭和57年完結)、『加藤楸邨初期評論集成』(邑書林、全5巻、平成4年完結)などにまとめられている。また、その業績に対して紫綬褒章、勲三等瑞宝章、第1回現代俳句大賞、朝日賞などが与えられている。没後従四位に叙せられた。
加藤楸邨と埼玉との関わりは、その初期にさかのぼる。昭和4年から12年までの8年間、年齢では24歳から32歳頃に相当するが、楸邨は粕壁中学校(現県立春日部高校)で国語、漢文の教鞭をとっていたのである。そして、その俳句の原点もこの春日部時代にある。
楸邨は明治38年に東京で生まれた。父が国鉄に勤務していた関係で各地を転々とした。関東大震災の年に金沢一中を卒業したが、父病臥のため進学を断念し、石川県の松任小学校の代用教員の職に就く。父の没後生活は困窮したが、読書に没頭し東西の書物にふれる。あわせて歌作に励むようになり、アララギ派や石川啄木、万葉集の歌に親しんだ。その後、昭和4年3月に東京高等師範学校併設の第一臨時教員養成所の国語漢文科を卒業、4月に粕壁中学に赴任した。この年チヨセ(後の知世子、『寒雷』同人)と結婚した。この春日部時代について、楸邨は句集『寒雷』後記やエッセイ「新興俳句の出発」、「俳句との出合い」などで書いている。また水原秋櫻子が『寒雷』に寄せた序文も、この時期の楸邨と両者の出会いを知る上で貴重な資料である。

 私が俳句を始めたのは昭和6年で(『初期評論集成』の新年譜によると、5年の「馬酔
 木」にすでに楸邨の投句が確認できるとある。… …筆者注)、丁度水原先生が ホトト 
 ギスを離れ、新風を樹立しようとせられた時代である。私は学校を終へたばかりで、粕 
 壁中学校に職を奉じてゐた。中学の先生には小島十牛・飯塚両村先生、菊地 烏江・
 石井白村両君等がゐて、皆私より前から俳句を作つてゐた。菊地烏江の「俳句をやら
 ないとつきあはんぞ」といつたなつかしい言葉は今も耳にある。 (『寒雷』後記)

こうして楸邨は俳句の道へ入ったが、当初は短歌への未練がつよく身が入らなかった。しかし、職場の句会の作品を村上鬼城に送って選をしてもらっていた関係で鬼城の句集を読み、楸邨は俳句表現につよく惹かれるようになる。現在の春日部高校の記念館には、楸邨ゆかりの品を展示した一室がある。鬼城の句のほか、春日部での秋櫻子との出会いは、楸邨俳句にとって決定的なものとなった。

 その中に春日部の安孫子病院に、水原秋櫻子先生が医術の方の応援に来ているらし
 いという噂を聞いた。そこで私を俳句に引きこんだ菊地烏江や後に万葉集の英訳をやっ
 た石井白村等と医院の前で先生の見えられるのを待ち受けたのであった。
(「俳句との出合い」)

これが楸邨と秋櫻子との出会いである。文中の安孫子医院は、現在も春日部駅東口の同じ場所で開業している。以後、句会を持ったり、古利根川、元荒川、関宿、宝珠花、船戸の運河などを共に歩いたりして、秋櫻子を囲む場が春日部に形成されていく。この頃のことを秋櫻子も『寒雷』の序文で「……それからといふものは、私の粕壁行は医用のためか俳句用のためかわからなくなつてしまつた」と述べている。折しも、昭和6年は秋櫻子が「『自然の真』と『文芸上の真』」を書いて、虚子の「ホトトギス」から離脱するという、いわば近代俳句史上の事件の年であった。楸邨は、その時の俳句革新に賭ける秋櫻子の意気込みや苦悩を春日部の地で共有したのである。句集『寒雷』は「古利根抄」「愛林抄」「都塵抄」の3章で構成されているが、「古利根抄」の作について楸邨は「……新しく動かうとしてゐた動向に接した私の心が、その美しき世界に、ひたすら歩み入らうとした頃のものである」と言い、「私はどうかすると、先生の目を通して物を見てゐたのではないかとさへ思ふ」(『寒雷』後記)と語っている。
楸邨と秋櫻子が幾度も並んで眺めたであろう古利根川は、梅雨晴れの空の下に変わることなく豊かに流れていた。川のほとりを歩きながら、楸邨の句碑の一つもないのが惜しまれた。

「古利根抄」の作品から任意に引いてみる。括弧内には詠んだ地を示した。

 棉の実を摘みゐてうたふこともなし
 渡舟守いとまのあれや麦ふみに
 下ろす音ひそかなり霧の夜は
 山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ (以上、古利根)
 隅田川あかるき落穂沈めけり (古隅田川)
 降る雪にさめて羽ばたく鴨のあり 
 畦凍てて洲にかへるなり小田の鴨 (元荒川)
 行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ
 暗き帆の垂れて雪つむみなとかな (船戸)
 関の址いまは蓮の枯るるのみ
 径のべに螢こぼれぬ早稲の風 (関宿)

 のちの生活や内面を詠んだ句風と違い、「古利根抄」は自然観照に徹した詠みぶりが歴然としている。短歌的詠法と秋櫻子の抒情への傾倒が色濃い作品群である。
このほか 『寒雷』には、岩槻城址、武蔵嵐山、埼玉沼、川越の喜多院での作もみられる。また、第3句集『穂高』にも、「古利根河畔吟」と題した同時期の作が多数収められている。
楸邨は昭和12年に上京することになるが、こよなく愛した春日部の自然を背景として、その初期の世界がきずかれた。

芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
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   芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ・・・・・・・・・・・・安住敦

安住敦は明治40年東京芝生まれ。逓信省に勤め、富安風生が局長の縁で俳句を始めた。新興俳句に関心を深め「旗艦」に参加。
弾圧の時代、「多麻」を創刊、応召する。
昭和20年末、久保田万太郎を擁して「春燈」創刊、支え続けた。
昭和38年、二代目の主宰となる。
句集に『貧しき饗宴』『木馬集』『古暦』『市井暦日』『暦日抄』『午前午後』『柿の木坂雑唱』など。
俳人協会会長。蛇笏賞受賞。エッセイにも勝れる。昭和63年没。

↓ 私の好きな句を上げてみる。
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 くちすへばほほづきありぬあはれあはれ

 帯のあひだにはさんでありし辻うらよ

 相倚るやしんしんとして霧の底

 霧に擦りしマッチを白き手が囲む

 ふらんす映画の終末のごとき別れとつぶやく

 てんと虫一兵われの死なざりし──8月15日終戦──

 しぐるるや駅に西口東口

 春の蚊や職うしなひしことは言はず

 鳥渡る終生ひとにつかはれむ

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 涅槃図に束の間ありし夕日かな

 かいつむり何忘ぜむとして潜るや

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

 蛇穴を出て日蝕に遭ひにけり

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 散るさくら骨壷は子が持つものか──神保作縊死す──

 夜の書庫にユトリロ返す雪明り

 花明しわが死の際も誰がゐむ

 独活食つて得し独活の句は忘じたり

 枯菊焚いてゐるこの今が晩年か

 眼薬のおほかた頬に花の昼

 花菜漬愛に馴るるを怖るべし

 秋忽と癒えたるわれがそこに居ずや

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

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4625400716.09安住本
ネット上に載る「斎藤百鬼の俳句閑日」という記事を引いておく。↓
引用されている句については、私の引いた句と重複するかも知れない。お許しを。
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安住敦句集(1)
2008年01月02日 | Weblog
年末、最後の注文品が大晦日に届いた。『安住敦句集』(昭和五十年刊、限定千部、五月書房)
淡い駱駝色のバクスキン装で、二重箱入り。これが千五百円だ。古書店の値付けの誤りは確実。新年のお年玉として有難く頂戴させてもらった。
元日に一気に読了。しんみりと味わった。
岡本松濱もいいが、こういう身辺俳句も捨てがたい。なんと気の多いことよ。

『毎日俳壇 俳句作法』(昭和五十六年刊)に安住敦はこう書いていた。
「わたくしはいつも日常身辺の句ばかりつくっている。それら日常身辺の句は、例えば毎日の日記をつけるようにと言いたいところだが、じつはその日記にもつけないような些細なことがらであることが多い。しかし、そうしたごく些細なことがらの中にも、俳句というものがあり得るとすれば、そういう俳句を大切にし、そういう俳句をつくりたいと思っている。わたくしはわたくしの分に応じた句をつくればいい。」

たなごころの中にしっくり納まる小ぶりなこの句集は、作者の意をおのずから呈していて好ましい。収められているのは、句集『古暦』から88句、『暦日抄』から102句、『午前午後』から110句。自選である。

好ましい句を択ぶ。『古暦』(自昭和二十、至昭和二十八)から。

  昭和二十年八月、対戦車自爆隊員として千葉県上総湊にあり
 蝉しぐれ子の誕生日なりしかな

  終戦
 てんと蟲一兵われの死なざりし

 雁啼くやひとつ机に兄いもと

 銀杏ちる兄が駈ければいもうとも

 母と子の何興ずるや花杏

  田園調布
 しぐるるや駅に西口東口

 また職を探さねばならず鳥ぐもり

 鳥渡る終生ひとにつかわれむ

 秋風や夕餉すませて子と町に

  電力不足
 らんぷ売るひとつらんぷを霧にともし

 降誕祭町に降る雪わが家にも

 かくれ逢ふことかさねたるショールなれ

  高橋鏡太郎
 留守に来て子に凧買つてくれしかな

 月見草夕月よりも濃くひらく

 秋の風箸おきて妻何を泣くや

 春の雁いまも焦土にことならず

 啄木忌いくたび職を替へてもや

 恋猫の身も世もあらず啼きにけり

 みごもりしことはまことか四月馬鹿

 ひとの恋知れども触れず啄木忌

 秋風のわが身ひとつの句なりけり

 雁ゆくや古き映画の二本立テ

 葱坊主あるひは蝶のあがりけり

 麦秋や書架にあまりし文庫本

  偶成
 秋風や鶏がそだてし家鴨の子

 獅子舞の笛のきこえてここへは来ず

 来し方に悔なき青を踏みにけり

 梅雨の犬で氏も素性もなかりけり

 拾ひ来しうつせみ卓におきしのみ

 世にも暑にも寡黙をもつて抗しけり

蛇足ながら、敦は戦後、万太郎を擁して『春燈』を立ち上げ、万太郎没後、主宰となる。
上掲は戦後の混乱期の苦難の時代の句である。(続く)

安住敦句集(2)
2008年01月03日 | Weblog
安住敦は季語については「偏食」であると告白している。こういうことを聞くと、初心はとても気が楽になる。
「わたくしの持っている季語は好みが偏っていてその数も極めて少ない。年代によって多少変っても来たようだが、例えば夏なら籐椅子、秋なら渡り鳥、冬なら枯菊、春なら啄木忌などというのがやたらと出てくる。全然手も触れることのない季語はざらにあって、言えば季語の偏食ということだが、考えてみれば季語はわたくしにとって、そのときどきの思いを託すためにあるので、何も歳時記の例句をつくっているのではないのだと、やや居直った気持でさえいる昨今である。」
たしかに籐椅子の句が多いのには驚いた。
「籐椅子はわたくしにとって来客用でなく、常にわたくしだけのためにある。わたくしは籐椅子に寄ってわが庭をながめる。・・・親しい者のあれこれを思い、来し方行く末を思ったりする。籐椅子でわたくしは社会を憤ったりしないことにしている。人生如何に生くべきかの思案も、籐椅子では少々重すぎる。」
そして、
 子を思ふ秋の籐椅子となりにけり
と、ぽつんと呟く。この作家の骨頂はこのあたりにあるのだろう。


『暦日抄』(自昭和29至昭和39)から選ばせていただく。

 春昼や魔法のきかぬ魔法壜

 花冷の妻を距てし襖かな

 雨の日は雨の雲雀のあがるなり

 ひとの愛うたがはずセル着たりけり

 手にとりて冬帽古りしこと嘆ず

 梅匂ふ夜や子の部屋に辞書借りに

 曇りぐせいつよりつきし辛夷かな

 啄木忌子に知らすべき貧ならず

 妻がため炭挽くことをせし日なし

 老残の恋猫として啼けるかな

  久保田先生、赤坂伝馬町に移る
 隠れ栖む路地の夜寒となりしかな

 梅咲けば父の忌散れば母の忌よ

 草萌やちちはは一つ墓に栖み

 子の書架に黒きは聖書鳥雲に

 白靴を踏まれしほどの一些事か

 居待月芙蓉はすでに眠りけり

 栄達に遠しはこべら道に咲き

 鳥帰るいづこの空もさびしからむに

 沖遠く白き船ゆく種痘かな

 何企む鬼灯市の片隅にて

 蕾あるかぎり朝顔咲きにけり

 凭れば軋む冬の籐椅子となりにけり

 鴎ひとつ舞ひゐて春の風邪心地

 籐椅子あり夕べはひとを想ふべし

 かかる日はひとりでゐたし鳥雲に

  久保田先生急逝
 こでまりの愁ふる雨となりにけり

 秋草のどれも頸長夢二の忌

 ある晴れた日につばくらめかへりけり

 木の実掌に生涯の運逸したりや

 四月馬鹿逢はねば嘘もなかりけり

 袷着て母より父を恋ふるかな

 亀鳴くや事と違ひし志

 身辺やなほ晩菊の匂ふあり

微熱をともなったロマンティシズムが透明感を持って漂いながれてくるようだ。

たんぽぽのはなの さくたびに/こどもは かわべりでゆめみる/そのことをしたあとの/とりかえしのつかぬ かなしみを・・・・・・・・・・・谷川俊太郎
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    たんぽぽのはなの さくたびに・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

    こどもは しろいとびらをあける
    とても おそろしいことを
    こころのなかで かんがえるが
    そのことは だれにもいわない
    こどもは おちていたまりをひろう
    うでのうぶげに きりのしずくが
    にぶく ひかっている
    いちどだけ たったいちどだけ
    それでいいんだと こどもはおもう
    だが いちどだけですむものか
    たんぽぽのはなの さくたびに
    こどもは かわべりでゆめみる
    ほんとうの そのことをしたあとの
    とりかえしのつかぬ かなしみを
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この詩は詩集『よしなしうた』1985年青土社刊に載るもの。
この詩の「そのこと」ということについては何も明かされていない。
読者がさまざまに想像するしかないが、私は、一つの想像として、
男の子が第二次性徴として誰もが通過しなければならない「手淫」のことを詠ったのではないか、と思うが、いかがだろうか。
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上に引いた詩に関連するものとして次の詩を引く。

p2-2.jpg
↑ レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス的人体図」

      おとこたち・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

   おとこたちはみなぺにすをもっていた
   いっしょうわすれられないとおもうできごとを
   あくるひにはわすれた
   すいっちひとつでうつくしいおんがくが
   死のむこうからながれでて
   そのほうがくへとおとこたちは
   じぶんをいくえにもおりたたむ

   <のぞみをたたれても のぞまぬことにはけっしてなれることはない>
   ゆかのうえのひとつぶのこめが
   とおいぬかるみでめをふくことをおそれて
   くるしみのときをすごすために
   さらにひどいくるしみのものがたりをよむ
   おとこたちはみなぺにすをもっていた
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更に、もう一つ関連する詩として下記のものを引いておく。

c0013496_14062.jpg

      からだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷川俊太郎

   男が男のからだのかたちしてしか
   生きることのできないのはくやしい
   かたちのないこころだけであったなら
   もっと自在にあなたと交われるものを

   だがことばよりくちづけで伝えたいと
   そう思うときのこころのときめきは
   からだなしでは得ることができない
   いつか滅ぶこのからだなしでは

   こころがどこをさまよっていようと
   こころがいくつに裂けていようと
   女がただひとつのからだのかたちして
   いま私のかたわらにいるのはかなしい

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これらの詩は、詩集『日々の地図』1982年集英社刊に載るもの。
この詩の末尾の「かなしい」がカナ書きになっているところが曲者である。
ここは「悲しい」とも「愛しい」とも読み解けるところで、この辺が詩の面白さである。
これらの詩は「たんぽぽのはなの さくたびに」と関連するものとして鑑賞してもらいたい。
「たんぽぽのーー」の詩は暗喩になっていて、さまざまな解釈をし勝ちである。
それについての、一つの別の面からのアプローチの詩として紹介する。
読後の、あなたの感想は、いかがだろうか。
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この記事とは何の関係もないが、三番目の写真の若い男性は、顔は隠してあるが、今をときめく人気者のプロゴルフアーの「石川遼」のものである。
本来は顔も映っているのだが、トリミングして、わざと隠してみた。
それにしても、鍛えられた立派な体をしているなぁ。


急傾斜地崩壊危険蒲公英黄 ・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂「ぼるが」

     急傾斜地崩壊危険蒲公英黄・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■麦掛けて海の墓群あかるうす・・・・・・・・・・・・・・高島茂

   ■つつぢ燃ゆいつ狂ふても不思議なし・・・・・・・・・・・高島茂

   ■青蛙吸盤白く泳ぎけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂

2008年四月下旬、私の詩集『免疫系』の出版の打ち合わせのために上京した際に新宿西口の居酒屋「ボルガ」で、此処ゆかりの俳人の高島征夫氏と初めてお会いした。
語り口も爽やかな俳句結社「獐のろ」の主宰にふさわしい人だった。うち揃ったDoblogの友や装丁家・岸顕樹郎氏などとの話も面白かった。
その際、私は『嬬恋』を持参して一冊、名刺代わりに進呈したが、高島氏からはお父上・高島茂の遺句集『ぼるが』(平成12年・卯辰山文庫刊)をいただいた。
なお「高島茂」については何度も書いたが、リンクに貼ったところなどを読んでもらいたい。

いただいた句集『ぼるが』は平成11年8月3日に死去されるまで、平成元年からの俳句総合誌、結社誌、主宰誌などに発表されたすべての作品を高島征夫氏がまとめられたものである。

高島茂筆跡0001

掲出した句集の「ぼるが」の文字は茂の筆跡から起こしたものである。
なお原文は漢字は「正」字体を採用されているのだが、私の勝手で新字体にさせてもらったので、ご了承いただきたい。

掲出句「急傾斜地崩壊危険蒲公英黄」は漢字ばかりを並べたものだが、これも「俳句」である。
下句は「たんぽぽ・き」と訓(よ)む。
ときたま、こういう句作りをなされているのを見かけるので、注意して観察されるといい。

以下、ただいまの季節にまつわる句をいくつか引く。

 急傾斜地崩壊危険蒲公英黄

 青猫といふ紙あらば詩を書かむ

 佐伯祐三のたましひの絵と五月は遇ふ

 植田の水たつぷり畦にあやめ咲く

 謎めきて新緑の山深まれる

 をとこをんな宴のごとし田を植ゑる

 かつと晴れ植ゑしばかりの稲の縞

 新緑の鉄柵朱し雪崩止

 お鷹ぽつぽすつくと五月の風を呼ぶ

 星またたき蛾の吹入りし野天風呂

 杉山の幽し萌えたつ羊歯を見よ

 戦争の終らぬままに葱坊主

 分校の生徒は五人金魚飼ふ

 葱坊主木曾の石仏小さくて
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高島茂
この句集に載る高島茂の写真である。

この句集に載るものは季節は一年にわたっているので、あとのものは、また季節の都度載せたい。
抽出した句については、特別に批評のコメントは書かないが、抽出すること自体が私の批評であることをお察しいただきたい。特に、冒頭に引いた三句は、趣き深い。
ご恵贈に厚く感謝申し上げる。
これを贈呈して下さった高島征夫氏も2009年に死去されて今は、もう亡い。嗚呼!


