K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(6月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
sizen266カタツムリ

六月になりました。 嫌な梅雨が始まります。
この梅雨は米作りや飲料水の確保などに必要ですから我慢いたしましょう。


 木管楽器金管楽器に風めぐり前世来世もひとはさびしい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
 そら豆の一つ一つをむくときにわが前に立つ若き日の母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎
 言ひ当てることなど出来ぬ鶺鴒が磧の隙に啄むものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木六戈
 朝七錠、昼・夜一錠、ほぼ十年飲みつづけ先のまだある話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西村尚
 唇ふれて茂吉はかなし赤くらき日本翁草に唇ふれし茂吉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米川千嘉子
 椿象に触れたる指をあらひつつアフマディネジャド髭のきたなさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
 司書室の淵に潜める山椒魚のこのいくとせをたれかれに謝す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢田英史
 目覚めたるあかつき梅雨の雨音の今日の予定は葬儀がひとつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大下一真
 雨降れば雨のことば聞き雨やめば空ゆく雲を目追ふひとり居・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮英子
 さみしさは意外に近くあるのだとビニール傘の濡れた柄が言う・・・・・・・・・・・・・・・・・・中川佐和子
 一日の終りは雨をともなへり熱のこる野を鳥の発ちたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横山未来子
 積み上げし本の谷間にかすかなるひかりを帯びて紙魚がよぎりぬ・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子 
 六月や身をつつみたる草木染・・・・・・・・・・・・大石香代子
 クレヨンの黄を麦秋のために折る・・・・・・・・・・・・・林 桂
 ニコライの鐘の音色も梅雨に入る・・・・・・・・・茂木連葉子
 大寺のうしろ明るき梅雨入かな・・・・・・・・・・・・・前田普羅
 麦秋の中なるが悲し聖廃墟・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子
 青猫といふ紙あらば詩を書かむ・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 黒揚羽凶々しくも喉鳴らす・・・・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 水恋し胸に蛍を飼ひたれば・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 ふつふつとDNAの意のままに・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
 虻飛んで牛の宇宙の流れをり・・・・・・・・・・・・・・・・・・四童
 半身にくっつく力かたつむり・・・・・・・・・・・・・・斎藤朝比古
 夏の夜のストロボ乳房感応す・・・・・・・・・・・・・河野けいこ
 樹は樹として今がある柿若葉・・・・・・・・・・・・・原田否可立
 鹿の目に涙のあとや青嵐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・榎本享
 明易の情欲である大絵皿・・・・・・・・・・・・・・・渡辺誠一郎
 ハローワーク朝顔のみな我に向く・・・・・・・・佐々木ゆき子
 ゆつくりと金魚の口を出る小石・・・・・・・・・・・・・上田信治
 必殺のラムネ瓶から午后の島・・・・・・・・・・・・・・小野裕三
 ほうたるとみんな静かに首をふる・・・・・・・・・・・・高橋洋子
 匙とメロン部屋に子供たちがいない・・・・・・・・・・田島健一
 欲後すぐ葡萄酒の赤身に流す・・・・・・・・・・・・林田紀音夫 
 濾過装置毀れはつなつの雨無情・・・・・・・・・・・・・七風姿 


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
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「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
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「集英社文庫」新刊
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詩の本の思潮社
文芸春秋社・書籍ショールーム

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。

絹糸腺からだのうちに満ちみちて夏蚕は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥
p304.jpg

    絹糸腺からだのうちに満ちみちて
       夏蚕(なつご)は己をくるむ糸はく・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「養蚕」(ようさん)という蚕を桑の葉で育てる仕事は、最近では急速に廃れ、見られなくなった。
一応、説明しておくと、蚕蛾(かいこが)という虫の幼虫が吐く糸から「絹糸」が出来る。
この「蚕(かいこ)」には春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)とがあり、春蚕は四月中、下旬に掃き立てをし、五月下旬か六月上旬に繭になる。
夏蚕は夏秋蚕のことで、二番蚕とも言い、飼う時期が暑いので成長も速く七月には上簇するが、量も多くなく、収量も品質も劣るという。

sanken01蚕本命
写真②は蚕蛾の幼虫──俗に「蚕」と言う──の選り分け作業の様子。

写真③は蚕の口である。口は二つあり、下の小さな口が「吐き口」といって繭を作るとき糸を吐く口。上の大きな口には、アゴが一対あって桑の葉を噛み切る。
kuti蚕の口

蚕の幼虫の体は細長く13の体節からなり、体長は5齢盛食期で6、7センチ。頭部、胸部(第1~3節)、腹部(第4~13節)に分けられる。
蚕の雌は幼虫、蛹、蛾とも雄より大きい。
「上簇」(じょうぞく)というのは、いよいよ繭を作る段階に達した蚕を集めて繭を作るために専用の蚕簿に移す作業をいう。
蚕は四回眠り四回脱皮して、そのあと繭を作るが、その際、体が半透明になる。これが私の歌に詠んだ「絹糸腺」が肥大して体中に満たされるためである。
「蚕簿」というのは藁を加工して三角錐の空間が集合したようなもの。ここに蚕を移してゆく手間のかかる労働である。後は蚕が絹糸腺から糸を吐き「繭」を作る。
mayu2.jpg

この繭から絹糸を引き出すのだが、これは蚕が吐いた糸であるから、一つの繭から引き出した糸は一本である。
大きな釜に湯を沸かし、その中に繭を入れて中の蛹を茹で殺して糸を探り出して引き出す。
独特の臭気がして慣れないと不快なものである。
糸を取った後の蛹の死体は栄養豊富なので、ウナギの餌などに使われた。

繭をそのままに放置しておくと、繭の中の蛹が蚕蛾になり繭を溶かして孔を開けて出てくる。
mayu_seityu.jpg

写真⑤が蚕蛾である。繭の中で蛹は十日で羽化する。だから養蚕というのは、繭が完成したら、すばやく熱湯にひたして羽化を阻止しなければならない。
日数の計算も厳密な作業であり、忙しい。
羽化した雌は腹に卵を一杯もっており、雄と交尾すると産卵し、雄雌ともにすぐに死んでしまう。
この交尾の際に雌が特有の「フェロモン」を出し雄を誘引するのである。
ものの本によると、これを感知すると雄は狂ったように全身を震わせて匂いの元に寄ってくるという。
だから実験として蚕の雌が居なくても、このフェロモンを放射すれば雄は群がるように寄ってきて交尾しようとするらしい。
養蚕用には優秀な蚕に黒い紙の上に生ませた「蚕卵紙」というのが養蚕試験場などから交付され、それを養蚕家は買って蚕の幼虫を孵化させて桑の葉に移す。
これを「掃き立て」という。

昔は桑の葉を摘んで蚕に与えていた。これを桑摘みという。
この労働を簡素化するために桑の枝を切ってきて与える、というのが戦後に開発され、今日では桑の葉を含むペレット状の粒剤を与えているようであるが、
それよりも中国などから安価な絹糸が入ってくるようになり、今では絹布にした加工品が中国で最終製品として作られるようになり、
日本国内の養蚕業は壊滅したと言える。養蚕器具は資料館でしか見られず、養蚕の様子も学習のためか、デモンストレーションとして行なわれるに過ぎない。
私の子供の頃は、近所でも養蚕や糸の引き出し作業などもやられていたし、繭の集荷に小学校の講堂が使われていたものである。

掲出の歌の前後に載る歌を引いて終わりたい。

くちびるを紫に染め桑の実を食みしも昔いま過疎の村・・・・・・・・・・木村草弥

よき繭を産する村でありしゆゑ桑摘まずなりて喬木猛る

桑実る恋のほめきの夜に似て上簇の蚕の透きとほりゆく

桑の実を食みしもむかし兄妹(きやうだい)はみんなちりぢり都会に沈む


この歌の一連は、もちろん創作であるから舞台設定や兄妹というのも、事実そのものではない。文学作品中における「虚構」ということである。

もともと蛾類は自然環境で「繭」を作ることが知られて(その中でサナギになるためである)、人間は、これに着目して幼虫を捕らえて飼い、繭を作らせることを考案した。
そして立派な繭を作らせるために品種改良を加えて、今日の養蚕業となったのである。
今でも「天蚕てんさん」「山繭やままゆ」といって、自然環境で作られた「繭」を採取して布にしたものがあるが、極めて希少価値の高いもので高価であり、めったに手には入らない。

「養蚕」については、このWikipediaの記事に詳しい。参照してみられたい。
また越智 伸二「カイコの一生」養蚕、お蚕さま、カイコの生態、形態には蚕の飼育全般について判りやすく詳しく書いてある。
過程ごとの詳しい写真があるので、よく判る。未知の方には、目からウロコである。

蜻蛉生れ水草水になびきけり・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎
ookawaオオカワトンボ

      蜻蛉生(あ)れ水草水になびきけり・・・・・・・・久保田万太郎

生れたばかりの蜻蛉が、まだ飛び立つには不安な姿を、じっと水辺の草にとめている。その辺りでは、水草が川水に揺られてなびいているのだった。
久保田万太郎は、こういう静謐な、精細な写生の句の秀句を多く残している。
季語としては「蜻蛉生る」が夏の季語であり、単なる「蜻蛉」は秋の季語であることに注意したい。
蜻蛉は春から成虫が飛びはじめるが、秋になるとアキアカネ(アカトンボ)など大量に集団で群れて飛ぶのが、よく人目につくので、蜻蛉は秋の季語とされたのだろう。
蜻蛉の種類もたくさんあるが、掲出の写真のものは「オオカワトンボ」という。主に水辺を棲息域とする飛翔力の弱い蜻蛉である。
アキアカネやオニヤンマなどの種類は、かなりの距離を楽に移動する。

私の敬愛するTokira氏の記事によると、最近では「オオカワトンボ」の呼称を「ニホンカワトンボ」と統一されたという。
詳しくは「日本産トンボ標本箱」を参照されたい。

以下、歳時記に載る「蜻蛉生る」の句を少し引く。
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 蜻蛉生れ覚めざる脚を動かしぬ・・・・・・・・・・・・中村汀女

 蜻蛉うまれ緑眼煌とすぎゆけり・・・・・・・・・・・・水原秋桜子 

 藺を伝ひ生るる蜻蛉に水鏡・・・・・・・・・・・・松本たかし

 草渡る風の蜻蛉を生みにけり・・・・・・・・・・・・龍橙風子

 蜻蛉生れてくらくらと水の上・・・・・・・・・・・・山上樹実雄

 水底より生れて蜻蛉みづいろに・・・・・・・・・・・・堀好子

 蜻蛉生れ雷迫る野を漂へり・・・・・・・・・・・・・中井眸史

 沢瀉に泉の蜻蛉生れけり・・・・・・・・・・・・根岸善雄

 糸とんぼ生れし歓喜水去らず・・・・・・・・・・・・勝部仇名草

 糸蜻蛉尾の先藍にして瀟洒・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 とうすみはとぶよりとまること多き・・・・・・・・・・・・富安風生

 萍(うきくさ)の動くがままに糸とんぼ・・・・・・・・・・・・八重九皐

 糸とんぼ可憐に交みさまよひ出る・・・・・・・・・・・・鈴木石夫

 糸とんぼ骨身けづりし彩なせり・・・・・・・・・・・・新谷ひろし

 流れゆくものに止まりて糸蜻蛉・・・・・・・・・・・・遠山りん子

 おはぐろや旅人めきて憩らへば・・・・・・・・・・・・中村汀女

 川蜻蛉木深き水のいそぎをり・・・・・・・・・・・・・能村登四郎

 ひたひたと水漬く板橋川とんぼ・・・・・・・・・・・・逸見嘉子


かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす・・・・・・・・・・木村草弥
sizen266カタツムリ

     かたつむりの竹の一節越ゆるを見て
        人に会ふべき顔とりもどす・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

