K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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POSTE aux MEMORANDUM(9月)月次掲示板
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今回の東日本大震災により被災された方々に
心よりお見舞い申上げ、死者に哀悼の意を表します。
一日も早い復興をお祈りいたします。 原発の放射能には怒りを。
                                 木村草弥
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このトップページは「月次掲示板」です。最新記事は、この次から始まります。 ↓
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

九月になりました。
空には鰯雲、赤トンボが飛びます。

 岬遠く風吹く海に浜木綿は白き炎立つ夏の終りに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本みよ
 痛ましき事故にて知れること多しプルトニウムといふ語も一つ・・・・・・・・・・・・・・・・神作光一
 老残を引け目となして若すぎる死者の柩のあしもとにたつ・・・・・・・・・・・・・・・・・蒔田さくら子
 ピッチャーは小高き丘に夏雲の行方追うごと空仰ぎたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷岡亜紀
 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏をはこぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤弓生
 ひまはりの種を抱かせたハムスター少年はうづむ夕べの土に・・・・・・・・・・・・・・・・・福井和子
 悲しみの響をまとひわが家の木に来てけふも鳴きしきる蝉・・・・・・・・・・・・・・・・・・中埜由季子
 芯のなき為政がもたらすファシズムを経験しゐる一人ぞわれは・・・・・・・・・・・・・・・・秋葉四郎
 秋がくれば 秋のネクタイをさがすなり 朽葉のいろの胸にしたしく・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿
 九月一日すなはち九朔、哲久の生日にして第一歌集の名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢口芙美
 コスモスのふかき吐息は気づかれぬまま倒れ伏すとや雨に来て知る・・・・・・・・・・百々登美子
 つる草や蔓の先なる秋の風・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭太祇
 水銀の重さの夜の雨しきり・・・・・・・・・・・・・・・林田紀音夫
 木草にも九月のたゆさあるべきか・・・・・・・・・・相生垣瓜人
 黒揚羽九月の樹間透きとほり・・・・・・・・・・・・・・・飯田龍太
 天山南路九月の砂漠河消えて・・・・・・・・・・・・・・・・久保武
 八朔のででむしころげ落ちにけり・・・・・・・・・・・・・・・安住敦
 襟足をきれいに剃つて白露の日・・・・・・・・・・・・・・中村契子
 吾亦紅壮なる時過ぎて立つ・・・・・・・・・・・・・・・・・山口誓子
 天女より人女がよけれ吾亦紅・・・・・・・・・・・・・・・・・森澄雄
 情ふかきゆゑにうとまれ吾亦紅・・・・・・・・・・・・・・山仲英子
 野に吹かれやうやう個なれわれもこう・・・・・・・・・三井葉子
 かなかなや師弟の道も恋に似る・・・・・・・・・・・・・・・滝春一
 秋暑し死魚をむさぼる亀のをり・・・・・・・・・・・・・・・・高島茂
 法師蝉なきやみ猫のあくびかな・・・・・・・・・・・・・・高島征夫
 ひるがほや電流かよひゐはせぬか・・・・・・・・・・・三橋鷹女
 漏斗す用足すトマスアクィナスを丘す・・・・・・・・・・加藤郁乎
 美味しいものが食べたい秋だ・・・・・・・・・・・・・・・・小林苑を
 風呂敷の中の秋風年経たり・・・・・・・・・・・・・・・・・久乃代糸
 火にあぶり肴としたる神無月・・・・・・・・・・・・・・・三島ゆかり
 帆立貝とみじかい手紙敬称略・・・・・・・・・・・・・・・・田島健一
 腰骨の日灼け具合を較べをり・・・・・・・・・・・・・・小早川忠義
 ちちちちちちちちちちちちちちち膣・・・・・・・・・・・・・・・御中虫
 来たるべき世紀のすでに来て・・・・・・・・・・・・・・・・西原天気
 企みのUSBか毛虫焼く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野道夫
 琉金の逆さまに物思いひかな・・・・・・・・・・・・・・三吉みどり
 神話一つなくてトマトのかく赤く・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本薫
 父のこと上手くは言えず心太・・・・・・・・・・・・・・・・・室田洋子
 流れ星船員手帳色褪せど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小池康生
 改札にあつまる登山靴の泥・・・・・・・・・・・・・・・・三吉みどり
 雑草の中のむらさき生足の・・・・・・・・・・・・・・・・井上せい子
 サングラスはずしパンクをしたらいい・・・・・・・・・・・岩井三窓
 シャガール無関心 揺れ続く政治・・・・・・・・・・・・・墨作二郎
 秋風を見ているコインランドリー・・・・・・・・・・・・・・山口優夢  
 己が死へ急ぐ蝉声真くれなゐ・・・・・・・・・・・・・・・・奥坂まや
 白砂に据ゑて西瓜はみづの星・・・・・・・俳句甲子園・開成高校A
 夏祭坂に灯の沿ひにけり・・・・・・・・・・・・・・ 〃   開成高校A
 さやけしやいつかどこかで見た笑顔・・・・・・・・・・・・・七風姿


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私はこのブログを、WebのHP「木村草弥の詩と旅のページ<風景のコスモロジー>」と一体としたものとして運営しています。
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☆─Doblogの過去記事について─☆
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ここには丸五年間にわたって記事を書いてきましたので、その量は厖大になります。
Doblogの廃止に伴い、急遽とりあえず未整理のまま、こちらに移しました。追々整理して記事としてアップすべきものは、して参ります。

Doblogでは特別の設定をしなくても自動的にアクセスカウンターが表示された。
下記の数字はハードディスクに障害を起す前日─2009/02/07の数値である。

アクセス数
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この日が私のン十回目の誕生日というのも何か皮肉な暗合である。

★─My Works─★
著書──
 歌集 『茶の四季』 『嘉木』 『嬬恋』(以上3冊、角川書店刊)
 歌集 『樹々の記憶』(短歌新聞社刊)
 詩集 『免疫系』(角川書店刊)
 詩集 『愛の寓意』(角川書店刊)
 紀行歌文集 『青衣のアフェア』 『シュベイクの奇行』 『南船北馬』(私家版)

木村草弥の本について
私の本は、目下、出版社からは取り寄せ出来ません。「日本の古本屋」に出回っていることがありますから、ここから検索してみて下さい。もう何人もお買いいただいています。
本(歌集、詩集)の詳細はWebのHPをご覧下さい。よろしく。

木村草弥─Wikipedia

ランキングを確認する 登録ジャンル:学問・文化・芸術>小説・詩
これも戯れですが、結構おもしろいです。日々↑↓します。アクセス数にもよるのでしょうか。 ご覧ください。

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 日本国憲法九条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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私の新・詩集『愛の寓意』(角川書店刊)が出来上がりました。
      少部数発行のため書店配本ルートには乗っておりません。
この詩集『愛の寓意』(←リンクになってます)を私のWebのHPに載せました。
ほぼ全文(横書き)をネット上でお読みいただけます。お試し下さい。

「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
小野茂樹
↑ 現代歌人文庫「小野茂樹歌集」国文社刊1995/03/10初版第二刷
小野雅子
 ↑ 小野茂樹夫人・小野雅子歌集『青陽』ながらみ書房刊平成九年七月十日

──エッセイ──初出・「地中海」誌1998年10月号

     「私の座右の歌 -小野茂樹-」・・・・・・・・・・・木村草弥

     ・くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ ・・・・・・・・・・・小野茂樹

 小野茂樹は河出書房新社の秀れた編集者として仕事をしていたが、帰宅するために乗ったタクシーが午前一時すぎに運転をあやまり車外に投げ出され昭和四十五年五月七日早朝に死亡した。
三十四歳であった。その夜、一緒であった小中英之と別れた直後の事故であるという。
掲出の歌は第二歌集『黄金記憶』の巻末に近い「日域」と題する五首の一連のものである。
この歌をみると「死」の意識が色濃く漂っているのに気づく。
歌の構成としては、初句から三句までの上の句の叙景と、四句五句の下の句の「死」というものについての独白の部分とに直接的な関連はない。
こういうのを「転換」というけれども、この上の句と下の句とが異和感なく一首として成立しているのが、この歌の秀れたところである。
「とほからず死はすべてとならむ」という心の独白は「くさむらへ草の影射す日のひかり」を見ていて、無理にくっつけたものではなく、
「くさむら」を見ていた作者の頭の中に、ふと自然に湧き上がって来た想念なのであろう。
だから、この歌は無理なく読み下せるのである。「転換」という手法を用いた秀歌の典型と言ってよかろう。
調べもよいから、一度ぜひ口に出して音誦してみてもらいたい。

この第二歌集『黄金記憶』を通読すると、何となく沈潜したような雰囲気が印象として残る。少し歌をみてみよう。

・輝きは充ちてはかなき午後の空つねに陰画(ネガ)とし夏を過ぎつつ
・午後の日はいまだ木立に沈まねば蝉は無数の単音に鳴く
・われを証す一ひらの紙心臓の近くに秘めて群衆のひとり
・見しために失ひしもの雪の夜の深き眠りに癒やされむとか
・冷えて厚き雪の夜の闇灯のごときものを守りて妻は眠れり
・垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
・母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
・黎明といふ硬質の時のひだ眠り足らざる心とまどふ
・蛾に生まれ蛾に死にてゆく金色の翅はときのまゆらめくとなし
・翳り濃き木かげをあふれ死のごとく流るる水のごとくありし若さか

 これらの歌の中で一首目の「陰画とし」、二首目の「単音に鳴く」三首目の「群衆のひとり」というような捉え方は、感性に流された作り方ではなく、
心の底に何か「しんとした」あるいは「クール」な醒めた目を感じさせる。
 十首目の「翳り濃き木かげをあふれ死のごとく」と「流るる水のごとく」という対句が、結句の「ありし若さ」という言葉に、いずれも修飾句としてかかる、
という表現も面白いが、それよりも「死のごとく」という直喩表現に、どきりとさせられるのである。
これは、いわゆる若者の歌としては珍しい。誤解を恐れずに言えば茂樹は、早くから、こういう「死」の意識を、ずっと持ちつづけて来たと言える。
この歌集の題名となった「黄金記憶」というのは、戦争末期に岩手県に学童疎開した時の記憶を三十三首の歌として発表したものに一因んでいる。
その中に

・ふくらはぎ堅くけだるし音もなく明けくる刻をゆゑなく恐れき
・たれか来てすでに盗めりきりきりとトマトのにほひ夜の畑に満つ
・こゑ細る学童疎開の児童にてその衰弱は死を控へたり

のような歌がある。作者は戦争が終って帰京したとき、栄養失調のような体調であったと言われるが、その様子が現実感をもって詠われている。
これらの歌からも、すでに「死」と向かい合っていた作者の心情が読み取れるのである。
「ふくらはぎ堅くけだるし」というのは栄養失調で骨と皮とになった痩せた体と心の状態を詠ったものであり子供心に「餓死」という恐怖を持っていたが故に「明けくる刻をゆゑなく恐れき」と表現されている。
 なお、この歌集は音楽好きだった作者を反映して「エチュード」「プレリュード」「ノクターン」「ブルース」「スキャット」「アダージオ」「カデンツ」などの音楽用語が項目名として使われている。
また長女綾子への愛情表現もひときわだったようで、こんな歌がある。

・みどりごは無心にねむる重たさに空の涯なる夕映えを受く
・父も母もいまだなじまぬ地に生れて知恵づきゆくか季節季節を
・露に満ち甘きにほひをたつるさへ果実はゆかしみどりごの眼に

 三首目の歌は、この歌集の巻末におかれた歌で、子煩悩であった作者の歌として、またいとほしい子の歌として妥当な置き方であると言えよう。
みどりご(長女綾子)の眼を「露に満ち甘きにほひをたつる果実」と比喩表現で情趣ふかく詠われているのも並並ならぬ父の愛を感じさせる。

掲出した歌が第二歌集に収められている関係から、この歌集から文筆を書きはじめたが、順序としては第一歌集『羊雲離散』から始めるべきだったかも知れない。
 この第一歌集は、あの有名な

・あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ

という歌に代表されるように「相聞」が一篇をつらぬく主題と言ってよい。

・五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
・あたらしきページをめくる思ひしてこの日のきみの表情に対す
・くちづけを離せば清き頬のあたり零るるものあり油のごとく
・青林檎かなしみ割ればにほひとなり暗き屋根まで一刻に充つ
・さぐり合ふ愛はいつより夜汽車にて暁はやき町過ぎにつつ
・強ひて抱けばわが背を撲ちて弾みたる拳をもてり燃え来る美し
・わが眉に頬を埋めしひとあれば春は木に濃き峠のごとし
・汝が敏き肌に染みつつ日は没りて乏しき視野をにじり寄る波
・路に濃き木立の影にむせびつつきみを追へば結婚飛翔にか似む

 この「結婚飛翔」にはナプシヤル・フライトというルビが附られているが、これは昆虫の雌雄が相手を求めて飛ぶことを指している。

・エプロンを結ぶうしろ手おのれ縛すよろこびの背をわれに見しむる
・拒みしにあらずはかなく伸べ来たるかひなに遠く触れえざるのみ
・いちにんのため閉ざさずおくドアの内ことごとく灯しわれを待てるを

 茂樹と妻・雅子は東京教育大学附属中学校に在学中の同級生ということだが、年譜によると、それぞれ他の人との結婚、離婚を経て、
十五歳の時の初恋の相手と十五年ぶりに結婚にこぎつけたということである。
 そういう愛の波乱が、作られた歌にも反映していると思うが、どの頃の歌が、どうなのかは私には分らない。
ただ「愛」というものが一筋縄ではゆかない代物であることを、これらの作品は陰影ふかく示している。
巻末の歌は「その指を恋ふ」と題されて

・われに来てまさぐりし指かなしみを遣らへるごときその指を恋ふ
・かかる深き空より来たる冬日ざし得がたきひとよかちえし今も
・風変はる午後の砂浜うたたねのかがやく耳に光はそそぐ
・根元近くみどりを残す浜草の乱れを敷きてねむりてあれよ

と詠われている。エロスあふれる情感が快い。

・あの夏の数かぎりなくそしてまたたった一つの表情をせよ
の歌は、終りから二つ目の項目の「顔」という十二首の一連の中にある。
 この辺りの歌は雅子との愛を確定したときの歌と断定できるだろう。
紆余曲折のあった愛の道程をふりかえって、晴れ晴れとした口調で愛の勝利宣言がなされているように、私には見える。

 昨年のことだが未亡人の小野雅子歌集『青陽』が出版され、その鑑賞文「悲傷-メビウスの環」を、私は書いた。
これも一つの思い出となったが今回の文章を書くに当っては久我田鶴子が茂樹のことを書いた評論集『雲の製法』や小中英之その他の文章には敢えて目をつぶって、
私なりの感想をまとめた。

 国文社刊『小野茂樹歌集』(現代歌人文庫⑪)には、この二冊の歌集が収録されているのでぜひお読み頂きたい。
はじめに書いた小中英之の『黄金記憶』頌-小野茂樹論へのノートーという文章も載っている。

(お断り)この原稿が「地中海」誌に載ったときに「誤植」の多いのに、とまどった。
     今回、ここに収録するに当って出来る限り訂正したが、なお見つかるかも知れない。
     見落しに気づかれたら、ご指摘をお願いする。 よろしく。



「恭仁京と大伴家持」 付短歌14首・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ 山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。 京都府立山城郷土資料館

──エッセイ──「未来」誌2001年8月号所載

        「恭仁京と大伴家持」・・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・・・「未来」連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)・・・・・・・

        ──今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし──大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

     ・娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
     ・狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
                              田辺福麻呂(たのべのさきまろ) (「万葉集」巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。
三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。
引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。
現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。
狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。
二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。
鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。
福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。
翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。
14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。
8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。
12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。
2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。
市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。
北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。
巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。
紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。

私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。
新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。
北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。
私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)

この記事は発表当時のままだから、当該地域は行政的には、現在は「木津川市」となっているので念のため。

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──エッセイ──「未来」誌2001年11月号所載

     補訂・山本空外先生のこと・・・・・・・・・・・木村草弥

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。
先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。
1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。
その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。

空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。
ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。

東京サミットの際の話。
時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。
空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。
品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。

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      山城郷土資料館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・・(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)・・・・・・・


            ──今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし──大伴家持

     朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

     霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出(い)でばや
                   
     山川の清(さや)けきところ恭仁(くに)の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              
     年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

     恭仁京の発掘品の収蔵を急(せ)かされて竣(な)る山城資料館
        
      銭司(ぜづ)といふ字(あざ)名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  
     ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内(あない)す
                      
