K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(8月)月次掲示板 
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
yun_3151ヤマユリ

八月になりました。
今月は鎮魂と非戦の誓いの月です。

  八月は千万の死のたましずめ夾竹桃重し満開の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山田あき
  なぜ生きて歌ふのか<死>に訊いてくれかなり近くに居る筈だから・・・・・・・・・・・・・岡井隆
  石に彫る文字の薄れてゆくまでの百年思ふ 春夏秋冬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋山佐和子
  大容量記憶装置である東京とほくおもへばなにもなき街・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川野里子
  異常なる集中力を発揮するわれにて「局所の人」と呼ばるる・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村晃作
  正座して鏡のまへにをりしきみこゑをかくればふりむくものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池光
  秋の日に思へば辛き夏過ぎて小池光も妻の亡き人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花山多佳子
  歳月はめぐり独居の敗戦忌赤きトマトを夕餉に添へて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雨宮雅子
  忘れないことは悪くはないだろう真夏に似合うあなたであった・・・・・・・・・・・・・・・・・小島なお
  炎熱の路面は白く明るめりいゆく生類の影一つなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春日真木子
  笛吹きのぶどう来たりて一房の重きぶどうは手のよろこべり・・・・・・・・・・・・・・・岡部桂一郎
  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏
  秋立つとしきりに栗鼠のわたりけり ・・・・・・・・久保田万太郎
  人声のうしろより来て秋立つか ・・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
  秋めくや肌白かりし母のこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
  大和路は四通八達蟻の道・・・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
  祖父の振るハンカチ白くゆるやかに・・・・・・・・・・・・高野素十
  星はみな女性名詞や羅馬の秋 ・・・・・・・・・・・・マブソン青眼
  ヴィクトリア駅より秋の終列車 ・・・・・・・・・・・・・・友田喜美子
  反原発のオナラ発電でもしよう・・・・・・・・・・・・・・原田否可立
  やがてポップコーンは途方に暮れる・・・・・・・・・・・酒井かがり
  ひなた水に浮かぶぼくらの蒙古斑・・・・・・・・・・・・・・吉沢久良
  鴨川と鳶を消費ののち消去・・・・・・・・・・・・・・・・・・・筒井祥文
  恋人の真下に伸びるスカイツリー・・・・・・・・・・・・小林満寿夫
  空碧く救命胴衣あとふたつ・・・・・・・・・・・・・・・・・小嶋くまひこ
  北方四島二島三島由紀夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草地豊子
  侮ってはならぬ降車ボタンの位置・・・・・・・・・・・・・・松原典子
  子育てに何の打算もなかったか・・・・・・・・・・・・・上野勝比古
  お母さん人生は歩いて行くのですね・・・・・・・・・・三島ゆかり
  twitter呟き返して夏深し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野道夫
  余震なほ紅蜀葵みな海へ向き・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本薫
  昼顔や明暗分けしものは何・・・・・・・・・・・・・・・・・さがあとり
  一湾は光の器知子の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飛高飛騨男
  定席に競馬新聞冷やし中華・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七風姿


ご来訪くださいまして有難うございます。
ぜひコメントを置いてください。コメントには必ず返事いたします。
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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
このblogは、私の知人、友人にも公開しているので、閲覧の便宜のために少し説明させて下さい。

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☆─Doblogの過去記事について─☆
Doblogでは2009/05/30付けをもってサービスが廃止されました。
ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
昨日のアクセス数:282件
今日のアクセス数:617件
総アクセス数:764957件

この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。

キュウリの種子/魚の眼玉/水といっしょに下水管をつたい/闇にむかって開かれてゆく/ひと夏はこのようにして埋葬される・・・・・・・大岡信
shiokaraシオカラトンボ

   夏の終り・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

   夜ふけ洗面器の水を流す
   地中の管をおもむろに移り
   遠ざかってゆく澄んだ響き
   一日の終りに聞くわたしの音が
   たかまるシンフォニー
   節まわしたくみな歌でないことの
   ふしぎななぐさめ
   キュウリの種子
   魚の眼玉
   ケラの歌
   《ほろび》というなつかしい響き
   それらに空気の枝のようにさわりながら
   水といっしょに下水管をつたい
   闇にむかって開かれてゆく
   わたしひとりの眼

   ひと夏はこのようにして埋葬される

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夏の終りというものは何となく寂しいものである。
そういう夏を送る心象を巧みに一編の詩にまとめあげた。言葉の選択も的確である。
この詩は学習研究社の大岡信編の『うたの歳時記』2・「夏のうた」(1986年5月刊)に書き下ろしとして載る大岡信の作品である。
「うたの歳時記」と表記して「うた」としてある所がミソで、短詩形の俳句、川柳、短歌、短詩いずれにも当てはまるように「うた」と表記されているのである。
純現代詩人としての大岡の詩は決して平易なものではないが、このシリーズの性格──読者を意識して、この詩のような平易な表現になったものであろうか。
ここで、別のところに載る大岡信の短詩を一つ紹介する。

    木馬・・・・・・・・・・・・・・・・・大岡信

         ・・・・・・・・・・・・・・夜ごと夜ごと 女がひとり
         ・・・・・・・・・・・・・・ひっそりと旅をしている (ポール・エリュアール)

   日の落ちかかる空の彼方
   私はさびしい木馬を見た
   幻のように浮かびながら
   木馬は空を渡っていった
   やさしいひとよ 窓をしめて
   私の髪を撫でておくれ
   木馬のような私の心を
   その金の輪のてのひらに
   つないでおくれ
   手錠のように

 (昭和57年9月、小海永二編『精選日本現代詩全集』所載、㈱ぎょうせい刊)
もう行かない海外旅行のパンフレットがしつこく届く悪意のように・・・・・・・・・・・・・藤原光顕
芸術と自由

──藤原光顕の歌──(3)

   もう行かない海外旅行のパンフレットが
                しつこく届く悪意のように・・・・・・・・・・・・・藤原光顕


この歌は最近届いたばかりの梓志乃さん発行の『芸術と自由』誌N0278号2011/09に載るものである。
その一連10首を引いておく。

       軽いなァ・・・・・・・・・・・・・・藤原光顕

 いっときに咲いたサボテン幾鉢を玄関に移し 今日も何とかなりそう

 塀の上にミニ薔薇の鉢並べこの家のおじさんも見てほしいんや やっぱ
 
 筋書きのように続くちぐはぐあんまりでどうにでもなること忘れてしまう

 乗換の弧線橋から見下ろすレールの反射 あの一言うまく捨てられそう

 もう行かない海外旅行のパンフレットがしつこく届く悪意のように

 アマルフィとかあこがれるだけで疲れて たぶん二日で飽きると思う

 あの夏の噴水の影揺れていた あなたは何を覚えているか

 ふところの狭い文字と思い始める頃葉書いちまいやっと埋まる

 眩しくて 賑やかで 地下街に必ず出口があるということ

 天王山の向こうは大阪で淀川の空を<飛行絵本>は飛び続ける 今も

藤原光顕さんは私よりも年下だが、もと神戸在住の人で季刊誌「たかまる通信」の発行人である。
彼の自由律の歌は何度か、ここでも採り上げたことがある。
今はご子息がもう十年も前に京都市郊外に家を建てられたのを機会に、「天王山」近くの新興住宅地に住んでおられる。
この一連の表題の「軽いなァ」は、採り上げる主題が、重いものではなく、軽いということだろうが、人生には重い軽いものが交互に生起するものだ。
冒頭に採り上げた歌も、嫌なら配送停止の手続きをとればいいことで、それを軽妙なアレゴリーとしていて秀逸である。
そう言えば、梓志乃さんにも長らく逢っていないなぁ。
藤原さん。 どうぞ、お元気で。


貸切クルーズで行く瀬戸内アートめぐり二日間の旅・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ 直島・ベネッセハウスほとりの海岸にある草間弥生の南瓜のオブジェ

  ──瀬戸内アートめぐり直島・豊島・犬島の旅──
   
 貸切クルーズで行く瀬戸内アートめぐり直島・豊島・犬島の旅二日間・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・・・・・2011/08/24~25クラブツーリズム・プレミアムステージ催行・・・・・・・・・・・・・

昨年2010年には「瀬戸内アート・フェスティバル」と銘打って大がかりの芸術イベントが開催されたが、行きそびれて、今回、標記のツアーがあることを知り単身参加することになった。

元・阪神球団の名三塁手・三宅秀史の兄弟の船に乗る
「貸切クルーズ」と書かれているが、何のことはない古い小型の渡船まがいの船だが、この船「からこと丸」の船長夫妻・三宅氏は阪神球団の往年の名三塁手・三宅秀史の弟という人であった。
彼のことを知らない人のために、三宅 秀史のことを書いておく。

三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、 1953年、岡山県立南海高等学校(現・岡山県立倉敷鷲羽高等学校)から阪神タイガースに入団し、3年目から三塁手のレギュラーに定着。俊足強肩の選手として吉田義男と鉄壁の三遊間を構成。守備の名手として知られ、簡単な打球でもファインプレーにみせる長嶋茂雄に対し、難しい打球もダイビングキャッチなどをせずに全て正面で捕ったといわれる。1957年にベストナインを獲得する。

以降も1958年に21本塁打、35盗塁を記録するなど活躍を続けるが、ベストナインは長嶋に独占される。だが、三塁守備の実力は日本球界でもトップクラスで、どんなに高度な打球処理もファインプレーに見せない神業ともいえる守備は、ファンや、さらには敵将であるはずの川上哲治監督にすら「三宅と長嶋の守備では大人と子供ほどに違う」といわれたという。同時期の阪神の遊撃手・吉田義男、二塁手・鎌田実との二三遊間はまさに鉄壁で、「日本球界最高の守備陣」といわれ「試合前のシートノックだけで金が取れる」と評された。(ただし、一塁手の藤本勝巳・遠井吾郎だけはお世辞にも守備がうまいとはいえなかったらしい)
1962年9月5日まで、882試合連続出場と700試合連続全イニング出場(2004年に金本知憲が更新、阪神球団在籍選手としての記録も金本が2007年に更新)の記録を継続していた。しかし翌9月6日の試合前、小山正明のキャッチボールの送球を左眼に受け、虹彩分離の重傷を負ってしまった。そのため1.5あった視力が0.1にまで低下。これが選手生命を絶たれる原因となる。以降、目立った活躍はできなかった。1967年現役引退。引退後はコーチを歴任。
2004年8月1日に金本が連続試合全イニング出場の新記録を更新した際には、金本に花束を贈呈している。

(参考)
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 ↑ フェリーの着岸する宮の浦港にある草間弥生の「赤かぼちゃ」──私たちはチャーター船なので立ち寄らなかった

前置きが長くなったが、海の移動は、この船にお世話になった。
この三宅船長とは待ち時間などで、いろいろ話をした。
奥さんは十歳ほど若いが、日本野鳥の会の会員で、日本各地は勿論、鳥の渡りを追って台湾などにも行って撮影するのだという。
立派なデジタル一眼カメラをお持ちである。「連写」だから、撮った写真は、その場で見て不要のものはどんどん消すのだという。
旦那さんも同行して撮影機材などの重いものを運ぶ助手を務めるのだという。仲のいいオシドリ夫婦というというべきである。
閑散期は、こうして二人で各地を廻るので、儲けは、そちらの方に使っているらしい。
また燃料の軽油が高くて採算的に大変なこと。ガソリンや軽油にかかる税金は陸上交通のもので、海を走る船にはかからないこと。
その分だけ安く済む勘定だが、船のエンジンは燃料をがすがす食うこと。安いチャーター料では儲けはなく大変だが、遊ばせるよりいいと割り切ってやっている、など。
遊覧船なので船を着岸するときに操船しやすいようにエンジンを二基つけていること、など、いろいろ話を聞いた。

↓ さて本題である。

   第一日──直島

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 ↑「地中美術館」の地上からの俯瞰

先ず「直島」に行くが、
「ベネッセアートサイト直島」は、瀬戸内海に浮かぶ直島、豊島、犬島を舞台に、ベネッセホールディングスと直島福武美術館財団によって運営されるアート活動の総称である。

ベネッセアートサイト直島(べねっせ・あーと・さいと・なおしま、英文名称:Benesse Art Site Naoshima)は、岡山市に本拠を置く教育関係企業ベネッセコーポレーションが、瀬戸内海に浮かぶ離島・直島(香川県直島町)で展開する、現代美術に関わるさまざまな活動の総称。ベネッセハウス、家プロジェクト(島内の海岸や集落を使ったアート作品のインスタレーション)、その他刊行物やシンポジウムなどを含んでいる。
ベネッセコーポレーションが1980年代後半より美術館・ホテル・キャンプ場の複合体「直島文化村」で行ってきたアート活動が、直島島内の海岸や古民家や路地なども舞台となるようになり、もはや美術館内部に納まらない規模になってきたため、2004年7月より「直島文化村」ほか島内のアート活動の総称を「ベネッセアートサイト直島」に改称した。以前からの企業コレクションであった美術品も多いが、ベネッセハウスの構造や瀬戸内の景観、集落の歴史などを踏まえて、直島だけのために構想し制作・設置され、直島以外では見られない場所限定的な(サイトスペシフィックな)インスタレーション作品が増えてきたのが特徴。

近年の作品新規購入(設置)の方法としては、「サイトスペシフィック・ワークス(特定の場所でつくられ成立する作品)」、つまり、アーティストを招き、直島や美術館を見て場所を選んでもらい、その場所のためにプランを立て、制作するという手法をとっている。海外などから来た作家が安藤忠雄の美術館建築や直島という場所をどうとらえたかが作品の成立の鍵となっている。癖の強いベネッセハウスの建築や、既にある島の風景や歴史に対し、対峙してそれでも負けない強さを持った作品がそろい、しかもそれを見ているうちに直島の風景や暮らしやベネッセハウスの建築などの隠れた魅力に気づくようになり、それらと自分自身の関係を考え始めるようなきっかけとなる優れた作品が多い。

また安藤忠雄設計のベネッセハウスへの宿泊、島内の集落でのアート作品鑑賞などのコースが、国内の旅行雑誌よりむしろ欧米の高級リゾートホテル誌に取り上げられることが多く、徐々に外国人観光客が増えている。

内部は写真撮影なども一切禁止であるから、詳しくはネット上で検索されたい。
初めに画像を出した「草間弥生」は現役の現代芸術家として著名な人であり、日本よりも海外で有名である。
つい先日、NHK・BSプレミアムが長時間特集していたから、ご覧になった方もあろうか。
以下に載せる写真などは、いずれも現地で買ってきた絵はがきをスキャナーで取り入れたものである。

「地中美術館」は三人の芸術家の部分に分かれている。
「ウォールター・デ・マリア室」「ジェームス・タレル室」「クロード・モネ室」だが、モネの睡蓮の連作シリーズの画像は無い。

地中美術館
 ↑ 上の画像が「デ・マリア」の作品

地中美術館0001
 ↑ この画像と先の画像の「下」の画像が地中美術館の建物を作った安藤忠雄のもの。コンクリートの打ちっぱなし。安藤の得意分野である。

地中美術館0002
 ↑ 「上」の画像がジェームス・タレルの「オープン・スカイ」の画像─ただし夜景のもの
   「下」はリチャード・ロングの「十五夜の石の円」という作品

これで作品は、すべてである。

とにかく、各々の芸術家のこだわりがひどく、かつ福武財団のこだわりも強いので、参観者は引き回される感じ。
瀬戸内の自然の景観に溶け込むように、との配慮もあり、とにかく参観者は「歩かされる」。
折しも蒸し暑い猛暑のこととて、大汗だくだくである。
ここを出たあと「本村」地区に移動して「直島・家プロジェクト」という土着の集落の建物などを利用した数件のプロジェクト作品を見ることになるが、私はくたびれて端折ってコーヒーを飲んで休息する。