カタツムリはどこにでも居る陸の巻貝だが、農業を営む人たちには新芽を舐めて害するので嫌われている。
私は昆虫少年でもなかったが、内向的な性格の子供だったので、虫や昆虫、カタツムリなどの生態を、じっと見つめているのが好きだった。
この作品は、もちろん後年のものだが、少年期の、そういう記憶が歌に結実したものと言えるだろう。
カタツムリの這う速度は、文字通り遅々としていて、この歌に詠んである通り、竹の一節を越えるのに大層な時間がかかる。
そんなカタツムリの歩みをじっと見つめていて、ようやく竹の一節を越えたなぁ、と思っているうちに、
「そうだ、誰それさんに会う約束があるのだった」と、ハタと気がつく、という歌である。
私自身は、この歌が結構気に入っているのである。

梅雨のシーズンになるとカタツムリの大好きなじめじめした天気になる。
カタツムリを詠んだ句を引いて終る。

 蝸牛(ででむし)の頭もたげしにも似たり・・・・・・・・正岡子規

 雨の森恐ろし蝸牛早く動く・・・・・・・・高浜虚子

 蝸牛や降りしらみては降り冥み・・・・・・・阿波野青畝

 やさしさは殻透くばかり蝸牛・・・・・・・・山口誓子

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる・・・・・・・中村草田男

 蝸牛喪の暦日は過ぎ易し・・・・・・・・安住敦

 蝸牛いつか哀歓を子はかくす・・・・・・・・加藤楸邨

 蝸牛遊ぶ背に殻負ひしまま・・・・・・・・山口波津女

 蝸牛や岐れ合ふ枝もわかわかし・・・・・・・石田波郷

 かたつむり日月遠くねむりたる・・・・・・・・木下夕爾

 悲しみがこもるよ空(から)の蝸牛・・・・・・・・鷹羽狩行

 かたつむりつるめば肉の食ひ入るや・・・・・・・・永田耕衣

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中・・・・・・・・飯田龍太

 妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に・・・・・・・・沢木欣一


ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
450px-Naomi_Shemer27s_graveナオミ・シェメルの墓
イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。

  ──巡礼の旅──(1)

   ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

200px-Neomi_shemerナオミ・シェメル
ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。

ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。



↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。

今年はイスラエル建国から六十三年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。

ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。

この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。

      黄金のエルサレム

       水ためはどこに行ったか
       市場は廃墟のようだ
       誰もエルサレムの神殿の丘を散策できない
       岩の洞窟には風がうなりをあげ
       エリコを通って死海に下るものは
       一人も居ない
        (中略)
       丘の空気はワインのように澄み
       松の香りが夕べの鐘の音と共に漂ってくる

       木も石も深いまどろみの中で
       孤独な町が建っている
       その懐に壁を抱いて

        (リフレイン)

       黄金のエルサレム、銅色と光の、

       あなたの歌のひとつひとつにあわせて
       私は竪琴になろう

       もし 全てが黄金に包まれる
       このエルサレムを
       私が忘れるなら
       今 私たちは
       水ために
       この市場に、野原に帰ってきた
       エルサレムの神殿の丘には
       角笛の音が響きわたる
       岩の洞窟には幾千もの太陽が輝いている
       さあ エリコを通って再び死海へ下ろう

この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」
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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を無くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。

イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。

蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子
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    蛇逃げて我を見し眼の草に残る・・・・・・・・・・高浜虚子

蛇には、いくつかの種類が居るが、掲出の写真は「青大将」である。
蛇は以前に私の歌を引いて書いたので、詳しくは書かない。
蛇は私の地方では「くちなわ」という。
語源は「朽ちた縄」の意味であり、古来「くちなは」として古語にもあるので、その古い表現が今でも残っているということである。
青大将は日本に居る蛇の中では一番長い。私の子供の頃の記憶では、もっと青い(緑がかった)蛇だったように記憶するが、あてにはならない。

写真②は「しまへび」「(縞蛇)である。青大将とは、ずっと小型で細い。
sw-1upシマヘビ

蛇は野ネズミなどを食べるので有益な生き物なのだが、その姿から嫌われ、手ひどい仕打ちを受けることが多い。
日本に棲む蛇で有毒なのは唯一「まむし」(蝮)だけである。
特徴としては頭が三角形で角張っているのと、色が黒っぽい。これに噛まれるとマムシ血清を早く打たないと障害が残る。
日本では、医療機関に血清が備えられているので、手遅れにならない限り心配ない。

私の旧宅には大きな庭石が前栽にあり、その石の下に、わが家の「主」の青大将が棲んでいた。体の紋の記憶から、そうだとわかる。
この主が居たので、わが家に巣を作るツバメが何度も雛を呑まれたことがある。
雛が大きくなって巣立ち間際になる絶好のタイミングを知っていて、未明の薄暗い頃に呑み込むのである。
冬眠から「啓蟄」の頃に出てくるが、体の成長につれて「皮」を脱いで大きくなる。
蛇は「巳」(み)と言うが、「巳成金」と言って利殖の神様とされ、その「抜け殻」を財布の中に仕舞っている人が居るほどである。
だから私の家では、追っ払うことはあっても、決して打ち殺すようなことはしなかった。
「巳ぃさん」と敬称をつけて呼ばれていた。

掲出の虚子の句は、明らかに、蛇恐怖症の印象がする。
松山生まれだが、田舎ではなく、都会っ子なのであろう。

以下、蛇を詠んだ句を引いて終わる。

 とぐろ巻く蛇に来てゐる夕日かな・・・・・・・・原石鼎

 尾のさきとなりつつもなほ蛇身なり・・・・・・・・山口誓子

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首・・・・・・・・阿波野青畝

 吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ・・・・・・・・橋本多佳子

 見よ蛇を樹海に落し鷹舞へり・・・・・・・・及川貞

 蛇打つてなほまぼろしの蛇を打つ・・・・・・・・宮崎信太郎

 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日・・・・・・・・吉田鴻司

 完全にわれを無視蛇の直線行・・・・・・・・菅八万雄

 蛇の眼にさざなみだちて風の縞・・・・・・・・松林朝蒼

 蛇の衣傍にあり憩ひけり・・・・・・・・高浜虚子

 袈裟がけに花魁草に蛇の衣・・・・・・・・富安風生

 老斑の手にいま脱ぎし蛇の衣・・・・・・・・山口草堂

 平凡な往還かがやく蛇の殻・・・・・・・・沢木欣一

 蛇の衣いま脱ぎ捨てし温もりよ・・・・・・・・秋山卓三
枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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    枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

これもウォーキングする道端の家の庭に、たわわに枇杷(びわ)の木に実が生っているのを見たので、載せる気になった。
ビワの実は、今が時期である。
販売用には、栽培種で「茂木」ビワが有名である。
ビワは種が大きくて、食べるところは周囲の果肉で、あんまり食べるところが多くなくて、人によって好き嫌いがあるようである。
高級品は薄い紙に包まれていたりする。

枇杷というのは、花が初冬の十二月頃に咲いて、果実は翌年の梅雨の頃に熟する。
写真②が枇杷の花。地味な、目立たない花である。
biwaびわの花12月

枇杷の葉はかなり大きめのもので、この葉は薬草としても珍重される。
ものの本によると、枇杷の花は白く小さいが、香りがよい、と書いてあるが、嗅いだことはない。
寒い時期だから、この花を仔細に観察した人は多くはない筈である。
栽培種でなく、庭木として植えられているのは写真③のような、小ぶりの実である。
biwa2びわの実

毎日通る道筋で、たわわに実っている庭木があるが、今日通ったら、その一部に紙袋が被せられていた。
肥料も、ろくに与えていない庭木だから、さほど美味しい枇杷が採れるとも思わなかったが、やはり果実として世話をしてみたいのであろうか、
と歩きながら考えたことである。

枇杷の実を詠った句を引いて終わりたい。

 枇杷の雨やはらかしうぶ毛ぬらしふる・・・・・・・・太田鴻村

 枇杷熟れて古き五月のあしたかな・・・・・・・・加藤楸邨

 やはらかな紙につつまれ枇杷のあり・・・・・・・・篠原梵

 枇杷の柔毛(にこげ)わが寝るときの平安に・・・・・・・・森澄雄

 枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂ふ・・・・・・・・中村汀女

 枇杷の種つるりと二男一女かな・・・・・・・・橋間石

 灯や明し独り浴後の枇杷剥けば・・・・・・・・石塚友二

 船室の明るさに枇杷の種のこす・・・・・・・・横山白虹

 袋破れ一顆は天へ枇杷実る・・・・・・・・稲垣法城子

 枇杷たわわ朝寝たのしき女の旅・・・・・・・・近藤愛子

 菩提寺の枇杷一族のごとこぞる・・・・・・・・中田六郎

 枇杷山の眩しさ海に近ければ・・・・・・・・畠山譲二

 枇杷に点る色のはるばる着きしごとし・・・・・・・・宮津昭彦

 枇杷の木の少年枇杷を一つ呉れる・・・・・・・・秋篠光広

 枇杷啜り土佐の黒潮したたらす・・・・・・・・渡辺恭子

 走り枇杷すでにひさげり火山灰の町・・・・・・・・大岳麗子



待てどくらせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵は月も出ぬさうな・・・・・・・・・・・・竹久夢二
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    待てどくらせど来ぬ人を

     宵待草のやるせなさ

     今宵は月も出ぬさうな・・・・・・・・・・・・竹久夢二


竹久夢二の作詞による「宵待草」の、この一節を、千葉県銚子の海鹿島海岸近くに、房総夢二会によって建てられた竹久夢二の碑文がある。

あいにく、この動画はぐるぐる動いて見にくいが、了承されたい。
夢二は明治43年、27歳の夏に海鹿島に滞在し、この「宵待草」のモデルとなる女性、長谷川カタに出会った。
宵待草とは、銚子の海岸に群生して夕方になると黄色い花を咲かせるマツヨイグサのことである。

ここに引いた夢二の作品には、以下のような「後日譚」がある。

レコード会社に頼まれた西条八十が二番を付けたという。

◆暮れて河原に星ひとつ 宵待草の花が散る 更けては風も泣くさうな

しかし、宵待草は萎れる花で、散る、ということは無い。
西条八十は晩年の自叙伝で「花が散る」を「花の露」に改めているそうである。
これは、「また聞き」であり、確認した訳ではないので、念のため。

ここで♪YouTube「竹久夢二 宵待草 川井郁子」♪の動画をお届けする。
川井郁子の演奏と共に、夢二のメルヘンチックな絵が次々と出てくる佳いものである。


月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・木村草弥

この歌は私の第一歌集『茶の四季』 (角川書店)に載せたものだが、「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。
正しくは「待宵草」という。南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。
繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。
正式には「オオマツヨイグサ」というらしい。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合ふ>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
6月半ばから一斉に咲き始めた。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。
花言葉も「ほのかな恋」という。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・文挟扶佐恵

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車



花合歓や補陀落といふ遠きもの・・・・・・・・・・・・・・角川春樹
img70合歓の花本命

     花合歓や補陀落(ふだらく)といふ遠きもの・・・・・・・角川春樹

いつも散歩というかウオーキングというか、の道の途中に合歓の木が一本ある。
ネムの花は、これからが丁度、花どきである。
この木はマメ科ネムノキ属。本州、四国、九州および韓国、台湾、中国、さらに南アジアに広く分布するという。
落葉高木で高さ6~9メートルに達し、枝は斜めに張り出して、しなやか。葉は羽状に細かく分かれた複葉で、夜になるとぴたりと合わさる。
そのゆえに葉の睡眠として「ネム」の名がつけられた。この図鑑の説明を読んでから、実際の木を見てみると、まさにその説明の通りである。

この句の作者・角川春樹は角川書店社長だったが、麻薬所持で検挙され禁固刑に処せられ、社長を辞めさせられ、弟の歴彦氏が後を継いだ。
父親の角川源義も俳人だったが、彼・春樹も名のある俳人で多くの句集を持つ。句集一冊ごとに作風が替わるという異色の俳人だった。
俳句作りにおいて、初句からずらずらと事物を叙述するというのは初心者のすることであって、
5、7、5の各部を「二物衝撃」のもとに配置するというのが現代俳句の面白みである。
この句でも「花合歓」と「ふだらく」との間に直接の関係はない。それを一句の中に、句の中の宇宙として組み立てる面白さがある。
「ふだらく」というのは、むかし海彼のかなたに浄土を求めて僧侶などが渡海した故事を指すが、熊野信仰というのは、これに深く関連する。
「合歓の花」というのは、そういう浄土への想いに関わるような気にさせるものかも知れない。