     「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

     小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

     三年生はやんちゃ盛り騒(ざわ)めきて引率の教師大声を挙ぐ
               
     学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

     笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

     「へっつい」とは懐かしき竈(かまど)かつて家々の厨にありしものを展示す
                         
     竈神祀(まつ)る慣ひも廃(すた)れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          


「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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↑ カジュラホ──ミトゥーナ交合図群像

──エッセイ──初出・同人誌「鬼市」10号1999年6月掲載──
    
     「インド文学散歩」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

1999年の正月休みを利用して北インドを9日間旅した。もちろん短期間のことであり、
テーマのある旅ではなく単なるツーリストに過ぎないものであるが、以前から書物を通じ
て知っていたことを自分の目で確かめられてよかったと思っている。
少しインド文学について書いてみたい。
1913年にノーベル文学賞を受けた、ベンガル(東インド)の詩人タゴールの定型詩集『ギ
ータンジャリ』(歌の捧げ物、の意)の冒頭の詩は

わが頭(かうべ) 垂れさせたまへ 君がみ足の 塵のもと (渡辺照宏訳)

で始まる。この「君」と親しみと敬意をこめて呼びかけられるのは他ならぬ神である。
この神とは、古代インドの神秘的な教説ウパニシャット、中世インドのヴィシュヌ神信仰
に根ざす、と言われている。
この詩は、叙事詩ではない。分類すれば抒情詩と言うべきだろう。タゴールは神の姿を描
くのに、そのような伝統の継承にとどまらない。
彼は「このバアラタ(インドのこと。インドという命名は西欧人がつけたもので対外的に
はリパブリック・オブ・インディアのように使用されているが、今でもインドの正式名称
は、このバーラタとされる)
の人多(さわ)の海の岸辺へアアリア人もアナアリア人もドラ
ビタ人も------一つとなりぬ」(渡辺訳)と、インドの諸民族の融合のさまを確かめながら、
人はすなわち神だ、としている。そしてまた、インドを呪縛している身分制度のさまを
「痛ましわが国 人が人を侮るゆゑに汝侮らるべし 衆人(もろびと)とともに人並の扱ひ
を人々に拒み」と見据えて、近代インドの現実に強い批判を加えている。
だが現代のインドの現実は、身分カーストの上に職業カーストが二重に存在して、がんじ
がらめとなっている。このカーストの下には更に、アンタッチャブルと呼称される不可触
賎民も存在するのである。貧富の差は大きく、75%の人が住む農村は貧しい。農村と言
わず都市と言わず巷には人口9億と称する人間があふれている。
筆が脱線したが、タゴールの故郷シャーンティ・ニケータンはカルカッタの西へ列車で
4時間の地だが、この地名は「静寂の地」「平和郷」という意味らしい。インド人は宗教的
なめでたい時に「シャンティヒ」を三度唱えるという。この地はタゴールの父デーヴェン
ドラナートが1863年に、真理探究のためにアーシュラム(道場)を開設したのがはじまりで、
タゴールが小さな学校を作り、ノ-ベル賞の賞金で学校を拡充させた。この学校は1921年
にヴィシュヴァ・バーラティ大学に昇格、41年にはインドの五つの国立大学の一つに
なった。
すべての存在の中に神を認めるというタゴールの「汎神論」は自然愛、人類愛の思想と
一体であるとされる。日印の文化交流に貢献した岡倉天心とタゴールとの親交はよく
知られている。
また岡倉天心(覚三)と詩人プリヤンバダ・デーヴィー女史との「愛の手紙」は『宝石の声
なる人に』(大岡信訳)という本になっている。これはタゴールとの交遊の派生によるもの
だが、この「宝石の声なる人に」という呼びかけは1913年8月21日付の覚三の手紙のは
じめのイントロである。そして、この手紙が最後のものである。
この本が出版されたのは1982年10月平凡社刊であり、フランス装であるために本の
ページをペーパーナイフで切りながら読んだのを思い出す。
詩の一節は

いつ私に初めて関心を持ったのですか。カルカッタを出発した後、
それとも---------             (デーヴィー)
私は終日、浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています-------------------
いつの日か、海霧の中から、あなたが立ち上がるかも知れないと
思いながら。                 (覚三)

タゴールの「汎神論」というのは何も彼一人のものではないことを、インドを旅すると、
実感させられる。
例えば、ヴィシュヌプールという町がある。これは先にも触れたヴィシュヌ神の住む町と
いう意味である。「プール」と語尾につくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに
「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(例えばハイデラバード
など)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君に聞いた。
ヒンズー教は本質的に多神教である。神様の数は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシ
ュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし、恵み深い神でもあり、また踊りの名手で「ナタ・ラ
ージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表すに至る。
仏教の開祖ゴーダマ・ブッダもその一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全体に普及し
たのは、この化身の思想による。
ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には、「道徳が衰え不道徳が栄えるた
びに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとっ
て世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目
をこらせば、リンガを包む丸いヨーニがある。
「リンガ」(またはリンガム)も「ヨーニ」(またはヨニ)も共にサンスクリット語でそ
れぞれ「男根」「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、
すべての生きとし生くるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るから
である。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で、現在は死語だと思っていたが、
西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンス
クリット語を自由に会話、読み書き出来る人が五千人はいるという。1990年代の現在
の話である。だから同大学のサンスクリット学科では集会や行事はすべてサンスクリット
語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事の時、例えばイギリス議会の開会式でエリ
ザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。
この文章はインド文学を語るがテーマだから、ここで昨年亡くなった「地中海」代表の香
川進の歌集『印度の門』に収録の歌に触れる。

*革命は観念ならねばまだかれら貧し軒ばを蛍飛びゆく
*乾糞(ふん)の火があぐるけむりを透過して月萌ゆ氷の冷たさもちて
*しかばねは物質、川にうち沈むる時いたるべく祭らるるしじま
*この国に乞食なき日の必ず来ん聖ガンジーも死にて久しき

などである。彼は旅行者ではなく商社の駐在員であつたが、一首目三首目などは実景をと
らえて心象に迫っている。四首目の歌は楽観的過ぎるしガンジー死後五十年を経ても事態
は基本的に変わっていない。
また「近代化」というのがどういう意味を持つのか。「発展」ということが良いのか悪い
のか、などインドの現実は様々のことを突き付ける。
私の歌の中に出てくる「ミトゥーナ」というのは直訳すると「性交する人」という意味で
ある。それは先に書いたようにヒンズー教に由来するが、そんな、すべてを飲み込んだ教義
と芸術作品と現実生活との、まさに「混沌」と表現すべきものがインドの現実であることを
実感させられるのである。そこにはキリスト教にいうような「原罪」というようなものは
存在しない。
書店や高級ホテルのショップでは英文のカラー刷りの『カーマ・スートラ』や、インド古
来の表現様式である「細密画」のうちで日本の浮世絵の「春画」にあたる画集の美しい本
が売られている。性風俗の表現についてもインドには「禁忌」(タブー)は存在しないよ
うだ。これらも東アジアの、特に漢文化の「儒教」思想に侵されていない、したたかな文
化の「雑草」性をかいま見させてくれる。 (完)

この本の別項に私の歌が 載っているので下記に引いておく。
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     国原-----インド・日本、冬から春へ-----・・・・・・・・・・木村草弥

天霧らひ山たたなはる峡(かひ)村は畳々とつらねて冬の棚田の                      

ふたたびは逢はぬ人かも胞衣(えな)塚は石重ねたり 和讃こごゑせよ                   

叙事抒情これを創りしものを讃(ほ)むマハーバーラタ、ギーダ・ゴーヴィンダ
                              
男根(リンガム)に花輪を捧げ燭を供ふるサリーの女よ<道順は彼女に訊く>
                             
AD(アノ・ドミニ) その時代区分などしゃらくせぇBC二千年モエンジョ・ダーロだ
                              
人はみな自が守り神を持つと言ひ運転手はバスに香を焚きをり

象神(ガネーシャ )は富をもたらす神となる父シヴァ神に首すげ替へられて
                           
インド洋プレート押し来る亜大陸その地溝帯をガンガー流る

ガンガー地溝に堆積する土砂二千メートル平均勾配一キロメートル当り十四センチ

恒河(ガンガー)に死を待つ人が石階ゆ喜捨を待つなり乞食(こつじき )と紛ひ
                 
しづけさのひかりとどめて天竺葵(ゼラニウム )咲き男は不意に遺されゐたり
                          
薺(なづな)咲く道は土橋へ続きけりパールヴァティは花を抱へて
                         
コーダル川の畔にカジュラホー村ありぬ天女(アプサラ )ミトゥナの愛欲や濃き
                              
手放しにのろけてもみよマハーデーヴァ寺院の壁の女神の陰(ヨニ )は
                                 
数学は難解クローバーの園に編めるも愛(かな)しかの日のレイは
                             
ミトゥナのアクメのさまを彫りけるはシャクティ原理のタントラの道

背位ありクリニングスあり壁面に説かれてゐたるカーマ・スートラ

桜草(プリムラ)や男弟子けふ入門すそしらぬ顔の女弟子たち
                     
ガンジーの屍を焚ける火葬場(ガート)ゆこの国に暗殺(アサシン )多きは如何に
                
驢馬駱駝徒歩ゆき自転車のろきバスゆき警笛かしまし

<警笛をどうぞ>(ホーン・プリーズ)遅速緩速さまざまの人馬ゆき交ふ時速十五キロメートル
                        
-----------------------------------------------------------------------------------------
たまきはる命をここに節分会の真白き紙の人形(ひとがた)を截る
                     
白毫寺みち遠けれどこれやこの題辞(エピグラフ)に何をエピステーメー
                         
このあたりもと宇治郡(こほり )しろがねの衾(ふすま)の岡辺はこべ萌え出づ
                   
土筆(つくし)生ふ畝火雄々しも果たせざる男の夢は蘇我物部の
                          
あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌けゆく

野火止の焦げしはたてに生を祝(ほ)ぐ脚長うして土筆の出でし
                            
夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず

淋しさのあるとき惨め酸葉(すかんぽ )を噛めばことごとく指弾されゐて
                           
当麻道すかんぽを抜き噛みにつつ童女の眸(まみ )も春風のなか
                              
*固有名詞の解説*
『マハーバーラタ』はもう一つの『マーラーヤナ』と双璧をなすヴィーヤーサ仙の
作とされるBC数世紀からAD4世紀までに編まれたインドの叙事詩。
『ギータゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)は最高神ヴィシュヌの十の化身の一つクリシュナと
牛飼い女ラーダーとの恋物語を書いた12世紀の詩人ジャデーヴァの抒情詩。
<道順は彼女に訊く>は片岡義男の長編ミステリーの題名から借用した。

奇跡の褐色の聖母出現─メキシコ・グアダルーペ寺院・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──巡礼の旅──(8)

  奇跡の褐色の聖母出現─メキシコ・グアダルーペ寺院・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 
 
1531年12月12日、メキシコのインディオ、アステカ族の農夫であったフアン・ディエゴは叔父のフアン・ベルナルディーノが病気で死にかけており、告解と終油の秘蹟を求めたので、司祭を呼びにトラルテロルコまで急いで出かけた。

実はフアン・ディエゴはその少し前12月9日に聖母の御出現を受けていた。
彼のアステカ名はクアウトラトフアック(その意味は「歌う鷲」)であったが、キリスト教に改宗してフアン・ディエゴの名を貰った。彼は自分の住む村クアウティトランからよくテノクティトラン(メキシコ・シティ)の北にあるトラルテロルコまで25kmの距離を早朝ミサに与り、秘蹟を受けるために出かけていた。
その日、彼がテペヤックの丘の側を通り過ぎたとき、丘の上でさまざまの鳥の歌のような音楽を聴いた。それで彼は40mほどのその丘を登って行き、その頂上に美しい貴婦人を見た。その貴婦人はフアンが話しているアステカ語(ナフアートル語)で話しかけられた。そして御自分がおとめマリアであることを打ち明けられ、このテペヤック丘の上に聖堂を建てるように、そのために司教館に行って司教に、聖母がディエゴを遣わしたと告げるように言われた。しかし司教はそのようなディエゴの話を信じないで、彼を帰らせた。

 ディエゴはしかたなく、またテペヤックの丘に戻ると、聖母が待っておられた。ディエゴは自分はこの役に相応しくないので、もっと身分の高い人を代わりに任命してくださいと聖母に頼んだが、聖母はこの使命を引き受けることになっているのは他の誰でもなくフアン・ディエゴですと言われたので、彼は翌日もう一度やってみることを聖母に約束した。

 翌日ディエゴはもう一度会いに行ったが、司教スマッラガにすげなく断られた。しかし、このとき、司教はディエゴに話が本当なら聖母から天のしるしを貰うようにと要求した。それで、ディエゴはもう一度テペヤックに行き、聖母に司教の要求を告げた。聖母はそのしるしを明日用意しましょうと言われた。

翌日、叔父のベルナルディーノの容態が悪化して、その面倒を見るためにディエゴは聖母と約束したテペヤックの丘へは出かけることができなかった。その夜、最初に述べたように叔父の具合がますます悪くなり、司祭に来て貰いたいという叔父の望みを叶えるために翌日12月12日朝四時半にまだ暗くて寒い中をトラルテロルコまで出かけたのであった。

 ディエゴは聖母との約束が気になっていたが、急いで司祭のところに行かなければならないので、テペヤックの丘で聖母に会うのを避けようとして、丘の反対側の道を取った。しかし、聖母は道を遮るために丘から降りて来られた。聖母は微笑みながら、ディエゴに何か問題がありますかと尋ねられた。それから、ディエゴの叔父がこの瞬間に癒されたと言われた。そしてこれから丘へ登って前に聖母に出会った場所で花を摘んで降りて来るように言われた。ディエゴは言われた通りに丘の頂上に登って驚いた。この冬の寒空にさまざまの種類の美しい花が岩、アザミ、乾燥地の藪の間に満開になっていた。露に濡れてよい香りを放っていた。彼はすべての花を摘もうとしたが、多すぎて全部摘むことはできなかった。摘んだ花を運ぶために彼は自分の羽織っていたティルマにくるんだ。ティルマはアステカの伝統的なマントで首のところで結ぶようになっている。ディエゴが着ていたティルマはサボテンの茎の繊維で作られたもので、20年もすればすり切れてしまうものだった。彼は急いで丘を降りて聖母のところへ戻った。聖母はディエゴがティルマに包んで持って帰った花を特別な仕方で整えられ、ティルマの中にもう一度しっかり包まれた。そして、誰にも見せずに、司教自身にそれを開けて見せなさいと言われた。

 ディエゴは三度目に司教館に行き、司教に面会を申し入れた。司教館で待っている間に、召使いたちが花を持ち去ろうとすると、花はあたかもティルマを縁取りする絵となってティルマの中に溶けてしまうかのように見えた。彼らは驚いて司教に直ぐ来るように呼びに走った。スマッラガ司教はメキシコ新総督のドン・セバスチアン・イ・フエンレアルなど重要人物たちと話し合いをしていたが、直ぐにディエゴに会いに出て来た。ディエゴは約束通りの貴婦人の天からのしるしと言って、ティルマを開いた。すばらしい色と香りを持つ花が床を埋めた。スペインにしかなく、メキシコにはまだ輸入されたことがなかったカスティージャのバラは居合わせた高官たちと司教を驚かせた。

 さらに人々を驚かせることが起こった。人々が見ている前でティルマの内部に一つの像が現れた。最初、フアン・ディエゴはこの像を見ていなかったが、見たとき、その像がテペヤックの丘で見た聖母に生き写しだったので叫び声をあげた。そしてそのことを人々に告げた。この時以来、聖母像は今日まで468年近くもティルマの中に消えずに残っている。スマッラガ司教は自分の不信をディエゴに泣いて詫び、彼を抱擁した。テペヤックの丘に小さな聖堂を建ててそこに奉納するまでの間司教はそのティルマの聖母像を自分の小礼拝堂に飾って崇敬した。現在このテペヤックの丘には聖母が望まれた大聖堂が建っていて、ティルマの聖母が崇敬の対象になっている。その後まもなく多数のアステカの人々がこの聖母像を崇敬するためにやって来て、次々に改宗が始まった。一説では十六世紀初めルターの宗教改革でヨーロッパで失われたカトリックの数だけこのメキシコでアステカ人のカトリックへの改宗があったと言う。聖母はヨーロッパ大陸で失われた人数をアメリカ大陸で取り戻されたのだ。