直島・家プロジェクト
 ↑ 「上」宮島達男の「角屋」という作品
   「下」大竹伸郎の「舌上夢・ポッコン覗」の「はいしゃ」作品

念のために言っておくが、直島の芸術作品にじっくり触れるためには「ベネッセハウス」に宿泊して、ここの食事を食べ、夕陽、朝陽を見る、という余裕が必要である。
私のような駆け足では十全に感受出来ないことを声を大にして申し上げておく。

これで初日の参観は終わり、三宅氏の船で、今夜宿泊の小豆島の「ベイ・リゾート小豆島ホテル」に入る。
私の部屋は六階。大浴場は十二階で展望が素晴らしい。
夕食は洋食を選択。品数は多くはないが、おいしいコース料理。ツアーでは、こういう本式のコース料理は珍しい。
ホテルほか
このホテルのすぐ近くに「マルキン醤油」の工場や記念館があり、醤油のいい匂いがただよって来る。
そこで少しWikipediaの記事を引いておく。

丸金醤油株式会社(まるきんしょうゆ)は、かつて香川県に存在した食品メーカーである。
2000年4月1日に兵庫県神戸市灘区の食品メーカー、忠勇と合併し、マルキン忠勇(現・ジャパン・フード&リカー・アライアンス)となった。

社名の由来 地元香川県にある金刀比羅宮の社紋(丸に金)にあやかり、社名とした。
沿革 1907年1月22日 - 創業者である木下忠次郎が香川県小豆郡苗羽村(のちの内海町、現・小豆島町)に丸金醤油株式会社を設立。
1934年8月12日 - 内海醤油会社を吸収合併。
1949年5月 - 大阪証券取引所第2部に上場。
1962年8月1日 - 船山醤油、安田醤油、川野醤油、島一醤油の4社を吸収合併。
1988年3月 - 大阪府大阪市西区にマルキン大阪ビルを設置。
2000年4月1日 - 忠勇株式会社(同日付けでマルキン忠勇株式会社に社名変更)に吸収合併され消滅。
忠勇との合併は 商法上は、忠勇が丸金醤油を吸収合併した形だが、実際は経営不振に陥った忠勇が丸金醤油の傘下に入ったもので、いわゆる逆さ合併である。

「忠勇」というのは灘の古い日本酒メーカーだが、ここがマルキン醤油と経営統合しているとは知らなかった。
この頃は何の分野でも企業の経営環境は厳しく、私の家の近くにあった「藤清こんにゃく」も京伏見の日本酒トップメーカー「月桂冠」の傘下にM&Aで吸収された。
これらは、いずれも「食品」関連の企業であり多角経営を進める観点から、この業界では流行っているらしい。
参考までに書いてみた。

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    第二日──豊島→犬島

瀬戸内海は日本のエーゲ海と称されるが、確かに「多島海」ではあるが、「海の色」が違う。
私はギリシアには二回行ったが、二回目はエーゲ海をクルーズ船で巡った。
真夏のことであるが、海はプランクトンの少ないせいか「真っ青」である。いわゆる「エーギアン・ブルー」と称するネイビー・ブルーである。
それに日本のような湿気はないから、真夏の日中の気温は四十度にも達するから猛烈に暑いが、湿気はないし、夜には気温がぐんと下がり、
二十度以下にもなったりするから快適である。

さて、私たちは小豆島のホテルを出て、三宅氏の船で一路「豊島」(てしま)に向かう。
言い忘れだが「直島」も「豊島」も行政的には香川県に属する。ただし午後に行く「犬島」は岡山県である。

豊島は結構大きい島である。ただし小豆島ほど大きくはない。小豆島は、この近辺では飛び抜けて大きい。(はじめに掲げた地図参照)
豊島というと、戦後一時、住民の住む集落の反対側に有害な産業廃棄物が投棄され、その処分をめぐって中坊公平弁護士たちが苦労した話が有名。
今では香川県もたちあがり、その処理が進められている。

この島には「家浦」港と「唐櫃」(からと)港と二つの港があり、豊島美術館のあるのは唐櫃港のすぐ傍である。
島の中は町営のシャトルバスが、この両港の間を一回200円で巡回している。
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豊島美術館は、建築家・西沢立衛とアーチスト・内藤礼とのコラボレーションで誕生した。
写真のように瀬戸内の海を望む小高い丘に位置し、休耕田となっていた棚田を地元住民とともに再生し、その一角に水滴のような形をした建物が建てられた。
広さ40×60メートル。高さ4.5メートルの空間の中には柱が一本もないコンクリート・シェル構造で、天井にある2カ所の開口部から、周囲の風、音、光を直接とりこみ、自然と建物が呼応する空間となっている。
下で紹介する「豊島美術館ハンドブック」の中で、財団法人直島福武美術館財団理事長の福武總一郎は、こんな風に書いている。

<正式には香川県小豆郡土庄町豊島は、1975年から16年間にわたり約56万トンという大量の産業廃棄物が不法投棄され、県と住民の間で公害調停が成立したのは2000年のことです。
それから10年後の2010年にオリーブの木が記念植樹され、この豊島美術館が開館しました。
本来、豊島は湧き出る清水に象徴されるように自然に恵まれた島であり、島民の方々はこの清水を飲用、洗濯用などに利用してきました。
また眼下には海まで棚田が作られ豊かな田園地帯が広がっていました。ここを美術館敷地としたのは、耕作放棄されてきた棚田を再生し、大地の恵みが蘇り、清水が産廃の投棄にも関わらず今も枯れることなく湧き出ているこの場所こそが相応しいと考えたからに他なりません。
建築家も作者もこうした歴史を踏まえ、それぞれの代表作となるであろう作品を創り上げてくれたものと思います。
作家・内藤礼さんと建築家・西沢立衛さんによるこの美術館の構想は、2004年7月、地中美術館の完成後、ほどなくして始まりました。
私にとって優れた美術館とは、展示陳列施設としての建物ではなく、建築物とそこに在る作品が周辺環境を含め調和し対話しているものです。
豊島美術館の場合は、女性的、母性的であり柔らかな存在として意識していました。いわば「豊穣と再生」の空間として作家、建築家によって誕生したともいえます。・・・・・・>

この言葉こそ、この美術館のコンセプトと言える。
館内など写真は撮影禁止であるから、ここに掲出したものは、すべて「ハンドブック」から借りたものである。

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内部のコンクリートの床には、水の出る小さな穴があり、あるかなきかの傾斜を水玉が、とどまり、流れて、ところどころに開く、やや大きな穴に吸い込まれてゆく。
内部に入るには靴を脱ぎ靴下や素足になって入る。
一番目の写真のように毛糸のような紐が二つ垂らされていて、自然の風に靡いている、という風情である。
この建物に入るにも島の植生を見ながら数百メートル歩くということになる。
周りの棚田は今では再生され、石垣も綺麗で、稲が青々と茂っていた。
脇に小さなトーチカのようにカフェ・ハウスがあり、ここも靴を脱いで入るが飲み物などを注文できる。

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 ↑ 入場券ホルダー
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 ↑ 豊島美術館ハンドブック

この島にも「家プロジェクト」があるらしく、ガイドブックには載っているが、今回は立ち寄らなかった。

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    犬島

title_photo1犬島
 ↑ 犬島の旧銅精錬所の風景
title_photo2犬島
 ↑ 犬島の旧銅精錬所のレンガ塀の風景
title_photo3犬島
 ↑ 「犬島美術館の内部・ミラーの迷路」

はじめに、Wikipediaに載る記事を要約して出しておく。

岡山県岡山市東区の離島。古代に犬を追放したという場所。『枕草子』に一条天皇の可愛がる猫「命婦のおとど」に飛びかかった犬の翁丸に対して、天皇が「この翁丸うちてうじて、いぬしまへつかはせ」と命じたとの話が見える(うへにさぶらふ御猫)。北村季吟の枕草子の注釈以来、一説に本項で扱う犬島を指すとされてきたが、藤原秀能の『如願法師集』(13世紀)に「いぬしまや 中なる淀の渡し守」の句が見えることなどから、淀川のあたりにあった地名ともいう。
島名は犬に似た巨岩に由来するといわれるが、その名に似ず、島内には猫が非常に多い(2009年以降は激減)。
花崗岩(犬島みかげ)の産出で知られ、大坂城築城のほか、明治以降の大阪港築港の際には礎石の切り出し場となるなど、大阪の建設と縁が深い。

1909年(明治42年)から1919年(大正8年)まで島の東南部で銅の精錬を行っていた。精錬所の遺構として、朽ち果てたレンガ積みの煙突が数本残り、島のシンボルとなっている。

人口の減少に伴い小中学校は廃校になったが、郵便局は簡易郵便局として残っている。なお、犬島自然の家は、かつての小中学校舎を公営の宿泊施設として整備・増築したものである。

文化1984年に放送されたテレビドラマ『さよなら西部警察』のロケ地としても使われた(私有地内のため立ち入りは出来ない)。いまでも爆破ロケの残骸や足場が放置されるなど、当時のロケの荒っぽさを感じさせ、地元に映画ロケーションへの拒否感を起こしてきた。近年は映画「鉄人28号」のロケ地になるなどふたたびロケが活発化している。

近年、精錬所を使った演劇祭が開かれたほか、香川県直島町でベネッセアートサイト直島を展開するベネッセコーポレーション(岡山市)現会長が直島福武美術館財団を設立し、精錬所付近を使った恒久的なアートワークの設置を柳幸典と共に10年前から計画。2008年(平成20年)4月「犬島アートプロジェクト“精錬所”」が開館している。
以前は予約者のみ見学可能だったが、2010年度以降は事前予約が不要になり、自由鑑賞制を導入している。

また、2004年より「犬島時間」というアートプロジェクトが行われており、毎年夏頃に「犬島時間」というアートイベントを開催している。犬島の夏の恒例行事として賑わいをみせている。こちらのプロジェクトは、ベネッセの助成事業として犬島時間実行委員会が運営している。年間を通じて犬島とかかわり、その魅力を発振している。犬島アートの先駆け的な存在である。

犬島は2010年に開催されるアートの祭典瀬戸内国際芸術祭の開催地にもなっており、維新派の演劇が行われるなど、今後ますます地域の文化的な活性化が期待されている。

この島の参観は、先ず旧銅精錬所の廃墟の跡を使った「犬島アートプロジェクト・精錬所」だが、掲出した画像③のように煉瓦通路の暗い迷路の曲り角ごとに「ミラー」を置いた「仕掛け」があるが、真夏のこととて内部は蒸し暑くて、苦行。大汗だくだくである。
出たところに三島由紀夫の『英霊なんとか』という小説のセリフを取り込んだオブジェがあるが、この仕掛けとの関係は分らずじまい。
今では、三島由紀夫の自衛隊市谷での「自決」というものも、否定的な見方が一般的で、この両者をくっつけようとした作者の意図は疑問である。
この美術館(?)と称する作品は柳幸典/三分一博志の製作という。
かつて、日本の近代化に警鐘を鳴らした三島由紀夫を持ってきた、というのがモチーフらしい。

旧精錬所の遺跡めぐりも炎天下で苦痛であった。
休憩所での五百円の「紫蘇カキ氷」に涼を求めたのも、お愛嬌か。
島の集落の家を利用した「家プロジェクト」と称するものは、柳幸典、妹島和世、長谷川祐子の手になるもので、私は一応、全部みて歩いたが大汗をかいて苦痛だったことが印象に残るのみであった。
芸術家と称する者は、本来「ひとりよがり」のものであるから、それを知れば何も異を唱えることもないのである。
犬島

これで今回の瀬戸内アート巡りは終了した。

今のベネッセは、もと「福武書店」と称していた。受験指導の進研ゼミなどで儲けたのだが、書店の出版物として国語の辞書なども出している。
ここの「古語辞典」はよく出来ており、私はここのものを愛用している。
「岩波古語辞典」もあるが、ひとりよがりの編集で使いにくいので、私はもう二十年来、福武の古語辞典を愛用していることを、敢えて言っておきたい。
福武總一郎は岡山の「立志伝中の人物」であり、その意味で、このような企画も、次々と持ち込まれるのであろう。
ただ今後が問題である。期待して見守りたい。 お手並み拝見というところである。  以上。

(追記)
この記事を載せた直後に、新潮社・とんぼの本で、福武總一郎、安藤忠雄ほか『直島・瀬戸内アートの楽園』が出た。↓
直島

ここには詳しく載っているので、深く知りたい方は見てみられるとよい。
この本を読むと、これらを十全に鑑賞するには「ベネッセハウス」に泊って、かつ日程も三泊四日くらいして、ゆっくりと見なければ理解したとは言えないだろう。
直島の家プロジェクトの「護王神社」や大竹伸郎さんの「 I 湯」の銭湯にも入ってみたい。
いろいろ仕掛けがあるようで面白そうである。

なお福武 總一郎などについて、Wikipediaの記事を引いておく。↓

福武 總一郎(ふくたけ そういちろう、1945年12月14日 - )は、ベネッセホールディンクス取締役会長。

福武書店(現ベネッセコーポレーション、ベネッセホールディンクス)創業者・福武哲彦の長男。岡山県出身。早稲田大学理工学部卒業。日製産業勤務を経て、1973年福武書店に入社。2009年総務省顧問。

1986年、福武書店社長であった父の急逝に際し總一郎は、東京から岡山の本社へ戻ることになる。大都市から地方都市岡山へ戻った總一郎は、当初こそ、その環境の大きな落差に戸惑うが、数ヶ月もしないうちに東京にいないことの幸せを心底から感じるにいたる。總一郎の目には、歴史もなく自然も存在しない東京は「人間」の欠けた都市と映り始めた。岡山への帰郷は、その数年後に社名を「ベネッセ」(「よく生きる」の意味)に変更するほどに、總一郎に大きな影響をもたらせた。

「ベネッセアートサイト直島」の活動を始め、2004年地中美術館を開館。2008年3月東京大学に16億5千万円を個人寄付し、本郷キャンパスに「情報学環・福武ホール」が造営されている。

役職
1974年 - 東京支社長
1976年 - 常務取締役
1980年 - 専務取締役
1985年 - 副社長
1986年 - 父の急死により代表取締役社長に就任
1989年 - 直島国際キャンプ場をオープンさせる。
1995年 - 社名をベネッセコーポレーションに変更
1997年 - 家プロジェクト開始
2003年 - 代表取締役会長
2009年 - 持ち株会社制導入時に代表取締役を離れ、取締役会長となる。
受賞履歴
1991年 - 「財界」経営者賞
1995年 - 毎日経済人賞
2000年 - 岩切章太郎賞
2004年 - 岡山県文化賞
2008年 - ベネッセアートサイト直島などのプロデュースにより、芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)

株式会社ベネッセホールディングス
Benesse Holdings, Inc

本社所在地 日本
〒700-8686
岡山県岡山市北区南方3-7-17
設立 1947年11月(タバイサイエンス株式会社、注1)
業種 サービス業
代表者 代表取締役社長 福島保
資本金 136億00百万円
(2010年3月31日現在)
発行済株式総数 1億0635万3453株
(2010年3月31日現在)
売上高 連結4127億円
(2010年3月期)
純資産 連結1684億円
(2010年3月31日現在)
総資産 連結3431億円
(2010年3月31日現在)
従業員数 連結15666人
(2009年12月31日日現在)
決算期 3月31日
主要株主 野村信託銀行株式会社 14.75%(創業家出資分を含む)
主要子会社 グループ企業の項目を参照
関係する人物 福武哲彦,福武總一郎