(転載資料)〔ルポ〕事故から25年、チェルノブイリは今・・・・・・・・・・・・・・・・時事ドットコム
Abandoned_village_near_Chernobyl.jpg
↑ チェルノブイリ原発 事故後、放棄された強制立退き区域内の住宅の廃墟

(転載資料)← 写真や放射能の図解グラフなどがある。アクセスして見られよ。  
 〔ルポ〕事故から25年、チェルノブイリは今・・・・・・・・・・・・・・・・時事ドットコム

「石棺」付近で強い放射線
チェルノブイリ原子力発電所4号機の「石棺」

 史上最悪の放射能漏れを起こした1986年4月26日の旧ソ連チェルノブイリ原発事故から25年。
ウクライナ政府は「負の遺産」のイメージ転換を探り始めたが、原発周辺の放射能汚染は依然深刻で、強制立ち退きとなった住民11万人以上が帰還できる見通しは立っていない。
ウクライナ政府のプレスツアーで3月末、同原発を訪れ、現状を探った。

(モスクワ支局長 奥山昌志)

 炉心溶融事故が起きた原発4号機。
コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。
通常の50倍を超える放射線量だ。

放射線量と人体への影響
 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。
原発の周囲30キロの立ち入り規制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。

 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、
昨年から基礎工事が始まった。

住民帰還の見通し不明
荒れ果てる家屋

 ただ、建設費15億4000万ユーロ(約1830億円)に対し、拠出額が6億ユーロ不足しているため、ウクライナ政府は今月19日に国際会議を開き、追加支援を求める。
新シェルターは100年の耐久性を持つとされ、完成すれば安全性向上に役立つと期待される。

 しかし、近い将来、立ち入り規制区域内に住民が帰還するのは困難とみられている。
原発職員ら約5万人が住んでいた原発近郊の町プリピャチでは無人のアパートや学校、レストラン、商店などが荒れ果てるままに放置されていた。

 コンクリートやアスファルトの割れ目に盛り上がるコケに線量計をかざすと、毎時2マイクロシーベルトを超え、土壌の放射能汚染をうかがわせた。

 避難先になじめず、居住禁止を無視して自宅に舞い戻った少数の老人らの存在は政府も黙認しているが、ハロシャ局長は「半減期の長い放射能の除染は難しい。
地元の野菜や果物、キノコなどを食べるのは危険で、果たして帰還がいいことなのか慎重に考えなければならない」と述べた。

「負の遺産」利用に批判も
 その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。

 ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。
専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。
1日で8グループが訪問したこともある」と話した。

 しかし、こうした動きを批判する声も根強い。
チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。
政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。

◇〔用語解説〕チェルノブイリ原発事故

国際原子力事故評価尺度
チェルノブイリと福島は「レベル7」
スリーマイルは「レベル5」と評価された
 1986年4月26日未明、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号機で運転試験中、炉心溶融と爆発が起き、大気中に大量の放射性物質が放出された史上最悪の原発事故。

 当時のソ連政府が発表した死者数は消防士ら33人だが、大量に被ばくした事故処理作業員らが多数死亡。子供の甲状腺がん多発など深刻な健康被害ももたらしたとされる。

 原発の周囲30キロ圏では住民約12万人が強制立ち退きとなり、現在も立ち入り規制が敷かれている。

本文には写真、地図や放射能の図解グラフなどがある。
これらはコピペ出来ない設定になっているので転載出来ない。
アクセスして見られよ。大変参考になる。
  
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800px-Kiev-UkrainianNationalChernobylMuseum_15.jpg
↑ ウクライナ国立チェルノブイリ博物館に展示される犬の二殿体奇形

Wikipediaに載る『チェルノブイリ原子力発電所事故』という記事から一部だけ抜粋する。↓

民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。
この事故で生活に影響が出た人の数は極めて多く、30万人を超える人が事故のために移住を余儀なくされ、約60万人が事故後の処理に従事した。
現在も数百万人の人々が汚染区域に住み続けている。その一方で、これらの影響された人の大部分は、比較的低い線量の被曝しか受けていない。

汚染された区域の一部の子供は、甲状腺に最大50グレイの高い線量を受けた。
これは汚染された地元の牛乳を通じて、比較的寿命の短い同位体である放射性ヨウ素を体内に取り込んだからである。
いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺癌の発生が増えていることが判った。
IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されている。
発生した小児甲状腺癌は大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。
処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。現在までのところ、このような処置は診断されたあらゆるケースにおいて成功を収めているようだ。

1995年、世界保健機関は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺癌をこの事故と関連付けた。10件の死亡が放射線に原因があるとした。
しかし、検出される甲状腺癌が急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。
放射線により誘起される甲状腺癌の典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺癌の増加は1987年から観測されている。
しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていないとIAEAは主張している。

これまでのところ白血病の識別できる増加は無いが、過去の被曝者の健康調査の結果、白血病は被曝から発病まで平均12年、固形ガンについては平均20~25年以上かかることが分かっている。このことから、白血病および固形ガンが通常に比べてどれだけ増加するのかは継続的な調査によって判明すると予想される。

資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソ連では疫学的調査が遅々として進んでいない。
適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系だてて行うことが遅れている。

ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。

住民が元々暮らしていた場所から離れた区域へ再定住化した結果、家族、社会ネットワークが離散し、既に住んでいる住民から嫌われるような地域に移転することにより、心理的影響が与えられた。

住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。
一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。

冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集冬日

  冬日そそぎ擂り餌のやうな離乳食・・・・・・・・・・・高島茂

ネット上の古書店に注文中の、高島茂第二句集『冬日』(昭和50年大雅洞刊)が到着した。
森慶文のエッチングの版画の挿画のある箱入りのもの。
昭和37年秋から46年末まで約10年間の作品488句を収録している。
私の買った値段は高くて5000円だった。
掲出した句の一連は昭和45年の収録句で「赤んぼ」の句ばかり27句が一連として連なっている。
対象となる人が誰なのか私には判らないが、いつも身近に起居していた「赤んぼ」に相違ない。
一連はほのぼのとした雰囲気が漂っている。
句集名を「冬日」としたことからも、私はこれらの一連が作者の想いの凝縮したものだと思い掲出句を選んだ。

その一連を引いてみよう。

 鳥多き青空あかんぼいつも睡る

 桃の木の白い鳥から睡りもらふ

 あかんぼの皮むけてはまゆふの花の盛り

 やはらかに産着をたたむ酷暑かな

 生れて何か見えしは風の向日葵か

 手が温くなりてねむたく乳吸へる

 全身もて糞る小さき汗を噴き

 真昼かりかりと蟹ゐてあかんぼが見る

 あかんぼがよろこぶ炎昼の水の穂を

 乳の出る指吸ひすひて睡るなる

 白凉はねむり笑ひのあかんぼに

 あかんぼの視線よろこび四十雀

 あかんぼのねむりくすぐる小鳥きて

 むづかゆき歯が生え蜜柑ほしがりぬ

 空泳ぐ魚にあかんぼ羽をふる

 乳の匂ひ満ちて冬日のオルゴール

 あかんぼう孤独なるとき鯨煮られ

 家の中にむつき乾かす嚏する

 あかんぼの笑ひもなくて寒くなる

 雀ゐてあかんぼのながい食事みる

 家のどこか叩くあかんぼに粥が煮ゆ

 あかんぼに冬芽きらりと声を出す

 真冬このほのぬくきものあかんぼ抱く

 雪の日のラッパに聦く瞳がとべる

長すぎる引用になったかも知れないが、この一連を見ていただけば判るように「慈愛」に満ちた詠みっぷりである。
作者の「想い」が籠っているという所以である。

その後、高島征夫氏から、この「あかんぼ」について下記のようなご教示があったので、コメントをそのまま「貼り付け」ておく。

<「あかんぼう」についても記事があるのですが、とりあえず、作品作成時(昭和45〈1970〉年)、兄に長男が産まれています。
作句のモチーフになっただろうことは間違いないと思います。
ただ、本人は生前人に聞かれても「モデルはいないよ」と答えていました。
この一言がいまでも鮮明に思い出されます。
 付け加えると、後年(昭和61〈1986〉年『鯨座』上梓)、兄の長男は癌のため短い生涯を終えました。
第4句集『鯨座』にはその初孫である高島林(たかしまはやし)への献辞が掲げられています。>

「あかんぼ」の一連の句27句以外に、私の選んだ34句を下記に列挙する。合計61句となる。

この句集の巻頭句は

 炎天の鉄路を擦つて蝶迅し

で昭和37年の作である。この句の少し後に

 虻が熱い山菜採りの紺づくめ

 職なきは老ゆるにまかす時雨また

などの句が続いている。
昭和38年の句には、以下のようなものがある。

 緩みなき電線はるかに雪道直ぐ

 雪にながきバス待つ人生の荷物負ひ

 白繭のつめたさをいま掌にしたし

 鮮明な蛍火ひとつ多佳子の死

 一途なる秋蚕の食慾ひびきけり

昭和39年の作品から抜粋する。

 すでに夏日わがため白道まつすぐに

 青柿落つ歳月いたく無駄にせり

 肩に触れる冬日の鎖戦後ながし

昭和40年の句から

 両目もつはかなしと雪の捨達磨

 雪にかうかう一軒灯り馬肉売る

 連翹に腑抜けのまなこ射られけり

 轢死の犬みてゆく犬の時雨れけり

 生きて遇ふ句碑や泉に冬日さし──行道山滝春一先生句碑除幕式

昨日付けの記事の高島茂の略歴を見てもらえば判るように、茂は俳句結社「暖流」に参加している。
以下に、その主宰者・滝春一の経歴を貼り付けておく。
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滝春一
明治34年10月15日、神奈川県横浜市生まれ。本名粂太郎。
高等小学校卒業後、三越本店に入社。三越に27年間勤めた後、根岸演劇衣装株式会社に転職。
大正10年頃より短歌を作り始め、後職場の俳句会に誘われ俳句に興味を持つ。
大正15年には水原秋桜子の門を叩き、昭和6年、秋桜子が「ホトトギス」を離れる時春一も従い「馬酔木」の中心的作家となる。
昭和7年、初心者対象の雑詠欄「新葉集」の選者となり、8年には馬酔木第一期の同人に推される。
10年に「菱の花」の選者となり、14年に「菱の花」を発展させ俳誌「暖流」を創刊、主宰となる。
しかし、その後「無季容認・十七音基準律」を唱えるようになり、師秋桜子と意見が対立。その結果「馬酔木」を離れる事となった。
しかし昭和41年、楠本憲吉などの仲介により「馬酔木」に復帰している。
82年、「花石榴」で第16回蛇笏賞受賞。
1996年3月28日没。
句集に「萱」(昭和10)「菜園」(昭和15)「深林」(昭和32)など。

 風立ちて薄氷波となりにけり
 かなかなや師弟の道も恋に似る
 あの世へも顔出しにゆく大昼寝

参考松井利彦編「俳句辞典・近代」桜楓社
稲畑汀子他著「現代俳句大辞典」三省堂
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この記事を読んで興味深いことがいくつかある。
これは以前の記事にも書いたことだが、戦前には昭和一桁頃から俳句の世界にも「自由律」「無季俳句」などの運動の盛んな時期があって、多くの俳人たちが影響を受けた。
昭和二桁の戦時中は、そんな「自由」を標榜する運動は秩序を乱すとして特高警察によって弾圧され投獄されたりした。
戦後になってからは「前衛俳句」運動が起こり激震を起こしたので、これも多くの俳人が影響を受けた。
その結果、その道を邁進した人も居るし、多くは伝統的な句作りに復帰したりした。
誤解のないように申し添えるが「自由律」俳句は大正の頃からあった。
たとえば「荻原井泉水」などは、その先駆者であり終生その道を進まれた。山頭火や放哉の先輩である。もっとも井泉水は「自然主義」の作風である。
私は少年の頃に兄・庄助の蔵書にあった井泉水の句集の自由律俳句に接して、いわゆる「詩」の世界を知った。
たとえば 

<島が月の鯨となつて青い夜の水平> 

というような句である。
この句などは「俳句」というよりも「短詩」としても鑑賞できるだろう。
茂の句を見てみても、多少は影響された形跡が見える。師匠である滝春一の経歴からの連想である。
一言書いておく。

昭和41年の句に

 傷みなくともる灯はなし斑雪の村

 流さるる生きものかなしおたまじやくし

昭和42年の句に

 家継がぬ子に縋りをり寒の虻

 マッチの火ほどに芽ひらき紅柏

 盆休みの職人とゐてぼてぼて茶

 傷つきてマルメロつよき香を放つ

昭和43年の句に

 日を吸つて寒の沢蟹動きそむ

 ただの棒ならず榛の木春待つ田

 あかんぼを見せあふ桜遠景に

 耳ともしねむるあかんぼリラの花

昭和44年の句に

 中年に日は流れだす桐の花

 炎暑の人詰めてがくんと市電止る

 炎天に遠流の渇き火口壁

昭和45年の句に

 干魚・蕗縄でくくつて黙りこくる

 霧に日させばまぼろしか鶴遠き潟に

昭和46年の項、この句集の巻末句に

 南天の実や明暗を若く知りぬ

 飯どきは飯くひにくる冬仏

この句集は昭和37年というから作者42歳からの十年の句ということになる。
作者の生涯の中でも一番充実していた時期ではなかろうか。
恣意的な引用だが私の鑑賞が籠っているので、後は読者の感想に任せたい。
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なお高島茂も所属し、第34回現代俳句協会賞も得た「現代俳句協会」のデータベースを検索すると50句が出てくるので参照されたい。
誰の選になるかは判らないが、この協会のオフィシャルなデータベースとされている。
なお征夫氏からのご教示によるのだが、茂の一周忌にあたっての山崎聰の「冬日」の批評の記事を紹介しておくので興味のある方は当たってみてもらいたい。

『ドナルド・キーン自伝』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     『ドナルド・キーン自伝』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・・中公文庫2011/02刊・・・・・・・・・・・

東日本大震災と福島原発の爆発、放射能漏れの大事件によって、打ちのめされている日本人に最近大きな感銘を与えたのが、
ドナルド・キーン氏の「日本国籍を取得し日本に永住する」という報道だった。
「私の生活は、あまりにも日本と離れ難く結びついていて、その絆を断つなど思いもよらない」とキーン氏は言う。
かつてキーン氏は「日本はいつだって私が行き着く最後の港なのだ」と書いた。
震災と原発事故の始末の悪い風評が海外に広がって、日本に来る観光客の激減、在日留学生の大量帰国、労働者の日本離れ、などの折だけに涙の出るような嬉しいニュースだった。

ここでネット上に載る「産経ニュース」を転載しておく。↓

「私は日本という女性と結婚」 ドナルド・キーン氏、永住へ帰化手続き
2011.4.17 11:52

 日本文学研究で知られる米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(88)が日本に永住する意思を固め、日本に帰化する手続きを始めたことが15日分かった。
関係者が明らかにした。関係者は「東日本大震災で大変心を痛め、被災者との連帯を示すために永住への思いが固くなったようだ」と話している。

 キーンさんは1922年、ニューヨーク生まれ。
学生時代に「源氏物語」の英訳を読み、日本文化に興味を抱いた。日米開戦後は海軍情報士官として、玉砕した日本兵の遺書を翻訳したり捕虜を尋問。
復員後、英ケンブリッジ大、米コロンビア大、京都大で日本文学を学んだ。「日本文学の歴史」「百代の過客」「明治天皇」などの著作で知られる。

 三島由紀夫とは京大留学中の54(昭和29)年に知り合って以来の友人で、三島作品の翻訳も行った。
2008(平成20)年に文化勲章を受章した。

 松尾芭蕉の「おくのほそ道」をたどる旅をし、英訳も出版。東北大(仙台市)で半年間、講義したこともある。
それだけに、被災地の状況を心配している。平泉の中尊寺は難を逃れたが、何度も訪れた松島や多賀城など芭蕉ゆかりの地は大きな打撃を受けた…。

 キーンさんはこれまで1年の半分ほどを東京都北区の自宅で過ごしてきたが、26日にコロンビア大で最終講義を迎えることもあり、日本に永住することを決めた。
周囲に「日本が大好きだから」などと説明しているという。

「危機だからこそ」
 法務省は15日、震災直後の3月12日から4月8日までの4週間に日本から出国した外国人は延べ53万1000人で、
このうち発生後1週間では24万4000人だったと発表した。震災発生前の1週間は14万人だった。

 震災と福島第1原発事故を受けて、各国が一時的な出国検討を勧告したり、被災地からの帰国支援を実施したことが影響した。

 NHKのインタビューに応じたキーンさんは「日本は危ないからと、(外資系の)会社が日本にいる社員を呼び戻したり、野球の外国人選手が辞めたりしているが、
そういうときに、私の日本に対する信念を見せるのは意味がある」と語った。

 「私は自分の感謝のしるしとして、日本の国籍をいただきたいと思う」とし、夏までに日本国籍を取得する考えだ。

 独身を通してきたキーンさんは「私は『日本』という女性と結婚した。日本人は大変優秀な国民だ。
現在は一瞬打撃を受けたが、未来は以前よりも立派になると私は信じる」と、新たな祖国になる日本の復活を信じている。
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以下、ネット上に載るキーン氏の経歴などの記事を引いておく。
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ドナルド・キーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドナルド・ローレンス・キーン(Donald Lawrence Keene)

誕生
1922年6月18日(88歳)
アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク市
職業 文学者、評論家
国籍 アメリカ合衆国
( 日本国籍取得を予定)

代表作
『日本文学史』(1976年〜)
『明治天皇』(2001年)

主な受賞歴
菊池寛賞(1962年)
山片蟠桃賞(1983年)
読売文学賞(1985年)
日本文学大賞(1985年)
福岡アジア文化賞芸術・文化賞(1991年)
勲二等旭日重光章(1993年)
朝日賞(1998年)
毎日出版文化賞(2002年)
文化功労者(2002年)
文化勲章(2008年)

ドナルド・ローレンス・キーン(Donald Lawrence Keene, 1922年6月18日 - )は、アメリカの日本文学研究者、文芸評論家。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績を残した。称号は東京都北区名誉区民、ケンブリッジ大学、東北大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。

来歴・人物
ニューヨーク市ブルックリンで貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年、16歳でコロンビア大学文学部に入学。同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語特に漢字の学習に惹かれるに至る。1940年、厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年に学士号を取得。日米開戦に伴って米海軍日本語学校に入学し、日本語の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。通訳時代の友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)がいる。

復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。

1953年京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、同大学名誉教授となった。

1982年から1992年まで朝日新聞社客員編集委員。1986年には「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立した。1999年から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年11月1日源氏物語千年紀のよびかけ人となる。

日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。

1976年には、日本語版、英語版それぞれの『日本文学史』の刊行が開始された。近世、近代・現代、古代・中世の三部に大きく分かれる。

2011年3月11日発生の東日本大震災を契機に、コロンビア大学を退職した後、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した。

クラシック音楽、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。

友人であった安部公房は、キーンが明治天皇について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告した。何年後かに実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。

主に交流のある作家は三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、安部公房など。かつて大江健三郎とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。ただ、大江の縁があって、安部と終生の親友になれた。井上靖文化賞授賞式の際にキーンが出席出来なかった代わりに大江がスピーチに参加した。

著作
単著
『日本人の西洋発見』藤田豊、大沼雅彦共訳 錦正社 1957 芳賀徹訳、中公叢書 1968、中公文庫 1982
『碧い目の太郎冠者』谷崎潤一郎序文、中央公論社、1957 のち中公文庫
『日本の文学』 吉田健一訳 解説三島由紀夫、筑摩書房、1963、のち中公文庫
『文楽』 吉田健一訳 金子弘撮影 谷崎潤一郎序文 講談社 1966 
 のち増補し「能・歌舞伎・文楽」松宮史郎補訳、講談社学術文庫
『日本の作家』 中央公論社 1972 のち中公文庫
『日本との出会い』篠田一士訳 中央公論社 1972 のち中公文庫
『生きている日本』 江藤淳・足立康訳 朝日出版社 1973
 のち「果てしなく美しい日本」に改題し足立康改訳 講談社学術文庫
『日本文学散歩』 篠田一士訳  朝日選書 1975
『日本文学史 近世篇』(World in the Wall) 全2巻 
徳岡孝夫訳 中央公論社 1976-77 函入り
『ドナルド・キーンの音盤風刺花伝』 中矢一義訳 音楽之友社 1977
 のち「わたしの好きなレコード」に改題、中公文庫
『日本文学を読む』新潮選書 1977
『日本を理解するまで』新潮社 1979
『日本文学のなかへ』文藝春秋 1979
『日本細見』 中矢一義訳 中央公論社 1980 のち中公文庫 紀行文
『音楽の出会いとよろこび 続音盤風刺花伝』 中矢一義訳 音楽之友社 1980
 のち「音楽の出会いとよろこび」に改題、中公文庫
『私の日本文学逍遥』 新潮社 1981
『ついさきの歌声は』 中矢一義訳 中央公論社 1981 音楽論
『日本人の質問』朝日選書 1983
『日本文学史 近代・現代篇』 (Dawn to the West) 全8巻
徳岡・角地幸男・新井潤美共訳 中央公論社 1984-92 函入り
『百代の過客 日記にみる日本人』 金関寿夫訳 朝日選書上下 1984、のち函入り 朝日新聞社
『少し耳の痛くなる話』 塩谷紘訳 新潮社 1986
『二つの母国に生きて』 朝日選書 1987
『続百代の過客 同 近代篇』 金関寿夫訳 朝日選書上下 1988、のち函入り 朝日新聞社、
『日本人の美意識』 金関訳 中央公論社 1990、中公文庫 1999
『古典を楽しむ 私の日本文学』 朝日選書上下 1990
『声の残り 私の文壇交遊録』 金関訳 朝日新聞社 1992、のち朝日文庫
『古典の愉しみ』 大庭みな子訳 JICC出版局 1992、のち宝島社文庫
『このひとすじにつながりて』 金関訳  朝日選書 1993
『日本語の美』 中央公論社 1993、中公文庫 2000
『日本文学の歴史』全18巻、中央公論社、1994-97、中公文庫 2011.1-
『日本文学史』に古代・中世編(土屋政雄訳)を足したソフトカバー装丁。
『明治天皇』角地幸男訳 新潮社上下 2001、新潮文庫全4冊 2007
『足利義政 日本美の発見』角地幸男訳 中央公論新社 2003、中公文庫 2008
『明治天皇を語る』新潮新書  2003 講演体
『日本文学は世界のかけ橋』たちばな出版  2003
『私の大事な場所』中央公論新社 2005、中公文庫 2010
『思い出の作家たち―谷崎・川端・三島・安部・司馬』 松宮史朗訳 新潮社 2005
『渡辺崋山』角地幸男訳 新潮社 2007
『私と20世紀のクロニクル』角地幸男訳 中央公論新社 2007 のち中公文庫で『ドナルド・キーン自伝』に改題 2011
『日本人の戦争 作家の日記を読む』角地幸男訳 文藝春秋 2009

共著
『日本人と日本文化』司馬遼太郎との対談 中公新書 1972 
中公文庫 1984、1996 ISBN 4121002857
『反劇的人間』 安部公房と対談 中公新書 1973 のち文庫
『東と西のはざまで』 大岡昇平と対談  朝日出版社 1973
『悼友紀行 三島由紀夫の作品風土』 徳岡孝夫共著 中央公論社 1973、のち文庫
『日本の魅力 対談集19篇』 中央公論社 1979
『宮田雅之切り絵画集 おくのほそ道』 解説担当 中央公論社 1988
英訳版「おくのほそ道」、講談社学術文庫 2007、芭蕉の原文併収
『世界のなかの日本 十六世紀まで遡って見る』 司馬遼太郎対談 中央公論社 1992、中公文庫 1996
『同時代を生きて 忘れえぬ人びと』瀬戸内寂聴、鶴見俊輔 岩波書店 2004

受賞歴
1962年 菊池寛賞
1969年 国際出版文化賞
1983年 山片蟠桃賞
1983年 国際交流基金賞
1985年 読売文学賞
1985年 日本文学大賞
1991年 第2回福岡アジア文化賞 芸術・文化賞
1990年 全米文芸評論家賞
1997年 朝日賞
2002年 毎日出版文化賞
2006年 東京都北区名誉区民
2010年 第5回安吾賞
他多数