 ところで、スマッラガ司教はお付きの者を一人つけてフアン・ディエゴを村まで送り届けた。叔父のフアン・ベルナルディーノは聖母が言われたその時刻に癒されていて、ディエゴを出迎え、聖母が自分にも御出現になったと彼に告げた。聖母はそのとき、御自分が呼ばれたいと望んでおられる名前をベルナルディーノに打ち明けられた。今、グアダルーペの聖母と言われている名前であるが、これには実は行き違いがあった。聖母は二人のアステカ人にアステカの言葉、ナフアートル語で話された。ナフアートル語にはGとDの文字がない。だから、アステカ人がグアダルーペと発音するわけはない。しかし、スペイン人の通訳がフアン・ベルナルディーノの話を聞いて、「永遠のおとめ、グアダルーペの聖マリア」と言っていると理解した。スペインのグアダルーペ川の近くに聖母御出現で有名なマリア聖地があったからである。しかし、後に明らかになったことであるが、ベルナルディーノがアステカ語で語ったのは、「テコアトラホプー」あるいは「コアトラロープ」であったのに、その発音がグアダルーペのように聞こえたのであろう。「テコアトラホプー」あるいは「コアトラロープ」の意味、つまり聖母が御自分の呼び名として望まれたのは、「石の蛇を踏みつぶし、踏みしだき、一掃し、根絶するまったく完全なおとめ聖マリア」という名であった。石の蛇というのはアステカの神々の中でも最も恐ろしい蛇の神「ケツァルコアトル」のことであり、この神はこれまでにアステカの人々から一年に二万人の人身御供を要求していた神であった。アステカの人々はフアン・ディエゴとフアン・ベルナルディーノという二人のアステカ人のフアンに御出現になった聖母を神から遣わされた方として理解し、人身御供の悪習は突然終わった。1539年までに、すなわち御出現後わずか8年ほどの間に800万人のアステカの人々がカトリックに帰依した。これはティルマの内側に姿を残された聖母の力である。

聖母像が刻み込まれたこのサボテンの繊維でできたティルマはさまざまの科学的な鑑定を経ても、未だにその謎が完全には解けないと言われている。1531年以来468年も崇敬されて人目にさらされ、聖堂の中で祭壇の上方に掲げられていたため、ろうそくですすけ、悪化するはずなのに、不思議なことに全然古びていず、今もみずみずしく、生き生きとしており、繊維質の悪化がまったく見られないという。おまけに粗い繊維質のティルマに描かれた聖母像の顔料が未だに特定できないそうである。例えば、太陽光線、飾りふさ、天使ケルビム、マントの三日月や星、金の縁取りなど、後からの書き込みがあることが確証されているが、それらの顔料は特定されており、年代によるひび割れや劣化を示している。しかし、後からの書き込みでない最初の聖母像の衣装、マント、顔、手などの顔料は化学分析によっても何であるかが特定できず、しかもいかなる汚れ、すすけもなく、年代による劣化もないという。もっと不思議なことは、聖母像の瞳には人物像の反映があることが分かったという。コンピューターを用いた画像処理で判明したように、瞳に映っていたのははっきりと認められる複数の人物の顔と手である。ティルマが最初にスマッラガ司教の前でほどかれたときに、列席していたスペインの高官たちが聖母像の瞳に映ったと信じられている。新しいスペイン総督ラミレス・イ・フエンレアルはその一人ではないかと言われている。
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 ↑ 旧大聖堂─地震のために地盤が悪くて傾いている
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 ↑ 新聖堂
1709年に二つの塔をもつバジリカ(大聖堂)が建てられ、ティルマはそこに移されて崇敬されて来たが、1976年にこのバジリカの隣に一万人が入れる円形の新しい聖堂が建てられた。グアダルーペは現在年間1200万人とも2000万人とも言われる巡礼者が訪れる世界でも有数の聖母巡礼地である。

1810年から始まったメキシコ独立革命の際には、指導者のイダルゴ神父が、このグアダルーペの聖母像をシンボルとして掲げて戦った。
その後、この褐色の聖母は、メキシコ独特の混血文化の象徴として崇拝、敬愛されるようになった。

1999年7月7日、カトリック・ワールド・ニュースはメキシコのノルベルト・リヴェラ・カレラ枢機卿が福者フアン・ディエゴの列聖の日が近いうちに告知されることを望んでいるという記事を発表した。



ここには私は十数年前にメキシコに行った際に参詣した。
巨大な体育館のような寺院で、聖母像の前には、押し寄せる信者をさばくために、エスカレータ式の「動く歩道」が設置されていた。
ここで詠んだ私の歌─第四歌集『嬬恋』(角川書店)所載─を引いておく。

    信篤きインディオ、ディエゴ見しといふ褐色の肌黒髪の聖母

    カトリック三大奇跡の一つといふグアダルーペの聖母祀れり

    聖母の絵見んと蝟集の群集をさばくため「動く歩道」を設置す
・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥



荻須高徳展─美術館「えき」KYOTO/帰ってきた江戸絵画─ニューオーリンズ ギッター・コレクション展・・・・木村草弥
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 ↑ 荻須高徳「サン=タンドレ・デ・ザール広場」 1936年作  ポンピドゥセンター蔵
荻須0001

     荻須高徳展──美術館「えき」KYOTO・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

秋晴の「秋分の日」の一日、家の中にくすぶっているのは勿体ないので、ネットで検索して、最寄りの絵の展覧会に出かけた。
京都駅の自由通路など、芋の子を洗うような混雑ぶりであった。

JR京都駅七階にある美術館「えき」KYOTOで開催中の「荻須高徳展」である。
入場料は800円だが、「ICOKA」を使うと、なんと600円だという。
「IKOKA」を普及しようというJRの露骨な手段だが、日頃イコカを愛用している身としては、これを見過ごす手はないのでイコカを使った。

荻須は私の好きな画家である。
サインには「OGUISS」と書かれているが、これはフランス語読みにした場合に一番まちがいなく発音してもらえる「綴り」なのである。
この絵を一目見てわかるのが、なんとなく佐伯祐三の香りがしないか。
冬を感じさせるパリの街並みを厚みのある油彩で描く描き方が佐伯に似ている。
この描き方はブラマンクやユトリロが好んだ手法で、ただ、異邦人として、珍しかっただろう西洋の文字を描きこんでいるところが佐伯風である。
佐伯の絵と並べてみると性格の違いだろうか、佐伯のほうが筆が荒々しいように見える。

荻須は、東京美術学校西洋画科を出てすぐに渡仏する。
フランスでは先に渡仏していた佐伯に会い、翌年に佐伯の死に立ち会う。
佐伯の画風を後世に伝えたいと考え、その画風を自分のものにしたようである。
それから第二次世界大戦時には帰国するが、戦後最初にフランスに戻るのをフランス政府から許されたのは彼だ。その後1986年に死ぬまでフランスで過ごす。
佐伯が30歳で精神病院で亡くなっているにもかかわらず日本では活動がよく知られているのに対して、
荻須は佐伯ほど知られていないかなと思われる。性格的におだやかで地道な活動をしていたからなのかなと思われる。
しかし「文化勲章」を受賞した今となっては広く日本人にも知られる画家であることは間違いない。
親日家のシラク氏がパリの市長だったときに荻須のことを「もっともフランス的な日本人」と称しているそうで、フランスに溶け込んでしまった日本人なのかもしれない。
掲出される絵の中に愛妻・美代子を描いたものが数点ある。彼の画業を支えたのが美代子である、と言われている。
彼の娘さんは彼の地の人と結婚して、今は著作権継承者となっているようだ。

以下、Wikipediaの記事を引いておく。
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荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクとユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。

荻須は1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれる。愛知県立第三中(現・愛知県立津島高等学校)を経て、1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。

荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。

終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死去するまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行。後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。同年文化功労者に選定されたのをうけて10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となった。

1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去、84歳だった。死の一週間前ほどに同年の文化勲章受賞が内定していたため、11月3日には死去日にさかのぼって同賞が授与された。

墓はパリのモンマルトル墓地にある。
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荻須
 ↑ パンフレットに載る作品のいくつか。
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ギッター

駅の九階の京都の街を見晴らせるレストランで軽食を摂って、地下鉄で烏丸三条に移動。京都文化博物館で
     帰ってきた江戸絵画─ニューオーリンズ ギッター・コレクション展 を見る。

このコレクションは千葉など日本各地で展示されてきたようで、↓ のような動画があるので貼り付けておく。


アメリカ、ニューオーリンズ在住の眼科医ギッター博士と妻イエレン女史は、昭和38年から2年間日本に滞在したことを機に、40年近い歳月をかけ、優れた日本美術を収集してきた。
日本美術の持つ「純粋で、シンプルで、素朴な」美しさ、とりわけ墨線の持つ多様な表現に魅せられ、コレクションの中心に禅画、次に文人画、円山四条派、琳派、浮世絵、奇想の画家へと幅を広げ、今日では、円山応挙、伊藤若冲、酒井抱一など江戸時代を代表する画家による一大コレクションとなっている。
本展では、ギッター・イエレン財団の所蔵する個性溢れる日本美術コレクションの中から、近世絵画を中心とする優品を選りすぐり、その全容を紹介。
里帰りした珠玉の江戸絵画約100点は逸品揃いで、彼ら夫妻の審美眼の優秀さを見ることが゜出来る。

ギッター0001

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陽明文庫

   近衛家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝 1・・・・・・・・・木村草弥

同じ文化博物館内の無料の総合展示で「近衛家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝 1」を見る。
宮中に最も近くに居た近衛公爵家に伝わる名宝である。
パンフレットをコピーしておく。②と③を左右に繋ぐと見開きになる。
陽明文庫0001
陽明文庫0002

鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・・・・・・・・・・草間時彦
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  鈴虫を塞ぎの虫と共に飼ふ・・・・・・・・・・・・・草間時彦

スズムシは8月中旬から10月末まで鳴く。もともとは野原の草むらで鳴く虫だが、今では籠に入れて飼ったり、甕にいれて繁殖させて越冬させたりする。
日本では本州にいるが北にゆくほど居なくなるという。コオロギに近い種類で、黒く西瓜の種に似ている。リーンリーンと鈴を振るように鳴く声が美しい。
ただ平安時代にはマツムシと言われ、逆に松虫はスズムシと呼ばれたというから、ややこしい。
『和漢三才図会』には「夜鳴く声、鈴を振るがごとく、里里林里里林といふ。その優美(やさしさ)、松虫に劣らず」とある。清亮さが尊重されてきた虫である。

写真②はスズムシが羽を擦りあわせて鳴いているところ。
suzu0137鈴虫鳴き

スズムシの飼育の難しさは餌が切れたりすると「共食い」することである。
平生はキュウリやナスなどの野菜の切り身を食べるが、繁殖期には「カツオブシ」の削ったものなどを与えて栄養をつけさせる。
こういうスズムシの繁殖などに文字通り命をかけている人たちがいるらしい。

suzu0147鈴虫交尾

写真③はスズムシの「交尾」の様子である。こういうのを写真に撮るのもたいへん難しいものである。
交尾のエクスタシーに片方が羽を震わせている貴重な写真。
野生の状態では、カマキリと同じように、交尾が済むと雌が雄を食べて栄養分を補給したのではないか、と思われる。
飼育に際しては、それでは困るので、カツオブシの削ったものなどを与えるのである。

suzu0150鈴虫産卵

写真④は交尾が済んで受精した雌が輸卵管を土の中に差し込んで産卵しているところ。じめじめと湿気の多い、暗い環境が必要である。
飼育中は「霧吹き」で湿気を与える細心の注意が必要である。
普通は産卵の済んだ雌は死ぬが、飼育環境が良い場合は、雄も雌も生きたまま越冬することもあるという。
飼育も、その辺の域に達すると「スズムシ博士」と言われるのである。
何事も、その筋の最高権威と言われるには、口には言えない苦労と独自のノウハウが必要である。

suzu0160鈴虫卵

写真⑤は産みつけられたスズムシの卵である。
晩秋に産みつけられるので、この卵の状態で越冬し、次の年の春に、可愛いスズムシの幼虫が孵化してくるのである。
ここでも適度の湿気が冬の間も必要で、乾燥させてはならない。孵化した幼虫は何度も脱皮して少しづつ大きくなって成虫になる。
スズムシ ← このサイトでは、スズムシの脱皮なども観察でき、きれいな声も聞けるので、お試しあれ。

古来、スズムシの声を愛でて俳句などに詠まれてきた。
それを少し引いて終る。
掲出の草間時彦の句は鈴虫を直接に詠むのではなく「塞ぎの虫」と共に飼う、というところが面白い。

 飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し・・・・・・・・正岡子規

 寝(い)も寝(いね)ず甕の鈴虫長鳴くに・・・・・・・・富安風生

 鈴虫や早寝の老に飼はれつつ・・・・・・・・後藤夜半

 鈴虫は鳴きやすむなり虫時雨・・・・・・・・松本たかし

 鈴虫や甕の谺に鳴き溺れ・・・・・・・・林原耒井

 鈴虫を死なして療者嘆くなり・・・・・・・・秋元不死男

 戸を細目に野の鈴虫の声入るる・・・・・・・・篠田悌二郎

 鈴虫の生くるも死ぬも甕の中・・・・・・・・安住敦

 膝がさみしと鈴虫育てゐるか母・・・・・・・・鈴木栄子

 鈴虫のひるも鈴振る地下茶房・・・・・・・・福島富美子

 鈴虫のりんりんと夜をゆたかにす・・・・・・・・永井博文


縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
rukousou0111ルコウソウ
  
  縷紅草(るこうさう)みれば過ぎ来し半生に
   からむ情(こころ)の傷つきやすき・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、
この歌の前に

父母ありし日々にからめる縷紅草ひともと残る崩(くえ)垣の辺に

という歌が載っている。
2003年10月に開いてもらった私の出版記念会で、光本恵子氏が、この歌について喋っていただいた。
これについてはリンクにしたWeb上の『嬬恋』の「出版記念会」のところで、お読みいただける。
その時、光本さんは「ルコウソウ」が消えかかっている草、のように仰言ったが、今回、これを入力するに当ってWebを検索してみたら、
ルコウソウというのは熱帯アメリカの原産で、今ではさまざまの改良種が出て園芸店でも蔓草として人気らしい、という。
写真②も、そういう色とりどりの改良種という。

rukonsouルコウソウとりどり

ルコウソウは、ひるがお科の一年草で、日本では6月から夏から秋にかけて次々に咲きつぐ。
本来は五角形の真紅または白の筒型の花であるが、丸葉ルコウソウというのがあり、それと本来のルコウソウとの交配で「はごろもルコウソウ」という新しい品種が、
アメリカのオハイオ州で作られたという。
この花は大げさな花ではなく、また今どきの住宅事情からもフェンスにからませたりして丁度時代に合うのだろう。
写真③以下、いろいろの色のルコウソウの写真を載せておく。

rukousouルコウソウ白

marubarukousouルコウソウ

掲出した私の歌2首は、光本さんが仰言ってくださったように(消えかかっている花、というのは別にして)私の心のうちをルコウソウにからめて表現したもので、
的確に言い当てて下さったと感謝している。
以下、俳句に詠まれた作品を引いておく。

 縷紅草のびては過去にこだはらず・・・・・・・・中村秋一

 縷紅草垣にはづれて吹かれ居り・・・・・・・・津田清子

 縷紅草のくれなゐともる昼の闇・・・・・・・・小金井欽二

 軽みとは哀しみのこと縷紅草・・・・・・・・瀧春一

 垣越すと揃ふ縷紅の花の向き・・・・・・・・堀葦男

 羚羊のごとき少女や縷紅草・・・・・・・・古賀まり子

 雀らの影ちらちらと縷紅草・・・・・・・・村沢夏風

 草市のをとこの提げる縷紅草・・・・・・・・吉田鴻二

 縷紅草文(あや)目にからむ情の罠・・・・・・・・田口一穂

律儀にも今年も咲ける曼珠沙華一途なることふとうとましき・・・・・・・・・・木村草弥
aaoohiganb3ヒガンバナ大判

  律儀にも今年も咲ける曼珠沙華
   一途(いちづ)なることふとうとましき・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載せたものである。ただし自選の中には採っていないので、Web上ではご覧いただけない。
この花は「ひがんばな」とも言うが、秋のお彼岸の頃に咲き出すから、この名前がある。ヒガンバナ科の多年生草本。
地下に鱗茎があって、秋に花軸を伸ばし、その上に赤い花をいくつか輪状に開く。花弁が6片で反っており、雄しべ、雌しべが突き出している。
人によっては妖艶ということもあろう。葉は花が終ったあと、初冬の頃に線状に生えて、春には枯れる。