かつては文芸誌「海燕」や「福武文庫」を出し、文芸・人文の出版も活発に行っていたが90年代後半までに全面撤退し、現在は「教育・語学・生活・福祉」の分野を中心に事業を進めている。
旧社名は株式会社福武書店であり、社名変更後も「福武文庫」など語学関係の書籍に福武のブランドが用いられてきた。現在は『福武国語辞典』など一般向けの辞典に用いられる。


きりぎりす腸の底より真青なる・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋淡路女
img012きりぎりす

  きりぎりす腸(わた)の底より真青なる・・・・・・・・・・・高橋淡路女

キリギリス科の虫で体長は3.5センチほど。翅は腹部を包むようにたたむ。緑色で褐色の斑がある。
チョン、ギースを繰り返して鳴く。ギースチョンとも聞きなす。秋の半ばまで昼に鳴く。
翅脈は鋸の歯のようになっていて、こすりあわせて鳴く。
掲出の句は、キリギリスの様子を、巧みに捉えている。
平安時代から江戸時代まで「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼んでいた、らしい。
つまり古今集時代から江戸時代まで、コオロギのことを「きりぎりす」と呼んでいたと言い、混同しやすいので留意したい。
芭蕉の句の「むざんやな甲の下のきりぎりす」というのも、もちろん「コオロギ」のことである。

以下、キリギリスを詠んだ句を引く。

 スカートを敷寝の娘きりぎりす・・・・・・・・滝井孝作

 一湾の潮しづもるきりぎりす・・・・・・・・山口誓子

 きりぎりす時を刻みて限りなし・・・・・・・・中村草田男

 泥濘におどろが影やきりぎりす・・・・・・・・芝不器男

 わが胸の骨息づくやきりぎりす・・・・・・・・石田波郷

 曲らむと鉄路かがやききりぎりす・・・・・・・・軽部烏頭子

 崖下に道なし崖のきりぎりす・・・・・・・・山口波津女

 きりぎりす生き身に欲しきこと填まる・・・・・・・・野沢節子

 山の鉱泉に父の晩年きりぎりす・・・・・・・・高島茂

 夜の底に泣く貌もてりきりぎりす・・・・・・・・辛島睦子

 きりぎりす生あるかぎり紅をさす・・・・・・・・久米富美子

 きりぎりす胸に組まれる死者の指・・・・・・・・大井雅人

 きりぎりすチョンを忘るるときもあり・・・・・・・・岡本無漏子
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引用した一番はじめの句の「敷寝」の意味が判る人も少なくなっただろう。
女子学生が制服のスカートのヒダを、夜、蒲団の下にキチンと整えて寝ている間にヒダをきれいに圧し直すことをいう。
今ではベッドで寝る人が殆どであり、こういう光景には、お目にかかれないと思われる。
因みに、この作者の滝井孝作は小説家として有名な人。


鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨
083鰯雲

  鰯雲人に告ぐべきことならず・・・・・・・・・・・・・・加藤楸邨

夏の雲は山際にもくもくと立ち上がる「積乱雲」が特徴であるが、秋に入ってくると、写真のように、小さい雲片が小石のように並び集る「巻積雲」いわゆる「鰯雲」が季節の雲となる。
写真のように、規則的にさざ波のように並んでいることもあるが、はなればなれになっていることもある。
高空に出て、鰯が群れるように見えるので鰯雲、鱗のように見えるので鱗雲、鯖の斑紋のように見えるので鯖雲などと呼ぶ。
『栞草』には「秋天、鰯まづ寄らんとする時、一片の白雲あり。その雲、段々として、波のごとし。これを鰯雲といふ」と書かれていて、
鰯雲の特徴を見事に捉えている。
名前に味があり、俳句に愛用される季題のようである。

掲出の楸邨の句は、鰯雲という自然現象の中に「人に告ぐべきことならず」という私的な人事を詠みこんで、見事な主観俳句の秀句とした。
以下、歳時記から鰯雲の句を引く。

 鰯雲日和いよいよ定まりぬ・・・・・・・・高浜虚子

 いわし雲大いなる瀬をさかのぼる・・・・・・・・飯田蛇笏

 松島の上にひろごり鰯雲・・・・・・・・田村木国

 鰯雲昼のままなる月夜かな・・・・・・・・鈴木花蓑

 鰯雲こころの波の末消えて・・・・・・・・水原秋桜子

 鰯雲個々一切事地上にあり・・・・・・・・中村草田男

 妻がゐて子がゐて孤独いわし雲・・・・・・・・安住敦

 鰯雲ひろがりひろがり創痛む・・・・・・・・石田波郷

 鰯雲予感おほむねあざむかず・・・・・・・・軽部烏頭子

 葬られてしまひしものに鰯雲・・・・・・・・中川宋淵

 鰯雲動くよ塔を見てあれば・・・・・・・・山口波津女

 いわし雲城の石垣猫下り来・・・・・・・・森澄雄

 豆腐二丁はなれて沈みいわし雲・・・・・・・・酒井鱒吉

 鰯雲子は消しゴムで母を消す・・・・・・・・平井照敏


告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて
    山城古地図の甦る秋・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、自選50首にも入れてあるのでWeb上でもご覧いただける。
この歌は歌会で「告ぐることあるごとく」という比喩と「山城古地図」の甦りとが巧みに照応して見事だと褒められて高点を得た思い出ふかい歌である。
とんぼは晩春から晩秋まで見られる虫だが、むかしから秋の季語とされている。
肉食で、昆虫を捕えて食べる。種類は日本で120、30種類棲息するが、均翅亞目の「かわとんぼ」「いととんぼ」は夏の季語となる。
これらは止まるとき翅を背中でたたむ。
不均翅亞目は止まるときも翅を平らにひろげ、後翅が前翅より広い。とんぼの多くは、こちらに属する。
図鑑の説明を読むと、なるほど、そうか、と納得する。
これから「赤とんぼ」の飛ぶ季節だが、古来、この赤とんぼ、あるいは「秋あかね」と呼ぶとんぼが、色も赤いく目立って多いので、秋の季語となったのではないか。
写真②は大型の「やんま」の種類である。
FI1703458_2Eケンスジヤンマ

掲出した歌の載る一連を引いておく。

 牧神の午後(抄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

告ぐることあるごとく肩に蜻蛉きて山城古地図の甦る秋

黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む

妻の剥く梨の丸さを眩しめばけふの夕べの素肌ゆゆしき

サドを隠れ読みし罌粟(けし)畑均(なら)されて秋陽かがやく墓地となりたり

花野ゆく小径の果ての茶畑は墓を抱きをり古地図の里は

秋風に運ばれてゆく蜘蛛の子は空の青さの点となりゆく

秋蝿はぬくき光に陽を舐めて自(し)が死のかげを知らぬがにゐる

牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさに見つ

おしろいばな狭庭に群れて咲き匂ふ妻の夕化粧いまだ終らず

一茎のサルビアの朱(あけ)もえてをり老後の計画など無きものを

つぎつぎに死ぬ人多く変らぬはあの山ばかり生駒嶺見ゆる

藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子
higurasi04ヒグラシ雄

  藍布一反かなかな山からとりに来る・・・・・・・・・・・・・・・・・飯島晴子

「ひぐらし」はカナカナカナと乾いた声で鳴く。だから、「かなかな」とも呼ぶ。夜明けと夕方に深い森で鳴く。
市街地や里山では聞かない。
この声を聞くと、いかにも秋らしい感じがするが、山間部に入ると7月から鳴いている。海抜の高度や気温に左右されることが多いようだ。

掲出した写真は、ひぐらしの雄である。
「蜩」ひぐらしは、その鳴き声が夏から秋への季節の移り変わりを象徴するようで、何となく寂しそうで、古来、日本人には愛されてきた。
『万葉集』巻十・夏雑に

  もだもあらむ時も鳴かなむひぐらしのものもふ時に鳴きつつもとな

同・秋雑に

  暮(ゆふ)影に来鳴くひぐらしここだくも日毎に聞けど飽かぬ声かも

『古今集』秋・上に

  ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかに訪ふ人もなし

という歌があり、ひぐらしの特徴を巧く捉えている。『和漢三才図会』には「晩景に至りて鳴く声、寂寥たり」とあるのも的確な表現である。
掲出の飯島晴子の句は、並みの発想とちがって「藍布一反」を、かなかなが「山からとりに来る」と詠んで、前衛句らしい秀句である。

ひぐらしを詠った俳句も多いので、以下に引いて終りにする。

 蜩や机を圧す椎の影・・・・・・・・正岡子規

 面白う聞けば蜩夕日かな・・・・・・・・河東碧梧桐

 ひぐらしに灯火はやき一と間かな・・・・・・・・久保田万太郎

 かなかなの鳴きうつりけり夜明雲・・・・・・・・飯田蛇笏

 ひぐらしや熊野へしづむ山幾重・・・・・・・・水原秋桜子

 蜩やどの道も町へ下りてゐる・・・・・・・・臼田亞浪

 会へば兄弟(はらから)ひぐらしの声林立す・・・・・・・・中村草田男

 蜩や雲のとざせる伊達郡・・・・・・・・加藤楸邨

 ひぐらしや人びと帰る家もてり・・・・・・・・片山桃史

 川明りかなかなの声水に入る・・・・・・・・井本農一

 蜩や佐渡にあつまる雲熟るる・・・・・・・・沢木欣一

 蜩の与謝蕪村の匂ひかな・・・・・・・・平井照敏

 しろがねの蜩の翅 京ことば・・・・・・・・鈴木石夫

 ひぐらしに肩のあたりのさみしき日・・・・・・・・草間時彦

三井葉子詩集『灯色醗酵』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
三井葉子

──三井葉子の詩・句──

      三井葉子詩集『灯色醗酵』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・思潮社2011/07/30刊・・・・・・・・・・・

私の敬愛する三井葉子さんが新・詩集『灯色醗酵』(ひいろはっこう)を上梓された。
2010/06に詩集『人文』(じんもん)(編集工房ノア刊)を出されたばかりの矢つぎ早の刊行である。
いつも言っていることだが、三井さんの詩は、平易な言葉で綴られているのだが、中身は、なかなか読み解けない、難しいのである。
今回の、この詩集は今年になって体調検査のためにほぼ四週間入院されて無聊の日を過ごす中でまとめられたという。
私の旧知の詩も二、三あるが、おおよそは新作の書き下ろしである。
どの作品を引いたらいいのか、選ぶのに苦労するが、この本の「裏の帯」に載っている短い詩を、先ず引いてみる。

      夕凪・・・・・・・・・・・三井葉子

     海は
     凪をあそんでいる

     かすみ立ち かすみ消えるあの凪に誰か雑(ま)じることがあるのだろうか
     
     ことば、と、 わたしは呼んでみる

                                       
     たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや と
     
     わたしも外に出て
     戸口に立つことも覚えたのだ

     ことばは消えることができる
     わたしはなにを消したのだろう
     とぶように逃げて行く時(とき) に立ちはだかって
     失うものを
     あずけたのではないか
     ことばに

     ことばは消える
     ことばは抱きしめる

     そんな愉楽の
     夕凪の
     とき
     を

     ねえ
     誰か覚えてる?


      *三世紀中国の女詩人・子夜の作。『車塵集』(佐藤春夫訳)「思ひあふれて」より。

この本にはフランス文学者で文芸評論家の粟津則雄氏が、<「不思議な無欲」──『灯色醗酵』によせて> という「栞」を書いておられる。 引いてみよう。

<三井葉子さんの詩は、軽やかだが、軽くはない。それどころかそれは、時としておそろしく
重いものを垣間見せてくれるのだが、それがしつこく居すわって、あいまいな重苦しさ
を生み出すことはない。この重いものは、まるで自分の重さを恥じらってでもいるように、
たちまち身をひるがえして、ことばの流れのなかに溶け込んでゆく。そして、ことばのひとつ
ひとつに、あるいはくっきりとした、あるいは微妙な表情を与えることによって、その
軽やかな流れを、支え、推し進めるのである。  (中略)

もちろん、この日常は、ただのんびりと身を委ねて居られるようなたちのものではない。
一見何ごともないようだが、実はここかしこに、さまざまな驚異や飛躍や陥穽が待ち構え
ている。しかもそれらは、なかなか一筋縄で片付くような代物ではない。落し穴に気が付い
て飛びこえてみると、着地したところが本当の落し穴だったりする。そうかと思うと、対象
の謎めいた手触りが、触っているうちに、ごく平明な、あるあたたかさのしみとおもったもの
に変ってゆく。何かなまなましい情念が積め込まれたような気配が、一瞬にして、からりと
乾いた透明なものとなる。
こんなふうに言うと、三井さんの詩がいかにも巧みに巧んだものであるように思われるかも
知れないが、いや事実巧みに巧んだものであるにはちがいないが、そこには、巧みさという
ことに執したようなところはない。そういうことから発するあいまいな粘りといつたものは
いささかも感じられない。三井さんは、彼女自身の、また彼女を取り巻く人ひどの、欲求や
欲望や情念を、およそ斜に構えることなく虚心に迎え入れているが、そういう彼女の姿勢を
支えているのは、ある不思議な無欲である。この無欲は、何かを拒み、何かを否定すること
によって成立するものではない。進んでものにとらわれることによってものを奥底に向かっ
て突き抜けたときに生まれ出るものだ。三井さんの詩には、そういう無欲そのものを核と
することによってはじめて可能であるような、欲求や欲情がしみとおっていながらまことに
自由なことばの動きが見られるのである。 (後略) >

あと一、二篇、詩を引いておく。

     あいさつ・・・・・・・・・・・三井葉子

     なにしろはじめて行く家なのであいさつを考えている
     こんにちは
     も。なあ
     はじめましてというのも節がないし

     道端まではみ出している
     のうぜんかずら
     ちょっと枝を払ってやると姿がよくなるのにナとよその家の心配をしながら
     坂道

     五番地?
     六
     七がない。細道を曲がる

     汗拭いてやがて五月の町をゆく     葉子

     これはじぶんへのアイサツ。名刺を出すまえにもう、帰り支度である。
     名刺なんぞいつごろから使われるようになったんだろう。

     句はあいさつ。
     するとやっぱりもとは装飾か
     暑苦しくデコレーションしない装飾なのだ
     ハイクは世界でいちばん短い詩だと誰か言ったけれど。


        断 絶・・・・・・・・・・・三井葉子

      夜中にデンワのベルが鳴って
      いまから死ぬ
      と
                
      石原さんが言った

      わたしはちょっと考えたが
      仕方ないので
      どうぞ と言った

      彼はそのとき死ななかったがさくらのような雪のふる抑留地シベリアで
      凍っていたので、ときに解けたくなるのだ。

      でも

      凍っているからこそヒトとヒトとの間は断絶することができる。それこ
      そがわたしたちが共生できる基なのだと彼は言ったのだ

      夕焼け雲が解けながら棚引いている

      断絶も
      共生も
      もう わたしたちには用がないわね。


        *詩人・石原吉郎。
      
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「谷内修三の読書日記」① 「谷内修三の読書日記」②に詳しい書評があるので参照されたい。


幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大堀たかを
109地蔵盆

  幻燈はいま西遊記地蔵盆・・・・・・・・・・・・・大堀たかを

8月24日は地蔵菩薩の縁日、この日の祭りが地蔵盆である。
お盆の行事と結合したので地蔵盆という。
毎月24日はお地蔵さまの縁日なのだが、上に書いたようにお盆の行事と一緒になって、この日に開かれるようになった。
地蔵菩薩は末法の世の末に46億7000万年かの先に衆生を救いに来ると言われている。
特に子供の守り本尊で、写真②のような路傍の地蔵堂のお地蔵さまに、子や孫の順調な生育を願って、涎掛けや頭巾を手縫いしてお地蔵さまに着せる、
ということがされる。
扉の前に垂れる鈴鳴らしの紐には願をかける子や孫の名前と年齢を書き込むのが普通である。
4-13-3地蔵祠
お地蔵さまはお寺の境内に祠として祀られているものもあるが、多くは町や村の路傍──辻や三叉路などに建っているのが多い。
この地蔵盆という行事は関西、特に京都で派手に催される。
京都市内では8月22日頃から3日間、町内の大人たちが総出で接待をする。主役は子供である。
この日には路傍にあるお地蔵さんも祠から出して、町内の集会所あるいは当番の役員宅などに場所を設営して、
提灯を飾り、縁日のように金魚すくいなどをする。
しかし、基本は宗教的な行事なので「数珠繰り」などを子供たちにさせるなどする。
はじめには町内の僧侶が読経をすることになっている。

ji06地蔵盆
写真③では、ちょうど僧が拝んでいる後姿が見える。地域によって祭りの様子は様々である。
私の住む地域では町内役員がやっていたが、今では子供会に任せて、収入も一切、子供会のものとして自主財源として使えるように変えた。
私の所は田舎であり、京都市内のような大掛かりなことは昔から、しない。開催日も子供会の親の集りやすい、前後の日曜や土曜日にすることが多い。
ji01地蔵盆②

地蔵盆は子供のお祭とはいっても、やはりお地蔵さんを祀る宗教行事の一環であるから、写真④のように「数珠繰り」などもさせる。
数珠繰りとは108玉の大きな数珠を「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら手でたぐって廻すものである。
写真の中に祭壇に向かって読経する僧の姿が写っている。こういう行事の次第は地域によって違う。
この地蔵盆の費用は、どうするのか、ということだが、町内の各家から「お賽銭」または「お供え」のかたちで何千円かのお金を包んでお供えする。これは町内の戸数によって違うから総額には大きな開きがあるだろう。
因みに、田舎だが私の町内(自治会)は現在120戸くらい、私たちの小さい頃は60戸くらいだった。
もちろん地域や大きさによって、まちまちであることは言うまでもない。

掲出の大堀たかをの句の「幻燈」というのは、子供に西遊記の幻燈を見せている場面である。

ji08地蔵盆③
写真⑤は子供の余興で「金魚すくい」をさせているところ。
こういうのは専門の露天商を呼んで来て、費用は町内会もちで、子供たちには無料でさせる。
上に書いた「幻燈」などは、教養的要素のものと言える。
暑い夏の盛りであるから、かき氷の機械を据えて「かき氷」を振舞うこともあるようだ。
今は少子化の時代であり、小学校も統合、廃校になる時代であるから、こういう地蔵盆の在り方も少しづつ変わってゆくだろう。
今では郊外に新興住宅地も増え、そういう地域では「お地蔵さん」のないところが多いので、そういう地域対象にお地蔵さんの「貸し出し」をするお寺があるそうで、
この時期になると新聞、テレビの絶好のニュースとなる。

大変な数のお地蔵さんを大小取り揃えてあるそうで、好みの大きさのお地蔵さんを借りてゆくそうだ。
時代は変わっても、こういう伝統的な行事とは縁が切れないのが、人間社会の辛いところである。
首都圏の人には、こういう風習もないから理解が及ばないことが多かろう。

以下、地蔵盆を詠んだ句を少し引いて終りにする。先に言ったように地域性のある行事なので有名俳人の句は、余り、ない。

 地蔵会や芒の中に灯のともる・・・・・・・・長谷川零余子

 地蔵会や高くひびくは母の鉦・・・・・・・・中村若沙

 さまよへるちさき蛍や地蔵盆・・・・・・・・五十崎古郷

 地蔵盆とみに露けくなりにけり・・・・・・・・河原白朝

 涎掛け取替え在す地蔵盆・・・・・・・・松井蕪平

 両の手の吾が子よその子地蔵盆・・・・・・・・宮城きよなみ

 六波羅はいま陋巷の地蔵盆・・・・・・・・西尾砂穂


六斎の太鼓打つ子に父の笛・・・・・・・・・・・・・・・・・岸本久栄
bouzu壬生六斎踊②

  六斎の太鼓打つ子に父の笛・・・・・・・・・・・・・・・・・岸本久栄

仏教では1カ月に6つの「斎日」というものがあり、それは8、14、15、23、29日と晦日の6日。
これらの日には斎戒謹慎し仏の功徳を修し、鬼神に回向して善心を発起すべきとされた。これが六斎日である。


この六斎念仏踊りという行事は関西それも京都に伝わるもののようであり、これを詠んだ句にも有名人のものはないようである。
京都には嵯峨野念仏保存会、壬生六斎念仏などが保存会を結成して保存につとめている。写真①②は壬生六斎念仏の踊りの一場面である。
kumo2壬生六斎踊①

■踊り念仏とは
飢饉や疫病に苦しむ人々を救うこと、念仏を分り易く民衆に伝えることを目的に採用された宗教的手法のことである。

鎌倉期に一遍が開いたという時宗は、この流れに属するが、六斎念仏はそれより前に平安時代に空也が始めたものが源流である。
壬生六斎念仏では、空也上人が托鉢に用いる鉢を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えながら市中を練り歩いたという伝承に起源を求めている。
嵯峨野、壬生とも空也系だと称し、ほかにも流派があるらしい。
写真③④とも嵯峨野六斎念仏保存会に伝わる木札と無形文化財の指定書である。
fuda六歳念仏札
syojo六歳念仏指定書

■六斎念仏の由来
「六斎」という言葉の文献上の初出は『日本書紀』に持統天皇の5年(691年)2月に公卿らに詔して六斎を行なわしめたという記事がある。
念仏踊りは、いつしか六斎日と結びついて、六斎念仏と呼ばれるようになり、いつごろからか、お盆信仰と深く結びつけられるようになり、
今ではほとんどの六斎保存団体が、現在はすっかりお盆行事の一環という位置に定着してしまった。
六斎念仏踊りは8月16日の壬生六斎念仏をはじめとして、地蔵盆の頃に地蔵盆の行事とも結びついて催行されるのが多く、遅くは8月29日催行というのもある。
B035吉祥院六斎踊

写真⑤は吉祥院六斎念仏のもので8月25日午後8時吉祥院天満宮の境内で催行されるという。
桂六斎念仏(8月23日奉納)のHPは鳴り物入りで写真も多く詳しいサイトだったのだが、今は「休会」となっているようで残念である。
ここも地蔵盆の一環という感じであり、神社の境内で催行というのも神仏習合で面白かったのだが。。。。

先に書いたが、六斎念仏は京都を中心とする地域性が強く、詠まれた句も多くはないが、以下に書き抜いておきたい。

 清水の舞台灯すや六斎会・・・・・・・・水茎春雨

 六斎の念仏太鼓打ちてやむ・・・・・・・・中田余瓶

 六斎や身を逆しまに打つ太鼓・・・・・・・・高崎雨城

 六斎や久世も桂も盆休み・・・・・・・・中嶋黒洲

 息合ひて六斎太鼓乱れ打ち・・・・・・・・つじ加代子

 六斎は太鼓を抛りあげにけり・・・・・・・・田中告天子


光本恵子歌集『蝶になった母』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
光本恵子

──新・読書ノート──

    光本恵子歌集『蝶になった母』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・角川書店平成23年7月29日刊・・・・・・・・・

光本恵子さんとは、もう二十年の付き合いになるが、宮崎信義の「新短歌」誌以来のことになる。
光本さんは長野県諏訪湖畔の下諏訪町に住んでおられるが、出版記念会などで二度ほど、かの地にもお邪魔した。
私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)には「帯」文をお書きいただいた。
また、私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)の合同出版記念会には出席して批評のお言葉を賜った。これについてはネット上でもご覧いただける。

この歌集は、光本さんの第六歌集にあたる。
この本までに出された歌集は『薄氷』 『素足』 『おんなを染めていく』 『朝の出発』 『自由の領域』である。
その他にエッセイ集として『夾竹桃』があり、評論集としては『宮崎信義のうた百首』 『金子きみ伝』 『わたしの骨にとまる蝶』などがある。
1945年、鳥取県生まれ。京都女子大学文学部国文学科卒業。学生時代に宮崎信義に出会い口語自由律「新短歌」に入会。
関西学生超結社「幻想派」「PHOENIXぽえにくす」に参加。昨年亡くなった河野裕子とは京都女子大で同学である。
また、短歌結社「短歌人」の編集者だった高瀬一誌との深い交友、短歌評論家としても色々の著作のある小笠原賢二との交友など歌壇の中での付き合いも深い人である。
現在、口語自由律誌「未来山脈」主宰。

この歌集は2002年から2007年までの歌を収録している。
歌の数が多いので、とても意を尽くした引用は出来ないが、私の目にとまった十数首の作品を引いておく。

 連想し想像し思いめぐらし 決断したら言葉に出してみる

 境遇をかなしまず命を走る 電車はライトを付けて闇をはしる

 フランクフルトから南下する超特急ICEに乗ってアルプスの麓まで

 アルプスの麓の小さな村に到着 迎えてくれるのは青年トーマス

 トーマスは二年前日本の我が家に数カ月暮らしたドイツの若者

 トーマス家は山麓のスポーツ店を営業 イタリア製のズボン購入

          2004年小笠原賢二逝く
 新宿歌舞伎町で一緒に唄った賢二「口語短歌ガンバレ」と言ったまま星に

 けんかはしないと決めて旅に出た ちょっと疲れたのか不機嫌なふたり

 ネーベルホーンここで死ねたら本望と君は五十分のパラグライダー飛行

 義母も実母も病のまんなかにいてわたしは右往左往

 長い指でしたね 白い骨はからからと空に飛び立つ

 「けえちゃんけぇちゃん」よろける足で赤碕駅まで送るという母

 ふるさとよ海や丸石や砂浜の意思で母を守れ 昔約束したように

 あなたの愛に育まれここまできました 母よ母よ力なくわらわないで

 好きだった「荒城の月」を唄うととよ子さんの右手もうたう

 点滴に託すいのちもあり今夜も語らず蝶になって野辺を翔いてる

 砂が跳ぶ水がとぶ蝶が飛ぶゆっくりゆっくり廻る白い風車

法師蝉去んぬる夏を啼きゆくははかなきいのちこそ一途なれ・・・・・・・・・・・・・木村草弥
tukutukuつくつくぼうし

  法師蝉去(い)んぬる夏を啼きゆくは
   はかなきいのちこそ一途(いちづ)なれ・・・・・・・木村草弥


法師蝉というのはつくつくぼうしのことである。
こういう虫の声や蝉の鳴き声、鳥の鳴き声などは「聞きなし」と言って、鳴き声から名前がついたりする。
つくつくぼうしも「おーし、つくつく」とも聞きなしされる。夏の終り頃から鳴きはじめる。
いよいよ夏も去るのか、という感慨の起る鳴き声である。
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものである。
ただしWeb上では自選50首には入れていないので、ご覧いただけない。

「つくつくぼうし」は立秋の頃から晩秋まで聞かれる秋の蝉の代表である。小型で羽は透明、体は緑かかった黒。
先にも書いたが鳴き声に特徴があり『和漢三才図会』には
「按ずるに、鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし。ゆゑにこれに名づく。関東には多くありて、畿内にはまれなり」とある。また「秋月鳴くものなり」という。
鳴き声の面白さと、秋鳴く点に、かえって或るさびしさが感じられ、それが法師蝉の名にもこめられているようである。

歳時記にも多くの句が載っているので、それを紹介して終りたい。

 高曇り蒸してつくつく法師かな・・・・・・・・滝井孝作

 法師蝉煮炊といふも二人きり・・・・・・・・富安風生

 また微熱つくつく法師もう黙れ・・・・・・・・川端茅舎

 法師蝉しみじみ耳のうしろかな・・・・・・・・川端茅舎

 飯しろく妻は祷るや法師蝉・・・・・・・・石田波郷

 繰言のつくつく法師殺しに出る・・・・・・・・三橋鷹女

 つくつくし尽きざる不思議ある山に・・・・・・・・中川宋淵

 我狂気つくつく法師責めに来る・・・・・・・・角川源義

 山へ杉谷谷へ杉坂法師蝉・・・・・・・・森澄雄

 法師蝉あわただし鵙けたたまし・・・・・・・・相生垣瓜人

 島山や鳴きつくさんと法師蝉・・・・・・・・清崎敏郎

 法師蝉むかしがたりは遠目して・・・・・・・・高野寒甫

 法師蝉雨に明るさもどりけり・・・・・・・・冨山俊雄

 くらがりに立つ仏体に法師蝉・・・・・・・・三島晩蝉

 黒潮とどろく岩にひた鳴く法師蝉・・・・・・・・高島茂

 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・高島征夫


月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎
matsuyoigusaaオオマツヨイグサ

    月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎

私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)にも

    月見草ほのかなる黄に揺れをればけふの情(こころ)のよすがとやせむ・・・・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。

「月見草」というのは俗称で、月見草というのは別の花である。正しくは「待宵草」という。
南米チリの原産で、わが国には1851年に渡来したという。繁殖力旺盛で、今では海辺や河原、鉄道沿線、河川の堤防などに広く分布する。

太宰治が

<富士には月見草が、よく似合う>

と言ったのも、この待宵草のことである。

いずれにしても、黄色の、よく目立つ花で、私がいつも散歩する木津川の堤防にもたくさん咲いている。
何となく女の人と待ち合わせるような雰囲気を持つ花で、ロマンチックな感じがするのである。

以下に歳時記から句を引くが、みな「待宵草」を詠んだものだという。

 乳色の空気の中の月見草・・・・・・・・高浜虚子

 月あらぬ空の澄みやう月見草・・・・・・・・臼田亞浪

 月見草蛾の口づけて開くなり・・・・・・・・松本たかし

 項(うなじ)一つ目よりもかなし月見草・・・・・・・・中村草田男

 月見草ランプのごとし夜明け前・・・・・・・・川端茅舎

 月見草夕月より濃くひらく・・・・・・・・安住敦

 開くより大蛾の来たる月見草・・・・・・・・高橋淡路女

 月見草はらりと地球うらがへる・・・・・・・・三橋鷹女

 月見草咲き満ち潮騒高くなりぬ・・・・・・・・道部臥牛

 月見草河童のにほひして咲けり・・・・・・・・湯浅乙瓶

 月見草夜気ともなひて少女佇つ・・・・・・・・松本青石

 月見草歩み入るべく波やさし・・・・・・・・渡辺千枝子

 月見草怒涛憂しとも親しとも・・・・・・・・広崎喜子

 月見草ぽあんと開き何か失す・・・・・・・・文挟夫佐恵

 月見草馬も沖見ておとなしく・・・・・・・・橋本風車


星に死のあると知る時、まして人に快楽ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥
72737_20050930213531いちじく

  星に死のあると知る時、まして人に
   快楽(けらく)ののちの死、無花果熟す・・・・・・・・・木村草弥


無花果(いちじく)はアラビア原産で、江戸時代に日本に入ってきたという。
私の住む辺りでも、田圃に畔(くろ)を作って土を盛り上げ、無花果を作っている。無花果と書くが、花がないわけではなく、これは中国名のインジェクフォが訛って、こうなったという。
イチジクの木は放置すると3メートルから6メートルにも達する落葉喬木であるが、
日本では栽培する木は収穫し易いように1メートルくらいの高さで枝を横に整枝する。
実は新しい枝に生るので、冬には徹底して旧徒長枝を切り詰める。

fig11いちじく木②

写真②のように多くの実が生るが、生育のよいものを残して摘果する。八月下旬頃から実が熟しはじめ10月頃まで生る。軟弱果実であり、痛み易い。
アラビア原産ということだが、アダムとイブが蛇にそそのかされて「禁断の木の実」を食べたというのが、このイチジクである。
事実、中東ではイチジクが多い。向うも暑い土地なので、生食というよりも「乾燥いちじく」として多くが売られている。

itijikuzaruドライいちじく

写真③が乾燥させたイチジクである。ギリシア、トルコ、イスラエルなどに行くと、いたるところで売られている。
フニャフニャに柔かくはなく、噛み応えのあるドライフルーツである。日本にもドライいちじくの形で輸入されている。
品質にはピンからキリまであり、一流の取り扱い店のものは、おいしい。私も向うへ行ったときは何度も買って帰った。

