K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(7月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
img70合歓の花本命

七月になりました。
梅雨が明けたら、輝く夏が始まります。


 横断歩道わたればふいに縞々の孤独おしよせ靴が脱げたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
 雨降りてなほ動かざる蝶のむくろ羽の模様にひびが入りたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢村斉美
 人の死の続くはこれも世の常にて離合集散の遂のかたちや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大島史洋
 蔵という文字の中に月光と黴のにおいのするから覗く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松平盟子
 人間のための明かりを消ししのち暗闇にうごく機械七台・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松村正直
 存在の孤独は朝の噴水の水全身に浴びて立ちたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷岡亜紀
 ふすべ、むすべ、否否ひさごと語をたぐる小さきへうたん成りゐる垣根・・・・・・・・・・・沢口芙美
 わが行きし三十分の異界あり梅雨につつまれ午睡より覚む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三枝昂之
 枝ごとに婚の花束捧ぐごと百日紅のしろき花満つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大塚寅彦
 立ちて百日紅坐りては見る千年紅われ息長にその紅を吸ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
 今のわが思惟の如きか砂浜を掘つても掘つても形崩るる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤岡武雄
 伸びほうだいに伸びて威張れり何様かこの月下美人は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐佐木幸綱
 一輪の花に世界を見よといふあなおそろしき花の前にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・百々登美子
 卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・・・・・・鈴木栄子
 貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・・・・・羽田岳水
 みなづきの何も描かぬ銀屏風・・・・・・・・・・・・・・黒田杏子
 七月の孔雀の色を窺へり・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
 さるすべり美しかりし与謝郡・・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
 七月や新書にしるすダビデの詩・・・・・・・・・・・宮田登喜子
 分校の生徒は五人金魚飼ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 陸封のドルフィン飛びをり日の盛り・・・・・・・・・・・高島征夫 
 湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ・・・・・・・・・・・・・西東三鬼
 失ひし帽子いよよに白き夏・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子
 水中花一糸まといて咲きいたり・・・・・・・・・・・・・・渋川京子
 地はたちまち化石の孵化のどしゃぶり・・・・・・・・・豊里友行
 海を見に行く白靴のおろしたて・・・・・・・・・・・・・・村上鞆彦
 てのひらのまんなかに傷夏はじめ・・・・・・・・・・・・瀬戸正洋
 急流を鮎師は腿で押しかへす・・・・・・・・・・・・・・・広渡敬雄
 さらさらと基地のポストに蜥蜴入る・・・・・・・・・・・・松野苑子
 うすごろもはらりといらんいらんの木・・・・・・・・・・ 四ッ谷龍
 シャングリ・ラあるいは東電OL殺人事件・・・・・・・・・田中濯
 山河あり静かに足を浸けるべし・・・・・・・・・・・・・富山やよい
 臨界を見るまで磨く大ふぐり・・・・・・・・・・・・・・・・・上野勝彦
 破戒系そのまま蛸になるだろう・・・・・・・・・・・・・・・岩根彰子
 この先は抜けられませぬ蛍狩・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿 


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

本文の中で「色の変っている」部分は「リンク」になっていることを意味します。クリックで当該記事へ飛びます。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   「地球上のすべての人が、
  人類すべての知識への自由かつ完全なアクセスを分かち合えたら、
  と想像してみてください。」
──── ウィキペディア創設者 ジミー・ウェールズ

「角川書店」話題の新刊書籍
「新潮社」 今月の新刊
講談社BOOK倶楽部
「集英社文庫」新刊
「岩波書店」
「青土社・ユリイカ」
詩の本の思潮社
文芸春秋社・書籍ショールーム

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。

少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
010704aokanabun1アオカナブン

    少年は樹液饐(す)えたる甘き香を
        にほはせ過ぎぬ露けき朝を・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


学校の夏休みが始まり、いよいよ少年たちの楽しい夏だ。
掲出の写真は樹の樹液に集る虫である。  写真①はカナブンである。
樹液は甘い香りがして、実際は酢と甘さとアンモニア臭と色々のものが混ざったものらしい。
とにかく、昆虫採集をして樹液の近くに居ると、体に樹液の匂いが沁みつくもので、私の歌は、そんな少年の情景を詠んでいる。
私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたものである。
樹液の沁み出す樹の傷には、いろいろの虫が集ってくる。
虫にも強弱があり、力の強いカブトムシなどはズカズカと樹液に到達するが、弱い虫は遠慮がちにオズオズと周辺から辺りをみながら近づいてくるから面白い。
写真②はカブトムシの雌雄である。
kb-kabu2カブトムシ

私は少年の頃は虚弱児で、活動的な子ではなかったが、田舎ですぐ近くには雑木林があるような環境だったから上級生に連れられて虫を捕まえに行ったりした。
水泳なんかも、上級生に無理に川に突き落とされて、溺れまいと必死で泳ぎを覚えたものである。
三番目はミヤマクワガタの雄である。
miyamatarouミヤマクワガタ

四番目の写真はミヤマクワガタの雌である。

040629miyamaミヤマめす

おおよそ昆虫は雄が大きく牙も大きい。少年の頃は何も知らずに牙の大きいのを源氏、小さいのを平家などと呼んでいた。
(昆虫の雄が大きい、というのは正確ではない。バッタ、イナゴ、カマキリなどは雄が小さく、雌が大きい)
樹液の出る傷のある樹が見当たらない場合は、上に書いたように樹液に似た液を作って樹の洞などに置いておくと虫が集ってくるものである。
その辺は少年なりの知恵と言えようか。
蝉などは幾つもの種類が朝早くから、やかましく鳴いていた。あまり蝉採りなどはしなかった。
蝉の名前が思い出せない小さな蝉でじーじーと鳴くのがうるさかった。
夏の終りに近づくとかなかなと蜩(ひぐらし)が鳴き出す。ツクツクボウシも秋口の蝉である。

先日、暑いさなかをゴルフしていたら、何年も年月を経た大きなポプラの木に羽化した蝉の抜け殻があり、木の周りに地下から幼虫が出てきた穴が、
いくつもあった。日本の蝉は地下に数年棲んでいるから、幼木にはまだ蝉は棲みつかない。
nokogirikun.jpg

五番目はノコギリクワガタという立派なクワガタで、体の色が赤銅色に光っているのが特徴。この虫が子供たちにも人気があった。
昔はクヌギ、ナラなどの雑木は薪として利用されたので数年の更新期を経て伐採された。
そんなタキギとしての用途もなくなって、雑木林はうち捨てられた。
クヌギやナラは数年で更新されるから再生するのであって、切られなくなっては雑木林は衰退するばかりである。
琵琶湖のほとりに住む今森光彦さんは琵琶湖周辺を丹念にカメラに収めてきた人だが、琵琶湖周辺でも棚田や雑木林は、もう殆ど見られなくなった。
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虫などにまつわる私の歌を少し引いてみる。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)から

   沙羅の寺(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

楢の木の樹液もとめて這ふ百足(むかで)足一本も遊ばさず来る

かたつむりの竹の一節越ゆるを見て人に会ふべき顔とりもどす

蟻の国の事も知らずで箒もて掃くも殺すもガリバーの我
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新潮社の読書誌『波』2004年8月号の連載コラム「猫の目草」103回で、日高敏隆氏が「カブトムシたちの苦労」というのを書いてらっしゃる。
それを読むと、交尾の済んだカブトムシの雌は卵を生みつける手ごろな「腐葉土」を見つけて産卵すると、雌の一生は終る。カブトムシの幼虫は腐葉土を食べて育つ。
カブトムシと並んで子供たちの関心の的であるクワガタムシは、親はカブトムシと同じく樹液を唯一の食物としているのに、どういうわけか朽木に産卵し、幼虫は朽木を食べて育つ。朽木により腐り方がいろいろあり、クワガタムシの種類によって好みも違うが、総じて朽木は腐葉土に比べて栄養価がずっと低い。だからクワガタムシの幼虫が親になるには、少なくとも2、3年はかかる。けれど、その代わり、親は、カブトムシと違って2年以上生きられる。同じ樹液に集る虫なのに、カブトムシとクワガタムシは、まるで違った一生を過ごしているのである。
──こんなことは、今はじめて知ったことである。自然は一面、公平なところがあるのだ。
感心して追記しておく。

この記事を元にして『愛の寓意』(角川書店)に「樹液と甲虫たち」の題名で載せた。

百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
hyakun3百日草②

    百日を咲きつぐ草に想ふなり
        離れゆきたる友ありしこと・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。

「百日草」は名前の通り夏の間、百日間も秋まで咲きつづける草花である。病気などにも罹らず極めて強い花である。
この歌は「花言葉」をネタに歌の連作を作っていた時のものであり、百日草の花言葉は「不在の友を想う」である。
花言葉のことだが、私の歌の「離れゆきたる友」というのは正確ではなく、私の方から何となく離れていった、というべきだろうか。
私の性癖として、友人、知人の何らかが鼻につくと身を引くところがあるのである。
一種の潔癖主義というか、包容力のなさ、ということであろうか。

hyakun2百日草③

百日草に戻ると、この草は私の子供の頃からある草で日本の草のように思っていたが、外来種らしい。外国では「薬用」として栽培されていたという。
地味な花で、今では余り盛んに植えられては居ないようだ。

nichin6日日草

今では、これも秋まで百日以上も咲きつづける写真③の「日日草」が、これに取って代わるだろう。
極めて安価な草で、病気にも強く、広く植えられている。私の方でも植えている。
いま調べたところ「百日草」はメキシコ原産でキク科の一年草で、「日日草」は西インド原産でキョウチクトウ科の一年草という。
歳時記にも、両方とも載っているので、それらを引いて終わりたい。

 百日草ごうごう海は鳴るばかり・・・・・・・・三橋鷹女

 蝶歩く百日草の花の上・・・・・・・・高野素十

 これよりの百日草の花一つ・・・・・・・・松本たかし

 一つ咲き百日草のはじめかな・・・・・・・・瀬野直堂

 病みて日々百日草の盛りかな・・・・・・・・村山古郷

 心濁りて何もせぬ日の百日草・・・・・・・・草間時彦

 朝の職人きびきびうごき百日草・・・・・・・・上村通草

 毎日の百日草と揚羽かな・・・・・・・・三輪一壺

 母子年金受く日日草の中を来て・・・・・・・・紀芳子

 働かねば喰えぬ日々草咲けり・・・・・・・・佐伯月女

 日日草なほざりにせし病日記・・・・・・・・角川源義

 紅さしてはぢらふ花の日日草・・・・・・・・渡辺桂子

 日日草バタ屋はバタ屋どち睦び・・・・・・・・小池一寛

 嫁せば嫁して仕ふ母あり日日草・・・・・・・・白川京子

 些事多し日日草の咲けるさへ・・・・・・・・・増島野花

 出勤の靴結ふ日ざし日日草・・・・・・・・鶴間まさし

いふならば余燼の生や百日紅・・・・・・・・・・能村登四郎
aaoosarusu1さるすべりピンク

    いふならば余燼の生や百日紅・・・・・・・・・・能村登四郎

百日紅──「さるすべり」は漢字読みして「ひゃくじっこう」とも呼ばれるが、この木もインド原産という。
最初は仏縁の木だったという。インド=お釈迦様という連想になるのであろうか。だから、はじめは寺院に植えられ、次第に一般に普及したという。
百日紅というのは夏の間、百日間咲きつづけるというところからの意味である。
和名はサルスベリで、木肌がつるつるで、木登りの得意な猿でも滑りそうな、という意味の命名であろうか。
写真の木肌を見てもらいたい。
プロである「植木職人」でも、木から落ちることがある(実際に転落事故が多く体を痛めることがある)ので、
験(げん)をかついで植木屋は「さるすべり」とは呼ばず「ひゃくじっこう」と言う。
元来、南国産であるから春の芽立ちは遅く、秋には早くも葉を落してしまう。
この木も夾竹桃と同じく、夏の代表的な花木である。

掲出の能村の句は、今の私の立場を言い表したようで、すぐにいただいた。
以下、歳時記に載る句を引く。

 炎天の地上花あり百日紅・・・・・・・高浜虚子

 さるすべり夏百日を過ぎてもや・・・・・・・・・石川桂郎

 いつの世も祷(いのり)は切や百日紅・・・・・・・・中村汀女

 朝よりも夕の初心百日紅・・・・・・・・後藤比奈夫

 さるすべり百千の花観世音・・・・・・・・松崎鉄之介

 一枝はすぐ立ち風のさるすべり・・・・・・・・川崎展宏

 さるすべりしろばなちらす夢違ひ・・・・・・・・飯島晴子

 さるすべり懈(ものう)く亀の争へり・・・・・・・・角川春樹

 秘仏見て女身ただよふ百日紅・・・・・・・・黛執

 軽く飲む筈の深酔さるすべり・・・・・・・・大牧広

 百日紅ちちははひとつ墓の中・・・・・・・・上野燎


うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂
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    うらごゑのどこからかして夾竹桃・・・・・・・・・・・・高島茂

夾竹桃は夏の花である。私の子供の頃には夾竹桃なんていう木は、そんなには生えていなかったが、今やあちこちに盛っている。
キョウチクトウは葉が狭く、花が桃に似ているという漢名をそのまま転用している。
夾竹桃は原産地はインドだが、江戸時代に中国から渡来して、当初は仏縁の木として寺院に植えられたが、後に一般に植栽されるようになった。
花は6月頃から咲きはじめ9月一杯咲きつづける。
とにかく炎暑が好きな木であり、強健な木なので公害にも強く、高速道路や工場地帯の隔離壁の作用をする木として多用されている。
花の色は紅色、赤色、白色などさまざまである。
aaookyouch夾竹桃白

炎天下に咲く花というのは限られており、夾竹桃は夏の花として欠かすことの出来ない花となった。
日本人には八月の原爆記念日、敗戦記念日など炎暑の時期に重い、辛い記憶の日々がめぐって来るが、
それらの折々の風景として夾竹桃が強く脳裏に焼きつくのである。
生命力の強さに励まされるという人も居る。ただ毒を持っているので敬遠される向きもある。
明治維新の後の「西南戦役」の際に兵士が、この木で箸を作って十数人が死亡したということが伝えられている。
私の歌にも夾竹桃を詠んだものはあるが、今回は遠慮して、歳時記に載る俳句を引いて終わる。
句に詠まれるのも多く、俳人には好まれる花のようだ。

