
↑ 箕浦幸治「津波災害は繰り返す」より採録。詳しくは当該個所を見よ
──エッセイ──歴史的資料の意味するもの
1200年前の「貞観大地震・津波」の歴史的記述について・・・・・・・・・・・・・木村草弥
古い時代の東北日本の地震災害においては珍しく、詳細な文献記録が残っている(後述)。
史料には甚大な津波被害の発生が記述されており、三陸地震の1つとして理解され、貞観(じょうがん)三陸地震と呼称されることがある。
津波堆積物等の詳細な研究結果による想定震源域は、宮城県沖から福島県沖とされている。
更に、宮城県沖・福島県沖に加えて、三陸沖も震源域となった巨大地震であったとする説もある。
従来から文献研究者には存在が知られた地震であったが、東北地方の開発に伴う地盤調査と日本海溝における地震学研究の発展に伴い、
徐々に地震学的研究が積み重ねられている。
仙台平野で津波が仙台湾の海岸線から3km侵入したことは、既に1990年に東北電力が女川原子力発電所建設のために調査して発表されていた。
しかしながら、これらの事実が脇に押しやられ、原発建設に当たっては低い被害想定がなされて強行され、また今回の避難場所の設定に当たっても、
恣意的に無視されて危険な場所が指定され、人命などが多く失われる事態となった。
安易に「想定外」の言葉が使われているが、事実は「想定内」として厳然と存在するのである。
2000年代になると、ボーリング調査等による仙台平野の津波の痕跡の研究が長足の進歩を遂げた。
仙台平野の沿岸部では、貞観地震の歴史書が記述するとおり、1000年ほど前に津波が内陸深く溯上したことを示す痕跡が認められた。
ところが研究が進むにつれ、この種の津波の痕跡には、貞観津波を示すと思われるもの以外にもいくつか存在することが明らかとなった。
東北大学大学院工学研究科附属災害制御研究センター等の研究では、仙台平野に過去3000年間に3回の津波が溯上した証拠が堆積物の年代調査から得られ、
間隔は800年から1100年と推測されている。また、9m程度の津波が、7- 8分間隔で繰り返し襲来していたと考えられる。
2007年10月には、津波堆積物調査から、岩手県沖(三陸沖) - 福島県沖または茨城県沖まで震源域が及んだ、M8.6の連動型超巨大地震の可能性が指摘されている。
貞観地震との地球物理学的関連性は明らかでは無いが、この地震の5年前の貞観6年(864年)に富士山の青木ヶ原樹海の溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている。
(噴火の詳細については「富士山の噴火史」も参照)
公式史書『日本三代実録』に記述される貞観大地震・津波
延喜元年(901年)に成立した公式史書『日本三代実録』には、この地震に関する記述がいくつか記されている。
貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日、グレゴリオ暦換算7月13日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝える。
五月・・・廿六日癸未 陸奥國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乗船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉
訓読文
五月(ごがつ)・・・廿六日(にじゅうろくにち)癸未(みずのと ひつじ)、陸奥国(みちのくのくに)、地(ち)大いに震(ふ)り動(ふる)へ、流光(りゅうこう)晝(ひる)の如く陰映(いんえい)す。頃之(しばらくのあいだ)に、人民(たみ)叫呼(さけ)び、伏して起(た)つこと不能(あたわず)、或いは屋(いえ)仆(たお)れて壓(お)され死に、或いは地裂けて埋(うづも)れ殪(し)にき。馬牛は駭(おどろ)き奔(はし)りて或いは相昇(あいのぼ)りて踏む。城(郭)倉庫、門、櫓(やぐら)、墻壁(しょうへき)頽(くずれ)落ち顛覆(くつがえ)ること其(そ)の數(かず)を知らず。海口(みなと)哮吼(ほ)え、聲(こえ)雷霆(いかづち)に似(に)たり。驚濤(さかまくなみ)涌潮(うしおわきあが)り、泝(くるめ)き漲長(みなぎ)りて、忽(たちま)ち城下に至り、海を去ること數(すう)十百里、浩々(こうこう)として其(そ)の涯諸(はて)を辨(わきま)へず、原野(はら)も道路(みち)も惣(すべ)て滄溟(うみ)と爲(な)り、船に乗るに遑(いとま)あらず。山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千許(せんばかり)、資産(たから)も苗稼(なえ)も殆(ほとほ)と孑(ひとつ)遺(のこるもの)無(な)かりき。
現代語訳(意訳)
5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
上記の史料にある「陸奥國」の「城」は多賀城であったと推定されており、多賀城市の市川橋遺跡からは濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているが、はっきり明記されているわけではないので異説もある。「流光如晝隱映」の部分は、地震に伴う宏観異常現象の一種である発光現象 (cf.) について述べた最初の記録であるとされる。
貞観大地震に対する朝廷の対応について、日本三代実録の貞観11年9月7日(ユリウス暦869年10月15日)の記事には、次の通り、紀春枝を陸奥国地震使に任命したことが記載されている。
九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,為陸奧國地震使。判官一人、主典一人。
現代語訳(意訳)
9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。