栄典
1993年 勲二等旭日重光章
2002年 文化功労者
2008年 文化勲章
名誉博士
1978年 ケンブリッジ大学
1990年 セント・アンドルーズ大学
1995年 ミドルベリー大学
1997年 東北大学
1998年 早稲田大学(名誉文学博士)
1999年 東京外国語大学
2000年 慶應義塾大学
2000年 敬和学園大学(名誉文化博士)
2007年 杏林大学
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アマゾンのこの本の広告につけられた「レビュー」を一つ紹介して終りたい。

日本人以上に日本の古典・近代文学を愛したアメリカ人 2010/4/29
By 名もなき花 "マリリン" (富山市)
3年前読売新聞の土曜版に1年間連載されていたときから、ほぼ毎回愛読してきた。
著者ドナルド・キーンのこの自伝は、一人の日本文学研究者の生まれから現在に至る、大変興味深い人生の記録である。単行本になって再読し、改めて私の胸に深く印象づけられた4項目を挙げてみた。

1. ドナルド・キーンという人の言語に対する鋭敏で繊細な感覚と関心、そしてそれを吸収する努力と才能に感嘆した。幼少の頃から学業優秀な賢い少年を愛おしく思いながら、その家庭や学校生活を興味深く読んだ。

2. 彼の80年余りの生涯は、第2次世界大戦を挟んで、アメリカ人としての数奇な軌跡であり、アメリカ→ヨーロッパ、そしてアメリカ→アジア・日本と繋がれて「国際人」となっていく軌跡である。そのルーツは、9歳の時父親にせがんで連れて行ってもらったヨーロッパへの船旅であったことも印象深い。

3. 日本人でもなかなか読まないのに、外国人が、ここまで日本の古典文学にのめり込むだろうか、と驚嘆。同時に日本人とその家屋や風土・風習など、日本の文化全体をこよなく愛する姿にも親愛感を感じる。

4.戦後の日本現代文学にも精通し、日本の文壇の有名な作家たち(川端康成や三島由紀夫、阿部公房など)との交流も大変興味深く、特に三島由紀夫には33章に「三島由紀夫の自決」を捧げている。 そのような多彩な交流ができたのも、彼の知性と大らかな人柄にもよるものだろう。

彼の人生は、日本の古典文学の研究と世界への紹介という業績で、コロンビア大学名誉教授として、日本の文化勲章はじめ国際舞台でも多くの栄誉を与えられてきた。日本人にとって彼から受けた恩恵の大きさに改めて気づかなければならない。今、原文の英語でも読んでいるが、本当に最後まで楽しんで読めた伝記であった。なお、彼は研究で結婚する時間がなかったらしく?、独身人生を謳歌しているらしいところも微笑ましい。

平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
高島茂句集しょういき

  平和とはそら怖しく無花果啖ふ・・・・・・・・・・高島茂

この句は高島茂第五句集『麞域』(しょういき)(平成5年7月14日 卯辰山文庫刊)に載るものである。
この本はネット上の「古書店」で1500円で買った。
箱入りで本も箱も「硫酸紙」で巻いたもの。昔は、このように「硫酸紙」で巻いた本が多かったが、今では珍しい。
「謹呈」札が挟み込まれていて、作者がどなたかに進呈されたもののようで、読んだ形跡のないような新品同様の本である。
こういうことは私にも経験がある。
歌でも俳句でも、その筋のトップの人々には大量の歌集や句集が毎日贈られて来るから、彼らは「読むこともなく」定期的に古書業者を呼んで引き取らせるのである。
因みに、私の歌集も古本としてネット上に売りに出ている。
むしろ、こうして古書として出回ることを私は喜んでいる。
読んでくれない人のところにあるよりも、ネット上で探して買ってくれる人があるというのが幸せである。

征夫氏からご提供いただいた高島茂の略歴を引いておく。
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高島茂の略歴

大正9(1920)年1月15日、東京・芝神明町に生まれる
昭和16(1941)年1月6日 麻布歩兵第一連隊に入営。1月16日、満州へ送られる
昭和17(1942)年 肺結核を発病。療養中「ホトトギス」投稿、翌年初入選
昭和18(1943)年 内地に送還。終戦まで福島の療養所生活。満州の戦友の部隊は南太平洋ロタ島に送られほぼ全滅す
昭和20(1945)年 終戦。秋に実家の高円寺に帰り、魚屋を手伝う
昭和21(1946)年 新宿西口に「ぼるが」の前身の酒場を開く
昭和22(1947)年 俳句結社「暖流」に入会

昭和24(1949)年 「ボルガ」創業

昭和30(1955)年 第三回暖流賞受賞

昭和34(1959)年 「ボルガ」を現在地に移転

昭和61(1986)年 第34回現代俳句協会賞受賞 この間、初句集『軍鶏』(昭和39年)、『冬日』(昭和50年)『草の花』(昭和59年)を刊行し、この年『鯨座』を上梓

平成2(1990)年 「獐(のろ)の会」発足 代表となる

平成5(1993)年 『麞(しょう)域』刊

平成11(1999)年8月3日心不全により死去。享年79歳 この年2月まで大腸癌の療養中にもかかわらず、「ボルガ」に出て陣頭指揮。生涯現役を貫く。

平成12(2000)年 遺句集『ボルガ』刊

平成13(2001)年 遺句帖『武川抄』刊
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先ず、この難しい字は「鹿かんむり」の下に「章」という「旁」が一字になったものである。(図版参照のこと)
これは、この結社「獐」(犭偏に章)と同じ意味の字であり、東アジアに生息する「のろ鹿」のことである。
判りにくいので、今は結社としても「noRo」と表記されている。
なぜ、こんな「のろ」という名前を結社の名にされたのかを考えると、おそらく兵士として満州の地に居たときに野生の「のろ鹿」をよく見られたのではないか。
戦地で結核を発病したことと言い、この地の風物が作者の句作の原点になっているからであろうか。

句を見てゆくと、作者は戦地に行ったことの体験から、この句があるのである。
そんな体験からすると、今の世相は「平和ボケ」のように見えたのではないか、それが「そら怖ろしく」のフレーズになっている。
「啖う」は「食う」にも「食らう」にも訓(よ)めるが、ルビがないので、どちらにも訓んでもらっても結構だ。
「いちじく」が今の時期の季語であるが、アダムとイブの西洋の「肉欲の原罪」の神話に「禁断の木の実」として出てくるイチジクの「喩」も、この句の鑑賞の場合には重要だろう。
あれこれ考えて、この句の「訓みかた」としては「無花果」は「いちじく」とは訓まずに漢字のまま「ム・カ・クワ」と発音し、「啖ふ」は無難に「くう」として5音に収めたい。

以下、私の選んだ句を列挙したい。合計46句になるが約一割弱ということだ。

■眼には見えぬトリハロメタン水温(正字)む

■狙撃(正字)の日連翹遠く眩しめり

■いくたびも少年と遇ふ日永かな

■羅や虚(正字)子に會ひたる日に似たる

■しいんと灼け鏡太郎忌の氣球浮く

■妄執に似たり青(正字)梅手の中に

■のつそり出る霧の太陽蟹臭し──網走

■富士見えず二十三夜の湖に彳つ──山中湖

■登校拒否身近に雨の冬至なり

高柳重信逝きて
■あざやかな沒後を雨のゆすらうめ

中村草田男死す
■汗で濡れる體つめたく汗流る

「鏡太郎」とは高橋鏡太郎のことで、先に書いた『俳人・風狂列伝』にも名が挙がる人であり、また高浜虚子、高柳重信、中村草田男など著名な俳人との交友が偲ばれる。
俳句では「弔」句というのが重要視される。その意味でも、これらの句は大切にしたい。
「登校拒否」の句は、恐らくご子息あるいは孫のことだろうが、他人事のように聞いてきたことが身近に起こったのを句にされた。
こういう「時局性」も俳人には必要である。
「トリハロメタン」の句も同様であり、時事性を捉えて秀逸である。
「狙撃の日」の句から、先に述べたような印象を私は抱いたのである。

■眼を病みてしみじみ雪の角館

■金蘭を生けてはるかな土偶の目

この句は、征夫氏が私の歌

    呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ・・・・・・・木村草弥

と「唱和」して彼のBLOGに掲載していただいた思い出の句である。

■認識票肌になかりし今朝の秋

「認識票」とは、軍隊で兵士の体に付けさせるもので、このことからも作者が戦争体験があるという私の認識の根拠となるのである。
兵士たりし日々には肌身離さず身につけていた「認識票」が今はもう身にはまとっていない、ああ平和なんだなぁ、という感慨である。
その「平和」というのも、掲出句のように「そら怖ろしい」ものなのである。この辺の屈折した作者の「想い」を汲み取りたい。

■けもの臭き忘れ襟巻茂吉の忌

■笹のひと葉身に食ひ入りて蟇交る

■平等村手押ポンプも春なれや

■しばらくは鶴の見えゐし陶枕

■鮟鱇などわが風狂の友にして

■梧桐の寒の芽むつくり脂ぎる

■冬日のぬくさ背にありエル・グレコの繪

■空即(正字)是色はるかなる白さるすべり

■凡兆のその後知らず牽牛花

■手のさきの闇ふかぶかと鉦叩

■秋暑し死魚をむさぼる龜のをり

■疵ひとつなくて大きな朴落葉

■しぐれゐてやがて本降り桂郎忌

■おのづから瞠るくらさの寒卵

■軍靴に似しゴッホの短靴かなしかり

■へくそかづらなんじやもんじやも梅雨しとど

■うらごゑのどこかしてをり夾竹桃

七月十三日
■あと幾日生きては梅雨の五日月

■鳥となり還りきませり梅雨ふかし

この「七月十三日」という日付がどういう意味か、また、この句につづく「鳥となり」の句は、今の私には判りかねるが、重い句である。

■うすうすと山茶花の襞わがエロス

■それとなくいのちのことを息白し

■佐伯祐(正字)三のたましひの繪と五月は會ふ

■聲あげて花火の傘下誰か老ゆ

■點鬼簿に入りしその名を蟲のこゑ

■ふたり子の描きし凧を枯田に置く

■哲學をまなびし道の雪蟲よ

■銀河鐵道の夜の劇に出て卒業す

この三句を詠んだ対象の人が、どなたか私には判らないが昭和終末の頃の作品ということから、「孫」のことであろうか。

■荒梅雨やこんなところにへのへのもへじ

■東京を追はれし守宮の塀もなし

■ガラス繪の裸婦うしろむき無月なり

■戰爭の火の消えざるに昭和終る

■ながかりし昭和を悼み白鳥みる

この句集は昭和63年─つまり昭和の終焉を以って終っている。大正生まれとは言え、生涯の殆どを「昭和」とともに生きた作者として格別の感慨があったであろう。
引用した終わりの二句に、それがよく出ている。
この句集は編年で作られており、昭和57年─77句、58年─58句、59年─59句、60年─58句、61年─60句、62年─92句、63年─96句、合計500句が含まれている。この中から私の恣意で、上のような句を選んだもので、選びきれていないものも多いと思うが、今回は、この位にして終る。気がつけば加筆、訂正したい。
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TB9ボルガ

先にも引用したが
高島茂氏創業の「ボルガ」の紹介記事を引いておく。

新宿西口・老舗の居酒屋『ボルガ』

高島東さんにお話を伺いました。

 新宿駅西口から徒歩3分、小田急ハルクの裏手にある居酒屋『ボルガ』。煉瓦造りの建物にはツタがからまり、なんとも風格のあるたたずまい。店先からは焼き鳥のいい匂いがたちこめ、その煙につられて毎晩多くの人々が集います。150席ある店内は、20時を過ぎるとほぼ満席に。

 「当店は昭和24年に思い出横丁に開店し、昭和33年に現在の場所に移転しました。山小屋をイメージして造られた店内では、テーブルや椅子、ランプなどの照明器具も当時からのものを使っています。看板メニューの『ばん焼き』は、豚のモツ焼きと焼き鳥の盛り合わせ。開店当初は“ばん”という鳥の焼き鳥をお出ししていたことから、この名前で呼ばれています。また、今ではすっかり居酒屋の定番となった『酎ハイ』も、当店ではかなり昔からのメニュー。『焼酎を他の飲み物で割ってみたら美味しいんじゃない?』というお客さまからのリクエストから生まれたそうです。他にも、“山のキャビア”と呼ばれる『とんぶり』や、季節のメニューなどもおすすめですよ。」

 『ボルガ』という店名は、俳人でもあった先代オーナー(高島茂氏)がロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなんでつけたもの。お店にはこの先代オーナーを慕い、多くの映画人や文学者、画家などが集まり、文化人のたまり場としても有名です。

 「映画監督の山本薩夫さんや、熊井啓さん、直木賞作家のねじめ正一さんなど、多くの方と家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。みなさん、我が家のようにくつろいでくださってますよ(笑)。また、先代から受け継いだ俳句の会『(のろ)の会』(現在は先代オーナーの息子さん・高島征夫氏が主宰)も当店を拠点に活動していますので、文芸に興味のある方はぜひ一度いらしてみてください。」

 幼い頃から新宿に縁の深い高島さん。ご自身は映画の大ファンで、週末などはお店が終わってからオールナイト上映を見に行くこともあるそうです。そんな高島さんが語る、新宿の魅力とは?

 「新宿は言わずと知れた大都会。新しいお店や流行りのスポットなどが次々とできる一方で、人の暖かみを感じさせてくれる昔からのお店も残っている。人々が求めるその両方を兼ね備えているところが1番の魅力ですね。『ボルガ』も、これからもずっと変わらずに、ここで皆さんのお越しをお待ちしています。初めての方、お久しぶりの方、もちろん常連さんも大歓迎です!」
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住所: 東京都新宿区西新宿1-4-18
TEL: 03-3342-4996
営業時間: 17:00~23:00(ラストオーダー 22:00)
日曜・祝日休み
アクセス: 「新宿」駅西口より徒歩3分

一見居酒屋には見えない個性的な店構え。バックには高層ビル群がそびえます。

木の温もりあふれる店内。カウンターには民芸品なども飾られています。

テーブル席やお座敷など、さまざまなスタイルで楽しめる2階フロア。

やさしいランプの明かりが、和みの空間を演出。


山なみ遠に春はきて/こぶしの花は天上に/雲はかなたにかへれども/かへるべしらに越ゆる路・・・・・・・・・・三好達治
kobushi1504こぶし②

        こぶしの花は天上に・・・・・・・・・・・・・・三好達治

      山なみ遠(とほ)に春はきて

      こぶしの花は天上に

      雲はかなたにかへれども

      かへるべしらに越ゆる路


辛夷(こぶし)は早春に冬枯れの山野で咲き、遠くから目立つため、かつては春の農作業の目安にしたという。
学名はmagnolia kobus と言い、我が国の固有種である。
kobushi3036こぶし③

「ハクモクレン」に比べて花がやや小さく、花びらが細くて、開き気味である。名前の由来は、果実が握りこぶしに似ているためという。
秋に実が熟すと、表面が割れて中から赤い実が糸でぶらさがる。
モクレン科モクレン属の落葉高木。
掲出の三好達治の詩は詩集『花筐』(はながたみ)から。
この詩は孤高隠栖の心境を詠った四行詩だが、こぶしの純白な花が青空を背景に山路にみごとに咲き誇っているさまが彷彿する。

kobusi1四手こぶし④

写真③は「幣(しで)辛夷」という種類の辛夷。
この「幣こぶし」だが、絶滅危惧種と言われている。
湿地性の植物で、各地で開発などで姿を消しているらしい。
四月三日のNHKの朝のラジオで、大きな生息地だった岐阜県の各務原の群落が産業廃棄物処分地の影響で消滅してしまったという。
目下、その土地で採取した種から発芽させて苗木にしたものを安全な地に植えつけて復活させる努力がなされているという。
苗木屋などには結構出回っているらしいが。。。
写真④は、こぶしの実である。
kobusi_3こぶしの実

私の歌にも辛夷を詠ったものがいくつかあるが、ここでは俳句に詠まれたものを採り上げて終りたい。

 一弁のはらりと解けし辛夷かな・・・・・・・・富安風生

 花辛夷月また花のごとくあり・・・・・・・・飯田龍太

 夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く・・・・・・・・能村登四郎

 清滝の奥の四五戸の花辛夷・・・・・・・・河野南畦

 辛夷咲く空へ嬰児の掌を開く・・・・・・・・有馬朗人

 花辛夷月夜越前一乗谷・・・・・・・・倉橋羊村

 式内社田打ざくらの花かざす・・・・・・・・森田峠

 辛夷咲く一樹のもとの苗代田・・・・・・・・滝沢伊代次

 辛夷咲き会津に白き山いくつ・・・・・・・・岡田日郎

 水源の水もりあがる花辛夷・・・・・・・・矢島渚男

 辛夷咲き畳のうへに死者生者・・・・・・・・岡井省二

 目をあぐるたびに石見の花辛夷・・・・・・・・飴山實

 みな指になり風つかむ花辛夷・・・・・・・・林翔

 逢ひたくて辛夷の花の傷みゆく・・・・・・・・宮坂静生

 辛夷咲く飛騨朝市の黄粉菓子・・・・・・・・勝田享子



『ウィキリークス・アサンジの戦争』・・・・・・・・・・・・木村草弥
ウィキリークス

──新・読書ノート──

  ガーディアン特命取材チーム『ウィキリークス・アサンジの戦争』・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・講談社2011/02/15刊・・・・・・・・・・・

この本はイギリスの新聞「ガーディアン」紙特命取材チームの著書になるものである。
いま話題の「ウィキリークス」代表・アサンジに最も早く、最も深く密着した同紙だからこそ取材できたものだろう。
著者としてデヴィッド・リーとルーク・ハーディングの両名の名が書かれているから、この両名が張り付いて取材したもののようだ。月沢李歌子・島田楓子 訳。
この頃では新聞社と言えども、取材記者や撮影者の名を記述することが多いのは、それらが各人の著作権に基づくことを明記するものであろう。 
「試し読み」もできる。 リンクに貼ってあるので、お試しあれ。
以下、講談社のHPに載る紹介記事を引いておきたい。↓

      アサンジに最も早く、最も深く密着した英国『ガーディアン』紙だから暴けた
      “漏洩(リーク)”の全真相
      アメリカ政府が本気で怯える内部告発サイト・衝撃の全貌
   「試し読み」 

   2010年11月、アメリカ国務省の外交公電を一斉に公開し、世界中を驚かせた内部告発サイト「ウィキリークス」。
   このときリークされた公電の内容がきっかけとなって、チュニジア・エジプトの政変劇につながったとも言われています。
   そのウィキリークスに最も早くから接触し、アフリカ・イラク戦争の報告書や外交公電のスクープを連発したのが、
   調査報道を得意とするイギリスの名門リベラル紙「ガーディアン」でした。
   昔のドラマの刑事のような、昔気質のユニークな新聞記者軍団とジュリアン・アサンジ率いる
   ミステリアスな組織「ウィキリークス」がときには激しく対立し、ときには真摯に協力しながら、
   世界を大きく変えるほどのスクープ報道を繰り広げていった、その壮大なドラマ、
   全真相を当事者の「ガーディアン」記者チームが描きます。
   「ウィキリークス」は何をしたのか? 謎だらけの組織「ウィキリークス」とは何か、
   はたしてアサンジとは何者なのか、すべてが明らかになります!

   「ジュリアンが小型のラップトップを出した。すぐに開いて、キーを叩いて何かを打ち込む。
   それからナプキンを持ってこう言ったんだ。『オーケー。これで君たちの物だ』」……
   アサンジはナプキンに印刷されていたホテルの文字やロゴをいくつか丸で囲みながら、
   「ノー・スペース」と書き加えた。
   これがパスワードだ……暗号めいたナプキンは、まるでジョン・ル・カレの推理小説を思わせ、
   演出効果抜群だった。――<本文より抜粋>

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ウィキリークス②

先の本の関連で
   『日本人の知らないウィキリークス』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・・洋泉社・初版2011/02/21、2011/03/30第3刷刊・・・・・・・・・・・・・

という本を紹介する。
図版に出ているように七人の分担による執筆である。
この出版社の名前は知っているが、本を買ったのは初めてである。
はじめに、この本のキャッチコピーを引く。

        この情報の流れはもう止まらない!
       新たな内部告発と情報流出の時代に、
       外交は、ジャーナリズムは、正義はどうなるか?
       気鋭の論者が読み解く!

       次々と暴露される機密に世界中が揺れている!
       アフガニスタン紛争やイラク戦争を巡る米軍などの
       機密情報、25万点を超えるアメリカ外交公電の公開、
       予告される米大手銀行の不正暴露、そして次には……?
       告発者の匿名性を守る高度な情報技術と
       世界的なネットワークを駆使、マスメディアとも連携して
       国家や企業の機密情報をこれまでにない規模で
       次々に暴くウィキリークス。
       毀誉褒貶の激しい「ウィキリークス」の真の姿とは?
       新しいリークの時代を読み解く!