 夾竹桃戦車は青き油こぼす・・・・・・・・中村草田男

 夾竹桃旅は南へばかりかな・・・・・・・・福永耕二

 夾竹桃花のをはりの海荒るる・・・・・・・・桂信子

 夾竹桃昼は衰へ睡りけり・・・・・・・・草間時彦

 白は目に涼し夾竹桃さへも・・・・・・・・稲畑汀子

 夾竹桃東京砂漠灼けはじむ・・・・・・・・千代田葛彦

 歯を抜きてちから抜けたり夾竹桃・・・・・・・・角川照子

 夾竹桃河は疲れを溜めて流れ・・・・・・・・有働亨

 夾竹桃燃ゆる揺れざま終戦日・・・・・・・・松崎鉄之介

 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ・・・・・・・・加藤楸邨

 夾竹桃奈良のほとけの雀いろ・・・・・・・・角川春樹

 夾竹桃造船の音ぶつかり来・・・・・・・・矢島渚男

 夾竹桃直線の道空港へ・・・・・・・・宮川杵名男

 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな・・・・・・・・平井照敏
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今日挙げた高島茂の句だが、高島茂のご子息の高島征夫氏が急死された今となっては、感慨新たなるものがある。
征夫氏のブログのサイト<風胡山房>も、主なきままに今だに存在しているが、虚しい限りである。
私のリンクに貼ってあるのも、思い直して消去した。後ろ髪引かれるような想いである。
改めて氏のご冥福を心からお祈りしたい。


蝙蝠に村々暮るる大和かな・・・・・・・・・・・・・・・大峯あきら
koumori4アブラコウモリ

    蝙蝠に村々暮るる大和かな・・・・・・・・・・・・・・・大峯あきら

大峯あきらは本名、大峯顕。昭和4年7月1日生まれ。「晨」代表同人。毎日俳壇選者。大阪大学名誉教授。放送大学客員教授 。
奈良生れで、句集に『吉野』『夏の峠』『宇宙塾』などがある。
哲学者で浄土真宗僧侶、俳人。龍谷大学教授も務める、中期フィヒテ研究・西田幾多郎研究で知られる。

この句は奈良県生まれの彼らしく、大和の夏の夕暮れの景を巧みに詠んでいる。

日本で人家近くで見られる蝙蝠(こうもり)は「アブラコウモリ」(イエコウモリ)と呼ばれるもので、掲出する写真は、いずれも、これである。
アブラコウモリは東アジアの人家に棲む小型のヒナコウモリ科の哺乳類。日本でもっとも普通に見られる住家性の蝙蝠。
写真②は蝙蝠の口。
koumori6アブラコウモリ

アブラコウモリは翼をひろげた長さが20センチほど。翼の間に見えるのが股間膜。これで羽ばたいて飛ぶ。
体長は約5センチ、前腕長3.2~3.5センチ、体重6~9グラムという。
普通は木造、プレハブなどの建物の羽目板の内側や戸袋などに棲みついたりするらしい。
数年前に二階の廊下に蝙蝠が入り込んで、亡妻が娘に早く追い出すように注意したことがある。下手に家の中に入れると棲みつかれてしまう。
鉄筋コンクリートの住宅の外に開孔する排気管の中に棲みついたりするらしい。この種類は洞窟や森林には棲まない。
夕方、街中や田んぼ、川の上を集団で飛びまわって飛びながら蚊や羽虫を食べている。
ツバメかと思って、よく見ると尻尾がないのでコウモリだと判る。
私が、このイエコウモリに初めて出会ったのは戦争末期に米軍の焼夷弾爆撃から街を守るために防火帯として広い道路を作るというので人家を強制的に壊した、
いわゆる「疎開道路」という政策のために京都駅南側の人家の引き倒しに動員された時である。
人家に潜んでいたイエコウモリを学友の誰かが捕まえて掌の中に包んでいたのである。掴んでみると哺乳類だから暖かかった印象が第一である。
コウモリは人には聞こえない周波数の高い声を出してレーダーのように使って、障害物を巧みに避けるという。
koumori8アブラコウモリ

蝙蝠は俳句などでは「かはほり」というが、これは蚊を欲するゆえと言い、この「かわほり」が転じてコウモリとなったという。
姿や習性から気味悪い動物と思われがちだが、虫などを食べる有益な動物だということである。

以下、歳時記に載る蝙蝠の句を引いて終わる。

 かはほりやむかひの女房こちを見る・・・・・・・・与謝蕪村

 かはほりや仁王の腕にぶらさがり・・・・・・・・小林一茶

 蝙蝠に暮れゆく水の広さかな・・・・・・・・高浜虚子

 蝙蝠やひるも灯ともす楽屋口・・・・・・・・永井荷風

 歌舞伎座へ橋々かかり蚊食鳥・・・・・・・・山口青邨

 蝙蝠に稽古囃子のはじめかな・・・・・・・・石田波郷

 三日月に初蝙蝠の卍澄み・・・・・・・・川端茅舎

 かはほりやさらしじゆばんのはだざはり・・・・・・・・日野草城

 鰡はねて河面くらし蚊食鳥・・・・・・・・水原秋桜子

 蝙蝠や父の洗濯ばたりばたり・・・・・・・・中村草田男

 蝙蝠や西焼け東月明の・・・・・・・・平畑静塔

 蝙蝠に浜のたそがれながきかな・・・・・・・・山下滋久

 妻の手に研ぎし庖丁夕蝙蝠・・・・・・・・海崎芳朗


昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
hamahiru021浜昼がお

    昼顔のあれは途方に暮るる色・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「昼顔」は、およそ野生のもので、よく目にするものとしては「浜昼顔」であろうか。
ヒルガオ科の蔓性多年草で、各地の海岸の砂地に自生する。
砂の中に地下茎が横に走り、地上茎も長く伸びて砂の上を這い、丸くて厚く、光沢のある葉を互生する。
旺盛な繁殖力で、ときに広い面積に群生しているのを見かけることがある。
地域によって異なるが5、6月ごろ葉腋に長い柄を出し、淡い紅色の花を上向きに開く。

この飯島晴子の句は、他の「存在感」を誇示するような花ではなく、地味に生きているヒルガオを「途方に暮れる色」と表現したのが秀逸である。

飯島晴子については ← いろいろ書いたので、ここを見てもらいたい。

私には昼顔や浜昼顔を詠んだ歌はないので、歳時記から句を引いて終わる。

 きらきらと浜昼顔が先んじぬ・・・・・・・・中村汀女

 浜昼顔咲き揃ひみな揺れちがふ・・・・・・・・山口草堂

 浜昼顔風に囁きやすく咲く・・・・・・・・野見山朱鳥

 はまひるがほ空が帽子におりてきて・・・・・・・・川崎展宏

 浜昼顔タンカー白く過ぎゆける・・・・・・・・滝春一

 浜ひるがほ砂が捧ぐる頂きに・・・・・・・・沢木欣一

 つつつつと浜昼顔の吹かるるよ・・・・・・・・清崎敏郎

 海高し浜昼顔に跼む吾に・・・・・・・・森田峠

 浜昼顔鳶が落とせし魚光り・・・・・・・宮下翠舟

 浜昼顔廃舟錨錆び果てぬ・・・・・・・・小林康治

 潮泡の音なく崩れ浜昼顔・・・・・・・・稲垣法城子

 天日は浜昼顔に鬱(ふさ)ぎつつ・・・・・・・・中村苑子

 浜昼顔島の空港影もたず・・・・・・・・古賀まり子

 風筋は浜昼顔を駈け去りし・・・・・・・・加藤三七子

 這ひながら根の消えてをり浜昼顔・・・・・・・・高橋沐石

 海鳴りや浜昼顔の引けば寄り・・・・・・・・下鉢清子

 浜昼顔に坐すやさしさの何処より・・・・・・・・向笠和子


「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・・・・・・・・・木村草弥
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     「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」
      デビュー作が『鼻』であったことを思い出してくれたまえ・・・・・・・・・木村草弥


昭和2年7月24日午後1時すぎ、芥川龍之介は伯母の枕元に来て、明日の朝下島さんに渡して下さいと言って、この句<水洟や鼻の先だけ暮れ残る>を書いた短冊を渡した、という。彼の辞世の句である。
短冊には「自嘲」と前書きしてあったことから、芥川の文業の終末を象徴せしめる凄絶な辞世の句となって了った。

この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)にコラージュ風の作品「辞世②」に載せたものである。この歌は「口語、自由律、現代かなづかい」を採っている。

chirashi芥川ポスター
二番目の写真は2004年4.24~6.6神奈川近代文学館で開かれた「芥川龍之介展」のポスターである。彼の生涯は1892年から1927年の35年間であった。

三番目の写真は『侏儒の言葉』の復刻版の函である。
931akutagawa1しゅじゅの言葉(函)

芥川龍之介は1892年に東京市京橋区入船町で出生、辰年辰月辰日辰の刻に生まれたというので「龍之介」と命名されたという。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に大正5年に発表した『鼻』を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物、事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材を採り、スタイルや文体を使い分けた、たくさんの短編小説を書いた。
体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なると言える。
彼の死の8年後、親友で文芸春秋社主の菊地寛が、新人文学賞「芥川賞」を設けた。

931akutagawa5羅生門
四番目の写真は『羅生門』だが、先に書いたようにいろいろの時代を題材にした中でも、これは有名な作品。後年、映画化などの際のネタ本となった。
芥川は、晩年『文芸的、余りに文芸的』という評論で「新思潮」の先輩・谷崎潤一郎と対決し「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、
これがずっと後の戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想させる、と言われている。
芥川は「長編」が書けなかった、などと言われるが、それは結果論であって、短編小説作家として、「賞」と相まって新しい新進作家を誕生させる記念碑的な存在である。


akutagawa-tokyo30w我鬼先生
五番目の写真は「樹下の我鬼先生」という自画像である。彼は俳号を「我鬼」と称し、多くの俳句を残している。
 
 人去ってむなしき菊や白き咲く

これは夏目漱石死後一周忌の追慕の句。同じ頃、池崎忠孝あての書簡には

 たそがるる菊の白さや遠き人

 見かえるや麓の村は菊日和


の句が見られるが、これも漱石追慕の句。 以下、すこし龍之介の句を引く。

 稲妻にあやかし舟の帆や見えし

「あやかし」は海に現れる妖怪をいう。謡曲「船弁慶」や西鶴の「武家義理物語」に登場する。俳句にも、こういう昔の物語に因むものが詠まれるのも芥川らしい。

 青蛙おのれもペンキぬりたてか

大正8年3月の「ホトトギス」雑詠のもの。友人がルナール『博物誌』に「とかげ、ペンキ塗りたてにご用心」があると指摘したら即座に、だから「おのれも」としてあると答えたという。

掲出の句 <水洟や鼻の先だけ暮れ残る> は『澄江堂句集』所載。そのイキサツは先に書いた。

 唐棕櫚の下葉にのれる雀かな

大正15年7月の「ホトトギス」に芥川は「発句私見」を書き、「季題」について「発句は必ずしも季題を要しない」としている。こうした論は芭蕉の「発句も四季のみならず、恋、旅、離別等無季の句有たきものなり」に影響されたものと言えよう。

先に掲げた『侏儒の言葉』の中には

 人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。

という「箴言」が載っている。これは芥川らしい「箴言」で、正と負の両方に1本のマッチを擦ってみせている。彼の説明によれば「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。
ということは、芥川にはもともと箴言的なるものがあり、この箴言の振動力を、どのように小説的技法となじませるかを工夫し続けてきたのだった。こうした箴言だけをアフォリズムとして書き連ねたのが、この本だと言える。

931akutagawa8全集
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私の掲出の歌で「デビュー作」としているのは正確ではない。
処女作は、この3年前に「新思潮」に出ているが、有名になったのは、この『鼻』であるので、ご了承願いたい。
今日7月24日が芥川の「忌日」であるので、日付にこだわって載せた。


一文字に引き結びたる唇の地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・・・・・・・木村草弥
takisaka02滝坂地蔵拡大

    一文字に引き結びたる唇の
       地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

「地蔵菩薩」は五十六億七千万年先に弥勒下生、という仏教説話に基づいて衆生を救いにやって来るという。
特に、子供の守り神として古くから庶民に信仰されている親しみのある仏様である。
だから路傍や墓地の入り口に鎮座する「六体地蔵」などで目にするものである。
掲出した歌の一つ前に

風化の貌(かほ)晒せる石が記憶する蜜蜂の羽音と遠雷の響きと

という歌があるが、これも一体のものとして鑑賞してもらいたい。
時まさに「雷雨」の季節であるから、ふさわしいと思う。
私の歌のイメージは、雷雨の中もいとわずに子供たちを引き連れて地蔵が野づらを渡ってゆく、という空想である。
thumb_1085912032稲妻

「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。
だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。そんな恐ろしい雷雨でも、地蔵には何ら支障はないのである。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。雷は「はたた神」とも言う。

 はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎

 夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎

 はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨

 赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨

 遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女

 遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子

 激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・石川桂郎

 遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾

 真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨

 鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし

 睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太

 大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨


かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・・・・・・・・・木村草弥
momo5t白桃
 
 かがなべて生あるものに死は一度
   白桃の彫りふかきゆふぐれ・・・・・・・・・・・・木村草弥

  
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでもご覧いただける。
白桃と言っても早生から晩生までいろいろ種類があるので一概には言えないが、そろそろ桃が出回る季節になってきた。
いま私の座っている座敷机の前の床の間に、この歌を吉川美恵子さんが書いていただいた軸が掛かっている。
吉川美恵子さんについては、ここで詳しく書いたので参照されたい。

この歌は、私の最近の「死生観」を濃密に反映したものと言えるだろう。
人間だれでも一度は死ぬものである。一世を風靡する権力者も市井の凡人も、すべて等しく「死」は免れない。
われわれは、そのことを忘れて過ごしがちである。特に、若い時や健康に恵まれて順調な時には「死」は意識の中にないのが普通であろう。
だが、古来、賢人たちは、このことに何度もメッセージを発してきた。ヨーロッパにおけるキリスト教にいう「メメント・モリ」然りである。