掲出の歌は、私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、Web上でもご覧いただける。

d020701aいちじく

写真④が箱詰めされて商品として出荷される生イチジクである。生食としては1、2日しか日持ちしない。
熟しすぎたものはいちじくジャムとして食べても、おいしいものである。

以下、歳時記から無花果の句を引いて終りにする。

 無花果の古江を舟のすべり来し・・・・・・・・高浜虚子

 乳牛に無花果熟るる日南かな・・・・・・・・飯田蛇笏

 いちじくのけふの実二つたべにけり・・・・・・・・日野草城

 無花果のゆたかに実る水の上・・・・・・・・山口誓子

 天地(あめつち)に無花果ほどの賑はひあり・・・・・・・・永田耕衣

 雑念満ちゐたりいちじくを開き食ふ・・・・・・・・桂信子

 蜂が吸ふいちじく人は瞬時も老ゆ・・・・・・・・細見綾子

 無花果や目の端に母老いたまふ・・・・・・・・加藤楸邨

 無花果や永久に貧しき使徒の裔・・・・・・・・景山旬吉

 無花果にパンツ一つの明るさ立つ・・・・・・・・平畑静塔

 無花果食べ妻は母親ざかりなり・・・・・・・・堀内薫

 日本海黒無花果に無言なり・・・・・・・・黒田桜の園


突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・・・・・・・・・・片桐てい女
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  突張つてゐる蟷螂を応援す・・・・・・・・・・・・・・・・・片桐てい女

「かまきり」蟷螂(トウロウとも音読みで発音する)は、頭は逆三角形、眼は複眼で上辺にあり、下辺の頂点が口である。
前胸に前翅後翅があり、後翅で飛ぶことが出来る。前脚が鎌のようになっていて、獲物を鋏み込んで捕らえる。
動くものには飛びつく性質があり、自分より大きなものにも飛びかかる。
「蟷螂の斧を振るう」という古来の表現そっくりの習性である。
掲出の片桐てい女の句は、そういうカマキリの生態の特徴を巧みに表現している。この句の場合は蟷螂=「とうろう」と訓(よ)む。
010909m02かまきりイラガ食べる

写真②はカマキリが「イラガ」の幼虫を捕まえて食べようとしているところ。
菜園などをやっているとよく分るが、カマキリは害虫をもりもり食べてくれる益虫である。
写真の「イラガ」は毒を持っており、それに刺されると痛くて皮膚が腫れあがるが、カマキリには、そんな毒も役に立たない。
もりもりと片端から食べつくしてしまう。雄と雌が交尾する時も、交尾の最中でも雄の頭や胸を食べながらやることがある。
交尾が終ると雄は体全部が食べられてしまう。
img021かまきり雌

写真③は交尾が済んで腹に卵をたくさん抱えた雌である。産卵は秋が深まってからであるが、それまで、もりもりと虫を捕らえて食べる。
雄は、もう雌に食べられて居ないが、雌の命も一年かぎりである。木の枝などに、泡のような卵胞の中に卵をきちんと、たくさん産む。
そのまま冬を越して、初夏に小さなカマキリの子供が、わっと集団で孵化する。
いかにカマキリといえども、幼いうちは他の鳥などについばまれて食べられ、生き残ったものが八方に散って虫を捕らえて大きくなるのである。
幼い小さなカマキリは、いとおしいような健気な姿である。
写真④のカマキリは、まだそんなに大きくない頃のものである。
b332ec94786d68072a29e1505c142c4dかまきり

以下、蟷螂を詠んだ句をあげておきたい。

 風の日の蟷螂肩に来てとまる・・・・・・・・篠原温亭

 かりかりと蟷螂蜂の を食む・・・・・・・・山口誓子

 蟷螂のとびかへりたる月の中・・・・・・・・加藤楸邨

 かまきりの畳みきれざる翅吹かる・・・・・・・・加藤楸邨

 蟷螂は馬車に逃げられし御者のさま・・・・・・・・中村草田男

 胸重くあがらず蟷螂にも劣る・・・・・・・・大野林火

 挑みゐし青蟷螂の眼なりけり・・・・・・・・石塚友二

 蟷螂の腹をひきずり荷のごとし・・・・・・・・栗生純夫

 蟷螂の枯れゆく脚をねぶりをり・・・・・・・・角川源義

 蟷螂の祷れるを見て父となる・・・・・・・・有馬朗人

 いぼむしり狐のごとくふりむける・・・・・・・・唐笠何蝶

 蟷螂の天地転倒して逝けり・・・・・・・・古館曹人

 秋風や蟷螂の屍骸(むくろ)起き上る・・・・・・・・内藤吐天



薮入や彩あでやかにアロハシャツ・・・・・・・・・・・・・吉田北舟子
2_薮入り

  薮入や彩あでやかにアロハシャツ・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田北舟子

「やぶいり」というのは、旧暦の7月16日に奉公人が休暇をもらって家に帰り親に会うことが出来る日である。
正月16日にも薮入りがあるので、この日を「後の薮入り」というのが正式である。
掲出の絵は大阪の記念館で展示する薮入りのひとコマで、お内儀に頭を下げて丁稚が帰ってゆくところである。
昔は奉公人の休みは1カ月に一日、十五日の二日だけであり、年端の行かない幼い丁稚たちにとって、親に会えるのは、一年に「薮入り」の日二回だけだった。
と言っても遠方から勤めに来ている者にとっては、それもままならぬことだったろう。
karamo薮入り

二番目の写真も展示の商家の風景である。

関西では、今でも8月16日は「薮入り」の日と呼ぶ。丁稚たちの実家帰りの風習は薄れたので、他所に暮らしている子供たちが家に帰ってくる日とされる。
もっとも、今では、こんな風に日を決めて帰ってくるというのではなく、勤務先の休暇の都合や土曜、日曜に引っ掛けて帰ってくるのが普通である。
それでも「今日は薮入りやなぁ」と言ったりする。
先に書いたように8月15日のお盆前後は、日本の特異日であって、民族の大移動の時期で、その中に「薮入り」の日も含まれる。

kamado薮入り

三番目には、これも直接に関係はないが、昔の台所には、こういう「かまど」があったということで出してみた。
京都では「へっつい」さん、などと呼ぶ。
日本は八百万の神さんの居る国だから、「かまど神」も当然いるわけで、朝晩には灯明をあげ、ご飯を供えるのである。

──中元ということについて──

もともとは、中国の「三元」という考え方があり、上元が1月15日。中元が7月15日。下元が10月15日と称した。
元というのは「はじめ」のことで、一年を三分して考えたのである。
本来は天の神を祀る中国の風習が、かの地でも、中元は節供にあたるものとなり、それが日本に入って贈答習俗と変わったのである。
「中元」という言葉自体が変化してしまい、「お中元」という贈答の中元になってしまった。
8月は、本当に行事が多くて、書くことはいろいろあるので、今回は「薮入り」と「中元」の二つを同時に書くことになった。
以下に「薮入り」と「中元」の句を引いて終りにしたい。

 薮入や皆見覚えの木槿(むくげ)垣・・・・・・・・正岡子規 

 薮入して秋の夕を眺めけり・・・・・・・・松瀬青々

 薮入り子の窺ふや萩薄・・・・・・・・松瀬青々

 薮入の姉の下駄履き野菊摘む・・・・・・・・南南浪

 薮入に実生の桐の育ちかな・・・・・・・・菊地赤水

 盆礼に忍び来しにも似たるかな・・・・・・・・高浜虚子

 盆礼やひろびろとして稲の花・・・・・・・・高野素十

 中元や老受付へこころざし・・・・・・・・富安風生

 中元の使患者にまじり来る・・・・・・・・五十嵐播水

 母居ぬ町に手受けて中元広告紙・・・・・・・・中村草田男

 中元の新聞広告赤刷に・・・・・・・・上野泰

 中元や萩の寺より萩の筆・・・・・・・・井上洛山人


燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
dai2002大文字

  燃えさかり筆太となる大文字・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子

8月16日には各家庭に還っていた御魂が送り火に送られて、あの世にお帰りになる。
京都では、各家庭で送り火を焚くことはなく、東山の如意ケ岳で行なわれる「大文字」(だいもんじ)の巨大な送り火に代表させて焚くことになる。
この山は通称・大文字山と言われ、多くの奉仕する人々の力によって毎年おこなわれる。
この日は山腹に薪を焚く石の台座が据えられ、薪を井桁に組んで積み上げ午後8時を期して点火する。
この「大」の字は第一画73メートル、第二画146メートル、第三画124メートル。
字画に沿って4メートル間隔に75個の穴を掘り、松の薪を使用する。松は火付きがよいからである。
この行事は慶長年間からはじまったという。
この後に8:10分に松ケ崎の「妙法」、8:15に西賀茂正伝寺の「船形」と金閣寺のうしろ山の「左大文字」、
8:20に洛西曼陀羅山で「鳥居形」の順に間隔を空けて、火をつけてゆく。
京都の街は東山、北山、西山と三方を山に囲まれ、南は加茂川が流れる地形のように開けている。
火は東山から北山、西山と順に移ってゆくのである。掲出した写真のうちに「左大文字」はない。
「左大文字」は「大文字」の真向かいにあたり、字体も「大文字」の反対の書き方と考えてもらえば判りやすい。

myo2002妙

hou2002法

「妙」「法」は横に並んで一体となっている。
これらの山それぞれには別々の「火の講」があり、真剣な宗教的行事のようなものと考えれば理解しやすい。
知らない人は「大文字焼」などということがあるが、これは、あくまでも盆の送り火という宗教的行事であるから、間違った呼び方はしてほしくない。

写真④は「船形」である。
fune2002船形

点火される薪の湿り具合とか、いろんな要素のために火床にも場所によって火の勢いに違いがあり、それがまた趣きのあるところである。
先に言ったように10分から15分づつずらして点火されるから、当然、最初に点火された「大文字」と、後から点火されたものとは火勢に違いが出てくる。
そういう火色の違いを眺めるのも面白いものだ。昔は今のような高層建築がなかったから、市内のどこからでも見られたが、今では高層ビルの屋上でなければ見られない。

torii2002鳥居形

「鳥居形」は愛宕山と言えば分りやすいだろう。曼陀羅山というのは愛宕山の支峰である。
愛宕山は火伏せの神として「火の用心」の神様で、古来、京都市民は交代で月参りをして火災からの鎮撫を祈ってきた山である。
愛宕山の上り口には鳥居が建っており、鳥居形は、それに因んだものかも知れない。
鳥居形が点火されるまでに、この間30分。京の三山は火の色に彩られる。

京都の夏は初夏の葵祭に始まり、七月の祇園祭を経て、このお盆の大文字の送り火で、ひと夏を送ることになる。
千年余の都として、これらの行事は、いずれも大がかりなもので、さすがに王朝の首都としての貫禄に満ちている。
さればこそ、古来、先人たちは詩歌に詠んできたのである。

掲出した誓子蕪村の句は、ひとしきり燃えさかると大文字の画が太くなる、ということを実景に基づいて描写している。
以下、大文字を詠んだ句を引いて終りにしたい。

 いざ急げ火も妙法を拵(こしら)へる・・・・・・・・小林一茶

 大文字やあふみの空もただならね・・・・・・・・与謝蕪村

 大文字の残んの火こそ天がかり・・・・・・・・皆吉爽雨

 送り火の法も消えたり妙も消ゆ・・・・・・・・森澄雄

 筆勢の余りて切れし大文字・・・・・・・・岡本眸

 大文字消えなんとしてときめける・・・・・・・・佐野青陽人

 大文字畦の合掌に映えゐたり・・・・・・・・米沢吾亦紅

 はじめなかをはり一切大文字・・・・・・・・岩城久治

 一画もおろそかならず大文字・・・・・・・・田中千鶴子

 さびしさのことにも左大文字・・・・・・・・藤崎さだゑ
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2007年はNHKが全国に「京都の五山の送り火」を75分にわたって中継の放映をした。
この送り火が宗教行事であること。また、これを維持管理するのに、各送り火ごとに特色のあること、などを採り上げた。おおむね妥当な、いい放映だった。
また地元の京都新聞夕刊は、同年の8/6~11まで「五山の送り火」と題する特集記事を6回にわたって掲載した。内容はNHKが解説で採り上げたのと同様だったが、「火」を支える「人」の面から詳しく取材されて、時宜を得たいい記事だった。

今年は春に起こった東日本大震災で二万人にのぼる人が命を落したので、その鎮魂の意味をこめて大文字の送り火を拝したことである。
ところが、陸前高田の津波でやられた「松」を、京都で燃やすという話になったのはいいが、放射能まみれになっていることが判り、二転三転して、結局、燃やせないということになり、鎮魂と復興のメッセージだけ京都で「薪」に書き写して、燃やされた。
京都市当局も、みんな「放射能」の怖さを認識していないから、こんなことになるのである。
人情論や思いやりだけでは、この問題は解決しないことを認識すべきである。
放射能のことを真剣に採り上げないマスコミの責任も重大である。
目の前に起きる事件ばかりを追いかけて、根本的な、哲学的な「理念」が無い。
いろいろのことを考えされられた、今年の大文字の送り火だった。

大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
daimonji_map大文字マップ

  大文字送り火(補遺)・・・昔は十山で焚いた・・・・・・・・木村草弥

公式記録の残っていない大文字の送り火
これだけの行事でありながら、大文字の起源や由来について公式記録は残っていない、という。長らく日本の首都であった京都の行事は、朝廷による公式の記録が残っているが、公的な行事でなかったためか、記録は一切ないという。だから「いつ、だれが、何のために」始めたのか不明である。
因みに「祇園祭」も町衆の祭であったために公式な記録はない、というが運行のための町衆の記録というものがあり、ほぼ解明されていると言えるが、大文字の送り火については、現在までのところ、見つかっていないという。
先のBLOGで「慶長年間」から始まったらしい、というのも、ある人の日記風の記録に大文字見物のことが書かれ、日付があるので、その時点では、もう始まっていたのは確実ということである。弘法大師がはじめたとか、いろいろの説が出ているのも、そういう事情によるらしい。

掲出の図は大文字の配置図である。直線化して描いてあるので、位置関係を示すものとして見てもらいたい。

苦難の時代
現在では五山で執り行われているが、明治以前には十山で行なわれていたという。それは、今の五山のほかに、「い」の市原、「一」の鳴滝、「蛇」の北嵯峨、「長刀」の観空寺村、「竿に鈴」の五つである。
明治になり、大文字や祇園祭は迷信であるとして、明治初年から10年間、この両者は禁止された。
その後、再開されはしたが、公的、私的に援助を受けられず、昭和初期までに次々と無くなり、現在の五山となった。

無くなった送り火
無くなった五山とは、先に書いたものであるが、そのうち「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにも拘らず、その場所が一乗寺だったか、静原だったのか、西山(松尾山)だったとか、方角も真反対の場所もあり、もうすでに明らかではなくなってしまった。
人間の記憶というものは、何というあやふやなものであろうか。とにかく「記録」するということが、いかに重要かということになる。
「い」とか「一」とかいうのは点火する火床の形である。漢字で書くと「蛇」になるが北嵯峨のは、蛇がとぐろを巻いた形だったのではないか。「長刀」というのはナギナタの形、「竿に鈴」は竿の先に鈴がつけてある形であろう。