以下、この本の「目次」を引いておく。

目次

はじめに 

第1章 ウィキリークスとは何か──加速するリーク社会化〈塚越健司〉

1 リークサイト「ウィキリークス」とは
組織形態/編集主幹 ジュリアン・アサンジ/その他のメンバー、顧問等
2 ウィキリークスの情報公開──賞賛と批判
最初のリーク/ケニア元大統領の汚職──メディア賞受賞/
アメリカ軍にまつわるリーク/ジュリアス・ベアー銀行をめぐる汚職/
サラ・ペイリンメール公開事件/イギリス国民党の党員名簿事件/
アイスランド──カウプシング銀行の内部情報とIMMI採択
3 2010年──変化するリーク方法
イラク米軍誤射映像公開(コラテラル・マーダー)/
アフガニスタン紛争関連資料公開事件──大手メディアとの連携/
イラク戦争関連軍機密資料公開事件/米外交公電公開
4 公電公開後の動き
DDos攻撃とサービス拒否/アサンジの逮捕?保釈へ/その他のリークサイト
5 加速するリーク社会化
ウィキリークスの革新性/善悪論を超えて

第2章 ウィキリークス時代のジャーナリズム 〈小林恭子〉 

1 ジャーナリズムとリーク
ジャーナリズムとは/内部告発者を守る法的制度/「報道の自由」/
「公益」を理由にした機密報道/「機密」扱いの妥当性
2 国家機密のリーク報道
イスラエルの大量破壊兵器とバヌヌ/政府側が負けた機密情報の暴露/
ペンタゴン文書
3 リーク報道をめぐる様々な評価
ペンタゴン文書事件とウィキリークスの共通点と差異
4 ウィキリークス時代のジャーナリズム
ウィキリークスへの様々な評価/分散、「モジュール化」するジャーナリズム/
「共同作業」の具体例/ウィキリークス時代のジャーナリズムとは

第3章 「ウィキリークス以後」のメディアの10年に向けて 〈津田大介〉 

「ネットメディアにおける9・11」/アサンジが提唱する「科学的ジャーナリズム」/
ネットの特性を生かすウィキリークス/「ウィキリークス以後」のジャーナリズムの形/
ジャーナリストたちの新しい役割/ジャーナリズムのマネタイズ/調査報道の新潮流/
ウィキリークスと調査報道/激変するメディア環境と政治家たちの「スタンドプレー」/
新たな報道の流れ/「権力監視の分散化」と「メディアによる検証機能の再評価」

第4章 ウィキリークスを支えた技術と思想 〈八田真行〉
 
技術的なプロジェクトとしてのウィキリークス/匿名性の確保/
いわゆる「匿名」が匿名でない理由/ウィキリークスの工夫/
記録を残さない/PRQによる防弾ホスティング/Torによる匿名化/
Torとは/Torの仕組み/オニオン・ルーティング/
「保険ファイル」の2つの役割/ウィキリークスはどこから来たのか/
サイファーパンクの復活/サイファーパンクの第一次大戦/ウィキリークス後の世界で


第5章 米公電暴露の衝撃と外交 〈孫崎 享〉 

アメリカ国内での騒動/前代未聞の情報漏洩事件/
暴露された外交文書には何が含まれているか/専門家からの意見聴取/
国務長官自ら諜報活動を指示/日本関連の情報の意味/日米外交の類似/
何故米国外交文書の大量流出が生じたか/今後の外交関係に与える影響/
ウィキリークス以後、外交はどう変わるか

第6章「正義はなされよ、世界は滅びよ」─ウィキリークスにとって「公益」とは何か〈浜野喬士〉 

連鎖する内部告発の流れ/内部告発論の基本的ロジック/内部告発から公益通報へ/
ハイポリティックスにおける公益性/カントの「公表性」/
「純粋公益」と「純粋民主主義」/公益を語るのは誰か?:「パレーシア」の問題圏/
絶対的透明性/「三つ子」のテロリスト/「正義はなされよ、世界は滅びよ」


第7章 主権の溶解の時代に──ウィキリークスは革命か? 〈白井 聡〉 

1 「歴史は繰り返す」。だが、いかなる歴史が?
ボリシェヴィキ革命との類似/秘密外交の暴露/国家主権破壊の企て
2 カリフォルニアン・イデオロギーの政治的帰結
ジュリアン・アサンジの思想/カリフォルニアン・イデオロギー/
カリフォルニアン・イデオロギーの自己超克
3 主権の溶解
カール・シュミットの主権論/決断としての国家機密/揺らぐ暴力と徴税権の独占/
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「ウィキリークス」代表のジュリアン・アサンジはオーストラリア人であり、元は「ハッカー」だった、と言われている。
どうもオーストラリア人には、過激な反捕鯨活動家などが輩出するように、はみだし者が多いようだ。
WikiLeaks という綴りからも判るように、彼らは明らかにWikipedia を真似したようである。
だが「過激さ」と「リーク」に徹した点ではウィキペディアとは明らかに違う。
各国当局からも過激なリークの故に「お尋ね者」と追求されているので、ウィキペディアでは、同列に扱われるのを嫌って、告知を出したりする始末である。
だから当局者からは「リーク」「剽窃」を焚き付ける一味として「犯罪者」とされる危うさを持っているので、これからの予断は許さないものがある。
推移を見守りたい。  目下、話題の本であることは確かであり、この本も初版は2011/02/21であり、急速に刷を重ねている。

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ところで「Wiki」とは、一体なになんだ、という疑問を持たれる方もあろう。それは ↓ のような理屈である。

ウィキ(Wiki)あるいはウィキウィキ(WikiWiki)とは、ウェブブラウザを利用してWebサーバ上のハイパーテキスト文書を書き換えるシステムの一種である。それらシステムに使われるソフトウェア自体や、システムを利用して作成された文書群全体を指してウィキと呼ぶこともある。
ウィキでは通常、誰でも、ネットワーク上のどこからでも、文書の書き換えができるようになっているので、共同作業で文書を作成するのに向いている。この特徴から、ウィキはコラボレーションツールやグループウェアであるとも評される。ソフトウェアとしては、初めに登場したプログラムに改良を加え、あるいはそれを参考にしたりして、現在では多くのウィキが出回っている。

Wikipediaなどは、その典型である。百科事典の編集に誰でも参加できるようになっている。
その意味では「Wiki」を冠していても「WikiLeaks」は「Wiki」機能を持っていないから厳密にはおかしいということになる。
「Wiki」に関しては、ここに詳しい。


風薫る春の昼過ぎいずかたへ向けて屠られにゆく豚の尻・・・・・・・・・・・・・・・・石田比呂志
DSC_01691豚

    風薫る春の昼過ぎいずかたへ
        向けて屠(ほふ)られにゆく豚の尻・・・・・・・・・・・・・・・・・石田比呂志


ネット上で時事ドットコムが ↓ のように報道した。

石田 比呂志氏(いしだ・ひろし=本名裕志=ひろし、歌人)2011年2月24日午後0時10分、脳内出血のため熊本市の病院で死去、80歳。福岡県出身。
自宅は熊本市東野1の2の22。葬儀は26日午前11時から同市健軍2の1の29の玉泉院健軍会館で。
喪主は歌人の阿木津英(あきつ・えい)さん。
 「牙」短歌会主宰。86年、短歌研究賞受賞。歌集に「邯鄲線」など。

石田は昭和5年、福岡県生まれ。旧制中学中退後、さまざまな職につきながら歌を作る。
時には同棲する女を糧としたり、スポンサー的な金持ちを見つけては取り入って金を貢がせてみたり、目的には手段を選ばないような面があると言われている。
神戸に住む私の友人の歌人A氏なども事業をしているので、彼に取り入られて食い物にされたと憤慨していた。
結社誌「牙」を主宰する。
わが身の、そういう苦労した人生に比べて、この頃は学歴があって、小細工の利く才能がある若者が、何の苦労もなく歌壇に登用されるのが、
気に食わないようである。しかし、時代は変わるものなのである。

この歌のように一種ひょうきんな歌を特色とする。以下、彼の歌を引く。
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<職業に貴賎あらず>と嘘を言うな耐え苦しみて吾は働く

遠くにて鳩群れ遊ぶ園が見え摑みたきまでに羞(やさ)し小世界

挫けざる一個の精神(こころ)ここに在りてあなたわやすき比喩を許さず

思想とはかくも無言に泥流に押し戻されているひとつ舟

あぱーとの窓に軽羅は飜えり酸ゆし小市民的幸福論は

その浮力奪われながらゆっくりと引き下ろさるる春の気球は

からからと風に釣瓶の鳴るからにかのふるさとのかの少年よ

ろくろ屋は轆轤を回し硝子屋は硝子いっしんに切りているなり

春香をふふめる風を孕むゆえろう琅玕(ろうかん)は鳴る竹の林に

楓(かえるで)のふふめる朱に落涙すゆきつくところ孤りの未来

鼻高き処女のひとりその鼻のゆえに障りになるときあらむ

大根の首切り落すはずみにて首斬り浅右衛門のことを思いぬ

のどかなる春の昼過ぎ生殖器さげたる犬が通るなどして

五十歳過ぎて結語をもたざれば夜の酒場に来たりて唄う

酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

くら闇に咲かす手花火指さきにしばし呟くごとくに爆ぜつ

一尺の悲しみのなし三尺の悲しみなどというもののなし

春宵の酒場にひとり酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな

今年またわが門前の若ざくらひらくがあわれ天つひかりに

梅雨終る阿蘇五つ岳まれまれにその悲嘆なき全容が見ゆ

蟹の脚せせりながらに飲むお酒われは困った男かな

酒飲みのかつ人生の先輩として先に酔う ちょっと失礼
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ネット上に載る下記の記事の中に「石田比呂志」のことが書いてあるので引用する。石田の写真を探したが見つからない。
先に「気に食わない」と書いたのは、「穂村弘」などが、そうである。

    夏空の飛び込み台に立つひとの膝には永遠のカサブタありき        穂村 弘

穂村が初めて短歌と出逢ったのは、札幌の旭屋書店で偶然に手にとった『國文學』によってだという。その中に塚本邦雄の次の歌があった。「輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」穂村はこの歌に脳を直撃されるような衝撃を受けたという(『短歌』角川書店、2002年10月号)。当時、漠然と「言葉の呪的機能」について夢想を巡らしていた穂村は、言葉がその呪的機能によって世界を変えてしまうということが現実に存在することを知った。この原体験から穂村の短歌観は発している。評論集『短歌という爆弾』(小学館)の冒頭にある「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」としての短歌という発想は、この原体験の直接の申し子なのである。

 爆弾犯は下宿の四畳半に閉じこもり、なるべく隣人と顔を合わせないようにして、孤独に夜ごと爆弾製造にいそしむ。彼が通うのは近所のコンビニであり、そこで買うのは甘い菓子パンばかりである。エッセー集『世界音痴』(小学館)を読むと、このような爆弾犯のイメージと穂村の実生活は、あまりかけ離れてはいない、いやむしろピッタリすることがわかっておもしろい。勤め帰りにスーパーに寄って、割引シールの貼られたトロの刺身のパックを手にとり、「俺の人生はこれで全部なのか?」と叫ぶくだりは、涙なしには読むことができない。

 塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて作歌を始めた穂村が作るのは、しかし次のような歌なのである。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 最近の穂村は次のような歌まで作るようになった。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(この歌集のタイトルからして相当なものだとおわかりだろう) から引用する。

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき

 天才的手書き表札貼りつけてニンニク餃子を攻める夏の夜

 整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 巻き上げよ、この素晴らしきスパゲティ(キャバクラ嬢の休日風)を

 舌出したまま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん

 かくして山田富士郎のように、穂村を「短歌界のM君」と呼ぶ人まで現われるようになった(『現代短歌100人20首』邑書林に所収の「「歌壇」の変容について」)。M君とは、1988年から89年にかけて、猟奇的な幼児殺人事件を引き起こした宮崎勤のことである。山田が言いたいのは、幼児的全能感を肥大させたまま大人になり、社会化されなかった自我形成において、M君と穂村には共通する点があるということだろう。ずいぶんな言われようである。

 もっとすごいのもある。石田比呂志は、自分の作歌生活40年が穂村の歌集の出現によって抹殺されるかも知れぬという恐怖感を語り、「本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」と述べている(現代短歌『雁』21号)。今どき「腹かっさばいて殉死」とはすごい。つまりは石田は穂村の短歌を、「頭から」「完全に」否定しているのである。

 おもしろいのはこのエピソードを紹介しているのが穂村自身だという点だ。「一読してショックで頭の中が白くなった」とは書かれているものの(『現代短歌最前線 下』北溟社)、石田比呂志の激烈な批判に、穂村は反論しようとしない。むしろ自分の歌のなかに、いやおうなくはだかの自分が現われているということを、ややあきらめを込めて認めている。穂村のなかで何かが壊れていると感じるのは、このようなときである。

 とはいえ、『短歌はプロに聞け』(本の雑誌社)で、沢田康彦主宰のFAX短歌会「猫又」に投稿される素人短歌を添削する穂村の批評は冴えている。また、言葉がピシリと決まったときの穂村の短歌には、確かに本人が爆弾と呼ぶほどの起爆力があるのもまた事実なのである。

 ねむるピアノ弾きのために三連の金のペダルに如雨露で水を

 卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

 限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

2003年7月21日

穂村弘のホームページ
 http://www.sweetswan.com/0521/syndicate.cgi
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もう一つ、別の記事を転載しておく。
先に私が書いたことにも関連するが、男でも女でも、石田の都合で利用できるものは「食い物」にするという「批判」の見本のような事実である。
なお、阿木津英さんは石田と別れて東京に出て、女流歌人として独立する。ひところウーマンリブの闘士と呼ばれた人である。
彼女は彼女なりに、石田を乗り越えて行った女人である。

『あすに生きる女たち』
 読売新聞朝刊1981(昭和56)年1月11日(日)

歌人 阿木津英(あきつえい)さん
本名、末永英美子。昭和25年、福岡県生まれ。九州大学文学部哲学科卒。地方出版社、児童相談所の心理判定員を経て、現在、塾の教師として生計を立てながら作歌。「未来」「牙」同人。54年短歌研究新人賞受賞。近年まれにみる大型新人と評されている。歌集「紫木蓮まで・風舌」。無頼派と呼ばれる歌人・石田比呂志さんと熊本市に住む。

「女の時代」は、誰かが開いてくれるのではない。女性たち自身が目を開いていくものだ。主婦であれ、働く女性であれ、娘であれ、ひとりひとりが「与えられた役割」によって生きるのでなく、自ら選び取った生を、いきいきと生きる。昨年、一昨年と各地の女性を毎週この欄で紹介してきたが、今年も「あすに生きる」女性たちに、自らを語ってもらおう。

唇をよせて言葉を放てども
わたしとあなたは
わたしとあなた

寒い日でした。父と石田(歌人・石田比呂志)が座敷で向かい合っている。1時間、2時間・・・夕方、わが家(福岡県行橋市)に呼びつけられた石田は、正座したまま黙っている父の前で、なすすべもなく耐えていた。夜半過ぎ、私はたまらなくなって、ふすまを開けて叫びました。「もういい加減にして下さい。私の気持ちは変わりませんから。かえしてください」。あとで、彼はしみじみ申していました。「あの瞬間、この子を裏切れないと思ったね」
20歳も年の違う、妻のある人と、いわゆる不倫の恋をしたのですもの、両親は泣きました。父なんか、オレより白髪があるじゃないかと、もうがっかりしてしまって。母はほとんどノイローゼ状態。24歳の秋に、歌と石田に同時に出会って、1月にはそういう関係になって、2月、3月は修羅。

蒼みゆくわれの乳房は
菜の花の黄の明るさと
相関をせり

4月に石田がこっち(熊本)に逃げてきて、5月に私が家出した。紙袋に身のまわりの品を詰めて。歌の仲間が見つけてくれた崩れかかった小さな家。貧しかった。毎日、100グラム50円のホルモンを400グラム、一人一合の焼酎を買い、飽きると一丁の豆腐を二人で分けて冷ややっこ。

鬱の日は花を買いきて
家妻と親しむなどの
発想憎し

自己表現したい気持ちはいつもあったのだけど、一般的な意味での短歌的抒情は好きでなかった。あるとき、母のもとに届いた封筒の裏に石田比呂志と風変わりな書体で書いた名前を見つけた。妙に印象的だった。それまで東京に出ていた彼が九州に戻って復刊したばかりの「牙」を見せてもらったら、母のやっている歌とはまるで違うのね。やってみようかと、ふと心が揺れた。でも、最初は本気じゃなかった。なぜ五七調なのか、なぜ文語なのか、やたら理屈を並べて抵抗して、全く破調の歌を作っていた。そんなとき、一首に出会ったのです。「赤茄子の腐れていたるところより幾程もなき歩みなりけり」----斉藤茂吉の作です。体が震えた。歌の空間が見えたっていうのかな、言葉で何かを伝えるのじゃなくて、歌が物体として見えた気がした。

花柄の
傘をかざしてゆくわれに
粘着をするごときよろこび

昨秋、初めての歌集「紫木蓮まで・風舌」を出版。解説をお願いした歌人・田井安曇さんが、この歌をオルガスムスに関連させて読むべきだと書いて下さった。作者である私は、ああそうなのかと、うなずくだけ。性を直截に歌うとか、食道派とか、いわれますが、私は特別に意識していない。ただ性にこだわっていることは事実でしょうね。

厨べに
烏賊の嘴ぬきにつつ
阿部定などのことも過ぎりぬ

与謝野晶子も中城ふみ子も、勇気ある女人はずいぶん、自らの性を歌ってきた。でも私は生意気みたいだけど、女歌をうたいたくない。恋とか愛とか、ぬれた感情をかぶせたくない。男と女がいて、そこに性がある。物理的な次元で見つめていきたい。
女であることにずっとひっかかってきた。大学卒業までは、勉強さえできれば平等だったけど、就職のときにイヤというほど壁にぶつかった。ようやく探し当てた地方の出版社では、お茶くみ、雑用。私、お茶くみがどうしてもできませんでした。ストレスのため、夏の最中、生理が2ヶ月も止まらなくなった。女の置かれている状況を、まさに女の体を通して突きつけられたのね。8ヶ月で挫折。
その後、公務員試験を受けて、児童相談所で働いたのだけど、このままいけば、結婚して子供を産むというルートに乗せられてしまう。逃れなければと焦っていた。石田との恋愛のエネルギーで、普通の生き方を捨て切ったというのかな、全く違う、しかし自分の心にかなった生き方を選べた。
女はもっと否といわねばならないと思う。「触れ合ひて音たつしじみの汁すひて涙をおとす結婚はいや」これは「高嶺」の同人・渡辺貞枝さんの作なんですが、「結婚はいや」と、すっぱり言い切っている点がいいでしょう。「鳥篭に男を返してほうやれほ」。どこで見つけたのか、私のノートに書き写してあった俳句。「ほうやれほ」にとても上質のユーモアがある。ニタリと笑った女の顔が出ている。かわいていますね、俳句だから。
私もはっきり、ものを言っていきたい。自分の心にかなうかどうか、これは好き、これはイヤだと。男の視野に包含されるのではなく、男に対立する視点を持ち、刻一刻と生成し、変貌する”わたし”をうたい止めていきたい。うたうことによって変貌をとげたい。



佐伯泰英『古着屋総兵衛影始末③抹殺ほか』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   佐伯泰英『古着屋総兵衛影始末③抹殺④停止⑤熱風⑥朱印』・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・新潮文庫2011年三、四月刊・・・・・・・・・・・・・

このシリーズについては2/8付けに①②巻について記事を載せた。
今回は、その続編を読んでみた。とても面白い。一日一冊のペースで一気に読み切った。
さわりのところだけだが「立ち読み」もできる。それぞれリンクに貼ってあるので、ご覧ください。
なお七巻以降は五月から毎月二冊づつ配本される。 乞う、ご期待!!
以下、新潮社のHPに載る各巻のキャッチコピーを引いておく。

抹殺―古着屋総兵衛影始末 第三巻―  「立ち読み」第三巻  

最愛の千鶴が惨殺された! 総兵衛、憤怒の鬼と化す。大幅加筆の《決定版》全11巻。

     大目付本庄伊豆守家の神君家康公下賜の家宝が忽然と消えた。
     相談を受けた総兵衛は、伊豆守失脚を狙った陰謀と見抜く。
     一方、何者かによって総兵衛の愛する幼馴染みの千鶴が凌辱の上、惨殺された。
     千鶴は総兵衛の子を身籠もっていたのだ。憤怒の鬼と化した総兵衛の復讐が始まる。
     やがて、〈影〉との全面戦争へと事態は急展開していく……。
     手に汗握る傑作時代小説、怨徹骨髄の第三巻。


停止―古着屋総兵衛影始末 第四巻―  「立ち読み」第四巻

商停止、監禁、執拗な拷問。瀕死の総兵衛を救え! 

     名優団十郎が殺された。この日、総兵衛は彼の相談を受けるはずだったのだ。
     一方、鳶沢村の駿府丸が乗組員・積み荷ともども消えた。
     さらに、総兵衛と笠蔵は北町奉行所に新物販売の廉で捕らえられ、大黒屋は商停止の沙汰を受ける。
     総兵衛への拷問は苛烈を極めた。一番番頭の信之助を中心に、鳶沢一族は総力を挙げ難敵に挑むが……。
     瀕死の総兵衛を救出できるのか。絶体絶命の第四巻。


熱風―古着屋総兵衛影始末 第五巻―  「立ち読み」第五巻

神君拝領の鈴が消えた!? 鳶沢一族最大の危機。

     突如伊勢詣でが流行しはじめた。
     大黒屋小僧の丹五郎、恵三、栄吉の三人も抜け参りで店から消えた。
     一方、総兵衛の手に渡るはずの神君拝領の鈴が届かなかった。
     「栄吉が持ち出したのか?」鳶沢一族の存亡を賭けて総兵衛は作次郎、稲平を伴い東海道を西上する。
     集団参宮をあおる黒幕は誰なのか。狙いはどこにあるのか。やがて栄吉は神憑り……。
     一族最大の危機を描く驚天動地の第五巻。


朱印―古着屋総兵衛影始末 第六巻―  「立ち読み」第六巻

武田の騎馬軍団が復活? 柳沢吉保の野望を砕け! 