一方の「白桃」というのは文学的なイメージの世界では「女性の臀部」を象徴するものとして知られている。
桃のもつ特有のなだらかな丸い形。それに胴に入るくびれの線から、そのように概念づけされて来た。
「シンボル・イメージ小事典」などにも書かれている。
私の歌は、そういうことを踏まえて「メタファー」を含んでいると理解いただきたい。
白桃という「生」に対応する「死」ということである。

字句の解説をしておくと「かがなべて」というのは、「かが」=日々である。
この言葉には歴史があって「古事記」の倭建命と御火焼の老人との会話

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる・・・・・
 日日なべて夜には九夜 日には十日を

というくだりに出てくるフレーズを踏まえている。「なべて」=並べて、であり、「かがなべて」=日々をかさねて、という意味になろうか。
意識して古代の文学的な伝統に連なりたい、というところから、こういう古語を使うことになる。

以下に歌集に載る当該の私の歌8首を引用する。

      かがなべて

  臥す妻に紅ほのかにも合歓の花のこよひ咲き初む つぎねふ山城

  白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざしゐる宵

  唇(くち)を吸ふかたちにも似て水蜜桃(すいみつ)をすする夕べはほのあかりせり

  かがなべて生あるものに死は一度 白桃の彫り深きゆふぐれ

  わが味蕾すこやかなるか茱茰(ぐみ)ひとつ舌に載すれば身に夏の満つ

  執着を離れ得ざればかたつむり寝ても覚めても殻の中なる

  この夏の去りゆくものを追ひたてて炎となりて夾竹桃もゆ

  夕つかた虹の脆さを哀しめばわが痩身をよぎるものあり

一番はじめの歌の終りの部分「つぎねふ」というのは「山城」にかかる「枕詞」である。ここに引用した歌の小見出しの全体の章名を「つぎねふ山城」としてある。

歳時記から「桃」の句を引いて終わる。
なお俳句では「桃」は秋の季語である。今日では季節感とズレがある。

 さえざえと水蜜桃の夜明けかな・・・・・・・・加藤楸邨

 白桃を洗ふ誕生の子のごとく・・・・・・・・大野林火

 中年や遠くみのれる夜の桃・・・・・・・・西東三鬼

 朝市の雨沛然と桃洗ふ・・・・・・・・中島斌雄

 白桃に触れたる指を愛しみをり・・・・・・・・斎藤空華

 白桃に入れし刃先の種を割る・・・・・・・・橋本多佳子

 水蜜や足を清しく婚を待て・・・・・・・・秋元不死男

 白桃をすするや時も豊満に・・・・・・・・能村登四郎

 白桃や満月はやや曇りをり・・・・・・・・森澄雄

 白桃の浮きしが一つづつ沈む・・・・・・・・小松一人静

 桃冷す水しろがねにうごきけり・・・・・・・・百合山羽公

 乳房ある故のさびしさ桃すすり・・・・・・・・菖蒲あや

 と見かう見白桃薄紙出てあそぶ・・・・・・・・赤尾兜子

 白桃に触れてはがねの薄曇る・・・・・・・・松本秀子

 桃の実のほのぼのと子を生まざりし・・・・・・・・きくちつねこ


献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
2k_19mうなぎ丼

    献立(こんだて)は有季定型と鰻丼(うなどん)を
        妻は供しぬ土用丑の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は土用に入って初めての「丑の日」である。この日には「うなぎ」を食べることになっている。
年によっては土用に二回「丑の日」があり、今年がそれで8月2日にもある。
この歌はもう二十年以上も前の歌で私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
亡妻・弥生は俳句をやっていたので「有季定型」というのは、そこから来ている。定型という言葉には、季節の食事の「定番」という意味もこめてある。
この歌は私のWeb上のHPでもご覧いただける。
いつまでも亡妻でもあるまい、と思われるかも知れないし、また近年「中国産」のものに発ガン物質などの混入事件、産地偽装などがあって、
とかく「うなぎ」の評判が悪いが、今日の「丑の日」の記事として適当なものがないので、お許しを。
「うなぎ」好きの私なればこそである。

「土用」あるいは「丑の日」などの言葉は、「暦」に関係するもので、土用は二十四節気のもの。丑の日は十二支のものである。
深遠な暦法の話が、こうして、すっかり日本人の庶民の生活に溶け込んでいるのも微笑ましいことである。
mainひつまぶし

それよりも先ず、二番目の写真は名古屋地方で食べられる「ひつまぶし」という鰻丼の一種である。
セットになっていると結構高くて2000円くらいはする。中京圏ということで三重県でも出てくる。
名古屋は独特の生活慣習を持っているところで、うどんも「きしめん」という幅広のものが愛用される。
p000437うな重

三番目の写真は普通の「うな重」だが、このくらいの膳になると3000円~4000円は、する。肝吸いが付いていれば当然である。

ここで土用の丑の日に鰻が日を決めて食べられるようになったイキサツの薀蓄を少し。

江戸時代、何か鰻の食用増進に良い知恵はないかと、さる鰻屋が平賀源内に相談したところ、源内が「本日、丑の日」と紙に書いて店頭に張り出した、のがはじまりとされている。
土用の丑の日に消費される鰻の数は、物凄いもので、鰻屋としては平賀源内は神様みたいなものである。
この話には前段がある。「万葉集」に大伴家持の歌として

  石麻呂にわれ物申す夏痩せに吉(よし)といふものぞ鰻とり食(め)せ

という有名な歌がある。夏痩せに鰻が有効という、最古のキャッチコピーとも言えるが、平賀源内は、この歌を知っていたものと思われる。

私はウナギが好きで夏でも冬でも一年中食べるが、娘なんかは食べない。
20040701lうなぎ丼ピリ辛風

この頃では、いろんなウナギの食べ方があり、四番目の写真は「ピリ辛風鰻丼」というもので、実は某スーパーの広告に載っているもの。
ピーマンや赤ピーマンなども乗っている。ピリ辛というのだから唐辛子なども利いているのだろうか。

掲出した私の歌の一連5首を引用しておく。

       朱夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

    三代に憂きこともあれ古時計いま時の日に平成刻む

    缶を蹴る音からころと転がりて一学期終へて子ら帰りくる

    夏風邪に声出ぬといふ電話口この夏も娘(こ)は里訪はぬらし

    三伏の暑気あたりとて香水を一滴ふりて妻は臥しをり

    献立は有季定型と鰻丼を妻は供しぬ土用丑の日
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土用の鰻を詠んだ句を引いて終りにする。

 土用鰻店ぢゆう水を流しをり・・・・・・・・・・・・阿波野青畝

 鰻食ふカラーの固さもてあます・・・・・・・・・・・・皆川盤水

 うなぎ食ふことを思へり雲白く・・・・・・・・・・・・稲垣晩童

 荒涼と荒川鰻裂いて貰ふ・・・・・・・・・・・・・細見綾子

 まないたの疵曼陀羅や鰻割く・・・・・・・・・・・・百合山羽公

 うなぎ焼くにほひの風の長廊下・・・・・・・・・・・・きくちつねこ

 いのち今日うなぎ肝食べ虔めり・・・・・・・・・・・・簱こと

 うなぎひしめく水音朝のラジオより・・・・・・・・・・・・豊田晃

 一気に書く土用うなぎの墨太く・・・・・・・・・・・・吉田北舟子
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名古屋の友人の話によると、名古屋市内の某有名うなぎやさんは、土用の丑の日には、うなぎに感謝して、休業する、という。
私は初めて聞く話だが、そのうなぎやさんの心意気をよし、としたい。
あたら超繁忙期の日を棒に振って、うなぎに感謝するという何という心の優しい主人の哲学だろう。


山椒の葉かげに卵を生みゐたる黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
kuroageha-omoteクロアゲハ雌

    山椒の葉かげに卵(らん)を生みゐたる
        黒揚羽蝶わらわらと去る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

掲出の写真①は黒揚羽蝶の雌の羽の表の様子である。裏側の模様は少し違うが省略する。写真映りは白っぽいが、色は真っ黒である。

ageha032クロアゲハ

黒揚羽蝶の成虫は葉っぱを食べているわけではない。写真②のように花の蜜を吸って生きているのである。
揚羽蝶には色々の種類があるが、概して卵を生む植物は「香り」の強い草木に限定されているが、その中でも黒揚羽蝶は山椒、金柑などの柑橘類の木、パセリなどのハーブ類に卵を生む。
ハーブと言っても種類は多いので、その中でもパセリ類に限定される。
揚羽蝶の種類も色々あり、羽の模様もみな違うように取り付く草木も、それぞれ違う。黒揚羽と並揚羽とは取り付く木も共通するものが多い。
ここでは要点を絞って黒揚羽蝶と、その幼虫に限定する。
kuroageha-youchu01クロアゲハ威嚇

気持が悪いかも知れないが、写真③は幼虫の蛹になる直前の終齢の頃のもので、頭の先に赤い角状のものを出して「威嚇」しているところ。
独特の臭気も発する。これも威嚇のためである。
この写真の一日後には、この幼虫は「蛹」(さなぎ)になった。
写真④に、その蛹の様子を載せる。
kuroageha4クロアゲハ蛹

糸を一本吐いて柑橘類の木の茎に体を固定して蛹の様態に入ったもの。
この段階で捕食者から襲われないように、周囲の木と同じ色になって保護色を採るというから、その知恵には恐れ入る。
幼虫は夏の間に何度も孵るが、晩秋に蛹になったものは、この蛹の状態で「越冬」して、翌年の春に「羽化」して黒揚羽蝶の成虫になり、
雄、雌が交尾して、雌が産卵して新しい年度の命が発生する。
卵は纏めては生まない。ちょうど鰊の「かずのこ」の一粒のような大きさの卵を木の葉っぱのあちこちに、ポツンポツンと産み付ける。
色は葉っぱに似せて緑色をしている。この卵の段階でつまんで取り去ることも出来る。
この卵から孵ったものは黒っぽいが、黒揚羽も普通の揚羽も、とてもよく似ている。
この段階では緑と黒の保護色なので、葉っぱに紛れて見つけにくい。
写真⑤は蛹になる直前の終齢の幼虫を角度を変えて撮ったもの。
kuroageha3クロアゲハ幼虫終齢

黒揚羽の幼虫は、ここまで来ると、写真③も同様だが、いかにも気味の悪い毒々しい姿になったところである。

「蝶」は春の季語だが、春以外の季節にも居るので、その時は季をつける。
夏の蝶の代表は揚羽蝶である。これには十種類ほど居るという。一番よく目に止まるのは黒と黄色の縦じまの普通の(並)揚羽蝶ということになる。
黒揚羽蝶は夏らしい強さ、激しさを持っていると言われている。
以下、それらを詠んだ句を少し引いて終わりたい。

 黒揚羽花魁草にかけり来る・・・・・・・・高浜虚子

 渓下る大揚羽蝶どこまでも・・・・・・・・飯田蛇笏

 夏の蝶仰いで空に搏たれけり・・・・・・・・日野草城

 碧揚羽通るを時の驕りとす・・・・・・・・山口誓子

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 山の子に翅きしきしと夏の蝶・・・・・・・・秋元不死男

 夏の蝶一族絶えし墓どころ・・・・・・・・柴田白葉女

 日蝕のはげしきときに揚羽とぶ・・・・・・・・百合山羽公

 賛美歌や揚羽の吻を蜜のぼる・・・・・・・・中島斌雄

 夏蝶の風なき刻を飛べりけり・・・・・・・・池上浩山人

 黒揚羽舞ひ来て樹下に風起す・・・・・・・・茂恵一郎

 好色の揚羽を湧かす西行墓・・・・・・・・安井浩司

 黒揚羽黒と交わる神の前・・・・・・・・出口善子

 熟睡なすまれびととあり黒揚羽・・・・・・・・久保純夫

 魔女めくは島に生まれし黒揚羽・・・・・・・・大竹朝子

 摩周湖の隅まで晴れて夏の蝶・・・・・・・・星野椿

 乱心のごとき真夏の蝶を見よ・・・・・・・・阿波野青畝

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり・・・・・・・・黒田杏子

桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷
yun_448桔梗本命

  桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・・・・・・石田波郷

桔梗(ききょう)あるいは漢字の音読みにして「きちこう」とも発音される。
この波郷の句ではキチコウの読みである。

キキョウ科の多年草で「秋の七草」の一つであるから、俳句では秋の季語となるが、実際には六月中旬には咲きだすところが多い。
青みがかった紫のものが多いが、栽培種も多く、白、紫白色、二重咲きなどいろいろである。
矮性の小さな種類もあるが、在来の50センチくらいの高さで、紫色のものが一番ふさわしい。
kikyou4キキョウ白

この波郷の句の「男も汚れてはならず」というフレーズに、老いの境地に居る私としては、ピシリと鞭うたれるような気がして、とっさに頂いた。
老いても男は身ぎれいにして、シャキッとして居なければならぬ。
「万葉集」にいう「あさがお」は桔梗のこととされている。

小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、きっぱりと、すがすがしい野性味のある花と言えるだろう。
私の歌にも桔梗を詠んだものがあるが、昨年に採り上げたので遠慮して、歳時記に載る句を引いて終わる。
yado33kikyouキキョウ矮性

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗の花の中よりくもの糸・・・・・・・・高野素十

 桔梗やまた雨かへす峠口・・・・・・・・飯田蛇笏

 桔梗には鳴る莟あり皇子の墓・・・・・・・・平畑静塔

 桔梗いまするどき露となりゐたり・・・・・・・・加藤楸邨

 桔梗一輪死なばゆく手の道通る・・・・・・・・飯田龍太

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 おもかげをさだかにしたり白桔梗・・・・・・・・細見綾子

 技芸天桔梗花びら露むすび・・・・・・・・沢木欣一

 誰やらの死をたとふれば桔梗かな・・・・・・・・石原八束

 桔梗やきりりと辛き飛騨の酒・・・・・・・・草間時彦

 百本の桔梗束ねしゆめうつつ・・・・・・・・藤田湘子

 桔梗の色を見てゐる麻酔の前・・・・・・・・宮岡計次

 桔梗咲く母のいのちのあるかぎり・・・・・・・・小桧山繁子
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写真③は矮性のキキョウである。
野嶋剛『ふたつの故宮博物院』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