361白花ひがんばな
写真②は白花である。東京では皇居の堀の土手に密集して咲いているのを見たことがある。

写真③は、その冬に生える葉の様子である。
030118higan01ヒガンバナ冬

根に毒を持つ有毒植物であり、墓地の辺りに咲いたりするので、忌まわしいという人もある。
「曼珠沙華」というのは「法華経」から出た言葉で赤いという意味らしい。
古来、俳句や歌謡曲などにも、よく登場する花である。
蕪村の句に

   まんじゆさげ蘭に類ひて狐啼く

というのがあるが、そういうと、この花は蘭に似ていなくはない。鋭い観察である。
以下、歳時記からヒガンバナの句を引く。

 葬人の歯あらはに哭くや曼珠沙華・・・・・・・・飯田蛇笏

 曼珠沙華消えたる茎のならびけり・・・・・・・・後藤夜半

 考へて疲るるばかり曼珠沙華・・・・・・・・星野立子

 論理消え芸いま恐はし曼珠沙華・・・・・・・・池内友次郎

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華・・・・・・・・山口誓子

 曼珠沙華南河内の明るさよ・・・・・・・・日野草城

 曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり・・・・・・・・中村草田男

 四十路さながら雲多き午後曼珠沙華・・・・・・・・中村草田男

 まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・・・・・・・・中村汀女

 彼岸花鎮守の森の昏きより・・・・・・・・中川宋淵

 寂光といふあらば見せよ曼珠沙華・・・・・・・・細見綾子

 曼珠沙華逃るるごとく野の列車・・・・・・・・角川源義

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華・・・・・・・・森澄雄

 曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し・・・・・・・・野沢節子

 曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし・・・・・・・・大野林火

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子・・・・・・・・金子兜太

 五欲とも五衰とも見え曼珠沙華・・・・・・・・鷹羽狩行

稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城
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  稲刈つて飛鳥の道のさびしさよ・・・・・・・・・・・・・日野草城

この頃は米の栽培も超早場米、早場米などが出てきて8月になると、もう新米が市場に出回るようになってしまった。
九州に行くと、たとえば宮崎県などではコシヒカリの品種ものの稲刈りが8月下旬には、みな済んでしまって一面稲を刈り取った後の風景が見られる。
日本の風土には「米作り」が一番合っているようで、農家の年間の稲作従事日数は、あらゆる作物の中で最短だという。
だから出来れば、みな米を作りたいのだが、米の消費量の減退などで米余りの状態で国として「減反」政策が取られている。
おそらく、殆どの人が稲の花の咲くのは見たことがないだろうと思うので、写真②に掲出しておく。
この写真から更に完全開花の状態に進む。
sum2稲の花
「陸稲」(おかぼ)という畑で栽培する米もあるが、おいしくないので、米といえば「水稲」のことをいう。
名前の通り水管理の出来る水田で栽培する。写真にはないが水を張った田に稲の苗を「田植え」する。
今では「田植え機」でやるのが普通。
米作りには、田に水を張ったり、水を遮断して田を干上がらせたり、と水の管理が大切で、「穂水」と言って出穂期には水をたっぷり張ることが必要である。
水管理も今は地下水をポンプで汲み上げたりするので楽である。

photo-2コンバイン
地域によって農家の栽培面積に違いがあるので一概には言えないが中程度の規模になれば写真③のようなコンバインを使用する。

もちろん「手刈り」にこだわる小規模の人もあるだろう。棚田などでは手刈りしか出来ない場合もある。写真④に「棚田」の稲刈り風景を紹介しておく。
47棚田

ついでに言うと、この頃では「棚田」の「景観」としての保存を主義としてボランティアで推進してゆこうという運動があり、一定の成果を収めているようだが、
棚田は急斜面に石垣を積んで狭い田をいくつも作るという重労働であって、採算面では全く割りに合わない農法である。
そういうボランティアの人々の意思と情熱がいつまで保てるかが「棚田」の運命を決めてしまうであろう。
こういう棚田では、ボランティアも年間を通じて労働に従事できるわけではないから、田植えとか稲刈りのシーズンに顔を出すくらいで、
後の年間の管理は地元の農家にお願いし、その代りに年間なにがしかのお金を拠出して経費に当てるという方法が採られている。
写真④の棚田の場合も刈り取りには手押しの「バインダー」という刈り取り機が使われている。
写真では、まだ刈っていない稲がS状に残っているが、周囲から、ぐるぐる廻るように刈ってきて、真ん中の部分がS状に残ったもので、
人がこちら向きに立っているのが、バインダーという刈り取り機を押して、こちら向きに刈ってくるのである。
ひと束分になると、麻紐で自動的に結束して、脇にバサッと投げる。結束された束が田の全面に見えている。そういう風景である。
写真④は、畦に彼岸花が赤く咲いているのも見てとれる。

rice19稲
写真⑤には、田に生えている稲の株をご覧に入れる。
この株も田植えをしたときは1~2本に過ぎなかったのが「分蘗(ぶんけつ)」して20~30本になるのである。
この辺のところに「物つくり」の面白さがあるのだが、現代人には、言ってもムダか。

以下に俳句に詠まれたものを紹介するが大半は今では農作業として見られないものである。
腰まで浸かるような湿田での稲刈りも今では灌漑施設が整備されて水管理が自由に出来るようになり、風景としても見られない。
句を読まれる前に一言申し上げておく。

 待ちかねて雁の下りたる刈田かな・・・・・・・・小林一茶

 順礼や稲刈るわざを見て過る・・・・・・・・正岡子規

 婆ひとり稲穂に沈む鎌の音・・・・・・・・石川桂郎
 
 水浸く稲陰(ほと)まで浸し農婦刈る・・・・・・・・沢木欣一

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて・・・・・・・・平畑静塔

 太陽に泥手あげ稲刈り進む・・・・・・・・落合水尾

 孕れば腰立て勝ちに稲を刈る・・・・・・・・福田紀伊

 田より夕日を引き剥すごと稲を刈る・・・・・・・・細谷源二

 稲刈の海に出るまで雄物川・・・・・・・・森澄雄

 疲れ来て田舟にすがる深田刈・・・・・・・・吉良蘇月

 稲架の上に乳房ならびに故郷の山・・・・・・・・富安風生

 稲架の間に灯台ともる能登の果・・・・・・・・水原秋桜子

 稲架が立つ因幡の赫き土にして・・・・・・・・辻岡紀川

 架稲も橘寺も暮れにけり・・・・・・・・日野草城
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掲出句と引用の最後の句は共に草城のもので、おそらく同じ吟行の時期の作品であろうと思われる。

津田清子句集『無方』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
無方

──新・読書ノート──

    津田清子句集『無方』・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
          ・・・・・・・・編集工房ノア刊1999/10/20初版2000/08/10二刷・・・・・・・・・・

私は俳句の実作者ではないが、同人誌「かむとき」に居たときに、主宰者がジャンル横断的な催しをされたときに俳人や川柳人たちと多少の交流はあったし、
私自身も「短詩形」文芸としてジャンルを幅広く捉えているので、このブログでも、俳句はたくさん採り上げてきた。
津田清子さんには、先に書いた催しの際に一度だけお会いしたことがあるが言葉も交したことがない。
お会いしたのは、時期的にみると、この句集は既に出ていたようであり、出席者がこの句集について触れているからである。

この句集『無方』は角川文化振興財団主催の「蛇笏賞」を得られたもので、この賞は俳人としての第一人者たることを証する立派な栄誉である。
以下、一読して私の気に入った句を拾ってみる。

         「砂漠」
   はじめに神砂漠を創り私す

   わが砂漠出発点か終点か

   己が根の深さどこまで砂漠の木

   砂漠の木 I DO NOT KNOW 日本人

   自らを墓標となせり砂漠の木

   山羊もまた妊り砂漠彷徨へり

   砂漠に立つ正真正銘津田清子

   女には乳房が重し夜の砂漠

   砂漠戒第一条眼を瞑るべし

   砂漠戒第二条耳塞ぐべし

   犬子供鶏カティツーラ明易し    *カティツーラ──黒人居住区

          「旅の符」 

   島の春女の声で鳴く鴎

   海うらら貝泳ぐ足はばからず

   雲の峯わたしは海に会ひにゆく

   鬼百合よカンナよ海を知ってゐるか

   海の虹呪縛の箍を弛めつつ

   足出してヤドカリすぐに歩きたがる

   流木を乗り捨てにして神の旅

   秋風の砂に溺るる女靴

   水平線傾けて月上りくる

   恋めきて傾く月の涼しさよ

   砂山に遊ぶ三日月ほどの恋

   水澄むや過去証すもの何かある

   夕鵙や黙って死んでゆくほかなし

   霧昏しけものの勘をとり戻す

   山葵田の水の系列縦社会

   足跡は謎の未来図雪の駅
     
   苜蓿(うまごやし)ロシヤの船の着く港

         「倭国逍」

   脚見えて夕立移る真神原

   猿石と並べば涼し大望なし

   天武帝朱鳥元年冬霞

   領巾(ひれ)振るは額田女王か冬蝶か

   杉桧蛍ちりばめ夜は恋す

   蛍火の点りて男消えて女

   水取や奈良の鴉の変声期

   はんざきは倭に老いて海知らず

   ビルに囲まれ杣木谷冬景色

   的ならず雪礫樹に命中し

   蜜蜂もげんげも故郷失へり

       「春」

   鴉の巣どこからも見え悪びれず

   桜咲くほか廃村の主張なし

   田の畦は閾のごとし蝶躓く

       「夏」

   あめんぼも蛙も村を出る気なし

   青葦原わが方舟は水浸きたり

   毛虫にも東西南北あり急ぐ

        「秋」

   いちじくは熟れて方舟つなぎ留む

         「冬」

   冬椿朝念暮念観世音

   雪の野を小股に歩みゆきし獣

   過去未来現在(いま)切株に雪積る

   金魚であることも忘れて冬を越す

   誘惑に負け滝壺に浮く黄葉
 

この句集については、ネット上に「無方」――アフリカ・ナミブ砂漠という下記のような書評が出ているので紹介しておく。
このサイト「炎環」は、石寒太氏のもの。
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         「無方」――アフリカ・ナミブ砂漠

旅に出たいと思う。日常からほんのすこし抜け出して、異国の大地からエネルギーを貰いたいと思う。第34回蛇笏賞受賞句集『無方』は、アフリカ・ナミブ砂漠での連作から始まる。

太陽は四季咲の花砂の国

無方無時無距離砂漠の夜が明けて

砂漠の木自らの影省略す

自らを墓標となせり砂漠の木

津田清子氏は大正九年奈良生まれ。二十代で前川佐美雄に短歌を学ぶが、のちに橋本多佳子の七曜句会に出席、多佳子の美しさと俳句表現の直截さに魅かれ師事。「天狼」遠星集にも投句、若くして頭角をあらわす。

『無方』は『七重』以降ほぼ十年間の作品を纏めた句集であるが、この『七重』あたりから津田氏の句境に変化が見られるとする見方も多い。それは、「師系は大事にしても師風に盲従しなかった」(飯田龍太氏評)津田氏が、「ある時期から、それまでの右に山口誓子、左に橋本多佳子という縛りがとけて、自在の句境を見せはじめた」(宇多喜代子氏評)ということなのであろうか。

あめつちのいのちさみどり薺粥

砂山に遊ぶ三日月ほどの恋

枇杷五つ盛られて最後まで五つ

ところで前掲の砂漠の句は、ほとんどが無季俳句である。有季定型を基本とする「天狼」で学んだ津田氏であるが、この『無方』の無季俳句については次のように語る。

「無季の俳句を作ろうとか有季の俳句を作ろうとか、そうじゃなくて、俳句のほうが先にあるんですよ。季語よりも。俳句のなかに季語以上の哲学があったら、それを無理におさえつけてまで季語を入れなくてもいいと思う」

同感である。ただしこの場合、「季語以上の哲学」というところがポイントとなるが。

はじめに神砂漠を創り私す

髑髏磨く砂漠の月日かな

さて、蛇笏賞受賞句集『無方』は、新聞・雑誌に数多く取り上げられ話題となっているが、坪内稔典氏は「俳句」六月号の現代俳句月評で、その論調に一石投じている。そのタイトルも「えっ、津田清子の砂漠の句がよいって?」。

句も句集も、読者が千人いれば感じるところも千通り。肝要なのは、ひとの評価を鵜呑みにせずに自分の目で確かめること、と思う。(「炎環」2000年月号掲載)
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さらにネットを検索してみたら、こんなサイト「齋藤百鬼の俳句閑日」を見つけたので引いておく。
その齋藤百鬼氏だが 2011年7月11日に亡くなられたそうである。「死して閑日録を残す」である。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


齋藤百鬼の俳句閑日
俳句に遊び遊ばれて


津田清子の結社論
2007年08月21日 | Weblog
お暑うございます。
昔仕えた社長から、天気のことを言うとこっぴどく叱られた。「暑いですねえ」「そんなことは言われなくてもわかっている、男は無駄なことは言うな!」
とは言っても、この暑さだ。口に出すことで、少しは免れるような気がするから言うのである。田所社長、許してたもれ。

「証言・昭和の俳句」では、女性の証言は概ね面白くない(僕にとっては)。そのなかで興味深かったのは津田清子さん。この方、誓子の系譜なので、どこか男っぽい。

 真処女や西瓜を喰めば鋼(はがね)の香
 蜘蛛飢ゑて樹と磔像を往来せる
 冬越す蝶荒地は母のごとく痩す
 ポケットの底抜けしまま卒業す
 溶鋼の火花を浴びて男壮(ざか)り
 栄螺にもふんどしがありほろ苦し
 髑髏(されこうべ)磨く砂漠の月日かな
 砂漠戒第一条眼を瞑るべし

一言で言えば、俳誌「圭」一党を率いる女傑なり。
俳壇のことはよく分からないが、このグループは他とは一味違うようなのだ。まず「沙羅」という結社をつくる。これは普通だ。

「沙羅の始まりは昭和四十六年七月です。沙羅という名前は誓子先生がつけてくださいました。私が主宰ということです。・・・十周年のときに来てくださった人が百五十人くらいで、そのあたりからどんどん増えてきたんです。俳句って同人を増やさないと経営がなりたたない。会員の会費は月三百円でも千円出せば、誰でもみな同人になれるのです。そのうち会も十五年目になってきますと同人が二百人近く、会員が三百人近くになってきまして、雑誌の経営は楽なんですが、句を見ていますと、もう頭に血が上がりそうなんです。こんなのを俳句やと思ってるのかってカッカッしてきて、句の選をするのがいやでいやで仕方ありません。
しかし同人になることは、みんなご機嫌です。同人に推薦するとき、「俳句がうまくなったからと違うんやで。沙羅の経営を助けるための同人ですよ」と引導を渡すのです。でもそんなことは忘れて、私は沙羅の同人やと胸を張るんですが、句の勉強はしないから俳句は堕ちるばかり。それで、これは一度、やめて解散しようと思いましてね。
やめるについては同人からも会員からもずいぶん反対されました。やめっぱなしというのはだめだと言うから、主宰なし、同人なしという圭を始めたんです。
・・・・
圭は一年経つと全員解散です。一年ごとに契約を更新します。それの繰り返し。四月号が出たときに「入会します」という通知を送ってこなかったら、その人はもう会員ではない。会費は全員平等で二万円ですから、私も二万円出しています。
・・・・・
いま圭は十三年の終わりです。十四期を募集して、おおかたお金は集まっています。俳句ができなくなったらやめたらいい。無理しないでよろしいって言うてるんです。やめて、三年ほどして入りたくなったら、また入ってきたらええやないのって。それで私の精神的負担はなにもない。本当に楽ですよ。
圭は大会を一度もしたことがないんです。大会の裏方さんは自分の俳句を犠牲にして走り回ってますよ。あんなのを見ますと心が痛んで、何の為の大会やと思うんです。褒美をもらったり賞をもらったりする人は華やかで喜びますけど、裏方さんがどんな苦労をしているかだれも知らないでしょう。私は俳句というのはもともと地味なものだと思ってるんです。
いつもみんなに、私が死んだら圭はやめなさいと言うてるんです。そして、私の生きてる間に誰かいい先生を見つけておきなさい。どっかへ行きたかったら行きなさい。そのかわり自選力をつけなさい。俳句のいちばんの欠点は先生に見てもらわないと俳句にならないと思ってること。そういう根性ではだめです。百人の人がだめだと言っても、この俳句は自分のために残さねばならんという俳句は残してええやないの。句集なんてそのためのもので、なにもほめてもらった句だけを句集に入れるんじゃない。自分のために句集を出すわけです。ですけど、そういう説は、なぜか世間に受け容れられないようです。
もつともつと自分というものを大事にしないといけない。・・・」