     川越から甲府に転封となった柳沢吉保は、武田信玄の昔に勇名を馳せた赤備えの騎馬軍団、武川衆を復活させた。
     甲府のきな臭い動きに柳沢との全面戦争を覚悟した総兵衛は、信之助、おきぬと共に自ら甲府に探索に入った。
     やがて甲府城に潜入、柳沢父子の恐るべき野望の動かぬ証拠を奪取する。
     しかし、騎馬軍団の猛追が始まった──。柳沢吉保の悪鬼の如き野望を暴く乾坤一擲の第六巻。



春がすみいよよ濃くなる春昼間のなにも見えねば大和と思へ・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄
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  春がすみいよよ濃くなる春昼間の
     なにも見えねば大和と思へ・・・・・・・・・・・・・前川佐美雄


前川佐美雄は明治36年奈良県北葛城郡の裕福な地主の家に生れる。
昭和5年第一歌集『植物祭』でモダニズム短歌の旗手として華々しく登場する。
昭和9年「日本歌人」を創刊、日本浪漫派の人々と親交を結ぶ。
敗戦により農地解放で小作地をみな失う。これらの経験が彼独特のコンプレックスとして歌の上にも影響する。
塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子など多くの異色の歌人を育てた。晩年は鎌倉に居住。
平成2年没。

掲出の歌は歌集『大和』に載るもので、彼の代表作として有名。
彼の歌は、すっと読み下せる発想になっていないので、「ねじれ」があったり、「韜晦」があったりして難解とされるが、特徴を知って臨めば理解できよう。
以下、歌を引いてみる。
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春の夜のしづかに更けてわれのゆく道濡れてあれば虔みぞする

床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

春になり魚がいよいよなまぐさくなるをおもへば生きかねにけり

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし

遠い空が何んといふ白い午後なればヒヤシンスの鉢を窓に持ち出す

あたたかい日ざしを浴びて見てをれば何んといふ重い春の植物

ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる

園丁が噴水のねぢをまはすとき朝はしづかな公園となる

ひんがしに満月朱きころなれば爬虫類も野に腹かへしゐむ

悪事さへ身に染みつかぬ悲しさを曼珠沙華咲きて雨に打たるる

春の夜にわが思ふなり若き日のからくれなゐや悲しかりける

無為にして今日をあはれと思へども麦稈(むぎわら)焚けば音立ちにける

がらくたを寄せあつめてはなにくれと妻いとなめり春のをはりを

草花と子は漢字もて書きをれり草がんむりの文字ふたつよき

ま向ひの屋根ゆく猫が見下してまだ寝をるかといふ顔したり

われ死なばかくの如くにはづしおく眼鏡一つ棚に光りをるべし

走り出ていくたびも五体投地すも己(し)が煩悩を救はむがため

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ネット上に載る「葛城市立新庄図書館」の記事を転載しておく。
samiokona3佐美雄

【前川佐美雄略歴】
1903年2月5日、奈良県忍海村(現葛城市)に生まれる。
前川家は、代々林業を営む地主であった。佐美雄は父佐兵衛と母久菊の長男として生まれ、幼い頃から絵画や短歌に親しんでいた。
1922年に東洋大学東洋文学科に入学、在学中に佐々木信綱に師事し、「心の花」に入会する。その後、新井洸、木下利玄らの「曙会」にも参加する。
昭和に入って(1925年)新興短歌運動がおこると、その先頭に立ち、1930年、第一歌集『植物祭』を刊行、現代的で斬新なものを主張するモダニズムの代表的歌人として、歌壇に登場する。
しかし、1933年、父の急逝により奈良に帰郷する。
その翌年の1934年に『日本歌人』を創刊する。以後、『大和』『天平雲』『白鳳』『積日』『大和六百歌』などを刊行する。
戦前、戦中、戦後を通して歌壇の旗手として活躍し、新芸術派運動の積極的な推進者として、歌壇に浪漫主義に基づく新風を送り、優美で詩的直感の鋭い、独自の歌風を樹立した。
また、長年にわたり後進の指導育成にも尽力し、塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子等の幾多の歌人を世におくった。
1954~88年まで、朝日歌壇の選者、1972年には『白木黒木』で第六回釈迢空賞を受賞、1986年に(旧)新庄町名誉町民、1989年には日本芸術院会員となった。
1990年に永眠。
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前川佐美雄歌集

■佐美雄の残した歌集を、制作年順に紹介します。図書館が蔵書しているものは貸出もできます。ぜひ手にとって、時代とともに変遷を遂げた、佐美雄の歌風と心の軌跡を辿ってみてください。

歌集出版年 佐美雄の年齢 歌集名
昭和 5年(1930年) 27歳 処女歌集『植物祭』素人社
昭和15年(1940年) 37歳 第二歌集『大和』甲鳥書林
昭和16年(1941年) 38歳 第三歌集『白鳳』ぐろりあ・そさえて
昭和17年(1942年) 39歳 第四歌集『天平雲』天理時報社
昭和18年(1943年) 40歳 第五歌集『春の日』臼井書房
第六歌集『日本し美し』青木書店
昭和20年(1945年) 42歳 第七歌集『金剛』人文書院
昭和21年(1946年) 43歳 第八歌集『紅梅』臼井書房
昭和22年(1947年) 44歳 第九歌集『寒夢抄』京都印書館
第十『積日』札幌青磁社
昭和25年(1950年) 47歳 第十一歌集『鳥取抄』山陰観光旅行普及会
昭和39年(1964年) 61歳 第十二歌集『捜神』昭森社
昭和46年(1971年) 68歳 第十三歌集『白木黒木』角川書店
平成 2年(1990年) 87歳没
平成 4年(1992年) 第十四歌集『松杉』短歌新聞社

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■処女歌集『植物祭(しょくぶつさい)』 四季出版 昭和5年7月刊行

収録期間:大正15年9月~昭和3年10月(575首)
大胆かつ鮮烈な歌い方と、ダダイズム・シュールレアリスム運動の影響を大きく受けているのが特徴。新たな昭和の時代の始まりを告げる、画期的な歌集。
後記より・・・・「短歌をやつて革新を思はぬ程ならばよした方がいいと思ふのだ。」

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■第二歌集『大和』 甲鳥書林 昭和15年8月刊行

収録期間:昭和11年~昭和14年夏(550首)
後記より・・・・「正直言つて僕はこの歌集を編集しながらどうにもをさまりのつかない気持ちを味はつた。色々考へてゐると何とも言ひようのない憂鬱さに襲われる、結局は自分の作品に対する不満以外の何物でもないが・・・この歌集はさうした破れかぶれの気持ちのうちに編集を終へた。」

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■第三歌集『白鳳(はくほう)』 ぐろりあ・そさえて 昭和16年7月刊行

収録期間:昭和5年春~昭和10年(410首)
前半は東京時代の歌。後半は奈良に帰住してからのもの。

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■第四歌集『天平雲(てんぴょううん)』 天理時報社 昭和17年3月刊行

収録期間:昭和14年8月~16年7月(710首)
後記より・・・・「この歌集の『天平雲』といふのは、絵画の方でしばしば用ひられる言葉で火雲の謂である。天平の絵画や彫刻に盛んにあらはれるものだが、私はこの雲を愛すると同時に天平の文化をこよなく愛してゐる。」

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■第五歌集『春の日』 臼井書房 昭和18年1月刊行

収録期間:大正10年~昭和2年3月(755首)
「春の日以前」の章(57首含)。大正10年18歳で「心の花」に入会し、本格的に作歌活動を始めた佐美雄の初期の作品。写実的作風。

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■第六歌集『日本し美し』 青木書店 昭和18年刊行

収録期間:昭和16年秋~約8ヶ月間
戦争歌集(戦争賛歌)。象徴技法の歌。
歌集構成の特色は、制作年代順で戦況の進行にしたがって作品が並べられている。

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■第七歌集『金剛』 人文書院 昭和20年1月刊行

収録期間:昭和17年夏~昭和18年秋(650首)
戦時歌集。歌集全体を「公」・「私」で区別。
前半は「公」、後半は「私」が中心となっている。
後記より・・・・「それが如何なる効果をもたらすかは分からないが、この方が私には快適な気がする。」

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■第八歌集『紅梅』 臼井書房 昭和21年7月刊行

収録期間:昭和21年2・3月(245首)
「甘藷の歌」は、昭和20年秋の作にもかかわらず『紅梅』に収録されている。

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■第九歌集『寒夢抄』 京都印書館 昭和22年10月刊行

『日本し美し』や『金剛』の作品を自選または改作して、戦後に改めて出版したものである。戦争協力歌とみなされそうなものは、ことごとく削除している。
後記より・・・・「この歌集は、戦時中に出した『日本し美し』『金剛』のなかに入れないで、やむなく割愛した歌の中から五首十首と取り併せ一冊にした歌集であって、『天平雲』に続く自分の歌の本筋は、やや不明瞭としてもここにある。」

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■第十歌集『積日』 札幌青磁社 昭和22年11月刊行

収録期間:昭和20年4月~昭和21年1月(500首)
『積日』は、「朝木集」と「残滴集」に分かれている。
「朝木集」・・・家族の鳥取疎開時代の歌(昭和20年4月~昭和21年1月)
「残滴集」・・・奈良に帰郷後の歌(昭和21年4月~11月)

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■第十一歌集『鳥取抄』 山陰観光旅行普及会 昭和25年1月刊行

『鳥取抄』は『積日』に収容したものをも含めて鳥取疎開中の作品(上巻)と、この歌集のため昭和22年大山に登った大山行一連の作品(下巻)併せて630首からなる。(上巻)は、疎開中と敗戦直後の作品であるだけに限りない哀愁が巻全体から漂っている。(下巻)は、大山紀行を中心とする旅行詠である。

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■第十二歌集『捜神』 昭森社 昭和39年8月刊行

収録期間:昭和22年暮れ~昭和30年(1074首)
「飛簷」は、昭和28年以降の作、「野極」は、昭和27年以前の作。二部構成で配列が逆となっている。

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■第十四歌集『白木黒木』 角川書店 昭和46年2月刊行

収録期間:昭和41年~昭和45年(648首)
後記より・・・・「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。奈良とちがつてここには亡霊や怨霊がゐない。私は憑かれない。これを機会だと思つた。奈良を去るまでの最近数年間の作だけでも先にまとめようと思つた。」

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■第十三歌集『松杉』 短歌新聞社 平成4年7月刊行

収録期間:昭和31年~昭和40年(558首)と昭和20年代の補遺作品43首を収める。
『白木黒木』の後記より・・・・「三十一年から四十年まで、まる十年間の作は残つてゐる。出版の順は逆になつたが、これらのものもおひおひと集にまとめたいと思つてゐる。さうでないとやはり具合悪いのである。」

その他の作品集

『カメレオン』同人39名を率いて『日本歌人』創刊

保田與重郎企画の浪曼叢書の第一冊として選集『くれなゐ』を出版
合同歌集『新風十人』に作品35首収録

肉筆歌集『奈良早春』を大八洲出版より出版
評論集『短歌随感』を臼井書房より出版
歌集『植物祭』の増補改訂版を靖文社より出版
選集『一茎一花』を目黒書店より出版
自選『一千歌集』を養徳社より出版
歌集『饗宴』を三興出版より出版

角川文庫『前川佐美雄歌集』を出版

『秀歌十二月』を筑摩書房より出版
『日本の名歌 古典の四季』を社会思想社より出版
『大和六百歌』を短歌新聞社より出版

『前川佐美雄歌集』を五月書房より出版
『大和まほろばの記』を角川書店より出版
永眠
『前川佐美雄全集第一巻』小沢書房より出版
『前川佐美雄全集第一巻短歌Ⅰ』砂子書房より出版

《参考文献》『短歌現代』1990年5月号(短歌新聞社)・『日本歌人』1991年7月号(日本歌人発行所)・『鑑賞現代短歌-前川佐美雄』伊藤一彦(本阿弥書店)
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ネット上に載る別の記事を下記に転載しておく。
上の新庄図書館が公のものであるので、表現を抑制しているのに対して、この記事は赤裸々に書いてあるからである。
佐美雄を語るときに「没落地主」という、彼のコンプレックスを抜きにしては語れないと思うからである。

新庄町で生まれた歌人 前川佐美雄

前川佐美雄は明治36年、現在の忍海(おしみ)小学校の辺りの代々続いている大地主である家の長男として生まれました。
現在でも佐美雄のことを記念して忍海(おしみ)小学校では、佐美雄作の校歌を歌っています。

大正7年、15歳で下淵(しもふち)農林学校(現在の吉野高等学校)に入学した佐美雄は、油絵を描いたり、文学史を読んだりして、この間に芸術的な才能や視野などを大いに養ったようです。
在学中の大正9年12月、朝日新聞大和版の大和歌壇で

「秋更けぬ 竹林院のさ庭べに つめたくさける白菊の花」の処女作を発表

大正10年下淵(しもふち)農林学校を卒業、歌人 佐々木信綱の主催する「ちくはくかい」に入会し、薬師寺で一ヶ月間の合宿を行(おこな)っています。
また、この年の12月、隣家の出火の延焼で、家屋を半焼する不幸に見舞われました。

大正11年、東洋大学に入学し、歌人仲間と親交を深めながら、大正14年卒業後、自分の生き方に疑問を持ちながら小学校の代用教員として勤務していました。
大正15年、親族4家が相次いで没落し、その借財の連帯保証人に佐美雄の父がなっていたことで家運が傾き、母の実家に移り住むこととなりました。
この頃、歌壇の風潮に疑念を抱いていた佐美雄は、古賀春江に注目しはじめていました。

昭和5年7月、前衛的作風の洋画家 古賀春江の装丁(そうてい) 佐々木信綱の序で、処女歌集、植物祭を発行、昭和9年6月カメレオンの同人39名を率いて日本歌人を創刊しました。
昭和45年12月神奈川県 茅ヶ崎市に移り住み、翌46年に新庄町の前川家の菩提寺である極楽寺に歌碑を建立しました。
その同じ年に、歌集「しろきくろき」を発行。

その後記に「私は奈良から茅ヶ崎に移り住んだ。ここには亡霊や怨霊がいない。私はつかれない、これを奇怪だと思った。」
と語っています。

学生時代に芽生えた歌人としての生命。その革新的精神とともにシュールレアリズムに深く傾倒し、奈良から離れた茅ヶ崎の地でやまと歌人として、逃れられない自分の運命に改めて気づいたのではないでしょうか・・。


ポロリと歯が抜けて/御飯の中におちた。/てのひらに転がしながら/「長いことつれ添うてもろうて/御苦労さん」・・・・・・・・・・天野忠
aaoomomo00桃の花

       桃の花・・・・・・・・・・・・・天野忠

   ある日
   ポロリと歯が抜けて
   御飯の中におちた。
   御飯の中からつまみ出し
   てのひらに転がしながら
    「長いことつれ添うてもろうて
    御苦労さん・・・・・」
   と頭を下げたら
   フフフ・・・・・と
   横で 古女房が笑った。
   眼尻にいっぱい黒い皺をよせて。

   桃の花が咲いた
   その朝。
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この詩は京都の誇る詩人・天野忠さんの詩である。

この詩は多くの詩集の中から夫婦を詠んだものを集めた『夫婦の肖像』1983年編集工房ノア刊に載るもので、初出は1974年刊の「天野忠詩集」に収録されていたものである。
天野忠さんは先年亡くなったが、現代詩特有の難解な暗喩を使うこともなく、日常使うような平易な言葉を使って作詩した。
『私有地』という詩集で昭和56年度・第33回「読売文学賞」を受賞された。他の詩集には『掌の上の灰』『讃め歌抄』などがある。

この詩集の「帯」で富士正晴が、次のように書いている。

<詩を完結させる見事さは、そこに一つのアイマイさも、鈍重さも、ごまかしもなく、冴えかえったエスプリとでもいったものがあり、詩人はまことにつつましやかに見えるが、微塵ゆらがぬ賢者のおもむきがあり、しかも老いのユーモアと、いたずらの精神による寛容なサービスも忘れていない。 「夫婦の肖像」とあるのにたがわず、多くの詩に夫婦共演の趣があって、そのおもむきはこれを読む老男、老女のこころをなごませ、一時の解放感、ゆとりのある感動によって、自分が老人であることの滑稽さと同時に安定した気分を抱かせるのにちがいないようだ。>

少し長い引用になったが、天野さんは若い頃は、もう少し肌ざわりの違う詩を書いていたが、老年になって洒脱な、人を食ったような飄逸な詩世界を表現するようになった。この詩には、特別に解説を要するようなものは、何も要らない。そのまま、素直に鑑賞したい。
天野さんの詩を選ぶ時も、現代詩というものは、「季節」を詠うものではないので、苦労した。
京都では、医師であって、物書きであった松田道雄氏などとの交友があったようだ。
ここで、『私有地』から短い詩をひとつ紹介しておく。

    花・・・・・・・・・天野忠

    山桜のふとい枝が一本
    ごろりんと
    道ばたにころがっている。
    土をいっぱい載せたダンプカーのお尻に
    何べんとなくこすられ
    こすられして
    とうとう辛抱しきれずに
    道ばたに倒れてしまったのである。
    それでも春だから
    ぼろぼろの胴体にくっついた
    小枝の花は
    まだチラホラと咲いている。
    風が吹くと
    チラリホラリとこぼれる。

    それが非常に綺麗で困る。
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天野忠さんの写真をと思ったのだが、天野さんはビッグな詩人ではなかったので、ネット上でも見つからなかった。
私は天野忠の詩集を何冊か持っているので、また季節にこだわらずに載せてみたい。



福島原発周辺は「危険無人地帯」の宣言をして住民を追い出すべきです・・・・・・・・木村草弥
cherunobuiri.jpg
↑チェルノブイリ並みの放射能汚染を想定した範囲を地図化したもの

福島原発周辺は「危険無人地帯」の宣言をして住民を追い出せ・・・・・・・・木村草弥

海外では風評というよりも無知がまかり通ってますが、それも道理ではあります。一概に非難できません。
逆に日本では、特に「原発」立地の辺りでは、放射能の怖さが全く認識されてません。
だからこそ東電の安全神話にまんまと乗って、能天気にも原発誘致に乗ったのでしょう。
福島原発周辺40キロ圏内は今後30年くらいは健康のことを考えれば「無人地帯」となるでしょう。
放射能の影響は十年以上経ってから出てきます。

昨日、現地の飯館村に出向いた福山官房副長官(京都出身です)に住民から出されている苦情が放映されましたが、
これらを見ると、先に書いた「放射能の怖さ」が、全く判っていないことが判ります。
これは政府の被害を抑えた報道や小出しの対策が裏目に出たもので、政府の失策です。
「危険無人地帯」の宣言をして住民を追い出すべきです。
補償は、その後のことです。
政治家の「見通し」「哲学」の無さが一番怖いです。


ここで私の記事が「恣意的」でないことを明らかにするためにネット上に載る「asahi.com(朝日新聞社)」を転載しておく。↓
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asahi.com(朝日新聞社)
「おれの農業は」「牛どうなる」途方に暮れる飯舘村民2011年4月17日5時12分 (転載)

 本当にムラに戻れる日は来るのか――。向こう1カ月をめどに村外へ避難するよう政府が求めている福島県飯舘(いいたて)村。静かな暮らしを営んできた村人たちは、原発事故という突如降りかかった厄災に怒り、不安を抱え、途方に暮れている。

 16日午後、福山哲郎官房副長官ら政府関係者と菅野典雄村長、村民の代表らが村内で会合を持った。

 「村民を置き去りにして話が進んでいる」「避難というのは、この地に後で戻ってくるということだ。それを忘れないでくれ」。切々と訴える村人たち。避難を前に、いつ避難指示が解除されるかに関心が集まったが、福山氏は「原発の安定が保たれることが前提」と述べるにとどまった。

 「計画的避難区域」という耳慣れない言葉が村民に突きつけられたのは、地震から丸1カ月たった11日。福島第一原発の事故後、村では県内でも際だって高い放射線量が観測されてきた。長く暮らすと健康に影響があるとして政府は全村民の避難を求めた。

 阿武隈高原に開けた村は山林が75%を占め、約1700世帯、6100人が暮らす。「飯舘牛」で知られる畜産と農業が柱だ。

 計画避難が持ち上がってから村は連日、住民集会を開いている。13日夜、小学校の体育館は500人を超える人であふれかえった。役場の男性職員がつぶやく。「祭りでも、こんなに人が集まったことねえな」

 「質問のある方はマイクの方へ」。司会者の呼びかけに老若男女が列をなす。

 「高齢の母を連れて避難するのは無理だ」「仕事を失ったら、国や東電はどこまで補償するんだ」――。不満や疑問の声が次々とあがるが、政府から十分な情報が得られない村側は明確には答えられない。

 「ふざけんじゃねえぞ!」。お年寄りが叫ぶと、一斉に拍手がわいた。

 「農家廃業、失業中です」。マイクを握って訴えた赤石沢忠則さん(50)を後日訪ねた。

 自宅を囲む杉林には肉厚のシイタケがあちこちに生えている。「収穫もできやしない」。赤石沢さんは無念そうに足元を蹴った。

 トルコキキョウなどの花やコメ、シイタケを中心とする専業農家。20年前から一棟一棟建て増したビニールハウスは13棟になり、年に1400万円前後の生産高がある。3人の子を育て上げ、7月に長男(27)の結婚式を控え、さあこれからと意気込んだ矢先の「暗転」だった。

 有機栽培にこだわり改良を重ねた自慢の土も、収穫間近の葉物野菜もシイタケも、ダメだろう。

 地元に残っても仕事はない。だが避難が長引けば、手塩にかけた田んぼもハウスも何もかも捨てることになりかねない。

 「こんなことでおれの農業が終わる? そんなことがあっていいのか?」

 畜産関係者が注目する子牛の競りが今月中旬にあった。佐藤宣征(のぶゆき)さん(69)は2頭を出品。風評被害を心配したが、ともに相場通りの値で競り落とされた。

 「安全だとも不安だとも特に意識したことはない」。海からの風がイネに与える影響を心配したことはあっても、約40キロ離れた原発は常に遠い存在だった。

 その風に乗って放射性物質は村にやってきた。原発の恩恵など何も受けてこなかった、この村に。

 福山氏は16日の会合で、村外に牛を移動させる案に触れた。佐藤さんはそうした計画を「ばかなことを」と思うだけだ。

 目の前の水田でイネを育て、順繰りに刈り取っては乾燥させて母牛に食べさせる。そうしてコストを抑え経営を保ってきた。「他に移したらどれだけかかるか。この施設を全部捨てろっていうのか。いきなり他に移された牛が順調に育つかって。機械じゃないんだ。牛飼いの実情を知らない連中の発想だ」

 「6月えいこ、ふく 10月やすこ、なおみ……」。壁の黒板に、出産を控えた母牛の名前がチョークで書いてあった。「そのころ、こいつらどこにいんのかな」。
佐藤さんがぼそりつぶやく。
「おれもこいつらも、だれも何も悪いことしてねえのにな」 (松川敦志)
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しかし、この記事を見ても、文脈は多分に「情緒的」である。新聞社の確固たる意見があれば、違うはずである。
地震・大津波は天災である。だが福島原発の被害、爆発・放射能漏れは人災だ。
マスコミは、率先して放射能の危険性を声を大にして報道すべきである。
何のために原発事故の危険性を「レベル7」まで高めたのか。
放射能の影響は十年以上経ってから出てくることである。
胎児、幼児、子供たちの行く先を考えよ。
騒ぎ過ぎたくらいで丁度いいのである。
周辺住民たちよ、目を覚ませ!