芭蕉の句に

 象潟や雨に西施がねぶの花

というのがあるが、「合歓」の花は、そういう悲運の女性を象徴するもののようで、この二つのものの取り合わせが、この一句を情趣ふかいものにした。
合歓の花については多くの句が詠まれている。少し引いてみよう。
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 総毛だち花合歓紅をぼかしをり・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 雲疾き砂上の影やねむの花・・・・・・・・・・・・三好達治

 銀漢やどこか濡れたる合歓の闇・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 どの谷も合歓のあかりや雨の中・・・・・・・・・・・・角川源義

 合歓に来る蝶のいろいろ花煽・・・・・・・・・・・・・星野立子

 合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず・・・・・・・・・・・・安住敦

 花合歓の下を睡りの覚めず過ぐ・・・・・・・・・・・・飯田龍太

 合歓咲けりみな面長く越後人・・・・・・・・・・・・森澄雄

 合歓の花不在の椅子のこちら向く・・・・・・・・・・・・森賀まり

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり・・・・・・・・・・・・橋間石

 風わたる合歓よあやふしその色も・・・・・・・・・・・・加藤知世子

 山に来て海を見てゐる合歓の花・・・・・・・・・・・・菊地一雄

 花合歓の夢みるによき高さかな・・・・・・・・・・・・大串章

 葉を閉ぢし合歓の花香に惑ひけり・・・・・・・・・・・・福田甲子雄

 霧ごめの二夜三夜経てねむの花・・・・・・・・・・・・・藤田湘子
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私にも合歓を詠んだ歌がある。第二歌集『嘉木』(角川書店)に

 夕されば仄(ほの)と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある・・・・・・・・木村草弥

この歌は、この歌集の「つぎねふ山城」の章の「夏」に載る。「待つ人」とは、もちろん妻のことである。
その妻が亡くなった今となっては、一層想いは深いものがある。
念のために、その一連を引用してみよう。

 若き日の恋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

咲き満ちて真夜も薔薇(さうび)のひかりあり老いぬればこそ愛(いと)しきものを

夕されば仄と咲きいづる合歓の香に待つ人のゐる喜びがある

はまなすの丘にピンクの香は満ちて海霧(じり)の岬に君と佇ちゐき

茎ほそき矢車草のゆれゐたる教会で得し恋いつまでも

むらさきのけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ

幸せになれよと賜(た)びし鈴蘭の根が殖えをりぬ山城の地に

原爆を許すまじの歌ながれドームの廃墟に夾竹桃炎ゆ

ガーベラに照り翳る日の神秘あり鴎外に若き日の恋ひとつ

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと

藤房の逆立つさまのルピナスは花のいのちを貪りゐたり

しろじろと大きカラーの花咲きて帆を立てて呼ぶ湖の風

これらの歌は、それぞれの花の「花言葉」に因む歌作りに仕立ててある。それぞれの花の花言葉を子細に調べていただけば、お判りいただけよう。
もう十数年以上も前の歌集だが、こうして読み返してみると、感慨ふかいものがある。「合歓の花」からの回想である。


をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
990930a虹

     をさなごのひとさしゆびにかかる虹・・・・・・・・・日野草城

この日野草城の句は、幼子がゆびさす「ひとさしゆび」に虹がかかっている、という心あたたまるような、ほのぼのとした情景が、さりげなく、かつ、的確に詠まれている。
幼子という素材にマッチして、虹という字以外は、全部ひらがな書きにしたところが、また憎い。何とも心あたたまる句である。

ここで虹の句を歳時記から少し引く。

 虹立ちて忽ち君の在る如し・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 虹のもと童ゆき逢へりその真顔・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹といふ聖なる硝子透きゐたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹なにかしきりにこぼす海の上・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 野の虹と春田の虹と空に合ふ・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 天に跳ぶ金銀の鯉虹の下・・・・・・・・・・・・・山口青邨

 いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず・・・・・・・・・・・・山口誓子

 虹消えて了へば還る人妻に・・・・・・・・・・・・・三橋鷹女

 目をあげゆきさびしくなりて虹をくだる・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 虹を見し子の顔虹の跡もなし・・・・・・・・・・・・石田波郷

 虹が出るああ鼻先に軍艦・・・・・・・・・・・・秋元不死男

 虹二重神も恋愛したまへり・・・・・・・・・・・・津田清子

 海に何もなければ虹は悲壮にて・・・・・・・・・・・・佐野まもる

 別れ途や片虹さらに薄れゆく・・・・・・・・・・・・石川桂郎

 赤松も今濃き虹の中に入る・・・・・・・・・・・・・中村汀女

「虹」は、ギリシア神話では、女神イリスが天地を渡る橋とされるが、美しく幻想的であるゆえに、文学、詩歌で多くの描写の素材とされて来た。
終わりに私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せた「秘めごとめく吾」と題する<沓冠>15首のはじめの歌を下記する。

 げんげ田にまろべば空にしぶき降る 架かれる虹を渡るは馬齢・・・・・・木村草弥


ねそびれてよき月夜なり青葉木莵森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・穂積忠
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    ねそびれてよき月夜なり青葉木莵(あをばづく)
       森かへてまた声をほそめぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・穂積忠


アオバズクは梟の一種で、鳩くらいの大きさ。「ほうほう」と二声づつ含みのある調子で鳴く。
オーストラリア辺りから渡ってくる夏の渡り鳥だという。

夏の、よい月の夜、寝そびれて、ふと聞きとめた青葉木莵の声。
途絶えたと思うと、思いがけない方角の森で、また鳴きはじめた。
声を細めて鳴きはじめるのが何とも言えず、ゆかしい感じがする。
引き込まれてアオバズクの声を追っている気持が「森かへて」や「声をほそめぬ」によく表れている。
鳥声に心もいつか澄んでゆく。

穂積忠は明治34年静岡県の伊豆に生まれ、昭和29年に没した。教育者だった。
中学時代から北原白秋に師事したが、国学院大学で折口信夫(釈迢空)に学んで傾倒、歌にもその影響が見られる。
昭和14年刊『雪祭』所載。

アオバズクは四月下旬頃に南方から飛来し、都市近郊の社寺などの森に棲んで5、6月頃に産卵、十月頃南方に帰る、という。
そして夜間に活動して、虫や小鳥、蛙などを食うらしい。名前の由来は、青葉の森の茂みの暗がりと声の感じがよく合って、この命名となったものか。
俳句にも、よく詠まれる題材で、少し句を引いてみる。

 こくげんをたがへず夜々の青葉木莵・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

 青葉木莵月ありといへる声の後・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 青葉木莵さめて片寝の腕しびれ・・・・・・・・・・・・篠田悌二郎

 眠れざる者は聞けよと青葉木莵・・・・・・・・・・・・相生垣瓜人

 青葉木莵おのれ恃めと夜の高処・・・・・・・・・・・・文挟夫佐恵

 五七五七と長歌は長し青葉木莵・・・・・・・・・・・・高柳重信

 青葉木莵産着のかたち縫ひ急ぐ・・・・・・・・・・・・杉山岳陽

 青葉木莵次の一語を待たれをり・・・・・・・・・・・・丸山哲郎

 考えを打ち切る青葉木莵が鳴く・・・・・・・・・・・・宇多喜代子

 眼を閉ぢてさらに濃き闇青葉木莵・・・・・・・・・・・・山口速

 うつぶせに寝る癖いまも青葉木莵・・・・・・・・・・・・石川美佐子

 青葉木莵遠流百首を諳じる・・・・・・・・・・・・野沢晴子

 青葉木莵夜もポンプをこき使ふ・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 青葉木莵木椅子を森の中ほどに・・・・・・・・・・・・井上雪


白雨の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・・・・・・・・・・・三井秋風
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    白雨(ゆふだち)の隈しる蟻のいそぎかな・・・・・・三井秋風

三井秋風は芭蕉と同時代の俳人。京都の富豪三井氏の一族で、洛西の鳴滝にあった別荘には、芭蕉らの文人が、よく往来したという。
いわゆる「旦那衆」パトロンという役回りと言えよう。
芭蕉が秋風を訪ねた時に残した一句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」という中国の神仙趣味の句があり、高雅を旨とした交友関係が偲ばれる。
秋風には「柳短ク梅一輪竹門誰がために青き」のような、西山宗因の談林派の影響下にある初期の漢詩風の破調句から、
上に掲出した句のような、夕立に急いで物かげに逃げてゆく蟻を詠む、といった平明な蕉風に近い句まであって、
当時の俳諧一般の作風の変化の推移のあとまで見えて、興味ふかい。『近世俳句俳文集』に載る。

この句の冒頭の「白雨」ゆふだち、という訓み、は何とも情趣ふかいものである。
広重の江戸風景の版画に、夕立が来て、人々が大あわてで橋を渡る景がある。

hiro-atake-b広重

これなどは、まさに白雨=夕立、の光景である。
もともとの意味は「白日」の昼間に、にわかに降る雨のことを「白雨」と称したのである。
こういうところに漢字の表記による奥深い表現を感じるのである。
以下、歳時記に載る蟻と夕立の句を引く。

 ぢぢと啼く蝉草にある夕立かな・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 小夕立大夕立の頃も過ぎ・・・・・・・・・・・・高野素十

 祖母山も傾山も夕立かな・・・・・・・・・・・・山口青邨

 半天を白雨走りぬ石仏寺・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 熱上る楢栗櫟夕立つ中・・・・・・・・・・・・石田波郷

 夕立あと截られて鉄の匂ひをり・・・・・・・・・・・・楠本憲吉

 蟻の道雲の峰よりつづきけん・・・・・・・・・・・・小林一茶

 木蔭より総身赤き蟻出づる・・・・・・・・・・・・山口誓子

 大蟻の雨をはじきて黒びかり・・・・・・・・・・・・・星野立子

 夜も出づる蟻よ疲れは妻も負ふ・・・・・・・・・・・・大野林火

 蟻殺すしんかんと青き天の下・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

 ひとの瞳の中の蟻蟻蟻蟻蟻・・・・・・・・・・・・富沢赤黄男

 蟻の列ここより地下に入りゆけり・・・・・・・・・・・・山口波津女

 蟻の列切れ目の蟻の叫びをり・・・・・・・・・・・・・中条明

 蟻の道遺業はこごみ偲ぶもの・・・・・・・・・・・・・・雨宮昌吉


散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は 一期の夢に昏るる寺庭・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は
        一期(いちご)の夢に昏(く)るる寺庭・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

沙羅の花を詠んだ私の歌としては

   沙羅の花ひそかに朝の地(つち)に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

   畳まで緑に染まる沙羅の寺黙読の経本を蟻がよぎりぬ

   地獄図に見し死にざまをさまよへば寺庭に咲く夏椿落つ


『嬬恋』『茶の四季』(いずれも角川書店)に載っている。これらも一体として鑑賞してもらえば有難い。

「沙羅」の花あるいは「沙羅双樹」というのは6月中旬になると咲きはじめるが、
これは平家物語の

  <祇園精舎の鐘の声、
   諸行無常の響きあり、
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必滅の理をあらはす>

に登場する有名な花であるが、実はインドの沙羅双樹とは無縁の木であり、「夏椿」を日本では、こう呼んでいるのである。 ↓  
aaoonatutu夏椿大判

こういうことは、よくあることで、たとえば「菩提樹」と言う木は沙羅の木と同様にインドの木で仏教でお釈迦さまの木として有名だが、
ヨーロッパにもベルリンのウンターリンデン大通などにある木も菩提樹と呼ばれているし、歌曲にも菩提樹というのがあるが、これも全く別の木である。

「夏椿」は一日花で次々と咲いては、散るを繰り返す。
その儚(はかな)さが人々に愛された所以であると言われている。
沙羅の木=夏椿は、その性質上、寺院に植えられていることが多い。
京都のお寺では有名なところと言えば、
妙心寺の塔頭(たっちゅう)の東林院
                城南宮
                真如堂
                法金剛院
                宝泉院