おっと、この方、いいこと言うてくれまんなあ。いちいち納得ですよ。とくに「自選力」には大納得です。一年こっきりで解散は、一期一会に通じまんなあ。「私は俳句というのはもともと地味なものだと思ってるんです。」うんうん。
最後に黒田杏子さんは「津田清子さんは大和の地母神である」としめくくっておりました。終わり。

 まだ咲いているのか夾竹桃のバカ/時実新子
 八月の蝉からからと完(おわ)りける/時実新子

イエスの最初の奇蹟「カナの婚礼のワイン」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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 ↑ ルーヴルにあるヴェロネーゼ作「カナの婚礼」の絵

──巡礼の旅──(7)

     イエスの最初の奇蹟「カナの婚礼のワイン」・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今から約二千年前、イエス・キリストが誕生した。
彼は万人の病を癒し、自然の力さえも操ることが出来た奇蹟の人と伝えられている。
イエスの最初の奇蹟は、喜びに満ちた婚礼に招かれたときに起こったとされる。
ヨハネ福音書(2章1-11)によると、ガリラヤ地方のカナという村で、イエスと母マリア、弟子たちが村の婚礼に招かれたとき、長い宴がつづいたために、とうとう葡萄酒がなくなってしまった。
「葡萄酒がないなら喜びもない」という諺があるほど、葡萄酒は祝い事に必要不可欠なものだったため、イエスは召使に、石甕に水を満たすよう命じて、それを極上の葡萄酒に変えた。
それを知らない世話役は召使が運んだ石甕に入った葡萄酒を呑み「最初は良い葡萄酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すのに、こんな良い葡萄酒が出てくるとは」と驚いた。
その奇蹟を見た弟子たちは、イエスを神の子だと確信し、信頼を捧げたという。
これがカナの婚礼の奇蹟、と今に至るまで伝えられる物語である。

IMG_4711V6カナ婚礼教会
 ↑ イスラエル・ガリラヤ湖畔カナ村の「カナ婚礼教会」

この奇蹟のエピソードのある地には「カナ婚礼教会」が建てられている。
写真のものはフランチェスコ会の建てたもので、もう一つギリシャ正教の建てたものが他にある。
これらの二つの教会は、イエスの生涯を辿る巡礼地の一つとして、現在も多くの人々が訪れるのである。

イエスは伝承によれば、
ベツレヘムで生まれ、このナザレをはじめとするガリラヤ湖周辺で育ち、数々の説教と奇蹟を起したイエスは、次第に民心を捉え、一部で熱狂的な支持を得ていた。

  大き瓶(かめ)六つの水を葡萄酒に変へてイエスは村の婚礼祝ふ  ─カナ婚礼教会─

  サボテンと柘榴のみどり初めなる奇蹟にひたるカフル・カナ村
・・・・・・・・・・・・木村草弥

この地での私の歌である。第四歌集『嬬恋』(角川書店)所載。

はじめに掲出した絵はフランスはパリのルーヴル美術館にあるもので、世界的に名高い絵「モナリザ」の向かいに展示されている。
この絵はルーヴルはもとより、美術史上、最も大きなカンヴァス画の一つであり、タテ6.7m、ヨコ9.9mの大きさを誇る。
イエスの起こした最初の奇蹟は、おそらく、そのキャンバスの大きさが象徴するように、人々に多大な影響を与えた出来事だったに違いない。

葡萄の起源は極めて古い。
紀元前7000年頃、古代文明発祥の地メソポタミアでは既に葡萄栽培が行われており、人々にとって身近な食物だった。
それ故に、葡萄にまつわる譬えや教えは人々の心に直接働きかけるのに好都合だったのだろう。
聖書の世界では、葡萄や葡萄酒にまつわる話が数多く記されている。
皮肉にも、イエスが最初の奇蹟で人々に喜びを与えた葡萄酒は、のちに、最後の晩餐で「多くの人のために流される自分(イエス)の血」と形容されることとなるのだが、彼の生涯の中で、葡萄酒がいかに重要なものであるかを窺い知ることが出来るというものである。



ほつこりとはぜてめでたしふかし藷・・・・・・・・・・・・・・・・・富安風生
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  ほつこりとはぜてめでたしふかし藷(いも)・・・・・・・・・・・・富安風生

昔、私の子供だった頃はこれからの時期のおやつというと必ず「ふかし藷」だった。
お腹をすかせて学校から帰ると、台所には、ほっかりとふかしたサツマイモが湯気を立てて待っているのだった。
私たちの辺りで栽培していた「赤いも」は皮膚は赤いが中身は白くて、甘くて、おいしい品種だった。
掲出の風生の句の風景そっくりだった。

サツマイモ──甘藷も原産地は中央アメリカだという。多年生の蔓草で、寛永年間に薩摩の前田利右衛門が琉球から持ち帰り、青木昆陽が享保年間に関東地方へ普及させた。
サツマイモというのは、渡来の順路を知らせる命名である。
蕃藷、唐藷、琉球藷、薩摩芋という各地の呼び名は、この藷の渡来の経路を知らせるもので「薩摩」では「琉球」藷と呼んでいた。
サツマイモも青木昆陽の普及により「救荒作物」として関東以西に広がり、飢饉から人々を救ったのである。
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都会人でも子供の頃に田舎に「イモ狩り」に出かけた記憶のある人があろうが、どういう栽培をするのか知らない人が大半だろう。
サツマイモは寒さに弱いので、昔は秋に収穫した種芋を地中に貯蔵して冬を越した。今は定温倉庫で20度くらいで保管する。
春になると、それを出して苗床に定植し保温しながら発芽させて育て、初夏になると伸びてきた蔓を長さ25~30センチに切り取り、畑に挿して定植する。
どんどん蔓が延びて畑一面を覆うようになり、根に新しい芋が出来る。

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写真③がサツマイモの葉である。先に言ったように、この蔓の茎を葉っぱもつけたまま、切り取って土に挿すのである。
苗は土に横たえる状態で土に植える。その挿した地中の部分から芋が生育するのである。種を蒔くというようなことはしない。
第一、本州ではサツマイモの花が咲くことは、ないのである。
植えた苗が生育すると畑一面を覆うので雑草などは余り生えないから、管理はどちらかというと楽である。
戦争中は食べるものがなくて、このサツマイモの蔓が貴重品として、よく食べられた。
写真④がサツマイモ畑の全体の様子である。
satsuma-1サツマイモ畑

サツマイモにもさまざまな品種があり、真っ赤なもの、ピンクのもの、白いものなど。
今どきはサツマイモというと「焼き芋」として一般的に知られていると思うがビタミンCなども豊富であり、
また食物繊維が多いのでダイエット食としても適しているという。
最近ではサツマイモの生産地は徳島県(鳴門金時という焼き芋専用種を開発した)、鹿児島県(昔はアルコール原料にサツマイモを広く栽培していたが、
醸造用アルコールの需要の衰退とともに減り、今は鹿児島茶産地として静岡県に次ぐ茶の大産地となった。
今は焼酎ブームとあって、芋焼酎の原料として広く栽培されている)が知られる。
1407im8白芋
↑ 写真⑤は芋焼酎の原料の「白芋」である。
白芋は昔からあったが、甘みの少ない、生食した場合には、おいしくない芋であった。
この芋焼酎原料専用の白芋も、おそらく甘みのない、澱粉質のみの品種だろう。なまじ甘みがあると製造工程で、うまくないのだろう。
澱粉だけだと酵素によって多くがアルコールに転換できるのであろうか。芋の名前も「サツマ・・・・」とついている。
今しもアルコール飲料の中で、空前の「しょうちゅう」ブームである。私の知っている人でも老齢者は皆しょうちゅうである。
年取ると糖尿病に罹る人が多く、さりとてアルコールは飲みたいということで、糖類を含んでいないから、焼酎が持て囃されるのであろう。
私は糖尿病っけは全くないので、ワイン、ビール、日本酒など「味」のある酒を少量たしなんでいるので、焼酎は旨いとは思わない。

以下、サツマイモ=甘藷を詠んだ句を挙げて終る。

 君去なば食はむ藷君に見られしや・・・・・・・・石田波郷

 藷たべてゐる子に何が好きかと問ふ・・・・・・・・京極杞陽

 甘藷穴より突き出て赤き農夫の首・・・・・・・・野沢節子

 甘藷掘りを牛はかなしき瞳もて待つ・・・・・・・・才記翔子

 八方へ逃げゆく藷を掘りあぐる・・・・・・・・神生彩史

 藷掘られ土と無縁のごと乾く・・・・・・・・津田清子

 新甘藷を一本置けり童子仏・・・・・・・・中山純子

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形(な)り・・・・・・・・原田種茅

 甘藷穴のひとつは満ちて掃かれけり・・・・・・・・遠藤正年

 やはらかき土につまづく藷集め・・・・・・・・市村究一郎


唐黍やほどろと枯るる日のにほひ・・・・・・・・・・・・・・芥川龍之介
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  唐黍やほどろと枯るる日のにほひ・・・・・・・・・・・・・・芥川龍之介

トウモロコシは高さ2メートル程に伸び、夏の終りに茎の上に芒の穂のような雄花を咲かせ、葉腋に雌花穂をつける。
雌しべに花粉がつくと稔って、雌しべ穂は茶褐色の毛のように苞の先端に残る。
『和漢三才図会』には「蛮舶将来す。よつて南蛮黍と称す。その形状、上に説くところははなはだ詳らかなり。ただし、苞の上に鬚を出だす。赤黒色にして長さ四五寸、刻煙草に似たり。その子(み)、八月黄熟す」と記述しており、特徴をよく捉えている。
夏の終りの時期の北海道の名物で、実を焼いて露店などで売る秋の味覚の風物詩である。
写真①は畑の状態である。原産地はアメリカ大陸である。インカの民は、これを主要な食料源としている。
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写真③は畑の状態だが、実の鬚が上端からはみ出ているのが見られるだろう。
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この頃では実を採取するのが目的でなく、茎と葉を家畜の飼料として刈り込む品種のものもあるようだ。これを「デントコーン」という。
北海道に行くと、よく見られる。
家畜を養うには莫大な量の飼料が必要で、トウモロコシのほかに麦なども配合飼料として使われる。
日本は家畜用の配合飼料の完全な輸入国で、殆どをアメリカに依存している。
考えてみるとアメリカ大陸由来の植物が多い。ジャガイモ、トマトなどもアメリカ原産である。
昔はヨーロッパでは冷害による飢饉に瀕していたが、救荒作物としてのジャガイモの到来によって救われた、という。

掲出の龍之介の句はトウモロコシの中に「日の匂い」を感じたのである。
以下、トウモロコシを詠んだ句を引いて終わりにする。

 もろこしを焼くひたすらになりてゐし・・・・・・・・中村汀女

 唐黍の影を横たふ舟路かな・・・・・・・・水原秋桜子

 唐黍の葉も横雲も吹き流れ・・・・・・・・富安風生

 もろこしを焼いて女房等おめえ、おら・・・・・・・・富安風生

 貧農の軒たうもろこし石の硬さ・・・・・・・・西東三鬼

 唐黍焼く母子わが亡き後の如し・・・・・・・・石田波郷

 海峡を焦がしとうもろこしを焼く・・・・・・・・三谷昭

 唐もろこし焼く火をあふり祭の夜・・・・・・・・菖蒲あや

 充実せる玉蜀黍を切に焼く・・・・・・・・本田青棗

 中腰の唐黍焼きに昔あり・・・・・・・・石川桂郎

 雷の遠く去りたる唐黍をもぐ・・・・・・・・横山丁々

 唐黍と学生帽と一つ釘・・・・・・・・上野鴻城

 几帳面な玉蜀黍だと思はないか・・・・・・・・櫂未知子


新涼のいのちしづかに蝶交む・・・・・・・・・・・・・・・・・松村蒼石
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  新涼のいのちしづかに蝶交(つる)む・・・・・・・・・・・・・松村蒼石

秋になって感ずる涼しさのことを「新涼」という。
「涼しさ」だけでは夏の暑さの中で味わう涼しさで、新涼とは別のもの。
本意としては「秋になりて涼しき心をいふなり」と『改正月令博物筌』にある。

  秋来ぬと思ひもあへず朝げより初めて涼し蝉の羽衣・・・・・・・・新拾遺集

の歌が知られている。また

  秋涼し手毎にむけや瓜茄子・・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

の句が「新涼」「秋涼」「爽涼」「初涼」「涼新た」などの類語の季語の本意とされている。
心地よい涼しさの中に一抹の「寂しさ」「心細さ」をも伴う感覚である。
掲出の蒼石の句は、その「新涼」の季節の中で、ひそかな「生命力」の凄さを一句の中に凝縮した、みごとなものである。

以下、これらの類語の句を引いて終る。

 新涼の月こそかかれ槇柱・・・・・・・・・・・・・・高浜虚子

 爽涼と焼岳あらふ雲の渦・・・・・・・・・・・・・・水原秋桜子

 新涼や白きてのひらあしのうら・・・・・・・・・・・・・・川端茅舎

 新涼の身にそふ灯かげありにけり・・・・・・・・・・・・・・久保田万太郎

 新涼の咽喉透き通り水下る・・・・・・・・・・・・・・西東三鬼

 新涼やたしなまねでも洋酒の香・・・・・・・・・・・・・・中村汀女

 新涼の水の浮べしあひるかな・・・・・・・・・・・・・・安住敦

 新涼の剃刀触るる頬たかく・・・・・・・・・・・・・・西島麦南

 新涼の画を見る女画の女・・・・・・・・・・・・・・福田蓼汀

 新涼や尾にも塩ふる焼肴・・・・・・・・・・・・・・鈴木真砂女

 新涼や白粥を煮る塩加減・・・・・・・・・・・・・・久米はじめ

 新涼や相見て妻の首ながし・・・・・・・・・・・・・・細川加賀

 新涼や素肌といふは花瓶にも・・・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

 新涼の母国に時計合せけり・・・・・・・・・・・・・・有馬朗人

 新涼の山に対へる木椅子かな・・・・・・・・・・・・・・水田清子

 新涼や掌のくぼにある化粧水・・・・・・・・・・・・・・高山夕美

 新涼の道の集まる凱旋門・・・・・・・・・・・・・・村上喜代子

 新涼の豆腐を崩す木のスプーン・・・・・・・・・・・・・・浜田のぶ子

 新涼の水にこつんと鬼やんま・・・・・・・・・・・・・・中拓夫

 新涼の香ともハーブを刻みけり・・・・・・・・・・・・・・鈴木喜美恵

 灯を入れずおく新涼の青畳・・・・・・・・・・・・・・貝瀬久代


丈高く咲いて風よぶ紫苑には身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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  丈高く咲いて風よぶ紫苑(しをん)には
   身をよぢるごとき追憶がある・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「紫苑」の花言葉には追憶とか身をよじる思慕、とかがある。
この歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたものだが、ひところ花言葉を読み込んだ歌に集中していた時期があり、この歌は、その一つである。

紫苑はキク科の多年草で、日本の原産とある。紫色の頭状花をつける。風にも強い。
『古今集』に

  ふりはへていざ古里の花見むとこしを匂ぞうつろひにける

という歌があるが歌の中に「しをに」と紫苑を読み込んである。

私の方の菜園にも一群の紫苑が咲きかけてきたところである。

以下、紫苑を詠んだ句を引いておく。

 栖(すみか)より四五寸高きしをにかな・・・・・・・・小林一茶

 紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし・・・・・・・・水原秋桜子

 野分して紫苑の蝶々けふはゐず・・・・・・・・星野立子

 この雨や紫苑の秋となりし雨・・・・・・・・加藤楸邨

 紫苑にはいつも風あり遠く見て・・・・・・・・山口青邨

 台風の紫苑もつともあはれなり・・・・・・・・石塚友二

 紫苑といふ花の古風を愛すかな・・・・・・・・富安風生

 頂きに蟷螂のをる紫苑かな・・・・・・・・上野泰

 山晴れが紫苑切るにもひびくほど・・・・・・・・細見綾子

 古妻も唄ふことあり紫苑咲き・・・・・・・・橋本花風

 露地の空優しくなりて紫苑咲く・・・・・・・・古賀まり子

 丈高きことが淋しく花紫苑・・・・・・・・遠藤梧逸


T・F氏撮影─イギリス「運河ナローボートの旅」の画像
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 ↑ チャーク・アクアダクト(水道橋)地上23mの運河橋 

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初めの写真二枚はいづれもチャーク・アクアダクト(水道橋)です。地上23mの運河橋です。
隣に見えるチャーク・バイアダクト(鉄道橋)は地上31mです。 
私の乗っているのが今回旅した二連のホテルボートです。前のDUKEが動力船で、船長ほか計4名の職員(男3女1)と英人女性客一名が乗り組みました。