        野嶋剛『ふたつの故宮博物院』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・・新潮選書2011/06/24刊・・・・・・・・・

       戦争と政治に引き裂かれ、「北京」と「台北」に分立することになった、ふたつの故宮。
       為政者の対立は、東洋の二大博物館を相容れない仲にしてしまった。
       しかしいま、中台の歩み寄りが、両故宮を接近させつつある。
       数々の歴史的秘話や初の「日本展」への動きを明らかにしながら、
       激動を始めた両故宮に迫った最新レポート。

新潮社の読書誌「波」2011年7月号に載る書評を引いておく。
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       日本人には理解しえない博物館への旅・・・・・・・・・・樋泉克夫


 一九四九年末、共産党との内戦に敗れ海峡を渡り、「中華文化の薫陶を受けない化外の地」である台湾に逃れた蒋介石率いる国民党政権は、その時以降、中華民国の旗を掲げ、内外に向かって「我こそは正統中国なり」と強弁を続ける。
その根拠こそ、中国歴代皇帝が所蔵した秘宝を柱とする《中華文化の粋》を収蔵する故宮博物院だった。
 若い日の台湾旅行の際に「故宮という博物館の『不思議さ』に引きつけられ」た著者は、「台北、北京だけではなく、上海、南京、瀋陽、四川、重慶、湖南、香港、シンガポール、東京、京都などを訪ねて歩」き、「一つずつ、故宮の文物や歴史の背後にある真実を探っていく旅」を続ける。この本は、その長い旅の報告ともいえよう。
 王朝の興亡止まない中国では、戦火のさなかで散逸した前王朝の秘蔵文物を掻き集め収蔵する一方、その歩みを正史として書き留めることが、新王朝にとっての正統性の証だった。つまり中国においては、文化(=文物と正史)こそが権力の象徴なのだ。
 いまから百年前の一九一一年に起こった辛亥革命によって満州族の清朝を倒し漢民族によるアジア初の立憲共和制国家として建国された中華民国もまた、それまでの例に倣い清朝皇帝の居所であった紫禁城に歴代皇帝秘蔵の文物を集め、一九二五年に故宮博物院として発足させた。だが不幸にも、この時から中国は再び長い戦乱の時代に入る。戦火を避けるべく中国全土を彷徨った《中華文化の粋》は、やがて「化外の地」たる台湾に建設された故宮博物院に落ち着くことになるが、こんどは九○年代末以降の国民党と民進党の激しい政争に翻弄される。故宮博物院は、台湾独立を強く志向する民進党にとっては中国大陸の権力の象徴でしかなく、否定されてしかるべき存在だった。だが国民党にとっては、中国大陸と自らを固く結びつける何物にも換え難い鉄の証なのだ。故宮博物院が台湾に存在していなかったら、台湾独立運動も、さぞやスッキリと展開しただろう。
 二〇〇八年、民進党を破り政権を奪還した馬英九国民党政権が北京との関係改善に大きく舵を切ったことで、中台両岸関係の渦中で故宮博物院もまた象徴的な役割を担わざるをえなくなった。
 懇切丁寧な取材を基に綴られた北京の紫禁城からはじまる故宮博物院の物語は、どうやら著者にとっては「日本人には容易に理解しえない世界」を解き明かす旅でもあったようだ。
 中国においては文化とは政治であり、文化を支配し統御しえた者こそが正統権力者たりうる。国共内戦の最中、毛沢東と蒋介石は文化という戦場でも死力を尽くして戦っていたのである。
 最後に評者の身勝手なお願い。著者の旺盛果敢で的確な取材力を信じ、次は中国文化を象徴する学者や京劇役者などを巡って国共内戦期に展開された「人材之戦」の実態を明らかにして戴きたい。 (ひいずみ・かつお 愛知大学教授)
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この本について新潮社の「編集者のことば」は、こう書いている。

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                 故宮は「物語の宝庫」だった

      イラク戦争では米軍に同行取材を行い、文字通り銃弾の下をくぐり、敵味方の生死を目のあたりにした。
      アフガニスタンのカブールでも、爆弾テロを避ける日々を送りながら、現地で雇った料理人に味噌汁の作り方まで教えた。
      著者の野嶋剛さんは、そんな行動力抜群のジャーナリストだ。
      日本では、政治部に籍を置き、アフガニスタンやイラクの戦場よりも野蛮な(?)永田町で、政治家たちの生態を記事にした。
      こうした経歴から、ハードな題材のみを追いかける新聞記者の姿を想像したら、大きな間違いだ。
      実は、日本、中華圏そしてアジアの音楽や映画産業に詳しく、日・中・台・韓の芸能界の事情にも通じる。
      そう、ソフトなネタもお得意なのだ。ルックスも、写真を見ていただければわかるように、あのヨン様ことぺ・ヨンジュンに似ているとは思いませんか?
      その野嶋さんが、2007年、台北特派員となったのを機に、「故宮」というラビリンスに足を踏み入れた。
      中華圏の専門家として、美術品・文物を政治がどう利用したかという観点から、台湾、そして中国を眺めてみようと考えたのだ。
      赴任前から想を練り、台北に着くやすぐに取材を開始。任期の半ばの2009年1月末に、本書のおおよその構成について相談した。
      それからも、“戦争特派員”の行動力を駆使して取材が続く。
      北から、瀋陽、北京、京都、南京、上海、重慶、台北、香港、シンガポール……と、文字通りアジアを縦横に飛び回り、
      貴重なナマの証言を集め、故宮文物の軌跡をたどっていった。
      北京と台北――ふたつの都市に生き別れとなった「故宮」の過去を明らかにし、そして、いま起きつつある中台政治関係の変化が、
      将来、「ふたつの故宮」にどんな変化をもたらすかを探るために。
      その精力的取材が発掘したドラマの数々を、ぜひ読んでいただきたい。
      そう、野嶋氏の踏み入った「ふたつの故宮」は、紛うことなき「物語の宝庫」だった。

野嶋剛/ノジマ・ツヨシ

1968年生まれ。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞に入社。佐賀支局、西部本社などを経て、2001年からシンガポール特派員。イラク、アフガニスタンで戦争報道を経験し、『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社、2003年)を出版。東京本社政治部記者などを経て、2007年から2010年まで台北特派員を務める。中華圏における政治、外交、文化など幅広い分野の取材・執筆を続けており、現在、朝日新聞国際編集部次長。

目次

序章 故宮とは、文物とは
二〇年前に台北故宮で感じた違和感/蒋介石が台湾運搬を決定/中国近代史に翻弄された故宮の運命/世界的な博物館との違い/変革の季節が始まった/日本展への胎動/ロビーを埋め尽くす大陸からの客
第一章 民進党の見果てぬ夢――故宮改革
アイデンティティーを変えたい/改革の精神を表現した映画との出会い/陳水扁が起用した院長/華夷思想によって棄てられた島/南部に打ち込まれた改革のくさび――「故宮南院」/「三人目」は女性院長/文化行政の主導権をめぐる女の戦い/国民党の阻止行動の前に/陳水扁の秘密訪問/「中華中心主義の壁に阻まれた」
第二章 文物大流出――失われたのか、与えたのか
中国王朝の栄枯盛衰と文物/文物流出の主役だったラストエンペラー/香港に出品された溥儀の装飾品/文物流出で世界が知った中華文化/関西に花開いた中国美術サロン
第三章 さまよえる文物
九・一八事変で変わった命運/大成功を収めた初の海外展/大陸を西へ西へ/いまも続く南京と北京の「確執」
第四章 文物、台湾へ
見あたらない蒋介石の故宮への思い/国共内戦で暗転した文物の運命/文物と共に海を渡った人々/第二陣には世界最大の書物「四庫全書」も/「造反者」か英雄か
第五章 ふたつの故宮の始まり
なぜ「中山博物院」なのか/台北故宮の建築と当時の国際情勢/いまや荒れ果てた北溝倉庫跡地/設計者をめぐる秘話に迫る/中華文化復興運動のなかで/日本人が活発に文物を寄付/「中華人民共和国の故宮」の歩み
第六章 中華復興の波――国宝回流
香港に現れた円明園の略奪品/回流の仕掛け人は超大物の娘/円明園の遺恨を晴らす人々/世界の関心を集めたパリのネズミ像オークション/文物返還を求める中国国内の動き/返還運動の果てには
第七章 故宮統一は成るのか
記者会見での両故宮トップの反応/中台改善で始まった台北故宮の「逆コース」/「南院」の運命は風前の灯火か/思惑をはらみ始まった交流/次なる目標は「日本展」/李登輝を動かした司馬遼太郎/平山郁夫も志半ばで/民主党政権の混乱で再び暗礁に乗り上げるも/文物に秘められた中華民国の価値観
本書に登場する主な人物
故宮および中国・台湾・日本をめぐる主な動き
参考図書・記事一覧

「立ち読み」も出来るので、ぜひお試しを。
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現在、北京と台北と二箇所にある「故宮博物院」には、私は時期は開きがあるが、両方とも拝観したことがある。
北京の故宮は天安門事件の翌年に行った。天安門事件があって予定していたツアーが催行中止になり、翌年にツアー会社から催行しますが、いかがですかという連絡があって行った。
台北の故宮博物院は、その後だったと思うが、蒋介石が北京の故宮から文物を持ち去るときに、運びにくい大型の文物は置き去りにして、
運びやすい小さな物を持ち出した、という印象であった。
私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に、一首だけ

   紫禁城よりはこび来たりし財宝はなべて小さし故宮博物院・・・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌を収録してある。
もう二十年以上前の歌である。



白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
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  白炎天鉾の切尖深く許し・・・・・・・・・・・・・・・・橋本多佳子


京都の「祇園祭」は7月17日の今日、三十数基の山鉾が巡幸する。
この頃は梅雨末期で激しい雨が降ることもあり蒸し暑いが、京都では祇園祭が過ぎると梅雨が明けると言われているが、今年は早くに梅雨明けして酷暑の日々となった。
「貞観大地震・大津波」についての朝廷による公式記録『日本三代実録』のことは7/4付けで載せたが、
町衆の祭である「祇園祭」も、同年は御霊鎮(みたましずめ)として催行されたと言われている


掲出の橋本多佳子の句は、スケールの大きい祇園祭を、思念ふかく描いて秀逸である。
丁度そのときは雨が上って夏の太陽が──つまり「白炎天」が照り付けていたのだろう。
だから炎帝が高い長刀鉾の切っ先が空に突き刺さるのを許している、と並の詠み方ではなく、描いているのである。

写真①は鉾の行列の先頭を切る長刀鉾である。

03s祇園祭外人

祇園祭も国際化して、写真②の「くじ改め」の塗り箱を指し出すのは外人である。
外人は、こういうイベントに参加できるのが大好きなので、選ばれたことに大感激である。
裃(かみしも)姿で正装して張り切っている。
お断りしておくが、写真は、いずれもネット上から拝借した過年度のものである。

ここで「祇園祭」のことを少し振り返ってみよう。
02s稚児

写真③は巡幸にあたり道路に張られた注連縄を太刀で切る「稚児」である。
この稚児の役は資産家の子供が選ばれ、約1ケ月間、家族と離れて精進潔斎して奉仕するが、家からの持ち出しは大変な金額にのぼるので、誰でもがなれるものではない。

祇園祭は「町衆」の祭と言われる。
この祭は八坂神社の祭礼の一環だが、貞観11年、陸奥では大地震・大津波が襲来し、各地で疫病が流行し都も荒れ果てていた時に町衆が中心になって催行したという。

詳しいことはネット上で検索してみてもらいたい。
IMG_1333-01s胴がけ

写真④は鉾や山の胴体を飾る「胴掛け」と呼ばれるタペストリーなどである。掲出した胴掛けは尾形光琳の有名な「かきつばた」図を忠実に織物にしたもので、これは最近の新作である。古いものではヨーロッパから渡来したタペストリーなども幾つかある。この辺にも当時の町衆の財力のすごさを示している。
祇園祭方向転換

写真⑤は四つ角に差し掛かった時に鉾の方向転換の引き綱の様子を上から見たものである。「辻まわし」という。
昔と比べると、巡幸のルートも大きく変わった。昔は四条通よりも南の松原通などを通っていたが、道が狭いので、道路の広い御池通(戦争末期に防火帯として道路を使用する目的で沿道の建物を強制的に引き倒した、いわゆる疎開道路で拡幅されたもの)を通るように、当時の高山義三市長が強引に替えたものだが、今では、これが正解だったと判るのである。

ここで「宵山」と当日の大きな写真を載せておく。
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終りに歳時記に載る句を少し引く。

 月鉾や児(ちご)の額の薄粧(けはひ)・・・・・・・・曾良

 祇園会や二階に顔のうづ高き・・・・・・・・正岡子規

 人形に倣ふといへど鉾の稚児・・・・・・・・後藤夜半

 鉾の灯のつくより囃子競ひぬる・・・・・・・・岸風三楼

 神妙に汗も拭はず鉾の児(ちご)・・・・・・・・・伊藤松宇

 大車輪ぎくりととまり鉾とまる・・・・・・・・山口波津女

 水打つてまだ日の高き鉾の街・・・・・・・・飯尾雅昭

 鉾の上の空も祭の星飾る・・・・・・・・樋口久兵

 鉾を見る肌美しき人と坐し・・・・・・・・緒方まさ子
林壮一『オバマも救えないアメリカ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      林壮一『オバマも救えないアメリカ』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・・新潮新書:2011/06/17刊・・・・・・・・・・・

       有色人種と弱者の期待を一身に背負って大統領となったオバマ。
       しかし底辺の人々は救われないままだ。
       「あそこの住民は簡単に人を殺す」「黒人はいつだって虫けらのように扱われる」「オバマは現実が見えていない」
       ――物乞い、失業者、移民から元世界チャンプ、メジャーリーガーまで、
       筆者は丹念に、重苦しい現実と格闘する人々の声を拾って歩く。
       世界最大の階層社会で苦しむアメリカ人を描ききった渾身のルポ。

新潮社の読書誌「波」 2011年7月号より著者による紹介記事を引いておく。
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          救世主か徒花か・・・・・・・・・・・・・・・ 林 壮一