ここで私の立場を説明しておきたい。
「原発事故」は、世界的にみて
1979/03/28 アメリカ スリーマイル島発電所事故
1986/04/26 ソ連チェルノブイリ発電所事故
1991/02/09 関西電力美浜発電所二号機事故
1995/12/08 動力炉・核燃料開発事業団、高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩事故
など色々あるが、私はそれらの事故当初から一貫して原子力発電所には建設反対の立場を堅持している。
原発事故は、上に挙げたものでも、それぞれ事故の内容は異なっているが、いずれも一旦事故が起これば、その被害は甚大だということである。
一時的な被害にとどまらず、その影響が後に長く続くというのが特徴である。
「無知」に終始して、被害を受けてから気づくというのは悲しいことである。

世の中には「理不尽な」ことが起きる。
たとえば昨年来、宮崎県で起こった「鳥インフルエンザ」それに続く家畜の「口蹄疫」。
飼育家たちは、降って湧いた災難に振り回され鳥や家畜を泣く泣く殺さざるを得なかった。
今回の大地震、大津波もまさに大災難である。まさに「運命」としか言いようがない。それは甘受しよう。
しかし、その後に続く福島原発の事故は「人災」であって、許しがたい。
人智をあげて立ち向かおうではないか。


なぜ 花はいつも/こたえの形をしているのだろう/なぜ 問いばかり/天から ふり注ぐのだろう・・・・・・・・岸田衿子
aaookobusiこぶしの花

      なぜ 花はいつも・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

      なぜ 花はいつも

      こたえの形をしているのだろう

      なぜ 問いばかり

      天から ふり注ぐのだろう

この詩は岸田衿子の「なぜ 花はいつも」という詩の一節である。
岸田衿子は昭和4年東京に生まれる。父は劇作家・岸田国士。妹に俳優の岸田今日子がいる。東京芸術大学油絵科卒業。
茨木のり子、川崎洋、大岡信らの拠った詩誌「櫂」に10号から作品を発表しはじめる。
詩集3冊の他、放送詩劇も書いて放送イタリア賞を受賞している。童話や絵本も多く著している。
現代詩でいう「四季派」の一番世俗的けがれのない部分を、いい意味で、そのまま引き継いでいると言われている。
岸田一家の、育ちの良さを見せると言える。
原崎孝の解説によると

<世の苦渋を巧みにかわして、ファンタジーの方へ、絵の方へと、悲哀や苦渋を収斂させてゆこうとしているかに 見える。無垢な青春の美しさを、詩の中に保ちつづけている詩人のひとりである>

と書いている。

ほかの詩だが長いので、短い詩を引用するのに苦労する。それぞれ後半は省略する。

  花かぞえうた・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

    いちごのはなの さくばんは
    いちばんぼし いちみつけ

    にわうめのはな にわにさく
    にわのにわとり にげてった

    さざんかのはな さいたとき
    さむいほっぺた さんりんしゃ

    しひらのはなは しろじろと
    しなののやまに ちっている

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   南の絵本・・・・・・・・・・・・・・・岸田衿子

      いそがなくたっていいんだよ
      オリイブ畑の 一ぽん一ぽんの
      オリイブの木が そう言っている
      汽車に乗りおくれたら
      ジプシイの横穴に 眠ってもいい
      兎にも 馬にもなれなかったので
      ろばは村に残って 荷物をはこんでいる
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こうして見て来ると、先ほど紹介した原崎孝の解説が、ぴったりだと気づくだろう。

岸田衿子は一時、谷川俊太郎と結婚したこともあるが、以後は童話作家として、以下のような本がある。
妹の岸田今日子は2007年に亡くなった。

1. ソナチネの木(新装版)
岸田衿子/安野光雅 /青土社 2006/08出版 \1,470(税込)
2. ア-ノルド・ロ-ベルベストセレクト16(全16巻)
ア-ノルド・ロ-ベル/岸田衿子 /文化出版局 2006/07出版 \14,347(税込)
3. ぼ-るがころころ(えほん・あかちゃんへ )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2006/06出版 \840(税込)
4. うみ(えほん・あかちゃんへ )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2006/06出版 \840(税込)
5. だれもいそがない村(ジュニアポエム ) 岸田玲子詩集
岸田衿子 /冬至書房 1980/12出版 \1,223(税込) 絶版
6. こねこのミヌ-
フランソア-ズ/岸田衿子 /のら書店 2006/05出版 \1,365(税込)
7. いかだはぴしゃぴしゃ
岸田衿子/堀内誠一 /福音館書店 2004/11出版 \840(税込)
8. たいせつな一日(詩と歩こう ) 岸田衿子詩集
岸田衿子/水内喜久雄 /理論社 2005/03出版 \1,470(税込)
9. かばくん(英語版)(R.I.C.story chest )
岸田衿子/中谷千代子 /ア-ルアイシ-出版 2004/11出版 \2,310(税込)
10. ゆきむすめロシアの民話
岸田衿子/鈴木康司 /ビリケン出版 2005/02出版 \1,470(税込)
11. ア-ノルド・ロ-ベルベストセレクト16(全16巻)
ア-ノルド・ロ-ベル/岸田衿子 /文化出版局 2005/01出版 \14,347(税込)
12. おうさまのみみはろばのみみ(みんなでよもう!日本・世界の昔話 ) (第2版)
岸田衿子/村上勉 /チャイルド本社 2004/09出版 \470(税込)
13. おうさまのみみはろばのみみ(みんなでよもう!日本・世界の昔話 ) (第2版)
岸田衿子/村上勉 /チャイルド本社 2004/09出版 \950(税込)
14. てんきよほうかぞえうた(日本傑作絵本シリ-ズ )
岸田衿子/柚木沙弥郎 /福音館書店 2004/04出版 \1,260(税込)
15. かばくん(こどものとも劇場(大型絵本) )
岸田衿子/中谷千代子 /福音館書店 2001/11出版 \8,400(税込)
16. ほしがいっぱい(小さな子どもの心におくる絵本 )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2002/06出版 \924(税込)
17. さくらんぼさくらんぼ(小さな子どもの心におくる絵本 )
岸田衿子/長新太 /ひかりのくに 2002/06出版 \924(税込)
18. にほんたんじょう(復刊・日本の名作絵本 )
岸田衿子/渡辺学 /岩崎書店 2002/04出版 \1,575(税込)
19. パンケ-キのおはなし(ひかりのくに傑作絵本集 )
岸田衿子/おおば比呂司 /ひかりのくに 2002/01出版 \1,260(税込)
20. 野の花散歩ノ-ト365日
古矢一穂/岸田衿子 /ポプラ社 2001/11出版 \1,050(税込)
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昨日付けで谷川俊太郎を採り上げたので、その関連で今日は「岸田衿子」を出してみたが、
岸田衿子さんは、つい最近お亡くなりになった。
その死亡記事で、初めて知ったのだが、、詩人の田村隆一とも結婚しておられたとか。
彼のことも何度も記事にしたことがあるが、うかつにも私は知らなかった。
岸田衿子さんも、奔放なところが大いにおありになったのだなと感心した。
芸術家は、かくあらねばならない。

たとえばと言ってみて/ふとと言ってみてそのあとに/それからいったいどうするのか/電車の窓外では一面の菜の花・・・・・・・・・谷川俊太郎
yun_2518菜の花

      ルフラン・・・・・・・・・・谷川俊太郎

 いくらか誇張されいくらか
 縁飾りをつけられていたけれど
 その物語はとても本当の人生に似ていて
 だがそれを読み終えたあとも
 自分の暮らしは続いていることに
 気づかないわけにはいかない
 電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花

 たとえば<たとえば>と言ってみて
 ふと<ふと>と言ってみてそのあとに
 生きることのこまやかな味わいのあれこれを
 目録のように並べたてても矛盾は解けない
 束の間の慰めなら一杯の紅茶でも事足りる
 それからいったいどうするのか
 電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花

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この詩は谷川俊太郎の詩集『日々の地図』の中の「ルフラン」という題の詩である。
この詩集で彼は読売文学賞を受賞した。1982年集英社刊。

谷川俊太郎は現代詩の作家としてピカ一の存在である。詩人というと、殆どの人が、大学教授であったりするが、彼は、そういう本業を持たない。
だから、詩を書いて詩集を出して読者に買ってもらい、「マザーグース」などの翻訳をして本を出したり、朗読会を開いてみたりして稼いでいる。
だからお金持ちではない。いつも自転車を愛用し、インタビューには近くの喫茶店を指定して、そこには自転車で現れる、という風である。

私は谷川の詩が好きで『谷川俊太郎詩集正・続』をはじめ『コカコーラ・レッスン』『定義』『よしなしうた』など殆どの詩集は持っているが、
今回こうして「季節の詩」として採りあげようとすると、彼の詩には、自然とか日本の四季というような風土を詠った作品が殆どない、のに気づいて愕然とした。
考えてみれば、それも当然かも知れない。彼は現代詩作家なのであり、日本伝統の「花鳥諷詠」というようなものからは、遠い存在だからである。
「詩人」というのは、「言葉を操る」人である。自然や季節を題材にしている訳ではない、からである。
あちこち探しまわって、結局、掲出のような詩を選んだ。
これは谷川の責任ではない。私のBLOGの企画に向かなかったというだけのことで、季節を問わなければ、佳い詩は一杯あるのである。

この詩は「ルフラン」と題されるように「電車の窓外では街並が切れ一面の菜の花」というフレーズの繰り返し(ルフラン)が生きている。
また、たとえば<たとえば>や、ふと<ふと>、という言葉の繰り返しも、ルフランとして効果的である。
この「ルフラン」の意味は、いま私が書いたことの他に、この詩全体が言おうとしている、
人生そのものが繰り返しである、という比喩になっているのである。

谷川俊太郎には、一度だけ会ったことがある。もう数年前に短歌結社「塔」が発足何十周年かの企画で、有料のシンポジュウムがあり、大岡信と永田和宏との三人が鼎談をするというもの。この席でも、谷川は、短歌的な世界に批判的な発言をしていたのを思い出す。
彼の父は谷川徹三で、高名な学者であり、文学者とも親交があったので、俊太郎の作家デビューも、父が詩作ノートをひそかに三好達治に見せて、
その才能を発見されたことによる。デビュー作『二十億光年の孤独』には巻頭に三好達治の推薦の長い詩が載せられている。
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フジテレビ系列のアニメTV『鉄腕アトム』の主題歌の作詞家は谷川俊太郎、作曲家は高井達雄、とある。
このテレビアニメは有名だったから、巷に流れていたので、もちろん私は知っていたが、仕事に、しこしこと励む壮年期だったから、このTVアニメはみたこともない。
歳の差、年代の違いを実感させられるが、いずれにしても、俊太郎の偉大さは、こういう大衆に愛されるマスコミの世界にも、彼の足跡が大きく残っている、ということである。
彼は現代詩詩人として、玄人受けする作品を作ると共に、広く大衆にも受け入れられる詩作品も、気軽に作詞できる、という柔軟さを備えている。
だから、私は谷川俊太郎は、ピカ一の詩人だという所以である。谷川俊太郎ブラボー!!!。
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shuntaro谷川俊太郎

ネット上に載る記事を転載しておく。

谷川俊太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、男性、1931年12月15日 ~ )は、詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として東京都に生まれ育つ。 東京都立豊多摩高等学校卒。

詩集
1950年 三好達治の紹介によって『文学界』に「ネロ他五編」掲載。
1952年 処女詩集『二十億光年の孤独』刊行。
1962年「月火水木金土日の歌」でレコード大賞作詞賞受賞。
1975年『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞受賞。
高校時代、国語や英語などの教科は優秀な成績であったが、集団行動に違和感を持ち学校から脱走、以後進学の意志を持たなかった。

よく知られる代表作の一つであり、日本の中学校国語の教科書でも取り上げられる『朝のリレー』はネスレのCMに、日本生命のCMにはオリジナルの詩『愛する人のために』が使われるなど、わかりやすい言葉で、日常を新鮮な視点で切り取る感性は世間に高く評価され、小学校の教科書に採用される詩も多い。が、その一方で『なんでもおまんこ』、『へのへのもへじ』(いずみたく作曲で『みんなのうた』の曲として流される)などユニークな詩も作っている。また、彼の詩の春にや二十億光年の孤独にメロディーをつけた曲は、合唱コンクールなどで多く使われている。ちなみに、『ピーナッツ』の翻訳は、日本の『ピーナッツ』ファンに高く評価されている。

三度結婚していて、岸田衿子と佐野洋子は元妻。音楽家の谷川賢作は息子。

詩集
二十億光年の孤独(東京創元社、1952年)
六十二のソネット(東京創元社、1953年)
愛について(東京創元社、1955年)
あなたに(東京創元社、1960年)
落首九十九(朝日新聞社、1964年)
旅(求龍堂、1968年)
うつむく青年(山梨シルクセンター出版部、1971年)
ことばあそびうた(福音館書店、1973年)
空に小鳥がいなくなった日(サンリオ、1974年)
夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった(青土社、1975年)
定義(思潮社、1975年)
そのほかに(集英社、1979年)
コカコーラ・レッスン(思潮社、1980年)
わらべうた(集英社、1981年)
みみをすます(福音館書店、1982年)
日本語のカタログ(思潮社、1984年)
よしなしうた(青土社、1985年)
どきん(理論社、1986年)
はだか(筑摩書房、1988年)
魂のいちばんおいしいところ(サンリオ、1990年)
女に(マガジンハウス、1991年)
これが私の優しさです(集英社、1993年)
十八歳(東京書籍、1993年)
世間知ラズ(思潮社、1993年)
詩めくり(マドラ出版、1994年)
モーツァルトを聴く人(小学館、1995年)
やさしさは愛じゃない(幻冬舎、1996年)(写真 荒木経惟)
minimal(思潮社、2002年)
夜のミッキー・マウス(新潮社、2003年)
シャガールと木の葉(集英社、2005年)

絵本
けんはへっちゃら
こっぷ
わたし
これはのみのぴこ
まり
よるのようちえん
えをかく
いっぽんの鉛筆のむこうに
もこもこもこ
んぐまーま

対談集
谷川俊太郎の33の質問
対談現代詩入門(大岡信との共著)

翻訳
チャールズ・M・シュルツ『SNOOPY』(『ピーナッツ』)
『マザー・グース』
『かみさまへのてがみ』
スージー・ベッカー『大事なことはみーんな猫に教わった』
レオ・レオニ『スイミー』

作詞
ひとくいどじんのサムサム(童謡)
鉄腕アトム(アニメ主題歌)
危いことなら銭になる(映画主題歌)
死んだ男の残したものは(作曲/武満徹)
世界の約束(作曲/木村弓・映画「ハウルの動く城」主題歌)
六花亭の歌(作曲/林光・六花亭社歌)
同志社小学校校歌(作曲/大中恩)
東京都東村山市久米川東小学校校歌(作曲/武満徹)
大阪府豊中市立第十五中学校校歌(作曲/湯浅譲二)
春に(詩として発表した後、木下牧子が作曲)
未来(詩として発表した後、高嶋みどりが作曲)
埼玉県上尾市立南中学校校歌(作曲/林光)
山形県立山形東高等学校新応援歌「みなぎる力」(作曲/服部公一)
山形県立北村山高等学校校歌(作曲/村川千秋)
新潟県立高田北城高等学校校歌
富山県立高岡南高等学校校歌(作曲/中田喜直)
静岡県立静岡東高等学校校歌(作曲/林光)
埼玉県立和光国際高等学校校歌(作曲/谷川賢作)
城西国際大学学歌(作曲/谷川賢作)
北海道札幌開成高等学校校歌(作曲/宍戸睦郎)
大阪芸術大学校歌(作曲/諸井誠)
三重県立みえ夢学園高等学校校歌(作曲/小室等)
三重県立四日市南高等学校校歌(作曲/武満徹)
福山市立福山中・高等学校校歌(作曲/林光)
土浦日本大学中等教育学校校歌(作曲/湯浅譲二)
北星学園大学学歌(作曲/谷川賢作)
東京都田無市立西原小学校校歌(作曲/牛腸征司)
神奈川県相模原市立若草中学校校歌(作曲/谷川賢作)
徳島県立海部高等学校校歌(作曲/小室等)
愛知県常滑市立南陵中学校校歌(作曲/湯浅譲二)
愛知県立常滑高等学校(新設)校歌(作曲/谷川賢作)
岐阜市立長森南中学校校歌(作曲/谷川賢作)
東京都荒川区立汐入小学校校歌(作曲/林光)

関連書籍
写真集『少女アリス』(写真 沢渡朔)谷川俊太郎と瀧口修造の詩がおさめられている。

関連人物
河合隼雄
小室等(谷川と歌を共作)
武満徹
寺山修司
大岡信
長谷川龍生
大江健三郎
高石ともや
小林彰太郎(30年間の隣人で幼馴染だった。今も良き友人という。)
楠かつのり
佐野洋子(3番目の妻・離婚)
中島みゆき(大学の卒業論文で谷川について執筆するなど、影響を受けている。)
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上の記事中にある元・妻であった岸田衿子が、つい最近お亡くなりになった。
その死亡記事で、初めて知ったのだが、、詩人の田村隆一とも結婚しておられたとか。
彼のことも何度も記事にしたことがあるが、うかつにも私は知らなかった。
岸田衿子さんも、奔放なところが大いにおありになったのだなと感心した。
芸術家は、かくあらねばならない。
 


乳房や ああ身をそらす 春の虹・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男
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     乳房や ああ身をそらす 春の虹・・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

伊丹三樹彦の句を採り上げたので、先駆的な前衛俳句を採りあげたい。

富沢赤黄男(とみざわ・かきお)である。
私の尊敬する近藤英男先生が若い頃、彼に師事されていたという。
早稲田大学政治経済学部卒。応召して工兵将校として出征。戦後、詩人的才質と教養によって、実存的な、鋭い詩意識の「俳句詩」を創り出した。
句集に『天の狼』など。

掲出の句は、5音7音5音の間に空白を置くなど、実験的な句作りである。「乳房や」という切れ字を使った出だしからして、突飛である。
そして「ああ身をそらす」という中7が、一層センセーショナルで、初句を受けて、何やら曰くのありそうな、思わせぶりな句作りである。
そして下5が「春の虹」と来る。ここで、一種のどんでん返しの様相を呈する。
こういう句作りには、伝統俳句の側からは、激しい異論があろうが、現代詩から出発した私などから見ると、どうということもない。
現代詩の世界では、常識のことである。
以下、私の好きな赤黄男の句を書き抜いてみよう。

 ペリカンは秋晴れよりも美しい

 灯を消してああ水銀のおもたさよ

 冬天の黒い金魚に富士とほく

 蝶墜ちて大音響の結氷期

 椿散るああなまぬるき昼の火事

 蝶ひかりひかりわたしは昏くなる

 やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

 三日月よ けむりを吐かぬ煙突(けむりだし)

 秋を匍ひ 柔毛(にこげ)のごとき日を嗅げり

 切株に 人語は遠くなりにけり

 蛾の青さ わたしは睡らねばならぬ

 寒い月 ああ貌がない 貌がない

 春雷は 乳房にひびくものなりや

 黒い手が でてきて 植物 をなでる

 男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ

 草二本だけ生えてゐる 時間

 首のない孤独 鶏 疾走(はし)るかな

 くらやみを 鶏 くろい卵を生め


赤黄男独特の実存的な表現だが、「蝶墜ちて大音響の結氷期」や「男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ」や
「草二本だけ生えてゐる 時間」などの句は赤黄男の代表作と言われている。
終わりの二句などは、現在、人々に恐怖を与えている「鶏インフルエンザ」の果てしない蔓延の様相を見るとき、
極めて今日的な、凄い句だと思うが、いかがだろうか。
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Web上に載る「ぴいぷる」私たちの街の人たち というサイトの記事を引いておく。
写真②は小平霊園に眠る赤黄男の墓。
tomizawakakio赤黄男の墓

富澤 赤黄男(とみざわ・かきお)(1902~1962)
新興俳句旗頭。カナダ、トロント大学が出版した英文の句集では、日本人俳句の代表的作家の一人として二十首の俳句とともに世界に紹介されている。 俳人富澤赤黄男は新興俳句旗頭として、また難解俳句で全国に知られている。目立つ身長であったせいか「一見とりつきにくい感じの人」とか、「ヴァイオリンを弾きながら波浮の港や影を慕いて等を歌われる抒情豊かな人」と、馴染みの人々は語っている。はたして「富澤赤黄男」とはどうのような人物だったのであろうか。
 赤黄男は俳句作りを「我流・自己流」がいいとしていた。それも厳しい自己問答・葛藤によって練り上げる姿勢を論じている。例えば目の前を飛ぶ蝶、赤黄男の眼から入って赤黄男の口から「蝶」と叫ばれる。
叫ばれた「蝶」は赤黄男の「思い」の代物としての蝶であって、実在の蝶ではないという。つまり赤黄男の肉体を通り抜けた俳句、厳しい自己問答・葛藤の洗礼を経て生まれたものが「赤黄男俳句」ということになる。定型は中味の必然において生まれる形式だとし、季語無用論を主張した。そういった俳句作りをしていたため「難解である」と言われるのであろう。それでは富澤赤黄男の俳句はただ難解であるから有名なのであろうか。