写真①の左側の歩道のようなものは、昔、船を引く馬が歩いた「トパス」という道です。
曳かれ船のDUCHESSには我々一行六名(二夫婦・一男性・添乗員)が乗り組みました。 時速4㎞の旅です。

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↑ 後の一枚はポントカサステ・アクアダクトで地上36m、エッフェル塔と同じ設計者によるもので1848年完成の世界遺産です。
勿論ボートで渡ったのですが、待っている間に川へ下りて撮った写真です。
何しろ単線の運河でこの日は土曜日、英国一の人気スポットなので、待ち時間が長いのです。

この旅の日程は9/2から9/12までの旅行で、3日(土)16:30から10日(土)9:00までの乗船で、約100kmの航行でした。

 昨年のドナウ川クルーズの添乗員にナローボートの希望を話したのが具体化してツアーになったのです。
彼女は添乗もするが、企画がメインの仕事だったのです。
少人数しか乗れないので希望者に応えるため、二週間後にコッツウォルズのナローボートの旅の添乗に出かけるそうです。

 フットパスはコッツウォルズを歩きます。これもツアー参加で、8名と添乗員です。ナローボートもこれも移動距離は100km程度です。
-------------------------------------------------------------------
私の敬愛する高槻市在住のT・F氏夫妻が最近、・イギリス「運河ナローボートの旅」をされてきたが、その画像を送って来られたので、ご紹介する。
私もテレビ番組などで知っているが、このナローボートの旅となると、極めてマニアックなレベルのものであるが、羨ましいかぎりである。
説明文は同氏のメール文を、そのまま貼り付けた。
二枚目の写真に写る白髪の男性が、同氏である。
一枚目の写真はボートを後方から撮ったもの。手前に立っているのが奥さん。二枚目の写真は動力船を前から写したもの。

同氏のメール文の末尾に書いてあるが、同氏は来月十月に、同じイギリスのコッツウォルズの「フットパス」を歩きに行かれる。
「フットパス」とは、イギリスの田舎の「散歩道」のことで、コッツウォルズやピーターラビットの故地─「湖水地帯」などに、よく見られる。
牧場や田園を縫うように、あちこちに設定されている。
時には私有地の中も突き切っていて、散歩者の権利として保護され、土地所有者も「塞ぐ」ことは許されないという。
私も随分前だが、ここに行ったときに見かけたことがある。
同氏は日本でも各地を歩かれ、四国八十八ケ所の巡礼も歩かれたが、外国にまで、大金をかけて「歩き」に行かれるとは、結構なご身分だと言えるだろう。
みやげ話が聴ければ、また、ここで披露しよう。 今日は、ここまで。


ピレネー山脈ボイ谷の「サン・クレメンテ教会」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
VQ7T0191ボイ谷サン・クレメンテ教会
↑ ピレネー・ボイ谷の世界遺産サン・クレメンテ教会

   ──巡礼の旅──(6)

   ピレネー山脈ボイ谷の「サン・クレメンテ教会」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

スペインの玄関口、地中海に面したバルセロナからイベリア半島北部をピレネー山脈に沿って横断し、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラに向かうルートに乗る。
バルセロナを出てしばらく北上すると、目の前に巨大な山塊が出現する。余りに大きすぎてバスの車内からでは頭を屈めないと頂が見えないくらい。
これがイベリア半島北部を東西に横断している、標高二~三千メートル級の山々が連なるピレネー山脈だ。
スペインの秘境ボイ谷は1948年にビエラ・トンネルが開通するまでは全く交通手段のない所で千年前の独自の伝統を持ち続けてきた奇跡の谷だった。
トンネルは約30分かかり、そこを抜けると別世界だ。

1999年12月、谷の一番奥のタウイのサンタ・マリアとサン・クレメンテ。ボイのサン・ジュアン。一番トンネルに近いバルエラのサン・フェリオの四か所の教会が世界遺産に指定された。
アクセスと知名度のおかげで、今では主要観光ルートの一つになったが、しばらく前までは祭壇の前に立つと千年まえの雰囲気がそのまま残っていたという。
その後、この谷は大きく変容して、今では古い民家は今は一軒も残っていないという。
今でこそピレネー山中にひっそりと佇むロマネスク教会の里・ボイの谷として有名になったが、この谷にあるタウイ村は、まるで天空の村のようだ。

↓ サンタ・マリア教会の穹窿
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歩いて聖地サンチアゴに向かう巡礼者にとってはピレネーは山岳美よりも、むしろ目の前に立ちはだかる難所なのである。
フランスからスペインに抜けるルートでは巡礼者が誰しも越えなければならない苦しい峠越えだ。
ピレネー越えのソンボール峠の標高は1640メートルほどだが、20キロ前後の荷物を背負って何百キロもの道のりをひたすら歩いて来た巡礼者にとっては、とても厳しい。
かつて中世の頃は、このピレネー越えで命を落した巡礼者はおびただしいという。
今も峠の旧道を一歩一歩、ゆっくりとした足取りで峠を登ってゆく巡礼者の姿を見ることがある。
ピレネー山脈は、そんな人々の思いを乗せて、今も天に聳えている。
IMG_0366aaボイ谷の石造りの小屋

ここで「聖人サン・クレメンテ」のことを書いておく。
聖ペテロと聖パウロの直弟子であったと言われている4代教皇聖クレメンテという人が居られて、キリスト教への貢献によって聖人に列聖された人である。
彼の名を冠した教会はあちこちにあり本拠はイタリアだが、アメリカ大陸にもある。


塩野七生『ローマ人の物語』文庫版完結と「スペシャル・ガイドブック」・・・・・・・・・・・木村草弥
塩野七生

──新・読書ノート──

     塩野七生『ローマ人の物語』文庫版完結と「スペシャル・ガイドブック」・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・・・・・新潮文庫2011/09/01刊・・・・・・・・・・・

塩野七生さんの畢生の著作『ローマ人の物語』文庫版が完結して、今回そのシリーズを読み解く上で大変便利な「スペシャル・ガイドブック」が出た。
私は塩野七生さんの大ファンで、彼女の著作は大半は持っているが、隅から隅まで完読したというのでもない。
買ってはいるが、まだ読み切れていないものもある。
『ローマ人の物語』も分量が多いので、気にまかせての読書になりがちで、とっつきやすいところから読んでいる始末である。
最終巻の「43」には巻末に「通貨は国情の反映である」という見出しで「コインで見るローマ帝国の変遷」として十九ページにわたって、
紀元前6世紀から6世紀中頃までのローマ・コインがカラー図版で載っている。
地中海世界に行くと、露天商をひやかしていると、古代のコインの本物だとか言ってコインを売りつける輩が必ず出現する。
これらは、全く偽物もいいところで、だが、その甘言にまんまと乗って買っている人が居るから、ご愛嬌である。
また「スペシャル・ガイドブック」には第一巻の『ローマは一日にして成らず』から始まって、Ⅱ『ハンニバル戦記』、Ⅲ『勝者の混迷』、Ⅳ『ユリウス・カエサルルビコン以前』、
Ⅴ『ユリウス・カエサルルビコン以後』、Ⅵ『パクス・ロマーナ』、Ⅶ『悪名高き皇帝たち』、Ⅷ『危機と克服』、Ⅸ『賢帝の世紀』、Ⅹ『すべての道はローマに通ず』、ⅩⅠ『終わりの始まり』、
ⅩⅡ『迷走する帝国』、ⅩⅢ『最後の努力』、ⅩⅣ『キリストの勝利』、ⅩⅤ『ローマ帝国の終焉』の各巻を読み解くヒントが短い文章で図版や写真とともに書かれていて、
絶好のガイドブックとなるのである。
今の時代は、とにかくビジュアルの時代で、気軽に読んでもらえることが必須の要件である。
今の読者はきまぐれで、視覚に訴えてくる文章でないと、なかなか読んでくれない。
このガイドブツクに導かれながら、この膨大な著作を読み返してみたいものである。

「立ち読み」もできるのでお試しあれ。

桔梗の紫さける夕べにておもかげさだかに母の顕ちくる・・・・・・・・・・・木村草弥
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  桔梗(きちかう)の紫さける夕べにて
   おもかげさだかに母の顕(た)ちくる・・・・・・・・・・・木村草弥


キキョウも秋の七草のひとつで、古来から詩歌によく詠まれてきた。
派手さはないが清楚な花である。もっとも秋の七草に数えられる草は、みな地味なものである。
『万葉集』にいう「あさがお」は、キキョウのこととされる。
この花は漢字の音読みをして「キチコウ」と呼ばれることも多い。
私の歌もキチコウと読んでいる。
小林一茶の句に

 きりきりしやんとしてさく桔梗かな

というのがあるが、キキョウの特色を見事に捉えている。
きっぱりと、すがすがしい感じの花である。
写真②は白いキキョウである。
kikyou4キキョウ白

掲出した私の歌は第二歌集『嘉木』(角川書店)に載せたもので、母への思いを詠んでいる。
この歌のつづきに

乳ごもる肉(いきみ)の背(せな)に吾(あ)は負はれ三十路の母はまだ若かりき

という歌が載っている。私は母の30歳のときの子である。そんな感慨を歌に込めてあるのである。

この頃では品種改良で、色々のキキョウがあるが、やはりキキョウは在来種のものが、よい。
以下、キキョウを詠んだ句を引いて終わりたい。

 桔梗の紫さめし思ひかな・・・・・・・・高浜虚子

 仏性は白き桔梗にこそあらめ・・・・・・・・夏目漱石

 かたまりて咲きし桔梗のさびしさよ・・・・・・・久保田万太郎

 桔梗や男も汚れてはならず・・・・・・・・石田波郷

 桔梗やおのれ惜しめといふことぞ・・・・・・・・森澄雄

 桔梗挿す壺の暗さをのぞいてから・・・・・・・・桂信子

 我が身いとしむ日の桔梗水換へる・・・・・・・・富田木歩

 桔梗の露きびきびとありにけり・・・・・・・・川端茅舎

 姨捨の畦の一本桔梗かな・・・・・・・・西本一都

 桔梗や信こそ人の絆なれ・・・・・・・・野見山朱鳥

 桔梗やいつより過去となりにけむ・・・・・・・・油布五線

石原結実『玉ねぎ健康法』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
たまねぎ

──新・読書ノート──

     石原結実『玉ねぎ健康法』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・・・日東書院2008/07/05刊・・・・・・・・・・・・・

私はもともと血圧は高くはなく、最高血圧も128とか130以下であるのが普通だったので、平素は血圧を計ることもなかった。
ところが今年になって脚の違和感があって色々検査を受けたところ血圧も高血圧というのでもないが、いわゆる「臨界値」という数値を示すのであった。
つまり、130以上、時によっては150とか160にもなっていることがあるのである。
今までは正常ではあったが、加齢に伴なって、血圧も高めになってきたのだろう、やはり注意する必要があるだろうと、こんな本を買ってみた。
もともと私は玉ねぎは大好きなのだが、こんな健康法があるとは知らなかった。
「石原結実」先生は私は大ファンなので、今までブログでも何回も採り上げてきた。
私は現在、医師からもらっている薬は無い。ビタミン類やミネラルなどのサプリメントは飲んでいるが、それは自費で呑んでいるもの。
血圧に関しても「食」養生で改善しようと決めているので、食事の内容に一工夫してみよう、との意図である。
「玉ねぎ健康法」の内容について、ここに書くことはしないが、さまざまの効能があるようである。
この本にも「玉ねぎ」料理のレシピがたくさん載っているので料理本としても貴重である。せいぜい活用させてもらうつもり。
その関連で、こんな玉ねぎ料理のレシピ本も買った。 ↓
タマネギ

これらの効果については、また、いつかお知らせしよう。

石原結実先生に関する記事については ← をクリックされたい。リンクで数記事が読める。

好きよと書いて/封をして/おお とんぼ/あきつあかねというような/よい名貰って・・・・・・・・・三井葉子
草のような文字゛

akatoアカトンボ②

         とんぼ・・・・・・・・・・・・・・・・・三井葉子

     好きよと書いて

     封をして

     てがみにするとてがみはわたしの身替りになり

     いまごろは

     静岡かしら

     はるばると

     もみじの山を越えて行く


     夜になると霜がふる

     いちばん逢いたくなるそのときは

     七色の魔除けの紐でからだじゅう ぐるぐる巻いて寝ていましょう

     そらがあかねに染まるころ

     わたしのてがみが発って行く


     おお とんぼ

     あきつあかねというような

     よい名貰って

     まちがえないで行けるかしら


     わたしのひたいに当るほど

     低くとんぼが飛んでいる

     ねえ あなた

     そのうちに届きます

     いまごろは箱根の山をこえている。
-----------------------------------------------------------------------
この詩は、三井葉子さんの詩集『草のような文字』(深夜叢書社1998年5月刊)に載るものである。
この詩集には全部で32篇の詩が載っているが、女が男に語りかけるような体裁になっている。
この本の装丁が、昔の源氏物語絵巻のような図版になっていて、まるで「王朝物語」に出てきそうな雰囲気を漂わせている。
三井さんが「王朝風」詩人、と呼ばれる所以である。
病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
Cathedral_in_Lourdes_Summerルルド大聖堂

  ──巡礼の旅──(5)

   病を癒す奇跡の泉「聖地ルルド」への旅・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

夜、蝋燭を手にした人々がルルドの「無原罪のお宿り聖堂」の周りに集まって来る。
その蝋燭の揺らめきとライトアップされた聖堂によって聖地に不思議な雰囲気が漂う。
ここに集う人々の中には、看護師に付き添われた車椅子の人、ベッドに寝たままの人も居る。
さまざまの国の、さまざまな人々が静かに時間の来るのを待つ。そして二十一時をまわる頃、神父がミサの始まりを告げる。
人々はアヴェマリアを唱えながら「無原罪のお宿り聖堂」の前までやって来る。
冬の寒い一定の時期を除き、多少の雨の中でも行われる蝋燭ミサ。参加する人の数は数十人のときもあれば数百人のこともある。
闇夜にひびく参列者のアヴェマリアの歌声を耳にすると、キリスト教徒か否かは問わず、心に沁みるものがある。
私も参加したこともあるユーラシア旅行社による動画 ↓


ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。

150px-Bernadette_Soubirousベルナデッタ・スビルー
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。
ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは思っていなかった。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
ベルナデッタ・スビルー聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。
神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデッタに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。
それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」(Que soy era Immaculada Councepciou=私は無原罪のやどりである(フランス語:Je suis l'Immaculée-Conception.))
という言葉であった。
これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったからである。
以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したといわれ評判になった。
1864年には聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられた。
この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になった。

ベルナデッタ自身は聖母の出現について積極的に語ることを好まず、1866年にヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ってシスター・マリー・ベルナールとなり、外界から遮断された静かな一生を送った。
ベルナデッタは自分の見たものが聖母マリアであったことをはっきりと認めていた。
例えば1858年7月16日の最後の出現の後のコメントでも「私は、聖母マリア様を見るだけでした」とはっきり述べている。
1879年、肺結核により35歳で帰天(病没)し、1933年ベルナデットは教皇ピオ11世から聖人に列聖された。
彼女の遺体は腐敗を免れ、修道女の服装のまま眠るようにヌヴェールに安置されている。

lourdesiルルドの洞窟
ルルドの泉 ベルナデッタが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしている。
「聖母」はまずベルナデッタに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言った。
近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしたが、「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており、
次第にそれは清水になって飲めるようになった。これがルルドの泉の始まりである。

また、スタンデンというイギリス人が、町中の人々が情熱を持って話している洞窟での治癒の奇跡についてベルナデッタに話したが、
彼女が奇跡に関して無関心であったことに考えさせられたという記録がある。
行きすぎたことの嫌いな彼女は話を簡単にしてしまい、はじめ「この類の話に、本当のことは何一つありません」と言うのであった。
この後にも、ある訪問者に奇跡について聞かれた際、彼女は無関心な態度を示して次のように言ったとされる。「そういう話は聞かされたけど、私は知りません。」驚いた訪問者が真意を正すと、彼女はこう答えた。
「私はじかに見ていないので、知らないと言ったんです。」
泉に関連した治癒は当初から何件も報告され、医者がその奇跡性を認めざるを得ないケースもいくつもあったが、ベルナデッタはこれに関与していなかった。
しかし彼女がそれを信じていない、あるいは否定したという発言も残っていない。
彼女自身は、気管支喘息の持病があったが一度もルルドの泉に行くことはなく、より遠方の湯治場へ通っていた。