などがある。その中でも東林院は、自ら「沙羅双樹の寺、京都の宿坊」とキャッチコピーを冠している程で「沙羅の花を愛でる会」というのが、この時期に開催されている。
この寺をネット上で検索すると、今年の会は6/15~30ということである。

6_sara30616to11夏椿落花
写真③に見られるように、この時期には散った花が夏椿の木の下に一面に散り敷くようになり、風情ある景色が現出するのである。
いわば沙羅の花は「散った」花を見るのが主眼であるのだ。
だから私は歌で、わっと派手に散った花よりも咲く花が「ひそか」である、と表現したのである。
なお沙羅の字の読み方は「さら」「しゃら」両方あるが私としては「しゃら」の方を採りたい。

俳句にも詠まれているので、それを引いて終わりたい。「沙羅の花」が夏の季語。

 踏むまじき沙羅の落花のひとつふたつ・・・・・・・・日野草城

 沙羅散華神の決めたる高さより・・・・・・・・鷹羽狩行

 沙羅は散るゆくりなかりし月の出を・・・・・・・・阿波野青畝

 沙羅の花もうおしまひや屋根に散り・・・・・・・・山口青邨

 沙羅の花捨身の落花惜しみなし・・・・・・・・石田波郷

 秘仏の扉閉ざして暗し沙羅の花・・・・・・・・八幡城太郎

 沙羅の花見んと一途に来たりけり・・・・・・・・柴田白葉女

 天に沙羅地に沙羅落花寂光土・・・・・・・・中村芳子

 齢一つ享けて眼つむる沙羅の花・・・・・・・・手塚美佐

 沙羅咲いて花のまわりの夕かげり・・・・・・・・林翔

 沙羅の花夫を忘るるひと日あり・・・・・・・・石田あき子

 沙羅落花白の矜持を失はず・・・・・・・・大高霧海

うっかりして忘れていたが、My Documentsの中に「夏椿の実」というのがあったことを今思い出したので、写真④に出しておく。
夏椿見

東林院でも、そうだが、この頃はインターネット時代で、神社仏閣も、競ってHPを作って参拝者を募っている。
私の友人で歌人仲間で奈良の藤原鎌足ゆかりの談山神社の神官二人がいるが、そのうちの一人はHPを担当して神社のHP製作にあたっている。
HPを開いてから参拝者が3倍になったという。そんな世の中になったのである。
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参考までに、インドに生えている「正当」な沙羅双樹の樹の写真を下記に載せておく。
写真の中に、この樹の「花」が咲いているのが見えるので、ご留意を。
この写真は「yun」の無料提供のものを拝借した。原寸は大きいが縮小した。

yun_3615x.jpg

この写真に添えた「yun」氏のコメントに、こう書いてある。

タイのバンコクにあるワット・ポー内に生えていたサラソウジュ(沙羅双樹)の木(フタバガキ科、学名:Shorea robusta、原産地:インド)です。釈迦(しゃか)が亡くなったときに近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり,沙羅双樹の花の色,盛者必滅の理をあらはす」でも有名。ただし、日本では育たないので夏椿を代用しています。写真内には花が咲いているのが確認できます。

引用に感謝して、ここに御礼申し上げる。

蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・・・・・・・中島斌雄
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     蜥蜴かなし尾の断面も縞をもつ・・・・・・・・・・中島斌雄

ウォーキングしていて、道端の石の上を蜥蜴(とかげ)が横切ったので、急にトカゲのことを書く気になった。
トカゲは色々の種類が居るが、写真のような「青とかげ」が美しい。
掲出の句は、トカゲが危険を感じると、尻尾を切り離して逃げて、取り残された尻尾の断面が「縞」模様になっている、と観察眼するどく描いている。
切り離された尻尾が、まだ生きていて、ぴくぴくと動いているさまは、よく目にすることである。尻尾を切り離した尾の部分は、また再生する。

私も蜥蜴を詠んだ歌があるが、多くはないので、いま見つけられないので、この句を掲出する。
変温動物なので冬は冬眠する。
春とともに活動をはじめ、7、8月に土を掘って十個ほど産卵するというが、田舎暮らしながら、私は、まだ見たことがない。
爬虫類はどことなく不気味だが、蜥蜴は可愛い感じの小動物である。
その怜悧そうな目や、喉の動きなどは、動きのすばやさとともに印象的である。

蜥蜴を詠んだ句を引いて終わる。

 三角の蜥蜴の顔の少し延ぶか・・・・・・・・高浜虚子

 歯朶にゐて太古顔なる蜥蜴かな・・・・・・・・野村喜舟

 石階の二つの蜥蜴相識らず・・・・・・・・富安風生

 さんらんと蜥蜴一匹走るなり・・・・・・・・小島政二郎

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る・・・・・・・中村草田男

 薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ・・・・・・・・西東三鬼

 直はしる蜥蜴わが追ふ二三足・・・・・・・・石田波郷

 いくすぢも雨が降りをり蜥蜴の尾・・・・・・・・橋本鶏二

 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし・・・・・・・・加藤楸邨

 蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ・・・・・・・・山口誓子

 高熱の青き蜥蜴は沙(すな)に消え・・・・・・・・角川源義

 青蜥蜴おのれ照りゐて冷え易し・・・・・・・・野沢節子

 青蜥蜴オランダ坂に隠れ終ふ・・・・・・・・殿村莵糸子

 蜥蜴楽し青き牛蒡の葉に乗つて・・・・・・・・沢木欣一

 人に馴ることなく蜥蜴いつも走す・・・・・・・・山口波津女


草づたふ朝のほたるよみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉
s-109蛍

   草づたふ朝のほたるよみじかかる
      われのいのちを死なしむなゆめ・・・・・・・・・・斎藤茂吉


蛍は農薬の使用などで一時ものすごく数が減ったことがある。
この頃は蛍復活作戦とか言って、蛍の餌となる巻貝「カワニナ」の養殖や放流、農薬使用の自粛などで、あちこちで復活しつつある。
六月中旬になると、そろそろホタルが出はじめる。あいにく梅雨に遭うと蛍狩は中止である。
私の子供の頃は──と言っても、もちろん戦前のことである、蛍狩りには菜種の実を振い落した「菜種がら」を棒の先にくくりつけて、
暗くなると家族や友人たちと川べりに繰り出したものである。川べりと言っても、大河ではない。
せいぜい幅1、2メートルの田圃の中の水路などに蛍は居る。
川べりに着くと、中には悪童がいて、ゴムパチンコに花火弾をつけて人に向かって発射する悪戯をする連中がいた。
運悪く私の腹にあたり火傷をさされて、泣いて家に帰ったことがある。私が小学生の下級生の頃のことだ。
その頃、蛍は文字通り、うじゃうじゃといた。蛍籠に入れて持ち帰り、蚊帳の中に放して明りを消して楽しんだものである。
掲出したのは「ホタルブクロ」という草花である。白花と紅花とがある。
私の家にも一鉢があり、しばらく前からぼつぼつと咲きはじめた。

この茂吉の歌は蛍に感情移入して、蛍の短い命に心をよせて詠んでいる秀歌である。
今日は趣向を変えて俳句、短歌ごちゃまぜに蛍に関するものを採り上げたい。
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 うつす手に光る蛍や指のまた・・・・・・・・・・・・炭太祇

「うつす」は直接には「移す」で、捕まえた蛍を相手の掌中に移しているところだろう。
その蛍が指の股を透かして光っている。相手はうら若い女性か、それとも子供同士か。
いずれにせよ「うつす」が「映す」の語感を伴っている句作りが、全体にふっくらした味をかもしだしている。
炭太祇は江戸中期の俳人。江戸に生れて、京都を永住の地とした。蕪村より7歳年長だったが親しく交わり、影響を与えあった。
人情の機微をとらえた人事句に優れ、特色ある句が多い。

 <初恋や灯籠によする顔と顔>

 <寝よといふ寝ざめの夫や小夜砧>

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

 蛍這へる葉裏に水の速さかな・・・・・・・・長谷川零余子

 夏草のしげみが下の埋れ水ありとしらせて行くほたるかな・・・・・・・後村上院

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす・・・・・・・・山家鳥虫歌

一番終わりのものは和歌ではなく、7、7、7、5という音数律の「都都逸」と称するものである。
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歳時記から「蛍籠」「蛍狩り」の句を少し引いて終わりにする。

 蛍籠ともり初むれば見ゆるなり・・・・・・・・・・・・後藤夜半

 蛍籠極星北に懸りたり・・・・・・・・・・・・山口誓子

 あけがたやうすきひかりの蛍籠・・・・・・・・・・・・大野林火

 蛍籠霧吹くことを愛として・・・・・・・・・・・・山口波津子

 吾子の死へ朝が来てゐる蛍・・・・・・・・・・・・時田光子
 
 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・・・・・橋本多佳子

この「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである。

 蛍待つ幽に山のたたずまひ・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 夕焼の橋に遊んで蛍待つ・・・・・・・・・・・・鈴木花蓑

 磧(かはら)石蹠にあらく蛍狩・・・・・・・・・・・・高浜年尾

 闇にふむ地のたしかさよ蛍狩・・・・・・・・・・・・赤松恵子

 ひとすぢのこの川あふれ蛍狩・・・・・・・・・・・・前田野生子

水馬がふんばつてゐるふうでもなく水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     水馬(あめんぼう)がふんばつてゐるふうでもなく
        水の表面張力を凹ませてゐる・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

「あめんぼう」は小さな、体重の軽い水生昆虫だから、細く長い脚の先で、巧みに水の表面張力を利用して、六本の脚で立って、ひょいひょいと水面を移動する。
私は幼い頃から、内向的な性格で、こんな虫や蟻などの生態を、じっと眺めているのが好きだった。と言って「昆虫少年」になることもなかった。

歳時記を見てみると「みずすまし」という名前が、間違って、この「あめんぼう」のこととして呼ばれていたらしい。
「みずすまし」というのは全然別の虫であって、1センチほどの紡錘形の黒い虫である。

「まいまい」という名前がある通り、水面をくるくると輪をかいて廻っている。水中に潜るときは、空気の玉を尻につけている。
『和漢三才図会』には<常に旋遊し、周二三尺輪の形をなす。正黒色、蛍に似たり>と書かれている。
「あめんぼう」(水馬)については<長き脚あって、身は水につかず、水上を駆くること馬のごとし。
よりて水馬と名づく>
と書かれていて、なるほどと納得する。
「あめんぼう」という命名は、飴のような臭いがするので、この名があるという。
以下、「あめんぼう」についての俳句を少し引くが、その中で「水すまし」とあるのは間違いということになる。
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 水馬水に跳ねて水鉄の如し・・・・・・・・・・・・村上鬼城

 水隈にみづすましはや暮るるべし・・・・・・・・・・・・山口誓子

 夕焼の金板の上水馬ゆく・・・・・・・・・・・・山口青邨

 水馬交み河骨知らん顔・・・・・・・・・・・・松本たかし

 打ちあけしあとの淋しき水馬・・・・・・・・・・・・阿部みどり女

 八方に敵あるごとく水すまし・・・・・・・・・・・・北山河

 水馬はじきとばして水堅し・・・・・・・・・・・・橋本鶏二

 水玉の光の強き水馬・・・・・・・・・・・・八木林之助

 水路にも横丁あつて水馬・・・・・・・・・・・・滝春一

 あめんぼと雨とあめんぼと雨と・・・・・・・・・・・・藤田湘子

 恋に跳ね戦ひに跳ねあめんぼう・・・・・・・・・・・・村松紅花

 あめんぼうつるびて水輪ひろがらず・・・・・・・・・・・・長谷川久々子

 風来の風風来の水馬・・・・・・・・・・・・・・・・・的野雄

 水すまし水くぼませて憩ひけり・・・・・・・・・・・・西嶋あさ子

ナルシスの鏡を磨く水馬・・・・・・・・・・・・宮下恵美子

 あめんぼと同じ身軽さ職退けり・・・・・・・・・・・・岡崎伸


飲みはじめてから/酔いが一応のレベルに達することを/熊本で/「おさが湿る」というそうな・・・・・・・・・・川崎洋
index酒器

        乾盃の唄・・・・・・・・・・・・・・・・・川崎洋

     飲みはじめてから
     酔いが一応のレベルに達することを
     熊本で
     「おさが湿る」というそうな
     「おさ」は鰓(えら)である
     きみも魚おれも魚
     あの女も魚
     ヒトはみな形を変えた魚である
     いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
     還ろう
     やがて われらの肋骨の間を
     マッコウクジラの大群が通過しはじめ
     落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
     飲めぬ奴は
     陸(おか)へあがって
     知的なことなんぞ呟いておれ
     いざ盃を
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この詩を見るかぎりでは、川崎洋は、結構な「呑んべえ」だったらしい。
「飲めぬ奴は/陸へあがって/知的なことなんぞ呟いておれ」というところなど、痛快である。