明治新政権になってからの「皇国史観」強制のための尖兵として強行された「廃仏棄釈」の記録も全く残っていない、という。薩摩藩は、以前から藩内で、このような政策を取ってきたというが、貴重な仏教美術や彫刻などが外国に流出している。こういう排外的な新政権の政策に表だって反対することは破滅に繋がるので、みな口をつぐんで、見て見ぬふりをしたものであろう。この頃にはすでに「新聞」も出ていたと思われるのに、権力を恐れてか、あるいは強力な弾圧があったのか、「廃仏棄釈」に関する記事は報道というか、記録に残っていない。大文字についても、それに類した弾圧政策に毒されたものであろうか。

ポーランドを守る「黒い聖母」──チェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院・・・・・・・・・・・木村草弥
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410px-Czestochowskaヤスナ・グラ僧院の黒い聖母

  ──巡礼の旅──(4)

   ポーランドを守る「黒い聖母」──チェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院・・・・・・・・・・・木村草弥

国民の95%以上がカトリック信者であるポーランド。
前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の出身地でもあり、最大の聖地チェンストホーヴァには国内外から多くの信者が訪れる。
人々の向かう先は、ポーランド語で「光の丘」を意味するヤスナ・グラ修道院である。
800px-Jasna_GC3B3ra_260506_01ヤスナ・グラ僧院
ヤスナ・グラ修道院(Jasna Góra Monastery)は、ポーランドのチェンストホーヴァにあり、聖母マリアを祀った寺院として有名であり、ポーランド中から巡礼が訪れる。
ヤスナ・グラの聖母と呼ばれるイコンは奇跡的な力を持つとされており、ヤスナ・グラ修道院の最も貴重な宝とされている。
1382年、オポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクに招かれてハンガリーからやってきたカトリックの司教団が建設した。
このあたりでは最も重要とされる聖母マリアのイコンがあるため、数百年にわたって巡礼地となっている。
ヤスナ・グラの聖母は数々の奇跡を起こしてきたとされ、あがめられている。
たとえば17世紀の大洪水時代にスウェーデンに侵略された際、この修道院が包囲された時にも奇跡的に残ったのは、このイコンが守ったからだとされている。
この一件は軍事的には重要ではなかったが、これによってポーランドの抵抗が盛り上がった。
ただしポーランド側は即座に戦局を盛り返したわけではなく、クリミア・ハン国との同盟後にスウェーデン側を撃退することができた。
その直後の1656年4月1日、ポーランド王ヤン2世はリヴィウの大聖堂で、神の母の庇護の下に国を捧げることを誓い、彼女を彼の王国の守護者にして女王とすることを宣言した。

イコン「黒い聖母」の名の通りの褐色の肌は、材質のためとも煤によるものだと言われる。
世界にはいくつかの黒い聖母像があるが、ここヤスナ・グラの聖母は、その中でも最も有名なものとされる。
伝説によれば、このイコンは聖ルカが糸杉の板に聖母マリアを描いたもの。
ある貴族が大金を払ってこのイコンを購入し、ヤスナ・グラに差し掛かった所で急に重くなり動けなくなったことから、聖母が望む地だとみなされ修道院に安置されたという。
また修道院に侵入したモンゴル軍が運びだそうとした際にも、鉄のように重くなったという。聖母の頬に残る傷は、怒ったモンゴル人が刀で切りつけた跡とも。
傷からは二筋の血が流れたとか。
しかし、幾つか奇跡の中でも最も有名なのが、先に書いた17世紀の大洪水時代にスウェーデンに侵略された際のエピソードと言われている。
それは、1655年11月から1666年1月まで、包囲・猛攻を受けながらも持ち堪え、今でも語り草となっている大修道院長の統率によるものだった。
以後、ポーランドは国土の分割の時代には祖国復活、統一の悲願のシンボルとされたのである。

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現在、年間500万人の信者が訪れるが、中でも8月15日の「聖母被昇天祭」には、写真のように多くの信者が広場を埋める。
修道院への道は巡礼者で埋め尽くされ、自動車も飛行機も使わず、遠いところからは何と二ヶ月かけて歩いてくる信者も居るという。
敬虔な信仰心を目の当たりにすると、大国に翻弄されてきた歴史の中で、聖母という一つの希望を求めて絆を固く強めて、戦いつづけてきたポーランドの人々の、
強い心に触れる想いが、しみじみとするのである。

389px-Czestochowa-bazylikaヤスナ・グラ僧院内部

申し添えておくが、ポーランドだけではなく、「カトリック」圏では聖母マリア信仰が盛んなので、どこでも8月15日は「聖母マリアの日」の祭日で休日になるので、念のため。


浴して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・小林一茶
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  浴(ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月・・・・・・・・・・・小林一茶

今日は陰暦の7月15日、名月の丁度1ト月前の満月である。これを「盆の月」とお盆の行事に因んで、こう呼ぶ。
まだ暑さ盛りであり、盂蘭盆の灯明も点き初めたばかりの時期で、独特の雰囲気の月である。
今年は「月遅れ」盆もまだ始まっていないという暦の悪戯のような日取りである。
今朝、いつもの早朝の散歩に4時50分ごろに出たら、西の空に、山の端ちかくに、うすい靄がかかっていたので、うすら赤い大きな満月がかかっていた。
これこそ「盆の月」なのであった。

掲出の一茶の句は、盂蘭盆でさまざまな祖霊供養の行事に明け暮れた一日を終り、湯浴みして、ようやく、うつしみの我が身に帰った、という哀感のともなう佳い句である。
以下、「盆の月」の句を引いておく。

 山里の盆の月夜の明るさよ・・・・・・・・高浜虚子

 うす雲のただなかにして盆の月・・・・・・・・長谷川かな女

 盆の月真夜中いつかくもりけり・・・・・・・・中村伸郎

 盆の月ひかりを雲にわかちけり・・・・・・・・久保田万太郎

 盆の月拝みて老妓座につきし・・・・・・・・高野素十

 むささびのとびし吉野の盆の月・・・・・・・・高野素十

 胡桃の葉透かし明るし盆の月・・・・・・・・山口青邨

 盆の月虧けゆき母の忌も過ぎぬ・・・・・・・・五十嵐播水

 盆の月遥けきことは子にも言はず・・・・・・・・松村蒼石

 生れたるのみのふるさと盆の月・・・・・・・・大橋敦子

 生くる二人に鬼灯ほどの盆の月・・・・・・・・村越化石

 盆の月父亡く母に遠く住む・・・・・・・・筒本れい子

 金泥を海に流せり盆の月・・・・・・・・沢木欣一

 膝頭老いゆく盆の月明り・・・・・・・・戸川稲村



企画・脚本■宮崎駿 監督■宮崎吾朗・映画『コクリコ坂から』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
コクリコ坂から

──映画鑑賞──

  企画・脚本■宮崎駿 監督■宮崎吾朗・映画『コクリコ坂から』・・・・・・・・・・・・・木村草弥

久しぶりに映画を観てきた。
いま話題の「コクリコ坂から」である。
このアニメ映画は、「大人」向けの、しかも戦中派、戦後派の年配者向けの、懐かしい映画である。
私などの世代には泣かせるストーリーだ。「シルバー」割引で1000円である。

クラシックな建物で、今は港南学園生徒の寮になっているが、掃除もせず汚い建物になっているが、取り壊し、建替えの計画に対して、生徒らが「海」の提唱で、
大掃除して学園の理事長に保存を認めせるが、この理事長は、私には角川書店社長だった角川源義を連想させられたが、これは勘繰りと言うべきか。
ガリ版刷りの場面なども出てくるが、これなどは私くらいの年代でないと判らないか。
この寮の建物の名前が「カルチエ・ラタン」というが、これはフランスはパリのソルボンヌのある大学地区「カルチエ・ラタン」(セーヌ川左岸、ラテン区14区)に因んでいる。
私は宮崎駿が好きだが、この作品を鑑賞して、一層この観を強くした。ぜひ、ご鑑賞を。

この映画の荒筋を引いておく。

時代設定は1963年5月、横浜。

少年達が遠くを見つめているように、高校二年生の少女「海」もまた帰らぬ父を待って遠い水平線を見つめている。
「海」の父親は「船乗り」で、1950年から始まった朝鮮戦争のときに米軍のLSTという輸送船に乗っていて船が機雷に触れて沈没して死んでいる。
横浜港を見下ろす丘の上の、古い屋敷─コクリコ荘という小松崎家はアパートではないが寄宿人を置いたりしているので、大所帯。
その、海を望む庭の旗ざおに毎日信号旗をあげつづけている「海」。
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↑ 「U・W」旗――(安全な航行を祈る)である。

丘の下をよく通るタグボートのマストに返礼の旗があがる。忙しい一日が始まる朝の日課のようになっている。
ある朝、タグボートからちがう信号が上る。
「UWMER」そして返礼のペナント一旒(いちりゅう)。
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↑ 上からアルファベットのM、E、R つまり「海」の名前である。
誰か自分の名前を知っている人が、あのタグボートに乗っている。
MERはメール、フランス語で海のことである。「海」はおどろくが、たちまち朝の家事の大さわぎにまき込まれていく。メールを縮めて「メル」と呼ばれている。
父の操るタグボートに便乗していた少年「俊」は、「海」が毎日、信号旗をあげていることを知っていた。
「小松崎海」と「風間俊」が大きな縦糸でストーリーは進行する。
二人は好き合っているが、兄妹ではないかという話になるが、「俊」を托された俊の(実は養父というべき)父親が実子として届けたもので、血の繋がりは無い、ということが判明する。
しかし、映画の結末では、二人のそれからについては描かれてはなくて、今後に含みを残しているのが好ましい。
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コクリコ坂から
出典: フリー百科事典「Wikipedia」

『コクリコ坂から』(コクリコざかから、英題:From Up On Poppy Hill)は、高橋千鶴(作画)・佐山哲郎(原作)による日本の漫画作品、およびそれを原作としたスタジオジブリ製作の劇場版アニメ作品である。
原作は『なかよし』(講談社)にて1980年1月号から同年8月号まで連載された。全8話。単行本は同社より全2巻が刊行された。また、2010年に角川書店より新装版、2011年に同社より文庫版が発売された。

タイトルの「コクリコ」はフランス語で「ヒナゲシ」を意味する。

ストーリー  船が遭難し、行方不明となった船乗りの父と、仕事のためにアメリカに渡ったカメラマンの母を持つ小松崎海は、母の留守中、小松崎家を懸命に切り盛りしていた。

そのころ、海たちが通う港南学園では、新聞部部長の風間俊と生徒会長の水沼が起こす騒動によって、生徒と教師が翻弄されていた。突如として新聞部によって発表される「ミスター・ミス港南」、物理法則をめぐる風間と水沼の賭け、制服廃止運動をめぐる風間と水沼の対立…。こうした一連の騒動を海は冷ややかに見つめていたが、制服廃止運動の敗北の責任を風間が一身に負わされるのを見て、いつしか海は風間を擁護する声を上げるようになる。風間もまたひたむきな海にひかれ、2人は交際を始める。しかし、ある日、水沼は風間に海と交際しないよう忠告する。
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主な登場人物
小松崎家

小松崎海(こまつざき うみ)
港南学園高等部1年(初登場時)。空・陸の姉。経済観念のない母に代わって、小松崎家を切り盛りするしっかり者の少女。真面目な性格で、次々と騒動を起こす風間を当初は嫌っていたが、次第に風間にひかれていく。下宿人の北斗を慕っていたが、次第に彼に対する思いを妹が兄を慕うような気持と自覚するようになる。風間と交際を始めるが、一方的に風間に別れを告げられ、苦悩する。
北斗に「海をフランス語に訳すと、ラ・メールになる」と教えられ、北斗や友人からはメールがつまってメルと呼ばれている。
父が帰ってきても家が分かるように、毎朝、英ユニオンジャックや米星条旗、あるいは仏トリコロールと思しき国旗を掲揚し、家族や下宿人と共に朝礼をするのが日課となっている。なお、劇場版ではU旗とW旗(国際信号旗)が掲揚されている。この掲揚は「御安航を祈る」という意味である。

小松崎空(こまつざき そら)
海の妹・陸の姉。港南学園生徒。学年を示す具体的な説明はないが、海が2年生に進級した際海の級友から、「空ちゃんも(高等部)1年生になったんだっけ」と言われる描写があるので、海とはひとつ違いの初登場時中等部3年と考えられる。
異性やダイエットに興味津々ないまどきの女の子。風間を慕っていたが、海と風間の気持ちを察し、身をひいた。

小松崎陸(こまつざき りく)
海・空の弟。港南学園中等部1年(初登場時)。制服廃止運動の際に風間に傾倒し、以後、海と共に最後まで風間を擁護した。

小松崎虹江(こまつざき にじえ)
海・空・陸の母。カメラマン。経済観念ゼロで、無造作に大金をつかってしまい、海を困らせる。ストーリー開始時点では、仕事のためにアメリカに渡っていたが、やがて帰国する。近所では美人として有名。

小松崎花(こまつざき はな)
海・空・陸の母方の祖母。魚嫌いで、海が家計を切り詰めるためにいわしばかりを食卓に出すのに不満を持っている。ウォッカが好き。

小松崎島太郎(こまつざき しまたろう)
海・空・陸の母方の祖父。虹江が海たちの父親と交際するのに反対したため、花と対立して家を追い出され(家が花名義だったため)、現在は海たちと別居している。

北見北斗(きたみ ほくと)
小松崎家に下宿する獣医の卵。海の思いに気づくことなく、帯広の牧場に就職し、海のもとを離れた。
港南学園  風間俊(かざま しゅん)
港南学園高等部2年(初登場時)。新聞部部長。金太との賭けマージャンで公費を使いこみ、新聞の売り上げでそれを穴埋めするため、水沼と組んで、様々な騒動を起こし、新聞の売り上げを伸ばそうとした。かねてから海に好意を抱いており、海が自分を擁護するようになってからはその思いをさらに強くして、海と正式に交際を始める。しかし、水沼からある事実を知らされ、苦悩する。
写真屋の子どもだが、商船大学への進学を希望している。

水沼史郎(みずぬま しろう)
港南学園生徒会長。港南学園一の秀才。風間の親友。風間とともに金太との賭けマージャンで公費を使いこみ、風間と共に様々な騒動を起こす。虹江の手伝いをしたときにある事実に気付き、苦悩する。実家は料亭。

広瀬真(ひろせ まこと)
港南学園高等部3年。不良学生で、風間に対して遺恨を持ち、風間に対するあてつけから海を落とそうとする。
その他 金太(きんた)
英薫女子大学学生。水沼の実家で芸者のアルバイトをしている。港南学園在学中に制服廃止運動を起こし、退学処分となった。海と風間の恋路を応援する。無類の動物好きで家でたくさんのペットを飼っている。本名は安藤響子。
コクリコ坂から0001

ここに書かれているのは原作の本に載ることであって、「映画」では簡略化されているので単純である。

「海」の声を長沢まさみ、「俊」を岡田准一が演じている。
主題歌「さよならの夏~コクリコ坂から~」は作詞・万里村村ゆき子、作曲・坂田晃一、歌唱・手嶌葵 である。

コクリコ坂から0002

     光る海に かすむ船は
     さよならの汽笛 のこします
     ゆるい坂を おりてゆけば
     夏色の風に あえるかしら
     わたしの愛 それはメロディー
     たかく ひくく 歌うの
     わたしの愛 それはカモメ
     たかく ひくく 飛ぶの
     夕陽のなか 呼んでみたら
     やさしいあなたに 逢えるかしら

     だれかが弾く ピアノの音
     海鳴りみたいに きこえます
     おそい午後を 行き交うひと
     夏色の夢を はこぶかしら
     わたしの愛 それはダイアリー
     日々のページ つづるの
     私の愛 それは小舟
     空の海をゆくの
     夕陽のなか 振り返れば   
     あなたはわたしを 探すかしら

     散歩道に ゆれる木々は
     さよならの影を おとします
     古いチャペル 風見の鶏
     夏色の街は みえるかしら
     きのうの愛 それは涙
     やがて かわき 消えるの
     あしたの愛 それはルフラン
     おわりのない言葉
     夕陽のなか めぐり逢えば
     あなたはわたしを 抱くかしら

                    少女よ君は旗をあげる
              なぜ
              朝風に想いをたくして
              よびかける彼方
              気まぐれなカラスたちを相手に
              少女よ今日も紅と白の
              紺に囲まれた色の
              旗は翻る
                    
                     ── 風 ──



鼎談─瀬戸内寂聴 ・梅原猛「春になれば、花は咲きます」東北に送るメッセージ(転載)
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 ↑ 撮影:斉藤ユーリ    於:京都嵯峨野「寂庵」 

──新・読書ノート──(転載)

鼎談─瀬戸内寂聴 ・梅原猛「春になれば、花は咲きます」
東北に送るメッセージ“私の「東北」──戦争よりひどい「東日本大震災」”

      ・・・・・・・・・角川学芸WEBマガジンNo.62より転載・・・・・・・・・・・

梅原 あの3月11日以来「東日本大震災」に対して、私なりに何かできることはないかと考えていました。ちょうどその時、寂聴さんが新聞にメッセージを寄せているのを見て、ああ、そうだ、寂聴さんと対談して本を作って、その印税を義援金として寄付するというのが物書きとしては、一番いい復旧・復興のメッセージになるのではないかと考えまして、対談をお願いしたわけです。

瀬戸内 言われれば、何でもします。

梅原 寂聴さんは、おいくつになられました。

瀬戸内 私はこの正月で数え、90歳、卒寿です。満では88歳です。

梅原 大正11年生まれ?