なお、ベルナデッタの遺体は1909年、1919年、1925年の3回にわたって公式に調査され、特別な防腐処理がなされていないにもかかわらず腐敗が見られないと言われている。
これは「目視では明確な腐敗の兆候が見られなかった」と言うことである(実際には腐敗が始まっていたという報告もある)。
遺体が腐敗しないことは列聖のための有力な材料となるが、それ自体は奇跡的な出来事ではない。通常死体は地上で常温下では数ヶ月で崩壊、白骨化する。
1925年の調査では、ローマとルルドの修道院に送るため聖遺物(右側肋骨2本、両膝の皮膚組織、肝臓の一部)が摘出された。
また、過去の調査の際の洗浄の影響によって皮膚の黒ずみと黴・異物の沈着、ミイラ化したために鼻梁と眼窩が落ち窪むなど容姿が若干変異していたため、
顔と両手の精巧な蝋製マスクが作られ、かぶせられた。これは見る者に不快感を与えないために、遺物に関してフランスではよく行われる処理。

現在では、ルルドの聖母の大聖堂が建っており、気候のよい春から秋にかけてヨーロッパのみならず世界中から多くの巡礼者がおとずれる。
マッサビエルの洞窟から聖母マリアの言葉どおり湧き出したといわれる泉には治癒効果があると信じられている。
「奇跡的治癒」の報告は多いが、中にはカトリック教会の調査によっても公式に認められた「科学的・医学的に説明できない治癒」の記録さえ数例ある。
カトリック教会が「奇跡的治癒」を認めることは稀であり、認定までに厳密な調査と医学者たちの科学的証明を求めている。

泉の評判が広まってから現代まで1億人以上がこの泉を訪れたとされているが、そのうちカトリック教会に奇跡の申請をしたのは7,000人ほどである。
そのうちカトリック教会が認めた奇跡はわずか67件で、直近の40年に限れば10年に1件の割合でしかない。
20世紀前半に奇跡と認められたもののうち、いくつかは具体的な症状の記録が残されており、その中には奇跡とは呼べないものも含まれている。
これはカトリック教会が求める科学的証明の水準が当時は現代よりも低かったためと考えられる。
「奇跡」のうち、ほとんどは結核、眼炎、気管支炎など自然治癒あるいは近代医療で回復するもので、損傷した脊椎の回復など、重篤な障害、病気が治癒したという事実はない。
ルルドには医療局が存在し、ある治癒をカトリック教会が奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
このため、これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされ(つまり、奇跡的な治癒だが公式な「奇跡」とは認定されないケース。患者に離婚歴があるというだけでこれに相当する)、
医療局にカルテが保存されているにもかかわらず、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(67件)となっている。
特に信仰の世俗化が危惧されている現代において、これらの基準を満たすことが大変難しくなっていることは想像に難くない。

甲板より放り出されてわたくしは移民になりそこねたる魚・・・・・・・・・・・・石川美南
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──新・読書ノート──

    甲板より放り出されてわたくしは
         移民になりそこねたる魚・・・・・・・・・・・・石川美南

 

     石川美南歌集『裏島』 『離れ島』 抄
      ・・・・・・・本阿弥書店2011/09/10二冊同時刊・・・・・・・

    水鳥が羽を動かす場面のみ無音の映画 これはかなしみ

    濡れた髪大きな旗で拭きながら放つておいてほしい、時には

    手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ

    甲板より放り出されてわたくしは移民になりそこねたる魚

    もう畳み直せぬ海が散らかつた意識のすみずみで波を打つ

    終点と思へば始点 渡り鳥が組み上げてゆく夏の駅舎は

    人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす

    文体の似通つてくるあやふさよ見てをり月の海の凸凹

    息を呑むほど夕焼けでその日から誰も電話に出なくなりたり

    食べ損ねたる手足を想ひ山姥が涙の沼を作つた話

この作者は1980年生まれというから、私なんかとは、とても若い歌人であるが、2004年に『砂の降る教室』という第一歌集を出されたときに恵贈されたことがある。
その縁で、今回も贈られたものと思われる。
現代歌人の若手のホープとして、もてはやされている女の人である。
ここに抄出した歌は、この本の帯裏に載せられているもので、恐らく「自選」の歌と思われるが、短歌の韻律にも、ほぼ忠実に則った作品だが、
二冊の歌集は全体的には「物語」性の強い歌群であって、いわゆる「短歌」として鑑賞しようとすると違和感が生じるかも知れない。
私は本人への抄出と御礼の中で、「物語」性と「自由詩にして発表したい作品」と申上げておいた。
二冊ともカバーのイラストが秀逸である。

山田航の「トナカイ語研究日誌 」2008-12-17の項に次のような記事が見られるので引いておく。

現代歌人ファイルその15・石川美南

 石川美南は1980年生まれ。東京外国語大学卒業。2002年「祖父の帰宅/父の休暇」で第1回北溟短歌賞次席。16歳の時に作歌をはじめたという早熟の歌人である。早稲田大学の短歌実作ゼミで水原紫苑に学んだことがあるものの、これまで「ラエティティア」「punch-man」「pool」と一貫して結社によらず同人誌ベースで活動をしてきている。

 穂村弘はかつて同世代の歌人をクラスに例えるなら学級委員は米川千嘉子だろうと書いたことがあるが、それに倣えば我々の世代の学級委員は石川美南だろうと思う。ただしやんちゃな生徒を叱りつけるタイプというよりは、いつの間にか輪の中心になってみんなを引き付けているタイプの学級委員である。現状もっとも出世の早い若手歌人のひとりであるが、その立ち位置も作風も決して優等生ではない。

  半分は砂に埋もれてゐる部屋よ教授の指の化石を拾ふ

  窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ

  茸(きのこ)たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして

  街中の鍋から蓋がなくなりて飛び出してくる蛇・うさぎ・象

 空から降る砂に埋もれていく大学キャンパスやきのこたちのお祭り、鍋の蓋連続盗難事件といった有り得ない世界設定のうえで連作が作られたりするが、前衛短歌的な幻視にみられる絢爛な美学はまるでない。2首目のどことなく不気味なメルヘン調にも表れているが、いわば日常の裂け目に指を突っ込んで広げるような歌い方である。つまりは「世界の異化」である。水原紫苑は「文語でも口語でもない文体」と評したが、おそらく石川の中には「文語の世界」と「口語の世界」が並列で存在し「文語の世界」はいつでもどこかがねじれているのだ。そのねじれを形作ったのはおそらく深い文学的教養であり、言葉に対する偏愛的なフェティシズムだろう。

  桜桃の限りを尽くす恋人と連れ立ちて見に行く天の河

  おまへんちの電話いつでもばあちやんが出るな蛙の声みたいだな

  近眼のエリコ(あだ名はマヨネーズ)今日ものそのそ付いてくるなり

  カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぐるぶ、とくしやみする秋

  乱闘が始まるまでの二時間に七百ページ費やす話

  コーヒーを初めて見たるばばさまが毒ぢや毒ぢやと暴るる話

 「桜桃の限り」「はぷすぐるぶ」のような言葉遊びにもみられるように、いずれも「コトバ派歌人」としての感性が爆発している歌である。しかしコトバの世界に沈殿するのではなく「口語」という生身の肉体とも交感しながら詩が形成されていくことでなおさらねじれは際立つのである。終わりの2首は「話」で終わる奇妙な歌ばかりを並べた「物語集」という作品(一首ずつカード形式になっている)からであるが、決して定型を狭苦しいと感じていない自在さが表れていると同時に、奇妙さゆえの「笑い」に石川短歌の本質があるのだろうと思わせてくれる。

  友だちのままで腐れてゆく縁を良しとしてゐるグリコのネオン 

  手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向けに眠れるんだね

 斉藤斎藤が発行した歌誌「風通し」に寄稿された「大熊猫夜間歩行」は、詞書きにてジャイアントパンダの脱走という架空の事件が、短歌では作中主体の恋愛が描かれ、時折オーバーラップしながら相互に絡み合って物語を織りなす構成となっている。二つの出来事が同一の世界で起こっているのかはわからない(一応詞書きにも「私」は登場するが)。しかし常に二つの世界を同時に眺めながら生きている歌人にとって、このような物語構成は決して挑発的なものではないのかもしれない。むしろ、これまで自分の見ている世界を徹底的に異化してきた石川が、ついに異化されているのが世界なのか自分なのかわからない混沌とした世界観を作り上げてしまった所に「大熊猫夜間歩行」の妙味があるのかもしれない。
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石川美南さんには「山羊の木」というサイトがあるので、アクセスしてみてください。
その中の「ともだちのわ」という連句のような575と77のフレーズを繋げてゆく形式のサイトには短歌界の有名人も投稿していて面白いので、ご覧あれ。
私の知っている人たちも参加している。


藤田紘一郎『こころの免疫学』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     藤田紘一郎『こころの免疫学』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・新潮選書 発売日:2011/08/25・・・・・・・・・・

     うつ病も、アレルギー性疾患も――すべてのカギは腸内細菌が握っていた!

     「こころの病」は、脳だけでなく、食べ物や腸内細菌までも含めた、からだ全体の問題だった――。
     この十年で、精神疾患とアレルギー性疾患が二倍以上も増えた理由、脳と免疫系が密接に影響しあうメカニズム、
     セロトニンなど神経伝達物質生成における腸内細菌の重要な役割……
     「こころの免疫力」をつけるための革命的パラダイム。

新潮社の読書誌「波」2011年9月号より 書評を引いておく。
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     脳と腸、どっちがエライか・・・・・・・・・・・・・椎名 誠

 平成一〇年から一三年連続で年間三万人の自殺者をだしている日本は、先進国のなかでもっとも自殺者の多い国、という非常に重苦しい問題を抱えている。自殺の原因はいろいろあるが「うつ」によるものが多いという。国の調査では自殺者の半数近くが自殺する一年以内に精神科を訪れていた。
 これにからんでもうひとつショッキングなデータが提示されている。OECDのデータによると日本以外の先進国の精神病院のベッド数が劇的に減少している。少ない順からいくとオーストラリア、イタリア、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスで、これらの国は全部右下がりに減少の一途をたどっているが、唯一日本だけがほぼ横ばいである。これは日本が「世界一自殺者が多く、精神病患者が増え続けている国」という救いのない現実を示している。
 この本は、このようなデータを駆使し、日本の精神病治療に対する基本的な疑問からわかりやすい解説がなされていく。人間の「からだ」全体の様子を考えずに、一定箇所の治療にむけた投薬偏重におちいりやすい日本の西洋医学を主流にしたやりかたに、かねてからぼくも大きな疑問を抱いていたが、この本は、そのことの危険性を思いがけない視点から分析していき、いたるところで大きくうなずくことになる示唆と刺激に満ちている。
 スペースがあまりないので、そういう事項の一部を紹介すると、たとえば「脳と腸はどちらが偉いか」ということについて深く考えさせられる章がある。「どちらが偉いか」というのはぼくの勝手な解釈だが、ざっとこういうことである。
 わたしたちは飽食の時代に生きているから、おいしい、と思うものをいっぱい食べている。「あれ食べろ、これ食べろ」と脳が命じているからである。けれど脳はその食べ物が安全かどうか常に注意するということはしない。困るのはそれを消化吸収する腸である。腸にとっては苦手な保存料などのいっぱい入った食品添加物などよりもっと腸の健康のためにバランスのいい食物がほしい。しかし栄養価の偏った食べ物ばかりがやってくると腸内細菌のバランスが保てなくなり、人間の体で一番大切な(クスリより重要な)免疫力が落ちて病気になりやすくなる。
 腸にとってありがたい(腸内細菌の増える)食物繊維の摂取量は、日本は世界のなかでもかなり下位にある。ガンやアトピーなどのアレルギー疾患やうつなどの「こころの病」が増えてきたのは、日本人のこの腸内細菌の減少傾向が大きく関係しているのではないか、と、著者はいくつものデータ、事例をもとに説いていく。  (しいな・まこと 作家)

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著者略歴
藤田紘一郎/フジタ・コウイチロウ

1939年、中国・旧満州生まれ。東京医科歯科大学医学部卒、東京大学医学系大学院修了。医学博士。東京医科歯科大学名誉教授。人間総合科学大学人間科学部教授。NPO自然免疫健康研究会理事長。専門は寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学。『原始人健康学』『水の健康学』『パラサイト式血液型診断』(新潮社)、『笑うカイチュウ』(講談社文庫)、『免疫力を高める快腸生活』(中経の文庫)、『アレルギーの9割は腸で治る!』(だいわ文庫)など著書多数。

「立ち読み」もできる。お試しあれ。

今泉恂之介『子規は何を葬ったのか』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

    今泉恂之介『子規は何を葬ったのか』・・・・・・・・・・・・木村草弥
            ・・・・・・・・新潮選書 発売日:2011/08/25・・・・・・・・・・

正岡子規というと俳句・短歌革新の人として世上喧伝されている。
俳句では「ホトトギス」、短歌では「アララギ」が一世を風靡していた頃は、神様のように言われていた。
しかし、今日では余りにも強引、我田引水に過ぎたのではないかと見直しがなされている。
この本は、その一端にに触れたものである。

     「月並で見るに堪えず……」巨星・子規の一言が、百年の歴史を封印した!

     「俳句不毛の時代」とされてきた江戸後期から幕末明治。
     だが意外にも「名句好句」の数々が! 松山藩家老奥平弾正、最後の幕臣中島三郎助、
     土方歳三、漂泊の俳人井上井月らの秀句。庶民が詠んだ暮らしの喜び。
     ミレーの絵画にも似た一瞬の情景……。近代俳句の改革とは何だったのか。
     子規の功罪を問い、俳句文芸の豊穣を再発見する。

以下、新潮社の読書誌「波」九月号に載る書評を引いておく。
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     子規が見逃した「天才」俳人たち・・・・・・・・・・・・・出久根達郎

 次の句の作者は誰か、おわかりだろうか?
「よき敵ぞ梅の指物するは誰」「更衣同心衆の十手かな」「枚をふくむ三百人や秋の霜」
 蕪村、と目星をつけられたかたが多いのではあるまいか。では、次の句は? 「初夢や金も拾はず死にもせず」「猫も聞け杓子も是へ時鳥」「一大事も糸瓜も糞もあらばこそ」
 これはもう間違いなく一茶だろう。そう思われたかたがいても不思議ではない。俳句の作者を当てるくらい、むずかしいことはない。
 私たちは句集を読む場合、作者の名前で読んでいる。まず蕪村や一茶の名が頭にあり、彼らの作品と信じて楽しんでいる。前記の句も作者不明なら、おそらく興味は半減するだろう。蕪村の句だから、色彩があり物語が展開するのである。一茶の句だから、おかしみがあり、俗語がきいていて親しみやすいのだ。有名な作者だから、作品が輝いている。これって、考えてみると、妙な話であるまいか。
 膨大な量の俳諧を分類研究し、与謝蕪村を発掘、写生俳句を提唱して俳句革新をなしとげた正岡子規は、小林一茶からのちの俳句は、おおむね卑俗で古くさく、見るに耐えない、と言った。一茶から子規の時代まで、およそ百年ある。この百年の間は、愚作の時代だ、と子規は断じた。どうでもいい作品群を、「月並調」という絶妙の造語で一刀両断したのである。私たちは子規の鑑識眼に喝采し、その評価を適確と信じた。以後ずっと、信頼度に揺るぎは無い。
 果して、本当にそうだろうか。一茶以後、子規以前の百年間に詠まれた句のすべてが、駄句か。非凡な俳人は一人も生まれなかったか。疑問を抱いた著者は、子規が分類作業の過程で撥ね除けた作品を、改めて検証してみた。というのが本書で、検証のプロセスを、あたかも推理小説のように興味深く、丹念に例を挙げて書いている。一句ずつ解釈つきだから初心者にもわかりやすいし、作句入門の効能もある。本書の一端を紹介する。
 井月、という俳人がいる。つげ義春が漫画で採りあげているほど現代では有名だが、大正期に芥川龍之介が紹介するまでは、信州の一地方でのみ知られる放浪の飲んだくれにすぎなかった。井月の句を収集し自費出版したのは、芥川の知友の下島勲である。井月に惚れこんだ芥川は、下島に更なる収集をうながした。その結果、一千以上の句が集められた。ところが井月作と思っていた佳句の二割近くが、他人の作と判明した。つまり井月クラスの句を詠む人たちが、信州の一地方に何十人もいたのである。むろん、子規は知らなかった。
 そうそう、忘れるところだった。冒頭の句の作者である。蕪村でも一茶でもない。全部、夏目漱石の発句である。     (でくね・たつろう 作家)