戦時中でも赤黄男は俳句を作り続けた。

 戞々(かつかつ)とゆき戞々と征くばかり

「蒼い弾痕」の第一句に収録されている戦争俳句である。戦争俳句は昭和13年頃より俳壇に流行した 。赤黄男の戦争俳句は他の俳人と比べて、実際に戦場での経験が作りだした赤黄男自身の肉体が感じられる俳句となっている。季語を使わず、独自の表現方法で戦争の状況を表している。
 「潤子よ、お父さんは小さな支那(しな)のランプを拾ったよ」の前書きで始まる「ランプ八句」という俳句も戦時中に作られた作品である。これは書き出しでも判るように愛娘潤子へ宛てたものである。殺伐とした野戦での心安らかな一時が故郷の娘を想うことだったのであろう。子煩悩だった赤黄男の一面である。また赤黄男には7歳離れた妹がいた。

 足袋はいてつつましき娘となりにけり

女学生時代の妹粽は豊かな家庭にありながら乗り物を使わず、徒歩で名坂越えの通学をしていた。その姿を思い詠んだ句であろう。まさに妹を見る兄の愛情である。妻清に対する俳句もある。

 氷砂糖かりかり噛んで風邪の妻
 風邪の妻梅酒に酔ふてゐたりけり

「妻にも戦時中は苦労をかけておりますよ。着物の賃縫いをしたり、或る時は駅に新聞を売りに出たりしました。」と、感謝といたわりの情があふれていた。

記念すべき赤黄男の初の句集『天の狼』の初版は昭和16年で、この年は昭和12年以来の日中戦争が、ついに太平洋戦争と発展した忌まわしい年である。文壇では治安維持法違反容疑で新興俳句作家が検挙され、すべての新興俳句作家は拠点を失う時世であった。初版では字句を歪めまたは差し控えて発表していたが、10年後再版するにあたって生来どおりに戻した。この間赤黄男は苦難と悲痛の時代を過ごし、羞恥と後悔を感じていた。再版『天の狼』の赤黄男が本来の姿なのである。

赤黄男は「俳句は詩である」と主張した。どのように解釈するかは百人百様であってよいのである。ましてや赤黄男の超現実化した俳句においてはなおさらであろう。幾多の波にも信念を曲げることなく、自分の俳論を貫きとおした俳人であった。赤黄男の俳句精神が集約されていると思われる一部を紹介する。

復習・・・
踏切にて、列車は僕を拒止し傲然(ごうぜん)と駆け抜けた。が、彼奴、レールを取残して行った。そこで僕は、意地にでもこのレールを横切らねばならない。
(『雄鶏日記』より)


--------略歴--------
明治35年(1902年) 7月14日愛媛県川之石村(川之石琴平)に父岩生、母ウラの長男として生まれる。
本名正三。
大正9年(1920年) 宇和島中学を卒業後、鹿児島の第七高等学校の受験の際、同宿の受験生との腕相撲で腕を折って受験に失敗。
大正15年(1926年) 早稲田大学を卒業した後、国際通運東京本社に就職。

昭和3年(1928年) 26歳、喜多郡の酒造家菊池愛太郎の次女清(きよ)と結婚し、大阪東成区生野町に移住
昭和5年(1930年) 父が病気で眼を病み医者をやめ、川之石木材株式会社を経営。それを手伝うために帰郷、地元の国立第二十九銀行へ入社。郷土の俳句同好会『美名瀬吟社』に入り俳句を始める。
昭和7年(1932年) 俳号を「蕉左右」と改め、後に「赤黄男」と改号。
昭和10年(1935年) 俳詩『旗艦』が創刊され、その中で「新興俳句昭和の問題」を執筆するなど各誌に寄稿。水谷砕壺、日野草城、西東三鬼らと共に新興俳句家として俳壇にその名を知られる。
昭和13年(1938年) 戦争俳句が俳壇に流行。翌年、『旗艦』に「ランプ」を発表。『俳句研究』の「新鋭16人集」に作品「蒼い弾痕」を寄稿。
昭和16年(1941年) 安住敦のすすめで句集「天の狼」出版
昭和20年(1945年) 終戦。43歳。翌年から意欲的に数々の俳句雑誌に執筆、作品発表。昭和23年(1948年)詩論「モザイック詩論」発表。昭和27年(1952年)句集「蛇の声」刊行。翌年、『薔薇』に「クロノスの舌」を執筆。以後終刊まで随時発表
昭和36年(1961年) 体の調子を悪くする。句集「黙示」刊行
昭和37年(1962年) 60歳。3月7日永眠

昭和62年(1987年) 『郷土の偉人の灯を消すことは郷土の恥である』と、第1回富澤赤黄男顕彰俳句大会を開催。以後毎年赤黄男の忌日前後に開催
平成5年(1993年) 琴平公園に富澤赤黄男句碑広場が完成。句碑には胸像のレリーフとともに赤黄男直筆の句が刻まれ、そばに俳句ポストが設けられている。
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参考:教育委員会文庫5 郷土の俳人富澤赤黄男(保内町教育委員会)
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今日4月15日は亡妻・弥生の祥月命日である。満五年経ったことになる。
来年は「七回忌」ということである。来年にはささやかでも法事をしなければならないだろう。
冥福を祈りたい。

落下傘兵など知らぬ 風船売・・・・・・・・・・・伊丹三樹彦
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  落下傘兵など知らぬ 風船売・・・・・・・・・・・伊丹三樹彦


先ず、伊丹三樹彦のプロフィールを書いておこう。

伊丹三樹彦(いたみ・みきひこ)
本名岩田秀雄。大正9年3月5日、兵庫県伊丹市生まれ。
昭和8年、13歳にて長谷川かな女「水明」入門。昭和12年「旗艦」(日野草城主宰)に拠る。昭和21年、小寺正三、桂信子、楠本憲吉、伊東きみ子等と同人誌「まるめろ」創刊。昭和24年「青玄」(日野草城主宰)創刊に参画。昭和31年日野草城没後、同人会決議により主宰継承。昭和44年ヨーロッパ吟旅。帰国後、写俳運動を興し、別号、写俳亭を名乗る。「青玄」に双樹の会(写俳クラブ)を設け、代表となる。
個展、合同展を東西に亘って開催す。写俳の取材活動は国内、海外40カ国に及ぶ。
現代俳句協会副会長。

 著書
句集「仏恋」「内外」他。全24冊。
写俳集「隣人ASIAN」「メコン沃地」他。全9冊。
「伊丹三樹彦全句集」「伊丹三樹彦全叢」(既刊7刊)「自解100句選」「自筆百句選」
 編著 「青玄合同句集」他20冊。

 受賞
昭和43年尼崎市民芸術賞。昭和45年神戸半どんの会文化功労賞。
昭和55年兵庫県文化賞。平成6年地域文化功労者文部大臣表彰。
平成11年神戸市文化賞。平成15年度「現代俳句大賞」を受賞。
掲出句は、写俳集ⅩⅡ『日本春景』に載るものである。
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十七音に託す意気衰えず 伊丹三樹彦さんが句集「一気」
 神戸新聞 2006/03/10 掲載記事
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 呼吸を一つするように俳句を生み出す。何という生命力、躍動感、自然体だろうか。第21冊を数える俳人伊丹三樹彦さんの句集タイトルは「一気」。昨夏病に倒れ、主宰誌「青玄」も終刊としたが、「乗ってきたら俳句はいくらでも出てくる」という。大きな試練を乗り越えた86歳の句境とは―。尼崎市内の自宅近く、行きつけの喫茶店の“指定席”で話を聞いた。
(聞き手・平松正子)
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生命、俳句と闘う日々・・・・・・・・第21句集『一気』(角川書店刊・2500円)

「70歳代後半の仕事を集大成した。同世代に共感してもらえれば」と話す伊丹さん。
 本集には一九九六―二〇〇〇年、七十歳代後半の作をまとめた。このところ写俳集出版にかまけており、純粋の俳句集は「内外」以来七年ぶり。「一気」と題したように、最近は一夜吟や一朝吟の数が増えた。芯(しん)から俳人となってきたのか、言葉が自然に十七音で出てくる。病後は写真も撮れなくなり、俳句オンリーの日々だ。

二十歳前後が俳人の第一盛期とすれば、五十―七十歳代は第三盛期。前者の武器が若さならば、後者には経験がある。私の場合、国内外を巡っての見聞が精神財産となっている。八十歳代後半のこれからは、否応(いやおう)なく生きること・死ぬことが最大のテーマ。毎日が生命と俳句との戦いだろう。

松尾芭蕉、正岡子規、そして師・日野草城…。私からみれば皆、ずっと若年で亡くなった。彼らが作れなかった八十歳代の俳句を自分が作ってやろう、という気負いはある。また昨年来、鈴木六林男や小川双々子、津根元潮ら、新興俳句の仲間が相次いで逝き、孤塁を守る形にもなった。

今では一般的な無季・現代語による句作も、保守的な俳壇では長く孤独な闘いだった。まさに〈逆風六十年〉の句に詠んだ通り。だが芸術のありがたさは、その時々でよくも悪くも評価が変わること。あきらめず長く続けることだ。

第21句集「一気」
最近は難解俳句や曖昧(あいまい)俳句のような、分かりづらいものが流行している。それも時代の好みだろうが、私は作りたくない。だれの心にもすうっと入ってゆく生活俳句、人生俳句をこそ詠みたい。必ず見直される日が来ると信じる。

「青玄」の初期は若い人が圧倒的で、青春俳句が歌い文句だった。だが当時二十歳の青年も今や七十歳。老齢化は否めない。私自身もまさかの病を得、迷った末にこの一月号をもって終刊とした。しかし今まで寄ってくれた人の作品発表の場は今後考えねばなるまい。(談)
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一番はじめに掲出した画像は2007年に刊行された第二十二句集『知見』(沖積舎刊)である。
この後に第23句集『続・知見』(2009年刊)、第24句集『続続・知見』(2010年刊)がある。

紹介記事が先になったが、日野草城の跡を継いだ伊丹は、結社誌「青玄」を自分好みのスタイルに変えて、無季、字空け、定型超越などの前衛俳句の道を驀進した。
1920年生まれだから今年91歳である。
「写俳」集も10冊を越え、最近は句集発行よりも、こちらの方が熱心だったようだ。
先にも書いたが、彼の前衛的な行き方は、俳句の伝統を重んじる人たちからは眉をひそめられただろう。
しかし、詩から出発した私などは、その自由な行き方に賛同をしたい気がする。

掲出した句に関して言うと、昔、スマトラ島のパレンバンという石油産出基地に日本軍の落下傘兵が空中降下して電撃的に、ここを制圧したことがあった。今でこそ、落下傘部隊というのは奇襲部隊の中心であるが、そういう戦法の皮切りをしたのが、パレンバンだった。今の平和ボケの日本では、そんな数十年も前の「落下傘兵」のことを知る人も少なくなった。そういう風潮に対する作者独特の、いわば「文明批評」みたいなものが、この句になっている。こういう風刺性、諧謔性を、私は高く買いたい。
ついでに申しあげておくが、この句の「風船売」の前に一字分空白があるのが大切なのである。この句の意味は「風船売りが、落下傘兵のことなど知らぬ」とずらずら続くのではない。「落下傘兵の時代など知らない」という戦後ン十年の今の時代という設定があって、平和な祭事的な公園か広場に、のどかに「風船売り」の出店があるなぁ、という時代批評、文明批評があるのである。
この「一字空け」は「切れ字」と同じ効果を持っているのである。
祭事的な広場ののどかな風船売りの出店を見て、彼は、とっさにパレンバンへの「落下傘兵の降下」を連想したのである。この句に添えられている「写真」を見れば、そのことは自明のことである。蛇足になったが。。。。

024685340000日本春景

私は伊丹について多くは知らないが、手元にある句集、写俳から少し引いておきたい。

 春の空電波が流れつつ碧し

 しはぶきて異人夜長の画廊去る

これらの句は日野草城の『旗艦』に初めて投句して草城選に入った句だという。昭和12年である。

 虫の夜の洋酒が青く減つてゐる

 長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

「長き夜」の句は草城の講評を受けて、いわば伊丹のデビュー作となり、新興俳句への苦闘がつづく。
これらは「俳句」というよりも「短詩」という雰囲気の作品である。昭和13年の作品である。

 凍天に吊られし軍馬嘶けり

 ラグビーの密集膝を肱を蹴る

 起重機の脚に春潮を青く塗る

 帆船がBARの玻璃扉に白く泊つ

 湯あがりの素肌三角帆が光る

 夜の林檎歯並みずみずしく踊り子

これらの句の硬質の抒情や、くっきりした映像性は、いみじくも当時一世を風靡した新興写真との類似を思わせ、
写真のモダニズムに親近感を抱くのが自然なことであろう。
新興俳句に精進する伊丹の片手に句帳があり、別の片手にカメラがあったとすれば、
まさに「写俳」に至る道程の第一歩が、この時期にすでに芽生えていたと言える。

昭和16年徴兵され、高槻工兵第四連隊に入隊する。幸運にも建築エキスパートとして連隊本部付きの内地勤務となった。
軍隊では、いっさい新兵を殴らなかったから早々に内務班長は失格になり、炊事班長として学徒兵の楠本憲吉などに俳句を教え、班内でしばしば句会を催すなど、
当時の厳しい軍律の中で嘘のような不思議な炊事軍曹だったという。
そればかりか、日曜外出のほとんどは京、奈良の古寺巡礼に費やされたという。百済観音との出会いに伊丹は戦慄した。

 誰がわざや天衣(てんね)あかるむ花菜など

 朝寒みほとけの蹠(あうら)見まく欲る

 みほとけに秋かぜの瓶(みか)かろからむ

 眼をとぢてほとけの思惟を思惟とせる

 ほとけらに月夜の濡れし甍あり

 光背に月のほむらのきて燻ゆる

これらの仏像俳句は初期句集『仏恋』としてまとめて昭和50年に刊行されている。
昭和20年夏、敗戦。
古書店「伊丹文庫」を開くが、開店早々に永井荷風の本を買いにきた女と交際がはじまり、愛へと急速に進んで、
一年半後に結婚にこぎつけたのが、現夫人の伊丹公子である。

 寒夜ふと「愛撫」なる二字を寝て想ふ

 妹得しは私小説めく去年今年

 妹待てば冬あたたかきポストの朱

彼が本格的に写真撮影に取り組みはじめたのは、昭和44年、作家の眉村卓や俳人の赤尾兜子らとヨーロッパ旅行に出たのが契機になったらしい。
以後、彼は「写俳亭」を名乗るが、ひとかどたらんとする彼は、岩宮武二に師事して厳しい指導を受ける。
岩宮とのネパール行きの写真などをまとめた『隣人ASIAN』(1984年)が写俳の一号となった。
「写俳」から、少し引く。もっとも「写真」と一緒に鑑賞しないと雰囲気は出ないが。。。
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 天使の羽根 たかだか 双乳房とても亦

 聖家族めく 赤い蝋燭みな点り

 ドームは総硝子 ミラノはファッション基地

 問答無用 この金髪 この笑顔なら

 石柱は遺った 神話の空の下

 女子修道院で仮寝の イコン絵師

 アッシジの鐘楼鎮もる 青嵐・・・・・・・・(以上、「ギリシアイタリア写俳便」より)

 申歳の身に 朱の鳥居 朱の祠

 トレモロで桜 アンダンテで銀杏

 さくら さくら 池を一巡二巡して

 菜の花が囃す 賀茂川少年団

 鳶舞うて ぴいひゃら ひゃらら 春祭

 若鮎に魚道もありて 賀茂の堰

 蔦茂る裏窓 一つは埋められず

 考える足ら ハチ公前広場

 止り木が男の隠れ場 カクテル待つ
 
 生きること 願うこと 天神にも桜・・・・・・(以上「日本春景色」より)

 ベレーはみ出る白髯 神戸でなら死にたい


春の鳶寄りわかれては高みつつ・・・・・・・・・・飯田龍太
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     春の鳶寄りわかれては高みつつ・・・・・・・・・・飯田龍太

鳶が二羽、春の空に舞う。寄り合ったかと見ると、たちまち別れ、次第に空の高みへと、せり上がってゆく。
まるで何かに押しあげられるように上昇気流に乗って。
春を迎えて求愛の飛翔だろうか。
この句の中七以下を細かく区切ってみると、「寄り」「わかれては」「高み」「つつ」のようになるが、いずれも鳶の刻々の動きを言葉で具象化してゆく表現。
作者がいかに対象の動きを細かく文節化する才能に恵まれているかが判る。
そして、その細分化された対象の動きを一気に力強い詠み方で合体させるとき、句全体はきびきびした律動を与えられる。昭和28年刊『百戸の谿』所収。

飯田龍太は2007年二月下旬に亡くなった。
飯田龍太は飯田蛇笏の4男として誕生。「雲母」主宰を勤めるが、もう十数年も前に自分の結社も解散した。
潔いと言えよう。日本芸術院会員。

この句は自分でも好きだったらしく、自選80句の一番はじめに採っている。以下、自選句から、少し抽出する。

 紺絣春月重く出でしかな

 いきいきと三月生る雲の奥

 強霜の富士や力を裾までも

 大寒の一戸もかくれなき故郷

 雪の峰しづかに春ののぼりゆく
 
 秋冷の黒牛に幹直立す

 晩年の父母あかつきの山ざくら

 夏の雲湧き人形の唇(くち)ひと粒

 雪山のどこも動かず花にほふ

 手が見えて父が落葉の山歩く

 あをあをと年越す北のうしほかな

 春暁の竹筒にある筆二本

 白い肌着のなかの膚(はだへ)の小六月

 かたつむり甲斐も信濃も雨のなか

 貝こきと噛めば朧の安房の国

 冬の雲生後三日の仔牛立つ

 存念のいろ定まれる山の柿

 去るものは去りまた充ちて秋の空

 鹿の子にももの見る眼(まなこ)ふたつづつ

 なにはともあれ山に雨山は春

 雲雀野や赤子に骨のありどころ

 毛毬つく毬より小さき手毬唄

 枯蟷螂に朗々の眼あり

 涼風の一塊として男来る
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20070227at15c飯田龍太

よく知られていることだが、ここで彼の略歴を紹介しておく。

飯田龍太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年7月10日 ~ 2007年2月25日)は日本の俳人、随筆家、評論家。戦後における俳壇で新鋭的な俳人として一躍注目を集める。俳人・飯田蛇笏(武治)の四男。

経歴
1920年、山梨県東八代郡五成村(現・笛吹市境川町)に生まれる。1927年(昭和2年)に境川尋常小、1933年(昭和8年)には旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)へ入学し、1940年(昭和15年)に國學院大學文学部国文科へ進む。折口信夫を尊崇し、句作に親しむ。右肺浸潤のため一時休学し、右肋骨にカリエスが発症したため療養生活を送り、1947年(昭和22年)には大学を卒業、卒業論文は「芭蕉の悲劇性の展開」。

その後は句作を活発に勤しみ、俳句と俳人に囲まれた環境にあったため父の句会に加わり、故郷の境川村で蛇笏主宰の俳誌『雲母』の編集に参加。1951年から山梨県立図書館に司書として勤務。1954年8月には第一句集『百戸の谿』を出版。1957年には現代俳句協会賞を受賞するなど巷から次第に実力を認められていく。当世的な感覚から生み出される叙情味あふれた句は、多くの人間を惹きつけた。

兄たちは若くして次々と亡くなり、1962年には父の蛇笏が死去し、300年続く大庄屋飯田家の家督を継いだ。
作家の井伏鱒二に私淑し、交友もあった。郷土山梨での文芸活動にも携わり、やまなし文学賞や山梨県立文学館の創設、山梨日日新聞の文芸欄の選者などを務めた。2007年2月25日、肺炎のため甲府市内の病院で死去。享年86。

年譜
1940年 國學院大学入学。
1947年 國學院大学卒業。
1949年 第二回山梨県文学賞受賞。
1954年 第一句集『百戸の谿』を出版。
1957年 現代俳句協会賞を受賞。
1959年 第二句集『童眸』を出版。
1962年 父の没後、俳誌『雲母(うんも)』の主宰を継承し、俳句に勤しむ。
1968年 第四句集『忘音』にて、第20回読売文学賞受賞。
1981年 日本芸術院賞、恩賜賞受賞。
1983年 紫綬褒章受賞。
1984年 日本芸術院の会員になる。
1992年 蛇笏没後30年を期に、俳誌『雲母』を900号目で廃刊。
2007年 肺炎のため死去。享年86。
毎日俳壇選者をつとめる。著作に『山居四望』などがある。

著作
句集『百戸の谿』(1954)
句集『童眸』(角川書店,1959)
句集『麓の人』(1965)
句集『忘音』(牧羊社,1968)
句集『春の道』(1971)
随筆集『無数の目』(1972)
句集『山の木』(1975)
句集『涼夜』(立風書房,1977)
随筆集『思い浮かぶこと』(中央公論社,1978)
『今音』(句集,1981)
『山居四望』(随筆集,1984)
句集『山の影』(立風書房,1985)
『飯田龍太文集』(筑摩書房,1988)
句集『遅速』(立風書房,1991)
『飯田龍太全集』(角川書店,2005)



目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
040207nanohana01菜の花

   目つむれば菜の花の向うゆらゆらと
      揺れて母来るかぎろひの野を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでもご覧いただける。

私の歌には母を詠ったものが多い、といつも言われる。
母は四月に亡くなって、今年は19回忌になるが、丁度、私が「短歌」に深くかかわるようになった頃に母が亡くなり、
短期間に集中して「レクイエム」の小冊子に歌をまとめて作ったりした。
母親というのは、子供にとって一番近しい存在ではないか。
私の父は厳しい人だったが、家庭的というよりは「仕事」に没頭するという存在だった。
父には、随分反発し逆らったものだったが、仕事の厳しさを教えられたのは、やはり父だった。
父は、もう40年以上も前に69歳で亡くなったが、母は先に書いたように、つい19年前に93歳の長寿を全うして死んだ。
自宅で死を看取ったので、余計に印象が深いのかも知れない。