この詩の解説で彼は

<川崎洋>は本名である。生まれたのは東京都大森(現大田区)で、大森海岸に近い。太平洋戦争中、中学二年の時、父の郷里である福岡県へ転居した。有明海に臨む筑後の地で、ここで私は敗戦をはさむ七年間を過ごした後、現住地の神奈川県横須賀市に居を移し現在に到る。横須賀はご存じのように東京湾に面した市だ。
つまり私はずーっと海の近くに住み続けてきたことになる。体が潮を含んだ空気に馴染んでいて、生理的に安らぐからだろうが、そればかりではないような気がする。
日本民族は各地からやってきた諸民族の混交だとはよく言われるところだが、だとすると私は、南太平洋地域から流入した祖先の血をかなり色濃く受け継いでいるように思えてならない。・・・・南へは、行けば行くほど精神は弛緩し、手足はのびのびとする。南の持つ楽天性、向日性、陽気・・・。私の嗜好を並べ立てれば、たぶん歳時記の<夏>に属する項目が目につくだろう。
この詩は、私のなかの南が書かせたに違いないと、不出来の責任を祖先になすりつけたいというのが、いまの心境である。

と書いている。
川崎洋は1930年1月26日生まれで、2004年10月21日に死んだ。
私は彼より年長だと思っていたが、調べてみると私は同年の2月7日生まれだから彼の方が数日早く生まれている。
彼の詩は言葉はわかりやすいが、内容に深遠な思想を湛えているものがある。それについては後日に機会があれば紹介したい。
00000673_10ぐい呑

「盃」などの酒器の写真を載せたが、私は酒は嗜む程度だが、老年期になるまでは日本酒が嫌で、鼻の先に持ってくるだけで不快でビールなどを飲んでいたが、
不思議なことに老年になるとビールを飲むと腹が冷えて、また腹がふくれるばかりで好みではなくなった。
その代わりに日本酒が嫌でなくなり、チビチビと小さい盃で飲むのが性に合ってきた。
加齢によって嗜好も変るのである。
ただし、深酒をして酔いつぶれる人が身近にいて苦労したので、いわゆる「酒飲み」は嫌いである。
少量の酒を肴に文学論など戦わせるような酒が、よい。


池水は濁り太宰の忌の来れば私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥
庄助日誌

    池水は濁り太宰の忌の来れば
       私淑したりし兄を想ふも・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。

今日6月13日は小説家・太宰治の忌日。
昭和23年6月13日、彼は山崎富栄と三鷹上水に入水、同月19日に遺体が発見されたので忌日は今日だが、毎年墓のある禅林寺で行われる「桜桃忌」は19日になっている。

この歌は私の長兄・庄助が私淑していた太宰に、昭和18年に死んだ時に「療養日誌」を送り、それを元に太宰の『パンドラの匣』が書かれたことを意味している。
歌の冒頭の「池水は濁り」のフレーズは、太宰が入水に際して、仕事場の机の上に書き残して置いた、伊藤左千夫の歌

  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる

に由来している。
この年は雨の多い梅雨で、太宰が、この伊藤左千夫の歌を引用した心情が、よく理解できるのである。

太宰治のことについては、ここでは特別に触れることはしないが、『パンドラの匣』のモデルが兄であることは作品の「あとがき」にも明記されているし、
全集の「書簡集」にも兄と太宰との交信の手紙や兄の死に際しての太宰の父あての悔み状などが掲載されている。
写真①は2005年末に次兄・重信の手で上梓された、亡兄・庄助の『日誌』である。
この本については私の2009/04/17付けの記事に詳しい。
太宰治研究家で私宅とも親交のある浅田高明氏が「解説」を書いていただいた。
太宰研究者は、この本に書かれているようにたくさん居るが、兄の「療養日記」と「パンドラの匣」の、モデルと小説との異同や比較研究は浅田氏の独壇場であり、太宰研究者の中では知らぬ人はいない。
これらに関する浅田氏の著書は4冊にも上る。詳しくはネット上で検索してもらいたい。
「木村庄助」については ← のWikipediaの記事に詳しい。写真も見られる。

太宰治については、このBLOGでも何度か書いたので詳しくは書かない。
この歌の前後に載っている私の歌を引いておく。

宿痾なる六年(むとせ)の病みの折々に小説の習作なして兄逝く

私淑せる太宰治の後年のデカダンス見ず死せり我が兄

座右に置く言の葉ひとつ「会者定離」沙羅の花みれば美青年顕(た)つ

立行司と同じ名なりし我が祖父は角力好めり「鯱ノ里」贔屓(ひいき)

我が名をば与へし祖父は男(を)の孫の夭死みとりて師走に死せり


「桜桃忌」という季語も存在しているので、それを詠んだ句を引いて終わりたい。

 太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ・・・・・・・・石川桂郎

 太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子・・・・・・・・目迫秩父

 太宰忌や青梅の下暗ければ・・・・・・・・小林康治

 太宰忌や夜雨に暗き高瀬川・・・・・・・・成瀬桜桃子

 眼鏡すぐ曇る太宰の忌なりけり・・・・・・・・中尾寿美子

 太宰忌の桜桃食みて一つ酸き・・・・・・・・井沢正江

 濁り江に亀の首浮く太宰の忌・・・・・・・・辻田克己


蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・・・・・・・・室生犀星
s-109蛍

    蛍くさき人の手をかぐ夕明り・・・・・・・・・室生犀星

写真は白花ホタルブクロに止まるゲンジボタルである。

日本には十種類ほどが居るというが、一般的にはゲンジボタルとヘイケボタルである。
ゲンジの方が大きく、光も強い。
水のきれいなところに棲み、6月中旬ころから出はじめる。ヘイケは汚水にも居るといわれるが確認はしていない。
幼虫は水中に棲み、カワニナなどの巻貝を食べて成長する。
成虫の発光器は尾端腹面にあり、雄は二節、雌は一節だという。
この頃では農薬などの影響で蛍はものすごく減った。今では特定の保護されたところにしか居ない。
0003蛍狩

昔は画像②の絵のように菜種殻で作った箒で田んぼの中の小川に蛍狩りに出たものである。すっかり郷愁の風景になってしまった。
古来、多くの句が作られて来た。

 草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな・・・・・・・・松尾芭蕉

 手の上に悲しく消ゆる蛍かな・・・・・・・・向井去来

 大蛍ゆらりゆらりと通りけり・・・・・・・・小林一茶

などが知られている。 以下、明治以後の句を引いて終わりたい。

2_photほたる

 蛍火の鞠の如しやはね上り・・・・・・・・高浜虚子

 瀬がしらに触れむとしたる蛍かな・・・・・・・・・日野草城

 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍・・・・・・・・・前田普羅

 蛍火の流れ落ちゆく荒瀬見ゆ・・・・・・・・山口誓子

 蛍火やこぽりと音す水の渦・・・・・・・・山口青邨

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす・・・・・・・・橋本多佳子

 初蛍かなしきまでに光るなり・・・・・・・・中川宋淵

 死んだ子の年をかぞふる蛍かな・・・・・・・・渋沢秀雄

 ひととゐてほたるの闇のふかさ言ふ・・・・・・・・八幡城太郎

 蛍火や女の道をふみはづし・・・・・・・・鈴木真砂女

 ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜・・・・・・・・桂信子
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余談だが、掲出した写真①の白花ホタルブクロが今ちょうど咲いていて、その鉢を先日から玄関に飾ってある。
なよなよした草で紐で周囲を囲ってある。
茎立ち5本で十数輪咲いているが、しばらくは蕾が次々に咲くが花期は20日ほどしかもたない。
後の一年は、もっぱら根を管理するだけである。

乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
toukakukago乳母車②

     乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・橋本多佳子

夏の怒涛がうち寄せる海岸の砂浜、乳母車が波に向かって横向きに置かれている。
乳母車の中の幼児は怒涛を飽きることなく上機嫌で眺めているかも知れない。
しかし、この乳母車の位置や置かれ方には、読む人をハッとさせる危うさがある。
作者の感じ取った不安が、「よこむきに」の一語にさりげなく、しかし正確に表現される。
幼い命を容れる乳母車と、迫る夏の土用波の怒涛。
この句は作者の意図を、たぶん大きく超えて、深く読み込まれる類の作品だろう。

橋本多佳子は昭和38年64歳で亡くなった東京生れの人。九州小倉の橋本豊次郎と結婚。
自宅の櫓山荘での句会で虚子を知り、杉田久女に習う。あと山口誓子に師事する。
命に触れたものを的確な構成によって詠いあげたが、東京生まれだけあって都会的なセンスが溢れている。
この句は昭和26年刊『紅糸』に載る。
以下、多佳子の句を少し引く。

 若布(め)は長けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 月光に一つの椅子を置きかふる──夫の忌に

 母葬る土美しや時雨降る──82歳の母を郷土に葬る

 つゆじもや発つ足袋しろくはきかふる──四日市に誓子先生を訪う

 箸とるときはたとひとりや雪ふり来る

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 鶏しめる男に雪が殺到す

 万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす

 老いよとや赤き林檎を掌に享くる

 霧月夜美しくして一夜ぎり

 青芦原をんなの一生(よ)透きとほる──久女を恋いつつ遠賀川を渡る

 この雪嶺わが命終に顕ちて来よ

 おとろへて生あざやかや桜八重

 綿虫とぶものに触れなばすぐ壊(く)えん

 火を恋ふは焔恋ふなり落葉焚き

 雪の日の浴身一指一趾愛し
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私は彼女の句が好きで、何度も引いてきたが、ネット上に載る記事を、下記に転載しておく。
エピソードも豊かで、いい文章である。

2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと
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 橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。「忌籠り」と題する一句にある。

 曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

 息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

 深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

 雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

(『紅絲』昭和二十六)

*『橋本多佳子全集』(立風書房)、 『橋本多佳子句集』(角川文庫)
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彼女については何度も句を引いて書いてきたので、記事に重複があるかも知れないが、ご了承を願いたい。


そのかみの貴公子といふ未央柳黄なる雄蕊は梅雨を明るうす・・・・・・・・・・・木村草弥
FI249257_2E未央柳

     そのかみの貴公子といふ未央柳(びやうやなぎ)
        黄なる雄蕊は梅雨を明るうす・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店刊)に載るもので、「未央柳」は昔は「貴公子」として珍重されたらしいが、その由来を私は知らない。
「未央柳」は、この長い雄しべが特徴の潅木で園芸種としても栽培され、ウォーキングの途中などでときたまお目にかかるようになった。
小さな鉢植えに、この黄色い長まつげのような花が咲いているのを見ると、何だか健気に咲いているなあ、と一寸した感動ものである。

図鑑によるとオトギリソウ科の半落葉低木で高さ60センチから1メートル。原産地は中国で江戸時代に渡来したという。
株立状で多く枝分れし、葉は対に出てカワヤナギに似ている。
鑑賞用花木として庭に植えられるが、最近は公園や緑地帯に群植されるという。公害にも強いのだろうか。
その美しさから「美容柳」「美女柳」「金糸桃」などとも呼ばれるらしい。

私の歌にある「そのかみの貴公子」と呼ばれるに至る謂れについては私は知らない。
この花には、以下のような中国の文芸があるのを紹介しておこう。

玄宗皇帝が3000人の美女を見限り、ただ一人愛した楊貴妃との悲恋を詠んだ、白楽天の「長恨歌」の一節に次のような詩がある。

 帰り来たれば 池苑(ちえん)みな旧に依る
 太液(たいえき)の芙蓉 未央(びおう)の柳
 芙蓉は面(かお)の如く 柳は眉の如く
 此に対して 如何にぞ涙垂れざらん