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著者略歴
今泉恂之介/イマイズミ・ジュンノスケ

1937年東京生まれ。上智大学文学部独文科卒業後、日本経済新聞社に入社。運動部次長、社会部編集委員を経て、論説委員として朝刊コラム「春秋」を担当。その後、中国河南省鄭州大学客員教授、流通経済大学教授を務め、2007年、全国初となる俳句振興のNPO法人「双牛舎」を立ち上げ代表理事に。著書に、『兵馬俑と始皇帝』『追跡・則天武后』『関羽伝』(いずれも新潮選書)、『エンディングの研究』(サンライフ企画)など。


この本の目次
序章 未知の空間に出会うまで
はじめに/俳句の一大盛況期/子規の俳句収集と蕪村発見/「俳句分類」の正体を知る/類題句集編集を志す/ホトトギス派編の「俳諧歳時記」/百年という長さ
第一章 子規の言う「卑俗陳腐」とは
“口をそろえて”非難/月並調とは何か/芭蕉の句もけなす/「天保」と呼ばれる時代/成田蒼きゅうと桜井梅室/子規の収集にも限界
第二章 「近代俳句のあけぼの」
望外の書に出会う/膨大な資料を探る/俳句に二つのタイプがある/俳句第二芸術論
第三章 幕末伊予俳壇の二巨星
殿様も其角の弟子に/松山藩、朝敵となる/筆頭家老・奥平弾正の功績/その後の鶯居/俳句好きの御船手大船頭/子規、大原其戎を師とする/三津浜に生まれた俳句の世界
第四章 五稜郭決戦前の句会
土方歳三の俳句/心は清き水鏡/超大物・中島三郎助/奥羽越列藩同盟/蝦夷地函館の句会/木鶏・無外の両吟/歳三、壮絶な最期/中島父子、徹底抗戦の果てに
第五章 政治にもまれて
教導職登用試験/教林盟社と明倫講社/暗黒空間を覗く窓/幹雄、江戸に旅立つ/桜田門外の変に遭遇/神道寄りを鮮明に
第六章 美文調の敗北
俳句界を痛烈に批判/ライバル同士の面会/大宗匠に教えを垂れる/文体で時代に後れる/幹雄にも好句が
第七章 老鼠堂永機vs正岡子規
庵号と俳号/悠々たる人生/義仲寺の芭蕉二百回忌/辛口コラムとともに躍進/永機宗匠をこき下ろす/人気投票、旧派が上位を占める
第八章 宗匠の怪我の功名
「俳諧自在」という書/「綴り合わせ」とは/未知の空間の句、現る/好句も次々に
第九章 井上井月という俳人
伊那に現れた放浪の俳人/芥川龍之介と幻住庵記の書/井月さんの句を探す/芥川龍之介の自殺
第十章 井月の句、普通の人の句
別人の句が紛れ込む/正統的な句の数々/健全な俳句の世界が/長岡藩の運命/鶴の声聞く霞かな
第十一章 俳句維新へ、子規の戦い
伊藤松宇との出会い/子規のコラムが仲立ち/残された時間/文章大革命の時代/点取俳句の堕落/野望を託す/輝く女性の俳句
終章 主流はいずこに
本書に登場した人々の句/生活と人情の句/第二芸術論再考
あとがき

「立ち読み」もできる。お試しあれ。
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上に引いた出久根達郎の文章の中に書いてある「下島勲」こそ、芥川が死を前にして「辞世」の句を托した人である。
そのいきさつは下記のようなものである。

<昭和2年7月24日午後1時すぎ、芥川龍之介は伯母の枕元に来て、明日の朝下島さんに渡して下さいと言って、この句<水洟や鼻の先だけ暮れ残る>を書いた短冊を渡した、という。彼の辞世の句である。
短冊には「自嘲」と前書きしてあったことから、芥川の文業の終末を象徴せしめる凄絶な辞世の句となって了った。>

詳しくは私が2011/07/24に載せたこの記事を見てもらいたい。


軽井沢の歌鳥の森の女主人 こゑうつくしきクロウタドリ・・・・・・・・・・・・・・・村島典子
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──村島典子の歌──(9)

     軽井沢の歌鳥の森の女主人
              こゑうつくしきクロウタドリ・・・・・・・・・・・・・・・村島典子


        クロウタドリ・・・・・・・・・・・・・・・村島典子

     はらはらと髪ぬけおちし朝なりわれ悲しみの尼僧のごとし

     広汎性脱毛症といふなれば眉睫毛さへある日抜けたり

     花ふぶき浴みて帰りくさらさらと無音の花のひとりの禊

     かなしみは花の明るさ天空の無情の青さ花浴みながら

     夜目に白く花にほひ咲くにつぽんのひむがしの地もまなく咲くらむ

     福島をフクシマと呼ぶ現実を深く悲しむただにかなしむ

     乳牛の背骨あらはに痩せゐるを見つつしわれは号泣したり

     放射能汚染地域と名指しされ人はも逐はる平成二十三年

     太き舌からませ甘ゆ牧牛を人にあらねば殺せといふか

     五月野に黄金のうぶげを吐きたるは草にれがみしわたくしの犬

     人に逢ふごとく来にけり谷間なるはつ夏の木の梢をあふぐ

     軽井沢の歌鳥の森の女主人 こゑうつくしきクロウタドリ

     軽井沢を偲ぶ幾日わたくしに憧れ恐れでありし船渡川佐知子

     フランス語にて犬を躾けたりしひと刺繍に光を縫ひ取りしひと

     檸檬の花レモンの匂ひに咲くと言ひし一年前の船渡川佐知子

     千ケ滝の小川の岸に生えをりし 鳥足升麻、節黒仙翁

     朴の木の朴の花蕊はじらひぬいま一つ天上の花ひらきたり

     亡きひとはそこここに来て呼びかくる茉莉花は甘き茉莉花の香に

     葉桜の下にて一人とゆきあへり魚のごとし木漏れ日くぐる

     異類婚姻譚五月の山の朴の木の花の下にて考ふるわれ

     けふわれは三度泣きけり今生に再び会へざる人を思ひて

     わが犬前へ前へと回り来て草食みたしとわれを促す

     一年に飼犬殺処分二十八万匹動物病院にテロップ流る

     ガス室に送られ長く苦しみて殺さるる間も主を待ちながら

     犬は耳を患ひてをり待合室の長椅子に待つ猫のとなりに

     呆然とわれは鏡を覗きゐる鏡の中に母がいますを

     老いし娘と老いし母しみじみと出会ひたり鏡の中のほほゑむ人と

     来てみれば枇杷はしづけき青き実をさはにやしなふ墓原の道

     枇杷の木に枇杷の実みのり墓原に六月はきぬ季節めぐりぬ

     三月(みつき)すぎしのちも愈いよ悲しくて淡海のうみに雨降りしきる

     フクシマは雨となるらし六月の雨原発の建屋を濡らす

     雨あがりし真昼間比叡はみづうみを徒(かち)にて渡れとわたしを誘(おび)く
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私の敬愛する村島典子さんから短歌同人誌「晶」No.75号が恵贈されてきた。
掲出したのは、そこに載る村島さんの歌32首である。
なにか「広汎性脱毛症」とかいう疾患に罹られたようだが、お大事になさってください。
真ん中頃から、同人であった船渡川佐知子さんの訃にまつわる歌が続いている。
この人はフランス語関係の翻訳もなさった人のようで、短歌についても一家言もっておられたようだ。
俳句も「短詩」と把握されていたというが、「俳句は世界中で一番短い詩である」とは、詩人にして俳人としても著名な平井照敏の言である。

船渡川佐知子/ふなとがわ・さちこ
1935年横浜に生れる。1958年日本女子大学文学部社会福祉学科卒業。

『精神病者の魂への道 』 (みすず書房1966年刊)
[著者] ゲルトルート・シュヴィング [訳者] 小川信男 [訳者] 船渡川佐知子
フロイトも断念していた分裂病の精神療法を――野心的な冒険と私たちには思えた――敢えて行った何人かのパイオニアのうち、著名な数人が女性であった。この分野は未開拓であるが・・・・・

才ある人は早々として世を去って逝く。私よりもお若いお歳であるのに。間質性肺炎だとか。アーメン。
村島さんのフクシマの歌も身に沁みるものがある。

 
石神賢介『婚活したらすごかった』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

   石神賢介『婚活したらすごかった』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・・新潮新書・発売日:2011/08/16・・・・・・・・・・

     「とりあえずホテルに」と彼女は言った。抱腹絶倒の体験ルポ。【超実用的婚活マニュアル付き】

   突然、結婚したくなった四十代バツイチの著者が婚活で遭遇したのは、想定外の個性あふれる面々だった。
   初対面でホテルに誘うCA、情が深過ぎる銀座ホステス、八歳もサバを読むアナウンサー、詐欺スレスレの輩、やたらとムサい男たち……。
   現実はものすごいことになっていたのだ。
   ネット婚活、お見合いパーティー、結婚相談所、海外婚活の現状を体当たりで取材した前代未聞、抱腹絶倒ルポ。
   超実用的婚活マニュアル付き!

新潮社の読書誌「波」九月号に載る著者の紹介記事を転載しておく。
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    面白く、哀しく、そしてすごかった・・・・・・・・・・・・・石神賢介

 大震災以来、女性の結婚願望が猛烈な勢いで高まっているという。特に一人暮らしだと、在宅時に災害に襲われても誰にも助けてもらえないという恐怖をリアルに感じているのだろう。また、不倫を解消する女性も後を絶たないという。ふだんどれだけいちゃいちゃしていても、天災となれば、男は家族のもとへ急ぐ。頭の中ではわかっていたはずのことが現実に起きたのだ。そんな関係を清算した女性たちも、これからの人生で手を携えて生きるただ一人のパートナーを探し始めた。
 彼女たちが集まるのが、インターネットの婚活サイト、全国各地で催されている婚活パーティー、かつて結婚相談所といわれた結婚情報サービスだ。五、六年前までは、こうした婚活の場はもてない男女の救済場所のイメージがあった。しかし、四十代、バツイチの私が実際に参加すると、そこにいるシングル女性の数も質も仰天するほどだった。
 大手婚活サイトで出会った妙齢の女性には、初デートでホテルに誘われた。航空会社の客室乗務員だ。もちろん、鼻の下をのばしてついていった。
「出会って、手をつないで、キスして、やっとお泊りして、ベッドの上の相性が合わないとわかったら、そこまでの時間が無駄になるでしょ?」
 青山のイタリアンレストランで食事の後、タクシーの中でささやかれた。女性は現実的だ。彼女の考えは理に適っているが、婚活で実行に移す人には初めて会った。何よりも「相性」を重視するため、早めに肌を合わせないと本当に不毛な時間を費やしてしまうということだった。
 婚活パーティーではアニメの声優とも出会い、デートを重ねた。会話からは知性が感じられたが、声質は当然アニメ系だ。下着はフルーツ模様。妙齢の成熟した女性なのに、こちらは、なんとなく未成年に悪さをしている気がしていけない。
「どうして、なの?」
 元気を失ったアレを見つめられ、首を傾げられ、悲しい気持ちになった。男は四十歳を過ぎると、願望と機能が必ずしも一致しない。体の相性がよくないと男女としてのいい関係は結べず、結婚には至らない。客室乗務員の女性が言った通り、早期の夜の行為のトライアルは重要かもしれない。
 こうして、ふつうのOLをはじめ、客室乗務員、アニメ声優、銀座のホステス、エステティシャン、アナウンサー、占い師……など、私が婚活の場で出会った個性豊かな女性たちとの実話をまとめたのが、本書『婚活したらすごかった』だ。婚活サイトに登録した時の驚き、婚活パーティーでの緊張、フェイスブックの婚活アプリを通して大勢の東アジアや南アメリカの女性から交際を申し込まれた戸惑い、そして、女性と親しくなるための創意工夫、紆余曲折、七転八倒をありのまま書いた。
 婚活市場では、男としての市場価値がリアルにわかる。おもしろく、哀しく、そして、書かずにはいられないようなすごい体験ばかりであった。 (いしがみ・けんすけ フリーライター)

「立ち読み」も出来る。お試しあれ。

はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男
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    はたはたのつるみてぬぎしもののなし・・・・・・・・・・・・・・秋元不死男

私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)にも

  小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

というのがある。

バッタ類の雄はみな雌よりも格段に体が小さい。交尾のために雄が雌の背中に乗っていると、まるで子供がおんぶしているように見える。
この虫はおんぶしている場面をよく見られるので、名前までオンブバッタとつけられてしまった。
この虫は畑といわず野っぱらにも、やたらにいる虫で、葉っぱを食べる害虫である。

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バッタの仲間には40種類くらいのものがいるらしいが、写真②は「いなご」の雌雄である。
これも雄は小さい。漢字では、蝗と書くが、これは稲につく害虫である。
掲出の歌のオンブバッタは別名「きちきち」ともいう。飛んで逃げるとき、きちきちという羽音をたてて飛ぶからである。
これも「聞きなし」のものである。また地方によっては「はたはた」と呼ぶらしい。これも飛ぶ音からの命名だろう。
私の地域ではオンブバッタのことを「おんめ」と呼ぶ。
これは交尾のオンブの姿勢でみられることが多いので「雄雌」がつづまって「おんめ」となつたと思われる。
この虫は後ろ足を持つと体を揺するので「機織バッタ」とも呼ぶ。私の住む地域では子供が「おんめ、機(はた)織れ」とはやして後ろ足を持ったりする。

この私の歌の収録されている一連の歌を引いておく。

  草 刈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

田の平に立ちて眺むるふるさとは秋のさ中の青谷百町歩

わが盆地幅三里ほど南北長し右は生駒山系ひだりは笠置山系

草を刈るあとを追ひ来る鳥のむれ生きゆく知恵ぞ虫を啄む

めざとくも雲雀来たりて虫を食(は)む警戒しつつ鴉もくるよ

人が草を刈れば虫が食へるといふ生き物の知恵いぢらしきかも

小さき雄が背中に乗りてオンブバッタ交尾の様も秋空の下

草刈機の振動の余韻とどまりて腕(かひな)と指の揺るるを覚ゆ

湯浴みして洗ひたれども我の身に草の匂ひの残る宵なり
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歳時記から「おんぶばった」「いなご」の句を少し引いて終りにする。

 きちきちといはねばとべぬあはれなり・・・・・・・・富安風生

 はたはた飛ぶ地を離るるは愉しからむ・・・・・・・・橋本多佳子

 はたはたのゆくてのくらくなるばかり・・・・・・・・谷野予志

 はたはたのおろかな貌がとんで来る・・・・・・・・西本一都

 はたはたの脚美しく止りたる・・・・・・・・後藤比奈夫

 はたはたの空に機織りつづけつつ・・・・・・・・平井照敏

 ふみ外す蝗の顔の見ゆるかな・・・・・・・・高浜虚子

 一字(あざ)や蝗のとべる音ばかり・・・・・・・・水原秋桜子

 豊の稲をいだきて蝗人を怖づ・・・・・・・・山口青邨

 蝗の貌ほのぼのとして摑まるる・・・・・・・・原田種茅

 蝗とび蝗とび天どこまでも・・・・・・・・平井照敏

すいつちよのちよといふまでの間のありし・・・・・・・・・・・・下田実花
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  すいつちよのちよといふまでの間のありし・・・・・・・・・・・・・・・・・下田実花

スイッチヨは「馬追」のことである。キリギリスより少し小さく、体は緑色。翅はぴったりと烏帽子のように背中で合わされる。
7月末から鳴きだす初秋の虫。スイッチョ、スイッチョと鳴くのが普通である。
その鳴き声が馬を追う声に似ているというので「馬追」の名がある。この虫は、1カ所にとどまらず、移動して鳴く特徴がある。
掲出のの句は、馬追の鳴き声を捉えて巧く作ってある。

以下、歳時記からスイッチョの句を引いておく。

 馬追や海より来たる夜の雨・・・・・・・・内藤吐天

 すいつちよや闇に人ゐて立去れり・・・・・・・・池内たけし

 馬追や更けてありたるひと夕立・・・・・・・・星野立子

 馬追の身めぐり責めてすさまじや・・・・・・・・角川源義

 馬追が機の縦糸切るといふ・・・・・・・・有本銘仙

 馬追や水の近江の夜は暗く・・・・・・・・小林七歩

 馬追がふかき闇より来て青き・・・・・・・・上林白草居

 すいつちよの髭ふりて夜ふかむらし・・・・・・・・加藤楸邨

 馬追のうしろ馬追来てゐたり・・・・・・・・波多野爽波

 馬追の見えゐて鳴かず短編集・・・・・・・・野沢節子

 すいつちよの酒呑童子となりにけり・・・・・・・・平井照敏
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