この歌は私にも自信のある好きな作品である。母の祥月命日の4月12日に載せる。
「菜の花」を詠み込んであるので、この時期にもぴったり合うし、載せることにする。
わかり易いし、母を思う心情がしみじみと出ているというので、皆さんにも好評な歌だった。

「菜の花漬」というものが季節の浅漬けあるいは「おひたし」としてスーパーなどでも盛んに売られている。
あっさりしておいしいものである。時代とともに、菜の花の利用法も変わってくるのである。

俳句の世界でも、芭蕉、蕪村の頃から「菜の花」は盛んに詠まれてきた。
以下、それらを引いて終りにしたい。

 菜畑に花見顔なる雀かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 菜の花や月は東に日は西に・・・・・・・・与謝蕪村

 菜の花やかすみの裾に少しづつ・・・・・・・・小林一茶

 菜の花の野末に低し天王寺・・・・・・・・正岡子規

 菜の花の黄のひろごるにまかせけり・・・・・・・・久保田万太郎

 菜の花といふ平凡を愛しけり・・・・・・・・富安風生

 菜の花や夕映えの顔物を言ふ・・・・・・・・中村草田男

 菜が咲いて鳰も去りにき我も去る・・・・・・・・加藤楸邨

 菜の花に昔ながらの近江富士・・・・・・・・山口波津女

 三輪山の裾ひろがりや菜の花に・・・・・・・・滝井孝作

 家々や菜の花色の灯をともし・・・・・・・・木下夕爾


終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨


   終りに近きショパンや大根さくさく切る・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

昨年2010年はショパン生誕200年で記念のイベントなどが多かった。
はじめに、ショパン「別れの曲」の動画を出しておく。

この楸邨の句も「二物衝撃」の見本のような句で面白い。
「ショパン」の曲と、「大根」とは全く何の関係もない。それを取り合わせてある。
しかも大幅に破調である。7、8、6音になるようであるが、これを削ることは難しい。
この句の場合、大根を切っているのは奥さんで、ショパンの音楽をかけながら料理しているという図であろう。

さて、大根は春の七草の中の「スズシロ」と昔呼ばれていたものの改良種である。

Daikon_Japan青首大根
写真①は「青首大根」と呼ばれるもので「耐病総太り」という作りやすい品種で、現在では生産量の95%を占めるまでになっている。
私の家でも栽培しているが、この青首大根を9月はじめに種から蒔いて作る。
3メートルくらいの畝を2筋も作っておけば春までたっぷり食べられる。

syogoindaikon聖護院大根

写真②は京都の伝統京野菜として品種登録されて生産が奨励されている「聖護院大根」である。
これは甘みがあっておいしい大根である。他にも「守口大根」など各地に伝統野菜がある。
昔は沢庵漬に最適の品種として「宮重大根」というのがあった。
愛知県の原産で、今も作られているようだ。写真③に、それを出しておく。

6650240宮重大根

大根はアブラナ科の一年草で越冬する。春に薹(とう)がたつ。原産地は地中海沿岸と言われ、日本には中国経由で早くに入ってきたという。
大根は水分がたっぷりあり、しかもジアスターゼという消化酵素も含んでいて、体には大変よい野菜である。
私などは、どんな料理にしろ、大根おろしにしろ、大根を食べると大変消化がよいのを実感している。
私の大好きな野菜である。

     菊の後大根の外更になし・・・・・・・・松尾芭蕉

という古句があり、まさに的確に大根の性格を言い表わしている。
以下、大根を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 大根引大根で道を教へけり・・・・・・・・小林一茶

 流れゆく大根の葉の早さかな・・・・・・・・高浜虚子

 ぬきん出て夕焼けてゐる大根かな・・・・・・・・中田みづほ

 畑大根皆肩出して月浴びぬ・・・・・・・・川端茅舎

 老いの仕事大根たばね木に掛けて・・・・・・・・西東三鬼

 ダンサーに買はるしなしなと大根・・・・・・・・秋元不死男

 大根きしみかくて農婦の腰まがる・・・・・・・・米田一穂

 死にたれば人来て大根焚きはじむ・・・・・・・・下村槐太

 身をのせて桜島大根切りにけり・・・・・・・・朝倉和江

 荒縄で洗ふ大根真白きまで・・・・・・・・冨石三保

 煮大根を煮かへす孤独地獄なれ・・・・・・・・久保田万太郎

 窓が開いてをる大根畑は昼深し・・・・・・・・滝井孝作

 大根煮や夕餉の病舎さざめきて・・・・・・・・石田波郷

 大根を刻む刃物の音つづく・・・・・・・・・山口誓子

 大根洗ふや風来て白をみなぎらす・・・・・・・・大野林火



愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・・時実新子
FI2621118_1E花筏

     愛咬やはるかはるかにさくら散る・・・・・・・・・・・・時実新子

時実新子は1929年岡山市生れの「川柳」作家である。2007年3月10日肺がんのため78歳で死去した。
句集に『時実新子一萬句集』『有夫恋』などがある。
 人気川柳作家でエッセイストでもあった時実新子(ときざね・しんこ、本名・大野恵美子=おおの・えみこ)だが喪主は夫で川柳研究家の曽我六郎だという。
死去したときの毎日新聞によると、以下のように書かれている。
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 55年ごろから川柳を作り始め、63年、初めての句集「新子」を出した。75年、個人季刊誌「川柳展望」を創刊。初期の「子を寝かせやっと私の私なり」といった母親らしい“台所川柳”から、やがて「ヘアピンで殺す男を視野に置く」など男女の愛憎や人生の悲哀を詠み込む作風に変化し、川柳界の与謝野晶子とも呼ばれた。

 2歳年下の曽我さんと再婚した87年の句集「有夫恋(ゆうふれん)」がベストセラーに。91年から2年間、毎日新聞夕刊(大阪本社発行)の川柳選者を務めた。95年、阪神大震災の被災体験を共有しようと、曽我さんとともに震災川柳を募った。96年には月刊「川柳大学」を創刊。川柳研究に貢献した。
また「川柳新子座」なるものを主宰して、広く一般から川柳を募集して「アサヒグラフ」という写真画報に発表し、まとまると一冊の本にして朝日新聞社から出版されている。

 ◇愛好家の裾野広げ
 川柳に造詣が深い作家の田辺聖子さんの話 
<川柳といえば、俳句、短歌に比べて一段下に見られる傾向があったが、「新子川柳」の登場は文学に携わる者に衝撃をもたらした。日常の俗事をふまえながら、花鳥風月を超えたインテリジェンス(知性)を感じさせ、川柳界に新しい道を切り開いた。若い女性をはじめ川柳の愛好家の裾野を広げたのも新子さんの大きな功績だろう。>
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sinko時実新子

掲出した句に戻る。この句の「なまめかしさ」は、どうだろう。
「愛咬」とは成熟した男女の情事での秘戯である。
この句は、一萬句集のなかでも後の方の「除籍入籍」1981~87という、作者50歳を過ぎてからの年代の頃の作品である。
情事の床で、いろいろのテクニックを駆使しての成熟したカップルの、もつれ合う姿が脳裏に浮かんでくる。
時しも、桜の季節──しかも「はるかはるかに桜ちる」というお膳立ても出来上がっている。
愛は「はかないもの」で、はるかはるかに散る桜のように、愛の熱情も、いつか色あせ、移ろってゆく。
そういう愛の「哀しみ」を、状況設定も見事に芸術作品に仕立て上げた、お見事!!。
作者の万を越す作品のなかでも、ピカ一に光る秀作である。

私は、時実新子という人を詳しくは知らない。しかし、書かれたものを見ると、17歳で結婚して、夫と死別して、再婚してという愛の遍歴を過ごされたらしい。
この人の川柳の師匠は川上三太郎で、処女句集『新子』の序文の中で、

<新子は女性であるから何よりも先ず女性の手に成った句を書くように仕向けた>

という。
川柳人口のほとんどが男性であった昭和30年頃、他の男性作家と同じような句を書いていた新子に、三太郎が与えた啓示であった。

以下、結婚当初から年代を追って、作品を抽出する。

★背信の汽車 1955~60

 十七の花嫁なりし有夫恋
 背信の汽車なら走れ有夫恋
 逆光線即ち三十歳の乳房
 紅(べに)引くと生きてゆく気がする不思議
 凶暴な愛が欲しいの煙突よ

★問わぬ愛 1966~70

 一月に生きて金魚の可能性
 二ン月の裏に来ていた影法師
 三月の風石に舞うめくるめき
 四月散り敷いて企み夜になる
 美しい五月正当化す別離
 六月の雨まっさきに犬に降る
 七月に透ける血脈陽を怖れ
 八月の蝉からからと完(おわ)りける
 脈うつは九月の肌にして多恨
 十月の藍の晴着に享く光
 あくまでも白し十一月の喉(のんど)かな
 極月のてのひらなれば萼(うてな)です

★女のくらがり 1971~75

 まだ咲いているのか夾竹桃のバカ
 恋は終わったがこの乳臭きこのいのち
 つきつめてゆくと愛かなてんと虫

★有夫恋 1976~80

 すかんぽのぽかんと今があるばかり
 菜の花の風はつめたし有夫恋
 菜の花菜の花疲れてしまうコトバたち

★除籍入籍 1981~87

 五十を過ぎて天神さまの細道じゃ
 死のような快楽(けらく)覚えし洗い髪
 除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中
 れんげ菜の花この世の旅もあとすこし
 愛はもう問わず重ねたパンを切る
 新しい男しばらく鹿の艶(つや)

★想夫恋

 草の露ゆうべ抱かれし足運び
 待っていると椿は落ちずくもり空
 二人で歩くちょいとそこまで地の果てまで
 王道や女ながらも志
 かきつばた今淡々と人が好き
 青いみかんは私よりも好色だ
 さみしさに似た歓喜ありけしの花
 仰向けになって研師に身を任す

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たくさんの句を引用したが、「十七の花嫁なりしーー」の若い時の句から、老年にさしかかった頃の句への変化を見てもらいたい。
いずれにしても、この作者は「恋多き」性情の女性であるから、「五十を過ぎて天神さまの細道じゃ」の句のように、わらべ歌のつづきに唄われるように「往きはよいよい、帰りは怖い」と知りながら、恋に身を焦がした作者なのである。

私は掲出した句を取り込んで「妻の手」という詩を作り、2008年出版した詩集『免疫系』(角川書店刊)に載せた。
また昨年出した詩集『愛の寓意』(角川書店刊)にも、この句を元にした詩「落花譜」を載せた。
リンクに貼ってあるのでアクセスされたい。


池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな・・・・・・・・・・・大伴家持
asebi3馬酔木(白)

     池水に影さへ見えて咲きにほふ
        馬酔木の花を袖に扱(こき)入れな・・・・・・・・・・・大伴家持


馬酔木の花は4月から5月にかけて咲きはじめる。山地に自生するツツジ科の常緑低木で、日本原産の木。もっとも、三月の早くから、もう咲いているのも見られる。
学名をPieris japonica という。私の推測だが、シーボルトが標本を持ち帰り命名したのではないか。
馬酔木は古典植物で、「万葉集」には10首見える。
掲出したのは、そのうちの一つで巻20の歌番号4512に見える大伴家持の歌。
もともと「巻20」は万葉集の一番終りで、大伴家持の歌が多い。
そこから万葉集は家持の編集になるのではないか、という説があるのである。

馬酔木(あしび)の木は有毒のもので、枝葉にアセボトキシンという有毒成分があるのである。野生の鹿などは、よく知っているので食べないという。花は香りが強い。

aaooasebi02馬酔木の花

色は白が普通だが、写真②のようなピンクのものがある。木の姿もよく、昔から好んで「庭木」として植えられたので、栽培による改良種だと言われる。
先に馬酔木は古典植物だと書いたが、歌に「馬酔木なす栄えし君」と詠まれるように、古代には「賀」の植物であり、栄えの枕詞であった。

馬酔木については俳句にも古来たくさん詠まれてきた。それを引いて終りたい。

 花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ・・・・・・・・高浜虚子

 春日野や夕づけるみな花馬酔木・・・・・・・・日野草城

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺・・・・・・・・水原秋桜子

 月よりもくらきともしび花馬酔木・・・・・・・・山口青邨

 染めあげて紺うつくしや夕馬酔木・・・・・・・・原コウ子

 花あしび朝の薬に命継ぐ・・・・・・・・角川源義

 花あしびかづきて鹿の子くぐり出づ・・・・・・・・阿波野青畝

 指さぐる馬酔木の花の鈴の音・・・・・・・・沢木欣一

 馬酔木咲き金魚売り発つ風の村・・・・・・・・金子兜太

 こころみに足袋ぬぎし日や花あしび・・・・・・・・林翔

 宵長き馬酔木の花の月を得し・・・・・・・・野沢節子

 邪馬台の春とととのへり花あしび・・・・・・・・小原青々子

 囀に馬酔木は鈴をふりにけり・・・・・・・・下村梅子

 父母に便り怠り馬酔木咲く・・・・・・・・加倉井秋を

 時流れ風流れをり花馬酔木・・・・・・・・村沢夏風


ひと知りて四十年経ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
murasakihanana0111ムラサキハナナ

     ひと知りて四十年経ぬ萌え立てる
        君は野の花ムラサキハナナ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


例年、四月に入ったら咲きはじめる「ムラサキハナナ」である。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。
この歌は、ある短歌結社の全国大会が九州であったときの応募歌である。
ムラサキハナナは、アブラナ科で学名は orychophragmus violaceus というが、別名をショカツサイ(諸葛采)、オオアラセイトウ、花大根などという。
諸葛采は中国での名前で、諸葛孔明に因む命名である。
花大根という名がついているが、大根とは無関係である。
写真②のように、今ではあちこちに群がって咲いている。

gardenムラサキハナナ

種が落ちると、とても強い草で、どこから来たのか、私の方の菜園にも周辺部にわんさと咲いている。
種が落ちる前にこまめに除草をすると群落は減ってくる。
私の歌の「ひと」とは、もちろん亡妻のことである。
紫色の4枚の花弁が「十字架植物」であることを示してはいるが、今では雑草扱いされている野の花であって、私は妻を、その野の花になぞらえたのである。
西洋人ならば、こういう、へりくだった表現はしないが、日本では謙遜が尊ばれる。

hanadaikonムラサキハナナ

この歌を作ったときは、もう十数年以上も前のことになってしまったが、「四十年経ぬ」と詠ってあるように知り合ってから、その頃で四十年も経ってしまったのか、という感慨である。
この頃まだ妻は健康であったし、それから十年以上の歳月が経ってしまった。
やはり文芸作品というのは、思いついたら、すぐに、このように作品化しておくべきものだ。
妻が亡くなった今では、いい思い出の歌になった。

以下、この草を詠んだ句を引いて終る。「諸葛菜」である。

 諸葛菜咲き伏したるに又風雨・・・・・・・・水原秋桜子

 諸葛菜晩年の文字美しや・・・・・・・・角川源義

 諸葛菜死者が生者を走らせる・・・・・・・・和田悟朗

 目つむれば眠つてしまふ諸葛菜・・・・・・・・茂恵一郎

 諸葛菜人に委ねし死後のこと・・・・・・・・福田葉子

 新聞のたまるはやさよ諸葛菜・・・・・・・・片山由美子

 言海のとぢ糸滅び諸葛菜・・・・・・・・南雲愁子

 電柱に夜の雨走る諸葛菜・・・・・・・・西谷剛周

 廃れをる牛舎の中も諸葛菜・・・・・・・・小野塚登子

 鎌倉は木暗し崖(はけ)の諸葛菜・・・・・・・・久保美智子

 諸葛菜われらひもじき日々ありき・・・・・・・・大黒華心

 裾ふれて散り際早き諸葛菜・・・・・・・・中川禎子 


沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・・・・・・・・・・・上村古魚
aaoojincyo1沈丁花

   沈丁の香にひたりゐて過去は過去・・・・・・・・・・・・・上村古魚

ジンチョウゲは寒さに強い木で寒中から花芽をつけている。
花が写真のように咲き開くのは三月になってからだが、極めて強い香りが特徴である。だから屋内に置くのは無理である。
私の方の庭にもジンチョウゲがあったが木の芯のところに芯虫が入りやすく、その株は枯れてしまったので、引き抜き、
土を木酢液で充分に消毒してから、鉢植にしてあったジンチョウゲを跡の土に下ろした。
数年順調に大きくなって花をつけていたが、結局また枯れてしまった。だから今は無い。

jinchoge沈丁花
写真②は垣根状になった大きな株である。
図鑑によると、花びらのように見えるものは萼片(がくへん)で、ジンチョウゲには花びらはない、という。
ジンチョウゲは中国原産の常緑低木で、高さは1メートルくらい。枝が多く、卵形の厚い葉が密生して、全体として丸く玉のように茂る。
沈香と丁子の香りを合わせ持ったような香気があるという意味で沈丁花の名がある。
わが国へは江戸時代に中国から渡来し、生垣や庭先に植えられることが多い。

jinchouge0974沈丁花

私の歌にもジンチョウゲを詠ったものがあったと思って、さんざん探してみたが、見つからないので、俳句を掲出することにする。
この花の咲く頃には冴え返るような「寒の戻り」の寒い日がある。
白い花のジンチョウゲがあると聞いてネット上から探し出したので、
写真④に載せる。

jincyo9白ジンチョウゲ

以下、歳時記に載る句を引いて終りたい。

 沈丁の香の石階に佇みぬ・・・・・・・・高浜虚子

 隣から吾子呼んでをり沈丁花・・・・・・・・臼田亞浪

 冴返る二三日あり沈丁花(ぢんちやうげ)・・・・・・・・高野素十

 ぬかあめにぬるる丁字の香なりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 靴脱に女草履や沈丁花・・・・・・・・水原秋桜子

 沈丁の四五花はじけてひらきけり・・・・・・・・中村草田男

沈丁の香の強ければ雨やらん・・・・・・・・松本たかし

 沈丁に雨は音なし加賀言葉・・・・・・・・細見綾子

 沈丁に水そそぎをり憂鬱日・・・・・・・・三橋鷹女

 沈丁も乱るる花のたぐひかな・・・・・・・・永田耕衣

 沈丁花多産を恥じる犬の瞳よ・・・・・・・・永野孫柳

 沈丁の花をじろりと見て過ぐる・・・・・・・・波多野爽波

 授乳の目とぢて日向の沈丁花・・・・・・・・福田甲子雄

沈丁の恣(ほしいまま)なる透し垣・・・・・・・・石塚友二

 沈丁の香のくらがりに呪詛一語・・・・・・・・細川加賀

 鎌倉の月まんまるし沈丁花・・・・・・・・高野素十

c0128628_1181097ジンチョウゲ実
写真⑤はジンチョウゲの実。
雌雄異株で、実は雌株にしかできない。
日本には雌株は非常に少ないとのことで、実を見かけることは少ない。



花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ・・・・・・・・・・・・杉田久女
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    花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ・・・・・・・・・・・・杉田久女

この句は女性ならでは、の句である。昔の人は、皆、和服を着ていたから、特に女の人は着物を着るには、いろいろの紐が必要だった。
そこから、この句には一種のエロスが香り立つのである。
昨日付けで載せた中村汀女が、彼女に憧れて俳句を始めた、と書かれているので、ここに載せる気になった。

杉田久女 は鹿児島生れ。東京の高女を出てから、小倉中学校教師・杉田宇内と結婚。
「ホトトギス」で頭角を現すが、昭和11年「ホトトギス」を除籍される。その経緯などは判らない。

久女の句で、私の好きなものを抜き出してみよう。

 春の夜のまどゐの中にゐて寂し

 東風吹くや耳現はるるうなゐ髪

 燕来る軒の深さに棲みなれし

 バイブルをよむ寂しさよ花の雨

 照り降りにさして色なし古日傘

 足袋つぐやノラともならず教師妻

 右左に子をはさみ寝る布団かな

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

 ちなみぬふ陶淵明の菊枕

 虚子留守の鎌倉に来て春惜しむ

 種浸す大盥にも花散らす

 ほろ苦き恋の味なり蕗の薹

 道をしへ一筋道の迷ひなく

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私は彼女については無知なのでWeb上に載る記事を引用しておく。

杉田久女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 ~ 1946年(昭和21年)1月21日)は日本の俳人。
本名は杉田久(すぎた ひさ)。

生涯
高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い沖縄県那覇市、台湾嘉義県・台北市と移住する。1908年(明治41年)東京女子高等師範付属お茶の水高女(現・お茶の水女子大学)を卒業。この間に一家が上京する。1909年(明治42年)中学教師で画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。

1911年(明治44年)長女・昌子(後に俳人・石昌子となる)誕生。1916年(大正5年)兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿する。この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。

1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞を受賞。1932年(昭和7年)女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。しかし、5号で廃刊となった。1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともにホトトギス同人となる。

1936年(昭和11年)虚子よりホトトギス同人を除名される。しかし除名後もホトトギスへの投句を続けた。
1946年(昭和21年)1月21日、太平洋戦争後の食料難により栄養障害をおこし腎臓病悪化により福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の福岡県立筑紫保養院で死去、享年57。

愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。

作品集
ウィキクォートに杉田久女に関する引用句集があります。
杉田久女句集(1952年 角川書店)
久女文集(石昌子・編 1968年 石一郎)
杉田久女随筆集(2003年 講談社)

関連作品
杉田久女(石昌子 1983年 東門書屋)
花衣ぬぐやまつわる…-わが愛の杉田久女(田辺聖子・著 1987年 集英社)
俳人杉田久女の世界(湯本明子・著 1999年 本阿弥書店)
大正期の杉田久女(米田利昭・著 2002年 沖積舎)
杉田久女(坂本宮尾・著 2003年 富士見書房)
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