「安禄山の乱」の後に、楊貴妃とともに過ごした長安の宮殿(未央宮)を訪ねた玄宗皇帝は、太液の池の芙蓉(蓮の花のこと)も宮殿の柳も、楊貴妃がいない以外は昔のままで、池の蓮の花は楊貴妃の顔に見えて、柳は楊貴妃の細く美しい眉に見えて、涙が止まらなかった、という意味である。

以下、歳時記に載る句を引くが数は多くはない。

 水辺の未央柳は揺れ易し・・・・・・・・・・・・清崎敏郎

 そのかみの貴公子なりき未央柳・・・・・・・・・・・・中西舗士

 未央柳咲き金色に婚ののし・・・・・・・・・・・・嶋田麻紀

 古語糺す未央柳の黄なる夜に・・・・・・・・・・・・高木石子

 ひとりゐて未央柳の雨ふかし・・・・・・・・・・・・上野好子

 降りぐせの風の重さよ未央柳・・・・・・・・・・・・横田さだ子

 傘ひらく未央柳の明るさに・・・・・・・・・・・・浜田菊代
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マグ氏の話によると、この花木は、とても強い木で、一度植えるとどんどん大きくなるらしい。
私の歌には詠ったものの、私の方の庭には、この木はない。
雨模様の鬱陶しい梅雨の時期に黄色の花が咲く様は、まさに「梅雨を明るうす」るにふさわしい。
特に、写真のように「雄蕊」が黄色くて、長いのが印象的である。

掲出の歌をはじめ、ここに引用した私の歌群は、残念ながら『嬬恋』自選60首には全部は収録していないので、Web上では、ご覧いただけない。
そこで、この歌を含む一連その他を下記してみたい。

  解語の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴(ざくろ)と知りぬ

そのかみの貴公子といふ未央柳(びやうやなぎ)黄なる雄蕊は梅雨を明るうす

おんばこの穂を引抜きて草角力(すまふ)したるもむかし夕露しとど

目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を

桧扇を活くる慣ひはいつよりか一期一会の祇園会となる

玄宗が楊妃を愛でし言の葉に因める「解語の花写真家倶楽部」

「解語の花写真家倶楽部会長」の秋山庄太郎きのふ逝きたり

4首目の歌は「自選」60首に収録してある。
この小項目の見出し「解語の花」というのは、唐の皇帝・玄宗が愛妾・楊貴妃のことを、「言葉を解する花」と言って愛玩したという故事に因む。
秋山庄太郎は「女性専科」の写真家と呼ばれた時期があり、女性を専門的に撮る「解語の花写真家倶楽部」というのが実在したのである。
私は写真は下手だが、写真集は好きで集めていたので、この歌になった。
私にとっては一時期を思い出させる、懐かしい歌群である。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

裸木の蕭条と立つ冬の木よわれは知るなり夏木の蒼を

<老梅いつぽんあるゆゑ家を捨てられず>我には捨てし老梅がある

うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば

洗礼名マリアなる墓多ければ燭ともす聖母の花アマリリス

月下美人たまゆらの香を漂はす明日ありや花 明日ありや花

わが妻は函館育ち海峡を越えて蝦夷桜の初花待たむ

父母ありし日々にからめる縷紅草(るこうさう)ひともと残る崩垣(くえがき)の辺に

縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情(こころ)の傷つきやすく

雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしょくき)まぬがれがたく病む人のあり

このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

上から3、4首目の歌は「自選」60首の中に収録してある。
終りから3、4首目の「ルコウソウ」の歌については、2003年秋の「出版記念会」で、光本恵子氏が、この歌と私の生い立ちに触れて佳い批評をしていただいた。
この「批評」はWeb上の『嬬恋』のページの「出版記念会」のところで読むことが出来る。これらの歌群も、私の中では愛着のあるものばかりである。
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掲出した写真は、文中でも触れたがDoblogで親しくしていただいたマグ氏のもので、マグ氏は2006年夏に亡くなられた。
ご冥福をお祈りしたい。



あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹
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    あの夏の数かぎりなきそしてまた
       たつた一つの表情をせよ・・・・・・・・・・・・小野茂樹


過ぎ去った二人の輝かしい夏、あのとき君の表情は、一瞬一瞬変化する輝きそのものだった。
変化に満ちた数かぎりない表情、そして、また、そのすべてが君の唯一の表情に他ならなかった、あの夏の、あの豊かさの極みの表情をせよ、と。
恋人の「数かぎりなき」表情が、同時に「たった一つの」表情であるという「発見」に、この歌の要があることはもちろん、この発見は理屈ではない。
青年の憧れと孤愁も、そこには織り込まれて、心理的陰影が色濃く反映されている。

この歌および小野茂樹については短歌結社「地中海」誌上および「座右の歌」という短文に詳しく書いたことがある。

それを読んでもらえば私の鑑賞を十全に理解してもらえると思うが、ここでも少し書き加えておきたい。
小野茂樹は昭和11年東京生まれ。
河出書房新社の優れた編集者として活躍していたが、新鋭歌人としても将来性を嘱望されていたが、
昭和45年、退社して自宅に戻るべく拾ったタクシーの交通事故に巻き込まれ、あたら30有余歳の若さで急死した。
夫人の小野雅子さんは私も面識があり、原稿依頼もして頂いた仲である。
茂樹と雅子さんは、東京教育大学の付属中学校以来の同級生の間柄で、お互いに他の人と結婚したが、うまく行かず、
たまたま再会して、お互いの恋心に気づき、その結婚を放棄して、初恋の人と再婚した、というドラマチックな経過を辿っている。
それらのことについても、上記の私の「座右の歌」という文章にも書いておいた。
この歌は昭和43年刊の第一歌集『羊雲離散』所載である。

「座右の歌」という文章を読めば判る、というのでは、そっけないので、少し歌を引く。

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ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる・・・・・・・・・・・・・・・・小野茂樹

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声

強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し

くぐり戸は夜の封蝋をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき

いつしんに木苺の実を食らふとき刻々ととほき東京ほろぶ

かの村や水きよらかに日ざし濃く疎開児童にむごき人々

ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む

くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

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愛しあう若者のしぐさなども、さりげなく詠まれている。それに学童疎開の経験が彼の心に「苦い記憶」として刻まれていた歌が、いくつかある。
引用した一番あとの歌のように、彼の歌には「孤愁」とも言うべき寂しさがあり、私は、それが彼の死の予感みたいなものではなかったか、と思う。
これについて「座右の歌」には詳しく書いてある。
ぜひ「座右の歌」という私の文章にアクセスして読んで、十全に鑑賞してほしい。
なお、このHPの文章には、いくつか誤植があるので了承いただきたい。



冷されて牛の貫禄しづかなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
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    冷されて牛の貫禄しづかなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

「牛洗う・牛冷やす」は夏の季語。
炎天下の労働を終えた牛を、夕方、水に浸からせて体をきれいに洗ってやり、疲労を回復させる。
静かに、堂々となすがままに任せている牛。「貫禄」の一語が牛の描写を的確に成し遂げている。
こういう農村風景も、戦後は機械化の進展で、牛を労働力として使うこともなくなり、見られなくなった。
この句は昭和42年刊『万座』に載る。

秋元不死男は、昭和52年75歳で没した横浜生まれの人。旧号・東(ひがし)京三。
新興俳句運動の中心作家の一人でリアリズム俳句を唱えて、論・作両面で活躍したが、昭和16年、いわゆる俳句事件により検挙拘禁され2年間拘置生活を経験した。
戦後は現代俳句協会、俳人協会などの幹事をつとめ、数種の歳時記の編集など、啓蒙の面でも功績があった。
以下、不死男の句を少し引く。
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 寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き

 降る雪に胸飾られて捕へらる──昭和16.2.4未明、俳句事件にて検挙3句

 独房に釦おとして秋終る

 獄の冬鏡の中の瞳にも顔

 獄出て着る二十廻(とんび)に街の灯が飛びつく──昭和18.2.10夜、わが家へ帰る2句

 蝿生れ早や遁走の翅使ふ

 幸さながら青年の尻菖蒲湯に

 鳥わたるこきこきこきと缶切れば

 今日ありて銀河をくぐりわかれけり

 明日ありやあり外套のボロちぎる

 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し

 ライターの火のポポポポと滝涸るる

 焦燥や白魚に目がちよんとある

 年の瀬や浮いて重たき亀の顔

 病む妻の裾に豆撒く四粒ほど

 人工肛門(オストミー)のおなら優しき師走かな

 床ずれや天に寝返るつばくらめ

 ねたきりのわがつかみたし銀河の尾──(絶句)


風吹けばかさこそ竹の落葉して私語めくごとしあかとき夢に・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
DSCN2743竹林本命

  風吹けばかさこそ竹の落葉して
      私語めくごとしあかとき夢に・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

この歌のつづきに

竹と竹うち鳴らしつつ疾風は季(とき)の別れをしたたかに強ふ

というのが載っている。ちょうど季節の変わり目で疾風が吹きぬけることがある。
若葉の頃で俳句では「青嵐」という季語がある。
そして、また「竹の秋」「竹落葉」という季語もあるように、竹も新旧交代の時期で、ぐんぐん伸びる筍、若竹の裏に、新葉が出てくると古い葉が落ちるのである。
竹林には、そういう古い葉が降り積もって層になるのである。

私たちの住む辺りにも竹林が多い。聞くところによると関東には竹やぶがないそうであるが、私は確かめてみた訳ではない。
竹林というと京都・嵯峨野の竹林が有名である。ここは観光地であり、遊歩道としても整備されている。
写真②は、その嵯峨野の一風景。
thumbnenbutsuji4化野念仏寺竹林

私の歌について言えば「竹の落葉」が「私語めくごとし」というのがミソである。「あかとき」とは「あかつき」の古語である。
俳句にも先に季語を示したが、たくさん詠まれているので、それを引いて終わる。

 竹落葉時のひとひらづつ散れり・・・・・・・・細見綾子

 竹散つて風通ふ道いくすぢも・・・・・・・・石田あき子

 思ひ出すやうに散るなり竹落ち葉・・・・・・・・久永雁水荘

 竹散るやひとさし天を舞うてより・・・・・・・・辺見京子

 夏に病みて竹枯れやまぬ音に臥す・・・・・・・・斎藤空華

 竹の皮日蔭日向と落ちにけり・・・・・・・・高浜虚子

 ひと来りひと去り竹の皮落つる・・・・・・・・長谷川素逝

 皮を脱ぎ竹壮齢となりにけり・・・・・・・・宮下翠舟

 若竹や鞭の如くに五六本・・・・・・・・・川端茅舎

 竹の奥なほ青竹の朝焼けて・・・・・・・・加藤楸邨

 若竹や傾きわれもかたむけり・・・・・・・・八木林之助



虚国の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男
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  虚国(むなくに)の尻無川や夏霞・・・・・・・・・・・・・・・・・芝不器男

芝不器男は、大学生時代の望郷の句・・・・・  

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな

が虚子に激賞されたが、昭和5年、26歳で病没。
俳壇を彗星のごとく横切った俳人と惜しまれた。
作品わずか200句ほど、中に珠玉作を数多く持つ。

この句は日光中禅寺湖北方の乾燥湿原である「戦場ケ原」を尋ねたときのものである。
「虚国」(むなぐに)はまた「空国」、痩せた不毛の地をいう。
そのような原野を流れる川は、いつのまにか先が消えてしまう尻無川。あたり一面夏霞が茫々とかかっている。
句全体に一種の虚無感がただよい、時空を越えて古代世界に誘われるような情緒の感じられる句である。

不器男は明治36年愛媛県生まれ。東京大学林学科、東北大学機械工学科を出た。
独特の語感を持ち、古語を交えて、幽艶な調べをかもし出す。時間空間の捉え方も個性的だった。
昭和9年刊『芝不器男句集』所載。
以下、不器男の句を少し引く。