 来年は、アメリカ大統領選挙の年である。
 現職を務めるバラク・オバマ(民主党)に対抗する共和党候補者は、いずれもインパクトが弱い。
 とはいえ、オバマにも大統領就任時の支持率はもはや無い。
 2008年の大統領選挙の折、まさしく彗星のように登場し、ブームを巻き起こしたオバマ。
 この黒い肌の元弁護士は、類を見ないほど話術に長けていた。
 経済が破綻し、無益なイラク戦争が長々と続いていたアメリカ合衆国民にとって、オバマは救世主と映った。
 弱者救済を繰り返し謳ったオバマに、中流以下の市民は夢を見たのだ。
 その結果、彼は人種の壁を突き破って第44代アメリカ合衆国大統領の椅子に座る。

 しかし夢は夢に過ぎず、アメリカ社会に大きな変化は見られなかった。
 日本の首相や政権党がコロコロ代わったところで国民の暮らしが向上しないように、
 オバマ政権に希望を感じたアメリカンも、目の前の現実に虚無感を覚えている人が多い。
 オバマ大統領誕生直後から私は、思いつくままアメリカの底辺で生きる層にインタビューした。
 オバマの自宅があるイリノイ州シカゴで出会った40代の黒人は話した。
 「オバマに投票したけれど、今は何の期待もしていない。己が潤い、自分の家族が高い教養を得られれば、それでいいって野郎さ」
 男はホームレス・シェルターで暮らし、ダウンタウンを徘徊しては行き交う人にカネをせびっていた。ホームレスは続けた。
 「オバマはシカゴのシェルターなんて見向きもしないじゃないか。仕事が無くて苦しんでいる層に希望を与えようとしないじゃないか!」
 雇用機会を充実させ、国民全員に健康保険を与えることを公約としながら、なかなか実現できないオバマ政権に、ある者は絶望し、ある者は憤りを隠さない。
 人口285万強の大都会、シカゴの高級住宅街の一角にオバマ邸はあった。6199スクエアの土地に、7つのバスルーム。
 まさしく勝者の証と呼べるような豪邸だ。24時間体制で厳戒な警備が敷かれており、近付くだけでも一苦労だった。
 そんな富裕層エリアから遠くない場所に、ゲットーも広がっていた。
 現在、トップシンガーとして活躍するジェニファー・ハドソンが育った地域にも寄ってみた。ハドソンは成功を手に入れた直後に、肉親3人を銃殺という形で失っている。
 レンタカーで殺害現場付近を運転していた際、私はギャングに囲まれた。難癖をつけられ、カメラを奪われそうになった。
 本書は、地べたで生きざるを得ない弱者たちの叫びと現実をクローズアップした1冊である。彼らの声にほんの少し、耳を澄ませてほしい。
 オバマ政権とは、単なる徒花に過ぎなかったのだろうか。     (はやし・そういち ノンフィクションライター)
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目次

プロローグ
1 オレもオバマに投票したよ――2人の教え子との対話
2 あそこの住民は簡単に人を殺す――最も危険な街WATTSを歩く
3 ここはゴーストタウンになりかかっている――スプリングスティーンが歌った街で
4 メキシコナンバーの車には近づくな――国境にて
5 黒人はいつだって虫けらのように扱われる――オスカー・グラント事件
6 祖父のように警官になろうと思う――黒人格闘家ヴァーノン・ホワイトの志
7 トロントに観光で来られるなら金持ちだ――カナダの移民たち
8 このままだとデトロイトは地獄になるよ――物乞いたちの生活
9 まずは高校を卒業させてやりたい――10代のホームレスを見守る人たち
10 オバマは希望を与えようとしないじゃないか――故郷・シカゴを歩く
11 オバマは理想主義者で、現実が見えていないよ――移民たちの明暗
12 政治家が何を話そうが、オレは全く興味ないね。
  あんまり人間を信用すると、痛い目に遭うよ――元世界チャンプの諦念
エピローグ

林壮一/ハヤシ・ソウイチ

1969(昭和44)年埼玉県生まれ。東京経済大学在学中にボクシングのプロテストに合格するが、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経てノンフィクションライターとなる。1996~2010年、アメリカで取材を重ねる。著書に『マイノリティーの拳』『体験ルポ アメリカ問題児再生教室』等。


「立ち読み」も出来るので、お試しください。

木の椀に白粥さくと掬ひをり朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    木の椀に白粥さくと掬(すく)ひをり
        朝粥会の法話終りて・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。

京都の夏は、盆地性の気候のため、とても暑い。
この夏の間を利用して各地の寺院などで暁天座禅会や緑蔭講座などが催される。
掲出の私の歌は、もう十数年も前のものであり、どこの寺のものか、などの詮索は止めて、一般的なものと受け取ってもらいたい。
掲出の「白粥」も、その場で写せるものではないので、あくまでもイメージであることを了承されたい。

hodo法堂

写真②は建仁寺の法堂(はっとう)であるが、ここ建仁寺でも毎年7月中旬に「暁天座禅会と緑蔭講座」が催される。
もともと昔からの行事として「夏安居」という90日間の僧の修行の行事があったが、それを庶民にも開放したのが、暁天行事として定着したと言えるだろう。
建仁寺の場合に触れると、暁天座禅会は6:30~7:10。緑蔭講座は7:10から約50分という時間割でやられる。
今年2011年の場合は

 7月10日(金)~12日(日)まで毎年恒例の

 暁天坐禅会並びに緑陰講座を開催された。

 6:30より坐禅を行い(20分×2回)、その後

 7:10~8:00頃まで緑陰講座を行った。

  各日程の緑陰講座の講師は下記の通り。

7月8日(金)

書家 金澤 泰子 氏

     演題 『天に繋がる智慧』

7月9日(土)

元オリックス球団社長 小泉 隆司 氏

     演題 『球団経営から学んだこと』

              ~練習・努力は必ず実る~

7月10日(日)

建仁寺派管長 小堀泰巌老大師

     提唱 『碧巌録第十六則 鏡清啐啄機』

 なお、最終日講座終了後、粥座(朝食)の接待がなされた。

このような催しはあちこちで盛んであり、京都でもたくさんあるが、朝粥の接待のあるところは、後始末が面倒なので減ってきたらしく、
朝粥の出るのは、西本願寺の法話・朝粥、智積院の法話・朝粥などである。後は「おにぎり」「点心」「そーめん」などの接待が見える。
全国各地で朝粥会は行なわれ、毎週おこなわれるところも見られる。

ここでは「夏安居」を詠んだ句を引いて終りたい。

 まつさをな雨が降るなり雨安居・・・・・・・・藤後左右

 夏行とも又ただ日々の日課とも・・・・・・・・高浜虚子

 杉深くいかづちの居る夏行かな・・・・・・・・富安風生

 食堂(じきどう)も炷きこめられし安居かな・・・・・・・・皆吉爽雨

 夏に籠る山六月の椿かな・・・・・・・・・喜谷六花

 山門に山羊の仔あそぶ夏の始め・・・・・・・・中川宋淵

 夏行僧白粥に塩落しけり・・・・・・・・土居伸哉

 土性骨敲かれて居る安居僧・・・・・・・・河野静雲

 黒揚羽絶えず飛びゐる安居かな・・・・・・・・川上一郎



昏梅雨をつきて盛れる火の祭たいまつの男は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥
himatsuri4那智火祭

    昏(くれ)梅雨をつきて盛れる火の祭
       たいまつの男(を)は汗みどろなる・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載る「み熊野」と題する一連の中のものである。
毎年7月14日に行なわれる「那智の火祭」は熊野那智大社の例大祭である。
この祭は12体の熊野の神々が大滝の前の飛滝神社に年に一度の里帰りの様子を表したものである。12体の大松明の迫力と熱気に、みんな我を忘れての歓声である。
2004年に「熊野三山の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、観光客も大幅に増えて来たという。
参詣道として世界で二例目ということでスペインの「サンチアゴ巡礼の道」からの視察団も表敬訪問してくれたという。

himatsuri2那智大社

写真②が熊野三山のひとつ熊野那智大社だが、社殿の前に熊野三山の守り神、三本足の神鳥「八咫烏(やたがらす)」の像が建っている。
熊野三山というのは、この熊野那智大社のほかに熊野本宮大社、熊野速玉大社をいう。
熊野那智大社は、ご神体は那智の滝であり、自然信仰の原点のように考えられるところである。
この大社に隣接して青岸渡寺があるが、明治初期の廃仏棄釈までは、両社一体の神仏混交のものであった。
前に書いたが、この青岸渡寺は「西国三十三ケ所霊場」巡りの一番札所である。
himatsuri5那智火祭②

写真④は、この火祭で松明をかつぐ役を奉仕した男たちが勢ぞろいして役目の報告をするところである。
himatsuri7那智火祭③

中世には「熊野詣で」と称して天皇や法皇などが行列をしつらえて京の都から遥々と参詣したのである。
今それらの道程が日の目を浴びて復活してきたのであるが、「歴史遺産」というのは古いままで保存されているのが原則であるのに、
道を整備し直して批判を浴びているという笑えぬ事態も出てきているらしい。

写真⑤は、この祭の一環として、火祭の前に奉納される「稚児の舞」である。和歌山県の無形文化財に指定されている。
himatsuri1火祭稚児の舞

いま歳時記を調べてみたが、那智の火祭ないしは火祭という項目は出て来るが、例句は無い。
今でこそ「熊野那智」の地は脚光を浴びているが1980年代あるいは90年代は、ローカルな行事として採録されなかったものと考えられる。
私の持っているようなものではなく、もっと大部の歳時記であれば載っているかも知れないが、お許し願いたい。
そんなことで、この辺で終りにしたい。
立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・・・・・・・・・矢島渚男
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    立葵大きな雨が三日ほど・・・・・・・・・・・・・・・・矢島渚男


アオイ科の越年草で人間の背丈よりも高くまで伸びる。単にアオイという植物はなく、一般にタチアオイのことを葵という。
原産地は中国、小アジアで、日本には室町時代に渡来し、鑑賞用に、また薬用に植えられたという。

葵の名が日本で最初に現れるのは「万葉集」だが、これはフユアオイまたはフタバアオイ(写真②)であるらしい。
futaba-aoiフタバアオイ本命

京都の「葵祭」に用いられるのもフタバアオイで、花ではなく葉を「挿頭」(かざし)にされるのである。
この植物は葵の名はついていても全く別のものでウマノスズクサ科のものである。
徳川家の家紋に使われたのが、これで、葉を三枚組み合わせて使われた。
先に5/15付けの「葵祭」の記事を書いた時に牛車の脇に吊るされるのが「藤の花」かと書いたのは正解で、葵祭は挿頭にフタバアオイの葉をかざしたので、この名がついたことが判明した。
写真③にフタバアオイの花をお見せする。
futaba-aoi3フタバアオイ花

話は変わるが、ネアンデルタール人の埋葬骨と一緒にタチアオイの花粉が発見されているという。
中国の唐代に牡丹が台頭するまではタチアオイが花の代表選手だったという。
花言葉は「平安」「単純」。花の色には白、赤、紫などがある。中国美女の立ち姿に似ており、古い中国で花の代表だったのも頷ける。

俳句にもたくさん詠まれており、それを引いて終わる。

 ひともとの葵咲きつぎたのしけれ・・・・・・・・日野草城

 門に待つ母立葵より小さし・・・・・・・・岸風三楼

 峡深し暮をいろどる立葵・・・・・・・・沢木欣一

 立葵のぞき棚経僧来たる・・・・・・・・石原八束

 己(し)が花粉浴びまみれてや立葵・・・・・・・・三橋敏雄

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ・・・・・・・・森澄雄

 呼鈴を押してしばらく立葵・・・・・・・・鷹羽狩行

 雨はゆめなり雨の夜は白蜀葵・・・・・・・・阿部完市

 立葵まつすぐに来て破顔せり・・・・・・・・金谷信夫

 呼ぶ子帰る子十二時の立葵・・・・・・・・広瀬直人

 咲きのぼるばかり葵の咲きのぼる・・・・・・・・見学玄



ブッダの「八大仏跡」を巡る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 「初転法輪像」サールナート考古博物館収蔵

──巡礼の旅──(3)

      ブッダの「八大仏跡」を巡る・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

経済発展が目覚しく、あらゆるものが急激なスピードで変わりつつあるインドは、今もっとも世界の注目を浴びる国といえるだろう。
だが同時に経済格差は著しく、貧富の差も極端である。
そんなインドは「仏教」が生まれた土地であるが、今のインドはヒンズー教が圧倒的に信者の多い国で、仏教徒は極めて少ない。
ヒンズー教に言わせるとブッダの教えはヒンズー教の一派として数えられているに過ぎない。
しかし、われわれ日本人は「仏教徒」を自認しているのであるから、その教えの由来や仏教聖地を辿るのも意味があるだろう。
私は1999年正月に北インドと仏跡を歴訪したことがある。
以下、仏教、仏跡について少し書いてみる。

仏陀(ブッダ、梵:बुद्ध buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。
buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。

「佛」の字について─「仏」(ぶつ)の字は、通常は中国、宋・元時代頃から民間で用いられた略字として知られるが、唐の時代にはすでに多く使われており、日本の空海も最澄宛の『風信帖』(国宝)の中で使用している。これを漢字作成時の地域による使用文字の違いと見る有力な説がある。

中国において buddha を「佛」という字を新たに作成して音写したのは、おそらく中国に buddha に当たる意味の語がなかったためであろう。
この「佛」の語は、中央アジアの "but" もしくは "bot" に近い発音を音写したもので、元北京大学の季羨林教授によれば、この語はトカラ語からの音写であるとするが、根拠は不明である。

4世紀以後に仏典がサンスクリットで書かれて、それが漢文訳されるようになると、buddha は「佛陀」と2字で音写されるようになる。
つまり、「佛陀」が省略されて「佛」表記されたのではなく、それ以前に「佛」が buddha を意味していたことに注意すべきである。

「佛」の発音については、「拂」「沸」の発音が *p‘iuet であるから、初期には「佛」も同じかそれに近かったと考えられる。この字は「人」+「弗」(音符)の形声文字であり、この「弗」は、「勿」「忽」「没」「非」などと同系の言葉であって、局面的な否定を含んでおり、「……ではありながら、そうではない・背くもの」という意味を持っている。その意味で、buddha が単に音だけで「佛」という字が当てられたのではなく、「(もとは)人間ではあるが、今は非(超と捉える説もある)人的存在」となっているものを意味したとも考えられる。なお、「仏」の右の旁(つくり)は、「私」の旁である「△」から来ていると見られている。