瀬戸内 はい、1922年5月15日生まれ。

梅原 私は大正14年生まれ、3月20日で86歳になりました。数えで87。お互い、よう長生きしましたね。

瀬戸内 そうです。もうあとがない。
 
梅原 大媼(おおおうな)と大翁(おおおきな)の対談になりますね。しかしこれだけの年齢を重ねると、思い切ったことを語ることができます。現在、誰にも遠慮せずに、今の日本の置かれた真実を語ることが必要です。日本人のために、人類のためにね。
 私はこの対談は一世一代の対談になると思う。だから人の顰蹙(ひんしゅく)を買うようなことでもはっきりと言います。
 寂聴さんは徳島県の出身ですけど、51歳で出家されて、岩手県の天台寺のご住職になられ、東北と深い関係ができた。

瀬戸内 はい。私の仏教の師の今東光先生が中尊寺の貫主でして、そのご縁で中尊寺で出家して、岩手県と青森県の境にある中尊寺の末寺の天台寺に晋山(しんざん)する仏縁ができました。
 それがもう本当にボロボロのお寺で、どうしようもなくなってたんですね。お参りもなくなっていた。そこへ行って毎月通って、64歳から24年通っていました。法話だけで、初めから青空説法をして人を集めました。幸い、日とともに全国からお詣りに集まって下さり、それでとにかく20年で復興したんです。そりゃもう私の力じゃなくって、ご本尊の桂泉観世音さまの御力と檀家さんのおかげ。檀家っていっても二十六、七軒ですが、その人たちの協力があっての復興でした。
 そこで東北の人たちと初めて付き合ってみると、まったく私が今まで付き合ってきた人たちと違うんですよ。ほとんど無口。何にもしゃべらない。それに言葉がわからない。まるで外国へ行ったみたいでした。でもそのうち言葉も少しずつ通じるようになると、一見、排他的と思っていた人たちが、実はとても心があたたかで、素朴で、本当に優しいということがわかったんですね。東北の人たちが排他的なのは、無理もないんです。長い間苦労ばっかりしてきたから。飢饉だの天災だのって、いつも貧しくってね。吉原の女の人なんて、みんな東北の人でしょ。妻や娘を売らなくてはやっていけない。そのくらい貧しくて、辛い思いをして、それに耐えてきた。他所者が来れば女房か娘を取りに来たと身構える。排他的になっても当然です。
 私は徳島に生まれて、東京にも行って、そして京都にもう長い間置いてもらっていますけど、東北はもう一つの私の故郷になりました。お墓も、天台寺に作ってあるんですよ。
 梅原さんと私は三つ違いだけど、同世代でともに戦争を経験していますので、今度の震災をどうしても戦争のあのむごさと重ね合わせて見てしまいますね。けれど、この天災は戦争よりひどい。特に福島の原発。戦争も人災ですけど原発も人災です。生き地獄というのはこういう状態を言うんですね。人災は人の手で防げるはずです。防がなければならない。

梅原 私は仙台の生まれです。私の母方の祖父は石巻の渡波(わたのは)という漁師町で網元をしていた。ところが事故でマグロ船を沈没させてしまった。それで遺族に全財産を投げ出して、補償して、自分は一文無しになって仙台にやってきた。助けてくれる人があって、仙台で魚の卸売り業をして何とか立ち直ったんですが、私は、その血を引いている。だから私は自分を「東北の漁民の子」と思っている。
 それと、私の母は父と恋愛して未婚のまま私を生んだ。そして二人とも病気になって、母は私を生んで1年3か月で死んでしまう。私は「東北の漁民の孤児」になった。
 今の震災を見ていると、親を失った子供、孤児が多く出ている。私は自然とこの「震災孤児」と自分を重ね合わせてしまいます。私のように、どうかいい所にもらわれてゆきますように、と願うのみです。
 それと寂聴さんのおっしゃる原発、これが一番ひどい。底が知れないんでね。土が汚染されて、野菜や米がダメになる。海が汚染されて、魚がダメになる。東北は縄文文化の地です。昔むかしから、海の幸を海からいただいてきた。山の幸を山野からいただいてきた。これが全部ダメになる。ひどい話です。


瀬戸内 東北の人たちは辛抱強い。そしていくらでも質素に暮らすことができる。これは美徳です。そして強さでもあるんですが、今度はね、不平不満をもっと訴えてほしいですね。「世の中こういうもんだ」と初めから諦めているようなところがあるでしょう。それに我慢するのが美徳だという考えもあるだろうけど、今回はもっと自分を主張して、わがままになってほしいですね。
 京都では、桜が咲いてのどかな春ですよ。一方で、こんな生き地獄のような被災地があるんです。東北の人たちは「宿命」だなんて思わないで、「こんなに辛い」「助けてくれ」って叫んでほしい。私たちはその声を受けて何でもしますよ。私たちの身代わりになってくれたんですよ、東北の人たちは。「あなたたち何も悪いことしてないのに、何で地獄の苦しみに遭って、黙っているの」って、言いたい。

梅原 「東北」は「日本」の象徴なんです。和辻哲郎は『風土』で、日本はモンスーン地帯で、常に自然災害に遭っているけど、そこから必ず立ち直る能力を持っていると言った。まさに東北の人たちはそういう能力を持っている。
 しかし私は、今度の災害に関しては、天に対する怒りを感ずる。

瀬戸内 「ノアの箱船」ですよ。私たちだけが助かっていいんですか? 「東北」の人を置き去りにして、私たちだけが船に乗っていいんですか?

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▼この対談の詳細は、下記の書籍で読むことができます。ぜひ、お楽しみください。

『生ききる。』著者:瀬戸内寂聴 梅原猛
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定価(税込5%):760円
ISBN:978-4-04-710293-4

*この書籍における瀬戸内寂聴氏と梅原猛氏の印税は、被災されたみなさまへの義援金に充てさせていただきます。(角川学芸出版書籍編集部)

▲プロフィール瀬戸内寂聴 1922年、徳島市生まれ。作家、天台宗僧侶。『夏の終り』で女流文学賞。『花に問え』で谷崎潤一郎賞。『白道』で芸術選奨文部大臣賞。『場所』で野間文芸賞。73年に岩手県中尊寺で得度。98年、『源氏物語』現代語訳完成。2006年文化勲章。
▲梅原猛 1925年、宮城県生まれ。哲学者。『隠された十字架』で毎日出版文化賞。『水底の歌』で大佛次郎賞。99年文化勲章。2006年より能芸論を連載。近著は『うつぼ舟III 世阿弥の神秘』。2011年4月、「東日本大震災復興構想会議」特別顧問に就任。

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  樹々の記憶を求めて ここは何処?
   自由というのは怖い・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた一連の一行である。
以前から何度も『樹々の記憶』から引用してきたので、この本について書かなければならないと思って、今回は、この本を採り上げる。
掲出した写真がカバー装丁である。写真は娘・ゆりから提供してもらった。
では、この一連を引用する。

  樹々の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処?地平線まで歩いてゆこう

月は動き続け波はうねり続け わたしは歩き続けよう

柔らかな言葉が織り成ししなやかな波が引いてゆく 夢ではない

時を紡ぐ糸から手を放し 道は一つ曲がり角ではよく考えて

新月に導かれるまま夢の森へと それが私の生き方になるかも

樹々の記憶を求めて ここは何処?自由というのは怖い

私はどこから来たか 今ここにいる私という希望と自由

夢を約束できる人などいない 「時」は絶望を与えることもある

思い出されるのは楽しいことばかりではない 樹々の記憶は遠く

<日々これが己に輝く最後と信ぜよ>聖なる警句に従って生きよう


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エンヤ

この「樹々の記憶」という題名は、丁度その頃聴いていたアイルランドの歌姫・エンヤのCDのアルバムが 「The memory of trees」 というのであり、
そこから借用したものである。このアルバムの歌詞からも多くの示唆をえている。
厳密に言うと、エンヤのアルバムの場合、このアルバムに限らず、歌詞はニッキー・ライアンとその妻・ローマの力によるものが多いようである。
ケルトの旋律を世界中に知らしめたのは何と言ってもエンヤの力である。
エンヤの音楽は聴き手である我々に、深いイマジネーションを喚起する。
解説者によると、これは「ケルト的叡智」に発するものだと言ったりする。
アルバムに添えられた歌詞の原文を見ると、ケルト語(ゲール語)らしきものが書かれており、それらの響きが我々をケルト的な雰囲気にひたらせるのであろうか。
因みに、エンヤのことについて少し触れておく。

1962年にドニゴール州グウィードアに生れたエンヤは芸名を<enya>と表記するが、本名はEithne Ni Bhraonain と綴ってエンヤ・ニ・ブレナンと発音する。
Ni は~家の娘という意味を持ち、つまり「ブレナン家の娘エンヤ」というわけである。
エンヤの父親がパブをやっているとかで、先年アイルランドに行く機会があったので聞いてみたが、私たちのツアーのルートからは相当離れていて、無理だった。
このことは紀行文「タラの丘に還る─アイルランド紀行」にも書いた。

私の詩の、この一連は、およそ楽しい雰囲気のないものに終始しているが、この本を出した頃も妻の体調がよくなく、そういう私の憂愁が全体に流れている。
それに「自由というのは怖い」というようなフレーズは、その頃、自由律歌人と言われる人たちと付き合いはじめた私だが、
彼らの作品が詩としての「韻律」から遠いことに幻滅し、「自由律というのは詩としての韻律を離れれば、ただの散文になってしまうぞ」
という私からの強烈なメッセージをも秘めているのである。
だからこそ「自由というのは怖い」という表現になっているのである。
こういう私の発するメッセージに気づいてくれる人がいなくて、歯がゆい思いをしていた頃である。

エンヤの曲は書き物をしたりしている時にも、BGMのように流しながら物を書いても差し支えがなく、私の友人のフランス文学者のT君なども推奨していた歌姫である。
このエンヤのCDと私のこの本は、私の中で一時代を形作るものとして、私の中に深く根ざしている。

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  私は化粧する女が好きだ
   虚構によって切り抜けるエネルギー・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「化粧」と題する一連の中の一行である。ただしWeb上では、ご覧いただけない。
以下、この一連を引いておく。
掲出の写真は「アカバナユウゲショウ」という花である。
野草のように、どこにでも生えている花である。

  化 粧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

私は化粧する女が好きだ 虚構によって切り抜けるエネルギー

虚構を持たない女なんて退屈な家政婦にしか過ぎない

お化粧はゲームだ 化粧の濃い女の「たかが人生じゃないの」という余裕

化粧はエロチックだ 女のナルシスムと決めつけてはいけない

化粧する女は淋しがりやだ。化粧なしの素肌では不安なのだ

素顔の女がいる「化粧をしなくても生きていける」勁(つよ)い女だろうか

化粧台にむかう女を見るのは面白い、目をむいたり口をひんまげたり百面相

女の体はお城である、中に一人の少女がかくれている

女の体はお城である、中に一人のセックス上手が住みついている

旅をする風変りなドレスを着てみる寝てみる 腋の下を匂わせる女


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「化粧」を「虚構」と把握するのは、詩の上ならばこその表現である。詩の場合には、こういう極端な飛躍した物言いを、よくする。それが「非日常」ということである。
この一連を発表したとき、今はもう亡くなった人だが、関西に住む或る女性歌人から女性差別の思想だと、あらぬ攻撃を受けたことがある。この一連の、どこに「女性差別」の思想があるというのだろうか。的外れもいいところである。その人も、その後、言いすぎたと思ったのか、的外れの指摘だったと思ったのだろう。一緒にお酒を飲みたい、などと手紙が来たが、私は深く傷ついたので、以後、絶交した。
詩の判らない人である。 この人は先年亡くなった。

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・木村草弥
28キス?