 汽車見えてやがて失せたる田打かな

 人入つて門のこりたる暮春かな

 向ふ家にかがやき入りぬ石鹸玉

 国原の水満ちたらふ蛙かな

 麦車馬におくれて動き出づ

 南風の蟻吹きこぼす畳かな

 井にとどく釣瓶の音や夏木立

 川蟹のしろきむくろや秋磧(かはら)

 浸りゐて水馴れぬ葛やけさの秋

 みじろぎにきしむ木椅子や秋日和

 野分してしづかにも熱いでにけり

 草市や夜雨となりし地の匂ひ

 大年やおのづからなる梁響

 寒鴉己(し)が影の上におりたちぬ

掲出の写真①は、新緑が芽生えはじめたばかりの頃の日光戦場ケ原のものである。
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芝不器男 写真②は旧制松山高等学校時代のもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芝不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 ~ 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。本名は太宰不器男(結婚後)。

 生涯
1903年(明治36年)愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの4男。
不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。

1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かなかった。
姉の誘いで長谷川零余子が主宰する『枯野』句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。
1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。
兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する『天の川』に投句。禅寺洞に勧められ、本名の不器男に改号。
『天の川』で頭角を現し俳誌の巻頭を占めるようになる。

1926年(大正15年)『ホトトギス』にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びる。
冬季休暇で帰省して以後は仙台に行かなかった。1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。

1928年(昭和3年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し太宰家の養嗣子となる。
1929年(昭和4年)睾丸炎を発病し福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。
12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。主治医・横山白虹の治療を受ける。
1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

生涯に残した俳句は僅か175句である。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせた。
主治医で俳人の横山白虹は「彗星の如く俳壇の空を通過した」と評した。

郷里の松野町では毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。
1988年(昭和63年)松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。
また、2002年(平成14年)生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。

作品集
不器男全句集(1934年)
定本芝不器男句集(1970年)
湧きいづる泉の水の盛りあがりくづるとすれやなほ盛りあがる・・・・・・・・・・・窪田空穂


  湧きいづる泉の水の盛りあがり
      くづるとすれやなほ盛りあがる・・・・・・・・・・・窪田空穂


信州の松本在に明治10年に生れた窪田空穂は、高等小学校の時、二里ほど離れた松本市の、早い時期に建てられた洋風建築で名高い開智学校に通った。
その通学の途中に広い柳原があり、奥に泉が湧いていた。
少年は、夏の日、泉のほとりの青草に寝そべり、ごぼごぼと湧き止まぬ泉の語る言葉に魅せられて、時の経つのも忘れることが多かった。
この歌は後年になって、その思い出を詠んだものだが、そのかみの泉は、この歌の中で、作者がこの世を去った今も、こんこんと湧きつづけている。
空穂は90年の生涯に19冊の歌集を編み、「万葉集」「古今集」「新古今集」全評釈の偉業を残した。結社「まひる野」主宰。
東京専門学校(早稲田大学)卒。早稲田大学名誉教授。昭和42年没。
子息は同じく早稲田大学教授の窪田章一郎。大正7年刊『泉のほとり』所載。
郷里の長野県松本市に「窪田空穂記念館」がある。

私の住むあたりも、昔は打ち抜き井筒から、勢いよく清水が湧き出る所だった。
こういう井筒を詩歌では「噴井」(ふきい)という。
この頃では、地下水の汲み上げ過ぎからか、こういう「自噴」する井筒を見かけない。みなポンプで汲み上げる。
だから田圃などでも細い水路に足踏みの水車などがあったものだが、今では全く見かけない。
以下、空穂の歌をいくつか書き抜きたい。
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夢くらき夜半や小窓をおし開き星のひとつに顔照らさしむ

鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

麦のくき口にふくみて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ

獣かとわが身思ほゆ日に照りて林も空も真青きを行き

かはたれと野はなりゆけど躍り落ち井堰の水のひとり真白さ

人呼ぶと妻が名呼べり幾度をかかる過ちするらむ我れは

円(つぶら)なる瞳を据ゑてつくづくと我れ見る子かな其の母に似て

生れかへり歌は詠まめと言道も曙覧もいひぬかなしやも歌は

鳴く蝉を手握りもちてその頭をりをり見つつ童走(は)せ来る

腹太の身重の目高は今日明日に目高の母とならむとすらし

松蔭に丹頂の鶴二羽ならび一羽静かにあなたに歩む

平安のをとこをんなの詠める歌をんなはやさしきものにあらず

測りがたき世に生くる身かたちまちに昼を夜となし夏の雹ふる

しきりにも瞬(まばたき)をする翁ゐて鏡の中より我を見おろす

桜花ひとときに散るありさまを見てゐるごときおもひといはむ

妻が蒔きし椿の実椿の木となりて濃紅(こべに)白たへ花あまた咲く
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2首目の歌は母を送る葬送の歌として空穂の絶唱として有名な歌である。
9首目の歌は「じーじー」と鳴く蝉を手に握って、疾走して来る子供が、途中で気になって、何度も見ながら駈けてくる、という精細な写生がぴったり決った秀歌である。
情景が目に浮かぶようだ。
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掲出したのは「自噴井戸」の動画だが、こういう力強い泉は近頃では珍しい。
窪田空穂の歌のイメージと、そっくりではないが、これで想像してもらいたい。

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太
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   谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

昭和30年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席捲したが、作者はその旗手だった。
この句は、その後の時期の作品。
「無季」の定型句だが、夜、狭い谷あいで鯉がもみ合っている情景を詠んでいるが、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。
無季句ではあっても、この句が喚起する生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものに違いない。
「鯉」というのが季語にないので<非>季節の作品として分類したが、鯉が盛んに群れて、もみ合うというのは繁殖行動以外にはないのではないか。
ネット上で見てみると、鯉の繁殖期は地域によって異なるが4~6月に水深の浅い川岸に群れて産卵、放精するという。
それこそ、兜太の言う「歓喜」でなくて何であろうか。
昭和48年刊『暗緑地誌』に載るもの。

無季俳句の関連で一句挙げると

 しんしんと肺蒼きまで海の旅・・・・・・・・・・・・・篠原鳳作

という句は、戦前の新興俳句時代の秀作で、南国の青海原を彷彿と思い出させるもので秀逸である。

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ここらで兜太の句を少し。下記のものはアンソロジーに載る彼の自選である。

 木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ──トラック島にて3句

 海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 水脈の果炎天の墓標を置きて去る

作者は戦争中はトラック島に海軍主計将校として駐在していて敗戦に遭う。

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

 銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊のごとく

作者は東京大学出。日本銀行行員であった。いわゆる「出世」はしなかった。

 どれも口美し晩夏のジャズ一団

 鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり

 犬一猫二われら三人被爆せず

 馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 遊牧のごとし十二輌編成列車

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか
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ネット上に載る「埼玉の文学─現代篇─」の記事を転載しておく。

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写真②は「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句碑。

文中に記事あり。

金子兜太 (1919~)

前衛の円熟 

 金子兜太は昭和30年代に前衛俳句運動の旗手として、戦後俳壇に大きな旋風を巻き起こした。現在は俳壇の重鎮として、もっとも活躍している俳人のひとりである。現代俳句協会会長、俳誌「海程」主宰、「朝日俳壇」 選者として、あるいはカルチャーセンターの講師、テレビの俳句講座、毎月の俳誌での活躍などで、その名はひろく知られている。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 昭和30年の第1句集『少年』より、郷里を詠んだ作品である。
 金子兜太は大正8年に小川町竹沢の母の実家で生まれた。当時父元春は上海にいたので、兜太は小学校入学までの大部分を竹沢で過ごしたが、2歳からの2年間は父のいる上海で過ごした。元春は15年に帰国して郷里秩 父の皆野町で開業。兜太は皆野の実家から皆野小学校へ通う。父元春は、伊昔紅と号する秋桜子門下の俳人でもあった。昭和6年に秋桜子が高浜虚 子の「ホトトギス」を離脱したとき、獨協中時代の友人としていちはやく 歩みをともにした。秋桜子の「馬酔木」の秩父支部を自認して毎月句会を開き、20年には自らも 「雁坂」を主宰した。また、卑俗な内容だった秩父豊年踊りの歌詞や踊りを、「秩父音頭」として現在の形にしたことでも 知られている。いくつかの句碑のほか、美の山公園にはその業績を顕彰して銅像が建てられている。兜太は、医師であり俳人であった父から生き方や俳句面で大きな影響を受けており、多くの回想を書いている。
 秩父の長瀞町の総持寺に、金子兜太の句碑がある。最寄りの駅は秩父鉄道の野上駅である。総持寺は秩父七福神のひとつ、福禄寿を祠っている寺。句碑は本堂の右後ろ手にある。どうだんツツジが植えられた斜面の下に 位置していて、碑の近くにある大きな泰山木と椿の木が印象的だ。秩父の自然石に兜太自筆の、

 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな

という句が刻まれている。平成元年7月に建てられたもので、碑陰には、 「海程秩父俳句道場十周年を記念し併せて金子兜太師の紫綬褒章受賞を祝い師の菩提寺である当寺境内にこの句碑を建てる」とある。総持寺は兜太の妻皆子の実家の菩提寺でもある。
 熊谷中学を卒業したあと、兜太は昭和12年に水戸高校文科に入学する。 俳句は18歳のとき、出沢珊太郎に誘われて校内句会に出たのが機縁で初めて作った。「白梅や老子無心の旅に住む」という句である。翌13年には全国学生俳誌「成層圏」に加わり、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男の作品に親しんで「俳句の可能性」を感じたという。16年に東京帝大経済学 部に入学。このころから加藤楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。草田男の 「内面的な新しさ」と、楸邨の「人柄」に惹かれたが、結局楸邨に師事することとなった。
 昭和18年9月に、大学を半年繰り上げで卒業し日本銀行に入行したが3日で退職、海軍経理学校で訓練を受けて、翌年3月に主計中尉として南方のトラック島に赴任した。敗色濃厚の時期の戦争体験と米軍捕虜としての 体験は、のちの金子兜太の人間観や俳句観に大きな影響を与えることになる。21年11月、最後の復員船で帰国した。そのときのことを詠んだ句に「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」「北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど」がある。 
 22年2月に日銀に復職、4月には塩谷みな子(金子皆子、「海程」同人 )と結婚した。この年、沢木欣一の「風」にも参加。24年には日銀の従業 員組合の初代事務局長(専従)をつとめた。このことについて兜太は「私 はトラック島から引き揚げる駆逐艦の上で、これからは反戦平和に生きる と腹を固めていました。組合活動も、それを実行に移したにすぎません」 (『二度生きる』)と述べている。その後、組合は切り崩しにあって、活動は封じ込められることになる。金子兜太は、福島支店を皮切りに、神戸 、長崎と10年に及ぶ支店勤務生活を送った。この時期に兜太は俳句専念を決意し、次々と話題作を発表する。

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
 路上に拾う蛍論理を身に刻み
 夜の果汁喉で吸う日本列島若し
 少年一人秋浜に空気銃打込む
 ガスタンクが夜の目標メーデー来る
 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
 朝はじまる海へ突込む鴎の死
 銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく
 湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
 殉教の島薄明に錆びゆく斧