仏陀の範囲─ 基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。
しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、
古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。

しかして時代を経ると、その仏陀思想がさらに展開され大乗経典が創作されて盛り込まれた。
このため一切経(すべての経典)では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事が説かれた。
例を挙げると、初期経典では「根本説一切有部毘奈耶薬事」など、大乗仏典では『阿弥陀経』や『法華経』などである。

また、多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。
悟り(光明)を得た人物を「ブッダ」と呼ぶ場合があるが、これは仏教、ことに密教に由来するもので、ヴェーダの宗教の伝統としてあるわけではないと思われる。
一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けて「ニューエイジ」と呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在を「ブッダ」と呼ぶ伝統が一部に広まった。

仏陀への信仰─ 釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する唯一神(主催神、絶対神)の存在を認めなかった。
その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」(deva, 天部)としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。
その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々が護法善神として仏教神話の体系に組み込まれていった。
また仏滅500年前後に大乗仏教が興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。

なお、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。
当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。
したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。そのため当初はレリーフなどでは、法輪で仏の存在を示していた。
しかし、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。
とはいえ、死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。

IMG_0095ccマヤ・デヴィ寺院
800px-Lumbinibodhiルンビニ
 ↑ ブッダの生誕地ルンビニ──今のネパール南部にあるが今はマヤ・デヴィ寺院と菩提樹の立ち木と池があるに過ぎない。
寺院も、たとえば塔などもすっかりネパール風の装飾になっていて馴染めない。

仏教の八大聖地(はちだいせいち)は、仏教における重要な8つの聖地の総称。その全てがゴータマ・ブッダの人生に関わる遺跡である。

ルンビニ - 生誕の地。
ブッダガヤ - 成道(悟り)の地。
サールナート - 初転法輪(初めての説教)の地。
ラージギール - 布教の地。
サヘート・マヘート - 教団本部の地。
サンカーシャ - 昇天の地。
ヴァイシャリ - 最後の旅の地。
クシーナガラ - 涅槃(死)の地。

ブッダガヤ(仏陀伽邪 बोधगया)は、釈迦(如来)が六年の苦行の末に成道(悟り)の地で、八大聖地の1つ。ボードガヤーとも表記する。
また、ヒンドゥー教における聖地でもある。特に仏教では最高の聖地とされている。
450px-Mahabodhitemple大菩薩寺
Dscn1218_m金剛座
 ↑ 大菩提寺内の「金剛宝座」
ブッダガヤの大菩提寺-菩提樹はインド東部、ビハール州、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河のほとりにある。
古い煉瓦構造建築様式の1つである。 ユネスコにより世界遺産に登録されている。
ブッダガヤには、中心にあるブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)と、そのまわりにある各国各宗派の寺院(例 中国寺、日本寺、ネパール寺など)がある。マハーボーディー寺の中には、その本堂である高さ52mの大塔と、ゴータマ・ブッダが成道したときに座っていた金剛宝座と、成道したときにその陰にいたゴータマ・ブッダの菩提樹、沐浴の蓮池がある。
388px-Mahabodhitree.jpg
 ↑ ブッダガヤの大菩提寺脇にある菩提樹
釈迦牟尼が悟りを開いた場所であり、ビハール州パトナーからおよそ96km離れたところに位置している。
紀元前約530年、僧として放浪している釈迦牟尼がガンジス川支流の森の岸に着いたその位置を示すために造られた。
長らくヒンドゥー教の管理下にあり、寺院が整備されず荒廃していたが、1949年にヒンドゥー教徒と仏教徒の各4名と政府要員1名による管理となった。
さらに1992年には佐々井秀嶺などによるブッダガヤ奪還運動が行われ、近年では仏教徒のみによる管理へと移行しつつある。
ragi02日本寺の仏塔
 ↑ 日本寺の仏塔

 サールナート 
img_350964_32173841_1サールナート
 ↑ サールナート遺跡──俗に「鹿野苑」(ろくやおん)と呼ばれている。
800px-The_biggest_stupah_in_Sarnathダメーク・ストゥーパ
↑ サールナート ダメーク・ストゥーパ

サールナートは、インドのウッタル・プラデーシュ州にある地名。ワーラーナシー(ベナレス)の北方約10kmに位置する。
釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる。初転法輪の地。仏教の四大聖地のひとつ。
鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表される。

現在はインド政府によって整理され遺跡公園になっている。
またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館に収蔵されている。
( ↑ 一番はじめに掲出した像)
サールナート出土初転法輪像はお釈迦さまの初めての説法を描写した傑作の仏像。5世紀頃の作と考えられる。
足元には中央に法輪があり、それを囲んで右に三人、左に二人の計5人の弟子がいる。左端には母と子が描かれているという。
また法輪の両側に鹿が二頭配置され、鹿野苑での説法であることを表わしている。

クシーナガラ
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 ↑ パリニッバーナ寺院の涅槃仏

クシーナガラ(英語:Kushinagar、タミル語:กุสินารา)は、古代インドのガナ・サンガ国であったマッラ国(末羅国)の二大中心地のひとつで西の中心地であり、
現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村。
釈尊入滅の地とされ、四大聖地のひとつ。ワーラーナシー(ベナレス)の北150kmの地にある。

死期を悟った釈尊は霊鷲山(ビハール州)から生まれ故郷に向う途中にこの地で亡くなる。
純陀(チュンダ)の供養した「スーカラ・マッダヴァ(sukara maddava)」(豚肉料理、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコ料理とも)
を食して激しい下痢を起こしたのが原因とされる。
マハー・パリニッバーナ・スートラ(大般涅槃経)には、このクシナガラで釈尊が涅槃するまでの模様が書かれている。

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↑ インド人修行僧たち



梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝・・・・・・・・・・・・木村草弥
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    梅雨空へ天道虫が七ほしの
       背中を割りて翔びたつ朝(あした)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、制作時期は、もう10数年以上も前になるが、大阪、京都、奈良の30数人が出席した合同歌会が、奈良の談山神社で開かれたときの出詠歌で、出席者の大半の票を獲得した、思い出ふかい歌である。
自選50首にも選んでいるので、Web上でも、ご覧いただける。

この談山神社は藤原鎌足を祀るが、蘇我氏の横暴を抑えようと、中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をしながら談合したという故事のある所である。
ここに務める神官で、かつ歌人でもある二人の友人がいるところでもある。

「テントウムシ」には、益虫と害虫の二種類があって、この「ナナホシテントウムシ」は作物にたかるアブラムシなどを食べてくれる「益虫」である。
朱色の背中に黒い●が7個あることから、この名前になっている。
テントウムシには、ほかに「二星」などの種類があるが、これらはすべて「害虫」とされている。
つまり、作物の汁を吸ったり、食害を与えたりする、ということである。

今日、農業の世界でも農薬、除草剤などの薬害の影響が叫ばれ、できるだけ農薬を使用しないように、ということになっている。
こういう化学合成による農薬ではなく、この「七ほし天道虫」のように「天敵」を利用するとか、害虫の習性を利用して、
雌雄の引きあうホルモン(フェロモン)を突き止めて、それを発散する簡単な器具を作り、雄を誘引して一網打尽に捕える、などが実用化されている。

ここで歌集に載せた一連の歌を引いておきたい。

     天道虫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

   菖蒲湯の一たば抱けばああ若き男のにほひ放つならずや

   梅雨空へ天道虫が七ほしの背中を割りて翔びたつ朝(あした)

   濡るるほど濃き緑陰にたたずめば風さわさわと松の芯にほふ

   夏草の被さる小川は目に見えず水音ばかり韻(ひび)かせゐたり

   散るよりは咲くをひそかに沙羅の木は一期の夢に昏るる寺庭

   野良びとが家路を辿る夕まぐれ野の刻しんとみどりに昏るる

   土鈴ふる響きおもはせ驟雨きて梅雨あけ近しと知らすこのごろ

   茄子の花うす紫に咲きいでて農夫の肌にひかりあふ夕

--------------------------------------------------------------------
談山神社に関していうと、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に、次のような歌がある。

   談山の社に佇てば鞠を蹴る音のまぼろし「蘇我氏を討たむ」・・・・・・・・・木村草弥

この歌は、もちろん上に書いた鎌足と中大兄皇子の故事に因むものである。

天道虫は童謡にも登場する虫で、どこか人なつっこいところがある。
俳句にも、よく詠まれているので、それを引いて終わる。

 のぼりゆく草細りゆく天道虫・・・・・・・・・中村草田男

 旅づかれ天道虫の手にとまる・・・・・・・・阿波野青畝

 ほぐるる芽てんたう虫の朱をとどむ・・・・・・・・篠田悌二郎

 翅わつててんたう虫の飛びいづる・・・・・・・・高野素十

 天道虫だましの中の天道虫・・・・・・・・高野素十

 老松の下に天道虫と在り・・・・・・・・川端茅舎

 天道虫天の密書を翅裏に・・・・・・・・三橋鷹女

 てんと虫一兵われの死なざりし・・・・・・・・安住敦

 愛しきれぬ間に天道虫掌より翔つ・・・・・・・・加倉井秋を

 砂こぼし砂こぼし天道虫生る・・・・・・・・小林恵子

 天道虫羽をひらけばすでに無し・・・・・・・・立木いち子

 天道虫バイブルに来て珠となりぬ・・・・・・・・酒井鱒吉

 天道虫玻璃を登れり裏より見る・・・・・・・・津村貝刀


橋本治ほか『浮世絵入門 恋する春画』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

橋本治・早川聞多・赤間亮・橋本麻里著 『浮世絵入門 恋する春画』・・・・・・・・木村草弥
           ・・・・・・・新潮社とんぼの本2011/06/24刊・・・・・・・・・・

          女子だって春画に萌えていた!

     かつて春画は、嫁入り前のお嬢さんから共白髪の御夫婦まで、老若男女に親しまれていた。
     いまだ根強いタブー意識を取りはらい、春信、歌麿、北斎その他の傑作春画をよくよく見ると
     ……ナンパ、不倫、ボーイズラブ、コスプレまである江戸のリアルな恋愛模様は、現代とも地続き。
     女子の視点で明るく読み解く、新しい春画入門。

この本の新潮社の広告に載る「編集者のことば」から引く。 ↓

 この本は、『芸術新潮』2010年12月号特集「恋する春画」を増補・再編集したものです。
 特集号は完売、しかも、いつもの号より女性客が多かったそうです。
 特集を企画・編集したのは本の共著者でもある橋本麻里さんと、『芸術新潮』編集部の女性編集者でした。
 以下に、雑誌の「編集後記」を再録します。肉食系なふたり。頼もしい。(す)

 アダルト語彙連発で周囲の編集部員をドン引きさせていた春画特集編集会議。
 レイアウト時も、編集長「表紙の タイトル文字はピンクで!」 
 デザイナー「もういっそ流行の豪華オマケ付き雑誌みたいにしたら?」 
 編集長「なに付けましょうか」 デザイナー「ティッシュとか」。
 ……それ全然「恋する春画」じゃないですから!(橋本麻里)

 編集の追い込みで、睡魔とエロに襲われる乙女(わたしです)の救いとなったのは、
 夜な夜な送られてくる橋本麻里さんの爆笑原稿。
 そもそも春画って、お笑いだし。ヘルシンキ、パリ、バルセロナ、ミラノに続き、ソウルでも大規模春画展を開催。
 2013年春には大英博物館でも予定。世界に羽ばたけ、江戸絵師たちのお笑い魂!(吉田晃子)

「立ち読み」もできる。← ここでは鮮明な図版も見られるので、お試しを。

■著者プロフィール

橋本治/ハシモト・オサム
1948(昭和23)年、東京生れ。東京大学文学部国文科卒。イラストレーターを経て、1977年、小説『桃尻娘』を発表。
以後、小説・評論・戯曲・エッセイ・古典の現代語訳など、多彩な執筆活動を行う。
2002(平成14)年、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』により小林秀雄賞を受賞した。
『ひらがな日本美術史』『上司は思いつきでものを言う』『BA-BAH その他』『小林秀雄の恵み』『巡礼』『橋』『リア家の人々』など著書多数。

早川聞多/ハヤカワ・モンタ
美術史家。国際日本文化研究センター教授。日本美術史、江戸文化史を研究。1949年京都府生れ。大阪大学大学院文学研究科修士課程修了。
著書に『蕪村画譜』(毎日新聞社)、『夜色楼台図』『春画の見かた―10のポイント―』(ともに平凡社)、『春画のなかの子供たち』(河出書房新社)、
『春信の春、江戸の春』(文春新書)など。

赤間亮/アカマ・リョウ
日本芸能史研究者。立命館大学文学部教授。浮世絵、歌舞伎等を専門とする。
大英博物館ほか海外の美術館所蔵の浮世絵・板本等の調査を行なう。1960年北海道生れ。早稲田大学文学研究科博士課程修了。
「演劇資料・浮世絵のデジタル化」の功績により第28回上野五月記念日本文化研究奨励賞を受賞。
著書に『図説 江戸の演劇書―歌舞伎篇―』(八木書店)など。

橋本麻里/ハシモト・マリ
ライター。編集者。明治学院大学非常勤講師(日本美術史)。
「芸術新潮」「BRUTUS」等の雑誌記事のほか、高校美術教科書の編集・執筆も手がける。1972年神奈川県生れ。国際基督教大学教養学部卒業。
著書に『日本の国宝100』(幻冬舎新書)、『ニッポンの老舗デザイン』(マガジンハウス)など。