  言葉には重さはないけれど 
   愛には「肉体」という重さが必要です・・・・・・・・・・木村草弥


この詩は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に載せた「愛」という一連のうちの一行である。
これはWeb上でもご覧いただける。
この一連を引いてみる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

自分たちにしか通じない言葉を持つのが恋人同士というものです

相合傘は世界で一番小さな、二人のための屋根であります

ビバ!恋のアンブレラ!この傘の下にいると二人は「はだかの王様」です

言葉には重さはないけれど 愛には「肉体」という重さが必要です

愛は虚構です それはつかまえどころのないものだからです

愛は数えることも測ることも出来ません愛のお相手はみな様々です

「愛」を多く持つことの出来る人は心の財産目録の豊かな人です

今しみじみと不足するのは 愛ではなく愛にかかわる思想です

貞淑を失った関係はわびしいが貞淑をいつも必要とする関係はもっとわびしい

不条理とは人と神との葛藤 愛怨とは等身大の人間同士の葛藤です


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この一連も見方によっては「アフォリズム」と受け取られるかも知れない。
これを書いた頃、私の関心が、アフォリズム的な方向に傾いていたのかも知れない。
ここに掲出した写真は、いろいろ探した末に「間接表現」ながら、このキスの写真に落ち着いた。少しインパクトには欠けるが。

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・木村草弥
type活版活字

  印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬ
   ハードディスクの中に言葉は囲われる・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第三歌集『樹々の記憶』(短歌新聞社)に「言葉②」に載せたもの。

私は家業の商売のカタログの印刷などで印刷屋の仕事場に幼い頃から出入りしていた。
活字拾い(植字チョクジという)なども面白く観察していたりしたものである。
bunsen文選①

日本語の活字の場合には活字を拾う「文選」という工程が必要で、原稿に合わせて活字を木枠に拾ってゆく。
「植字」(ちょくじ)と独特な発音で、この工程を呼ぶ。これが済めば「組版」ということになる。

kessoku-han文選③

活版印刷の場合は、組み付けは平面であるから原稿の大きさに合わせて、どんどん組んでゆく。
試し刷りを経て本印刷にかかるわけだが、インクの載せ具合とか、いろいろ難しいものである。
印刷活字と紙の隙間の関係も微妙で、どこかの活字が飛び出ていると、その字だけ太く濃くなる。

sudare.case植字

漢字の活字は「部首」毎にまとめて分類して棚のケースに入っているのを拾い出すわけである。
私は4冊の歌集を出したが活版印刷は第二歌集『嘉木』までで、第三歌集からは、活版をやるところが無くなってコンピュータ写植になってしまった。
活版には独特の刷り上りの趣があって文人と呼ばれる人は、その手づくりの味を尊んだが、今では、もう仕方がない。

──アジアと活字の長い関係──
実はグーテンベルクよりも早く世界で最初の活字は中国や朝鮮で生れている。
しかし、アジアに広く広まることはなく、活字文化がアジアで花ひらくのは500年後、ヨーロッパから最新の活版印刷技術が渡来してからのことである。


活字は中国ではじまった
作られた年代がハッキリしている世界最古の印刷物は、法隆寺に伝わる『百万塔陀羅尼』(760年代後半)と言われる。
この技術は中国からの輸入であろう。東アジア文化圏の中で、中国は最も早くから印刷が発達していたからである。
それは中国には拓本や押印の習慣があったからである。これは技術的には木版印刷と共通のものと言える。
その後、唐代(618~907年)にはお経や暦、占いの本などが木版で刊行された。
宋代(960~1279年)には科挙の制度のために受験参考書なども多数出版される。
活字の発明は11世紀半ば、畢昇が膠泥を用いて陶製活字を作ったのが最初とされる。
13世紀末には王禎が木活字を作成し、1313年に刊行した『農書』で、その様子と考案した活字を納める回転式の台について触れている。
明代(1368~1644年)には畢昇の方法を受け継いで銅活字が生まれ、清朝の康煕(こうき)帝の治世(1661~1722年)以降、
これを用いて中国最大の百科全書『古今図書集成』が印刷された。

朝鮮で金属活字が花ひらく
中国の活字文化は隣国の朝鮮に伝わり花ひらく。
14世紀末以降には木、銅、鉄、鉛など、さまざまの素材の活字鋳造が太宗、成宗の時代には合計300万本以上が鋳造された。
科挙制度を推進し、抑仏崇儒の政策を採った太宗には、儒教教典などを整備する必要があったのである。
写真④が朝鮮の金属活字である。
3-04朝鮮王朝の活字

しかし1592年以降、2度にわたる豊臣秀吉の侵攻により、大量の活字と技術者を奪われて衰退する。
荒廃の中から立ち上がった朝鮮印刷の伝統は17世紀後半の顕宗時代に金属活字が復活する。
1680年~1800年頃にかけて、明朝体の美しい印刷本が多数上梓され、近世の朝鮮印刷文化の精華とされている。

西洋印刷がやってきた
16世紀の中国の銅活字は朝鮮の影響が強いが、その頃、イエズス会によって西洋印刷術が伝来するが、
宣教師たちの布教活動には中国伝統の木版印刷が適していると判断され、西洋の金属活版術は広まらなかった。
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以上、東アジアの印刷術について書いたが、ここで私の第三歌集『樹々の記憶』の中の「言葉①」の一連の歌を引いておく。
これらはWeb上でもご覧いただける。
これは一行づつの歌としてではなく、一連の詩として鑑賞してほしい。

   言葉 ①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

言葉を友にしたいと思った あれは一人旅でのことだ

確かに言葉の肩をたたくこと、言葉と握手すること、は出来ない

だが言葉には言いようもない旧友のようななつかしさがある

「はじめに言葉ありき」人間は言葉と出会ったときから思想的である

人間は 一つの言葉、一つの名のためにさすらう動物だ

だから、ドラマで最も美しいのは、人が自分を名乗るときだ

人は言語によってしか自由になれない──言葉を言語へと高めよ

どんな桎梏からの解放も言語化されねば、ただの「解放感」に過ぎない

いまや標準語は政治を語る言葉に堕した、人生を語る言葉は方言しかない

例えば、平和という言葉を蒐集している人達は大量殺戮だってやってのける

印刷活字には鉛の重さがあった 今では目に見えぬハードディスクの中に言葉は囲われる



秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行
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     秋来ぬと目にはさやかに見えねども
        風のおとにぞおどろかれぬる・・・・・・・・・・・・藤原敏行


今日は「立秋」である。
この歌の詞書(ことばがき)に「秋立つ日によめる」とあるように、立秋の日に詠んだ歌である。
現実には、まだまだ暑い夏だが、二十四節気では、もう「秋」に入ることになる。
「風」のほんのかすかな「気配」によって秋の到来を知る。
この事実を詩にしてみせたことが、季節感に敏感な日本人の心に強くひびきあって、この歌を、今につづく有名な歌として記憶させて来たのである。

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この歌は『古今集』巻4・秋の歌の巻頭歌である。
藤原敏行朝臣という人が権力的にはどういう地位にいた人か、私は詳しくないが、この一首で後世に名を残すことになった。

『古今集』は「夏歌」の最後を凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌でしめくくっている。

  夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへすずしき風やふくらむ

この歌には「みな月のつごもりの日よめる」の詞書がついている。
夏と秋とがすれ違う情景を空に一筋の季節の通路を想像して詠んだ歌である。
夏の終りの日に、片側の道から夏が過ぎ去ると、その反対側からは涼しい秋風が吹き始めてすれちがってゆくだろうか、と空想している歌であるが、
現実の季節はまだ暑さの中にあったろう。しかし暦の上では、すでに秋が来ている。

先に書いたように『古今集』の「秋歌」の最初は、それを受ける形で、掲出の藤原敏行朝臣の歌で始まるのである。
このように目に見えない風が、目に見えない秋を運んでやって来たのである。
この歌は実景を詠っているというよりは、むしろ「時の流れ」を詠っている。
こういう人間の「感性」の微妙な働きに対して、繊細に、敏感に耳目をこらす、こういう美意識が、
古来、先人たちが大切にしてきた日本人の季節感なのである。
この美意識は、次の『新古今集』になると、ますます研ぎ澄まされ、危ういほどの言葉の結晶になってゆく。

  おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ

西行法師の歌である。
「心をつくる」秋のはつかぜといった表現には、『万葉集』はもちろん、『古今集』にも見出されない、内面化された風であると言える。

次いで式子内親王の歌

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の 末葉の露に嵐たつなり

こういう歌、こういう物の見方になると、風はもう作者の心象風景の中を蕭条と吹き渡っている無常の時そのものになっているとさえ言えるのである。

しかし『古今集』『新古今集』の、いわば虚構の美意識は『万葉集』には、まだあまり鮮明には見られない。
万葉の歌人たちは「秋」を意識する場合にも、現実に秋風に吹かれている萩の花、雁、こおろぎ、白露などの具体物を先ずみて、
その目前の秋の景物を詠んだ。
 例えば

  秋風は涼しくなりぬ馬竝(な)めていざ野に行かな芽子(はぎ)が花見に

  この暮(ゆふべ)秋風吹きぬ白露にあらそふ芽子の明日咲かむ見む

  芦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る


このように吹く秋風についても、詠う対象は風そのものではなく、野に咲く萩であり、遠ざかる雁の声を詠うのである。
susukiすすき原②

いずれにしても、日本の詩人は、季節の節目節目を、先ず敏感に感じ取らせるものとして、風を絶えず意識していた。
おそらく、それは、四方を海に囲まれ、気象条件も海に支配されている島国に住む民族として、
風によって生活と精神生活の両面で左右されてきたということと無縁ではないだろう。
今日8月8日は立秋である。その日に因んで、この歌を掲げた次第である。

紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・・・・・・・・・岡本差知子
011紅蜀葵

  紅蜀葵わが血の色と見て愛す・・・・・・・・・・・・・・・・岡本差知子

紅蜀葵(こうしょっき)は和名を「もみじあおい」という。
アオイ科の多年草で、北米フロリダ地方の沼沢地が原産という。日本には明治初期に渡来し、今では広く栽培される。
私の家にも、いつごろ来たのか、今の家に移った時も種を取っておいて蒔いたので毎年夏には、つぎつぎと真紅の花を咲かせる。
茎は数本かたまって直立し1メートルから2メートルに伸び、暑さが本格的になる7月下旬から咲きはじめ、9月になっても咲きつづける。
葉の形がモミジに似ていることからモミジアオイの名がついた。
鮮紅色の花の色と言い、長い雄しべと言い、どこか異国的な感じがする花である。花は朝ひらいて夕方には、しおれる。
花の蕾だが、蕾の先から少しはなびらの赤色が覗いているものは、明日あさに開花する。
咲き終わった実は次第に黒褐色になって丸い大粒の種が、ぎっしり入っている。
この種が地面に落ちたものは、翌年芽をだすが、余分なものは抜き取られる。

この花は私にも、ひとしお愛着のあるもので、下記のようないきさつがある。

雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり・・・・木村草弥

このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす

これらの歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、病身の妻に対する私の気持を詠み込んである。私自身にとっても愛着のある歌群である。

以下、紅蜀葵を詠んだ句を引いておく。

 引き寄せてはじき返しぬ紅蜀葵・・・・・・・・高浜虚子

 紅蜀葵肘まだとがり乙女達・・・・・・・・中村草田男

 花びらの日裏日表紅蜀葵・・・・・・・・高浜年尾

 踵でくるり廻りて見せぬ紅蜀葵・・・・・・・・加藤楸邨

 侘び住みてをり一本の紅蜀葵・・・・・・・・深見けん二

 伊那へ越す塩の道あり紅蜀葵・・・・・・・・宮岡計次

 夕日もろとも風にはためく紅蜀葵・・・・・・・・きくちつねこ

 仏みて夜に日にいろの紅蜀葵・・・・・・・・菊地一雄

 一輪の五弁を張りて紅蜀葵・・・・・・・・瀧春一

 紅蜀葵女二人して墓に狎れ・・・・・・・・竹中宏

 紅蜀葵籠屋編む竹鳴らしたり・・・・・・・・岡村葉子

 紅蜀葵常住はだかなる昼を・・・・・・・・臼田亜浪

 草にねて山羊紙喰(は)めり紅蜀葵・・・・・・・・飯田蛇笏

 紅蜀葵真向き横向ききはやかに・・・・・・・・花蓑

 沖の帆にいつも日の照り紅蜀葵・・・・・・・・中村汀女

 つま立てて跼む女や紅蜀葵・・・・・・・・星野立子

 紅蜀葵日に向く花の揺れて居り・・・・・・・・土方花酔

 紅蜀葵砂浴び鶏の寄りどころ・・・・・・・・田島秩父

 紅蜀葵子の見上ぐるに撓ひ咲く・・・・・・・・西森請子


ちちをかえせ ははをかえせ/こどもをかえせ/ にんげんをかえせ /へいわをかえせ・・・・・・・・・峠三吉 
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 ↑ 峠三吉の遺稿「生」の自筆原稿
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   原爆詩集・序・・・・・・・・・・・・・・・・峠三吉

     ちちをかえせ ははをかえせ
 
     としよりをかえせ 

     こどもをかえせ

     わたしをかえせ わたしにつながる 

     にんげんをかえせ

     にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 
     くずれぬへいわを
 
     へいわをかえせ 

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ネット上に載る彼の経歴などを引いておく。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

峠 三吉(とうげ さんきち。1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、詩人。本名は、三吉(みつよし)。日本共産党党員であった。

生涯 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。

さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠町)で被爆。

敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務や雑誌『ひろしま』編集のかたわら、1951年(昭和26年)には「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を自費出版、原爆被害を告発しその体験を広めた。

1952年(昭和27年)、新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し入院することになり、持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意して、被爆から8年後の翌1953年(昭和28年)、手術を受けたがその際中に病状が悪化、14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。36歳没 。

峠の詩は、死後50年が経過し、著作権の有効期限が失効している。そのため様々な平和教材に引用されたり、ネット上で閲覧する事ができる。

峠三吉については ← この記事など、いろいろネット上に出ているので参照されたい。
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       心願の国・・・・・・・・・・・・・・・・・・原民喜

   濠端の柳にはや緑さしぐみ 雨靄につつまれて頬笑む空の下

   水ははっきりと たたずまい 私のなかに悲歌をもとめる

   すべての別離がさりげなく とりかわされ すべての苦痛がさりげなく ぬぐわれ祝福がまだほのぼのと
   向こうに見えているように

   私は歩み去ろう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに

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  ↑『原民喜詩碑』(平和記念公園 原爆ドームそば) 花の幻の詩碑  詩部分

「 碑銘 原民喜 
 遠き日の石に刻み 砂に影おち
 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 」

この碑銘は、遺書にも書かれていた詩で、最終行から、民喜の命日は花幻忌と呼ばれる。当初、広島城内にあったものが、現地に移設された。
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峠三吉と並んで、挙げておかなければならないのが原民喜である。
彼ら二人は「被爆詩人」として、短いながら、作品を通じて原爆の悲惨さと平和を今も世界に訴えている。
遺稿「心願の国」には佐々木基一への手紙と並び、U・・におくる悲歌として、このような詩を残している。

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 ↑ 原民喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 民喜(はら たみき、男性、1905年11月15日 - 1951年3月13日)は、日本の小説家、詩人。

生涯 1905年11月15日、広島県広島市幟町に生まれる。陸海軍・官庁用達の縫製業を営む父原信吉の五男。11歳で父を亡くしたショックから極端な無口となり、兄・守夫と家庭内同人誌「ポギー」を発刊して詩作を始めた。またその頃死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、生まれ変わるような衝撃を受けた。
1923年広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属高等学校)四年を修了し、大学予科の受験資格が与えられた為に一年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同人雑誌『少年詩人』に参加する。
1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。1925年、辻潤、スティルネルに惹かれ、ダダイズムを経て、一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。1933年に慶應義塾大学英文科を卒業。卒論は「Wordsworth論」。相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られカルモチン自殺を図るが失敗する。

1933年、評論家佐々木基一の姉、永井貞恵と結婚。1935年、小品集『焔』を自費出版。1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の妻の発病により次第に作品発表数は減少した。1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」(1946年)などの作品を生んだ。

1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿する。それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調がおもわしくない状態が続く。原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞する。

1946年に上京。慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師をしながら、『三田文学』の編集に携わり、その間、遠藤周作をはじめ多くの後進を育てた。1947年12月、英語講師を辞す。1948年1月、『三田文学』の編集室のあった能楽書林に転居し、雑誌編集と執筆活動に専念。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた「鎮魂歌」(1949年)など一連の作品を残した。1948年6月、『近代文学』の同人となる。1950年、朝鮮戦争の勃発を見て詩「家なき子のクリスマス」を発表した。

1951年3月13日午後11時31分、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」。親しかった丸岡明は、原の自殺前後のことを小説「贋きりすと」に描いた。遺稿は「心願の国」。

原民喜は草野心平主催の『歴程』に参加し、多くの詩を創作、また童話も多数残した。
原は対人関係や日常生活において臆する幼児であったと形容されるが、「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)にみられるように、内部において強靭な意志を持った作家だという事が垣間見られる。

原民喜についても、このリンクを見てもらいたい。
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今日8月6日は1945年に広島に原子爆弾が投下された日である。
多くの人が倒壊した建物とともに即死し、生き残った人も被爆した「放射能」の後遺症で死んだり、ガンの発症などの苦しみに遭い、今も、それは続いている。
長崎とともに、このことは永遠に記憶されなければならないことである。
私が、敗戦記念の8月15日とともに「鎮魂」と「非戦の誓い」の八月と呼ぶ所以である。
今年はまた、三月十一日に地震・大津波と福島原発爆発事故が襲来し、大惨事となった。死者に対して哀悼の意を表するとともに、
原発廃止、エネルギー政策の方向転換を目指すべきだろう。 苦難の道は容易ではないが、前に進むしかない。


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