同年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、次のように清和天皇が詔を発したことが記載されている。
冬十月・・・十三日丁酉、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷灾於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄降譴、厚載虧方、如聞、陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而致殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然媿(異本は愧)懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
訓読文
冬十月・・・十三日丁酉(ひのととり)、詔(みことのり)して曰(のたま)ひけらく、羲農(ぎのう)代(よ)を異(こと)にすれども、未だ憂勞(ゆうろう)を隔(へだ)てず。堯舜(ぎょうしゅん)時を殊(こと)にすれども、猶(なお)愛育を均(ひと)しくせり。豈(あに)唯(ただ)地(ち)は周(しゅう)の日にのみ震(ふる)はむや。姫文(きぶん)是(ここ)に於いて躬(み)を責む。旱(ひでり)は殷の年にも流(およ)ぶ。湯帝(とうてい)以(もち)て己(おのれ)を罪(つみ)しき。朕(ちん)寡昧(かまい)を以(もち)て鴻圖(こうと)を欽若(きんじゃく)す。徳を修めて霊心(れいしん)を奉(ほう)じ、政(まつりごと)に莅(のぞ)みて民の望みに従ひ、率土(そつど)の内、同じく福(さいわい)を遂生(すいせい)に保ち、編戸(へんこ)の間、共に災を非命(ひめい)に銷(さ)さしめむと思ふ。而(しか)るに恵化(けいか)孚(まこと)罔(な)く、至誠感せず、上玄(じょうげん)譴(せめ)降(くだ)し、厚載(こうさい)方(ほう)を虧(か)く、如聞(きくならく)、陸奥国境(みちのくに)、地震(ない)尤(もと)も甚だしく、或いは海水暴(にわか)に溢れて患(わずらい)と為(な)り、或いは城宇(じょうう)頻(しき)りに壓(つぶ)れて殃(わざわい)を致(いた)すと。百姓(ひゃくせい)何の辜(つみ)ありてか、斯(こ)の禍毒(くわどく)に罹(あ)ふ。憮然として媿(は)じ懼(おそ)れ、責(せめ)深く予(われ)在(あ)り。今使者(つかい)を遣(や)りて、就(ゆ)きて恩煦(おんく)を布(し)かしむ。使、国司與(とも)に民蝦(みんい)を論ぜず、勤めて自ら臨撫(りんぶ)し、既に死にし者は、盡(ことごと)く收殯(しゅうひん)を加へ、其(そ)の存(い)ける者には、詳(つまびらか)に賑恤(しんじゅつ)を崇(かさ)ねよ。其の害を被(こうむ)ること太甚(はなは)だしき者は、租調を輸(いた)さしむるなかれ。鰥寡孤獨(かんかこどく)、窮(きゅう)して自ら立つこと能(あた)はざる者は、在所に斟量(しんりょう)して厚く支(ささ)へ濟(たす)くべし。務めて矜恤(きんじゅつ)之旨を盡(つく)し、朕(ちん)親(みづか)ら覿(み)るが若(ごと)くならしめよ。
同年12月14日(ユリウス暦870年1月19日)には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣わして奉幣し、神前に次の通り告文を捧げた。告文では、貞観大地震をはじめとして相次ぐ天災や事変について報告し、国家の平安を願っている。
十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大神宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大神乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃灾有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之灾言上多利。自餘國國毛、又頗有件灾止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境内天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可慎恐。然我日本朝波所謂神明之國奈利。神明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大神波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異類乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-神祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此狀乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大神國内乃諸神達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境内爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃神國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國内平安爾鎮護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」
(訓読文などは省略)
(この部分については「Wikipedia」の記事に基づくことを明記しておく)
箕浦幸治「津波災害は繰り返す」という記事にも詳しく書かれていて参考になる。ぜひ見てください。
これらの歴史的記述を取り込んで、後日「叙事詩」の形で私の詩作品をまとめてみたい。
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