■目次
はじめに
いともラブリーな傑作選
フーゾク弾圧史と浮世絵師たち

〈Part1〉みんなの春画
惚れた腫れたから始まった国、ニッポン  橋本麻里
主役は老若男女、舞台は茶の間  早川聞多
春画が教える江戸歌舞伎のホント  赤間亮

〈Part2〉夢見る大江戸セックス・ライフ  橋本治
茶屋という名のラブスポット
吉原をのぞく
奥女中の秘密

〈Part3〉見る前に読め! 「書入れ」の真実  早川聞多
春画を読む  橋本麻里

〈コラム〉
1 春画のキホン
2 江戸の色事カタログ
おわりに

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浮世絵・春画の公開については、今では、このような本も刊行されて公衆の目に大っぴら触れるようになり、今昔の感に堪えない。
私の所蔵する復刻版を買い求めた頃は日本の出版業界を取り巻く取締りは厳しくて、だから出版は海外でなされたのであった。
私のコレクションの一部は「浮世絵・春画コレクション」①②としてブログ上に公開しているので、ご覧あれ。
ただし画像が多いので、とても重いから動きが悪いので、予めご了承ください。

むらさきにけぶる園生の遥けくてアガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥
yagapanアガパンサス

──季節の歌鑑賞──夏の「花」三題──

   ■むらさきにけぶる園生の遥けくて
       アガパンサスに恋の訪れ・・・・・・・・・・・・木村草弥


今日は夏の花三題を採り上げることにする。
掲出する歌は、いずれも私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
「花言葉」の連作を作っていたときの作品だ。
写真①は「アガパンサス」で、このごろではあちこちに見られるようになった。
花言葉は「恋の訪れ」であるから、この言葉を元にして歌を作ってある。
ユリ科の多年草で、南アフリカ原産。強い性質で日本の風土にもよく合うらしく、各地の花壇や切花用に盛んに栽培されるようになった。
君子蘭に似ているのでムラサキクンシランの和名もある。

gabera4ガーベラ①

    ■ガーベラに照り翳(かげ)る日の神秘あり
      鷗外に若き日の恋ひとつ・・・・・・・・・・・・・木村草弥


写真②のガーベラも花色はいくつもある。花言葉は「神秘」。
この花はキク科の多年草で、この花も南アフリカ・トランスバールが原産地。野生ではなく、はじめから園芸植物として開発されたらしい。
明治末にわが国に紹介されたが、今では公園などに広く植栽され、色とりどりの彩りを見せている。
花期は長く秋まで咲く。

yun_942ルピナス

    ■藤房の逆立つさまのルピナスは
       花のいのちを貪りゐたり・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「ルピナス」は、マメ科ハウチワマメ属の総称。ルーピンとも言う。
世界各地に300種類もあるという。原産地は南ヨーロッパ。
藤の花を立てたようなので和名は立藤草。
私の歌は藤色の花を詠んでいるが、ルピナスは2008年、北海道の富良野でたくさん見かけた。
ただし写真は私のものではなく、yun氏の撮ったものを拝借した。
生命力旺盛な草で、花言葉は「貪欲、空想」。私の歌は、その「貪欲」を詠み込んである。

俳句に詠まれるものは、横文字の花の名で字数も多く、詠みにくいのか作品数も多くないので、省略する。


塩野七生・石鍋真澄ほか 『ヴァチカン物語』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   塩野七生・ 石鍋真澄ほか 『ヴァチカン物語』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・新潮社・とんぼの本2011/06/24 刊・・・・・・・・・・      

       「ヴァチカンを知らなければヨーロッパは理解できない」・・・・・・・・・塩野七生

     ここは世界最小の国家にして、歴代教皇と天才芸術家たちが築き上げた美の殿堂、そして比類なき祈りの空間。
     「キリスト教とは何か」を厳しく問う塩野七生氏の語りを皮切りに、二千年に及ぶ聖地の歴史ドラマを辿る。
     イタリア美術の権威によるサン・ピエトロ大聖堂とヴァチカン美術館の詳細ガイド、教皇庁の秘話を明かすコラムも多数収録。
     「芸術新潮」から生まれた本。
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よく知られていることだが、著者たちの略歴を引いておく。私は 塩野七生のファンである。

塩野七生/シオノ・ナナミ

1937年7月、東京に生れる。学習院大学文学部哲学科卒業後、1963年から1968年にかけて、イタリアに遊びつつ学んだ。1968年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。1982年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。1983年、菊池寛賞。1992年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくみ、一年に一作のペースで執筆。1993年、『ローマ人の物語I』により新潮学芸賞。1999年、司馬遼太郎賞。2001年、『塩野七生ルネサンス著作集』全7巻を刊行。2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。2006年、「ローマ人の物語」第XV巻を刊行し、同シリーズ完結。2007年、文化功労者に選ばれる。2008-2009年に『ローマ亡き後の地中海世界』(上・下)を刊行。2010年より「十字軍物語」シリーズを刊行開始。

石鍋真澄/イシナベ・マスミ

美術史家。成城大学文芸学部教授。イタリア美術、主にバロック美術を研究。1949年埼玉県生れ。東北大学大学院修士課程修了。文学博士。1975-79年、フィレンツェ大学に留学。1982-83年および1988-89年にローマ、2010-11年にフィレンツェで研究。主要著書に『ベルニーニ』『聖母の都市シエナ』『サン・ピエトロが立つかぎり』『ありがとうジョット』『サン・ピエトロ大聖堂』(いずれも吉川弘文館)、『アッシジの聖堂壁画よ、よみがえれ』『ルネサンス美術館』(共に小学館)、『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』(平凡社)など。

「編集者の言葉」 「立ち読み」もお試しください。
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ヴァチカン美術館には、もう随分前だが一日かけて拝観したことがある。
ここはヴァチカン市国の表つまりサン・ピエトロ寺院からではなく、裏通りの入り口から入る。
長い目の回るような螺旋階段があったことが印象に残る。 ↓ 
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ここで詠んだ私の歌が第二歌集『嘉木』(角川書店)にあることを思い出したので載せておく。 ↓

        星の幾何学   ─MARE MEDITERRANEUM ①

  螺旋階くだりてい行くシスティーナ礼拝堂ゆ眩暈(げんうん)きざす・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

もちろんシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの絵が日本の技術などを活用して綺麗に修復される前の時期である。

拝観後は庭園をバスで横切る形で、ヴァチカン市国の中を通り、表のサン・ピエトロ寺院の脇のところに出ることになる。今でも同じやりかたをしている筈である。
↓ バチカン美術館の中庭 (Cortile della Pigna)。Pignaとは写真中央に見える松ぼっくりの意味。
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中に飾られる壁画や絵についてはネット上で見られるので、参照されたい。→ Wikipediaにさわりの解説がある。
ひとつだけ絵を載せておく。 ↓ キリストの変容(部分) ラファエッロ(絵画館)
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中沢新一『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      中沢新一『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・・新潮文庫2011/06/26刊・・・・・・・・・・・

鸚鵡が尋ねる。 カッコウが答える。 鳥たちの言葉から、ブッダの教えを伝える名著。 カラー挿絵多数収録。

カッコウに姿を変えた観音菩薩がブッダの最も貴い知恵について語り、鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウなどの鳥たちが、幸福へと続く言葉を紡ぐ。
20世紀初頭に存在が知られるようになったこの経典は、チベットで古くから読み継がれてきた、農民や牧畜民など一般の信者に向けられた書物。
はじめてチベット語から翻訳される、仏教思想のエッセンスに満ち溢れた貴重な一冊。

この文庫版は 2008/11/28に発売された単行本の文庫化である。
最初に出た際に新潮社の読書誌「波」2008年12月号に載る書評を引いておく。
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            『鳥の仏教』・・・・・・・・・・・・中沢新一

    「苦しみから私たちを解き放つ、正しい方法を教えてください」、鸚鵡は問いかける。
     カッコウに姿を変えた観音菩薩は答える、最も重要なブッダの知恵を。
     やがて森に集まった鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウ、
     様々な鳥たちが真の幸福へ続く言葉を歌い出す。
     チベットの仏典を訳し、仏教の核心にある教えを優しく伝える、貴重な一冊。
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        鳥たちが伝える仏教・・・・・・・・・・・・・・養老孟司

 鳥の仏教。
 表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。
中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。
まだまだ若いと思っていたのに。

 私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
 東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。
編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
 なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。
もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。
でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。
ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。
いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
 じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。
もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
 出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。
こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。
やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。
思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。
最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
 先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。
家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
 私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。
でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。
成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。
いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。
こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
 ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。
そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。
英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
 チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。
でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。
そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。  (ようろう・たけし 解剖学者)

中沢新一/ナカザワ・シンイチ
1950(昭和25)年山梨県生まれ。人類学者。
妻は翻訳家の川口恵子。日本史学者網野善彦は義理の叔父(叔母の夫)。作家の芹沢光治良は親戚。林真理子は小中学校の後輩。
2006年(平成18年)から多摩美術大学美術学部芸術学科教授・芸術人類学研究所所長。
著書に『チベットのモーツァルト』『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『カイエ・ソバージュ』シリーズ(全五巻)『精霊の王』『僕の叔父さん 網野善彦』『アースダイバー』『芸術人類学』『ミクロコスモスI~II』など多数。
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中沢新一の本は難解で読みづらいものだが、この本はイラストなども多く、読みやすい。
「立ち読み」も出来るのでお試しあれ。

梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴と知りぬ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
zakuro2石榴花

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    梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて
        風が点(とも)せる石榴(ざくろ)と知りぬ・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
ザクロは3メートルほどの高さになる落葉樹で、細長い艶のある葉が対生している。梅雨の頃に赤橙色の六弁の花が咲く。肉の厚い筒型の赤い萼がある。

zakuro5石榴落花

写真②が落花である。先に書いたように厚い筒型のガクであるのがお分かりいただける。
八重咲きや白、薄紅、紅絞りなど色々あるらしい。
中国から古くに渡来してきたもので、花卉として育てられてきたが、原産地はペルシアだという。
梅雨の頃に咲く印象的な美しい花である。
ザクロと言えば、花よりも「実」が知られているが、実は徳川時代から食べるようになったという。
ザクロは種が多いことから、アジアでは子孫繁栄、豊穣のシンボルとされてきた。
実を煎じた汁でうがいをすると扁桃腺炎にいいと言われる。

zakuro3石榴実

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写真③④がザクロの実である。この中には朱色の外種皮に包まれた種がぎっしりと入っている。
種は小さく外種皮を齧るように食べるのだが、甘酸っぱい果汁を含んだものである。果皮は薬用になる。
実が熟してくると実の口が裂けて種が露出するようになる。実が熟するのは8、9月の頃である。

以下、歳時記に載る石榴の花を詠んだ句を引いて終わる。
花は夏の季語だが、実は秋の季語である。

 花柘榴また黒揚羽放ち居し・・・・・・・・中村汀女

 花柘榴病顔佳しと言はれをり・・・・・・・・村山古郷

 ざくろ咲き織る深窓を裏におく・・・・・・・・平畑静塔

 妻の筆ますらをぶりや花柘榴・・・・・・・・沢木欣一

 花柘榴の花の点鐘恵山寺・・・・・・・・金子兜太

 深爪を剪りし疼きや花石榴・・・・・・・・鈴木真砂女

 掃いてきて石榴の花が目の前に・・・・・・・・波多野爽波

 花石榴階洗はれて鬼子母神・・・・・・・・松崎鉄之介

 花石榴子を生さで愛づ般若面・・・・・・・・鍵和田柚子

 妻の居ぬ一日永し花石榴・・・・・・・・辻田克己

 黄檗の寺の駄犬や花ざくろ・・・・・・・・阿片瓢郎



スタジオジブリが反原発の横断幕「原発はプロメテウスの火」・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ハインリッヒ・フューガー画 <火を与えるプロメーテウス>

──エッセイ──緊急提言として──

   スタジオジブリが反原発の横断幕「原発はプロメテウスの火」・・・・・・・・・・・木村草弥

反原発で知られるスタジオジブリの屋上に「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた反原発の横断幕が設置された。
日本全国で反原発の活動が活発になる中、スタジオジブリの積極的な行動が大きな話題を呼んでいる。
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宮崎駿が原発はプロメテウスの火と発言
7月公開予定の最新作「コクリコ坂から」で企画と脚本を手掛ける宮崎駿氏は、東日本大震災後の3月28日に開かれた記者会見で東電原発事故に触れ
「考えなければならないのは、プロメテウスの火をどうしたらコントロールできるか。私はこの地を一歩も退かないと決めています」と発言した。

プロメテウスの火とは?
プロメテウスとはギリシャ神話に登場する神で、下記のような言い伝えがある。
プロメテウスは、神々の姿に似せて創造された人類に、「火」を伝えようとしたが、

全能の神ゼウスは
「もし人間に火を持たせたら、人間は我ら神と同じように強力な存在となる。」
「彼らは無知である。無知というのは事の善悪が判断できないということだ。
人間は、誰かが不幸だと思わせない限り、ずっと幸福なのだ。なぜなら、何が不幸で何が幸福かを知らないからだ」
としてそれを拒んだ、
だがプロメテウスは、人間に火を教えてしまう。
その行いに怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカソス山の山頂に磔(はりつけ)にさせ、
生きながらにして毎日肝臓をハゲタカについばませる責め苦を強いた。
プロメーテウスは不死であるため一生の苦痛を味わうことになる。。。。

この物語の火と現代の原発を比べて「人間の手におえない制御不可能なもの」「第二のプロメーテウスの火」との意味で宮崎駿監督は述べた。
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「プロメーテウスの火」のエピソードは、ギリシア神話の中でも、よく知られた話であるが、「原子力の火」が、これに擬(なぞら)えられて久しい。
今回の福島原発の爆発事故によって、この「火」のことが目下喫緊の時事用語としてクローズアップされてきたのは何とも皮肉なことである。
しかし、原子力発電を如何にコントロールするかが全世界的な規模で議論沸騰していることも事実であり、まさに今日的な意味を持つことになった。
折しも先日NHKの特集番組でも大々的に放映されたように、福島原発周辺では、チェルノブイリを上回る激しい放射能汚染が進行している事実が明るみになった。
まさに由々しい、恐怖に満ちた現実である。

チェルノブイリの放射能の現実については先に記事にしたが、わが国では真実が小出しに知らされて、国民はモルモットのような扱いを受けていると言える。
また「大前研一『日本復興計画』」という本も取り上げたが、ここに大前さんが書かれていた、<原子炉完全冷却には5年以上。5キロ圏内には未来永劫、人は住めない>
という記事そっくりの様相が現実になってきたことも空恐ろしい。
国民は、今こそ真実に目を向け、賢い態度を取らなければならないだろう。
緊急に、この記事を書く所以である。
リンクに貼った私の旧記事二つも参照していただいて、よくお考えくださるようお願いする。 よろしく。