 この時期、佐藤鬼房、鈴木六林男らと出会い、神戸では西東三鬼、永田耕衣らと親交を深める。また持論にもとづく俳論を意欲的に発表して俳壇に議論を呼んだ。それらの一部を題だけ引いてみると、「俳句における 社会性」(昭28)、「二つの急務」(昭29)、「俳句における思想性と社会性」「社会性と季の問題」(昭30)、「新しい俳句について」「破調は時代精神の要求か」(昭31)、「俳句の造形について」(昭32)、「三たび造形について」「前衛をさぐる」(昭35)、「造形俳句六章」「前衛の渦の中」(昭36)など。
 短歌の前衛運動に少し遅れて俳句の前衛運動は起こったかたちだが、引 いた題からもうかがえるように、金子兜太の考える前衛とは、俳句におけ る「社会性」と「造形」ということであった。その論旨は一言でいうと、 社会的存在としての自己を明確に認識し、態度や思想を肉体化、日常化した作品を詠むことと言える。そのために、定型(リズム)は守るが、季語にはこだわらないという考えであった。その実践として第1句集『少年』 を昭和30年に刊行し、翌年第7回現代俳句協会賞を受賞した。金子兜太を 中心にしたこの俳句における社会性論議は、戦後の俳句のひとつの流れを つくったと言える。
 金子兜太が支店勤務から東京に戻ったのは35年、折りしも安保闘争の最中であった。現代俳句協会は36年に前衛的な考えに依拠する現代俳句協会 と有季定型派の俳人協会に分裂する。翌37年に、金子兜太は「海程」を創刊して同人代表(昭和60年から結社誌になり主宰)となり、「古き良きものに現代を生かす」をスローガンとして掲げて活動の拠点とした。昭和47年には熊谷市に居を構え、49年に日銀を定年退職、円熟した活動を今日まで続けている。
 金子兜太の句碑は、熊谷の上中条にある天台宗別格本山常光院の境内にもある。静寂につつまれて落ち着いた雰囲気の寺である。山門を進んで行くと正面が本堂だが、その右手の庭に、

 たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

の句が、やはり自筆の力強い字で刻まれている。平成4年に建立された。 碑の高さは1.2 メートルほどで、宇咲冬男の碑陰によると、名工として労働大臣賞を受けた野口大作の手彫りである。同寺はひぐらしの名所で、金子兜太の散歩コースだったとのこと。俳句の盛んな県北の地らしく、境内には宇咲冬男の句碑のほか、投句箱や熊谷俳句連盟20周年を記念した大き な句碑もある。 
 金子兜太には、埼玉の地にちなんだタイトルをつけた句集として『暗緑地誌』(熊谷)、『皆之』(皆野)、『両神』の3冊がある。また、エッセイ集『熊猫荘点景』や俳論『熊猫荘俳話』の「熊猫荘」は熊谷の自宅の 呼称である。その他、たくさんのエッセイ集があるが、どれにも折に触れて秩父や皆野、熊谷について語った文章が収められている。庶民としての 一茶や、魂の漂泊者山頭火へのつよい共感とともに、郷里秩父は、金子兜 太に自身の原点を確かめる「分厚い領域」(「第二のふるさと」)として 存在している。金子兜太の前衛俳句が、一方では土着的で人間臭いのはこのためである。著書は句集、俳論、一茶論や山頭火論、エッセイなど多数 。

 人体冷えて東北白い花盛り
 暗黒や関東平野に火事一つ
 梅咲いて庭中に青鮫がきている
 夏の山国母いてわれを与太と言う
花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・・・・・・・・・・・高野素十
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     花菖蒲ゆれかはし風去りにけり・・・・・・・・・・・・・高野素十

「花菖蒲」はアヤメ科の多年草。「ノハナショウブ」の栽培変種で、観賞用に水辺・湿地に栽培され、品種が多い。
先日、カキツバタについて書いたところで、それらの違いについて触れておいた。
江戸時代から多数の品種が作られ、広く栽培されて、菖蒲園には愛好家がつめかけたという。
hanasyobu1429ss菖蒲田本命③

hanasyobu1418ss菖蒲田本命④

先日、カキツバタのことを載せたBLOGで、関連として菖蒲あやめのことを書いたところで、菖蒲は6月にならないと咲かないと言ったが、これは間違いで、5月中旬からそろそろ咲き始めるということである。
菖蒲田が満開になり田一面が花で埋まるのが5月下旬から6月上旬にかけてのことである。
私の住む辺りでは豊富な地下水を利用して各種の花卉栽培が盛んだが、5月中旬には「菖蒲まつり」が開催され、来会者に花菖蒲3本づつがプレゼントとして配られるという。
掲出する写真はいずれも菖蒲あやめである。色や柄もいろいろのものがある。私などは、やはり紫色が好きだが、これは各人の好みだろう。
hanasyobu1468ss菖蒲田本命②

私より二つほど年長の花卉栽培専業農家の人が居て、先日の端午の節句には菖蒲をたくさん戴いた。
これは露地のものではなく、ビニールハウスによる促成栽培のものである。
栽培農家としては蕾のうちに出荷し、花屋ないしは消費者の手元についてから花が開くようにするのが普通であるので、
私の方に戴いたのも、もちろん蕾のものであった。花が開いてからは開花期は短く二日ほどで萎れてしまう。
こういう端午の節句の菖蒲とか、お盆の蓮の花とかいう、期日の決まったものは期日に合せて出荷しなくてはならず、それまで花を保存するために
「冷蔵庫」を設置するなど多くの投資が必要である。
一時的に花を切る必要があるので、その時は臨時に人を増やして雇うこともあり、なかなか端(はた)から見て羨むほど楽な仕事ではないらしい。
こういう一時的な需要の集中する花は、その日が過ぎると、とたんに花の相場は大きく下がるのである。
この辺に農家としても経営的な手腕が求められるのである。
hanash花菖蒲

俳句にもたくさん詠まれているが少し引いておきたい。

 夜蛙の声となりゆく菖蒲かな・・・・・・・・水原秋桜子

 花菖蒲ただしく水にうつりけり・・・・・・・・久保田万太郎

 花菖蒲紫紺まひるは音もなし・・・・・・・・中島斌雄

 雨どどと白し菖蒲の花びらに・・・・・・・・山口青邨

 菖蒲剪つて盗みめくなり夕日射・・・・・・・・石田波郷

 菖蒲見に淋しき夫婦行きにけり・・・・・・・・野村喜舟

 黄菖蒲の黄の映る水平らかに・・・・・・・・池内たけし

 白菖蒲過去なくて人生きられず・・・・・・・・稲垣きくの

 菖蒲髪して一人なる身の軽さ・・・・・・・・田畑美穂女

 京へつくまでに暮れけりあやめぐさ・・・・・・・・田中裕明

 花菖蒲水のおもてにこころ置く・・・・・・・・加納染人

 白菖蒲空よりも地の明るき日・・・・・・・・中村路子

 ほぐれそめ翳知りそめし白菖蒲・・・・・・・・林翔

 咲きそめて白は神慮の花菖蒲・・・・・・・・藤岡筑邨

 てぬぐひの如く大きく花菖蒲・・・・・・・・岸本尚毅

 花菖蒲どんどん剪つてくれにけり・・・・・・・・石田郷子

 菖蒲田のもの憂き花の高さかな・・・・・・・・糸屋和恵
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「菖蒲しょうぶ」と「あやめ」は厳密には区別されているらしい。アヤメは野生のものを指し、菖蒲は栽培種を指すらしい。「属」が同じものか違うのか、などは判らない。一応お断りしておく。



日が照ればエーテルのごとく香を放つ楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・木村草弥
konara小楢本命

   日が照ればエーテルのごとく香を放つ
    楢の若葉よ午前六時だ・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

写真は小楢の若葉である。ちょうど開花期で雄花序が垂れ下がっている。
ナラ、クヌギの類は人家に近い、いわゆる「里山」の木で、薪にされてきたもので、伐採した後には株元から次の新芽が出てきて林が更新するのである。

konara4コナラ青

写真②はナラの実、いわゆるドングリである。ナラの実は細長い。クヌギの実は、もっと丸い形をしている。

里山は薪などに加工して、伐採して世代更新をしないと木は大きくなりすぎて逆に荒廃する。
この頃では農村でも台所では電気やプロパンガスを使うので薪の使い場所がない。
ようやくシイタケ栽培のホダ木としてシイタケの菌を打つ位であるが、そのシイタケが中国産に押されて価格が下がり日本産は採算が合わないとかで、栽培は減っている。
五月に入ると里山も気温がぐんぐんあがり、天気のよい、湿気の多い日には林はむっとむせかえるような様子になる。
yun_1079白糸の滝

私の歌は、そういう楢の林が新緑に満ちた朝六時の光景を詠っている。
新芽からはツンとする新緑特有の香りが立ち、太陽が中天にさしかかると、むせかえるような空気に包まれる。
「森林浴」というのは本来、ロシアで言われてきたことで、針葉樹の木から出る「フィトンチッド」というエーテル系の成分が体によいことを指したのだが、
今では広葉樹の森の森林浴も含めて言われるようになってしまった。しかし、いずれにせよ森林浴というのは、いいものである。

俳句にも「新緑」「新樹」など多く詠まれているので、それを引いて終わりたい。

 大風に湧き立つてをる新樹かな・・・・・・・・高浜虚子

 夕風の一刻づつの新樹濃し・・・・・・・・中村汀女

 阿蘇も火を噴くと新樹のきのふけふ・・・・・・・・百合山羽公

 夜の新樹詩の行間をゆくごとし・・・・・・・・鷹羽狩行

 若葉して御目の雫拭はばや・・・・・・・・松尾芭蕉

 若葉して手のひらほどの山の寺・・・・・・・・夏目漱石

 まざまざと夢の逃げゆく若葉かな・・・・・・・・寺田寅彦

 槻若葉雫しやまずいつまでも・・・・・・・・加藤楸邨

 青葉若葉しかすがに逝く月日かな・・・・・・・・中川宋淵

 青葉満ちまなこばかりの稚魚誕生・・・・・・・・加藤一夫

 動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・五百木瓢亭

 新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・日野草城

 新緑の天にのこれりピアノの音・・・・・・・・目迫秩父

 摩天楼より新緑がパセリほど・・・・・・・・鷹羽狩行

 水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・辻田克己

 まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・沖田佐久子


をとこにて栗の花咲く樹下にゐる鬱情の香の満つる真昼を・・・・・・・・・・・・木村草弥
kuri2栗の雄花

     をとこにて栗の花咲く樹下にゐる
         鬱情の香の満つる真昼を・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「栗の花」というと少し説明が必要だろう。
栗の花は、ちょうど男性のスペルマの臭いと同じ香りを発する。だから栗の花というと、文学的には「精液」あるいは「性」の暗喩として使われることが多い。
栗の花が咲くのは梅雨前のむせかえるような時期で、男性のスペルマのような特有の青臭い臭いを甘たるくしたような臭いは、嗅いだ人でないと理解できないかも知れない。
だから、私の歌も、そういう「喩」を前提にした歌作りになっている。この歌の収録される項目の名が「フェロモン」というのから察してもらいたい。

写真②は図鑑から拝借したものだが、雄花と雌花を一緒に見ることが出来る。字で説明してあるのでわかり易い。雌花の棘のようなものが、のちに栗のイガになる。
kuli2栗の花

栗咲くと森のいきものなまめける・・・・・・・・能村登四郎

栗咲くと面のすさぶ翁かな・・・・・・・・飯島晴子

栗咲く香血を喀く前もその後も・・・・・・・石田波郷

栗の花ふり乱すなり多佳子の忌・・・・・・・・平畑静塔

栗の花ねつとりと粥噴きこぼれ・・・・・・・・橋間石

まどろめばあの世の栗の花匂ふ・・・・・・・・滝春一

ここに引用した六つの句などは、先に書いた「栗の花」の意味する「喩」のイメージで作られていることは、間違いない。
このような「イメージ」「喩」については西欧文学でも同じことであって、向うでは、もっと徹底していて、それらを「イメージ小辞典」として一冊の本にまとめられていたりする。

以下、栗の花を詠んだ句を引いて終わる。

 栗の花脚の長さは尚ほ仔馬・・・・・・・・中村草田男

 栗咲けりピストル型の犬の陰(ほと)・・・・・・・・西東三鬼

 ゴルゴダの曇りの如し栗の花・・・・・・・・平畑静塔

 赤ん坊に少年の相栗の花・・・・・・・・沢木欣一

 花栗のちからかぎりに夜もにほふ・・・・・・・・飯田龍太

 栗の花匂ふとき死はみにくいもの・・・・・・・・桂信子

 栗咲く香この青空に隙間欲し・・・・・・・・鷲谷七菜子

 中年や栗の花咲く下を過ぐ・・・・・・・・神蔵器

 栗の花より栗の実がうまれけり・・・・・・・・平井照敏

 父いまもゴッホを愛し栗の花・・・・・・・・皆吉司

 老人に花栗の香の厚みかな・・・・・・・・橋本郁子



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