「プロメーテウス」については ← Wikipediaの記事に詳しい。


1200年前の「貞観大地震・津波」の歴史的記述について・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 箕浦幸治「津波災害は繰り返す」より採録。詳しくは当該個所を見よ

──エッセイ──歴史的資料の意味するもの

   1200年前の「貞観大地震・津波」の歴史的記述について・・・・・・・・・・・・・木村草弥

古い時代の東北日本の地震災害においては珍しく、詳細な文献記録が残っている(後述)。
史料には甚大な津波被害の発生が記述されており、三陸地震の1つとして理解され、貞観(じょうがん)三陸地震と呼称されることがある。
津波堆積物等の詳細な研究結果による想定震源域は、宮城県沖から福島県沖とされている。
更に、宮城県沖・福島県沖に加えて、三陸沖も震源域となった巨大地震であったとする説もある。

従来から文献研究者には存在が知られた地震であったが、東北地方の開発に伴う地盤調査と日本海溝における地震学研究の発展に伴い、
徐々に地震学的研究が積み重ねられている。

仙台平野で津波が仙台湾の海岸線から3km侵入したことは、既に1990年に東北電力が女川原子力発電所建設のために調査して発表されていた。
しかしながら、これらの事実が脇に押しやられ、原発建設に当たっては低い被害想定がなされて強行され、また今回の避難場所の設定に当たっても、
恣意的に無視されて危険な場所が指定され、人命などが多く失われる事態となった。
安易に「想定外」の言葉が使われているが、事実は「想定内」として厳然と存在するのである。


2000年代になると、ボーリング調査等による仙台平野の津波の痕跡の研究が長足の進歩を遂げた。
仙台平野の沿岸部では、貞観地震の歴史書が記述するとおり、1000年ほど前に津波が内陸深く溯上したことを示す痕跡が認められた。
ところが研究が進むにつれ、この種の津波の痕跡には、貞観津波を示すと思われるもの以外にもいくつか存在することが明らかとなった。
東北大学大学院工学研究科附属災害制御研究センター等の研究では、仙台平野に過去3000年間に3回の津波が溯上した証拠が堆積物の年代調査から得られ、
間隔は800年から1100年と推測されている。また、9m程度の津波が、7- 8分間隔で繰り返し襲来していたと考えられる。
2007年10月には、津波堆積物調査から、岩手県沖(三陸沖) - 福島県沖または茨城県沖まで震源域が及んだ、M8.6の連動型超巨大地震の可能性が指摘されている。


貞観地震との地球物理学的関連性は明らかでは無いが、この地震の5年前の貞観6年(864年)に富士山の青木ヶ原樹海の溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている。
(噴火の詳細については「富士山の噴火史」も参照)

   公式史書『日本三代実録』に記述される貞観大地震・津波

延喜元年(901年)に成立した公式史書『日本三代実録』には、この地震に関する記述がいくつか記されている。

貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日、グレゴリオ暦換算7月13日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝える。


五月・・・廿六日癸未 陸奥國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乗船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

訓読文
五月(ごがつ)・・・廿六日(にじゅうろくにち)癸未(みずのと ひつじ)、陸奥国(みちのくのくに)、地(ち)大いに震(ふ)り動(ふる)へ、流光(りゅうこう)晝(ひる)の如く陰映(いんえい)す。頃之(しばらくのあいだ)に、人民(たみ)叫呼(さけ)び、伏して起(た)つこと不能(あたわず)、或いは屋(いえ)仆(たお)れて壓(お)され死に、或いは地裂けて埋(うづも)れ殪(し)にき。馬牛は駭(おどろ)き奔(はし)りて或いは相昇(あいのぼ)りて踏む。城(郭)倉庫、門、櫓(やぐら)、墻壁(しょうへき)頽(くずれ)落ち顛覆(くつがえ)ること其(そ)の數(かず)を知らず。海口(みなと)哮吼(ほ)え、聲(こえ)雷霆(いかづち)に似(に)たり。驚濤(さかまくなみ)涌潮(うしおわきあが)り、泝(くるめ)き漲長(みなぎ)りて、忽(たちま)ち城下に至り、海を去ること數(すう)十百里、浩々(こうこう)として其(そ)の涯諸(はて)を辨(わきま)へず、原野(はら)も道路(みち)も惣(すべ)て滄溟(うみ)と爲(な)り、船に乗るに遑(いとま)あらず。山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千許(せんばかり)、資産(たから)も苗稼(なえ)も殆(ほとほ)と孑(ひとつ)遺(のこるもの)無(な)かりき。

現代語訳(意訳)
5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

上記の史料にある「陸奥國」の「城」は多賀城であったと推定されており、多賀城市の市川橋遺跡からは濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているが、はっきり明記されているわけではないので異説もある。「流光如晝隱映」の部分は、地震に伴う宏観異常現象の一種である発光現象 (cf.) について述べた最初の記録であるとされる。

貞観大地震に対する朝廷の対応について、日本三代実録の貞観11年9月7日(ユリウス暦869年10月15日)の記事には、次の通り、紀春枝を陸奥国地震使に任命したことが記載されている。

九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,為陸奧國地震使。判官一人、主典一人。

現代語訳(意訳)
9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。

同年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、次のように清和天皇が詔を発したことが記載されている。

冬十月・・・十三日丁酉、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷灾於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄降譴、厚載虧方、如聞、陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而致殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然媿(異本は愧)懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、

訓読文
冬十月・・・十三日丁酉(ひのととり)、詔(みことのり)して曰(のたま)ひけらく、羲農(ぎのう)代(よ)を異(こと)にすれども、未だ憂勞(ゆうろう)を隔(へだ)てず。堯舜(ぎょうしゅん)時を殊(こと)にすれども、猶(なお)愛育を均(ひと)しくせり。豈(あに)唯(ただ)地(ち)は周(しゅう)の日にのみ震(ふる)はむや。姫文(きぶん)是(ここ)に於いて躬(み)を責む。旱(ひでり)は殷の年にも流(およ)ぶ。湯帝(とうてい)以(もち)て己(おのれ)を罪(つみ)しき。朕(ちん)寡昧(かまい)を以(もち)て鴻圖(こうと)を欽若(きんじゃく)す。徳を修めて霊心(れいしん)を奉(ほう)じ、政(まつりごと)に莅(のぞ)みて民の望みに従ひ、率土(そつど)の内、同じく福(さいわい)を遂生(すいせい)に保ち、編戸(へんこ)の間、共に災を非命(ひめい)に銷(さ)さしめむと思ふ。而(しか)るに恵化(けいか)孚(まこと)罔(な)く、至誠感せず、上玄(じょうげん)譴(せめ)降(くだ)し、厚載(こうさい)方(ほう)を虧(か)く、如聞(きくならく)、陸奥国境(みちのくに)、地震(ない)尤(もと)も甚だしく、或いは海水暴(にわか)に溢れて患(わずらい)と為(な)り、或いは城宇(じょうう)頻(しき)りに壓(つぶ)れて殃(わざわい)を致(いた)すと。百姓(ひゃくせい)何の辜(つみ)ありてか、斯(こ)の禍毒(くわどく)に罹(あ)ふ。憮然として媿(は)じ懼(おそ)れ、責(せめ)深く予(われ)在(あ)り。今使者(つかい)を遣(や)りて、就(ゆ)きて恩煦(おんく)を布(し)かしむ。使、国司與(とも)に民蝦(みんい)を論ぜず、勤めて自ら臨撫(りんぶ)し、既に死にし者は、盡(ことごと)く收殯(しゅうひん)を加へ、其(そ)の存(い)ける者には、詳(つまびらか)に賑恤(しんじゅつ)を崇(かさ)ねよ。其の害を被(こうむ)ること太甚(はなは)だしき者は、租調を輸(いた)さしむるなかれ。鰥寡孤獨(かんかこどく)、窮(きゅう)して自ら立つこと能(あた)はざる者は、在所に斟量(しんりょう)して厚く支(ささ)へ濟(たす)くべし。務めて矜恤(きんじゅつ)之旨を盡(つく)し、朕(ちん)親(みづか)ら覿(み)るが若(ごと)くならしめよ。

同年12月14日(ユリウス暦870年1月19日)には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣わして奉幣し、神前に次の通り告文を捧げた。告文では、貞観大地震をはじめとして相次ぐ天災や事変について報告し、国家の平安を願っている。

十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大神宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大神乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃灾有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之灾言上多利。自餘國國毛、又頗有件灾止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境内天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可慎恐。然我日本朝波所謂神明之國奈利。神明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大神波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異類乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-神祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此狀乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大神國内乃諸神達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境内爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃神國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國内平安爾鎮護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」
(訓読文などは省略)
(この部分については「Wikipedia」の記事に基づくことを明記しておく)
箕浦幸治「津波災害は繰り返す」という記事にも詳しく書かれていて参考になる。ぜひ見てください。

これらの歴史的記述を取り込んで、後日「叙事詩」の形で私の詩作品をまとめてみたい。



大聖堂のスズメたち「レーゲンスブルク少年合唱団」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  ──巡礼の旅──(2)

   大聖堂のスズメたち「レーゲンスブルク少年合唱団」・・・・・・・・・・・・・木村草弥

母なる大河ドナウにはローマ時代から築かれた石橋が架かり、今も街の人々が生活のために利用している。
その橋の先には大聖堂の二つの尖塔が聳えたち、街の中心であることを示している。
x1603レーゲンスブルク大聖堂

レーゲンスブルク(Regensburg)はユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人(2002年)。

ここはバイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置する。
そのため、水上運輸の要所としての役割を果たしている。歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める。
近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタットが位置する。

歴史的には、 1世紀、ローマ帝国軍の駐屯地、カストロ・レギーナがおかれた。これが現在の地名の由来ともなる。
6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。
その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。
13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。
神聖ローマ帝国における帝国議会がこの地で幾度か開催され、1654年にレーゲンスブルクでなされた「最終帝国議会決議」は、正規の帝国議会における決議としては最後のものであった。
1663年以降、それまで各地で開かれていた帝国会議は、レーゲンスブルクに常置された。
1803年に独立を失い、マインツの代わりとしてマインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクに引き渡された。
カールは街を近代化させ、プロテスタントとカトリック教徒に同じ権利を与え慕われた。1810年にバイエルン王国に引き渡され、カールはフルダへと移った。
1809年4月19日から4月23日までオーストリア軍とフランス軍が交戦し、街に大きな被害が出た。
第二次世界大戦中にはドイツ軍の第8軍管区本部が置かれたが、連合軍の空襲は小規模で、多くの歴史的建造物は破壊されずに残った。

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大きくて威厳ある大聖堂では、その堅いイメージとは対照的に「大聖堂のスズメたち」、ドイツ語で「ドームシュパッツェン」という名の少年合唱団が活躍している。
生徒たちは専門の学校で寄宿生活しながら学び、声楽のレッスンや音楽の授業のほかに通常の学校教育を受ける。
合唱団には約500人の生徒が所属。一千年以上の伝統があり、ドイツ最古の少年合唱団だけあって彼らの歌声を聴くためにここを訪れる観光客も多い。
毎週日曜日、大聖堂でミサが10時から始まり「スズメたち」の歌声が堂内にひびく。
ミサに着用するローブには赤白と黒白との二種類があるようであり、写真のものは黒白である。
大聖堂は十三世紀に建築が開始され、それから300年もの歳月をかけて完成した堂々たる姿のゴシック様式である。
「スズメたち」の歌声 ↓ (ただしミサのものではない。動画用に採録されたもの)


世界的に有名でアメリカやアジアの諸国、もちろん日本でも度々公演を行っていて、CDなどもネット上にも出ている。
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朝の虹消えて一ト雨半夏生・・・・・・・・・・・・・酒井黙禅
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      朝の虹消えて一ト雨半夏生・・・・・・・・・・・・・酒井黙禅

今日7月2日は半夏生である。
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ=カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも。

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、
現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。
この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
また地方によってはハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行う事に対する戒めともなっている。

関西ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣がある。

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、大雨になることが多い。
この頃に咲く花を半夏生または半夏生草という。掲出した写真が、それである。
この花が咲くときに、花序に近い葉の数葉は下半部が白くなる。花穂は白い小さな花をたくさん付ける。
「片白草」とも呼ばれるが、この名前は開花の時期と、葉の様子を表している。
本格的に梅雨の時期に入って咲く印象的な草と花である。

以下、季節としての「半夏生」と、草としての「半夏生」(片白草)を詠んだ句を引く。

 汲まぬ井を娘のぞくな半夏生・・・・・・・・・・言水

 卓上日記いま真二つ半夏生・・・・・・・・・・鈴木栄子

 平凡な雨の一日半夏生・・・・・・・・・・宇多喜代子

 貝の砂噛んでむなしき半夏生・・・・・・・・・・羽田岳水

 笹山を虻と越えけり半夏生・・・・・・・・・・岡井省二

 半夏生点せば仔牛おどろきぬ・・・・・・・・・・宮田正和

 半夏生北は漁火あかりして・・・・・・・・・・千田一路

 塩入れて湯の立ち上がる半夏生・・・・・・・・・・正木ゆう子

 高原の風身に添へる半夏かな・・・・・・・・・・恩田秀子

 塔の空より半夏の雨の三粒ほど・・・・・・・・・・斉藤美規 

 生涯を素顔で通し半夏生・・・・・・・・・・出口善子

 田から田へ水の伝言半夏生・・・・・・・・・・鈴木喜美子

 夕虹に心洗はれ半夏生・・・・・・・・・・八島英子

 降りぬきし空のうつろや半夏生・・・・・・・・・・渡部杜羊子

 地球儀のどこが正面半夏生・・・・・・・・・・田中太津子

 木の揺れが魚に移れり半夏生・・・・・・・・・・大木あまり

 朝の戸に死者の音声半夏生・・・・・・・・・・山口都茂女

 水攻の野に咲くものに半夏生・・・・・・・・・・細川子生

 片白の何をたくらむ半夏生草・・・・・・・・・・松岡心実

 半夏生の白は化粧の白ならめ・・・・・・・・・・酒井土子

 一樹下にしののめ明り半夏生・・・・・・・・・・西坂三穂子


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